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ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.
※既に分類され,移動された項目を除く.
また,著作権上問題のある回答が意外に多く,これも除外.
※レス回収基準は「Ver.6」
【初心者】スレッド立てる前に質問を Part18【歓迎】
目次
** 【質問】
新選組の誕生から解体までを,18コマに分けるならどんな感じになるかな?
欄干彫刻の絵師を頼まれてやってるんだけど,定番が赤穂義士や東海道五十三次,花鳥風月などなんですよ.
それで構図パターンも限界なんで,新しい題材をと思い,新選組はどうかな?と.
【回答】
一般受けする,絵栄えしそうな内容だけ考えてみたけど,どうかな.
壬生浪士組誕生
8.18政変
新撰組結成
大和屋焼き討ち
芹沢鴨暗殺
池田屋事件
禁門の変
三条制札事件
油小路事件
近藤狙撃
鳥羽伏見の戦い
勝沼の戦い
近藤勇斬首
宇都宮城の戦い
沖田総司死亡
会津戦争
宮古湾海戦
土方歳三戦死
日本史板,2006/11/03
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
幕末生まれの有名人で,もっともあとの方まで生存していた人って誰がいる?
泉重千代みたいな庶民とか,1860年代生まれの世代は除外して,少なくとも何かの分野で活躍した人で,明治維新時点である程度の年齢だった人.
【回答】
戦前に有名だったのが林忠崇.
維新直前に請西藩主になったはいいが,若気の至りで殿様自ら脱藩して,東北を旧幕府軍の一員として転戦.
請西藩は,新政府に改易された唯一の藩という,微妙な名誉まで得てしまった.
結局,甥は男爵にしてもらってんだが,本人も1941年まで生き残って,正式に大名だった人間の最後の生き残りになった.
本人は,自分は明治元年に死んだ存在と言いつつ,昔話をほのぼのと語ったので,戦前の新聞における暇ネタによくなってたとか.
領地の木更津では,今でも人気者でつ.
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121015541
日本史板,2006/11/05
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
室町時代の安芸武田氏は,安芸半国の守護であったという話を聞いたのですが,これは事実なのでしょうか?
安芸武田氏が同国の守護だったのは南北朝の初期までで,それ以降は守護ではなくなったはずと思っていた
(私が以前に見た,室町期守護に関する辞典には,そう書いてあった)
のですが,それ以降も戦国期まで安芸半国守護であったという話を聞いたので,どういうことなのかと思って質問させていただきました.
【回答】
甲斐武田家中で安芸守護になった分家を,安芸武田家と言う.
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/a_take_k.html
によれば,南北朝の争乱において,安芸武田家の武田信武は尊氏方につき,次男・氏信を安芸に下向させ,直冬党に呼応する北条・毛利・寺原氏を討たせようとしたが,氏信は苦戦.
そのため氏信は,責任を追求され安芸守護職を改替されたという.
氏信のあとを継いだ信在は,本拠の佐東郡の守護に任じられたが,これは郡守護というべき存在で,以後,武田氏は安芸一国守護職に補任されることはなかった.
分郡守護(ぶんぐんしゅご) - apedia
によれば,分郡守護とは,室町幕府の地方機関である守護制度の特殊形態だという.
分郡とは守護大名が幕府から配分された支配地域をさす分国に対応する語で,一般には国単位に付与される行政範囲(管轄地域)が,特殊な事情により郡単位に付与された場合,その郡を分郡と呼び,分郡の支配者を分郡守護と呼んだ.
日本史板,2006/11/12
青文字:加筆改修部分
ただし,明確に半国守護であった史料はない.
当時守護に擬せられた人物が発給した文書の様式から類推して,「守護だったのではないか」という研究があったはず.
河村だったかな?
中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y : 日本史板,2006/11/12
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
兵糧の輸送する人間は,優秀で信用できる人間が用いられたとか聞いたのですが,本当ですか?
本当なら,なぜ優秀な人材を,兵糧の輸送なんかに回したのでしょうか?
確かに大切な部分ではありますが,運ぶだけなら,持ち逃げしない人材なら誰でもいいような気がするのですが.
【回答】
君,戦国の時代に何よりも大事な兵糧(ケータリングの弁当じゃないぞ)の輸送を取り仕切る人間を,ただ荷物運びのような感覚で捉えてない?
まず,兵糧の輸送がおぼつかない軍が敗北する確率は,ほぼ100%と言っていい.
そして,持ち逃げする可能性があるのは,その責任を持たされた人間だけじゃなくて,部下も含む.
となると,部下に裏切られないような人材でなくてはいけない.
さらに敵からしてみれば,奪っても良し焼いても良しな部分,狙われる危険は非常に高い.
あと,敵だけではなく山賊なども狙ってくる可能性はある.
これほど大事で危険な兵糧の輸送というポジションに,優秀でない人間を,使える物なら使ってみろという話ですね.
当時の日本の軍隊の場合,当時の欧州以上に兵站に気を使ってた.
基本的に糧秣の補給を掠奪で行う欧州に対して,百姓一揆とかで武装農民の恐ろしさを知ってた日本の武士は,金を払って買い上げたり,戦場に近い武将に送ってもらってた.
そもそも,戦の勝ち負け以前に人間の生死にかかわる兵糧を,「兵糧の輸送なんか」と捉えている時点で,重大な誤りなんだよ.
食料が無くなることがどういうことかの,想像力の欠如だな.
