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※青文字:加筆改修部分
(ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く)
※既に分類され,移動された項目を除く.
世界史なんでも質問スレッド 68
目次
【追記】 それ以前になんでハルノートを突きつけられるハメになったか良く考えろ.
【質問】 日本を戦争に向かわせたのはABCD包囲網なのでは?
【質問】 敵に攻撃させてから討伐に出かけるというストーリーが,アメリカ人は大好き.なぜ対日開戦だけ例外にして,日本の狂信的右翼が暴走したことにしないと,気がすまないの?
【質問】 ダニエル書に,バビロニアはメディアとペルシアに分割された,みたいなことが書いてありますけど,ペルシアが新バビロニアを滅ぼしたときには,既にメディアもペルシアに併合されてるはずですよね?
【質問】 ウィルソン大統領は,なぜ1925年のジュネーブ議定書に調印しようとしなかったのでしょうか?
【質問】 命など革命に捧げた革命家が揃っていながら,唯々諾々とスターリンに従い殺されていったの何故ですか?
【質問】 仮に日本帝国の資源がアメリカと同等に十分に豊富で,技術力・人材力などを駆使した場合,戦局にはどの程度の変化があるでしょうか?
【質問】 アレキサンダー大王とか,モンゴル帝国って前代未聞の大遠征をしてるけど,なんで今まで統一できてなかった地域の外にまで,勢力を広げなきゃいけなかったんですか?
【質問】 「ノヴゴロド公国が南下拡大してキエフ公国を建国」とはどういうことですか?
【質問】 前近代におけるイスラームとユダヤ教の対立は,いつ頃から始まったんでしょう…?
【質問】 キエフ大公国というのは,キエフ公国を中心として,周辺の公国を合わせて作られた国でしょうか?
【質問】 日本の中世以前の軍制,戦術は諸外国と比較した場合,優れていたのでしょうか?,劣っていたのでしょうか?
【質問】 大政奉還(主権者が本当に自ら放棄する)なんて愚行ではありませんか?
【質問】 「朝鮮王国は中国の属国」という言い方があるけどなんで?
【質問】 何故独立したばかりのオランダが,インドネシアなんていう辺境に植民地持てたの?
【質問】 近代以降のイギリスでは騎士は,栄典としての一代限りのナイト爵になっていますが,中世存在していたはずの騎士階層はどうなったんでしょうか?
【追記】
249 :世界@名無史さん :2009/07/18(土) 02:18:59
0
>>227
それ以前になんでハルノートを突きつけられるハメになったか良く考えろ.
日本国内からも批判が出るほどアホ軍人や低脳バカウヨたちが天皇の統帥権までも侵犯して,
日本軍が組織として狂うほどの無茶をやったからだ.
欧米批判として妥当なのは,広大な植民地を保持した状態で手前勝手なブロック経済,自己の優位を確保した上での平和構築なんてムシのいいことを
やろうとしていた事など,日本側だけが欧米から一方的に批判されるいわれはないということだな.
それでも日本側が判断ミスして結果として対米開戦まで踏み込んでそれまで築いてきた地歩を崩壊させた事に変わりはない.
それはGHQの洗脳だののたわ言の話ではないし,歴史的史実なんだからアメリカが崩壊しようが中国が
民主化して新しい歴史資料が出て歴史が変わるような話でもない.
要はその失敗を戦略的に反省して総括すべきであって,
「自分は悪くないんだ」とミスや悪い面を責任転嫁だけしてたらアホの田母神レベルの歴史観で終わってしまう.
世界史板,
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本を戦争に向かわせたのはABCD包囲網なのでは?
座して死を待つよりは,備蓄のあるうちに攻めろということで.
そうやって日本が立ち上がらざるを得なく仕向けたということ.
【回答】
時系列が逆になっていないか?
日本が中国大陸を支配するために欧米各国を敵に回した状態を,「ABCD包囲網」と呼称しているだけですけど.
日本を包囲するために,ABCD各国の政府首脳が作戦会議を開いた形跡は無い.
日本は国連を脱退して,国際的に孤立したってことじゃんか.
ハルノート以前に「日米諒解案」という妥協案があったにもかかわらず,日本の都合でそれを蹴ったことは無視か?
世界史板,2009/07/18(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
敵に攻撃させてから討伐に出かけるというストーリーが,アメリカ人は大好き.
