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(ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く)
※既に分類され,移動された項目を除く.
世界史なんでも質問スレッド 64
目次
【質問】 一度は世界を支配した遊牧民族は,どうして少数のロシア軍に征服されてしまったのですか?
【質問】 相手は鎧を着ていない銃兵なんだから,矢の雨を降らせたら勝てるんじゃないの?
【質問】 アフリカのズールー王国が,槍と盾でイギリス軍と互角に戦ったのは何故?
【質問】 孫子の兵法を充分に理解するには,実戦経験の裏付けが必要?
【質問】 100年戦争ですが,100年もどうやって戦争を継続できたの?
【質問】 古代ローマ帝国の軍隊の生活や戦術について,一番信用できそうな書物はありませんか?
【質問】 旧植民地の間で,大きな経済的な格差が生じているのはどうしてでしょうか?
【質問】 1878年第二次アフガン戦争は同年のロンドン会議(or条約)の影響を受けたといえる?
【質問】 1950年代後半以降のソ連の経済悪化を,プラハの春とからめて書け.
【質問】 アラブ首長国連邦の元首アミールとサウジアラビア王国の州知事アミールは同格なのかな?
【質問】 日清戦争後の列強の中国分割図って,どういう形の分割なんですか?
【質問】 オランダ東インド会社は独自の軍隊と交戦権を持っていたそうですが,どこで,どの程度の規模の戦闘を行っていたのでしょうか?
【質問】 スイスの叛乱はハプスブルグ軍に数の上でも負けていたのに,なぜ3回も圧勝できたのでしょうか?
【質問】 17世紀中頃,東インド会社のインドや東南アジアでの活動は,侵略行為と呼んでいいの?
【質問】
トルコって,本当はアナトリアの民族じゃなくてモンゴルのあたりに居た民族なんだよね?
ってことは,匈奴とか鮮卑って今のアフガニスタン人みたいな顔した人種だったんですか?
【回答】
昔から,この手の質問は何度もあるな…
その「トルコ」が現在のトルコ共和国の住民だけを指す「トルコ」なのか,「トルコ系諸部族・諸民族」(テュルク)を指す「トルコ」なのかは分からないが,近現代の「アルタイ学説」から来るテュルク・モンゴル・ツングースは同族とする意見や認識とは別に,後者の場合だったら,モンゴル帝国時代から「テュルク」と「モンゴル」は遠祖を同じくする同系の民族集団と考えられていた.
一応,フレグの後裔たちが築いた西アジアにおけるモンゴル政権である,イルハン朝で編纂された『集史』のテュルク・モンゴル諸部族誌に,そこら辺の分類や族祖伝承の顛末が色々と書かれているけど,それによるとノアの息子のヤフェトはアブルジャ・ハンと呼ばれ,これが「モンゴル諸部族を含む」テュルク系の諸民族の遠祖されているんだそうな.
『集史』のモンゴル諸部族誌によると,このアブルジャ・ハンの子孫のうち,エルゲネ・クンという峡谷に移り住んだ一派が,全てのモンゴル系の諸部族の祖先だとされている.
一方,アブルジャ・ハンの(恐らく他の)後裔のうち,オグズ・ハンという人物が出て,オグズ24氏族の始祖となったことが書かれているんだが,オグズ・ハンには6人の息子がいて,その6人の息子にはさらに4人づつ息子が居たんだそうな.(それで24氏族)
オグズ・ハンの長男はキュン・ハン(「キュン」は太陽の)という人物で,このキュン・ハンの長男はカイ(カユ)という名前だった.
これがオグズ諸部族のリーダー格とされたカユ氏族の始祖な訳だけど,イルハン朝が滅亡して以降,西アジアのテュルク系諸民族はだいたいオグズ系のテュルク(テュルクメンとも)とされていて,『マナス』とか『デデ・コルクト』などの民族伝承はおおよそ『集史』にみられる,オグズ・ハン伝説の影響というかベースにしている.
