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世界史なんでも質問スレッド78
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目次

 【質問】 清仏戦争のころのフランス国内って,どんな状態だったんですか?

 【質問】 第1次大戦後,チェコとスロバキアが,一緒にくっついて独立したのはなぜですか?

 【質問】 汎スラブ民族主義を掲げたはずのユーゴスラビアが,どうして内部の民族対立の絶えない国になってしまったんでしょう?

 【質問】 ユーゴスラビアに最初から民族対立があったなら,汎スラブ主義ってのはなんだったんだ?

 【追記】 遊牧民も部族連合レベルになれば都市を「作る」ぞ.

 【質問】 王-諸侯-騎士と階級が分化する以前は,どのような社会だったのでしょうか?

 【質問】 李氏朝鮮の建国者・李成桂は,冊封を受けたの?

 【質問】 イェニチェリにされたのは,どういう人たちなのですか?

 【質問】 オランダは何で海に積極的に進出して,植民地せっせと作ったんだろう?

 【質問】 ヒトラーがユダヤ人虐殺をやる以前は,ドイツではユダヤ人が,銀行の頭取や経営者など社会上層部に多く入り込み,ドイツ人はその下で賃金をもらい,働くといった構図が続いていたのですか?

 【質問】 第4回目十字軍遠征でのコンスタンティノープル攻略から,1453年にオスマン帝国に滅ぼされるまでの間,コンスタンティノープルって誰が統治してたの?

 【質問】 日ユ同祖論は,どこまで本当なのでしょうか?

 【質問】 騎士階級が没落した原因は何ですか?

 【質問】 漢の景帝は,なぜ名君扱いされるのでしょうか?


 【質問】
 清仏戦争のころのフランス国内って,ど状態だったんですか?

 【回答】
 普仏戦争後,なんとか第三共和政として復興するが,アルザス・ロレーヌ地方を喪失.
 共和国政府は,ブルジョワや右翼・左翼の寄り合い所帯で,野党の王党派やボナパルティストもまとまりを欠く.
 1882年には金融恐慌が起き,工業生産は米独に抜かれて世界第4位に転落.
 外交面ではビスマルク体制により国際的に孤立し,特に英独と対立を深める.

 かようによろよろしつつも,一応列強ではあり,アジア・アフリカに植民地を拡大していったが,清仏戦争ではかなり苦戦したため,首相が引責辞任したり反政府運動が起きたりと,しばらく混乱した.
 右派は欧州でドイツに復讐しろといい,左派は軍事費増大が国民に負担を強いると非難した.

世界史板,2010/08/11(水)
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 【質問】
 チェコスロバキアが第一次世界大戦後に独立した時,もともと民族構成的にも文化的にも異なるチェコとスロバキアが,一緒にくっついて独立したのはなぜですか?

 【回答】
 ハンガリー領で生まれた「汎スラヴ主義」の残滓,「チェコスロバキア主義」の影響.

 チェコ人とスロバキア人は,共に西スラヴ系でほとんど同じ言語を話していたが,チェコ(ボヘミア)が仮にも王国を築き,神聖ローマ帝国の大諸侯になったのに対し,スロバキアは1000年に渡り「ハンガリー王国の北部地域」でしかなかった.
 19世紀になってようやく,「スロバキア語」「スロバキア人」という言語・民族の名称が造られたほどだ.

 第1次世界大戦では,オーストリア=ハンガリー帝国が,セルビアやロシアなどスラヴ人の国々と戦ったが,チェコ人やスロバキア人は帝国臣民として,「同胞」のスラヴ人と戦うことになった.

 その頃,民族運動の指導者にトーマシュ・マサリクという人物がいた.
 彼はチェコとスロバキアの間に位置する,モラヴィアの出身で,父はスロバキア人,母はチェコ人だった.
 マサリクは亡命先の欧米諸国で,「チェコとスロバキアの共同国家による独立」を唱え,大きな反響を呼んだ.
 前線にいたチェコやスロバキアの兵は,ロシア軍に続々と投降し,ドイツ人やハンガリー人と戦った.
 米英仏はマサリクの説得で,これを同盟軍と認め,戦後のチェコスロバキア独立を約束した.

