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青文字:加筆改修部分
 ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.

※既に分類され,移動された項目を除く.
 また,著作権上問題のある回答が意外に多く,これも除外.

※レス回収基準は「Ver.6」


【初心者】スレッド立てる前に質問を Part21【歓迎】

目次


** 【質問】
 戦時中の国民生活について,教科書に「国民1人1日当りのエネルギー摂取量は1942年に2000キロカロリーを割り,1945年には1793キロカロリーまで低下した」と記載されています.
 私にとっては衝撃,驚きでした.
 もっと低いと思っていた.
 1日1800キロカロリーって,結構高いと思うんですが…(私的には)
 しかも当時は穀物ばっかりだったんですよね?
 なのにそんなにカロリーを摂取できたのはどうして?
 そして,この数字はやはり「低い」ものなのでしょうか?

 【回答】
 こんなにカロリーを摂取できた理由ですが,やはり炭水化物での摂取以外には考えられません.
 『国民栄養調査』などのデータによると,終戦頃の摂取脂肪量はカロリー比でわずか数%.
(現在は20%超)
 畜産物の生産は昭和期で,戦争前後の頃が最低.

 エネルギー量自体は低いとはいえませんね.
 でもそれは,あくまで現代の成人にとってはの話です.

 にもかかわらず,戦時食料が不足していたと言われていた理由は,
・労働年齢,特に肉体労働者や若年者の生活活動強度が,勤労奉仕や教練などで更に高くなったこと
・(輸送中の損失,運輸インフラの破壊などでの)流通が滞ったこと
・もともとの脂肪や蛋白質摂取比の低さも相まって,学童の体格(身長など)が低下したこと
・食料統制が与えた欠乏感
などでしょうね.

日本史板,2007/12/08(土)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 663年の白村江の戦いで唐と戦った倭国は,なぜ遣唐使を送り続けてるのですか?
 殺されちゃったりしないんですか?

 【回答】
 百済の滅亡により,多くの百済人が日本にやってきて,重職につきます.
 彼らには,新羅を倒して朝鮮に帰国したいと言う希望がありました.

 それでは朝鮮半島の情勢はと言えば,668年高句麗が滅び新羅が半島を統一すると,共通の敵がいなくなった唐と新羅は,別の目論見を持ちます.
 新羅は中国の影響力を脱して,完全に独立したいと思い,唐は新羅を完全に属国にしたいと考えました.

 こうした情勢を読んだ天智天皇と取り巻きの百済難民は,唐と誼を通じて新羅に圧力を掛け続け,あわよくば再度海を渡って,新羅を滅ぼそうと考えます.
 勿論,唐も日本に対して新羅挟撃を提案.
 その為,今までの唐に対する対立外交を改めると共に,対新羅の相談のため遣唐使を送り続けました.

 なお,次代の天武天皇が外交方針を変え,新羅と仲良くすることで唐との緩衝帯を作ろうとして,遣唐使の派遣を中止するまで続きます.

 使者・外交使節は,不殺が基本となっています。

日本史板,2007/12/10(月)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 信長の英語版wikiで下記の記述がありました.

-------------
Due to his defeat, Nobunaga harbored clear fears of Uesugi and, according to one account, told the messenger that brought news of Kenshin's orders of general mobilization that, if Kenshin did in fact lead his armies to the capital, he would have no choice but to surrender and cede his eastern domains in the hopes of being granted mercy.
-------------

 要するに,
「謙信に手痛い敗北を喫した信長は,謙信が軍を率いて上洛した場合には,一も二もなく降伏して,領地の東部分を差し出して許しを請うと決めていた」
となっています.
 謙信の靴を舐めるかのような信長というのは,想像しがたいのですが通説なんでしょうか?

 【回答】
 それは信長から謙信に宛てた手紙の内容では?
 安土城建設を聞いた謙信が,
「ワシの上洛を邪魔するつもりだな!」
みたいな手紙を信長に出した返信が,たしかにそんな内容で送ってたような.
 ついでに信長は,謙信が京で将軍に会いに行く姿を描いた屏風絵も贈ってたかな?

 Due to the defeat のdefeatは,手取川の敗戦を指すと思われる.
 手取川合戦は柴田を総大将に,佐々・前田・佐久間・明智・丹羽・羽柴らフルメンバーで加賀へ進軍.
 後詰めは信長本隊.
 羽柴は負ける予想をしてたのか,あるいは勝家との意見対立からか,戦線離脱し,信長に激怒される.

