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ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.
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また,著作権上問題のある回答が意外に多く,これも除外.
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【初心者】スレッド立てる前に質問をPart29【歓迎】
目次
** 【追記】
12 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2012/06/28
16:41:55
戦国時代の敵の武将同士は普通に言葉が通じたんですか?(つまりお国なまりの関係で).
そして成り上がりの戦国大名は御所で公卿と会話できたんですか?(つまり御所言葉がしゃべれないと何かと不都合じゃなかったのか)
それから江戸時代の各地の上級武士はお国なまりを使っていたのですか?それとも「上級武士言葉」みたいなのがあったんですか?
質問が多くなりましたが日本史に不慣れなものですのでお許し下さい.
13 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/06/28
17:12:13
>>12
信長,秀吉の天下統一戦よりも前は,敵対する武将なんてたいてい隣国同士
多少聞きづらくてもだいたい隣国程度の方言は通じたでしょ
信長,秀吉の頃になって,畿内の武将が九州とかに行ったりするとさすがに,方言の違いが厳しくなって,
すんなり会話できなかったりしたとは思う
ただ,地方の大名でも,畿内の商人と接する機会はよくあったろうから,地方の大名の言葉を畿内の者が
分からないことは多くても,その逆は比較的少なかったのではないかと思う
御所言葉は,明智光秀みたいに教養のある武将でないと厳しい
だから信長は,一時期,光秀を京都の担当にした
逆にあえて,そんなの分からない成り上がりの秀吉を光秀と組ませて京に置いたのが信長の人事の妙
公家との友好的な付き合いは光秀に任せて,公家側からの都合の悪い申し立てなどに対しては,秀吉が
「あー,おまえらの言うとることはさっぱり分からん,こっちがこうせい,と言うておるのだからそれに従えば
ええんじゃ!」と開き直った対応をする担当だったのではないかと想像できる
江戸期には参勤交代があったので,江戸に参府する武士たちの共通語として,現代の標準語に近いものが
形成された
ただし,あくまで江戸での標準語で,お国では当然,地元の言葉を使った
日本史板,2012
青文字:加筆改修部分
<保留>
** 【質問】
【回答】
53 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2012/07/12
18:43:44
武田兵や徳川兵は農民兵だから強兵,織田兵は傭兵や商兵主体だから弱兵だと良く聞く.
農兵は自分の土地を守る為に命懸けだが,傭兵はしょせんは雇われで商兵は土地が無くても命さえあれば食っていけるから簡単に逃げ出す,という説は分からんでもない.
尾張の国は土地が肥え近隣よりも石高が高かったと言われてるから,農業に専念させるため信長は農兵は殆ど使わずに傭兵や商兵を使っていたんかな?
それとも地域性みたいなもん?
54 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2012/07/12
18:54:57
>>53
武田やらの農民兵は自分の土地を守るということにかけては命がけだが
領土拡大のため他国へ攻めていくということに関しては了解しにくい
武田が結局それほど大きくなれなかった原因だろうけど
尾張も信長が出るまでは農民兵が主体でした
豊臣秀吉の父は足軽と呼ばれる半農半武の存在だったといいます
しかし,信長が出ると鉄砲を多様.
鉄砲隊は使い方や集団での規則正しい打ち方など日々の訓練が大事で
農作業の合間に徴兵した農民兵ではまにあわず
金で集めた専用部隊を整えるようになったと言います
この専用部隊に金で集められたのが商兵でした
商兵は諸国を放浪して物を売り歩くため,尾張で儲け話があると聞いて集まってきたのでしょう
55 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/07/12
19:03:13
同じ農民兵でも,文化や商業が進んでいる先進地域だと,比較的弱兵になりがちで
尾張の兵は割と弱兵だった
どうせ弱兵なら傭兵,商人兵でもいいってこともあったし,弱兵でも勝てるようにするために
大量の鉄砲を欲したという面もある
56 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/07/12
19:28:50
農民兵とかまだ信じてるのか.そんなものはない!
あと兵農分離も戦国期には存在しない!もちろん信長もそんな事はやってない.
と言うか信長の軍制はむしろ遅れた,鎌倉室町と大差ない古いものだ.
史料から見る限り,足軽の兵種別編成など武田のほうがずっと先進的な軍制を行ってる.
信長が最終的に勝利したのは軍役を提供できる武士を大量に確保できたから.それだけだ.
57 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/07/12
19:42:11
>信長が最終的に勝利したのは軍役を提供できる武士を大量に確保できたから.それだけだ.
それじゃあただの思考停止ではないですか.
なぜ大量に確保できたまで解明しないと,
なんの説明にもなってないですよ.
58 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/07/12
19:46:50
>>57
端的に言えば信長は自分に帰順すれば国人地侍層の既得権益を丸呑みしたため.
そのため畿内で三好政権がせっかく着手してた惣村の政権による直接把握と支配もご破算にした.
織田政権になって国人地侍層による間接支配に戻るのだ.
信長は反改革で既得権益者を糾合して勢力拡大した武将だよ
60 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/07/12
20:33:34
>>56
>農民兵とかまだ信じてるのか.そんなものはない!
>あと兵農分離も戦国期には存在しない!
いきなり矛盾してるぞ
兵農分離が存在していないなら,兵は農民兵だろ
61 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/07/12
20:34:33
>武田兵や徳川兵は農民兵だから強兵,織田兵は傭兵や商兵主体だから弱兵だと良く聞く.
嚆矢は徳富蘇峰かな?国民的作家である司馬氏が吹聴したので日本の作家は皆こう書いているけど作家の主観だからこれ
>農兵は自分の土地を守る為に命懸けだが,傭兵はしょせんは雇われで商兵は土地が無くても命さえあれば食っていけるから簡単に逃げ出すという説は分からんでもない.
使いモノになる農民は農作業に必要なので惣村側がださないので基本的に農兵は役に立たない
後北条氏がブチキレテ役に立たない人間を送り込んだら厳罰云云という文章が残っている
>尾張の国は土地が肥え近隣よりも石高が高かったと言われてるから,農業に専念させるため信長は農兵は殆ど使わずに傭兵や商兵を使っていたんかな?
尾張の国の土地が肥え近隣よりも石高が高くなったのは秀吉時代以降のはなし
戦国時代は今日基準となっている太閤検地の数字の半分以下
62 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/07/12
20:50:45
>>60
ちがう.農村は人を指してもそれは軍夫,人夫であり兵ではない.
兵になるのは農民ではなく農村であぶれた次男三男などの余剰人口であり,これが足軽となり
侍層によって組織された.これを給人という.
「農民」は村を形成し村の生産を担う中心であり,村はそういう大切な人員を戦国大名に提供したりしない.
そもそも戦国大名の軍隊には(戦国以前からそうだが),戦力として百姓はいないのだ.
63 : 53[] :投稿日:2012/07/12 20:52:10
色んなレスどうも.
となると,結局は織田兵が弱兵と言われるのは出自や地域性関係無く豊臣徳川以降の政権の創作って事なのかね?
特に俺が言った事には情報を付けて答えてくれるが,自分の答えらしい事は言ってくれない61中心に再度尋ねたい.
64 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/07/12
20:56:51
>>62
農村であぶれた者が兵ならば,兵と農は分離していたってことだろ
「兵農分離も戦国期には存在しない!」という主張と矛盾している
65 : 61[sage] :投稿日:2012/07/12 21:04:06
>特に俺が言った事には情報を付けて答えてくれるが,自分の答えらしい事は言ってくれない61中心に再度尋ねたい.
君の文量に応じて書いてあげるよ
最近の壷は他人を道具扱いするような奴ばかりでウンザリしているから長文語りはしない
>結局は織田兵が弱兵と言われるのは出自や地域性関係無く豊臣徳川以降の政権の創作って事なのかね?
何故織田が弱兵なの?信長が美濃を取るのに十年かかったから?
それは兵の質にのみ起因する問題なのかな?
66 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/07/12
21:07:17
>>64
ちがう.戦国の軍隊は軍夫,人夫を農村からの提供に頼っているし,様々な物資の提供,
また城の補修などの軍役も化している.彼らがいなければ軍隊は機能しない.
その意味で戦国の軍隊は農村に頼りきった構造になっている.
軍役,賦役が銭納となり,軍隊を形成するものを全て城下町でまかなえるようになったのは江戸期,徳川家光の時代くらいだ.
いわゆる「兵農分離」は,この時期に起こった現象である.
67 : 53[] :投稿日:2012/07/12 21:18:50
>>65
説明が足らずに気を悪くしたら申し訳ない.
俺にはあんたに一方的に否定された気がした.
信じて貰えるか知らんけど,俺は世間では弱兵と言われる織田兵を率いた信長が天下に王手をかけたからこそ戦国時代が変わったと思うから聞いたんだ.
68 : 61[sage] :投稿日:2012/07/12 21:38:28
いや,まぁ,俺もココ数年はイラついているから.すまん.きちんと会話が可能な質問者なら俺も誠意を示せるよ.
ん〜ちょいと自分語りをすると俺は十年前にはコノ板で信長の革新性を否定していたんだよね
ところが某コテが世界史板で俺の書いていることをコピペしてソノコテ自身の見識であるかのように語りだしたんだ(苦笑
だから最近は信長の革新性を語っちゃおうかなと真に一貫性がなかったりする
世界史教科書的に「パックスOOOOO」という統一政権の出現が商業の発展と軌を一にするという指摘は古くからあり
70年代には織田政権の功として鈴木良一という方が既に述べておられる
後段の信長により戦国時代が変わったという視点に問題はないよ
だけど前段は一寸意味不明
一旦パソコンを切るから続きがあるなら午前零時頃か明日の夜ね
70 : 53[] :投稿日:2012/07/12 21:56:48
とりあえず少しでも分かって貰えたなら良かった.
なんつーか,世間は簡単に信長を否定してるけどそれは豊臣徳川政権以降の宣伝を信じたから否定する人間が多いと思ってたんだ.
それに今までのレスを見ると強兵弱兵ってのは兵の出自では無い,創作だってので終わる答えばっかだったん気がしてね.なら,地域性というか県民性から兵の強弱があるのかと思ってさ.
日本史板,2012/
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
墨で何か書かれた小判(ググったら武蔵墨書小判?とか言うらしいですね)の存在を知ったのですが,墨書は何のために行われたのでしょうか?
また,これは実際に墨書きされた状態で流通したのでしょうか?
流通したなら,墨は流通過程で薄れたり消えてしまったりしなかったのでしょうか?
どうか教えてください.
【回答】
墨書はね,
「わたし発行者ですけど,この金のカタマリはこういう品質で,こういう価値があることを保証しますよ」
と書いてあるの.
一個一個に鑑定書付き,とでも言えばいいのかも.
その状態で「流通」したんだけど,扱ってるうちに,もちろん墨書は消えちゃうよ.
その度にまとめて発行者のところに持ってって,書き直してもらったの.
もっとも,現在の市場における紙幣・貨幣みたいに考えるのは,ちょっと違うよ.
