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世界史なんでも質問スレッド79

目次

 【質問】 朝鮮半島の歴史を大まかに教えてください.

 【質問】 遊牧民・北東アジアの歴史を大まかに教えてください.

 【質問】 支那の歴史を大まかに教えてください.

 【質問】 奥州の歴史を大まかに教えてください.

 【質問】 チェコとスロバキアの分離は円満に終わったのに,ユーゴスラビアの分離は内戦にまで発展しました.どちらも第1次世界大戦で生まれた人工国家なのに,何が明暗を分けたのでしょう?

 【追記】 少数民族優遇政策のためクオーター程度でも非漢族で申告している者がかなりいる.

** 【質問】 「天下の台所」って何?

 【追記】 清の西太后や殷のダッキは言われるほど悪人ではなかったというのは本当ですか?

 【質問】 「薛延陀」って,民族的には何になるんでしょうか?

 【質問】 ヒッタイトを滅ぼし,エジプトに侵入した海の民というのは,いったいどういう集団でどこへ消えていったのでしょうか?

 【質問】 なぜ数ある騎馬民族の中でモンゴルだけが,はるか遠くの地域にまで進出できたんですかね?

 【質問】 ウィーン会議が「会議は踊る,されど進まず」状態になったのは何故ですか?

 【質問】 なぜイスラム国家だけ,現在でも強硬な宗教国家でありつづけて居るのでしょうか?

 【質問】 デンマークはなんで,イングランドにしつこく進出したの?

 【追記】 中世から近世にかけてのヨーロッパの大国で最大の穀倉地帯だったポーランドが,急に精彩を欠くようになるのは,議会制と選挙王制による指導力の欠如が原因ですか?

 【質問】 イル・ハン朝はいつ,誰によって滅ぼされたんでしょうか?

 【質問】 アレクサンダー大王死後,どうしてどこの国も,ディアドコイの争いの混乱に乗じて現地人が独立しようとしないで,マケドニア人の支配を受け入れ続けたの?


 【質問】
 朝鮮半島の歴史を大まかに教えてください.

 【回答】
(1) 箕子,衛氏,高句麗,百済,新羅
(2) 任那滅亡,新羅統一,王位争奪激化
(3) 長安国,後百済国,摩震国,高麗統一,契丹に服属,金に服属
(4) 武家政権,崔氏独裁,モンゴルに服属,日本遠征,李氏朝鮮,倭寇
(5) 秀吉侵略,清に服属,キリスト教の布教
(6) 朝鮮開国,日韓併合,朝鮮戦争
(7) 南北分裂

世界史板,2010/09/14(火)
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 【質問】
 遊牧民・北東アジアの歴史を大まかに教えてください.

 【回答】
(1) スキタイ・匈奴分裂・鮮卑・柔然・突厥・高句麗
(2) 突厥分裂・吐蕃・ウイグル・震国・渤海
(3) キルギス・吐蕃・契丹・遼・西夏・金
(4) モンゴル・チベット・元・北元・韃靼
(5) ロシア・後金・清・ジュンガル併合
(6) ロシア・中華民国・ソビエト・外蒙古・満州国
(7) 北方領土侵攻・満州・新疆・チベット併合

世界史板,2010/09/14(火)
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 【質問】
 支那の歴史を大まかに教えてください.

 【回答】
(1) 商・殷・周・秦・楚・漢・三国・西晋・五胡十六国・東晋
(2) 北魏・南朝・隋・唐・安史の乱
(3) 両税法・節度使・五代十国・北宋
(4) 金・南宋・元・明・鄭和・土木の変
(5) 北虜南倭・朝鮮を救援・明滅亡・康熙帝・アヘン戦争・太平天国の乱
(6) 台湾問題,清仏戦争,日清戦争,孫文,日中戦争(日本切腹中国介錯)
(7) 毛沢東統一,チベット侵攻,文化大革命,四つの現代化

世界史板,2010/09/14(火)
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 【質問】
 奥州の歴史を大まかに教えてください.