なぜ対日開戦だけ例外にして,日本の狂信的右翼が暴走したことにしないと,気がすまないの?
【回答】
あまりに低レベルすぎて失笑した.
なんでそのストーリーが好きなら「仕向けた」になるんだ?
ハルノート以前に実際に軍部が独走し,それをきちんと処置できなかったから,開戦までいって敗北したんじゃねえか.
つまり戦略ミスだ.
軍の統帥自体がめちゃくちゃになって結果として破滅したんだから,日本人からすれば,否定的に見て当然じゃねえか.
その手のアメリカに仕向けたとか,コミンテルンだの左翼持ち出して責任転嫁するやり方を突き詰めていくと,明治以来の日本自身のアジア戦略や拡張の歴史も否定する事になることも気づけ.
つまり当時の国際関係の中で,苦心惨憺して日本の地位を固めていった努力も否定することになるんだよ.
わかるか?
世界史板,2009/07/19(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
劉備は別に孔明を仲間にしなくても良かった?
【回答】
確かに世界史の中の話なのに,なぜか「三戦板に行け」と言いたくなる不思議.
明快に言うと,仲間にして良かった.
孔明は軍師といえば軍師なのかも知れないが,実体は政治家で,そして中原でもそれなりの名家でもある.
呉への同盟で使者として選ばれたのも,そういう側面があるから,と見る説もある.
というのは,もともと中原から抜け出てきた名士,豪族,もしくは田舎物の豪族が中心の呉には,それなりの名家・諸葛家の人間がきたというだけで効果がある,という説ね.
個人的にも呉との同盟の後押しになったんじゃないかと,この説を支持する.
それと,孔明が傘下に入る前は,劉備はほとんどワンマンで政治(といっても若いときから転々としてきた彼のそれが,果たして政治といえるかは微妙)を行ってたわけで,孔明のおかげで租税や戸籍関連がしっかりして,また荊州の比較的若い名士の呼び水ともなったところもなり,より効果を挙げたと考えられる.
また,これは仲間にするときは予期もできない話でもあるけれど,劉備死後,大して混乱もなく,ほとんど独裁であったのに人から恨まれず,まして若い君主からも憎まれず,敬われられるような人物が孔明以外にいたのか,という部分も大きい.
対呉戦線で国が崩壊してもおかしくなかった,魏に降ってもおかしくなかった蜀を,曲がりなりにも遠征できるまでに国力を高めたのは,彼の最も特筆すべき才能だと思うよ.
世界史板,2009/07/19(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ダニエル書に,バビロニアはメディアとペルシアに分割された,みたいなことが書いてありますけど,ペルシアが新バビロニアを滅ぼしたときには,既にメディアもペルシアに併合されてるはずですよね?
なぜ上記のような勘違いが生じたんですか?
【回答】
メディアの勢力圏内でペルシア勢力が独立し,刃を向ければ,それは外から見れば「メディアとペルシアに分かれた」ように見える.
この旗揚げ時点のことを指して表現したのなら,あながち勘違いとも言えない.
また,例えばの話だが,ペルシア配下のメディア軍とペルシア軍の連合軍が,バビロニア軍を破って,ペルシアは恩賞としてバビロニアの一部を,メディア軍にも分け与えたとする.
これは全くの仮説で想像に過ぎないことではあるけどね.
ダニエル書の作者にはそうした一連の出来事が,メディアとペルシアに分割されたみたいに見えたのかも知れない.
ユダヤ人をバビロニアから解放したメディア人とペルシア人に,感謝しようという意図があったかも知れない.
ダニエル書は歴史書じゃないのだし,正確にオリエント諸国の興亡を記してあるとも限らない.
以上は全部俺の推察.参考文献なし.
世界史板,2009/07/19(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
パリ講和会議でウィルソン大統領は,民間企業による兵器生産反対の一節を連盟規約に入れさせた,とあって
「アメリカは戦争反対・平和主義なのかな〜」
と思ったのですが,ならなぜ25年のジュネーブ議定書に調印しようとしなかったのでしょうか?
アメリカは何がしたかったのですか?
【回答】
大統領が理想を語っても,議会が足を引っ張る.
25年には既にウィルソン大統領は,大統領じゃないどころか死去してたし.
大統領が絶大な権限を持つといっても議会との相互牽制があり,議会の反対に会えば条約は批准されない.
アメリカといっても一枚岩ではない.
