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青文字:加筆改修部分
 ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.

※既に分類され,移動された項目を除く.

※荒れているため,レス回収基準は「Ver.7」
 ただし軍事に間接的にも関係しない話は,回収対象外


歴史学博士らがあらゆる質問に即答するスレ25

目次

 【質問】 池田屋事件で被害にあった志士達は本当に,京に火を放ち,天皇を奪回する計画を練っていたの?

 【質問】 坂本龍馬暗殺を企てた黒幕は,現在の学説では誰なのでしょうか?

 【質問】 暗殺された天皇は,どれぐらいいるのですか?

 【質問】 新羅,百済,日本の関係が,よく分かりません.


** 【質問】 池田屋事件で被害にあった志士達が.京に火を放ち,天皇を奪回する計画を練っていたってのは本当でしょうか?

 【回答】
 京に火を放ち,天皇を奪回するってのは,新撰組がでっちあげた冤罪だよ.
 土方が壮絶な拷問で古高(近江出身の志士)に無理矢理自白させたもの.

 しかも新撰組は,池田屋を直接捜索してないんだよ.
 祇園で片っ端から旅籠を捜索しまくってる記録が残ってる.
 つまり新撰組は,情報キャッチ出来てなかったって事.
 次に,古高を証人として,生かしておく事はしないで,早々に処刑してしまってる.
 貴重な証人のはずなのにな.

 歴史をきちんと調べてたら,池田屋事件は新撰組が起こした冤罪事件と,すぐ解かる.
 京に火を放ち,天皇を奪回する計画は,土方に壮絶な拷問を受けた近江の古高の自白以外確証は一切ない.

日本史板,2011/04/24(日)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】 坂本龍馬暗殺を企てた黒幕は,現在の学説では誰なのでしょうか?

 【回答】
 今のところ,命令を会津藩主松平容保が行い,伝達したのは会津藩士の手代木直右衛門で,実行したのは見廻組の佐々木只三郎ということになっている.
 実行したのが佐々木ということについては,実兄である手代木直右衛門や,見廻組隊員の証言もあり,もはや不動.
 伝達者については,本来の上役の見廻役が事件を知らないと証言しており,事件の詳細を語る手代木直右衛門自身が伝達者ということになる.

 命令者としては,手代木直右衛門に暗殺命令を許す権限があった人間は,ただ一人.
  会津藩主松平容保が承認しない限り,手代木は動けない.

 また,会津藩主松平容保は大政奉還に強く反対していたことが,当時の佐幕派とされた人々の記述からも多数裏付けられており,動機も充分.

 なお,
「フリーメーソンの一員だったグラバーの陰謀」
という説は正当ではない.
 論拠とされていたグラバー園内のフリーメイソン石碑は,他の西洋屋敷から昭和になって運び込まれたものと判明している.

日本史板,2011/04/24(日)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】 暗殺された天皇は,どれぐらいいるのですか?
 崇峻天皇だけ知っています.

 【回答】
〈暗殺〉

 公式に天皇暗殺が記録(認定)されているのは,第20代・安康天皇と第32代・崇峻天皇の2人.
 安康天皇を暗殺した眉輪王は皇族.
 崇峻天皇を暗殺した東漢直駒は蘇我家臣.

〈暗殺説〉

 真偽をめぐって,最も「毒殺による暗殺説」が囁かれ続けているのは,第121代・孝明天皇.

〈暗殺未遂の記録〉

 暗殺未遂が記録されている天皇は,
・皇后に殺されそうになった第11代・垂仁天皇
・勘違いの嫉妬で矢を射掛けられて袖を突き通され,さらに別の矢で従者を射殺された,第65代・花山天皇(当時は退位して花山法皇)
・第92代・伏見天皇が,宮中に乱入した甲斐源氏浅原為頼の一族に,命を狙われかけ,女装して御所から脱出.
・昭和天皇も1923年12月27日,車の外の至近距離から銃撃され,1932年1月8日に手榴弾を投げられたが,いずれも逸れたりして難をのがれた.