 【回答】
(1) 後縄文
(2) 蝦夷の服属・シ亭足柵・磐舟柵・阿倍比羅夫・出羽国設置・多賀城・秋田城
(3) 坂上田村麻呂・胆沢城・志波城・文室綿麻呂・藤原保則・前九年・後三年の役・奥州藤原氏滅亡
(4) 高氏出征・北畠顕家・伊達氏最上氏南部氏津軽氏など諸族
(5) 奥州征伐・奥の細道・韃靼貿易・アイヌの反乱・ロシアの接近
(6) 戊辰戦争・北海道設置・千島樺太交換・シベリア出兵
(7) ロシア侵攻・シベリア抑留・北方領土問題

 ちなみに古代の大和朝廷は,東国の人間を毛深い異民族と見ていた.
 478年の倭王武(雄略天皇)が宋に遣使した上表文の中に,「東は毛人を征する」という記述がある.
 この場合の「毛」が稲や麦の意味であるはずがない.
 ひょっとすると,縄文民族の末裔が,獣皮を衣料にも活用していたのを見て,毛皮を着ている連中という意味で毛人と言ったのかもしれないが,いずれにせよ,東国の民を侮蔑的な意味を込め,征服の対象として毛人と呼んでいた.
 それで,関東地方で比較的早く発展した,今の群馬・栃木あたりは,古代には「毛の国」と呼ばれ,それが後に,上つ毛の国=上野国と,下つ毛の国=下野国に分割された.

世界史板,2010/09/14(火)
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 【質問】
 チェコとスロバキアの分離は円満に終わったのに,ユーゴスラビアの分離はもつれにもつれて内戦にまで発展しました.
 どちらも第1次世界大戦で生まれた人工国家なのに,何がこの明暗を分けたのでしょう?

 【回答】
チェコ;チェコ人が90.4%である.さらに,モラヴィア人が3.7%である.
 少数民族としては,スロバキア人が1.9%,ポーランド人が0.5%,ドイツ人が0.4%,シレジア人が0.1%,マジャル人が0.1%,ロマが0.1%である.
スロバキア:2001年の国勢調査による民族構成は,スロバキア人が85.8%,マジャル人が9.7%,ロマが1.7%,チェック人が0.8%である.
 この他に,チェック人ではなくモラヴィア人,シレジア人としてのメンタリティを持っているもの,ルテニア人・ウクライナ人,ドイツ人,ポーランド人,クロアチア人がいるがその総数は凡そ2%である.

 国家内の民族構成が見事じゃないか.
 入り組んでなくてチェコ人ばっかのとこと,スロバキア人ばっかのとこで,2つに分離したんだよ.

 ユーゴはそうじゃなかったわな.
 民族が移住政策とかで居住地がいりくんでたから,分離するときの国境線の引き方で大もめしたんだろ.

 加えてセルビアの政治指導者が,危機感を煽ってセルビア人を炊きつけた,という要素もある.
 どこの国でもアジテーターは害悪.

世界史板,2010/09/14(火)
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 【反論】
 いや,ビロード革命でも,もとの境界に接している自治体では,どっちに入るか住民投票して国境線引き直しているよ.
 農地・山林なんかは持ち主が一続きの土地を向こう側にもっていたりすると,持ち主で帰属を決めたりしているし.

 それまで同等の地位だったものが,冷戦終結以降,チェコ語には訳されても,人口の比較的少ないスロバキア語には訳されない書物・映像の割合が増えて文化格差が広がった,結構な割合でチェコ語が解って読み書きはチェコ語でやるというスロバキア人もいて,経済的に豊かなチェコ側に,随分と土地や人口がもっていかれたそうだ.