ちなみにオスマン朝の始祖オスマン・ガーズィーを,後世のオスマン朝の歴史家たちは,カユ氏族の出身だと主張している.
要はオスマン家はオグズ諸部族のトップの家系だから,テュルクの王たる資格を有するとか言う支配正統性をを主張したいんだろうけど,多分,後付け設定.
遊牧帝国は多人種・多民族になるのが普通で,匈奴にもモンゴロイドやコーカソイドが混じってた.
シナの史書にも,胡人は「深目・多鬚・高鼻」だという描写もあるし,胡人のジェノサイドをやった漢人もいる.
「トルコ民族」なんつうもんは,ケマルとかの近代ナショナリストが造った人工的なもんで,元来テュルクとはテュルク系の言葉を話す人々の総称に過ぎん.
つうかアフガンにもいろんな民族がいて,日本人そっくりな人もイラン系っぽい人もいるんだが.
文明の十字路なめんな.
世界史板
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【質問】
一度は世界を支配した遊牧民族はどうして少数のロシア軍に征服されてしまったのですか?
たかが数百人の銃兵なんて,神速の騎兵が矢の雨を降らせれば,簡単に制圧できると思うんですが.
現に満州族の騎兵は,明と朝鮮の火縄銃部隊を壊滅させているのに,何故中央アジア遊牧民の騎兵達は,ロシア軍のマスケット銃部隊に対抗できなかったのでしょうか?
【回答】
マジモンの中央アジアの遊牧王国は,ロシアといえども征服するのに19世紀半ばまで時間がかかってるぞ.
シベリアの大森林地帯は人口が希薄過ぎて,国家らしきものがないから,数十年でカムチャッカまでいけた.
ロシアの隣のポーランド騎兵なんかは,タタール人と同盟してモスクワを陥落させとるし,だいたいロシアの強大化はコサック騎兵を使えるようになったからだ.
それに神速っつてもな・・・
戦争で使われる馬は,競馬で見るサラブレットの半分くらいの速度しか出ない(大体時速30km程度).
それからマスケット銃と火縄銃の大きな違いは,銃剣があること(もちろんこれは発射機構の問題ではないが,時代で考えると).
銃剣付きマスケット銃を持った部隊を,遊牧民とは違って兵法を学んだ指揮官が有機的に運用することで,騎馬突撃を封殺することに成功したわけだ.
具体的には死角の無い方陣という四角いブロックをいくつも作り,互い同士が常に射撃の有効射程内にいることでカバーをし合う.
白兵戦まで持ち込まれても銃剣を持っているので,方陣ブロックで挟み撃ち.
ロシア軍歩兵がなーんにも無い野原で,馬鹿正直に正面向いて,敵の遊牧民の突撃を受けてたんだろうと考えてるなら,さすがにロシアを馬鹿にし過ぎてるとしか言えないな.
世界史板
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【質問】
相手は鎧を着ていない銃兵なんだから,矢の雨を降らせたら勝てるんじゃないの?
銃に比べて多少威力は落ちても,矢の数で圧倒できるだろ?
清の八旗兵は明の火砲と朝鮮の銃兵に勝ったじゃん.
【回答】
馬上からの射撃では,雨になるほど飽和的な数の矢を発射できませんから,想定は歩兵ですよね.
マスケット銃の場合は直射なため,対歩兵戦闘では一列横隊が基本です.
そのため弓矢による飽和攻撃をかけても被害はそれほどでないでしょう.
○○○○○○○○○○○○
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
一方,弓の場合,曲射で命中率が期待できません.
基本的に狙いを付けず,密集形態による射撃になることになります.
○○○○
○○○○
○○○○
↓↓↓↓
・・・まぁ,マスケット銃のいい的でしょうな.
また,コサックは橇や川舟でシベリア探索をしたんだけどな.
あとコサックもオスマン帝国もジュンガル帝国も,しっかり火器で武装していた.