日本史板,2006/11/18
青文字:加筆改修部分
** 【追記】
191 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2006/11/19
20:41:19
>高校の日本史で731部隊を習うときに悪魔の飽食という本の話が出てきたんですが,
>これって偽写真だらけと検索すると出てきます.どうなんでしょうか?
この話を引っ張ると中国人が荒らしにくるから確定している事実だけ.
著者とされている森村誠一は赤旗の記者に名を貸したと認めています.
事実関係の間違いや資料の捏造を指摘されて『悪魔の飽食』は改定を続けたが
費用にひきあわないので出版元は絶版にしました.
現在は別の出版社が版権をひき継ぎました.
森村誠一は赤旗の記者に,証言者の名前や資料を提出した人物の所在を質したのだが答えは得られなかったそうです.
日本史板,2006/
青文字:加筆改修部分
** 【追記】
305 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2006/11/28
16:19:46
長崎原爆について質問.
焼失した県庁より爆心地寄りの位置にある諏訪神社や聖福寺が健在なのはなぜ?
しかも,聖福寺の二三軒横の福済寺は全焼してるのに.
309 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2006/11/28
18:10:28
>>305
地図で見れば分かるが,聖福寺と焼失した福済寺・本蓮寺はほんの目と鼻の先だ.
聖福寺が焼失せず,丸々現存しているのは実に不思議.
270 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2006/11/25
17:08:21
長崎に原爆が落とされたのに,大浦天主堂とかグラバー邸,崇福寺などの唐寺が
破壊されずに現存しているのが不思議だ.
放射能でバッチリ汚染されていると考えていいのだろうか?
272 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2006/11/25
20:14:06
ぶっ壊れたのは浦上天主堂だってばさ.
爆心地の浦上から大浦天主堂だと多分5km以上ある.しかも長崎は平らな街じゃないし.
275 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2006/11/25
22:49:00
爆心地から2km以内は全焼したらしい.
3km以上離れた県庁も,市街地に延焼した火災のため焼失している.
県庁の向かいの出島にある明治時代の洋館には現存している.
大浦天主堂は爆風でステンドグラスが割れた.
活水女学院や山手地区の洋館は現存しているが,この辺の住民に放射能被害は
あったのだろうか?
279 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2006/11/26
11:07:44
以前,「徹子の部屋」で美輪明宏が語っていたが,丸山遊郭のあたりは全然被害がなくて,
美輪の実家にも大けがをした被災者が逃げ込んできたそうな.
でも,ウィキで検索したら,無傷でピンピンしてた美輪が被爆者一覧に名前がのってた.
日本史板,2006/
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
薩英戦争で薩摩藩は,西洋の強さを目の当たりにしたって事ですが,他の雄藩,例えば,薩摩藩とともに薩長土肥とよばれた土佐藩,長州藩や肥前藩はどうだったのでしょう?
【回答】
理由は色々考えられますが,開国したほうが強くなれるから,というのが方針転換した一番の理由かと.
ただ,そこまでの過程が薩長では大違いなわけでして.
元々薩摩は斉彬の頃から開明的素地があったので,開国の利益に対する理解が早く,藩の統制力が強かったこともあり,攘夷の思想面にはあまり拘らずに済みました.
結果,薩英戦争での少ない被害だけで,政治的判による開国への方針転換ができたようです.
逆に思想的な面が強く出たのが長州で,薩摩のようには方針転換ができず,一部の過激な意見に引っ張られて攘夷で暴走.
そのあげく,国内外の戦い両方で,かなりやばい状況になります.
切迫した政治(軍事)的必要性が,思想としての攘夷論を横へ追いやり,富国強兵の為,開国への方針転換を,やらざるを得なくなったわけです
土,肥に関してですが,この両藩に限らず,当時多少でも知識のある人物なら,攘夷など無理なことを,早くから承知してました.
また,肥前藩は出島の警備をしていく中で,海外の情勢に通じていました.
土佐藩は,郷士による下からの突き上げってのが,大きいのではないのかな?
なので,国内政治の様相が開国の風潮に向かえば,それに追随するのに躊躇などなかったわけです.
かなり大雑把ですが,こんなでどうでしょう.
日本史板,2006/11/29
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
室町幕府って,義満〜義教の間に有力大名(山名,大内,土岐,赤松,北畠,鎌倉公方)を滅ぼしてるのに,なんで応仁の乱のあたりで全部の大名が,超有力大名として復活してるんですか?
特に山名なんかは,西軍のドンと言うべき存在だし,大内も陶晴賢に反乱されるまでは,西国の大大名でいられたし…
家名を惜しんで一族を拾って,名前だけの再興を許すなら分かるんですが,なんでせっかく滅ぼした大名を,また元の地位に戻すんですか?
【回答】
よく考えてみて.
例えば,山名を明徳の乱(1391)で完膚なきまでに叩き潰している.
でも赤松満祐の嘉吉の乱(1441)で,播磨を平定したのは山名持豊(後の宗全).
つまり,反抗する勢力を討伐するのに,それ以外の勢力を常に必要とする.
足利党も尊氏の頃は,まだそれなりの軍勢だったと思うが,将軍家になってしまうと,配下の細川とかも大名とかに独立してしまい,自前の軍勢は減ってしまう.
特に尊氏は,一旦九州に落ち延びて再興するのに,かなり西国の武士たちの後押しを受けた経緯があり,他の勢力に依存する体質が出来ていってしまったんだと思われる.
だから,一旦反抗した勢力を幕府の権威で討伐しても,それは他の勢力に常に頼っている.
