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【初心者】スレッド立てる前に質問をPart28【歓迎】
目次
【追記】 邪馬台国論争は,今は畿内説が有力なようですが,どの程度北九州説より有力になっているんでしょうか?
【質問】 足利尊氏は政治理念がまったく無い人なの?
【質問】 大和政権って,4世紀中ごろには日本を統一し終えて初めて,朝鮮に進出したの?
【質問】 合戦をする場所・日時は,両軍あらかじめ決めてあるんですか?
【追記】 東京都の地名・板橋の由来が「板の橋が架かっているのが珍しく,都にも話が聞こえていた」そうですが,では当時は橋ってあまり架けられてなかったんでしょうか.
【質問】 蛤御門の変では,長州勢は御所に突入して何をしようとしてたのですか?
【質問】 今の天皇は南朝を正統だとしているのですか?
【質問】 日の丸模様が日本や日本人を表す象徴のように扱われ出したのは,いつ頃からでしょうか?
【追記】 豊臣秀吉が征夷大将軍になれなかったのは,源氏の血筋じゃないから?
【質問】 対外的(主に中国に対して)に将軍が日本国王とされていた時も,天皇は日本国王だったのでしょうか.
【質問】 新撰組が称えられてる(?)理由を教えてください.
【質問】 幕末,大藩でも「安芸,福岡,肥後」などは,どうして目立たなかったんでしょう?
【質問】 幕末の戦は,戦国時代に比べ,なぜ兵力動員数が少ないのでしょうか?
【質問】 上士・下士の差別があったのは,土佐だけでしょうか?
【追記】
8 : 日本@名無史さん : 2011/10/18(火) 08:48:08.00
丁度>>5のスレで邪馬台国の話が出ていたので質問させてください.
邪馬台国論争は,今は畿内説が有力なようですが,どの程度北九州説より有力になっているんでしょうか?北九州説もまだまだ強いように思いますが.
また,神護寺の伝源頼朝像については,足利直義像説とどちらが有力なのでしょうか?
9 : 日本@名無史さん : 2011/10/18(火) 18:53:56.48
もはや大半の考古学者が畿内説支持になり,
九州説を支持する考古学者は片手で数えられるほど減った.
のではなかったかな.
文献研究は既に下火なので,考古学の動向が大きく影響するようになってきてるなかで,
九州説の考古学者が減ってるということ自体,九州説の劣勢を物語っている.
11 : 日本@名無史さん : 2011/10/18(火) 23:34:39.15
考古学界で九州説が減ってるのはわかるんですけど
いわゆる自虐史観とか非皇国史観の人たちはなんでまだ九州説を信じてるんですかね?
畿内説=皇国史観なんですか?
12 : 日本@名無史さん : 2011/10/19(水) 07:57:32.29
>>11
畿内説=皇国史観だと言う主張は九州説の人が畿内説を非難して
言い始めたんじゃなかったかな
今の天皇家以外が日本を統治した過去はない=卑弥呼は天皇家の先祖一族
ということにしたいがために無理矢理出したのが畿内説だという意味で
しかし現在の研究者が畿内説を支持する理由は考古学的成果
(弥生時代の大規模遺跡が畿内で見つかる)が最大の理由
畿内説を支持する研究者の中でも邪馬台国=大和王権と考える人もいれば
王朝交代があったとみる人もいて意見は様々
畿内説=皇国史観とは言い難い
13 : 日本@名無史さん : 2011/10/19(水) 09:11:51.92
>>12
考古学と関係ない日本史の学者は九州説支持してる人が多いんでいつも不思議に思ってました.
納得できました.ありがとうございます.
14 : 日本@名無史さん : 2011/10/19(水) 22:44:09.25
もともと九州説の方が皇国史観と親和的.
畿内説だと,「古代の天皇が中国王朝に朝貢した」と確定するが,
九州説だと「中国に朝貢したのは,当時の九州にあった辺境王朝」となり,
日本の天皇は中国に朝貢などしていない,と言い張ることが可能になる.
邪馬台国九州説が出現した当時には,復古的趣味の大元とも言える国学者が説の中心だったしな.
そういう来歴もあって,戦前には,
東大の学者が九州説,京大では畿内説が有力だったぐらい.