清は人口も経済規模も莫大なので,物量作戦ができ,大量の火器でジュンガルを粉砕した.
重騎兵は,大型の馬に乗り胸甲(クィラス)で身を固め,ランスやサーベルでの突撃で敵陣粉砕.
軽騎兵は,小型の馬で軽武装.
機動力(移動力)があるので偵察や奇襲,後方攪乱に便利.
弓矢ではなく小銃で武装すればけっこう使えた.
歩兵側が塹壕などで防御を固めている時は,無茶な突撃はしない.
19世紀後半にマスケット銃から元込め・ライフル銃になると,騎兵は狙撃されやすくなり,活躍の場を奪われていく.
古代から中世までの騎兵は,突撃がメインで戦車のような扱いだけど,近世じゃ馬の機動力がメインだし.
火器の普及で出番を失ったのは,騎兵ではなく弓矢の方が先だろうな.
なお,火砲に勝ったと言っても,サルフの戦いでは
・砂嵐による視界不良
・雨による鳥銃(種子島) の使用不可
・明側の指揮官が功を焦って突出した事
などが大きい.
実際,寧遠城の戦いでは30万を号する八旗で攻めても陥落できず,紅夷大砲によって惨敗.
オマケにヌルハチは大砲の所為で死んでる.
世界史板
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【質問】
アフリカのズールー王国が,槍と盾でイギリス軍と互角に戦ったのは何故?
【回答】
イサンドルワナの戦いでのズールー軍の勝因は,
・イギリス軍は宿営地付近の土が固く,スコップも装備してなかった事で塹壕を掘られなかった事
・チェルムズフォード中将がドーンフォード大佐指揮の一個大隊を残し索敵に出かけた事
.イギリス軍は火力的には優勢を誇っていたし,計算では守りきれる事も可能だったが,兵と兵の間が長すぎた事
・マルティーニ・ヘンリー小銃の長期射撃から起こる作動不良
・皆既日食による視野の低下
などが大きく作用している.
世界史板
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【質問】
アラブ人とマワーリー(トルコ人,ペルシア人,エジプト人,ベルベル人などの非アラブ人)の違いは,民族的なもの?
【回答】
「マワーリー」というのは,保護・被保護の関係,パトロン=クライアント関係での保護を受ける当事者のことを指す言葉で,基本的に個人的な結びつき.
この保護・被保護の主従的な関係を結ぶことをワラー関係などと言うが,初期のアラブ征服でアラブ軍の主将などとワラー関係を結んだ現地勢力の有力者やその子弟,あるいは捕虜となり奴隷に落とされたあとに解放された人々などが,解放してくれた人物(たいていは進駐して来たアラブ人)などと主従関係を結んだりしてマワーリーになった.(単数形では「マウラー」と言った)
「マワーリー」というのはパトロン=クライアント関係,保護・被保護の関係性に依拠する単語・概念なので,何かの人種や民族,生物学的形質学的な違いを指すような言葉では無い.
世界史板
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【質問】
孫子の兵法ってなんで世界的名著って言われてんの?
”敵知ってれば必ず勝てるよ”,なんて中学生でも分からないか?
もしかして圧倒的に有利なのに,”神が撤退しろと言ったから”とか”何か不吉なことが起こりそうだから”とかの理由で戦を止めてたような原始的時代に,まぁまぁ常識的なこと書いてるからすごいんですか?
【回答】
孫子は現在の軍事思想としても十分通じる普遍性を放ってるからな.
当時は,現在の中学生ほどの知識量の蓄積もなかった.
それに,並みの中学生ではそこまでの真理に到達できんだろ.
それに,当たり前だと思う事でも理論として構築するのは,難しい事なんだがな・・・
それをちゃんと各項目別に纏めてテキストにしたのが孫子な訳なんだし・・・
クラウゼヴィッツの戦争論より遥か昔に,大体同じ様なの編纂してたなんて,普通に凄い事だと思うけどな.
