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世界史なんでも質問スレッド 74

目次

 【質問】 ネット上でよく言われている朝鮮人=ワイ族説は,いかなる根拠に基づいているのですか?

28 【追記】 なんでソ連と中国は仲たがいしてしまったのですか?

23 【質問】 ドイツ帝国の国歌のメロディが,英国の女王(国王)陛下万歳と同じだって本当ですか?

23 【質問】 ポーランド王国は,なぜポーランド分割されるまでに事態を悪化させたのですか?

23 【質問】 ポーランド国王が外国人だった時代がありますが,その時代,ポーランドはその外国の支配を受けていたのですか?

23 【質問】 男子の絶えた王家の後に,誰を据えるかを決める要素は血統だけ?

 【質問】 武官採用試験て,「武挙」というやつ?

 【質問】 内モンゴルと外モンゴルって,いつどのような状況の下で誕生した区分なんですか?

 【質問】 なんでエチオピアは,19世紀の欧米列強によるアフリカ分割の流れの中で独立を保ち,20世紀にイタリアに侵略されるまで,植民地にならずに済んだのでしょうか?

 【質問】 地中海世界において量・質・戦術・組織力ともに最強の軍事力を誇っていたローマ帝国の軍事力が,次第に弱体化して,外敵の侵入を抑えきれなくなり,あげくの果てに領内を蹂躙されるまでになったのはなぜでしょうか?

 【質問】 イスラームの中でのキリスト教の位置付けは?

 【質問】 誰か「史記」欲しい人いない?

 【質問】 ウマイヤ朝がわずか数年でアッバース家に倒されたのは,何が原因でしょうか?

 【質問】 ガンジーの非暴力抵抗でインドが独立したとか信じられません.

 【質問】 日本統治時代の朝鮮半島で,最も激しかった抗日暴動?って,どのようなのがありましたでしょうか?

 【質問】 日本の台湾統治と朝鮮統治には,大きな違いがあったのでしょうか?

31 【質問】 遊牧民って,戦争の時はどれくらいの人数で戦っていたの?

 【質問】 ロシアは何を考えて,アラスカをアメリカへ売却したんでしょうか?

 【質問】 中華の異民族政策は,伝統的に,夷をもって夷を制するのが基本?


 【質問】
 ネット上でよく言われている朝鮮人=ワイ族説は,いかなる根拠に基づいているのですか?

 【回答】
 戦国〜前漢の頃,吉林・遼東・北朝鮮・韓国北部のあたりに,「ワイ/カイ(穢)」と総称される多くの人々がいた.
 一部のワイの首長は,漢と争ったのち,数十万人を率いて帰順し,ワイ王の印を授けられている.
 前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして,四郡を設置したのち,ワイ王の印を持つ首長は,北方の鹿山に逃れて「夫余」を建国した.
 その他のワイは故地に住んで,漢から県侯などの称号を受け,自治を認められていた.

 やがて漢の支配が弱まると,日本海沿岸のワイは「沃沮」,鴨緑江付近のワイ(ないしワイの一部族である狛)は「高句麗」として独立.
 ワイと名乗る人々は,部族国家(東穢など)のまま江原道周辺に残り,後漢時代には高句麗王国に服属するようになった.
 「後漢書」や「三国志・東夷伝」などには,以上のように記されている.

 ワイが何者かは諸説あり,ツングース系と考えられることが多いが,まあ様々な部族の寄せ集めであろう.
 夫余は広く満州地域を支配したのち,同じくツングース系の勿吉に滅ぼされ,その後は渤海・契丹などに同化したらしい.
 高句麗(狛)や百済の王族が夫余系であることは,彼らの建国神話にも残っている.

 もっとも,半島南部の韓人までもがすべてワイ系とは思えないので,いわゆる朝鮮民族はこれらの混血により形成されたと考えられる.
 北朝鮮人ならワイ系の血が濃いかもしれないが.

 なお,ネット上でたまに見かける説に,
「穢族は臭穢不潔な野蛮人で,中央に便所のある竪穴住居に住み,豚を飼い,人尿で体を洗い,食器を使わず,普段は裸で,冬になると豚の脂肪を体に塗りつける」
というのがあるが,これは穢より北のユウロウ(古の粛慎)の風習として三国志などに出ているもの.
 穢族が古代にこうした風習を持っていたかは不明だが,少なくとも後漢時代の穢族は比較的文明化されていた.
 ユウロウと穢系諸族は言語が違うという.
 また穢と倭は同音(wei)ともいうが,別種であろう.