理想主義から現実主義まで様々.
兵器生産反対にしても,それはアメリカの手足をしばり国益にそぐわないとか適当な口実つくって,反対する軍事企業もあったわけです.
それは自分たちの収益機会を失わせることになるからだけど.
「アメリカは何がしたかったのですか?」
と聞かれても,
「ただそうした合意を形成するまでに至らなかっただけ」
としかいえない.
世界史板,2009/07/20(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
俺が不思議なのは,命など革命に捧げた革命家が揃っていながら,唯々諾々とスターリンに従い殺されていったことだ.
どうせ死ぬなら殺される前に,スターリンと会った時に銃で撃ち殺せば済んだことだ.
【回答】
「唯々諾々とスターリンに従い」?
馬鹿いうなっての.
全然そんなことはない.
公然と反旗を翻しています.
権力闘争に敗れたということ.
権力闘争は決して密室での腕相撲や,料亭での会談の帰趨で決まるのではない.
大衆を巻き込んだ闘争なのです.
スターリンは陰険・狡猾・悪辣・残忍・用意周到な策略・謀略を駆使して,政敵の落ち度を発見し,または捏造して,政敵に革命の敵・大衆の敵なるレッテルを貼るように大衆を誘導するのです.
秘密警察を使って情報を集め,機関紙を使って世論を誘導する.
その結果が失脚・追放・処刑・暗殺なのですよ.
これが共産主義の権力闘争というもの.
スターリンほどではないにしろ,中国共産党でも日本共産党でも,世界の共産党という共産党内部の権力闘争は,全て本質においては何もかわりがない.
>殺される前にスターリンと会った時に銃で撃ち殺せば済んだことだ.
馬鹿いうなっての.
用心深く猜疑心の強いスターリンが,そんな隙を与えるわけがない.
「腹を割って差しで話し合おう」ってか?
なんというお花畑.
世界史板,2009/07/22(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
大戦時のアメリカの強さの一因として,豊富な資源があげられますが,仮に日本帝国の資源がアメリカと同等に十分に豊富で,技術力・人材力などを駆使した場合,戦局にはどの程度の変化があるでしょうか?
ここでの資源は工業資源・鉱物資源などの生物資源(食料・素材)を含み,人的資源は含まないものとします.
【回答】
変化ない.おなじ.
>仮に日本帝国の資源がアメリカと同等に十分に豊富で,
資源の有無は,日本が対米開戦に踏み切った事情,日米対立を生んだ事情としては大きな要素であった.
しかし資源の有無は,戦争遂行能力という点に限れば大きな要素ではないのです.
というか,それより重要な要素がいくつもあるといった方がいいかな.
たとえば発電能力.
工業資源・鉱物資源・人的資源が無尽蔵にあっても,発電能力が無ければ何もできない.
これが発展途上国が容易に発展しない理由の一つでもある.
ま,余談だが.これが当時の日本には決定的に不足していたのです.
元々巨大な電力需要も無かったので,発電能力も小であったのだ.
いざ戦争始めるぞといってもどうにもならない.
遅まきながらダム建設・発電所建設を突貫工事で進めるといっても,そう簡単には進まない.
確かなデータは分からないけど,日米の発電能力には10倍以上の違いがあった筈です.
ま,きりがないのでこの辺で止めとく.
資源問題は開戦の動機としては大だが,戦局を左右する要素としては小だと,簡単にまとめて論を終える.
●日本がアメリカに劣っていたもの
資源調達力,
兵器生産量,
工業の工作精度,
戦略性,
戦局レベルでの作戦能力,
同盟国の規模と数と連帯,
外交交渉の上手さ
資源が足りてても負ける要素しかないわ.
日本がアメリカに勝ってた要素なんて,下士官以下の死ぬ覚悟くらい.
世界史板,2009/07/22(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
アレキサンダー大王とか,モンゴル帝国って前代未聞の大遠征をしてるけど,なんで今まで統一できてなかった地域の外にまで,勢力を広げなきゃいけなかったんですか?
アメリカの陰謀説みたいに,強すぎた軍人からの圧力や懐柔ですか?
【回答】
実際のところ,アレクサンドロス大王がギリシア周辺以外で滅ぼした国は,ペルシアだけだけどな.
ただそのペルシアが,現在のギリシアの一部からエジプト,中東からインドの一部を支配する異常に大きな国だったけど.