しかも書いた事を孫武自身が戦場でちゃんと立証してる訳だし.
まあ,近代ヨーロッパの軍事研究家が試行錯誤を重ねた上で兵法を編み出した後になって,孫氏の存在を知り,はるか昔に,自分が辿り着いたことと同じ事が提唱されていたことに衝撃を受けたことが原因のようだが.
世界史板
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【質問】
孫子の兵法を充分に理解するには,実戦経験の裏付けが必要と思うが?
【回答】
実戦経験が多分,皆無であろう数名の人物が孫子に注釈を加え,しかも高い評価を受けてるが,これ如何に?
杜牧,梅堯臣,荻生徂徠……
杜牧は節度士の書記だった経歴の持ち主だが,実戦経験があるとは思えないし,梅堯臣や荻生徂徠は実戦経験が皆無でしょ?
しかも杜牧は曹操と並んで,優れた注釈者として評価されてる訳だし.
それに孫子は実戦以外の面のほうが評価高いだろ.
孫子に書いてある戦術面は,古代戦争の戦いを説いてるから,今じゃ通用しないが,戦略面も説いてるわけで.
その戦略面が現在でも通じる戦略思考なわけで.
昔は戦争=戦闘という概念で,孫子のような戦争全体を説く戦略的な概念はほとんどなかった.
"実際に戦争を経験した奴かしてない奴か"よりも,"実際の戦争で役に立つか立たないか"の方が重要だろ,常考.
後世に戦争経験者に評価されてる部分を棚上げするのはどうかと.
お前さんの理屈で言えば,優れた犯罪心理学者は犯罪経験者でなくてはならんことになるぞ.
世界史板
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【質問】
イギリスとフランスの100年戦争(末期にはジャンヌ・ダルクも登場したが)のことですが,100年もどうやって戦争を継続できるかが疑問なんです.
100年も戦争していたら,戦費で国の経済は破綻し,人心は荒廃するでしょう.
戦争と言っても今日考えるような戦争ではなく,1年に数回小競合いがあっても,それを戦争ととらえていたのでしょうか?
【回答】
まあよく言われる話だが,100年ぶっ続けで殺し合いという訳じゃなくて,対立状態が100年続いてただけ.
数回の小競り合いすらない年もある.
戦争を継続できるというより,戦争を終結できなかったという方が正確だ.
中世のことだから,まだ近代的な国家としての形が無い.
国際法も国際的な調停機関も何もないから,教皇の権威によって終結を模索してみたり.
戦争というよりは暴力団の縄張り抗争というほうが実態に近い.
そもそも百年戦争と呼ぶようになったのは,終結から数百年も後のこと.
イギリスもフランスも産業革命に成功して,欧米列強として国際社会をリードできる存在にまで大出世を遂げたが,百年戦争の時代はまだ全然そんなものではない.
要するに過去のやんちゃな時代を格好つけるために,百年戦争というもっともらしい命名で暴力団の縄張り抗争時代を位置づけただけのこと.
まあ,歴史的な意味はそれだけではなく,そういう時代を経てイギリス人,フランス人の国民意識が醸成されて国家としての形が生まれてきたのだが.
世界史板
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【質問】
古代ローマ帝国の軍隊の生活や戦術について,一番信用できそうな書物はありませんか?
『ローマ人の物語』と『図説 古代ローマの戦い』(エイドリアン,ゴールズワーシー)は読みました.微妙に記述の違うところがあったので気になりました.
『古代ローマ軍団大百科』( エイドリアン&ゴールズワーシー)は1万円を超えるので躊躇してますが,評価はどうでしょうか?
【回答】
『古代ローマ軍団大百科』が,日本語で読める文献では一番良いと思う.
著者のゴールズワーシーはローマ軍事史研究家として定評がある.
『ローマ人の物語』はあくまでも小説.
史料としては論外.
