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 ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.

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※レス回収基準は「Ver.5」


【初心者】スレッド立てる前に質問をPart26【歓迎】

目次

 【質問】 テレビドラマのように,年貢は百姓に相当な負担だったのでしょうか?

 【質問】 江戸幕府は家康以前の松平家の墓や菩提寺は,どういう扱いをしたのでしょうか?

 【質問】 各地の藩において給与ではなく領地をもらっていた藩士は改易のとき,どういう風に扱われたのでしょうか.

 【質問】 鎌倉幕府の財源は何だったのでしょう?

 【質問】 承久の乱の後,後継天皇は幕府が選んだの?

 【質問】 戦前の右翼団体の名前,○○社ってのの「社」という漢字には,何か意味があるのでしょうか?

 【質問】 幕末当時の龍馬の認知度って,どんなもんなんでしょうか?

 【追記】 以前は「足利尊氏」の肖像とされていた「騎馬武者像」,今では高師直との説が有力みたいですけど

 【質問】 滝川一益は「たきがわいちます」と「たきがわかずます」,どっちが正しいんですか?

 【追記】 戦場で敗北した時点で,普通は切腹にはならない.

 【質問】 楽市楽座の目的は何だったのでしょうか?

 【質問】 日本の政治権力が公家から武家に移りつつあった時代,公家自身が武装し,自らの直轄軍事力を持とうとしなかった理由は何でしょうか?

 【追記】 保元の乱で上皇方に付いた武士達ってみんな摂関家の家臣だったみたいでね.

 【質問】 何故,大和朝廷以来,時の政権は,北海道まで植民しなかったのですか?

 【質問】 本能寺の変の時に秀吉と毛利が講和してますが,備中国の所属は誰に決められたのでしょうか?

 【追記】 唐も日本を冊封してたんだぞ

 【質問】 「天皇が存在する限り朝貢ではない」という説があるそうですが?

 【追記】 ちうか効率的に収奪するノウハウを知らなかったもんだから,今で言う過疎地域の振興対策と同じようなやりかたやっちまったんで

 【追記】 赤軍派 田宮クマ麿

 【質問】 何故,1000年以上も京都は,「首都」とされ続けたのでしょうか?

 【質問】 幕末の志士たちって,古事記とか日本書紀とかのをまるっきり史実だと思ってたの?

 【質問】 源頼朝の流刑地が伊豆になった理由は,なんなのでしょうか?


 【質問】
 テレビドラマ等を観ていると,年貢というのは百姓に相当な負担を課したというイメージがあるのですが,実際はどうだったのでしょうか?
 また,野菜などの収穫はどうなるのですか?
 当時の百姓は米作以外,してはならなかったのでしょうか?
 米作は義務づけられていたのですか?

 【回答】
 確かに,高負担でしょうね,
 領主側としては出来る事なら,百姓の存続に必要な分以外は,年貢に欲しい.(家康の言葉に代表)
 それでも,百姓の中には商品作物を植えたりして,経済力を持つ者もあらわれ,従来の年貢の仕組みでは,取りたくても取れない状況へ,(神尾若狭の言葉に代表)
 でも,豊作〜並作であれば,良いのだけれど(上にも書いた方が居るが,)飢饉の時には大変なことに...

 当然,畑方にも年貢は掛かる.
 その多くは金納で,「夏成金」とも.
 まあ,年貢の仕組みなど地方支配については,「地方凡例録」あたりを読むことをお勧めしたい.

日本史板,2010/09/19(日)
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 【質問】
 徳川家の話ですが,家康が神格化されて奉られるのはわかりますが,江戸幕府は家康以前の松平家の墓や菩提寺は,どういう扱いをしたのでしょうか?
 また,松平家の本家は江戸幕府の時代になっても,万石どころか数百石という領地だったのは,何かわけがあるのでしょうか?
 徳川家の本家筋なら,最低でも万石になってもおかしくないと思いますが.

