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青文字:加筆改修部分
 ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.

※既に分類され,移動された項目を除く.


Kampfgruppe 17

目次

 【追記】 “脱原発”主張の孫正義氏,「韓国の事情は異なる」

 【書評】 世界サイバー戦争

 【追記】 中間地帯が一番広い.そこを取り込めなくてどうする.

 【質問】 「ラマダーンの大砲」とは?

 【質問】 ヴェトナム・紅河デルタの埋蔵石炭について教えられたし.

 【追記】 日本がアジアの安全保障で明らかに後退しているわけだが

 【追記】 DNA鑑定で遺体を最終確認,殺害のJI武闘派指導者

 【質問】 歩兵各連隊に付属する連隊砲中隊の編制を教えてください.

 【追記】 最近のコスタリカ評価についての若干の問題


 【追記】

“脱原発”主張の孫正義氏,「韓国の事情は異なる」

 【ソウル聯合ニュース】福島第1原子力発電所の事故を機に原子力以外のエネルギーへの将来的
な転換を目指す「脱原発」の議論が日本で活発化する中,韓国を訪れているソフトバンクの孫正義
社長は20日,「『脱原発』は日本の話.韓国は地震の多い日本と明確に異なる」と述べ,安全に運営
されている韓国の原発を高く評価した.

 青瓦台(大統領府)で李明博(イ・ミョンバク)大統領を表敬訪問した席で述べたもの.青瓦台の
金相浹(キム・サンヒョブ)グリーン成長環境秘書官が伝えた.

 日本の「脱原発」を主張してきた孫会長は「日本が地震の多い場所に原発を建て,太平洋沿岸に
原発があるのは大きなミス(big mistake)だ.予想以外の事態が発生した時になすすべがない」
と指摘したという.

 一方,孫社長は自ら設立した「自然エネルギー財団」と李大統領の主導したグローバルグリーン成長
研究所の協力関係締結を推進する意向も明らかにした.

ソース : 聯合ニュース 2011/06/20 17:05 KST
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2011/06/20/0200000000AJP20110620003100882.HTML


 【書評】

■世界サイバー戦争

 原発事故によって,技術安全神話が崩壊したにもかかわらず,日本では情報ネット
ワークは,クラウド技術への依存へ熱中し,電力は,送発分離が当然だと,スマート
グリッドが賞賛されている.
 しかし言ってみれば,クラウドは情報の核化であるし,スマートグリッドは,送電網
のネット依存である.
 人類は今,情報のデジタル化・ネット依存という段階を遙かに超えて,生命・財産か
ら社会インフラまでを0と1のストックとフローに依存を強めている.

 この問題について,国防及び社会インフラのネット依存が最も進んだ米国の,サイバ
ーセキュリティ担当大統領顧問などで3人の大統領に支えたクラーク氏が表した秀著が
「世界サイバー戦争」徳間書店です.

 日本人が題名から想像する未来仮説ではなく,今そこにある危機について,「人類が
想定外としてしまっていること」への実務者からの警告書です.

 政官問わず,国防,金融,社会インフラ関係者は,
必ず読んでおくべき本です.このレベルでの類書はありません.

 私が防衛大臣だったら,国費で自衛官全員に読ませますね.激推です.

おきらく軍事研究会,2011年6月27日 月曜日 午前8:00
青文字:加筆改修部分


 【追記】

世の中は白と黒ばかりでない.敵と味方ばかりではない.
その間にある中間地帯が一番広い.
そこを取り込めなくてどうする.
真理は,常に中間にありということだ(田中角栄)


 【質問】
 「ラマダーンの大砲」とは?

 【回答】
 テンプル大学大学院のヌーラ・ビント・ムハンマド・アルジールによれば,レバノンの伝統習慣の1つであり,人々にイムサークやイフタールの時間を呼びかけるもの.
 イムサーク imsa:kは,ラマダーン月の日々の断食の始まりの時間のことであり,イフタール iftar はラマダーンの間,毎日,日没時に始めに口にする食事のこと.
 「ラマダーンの大砲」は,かつては他のアラブ諸国でも用いられていたが,ラジオやテレビや衛星放送が普及してからは姿を消したという.

 詳しくは,
「週刊アラブマガジン」 2009.09.16付(Vol.267)
を参照されたし.


 【質問】
 ヴェトナム・紅河デルタの埋蔵石炭について教えられたし.