あとはサイドボトムの『ギリシャ・ローマの戦争』もなかなか.
最近流行の,兵士の心理にひっかけたアプローチは面白い.
まあ,結局最後はウェゲティウス,ポリュビウス,カエサルあたりの原典にあたらざるをえないだろうが.
世界史板
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【質問】
旧植民地の間で,大きな経済的な格差が生じているのはどうしてでしょうか?
例えばかつての英国植民地でも,白人の自治領であるオーストラリアやカナダやニュージーランドは,先進国と言っても問題ないと思いますが,アフリカ,アジアなどの旧植民地の国は,依然として発展途上国です.
自分なりに考えてみたのですが,教育などの問題が強かったのでは,と思っています.
【回答】
自分も不勉強だけど,よく言われる説明としては,
・資本の流出
これは簡単.
植民地の金持から金を奪って本国に持って帰れば,植民地経済を刺激する資本が無くなる.
仮に資本流出先に資本を上手く利用できる金融市場が存在しない場合,資本は蓄積されるか,あるいは別の国に流出する.
一方,宗主国や宗主国周辺の先進国には,流出した資本が集中し,資本の本源的蓄積を達成.
・宗主国を軸にした経済構造の完成
インドでイギリス人がインド人職工の手を切って,イギリス綿織物との競争を防ぎ,産業の機械化までイギリスの繊維産業を保護しながら,インドの繊維産業を壊滅させたわけだけど,こんな感じで元から土地に存在し,土地の範囲で回転してた産業が崩壊し,世界市場に直接結び付けられ,かつ世界市場以外との接点を持たないモノカルチャー的な産業構造が完成.
当然,価格変動に弱い脆弱な産業構造となる.
・社会構造の変化
経済構造の変化に伴い,社会構造も経済構造を支えるのに最適な形に変化.
資本は宗主国なり,先進国なり外部で調達されるので,現地の資本家は育てる必要がなく,仮に育っても大抵は競争で潰れる.
また,植民地化による暴力と宗主国主導の科学的な教育(社会進化論とか)は,現地住民に劣等感を芽生えさせ(フランツ・ファノン),現地住民に「何やっても変わんないんだ」意識と,宗主国(白人)崇拝が内面化されてしまい,これが社会の固定化を支えるイデオロギーとなる.
(皮肉なことにこうした科学的な観念を破るイデオロギーは,社会主義や宗教ぐらいしか存在しなかった)
で,植民地支配のもたらした資本流出+世界市場にのみ結びついた強固な産業構造+社会構造の変化は独立したぐらいじゃ変わらない.
資本が無いから開発は債務に頼らざるを得ず,人種差別が国内で続くと国民がまとまらず,手早く金を稼ごうと思って
植民地時代以来の産業を強化しても,ちょっと価格が変わればすぐ台無しに.
カナダ,オーストラリア,ニュージーランドが成功している要因としては,
・入植した移民が資本主義を理解しており,植民地で成功した金持ちは貿易商人を越えたブルジョワジーになった.
・社会建設の過程で在地の社会をほぼ完全に崩壊させたため(南アはこれができなかった),面倒な問題がほとんど生まれなかった.
・宗主国との住民の近縁さにより,どんな時でもイギリス市場への参入が容易だったため.加えて手心もあった.
・以上の状況が20世紀半ばまでに完成されたため,教育の程度など外資の進出に都合のよい条件が揃い,外資主導での重工業化がなされた.
ぐらいじゃ.
従属論とか世界システム論的だけどね.
あとは1860年代までのアメリカ合衆国南部とラテンアメリカ,パラグアイとアメリカ合衆国北部(特にニューイングランド)を比較してみると面白いかもしれない.
ウーゴ ◆eaYqa3SeLE in 世界史板
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【質問】
アフガニスタンについて.
1878年第二次アフガン戦争は同年ロンドン会議(or条約)の影響を受けたといえる?
