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 ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.

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 また,著作権上問題のある回答が意外に多く,これも除外.

※レス回収基準は「Ver.6」


【初心者】スレッド立てる前に質問を Part19【歓迎】

目次


** 【質問】
 後醍醐天皇が居なくて,北条高時が利口だったら,鎌倉幕府はもう少し長く続いたでしょうか?
 それとも,時代の流れで,やはりすぐに滅亡してしまったでしょうか?

 【回答】
 北条高時が優れた政治家の「資質」を持っていたとしても,あの状況(得宗被官による体制)に対して,なす術はなかったと思われます.
 また,実をいうと,劣っていた政治家ということも確定できません.
 勝者によって評価された結果ですから.

 そして,同様に後醍醐天皇は優れた天皇とも言えないですが,「天皇」だから倒すための存在になれたと思います.

 ちょっと面倒な考え方になります.
 鎌倉時代末期という時点では,「幕府(後の呼称ではあるが,征夷大将軍を頂点とするそのような武家政権)」というものは滅亡したことがなかったのです.
 これは,天皇が現在でも滅びていないというのとも関わってきますが,日本人は,中国のような「易姓革命」や西洋のような「市民革命」によって,政権を打倒するという発想がありません.
 それは「正統性」というものを転換するという発想がないからだと考えられます.
 ですから日本では,天皇を打倒して全く違う政権を作ろうという発想は,原則的に生まれません.
 幕府も基本的には,「滅ぼす対象」として考えられることはなかったでしょう.
 ですから,将軍が機能しなければ執権が,それも機能しなくなれば得宗被官が,という具合に,組織上層を形骸化してなんとか実質的に運用してきた訳です.
 そういった運営が限界点に来たときでも,「上を倒す」発想がない日本人には,原則「なす術がない」のです.

 しかし,ここで「天皇」という,幕府を超える権威のある人間が現れ,「倒せ」と言ったらどうでしょうか.
 そこで初めて多くの人々の,「倒す」というコンセンサスが形成されると考えられます.

 ちなみに.蛇足ですが.
 江戸幕府を倒すという契機も,「尊皇(尊王)」が関わっています.
 この発想がなければ,どんなに行き詰っても,江戸幕府は倒れなかったでしょう.

 ですから,室町幕府がどんなに無力になっても,なかなか滅亡しなかったのです.
 天皇も無力,幕府も無力.
 いつまで経っても同じ状況で,日本は戦国という四分五裂状態になってしまいました.
 ここに織田信長の苦心があったと思います.
 実力で倒したとしても,「正統性」を認めてもらえないのです.
 何とかして正統性を確保しなければなりません.
 かくして,・・・信長は「神」と称せざるを得なくなったと考えられます.

日本史板,2007/04/24(火)
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 もうひとつ,重要な要素があるのでは.
 それは「外国」の存在.

 日本っていう国にずっと住んでいると,なかなか外国を意識する機会がなかった.
 だからまとまっていても,実質バラバラでも,実はそんなに気にしていないのでは.
 つまり,「国家」というものを余り意識しない民族なのかもしれないんだ.

 だから「体制」,特にまとまっているかどうかを余りテーマにしない.
 鎌倉幕府,室町幕府から天下統一,江戸幕府・・・と見ていると,その存亡に関わっているのは,いずれも「外国」.
 蒙古(元),南蛮人の渡来,そしてペリーに代表される外国船の来航.
 そこで,我々の民族は「日本」という国を改めて意識し,問題意識を持つきっかけになったのではと思えるのだが.

 外国の干渉を受けないと,日本は常に変わろうとはしないのだと思える.
 戦後日本も同じ.
 また,現在もまた然りではないだろうか.

日本史板,2007/04/25(水)
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** 【質問】
 それは,人がものを言うとき「天地神明に誓って」とか,生活共同体の同意を神前で行うとか,いくさの旗揚げをお宮で行うとか,なんか人を超える(と皆が思う)ものを引き合いに出したがる民族性なのかな?
 もしそうなら,これはどこから来たんだろう?

 【回答】
 そういうことは,人類普遍の感性.
 「神の御心の」とか「天命」とか,色々言い方はあるけれどね.

