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※青文字:加筆改修部分
ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.
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世界史なんでも質問スレッド81
目次
【書評】 『JIN 仁』(村上もとか著,集英社文庫,2010.7)
【質問】 スラヴ人達がわざわざ自分達で,家来になりますってヴァリャーグを招聘したの?
【質問】 イギリス人移住以前の北米地域には,文明はなかったの?
【質問】 中国や日本には欧米列強諸国が接近してきたのに,朝鮮には欧米列強は接近しなかったのですか?
【追記】 植民地経営って,宗主国にとって必要っちゃー必要だったのです.
【質問】 近代以前で日本が世界史に登場するのって,”ジパング”としてのみ?
【追記】 「支那」
【追記】 初心者にもわかりやすいビザンツ本
【質問】 ペストで農民の地位が上がったから,ペスト禍の少ない地域ほど貴族が強い.
【質問】 チェンバレンって何故,ドイツに宣戦布告しておいて,自身はその後,すぐに退陣したんですか?
【質問】 中世ヨーロッパではどうやって,戦の手柄など確認したのでしょうか?
【質問】 オーストリアってのは,ハプスブルク家そのもの?
【質問】 ナチスの「純粋アーリア人創出計画」について教えてください.
【質問】 戦国初期(春秋末期?)の楚・呉・越の鉄の鋳造技術は非常に高度な物だったらしいけど,これって殷(商)代後期の青銅器の鋳造技術の高さと繋がりがあるの?
【追記】 ヨーロッパが停滞した時期と,寒冷期は連動している.
【質問】 日中戦争では中国は,共産軍が挟撃使って1回勝ったきり?
【追記】 そもそも大規模な軍隊に移動するに際して強姦や略奪が発生しないほうがおかしい
【質問】 WW2で大量の戦死者を出し,インフラもかなり破壊されたソ連が戦後,どうして2大大国の一つになることができたのですか?
【追記】 「国防軍の犯罪展」
【質問】
シェークスピア作品に,史学的価値はあるの?
【回答】
シェークスピアなんて歴史物語なんかじゃない.
イギリス万歳のプロパガンダもの.
シェークスピアの描写するリチャード三世は,悪の魅力たっぷりの渋い男な感じかな.
説得力というか,口で人を言うなりにする能力も高いし,戦場では勇者だよね.
でも,肖像画を見ると,史実のリチャード三世には神経の細さが見えるし,クレバーな感じがする.
肩のラインがおかしいのは,従来の説の通り,後世に描き加えられたせいだろうね.
決断を下すべき時には,果断に判断して行動する度胸はもっていたんだろうな.
テューダー家の時代に描かれたイメージ(伝記,年代記)は最悪だけど,運さえ味方すれば,名君と呼ばれたかもしれないのに,残念.
マクベスは,歴代スコットランド王のなかでも優れた人物.
マクベス夫人も悪妻でなく,当時のスコットランド王族のなかでは,ダンカン王以上にピクト王家の血を濃く受け継ぐ人物.
事実のダンカン王は,賢い老人なんかじゃなく,愚かでむこうみずの若者,不良.
シェークスピアは,どんな観点や目的でこの史劇を作ったか,とかを知るには重要だろう.
400年前の古典作品だから,歴史的価値は充分あるし,英国での歴史観の一端を知ることもできる.
もちろん史実と文芸は分けて考えねばならんが,その辺の研究も進んでるよ.
史劇の内容をそのまま,現実の政治史として見ることはできない.
文学史とか思想史,文化史・社会史の観点から見るべきものだよね.
世界史板,2010/10/31(日)
青文字:加筆改修部分
【書評】
『JIN 仁』(村上もとか著,集英社文庫,2010.7)
江戸末期の様子を見たいならオススメ.
主人公以外は歴史上の人物だし,ヤマサの創業者や緒方洪庵など,一般的にはマイナーな人物も出てきたりするし,蘭方医と漢方医の対立とか,今まで扱ったことのない事柄が出てきて面白い.
――――――天問 ◆CsSu9fRs1Ge4 : 世界史板,2010/10/31(日)
【質問】
キエフ建国以前のロシアって,どんな感じだったの?
【回答】
ウクライナ(黒海北岸地域)には,紀元前からキンメリア,スキタイ,サルマタイなどの遊牧王国があった.
しかし,彼らが支配できたのは平原地帯だけで,キエフ以北の森林にはフィン・ウゴル系の人々がいた.
また,ベラルーシあたりにはバルト・スラヴ語派の言語を話す人々がいたようだが,ヘロドトスはネウロイという狼に変身する種族や,アンドロパゴイ(人食い部族)がいると伝えている.
その後もゴート・フン・アヴァール・西突厥・ブルガールなどが活動し,7世紀頃テュルク系のハザール可汗国が成立.
この頃には東スラヴ人が広がり始めたが,フィン人ともどもハザールに服属・貢納していた.
9世紀になってスカンジナビアから,ルスとかヴァリャーグと呼ばれる人々(スウェーデンのヴァイキング)が進出し,南のビザンツやアラブと交易する中継地として,この地域(この頃ガルダリケと呼ばれた)を往来し始めた.
「原初年代記」には,スラヴ人とフィン人が「我々の土地は豊かですが,指導者がいません」といい,ルスの族長の一人リューリクを招いて指導者にした,という話が伝わっている.
世界史板,2010/11/01(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
スラヴ人達がわざわざ自分達で,家来になりますってヴァリャーグを招聘したってのが,どうにも胡散臭いけど,わざわざこういう形で伝説残してる以上,やっぱり実際のところも征服されたっつうよりは,比較的穏当に統治されたってことなんでしょうかね?
【回答】
3つ考え方があるぞ.
1つは,歴史や神話・伝承というようなものは,後の支配者が自分たちの都合の良いように,支配を正当化しやすいように,しばしば過去を改竄する.
今残ってるヴァリャーグの伝承も,リューリクの系譜の支配者が,過去を改竄したものが残っているだけで,本当は激しい争いがあったことを隠蔽しているかもしれない.
2つ目は本当に,戦闘や統治能力に長けた外来の支配者を,歓迎して招き入れた史実を反映しているというもの.