世界史板,2010/03/18(木)
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 【追記】
10 :世界@名無史さん :2010/03/19(金) 13:43:03 0
なんでソ連と中国は仲たがいしてしまったのですか?
当時の共産主義国家ではスターリン批判はそんなに問題だったのでしょうか?


 【回答】
15 :世界@名無史さん :2010/03/19(金) 18:07:03 0
>>10
そうではない.毛沢東がソ連の干渉を排し,党内のソ連盲従主義者を追い落とすには,
ソ連型社会主義モデルは中国には適合しないと訴える必要があった.
スターリンの指導のおかげで国共内戦に勝利した毛沢東はスターリンには全く頭が上がらなかったが,
スターリンの死去でソ連の子分である立場を脱する機会が到来したのだ.
そしてソ連との決別の意思を示したのが1956年の十大関係論だ.
毛沢東は中国はソ連を反面教師として独自の社会主義を目指すべきだと謳ったのです.
それが国境問題などがからんで中ソ対立として国際社会に知られることほどの対立に発展した.
ソ連はソ連でスターリニズムと決別する都合があってスターリン批判をしたが,
それはたまたま時期がかぶっているだけで中国には関係ないことです.

17 :世界@名無史さん :2010/03/19(金) 20:14:38 0
>>10
大問題です.スターリンは言ってみればそれまでは
共産主義者の「神」とも言える存在でした.
表すなら「太陽」とも言える絶大な威信です(ユーゴなど例外はありますが)
またスターリンを賛美し,その力を借り,その思想(スターリン主義)・手法(個人崇拝など)によって
指導的地位についた者も多かったので,それらにとって批判は死活問題でした.
実際,共産主義各国は大きく揺さぶられました.
毛沢東がソ連と公然と反目する種は批判でまかれたのです.
毛沢東はスターリンとの関係で苦い思いをしたことが何度もありましたが,
威信や実績から基本的にはスターリンに尊敬の念を持っており,
事あるごとにスターリンを称え,模範としてきたのです.
それが批判されたとなれば,国際的共産主義運動への影響のみならず,
国内的にも毛沢東の威信を損なうものだったのです.
その他にも中ソ関係悪化の要因はありましたが,基本的には毛沢東のこの不信感が
ベースになっています.

世界史板,2010/03/19(金)
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 【質問】
 ドイツ帝国の国歌のメロディが,英国の女王(国王)陛下万歳と同じだって本当ですか?

 【回答】
 18世紀に英国が「国王(女王)陛下万歳」を国歌としたのを受けて,欧州各国で同じメロディが国際的な礼式歌として採用された.
 現在のリヒテンシュタインの国歌も,帝政ロシアの国歌(初期)も,英国から独立したアメリカの国歌(1831〜1931年まで)までもが同じ.
 別に大英帝国の権威がどーたらではない.

 この時,プロイセン王国も(非公式な)国歌として同じメロディのドイツ語の歌を採用.
 のち,プロイセンを主体としてドイツ帝国が成立すると,これが国歌「皇帝陛下万歳」となった.
 しかし,プロイセンが嫌いな南ドイツなどでは受け入れられなかったという.

 なお,今のドイツ国歌は,オーストリア帝国の「皇帝賛歌」と同じメロディ.

世界史板,2010/03/21(日)
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 【質問】
 ポーランド王国は,なぜポーランド分割されるまでに事態を悪化させたのですか?

 【回答】
 ポーランド王国は,現在のアメリカ大統領制のような選挙王制.
 ところが民主主義の制度整備のペースが,現状変化の速さについていかなかったため,最終的に制度破綻したのがポーランド分割.
 ヤン3世王やスタニスワフ2世王は,近代的な立憲君主制による世襲王制への転換を図ったが,うまく行かなかった.
 当時はポーランドのようなレッセフェール自由主義の民主体制(黄金の自由)か,あるいは他国のような専制君主による絶対王政かのどちらかしかなかったため,国内の有力者の間でも立憲君主制がどういうものかが,なかなか理解されなかったんだろう.
 スタニスワフ2世王とポーランド議会は,民主憲法の公布に成功したが,既にポーランド王国の国力は衰退しきっており,ロシア帝国が軍を差し向けて全部だめにしてしまった.

 開明派が立憲君主制を声高に推しても,他の有力者はそれを見て,それは黄金の自由を否定するような絶対主義反動ではないか?と疑って,なかなかついてこなかった,とうのもある.