 ただ,それを人に求められたか,あるいは,求められなくなったかが分かれ道になるんじゃないかな.
 つまり,人間の理性あるいは強い理性を,人間に求めれらるか,求められないかだ.
 だから権威ある人に触れない.
 しかし権力も持っていれば厄介なことにもなるので,換骨奪胎し権力を奪っておくと.

 これは「近代」以前,つまり市民革命以前の「近世」の考え方だな.

 一応,文部省検定済教科書では,信長の時代から天保改革期(1840年代)までが「近世」ということになっているけれど,こういう話をするたびに,日本は「近世」の感覚が未だに生きているんじゃないかとさえ思えるよ.

日本史板,2007/04/24(火)
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** 【質問】
「鎌倉武士にとって幕府は服従すべき行政府ではなく,信頼すべき司法府であり,司法機関としての信用価値が低下したから滅んだ」
というのは最早,古典的解釈なのだろうかorz

 【回答】
 元寇の恩賞が不十分だった時,よく言われたとされているのが,
「何の為の鎌倉殿ぞ」
だそうだ.
 そういう意味なら,その考えには一理ある.

 ただ,それなら何で滅ぼすんだ,という考えに戻ってしまう.
 政権を倒すという中に,司法機関を滅ぼすという発想はないと思われ.
 早期の頃は,有能な行政機関&司法機関だったが,服従すべき専制機関になってしまったから,滅ぼそうとしたのではないか.
 流れで考える者が現れると,「通俗的」と決めつけるのは,如何に現代の史学の傾向が微視的になってしまったかの証左だろう.

日本史板,2007/04/24/26(木)
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** 【質問】
 「夷」と「狄」の違いは?

 【回答】
 大化前代だと単に「えみし」であり,漢字を当てる場合も「毛人」とされることもあったようだが,やがて中華思想的なものが蔓延してくると,「蝦夷」と「蝦狄」を区別するようになる.
 六国史などでは,陸奥の住民を「蝦夷」,出羽の住民を「蝦狄」と呼んで区別している.
 よって,陸奥の延長である北海道の太平洋側(東蝦夷地)から千島(奥蝦夷地)は,「夷」でよい.
 ただ,出羽の延長である北海道の日本海側(西蝦夷地)から樺太(北蝦夷地)は,「狄」のほうがよいかも知れない.

 また,中世における北海道の住民に対する呼称は,正確には「渡党(わたりとう)」「唐子(からこ)」「日ノ本(ひのもと)」の3種になっている.
 このうち「渡党」は,日本語の方言を話す本州からの移住者だが,「唐子」「日ノ本」は言語が通じなかったとされる.

 因みに「唐子」の居住地は,西蝦夷地から樺太にかけての地域であり,「唐子」という呼称自体に,大陸との繋がりの深い集団というニュアンスが窺える.
 一方,「日ノ本」の居住地は,東蝦夷地から千島にかけての地域であり,「日ノ本」という呼称からも,東のほうに住む集団というニュアンスを感じ取れる.

日本史板,2007/06/03(日)〜06/04(月)
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** 【質問】
 足利将軍家は分家が極端に少ないような感じがするんですが,これは何故なんですか?

 【回答】
 面白い疑問だね.
 たしかに,尊氏以降の分家って鎌倉公方家くらいしかないね.

 理由としては,時代背景が大きいんじゃないかと推測.
 南北朝時代って,正当性にお墨付きを与えてくれる天皇が分裂した時代だから,兄弟や本家・分家の争いやいざこざが,南北朝の争いにリンクし易いリスクがあったんじゃないかな.
 初期の直冬の件や,義満没後の義嗣の件なんかが大きく影響して,それ以後は皇室や摂関家の例に倣って,嫡子以外を全て門跡寺院などに入れる傾向が強くなるとはいえるだろう.
 義満の弟である満詮なんかは,本人は俗人だったが,子供は全て寺に入っている.
 その頃から政策的に,こういう傾向が出るのだろう.

 まぁ,徳川幕府と比べて,室町幕府はそれほど統制力がない政権で,後に鎌倉公方も持て余すようになってる.

 将軍職の継承争いが元で応仁の乱が発生するが,この時も守護の相続争いとリンクしてしまって大きな混乱となってしまってる.