世界史板,2010/09/15(水)
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 【追記】

164 :世界@名無史さん:2010/09/15(水) 04:16:32 0
あそこは全人口の94%が「漢族」ってことになってるしなぁ…


165 :世界@名無史さん:2010/09/15(水) 07:35:23 0
少数民族特権を捨てれば,誰でも漢族に転換できちゃうからな.
タイも同じ方式だ.だれでもタイ族に転換できてしまう.
モンゴルも同じ.だれでもハルハ族に転換できてしまう.
東アジアの民族名は,宗教か言語での括りなので,ルーツの違う者でも同じ民族名.
ルーツが同じであっても宗教や言語が違えば違う民族名になるので,民族意識は欧州とは違う形になる.

171 :世界@名無史さん:2010/09/15(水) 11:31:25 0
>>164
残りの5〜6%も少数民族優遇政策のためクオーター程度でも非漢族で申告している者がかなりいる.
漢化の時期が古すぎて証拠もないから仕方なく漢族を名乗る者もいる.
蒙古族500万に対していくら混血が進んだからって満族2000万って多すぎだろwっていう.
>>165
トルコにはギリシア語・キリスト教徒のギリシア人とトルコ語・イスラム教徒のトルコ人で
スイッチング可能な者がうじゃうじゃいる.トルコ人とクルド人の間も同様.東アジアだけの話ではない.

中国の裕固族はチュルク系言語のサリグ・ヨグルとモンゴル系言語のシラ・ユグルに分かれるが
両者はルーツ・宗教・伝統・習俗を共有し,通婚関係も保っている.

中国では固有の言語を持たずにムスリムなら回族の筈だが海南島の三亜の回族は
チャム人の子孫でチャム語が声調言語化した独自の言語を持つがいまだに回族のまま.
ほかにもチベット・ビルマ系の独自性の強い言語を話すのにチベット族などにまとめられている集団がいくつもある.

中国のタジク族はペルシア系と言ってもパミール語群というタジク語とはまるで違う言語を話す.
本当の意味でのタジク人は中国に一人もいない.単にタジク共和国側でパミールに対して
文化的政治的に優位なタジク族の名を借りているだけ.

中国政府の民族分類は単なる行政区分.当然政治的な意図がてんこもりだ.

世界史板,2010/09/15(水)
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** 【質問】 「天下の台所」って何?

 【回答】
 天下の台所(てんかのだいどころ)とは,江戸時代に物流,商業の中心地であった大坂を指した異名として使われる用語.
 全国の藩が大坂に蔵屋敷などを設け,生活物資の多くが一旦生産地より大坂に集められて再度,全国の消費地に送られたからであると言われている.
 公文書では,天保13年(1843年)に,天保の改革による株仲間廃止論に異論を唱えた,大坂町奉行阿部正蔵の意見書(「諸色取締方之儀ニ付奉伺候書付」)の中に
「大坂表之義は諸国取引第一之場所」
「世俗諸国之台所と相唱」
という文面が見られる.
 このため,これを「天下の台所」の由来とする見方が広くなされていた.

 ただ,正確な用語としては,大阪市史料調査会主任調査員の野高宏之によると,江戸時代の文献に大坂を「諸国之台所」「日本の賄い所」と評する記述は存在するが,「天下之台所」と直接記述した文献は存在せず,大正時代に幸田成友が『大阪市史 第二』等の叙述中で用いた用語が,一般に広まっていく過程で,江戸時代から存在した言葉と誤解された事が分かっている.

 江戸が100万人に近いところまできたのは,実際のところ明治に入ってからだからねえ.
 温暖だった16世紀の関東地方は,未開地で生産性は低かったし,大名とその家族や家臣等士族の半分を強制的に江戸に住まわせ,上方・伊勢・尾張・三河の商工業者や漁民を呼び寄せて,それなりの街に仕上げた家光の時代から寒冷期になって,東日本の農業は振るわず.方や,西日本は,穀物(米)だけでなく,繊維(綿,麻,養蚕),茶,イグサ,油(菜種,胡麻),蝋,薬,染料とのような,広域流通を必要とする商品作物の栽培が進展する,手工業は量的にも質的にも上方が圧倒的,塩の生産は瀬戸内海に集中しているというふうに,大坂に広域流通のための市場が置かれない理由,廃れる理由がなかった.
 江戸は人口は多くても,生産に寄与しない士族が寄生しているだけで,商工業者も士族を対象としているだけ,ド田舎の関東平野にポツンと一つだけ街があるのが江戸で,手工業の質が上方に追いつくのはようやく19世紀も三分の一が過ぎたあたりからなので,産品の集積地が遷るまでには至らなかった.