 しかし,独立してみれば「チェコスロバキア人」をあわせても,国民の59%にしかならず,国内には28%ものドイツ人がいたし,ハンガリー人やルテニア(ウクライナ)人,ユダヤ人やジプシー(ロマ)などもいた.
 スロバキア人はドイツ人の半分しかおらず,チェコ人が主導権を握る政府に不満を抱いてもいた.

 なお,チェコとスロヴァキアでは,言葉や文化は若干異なるけど,どちらも西スラブ系なので,その差違はそんなに大きいわけじゃない.
 それまで両国を支配してきたゲルマン系のオーストリア人との差違に比べれば,方言の違いがあるといった程度の差でしかない.

世界史板,2010/08/12(木)
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 【質問】
 第1次世界大戦後,セルビア王国の領域に旧オーストリア領のスロベニア,クロアチア,ボスニアを統合して,ユーゴスラビア王国が成立しまして,第2次大戦後もユーゴスラビアの枠組みは守られたまま,社会主義国家になりましたが,汎スラブ民族主義を掲げたはずのこの国が,どうして内部の民族対立の絶えない国になってしまったんでしょう?
 汎スラブ主義と言うのは,国民統合の理念にはなりえないものだったのでしょうか?

 【回答】
 ユーゴの人口の4分の1を占めるセルビア人が幅をきかせ,他の民族に恨まれるようになったから .
 チトーは巧みに民族対立を回避し続けたが,彼の死後はまとまりが薄れ,ミロシェビッチがコソボ問題でアルバニア人と対立してから,全てが破綻していった.
 スロベニアもクロアチアもボスニア・ヘルツェゴビナもマケドニアもこれに異議を唱え,セルビアは孤立した.

 だから最初に民族対立があったのであり,宗教は民族主義の象徴としてあとから持ち出されたにすぎない.

 あと,アルバニア人は言語上はスラヴ系ですらない(印欧語族のアルバニア語派).

世界史板,2010/08/14(土)
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 【質問】
 ユーゴスラビアに最初から民族対立があったなら,汎スラブ主義ってのはなんだったんだ?

 【回答】
 汎スラヴ主義は19世紀半ばに発生したが,やがてロシアに主導権を握られ,中東欧・バルカンに対する進出を正当化し,独墺土のスラヴ民族を「解放」する名目として利用された.
 ロシア革命で民族主義運動は否定されたが,残滓としてチェコスロバキア主義とユーゴスラヴ主義が生じる.
 スラヴ人全体で団結するのは難しそうだから,近場の小さな民族同士で固まって独立しようといった感じ.

 こうして成立した「ユーゴスラビア王国」だが,当初からセルビアとクロアチアは対立していた.
 他にもムスリムのアルバニア人はいるわ,マジャール人やルーマニア人もいるわで,純粋な南スラヴ系諸民族(ユーゴスラヴ)による国家とは到底言えない,まとまりに欠ける国だった.
 国旗は汎スラヴ色ではあっても,それはセルビア主導の汎スラヴ主義だった.

 第2次大戦でこの国は,枢軸国に切り刻まれされて崩壊し,各民族が相争ったのち,チトーがパルチザンを率いて独立を勝ち取り,再統合を果たす.
 スターリンは対ドイツのため再び汎スラヴ主義を利用し,戦後にはベオグラードで会議を開くほどだったが,ソ連に反抗したユーゴはそこからも離脱し,各々が同等な諸民族の共和国が結びついて,連邦を作るという路線を歩んだ.