世界史板,2010/03/22(月)
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 【質問】
 ポーランド国王が外国人だった時代がありますが,その時代,ポーランドはその外国の支配を受けていたのですか?

 【回答】
 ポーランド王国は,支配層の主体が貴族「シュラフタ」層(のちにマグナートという特に裕福な大名層)にあって,政治の実権は議会にあって,王様は長い間お飾り的なものだったそうで,しょっちゅう外国から外様の王様を呼んできて王座に据えていたそうだ.

 ポーランドの貴族層は,建国以来の王家であるピャスト家をも警戒していて,ピャスト家よりもチェコ人のプシェミスル家の人間をわざわざ呼んできて王様に据えたり.

 ポーランドに呼ばれて王座につかされたフランス人のアンリは,
「それではまるで軟禁と同じではないか」
と考えたらしく,フランスへ夜逃げしてしまった.

 そこでポーランドの貴族層が,次に見つけた王様はハンガリー人だったが,この人は我慢強い性格で,それだけにかえって議会の信頼も得てかなりの実権を任され,後に名君としてポーランド人に好かれている.

 実際にポーランドが外国元首の独裁的な支配を受けたのは,ポーランド分割後だね.

世界史板,2010/04/25(日)
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 【質問】
 男子の絶えた王家の後に,誰を据えるかを決める要素は血統だけ

 【回答】
 血統だけではないですよ.
 血統は大概の場合は必要条件で,それら縁戚が何人か候補に挙がり,そのうち国の内部の有力者の政治力学で決まる.
 それが宮廷に普段出入りしている,小さい内々の貴族グループで決まることが普通.
(例外としてポーランドは,全ての貴族の参加する選挙で決めたという稀なケース)

 であるからその国では,新君主国王よりも,地元の宮廷貴族たちのほうが政治力があります.
 たとえば政治力で見ると,ザクセン王はポーランド王に選出されても,ポーランド政治での実権は大貴族・議会にあり,王にたいした発言力はなく,王位は名誉職のようなものでした
 財産から言えば,ザクセンにあるこの王領地は,ポーランド王のものではありませんから関係ありません.
 逆も同じで,ポーランド王国の王領地がザクセン王のものになることはありません.
 流動資産ならばポーランド王国に多額の寄付をしますが.

 つまり,外様の人物がポーランド王になっても,領土はついて来ないこともあり,それはすべて契約で決められます
 家臣をその行き先の国の貴族にするかどうかも同じ.
 この場合を,人的(国家)連合といいます.

 一方,ポーランドとリトアニアのように,人物だけでなく財産まで連合君主一人の所有に帰する場合,そういうものを物的(国家)連合といいます.
 この2つの連合形態は区別されているので,王が統帥権を盾に個人的にプッツンしないかぎり,国家連合の制度自体が直接混乱を引き起こすことはありません.
 ポーランドで言えばプッツンのケースが,17世紀あたりのスウェーデンやロシアとの戦争.
 だからこのとき議会は,国王の政策に反対で,両者は激しく対立しました.

世界史板,2010/03/22(月)
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 【質問】
 武官採用試験て,「武挙」というやつ?
 宋代にあった用語だと思うが.

 【回答】
 武挙は唐代から始まって清まで続いた制度だよ.
 科目は武術試験と兵法書の試験.
 受かっても出世には結びつかなかった.
 武挙受かっていないのに,武官一筋で出世した人物はいくらでもいたし,武挙受かっても下級武官で終わる人物も多かった.
 科挙と比べると,受かるのがはるかに簡単な代わり,武官としての将来が約束されるわけでもなく,科挙合格者ほど優遇も尊敬もされなかったから,科挙と比べると,武挙ははるかに人気が無かった.
 だから,受かった人物もあまり質が良くなかった.

世界史板,2010/03/24(水)
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保留

 【質問】
 内モンゴルと外モンゴルって,いつどのような状況の下で誕生した区分なんですか?
 そもそも内と外ってどうやって決めたんですか?

 【回答】
 内陸アジアの遊牧民勢力が清国軍に屈服してからというもの,清が中華民国に取って代わっても遊牧民は中華民国の下に従属する形になっていた.
 中華民国中央からの統制が弱体化した隙を突いてソビエト連邦が干渉し,遊牧民族国家を分離させた.
 そのときに内モンゴルと外モンゴルの区分が生まれた.
 もともとが明確な国境を持たない遊牧民だけに,境界線は打算の産物.
 中華から近い方を内モンゴルとして,そのまま中華の国の領土ということにし,遠い方を外モンゴルとして,新規分離国モンゴル人民共和国の領土ということで手を打った.

