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青文字:加筆改修部分
 ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.

※既に分類され,移動された項目を除く.


Kampfgruppe 23

目次

 【追記】 中東短信

 【質問】 イラクでは自衛隊歓迎デモがあって,自衛隊がデモ隊にアイスをふるまったって本当?

 【追記】 イラクのスンニ派・武装派のひとつ,1920革命旅団の一派の出している10月2日付コミニュケで,アルカイダとの決別を明確にしてその理由を説明しているもの.

 【追記】 レバノンの少年兵―ロンドン発行紙Al- Hayat の調査記事

 【質問】 「リバティ」号事件って何?

 【追記】 STRATFOR:アフガニスタン,イラクの戦争の2007年現在

 【追記】 米同時テロ容疑者の旅券,パキスタンで発見

 【追記】 ●ミャンマーのパイプラインで米国の動きがプロジェクトに影響を与えるか

 【追記】 カネさえ出せば資源が買える時代は終わった?!

 【質問】 1日の戦闘で,米軍が最大の損失を出した戦いを教えてください.

 【質問】 イスラエルはどうやって,ミラージュ戦闘機の設計図を盗み出したのですか?

 【質問】 スリランカ軍のPooneryn制圧について教えられたし.

 【質問】 ネパールの王制廃止決定について教えられたし.

 【質問】 インド植民地軍とは?

 【追記】 第2次Afghanistan戦争の遠因

 【質問】 グラッドストンは,第2次アフ【ガ】ーン戦争をどのように批判したのか?

 【質問】 1882年の英エジプト出兵における,経費負担問題とは?

 【質問】 パキスタン・アフガン・米統合軍事情報中枢とは?

 【追記】 各国の国旗と国歌の取扱い

 【質問】 戸坂潤って誰?

 【追記】 給油中断,日本は自省を=統幕長の面前で苦言−元米国務副長官

 【追記】 漢族ムスリムは,漢族内でも差別されており,清朝時代に寧夏あたりに強制移住させられて不満が鬱積していた.

 【追記】 (WSJ) 中国の民族問題の摩擦はチベットだけではない

 【追記】 アジアのイスラーム化


 【追記】

 2007年1月4日,国防軍がラマラでアルアクサ殉教団の幹部ハメドを逮捕しようとしたところ,付近の市民が投石や火炎瓶で国防軍を攻撃.戦闘で民間人4人が死亡し,19人が負傷した.ハメドは逃走.(H,P,Y)

 数日間平穏が続いた後,2007年1月2〜3日に再びカッサムロケット砲撃.カルニ検問所の周辺が標的となっている.(Y)

イスラエル軍がガザ南部侵入=全面交戦の恐れ,緊張高まる
11月18日19時28分,時事通信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081118-00000141-jij-int

 【エルサレム18日時事】イスラエル軍部隊は18日,パレスチナ自治区ガザ南部ラファの同国との境界地帯に侵入,地元武装組織と交戦した.ガザを実効支配するイスラム原理主義組織ハマスと全面的な交戦に突入する可能性もあり,緊張が高まっている.
 イスラエル軍は今月4日からガザ各地でハマスなど武装各派を攻撃,パレスチナ側はイスラエル領内にロケット弾を撃ち込んで応戦している.両者とも今年6月に成立した停戦合意を破棄する考えはないとしているが,戦線はなし崩し的に拡大しているのが現状だ.

2009年11月3日(火),ガザからまたカッサム砲撃.大きな被害は無かった.(Y)


 【質問】
 こんなコピペを見かけたのですが

----------------------------------------------------------------------
 文芸春秋で自衛隊の面白い話が載ってた

自衛隊員A(以下A)「おい,デモ隊がここ(宿営地)に向かっているらしいぞ」
自衛隊員B(いry「うえ,この間アブグレイブでイラク人虐待があったばかりじゃん,どうすんだよ」
A「それが,どうも支援デモらしいぞ」
B「は? 支援デモ? 私怨じゃなくて? そんなデモ聞いたことね〜よ」
A「俺もね〜よ.ま,一応,本当に応援だった時の為に飲み物とアイスでも
用意しておこや.暑いし」

デモ隊参上
彼らの持つ旗には自衛隊を支持する言葉が書かれていた

A「うあ,本当に支援デモだ.おい,アイス配れ,冷たい水あげれ」
B「アイス足らね〜よ.弾幕薄いぞ,何やってんの.アイス追送頼む」

 デモ隊,にこにこ顔でアイス頬張る,
 でもゴミぽい捨て.
 自衛隊員見かねてゴミを拾う.
 すると,何てことでしょう,彼らもゴミを拾い出したのです.

 そんなこんなで後日.
米&英軍「おい,こないだのあれ,いくら使ってやったんだ?」
自衛隊「あれ?」
米&英「あれだよあれ,支援デモ」
自「あれは,住民が自発的にやってきたんだよ」
米&英「ははっそんなわけあるかよ.吐けよ,同盟国じゃん」
自「・・・・・・(やっぱ信じないよなあ,自分でも信じられないし)」

と,イラクではそんな感じだったらしいぞ.
 小泉首相は間違ってなかった.
 自衛隊のいる所「が」非戦闘地域だわ(笑)
----------------------------------------------------------------------

 宿営地にアイスなんてあるのですか?
 デモ隊に配る余裕なんてあるのでしょうか?

三等自営業 ◆LiXVy0DO8s

 【回答】
 自衛隊歓迎デモがあった事は事実.
 アイスクリームに関しては,
http://abc1008.com/news/onair/051230.html#04
に,そういう話が出ている.


 【追記】

http://www.globalterroralert.com/pdf/1007/hamasisi1007.pdf
Iraqi Hamas Communiqué in Response to Al-Qaida

これは,イラクのスンニ派・武装派のひとつ,1920革命旅団の一派の出している10月2日
付コミニュケで,アルカイダとの決別を明確にしてその理由を説明しているもの.アラビ
ア語から英語に翻訳されたものがGlobalterroralert.comに掲載されている.ローカルな
武装派組織が,何故アルカイダに反旗を翻すのかを詳しく説明していてちょっと興味;

(ひとことで纏めれば,アルカイダは独自のイデオロギーの為に,米軍ではなくイラク
の民間人のイスラム教徒を殺し続けているので支持できない)

ニュース極東板


 【追記】

Sep/25/2008 No.2059

レバノンの少年兵―ロンドン発行紙Al- Hayat の調査記事
http://memri.jp/bin/articles.cgi?ID=SP205908

ロンドン発行アラブ紙Al-Hayatは,2008年7月20日付紙面で,レバノンの武闘諸派が少年兵を使っている状況について,調査記事を掲載した.この少年兵達は,軍服を着用し武装して政治集会のパレードに参加し,或いは実戦で戦うことすらある.この記事は,少年兵がレバノン内戦(1975-1990)以来存在しているとし,レバノン社会の将来に重大な影響を及ぼす時限爆弾≠ナある,と警告している.以下その記事内容である※1.


レバノン内戦時の少年兵

 この記事内容によると,少年兵現象は内戦時既に記録されている.各民兵組織が14歳以上の少年達を募集し,前線へ戦闘資材を運ぶ補給兵として使い,軍事訓練も施した.この記事は,少年兵達の多くが麻薬,アルコールその他薬物中毒になった,と述べている.


今日の少年兵

 この記事は,民兵組織に加わることが少年達の自信を深めるとしている.人権活動家アッラム(Fadi Abi ‘Allam)は,「子供達は,銃を手にすることで,英雄のように感じる.各民兵組織はこの点を利用し,子供達に優越感を与えている.少額の金も支給している」とし,「各派は,子供達の生活に欠けている感情の充実感を与え,彼等の帰属意識をかきたてる」と強調している.

2008年5月,ベイルートで発生した武力衝突で,「重武装の子供達が市中を徘徊していた」由で,一人の女性が同紙に「子供が5人…私の家に来ました.ひとりの子が私に乱暴な口をきいたので,恥を知りなさい.あなたは私の息子と同じ年頃なのよ≠ニ叱りました.その子が息子さんは何歳≠ニ聞くのです.17歳よ≠ニ答えますと,その子は“俺より年上だ≠ニ言いました」と語った.民兵各派や青少年運動組織は,子供達に対する軍事訓練はないとしているが,「当の子供達は軍事訓練をうけて兵器の扱かい方を知っていると,友達に自慢する」と同紙は報告している.


父を殉教者と仰ぐ14歳の少年アフマド

この記事はアフマドという少年の事例を紹介している.民兵組織に加わって戦う決意をしたので,母親が急拠その子を連れてカナダへ移住した例である.

 「アフマドは14歳の少年で,トリポリのバベル・タバネー(Bab Al-Tabaneh)出身.父親はレバノン軍の兵隊であったが,1年前ファタハ・アルイスラムとレバノン軍が戦闘した時,ナハルバレド(Nahr Al-Bared)難民キャンプで戦死した.アフマドは,父親の戦友のひとりから贈られた軍服を手に,出身地の村へ戻った.父親は毎週水曜日に軍務についていたが,少年はその日になると軍服を着て鏡の前で敬礼し,居間へ行くと今度は父親の写真に向かって姿勢を正して敬礼…その日は日没までどうしても軍服をぬごうとしなかった.母親はそのような子供の態度をみても,別に心配しなかった.ところが,何か治安がらみの事件が起きて銃撃戦を見聞きすると,少年は非常に興奮するのであった.その時も母親は,父親の真似をしているのだろうと考えた.ところが,息子が親戚の男に入隊の話をしているのを耳にして,急に心配になったのである.息子は,何歳で入隊できるかとたずねていた.18歳になる迄待たなければならぬと聞くと,ではレジスタンスはどうかとたずねた.年令条件は同じと親戚の男は答えた.すると息子は,「でも,僕と同じ年で戦争の仕方を知っている子は沢山いるよ.特に難民キャンプの子供はそうだよ」と口をとがらせた.「ベイルート攻撃(2008年5月)に子供達が参加した話を耳にすると,息子は大変興奮しました.戦闘がこの村やバールムーシン村へ波及してくると,息子は,どちら側についてもよいから,とにかく戦いたいと言うのです.何が何でも武器を手にしたい.年令などを問わない強い子を採用するのなら,そっちにつくと言い張るのです」と母は同紙に語った.アフマドの母親は,カナダの市民権を持っていたので,息子を連れ,国を離れることにしたのだった.

※12008年7月20日付Al-Hayat(ロンドン)

次の写真3葉は同紙掲載の少年兵達.


 【質問】
 「リバティ」号事件って何?

 【回答】
 1967年6月8日,イスラエルの空軍と海軍は,精巧な電波探知機を備えたアメリカの軍艦,“リバティ”を攻撃した.
 その目的は,ゴラン高原への侵略計画を察知させないためだった.