 七尾城は前年から包囲され続け,冬場に一時上杉軍は春日山城に帰還.
 年明けしてからまた包囲を再開している.
 その長い間に,謙信と敵対するのを回避したい織田は,ずっと援軍要請を無視してる.

 七尾城がいよいよ陥落まじかになり,織田派の長氏が一族滅亡を覚悟し,長男だけ脱出させ,信長の元へ走らせ援軍を哀願.
 やむなく信長は,馬防柵と多くの鉄砲を持たせ,援軍を派遣したが進軍は遅く,いよいよ落城確定になった時点で,ゆっくり行軍開始.
 これは明らかに織田軍が,謙信と戦っても勝算がまるでない為に,北陸戦線を放置し続けた証拠.

 そしてついに陥落の報を受けたので,雨天の中で急ぎ柴田が撤退開始.
 ゆっくり進み落城を聞いてさっさと引くと言うのも,当初から決められていたんだろう.
 万が一にも落城しなかった場合は,要害に野戦築城して,冬場の撤退まで長対陣し,謙信から攻めかかってきたら,鉄砲隊で長篠の再現を行なうつもりだった.

 ただ,謙信の急速南下までは想定外で捕捉された.
 織田軍進軍中との報を受けた謙信は,野戦決戦を望み,電撃的な機動追撃開始.
 手取川で捕捉され,謙信が意図していた通り,夜の雨天の中で鉄砲が完全に封じられ,散々に敗れて,織田軍2000人近くの死傷者を出す.
 さらに織田軍は,増水した手取川に叩きこまれ,数千人の溺死者を放置し逃走.
 長篠の戦いの再現を完璧に阻止された――と言う説がある.

 謙信は手紙の中で,
「織田は存外に弱かったから,この分なら意外と早く上洛できるな」って書いているから,何らかの戦いがあったんだろう.
 でなければ能登国だけでなく,加賀国からも撤退した理由がつかない.

 【反論】
 「屏風絵」は,いわゆる上杉本『洛中洛外図』.
 最近の研究では,この絵の元々の発注者は将軍義輝で,義輝が謙信に贈るために制作依頼したといわれる.
 その根拠として挙げられるのが,描かれている風景が,1550年頃の京都をモデルにしているからということだ.
 ただ,絵の完成前に義輝は没し,その後上洛した信長が完成した絵を受け取り,謙信に贈ったのではないかとされる.

 また,同合戦について記された史料は,謙信の書状1通しかなく,そのことなどから合戦自体存在しなかったか,あっても小規模なものだったのではないかとする見方もある.

日本史板,2007/12/16(日)〜12/18(火)
青文字:加筆改修部分


** 【追記】

157 :日本@名無史さん:2007/12/20(木) 22:34:31
実体はともかく大阪兵が弱いという通念は明治初年からあったそうで,
初代大阪鎮台司令官が「大阪兵は確かに弱いが,楠木正成の例もあり運用によってはいける」
のようなことを言っているそうだ.
西南戦争の時薩摩兵の最初の抜刀大襲撃でたまたま潰走したのが八連隊で,
それで上記の通念が,やっぱりってことになってしまったのだろう.
一度弱いという評判が出来てしまうとその後どれだけ力戦奮闘しても,
その評価を覆すことは難しかったのだと思う.
158 :日本@名無史さん:2007/12/20(木) 23:09:47
>>157
ありがとうございます.
発足当初に負けてるんですね.
「確かに弱いが」ってw
159 :日本@名無史さん:2007/12/21(金) 09:47:40
>>152
ほれ
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%AF%E8%A2%96%E7%81%AB%E4%BA%8B
160 :日本@名無史さん:2007/12/21(金) 10:10:13
正確には8連隊全体が潰走したわけではなく,8連隊の中の3中隊.
もっとも西南戦争当時は連隊単位出動することはほとんどなく,
大隊・中隊単位で各駐屯地から引き抜かれて,その混成で連隊・旅団を編成していた.
それと史実として8連隊が弱兵だったどうかは,議論の余地があり見解の相違もあるだろうが,
8連隊が弱兵であると世間的に思われていたと言うのはどうも歴史的事実らしい.
つまり8連隊はそう言うキャラクターなんだろう.
亀田や沢尻の実体がどうあれ,世間ではあれだと思われいることは否定できないのと同じ.