 「内」は中華(や満洲)に近い方,「外」は遠い方.
 だいたいゴビ砂漠の南北で,漠南と漠北に漠然と分かれる.
 金の時代には漠北との境に長城を築いて,タタルとモンゴルの対立を図ったりしていた.

 16世紀初頭にバト・モンケがモンゴル高原を再統一して,ダヤン・ハーン(大元皇帝)を称すると,左翼にチャハル,ハルハ,ウリヤンハンの三大部隊を置いて東方を鎮めさせた.
 これと接する満洲族は,ハルハ部の二大氏族のうち,近い方を内ハルハ,遠い方を外ハルハと呼んだ.

 外ハルハ(七旗ハルハ)は16世紀末から強大になってアルタン・ハーンを称したが,やがて清朝の朝貢国となり,17世紀の末にはロシアやジュンガルに敗れた.
 外ハルハは康熙帝の援助で「外蒙古」を支配するようになったが,自治権を失い清朝の「藩部」とされた.
 今のモンゴル国の国民は多くが,外ハルハの末裔という.

 内ハルハはあまり大きくならず,満洲近くではチャハル部が強大となったが,やがて満洲族の王ホンタイジに敗れた.
 チャハル部のハーンは1635年ホンタイジに降伏し,彼に「大元の玉璽」を捧げた.
 ホンタイジは翌年「モンゴル(大元)から天命が移った」として国号を大清とし,全モンゴルのハーンを称する.
 チャハル王家はその後も清朝の親王家扱いで続いたが,これも康熙帝の時に反乱したため取り潰され,旧チャハル領は皇帝直轄の「内蒙古」として遊牧地を分割統治された.

 清末には大量の漢民族が内蒙古に入植して農地開発を行い,モンゴル族の遊牧地はますます少なくなっていった.
 このため1911年に外蒙古が独立しても,内蒙古は中華民国の領地にとどまった.


199 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2010/03/24(水) 20:39:06 0
>>195
モンゴルは昔,米が育たない土地でした.だから農耕民族である漢人は見向きもしなかった.
しかし,清の時代になって,漢人はモンゴルにも米は無理だが,コーリャンや蕎麦なら栽培できる
地域があることに気づいたのです.それなら農耕民族である漢人でも生きていける.こうして漢人の入植が
進んだ地域が内モンゴルと呼ばれる地域です.辛亥革命が起こって清が滅亡しました.
それを機にモンゴル人は独立しようと考えた.しかし漢人の入植が進んだ内モンゴルでは
モンゴル人が少数派になってしまっていて,中国に残りたいと考えた漢人が多数派だったのです.
だから内モンゴルは中国の一部となりました.外モンゴルはコーリャンや蕎麦も無理で
農耕民族である漢人は入植しなかった.だから外モンゴルだけは独立することになりました.
これが内モンゴルと外モンゴルの違いです.
200 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2010/03/24(水) 21:06:55 0
漢人たって,清代華北の農民はコメなんて作らんぞ.ソバやコーリャン,粟や麦がせいぜいだ.
それに外モンゴルにもちらほら川や谷があって,その周辺では多少の農耕もしていた.
201 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2010/03/24(水) 21:29:31 0
つーか満州人自体がもともと半農半猟じゃなかった?
一概に遊牧民とは言えないんじゃ.
202 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2010/03/24(水) 22:00:55 0
>>201
満州人は狩猟採集・牧畜・農耕・漁労を全部やってた.
騎馬民族ではあるけど,遊牧民ではないな.

世界史板,2010/03/24(水)
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 【質問】
 なんでエチオピアは,19世紀の欧米列強によるアフリカ分割の流れの中で独立を保ち,20世紀にイタリアに侵略されるまで,植民地にならずに済んだのでしょうか?
 国力が強かったからですか?
 近代化に成功したからですか?
 うまく外交面で立ちまわったからですか?
 それともタイのように,緩衝地帯として残されたからですか?

 【回答】
 エチオピアは19世紀半ばまで諸侯による戦国乱世状態で,1855年にようやく皇帝テオドロス2世により再統一された.
 彼はイスラム勢に対抗するためイギリスと結び,近代化を進めたが,諸侯の反発とイギリスの干渉で失敗した.