 38人の乗組員が死に,171人が負傷した.
 イスラエルの飛行機は,“リバティ”の上空を六時間に渡って飛び,爆撃は70分も続いた.
 イスラエル政府は,これを“間違い”だったと謝罪し,事件は一定期間の極秘扱いとなった.

 真相が初めて公式の場で公開されたのは,13年後の1980年だった.

軍事板


 【追記】

http://www.stratfor.com/products/premium/read_article.php?id=292374
Geopolitical Diary: The State of the War(s)
July 17, 2007 02 23 GMT

STRATFOR:アフガニスタン,イラクの戦争の現在

1)アルカイダの新しいビデオのリリース,オサマ・ビン・ラーデンの50秒の出演 

 オサマ・ビン・ラーデンの映像を,そのカメラ・アングル,着物,背景などから分析
 して見ると,このビデオは2002年5月のビデオ出演のときと同じのように見え,つまり
 5年前のテープの使い回しではないか?

 オサマ・ビン・ラーデンのビデオがリリースされるのは1年ぶりだが,そのビデオが
 こういう具合であるのは,オサマが依然生きていて元気だと主張したいことの現れで
 ある.

 STRATFORはこのビデオがリリースされた事実から,オサマ・ビン・ラーデンがパキス
 タンの国境付近の洞窟とか,そういう辺鄙なところで暮らしてきて,死亡したか,あ
 るいはビデオ出演して話すほど元気ではないか,あるいは全くビデオに姿を見せたく
 ない事情があるか,そのいずれかであろうと推測する.
113 名前: 日出づる処の名無し [sage] 投稿日: 2007/07/18(水) 04:27:38 ID:eVnJwVwO
2)イラク戦争,イランとサウジアラビアとアメリカ

 イラク戦争の戦闘の裏側で行なわれているのは,イランとアメリカ,そしてサウジア
 ラビアの交渉である.(シーア派の盟主とスンニ派の盟主とアメリカとの交渉)

 (a)イランの国家安全訴訟アドバイザーで,イランよりのMuwaffaq al-Rubaieが記者会
見で,イラクの外国人ジハーディストの半分がサウジアラビア人であるとして暗にサウ
 ジアラビアを非難した.

 (b)イラクのシーア派の新聞,Al-Bayyinah al-Jadidah が,サウジアラビアのバンダル・
 ビン・スルタン皇子を非難して,イラクのスンニ派の武装派への資金援助を行なって
 いると主張した.

(a)(b)のようなことが起こっている事実は,中東の交渉の常識から考えてイランとサウ
 ジアラビアの交渉の本格化を意味する.イラク安定化について,イランもサウジアラビ
 アも,不安定化を図っているとして非難を受けているが,そういう主張が起こるのは
 バーゲニングが進んでいるためである.つまり交渉が進んでいると見るべきである.

 Throughout history, just prior to any major Middle Eastern settlement, all sides
 tend to appear to be on the verge of war. That is what negotiations in this part
 of the world look like -- which means all the noise in the region right now is
 probably a very good sign.
114 名前: 日出づる処の名無し [sage] 投稿日: 2007/07/18(水) 04:35:50 ID:eVnJwVwO
>113 の(2)・・・

イランやサウジアラビアがイラクを不安定化させているという非難の主張が高まって
いるのは交渉の進んでいる「良いサイン」であるという分析は面白い.

交渉相手の態度に憤慨して,席を蹴って帰国する振りをすることが交渉妥結の近いサ
インであると言うのと同じで,中東流交渉術の分析というか,そういう類なのだとい
う主張で,こういう見方を書いている評論はあまり見かけない.STRATFORの個性的な
面白さというべきで,STRATFORの分析はその個性ゆえに誤ることもあるけれど,考え
るヒントを提供するところがあるのは事実.
115 名前: 日出づる処の名無し [sage] 投稿日: 2007/07/18(水) 06:09:12 ID:e5mDcyuB
つか色々深読みするまでもなく,3月にアフマディネジャドとアブドゥラ国王が
会談してるじゃん.

ニュース極東板


 【追記】
米同時テロ容疑者の旅券,パキスタンで発見
2009年10月31日13時4分,読売新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091031-00000537-yom-int
 【イスラマバード=酒井圭吾】パキスタン軍は29日,部族地域南ワジリスタンでの掃討作戦で,2001年9月の米同時テロに関与した容疑者らの旅券を見つけたと発表した.

 見つかったのは,国際テロ組織アル・カーイダのメンバーで,国際刑事警察機構(ICPO)に指名手配されているサイード・バハジ容疑者と,04年にマドリードで起きた列車爆破事件に関与したモロッコ人アメル・アジジ容疑者の妻の旅券.このうち,バハジ容疑者は,同時テロの実行犯ムハンマド・アター容疑者とドイツで8か月間,同居していたことが確認されている.

 アフガニスタンと国境を接する部族地域には,旧支配勢力タリバンやアル・カーイダのメンバーが潜伏しており,30日までパキスタンを訪問していたクリントン米国務長官は,パキスタン政府に掃討作戦の強化を促していた.


 【追記】

●ミャンマーのパイプラインで米国の動きがプロジェクトに影響を与えるか

Planned Oil-and-Gas Development Is Seen Lifting Country's Financial
Strength
as the West Attempts to Weaken Ruling Junta. China and its neighbors are
mo
ving ahead on a multibillion-dollar oil-and-gas pipeline project that
promis
es to greatly enhance the financial strength of Myanmar's military regime
an
d boost its political clout in Asia.

米国務省によると,キャンベル国務次官補ら代表団は,11月3日と4日にミャ
ンマ
ーを訪問する予定と言う.ミャンマーはまるで悪の巣窟,タンシュエは悪の帝国
の首
領であると,面会した米国上院議員ジム・ウエッブは述べているが,制裁が何の
効果
もないと知るオバマ政権は,対話の方向へ舵を切る.結果が何を生み出すのか,
予想
は困難だが,中国がこれをどう見ているのかも興味がある.今日は米国紙の論評
であ
る.

このミャンマー軍事政権の財政的基盤を飛躍的に高める中国のパイプライン・プ
ロジ
ェクトが,近隣諸国の協力の下に動き始めている.反対派や少数民族グループを
を牢
獄に閉じこめ,近い将来,近隣諸国に軍事的脅威を与える可能性のある,この軍
事政
権に対して,米国が新たな姿勢を打ち出してきた.これまで実施してきた制裁な
どの
措置が,ことごとく失敗してきたことを考慮した米国の姿勢転換だ.

パイプライン・プロジェクトの詳細な内容は,秘められたままで,関係する企業
,中
国のCNPC(注5),韓国の大宇(注6)からも,概要と事業費以外は漏れて
こな
い.しかし,住民の話では,既に40人近くの中国人技術者が展開して,測量な
どの
作業を開始したという.このプロジェクトが,ミャンマー沖の天然ガスを中国へ
供給
開始すると,ミャンマーはアジアの中でも重要な位置づけを確保することになる


また,このプロジェクトには海港の工事が含まれていて,中東やアフリカからの
原油
の輸送にも使われる.このことは,現在のマラッカ海峡のバイパスとして,中国
に新
しい輸送ルートを供与する.タイにベースを置くシュウエ・ガス活動(注)など
の人
権団体は,中国のエネルギー保安に貢献すると共に,ミャンマーの軍事政権に,
30
年間に亘って,年10億ドル,ミャンマーの外貨の3分の一に匹敵する歳入をも
たら
す,と推定している.

中国にとっては,外国勢力の影響や海賊からの妨害を避ける,重要な役割を持つ
プロ
ジェクトになる.パイプラインの本格着工は,2009年9月開始となっている
が,
少数民族問題で遅れているようで,本格工事はこの年末から,と言われている.
大宇
(注6)によると,事業費は,他の企業(注8〜11)も含めて,30億ドルと
して
いる.

パイプライン・プロジェクトは,米国にとっては,ミャンマー軍事政権の弱体化
,と
言う目標にとっては,問題を難しくしている.西欧諸国がとってきた経済制裁は
,中
国や北朝鮮への接近を強化しただけだ,とも言われている.2009年9月,米
国は
,経済制裁は続けるが,軍事政権との対話を始める政策転換を決意している.キ
ャン
ベル次官補(注13)は,火曜日,11月3日にも,2,3日の予定でミャンマ
ーに
入る.

中国にとって,パイプライン・プロジェクトは,危険を伴う可能性がある.ルー
トの
途中にあるシッポー(注14)は,少数民族との緊張が高まっている.周辺住民
は,
中国の影響力が増すことを非常に嫌っている.この8月,ルートの周辺で,ミャ
ンマ
ー軍と地元反乱軍が衝突し,30人が死亡し,3万万人が中国領へ逃げ込んで,
軍事
政権は,中国政府の怒りを買った事件があったばかりである.まだ,総選挙まで
には
何かが起こりそうだ.

人権グループからは,このプロジェクトが,環境問題と人権問題を起こすだろう
,と
非難されているが,CNPC(注5)と大宇(注6)は,これに対して口を閉ざ
して
いる.タイへのパイプラインを有するヤダナ・プロジェクト(注15)の例も挙
げて
いる.ワシントンの人権グループ(注18)は,48億ドルが外国銀行に密かに
貯め
込まれている,と言っている.

有名な静かな町,シッポー(注14)では,住民はパイプラインについて全く知
らさ
れていないが,この2,3時間で中国国境に達する町では,中国製のトラックが
うな
りを発して走り回っており,古い小さな橋は,大きな新しい橋に架け替えられつ
つあ
る.市内に一軒あるゲストハウスは増設されて,中国人技術者の宿舎になってい
る.
住民は,中国の植民地になりつつあると,怒りを露わにしている.

