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青文字:加筆改修部分
 ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.

※既に分類され,移動された項目を除く.


Kampfgruppe 15

目次

 【追記】 中東短信

 【質問】 南アフリカにおいて,外国人出稼ぎ労働者が行う犯罪について教えられたし.

 【質問】 民主化以降の南アフリカ共和国の,治安状況を教えてください.

 【質問】 アフリカについて,お勧めの資料はありますか?

 【質問】 ナイジェリアの「犯罪国家」ぶりについて教えられたし.

 【質問】 ナイジェリアでは石油収入依存にともない,国内経済状況(再分配)はどのように悪化したのか?

 【質問】 ナイジェリア国民に,石油産業はどのような犠牲を強いているのか?

 【質問】 「MOSOP」という運動と,その結末について教えられたし.


 【追記】

2011年5月25日(水),2007年にイスラエルが空爆したシリアの施設が核施設である可能
性が「非常に高い」と国際原子力機関(IAEA)が発表.(Y,P)

2011年5月25日(水),旧ソ連の政治家レーニンがユダヤ人の血を引いていたことが判明.レ
ーニンの姉が書簡の中で母方の祖父がユダヤ人だと証言.姉はスター
リンの時代に激化した反ユダヤ主義に反対していた.(Y,P)

2011年5月25日(水),米のクリントン国務長官がイランのエネルギー部門と取引をした7つ
の国際企業に制裁を発表.制裁の対象企業にはイスラエルの企業も.
タンカーをイランに販売したとされているが,企業は否定.(P)

2011年5月26日(木),ベエルシェバなどにすでに配備されているロケット砲迎撃システム「
アイアンドーム」の追加配備を米国が支援へ.4基を追加配備.この
システムはイスラエルが独力で開発と配備を行っていた.(H,P)

2011年5月26日(木),ヒズボラは大半の国より多くのミサイルを保有していると米のゲーツ
国務長官.科学・生物兵器保有の可能性もあると指摘.2ヶ月前には,
ヒズボラの軍事基地の詳細な所在地情報も暴露されている.(Y)

2011年5月27日(金),スペインからイランへ違法に輸出される間際だったヘリコプター9機
をスペイン警察が押収.8人が逮捕された.他の違法輸出品も含めて
押収物の総額は1億4千万ドル(約112億円)にのぼる.(Y,H,P)


 【質問】
 南アフリカにおいて,外国人出稼ぎ労働者が行う犯罪について教えられたし.

 【回答】
 さて,前の日記で「グローバル化」によって,南アフリカには犯罪組織が集まることを書いた.
 今回は,外国人出稼ぎ労働者による犯罪について,一例を挙げてみよう.

 モザンビークという国がある.
 この国は,近年アルミニウムの加工(ちなみに,モザンビークでアルミは取れない)で,著しい経済成長を遂げ,「モザンビークの奇跡」とまで呼ばれている.
 実際,内戦が行われていた1990年に5歳未満の死亡率は,千人当たり235人だったのが,2004年には152人とまだ高い水準ではあるものの,80ポイントの改善を見せている.
 モザンビークの成長率は約7%であり,中流階級も増えてきている.

 ただ,内戦時は最貧国であったため,南アフリカに出稼ぎを行っていた労働者は,南アフリカの例と同じく,その恩恵に預れていない.
 これらの人達は,農業やウェイターといった様々な職種に就いており,安価な賃金で,過酷な労働を強いられていた.

 一例を挙げよう.

――――――
 アベルによると,彼は1990年,17歳の時に故郷モザンビークの首都マブトを離れ,南アフリカに不法入国した.
 先に南アに入国していた兄は,南ア北部の白人が経営するトウモロコシ農場で働いており,(中略) 1ヶ月50ランド(当時の為替レートで1500円)の薄給で,奴隷のように働かされる暮らしに嫌気がさした彼は,兄と共謀して農場主夫妻を殺害したのだ.
 すぐに警察に逮捕されたが,当時の南アはアパルトヘイト末期の混乱の極みにあり,警察機能が麻痺していた.
 農場主宅から奪った金を,警察暑の幹部に賄賂として支払った彼は,あっさり釈放されたという.
 こうして晴れて娑婆に戻ったアベルの,強盗生活がスタートしたのだった.

――――――『ルポ 資源大国アフリカ』(白戸圭一著,東洋経済新報社,2009.8),44ページ

 しかも,この手の犯罪を犯して,もし警察に捕まったとしても,賄賂ですぐに釈放されるため,この手の犯罪が減少することはない.
 このアベルは後に,大量のマリファナ所持で捕まったらしいが,恐らく賄賂を贈る余裕があれば,すぐに釈放されるだろう.

 ここで説明が終わってしまえば,
「外国のDQNうぜー」
で終わってしまうので,彼の生い立ちについて少し説明する.
 彼は,モザンビーク内戦の真っ最中に生まれた.
 両親は政府軍に殺された.
 特に母親は,目の前でレイプされた挙句,頭を打ちぬかれたそうだ.
 このような凄絶な経験を持ち,しかも社会に対して絶望感のある人は,犯罪どころか,殺人さえ躊躇わないという.

 日本で暮らしていると,この感覚は理解できないが,生きるか死ぬかの中で生活していて,しかも廻りは犯罪者だらけとくると,その感覚は麻痺していくのだろう.

ますたーあじあ in mixi,2011年04月23日17:40
青文字:加筆改修部分

 さて,今回もモザンビークからの入国者を例に挙げて,外国人犯罪の実態を「一部」説明したいと思う.

 モザンビークは,確かにアルミの加工によって,驚異的とも言える経済成長を遂げているが,当然といえば当然の話しながら,その恩恵に預かれるのは一部の人間に限られる.

 今回,例に挙げるアベル氏の場合,十人兄弟の七番目の子供として生まれた.
 父親がモザンビークの政府広報担当の一人だったため,幼い頃はそれなりの生活ができていたらしいが,父親の死に伴い,生活に余裕がなくなり,南アフリカに出稼ぎに出た.
 その彼が犯罪者に至った道は以下;

――――――
 南ア人もモザンビーク人も黒人従業員は,週給75ランド(当時の為替で2250円)でした.
 レストランは220席もある大きな店で,5人の調理係と12人のウェイターでまわしていましたが,週末は忙しくて全く休めない.
 働き始めて8ヶ月後に,店主に賃上げ要求したところ,
『働きたい奴はいくらでもいる.文句があるなら出て行け』
の一言で首になりました.

――――――『ルポ 資源大国アフリカ』(白戸圭一著,東洋経済新報社,2009.8),48ページ

 当時の南アフリカの失業率は実に40%であり,次の仕事は簡単には見つからない.
 当時のモザンビークは内戦が終結したばかりで,経済は崩壊しており,帰っても職はない.
 彼は,親戚を頼って,一日パンと牛乳を一度だけ食べるという生活を3年ほど続けたが,彼はこの間,英語を学習していたという.
(モザンビークの公用語は,旧宗主国であるポルトガル語)
 彼は,決して努力していなかったわけではなく,向上心を持った人であった.
 そこでの暮らしに見切りをつけたマタベラ氏は,いとこを頼って移動するが,一緒に暮らす約束をしていたいとこは,姿をくらませていた.

 この状況,全く職がない社会状況は,「当然の帰結」として,犯罪者を増やすこととなる.

――――――
「生まれて初めて他人のものを盗んだのは,1997年2月でした.
 ヴェルコムの白人の庭先に,オートバイが止まっていた.
『あれを売れば腹いっぱい飯が食える』
と思い,盗んだ.
 スコッター・キャンプには,盗んだ品を買い取ってくれる男がいるんです.
 男にオートバイを売ったら,思ったとおり金が入ってきた.
 家には電気がないから,夜,暗い家に一人でいると,
『こんなことをして良いのか』
と,気持ちが沈んできました.
 だけど,一度うまくいくとやめられない.
 何で俺だけが貧しくなきゃいけないんだと思えてくるんです」

――――――同,49ページ

 この後,白人の家から銃を盗んだ彼は,「シビーン」といわれる「犯罪者の酒場」(まぁ,ルイーダの店みたいなもんだ,犯罪の)で,仲間を見つけ,犯罪者パーティを組んで,住宅襲撃を生業としていたらしい.
(ちなみに,住宅の警備状況に関しては,ハウスメイドに金を渡せば筒抜けになる)

 ちなみに,このマタベラ氏は犯罪して儲けた金を,母親に送金していたらしい.
 これは,実際に彼の母親から直接話を聞いたらしいのだが,その母親曰く,モザンビークの経済成長の恩恵を受けられるのは,一部に限られるようだ.

――――――
 モザール?(モザンビークのアルミ加工会社)
 あんたね,そんなもんができたって,私ら貧しい者の暮らしに何の変わりがあるもんかい.
 ここの仕事があれば,息子だって南アなんか行かないよ.

――――――同,52ページ

 尚,奇跡的な経済成長率を遂げているはずのモザンビークでは,2006年から2007年で犯罪率が84%も増加した.
 これは,物と金があつまり,しかもそれを手に入れる人達は限られるため,やはり,貧しい人達が,犯罪を犯す確率が格段にあがっている模様.
 これは,南アフリカでも見られた現象だ.

 このように「皆が貧しい」状況下では,犯罪は増加しない.
 みんなが貧しいため,物がそもそもないからだ.
 だが,経済成長が始まった社会で,しかも富の再分配の恩恵に預かれない人間は,容易に犯罪者となるのが,実情となっている.

 日本とは単純に比較できないが,留意すべき事項になる「可能性」はあるかもしれない.
 特に「移民」に関しては,慎重な取り扱いが必要となるだろう.
 私は,別に移民を毛嫌いしているわけではないが,そのリスクが大きいことにも留意する必要がある.
(実際,スウェーデン,オランダなどでは,移民による犯罪の増加が顕著と聞く)
 また,格差の小さかった日本でも,格差が拡大しつつあり,「食べるために」犯罪に手を染める人間は増えていくと想像できる.
(まぁ,日本人の場合,自殺という選択肢をとりがちだが)

ますたーあじあ in mixi,2011年04月24日23:10


 【質問】
 民主化以降の南アフリカ共和国の,治安状況を教えてください.

 【回答】
 南アフリカは,民主化以降,経済発展とともに,格差が拡大し,それが経済のグローバル化と繋がって,結果,組織犯罪が横行している.
 しかも,捕まったところで警察に賄賂を渡せば基本的には釈放されるため,犯罪は増えることはあっても減ることはない.

 しかしながら,南アフリカではこれらが「ビジネス」として成り立っていることもあり,命の保証は「アフリカの中では」確保できると言えるだろう.
(あくまで「アフリカの中」では.
 他の地域基準で考えると,もちろんヤヴァイ国であることは間違いない)
 ヨハネスブルグのビルが立ち並ぶ場所でも,普通に強盗が起きる場所であり,ビルのテナントの中に人身売買組織が入り込んでいることも珍しくもない.

 南アフリカでは,主にモザンビークから女性が売春を含む労働力として,人身売買の対象となっており,その手口も様々だ.
 例えば,モザンビークで美人コンテストを開催する.
「オーディションに受かれば,南アフリカで,芸能デビューできる」
とでも宣伝しておけばいい.
 そして,地元の人間に審査員をやらせて,めぼしい女性を選び出す.
 言葉巧みに南アフリカまで来させれば,後は旅券を取り上げれば,ほぼ逃げ出さない売春婦のできあがりというわけだ.
 この手の犯罪は,完全に組織ぐるみであり,この組織は,モザンビークの入管に賄賂を贈って,白紙のパスポートを取得できる(つまり,写真さえ貼れば,本物のモザンビーク発行パスポートとなる)ため,かなり容易に犯罪を行うことが可能となっている.

 グローバル化によって,経済の成長が著しい南アフリカでは,同時に様々な犯罪組織が集まり,麻薬・武器の密輸,人身売買,組織的な強盗など,ありとあらゆる犯罪が起きていると言える.
 しかも,教育の格差と,地理的要因(アフリカの入り口),経済発展による富の集中,賄賂の横行によって,犯罪は少なくとも横ばい状態だろう.(むしろ,南アフリカでワールドカップを開けたのは奇跡かも知れない)

ますたーあじあ in mixi,2011年04月26日00:51
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アフリカについて,お勧めの資料はありますか?

 【回答】
 既に休刊してはいるのだが,JETROのアフリカ・レポートの情報がかなり豊富.
http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Periodicals/Africa/backnumber.html

 PDFなんで,読みにくいのが難点.

 おまけ.
 実は前にも紹介したんだけど,改めて紹介.
http://d-arch.ide.go.jp/idedp/ZAF/ZAF200903_010.pdf
「家畜を争う戦いで,各部族がAKで武装してヒャッハー」

 武器のみが強力化して,メンタルが中世なのがアフリカクオリティ.

ますたーあじあ in mixi, 2011年04月27日15:44
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ナイジェリアの「犯罪国家」ぶりについて教えられたし.

 【回答】
 さて,一部の酷使様の間では「韓国人,中国人は世界中で最も嫌われている」そうであるが,こんなのは,日本のごく一部でしか通用しない理屈である.

 まぁ,「嫌われている」と「危険」を別途に考えれば,正しい可能性もあるが,例えば,観光客の中で最も嫌われているのはフランス人らしい.
 ・・・話が逸れたんで戻す.

 ナイジェリアは「犯罪輸出国家」として,悪名をとどろかせている.
 例えば,「オンラインで最も取引先として危険な相手」では,2006年の統計でナイジェリアが31%と,ロシアの9%を完全にぶっちぎってトップの数値になっている.
 ちなみに,2004年から,2006年までナイジェリアはトップを守り続けているとのこと.
 これは,ネットでの詐欺行為(メールを使ったもの)で,最も数が多いのがナイジェリア人だ.
 手口としては以下;

――――――
 ある突然,面識のない外国人から,
「緊急かつ極秘の取引」
と銘打ったEメールが届く.
 内容は様々だが,基本的なパターンでは,基本的なパターンでは,差出人はアフリカの某国の政府高官の未亡人,軍官僚の家族などを名乗る.
 そして,巨額の遺産や隠蔽資産などの別の口座への移転にかかる手数料が必要と訴え,手数料を一時的に貸してくれれば,謝礼を添えて返金すると持ちかける.
 話を信じてうっかり指定された口座に振り込むと,謝礼はおろか元金も返ってこない詐欺話だ.

――――――『ルポ 資源大国アフリカ』(白戸圭一著,東洋経済新報社,2009.8),88-89ページ

 正直,間抜けだなぁとは思うが,日本人でも一億円もの被害を受けた人もいるそうな.

 さらにクレジットカードの偽造なども行っており,FBIの調査では,毎年10〜20億ドルを金融犯罪で動かしている.

 また,麻薬の生産国ではないが,麻薬の中継基地としても知られている.
 2005年にヨーロッパで押収された,アフリカ産のコカインは2005年で9%,2006年には12%となり,米国では「国際麻薬統制戦略報告書」の中で,麻薬の生産国ではないが,密輸の主要拠点として認識されている.
 ナイジェリアの麻薬密輸組織は,アフリカだけではなく,アフガニスタンなど中央アジア及び東南アジアにも及んでいて,これはまさしく「犯罪のグローバル化」を示す一端といえるだろう.

 ナイジェリアの麻薬密輸の実態については,以下に例を示す.

――――――
 2001年のことだ.
 オランダ・アムステルダムのスキボール国際空港の税関当局は,カリブ海に浮かぶオランダ領アンティル,オランダ自治領アルバからの到着便に搭乗する,ナイジェリア人乗客の増加に気が付いた.
 そこで税関は,この2つの島からの到着便に搭乗していたナイジェリア人乗客に限り,10日間だけパスポートを所持している乗客よりも厳しい荷物検査を実施してみた.
 すると,なんと検査を受けた83人のナイジェリア人のうち,実に63人が麻薬を所持していたのである.

――――――同,90-91ページ

 麻薬の密輸に関わった人の,以下のような証言でも,これらは補強される.

>「ナイジェリア人って,皆犯罪者なんじゃないの?
> 犯罪に手を染めていないナイジェリア人なんて知らないわ」

>「いい人もいるかもしれないけれど,じゃあ,このナイジェリア人犯罪者の多さは何なのさ」

――――――同,87-88ページ

 南アフリカでも,ナイジェリア人の流入に伴う犯罪の増加は顕著であり.ナイジェリア人の活動拠点は南アフリカにあることが多い.
 ここでも「グローバル化」の影の部分を見ることができるだろう.

※注意しておくが,私は反グローバリゼーションではない.
 「グローバル化」とは単なる現象であり,これをとめることに意味などない.

ますたーあじあ in mixi,2011年04月28日00:05
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ナイジェリアでは石油収入依存にともない,国内経済状況(再分配)はどのように悪化したのか?

 【回答】
 ナイジェリアはご存知の通り,一大産油国の一つである.
 世界で産油されている石油のうち,ナイジェリアが占める割合は3%だが,この資源は,国内経済においては,とてつもなく大きな割合を占めており,政府の歳入利益のうち,実に7割が石油と天然ガスによるものだ.
 貿易に至っては94.2%が,この石油と天然ガスが占めている.
 この採掘権は,「ロイヤル・ダッチ・シェル」といった欧米の企業が保有しており,その利益が政府に入るといった状況になっている.

 そもそもナイジェリアは元々,パーム油(調理用)の生産で世界一の国だった.
 油田が発見される前,1950年代初頭には,ナイジェリアの輸出の25%がパーム油であり,落花生・ココアの輸出でも世界で有数の規模を誇っていた.
 ナイジェリアには,農業を土台にして,自給生活を行い,教育によって農業を発展させて,雇用を生み出すといった方法を取ることもできた.

 だが,ナイジェリアは石油の持つ「莫大な利益」を選択し,結果として,石油・天然ガスといった資源に全面依存する道を歩んだ.
 結果,ナイジェリアの総輸出のうち90%が石油・天然ガスという,歪な産業構造を生む結果となり,以下のような状態をもたらした.

――――――
 石油開発は多額の資本と,高度な採掘技術が要求される,資本集約型産業の典型であり,雇用創出効果は製造業と比べると低い.
 1億人を超える人口を抱える国で,製造業が育たず,伝統的な農業も衰退していけばどうなるか.
 その答を,これほど劇的に見せてくれる国もないだろう.
 ナイジェリアに残されたのは,推定75%の異常な高失業率と凄まじい所得格差だ.
――――――

 もし「運良く」職を手にしたとしても,待っているのはさらに激しい所得格差だという.

――――――
 エロイケ村でパーム油を生産する20代男性の,1ヶ月の手取りは約1万ナイラ(約8300円).
 ボートハーコートの街で,ビールや安ウィスキーを飲ませる庶民向けバーの女性店員(18歳)は,月給約3000ナイラ(約3300円)で働かされており,少々気の毒だった.
 国営ナイジェリア通信のボートハーコート支局で働く,50代の男性記者は月給2万〜3万ナイラ(約16600〜24900円).
 一方,取材に応じてくれた,NNPC社の50代の部長は,月給約180万ナイラ(約149万4000円).
 どこの国でも,大企業の部長と若い飲食店員の給与には差があるだろうが,ナイジェリアでは実にその差は450対1だ.

――――――『ルポ 資源大国アフリカ』(白戸圭一著,東洋経済新報社,2009.8),129ページ

 こういった格差は,世に厭世感と絶望感をもたらし,その人達が犯罪に手を染めていく.
 一度犯罪に手を染めれば,その「美味さ」を忘れられず,しかも前述したとおり,官憲はお金で買収できるため,この手の犯罪が減少することはない.
 こうして「犯罪輸出国家ナイジェリア」は生まれたわけだ.

 上でソースとして出した本の著者は,こう結んでいる.

――――――
 我々はナイジェリア庶民の痛みと引き換えに,石油の恩恵を享受し,同時に彼らに痛みを押し付ける代償として,組織犯罪の脅威に晒されているのではないだろうか.

――――――同,130ページ

 確かに,国がそうなった原因は,その国民に帰結するのだろうが,先進諸国はその恩恵に預かっていることを考えれば,我々の生活が「血まみれ」の資源によって賄われていることを,頭の片隅には覚えておくべきかも知れない.
(まぁ,センチメンタリズムに類することではあるが)

 さて,湿っぽい話になったので,お楽しみTIAの話をば一つ

 ナイジェリアでは,「国勢調査」をするだけでも命がけ.
 なにせ2006年に国勢調査が15年ぶりに行われたが,これがなんと殺し合いに発展してしまった.
 多数の部族が集まるナイジェリアでは,住民同士が「利益」をめぐって対立いしているため,ささいなきっかけで暴力沙汰になる.
 この国勢調査では,
『奴らが自分たちに有利になるよう,人口を水増ししてる』
といった理由で衝突し,5人の死者と多数の死傷者がでる事態となった.
 これはほんの氷山の一角.

――――――
 ベルギーに本部を置く国際NGO,「インターナショナル・クライシス・グループ」の集計では,1999年から08年までの9年間で,約1万4000人が,こうした住民間暴力の犠牲になっている.
 一般の「殺人事件」は別にして,戦争状態ではない社会で,これほど多数が住民間衝突で犠牲になるのは,異常事態と言うほかない.
――――――

 ガイドライン風にいうと・・・

「この前ナイジェリア行ったんです,ナイジェリア.
 そうしたらなんか,部族同士で喧嘩してるんです.
 で,理由聞いたら,
『あいつらが人口水増してむかつくから』
とか言っちゃってるんです.
 もうな,お前アホかと,お前ら国勢調査ごときで殺し合いなんてしてんじゃねーよボケが.
 単なる国勢調査だよ,国勢調査.
 よーし,俺,素手でやっちゃうぞーとか言ってるの見てらんない.
 適当な武器でも渡してやるから,よそで殺しあってろと.
 アフリカっていうのは,もっと殺伐としているもんなんだよ.
 AK持った子供兵が,いつ村を襲撃してくるかわからない,まさしく逃げるか殺されるか,そんな雰囲気こそがTIAなんじゃねーか.
 部族間抗争とかありきたりすぎんだよ,ボケが.
 で,やっと収まったと思ったら,他の調査で過去9年間に1万4千人も,この手の衝突で死んでるって言うんです.
 そこでまたぶち切れですよ.
 お前ら,本当に気に食わないから殺しあってるのかと,単に利権がほしいだけちゃうかと問い詰めたい,小一時間問い詰めたい.
 アフリカ通の俺からいうと,「政府の雇ったPMFが燃料気化爆弾で村ごと消滅」これね.
 ハインド使ってヘリで,住民ごと反政府ゲリラ皆殺し,これ.コレ最強
 しかし,やりすぎると先進国からマークされて,国連使って圧力掛けられる,まさに諸刃の刃.
 素人にはお勧めできない.
 まぁ,お前らは劣化コピーのAKでも撃ってなさいってこった.」

 うーん・・・ちょっとイマイチ?

ますたーあじあ in mixi,2011年04月29日01:04
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ナイジェリア国民に,石油産業はどのような犠牲を強いているのか?

 【回答】
 ナイジェリアで,石油が見つかってから,国は石油への全面依存を始め,そのせいで農業は壊滅状態に近くなっている.

 では,その状況がどうやって生まれたのか.
 それを説明することで,石油産業自体が「国民の犠牲」の上に成り立っていることを,説明して行きたい.

 ナイジェリアで石油が最初に見つかったのは,「オロイビリ」というところ.
 ナイジェリアで最初に石油が見つかったことから,どれだけその恩恵を受けているかというと・・・・

――――――
 記念すべきアフリカ第一号油田の跡地として,国や石油会社によって相応の整備を施された村を想像していた私は,熱帯雨林の只中に残された廃村を前にして,キツネにつままれたような気分を味わった.
 だが,「廃村」に足を踏み入れた私は,二重の勘違いに気付き,早とちりを恥じた.
 崩れかけた民家の軒先に,精神の変調をきたしているとおぼしき,全裸の男性がよだれを垂らしながら座っていた.
 更に進むと,家の中から,突然のアジア人来訪者をいぶかしげな表情で見つめている男性の存在に気付いた.
 村は荒れに荒れていたが,決して「廃村」ではなく,人々の暮らしが営まれていたのだ.

――――――『ルポ 資源大国アフリカ』(白戸圭一著,東洋経済新報社,2009.8),100ページ

 さて,ここからは村人と石油採掘技術者との,心温まる話に入る(微笑)

――――――
「白人技術者たちがやって来たのは,1953年のことでした.
 私は当時19歳.
『オイルを探しているから,沼地を掘らせて欲しい』
というので,村の皆で歓迎しましたよ.
 誰であろうと遠来の客を歓迎するのが,私たちの伝統だからね.
(省略)
 若いイクペスさんは技術者のベースキャンプに遊びに行き,一緒に食事をしたり,技術者と村の若者の間でサッカーの試合をしたこともあったという.
 ベースキャンプが設置されてから3年後の1956年6月,技術者たちは村の外れの沼地で,ついに目当ての宝物を掘り当てた.
 地下3660m.西アフリカギニア湾岸の油田開発の幕があけたのである.
 イクペスさんは
「白人たちが『オイル』を見つけたと喜んだときは,一緒に小躍りして喜びました」

――――――同,101ページ

 ( ;∀;)イイハナシダナー
 石油の発掘で汗を流す白人技師たち,その白人たちとの心温まる交流.
 ここだけ切り取れば,プロジェクトX風なのが一本できるだろう.
 そして,こうなった.

――――――
「私たちが知っていた『オイル』は,調理用のパーム油だけでしたからね.
 白人たちが何を探してるのか,知らないまま喜んでいた」
と寂しげな笑みを浮かべた.
「村の住民は元々,キャッサバやヤムイモを作る農業と,川での漁業で生計を立てていました.
 それが石油の発見で激変した.
 油井が現役の頃は,村には石油産業の関係者が大勢いたし,石油会社のために働いている村人も大勢いました.
 病院も商店もあって,それは大変な賑わいでしたが,1972年に第1号油井が閉じられたのが最後.
 石油会社はあっというまに別の場所に移り,若者は村を見限り,今の村はご覧の通りです」
「いったん石油がみつかったら,石油会社はどこでも掘るんです.
 畑,沼地,住宅地,原油が出る場所はすべて採掘の対象です.
 最初は何も知らずに喜んでいた私たちも,そのうち『何か変だな』と思うようになった.
 川は汚れ,パーム油と同じだと思って,原油交じりの川の水を飲んで死んだ人もいた.
 でも,気が付いたときは手遅れです.
 ナイジェリアは1960年に独立したが,石油企業の後ろには政府が付いている.
 政府は金が欲しいから,住民の言うことなんか絶対に聞かない.
 そのうち,原油から水とガスを分離するフローステーションが,村の周辺で稼動しはじめると,住民は昼も夜も続く爆音に,悩まされることになりました

――――――同,102ページ

 この村には,現在,電気も来ていない状況.

/ || ̄ ̄|| ∧_∧
|.....||__|| (     )  どうしてこうなった・・・
| ̄ ̄\三⊂/ ̄ ̄ ̄/
|    | ( ./     /

 ___
/ || ̄ ̄|| ∧_∧
|.....||__|| ( ^ω^ )  どうしてこうなった!?
| ̄ ̄\三⊂/ ̄ ̄ ̄/
|    | ( ./     /

 ___ ♪ ∧__,∧.∩
/ || ̄ ̄|| r( ^ω^ )ノ  どうしてこうなった!
|.....||__|| └‐,   レ´`ヽ   どうしてこうなった!
| ̄ ̄\三  / ̄ ̄ ̄/ノ´` ♪
|    | ( ./     /

 ___        ♪  ∩∧__,∧
/ || ̄ ̄||         _ ヽ( ^ω^ )7  どうしてこうなった!
|.....||__||         /`ヽJ   ,‐┘   どうしてこうなった! 
| ̄ ̄\三  / ̄ ̄ ̄/  ´`ヽ、_  ノ    
|    | ( ./     /      `) ) ♪


 そして,一緒に喜んだ事を心から後悔しているという.

――――――
「私は50年前,石油会社に採掘を許したことを心から後悔しています.
 50年前の私たちにもう少し教育があったら,こんなひどいことにはならなかったと思う.
 無知に付け込まれてはだめ.
 自分で考えなくてはだめ.
 だから,貧しくとも子供の教育だけは必死にやりました.
 無知ほど恐ろしいことはないと分かったからです」

――――――同 103ページ

 まぁ,しかしその後の国の政策を見るに,結局採掘は時間の問題だったとは思うが・・・.
 ただ,「無知ほど恐ろしいことはない」というのは事実だろう.
 それをクリアしても,「陰謀論に引っかかる」とか,そんなリテラシーの問題は出てくるが.
(実際,他のアフリカ地域などでは,反米プロバガンダで,多くの若者がアメリカに敵愾心を持ち,テロリスト予備軍となっている,
 この辺は,もう少し後で説明することになるだろうが)

ますたーあじあ in mixi,2011年04月29日09:55
青文字:加筆改修部分

 前の日記では,ナイジェリアの石油産業が,如何なる現状にあるか書いた.
 今回は,その内圧が外に向かっているという事を書きたい.

 ナイジェリアには,現在の石油産業に反対する組織「ニジェール・デルタ民志願軍(MEND)」が存在する.
 この組織は,2004年10月にドグボ氏によって率いられ,ナイジェリア政府及び石油企業に「宣戦布告」した.
 ナイジェリア政府は,これに対して,戦闘ヘリコプターでMENDに参加していると見られる.(たぶん,Mi-24Vの輸出型であるMi-35,詳細は知らない)村を攻撃した.
 これに対して,MEND側でも報復攻撃として,石油パイプラインの攻撃を行っており,アフリカらしい「泥沼」の様相を体している.

 攻撃を受けた村では,現在の石油産業への反感もあいまって,MENDを支持しているようだ.

――――――
「理不尽な現実に立ち向かう者は,自由のための戦士だ.
 私はドグボ氏の闘争を支持しているし,彼に率いられて戦った若者たちも支持している.
 世界の富は石油から生まれる.
 だが,油田に住む我々には何の恩恵もない.
 川の汚染で魚や貝は取れなくなる.
 ここには電気も水道もなく,若者たちが働く仕事もない」
――――――

 この地域は,天然ガスも石油もパイプラインを通じて素通りしており,何の恩恵もないようだ.

――――――
 イジョー人コミュニティの足元で採掘された石油と天然ガスは,コミュニティを素通りしてボニ・ターミナルに集められ,タンカーに積まれて世界中に輸出される.
 ナイジェリア産油国の最大の輸出先は米国で,その割合はナイジェリア産原油の約4割.
 米国にとってナイジェリアは,第5位の原油輸入元だ.
 日本向けの輸出はわずかで,2007年に日本に輸出されたナイジェリア産原油は50万キロリットルだった.
 ともあれ,穿った言い方かもしれないが,先進国に住む我々の家や職場を灯す明かりの発電には,遠くナイジェリアで採掘された原油も使われているということである.

 しかし,原油や天然ガスが遠い異国の発電に利用されることはあっても,産油地帯のコミュニティには電気が通っていない.
 そこで住民たちはやむを得ず,金を出し合って自家発電機を購入し,自前で電線を引いた.
 そこで住民は毎月2万ナイラ(約10万円)で発電機の燃料の軽油を買い,産油地帯の真ん中で自家発電しているのである.
 この軽油も大半が「国産」ではない.
 ナイジェリアには4つの製油所があるが,これをフル稼働しても,一日に精製できる原油は45万バレル.
 一日の原油生産量の5分の1だ.
 しかもこれらの精製所は,財政難に伴う老朽化などで稼働率が低下し,日量24万バレル弱と言われる国内需要すら満たせていない.

――――――同,110ページ

 ナイジェリアで採掘された原油のうち,90%以上は精製されず,原油の状態で輸出され,海外の製油所で「石油製品」となってから,ナイジェリアに「逆輸入」されている.
 つまり,ナイジェリアは自分たちで採掘した原油を売って,その利益で原油を「買い戻して」いるわけだ.

         ,. -‐'''''""¨¨¨ヽ
         (.___,,,... -ァァフ|          あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
          |i i|    }! }} //|
         |l、{   j} /,,ィ//|       『俺は原油を発掘して,石油製品を作っていると
        i|:!ヾ、_ノ/ u {:}//ヘ       いると思ったら,実は海外に原油を輸出して
        |リ u' }  ,ノ _,!V,ハ |       石油製品を買い戻していた』
       /´fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人        な… 何を言ってるのか わからねーと思うが
     /'   ヾ|宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ        俺も何をしているのかわからなかった.
    ,゛  / )ヽ iLレ  u' | | ヾlトハ〉     
     |/_/  ハ !ニ⊇ '/:}  V:::::ヽ        頭がどうにかなりそうだった…
    // 二二二7'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ
   /'´r -―一ァ‐゛T´ '"´ /::::/-‐  \    国内精製だとか原油採掘だとか
   / //   广¨´  /'   /:::::/´ ̄`ヽ ⌒ヽ    そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
  ノ ' /  ノ:::::`ー-、___/::::://       ヽ  }
_/`丶 /:::::::::::::::::::::::::: ̄`ー-{:::...       イ  もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…


 産油地帯で採掘された原油は,地元住民の元をスルーして,国外に輸出され「付加価値」をつけて,ナイジェリア国内に戻ってくる.
 それを産油地帯の住民が買い戻しているわけで,何の恩恵も受けていないどころか「付加価値」の分だけ負担を強いられている.
 こうした矛盾は,さらに政府や石油企業への反発を強め,ひいては厭世感をもたらし,反乱や犯罪へと走らせる要因となっている.

――――――
 日暮れから数時間だけ,住民の家々にともる自家発電のささやかな明かり.そこには「石油文明」の源流に積もる住民たちの憤怒が,凝縮されているのだった.

――――――同,111ページ

 こうした状況があるかぎり,仮にMENDが潰れたとしても第二,第三のMENDが発生する可能性が高く,しかも理念自体(MENDにそこまで立派な理念があるかはおいて置いて)も低下するので,まさしく「ただの反政府ゲリラ」になる可能性があるだろう.
 といっても,フランスを見れば分かるとおり,産油国に対して先進国はスルーしないであろうから,事ある毎に介入するだろう.
(まぁ,介入しないより「比較的」マシなことが多いので,それ自体は間違っちゃいないだろうが)
 そうすることで,さらに外国に対しての内圧が高まり,反乱も大規模になりがち.
 ここに「反欧米プロバガンダ」が入り込む余地が大きくなり,さらなる「テロリスト予備軍」が発生する可能性も否定できないだろう.

ますたーあじあ in mixi, 2011年05月03日01:23

 ナイジェリア石油産業は,果たしてナイジェリア国民を幸福にしたのか.
 たしかに,ナイジェリアの石油産業は国に莫大な利益をもたらし,当然,都市部はその恩恵に預かった.
 一方,石油以外の産業育成が遅れている(そもそもどこまでやる気があるのか疑問)ため,農業や漁業は壊滅的被害を受けているところも珍しくない.

――――――
 ロアさんの畑を黒く染めたのは,地下から噴きあがった原油だ.
 油井を掘ると,原油は地下の圧力でひとりでに地上に上がってくる.
 通常は由井にバルブを取り付ければ,原油はパイプラインを流れてフローステーションへと向かう.
 だが,何かの不具合が起きると,鉄管のバルブ部分から漏れ出してしまうのだ.

「こんな場所は珍しくありません.
 いったん原油が流出すれば,土地は使い物にならず,川も汚染され,農業も漁業も壊滅です.
 ナイジェリアの法律では,石油が見つかった土地の所有者は採掘を事実上拒否できません」

――――――同,112ページ

 このような「原油漏れ」は,年間少なくとも100件は起きており,そのたびに被害をこうむる住民が存在している.
 こうした「事故」は,住民たちの政府や石油企業への反感の土壌となっているわけだ.
 ナイジェリアでは,油井の数は多いが,それぞれ小規模なものであるため,あちこちに油井が存在し,畑の中や,民家の庭先に油井があるところも珍しくないようだ.
 それを運ぶパイプラインもそれに準じていて,不純物を分離する「フローステーション」の轟音は,住民たちを悩ませ続けている.

――――――
 「石油産業と住民の共存」と言えば聞こえはいいが,現実はそんな生易しいものではない.
 四国と九州を合わせた広さにほぼ等しい,デルタ地域の推定人口は約2千万人.
 アフリカ有数の人口稠密地帯だが,どう見ても地域全体が石油企業の都合で設計されているとしか思えないのだ.

――――――同,113ページ

ますたーあじあ in mixi,2011年05月04日09:08


 【質問】
 「MOSOP」という運動と,その結末について教えられたし.

 【回答】
 前の日記では,石油産業はナイジェリア人の犠牲の上に立つことを書いた.
 それは,ナイジェリア政府が,石油を発掘して以降,莫大な利益を出していながら,再分配を禄に行わず,国を私物化してきた歴史があるから.

 1966年に軍事クーデターが起き,短い民主化の期間はあったものの,計7度の軍事クーデターがあり,基本的に軍事独裁者が国を私物化したわけだ.
 それが端的に現れているのが,石油採掘とは無縁の北部開発優先.

――――――
 石油産業こそが国家財政を支えていたにも関わらず,連邦政府は石油とは無縁の国の北部の開発を優先した.
 1970年代末期時点で,外国の石油産業から連邦政府に支払われた鉱区借地料のうち,産油地帯の二州(リバーズ,デルタ両州)に還元されたのはわずか2%でしかなかった.

――――――『ルポ 資源大国アフリカ』(白戸圭一著,東洋経済新報社,2009.8),114ページ

 これは当然の結果として,逸れに対する反対運動を生み出した.
 それこそがMOSOP(オゴニ人生存運動)だ.
 これは,オゴニランド出身のケン・サロウィワ氏が作った組織で,アムネスティ・インターナショナルなどからの支援を受け,石油産業を相手取って,環境破壊に対する補償など総額百億ドルを要求した.
(まぁ,百億ドルっていうのは,象徴的な数字なんだと思うが)
 この運動は,国際的にも大きな反響を呼び,軍事政権下で,好き勝手に政権運営を行っていた政府は,これに手を焼いたという.

 しかしながら,「ナイジェリア史上最悪の独裁者」と呼ばれたサニ・アバチャが,クーデターで政権を握ると,このMOSOPは徹底的に弾圧され,上述のケン・サロウィワ氏も,証拠も根拠もないような「殺人教唆罪」で逮捕され(実はその前にも逮捕されてるんだが),数ヶ月に渡り投獄された挙句,禄に裁判もしないで処刑された.
 まぁ,軍事独裁政権にありがちって言えばその通りだけどね.

 ちなみにこのサニ・アバチャ氏は,最終的に民主化運動の激化や人気の低下などにより,身辺に3000人の警護が必要だったという.
 金欲の権化で,「世界の歴史での汚職政治家」で第4位だったという,ある意味「TIA」を体現した存在とも言える.
 コンゴ(当時はザイール)の独裁者・モブツ以上の汚職ぶりだからね.

 MOSOP自体は,サロウィワ氏の遺志を継いで運動を続けてはいるが,かなり行き詰っている模様.

――――――
 サロウィワ氏の遺志を継いで運動を再開したMOSOPは現在,石油産業との補償交渉から住民のHIV感染予防などの社会対策へと,活動の重点を移している.
 MOSOP広報担当のバリアラ・パラップ氏は,
「原油による環境汚染は全く改善されておらず,戦いは続いていますが,石油企業との交渉は補償問題などを巡って行き詰まり,暗礁に乗り上げています」

――――――同 116ページ

 この行き詰まりも,「当然の結果」と言えるべき武力抗争を呼んでいる.
 これが以前にも少しでてきたMENDだ.

 この「志願軍」だの「愛国戦線」だのの名前が出てくると,いよいよTIA!の香りが強くなってくる.
 大体,アフリカ人の組織は「愛国」「志願」「戦線」「抵抗」この辺は,ほぼ武装組織だと覚えておくと,損はない.(ネタ探しの意味で)

ますたーあじあ in mixi,2011年05月07日11:55
青文字:加筆改修部分


『ライター・渡邉陽子のコラム (47) ─ 飛行管理隊/飛行情報隊(2) 』
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


こんばんは.渡邉陽子です.

私もささやかなお手伝いをしている「おーあみ避難所」の
写真展が,神田神保町のカンダカフェにて開催中です.

お店への飲食代のみでご覧いただけますので,お近くを
お通りの際はぜひお立ち寄りくださいませ.
6月3日まで開催しています.

入口横の,里親さんから送られてきた卒業生の写真の中
にはしっかりうちの猫もいます(笑)

おーあみ避難所ブログ http://ameblo.jp/oami-hinanjyo/
おーあみ避難所Twitter @oamihinanjyo



■ 飛行管理隊/飛行情報隊(2)


先週は,航空機を安全に運航させるためにはネットワークを通じ
て多数の機関が情報を共有する必要があること,その情報は
国土交通省の飛行情報管理システム,FDMSから提供されるこ
とをご紹介しました.今回はいよいよ飛行管理隊の登場です.

自衛隊の航空機も日本の上空を飛んでいる以上フライトプランは
提出するし,ノータムも発行します(先週の繰り返しになりますが,
ノータムとは航空機が安全に運航するために出される情報のこと.
「東京湾で花火大会がある」とか「除雪が間に合わず滑走路が閉
鎖」といった情報がノータムで,その事象が発生する飛行場等か
ら発出されます).

訓練する場合も,あらかじめ報告してある訓練空域内で行なわな
ければなりません.輸送機にしても,定められた空の道路から外
れずに飛んでいます.


ただ,航空路管制業務が国交省の仕事なら,航空自衛隊は航空
警戒管制業務が仕事.
「防空」という任務のため,国交省のFDMSではなく自衛隊独自の
システムによって,自衛隊機の飛行情報を関係機関に発信してい
ます.それがFADP(ファダップ)と呼ばれる飛行管理情報処理システムです.

FDMSから届く情報を業務に合わせた形で運用するため,航空会社
や関係省庁はそれぞれ独自のシステムを持っています.それが防衛省
の場合はFADPというわけです(ちなみに気象庁ではADESSという
システムを使っています).


FADPには,ノータムを処理する能力や,運航情報を管制機関に提供す
る航空交通管制情報処理機能があります.また,各航空機の出発時刻
と到着時刻を監視し,予定時刻までに到着しない場合は通信捜索報を関
係機関に出力する運航情報処理機能も持っています.これらはFS(運
航情報業務)と呼ばれ,多少の違いはあれど,国交省のFDMSにも備
わっている機能です.防空に特化した機能ではないということですね.


FADPならではの機能はここからです.航空警戒管制部隊が必要とする
国籍不明機などの情報を提供する防空識別情報処理機能,訓練空域を
通過する民間機の運航情報を航空警戒管制部隊に提供する空域調整
情報処理機能.

これらの機能はAMIS(航空機移動情報業務)と呼ばれ,防空の色合い
が強くなります.このFSとAMISという飛行管理業務を実施するための
システムがFADPというわけです.

さらに言えば,FADPは国交省の管制システムと航空自衛隊の航空警戒
管制システムの間に立ち,通訳の役目も果たしています.FDMSからの
情報はFADPを経由することで「民間語」から「自衛隊語」へ訳され,適切
な形で必要な場所へと送られるのです.


この大切なシステムを運用しているのが飛行管理隊で,自衛隊の発行す
るすべてのノータムに目を通し,不備がないかチェックするのが飛行情報
隊です.最後にようやく部隊名が登場しました.

今回の重要ワードは「FADP」でした.自衛隊機の運航に不可欠な飛行管
理情報処理システムです.
次回は陸海空自衛隊の中でFADPを運用する唯一の部隊である,飛行
管理隊の業務についてご紹介します.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.5.28




マーケット・ガーデン作戦とインテリジェンス (9)
                長南 政義
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

■【前回までのあらすじ】

本連載は,精確な内容を持つインテリジェンスが
1944年9月上旬に連合軍の指揮官に利用されたか
どうかを考察することにある.実は,インテリジェンス
の内容は,マーケット・ガーデン作戦実行に伴うリス
クを連合軍の指揮官に警告していた.

指揮官が決定を下すために利用できるインテリジェ
ンスの情報源は数多く存在していたが,本連載では
「ウルトラ」情報により提供されたインフォメーションに
のみ焦点を当てて考察を進めることとする.第二次
世界大戦を通じて,連合軍の戦略レヴェル・作戦レ
ヴェルの指揮官たちはウルトラ情報を活用し,ウル
トラ情報の精確性に関してめったに疑いを持たなか
ったからだ.

前回からインテリジェンス活動の基幹をなす暗号と
暗号解読についてみてきている.その際にキーワー
ドとなるのは,ドイツ軍が使用した暗号機「エニグマ」
とそれを解読した「ウルトラ」情報であるが,前回は
「エニグマ」誕生の概略と「ウルトラ」情報の概略と
について説明した.

第一次世界大戦後にエニグマは商業用暗号機として
開発・使用され始めた.だが,ドイツがヴェルサイユ講
和条約に違反して再軍備を開始した時に,エニグマの
運命は大きく変化することとなった.というのも,再軍
備計画を秘密裡に継続実行するためには,安全な通
信手段が必要とされたため,ドイツ軍がエニグマに目
を着けたからだ.

第二次世界大戦においてドイツ軍の敵国となるポーランド,
フランスおよびイギリスは,開戦以前からエニグマの暗号を
解読しようと試みていた.エニグマ暗号を解読するという任
務は,エニグマ暗号機が作り出すことができる複雑な暗号
コードを考慮すると気が挫けるような困難な任務であった.
そして,エニグマ暗号機でやりとりされる電文を解読するプ
ログラムに与えられたコードネームが「ウルトラ」であった.

だが,エニグマ暗号機の機種が数多くあることに加えて,
エニグマ暗号機を使用するドイツ陸海空軍およびドイツ政
府各機関がそれぞれ独自の運用手続きでエニグマ暗号機
を使用していたため,暗号解読には多くの困難が伴った.


【エニグマ解読の歴史を書くことの困難さ】

エニグマ暗号を解読しようとするプログラムの起源と成功の
歴史を詳細に書くことは,エニグマ暗号機の進化の過程を追
跡するのと同じくらいの困難が伴う.

これまでこのテーマについて執筆した執筆者は,執筆者各人
の観点からこのテーマに挑戦してきた.だが,エニグマ解読プ
ログラムの全体像を覆い隠している秘密は,解読プログラム
の進化に対する正確な評価を行なうために必要不可欠な過
去の記録文書がすべて公開されているわけではないので,
いまだ解き明かされていない.

ポーランドは,エニグマ暗号を解読しようと真剣に試みた
最初の国々の一つであり,ポーランドによるエニグマ解読
の努力はフランスの支援を多分に受けていた.

だが,最終的にエニグマ暗号解読のために大規模な資源
を投入できたのは英国であり,エニグマ暗号解読から獲得
したインテリジェンスを効果的に利用し得たのも英国であった.

「ウルトラ」情報獲得のための努力は,現在ではインテリジ
ェンスの歴史の中で最も成功したプログラムの一つとして
認識されている.

今回はエニグマ誕生の経緯についてより詳しく述べることとする.


【二人のエニグマの父と,企業の関心が低かったエニグマ暗号機】

エニグマ暗号機にはオランダ人とドイツ人二人の父がいる.

エニグマ暗号機はオランダ人ヒューゴ・アレクサンダー・コッホの
アイデアにその起源を有する.コッホは後に自身のアイデアを
一九一九年に特許登録している.そして,発明家であり暗号に
関心のあったドイツ人技師アルトゥール・シェルビウスが後に
コッホの特許を買い取った.

エニグマ暗号機の基本原理を開発し,エニグマ暗号機の販売
を商業的に成功させた人物がシェルビウスである.

シェルビウスは一八七八年,フランクフルトで誕生した.彼は
ミュンヘン工科大学で電気工学を学び,その後ハノーヴァー大
学に移り,一九〇三年三月にハノーヴァー大学を卒業している.
一九〇四年には「間接水力タービン調整機建設のための提案」
と題する論文を書いて工学博士号を授与された.

彼はその後,ドイツとスイスの電気会社で働き,一九一八年,
シェルビウス&リッター社を設立した.シェルビウスは,電気枕,
セラミック発熱部品,非同期モーターなど数多くの発明をしてい
る.彼の名は,非同期モーターに関するシェルビウス原理とし
て有名である.

シェルビウスは有線歯車を回転させることで暗号化を行なう暗
号機に関する特許を申請した(一九一八年二月二三日出願).
そして,既述したように,シェルビウスは一九一九年に同様の
原理を特許申請していたコッホから権利を購入した.だが,シェ
ルビウスのビジネスは順調なものとはいえず,一九二〇年代に
少なくとも二度の企業再編を行なっている.

一九二三年,シェルビウスは通信の安全に関心を有する大企
業に暗号機を販売するための小さな会社を起業した.しかし,
どの企業もシェルビウスの事業がビジネスとして成功するに十
分な数の暗号機を購入してくれなかった.


【ドイツ海軍,エニグマ暗号機に興味を持つ】

シェルビウスの暗号機は一九二六年まで事実上無視されていた.
だが,一九二六年になりシェルビウスの暗号機の運命は一変する.

この年になり,ドイツ海軍がシェルビウスの暗号機を通信システ
ムに採用する決定を行なったのである.

海軍がシェルビウスの暗号機の持つ潜在的能力を理解した最
初の軍種であったことは自然のことであった.というのも,海軍
は船舶・陸上間通信,船舶間通信のすべてを無線通信に依存
していたからである.

シェルビウスが開発したエニグマ暗号機は,一九三四年に改良さ
れるまで大きな改良を加えられることなく使用され続けた.


【英国政府に見過ごされたシェルビウスの特許申請】

シェルビウスの会社はドイツ海軍が暗号機を艦隊に配備し始め
て以降も商業的努力を行ない続けた.

一九二七年八月一一日,シェルビウスの会社は暗号機が動く原
理の説明書と関連図面つきで英国特許局に特許申請している.
だが,この特許申請は英国政府により見過ごされた.英国政府は
第二次世界大戦が開始されてから,この機械がどのように動くの
かを理解しようとしたのだ.


【シェルビウスの死と拡大するエニグマ暗号機の採用】

シェルビウスは自身が開発したエニグマ暗号機が大活躍する光
景をみることなく,一九二九年,馬車の事故によりベルリンで死亡
した(享年五〇才).

ドイツ陸軍,ドイツ空軍およびその他のドイツ政府機関はドイツ海
軍の動きに追随し,エニグマ暗号機をそれぞれの通信システムに
導入するようになった.そして,第二次世界大戦終了までに,エニ
グマ暗号機は軍のあらゆる部門のみならず,軍以外の政府内の
あらゆる機関でも使用されるようになった.

第二次世界大戦の全期間を通じて,ドイツは自国の通信の安全
が損なわれていたとの疑念を持つことはなく,自国の通信が
安全なままであったと信じ続けていたのであった.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.5.28




陸軍機 vs 海軍機(40)       清水政彦

「零戦と隼(39)」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「零戦vs隼」の第39回.今回は,ニューギニア戦線が
防勢に転じた昭和18年3月〜4月頃における,東部ニ
ューギニアの航空基地事情についてです.

▼ 重爆戦隊の中継基地として整備されたウェワク飛行場

 第六飛行師団に編入された唯一の重爆戦隊である
飛行第14戦隊(97式重爆)は,機材を空母に搭載するこ
とができない関係上,インドネシアから島伝いに東に進
み,ニューギニア北岸の中継基地を経由してラバウルに
進出することとされた.

 しかし,第14戦隊に南太平洋方面への転用が発令され
た時点(昭和17年末)では,ニューギニア北岸の航空基
地はほとんど未整備であり,第14戦隊は中継飛行場の
整備が完了するまでインドネシア方面の基地で待機する
こととなった.

 この時,重爆戦隊の中継基地として突貫工事で整備さ
れたのがウェワク飛行場だった.

 ウェワクはニューギニア島北岸のほぼ真ん中に位置して
おり,一応この地域の中心地といえる街だった.当地には
旧植民地時代(およびその後のオーストラリア委任統治時
代)に建設された小規模な港湾と小型機用の粗末な滑走
路があり,これを拡張して重爆の離着陸を可能にするのである.

 この時まで,ウェワクは連合軍・日本軍ともにまったく展開
していない空白地帯だった.昭和18年1月下旬,歩兵一個
大隊が初めてウェワクに上陸し,人海戦術で飛行場の拡張
作業を始めた.重爆の発着が可能な長さ(おおむね1200メ
ートル)まで滑走路を延長できたのは2月下旬になってか
らで,第14戦隊はその情報を確認してから移動を開始した.

▼ 地上で半減してしまった重爆戦隊

 第14戦隊はウェワクを経て昭和18年3月初旬にラバウルへ
の移動を完了した.これはちょうど「81号作戦」の船団がダン
ピール海峡で壊滅したのと同じタイミングであった.これ以後,
ニューギニア戦線はもっぱら防戦一方となり,重爆本来の進
攻作戦はその機会が激減してしまった.

 ラバウルに進出した第14戦隊は,とりあえず既存の陸軍飛
行場(ココポ)に駐留することになったが,同飛行場は第六飛
行師団の進出に際して泥縄式に急造されたもので,滑走路の
整備状態が悪く,軽爆戦隊の進出直後には着陸事故が続発
していた.

 飛行機の分散隠匿設備も十分に整備されておらず,既存の
軽爆隊に加えて図体の大きな重爆が30機以上も同居したた
め,飛行場は大混雑となった.掩体が不足し,第14戦隊の各
機は滑走路付近に野ざらしで駐機せざるを得なかった.

 準備不足の祟(たた)りはてきめんで,第14戦隊はラバウル
への進出早々,3月16日の夜に行なわれた連合軍機の夜間空
襲によって,保有機材の過半数にあたる23機を地上で撃破さ
れてしまう.

 第14戦隊は損傷機の修理を急いで戦力回復に努めたが,結
局その後第一線定数(27機)を回復できず,フル編成の編隊を
組めないまま,少数機ずつ各種の雑多な任務に酷使されて消
耗していった.

 この一件は,単に第14戦隊の不運というにとどまらず,南太平洋
方面における陸軍航空の「典型的な負けパターン」だといってよい
だろう.同様の悲劇が,その後ニューギニアで何度も繰り返された
のである.

 南太平洋方面では基地施設が最も充実していたはずのラバウ
ル地区ですらこの有り様である.ニューギニア方面の基地では,
さらに悲惨な状況が待ち受けていた.

▼ 消去法で主要根拠地を選定

 昭和18年3月の時点で,連合軍はラエの南西約100キロの地点
にある「ワウ」まで航空基地を推進していた.これにより,ニューギ
ニア島北岸に構築されつつあった日本軍航空基地のうち,最も東
方に位置する「マダン」は完全に敵中小型機(B-25およびP-38)
の行動圏に入ったと考えられた.この事実は,マダン港は間もな
く常時大規模な空襲にさらされ,中型以上の貨物船の在泊が困
難になることを意味していた.

 一方,ウェワクはマダンより300キロほど西方にあり,この時点で
はいまだ敵中小型機の行動圏のギリギリ外側にあると考えられて
いた.ニューギニア島への補給は,ウェワクおよびその若干東方に
ある「ハンサ湾」までは船団輸送が可能だが,そこから先は小型舟
艇による沿岸輸送に頼ることにならざるを得ない.

 つまり,今後はマダンに対して大規模・継続的な補給を維持す
ることは不可能と考えねばならず,したがって,ラバウルからニュー
ギニアに移転する陸軍航空隊の根拠地としては,マダンは不適格
であるということになる.

 ウェワクより西方には,より安全かつ基地としての潜在能力が
高い「ホランジア」があったが,こちらは主戦場までの距離が遠す
ぎた.陸軍機の航続距離との関係上,最前線であるラエ周辺地区
やフォン半島方面で作戦するためには,発進基地はウェワクの西
方約50キロにある「ブーツ」地区までが限度であった.

 後述するとおり,ウェワクのインフラは,一個飛行師団規模の航空
部隊を収容するには貧弱すぎたのだが,ラバウルにある陸軍航空
をニューギニアに移転するにあたり,ほかに選択できる拠点がない
ことも事実である.第六飛行師団は,基地としての能力不足には
目をつぶって,ニューギニアにおける主要拠点をウェワクに選定せ
ざるを得なかった.