 【回答】
 三河に浄土宗のお寺があります.
 家康時代に,一向宗(浄土真宗)門徒が多数だった部下へ,一向一揆からの離脱と,家康への忠誠を望む目的で,寺に家康の援助が与えられ,菩提寺ともなりました.
 あそこに(概念上の)初代からの位牌とかあったと思います.

 あと,松平家は家康のお祖父さんが,一代で三河を席巻した人で,それ以前の先祖ははっきり言って(後世にものすごく立派な家系図が出来ましたが)不明確です.
 本家云々も,家康の天下取り以降に探され,編成され,権威付けられたものですので,

 家康の三河時代は,彼のお祖父ちゃんの武勇伝しか,彼を三河の領主とする根拠は存在しなかったわけです.

 他方で,異父弟を関宿藩や桑名藩に封じていますから,家康にしてみれば,イトコよりも大事な人達がいたということです.
 今川氏真から独立する上で,異父弟達が人質になったりと,重要な役割を担いました.

日本史板,2010/09/22(水)
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 【質問】
 【回答】

65: 2010/09/24(金) 21:25:08
江戸時代に行われた改易についての質問です.
各地の藩において給与ではなく領地をもらっていた藩士は改易のとき
どういう風に扱われたのでしょうか.
自領はそのまま残ったのでしょうか.そのばあい,新しく入ってきた
支配者に再雇用という形になったのでしょうか.
それとも支配は受けないけど領地はそのまま認められるのでしょうか.


66: 2010/09/24(金) 21:30:55
御附家老みたいなものは外様の藩にはいない


67: 2010/09/24(金) 21:45:30
当然,没収される.
なぜなら,その所領自体が改易された大名家のものだから.


68 : 65 : : 2010/09/24(金) 21:50:20
>>66
ちょっと質問がまずかったみたいです.
聞きたかったのは土地の所有権というのは改易のときどういう風に
あつかわれたか?ということです.知行というかたちで藩から土地をもらっていた人は
その藩が改易されたときそれをとりあげられてしまうのか?ということが気になったのです.
もし自分の土地がそのまま認められるならそのひとはどういう扱いになるのか
藩士ではないけど土地の支配権は残るのでしょうか?



69: 2010/09/24(金) 21:54:15
>>67
リロードがまにあわなかったみたいです.
なるほどありがとうございます.
でも個々の農民が耕作している土地はたぶんそのまま耕作し続けられますよね?
庄屋階級はどうなるんでしょうか?ここら辺の身分の人間のあつかいは
どうなるのでしょうか.


70 : 65,69 : : 2010/09/24(金) 22:05:55
結局知りたいのは土地の所有権というはどういう扱いをうけるのか?
という問題なのです,農民だけでなく商人も土地を持っているわけですよね.
これが改易でどういう影響を受けるのか?ということに疑問を持ったわけです.
ある意味土地の所有権は誰が保証しているのか?ということです.


71: 2010/09/24(金) 22:37:52
そもそも土地の所有権という概念が日本で用いられたのは,明治の地租改正のあと.
武士がもっていたのはその土地を支配する権利,庶民がもっていたのはその土地を使用する権利であって,どっちも所有する権利ではなかった.


72: 2010/09/24(金) 22:42:46
では土地の売買は何を取引していたのでしょうか?


73: 2010/09/24(金) 22:59:57
>>71
では使用権の売買をしていたとするとそれは改易によってどのくらい影響をうける
のでしょうか?これってすごい行政的には問題になりますよね.


742010/09/24(金) 23:00:37
>>65
主家である大名に従って引っ越さざるを得ない
おおむね引っ越し先で,旧領の規模に比例するようにして再配分を受けるんじゃないか.

>>69
庄屋は大名に連れられて引っ越さざるを得ない武士身分を離れて農村に固定する道を選んだ人なので,
武士と違って新しく来た大名の元で働くことになる
が,織豊期の改易時には庄屋も入れ替わる例が少なからずあったらしい.
そのころはまだ,庄屋と武士との区分が不明瞭だったからだろう.

>>70
所有と領有が区別されたということだと思う.