(注)B (1) 091103B Myanmar, online.wsj,(2) title: Myanmar's Neighbors
Adv
ance Pipeline Project,(3)
http://online.wsj.com/article/SB125712409500421827.html?mod=WSJ_hpp_LEFTTopStories


,(4) By A WSJ STAFF REPORTER,HSIPAW, Myanmar,(5) China National
Petroleum
Corp.,(6) Daewoo International Corp.,(7) Shwe Gas Movement,(8) Myanmar
O
il & Gas Enterprise,(9) Korea Gas Corp.,(10) Oil & Natural Gas Corp. of
In
dia,(11) GAIL (India) Ltd.,(12) Aung San Suu Kyi,(13) U.S. Assistant
Secr
etary of State Kurt Campbell,(14) Hsipaw,(15) Yadana project,(16) Total
S
A,(17) Unocal Corp.,(18) EarthRights International,(19) Chevron
Corp,(20
) map source: http://www.shwe.org/about-shwe/maps,(21) Hsipaw,photo
source
: http://www.wright-photo.com/BurmaImages/319---Hsipaw-.jpg,(22)

今日の参考資料

●091103B Myanmar, online.wsj
ミャンマーのパイプラインで米国の動きがプロジェクトに影響を与えるか
Myanmar's Neighbors Advance Pipeline Project
http://my.reset.jp/adachihayao/index091103B.htm
http://online.wsj.com/article/SB125712409500421827.html?mod=WSJ_hpp_LEFTTopStories
【日刊 アジアのエネルギー最前線】ミャンマーへの米国の政策転換
Date: Tue, 03 Nov 2009 16:03:33 +0900 (JST)


 【追記】

http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20071228-01-0901.html
カネさえ出せば資源が買える時代は終わった?!
2007年12月29日 ビデオニュース・ドットコム
ゲスト:柴田明夫氏(丸紅経済研究所所長)

柴田明夫氏
 資源価格が異常な高騰を続けている.原油は11月20日に99ドル29セントと最高値を更新し,金,鉄鉱石,銅,プラチナ,レアメタルなど鉱物資源や,小麦,とうもろこし,大豆など穀物まで,資源価格が軒並み史上最高値を更新する勢いだ.今のところ企業努力とデフレ圧力のおかげで,資源高騰の物価への影響は限定的だが,資源の輸入依存度が高い日本では,今後さらに深刻な影響が出ることは避けられそうにない.
 石油を中心に様々な資源市場の動向を30年以上ウォッチしてきた柴田明夫氏は,こうした一連の資源高騰は一過性の現象ではないとの見方を示し,楽観論に対して警鐘を鳴らす.確かに,巷間指摘されるような,資源市場へのファンドや投機マネーの流入という一面はある.また,核開発疑惑が取りざたされるイランに対する米国の軍事行動の可能性や,不安定なナイジェリアやベネズエラ情勢など産油国周辺の地政学的な不安定要因も価格高騰に一役買っていることはまちがいないだろう.しかし,昨今の資源価格高騰の本質的な要因は,中国やその他の新興工業諸国の急速な経済成長により資源需要が急増したため,需給関係が00 年代に入ってから慢性的な供給不足の状態に陥ったことにあると柴田氏は言う.今後もその状況が緩和される可能性が低い以上,資源高が反転する可能性は期待できないというわけだ.
 74年の石油ショック以降,先進国は強力に省エネを推し進めると同時に,中東以外の地域の油田開発にも務めた.また,80年代以降は先進国の経済成長も重工業を中心としたものではなかったため,その後20年あまり石油は供給過剰の状態が続き,原油価格も低迷していた.しかし,原油価格の低迷は,油田開発など新たな設備投資へのインセンティブをも低下させたため,世界の石油生産力も低下し続けた.ところが00年代に入って,中国や他の新興工業国の急激な経済発展が始まり,それに伴う資源需要の急増という事態に,資源は慢性的な供給不足の状態に陥っていると柴田氏は指摘する.
 同様の構造は,石油以外にも鉄鉱石,レアメタル,穀物などにも共通している.中国や他のBRICs諸国など新興工業諸国の経済発展が続く限り,資源の慢性的な供給不足は続くと見られることから,柴田氏は,既に世界は各国が限られた資源を奪い合う「資源争奪戦争」の時代に突入していると言う.
 このような状況に瀕して,既に米国やEC,そして中国は着々と手を打ってきている.しかし,資源貧国の日本は,政府も国民も,金さえ出せば欲しいだけ資源が手に入る幸せな時代が終わりつつあることを,まだ十分に理解できていないのではないかと,柴田氏は懸念を表す.
 最近の資源高騰の背景と日本の選択肢を柴田氏と考えた.



価格高騰の原因はどこにあるのか

神保:基本的に中国が資源の多くを吸い上げていることが,資源価格高騰の直接の原因ということなのか.
 
柴田:需要と供給の関係で見ると,以前の供給過剰傾向が2000年代に入ってから供給不足の傾向に転換してきていて,やはりその背景には中国の需要増加がある.中国のGDP成長率は2001年,2002年が9%,その後は5年連続で10%以上だ.今年は11%を超えると見られ,まさに発展速度が加速してきている.
 この成長のエネルギーは工業化で,港湾,発電所などインフラの整備をするために,一気に資源の需要が拡大した.成長を続けているため,累積的な需要の増加につながっている.
 しかし,これに対して供給がおぼつかなくなっている.特に原油については,90年以降1日に50万バレルずつくらい増えていた世界の石油需要が,2000年代に入ると100万バレル以上になり,2003年から2004年にかけては300万バレル以上のペースで増えた.この需要増加のうち3分の1が中国,5分の1がアメリカで,この両国で世界の増量分の半分くらいを占めていた.
 これまで石油供給の川上部分の開発投資をしていなかったため,供給余力が無くなるのではないかという懸念が出てきた.400〜500万バレルあったOPECのスペアキャパシティー(1ヶ月以内に増産可能で,その供給を半年以上維持できる余力)が100万バレルを割り始めた.そのため,ここで投機マネーが入ってきて,石油価格が一気に上昇した.
 
神保:他に良く指摘される点として中東情勢などの地政学的な原因がある.過去2回のオイルショックの時は戦争だった.今回も,現にイラク戦争があり,今後イランに対する軍事行動が行われるという見方もある.
 
柴田:原油価格が決まる要因を分解してみると,3階建てになっていると思う.
 1階部分は,足下の需給関係がどうなっているかだ.今はだいたい足りている.OPECも原油不足ではなく,問題は投機マネーや製油所の能力不足だと言っている.この1階部分で占めているのが50ドル台だと思う.去年8月から急落してきて,今年50ドルで止まった.ここが下値の限界だろう.
 2階部分は準ファンダメンタルズと言う,2〜3年先の需給バランスを見て供給不足になると判断されたときに入る,投機マネーの影響だ.これによって原油価格は10〜20ドルほど上がる.現在,需要は着実に伸びているので,それに対して供給が不足すると見れば,投機マネーが入ってくる.
 これらの上に乗っかっている3階部分が,いわゆる地政学的要因だ.イランの問題も緊張が高まれば影響が出てくるだろう.ナイジェリアでは民族紛争が止まないし,イラクは泥沼化しており,ベネズエラでもチャベス大統領が煽る.そうすると,そこで投機マネーが入ってきて,原油価格が20ドルくらい上がる.
 これらの結果,原油価格が90ドル以上まで上昇した.


資源貧国日本

神保:重量ベースでの穀物自給率を見ると,いわゆる先進国諸国は100%以上がほとんどだ.一方,日本の穀物自給率は28%で,先進国とはとても言えない数字になっている.穀物の値段が上がり,食べ物の小売価格も上がっている状況で,日本はこの穀物高に対応できているのか.
 
柴田:これから問題になってくるだろう.
 農業基本法が制定された1961年から変わり始めた.1960年代は資本の自由化,外資との競争が始まった時代で,農業も例外ではなかった.稲作と畜産を二本柱として育成することになったが,畜産物の餌は輸入に頼ることにしたため,穀物自給率は下がらざるを得なかった.
 しかし,今改めて見ると,下がりすぎではないかという話になっている.海外での穀物の需給関係を見ると,1973年の食糧危機騒ぎを下回るほどの在庫率になっている.世界の在庫がここ数年で急速に取り崩されて,限界を下回ってしまったというところまでなって,値段が上昇してきている.
 
宮台:柴田氏の分析を受けて思うのは,私たちは国際貿易の幸福だった時代の,金があれば何でも買えるという前提に立っているということだ.つまり金で買えるが故に,リカードの言う比較優位の言説を素朴に信奉してきてしまった.工業製品が得意ならそれを売って,得た金で資源を買えば良いという考えで,その結果,資源配分が国際的に最適化するという前提があった.
 しかし,その前提には条件がある.政府が市場を閉じるという可能性が,特に希少資源においてあり得るからだ.農産物についても希少になってくれば,当然のことながら高い金を出しても買えなくなる.そうなると比較優位もクソも無く,金で買えない時代が来る.得意な物に特化するのもほどほどにした方が良いという話なのだろう.
 いつでも金で買えるわけではなく,条件が変われば金で変えない状況になるというのは安全保障概念の基本のはずだが,私たちは吉田茂スキームで経済立国を目指し,安全保障をアメリカに任せるような体制になったために,金で買えなくなったときにどうするのかということを考えてこなかった.今でも考えていないだろう.
 物価が高くなってしまうことは憂いてはいるが,高い金を払えば買えると思っているのではないか.


 【質問】
 1日の戦闘で,米軍が最大の損失を出した戦いを教えてください.

 【回答】
 ゲティスバーグの南軍,戦いの3日目に行われた1万2000名によるピケット・チャージという突撃で,過半数,つまり6000人以上が未帰還になっている.
 ほかにも死傷者は出ているだろうから,南軍も米軍とみなせば,恐らく1日の戦闘における米軍の最大の損失は,この会戦3日目の南軍となるんじゃないかな.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 イスラエルはどうやって,ミラージュ戦闘機の設計図を盗み出したのですか?

 【回答】
 当時,スイスの実業家に,アルフレッド・エンクネフトという人物がおりました.
 この人物,スイス国防省に,ミラージュの設計図をマイクロフィルム化し,書類保管のスペースを節約しないか,という話を持ちかけ,まんまとミラージュの設計図を持ち出すことに成功,
 どうでもいいスイス特許庁の書類とすりかえて焼却処分したことにし,モサドに引き渡したとか.

 ・・・逮捕されたあとの刑務所でも,
「わたしは刑務所のスペースを節約する方法を考えだしたんだが・・・」
と,看守を笑わせていたらしい.

軍事板,2002/02/11
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 スリランカ軍のPooneryn制圧について教えられたし.

 【回答】
 複数の海外メディアおよび情報筋によれば,スリランカ軍は2008.11.17(土),反政府勢力「タミル・イーラム解放のトラ」(LTTE)最後の戦略拠点とされるPoonerynを,数週間にわたる攻防戦の末制圧したと発表したそうです.
 Poonerynはスリランカ西部でインド洋に面したところに位置します.
 この発表から数時間もしないうちに,ラジャパスカ大統領はLTTEに対し,武装闘争を放棄し対話のテーブルにつくよう,再度の呼びかけを行なっています.

 LTTE側の反応はありません.

 国防相は声明のなかで,Poonerynの陥落について
「北西方面におけるLTTEの士気を崩壊させた偉業だ」
と述べています.

 スリランカ国軍は2006年以来,北西方面のLTTE掃討作戦にあたり,ジャフナ半島内陸部の補給ルート遮断から着手していました.
 LTTE側による,ここ最近の現地への補給は,Poonerynへの海上経由のみという形になっていたようです.