 第六飛行師団の司令部は昭和18年4月末にラバウルからウェワク
に移転し,飛行部隊と地上部隊(歩兵部隊のほか,整備要員と飛行
場設定隊および防空部隊)も次々にウェワクに送り込まれた.

 不足する飛行場の能力を補うため,ウェワク地区に第二,第三滑
走路を追加して整備するとともに,近くの「ブーツ」地区にも飛行場を
複数整備して,これらを一つの「飛行場群」として活用することで対
応しようと試みた.

▼ 基地に不向きなウェワクの地形

 こうしてウェワクは,中部ニューギニアにおける陸軍最大の航空基
地かつ補給拠点となった.しかし,ラバウルの場合と異なり,ウェワ
クには都市(基地)としてのポテンシャルが決定的に欠けており,こ
れが陸軍航空の戦力発揮上,非常に大きな足枷(あしかせ)となった.

 ウェワク周辺のニューギニア島北岸は海岸線から急に山地が立ち
上がる急峻な地形になっていて,広い平地はほとんど存在しない.
日本でいえば,熱海から伊豆半島東部にかけての海岸線を想像す
ればわかりやすいだろうか.市街地は海岸沿いのわずかな平地に
へばりついており,その奥はすぐに急斜面となるため,奥地には人
が立ち入ることすら困難である.

 地盤の傾斜がきついため,滑走路は海岸線に並行する方向(東西
方向)にしか建設できず,横風用の交差滑走路は造成不能である.
その滑走路すら,周囲は山と崖,樹高の高い熱帯雨林が障害物とな
って極めて使いにくかった.

 さらに,山地の北側斜面を切り取って造成した滑走路は北風が吹く
と雲に覆われやすく,積乱雲による豪雨も多発するため,悪天候によ
り航空機の活動が大幅に制約された.ひとたび豪雨が降れば,背後
の山から集まった大量の水が滑走路に流れ込むため,排水はほぼ
不可能.滑走路は雨のたびに泥沼と化し,地面が乾くまで使用不能
になった.雨とともに流れ込んだ泥濘が晴天時に大量の砂埃となっ
て舞い上がり,航空機の離着陸を妨害した.

 南側にそびえる山々が視界を遮るため,南方から山伝いに低空飛
行で侵入する敵機の発見が困難だった.レーダーも障害となる地形
を避けて山の上に設置する必要があるが,その作業に手間取ってい
るうちに基地が奇襲を受けた.滑走路の周囲の地形が険しすぎるた
め,飛行機の分散隠匿施設や誘導路を建設することが困難で,空襲に
対して非常に脆弱だった.

 港湾は水深が浅く,中型以上の外航船は岸壁に接岸できない.陸
地付近まで珊瑚礁が発達しているため,港内の浚渫(しゅんせつ)作
業もほぼ絶望的である.

 ごく小さな市街地を一歩出れば,周囲は樹高20メートルに達する未
開の大ジャングル.点在する湿地や湖沼,小河川には大量の蚊が発
生し,マラリアやデング熱の巣窟となっている.近代的な都市インフラ
はほぼ存在せず,急峻な山と崖ばかりの地形では兵舎の増設も困難
だった.苦労して食糧,燃料や弾薬を揚陸しても,これを運ぶトラックを
走らせる道がなく,大量の物資を安全に保管できる倉庫や集積場も不
足している.

 せっかく運んできた補給物資も,しばしば港や飛行場の周辺に野積
みされることがあり,多くの物資が揚陸後に空襲で焼き払われた.

▼ 恐るべきニューギニアのインフラ事情

 ウェワクはニューギニア島中部北岸一体を占める広大な地域(東セピ
ック州)の州都なのだが,その人口は現在でもわずか2万人ほど.ニュ
ーギニア北岸がいかに人口希薄な地域であるか分かるだろう.1940年
代は正確な資料がないが,今よりはるかに小さな集落だったと思われる.

 そしてウェワクには,戦後70年を経た現在ですら満足な物流インフラ
がない.それを物語る興味深い事例があるので,以下に紹介する.

 ウェワク地域に対しては,2008年に日本から総額5億円のODA(政府
開発援助)が供与されており,その使途は港の桟橋と魚市場の整備で
あった.このプロジェクトの開始にあたり,JICA(国際協力機構)が作成
した事前レポートには,以下のような記載がある.(JICAウェブサイトより引用)

「ウェワク桟橋は東セピック州唯一の小型船・漁船用桟橋であり,2002年
の地震による崩落後は全く使用不能となっている.本プロジェクトの対象
地であるウェワク町は東セピック州の州都であり,経済・流通の中心地で
もある」

「既存ウェワク桟橋は2002年の大規模地震によって崩落し現在は全く使
用できない状態であるため,船は桟橋西側(郵便局前)にある砂浜(船溜
り)に接岸・係留して旅客・貨物・鮮魚等を陸揚げしており,(中略)早朝,夕
方は多くの乗降客や荷物で混雑している」

「既存桟橋は,1940年に現在の位置に捨石岸壁として建設されたものである」

 つまり,州都であるにもかかわらず,漁船が接岸する桟橋すらまともなも
のがなく,しかもウェワクを除くと,州内には他にただの一つも桟橋がないとい
うのである.

 JICAの文書にはウェワクの港湾施設の歴史について触れた部分があり,
その記述から推定するに,1943年の時点では,1940年に築造された長さ50
メートル程度の小岸壁が港湾施設のすべてであったようだ.

 ウェブ上で同地の航空写真を見ると,この施設がいかに貧弱であるかを視
覚的に理解できる.ウェワクの海岸からは東西二つの半島が北方に突き出
しているが,その西側の半島の中ほど,東に面した海岸線にこの岸壁の痕
跡を見ることができる.岸壁の周囲は珊瑚礁に囲まれており,明らかに浅瀬
である.岸壁のサイズからしても,中型以上の外航船の接岸は不可能であ
り,せいぜい数百トン級の小型船舶や漁船の利用を想定したものだろう.

 JICAの文書によれば,近年ウェワクには二つの半島の間に新港が建設
され,外航船の接岸が可能になったとある.この新港も航空写真で確認で
きるが,珊瑚礁の浅瀬を貫いて長い桟橋が沖に伸び,その先端部に岸壁が
作られている.この位置は海の色が暗くなっており,大型船が停泊できる水
深があるのだろう.

 逆にいえば,このくらい立派な施設を作らない限り大型船の接岸はできな
い地形だということである.ウェワクに入泊した日本の輸送船は,現在の新
港があるあたりに停泊して沖荷役を行なっていたと想像される.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.5.27




荒木 肇
『野戦の経理部将校(10)──自衛隊&陸軍の高級幹部のつくり方(32)
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□はじめに

 当時の戦時国際法(正確には『陸戦の法規慣例に関する条約』.
その附属書『規則第52条』)には次のような文言がありました.
おおよそです.

(1)現品徴発及び課役は占領軍の需要のためにする非ざれば
市区町村または住民に対して之を要求することを得ず.

 つまり私人である「占領軍兵士もしくは軍属」の個人的需要は
禁じられています.

(2)現品徴発及び課役は地方の資力に相応し,且人民をしてそ
の本国に対する作戦行動に加わるの義務を負わしめざる性質の
ものたることを要す.

 地方の実情を無視した勝手な物資の押収や,それをすると占領
地人民の祖国への裏切り(敵軍の作戦行動に利するような行動)
になるようなことをさせてはならない.

(3)右徴発及び課役は占領地方における指揮官の許可を得るに
非ざれば之を要求することを得ず.現品の供給に対しては成るべ
く即金にて支払い,しからざれば領収証をもって之を証明すべく
且成るべく速やかに金額の支払を履行すべきものとす.

 占領地域の指揮官の命令をなくして勝手に徴発できない.即金
で支払えとは経理部将校が保管する金櫃(きんき)から取りだせ
ということだ.できない時は書類を交付して,人民の請求があれ
ばすぐに野戦倉庫などが支払いをしなければならない.

 こうした国際法が負け戦の軍隊にどれほど実行できたでしょうか.
それでも,人は努力する.そうした実態をいくつか紹介しましょう.


▼『志気即是喰』(しきそくぜくう)の教え

 ビルマ方面軍第28軍第55師団山砲兵聯隊高級主計だった
石原主計大尉は語る.
『志気は食うことが保障されないといかん.給養第一を目標に
努力しましたが幸いにビルマ(現ミャンマー)は米の産地であり,
親日感もあり苦労は少なかった』

 ビルマと言ってもその範囲は広い.中国雲南省に近いところ,
インパール作戦が行なわれた地域,南のベンガル湾に面する
地方に分けられる.第55師団は南の地方だった.物資はあり,
陸続きでもあったから補給は続いていた.粉味噌,粉醤油,時
には乾燥野菜の支給だったが,その他はたいてい現地で間に
あった.米,塩干魚,塩,砂糖,野菜などは師団経理部で調達
し交付を受けた.

 それでも作戦区域内はもともと人口が希薄な所だったし,度重
なる戦争の被害で物資はほとんどなかった.野戦倉庫から受領
する品目は係の下士官兵の裁量一つだった.融通を効かせて
もらうと,その代わりに敵の侵攻が近いということで閉鎖する倉
庫には空伝票を切ってあげるなど助け合った.こうした証言から
は野戦の軍隊の柔軟性が見てとれる.主計大尉が手土産をもっ
ていき,倉庫の係の下士官兵とふだんからくだけた人間関係を
つくておけば交付物資は増える.その代わり倉庫の便宜も図っ
てやるといった,平時や今も同じようの組織の運営が見えてくる.

『わたしが一番活躍したのは,19年3月下旬に後方に下士官以
下を派遣して,烈日を利用して肉,魚,野菜,そうめん等を手当たり
次第集めて乾燥させたところ,5月雨期に入ってから,これが大変
役立ちました』

 大隊長の中には「いかに聯隊命令とはいえ,戦闘中に兵を後方
に下げるとは」と苦情を言ってくる人もいた.しかし,聯隊付の高級
主計が聯隊長の許可を得ての行動である.なんとか実績を挙げ
たことで勘弁してもらった.ところが,なかなかの悪事も行なっている.

『接敵地域につき,住民の感情を顧慮し,その飼う牛に手を付ける
な』という師団経理部長の通達も無視して,生きた牛を徴発,給養
に充てるなどの「離れ業」も行なった.一番不足したのは煙草だった.
酒はなくても我慢できた.ついには枯葉や茶を紙で巻いて吸う者も
出てくる.これはいまの自衛隊でも難しい.喫煙が身体に悪いのは
明らかで,しかも物資が欠乏してくるとタバコが見つからない.

『時にジャワ産の白い紙巻きたばこが補給されると,みんなの目が
違います.ヤッカミ半分に,主計はいつも白いのを吸っているなど言
われますので,スッパリやめました.それをわたしの配給分を経理室
の使役兵に分けてあげたので,みんな喜んで働いてくれました』

 興味深い指摘もある.19年に作戦が終わり,第55師団は休養に
入った.作戦中は緊張しているからよいが,作戦後に消耗があった.
朝元気な者が10時ころになんとなく憂鬱そうな様子を見せる.午後に
なると頭が痛いといって熱が出る.夕方になるとぽっくり死ぬ.マラリ
ヤがもっとも激しい地域だった.

▼イラワジ河の東と西

『19年の7月,インパール作戦があぶなくなって第2師団が雲南省
に転用された.その後へ第55師団は入れということになり,イラワジ
河から東に入りました.様相が一変します』

 物がなんでもある.軍票が使えた.町に行って御用商人(すぐに占
領軍に関係する人が出ることはどこも変わらない.そうしなければ暮
らせないからだ)に「これで物を持ってこい」というとなんでも持ってき
た.近くの村長たちを集めて,あと1週間後に豚と鶏,家鴨を持ってこ
いと適当な数を命じた.3分の1も集まればいいやとタカをくくっていた
ら,その通りの数がそろってしまった.置くところがなくて困った.

 まさに「軍隊とは運隊」とよくいったもので,イラワジ河を境にまさに
将兵の運命は分かれたといっていい.もっともこの第55師団も撤退
では大変な苦労をすることになる.

▼フィリッピンの実態の一つ

 第19師団歩兵第75聯隊の幹部候補生出身の主計少尉の話.
『昭和19年12月末,北サンフェルディナンドに上陸しました.翌年
1月9日には,わが防禦正面になるリンガエン湾に敵の上陸攻撃
が開始されたのでありまして,確か1月5日と記憶しておりますが,
聯隊がいっとき駐留中のアゴー海岸(北サンフェルディナンドの南
約40キロメートル)に敵の艦砲射撃がありまして,内地から携行,
苦労して揚陸した聯隊の糧食のほとんどは吹き飛びました』

 こうしてほとんど糧食がないという状態で,およそ1カ月はナギリア
ン付近(海岸線より約20キロ内陸へ入った地点)で防禦陣地を築き,
その後,山中に入った.第19師団は朝鮮軍の基幹師団だったが,
「虎兵団」という名称で出港,しかし次々と潜水艦による雷撃で沈
み,ルソン島に上陸できたのは師団で1万500名,歩兵第76聯隊
は1400名だった.

 山中では『糧秣補給なども行われず,師団司令部に要求しても
「何もない.とにかく自活せよ」というだけでした』
 実際,フル装備の戦時編制の一級師団である.定員は2万4000
といううちの約1万名が武器弾薬も十分になく,糧食なく,医薬品や
衛生材料もなく,山中に放り出された.それでも無事にあがった部隊
もあった.装備も満足で規律も正しいという評判も立った.しかし,こ
れも食糧欠乏のために3月までの話でしかなかった.

 貴重な教訓も残されている.
(1)馬は暑さのために上陸後,2〜3カ月で死亡した.
(2)金櫃(中に入っていたのは軍票と日本紙幣)は使用することなく
終戦1カ月前に焼却した.
(3)衣服,軍靴は着のみ着のままだったが,最後まで何とか用は
足りた.
(4)上陸して早々に海岸近くで水牛約30頭を徴発.物資運搬用
と食用にした.ただし,領収証を発行.
(5)山中に入る前は,籾の蒐集,水牛の干し肉製造も少しは出来
たが,主食はもっぱらカモテ(甘藷)で,野菜はそれに茎や葉,調
味料は塩だけだった.ときにバナナ,タピオカを口にできたが,後
半はカモテも手に入れられなかった.作戦用の携帯口糧の代わり
に,カモテを飯盒でゆでて,5ミリくらいの厚さに切って天日で干した.
(6)現地自活はわずかながらも松根油を,防疫給水部が自動車用
燃料としてつくった.
  防疫給水部は軍医官を主体とし,経理部将校もいた衛生関係部
隊だが,カモテの携帯口糧をつくっては前線の歩兵部隊に配っていた.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.5.27




● 数学者の新戦争論(3) 非線形爆発のはては“大規模虐殺”
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■ごあいさつ 〜上のレベルへ行っても通用するタイプ〜

こんにちは.渡部です.

いよいよプロ野球のキャンプが始まりました.
元高校球児のわたしとしては,わくわくする時期です.
新人選手の誰が活躍するか予想するのを,毎年楽しみにしていたからです.

ただ,その予想も数年前からしなくなりました.当たらなくなったからです.
わたしのやっていた頃に比べてプロ野球のレベルが上がり過ぎたことも,一因ではない
かと思われます.レベルが上がり過ぎて,新人選手でどのような資質・能力の持ち主
が,上のレベル(プロ野球)にも適応できるのか,感覚的にわからなくなってしまった
といってよいでしょう.

野球のほうはこのように,上のレベルがどのようなものかわからなくなりましたが,
数学ならまあわかりますから,たとえばどんなタイプの小学生が中学数学にもうまく
適応できるかはわかります.

それは〈下のレベルの基本問題を着実に解ける〉ことです.
たとえば小学生なら,教科書ていどの難易度の問題でも〈スラスラ解ける〉であれば,
中学へ進んでも確実に上位グループに入れます.難しい問題が解ける解けないはあまり
関係しません.中学生でも同様です.

小・中学生のお子さんをお持ちの読者の方,ぜひ実行してみてください.


▽南京“大屠殺”

 わが国は昭和十六年十二月八日の真珠湾攻撃以前から戦争をしていた.満洲の権益を
巡り,中国との武力対決に至っていたからである.昭和十二年七月の盧溝橋事件に端を
発するその日中戦争と太平洋戦争を合わせて,一般には今次大戦と呼ばれている.

 その今次大戦において日本軍は,相手側の戦闘員だけでなく,一般民衆をも虐殺的に
殺害するという事件をいくつかひき起こしている.大規模なものは二例あったといわれ
る.まず,南京事件である.

 盧溝橋事件後,日本軍はただちに上海に攻め入った.上海には蒋介石率いる中国軍
三十万がいたからである.戦いは三か月続き,十一月初めの中国軍撤退をもって終了し
た.日本軍は全兵力約十六万のうち,死一万,傷三万ほどであった.全軍の四分の一も
の死傷とは,相当以上の激戦であったことを意味する.

 戦いはそれで終わりにならなかった.中国軍は降伏したわけではなく,上海から
三〇〇キロほど内陸に入った首都(当時)南京に撤退し,さらに強固な防衛陣を構えて
いたからである.それを追って日本軍は各地で小戦を重ねながら南京に迫ったのが
十二月の初め.南京は周囲三十五キロ(山手線と同じくらい)に城壁を張り巡らした
城郭都市である.中国軍はその内外に三線の防衛ラインを敷いていた.それを強行突破
して日本軍が南京に入城したのは十二月十三日.“事件”はそれから二十日までの間,
一週間にわたって行なわれたといわれる.

 発端は便衣兵狩りであった.便衣とは中国語でふだん着のことである.中国兵の多く
は日本軍が南京に入城すると軍服を脱いで便衣に着替え,一般民衆の中に紛れ込んでい
た.それらを探し出して捕虜としなければ,戦いは終わりにならない.便衣兵がいつま
た軍人に戻り,抵抗勢力を形成するかわからないからである.ただ探し出すといって
も,便衣兵と一般人との区別は難しい.いきおい,屈強そうな男たちはたいてい便衣兵
として連行されたといわれる.抵抗した者はもちろん,その場で射殺である.それを
阻止しようとした家族ら一般民衆の少なからずも同様の目に遭った.連行された便衣兵
たちの多くは,再び帰ることはなかった.南京城外を流れる揚子江には,そのようにし
て虐殺された中国人の死体が,毎日のように数百体,数千体と浮かんでいたといわれ
る.

 その数の正確なところは誰にもわからない.日本軍は二万〜三万としているが,中国
側の発表では三十万ほどになっている.当時の南京の人口約一〇〇万に対し,三十万の
死とはいくらなんでも多すぎると思われるが,ともかく数万人規模の虐殺的殺害が行な
われたことは確かではないかと思われる.中国側はこの事件のことを“南京大屠殺”と
称し,以後今日に至るまで反日的気運が盛り上がるたびに,日本人の残虐性を象徴する
事例として,引き合いに出されていることは,周知のとおりである.


▽シンガポールと蘭印の場合

 今次大戦において日本軍はもう一つ,大規模虐殺事件をひき起こしている.シンガ
ポールにおいてである.

 太平洋戦争勃発時,イギリスはシンガポールに東洋最大の軍事基地を築いていた.
シンガポールは淡路島より少し大きいていどの島で,イギリスは十六世紀以来属領と
し,二十世紀になってからは全島を要塞化し,三万の守備隊をおいていた.

 シンガポールを攻略しない限りわが国の南方作戦は進展しない,というわけで開戦当
日の十二月八日,日本陸軍約十万はまずマレー半島のつけ根の町,ジットラとコタバル
に強行上陸を果たした.そこからマレー半島各地の英印連合軍を個別に撃破しながら
南下し,シンガポールに北方から迫る作戦であった.目標のシンガポールを直接攻める
ことをしないで,はるか一一〇〇キロも彼方に上陸したのは,そのあたりの守備陣が
手薄だったからであり,さらに当時の巨大砲の操作能力のモンダイもあった.太平洋
戦争時の要塞砲など巨大砲は,すべてコンクリートの台座に固定されているものだっ
た.そうしないと発射のさいの衝撃で砲座にひびが入ったりし,以後操作不能的状態に
もなりかねないからである(今はそんなことはない.よほどの巨大砲でも三六〇度回転
できるものである).それら巨大砲は洋上からの攻撃に備えて,すべて南方に向けられ
ていた.その南方(海上)から艦船で迫ることは,多大なる損害が発生すると想定され
たからである.

 当時のマスコミが銀輪部隊と報じたことでもわかるように,自転車を連ねた日本軍は
各地で英印連合軍陣地を突破し,それら敗兵を追撃しながら全マレー半島を五十日で
縦断し,シンガポールの対岸の町ジョホールパルに達した.その過程で死一五〇〇,
傷二五〇〇ほどを出しているから,上海戦ほどではないにしろ,それなりの激戦が行な
われた戦線もあったのである.

 シンガポールそのものの攻略戦は一週間で決着した.マレー半島各地から日本軍に
追われて逃げ込んでいた部隊も含めて英印連合軍約十万は,二月十五日に降伏した.
そこでも南京と同様の大虐殺的事件が発生した.当時の日本軍の表現によれば,主とし
て敵性華僑に対してである.

 シンガポールは軍事基地としてよりも,東洋と西洋を結ぶ商業の中継基地として栄え
ていた.人口も一〇〇万人近くあった.その商業資本の多くは中国からの移住者(華
僑)が握っており,日本軍の進出により自らの権益が侵されることをおそれた華僑人に
よる抵抗が,マレー半島全域で激しかった.華僑資本側が義勇兵を募ったり,傭兵を
やとったりした華僑部隊が,日本軍に対して最も勇戦したといわれる.

 その残党の多くがシンガポールに逃げ込み,南京と同様,軍服から便衣に着替えて,
一般民衆の中に紛れ込んでいた.そこでも南京と同様の便衣兵狩りが行なわれ,やはり
南京事件と同様の経過をたどり,日本側の発表によれば二〇〇〇人〜三〇〇〇人もの敵
性華僑が粛清されたといわれる(華僑側の記録ではその十倍ていどの数字になっている
という).

 一方,今次大戦において同じく日本軍が大挙して侵攻しながらも,その種虐殺的事件
がほとんど発生しなかった戦線もあった.蘭印方面戦である.今日のインドネシアのこ
とである.

 攻める日本軍は陸軍第十六軍約十万で,守る側の蘭(オランダ)印(インドネシア)
連合軍は,応援部隊の英・米・豪も合わせてやはり十万ほどであった.戦いは昭和十七
年一月から三月までの二か月で決し,連合軍側が降伏した.日本軍の損害は死二五〇,
傷七〇〇ほどであった.割合的にいえばシンガポール戦の五分の一,上海戦に比べれば
三十分の一といった軽微なものである.蘭印軍の抵抗は海岸部だけに限られたためでも
ある.その上陸戦で圧倒された段階で降伏し,内陸部の人口密集地帯に逃げ込んだりし
なかった.したがって追撃戦が行なわれず,捕虜や一般民衆に対する日本兵による虐殺
どころか,略奪的行為もほとんど発生しなかった(そのようなこともあり,今日でも
インドネシア人の対日感情は一般に良好であるといわれている).


▽非線形爆発のはてに

 同じように十数万の日本軍が攻め入ったのに,一方(南京とシンガポール)では
大規模虐殺的事件が発生し,他方(インドネシア)では発生しなかった.なぜそのよう
な違いになったのか.

 もちろんその答えは単純ではない.南京・シンガポールには軍事的に政治的に強力な
抵抗勢力が存在し,インドネシアにはそのようなものはなかった,といった理由をあげ
るのが一般的なようである.ただ,私はそれを数学的観点からも探ってみたい.

 さきに私はこうのべた.われわれの関係する世界は,数学的にみれば線形的空間と
非線形的空間の二つに分けられると.さらに〈戦争〉という事象を基準にしてみるな
ら,前者は〈平時〉に,後者は〈戦時〉に対応するとしてもそれほどの不都合はないと
も.

 その非線形的空間(戦時的世界)の事象は,そういった事態が進展するにつれて,
次のように二つの事項に拡散,もしくは収斂することが知られている.

(一) 非線形爆発・・・そういった事態が進展すると,その事象全体はある段階で
            爆発的に拡散する.
(二) 非線形凝集・・・そういった事態が進展すると,その事象全体はある段階で
            凝集的に収斂する.

 ようするに南京・シンガポールは,(一)の非線形爆発のケースではなかったかと
言いたいのである.そのカギは〈追撃戦〉にある.南京でもシンガポールでも,日本軍
は逃げる敵軍を追って二か月あまり追撃戦をした.その追撃戦が前記非線形爆発の項に
おける,そういった事態(戦時的事態)のさらなる進展に相当し,その帰結として爆発
的拡散(虐殺)にも至ったのではないかということである.実際,シンガポール作戦に
参加したある兵士はこう語っている.

 「(追撃戦が次第に重なると)理性も常識も失われ,しまいにはどんな残虐なことで
 も平気に行なえるようになった」

 一方,インドネシアではその追撃戦はなかった.緒戦の上陸作戦の段階で蘭印軍は
完全に降伏し,残兵が内陸に逃げ込んで抵抗するようなことはなかった.つまり,戦時
的事態の(さらなる進展)がなかったため,爆発的拡散(虐殺)も発生しなかったので
はないのか.

 ただし,以上のような線形・非線形にかんする数学理論とは,まだ完成されているも
のではない.その〈ある段階になれば爆発的に拡散する〉にかんしても,具体的にどの
ような段階をいうのか,またその爆発の規模がどのていどになるのかなど,まだまだ
未解決的事項の多い理論である.その意味では理論というよりはまだ構想の段階にすぎ
ない,といえるのかもしれない.

 がともかく,戦時において大規模虐殺的事件が発生する理由については,これまでに
みてきたように〈追撃戦〉にもあるのではないかと,私には思われる.


▽日本人が残虐だから大規模虐殺に至ったのではない.

 以上のような“理論”が成り立つことを証明するといえそうな事例が,かつてのわが
国においてあった.源平時代のときである.

 周知のように木曽義仲は都に攻め入り,乱暴狼藉の限りを尽くした.同じ日本人で
あったから乱暴狼藉ていどですんだが,異民族が相手なら大規模虐殺にも至っていた
はずである.

 それは追撃戦のはての行為であった.義仲軍はその年の五月から六月にかけて平家方
の義仲追討軍を,まず倶利伽羅峠の夜襲で破った.さらに逃げる平家軍を追って計五度
の戦いのことごとくに勝利をおさめ,そのままの勢いで都に攻め上ったはての蛮行で
あった.

 一方,同じく平家方の追討軍を富士川で破った頼朝軍は追撃戦をせず,その段階で
いったん兵をおさめ,根拠地の鎌倉に引き返した.範頼・義経兄弟率いる頼朝軍が義仲
追討のため都に攻め上ったのは,その四年後のことである.その戦いは緒戦の勢田・宇
治川戦で決着がつき(義仲はそこで敗死した),追撃戦が行なわれることはなかった.
おそらくはそのためでもあったものと思われる.都に入った義経軍には狼藉的行為は
ほとんど発生しなかったと,伝えられる.

 同じく東国の兵士,源氏軍団でありながら,一方では蛮行が発生し,他方ではなかっ
たことでもわかるように,以上線形,非線形にかんする数学理論は,人種・民族のいか
んにかかわらず,すべての人間に適用されるものである.そもそも数学理論とは,人間
存在全体を対象とするものであるから.人種・民族を問わず,同じような条件下(追撃
戦のあるなし)にあれば,同じような事態にも至りうるのである.日本人が特に残虐性
を有する人種だから大規模虐殺をした,というわけではないということである.

 実際,そうである.近代ヨーロッパにおいて,どれだけ多くそのような事件が発生し
たか.ナポレオンはイベリア半島において逃げるスペイン軍を追って,行く先々の町や
村で虐殺的事件をひき起こした.捕虜や一般民衆合わせて百万を下らない虐殺を行なっ
たといわれる.普仏戦争(一八七〇)でも,一八世紀から十九世紀にかけてのロシアに
よるポーランド侵攻でも,同様であった.

 古い時代はそれはもっと極端であり,大規模的でもあった.ローマは戦いに敗れて
自国に逃げ込んだカルタゴ軍を追撃し,そのはてにカルタゴ一国を攻め滅ぼした.戦闘
員だけでなく一般民衆をも壮年者は奴隷として自国に連行し,残りは殺戮し尽くした.
秦の始皇帝も同様,やはりそのようにして追撃戦のはてに,趙の国の老若男女ことごと
くを生き埋めにしたと伝えられる.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2011.2.4




荒木 肇
『敗戦時の経理部将校(1)──自衛隊&陸軍の高級幹部のつくり方(33)
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□はじめに

 経理部将校たちの活動範囲の広さや,その所掌事務の膨大さ
はいくらかお分かりになったでしょうか.まだまだ方面や部隊別
の奮闘記が残されています.

 大戦末期の陸軍の総兵力はおよそ550万人にもなりました.そ
のうち将校の数は組織制度からいってどこの国の軍隊も変わらな
かったようです.大国の陸軍では全体の4.5%が将校・士官であ
ることが標準と見られています.准士官・下士官が12.6%,兵員は
82.9%といわれてきました.そうすると,帝国陸軍の末期には,
総人員数550万人×0.045,すなわち24万7500名くらいが将
校(兵科・各部少尉以上の武官)となります.

 復員局が作った『動員概史』によれば,終戦時の将校はやはり
約25万人.うち,将官は約1600名,佐官が同4万4000名,尉官
は20万5000名で合計が25万600名となります.現役将校はそ
のうち25%でしかなく,大多数の75%は予備役からの召集将校でした.

 現役将校の数は約4万8000名,そのうち兵科2万9000名で
60.4%です.陸軍は技術軽視といわれたはずですが,技術部将
校は約6700名ですから13.9%,それに経理部主計将校は34
42名で7.2%と建技将校が685名で1.4%.つまり,将校のうち
5人に3人は兵科でしたが,あとの2人のうち1人は階級章の下縁
に黄色の線をつけた技術将校がいて,残りの1人は銀茶色の
主計・建技将校(8.6%),深緑の軍医・薬剤・歯科・衛生将校
(13.3%)だったというわけです.これにおよそ3倍の予備役将校
がいました.

 今回からは敗戦にまつわる多くの話からお届けします.

▼ラバウルの現地自活

 昭和20(1945)年12月31日現在の数字で,ラバウルにあった
第8方面軍の総兵力は9万2784名だった.方面軍とは数個の軍を
まとめる単位で,この時の司令官は今村均大将である.方面軍経理
部では,内地からの補給品はひたすら温存し,現地自活に努めると
言う方針を立てた.農作物の作付け面積は1万9568反歩,これを
1人当たりの平均にすると62.26坪,およそ205平方メートルになる.

 ラバウルを占領し,わが軍を武装解除したオーストラリア軍には一切,
世話にならずにすんだ.どころか,ボーゲンビル方面の第17軍へ,ニ
ューギニア方面の第18軍に糧食や被服,需品などを合計1000トン
ずつ豪軍の輸送船で送るということまでできた.

 当時のもちかえった資料を手に語るのは軍経理部部員だった主計大
尉.中央大学法学部を卒業,現役将校になった人である.のちに厚生
省復員局にも勤めた.
『昭和21年1月20日の現況を申し上げます.人員9万2784名,馬
600頭,精米1845トン,乾パン1432トン,現地栽培の陸稲24トン,
合計で3301トン.1か月消費量678トンとして4.86カ月,すなわち1
46日分.なお,当時の部隊の勤務及健康状態は次の通り』

 さすがに患者の数は多い.およそ2万8000名が軍医の診断を受けた
正規の患者である.うち入院患者数は約3800名,入院するまでには
至らない在隊患者は同2万4200名.現地自活人員は1万4000名で,
豪軍による使役作業などが2万3000名,集団の中での勤務は2万80
00名だった.この自活人員が農作業要員であり,集団内勤務者は部
隊の生活維持のために働いていた.もちろん,衛生部,経理部勤務者
はこちらになることが多かった.

▼今村大将の英知

 1942(昭和17)年12月に第8方面軍司令官として今村大将が着任した.
ただちに方面軍経理部長(主計少将)と大佐の軍医部長を呼んだ.現地住
民の食生活を調査せよとの命令が下った.何を食べているのか,それを
我々が食べて生きていけるのかを調べろというのだ.

『わたしの記憶によりますと,6〜7か所に農事試験場を設けました.なに
しろ我々は全く兵要地誌に基づく現地の物資の利用法も何も知らないわ
けです.そこでパラオから山中技師,神山技師というベテランを,南方糧
食・農耕関係の方々を集めて研究されたのです.そして自活用農器具を
大本営に申請して送ってもらいました』

「兵要地誌」とは軍隊が外地に進出し,あるいは戦闘し,占領駐留すると
きのための情報である.現地の植生,地形,民情,その他たいへんな量
の情報である.この準備がまるでなかった状態で日本軍は海外に出か
けた.出征すれば,そこの住民の意識や交通,通信機関の様子,戦闘の
影響や秩序はどうか,さらには残った敵勢力の影響なども知らねばなら
ない.しかし,多くの南方派遣の軍人たちは何も知らなかったし,参謀本
部から情報もほとんど与えられた形跡がない.

 占領地で困惑させられた事例,体験談を見聞きするたびに心が痛む.
みな現地で手探りである.だれが「ポツダム宣言」などにいう計画的に
世界制服などと考えていたのだろうか.少なくとも陸軍は,大陸での戦
闘はともかく,南方での戦いなどほとんど考えていなかったことが分かる.

 ラバウルでも同じ状態だった.緒戦の勝ち戦の頃である.今村の指示
に戸惑った幹部も多かったらしいが,兵站補給のシステムは現によく作
動していた.ラバウルまでは物資は順調に送りこまれて来ていた.しかし,
今村は,いずれ南方方面の補給は途絶すると予想していたのだった.
その先見の明がラバウル10万の将兵の命を救ったのである.

 現地の農業は苦労の連続だった.地味が薄い,つまり土壌に栄養分が
少なかった.風によって花粉を運ぶ植物はよいが,ハチやトンボ,アブな
どがいない.内地からもっていった種子は育つのだが,実がならなかっ
た.国際連盟からの委任統治領の行政は南洋庁が担っていたが,そこ
で活躍してきた人たちを指導官として招いて農業技術を広めていくしか
なかった.
 
 陸海軍の補給の違いについても主計大尉は語る.
『海軍は,まったくわれわれと戦闘の様式が違いましょう.われわれ陸軍
というのは地下足袋はいて,脚絆を巻いて,おいしいとかいいものは残し
ておいて,まずいものからまず食べて行くと.海軍はもう当時でもちゃんと
夏の白い服を着て,ナイフとホークで西洋料理を食べる,宵越しの銭は持
たないと,畑で自活して戦争をするということは軍艦の戦闘ではございません』

 海軍は『宵越しの銭は持たない』とはよい表現である.海軍は内地の基
地,もしくは巨大な根拠地から十分な糧食をフネに積んで戦闘におもむく.
逆にいえば,めったに洋上補給を受けるようなことはなかった.日本海軍の
興味深いところは太平洋という広い海域を主戦場と考えていた割に,給糧
艦や工作艦といった後方支援のフネが少なかったところだ.これはもちろん
侵攻してくる敵艦隊を近海で待ち受けて洋上決戦をするといった想定に関
わりがあった.また,陸軍と比べれば戦闘の時間的長さが違う.そして「ボカ
チン食らえば」一巻の終わりである.まさに「宵越しの金」などしみったれた
感覚でしかないだろう.

▼補給品の地下への格納と教訓

 1944(昭和19)年の8月になると補給も尽きた.ラバウルを要塞にして,
この中で最後まで戦おうとなった.内地から送って来たものはすべて地下壕
に納めることになった.空襲からの被害を減らすためである.ちょうど東京か
ら熱海に着くくらいの100キロを超えた地下トンネルを掘った.自活のために
農業をしながら地下掘削工事も続けていた.
『海軍の部隊,航空の部隊が引き揚げる前に,どれだけ敵の飛行機がやっ
てきたかというと,19年の1月で2979機,2月が2732機,来ない日もあり
ますが平均一日に100機です.これだけ来るから軍需品を地下に埋めなけ
ればならないと.その間には現地自活もせにゃならんと.だからしてこれを統
率した軍司令官や経理部長が苦心されて,みんなそれについてくるということ
で各部隊長が非常に熱心でしたね.それによって一人でも落っこちる兵隊の
ないようにしようという執念で,ああいうものが出来上がって,ラバウルの現
地自活というのが有名になったと思うんです』

 予期された戦闘は対戦車肉迫攻撃だった.終戦前に貨物廠長に転任した
主計大尉は部下といっしょに,午前中は対戦車戦闘の訓練に励み,夕方は
現地自活にいそしんだ.だからラバウルでは貨物廠長は部隊長章を付ける
べしと命令があって,軍隊指揮権ももたされた.各部将校の指揮権がどうだ
という議論もなくなって,勝たねばならないという時には平時の議論は問題
にもならなかった.

 空襲に備えて地下壕に入ることになった.周りにはタピオカを植えることに
した.そうすると,まさかの時には夜中でも這い出て食べられるようにという
配慮である.

▼米と鍬の思い出

 今村大将は敗戦になってから,兵隊をみな内地に帰すという時にオース
トラリア軍に申し出た.米一升と鍬を一丁つくって,兵隊みんなに渡せるよ
うにしてくれと.米が一升あれば,なんとか家に帰りつけるだろう.そして鍬が
あれば,ここラバウルで何年間のあいだに現地自活を覚えこんだはずだ.そ
の根性と努力があれば必ず復興ができる.日本の復興のために大事なもの
になるだろうからと,みんなに鍬一丁はもたせて欲しいというのである.

 教訓めいたことを言えばと主計大尉は語り続ける.
『部隊長に現地自活というのは作戦だと,どちらがどうのということではなく,
これは一体となるべきものだということを部隊長に教育してあったら非常によ
かっただろうと思うし,また軍司令官の指導がよかったからみんなそういう頭
になってしまったんですけれど,そういうことを兵科の方の部隊長にも徹底す
るような教育がある程度行われていればよかったと思うんです』

 ただしと言う.どこでもラバウルのようにできたか,それは疑問だという.ラバ
ウルは内地から6000キロも離れている.補給線が長すぎて糧秣が来ないと
いうことは,いわなくても兵隊の頭で分かる.だから自分たちでやらなきゃな
らないという気が起きる.何もない所でもやってやろうという気になる.だから,
どこでも模範になるという例ではない.

 ラバウルの現地自活はそれだけで一冊の物語になるだろう.次回は悲惨
な敗走の記録や,敵軍との出会いなどを調べよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.6.3




『ライター・渡邉陽子のコラム (48) ─ 飛行管理隊/飛行情報隊(3) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

いま『チューズデーに逢うまで』を読んでいます.
イラク戦争に2度派遣されたモンタバン大尉が帰還後に
心身を病み,絶望のさなかに介助犬チューズデーと
出会うというノンフィクションです.

チューズデーはつやぴかのゴールデンレトリバー.
もっと早く読み進めたくてうずうずしています.
来週には感想をお伝えしたいと思っています.



■ 飛行管理隊/飛行情報隊(3)

前回は防衛省独自の飛行管理情報処理システム,FADPを
ご紹介しました.
FADPを運用しているのが飛行管理隊,自衛隊の発行するす
べてのノータムに目を通し,不備がないかチェックするのが飛行
情報隊.いずれも航空支援集団の航空保安管制群に属してい
ます.けれど,地味で目立たず,自衛官ですらその存在はあまり
なじみがありません.


ちなみにFADPにつながる組織をざっと挙げてみると,まず警戒
管制,指揮運用,航空管制,洋上管制,航空気象,空輸管理・訓
練管理などの組織のシステム.飛行管理系ではノータム処理装
置,陸上自衛隊のターミナルレーダー情報処理システム,海上自
衛隊と航空自衛隊の基地業務隊,在日米軍の基地業務隊など.
さらに国交省のFDMS.すごい数です.

FADPを中心に置き,オンラインネットワークでつながっている関
係機関を周囲に並べた図を描いてみると,FADPがどれほど重
要な役割を果たしているシステムであるか,そしてどれほど多くの
部隊や組織とつながっているのかよくわかります.FADPなくして
日本の空の安全と平和を守ることは不可能と言っても過言ではありません.

それなのに飛行管理隊も飛行情報隊も目立たない........ ノータムや飛行
計画書がどんな部隊のどんなシステムを経由して必要とするところへ
発信されているのか,提出した隊員も案外知らないものなのです.
しかし認知度は低いとはいえ装備や技術の質は高く,隊員たちは
「自分たちはFADP,ノータムに直接関わる唯一の部隊」という静かな
誇りを抱いています.頼もしいです.


日本の上空への不法な航空機の侵入を防ぎ,空の安全を守る航空
自衛隊の任務をまっとうするためには,空を飛び交う航空機の正確
な情報が不可欠です.
飛行管理,航空警戒管制,航空管制,捜索救難といった関係部隊が
必要とする情報量は増え続ける一方で,今までにも増して迅速,的確
な処理が求められています.そのためにFADPがどのように運用され
ているのか,ノータムがどのように発行されているのか,それぞれの
部隊の内側に踏み込んで見てみることにします.

まずはFADPを運用する自衛隊唯一の部隊である飛行管理隊から.
埼玉県の入間基地にある飛行管理隊.昭和35年に米軍から移管され
た当時は,電信で飛行計画書を送り,音声でやりとりしていたといいます.
しかし昭和46年に全日空機と空自戦闘機の空中衝突事故,いわゆる
雫石事故が発生したことを機に,国交省は全国のIFR(計器飛行)機の
情報を取り扱うFDP(現在のFDMS)の導入を決定.防衛省側も昭和53年
にFADP初号機の運用が始まりました.これにより,飛行管理業務の自動
化,航空管制および空域調整への対応がスタート.FADPは数年おきに
換装されており,現在のFADPは7代目となります.

飛行管理隊の任務はFADPの運用,運航情報業務の実施,ノータム通
信中継業務の実施,保有危機の保守および整備(FADPの保守は部外)
となります.
FADPの運用という部分は,自衛隊機等の飛行計画の点検,飛行監視,
通信捜索等の実施など,自衛隊機等の安全かつ円滑な運航を支援する
FS(運航情報業務)と,防空識別圏を飛行する航空機の飛行計画及び位
置通報を警戒管制部隊に通報し,敵と味方を識別する支援を行なうAMIS
(航空機移動情報業務)にわけられます.FSとAMISという2つを実施する
ためのシステムがFADPであることは前回もご紹介した通りです.

正確性,迅速性,確実性が求められる飛行管理隊の業務.次回もさらに
詳しく見て行きます.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.6.4




荒木 肇
『敗戦時の経理部将校(2)──自衛隊&陸軍の高級幹部のつくり方(34)
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□はじめに

 営々と70年間の努力で築き上げてきた軍隊が崩壊した時,
何が起こり,先人たちはどのような感慨を抱いたのでしょうか.
とりわけ,軍隊と自分を一体化し,生きてきた軍人たちの思い
とはどんなものだったのでしょう.また,それぞれの立場で組織
を支え,過酷な戦場で生きのびてきた人たちの思いはどのよう
なものだったのでしょう.

 武器,装具を奪われ,敵国兵士の監視下にすごした日々に
ついてはさまざまな手記や記録も残っています.そうした中で,
淡々と事務処理に従った軍人たちもいました.

▼経理部将校のホンネ

『陸軍経理部よもやま物語』の中に,「資料」として載っている幹
部候補生出身の主計将校の手記の抜粋がある.そこには軍隊
についてのホンネの考察がある.以下,一部を原文に沿いなが
ら解説してみる.

『「兵隊はなんだったんですか?」
「主計少尉です」
「道理で!それで生きて帰れたのですね」
 何回,いや何十回いわれたことやら.悲しいことです.戦場って,
そんなんじゃないんですよ.歩一(歩兵第1聯隊)の主計将校,私
の他は全員戦死しているんですよ』

 このような会話は筆者も子供時代,いろいろなところで聞いた.
昭和30年代というのは,ようやく『もはや戦後ではない』と政府の
経済白書が宣言した時代である.ということは,多くの日本人が
10年経っても戦争をナマナマしく記憶していた時代だった証拠に
なる.誰もが「戦後,戦後」と言い合い,「ああ,昭和8年に戻りた
い」とぼやき合っていた時代でもある.1933(昭和8)年というの
は満洲事変のための景気上昇で,長く続いた昭和の初めの不況
が終わり,国民生活が豊かになっていたのだ.その後,国力は下
がり続け,大東亜戦争は経済力が低下するなかで始まった.
 
 初めて会った大人同士が自己紹介をするときに,よくこの「兵隊は?」
というフレーズを使っていた.どこでどのように戦争と軍隊と関わった
か,互いに確かめ合った時代でもある.大学生でも79%が入営した
のが戦争末期.30代,40代の大人の男の多くは軍人であったことが
ある時代だった.

「軍隊内務令」には経理部将校についてたった一行書かれていた.
『経理部将校ハ会計経理ノ業務ニ任ズ』である.資料の書き手はこう
書いている.
『実態を表現しない悪書である』.
『それでは主計将校は,砲弾や弾丸の飛んでこない後方の安全な宿
舎で,生ッ白い顔にメガネでもかけて,お茶をすすりながら兵隊さんの
給料の計算でもしている事務員のような存在に思われるではないか.
「馬鹿にするな」とおこってみてもはじまらぬ.戦争前の平和なときの
主計さんは,物品購入に給料支払,こんなのんびりしたものであった
のかも知れぬ』

▼陸軍をひらたく説明すると

 続いて,軍隊の実態についての表現が勉強になる.
『日本陸軍の各兵科を,ひらたく職業見立てしてみよう.
「歩兵」は要するにホントの兵隊である.軍の主兵.主力戦闘員.
「捜索」は昔の騎兵.今は機動力を使い挺進敵情を探り,歩兵を
誘導する.
「砲兵」は大砲をうって敵をひるませ,歩兵の進撃を援ける.
「工兵」は橋を爆破したり,橋を架けたり,塹壕を掘ったり,地雷
をしかけたり.軍隊の土建屋.
「輜重」は運送屋.
「通信」は電信電話局.
「防疫給水」は水道屋.
「兵器」は鉄砲店.
「野戦病院」は師団の診療所.
すべて歩兵の戦闘支援の為にある.

 しかし戦線混乱し,非常事態となれば,全員戦闘員と早変わりする
のは,軍隊である以上当然であり,戦闘員としての訓練は全員修得
済である.』

▼主計は何屋か?

 主計将校,主計部員とは何か.地方(ちほう・軍隊社会以外をこう言
った)の商売にたとえれば次のようになる.
『米屋,八百屋,肉屋,魚屋,乾物屋,漬物屋,酒屋,菓子屋,パン
屋,タバコ屋,食堂,弁当屋,喫茶店,薪炭燃料,荒物,金物,雑貨
業,洋服屋,洋品店,靴屋,フトン屋,クリーニング店,自転車屋,小
型運送店,ペンキ屋,風呂屋,酒場,農業,造園.まだある.銀行・郵
便局は本職.さて,部隊が移動するときは旅行屋,ひとたび戦地の作
戦行動ともなれば,これぞ主計の本領,手配師となる.作戦地の現地
調達を,専門語で「作戦給養」略して「作給」という』

 若い読者のために説明しておきたい.乾物屋(かんぶつや)とは何
か.辞書をひくと,乾物とは『野菜・海藻・魚介類などを保存できるよ
うに乾燥した食品』とある(大辞泉).干しシイタケ,干瓢(かんぴょう),
昆布,するめ,煮干しなどのことである.昭和30年代にはまだ町のそ
こここにあった店.もちろん鰹節も売っていた.食品を保存するための
冷凍や冷蔵技術が広がっていなかった時代の店だった.

 荒物(あらもの)も説明が要るだろう.『粗末な物,雑な物の意から,
ほうき,ちり取り,笊(ざる)など簡単なつくりの家庭用品』と同じく「大辞
泉」にある.荒物屋は雑貨の中でも家庭用品を主に扱っていた.現在
のスーパーマーケットにも同じようなコーナーがあって,掃除用のスポン
ジやほうき,バケツなどが置いてある.
 
 手配師というのも興味深い.いまでいう職業斡旋をする専門家だ.手
数料をとって自由労務者(いまでいうフリーター)に仕事を売る.この時
代には,たくさんの仲士(港湾等で荷揚げ作業をする)や土方(建設労
務者)などがいた.その人集めを手配師といった.
 
 軍隊でも同じく,軍属や兵隊ではない人たちを集め,雇用関係を結ぶ
のも主計将校の仕事のうちだった.ただここでは「喩え」だから,物運び
や保管のために人集めといった意味だろう.経理部には幹部(将校と准
士官・下士官)しかいない.管理にあたる人はいっぱいいるが手足とな
る兵隊がいなかった.だから各部隊に交渉して,人集めから始めなくて
はならなかった.集めた人間をグループに分け,次々と指示を出し,そ
れにも衣食住の面倒をみる.
 
 ここが海軍の主計科とまったく異なっているところだ.海軍には現場で
働く主計兵がいた.海軍主計科士官にはまったく無縁な仕事である.こ
れが「(陸軍)主計の本領」だというのだからめったに聞けないホンネである.

▼各級主計将校の本務

 師団経理部長(主計大・中佐)は,戦況はもとより師団の将来の展望
も的確につかんでいなくては仕事にならない.師団長の気持ちを考え
ながら師団の作戦給養計画を立てる.  聯隊付主計大・中尉は聯隊長
に密接して聯隊の給養計画を立てる.大隊付主計中・少尉は,大隊長
になったつもりで,各中隊のメシの心配をする.主計が頭が悪いと兵隊
の腹が空く.補給されるものを.どこかへ受け取りに行き,それを分配す
るなら,こんな簡単なことはない.誰だってできる.日本陸軍の補給は追
送を軽んじ,現地調達で貫かれていた.
 
「陸軍経理学校」の作戦給養教程の第1ページは,
『糧を敵に拠(よ)るは古来孫子の兵法にして,戦に捷(か)つの要道た
り』で始まる.
 そして,各部隊は兵站や輜重からの追送の量を少しでも減らすように
現地物資を調達するようにせよと教程はいう.とりわけ生鮮品の保存技
術が貧しかったころのことである.生糧品はなるべく現地で入手するのが
原則になっていた.

 調達の方法も示されていた.「努めて温和なる方法」に依るが,状況に
よっては「恩威兼ね備えたる態度」をもって実施することと書いてある.
占領された現地住民にとっては,豊かな地方ならともかく,はいソウデス
カと軍票と引き換えに物資を渡すわけには決していかない.そんな時に
はのちに戦争犯罪者と指定されてしまうような行動をとったこともあるだろう.

 しかも支払いは軍票で行なえというのが原則だった.戦争には勝ってい
てこそ,軍隊が発行する軍票に価値が生まれる.負けそうな軍隊の約束
手形など誰も喜ばない.だから,この手記の筆者が所属した歩兵第1聯隊
が戦ったフィリピンでは,末期になれば誰もが軍票の受け取りはいやがっ
た.戦後,わが国が復興して多くの観光客が訪れたとき,緑色の紙幣が
お土産として売られたことがあった.それがフィリピンに大量に残された帝
国陸軍の軍票だった.

 次回は敗戦処理にしたがった経理部将校たちの姿を見てみよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.6.10




◆ ペースセッター型リーダーシップ

まず,ペースセッター型のリーダーシップですが,これはリーダー自らが手本
となって,部下に同じレベルの行動や結果を求める際に活用されます.

口だけではなかなか人を動かすことは難しいので,リーダー自らが率先して
成果を上げて,部下の手本となっていくのです.

たとえば,日産を見事復活に導いたカルロス・ゴーン氏は強力なリーダー
シップを発揮することでも有名ですが,自らが朝から晩まで企業再建に向けて
のハードワークをこなすことによってペースセッターとなり,他の社員に意識
改革を迫って同様のハードワークを自らの意志でこなすよう奮起を促して見事
日産を再建に導きました.

このペースセッター型のリーダーシップは,日産のように優れた能力を持ち合
わせた組織において,後はモチベーションさえ高めれば,目覚ましい変革を遂
げられると考えられる場合に有効に機能します.優秀な社員は口で命令するだ
けでは動きません.そこで,リーダーが自らビジョンの実現へ粉骨砕身努力す
る姿を見せつければ,意気に感じて行動に移るようになるのです.そういった
意味で,ペースセッター型のリーダーシップがうまくいくポイントは,組織に
属する者全てが高い能力とモチベーションを兼ね備えた場合と言えるでしょう.

一方でリーダーと組織に属する者の能力に非常に大きな開きがある場合,
リーダーの求めている水準に誰も付いていくことができず社員のモチベーショ
ンが急激に低下して,リーダーと部下の間で軋轢が生じて人間関係が悪化し,
組織として空中分解を起こしてしまう可能性も高くなるので注意が必要です.

◆ 強制型リーダーシップ

更に企業が窮地に陥った場合は,強制型リーダーシップで乗り切ることも
可能です.

この強制型のリーダーシップでは,リーダーは部下自らが考えて行動する余地
を与えず,全ての状況において部下の行動をコントロールしていくことに
なります.

本来,組織としての力を十二分に発揮するためには,部下自らが考えてモチ
ベーションを高めて活動することが有効な手段と言えますが,状況によっては
部下に考える余裕を与えずにリーダーの命令するままに動くことも窮地を
脱するためには必要となります.

たとえば,ビジネス環境の悪化により,会社が危機的な状況に立たされている
場合は,一つ一つの行動が重要な意味を持ちます.早急に事業を立て直さなけ
れば事業停止に繋がる場合などは,リーダー自らが重要な決定を下し,部下が
一糸乱れず指示通りに動くことにより,思い描いた復活のシナリオを実現する
ことが可能になります.ここで,部下が全体を見ずに,自分の考えだけで動く
ようなことがあれば,一つの失敗が致命傷となって,会社自体の存続が危ぶま
れる状況に陥る可能性も高くなります.

この強制型のリーダーシップは組織が危機的状況に陥った時に有効に機能しま
すが,部下にとっては常に行動が管理され極度の緊張が続くために,長い期間
に及ぶ場合は多くの脱落者の出現に繋がっていきます.また,有無を言わさず
部下に指示を与えるために不満を持つ者も多くなり,組織内の士気が低下して,
組織として機能しなくなる可能性も十分に考えられますので,活用する際には
細心の注意を払う必要があると言えるでしょう.

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2011/1/31




『ライター・渡邉陽子のコラム (49) ─ 飛行管理隊/飛行情報隊(4) 』
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


こんばんは,渡邉陽子です.

『チューズデーに逢うまで』がまだ読み終わりません.
移動中も読めるよう常に持ち歩いているのですが(歯医
者にも持参し待ち時間に読んでいました),なかなかまと
まった読書時間が取れず歯がゆい思いです.

ただ一気に読み進められない分,毎日ほんの少しずつの
時間でも本を手に取って開いていることで,本との距離が
近くなっていくような楽しさはありますね.


■ 飛行管理隊/飛行情報隊(4)

前回に続き,今回も飛行管理隊の業務内容を見ていきます.
飛行管理隊の任務のひとつに「運航情報業務の実施」という
ものがありましたが,正確には「飛行管理中枢における運航
情報業務の実施」となります.飛行管理中枢とは,「担当区域
の運航情報およびノータムの収集,処理,飛行監視,通信捜索
等の業務を実施するための施設,装備,機能及び人員の総体」
を指します.飛行管理隊では飛行管理班がこれに当たります.

入間発千歳行き自衛隊IFR機のフライトを例に,飛行管理中枢
においてFADPがどのように活躍しているのか見てみます.
まず,出発地である入間基地の飛行場勤務隊に飛行計画書が
提出されると,FADPを通じて入間と千歳の飛行管理中枢,千
歳基地業務隊,国交省の飛行情報管理システム・FDMSへ通
報されます.
FDMSはその情報を東京と札幌のACC(航空交通管制部)へ
送り,さらに東京ACCから横田ターミナルレーダー管制所へと
通報されます.
一方,FDMSからは,航空管制情報がFADP経由で入間,千歳
の管制機関へ送られます.