頼られた勢力の当事者も,反抗する勢力は「明日は我が身」かも知れない同じ立場だから,適当に降参したら妥協するところもある.
「もう勘弁してやったら」というのは,自分に対する保険でもあるんだ.
ま,室町幕府の将軍家も,そういった意味では足元を見られているっていうか,所詮は有力守護大名の連合政権だったんだね.
だから,応仁の乱(1467)みたいに真っ二つに分かれてしまうと,収拾がつかなくなる.
日本史板,2006/12/06
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
その他の大名はいいとして,鎌倉公方と北畠が再興してるのが分からないのですが.
鎌倉公方は幕府にどんな事情があろうと,完全に根絶やしにするのが普通じゃないか?
北畠は百年以上前の事を持ち出して,しょっちゅう謀反起こすし…
そのたび寛大な処分で済むのは,どーもねぇ…
【回答】
鎌倉公方と北畠が出てきたのは,象徴的ですね.
というより,いい視点だと思います.
これこそが「妥協の産物」なんですよ.
幕府政権の本質は,本来「鎌倉」に本拠があるものなんですね,意識として.
それが京にあるのは,西国の武士たちの意向や,南北朝へと連なる諸事情が絡んでいましたが,京に幕府があるのは,東国の武士たちにとっては「不満」なんです.
また,一方「北畠」も南朝支持者にとっては,一種の象徴.
時代が進むにつれ,この両者は事あるごとに幕府に楯突く目障りな存在となったのですが,これを排除してしまうと,東国武士の不満とか,南朝支持だった勢力の不満が一気に表面化してしまう.
それは室町幕府の存立自体に関わる,根幹問題になってしまうんです.
室町幕府は「妥協政権」なので,こういう火薬庫を一気に爆破してしまう方針は取れないんです.
むしろ度々反抗させながらも,適度に妥協することで,そういう本質的な不満へ向かわせない「バッファ」としての位置づけを持っていた訳で,それが「政治」なんでしょうね.
日本人の考え方,の象徴だと思います.
欧米人なら一気に決戦,なんでしょうが.
日本史板,2006/12/06
青文字:加筆改修部分
<保留>
** 【質問】
447 : 日本@名無しさん[sage] :投稿日:2006/12/07
23:48:20
>>437
そりゃ分かるよ.ましてや秀吉/秀頼の縁者なんだし.
でも豊家には冷遇され三成にはコケにされ,関が原前には
西軍参戦工作までされている立場の人間がだよ?ヘンだよ.
他家にいかされたんだから別に気にしなくてもいいじゃない.
それに毛利一族がバラバラだったんなら,逆に保険として東軍に
入って/入らされたっておかしくないんだし.
ティーンで政治なんて分からなくっても,家臣が勧めていたんじゃない?
>>446
でも家臣の多くは再仕官を断られていたってのはねぇ…
「裏切り」っていったって脇坂がよくて秀秋がダメっていうのかしら.
清正正則とまではいかなくても,ティーンなのに戦にはメチャクチャ
強くって家臣たちも評価されていたろうに…
【回答】
448 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2006/12/08
03:00:29
>>447
まぁ,秀秋に関してはそんなところだろうね,結局,小早川家
没落後に家老だった稲葉家から家光の乳母が出てくるところを
考えると,重臣から進められたというのが大きいんじゃないかと
思うよ.
あと,小早川家はあの当時は毛利家からはかなり分離してた訳だ
し,あまり毛利家の意向っていうのは考えてなかったと思う.
450 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2006/12/08
08:57:37
>>448
小早川隆景が秀秋を迎え入れた経緯をご存知ですか?
秀秋は毛利家(本家)に押し付けられようとしていたんです.
輝元の養子として.
いわば豊臣家による毛利家乗っ取り.
それを隆景が犠牲になる形で受け入れたわけです.
吉川にしても,関ヶ原の戦いの後,周防・長門35万石を与えられようとしたのを辞退している.
毛利本家が取り潰されようとしたのを,身を挺して弁護し,自分に与えるくらいなら毛利本家に賜りたいと言っている.
こういった要素を考えると,「毛利の両川」は一応機能していたといえると思う(吉川は代が変わっているが).
ただ,小早川・吉川の家臣団の思惑は別,というのは考えられる.
そもそもこの両家も,毛利元就の頃に,その次男・三男を養子に押し付けられた訳ですからね.
だから,殿様の思惑は毛利家大事の気風を残しているのに,家臣たちはそれほど気にしていない,という「お家が一枚岩になっていなかった」ことが,関ヶ原前後の毛利全体の方針不統一という形になって現れたと考えられます.
ましてや,小早川秀秋は自身が豊臣の縁者.
先代が毛利家大事で,家臣の多くははそうは思っていないという,かなり複雑な事情の中で当主を務めていた経緯があります.
優柔不断になってもおかしくない状況でしょうね.
451 : 448[] :投稿日:2006/12/08 18:19:09
>>450
分かってるよ?
って自分でもいってるじゃないw
>秀秋は毛利家(本家)に押し付けられようとしていたんです.
>輝元の養子として.いわば豊臣家による毛利家乗っ取り.
>それを隆景がいわば犠牲になる形で受け入れたわけです
秀秋が当主になった時点で小早川家は毛利と分離してしまったと見て間違いないだろ.
だからこそ,隆景は小早川家を犠牲にして小早川家の養子にしてしまったのだから.
それに小早川家に元々から仕えてた家臣の多くは小早川秀包の方にいってしまったらしいし.