 これによりスリランカ国軍は,LTTEの拠点であるKilinochchiに対する三方面からの陸路攻略が可能となりました.

おきらく軍事研究会,平成20年(2008年)11月17日


 【質問】
 ネパールの王制廃止決定について教えられたし.

 【回答】
 2007.12.28,ネパール暫定議会は,王制を廃止し共和国を宣言することを正式に決定した.
 採決は321議席中,賛成270,反対3の賛成多数で可決された.
 残りの議席については欠席あるいは棄権だった.

 しかし,前週ネパール共産党毛沢東主義派と暫定政府との間で合意した共和制への移行は,第1回目の制憲議会で施行となるるため,ギャネンドラ国王(King Gyanendra)は当面王位にとどまることになった.

 【参考ページ】
2007年12月29日 02:59,AFP


 【質問】
 インド植民地軍とは?

 【回答】
 英国最大の金城湯池と言えば,インド亜大陸です.
 この大地で作られる綿花を加工して輸出する事で,英国は世界に冠たる工業立国になりましたし,その地で作られる紅茶を生活の中に組み込み,更にその地で作られる阿片は,中国を蝕んでいきました.
 この広大な植民地はまた,兵力の供給源でもありました.
 七つの海に君臨したThe Royal Navyと並んで,陸軍兵力の主力であったのが,インド植民地軍です.

 インド植民地軍は,インドの現地人傭兵と少数のインド人将校で構成され,英国人将校の指揮下に置かれ,現地インド政庁が統括するインド財政で維持された軍隊でした.
 その政治状況と財政状況に応じて兵員数は変動しましたが,19世紀後半から20世紀初めに掛けてそれは常時15〜20万人の兵員を保有しました.
 こうして維持されているインド植民地軍は,英本国にとって最も強力で緊急事態への即応性を持つ軍事力で有り,英国にとっての最大の軍事的資産を形成していました.

 そのインド植民地軍の役割は3つあります.
 第1に,広大なインド亜大陸に於ける治安維持の役割があります.
 インド植民地軍は,元々が英国東インド会社傭兵隊にその起源がありましたが,1857〜58年にかけてのセポイの反乱以後,本国政府の直轄支配の下に置かれたインド国内の治安維持体制の再建が重視され,インド軍は植民地統治の安定化の為に活用されました.
 この機能は,1920年代以後,インド国民会議派などによるナショナリズムの昂揚や,工業都市に於ける労働運動に対する抑圧装置として,また,宗教や民族紛争への介入やその予防措置の実施などが加わり,強化されていきます.

 第2の機能が,英領インドの国境防衛です.
 特に,1880年代半ば以降,1907年の英露協商までの時期は,インドの北側に進出してきたロシアの脅威が声高に叫ばれていた時期で有り,特にその国境線の向う側にある英露の緩衝地帯,Afghanistanにどの様に対応するかが模索された時期です.
 1878〜81年の第2次Afghanistan戦争では,国境防衛と英国の勢力伸長にインド軍が動員された典型的な事例でした.
 また,1930年代前半になると,新たにAfghanistanの北側に君臨したソ連の中央アジア方面に於ける膨張政策との関連で,大英帝国防衛問題の焦点の1つで有り続けました.

 第3の機能は,Afghanistanに対する戦争でもありましたが,「大英帝国の拡張の尖兵」という役割です.
 アジアでは,2度に亘った中国との阿片戦争や,義和団事件の鎮圧,アフリカへは,エジプト,アビシニア,ソマリア,スーダンへの海外派兵がその代表例です.
 この海外への派兵に関する経費は,常に本国政府とインド財政当局及び国民議会とのせめぎ合いでした.
 1838〜1920年にかけてのインド軍の海外派兵は19回に及び,それにかかる臨時経費は本国政府が負担しましたが,経常費はほぼインド財政当局負担,1856年のペルシャへの派兵,1878〜81年の第2次Afghanistan戦争の派兵,1882年のエジプト出兵,1885〜91年の第3次ビルマ出兵,1898〜1914年の各地への出兵でも,臨時経費をインド政庁が負担しています.
 この内,第2次Afghanistan戦争の派兵には,本国が500万ポンドの支出だけだったのに対し,インドはその倍以上の1,251.6万ポンドを支出し,エジプト派兵でも本国は50万ポンドの支出だけだったのに対し,インドはその1.5倍の125万ポンドを支出しています.
 インドは,正に「東洋の海に浮かぶ英国の兵舎」であり,英本国の「安価な政府」を支えた打出の小槌だった訳です.

 ところで,19世紀前半のインド植民地軍の海外派兵先は,アジア諸地域と所謂「アフリカの角」地域に限定されていました.
 しかし,1878年5月始め,英国国民と本国議会は,約9,900名のインド植民地軍が,地中海中央部に位置した英国植民地,マルタ島に突然派遣された事を知らされて,大きな衝撃を受ける事になります.

 マルタ島は,1813年に大英帝国に編入されて以来,天然の良港を活かした海軍基地及び中継貿易港として,本国とインドを結ぶ重要な戦略拠点となっていました.
 元々のエンパイア・ルートは,大西洋を南下してケープタウンと喜望峰を経由し,インド洋に抜ける南回りルートでしたが,1869年にスエズ運河が開通してからは,地中海西端の直轄植民地ジブラルタル,マルタ島からスエズ運河を通り,紅海,アラビア半島南端のアデンを経由して,アラビア海に抜ける北回りルートが重要性を増してきました.
 従って,安全保障面ではマルタ島の地位が俄然高まったのです.

 この頃,トルコとロシアの間では,露土戦争が戦われていましたが,1878年3月3日,両国の間で,サンステファノ条約が締結されると,セルヴィアが独立するなどバルカン半島のトルコ領は大幅に削られ,ロシアの影響力が増しました.
 トルコをあわよくば分割・支配してしまおうと虎視眈々と狙う列強各国は,この条約を受容れる処とならず,特にロシアが地中海に進出する事に,英国のディズレーリ保守党内閣はこの条約を認めようとせず,列強による国際会議の開催を求めると同時に,対ロシア戦争を想定した軍備の増強に着手します.
 3月27日,ディズレーリ内閣は,陸軍予備役を召集し,600万ポンドの軍事支出,インド軍9,900余名のマルタ島への派兵を閣議で決定して,前者の財政措置のみを本国議会に通告してその承認を求めます.
 更に,4月にはコンスタンティノープルに軍艦を派遣して,ロシア軍によるオスマン帝国の首都占領を牽制する強硬な姿勢を示しました.

 当時,英国は保守党と自由党の二大政党制であり,インド軍のマルタ島派遣は,本国議会で紛糾する事になりました.
 1878年5月20日から3夜に渡って,この問題に関する集中審議が貴族院と庶民院で開催され,庶民院での論争は,自由党有力者のハーティントンによる政府非難動議の提出で始まり,保守党の植民地相ヒックス・ビーチによる反論,修正動議の提出へと展開し,同時に並行して貴族院でも審議が行われました.

 この論争では,大英帝国のconstitutionとインド植民地軍の位置づけに関する原則論と,インド軍のマルタ派兵の論理とその是非を巡る政策論が争われたものです.

 法律論から行くと,大英帝国の兵力に関しては,毎年the Mutiny Actの前文で規定された兵員数(1878年の場合は135,452名)を上回るthe imperial forceが,平時インド以外の地点で用いられる場合には,英国本国議会の事前の承認が必要で有り,1858年インド統治改善法第55条の規定により,議会の事前承認が無い限り,インド財政からインド国外で活動するインド軍の経費を支出する事が出来ない.
 従って,本国議会の同意を欠いたままでインド帝国から勝手にインド軍を移動させる事は,英国のconstitutionに反するものと言える.

 また,ハーティントンのインド軍に対する認識は,以下の通りでした.

――――――
 インド軍は,年々の議会投票によってその数を制限されている訳では無い.
 その兵員数はthe Mutiny Actの中には列挙されないし,インド軍はその法律に従う義務が無い.
 実際インド軍は,本国及び他の国王従属領で維持される陸軍と比較すると,non-parliamentary army,つまり,非議会軍と呼びうる.
――――――

 他に急進主義者であるディルクや,ハーコートなどの自由党議員達は,1689年の権利章典以来確立されてきた陸軍に対する議会統制の慣習を強調した上で,インド軍の大英帝国内部での勝手な移動と動員が,本国議会の権限侵害の危険な前例になる事を憂慮すると述べます.
 特に,野党指導者のグラッドストンは,「我々の自由を守る為の国制上のあらゆる保障を,油断の無い最大の配慮でもって守る事が,我々に課せられた義務である」と述べ,保守党政府のインド軍マルタ派遣を厳しく非難しました.

 貴族院では,政府側の公式見解を代弁した大法官が,1858年以来インド軍は,the forces of the Crownの一部を構成しており,その移動と配備は国王大権に属する事,1858年のインド統治改善法は,単にインド軍の移動経費をインド財政に課する事を規制するに過ぎない事,以上のような独自の国王大権の解釈を根拠に,その正当性を強調しました.
 庶民院に於ても,植民地相のヒックス・ビーチ,インド省政務次官のスタナップ等が,1860年代に於ける一連のインド軍海外派兵の前例を参照しつつ,インド軍の大英帝国内部での自由な移動と動員は,国王大権及び政府の自由裁量権に帰属する問題であると繰返し主張しました.

 政府与党と,野党の論戦は結局平行線に終わっています.

 一方,インド軍マルタ派兵の適否については,保守党政府側が積極的な大英帝国の外交政策論を展開しました.
 つまり,今回のマルタ派兵は,当面直面する軍事・外交上の危機,「緊急事態」を回避する為に,大英帝国の最善の利益に叶うように行動した結果であるとして,「大英帝国の一体性を誇示した,外交政策に於ける最高傑作である」と自画自賛しています.
 ディズレーリ首相は,こう述べています.

――――――
 帝国政府はアジアに重要な権益を有している.
 我々の利害関係は帝国全域の及ぶもので有り,それは帝国に相応しい方法で守られねばならない.
 インドとの交通が妨げられてはならず,その交通を維持する為のインド軍動員は,何ら不都合では無い.
――――――

 そして,ロシアと折衝中の時点で,インド軍派兵の秘密を保持する必要がある為,この問題を議論する事自体が英国の国益に反するとして,改めてインド軍に対する国王大権の行使を主張し,今回の措置が,「平和を確保し,ヨーロッパの自由及び英国の地位を維持する為の行動」と強調しました.