別にスラブ人の王様が,スラブ人でなきゃあならん理屈なんて,それこそ,9世紀にようなっとこ出てくるようなもので,古来,適切な資質のある者なら,統治者の出自はあまり問題にならない.
ローマ建国伝説でも,サビニ人の賢者ヌマを王として招聘したり,エトルリアから移住者のタルクイニウスを王に選出したり,というのがあったりするだろ.
ルーシの建国当初は,西から東から北から異民族の侵攻,スラブ人の間でも小集団に分かれて小競り合い,或いは,スラブ人か異民族か判然としない集団もあったりする状況だ.
史実ではない映画だが,黒澤明の『七人の侍』での,村を防衛するために,外部の武装集団を招きいれて厚遇 するというような似た感覚で,防衛と統治を任せたということ,違和感の或る話ではない.
3つ目は,先進的だったり軍事に優れた他集団との同祖同族を主張して,宥和や同盟を求め戦闘を避け,交易上にも優遇されようという発想.
10〜11世紀頃のキエフ政権の勢力拡大期は,ノルマン人がヨーロッパ各地を侵略しまくっていた時代で,そういう時分に,ノルマン人のルス部族のリューリクの建てた国だと主張することで,ノルマン人の侵攻を避けたり,ノルマン人の海運力を利用して有利に交易をしたり,西からの侵攻に対して攻略しづらいイメージを植えつけたりする.
どれが本当のところかは,証拠となるものは既に失われて,もう分からん.
世界史板,2010/11/02(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ロシアやウクライナの公や大公って,誰かの臣下?
【回答】
「公/公爵」と漢訳される地位には,いろいろある.
プリンスはラテン語のプリンケプス(第一人者),デュークはラテン語のドゥクス(指揮官)に由来する.
ドイツでは翻訳してフュルスト(英語のファースト;第一人者),ヘルツォークなどと呼んだ.
初期には,各々の族長が勝手に名乗っていたり,他国から「あんたが一番偉い」と認められたりしてついたもので,必ずしも国王や皇帝が任命したってわけではない.
というか,周の五等爵を西洋の爵位に当てはめようというのは,無理がある.
ルーシの「公」はクニャージの意訳で,英語のキング,ドイツ語のケーニッヒと同じく「族長」「王」を意味する.
いわゆるキエフ・ルーシが細分されてからも,各々の君主がクニャージを名乗ったため,結果的に「諸侯」クラスにまで格が落ちた.
世界史板,2010/11/01(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
現在の米国のある北米地域では,イギリス人が移住するまでアワワワワの状態で,ウホウホ言ってる部族社会レベルだったの?
メキシコはアステカ文明,ペルーはインカ文明と,中南米では文明が発達してたけれど.
【回答】
それなりの文明を持った国家とかもあった.
「帝国」とまではいえないが,北米にも多くの部族国家が存在していた.
特にミシシッピー川流域には,トウモロコシ農業や大型墳墓を特徴とする,それなりに大きな勢力圏を持つ首長制国家が栄えていたという.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%94%E6%96%87%E5%8C%96
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC
ほかにも南西部のプエブロ文化,オハイオのアデナ文化・ホープウェル文化などがあったが,北米先住民の文化は大きなダメージを受けており,実態の解明は考古学的調査によるほかない.
世界史板,2010/11/02(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
中国や日本には欧米列強諸国が接近してきたのに,朝鮮には欧米列強は接近しなかったのですか?
【回答】
18世紀末から,朝鮮は清国経由で入ってくるカトリック教徒を弾圧・殺害してきた.
1866年,相次ぐカトリック信徒の殺害に抗議したフランス艦隊の攻撃を受ける.
同年,アメリカの商船ジェネラル・シャーマン号が通商を求めて朝鮮に来たが,焼き討ちに遭い沈没.
1871年,アメリカは軍船5隻を率いて開国交渉に来たが,強硬な拒絶に遭い帰国.
1873年,攘夷政策を強化してきた大院君が宮中クーデターで追放され,開国派の閔妃一派が政権を掌握.
1875年,日本が開国を求めて江華島に侵入.翌年日朝修好条規が締結される.
1882年,アメリカも朝鮮と修好通商条約を結ぶが,これは朝鮮の宗主国である清国とアメリカの交渉によるもの.
引き続いてフランス,ロシアとも通商条約が結ばれるも,みな不平等条約であった.
世界史板,2010/11/02(火)
青文字:加筆改修部分
【追記】
1792010/11/03(水) 21:31:49 0
植民地経営によって「儲かる」のは貿易やってる民間人で,
統治する方は治安維持やら軍備やら官僚整備やらで大変なの.
それでも様々な資源供給地&輸出市場として,
また本国で不満を抱いてる連中を送り込んで夢と希望を与える新天地として,
いろいろ批判はあるけど,宗主国にとって必要っちゃー必要だったのです.
8812010/11/13(土) 20:17:35 0
>>877
植民地の初期段階は冒険であり,財宝を探しに旅立ったのが主な理由でした.
ところがイギリスのインド植民地の産業が発達し大英帝国の富の源泉となった時
多くの西洋諸国はこれに憧れて様々な国をインド式植民地化していきました.
植民地を発展させて搾取しまくろうという腹です.
ところがどっこい,未開の地にインフラの整備やらを行っても
ちっとも黒字になりません,むしろ本国の財産を食い潰してしまう赤字の不良債権になりました.
これはインドが特別であり,ほかの国では富は生まれなかった.
19世紀の経済学者アダムスミスは名著「国富論」で植民地は宗主国の自尊心のための
アクセサリーだからとっとと捨ててしまえと書いています.
が,しかし意地なのか見栄なのか,この言葉に耳を傾けませんでした.
日本国も明治維新後は列強に習い,植民地を経営いたしましたが,
いずれも赤字.昭和の財界人かつ総理大臣の石橋は満州等は赤字だから手放せと書いていました.
戦後植民地がなくなった日本が経済成長したのも,戦前の不良債権に
金を捨てず国内に回したからだとも言われています.植民地は残酷で非道なイメージがありますが,
支配されたことにより人口は増え,寿命が延び,経済は上向きでした.
という話もあるよ.
もちろん植民地から搾取した特定の物資などは国の工業化する国の発展に付与したのは事実だろうけどね.
9262010/11/13(土) 23:18:31 0
>>884
ちょっとお尋ねするが,帝国主義で成功とはどのような状態?