 ちなみに旧ユーゴの国歌「スラヴ人よ」も,汎スラヴ主義の象徴だが,王政廃止後から1977年までは非公式の国歌.

http://www.tky.3web.ne.jp/~ashigal/ww1/yougo/hansura.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2
など参照のこと.

 ユーゴスラヴ主義について
http://www.h3.dion.ne.jp/~jtpage/cy/yugo-art/index.htm

世界史板,2010/08/15(日)
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 【追記】

88:世界@名無史さん:2010/08/15(日) 22:42:28 0
遊牧民も部族連合レベルになれば都市を「作る」ぞ.

遊牧民自身は周辺の広大な牧草地で生活するが,交易や農作物・手工業製品の生産拠点として,
技術者や商人,農民や奴隷を連れてきて,いい土地に定住させる.
すでに都市があればそれを軍事力や交渉で服属させればよい.
庇護下の都市は貢税を遊牧民に払い,遊牧民は見返りに都市や隊商を護衛してやる.
点在する小さな都市国家が,個々にちまい兵力を雇うよりは効率的だし,武力の傘の下で経済圏も広がる.
遊牧民側も,覇権が揺るがなければ略奪や戦争せずとも定期収入が得られる.
こういうのは紀元前のスキタイがすでにやってるし,突厥や契丹なども行った.

世界史板,
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 【質問】
 王-諸侯-騎士と階級が分化する以前は,どのような社会だったのでしょうか?
 原始的な部族社会でしょうか?

 【回答】
 中世の封建制はゲルマンの従士制と,ローマの恩貸地制が結びついたものと言われています.
 従士制は詳細は,各部族・集団によってかなり変わってきますが,支配者層が男子によって軍役奉仕のための集団を作ったものです.
 恩貸地制は土地を貸与する代わりに,貢納や労役を負わせるもので,日本で言うところの寄進地系荘園に近いかもしれません.

 中世以前となると,ゲルマンの社会制度は,彼ら自身が移動を重ねていることもあり,分からない点が多いです.
 ローマは大枠では王政⇒貴族制⇒民主制⇒帝政という流れです.
 原始的な部族社会,の定義が非常に難しいですが,ローマにおいては血族よりも「ローマ市民」という,非常に広い範囲で同朋意識を持っていたと思います.

世界史板,2010/08/17(火)
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 【質問】
 李氏朝鮮の建国者である李成桂は,冊封を受けたの?

 【回答】
 李成桂は,明に冊封された高麗王を廃位して王位を簒奪し,
「権知高麗国事(高麗王の代理)」
と称して明に使者を送り,その地位を承認された.
 ただし国号を改めろと明に言われたため,新国号として朝鮮と和寧の二案を提出.
 結局,
「権知朝鮮国事(朝鮮王の代理)」
として冊封された.

 しかし,李成桂自身は明から「朝鮮国王」としての冊封を受けることができず,次の定宗も在位2年で没したが,3代目の太宗は明との関係を改善させ,正式に「朝鮮国王」に冊封されている.
 まあ明清交替期には丙子胡乱とかあったし,朝鮮側は中華王朝に対して(国王と称するよりも)へりくだった書面を送ったのだろうが,朝鮮国王というのが明清によって承認された対外称号で,中華皇帝の臣下であったことは確かだ.

 なお,高麗の建国者の王建も,当時の中華王朝である後唐に対して,「権知国事」として朝貢し,高麗国王に冊封されている.
 15世紀に成立した大越国の建国者も,明から「権署安南国事」に冊封されたが,在世中は安南国王の封号を受けられなかった.

世界史板,2010/08/20(金)
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 【質問】
 イェニチェリにされたのは,どういう人たちなのですか?

 【回答】
 奴隷として連れてこられたのうち,男子の未来は段階的にいくつかにわかれる.
 ひとつは本当に奴隷,使われる場によっては本当に鎖で繋がれ,鞭で打たれ,肉体労働を強いられる.
 戦場には最下級の消耗品兵士として送り出され,十把ひとからげで死ぬ.
 とりたてて能力のない者は,この運命になる.