75: 2010/09/25(土) 00:29:08
>>72
>では土地の売買は何を取引していたのでしょうか?
その土地に対する権利だよ.
中世で言う「職(しき)」だよ.
中世には重層的に一つの土地に4〜5人は職を持っている人がいたから,領主が直接耕作している農民から徴税できなかった.
秀吉は検地でその中間搾取を排除して,耕作者の権利を保証した代わりに領主に直接納税させた.
今でも,法律で農地の売買には厳しい規制があるから,農地の名義は「売買」せずに耕作権を売買することが多い.
役所で働く香具師に聞いた話では,公共事業で土地を取得するときは,所有者と実際に使用している地権者両方の了解を得ないと行けないから大変だそうだ.

日本史板,2010/
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 【質問】
 すいません,教えてください.
 鎌倉幕府の税制についてです.
 御恩と奉公という形で,土地の所有権を保証して軍役を課すほかは,土地からの収穫物は幕府に納める必要はなかったのでしょうか?
 地頭に収奪の権利を保証しますが,収奪物は幕府に入ってきたのでしょうか?
 収奪という言葉は適切ではないと思いますが,今他の言葉が見つかりません.
 幕府の財源は何だったのでしょう?
 有力御家人に土地保証をすることだけで,政務などの立場につかせて働かせたのでしょうか?

 【回答】
 必要はあった.
 幕府の行事・公事費用や番役の為に.
 「関東御公事」という武家役.
 いわば政所の維持費だが,賦課・統轄は,当然政所自身が行っていた.

 土地からの収穫物は地頭を経由して,荘園領主のものになる.
 そこには幕府の取り分はない.

 幕府の収入は,関東御分国(将軍の知行国)と関東御領(将軍を荘園領主とする荘園).
 そもそも,幕府とは将軍家の家政機関.
 従って,将軍の分国や荘園などの私領が財政基盤.
 鎌倉幕府は政治的に全国を統治していたわけではないので,その程度でも間に合った.
 寺院の造営など,巨額の出費が必要な時は,段銭と呼ばれる臨時の税を,任意の数ヶ国に課した.
 作事普請の類は御家人が直接払ったりすることもあったようだが,これは建築主の寺社と施工主の業者が絡むことなので.普通は段銭徴収.
 室町幕府は頻繁に段銭を課したので,実質上恒常的な税となった.

 もしこういう負担がなくて,将軍や得宗家の私領だけで賄えてたのなら,元寇の後でも,幕府は大して困らず,御家人の困窮が加速することもないんであって.

 あと,中世の「イエ」ってのは,現代社会で言えば会社組織のような,法人のような役割を持ってるから,個人資産とか個人収入と思って理解すると勘違いの元.

日本史板,2010/11/09(火)〜11/10(水)
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 【質問】
 承久の乱の後,後継天皇は幕府が選んだの?

 【回答】
 少なくとも形式面で見る限り,幕府軍の乱入・乱暴を避けたがった朝廷の全体意見によって,幕府との対決を主張していた後鳥羽廃立と,近臣の処断を先におこなっておいて,幕府の介入を最小限にしようとした.
 ついで,後継天皇の決定に際し,幕府の要望を受け入れた.
(当時の都人たちは関東の人を,禽獣のごとく思って恐れてたから)

 といっても,このとき皇位継承権がある皇族に,後鳥羽による倒幕に荷担していない人物が少なすぎたから,ほとんど選択の余地はなかったみたいだけどね.

 むしろ,この数十年後の,次の継承問題が深刻だったのではないかと.

日本史板,2010/11/16(火)
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 【質問】
 戦前の右翼団体の名前を見ると,○○社ってのが多いと思うのですが,この社という漢字には何か意味があるのでしょうか?
 また,○○社の代表名は社長になるの?

 【回答】
 秘密結社の「社」.
 社稷の「社」.
 牛の耳から血を啜って,盟約を結びます.
 秘密儀式は血盟といって,家畜を犠牲にする祭祀であり,地縁・血縁が無いものが新たな縁を結ぶものです.
 代表者は,領袖でも頭袖でも,そこの用語で呼ばれマチマチ.