二つの事項が同年に起きているわけで,偶然にしても不自然すぎる.
山川の教科書には明記されてなかったので俺の推論をば...
ベルリン会議,同条約締結.
↓
露「バルカン半島無理ぽ.中央アジアに南下するお!」
↓
英「ヤバスwwアフガン取られたらインドがピンチww」
↓
英「なら先にアフガンゲットするしwww」
↓
第二次アフガン戦争勃発.
アフガン戦争がロシアの南下政策に対抗しているってことは理解してる.
ただ,きっかけの一つとしてベルリン条約を数えてもいいのか?という疑問.
【回答】
親露派のアフガン国王がロシア使節を受け入れる一方で,イギリス使節団を拒否した事に対して,イギリスが先に
「イギリス大使の受け入れか,さもなくば宣戦布告」
との最後通牒していた事を実行しただけじゃないの?
イギリス使節団を拒む為に国境に守備隊を配置してたのも,開戦の理由として十分だこの野郎!って,イギリスがキレたんだろ?
ロシアはベルリン会議,同条約締結でバルカン半島への進出を断念.
そんじゃま中央アジア,東アジアに的を絞るべって言うのは,まあ,背景にあるには違いないとは思うが.
世界史板
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【質問】
中南米って黒人奴隷は北米ほど沢山はいなかった?
原住民が絶滅したカリブの島は除く.
【回答】
16世紀から南北戦争までにアフリカから輸出された黒人奴隷の総数は約1200万人とも言われるが,北アメリカに連れて来られたのはそのうち5パーセント,60万人ほどにすぎない.
1865年ごろには400万人以上いたが,これは自然増加・混血児や密輸による増加.
ブラジル向けは38パーセント,カリブ海諸島向けは31パーセント,スペイン領アメリカ向けが16パーセント,残り10パーセントは欧州やアジア向け.
つまり中南米へ送られた黒人奴隷は全体の85パーセント,1000万人にものぼる.
中南米における逃亡奴隷はマルーンと呼ばれ,ジャングルや山の中に独立集落(キロンボ)を作り,白人としばしば戦争を起こした.
サンテリアやヴードゥー教,カポエイラなど中南米の黒人系文化はここから生まれた.
アフリカ系が人口の95パーセントを占めるハイチでは,1804年の独立時に奴隷制度を廃止したが,内戦やら独裁政治やらであんなありさまに.
またイギリス領植民地では1833年,スウェーデン領では1846年,フランス領では1848年,オランダ領では1863年に奴隷制度を廃止.
しかしブラジルで奴隷解放宣言があったのは約120年前,1888年5月13日である.
その後も黒人差別は続いた.
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【質問】
学校の宿題で,「50年代後半以降のソ連の経済悪化を,プラハの春とからめて書け」ってあるんだが,どう書くんだ?
【回答】
おかしな設問だなあ.
プラハの春って1968年だぜ.
それがどうして50年代後半以降のソ連の経済悪化と絡まるのかな?
ハンガリー動乱なら一応,50年代後半とはいえるけど.
それに経済悪化といっても,50年代後半以降に始まった話ではない.
スターリンの強権で,虚飾に満ちた数字を並べて計画経済万歳といっていただけの話だ.
ソ連経済の悲惨な実態を正直に報告していれば,東欧諸国の共産党独裁体制が動揺し,ワルシャワ条約機構なんてあっという間に崩壊してしまうから,嘘で虚栄をはるしかなかったのだ.
それがスターリンが死んで,計画経済が実は全然うまくいってなかったという実態が,少しづつ明らかになってきた.
いきなり本当の数字を出したら悲惨すぎるので,50年代後半以降のソ連の経済悪化という架空の物語を捏造して,数字だけソフトランディングさせて取り繕うとしただけの話だ.
しかし,その設問を出した先生は,おそらくはソ連信者のガチガチの共産主義者だから,そんなこと書いたら0点だろうな.