 肉体的に優れる者はイェニチェリ候補として仕込まれる.
 まずイスラム教に改宗させられ,厳しい管理のもと言語,規律,忠誠等を仕込まれる.
 彼らは一般の臣民ではなく,イェニチェリ軍団にしか生存の場を求められないため,逆に強烈な帰属意識をもつ.

 イェニチェリ,あるいは奴隷の中から見た目の良いものは,従僕として宮廷に召し上げられる.
 スルタンには少年趣味を持つものが多く,目に止まれば側仕えを命じられる.

 宮廷に上がった者,あるいは奴隷として市井で使役される者の中でも,特に知能の高い者は官僚,最高でパシャとして召抱えられる.
 際立って特殊な才能を持つ者は,キリスト教徒のまま宮廷に入ることもあるが,これは奴隷上がりではまずなく,キリスト教世界から学識等を売り込んだケース.

 優れた多民族国家は,出自を問わない人材登用策を案出するもので,オスマン帝国のこのやり方も,独特ではあってもそのひとつと言える.
 支那では科挙,ローマでは市民権授与特例などがそれに当たるか.
 現実問題として,オスマン帝国内のイスラム教徒やトルコ人のみを使っていたのでは,能力的にも,帝国内情勢の均衡を図る上でも,不安だったということだろう.

 特に,オスマン帝国という勝ち馬に乗ろうとするアナトリアの土豪勢は,一時期,異教徒より目障りな存在で,奴隷登用制度(デウシメク)は,彼らを帝国権力から遠ざける効果も挙げている.

世界史板,2010/08/21(土)
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 【質問】
 オランダは何で海に積極的に進出して,植民地せっせと作ったんだろう?

 【回答】
 本国は欧州では強国に挟まれた小国に過ぎない.
 大西洋に向かって開かれている海外へ,目が向かない方が不思議だろう.

 また,前段階として海運,海賊業(このふたつは歴史的に両立することが多い)で培った造船,操船技術の伸長がある.
 イタリアの海洋都市国家群が衰退し,その後をスペイン,ポルトガルが埋め,大航海時代に入り,西葡を英蘭が駆逐したというわけだ.

 スペインはアラゴンとカスティリアが合同して生まれたが,コロンブスがアメリカを発見する直前の時点でアラゴン王はシチリア王,マヨルカ王を兼ね,その艦隊は地中海でイスラムの艦隊を破るなど精強だった.
 ヨーロッパ人の初めての外洋船キャラックやキャラベルは,スペインやポルトガルで生まれた.
 スペインの北海の領土であったネーデルランドは,スペインが運び込んだ香辛料の交易地として栄え,木材の少なかったスペインの造船所として船を量産した.
 オランダの造船技術は,スペインから受け継いだものなのだ.〔要出典〕
 1588年にスペイン艦隊をイギリス艦隊が破るも,それは一時の事で,別に世界に進出できたわけでもない.
 世界はその後,1世紀はスペインの物であり,更にその後,1世紀はオランダが栄えた.
 その間イギリスはオランダ製の船を使っていたのであり,1651年に航海条例を出して,イギリス製の船を使うようにさせ,その後でようやく世界に乗り出せた.
 ポルトガル,スペイン,オランダ,イギリスという順番は,そのまま造船技術と造船能力の推移でもある.〔要出典〕

 ちなみに,順番でポルトガルの前に当たるイタリアは,所詮地中海国家だから外洋船の技術があるわけじゃなかった.
 イタリアが衰退したとは言ってもヴェネチア辺りがその気になれば,コロンブスやガマ程度の艦隊が用意できないわけじゃない.
 ポルトガルやスペインの進展で危機感もあったはず.
 足りないのは技術と必要性.
 ヴェネツィアは直接オリエントと商売してるから,わざわざ大西洋の彼方やアフリカの南端まで乗り出す必要はなかった.
 まあベルギーや英国とも,沿岸航路での取引はあったけど.

