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※青文字:加筆改修部分
ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.
※既に分類され,移動された項目を除く.
また,著作権上問題のある回答が意外に多く,これも除外.
※レス回収基準は「Ver.4」
【初心者】スレッド立てる前に質問を Part17【歓迎】
目次
** 【追記】
16 :日本@名無史さん:2006/07/04(火) 10:23:09
第二次大戦で米軍捕虜に慈悲でゴボウを食べさせたら,戦後に戦犯法廷で「木の根を食わされた」
として告発され死刑になったという有名な話がありますが,ネットでいくら調べてもソース及び被告,
原告名等固有名詞が発見できません.
執行刑も銃殺だったり,絞首刑だったり,懲役30年だったり,裁判の場所もサイトによってまちまちです.
以上を踏まえて,私の疑問は以下3つです.
1. 執行刑や裁判地等の枝葉が違う色々な話があるが,これは同時多発的な告発だったのだろうか?
2. その刑を執行されて然るべき他の告発もこれと一緒にあったのだが,それらを意図的に除外して
ゴボウの件だけを取り上げて,それのみで断罪されたかのような情報操作はないのだろうか?
3. そもそもこの話自体,実は都市伝説ではないのか?
17 :日本@名無史さん:2006/07/04(火) 12:34:10
>>16
ttp://www.path.ne.jp/inukawa/hedgehog/info/%5B09%5D_01.html
ちゃんとソース元も明記されれるんで,一度当たってみてはいかがかな?
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167298066/250-0860289-4000206
18 :日本@名無史さん:2006/07/04(火) 12:41:51
ソース元なんていやな言葉.
19 :日本@名無しさん:2006/07/04(火) 12:56:33
>>16
長野県天龍村の満島俘虜収容所.
http://www.chunichi.co.jp/postwar60/050805T0951.html
あと,新潟県直江津の直江津俘虜収容所.
http://www10.ocn.ne.jp/~ma-san/page117.html
大森でも同様の資料があったと聞いたことがありますが,
広く知られるようになったのは「はだしのゲン」に
書かれていた話からのようです.
総覧しますとどうも同時多発的な告発ではなく,俘虜たちが
ゴボウの件を意図的に取り上げたわけでもないようです.
おそらく何らかの記事で取り上げられ,「捕虜虐待」という概念,
それも文化的誤解によるものの象徴として,ゴボウの件が
日本人に広く認知されるところとなったというのがこの話の
正体でしょう.
すなわち「意図的な情報操作」は俘虜や連合軍側の悪意ある
行為によるものではなく,むしろ日本人側の認識整理による
ものであると私には思えるのです.
日本史板,2006/
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
もしも日本が武装勢力や危険な集団にのっとられて,そいつらが明治維新の時のように天皇を引っ張り出して,自分たちを正当化したら,やっぱり「勤皇の志士」として,その世界では賞賛されてしまうのでしょうか?
日本ではどんな手段を用いて主権をのっとっても,天皇に承認させれば,みんな認めるの?
【回答】
どこの馬の骨とも知れぬヤクザ者など,誰が支持しましょう.
この種の元祖であるシナでもそうですが,君主と取り巻きの支持,民衆の評判と,そして戦勝がなければ,認められるわけはないのです.
ましてや支持だけを武器とする朝廷が,認めるわけはありません.
そもそも「勤皇の志士」という呼称は,当時,全くの狂人呼ばわり,テロリストの代名詞でした.
尊王とは全く違う扱いです.
戦国時代の場合も,朝廷と付き合いのあった戦国大名たちは,勢力を拡大しながら,三位四位などの高い官位を持つようになっていたのですよ.
ですから,少なくとも形式的には君臣の関係にあり,京に入って禁裏の警護を行い,政務の実権を握ったとしても,別に問題ないのです.
日本史板,2006/07/07(金)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
平清盛とか藤原道長とか,苗字と名前の間に「の」を入れて読むのが一般的ですが,何か意味があるんですか?
鎌倉の北条氏あたりから,「の」を付けずに読みますが,源氏から北条氏へ権力が移る辺りに,何かヒントがあるのでしょうか?
【回答】
氏と名字は別物.
北条時政も本来は平朝臣時政.
いわゆる源平藤橘らのウジ(中国式には姓)の場合,間に「の」を入れる.
「本姓」でググってみれば,どういうものか分かる.
名字(苗字)の場合は「の」を入れない.
頼朝の寵臣大江広元は,「おおえ」が本姓だから「おおえのひろもと」.