 【回答】
 メコン・デルタには石炭がないが,紅河デルタ Red River Delta の地下には,2,100億トンの石炭が埋蔵していることが分かっている.
 現状の炭坑開発では,どうしても将来の需要とのギャップが大きいが,海外の石炭は高価で手が出せないベトナムとしては,これは魅力的だが,問題は,その殆どが水田や住宅地の地下であることだという.
 ビンミン 炭坑 Binh Minh coal mine ,コアイチャウ1炭坑,コアイチャウ2炭坑 Khoai Chau coal mine など,400mから1,200mの深さまで掘る必要があり,調査費用だけで,約3億8000万ドル,開発には45億ドルを要する大事業であって,外国企業の協力が必要.
 また,環境,住民の生活などに大きな影響を与えるとして,ベトナムの科学者達(注21)が警告を発している他,ベトナムの建設省は,注意点として,工区を分割するな,水田への影響を最小限にせよ,基礎地盤に大きな影響を与えるな,更には気候変動問題との関連に注意を,と難しい注文を出しているという.

 詳しくは,
Exploring 210-billion-tonne coal basin: big potential, high risk
http://my.reset.jp/adachihayao/index090917B.htm
http://english.vietnamnet.vn/reports/2009/09/868786/
および
【日刊 アジアのエネルギー最前線】,2009.9.17付
を参照されたし.


 【追記】

http://www.realclearpolitics.com/articles/2007/11/japan_in_retreat_to_its_postww.html
(ホノルル・アドバタイザー,RCP転載,下の記事も同じ内容)
ttp://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2007/11/11/2003387251
Japan appears content with backseat role in Asian defense
By Richard Halloran Sunday, Nov 11, 2007, Page 9
(台北タイムズ)日本がアジアの安全保障で明らかに後退しているわけだが

北東アジアの安全保障のベテランである前NYTレポーターのリチャード・ハロランの書いて
いるもので,小泉首相時代の日米協調に比べて,今では日本はすっかり後退しているよう
に見えるという.具体的にはインド洋の給油問題や思いやり予算をめぐるゴタゴタについ
て心配している.
リチャード・ハロランは米軍の太平洋艦隊や在韓部隊のシニアクラスに取材チャネルをも
つ人なので,彼のこうした憂慮は米軍側の雰囲気をある程度示すの鴨(?)

ニュース極東板


 【追記】

DNA鑑定で遺体を最終確認,殺害のJI武闘派指導者
2009年9月19日16時33分,CNN.co.jp
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090919-00000009-cnn-int
ジャカルタ(CNN) インドネシアのジャワ島中部にある村落の家屋で17日未明に起きたテロ対策特殊部隊と同国に拠点があるイスラム過激派ジェマア・イスラミヤ(JI)構成員の銃撃戦で,JI分派の武闘派を率い,指名手配されていたノールディン・トップ容疑者(当時40)を殺害した事件で,国家警察当局者は19日,DNA鑑定の結果,同容疑者の遺体を確認したと発表した.

同容疑者の母国であるマレーシアにいる遺族とのDNA照合を行い,「100%合致した」としている.遺体は今後,マレーシアに移送される予定.

また,トップ容疑者の潜伏先の特定については,16日に拘束したテロ容疑者の尋問で情報を得たことを明らかにした.

爆弾製造の専門家でもあるトップ容疑者は2002年のバリ島ディスコなどの連続爆弾テロ,03年のジャカルタでの高級ホテル爆弾テロ,04年のオーストラリア大使館爆破未遂事件に関与.また,ジャカルタで今年7月に起きた米系高級ホテル2カ所での連続自爆テロの首謀者ともされる.

この事件に絡むジャワ島の家宅捜索に伴う銃撃戦で死亡説が一時流れたが,その後,別人と判明していた.トップ容疑者はインドネシア治安当局が捕そくを最優先課題にしていた大物テロ犯で,過去には追い詰めながらも逃げられる失態も起こしていた.


 【質問】
 歩兵各連隊に付属する連隊砲中隊の編制を教えてください.

 【回答】
 いわゆる「連隊砲」は4門で1個中隊を編制し,1個中隊が1個歩兵連隊に付属していました.

