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【初心者】スレッド立てる前に質問をPart27【歓迎】
目次
【質問】 古代日本において,渡来人がアイヌを駆逐していったの?
【質問】 邪馬台国=沖縄説が有るって本当ですか?
【追記】 日本に西欧のような城塞都市が無いのは,地形の問題ですか?
【質問】 長州藩の奇兵隊に,女性も参加していたということはあるのでしょうか?
【質問】 豊臣秀吉が,捕虜の目と鼻を削ぐ行為を沢山していたみたいですが,何か理由があるのですか?
【質問】 月代のあるなしの基準は何ですか?
【質問】 陸士出あるいは海大出と帝大出は,どちらが優秀だったのでしょう?
【質問】 鎌倉時代には,律令制は完全に名ばかりのものになっていたのでしょうか?
【追記】 何で豊臣秀吉は,誠意大将軍にならなかったのでしょうか?
【質問】 当時の基準で,白虎隊は悲劇なんでしょうか?
【質問】 徳川将軍家400万石でも,外様大名を敵に回すと実際は弱いんでしょうか?
【質問】 後北条が,武田征伐前の織田信長には臣従の意を示したのに,秀吉には臣従しなかったのは何故ですか?
【質問】 小田原に参陣しろとのお触れを,奥羽の大名には,どうやって出したんでしょう?
【追記】 ビル・ゲイツがあるハイスクールでスピーチした内容
【質問】 桓武天皇は,なぜ東北支配に力を入れたのですか?
** 【質問】
古代日本において,渡来人がアイヌを駆逐していったの?
【回答】
それ,旧説の派生だろ.
アイヌは縄文系とシベリア方面の住民の混血で,原日本人というわけではないはずだぞ.
それに,弥生人が縄文人を駆逐したという話そのものも,今ではほぼ否定されてる.
もともと,縄文文化と弥生文化は断絶した異文化なのか,連続性があるのか,という点では議論が分かれていた.
発掘事例が少なかった頃には,連続性を見いだすのは難しくて,まったく異なった異文化としか思えない状況だったが,
(というのも,縄文遺跡は関東から東北に多く,弥生遺跡は西日本に多くて,同一地域での変遷を追跡するのが昔は難しかった)
発掘事例を積み重ねて,地域内の文化的連続性とか,同一時代の地域差とかを分析できるようになってくると,縄文文化と弥生文化は連続性が大きい,断絶する要素は少ないと分かってきた.
稲作の導入を含む社会的変化に応じた文化的変遷が,縄文と弥生の違いの中心であって,人種差・民族差があったとは考えがたいのではないか,とまで言われるようになってきた.
縄文文化の要素の残存状況から見れば,渡来系弥生人の人数は,在来の縄文人よりも大幅に少なかったはずだ,とまで言われている.
現存DNAの分析では,縄文系と思われる遺伝子と,渡来系弥生人によって持ち込まれたと思われる遺伝子とが,ほぼ拮抗するレベルだと思われているにもかかわらず,文化の変遷からは,渡来系弥生人の人数は少なくて,日本列島の文化に目立った変化を与えるのは難しかった,としか考えられない状況となったわけ.
これでは駆逐説は成り立たないんだよ.
それと,縄文文化の衰退は,弥生人の渡来より何百年も早くに起こった事件らしい.
日本史板,2011/04/05(火)〜04/06(水)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
邪馬台国=沖縄説が有るって本当ですか?
【回答】
沖縄説ぐらいあってもおかしくないよ.
魏志倭人伝の記述通りに行くと,九州よりずっと南に出てしまうんだから.
ちなみに,おおざっぱにいって,南ではなく東に行くとするのが畿内説.
方角は正しく,距離の記述の解釈が間違っているとするのが九州説.
魏は,邪馬台国は呉の背後に存在すると誤認していた.
所在地の誤認.
だから,文献の旅程による所在地推定は不可能.
魏の首脳部が想定していた,「邪馬台国の所在地」は沖縄付近だが,実際に「邪馬台国」があった場所とはまったく違う.
それだけの話だよ.
日本史板,2011/04/16(土)
青文字:加筆改修部分
* 【追記】
842011/04/26(火) 22:21:49.94
日本には西欧のような城塞都市が無いのは地形の問題ですか?
852011/04/27(水) 21:38:06.97
大量に煉瓦を焼いて積むという技術が無いから.