452 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2006/12/08
20:17:06
>>450
関が原合戦当時には隆景も無く,秀吉が秀秋に付けた家老である,平岡頼勝や稲葉正成
が小早川家を支えていたわけだし,毛利色は皆無とはいえないまでも,小早川家の方針に
干渉するほどの力は無かった.
453 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2006/12/08
21:35:28
>>451
あんた,武家社会における「恩義」というのを知らないなw
現代人がやってるんじゃないんだよwww
454 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2006/12/08
21:54:26
>>453
あんたの言う恩義というのが何を指すのか分からないが,
恩義というかそういう美徳が武士の中で定着したのは
江戸時代になってからのこと.
そもそも,小早川家自体が毛利元就の計略によって,
隆景を養子として送り込んで毛利家がのっとった家.
あんたのいう恩義とやらが存在するのならば,小早川
隆景が養子となったところで,毛利の味方になるはず
が無い.ましてや,養子になった頃の小早川当主であ
った小早川繁平を引退に追い込むなどできるはずがない.
当時の武士に恩義というのがあればねw
毛利家が小早川家を勢力下にいれるときに,あんたのいう
恩義なんて無縁な政争が行われていたのに,
秀吉の意向で秀秋を入れた時には,その恩義があるという
あんたの考え方はおかしいよ.
456 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2006/12/08
23:01:35
恩義も知らない人間が解答者を装っているのでw,教えてください.
武士の世界で御恩と奉公の関係ってありますよね.
元々土地を仲立ちとした主従関係のひとつだと考えられますが,
その応用系のような形も武士の正義とか,価値観の中にあったと
思います.小早川隆景の場合も見ていてそんな形だと思えました.
御恩とか恩義とか忠義とか,武士の価値観ってどのように生まれ,
どのように変わって行ったのでしょうか.
>>454の考え方とは違うと思いますので,分かる方,教えてください.
ちなみに,私は>>450でも>>455でもありません.
457 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2006/12/09
01:04:11
>>456
明らかに>>450と>>455と同じ人間のように思うがwwww
戦国時代なんて下克上なんだから,力が弱いと思えば
下が上を倒すなんて当たり前の時代.
小早川隆景を評価するのも結構だが,本家小早川乗っ取りは
隆景ではなく元就の策略かもしれんが,かなり悪辣.
それに,小早川隆景の秀秋が養子になる前の本来の嫡子である
小早川秀包は,廃嫡された後も,別家として,九州に所領をもらっ
てるわけだし.仮に恩義があって,毛利家とのかかわりを大切にし
てる小早川家としては秀包がたてた別家の小早川家の方じゃない?
日本史板,2006/
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
武士の価値観〜いわゆる武士道というものは,江戸時代の武家諸法度によって確立したそうですが,それ以前の主従関係は,どのようなものだったの?
【回答】
江戸期以前の武士においても,恩義という徳目はもちろんあったでしょう.
ただ,それらは決して体系化された物ではなく,感情や利害に左右されやすい物でした.
体系としての主従道徳(宗教的な)が成り立つのは,江戸期に儒教が広まってからになります.
江戸期以前,特に戦国期は過酷な時代でした.
主家への恩義を守って共に没落,滅亡と言うのは,後生の美談にはなっても,その時代に生きた当事者達にとっては悲惨な事なのを,忘れないで下さい.
まず生き残ること,子孫を繁栄させること,それが武士の第一義でした.
また,武士が忠義を示し,勇敢な行為を為す場合,自らの命を的にして,子孫の繁栄と安定を求める,打算的一面があったりもします.
よしんば,主家が滅亡,自身は討ち死にと言う事態になっても,世間に好意的な評判が残れば,子孫が再び世に出やすくなるのです.
これらは,自家の存亡を賭けた行為であって,単純に善悪や美醜の問題として理解すると,片手落ちになります.
主従関係の変遷ですが,まず御恩と奉公は,原則として主従がイーブンな関係です.
実際には鎌倉時代の頃から,主君側の立場が,やや強い傾向にあったのですが,その後の歴史は,主君がさらに立場を強め,家臣を強力に統制していく方向で封建制が発展していきます.
特に戦国期にその傾向が強まり,江戸期に体制として完成します.
もう一つ,江戸期以前の主従関係は,主君の人格,才能,何より肉体の限界(寿命)に依存する面が強いのです.
その為,主君の代が変わると,主従関係が不安定になってしまいます.
江戸期になり,儒教の採用などによって,主君個人の力量を超えた,形而上的価値観に対する忠誠心が問われるようになりました.
こうして,戦国期までのような家臣の独立性はなくなり,儒教化された官僚としての武士が誕生したわけです.
この問題は,他の要素(兵農分離,知行化等)とも絡んできます.
日本史板,2006/12/09
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
室町時代の幕府の領土って,どの程度あったのですか?
江戸幕府のように,全国各地に天領があったのでしょうか?
それとも京都周辺のみ?
よろしくお願いします.
【回答】
将軍家の直轄領を「御料所」と言うが,これは全国200ヶ所くらい存在していたそうだ.
室町幕府って,どちらかといえば今の国際連合みたいなものを考えた方が近いと思う.
近いというのは,鎌倉幕府や江戸幕府と比較して,という意味で.
もちろん室町幕府=国連であろうはずがない.
ただ,室町幕府は守護大名の連合政権みたいなものというのが,ただ権力基盤だけでなく,財政基盤の面からもそれは言える.