日本史板,
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 質問する前に教科書だけの知識で認識不足があると思いますが,予めご了承ください.
 承久の乱で思ったのですが,天皇は何故あの時点で途絶えなかったのですか?
 その後も黒船来航などの助言をするなど,表舞台から消えただけで,幕末の尊皇攘夷までの流れが不可思議です,
 権威を失墜しても,根を断絶することに対する影響力は大きいということなのでしょうか?
 現在においても,天皇が尊重という立場であり続けるのに疑問を抱いています.

 【回答】
 権力は失われても権威は失われていません.
 武家政権が恒常化したところで,その後ろ盾は朝廷ですから.

 大まかにえると,朝廷は天皇のプロダクション会社.
 天皇は朝廷のタレント兼オーナー.
 でも,プロデュースや経営まで,天皇が一人でやっていたわけではありません.
 先代のオーナーたちが実権を持っているか(これは院政).
 オーナーの姻族にして支援している一族が実権を握っているか(これは摂関政治).
 はたまた実務畑のトップが実権を握っているか(これは武家政治)というところ.

 ここで大事なことは,幕府は朝廷の対立概念ではないということです.

 承久の乱は,オーナー一族(ここでは院で,そのトップは後鳥羽院)が実務畑(鎌倉)を嫌っていたから争ったというだけのことで,幕府にとって,天皇や朝廷は初めから打倒の対象ではないのです.

 結果,後鳥羽一派は流されて,後高倉院の一族が迎えられるのですが,逢えなく絶えたりなどして結局,後鳥羽の子孫が皇統に戻りました.
 この皇子は北条氏に近かったことと,この頃のゴタゴタで九条家が絶大な権力をもっていて,天皇家と北条氏が力を合わせて排除しようという動きもあったのです.

 幕府はあくまで朝廷内の一勢力にして,絶大な代理組織というものに過ぎないのです.
 これはもっと後世になってからでもそうです.
 源平のブランドも,親王や王の末裔にして天皇をサポートする一族というところが,その権威の根拠なのですし,幕府・将軍として権力を握ったとしても,権威のオーナーである天皇と常に近づき,姻戚関係でもつけ続けておかなくては,話も通じません.
 徳川家はここで挫折してしまいました.

 話が飛びますが,黒船来航から幕末の話.
 外交権は幕府が一手に握っていたのですが,やはり上には報告せねばなりません.
 ところが実務担当の幕府が,「ワケワカランドウシヨー誰が責任取るんだ」ということになれば,まぁとりあえず上に決済を求めてしまうわけです.
 ココで天皇が一喝,拒否となりますと,また下に戻される.
 担当者が辞任しても,対外問題だから放置も出来ない.
 ならば覚悟を決めて処理しないといけない・・・・のですが,これを傍から見てた若造が,
「実務が処理しきれない,しかも上が拒否ったのを強行採決? ケシカラン冗談じゃねぇ.
 実力がないのにそんなことするんじゃねーよ」
とばかりにテロったりなんだりで.

 幕府の側は
「そういうことならもっと親しくなって,一緒にやりましょうよ」
と慣れなれしくしたり,
「あー,じゃあ誰が幕府の代わりをやってくれるんです?」
と空かしてみたりもしたけれど,天皇と朝廷(無理矢理にでも)
「お前はあくまで下.イラネ.切る」
という建前を崩せずに,潰されてしまったというところ.

日本史板,2007/12/21(金)〜12/22(土)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 「家紋」についてお訊ねいたします.
 日本や西洋の貴族・豪族には家紋があるのに,何故中国や朝鮮には家紋が存在しないのでしょうか?
 山本七平氏の本にその持論があった気がするのですが,合点のゆく内容でなかったせいか,失念してしまいました.
 正確な答えでなくとも,どなたか持論を展開して頂ければ助かります.

 【回答】
 西洋の紋章,そして日本の武家紋は,家によって構成された軍団を章したものが由来です.
 他の地域でも武将や軍団はありますが,この軍団は将帥・氏族というコアと,それについていっているだけの有象無象が基本構成だったのですから,逆に言うと氏族単位より下のシンボルは必要なかったのです.
 ですから中国の時代劇では,軍旗に「劉」の字…という感じになる.
 敵もそうなのですから,「劉」vs「項」の旗がガチガチやるなどという図式.