外戚の北条時政は,「ほうじょう」が苗字だから「ほうじょうときまさ」.
ちなみに,豊臣秀吉は「とよとみ」が本姓だから,「とよとみのひでよし」が正しいとされる.
名字はあくまで羽柴.
日本史板,2006/07/11(火)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
秀吉って諸将に豊臣姓あげてるけど,羽柴はあげてないよね?
【回答】
秀吉の場合は,豊臣朝臣の姓と羽柴の苗字を,どちらも諸大名に与えている.
前田利家や宇喜多秀家のように,姓と苗字の両方をもらっている者もいれば,片方しか貰っていない例もある.
羽柴は,秀吉が「丹羽」と「柴田」を合成して拵えた名字だから,羽柴○○と書かれている人は,皆,秀吉があげた格好になる.
弟,甥,子,養子・・・みなそう.
分かり易い例としては,養子の羽柴秀俊(後の小早川秀秋).
筑前守のような官途については,実質的には秀吉が与えているといっても,形式的には与える主体は朝廷であり,手続き上は,秀吉は朝廷に諸大名の任官を推挙するという形をとる.
また前田利家の場合は,秀吉が筑前守をやめたあとに,代わって筑前守に任官しており,この時期の利家の名乗りは羽柴筑前守,本姓は豊臣朝臣ということになる.
このように,
・苗字だけではなく氏(姓)も,諸大名に与える対象として扱う
・武家出身者をやたらと高位高官につける
(公卿補任に武家出身者が何人も出てくるのは,この時期以外では平氏政権期のみ)
のは,他の政権にはない,秀吉政権の大きな特徴.
しかし関ヶ原以降になると,秀吉から貰った豊臣朝臣の姓や羽柴の苗字を名乗る大名は,殆どなくなる.
江戸時代になっても本姓を豊臣朝臣としている家は,秀吉の妻の兄の子孫である木下氏のみ,羽柴の苗字を名乗る家は,大名・旗本クラスでは皆無となる.
なお,江戸幕府の場合は,秀吉にならって松平の苗字を各地の大名に与えたが,徳川氏の本姓である(と主張している)源朝臣を,源氏ではない異姓の大名に与えた例はない.
前田利家の前田氏の場合,江戸時代にはそれ以前の羽柴の代わりに,松平の苗字を江戸幕府から貰っているが,姓のほうは豊臣朝臣から元の菅原朝臣に復姓している.
日本史板,2006/07/11(火)〜07/12(水)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
秀吉の九州出陣で討ち死した長曾我部信親に,嫡男はいたんでしょうか?
【回答】
信親は二十二で戦死したが,娘が一人いただけ.
その娘は信親の弟盛親に嫁ぐ.
叔父姪の結婚だ.
五人の男子に恵まれたが,大阪夏の陣後,盛親と共に全員処刑された.
ちなみに信親の妻は,明智光秀の家臣だった石谷頼辰の娘.
頼辰の義理妹(養父石谷光政の実娘,斉藤利三の義妹でもある)は元親の妻で信親の母だから,義理の従兄弟結婚になる.
日本史板,2006/08/11(金)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
江戸時代の武士は,家督相続を成立させるには藩主,或いは将軍に御目見えをしなければならないと本で読んだのですが,御目見え以下の御家人や下士も,このときのみ許されたのでしょうか?
それと,藩主が不在のときはどうしたんでしょうか?
待つにしても,場合によっては一年以上不在のときもありますよね.
【回答】
>藩主が不在のときはどうしたんでしょうか?
次の機会を狙い,登城します.
>御目見え以下の御家人や下士もこのときのみ許されたのでしょうか?
>待つにしても場合によっては一年以上不在のときもありますよね.
そのとおりです.君主は多忙ですから.
これを知る上で,朝日重章「鸚鵡籠中記」という日記があります.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B8%9A%E9%B5%A1%E7%B1%A0%E4%B8%AD%E8%A8%98
それによると「家督相続の予定の者は城内の庭先のあちこちにしゃがんで待ち,殿様がその前の廊下を通り過ぎれば,御目見え完了というもので,言葉はおろか,意識すらされないといったものだった」のだそうです.
鸚鵡籠中記の解説書として,神坂次郎「元禄御畳奉行の日記〜尾張藩士の見た浮世〜」(中公新書刊 ISBN
4121007409) があります.
その抄(つまりダイジェスト)
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/nonfc/kosakajiro02.html
筆者重章も元禄七年五月十七日から御目見えするまでは大変で,御目見え同士に流れたデマに引っかかったり,願い書を提出したが名を呼ばれなかったりで,御目見えできたのは十二月十日だったと.