257 : 日本@名無史さん : 2011/11/28(月) 23:43:54.00
前スレで邪馬台国の話をしたものですが
私は学生時代(80年代後半)に岩波書店の歴史学の本をかなり読み込んでいたのですが
岩波書店は近畿説を皇国史観であると否定しており,北九州説一本でした.著者が誰か忘れましたが.
今は近畿説が有力なのですが,やはり北九州説というのは岩波書店を筆頭にする左翼勢力が主張してるのでしょうか?
258 : 日本@名無史さん : 2011/11/29(火) 01:22:56.43
岩波書店がというより,それらの本の著者がたまたま九州説論者だったんじゃねーの?
259 : 日本@名無史さん : 2011/11/29(火) 08:00:15.79
>>257
岩波書店は畿内説の学者の本も出版していますよ.
出版社自体がどちらかの説を推しているわけではないと思います.
1980年代後半は全体的に九州説が強かった時期です.
当時は専ら「魏志倭人伝」に記載されている魏から邪馬台国までの行程をもとに
途中に出てくる邪馬台国連合国を一つ一つ当てはめていくやり方で,
「邪馬台国は九州連合王国」といったものだったと思います.
しかし,2000年代に入ると,年代測定法の開発により纏向や箸墓が卑弥呼の時代のものあることがわかり,
卑弥呼時代の大和に大規模な国があったことが明らかとなって九州説は下火になりました.
日本史板,
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【質問】 後醍醐天皇は政治理念しかない人だと思うんだけど,足利尊氏は反対に,政治理念がまったく無い人なのかな?
何となく,尊氏にそれがないせいで,グダグダになってる感じがするんだけど.
戦には勝ちまくってるのに.
【回答】
中世の社会は,既得権とか人脈,地縁などが重要視される社会で,政治理念とかはむしろ異端.
あの時代の為政者としては,尊氏の方が正常型に近く,後醍醐天皇は生まれる時代を間違えたと言っていいほどの特殊な人物だ.
あまりにも時代を間違えすぎたせいで,追従できる人がほとんど居なかった.
ただ,尊氏を裏で支えて,幕府開設まで事態を動かした直義も,あの時代としては珍しい,理念先行の人物っぽい.
(その影響もあってか,戦場ではあまり活躍がない気がするが)
日本史板,2011/10/25(火)
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【質問】 大和政権って,4世紀中ごろには日本を統一し終えて初めて,朝鮮に進出したものだと思っていましたが,そうではないのですか?
5世紀になっても大和政権は,九州と戦争をしたりしていますよね.
それとも4世紀には,日本統一に成功していたけど,各地に一部の反乱分子があっただけ,と言う程度の事なのでしょうか?
【回答】
日本統一って言っても,4世紀の日本だと東は関東,北は北陸,西は北九州,南は四国あたりまでが大和王権の勢力範囲.
九州南部は異民族の土地みたいなもの.
九州北部にしても,6世紀の筑紫磐井の乱が示すように,在地豪族が強力だったと考えられる.
とは言っても,磐井の鎮圧に向かった上毛野君が,
「一緒に朝廷で働いた,もと同僚じゃないか」
と呼びかけたと書き記されて入るわけで,少なくとも敵国とか外国というわけではなかったはず.
ただ,朝廷の支配と言えるほどには強く服従していなかっただけで.
統一と呼べるかどうかが微妙な程度には,独立性がある地方豪族達が,大和朝廷の元に,緩やかに連合してまとまってたんじゃないかな.
4世紀と比べて中央集権化が進んでいく飛鳥時代になっても,地方豪族の一部は朝廷で大きな役割を担うことがあって,地方豪族と中央豪族の境目が微妙だったりする.
吉備や紀伊の地方豪族なんかが,奈良時代になっても朝廷で一定の活動をしているし.
ちなみに東北が支配下に入ったと言えるのは,平安時代の田村麻呂の時になる.
また,大和王権は豊臣秀吉のように「日本統一を果たして征服する土地がなくなったから,朝鮮へ進出した」というよりも,朝鮮に任那と呼ばれる日本人居住区や,百済という同盟国があり,救援のために要請されて出兵したんじゃなかったか.
別に朝鮮を切り取って倭国にするという目的ではなかったっぽい.