 その後はしばらく帝位を巡る内戦が続き,イタリアがこれに乗じてエリトリアなどを征服.
 イギリスも「フランスよりイタリアの方が組みし易い」としてこれを黙認.
 近代兵器をイタリアから提供されたメネリク2世が,内戦を制し皇帝になると,イタリアは
「じゃあ俺の保護国にしていいよな?」
と勝手な条約を結んだが,メネリクはこれに反抗し,第一次エチオピア戦争となる.

 メネリクは,イタリアと対立していたフランスと結び,多数の武器を提供された.
 地の利もあってイタリア軍を撃破し,アフリカ分割を進めていた欧州列強に衝撃を与える.
 こうしてエチオピアは独立を認められ,列強の干渉を受けつつも近代化を進めた.
 それも一国に偏らず,列強諸国からさまざまな近代文明を導入した.
 まあ,列強の緩衝地帯としての面もなきにしもあらず.


235 名前: 世界@名無史さん 投稿日: 2010/03/26(金) 21:16:58 0

 「近代化」(笑)


236 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2010/03/26(金) 21:23:10 0

 えー,じゃあ,「19世紀末当時の西欧諸国の諸制度や文化を導入した」で.

世界史板,2010/03/26(金)
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* 【質問】
 地中海世界において量・質・戦術・組織力ともに最強の軍事力を誇っていたローマ帝国の軍事力が,次第に弱体化して,外敵の侵入を抑えきれなくなり,あげくの果てに領内を蹂躙されるまでになったのはなぜでしょうか?
弱体化の過程と原因を教えてください.

 【回答】

 【追記】
 いろんな要素があるので一概には言えないが,国が拡大しすぎて,全方面の国境を守らねばならないために,軍の維持が大きな負担になってしまった
 文化的に発展して,市民が戦いに出るのを嫌うようになり,軍にゲルマン人などを使わざるをえなくなっていった.
 そのゲルマン人たちがローマの戦術や軍制を吸収し,軍事的に対等以上の存在になっていった.

 その最強ローマ軍が,ひとたび内戦になると皇帝の首をすげかえたり好き勝手やる.
 また内戦によって守備兵が少なくなった隙をついて,蛮族が国境を荒らしまわる.
 国境付近の住民はいやになって,安全そうな大都市へと難民になって流入する.

 となると,国境にいくら軍隊がいても,それを支えるインフラが崩壊する.
 要塞はボロボロになり,道路網は寸断され,軍需物資は生産・流通が滞る.
 辺境地帯で農業をやめると,砂漠や森に放棄された村々が飲み込まれる.
 ただでさえ2世紀末から,天災や気候悪化やインフレが続くうえ,ろくな皇帝がおらず悪政がまかりとおる.

 大都市に流れ込んだ難民にも,軍隊を維持するための高物価や重税がのしかかる.
 難民は盗賊になるか,新興宗教のキリスト教に帰依してその共同体(教会組織)に加わる.
 軍隊に入ると,皇帝や異教の神々に宣誓せにゃならんので,キリスト教徒には人気がない.
 文明が爛熟しすぎて軟弱になったローマ人は役にたたず,剽悍な蛮族のほうが軍事的には使える.

 こうしてどんどん悪循環が進んで,ついに西ローマはゲルマン人の傭兵に乗っ取られましたとさ.
275 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2010/03/28(日) 17:42:24 0
>>272
一つは市民権.ローマ軍が強かったのは,属州民でも兵役を務めればローマ市民権を得られるという制度にあった.
権利が欲しけりゃ,体で国家への忠誠心を証明しろという話で,それは一理ある制度だと思う.アメリカも似たようなもんだ.
ところがカラカラ帝がアントニヌス勅令で自由民に無条件で市民権を与えてしまったから,誰も志願兵がいなくなった.
そうなればゲルマン人を傭兵として雇うしかない.ゲルマン人を持ってゲルマン人の侵攻を防御するといった
わけのわからん話になってしまった.カラカラ帝が浅はかな考えでローマ帝国を滅ぼしたといってもいいぐらいの愚挙だと思う.

世界史板,2010/03/28(日)
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 【質問】
 イスラームの中でのキリスト教の位置付けは?