中隊本部───┬─第一小隊──┬─第一分隊─┬─砲1
中隊長...     │  小隊長    │..        │分隊長
兵・下士官63.. │  兵4      │..        │兵9
馬2..       │  馬1      │..        └馬6
          │..          └─第二分隊  
          ├─第二小隊
          │
          └─弾薬小隊─┬─第一弾薬分隊─┬分隊長
              小隊長.. │            │兵12
              兵3..   │            └馬2
                    └─第二〜第五弾薬分隊(略)

 図は下士官の表記を一部略してます.
 なお,この他に連隊には速射砲中隊が別途編制されて付属していますが略します.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE
青文字:加筆改修部分


 【追記】

最近のコスタリカ評価についての若干の問題

『アジア・アフリカ研究』2002年第2号Vol.42, No.1 (通巻364号)
アジア・アフリカ研究所刊

アジア・アフリカ研究所所員 新藤通弘

1)問題の所在

 近年,コスタリカについて,さまざまな本が出版され,記事や報告書が多く書かれている[1].さらに本年になって各地で映画「軍隊をすてた国」が上映され,コスタリカへの関心が一層高まっている.ほとんどは,コスタリカを「軍隊を捨てて,教育費に回した,民主的で平和・中立の国」として期待を込めて語っている[2]

 しかし,これらの人々が,たとえ善意から行っているとしても,その内容には,社会科学の立場からすれば,無視できない史実や現状についての美化,あるいは一面的な評価が,少なからず見られる[3]
 本稿は,本格的なコスタリカ社会論ではないが,現在,上記の理解が日本各地で広がっていることを考慮して,共通して見られる一面的な評価と思われる事象について,不十分ながらも問題を提起するものである.なお,80年代の中米紛争におけるコスタリカの役割,アリアス・プランの果たした役割については,別稿を期したい[4]

2)コスタリカの非武装の内容について

まず,「非武装の国」として,最も賞賛されているコスタリカの現行憲法を見てみよう.コスタリカ憲法は,第12条で,次の通り規定している.

「常備機関としての軍隊は禁止される.

公共秩序の監視と維持のために必要な警察力を置く.

 米州の協定によって,あるいは国家の防衛のためにのみ,軍事力を組織することができる.いずれの軍事力も常に文民権力に従属する.軍隊は,個人的であれあるいは集団的な形であれ,声明あるいは宣言を討議したり,発表したりしてはならない[5]」.

すなわち,コスタリカ憲法は,確かに常備軍の保持を禁止している.しかし,同時に非常時には軍隊を組織できることを規定している.憲法第147条によって大統領と閣僚によって構成される政府評議会が,国会に国家防衛非常事態の宣言,徴兵の承認を要請し,第121条によって国会の3分の2以上の賛成でそれは承認されることとなっている.つまり,非常時の軍隊は否定されていないのである.この点では,日本国憲法第9条の方が,厳格に遵守されるならば法規的には徹底していると思われる.この常備軍廃止の理念は,2000人の犠牲を出した,1948年の苦い内戦の経験からでたものである.その際コスタリカの国防,安全保障に関しては,米州機構(OAS)及び米州相互援助条約(リオ条約)に依存することを念頭に置いていた[6]

それでは,コスタリカの「警察力」は現実にはどのようなものであろうか.国際的に定評のある英国・国際戦略研究所の『ミリタリー・バランス2000-2001』によれば,次の通りである[7]

「総治安兵力(準軍隊)」8,400人 (人口の0.22%)

市民警備隊       4,400  (戦術部隊,特殊部隊を含む)

国境警備隊       2,000

地方警備隊       2,000  小火器(軽機関銃,小銃)のみ

市民警備隊[8]は,ロケット発射器90mmをもっており,日本の警察(拳銃,ライフルなどの小火器)以上の装備をしている.地方警備隊は小火器のみである.また,治安,諜報,対テロ特殊部隊も存在している.多くの将校が,アメリカ,韓国,台湾,イスラエルの軍事学校で軍事訓練を受けているといわれている[9]

憲法制定後のコスタリカの国防,安全保障政策は,常備軍廃止を決めた当時の事情をその後も引きずっていくことになった.米州機構は,歴史的には米ソ対決の時代に(1948年4月)アメリカの西半球支配のために作られた集団安全保障機構である.同機構は,80年代まではアメリカの政策がほぼ全面的に実行された組織であった.
 現在はさすがに,かつてのようなアメリカの一方的な支配が貫徹する場所ではなくなり,アメリカに対する反対意見も述べられたりしているが,依然として強い反共的性格を持っている組織である.それは,キューバを排除していること,オブザーバー諸国から中国,ベトナムなどが排除されていることからも理解できよう.
 また,昨年の同時多発テロ事件,今回のベネズエラのクーデター未遂事件では,米州機構を舞台としてアメリカ主導でアフガン報復攻撃支持,ベネズエラのクーデター派支持が推進された事実もある.
 同憲章第28条の集団安全保障の規定をどう考えたらよいのか,問題もあるように思われる.依然として冷戦時代のマイナス面を拭いきれていない組織といえよう.