862011/04/27(水) 22:44:38.05
普通の村の周りだって,戦国期にはちょっとした城壁で囲まれたりはしたんだよ.
江戸時代には破棄されたけどな.
ただ,ヨーロッパの城砦と違って石垣(や煉瓦,ってか煉瓦は作られてない.)の城壁は稀だったはず.
ただ,頑丈さという面で言うなら,煉瓦より版築工法の土壁の方が,戦時の堅牢さという点では頑丈なはず.
焼き煉瓦と違って雨で削れるけど.
城塞都市が未発達なのは,戦乱の時代が短かった点とか,
領主の密集度が高かったであろう点とか,別の原因を探すべきではないかな.
煉瓦は原因じゃないよ,どう考えたって.
872011/04/28(木) 15:56:53.57
自分は84ではないけど,日本と西欧との治安状態の違いから
という可能性はありますか?
882011/04/28(木) 18:38:58.25
>87
中世は「自力救済」の時代で,治安という意味での差は大きくはないと思う.
ただ,仲裁を担当する機関が,恒常的ではないにしろ,活発に活動していたようには思える.
要するに幕府とかだが.
(江戸時代は中世じゃなく近世で,江戸幕府のことではないよ.)
人口密度に関しては,生産性の差とかが関係するかもしれない.
小麦よりは米の方が面積あたりの収穫量が高いし.
といっても,寒冷で生産性が低い中世には,日本だって人口密度は高くはないけども,
ヨーロッパの過酷すぎる状況よりはマシだったみたいだし.
一株の小麦の穂から,せいぜい3粒ほどの種小麦しか収穫できないって,ムチャクチャだ.
よほど広域な田畑を確保しないと,都市どころか農村さえ維持できない.(農村も城壁で囲まれてます)
ということは,最も近い隣村まで徒歩で一日弱ぐらい,とかいう程度の間隔になるってトコじゃないかな?
一つの都市が束ねる農村の数を考えると,全体の人口密度はかなり低いと見てよさそう.
892011/04/28(木) 20:11:32.10
日本の場合は塀より濠だな
作るのが楽だし
水でも張られると塀より厄介だし
日本史板,2011/
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
長州藩の奇兵隊は,身分の差別なく入れたそうですが,その中に女性も参加していたということはあるのでしょうか?
また,それ以外にも何らかの理由で江戸時代に,女性が武器を持って戦ったというようなことはあったのでしょうか?
【回答】
戊辰戦争時の会津藩には,中野竹子率いる女子ばかりの娘子隊があって,薙刀を訓練し,会津攻防戦の際には会津城で防御に当たっています.
その中で,会津藩士の娘山本八重(のちの新島襄夫人)は銃を操り,薙刀の娘子隊ではなく,男性の正規軍に男装して加わり戦ったと言います.
江戸時代には武家女性で薙刀の訓練は施されていたようでしたが,専ら護身用で,男性のように銃を用いた訓練はされておらず,奇兵隊に女性が入ることもなかったようです.
山本八重は女性であることを捨てて(男装して)正規軍に加わっていたようで,珍しいことと言えると思います.
江戸時代でってことなら,島原の乱で原城に立て籠もった中には,かなり女性もいました.
日本史板,2011/05/27(金)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
豊臣秀吉が,捕虜の目と鼻を削ぐ行為を沢山していたみたいですが,何か理由があるのですか?
【回答】
朝鮮出兵のことでしたら,耳と鼻です.
武将は戦功を報告する上で,客観的証拠の提出を求められます.
武将であるならば首,歩兵以下である場合は耳や鼻でした.
戦功を決めるため,それらを持ち帰るように指示したのです.
これは日本国内でも同様でした.
秀吉の朝鮮出兵(「唐入り」と呼んでたはず)では,戦場で様々な蛮行が行われたと言われてはいますが,もともと,戦国時代の日本国内の戦場で行われていた以外の,新たな種類の蛮行はまったく行っていないはずです.
奴隷狩りなどと呼ばれてるアレだって,日本国内で恒常的に行われてたことですし.
その意味では,民族差別的なことはまったく行っていなかったことだけは確実です.
日本史板,2011/05/29(日)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
月代のあるなしの基準は何ですか?
時代によるでしょうけれど,徳川家茂はなかったですが,慶喜はありました.
2人とも若かったのに.
ただの好みの問題だったりするんでしょうか?