日本史板,2010/11/22(月)
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 【質問】
 当時の龍馬の認知度って,どんなもんなんでしょうか?
 名前は知られていたのかもしれませんが,数ある倒幕派の連中の1人としてしか認識されてなかったのか,それとも西郷や木戸なんかと並ぶ超重要人物で,幕府側からもビッグネームとして知られていたのか?

 あと,龍馬伝なんかを見てると当然,龍馬に焦点を当てて,めちゃくちゃ活躍してるようにみえますが,実情は彼の功績というか,他の人たちと比べても傑出した活躍だったのでしょうか?
 維新三傑にも名前がないし,少なくとも明治初期はどう思われていたのかな?と.

 【回答】
 坂本龍馬及び中岡慎太郎は,討幕側からは,結構知られた人間だったと思います.
 特に第2次長幕戦争以降,土佐藩が薩長側に急接近した時からの扱いは,土佐藩内では,土佐藩首脳と同等のものでした.
 土佐藩の後藤らは,坂本・中岡の薩長同盟締結などの功績を,土佐藩の功績とするために,両名を土佐藩代表のような存在に仕立て上げていました.

 一会桑側からはどうだったかと言うと,寺田屋で書類を押収するまでは,小者扱いだったかもしれません.
 しかし元会津藩公用人の手代・木直右衛門の証言によると,薩長の連合を謀り,土佐の藩論を覆し,倒幕に一致させた罪状で討ったというものなので,暗殺時には「重要人物だから狙った」という認識があったようです.

 大政奉還時や三条辻高札事件で,京都の一会桑政権関係者に何度も面会しているので,京都の一会桑政権内では,龍馬の顔を知っている人間は結構居たと思います.

日本史板,2010/11/28(日)
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 【追記】

3792010/12/08(水) 10:05:01
以前は「足利尊氏」の肖像とされていた「騎馬武者像」,
今では高師直との説が有力みたいですけど
そもそも,あの肖像画が足利尊氏とされていた根拠は何なのですか?



380: 2010/12/08(水) 17:29:24
肖像の上方に尊氏の花押が書かれているんですよ.
で,肖像も尊氏かなあ,と.

しかし,似た肖像+花押の絵で,肖像の人物と花押の人物が一致した例がない.
むしろ上司と部下の例ばっかり.

だから,尊氏の第一の部下というと高師直あたりかなあ,と.

3812010/12/08(水) 17:56:47
そもそも供養用の掛け軸なんですよ
死んだ人の肖像を掲げて,その前で手を合わせるわけです.

で,足利尊氏が供養するような自分より前に死んだ第一の部下というと,
高師直や高一族を第一に挙げるということになるわけで.

日本史板,2010/12/
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 【質問】
 滝川一益は「たきがわいちます」と「たきがわかずます」,どっちが正しいんですか?

 【回答】
 昔の文献にはルビなんてふっていないのだから,今となっては,どちらが正しいかなんて確認のしようがない.
 かなでたまたまその名前が書かれた,新たな文書でも発見されるか,タイムマシンでも発明されない限り,どちらが正しいかなんてわからないよ.

 ただし,「同じ読み方の当て字で書いた事例」ってのが参考になることもある.
 それによって読み方が判明する人物は少なくない.
 たとえば幕末の伊東甲子太郎は,そのままでは「きねたろう」なのか「かしたろう」なのかわからないが,「樫太郎」と書かれた文献もあるので,「かしたろう」が正しい,と分かる.

 それでも分からない人の方が多いので,そういう場合は憶測に頼ることになる.

 あと,偏諡で主君(など)の文字をもらっている事例で,主君または家臣の読み方が判明すれば,そのグループ内で当該文字の読み方が同じ.とか.

 現代の小説では,読み方の難しい人名には,ルビをつけないといけないし,ましてセリフで名前を呼ぶ映画やドラマなどでは,名前の読み方を決めないわけにはいかない.
 だからその作品ごとに,作家やシナリオライターの趣味で,どちらかに決めている.
 特に根拠があるわけじゃないよ.