このように,たった1つのフライトでもこれだけ多くの機関が
関わっています.
そのすべてを繋ぎ,情報を発信・受信,共有できるシステム
がFADPであり,今やFADPなしに自衛隊機が日本の上空を
安全に飛ぶことは不可能です.

それだけに,FADPに障害が発生すると大変な事態になるこ
とは容易に想像できます.
平成15年に国交省のFDMSを構成するFDPS(飛行管理情
報システム)で障害が発生した際は,約20分間,全国の空港
から航空機が出発できなくなりました.
その結果120便が欠航,30分以上の遅延1462便,約30万人
の利用者に影響を与えるという大きな混乱をもたらしました.

FADPもひとたびトラブルに見舞われれば,スクランブルがか
かっても戦闘機が飛び立てない事態もありえます.
そのため,通常は入間に飛行計画情報処理装置(メインとなる
運用系と予備の待機系),春日に支援処理装置(実習や試験
用の支援系と予備の準備系)で運用し,万が一入間の運用系
にトラブルが発生し,待機系も使えないとなった場合は,春日の
準備系を運用,支援系は待機に回ることとしています.このよう
に分散運用することで,一局集中リスクを避けているわけです.

飛行管理隊にあるFADPの運用室やシステム室に休みはありま
せん.24時間365日,かならず隊員がいます.
運用室もシステム室もゆとりある配置になっているのは,FADP
の機器が換装してバージョンアップするたびにコンパクトになって
いったから.かつてはどちらの部屋も機器でぎゅうぎゅうだったそうです.
運用室にはFADPの端末と運用主任席,通信席,FS席,AMIS席
などが並び,運行情報業務や航空機移動情報業務を行なってい
ます.次回は飛行管理隊の隊員たちの仕事ぶりをご紹介します.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.6.11




陸軍機 vs 海軍機(41)       清水政彦

「零戦と隼(40)」
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「零戦vs隼」の第40回.今回は,陸軍航空作戦の分岐点と
なった昭和18年3月から4月にかけてのニューギニア方面
の戦略動向についてです.

▼ もともと中途半端だったニューギニア方面の作戦方針

 南太平洋方面における陸海軍の協力方針を定める「中央
協定」は,ガダルカナルからの撤退にともない昭和17年末に
改定(昭和18年1月4日発令)されていた.この時点の協定
では,建前上,ガ島から撤退する代わりにニューギニア方面
で攻勢をとるという趣旨が強調され,最終的にはポートモレ
スビーの攻略を目指すことが示されていた.

 このニューギニア攻勢方針は,ガ島からの撤退が全軍の
士気や外交政策に与える悪影響を考慮した結果,「南太平
洋戦線は一進一退が続いている」というイメージを醸成する
ことを狙ったものであり,現実的な戦略というよりは多分に
「政治的な作文」という要素を帯びていた.

 現実には,第八方面軍の司令部は総じてポートモレスビーの
攻略など不可能だと考えており,現地部隊は本格的な攻勢
作戦を発動しなかった.要するに,実質的サボタージュないし
計画の先送りによって,「ポートモレスビー攻略」という不可能
な命令に対して消極的に抵抗していたのである.

 一方で,「ポートモレスビーの攻略など不可能」だと正直に
公言する者もほとんどおらず,形だけ「攻勢」のジェスチャーを
とった要領の良い答案だけが東京に送られた.

 この模範答案において「かりそめの攻勢」の標的とされたの
が,ラエの南西にある「ワウ」飛行場とその周辺地区であった.
ポートモレスビー攻略の足掛かりとしてまずワウを攻略し,ワ
ウ周辺の東部ニューギニア地域で地上兵団の会戦を行なって
連合軍を撃破するという壮大な計画が,参謀たちの机の上だ
けで進行していた.

▼ 陸海軍中央協定の再改定

 昭和18年3月,「81号作戦」の失敗によってラエ地区の確保
が危ぶまれるに及び,昭和18年1月の陸海軍中央協定が再改
定され,当面の間,ニューギニア方面の作戦に重点を置くことが
合意された.しかし,協定の締結に際し海軍側から「ソロモン方
面を過度に軽視することは不可」と注文がついたため,両方面
の最終的な優先順位については依然曖昧なままとされた.

 さらに悪いことに,南太平洋方面における最終的な作戦目標
が未だに明確でなかった.3月の改定によっても,「ポートモレ
スビーの攻略」という現実離れした建前が削除されずに残って
いた.後述するとおり,このことが東部ニューギニア方面の兵力
配置をいびつにし,ただでさえ困難な輸送・補給を一層混乱さ
せることになった.

 一方,現地の海軍部隊は中央(軍令部)以上にソロモン方面を
重視する傾向が強く,実際には「ニューギニア重視」の建前は形
骸化した.現実への対応として「ソロモンは海軍,ニューギニアは
陸軍」という役割分担が進み,陸海軍は同床異夢の状態のまま
ソロモン・ニューギニアの二正面作戦を継続していく.

▼ 「不可能命令」と「員数報告」

 南太平洋方面における作戦の最終目標を「ポートモレスビー攻
略」に置くことは,当方面の作戦が開始された昭和17年夏からこ
の時点まで一貫して維持され続けていた.しかし,少なくとも昭和
18年1月以降,この「建前」は現地部隊によって無視されており,
第八方面軍の関心は,もっぱらラエ地区および中部ソロモン方面
の確保と補給の維持にあった.

 ポートモレスビー攻略の建前は書類上でのみ抽象的に語られて
いるにすぎず,この建前と実態のギャップを埋めるために,とりあえ
ずワウ方面に対する「かりそめの攻勢」計画が準備されていた.

 この「ワウ会戦」計画は,戦略目標が実態と乖離していること
(実現不可能な命令)に対する現実的対応ないし消極的抵抗と
して,現地部隊が「実態の伴わない模範答案」あるいは「上司の
稟議を通過するためだけのペーパーワーク」で応じるという図式
の中で生まれたものである.

 著名なノンフィクション作家である山本七平(フィリピン戦線で
同様の実体験あり)は,この図式を「実行不可能な命令と,それに
対する員数報告」と呼んだ.「員数報告」という言葉が分かりにくい
かもしれないが,これは山本の造語であり,要領を使って書類の
辻褄を合わせることを陸軍用語で「員数(いんずう)をつける」と
呼んだことに由来する.

 要は,上司から無茶な要求を受けた部下が正直に「無理です」と
言わず,要領よく「上司に見せる用の書類」を作って「やっているフ
リ」「進捗しているフリ」をするということだ.

 これは何も陸軍の専売特許ではなく,今日でも硬直化した官僚
機構や「ダメな会社」でよく見られる光景であろう.多少の経験が
ある社会人なら,実際には多くの人がこうした「員数報告」の場に
立ち会ったことがあるはずだ.

▼ 「ワウ会戦」という幻想

「ワウ会戦」で勝利を得ようとすれば,必要な陸上兵力は膨大なも
のになる.必要な兵力は3〜5個師団と見積もられたが,すでにラ
エ周辺の制空権が連合軍に奪われつつあるなかで,この大兵力
をすべてラエ地区に船団輸送することは不可能であった.

 そこで,まず3個師団からなる「第18軍」をラエ(第51師団),マダ
ン(第20師団),ウェワク(第41師団)の3カ所に分けて船団輸送
したうえ,ウェワク・マダンに上陸した部隊は陸上道路を構築しつ
つ前進する.計画が書類通り順調にいけば,昭和18年夏頃には
ラエ地区に3個師団が集結する「はず」であった.この第18軍の
ニューギニア展開計画が「81号作戦」の発端であり,前述した
「ダンピールの悲劇」は,この第51師団のラエ輸送の過程で
起こったものだ.

 現地軍の本音は「戦線崩壊を防ぐために,まずラエに1個師団が必要」
なのだが,書類上は「3個師団を集結して攻勢に転じ,連合軍を地上で
撃破する」ことになっている.そして,第51師団が海上で壊滅し「81号作
戦」がその実質的な意味を失ったとき,すでに第20師団と第41師団の
輸送は開始されており,これを途中で止めることができないのである.

 官僚機構とは恐ろしいもので,かりに目標が「建前」に過ぎなくても,
それが目標として存在する以上は確実にそれに向かって動く.いった
ん大きな組織が動き始めて惰性がつくと,その方向性はなかなか変え
られないものだ.

▼ 「員数報告」が招く自滅

 大本営陸軍部では,昭和18年3月の時点で,すでに東部ニューギニ
アを放棄して西部ニューギニアの一端だけを確保する案が真剣に議論
されていた.まさにその時,幻の「ワウ会戦計画」に従い地上決戦に投
入すべき兵団(主に歩兵部隊)が次々にニューギニアへ送り込まれる
という矛盾が生じていた.現地ではその輸送と補給に難渋し,第六飛
行師団は貴重な兵力の大部分を輸送の空中掩護にあてなければなら
なくなった.

 このとき東部ニューギニア方面に本当に必要だったのは地上兵団で
はなく,航空基地を建設する「飛行場設定隊」や建築資材,航空機の
修理工場,衛生部隊,無線通信隊,レーダー班,気象観測隊,防空部
隊などであった.これらの「本当に必要な兵力」の移動は,地上兵力
の輸送を優先したために遅々として進まず,ニューギニア方面の航空
作戦基盤は一向に充実しないのであった.

 仮に東部ニューギニア方面の戦略目標を明確に「長期持久(防勢)」
に置いていれば,これほど大規模な地上兵力を拙速に配置する必要
はなかったはずである.

 結局,マダンやウェワクに上陸した地上兵団は,海上輸送の困難や
「マダン─ラエ道」の未整備のため揚陸点から動けず,海岸線付近に
孤立したまま熱帯感染症と栄養失調に苦しみ,連合軍の爆撃を受け
ながら道路建設作業で消耗していった.

 歩兵は航空戦には何の役にも立たない.ただでさえ不足している
補給力を大食いする地上部隊の存在は,航空関連部隊への補給を
困難にする点で足手まといですらあった.

▼ 正論と現実の間で結論の出ない「東部ニューギニア放棄論」

 多くの幹部がニューギニアの現実から目を背けているとき,堂々と
正論を吐いた男がいた.当時の航空通信保安長官だった吉田喜八
郎少将である.

 航空通信保安部とは,陸軍航空部隊の情報網,通信網や無線航
法設備の運用を指導する役割を担う部署であり,吉田少将は南太平
洋方面における航空機運用システムの状況を視察するためにニュ
ーギニアに派遣された.

 昭和18年4月,吉田少将はニューギニアの各飛行場を視察し現地
の将兵から実情を聴取したが,その基地設備の貧弱さ,地理的・気
候的条件の厳しさ,とくに衛生状態が最悪であることに驚き,ニュー
ギニア方面の航空作戦は「手の施しようがない状態である」という印
象を受けた.最大最良の拠点であるラバウルすら,当方面の大兵力
を支える補給拠点としては不合格と映った.

 吉田少将は帰京後,陸軍参謀総長に対し,ニューギニア方面での
航空作戦は絶望的であるから,東部ニューギニアを放棄してニュー
ギニア島の西端部のみを確保し,インドネシアのチモール島からパ
ラオに至る防衛線を強化すべきであると上申した.

 元来,陸軍省は補給輸送の観点からニューギニア作戦に消極的で
あり,参謀本部の中にもニューギニアの戦略価値を疑問視する意見
が常に存在していた.吉田少将の上申はまったくの正論であり,内心
これに賛同する者も多かったはずだ.

 しかし,折しも東部ニューギニア地区に対する地上兵団の輸送作戦
が進行中で,ソロモン地区を含めると南太平洋方面の総兵力は約20
万まで膨れ上がっており,仮に総撤退となれば膨大な量の輸送船が
必要になる.

 一般に作戦は,前進よりも撤退の方が難しい.まして,離島に近い僻
地から20万もの大兵力を一斉に撤退させることはきわめて困難なこと
で,撤退時の混乱による戦線崩壊(総崩れ)が危惧されるのである.
結局,大本営はこの時点でも,なお「東部ニューギニア放棄」を現実的
な選択肢として受け入れることができなかった.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.6.10




陸軍機 vs 海軍機(42)       清水政彦

「零戦と隼(41)」
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「零戦vs隼」の第41回.劣勢の南太平洋戦線に最新鋭機
「飛燕」が派遣されたが,本来の性能を発揮することはな
かった.けっきょく頼りになるのは,カタログ上の性能よりも,
機械的に稼働が安定している「隼」だった.


▼ 航空戦力増強の要望

 昭和18年3月中旬,第八方面軍の参謀長ら主要幹部が
大本営に召致され,上京して南太平洋方面の戦況を報告した.

 この報告では,南太平洋戦線は衛生状態がきわめて不良
で,第一線部隊の40%が戦病者であるという悲惨な状況が
率直に語られ,当方面の作戦の成否は第一に輸送・補給の
確保にかかっていることが強調された.

 また,第八方面軍参謀長はこの機会を捉えて「南太平洋方
面戦略態勢確立ニ関スル意見」と題する意見書を提出した.
その内容は,当方面への輸送・補給を維持するためには制空
権の確保が絶対的に必要であり,航空戦力の増強がなけれ
ば南太平洋戦線は確実に崩壊するという深刻なものであった.

 当時,東部ニューギニア方面の連合軍機の兵力は約200機
と見積もられ,6月頃には350機程度に増加する予測されて
いた.こうした情勢判断に基づき,第八方面軍は陸軍中央に
対し,戦闘機2個飛行団(4個戦隊),戦闘機・重爆・軽爆各1個
戦隊から成る混成飛行団および高速偵察機(司偵)1個中隊の
追加派遣を要求した.

 つまり,すでに展開している第六飛行師団の約100機に加え
て,新たに7個戦隊+αで約250機(これは第一線の定数であり,
予備機を含めれば300機以上)の大増強を要求したのであった.

▼ 現地軍と大本営の温度差

 航空戦力の増強に関する第八方面軍の意見具申は,戦略的
に正しい内容であり,時宜を得たものであったといえるだろう.
しかし一方で,現代の目から見ると首を傾げてしまう内容も含まれ
ていた.それは,中部ソロモン諸島の戦略価値を強調し,ソロモン
方面の兵力運用を現地軍に完全に委任するよう求めていることで
ある.

 結論から言えば,昭和18年を通じて行なわれた中部ソロモン諸
島をめぐる攻防戦が海軍航空部隊(つまり日本の空軍力の半分)
を半身不随に陥らせ,これが南太平洋戦線全体の崩壊につなが
るのである.もっとも,これはあくまでも後知恵であって,第八方面
軍の主張が間違っていたわけでもない.

 昭和18年3月の時点で,ラバウル・ソロモン・ニューギニア方面に
はすでに約20万の大兵力が展開しており,これに対する補給の起
点は基本的にラバウルであった.ラバウルが連続空襲を受けて港
湾機能を失えば20万の将兵が飢えてしまうから,ラバウルに対す
る空襲の拠点となる中部ソロモン諸島を第八方面軍が「死守」しよ
うとするのは,ある意味当然のことだった.

 絶望的な環境で生き残るために全力を尽くそうとする現地軍と,
中長期的な戦争指導という側面からニューギニアの戦略価値その
ものに疑問を持ち始めていた陸軍中央の間には,相応の温度差
がある.自軍の正面を死守するために大増援を求める現地軍の
理屈も,ニューギニアという泥沼に大兵力を投入することを躊躇す
る中央の感覚も,それぞれに正しいのである.どちらが「より正し
いか」は,昭和18年3月の時点では誰にも分からなかった.

▼ 第六飛行師団の戦力増強

 前述したような「現地と中央の温度差」はあるにせよ,南太平洋
方面への航空戦力増強の必要は明らかである.第八方面軍の意
見具申を受けた陸軍中央は,比較的素早い対応を見せ,4月初旬
には第六飛行師団に対する戦力の増強を発令した.

 しかし,やはり現地軍との「温度差」は埋められず,追加派遣が認
められた戦力は要望の半数以下であった.後方にあった戦闘機2個
戦隊と旧式の「99式軍偵」一個中隊が第六飛行師団に編入され,
4月中旬から下旬にかけてニューギニアへの移動を開始した.

 また,意見具申に基づく戦力増強とは別に,当時の最新鋭機であ
る「三式戦闘機」を装備する1個戦闘飛行団のニューギニア派遣も
決定しており,現地ではその到着を心待ちにしていた.

▼ 三式戦闘機「飛燕」の挫折

 三式戦闘機「飛燕」を南太平洋方面に投入することが発令された
のは昭和18年1月,同機が完成したばかりの時期であった.この
時点ではまだ三式戦を装備する部隊は存在せず,旧式の97式戦
闘機を装備する部隊の機材を三式戦に改編し,そのまま南太平洋
に進出させる計画である.陸軍初の三式戦装備部隊に選ばれた
のは,満洲で対ソ戦に備えていた第14飛行団(飛行第68戦隊,
同78戦隊)であった.

 昭和18年1月といえば,陸軍航空の第一陣である第12飛行団が
ラバウルに着いたばかりだが,陸軍中央では2〜3カ月程度の期間
で最前線の部隊を交代させ,戦力の回復をはかる方針であった.
つまり,中央では第12飛行団が2〜3カ月の前線勤務で消耗するこ
とを最初から見込んでいたのである.

 一式戦装備の第12飛行団は,第14飛行団の進出後,約1カ月の
引き継ぎ期間を経て内地に帰還する予定だったが,この計画は予
定通りにはいかなかった.

 採用されたばかりの新鋭機である三式戦は,この時期はまだ機械
的に不安定で,初期不良の洗い出しが終わっていなかった.さらに
三式戦のエンジン(ハ40)はドイツからライセンスされた液冷式(ダイ
ムラーベンツDB601系列)で,非常にデリケートで凝った造りになって
いたことが,混乱に拍車をかけた.

 古い97戦に馴れた大多数の整備員にとって,ハ40は「初めて触る
難しいエンジン」であり,三式戦は「すべてが新しい未来の飛行機」
であった.一般に「最新鋭」の機械というものは,運用ノウハウはも
ちろん整備マニュアルもろくに存在しないため,いったん調子が悪く
なると手がつけられないものだ.

 南方への進出を命じられた第14飛行団は,幾多の困難を排除
して突貫作業で機種改編を行なったが,機材の故障が頻発して
作業がはかどらず,出発予定の昭和18年3月末までに洋上航法の
訓練を実施することができなかった.

 飛行第68戦隊の第一陣は4月末に航空母艦でトラック島に到着し,
同地から自力飛行でラバウルを目指したが,この移動中に27機の
うち3機が遭難,8機が不時着(パイロットのみ救助)するという大
事故を起こし,いきなり戦力が半減してしまう.同戦隊機のうち,
空母への搭載が間に合わなかった一部は島伝いに陸上基地を
前進したが,同様に遭難事故により途中で少なくない損害を出し
ている.当然,この状況では戦闘加入に不安が残るため,第68戦隊
はその後しばらく戦力とは見なされず,パイロットの訓練と機材の整
備に努めることとされた.

 後続の第78戦隊は機種改編が遅れ,6月中旬に内地を出発し
て島伝いの移動を試みたが,出発時に45機あった機材が到着時
には33機に減少していた.

 この12機は空中で遭難したか,故障して中継飛行場に残置さ
れたことになるが,これらの飛行場には三式戦を整備できる整備
員はいなかったはずである.これらの落伍機がその後どうなった
のかは分からないが,そのまま滑走路の片隅に放置されて朽ちて
いった機体も少なからずあったはずだ.

▼ 結局,頼りになるのは「隼」だった

 大いに期待された三式戦の初陣は,連合軍と戦う前から散々な
結果に終わった.

 戦地への片道移動だけでこの状態だとすれば,連日連夜の出
撃(大部分は哨戒任務で,交戦に至らず空振りに終わる)を続け
ていれば,故障と事故だけで1カ月と経たずに全滅してしまうだろ
う.問題は,単にエンジンの不調だけではないのである.

 高速機である三式戦は,低速な一式戦に比べて着陸時の進入
速度が速く,離陸にも長い距離を必要とする.そのため,三式戦の
運用には長い滑走路(最低1400m)が必要で,荒れた路面では脚
を折ったり横転したりという事故を起こしやすいし,滑走路の一部
がダメージを受けただけで離着陸ができなくなる.地上施設が不
備な環境では,高速機ほど地上損失が多くなる傾向があるから,
三式戦は元来ニューギニアには向いていないというべきだろう.

 一方,三式戦の生産はまだ軌道に乗っておらず,戦地での膨大
な損耗を埋めるだけの迅速な機材の補給は困難だった.しかも,
施設が貧弱なニューギニアの基地には三式戦のエンジンをオーバ
ーホールする施設・人員が存在しないため,分解整備のためには
ラバウルまで機体を空輸する必要があったが,これはまったく現
実的とはいえなかった.

 第14飛行団の三式戦は,昭和18年7月頃からニューギニアで実
戦に参加し始める.当初はある程度の数が揃っており,その高性
能もあいまって空中ではほとんど撃墜されなかったが,出撃のたび
に故障や不時着により戦力をすり減らし,あるいは空襲により地上
で撃破され,次第に十分な数の稼働機を第一線に維持できなくなっ
ていった.

 やがて1個中隊がフルメンバーで揃うことはなくなり,数機から多く
て10機程度が散発的に出撃するだけなので,空中では常に数的劣
勢に立たされた.最終的には,悪条件の中で本来の性能を発揮でき
ないままボロボロと撃墜されていき,最後まで期待された活躍はでき
ずにニューギニアを去ることになる.

 このため,昭和18年の夏以降になっても,南太平洋方面における
主力機は一式戦「隼」であり続けた.戦地では,カタログ上の性能よ
りも,機械的に稼働が安定していること,整備態勢やノウハウを含め
た総合的な運用インフラが存在すること,補給が継続できることが
何よりも重要なのである.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.6.17




『ライター・渡邉陽子のコラム (50) ─ 飛行管理隊/飛行情報隊(5) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

読書中の『チューズデーに逢うまで』,ようやく筆者が介助犬
チューズデーと出会うところまで読み進めました.ここまでは
イラク派遣で心身にダメージを負った過程を中心に描かれて
いました.PTSDは屈強な兵士をも蝕み苦しめることを改めて
感じています(自衛隊員のリスクは増えるとか変わらないとか
実態を伴わない言葉だけの国会のやり取りに,なおさらむな
しさ,情けなさを覚えます).

チューズデーは「鉄格子の中の仔犬」プログラムにより懲役囚
が育成した介助犬です.ここも大変興味深いですね.



■ 飛行管理隊/飛行情報隊(5)

飛行管理班の運用主任は運用現場の指揮・監督をし,運用室
でFADPに関わる隊員の連携を取る役目も果たしています.

運用主任を務める2等空曹によると,ただFADPで情報を送るの
ではなく,「この部隊はこういう仕事をしているからこの情報を送
る」といった具合に,送り先が何をしている部隊や機関なのかを
しっかり把握している必要があるそうです.先々週,FADPが繋が
る組織がどれほど多いかご紹介しましたが,それらすべての業務
内容を理解していなければならないそう.連接している組織を把
握することなくただ情報を流していては,不測の事態が起こったと
きの対応が十分なものにならない可能性もあるからです.


システム室には中央処理装置,外部システム連接用通信機器,シス
テム監視コンソールなどが配置されており,電子計算機班が常駐し,
機器の管理をしています.

電子計算機班の運用係長である2等空曹は,FADPシステムのホス
トの操作に関わっています.今までに一度だけ,1日半ほどFADPに
よるデータのやりとりができなくなってしまったというトラブルに遭遇し
たことがあったそう.そのときは国交省からの情報を印刷し,それを
手に各防空指令所に電話で伝達したとのこと.班員みな総動員で,
誰もが電話をかけっぱなし,しゃべりっぱなし状態.一度システムが
障害を起こすとこれだけ大変なことになるのだと痛感したそうです.


ところでFADPは,そのシステム単体ではその役割を果たしません.
ほかのシステムと連接することで初めて役立つものであり,そのために
不可欠な存在が有線整備員です.

整備班に所属する隊員にとって,数年に一度行なわれるFADPの換装
は大仕事.近年はDII(防衛情報通信基盤)が整備されたので大分回線
が少なくなり,障害も減ったし作業自体も少し楽になりました.以前は光
通信もなく1本ずつ繋げていたため,とんでもない量の配線だったとか.


さらに,FADPの運用は基地内で自己完結できるようになっています.
停電時には電源倉庫の発動発電機2基で電力を確保,これが立ち上が
ってから電流が安定するまでの最初の1〜2分間は,150個のバッテリー
で発電します.発電機を動かすための軽油も地下タンクに保存されて
います.


飛行管理隊の各班をひととおり見たところで,入間基地の管制塔に
上がり,FADPが管制官へどのような情報を提供しているのか実際に
見てみましょう.

管制塔にはストリップと呼ばれる細長い紙が不定期に出力されています.
ペラペラの紙で,サイズは文庫本に付いているしおりと長さはほぼ同じ,
幅は半分程度といったところ.ゴミと間違えられ捨てられてしまいそうな
感じです.

けれどこのストリップこそ,FADPが管制塔に送ってきた情報が集約され
たもの.出発する航空機の識別符号,型式,巡航高度,目的飛行場,飛
行経路の概要,出発予定時刻が記載されています.管制官はこの情報を
使って国交省などから管制承認をもらい,航空機を離発着させます.

細長い形状なのは,管制官にとってはこの形がもっとも使い勝手がいいから.
FADPは必要とする情報を選び出して渡すだけでなく,相手のニーズによっ
てアウトプットの方法を変えることができるのです.こうやって細長い紙であ
ったり,大きな用紙であったり,あるいは印刷せず画面上に表示するとか.
その点もFADPのすごいところです.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.6.18




タリバーンがアフガン議会襲撃,2人死亡40人負傷

朝日新聞デジタル 6月22日(月)20時45分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150622-00000050-asahi-int
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150622-00000050-asahi-int

 アフガニスタンの首都カブールで22日,反政府武装勢力タリバーンが開会中の議会を襲撃した.治安部隊との間で約2時間にわたり銃撃戦となり,建物の近くにいた通行人とみられる市民ら少なくとも2人が死亡,40人が負傷した.アフガンでは今年から,米軍などに代わってアフガン側が戦闘の前面に立つようになったが,治安面の不安が浮き彫りになっている.

 議会下院ではこの日,昨年9月にガニ大統領が就任して以来,政治対立のため空席だった国防相を承認する手続きが予定され,大半の議員が新国防相の到着と審議開始を待っていた.タリバーンは犯行声明で,この日をあえて狙ったことを明らかにした.

 警察当局者によると,襲撃したグループは7人とみられ,議会の敷地の入り口付近で,まず1人が爆弾を満載した車ごと自爆.そのすきに他の6人が議会内に入り込もうとして治安部隊と銃撃戦となった.約2時間後に6人の射殺が確認された.

 議員は全員無事だったが,現地の国連当局者らによると,襲撃に巻き込まれた女性1人と子供1人が死亡,多数が病院に搬送された.

 議場内にいたナキブラ・ファリク下院議員は朝日新聞に「非常に強い爆発の衝撃で建物が揺れ,議場内がほこりや煙で真っ白になった.悲鳴や叫び声の中,走って外へ出ると,近くの建物からタリバーンが撃ってきた」と話した.




爆発の瞬間 アフガン議会爆破テロ 「タリバン」犯行声明(映像)

アフロ 6月22日(月)18時21分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150622-00010005-storyfulv-asia
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150622-00010005-storyfulv-asia

 アフガニスタン議会(カブール)で22日昼,爆発と銃撃が発生した.この爆発直後に反政府武装勢力「タリバン」が犯行声明を発表している.
 地元の報道では議員と報道関係者の全員が安全な場所に避難したと報じている.
 カブール警察署長は,最初の爆発は議会建物の入り口付近で自動車が爆発したとしている.
 死傷者などの正確な情報は伝わっていないが,ラジオ・フリー・ヨーロッパ(Radio Free Europe)は,急襲したタリバンのメンバー6人が死亡したとしている.
 映像は,突然爆発が起こり騒然となる議事堂内部の様子.カメラが衝撃で小刻みに揺れる.その後の外へ避難する姿も捉えられている.

(アフガニスタン,カブール 22日 映像:TOLO News/STORYFUL/アフロ)





『ライター・渡邉陽子のコラム (51) ─ 飛行管理隊/飛行情報隊(6) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

今月は急きょ出張に行くことになったので,前倒しで
やらなければいけないことが山のようにあり,読書の
時間は移動中の電車のみ.

ところで今の時期の電車の空調って蒸し暑かったり寒か
ったり,ぴったり快適という車両になかなか当たらず,苦
痛を伴う移動が少なくありません.特に蒸し暑いのつら
いです(泣)車両自体はどんどん進化しているのに……
空調は車掌さんが管理しているからでしょうか?


■飛行管理隊/飛行情報隊(6)

前回は飛行管理隊の各班の仕事ぶりと,入間基地の管制塔
でFADPがどのように情報を提供しているのかご紹介しました.

FADPは,データ収集ボックス,あるいは素材箱と言えます.
オンラインネットワークでつながっている関係各所へ,相手が
欲しがっている情報を選び出して望む形式で渡してあげる,き
わめて優秀な頭脳を持っている素材箱です.この仕事ぶりを知
れば知るほど,最初はシステムのひとつとしてスタートしたFAD
Pが,今や航空自衛隊のみならず防衛省にとって不可欠なシス
テムとなっていることも納得です.


さて,これまでは飛行管理隊についてご案内してきましたが,
今回からは飛行情報隊についてご紹介します.

航空機が安全に飛行するため,必要に応じて発行されるものを
ノータムということ,ノータムは国土交通省の飛行情報管理シス
テムであるFDMSによって発信されることは,連載第1回で触れ
ました.自衛隊が発行するすべてのノータムの審査・指導を
行なっているのが飛行情報隊です.いわばノータム検問所と
言ってもいいでしょう.また,国交省発行のノータムの確認も行
なうほか,自衛隊機海外派遣の際は関係飛行場や飛行情報区
にかかるノータムの収集,提供および管理といった国外運航支
援も担っています.


ノータムはどんなときに発行されるのか,取材時に飛行情報
隊長が教えてくれました.
「滑走路付近に雪かきでできた山がある,滑走路に雪が積もっ
ているなどは,冬によく発行されるノータムです.また,空港付近
にビル工事のクレーンがある,気球やアドバルーンが飛んでい
る,花火大会があるなどの場合もノータムを発行します.ちょっ
と珍しいケースだと,たまに基地そばの学校や住民から『ヒアリン
グテストがあるからその時間帯は飛ばないで』『お葬式の間は
飛ばないで』といった要望が来ることがあります.これらに対応
できるか否かは,その時の状況によりますね」


テストやお葬式のみならず,「運動会があるから飛ばないで」とい
う要望もあるそうです.対応できるかはそのときの状況によると
いうことは,対応できるときもあるということです.余談ですが,北
海道で野戦特科部隊の実射訓練の取材をしているとき,「今から
○時までは搾乳の時間なんで射撃は行ないません」と言われたこ
とを思い出します.演習場近隣の牧場の牛が大きな音に驚き,
乳の出が悪くなってしまうのだそうです.


飛行情報隊のノータムセンターにはノータム端末とFADP端末が
あり,ここで自衛隊のノータムを審査・指導しています(民間機の
ノータムチェックは国交省が行ないます).略語に記載ミスはない
か,内容に不備がないかなどを確認し,訂正がある場合は発行
者へ戻し,問題がなければ承認,FADPを通じて全国の飛行場
等へと発信します.

ノータム班の空曹は,ノータムを審査する自衛隊唯一の部隊だ
ということがプレッシャーでもありやりがいでもあると言い,こんな
コメントもくれました.

「ノータムとして届くすべての情報がノータム事項とは限りません.
航空機の運用に支障をきたす情報なのかが判断の基準になりま
すが,規則には具体例までこと細かに書かれていませんから,そ
の判断が求められます.また,国交省でノータムを扱っているAIS
センターと調整を行なう部隊でもあるので,自衛隊の代表として慎
重に調整するよう心がけています」


次回も飛行情報隊の話です.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.7.2




陸軍機 vs 海軍機(44)       清水政彦

「零戦と隼(43)」
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「零戦vs隼」の第43回.今回は,昭和18年7月〜8月頃の
陸軍航空部隊の戦いについてです.

▼ ニューギニア方面への航空大増勢

 昭和18年6月頃までに,第六飛行師団の実働戦力が「ジリ
貧」の状況に陥っていたことはすでに述べたとおりである.こ
れまでニューギニア方面への増援に及び腰だった大本営も,
この段階に至ってようやく航空戦力を強化する必要を認め,
昭和18年6月末には一個飛行師団を増援することを内定した.

 ニューギニアへの増援部隊として選ばれたのは,それまでイ
ンドネシア・ビルマ方面に展開していた「第七飛行師団」であっ
た.第七飛行師団は,油田地帯の防空のために一部をインド
ネシアに残して主力がニューギニア方面に転用されることとなり,
昭和18年7月には戦闘機1個戦隊と重爆撃機2個戦隊がニュ
ーギニアへの移動を開始した.

 このときニューギニアに移動した戦闘機隊が飛行第59戦隊
(一式戦2型)で,この連載に何度か登場する南郷茂男大尉が
所属していた部隊である.59戦隊のニューギニア進出が発令さ
れた時点で,すでに大本営はニューギニア戦線崩壊の危機を真
剣に感じていたはずだが,前線に向かう部隊にはまだ悲壮感は
感じられない.

 この頃の南郷大尉の日記には以下のような記述がある.
(7月9日)24戦隊目下僅か6機のみとのこと.今迄のJava,
Timorは真の戦場に非ず.病気も相当多き所とのこと.大い
に緊褌一番奮闘せんことを期す.
(7月12日)一戦二型27機はこの方面のaceとも云うべき信頼
を受けたりとのこと.大いに頑張らざるべからず.

 比較的安定していたジャワ方面から最前線に進出して,「よう
やく本当の戦ができる」といった雰囲気で意気軒昂としている様
子が分かる.「ジャワの天国,ビルマの地獄,死んでも帰れぬ
ニューギニア」という言葉のとおり,ジャワ方面は緊迫度が低く,
地獄のニューギニア戦線をよそに,59戦隊はこの時期まで比較
的恵まれた生活を送っていた.

▼ 第七飛行師団の進出と「第四航空軍」の編成

 同時に,今までニューギニア作戦を単独で遂行してきた第六飛
行師団と,新規参入する第七飛行師団を統括する組織として,
第八方面軍の指揮下に「第四航空軍」が編成された.

 こうした組織の再編に伴う人事異動や司令部の新設,司令部施
設の整備と移動は,それだけでも結構な大仕事だった.新たな司
令部を編成して最前線に送り込むには,膨大な量のペーパーワー
クと「引っ越し作業」が発生し,何かと時間を食うのである.

 第七飛行師団の第一線部隊は7月中旬にはニューギニアに到着
し始めていたが,これを指揮する「第四航空軍」の司令部が活動を
開始するのは,8月の中旬までずれこむことになる.

▼ 現地部隊間の微妙な関係

 第七飛行師団は,ニューギニアへの転用が発令された昭和18年
7月の時点で,広いインドネシア島嶼部に広く薄く展開していたため,
整備員や飛行場要員といった地上勤務部隊の移動が容易でなかった.

 また,飛行部隊も全部がニューギニアに移動するわけではなく,
一部が残留して引き続きインドネシア方面の防空や哨戒を担当す
ることになるので,インドネシア方面の地上要員を大規模に引き上げ
ることもできなかった.

 結果的に,ニューギニアに移動した第七飛行師団の飛行部隊は,
第六飛行師団の建設したインフラと地上要員に依存せざるを得ない
状況に置かれていた.ウェワクに置かれた司令部も,第六飛行師団司
令部と同じ建物に間借りする状態であった.

 本来なら,ここで両部隊が一致協力して難局を打開しなければなら
ないのだが,むしろ両者の間には埋められない温度差があった.満洲
やインドネシアで条件のよい飛行場に馴れていた第七飛行師団の将
兵は,ニューギニアの劣悪すぎる環境を目の当たりにして愕然とし,
「こんな所で戦争なんて,冗談じゃない」という態度が表に出てしまっ
たようだ.『戦史叢書』には,この時の第七飛行師団の反応について,
以下のような記述がある.

「第四航空軍,第六,第七飛行師団間の感情は円滑でなかった.新設
当初の第四航空軍と苦闘半年余の第六飛行師団との間には,情勢判
断の感覚に三か月程度のずれを生じた.第七飛行師団は第六飛行師
団が苦心して作った飛行場を見て,こんな飛行場に重爆師団を入れる
のか,という気持ちであった」

 一方で,地獄の戦場ですでに半年間の悪戦苦闘,文字通り「泥水す
すり,草を食み」という生活を強いられてきた第六飛行師団の将兵から
すれば,新入りの第七飛行師団は「ジャワの天国」で遊んでいた戦場
馴れしていない部隊,要するに気合が足りない連中だと映った.すべて
が不足するニューギニアでは,実際に危険な生水を煮沸して飲用したり,
野菜代わりに名も知れぬ野草を常食していた.

 第七飛行師団の幹部は,地上設備が貧弱なウェワク地区に大兵力
を集中することは危険すぎるとして,重爆戦隊についてはウェワクより
さらに西方(後方)に位置するホーランジア地区を根拠地とし,必要に
応じてウェワクを前進基地として活用すべきことを主張した.

 結果論としては,この主張は明らかに正論だった.しかし第四航空軍
はこの主張を退け,第七飛行師団を含めた大部分の兵力をウェワク地
区とブーツ地区に集中展開するよう命じた.このような集中展開は空
襲による地上撃破のリスクを伴うが,この時点ではウェワク地区に対
する大規模空襲の危険性はまだ真剣に検討されていなかった.

 むしろ,この段階では「ジャワのぬるま湯」に馴れた部隊を一日も早く
最前線に適応させる必要があるという点が強く意識され,あえてこのよ
うな処置をとったと言われている.

▼ 初動で壊滅した第四航空軍

 手間のかかる人事異動や司令部の改編作業を終え,第四航空軍が
ようやく部隊としての活動を開始したのは昭和18年の8月10日頃であった.

 第七飛行師団の加入により一時的に戦力が充実した第四航空軍は,
8月中旬の数日間,東部ニューギニア方面の連合軍基地に対して連続
的な進攻作戦を実施し,一定の成果を上げた.しかし,劣悪な環境下で
の連続出撃には限界がある.機材の整備とパイロットの休養のため作
戦をいったん休止した矢先の8月17日,ウェワク地区の日本軍飛行場は
予想外の大空襲を受けた.この時,多くの飛行機が整備のため駐機場
に引き出されており,第四航空軍は大部分の機材を地上で破壊されて,
実質的に壊滅してしまった.

▼ 戦場にもある「正常性バイアス」

 実は,昭和18年6月頃までには,すでにウェワク地区は連合軍の小型
機の攻撃圏内に入っていた.しかし昭和18年8月までの間,ウェワクに
対する連合軍の空襲は少数の四発重爆による偵察爆撃,いわゆる「定
期便」が主体で,中型機や小型機の大編隊による強襲は行なわれてい
なかった.時折P-38の姿も見られたが,その活動は単機での偵察行動
に限定されており,深刻な脅威とは見なされなかった.

 船団がウェワクに入港する際は,念のため戦闘機を上空に待機させて
空襲を警戒したが,その多くが空振りに終わっており,このことも大規模
空襲のリスクを過小に評価する結果につながった.

 ウェワクに基地が建設されて以来,半年間にわたって繰り返された「定
期便」に馴れきってしまった将兵は,すでに空襲のリスクに対して不感症
になり始めており,確たる根拠がないまま「本格的な空襲はまだ来ない」
という楽観的な観測が支配していたという.

 頭ではリスクがあると分かっていても,実際に身に沁みないと対応でき
ないという「正常性バイアス」は,戦場にも存在するらしい.

▼ 合理的な連合軍の戦術

 一方で連合軍は,ウェワク地区に今までにない大兵力が集結しつつあ
ることを確認し,これを地上で撃破するため大空襲の機会をうかがっていた.

 周到に準備された大空襲は,一連の連合軍基地に対する空襲が一段
落したタイミング,つまり日本軍機が整備のため地上にある瞬間を突い
て決行された.

 まず8月16日の夜,少数の大型機による連続的な夜間爆撃により,
日本機を地上に釘付けにする.これは,翌朝の出撃や戦闘機の邀撃,
空中退避を妨害するための牽制攻撃である.夜が明けると,超低空か
ら戦爆連合の大編隊がウェワク地区の飛行場群を強襲した.

 攻撃部隊の主力となった中型爆撃機は,地上に駐機している日本軍
機を発見すると,超低空で機銃掃射しながら接近し,目標のすぐ手前で
落下傘付きの小型爆弾を連続投下した.
一方,日本側の対空火器は射撃指揮装置と連動する高射砲(つまり
「定期便」の大型機に対する備え)ばかりで,近接防空用の対空機関
砲が少なすぎた.「ヤマ勘」での射撃ができない高射砲は,こうした超
低空からのゲリラ的攻撃にはまったく対処できない.

 戦闘機の緊急発進も間に合わず,連合軍の攻撃隊を阻止するものは
何もなかった.まさに「やりたい放題」のワンサイドゲーム.ほとんど反撃
を受けない状況下で,単純で命中率の高い攻撃が繰り返され,地上の
日本軍機は次々に破壊されていった.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.7.1




荒木 肇
『動員のコスト(2)──日本陸軍の動員(2)
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□はじめに

 K.Y様,まったく同意です.お便りの通り,兵事係は地域
の軍政の最先端にいて地域密着型で情報収集,整理,報告
という煩雑な業務を行なっていました.戦後,さまざまな誤解
や非難を受けた方も多かったようです.動員のシステムも秘
密が多く,たくさんの方々が何も知らないままに赤紙を受け,
戦地に旅立っていかれました.また,馬や荷車,その他の物
資の調達もしばしば悲劇をもたらしたのでしょうね.しばらく,
私の手元にある生な資料のご紹介で実態をお知らせしたいと
思います.

 H.M様,ご愛読ありがとうございます.野戦軍100万のう
ちに20万の輜重兵部隊があり,そのほとんどが輜重輸卒で
した.管理にあたる戦闘兵科である輜重兵はほんのわずかし
かいなかったのです.お便り通りのご理解でお願いします.
分かりにくい書き方をしましたことお詫びします.

▼兵科から兵種への変換

 よく知られているように陸軍は1940(昭和15)年に長く続
いた「兵科」を撤廃した.歩兵,騎兵,砲兵,工兵,輜重兵,
憲兵,航空兵という7つの兵科別を撤廃し,憲兵を除いた6兵
科をすべて「一般兵科」とした.明治の建軍から数年たって「兵
科」を立て,それぞれの教育や人事システムを築きあげてきた.
それがなくなり,それまで砲兵大尉とか,騎兵少尉と言ってき
たものがみな「陸軍大尉」「陸軍少尉」という官名に統一され
たのだ.『万染の桜か襟の色(歩兵の本領』,『襟には映ゆる
山吹色の(砲兵の歌)』といった各兵科の色も軍服からは姿を消した.

 こうなった理由には部隊編成の上で,戦う軍隊の近代化に対応
しにくくなったからだ.日露戦争までは歩兵聯隊はすべて小銃装
備の中隊ばかりだった.火器といえば歩兵聯隊には歩兵銃しかな
かったのだ.歩兵とは小銃を撃ち,大隊ごとの突撃を行なう兵科で
しかなかった.ところが日露戦争では機関銃や砲に守られた堅固な
要塞を攻撃し,掩蓋などで守られた野戦陣地も攻撃しなければな
らなくなった.

 主にヨーロッパで戦われた世界大戦(1914〜1918年)は日露
戦争がさらに大型化したものだった.塹壕戦が当たり前になり,歩
兵は突撃すれば機関銃の猛射を浴びた.火砲は大型化し,使われ
る砲弾も榴霰弾から爆発威力が高い榴弾が主になった.そうした
戦訓を学び,日本陸軍も機関銃を装備しようとしたり,歩兵砲も使っ
たりするように変えられた.もっとも,大正時代の軍縮により,そうし
た近代化も機関銃も時間がかかっていた.

 満洲事変(1931年)以来,その成功の下で軍事充実計画の策定
に有利な情勢になった.日支事変(1937年)からはさらに軍備の大
拡充が容易になった.おかげで平時編制ではともかく,動員がかか
った時の戦時編制で生み出される部隊では人事上のネックが生じた.
これまでの兵科をもとにして人事管理をする,教育を行ない,人材を育
てることが難しくなってきたのだ.

 満洲事変では歩兵聯隊長が手持ちの火力として75ミリ級の火砲を
もつことが有効であることがわかった.大正時代の装備では歩兵聯隊
には機関銃陣地撲滅用の「11年式平射歩兵砲」しかなかった.歩兵
部隊の突撃を妨げる重機関銃の掩蓋の銃眼を狙撃する口径37ミリ,重
量89キロの軽砲である.また,「11年式曲射歩兵砲(迫撃砲)」はあっ
たが運搬にも手間がかかり,弾量も決して大きくなかった(口径70ミリ).

 そこで,大正末期の軍縮で縮小された山砲兵聯隊の装備に目が付け
られた.保管されていた山砲(75ミリ)を歩兵砲として与えてみた.山砲
なら分解して駄馬の背にのせられたし,急な地形でも兵士が担いで推
進できたからである.弾丸口径は野砲と同じ,装薬が少ないだけで爆
発威力は野砲と変わらない.これは使い勝手がよかった.それまでは
砲兵聯隊長のもとから配属を受けた砲兵を使ってきた歩兵聯隊長とす
ればたいへん役に立った.
 
 問題は,その指揮官たる中隊長の養成はどうするかということである.
赤い襟章の歩兵将校のままでは教育をし直さなければならない.歩兵学
校に行かせる代わりに山砲兵指揮官の教育課程を履修することになっ
てしまう.これはプロパーな歩兵将校にしてみれば傍流に行かされるよ
うに思えたことだった.だったら歩兵聯隊の歩兵砲中隊長には黄色の襟
章の山砲兵将校をあてればいいとなろうが,これまた生粋の砲兵からす
れば系列の別企業に出向させられるようなものだ.

 考え出されたのが「兵種管理」である.いまでいう特技,自衛隊でいう
ところのMOS管理になる.新しい兵種である戦車兵はもとは歩兵であ
る人や騎兵だった人,あるいは工兵だった人が集められるようになった.
 
 在郷軍人名簿でも,それまでの兵科に代わって兵種が記載されるよう
になった.歩兵,山砲兵,重砲兵,騎兵,輜重兵といった書き方から,化
兵,機甲,野山砲,野重などの専門職種で管理されるようになった.
 なお,佐官・尉官と准士官・下士官,兵とは表記が違っているので注意
しなければならない.

▼兵種の区分

 どう区分されていたのか詳しく見てみよう.佐官・尉官が記載される動
員関係の名簿には次の種類がある.考科表(評価に関する成績書),戦
時名簿及動員計画書類の2つだった.この戦時名簿というのがいまの自
衛隊と決定的に異なるところだ.当時の佐官・尉官,准士官,下士官は
現役も予備役もみな「戦時補職」をもっていた.
 
 たとえば,歩兵聯隊付の中佐は平時では本部に詰めているが戦時名
簿では特設聯隊の聯隊長であることが多かった.明治の末年生まれで
大正時代の一年志願兵だった私の祖父は,日支事変に応召した時には
福井県鯖江歩兵第36聯隊第2大隊第2機関銃中隊戦銃隊小隊長だっ
た.これは毎年改訂される「戦時名簿」に記載されている通りである.
 
 また,兵種区分も年一回調整される「予備役陸軍将校名簿」にも載って
いる.今の自衛隊は予備役の招集補充がないから一回こっきりの戦いし
かできないし,部隊の実員がそのまま戦場に投入される.いまの陸上自
衛隊は「動員がない軍隊」であり,昔の陸軍は「動員を前提にした軍隊」だった.
 
 兵種区分の実際規定を見てみよう.昭和19年の「陸密第3931号」か
らである.なお以下,当時の文書は読みやすくするために片仮名を平
仮名に,一部は漢字を平仮名に改めてある.
 1)新たに任官した時は所属隊の兵種にする.
 2)転職,特別志願将校に採用される,あるいは召集のため前の兵種
と異なる部隊に編入された者は新しい所属部隊の兵種とする.
 憲兵と各部将校については,陸軍武官官等表の官種別にしたがって区
分する.次のようになる.憲兵,技術,主計,建技,軍医,薬剤,歯科,
衛生,獣医,獣医務,法務,軍楽という区分である.
 また兵種を転換した者は(憲兵また各部に転じた者はのぞく),旧兵種
にカッコをつけて注記する.たとえば,「機甲(歩)」のようだった.
 
 なお,主計と建技は経理部,軍医・薬剤・歯科・衛生は衛生部,獣医・獣
医務は獣医部の所属である.衛生は医師資格がない将校,獣医務も獣医
資格がない将校だった.手元の「現役将校停年名簿」には,階級,現補職
名・その上番の日付,学校歴,兵種,位階勲等功級,序列番号,出身県・
本籍氏名・誕生日,陸士卒業期別が書いてある.
 
『大佐,戦車第五聯隊長,(昭和)一九,五,七,戸校甲・歩校甲,機甲
(歩),正六勲三功四,896,熊本(略)33』という具合である.
 
 それでは准士官,下士官の兵種,さらには兵の場合はどうだったのか.
ここでも『動員計画書類,兵籍,戦時名簿等に記載すべき准士官,下士官
の兵種区分に関する件(昭和16年陸普第三千百十三号)から見てみよう
(原文は漢字カタカナ混じり).
『その在隊する平時(臨時編成)(動員)部隊に入隊又は充用せらるる兵
科兵の兵種区分に応ずる兵種によりその在隊せし順序に列記するものと
す』とされていた.
 ただし,編制上同一部隊に二種以上の兵種の混在する場合にあっては,
その兵種を優先する.また,兵種にふさわしい教育を受けていない,服務
期間が短い場合には記載しない,という規定もあった.
 
 同一部隊に二種以上の兵種がいるときというのは,まさに先ほどの例に
なる.歩兵聯隊の中に山砲兵,工兵,輜重兵がいても彼らの兵種はその
ままである.歩兵聯隊に応召したからといって歩兵に変更がされるわけで
はなかった.
 
 兵はどうかというと将校とは違っている.化学戦関係では将校は化兵と
迫撃兵に区分された.化学戦の専門家である化兵将校と瓦斯弾を撃つか
もしれない迫撃砲兵将校は分かれている.その代わり兵は迫撃兵だけで
ある.将校の機甲の下の兵は騎兵と戦車兵.野山砲将校の下の兵は野砲
兵,山砲兵,騎砲兵になった.あとは将校の野重,重砲,高射,気球,工
兵,鉄道,船舶,輜重の下にはすべて同じ名称の兵がついた.将校の電信
の下は通信兵,航空将校の下には飛行兵,気象将校の下には情報兵とな
り,将校だけしかないのは挺進である.
 
 技術・技能に関連する准士官・下士官・兵についても記載注意があった.
『官等級欄に記載する兵技下士官にありては左の区分に依り階級の下
段に(  )を附し,又経理部下士官は主計,建技,経技に区分記載するも
のとす.火工,鍛工,電工,技工,機工も同様.』
 
 そして兵種確定の元となる所属隊の種類についても,1944(昭和19)
年10月20日の『岐動第218号』の達しを抜粋しよう.大東亜戦争末期の
陸軍部隊の種類を知るには最適である.
 化兵は制毒隊・瓦斯隊・特殊自動車隊,機甲には戦車隊・装甲車隊・騎
兵隊・捜索隊,野山砲には野砲兵,山砲兵,騎砲兵,船舶砲兵(高射関
係者は除く)の各隊,迫撃は迫撃・臼砲の各隊,船舶は船舶工兵・揚陸・
海上輸送・特種艇・泛水(ほうすい)作業の各隊,航空は飛行・航空教
育・航空通信・観測・航空情報・飛行場・飛行場設定の各隊,高射は機
関砲・高射砲兵(船舶砲兵隊の高射関係者を含む)・照空の各隊となっている.
 
▼在郷軍人名簿の記載要領

 調整上の注意が表紙の裏に載っている.
イ)将校について
 詮衡会議に可決したる幹部候補生を含む.また軍医予備員と将校勤務
適任証書所持者,医師,獣医師免許所持者は将校の末尾に編綴(へん
てつ)するものとする.

 幹部候補生とは予備役将校になろうとする者であり,最終的に将校団
が主催する詮衡会議に通らなければ少尉になれなかった.この場合は
任官して予備役編入前の身分の者である.また,軍医予備員とは1937
(昭和12)年の勅令で制定された.陸海軍ともに自前の軍医養成学校を
持たなかったために医師資格のある者を根こそぎ集めようとした.

 17個師団24万人の平時編制の昭和の初め,軍医の定員は1500人で
しかなかった.本省の衛生局,軍医学校,全国師団司令部衛戍病院,部
隊付を集めて現役軍医の数はそんなものだった.現役軍医は大学医学
部・医科大学(中卒後7年),医学専門学校(中卒後4年)に声をかけ学費
を支給して依託学生とした者を採用した.このころ医師免許を手にする人
は毎年3000人くらいだった.

 ところが17個師団に動員がかかり,戦時編制になると軍医の所要数は
5000人にもなった.師団で4個あるいは3個持つ野戦病院,外地の兵站
病院や機関の必要数である.医師免許をもつ者が日本中で約4万7000人
でしかなかったから陸軍はあわてざるを得なかった.1年志願兵,幹部候
補生という制度で予備役軍医を育てた(2年間で軍医少尉)が,その数は
毎年170名前後.医学生全体の中ではわずか5.7%である.

 そこで軍備拡充期に入る1933(昭和8)年にはわざわざ「軍医候補生」
というシステムをつくった.満32歳未満で医師免許をもつ者は選考の上,
即日陸軍生徒・衛生部軍曹にする.2カ月後現役軍医中尉(大学卒),同
少尉(専門学校卒)にして,2年間の現役に服させるとした.海軍の短期
現役軍医と足並みをそろえたものだった.このころの医師は学校卒業まで
徴兵検査を受けることを猶予され,合格しても実際は国民兵役や補充兵
になることが多かった.
 
 軍医予備員を志願すれば短い訓練期間のあとにすぐ予備役衛生軍曹に
する.召集があれば衛生曹長に進め見習士官を命じるという制度である.
獣医もまったく同じ扱いであり,名簿には資格者が明らかになるように記
載することになっていた.
 
 次回はさらに詳しく,その記載内容をお知らせしよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.7.1




マーケット・ガーデン作戦とインテリジェンス (10)
                長南 政義
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【アモス・ギルボア著『イスラエル情報戦史』(並木書房)を推薦する】

本連載に登場するポーランドの事例に代表されるように,国の
四周を敵国に囲まれた国家の情報機関はよく発達する傾向に
ある.現代の事例でいえば,イスラエルの情報機関がそれに該
当するであろう.

一般に,情報機関の活動は機密に属するため,情報機関の活動
の実相に迫ることのできた研究というのは少ない.だが,市民の
間で高まりを見せる情報公開・情報アクセス権の輿論の高まり
に対し,情報機関ですら沈黙を守ることが困難な時代となった.

この時代の流れをうけて二〇一〇年,英国の対外情報部MI6が
正史を刊行して(ジェフリー・キース著『MI6秘録 イギリス秘密情
報部1909〜1949』上下巻,筑摩書房),自身の活動を可能な限り
明らかにして国内外の注目を集めた.このMI6の正史の出版に影
響を受けたのが,イスラエルの情報機関関係者である.モサドや
アマンなどのイスラエルの情報機関も自身の手で明らかにできる
活動の詳細を公表しようとしたのである.それが,イスラエル政府
公認の情報「正史」である本書,アモス・ギルボア著『イスラエル情
報戦史』(並木書房)である.

本書は数多くの論文から構成されているが,その執筆者はアマン,
モサドの元長官,ヒューミントやシギントに関与した指揮官などであ
り,その内容は専門的で,史料的価値が高いものとなっている.

恐らく,本書は,『MI6秘録』とならび,今後,情報戦史の必読本とし
て読み継がれていくであろう.文章も平易で専門外の方でも読みや
すいので,ぜひこの機会に多くの諸賢が本書を繙かれることを期待したい.