世界史板,2010/09/17(金)


 【追記】

229 :世界@名無史さん:2010/09/17(金) 22:46:43 0
清の西太后や殷のダッキは言われるほど悪人ではなかったというのは本当ですか?
後の共産政権が自らの正当化のために悪事をでっち上げたとか.


230 :世界@名無史さん:2010/09/17(金) 22:52:13 0
共産政権は呂后や武則天に対して,非常に高評価なのだ.
業績に対しての評価では最高評価に近い.
西太后は残念ながら,非常に評価が低い.


231 :世界@名無史さん:2010/09/17(金) 22:53:51 0
>>229
西太后は清の近代化をことごとく叩き潰したからなあ.


232 :世界@名無史さん:2010/09/17(金) 23:18:25 0
日本よりの史観から見ても,西太后のやろうとしたことは時代錯誤で愚かです.
日本に倣って維新(変法自強)をやろうとしたグループを完全に叩き潰しました.

但し,純粋に清朝としての史観から見るとそうとも言い切れないでしょう.
変法派は伊藤博文を顧問として招聘する計画を進めており,
伊藤の提案した「日,中,米,英の合邦」という青写真を丸のみしようとしていました.
清国の国家主権という意味では解釈によっては危うい事態に追い込まれていると西太后が考えても無理はなく,
それに基づいて変法派を粛清したという説が最近有力になってきています.


233 :世界@名無史さん:2010/09/17(金) 23:40:21 0
妲己は糞も何も所詮は紂王の付属物にすぎません.
紂王は桀王からの逸話拝借によって貶められたのではないかとの説があり,
最近見直されてきましたが,寧ろ桀王の方の逸話が紂王からの投影であるとの説もあります.
商の湯王の悪行が発掘された楚簡に記されていたことも知られて来ていますね.
どちらかというと,その楚簡で注目の記事は君主の世襲の完全否定を行っていたことだと思いますが.
始皇帝が焚書した理由もわかろうというものです.

紂王は英傑であり,美貌に優れ,猛獣と戦って素手で縊り殺したこともあり,
知能の高さは折り紙つきで,部下との論争では完全に言いくるめ,弄んで嘲弄すらしました.
当時日本や多くの国では人柱などの「人の命を神に捧げる因習」が多く存在しましたが,
それを中国で廃止したのは彼だといわれています.


234 :世界@名無史さん:2010/09/18(土) 00:03:13 0
>>229
妲己は実在したかどうかすら判らん.紂王は言われるほどの悪人ではなかったろうが,捏造したのは
周であって共産政権は関係ない.

>>233
>商の湯王の悪行が発掘された楚簡に記されていたことも知られて来ていますね.
もっと詳しく.って言うか,釣りかよ!

世界史板,
青文字:加筆改修部分


 【質問】
http://www.geocities.jp/nafricap/07/645.jpg
 まず,「薛延陀」って何て読むんですかね?
 東突厥の後継,ですかね?
 民族的には何になるんでしょうか?

 【回答】
 薛延陀(せつえんだ).
 突厥以外のテュルク系諸部族を総称した「鉄勒」のなかの一部族で,東西突厥の狭間,ジュンガル盆地の北部あたりにいた.
 628年,薛延陀部族長の夷男がウイグル・バシュミルなど鉄勒諸族とともに東突厥から離反し,たちまち東突厥を南へ追いやって,図のような広大な地域の諸部族を服属させた.
 南の唐とも結んで一時は強勢を誇ったが,645年に夷男が死ぬと諸部が分裂し,唐に滅ぼされる.
 鉄勒諸族は唐に服属したが,やがて第二次突厥やウイグルに組み込まれていく.