 余談だが,角田文衛だったかが,
「平安時代の女性の読み方を音読みするのはおかしい」
と,藤原定子(ていし→さだこ)・藤原彰子(しょうし→あきこ)と読み方を変えて,物議を醸したことがあった.

日本史板,2010/12/11(土)〜12/12(日)
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 【追記】

4042010/12/13(月) 18:06:53
戦場で敗北した時点で,普通は切腹にはならない.
和睦でもない限り平和な帰還はありえず,相手に首を取られてお終いだ.
あるいは雑兵なら一生奴隷暮らしになったりする.

そして,いくら有益な死に様でも,死んだ人には栄誉は与えられないことが多い.
普通は栄誉は生き残った人にのみ与えられる.例外は三浦大介など一部の場合しか聞かない.

どうも,ハラキリに名誉を求める人の中には認識がおかしい人がいる.


4052010/12/13(月) 18:19:12
切腹は戦国時代にはあまり行われてはいない.
むしろ江戸時代の見得武士道の一つとしての殉死として様式化した,歪んだ死に様だったとも言える.

武士にとって切腹は,死の自己決定権として,武士の名誉の重要な一つとして様式化された.

しかし内実は,藩主の死に際し殉死を行えば行った者の子に褒賞が得られるという文化が成立しており,
加増狙いの殉死が相次ぎ,殉死には許可を必要とするよう定められた.

無駄に美化すべきものとも思えないし,第一戦国時代にはそれほど例はない.

日本史板,2010/12/
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 【質問】
 織田信長の行ったことで有名な楽市楽座ですが,その目的は何だったのでしょうか?
 教科書的な回答として,商工業を発展させるためとは言われますよね.
 でも,それがどうしたんでしょうか?
 楽座とは座を解散させることで,確かにそれによって新規参入者増により,商工業が発展することは期待できます.
 でも楽市でもあるわけで,つまり税が免除されてしまうんですよね.
 城下がいくら発展しても,税収が望めないのであれば,無意味の一言に尽きます.

 【回答】
 楽市場ってのは,元から楽市場だったところに対する,既得権益保護だけだったんじゃなかったかな?
 美濃攻め時に最初に楽市令を出したトコは,確か信長以前の古い楽市場の文書があるとかどうとか.

 楽座は新興城下町を,早急に整備する必要とかの気がする.
 たぶん安土限定.
 少なくとも京都とかで座を保護してるし,領土全体で楽座を実施してはいないことが確実.

 いわゆる「教科書的な説明」は,古い俗説に過ぎないとは思う.

 そうそう,城下町の発展は,城下の近くを通り過ぎることを禁止する目的もあった.
 近くを通る人は必ず城下町(安土)を経由するように,という命令が出てる.

 ちなみに城下町ってのは,城で働く人の生活を支えるためにも必要不可欠だし,町の有力者は行財政の面で大名の手助けを要求されている.
 むしろ,城下町と大名が運命共同体というべきかも.

 そういう面で,他の町との間で差別化されていたのは確か.
 城下町だけ特殊と言ってもいい.

日本史板,2010/12/20(月)
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 【質問】
 日本の政治権力が公家から武家に移りつつあった時代,公家自身が武装し,自らの直轄軍事力を持とうとしなかった理由は何でしょうか?
 鎌倉幕府などが出来てしまえば,その軍事力の差は明らか.
 どうやっても公家は武家に対して,直接軍事力によって対抗することが出来ません.
 武家の勢力がまだ充分に発達していなかった頃,公家と武家の勢力差がまだそう離れていなかった頃,あるいは,公家にまだ予算が有った頃に,さっさと公家が武装を強化しなかった理由はなんでしょうか?
 皇族・貴族の中の威勢のよい連中が我こそはと指揮官になり,武器を買い兵を雇い,公家軍を作ると言うわけには行かなかったのでしょうか?

 【回答】
 武家って言っても一応は公家からの別れではある.
 職能は違っても,貴種であることには変わりがない.
 まあ,殿上人とは比べようもないとは言え.
 ということで,幕府ができた当初には,朝廷・公家に仕える武士はまだまだ少なくなかった.
 西日本の武士は特に,幕府よりも朝廷に従う者が多かった.