リオ条約(米州相互援助条約)は,1947年9月に締結された軍事条約である.アメリカの西半球支配の道具として利用されたことは,歴史が示している.コスタリカが,60年代以降,アメリカを除いて近隣の中米諸国には覇権主義的,侵略的政権が存在しないという国際環境の中で,非武装政策を維持できた条件は,自国の国防,安全保障をアメリカが主導する米州機構,リオ条約に依存したことと,いろいろな事例に見られるようなコスタリカの対米従属外交によってのみ可能であったといえよう[10]
 そうした対米従属性から,後で詳しく述べるが,中米紛争の際にはレーガン政権による反サンディニスタ反革命勢力であるコントラの出撃基地,支援基地の自国内設置を認めたのであった.
 また,同様の理由でパナマの民族主義政権打倒をめざす反政府分子の訓練基地も自国内に認めたのであった.
 この対米従属性は現在も継続されており,中南米の左翼勢力の中では,歴代のコスタリカ政権の内外政策は,決して自主的,革新的とは見なされていないのである[11]

現在,コスタリカの警備隊は,1999年に結ばれたアメリカとの麻薬取締協定に基づいて,米軍と大西洋,太平洋で共同パトロールを行っている.対麻薬対策でココ島(国立公園)の使用を米軍に認め,同島は,ほとんど軍事基地となりつつあることが懸念されている[12]
 最近では,本年10月,麻薬撲滅の口実による米軍の中南米への派遣計画「コロンビア計画」に基づいて,艦船15隻(7月の計画は38隻)をコスタリカに長期間寄港させたいという要請を,コスタリカ政府は最終的に認めることになった.その際,米軍の兵員がパスポートなし,ビザなしで自由にコスタリカ領内に入国できる処置が取られたことに対し,さすがにコスタリカ国内でも大きな論議を呼んでいる[13]

なお,米軍の艦船の寄港は,7月コスタリカ国会で,コスタリカの憲法に抵触するのではないかという批判が提出され,国会で4日間激しい討議が続いた.その際,アリアス元大統領は,「別に他国の軍隊と戦う目的ではなく,麻薬取締の目的であるから,米軍の寄港は認めるべきである.もっと財政赤字などの重要な問題を討議すべきである」と発言している[14].ここには,アリアス元大統領のアメリカに対する姿勢が如実に示されているように思われる.

ちなみに,中南米においては,1950年代以降この半世紀間,アメリカの権益を侵す政権と見られた民族的,あるいは革新的政権はすべて,この地域を「裏庭」=「勢力圏」と考えるアメリカによる直接・間接的(傭兵を使用)軍事介入あるいは干渉を受けており,キューバとベネズエラを除き政権は倒壊させられている.それらを列挙すれば,次の通りである[15]

1954年 グアテマラのアルベンス左翼政権,CIA(米中央情報局)支援の傭兵の進入により倒壊[16]
1961年 キューバのカストロ政権打倒をねらい,アメリカの傭兵がキューバのプラヤヒロンに侵攻するも,撃退され失敗に終わる[17]
1964年 ブラジルの民族主義的グラール政権,CIAの支援を受けた軍部により打倒される[18]
1965年 ドミニカのボッシュ民族主義政権,カーマニョ大佐を指導者とする民主勢力,米軍侵攻より掣肘される.国連で非難される[19]
1971年 ボリビアのトーレス左翼軍事政権,CIAの支援を受けた軍部クーデターにより倒壊する.
1973年 チリ,アジェンデ政権,CIAと呼応したピノチェットの軍事クーデターにより倒壊.国際世論から非難される[20]
1983年 グレナダのモーリス・ビショップ左翼政権,米軍侵攻により倒壊.国連で非難される[21]
1989年 パナマ民族主義政権,米軍侵攻により倒壊.国連で非難される[22]
1990年 ニカラグア,サンディニスタ政権,CIAの傭兵コントラとの長期干渉戦争により経済が疲弊し,選挙で敗北,下野する.アメリカの干渉ハーグ国際法廷で非難される[23]
2002年 ベネズエラ,チャベス左翼民族主義政権に対し,アメリカが支援したクーデター勃発するも失敗に終わる[24]

チョムスキーによれば,「米国は,その国の労働者の権利が抑圧され,海外からの投資条件が良好であるかぎり,その国の社会改革を許容する.コスタリカ政府は,この決定的な二つの義務をいつも遵守してきたので,ある程度の改革を許されてきたのである

[25]」とコスタリカのこれまでの社会改革の性格を的確に指摘している.