日本史板,2011/11/14(月)〜11/15(火)
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【質問】 野戦をする場所とか日時とか,両軍あらかじめ決めてあるんですか?
なんか,うまいこと敵と遭遇して睨み合いとかになってるんですけど,陣を張って,待ちぼうけを食らったとかないんですか?
例えば川中島で,同じ場所で何度も睨み合うとか,お互いの都合を考えて示し合わせてるとしか思えないんですが…
【回答】
戦略上の重要地点なら,そこで何度にらみ合いになろうと,別になんら不思議はない.
山岳と森林と河川(昔はダムがないから現代の川よりおおむね水が多く,交通の障害になった)が多い日本の地形では,大軍が行動できるルートは限られている.
敵が行軍してこちらに向かっている,という情報をつかんだら,侵攻ルートはだいたい想定できる.
いくつかルートがあるとしても,すっぱを放ってどのルートで来るか調べればいい.
防衛側が籠城ではなく迎撃を選んだ場合,なんとしてもこれ以上は攻め込ませたくない,この辺で敵を防ぎたいという地点がある.
当然,そんな戦略上の重要地点に布陣して敵を待ちかまえるだろう.
一方,侵攻してきた側も,敵が出てきたとなれば,野戦でそれを倒し,突破するため,よい場所に布陣する.
敵の布陣を迂回して進むという手もなくはないが,敵の兵力をそのままにして敵国にあまり深く侵攻しては,本国との連絡を絶たれかねない.
退くのでなければ,正面から戦うしかない.
別にわざわざ示し合わせなくても,だいたい両者はどこか適当な場所で必ず対峙することになる.
>例えば川中島で,同じ場所で何度も睨み合うとか,お互いの都合を考えて示し合わせてるとしか思えないんですが…
現代みたいにヘリや航空機などの輸送機関が発達しているわけでもないので,軍隊が移動できるような道は限られます.
何回も川中島で戦い(正確には睨みあい)が起こったのは,越後から信濃を攻める際のルート上の重要拠点なので,武田軍が予め城を築いて守っていたからです.
落城する前に,武田側も動員をかけて川中島に救援に向かいます.
別の道を通って直接越後を攻めようとしても,上杉軍も同じようにルート上に城を築いて警戒しているので,短時間では不可能です.
また,当時の大名は各地の中小武士達の領地を守るかわりに,兵や年貢を提供して貰うという,一種の契約関係みたいな支配を行っているので,川中島で守っている武士を見殺しにして,越後を占領出来たとしても,他の武士達が協力しなくなり,大名権力自体が崩壊してしまいます.
日本史板,2011/11/21(月)
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【追記】
233 : 日本@名無史さん : 2011/11/24(木) 00:44:12.37
東京都の地名・板橋の由来が
「板の橋が架かっているのが珍しく,都にも話が聞こえていた」
そうですが,では当時は橋ってあまり架けられてなかったんでしょうか.
普通は渡し舟とか使ってたのかな?
234 : 日本@名無史さん : 2011/11/24(木) 01:32:14.39
初期は軍事的理由から,意図的に橋をかけさせなかった
軍事的脅威が去っても,予算が硬直していて,大規模公共投資が行えなかった
江戸時代の橋梁についてぐぐってみたが
ここが一番詳しいかな
http://www35.atpages.jp/tokorozawa/faq11.html#bridge
235 : 日本@名無史さん : 2011/11/24(木) 07:51:13.93
>>234
ただし,近年異説として軍事的理由は後付けで,
土木技術が不十分であったために,橋を架けるとコストがかかったという説もある.
例えば,大雨や雪解け水が大量に川に流れ込むと,十分な治水がなされていなかった当時の川はしばしば大規模な氾濫を起こして橋を押し流してしまう.
つまり,氾濫を抑制する治水技術と氾濫に耐えられる架橋技術が十分でなかったために,橋を架けるメリットよりも流されて再建するコストの方が高くついたからという話.
236 : 235 : 2011/11/24(木) 07:56:48.05
勿論,軍事的云々も全く根拠がない話ではなく,戦国期に川を渡ろうとした部隊が橋のところに来てみたら氾濫で橋が流されていて渡川地点を探して攻めあぐねたという記録がある.