【回答】
剃ってないのは「元服していません」って意味.
今で言えば「未成年」ってこと.
ただ,現代と違って,年齢で一律に元服するわけじゃなくて,職業や身分によっては年齢を重ねても元服できない.
「童形」ってんだ.
偉い人の側に仕える人とかにも,よくある.
そういう人は名前も,「実名」や「仮名」でなく「童名」で呼ばれるんだよな.
戦国時代だと,「蘭丸」とかがこれ.
家茂は,元服しているから,普通に月代を剃っていたはずだが,幕末も押し迫った時期になると,殿様や上級武士でも総髪の人が増えてきた.
幕末の大名,幕臣,一般武士の写真をいろいろ見ていると,文久期の竹内使節団の写真あたりまでは,ほとんど月代を剃っているが,池田使節団になると正使の池田長発自身が総髪だな.
慶喜も,一橋慶喜として禁裏守衛総督とかやってた頃は月代を剃っているが,将軍になってからの写真(和装もフランス式軍装のも)は総髪だ.
勝海舟だって,軍艦奉行という立場上,月代剃ってないといけないのに総髪だし,文久期以降はけっこう緩くなってたのかね?
でも,小松帯刀は総髪するために,藩に総髪願いを届けていたというから,幕臣とか藩士の場合は,そういう手続きは必要だったんだろうな.
家茂は,遺骨が発掘されている
http://www.elph-studio.com/shougun.html
が,頭髪が残っており,ご覧の通りの総髪だ.
家茂の場合は,病気で月代剃るのをやめたのと,当時の流行の両方かも.
日本史板,2011/06/06(月)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
陸士出あるいは海大出と帝大出は,どちらが優秀だったのでしょう?
【回答】
陸士出とか海大出だと,普通は軍人になるから,軍以外で優秀な人材が育つかどうかを,確認できる機会は少ないだろう.
逆に,帝大出で軍人になる人間が居たとしても(そういうルート自体はある),陸士出とか海大出の士官ほど役には立たなかったことは間違いないだろう.
なんせ,軍事に関する知識が足りんから.
ただ,学生の間の生活費を,自力で工面する必要がある帝大より,見習い(?)とはいえ,軍人として給料をもらえる陸士とか海大のほうが,優秀な人材を募集する上で有利だった可能性はある.
逆に,高度に教育を受けた成績優秀な生徒ってのは,たいていの場合,ある程度は裕福な生活をしている場合が多いわけで,そういう出自であれば,在学中の生活費が大きなハンデとなる学生は,少数派だったかもしれん.
結論:
陸士出とか海大出の人間で,高名な学者となった人は稀,ほとんどいない.
他方,帝大出の人間が軍人として出世することも,主に能力面で困難.
(人脈/学閥的にも困難だが)
それぞれの専門分野内では,それに合った学校を出ている方が優秀.
相手分野に入ると役立たず(の場合が大半だが,稀にはたぶん例外が居るはず?)
日本史板,2011/06/09(木)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
鎌倉時代に入って,武士がそれまでの公家に代わって,日本を統治するようになったと思いますが,その頃の公家には既に,全国を実際に統治する実務的能力は無くなってしまっていたのでしょうか?
律令制は完全に名ばかりのものになって,公家も儀式だか書類の決済だかしか出来なくなっていたのでしょうか?
【回答】
「鎌倉時代に入って,武士がそれまでの公家に代わって,日本を統治するようになった」
という話が通用したのは,20世紀半ば頃の話らしいですよ.
鎌倉幕府が支配したのは,東国武士を主体とする御家人達だけで,それ以外の武士とか,武士以外の人々を支配したわけではありません.
鎌倉幕府の威光は,西国には届かなかったらしいです.
どんなに贔屓目に見ても,鎌倉幕府が全国支配をしたと言えるのは,元寇における非常事態を口実に,幕府が総動員をかけられる体制が取れるようになってから.
しかも,それもなし崩し的だったから,今まで幕府の支配を受けていなかった武士や領主たちの反感が強く,討幕勢力の一要素となった.
律令制そのものは,細部で様々な変質をしつつも,生き残っては居ます.
武士の世になっても,律令制度自体は廃止になっていなかったので,たとえば朝廷が派遣する国司はずっと任命されていました.
しかし,平安時代末期の院政期には,国司が実際には任地へ赴かないなど形骸化し,鎌倉時代の関東では,守護地頭の台頭により税金を集められない事態となり,室町時代以降は赴任しない,名誉職のようなものになってしまいました.