世界史板,2010/09/22(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ヒッタイトを滅ぼし,エジプトに侵入した海の民というのは,いったいどういう集団でどこへ消えていったのでしょうか?

 【回答】
 紀元前13世紀頃から,中東欧,バルカン,ギリシャ,イタリア,小アジア西部に住んでいた様々な民族集団.
 青銅器文化を持ち,ヒッタイトとエジプトが戦争していた頃から,両国の傭兵などとして活躍していた.
 やがて東地中海世界を放浪して荒らしまわり,現地の奴隷や周辺異民族の反乱・侵攻にも加担.
 ヒッタイトから鉄器文化を吸収して広めたとの説もある.
 その後は各地に定住し,多くの都市国家を築いた.

 「海の民」という名は後付けだが,エジプトなどの記録に残る彼らの名称のうち,アカイワシャ/アヒヤワはミケーネ文明を築いていたアカイア人,トゥルシアはイタリア半島のエトルリア人,ルカは小アジア南部のリュキア人,シェルデンはサルデーニャ人,シェクレシュはシチリア人と見られる.
 また,デネンはギリシャ人の古名であるダナオイ(川の女神ダナイスの民),チェケルはトロイアの王テウケロスと関係があるともいう.
 クレタ島から来たとされるペリシテ人はパレスチナ沿岸部に侵攻し,ヘブライ人とも抗争した.

世界史板,2010/09/23(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 なぜ数ある騎馬民族の中でモンゴルだけが,根拠地の草原地帯やその周辺の農耕・オアシス地帯だけに留まらず,はるか遠くの地域にまで進出できたんですかね?
 山岳地帯や熱帯地帯まで攻めてるじゃないですか?

 【回答】
 遠くまで大規模出兵できるだけの領域(国)の支配に成功したから.
 あと、チンギスハンの能力、気候が温暖化なども上げられる.

 モンゴルほどじゃないけど、広い範囲を支配した騎馬民族は外にもある.
 遼とか、匈奴とか.

 チンギスによる統合時のモンゴル騎馬兵だけで,世界征服&統治ができたわけではない.
 「草原地帯やその周辺の農耕・オアシス地帯」には,モンゴル以前からテュルク,ウイグル,キタイ,キプチャク,ムスリム,漢人などがいた.
 彼らはすでに高度な商業・政略・軍事のノウハウを持っており,これらが大挙してモンゴルに加わり,諸方面での実務を担った.

 チベットは吐蕃崩壊後に諸勢力が分立していたが,強大化したモンゴルに自ら取り入って仲間になる.
 雲南へは南宋・インドシナの交通路を押さえるためと,金銀などの資源を求めて,補給路を固めてから攻撃.
 キプチャク草原はスキタイの昔から遊牧適地で,ここを取れば中東欧へ侵攻するのはたやすい.
 中央アジアからイラン・中東へ攻め込むのも,セルジューク朝やホラズム・シャー朝に先例がある.
 南宋が滅ぶと海への視野も広がり,ついでに東南アジア諸国にも遠征するほどになった.

 突厥や唐も,数十年だけは内陸ユーラシアの東西にまたがる世界帝国だったが,内乱で崩壊した.
 唐代には吐蕃や南詔も強大で,彼らが「山岳地帯や熱帯地帯」に君臨していたし,契丹は西夏が邪魔して南西方向へは進出できず.
 モンゴルでも幾度か内乱は起きたものの,クビライ家を宗主とする連邦として100年ほど維持された.

 それに,山岳地帯って質問者は言っているが,目立ったものは,天山,崑崙,チベット,パミール,ザクロス,コーカサスくらいだ.
 ウラル山脈は山地でもなんでもなくて,精々,丘陵・高原くらい.
 天山,崑崙,パミール,ザクロスは,周囲が全部騎馬圏.チベットは高原全体がそれ自体騎馬圏.
 コーカサスはもともと小国乱立で,物質的に自活不能で,黒海・カスピ海の周辺との依存関係にあったので,南北両側・東西の黒海・カスピ海の沿岸が一つの勢力に支配されれば,全域で従属やむなし.