鎌倉幕府の場合,平安後期の「知行国制」の形が残っていて,関東御分国みたいな「領土」と呼べるものがあった.また江戸幕府は,徳川王国が最大最強の大名で,その「領地」を天領といっていた.
しかし,室町幕府の主たる収入源は,御料所という,天領に当たるような全国に散在したところや,都の町衆からの段銭とか,棟別銭の臨時徴税が主なもの(後にほぼ恒常化する).
でもそれはいくつかの荘園や,没収した領地などで,常に広大なまとまった「幕府領」みたいなものはない.
その総量も不安定.
だから義満が始めた勘合貿易というのは,重要な収入源となった.
それも他の有力大名(大内・細川)に利権が移ってしまうと,関銭とか,ひどい例は徳政分一銭(徳政令を出してやる代わりに,上納させる金銭)などを取り立てた.
まぁ,それだけ幕府自体の財政基盤が弱かったことも,室町幕府が弱体だった理由だと考えられる.
日本史板,2006/12/09
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** 【質問】
源平の頃の人達が名前を呼び合うときは,近い家族やごく親しい間柄でも,下の名前は避け,通称や役職名を付けて呼んでいたのですか?
例えば,頼朝が政子と話している時に,ご先祖や親戚の話題が出たとして,「八幡太郎殿は」とか「鎮西八郎殿が」とかいうふうに呼ぶものですか?
例え父親だったとしても,義朝が頼朝を「おい,頼朝」なんて呼んだら無礼者になってしまうのでしょうか?
それに関連して,頼朝はいつ頃から「佐殿」ではなくて「御所様」等の他の呼ばれ方をしたのでしょうか.
また,これはあり得ないんですが,仮に我々がタイムスリップして戦国時代に飛ばされたら,上杉謙信や武田信玄みたいな偉い武将の事をなんていって呼べば,本人や部下に手討ちにされずに済むんでしょうか.
(敵か味方か分からない,仕えてる訳でもないという状況で)
【回答】
頼朝とか信長とか家康というのは忌み名(諱)といって,日常生活ではそれを使わないのが通例です.
公式文書とか,目上の人間が呼ぶ場合に使用します.
目上の人間は勿論,「九郎」とか「太郎」とか通称を呼んでも構いません.
また,相応の尊称をつければ,忌み名で呼ぶのも構わないようです(信長公とか).
頼朝は,平治の乱で捕らえられて伊豆に流されるまで「右兵衛佐」でしたから,流罪中でも身辺にいた人はそう呼んでいたようです.
寿永宣旨により流罪人を解かれた後,次第に鎌倉で実力をつけてからは「鎌倉殿」と呼ばれました.
上洛して後白河法皇に謁見してからは,権大納言権右近衛大将に任ぜられました(すぐに辞任)から,「右大将殿」とも呼ばれています.
「御所様」は聞きませんね.
室町幕府の将軍は,義満以降は花の御所にいたので,「御所様」と呼ばれているようですが.
当たり障りのない偉い武将の呼称ならば,「御館様」とか「お殿様」で良いのでは.
また,第三者に対しては「信玄公」とかで良いと思われます.
明治になって,すべての人に苗字がつくようになった頃くらいから,通称ではなく,忌み名を正式な名とし,公私共にそうしようという動きが明治政府筋から出てきました.
欧米に合わせ,古い因習から脱却しようという方針だったようですが,必ずしも徹底した訳ではないようです.
西郷吉之助は西郷隆盛,大久保一蔵は大久保利通に,といった具合です.
それ以前に死んでしまった坂本龍馬は,忌み名は「直柔(なおなり)」ですが,結局歴史上の「通り名」も坂本直柔ではなく,坂本龍馬になっていますね.
それ以外には「号」があります.
新井白石の白石は「号」で,本名は新井君美(きんみ)です.
勝海舟は,通称麟太郎(りんたろう),忌み名は義邦→安芳(やすよし)ですね.
日本史板,2006/12/15
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
私は目下の人間から格上の人間への呼び方も気になるのですが,役職名か,忌み名+尊称か,通称+尊称か,の三種類だけと考えていいのでしょうか?
それとよくテレビで出てくる尊称の「殿」は,「公」と比べると尊敬の度合いは低いですか?
敵対関係でも「殿」は使用されるようなので…
また,頼朝のような位の高い人間が,当時の風習として敬われるべき年長者である叔父や,既に亡い偉大なご先祖を呼ぶ時には,どのように呼んでいたのでしょうか?
ご先祖はともかく,叔父が自分より位が下である場合は,優先するのは年の功か身分のけじめか,どっちなのかなあと思いました.
【回答】
「〜殿」は,同格の者を呼ぶ際に使われることが多いですね.
ただし,格下の者に気を遣ったり,配慮したりする場合にも一種の辞令として使用します.
これは現在でもそうですから,ご参考までに.
目上の者に使ってはいけません.
失礼に当たります.
「〜公」は目上の忌み名(諱)を使う際に使用します.
本来通例として使えない目上の諱を使う必要性なのですが,おそらく,人の上に立つような人間は出世経歴が多い場合がザラで,役職や通称はよく変わるからではないでしょうか.
「上総介」「弾正忠」「右府」などはみんな信長ですが,時期によっても違いますし,間違いがあってはならない場合に間違えやすいのは困るでしょうから.
特に三人称として使う場合は,「〜公」が多いようです.
故人を指す場合は,「諡(おくりな)」を使います.
徳川吉宗なら「有徳院殿」(うとくいんでん・・・「どの」ではない).