関東諸国のうち1/3ぐらいにあたる国では,幕府有力者が国司となることが予約済みで,幕府からの申請で国司任命される制度となっていました.
ということは逆に,幕府にとっても国司の地位は魅力的だったとも言えます.
また,鎌倉時代には,幕府に職制は守護にせよ地頭にせよ,幕府によって臨時で作られた特殊制度で,律令によって公的に設置されたとは認定されていませんでしたが,建武政権が国司と守護を併設した結果,守護という職務も律令のうちと(令外官の一種と)認定されるようになったのか,鎌倉時代よりも守護の権限が大幅拡大しました.
その結果,多くの国で,国司が守護に職務代行を頼む(もちろん,高額の手数料が発生する,ようなものです)「守護請け」が普及しています.
(守護請けが早くに行われた例は,鎌倉時代末期にも見られますが,普及はしていません.)
律令官制を積極的に否定する動きが明確に打ち出されたのは,戦国時代の「分国法」が最初と言った方が適切でしょう.
今川仮名目録などが,この点では代表格でしょうか?
戦国大名には,実際に朝廷から官位を受けてなくても,○○守を称する者までいました.
実際に国司が完全に廃止されたのは,明治維新の時です.
日本史板,2011/06/12(日)〜06/13(月)
青文字:加筆改修部分
* 【追記】
3392011/06/19(日) 00:45:05.69
何で豊臣秀吉は,誠意大将軍にならなかったのでしょうか?
農民出身地だから資格なしなの?
仮に豊臣秀頼が征夷大将軍だった場合,
石田と徳川が争って徳川が勝っても,
もはや徳川が豊臣よりも上に立つ事は不可能?
3412011/06/19(日) 02:10:25.62
>339
東国に領地を持ってなかったから資格無し.
東国に領地を持つようになった(といっても東海地方だけだったか)ころには,
征夷大将軍より上位の(=官位が高い)関白に就任していたから,
「いまさら征夷大将軍になっても... 」という状態だったと思われ.
もし秀頼が征夷大将軍だったら徳川が征夷大将軍になるのは無理だっただろうと思うが,
(秀頼が征夷大将軍の地位を降りないとダメなはず),
征夷大将軍への就任には元服済みという要件があったから,
秀吉の生前に秀頼が征夷大将軍になるのは無理.
まあ,その場合でも,関ヶ原の戦勝後に秀頼を将軍から別の職に栄転させる形を取れば,
徳川が将軍職を得る道はあるかもしれんけど.
ヘタなことすると豊臣恩顧の大名達が徳川と敵対する危険があったからねえ.関ヶ原直後までなら.
3422011/06/19(日) 02:39:32.01
良くわからんが
北条を倒して,その後関東一辺も支配下においたんじゃないの?
徳川自体,豊臣直下だし
もし東国うんぬんだったら織田信長も資格なし?
あと足利尊氏は東国支配してたんだっけ?
3432011/06/19(日) 02:52:26.03
>>342
足利氏の本領は上野じゃね.あ,間違えた下野じゃね.
3442011/06/19(日) 08:03:57.96
>>341
>征夷大将軍への就任には元服済みという要件があったから,
>秀吉の生前に秀頼が征夷大将軍になるのは無理
どうでもいいが,秀頼は秀吉の生前に元服しているよ.
わずか4歳で禁裏において元服し,それまでの幼名からいみなの秀頼と称して,
従三位左中将に就任している.
従三位左中将は摂家の嫡男が元服時に受ける官位であることから,
秀吉が豊臣家は摂家であると認識していて秀頼を摂関にしたかったことが分かる.
ちなみに時代は下がるが江戸時代には8歳で征夷大将軍になった徳川家継がいるよ.
3452011/06/19(日) 13:42:46.75
>>344
8歳は家継が死んだ年齢
家継は2歳で将軍職を継いで,その後,霊元法皇の皇女を降嫁させる話まで決定している.
3462011/06/19(日) 15:06:58.08
>>345
徳川家継が将軍になったのは6歳だな
2歳の段階ではさすがに父も異母兄も生きてるよ
1709年(1歳)将軍家宣の四男として生誕
1712年(4歳)父将軍徳川家宣死亡
1713年(5歳)元服して家継と名乗る・征夷大将軍就任
1714年(6歳)八十宮吉子内親王と婚約
1716年(8歳)吉子内親王と結納・死亡
3472011/06/19(日) 15:11:43.70
>342
秀吉が将軍位に垂涎してたころは北条どころか家康も敵対的だった.