現在だって金(ゴールド)のインゴットを所有してる人はいるけど,それを通常の支払いに使うことは多分,あんまりないよね.
いわばそういうレベルのものなの.
基本的に所蔵とか贈答とかに用いられるものだったので,それで充分だったの.
とはいえ,いかなる意味においても墨書は面倒臭いので,主流にはなりませんでした.
刻印の方が楽だもんね.
日本史板,2012/08/09
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
今まで発見された埋蔵金は,どこで発見されてるんですか?
城跡とかベタな所じゃないですよね?
【回答】
戦乱や火災で避難する時などに,持っていけない財産を一時的に,庭などに埋めて隠すようなことはあった.
しかしそれは,あくまで緊急避難のための一時的なもの.
安全になれば,すぐに戻って掘り出して回収する.
たまたまその人間が死んでいると,そのまま埋まっていて,後で発見される,といったことは,古今東西よくある.
そういう非常時の短期的な埋蔵ではなく,計画的に大量の金銀を長期埋蔵しておく,なんてことは殆どない.
そんな金があったら,誰だって,いつでも使えるように自分の蔵に置いておく.
埋めてしまったら,急に必要になった時に,わざわざ掘り出さなければならない.
しかも,埋蔵したら,いつ誰にたまたま見つけられて,失ってしまうか分からない.
金をずっと埋蔵しておく,そんなことをするやつはまずいない.
いるとすれば,ただのバカとしか言いようがない.
大名だの幕府だのの埋蔵金伝説なんてのは,上記の一時的に埋められていた物を発見した事例や,金を掘りあてられたらいいなという願望から生まれた,根拠のないただの幻にすぎない.
昭和五十年代に栃木県山中で発見されたのは,歴とした江戸幕府祕匿の金銀延板,と確認されているが,このケースは,おそらく一時的に隠し,すぐに掘り出して使う予定だったのが,あっという間に幕府が崩れてその機会がなくなり,そのままになってしまったのだろう.
勘定方及び担当老中の引継ぎ公文書も発見されて分かったこと.
天領で,ちゃんと番所も有った由.
予期せぬ幕府崩壊でそのままになって,結局,新政府に引継ぎされずじまいだったようだとの報道だった.
日本史板,2012/08/22
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
今,NHKでやってますけど,江戸時代の質素倹約って,経済政策的には間違いだっていう結論なんですか?
政府支出がどうたらとか....
【回答】
質素倹約で歳出を減らすだけでは不十分で,収入を増やす商品開発なども必要です.
質素倹約だけでは経済が回らないので,じり貧になるだけ.
政府が倹約するのは一見いいことのように思えますけど,政府という,国で最も大きな組織が,過度に金を使わないようになると,世の中に金が回らなくなります.
過度な倹約政策では,経済が活性化しない,というか不景気をもたらします.
例えば江戸幕府は,たびたび絹の着物を奢侈であるとして禁止してますが,それだと生糸産業が打撃を受けることになります.
現代でも,無駄な公共事業は問題ですが,だからといって突然公共事業を全部やめたりしたら,バタバタ倒産する企業が続出して,経済がとんでもないことになります.
そんなわけで,幕府の質素倹約令はどれも大失敗でした.
幕府の求める「米価高」と「米価以外の価格低下」が,全く実現しなかったのです.
何故幕府が米価高を求めるのかというと,当時の武士は給米制度で,領地から生産される米を貰って生活していたからです.
そして江戸時代は石高制(米が取れる藩ほど権威が高い)に基き,新田開発や他作物から稲作への転換が盛んであり,米の生産量は増大していました.
米が余ると,人は米を売って他の物品に手を出します.
諸色(野菜・菜種・蝋・木綿・生糸・藍・紅花,海産物など)への需要が増大してゆきます.
また,文化も栄え,見世物小屋や出版事業・観光も盛んになってきます.
その結果,江戸時代を通じて年々,米の値段は低下していました.
武士は,諸色や読本などに手を出す一方で,米の値段が下がり,年々逼塞してゆきます.
このため,これら諸色や見世物小屋などの流通販売を制限し,金がこれらに流れないようにすれば武士が生活できるのでは,として出されたのが倹約令です.
しかしこれは大失敗でした.
例えば,商品を作る際は生産,流通,販売と過程があるわけで,
岡っ引きが諸色を扱う商人らを捕まえて虐めていると,流通が滞って,生産している農村が売り先がなくて貧窮するわけです.
しかも諸色は,実は武士も欲しいと思っている必需品です.
商人を虐めて商品が出回らないと,商品はヤミ売買が増え,値段も上昇しました.
商業は破壊,値段は上がって,しかも非合法販売だけが増えるという,最悪の展開を引き起こし,どの倹約令もいつの間にか撤廃されてしまいました.
つまり,この問題の本質は,江戸幕府の基本であった石高制が矛盾を孕んでいたと考えることが出来ます.
石高制:米がたくさん取れる藩ほど偉い
・各藩共に米増産への意欲が異常に高かった
→救荒作物や商品作物の耕作禁止
→藩の石高は上がっても藩は飢える(米価が下がる・飢饉に弱い・米以外の商品が無い)
一方,米以外の色々な商品は諸色と呼ばれ,米が増産されるにつれて需要が増してゆきます.
制度として米が増産されるなら,諸色から税金を取るべきだったんですよ.
田沼意次は株仲間(同業者組合)を作り,彼等に専売権を与える代わりに課税を行いました.
(松平定信が後任に就くと,これを潰しました)
西南雄藩と呼ばれる諸藩も特産品を育成し,特権商人を任命し彼等から課税しました.
ところが江戸幕府は倹約令によって,却って彼等商人を潰すことに熱意を燃やしました.
「商は詐」=「下々の奴等は物を使うな,安値で武士に引き渡せ」
という御都合主義が,質素倹約令を出す江戸幕府にはあったわけですよ.
生産も消費もあり,金が行き交うから流通が続くのに,松平定信らは,末端の商店を苛めれば,無限に安値で物が手に入ると思っていたのです.
中国でスーパーを襲った愛国青年の発想と,松平定信は同じです.
結果,上述のように商業が潰れるだけで,諸色は高騰を続けました.
そのため幕府の財政は年々,悪化の一途を辿ることになります.
日本史板,2012/10/17〜10/18
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
日本の南北朝時代では,南朝は三種の神器を所持していたので分かるのですが,北朝は何をもって,正統な天皇だと主張していたのでしょうか?
【回答】
結局,神器はあってもなくてもあまり変わりがない.
もともと後醍醐天皇は,足利尊氏の擁立した北朝の光明天皇に,三種の神器を渡して皇位を譲らされていた.
ところが後醍醐は後になって,
「あの三種の神器は偽物だよーん.
本物はこっち.
だから光明天皇の即位なんて無効」
と主張して,吉野で南朝を起こした.
北朝側の人々にしてみれば,その主張自体,かなり嘘くさく思えただろう.
仮に南朝の神器の方が本物だと認めるとしても,三種の神器がない状態で即位した天皇なら,源平合戦の時代の後鳥羽天皇という前例もあるのだから,後醍醐が皇位を譲った時点で,光明天皇(とその系統の北朝の天皇)は正規の天皇.
ちなみに光明天皇の践祚日は,建武3年8月15日で神器なしで践祚.
尊氏が後醍醐天皇を幽閉して,三種の神器を取り上げたのが11月2日.
この間約3か月間は,神器なしの天皇だったことになる.
また,観応の擾乱の際にも後村上天皇が,北朝が三種の神器だと主張するものを取り上げているので,北朝の後光厳天皇はまた神器なしで即位している.
日本史板,2012/10/18
青文字:加筆改修部分
** 【反論】
いや,両統迭立は,鎌倉幕府側が積極的に推進したというよりも,朝廷側が勝手に後継問題で争って収拾がつかなくなったので,鎌倉幕府に調停を委ねたら,幕府側は
「んなもん,どっちでもいい.
そんなにもめるなら,交代で天皇出しゃいいだろ」
ってなったような感じ.
少なくとも始まった当初は,朝廷の弱体化を狙ったものではなく,むしろどっちかというと朝廷のためによかれと思っての政策だよ.
【再反論】
違うよ.
後嵯峨天皇は,病弱な兄の後深草天皇を退位させ,弟の亀山天皇を即位させた.
そして,亀山天皇の皇子(後宇多天皇)を皇太子に立てた.
普通ならば,皇統は亀山の系統(大覚寺統)で一本化されるところだった.
しかし,後宇多が西園寺家を外戚としないことに不満を持った関東申次西園寺実兼が,鎌倉幕府に頼んで,後深草庶子の立太子を実現させた.
つまり,この時代の天皇の位は鎌倉幕府が決めていた.
では,鎌倉幕府が親幕公家である西園寺家の言うまま,後深草に皇統を一本化させようとしたのかといえば,そうではなく,両統が主張するままにその時々で皇太子を決め,意図的に一本化はさせていない.
鎌倉幕府は正安3年,10年ごとに両統から交代で天皇を出す両統迭立を提示.
鎌倉幕府滅亡まで,これを意図的に維持させていた.
日本史板,2012/10/18
青文字:加筆改修部分
** 【反論】
幕府の介入というよりは,関東申次の西園寺実兼に振り回されたのが正しい.
後深草の子の伏見が天皇になれたのに,実兼の力があったのは事実だが,この時の大覚寺統は浅原某の宮中乱入事件のせいもあって,次の天皇も持明院統のものになったが,伏見が実兼の家人といっていい京極為兼を重用することに反発して,大覚寺統に寝返ったために,皇統の移動が行われた.
幕府は朝廷に対しては消極的で,正中の変で後醍醐を退位させなかったように,上の浅原事件でも真相究明,処罰者を出すこともなかった.
幕府高官は金沢貞顕のように,保身栄達のために鎌倉在住を望み,京都政界への関心は低かった.
大仏維貞のように,京周辺の悪党・海賊追討が研究者から異常な出来事のように捉えられていることからもよく分かる.
【再反論】
後嵯峨上皇は天皇家の家父長として,亀山天皇の皇太子に亀山の皇子をつけ,亀山の系統に皇統を伝えることを望んでいながら(これは大宮院も証言している),
自分の後の院政を行うべき天皇家の家父長は,「鎌倉幕府の御意のままに」としたことに,二朝分裂の発端がある.
これは後嵯峨上皇自身,出家するはずだったが,鎌倉幕府の命で即位した背景によるもの.
承久の乱以後の天皇の地位は,鎌倉幕府にゆだねられていた.
正中の変の際には,後醍醐天皇が釈明のために鎌倉幕府へ使者を送り,「無関係」とされたために譲位を命じられなかっただけ.
日本史板,2012/10/19
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
朝廷が軍事力を失った鎌倉時代から江戸時代の間,天皇の護衛や御所の警備は誰が行っていたのでしょうか?
それぞれの時代の幕府が,武士を派遣していたのですかね?
事実上,中央政府がなかった戦国時代とか,どうしていたのでしょう?
平和なイメージがある江戸時代も,実は治安は悪かったといいますし,無防備だったのはありえないと思うのですが.