日本史板,2006/08/27(日)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
587年頃について質問です.
穴穂部皇子は,蘇我側の方が優勢なので寝返ろうとしたが,過去の事件のため殺されたという文献と,天皇の座の勢力争いのため(邪魔なので)殺されたという文献があるのですが,どちらが正しいのでしょうか?
【回答】
穴穂部皇子(?‐587)は欽明天皇の皇子で,欽明天皇と蘇我稲目の娘小姉君の子.
母は大臣蘇我稲目の女小姉君(おあねのきみ).
聖徳太子の生母の穴穂部間人皇女と泊瀬部皇子(のちの崇峻天皇)は,同母の姉弟.
敏達天皇の死後,守屋の支持をとりつけ,大王位継承を広言し,敏達の殯宮に押し入ろうとしたが,敏達の寵臣三輪逆(みわのさかう)にはばまれ,
「何故,死王の庭に事へ,生王の所に事へざらむや」
と怒った.
その後,再度殯宮への乱入を企てたが,またもや逆に退けられたので,大連物部守屋に命じ,逆を殺させた.
次の用明天皇の死後,再び大王位を窺ったが,のちの推古天皇,蘇我馬子らに攻撃され,587年6月に宅部皇子と共に殺され,守屋もまた7月に滅ぼされた.
皇子は皇位継承問題で蘇我氏と対立し,蘇我対物部の政争の犠牲となったものだが,性格上の問題もあったようだね.
奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳の被葬者は,この皇子だとする説がある.
** 【質問】
戦国時代で,源平や藤原の子孫を名乗ってる家はたくさんありますが,源のなにがし,藤原のなにがしっていう武将を聞かないのはどうしてなんでしょうか?
【回答】
氏と名字と姓(カバネ)は別だから.
例えば織田信長だったら,織田三郎平朝臣信長で織田が名字,三郎が通称,平が氏,朝臣が姓.
ちなみに信長は諱(イミナ)と言って本名の事.
徳川家康なら,徳川次郎三郎源朝臣家康で徳川が名字,次郎三郎が通称,源が氏,朝臣が姓,家康が諱.
ゆえに信長も家康も,公文書や宮中での行事では「源のなにがし,藤原のなにがし」って名乗っていた.
ちなみに氏は朝廷から賜るもの,名字は自分たちが勝手に名乗るもの.
なので,氏は勝手に変える事は出来ない.
天皇や朝廷側にとっては彼らを氏(ウジ)で呼ぶのが正しい関係だし,彼らにとっても氏を名乗らず名字で通すのは,朝廷に叛く行為だといわれても仕方が無いわけで.
でもこれは,あくまでこれは朝廷の中での呼称.
血縁のある一門同士で「源」「源」言い合っても無意味.
どこの土地の家かとか,本家分家を区別することが大切になる.
ここで苗字(名字)が使われる.
ちなみに姓(カバネ)というのは,単純に言うなら氏(ウジ)のクラス名.
「やくさのかばね」という単語でググってみればいい.
朝臣(あそん)は,その最上位クラスの呼称.
日本史板,2006/09/06(水)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
幕府の政治って,天皇から蛮族を討伐するための将軍に任じられ,陣営(幕府)で軍政を敷いているという建前で行われたんですか?
【回答】
大体はその通りです.
坂上田村麻呂以来のひとつの権限といって良いでしょう.
ただ,軍政というより,平定後の地域の一般行政も込みで,言ってみれば「天皇の代理」であり,単なる司令官ではないのですね.
源頼朝は,自分の祖先(源頼義・義家)が,それを目指して(≒憧れて),奥州進出を図って,藤原氏に取って代わられたので,奥州藤原氏を滅ぼした後,征夷大将軍への就任を意識しています.
ただし,奥州藤原氏を滅ぼした時点での頼朝は,西国から奥州までを軍事的に制圧してしまっているので,制圧した地域の軍事最高司令官兼天皇代理という事になり,この時点で征夷大将軍に就任すれば,事実上の日本の支配者と言っても良いでしょう.
1190年に頼朝が上洛したとき,頼朝は征夷大将軍への就任を要求したと推測されますが,さすがに後白河上皇に拒否されたと考えられます.
源頼朝が征夷大将軍になれたのは,後白河上皇が亡くなった年である1192年の事です.