日本史板,
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【質問】 蛤御門の変ってありましたが,長州勢は御所に突入して何をしようとしてたのですか?
それとも,幕府勢が御所付近にいたから,たまたまここが合戦の場になっただけなのですか?
【回答】
簡単に言えば,御所へ突入して孝明天皇の身柄を確保し,長州藩の思い通りの政治を執ろうとしました.
長州藩は強硬な尊王攘夷論を展開し,討幕運動を繰り広げていました.
これに協力する公家たちとともに,孝明天皇を動かし,江戸幕府に無茶な攘夷を突きつけます.
しかし,孝明天皇は妹和宮を徳川家茂に嫁がせ,公武合体に傾くようになり,遂には八月十八日の政変によって,長州藩に協力する尊王攘夷派公家たちが追放され,江戸幕府により長州藩士は入京禁止,長州藩主は蟄居を命じられてしまったのです.
代わりに朝廷で主流を占めるようになったのが,会津・薩摩ら公武合体派でした.
焦った長州藩は,孝明天皇を手中におさめ,念願の尊王攘夷と討幕を推し進めようとしました.
そのために内裏を襲ったものの敗れたのが,蛤御門(禁門)の変です.
日本史板,2011/12/07(水)
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【質問】 今の天皇は北朝系なのに,なぜ,南朝を正統だとしているのですか?
【回答】
南朝を正統としたのは明治時代です.
武家たちが学んだ水戸学において南朝正統論が出たためとされています.
ちなみに,江戸時代の朝廷では,北朝が正統でした.
江戸時代の朝廷の文献では,北朝の年号が使われ,北朝のみで天皇の代が数えられています.
現在は,北朝と南朝の年号併記が多く,両系統に天皇の称号を認めています.
天皇の代数のみ,南朝の天皇の代数で数えるようです.
日本史板,2011/12/16(金)
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【質問】 現在の日章旗の赤い丸の模様自体はかなり古くから存在したと聞いたのですが,あの模様が日本や日本人を表す象徴のように扱われ出したのは,いつ頃のことでしょうか?
【回答】
日の丸旗の模様自体は,源平合戦のころからあるらしいが,この頃には源頼朝率いる源氏軍の旗として用いられるなど,武将が使用するものだった.
戦国時代や安土桃山時代にも,伊達氏などの大名が使用.
しかし,江戸末期まで日の丸が日本の象徴などではなかった.
日の丸が日本の国旗に定められたのは明治3年.
西洋諸国に倣って国旗を定めた際に,日の丸が採用されてから.
日本史板,2012/01/11(水)
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【追記】
豊臣秀吉が征夷大将軍になれなかったのは,源氏の血筋じゃないから,
平家の血筋だから,農民あがりだから等々,学生時代に先生が言っていた
のですが,でも,関白にはなれたんですよね?
なんかこー,聞いた時から「?」って感じなのですが,秀吉が幕府を
開かなかったとか,そういうのって,どう関係するんでしょうか.
漠然とした質問で申し訳ありません.
585 : 日本@名無史さん : 2012/01/13(金) 00:42:49.68
平清盛や豊臣秀吉は有名であり,説明文を読むと「〜ついに太政大臣まで登りつめた」
みたいな表現があります.
天皇に次ぐ官職NO1の座に登りつめたのだから凄いのはわかるんですが,清盛や秀吉以外にも
歴代の太政大臣(摂政や関白も含め)がたくさんいるのになぜ有名じゃないのでしょうか?
587 : 日本@名無史さん : 2012/01/13(金) 00:53:11.42
>>584
源氏じゃないとか農民上がりだからはたぶん関係ないです.
思うに,元々武士でない秀吉に取っては将軍になる事に特別な意義が無かった.
でも本当の所は判りません.
>>585
歴代は貴族社会のルールに則ってその位に付いてます.例外だから有名なだけです.
588 : 日本@名無史さん : 2012/01/13(金) 02:30:25.20
>>584
秀吉が征夷大将軍にならなかった理由は
その当時はまだ足利義昭が毛利に身をよせていたため
無理に辞職に追い追い込むことができなかったのが理由でしょうね.
あなたが言う通り,秀吉が関白になれたことからも,
出自が原因でなれなかったというのは間違いなのが分かります.