【回答】
検非違使・武者所
↓(11世紀,白河上皇)
北面武士設立,朝廷の武力化
↓(承久の変)
北面武士弱体化・邸内警護のみへ
日本史板,2012/10/25
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
武士も棍棒を使用したと聞きました.
鬼の金棒のようなものを持った図は見つけたんですが,考古学的な実物は残ってるんですか?
特に木製のものに興味があります.
【回答】
唐棹ならずっと農民一揆などで使われたと思うのです.
しかし,兵士の持つ武器となると棍棒は,太平記の時点では柏木棒だの鉄棒だの色々記載があるのですが,だんだん鑓や薙刀と統合されてしまい,棒のみというと逮捕用とかが主となり,あまり戦闘では出てこないものへ変化してゆきます.
(鉄砲・弓矢・投石→長槍・薙刀→太刀・棍棒 と有効距離に従って使ってゆくと,どうしても打ち付けないといけない棍棒は不利)
反面,帯刀を許されなかった農民でも実践できたため,多くの武術の基本として江戸時代に流布します.
江戸時代の捕り方では六尺棒などが使われます.
日本史板,2012/10/30
青文字:加筆改修部分
<保留>
** 【質問】
【回答】
475 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2012/11/09
12:17:17
小説などを読むと,織田信長は軍律が厳しく,戦場で農民ら非戦闘員に
乱暴狼藉を働くと厳罰に処していたようですが,上杉謙信や武田信玄とか
はどうだったんでしょうか?
476 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/09
13:02:58
>>475
戦国時代には,兵士に敵地での「乱捕り」(略奪)を許すのがむしろ普通
自分の国を守る時はともかく,よその国に攻め込むような戦に農民兵を動員できるのがなぜかといえば
そういう役得があるからだ(農民が出稼ぎ感覚で集まる)
小説などで信長軍が軍律を厳しくできたというのは,おそらく信長軍は兵農分離が進んでいたからそれが
できた,という理屈だろう
もっとも,実際には言われているほど信長軍の兵農分離は進んでいたわけではないようなので,軍律の
ほうもあやしいと思う
477 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/09
15:12:44
そもそも武田信玄や上杉謙信の軍事行動の場合,
攻められた地域は,作物は刈られ住民は奴隷として連行されました.
それが戦国の戦闘です.
478 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/09
18:57:34
そもそも信長の軍の軍律が厳しかったというのは京都市内だけだった可能性が高い.
三河物語には信長の上洛戦の時,織田軍が山城に入ったとたん大略奪行為を行った事が記されている.
479 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/09
21:46:43
『孫子』では必要なものは現地調達しろと書かれている通り,
必要なものは略奪するのは当時としては立派な兵法の範疇.
480 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/09
21:51:34
>>475
上杉謙信や武田信玄に限らず軍の乱暴狼藉を許さないとの制札が
進攻軍と現地の寺社・農村との間で事前に取り決められているのは戦国時代では普通のこと
十数年前に藤木久志氏が戦場での奴隷狩りや乱暴狼藉があったことを紹介したために
そのことのみがクローズアップされて喧伝されているが
同氏はソノ著作で,境目の村が略奪を防ぐための事前工作が恒常化されていている例が多数あることをきちんと述べておられる
むろん事前工作が不出来だったり,懲罰的に略奪を行うために制札が発行されない事例もままあるけどね
まぁ極端な話の方が人口に膾炙し易いのは人の常だが(苦笑
481 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/09
21:55:41
むしろ>>480の方が例外的
482 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/09
21:58:23
戦国時代は略奪が行われないのが普通だったとは驚きだね!
483 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/09
22:05:56
ヒャッホッーと戦場で悪行の限りを尽くしたために
農民が逃散して無人の田畑を領土化することが戦国大名にとっては当たり前で
あいつら経験から何も学べない無能な馬鹿ばかりというのがこのスレでは常識なのにな
ネットで小知恵を誇らしげに語る俺たちこそ史上最高の賢者(キリッ
484 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/09
22:07:37
ずいぶんと極端な説がいきなり飛び出したな.
485 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/09
22:12:41
逃げた農民はどうなるのですか.
昔は荒地を開墾したりしたら,そこの土地に住み着いても良かったんでしたっけ?
486 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2012/11/09
22:13:03
戦国時代が略奪と虐殺の数々で荒廃し人が住めない地獄絵図か
厳しい規律と交渉により略奪や虐殺などもっての外の騎士道世界かの
どっちかじゃないとダメな人なのだろう
略奪や虐殺が存在すること
そしてそれを抑止するために規律や交渉もあったこと
この両者は全く矛盾しないことなのだが
490 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2012/11/09
23:06:58
そんなに礼儀ばっかり唱えている戦いが主流なら,江戸時代から元禄初期まで人口が増え続けた理由が説明できません.
確かに後の統治を考えて意図的に略奪を禁止する場合はありますが,それを中心に行うにはこの時代の戦国大名には財力が足りません.
地域の占領には,戦勝方兵士(農村出身兵)による敗北側農村への略奪奴隷化がつきものだったと覚えておくべきでしょう.
491 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/09
23:37:07
>>487を見た限りでは略奪される前に自分達からミカジメ料を払って勘弁してもらったような感じだな.スキャンしたものじゃなくて書誌情報がほしい.
492 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/10
16:53:59
>>485
少なくとも東国の場合は,村単位で朝散して国境地域に逃げ,そこで国境の両側の領主と交渉し
有利な条件を出した方に定住し農作業を行った.
497 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/10
17:40:23
青刈りといってね,敵地の稲刈り前の田んぼに実っているなら勝手に収穫,
実っていなかったら馬に食べさせちゃったり単に切ってしまったりする.
そのため防衛側が食糧支援をしたりしないといけない.
出来ないなら農民が戦争なしに向こうに逃げてしまう.
509 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/10
20:42:34
「略奪をしない方が長期的な目でみれば有益である」という理屈は否定しないが
その理屈だと人類史上で略奪が殆ど起こらなかったことになるんよね
こうだったらいいな
はあくまで理想であり現実ではないって典型的な例
517 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/10
22:28:57
「逃げる百姓,追う大名」だろうね.
今川義元へ惣村代表が,税を上げるなら村を捨てて別の領主の土地へ行くと主張した文書が見える.
また,流入してきた農民へ米を提供し定着を図った記述もある.
520 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/10
23:20:11
まあ話の流れ的には,学問板としての正しい解答は,
>>497が海津城は農民のアジールだったことを示す一次資料,
戦後に農民へ食料を配給した資料が必要なわけだが.
俺は期待している.もったいぶらずに教えて欲しいな.
それで黙るんじゃねぃ?
522 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2012/11/10
23:35:37
それと,海津城は武田氏が侵略拠点として新たに作った城だから,住民は入らないと思う.
そのあたりの知識もなく>>520のような主張をしているのだから,素人は困る.
525 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/10
23:44:40
川中島には数千人規模で篭城できる城がないから,新たに造られたのが海津城なのにwwww
頭,大丈夫か>>522
527 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/10
23:57:49
えーと,北信濃の上杉方の城は長沼城・大倉城・葛山城などですね.
長尾氏(後の上杉氏)の配下にあった信州島津氏の領地で,
ここより南,村上氏の領土を武田氏が侵略併合したことから川中島の戦いが始まります.
戦いは紆余曲折がありますが武田氏有利に進み,信州島津氏も一族の半ばは武田氏に降伏します.
この地の「島津家文書」によると永禄6(1563)年,武田信玄は上杉軍と一緒に逃げた長沼の地下人(農民・一般人)を戻すよう島津氏に命令しています.
城は地域領主にとって兵士=農民の避難所であり,その地の兵士の移動は農民の移動でもあったということ.
529 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/11
00:16:43
>>527
えーと所謂川中島の戦いってのは謙信が元北信の在地領主に頼まれて信玄領へ攻め込んできた一連の戦闘ね
なんで関係ない話をもってくるの?馬鹿なの?馬鹿すぎて死んじゃうの?
話題逸らしのそのレスの間違いを書き込まれる度に全部指摘しなきゃいけないの?
543 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/11
10:44:01
・戦国時代の戦闘で,農民は両者に税負担をするなりして戦闘を避けた場合もあった
・しかし戦闘後に乱取り(略奪暴行)自由,奴隷化拉致が横行していたのも確か
・そのため特に地域領主の場合,地域の城に兵士,つまり地域の農民を収容することが通例
「農民は戦闘には絶対に加わらないし被害もない」
「戦闘で農民の防衛手段なんてねーよ,逃げるだけ」
この二つはどちらも間違い
日本史板,2012/
青文字:加筆改修部分
<保留>
** 【質問】
【回答】
550 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2012/11/11
22:17:08
質問です.
1 鎌倉幕府は,元寇終結後,どの程度の期間,第3次元寇が来るかも知れないと警戒し続けていたのでしょうか?
2 室町幕府や江戸幕府は,明寇や清寇の可能性について論じ,対策をとっていたのでしょうか?
(少なくとも書類上の防衛方針ぐらいはあったのでしょうか?)
3 室町や江戸の幕府が明・清の侵攻を考慮していなかったとしたら,既に元寇と言う事例があるにもかかわらず,
なぜ攻めてこないと思えたのでしょうか?
551 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2012/11/11
23:00:54
東海道五十三次の宿場町間の距離ですが,
平塚と大磯の間が27町(2.9km)
御油と赤坂の間が16町(1.7km)
石薬師と庄野の間が25町(2.7km) と特に短くなっています.
なぜこんなに短い距離に宿場町が置かれる事となったのでしょうか?
552 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/12
00:34:07
>>550
1.鎌倉幕府は元の再々来襲に備えています
・1293年に鎮西奉行を九州に設置
・堡塁の維持
・九州下向御家人は九州に定着
これらの負担は評判が悪く,九州で反北条(後の足利尊氏歓迎)の機運を高めることになります.
(明と「日本国王良懐」(懐良親王)との日明貿易)
(明と「日本国王源道義」(足利義満)との日明貿易)
(明と豊臣秀吉との戦争「文禄の役」「慶長の役」)
・明の神宗万暦帝「茲に特に爾を封じて日本国王と為す」←豊臣秀吉「私はお前の臣下ではない」「朝鮮王子が人質として来ない」
2.江戸幕府は明・朝鮮との停戦交渉を推進します.
軍事圧力は,朝鮮への外交文書の中には脅迫めいた文言があるようですが,具体的に軍を動かした例は知りません
・日本と朝鮮との外交交渉における対馬藩の文書偽造(柳川一件)
・明への勘合貿易復活要請(本多正純による福建総督あての信書,琉球の使節に乗じた江戸幕府の親書送付)
日本と朝鮮との貿易は,対馬藩の捏造もあり,朝鮮側では徳川将軍を「日本国王」とし,
日本側では朝鮮通信使を日本への朝貢使と看做すという虚偽に乗っかった形で復活しますが,
日本と明との貿易は明が拒否したため進みませんでした.清代も含め明との貿易は私貿易(中国側から見ると密輸)の形をとります.