家康を屈服させ北条を滅ぼした頃には関白職に就いてたから,将軍位なんてどうでも良くなってたのではないか.
信長の場合,武田を滅ぼして甲斐と信濃と上野を支配し,
しかも北条を始め関東諸将を従属させていたから,「東国支配の実質」という要件を満たした.
その直後に「三職推任」問題が出たわけだから,将軍就任は十分に可能だった.
武田を滅ぼしたことで将軍職に就任できるようになったと考えていいんじゃなかろうか.
尊氏が征夷大将軍になったのって,中先代の平定後だし,
安定支配には時間が必要だったとはいえ,東国支配はしてたはずだ.
将軍就任後にも東国支配が途切れたことがあるだけで.
幼少の将軍は江戸時代になって初めて出現したんだろ.室町時代までは,そんなことはできていない.
幼児が元服するという特殊な例は秀頼まではさかのぼれるのか.
3482011/06/19(日) 15:28:39.06
>>347
鎌倉幕府の4代将軍,九条頼経は将軍として迎えられたとき2歳.
8歳で元服して将軍になっている.
足利義勝(室町幕府第7代将軍)も9歳で将軍になっている.
その弟の義政も8歳で将軍に…選ばれただけで就任は元服後か.
3492011/06/19(日) 16:31:23.78
そもそも今から幕府開きまーすって宣言したわけじゃないかな.
誠意大将軍がいる政権を幕府と称してるだけだろ?
だから鎌倉幕府は1185年には支配は確立してたかもしれんが,やっぱし1192年開始が正解
秀吉が誠意大将軍にならなかったから,幕府を開けなかったというのは違うのでは?
3502011/06/19(日) 16:56:52.27
>>347
もうあんたいい加減ウザいからコテ付けてくれよ.そうすりゃNGに出来るからさ.
3512011/06/19(日) 17:28:34.43
この話をやりだすとキリがない.
平安時代における『幕府』は『近衛大将が私的な政治を行う場所』の意味.
頼朝が右大将になったのは1189年だが,この年を採用する人はいないな.
征夷大将軍になることと,それ以前から認められていた守護・地頭を任命する権利,東国の支配権etc...
及び頼朝が武家の棟梁であるという事実などなどが融合して,
『征夷大将軍は武家の棟梁であり,幕府を開いて武士を支配できる』という既成事実ができあがった,
と捉えるのがおおむね妥当なんじゃないかと思う.
ちなみに鎌倉・室町時代は『将軍の居場所』を幕府と呼んでおり,
『政権』のことは鎌倉殿とか室町殿と呼ばれていた.
江戸幕府は,政権自体が幕府と呼ばれている.
3552011/06/20(月) 08:48:31.92
>>351
奈良時代〜平安時代初期の征夷大将軍はもとより,鎌倉幕府以降でも,
護良親王は征夷大将軍になっても幕府を開かなかったからね.
南朝で征夷大将軍であったという宗良親王も同様.
征夷大将軍と幕府はやはり別物だろう.
むしろ,初めて幕府を開いた源頼朝が征夷大将軍(蝦夷征討軍の長官)だったので,
以降,幕府を開きたい武将が過去の例を踏襲(源姓を名乗る・征夷大将軍を受ける)
したにすぎない.
3562011/06/20(月) 10:22:08.05
>>354
秀吉は当初征夷大将軍になりたかったが足利義昭が断ったので
なれなかったという大河の話は後世の作り話だよ.
実際に秀吉がそのような要請をしたという当時の記録は全くない.
3872011/06/23(木) 21:49:34.71
>>385
九条頼経が正式に将軍になったのは元服後でそれまで北条政子が義時の補佐を受けて将軍の職務を行っていた.
政子が正式な将軍でもないのに「尼将軍」と呼ばれる一因はそこにある.
とは言え,元服を早めて官職に就けることは公家社会,特に摂関家では行われていたので不可能な話じゃない.
実際に実朝の時には元服と任官が同時に行われた.勿論,当時の京都と鎌倉でそういう同時プレーは無理なので,後鳥羽上皇が「実朝」の諱を与えることで実質元服扱いをした.