 当然,野党側はそうしたオスマン帝国を巡る状勢をインド軍の急派を正当化出来る様な緊急事態とは認めず,英国政府がインド財政を活用する事で予算の承認を通じた本国議会による国王大権に対する統帥権が,事実上骨抜きにされてきた事に抗議しました.
 同時に,インド帝国を経由した形での本国行政府による権限強大化の可能性に対しては,危惧の念を表明しています.
 つまり,「電信を用いれば,僅か2〜3時間の内に,20〜30万人あるいはそれ以上のインド軍が政府の手によって自由に使用される事になるが,それに対し議会は何ら統制力を行使し得ない」という訳です.

 最終的に,3夜に渡った論戦は,保守党政権の帝国外交政策を擁護するヒックス・ビーチの修正動議が大差で可決されて承認されます.
 マルタに派遣されたインド軍は,その後ベルリン会議で英国が獲得したキプロス島に配備され,ロシアの南下政策を阻止した訳です.

 ただ,インド軍と英国のconstitutionに関する原則論では野党側の方が説得力を有していました.
 特に本国議会のシビリアンコントロールを事実上骨抜きにしようとする政策が,保守党政府によって採られたので尚更です.
 外交政策面では政府側の示すエンパイア・ルートの保全とロシアの南下政策阻止を主張した政府側に説得力があり,野党側は,これに対抗する主張が出来ませんでした…その為,原則論を掲げたのですが.
 但し,保守党内閣でも,地中海の英国公式植民地であったマルタ島とインド帝国の直接的な利害関係を強硬に主張するのは難しく,そのインド派遣軍の経費は英国本国が負担する事になります.
 今回は問題になりませんでしたが,これは後に,インド帝国の財政均衡問題と絡めて,常に派兵に伴う財政問題が議論の争点になっていく訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/07/24 23:03
青文字:加筆改修部分


 【追記】

 さて,1878年6月,ロシアと他の列強諸国との対立は,ベルリン会議によってひとまず南下策を阻止する事が出来ました.
 取り敢ず,ディズレーリ内閣は,「名誉ある平和」の達成を誇示する事が出来,ヘゲモニー国家として欧州国際秩序の維持と勢力均衡に基づいたゲームのルール設定に成功した訳です.
 しかし,この「名誉ある平和」はあくまでも欧州のみが範囲で有り,その他の地域には適用されませんでした.
 僅か4ヶ月後の1878年11月21日,インド軍がAfghanistanに侵攻して,第2次Afghanistan戦争が始まった為です.

 この遠因は,1870年代半ばに於けるインド相ソールズベリと現地のインド総督ノースブルックとの対立から始まります.
 野心に燃えたソールズベリは,1874年にインド相に返り咲くと,Afghanistanに対する英国の影響力強化に乗り出しました.
 その第1歩として,1875年1月末,ノースブルックに対して,Afghanistan領内のヘラート或いはカンダハールに英国人駐在官を設置するよう努力せよとの指令を発します.

 ノースブルックは,これに対し,Afghanistanのアミールが従来から英国使節団の受け入れを拒絶してきた事を理由に反対し,指令を無視しました.
 しかし,ソールズベリは1875年11月に再度,首都カブールに対する使節団派遣命令を発します.
 これは,ロシアが南下してきてAfghanistanに影響力を行使するのを未然に防ぐ為に,Afghanistan国内に英国人駐在官を置いて,情報収集を正確に行い,かつアミールへの助言と警告をする事が有効であると言う考えからでした.
 従来より,インド防衛のアキレス腱が,このインド北西国境であると言う認識が,ソールズベリの頭の中にあったからです.

 これに対し,ノースブルックはインド総督職を賭して反対します.
 彼は,まず英国にとってAfghanistanを独立させておく事の重要性を主張し,次いで,ロシアがAfghanistanを侵攻する事の非現実性を挙げ,更に,英国人駐在官の設置要求に対するAfghanistan側の敵意を強調して,歴代インド総督が採用してきたAfghanistanに対する「忍耐強い懐柔政策」を堅持するように主張しました.
 ノースブルックの立場としては,現地のインド統治の安定を重視する立場,つまり,つまらない戦争にインドが引きずり込まれる事により,インド財政に過大な負担が課される上に,英国の植民地支配に対するインド人の不信感が増幅する事を恐れていました.
 ノースブルックは4年間のインド統治の経験に基づき,英領インドの安全は,forward policyによる国境の拡張では無く,インド内部の統治体制の安定によって齎されると考えていました.
 結局,1876年4月,ノースブルックはインド総督職を辞して本国への帰国を余儀なくされます.

 次のインド総督となったリットンは,1876年2月末,英国出発前にソールズベリからカーブルに英国使節団を派遣するよう,秘密指令を受け取りました.
 リットンは,Afghanistan側との交渉を開始すると同時に,10月になるとAfghanistanに隣接する戦略拠点クエッタを軍事占領してインド北西国境の防備を固めました.
 この交渉は,ノースブルックの予想通り,決裂に終わり,1877年3月にインドとAfghanistanとの外交関係は事実上断絶状態に陥りました.

 ところで,ベルリン会議の前に,インド兵がマルタ島に派遣された事は,ロシアをいたく刺激しました.
 この対抗措置として,1878年7月,ロシアは中央アジア経由でカーブルに使節団を派遣し,Afghanistanと相互援助条約を締結してしまいます.
 これに過剰反応したのが,英国側です.
 9月にインド政庁が送り込もうとした使節団が,Afghanistan側の抵抗で入国を拒絶された事を口実として,英国側は謝罪を求めて戦争に突入してしまいました.

 戦争勃発直後の1878年12月,1858年インド統治改善法に基づいて戦争経費の負担問題を討議する為に,英国本国議会が臨時に召集されます.
 これまた前回と同様に国制論,Afghanistan戦争の正当性を巡る政策論,インド財政問題についての議論が主に為されました.

 国制に関する議論については,Afghanistanがインド北西国境を挟んで英領インドに隣接した地域であり,インド軍のマルタ派兵と異なり,共同抗命法の適用範囲外である為,1858年インド統治改善法55条の解釈のみが争点になりました.
 野党側自由党の指導者グラッドストンは,同法55条の目的がインド歳入からの不当な経費支出を許さない事,インド歳入を利用して英領インドの領域外で,軍事行動を強行しようとする政府の意図を抑制する事に有り,従って,開戦に至るディズレーリ内閣が執った措置は,英国本国議会の国政上の権限を侵害するものだと批判しました.

 これに対し,与党保守党側は,議会による事後承認が事前承認と同等の効果を有すると主張し,また宣戦布告の大権は国王とその助言者である内閣に属するので有り,グラッドストンの議論は国王大権を侵害するものであると反駁しました.

 次の戦争の正当性及びその正確を巡る政策論は,この論争最大の特徴でした.

 自由党議員を中心とした批判者側は,この戦争を,保守党政府の帝国外交政策により引き起こされた,
「大英帝国の為の戦争」
と断定し,Afghanistanを攻撃する正当な理由が欠如した状態では,
「この戦争は不当な戦争であり,国家的犯罪である」
と述べました.
 従って,彼らとしては,早急に戦争を終結させ,従来のAfghanistanに対する懐柔政策に復帰すべき事,また,この戦争はインドに直接関係の無い大英帝国の問題であるから,本国が戦争の全経費を負担すべきであると主張しました.

 これに対し,与党側は,貴族院の討論では,大英帝国権益にとってのAfghanistanの重要性を強調しましたが,具体的な経費負担が問題になった庶民院の議論では,その主張を一転させて,Afghanistan戦争は英領インドの北西国境地帯の防備を固める為の,「インドの戦争」であると主張しました.
 当然,これは戦争の尻拭いを,総てインド側に押しつけようとする為の主張です.

 そして,戦費の問題については,保守党政府側は戦争の経費を当初から過小に見積もって,インド財政への悪影響を否定します.

 これに対し,批判者側はインドの財政難を強調しました.
 即ち,政府側が,重税と度重なる飢饉に曝されていたインドの貧民大衆の窮状を無視して,インド財政の余剰金をAfghanistan戦争に流用する事は,インド現地人の英国支配に対する不満を高め,財政問題を一気に政治問題化させる事になり,それは,英領インドの保全にとって危険で有り,インドの軍事費削減こそ緊急の課題であると主張しました.

 しかし,結局の処,1878年の段階では,与党の主張が受容れられ,既定方針通りにインド財政にこの戦争の経費を押しつける事が承認されてしまいました.

 その後,この戦争は,1879年5月にインド軍が首都カーブルを攻略し,和平条約調印に伴うAfghanistanの保護国化が達成され,英国の当初政策目標が達成されたかに見えました.
 ところが,1879年9月になると,新任の英国人駐在官一行が全員殺害されて戦闘が再燃し,紛争はAfghanistan全土に波及して,泥沼化の様相を呈します.
 戦争の長期化により,戦費は急速に膨張し,本国では自由党のフォーセットを中心に,Afghanistan戦争を大英帝国全体の利害と結びつけて,本国側による戦費の負担を要求する戦いが継続され,遂にはこの戦争の泥沼化が本国の政治を揺るがす政治問題に発展していったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/07/25 23:28


 【質問】
 グラッドストンは,第2次アフ【ガ】ーン戦争をどのように批判したのか?

 【回答】
 さて,第2次Afghanistan戦争が泥沼化していた1880年は,選挙の年です.
 その前年,1879年1月に,野党自由党のグラッドストンは,スコットランドのミドロジアン選挙区から次期総選挙に出馬する事を表明し,保守党政府の政策批判に着手します.

 一方,迎え撃つディズレーリ首相も,1879年11月10日に,ロンドン・ギルドホールの演説にて,Inperium et Libertasの相互依存性と連関性を強調して,自己の帝国外交政策の正当性を主張しました.

 これに対応して,グラッドストンは,保守党内閣が総選挙実施の決定を下す前に,政府批判の一大キャンペーンを展開する事にします.
 そして,1879年11月末から12月初頭に掛けて,スコットランドで2週間に亘り,後にミドロジアン・キャンペーンと呼ばれる前例の無い長期遊説に打って出たのでした.
 このキャンペーンは,
「あらゆる問題を扱った10日間の竜巻」
と称され,帝国の外交政策,アイルランド問題に加えて,本国の内政上の経済・政治倫理・農業・借地農問題など多様な論点が提起されましたが,その中心にあったのが保守党政府の帝国外交政策批判でした.

 ミドロジアン・キャンペーンは,11月25日,エジンバラのミュージックホールでの演説で開始されました.
 この演説は次の通りです.