ちなみに,幕府は明滅亡時に,明から度々援軍要請がありましたが全て断っており,
清とは何らの外交関係も結ぼうとしませんでした(中国僧からもたらされた清は蛮族政権という見解を墨守)
3.江戸幕府は海外防備を,特に江戸時代中期からまるで考えようとしていません.(例 松平定信の蝦夷地荒蕪策)
これは蝦夷地ではロシア人入植者,ロシア軍の侵入という形で綻びを生じ,
長崎ではフェートン号事件を引き起こします.
理由は,松平定信らが朱子学馬鹿だったのだとしか私には考えられません.
557 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/17
10:07:17
>>552
秀吉は日本国王に封じる国書を受け入れているぞ.頼山陽の嘘をそのまま書くなよ.
室町幕府同様五山のアドバイスから受け入れたんだろうが.
定信以降無策というのも間違い.ロシアの接近に対して江戸湾警備や東北諸藩の警備体制
を敷いている.その後のロシアとの緊張状態になるに従い,蝦夷地を直轄にしているし,
最終的にゴロヴニン事件を穏便に処理することで北辺は平和に回帰したことは「外交」が
まともに機能していたことを歴史が証明している.
あとフェートン号はイギリス船だろうがここはニュー速+ではないぞ低レベルな煽りをするな.
どうも552は頼山陽の件といい江戸幕府は外圧に対処できなかっただの徳川sage明治維新age
のゆがんだ歴史観に支配されているようだな.
559 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2012/11/17
14:36:45
>>557
間違いを正々堂々と書いても困る.
松平定信が無策だったから空地をロシア人が占領してきた.
560 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/17
15:00:15
>>558
自分で買ったもの.
町人でも脇差のたぐいは普通に持っていたし,幕府もさほど咎めるようなことはしていない.
>>559
アホか.当時の日本御防衛限界も考えず帝国主義的に拡張しろって言いたいんだな.
だいたい空地ってなんだよ?ロシアが取ったのは無住の地か?
お前みたいなのを当時の状況を無視した歪んだ歴史観の持ち主っていうんだ.
561 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/17
15:57:13
>>560
松平定信は,蝦夷地を放置し和人入植を行わなければ国境の安全を保てると主張しています.
欧米人の言う「無住の地」化ですね.
田沼の交易基地設置や漁業開発が権益保持としては常道であり,松平定信の主張は言語道断なものでした.
事実,ロシア人は寒すぎたシベリアよりは沿海州,樺太の開発に積極的となり,日本はこの後防衛上軍備が必要となってしまいます.
>お前みたいなのを当時の状況を無視した歪んだ歴史観の持ち主っていうんだ.
これはあなたに奉るのが相応しい.
562 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/17
16:52:52
フェートン号事件も,防備に無策だった当時の日本の状況を示す例でしょう.
江戸幕府は時代を追うにつれ,海外の技術を入れず防備を放棄する傾向を強めてゆきます.(海国兵談禁書処分,高野長英投獄など)
その結果が黒船来航であったということ.
563 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/17
16:56:21
>>561
田沼意次のやったことは蝦夷地からの収奪的搾取にほかならない.
そのためアイヌからは大きな反感を持たれていた.
その悪化した現地状況への対応が,民政の安定を主眼においた松平定信の政策にも影響しているのに
君のようなパワーゲーム史観ではその点が見えないのでしょう.
564 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/17
16:59:03
>>562
> 江戸幕府は時代を追うにつれ,海外の技術を入れず防備を放棄する傾向を強めてゆきます.(海国兵談禁書処分,高野長英投獄など)
> その結果が黒船来航であったということ.
頭がオカシイのか歴史を知らないのか,歪んだ通俗読み物で歴史を知った気になっているのか知らんが
江戸幕府は時代が下がるに連れ海外情報の収集にどんどん熱心になっていき,技術の取り入れも盛んで,
黒船来航も何年も前から察知していたし,ペリートの考証も日本側の一方的勝利といっていいほどの完勝だった.
そういうこと,知らないでしょ,君
565 : 564[sage] :投稿日:2012/11/17 17:00:10
>>564
×ペリートの考証
◯ペリーとの交渉
566 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/17
17:26:37
>>536,537
どこからそのような文を仕入れてくるのかは知りませんが,
あなたの見解はまともな歴史研究者は否定しております.
産経新聞の中には時に度を越した日本偉大論が出てくることがありますが,
あれを真に受けるとこのような文を平気で書くようになるのでしょう.
567 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/17
17:33:38
松平定信の蝦夷地放棄策は,定信の意図とは違いロシアの侵入という形であっさり破られました.
民心の安定? 異人との接触を禁止したために却ってロシア人による略奪暴行が多発しました.全く安定せず不穏になりました.
あなたは「民心の安定」という嘘をついた.
阿部政権はペリー来航は察知していても対策は一切行わず,江戸への侵入を許しました.
会議だけだったんですよ.
その完勝以降日本の金流出は?
江戸幕府の行動を贔屓目で見ようとすると,このような間違いを書くのでしょう.
>そういうこと,知らないでしょ,君
あなたに相応しい言葉ですね.無知のあなた.
568 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/17
17:35:49
どうも江戸時代を崇拝したいばかりに,嘘を並べている人が目立ちます.
そこまで江戸時代は良い時代ではありませんよ.
569 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/17
18:33:48
>>567
本当に何も分かってないな.時系列を見ることもしてないだろ.
金流出などの問題が起きたのはぺりーではなくその後のアメリカの全権特使ハリスの交渉以降.
しかもそうなった理由は幕府の方針のせいではなく,君みたいなのが大好きな上意勢力がこの交渉に反対の立場で介入して
日本の国内が混乱したためだ.アメリカとの交渉で負けたのではなく国内の混乱に付け入られたんだよ.
その後,関税自主権を喪失したのも長州や薩摩の勝手に起こした対外戦争で立場が弱くなった所を付け入られた.
はっきり言うと最大の癌が攘夷派だった.
明治維新なんてものは,もっとスムーズに行えるはずだった日本の近代化をいたずらに混乱させたものにすぎない
570 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/17
20:46:54
だったら,なぜ明治時代にならないと日本の人口は増加に転じないのでしょう.
「松平定信は農民のことを考えていました」と江戸時代好きの人から数々の政策が挙がっても,江戸時代の関東東北は人口が増えないんですよ.
何故明治時代の各種の政策は江戸時代には出来ないのでしょう.
>その後,関税自主権を喪失したのも長州や薩摩の勝手に起こした対外戦争で立場が弱くなった所を付け入られた.
>はっきり言うと最大の癌が攘夷派だった.
>
>明治維新なんてものは,もっとスムーズに行えるはずだった日本の近代化をいたずらに混乱させたものにすぎない
正反対ですね.明治維新がなければ日本は再生できなかった.江戸幕府は日本の近代化の障害でしかなかった.
578 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/18
10:25:47
>>570
20世紀になってやっとできたことを維新のおかげなんてよく言えたものだ.
田沼賛美をして自分が賢いことをアピールしたいだけの目立ちたがり屋
がまた現れたか.所詮明治維新を過度に持ち上げたいだけの連中に踊らされているに過ぎんのに.
戦後日本人の平均寿命はやっと60歳を超えたが明治維新をやった連中はなぜできなかったのかねぇw
未だに金流出が膨大なんてのはとっくに統計的に否定されたものを.未だにこんな俗説を信じているようでは
笑いものになるだけだよ.
田沼賛美の賢者さんはもっとブログのような落書きよりちゃんとした学者が責任編集したものを読んだほうが
いいよ.
580 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2012/11/18
17:13:03
>>578
>戦後日本人の平均寿命はやっと60歳を超えたが明治維新をやった連中はなぜできなかったのかねぇw
江戸時代を通じ日本人の体格は年々身長も低く栄養失調となり,梅毒や脚気などが骨格に現れる遺体が増えてゆきます.
明治からが復興でした.人口も寿命も体格も明治を期に回復し,現在の状態となります.
健康面でも江戸時代は最悪の時代でした.
581 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2012/11/18
17:16:14
>>578
>未だに金流出が膨大なんてのはとっくに統計的に否定されたものを.
金流出及び経済不均衡問題は幕末からの貿易の主要課題でした.
否定する説の方が俗説だったと私は記憶しています.あなたはよほどいかがわしい文書を金科玉条のように掲げている.
589 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/20
00:08:36
田沼意次は大奥を含む江戸城内の経費を削減しました.
例 御納戸金(将軍の私生活費)1750年(徳川家重の親政期):2万4600両→1771年(田沼時代):1万5000両
これは松平定信らの強い批判を浴び,彼の失脚の原因の一つとなりました.
例 「上様に差し上る御膳部やお召物,全て粗末すぎる.倹約と吝嗇の区別わきまえないのか.また御代々伝わる武器の管理怠り,手入れ不十分である.」
(「田沼主殿頭へ仰渡さるるの趣」,史料としては「田沼罪状二十六カ条」,松平定信らが田沼追い落としを策し世間に流布させた文書)
このため,田沼が松平定信に追放されると予算は濫費され,田沼時代に171万7529両あった幕府の備蓄金もなくなってゆきます.
つまり宮廷費を削減しようとした人はいましたが,政敵に失脚させられて形にならなかったわけです.
また,19世紀初頭の各産業をみると,
欧州 日本
農業(18世紀 輪栽式農業(例 ノーフォーク農法)) 一部に商業的生産
紡績(1771 アークライトの水力紡績工業) 手工業
鉄鋼(1784 ヘンリー・コートの溶鉱炉) たたら製鉄
鉄道(1831 マンチェスター・リバプール間開通) なし
造船(1838 ブルネルの大西洋横断蒸気船) 千石船
機械(1712 ニューコメンの蒸気機関,1769ワットの蒸気機関) 水車利用など
軍事(1855 アームストロング砲) 1614
徳川家康による青銅砲(カルバリン砲など)導入
規格化(1765 グルボーバル・システム) 手作り一品物
産業革命以降の欧州の技術的発展に日本は取り残されていました.
これが防備力の不備として,被侵略地域となるとの恐怖を日本の有識者に与えていました.
590 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/20
07:37:51
>>589
> 田沼時代に171万7529両あった幕府の備蓄金もなくなってゆきます
浅間山噴火のこと知らないのか.お前本当に馬鹿なんだなあ
591 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/20
07:41:29
幕府の備蓄金がなくなったのは江戸城経費なんてチンケな理由じゃなく
浅間山噴火などの災害や全国的な飢饉に対応したのが大きな理由だよ.
田沼はこのような災害への対応が遅く消極的で大きな批判を受けた.
松平定信は出費は大きくても積極的にコレに対応し,民生優先の政治を行った,と現在は評価されている
595 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2012/11/20
19:09:56
>>591
江戸時代を通じ,特に関東東北では人口も寿命も下がっております.
松平定信の為政が民政中心だったのか疑問です.
稲作中心主義は改まらず,農村の飢餓は解消されなかったし,
都市でも収容した人間の半数以上が死亡した人足小屋が民政とは評価できないでしょう.