日本史板,2011/
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
自分は東北の人間なんですが,白虎隊の悲劇を教え込まれても納得できません.
当時の基準で,白虎隊は悲劇なんでしょうか?
【回答】
一般的な見解だが,全体の8割は生存.士中2番隊の自刃は,出典がかなり不確かで,フィクション性が強い.
「飯盛山の自刃」を証言しているのはお爺さん一人で,確証は一切ない.
あと,元服済みで,当時としては少年ではない.
ただし,自刃がフィクションだとしたら,じゃぁ何で死んだのか?という疑問が残る.
あの場所で官軍と切り合った訳でも無ければ,瀕死の重傷でたどり着いた訳でもない.
ただ,あの時点で自刃したのだとしたら,それは若さ故の思い込みで先を悲観したからで,その判断自体は間違いだった.
指揮官とはぐれてしまったのが,悲劇を招いた.
こういう事はママある.
一方,規模にして会津の1/2以下の二本松は,15歳はすでに正規軍.
13〜14歳の少年隊も編成され,そのすべてが,戦死または負傷して終戦をむかえた.
戦後,若者8割以上が生き残った会津と違って,二本松藩は,若者が戦闘の中で殆ど戦死,又は負傷者になっていて,復興どころじゃなかった.
ちなみに会津藩は,二本松藩からの援軍要請を断ってもいる.
日本史板,2011/06/22(水)
青文字:加筆改修部分
+++
** 【質問】 ゲームを元にした話題で申し訳ないんですが,幕末の各藩の石高を元にしたシミュレーションゲームのシナリオをすると,将軍家がすぐに滅んでしまうんですが,徳川将軍家400万石でも,外様大名を敵に回すと実際は弱いんでしょうか?
400万石といっても,関東に集中してるわけではなく,日本全国に飛び地として分散してますし.
【回答】
本来なら,幕臣である譜代大名とか一門衆である親藩大名は,外様大名との戦いの場面では幕府に味方するものなんだよ.
譜代大名とか親藩大名の石高も足し合わせたら,400万石どころじゃないでしょ.
もっとも.幕末の政治情勢では,幕府に味方しなかったヤツもいたけどね.
そうそう,江戸時代に入ってからの開発,石高増強で生産高を増やした度合いが,幕府側よりも外様の方が大きかったっぽいので,パワーバランスが崩れてはいるよ.
それと.江戸や大坂などの大都会の周りは人口が停滞していたが,大都会から遠い辺境部は,江戸時代後半にも人口が伸びてたんだ.
長州とか薩摩とかね.
都市部は出生率が低くて,周辺からの人口の流入によって支えられた側面があって,大都市は人口を飲み込む規模が桁違いだったから,周辺数カ国もの広い範囲で人口が停滞(微減)した.
日本史板,2011/07/05(火)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】 後北条が,武田征伐前の織田信長には臣従の意を示したのに,秀吉には臣従しなかったのは何故ですか?
【回答】
織田信長に臣従の意を示した当時の後北条は,関東での戦況が劣勢で,かなり苦境に立ってたからという点もあると思う.
それと.後北条側の目算として,織田が自分たちを抹殺しようと考える可能性を,考慮する必要がなかった,
今後,織田の勢力が伸びてきても,自分たちの勢力がこれ以上は衰退することはないと考えられた点があるのでは.
秀吉時代には,全国統一を目前にした秀吉が後北条氏を抹殺する危険,だまし討ちで首を取られる危険が無視できなくなっていた(要するに疑心暗鬼?)から,秀吉側の要求を呑むのが難しかったんだと思う.
後北条氏の当主みずから京都に赴いて,臣従の態度を明確にすることが要求されたから
…じゃないかな.
ちなみに,秀吉の北条攻めの直接の原因は,北条家に属する沼田城代が,真田家の名胡桃城を攻撃したこと.
北条にしてみれば,その辺りはうちの縄張りという意識があったし,これぐらいで秀吉も怒らないだろうと,甘く見ていたのかもしれん.
が,秀吉はすでに関東奥羽総無事令を発していた.
つまり,関東や東北の大名たちに,天下人たる秀吉の許可なく勝手に戦をするな,という命令で,北条のしたことは明白な違反,
それで秀吉はこれを北条攻めの口実とした.
日本史板,2011/08/17(水)〜08/18(木)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】 他のスレッド(南部氏)で小田原参陣の話が出たんですが,奥羽の大名に参陣しろと,どうやって触れを出したんでしょう?