ただし諡がない場合や知られていない事も多いので,その場合はやはり「諱+公」です.
天皇の場合,「諡号(しごう)」「追号」といって,聖武天皇,後白河天皇などの「聖武」は「諡号」,「後白河」は「追号」で,共に「諡」の一種です.
生きている年上の親族で,位が下なのは「目下」の扱いですが,儒教では目上になること,そして気遣いの観点で尊称(様)や同格(殿)を使う例も多いようです.
原則論はあるのですが,気遣いや勢力状況もあるので,人間関係が現れますね.
御所号については,wikiに掲載されているのが,特に問題なさそうなので「御所」でググるとかしてみてください.
日本史板,2006/12/16
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
歴代の彦根藩藩主は掃部頭を名乗ってますが,掃部っていうのは元々はどんな役職だったんですか?
【回答】
その名の通り,掃除係です.
縫殿頭=裁縫係
内膳正=給食係
采女正=メイド長
なんてのもあるから気にしないように.
井伊家は,家康が遠江を支配した頃から徳川傘下に入った割と新参者.
所謂三河譜代ではないです.
上司格の酒井が雅楽助(うたのすけ)を名乗っていて,徳川の台頭に伴って雅楽頭になった(これはちゃんと任官)関係で,それを超えるような役職にはなれないでしょう.
江戸幕府では,共に大老格ですが,酒井は雅楽頭,井伊は掃部頭.
でも,伊豆守とか相模守とか(老中格)と比較した場合,地方ではなく中央の役職という事で,格上だという認識だったようですよ.
でも,尊王思想が高まった幕末では,伊東甲子太郎などは御陵衛士になって大喜び,ですが,衛士は律令では最下位クラスでしょうね.
日本史板,2006/12/23
青文字:加筆改修部分
** 【追記】
657 : 日本@名無しさん[sage] :投稿日:2007/01/07
23:44:08
>>647
仰るように,任意の戦乱をこう呼ぶのは立場によって違うし時代によっても変わる.
「認識」の違いで適当に呼ばれているといっていいだろう.
「役」…これは民を肉体労働に使うという意味.「賦役」「使役」「戦役」など.
民(兵)が動員されるということだから,大規模な戦闘行為である.
体制(政府)とその外にある勢力とが民(兵)を動員して戦うという意味であって,
必ずしも外国との戦いであるとは限らない.(例:前九年/後三年の役)
「変」…これは体制(政府)の権力者が殺害・追放・交替するか,しそうになるイベント
一般と捉えるといい.「クーデター」「レジームチェンジ」という概念もこれに含まれる.
突然のこと,不意のことという意味もある.「政変」「事変」など.
いわゆる戦闘行為があるとは限らない.
ごく小規模の戦闘(つまりテロ)であったり,あるいはないこともある.
「乱」…これは変と似ているが,争う当事者たちが共に相応の正統性や力を
持っていることと,真の体制(政府)の権力者は第三者的立場なことも多い.
勝手に争い「乱れている」のだという傍観的概念.
658 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2007/01/08
00:49:08
>>647
>>657さんの分類はとても的確だと思います.
ただ「乱」というものと,それ以外では「結果」が大きく作用していると
も考えられます.
例えば,「本能寺の変」は明智光秀が織田信長を討つのに「成功」しま
した.もし「失敗」していれば,これは「明智光秀の乱」だったでしょう.
冠につける名称は,人物名(または人物の呼称)の場合と,元号や干支の
場合がありますが,人物名の場合は,乱を起こした「主犯」が際立ってい
る場合(中先代の乱等)で,そうでない場合や,>>657さんのいうように
正当性や当事者が明瞭でない場合が多いかと存じます(壬申の乱,明徳の乱,
応仁の乱等).それは当時の人の意識や,後の人の位置づけや評価によると
ころが大きいので,見解が分かれたり,複数の呼び方があるものもあります.
(平将門・藤原純友の乱=承平・天慶の乱等)
ただし,当事者として天皇(上皇)が主犯格で失敗した場合は「変」という
評価になるようです(承久の変・正中の変・元弘の変).承久の変については,
規模感や皇国史観的な観点を排除する為にから,後に「乱」というように変わ
りました.規模感や主観排除の観点により呼び名が見直されるのは,現代に入
ってからで,客観的な評価で変更しようとする主旨でしょう
(西南の役→西南戦争,日華事変→日中戦争).
659 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2007/01/08
00:53:40
>>657
【役】
[字義]
セいくさ.戦争.
[解字]
会意.彳+殳.彳は,道を行くの意味.殳は,武器をもってうつの意味.辺地を守りに行くの意味を表す.転じて,つとめの意味を表す.
【変】
[字義]
タ思いがけない出来事.内乱や戦争など.
【乱】
[字義]
セみだれ.(ア)秩序がない.(イ)戦争.騒乱.(ウ)不作法.(エ)反乱.むほん.
以上,『漢語林』より
【役】には,元々辺地での戦争を意味していたが,広く戦争一般を意味するようになったみたい.
【変】には,内乱や戦争の意味があるけど,規模や期間は【乱】より小さく短い感じかな.特に,突発的な面を強調してるのかも.
【乱】には,反乱やむほんの意味が含まれる為,使う人により価値判断が出やすいですね.
660 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2007/01/08
01:00:22
応天門の変
661 : 日本@名無史さん[] :投稿日:2007/01/08
01:49:45
応天門の変は,内裏の門が放火されたわけで,最初はテロやクーデタ未遂だと思われて変と呼んだんじゃないのかな.