日本史板,2006/09/28(木)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
関ヶ原で勝った家康が,何で豊臣家に対してでかいツラできたの?
家臣同士のいざこざで勝っただけでしょ?
【回答】
「でかいツラ」というのが具体的に,いつのどの態度の事かという問題がありますが,大坂の陣までに至る過程での,家康の豊臣家に対する態度と解釈して考えてみることにします.
(違うよ,ということならまたそういってね)
関ヶ原の戦いは形式的には,共に豊臣家を正義とし,互いにその正当性を主張しながら,東軍と西軍が戦っています.
ご存知のように実質的には,豊臣政権が徳川政権へと変わっていく転機となった「天下分け目」の戦いだった訳ですが,問題はその「形式」「実質」がいつ合致したか,ということの筈なんですね.
それだけなら,「徳川家康が征夷大将軍に補任された」時点で,武家の棟梁の地位を得ている事,一方では豊臣秀頼は別に関白である訳でもないので,ここから逆転,という風に考えられるところです.
ところが日本人の興味深いところは,「既成事実」に基づいて「なし崩し」的にものごとを推進していってしまう,というところです.
関ヶ原の戦いは,それ自体ではまだ事態(東西の対立)は収拾されておらず,収拾されたのは大坂城の毛利輝元との講和が成立し,家康が大坂城に再び入城した時点です.
この段階では家康は,秀頼・淀殿に対し,臣下の礼を形式的には取っています.
ただし実質的にはもう,家康の独断による論功行賞と処罰が行われています.
ただ,この程度の専横ぶりは,秀吉が死んだ直後から既に始まっています.
家康は五大老の筆頭という,豊臣政権の重鎮だからです.
ただ,関ヶ原以前は石田三成を始めとする反発があったが,関ヶ原の戦いにより,それがなくなった,というのが「違い」です.
そして征夷大将軍の補任.
それにより公的な地位も逆転(家康は豊臣家に臣従する立場ではなくなった)した訳です.
それまでは家康は,形式的に臣従しながら,実質的には独断専行している「既成事実」路線だったと考えられます.
日本史板,2006/09/30(土)
青文字:加筆改修部分
** 【追記】
626 :日本@名無史さん:2006/10/01(日) 03:40:08
>>620
キリシタン大名,つまりスペインかポルトガルあたりの支配下になったつもりあたりの大名が,
地元民を売っていたとかだっけか?
でこんなことがあったんで秀吉が怒ってバテレン追放例をだしたんだっけか?
奴隷にされた人はスペインかポルトガルあたりに売られたのかもね.
そういえばスペインあたりには日本人の子孫がいるって話を以前テレビでやってたが
これってサムライと言うよりはこうして連れていかれた奴隷の子孫なのかななんて思っちゃうね.
632 :日本@名無史さん:2006/10/02(月) 00:42:17
>>626
以前こんなレスがあった.
129 :世界@名無史さん :2005/06/04(土) 00:41:25
0
テノチティトラン(現在のメキシコシティー)郊外のサン=クリス鉱山で1592年に起こった奴隷反乱の指導者は
鉱山の労務管理に従事してたサシチと伝えられる人物
ほかにも反乱鎮圧後処刑された指導者層の中に
シゲベイとかヨイチとかの名前も見える.
全部連れて行かれた日本人奴隷と見られる
日本史板,2006/
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
加賀藩の初代藩主は利家だとされていますが,おかしくないですか?
金沢に入城したのは利家ですが,江戸幕府が開かれる前に他界してますよね
つまり幕藩体制がないのに,藩主も何もないでしょうと.
【回答】
どうでもいいんですよ.
「幕藩体制」という呼び方は後世のものです.
「藩」は藩屏に由来し,江戸時代に儒学者によって命名され,明治になって「廃藩置県」などの前に公称となったとされます.
だから幕末以前には,藩って認識持ってた武家は殆どいない.
前田利家にせよ利長にせよ,「初代藩主」などというものを称した人はいない訳です.
征夷大将軍というのは,公職として当時も(呼称は)存在していましたが,そういうのと「藩主」は違いますから.
武家の認識は,あくまで,御家であり,○○家中でした.
日本史板,2006/10/08(日)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
京都では「こないだの戦争」と言えば,本当に応仁の乱のことだという認識ですか?
【回答】
それは誇張が生んだお話.
余所者向けのネタ話だ.
信長は上京を焼き討ちにしたし,江戸時代にも何度か大火がおこってるし,禁門の変でも相当の家が焼けたろ?
ちなみに西陣付近は,僅かだけど空襲を受けてる.