――――――
 政府の外交政策により,英国の名誉と信用がいたく傷つけられている.
 信頼感と平和を動揺させて,政府は困窮状態を引き延ばし悪化させてきた.
 特に,外交問題に関して政府が為すべき責務は,人々の気持ちを宥め沈静化させる事であって,参加を招くような栄光の間違った幻影をかき立てる事ではないし,有害な優越感を助長する事でも無い.
 (逆に政府は)国家の兄弟関係,対等性,国家間の公的権利の絶対的平等を認める原理に基づいて行動し,とりわけ冷静で慎重な世論を生み出し提示するように努力せねばならない.
 人類史上に於て,大英帝国の形成に匹敵するような前例は存在しない.
 こうした我々の本当の強みは,連合王国の内部にあるので有り,その強さが帝国の拡大や,連合王国を越えた海外領土に依存していると主張する人々のつまらぬ幻想を,私は打破したいと思う.
 広大な自治植民地を防衛して統治する事,世界中に広がる通商を保護する事,インドでの巨大な責任を果たす事,こうした責務に加えて,今や危険で曖昧な謂われの無い,実行不能な責務が,世界の至る所で我々に課せられている.
 現在の混乱は,我々自身が作り出したもので有り,政府は,ヨーロッパ列強による協調行動を妨げた事でその責任を負わねばならない.
――――――

 グラッドストン率いる自由党は,大英帝国の領土拡張に反対し,帝国の栄光や熱狂的愛国主義を批判し,欧州列強との協調を重視すると表明した訳です.

 2日目,ダルキースを訪れたグラッドストンは,この地で有名な「平和の訴え」と呼ばれる演説を行います.

――――――
 現在の危機の特徴は,地方の諸問題が一般的な問題の中に取り込まれ,国内問題が外交問題と大幅に混同されている事にある.
 1874年から,国民の肩に,謂われの無い数多くの誤った危険な責務がのしかかってきた.
 我々は,国内問題への対応で手一杯の状態であり,我々には南アフリカ,Afghanistan,トルコ領アジア,キプロス,エジプトなどに介入する権利は無い.
 トランスヴァールを併合し,ズールーランドを征服し,エジプトや中央アジア山岳地帯に対する統治責任を引き受ける事…,これら総ては我々に課せられた重荷である.
 Afghanistanの場合,我々は自らの政治的目的を達成する為に,高地部族の地に軍事拠点を築く選択を行った.
 彼らは村落から出て抵抗したが,殺害され,村は焼き払われた.
 これは,女性や子供が放り出されて冬の雪の中で凍死する事を意味した.
 未開人の権利を思いだそう.
 彼の慎ましい家族の幸福,冬の雪に埋もれたAfghanistanの高地村落での生活の神聖さ,その何れもが,全能の神の前では,あなた方の場合と全く同じように神聖不可侵である事を思いだそう.
 人類の隣人愛は,連合王国内部に限定される訳では無い.
 キリスト教文明の内部に限定される訳でも無い.
 それは地上全体に及び,その対象には,最も偉大な者も最も慎ましい者も含まれるのである.
――――――

 この演説を行ったスコットランドと言う地は,信仰心の篤い人々が住まう土地柄です.
 この演説は,保守党政府による領土併合政策を告発する,非常に格調の高いキリスト教精神に基づいた倫理的な訴えとなっており,信仰心の篤い人々の多い,この地では最高のアピールとなったのです.

 3日目の遊説は,ウェストコールダーで演説しました.
 此処でグラッドストンは,自分が確信する外交方針として6つの指針を提示しました.
 まず,英国本国での公明正大な立法,経費節約,良き統治を通じて帝国の力を養成する事.
 次いで平和の恩恵を享受する事.
 3つ目が,欧州の協調を育成し維持する事.
 4つ目が,不要で面倒な責務を回避する事.
 5つ目が,あらゆる国家に平等の権利を認める事.
 最後が,外交政策が自由の精神によって導かれる事でした.
 特に,グラッドストンが強調したのは,5つ目の国家間の平等であり,
「国家間の平等が無ければ正義は存在せず,国際的正義を欠けば,問題の解決手段は軍事力だけになる」
と,現状を批判しました.
 また,ディズレーリの帝国外交を告発して,次のように述べています.

――――――
 首相ディズレーリは,英国の外交政策の指針として,Imperium et Libetasを掲げたが,それは
『我々には自由を,他の人間に対しては帝国を!』
というのと同義で有り,我々自身が要求する諸権利を,他者に対しては否認する政策を明示している.
 我々は,そうした主張を展開しながら,侵略的な領土拡張を図ろうとしたルイ14世やナポレオンに抵抗し,戦ってきた.
 国家間には大小の区別無く,絶対的な平等が存在する…,この健全で神聖な原理を傷つける者は,自国に危害を加え,平和とキリスト教社会の最も根本的な権利を危険に晒す事になるのである.
――――――

 つまり,グラッドストンの外交方針は自由主義精神と国際的正義を掲げ,非常に理念的で理想主義的な外交の原則を示した訳です.

 遊説の最終日,グラスゴーを訪れたグラッドストンは,再度「自由の精神」の用語を訴える演説を行いました.
 先ず彼は,保守党政府の対トルコ政策を非難しました.
 キプロス島を獲得した1878年の英土議定書は,欧州の公法である1856年のパリ条約を無視して欧州の強調を崩すものであると主張し,キプロス島自体が,英国にとって通商上も軍事上も全く役に立たぬ「価値の無い重荷」で有り,その獲得を正当化しようとする保守党政府のエンパイア・ルート防衛論を,「恐るべき主張」として否定しました.

 次いで彼は,インド統治とAfghanistan問題に言及して,次の諸点を指摘します.
 まず,1877年1月のヴィクトリア女王のインド女帝宣言以来,武器法,現地語出版法等によって,現地人の自由が制限され,同時に貧困なインドの大衆に増税が押しつけられたが,こうした我々の強引な行為の結末として,不正で破滅的な第2次Afghanistan戦争が引き起こされたと述べ,次にその結果我々は,Afghanistanを分裂させ,歴代の諸政府が営々として築いてきた,ロシアと英領インド間の「堅固な障壁」を破壊してしまったとし,その過程で生じた巨額の軍事費を,我々は不当にも貧しいインドの大衆に押しつけようとしていると述べています.

 最後に彼は,保守党政権の下での内外の情勢を要約して,次のように述べます.

――――――
 英国国内では財政状態が混乱し,立法も遅れが目立ち,後方の無視による信頼感の喪失の為に,欧州状勢は不穏で動揺した状況にある.
 一方,植民地ではトランスヴァールの併合,ズールー戦争,第2次Afghanistan戦争など一連の侵略戦争が強行され,インドは過重で不正な負担を課されて圧制の下に置かれた.
 その上,本国議会の権限が侵害されて,国王大権が不当に濫用されている.
 こうした困窮と流血の中で,ベルリン条約やAfghanistan戦争に至るまで,我々は自由の為に何ら行動しなかったし,有効な発言も行わなかった.
 大英帝国に於ける自由統治の原則を逆転させて否定する事ほど,深刻な誤りは無いのだ.
――――――

と,今までの演説を包括して,グラッドストンは保守党政権を非難しています.

 因みに,グラッドストンが述べる自由党の政策は,欧州列強の強調を重視する普遍的な国際主義,自由主義精神の尊重,平和主義に代表される非常に理念的で倫理的な理想主義でした.
 但し,その国際協調の主体はあくまでも欧州列強であり,非欧州諸地域はそれが適用される単なる客体でしか有りませんでした.
 そこに,このグラッドストンと言う人の限界があります.

 また,グラッドストンにとって,大英帝国の経済的繁栄の源は,本国内部に求められるべきものであり,英領インドへの過度の依存は危険であると考えていました.
 彼にとってのインドは,皇帝(ヴィクトリア女帝)を頂点とする東洋の帝国での独裁政治が強化され,国王大権が拡大解釈される一方で,本国議会の権限が制限されて,英国伝統の均衡の取れた国制自体が脅かされる危険のあるものという存在でした.
 しかし,実際には英国とインドの関係は既に深く唇歯の関係となっており,英国の影響力行使にとって,英領インドは決定的に重要なものでした.
 これも,グラッドストンが考えていた以上にギャップがあり,それが大きくなるにつれて,グラッドストンが掲げる自由主義は大きく後退していく事になります.

 1880年4月に行われた総選挙では,外交政策が主要争点になり,その結果,保守党が大敗して政権交代が起き,第2次グラッドストン内閣が成立しました.
 グラッドストンは,選挙公約に掲げられたAfghanistan戦争の早期終結に努めました.
 この結果,インド総督リットンは解任され,グラッドストンに近いリポンが,新総督に就任します.
 グラッドストンは,また,Afghanistan戦争は前政権の帝国拡張政策の結果であると断定して,新たにインド相となったハーティントンが,Afghanistan戦争に於ける戦費を本国財政により一部負担すると表明しました.
 最終的に1881年3月16日,Afghanistan戦争に対する臨時経費の一部500万ポンドを本国が負担する事とし,4月15日には保守党の反対を押し切って,インド軍のカンダハールからの撤退を完了させました.
 こうして,2年半に亘る第2次Afghanistan戦争は終結しましたが,2,350万ポンドを費やした経常費・臨時経費の内,1,850万ポンドはインド財政に転嫁させられてしまいました.

 こうして,平和の使者としてグラッドストンの名声は高まったのですが,翌年にはその方針が大きく動揺する事になります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/07/26 23:38
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 1882年の英エジプト出兵における,経費負担問題とは?

 【回答】
 さて,1882年の英国に.
 当時,保守党は政権の座を滑り落ち,グラッドストンを首班とする自由党内閣が誕生します.
 彼はAfghanistanの泥沼から撤退した事で,平和主義者の名声を高める事に成功しました.
 しかし,1882年になると,アイルランドでのナショナリズムの昂揚,エジプトで始まったオラービー運動,トランスヴァールの独立を巡る南アフリカ問題が重なり,帝国は大きく動揺する事になります.

 特に,インドとの通航上,スエズ運河を有するエジプト問題は深刻に受け止められ,1882年7月,前言を翻すように,グラッドストン内閣は英国から遠征軍を派兵すると同時に,インド軍のエジプト派兵を決定し,これは結果として英国によるエジプトの単独占領と保護国化に帰結しました.

 インド軍の派兵は,1882年7月24日の閣議で決定されます.
 同時に自由党政府は本国議会の庶民院に対し,エジプトに向けて派兵される「英本国陸軍」に関連した予算230万ポンドを要求し,その承認を求めました.
 グラッドストンは,英国軍派兵の目的はスエズ運河防衛よりも,エジプト内部の無政府状態の打開に有り,もし可能であれば他の列強との協調により,しかし必要とあらば英国単独で,エジプトの軍政を打破して法の支配を回復する事にある,徒主張しました.

 これとは対照的に,外務政務次官だった自由党急進派のディルクは,エジプトに於ける英国権益の重要性を次のように強調していました.