世界史板,2010/08/24(火)
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 【質問】
 ヒトラーがユダヤ人虐殺をやる以前は,ドイツではユダヤ人が,銀行の頭取や経営者など社会上層部に多く入り込み,ドイツ人はその下で賃金をもらい,働くといった構図が続いていたのですか?

 【回答】
 財界トップクラスはドイツ人の資本家が占めていました.
 ヒトラーのスポンサーもこういう人々です.
 ユダヤ人は大学教授や中小企業・商店の経営者・弁護士・医師など.
 富裕層ではあるけど,社会の上層部では無いという人々が多かった.

世界史板,2010/08/24(火)
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 【質問】
 第4回目の十字軍遠征でコンスタンティノープルを攻略して,1453年にオスマン帝国に滅ぼされるまで,コンスタンティノープルって誰が統治してたの?
 西側の人が統治してたら,もう東ローマ帝国じゃないと思うんだけど,オスマンに滅ぼされるときの表現が,「東ローマ帝国の滅亡」ってなってるんだけど.

 【回答】
 ラテン帝国だろ.

 第4次十字軍が一旦コンスタンティノープルを奪い,ラテン帝国を建国するが,東ローマの皇族は各地に逃れて亡命政権を樹立.
(ニカエア帝国,トレビゾンド帝国,エピルス侯国)
 1261年にニカイアの亡命政権が,コンスタンティノープルを奪還し,ラテン帝国を滅ぼす.
 これがパレオロゴス朝となるが,その後もセルビア・オスマンなど周辺諸国から攻められまくり,首都周辺を除く領土をほぼ失う.
 14世紀末以後は,皇帝の位すらオスマン帝国のスルタンに左右される程度に成り下がるが,一応属国として存続.
 やがてメフメト2世が
「首都をかの地に置いて,ムスリムのローマ皇帝になりたい」
とか言い出して攻め滅ぼした.

世界史板,2010/08/25(水)
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 【質問】
 日ユ同祖論についてお聞きします.
 日本民族は10支族の末裔ということですが,イスラエル人と日本人では容姿も語族も違いますが,この日ユ同祖論はどこまで本当なのでしょうか?

 【回答】
     *      *
  *     +  うそです
     n ∧_∧ n
 + (ヨ(* ´∀`)E)
      Y     Y    *

 以下引用(強調;編者).

――――――
謎の疑似科学世界

 ユダヤ説(日本=ユダヤ同祖論)は,最も多くの支持者を引き付けた説として知られるが,その論証は,例えばその最も初期の論者の一人である佐伯好郎の論に見られるように,
「(京都の大秦の)『うづ』は"Ishu",即ち"Jesus"(イエス)又,『まさ』は"Messiah"(メシア)の転訛語に他ならぬものである.
 それは,アラマイク語及びセミチック語の“イエス・メシア”Jesus, the Messiahの転訛語に他にならぬ.」
といった,語呂合わせ的な独断めいたものであり,とうてい学術的な説とは言い難いようなものでしかなかった.

 これらの説が,ほとんど全ての場合において,日本人の先祖を,オリエントあるいはヨーロッパの古代文明の 建設者である,「優れた」白人系の人種に求めている点には,注意しておくべきであろう.
 まず,「日本人は優秀である」という根拠のない意識が先行し,この意識を正当化しようとして,同じく「優秀」な 民族を日本人の先祖に求めようとする.
 その先祖に求められたのが白人系人種であったことは,欧米に対する激しい劣等感と,それを自らの先祖を欧米人であとすることにより,優越感に変えようとする発想の現れと言えよう.
 また,木村説に見られるが如く,日本人がかつて海外をも自らの版図としていたとする説は,日本の対外侵略を正当化しようとしたものとも考えられる.
 逆に言えば,それらの主張は「偽史」を動員しなければ正当化出来ないような,根拠のないものであったわけであるが.
――――――

 ただし古代ユダヤ人(セム人)はコーカソイド.