 それにまた,熱帯地域への侵攻は,すべて失敗している.
 精々,ベトナムに対して,従前の,大国対小国の関係を回復するにとどまっているのが成功例か.

世界史板,2010/10/01(金)〜10/02(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ウィーン会議「会議は踊る,されど進まず」状態になったのは何故ですか?

 【回答】
 当然,超大国を欠いた多国間協議で,調整役の無い国益のぶつかり合いで進まないこともあったが,なにしろ,フランス語を排して協議をすすめようとして,ラテン語でやろうとしたものだから,そもそも,話が通じなかった.

 18世紀まで,建前上の国際語はラテン語だった.
 しかし16世紀以降,随一の大国であったフランスが,フランス中北部の方言に基づいたフランス語化政策を実施した ことにより,一次話者の居なくなったラテン語に代わって,国際関係の事実上の作業語の地位を得てくる.
 つまり,フランス語で交渉して,ラテン語で条文を書く,というような状態だ.
 ヨーロッパの王侯貴族は,国をまたがって大抵縁続きだし,フランスが超大国として君臨することによって,支配階層(王侯貴族,高級官僚,職業軍人)・富裕層は大抵或る程度のフランス語の理解はあるという状態が,大国が英米にとって代わるまでの状態.

 片やラテン語は,19世紀でも学術の場での書き言葉ではあったが,会話は殆ど通じない状況だった.

世界史板,2010/10/02(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 中東のイスラム国家だと,良くテロリストなんかが,異教徒が国の中に侵入しただけでブチ切れ状態になり殺しちゃったりしますが,なぜイスラム国家だけ,現在でも強硬な宗教国家でありつづけて居るのでしょうか?
 欧米はキリスト教ですが,宗教的に比較的ゆるやかですよね?
 例えばドイツにトルコ系のイスラム移民が入ってきても,宗教弾圧したりはしません.
 なぜイスラム国家だけ強硬な宗教国家なのでしょうか?

 【回答】
 強硬な宗教国家というより,イスラムとキリスト教の違い.
 イスラムは個人の生活まで規制するもので,その生活もイスラム法に基づいている.
 イスラム国家は政教が分離していないというか,教義的に分離という概念がない.
 国教はイスラム教で,国はイスラム法で運営される.
 例外は,強引に政教分離を行った現トルコくらいじゃないかな.

 そんで,イスラム法もムフティーというイスラム法学者の解釈(ファトワ)で運用されている.
 よくテレビでイスラム宗教指導者と言うが,本来はイスラム法学者であるムフティーだ.
 イスラムには専任の聖職者がいないのが,教会組織との分離を図れば良かったキリスト教徒の違いでもある.
 前近代のイスラムの頃は,その時代や地域の実情に合わせて,柔軟な解釈で運用されていたが,近代になって西洋ナショナリズムの影響をうけて,ナショナリズムと本来のイスラムへの回帰運動が合体した形で,独立運動が展開された.

 サウジアラビアなんかは,特に厳密なワッハーブ派の国家だ.
 そういったナショナリズムと回帰運動が基礎になったこと,西洋的な価値観の押し付けへの反発もあいまって,寧ろ前近代より柔軟性がなくて非寛容な所ができてしまっている.
 勿論,柔軟性のあるムフティーもいて,社会的な信用も高いが,過激なほうにも熱狂的な信者がでてくるのは,キリスト教と一緒だな.

>異教徒が国の中に侵入しただけでブチ切れ状態

 イスラエルとその周辺の国家を巡る問題,あるいはイラン(あるいはイラク・アフガン)とアメリカの問題と絡むなら,それは純粋な宗教対立ではなく,政治の問題が宗教の皮を被って出てきただけ.
 何事にも大義名分は必要だから.