応仁の乱ごろから残ってる家系自体も,京都には少ないよ.
日本史板,2006/10/11(水)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
南朝正統論って,後醍醐天皇の偉業と,歴史的に見た南朝の正統性の,どちらが大事なんですか?
【回答】
どちらが大事かという以前に,まず南朝正統論とは「歴史的にみて南朝が正統である」という論に過ぎないということを認識してください.
いうまでもなく,このキーポイントは三種の神器の所有者が誰(の系統)であるかということ.
事実,当時神器を渡したり奪ったり奪われたりしてきたのは,全てこの為ですし,明治時代の論争で天皇がご裁断を下したときも,これが決め手になった.
そもそも,後醍醐天皇に偉業があろうとなかろうと,南朝正統論の是々非々とはさしたる関係がないことでしょう.
偉業がなかったとしても,南朝(という亡命政権)を建てた後醍醐は,当時正式な天皇であったのですし,それから後,神器を渡したり奪ったり奪われたりしてきたのですから,後醍醐天皇の後の正統性を言い出したら,限がなくなる.
日本史板,2006/10/15(日)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
徳川家康はどうして関ヶ原の戦いの後に,豊臣家を220万石から65万石に大幅減封できたのでしょうか?
関ヶ原は少なくとも名目上は,「豊臣家を守るための戦い」なのだから,主家の領地を勝手に削るのは,道理が通らないと思うのですが.
【回答】
秀吉も織田家の領地を奪ったように,ようするになしくずしだ.
家康は豊臣家の大老職にある.
関ヶ原の戦いは,豊臣家の軍勢に石田勢の私兵が戦いを挑んだわけ.
で,当然,功名を挙げた将兵に領地などを分け与えるわけだが…,豊臣家の軍勢に豊臣家の領地を分け与えたわけだ.
220万石の中から分け与えたので,残りが65万石になった.
大老としては,何の問題もない処理だな.
だから減知減封ではない.
豊臣家の家宰が,主家より力のある家康なんだから…,好き勝手し放題だよな.
まあ,豊臣家にとっては石高減よりも,様々な関所や金山,貿易港からあがる金銭を家康に奪われたことのほうが,ダメージが大きい.
(ただ,それも「払底」しかかってたのも実情.
佐渡金山みたいな,当時発見されてまだそんなに経ってないものを除けば,実はチョイヤバな状況ではあったと思う.
で,それだけが原因ではないけど,秀吉の大陸への進出(侵略)への一因となったんじゃないかな)
さらに頼りにしていた子飼いの大名逹が,頼りにならなくなったのが痛い.
元の徳川領から都までの間を子飼いで固めたのに,彼らの殆どが関ヶ原では東軍.
かわいそうに.
日本史板,2006/10/16(月)〜10/17(火)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
終戦の玉音放送はラジオで流れたというのは有名だけど,何で開戦時は「玉音」を放送しなかったの?
【回答】
開戦だろうが終戦だろうが,天皇陛下の御声を国民に曝す必要はないじゃない.
政府発表で済ませられること.
実際,開戦のニュ−スは「臨時」として放送された
http://www2u.biglobe.ne.jp/~akiyama/no109.htm
http://homepage3.nifty.com/webpress/index.51.htm
など参照.
でもあの終戦では,方針が混乱し終始がつかない,非常に危険な状態と考えられたから,御声で終わりを知らせることになっただけ.
日本史板,2006/10/22(日)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
コーエー歴史ゲームなどに,「伊達の騎馬鉄砲隊」がしばしば登場しますが,このモトネタはどのような経緯で発生したのでしょうか?
・後世,江戸期以降の完全な創作
・伊達家が非常に大量の鉄砲・軍馬を所有していた
・他所で考案された形跡があるが,それを元に
「新しい物好きの政宗ならやるだろう」という思いこみで作り上げられた
・竜騎兵のような「乗馬歩兵」だった?単独兵科という概念がなかった
日本の戦国期には考えにくい・・・・
・最前線で積極的に鉄砲隊を機動させた
【回答】
>・後世,江戸期以降の完全な創作
>・伊達家が非常に大量の鉄砲・軍馬を所有していた
コレ・・・かな.
大坂夏の陣の伊達軍の編成は,記録に残っているが,そこには騎馬鉄砲なる集団は確認できない.
伊達軍の鉄砲の量はかなり多かった
(800名を騎馬鉄砲として,騎馬組の前面に置いて使用したという記事を読んだことがあるよ)
そうなので,そこから生まれた話と思われる.