モス・ギルボア著
『イスラエル情報戦史』(並木書房)
http://okigunnji.com/url/xr491gnl/


【前回までのあらすじ】

本連載は,精確な内容を持つインテリジェンスが一九四四年
九月上旬に連合軍の指揮官に利用されたかどうかを考察す
ることにある.実は,インテリジェンスの内容は,マーケット・ガ
ーデン作戦実行に伴うリスクを連合軍の指揮官に警告していた.

指揮官が決定を下すために利用できるインテリジェンスの情
報源は数多く存在していたが,本連載では「ウルトラ」情報に
より提供されたインフォメーションにのみ焦点を当てて考察を
進めることとする.第二次世界大戦を通じて,連合軍の戦略レ
ヴェル・作戦レヴェルの指揮官たちはウルトラ情報を活用し,
ウルトラ情報の精確性に関してめったに疑いを持たなかったからだ.

前々回からインテリジェンス活動の基幹をなす暗号と暗号解読
についてみてきている.その際にキーワードとなるのは,ドイツ
軍が使用した暗号機「エニグマ」とそれを解読した「ウルトラ」情
報であるが,前回は「エニグマ」誕生の詳しい経緯について説明した.

エニグマ暗号機の誕生は,ドイツ人技師アルトゥール・シェルビ
ウスが歯車を回転させることで暗号化を行なう暗号機に関する
特許を申請(一九一八年出願)し,シェルビウスが一九一九年
に同様の特許申請を行なっていたオランダ人ヒューゴ・アレクサ
ンダー・コッホの特許を購入したことに端を発する.

一九二三年,シェルビウスは企業に暗号機を販売することを目
的とした会社を起業した.だが,シェルビウスはエニグマ暗号機
を商業用暗号機として販売したものの,彼のビジネスは順調と
はいえないものであった.

事実上無視されていたシェルビウスの暗号機が注目を浴びる契
機となったのが,一九二六年,ドイツ海軍によるエニグマ暗号機
の採用であった.ドイツ陸軍,ドイツ空軍およびその他のドイツ政
府機関はドイツ海軍の動きに追随し,エニグマ暗号機をそれぞれ
の通信システムに導入するようになった.そして,第二次世界大戦
終了までに,エニグマ暗号機は軍のあらゆる部門のみならず,軍
以外の政府内のあらゆる機関でも使用されるようになった.

今回から数回に亙り「ウルトラ」情報について述べることとする.


【忘れられたポーランドのエニグマ暗号解読作業】

よくある誤解の一つに,英国がエニグマ暗号の解読に成功したの
は,英国が単独でなした業績であるというものがある.しかし,英国
の「ウルトラ」計画の系譜は,ポーランドのウイッチャー計画に直接
遡ることができる.というのも,ポーランドがドイツの暗号通信を解読
することで蓄積した,ウルトラ計画以前の十三年間に及ぶ諸経験な
くしては,ウルトラ計画が現在かたられているような成功譚となった
かどうかは極めて疑わしいからだ.

ポーランドが,第二次世界大戦前夜に,自国がやってきた解読作業
の蓄積を,フランスおよび英国に引き渡したとき,英国はわずかに
エニグマ暗号機がどのように動くのかというような極めて初歩的な
知識しか有していなかった.

不幸なことに,ポーランドが蓄積してきたエニグマ解読作業は多く
の歴史家により見過ごされがちである.というのも,ポーランドの解
読作業は大戦中ではなく戦間期に実施され,その規模が小規模だ
ったからである.だが,小規模であってもポーランドの解読作業は効
果的なものであり,後に英国により実施された解読作業に劣らない
どころか,英国による解読作業以上の重要性を持つものであった.


【ウルトラに関するもう一つの誤解】

ウルトラに関するもう一つの誤解として,ウルトラの唯一の任務は
エニグマの暗号コードを解読することであった,というものがある.
この誤解は部分的には正しいが,ウルトラ計画の裾野は広く,
毎日,エニグマ暗号の「鍵」を発見しようと努力する数学者たちの
集団だけの努力にとどまるものではない.

現実には,ウルトラ計画は以下のようなあらゆる段階を含む総合的
な計画であった.すなわち,それらの段階には,

(1)ドイツ軍が送受信する情報を傍受する
(2)傍受した暗号の「鍵」を解読する日々の努力
(3)情報文を読みやすくする
(4)インフォメーションをインテリジェンスに高めるために情報文を分析する
(5)解読・分析が済んだインテリジェンスを第一線部隊の指揮官に伝達する
(6)それを読んだ部隊指揮官たちが「ウルトラ」情報を決断のために利用する

といった諸段階が含まれていた.


【ポーランドによるドイツ無線通信傍受計画の始まり】

第一次世界大戦の後の数年間,大戦に参戦した多くの国家が大戦
中に実施されていた暗号解読のプログラムを維持し続けたが,その
有効性の程度は各国により異なっていた.今回は,ポーランドと英国
の例を説明してみよう(次回で,フランスや米国をとりあげる予定).

それらの国々の中でも,最も積極的に暗号解読プログラムを実施し
ていたのがポーランドである.というのも,ポーランドはヴェルサイ
ユ条約が戦争を終わらせるものではなく,次の戦争までの一時的
休息期間を提供するものに過ぎないということを正確に理解していた
からである.

ポーランドにとって直接の関心事はドイツがポーランドに対してどの
ように反応するのか?というものであった.というのも,ヴェルサイユ
条約はドイツに対しポーランドへの領土割譲を定めていたからである.

ポーランドはこのことを念頭に置き,大戦終了後間もなくからドイツの
無線通信の傍受を開始し,この通信傍受活動はポーランドがドイツ
軍の侵攻を受ける一九三九年まで継続した.


【第一次大戦後における英国暗号解読プログラムの情況】

新たにエニグマにより引き起こされた潜在的な脅威が関係者により
理解された時に,ポーランド以外の連合国はポーランドの情報活動
に匹敵する諜報活動を行なっていなかった.

第一次世界大戦中,英国で行なわれた暗号解読プログラムの名前
は「ルーム40」といった.大戦終結後の一九一九年,ルーム40は解
散され,その機能は政府暗号学校(GC&CS)創設のために英国陸
軍の情報部MI1と統合され,その管轄も海軍省から外務省へと移管された.

政府暗号学校の暗号解読は戦間期も機能していたが,エニグマ暗号
を解読するのに十分な人的・物的資源の配分は適切になされておらず,
第二次世界大戦前夜になってドイツの通信システムを突き破る準備が
できていないことが判明した.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.6.22




『ライター・渡邉陽子のコラム (52) ─ 飛行管理隊/飛行情報隊(7) 』
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは,渡邉陽子です.

昨日,群馬県の板倉というところまで行ってきました.
電車の場合,自宅からはひたすら在来線でいくしか方法がなく,
往復5時間,ロングシートで揺られていました.これだけの距離
だと,JRだったらグリーン車に乗れば仕事もできるし,帰りは
ちょっとビール飲んだりもできるのに,ただただひたすら座って
いるだけ……新幹線も特急もJRも通っていない路線,なかな
か厳しいです.そして明日も板倉に行くのです.


■飛行管理隊/飛行情報隊(7)

航空機が安全に飛行するため,必要に応じて発行されるノータム.
前回はノータムにはどんなものがあるか,そして自衛隊が発行す
るすべてのノータムの審査・指導を行なっているのが飛行情報隊
だということをご紹介しました.

飛行情報隊がチェックするノータムは,1日平均300件とかなりの
数.空港の工事やメンテナンスは夜間が多いので,ノータムは夕方
に集中します.取材時,ノータムセンターの壁に貼られていたノー
タム取扱実績によれば,2011年3月のノータムは陸海空自衛隊と
国交省の発行合わせて8367件.同年11月の5593件と比較すると,
東日本大震災の影響により,ノータムが相次いで発行されたことが
わかります.


飛行情報隊のある府中基地の建物は,戦後進駐軍が建てた年代
物.東日本大震災での震度5弱の揺れは,実際には「建物が倒壊
するかと思った」と隊員たちが青くなるほどの激しい揺れだったそうです.

壁の一部がパラパラとはげ落ち余震が続く中,松島基地から電話が
ありました.津波の被害を受け28機あった航空機全機が水没した基地です.

「間もなく松島基地に津波が来ます.端末が壊れてノータムを発行
できません,そちらで代替発行をお願いします.われわれはこれか
ら避難します」


誰も経験したことのない未曾有の状況.
確かにノータムの代替発行は飛行情報隊の任務のひとつではあり
ますが,松島基地からの命がけの電話も,その内容も,それを受け
て冷静にノータムを発行した飛行情報隊も,自衛隊員が入隊時に
宣誓する「事に臨んでは危険を顧みず,身をもつて責務の完遂に
務め」そのものです.
結局,松島基地の端末が復旧するまで,飛行情報隊は約30通の
ノータムを代替発行しました.


少し話がそれますが,津波に襲われた松島基地についても触れ
させてください.
当時,松島基地には飛べる状態の航空機18機と故障や整備中の
10機がありました.震災当日の午後は天候不順のため午後の訓
練が中止,地震が発生したときはすべての航空機が基地にある
状態でした.
1446に地震が発生,1510には松島基地周辺に大津波が到達する
との警報を入手した基地司令は,地震発生から約10分後に全隊
員へ屋上への退避を指示したといいます.結果的に津波の到達
は地震発生から約1時間後だったため,「隊員の退避が早すぎた
から航空機を空中退避させられなかった」という非難の声が一部
に挙がりました.


自衛隊はこういうときにあまり弁明しないので歯がゆいのですが,
ハンガーに格納されている航空機や故障中・整備中の航空機を
1時間以内に飛ばすのは物理的に不可能です.

格納作業中だった航空機でも,改めて飛行前点検を行ない,か
つ,これほどの揺れの後ですから滑走路や誘導路の目視による
安全確認が必要です.さらに第1回にも書きましたが,航空機の
飛行にはかならず飛行計画書の提出が必要です.

これらすべてを行なうには最短で約40分かかるそうです.しかも
当日は訓練が中止になったほどの天候不良でした.


「スクランブルは5分で上がってるじゃないか」という声もありました.
スクランブル待機している航空機はあらかじめすべての点検や
準備が整っており,航空機もパイロットも「いつでも飛べます」とい
う状態で待機しているからこそ5分で上がれるのです.あまりに
非現実的なコメントです.


つまり,1510頃に大津波が押し寄せるという情報を入手した時点
で,航空機の空中待機という選択はありえませんでした.津波が
予想より遅れてくるかもという希望的観測で,千数百人の隊員の
命を危険にさらすわけにはいきません.


目の前で津波に流されていくF-2を見ていた隊員たちは,北風の
吹き付ける屋上でなにを思っていたのでしょう.ノータムの代替発
行を電話で頼んできた隊員は,どんな思いで避難したのでしょう.

松島基地をベースとしているブルーインパルスが,九州新幹線開
通イベントで展示飛行するため松島基地にいなかったことが,
唯一明るいニュースでした.


次回は飛行管理隊/飛行情報隊の最終回です.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.7.9




荒木 肇
『動員のコスト(3)──日本陸軍の動員(3)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


□はじめに

 こちら関東では長い雨が続いています.いつになったら
梅雨が明けるのか,だんだん落ち込んでくるような気がし
ています(笑).そうした中で,この日曜日は小山町須走
の富士学校で創立61周年記念日が開かれました.いつ
ものことながら,列席された国会議員の方々のお話がた
いへん長く,いささか疲れます.いいお話で心に残ったの
は佐藤正久参議院議員のご挨拶でした.国防のために
共に尽くすという共感にあふれたお話に感動しました.

 逆に民主党政調会長のお話にはいささか眉に唾付ける
思いをもちました.かたや党としては『徴兵制になるかも』
と煽りながら,議員ご本人としては「防衛論議に野党も与
党もない.力を合わせて国防に誠実に対応する」とのこと.
なんとも面妖な話です.面従腹背,腹の中は違うのだな
と,皮肉ながらさすが大物政治家は違うな〜などと感想を
もちました.

 徴兵制,たやすく口にするけれど,実際はたいへんな仕組み
です.

▼詳細な下士官についての記入

 下士官についての記載要領も興味深い.今回も読みやすく
するために現代語の仮名遣いと漢字にあらためる.
『現役を離れた翌日から予備役に入り(服務令15条),その
終わりは任官の年から起算して19年目の3月31日とする
(服務令24条)』
 予備役の期間はなかなか長い.下士官の現役定限年齢は
兵科准士官40歳,ただし各部と憲兵にかぎり48歳である.
曹長,軍曹,伍長は,各部と憲兵は45歳で,兵科は40歳とある.

 次の但し書きも重要である.『操縱候補生の飛行機操縦の検
定に合格し,もしくは飛行機操縦士免許をもつ年齢が25歳未
満の者で予備役の航空関係の兵科下士官を志願し,下士官
に任じられ者は,年齢48年に満ちる年の翌年3月31日を終期
とする(同前25条の2).また,軍医予備員である衛生曹長と
軍曹は年齢45年に満ちる年の3月31日まで予備役とする(軍
医予備員令6).』

 特種技能者である操縦士や医師免許のある者は各部のあつ
かいになる.そして,『志願ニ依ラザル下士官ニ任ゼラレタ者』と
いう類別も登場する.
『志願しないで兵から下士官になった者は兵の服役と同じになる.
ただし,志願して下士官としてさらに現役になった者は志願して
下士官に任じられた者とし,取り扱われる.ただし,補充兵で下士
官になった者は前の服役年月を通算して予備役の終期は17年
4カ月に満ちる日とする(服務令40条)』

 大西巨人の『神聖喜劇』のなかには補充兵である主人公の内
務班長たちが登場する.彼らは昭和7(1932)年兵であり,昭和
16年には対馬要塞の軍曹だった.長期化した北支事変,日華事
変の中で度重なる召集を受け,『大陸で重砲ひっかついで転戦し,
死にそこなった強者』でもある.志願などしなくても下士官不足の
中で伍長になり,軍曹になってきた人たちだろう.

 下士官は必ず学校教育を受けてなった.各地にあった教導隊で
ある.自衛隊でも事情は同じで,全国の方面隊ごとに陸曹教育隊
をもつ.選抜された士長が入校して下士官(曹)になる学校のこと
である.制度の改編で少年自衛官という名前がなくなった陸上自
衛隊高等工科学校(神奈川県横須賀市)の生徒も下士官候補者
であり,成人したころには3等陸曹に任命される.

▼「一国」とのからみ

 ところが戦時になって損耗が起こると,そうした仕組みは崩壊してし
まう.志願して現役下士官になる道の他に,志願しなくても下士官に
されてしまう予備役兵が出てくるということだ.下士官になると(故郷
に)帰りにくくなる,そういった事情が生まれてくる.ただおそらくは人
事関係の上官から,『これだけ戦争が長くなると帰ったってすぐに次の
召集がくる.ならば少しでも階級は上げておいた方がいいではない
か』とさとされた人も多かったに違いない.
 
 注目すべきは「補充兵」から下士官になる者も出てくることだ.補充
兵とはもともと戦時の補充にあてる者であり,上等兵になることも話
題になるほどだという.これまた有名な小説『人間の条件』(五味川
純平)の主人公,梶は補充兵から上等兵になっている.これも下士
官になれる資格があったといっていい.
 
 次に,「第一国民兵役」についての記載がある.
『下士官で年齢45年に満ちる年の3月31日の前に予備役を終え
た者は年齢45年に満ちる年の3月31日まで引き続き第一国民兵
役に服させる(同前27条)』
 国民兵役とは事変または戦争のときに,国民軍を編成するときに
服役義務がある立場だった.まず,召集がくることはなかったが,軍
隊との縁は45歳まで終わることがなかった.
 
『現役と予備役の下士官で身体の故障その他で現役・予備役を免じ
られた者は同じく年齢45歳の3月31日まで第一国民兵役に服する
(同前30条)』
 
 幹部候補生についての記入注意もある.幹部候補生採用までの
区分に応じた定限年齢があった.幹部候補生とは甲種が将校予備
員,乙種が下士官予備員である.いまの自衛隊では警察予備隊から
の制度だろう.外国軍の将校にあたる者だけを幹部というが,昔の
陸軍では『官になった者』が幹部といわれた.したがって判任官だっ
た伍長以上は幹部である.
1)現役兵,または補充兵の出身ならば現役または補充兵役の起算日.
2)国民兵では徴兵免除の徴兵免除処分を終えた年の12月1日.
3)上記以外のほかに志願によって兵籍に編入された者は兵籍編入日

 幹部候補生はふつう現役なら1期(4カ月)の終了と同時に試験を
受けた.補充兵なら教育召集があり,その終わりに採用試験を受け
た.国民兵というのは徴集された年にはおそらく丙種合格者であり,
身体虚弱と判定を受けた人になる.

▼なくなった後備兵役

 1941(昭和16)年から長い間の馴染みがあった「予・後備役」という
区分がなくなった.なんとなく,もう召集はあるまいという気分にさせられ
る後備役という名称はやめて全部予備役という名称に統一しようという
ことだっただろう.

 予備役将校は期間が満了すると「退役」となった.ただし陸軍兵科・各
部将校は裁判官(判事)と同じで死ぬまで官をもつ終身官だった.その
礼遇を受け続けた.

 また現役定限年齢の延長もあった.兵科中尉と少尉は『當分ノ間』
46年に延長された(昭和7年3月).兵科大尉は49年に延長される.
また1937(昭和12)年には兵科大尉は50年に,主計大尉は52年に
延長された.

 大尉というのは将校の中でも初級ではなく中級に位置する.この延
長の意味はたいへん大きい.損耗数の多さがその背景にはあった.
そして各部の中でも主計将校の延長である.これまた戦時の所要数
が足りなかったことが分かる.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.7.8




陸軍機 vs 海軍機(43)       清水政彦

「零戦と隼(42)」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「零戦vs隼」の第42回.今回は,昭和18年3月から6月頃に
かけての第六飛行師団の戦いぶりをダイジェストでお届け
します.

▼ 海上輸送掩護に明け暮れた昭和18年前半

 昭和18年3月から6月にかけて,第六飛行師団はウェワク
地区およびハンサ湾,マダン地区に対する船団輸送の掩護
に忙殺されていた.乗船していたのは主として陸上兵団,道
路構築のための工兵部隊,高射砲部隊,飛行場設定隊,整
備部隊などであり,積み荷はこれらの部隊向けの軍需品や兵
器類であった.

 この時点では三式戦を装備する第14飛行団が戦力として期
待できないため,一式戦装備の第12飛行団を総動員して船団
の上空掩護を行なう必要があった.

 こうした船団輸送はおよそ1カ月に2回のペースで実施され,
第12飛行団はそのたびに数日間にわたり連日出撃して船団の
上空を掩護した.この時期の輸送は連合軍の空襲を受けること
なく無事に終了することが多く,出撃した一式戦も,多くのケース
で全機が帰還している.

▼ ラエ方面での地上戦支援(5月中旬〜6月中旬)

 昭和18年5月中旬,連合軍の小部隊がラエ近郊の「サラモア」
地区に進出し,当地区の警備にあたっていた第51師団の部隊と
交戦した.

 戦況は一進一退が続き,断続的に小規模な戦闘が発生した
が,第六飛行師団も船団掩護の合間を縫って何度かサラモア地
区に出撃し,敵陣地に対する爆撃・銃撃を行なって第51師団の
戦闘を支援した.

 この際,連合軍の航空部隊との間に大規模な交戦はなく,攻
撃に参加した機の大部分が無事に帰投した.一方でとくに目覚
ましい戦果もなかったようで,逆に友軍部隊を誤爆して20名程度
の死傷者を生じている.

▼ 連合軍の偽装工作に騙される(5月〜6月)

 昭和18年4月末ころ,中部ニューギニアの脊梁山系にある「ウィ
ルヘルム山」山麓の高原地帯に突如多数の滑走路が出現し,連
合軍による基地建設が進んでいると判断された.

 ウィルヘルム山はウェワクから南東に約300キロ,マダンから南に
100キロ程度という至近距離にあり,仮にこれらの滑走路が連合軍
の根拠飛行場となれば,ウェワク地区に対する小型機での連続空
襲が可能になる.

 前述したとおり,東部ニューギニアの戦略態勢は,「連合軍はニュ
ーギニア島北岸沿いに西に反攻する」「脊梁山系の突破は不可能」
という前提のもとに成立している.

 仮にウィルヘルム山一体が大航空基地となれば,この前提が崩
れる.ウェワクとマダンは「背中から刺される」状況になり,ニューギ
ニア北岸への船団輸送が不可能になって全戦線が崩壊するであろう.

 とはいえ,ウィルヘルム山は沿海部から隔絶された内陸の高地で
あり,陸上からのアクセスが不可能な立地だ.常識的に考えれば当
地への補給は継続不能で,大規模な飛行隊が常駐することはない
(単なる不時着用滑走路である)と考えるべきだった.

 実際,これらの「飛行場」の実態は草原の草を刈っただけの偽装
基地で,日本側の攻撃を無価値な目標に誘引するための罠だった.
同時期にラエ近郊(陸上からのアクセスが可能な立地)で本格的な
根拠飛行場の建設が始まっており,ウィルヘルム山でのこれ見よが
しな「基地建設」はそのための煙幕でもあった.

 しかし,日本側は連合軍の空輸能力を過大評価していたため,ま
んまと連合軍の罠に落ちてしまった.「連合軍の物量ならば,空輸で
大基地を維持できるのではないか」という不安に耐えられなかった
のだろう.ウィルヘルム山周辺に多数の滑走路が出現したことは戦
略的な大事件と受け止められ,その建設と運用を妨害することが是
非とも必要であるとされたのだった.

 第六飛行師団は,乏しい戦力を輸送掩護や地上作戦支援に振り
向けつつ,昭和18年5月以降,可能な限りの兵力を動員して繰り返
しウィルヘルム山に出撃し,「ただの草原」を爆撃し続けた.

▼ 陸上交通路の遮断

 ラエの南方にある小集落「ワウ」が第八方面軍の当面の攻略目標
となっていたことはすでに述べた.ワウの地形は「険しい山の中に
開けた小盆地」であり,北岸のラエ地区との間にだけ,獣道のような
細い道路が通じていた.

 連合軍が支配するニューギニア南岸とワウの間には陸上交通路が
存在しなかったので,ワウの連合軍は補給をすべて空輸に依存して
おり,連日多数の輸送機が動員されていた.

 しかし,いくら多数機を動員しても空輸で維持できる兵力量には限界
があり,昭和18年4月頃の時点でワウに進出していたのは少数のオー
ストラリア軍のみ.飛行場には若干数の小型機が進出していたようであ
るが,やはり補給の問題で,この時点では本格的な根拠飛行場とはな
らない.連合軍は南岸地区とワウを結ぶ自動車道路の建設を急ぎ,昭
和18年夏頃の完成を目指していた.

 日本側も,写真偵察によってこの道路構築作業の進捗を把握してい
た.自動車道が開通すればワウに駐留する連合軍の兵力は大幅に増
加し,その攻略は不可能になる.また,ワウに本格的な航空部隊が常
駐すれば,ラエはもちろんマダンやハンサ湾の制空権が脅かされ,爾
後の作戦に大きな悪影響を与えることになるだろう.

 第六飛行師団では,連合軍の道路建設を妨害するため航空攻撃の
必要性を感じたが,兵力不足と悪天候に妨げられてなかなか実行でき
ず,結局は小兵力による散発的な攻撃を数回実施しただけに終わった.

▼ 海上輸送の妨害攻撃

 ラエ方面に対する連合軍の本格反攻を一日でも遅らせるためには,陸
上交通の遮断と同時に,ニューギニア北岸沿いに行なわれている連合
軍の海上輸送を妨害する必要がある.しかし,海軍航空部隊はニューギ
ニア方面での輸送船攻撃にはまったく不熱心であったので,こうした海上
輸送妨害の作戦も第六飛行師団の仕事となった.

 このとき,第六飛行師団の戦闘機隊は,友軍の船団掩護とウィルヘル
ム山への進攻作戦に忙殺されて兵力に余裕がなく,泊地攻撃に赴く爆
撃隊を掩護することは不可能だった.そこで,泊地への攻撃は戦闘機を
伴わず,夜間に少数の重爆や軽爆が単独で進攻することになった.

 こうした夜間攻撃は雲に阻まれて目的地に到達できないことが多かっ
たが,目標まで到達した機はおおむね爆撃を成功させて無事に帰還し
ている.興味深いのは,陸軍の場合,海軍と違って船そのものを攻撃目
標とせず,泊地の揚陸点を爆撃して,海岸に積み上げられた物資を炎
上させる戦術がとられたようである.

▼ 敵飛行場に対する航空撃滅戦

 数に勝る連合軍の航空戦力を削ぐためには,根拠地となる飛行場に対
する空襲を連続して連合軍機を地上で撃破するしかないが,前述したと
おり,第六飛行師団は少ない兵力で膨大な量の任務を与えられており,
まとまった兵力で敵地に進攻する余裕は持てなかった.

 少ない兵力をやりくりして何度かブナやワウの飛行場に対する航空撃
滅戦が企図されたが,せっかく出撃しても悪天候に阻まれて引き返す
ことが多かった.

 もっとも,天候に恵まれて飛行場の攻撃に成功した場合には,連合軍
の反撃にもかかわらずわずかの損害で戦果を挙げている.この時点で
は,日本陸軍の航空隊は「空中では」負けていなかったといってよいだろう.

▼ 増加しない稼働機数

 空中での損害はなくても,「ただ飛んでいるだけ」で機材と人員は消耗
する.荒れた滑走路では一定確率で事故が発生することは避けられない
し,連日のように高空での長時間任務にあたるパイロットには疲労が蓄
積し,感染症の蔓延を助長した.

 さらに,運転時間が蓄積したエンジンは念入りな整備が必要になる.
1個飛行団を連日フル回転させようとすれば,整備のために膨大なマン
パワーが要求されるが,マラリアは地上勤務の整備員の間にも猛威を振
るっており,地上要員の4割から半数が発熱のため任務に就けない状況
であった.残りの6割も大なり小なり感染症にかかっており,解熱剤を飲
んで勤務できる者は病人と見做されなかった.

 加えて,地上要員はさまざまな雑務(基地施設や宿舎の建設と補修,
給水,荷役,弾薬や燃料ドラム缶の分散遮蔽作業など)に追われ,本来
の任務に専念できないのである.こうした悪条件が折り重なり,第六飛
行師団の整備力は慢性的に不足していた.

 都市インフラの不在と劣悪な衛生環境がパイロットの体力を消耗させ,
整備力の低下を招き,「飛行機があるのに飛べない」という状況が出現
しつつあった.

 また,爆撃隊は夜間空襲によって地上で機材を破壊されるケースが目
立ち,空中での損失が少ない割には一向に実働戦力が回復しなかった.

 第六飛行師団の戦力不足は日増しに深刻になり,戦況打開のため,
さらなる航空戦力の大増強が求められるようになっていく.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.6.24




荒木 肇
『国民皆兵制のコスト──日本陸軍の動員(1)』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

□はじめに

 民主党の枝野さんの発言にはびっくりしました.『安保法
制の次は徴兵制度だ』.これほど,現在のわが国社会にお
いて非現実的な夢物語はありません.

 徴兵制度のために用意しなければならない各種の法制度
を創りだし,その実態を支える多くのシステムを構築し,それ
らを維持する努力をする.同時に反戦思想の持ち主や厭戦
気分をもつ人を内部に抱えるリスクの大きさが生まれます.
その厖大な人事管理も問題です.
 
 仮にも政党の幹部であり,一度は政権の中で複雑な行政の
実態も知っているでしょうに.おそらく実現などは決してできな
いことを知っていながらの「為にする」発言でしょう.
 
 もっとも戦前の兵役制度について多くの方はご存じないようです.
 その理由の一つは,もともと国民皆兵制のもとで軍隊が身
近にありすぎて常識は記録に残らなかったことです.現役を
終えて予備役,後備役(のちには士気があがらないということ
で後備役も予備役に統一された)になった人たちは,完全に
お役御免になるまで,数年に一度は「簡閲点呼(かんえつてん
こ)」がありました.
 
 指定された部隊に「奉公袋」をもって出頭し,いつでも召集に
応じられる状態かどうか検閲を受けたのです.職場から1週間
の休暇をもらい出て行く人も珍しくなかったのでしょう.それが
滅多にないことなら誰もが驚き,記録にも書きます.それがな
いということはごく当たり前のことだったに違いありません.同
僚や先輩,後輩が『点呼だから』と言って何泊も出かけて行く.
それが日常の光景なら誰もが当然と受け止める社会だったのです.

 第二の理由は,徴兵の手続きを始めとして在郷軍人の管理
などのシステムが秘密のベールに包まれていたことでしょう.
書類の多くは市町村長と兵事係という吏員しか読むことができ
ませんでした.亡くなった松本清張氏も召集令状にまつわる小
説を書きました.戦後になって書かれたもので,不公平な召集
によって運命を狂わせられた男が,召集令状を自分に下した人
たちに復讐をするという話(『遠くからの声』)です.例によって
名文書きであり構想力も天才的な作家でした.あたかも史実で
あるかのように受け取られ,文芸評論家や一部の歴史学者も
引用するといったことがありました.

 しかし,事実はまるで違います.そんな一部の人のほしいまま
に神聖なる召集業務は行なわれてはいませんでした.研究者の
中にも大江志乃夫氏のように史実を大切にする人もいました.
福井県のある村から発掘された兵事関係書類を紹介し,多くの
伝説や定説をくつがえす業績も出されました.同じようにNHKの
記者だった小澤眞人氏もその村の資料を使って立派な紹介も
書かれました.

 たとえば,『赤紙は一銭五厘のハガキでやってきた』などという
定説があります.兵隊はハガキ一枚で集め放題だというたとえで
す.このデタラメもいつの間にか事実とされ,昭和60年代にベス
トセラーになった岩波新書『戦中用語集(三國一郎)』にもそのよ
うに書かれていました.そして,誰もそれに異議を唱えようとしな
かったのです.

 これは全く事実ではありません.召集令状は役場の兵事係が
直接,本人に手渡す規則が守られていました.本人が不在の時
には戸主が受け取り,寄留先に戸主が手紙で知らせることになっ
ていたのです.わたしの叔父がそうでした.小学校の高等科を出
るとすぐに,東京の自転車屋に奉公していた叔父に祖父からハガ
キが届きました.1週間後に入営せよという令状が来たという知ら
せです.叔父はただちに帰省しました.そして役場に出向き,兵事
係に出頭報告をし令状の半券を受け取ったのです.

 わたしは学部時代に「大正時代の教育改革と陸海軍教育」に関心
をもち,亡母の故郷の町で聞き取りや,青年訓練所,実業補習学
校,青年団運動について調べていました.気持ちよく協力してくれ
る人たちが多く,なかでも母の同級生で陸軍少尉だった方が教え
てくれたのが「兵事関係書類」の存在でした.役場の奥深く,当時の
兵事係のY氏が責任感から焼却をすることもせず守り通してきたものです.

 いまもその膨大な記録の一部をわたしは持っています.今回から
動員,その実態を何回かにわたって紹介していきましょう.

▼兵事関係書類とは?

 まず,壮丁名簿,現役兵調書,陸軍在郷軍人名簿,現住地在郷軍
人名簿,陸軍動員件銘簿,陸軍動員実施に関する発来翰綴,陸軍
充員臨時召集令状受領証綴,陸軍動員日誌,馬匹徴発実施に関す
る発来翰綴などがこれから述べる内容に関するものだ.他にも陸軍
下士官兵在隊間成績調書,陸軍兵籍に関する書類綴,入営延期者
名簿や海軍軍人に関するほぼ同じようなものも多くある.たとえば海
軍は陸軍の現役兵身上調書に対して身上書という.

 兵事係の仕事の中味は多方面にわたった.徴兵検査,召集,志願
兵について,馬や車輛の徴発,戦死の告知や軍人遺家族への掩護,
叙勲業務,遺族年金の手続きなどである.しかも極秘扱いだった軍人
たちの身上調査まで行なっていた.その精密さは驚くべきだ.わたし
の伯父にあたる人の身上調査書を見たが,本籍,現住所,学歴,学
校時代の成績,近所での評判,家の財産,家族それぞれの生業,収
入,学歴,職業歴などなど合計では16項目にも及んでいた.財産も,
上中下がそれぞれ3段階に分かれ,上の上から下の下まで9階層に
なっている.母の実家は『下の上』とされていた.

 几帳面な楷書で書かれた書類には次のように書かれていた.
『戸主○○(私の祖父)は中等学校(実際の校名あり)在学中に疾病に
依り失明.その後鍼灸師として生業を営み,福井県より転入せし鉄道
建設請負業○○の長女○○(私の祖母)と一家を成し,子女多く,貧窮の
中にも刻苦勉励を進め…』という調子だった.総合的な評価はたいへ
ん好意的だったことに安心した記憶がある.これを書いた兵事係Y氏は
町の名士の家の出であり,小学校卒業後,農会の技手から役場に転
職した.周囲に声望もあり,信頼され,公平な人物とされていた.

▼在郷軍人名簿

 在郷軍人とは現役をおえ予備役(ある時期まで後備役もあった)に
あったり,現役兵ではあるが帰休中の者であったり,補充兵役,第一
国民兵役に在役中だったりする人をいう.かんたんにおさらいすれば,
当時の若者はたいていが満20歳で徴兵検査を受けた.兵事係は検
査時期の1年前から戸籍簿を確認して該当者を抜きだしていた.

『戸籍法の適用を受くる者にして前年12月1日より其の年11月30日
迄の間に於いて年齢20年に達する者』が徴兵検査を受けることになっ
ていた.わざわざ戸籍法というのは,朝鮮人,台湾人や先住民,南洋群
島の住民などは「民籍」といわれて兵役の義務がなかったからである.

 この徴兵検査を受ける義務の年齢を徴兵適齢という.20歳とは限らな
いのはさまざまな徴集猶予があったからである.高等教育を受けている
者は卒業まで猶予があった.だから帝国大学の学部生は26歳まで検査
を受ける義務が免除されていた.また,陸海軍の兵籍に編入された生
徒(海兵・陸士・海機・陸経や少年飛行兵など)と,これらのうちでも病
気やけがなどで兵役を免除された者,志願兵として現役兵の者,また志
願兵出身で現役を終えた者,また病気やけがで兵役免除された者,徴
兵適齢年であるが短期現役兵として徴兵検査を受ける者(師範学校卒
業者)は除かれた.そして,6年以上の懲役刑,もしくは禁錮刑に服した
者も届ける必要がなかった.名誉ある帝国軍人には重い罪を犯した罪人
はなれなかったのだ.

 徴兵検査では「役種」が決定される.翌年初めに入営する現役,とりあ
えず戦時に応召する立場の補充兵である.補充兵は教育召集といって
3カ月の訓練を受ける.この3カ月というのが兵隊の基本訓練に要する
時間である.すでに教育を受けた補充兵を「既教育」といい,まだ未終了
者は「未教育補充兵」とされた.この役種を決定することを「徴集」という.
ドラマや小説,ときに研究書の中にも入営することを徴集という書き方が
あるが史実的には注意を必要とする.徴集猶予は検査を待つこと,入営
猶予は入営を遅らせることである.

 さて,現役兵が2年を終えると予備役になる.補充兵は現役兵と同じ
期間,兵役について教育召集を受けて待機する.補充兵には第一と
第二があり,通算すると12年4カ月になった.現役兵は通算15年4カ月
の現役・予備・後備を終えると満40歳までの第一国民兵役についた.
補充兵の中の既教育兵はやはり第一国民兵役.未教育の者は第二国
民兵役についた.大東亜戦争末期に,根こそぎ動員といわれ,召集され
た人が多かった.その体格の貧弱さ,老年ぶりに『また,二国の補充兵
か』と現役や予備役の下士官・上等兵を嘆かせた人たちである.

 これらの人の詳細な記録,在郷軍人名簿こそ,動員・召集のための
重要なものだった.兵事係だったY氏によれば,もっとも苦労し,正確
を期そうとしたのがこの名簿だったという.そして存在は秘密とされ,当
時,町長しか見ることができなかった.だから多くの在郷軍人もそうし
た資料があることすら知らなかったのだ.

 分厚い在郷軍人名簿綴りの表紙の次には記入の際しての注意事項
があった.要約すれば,在郷軍人全員が漏れなく,既教育者(現役・予
備・後備役と補充兵役)は在隊間成績調書,軍隊手帳の基づき,補充
兵は補充兵証書,その他は聯隊区司令官と旧兵籍地市区町村長の通
知に基づき,戸籍簿と対照点検の上,記入する.「身上の異動と諸般の
調査並びに各種召集,点呼の準備及び実施の要に資するものとす」ともあった.

 内容は次の7つの項目に分かれた.
1)戸主または家族,あるいは召集通報人住所氏名
2)本籍地(寄留地)
3)兵種・部
4)官等級
5)職業(特有の技能)分(特)業
6)健康度
7)摘要

 摘要とは入隊した部隊名や日時のほか死亡,転入,所在不明かどうか,
刑罰の有無などが書かれた.異動を明らかにして,召集の対象外になる
者を選別した.戸主や家族,通報人が書かれている.これは確実に令状
が届くためのものである.

 以下,次回に紹介する.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.6.24




荒木 肇
『動員のコスト(4)──日本陸軍の動員(4)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

□はじめに

 動員とは陸軍が実際の戦闘を行なうために,緻密に
準備・計画し,人,物,金を集めて平時編制から戦時
編制に移ることをいいます.平時の陸軍の,そのほとん
どの活動は教育・訓練でした.初年兵や補充兵を毎年
受け入れ,初級将校や下士官はその教官・助教となり
ました.なぜ戦時に陸軍は動員を必要とするかというと,
陸軍という組織が平時と戦時ではまったくその構成が
違っているからでした.1万人ほどの師団が戦時になる
と2万5000人の規模になりました.それは平時には教
育や組織維持に必要な編制しかもっていないからです.

 海軍はこれに対して艦隊などをすぐに大きくできません.
軍艦を造り,その乗組員を訓練するには数年がかかるから
です.したがって,平時編制と戦時編制の差は陸軍のほ
うがはるかに大きいものでした.また,海軍は陸軍の動
員に対して「出師準備(すいしじゅんび)」といいました.海
軍の平時の仕事が教育・訓練であることは変わりません
が,各鎮守府には海兵団という新人教育専門の部隊が
あります.これが陸軍との一番の違いであったともいえます.

 戦争になると陸海軍全体が戦時編制になるかというとそ
うではありません.それぞれの部隊や艦隊が別々に体制移
行します.動員の反対後は復員です.戦時にも復員という
ことがありました.原則として,復員されて平時編制にもどっ
た部隊の召集兵は召集解除となって帰郷します.日露戦争
後にも1年から2年もかけて,そうしたことが行なわれました.

 今回は,まだ説明が動員の下部構造,現場の兵事書類
の解説ですが,次回は全体の仕組みについて語る予定です.

 MT様,わたしと同じく富士学校の創立記念日に行かれた
ようですね.お便りありがとうございました.わたしの意見に
ご賛同くださり重ねてお礼を申し上げます.それにつけても
某野党は故意か,無知によってか『徴兵制キャンペーン』を
ビラでも展開しているようです.あやしい昔風のイラストなどを
描いて出征する若者と見送る母親らしい人を登場させていま
す.そうしたことが失礼なことという感覚がないのでしょう.

 多くの人がさまざまな思いで令状を受け取り,家族がそれを
どう受け止めたか,きちんと知識がないままに自分たちの政
治活動に利用する.そういったことが平気でできるところに
彼ら,彼女らの人権感覚を疑うのは私だけではないでしょう.


▼召集のデータベース・在郷軍人名簿

 実物の名簿は縦長のA4サイズになっている.1人が1枚に
なり,綴じられたものには黒い厚紙の表紙がついた.縦書き
で枠に区切られ,右端の枠内には,在郷軍人名簿という表題,
その下には役場の名前が印刷されている.大きくは上下二段
に分かれ,在郷軍人の個人情報がすべて見て取れるように
なっている.

 研究者の間でよく知られている富山県庄下村(現在は砺波
市)の兵事資料は当時の兵事係であるD氏が保存された功労
者である.わたしのメモである岐阜県N市のそれも,当時のS
町のY氏の努力によって現存する.ただし,戦後の大型台風に
より,多くが失われてもいる.

 記載様式は庄下村とほぼ同じであろう.これから説明する.

▼健康度

 まず,「健康度」,これが甲・乙・丙・丁という4等級になる.兵
事係に聞いてみると,これは当時でもかなりの個人情報だった.
ふだんの暮らしや働きぶりから推察したらしい.医者に定期的に
診てもらっていると,その病名や状況について調べてもいたという.

 甲と乙は召集対象者になる.甲は「身体強壮にして激務に堪ゆ
る者」ということから野戦でも使えるし,乙は「常務に堪ゆる」ので
後方部隊や留守隊の要員にあてることができる.丙は「疾病虚
弱にして常務に堪えざる」,丁は除役見込み該当者である.

 ただし『乙丙の者については』と但し書きがついた.勤務に影
響すると思われるような症状を記入する.丙は『充要可能予定
期日』つまり,治癒にいたるまでの加療の見込み期間を調査して
付箋に記入して,後に述べる『摘要』の欄に貼りつける.市町村
の兵事係はこうして毎年,その年の軍人たちの健康状態を調べ,
報告しなければならなかった.それは同時に,少しでも身体を
悪く見せようとし,自己申告では不正になるということを予想させる.
 
 また軍隊ばかりではなく戦前社会の人が恐れたのは「結核」で
ある.今でこそ抗生物質も豊富になり,決して恐ろしい病気で
はないが当時は「死病」と思われていた.貧しい農山村や,労
働条件のひどかった都会の底辺の暮らしの人には,その疑いも
含めれば多くの人がいたことが事実である.軍隊は何より伝染
病を嫌う.よく戦後に抵抗して兵役拒否をしたという人がいると,
聞いてみると徴兵検査の前に醤油を大量に飲んでとか,『息をす
ると苦しい』などと軍医に申告した人も多かったらしい.申告書類
の中にも『呼吸音微弱』や『心雑音』などの表現が見られる.

 つづいて,毎年度ごとの「照合」という欄がある.戸籍と兵籍と
のチェックだった.次に「配當(はいとう)」という欄があり,年度
ごとに「動員符号」が書かれていた.この符号は師管区ごとに
決められていて,動員の範囲を表すものである.これについて
はあらためて仕組みの解説の中で詳しく説明する.

▼令状が渡された仕組み「一銭五厘のハガキはウソ」

 さらに「戸主又ハ家族若クハ召集通報人住所氏名」という
大きな欄がある.召集令状は原則として兵事係が警察に連絡
し,召集区ごとに出かけて直接本人に手渡し,受領証を受け
取ってくる.ところが,よその市区町村へ住んで勤めに出てい
る,あるいは外国へ行っているなどという事態が起きると戸主
や家族が受け取ることになった.その人の姓名が書いてある.
その横には,「寄留地」と「本籍地」の記載があった.

 戦後,長く言い伝えられた伝説の中に『一銭五厘のハガキ
でいくらでも人は集められる』と当時の軍人が言ったとかいう
ものがある.読者の中には,それこそが軍隊の人命軽視を表
しているとか,軍隊は非人間的なところだなどという解説と合わ
せて知っている人もいるかもしれない.しかし,これは徴兵制
度の仕組みを雑に見せようとするいい加減なデマの1つでしか
ない.

 岩波新書に1985(昭和60)年発行の『戦中用語集』という
本がある.戦後40年が経ち,世間で戦争が知られなくなった.
そこで記憶を確かにして,史実を伝えるために書いたという.
筆者は東京帝大卒業のマスコミ人,高名なアナウンサーだっ
た三國一朗氏だった.その中にも,『その「召集」の「令状」は,
いわゆる一銭五厘の「赤紙」である』と書いてある.これでは,
ハガキ1枚で軍隊に入れられたという誤解が生まれるのも無理
はない.

 実際はどうかというと,召集令状は役場から本人に直接届けられ
た.もちろん郵便事務が関わったり,配達人が届けたりしたもので
はなかった.兵事係が手渡し,受領証の部分を切り離し,月日時刻
を記入して記名捺印をするというのが本来の姿だった.

 これがいつごろから一銭五厘のハガキ1枚と兵卒の命が同じだ
というような使われ方になったのだろうか.手がかりの1つはハガ
キの値段である.1937(昭和12)年4月からはハガキは2銭だっ
た.1銭5厘は1883(明治16)年以来,長く続いたものである.と
すると,大動員が始まる1937年以前に生まれたフレーズであるこ
とがわかる.
 
 大江志乃夫氏によれば,1930(昭和5)年に「陸軍召集規則」の
改正があった.そこに「応召員に代わって令状を受けとった者が,
召集員に連絡をする時の郵便は特別な標示をするように」という文
言がある.この標示がついたハガキは速達と同じ扱いをされたとい
う.現に岐阜県各務原の工場に働いていた人が,郷里S町の戸主
である兄からハガキが届いて召集されたことを知ったという証言を
得たことがある.つまり,令状が来たことがハガキによって知らされ
た,それがハガキ=令状というイメージにつながったのではないだ
ろうか.

▼兵種・部

 その下の欄は「兵種・部」である.「豫・野砲兵」,「経・経技兵」など
になる.豫は予備役の旧字による略号だった.予備役将校の名簿を
確認したが,下士官以上の出身区分の標記をせよという指示通りである.

 たとえば,歩兵・幹部候補生・少尉,徴集16年,予備役満了は昭
和48年3月31日,任官は歩兵第136聯隊などが見られる.すぐに
これだけの情報が読み取れる.騎兵少尉,高射砲兵少尉,主計少
尉,軍医予備員・軍医中尉,准尉出身・歩兵中尉,また県立N工
業の教員が技術部幹部候補生になり機工の特技をもつ曹長であ
ること,第11野戦砲兵聯隊に入営したこともわかる.獣医将校もいた.

「官等級」という記述がつき,「適・兵長」,「軍曹」などである.
官とは判任武官である伍長以上,等級とは兵長,上等兵,1・2等
兵といったランクを表す.もちろん兵科将校や各部将校にも前に
説明した「兵種・部」の記載があった.兵長の横についた「適」と
いうのは「下士官適」という意味であり,次回の召集では「志願ニ
依ラザル下士官」になったケースが多い.

▼やたら詳しい職業欄

「職業」という欄もある.そして「特有ノ技能」は朱書きされること
になっていた.たとえば,電気工事業などの横には資格といっしょ
に「電工」などとある.自動車運転免許証なども朱書きだった.
船舶操縦者なども同じである.

 これに「身上明細」という書類があり,合わせればその人がす
べてわかってしまうというほどのものである.

 会社員なら○会社重役,外交員,出納帳簿関係事務,倉庫掛,
事務,穀物検査員などとある.鉄道員なら出札,改札,車掌,機
関助手,機関手,整備掛,電信手.大工とあれば建築,建具,
指物師(家具など),船大工.職工なら旋盤工,板金工,組立工
などである.

 蹄鉄技術者も重要視された.獣医師資格をもたない獣医務下
士官候補者などがあぶりだされる.学校歴もうるさく書かれた.と
りわけ中等学校以上の卒業者は学校名や専攻科目,履修した課
程などは細かく記入された.通信事務者も同じである.有線,無
線,鉄道電信,郵便関係の技能も重要だった.

 また中等学校以上の教員免許状についても書かれた.ただし,
数学,理科,英語,物理,外国語関係である.文化系科目につ
いてとくに記載するようにはなっていない.そして小学校教員で
ある「訓導」については,そのほとんどが既に国民軍伍長になっていた.

 仮名にするが身上明細書の例を挙げよう.
 原 ○○ 大正13年10月2日生まれ 県立N商業学校卒 川崎
市O工業事務 家産の状況 中の上 家族8人 農業・寒天製造 
兄現役兵 弟O工業 妹N高等女学校 

 原 ○△ 大正14年5月3日生まれ 県立N農林卒 教練合格 
満洲で農業に従事 家産の状況 上 家族7人 父木材組合委員 
兄2人現役兵 妹N高等女学校 

 長谷部 ○○ 明治42年5月11生まれ 青年学校本科3中退 
M電気N工場 ミシン縫工 などである.

▼摘要

 全体の3割くらいの面積にあたる『摘要』という記述もある.
過去に入隊した部隊,その日時,所在不明かどうか,刑罰などで
ある.また転居して戸籍に編入した場合,所在が判明した場合,
その日時,場所等の記入例もある.
『一,何罪ニ依リ昭和○年○月○日懲役○カ月,
 一,昭和○年○月○日充員召集ノ為中部第○部隊ヘ応召
 一,昭和○年○月○日召集解除
 一,昭和○年○月○日ヨリ昭和○年○月○日迄教育召集ノ為中部第○部隊ヘ応召
 一,昭和○年○月○日以降所在不明,昭和○年○月○日所在分明 』
と,このように詳しいものだった.

 本籍地以外に居住する者についても記載は詳しい.海外につい
ても同じで,資料には満洲,朝鮮,台湾,アメリカ,ブラジル,内南
洋,シンガポール,あるいは中国各地の都市名もある.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.7.15




『ライター・渡邉陽子のコラム (53) ─ 飛行管理隊/飛行情報隊(最終回) 』
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは,渡邉陽子です.

飛行管理隊・飛行情報隊の連載は本日が最終回です.

約2か月に渡ってお読みいただき,どうもありがとうござ
いました.


■飛行管理隊/飛行情報隊(最終回)

自衛隊が発行するすべてのノータムの審査・指導する飛行
情報隊には,もうひとつ大切な任務があります.それは飛行
情報に関わる出版物の編集・校正です.

防空という任務において必要な飛行情報は,民間機のそれ
と異なる部分も少なくありません.市販されていないのだか
ら,自己完結の自衛隊としては出版物も自分たちで手掛け
てしまうのです.


代表的な出版物には『航空路図誌』があります.これは国内
すべての飛行場の情報をパイロットのために編集したもので,
搭乗員が機上に持ち込んで使用します.非売品ですが,それ
ゆえマニアにとっては喉から手が出るほど憧れる逸品だとか.

『航空路要図』は航空路,航空保安無線施設等の情報を図面に
したもの.
『飛行計画要覧』にはフライトプランの記入要領等が書かれています.
そのほか『訓練/試験空域図』『自衛隊航空図』などもあり,
少人数でこれだけの数の出版物を編集するのはさぞ苦労も
多いことでしょう.


出版物を手掛ける図誌班は,企画・点検(校正)と編集のグループに
分かれています.
収集した情報を誌面に反映させるには管制官や搭乗員の知識も
必要とされるので,図誌班の班長は代々航空管制官が務めるこ
とになっています.

作図のために使うソフトは全員同じですが,一括処理する能力や
ソフトの性能をどれくらい有効活用できるかで,作業スピードに差が
出るそう.
およそ3年で編集が一人前になり,その後,企画グループへとス
テップアップするという流れです.ちなみに企画の隊員の校正能
力は,プロの校正者レベルだとか!


図誌班のある2曹は,ユーザーが明確なこと,自分の扱ったもの
が目に見える形で存在するわかりやすさがいいと話してくれました.

「図誌班に来てからは,市販の地図も今までとは違った目で見る
ようになりました.この色使いはいいなと思ったり,ミスを見つけた
り.今後は,データを編集してから印刷し納品されるまでのタイム
ラグを,ネットなどでフォローできないかといった点も考えていきたいです」

取材から約3年経っているので,これは今ごろすでに実現しているか
もしれませんね.


飛行管理隊,飛行情報隊という2つの部隊を取材した際,何人も
の隊員に同じ質問をしました.

「同じ自衛隊の中ですら存在を知らない人もいる部隊にいることを
どう思いますか」

すると,誰もが申し合わせたように「特に気にならない」「目立たな
くてもかまわない」と即答しました.

さらにしつこくなぜそう思うかと尋ねると,隊員たちはそれぞれ自分
の言葉で語ってくれた.
FADPという重要なシステムに関わっていることの充実感のほうが
はるかに大きいと言う人もいたし,知られてないのはFADPの運用が
安定している何よりもの証明と前向きにとらえる人もいました(なるほど!).
目立たないこと,知られていないことは任務に対するモチベーションと
何ら関係ないというのが,彼らの共通した意見でした.


そんな隊員のひとりが何の気負いもなく発した言葉が,この2つの部
隊を何よりもよくものがたっている気がします.

「自衛隊には自衛官にも知られていない部隊が山ほどあります.そう
いう部隊がいくつもあって,自衛隊は成り立っているんです」

航空自衛隊といえば,誰もが最初にイメージするのはおそらく戦闘機と
パイロットでしょう.
しかしその戦闘機も,飛行管理隊と飛行情報隊の働きなくして任務を
遂行することは困難です.「縁の下の力持ち」を具現したような2つの部
隊に,自衛隊の底力を見せつけられました.



(飛行情報隊 おわり)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.7.16




陸軍機 vs 海軍機(45)       清水政彦
「零戦と隼(44)」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「零戦vs隼」の第44回.今回は,「ウェワク大空襲」後の
陸軍航空隊の凋落についてです.

▼ 連合軍の連続攻撃と第四航空軍の壊滅

 前述した通り,新編されたばかりの第四航空軍は,昭和18年
8月17日に行なわれた連合軍の大空襲によって,その兵力
の大部分を地上で喪失した.わずか数時間の間に,航空軍の
保有機約200機のうち半数が地上で破壊されるという悪夢の
ような大敗北だった.残存機材の大部分は飛行場の外れで
修理・整備中だったもので,滑走路付近に置かれていた実
動機の大部分が破壊されたことになる.

 8月17日午後の時点で,第四航空軍の実働戦力は40機
(うち戦闘機23機)に減少しており,連合軍はこのわずかな
残存兵力に対して連続攻撃を畳みかけた.

 本来なら,勝ち目のない戦いを避けて空中退避すべき状
況だが,東部ニューギニアには飛行隊を退避させられる後
背地がない.加えて,編成早々に大敗を喫してしまった司令
部の名誉挽回という心理も手伝い,翌8月18日以降,第四
航空軍は稼働できる全兵力を挙げて積極的な邀撃戦を展開
する.各飛行隊は奮戦して多大の戦果を報じたが,損害も少
なくなかった.

 しかも,連合軍は一日ごとに戦術を改善していったので,いつ
も同じ戦法の日本側は被撃墜率が徐々に増えていき,これを
上回るペースで地上での損害も累積した.「ウェワク大空襲」以
降,9月初旬までの主な航空戦の結果は以下の通りである.
(出典はいずれも「戦史叢書 東部ニューギニア方面陸軍航空
作戦」による.)

8月18日 ウェワクの港湾地区,宿営地に対する空襲
戦闘機23機で邀撃,損害3機(被撃墜2,大破1)
戦果:17機撃墜を主張(実戦果はP-38×2,B-25×1撃墜,B-25×1撃破)

8月20日 ウェワク飛行場に対する空襲
戦闘機約40機で邀撃,損害8機(被撃墜4,不時着1,地上撃破3)
戦果:6機撃墜を主張(実戦果不明)

8月21日 ウェワク飛行場に対する空襲
戦闘機28機で邀撃,損害17機(被撃墜7,地上撃破10)
戦果:15機撃墜を主張(実戦果不明)

8月29日 ウェワク飛行場に対する空襲
戦闘機48機で邀撃,損害15機(被撃墜4,地上撃破11)
戦果:9機撃墜を主張(実戦果不明)

8月30日 ウェワク飛行場に対する空襲
空襲を察知して稼働全機が緊急発進するが,偽装進路をとった
敵機を捕捉できず.邀撃機の着陸後に空襲を受け7機が炎上,
多数が被弾損傷した.