実際は偽装テロで,陰謀渦巻く政治事件だけどね.
664 : 日本@名無しさん[sage] :投稿日:2007/01/08
15:11:29
>>658
「変」というのは,実権者やその支配体制がイベントの前後で全く「変わってしまった」,
あるいは「変えることが意図された」「もう少しで変わるところだった」という捉え方.
>ただし,当事者として天皇(上皇)が主犯格で失敗した場合は「変」という評価になるようです
上皇は重祚(復位)の有資格者ですから,事を起こせばこれはクーデターといえるでしょう.
また,上皇だからといって必ずしも実権を握っていたわけではありません.
もし,位や実権を求めた騒動ならばこれは「変」と言うべきであると思います.
例えば,「薬子の乱」だと,薬子兄妹が嵯峨天皇を追い落とす騒動だったと見るなら
「乱」になるでしょう.薬子兄妹自身は皇位につけないからです.
しかし近年は「平城上皇(政権)が嵯峨天皇(政権)の追い落としを図っていた」という
見方が出てきたので「平城太上天皇の変」という言い方のほうが理解できる云々…
こんな例もあります.
当事者が天皇の場合,例えば正中の変での後醍醐天皇ですが,直接の動機が
持明院統の皇位継承に反発してのものだったとみるならば,持明院統対大覚寺統
と見做して「変」の扱いをしていいかと思います.
>ただ「乱」というものと,それ以外では「結果」が大きく作用しているとも考えられます.
結果で区別しているところはありますし,また>>659さんの仰るところから考えても,
騒ぎが大きくなり戦闘が大規模化・多元化すると「乱」とみなされることもあるようです
(例:元弘の変/元弘の乱)
日本史板,2006/
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
昔の日本で時の権力者が,政敵を隠岐や佐渡や東国に流す場合がありますよね.
質問1
なぜ遠方にやるのでしょうか?
手元に置いておいた方が良さそうな気がします.
権力者の屋敷に地下牢作って放り込んでおくとか.
遠方にやる→監視の目が行き届きにくい→流人が同志を集め反乱軍結成
手元にいる→監視の目が行き届きやすい→政敵は誰とも会えず一人ぼっちで飼い殺し
質問2
反乱を起こす恐れのある政敵を,処刑でなく流罪にするのはなぜですか?
【回答】
質問1について
罪を犯した者=神の怒りに触れた忌まわしい者と見なす信仰があったため,身近に置くことはタブーでした.
また,流刑は「野に放つ」刑ですが,これは朝(朝廷や政府)から追放するという意味があります.
当然,権威や権力は喪失します.
権力者にとってこれは大変なことです.
しかも現在と違って,都を一歩出れば野性の世界である昔のこと,人一倍の力量がなければただの庶民以下の人生しかありえません.
ですから,下記にあるように流刑は重い刑なのです.
逆に,権力者の屋敷に放り込むのは危険なことです.
もし同調者(同情者)に火でも放たれ,逃げ出されたらどうしますか.
例え拘留でも,都に止めおくことは,その危険性が高いということです.
あと,当時の考え方として,武士の戦いの焦点が都に移ってきていたという点があるでしょう.
承平・天慶の乱の頃や,前九年・後三年の役の頃は,地方武士の反乱という見方が出来ます.
かつ,それらの乱は,すべて平定されています.
保元の乱・平治の乱は,中央の権力と武士の軍事力が結びついて起きており,かつ,その結果が政権の行方を左右するような展開になっています.
都は,様々な人間の思惑や陰謀が渦巻いており,誰と誰がいつ結びつくか分からない危うさがある訳です.
死刑に出来ない事情があれば,僻地に流罪の方が無難です.
最悪反乱が発生しても,平定できると考えられるだけの自信とノウハウがあったのでしょう(有効かどうかは別にして).
結果的には,その見通しは甘かった,ということでしょう.
それと,源平という対立の構図は結果的に発生したものであり,平治の乱の頃の発想では,そのような対立の構図は考えられていなかったのではないでしょうか.
平氏が何故勝てたか,という点では,おそらく,平氏は一枚岩だが,源氏は内部がまとまっておらず,勝手に内部抗争して自滅してしまう存在だと認識されていたようです.
保元の乱では,親子兄弟(為義・為朝VS義朝)で属する陣営が違っていますし,平治の乱でも源頼政は平清盛に与しています.
源氏がまとまるという可能性を,まったく考えていなかったのでしょう.
源頼朝が流罪になった伊豆ですが,この地は源頼政の知行国になっています.
源平の対立の構図で考えるのであれば,こんな人事や流罪の措置は考えられないことになります.
これも見通しが甘いといえば甘いですが,本質的には当たっています.
以仁王の令旨が出た後も,源氏は決して一枚岩ではなく,やはり内部抗争を繰り返しています.
むしろ最大の失敗は,源頼朝は伊豆へ流罪としたが,それでも中央との結びつきが続いていたこと(三善康信など),それと,関東の武士たちの発想と,都との結びつきがある頼朝ガ結託した時,それは今までの地方武士の反乱とは違った展開になるという可能性を見過ごしていたということでしょうか.
質問2について
処刑したものから祟られる事を恐れていたため.
特に嵯峨天皇の時代から保元の乱まで,死刑は廃されていました.
また,流刑は死刑に次ぐ重刑であったことを認識してください.
流刑以上は死刑しかありません.
それに,思想的なことを抜きにしても,主君や高位のものを死刑にするなどできません.