 徳川幕府みたいに御三家を作っても統制出来ず,火種が増えるだけだと考えてたかもね.
 また,足利の諸支族もそれなりに影響力があって,遠慮もあったかもね.

 推論ばっかで申し訳ないけど.

 それでも吉良と今川には,将軍職継承権が認められていたとかいう話もある.
 まぁ確かに,鎌倉公方家は分家だが,将軍職継承からは排除されたようだしなぁ.

日本史板,2007/06/17(日)
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** 【質問】
 江戸時代の郷士について質問させて下さい.
 彼らは半士半農身分ということになると思うのですが,普通の農民と同じだけ年貢を納めていたのでしょうか?
 また,年貢を納めながら武士身分として,俸禄もしくは知行をもらっていたのでしょうか?

 【回答】
 まあ江戸時代は諸国によって郷士の位置づけも異なるし,旧族郷士,取立郷士の区分もあるから,一概には言えないけれど,一般的には
1)若干の給地(無年貢地)を有する
2)これに加えて百姓地(年貢地)を有する
3)軍役を負担する
というのが基本的な郷士かなあ.
 ただ,給地が少ない,あるいは給地・給米が全くない,軍役負担がないなど,諸藩により性格は異なるから,郷士の定義は難しい.

日本史板,2007/06/24(日)
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<保留>

** 【質問】
 譜代大名が老中,若年寄などの幕府の役職についた場合,その藩の藩主は辞めて,子供を藩主にしてから幕府の役職につくのでしょうか?
 それとも,藩主は辞めずに,幕府の役職と兼務するのでしょうか?
 【回答】

703 :日本@名無しさん:2007/07/07(土) 11:54:27
>>702
大名家内の家老は,同時に小領主でもありました.
同様に,老中,若年寄ら幕府内職は当代の藩主でありました.
いや,そうでないといけないのです.

幕府というのは,圧倒的に大きな家(徳川将軍家)とその他の武家…
家と家との関係で成り立っていた組織でありました.
ですから,君と臣は各々の家の主でなくてはならないのです.
形式的には個人的な契約といえるのですが,内実はそうではない.

任意の個人官僚に対し,免職に止めず隠居を強いる.
家主も止めろという意味です.これをどう思うでしょうか.

705 :日本@名無史さん:2007/07/07(土) 12:46:24
>>703
個人契約というより,家が家に仕えている.だから家の主が役職につく.
そんな感じではないでしょうか.
家の主のままだと,免職するとその家全体を排斥することになります.
隠居してくれれば,責任は主(を退く個人)だけの問題.家はそれを継いだ人間により引き続きお仕えが許される.

706 :日本@名無史さん:2007/07/07(土) 23:57:05
>>705
Q&Aをちょっと逸脱しますが,江戸時代の中で,その辺りは武家社会が変質して行ったところだと思います.
主の責任は家の責任.でもそれでは,主に落ち度があると,家臣は運命を共にしなければならなくなる.

戦国時代なら,大名家同士が戦って相手を倒しますからね.また,江戸初期でも基本的にお家は取り潰し.
この路線が次第に否定されていったのでしょう.
綱吉の時期にその路線が復活の兆しが見せるのですが,それに対するアンチテーゼが赤穂浪士.
主君の落ち度で浪人になってしまいましたからね.
家を守り,主君の落ち度は主君だけで責任を負ってもらう方が良い.

以上はネガティブな例ですが,その反対に,主君が栄転した場合も似たような傾向が現れます.
一番典型的なのは,将軍家の相続.綱吉に後継者がなく,甲府綱豊(家宣)が世子になった際,甲府は幕府に召し上げられ,甲府で綱豊に仕えていた者は将軍家にシフトしました.
現代で言えば,合併でしょう.
ところが,家継に後継者がない状況で死んだ時,後継者となる紀伊吉宗は自分と周辺だけで将軍家に入り,紀伊徳川家は残ります.
主君の去就とお家の動向を,出来るだけ別のものにして行こうというトレンドを感じます.

日本史板,2007/07/07(土)
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** 【質問】
 惣領制に関する質問なんですが,分割相続によって女子が地頭になった例があるのはわかるんですが,女子が御家人になった例ってありますか?
 もしあったとしたら,「女性の武士がいた」ってことになりますよね??