モンゴルなんかの騎馬民族はもともと,小さな国を襲って屈服させ,上納金の支払いを約束させて生計を立ててるんだ.
彼らは移動するからまとまりが無く,ひとつひとつの勢力はそこまで強くないから,屈服する国家もたかが知れてる.
でも,たまに強力な指導者の下で結束すると,大規模な征服になるから強力な国家すら屈服する=とんでもない領土を支配することになる.
計画的に侵略して目的を果たしたら止めるとか,そういうものじゃないんよ.
あとモンゴルは,あくまで上納金の支払いを約束させて属国化してるわけだから,支配領域も広くなりやすい.
さらに言えば,マケドニアもモンゴルも,最大領土は瞬間的なもので,実際に維持できた領土は割と常識的な範囲だと思うぞ.
ともに後継者が分割して統治することになってる.
世界史板,2009/07/27(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
14世紀以前の歩兵ってどんな装備だったんですか?
装備が貧弱といっても,アレキサンドロス大王のファランクスとかありましたし,長槍兵の横列で槍衾を作れば割と戦えるような気がしますけど・・・.
馬にも装甲が施してあるといっても,密集隊形の歩兵の中に突っ込んだあと,いつまでも優位に戦えるものですか?
それとも,突っ込まれたら壊乱してしまって,もう士気/指揮的に立て直せなくなるとか?
【回答】
そもそも中世では,ファランクスみたいな大規模な密集陣形は存在しない.
中央集権的じゃないから,王家や大貴族でも権力や金が無い.
だから大規模な歩兵部隊を養うことも,強制的に兵を集めることも無理.
当時,各貴族は治外法権が認められていて,農民も直接の領主の持ち物だったんだ.
たとえばフランス王が家臣であるはずのフォア伯に,「農民よこせ!」って命令しても,伯爵は拒否できた.
王でも直轄地の面積は高が知れてるから,徴集できる農民の数にも限界があるし,そもそもただの農民を徴兵してもすぐには役に立たない.
かといって,訓練したり装備を配給するほどお金が無い.
この時代の兵は,主に下級貴族からなる重装騎兵.
また傭兵とかも雇ってた.
最初から訓練つんでて,装備も自前で調達してくれる騎士や傭兵,マジ便利.
だから当時としてはそれなりに合理的な戦い方だったとは言えると思う.
だから歩兵の数はそれほど多くなかったし,統一した装備で綺麗に陣形を組むことは無理.
で,兵士といっても下級貴族だから馬に乗りたがるし,死にたくないから真面目に戦争をしなかった.
陣を敷いて戦わないまま一年経つとか,名乗り出て一騎打ちしてお互いに健闘を称えあうとか,アホなことを平気で繰り返していた.
長槍兵としては,13〜14世紀のスコットランドで運用された,シルトロンというものが実際にある.
ただし彼らは,騎士のように上等な防具を装備していなかったため,弓でボコボコにされた.
14世紀とか中世後期になると,スペインやイングランドなんかが徐々に中央集権化して,長期にわたる兵士の育成や,統一的な軍備が可能になる.
中央集権化のほかにも,中世後期に大動員が可能になるのは,二圃制や鉄農具の普及などによって収穫量が増え,兵を養えるようになったことも大きい.
イングランドではエドワード一世の指示により,農民兵の武器が専ら長弓となった.
これはウェールズの伝統的な長弓に影響を受けたため.
ちなみにイングランドは12世紀頃から,徐々にウェールズの長弓を導入していた.
農民出身の兵士はプライドとかないから,長弓を使いたがらなかった騎士とは異なり,その長弓とか槍とで,百年戦争でフランスの重装騎兵を蜂の巣にした.
百年戦争の頃だと,平地なら弓で重装備をぶちぬくのは難しいが,長弓を高台から打てば貫けたみたい.
(14世紀以降となると,騎士にも拘りがなくなり,ハルベルトなどを使うようになった.
ちなみに1385年のスイスで,オーストリアの騎士が下馬してランスを振るったのが,一説にはパイクの嚆矢とも
)
世界史板,2009/07/28(火)〜07/29(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
「ノヴゴロド公国が南下拡大してキエフ公国を建国」とはどういうことですか?
ノヴゴロド公国とキエフ公国は全く別の国なのですか?
【回答】
とりあえず,「キエフ公国」というと時期的に別の国家が想定されうるので,「キエフ大公国」と言ってほしい.