「植民地経営は赤字であったので失敗」とはよく聞く意見であるがそういうことだろうか?
素人の意見であるので聞き流してもらってかまわないが,
国家的には赤字であっても企業が黒字であれば(さらに政策を決める人間と企業とが繋がっていれば)
植民地経営は失敗といえるかどうか.このへんのところがよくわからない.
9272010/11/13(土) 23:19:31 0
英国のやり方は卑劣極まりないので現地のゴミと自然と癒着関係が生じる.
たとえば支那の買弁野郎とかね.あの時代のアジア人はすごい不幸だった.
928 : 297=395=400 : 2010/11/13(土) 23:22:54
0
>>926
僕はあなたの言ったような意味で言ったつもりだよ.
植民地というのは基本的に国家がやるものだから
(東インド会社とかは近代じゃないため例外),
民間が儲かってても国益にならなければ意味がないんじゃない?
後は,ベルギーなんかは国際世論的な意味も含めて失敗と言った.
9292010/11/13(土) 23:25:33 0
>>926それは「他国にたいし下劣な植民地支配をする目的はそもそもなんなのか?」で
判断が分かれるだろう.たとえば植民地帝国の雄,オゲレツ帝国はいったい
何のためにあんな非道な支配をしたのか?それは結局欧州内での戦争での戦費が
かさみ,植民地からの搾取でそれを賄おうとしたからだろう.要するにユダヤ人に
対する借金で首が回らなくなって近所中で武力に任せて強盗と金品の要求をしてる
状態・・これが「帝国主義」というやつだ.だがオゲレツさんは結局膨大な
借金が返せず破産,ダメリカという新・帝国に席を譲ることになる.その点で
旧来の植民地化の目的で言えば「植民地経営が赤字」ってのは失敗である,と
いえる.
930 : 297=395=400 : 2010/11/13(土) 23:26:00
0
>>926
あ,それと言い忘れたけど,いかに早く上手に植民地を切り離せるかも,
成功・失敗の判断基準にした.
イギリスなんかはかなり上手く植民地を独立させてるけど,
オランダなんかはその辺で失敗して泥沼な独立戦争を繰り広げるはめになった.
9312010/11/13(土) 23:36:07 O
あの二国(というか実質アングロサクソンの人ら)が上手いのは
現地の人に政権握らせておいて,
自分たちはああしろこうしろとその政府に注文出すだけ
ってスタイルを多く採用していたところだよな.
同じ目的さえ果たせるなら,現地に合ったやり方を知っているやつらに任せた方が楽.
勿論彼らが独立してしまわないように,色々と画策する必要はあったけど,
余計なごたごたが起こる前に,さっと切り離せるのも,あのスタイルのおかげ.
934 : 297=395=400 : 2010/11/13(土) 23:40:41
0
>>931
なるほど.個人的にイギリスのインド経営は
植民地経営のお手本と言っても良いぐらいに上手なのに,
なんで他の国はそういったやり方ができなかったんだろう?
935 : 297=395=400 : 2010/11/13(土) 23:41:55
0
>>934
悪い.上のレスの「個人的に」という言葉は要らないね.
間違えて書いてしまった.
9362010/11/13(土) 23:43:40 0
>>934
詳しくは無いけどイギリスはインドに最低限の投資をして時間をかけて産業を
育ててたってことじゃないか?つまり細く長く吸っていこうというスタイル
日本も長い目でみてそうしたかったんだろうけどいろいろ無理があったわな.
他の国は最低限の投資もしないで奪ってたのでは?
937 : 297=395=400 : 2010/11/13(土) 23:46:05
0
>>936
ただ搾取するだけじゃ長続きしないという事に気づかなかったのかな?
日本も含め長期的に視野が足りないのか・・・.
938 : 297=395=400 : 2010/11/13(土) 23:46:49
0
>>937
誤字訂正
誤)長期的に視野
正)長期的な視野
9402010/11/13(土) 23:54:36 O
>>937
あと,間接的に政治をコントロールするというノウハウが足りてなかったってのもあるかもな.
独立されちゃったら困るから,直接俺たちがコントロールしちゃえ!! ってすぐなっちゃう.
実際,色々と細かい調節はしていたみたいだしな.
イギリスがよくやったのは,現地のマイノリティに,
自分たちがバックアップして政権を握らせる方法なんだっけ?
独立しても現地のマジョリティに政権取られてしまうから長続きするとか.
世界史板,2010/11/03(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
小姓(ペイジ)についておしえてください.
趣味で漫画かいてます.
15世紀のヨーロッパ,小姓はどういう生活をしていましたか?
城に勤めて,城で寝泊りしてたんですか?
【回答】
ヨーロッパの中世におけるペイジは,騎士の城や屋敷に仕える,7,8歳から十代半ばくらいまでの少年のことをさす.
大部分は貴族や荘園主の子弟で,王の宮廷をはじめ,生家より家柄が上の貴族に奉公して,使い走りを務めたり,家庭内の仕事をまかされたりしながら,将来の騎士にふさわしく,馬及び武器の扱い方やテーブルマナー,また,チェスの遊び方などを教えられた.
14歳くらいになると,今度は従騎士となって銀の拍車を付け,主人の身の回りの世話を担当するようになり,戦場でも補佐役を務めた.
世界史板,2010/11/04(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
近代以前で日本が世界史に登場するのって,”ジパング”としてのみ?
【回答】
中世イスラーム世界では「ワクワク(ワークワーク,倭国)」として知られていた.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%AF%E3%83%AF%E3%82%AF
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%91%E3%83%B3%E3%82%B0
「世界史に登場する」というても,欧州人が書き記したものだけが世界史ではない.
シナ人は紀元前から,「倭人」「倭国」「日本国」について書き記しているし,蒙古襲来はいうに及ばず,倭寇の襲撃や秀吉軍の侵攻という大事件もあった.