 【回答】
 鎌倉時代前半まで,余り性別によって待遇を極端に変えるというのはないようですね.
 当然男を期待するのは,武家の習いですが.

 男女の「格差」が現れるのは,鎌倉時代後期,元寇の頃です.
 この頃,「器量人」とか「非器の輩」という表現が登場します.
 器量人とは成人男子.
 非器の輩とはそれ以外.
 すなわち女子と高齢者や未成年者,いわゆる「おんなこども,としより」です.
 これは,戦場で戦力になる「器量」を持っているか,という観点です.
 おそらく,対外戦争という国家動員を必要とする元寇を契機として,その基準の中から出てきたのではと考えられますね.

 ですので,「女性の武士」いました.
 主人が死んでしまった・・息子も小さい・・などと言う時には,奥さんが「ヨロイかぶと」に身を固めて戦場におもむきました.
 なぜなら,土地を守り恩賞を得なくては一族の繁栄(はんえい)がないからです.
 たとえ死んでしまっても,将軍のために戦ったという事実は残りますから,領地は守られたのです.

 とはいっても男性と違い,訓練(くんれん)をちゃんと積(つ)んでいませんから,実際の戦いの時は周りを家来や親戚(しんせき)が固めていたようです.

 幕府ができる以前に木曽義仲(きそのよしなか)と義経の軍隊が戦った時,義仲の奥さんだった「巴御前」(ともえごぜん)は甲冑(かっちゅう=よろいかぶと)を着て戦ったとありますが,これなどは女性も戦うことがあったという例の一つですね.

日本史板,2007/07/11(水)〜07/12(木)
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** 【追記】

782 :日本@名無史さん:2007/07/15(日) 19:51:04
幕末の時代劇や漫画でよく赤い髪の人が戦場にいることがあるのですが
あれはいったいなんなのでしょうか?

784 :日本@名無史さん:2007/07/15(日) 20:05:36
>>782
嚇熊(しゃぐま)と呼ばれる,チベットとかにいる動物のヤクの毛を使ったかぶり物で,
維新時なら,白は長州,黒は薩摩,赤は土佐とか,区別のために違う色のものが使われたそうです.
戦国期にも「唐の頭(からのかしら)」とか呼ばれてたみたいですね.
785 :日本@名無史さん:2007/07/15(日) 20:09:22
>>784
ありがとうございます
786 :日本@名無しさん:2007/07/15(日) 20:44:32
>>782
ヤクの毛でできた兜飾りだから当然舶来品.中国四川省やチベット産.
染めた色別に黒熊(こぐま),赭熊/赤熊(しゃぐま),白熊(はぐま)と言う.

戦国時代に流行りだし,家康は難破した南蛮船から相当数かっぱらったという話もあり
(あとで賠償している).だからこそ「家康に過ぎたるものは唐の頭に…」などとヤッカミを
込めて呼ばれたりした.沢山持っていたんでしょうねぇ(笑)

で,これは幕府内でストックされていたのだが,明治維新の際官軍は鹵獲(かっぱらい)して
上野戦争以降で使い出した.色別にそれぞれ薩摩,土佐,長州軍が使い分けしていた…
ということだが,これは「戊辰物語」からの話に過ぎず,決められていたのかどうかは知らないが
実際はバラバラだったとか.

尤も,南蛮船がくる少し前の享禄三(1530)年に龍造寺家兼が大内との合戦でピンチになったとき,
突如,鍋島清久親子率いる赤装束の赤熊武者百騎が現れ大内勢をコテンパンにしたという話もあることから
実際には南蛮船渡来以前から流行だしたということなのかな.

余談だが,このとき龍造寺家兼いたく感激して孫娘を鍋島清久の次男清房に娶らせ,
龍造寺と鍋島の姻戚関係成立.のちに龍造寺の家督をゲットする鍋島直茂はこの夫婦の子.

日本史板,2007/0
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** 【質問】
 豊臣政権五奉行の長束正家は,関ヶ原の戦いで西軍に加担し後自刃したが,財政を担当していた彼の死で,徳川は豊臣の財産力を計れなくなり,結果豊臣を財政破綻させようとした(寺社の修復などをさせたことです)が,長年経っても成果が出ず,大阪の陣の武力行使に走らざるを得なくなった,という見方は一般的なのでしょうか?