本当に征夷大将軍になれない原因が源氏でないからだったのであれば,
関白になったのと同じ方法で源氏に改姓しなることはできたはずです.
※秀吉は藤原氏に改姓することで関白になっており豊臣氏になったのは関白になった後
589 : 日本@名無史さん : 2012/01/13(金) 10:18:02.95
>>588
征夷大将軍よりも関白のほうが上位であり,
関白の座を手にした秀吉は今更征夷大将軍になる必要がなかったと言える.
秀頼誕生時にはすでに足利義昭は将軍を辞していたが,秀吉は5歳の秀頼元服の際,
摂家嫡男の先例に乗っ取って内裏で元服式,同日,従三位近衛権中将とした.
秀吉が豊臣家は摂家で行くとしていた証であり,征夷大将軍不在であっても
あえて嫡子を征夷大将軍にする気はなかったことの証でもある.
日本史板,
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【質問】
【回答】
630 : 日本@名無史さん : 2012/01/23(月) 05:48:32.76
上に日本国王についての質問と回答がありましたが,
対外的(主に中国に対して)に将軍が日本国王とされていた時も
天皇は日本国王だったのでしょうか.
また,もしそうした場合に天皇と将軍が同格だと誤解されなかったのでしょうか.
631 : 日本@名無史さん : 2012/01/23(月) 08:54:40.90
>>630
中国皇帝は朝貢してきた者に対して位を与えるだけですからね.
例えば,日明貿易では足利将軍が中国皇帝から日本国王の称号を与えていました.
で,同時期の日本の天皇はどうだったかというと,中国皇帝からしてみれば,
音信不通,国交なし,赤の他人なので知らん,というわけです.
天皇と将軍が同時に朝貢し,「どちらかを日本国王に任じろ」と言ったなら別ですが,
日本では将軍が貿易をしだす時期には天皇にはすでに船を派遣するだけの力はありませんでした.
中国皇帝は中国に朝貢するだけの力のある将軍のほうを「日本国王」として日本統治者としていたわけです.
632 : 日本@名無史さん : 2012/01/23(月) 10:28:20.80
>>624>>629
現在の制度上,中卒でも国家一種試験を受けることはできます(国家一種の受験資格は年齢制限しかありません).
だから,制度上,国家一種試験に通りさえすれば中卒が事務次官になることは可能ということになります.
実際になった人がいるかどうかは不明ですが(公務員は最終学歴を公開しないので).
633 : 日本@名無史さん : 2012/01/23(月) 12:04:48.71
>>630
中華では「将軍」というのは一武官にすぎない(しかも,武官は文官よりさらに下に見られる)ので,当時の
国際外交で「征夷大将軍」などと名乗っても,国を代表する立場の者とは見てもらえない
実際,足利義満が1380年に使いを送った時は「征夷大将軍源義満」を称したため,無視された
ちゃんと対応されたのは,1401年に「日本国准三后道義」を称して遣使した時で,これによって義満は翌年,明から
「日本国王」の称号を与えられた
徳川幕府はそういう事情をよく承知していたので,朝鮮との国交文書では,将軍の呼称として最初「日本国大君」
を使用し,後に新井白石がこれを「日本国王」に改めている
634 : 日本@名無史さん : 2012/01/23(月) 16:45:51.70
>>631,633
ありがとうございます.
中国からしてみれば現在のように他の国の政治体制が分かっている上での外交ではなかったのですね.
635 : 日本@名無史さん : 2012/01/23(月) 22:14:13.14
>>634
というか,異国の使者は皇帝の徳を慕ってやってくるという建前なので,その国の実態には関心が無い.
直接の利害関係にある場合は別だが.
636 : 日本@名無史さん : 2012/01/23(月) 22:33:33.63
足利直冬について質問です
尊氏や直義は以前から庶子(後の直冬)がいるということを知っていたのでしょうか
いくら何でも出自も分からない寺の喝食を直義が養子にするとは思えません
637 : 日本@名無史さん : 2012/01/23(月) 22:44:04.21
というか,日本を掌握している人(例えば,倭寇をとりしまることが出来たりとか)を
日本代表者として認めて公式の貿易の窓口としますよってだけなんじゃにの?