 【回答】
 イエスとその教団は,結局はユダヤ教の異端の一派に過ぎなかったが,その弟子たちがイエスを「唯一の真なるメシア」として祭り上げた.
 さらに,イエスは死んで三日目に復活したとか,唯一神の分身だとか息子だとかロゴス(真理)だとか,人類の罪を背負って清めたとか,未来には再臨して悪を滅ぼすとか信じられ,だんだんに新約聖書がまとめられた.
 神の子も死んで復活する救済神も,これまた地中海世界にはたくさんいたので,そのパクリだろう.
 まあ,ついていけない人々もいたようで,イエスは神ではなく優れた人間だとする分派もいたが.

 さて,イスラーム出現以前のアラビアやシリア,エジプト,エチオピアなどには,古来の多神教(偶像崇拝)やらユダヤ教やらキリスト教やらゾロアスター教やらが,多くの分派も含めて混在していた.
 クルアーンは神から直接授けられた啓典だとムスリムは信じているが,ユダヤ・キリスト教由来の伝説も多数入っている.
 キリスト教国エチオピア(アクスム)は,一時アラビア南部を征服していたこともあった.

 クルアーンにおけるイーサー(イエス)は,マルヤム(マリア)に神が天使を遣わして処女懐妊させたとされ,マスィーフ(メシア)の称号も帯びているが,断じて神でも神の子でもない.アダムが土から創造されたのと同じく,被造物に過ぎない.
 彼はアッラーのみに仕えよという信仰(イスラーム)を,「福音」として説いた使徒にして預言者である.
 磔刑にされたのも実は別人で,神によって天に挙げられており,終末の前に再臨して偽メシアを倒すのだという.

 なお,マスィーフと呼ばれるのはイーサーだけで,イスラーム(特にシーア派)における救世主的な存在としては,マフディーやイマームがいる.
 偽メシア・反キリストが無数にいるように,偽マフディーや偽イマームも歴史上では多数出現した.

世界史板,2010/04/07(水)
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 【質問】
 「史記」の本紀の1となぜか3をダブって注文して届いて,返品不可になっちゃったんだけど,誰か要る人いない?
 ただでやるぞ.2800円分(笑)

 【回答】
507 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2010/04/09(金) 21:09:10 0

 くれ.


508 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2010/04/09(金) 21:30:50 0

 やるよ.


509 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2010/04/09(金) 21:50:24 0

 でも残念なことに.どうやって贈答したらいいか分からんのだよ.


510 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2010/04/09(金) 22:11:25 0

 捨てアドでもとって,メール交換しろよ(笑)
 近所なら手渡しできるぞ(笑)


511 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2010/04/09(金) 22:47:13 0

 そこから始まる恋の予感.


512 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2010/04/09(金) 23:00:11 0

 「史記」と2chがきっかけの恋って(笑)


513 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2010/04/10(土) 00:29:56 0

 のちの「史記男」である.


514 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2010/04/10(土) 00:54:06 0

 電車男ふたたび.

世界史板,2010/04/09(金)〜04/10(土)
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 【質問】
 ウマイヤ朝がわずか数年であっけなくアッバース家に倒されたのは,何が原因でしょうか?
 西はスペインから,東はホラーサーンまで支配した,ヨーロッパ,アフリカ,中東,アジアにまたがる大帝国にしては,あっけない最期ですよね.
 アッバース家が味方に付けたホラーサーン人とシーア派だけの軍事力では無理だと思うのですが.
 他にはどんな要因があって,ウマイヤ朝の人々はアッバース革命を受け入れたのでしょうか?

 【回答】
 受け入れるもなにも,ウマイヤ朝の血統の人間は,ほとんど全員,一気に殺されちゃったよ.
(かろうじてアブドゥル・ラフマーンだけは生き延びてなんとかイベリアに逃げたけど)
 残された人々は,アッバースを受け入れる以外ないじゃん.

 ウマイヤ朝の支配を受けてきた人々ってのは,むしろ,自分たちを支配してきた人々がひどい目にあうのは喜ぶもんだぜ.
 もちろん,その支配者を倒した奴らは新しい支配者になるだけなんだが,その当初は喜んで迎え入れるさ .

 そもそも,その前に,ウマイヤ朝自体が腐敗・衰退していたからこそ「アッバース革命」は成ったわけで.

 ウマイヤ朝はしょせんは「アラブ人の王朝」でしかなく,ペルシャ人などの非アラブ人は差別されたし,成立自体が「正統カリフ」のアリーと対立したムアーウィヤによる世俗的なもの.
 シーア・アリー(アリーの党派)やその分派(ハワーリジュ)は,歴代ウマイヤ朝カリフに反抗を続け,ウマイヤ朝に従う人々も,
「不当だけどしょうがない」
という消極的な態度をとる者が多かった.