9月2日 ウェワクに入泊中の補給船団に対する空襲
戦闘機36機で邀撃,損害9機(被撃墜3,不時着3,大破3),輸送船2隻沈没
戦果:17機撃墜を主張(実戦果不明)

損害(空戦):被撃墜20,不時着4,大破4
損害(地上):31機+α
戦果:64機撃墜(日本側認定数)

 こうして見てみると,8月17日の「ウェワク大空襲」のあとも,損
傷機の修理や新機の補充によって相当数の戦闘機が戦列に加
わっていたようだ.しかし,せっかく補充された機材も,連合軍の
空襲があるたびに各個撃破されて失われた.「大空襲」後の2週間
で喪失した飛行機約60機のうち,その過半が地上撃破であったこ
とも分かる.
いったんこのような負のスパイラルに陥ってしまうと,態勢の立て直
しは困難である.事実上,東部ニューギニア方面の航空戦はこの2週
間で「勝負あった」といって良いだろう.

▼ 本当に「数で負けた」のか?

「大空襲」後の2週間で,陸軍の戦闘機部隊は連合軍機64機の撃
墜を主張している.この時期の陸軍戦闘機隊の撃墜戦果の「膨張率」
を仮に4倍とすると,実際の戦果は16機程度であろうか.日本側は空
戦だけで30機近くを失っていることを考えると,地上撃破に加えて空
中でもほぼ2対1の比率で劣勢ということになる.

 彼我の兵力差を考えれば善戦と言えなくもないが,手放しで評価す
ることはできない.そもそも,「数の差」は一般に信じられているほど
大きくなかったようだ.

 この時期の日本側の戦闘記録は,来襲する連合軍機の数をかな
り過大に評価しており,連合軍側の出撃記録と符合しないことが多
い.上述したウェワク上空の邀撃戦では1回あたり30〜40機の戦闘
機が出撃しているが,空襲にやってくる連合軍の戦闘機もほぼ同数
か,やや多い程度だったはず.日本側は「敵が実態以上に大きく
見えている」状態で,士気が沈滞して心理的に追い込まれていた
ことを示唆している.

 確かに,東部ニューギニア方面に投入できる総兵力という観点で
は日本側が劣勢だったが,一方で日本側には味方基地上空の迎
撃戦という優位性がある.「その時,その場で空中にある戦闘機
の数」という観点では,日本側の戦力も連合軍にさほど劣ってはい
なかったはずなのだ.

 空中での戦果が不振である本当の要因は,無線通信が円滑でな
いことに加え,早期警戒情報が満足に得られないことに起因する
空中指揮の欠如にあった.

▼ 不振を極める早期警戒情報と無線通信

 当時,東部ニューギニアの陸軍は防空レーダーを運用していなかっ
た.レーダー機材自体はすでに搬入されていたものの,劣悪な地形に
阻まれて設置作業に手間取り,兵器としては稼働していなかったの
である.

 レーダーが稼働を開始するまでの間,ウェワク地区の陸軍飛行隊
にもたらされる早期警戒情報は,基地の周辺に派出された対空監視
哨からの目視と,近隣地区の地上部隊からの通報にすべてを依存し
ていた.

 この態勢では,敵機が友軍の目視範囲外を飛行した場合は探知で
きる可能性がない.友軍基地のあるハンサ湾,マダン地区(ウェワク
地区からは十分な距離がある)を通過して海岸沿いに侵入する敵
機に対しては迎撃の時間的余裕が得られたが,敵機が脊梁山系の
山肌に沿うように南から侵入する場合や,北に迂回して沖合から侵
入されるとお手上げだった.

 さらに,連合軍はわざとハンサ湾,マダン地区を通過してウェワク
を攻撃するように見せかけ,その後に行方をくらませるという偽装
空襲を繰り返し,日本の戦闘機はそのたびに全力出撃しては空振
りさせられた.

 仮に迎撃に成功しても,日本の戦闘機は無線電話の不調が慢性
化しており,複数の編隊間で連携して行動することがきわめて困難
だった.30〜40機という機数は一見するとそれなりに多いように
見えるが,実は戦闘機5個戦隊の残存戦力を合計したものにすぎ
ず,いわば「寄せ集め」の兵力だったからだ.

 一個戦隊あたりの兵力は数機から多くても10機程度で,小さな編
隊がそれぞれバラバラに敵を求めて飛んでいる状態である.多くは
効率的に戦闘に参加できず,一隊が会敵しても他の部隊がこれを
救援する位置につくことができなかった.

 つまり,出撃数がほぼ同数でも,日本側の戦力には「遊び」が多
く相互の連携がないため,局所的には常に日本側が数的劣勢に陥
り,各個撃破される状況である.

▼ 難渋する補給

 昭和18年8月中旬以降,東部ニューギニア方面で作戦できる戦
闘機の数は常に30〜40機程度で,必死の補給と修理作業にもか
かわらず,その数は一向に増加しなかった.そして,稼働機の大部
分は一式戦「隼」となり,整備と補給に難のある三式戦「飛燕」は次
第にその姿を消していった.

 この頃,第四航空軍に対して割り当てられた補給機の数は月間
150〜200機であり,週に40〜50機というペースで飛行機が補充さ
れるはずであった.しかし,実際には補給機の多くはトラック島やマ
ニラといった兵站拠点に滞留して動くことができず,しかも空輸途中
で脱落する機も少なくなかった.

 これは,本土とニューギニアを結ぶ兵站線が長すぎ,途中の航空路
の整備がほとんど進捗していないからだ.中継飛行場にはろくな設備
がなく,熟練した整備員もいないため,途中でどこかの調子が悪くな
ると修理ができない.

 また,補給機を(分解搬送ではなく)自力飛行で前線の部隊まで
輸送する「フェリー飛行」そのものも困難をきわめた.数千キロの行程
のうち大部分が,海上やジャングルの上だからである.不時着が不
可能で,かつ何の目標物もない所を長距離飛行することは非常に危
険で困難な任務なのである.

 さらに,飛行機が自機の位置を標定するための無線標識が設置さ
れていないこと,気象データが不足で飛行経路の天候が予測でき
ないことから空中での遭難が多発し,空輸中の飛行機が目的地ま
で到達できずに途中で引き返すことも多かった.

 本来,こうした困難を伴う長距離フェリー飛行には熟練者を充てる
べきだったのだが,戦況のひっ迫がそれを許さなかった.輸送部隊
のパイロット不足によりフェリー飛行が飛行機の補給計画に追いつ
かず,結果として兵站拠点に補給機が滞留する現象を生んだ.

 補給機の滞留問題は陸軍中央でも問題視され,一時的に内地の
飛行学校の教官を引き抜いて輸送部隊に転勤させるという奥の手
まで使っている.

▼ 再びジリ貧に陥った陸軍航空

 上記のとおり,ニューギニアに対する補給のパイプが細いので,
前線の稼働機は一向に増えない.その結果,前線では少ない稼
働機を酷使して無理な作戦をすることになり,連合軍の空襲があ
るたびに損害が拡大する.せっかく着いた補給機も,到着するそ
ばから各個撃破されて喪失する…という悪循環が生まれた.

 第四航空軍は「ウェワク大空襲」の損害から立ち直ることができ
ず,月間200機に迫る多数の補給機をつぎ込みながら,東部ニュ
ーギニア戦線はわずか30〜40機程度の戦闘機が絶望的な防戦
を続けるのみという惨めな状態に陥っていった.
陸軍航空は,主に地上設備と無線通信および補給態勢の貧弱さ
から,空中でも「ジリ貧」となったのである.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.7.15




◎ 数学者が見た二本松戦史(15):
第七章・流亡(2)
■善政
■護送
■処分
■一死をもって主人左京の罪を贖いたく候
■風に散る
◎ 二本松あれこれ:「五郎君世子事件」
◎ 読者アンケート
◎ 著者略歴

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
● ごあいさつ 
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんにちは.渡部です.

今年も残すところあと1週間になりました.このあたりで,本稿の総括をしてみたいと
思います.

まず,本稿が生まれるにいたった経緯についてです.それは一つの必然と一つの偶然の
たまものでした.

必然とは,わたしが若いころから相当以上熱心な戦史書ファンだったということです.
古今東西を問わず,時代・ジャンルを問わず,〈戦争〉と名がつけばフィクション以外
はとにかく読んでみる,というふうなことをしている時期がありました.
そのような戦史書ファンとして,現役を引退して時間ができたら戦史関係書を書いてみ
たい,それも自分の専門である数学・科学的視点も加味したものを,というふうなこと
を前々から考えておりました.それが本稿が生まれるに至った“必然”です.

偶然の方は,それが〈二本松〉になったことです.
わたしの郷里は日本海に面した寒村(秋田県由利郡松ヶ崎村ー現在は由利本荘市に編
入)です.人口三千人ほどのその小さな村で,小・中学校時代の九年間を過ごしまし
た.文化の香りなどにはおよそ縁がなく,海と山と川しかないような環境でした.戦後
の混乱期,物質的には恵まれなかっただけに,七十人ばかりいた同級生たちとの人間関
係は,今よりはるかに濃密でした.
十年前,還暦の祝いを機会にその関係がまた復活しました.以来,年に一度ほど東北
近辺の温泉地などに一泊ていどの小旅行を重ねております.

平成20年度はいわき温泉でした.帰りに二本松に立ち寄りました.菊人形展がたけな
わの季節でした.旧二本松城址を歩き回り,眼ではいろとりどりの菊人形を追いなが
ら,わたしは心の中では別のことを考えておりました.戦史書ファンとして,少年隊の
ことはもちろん知っていました.ただ,二本松戦争全体についての知識はあまりありま
せんでした.少年隊も含めて二本松戦争全般には,なにか重要な〈意味〉があるのでは
と,そのとき考えておりました.それが本稿が生まれるに至った“偶然”です


(渡部由輝)

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● 第七章・流亡(2)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

二本松の戦いは終った.城は焼け落ち,首脳部は自刃した.
落城後に二本松藩士が参加した主な戦いは,母成峠攻防戦くらいであった.
藩主丹羽長国以下,藩士たちの逃避行は続いた.

戦から約二ヵ月たった九月.
二本松藩は西軍に降伏.武装解除されるに至った.


■善政

  〈十月三日〉

 二本松に宿陣していた総督府の会計局が藩の重臣を呼び出し,次のような布令を
伝えた.

 「藩士とその家族全員四千百人に対し,当分のあいだ一人一日七合ずつの白米を供与
する」

 そのころ藩主一家に続き,藩士の家族たちも疎開先の米沢からほとんど帰国してい
た.七月二十九日以後は藩が消滅したようなものであるから,彼らはみな収入の途を
絶たれていたことになる.この日までは蓄えを取り崩したり,衣類や家財道具を売った
りしながら,細々と暮らしていたものと思われる.以後は独立して生計を立てて行くこ
とが可能になったのである.

 当時,一人一日白米七合(一キログラム少々)とは相当な量である.ただ食うだけな
ら大人でもその半分で足りる.残りは売って金銭に替えたり,寄留先の農家に提供した
りして,藩士の家族たちも以後はあまり気兼ねのない疎開生活をおくることができた
ものと思われる.

 これは新政府側の善政の一つであった.他にも藩士だけでなく,戦災に遭って困窮し
た一般民衆に対しても,救恤(きゅうじゅつ)米を支給するなどして,維新政府もそれ
なりに民心をとらえようとしていたものらしい.

 民心を得るという点では,二本松藩も同様であった.落城後,藩士の家族たちの中に
は住む家も家財道具もなにもかも失い,身一つで領内の村里に避難してくる者も少なく
なかった.そのような疎開者に対しても,村人たちは「累代の善政は民その後を慕うこ
と深く,恩を報ずるのは正に今日に在りしとなし,待遇することすこぶる意を用いしか
ば・・・」(『二本松藩史』)とは,いささか自己宣伝もあるのかもしれないが,とも
かくそれに近いような接し方であったらしい.やはり例の『戒石銘碑』の「汝の俸禄は
民の血と汗のたまものなり,下民虐げるべからず」の効果も,相当にあったのではな
かったのか.

 事実,二本松藩の領民に対する態度は,かなり寛大的なものだったらしい.『二本松
藩史』には幕末時の税収の記録が載せられている.その一例をあげてみよう.本宮近郊
の典型的な農村地帯の一つ,荒井村のものである.

 本田高,九百三十六石,免四つ五分
 新田高,百六十石,免三つ

 免四つ五分とは,税率が四割五分ということである.本田(旧田)より新田の方が
税率が低くなっているのは,それによって新田の開発を促そうとする意図があったもの
と思われる.荒井村の場合,本田と新田を合わせた加重平均的税率は四割一分ていどに
なっている.それは他村も同じようなもので,たとえば郡山組全十四ヶ村について同様
な計算をしてみたところ,四割三分ほどになっている.

 当時は一般に五公五民といわれていたように,税率五割が標準で,下限で四公六民,
厳しい藩になると六公四民,はては七公三民というケースもあったらしい.それからす
れば,二本松藩の税率四割少々とは,下限にかなり近い数値である.

 なお,二本松藩は幕末時の安政五年(一八五八)から慶応三年までの九年間,東京湾
口富津(千葉県富津市)砲台の警備を勤めさせられ,藩兵四百,人夫百ばかりを常駐さ
せている.例のペリー来航(一八五三)の余波を受けてのものと思われる.もちろんタ
ダではなく,その経費として富津周辺三十一ヶ村の預かり支配をまかされてのものであ
る.その役を終えて撤退するさい,村々の代表者が幕府に「丹羽家の永続的支配を望
む」というむねの,嘆願書を提出している.預かり領の富津でも二本松と同様,低い税
率を適用していたためもあったのではないのか.また,その嘆願書に「前任者は(金
を)とるだけとって何もしてくれなかったが,二本松は民政にも尽くしてくれた」とい
う意味の文言もあったらしいところをみると,治安対策や今でいえばインフラ整備的事
業なども,行なっていたものと思われる(富津市には二本松藩のそのような善政ぶりを
称えた石碑が残されているという).

■護送

  〈十月八日〉

 藩兵がすべて米沢から帰国し,自藩内の各寺院に入って謹慎した.その数三〇〇人ほ
どであった.

  〈十月九日〉

 武器類のすべてを福島の当局に引き渡した(前回は目録だけ).目録になかったもの
をいくつかあげておく.

 (一) 元込銃十八挺
 (二) 和筒三十六挺(うち十匁玉筒二十挺,三匁玉筒十六挺)

 (一)は後装銃のことで,これを見ると二本松藩も一応はスナイドルなんかがあった
ものと思われる.ただしそれは十月の時点でのことである.おそらく会津と共同して
戦った八月十七日〜二十一日あたりに,会津藩から供与を受けていたものと思われる.
そのころは会津も外人の軍事顧問などを通じて,後装銃も相当入手していたらしいから
(会津の降伏は九月二十二日).(二)の十匁玉筒とは,火薬が十匁(三七.五グラ
ム)ほど装填できる弾を撃てる砲のことである.口径はせいぜい三,四センチほどの軽
砲というよりは小砲である.三匁玉筒はそれより小さい,少々太めの火縄銃のことらし
い.

  〈十月九日〉

 福島の軍事局が藩の重臣を呼び出し,次のような命令を伝えた.

 「藩主長国は近々東京に護送されることになった.供の者を五人まで認めるからその
準備をするように」

 長国は前年の秋あたりから健康がすぐれず,病床にあることが多かった.そこで藩士
たちは次の三事項を願い出た.

(一) (長国の)病篤く,長途の旅行には耐えられそうもない.病が癒えるまで延期
     してもらえないか.

(二) (一)がかなわないなら,長国の護送中の警護を佐土原兵ではなく,
    (縁戚藩の)大垣藩兵に変更してもらえないか.

(三) 付き添いの人数をもう五人ばかり多くしてもらえないか.

 (一)は長国の召喚は私事ではなく公事であるからと却下され,(二)も既に決定事
であるからと変更はされず,(三)だけ認められた.ただ,二本松側ではそれでも不安
だったらしく,藩士五人ばかりを下人態に変装させて後を追わせた.そんな目つきの
鋭い連中がすぐ後ろについてくるのであるから,目につかないわけはない.佐土原兵も
二本松藩士と知ってはいたが,見て見ぬふりをしてくれたらしい.

 長国の一行は十月十五日に出発した.「藩士潜に奉送す,衆皆涙を垂る」と『二本松
藩史』は伝えている.東京着は同月の二十六日であった.十二日かかったことになる.
通常は八日ていどの行程であるから,長国の体調に配慮してかなり余裕のある旅程で
あったものと思われる.

■処分

 江戸が東京に改称されたのは,慶応四年(明治元年)七月のことである(首都機能が
移され,いわゆる遷都となったのは翌二年の三月).また,新暦が採用されたのは明治
五年十一月九日であるから,本稿ではそれ以前の日付けは,特にことわり書きをしてい
ない限り,すべて旧暦である.

  〈十月二十六日〉

 その東京に到着早々の長国に,次のような朝命が伝えられた.

 「その方,官軍に抗し士民をして方向を誤らせた.あまつさえ,逃亡した.その罪は
重い.とりあえず当地において謹慎し,追っての沙汰を待つように」

 二本松にいたころは総督府からの通告であるから“命令”,もしくはたんなる“令”
であるが,東京ではその上部組織である朝廷からの正式な通達であるから,〈朝命〉で
ある.それにもとづき,前橋藩主松平大和守邸(赤坂霊南坂にあった)に屏居(へいき
ょ)されることになった.一室に閉じ込められることをいう.蟄居(ちっきょ)とはた
んに一家の中に留まらされることで,その家の中での移動は自由であるから,それより
一段階重いといえる.同時に二本松から随従してきた家臣たちも自由を奪われ,佐倉藩
に預けの身となった.

  〈十一月五日〉

 「長国の官爵(従四位であった)を削り,京都藩邸を没収する」との布告が出され
た.

 処分を下す前に官位を剥奪し,無位無官の一庶民に落しておく必要があるからであ
る.

  〈十二月八日〉

 佐倉藩に預けられていた家老丹羽掃部助が一橋邸に呼び出され,次のような朝命を
受けた.

 「(長国は)王師に抗して落城するまで戦い,そのはてに逃亡した.罪は重い.よっ
て城地召し上げのうえ,東京において謹慎を命ずる」.さらに

 「反乱首謀者の名を書いて差し出すように」

  〈十二月八日〉

 同日のうちにほどなく,次のような朝命も受けた.

 「今般,(丹羽家には)特別な温情をもって家名存続を許し,五万石を下賜し,二本
松藩を預からせる.ついては血脈のものを早々に後嗣として選定し,願い出るように」

 まず最初に罪状を明らかにし,罪は罪として罰する.そのあとで罪の一部を“格別な
温情をもってさし許す”ということである.さらに一橋家には長国を同邸内に引き取
り,謹慎させるようにとの朝命も出された.謹慎もその家の中での移動は自由であり,
公的な外出は認められているから,蟄居より一段階軽い処分といえる.

■一死をもって主人左京の罪を贖いたく候

  〈十二月十一日〉

 長国に対する最終的処分が下された後,二本松から随従してきた家老丹羽掃部助が
一橋家を通じ,刑法局に次のような意味の嘆願書を提出した.

 「今般,主人左京(長国のこと)儀,順逆を誤り大罪を犯したてまつり,誠に申し訳
なき仕儀に至りました.ただ,左京は昨年来病床にあり,国政はすべて私共に委任して
おりましたゆえ,名分順逆を誤った罪はことごとく執政をつとめておりました私一身に
あります.先般,反乱首謀者を差し出すようにとのことでしたが,私以外にそれに該当
する者はおりません.一死をもって主人の罪を贖いたく,なにとぞお願い申し上げま
す」

 嘆願の趣旨について吟味するということで,十六日をもって掃部助も一橋家に預けら
れることになった.

 丹羽掃部助(かもんのすけ)は千石取りの家老という,禄高からすれば二本松では
七番目の高位にありながら,相当以上に影の薄い人物である.第一,本誌ではこの戦後
処理の段階になって初めて登場している.家老の一人であったから,抗戦か和平かを
決める二十七日の老臣会議には当然出席していたものと思われるが,どのような思想・
信条の持ち主で,したがってその席ではどのような発言をしたかなど,およそ肉声が
伝えられていない,存在感の薄い人物である.ただ,そのように存在感が薄い,言い換
えるなら表面にはあまり出ず,裏方的立場で黙々として職責を果たすのが,この人物の
持ち味ではなかったかと思われる.

 掃部助のその裏方的職責とは,病弱な藩主長国を精神的に身体的に支え,守護すると
いうふうなものだったように思われる.落城と逃避行,さらに他国への流亡生活の中
で,掃部助は常に長国の身辺を離れず,影のように寄り添っている.長国が東京に護送
されるさいも,千石取りの家老という,通常ならば供を何人か連れて駕籠に乗れる身分
でありながら,十人の付き添い人の一人として,おそらくは片時も長国の駕籠脇を離れ
ず,ついて行っている.一身をもって主君を護衛し,こととしだいによっては身代わり
になって果てる,との覚悟であったものと思われる.その覚悟を長国の処分が決定した
さいに実行に移そうとした,のではなかったのか.

 結果をいえば,掃部助は「身代わりになって果てる」までには至らないですんだ.
西軍方最高司令官板垣退助が「武士道の鑑」と激賞したことからもわかるように,二本
松藩の戦いぶりが西軍方首脳部の心証を良くしていたことも,相当に作用したためと
思われる.が,それは結果論である.当時は戦争に至った藩は敗戦時にはその責任を
問われ,首脳部が何人か処刑されるのがふつうだった.長州藩などは蛤御門・第一次
征長の二度の敗戦で,合わせて十人近い刑死者(自刃も含む)を出している.丹羽一学
のように,華々しく戦って城を枕に討ち死にをするのも武士道なら,“逃亡”との汚名
を覚悟でその城から脱出し,戦後処理の段階に至って主君の身代わりになっての“死”
を果たそうとするのも,また一つの「武士道」といってよいのではないのか.

  〈十二月十二日〉

 二本松の大隣寺で謹慎していた家老の一人丹羽丹波と,御勝手方頭羽木権蔵が密かに
脱け出して上京し,刑法局に嘆願書を出した.二人は三日に二本松を出たのであるか
ら,八日の長国に対する処分内容も,掃部助の嘆願書のことも知らなかった.内容は
掃部助のものとほぼ同様であった.

 「主人は永らく病床にあり,政務はすべて私共にまかされておりました.順逆を誤っ
た罪はすべてこの私一身にあります.願わくば我が身を処断されて,主人の罪に替えん
がことを」

 丹波は二本松ではあまり評判の良くない人物であったらしい.ある種の開明論者,
現実主義者でもあったようである.そのような,ある意味では進取的思想の持ち主は,
二本松のような武士道的倫理道徳が重要視されていた社会では評価されにくいものであ
る.

 白石会盟のさい,二本松藩の役割は「先鋒となって西軍を防ぐ」と定められた.丹羽
丹波は,その先鋒軍たる二本松藩の坐上(筆頭)家老兼軍事総裁として,藩兵の半数ほ
どを率い,四月の末あたりから須賀川軍団に出張していた.以来三カ月あまり,先鋒軍
にふさわしいような戦いはほとんどしていない.あまりの戦意のなさに,仙台兵からは
「二本松は西軍と通じているのではないか」(『仙台戊辰史』)と疑われたりしてい
る.現実主義者の丹波としては,須賀川で白河戦の敗兵たちから西軍の軍事力の強大ぶ
りをきいたりし,それに抗することの無益さを十分に悟らされたがため,自藩兵の温存
を図っていたものと思われる.

 二本松戦争当日も,丹波は須賀川〜本宮間の奥州街道が封鎖されていたため,自城に
は帰り着けなかった.帰城しようと安達太良山麓あたりの間道を急いだが,間に合わな
かった.以後も,母成峠戦では二本松側の隊長であったものの,先頭に立って奮戦する
ようなことはせず,結果的に生き永らえられた.ともかく,二本松軍の最高司令官であ
りながら,その名に値するような働きはほとんどしていない,といってよい.

 がやはり,丹波も二本松武士の一人であった.最後の最後になって筆頭家老そして
軍事総裁としての責任をとり,敗戦の責を己れ一身で引き受け,藩主の身代わりになっ
て果てようとしたのである.なお,羽木は丹波の盟友的存在であったらしい.二人もま
た一橋家に預けの身となった.

■風に散る

  〈十二月十七日〉

 米沢藩主上杉茂憲の弟頼丸(前藩主斉憲の第九子)を,養子として丹羽家を継がせる
ことを願い出て,許された.これで丹羽家も二本松藩も存続することになった.

  〈十二月二十六日〉

 二本松藩は反逆の首謀者として丹羽一学・丹羽新十郎の名を書いて弁事局に差し出し
た.もちろん二人は七月二十九日に自刃している.特に重大な犯罪的行為がなかった藩
については,このように死者を抗戦の責任者とすることは,新政府側からの内々の示
唆・了解があったものと思われる.米沢藩も新潟で戦死した家老色部長門を責任者とし
ている.

  〈明治二年五月〉

 反逆首謀者として丹羽一学・丹羽新十郎が認定され,その両者の家名断絶が布告され
た.同時に丹羽丹波の一橋家永蟄が命ぜられた.

  〈明治二年九月二十八日〉

 長国の謹慎が解除された.これでかつての二本松藩主はすべての罪を許されたことに
なる.白日の身となった長国は翌十月,ほぼ一年ぶりで帰藩し,二本松の松岡寺に仮寓
した.さらに明治四年十月再び上京し,以後は東京で余生をおくった.

 なお,丹羽一学の辞世は次のようなものだった.

   『風に散る露の我が身は厭わねど

         心にかかる君が行く末』

 二本松藩抗戦の全責任を負って散るのは覚悟の上であるが,主人長国と丹羽家,さら
に二本松藩の行く末が案じられる,ということである.ただし,一学の身の方はともか
く,それ以外の憂慮事はすべて解消された,といえる.

 丹羽一学の先祖は,二本松藩の始祖丹羽長秀の弟秀重である.長秀の死後,二代目長
重は越前小松で十二万石を領していたが,関ヶ原で対応ミスをした.豊臣方についた責
を問われ,取りつぶしにあった.そのあと,長重の妻(信長の娘)が徳川二代将軍秀忠
の正室(お市の方の三女)と従姉妹だった縁もあり,秀忠の将軍宣下後,常陸の国古渡
(茨城県稲敷郡桜川村)一万石にまず取りたてられた.さらに大坂冬の陣では徳川方に
属し,大坂城の東北二キロほどの鴫野砦攻防戦で勇戦をした.それは冬の陣最大の激戦
といわれたもので,丹羽軍では副将格であった秀重が戦死している.

 秀重は家康とは顔見知りであったものと思われる.その四十年ほど前,徳川が世に
出るきっかけとなった姉川の戦いでは,丹羽軍と徳川軍は共同して戦い,朝倉勢を打ち
破っているからだ.家康とはおそらく旧知の仲であったと思われる秀重の,老躯をおし
ての奮戦と死のためもあったろう.大坂の陣の後,丹羽家は同じく常陸の国で江戸崎
(霞ヶ浦湖畔)一万石を加増され,さらに棚倉五万石,白河十万石,二本松十万七百石
と,太平の世のしかも外様藩としては異例ともいえる出世を果たすことができた.

 先祖秀重は,一身をもって丹羽家が再び世に出るきっかけを作った.後裔の一学はや
はり一身をもって,二本松藩が同盟の信に背いたとの汚名を着せられるのを防いだ,と
いえる.

  〈明治三年二月〉

 丹羽掃部助・羽木権蔵が家名断絶の上,親族預け替えとなり,二本松に送還された.
士籍から除かれた以外の処罰はなにもなくなったから,ある種の放免といえる.

  〈明治五年一月〉

 丹羽丹波の永蟄が免ぜられた.丹波はこれですべての罪を許されたことになる.二本
松では藩主に次ぐ高位にあった丹波の処分が比較的軽かったのは,やはり二本松戦争時
は藩内にいなかったためもあり,七月二十九日の抗戦には関与していないという事情も
斟酌されたものと思われる.

  〈明治十年〉

 丹羽家がそれまで慣用的に用いていた藤原姓を廃し,朝許を得て本姓の良峯に復し
た.武家の姓(藤原)から藩祖長秀が天正の昔,京師の民政に尽くした功により,当時
の正親町天皇より賜った桓武天皇につながる由緒ある公家の姓(良峯)に戻し,名実と
もに朝臣の仲間入りを再び果たしたのである.

  〈明治十六年二月二十一日〉

 丹羽掃部助・丹羽一学・丹羽新十郎・羽木権蔵の家名断絶が解かれ,再興を許され
た.

 この日をもって二本松藩で戊辰戦争において戦犯とされた者は,すべてその指定から
解除されたことになる.それは他藩も同様であった.明治新政府もこのあたりで過去の
負債一切を清算し,全国民こぞって新しい時代への出発を期そうとしたものと思われ
る.


(以下次号)


(渡部由輝)


■著者へのお便りはこちらからどうぞ.⇒     
 http://okigunnji.com/s/watanabeyoshiki/


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● 二本松あれこれ (渡部由輝)
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■五郎君世子事件

 戊辰東北戦争に臨むにあたり,東軍の各藩にはさまざまな思惑があったらしい.
仙台・米沢といった同盟を主導した大藩は特にそうである.あわよくば戦国の昔に還
り,関東方面や越後平野に進出するとか,もっと過激に朝廷の規範を逸脱して東北独立
政権を樹立しよう,などともくろんでいた勢力もあったと伝えられる.

 だが,二本松藩に限っては,そのような大それた意図は全くなかったといってよい.
そのことを証明するある事実をあげておこう.

 幕末時,二本松藩主丹羽長国には嫡子がいなかった.二人の男子が生まれていたが,
いずれも満一歳になるやならずのうちに夭折していた.いつまでも世子なしというわけ
にもいかず,戊辰の雲行きが怪しくなったころ,幕臣一柳播磨守の四男五郎君を迎えて
長国の長女峯子を配し,養嗣子としようとした.

 他家から養子をとって娘を娶あわせるといっても,大名家となるとカンタンにはいか
ない.上部組織に伺いを立てる必要がある.江戸時代ならその上部組織とは徳川幕府で
あるが,幕府は前年の慶応三年十月,朝廷に大政を奉還していた.そこで二本松藩は
慶応四年の五月二十一日,その朝廷に「五郎君と峯子との婚姻を許可していただきた
い」とのむねの,嘆願書を提出した.

 ことわっておくが,戊辰の年の五月二十一日である.本誌をこれまで読み進んでこら
れた方なら,その日付け前後に東北と二本松藩にどのような事件があったか,覚えてお
られるはずだ.白河で二本松藩も属していた東軍が,新政府軍つまり朝廷の軍隊に歴史
的惨敗を喫した二十日後のことである.その歴史的敗戦に二本松藩は関わっていないが
(参加するべく奥州街道を急いでいたが,間に合わなかった),嘆願書が提出された
日付けあたりは,白河を奪還するべく,東軍の一員としてその北方で新政府軍と小戦を
行ったりしていた.

 ようするに丹羽家と二本松藩は,戦っていた当の相手に「娘と養子との婚姻を許可し
ていただきたい」との,嘆願書を出したのである.二本松側にしてみれば,自分たちは
戦っている相手を朝廷(または新政府)の軍隊とは認識していない,薩長の軍隊としか
見なしていない,ということなのかもしれないが,それにしても朝廷の関係者は面食ら
ったことだろう.「この連中,いったいなにを考えているのか」と.

 だが,悪い気はしなかったに違いない.二本松藩は朝廷の統御から脱する意図はない
ことが,はっきりしたのであるから.その証拠に嘆願書は受理され,翌二十二日にその
むねは許可されている(ただし,五郎君はその一か月後に急死している.十三歳という
若すぎる死であった).


(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2010.12.24




荒木 肇
『動員のコスト(5)──日本陸軍の動員(5)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

□はじめに

 台風11号による被害は,皆さまいかがでしたでしょうか.
わたしの暮らす関東地方では幸いなことに直撃をまぬが
れました.しかし,それでも地域によっては豪雨に襲われ,
床下浸水やそれ以上の被害にあったところもあったよう
です.心よりお見舞いを申し上げます.

 政治の世界では「安全保障法案」の衆議院通過にとも
ない,さまざまな議論や出来事がありました.いちいち論
評するのもつまらなく,わたしのように「過去の人たち」との
対話しかできない人間はどこか浮世離れをしている気が
します.資料を集め,過去の文献に現れる先人たちの思
考や行動をみる,それだけしか興味をもてない,そんな自
分がつまらなく見えるときもあります.

 今回からは「動員下令」,「召集令状」といった下部構造
の上にある「年度作戦計画」や「動員計画」についてお話し
ましょう.華々しい戦闘の話ではない,「戦う軍隊」を支え
た実態の一つです.

 さて,T様お便りありがとうございました.お尋ねへのお答え
になるかどうか.お父上のご遺談の中で,『現役の入営兵は
無給だった.召集の連中は給与が出た』という内容でした.
これはおそらく出頭する部隊への「旅費」のことと思われます.
現役兵は国民の義務を果たしに各部隊に入隊しました.つま
り部隊に到着して手続きが済み,初めて兵籍に編入されまし
た.もちろん宣誓式があり,正式に陸軍兵になり,等級を指定
されます.これからがスタートですから着隊前に旅費は出ません.

 これに対して召集兵は令状によって出頭を命じられるわけ
ですから,すでに兵籍はある.部隊への赴任旅費が支給され
る.こういったシステムです.もちろん本人の立て替え払いで,
各中隊事務室の給養掛曹長が経理部から渡された現金を着
隊後に渡しました.よく映画や小説の中で,「本部動員室」と
いう言葉が出ますが,そこでは旅費や各種手当の支給をす
る事務もとっていました.

▼令状の種類

 召集令状には,いわゆるアカガミとシロガミがあった.「赤
紙」(朱鷺色)と「白紙」のことをいう.また,アオガミ(水色)もあった.
 1927(昭和2)年から施行された「兵役法」には,『帰休
兵・予備役兵・後備役兵・補充兵または国民兵は戦時また
は事変に際して必要に応じて召集する』と定められていた.

 召集には平時のそれと戦時・事変に際してのそれの2種類
があった.平時の召集には次の種類がある.
1)帰休兵を在営兵の補欠その他必要な時に召集する「補欠召集」(白紙)
2)警備その他に必要な場合に服役一年次の予備役兵を召
集する(滅多にない)「臨時召集」(赤紙)
3)予備・後備役兵をその在役期間を通じて5回以内,1回35日
以内召集する「演習召集」(白紙)
4)第1補充兵を教育のために召集する「教育召集」(白紙)
5)帰休兵,予備・後備役兵,補充兵に対する毎年1回の「簡
閲点呼」(白紙)

 1)に登場する帰休兵というのは耳慣れない方もいるだろう.
陸軍の現役は2年間だったが青年訓練所で優秀な成績をおさ
め,また部隊でも品行方正,成績上位の者は6カ月の在営期間
の短縮があった.これを帰休兵といった.こうした恩典を得た人
もかなりの数がいたらしいが,記録に残るだけで戦記物などには
まず登場しない.

 青年訓練所というのは小学校に大正末期に設置された実業
補習学校に併設された軍事訓練をするところだ.職場単位にも
置かれたこともある.そこでは在郷軍人会が主導して初歩的な
軍事訓練が行なわれた.「身上調書」にも『青訓・優』などと記載
された.もともと生活程度の高い家の子弟が熱心に通った.入営
しても素養があったために上等兵になりやすく,しかも帰休という
制度で半年早く家に帰れたのである.

 2)の臨時召集はのちに「防衛召集」(青紙)という名称に改めら
れた.敵軍がわが沿岸に近づいたり,不穏な情勢があったりした
場合,現役を終えたばかりの錬度が高い兵員を集めようとしたわ
けである.

 3)については「世間に身近な陸軍」という風に説明できるだろ
う.前にも書いたように,戦前社会はサラリーマンや農山漁村の
若い衆で予備役に就いている人が多かった.会社でも課長は大
正時代の1年志願兵出身の予備歩兵伍長,部下の高等商業出身
の若い課員が予備主計少尉などということはけっこうあった.こう
した人たちが錬度維持のために指定された部隊に召集されて演習
に参加させられていた.現在の陸自でも「即応予備自衛官」,「予
備自衛官」の制度がこれに相応している.
 
 4)の補充兵教育も昭和になってからのことだが,戦時に損耗
する軍隊の補充要員とするために120日以内(のちに180日)
の教育を行なった.日数からいっても現役兵を一人前にするため
の1期の教育期間とほぼ同じであり,内容も変わらない.なお,
教育が終わると『既教育補充兵』とされ,戦時では召集の可能性
が当然高くなった.
 
 5)もあまり知られていない.まさに常識は記録されない例であ
る.兵役義務の意味は誰もが入営しなくてはならないという規定
ではなかった.じっさい,日支事変が拡大し,大規模動員が行な
われるようになると多くの人が軍人になった.それ以前は,同世
代の7人に1人が入営する,兵籍をもつというのがふつうだった.
だからけっこう不公平感もあった.同時に,それとは逆に兵籍を
持つ人の誇りは高かったといっていい.

 戦時・事変での召集は,動員が下令され戦時編制の部隊の要
員を満たすための「充員召集」が代表的なアカガミだった.編制の
定員を充たすための要員を集めるから充員召集である.国民兵を
召集する「国民兵召集(白紙)」も戦時の召集だった.

▼「年度作戦計画」と「動員計画」

 陸軍参謀本部とは陸軍省とならんで「省・部」といわれた陸軍の
重要官衙である.ここの構成は,参謀総長(大・中将)と次長(中
将)をトップとし,総務部長と第1から第4までの5部,そして海外
にある大・公使館付武官・同補佐官,陸地測量部,陸軍大学校と
なる.ただし,これは1930(昭和5)年を例にとっている.1936
(昭和11)年の初めころまでこのような組織だった.

 総務部は庶務課,第1課で構成された.この1課が編制動員を
担当した.課長は大佐,部員といわれた構成員は中・少佐,大尉
であり定員は10人.また「派遣」といわれた定員外の将校が3人
である.

 
 第1部は第2課(作戦),第3課(防衛)を担当.第2部は
第4課(諜報),第5課(兵要地誌),第3部は第6課(鉄道船
舶),第7課(通信),第4部は第8課(演習),第9課(内国戦史),
第10課(外国戦史)で構成されていた.
 
 大・公使館付武官も参謀職にある将校である.参謀総長に直隷
した.だからふだんから勤務時には参謀飾緒を肩から吊っていた.
英・米・露・仏・オーストリア,イタリア,ポーランド,アルゼンチン,
支那,メキシコ,トルコで佐官12名.必要によって中・少将をあて
ることもある.
 
 第2課は課長の大佐以下,部員が10名.これに海軍からの派
遣参謀がいる.この部員たちの仕事は,「年度作戦計画」を立て
ることである.軍隊はいつでも「有事即応」という集団である.情報
を分析し,どこの国とどのような紛争が起きるかを予想し,それに
対して計画を練った.年度作戦計画にしたがって動員計画を立て
る.作戦計画の内容を満たすように人や兵器・物資を集めるのが
動員計画である.
 
 では作戦計画はどのような指針で決められたか.国家の国防の
方針のもとに,国家の枠組みの中で決められたのである.作戦計
画が立てられる前に決められたのが「国防方針」であり「国防所要
兵力量」だった.国防方針とは,外交問題と国力を包括した大方
針であり,所要兵力量は国家の財政規模に合わせた軍隊の規模
である.この2つの決定をもとに「用兵綱領」が作られた.これは戦
時,または事変での軍隊の行動のおおまかな方針である.
 
 これら「国防方針」,「所要兵力量」,「用兵綱領」は日露戦後,
1907(明治40)年に策定された.これらは毎年新しく作りなおされ
るものではなかった.情勢の変化に応じて1918(大正7)年,1923
(大正12)年,1936(昭和11)年に改訂された.それぞれが国際情
勢に対応していることがよく分かるはずだ.18年のものは世界大戦
の終結を背景にし,23年は軍縮とソ連の変化に目を配り,36年は中
国情勢が大きく変わったころである.
 
 この用兵綱領と作戦計画は最高機密として守られていた.いまのよ
うに軍隊が作戦計画を立てれば「憲法違反」,「民主主義の崩壊」など
と騒ぐ勢力はいなかった.陸軍大臣ですら内容は知らされなかったし,
作戦を立てた参謀たちだけが知っていた.
 
 もう一度,まとめておこう.帝国国防方針→所要兵力量→用兵綱
領→作戦計画→動員計画という流れになる.

▼1833(昭和8)年の国防方針から

 昭和8年はわが国が国際連盟を脱退した年でもあった.満洲帝国
が否定されたからである.その年に国防方針が改訂されたが実物は
残っていない.敗戦時に多くの資料が焼かれたり,隠匿されたりした
からである.今から思えば,一億玉砕,帝国滅亡とどれだけ思おうと
将来のために自分たちの足跡くらい残せばよいと思うが,当事者たち
は次々と火をつけて書類を焼いてしまった.結局,戦後になって生き
残った陸海軍軍人たちの証言や記憶に頼らなければならなくなった.

 以下は『大東亜戦争全史』などから読み取るしかない.
「国防方針」
『将来の戦争は長期にわたることを想定.仮想敵国はアメリカとソビ
エト連邦を中心にし,支那,英国にも備えることとする』という.陸軍は
ソ連だけを考えたが,海軍の主敵はアメリカである.陸軍は対ソ連,
海軍はアメリカという二面作戦という構図になった.

「所要兵力量」
『陸軍は常設20個師団,これをもとに戦時50個師団をつくり,方面
軍,軍,軍直轄部隊等を必要とする.海軍は戦艦・巡洋戦艦を12隻,
航空母艦10隻,巡洋艦28隻とした.』
 陸海軍とも,これに基づいて「軍備拡充計画」を立てた.その計画
の実施は1937(昭和12)年からになり,その年,盧溝橋を中心に
支那事変が起こる.おかげで損耗が増え,拡充どころか損耗を補う
ことに精力を費やすことになった.支那事変の拡大など陸軍中央は
誰も望んでいなかった.

「用兵綱領」
『陸海軍共同で先制攻撃,攻勢をとり速戦即決を図る.対ソ連戦で
はウスリー方面の敵勢力の撃破,根拠地ウラジオストックの攻略,樺太,
カムチャツカ半島,樺太対岸の占領.対米戦はアメリカ東洋艦隊の撃破,
ルソン,グアム島の占領.対支那戦は京津地区,青島,上海の占領と
揚子江の精圧.対英戦はイギリス東洋艦隊の撃破.

 こうしてみると,対ソ連戦にち密な計画を立てる陸軍.艦隊決戦に熱
意をもつ海軍.問題は陸軍がほとんど海軍の作戦に関心をもたず,ル
ソン,グアムを占領といっても,ろくに南方作戦の研究や準備などして
いなかった事実である.

 陸軍は兵要地誌を大切にする.対ソ連戦ではウラジオや北蒙古などの
調査を十分にし,準備も怠りなかった.ところが,フィリピンもマレー半島
もろくに知識がなかった.装備品も同様である.
 
 次号ではいよいよ動員計画と実態について詳しく述べよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.7.22




『ライター・渡邉陽子のコラム (54) ─ 2015年陸海空自衛隊の装備と運用(1) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

先週,北海道に陸自の演習取材で行ってきました.昨年も
同じ時期に同じ演習場に行っているのですが,昨年とは
比較にならないほどの猛暑.隊員のみなさんも「この演習
場でこの陽気はありえない」と驚いていました.冷房設備
のない宿で,熱気のこもったままの部屋で寝るのは暑さ
に弱い私とってかなりの苦行でした.そういえば昨年も
宿は暑かった……(泣)

今回は暑さに加えて虫刺されでダメージ大.まさか虫に
刺されて皮膚科に行くことになるとは思ってもみません
でした.夏の北海道,恐るべしです.



■2015年陸海空自衛隊の装備と運用(1)

本日から新連載です.

ちょっと固い内容になりますが,今年のはじめに
雑誌に掲載した「2015年陸海空自衛隊の装備と
運用」という記事を,一部リライトしてお送りします.

2015年も7か月を過ぎたこの時点でなぜ今年の装
備と運用についてわざわざ語るかと言えば,それ
はちょうど平成27年度版防衛白書も閣議決定された
し,安保法案を巡る世論の稚拙さにもがっくりしている
からです.なんだかPKO法案成立のことを思い出し
ます.社会党が牛歩戦術してましたよね.

ちょうど今日,こんなおもしろいまとめサイトを見つけま
した.安保法案をマンガ「るろうに剣心」で説明したもの
なのですが,よくできていてわかりやすいです.「るろう
に剣心」をご存じの方は,さらに「なるほど,そうそう」と
思えるのでは.ご参考までにURLはこちら.


安保法案をわかりやすく『るろ剣』で例えてみた
http://hamusoku.com/archives/8902860.html


さて,本題に入りましょう.

2013年12月に閣議決定された防衛大綱と中期防衛力
整備計画に基づき,2015年度の防衛予算は過去最大の
5兆円を計上した防衛省.その予算の内訳からは,対中
シフトの色がはっきり見て取れます.

「統合機動防衛力の構築に向け防衛力整備を実施する」
という主題は2014年度予算と同じですが,新たに導入す
る装備品がことごとく南西地域・島しょ部の防衛強化に関わ
っており,新編・改編される部隊についても同様です.

そこで予算に含まれる新規事業を中心に,2015年の陸海
空自衛隊の装備と運用についてまとめてみることにします.


まずは領海,領空を守るための新装備からです.
新装備が必要な背景として,2014年に日本周辺の海域と
空域がどのような状況にあったか,おもな事案を振り返ってみます.

海域については,中国の領海侵入は32日に及びました.
そのほとんどは南西諸島に集中しています.今も毎日のよ
うに領海侵犯を繰り返していますね.

日本が同じことをしたら,中国が間違いなく武力でもって排
除しようとするでしょう.しかしそれは中国に限ったことでは
なく,ソ連は民間人の乗っている大韓航空機だって領空侵
犯を理由に撃墜しました.領空・領海を侵すというのはそれ
だけ相手の国に脅威を与えることであり,その国から攻撃
されてもおかしくない行為です.

また,昨年は9月から小笠原諸島周辺海域等で中国サンゴ船
による密漁が連日のように行なわれたりもしました.


空域については,5月と6月に航空自衛隊のYS-11EB及び海上
自衛隊のOP-3が,中国軍のSu-27戦闘機2機から4回にわた
り異常接近を受けるという事案が発生しました.

そのうち一度は自衛隊機に下方から接近し,急上昇して前方
に出た際,乱気流を起こして自衛隊機の飛行を妨害するという
危険行為を行なっています.「そういえばそんなことあった」と,
思い出された方もいらっしゃるのではないでしょうか.


統合幕僚監部発表による2014年度のスクランブルは943回で,
1958年に空自が対領空侵犯措置を開始して以来,57年間で
2番目に多い回数でした.

その内訳はロシア機約50%,中国機約49%,その他約1%.
ロシア機に対する緊急発進回数は473回で,前年度に比べて
114回の大幅な増加となりました.対象は情報収集機が中心で
日本列島を一周する飛行も目立ち,このうち36件については
「特異な飛行」として公表しました.

中国機に対する緊急発進回数は464回で,前年度から49回
増加.対象は戦闘機が多く,尖閣諸島北方の東シナ海への
飛来が中心です.中国機については15件の事例について
「特異な飛行」として公表しました.


このような不安定要素を抱えた広域を常続監視し,さまざま
な兆候を早期に態勢を強化するために取得したのが,早期警
戒機と滞在型無人機です.

昨年11月,早期警戒機はE-2D,滞空型無人機はグローバ
ルホークに決定しました.いずれも米国政府提案の機種です.
E-2Dは現在空自が保有している早期警戒機E-2Cの後継機
に当たり,老朽化の進んだE-2Cに代わって2018年度までに
4機導入される予定です.


次回も引き続き領海,領空を守るための新装備とそれを
運用する部隊についてです.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.7.23




【1.1日3分で身につけるMBA講座】


■ ディズニーランドに学ぶデフレ時代の価格戦略


12月15日付の日経MJの1面でディズニーランドが来年の4月から1日券を400円
値上げすることが報道されました.この値上げで現行5800円の1日券が6200円
となる予定です.

デフレ経済の下,多くの企業が値下げ競争に走る中,このディズニーランドの
値上げは果たして消費者に受け入れられるのでしょうか?

今回はデフレ経済下における企業の価格戦略を検証していくことにしましょう.

今や多くの業界で値下げ競争が繰り広げられています.特に牛丼業界は値下げ
をすればするほどライバル企業からの顧客を奪い去ることに成功するなど,
激しい価格競争が展開されている業界の代表例と言えるでしょう.

そんな各社が値下げでなんとか顧客を繋ぎとめておこうという値下げ合戦に
打って出る状況の中で,値上げはディズニーランドにとって顧客を減らす
マイナス要因にはならないのでしょうか?

実のところ,ディズニーランドは過去値上げをするたびに大きく入場者数を
増やしてきた実績があります.日経MJよれば,2000年度に300円値上げした際
には4.8%入場者数が増加し,2006年度に同じく300円値上げした際には4.2%
の入場者増を記録したとのこと.

通常値上げをすれば顧客の減少に繋がるはずですが,なぜディスニーランドは
逆に顧客を増やすことに成功したのでしょうか?

その答えは恐らく非常にシンプルです.

値上げ以上の“価値”を顧客に提供したからに他なりません.

ディズニーランドは,値上げをするたびに収益増を原資とした設備投資を
行って,アトラクションを増やし,ゲストに新たな感動を届けることに成功
したのです.実際今回も来年4月の値上げに際して,4つの新アトラクションを
オープンし,加えて東京ディズニーシーの開業10周年イベントも大々的に開催
する予定になっています.

私達は時として安ければ売れると勘違いすることがありますが,顧客にとって
安さというのはあまり重要なことではないのかもしれません.安くてもそれに
見合う価値のないものであれば,見向きもされないということです.

たとえば,街中で配っているポケットティッシュはお店ではお金を出さなけ
れば買えませんが,無料で配っていても多くの人が見向きもしないことからも
わかるように,不必要な人にとっては価格が重要なのではなく,その商品や
サービスが自分にとって価値があるのかどうかが重要なのです.

このことを鑑みれば,デフレだから取り敢えず価格を安くすれば売れるのでは
ないかという短絡思考に陥るのではなく,顧客にとって価値のあるものを適正
価格で提供しようという前向きな価格戦略が重要な鍵を握ることがわかります.

ディズニーランドは自社の提供するサービスの価値を熟知していて,適正価格
を設定する努力を怠らないからこそ,値上げをしても入場者が減ることなく,
逆に増えるというマーケティングの成功に繋げているというわけです.

もしかするとみなさんの中には,ディズニーランドの1日券の6200円は“遊園
地”にしては高額だと思っている方がいらっしゃるかもしれません.確かに
同じ“遊園地”カテゴリにおいて,としまえんの3900円,富士急ハイランドの
4800円と比べれば,1400円から2300円も高い価格設定です.

ここで重要なのは,ディズニーランドは“只の遊園地”ではないということで
す.乗り物に加えてショーやパレードなど,園内に入場するだけで“非日常”
が体験できるという,他に類を見ない体験型アミューズメントパークなのです.

全く同じプロダクトがないので比較することは難しいですが,上記の遊園地に
加えて,たとえばライオンキングなどのミュージカルが9800円ですから,たく
さんの乗り物に乗れた上に,いくつものショーやパレードが見られて6200円と
いう価格設定はまだまだ割安感があり,たとえ値上げしたとしても多くの顧客
がそれ以上の価値を感じるはずです.

ただ,全ての企業がディズニーランドと同じように値上げしても更に多くの
顧客を引き付けることができるわけではありません.値上げが成功するか
どうかは自社の提供する商品やサービスの『価格弾力性』にかかっています.

『価格弾力性』とは価格の変動がどのような需要の変化をもたらすかを表した
ものです.

たとえば,ガソリンなど商品自体が差別化しにくいものは1円でも安い価格に
顧客が流れていきます.このような場合,価格弾力性が大きく,値上げをする
と需要が大きく減ってライバルに顧客を奪われることになります.

一方でディズニーランドのように他では提供していないサービスで熱狂的な
ファン客を囲い込んでいれば,価格弾力性が小さく値上げをしたとしても需要
には大きな変化は見られないでしょう.

このことから,デフレ下で不当に安い商品価格に悩まされないためには,価格
弾力性を小さくする必要があり,そのためにはディズニーランドのように他で
は得ることのできないオンリーワンの商品やサービスを提供することを心掛け
なければいけないというわけです.

「顧客は価格でモノを選ぶのではなく,価格に対する価値で選ぶ」・・・
この言葉を肝に銘じて,いかに安いものを提供するかという価格志向のマーケ
ティングではなく,いかに価値のあるものを提供するかという価値志向の
マーケティングがどんなビジネス環境においても成功を収めるポイントになる
ことをディズニーランドは教えてくれるのではないでしょうか.

◎ビジネスマン必読!1日3分で身につけるMBA講座
http://archive.mag2.com/0000108765/index.html
2010.12.22



マーケット・ガーデン作戦とインテリジェンス (11)
                長南 政義
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【前回までのあらすじ】

本連載は,精確な内容を持つインテリジェンスが一九四四
年九月上旬に連合軍の指揮官に利用されたかどうかを考
察することにある.実は,インテリジェンスは,マーケット・
ガーデン作戦実行に伴うリスクを連合軍の指揮官に警
告していた.

指揮官が決定を下すために利用できるインテリジェンスの
情報源は数多く存在していたが,本連載では「ウルトラ」情
報により提供されたインフォメーションにのみ焦点を当てて
考察を進めることとする.第二次世界大戦を通じて,連合
軍の戦略レヴェル・作戦レヴェルの指揮官たちはウルトラ
情報を活用し,ウルトラ情報の精確性に関してめったに疑
いを持たなかったからだ.

前回から「ウルトラ」情報について述べている.前回はイギリ
スのウルトラ情報解読について説明した.

エニグマ暗号解読に関しては二つの誤解が存在する.第一
の誤解は,イギリスがエニグマ解読に成功したのは,イギリス
単独の業績であるというものだ.だが,前回説明した通り,イ
ギリスの「ウルトラ」計画の系譜は,ポーランドのウイッチャー
計画に直接遡ることができる.というのも,ポーランドがドイツ
の暗号通信を解読することで蓄積した,ウルトラ計画以前の
十三年間に及ぶ諸経験なくしては,ウルトラ計画が現在か
たられているような成功譚となったかどうかは極めて疑わし
いからだ.たとえ小規模であっても,戦間期になされたポーラ
ンドの解読作業は効果的なものであり,後にイギリスにより
実施された解読作業に劣らないどころか,イギリスによる解
読作業以上の重要性を持つものであった.

ウルトラに関するもう一つの誤解として,ウルトラの唯一の任
務はエニグマの暗号コードを解読することであった,というも
のがある.だが,ウルトラ計画の裾野は広く,エニグマ暗号の
「鍵」を発見しようと努力する数学者たちの集団だけの努力に
とどまるものではなかった.現実には,ウルトラ計画は以下の
ようなあらゆる段階を含む総合的な計画であった.すなわち,
それらの段階には,

(1)ドイツ軍が送受信する情報を傍受する
(2)傍受した暗号の「鍵」を解読する日々の努力
(3)情報文を読みやすくする
(4)インフォメーションをインテリジェンスに高めるために情報
文を分析する
(5)解読・分析が済んだインテリジェンスを第一線部隊の指
揮官に伝達する
(6)それを読んだ部隊指揮官たちが「ウルトラ」情報を決断の
ために利用する

といった諸段階が含まれていた.

今回は,フランスとアメリカによる戦間期暗号解読の状況につ
いて概説する.


【戦間期フランスの暗号解読の状況】

ドイツの暗号解読に関するフランスの状況イギリスと同じよう
な状態であった.フランス陸軍参謀本部第二局の無線情報の
責任者であったギュスターブ・ベルトラン大尉は,フランスによ
るドイツ暗号解読の努力を語る際に重要となる人物の一人で
ある.

一九三〇年,ベルトランはフランス情報部D部部長に就任し,
ドイツ暗号解読に関する彼の努力を継続していた.フランスが
エニグマ暗号解読に不成功であった期間,D部はエニグマ暗号
解読に精を出すポーランドを助けることで,エニグマ解読に重要
な役割を果たした.すなわち,D部は,エニグマ計画に関与して
いたドイツ人と接触することによって得た情報をポーランドに提
供したのである.