足利将軍の最初の使者のときって,「将軍」だからNGじゃなくて,
それ以前に中国に使者を出した南朝征西府の「日本国王良懐」との関係が中国側では判らず,
倭寇の被害も続くので日本を掌握していると認められなかったからじゃなかったの?
だって制度の建前からいえば,中華皇帝が認めるから○○国王なんであって,現地での称号なんて単なる私称でしょ?
そりゃ皇帝とか天皇って肩書きで使者を出すと不遜だと怒るだろうけど.
日本史板,2012/01/
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【質問】 歴史に疎いので,初歩的すぎる質問ですみませんが,新撰組が称えられてる(?)理由を教えてください.
新撰組はいわば,江戸幕府を存続させようとした側ですよね.
明治維新を成し遂げた側の坂本竜馬などが称賛される一方で,新撰組も良好なイメージで扱われています.
これはなぜでしょうか?
【回答】
新撰組を善として描いた講談などもあったことはあったけど,どちらかといえば,明治・大正の頃には,新撰組は賊軍扱いだったよ.
新撰組の調査のために,今でいうインタビューを受けたある元隊士は,必死に「自分は騙されて新撰組に入ったんだ」みたいな,自己保身の証言を残している.
その頃は,新撰組の隊士だったことは,誇れることではなかったわけ.
有名なところでは,大正時代に書かれた大佛次郎の『鞍馬天狗』.
新撰組は完全に悪役だ.
それが昭和に入って,子母澤寛の『新選組始末記』などで,ようやく新撰組が再評価されはじめ,映画などでもいいイメージで描かれるようになった.
そして,新選組のいいイメージが決定的になったのは,やはり戦後.
なんといっても,司馬遼太郎の小説『新選組血風録』と『燃えよ剣』や,それらを元にした映画やドラマなどによるところが大きいだろう
.
日本史板,2012/02/07(火)
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【質問】 幕末で西国雄藩が活躍したのは,情報の入り具合が東国と違うからと思うんですが,大藩でも「長州,薩摩,土佐」などが華々しかったのに対し,「安芸,福岡,肥後」などの大藩はどうして目立たなかったんでしょう?
【回答】
明治時代に主流とならなかっただけで,別に何もしなかったわけじゃないし,個人としては活躍した人もいる.
肥後細川家の場合は,長州征伐では小倉で長州軍を破ったり,戊辰戦役では官軍に軍艦を供出したりしているし,藩士としては,横井小楠が新政府の参議として登用されている.
戊辰戦役では,他の大藩も部隊を出したりしているんだけど,そんな細かいエピソードは知られてなくて,それらの軍財を指揮した西郷隆盛とか板垣退助あたりの個人の名前しか知られていない面があると思います.
ただ,薩長土肥と違って,藩が一つの方針にまとまってなくて動きが鈍かったり,中心となる人材が早死にだったりしたので,功績もそれなりで知名度も低い.
日本史板,2012/02/21(火)
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【質問】 関が原の戦いでは,両軍合わせて20万(?)を動員できたのに,なぜ時代が進んだ幕末時代の戦は,数が極端に少ないのでしょうか?
普通に考えたら人口向上により,しようと思えば関が原並の動員が簡単に可能だったのではないのでしょうか?
【回答】
幕末の人口自体は関ヶ原の時代より増えているけど,江戸初期に増えて,あとはほぼ頭打ち.
江戸初期(元禄くらいまで)は人口も増えたんだけど,それ以降はあまり伸びていない.
wikipedianoの近代以前の日本の人口統計 という項目に研究者の諸説が載っているが,それによれば,1600年頃に元禄頃(1700年頃)約2800から2900万人.
人口が横ばいになり始めた元禄より前は,人口の変化を調べる有力な情報が少なく,関ヶ原の頃の人口が1200万程度という説もあれば,1000万未満説やら1800万ぐらい説やら,入り乱れてる.
太閤検地による全国の土地の評価高が1800万石.
だから戦国終わった頃の人口は1800万くらい……というのが昔の説.
太閤検地期の,とある村の実際の人口が分かってるけど,それによると石高の6〜7割ほどで,じゃあ全国的にそれくらいだったんじゃないかというのが,近年の説.
ただ,石高と実際の人口の両方が分かる土地はそれほど無いので,これを全国に適用できるかは疑問.