 アッバース家は,ウマイヤ家より預言者ムハンマドに近い一族として尊敬されており,こうした反政府勢力を「ダーイー」という秘密工作員でまとめあげて決起した.
 各地で反乱を起こしていた人々も,なだれをうってこれに加わり,ウマイヤ朝はあっけなく滅んだ.
 しかしアッバース家は,革命成立後はこれらの勢力を粛清し,カリフを神聖な絶対君主とする体制を整えた.
 まあ100年もするとタガがゆるんできて,各地で自立政権が生まれだすが.

世界史板,2010/04/10(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ガンジーの非暴力抵抗でインドが独立したとか信じられません.
 真相はどういうことなんでしょうか?
 インドの人口が多くて,仮に暴動が起きた場合,イギリスの兵力では鎮圧しきれないとみて,イギリスがヘタれたのでしょうか?

 【回答】
 ガンジーの非暴力主義はよく誤解されがちだが,逆にいうと暴力以外のあらゆる手段を使って,英国支配に抵抗したということ.
 しょせん英領インドで,英国人は数の上では少数派,住民の圧倒的大多数は現地のインド人だ.
 その大多数にストライキ,サボタージュ,デモ,ボイコット,軍務拒否をされてみろ.
 その状態が続いても,そういうことをする者を片っ端から弾圧しても(きりがない),どちらにしても,英国人社会も,その経済も,軍事力もすべて成り立たなくなる.
 特に第2次大戦期,兵力の大供給地であったインドで,兵士に背かれるわけにはいかない.
 インドに協力態勢をとらせるには,将来的な独立を認める方向性を示して,インド人をなだめるしかなかった.

世界史板,2010/04/20(火)
青文字:加筆改修部分

 なお,
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.276
によれば,英国はそうした無抵抗運動に対し,徹底した弾圧を加えてその意思を挫く方法も選択できた.
 しかしそうしなかったのは,英国の民意に流血を望まないだけの良識があったからだ――と書かれている.


 【質問】
 日韓併合から第二次大戦終結までの,朝鮮半島を日本が統治していた時代で,最も激しかった抗日暴動?って,どのようなのがありましたでしょうか?
(治安回復に赴いた警察や日本軍鎮圧部隊に,死者が多数出るような規模の)

 どうも,東学党の乱以後の大規模反乱って,記憶に無くて.

 【回答】
 1919年の3・1独立運動.
 7500人が死亡したという資料と,550人が死亡したと言う資料があるが,朝鮮半島全土に広がった最大の反日暴動.
 暴徒と化した民衆が警察署や役所を襲撃し,放火や破壊,リンチ,殺人の嵐が朝鮮全土に吹き荒れた.
 軍も出動したが,鎮圧まで一年かかると言う未曽有の暴動だった.
 警官や兵士にも犠牲者は出ているが,正確な数は分からない.
 まあ,死亡者の数から考えても,そんなにたくさん死んでないと思う.

世界史板,2010/04/21(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 対日感情の違いから察するに,日本の台湾統治と朝鮮統治には大きな違いがあったのでしょうか?

 【回答】
 台湾は,高山族とか高砂族とよばれる原住民族がおり,霧社事件などが発生しています.
 もともと,漢語を操る高い情報交換能力を持つ漢人とは,別の民族がいたわけです.
 高山族を優先的に皇民化して,漢人を弾圧するように仕向けれる政策も選択肢に入ります.
 シナ風の中華思想を逆手にとった統治方法なので,漢人には思いつかない奇手です.
 当時の日本は,英国領インドの時代に,英国がとった統治方法を研究していると思います.

 一方,朝鮮人の中の差異は地方の差異でしかなく,朝鮮語自体も高い情報交換能力を備えていたので,英国式の統治は最初から選択肢にはなかったのです.

 ちなみに中華思想の統治方法は,諸葛孔明の統治方法の例でだいたい説明つくかな?

 先住民が自分達よりも高度な文明を持っていた場合,李冰にはダム工事などをやってもらって,自尊心を満足してもらう.
 異質な文明を持っていた場合,孟獲を何度も捕らえては放して,自分達に敵対しないように諭す.

 これが英国式統治法なら,孟獲勢力を使って,李冰勢力をぶっつぶす.

世界史板,2010/04/21(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 遊牧民って,戦争の時はどれくらいの人数で戦っていたの?
 さすがに万単位はないと思うけど,どうなんでしょうか?