こうした歴史的事実は,逆説的にいえば,中南米においてアメリカの干渉を受けない政権あるいは政策は,革新的,民族的ではないということである.歴史的にみると,中南米諸国の政府が,革新的な内外政策を実行しようとすると,アメリカの軍事介入を受けるので,みずからを武装して守らざるをえないという厳しい現実があるのである.国際世論に訴えて,非武装を貫き,非同盟に参加し,革新的政策を実行することは望ましいとしても,非現実的な考えとならざるをえない.
 コスタリカの場合はこうしたアメリカが憂慮するほどの革新的な内外政策を犠牲にし,かつ親米協調路線を維持してはじめて可能な非武装といえるかもしれない[26]

)コスタリカの中立政策の内容

次にコスタリカの中立政策の実態はどうであろうか見てみよう.ところで,一般には,中立の義務としては,次の5項目が挙げられている[27]

 戦時においては,
@黙認義務(自国民が受ける不利益を黙認する),
A避止義務(一方の交戦国に直接,間接の援助をしない),
B防止義務(交戦国による戦争目的の自国利用を防止する).

 また,平時においては,
C侵略的軍事ブロックに加わらない,
D自国領土に外国軍事基地を置かない.

コスタリカの中立は,'83年のモンヘ大統領の大統領中立宣言によって確立されたといわれている.それでは,その中立宣言はどういう経緯で決定され,どのような内容を持っているのであろうか.
 国民解放党のモンヘが'82年5月大統領に就任したとき,コスタリカは深刻な経済危機に見舞われていた.対外債務は26億ドルに達っしており,コーヒーなどの輸出価格も低迷していた.IMF(国際通貨基金)の指示による財政緊縮政策を前政権と同じように実施する必要があった.
 首都サンホセには,CIAに支援されたコントラと呼ばれる反サンディニスタ武装勢力である民主革命同盟(ARDE)が司令部と放送局をもっており,北部では戦闘基地を設置していた.ARDEは,コスタリカ領内から自由にニカラグアに出撃し,コスタリカに帰還するという活動を行っていた[28]
 モンヘは,大統領就任後,こうしたコントラの反サンディニスタ活動を「秘密裏に,抑制して,注意深く」行うということで,「アンビバレント(二重評価どっちつかず)」な態度で許可していた[29].モンヘ政権は,反共主義と中立政策の追求の間で揺れていたのである[30].モンヘ大統領は,「膨大な援助を受けたアメリカに協力して,コスタリカ領内におけるコントラの存在と活動に,殊更寛容であった」といわれている[31]

しかし,国内でこうしたコントラの活動を容認することは,コスタリカの伝統的な中立政策を矛盾するのではないかという批判が国内で高まってきた.国内のコントラの存在をめぐって左右の対立も激化し,いくつかのテロ事件が起き,クーデターが噂されさえした[32].さらに83年半ば北部ではコントラの暴力事件で農民6名以上が殺害されるという事件が起きた.国民解放党政府部内の左派は[33],左翼政党の人民同盟,労働組合,一般市民によるコントラの国外追放の要求を背景に,中立を維持するよう右派の[34]モンヘに迫った.政権内部の対立も激化した.コントラの活動に対する何らかの強い規制が必要であった.こうした動きに押されて,モンへ大統領は,83年9月「永世,積極,非武装中立」を大統領宣言として発表したのである[35]

この大統領中立宣言では,@コスタリカを中米の紛争から隔離する,Aコスタリカは,2国間の紛争を武力で解決する戦争を行わない,B第3国の戦争に介入しない,Cいかなる武力紛争にも巻き込まれず中立外交政策を進める,D諸国家内部の武力紛争に対して恒久的に中立を守る,E戦争状態にある当事者による作戦基地としてのコスタリカ領の使用,武器・兵員の輸送,兵站活動,活動事務所

設置の禁止,F紛争当事者に対する敵対行為あるいは支援行為を慎む,G軍拡に反対し,紛争の平和的解決を訴える,H西側民主主義を擁護する,Iこうした中立政策は,永世的なものである,Jコスタリカの安全保障は米州機構と米州相互援助条約に依存する,といった内容を含んでいた.

モンヘ大統領は,この内容を憲法に組み入れようとしたが,国会では3分の2に達せず否決されてしまった.そこで大統領宣言としたのである.この宣言の法的な有効性については,さまざまな議論があるが,憲法は,第7条で条約,国際協定,約定は,国会の承認を得てはじめて有効であると規定している.中立宣言は国際的な性格をもつものであるが,国会の承認を得ていない.したがって,法的にはあくまでモンヘの大統領としての決意表明であり,将来の政権の新たな宣言によって変更されうる性格のものである.この中立宣言は,国内的にも国際的にも法的な根拠はもっていない.そうしたことから,コスタリカは,国際的には一般に中立国家とは見なされていない[36].内容は別として,中立政策を追求する国家なのである.中南米で発行されている各種の『年鑑』などでも特に「中立国家」として紹介されてはいない.