講談の逸話から,さらに方々の書物にそのまま書かれた結果,完成した伝説と思われる.
まぁ,馬上筒とかは当時あったがね.
日本史板,2006/10/22(日)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
戦国時代の篭城って,食糧はどうしてたんでしょうか?
北条は武田,上杉の攻めを凌いだという話を聞きましたが,守備一辺倒なら包囲されて負けてしまうんじゃないですか?
【回答】
籠城なら,食料は備蓄していますよ.
その管理も行っています.
ただ,攻める側もいつまでも攻め続けられないのです.
武田や上杉だと,兵員の大半が農業にも従事しています.
ですから田植えが始まるとか,稲刈りが・・・とかまでに,原則兵を引かなければなりません.
続けるのは勝手ですが,そうなると攻めている側は自領の田植えや収穫が出来ず,経済基盤の根幹が揺るぎます.
ですから,冬場にせよ,夏場にせよ,攻城戦ができる時期は限られてたのです.
これで,「兵農分離」の重要性が解るでしょう?
兵農分離をすれば,そうした心配がないのです.
ですから,補給さえ確保してしまえば,いつでも,いつまでも攻め続けられるのです.
上杉や武田があれほど攻めあぐんだ,難攻不落の小田原城が,なぜ秀吉によって陥落したのか,分かりますね?
日本史板,2006/10/23(月)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
結局,兵力で圧倒しなくても,秀吉なら余裕で小田原城を落とせたんですかね・・・
そう考えると時代遅れの戦い方みたいだし,地元民としては落ち込みますorz
【回答】
いえ,元々「城」とはそういうものなんですね.
本来一定期間落ちない設計になっているのです.
運用ミスで負けることはありますが.北条氏は決して運用ミスをしなかったのです.
その「常識」を覆したのが秀吉で,彼は中国征伐の苦戦の中で,それを会得したのです.
三木城,鳥取城,備中高松城での戦いで,「城を落とす」技術を磨いたのでしょう.
あと,小田原での攻防戦の段階では,もう屈するより他にはなかったでしょう.
「天下統一」という流れの中ですからね.
それほど城に精通した秀吉ですから,自分の居城である大坂城は,そうした場合に長期籠城できる工夫がいろいろと施されていました.
(彼は,清洲城三日普請,墨俣一夜城という「伝説」でも解るとおり,築城の名人でもあります:彼の一番弟子が加藤清正です)
しかし,それでも,大坂の陣では結局落城してしまった訳で,やはり時の流れの前には,いかなる万全策も通用しなかったと言えるのかも知れませんね.
秀吉亡き後の大坂城は,何と城攻めが大の苦手であった徳川家康に落とされています.
これは,「大砲」により攻撃をかけられたこと,謀略により「堀が埋められた」ことが大きいのですが,大砲の威力に圧倒されて交渉に応じてしまったこと,堀をまんまと埋められてしまった事,と考えれば,戦闘ではなく,「運用ミス」で負けてしまっている訳です.
大坂城に籠城していたのが北条氏なら,勝つとは言えないまでも,もう少しマシな戦いが出来たかもしれませんね.
日本史板,2006/10/23(月)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
江戸時代,地位は,
大目付>目付>町奉行>その他の奉行
で正しいですか?
【回答】
・役高(享保8年以降)
大目付 3,000石,老中支配
目付 1,000石,若年寄支配
町奉行 3,000石
寺社奉行 大名役
勘定奉行 3,000石
*評定所一座:寺社>町>勘定
遠国奉行 1,000〜2,000石(筆頭:長崎奉行)
日本史板,2006/10/23(月)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
必殺仕事人とかを見てると,他藩の藩士は,町方同心などに対して,かなり高圧的な態度をとったりしてますが,実際にそうだったのですか?
町方といっても,将軍家の直参なわけですよね.
【回答】
町方が出張ってくるのは,町方がらみの事件や事故.
幕府や藩の政治がらみではないので,一種の治外法権状態があった.
とはいえ,高圧的というのは藩に管理能力などの力があるからで,力のない弱小の藩は,(外聞をはばかる話は別にして)町方の力を借りようとしていた.
佐藤雅美の,八州廻りの小説などを見ても,その辺の機微を描いている.
山本博文の,萩藩江戸留守居役の本を見ても,実際は町奉行とは懇ろにしていて,平素のモメゴトに齟齬がないようにしていた.
日本史板,2006/10/29(日)
青文字:加筆改修部分
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