その先生の期待する答えを推察すると,ハンガリー動乱やプラハの春に代表される東欧諸国の動揺を防いで,国際共産主義体制を維持するために軍事費負担が50年代後半以降のソ連の経済悪化の原因となったってとこかな.
いずれにせよ,学校の宿題など,授業を通して先生の頭の構造を推察して先生の期待する答えを当てるゲームに過ぎない.
オレが出題者ならさ.
「ソ連経済の50年代の落ち込みにより,さすがにソ連国民,東欧諸国民も耐えかねて市場主義経済を導入せよ,とぶうぶう言い出した.
しかしプラハの春の弾圧後は,お得意のアネクドートでこっそり鬱憤をはらすしか無い様に成ってしまった」
この回答で満点あげるけどな〜
世界史板
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【質問】
アラブ首長国連邦の元首アミールとサウジアラビア王国の州知事アミールは同格なのかな?
【回答】
アミールとはアラビア語で司令官や総督を表す言葉であるが,アラビア半島では首長や族長とも呼ばれ,諸部族やいろいろな権力集団の長である.
国によっては国家の元首であるが,大概は話し合いや任命制により,最大部族の長がアミールに選ばれるなど,原則としては武力によって君主の地位を勝ち取った称号ではない場合が多い.
アミールはクウェート,カタール,アラブ首長国連邦で用いられる君主の称号であり,マリクはサウジアラビア,ヨルダンなどで用いられる称号.
一般にアミールよりもマリクの方が格が高い.
サウジアラビアに置けるアミールは,国王に任命されるの州知事の名称なだけで(地位は閣僚級),クウェート,カタール,アラブ首長国連邦で用いられる君主の称号であるアミールとは同格では無い.
とはいえUAEとサウジの州では領地面積も同じくらい.
サウジは州知事といってもみんな王族.
さらに同じ文化圏で同じ称号というのは,本人同士どう思っているのか……
考えるとちょっと面白い.
世界史板
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【質問】
教科書に載ってる,日清戦争後の列強の中国分割図ってどういう形の分割なんですか?
広東一帯はフランスが,長江中流辺りはイギリスの勢力範囲とか,福建省は日本とか色分けされてますが,これは香港のように割譲したってことでしょうか?
それとも,超広大な租借地を設置したってことでしょうか?
【回答】
超広大な租借地なんてない.
租借地といっても島や半島がせいぜいのところ.
中国分割図は,かなり大げさに脚色してあるから信じないように.
勢力範囲といっても,さほどの勢力範囲ですらないのだ.
欧米列強が相互の利害の衝突を避けるために,暗黙のうちに棲み分けていた,という程度のこと.
例えば,フランスがxxに進出を考えているようだから,ドイツはどこも手のついていない山東半島に進出を考えたという程度の話.
特に協定を結んだ訳ではないが,欧米列強はそれぞれ競争相手の顔色を見ながら,出すぎて叩かれないように注意しながら,進出の機会を伺っていたということだ.
進出の機会というのは,口実を作って軍隊を駐留させて既成事実を作ったり,国際外交で恩を売って,その見返りに鉄道敷設権や鉱山採掘権などの利権を得たりすること.
世界史板
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【質問】
オランダ東インド会社は独自の軍隊と交戦権を持っていたそうですが,どこで,どの程度の規模の戦闘を行っていたのでしょうか?
ググっても,世界史の資料を漁ってみてもわかりませんでした.
また,1619年の「バタヴィア市建設」や1641年の「マラッカ占領」は,武力による戦闘を経てのものなのでしょうか?
【回答】
タヴィア市建設はイギリスとパンテン王国を粉砕後,建設.
マラッカ占領は武力制圧.
オランダ東インド会社は最盛期の1669年には,戦艦40隻,商船(武装商船)150隻,兵士1万人を擁していた.
パドリやジャワ戦争ではオランダは多数要塞(兵力は3000人規模)を拠点とし,現地勢力はゲリラ戦を展開した.