ベルトランは,技術的手段ではなく,秘密裡に入手した文書を
ポーランド側に渡すことにより,ドイツの暗号通信を解読する手
助けをしたのみならず,最終的には第二次世界大戦勃発時に
ポーランド人暗号専門家がパリに亡命する手助けをすることで,
フランスとポーランドとを結びつける紐帯の役割を果たしたので
ある.

以下,ベルトランとD部について詳細に述べてみたい.


【ギュスターブ・ベルトラン】

日本の読者にはなじみがないかもしれないが,ギュスターブ・ベ
ルトラン(一八九六〜一九七六)は,一九三二年にドイツのエニ
グマ暗号の解読に成功したポーランドの暗号局による暗号解読
に死活的に重要な役割を演じた情報将校の一人である.ベルト
ランが果たした役割が,有名な第二次世界大戦中のイギリスに
よるウルトラ作戦の成功につながったのだ.

ベルトランの軍歴は第一次世界大戦が勃発した一九一四年に
一兵卒としてフランス軍に従軍したことから始まる.翌一九一五
年にはダーダネルスにおける作戦で負傷している.ベルトランが
無線情報に関与したのは一九二六年からのことである.戦間期
の一九二〇年代,大戦中大きな部門であったフランスの無線情
報部門は分権化された.外国暗号の解読──主としてドイツお
よびイタリアのものを解読していた──が参謀本部暗号部の責
任となる一方で,無線監視・無線傍受は参謀本部情報部により
実施されていたのだ.


【ベルトラン,「アッシュ」から機密文書を購入する】

一九三〇年末,暗号解読が参謀本部情報部の役割となり,D部
が創設され,ベルトランがD部部長に就任した.情報部のベルト
ランの同僚たちは,暗号名「アッシュ」の名で呼ばれていたハン
ス=ティロ・シュミットからエニグマ暗号機に関する文書を購入し
た.シュミットはドイツ軍の暗号局に勤務していた人物であった.


【機密文書,フランスからポーランドに引き渡される】

一九三二年十二月,ベルトラン大尉(当時)はポーランド軍暗号
局の局長であったグイド・ランガー少佐にアッシュから購入した文
書を引き渡した.

当時,ポーランドの暗号研究者マリアン・レイェフスキは,エニグ
マ解読の第一段階として,エニグマ暗号機の暗号化ローターの
配線を復元する作業を行なっていた.レイェフスキは,エニグマ
暗号機のローターやプラグボードを流れる電気信号を未知数を含
む方程式で書くことに成功していたが,未知数が非常に多いた
め,彼の方程式はとても複雑であった.レイェフスキによれば,
彼の方程式に多くは,追加のデータが無ければ解を与えないも
のであったという.

しかし,幸運なことに,フランスがポーランド側に引き渡した文書
に,エニグマ暗号機の設定が含まれていた.こうして,レイェフス
キの方程式から未知数の箇所が減少することとなったのである.

レイェフスキの証言によれば,実際に,エニグマ暗号機の配線復
元に関する数学的解決にとってフランスがアッシュから購入した
文書は極めて重要であった.レイェフスキの回想には,フランス情
報部からの「情報が,暗号機の解読を決定づけたと考えるべきで
ある」と書かれている.

ポーランドとの仕事に際して,ベルトランはポーランドから与えられ
たコードネーム「ボレック」を使用していた.だが,ベルトランがポー
ランドによるエニグマ暗号解読の成功を知ったのは,それから約
六年半が経過した後のことであった.それは,ポーランド・イギリ
ス・フランスの三国の関係者による会談がワルシャワ南方のカバ
ティの森で開催された一九三九年七月二十五日のことで,第二
次世界大戦が勃発するわずか五週間前のことであった.


【第二次世界大戦中のベルトランの数奇な人生】

一九三九年九月,ドイツ軍がポーランドに侵攻した後,当時少佐
であったベルトランは,一九三九年十月から一九四二年十一月
まで,ポーランド暗号局の要員の仕事を後援し続けた.初期の
拠点はパリ郊外のPCブルノに置かれ,ドイツによるフランス侵
攻の後はヴィシー政権の自由区域の南部にあったキャディック
ス・センターで,それは実施された.ドイツ軍による逮捕を回避す
るために,キャディックス・センターが解散されてから一年以上が
経過した一九四四年一月五日,ベルトランは,ロンドンからの
クーリエをモルマントンのサクレ・クール寺院で待っていた時に,
ドイツにより逮捕された.

ベルトランを逮捕したドイツは有能な情報将校であったベルト
ランに目を着け,ドイツのために働くことを要請した.これに対
しベルトランは同意した振りを装った.こうしてベルトランは,イ
ギリス情報部と接触するために,妻のマリーと共にヴィシーに
帰ることを許された.ヴィシーに戻ったベルトランは,仲間たち
を地下に潜伏させ,自身も地下に身を隠した.

ノルマンディ上陸作戦四日前の一九四四年六月二日,フラン
ス中央高地に即席で作られた仮設滑走路で,ベルトランとそ
の妻,およびポーランドのレジスタンス活動家とのクーリエを
務めていたイエズス会の司祭が小型で非武装のライサンダー
機に乗り込み,イギリス諸島へと飛び去った.

イギリスに到着したベルトランとその妻はポーランド軍の無線傍受
局と暗号部門が置かれた村からすぐの所にあるハートフォードシャ
ー州のボックスムーア村に居を構えた.ボックスムーア村近在のポ
ーランド軍の無線傍受局と暗号部門ではマリアン・レイェフスキら
が働いていた.

第二次世界大戦後,ベルトランは一九五〇年にフランスの情報
部から退役し,南フランスのあるコミューンの市長に就任している.


【戦間期アメリカの暗号解読活動】

アメリカも積極的な暗号解読計画を持っていたが,その主たる対象
はドイツではなく日本であった.確かに,アメリカの分析官たちはド
イツの暗号能力に対し強い関心を抱いており,ベルリン駐在の武官
が一九二七年にエニグマ暗号機のコピーを購入していた.だが,こ
のことはエニグマ解読のうえであまり大きな重要性を持たなかった.
というのも,当時のアメリカの関心は日本の外交通信に置かれてい
たからである.

一九二九年,国務長官ヘンリー・スチムソンが「紳士はお互いの手
紙を盗み見ない」と語り,国務省の暗号解読局MI−8を閉鎖した時
に,アメリカの全体的な暗号解読能力は大きく後退してしまった.

だが,アメリカの暗号解読の努力は一九二九年の時点で終了しなか
った.暗号解読は部署の名前を変える形で継続され,その活動はよ
り慎重なものになっただけであった.アメリカはエニグマ解読の初期
段階においてはエニグマ解読に大きな関心を持っていなかったが,結
局はイギリスなどと並んでウルトラ情報の最大の消費者となるのである.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.7.30




陸軍機 vs 海軍機(46)       清水政彦

「零戦と隼(45)」

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「零戦vs隼」の第45回.今回は,昭和18年9月におけ
る東部ニューギニア防衛線の状況についてです.

▼ 東部ニューギニア作戦の方針転換

 すでに述べたように,昭和18年夏までの南太平洋方
面作戦の基本方針は,東部ニューギニアから中部ソロ
モン諸島にかけての防衛線を死守することにあった.

 このような「前がかり」ともいえる兵力配置に対しては,
補給の面から絶えずその妥当性に疑問が投げかけら
れていた.とくにニューギニア自体の戦略価値を疑問視
する陸軍中央では,次第に東部ニューギニアからの撤
退論が力を増しつつあった.

 このような環境下で陸軍があえてニューギニア方面の
航空兵力を大増強し「第四航空軍」を編成したのは,こ
の「前がかり」になった兵力に対して補給を確保するた
めのやむを得ない措置と認識されていたが,インド洋方
面でも連合軍の反攻が予想されるなかで,補給が困難
な東部ニューギニア方面に大兵力を投入することは,陸
軍中央としても一大決心を要する「賭け」であった.

 8月中旬,ウェワク空襲による大損害の報告を受けた
陸軍中央部は,この「賭け」に敗れたことを悟ったが,こ
れはちょうど,大本営が東部ニューギニア放棄に関する
陸海軍合同研究を開始したのと同じタイミングであった.

 ソロモン・ニューギニア戦線が急変した直後,8月15日
から開始された図上演習を通じ,大本営は急速に東部
ニューギニア放棄の決断に傾いていった.そして,ウェワ
ク大空襲から約半月後の昭和18年8月末,大本営は東
部ニューギニア方面の作戦方針を「持久」に転換するこ
とを決定する.

「持久」作戦とは,敵の進攻兵力に対してもっぱら防勢
をとり,ジリジリと後退しながら後方の防衛線を構築する
時間を稼ぎ,最終的にはその地域を放棄するということ
である.

 東部ニューギニア放棄後の後方防衛線は,西部ニュー
ギニアからパラオ,マリアナ諸島を結ぶ線とされ,この防
衛線の構築と「反撃戦力」の蓄積に約1年を要するもの
と見積もられた.つまり,東部ニューギニア作戦の目的は,
「持久」によりこの1年間の時間を稼ぎ出すことと定義され
たのである.

 もっとも,東部ニューギニア方面作戦の方針が「持久」に
変更されたことは,航空作戦を消極的にすることを意味し
ない.一般に撤退戦というのは難しいものだが,とくに航
空作戦での撤退戦は「総崩れ」になりやすい特性がある
ため非常に難しいのである.航空戦は基本的に攻勢側が
優位に立ちやすいからだ.

 東部ニューギニアにおいても,むしろ劣勢であればこそ
積極的・攻勢的な航空運用を行なうことが重要だと認識
されていた.従来は船団掩護や基地の防空だけに偏り
がちだった兵力運用を,敵の航空基地や船団への攻撃
にシフトすることで,少ない兵力を有効に活用すべきだと
考えられたのである.

▼ 東部ニューギニアの天王山「フォン半島」

 フォン半島の戦略的位置づけについては先に述べたが,
これは東部ニューギニアの持久作戦を理解するうえで重
要なのでここで再確認しておこう.

 フォン半島は,ニューギニア島を亀に喩えたとき「尻尾」の
付け根にあり,ダンピール海峡に向けて大きく丸く突き出し
た地形をしている.フォン半島は日本側の重要拠点である
マダンとラエをつなぐ位置にあり,ラエに対する補給の中継
地点である.同時に,連合軍がニューギニア島北岸沿いに
反攻するに際して最大の関門となる地形である.フォン半
島周辺の港湾と飛行場を日本側が抑えている限り,連合
軍はダンピール海峡を安全に通行できず,仮にマダンより
西の地域に上陸しても補給が続かない.

 日本側は,フォン半島とダンピール海峡周辺地域を極力
長く「持久」することによって連合軍の反攻速度を鈍らせ,
後方防衛線の構築に必要な1年の時間を確保しようと試み
た.逆に,ひとたびダンピール海峡を突破されてしまうと,
連合軍はニューギニア北岸のどこにでも奇襲的に上陸でき
ることになり,防禦する日本側の方が圧倒的に不利になる.

 このような事情から,フォン半島をめぐる攻防が,東部ニュ
ーギニア「持久」作戦の天王山となった.

▼ ラエの放棄

 昭和18年9月3日,ついに連合軍がフォン半島の南岸に上
陸し,激戦が続くラエ地区を日本側支配地域から切り離そう
と試みた.さらに9月5日にはラエの近郊に連合軍の空挺部
隊が落下傘降下して,日本軍守備隊の退路を断つ動きを
見せる.

 第四航空軍は全力で出撃して上陸(降下)部隊の攻撃に
努めたが,一度に出撃できる爆撃機は数機から10機程度し
かなく,連合軍の進撃を阻止する力はなかった.

 第八方面軍司令部では,もはやラエ地区の保持は不可能
と判断し,所在の部隊に対して同地を放棄して後方に撤退す
るよう指示した.12日,ラエ地区の残存部隊は2週間分の食
料を背嚢に詰め込んでジャングルに入り,徒歩で山脈を越え
て撤退を開始する.

 ラエ地区が放棄されたことによって,戦いの焦点はフォン半
島の中心拠点である「フィンシュハーフェン」に移った.

▼ フォン半島をめぐる攻防

 ラエの失陥後まもない9月下旬,連合軍はフォン半島の中心
に位置するフィンシュハーフェンに対しても上陸を開始した.

 この時,第四航空軍の手元にあった実働戦力は約90機であ
り,そのうち爆撃機は30機余りに過ぎなかった.フォン半島を
めぐる攻防を東部ニューギニアの天王山と位置付ける第四航
空軍は,可能な限りの戦力を振り絞ってフィンシュハーフェン付
近の船団や揚陸点に対する攻撃を反復するが,やはり爆撃戦
力が少なすぎた.

 何度となく送り込まれる攻撃隊も,その構成は直掩の戦闘機
ばかり.爆撃機は3個小隊9機の編成が精一杯で,その爆撃
は揚陸作業を一時的に妨害する「嫌がらせ」程度の効果しか
なかった.
それでも,9月中の陸軍航空部隊の奮戦には特筆すべき点がある.

 公式記録で確認できるだけでも20回以上の進攻作戦が企図
され,参加機数では延べ数百機に及ぶ反復攻撃が行なわれ
たにもかかわらず,空中で撃墜された機が極めて少ないのである.

▼ 「ニューギニアは南郷で持つ」

 9月の進攻作戦でもっとも損害が大きかったのは9月21日の
フィンシュハーフェン上陸船団に対する攻撃だが,攻撃に参加し
た戦闘機23機と重爆9機のうち,空中で失われたのは戦闘・重
爆各2機のみで,生還率は88%.船団上空でP-38が厳重に警
戒するなかでの強襲であったこと,同時期の海軍の攻撃では
1回に10機以上の被撃墜機を出すのが当たり前であったことな
どを考えると,このスコアはかなり凄みがある.

 これ以外の作戦では全機が無事帰還する例が多く,多数の
連合軍機から邀撃を受けたケースでも数機が損傷するのみか,
多くて1〜2機の犠牲で切り抜けている.質量ともに日本側が圧
倒的に劣勢ななかで,昭和18年9月の空中戦は意外ともいえる
善戦が目立つ.

 その理由はおそらく複合的なものだが,1つの要素として,この
時期に行なわれた進攻作戦の多くに飛行第59戦隊(南郷茂男
大尉)の一式戦が参加していたことが挙げられるだろう.

 南郷大尉は部隊の中心幹部として常に上空で指揮をとっており,
その沈着・適格な指揮ぶりは59戦隊内部からだけでなく他の部隊
からも称賛を集めていた.彼自身もこの時点ではまだ負けている
という意識はなかったようで,「まだまだやれる」と感じていたこと
が陣中日誌の記載から伝わってくる.

 この時期の59戦隊の実績を見れば,航空戦における空中指揮
の重要性とともに,「ニューギニアは南郷で持つ」と呼ばれた理由
が納得できるだろう.

▼ 蔓延する感染症と戦力の枯渇

 昭和18年9月末の時点で,第四航空軍の実働戦力は50機程度
に低下していた.

 空中での喪失が少ないのに,なぜ実働戦力が減るのか? それ
は,空襲での地上撃破や,荒れた滑走路での離着陸事故が多い
ことに加え,感染症の蔓延と整備力の不足が追い打ちをかけたか
らである.

「戦史叢書」によれば,第四航空軍の第一線定数(書類上の定数)
356機に対し,9月末時点で実際に保有する機材は240機あったが,
このうち損傷・故障しておらず飛行できる状態のものは80機に過ぎ
なかった.しかも,機体が故障していなければすべて「出撃可能」
なわけではない.

 パイロットが病気や極度の疲労によって戦闘任務に就くことがで
きない(飛行機よりパイロットが少ない)場合や,整備員のマンパワ
ー不足で飛行機の整備が追いつかないために直ちに出動できない
ことが多いのだ.そして,こうした状況を招いている根本的な原因は,
マラリアやデング熱の蔓延を抑制できないことにあった.昭和18年
9月の段階でも,なおニューギニア地区の衛生状態は改善できてお
らず,一般に極めて劣悪だったのである.

 以下に「戦史叢書 東部ニューギニア方面陸軍航空作戦」から
該当する記載を抜粋する.

「各戦隊の実情を見ると,ほとんど全員がマラリヤにかかっており,
消化器病などと関連して何時発熱するかわからぬものが大部分で
あった.戦闘隊の操縦者の疲労は特に著しかった.食欲がなくな
り,疲労回復の注射をうちながら出動しているものが大部であっ
た.」(474頁)
「第68戦隊操縦者の健康状態は悪く,下痢をしても一日五回くらい
では患者扱いはできなかった.」(496頁)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.7.29




荒木 肇
『動員のコスト(6)──日本陸軍の動員(6)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

□はじめに

 梅雨が明けました.とたんに関東は猛暑です.先日
はまさに局地的なゲリラ豪雨がありました.首都圏では
電車も止まり混乱がおきました.
 毎日の暑さにいささか参っています.みなさまもご自愛ください.


▼「用兵綱領」

 用兵綱領とは読んで字のごとく,どのように軍隊を用い
るのかという基本方針である.要点,眼目,基本方針の
ことをいう.前にも述べた「動員」への流れを確認する.
制定された国防方針に国力を勘案し,必要な兵力量を決
める.それをどうやり繰りして戦うかという計画の基本に
なるのが用兵綱領である.

 国防方針と所要兵力量は政府と統帥部の協議事項だ
った.何をおいても国家には財政と民政がある.国民
生活とのバランスが取れなくては戦争の遂行そのもの
が不可能になる.ただし,用兵綱領となれば軍隊をど
う動かすかという統帥事項になった.だから,用兵綱領
と年度作戦計画は統帥部(陸軍参謀本部と海軍軍令部)
の専管事項であり,陸軍省や海軍省といえどもタッチす
ることはできなかった.

 用兵綱領と作戦計画は陸軍の中でも最高機密である.
陸軍大臣や教育総監といった立場でも知ることはできない.
わずかに参謀本部作戦課の担当者だけが知ることができ
た.戦時の軍の行動計画は,そのごく少ない人間たちが
心血を注いで作りだしたものだった.

 その作戦計画も敗戦と同時に多くが焼却処分された.
『日本の一番長い日』(映画・小説)にも描かれているよう
に,市ヶ谷台上には数日間も書類を焼いている煙が立ち
上っていたという.わずかに防衛研究所に残っているの
が1940(昭和15)年度の作戦計画である.37ページの
本文と付表3枚,付図1枚といった小冊子でしかない.想
定されている敵国は,ソビエト連邦,アメリカ,支那,イギ
リス,フランスである.それぞれの計画がシミュレーション
されている.

1)支那ニ対スル作戦中,露国ガ参戦セル場合ノ作戦
2)支那ニ対スル作戦中,米国ガ参戦セル場合ノ作戦
3)支那ニ対スル作戦中,英国及ビ仏国ガ参戦セル場合ノ作戦
4)支那ニ対スル作戦中,露国,米国,英国及ビ仏国ノ内
二国乃至四国ガ参戦セル場合ノ作戦

「総則」を見てみると第3章に次のような文言がある.
「部隊ノ整備並ビニ兵力ノ区分」である.分かりやすく現
代語化する.
『作戦の初期に使用する部隊は,主として昭和15年度の
帝国陸軍動員計画を使って整備を企画する.作戦上の用
途に応じられるように動員し,すでに動員済みの部隊を運
用し,作戦が進むにつれ必要になった部隊は臨機に整備する』

▼動員計画とは

 動員計画を見てみよう.まず,師団は平時編制から戦時の
それに変わる.ふつう平時の人員1万2000人,馬匹1600
頭という規模から2万5000人,同前8000頭にもふくれあが
る.師団司令部も平時の70名,14頭から330名,170頭に
もなってしまう(昭和11年度の平時編制表と12年度の常
備〈甲〉師団戦時編制表から).

 その膨張する実態についてだが,増員される部隊と特設さ
れる部隊がある.増員される部隊の代表例は歩兵聯隊であ
る(昭和初めの頃).平時の2000名,馬70頭が,3700名,
馬500頭あまりに増える.野砲兵聯隊も平時1200名,馬6
00頭から2900名,2300頭になってしまう.工兵聯隊,輜
重兵聯隊も巨大化するという事情は変わらない.また,師団
と隷下の各聯隊とをつなぐ通信隊(133名,19頭)も人,馬と
もに倍増した.2倍以上になるのは輜重兵聯隊である(150
0名,300頭から3500名,2600頭).
 
 特設される部隊の代表は4個の野戦病院(それぞれ250名,
馬75頭),衛生隊(1100名,馬130頭),兵器勤務隊(121
名)などである.衛生隊は3個担架中隊,1個車輛中隊で戦場
での救急業務にあたった.
 
 戦時編制になった師団が野戦師団として出征すると留守師団
がつくられる.後方からの補給や支援,また補充兵の教育や初
年兵の教育などをルーティンワークとして行なう必要からだ.この
留守師団から現役の人員を抽出して,さらに召集で集めた予備
役・後備役を集めて構成されるのが特設師団である.つまり1つ
の常設師団から野戦師団と特設師団がつくられる.これを2倍動
員という.戦う師団の数が2倍になるからである.

 わが陸軍の常設師団数はピーク時には朝鮮の2個師団,近衛
師団もいれて総計21個だった.軍縮直前の実態は朝鮮の2個師
団には戦時編制の計画はなかった.また,九州小倉に司令部を
おいた第12師団も人口基盤が薄く2倍動員の計画はなかった.
朝鮮の2個師団は全国各地からの選抜した兵士がいるだけだっ
た.警備が主任務だったからだ.

 小倉も師管区の召集可能人口が少なかったために,野戦師団,
留守師団,特設師団という3つをつくれなかった.福岡県という人
口の多い県があっても,重砲兵旅団(下関),警備大隊(対馬),
要塞砲兵(対馬)のための徴募もしなくてはならない.さらに重工
業地帯だったので技術者や技能者が多く,召集猶予者も多かっ
たからだろう.この召集猶予についても後に詳しく述べる.

 こうした事情は1933(昭和8)年になってもあまり変わらなかっ
た.戦時編制にできるのは17個師団でしかない.第13,第15,
第17,第18の4個師団は大正末期の軍縮でなくなってしまった
からである.しかも,朝鮮の第19,20の2個師団,近衛師団,北
海道の第7師団は2倍動員が不能だった.近衛師団は砲兵隊な
どの特科隊は別にして,歩兵聯隊は全国区からの選抜だったか
らだ.つまり独自の徴募区がない.第7師団も北海道全体が管区
だったが人口が少なすぎた.

 これに加えて,当時,兵庫県姫路の第10師団,栃木県宇都宮
の第14師団は満洲へ派遣中であり,この年は2倍動員ができず,
平時では最低の28個野戦師団が用意できるだけだった.

▼歩兵聯隊戦時編制表から

 時代が少し下がるが動員とはどれほどの召集兵が必要になるか
みてみよう.

 手元に「昭和16年度動員計画」がある.大きな紙一枚で,縦軸
には部隊の種類,上から順に聯隊本部,大隊本部,中隊,機関銃
中隊,歩兵砲小隊,大隊,歩兵砲大隊本部,歩兵砲中隊,速射砲
中隊,歩兵砲大隊,通信中隊そして総計の欄がある.総計の欄に
は大隊3箇,歩兵砲大隊1箇,通信中隊1箇とまとめられている.

 横軸には階級と補職名,人員数がある.たとえば歩兵聯隊本
部を見るとしよう.大(中)佐は聯隊長,乗馬1頭,少佐が1名,乗
馬1頭,大尉もしくは中尉が副官と兵器掛の各1名ずつ.中尉もし
くは少尉は3名で給養掛と瓦斯掛,そして少尉の聯隊旗手にな
る.曹長は書記が4名,軍曹もしくは伍長が3名,職務は暗号掛,
兵器掛と瓦斯掛である.他に輜重兵中尉や同軍曹,獣医中尉,
軍医大尉などがあり,下士官も技術,鍛工,火工,鞍工(あんこ
う・馬具関係),木工,電工,銃工,獣医務,衛生など.それに馬
取扱兵9名が定員だったことがわかる.

 備考欄は,煩雑になるが歩兵聯隊の具体的編制がよくわかる
ので書いておこう.現代語に直しておく.
1)中隊は3小隊に区分して中(少)尉を小隊長とする.小隊は
4個分隊に分けて軍曹(伍長)を分隊長とする.第1,2,3分隊
は13名で軽機関銃1挺,小銃11挺を装備し,第4分隊は12名
で重擲弾筒3筒と小銃9挺をもつ.

2)機関銃中隊は大隊のナンバーに従って第1から第3の番号を
付ける(第2大隊には第2機関銃中隊がある).機関銃中隊は戦
銃隊(せんじゅうたい),自動砲小隊と弾薬小隊からなっている(自
動砲とは口径20ミリの対戦車砲で自動装填式だった.制式名称
は九七式自動砲).戦銃隊は3個小隊に区分して中(少)尉が小
隊長になる.小隊は4個分隊に分け軍曹(伍長)を分隊長とし,弾
薬小隊は准尉を小隊長とする.弾薬小隊は3分隊とし分隊長は
上等兵とする.

3)歩兵砲小隊は各大隊に一個ずつ,第1から第3までとする.
戦砲隊(九二式歩兵砲・70ミリ)と弾薬分隊とし,戦砲隊は2個
分隊とし,軍曹もしくは伍長が分隊長となる.

4)歩兵砲中隊は戦砲隊と弾薬小隊とする.別に観測車1輌と
観測通信に必要な人馬をつける.戦砲隊は歩兵砲4門(75ミリ
山砲)と弾薬車8輌とする.2小隊に区分して少(中)尉が小隊
長,2個分隊(各砲が1分隊)で分隊長は軍曹もしくは伍長.弾
薬小隊は弾薬車12輌,器材予備品車4輌,予備馬をもち准尉
が小隊長.5分隊に分ける.

5)速射砲中隊は戦砲隊と弾薬小隊から成って,戦砲隊は37ミ
リ対戦車砲4門(九四式三七粍砲),弾薬車4輌,予備品車で構
成し2個小隊に分ける.小隊は中(少)尉が指揮官となり2個分
隊に分ける.分隊長は軍曹もしくは伍長.弾薬小隊は弾薬車6
輌と予備馬をもち准尉が長となり2個分隊に分ける.

6)通信中隊は電話機20箇,被覆線30粁(キロメートル),5号
無線機5箇,6号無線機12箇などをもつ.2個小隊に分け小隊
長は中(少)尉.第1小隊は6個分隊に分け,第1から第5分隊
まではそれぞれ電話機2箇,被覆線6巻を装備する.第6分隊は
電話交換機をもつ.第2小隊は同じく6個分隊に分け,第1分隊
から第5分隊まではそれぞれ5号無線機1台,6号無線機1台を
もつ.第6分隊は6号無線機7箇をもたせる.

7)聯(大)隊本部書記のうち1名は給養掛,輜重兵下士官のう
ち1名は瓦斯掛を兼ねる.

8)聯隊本部の上(一・二)等兵のうち5名は軍旗衛兵とする.

9)乗馬のうち1頭は将校予備馬とし,もう1頭は伝令用とする.

10)本表の他,所要の人馬を増加することができる.

 たいへん面倒なことだったが,こうして歩兵聯隊の編制装備の全
容がわかった.人員は4487名であり,馬匹は乗馬,輓馬,駄馬
あわせて927頭である.幹部の数は佐官6名,尉官が兵科だけで
87名にのぼる.准尉18名,下士官373名だった.一個中隊は
190名,同機関銃中隊は223名となる.

▼平時編制と比べての人員増

 これらのデータを平時編制の歩兵聯隊と比べてみよう.まず,
小銃中隊の数である.平時は3個大隊だが各3個中隊でしかな
かった.第4,第8,第12の各中隊は欠番だった.また,歩兵砲
中隊,機関銃中隊もそれぞれ1個ずつである.平時の歩兵中隊
はおおよそ120名くらいだった.下士官以上の幹部も20名前後
でしかない.中隊長,中隊付の中尉・少尉が3人ほどで准尉が
1人,もしくは2人.曹長も2人,軍曹と伍長が5人ずつくらいのも
のだった.平時の歩兵聯隊には軍医や主計,獣医などの各部
将校を合わせても60人くらいしか将校団の構成員はいなかった
のである.

 階級別にみても大尉は各中隊長で11人,聯隊副官を入れても
12人.これが,戦時編制になると小銃中隊は12個に増え,機関
銃中隊も3個,歩兵砲大隊には2個中隊,通信中隊もあるから合
計18人の大尉が必要になる.この大尉という階級はいつの時代
も難しいポストである.なお,大尉からは少佐とともに中級将校と
いう扱いを受けた.

 少尉任官から各兵科の実施学校(職種学校と陸自ではいう)で
の課程教育を受け,10年くらい経って特業といわれた専門をもつ
のが大尉である.野砲兵なら観測,通信,弾薬,車輛などの専攻
別の科目があった.海軍も同じである.中尉までは一通りの教育
を受け,大尉になると航海,通信,砲術,水雷などのそれぞれの
専門家になる.したがって,平時の陸軍の中隊長は半分くらいが
部隊にはいなかった.陸軍大学校へ通う者,実施学校の課程学
生,中には籍だけあって臨時勤務で官衙,研究所などへ派遣され
た者などがそれにあたる.

 小隊長である中尉,少尉といった初級将校はもっと増える.歩兵
大隊3個の中隊数は12個,各3小隊だから36個小隊.それに機
関銃中隊の戦銃隊小隊長が9人に自動砲小隊長が3人,歩兵砲
小隊長が3人となり合計51人になる.歩兵砲大隊は2個中隊だが
小隊長が4人であり,合計55人.それに通信中隊の2人の小隊長
で総合計57人になる.大尉12人と合わせると69人になった.聯
隊本部や大隊本部の尉官と合わせれば87名が定員である.これ
に佐官の6名や各部将校を合わせると,ざっと100名の現役将校
が必要になった.

 下士官の必要数も戦時には大きく増えた.もともと陸軍には
「伍長勤務上等兵」という制度があった.現役兵のエリートだった
上等兵のうちでもトップクラス,各中隊で4名から6名の上等兵が
指名され,特別の袖章を付けて「ゴキン」といわれる立場について
いた.これは予算不足で平時編制の下士官の充足度を低く抑え
たためである.他に優秀者は衛生兵である.各中隊に年度ごと
に1名がいて2年目には必ず上等兵になった.これもふだんは
聯隊の医務室で勤務したが優秀者は「下士官適」の証書をもら
って除隊した.予備役の召集時にはたいていが「志願ニ依ラザ
ル」下士官になった.

 このように戦時編制の軍隊は現役兵だけではとてもまかなえ
ず,そこで動員がかかり召集兵が集められる.昭和の初めには
毎年およそ10万人が入営していたから,予備役兵5年分を集め
れば50万人,後備役や既教育補充兵をさらに召集して100万
を集めることも可能だったわけだ.実態はそんな簡単なものでは
なかったが.

▼兵役期間についた4カ月の端数

 昭和16年まで,現役2年,予備役5年4カ月,後備役10年だっ
た.徴兵検査のすぐあとに入営しない補充兵役は在役期間が17
年4カ月である.この4カ月の端数こそ動員計画と関わりがある.

 ついでに補充兵役についても述べておこう.補充兵役は明治・
大正の時代にはなかった.1927(昭和2)年の「兵役法」で初め
て設けられた制度である.創設の理由は2つである.
1)平時の部隊の定員と動員部隊の人員比率,つまり戦時の人
員拡張率を「動員倍率」という.それが高くなるにつれて,予備
役・後備役だけでは人員が足りなくなる.
2)戦争の長期化が予想されるようになり,各部隊の戦力を長く
維持するためには補充兵を召集する必要が出る.

 こうして補充兵役は始まったが予備役と同じく4カ月の端数が
ついた.それは兵役期間の起算日が12月1日であることと関係
がある.それに4カ月の端数を付けると翌年の3月31日になる.
その3月31日に意味があった.

 3月31日は「動員年度」の最終日にあたる.年度動員計画は
4月1日から翌年の3月31日までが有効である.4月1日以降
の動員部隊の要員に充てられた兵員は翌年の年度末3月31日
まで在役していなければ困る.ところが兵役期間の起算日は
12月1日だからこの端数がついていないと,予・後備役の15
年目の兵員は,動員年度の有効期間中の11月末日に兵役義
務を終えてしまう.そうなってしまわないように4カ月の端数を
付けるようになっていた.

 次回はいよいよ作戦計画に基づいた「動員計画」について
報告しよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.7.29




『ライター・渡邉陽子のコラム (55) ─ 2015年陸海空自衛隊の装備と運用(2) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

先週,北海道に陸自の演習取材で行って猛暑と
虫刺されで大変なことになったとお伝えしました.

虫に刺されてから10日経って,ようやくかゆみが
治まりました.いやいやながら皮膚科に行った
甲斐がありました.でも刺された場所がけっこう
しっかり痕になっています.何歳になろうが肌の
ダメージは悲しいものです.



■2015年陸海空自衛隊の装備と運用(2)

2015年度の防衛予算に含まれる新規事業を中心に,
2015年の陸海空自衛隊の装備と運用について
ご紹介する第2回目です.

先週は,領空の常設監視をさらに強化するため
に早期警戒機E-2Dと滞空型無人機グローバル
ホークを取得したことまでお話しました.


早期警戒機を運用している警戒航空隊は,1つの
部隊が2つの機種を3つの基地で運用するという
稀有な部隊であり,早期警戒管制機E-767,通称
AWACSを浜松基地に,早期警戒機E-2Cを三沢
基地及び那覇基地にそれぞれ配備しています.

もとは浜松と三沢だけでしたが,ここ数年は尖閣諸
島周辺の早期警戒監視のため三沢基地から那覇
基地への展開が常態化,無理のある運用が続いて
いました.そこで昨年4月に部隊を改編,飛行警戒
監視群と第601飛行隊(三沢),第603飛行隊(那
覇)を新編し,那覇基地でE-2C 4機の運用が始まりました.

また,浜松基地でAWACSを運用する飛行警戒管
制隊については,第602飛行隊と改称されました.
三沢の部隊を2つに分ける形で部隊が新編されたお
かげで,早期警戒機のイレギュラーともいえる運用
は解消されました.新たに導入されるE-2Dは三沢に
配置される予定です.


広域における常続監視能力の強化のために取得した
滞空型無人機グローバルホークは,昨年から米空軍
が三沢基地で運用しています.本来の拠点はグアム
のアンダーセン空軍基地なのですが,現地が台風など
の気象条件により運用に制約を受ける5〜10月の間は,
毎年三沢基地に展開することになっているのです.

自衛隊も同機を導入後は三沢に配備しますが,部隊は
陸海空3自衛隊の共同部隊となります.
無人機ですが地上での操縦はパイロットである米空軍
にならい,自衛隊でもグローバルホークの操縦は航空自
衛隊のパイロットから選抜,米国で訓練を行ない操縦資
格を取得することになります.グローバルホークを運用す
る部隊は2018年までに新設されます.


このほか,複数のヘリとの連携により敵潜水艦を探知す
るマルチスタティック能力等を付与した哨戒ヘリの開発が
スタートします.試作総経費481億円のうち70億円を概算
要求,機体は現有のSH-60K哨戒ヘリを使用することでコ
スト削減を図ります.今後5年間で開発試作,その後2年
かけて性能確認試験を行なう計画となっています.


三菱重工業に研究開発を委託している先進技術実証機は,
来月に機体が公開される予定で,その後,ステルス性,高
運動性等について検証することになっています.ステルス性
と高い運動性能を備えた第5世代のステルス戦闘機は各国
が開発を進めており,中国は数年以内に配備されるとされ
ているJ-20のほか,J-31も昨年12月にテスト飛行する姿を
初公開しました.

ロシアのT-50は2016年に部隊配備予定とされています.
韓国はインドネシアと4.5世代機KF-Xを共同開発,インドは
ロシアとT-50の共同開発に加え,中型第5世代機AMCAを
開発中です.


一方,空自が現在保有する戦闘機は第4世代のF-15とF-2,
第3世代のF-4であり,ステルス戦闘機は存在しません.導入
の決まった第5世代のF-35Aが初めて保有するステルス機と
なり,退役の迫っているF-4と置き換わります.
F-2の後継機については国際共同開発と国産機のどちらにす
るか,2018年までに最終判断するとしています.実証機の検
証結果次第では,F-2の後継機が国産ステルス機になる可能
性もあり,防衛省が提唱しているカウンターステルス能力の高
いi3FIGHTER(アイ・ファイター)の実現に一歩近づくことになります.

i3FIGHTERとは「高度に情報(Informed)化/知能(Intelligent)
化され,瞬時(Instantaneous)に敵をたたく」戦闘機.ステルスと
機動性の両立と先進的なアビオニクスを備えている第5世代戦闘
機のさらに先を行く,カウンターステルス,情報・知能化,瞬間撃
破力,外部センサー連携能力を備えた第6世代戦闘機を目指す
ものです.

次回は島しょ部に対する攻撃への対応について(のさわり)です.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.7.30




ライター・渡邉陽子のコラム (56) ─ 2015年陸海空自衛隊の装備と運用(3) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

仕事は好きなのですが,テープ起こしは好きになれ
ません.インタビューすることもそれを記事にするこ
とも好きですが,その間に入る作業,テープ起こしが
いつも苦痛です.自分の話しぶりを聞くのがたまらなく
嫌なのです.

そしてテープ起こし以上に苦手なのが電話で,
かかってくるのはまだ耐えられるのですが,自分から
かけることができません.レストランに予約の電話をす
るのも人に頼むくらいなので,かなり重症だと思います.

電話ができないことは仕事にも支障をきたすので,もう
ちょっとなんとかならないものかと思うのですが……
学生時代,家の電話で(携帯はまだ登場していません
でした)友人と1時間でも平気で無駄話をしていたのが
嘘のようです.




■2015年陸海空自衛隊の装備と運用(3)

2015年度の防衛予算に含まれる新規事業を中心に,
2015年の陸海空自衛隊の装備と運用についてご紹介す
る第3回目です.

先週は,航空自衛隊の警戒航空隊や今後三沢基地に配置
される予定の早期警戒機E-2Dと滞空型無人機グローバル
ホーク,研究開発中の実証機などについての話でした.
今週は,最近も連日のように中国国籍の船が領海侵犯を行
なっている島しょ部についてです.


一昨年に決定された防衛計画の大綱も中期防衛整備計画
も,それに基づいた来年度予算も,すべては島しょ部をめぐ
る中国からの攻撃に対応しうる態勢を整えることが前提に
あります.そこで,島しょ部に対する攻撃の対応についてご
説明する前に,改めて尖閣諸島をめぐる日本と中国のこれ
までの経緯を見てみることにします.


尖閣諸島は南西諸島西端に位置する魚釣島や久場島,北小
島,南小島などからなる島々の総称で,沖縄県石垣市に属しています.
石垣島の北約170キロ,沖縄本島の西約410キロに位置し,
最も大きい魚釣島が3.6平方キロメートル.日本政府は尖閣
諸島が無人島かつ他国の支配が及ぶ痕跡がないことを検討
した上で,1895年1月,国際法上正当な手段で尖閣諸島を日
本の領土に編入しました.編入以降は日本人が移住,最盛期
には200人以上の日本人が居住していたといいます.


戦後は沖縄の一部としてアメリカが施政下に置き,射爆撃場とし
て使用していました.1972年の沖縄返還協定では,日本に施政
権を返還する対象地域にも含まれているなど,尖閣諸島は一貫
して日本領土として扱われてきました.中国政府は,1895年の尖
閣諸島の日本領への編入から約75年の間,日本による尖閣諸
島の実効支配に対し一切の異議を唱えていませんでした.


それが1960年代後半に,東シナ海に石油埋蔵の可能性が指摘さ
れ尖閣諸島に注目が集まると,いきなり尖閣諸島の「領有権」につ
いて独自の主張を始めたのです.

2008年12月には中国公船2隻が尖閣諸島周辺の日本の領海内
に初めて侵入,2010年9月には中国漁船が海上保安庁の巡視船
に衝突,2012年9月に日本が尖閣諸島のうち魚釣島・北小島・南小
島を国有化してからは,中国公船は荒天の日を除きほぼ毎日接続
水域に入域するようになり,毎月領海侵入を繰り返すようになっています.


日本は尖閣諸島について「尖閣諸島が日本固有の領土であるこ
とは歴史的にも国際法上も明らか.したがって尖閣諸島をめぐって
解決しなければならない領有権の問題は存在しない」という姿勢を
一貫してきました.しかし現実として今日も中国の挑発は続いており,
尖閣諸島を不法占拠する事態への備えは不可欠です.防衛省・自衛
隊は冷戦下の北方対策から南西シフトへとすでに大きく舵を切ってい
ますが,さらに島しょ防衛を意識した体制を進めています.


島しょを占領された場合の奪還シナリオは「海上自衛隊の艦艇に
より島まで数キロの沿岸まで輸送された陸上自衛隊の水陸機動団
が速やかに水陸両用車で上陸,オスプレイやヘリ部隊が続く.さら
に全国各地の機動師団・旅団も島しょ部へ急速に機動展開,空自
による航空攻撃と海自護衛艦による艦砲射撃が上陸部隊を掩護」と
いうものです.

これを実現させるため,中期防では「平素の部隊配置」,「機動展開」
及び「奪回」の3つの段階を実効性あるものとすべく,各種取り組みに
ついて示しました.次週はそのうち2015年の新規事業についてご説
明します.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.8.6




陸軍機 vs 海軍機(47)       清水政彦

「零戦と隼(46)」

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◆お知らせ

 このたび,元航空自衛隊パイロットの渡邉吉之さん
との対談本『零戦神話の虚像と真実-零戦は本当に
無敵だったのか-』を宝島社より出版いたしました.


「零戦vs隼」の第46回.今回は,東部ニューギニア航
空作戦のクライマックスとなる昭和18年10〜11月の
航空作戦についてです.

▼ 第四航空軍の戦力立て直し

 前述のとおり,昭和18年9月の1カ月間,第四航空軍は
寡兵ながら善戦してはいたが,大局的にはジリ貧と言わ
ざるをえない状況にあった.

 第四航空軍に対する10月の補給機割当は約200機とな
る予定だが,フェリー飛行の人手が足りないために中継
地のマニラで補給機が滞留していた.

 さらに,飛行第13戦隊(二式複戦)と68戦隊(三式戦)は
機材に信頼性がなく,飛行機の稼働率が極端に低下して
実質的に戦力外となっていた.戦闘機隊の負担は一式
戦装備の飛行第24戦隊と第59戦隊に集中し,両戦隊は
パイロットの疲労が極限に達していた.

 つまり,「人はいるが飛べる飛行機がない部隊」がある
かと思えば,一方に「飛行機はあるが人員が疲弊した部
隊」があり,補給拠点に飛行機が届いても前線までフェリ
ー飛行できるパイロットがいないというちぐはぐな状態である.

 第四航空軍は,この状況を打開して戦力を回復する
「非常措置」として,疲弊した飛行第24戦隊と第59戦隊を
後方に後退させるとともに,両戦隊が保有する機材を残留
部隊(飛行第13戦隊,68戦隊)に引き渡し,現地で機種改
編教育を行なうことにした.

 飛行第24戦隊と第59戦隊のパイロットは,補給機の空輸
を兼ねて10月2日に輸送機でマニラに後退し,以後10月の
1カ月間を休養と飛行機の受領整備に充てることになる.

 マニラに向かった2個戦隊のうち第59戦隊は11月初旬を
めどに東部ニューギニア戦線に再進出し,24戦隊は補給機
をニューギニアに輸送後,内地から転進してくる飛行第248
戦隊と交代してニューギニアを去ることとなる.

「戦史叢書」によれば,飛行第24戦隊は昭和18年4月に当
方面に進出して以来,4カ月半にわたる激戦でパイロット20
名が戦死,その間の戦果は敵機撃墜80機と認定された.戦
果を4分の1に割り引いても互角のスコアということになり,
最悪の環境下で長期間戦った割にはかなり善戦したと評価
できるだろう.

▼ 低調となった10月の航空作戦

 前述の2個戦隊がマニラに後退するより以前に,第78戦
隊(三式戦)が補給機を受領するためマニラに出張し,ニュ
ーギニアの前線を離れていた.

 10月初旬,第四航空軍は都合3個戦闘戦隊を欠いた状
態となり,戦闘機隊の実働は2個戦隊のみ.しかも機材は
本来の装備機ではなく他部隊から譲渡された一式戦が中
心で,一度に出撃可能な戦闘機は20機程度という寂しい状
況である.

 基地の防空や船団掩護にすら事欠く兵力では,到底大規
模な進攻作戦は実施できない.第四航空軍は戦力回復部隊
の復帰を待つ間,少数機の重爆や軽爆を繰り出して夜間や
薄暮にゲリラ的攻撃を行なうのが精一杯で,フィンシュハー
フェンで激戦を続けていた第20師団に対する有効な援護を
行なうことができない.

 一方,第20師団に対する補給は次第に困難となり,10月中
旬には食糧の不足が深刻化する.この頃になると,地上部隊
は第四航空軍に対し爆撃支援よりも食糧や薬品の空中投下
を求めるようになり,第四航空軍としてもこれを断ることはで
きなかった.その結果,10月下旬の航空作戦はもっぱら友軍
部隊に対する物料投下に明け暮れるという状況であった.

 10月における最大の激戦はその最中,27日の物料投下
作戦の際に発生した.フィンシュハーフェン付近に低空・低
速で侵入した重爆隊(投下機)を連合軍機が上空で待ちか
まえており,25機の掩護戦闘機がこれに反撃して大空戦と
なった.

 帰還した戦闘機隊は合計13機の敵戦闘機を撃墜したと主
張したが,その一方で戦闘機と重爆各3機が撃墜されるとい
う手痛い損害も受けている.この空戦の模様は地上から第2
0師団の将兵によって目撃されており,後日,第四航空軍司
令部に対して「物料投下時,赫々タル戦果ヲ挙ゲラレタルヲ祝
ス」との電報があったという.

 しかし,この作戦によって制空権のない空域に低速・低空飛
行で侵入することは自殺的であることが再確認され,これ以
降昼間の物料投下は中止された.

 この間,ウェワク地区やマダン地区に対しては間欠的な空襲
があり,そのたびに邀撃した戦闘機から2〜3機の犠牲を出し
ている.確認できる損害は以下の通りである.

 11日ウェワク地区空襲 被撃墜2機以上
 16日マダン地区空襲 被撃墜3機
 16日ウェワク地区空襲 被撃墜3機
 22日ウェワク地区空襲 被撃墜2機

 10月中に発生した戦闘機の損害はこうした邀撃戦によるものが
大部分で,数機ずつの損害でも積み重なると手痛いことがよくわ
かる.第四航空軍が作成した統計によれば,10月中の戦闘機パ
イロットの損耗率は17パーセントであった.

▼ 激戦の11月

 11月になると,マニラで戦力回復を終えた飛行第59戦隊に
加え,内地から新たに第248戦隊(一式戦装備)が前進してき
た.両戦隊の参加により戦闘機の実働戦力は80機を超えるこ
ととなり,第四航空軍としては,11月以降はこの戦力を集中運
用して積極的な航空撃滅戦を実施する方針であった.

 しかし,重爆・軽爆の飛行隊は連日の夜間・薄暮攻撃や物料投
下,輸送,哨戒などの雑多な任務に酷使されて疲弊しており,さ
らに度重なる空襲で次々に機材を破壊されるため一向に戦力が
回復しない.爆撃戦力が極度に低下しているため,空襲部隊は
戦闘機中心の編成とならざるを得ず,せっかく敵飛行場の爆撃に
成功しても,地上の飛行機に決定的な打撃を与えることができな
かった.

 11月6日から9日にかけて,第四航空軍は戦爆連合の大編隊
でラエ周辺の連合軍飛行場に対して連続攻撃を行なったが,成
功したと言えるのは最初の1回だけで,第二撃以降は連合軍の
妨害や日本側の通信ミス・連携ミスなどが重なり,多くの損害を
出した割に戦果は振るわなかった.

 第四航空軍の集計によると,4日間の作戦期間で出動延機数
は213機,うち17機が未帰還(平均損耗率8パーセント)となり,戦
闘機パイロットは参加者の2割が損耗,戦果は撃墜57(うち17機
不確実),地上撃破122と判定された.

 17機の未帰還機以外にも,不時着機や整備修理を必要とする
機が多数発生したため,第四航空軍の実働機数は,作戦開始前
の126機から86機に減少した.

▼ 連合軍の再反撃と戦術の改善

 東部ニューギニア方面の日本軍機が増加していることを確認し
た連合軍は,早速反撃を開始した.11月13日と15日,前進基地で
あるマダン地区の飛行場群に多数の連合軍機が来襲し,地上施
設や物資に大きな損害を受ける.16日にはウェワク地区にも空
襲があり,邀撃した戦闘機のうち5機が未帰還となっている.

 予想外に善戦していた9月と比べると,10月,11月は空中戦で
のスコアが次第に悪化してきているが,これは連合軍戦闘機の
性能向上(新鋭機P-47の投入,P-38のバージョンアップ)に加
え,戦術の改善と工夫によるところが大きいようだ.

 この頃,日本側はようやく基地周辺にレーダーを活用した早期
警戒網を構築し始めていたが,これに対して連合軍機はしばし
ば超低空で侵入したり,山肌に沿うように飛行してレーダー探知
を避ける戦術をとった.併せて,レーダーを欺瞞するチャフの散
布,偽装進路の駆使,大きな時間差による侵入,空振りを誘う
偽装空襲を繰り返した.

 また,10月以降になると連合軍は少数の戦闘機グループを散発
的に侵入させて邀撃機を誘引し,奇襲を試みるようになった.少
数機によるゲリラ的な侵入は,レーダー画面上では攻撃や哨戒
任務から帰還する友軍機と区別がつかないため,日本側のレー
ダー警戒情報は誤報だらけとなり,防空指揮が著しく妨げられた.

 仮に「敵味方不明機」や「囮」に対して全力で緊急発進して空振
りすれば,着陸時の無防備なタイミングを狙われて全滅しかねな
い.日本側は,仮に空襲の兆候があっても来襲が確実視されるま
で待機し,見切り発車で緊急発進しないという対応をとることが
増えていった.

 邀撃機が大損害を受けた11月16日のウェワク空襲の際も,事
前に早期警戒情報があり空襲が予期されていたが,敵機が基地
から100km圏に侵入するまで緊急発進を躊躇してしまった.100
kmの距離は,戦闘機なら巡航速度でも15分で到達してしまう.

 1個戦隊が緊急発進するだけでも10分はかかるから,この距
離では発進後の上昇が間に合わない.16日の空戦で緊急発進し
た第13戦隊は戦闘のための高度をとる余裕がなく,中低空域を
上昇中に上空から捕捉されて大敗したようである.

▼ 厄介な「追尾攻撃」と地上損失

 また,この頃になると日本軍の空襲に対する連合軍機の戦術に
も変化が見え始める.従来は,日本側が戦力を集中して進攻する
と連合軍機は空中退避してしまい空戦にならないことが多かった
が,P-47が前線に投入された10月中旬頃を境に,連合軍戦闘機
は空襲に対して積極的に反撃してくるようになった.

 しかも,この時の連合軍戦闘機の戦い方は,爆撃の阻止よりも,
むしろ攻撃後の爆撃機を追尾して撃墜することを狙っていた節が
ある.P-47やP-38がその長い航続距離と高々度性能を生かし
て,攻撃を終えた日本機の編隊を高空から延々と追尾し,隙を
見て死角から襲撃してくるのである.

 たとえば11月15日,日本側はラエ近郊の連合軍飛行場を戦
闘機65機,爆撃機15機で攻撃し7機を失ったが,損害の多く
は追尾攻撃によるもののようだ.この日の連合軍戦闘機の追
撃は執拗で,P-47やP-38の編隊が日本側の拠点であるマダ
ン地区まで追尾してきたという.その後27日にも,地上攻撃に
参加した戦闘機のうち5機が連合軍機の追尾攻撃により撃墜
されている.

 戦闘を行なったあとの編隊は乱れがちで,部隊間の連携の維
持が難しいため,攻撃後の帰路に追尾攻撃を行なえば比較的
容易に各個撃破が可能なのである.

 こうした手痛い損害が累積したことに加え,相変わらず空襲に
より地上で飛行機を破壊される事例も目立つ.ウェワクでは11月
27日と28日の2日だけで約30機が地上撃破されており,これで
はいくら補給しても実働機数は一向に増加しない.

 11月中旬以降も,第四航空軍の実働機数は80〜90機のライ
ンからなかなか回復せず,連合軍との兵力差は拡大する一方
であった.

 フィンシュハーフェンを守る第20師団はすでに弾薬を撃ち尽く
し,食糧の補給も絶たれようとしていた.日本側が確保していた
陣地も逐次連合軍に圧迫され,11月末の時点で,「天王山」た
るフォン半島の維持は絶望的になりつつあった.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.8.5




荒木 肇
『動員のコスト(7)──日本陸軍の動員(7)
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□ はじめに

 8月になりました.梅雨明け以来,全国を猛暑が襲っ
ています.大気が不安定になったためでしょう.関東
地区では大雨や雹や霰が降るといった異変が起きて
います.大きな土砂災害も予想されます.心配です.

 わたしも休暇を取らせていただき,資料集めに歩きま
す.今週は九段の靖国神社の中にある偕行社文庫に
お邪魔します.そこには戦前の陸軍士官たちの研究
会だった偕行社に所蔵された多くの史料が保管され
ています.戦後の出版物もあり,いまも会員たちばか
りではなく,一般の方にも公開されております.陸軍史
に関心のある皆様はぜひ,訪れられるとよいでしょう.

 昭和15年といえばノモンハン事件の翌年のことです.
戦後ずっと,あるいは今に至るまで,関東軍は惨敗を喫
したと思い込まされてきました.どうにもならない陸軍の
欠陥をさらけだしたとも言われます.装備もろくになく,
精神主義しかなかったかのように言われてきました.現場
の歩兵聯隊長の証言,『まるで元亀・天正の装備で近代
戦に立ち向かった』というような認識が普通に受け入れら
れてきたのです.元亀・天正とは戦国時代の年号です.火
縄銃と刀で戦車・装甲車と戦った,十分な装備も与えられ
ず,兵站補給もどうにもならなかったと主張したいのでしょう.

 ところが公開された相手側の資料をみると,実はかなり
関東軍は善戦していました.ソ連軍,内蒙古軍の実情が
書かれた当時の資料が公開されるようになったのです.惨
敗説は戦後の連合軍の宣伝,それを利用した勢力のでた
らめにみんなが乗せられてきたせいでしょう.たしかにわ
が軍の歩兵は陣地を失い,砲兵は射撃戦で負けました.
航空戦でも当初は優勢でしたが,後になるにつれ不利に
なりました.

 しかし,陸軍は本気を出していたわけではありませんで
した.あくまでもソ連の本音を知るために関東軍がチョッカイ
を出しただけだったのでしょう.板垣陸軍大臣の『1個師団
くらい関東軍の好きにさせてやればいい』という放言が有
名です.それで戦場に立たされた第23師団の将兵や増
援の将兵こそいい面の皮でしたが,ソ連兵もモンゴル兵も
たいへんな損害を出していました.
 
 日本軍の速射砲は的確にソ連軍戦車や装甲車をとらえ,
その装甲を撃ち抜いていました.歩兵は接近すれば白兵戦
では圧倒的な強みをみせたのです.航空戦も初期にはソ
連軍は大損害を受けました.今ではソ蒙軍の内部の統制
の乱れや補給システムの不具合なども知られています.
 
 陸軍参謀本部が本気を出した対ソ作戦計画(昭和15年度
作戦計画)は次の通りになっていました.
『ソ連が参戦した場合,支那方面から満洲方面に兵力を転
用し,中支那の大部分は放棄する.情勢によっては南支那
の一角も放棄することがある.』
 陸軍は有利に進めていた対支那戦争を放棄しても極東ソ
連軍を完膚なきまでに叩きのめそうと計画していたのです.
 
 その前に陸軍は1936(昭和11)年に12年度から17年度
までの計画で常設師団を増やし,同時に戦時所要量である
50個師団を実現しようと計画を立てていました.