大雑把に言って,ノブゴロド公国はリューリクによる征服によって建国されるわけだが,リューリクの一族のオレグが南方のキエフ周辺を征服して成立したのが,キエフ大公国(になっていく国家).
なので,当初はキエフはノブゴロドの分家というか親分子分というか,そういう関係だったことになる.
よって,「全く」というほど「別の国」ではもちろんないし,そもそも「別の国」なのかどうかも微妙.
ノブゴロドにいたリューリクの死後は,キエフにいたリューリクの子イーゴリが後を継いだことになっているので,その後はキエフ側が宗主国的な立場になることになる.
……なんだけど,全ては伝承であって歴史的事実であるかどうかは結論が出ていないので,話半分にしといてほしい.
とはいえ,いずれにせよ,建国当初のキエフ大公国がノブゴロド公国に対して,「全く別の国」という関係だったことはありえないと考えられる.
世界史板,2009/07/28(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
前近代におけるイスラームとユダヤ教の対立について,いつ頃から対立が始まったんでしょう…?
【回答】
前近代のイスラームとユダヤ教は,特に対立してなかったぞ.
昔のイスラームは貿易で稼いでたこともあって,異宗教・異文化に寛容だ.
対立してたのはキリスト教とユダヤ教(というか,キリスト教徒による一方的な迫害か)
イスラームも生まれたばかりの頃は異端だったわけだから,他の宗教と思いっきり衝突して戦争しまくってた.
でも,イスラム帝国の時代を過ぎれば,だいたい世俗的な戦争に宗教的な名目を持ち込んだだけで,少なくとも同時期のキリスト教諸国と比べて,領土内における異教徒には寛容だった.
といっても,税率はムスリムより高かったし,ムスリムによる差別ももちろんあったけど.
1000年ごろファーティマ朝のハーキムとか,17世紀ムガル帝国のアウラングゼーブとかが,個人的な狂信さから領土内の異教徒を弾圧・虐殺した例はあるけど,恒常的にっていう例は近代まであんまり無い.
十字軍によってイスラーム諸国が危機に立たされると,イスラーム側も強硬姿勢をとって強制的な改宗や弾圧を行ったけど一時的なもの.
このあと中央アジアは遊牧民族系のイスラーム国家が成立してくるんだけど,このころは本当に寛容.
むしろスペインなどからの亡命ユダヤ人を受け入れて,商業を興すくらい.
ただ,近世〜近代に入ってヨーロッパが力を持ち出すと,オスマン帝国も威厳をイスラーム国家であるという点に求めるようになって,ユダヤ教徒に対して重税を課したり,露骨に差別を始めた.
でも,キリスト教圏に比べればやっぱりマシ.
イスラム教原理主義は除くとして,キリスト教圏がイスラム教圏よりユダヤ人や異宗教に寛容になったのって,せいぜいここ100年くらいの話だよ.
世界史板,2009/08/02(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
キエフ大公国というのは,キエフ公国を中心として,周辺の公国(もちろんノヴゴロド国も)を合わせて作られた国でしょうか?
神聖ローマ帝国のように,それぞれの国は独立しているけれども一応連合しているというような国ですか?
その中にモスクワ大公国も含まれていたのでしょうか?
【回答】
692 :世界@名無史さん : 18:11:20 0
>>638
うーんと,どう言えば正確に近づくかなあ.
まあ,「神聖ローマ帝国のように」という言葉が適切かどうかはともかく,キエフを中心とした諸邦の緩やかな連合体であった,と考えていいかと思います.
ただ,「キエフ公国を中心として」というのは語弊があって,当時のキエフの政権を「キエフ公国」と呼ぶのは適切ではありません.
つまり,緒公国の連合体としてのキエフ大公国があって,というのは間違いじゃないわけですが,その盟主がキエフ公国という国だった,というのは正しくないわけです.
実は,我々が現在キエフ大公国と呼んでいる国家は,自称は「ルーシ」です.
そのルーシの君主がKnyazあるいはVyaliky
knyazですが,これを日本語では公あるいは大公と訳しています.
で,このKnyazがキエフに住まったため,後世の我々は「ルーシ」をキエフ大公国と呼んでいるわけです.
後にこの「ルーシ」の連合が崩壊した結果,キエフを中心に「キエフ公国」が成立します.
というわけで,キエフ大公国が健在な間は,キエフ公国は存在しないわけです.