 幕府ができるより半世紀ほど前だと,武士ってのは上皇やら摂関家やらの家来に過ぎなかったのに,えらく変わったものだ.

 また,受領とか被官という形で荘園経営したり,朝廷内の買収やら大寺社の神人,僧兵とかセットだったから,組織化に無理がある.
 中世史を扱った新書とか,シリーズ本を読むと何となく分かるかと.

日本史板,2011/01/01(土)
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 【追記】

445: 2011/01/02(日) 17:51:31
保元の乱が起こる直前頃.
摂関家の当主と嫡男が争って,摂関家分裂を引き起こしたっけ.
摂関家を背負う父親が嫡男を勘当して次男を後継に据えようとした.
対抗して,上皇方が家督争いに介入し,勘当されていた嫡男を関白に就任させたんだっけ.
公職としては摂関に就任しているけど摂関家からは追い出される形となって,摂関家分裂となった.

悪左府頼長 とか,関連国でググルと楽しいかもしれない.

ちなみに,摂関家側は崇徳上皇をかついで後白河と争い敗北して,
摂関家の家臣だった武士達が全員処刑で壊滅的打撃を受けた.
保元の乱で上皇方に付いた武士達ってみんな摂関家の家臣だったみたいでね.

もっとも,保元の乱には,白河-鳥羽親子と鳥羽-崇徳親子の両対立も関係してるから,かなり複雑ではある.

日本史板,2011/01/
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 【質問】
 何故,大和朝廷以来,時の政権は,北海道まで植民しなかったのですか?
 樺太→シベリア,千島列島まで進めたのでは?

 【回答】
 米作に適さないから.

 古代には,そもそも坂上田村麻呂あたりまでは,東北南部ぐらいまでしか支配していなかった.
 東北地方全域(津軽海峡まで)が中央の影響下に入るのが,11世紀後半くらい.
 一応,1070年の延久蝦夷合戦の際に,陸奥守源頼俊と鎮守府将軍清原真衡が,東北地方最北部まで征服したことになってはいるけど,現実的には後三年合戦後の奥州藤原氏かな.

 中世・近世には日本人にとっては,米が生産できるかどうかが重要だった.
 江戸時代の藩の規模は何で比較したか?
 「○○石」と,米の生産量で計っていたのだ.

 北海道で米が作れるようになるのは,寒冷地に対応した品種改良が進んだ明治以降.
 松前藩は米が取れないので,昆布などの物産の収入で1万石格(後に3万石)とされてはいたが,当時はそれぐらい,米こそがすべての基本だった.

日本史板,2011/01/27(木)
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 【質問】
 本能寺の変の時に秀吉と毛利が講和してますが,備中国の所属は誰に決められたのでしょうか?
 関ヶ原敗戦までは,ずっと毛利方ですか?

 【回答】
 城主切腹の上で開城,という形で講和してるんだから,高松城の周辺は秀吉が取ったと考えるべきだろう.
 備中国全体として考えるなら,秀吉と毛利の間で分割されたと思う.

 その後,秀吉が天下を取る過程で国境が変更されている.
 毛利は加増されたわけ.
(吉川と小早川を独立大名にして,毛利本家の領地は削減だったかもしれないが)
 織田政権の末期に切り取られた土地も,豊臣政権の成立過程で,少なからず毛利一門に与えられたんだよ.

日本史板,2011/01/30(日)
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 【追記】

625: 2011/02/02(水) 00:53:23
>>623
横レスだが,唐も日本を冊封してたんだぞ
日本側で唐から冊封されていることを国内に隠す対処を行ったから,
国内一般では冊封されているという意識が薄かっただけだ.

ただ.遠方の国だから,毎年じゃなく二十年に一回と特別な低頻度朝貢に決められていた.
それだけだ.

とはいえ,国内向けには朝貢関係であることを隠した事実が,
日本の当時の首脳部にとっては中国への朝貢が屈辱的と思われていたであろう事を物語ってもいる.
屈辱的ではあるが,その際に得られる利得を無視できなかったんだろう.
(あと,遣唐使の初期に関しては,白村江での敗戦の戦後処理的意味もあって,
屈辱的であっても避けるわけにはいかなかった可能性がある.)