近世には金銀の大産地として欧州にまで知られ,ポルトガル人やオランダ人までもが日本に来た.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E8%A6%8B%E9%8A%80%E5%B1%B1
世界史板,2010/11/04(木)
青文字:加筆改修部分
【追記】
2472010/11/05(金) 10:09:38 0
巴里でもパリでも同じ事って言うくらいには
支那でもシナでも良いが,どの概念で使っているか解ってて使うなら良いんじゃないか
英語だとSinologyなどと言うように,sino,chinoを接頭語として使う
新浪網公司がアメリカを中心に展開しているSina.comに対しても在日中国人から別称だという苦情が寄せられ
それに対して,「China」と「Sino」を合体したもので中国の蔑称ではなく尊称であると回答するという事があった
やたら気にしてるのはどっちの側にしろ変な人だろう
2482010/11/05(金) 10:12:12 0
在日中国人は江南人が多いから
秦や清を連想する名称を嫌うらしいな
2502010/11/05(金) 10:22:03 0
漢と韓がアクセント違い一緒のHanでこれまた在日中国人の気に触るw
だから「高麗」と韓国のことを呼ぶ
なぜか「南朝鮮」ではなく現代のことでも「高麗」
世界史板,2010/11/05(金)
青文字:加筆改修部分
【追記】
2842010/11/06(土) 08:52:07 0
初心者にもわかりやすい,というのであれば,井上浩一先生の著作がお薦め
とりあえず入門的なのは,講談社現代新書の『生き残った帝国ビザンティン』だな
あと,中央公論社の『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』とか
もし入手できるか,図書館に置いてあれば,筑摩書房『ビザンツ皇妃列伝』も面白いぞ
世界史板,2010/11/06(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
【回答】
2762010/11/05(金) 23:05:15 0
ペストで農民の地位が上がったから,ペスト禍の少ない地域ほど貴族が強い.
貴族が強く平民の地位が低い地域は近代化が遅れる.
2952010/11/06(土) 14:12:09 0
>>278
すみません,ペストがどこから来たかを問題にしている書き込みはどこですか?
レスを辿ったのですが,その発言がどことつながりがあるのか解らなくて…
2962010/11/06(土) 14:37:29 0
>>276じゃね?
モンゴル帝国やマムルーク朝など東洋でも黒死病が大流行したのに,
農民の地位が上がったわけでも「近代化」が進んだわけでもない
2972010/11/06(土) 14:47:26 0
まぁ,西欧の近代化の要因を黒死病に結びつけるのは少し無理があるなぁ.
個人的に東欧の貴族の権力が強いのは西欧に比べてキリスト教の受容が遅れたせいだと思う.
つまり王権神授的な考えが根付かず国王の権力が強くなりにくかったから,
相対的に貴族の権力が上がったんだと思う.
「じゃあ,ハンガリーの聖イシュトヴァーンの王冠は何なの?」と言われたら返答に困るが・・・・
3432010/11/06(土) 19:41:50 0
>>297
黒死病の影響が,マムルーク朝と西欧で正反対に働いたりはしているけど
やっぱ影響はでかかった気がするなぁ.
中央集権化って,統治の効率を良くするためのものだけれど
もともとわりと豊かな資源に恵まれていたが故に
効率の悪い封建社会をしても問題なかった西欧は
人手不足のために効率化を行ったために,封建制を脱したのに対し
すでに効率化されている状態の軍事政権だったモンゴルやマムルークは
人手不足になっても,改良の余地がなく,沈没,みたいなイメージがあるが.
344 : 297 : 2010/11/06(土) 20:06:03 0
>>343
なるほど.
モンゴルはちょっと詳しくないんで良く分からないが,
確かにエジプトでは黒死病の結果マムルーク朝が衰退してるね.
西欧の近代化の要因とまでは行かなくても,
東欧に比べて西欧で絶対主義が流行った要素の1つぐらいにはなるか.
この事は西欧に限らずエジプトでも,
マムルーク朝の後に続いたオスマン帝国での皇帝権力が
西欧と同様にかなり強い事からもうかがえる.
東欧諸国でロシアだけ例外的に皇帝の力が強いのも,
タタールのくびきの下で黒死病が流行ったせいかも知れない.
3452010/11/06(土) 20:11:44 O
高句麗や渤海の王族は漢語の姓名を名乗ってたんですか?
3462010/11/06(土) 20:15:04 0
名乗っていない.
チベットビルマ系の部族名みたいなのを名乗っている.
347 : 346 : 2010/11/06(土) 20:20:57 0
チェーとかダーという一音節の部族名は
チベット族の部族名.
郎格薩爾王の「郎」が姓で,格薩爾が名前.
3482010/11/06(土) 20:35:01 0
モンゴルではペストの知識が豊富だったのか
(近隣のシベリア樹林地帯の野生動物がペスト菌キャリアで,
そこの森林の民から早い時代に情報が伝わっていた可能性あり)
ヨーロッパほどには大打撃にならなかったと
3492010/11/06(土) 20:50:59 0
モンゴルは生で肉を食べず,釜で煮てから食うのが徹底している.
3502010/11/06(土) 20:54:24 0
マクニールの「疫病と世界史」に載ってた話で,
満州には弱ったネズミに接触してはいけないというような内容の民話だか宗教話だかがあって,
清朝の満州族が漢族に満州への立ち入りを禁止していた時期はペストが流行る事がなかったのに,
清朝が衰退して漢族が満州に入り込み,満州の民話を無視してネズミに接触するようになって
満州のペスト流行が起きたという話があった.
遊牧民は民話的な話でペストから守られていたという事はありうるね.
しかし大帝国を作って定住したりする内にその防衛が効かなくなり世界中に拡大,と.
3512010/11/06(土) 21:06:48 0
黒死病と言えば,キプチャク・ハン国がカッファかどこかクリミア半島のジェノヴァ植民都市を攻撃したときに
ペストで死んだ人間の死体をトレバシェットで都市にぶち込み,
そこに交易に来ていたジェノヴァ商人が感染してシチリアとマルセイユに持ち込んだために
広まってしまったという話を聞いたのですが,この話は事実なんでしょうか?
原始的な生物兵器のような発想で面白いですが
3522010/11/06(土) 21:30:56 0
>>350
似た話を読んだことがある
最後のペストの世界的流行は19世紀末(明治中期だった日本にも上陸)だったけど,
そのきっかけは毛皮を求めてシベリア方面へ出稼ぎ・交易に来たロシア人猟師や商人だった
地元の先住民族には「病気で弱った獣に触ってはいけない」という禁忌があり,厳重に守られていた
だけど流入ロシア人は禁忌を無視し,弱ったミンクなどを絶好の獲物とみて捕らえていた
結果,ペストを広めることになった,という話
3532010/11/06(土) 22:13:54 0
モンゴルのネズミは地ネズミでタルバカンといってでかい.ウサギみたいなでかさがある.