▼ 師団を改編して増やす
 
 1936(昭和11)年に陸軍は「軍備充実計画」を制定してい
た.昭和12年から昭和17年までに満洲に常設師団を10個,
朝鮮に3個,内地に14個師団をおくという雄大な計画である.
合計で常設27個師団になる.戦時には内地の14個師団を
2倍動員して28個とする.あわせて外地にある独立歩兵団
(3個歩兵聯隊)や旅団を動員して9個師団に改編.そうして
合計50個師団とする計画である.

 27個師団も造れるのか,それは師団をこれまでの4単位
から3単位に改編することで達成される.それは師団の4単
位制を3単位制に改編することで実現可能だった.歩兵4個
聯隊を基幹として特科部隊も4単位にしていることを4単位制
といった.歩兵2個聯隊で歩兵1個旅団をつくる.この2個旅
団と野(山)砲兵聯隊,騎兵聯隊,工兵聯隊,輜重兵聯隊など
によって1個師団ができた.師団は中将,旅団を少将が指揮
をとった.砲兵聯隊は4個大隊であり,騎兵聯隊も4個中隊,工
兵聯隊も4個中隊,輜重兵聯隊も4個縦列(中隊),野戦病院
も4個というようにすべてが4単位になる.

 欧州諸国の陸軍と比べると師団が大きいのが特徴だった.
それはわが陸軍には軍団という単位がなかったからだ.明治
の陸軍大学校の教官ヤコブ・メッケルの提案だったという.欧
州陸軍では軍団長が中将であり,その隷下に師団が2個あっ
た.師団長は少将であり,その下の旅団長は准将である.わ
が陸海軍には准将という階級がなかった.軍団には砲兵や工
兵などの特科隊や兵站部隊などがついた.だから欧州の師団
は編制もあっさりしていた.重砲隊は軍団砲兵としてまとまって
いたし,工兵も軍団を援護するべく強力大型のものだった.

 この4単位を3単位に変える.歩兵3個聯隊をまとめて歩兵団
として少将が指揮する.そうすると,17個の常設師団から歩兵
聯隊が1個ずつあまるので,合計で17個聯隊が余る.それを
3個ずつにまとめて1個歩兵団とすれば5個師団ができる.2個
聯隊あまるが,あと1個聯隊をひねりだせば合計6個師団がで
きる.これで17+6=23個師団である.あとは4個師団を新し
く作ればいい.

 単位数を減らせば機動力も増すし,兵站補給も負担が減る.
砲兵などの特科隊も規模が小さくできるので小回りが利くよう
になる.とりわけ満洲でソ連領内に侵攻する師団などは輜重兵
による補給が楽になるというメリットを主張したらしい.ろくに道
もない密林地帯を工兵が伐開し道を造らねばならない.そこを
1列縦隊で進撃することになる.4単位ではその日のうちに補給
品目を師団輜重が全部の部隊に届けられないといった現実が
あったらしい.ノモンハンで戦った第23師団は3単位制師団の
1つだった.
 
 軍隊が移動するときの長さを行軍長径というが,近代化すれ
ばするほど師団は大きくなり,行軍長径も伸びるばかりだった.
第1次大戦後の装備改編のおかげで歩兵だけでも機関銃隊,
通信隊,歩兵砲隊と人員装備は増えるばかりである.弾薬は
多くなるし,携行食糧も増えた.戦列部隊が増えれば輜重も
大きくなる.
 
 機動力を馬に頼った当時の軍隊は馬も増えた.馬が増えれ
ば,その分の馬糧も用意しなければならない.自動車を使え
ばよかったと,後知恵ではいくらでも論評できるが,満洲のぬ
かるみの道や密林の急造道路では現実的な解決策だったか
どうか.それに国内の自動車生産力の問題,燃料の輸送も難し
かった.それでも昭和9年度の動員計画では兵站自動車隊が
70個中隊にも増えていた.努力はしていたのである.

 さらに見落としてならないのは,この拡充計画には飛行54個
中隊が142個中隊に増やす計画もついていたことである.『之
に応ずる部隊を整備すると共に,補充,動員,教育,補給,衛生
等の諸施設を増備する』と書かれている.

▼航空戦力の増大

 航空部隊とは真っ先に戦端をひらく戦力である.だから平時編
制とはいえ,装備,人員の充足度も高めておかねばならない.
1937(昭和12)年は航空界で大きな改革が行なわれた年だっ
た.それは「空地分離」という言い方で表された.

 これまでは飛行聯隊は「飛ぶ部隊」と「飛ばせる地上勤務部
隊」でできていた.飛行聯隊は大佐の聯隊長のもとに,機種に
よって2個〜5個の飛行中隊があった.中隊数が多かったとき
は2個大隊に区分した.整備は中隊の整備兵と,中・少佐を長
とする材料廠の整備隊が行なった.聯隊の人員はふつう600名
前後である.

 これを「飛行戦隊」という飛ぶことを専門にする部隊と,「飛行
場大隊」という地上勤務を行なう部隊に分けたのである.整備
や補給は飛行場大隊に任せてしまう.飛行戦隊はこれで飛行
場から飛行場へとたやすく移動できるようになった.わずかな
機付兵と空中勤務者(陸軍は海軍でいう搭乗員をこう呼んだ)
だけで身軽に移動できる.これは鉄道の列車と駅の関係によく
似ている.
 
 飛行場大隊は機材の整備修理と基地警備を行なった.人員6
56名である.この大隊には2個整備中隊と警備中隊があった.
この構成員のほとんどは徴兵検査で指定された航空兵科の現役
の人たちである.欠員が出れば予備役を召集した.

 3個飛行戦隊をまとめる司令部として飛行団ができた.新しい
戦術単位の登場である.偵察,戦闘,軽爆撃機,重爆撃機の
各飛行戦隊と,航空地区司令部,教育部隊としての飛行教育
隊を隷下においた.

 1940(昭和15)年には飛行中隊数では偵察18,戦
闘35,軽爆40,重爆20,遠距離爆撃2の合計116個
中隊である.飛行団をまとめたのは飛行兵団である.兵
団長はのちに飛行集団長といわれた.飛行集団長のもと
には飛行団のほかに通信聯隊,2個航空情報隊があっ
た.航空情報隊には気象観測技術者や,通信関係のプロ,
さらには今でいう気象予報士も必要だった.

▼昭和15年度作戦計画・一期の作戦計画

□ 関東軍は30個師団とその他の部隊からなっていた.
まず烏蘇里(ウスリー)方面の敵を撃破し,ついで黒龍方
面および大興安嶺方面の敵を撃破し,『ルフロウ』付近およ
び大興安嶺西麓の線以東の地域を領有す.
□ 第1方面軍(19個師団基幹)は兵力の集中ならびに整
備に伴い,なるべく速やかに第3軍(5個師団基幹)および
第7軍(3個師団基幹)をもって綏東方面より,第5軍(4個
師団基幹)をもって,穆稜河,河孟方面より烏蘇里(ウスリ
ー)方面に攻勢をとり,同方面の敵を撃破する.
□ 第4軍(4個師団)は小興安嶺方面に於いて持久を策し,
爾後の作戦を準備する.
 
 解説しておこう.関東軍が30個師団をもっているという
ことは動員の結果である.しかも方面軍司令部まである.
第1方面軍は3つの軍で構成された.第3,第5,第7の3
個軍である.第3軍は5個戦車聯隊と架橋材料中隊,渡河
材料中隊をそれぞれ3個もつ.黒龍江をこえて突進する
主力軍だった.
 
 これに対して第7軍は3個師団に戦車聯隊が2個つき,野戦
重砲兵聯隊も2個だけである.軽快な機動力を生かして突進
するのがこの軍である.

▼ 二期の作戦

□ 第1方面軍は速やかに一部を以て帝国海軍と協力して
浦塩斯徳(ウラジオストック)など敵海軍の根拠地を攻略し,
主力を以て『ハバロフスク』その他の要地を占領し,爾後小
興安嶺方面作戦軍に呼応して黒龍方面に向かい作戦す.
□ 航空兵団は開戦劈頭より帝国海軍航空部隊と共同して,
烏蘇里方面に於ける敵航空勢力を撃破し,次いで黒龍方面
若しくは呼倫貝爾(ホロンバイル)方面の敵航空勢力を撃破す.

 作戦計画には師団ごとの任務が書かれていた.それぞれ
の師団にはあらかじめ特徴が設けられていた.トラックの配
備を多くして自動車化した師団,駄馬を多くして物資や兵器
を馬の背で運ぶことを主にした師団,敵前上陸用の装備を充
実させた師団などである.自動車化が進んだ師団の砲兵は
野砲を装備した砲兵聯隊,駄馬編成の師団は分解して駄載
する山砲兵聯隊をつけた.だから上海事変では戦場にクリ
ーク(水路)が多く,橋が少なかったので山砲兵をもつ師団
が投入された.

▼ 作戦の要求に応える動員計画とその実施

 作戦計画が立ち,それぞれの内容に応じた方面軍,軍,
師団のそれぞれの割り振りが決まると,それらを補助する
部隊をつくる.これが主に戦時特設部隊といわれる.参謀
本部作戦課と編制動員課が協力して調製する.人員,兵
器,資材を集めなくてはならない.
 
 どんな特業をもつ兵員をどれだけ配備するか,彼らに交
付する武器や装具がどれだけ必要か.各種装備だけでは
なく軍隊が行動するための物資すべてが決められた.事務
用箋や鉛筆,消しゴムの数までが決められた.軍隊ほど物
品管理が厳しいところはなかったと言っていい.
 
 作戦に必要な部隊が作戦計画の中で決まると編制動員課
はその中身を編成表に表した.そして,その部隊をどの師団
管区が担当して編成するかの割り振りをする.
 
 割り振りを実現化するには在郷軍人の実態をつかむことが
大前提になる.各地域にどれほどの在郷軍人がいるか,その
健康程度はどれほどか,技能者はどれほどいるか,そうした総
数の把握をして召集をかける地域を決定した.こうして作られ
るのが「動員管理区分表」である.
 
 この他に動員計画の実施にはさまざまな前提となる作業が
必要だった.まず,野戦師団を戦地へ送るまでの輸送計画が
ある.人,馬,物資を国内で輸送する計画,港に集結した部
隊や資材を戦地へ輸送する船舶の運用計画が必要になった.
 
 大陸へ移動する多くの部隊は広島県の宇品港から出発し
た.部隊の終結地から最寄の鉄道の駅まで行軍し,列車に
分乗して広島駅に向かう.馬や資材は貨物列車を編成して送
り出す.また民間船舶をチャーターして宇品港に送り届けた.
軍は独自の輸送機関をもっていないから当時の国有鉄道や
民間船舶を使うことになる.運行ダイヤの隙間を縫って軍用
列車を編成することもあったが,多くは民間用の列車のダイヤ
を変更してもらった.妥協して大都市の周辺や中を通り抜ける
ときにはたいていが真夜中になった.
 
 列車で人員輸送をするときには途中で弁当なども支給する.
人間の飲料水や,大量に必要な馬用の水の準備もあった.もち
ろん馬糧もである.移動途中で人馬が具合が悪くなったらどう
するか.計画はそうしたことから始まった.
 
 次回は具体的な人選,部隊を編成するまでの経緯を詳しく説
明しよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.8.5




陸軍機 vs 海軍機(48)       清水政彦

「零戦と隼(47)」

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◆お知らせ

 このたび,元航空自衛隊パイロットの渡邉吉之さん
との対談本『零戦神話の虚像と真実-零戦は本当に
無敵だったのか-』を宝島社より出版いたしました.


「零戦vs隼」の第47回.今回は,東部ニューギニア戦線
が崩壊しはじめる昭和18年12月の戦いについてです.

▼ ダンピール海峡の失陥と,その戦略的意味

 昭和18年12月,日本側の航空戦力は陸海軍とも大幅に
弱体化し,ダンピール海峡上空の制空権を失いつつあった.
これにともない,連合軍の艦船が堂々とダンピール海峡
に侵入するようになっていた.

 たとえば,昭和18年11月末,連合軍の駆逐艦がダンピール
海峡を突破してマダンを砲撃した.さらに12月に入ると,
海峡周辺海域を連合軍の魚雷艇が昼夜を問わず跳梁する
ようになり,マダン地区からダンピール海峡を超えて行なわ
れていた舟艇輸送(フォン半島の地上部隊に対する補給)が
困難となった.

 12月中旬,連合軍はニューブリテン島西部南岸
の「マーカス岬」に上陸,ついで同島西部北岸の「ツルブ」に,
さらにフォン半島北岸に立て続けに上陸する.
日本側の地上部隊は弱体で,ダンピール海峡一帯は
ほどなく連合軍に制圧されてしまう.

 ダインピール海峡を連合軍に突破されたことは,
方面軍司令部のあるラバウルとニューギニアの連絡路が絶たれ,
フォン半島で抵抗を続ける第20師団の退路も断たれたこと
を意味していた.

 ラバウルに対する空襲も激化し,
12月中旬以降は連日100機以上の大編隊が来襲するようになる.
大型船の入港が困難になり,ラバウルと北部ソロモン諸島
は補給を絶たれて孤立した状態となりつつあった.

 持久作戦の天王山と目された東部ニューギニア防衛線は崩壊し,
すでに連合軍はマダンの目前まで迫っていた

▼ 12月の航空作戦(防空戦)

 12月に入ると,連合軍と第四航空軍の戦力差は
質量とも目に見えて拡大し,連合軍の戦術が一層巧妙
になったことも相俟って,日本側にとって苦しい戦いが増えていった.

 たとえば,12月1日にウェワクに対して行なわれた大規
模空襲は5波からなる連続攻撃で,日本側は多数の飛行機
を地上で破壊された.この空襲の模様について,
「戦史叢書」は以下のように記している.

「0605にP-40八機,0816にP-38六機が侵入し,
次いで1040〜1120の間,B-24五三機が三回に分かれて来襲し,
ウェワク地区飛行場を爆撃した.わが戦闘隊は三式戦一四機,
一式戦二〇機をもって邀撃し,B-24三機,P-40二機を,
また別に,高射砲によりB-24三機(内,不確実二)撃墜を報じた.
わが飛行機の炎上大破一一機,海トラ一隻沈没,
高射砲弾二〇〇〇発以上爆発などの損害を生じた.」

 この日,連合軍は爆撃隊の本隊が到達する4時間前と
2時間前に少数の戦闘機をそれぞれ単独で侵入させて
日本側の戦闘機を誘引し,邀撃機が着陸したタイミングで
3回の爆撃をたたみかけることを狙ったようである.
これに対する日本側の対応は,59戦隊の南郷大尉の日記
から確認することができる.

「12月1日 朝食前邀撃,爾後一回,第14飛行団より情報
ありしも,やめて待機中,大型機ハンサ通過の方により出動,
第78戦隊と連携ウェワク上空で攻撃,P-40二機,
B-24一機とを確実に撃墜す」

 つまり,早朝の第一波には誘い出されたものの,
朝8時頃に侵入した第二波(P-38)に対する緊急発進を
見送って待機した判断が正解で,見事に後続のB-24を迎撃
することに成功したようだ.仮に発進のタイミングを誤って
第二波のP-38と交戦していたら,着陸後に地上で攻撃されて
一層手酷い損害を受けていたことだろう.

 連合軍はその後も,少数(4〜8機程度)の戦闘機を単独
でゲリラ的に侵入させる誘引戦術を多用した.
日本側からすると,これらの戦闘機が単なる牽制なのか,
大規模空襲の露払いであるのかを見極めるのが難しかった.

 さらに,ウェワクには12月22日にも大規模空襲があった.
当日はウェワク泊地に輸送船団が入港しており,
日本側は戦闘隊の全力で船団の掩護にあたっていた.
この日の空中戦闘について,再び「戦史叢書」の記載を引用する.

「0700過ぎアテンブル(ウェワク南東250キロ)を各機種混合
大編隊が通過の情報があり,0850まず戦闘機四〇〜五〇機
が来襲,次いでB-25三六機が西方から一八機,九機,
九機の三波をもって侵入し,飛行場付近を低空で攻撃した.
わが戦闘隊は奮戦して,地上砲火と相いまちB-25一一機(四),
P-38六機(二)の撃墜を報じた.また無線傍受によれば,
連合軍機は帰還途中に三機墜落,四機不時着のようであった.
わが損害は,四コ戦隊に各二機,計八機が撃墜されたが,
うち五機の操縦者は落下傘により降下した.
そのうちには高月第七十八戦隊長や
本山明徳(陸士五三期)第六十八戦隊中隊長も含まれていたが,
生死が不明であった」

 この記録を見てまず目を引くのは,連合軍機はわずか
250キロの距離を2時間近くかけて侵入していることだ.
大編隊での強襲である以上,日本側の早期警戒網に
引っかかることは計算済みで,あえて遠回りして時間を
つぶすことで迎撃態勢を混乱させようとしたのだろう.

 B-25が「西方」から侵入しているという事実も興味深い.
連合軍の発進基地はウェワクより東側であり,
早期警戒網に探知されたのはウェワクの250キロ「南東」の地点だから,
B-25は山沿いに低空飛行しながらウェワクの南方を通過し,
いったん西側に出てから戻ってきて爆撃進路に入ったことになる.

 この方法だと,予期しない方向から侵入することによる
奇襲効果に加え,爆撃機は投弾後に帰還方向に旋回する
必要がないため飛行速度が落ちず,敵の迎撃機に捕捉されにくい.
先行したP-38は日本軍戦闘機を誘引しつつ,
低空でB-25の後方に喰いついた日本機に対して上空から
単純な「ダイブ&ズーム」攻撃を繰り返せばそのまま帰還進路に
乗れるから,空中指揮が非常に楽になる.
空戦中の進路が自軍基地に向いていることは,
帰りの燃料の心配が要らない点や退路に回り込まれるリスクが
低い点で非常に有利である.

 22日の空襲で日本側に被撃墜機が多いのは,
B-25の侵入方法がP-38にとって有利な状況を作り出したからだろう.
一方,日本側の被撃墜機8機のうち5機でパイロットが脱出に成功し
ていることは,陸軍機の防弾装甲の有効性を示唆している.
同時に,必ずしも「脱出=生還」ではない(とくに海上戦では,
落下傘降下しても多くは未帰還となる)という厳しい現実も垣間見える.

▼ 12月の航空作戦(進攻戦)

 12月は天候不良の日が多く,中旬まで大規模な進攻作戦は
実施されなかった.9日と10日には戦闘機のみで航空撃滅戦
を実施したが,わずかの成果と引き換えに5機の戦闘機と
3名のパイロットを失った.

 大規模な昼間攻撃は12日と16日に実施されたが,
この2回の攻撃で重爆戦隊がほぼ全滅してしまう.
とくに16日の攻撃で出撃した6機の重爆が全滅したことの
衝撃は大きく,以後第四航空軍は積極的な進攻作戦を行なわなくなった.

 16日の戦闘では,高度4000〜5000m付近を進撃する日本機
の編隊に対し,多数のP-38が後上方の優位な態勢から連続攻撃
を加える状況だったようで,戦闘機隊からも5機の未帰還機を
出す惨敗となっている.

 12月中旬の時点で爆撃戦隊の残存機はゼロに近くなり,
以後,軽爆撃機は一出撃あたり1〜2機程度の小兵力で夜間攻撃に専念し,
重爆はダンピール海峡を横行する魚雷艇を牽制するための
哨戒飛行程度しかできなくなった.

 一方,戦闘機隊は中旬以降も奮戦している.
たとえば12月18日,マーカス岬沖に出撃した約30機の
戦闘機隊は,待ちかまえていたP-38約20機に上空から
奇襲されたものの,逆に4機を撃墜したと報告した.
この日の南郷大尉の日記には以下のような記載がある.

「マーカス岬上空にてP-38二〇機,約一千米の高位より
攻撃し来れるも,巧みにかわし,これを捕捉,完全に潰走せしめ,
戦場に一機も見ず.悠々戦場上空にて空中集合後,帰還す.
完全なる戦勝なり.戦のかけひきというもの,
やや,わかりたるがごとき気持なり.P-38二(一)撃墜の戦果
は大したことなきも,全然不利なる態勢より,完全に敵を潰走
せしめ得たるは既に大戦果というべし」

 この頃,P-38の性能はすでに一式戦の手の届かないレベル
に達していたはずである.南郷大尉自身,わずか3日前の
15日の日記には,「(わずか2機のP-38が)性能を十分に発揮し,
散々やらる.一戦の時代にあらず」とまで書いていたのだが,
18日の「完全なる戦勝」で自信を取り戻したようだ.これを
どう解釈するかは難しいが,足手まといになる重爆がおらず,
かつ数的な不利がない状態であれば何とか戦えた…ということだろうか.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.8.12




荒木 肇
『動員のコスト(8)──日本陸軍の動員(8)
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□はじめに

 暑い日が続いています.
熱中症で搬送され,亡くなる方も多いようです.
皆様はいかがおすごしでしょうか.

わたしはおかげさまで夏の休暇をいただき,
ゆっくりしています.毎年,この時期になると戦争
をふり返るマスコミの企画,とりわけテレビには
多くのドラマやセミ・ドキュメンタリーの番組が多くなります.

それぞれに製作者の皆さんのご努力もあるのでしょうが,
なかには考証的にいかにも適当だとしか思えないものもあります.


 敗戦から70年,正確な記憶も薄れてきて,
正確な知識もなくなってきているのでしょう.
作られる方々の中に,まあ,軍隊はこんなものだっただろう,
らしくあればいいじゃないかとでも思っているのかのよ
うな姿勢,考え方が透けて見えるのはわたしだけでは
ないと思います.

 今年も鎮魂の日,8月15日が近づいてきました.
戦われた先人たちに感謝し,より正しい歴史を伝承
していきましょう.

「陸軍軍戦備」を見ると,戦時には動員によって
平時兵力の数倍になるように計画されています.
ところが実際には,日露戦争や支那事変ではその
計画のおよそ2倍,大東亜戦争では4倍の兵力が
使われました.これほどの違いはどこから来るものだったのでしょうか.

 その答えが当局者からありました.『軍事史学』には
座談会によって,当時の担当者の方々から聞き取りが
行なわれていました.まず,「戦域」の問題がありました.
『平時はなんとか手持ちの兵力でまかなうように,
切りつめて作戦を計画しているが,いざ戦いになると
勝たねばならぬということで,敵の出方に応じて,
どうしても戦域が広がってくる.
特に大東亜戦争では,いろいろな事情から北と南の
二正面作戦をやらねばならなくなってしまったので
戦域が著しく拡がってしまった』

 次に,『作戦期間が長くなっている.昔は一つの
決戦が数日で終わったものが,どうかすると一ヶ月く
らいすぐたってしまう.何とか早く終わらせようとする
には大きな兵力を集めることになり,兵力所要が増すことになる.
要するに縦深横広(じゅうしん・おうこう)になって増加した』とあります.

 どれだけ平時に計画を立てていても,
いざ戦さになってみると思いのほかに兵力を必要とする
ということです.「暴力行使の無限界性」というのは
クラウゼビッツが主張したことですが,戦争の本質の一つに基づくものでしょう.

▼北支那の動員

 1937(昭和12)年7月7日,
支那駐屯歩兵第1聯隊の1個中隊が夜間演習中に射撃を受けた.
中隊長はただちに全員の集合と人員把握を命じた.
すると確かに1名の初年兵が足りなかった.これはのちに
用便のために部隊から離れたことが判明した.
しかし,「正体不明の相手から実弾の射撃を受けた」
「兵が1名行方不明になった」というのは中隊長が
自衛戦闘を決心するには十分な理由になった.

 これが盧溝橋事件の発端である.
当時の支駐歩1聯隊長は牟田口歩兵大佐,大隊長は一木歩兵少佐.
牟田口はのちに軍司令官となってインパール作戦を指揮する.
一木はのちに歩兵第28聯隊長となり,
ガダルカナル戦に投入され米海兵隊と激突,支隊は全滅した.
この時,どうすればいいかと指示をあおいだ一木少佐に
電話で「敵に撃たれてどうすればいいかなどと聞く軍人
がいるか.断固攻撃せよ」と答えたのが牟田口大佐だった.
有名な逸話である.

 すでに前年4月には支那駐屯軍は兵力を増強して,
以下のような新編制になっていた.
 支那駐屯軍司令部の隷下には支那駐屯歩兵旅団
司令部(旅団長はインパール作戦時のビルマ方面軍司令官,
当時は少将河辺正三),2個歩兵聯隊,支那駐屯戦車隊,
(以下すべて冠称に支那駐屯をつける)騎兵隊,砲兵聯隊,
工兵隊,通信隊,憲兵隊,軍病院,軍倉庫,総兵力5774名である.

 日本政府はただちに「事件の不拡大」と「現地解決」の
方針を決定した.ところが現地はそうできるはずもなかった.
北平(北京)周辺,天津には日本人居留民も多くいたし,
支那軍もぞくぞくと兵力を送ってきた.射撃事件の4日後,
11日には関東軍,朝鮮軍から一部の兵力を派遣し,
支那駐屯軍を増強した.現地の交渉はなかなかまとまらず,
その間に事件が続出,ついに参謀本部は内地の3個師団を
動員することを決めた(27日).

 広島の第5師団,熊本の第6師団は「応急動員」である.
この応急動員とは戦列部隊だけを戦時編制にすることをいう.
所要時間は3日間とされた.最前線の槍先である歩兵・騎兵・砲
兵・工兵部隊は戦時定員通りに充足し,後方支援部隊は
平時編制でとにかく後から追いかけるという形式である.
また,さらに速いのは警急編成といわれ8時間以内で戦列隊
が出動できることをいう.

 召集令状はすでに毎年4月1日には各情況の事態に
応じて聯隊区司令部で作られている.
本動員なら第○動員の甲,応急動員なら第△動員の乙な
どと区分(これが「動員区分」)されて人員が用意されていた.
これを動員符号という.応急動員で集められる人馬は
戦時編制の定数のおよそ8割といわれた.
現役兵と召集兵の割合はほほ同数である.

 これに対して姫路の第10師団だけは本動員だった.
平時1万2000名,馬1600頭が人員2万5000,
馬8000頭になった.また,朝鮮龍山の第20師団は
「充足人馬動員」だった.これは平時編制の定員を充足さ
せることになる.もともと独自の師管区をもたない朝鮮駐屯
の2個師団は平時編制すら満たしていなかったことがわかる.
この平時定員を満たした師団の戦闘力はふつうの師団
の戦時編制の戦力の5割と見積もられていた.

 目覚ましいのはこの戦時編制に移行する,
つまり動員完了までの時間である.わずか2週間か
ら3週間といわれた.平時編制というのは歩兵聯隊で
は3個大隊9個中隊と1個機関銃中隊でしかなく,
大隊長の秘書である副官(大尉)は臨時勤務かある
いは陸軍大学校などに入校中であり,中隊長の半分
は不在というのがふつうだった.それを戦時編制の
定員通りに最短2週間で集めてくるのである.
わずか14日で動員が完結するというのは国内に
鉄道網が整備され,動員システムがよく機能していたということだ.

▼動員が下令されたら

 盧溝橋事件の後に最初に下された動員令は
1937(昭和12)年7月15日の「動第1号」である.
年度動員計画令にもとづいた「動員区分」があり,
それぞれを「動員符号」で分類したことはすでに説明した.
次は具体的な部隊側の動きを書いてみる.

 歩兵聯隊の場合を例にとろう.まず,聯隊本部内に
「動員室」がつくられる.動員主座といわれる責任者は
少佐クラス,動員主任は中尉がついて兵器委員や
経理委員などの将校たちが補佐した.『一兵一馬,
一日一時間の誤差もないように各業務の流れが
巧く組み合わせるように計画が立ててある』というようなものだった.

 戦時体制が当たり前になり,予備将校が大量に入隊し
た北支那事変,大東亜戦争などの経験者の手記など
には出てこない話である.聯隊の全将校は毎年「動員
教育」を受けていた.戦時命課(補職)の確認,
下令されたら誰はいつ何をすればいいかを徹底した.演習もする.
いったん動員の事態になったら質問は一切許されないこと
になるからみんな真剣だった.新年度までにはそれらが
全部終わって,動員計画書は1年間保管される.

 検閲するのは参謀本部第3課の動員班長である.経験者の話から.
『一兵一馬の毎日毎時間の行動を書き込んだ日課予定表
があるでしょう.日課予定表さえ見ていれば動員間,
迷うことはない,というぐらいきちんとしたものなんですよ.
それを点検するんだが,まあ必ず間違いがあるものなんだ.
馬は来たけど蹄鉄工手はまだいないとか,人は集まったけど,
汽車がないとか,あるいは到着日時とか.
各人ごとに本人の家から指定された部隊まで行くのに
何日かかるか計算したものがあるんですが,
何日に入隊せよとなっている人が入隊できないじゃないか,
というようなことが到着日時表を見ればわかるんです』

 毎年くり返させられた動員計画の作成,検閲,修正
をくり返してきた蓄積が,いざ本番に実力を発揮させた.
人を集めるだけならけっこう簡単である.
問題は動員というものは,集めた人員と装備で役に
立つように団結と訓練のできた部隊を次々と造っていくことである.

 次回は聯隊区司令部の動きについて,
召集令状の届けられ方を実際の史料にそって説明したい.
 
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.8.12




──[富士山]→[石油]───────────────────────
★富士山から石油が出た!と話題になった事がある.帝国資源富士鉱業所とい
 う会社が「富士ぐらい凄い山なら石油ぐらい出るだろう」と適当に掘り進ん
 だが石油が出ず資金難になり,掘った穴に石油を流し込み騒いだもの.

※第二次世界大戦の頃の話です.

──[石油]→[短縮]────────────────────────
★石油という単語はもともと「石炭に代わる物」という意味で「石炭油:せき
 たんゆ」と呼ばれていた物が短縮されて出来た言葉.石から出来る油ではな
 い.

──[伴淳三郎]→[女装]──────────────────────
★伴淳三郎は第二次世界大戦時,召集が掛かったがその検査に舞台用の化粧で
 女装して出かけ,検査官が激怒して「あのようなふざけたヤツを兵隊にする
 ワケにいかない」と兵役を逃れている.(あくまでも本人談)

※他に検査直前に醤油を大量に飲んで,肝臓疾患が
 あるように装ったという逸話もある.

◎雑学大作戦:知泉
http://archive.mag2.com/0000017191/20150808121827000.html



『軍事情報 別冊  「数学者が見た二本松戦史(9)」 』

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◇◆◇ 発行講読者数:11,501名/平成22年(2010年)11月12日(金)発行 ◇◆◇

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取材・インタビュー・原稿作成・webコンテンツ用テキスト文作成・自費出版の
原稿作成支援およびアドバイス・その他《書く》ことに附帯する一切の業務に
ついて執筆活動を展開しております.     ライター・平藤清刀
E-mail hirafuji@mbr.nifty.com
WEB http://homepage2.nifty.com/hirayan/
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● もくじ
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◎ ごあいさつ:「病弱だった二本松藩主丹羽長国」
◎ 数学者が見た二本松戦史(9):
第四章・降伏か死か(2)
■二本松藩がもし降伏していたら
■ただ〈信〉に殉ずるのみ
■重臣二人間に合わず
■二心なし
■非戦闘員の退去
◎ 二本松あれこれ:
   二本松藩の歴史(5) ●三代目光重のミス
◎ 著者略歴
◎ 読者アンケート

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● ごあいさつ 
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こんにちは.渡部です.

二本松戦争もいよいよクライマックスにさしかかります.
二本松藩が抗戦か降伏かの意志決定をするさい,最高的責任者はもちろん藩主です.
その藩主丹羽長国は,本誌ではこれまでほとんど登場しておりません.
それは長国は当時,病に伏せっていたからです.生来,頑健な体質ではなかったのに
加え,幕末の動乱期による心労も相当にあったものと思われます.

長国が25歳で襲封した安政5年は安政の大獄があった年です.以来戊辰までの十年間
は激動の時代でした.まともな神経の持ち主なら,あの時代に藩主として平常な体調で
おれるはずはないでしょう.

ただ長国は,
自らの体調が思わしくないからといって周囲に当たり散らすというようなタイプでは
なく,そのこともあって藩士たちには慕われていたようです.二本松藩が結果的に徹底
抗戦に至った理由の一つとして,「この殿さまに恥をかかせてはいけない」といった
藩士たちの総意,のようなものがあったのかもしれません


(渡部由輝)

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● 第四章・降伏か死か(2)
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戊辰戦争における西軍と東軍の軍事力格差については,
それぞれが保有していた小銃,砲力を通じて詳細に比較分析し,戦力比を
「単純比較で西軍は東軍の10倍」と推定するに至った.
また,戦力の高い武器を調達する経済力と科学技術力における東西の差を検討する
なかで,薩長の強さには明確な裏づけがあったことを明らかにした.

そういう背景の下,戊辰東北戦争の火蓋は斬って落とされた.
一方的屠殺のような戦闘を続けながら西軍は進撃し,七月二十七日,ついに,
二本松城下まであと数時間の地点に到達した.

西軍首脳部は「二本松は十分に東軍への義理を果たした.もう手を上げてもいい頃だ」
と判断していた.


■二本松藩がもし降伏していたら

 七月二十七日,西軍は二本松領の本宮と小浜に進出した.どちらも二本松城下まで
至近距離にある.だが翌二十八日は,そのままの体勢で停滞していた.二本松藩の降伏
使節が来るのを待っていたのである.

 勝敗はすでに決着がついている.「在外の兵いまだ帰らざる者あり,列藩の援軍未だ
来らず,兵力寡少にして防禦力はなはだ薄弱なり」と,『二本松藩史』にも記している
とおり,二本松城の守備が手薄なことは,隣藩の三春兵を通じて西軍首脳部は正確に
知っていた.とすれば,このあたりで降伏するはずというあたりが,おおかたの認識
だったからである.

 ここで一つ,ある仮定をしてみよう.その二十八日に二本松藩がもし降伏していたら
どうなっていたかということである.

 もちろん,無罪放免にされた可能性は一〇〇パーセントない.奥羽征討軍の最終的目
標である会津はまだ健在であった.二本松はその会津の隣藩である.当時,奥州街道か
ら会津へ至るルートは二本松経由が本道であった.二本松からすぐ西方へ向かい,安達
太良山麓の母成峠を越える山道が,最も一般的であった.戦国の昔,会津の芦名氏を
攻めた伊達政宗もその山越えの道を通っている(今は郡山から磐越西線に沿ったコース
が本道になっている).当然,西軍が会津へ攻め入るにあたり,その付近の地理に最も
詳しい二本松兵を先導としたであろうことも,一〇〇パーセント確実である.

 その会津も当時,母成峠から猪苗代湖に至る一帯に強固な防衛陣を構えていた.攻め
る二本松兵と守る会津兵との間で,戦いが始まる.それは圧倒的に会津側が有利であっ
た.会津藩の兵備は二本松よりは勝っていた.砲数においてはるかに勝り,一部後装銃
部隊もあった.なによりもまず,戦意においてはるかに会津が上であった.会津は全藩
あげて死力を尽くして戦う覚悟であったのに対し,二本松は新政府側に監視されながら
イヤイヤ戦うだけである.その差は比較にならないほど大きい.戦況が不利になったら
薩摩か長州の新式銃砲部隊なんかが駆けつけてくれるだろうから,壊滅的惨敗にまでは
至らないのかもしれないが,ともかく降伏して仙台藩と戦わせられた相馬藩と同様,
相当な損害が発生することは必至である.

 以上は,降伏したことによりほぼ確実に見込まれる損害であるが,不確実的なそれも
ある.会津攻めがそのようにして終了したとする.だが,二本松藩の贖罪行為はそれで
終わりにはならない.その二十八日の時点では仙台・米沢はまだ降伏していない.
最悪の場合,それら大藩との戦いに至り,そこでも隣藩としてまたまた二本松兵が先兵
的役割をつとめさせられる可能性がある.そうなったら会津戦以上の損害が発生するこ
とは間違いない.加えて,そのように西軍方の使役兵的に頤使されることによる精神的
損害である.二本松武士としての誇りなどズタズタにされることが予想される.

 仮定のはなしなどこのあたりでやめよう.ともかく,下世話な言い方をするならば,
「ごめんなさい」と頭を下げればそれですむ,というわけではなかった.それまで西軍
に抵抗した罪をあがなうため,相応の犠牲を払うことが要求されていた.そしてそのこ
とは二本松藩の首脳部も藩士たちも,十分に承知していた.それが戦国の昔から武士世
界に厳然として存在する“おきて”のようなものだったからだ.


■大書院会議

 その二十七日夜,二本松城の一劃に藩の首脳部が集まり,きわめて重要な会議が行な
われた.議題はむろん,決まっている.〈降伏〉〈抗戦〉のいずれを選ぶかである.

 ただし,その一劃とは大広間ではなかった.当時の二本松城に大広間などはない.
そもそも,テレビドラマなどによく見られるような,城主が上段に座り,その下手に家
臣一同が居並べるほど広い部屋は,江戸城や国持ち大名といった大々名家にしかないも
のだった.二本松のような中藩はそれに代わるものしかなかった.それを大書院といっ
た.武家における表座敷のことを意味する.大きさはだいたい,畳数にして五十帖てい
どのものだったらしい.

 大広間がないことでもわかるように,当時の二本松城は,城とは名ばかりの一般住宅
を何軒かつなぎ合わせたような,平屋の建物であった.大きさは東西四十メートル,南
北三十メートルていどのものだったらしい.城というよりは館といったほうがむしろ正
しい.藩士たちは御殿(ごてん)と称していたようである.御城(おしろ)と呼ぶには
さすがにふさわしくない,というふうな認識があったためと思われる.城門(箕輪門と
いった)だけはかなり立派なものがあったが,城にふさわしい建造物はそれくらいのも
ので,天守閣も堀もない.その二日後,城攻めと意気込んで二本松に乗り込んできた
西軍方兵士は,目指す城のあまりの見すぼらしさに驚いている.二本松城がそのような
一般住宅ではなく,何層かの櫓・鉄砲狭間・厚い土壁の塀にうがかれた銃眼等々,通常
の防御機能を有する“城” であったなら,いくら双方の戦力に差があっても半日で
陥とされるようなこともなく,もっとましな抵抗ができていたのではないかと思われ
る.

 ともかく,大広間ではなく,その五十帖ほどの広さの大書院において,二本松藩の
存亡を左右する重大な会議が行なわれた.今でいえば小教室ていどの広さであるから,
収容できる人数も限られる.『二本松藩史』は「老臣会議」と記しているから,家老・
城代・用人など,主だった家臣数十人,おそらく二,三十人くらいではなかったかと
思われる.ただし,それだけいれば十分である.そもそも二本松藩に限らず,当時の
武家社会においては,全藩士が集まって何かを相談する,というような文化はなかっ
た.すべて上意下達である.その上意を決定する人員はごく少数者で間に合うもので
あるから.

 だが,その会議に列席した人物が正確に誰と誰であったかはわかっていない.家老の
丹羽一学と用人(外交官)の丹羽新十郎・大城代の内藤四郎兵衛,小城代の服部久左衛
門がいたことは確かであるが,それ以外ははっきりしていない.そこにいた人物の多く
は二日後に戦死,または自死しているし,生き残った者もそれを恥じて,二本松戦争の
ことは終生あまり語らなかったからである.

 ただ,藩主の丹羽長国が臨席していなかったことは確かである.長国は生来蒲柳の
質で,当時は病床に伏せっていたのであるから.

 ■ただ〈信〉に殉ずるのみ

 藩主がいないのであるから,その大書院会議における最高的地位者は家老である.
その家老は二本松藩ではそのころ六人いた.それはどの藩でも同じようなものだった.
江戸幕府の統治システムにならったものといわれている.幕府においては,将軍を除く
最高的地位者である老中(大老はあくまでも臨時の措置であって,常時おかれていた
わけではない)は,常に四,五人はいた.それらは月毎に交代で,政務等の責任を担っ
ていた.

 それはある意味では最良とまではいかないまでも,かなり良好な統治・または意志
決定のシステムであった.月毎に最高的責任者が交代するのであるから,独裁的権力者
がまず出ない.あまり極端すぎる意向や特殊な思想なども出せない.次の月になれば,
そのような極論はすぐ廃止されたりするのであるから.いきおい,藩士全体の意志・意
向を反映した平均的意見が重要視される.それは藩内に対立する大きな派閥のようなも
のがある場合,月毎にその派閥の意向が通ったりして,結果的に藩論がクルクル変わる
というマイナス点も生むが(仙台など大藩はたいていそうであった),二本松藩など
藩士の数があまり多くない中小規模の藩では,相当に有効な意志決定のシステムで
あった.今日の間接的民主制にかなり近い制度といえる.家老職にある者はそれぞれ
自らの配下の者(組といった)を何十人か抱えている.彼らと常に接してもいる.代表
者といえど,自分自身だけでなく配下者の意志や意向を常に意識し,またそれを反映し
た政策をとらざるをえないからである.

 ついでにいうと,わが国では今日,国民がまず自分たちの代表者を選び,その代表者
が政治を行なうという代議制,もしくは間接的民主制をとっている.それは江戸時代に
二本松藩のような中小藩はもちろんのこと,多くの大藩も似たような統治制であった
こともあり,その制度が容易に受け入れられたためといわれている.

 ともかく当時の武家社会では,上意下達的意志決定のシステムが,厳然としてあっ
た.ただし,特に二本松のような藩士の数があまり多くない(三百数十家しかなかっ
た)藩では,その上意とはおおかたの藩士の意志を相当に反映させたものだった.
下達する立場にある上位者の独善的,あるいは独断的思想や意向では決してなかった.

 したがって,その大書院会議において誰がどのような発言をし,それに対して誰が
どのように反駁し,または疑念を発し,というようなことを細かくせんさくしてもあま
り意味はない.大書院会議において決定された事項が,すなわち藩士全体の意志である
と言っても,それほどの違いはない.

 その結論とはこのようなものだった.

 『徹底抗戦』

 〈降伏〉ではなく〈抗戦〉を選んだ理由については,その会議をおそらくは主導した
と思われる家老の一人丹羽一学が,しめくくりとして発した次のことばに尽くされてい
る.

 「三春藩信に背きて西軍を城中に引く.神人ともそれを怒る.我にして今,同じよう
なことをしたら,人これをなんというか.また,西軍に降って一時的に社稷を全うして
も,東北諸藩を敵にしたらいずれは亡ぼされる.すなわち,降伏しても亡び,しなくて
も亡びる.同じく亡びるなら,列藩の信を守って亡びよう」

 降伏したならば西軍の走狗とされ,三春のような天にも地にも容れられない卑劣な
行為もしなければならない.それによって一時的に安泰を保つことができても,今度は
東北諸藩を敵に回すことになり,いずれはそれら大藩に圧服されることは必至である.
すなわち,降るも滅び,降らなくてもまた滅びる.同じく滅びるなら同盟の信をあくま
でも守り,〈信に殉じて滅びるほうがまだまし〉ということである.

 結果論的にいえば,東北諸藩を敵に回したらいずれは滅ぼされる,との見方は正しく
なかった.二本松人は仙台・米沢・会津ら東北大藩の実力をそれだけ過大に評価してい
たのかもしれない.あるいは,西軍の戦力のほどをまだ正確には見極められていなかっ
たのかもしれない.がともかくその二十七日,二本松城大書院における会議の参列者
は,二種類の滅亡のいずれを採るかの決断を迫られ,信に殉じてのそれを選んだもので
あることは間違いない.もちろんそれは,二本松藩士の総意,と言ってよいものだっ
た.


■重臣二人間に合わず

 ただし,藩全体の〈滅亡〉とは,藩士個々人にとっては自らの〈死〉を意味する.
当時の武士社会において“死”は,今日われわれが考えるよりは“軽い”行為であった
とはいえ,やはり重大な決断である.いくら二本松藩の立場が特殊だったにしても,
少人数ならともかく,全藩士こぞってとはなかなかできる選択ではない.そのことは
戊辰期,そのように新政府側,または敵対的勢力に城下を圧服されそうになった藩は
少なからずあったが,戦わずして屈することを潔しとせず,武門の面目にかけて抵抗
し,文字通りの意味で城を枕に討ち死にを果たした藩は,全三百余藩の中で二本松藩し
かないことでもわかる.二本松藩がなぜ降伏を肯じえず,徹底抗戦という絶望的選択に
至ったのかを,もっと詳しくみてみよう.

 わたしはそれにはまず,四人の老臣の存在がかなり大きなウエイトを占めていたので
はないかと,考えている.

 その老臣会議で最も強硬に抗戦論を主張したのは,丹羽一学(四十六歳),丹羽新十
郎(四十三歳)のコンビであったことははっきりしている.この二人は戊辰の早い時期
から二本松藩を代表する正使(一学),副使(新十郎)として,白石におかれていた
同盟の連絡会に出張していた.年齢が近いこともあり,個人的にも親しい間柄だった
ようである.

 ただ,その老臣会議においては,この二人の強硬論がはじめから大勢派であったわけ
ではなかったらしい.そのことは,老臣会議に出席できず,おそらくは次室に控えてこ
との成り行きをかたずをのんで見守っていたであろうある藩士が後年,「和平論者の声
は次第に低くなり,抗戦論が強くなっていった」(『二本松藩史』)と証言しているこ
とでもわかる.ようするに,はじめは抗戦派・和平派入り乱れて相当に突っ込んだ話し
合いがされていたが,途中から抗戦論が優勢になり,最終的にはそれに決したというこ
とである.

 そのように抗戦論が優勢になった理由の一つとして,和平論者の重臣二人がその席に
いなかったことがあげられるのではないかと,私には思われる.

 当時の二本松藩には,一学・新十郎の抗戦論コンビを相当ていど抑えられたであろう
と思われる和平論者の,しかも重臣が,おそらくは二人だけいた.一人は家老坐上(筆
頭)の丹羽丹波(五十二歳)である.丹波は三千百六十石という二本松藩では最高の禄
を食んでおり,同じく家老であっても六百石にすぎない一学より,年齢的にも地位的に
も格が上であった.病弱な藩主長国の名代というかたちで,戊辰当時,政治的にも軍事
的にも二本松藩を主導する立場にあった.ただ,その席にはいなかった.二本松藩の軍
事総裁として五月の初めあたりから須賀川軍団に出張しており,その二十七日には本宮
が西軍に奪われて奥州街道が封鎖されたためもあり,老臣会議には出席できなかったの
である.

 もう一人,もしかすると丹波よりさらに確実に強硬論コンビをおさえられたと思われ
る重臣がいた.小城代の丹羽和左衛門(六十六歳)である.二本松藩の致仕年齢は六十
歳であるから,通常ならば引退しているはずであるが,幕末の非常時とあって和左衛門
はまだ現役であった.小城代の他に用人(外交官)も兼ねており,それ以前には郡代・
勘定奉行を勤めていたこともある.剛直,かつ清廉な熱血漢として,二本松では相当以
上にきこえた人物であった.新十郎の義父でもあったから,年齢的にも地位的にも,
そして藩内における声望の高さからして,和左衛門ならばさらに確実に抗戦論者を制し
えたのではないかと思われる.が,やはり老臣会議には出席できなかった.年齢に似合
わぬ熱血漢ぶりが災いした.その二十七日には藩の外交責任者の一人として,西軍と
和平交渉をするべく,単騎で本宮周辺をかけずり回っていた.しかし,戦時錯綜として
おり,西軍首脳部との面会はできず,急遽帰藩しようとしたものの,本道(奥州街道)
は通れず,安達太良山麓あたりの間道を辿ってようやく帰城したのは翌二十八日の
昼ころのことであった.老臣会議は既に終了しており,藩主は退城し,藩士はそれぞれ
戦闘配置についた後であった.なお,和左衛門は翌二十九日,落城を見届けた後,自刃
している.藩論を和平に導けず,結果として二本松藩を壊滅に至らしめた責任をとった
ものと思われる.


■二心なし

 老臣会議において,年齢的にも地位的にも,一学・新十郎の抗戦論コンビに対抗しう
る人物は他にもいた.大城代の内藤四郎兵衛(五十二歳)と,和左衛門と同役(小城代
かつ用人)の服部久左衛門(五十六歳)である.二本松藩の大城代,小城代の職掌区分
ははっきりしないが,この三人が交代で城の最高的管理責任者の役を果たしていたもの
と思われる.

 和左衛門以外の二人の城代が,抗戦派か和平派かはわかっていない.だが,二人は
会議の席では積極的な発言はあまりしなかったのではないかと思われる.会議の結論が
〈和〉〈戦〉いずれになろうと,二人とも〈死〉をすでに決していたものと考えられる
からである.

 たとえば服部はその二十七日,城中に赴くにあたり,家人にこう告げている.

 『二心なし』

 二心(ふたごころ)とは当時,両極端的思想のことを意味するものであった.〈和〉
と〈戦〉,〈生〉と〈死〉というふうな,相反する両様の考え方のことである.その
両様の行き方のうちの一方にすでに決めている,ということである.とすれば服部の
立場としては,〈死〉しかない.

 〈戦〉になったとする.敗戦は必至である.城は陥ちる.となれば,その城の最高的
管理責任者として,生きてはおれない.また,〈和〉になったとする.“和”とはきこ
えは良いが,ようするに降伏ということである.城は西軍の管理下におかれ,城内は
かつての敵兵の土足で踏みにじられる.やはり城の最高的管理責任者として,それを座
視するにはしのびない.となれば同様に〈死〉以外にない.いずれにせよ,『二心なく
死を果たす』,(したがってこの家にはもう帰ることはない)という意味での,決別の
ことばだったのである.実際,服部久左衛門はその覚悟どおり,二日後の二十九日,
城内で抗戦派コンビの一学・新十郎とともに,三人鼎坐(ていざ)となっての自刃をと
げている.

 大城代の内藤四郎兵衛は,和戦いずれになろうと,さらに強烈に二心なく〈死〉を
考えていたのではないかと思われる.内藤は二か月前の五月二十六日,白河口羅漢山の
戦いで,長男の隼人(三十四歳)を戦死させている.それは白河を奪われた同盟側の,
最初の大規模な奪回戦であった.隼人は二本松藩側の隊長として銃士隊一個小隊を
率い,会津・仙台・棚倉などと連合で白河の西軍に攻め入ったものの,兵器の格差はい
かんともしがたく,惨敗を喫し,退却戦を指揮しているうち,スナイドルなんかで狙い
撃たれたといわれている.そのこともあり,また城の最高的管理責任者として,内藤も
おそらくは西軍が城下に迫ってきたあたりから,〈死〉を決していた.実際,やはり
二日後の二十九日,大城代らしく城門の前で,敵兵がまだ一人も城内に入らないうち
に,自殺的戦死をとげている.大城代として,二本松城が敵兵に蹂躙されるのをわが眼
で見るにはしのびなかった,ものと思われる.

 ともかく,二人の城代は,老臣会議では抗戦論・和平論いずれにも与せず,積極的に
はあまり発言しなかったのではないかと考えられる.その席には和平論者も相当にいた
はずである.人数的にはその方が多かったのかもしれない.“老臣”の立場としては,
それがむしろ必然である.何度もいうように,二本松藩は新政府側の攻撃の標的とされ
たわけでは全くない.会津・庄内に対するたんなる応援藩にすぎない.降伏してもそれ
で終わりにはならず,相応の人的・物質的・精神的損害が予想されるといっても,抵抗
して全藩が壊滅されるよりははるかにましである.老臣としては,藩の行く末,前途
ある多くの若者の未来を考えたら,降伏論に傾くのがむしろ自然である.

 ただ,彼らもやはり〈武士〉である.二人の城代の「二心なき覚悟」は,気配で
わかっていたろう.一学・新十郎ら強硬派も同様な決意でいることも,十分に伝わって
いたはずである.とすれば,同じく〈二本松武士〉として,和平とは聞こえがよいが
その実〈降伏〉などとそうそう強くは言い出せなくなった,というあたりが,老臣会議
の特に最終的段階での雰囲気ではなかったのか.


■非戦闘員の退去

 抗戦と決まった.あとはそれに備えることである.

 その第一は非戦闘員の退去である.西軍の本宮・小浜進出はあまりにも電撃的にすぎ
た.棚倉進発のわずか四日後のことである.二本松人にしてみれば,西軍が棚倉を出た
との報が届いたときは,その大軍がすぐ目と鼻の先にまで迫っていた,ようなものだっ
たろう.非戦闘員の多くはまだ城とその付近に居残っていた.それら女・子ども・老人
など弱者をできるだけ早く安全地帯に避難させなければならなない.

 当時,二本松城には藩主夫妻やその幼い子女たち,前藩主夫人,それぞれの侍女・従
者など,弱者集団が二百人ばかりいたらしい.一部は二十七日の昼あたりから城を出て
いたが,本格的に退出が開始されたのはその日の深夜十二時ころからであった.そのお
り,奥女中たちがあれもこれもとあまりにも多くのものを持とうとしすぎるため,担当
の藩士が「死ぬか生きるかの瀬戸際なのにそんなものまで持たなくてもよいのに」と,
イライラしていたと『二本松藩史』は伝えている.

 さらに城下の同じような立場にある者である.藩士の妻・母・子女たちである.それ
らもその二十七日のおそらくは深夜のうちに退去命令を受け,城内の退去集団の後を
追って,翌二十八日の早朝あたりから,西軍部隊の配置されていない北方面に去って
いった.行く先は領内の米沢領に近い水原村近辺であった.

 最後の退城者は藩主であった.ただしそれは難渋した.藩主長国はそのころ病床に
あった.前年の暮れあたりから宿痾に悩まされ,それが回復していなかった.退出を
うながす藩士に「自分の命も長くない.ここで助かったところでどうなるか.皆と一緒
に城を守って死ぬ」と,抵抗したと伝えられる.

 だが,長国にはそれができない事情があった.二本松藩には当時,嫡子がいなかっ
た.世子と定められていた五郎君がその一か月ほど前,急逝していた.わずか十三歳で
あった.他に男子はいなかった.長国も死んでしまったら二本松藩も丹羽家も社稷が
絶えることになる.それは先祖に対する重大な罪である.藩主としてまた家主として,
絶対にしてはならない行為である.藩士からそのことを強く説かれると,それ以上は
抵抗できなかった.それでも渋る長国を数人がかりで布団ごと抱え上げ,そのまま駕籠
に乗せて出発させたと伝えられる.午前十時ころのことであった.


(以下次号)


(渡部由輝)


■著者へのお便りはこちらからどうぞ.⇒     
 http://okigunnji.com/s/watanabeyoshiki/


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● 二本松あれこれ (渡部由輝)
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■二本松藩の歴史(5)

●三代目光重のミス

 家伝の城造りのウデを見込まれたのか,丹羽家は白河城が完成してわずか四年後の
寛永二〇年(一六四三年),今度は白河よりさらに十五里(六十キロ)ばかり奥州に
入った二本松に移封された.そのころは丹羽家も三代目の光重の時代になっていた.
徳川も三代目の家光である.〈光〉という偏諱を受けていることでもわかるように名目
上は外様であったが,実質的には譜代のようなものであった.家格も高く,江戸城に
おける控えの間は,御三家・御三卿らに次ぐナンバー2の席次,島津・伊達などと同格
の大広間であった.江戸城において大名が控える間は全部で八階級あり,会津は二本松
の次席でナンバー3の溜間,明治新政府で二本松から県名を“奪った”福島藩(板倉
家)などは,下から三番目の雁間であった.

 その光重も丹羽家の家風(?)にならい,時代の趨勢からズレた対応というミスを
犯した.二つもである.一つはさきにのべた〈山嶽の中に城下町を築いた〉ことである
が,もう一つはその城下町造りにあたり,〈武士階級者の居住地を他階級者のそれから
完全に隔離した〉ことである.“分離”ならていどの差はあれ,どの藩でも行なわれて
いた.江戸の町並みそのものが基本的にはそのような構造をしている.江戸城を中心と
してその外側には武家屋敷街,さらにその外側には商工町人街というふうな形態をして
いる.

 二本松ではそれが極端であった.城郭の南部から横手に伸びる盆地は武家屋敷街,
中央山脈を隔てたもう一つの盆地は商工町人街と,完全に分離されていた.しかもたん
なる分離ではなく,あいだの山嶽にさえぎられ,往来が簡単にできないようになって
いる.事実,その二つの区画をつなぐ四本の道路にはすべて関門が設けられ,特に武家
屋敷街から商工町人街への移動は容易ではなかったらしい.