さて,モスクワに自立した政権が成立するのは13世紀後半〜14世紀初頭にかけてで,これはちょうどキエフ大公国の崩壊時期に相当します.
なので,含まれていたかどうかは,いつどの時点を「キエフ大公国が完全に崩壊したか」として線を引くかによるか,という歴史的評価・見解によることになります.
微妙なところですね.
世界史板,2009/08/03(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本の中世以前の軍制,戦術は諸外国と比較した場合,優れていたのでしょうか?,劣っていたのでしょうか?
【回答】
異質なものだ.
優劣を語ることは不可能.
高くはないが険しい斜面を持つ山が多い日本では,大陸にありがちな巨大城砦都市は造営されず,城砦攻略用の破城兵器も開発されなかった.
ということで,そういった兵器を運用する部隊が産まれることもなく,軍編成や運用もその状態に見合うものであり,巨大兵器を用いる代わりに,山岳地でも行動できる少数編成を基準とした.
一応,平安末期〜室町初期を想定して思い出してみたが,外国には外国の,日本には日本の軍システムがあるとしか言いようがない.
世界史板,2009/08/07(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
大政奉還(主権者が本当に自ら放棄する),こんな馬鹿なことて日本しかやってないのではありませんか?
【回答】
徳川慶喜は,正二位内大臣の資格で内政権を受託していた.
その受託の根拠たる朝廷が,徳川政権から内政権を剥奪するという方向で動いていた.
剥奪されるというのは朝敵となってしまう.
そうなると捕まえたり殺したり,だれもがやってかまわない状況だ.
そうなる前に,降伏して,内政権を返還して恭順の態度を示すのは,まぁ,言っちゃあなんだが,保身だ.
また,開国に関するゴタゴタに対する反幕府派のプロパガンダもあって,幕府の権威は失墜.
幕府としてはその権威を朝廷から再確認して欲しく,反幕府派の公家やそれに繋がる薩長なんかは,幕府から行政権を奪いたかった.
このころ天皇や有力な公家は,軒並み親幕府派.
反幕府派の有力者は,八月十八日の政変で追放されてる.
しかしなぜか薩長に対し,逆臣徳川の幕府を討てという密勅が飛ぶ(どう見ても偽造).
この動きを察知した幕府は,一旦行政権を返還した上で再度任ぜられることで,逆臣の汚名をそぐと共に,再度お墨付きを貰おうとした.
仮に将軍制(幕府による政治)が終わっても,天皇・朝廷の下で徳川家が政権を握れるだろうという算段.
実際,大政奉還後もしばらく朝廷の命により,幕府が政治を担当する状態は継続された.
実際に幕府が政権を失ったのは,翌年のクーデター(王政復古の大号令)だから,自ら進んで政権を明け渡したわけではないかと.
世界史板,2009/08/09(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
「朝鮮王国は中国の属国」という言い方があるけどなんで?
チベット,ベトナムは中国の属国ではなかったのですか?
【回答】
属国かどうかを判別する基準というのは至極明快で,二つの条件でみることができる.
一つは外交権.
この国(朝鮮)が,独自に第三国(日本とかアメリカとかフランスとか)と条約を締結し得るか否か.
本国(支那)に相談や了解を要しないか.
この部分からすると,李氏朝鮮は完全に属国.
たとえば,16世紀末の日本の侵攻に際して,本国(明国)へ交戦許可のお伺いをたてて,防衛が後手後手になっているし,19世紀末の米朝通商修好条約や下関条約に於いても,交渉・条約締結は朝鮮藩王の頭越しに清国の外政担当が行っている.
二つめは元首の選出.
朝鮮国だったら李氏藩王だな.藩王の代がわりに際して,本国の承認を要するか否か.
李朝の最初の王様からして,王号の承認を得るために四苦八苦している.
属国でなければ,元首の称号なんてその国で勝手に決められるが,それができなかった.
本国から与えられる位階・官職が統治の正当性の根源で,その王号だということが,属国たる証拠だし,その王号を承認してもらうために,世子が本国に抑留されたり,高位の貴族・官吏が本国の貴族・官吏と縁組を結ばされたりするというのも,その傍証.
仮に,朝鮮国王が本国(明・清)の皇帝の人選に口出しできる立場にあったとしたら,それば本国の一部ということで属国ではないが,そうではなかった.