 ここまで来るともう,軍旗の歴史まで遡らなければならないでしょうが,軍団の紋章が「家紋」にまでなっていくには,家族の封地が固定され,家族が戦闘団の基本単位になっていき,その過程で任意の紋章が,家の中で継承されていくべきシンボルであるという意識が形成されることが,十分条件になろうかと思われます.

 この,「封地の固定」と「家族内継承」が,家紋成立のポイントかと.

 しかし中国の戦争は,民族部族が小移動し続けるような図式ですから,上記の条件を満たさない.
 ゆえに,いわゆる家紋はできなかったのだろうと考えています.

日本史板,2007/12/27(木)
青文字:加筆改修部分



** 【質問】
 ありがとうございました.
 大変合点のゆくもので,且つ興味深い御意見でした.
 全く,核心をついたものと思います.

 「封地の固定」と「家族内継承」・・・いわゆる政治システムとしての「封建制」と関係があるのですね.
 中国や朝鮮での地方領主は中央政府からの任官制で,入れ替えがあり,土着することがなかったと聞いています.
 日本で言えば,頼朝以前がこれにあたるのですね.

 【回答】
 当人が得心しているのであれば,余計なレスになりますが・・・
 西洋の紋章は,個人や一族の武功・来歴,領土の象徴を表しているので,封建制と関係はあります.
 しかし日本の家紋は,氏族制と関係があると捉えるべきです.

 また,お尋ねの中国に家紋が無い理由ですが,中国では混乱期に,ある種のカリスマをもつ人物に人が集まります.
 端的に表現すると,「誰が俺たちを食わせるのか」という欲求を満足させられる人物です.
 そのため,ある程度の知識・教養が無いと理解できない紋章は,役に立たないのです.

日本史板,2007/12/28(金)
青文字:加筆改修部分


** 【追記】

484 :日本@名無史さん:2008/01/25(金) 13:35:58
織田氏について質問です.
読売の新聞小説には「藤原姓を名乗っておるが実は織田の祖は物部」
と書いてあるんですが,織田氏は忌部氏の系統を汲むんですよね?
物部と忌部,どう違うんでしょうか?
単なる作者の誤記と考えてよろしいでしょうか?

489 :日本@名無史さん:2008/01/25(金) 20:17:24
織田信長の先祖は越前織田庄剣神社神官の家系.
物部氏の一部が忌部氏になったという説もあるが,
いずれも家系図は疑わしく,
織田氏ももともとは織田庄を管理する越前在住の豪族(荘園領主)
の一族だったのだろう.

494 :日本@名無史さん:2008/01/26(土) 14:13:50
>>484
織田信長の織田氏は,元が織田剱神社(越前国の二宮)の神主家の一族という
ことでほぼ間違いないとされる.
そしてこの剣神社の神主家は,平安期には忌部氏を名乗っていることが
藤原行成の日記『権記』の長徳4年(998)3月21日条から分かる.
織田氏の本姓が忌部氏であるという説の根拠はこれによる.

なお尾張守護代織田氏の直接的な祖と見られる信昌・将広父子が
明徳4年(1393)6月17日に剣神社に奉納した置文においては,既に
藤原姓による署名が見られる.
将広の「将」の字は,当時の越前守護斯波義将(しば・よしゆき)からの偏諱と
考えられ,この時期には織田氏は既に斯波氏の重臣になっていると見られる.
その後,斯波義将の子である義重が応永の乱後の論功行賞によって
応永7年(1400)に尾張守護となると,先程の将広の系統が守護代として
尾張に入り,そしていずれも将広の子とされる常松と常竹が,それぞれ
清洲織田氏と岩倉織田氏の 祖となる.

日本史板,
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
「日本刀の特徴の一つである刀身の反りは,東北地方を中心として出土している「蕨手刀」の影響が強く,ここから,毛抜形衛府太刀,衛府太刀に繋がってゆくようです」
というのは本当ですか?

 【回答】
 そのうんちくは,石井昌国著『蕨手刀』が出所だ.
 多分ザっと目を通すどころか,ネット上で適当に切り貼りしてきたんだろう.

 石井の説は反駁反論も多い.
 気鋭の武家故実研究者,近藤好和氏はまっこうから批判している.
 私も極めて妥当な批判だと思う.
 近藤好和氏のミネルヴァ書房刊『源義経』はヒドい出来だったが,さすがに武家故実は専門だけあって,余人の追随を許さない.