世界史板,2010/10/02(土)〜10/03(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 デンマークはなんで,イングランドにしつこく進出したんだろうね?
 遠すぎるし間に海あるし,継続的に出兵するのも恒久的な支配を打ち立てるのも難しいと思うんだが.
 それぐらいなら,北ドイツやスウェーデン攻めた方がマシじゃないかと.

 【回答】
 スウェーデンには同族のスヴェーア人がいて手ごわく,土地自体にたいした産物はない.
 バルト・ルーシ方面の航路を抑えれば利益を上げられるが,スヴェーア人と抗争する必要がある.
(その後の北方十字軍でデーン人もこっちへ伸びてくるが)
 森と湿地に覆われた北ドイツやポーランドも似たようなもの.

 一方,フランスやイングランドはローマによる開発も長く,北欧に比べれば遥かに肥沃で,交易も盛んだった.
 そのうえフランクもアングロサクソンも分裂抗争してばかりで,容易に攻め込んで略奪することができた.
 特にイングランドはフランクほど豊かでも強くもないので,格好のカモになる.
 また,海は障壁にもなるが,ヴァイキングにとっては道に等しい.
 ヴィンランドやシチリアやビザンツまで大遠征する連中にとって,近所の北海を渡るなど簡単なことだ.

 で,豊かで弱くて近い国があれば,攻め込んで定住して支配しようという発想も出てくる.
 そこでデンマーク本国から継続出兵せずとも,デーンロウという植民地を現地に作れば,いつでも「地続きの」イングランドを攻撃できるというわけ.

 クヌート王とかハラルド王とかの時代はノルウェーら辺もデンマークの領土だし,ノルウェーとブリテン島の間には,シェットランド,フェア,オークニーと,小島が橋を架けたように横たわっている.
 スコットランドに近いオークニー諸島は,スコットランド王ジェームズ3世とデンマークのマーガット王女との縁組の際に,化粧領として渡されるまでデンマーク領だったし.

 また,確かノルウェーがハラルド美髪王の時代(860年頃)に,一斉に各部族民が追放されて,当時は無人のアイスランドに植民したんだっけな?
 その頃は大きな軍船ができはじめて,出征も通常の春から夏に変更されていた.
(ちなみに,基本的にヴァイキングは冬に船を出す)
 原因やどんな技術が開発されたのかは知らんが,これが何よりも大きいように思う.
 歩きのフロールヴがノルマンディーに行ったのもハラルド王の頃だが,ハラルド王の息子も英国に行って親睦を深めた.

世界史板,2010/10/05(火)〜10/07(木)
青文字:加筆改修部分


 【追記】

900 :世界@名無史さん:2010/10/07(木) 19:21:21 0
中世から近世にかけてのヨーロッパの大国で最大の穀倉地帯だったポーランドが,
急に精彩を欠くようになるのは,議会制と選挙王制による指導力の欠如が原因ですか?


901 :世界@名無史さん:2010/10/07(木) 20:05:07 0
小氷期で寒くなりました.
その結果ポーランドは南のウクライナ方面に進出.


902 :世界@名無史さん:2010/10/07(木) 23:37:39 0
15〜17世紀のポーランドは,リトアニア,ベラルーシ,ウクライナなどを併せた大国だった.
ポーランド本土も穀倉地帯で,欧州への穀物の輸出により大きな財を成した.

大国ポーランドの没落は17世紀半ばから始まる.
この頃にはすでに大貴族(マグナート)が国の支配権を掌握していたが,
欧州では新大陸からの穀物が入るようになり,穀物価格が下落した.
大貴族たちは収入を確保するため領地拡大を図り,農民を農奴同然に搾取した.