統一新羅以降,高麗,李朝がすべて,唐,宋,元,明,清の支那を支配する政権によって外交権を奪取され,元首の選定に一方的な干渉を受けている.
あきらかに属国だろう.
ベトナムは時期によって,支那の王朝の本国の一部だったり,属国だっり,独立国だったりしたけれども,最後の王朝・阮朝は,19世紀に現地政権の頭越しに,清国がフランスに割譲したこと(天津条約)からみると,属国だった.
チベットはちょっと複雑だ.
モンゴル帝国時代,モンゴルはチベットを庇護し,チベットはモンゴルを庇護するという盟友関係が結ばれた.
カムやアムドに(どちらもチベット東部の地方)モンゴル人の藩王や知事が任命されたり,今のアッサム,カシミール,ネパールへチベットの領土を股越してモンゴルが侵攻したりしているから,属国といえば属国だが,モンゴルはチベットの元首の選定に口出しできないし,チベット人のモンゴル領内の往来も自由.
朝貢どころか,モンゴルからラサの法皇へ歳費を献上している.
バチカン・法王領と神聖ローマ帝国との関係や,日本の朝廷と徳川幕府との関係に似た関係だ.
それが元朝滅亡後も続き,ホンタイジ大王がモンゴルの大ハーン位(宗主権)を獲得すると,盟友関係は満州人政権に引き継がれる.
支那的中華思想からすると,満州もチベットもモンゴルもトルキスタン(新疆)も属国・属藩となるべき地域・人種だろうけれど,遊牧政権感覚では全く違う.
満州人感覚からすると,満州とモンゴルが本国,チベットは本国同格の盟友,トルキスタンはモンゴルの大ハーン位の権威によって統治すべき土地,漢土は満州が征服した属地ということになる.
朝鮮が漢土に編入されなかったのは,後金の時期にホンタイジ大王によって直接接収された土地だということがある.
歴史的に漢土の属地だから,漢土の皇帝権によって服属させてはいるが,比較的高い位の藩王位が与えられていたのはそのため.
世界史板,2009/08/11(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
『EU2』ってゲームやってて思ったんだけども,何故独立したばかりのオランダが,インドネシアなんていう辺境に植民地持てたの?
本国は毎回戦争のようで大変なのに.
【回答】
いきなり今のインドネシア全域を植民地にしたわけではない.
オランダは国土が狭く,農業だけで食っていけないから,海外貿易に活路を求めるのは当然で,当初は各地に貿易の根拠地としての商館を設置して港を確保する程度だった.
状況が変わるのは,19世紀以降.
「点」(貿易港,商館)から「面」(農村,プランテーション経営)の支配に転換してから,ジャワ島や香料諸島以外の「外島」(スマトラ,ボルネオ,セレベスなど)に進出した.
現在のインドネシアと同じ領域を,完全に征服したのは20世紀初頭のことである.
いわゆる「オランダによる300年の支配」ってのは,ジャワの一部と香料諸島のみ.
世界史板,2009/08/12(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
騎士についての質問です.
中世のイギリス議会では,上院が貴族,下院が騎士・市民の代表だったそうで,貴族より下の騎士身分(下級貴族?)があったと思われますが,近代以降のイギリスでは騎士は栄典としての一代限りのナイト爵になっています.
中世存在していたはずの騎士身分というか,騎士階層はどうなったんでしょうか?
ドイツやフランスだと,騎士の称号であるリッターやシュヴァリエを世襲していたり,爵位のない小貴族のような人たちがいるようですが.
【回答】
まあ,ジェントリだね.
階層的には大陸の下級貴族層と同列なんだが,イングランドではcommoner(平民)扱い.
元々,騎士号というのは,仲間内で一人前と見なされたら,先輩騎士から叙任を受けたものだったんだが,封建制の確立と共に,叙任するのは主に封建主君となり,また貴族の子弟は,有る程度の訓練を受けて適当な年齢になれば,ほぼ自動的に騎士に叙任されるようになって階級化したわけだが,封建制の衰退,騎士の戦士としての役割の喪失と共に,叙任権は国王などの君主に集中されるようになった.
大陸では,下級貴族階層がそのまま騎士を世襲したりしたが,イングランドでは,勲章のような名誉号の意味が強くなって,自動的にはジェントリには与えられなくなった……って感じかな.
世界史板,2009/08/12(水)
青文字:加筆改修部分
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