武陽隠士:日本史板,2008/03/01(土)
青文字:加筆改修部分



** 【質問】
 武陽様,ご指摘有難う存じます.

 蕨手刀云々の記載は,東京国立博物館1997年特別展「日本のかたな」図録の,「刀剣概説」小笠原信夫から引いてきました.
 なにぶん,浅学のため失礼いたしました.

 【回答】
 君の本というのは,講談社日本の歴史かな?
(あのシリーズは玉石混淆だよ.ひどいのがいくつもある.下向井の出来は敢えてノーコメント)

 確か革命的戦術とかいうくだりがあったが,あれに私は批判的だ.
 あの蕨手刀の件は,過渡的通説とでもいえばいいかな.
 おいおい通説じゃなくなるという感じね.
 そういう通説,今までいえば,伝源頼朝像,等伯の信玄像(違うという説が有力になってきたが,未だにこれを信玄像とする「通説」にすがりつく連中がいる.君の好きな東京国立博物館の連中もそうだ),早雲の年齢などetc.
 下向井はともかく,石井先生は偉い方だけど,はっきりいってあんな単純な議論で,結論等だしちゃまずいよ.
 近藤氏ならずとも批判するのは当然さ.
 特に下向井だけど,刀の馬上戦の根拠が,根拠自体の根拠になっている.
 もうひとつ,「直刀だから刺突」とかいうのはおかしい.
 第一,刀自体の構造の目配りもない.

 はっきりいえば,ここは学問的業績の穴場かも.
 新学説で勝負挑める.
 否,無理か.
 近藤氏がいる.
 近藤氏は刀剣博物館にいた人で,刀剣に関する造詣は筋金入り.
 天下の石井先生だって,刀に関しては近藤氏には太刀打ちできないだろうな(当たり前か).
 私も刀剣の勉強会みたいなもの何回も聴いたんだけど,今だに理解できない.
 科学的な知見も入ってくるしさ.
 運用面は身体レベルの話にもなる(一応武道習ってるんだが,もちろん中世の武技とは浅くない断絶がある).

 とにかく近藤氏の研究は,余人のレベルを越えている.
 近年中に近藤氏のが通説になるね.
 今,湾刀化の完全論証(蕨手刀じゃないよ)近藤氏はがんばってるからね.
 楽しみだな.

 国立博物館の話になるけど,あそこの研究者には,学問的にどうかしてるんじゃないか?ってのが沢山いるよ.
 たとえば書道史だかの研究者(なんかよく知らないけどさ)小松某なんか,利休の真筆の数を,恐ろしく多く断定しちゃっている.
 私の知人も批判してたし,古文書学の権威もあれは批判してる.
 ところがパンピーは,国立博物館の人間が鑑定したからってんで,明らかな利休の偽筆を真筆と信じちゃう.
 いや,「喜んじゃう」か.
 銭になるからな.
 これは批判されて当然なんだけどね.

 それからこれは国立博物館とは別の話だが,神護寺の伝源頼朝像だけど,あれを美術史学界の権威M氏は,今だに源頼朝像と言い張ってる.
 また,さっきも触れたけど,国立博物館の連中が,等伯の描いた武将を信玄像と言い張る(高野山の特別展のとき,図らずも彼らの主張が出た.若手の研究者は唖然としてたね).

 これらは学界内の暗闘で,一般の人間に関係ないように思われるだろうが,実は違う.
 多いにパンピーに関係する話だ.
 伝頼朝像は,やはり頼朝像じゃないと困る連中がいっぱいるし(寺の奴らとか),信玄像も同様,
 利休の偽筆も真筆としたほうが,持ち主(公共機関も含む)は喜ぶ(お墨付きで売れる.箔になる).
 学説が,色んな権益を守る道具になっちゃってる.
 ウンザリなんだよね.
 まあ,インチキ大家の本人たちも分かってるんだけどね.