もしかして勝手に京都で宣言して,知らなくて来れなくても不可で,所領没収みたいなスタンスだったんですか?
【回答】
そんな一方的に宣言する訳無いでしょ.
手紙を持った使者が行ってる筈.
奥羽の大名といっても,中央(京都)との連絡なしに完全自立・独立してたわけではなく,いくらかではあるが,連絡体制があった.
実際,本能寺以前の織田政権の頃にも,滝川を通じての連絡が成立していた.
小田原攻めのときは,ほとんどの大名は上杉を通じて連絡を取った.
というのも,関東以北の諸大名の大半は,上杉もしくは北条のいずれかと交流があったから.
上杉と交流が無く,北条のみと交流があった大名に対しては,徳川を通じて連絡した模様.
日本史板,2011/09/05(月)
青文字:加筆改修部分
** 【追記】 ビル・ゲイツがあるハイスクールでスピーチした内容
7012011/09/09(金) 22:42:40.19
ビル・ゲイツがあるハイスクールでスピーチした内容
1 人生は公平ではない.それに慣れよ.
2 世界は君の自尊心を気にかけてはくれない.
君の気分に関係なく世界は君が仕事を終わらせることを期待している.
3 高校を出てすぐ6万ドルの年収を稼ぎはしない.
携帯電話(当時は高かった)を持った副社長にもならない.自分で両方を稼ぎ出すまでは.
4 先生が厳しすぎると思うなら,上司を持ってみろ.
5 ハンバーガーを引っくり返すということは沽券(こけん)にかかわることではない.
君たちの祖父母はハンバーガーを引っくり返すことを別の表現を使った.
それはチャンスと呼ばれた.
6 君が失敗したらそれは両親のせいではない.文句を言わずに学べ.
7 君らが生まれる前は,君らの両親は今のように退屈な人たちではなかった.
そんな風になったのは,君らのために支払いをし,服を洗い,
君らがどんなにいけてるか,という自慢を聞いているうちにそうなったのだ.
親の時代から生存する寄生虫から森を守る前に,自分の洋服ダンスのダニ駆除から始めよう.
8 学校は勝者・敗者を決めなくなったかもしれないが,人生は違う.
学校によっては君が落ちこぼれないようにしてくれたり,
正しい答えが導き出せるまで,何度でも機会をくれる.
実際の人生とは全く似ても似つかない.
9 人生は学期ごとに分けられていない.夏休みは無いし,
ほとんどの雇用主は君が自分を見出すことに興味を持たない.それは自分の時間にやれ.
10 テレビは本当の人生ではない.
現実では,人は喫茶店にいつまでもいられるわけはなく,仕事に行かなくてはいけないのだ.
11 オタクには親切にしよう.彼らの下で働く可能性が高い.
日本史板,2011/
青文字:加筆改修部分
** 【質問】 桓武天皇は,なぜ東北支配に力を入れたのですか?
桓武天皇の東北支配について教えてください.
なぜ東北支配に力を入れたのかを調べたのですが,分からなくなりました.
自分ではというか,何かで見たのですが,
墾田永年私財法で口分田が自由に手に入るように
→土地足りなくなる
→新たな土地を開拓するために東北支配を狙う
という流れかと思っていました.
しかし色々と調べてみると,平安京から見て東北側が不吉なために蝦夷を討伐しようとした,という説をいくつか見ました.
どちらがより正しいのでしょうか?
中学生に教えるなら,どちらで教えるのがより妥当なのでしょうか.
【回答】
当時の奥州では,伊治呰麻呂の乱(780年)以降,反乱が続いていたんだから,鎮圧するのは当然.
呰麻呂の乱の頃は,多賀城辺りまでしか支配が及ばなかったし,その支配力も十分なものでは無かった.
だから,多賀城周辺の豪族である呰麻呂の反乱で,あっさりと多賀城が落ちる事態となり,朝廷の権威は失墜した.
それが呼び水となって,各地で蝦夷の反乱が起きた.
これを放置すれば,勢いに乗った蝦夷が南下してくる可能性だってある.
やがて,蝦夷方には英雄・阿弖流為が現れ,征夷大将軍田村麻呂がこれを制圧するのに,802年まで掛かった.
日本史板,2011/09/11(日)
青文字:加筆改修部分
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