日本史板,2011/02/
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 【質問】
 「天皇が存在する限り朝貢ではない」という説があるそうですが?

 【回答】
 その考えは,江戸期以降起こった.
 源流としては北畠親房の天皇優越説・天皇君主説があるのだが,具体的な政治思想として形をとるのには
・朱子学(鎌倉以来の仏教僧侶・朱子学者)
・清国野蛮視(明からの渡来文化人)
・国学の日本神国論
が合同した形で,
・日本国には征夷大将軍(大君)より一段上の天皇がいる
・天皇は万世一系であり野蛮に侵されていない
・なら,野蛮に滅ぼされた明の次の中華は日本に他ならない
・新しい中華の皇帝は日本の天皇しかありえない
という形の,日本を中心にした華夷秩序形成論へ発展していった.

日本史板,2011/02/02(水)
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 【追記】

637: 2011/02/03(木) 00:33:20
ちうか効率的に収奪するノウハウを知らなかったもんだから
今で言う過疎地域の振興対策と同じようなやりかたやっちまったんで

あと,朝鮮銀行を通じて経済支配は確立させている

太平洋戦争のころの
日本のインフレ率と
朝鮮半島のインフレ率を比べてみると面白いぞ


638: 2011/02/03(木) 00:48:29
本土で人口が増えてきたので食料輸入しなくていいように半島で増産路線とったんだよな.

かなり強引に,大規模に灌漑設備の拡充を行わせて米の大増産をさせた.
この工事費用で半島の富裕層は破産者続出.農地の多くは本土の資本家や地主が買い占める結果になった.
こうして半島から安い米が本土に入ったので米価下落で本土の農家は収入激減.

このとき,増産の影響で半島では人口急増したが,生活レベルは決して上がっていない.
たぶんだが,副食の量やらバリエーションは減っただろうと予想される.(この意味では,貧しくなったとも言えるだろう)
とはいえ,半島では多くの人が飢えから解放されたのは事実だろう.(だから人口が増えた)

日本史板,2011/02/
青文字:加筆改修部分


 【追記】

6722011/02/08(火) 19:43:13
昭和44年9月4日 葛飾公会堂

_ -―- _
, ', -、ヽ'´ `'´, -、ヽ 革命とは!戦争により勝ち取られるものであるッ!!
! { / ゙ } i
ヽ`ー,' ● _ ● ゙ー'ノ 日和見主義の共産主義者同盟主流派の戦旗派はカスである!!
` ! , '´ ▼ ヽ l"
/ `ヽ i 人 i ノ ヽ 我々は日和見主義,戦旗派より分離独立し
ヽ./ `==ァ'⌒ヽ==' ヽ/
ヽ, {(^) } 〈 「赤軍派」
! ヽ!l__,ノ ゙
l i を結成するッ!!
赤軍派 田宮クマ麿

ttp://ansokuwww.blog50.fc2.com/blog-entry-439.html

日本史板,2011/02/
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 【質問】
 日本の実質的な政治の中心は,鎌倉だったり安土だったり江戸だったりと変革したけれど,皇居は京都に有り,名目上の「首都(都)」はずっと京都であり続けた… と,僕は認識しています.

 しかし権力者としては,担がれて反抗の材料となる危険性のある天皇は,身近に置いておきたいはずだし,守りにくいと言われる京都が都であり続けるのは,何かと不利だったと思います.
 それなのに何故,1000年以上も遷都せず,京都を「首都」とし続けてきたのでしょうか?

 【回答】
 身近に置くのは政治の表舞台に近すぎて,アレコレと口出ししかねない危険が有る.
 引っ越しを強要されれば,天皇も公家たちも反発する事も間違いない.
 むしろ,千年一日の如く変わらない日々を送り続けてもらった方が,波風が立たない.
 古都京都に押し込めたまま,京都所司代のような見張りを付けておく方が利口ってもんでしょ?