 【回答】
 匈奴の冒頓が,漢の劉邦を白登山に包囲したとき,30万の騎兵が四方を取り巻いていたという.
 突厥の始畢可汗が,唐の李世民を脅迫したときも,数十万の軍勢であったという.
 これらはまあ,遊牧帝国の君主がシナの皇帝を脅すためのパフォーマンスだし,誇張もあるが,遊牧民は人口が少ないとはいえ,いざとなれば成人男性(スキタイとは女性も)全てが軽装騎兵になりうるので,人民を徴兵して無理やり遠征させにゃならん定住民の国より,軍事的には長らく優位に立てた.

 かつて明は1億を超える人口を擁していたが,それを征服した女真族は100万程度だったと言われている.
 基本的に遊牧民は,土地に対して養える人口が少ないが,代わりに当時は遊牧民の能力が即戦力になったので動員能力は高め.
 単なる部族争いなら数百,数千くらいの戦いで済むだろうが,ある程度まとまった集団になれば万を擁すこともあったろう.
 中国の史料でも頻繁に異民族との交戦が書かれるが,平然と何万とか書かれる(そんなに確証ある話でも無いが)

 それから,遊牧民というくくりは,ペルシャとかトルコとかも一応含むので,一概に過疎化した社会体制を指す訳じゃないのかなと.

世界史板,2010/04/24(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アラスカはロシアからアメリカへ売却されたそうですが,ロシアは何を考えてそんなことをしたんでしょうか?
 地政学的に見れば,アラスカを保有していたほうが,戦略的に有利になっていたはずだと思うんですが.

 【回答】
 当時はぜんぜん,戦略的な意味も価値もなかったからです.
 シベリア鉄道もまだない時代,ロシアの中央の皇帝や貴族たちにとって,極東ははるか遠い辺境世界.
 そこからさらに海を越えた極寒の地なんて,毛皮商人以外,誰も魅力を感じませんでした.

 もしも仮に,当時のロシアが英領カナダやアメリカと戦争するような事態になったとしても,アラスカ側から十分な攻撃をすることはできず,大西洋側から攻撃したでしょう.
 むしろ,アラスカなんか持っていても,そんな事態なら,そこを簡単に奪われるだけです.

 そうならないように基地を作って,軍を常駐させようとすれば,莫大な維持費がかかります.
 地球を半周して,兵と物資を送らないといけないのですから.
 だから,最初に言ったように,当時アラスカには,戦略的な価値はなかったのです.

 ちなみにアメリカだって,アラスカに価値があると思って買ったわけではありません.
 モンロー主義という建前上,アメリカ大陸からヨーロッパ勢力を追い出したかっただけです.
 買収を交渉した国務長官スワードは,当時,国民から非難され,アラスカは「スワードの冷蔵庫」などと揶揄されていました.
 なんにせよ,ロシアにしてみれば,そんな遠くの役に立たない土地が高く売れるなら,文句などあるはずがありません.

 まさか1899年に,アラスカで金が発見されてゴールドラッシュになるなどとは,その時は誰も思いもよらなかったことでしょう.

世界史板,2010/04/25(日)
青文字:加筆改修部分

昔のアラスカ


 【質問】
 中華の異民族政策は,伝統的に,夷をもって夷を制するのが基本だったのでは?
 宋も明も,北方遊牧民族を部族どうし互いに争わせていた
(そして,結果的には,その中の1つを強大にしてしまい,国を潰されることになった)

 【回答】
 互いに争わせたというより,そうしてないと独立が維持できないという面がある.
 近代もそのパターン.

 はるばる大月氏へ張騫を派遣したのも,独立戦争の為に外国勢力の力を借りるというやり方で,世界史によくある.
 近代も,独力じゃ日本に絶対勝てないから,アメリカに頼って日本を倒してもらうしかない.
 日本も軍内部の内紛で,統帥が乱れてたのも幸いした.

 武帝は匈奴を破った時は,よっぽど嬉しかったのか,封禅の儀式までやったが,これは一種の独立宣言だな.
 戦後の共和国建国の声明と同じで,「日本からやっと独立できた」みたいな感じ.
 どうでもいい蛮族を駆逐したぐらいじゃ,そこまでやらんだろ.
 漢が一時的とは言え,やっと属州から独立できたんだ,と.

世界史板,2010/04/25(日)
青文字:加筆改修部分


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