この中立宣言を見ると,宣言が出された動機がコントラの不当な国内活動を許してはならないという強い国民の要求からでたものであり,激化している中米紛争(ニカラグアは国外からの干渉戦争であり内戦ではないが,グアテマラ,エルサルバドルとも各国内での紛争

内戦)という各国部紛争武力抗争対してコスタリカは,巻き込まれたくないという,いわば防御的な中立であった.つまり,コスタリカが調停役として関与し,中米地域の和平を自主的に実現する目的をもった中立宣言ではなかったのである.スイスや,オーストリアなどの国家間の戦争に対する中立とは違った意味をもっていることに注意する必要がある.

この大統領中立宣言は,コントラを利用してコスタリカ領及びホンジュラス領からニカラグアを攻撃する二正面作戦を考えているレーガン政権からは,当然のことながら好ましくは思われなかった.しかし,モンヘは用心深かった.宣言の中には「西側民主主義を擁護するために常に闘う」との条項を入れて,レーガンには「コスタリカは,思想的,政治的にはアメリカの同盟国であることを保障した」[37]のであった.レーガン政権は,すぐさま反撃に転じた.AID(米国際開発局)の援助の停止をちらつかせつつ,中立宣言発表わずか10日後の9月25日にはゴーマン米南方軍司令官をコスタリカに派遣し,コスタリカ北部の道路,橋梁,飛行場建設用の工兵隊の受け入れをモンヘに承認させた[38].CIAが後押しした反サンディニスタ・キャンペーンが大々的に組織された.84年8月には政権内の左派が一斉に追放された[39].その後モンヘ政権には,第三世界の国の中でも最大級のアメリカの援助が行われるようになった[40].83年から85年の間,アメリカの対コスタリカ経済援助は,コスタリカ政府予算の3分の1に達したという計算もある[41].コスタリカの中立政策は,こうした中立宣言を発表したときの事情をその後も大きく反映している.

もちろん中立自体は評価できることであるが,問題は,モンヘ政権が実際に中立をどう守ったかである[42].しかし,その後のコスタリカ政府の態度には,前述した中立の基準,中立宣言に反する重大な行為が見られることが問題である.

そのひとつは,1982年よりコスタリカ領北部にCIAに支援されたコントラと呼ばれるニカラグアの独裁者ソモサの残党や反サンディニスタ勢力が結集した武装勢力の基地を認めたことである.また,もうひとつは,83年からコントラへの支援物資を補給するための飛行場設置をアメリカに認めたことである.さらに,89年には,アリアス政権の下で,コスタリカ領内で反パナマ政府ゲリラをCIAが訓練することを容認した事実もある.

アメリカン大学政治学の教授であるウイリアム・レオグランデは,特に左翼的というわけでなく,リベラルな研究者と評価できると思われる.コントラ支援のための飛行場設置問題の実態について,いささか長くなるが,彼の本から引用する(括弧内は,筆者注)[43]

@コントラ支援物資補給飛行場

「CIAの「暗殺マニュアル」についてのスキャンダルが1984年10月に露呈したとき,フェルナンデス(米CIA要員)は,公式に譴責された一人であった.その後

彼は,CIA支局長としてコスタリカに派遣され,コスタリカの公安責任者ベンハミン・ピサと密接な協力関係を作り上げた.フェルナンデスは,ピサを通じてコスタリカ大統領ルイス・アルベルト・モンヘとの協力を維持して,コントラがコスタリカ領土からサンディニスタ政権のニカラグアに出撃する作戦を実行できるようにした.米政府はピサに大いに感謝し,ピサ夫妻はロナルド・レーガン大統領と短時間の会見をし,記念写真の撮影をする栄誉を得た.

フェルナンデスは,オリバー・ノース(イラン・コントラ事件の首謀者)とタンブ(反共的なサンタフェ文書の起草者の一人)の間を取り持つ人物となった.タンブが南部戦線(コスタリカ領内のコントラの基地)についてワシントンと連絡を取りたいときにはいつも,ノース,エイブラムズ(現ブッシュ大統領民主主義・人権担当補佐官),ファイアだけが電報を受け取ることができるように,国務省チャンネルよりもむしろ『裏チャンネル』すなわちCIAチャンネルを通じて連絡した.ノースの方は,直接フェルナンデスと連絡を取った.