 源頼朝の頃は,幕府が天下全体を支配してた訳じゃなくて,関東の地方政権程度のモノだった様だから,遷都とか言える立場ではなかったらしい.
 鎌倉時代は幕府の力が増大しても,そのまま行く事にした.

 次の室町時代は逆に,京都に幕府を置いた.

 次の天下人信長は,そこまでやる前に死んだし,秀吉は関白として政治を行ったから,朝廷に近い立場.

 次の家康の時には,既にそういう伝統になってるから,最初に書いたようにそのままにしとくのがベスト.

日本史板,2011/02/17(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 幕末の志士たちって,古事記とか日本書紀とかのをまるっきり史実だと思ってたの?
 神武天皇とか.

 西洋史とかエジプト文明とかが,日本にちゃんと知られるようになったのって,いつぐらいからなんだろう?

 【回答】
 本居宣長と上田秋成の「日の神論争」に象徴される様に,人によったでしょう.

>西洋史とかエジプト文明とかが日本にちゃんと知られるようになったのっていつぐらいからなんだろう?

 平田篤胤の著作を読んでいると,古代エジプト神話の神々と八百万の神々を同一視していたり,アレクサンドロス大王についても書いていますね.
 ナポレオンについては,開国前から英雄として知られていました.

 『イソップ物語』が江戸時代初期に翻訳されていますが,バビロニアやエジプトの王に頓知を見せるイソップが描写されています.
 挿絵では,イソップが訪れる国の風俗が中国風で,ギリシャ本国は日本風.
 イソップ自身は,同朋衆の様な姿で描かれています.

 西川如見の『増補華夷通商考』は,1708年の成立.
 ペルシャ,トルコ,エジプト,アラビアからヨーロッパの国々,ペルーなどの新大陸の国々も登場しています.
『イリアス』と共通した地理の説明もありますね.
 フェニックスや死海,イスラーム,アルキメデスの鏡の話もあります.

 『耳袋』には,アマゾン川の話を記主がオランダ人から聞いたとあります.
 江戸後期の浮世絵には,エジプトを描いたものもありました.
 こぎれいなピラミッドの周囲に,平らな砂地と松の木が点在する光景が存在するという,珍妙なものでしたが.

山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte : : 2011/02/20(日),日本史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 源頼朝の流刑地が伊豆になった理由は,なんなのでしょうか?
 俊寛でさえ鬼界ヶ島なのに,武士が伊豆とは,いかにも無用心な気がするのですが.

 【回答】
 伴善男など,歴史上の政治犯が何人か伊豆に流罪にされています.
 相応の地位の持主の流刑先として,相応しかったのでは.
 頼朝が討った山木判官も,『吾妻鏡』によれば,頼朝と同じ「伊豆国流人」であり,「平家一流氏族」でしたから,伊豆がそこそこの地位の人物の流刑先として,頼朝以外・以前から意識されていたのではないかと.
 無用心とかいう感覚は,あまりなかったと思います.
 先例・慣例第一.

 あまり『吾妻鏡』を信用するのも問題ですが,以仁王の挙兵後に,三善康信から送られて来た書簡では,平家に追討されぬ様,早く「奥州方」へと逃れる様に言っています.
 挙兵され,それが成功するということ自体,後から見ないと当然と思われないことであった,という考え方も出来るでしょう.
 事実,反平家政権に対する挙兵が,全て成功していた訳ではない.

 頼朝が南関東を制圧した時点での『玉葉』の評価が,「宛も将門の如し」ですからね.
 中央政権に辺土で反乱を起こしたという扱いですが,いずれ鎮圧されると見ていたと思います.
 仰る通り,喜界ヶ島組の当時の重要性も,考えるべきでしょうし.
 もし伊豆で「やはり都合が悪いので」と殺されていたら,頼朝なんて歴史好きにしか知られていなかったでしょう.
 この人物を主人公に,仮想戦記小説を書こうという人もいなかった筈.

山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte : 2011/02/22(火)〜02/23(水),日本史板
青文字:加筆改修部分


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