追伸:
 南京虐殺のスレッドに,「武陽隠士」の固定ハンドルネームで,何やら妙な一人何役をしてる奴がいますが,あれは手の込んだなりすましです.
 当局は一切関知しないので,そのつもりで(笑)

武陽隠士:日本史板,2008/03/03(月)
青文字:加筆改修部分


<保留>

** 【質問】
 近衛府や衛門府は,大内裏の警備などほぼ同じ職務なのに,なぜ一体化されなかったのでしょうか?

 【回答】

日本@名無史さん [ ] 15:48:56
>>954>>956
元々奈良時代には五衛府だったのを平安時代になってから六衛府に拡充したんだもんな.
今さらポストは減らせんっていったところか.


日本@名無史さん [ sage ] 2008/03/14(金) 18:32:39
令制五衛府,左右衛士・衛門・左右兵衛
まず728年中衛府追加(おそらく707年創設の授刀舎人寮の改編),
759年授刀衛追加,765年近衛府に改称.
外衛府,創設時期ははっきりしないが764年と思われる.
これで八衛府成立.
772年,外衛府廃止.
807年,近衛府→左近衛府,中衛府→右近衛府に改称.
808年,衛門府廃止.六衛府となる.
811年,左右衛士府を左右衛門府に改称,六衛府制度成立.
758年の仲麻呂の改称は省略.

日本@名無史さん [ ] 2008/03/14(金) 21:04:47
八衛府時代の職掌の分担ってどんな感じだったの?


日本@名無史さん [ ] 2008/03/14(金) 21:20:02
なんで近衛は大将で衛門と兵衛は督なんだ?


日本@名無史さん [ sage ] 2008/03/14(金) 21:42:03
近衛府(右)の前身である中衛府が置かれたときに,
大伴・佐伯等が幹部を勤める旧来の五衛府より優位に立つために
官位相当を上位に置いた.
官名が違うのは,そのことを見た目でも表現するためだと思う.


日本@名無史さん [ sage ] 2008/03/14(金) 21:49:44
>>981
 衛士府は,そろそろ武力の主体の衛士が弱体化し,戦力が低下してきたらしい.
 本来親衛隊であった兵衛府は,それをカバーする方向に任務がシフトしてきたらしい.
 新設の三衛府は,兵衛府に替わる親衛隊的存在であったようだ.
 中でも近衛府は,成り立ちから言って,称徳天皇親衛隊中の親衛隊と言えよう.
 対して中衛府は,政敵藤原仲麻呂の牙城で有ったため,近衛府より格下に扱われていた.
 外衛府は中衛府を相対化するために新設されたのではなかろうか?
 その意味でおそらくは固有の職掌に乏しく,その為称徳政権が終わると早々に廃止されたのだろう.

956 :日本@名無史さん:2008/03/10(月) 17:11:26
一個人が軍事権を一手に握ることを嫌ったんじゃないだろうか.
もともとどんなしょうもないものでもポストが減るのことには抵抗が大きいし.

日本@名無史さん [ ] 2008/03/14(金) 22:33:46
>>984
じゃあ六衛府に再編後の職掌分割は?


日本@名無史さん [ sage ] 2008/03/14(金) 22:34:29
笹山晴生著「日本古代衛府制度の研究」東京大学出版会(どうも絶版らしい)
同「古代国家と軍隊」中公新書(講談社学術文庫はこれは新装版?)
など参照


日本@名無史さん [ ] 2008/03/14(金) 22:36:54
>>984
五衛府時代の衛門は・・・?


日本@名無史さん [ sage ] 2008/03/14(金) 22:45:26
衛門府が廃止され左右衛士府に門部が移管されたことなどから,
衛士府は事実上衛門府の職掌を継承するようになったのだろう.
兵衛府は衛士府に代わり宮城内の警備を行っていたらしいが,
その戦力である兵衛が譜代郡司の没落も有ってか弱体化したようだ.
もうこのころには組織いじりをする気力もなくなっていたようで廃止こそされなかったが.
その為真っ先に形骸化したらしい,兵衛尉が成功の対象に使われるのもその為か?


日本@名無史さん [ sage ] 2008/03/14(金) 22:51:08
 衛門府は概ね門の警備,所属の門部が宮城門(外門)を警備,衛士がその他の諸門を警備.
 物部が罪人の刑罰担当.


日本@名無史さん [ ] 2008/03/14(金) 23:00:07
近衛,衛門,兵衛の優劣は?


日本@名無史さん [ ] 2008/03/14(金) 23:02:41
近衛=羽林
兵衛=武衛
衛門=金吾
でOK?

日本史板,2008/03/14(金)
青文字:加筆改修部分


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