現在では,松平定信への評価は最悪と言われるまで落下しています.
596 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/20
20:54:36
>>594
>>595
> 災害以外の松平定信の行った出費は蝦夷地失政など大きく,幕府破綻の遠因に数えられています.
どこで?誰がどこでどのようにそう言ってるの?
> 江戸時代を通じ,特に関東東北では人口も寿命も下がっております.
> 松平定信の為政が民政中心だったのか疑問です.
寿命が下がったというのは飢饉の影響だし,人口減自体は江戸中期の大開発時代の終了により
九州などを除いて起こった長期的現象であり,定信の政策に責任を求められるものではない
というか,まさか田沼時代に寿命や人口が伸びたとでも?
> 現在では,松平定信への評価は最悪と言われるまで落下しています.
だから,どこでどんな人がどういうふうに言っているのか,論拠を書いて下さい.
どうせキミは,風雲児たちあたりを読んでころっと「田沼は正義!進歩的!近代的!」なんて信じちゃったんでしょうけど
あれ,嘘っぱちだから.
現在はむしろ,俗説的な行き過ぎた田沼賛美を修正している方向にあります.
その中で松平定信の再評価も進んでいます.
597 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2012/11/20
22:06:15
>>596
あなたの主張は全く筋が通りません.
松平定信の「改革」は民生優先の政治だったとあなたは主張しますが,寿命も低下し人口も減少と良いところがないんです.
また,松平定信の蝦夷地放置政策及び異人接触禁止政策は,その後のロシア人入植と襲撃を誘発し,
幕府は蝦夷地防衛のため守備隊を派遣しました.以後幕府は守備隊の維持費用に頭を悩ますことになります.
田沼の交易や漁業基地建設の方が数段まともでした.
現在はむしろ,根拠のない過去の松平定信礼賛説はすっかり排除される傾向にあり,松平定信はまるで評価されない人間の一人となっています.
598 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/20
22:21:03
しかも自らが提案した江戸警備部隊派遣が白河藩に下ると,警備任務のない桑名藩に移封を申請してしまった.
自分で言ったことも守らない無責任さ.松平定信はとても為政者として良い人間だったとはいえない.
599 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/20
22:42:19
>>597
言ったもんがちだと思っているなこいつは.定信以下の歴史は警備よりも交渉が重要だということだよ.
田沼の交易だの漁業基地だのの言うとおり,幕府が蝦夷での直轄経営で大赤字になったから松前に返したんだよ.
いい加減自分が無知なののを認めて見るだけに戻りなよ.IDが出ないから連投して何人も投稿しているように見せ
られるとでも思っているのかね.
600 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2012/11/20
23:21:14
松平容保厨房の言うことは筋が通っていません.
蝦夷地開発の経過
1.松前藩の侵略略奪
2.田沼意次による交易基地設置,漁業基地開発,地理探査,和人入植地模索
3.松平定信による田沼の計画全面破棄,蝦夷地放置策,異人接触禁止策
4.ロシア人の来訪,日本側の接触拒否で略奪侵略へ
5.日本,防衛隊設置を余儀なくされる(出費増)
結局,松平定信の蝦夷地開発禁止と異人接触禁止策が,ロシア人の入植と日本領への略奪侵略を生みました.
田沼の交易漁業基地設置でよかったんですよ.松平定信がそれを破ったから,結局は防衛隊配置で出費だけが膨らんだ.
松平定信を擁護することなど出来ません.松平定信ほど無知で無能だった為政者は少ない.
日本史板,2012/
青文字:加筆改修部分
<保留>
** 【質問】
【回答】
586 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2012/11/19
01:46:34
一ノ谷の戦いで平家が敗北したのは,源義経の作戦によってではなく
後白河院の謀略によってだ,という話があるそうですが,
実際はどうだったのでしょうか?
587 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/19
02:40:37
一の谷は戦い自体が虚飾に満ちていてあまり分かりません.
物語によると源義経が山の上から駆け下って勝ったということになるのですが,
実際に現地に行ってみると,大部隊を降ろすような傾斜より遥かに急です.
ゆえに,崖から下った部隊は物語が伝えるより小部隊であった,もしかすると存在しないかもしれないということになっています.
また,戦い自体は神戸で東からの源範頼軍の襲来に備えていた平知盛軍が,
丹波から南下し,播磨を経由して西から攻めた源義経軍(指揮していたのは土肥実平)に包囲されたという形をとります.
後白河院については,平家から三種の神器を得る代わりに講和を行おうとしていたとされており,
講和の知らせに油断していた平家軍が強襲を受けて敗北したという側面もあります.
(休戦中にに攻めてきた,違反じゃないかという平宗盛の抗議書状が残っています.)
602 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/20
23:33:27
>>599
>幕府が蝦夷での直轄経営で大赤字になったから松前に返したんだよ.
松前藩は利益を上げていました.そして田沼の計画は交易基地・漁業基地だけでなく和人入植も含んでいました.
それが領土確定には一番良かったと思います.
それが松平定信の場合,蝦夷地を放置してロシア人に入植されたり,接触を拒否して略奪に向かわせたり,
挙句の果てに防衛軍を設置するという多大な出費を幕府に強いたわけですから,幕府を滅ぼした元凶扱いされても仕方がありません.
605 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/22
22:43:23
>>602
松前は海防なんか全くしなかったからな.だからロシアとの緊張時には幕府直轄地になった.
入植は実際に入植した八王子千人同心が多数の死者を出したように絵にかいた餅にすぎん.
定信は東北諸藩に海防対策を命じたが社会的負担が重く途中でやめている.
当時の日本が天明期の疲弊から脱していないのだから当然だわな.こんなことになるなんて
天才的政治家w田沼は何をやっていたのやらw
606 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2012/11/22
23:01:59
>>605
机上の空論を掲げて松平定信を擁護するのはおかしい.
例えば八王子千人同心の蝦夷地入植は寛政12(1800)年の時であり,田沼は全く関係ない.
むしろ寛政の遺臣とされる,松平定信の改革が継続された時代として松平定信擁護者が主張している時期だ.
そのような時期の失政を,松平定信ではなく田沼に押し付けようとする神経を疑う.よほどの捏造者しかこのような行為はしない.
そして田沼の計画では,交易基地と漁業基地建設の延長線として入植が計画されていたのであり,
寛政の時のような,既にロシア船が出没していたから防衛上遮二無二配置したということではない.
松平定信の蝦夷地遺棄策が蝦夷地におけるロシア人の入植を呼び,これが松平定信による異人接触拒否策と相まって
ロシア人による蝦夷地略奪行為を生んだ.そのために幕府は巨費を払って防衛部隊を配置した.
全ての原因は松平定信から始まっている.松平定信程無知蒙昧かつ失政を重ねた為政者もいない.
しかも松平定信自身が提言した関東沿岸警備でも,白河藩に役目が回ってきた途端に移封を要請し
桑名へ引っ越してしまう.自分で言ったことも守らない奴が松平定信.
608 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/23
23:01:16
>>606
ロシアとの外交を正常化させたのは軍事力の増強でなくゴロヴニン事件から始まる対話だ.
くだらん入植計画なんかでなくな.田沼なら経営がうまくいったなんてのは妄想でしかないな.
天明の大飢饉に無為無策で江戸の打ち壊しで将軍家治にも見限られた田沼が
一体どんな天才的な経営能力があるというのかね.たまには商業の振興なんていう
教科書の羅列的な文字でなく専門書から引くなりして書いてみたまえ.
609 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/24
02:21:57
>>608
具体的な反論が出きず中傷へ転じましたか.
ロシアとの外交は松平定信の方針で決定的に曲げられ,大黒屋などの尽力はありますが好転には至りませんでした.
以後,ナポレオン戦争に伴うロシアの進出停止を挟み,沿海州と樺太はロシアの入植対象として日本との軋轢を深めてゆきます.
妄想で松平定信を擁護しようとしても,幕府の財政を傾かせた倉米制度以外,どこにも彼に業績などありはしないのが事実です.
専門書といっても,あなたの引用するものは数十年以上前の既に否定された説の羅列に留まっております.
あなたの説は現在では否定されたものばかりです.
612 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/24
11:13:47
>>609
田沼賛美はもうやめたのかねw君のような人が頑張らなければ
また賄賂政治家に逆戻りだよ.
ロシアとの軋轢とは何かね,詳しく記述しなよ.あと大黒屋光太夫じゃなく
高田屋嘉兵衛な.軍事行動はフヴォストフの独走に過ぎず,その後処罰されている.
日露当局は外交における当事者能力を持ち戦争を回避し,平和につなげた,これが歴史だよ.
勝ち負けに異常にこだわる田沼賛美君にはこんな歴史は信じたくないのだろうが
ロシアを侵略者とみなすなど幕末の攘夷論者と変わらん江戸後期の幕府外交への
無知をよく見せてくれたね.
615 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/24
14:46:40
>>612
根拠のない主張だけが松平定信愛玩者の特徴ですが,
松平定信の交流拒否姿勢が事態を悪化させたことについては議論を放棄し,逃亡しているのが滑稽でなりません.
無知蒙昧たる松平定信及びその支持者の皆さんは,議論の本質は逃げ中傷だけを残す有害生物ですね.
それで,あなたの呼ぶ(松平定信寄りの)専門書が,現在では真実性を否定されているという事実についても逃亡ですか.
616 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2012/11/24
14:57:10
>>612
松平定信支持者の言う功績とは何でしょう.
松平定信の主張「蝦夷地を荒廃させて置けばロシア人は入植しない」
→実際はシベリアより温暖だったのでロシア人は優先入植してきた
松平定信の主張「異人との接触を立っておけば異人は接触して来ない」
→実際は食料及び燃料を求め,略奪占領を開始しました.
そのため,交易基地や漁業基地建設を意図した田沼時代ではなく,
松平定信以降の蝦夷地は,防衛部隊を幕府の費用で配置した負担の大きい地域へと変わってゆきます.
松平定信の行政に良いところなど一つもないんですよ.江戸後期の幕府外交への無知とは,
まさにロシアを侵略者とみなすなど松平定信の行動そのものです.
日本史板,2012/
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
戦国時代,備中高松城の戦い.
毛利軍の増援到着が,秀吉軍が高松城を包囲し,水攻めを開始した後と遅れてしまった理由は何でしょうか?
秀吉軍が来るのは分かっていたけど,何らかの理由で増援を出すのが遅れたのか?
それとも当時の毛利側の情報収集能力・伝達能力では,秀吉軍が姫路城から出発し西進した事を察知できなかったのでしょうか?
宇喜多家が織田側に付いた時点で,備前備中国境線が最前線になるのは分かるのですが,毛利軍が秀吉軍到着より前に,高松城周辺に到着し,防備を固められなかった理由は何でしょうか?
【回答】
羽柴秀吉軍が姫路城を発したのは3月15日,4月2日に宇喜多の軍勢と共に当時最前線だった岡山から毛利領へ侵入します.