また大貴族は中央政府を無力化して権益を維持するため,
1652年にリベルム・ヴェト(任意拒否権)を議会の全議員が持つことにし,
議会に提出されたいかなる法案も「拒否権発動」で取り消せるようにした.
また外国と結託して自分の権益を守ろうとする者まで現われ,ほぼ無政府状態になった.
さらにウクライナでのコサックの反乱,スウェーデンやロシアなどとの大戦争が打ち続き,
18世紀に入ると国内はすっかり荒れ果て,国王も外国の傀儡に過ぎなくなってしまった.


903 :世界@名無史さん:2010/10/08(金) 09:35:58 0
>議会に提出されたいかなる法案も「拒否権発動」で取り消せるようにした.

要するに,すべての議決を全会一致としたのだ.

世界史板,2010/10/07(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 イル・ハン朝はいつ誰によって滅ぼされたんでしょうか?

 【回答】
 イルハン朝は外敵によってではなく,内側から崩壊して滅んだ.
 第9代のイルハン(国王)アブー・サイードが功臣を殺しまくって悪政をしき,嗣子なくして死んだため,フレグの嫡流が絶えた.
 遠縁のアルパ・ケウンが擁立されて重臣たちが団結し,ジョチ・ウルスの侵攻を防いだが,こいつも猜疑心が強く,ひたすら功臣を殺しまくって反乱を招いた.

 かくしてモンゴル・テュルク系の将軍たちは,各地に群雄割拠し,傀儡イルハンを各々が勝手に担いで,自分たちの政権の正当性を主張した.
 これがチョバン朝,ジャライル朝,サルバダール朝,ムザッファル朝などと呼ばれる.
 そのうち面倒なのでイルハンを担ぐのもやめて,自ら君主になって興亡を繰り広げた.

 ジョチ・ウルス,チャガタイ・ウルス,大元ウルスも似たような感じで崩壊しまくっていたが,最後に湧いて出たティムールが西方の諸ウルスをガンガン平定して大帝国を築いた.
 最後に東方も平定しようと大遠征に出たところで,さすがに寿命が尽きて死んだ.

世界史板,2010/10/08(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アレクサンダー大王死後,帝国は分裂したけど,どの大王の旧領土もマケドニア人のディアドコイの王朝の支配下だよね?
 どうしてどこの国も,ディアドコイの争いの混乱に乗じて現地人が独立しようとしないで,マケドニア人の支配を受け入れ続けたの?

 【回答】
 マケドニア本国はさておき,小アジア地域には結構現地人系のヘレニズム王国がある.
 ビテュニアは大王以前から独立.ポントスはアンティゴノスの死後,カッパドキアはエウメネスの死後独立.
 ペルガモンはセレウコス朝から独立し,王家はマケドニア人とパフラゴニア人の混血.

 アジアでは,セレウコス朝統治下でも何度か反乱はあったが,国力が強いうちは鎮圧できた.
 しかし西方のエジプトやローマがつけこみ,現地人の反乱を煽ってセレウコス朝を弱体化させた.
 東方でパルティアが独立するのは,アケメネス朝崩壊の百年後で,イラン・イラクを掌握するのはさらに百年後.

 プトレマイオス朝が長続きしたのは,エジプトという政治・文化・文明的統一体が何千年も前からあり,王が現人神のファラオとして君臨し,各民族間のバランスをうまくとったため.
 西のカルタゴに気をつければ,敵としてはシリアだけを相手にしていればよい.
 まあ王位継承争いでグダグダになるが.

 織田信長が死んだ後,地元勢力が立ち上がらないで,織田家の家臣だけが権力争いしてたのと同じ.
 それぞれ現地勢力も新しい組織に組み込まれて,旧来の組織なんて残ってない.
 残ってた関東なんかは織田勢力が出て行ったが.

 アレクサンダー後も同様に,旧勢力の残っていたインド・バクトリアの各地は現地勢力が統治を続けた.
 例えばインダス地方はポロスが,パンジャーブ地方はタクシレス,コーカサスはオクシュアルテスetc...
 しかしそうした勢力は元々現地勢力であるだけに,全後継領域の争いには加わらない.

世界史板,2010/10/09(土)
青文字:加筆改修部分


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