こいつのリンパ腺にしばしばペスト菌がいる.
いや,ペスト菌だけじゃないらしい.
現地の人はタルバカンを捕まえて石焼にして良く食う.
かのジンギスカンも,羊の群れを飼うだけの牧草地をモテなかった子供時代はこのタルバカンばっか食ってた.
でも,日本人とかが行って食うとてきめん下痢するんだそうだ.
おそるべし,タルバカン.
3542010/11/06(土) 22:21:54 0
>石焼にして良く食う.
それはカザフの影響だろう.古い時代はデカいネズミを釜で煮ていたらしい.
三島海雲記念財団に聞いてみると,料理法の変遷とかわかるかもw
あそこはモンゴルの食品について異様に詳しい.
3552010/11/06(土) 22:34:22 0
石焼ってあれだよ?
頚をきりおとして内臓をとりだしてすてちまう.
そのなかに真っ赤に焼いた石を詰め込んで内側からむしやきにするんだよ.
のこってるのは皮,骨,肉だね.
内臓にはリンパ組織とか胸腺とか.ウイルスや細菌を封じ込めてる部分があるだろうから捨てるのは智慧だよな.
世界史板,2010/11/06(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
チェンバレンって何故,ドイツに宣戦布告しておいて,自身はその後,すぐに退陣したんですか?
宣戦布告したのは彼の内閣なんだから,彼が戦時内閣を率いていくべきだと思うのですが.
【回答】
元々チェンバレンとしては,さっさと仏・独との国交樹立してたソ連と友好結んで,ソ連協力の下,そのまんま平和に持って行きたかったんだが,チャーチル含む国内が反対してな.
その後,アメリカからも協力しようって来たが,ソ連との協調を断り,独自方針を打ち出した以上,これでアメリカと協力するのは三国との関係が悪化するだけってことで,拒否するしかなかった.
で,国内の反対派の言う通りにした結果戦争になった上,全面動員してやる気になってんのに,
「戦争の準備できてないよ.
ポーランド見捨てるしかないよねー」
というのが圧倒的意見だから,これはキレるしかない.
じゃあ,なんで最初に反対したんだよ?と.
それを差し引いても,仏の防衛ではもしシュリーフェンなら,海軍がキモになることは分かってたし,チャーチルに任せるのは妥当な判断.
戦時だからこそ,権力は軍に預ける方がいい.
じゃないと,どこぞのボヘミア伍長みたいになる.
世界史板,2010/11/07(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本だと戦国時代など,敵将などの首をとって論功行賞していたのは有名ですが,中世ヨーロッパなどではどうやって手柄など確認したのでしょうか?
仲間同士で報告しあったりしたら,内輪で嘘の報告もできますし,乱戦のなかでの手柄となると,やったやらないなどの騒ぎにもなりかねませんが,西洋の兵隊や騎士も首を狩ったりしたのでしょうか?
それとも,もっと効率的な手柄確認方があったのですか?
【回答】
手柄というより,戦争参加することが予め,主君との「契約」における義務というだけの話.
戦争参加して給料をもらうのは,中世も終わりの傭兵の話だ.
契約期間が終了すれば,戦争中にさっさと帰っても主君は文句も言えないし,複数の主君を持っていて,その主君同士が戦った場合,最初は一方の主君に味方して,契約期間終了後はもう一方の主君に味方するのも可能.
これじゃ,殺し合いだの手柄だのの話にはならんだろ?
敵の主君を生け捕りにすれば,その騎士が恩賞に預かれることもあったろうが,それが目的の戦争参加じゃないのは,きちんと理解してないと,中世ヨーロッパの戦争というかフェーデは理解できないぞ.
勿論,騎士は武勇も美徳だから,勇戦すれば評価は高いし,所領増加もあっただろう.
(それが敵を生け捕ったりすることなんだよ)
当時は会戦方式だし,紋章官の原型の軍使や伝令が,戦場を走り回ってる.
しかも大規模会戦なんかほとんどないし,基本戦闘単位が,一人の騎士とその従者(ランス)っていう,こじんまりしたのだよ.
主役は騎士で,従者・弓兵は所詮その補助.
狙う相手は騎士だけだから,戦闘相手は限定されるし,それこそ人質にするか首を挙げても――まず滅多にいないが――,手柄をこっそり奪うことができたり,誰が誰やら混乱するほど大人数じゃないんだよ.
フェーデは実力で決着をつけることだけど,勝てばいいのであって,敵を殺しまくるのが目的じゃない.
傭兵時代でもルネサンスのイタリアじゃ,傭兵隊長はなるべく殺しあいになるのを避けてる.
それで自分の兵士が死ぬことは,経済的損失だからな.
そらまあ,中世でも国王の直属領主のシモン・ド・モンフォールみたいに,ラングドックで勝ちまくって,征服先であるトゥールーズ伯に収まっちゃう例もあるけどな.
十字軍の場合は純粋な信仰熱で参加するのもあったが,向こうで一旗挙げて恩賞に預かろうという動機も確かにあった.
信仰熱で参加してる奴は金銭の恩賞じゃなくて,異教徒を殺しまくることが,神の御心に叶うと魂の救いを教会に保障してもらえたこと,それが恩賞になるし,それに略奪品が金銭的な収入になったから,わざわざ君主から恩賞をもらう必要なし.
領主の参加者は聖地で領地を得るのが目的だから,一旦十字軍諸国として成立したら,異教徒との融和的政策に転じないと,自分たちが危険.
だから後続の皆殺し目的の,考えなし十字軍たちは,ある意味迷惑でもあった.
297=395=400 : 世界史板,2010/11/09(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
神聖ローマ帝国について質問があります.
世界史の地図に興味を持ち始めて,最近購入して読み込んでるんですが,神聖ローマ帝国の境界ってどうなってるんですか?
オーストリアやハンガリーに食い込んでたりして,わけがわかりません.
フランス王国とかスペイン王国は,すっきりしてるんですけど.