高松城に到着したのは4月14日.直ちに高松城北東側の高地にあった支城を攻略し,南側の平野部の支城も攻略します.
4月27日と5月2日に高松城総攻撃を実施しますが,堅城で陥落しません.
そのため秀吉軍は毛利軍の救援を恐れ,城の南西を流れる足守川を防衛拠点に高松城の包囲を行います.
この時に城攻め案として浮上したのが水攻めで,5月7日に工事を開始し,12日で堤は完成,19日には水を満たし始めたといわれています.
毛利軍の小早川隆景が到着したのが5月22日.
4月2日との開きが約一月と三週間,4月14日との開きが一月と一週間.決して遅い対応ではありません.
例えば天文9年(1540年),尼子氏が毛利氏の吉田郡山城を攻めた場合,8月10日に月山富田城から出た尼子軍が,吉田郡山に到着するのは9月4日です.
毛利軍の進軍は,当時の戦いで標準的なものでしょう.
ただ単に,秀吉軍が圧倒的に敏速だったということになります.
日本史板,2012/11/21
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
足利尊氏の人となり,人望があった理由を教えてください.
【回答】
尊氏に特別な人望があったというより,尊氏の出自が武家社会ではよかったこと.
(清和源氏の中でも歴代当主が北条氏から正室を娶り鎌倉幕府内での地位が高かった)
あとは,味方についた武将には,恩賞を惜しげもなく呉れてやったことだろう.
室町幕府は歴代の幕府の中で,一番直轄地(天領)が少なかったらしい.
だから座を作ったり七口作ったりして生活する必要があったとか.
この頃の武士たちは,土地問題,経済問題でいろいろ不満を持っていた.
鎌倉幕府がその不満を解消してくれなかったので,倒幕に協力したものの,新たにできた後醍醐天皇の政権は武士にとっては,前より酷い.
で,そんな時に,出自もよくて気前のいい尊氏がいた.
だから尊氏は全国の武士にとって,自分たちの利権を守ってくれる政権を築いてくれるという期待の星となった.
一時は九州まで落ちたのに,すぐに勢力を盛り返すことができたのは,まさにそのため.
つまり,こういうこと:
国民(武士)は,自民党(鎌倉幕府)政権がひどかったので潰してみたら,次の民主党(後醍醐)政権がもっと酷かった.
そんなところに,名門出身で,国民に受けのいい政策を掲げた政治家(尊氏)が現れたので人気が出た.
日本史板,2012/11/27
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
幕末の幕府って,どうしてあんなにだらしなくなっちゃったの?
朝廷に一々開国の許可を求めたり,長州が大兵連れて京都に来ても文句もいわず,薩摩に脅されて文久の改革を押し切られてたり.
往年の幕府の権威はどこで消えたんでしょうか?
疑問で仕方ないです.
【回答】
幕末の将軍に統治能力がなかったというのはあるでしょう.
ペリー来航時の将軍家定は,一説に軽度の脳障害があったと言われ,老中の一人に過ぎない堀田正俊に,政治は丸投げでした.
長州征討の頃の将軍家茂は,12歳で将軍となり若年.
長州征討の最中,21歳で没してしまいました.
将軍の血筋が血統で決まる以上,能力がなくても若年でも将軍になれるようになったため,50代で征夷大将軍になった初代家康のような,老獪な将軍がいなかったということです.
日本史板,2012/11/29
青文字:加筆改修部分
** 【反論】
知的障害の将軍は家重もいたし,家治も老中に投げっぱなしだったけど,幕府の権威は強かったよ?
【再反論】
家治は聡明で,自分で政治を執っていた.
一時期,田沼意次を信任し,その意見を取り入れていたが,統治能力がなかったわけではない.
家重は障害者だったため,父の大御所吉宗が,隠居後も幕政を統治し続けていた.
吉宗が死んでから家治の将軍就任までは,吉宗の享保の改革の遺産があったおかげで,たまたま何も起こらなかったと言われている.
日本史板,2012/11/29
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
「人国記」によると,薩摩大隅の人間は,忠義や礼を気にせず,死を受け入れているように描写されてますが,自分のイメージする薩摩は,島津の引き口や郷中教育など,儒教の匂いが強い地域です.
薩摩人が儒教に傾倒し始めるのは,いつからですか?
【回答】
薩摩の場合,儒教とは関係なし.
あれは年長者をいたわると言いながら,若衆の言うことには逆らえない.
朱子学や儒教などよりもずっと以前にある,腕っ節の強い連中を中心にした集団規律と考えれば良い.
島津の引き口や郷中教育などは,儒教的価値観だとどちらも極めて野蛮.
薩摩の場合,朱子学の導入は戦国期,京都の戦乱から逃げてきた仏教僧による薩南学派の形成と,福昌寺などを中心とする禅宗教育の一環としての朱子学研究が中心とされる.
しかしこれが武士に浸透していたかというと,薩摩はせいぜい上級武士止まり.
西郷隆盛が周辺学生と開いたのが,近思録輪読会だったわけで,入門程度の学習本を読もうかという段階.
薩摩藩の一般武士は朱子学ではなく,派閥力学というか,若衆の掟のようなもので動いていたと思われる.
島津斉彬も,「薩摩藩士の(国学や朱子学等の)学習程度はとても低く,弟の島津久光だけは感心する」と言っている.
薩摩に儒教的道徳が定着したのは,ぶっちゃけ明治以降だろう.
但し上層部は,自らに都合の良いものはすぐ自らの見解にした.
上杉家や吉良家と縁があったのに,忠臣蔵が好評となると,
「忠臣蔵のように,藩の武士は藩主に仕えるものであり,幕府に仕える必要はない」
と言って,幕府に対立する論拠にしてしまった.
日本史板,2012/11/30
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
会津藩の白虎隊って,なんで少年だけで組ませたんですかね?
普通はそういう,年齢別の部隊ってありえないらしいが.
老練な武士がいたら,集団自殺の悲劇も避けられたと思う.
【回答】
壮年の会津兵が全て出払ってたから,藩校で一応の軍事教育を受けてきたお子様をかき集めたのが白虎隊.
会津藩は,戦える藩士やその家族を総動員しなければならなかった.
そしてそいつらを編成して,朱雀隊(18〜35歳),青龍隊(36〜49歳),玄武隊(50歳以上)を作った.
同時に作られた18歳未満の部隊が,白虎隊だったというだけのこと.
白虎隊は,本来は前線に出る部隊じゃなかったんだよ.
若年層ということで,後ろで荷物運びの指揮とか補助員に使えれば良いかと思って作られた部隊.
それが,まともなほうがさっさと陣を引き払って,鶴ヶ城に籠もってしまったので,取り残されたわけ.
あと,人手不足を補うため,年端のいかない武士の子弟をかき集めて戦に参加させたのは,会津の専売特許ではなくて,大なり小なりの藩は似たようなことはやってた.
二本松が比較的有名かな.
日本史板,2012/12/07
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
京都所司代や,京都,伏見の各奉行所の与力,同心たちは,王政復古の大号令で徳川さんが京都を立ち退いたあと,どうなったの?
一緒に大坂に撤退したの?
大坂町奉行所の与力,同心たちも,慶喜さんが逃げたあと江戸に撤収?
【回答】
王政復古の大号令により,京都所司代や各奉行所は全て廃止された.
それから後のことは,個人によってバラバラ.
ちなみに,京都所司代を勤めていた松平定敬は,
・鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜に連行されて,松平容保と一緒に江戸へ
・徳川慶喜から江戸退去を通告され,桑名藩の飛び地だった越後国柏崎へ
・柏崎の桑名藩代官が新政府恭順派だったので殺害,奥羽越列藩同盟・会庄同盟と行動を共にして新政府と開戦
・負けて会津藩内へ撤退
・会津も負けそうなので仙台藩へ,榎本艦隊に拾われて函館へ
・榎本政権崩壊に伴い新政府へ降伏
・新政府の監視下で謹慎
その後,明治新政府から謹慎を解かれ,西南戦争では,薩摩が討てるとして義勇軍に参加している.
なお,大坂城代とか京都所司代にも,与力や同心が付属していた.
町奉行付与力同心=警察
大阪城代付与力同心=行政官と軍隊
所司代付与力同心=行政官
江戸幕府では与力や同心という単語は,課長と社員みたいな感じで,職を表すのではなくて職階を表しているようなもの.
日本史板,2012/12/08〜12/09
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
太閤検地や江戸幕府の幕藩体制によって消滅させられた,「国人」と呼ばれる在地豪族集団のルーツって何なんでしょうか?
平安時代の田堵とかでしょうか?
それとも平安時代から田堵と呼ばれる勢力があったので,もっと古く古墳時代の豪族などにも由来しているのでしょうか?
【回答】
国人というコトバは,鎌倉幕府滅亡後南北朝時代室町初期から,よく登場するようになります.
平安中期の荘官・郡司・郷司→鎌倉時代の地頭を出自ないしは前身とする在地領主層の総称と考えられます.
在地に経営基盤を持っていました.
古くを尋ねれば,平安時代の田堵もその系譜に入ると思いますが,直接的には鎌倉時代の地頭・荘官(荘園の管理人)が,国人の前身だと考えられます.
元々の在地勢力のうち鎌倉幕府にすり寄ってきた連中を,地頭や荘官に任命して,任せたって感じだと思います.
有名どころでは,戦国大名・毛利元就などが国人出身ですね.
毛利氏の外には,島津氏が鎌倉幕府から,薩摩大隅日向三カ国守護兼島津荘地頭職に補任されていますね.
これも室町期には守護大名,戦国期には戦国大名と成長していますね.
日本史板,2012/12/14
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
鎌倉時代に貴族や寺社の荘園が,武士に横領されたのですが,横領を防げなかったんですか?
横領を防ぐだけの軍備をケチってるから,横領されたような気が.
【回答】
荘園の横領は室町時代なんですが.
鎌倉期はむしろ荘園全盛時代.
鎌倉幕府は当時,日本最大の荘園領主.
ゆえに鎌倉幕府は,むしろ荘園構造を保護する立場です.
幕府は地頭による土地の押領を取り締まっていました.
その解決方法として,荘園領主と地頭で現地の土地を分ける,「下地中分」なんていう解決方法もありました.
鎌倉幕府が崩壊して,南北朝・室町期に入ると,その秩序が壊れ,守護による横領なんてのが出て来ます.
質問は多分,荘園領主の座が貴族や寺社から武家へ移ったことを言ってるんでしょう.
荘園を実質管理している地頭たちが,従来国司や賊から土地を守るために,天皇や貴族に荘園を寄進していたものを,鎌倉幕府に寄進して,幕府の力で所領安堵してもらうようになりました.
天皇や貴族,寺社に守ってもらうよりも鎌倉幕府に守られたほうが安全,と考えたからで,まあ,幕府の武力が当時一番強いと考えられたからなんですが.
日本史板,2012/12/21
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
なるほど,頼れるのが貴族や寺社から武家政権に移ったわけですね?
では,なぜ室町時代には横領され放題になったんでしょう?
守る気があれば,土佐の一条家みたいに守れたと思うんですが.