 【回答】
 私見ですが,あまり一般的とは思えません.

 確かに長束を手中にすれば,豊家の蓄財を計れたかもしれませんが,関が原以前の家康の戦略をみるに,豊家の散財に重きを置いていたとは思えないからです.
 当時は石高だけなら,ほぼ互角.
 単独での単純な動員数は,これで推し量れることです.
 もし重きを置いていたのなら,長束はもっと厚遇されていたであろうし,長束とて家康の暗殺に走ることもなく,関が原戦の後,首を晒されることもなかったでしょう.
 家康の立場からしても,あの頃は協力者,即ち豊家恩顧の切り崩しのほうが,重要だと考えるのが自然かと.

 また,関が原戦後も,幕府を開き,将軍(家)として台頭し,豊家の石高を削り,千姫を嫁がせ,対面を強要する一方で,築城普請を大々的に行ったなどを鑑みますと,「最後の手段として武力討伐」を視野に入れていたのは確実で,散財はあくまでプライオリティの低い一対策だったかと.
 それに豊家の石高を削りまくっているのですから,散財させるだけなら長束がいてもいなくても同じ…というよりもむしろ,長束がいないほうがいいだろうと家康は考えたのではないでしょうか.

 どのみち,長束が対豊家戦略のキーパーソンとして扱われることはなかったでしょう.
 長束を取り込んでおけば豊家滅亡が早まった,とも思えません.

日本史板,2007/07/17(火)
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** 【質問】
 和牛について質問だけど,牛肉を食べるようになったのは明治からだそうですが,一般庶民も明治大正や昭和初期くらいには食べてたのでしょうか?
 また,食用の牛は儲かると思って,農家から食用の牛を飼育する職業に変えた人って,昭和初期くらいにはいたのかな?

 【回答】
 江戸時代は牛は農耕用.歳やけがで農耕に使えなくなったら,皮や肉を利用はしていたが,一般には食用にしていない.
 鳥,鹿,ウサギ,猪,熊などは食べている.

 明治のごく初期に東京近辺には,牛肉・牛乳用に牛を飼うことが始まっている.
(富国強兵のための食生活の改善とか,皇室での西洋風の食事で利用するのにも必要なため,政府も乳牛・肉牛の生産を奨励していた)
 数十軒ある牧場の番付なんかも売り出されていた.
 今年の春ころ,NHKの番組(西洋料理の歴史の紹介)でやってた.

 西南戦争(明治10年)では,官軍が牛肉を食料として大量に利用していたけど,その肉はわざわざ福岡の久留米あたりで買い付けていた.
(今年田原坂であったイベントで紹介された史料にあった)
 つまり,この頃になると九州のそこそこの規模の都市周辺であれば,数万人の軍隊で消費するだけの牛肉を確保できるだけの飼育がされていたのではないかと.
 鶏や卵,野菜などは田原坂近くの農村で徴発したり買っていたようなので,牛肉は地元だけでは確保出来なかったと思われる.
 地元民が肉うどん屋を開いて,戦見物に来た人間相手に商売していたという記録もある.
 だから庶民の肉食への抵抗感は,それほどなかったのでは.
 この肉が牛なのか鶏あたりなのかは,聞かなかったので不明.

 ただ,明治から大正にかけて,東京など都市部を中心に西洋人向けに,牛肉を出す店や牛鍋屋ができるが,女子供が食べるものではなかった.

 大正から昭和にかけて,東京の洋食店や牛鍋屋で修行した者や,軍隊生活で洋食に触れた者から,地方にも洋食店ができはじめる.
 映画などの娯楽や鉄道と百貨店とともに,余裕のある家庭では休日に外食を楽しむこともはじまる.
 牛肉は具材として使われる程度.

 昭和初期,商店街に肉屋が出始め,正月や来客時など特別なときの家庭料理として,肉を使うこともあったようだ.
 うちのじーさんは地方都市の公務員だったが,ボーナスが出たとき,一包の牛肉を買ってきて家族ですき焼きをしたそうだ.
 量は微々たるもの.

 当時も牛は農耕が中心だから,食用牛農家として本格的に始めたところは,あまりなかったのではなかろうか.

日本史板,2007/08/05(日)〜08/06(月)
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