(ちなみに江戸時代に入ると,宗門改帳を使ってかなり実際の人口が分かり,それによれば……いつまで増えてたかは分からないけど(元禄か享保かそれくらい),やはり江戸後期は頭打ちになってるって速水融先生が書いてる)
室町時代後半から江戸初期頃までは,寒冷気候の時代で恒常的に飢饉に襲われてたのが,温暖化によって飢饉の少ない安定時代に入った.
それで戦国時代末頃から徐々に人口が増えたのと,江戸時代初期までの大開発時代の影響などで人口が増えた.
まあ,江戸初期の場合,開墾じゃなく治水の方がメインか.
元禄以降も干拓などで,生産力は上がっているし,人口も増えてはいるけど,初期ほどの大きな変化ではない.
それに元禄の頃から,開墾の弊害として,水不足やら洪水やら,災害が起こりやすくなって開墾が制限され始めた.
それで人口が増えにくくなったのではないかな.
つまり,江戸時代を通じて同じようなペースで増えていったわけじゃない.
各大名家の財政は悪化していて,兵士となるような階層(足軽とかの臨時雇用者)の数は,リストラで減っている.
先祖代々持っている装備も旧式化しているので,新たに高価な輸入品を買ったり,技術導入して造る必要がある.
そのためにも,お金がいるんだけど,そのお金が工面できない.
よって,あまり大量の動員が出来なかった.
財政が比較的健全だった薩長などは,その点が他の大名と比べて有利だった.
とはいえ,第1次長州征討では広島へ36藩15万の兵を集結させ,長州へ進軍させている.
【反論】
元禄に増えたのは,それまでおおまかにしかカウントしてこなかったのが,以外に江戸は多い,ということから実質石高の方にシフトして,全国規模にしてしまったから多くみえるだけで,江戸の増加率を全国にあてはまてるのは問題がある.
ただ,長いから中後半には安定や流通から,地方でもかなりの増加はあるだろうし,トータルではやはり江戸期全体で段階的に増えたとするほうが一般的だろう.
後期に頭打ちになるのも,当時の水準ではそこが一種の限界であったわけで,元禄に増えてそこから頭打ち,というのはいろんな意味でちとありえない.
小規模団体ならともかく,100年でほぼ3倍増になるということ自体が,食料,流通,住居,その他の事情からありえないだろうということね.
だから,小さな江戸府内だけなら記録にも残るように,100年で2〜2.5倍になっても,ありそうだけど,それを全国も同じで考えて元禄が一種のピーク,というのはどうだろうかという話.
ただ,これらとは違う話で,人別帳に載らなくてももっと人口自体は多いんじゃないか,という説も確かに強い.
つまり食料があれば,そこまでは増えてもおかしくはないだろうという考え方.
中国なんか今でもそうなんだけど,農村部には戸籍にのらない
or のせないという人口もかなり多くて,億に近いんじゃないかというのもあるらしい.
だから江戸期の江戸府内はかなり正確として,地方農村が少ないかどうかは別だろうと言われると,これはこれで難しいが,やはり江戸はいろんな意味で最先端だったから,カウントしてみたら意外と多かった,というだけで,地方も一気に増えたというのは疑問なんだな.
日本史板,2012/03/06(火)〜03/08(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】 土佐は山内系の上士と長宗我部系の下士がいましたが,こういう差別があったのは土佐だけでしょうか?
【回答】
武家社会の身分による差別は,土佐に限らずかなり厳しかったようです.
江戸時代はじめはそうでもなかったけど,時代が下がるにつれてだんだん厳しくなっていく.
家によって区分はは変わりますが,おおまかに上・中級武士,下級武士,奉公人と別れていて,それぞれの中では,あまり身分差はなく対等に接しているけど,階層が変わると厳しい差別があって,例えば,上・中級武士と道で会った下級武士は履物脱いで土下座するなんてのも,土佐郷士に対する特別な差別じゃなくて,結構どの藩でもあったようです.
服装や履物など身分による違いが規定されているので,遠目でも相手の身分が判るので,急ぐときなどは道を変えて通る.
一番,こまごまとした決まりが厳しいのは下級武士で,奉公人はそうでもなかったみたいです.
日本史板,2012/03/13(火)
青文字:加筆改修部分
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