やはり軍備をケチったのかな?
【回答】
物凄い分かり易く説明すると,鎌倉幕府というのは全ての武士を掌握した政権ではなく,はっきり言って武家政権としては不完全だった.
で,鎌倉幕府支配下の武士,即ち『御家人』に入らない武士は『,本所一円地住人』と呼ばれ,この「本所」というのは荘園を指すことからも解るように,公家や寺社などの武力であった.
ところが,鎌倉幕府が崩壊し室町幕府が出来ると,室町幕府は,守護を通して,日本全国全ての武士をピラミッド状に組織する事に成功した.
すなわち,それまでの本所一円地住人も,室町幕府につらなる被官構造の一端を担ったわけだ.
つまり,それまで公家や寺社の武力であった彼らも,武家政権の側に入ってしまった.
これと,南北朝以降の動乱により,相対的に朝廷や寺社の権威権力が低下したこともあり,横領頻発という事態になった.
無論,室町幕府もこれを座視していたわけではなく,横領した荘園の返還などを命じてはいるものの,地方支配を担う守護,守護代は自分たちの被官の利益を優先するので,多くは黙認されてしまった.
まあ,それまでの権門の武力が,幕府に吸収されたと考えるといい.
日本史板,2012/12/21
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
隼人と蝦夷の待遇の違いはなんでですか?
かたや天孫扱いで天皇の近習を許され,かたや俘囚などという不名誉な名前で呼ばれ畿内以外に住まされた.
隼人の祖先が天皇と同祖であるというのは,隼人を懐柔するための方便だというのはよく聞くんですが,それがヤマトの辺境支配法だったとしても,なんで蝦夷は同じような方法をとらなかったのか気になります.
【回答】
隼人は奈良時代までに,完全に朝廷の支配下に置かれていました.
これは日本書紀や古事記の編纂時までに,朝廷の家来になっていたということが重要だと思います.
その当時の朝廷に仕える主な氏族は皆,神別や皇別として取り入れられましたから.
しかし,蝦夷は平安時代末期になっても,朝廷の支配下に完全に入らないまま.
蝦夷地とされた北海道を,日本が支配するようになったのは松前藩が置かれた江戸時代ですし,正式に日本に編入されたのは明治時代です.
蝦夷は長らく自治を敷き,日本の一部となるのが遅かったため,異境の蛮族とされたのです.
現に,早いうちから降伏した蝦夷は,蝦夷と呼ばれていません.
関東以北は蝦夷の土地だったのに,いつのまにか関東は,坂東武士と呼ばれる屈強の兵の産地とされました.
日本史板,2013/01/13
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
江戸時代の藩経営には,経済学の知識がある程度不可欠だと思うんですが,経済行政に責任を持つ立場の人は,当時どのような教科書を使って経済を学んだのでしょうか?
中国の古典でしょうか?
【回答】
基本的には,江戸時代の武士は,経済学方面はダメダメだった.
だからこそ,幕府も諸藩もどんどん財政が悪化した.
なぜなら武士の学問は儒教であり,儒教は基本的に金儲けを卑しいこととしているので,武士の間では,経済学に類する考え方が発展しないから.
もちろん,江戸時代に経済学の分野は全く無知だったわけではない.
荻生徂徠や太宰春台,本居宣長,佐藤信淵らは経済学の著書もある.
(儒学者が経済学もやることが多かったのは事実だが)
ただし,広く幕府や諸藩全てに普及するものではなかった.
市場経済をにらんで特産品を造り,雄藩となった藩もある.
経済政策を進めた藩主や重臣もいる.
が,それは多くが個人の直感的な発想に基づいていたり,前任者に教えられたことだったり,商人出身者を取り立てて顧問にしたりしてのことであって,体系的に経済学に類する学問を学んでのことではなかった.
鎖国をしていた日本では,特産品を生み出しても内需に頼るしかなく,海外に売って貿易で儲ける手段がなかった.
幕府や諸藩で,経済を動かす主体とされていたのはあくまでも米で,江戸時代は寒冷期に当たるため,気温が低く,稲作はたびたび凶作で飢饉に陥り,幕府も諸藩も質素倹約で乗り切るしかなかった.
日本史板,2013/01/18
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
戦国時代の弓矢について.
火縄銃の普及に伴って,出番は少なくなったと思いますが,火縄銃の普及した軍勢における,実用武器としての弓矢の扱いはどうなったのでしょうか?
火縄銃に取って代わられ,戦場で見ることはまずなくなったのか?
それとも弓矢は,火縄銃に比べて雨でも使える,即応性・連射性が高い,火薬(硝石)が要らない,といった事から,補助的武器として,戦国末期〜安土桃山の大規模合戦でも使われ続けたのでしょうか?
【回答】
弓矢は戦国末期〜安土桃山時代にも,主要な戦闘具です.
当時の火縄銃は飛距離が短く,敵をなるべく身近に引きつけて防戦するために使われることが多く,こちらから攻め込んだり,遠くの敵に対して用いるものではなかったからです.
関ヶ原の戦いのときには,全世界の3割にあたる鉄砲が投入されたと伝えられますが,その割合は3割程度,15万の兵士に対して鉄砲の数は4万5千丁であったとされています.
弓は集団で用いると,恐るべき効果を発揮します.
例えば「遠矢」という技法.
これは早い話,やや遠方の,例えば遮蔽物を挟んだ敵に対し,仰角をつけて矢を射る技法であって,集団で遠矢=上空から雨あられと矢が降る=やや遠方の敵を面で制圧できます.
これは,臼砲弾のような弾道を描ける火砲が,対象段列上空に砲弾を多数,射出する技術が確立するまで,あるいは,遮蔽物そのものを破壊できるだけの破壊力が火砲に伴うまで,代替の効かない手法であったと言えます(少なくとも火縄銃では無理)
銃(というより火砲だが)が火縄銃のレベルならば,弓は補完する兵装として,まだまだ重要だったってことです.
だから使われ続けましたのよ♪
日本史板,2013/01/19〜01/20
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
戦国時代,戦に行った人は,参加するだけでも何か報酬を貰えたんですか?
合戦になって一つも首をあげられなかったら,参加し損?
そもそも雑兵の首一つ当たり,どんな褒美がもらえたんですか?
【回答】
合戦に参加するのは,軍役であり「義務」.
なので基本,出るだけで報酬というのはない(ごく特殊な例外はある)
雑兵にとって,合戦に出る「役得」は,略奪.
これが実質的報償といっていい.
あと,雑兵首に価値はない.
せいぜい討ち取った人間が,そいつの鎧や着物をぶんどれる程度.
名があるというか,物頭以上だな.
とって価値のある首は.
日本史板,2013/01/27
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
ありがとうございます.
じゃあ,ドラマなんかで農民が,
「手柄立てて褒美貰って引き立ててもらうんだ」
とか言ってるあれは,割と夢物語なんですね?
物頭ってそう簡単になれないし,首も取れないですよね?
【回答】
いや,それも極論.
一生食うや食わず生活より,もしかしたら勝ち馬についてけば出世できるかもしれん.
そういうのは現代と同じ.
まずはコンビニ・バイトから始めて,クビになるやつもいれば,そこそこ独立して出世するやつもいる.
そういう一般論としては,ドラマは別に間違ってもない.
何時いかなる時代でも,世界中どこでもチャンスはあったろうという話ね.
細かい定義は,また別の話さ.
日本史板,2013/01/28
青文字:加筆改修部分
** 【追記】
955 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/28
13:07:16
>>952
半農半士の雑兵にすぎない足軽出身の豊臣秀吉が
天下を執れるくらいだからチャンスはあった.
ただし豊臣秀吉は当時としてもかなりの小男で,弓が強いとも刀が強いとも伝わっていない.
秀吉本人の個人的な武術で天下を取ったというよりも
策略に長け,他人の心中を一目で悟って行動し,稀に見る人誑しであったこと.
あとは勇気も必要だな.秀吉は自分で綿密な奇襲の計画を立てたら先頭に立って軍を誘導した.
そういう意味では武功も上げていた.
956 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/28
15:55:18
>>955
> 半農半士の雑兵にすぎない足軽出身の豊臣秀吉
もう,そんな俗説を言うのはやめようよ!
『太閤記』のデッチ上げ.出自や身分を惨めに描いたのは.同様名類書皆同じ.
早くから物頭.軍団長とまでは言えなかったかも知れないが,大隊長クラス以上.
年令から遡って推察して,織田家に仕えて間のない時期からそういう身分.
既に太刀を差して,当時余程のことであった月代も剃っていた形跡がある.
ゆえに,身分はもっと上で事実上の軍団長だったかもしれぬが,
その時期の織田家の内情自体に一部分からない部分がある.
出自も尾張中村の相当の富家,名主並み.のちの庄屋の役目をしていたかまでは不明.
織田家仕官は,過去父親が仕えていたから.
父親が大した身分でなかったから,「卑賤の出」と付け入られる余地があった.
『太閤記』は,徳川の世が安定した時代.
秀吉が紛れもない天下人だったことは,誰しも周知の時だから,
出自や元の身分を徹底的に貶めて,権現様との落差を強調し,
豊臣家が徳川に潰されても当然の本質であった,悪いことではなかったとする意図.
幕府を気にした記述なわけ.
当然,『太閤記』は,太閤人気を当て込んで出したものだが,
権現様との接点で,権現様より目上にさえ置かなかったら,
織田家内での出世や天下取りをどのように描こうが自由.
だから,ああいう記述になって,秀吉はいつも権現様と対等以下の立場振舞い.
957 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/28
16:07:54
↑「過去父親が仕えていたから.」→「過去父親が仕えていた縁.」
要するに,仕官は,織田家の引き抜き.
何かで才能を見出されたのでしょう.ほぼ当初から物頭以上だったんだから.
決して,秀吉側からの就職活動ではない.
958 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/28
16:11:56
↑織田家内での出世譚は,『一休さん』のトンチ話がみんな作り事であるのと同日.
全て,でっち上げ.
959 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/28
16:21:28
> 「過去父親が仕えていた縁.」
すなわち,富家であったわけだから,織田家には,縁故採用として秀吉に相当の信用があったわけ.
単に有能人物を見出してどこの人物でも良いとの採用でなかったという意味.
960 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2013/01/28
16:49:15
>>956−>>959
秀吉が,相当の富家,名主出身で,信長に出仕したのは信長からの引き抜き,
織田家に仕えて間のない時期から隊士長クラスって,何の史料に載ってるの?
まさか日本史板で史料なしで言ってないよね?
961 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/28
17:43:49
秀吉は,史料で確認できる部分でも,20代にはすでに信長の奉行として自分の名前で文書を発給していた.
つまり,すでに有力な信長近習の一人だったということだ.
いくらなんでも秀吉が貧農出身で,しかもそれまで信長と接点のない人間出会ったらコレほどの若さで
これだけの信頼を得られるとは考えにくい.
秀吉はごく早い段階から,信長の側近くに仕えていたと考えるのが自然だろう.