『コントラ支援計画』

によるコントラへ物資救援のための緊急着陸地としてコスタリカ領内に飛行場を建設する必要が生じたあったとき,ノースは,タンブにコスタリカと交渉するように命じた.タンブはコスタリカから合意を取り付けた.その条件は,飛行機はコントラへの救援の役目が終わった後でのみ着陸できるので,飛行機はコスタリカ領内では荷物をもっていないというものであった.こうしてコスタリカは,その架空の中立を維持することができたのであった.飛行場用地は,シコード米軍退役少将の会社によって購入され,1986年4月には使用可能となった」.

A南部戦線の設置

「クラーリッジ(CIA中南米作戦部長)は,エデン・パストラ(元サンディニスタ民族解放戦線の司令官の一人)の中にカリスマ性を認めた.彼は,その他の亡命者と違ってニカラグア国内で人気があった.ホンジュラスにいるコントラは,依然としてほとんど旧ソモサの国家警備隊のメンバーによって指揮されており,ニカラグア市民によって恐れられ,憎まれていた.クラーリッジは,パストラが,ホンジュラスを基地とした北部戦線とコスタリカを基地とした南部戦線の二つの戦線のコントラ軍を統一した指導者となるように目論んだ.ワシントンは,パストラをニカラグアの第二革命のスターとしようとしたのであった.しかし,この目的をパストラは達成することができなかった.

1982年パストラは,コスタリカに現れて記者会見を開き,彼の古い武装闘争の同志を「裏切り者,暗殺者」と非難し,サンディニスタ軍とニカラグア市民に彼らを打倒するよう訴えた

[44]」.

この南部戦線を率いた民主革命同盟(ARDE)は,1982年9月コスタリカ領内でエデン・パストラと実業家のアルフォンソ・ロベロによって設立された,反サンディニスタ武装勢力である.ソモサの残党が結成したニカラグア民主軍(FDN)よりもより反感が少ない勢力としてアメリカのCIAにより期待され,支援を受けた.1984年4月までコスタリカ領北部で活動するARDEに対してCIAは毎月40万ドルの支援を供与したといわれている[45]

こうしたCIAに支援されたコントラのコスタリカ領内の行動の一部は,すでに1982年頃からコスタリカ国内でも良心的な人々によって問題とされていた.たとえば,1987年刊のトマス・ウォーカーの『レーガン対サンディニスタ−ニカラグアに対する布告されざる戦争』には,アメリカによるコスタリカ領内における国家警備隊の訓練の実態,各種作戦が詳細に述べられている[46]

また,当時(1984年),日本においても,次のように報道されていた.

「『第二のゲバラ』という茶番劇役者エデン・パストラのひきいる『民主革命同盟(ARDE)』によるコスタリカ領からの侵入は,もしサンディニスタ政府軍が反撃のために誤ってコスタリカ領に越境すれば,軍隊をもたないコスタリカへのニカラグア軍の国境侵犯として,アメリカ軍の『コスタリカ支援―ニカラグア侵入』という口実を狙ったものである[47]」.

「コスタリカも,昨年11月『永世中立宣言』を行ったものの,自国内のニカラグア反革命勢力の活動を依然として容認している

[48]」.

当然のことながら,ニカラグアのサンディニスタ政権は,コントラによるコスタリカ領土の使用に抗議を行っている.1984年4月16日ニカラグア国家再建政府は,次のように抗議した[49]

「コスタリカ領土の公然とした利用は,最悪なものとなり,(ニカラグアの)ケサーダ市やバラス・デル・コロラドなどの病院や,住民への医療サービス・センターが,現在,傭兵侵入者によって使用されている」.

これに対して,コスタリカ国民や,良心的な政治家達3万人が,1984年5月中旬,首都サン・ホセでコスタリカの中立を要求して集会を行った[50]

最近日本を再三訪問して,講演を行っている国際反核法律家協会副会長のバルガス氏によれば,80年代のこうしたサンディニスタ政権打倒の秘密作戦をコスタリカ国民は,知らなかったということである.しかし,こうした歴史的事実は,バルガス氏の前述の発言をまったく否定するものである.まず当時の政権は,バルガス氏が属する国民解放党政権であったということを想起しなければならない(表1参照).それでは,同政権を支持していた多くの国民は,こうした事実を知らされなかったとすれば,どういう「民主主義的な」政権であったとかということになる.事実は,多くの国民はそうした事実を知っており,それを行っている政権を支持していたということである.そして,それに反対していたのは,一部の少数の良識ある人々,あるいは革新勢力であった.このように多数のコスタリカ国民がアメリカのニカラグア干渉政策を支持していたのは,保守的なメディアを利用した支配層の巧みな世論操作に加えて[51],国民の中にある伝統的な強い反共主義,反ニカラグア意識があったものと考えられる.