それは謀反そのものだからです.
ですから,とりわけ天皇や上皇は,流刑に処するしかないのです.
もし裁く側が殺す必要を考えたならば,まず流刑にした後「急病死」したことにでもするのが適切だろうがと思ったことでしょう.
日本史板,2007/01/10
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
高家武田家の家系について質問です.
明治期の当主の武田信任の実父は誰なのでしょう?
調べてみても分からないので,ご存じの方よろしくお願いします.
【回答】
どなたかが調べてくださった系図のメモから
-------------
武田本家(従四位下大膳大夫,高家)
01信玄─02信親(竜芳)─03信道(道快)─04信正─05信興─06信安┐
┌────────────────────────────┘
└=07信明─08護信=09信典┬=10信之
└11崇信─12信任─13要子┐
┌────────────────────────┘
└=14信保─15昌信─16邦信─17英信
07信明は柳沢伊信 (越後三日市藩主柳沢里之の3男信尹?)の子
09信典は陸奥守山藩主松平(水戸)頼亮の3男(母は側室高橋氏)
10信之は大和郡山藩主柳沢保光の48子
14信保は大和郡山藩主柳沢保申の3男
日本史板,2007/02/08
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
幕末って,会津や長州薩摩などの目立つ藩以外の藩って,何してたんですか?
ただ傍観?
【回答】
いち早く新政府に恭順した藩,
親幕から新政府に鞍替えした藩,
最後まで親幕を貫いた藩,
さらにそれに藩の規模,地理的状況,人間関係などが加味されてそれぞれ出兵して実際に戦闘を行った藩,
出兵したものの戦闘らしい戦闘はしなかった藩,
警備程度で終始した藩,
旧幕府機関の取締にあたった藩,
藩論がまとまらず混乱した藩,
恭順が遅れたために謹慎となった藩,
結果傍観となった藩,
などさまざまだ.
まあ,多くはいずれかの立場で出兵している.小藩でもなんらかの意思表示を示していて,形式的でも出兵はしている.
請西藩のように,藩主自ら脱藩して出陣なんてケースもあった.
また,淀藩は親幕でありながら,旧幕府軍を無視することで,戦争に大きな影響を与えた.
その後は謹慎の後,京都警備を任されてる.
戦闘行為はなし.
1万石程度,士族の戸数も1000程度の小藩なんかは,新政府に恭順の意を示して,特に出兵に及んでないところもある.
意思表示で十分といったところか.
日本史板,2007/02/13
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
今,そろそろテストなので,ノートを纏めています
(ちなみに鎌倉幕府辺りです)
・地頭…年貢の徴収,納入,治安維持
※平氏旧領,謀叛人所領のみ ←正誤で良く出る
と書いてあるのですが,※以降がイマイチよく分からないのです.
平氏旧領という場所と,謀叛人所領という場所の,年貢の徴収,納入,治安維持をするという解釈で良いのでしょうか.
教科書を学校を置いてきてしまったので,確認ができなくて……
どなたか解説していただけないでしょうか.
【回答】
1180年に頼朝が挙兵したときは,まだ東国の武士は頼朝の家人ではなく,平氏とか貴族の荘園の管理人(荘官)や公領の管理人(郡司・郷司)だった.
しかし,頼朝挙兵に参加し,鎌倉殿頼朝の家人(御家人)になるにおよんで,先祖代々の所領を安堵された.
その後,西国で平氏と戦い,これを滅ぼすと,平氏の旧領(平家没官領)に,頼朝が自分の家人である東国武士たちを地頭として配置した.
平家没官領の多くは頼朝の荘園となったから,そこの地頭となった御家人たちは,荘園領主である鎌倉殿に年貢を納入すると同時に,自分の取り分としての収入を得,現地の治安維持にあたった.
頼朝の知行国で,公領に配置された地頭も同様.
ただし,西国には皇室や摂関家,大寺院の荘園群も多いため,そうした地には地頭は殆ど置かれなかった.
こうした荘園にも幕府の勢力が伸びるのは,承久の乱で朝廷が負けて以降.
日本史板,2006/2007/02/18
青文字:加筆改修部分
** 【追記】
867 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2007/02/20
22:29:57
話が錯綜しているようですが・・・
東南アジアでは16世紀以降イスラム系が優勢であるのは事実だが
別に仏教徒が弾圧されたわけではない
出島にイスラム教徒がいても不思議ではないし>>863のレスは何を意図しているのか不明
>>860
琉球は日本人ではないと言い切れるのかどうかは別にして
本土でも猪は食べていましたよ
猪を「山鯨」と呼び「海のもの」として食していたのがいい例ですね
日本では肉を食べることを「くすりぐい」と称し,滋養強壮のために食べることは庶民のあいだでもありました
清少納言は「精進物のいとあしき」と言い鳥肉を好んでいたようです
また,室町期の武士が鹿を食したり江戸時代の裕福な商家が肉を食べることにたいして
同時代の人が悪食として何度も批判しています
>>860の話に特に問題があるようには思えないのですが
868 : 日本@名無史さん[sage] :投稿日:2007/02/20
22:42:40
>>867
豚肉を食べない,鶏肉は能動的には食べない だけじゃイスラム教徒と断定できない,オランダ植民地にいた熱心な仏教徒の可能性もある って>>863は言いたいのでは?
まあ普通に考えたらイスラム教徒の可能性が高いでしょうね.わざわざ豚を特筆しているし.
日本史板,2006/
青文字:加筆改修部分
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