――――――
 スエズ運河に関して英国は二重の権益を有する.
 (1つは,)運河を経由する貿易の82%が英国によるものであると言う圧倒的な通商権益であり,(もう1つは)運河がインド,セイロン,海峡植民地,英領ビルマ及び中国,更にオーストラリア,ニュージーランドなどの我が植民地帝国…以上の諸地域への主要な公水路であると言う事実から生じる圧倒的な政治権益である.
――――――

 兎にも角にも,この派兵は短期間の限定的な派兵を行うと言う事で意見の一致を見,1882年7月27日,「英国本国陸軍」の派兵に関する政府提案はほぼ満場一致で可決成立しました.

 次いで,本国政府は7月27日と31日の両日に渡り,1858年インド統治改善法第55条の規定に基づいて,エジプトに派兵されるインド軍経費の,インド財政による負担を求める提案を行いました.
 インド相ハーティントンは,政府の立場を次のように主張しました.

――――――
 スエズ運河のインドに対する軍事・通商・運輸交通面での重要性を考慮すると,インドは今回の対エジプト干渉政策に,今まで行われてきた何れのインド軍海外派兵の場合よりも一掃大きな利害関係を有している.
 我々は帝国全体の名誉と権益が含まれる政策を防衛する為に行動するのであり,同時に,インドの名誉と物質的利害がより直接的に関係しているから,インドの役割分担は限定されねばならないとしても,一定の経費負担は当然であろう.
――――――

 この論理に対して,当然保守党からは反駁が出ます.

――――――
 現政府の政策は,故ビーコンズフィールド卿の政策であり,当時強力に反対したにも関わらず,現政府はその政策を忠実に遂行している.
 今回の戦争は,欧州の,そして大英帝国の権益の為に着手された戦争であり,首相グラッドストンの見解は,1878年当時の全く変わって,今やスエズ運河全域,いやジブラルタルからアデンに至る全域に守備隊を置こうとしている.
 従って,全経費は本国政府が負担すべきである.
――――――

 この保守党の見解は,インド大衆の貧困状態,重税と飢饉に喘ぐ危機的窮状を重視した一部の与党自由党議員によっても支持されました.
 他方,エジプト出兵と英領インドとの直接的関連を否定するものの,スエズ運河防衛の為なら,インド財政による一定の経費負担を容認する,中間的立場の議員も多数いました.

 そこで,膠着状態になった政局に,陸軍大臣チルダーズが,妥協案を提出して事態の収拾を図ります.

――――――
 1878年のインド軍動員の内,マルタ島派兵は国制上の問題であり,第2次Afghanistan戦争では経費負担が問題となった.
 Afghanistan戦争は大英帝国の為の戦争であるから,自由党政府は,1881年に500万ポンドの本国負担を決定したのである.
 今回のエジプト出兵は,英本国とアジアの植民地との重要な通信・連絡ルートを維持する為の英印双方に関係する特別の軍事行動であるから,両国はその派兵の規模に応じて将来経費を負担すべきである.
 但し,その具体額は,事態の決着後に下される議会の決定に委ねられるべきである.
――――――

 これは所謂玉虫色の妥協案で,問題を先送りするに過ぎませんでした.
 結局,1882年7月の時点では,現地エジプトでの急速な事態の展開に対応する必要性と,本国からの派兵経費が満場一致に近い形で承認された事もあり,チルダース陸相の妥協案が賛成多数で可決され,エジプトへのインド軍派兵が規定事項として承認されました.

 ところが,これに対する強力な反対意見が,他ならぬインド政庁から発せられます.
 当時,インド政庁のトップにはグラッドストンの子飼いであるリポンが総督として就任していたのですが,彼は,それにも関わらず,強力な反対をしたのです.
 その反対の理由は5つ.
 1つ,インド政庁はエジプトでの政策と軍事作戦に関して,事前に何の相談も受けていない.
 2つ,エジプトは欧州政治の領域に属し,具体的干渉を正当化出来るようなインドの利害が含まれてはおらず,対エジプト政策は英領インドよりも寧ろ,大英帝国権益の問題だ.
 3つ,インド海外派兵の全経費を,インド側が負担した前例は無い.
 4つ,エジプトで英領インドに関係する唯一の実質的権益は,スエズ運河の船舶航行の保障であるが,その利害はインドよりも,遙かに本国の方が大きいはずだ.
 また,スエズ運河にはセイロン,海峡植民地,香港,オーストラリアなどの諸植民地,タスマニア,ニュージーランドなども利害を有しており,インドにのみ経費負担を求めるのは政治上の平等の原則に反する.
 最後に,インド大衆の貧困と,それに伴う税負担能力の欠如により,インド現地では初等教育の拡充,公衆衛生事業,公共事業などの必要且つ重要な諸事業が,資金難で停滞しており,また,平和の永続を前提にして,輸入関税の全廃,塩税引下げ,地税の軽減などの大幅な財政改革を,インドで断行した直後であるから,新たな戦費調達の為に,追加の課税を行うのは賢明では無い,と言うものでした.

 これに対し,本国政府からの返信は,先に引用したインド相ハーティントンの議会答弁の内容を繰返すのみとなり,両者の意見対立は逆に深まる事になりました.

 また,自由党政府の一翼を担っていた旧急進主義者達も,グラッドストンの強硬姿勢を批判しました.
 閣僚のジョン・ブライトは,英国海軍のアレキサンドリア砲撃に抗議して7月18日に辞職,逓信大臣を務めて,本国議会に於ける「インド利害の代弁者」と目されたフォーセットは,7月31日の議会議論の最中に退場して,政府方針に反対の姿勢を示しました.
 そして,彼は首相への私信を通じて,インド政庁の見解を全面的に支持して,政府提案に反対する自己の立場を明確にしたのでした.

 因みに,エジプトに派兵されたインド軍は,1882年9月のテル=エル=ケビールの戦いでの大勝により,9月末には任務を終える事になります.
 しかし,経費負担問題はまだ尾を引き,1883年に持ち越されました.

 3月2日,自由党政府は,前年7月の決議に従い,エジプト派兵関係の補正予算案を提出し,その中でインド政庁に対して50万ポンドの財政援助を要請しました.
 政府の対エジプト政策に批判的な,一部の自由党議員と保守党は,先に触れたインド政庁による経費負担反対論を支持しました.
 彼らは,50万ポンドの財政援助は,インドと何の関係も無い事,また本国の予算額も,1882年度には9,000万ポンドという平時に於ける最高額に達した事実を指摘して,政府の財政政策の失敗を鋭く批判しました.
 この政府批判を更に補強する為に提起されたのが,5〜7月に議論されたインド経費削減決議でした.

 インド経費削減決議は,当初,本国費とインドの負担額の増大により,インドの財政状況が悪化する事を懸念した保守党議員が,徹底した経費削減措置を求めて提出したものであり,自由党政府側も,その主旨には基本的に賛成していました.
 しかし,討論の途中で,保守党議員により,インド軍のエジプト派兵経費をインド政庁の意向を無視してインド財政に課す事に対し,遺憾の意を表明する修正動議が提出されると,論争の性格は一変します.

 保守党及び自由党急進派議員は,エジプトでのインド軍の使用をインド軍本来の使命を逸脱するものと考え,エジプト出兵を「不正で邪悪な戦争」,債券保有者の為の戦争と決めつけて,グラッドストンの一貫性を欠く行為を厳しく批判します.
 これに対し,政府側は,修正動議の提出を政府に対する事実上の不信任決議の提出と見做して,強力な反駁を加えました.
 即ち,ハーティントン陸相(インド相から転任)は,エジプト政府とインド政庁との見解の相違を否定し,この修正動議をインド問題の中に政党政治を持ち込むものとして批判しました.

 また,インド省政務次官クロスは,インドにとってスエズ運河が有する,通商面と軍事面での価値を強調して,インド財政による経費負担の妥当性を主張しました.
 更に彼は,近年のインド財政の経費削減と,減税の努力と成果を改めて強調し,インド大衆の貧困問題解決の為に積極的に取り組む自由党政府の姿を印象づけようとします.

 最後に,グラッドストン自らが答弁に立ち,インド軍のエジプトは兵に関する政府見解を以下のように総括しました.

――――――
 まず,オーストラリアを始めとする白人定住植民地がこの帝国の戦争に対して何らかの貢献を為す事は期待していないし,本国政府には白人定住植民地に対して経費負担を要求する権限も無い.
 次に,エジプト問題に関してインド政庁の事前の同意を取り付けるのは困難であり,インド政庁と政策責任を分担する必要は無く,事後通告で十分である.
 更に,現在の英領インドは自治領では無く,我々が支配する事により利益を得ている.
 エジプト問題の基底にはスエズ運河の権益があり,英領インドにとってスエズ運河は世界の中心地との結節点であり,軍事上の経費節減や,インド物産の市場拡大によって,インドは経済上も多大の恩恵に浴している.
 従って我々は,インドに応分の負担を求めるのである.
――――――

 結局,この決議は大差で否決されました.
 しかし,インド軍のエジプト派兵経費は,本国が臨時経費の内50万ポンドのみを負担し,残りの125万ポンド相当額をインド財政に課す事が,インド経費支出の一層の削減を求めるという矛盾する決議と共に確定した訳です.

 それにしても,政権交代から1年もしないうちに方針転換と言うのは,全く何処かの国の政権政党と変わらないですねぇ.
 130年前の話を今やっているのですから,遅れていると言うべきなのかも知れませんが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/07/27 23:53
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 パキスタン・アフガン・米統合軍事情報中枢とは?

 【回答】
 2008.3.29,アフガン国境付近に第一番目の施設が設置.
 三カ国は共同で六つの中枢を立ち上げ,パキスタンとアフガンはここを通じて米の支援を得ながらタリバーン,アルカーイダ掃討作戦を行なうための情報を入手します.
 中枢ではパキスタン軍,アフガン軍の陸軍将校が,米のUAV(無人偵察機)の撮影したビデオ映像を直接見て,各軍の中枢に通報します.
 UAVは一帯のテロ警戒にも当たります.

 ⇒アフガンで展開する米軍の地上部隊「八十二統連合任務部隊」指揮官で,八十二空挺師団長のロドリゲス少将は,この中枢設立について,
「三カ国から集まった百名の将校の存在は,三カ国の親密な共同・協力関係の重要な段階が始まったことを示している」
と述べています.

おきらく軍事研究会,平成20年(2008年)4月7日


 【追記】
┃ ☆ 水 曜 版 ☆  ≪ WEB 熱線 第920号 ≫2007/09/26_Wed  ++++ ☆

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃▼▽ 私見時事論談 ▽▼  by hideおじさん 五十代@会社員@神奈川


☆ 補足資料:各国の国旗と国歌の取扱い ―――――――― 2007/09/26


私の仲間内でも,賛否両論ある日の丸と君が代ですが,反対派の方はよく外国
を引合に出してきます.では,本当に外国では国旗と国歌はどのような位置づ
けになっているのでしょうか.