【回答】
まずあらかじめ断っておくと,オーストリアは神聖ローマ帝国の領土だよ.
ハンガリー王国は,厳密には神聖ローマ帝国領ではないが,モハーチの戦い以降は,当時神聖ローマ帝国の帝位を独占してたハプスブルク家が,ハンガリー王位を世襲するようになった.
つまりオーストリアは神聖ローマ帝国内の諸侯で,ハンガリーは神聖ローマの域外の別の国家だ.
オーストリア大公のハプスブルク家がハンガリー王を兼ねているということで,名目上,ハンガリーとオーストリアは別国家だ.
なので,他の神聖ローマ内のハプスブルク領の地域(オーストリアやボヘミア)とは違う法律が適用され,ある程度の独自性がハンガリーでは保たれていた.
これが,後にオーストリア・ハンガリー二重帝国が出来る要因の1つとなる.
といってもハプスブルク帝国という呼称が示すように,実質的には1つの国のようなものだったが・・・・
ハプスブルクに限らず,1つの家系が2つ以上の国家の主権者になるのは珍しいことじゃない.
イギリスも神聖ローマ内のハノーファー選帝侯が,英国王兼ねてただろ?
そもそも,神聖ローマ帝国は成立当初から,諸侯の力がかなり強くて,とても一つの国とは言えない状態だったんだ.
それでも30年戦争までは,ある程度の統一性は維持されてたけど,30年戦争後は諸侯が完全に独立国と同じ権利を持つようになり,神聖ローマ皇帝の位は名目上のものだけになっていた.
神聖ローマが正式に滅びるのは,ナポレオン戦争の時だけど,その時もオーストリア大公で神聖ローマ皇帝だったフランツ2世が,神聖ローマ皇帝の位をなくしただけで,実質的にはそれよりはるか前に,国としての実態はなくなっていた.
それで大抵の歴史地図は,そういった理由から,神聖ローマ帝国内のいくつかの諸侯国家についても書いてあるんだ.
でも,そういった諸侯の中には,神聖ローマ帝国の外にある土地を領土に持っているのもいたから,そういった諸侯たちを地図上で表すと,すごい複雑な地図になってしまって結果的に,ぱっと見ただけじゃ神聖ローマがどうなっているのか,分かりにくくなっているんだと思う.
297=395=400 : 世界史板,2010/11/09(火)〜11/10(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
オーストリアってのは,ハプスブルク家そのもの?
【回答】
実はオーストリアは,最初からハプスブルク家の領土ではなくて,13世紀前半まではバーベンベルク家の領土だったんだよね.
ハプスブルクはもともとスイスの諸侯だったんだけど,バーベンベルク家が断絶すると,神聖ローマ内の諸侯がオーストリアを巡って争い合い,結果,ルドルフ1世の活躍によってハプスブルクがオーストリアを所有できるようになった.
その後しばらくして,ハプスブルク家はスイスを追い出されるから,ハプスブルクとオーストリアがイコールの意味になるのはそれ以降のことで,それより以前のオーストリアとハプスブルクを,イコールにするのは厳密には正しくないね.
297=395=400 : 世界史板,2010/11/09(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ナチスの「純粋アーリア人創出計画」について教えてください.
【回答】
「レーベンスボルン(生命の泉)計画」.
WW1後や大恐慌後,生活苦などからドイツの出生率が著しく落ち込み,堕胎・中絶が流行したため,政権をとったナチスは,人口増加のため支援制度を作ったが,その一つが1935年にSS長官ヒムラーが創設した「生命の泉協会」だった.
本来はSS兵士の妻子を保護養育する施設程度だったが,WW2が勃発するとドイツ国外に,主旨の変わった施設が作られた.
ヒトラーは金髪・碧眼・長身の「北方人種」こそが「純粋なアーリア人」であると考え(彼自身は正反対だったのだが),「ドイツ人のアーリア化」を目的として,占領下のノルウェーに「レーベンスボルン」施設を作り,ドイツ人のナチス党員と,「北方人種」であるノルウェー人女性との性交渉を奨励した.
これによって1万2000人もの混血児が生まれたという.
戦後,彼ら母子はノルウェー政府の迫害を受け,国籍を奪われたり強制収容されたりした.
一方,ポーランド・チェコ・フランス・オランダなどの占領地でも,「北方人種的」な外見をした子供は,「純粋なアーリア人」と見なされ,ポーランドだけでも5万〜20万人の子供が誘拐されて,ドイツ人家族のもとに送られたという.
世界史板,2010/11/10(水)
青文字:加筆改修部分
【追記】
イスラム圏(≒オスマン)が西欧に比べて相対的に遅れを取るようになったのは,
一般的にはカルロヴィッツ条約以降と言われているね.
これはイスラム圏が落ちぶれてしまったと言うよりは
西欧諸国が急速に発展したと言うほうが実態に合ってる.
19世紀以降はオスマンやイランなどでも差が開いた西欧諸国に対抗するために,
近代化しようという動きはあったよ.日本における明治維新のようなものは
19世紀のオスマン帝国でも見られたんだ.
このオスマン帝国の近代化は最終的にケマルによるトルコ革命によって,
一応のゴールを迎え現在のトルコは中東では例外的に発展している先進国となった.
653 : 297=395=400 : 2010/11/10(水) 16:44:28
0
>>649の続き
一方,このオスマン帝国による近代化はイスタンブルを中心にして行われたため,
その他のアラブ地域では行われず(近代トルコはこの地域を植民地のように扱った),
後のアラブ地域の停滞とヨーロッパ諸国による被植民地化をもたらした.
ただ,エジプトだけは例外的にムハンマド・アリーによって近代化を進めてたんだけど,
結局イギリスの植民地になってしまったため,トルコほど上手くいかなかった.
また,イランはパーレビ国王の時代までかなり積極的に近代化政策を
実行してきたけど,これがイラン革命によってポシャったのは有名だから説明不要だよね.
6702010/11/10(水) 18:43:32 0
アラブはトルコを恨み,イランを嫌い,欧米を憎んでいる.
つまりオスマン帝国,シーア派,キリスト教だ.(もちろんアラブ人にもシーア派やキリスト教徒はいるが)
王制打倒革命後のアラブ諸国は,汎アラブ主義を唱え世俗化(「近代化」)を目指した.