〈欧米解釈なら暗殺?〉

 8歳の第81代・安徳天皇は,壇ノ浦の合戦で二位尼時子に抱かれて入水し崩御したが,無理心中などの概念が理解されにくい欧米なら,天皇が幼子でもあり,もしかしたら二位尼時子の天皇殺害・兼自殺と解釈されるかもしれない.

〈自殺〉

 公式に記録されているのは,上記の安徳天皇の入水自殺.

 あと,日本書記にも天皇即位の記録は見られないが,先帝天智天皇の皇太子だった大友皇子が,壬申の乱で敗れ自ら首をくくって自決.
(明治時代になって,第39代・弘文天皇として,歴代天皇に加えられる)

〈不審死・事故死〉

 第14代・仲哀天皇は古事記によれば,暗所での神託内容を侮辱して,神の怒りを買い,その場で呪い殺された.
 日本書記によれば,神託無視の後日,俄に体調を崩し崩御(
 また,一説には,熊襲の矢に当たって崩御したとも.

 第87代・四条天皇は,御所の廊下にろう石を塗り,人が転ぶのを見るといういたずらをしていた所,自ら転倒して大怪我し,それが原因で12歳で崩御.

 第60代・醍醐天皇は,清涼殿に落雷して5人が即死した衝撃等で,俄に体調を崩し崩御.
 落雷も天皇崩御も,菅原道真の怨霊のせいだと囁かれた.

 その他にも島流し,幽閉,追放,不遇な待遇などによる,緩かな衰弱死や憤死も疑われる天皇も多数(孝徳,崇徳,後鳥羽など)

 以上,実際に実行に移されて命の危険があったと認められる,極めて危ういケースだけをあげました.
 実際は実行にまで移されなかった,天皇に対する謀反計画,暗殺計画を全て入れたら正直,もうキリがないんじゃないんでしょうか.

 たとえば今上天皇に火炎瓶が投げこまれて,近くで可燃物が炎上した事もありましたが,これも一歩間違えば大変危険な状況といえるでしょうが,独自判断で殺人未遂には含めず,傷害未遂と判断して除外しました.

 計画だけなら少し前のオウ○とか,過激カルト教団,極左過激活動家,精神破綻妄想者も,今現在でも幾らでもあるんじゃないですかね.
 外国からも狙われてるでしょうし.
 もしかしたら,誰からも殺したいと思われた事がない天皇というのは,史上いないかも知れません.

日本史板,2011/05/29(日)〜05/31(火)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】 新羅,百済,日本の関係が,よく分かりません.

 【回答】
 梁職貢図と好太王碑を合せて考えると,新羅は建国からしばらくは百済の影響下にあり,その後,百済とともに高句麗の支配下に入った.
(一時,日本の支配下に置かれるが,好太王が取り戻す.
 新羅が日本の支配を受けていた件なら,既に広開土王碑にある.
 それによると,
「新羅と百済は高句麗の支配下にあったのに,近年倭に従うようになった.
 好太王は倭を蹴散らして,新羅と百済を再び支配下に置いた」
という事が書いてある)

 実際には百済はそこまで弱くなくて,一時的に高句麗に屈する事はあっても,対抗し続けていた.
 その為もあって,日本とは手を組み続けた.
 その間に力を付けた新羅は,高句麗から独立し,時に百済と同盟したりなどしながら,更に勢力を伸ばす.
 更に力を付けた新羅は,百済にちょっかい出そうとしたんで,百済は日本と共同で新羅に当たる事にする.
 孤立した新羅は困って唐と手を組み,高句麗・百済を滅ぼす.
 日本は百済を再興しようとして,唐と新羅の連合軍に敗れる.

 ちなみに,この間の日本の半島に対する動向は,日本書紀にある任那日本府をどう解釈するかで,大きく変わるんで難しい.

日本史板,2011/09/12(月)
青文字:加筆改修部分


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