適当かどうか分からないが,GHQ焚書図書開封2の中に,オランダ東インド会社の蛮行についての記述が出てくる.
仏印進駐やシンガポール攻略の従軍記者の記述も出てくるから,非常に興味深い.
http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=787
『イギリス東インド会社』(ブライアン・ガードナー)という絶版の本をこの間読んだのだが,主にインドでの戦闘が出てくる.
『オランダ東インド会社』という本も出ているようだ.
世界史板
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【質問】
たかだか農民の集まりにすぎないスイス・パイク兵がなぜ,精鋭のハプスブルグ家の精鋭部隊に数の上でも負けていたのに,三回も圧勝できたのでしょうか?
他国の農民反乱では,呆気なく鎮圧されてますが,なぜスイスの農民だけがデビュー当時から圧倒的な戦闘力を誇ったのでしょうか?
【回答】
スイス・パイク兵は只の農民反乱ではない.
一般的な農民反乱は,装備もない,統制もない,計画もない,戦術もない,目標もない,指導者もない,支援者もない,資金もない,のないないづくしで長年蓄積された不満が,何かをきっかけに暴発したに過ぎないから,あっけなく鎮圧されるのが常.
スイス・パイク兵には,ハプスブルグ家の支配を脱して独立するという明確な目標があったし,決して偶発的な蜂起ではない.
地の利を活かした戦術もあったし,装備も統制もあった.
そしてハインリヒ7世のような,反ハプスブルグ派の支援もあった.
スイス・パイク兵は農民中心に組織された部隊なのであって,決して烏合の衆の農民反乱ではない.
なお,パイクがスイス軍の主兵器になったのは15世紀から.
スイスの原型の「永久同盟」が結成されたのは1291年.
世界史板
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【質問】
第一帝政時代の皇族の称号がprince franaisで,第二帝政になると,ジェロームの息子のプロン・プロンがprince
Napolon,リシュアンの息子たちがprince Bonaparte
という称号を名乗ったということでいいんでしょうか?
後,ジェロームは第二帝政時代はどんな称号を名乗っていたのでしょうか?
【回答】
別に第一帝政時代の皇族の称号はprince franaisではないよ.
あとリュシアンの息子たちはprince Bonaparteなんて称号は名乗っていない.
一応,ジェローム・ボナパルトは第二帝政時代からは,Prince
Napoleon プランス・ナポレオン (ナポレオン公)を名乗っていて(この称号もあくまで自称)
,息子のプロン・プロンの代からボナパルトを名乗らず
,ジェローム家は『ナポレオン公』をファミリーネームとしている.
リュシアンはイタリアへ移住後,1815年にローマ教皇にカニノ公爵に叙され,それ以後,リュシアン家はカニノ公を代々受け継いでる.
リュシアンは百日天下の際に功績により,皇族としてに列せられてたが,彼らにはボナパルト朝からは何の称号も与えられてないし,ローマ教皇からカニノ公爵に叙された経緯は,ボナパルト朝とは全く無関係.
世界史板
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【質問】
17世紀中頃,東インド会社のインドや東南アジアでの活動は,侵略行為と呼んでいいの?
【回答】
東インド会社はオランダとかフランスとか他国との貿易競争に勝つために,独占権を与えられた国策会社なのであって,領土的な侵略を目的としたものではない.
だから侵略でなくて経済的進出というべき.
貿易拠点の設立や経済的特権の獲得を,侵略というのは筋違い.
貿易はイギリスにとって利があっただけでなく,インド商人にとっても利があることで,それには現地勢力の協力もあって,インド等においてオランダやフランスより優位な地位を勝ち得たというだけのこと.
武力で制圧といっても,局所的な暴動を治安維持を目的として鎮圧したまでのこと.
話し合いで静まる暴徒など,この世に存在しないので,武力で制圧するのは当たり前.
世界史板
青文字:加筆改修部分
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