だが反欧米路線から東側諸国のシステムを取り入れてしまい,社会主義独裁で政治をするしかなくなった.
エジプト,シリア,イラク,リビア,イエメン,みなそうだ.(トルコはなにしろソ連と近いし,自然と欧米に近づけた)
世俗化に失敗し,貧困と圧制がはびこるところ,救済を求めて宗教が輝いて見える.
イスラームは世界宗教で,過去の「アラブ民族」が生み出した偉大な文明システムだから,これを捨てるなんてとんでもない.
サウジや湾岸諸国はオイルマネーで絶対王制を維持しており,これがうまくいく限り「民主化」を望んでもしょうがない.
まあサウジは国の成り立ちが,ワッハーブ派という過激宗教団体の庇護者として始まってるので,
それを否定すると宗教指導者の反抗で余計に国が立ち行かなくなるが.
671 : 297=395=400 : 2010/11/10(水) 18:52:59
0
>>670
今のイスラム国の政治体制は「@西欧化近代化を推し進めている国」,
「Aアラブ民族主義による世俗主義を標榜してる国」,「Bイスラム原理主義国家」の
3つぐらいに分けられると思う.
トルコやレバノンなんかは@で,シリアやエジプトとかはA,
サウジアラビアやイランなんかはBに当てはまるかな?
アラブ民族主義の失敗によるイスラム原理主義の台頭は,
多くの現代イスラム史関係の本でみかける主張だね.
6772010/11/10(水) 21:24:23 0
>>665
回教が政局に関わったからこそ
イスラム修道派の台頭と商業の発達を招いて支配権を手に入れたんだがな.
問題だったのは多民族主義でそれぞれの民族を取り入れていったから
王権の欠乏や民族主権の不足,それに伴う紛争が果てしなく続いた上に
帝国主義の発達が遅れたことだろう.
何を為すにしてもそれぞれの意見が足を引っ張った.
680 : 297=395=400 : 2010/11/10(水) 22:10:31
0
やっべ同じところに2回アンカーしてしまった.
>>677
個人的にはそれよりもアラブ諸国が近世以降,
イスラーム世界の辺境と化してしまった事が衰退の原因だと思う.
イスラーム世界のうち例外的に発展してるのがトルコだけという現状から考えるに,
近世以降イスラーム世界の中心がイスタンブルになった結果,
他のアラブ諸国が相対的に田舎化して,
それが現在のアラブ諸国の衰退に繋がってるんじゃないかな?
だから,イスラーム世界の衰退と言うよりは,
アラブ世界の衰退と言ったほうが良いのかも知れない.
(イランはペルシャ語圏なのでまたちょっと例外)
それと,オスマン帝国はバリバリの帝国主義の発達した国家だと思うんだけど.
世界史板,2010/11/10(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦国初期(春秋末期?)の楚・呉・越の鉄の鋳造技術は非常に高度な物だったらしいけど,これって殷(商)代後期の青銅器の鋳造技術の高さと繋がりがあるの?
【回答】
ないでもない.
殷は異民族との交易(商売)で栄えた都市国家の連合体で,銅や錫は南からも輸入していた.
殷が滅亡したあと,その文化が楚など南方諸国へ伝わったようでもある.
ただ,殷と同時代にはすでに,長江流域にも独自の青銅器文化があったらしい.
両者の混交で文化が発達していったようで,呉・越・楚の青銅製武器は非常に優れていた.
あるいは東南アジアの青銅器文化とも,関係があるかもしれない.
中国の鉄器は,初期には鍛造も行われたが,春秋末期からフイゴによる鋳鉄技術が起こり,農具や武器や玩具まで鋳鉄になるほど,異常に大量の鉄が作られた.
西洋で鋳鉄が行われ始めるのが,紀元後の14世紀というから異様に早い.
鉄鉱山の多い斉では,大いに製鉄が行われたが,殷代には山東は東夷で,長江下流域との関係もありそう.
神話上では,黄帝と戦った蚩尤が,銅鉄から武器を作ったなどというが,蚩尤は東夷とも苗族とも羌族ともいう.
世界史板,2010/11/11(木)
青文字:加筆改修部分
【追記】
文明のレベルを決定するのは国の位置だよ.正確にはその位置のその時代の気候.
ヨーロッパが停滞した時期と,寒冷期は連動している.
そして大きく見て,ヨーロッパが寒冷期を迎えていた時は中東が温暖湿潤になる.
寒冷期のヨーロッパは経済と食料供給が不安定になって
人口移動が激しくなり,小国に分かれて体力を削りあってしまう.
一方の中東は気温がやや下がって湿潤になると病害虫が減って農耕が安定し,活発な貿易や平和的な移住が起る.
そこに異文化の融合や問題解決のための工夫から発明や文化が生まれる.
経済が安定しているが故に,文化と教育も発展する.学者は何時の時代も食えないから,豊かな国でないと育たない.
そして彼らが残したものが長い時間を経て人々に恩恵をもたらす.
ヨーロッパが巻き返しを始めれたのは,
南米から寒冷に強いジャガイモやトウモロコシがもたらされ,食料供給が安定し人口が増加したから.
大航海の恩恵もあって経済規模も大きくなり,農地が安定したために地主の経済力も安定し
民族の侵入(略奪)もおおまか止まった.
変動はあったが大きく見ればこの時期にヨーロッパは温暖化を始めている.
中東は気温が上がり,砂漠化が進行して逆に文明の停滞が始まる.
中国の発展が紀元後,急速に停滞した理由もその時期にはじまった乾燥化に求められる.
そして,あの国の王朝が滅ぶ理由の根本は農民の反乱.つまり気候変動による飢饉が原因.
7632010/11/11(木) 23:11:40 0
巻き返しっつうか,古代のヨーロッパで文明国だったのはギリシャとイタリアだろ.
イベリアや南ガリアはともかく,北ガリアやブリテン,ゲルマニアは蛮族もいいとこだ.
「中世の温暖化」は8世紀から13世紀頃までで,その間に大開墾時代や十字軍があった.
14世紀には寒冷化が始まり,大飢饉と黒死病と百年戦争と初期ルネサンスが並行して進む.
寒冷期のピークは16〜18世紀で,19世紀半ばにようやく温暖化が始まる.