(表1)コスタリカ歴代大統領(1970−2002年)
1970−1974 ホセ・フィゲーレス・フェレール 国民解放党

1974−1978 ダニエル・オドゥベル      国民解放党

1978−1981 ロドリゴ・カラソ        反対連合

1982−1986 ルイス・アルベルト・モンヘ   国民解放党

1986−1990 オスカール・アリアス      国民解放党

1990−1994 ラファエル・カルデロン     キリスト教社会連合党

1994−1998 ホセ・フィゲーレス・オルセン  国民解放党

1998−2002 ミゲル・ロドリゲス       キリスト教社会連合党

2002−     アベル・パチェコ        キリスト教社会連合党

それでは,なぜ,国民解放党政権が,自国内における民主革命同盟(ARDE)の反サンディニスタ活動を容認していたのであろうか.それは,軍隊がないから規制できなかったのではなく[52],反共主義の立場からサンディニスタ政権を倒壊させるために,またアメリカの経済援助を受けるために[53],容認することが自らに有利だと国民解放党政権が考えていたからである.それを規制する程度の必要な武力はもっていたし,国際世論に訴えれば,またサンディニスタ政権と協力すれば,規制は可能であった.サンディニスタ政権は,再三再四,その規制をコスタリカ政府に訴えていた.しかし,モンヘ国民解放党政権は,サンディニスタ政権をマルクス主義政権と見ており,同政権の倒壊を希望していたのである.

また,アメリカからの経済援助もそうした動機のひとつとなっていた.80年代の10年間でコスタリカは,こうしたアメリカのサン

ィニスタ革命政権への干渉政策への協力の見返りとして,14億588万ドル(約3500億円)の援助を受けた[54].これは,国民一人当たり援助額としては,当時イスラエルについで最も高い数字であった[55].その多くが,警察隊の軍事訓練と装備に当てられ,警察の軍隊化が進んだといわれている[56]

 むしろ,サンディニスタ政権が,コスタリカ領内からのコントラの挑発にもかかわらず,越境してARDE基地をたたかなかったことにも見られるように,同政権の民族主権尊重政策,平和政策によってコスタリカの平和は守られたといえよう[57].実質的には中立ではなかったコスタリカの平和は,サンディニスタ政権にせよ,パナマの民族主義政権にせよ,この当時の隣国政府の節度によって守られた側面もあることも見る必要がある[58]

以上述べたすでに歴史的に定着している事実からすれば,「モンヘ大統領が,アメリカからのコントラ支援基地の要請をきっぱり断り,コスタリカの中立を守り通した」という解釈は事実と反することがわかるであろう[59].モンヘ大統領の中立宣言にしても,大統領がいわば「上から」中立理念を提起して実施したかのように言われているが,実際は「中立は,国民が要求したため,国民解放党が受け入れたもの[60]」という重要な指摘を筆者は重視したいと考えている.

Bパナマ民族主義政権に対して.

アリアス政権の下でも,パナマ民族主義政権打倒のための訓練がコスタリカで行われた.このことについて,これもリベラルなアメリカ人ジャーナリストの報告がある.

 「1989年の9月初頭,CIAは,コントラとパナマ人のゲリラ・グループをすでに組織しており,パナマ国内で不安定を引き起こしアメリカの介入を正当化する一連の事件を引き起こすために,コスタリカ領内の基地で彼らを訓練していた

[61]」.

 「コスタリカの中立法にもかかわらず,CIAは,パナマを不安定にしてアメリカの介入を引き起こすためにゲリラ・グループを組織し,訓練するための基地としてコスタリカを使用した.反ノリエガ勢力がコスタリカで訓練を受けていたとき,コスタリカのエルナン・ゴラン治安相は,このような訓練が行われていることを完全に否定した

[62]」.

このように見てみると,コスタリカの中立の実態は,前述の基準からすれば,かなり問題を抱えているといえる.歴代コスタリカ政府は,その対米従属性から,アメリカのCIAの秘密活動は,それが秘密である限り表にでないと考えて,受け入れてきたのであろうか.しかし,それは,レオグランデが指摘するように,「架空の中立」にしかすぎないといえよう.

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