962 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2013/01/28
18:01:16
>>961
秀吉の史料の初見って,永禄8年(1565年)の
「木下藤吉郎秀吉知行充行状」でしょ?
坪内氏に知行を認める文書だが,信長近習だとは限らない.
しかしそのことと秀吉の出自の特定とは何の関係もない.
秀吉の実家がそれほどの名門だったのならば,
まずは秀吉の実父木下弥右衛門の文書が残るでしょ.
963 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2013/01/28
18:02:17
「木下藤吉郎秀吉知行充行状」のときに秀吉29歳.
20代にはすでに〜ってギリギリ20代だけどな.
964 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2013/01/28
19:12:22
>>961
じゃあ,>>956−>>959って全部何一つ史料の裏付けないんじゃない.
何を日本史板で偉そうに長文高説垂れてるのw
965 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/28
19:52:38
>>964
史料資料って言うけどね,こんにちでは史学をやるほどの者には殆ど常識じゃないの.
どういう立場の人間か知らぬが,何とか史学の講座取ってみて教員教授に頼んでみたら.
史資料の大まかなタイトルリスト位い,もらえるかも.
966 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/28
20:30:12
>>965
常識がないのはあなた.
史料に基づかないトンでも説を書く人を非難するために
トンでも説を書く人に史料の提示を求めただけ.
何を勘違いしているのか知らないけれど,
この時代の史料を何も知らないので誰か教えてください,
なんてあなたに聞いていませんが?
967 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/28
22:43:42
>>948
>>950
東海も北陸も,一向宗(特に本願寺系)の主力戦闘員は農民だけど,
それをまとめる(担がれる)のは在郷の侍階級
968 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/29
09:34:29
なるほどなぁ,それなりの研究家でも
秀吉は足軽家とか豪農とかにおわすのがいるけど
軍記ものと結果論からの妄想なのか.
そしてそれを読んだ子が,学会ではこうですよ,とか
知ったかするわけか.
木下家関連のかすかに残る婚姻関係とか
その後から推測する家系図系の専門家は
いるみたいね.
長浜初期秀吉配下の部下の名前から
尾張出身でないかとか推定してそっから
秀吉の出自あたりの話につなげたり.
秀吉政権後でも配下の武将をたどってくと
尾張につながる苗字があったりして
これは歴史とはまた違った手法?だから
少し面白い.
ただご存知のように家系図は日本史では
一次史料とは認められないからあまり
日本史の専門的なところではとりあげられなくて
あくまで異分野の話にはなってしまうんだけどね.
969 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/29
19:34:27
>>967
だから,主力戦闘員の農民が鼻を削がれて信長に戦功として報告されたんだ.
勿論,これらは名もない者たちなので首である必要はない(首を持ち帰っても誰か分からん).
逆に武将クラスなら首になるからね.
ただ殺した人数を知るために鼻が持ち去られ,戦功として報告された.
970 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/29
20:32:34
>>968
ルイス・フロイスの「日本史」は?
これに「関白(秀吉)は貧しい百姓の倅として生まれた」という一説がある.
971 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/29
20:53:00
そもそも秀吉が貧しい百姓の生まれというのは,秀吉自信が天下取りの過程で喧伝していたフシがある.
徳川史観とか言う奴は史料詠んでない
972 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/29
21:29:03
>>971
でも,ルイス・フロイスの「日本史」は秀吉存命中の史料だろ.
ねねや大政所,秀長など秀吉の出自を詳しく知っているはずの人物も生きており,
あまりにも実際とかけ離れたことを書いたとは考えづらい.
973 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/29
21:33:14
>>971
「貧しい」は,慣用的形容詞で謙辞でもある.
ほかの者は,織田にしろ徳川にしろ,武田・上杉・伊達・北条・今川,
みんな生まれながらの大名である.
ひきかえ自分は,小名・家老でさえなく,生まれは民間人(百姓)であった.
976 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/29
22:28:05
>>971
秀吉は存命中に御伽衆の大村由己に命じて自分の伝記を記させた
「天正記」 というものがある.
これによれば,秀吉の母大政所は萩中納言の娘で宮仕えをしているうちに天皇(正親町天皇)
の手がつき,一子を孕んで秀吉を産んだと記されている.
秀吉が生前,わざと自分の出自を貶めていたようにはとても思えんな.
977 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/29
23:53:45
>>970
そのあたりが普通の解釈の元でしょな.
ただ,フロイスは人によって扱いがかなり違う.
最近は細かい訳とかも出てるし文化風俗面では
とても貴重な扱いなんだけど
歴史の一次史料としては非常に軽視する人が多い.
フロイス自身が誇大妄想家であり宣伝のための
誇大表現だろうという感じで.
このあたりは問題なんだけど
少し話がそれるかな.
>>972
フロイスには,茶々,は出てこないらしい.
これから逆算して,ねねたちと違って茶々はそんなに
目立つタイプではなかったのではないか,という
専門家がいる.
少なくとも,ねねVS茶々,なんてドラマ的なものを
排除する意味でなかなか面白い着眼点とは思う.
978 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/30
00:07:25
>>976
低い身分でも「出生」は特別,って理論でしょ?
別に珍しくもない話だよ.三国志の劉備玄徳みたいなもんだ.
出生が「貴種」であるなら逆に低い身分だった,とするほうが宣伝効果がある
979 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/30
01:24:13
フロイス「日本史」は学者があまり興味を示さないらしい.
完訳が遅れた或いは遅れている原因.
別にフロイスが悪いというわけではないが,
宿命的な欠陥として根本的で全般にわたる最大の点は,
日本の実状をよく分かっていない記述
偏見錯誤に基づく視点
伝聞・噂の断定的記述
本国での一般への公刊を目的とした原稿であること
従って,特に,政治面・政治家(武将)についての個々の記述は信用できないものが多い.
事実,分かっていることと齟齬するものがしばしば.
(例)
厚遇された信長に,その出身のことを「素性」としか翻訳できないポルトガル語を使用している.
信長が明智をいじめたとまことしやかに書いている.
980 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/30
01:41:46
客観的なものに対してはかなり正確なんだよね.
こないだも岐阜城の発掘でそれが証明された.
そして人間に対しても非常に分類的というか
失礼だが,異国の動物的評価みたいなところがあって
こういうのはかえってもう少し評価してもいいようには思う.
数量的でなく主観的なものはやはり一次史料からはどうしても
はずれてはしまうんだが,「信用できない」ときめつけてしまうのも
またちと史料吟味のなんとか至上主義に偏るきらいを感じる.
981 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/30
10:35:44
>>978
スレの流れ読んでる?
971は秀吉本人が天下取りの過程でわざと貧しい百姓の出身だと宣伝していたというので,
秀吉本人はそんなこと宣伝してない,と書いただけ.
偉大な人物に誰それの落胤説が出るのも毎度のこと.
982 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/30
10:51:39
>>979
フロイスは光秀が信長に足蹴にされたという話を聞いたということを淡々と描くのみで,
「いじめた」とは書いていない.逆に,こんにちの人が本能寺の変の原因の一つは
信長の横暴ではありえないとするがために,そもそも信長がそんなことをするはずは絶対になく
そんな噂が流れた事実も一切ない,と一方的に思い込むほどのことではないだろう.
フロイスの「日本史」にある明智光秀の出自,
「彼(光秀)はもとより高貴の出でではなく,信長の治世の初期には
公方様(将軍)の邸の一貴人兵部太輔(細川藤孝)と称する人に奉仕していたのである」
は,こんにち光秀の出自を知る同時代史料として重みを増しており,かなり重要視されている.
983 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/30
11:24:32
982に同意だ.
信長の公武関係については結論ありきの面が強い.
光秀が足蹴にされた件も,直後に変が起ってるから
かえって信憑性はある,というように考えるところだろう.
もちろん結果見ての創作かもしれないし
真偽はまた別だが,フロイスの創作,とする証拠も
出ようがないし日本史自体を「信用できない」という根拠に
なんかも使えないだろう.
984 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/30
20:55:52
『武功夜話』並みの扱い,ってのをぢかに聞いたことある.
ネットや三流新書で見たとかではなく,然るべき筋から対話で直接聞いた.
985 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/30
21:32:39
『武功夜話』はそれ自体が偽書の可能性がある時点で同列には……
986 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/30
22:08:49
『武功夜話』って,偽書なの?
発見当時,津本陽ほか錚々たるメンバー計三人のもっともらしい鼎談が
講談社から出していたの読んだことあるが,
「新しい発見」「歴史を書き換える」とか大層な評価だったよ.
987 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/30
22:09:49
>>986
ほぼ間違いなく偽書だよ.それも昭和になって作られたものの
988 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/31
13:41:03
>>984
「武功夜話」は「太閤記」「信長公記」らの軍記物の中でも
特に信憑性低いだろ
然るべき筋って誰?ちゃんとした論文で論証した学会の人なら
勿論名前出していいだろ
三流雑誌編集者とかなしね
「日本史」は史書であって同列に扱うべきではない
989 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/31
13:57:38
なんか話がかみあってなくね?
>>984は,「武功夜話は偽書でない」と言ってるのではなく,
「(フロイスの日本史が)武功夜話と同じぐらい信憑性が低い」って言ってるだけじゃねーの?
もちろん,偽書と史料を同列に扱うべきでないってのはその通りだけど
990 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2013/01/31
14:04:28
鎌倉幕府滅亡の折りに現れた妖霊星は,何彗星だったのでしょうか?
991 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/31
15:24:39
>>989
だから,そう言ってるんだよ
ルイス・フロイスの「日本史」の信憑性は高い
偽書の「武功夜話」などと同列ではない
同列の偽書だといっている学者がいるなら
その名前を出せと言っているの
992 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/01/31
15:37:17
>>984
日本史を武功夜話並みの扱いとか,冗談は顔だけにしろ
993 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/02/01
00:01:17
>>990
元ネタの太平記では北条高時の館に怪しい連中が現れ「天王寺の妖霊星を見ばや」と歌い踊った,という話であって彗星なのかどうかさえ明らかではありません.火星の大接近だったという説もあります.
http://ch08180.sapolog.com/e97407.html
一応,1301年にハレー彗星が出現したことは分かっていますが高時はまだ生まれていないし,他の名前がある彗星で700年前に観測されたもののどれがそうだと分かっているものはないんじゃないでしょうか.
994 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2013/02/01
13:09:23
>>993
まことに以て忝なうござりまする.
あつく御礼を申し上げる次第にござります.
995 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/02/02
01:02:04
武功夜話を偽書と認めないのは,同書で様々な著書を刊行した某新○物往○社の関係者だけという話もある位だ.
996 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/02/02
02:37:09
昭和になってからの合併でできた地名が出ているのが分かってるのに,偽書じゃないって言い張るのは
どう考えても無理があるのにな
998 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/02/02
09:03:54
>>996
ついでに中身の記載に「閏月」が一切存在しないのがもう致命的
999 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2013/02/02
12:13:28
>>996 >>998
著者もっと頑張れよ… 」(・ω・`;)「
日本史板,2012/
青文字:加筆改修部分
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