トウモロコシはコロンブスが食べてうまいと言ったためか,ジャガイモより早く南欧やアジア・アフリカへ広まったが,
貧民はこればっかり食べ過ぎてペラグラという病気にかかったとか.まぁ,飼料用だべ.
7672010/11/11(木) 23:57:40 0
>>763
中東の学門のベースは地中海.
でもその後の停滞で忘れ去られて,十字軍やイベリア奪還でヨーロッパに戻ってきた.
ジャガイモは長い間一属一種で,そのためドイツでは病気で全滅した事がある.
その時に膨大な人間が餓死したんだが,
裏を返せばそれだけジャガイモによって人が増えていたという事.
食料は人間の行動のほとんどを支配しているよ.
フランス革命は浅間山噴火の硫酸エアロゾルによっておきた大寒波によって引き起こされたという説があるほどだし.
トウモロコシは基本的に粉引きしてパンやスープにした.飼料用じゃないよ.
7752010/11/12(金) 05:19:32 0
>>765
>>771の言うとおり,トウモロコシはメソアメリカで作られたもの.南米はジャガイモ
だ.メソアメリカ考古学者の人は,メソアメリカ文明とアンデス文明を一緒くたにさ
れるて困るって言ってたな.
ジャガイモやトウモロコシがヨーロッパで普及したのは,小麦と違って非課税だ
ったこともある.アイルランドのジャガイモ飢饉だって,小麦はダメージ受けてない
けど飢餓輸出されてただろ.
世界史板,2010/11/11(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
日中戦争では中国は,共産軍が挟撃使って1回勝ったきり?
【回答】
対日戦における日本軍は,内地に侵攻すればするほど,兵站の確保がむずかしくなった.
そのため日本軍は勝ち続けてはいたものの,略奪しつつ侵攻してた.
それは岡村寧次大将の記録にも残されてる.
> 私は華中,華北の戦場で,日本兵が昔日の神兵ではなく,
>掠奪,強姦,放火等の非行が少くないことを知り痛嘆した.
> 第一線部隊は給養困難を名として,俘虜を殺してしまう弊がある.
日本軍の戦略は,第1次世界大戦当時のままである,決戦主義の攻撃であるのに対して,中国軍の戦略は近代にベトナム戦争やイラク戦争などでも見られるような,国民感情全体として日本軍に敵意をむけさせ,ゲリラ戦を優位にすすめるという,名将など必要としない近代的戦略でもって戦っていた.
また,中国軍は援蒋ルートなど通じて支援を受けており,徐々に装備も近代化し,日本軍に大勝はしないももの,かなりの犠牲を与えていたと思われる.
結果的に日本を焦土作戦で苦しめたうえ,連合国に加わって「戦勝国」になれた.
個々の戦闘に勝利することだけが兵法ではない.
世界史板,2010/11/12(金)
青文字:加筆改修部分
【追記】
そもそも大規模な軍隊に移動するに際して強姦や略奪が発生しないほうがおかしい
それはアメリカ軍ですら発生していたので共産国家だけの問題ではない.
それは規律などの問題ではなく,どんな厳しい規律を訓練された軍隊であっても
補給と上層部の監督が無くては発生するもの.
ソ連軍のような大規模な軍隊を維持するには略奪は必須だったし増して対戦国も
略奪などしながら侵攻してるのでしない方がおかしい.
米軍のように補給が行き届いてる軍隊のが歴史的に見ると異常なのだ.
沖縄戦の際,日本軍が中国戦線で行ってきた略奪や強姦の話は住民にも噂など
で伝わっていた,その為,政府が宣伝する鬼畜米英が略奪や強姦などしないわけ
がないと考え多くの住民が自殺する悲劇が起こった.
軍隊も哀れみなどから自殺用に手榴弾など配布したため悲劇が加速した.
アメリカ軍は粘り強く説得したにもかかわらず自決者が続出してる.
世界史板,2010/11/13(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5227.html
見ると,ソ連死に過ぎなんだけど,産業などもかなり破壊されてたはずだし,どうしてWW2の後で2大大国の一つになることができたんだろうか?
【回答】
実際の所,よく分からんのだよな.
飢饉は起きて,唯一の取り柄の出産率も低下,
捕虜もあちこち移動させられてgdgdだし,雇用政策は取っているけれど,まずは食糧運搬のインフラ設備等の回復のため工業に送らなきゃいけないわけで,農業は停滞.
食糧の値段は下がり,軍部も集団農場も安定しておらず,まともな国営ができたとは思えない.
これに比べれば,当時のイギリスはどれほど恵まれていたのか?って感じ.
なのに気がつくとソ連は,東側を統率できる程度に発展してた.
ソ連内部の事情については,現在でも,亡命者の多いイギリスで,断片から推測され作られた想像図以上の資料はない.
まあ例によって,外交でやりくりしたんじゃないかね.
モンゴルは平和だったし.
世界史板,2010/11/14(日)
青文字:加筆改修部分
【追記】
9672010/11/14(日) 15:11:34 0
1995年からハンブルクで始まった「国防軍の犯罪展」ついて教えてください.
9682010/11/14(日) 16:42:56 0
http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/20050830VerbrechenderWehrmacht.htm
第二次世界大戦中,ナチスの組織ではない「ドイツ国防軍」が,
戦争犯罪に関わったことを示すとして,1994年からドイツで行われた移動写真展.
戦後のドイツでは「国防軍はあくまで国家元首の命令に従ったに過ぎない」という一種の神話があり,
国防軍の将校が戦後復権する一方,ホロコーストなどの戦争犯罪は全てナチスに押し付けていた.
このため写真展は賛否両論の大きな反響を呼び,退役兵士やネオナチなど右派勢力から激しい非難・攻撃があった.
また歴史研究者から「写真のいくつかが説明と違う」との指摘もあった.
ソ連の秘密警察がやっていたことを,ドイツ国防軍の仕業であると説明したというのだ.
主催者側は国際的な鑑定委員会を立ち上げ,検証の結果一部写真の誤用を認め,写真展は中止された.
ただ,実際には国防軍も民間人を虐殺するなど,戦争犯罪に深く関与していたようだ.
世界史板,2010/11/14(日)
青文字:加筆改修部分
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