―― 1.アメリカ合衆国

国旗の掲揚:
連邦法により,学校の校舎を含む公的機関の主要建物等に国旗が掲揚されるこ
とが規定されている.

国旗の意義:
連邦レベルでは特段の規定はない.各州が取扱い,公立学校では始業時に国旗
に対して忠誠を誓うことが広く行われている.

国歌の演奏・斉唱:
連邦法により,国旗掲揚中の国歌演奏に際しては,国旗に向かって起立するこ
とが規定されている.(義務付け規定はない)

国歌の歌詞・歌唱の指導:
連邦レベルでは特段の規定はなく,州が取り扱う.国歌斉唱は随時行われてい
る.

―― 2.イギリス

国旗の掲揚:
学校内で国旗が掲げられたり,学校行事で国旗が掲揚されることはない.

国旗の意義:
学校教育における国旗の指導についての法令はない.国の教育課程基準におい
ても触れられていない.国旗の指導は,学校や教師の判断により,歴史等の授
業で指導される.

国歌の演奏・斉唱:
学校行事において演奏されることはない.

国歌の歌詞・歌唱の指導:
学校教育における指導についての法令はない.国歌の指導は,学校や教師の判
断により音楽の授業で指導される.

―― 3.フランス

国旗の掲揚:
掲揚の義務を定める法令はないが,公立学校を含む全ての公的機関で掲揚され
る.

国旗の意義:
国旗は国の象徴の1つとして学習指導要領により「公民」の授業の中で教えら
れる.

国歌の演奏・斉唱:
通常,学校では演奏されない.

国歌の歌詞・歌唱の指導:
国旗と同じく,国の象徴の1つとして学習指導要領により「公民」の授業の中
で教えられる.音楽の中では示されない.

―― 4.ドイツ

国旗の掲揚:
連邦には規定は無く,各州に扱いは任せている.

国旗の意義:
州によって異なるが,通常,国旗に対して敬意を持つことや,国旗を軽視して
はならないことが教えられている.

国歌の演奏・斉唱:
連邦に規定は無く,各州に扱いは任されている.

国歌の歌詞・歌唱の指導:
ノルトライン・ヴェストファーレン州では,児童生徒が国歌のメロディーと歌
詞を習得するよう指導することが文部省通達により定められている.

―― 5.イタリア

国旗の掲揚:
公立学校では正面入口上部に掲揚されている.

国旗の意義:
中等学校において歴史,および公民教育の一部として取り扱われている.

国歌の演奏・斉唱:
通常,演奏される機会は無い.

国歌の歌詞・歌唱の指導:
中等学校において歴史,および公民教育の一部として取り扱われている.

―― 6.ロシア

国旗の掲揚:
学校での掲揚を義務つける法令はないが入学式等の学校行事では掲揚される.

国旗の意義:
特段の規定はないが,取扱いは地方,及び学校に委ねられている.

国歌の演奏:斉唱:
特段の規定はないが,入学式等の学校行事で演奏される.

国歌の歌詞・歌唱の指導:
特段の規定はないが,取扱いは地方,及び学校に委ねられている.

―― 7.中国

国旗の掲揚:
国旗法により,学校は毎日国旗を掲揚し,毎週一度,及び特別な記念日には掲
揚の儀式を行わなければならない.

国旗の意義:
教学大綱及び共産党指導文書において,各教科その他の活動を通じ国旗の意義
尊重の義務ついて教育することとなっている.

国歌の演奏・斉唱:
国家教育委員会の通達により,学校は国旗掲揚の儀式及び慶賀の式典,スポー
ツ大会等において,国歌の斉唱が求められる.

国歌の歌詞・歌唱の指導:
思想政治教育機関の教科で歌詞の意味を理解させ,音楽の時間等を通じて小学
校3年生以上は正確に歌えるよう指導している.

―― 8.韓国の場合,

学校規定は分りませんが,特殊事情(分断されているということからか?)で,
1984年,正式に国旗を規定した.しかし正式な国歌は存在せず,愛国歌が
国歌として扱われている.

国旗掲揚は,各種スポーツ,その他行事の際,広く掲揚されている.
国歌(愛国歌)は,入学式・卒業式において斉唱されています.

―― 国旗に対する侮辱罪を定めている主要国

・アメリカ 
・ドイツ連邦
・イタリア
・カナダ(掲揚義務,尊重義務を規定するも罰則は無い)
・中国
・韓国

日の丸・君が代反対派からすると,だいたいの国は国旗・国歌を強制していな
いと反論するかもしれませんが「国旗・国歌を尊重するのはいうまでもない」
という前提条件があることを忘れてはなりません.

イギリスの場合は,正式名称グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国
であり,スコットランドにしてももともとは別の国だったものの集合体である
ので,現在の国旗(ユニオンジャック)は,慣習上国旗としているもので正式な
法令はありません.ですから,大規模な行事以外で掲揚されることはありませ
ん.

また,イギリスをはじめ,フランス,イタリアなどで,国歌斉唱は明確に強制
されていないではないかといわれるかもしれませんが,もともと日本のような
入学式・卒業式がない国ですから,国歌を歌う場所がないので規定していない
というのが現実です.

一方で,旧同盟国であったドイツやイタリアでも国旗侮辱罪があるのは,やは
り国旗を尊重しなければならないという国際的なマナーを表すものといえるか
もしれません.

日教組様が大好きな中国・韓国では,どの国にも増して強制(?)されているの
が何とも興味深いです.自国では許せないが,大好きな国に対してはOKなの
でしょうか?――――きっと「内政干渉になるから」と仰るのでしょうが,彼
らが日本に対するお説教は「内政干渉」ではないのでしょうか?

まぁ中国も韓国も日の丸と君が代に文句をつけているわけではないので,これ
以上皮肉を言うつもりはありませんが,とにかくお願いですからまともな教育
を是非宜しくお願いしたいものです.


                           = おわり =
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘

「私見時事論談」収載ページは ▼ こちら!
http://chinachips.fc2web.com/repo4/045hideoji.html


 【質問】
 戸坂潤って誰?

 【回答】
 戸坂潤は唯物論哲学者.
 1900年,東京生まれ.
 1934年,思想不穏のかどで法政大学を免職.
 1937年,執筆禁止処分.
 1938年,治安維持法により検挙.
 1944年,大審院から懲役3年を宣告さる.
 1945年,第二次世界大戦終戦直前,長野刑務所で栄養失調のため獄死.


 【追記】
給油中断,日本は自省を=統幕長の面前で苦言−元米国務副長官
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2008032800159&m=rss

 【ワシントン27日時事】アーミテージ元米国務副長官は27日,
海上自衛隊によるインド洋での給油活動が4カ月近く中断した後,再開されたことについて,
「米国はどう受け止めるかとよく聞かれるが,その質問は間違っている.
問われているのは日本が世界における自分の役割をどう考えるかだ」と述べ,日本側の自省を促した.


 【追記】
漢族ムスリムは,漢族内でも差別されており,清朝時代に寧夏あたりに
強制移住させられて不満が鬱積していた.

延安に逃げてきた中共は,地盤のない北西地方では当初胡散臭く
見られていたが,支持を取り付けるためにそこら辺の異民族に様々な
優遇策を講じた.特に北西地方の大勢力・漢族ムスリムに対しては,
日本軍からのアプローチもみられ,中共としては早めに味方にして
おきたい存在だった.

そこで中共は,漢族ムスリムを漢族と区別し「回族」という新たな
アイデンティティを与え,自治区設立を約束.支持を取り付け,
回族騎兵隊が紅軍に参加した.

他にも少数民族を細々と区分して,それぞれに自治州・自治県の
設立を約束し支持を増やしていく.だからあの辺の民族は細々と
分かれていてわかりにくい.モンゴル系ムスリムの東郷族とか
保安族とか人口も少ない(保安族に至っては数千人)なのに独立した
民族と扱われている.
685 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2007/08/10(金) 21:46:52 0
こういった細々とした区分は,一面では弱小民族の地位向上で
あるのはもちろんだが,反面,モンゴル人,チベット人,ウイグル人と
いった中共からの分離を指向しがちな(事実かつては独立していた)
大民族の地位低下を画策したものでもある.人口数千人の民族と
数百万人の民族を同列に扱うことで,こういった大民族の声を
押さえ込む戦略.

また,本来であれば,言語が大きく異なる北方漢族と南方漢族は
別の民族扱いをしてしかるべきだが,中国南北分裂を招きかねない
こうした問題には中共は絶対に触れない.中共の圧力を畏れて
世界的にもこういった議論はほぼタブーとなっている.

世界史板


 【追記】
http://online.wsj.com/public/article/SB120735402342591389-WGxYT1JysrR5kr8lmxUNo_82smg_20080504.html?mod=tff_main_tff_top
China's Ethnic Tension Isn't Limited to Tibet
By GORDON FAIRCLOUGH April 5, 2008; Page A5
(WSJ) 中国の民族問題の摩擦はチベットだけではない

Another source of friction is government restrictions on religious practice.
Uighurs who work for the government or attend government schools are largely barred
from attending services in mosques, Uighurs and human-rights groups say. The
government also prohibits Uighurs from undertaking the pilgrimage to Mecca except
as part of government-supervised groups.

#中国のウイグル問題の解説記事.チベットと同じようにウイグルでも漢族の多量移入と
#ウイグルの二流市民化が問題のひとつで,もうひとつの問題が宗教弾圧.地方政府に勤
#めるウイグルや学校に通うウイグルはモスクのサービスに参加する事が大幅に制限され
#ている.そうした民族政策を批判すれば,それは違法行為とされる.

Distrust continues between Uighurs and Han Chinese. One Uighur man working in
Shanghai, when asked how Uighurs feel about government policy, said: "I can't
tell you the truth. It would be illegal."

ニュース極東板


 【追記】
166 名前: 世界@名無史さん 投稿日: 2005/10/12(水) 03:00:20 0
仏教は元来,一般信徒と距離を置き組織化しなかったので,イスラム化に弱かったのだと思う.
中央アジアの僧侶は,師の在命中は師の奴隷身分で,死後僧侶の地位を継いでいたのだとか.
167 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 2005/10/12(水) 04:17:12 0
西インドでは,仏教徒の主力だった商業階級がイスラム侵攻と共に
西方貿易で新たな展開が望めるので,あっさりイスラム教に
乗り替えた.

また,差別的なヒンドゥー教を憎んで仏教徒になってた連中は
反ヒンドゥー教という意味では仏教でもイスラム教でもどっちでも
よかったので,こちらもあっさりイスラムに乗り替えた.

という説もある.

世界史板


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