世界史板,2010/08/29(日)
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 【質問】
 騎士階級が没落した原因は何ですか?

 【回答】
 貴族・騎士階級の没落とは何か.

 中世の基礎は,農民が領主に作物などで地代を納める事.
 それが貨幣経済の発展により,貨幣での納付になった.
 農民と領主の契約は年契約等の短期のものではなく,何代にも渡る長期契約である.
 価格革命が発生して物価が上昇したが,領主の地代は変わらない為,事実上収入が10分の1以下になる.
 収入が減少して,国王への務めを果たせなくなった貴族・騎士は,領地を国王に返還し,国王から給料を貰う役人・軍人等に成るしかなかった.

 また,中世末期から近世にかけて,欧州では百年戦争などの激しい戦争や内戦が続いた.
 この過程で,旧来の貴族や諸侯は潰しあったりして弱体化し,王権は相対的に強化された.
 中世の華であった騎士は,数を集められる常備傭兵団や銃火器に押されて,戦場では活躍しにくくなる.

 かくして没落した多くの貴族は,宮廷や首都に集まり,王権に協力・寄生して出世する道をとるようになり,興隆する富裕市民(ブルジョワ)も王権にすりよって,官僚や法服貴族に任じられる.
 官位や爵位には俸給がついており,これを相応の値段で買い取れば,商人や農民でも貴族の列に入れるわけだ.

 さらに中世の崩壊には,ペストや都市の発展なんかも重要なわけだけど,要約すると以下のようになる.
 ペストで人口が激減した時代,領主が偉そうにすれば農民は逃げる.
 逃げた農民は都市に行けば自由になる.
 こうして都市が発展した.
 人口が回復した後,拡大した農民の権利を押し込めようとする,封建領主の反動に対する答えが農民反乱.
 ワット=タイラーやジャックリーの乱など,14世紀頃にヨーロッパ中で農民反乱が起きている理由がそれ.
 そういう形で実質的な中世はその時に崩壊していたが,農民との契約が守られる限りは表面上封建領主で居られた.
 17世紀の危機では,その表面までもがついに崩れたと言うだけなので,今更領主にできる抵抗は残っていない.
 逆に,ペスト禍が少なかった東欧では,農民の地位向上が発展せず,東に行くほど農奴制が残る事になる.

 しかし,全ての貴族が失敗したわけではない.
 地代以外の収入を持つ貴族は生き延び,更にはブルジョア出身の新興貴族も生まれる.
 そうした貴族達は英国なら議会,フランスなら三部会のように王に対し,十分な影響力を持っていたし,それを無視して王が無理押しすれば内乱が起きる.
 フランスのように内乱を王が勝ち抜けば,王権は強化されるが,イギリスのように王が負ければ,王権は押し込められる.
 決して「絶対」王政だったわけではない.

世界史板,2010/08/30(月)
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 【質問】
 漢の景帝は人柄は軽率で乱暴で,公の事より私情を優先.
 政治もあまり見るべきものは無く,その治世で国を二分する内乱を引き起こしてますが,こんな皇帝がなぜ名君扱いされるのでしょうか?

 【回答】
 その反乱を鎮圧して,諸侯王の領地と権限を削り,皇帝の権力を強めた.
 内政面では減税と重農政策につとめ,社会の安定につとめている.
 重税を喜ぶ人民はおらんから,のちのちの皇帝に比べれば充分に名君の方だ.

 武帝は外征面では功績を挙げたが,匈奴に喧嘩を売って大戦争を招いたのは武帝側だし,重税と専売制度と厳罰主義で国内はガタガタになってしまった.

 まー,景帝が劉賢殴り殺さなくても,漢と呉はいずれ対決してただろうしなぁ.

世界史板,2010/09/04(土)
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