 加えて光重は,移封当時は武家屋敷街を通っていた奥州街道を,商工町人街を通るよ
うにつけ変えた.武家屋敷街には他藩者や旅人・遊芸人などが簡単には入り込めないよ
うにしたのである.光重移封の四十六年後の元禄二年(一六八九),芭蕉は『奥の細
道』への旅の途次,二本松を通っているが,城のあたりは見ていないはずである.
芭蕉が通ったと思われる奥州街道からは山嶽にさえぎられて城郭部は見えないのである
から.そのせいか『奥の細道』には二本松に関する記述はなにもない.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2010.11.12




『ライター・渡邉陽子のコラム (57) ─ 2015年陸海空自衛隊の装備と運用(4) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

8月10日に発売された「ジャパニズム」26号(*)に,
「自衛隊海外派遣の歩み 前編」を掲載していただきました.
後編は10月発売の27号に掲載されます.
(*)http://okigunnji.com/url/10/

また防衛とはまったく無縁なのですが,
「メシ通」というサイト(*)でグルメ関連の執筆を始めました.
(*)https://www.hotpepper.jp/mesitsu/

こちらは「椿あきら」というペンネームで,現在は2本アップされています.
今後は毎月4本ほど随時アップされていく予定なので,
気が向かられたら「メシ通 椿あきら」で検索してみてくださいませ.
ただしこちらのメルマガとは文体が思いきり違うので,
あまり余計なものを見たくない方は無視ということでお願いいたします!



■2015年陸海空自衛隊の装備と運用(4)

2015年度の防衛予算に含まれる新規事業を中心に,
2015年の陸海空自衛隊の装備と運用についてご紹介
する第4回目です.
先週は,尖閣諸島をめぐる日本と中国のこれまでの
経緯の話でした.島しょ部を占領された場合の奪還シナリオ
を実効性あるものとするための,2015年の新規事業は以下
の通りです.

●第303沿岸監視隊(仮称)の新設
付近を航行・飛行する艦船や航空機の沿岸監視を担う
第303沿岸監視隊(仮称)を与那国島に新編・配置します.
基地は現在建設中.南西地域での自衛隊配置の空白を埋める
のが目的で,2015年度末までに陸上自衛隊の沿岸監視部隊
百名と後方支援部隊50名が駐留,運用を開始する予定となっています.

空自が全国に展開している固定式警戒管制レーダーのうち
FPS−20,FPS−6及びFPS−2については,
運用開始から20年以上が経過しており機器の老朽化が深刻です.
対領空侵犯に対しても,航空機の高機能化にレーダーの探知能力
や追尾能力の低下が進んでいるため,
南西地域のレーダーから優先的に新型レーダーへ換装します.
沖永良部島は2015年度にFPS−7へ換装完了予定.
それにより,これまではただの固まりにしか見えなかった機体が,
何機か特定できるほど視力が高まることになります.


●第9航空団(仮称)の新編
戦闘機F−35Aを6機取得するほか,戦闘機F−2 2機に対し
JDCS(F)(自衛隊デジタル通信システム・戦闘機搭載用)を搭載改修.
また,南西地域における防空態勢の充実のため,
那覇基地に築城基地第8航空団の第304飛行隊(F−15部隊)を移動
させるとともに,同基地の第83航空隊を廃止し第9航空団(仮称)を
新編します.これによって同機は計約40機に倍増,
巡航ミサイル対処能力を含む防空能力の総合的な向上が見込めます.
築城基地には三沢基地のF−2が20機移駐されます
(三沢基地にはF−35Aの飛行隊が新設予定).


●コンパクト護衛艦の建造
25大綱で明記された「多様な任務への対応能力の向上と船体の
コンパクト化を両立させた新たな護衛艦」について,
建造に向けた調査研究が開始されます.コンパクト護衛艦の基準
排水量は約3000トン,速力は40ノット.海自が現在保有する
護衛艦のうち基準外水量が3000トン以下は「はつゆき型」と
「あぶくま型」の計11隻で,速力はいずれも30ノット.
取り外し可能な装備の搭載により機雷掃海や対潜戦に対応できるほか,
離島奪還作戦における小規模な陸上戦力の輸送や揚陸作業にも
活用可能です.また,漁船を装った不審船などに対する戦力となる
ほか,従来の護衛艦では入港できなかった港も利用できるため,
大規模災害時の緊急物資輸送も期待できます.


●オスプレイとAAV7の取得
ティルトローター機V−22,通称オスプレイを17機取得し
(今年は5機調達),水陸両用作戦における部隊の展開能力を強化します.
滑走路不要という回転翼の利点と航続距離が長いという
固定翼の利点を兼ね備えている米軍のMV−22オスプレイは,
2012年に米軍普天間飛行場へ配備されました.
半径600キロを給油なしで飛行できる行動範囲は,
武装していない輸送機でありながら存在自体が中国に対する抑止力
となります.また,日本国内での災害派遣などでの支援でもその
機動力は心強いものです.

余談ながら,東日本大震災の救援作戦「オペレーション・トモダチ」に
おいて,CH−46Eを擁する第265海兵中型輸送ヘリコプター飛行
隊(オスプレイに換装されるにあたって第265海兵輸送ティルト
ローター飛行隊と改名)は普天間から被災地へ支援物資を輸送しました.
しかし飛行だけでも10時間,厚木や横田での休憩や複数回の給油
を含めると,実質2日を要しています.オスプレイならばノンストップ
の約4時間半で到着できていました.


次週もオスプレイとAAV7の続きからです.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.8.20




荒木 肇
『動員のコスト(9)──日本陸軍の動員(9)
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□はじめに

 映画「日本のいちばん長い日」を観ての感想です.
素人ですから映画論ではありません.
 15日に午前中は靖国大社にお参りし,
午後から映画を観ました.宮中に偽命令で動かされた
近衛兵が乱入し,陛下の詔勅を録音したレコード盤を
奪取しようとした事件を描いた「日本のいちばん長い日」です.
すでに中学生の時に岡本喜八監督の作品を観ていた私は,
新しい映画でどこか解釈を変えたものがあるだろうかと楽しみでした.

 全体の感想を申せば,若い俳優陣の熱演が印象的です.
うといもので俳優さんたちの名前がよく分からずにいるのですが,
陸軍省軍務局軍務課の畑中少佐を熱演された松坂さんに
拍手です.「国体護持」を願い,「交戦を継続しよう」と「本土決戦」
に期待をする熱意.さらには近衛師団を動かし,東部軍も決起さ
せようと計画するシーンの緊迫感.近衛師団長を殺害してしまう
瞬間の戸惑いと勢い.演技がたいへん見事だったと思います.

 細かい描写もよくできていて,たとえば近衛師団の参謀が
『近衛の帽章がついていないと門を通りにくい』といい,
畑中少佐が略帽(戦帽)を替えるシーンです.
CGも使われたのでしょうが昔の皇居の様子も見事でした.

 ただ,一般の観客の皆さんにとっては,「軍務局」,「軍事課」,
「軍務課」,それに東部軍,総軍,近衛師団という仕組みが
分かっていないと登場人物の役割も識別しにくいと思います.

 陸軍省軍務局軍事課にいた畑中少佐は「大本営参謀」も
兼務しているため,参謀職緒を吊っていました.
さらに近衛師団参謀,その上部にある東部軍参謀,
さらには近衛師団長の義弟で殺されてしまう総軍参謀,
みな職緒を下げています.どういう職制で,どんな役目を
もっていたのか分かりにくいと思いました.

 観客の皆さんは古賀と畑中の両少佐がすべて起こした事件
だったんだろうと思ってしまいそうです.当時の陸軍の組織から見て,
若い末端の課員である2人だけで行なったとするとどうにもつじつ
まが合いません.敗戦の混乱期だったから,陸軍の組織がおかし
かったから・・・といくらでも解釈ができるわけですが,
納得できないのは死んだ2人がすべてやったように描かれて
いることです.どうもほんとうはもっと上部にも参画者がいたように思えます.
 
 一つだけ指摘しておきます.原作も映画もそろって2人の少佐は
皇居前広場で自決しますが目撃者はおりません.市ヶ谷台の中
でも自決した方がおられますが,こちらは目撃証言もあり,
現在も慰霊の碑が立っています.実は敗戦の責任をとって自決さ
れた将校は珍しかった.たしかにご家族とともに責任をとって
亡くなられた方もおられました.しかし,その実数はひどく少ないと思います.
 
 参謀職緒を吊った将校が2人,皇居前で自殺したなら話題に
なるはず.皇宮警察官も何をしていたのでしょうか.
また,憲兵隊は何をしていたのでしょうか.
この事件もまた時間が必要で歴史の審判を受けなくてはなりません.

□演習召集のこと

 愉快な兵隊がいました.娑婆より軍隊がとても居心地がいいか
らと秋季演習で間近に見た天皇陛下に直訴しようというのです.
ぜひ,一人ぐらい満期が終わっても兵隊でいさせてくださいというの
が訴えの中身でした.あわてた同年兵は止めます.
「直訴は不敬罪だ」と納得させるのですが・・・.
昭和初年の兵隊生活を描いた棟田博の『拝啓天皇陛下様』の一場面でした.

 この作品は映画化もされ,一選抜の伍長勤務上等兵に
長門裕之さん,どうしようもない兵隊を渥美清さんが演じた名作です.
この上等兵のモデルは早稲田大学を出て入営し,幹部候補生を
志願しなかった棟田博さんご本人でした.この人の作品の中に
予備役中の演習召集の話が出てきました.もちろん召集令状は
「シロガミ=白紙」でした.この話は,『拝啓皇后陛下様』という
小説に出てきます.

『現役二カ年を満期除隊すると,その日から自動的に予備役に
編入されるわけだが,予備役中に,かならず一度,「予備役演習召集」
というのがあった.演習期間は約一カ月間,たいてい秋季演習の時期
に引っ張り出されて,在郷でなまっている心身をシボラレル仕組み
になっていた.私が演習召集を受けたのは,除隊後三年目の秋であった.』

 こうした当時の予備役の人の常識は記録に残りません.
棟田さんは文章を書く人になりましたが,「兵隊作家」でしたし歩兵伍長
だったのです.軍隊の思い出を書いてきたのは主に学校出の人が
多かったために,しかも1937(昭和12)年の大動員以降の人たち
だったために記録が残らなかったのでしょう.

 それでは今回は赤紙が家に届くまでの道のりをお知らせしましょう.

▼動員担任官

 いずれ詳しく述べるが,戦時動員は1943(昭和18)年の改正まで
1927(昭和2)年の「陸軍動員計画令」に基づいて行なわれた.
それは内地常設師団を中心にした動員だった.動員下令は統帥権者
である天皇陛下にしかなかった.だから動員について内閣は口をはさむ
余地もまったくなかった.動員管理官である師団長は天皇に直隷していた.
陸軍大臣や参謀総長であっても動員を総監はできたが,
動員について師団長を区処することしかできなかった.
師団長とこれと同等以上(たとえば飛行集団長)の者が動員担任官となった.

 動員管理官である師団長(もしくは同等者)は管理を隷下部隊長に
分担する.この立場の部隊長を動員担任官という.ここでいう部隊長
とは師団長に直隷する軍隊の長である.
歩兵,野(山)砲兵,工兵,騎兵の各聯隊長もしくは捜索隊長などをいう.
動員管理官は自分の管区の在郷軍人を管轄して,
馬匹や自動車などの徴発管区をもち召集徴発権も与えられていた.

 人員の配当と充員召集準備の一般はおおよそ次のように行なわれた.
動員管理官は,管理する動員部隊(戦時編制部隊)の要員と在営する者
と在郷軍人の現員を基礎として,各部隊の任務特性などを考慮して
在営者と在郷者を各部隊に配当する.例を挙げて説明する.
自動車化部隊なら,運転免許証をもつ者,自動車整備の技能がある者,
運行管理教育を受けた者,機械工の経験がある者,無線の取り扱い資格
をもつ者,さらには燃料商に関わった者などを把握し,人を分けていく.
もちろん,衛生隊の要員の中にも自動車免許をもつ者が必要だから
詳しく分けて行くことは勿論である.

 その配当人員をさらに各警察署管区と市に配当し,
同時に召集者名を確定し,充員召集名簿,充員召集令状を作成し,
警察署長と市長に保管させる.動員が下令されると直ちに令状を市町村長
から当人に届くようにさせた.
郡という制度が廃止されたのは1923(大正12)年だが,
それ以前は郡長と市長が保管していた.郡が廃止されたので
警察署長が保管するようになったのである.

▼聯隊区司令部の仕事

 いまも各都道府県には自衛隊の地方協力本部があり,
本部長は1等陸・海・空佐,あるいは防衛事務官である.
そこでは現職隊員も多く勤務しており,募集案内,退官者の就職援護,
各種広報等を主な仕事にしている.昔は各聯隊区に必ず聯隊区司令部
という分類でいえば官衙があった.長は聯隊区司令官といい現役の
陸軍兵科大(中)佐である(実際には歩兵が大多数を占めた).

 1941(昭和16)年には府県の数と聯隊区を一致させたので合計で
50個(北海道だけは4つ)あった.
その前には1個歩兵聯隊区ごとに1つずつあったので70個以上もあった
時代もある.ただ,聯隊区は司令部のある都市名をつけたので行政区画
の府県名と聯隊区名は必ずしも一致しない.
たとえば山梨県は甲府聯隊区であり,埼玉県は浦和聯隊区,
神奈川県も横浜聯隊区というようにである.ただし北海道だけは広いので,
旭川,札幌,凾館,釧路になっていた.

 外地には兵事部という組織があって,内地の聯隊区司令部と同じ
役割を果たしていた.朝鮮には京城師管区と羅南師管区があって,
それぞれ4つと2つの兵事部があった.台湾にも台北などに置かれた.
誤解がないようにつけ加えるが,朝鮮や台湾の人を徴兵したわけではない
(朝鮮に限っては末期に徴兵制をとった).在留している在郷軍人が
多数いたからである.

 聯隊区司令部には大東亜戦争の最末期までは2つの課があった.
第一課が徴兵,召集をあつかい,第二課が国防思想の普及などの
広報活動を行なった.この2つの課は昭和20年に,聯隊区司令部が
戦時編制になり3つの課に増えることになった.第三課は在郷軍人会,
青年学校,学校の軍事教練などに関する事項を分掌した.
もちろん,第一,第二課もその担当業務は変わっている.

 さて,平時2課制時代の業務分掌を見てみよう.第一課の仕事は,
1)部内の事務整理に関する事項
2)部内の庶務,人事及経理に関する事項
3)徴兵及召集に関する事項
4)在郷将校団に関する事項
5)在郷軍人(将官を除く)の恩給,賜金,扶助金及章典に関する事項

 以上のように,第一課が召集の業務を行なっていた.
 次回は主に,その具体的な作業をみてみよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.8.19




■アルカーイダ系組織が声明

前号でお伝えした「イエメン発米向けの二つの航空貨物から爆弾が見つかった事件」
で,イエメンに本拠を置くとされるイスラム原理主義武装勢力「アラビア半島のアル
カーイダ」が101105,犯行を認める声明をサイト上で発表しました.

100903に発生し,乗員二名が死亡した「UAEのドバイにおける米ユナイテッド・パーセ
ル・サービス(UPS)貨物機墜落事故」も,自分たちがやった犯行と主張しています.

⇒もしUAEにおける墜落事故がこの主張どおりとしたら,
「アラビア半島のアルカーイダ」は航空機テロで初めて死者を作ったことになります.

これについて米当局は現時点で「関与を確認していない」としています.
また,UAE当局も五日までに,「鑑定の結果,爆破装置による爆発の証拠はなかった」
とする声明を出しています.

■パキスタンで自爆テロ

パキスタン北西部ペシャワル近郊のモスクで101105,自爆テロが発生し,少なくとも
六十名が死亡,百名以上が負傷しました.

イスラム武装勢力「パキスタンのタリバーン運動(TTP)」の地元指揮官が犯行を
認めています.

⇒自爆犯は十キロ以上の爆発物を使用したそうです.
大爆発の衝撃で,モスクの壁や屋根の一部が崩れ,瓦礫の下敷きになっている人が
いるようです.

■イラクで連続爆弾テロ

イラクのバグダッドにあるイスラム教シーア派住民が多くすむ地域で101102,車爆弾
やIED,迫撃弾などを使用した連続爆弾テロが発生し,九十人以上が死亡,約二百人が
負傷しました.最大規模のテロは,バグダッド北東部のサドルシティーで発生してい
ます.

八月にイラク駐留米軍戦闘部隊が完全撤収して以降,最大規模のテロとなりました.

⇒バグダッドでは101031にアルカーイダ系武装勢力がキリスト教の教会に立てこもる
事件が発生しています.このときはイラク治安部隊が突入し,人質を含む五十一名が
死亡しました.


■ジュンダラをテロ組織に指定

米国務省は三日,イラン治安当局に対する攻撃を繰り返し行っているイスラム教スンニ
派武装勢力「ジュンダラ」を,クリントン国務長官が海外テロ組織に指定したと発表
しました.

⇒ジュンダラはこの七月,イラン南東部(シスタンバルチェスタン州)にあるモスクで
自爆テロを行い,イランの革命防衛隊隊員など約三十名を死亡させています.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2010.11.8






『ライター・渡邉陽子のコラム (58) ─ 2015年陸海空自衛隊の装備と運用(5) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

本日発売の「丸」10月号(*)に,
陸上自衛隊第2師団の演習記事が掲載されました.
おもに取材したのは,北海道で唯一10式戦車を運用する第2戦車連隊です.
(*)http://okigunnji.com/url/12/

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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■2015年陸海空自衛隊の装備と運用(5)

2015年度の防衛予算に含まれる新規事業を中心に,
2015年の陸海空自衛隊の装備と運用について
ご紹介する第5回目です.

先週は,島しょ部を占領された場合の奪還シナリオ
を実効性あるものとするための新規事業についてご紹介し,
そのひとつにオスプレイとAAV7の取得があることまで
お伝えしました.本日はその続きからです.


陸自が運用するオスプレイは17機全機を佐賀空港に配備,
米軍のオスプレイの一部も佐賀空港への移転を進め,
沖縄の負担軽減を図ります.
佐賀空港を選んだ理由としては,
島しょ部への侵攻に対処する水陸両用作戦に関わる
主要部隊が多く存在する九州北部に所在していること,
騒音などの面で地元住民への負担を最小限に抑制しつつ
十分な地積の確保が可能であること,
陸上自衛隊目達原駐屯地からも近く,同駐屯地に配備
されているヘリコプターの移設先としても活用できること等を挙げています.


8月23日に行なわれた総合火力演習では,オスプレイが飛来しましたね.
私は行かなかったのですが,もともと陸自から海兵隊へ
依頼していたとのこと.ただし離島奪回作戦のシナリオの中で
登場したわけではなく,演習終了後「みなさまお気をつけて
お帰りください」のアナウンスが流れた後,不意打ちのように現れたとか.
予定通りのプログラムを終えた後での飛来だったので,
ネット動画での生中継でも放送されなかったのですね.
自衛隊側としてはもちろん「あえて」の,この時間帯での登場だったのでしょう.


さて,オスプレイと並ぶ2015年新装備の目玉が,
水陸両用車AAV7の取得です.2018年度までに新設される
陸自の水陸機動団に導入する52両のうち,30両を調達します.

AAV7は最大24名を海上から島しょ等に運ぶことができますが,
アメリカではすでに生産終了している装備品であり,
水上航行能力が時速13キロ程度といった不安要素があることも否めません.


海自はAAV7輸送のためおおすみ型輸送艦を改修,
空自はC-2輸送機10機の着実な整備なども昨年に引き続き継続して行ない,
迅速かつ大規模な輸送展開能力を確保し実効的な対処能力の向上
に努めています.ただし水陸両用作戦等における指揮系統,
大規模輸送,航空運用能力を兼ね備えた多機能艦艇のあり方
についてはまだ検討すべき点も多く,
統合運用がいかに有効に機能するかが問われることになります.


機動戦闘車は即応性,機動性を高める観点からも戦車に代わる
装備品として2016年に装備化,全国の戦闘部隊に装備される予定です.
機動戦闘車は運用構想のひとつに島しょ部に対する侵略事態対処
があるため,空輸性と路上機動性に優れているほか,
105ミリ砲の走行間射撃に対しても高い走行安定性を確保しています.
来年,装備化された暁には大きなニュースとなるでしょう.


次回は陸上総隊,水陸機動団新編の準備の話です.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.8.27




マーケット・ガーデン作戦とインテリジェンス (12)
                長南 政義
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


【前回までのあらすじ】

本連載は,精確な内容を持つインテリジェンスが
一九四四年九月上旬に連合軍の指揮官に利用された
かどうかを考察することにある.実は,インテリジェンス
の内容は,マーケット・ガーデン作戦実行に伴うリスク
を連合軍の指揮官に警告していた.

指揮官が決定を下すために利用できるインテリジェンスの
情報源は数多く存在していたが,本連載では「ウルトラ」
情報により提供されたインフォメーションにのみ焦点を
当てて考察を進めることとする.第二次世界大戦を通じて,
連合軍の戦略レヴェル・作戦レヴェルの指揮官たちは
ウルトラ情報を活用し,ウルトラ情報の精確性に関して
めったに疑いを持たなかったからだ.

前回から「ウルトラ」情報について述べている.
前回はギュスターブ・ベルトランとD部の活動がエニグマ
解読に果たした役割と,戦間期アメリカの暗号解読活動
とについて説明した.

今回はポーランドの暗号解読について詳しく述べてみたい.

【ポーランドの暗号局が直面していた問題】

第一次世界大戦後も,ポーランドは他国には解読不可能
と思われたドイツの暗号通信を解読する情報解読能力を
限定的ながらも維持し続けた.ポーランドはポズナニの
スタロガルトに通信情報収集センターを,クシェスワビツェ
にドイツの通信情報を傍受する傍受局を設立した.そして,
傍受した暗号通信を解読する責任を有していたのが,
ワルシャワにあるポーランド軍参謀本部暗号局であった.

ポーランドが直面していた問題はドイツの暗号を解読する
任務に耐えうる能力を持ったよく訓練された暗号解読専門家
の数が不足していることだった.ドイツ海軍が一九二六年
にエニグマ暗号機を使用し始めたときに,この問題はより
悪化することとなった.

【ポーランド軍,大学で暗号学講座を開設する】

高まりつつある脅威に対処するために,ポーランド軍参謀
本部はポズナン市にあるアダム・ミツキェヴィチ大学で暗号
学講座を開設した.アダム・ミツキェヴィチ大学が選ばれた
理由は,この大学の数学部の能力の高さと,この地域から
選ばれた学生がドイツ語を話して成長したこととにあった.
ポズナンは一七九三から一九一八年までの間ドイツ領で
あったため,ドイツ語に堪能な学生が多かったのである.

【選ばれた三人】

暗号学講座の目的はドイツの暗号解読計画を拡張するため
に必要となる暗号学の素養を有する学生を選別することに
あった.講座の最終目的は,組み合わせ理論や確立論とい
った数学理論を応用して,エニグマ暗号を破る組織的活動
を開始することにあった.

一九三一年,この暗号学講座が終わりを告げ,
マリアン・レイェフスキ,ヘンリク・ジガルスキおよび
イェジ・ルジェツキの三人が選ばれて暗号局のメンバーとなり,
エニグマ暗号を解読しようとするポーランド軍の努力を
主導していくことになる.

ポーランドは新しいエニグマ暗号の解読について,
当初あまり成功しなかったものの,努力を続けた.
だがこの努力は無駄ではなかった.ポーランドがフランスの
ギュスターブ・ベルトランから重要文書を受領した時に,
この努力が大きな変化につながったからである.

【ハンス=ティロ・シュミット,フランス側諜報員に接触する】

前回指摘したように,ハンス=ティロ・シュミットがフランス
情報機関の諜報員と接触していた.シュミットはヴァイマ
ル共和国軍暗号部門に勤務するドイツ人で,
フランスに渡したい情報を持っていることをフランス側
諜報員に話したのである.

シュミットは徹底的にフランス側によりその人物を調査された.
一連の会談の後,シュミットは「アッシュ」という暗号名を与
えられた.シュミットの信頼性が確認されると,
フランス側はシュミットに対し,エニグマ暗号機に関する
できる限り多くの文書を提供するように依頼した.
シュミットが提供した文書はポーランド軍の手に渡り,
暗号学者がこれまで解くことのできなかった方程式を
解くのに必要な重要情報を提供することとなった.

【ポーランドによるエニグマ解読の初期の成功】

一九三二年十二月七日,ベルトランはワルシャワでポーラ
ンドに文書を交付した.これらの文書には,暗号キーの説明書,
エニグマの使用説明書や複数の古いキーが含まれていた.
そして,ポーランドはこれらの文書を活用してエニグマ暗
号機の構造を再現することに成功したのである.

こうして,エニグマ暗号機に関する新たな知識を得たポ
ーランドは一九三二年十二月の終わりまでにエニグマ解読
に関し迅速な進歩をすることができたのである.
一九三三年一月上半期の間,ポーランドは限定的ながらも
エニグマの通信文を読み始めることができるようになった.

【初期の成功後の後退】

エニグマで暗号化された通信文を解読することに最初に
成功したことは,ポーランドがエニグマ解読を継続する基礎
となった.だが,ポーランドの暗号解読の努力も成功続き
ではなく,一九三〇年代のポーランドによる暗号解読の努
力は成功と同時に,後退と失敗とによっても特徴づけられている.

ポーランドが新しい暗号の解読に成功したのとちょうど同じ時期に,
ドイツはエニグマ暗号機に改良を施した.
その結果,暗号解読の手続きは再び一からやり直しとなってし
まった.だがすべてがやり直しとなったわけではない.
というのも,ポーランドはエニグマ暗号機がどのように作動
するのかを理解していたので,ドイツ側が行った改良にのみ
焦点を当てればよいことをポーランドは理解していたからである.

こうして,最初の成功が基礎となり,ドイツが行った改良の
ために費やすべき時間は大きく減少したのである.

【「ボンバ」誕生】

ここまでの間,エニグマ解読に成功した唯一の国家は
ポーランドであった.だが,ポーランドは解読の成果を他の
国々と共有していなかった.ポーランドがエニグマの解読に
熟練していくにつれ,彼らは手動・自動を含む一連のシステ
ムとして解読活動を始め,そのことがより迅速に暗号解読
を行なうことに寄与していた.

レイェフスキはエニグマのローターの配列を迅速に割り出す
ために「ボンバ」と呼ばれる機械を製作した.ボンバは現在
のコンピューターの前身といえる機械であり,暗号分析者
がエニグマのローター配列を迅速に推測することを可能にした.

ボンバなしでは,人間がエニグマのローターの配列をイン
テリジェンスとして価値がある速度で特定することは不可能であった.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.8.27




陸軍機 vs 海軍機(49)       清水政彦

「零戦と隼(48)」
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◆お知らせ

 発売されたばかりの『文藝春秋スペシャル2015秋号』(*)で
「最大の失策『三国同盟』を招いた対ソ恐怖症」寄稿しました.
ご興味がありましたらご一読ください.

(*)http://okigunnji.com/url/13/

「零戦vs隼」の第48回.
今回は,東部ニューギニア戦線の崩壊と西部ニューギニアへ
の撤退に至る昭和19年初頭の情勢についてです.


▼ 沈滞する士気,遅すぎた対応

 昭和18年末,東部ニューギニア戦線の戦況は次第に悪化し,
すでに敗色濃厚となっていた.先の見えない状況に加え,
最悪に近い衛生環境で死闘を続けるパイロットは極度の疲労にさいなまれていた.

 戦闘飛行によってパイロットに蓄積する強度の疲労と
ストレスは「航空疲労」と呼ばれ,航空疲労の増大は次第
にパイロットの精神面にも悪影響を与えるようになる.
航空疲労問題について「戦史叢書」は次のように述べている.

「昭和18年8月後半以降,ウェワク方面に対する空襲の激化とともに,
第四航空軍空中勤務者の出動回数が急激に増加し,
航空疲労が著しくなってきた.9月中旬ごろウェワクでは,
各戦隊の交代勤務,飛行前後の操縦者に対する薬剤
(ビタミンB・C,ブドウ糖)注射等を実施して疲労の軽減を図った.
また,10月ごろから各戦隊では,空中戦に伴う加速度対策用として,
第八陸軍航空技術研究所が開発した航空用腹帯の試用が
励行されるようになっていた.けれども,長い間に蓄積された
疲労は容易に解消されず,薬剤や休息による疲労回復所要日数も,
しだいに長くなっていった.空中勤務者は一様に不眠に悩まされ,
食欲が減退し,脱力感・倦怠感がひどかった.
また,過労と不良な衛生環境のため,結核などの胸部疾患の
発生がしだいに目立ち始めていた.10月,11月と日を重ねるに
つれて,第四航空軍空中勤務者の航空疲労の状況は,
まことに容易ならぬ様相を呈するに至り,
その可動率は11月ついに約30%まで低落した.」

「空中勤務者の志気の問題が重大であった.
悪戦苦闘が連続していたこの戦線において,
第一戦空中勤務者の志気は一般に沈滞しているのが実情であった.」

 また,第四航空軍の参謀から大本営に異動した高木作之少佐は,
昭和18年12月下旬に開かれた参謀本部の会議において,
概ね以下のように説明している.

「空中勤務者の精神状態が問題である.最初は沈着な勇敢であったが,
最近は自暴自棄的な勇敢に変わっている.
その疲労は極度に達しているが,ぶとう糖の注射を拒否する者がある.
戦隊は中堅幹部を失い,戦隊長の指揮が困難になっている.」

 さらに,ニューギニア戦線を訪問した大本営の視察団も,
昭和19年1月に陸軍中央部に対し概ね次のように報告した.

「東部ニューギニア方面第四航空軍の保管総機数は約250機であるが,
その整備完了機数は約150機に過ぎない.整備の能力が実際上
足りなかったのである.出動可能機数が整備完了機数よりはるか
に少ないのは,空中勤務者の応役率が悪いためである.
そしてその最大原因は空中勤務者の心身衰弱である.」

 これらの報告により,遅まきながら大本営もニューギニア戦線の
「実相」をリアルに理解したようだ.昭和19年初頭から,
前線パイロットの心身の健康を維持するための対策が,
つぎつぎと実行に移されはじめる.

 まず,疲弊したパイロットの休養と健康維持のための保養所が
設置することになり,東部ニューギニア戦線については3カ所
の設置が発令された.

 最前線のウェワク,中部ニューギニアのホランジアおよび
後方のメナド(インドネシア)に,それぞれ軍医3名を中心とする
医療団を配置した休養施設を建設し,ウェワクには軽症者,
メナドに重症者,ホランジアにはその中間の症状の者を収容する
という計画である.第1号のウェワク保健所が開業したのは
昭和19年1月初旬であった.

 また,戦力の配置という点でも,激戦が続くニューギニア方面
と比較的安定している後方との部隊交代を活発に行なうことによって,
極力,第一線パイロットの心身の疲労を軽減する方針が確認された.

 しかし現実には,こうした「まっとうな」対策が功を奏する前に,
東部ニューギニア戦線は急速に崩壊してしまうのである.

▼ 第51師団と第20師団の撤退

 昭和19年1月2日,フォン半島とマダンの中間点にあたる
「グンビ」に連合軍が上陸した.

 これにより,フォン半島で防戦を続けていた陸上部隊
(第51師団と第20師団)は退路を断たれる形になった.

 東部ニューギニアを管轄する第18軍は,両師団を山越えで
撤退させてマダン地区に収容することを試み,
第四航空軍に対して撤退作戦の支援を要請した.
航空支援といっても,積極的に敵を攻撃するのではなく,
主として糧食の空輸と空中偵察をするだけである.

 当時,第四航空軍で使用可能な輸送機や重爆はわずかであり,
空輸能力は1日あたりせいぜい1〜2トンしかない.
仮にすべてが投下・回収できたとしても約1万の兵力を養うには
まったく足りないもので,投下後の現実的な回収率を考えると,
この程度の補給は気休めに過ぎない.

 それでも陸上部隊を見殺しにするわけにはいかず,
第四航空軍はわずかに残った爆撃機を掻き集め,
夜間や薄暮を利用して食糧の空中投下を試みた.
しかし,その多くは悪天候や暗闇に阻まれて成功せず,
別途海軍が試みていた潜水艦輸送も失敗が続いた.

 ついに第四航空軍は損害を覚悟で昼間に投下を行なうことを決断し,
その掩護のため,迎撃戦に忙しい戦闘機をやりくりして空輸計画を立て,
飛行機を準備した.しかし,出撃間近になって潜水艦輸送が成功した
ことが判明し,危険な昼間の強行輸送は中止される.

 結局,第四航空軍は意味のない空輸作戦に振り回され,
昭和19年1月初旬から中旬までの期間を空費してしまった.

▼ 累積する損害と指揮官の焦り

 昭和19年1月中旬以降,第四航空軍は連合軍飛行場への
攻撃を再開するが,爆撃戦力が枯渇しているため戦闘機単独での攻撃となった.

 15日の攻撃は成功し,1機を失っただけで大きな戦果を報じたが,
翌16日の攻撃は悪天候の中で無理な低空侵入を試みたことが
災いし,不利な態勢から奇襲されて一挙に10機が未帰還となる.
昭和19年に入ると,空中戦での「キル・レシオ」は日を追うごとに
確実に日本側に不利になっていった.
これは機体の性能差だけでなく,パイロットの体力・気力が低下し,
負け戦の中で焦りが募っている(状況判断の鈍化)ことが大きく
作用していると思われる.

 18日には,ウェワクに対して戦闘機のみ約100機の空襲があった.
明らかに我が戦闘機を誘い出す意図であり,敢えて交戦する必要
がない状況だったが,第四航空軍はほぼ全力の56機で邀撃して
4機を失った(1名落下傘降下).戦果は17機(うち4機不確実)と
報じられたが,戦死した3名のパイロットのうち2名が中隊長級の大尉であった.

 パイロットの士気が喪失しつつある状況下で,部下を鼓舞する
ために上級将校が無理をしはじめていた様子が垣間見える.

 また,士気が低下すると敵を恐れる気持ちが先に立ち,誤報も多くなる.
19日,マダン付近に敵が上陸したとの通報により戦闘機を出撃させたが,
これは誤報で出撃は空振りだった.翌20日にも「船団らしきもの」を
発見したとの通報があったが誤報であり,一部が出撃したが空振り
に終わった.第四航空軍では,念のため21日もほぼ全力で
索敵攻撃隊を出撃させたが,やはり空振りであった.

 この間,戦闘機隊はウェワク向け輸送船団の掩護や地上部隊
への食糧投下作戦の準備にも奔走したが,船団に対する空襲はなく,
昼間の強行投下作戦は22日の決行直前で中止されたので,
結局この数日の作戦はすべて空振りに終わった.
こうしたミスや空振りが続くと,人間は焦ってくる.焦りが作用した
という確証はないが,翌23日の戦いはちょっとしたミスから
大きな痛手を蒙ってしまった.

▼ 南郷大尉の戦死

 23日,ウェワクに対し約70機の空襲があり,
所在の戦闘機隊はこれを全力で邀撃して18機撃墜(うち6機不確実)を報じた.
この戦果と引き換えに7機の戦闘機が失われたが,うち1機が
南郷茂男大尉機であった.

 この日,南郷大尉は第59戦隊の空中指揮官として,
諸部隊の先頭に立って爆撃機の大編隊に突入したが,
その途中に後方から敵戦闘機の奇襲を受けたようだ.防空情報の
到達も遅かったようで,会敵時に十分な高度に達していなかった
可能性もある.

 南郷小隊に続航していた戦隊主力は,敵戦闘機の攻撃を受けた際
に回避のため旋回したが,南郷大尉の小隊は回避行動をとらず,
そのまま爆撃機に突っ込んでいったという.後続機は南郷小隊を見失い,
南郷大尉は僚機とともに未帰還となったため最期の様子は不明である.
おそらく,味方の援護を失い孤立した状態で多数の敵戦闘機に取り
囲まれ,撃墜されたと思われる.

 奇襲を受けた際,南郷大尉がなぜ回避行動をとらなかったのかは
分からない.僚機からの無線が通じなかったのかもしれないし,
あるいは,幕僚たちが危惧していたような「自暴自棄な勇敢」に陥ったのだろうか.

 第59戦隊は間もなく新鋭部隊と交代してニューギニアから後退する
予定であり,この日無理をせずに回避行動をとっていれば,
おそらく南郷大尉は「地獄のニューギニア戦線」を生き残れた可能性が
高いのだが,これは何とも惜しいことである.

▼ 間に合わなかった追加派遣部隊

 昭和19年に入ると,戦線崩壊の危機感から大本営もようやく重い腰を
上げ,東部ニューギニア戦線のテコ入れを試みる.

 ビルマ・ジャワ方面の南方軍から主力航空部隊(5個戦隊)を抽出して
西部ニューギニア戦域の「第二方面軍」に転属させるとともに,
これらの戦力を一時的に東部ニューギニア戦線にも派遣するという
一大決心であった.西部ニューギニアは,ここを抜かれればもう後が
ないという「絶対国防圏」の一角であり,その防備の要である精鋭
航空部隊を最前線に投入するという決断は,大本営が当方面の
戦局についてきわめて重大な危機感を持っていたことを意味している.

 しかし,東部ニューギニアの貧弱な基地群は,元来これだけの
大部隊を受け入れるだけの収容力を持ち合わせていない.
しかも,派遣部隊が現地に到着して活動を開始したのは昭和19年
の3月以降であり,この頃になるとウェワク地区の飛行場は連続する
空襲によって滑走路が荒れ果て,大型機が装備と燃料を満載する
と離陸すら困難という有様であった.

 仕方なく,派遣部隊は後方(西部・中部ニューギニア)の飛行場
を根拠地とし,機を見て前線飛行場に進出して給油のうえ奇襲的
に敵を攻撃する…という曲芸的な運用を要求された.
しかし,現実には後方根拠地となるべき西部・中部ニューギニアの
飛行場の整備も遅々として進んでおらず,こうした曲芸的運用は
所詮絵にかいた餅にすぎなかった.

 大きな期待とともに投入された派遣部隊だったが,繰り返される
空襲によって進出早々に大きな損害を出してしまう.第四航空軍は
これ以上の損耗を避けるため,3月中旬までに飛行部隊を
中部ニューギニアに引き揚げた.

 戦闘機隊が去ったあとのウェワク地区は,連合軍の空襲に
対する抵抗手段がなくなり,滑走路は爆撃され放題,完全な修復
はほぼ不可能となった.ウェワク地区の飛行場が無力化したことにより,
事実上,東部ニューギニアでの航空作戦は終局を迎えた.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.8.26




荒木 肇
『動員のコスト(10)──日本陸軍の動員(10)
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□ 富士総合火力演習

 今年も大人気だった富士の裾野の総合火力演習でした.
もっとも天候に恵まれたのは土曜日22日でした.
本番の23日は防衛大臣をはじめ多くの国会議員の
方々もみえました.もちろん一般の方々も超満員.
入場券は25倍の競争にもなったそうです.
雲が低く,富士は見えず,ようやく着弾地が見える状態でしたが,
富士教導団は日ごろの鍛錬の腕を見事に見せてくれました.
 
 今年の会場の変化は横断歩道橋がなくなったことでした.
例年,シャトルバスの駐車場と観覧席の間は施設教育支援隊
が架けた歩道橋で結ばれていました.
今年は経費節約のためにそれをなくしたそうです.
およそ1000万円の節約になったとのこと.
そのほか,富士学校が負担している経費はさまざまですが,
主に観客が出されるゴミの処理費も相当な額になると聞きました.
また.各駐屯地や宿営地に臨時に設けられる駐車場と会場を
結ぶシャトルバスの経費もかなりのものだろうと思います.
 
 そうした問題はいろいろあるとしても部外の皆さんの称賛の
声を浴びることは隊員の士気を上げる元になります.
「命中!」のアナウンスがされるたび,満場のどよめき,
それと拍手.退場する戦車の乗員に手を振る子供たち.
そうした交流が自衛隊を強くし,国民の信頼を得る最大の手段だと思います.
 
 世間では「戦争は嫌だ」「徴兵制になっても行かない」など
と「平和を祈る声」がかまびすしくなっています.祈ることは
自由ですが,どうしたら平和を築いていけるのか.
それを若者も含めて国民みんなが考えていかなければなりません.
しかし,これだけは確かです.
いちばん戦争などして欲しくないのは,現代兵器の威力をよく知り,
それらを操ることができる自衛隊員とその家族です.
 
 何を語ろうと,信じようと勝手ですが,
いま目の前の危機にどうすれば対処できるのか.
悪意のある相手と戦争を起こさないようにするにはどうするのか.
「戦場には行かない,行かせない」と語っていれば,
攻めてくる国はなくなるのか.
 
 わたしはやはり抑止力として精鋭の武装組織は必要だと
考えています.そして,誰かがそれをやらねばならないなら,
嫌がる人に無理やりやらせることはできません.
割の悪い仕事であっても,辛くて,苦しくて,恐ろしい仕事で
あっても,誰かがやらねばならないなら自分がやりましょう
という若者を応援しています.


▼ 聯隊区司令部の仕事

 聯隊区司令部の組織は1課から3課に分かれた.
それぞれに課長がいた.この課長は現役の少佐,または大尉だった.
ただし課長ではあっても部下の評価権はもてない.
課はその中で班に分けられた.第1課は庶務班と経理班.
第2課は徴兵班,軍人恩給班,章典班などなどである.
 
 第3課は動員を主に扱うので,将校・各部将校班,下士官班,
歩兵班,特科兵(歩兵以外の騎兵,砲兵,工兵,航空兵,輜重兵,
憲兵など)班と国民兵班だった.各班長は曹長か軍曹という
下士官であり,その下には下級の判任官の軍属や雇員が配属
させられていた.ただし,どこの班も人数はそれほど多くはない.
もっとも大きかった歩兵班でも曹長の班長と軍属3人といったところである.
動員課全体でも20人あまりにしかすぎなかったところが多い.
 
 動員業務を扱う人間たちは司令部内の決められた部屋に
集められていた.秘密は厳重に守られ,部屋には気軽に立ち入る
こともできなかった.
動員課の仕事は召集者を決めて,召集令状を発行することである.
召集者の数やその内訳は師団司令部からおりてくる.
歩兵なら階級は兵長か上等兵か一党兵か,馬の取扱兵になれるか,
ラッパの特技はもっているか,重機関銃や軽機関銃の射手か,
擲弾筒の操作は,などなど.そうした内容はすべて役場の兵事係
が作成した在郷軍人名簿に書かれていた.動員課はそれらを
あらためて別の書式の名簿に作り直して,そこから召集者を決めていたのだった.
 
 赤紙といわれた淡紅色の令状には2種類があった.
充員召集令状と臨時召集令状である.書式や見た目は変わらないが,
参謀本部内での計画段階に差があった.
 1)充員召集令状・・・年度動員計画に基づいて,前年度に作成し,
あらかじめ市役所・警察署に保管し,動員令が下ると配布された.
 2)臨時召集令状・・・戦時,事変などで元々の動員計画にない
部隊を特設するときに発行された.参謀本部から出される
「臨時編成令」をもとに作られる.
 
 そして,中央,参謀本部の計画と関わりなく,戦地の野戦師団
からも損耗を埋めるための召集があった.師団管区内でいつでも作られ,
送られた赤紙は,これも臨時召集令状である.

▼戦時下の兵役制度

 もう一度,昭和戦前,戦中期の兵役制度についてふり返っておこう.
1927(昭和2)年の「兵役法」によって定められた兵役義務があった.
帝国臣民である男子は満17歳で第二国民兵役に編入され,
ほかの兵役に服さない者はそのまま満40歳まで服役する.
この年齢の上限は,1943(昭和18)年11月の兵役法改正で
45歳までに引き上げられた.

 20歳で徴兵検査を受けると役種を指定された.
現役,予備役,補充兵役,国民兵役などの区別を役種といった.
この役種を指定することを「徴集」という.
よく軍隊に入ることをなんでも徴集する,されるという言葉を使う人が
研究者にもいるが,厳密には間違い.
軍隊に入ることを陸軍は入営,海軍は入団というが,それも実は
間違いで,海軍でも入営というのが正しい.
慣用的に,海軍は海兵団に入るから「入団」と言ったのだろう.

 現役は陸軍が2年,海軍が3年だった.この1943(昭和18)年
にはもう一つ大きな特例ができた.12月に制定された「徴兵適齢
臨時特例」である.適齢を特別に19歳にするということである.
したがって,翌年の検査を受ける壮丁は2倍になった.
大東亜戦争も拡大し,兵員の数が足りなくなったからである.
 
 また,すでに1938(昭和15)年2月には法の改正で1年6カ月の
在営制度が廃止されていた.
青年訓練所などの優等生が半年在営を短縮されるという優遇措置
がなくなっていたのである.さらには同年10月制定の陸軍省の省令で,
『現役兵は別に定められた者の他は,延長を免ぜられるまで現役
を延長する』となっていた.だから,15年の年末に除隊するはず
だった者はそのまま現役として残り,16年には3年兵,17年には
4年兵となっている.
大西巨人作の『神聖喜劇』に登場する神山上等兵は現役3年兵の上等兵だった.

 現役を終えた者は,陸軍では5年4カ月,海軍では4年の予備役
に編入された.4か月の端数についてはすでに説明してある.
予備役が満了すると陸軍は10年,海軍は5年の後備役になり,
その後は第一国民兵役に服役する.
第一補充兵役の服役期間は陸軍では12年4カ月,海軍は1年だった
(ただしその後は11年4カ月の第二補充兵役に服した).
陸軍の第二補充兵役は12年4カ月である.その中で軍隊に教育召集
を受けた経験者は,そののちに,第一国民兵役に編入されている.
だから第二補充兵役はまるで軍事には素人であり在郷軍人とはいわれ
なかったが,1938(昭和13)年8月の兵役法施行規則の改正で
第一補充兵と同じ扱いを受けるようになった.

 1939(昭和14)年3月の兵役法改正では海軍の予備役を1年延長し,
後備役も2年延ばした.
あわせて陸軍の補充兵役も5年延長し,第二補充兵役もついに
教育召集を義務付けるようになり,いわゆる「根こそぎ動員」の
準備ができた.
そして,1941(昭和16)年4月の兵役法改正で「後備役」がなくなり,
みな予備役に繰り入れた.
これと同時に,前に述べたように「陸軍管区表」の見直しがあり,
聯隊区司令部を府県一聯隊区として行政区画と一致させるようになった.
徴兵事務の合理化といえよう.ついでに「防衛召集制度」についても触れておこう.

 1942(昭和17)年9月には「防衛召集規則」が制定された.
戦時,あるいは事変の時には防衛上必要があると認められれば,
在郷軍人を召集する制度だった.防空召集と警備召集の2種類があった.
あらかじめ,本人には予告しておき,「召集待命令状」を渡しておく.
空襲や警備出動が必要な時には状況に応じて近くに住む在郷軍人
を召集し,部隊を編成し,必要がなくなると召集を解除して帰宅させる
という方法である.これが実際に機能したのは戦争末期の沖縄戦で
あろう.防衛召集が下され,沖縄に居住する在郷軍人にはこれに
応じた人が多かった.

▼他にもあったさまざまな制度(1)

 昔の師範学校は各都道府県に置かれた.師範学校とは小学校の
高等科を出て5年間の教育を受けるか,中学校や高等女学校の卒業生
が1年間の教育を受けた.
小学校の訓導(教諭というのは中等学校教員のこと)を養成する学校だった.
男子師範学校生はここで軍事教育を受けた.
この教練を修了したものは5カ月,していない者は7カ月だけ現役に
服すことができた.短いので短期現役兵といった.
現役を満了すると陸軍は歩兵伍長,海軍は三等兵曹に任じて,
すぐに第一国民兵役に編入するという優遇施策だった.国民教育に
従事する義務教育学校に勤務する者を確保するのがねらいである.
これを「師範のタンゲン」といった.

 戦後,海軍予備士官の養成制度を「短期現役」,「短現」という人
が体験者の中にもいるがそれは間違いである.
海軍はもともと予備兵科士官は高等商船学校卒業生からとったが,
各科の士官(将校相当官)には予備員はいなかった.
1925(大正14)年に軍医の戦時の不足を補うために「二年現役士官」
という制度を作った.同時に予備員薬剤官の制度も作ったが実際に
は応募がなかった.
 
 これは陸軍の現役2年と揃えるためである.当時(昭和2年から),
陸軍軍医は幹部候補生から採用した.1等卒(2等卒の間違いで
はない)の経験から始めて,大卒なら10カ月,専門学校卒なら
1年の兵営生活で陸軍軍医少尉になった.
 
 これに対して,海軍では現役期間は2年だが,
大卒なら入団即日中尉に,医専なら少尉にした.
この制度を1938(昭和13)年から技術関係と主計科に拡大した.
大学工学部なら造兵中尉に,工専卒なら同少尉にするという具合である.
主計科では商科大卒なら主計中尉,高商卒なら主計少尉だった.
2年間の現役を終えるときに当局から意向を打診される.現役を継続するか,
あるいは予備役になるかである.予備役編入を望めば階級を一つ進め,
中尉は大尉に,少尉は中尉にして次の召集に備えさせた.
これを「二年現役志願士官」といい,周囲も本人も「短期」と言い
換えたので,「タンゲン士官」という言い方ができたのだろう.
 
 この小学校教員を優遇する制度は毎年2月の特別な徴兵検査の
実施で特徴づけられる.一般の徴兵検査は6月ころに行なわれたが,
25歳未満の師範卒業生は2月上旬に実施された.
乙種合格以上の全員が現役兵と指定され,毎年4月1日に指定された
歩兵聯隊や海兵団に入営した.この制度の下士官は第一国民兵役
に編入され,まず召集を受けることはなかった.
それは1939(昭和14)年3月の法改正で他の中等学校卒業者並み
になるまで続いていた.
 
 次回はさらに幹部養成制度や徴集猶予や召集免除などについて説明しよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.8.26




『ライター・渡邉陽子のコラム (58) ─ 2015年陸海空自衛隊の装備と運用(5) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

本日発売の「丸」10月号(*)に,
陸上自衛隊第2師団の演習記事が掲載されました.
おもに取材したのは,北海道で唯一10式戦車を運用する第2戦車連隊です.
(*)http://okigunnji.com/url/12/

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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■2015年陸海空自衛隊の装備と運用(5)

2015年度の防衛予算に含まれる新規事業を中心に,
2015年の陸海空自衛隊の装備と運用について
ご紹介する第5回目です.

先週は,島しょ部を占領された場合の奪還シナリオ
を実効性あるものとするための新規事業についてご紹介し,
そのひとつにオスプレイとAAV7の取得があることまで
お伝えしました.本日はその続きからです.


陸自が運用するオスプレイは17機全機を佐賀空港に配備,
米軍のオスプレイの一部も佐賀空港への移転を進め,
沖縄の負担軽減を図ります.
佐賀空港を選んだ理由としては,
島しょ部への侵攻に対処する水陸両用作戦に関わる
主要部隊が多く存在する九州北部に所在していること,
騒音などの面で地元住民への負担を最小限に抑制しつつ
十分な地積の確保が可能であること,
陸上自衛隊目達原駐屯地からも近く,同駐屯地に配備
されているヘリコプターの移設先としても活用できること等を挙げています.


8月23日に行なわれた総合火力演習では,オスプレイが飛来しましたね.
私は行かなかったのですが,もともと陸自から海兵隊へ
依頼していたとのこと.ただし離島奪回作戦のシナリオの中で
登場したわけではなく,演習終了後「みなさまお気をつけて
お帰りください」のアナウンスが流れた後,不意打ちのように現れたとか.
予定通りのプログラムを終えた後での飛来だったので,
ネット動画での生中継でも放送されなかったのですね.
自衛隊側としてはもちろん「あえて」の,この時間帯での登場だったのでしょう.


さて,オスプレイと並ぶ2015年新装備の目玉が,
水陸両用車AAV7の取得です.2018年度までに新設される
陸自の水陸機動団に導入する52両のうち,30両を調達します.

AAV7は最大24名を海上から島しょ等に運ぶことができますが,
アメリカではすでに生産終了している装備品であり,
水上航行能力が時速13キロ程度といった不安要素があることも否めません.


海自はAAV7輸送のためおおすみ型輸送艦を改修,
空自はC-2輸送機10機の着実な整備なども昨年に引き続き継続して行ない,
迅速かつ大規模な輸送展開能力を確保し実効的な対処能力の向上
に努めています.ただし水陸両用作戦等における指揮系統,
大規模輸送,航空運用能力を兼ね備えた多機能艦艇のあり方
についてはまだ検討すべき点も多く,
統合運用がいかに有効に機能するかが問われることになります.


機動戦闘車は即応性,機動性を高める観点からも戦車に代わる
装備品として2016年に装備化,全国の戦闘部隊に装備される予定です.
機動戦闘車は運用構想のひとつに島しょ部に対する侵略事態対処
があるため,空輸性と路上機動性に優れているほか,
105ミリ砲の走行間射撃に対しても高い走行安定性を確保しています.
来年,装備化された暁には大きなニュースとなるでしょう.


次回は陸上総隊,水陸機動団新編の準備の話です.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.8.29




『ライター・渡邉陽子のコラム (60) ─ 2015年陸海空自衛隊の装備と運用(7) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

今日の記事でご紹介している日米共同訓練(正確には米国
における統合訓練)のドーン・ブリッツが先月半ばにスタート,
事前訓練を経て,総合訓練が8月31日から9日9日まで
行われました.報道公開されている訓練もあるので,
ニュースで目にされた方もいるのではないでしょうか.

今回は初めて後方支援部隊が参加したそうですね.
弾薬や燃料,食糧など,兵站なくして戦闘は成立しません.
訓練がいかに現実的な想定のもと行なわれているかわかります.
私にとってドーン・ブリッツに兵站部隊が参加したというのは,
かなり大きなニュースでした.


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■2015年陸海空自衛隊の装備と運用(7)


2015年度の防衛予算に含まれる新規事業を中心に,2015年の
陸海空自衛隊の装備と運用についてご紹介する第7回目です.
先週は,陸上総隊,水陸機動団新編の準備の話でした.
今週は米国との共同訓練についてです.

島しょ部を攻撃された場合の陸海空自衛隊の統合運用要領
及び米軍との共同対処要領の向上のため,
自衛隊は米国が主催する実動訓練へも参加しています.
米国における統合訓練(ドーン・ブリッツ)はこれまで米軍単独訓練
として実施されてきましたが,2013年に自衛隊も初めて参加しました.
陸自からは西普連と西方航空隊,海自からは護衛艦「ひゅうが」,
「あたご」,輸送艦「しもきた」,空自から航空総隊が主力部隊として参加.
米軍との相互運用性の向上とともに,陸・海・空自衛隊の幕僚が
一つの司令部を組織し,統合により島しょ侵攻対処にかかる
指揮幕僚活動及び訓練を行ないました.
今年のドーン・ブリッツ15にも海自の掃海隊群,護衛艦2隻
(「ひゅうが」と「あしがら」),輸送艦「くにさき」,艦載航空機3機のほか,
陸自の西部方面隊,中央即応連隊,空自の航空総隊の約1100名が
参加.カリフォルニア州キャンプ・ペンデルトンや米海軍サンクレメンテ
島訓練場および同周辺海・空域で,9月9日まで訓練が行なわれました.
人数的には1コ普通科連隊規模の隊員がアメリカで訓練を行なっているという,
その事実自体も抑止力になりそうです.

米カリフォルニア州にあるキャンプ・ペンデルトンで行われる
日米合同実働訓練(アイアン・フィスト)には,2006年から西部方面
普通科連隊が毎年参加.今年も1月19日〜3月7日,西部方面総監部
と西普連の人員約270名,米海兵隊約500名が参加し,離島奪還の
ための強襲揚陸を想定した訓練を行ないました.今回は水陸両用車
を使用した上陸訓練を初めて実施するほか,29パームス訓練場において
実弾による航空火力等の誘導訓練を含む日米共同の戦闘射撃訓練
も行なわれました.

また,昨年6月から8月にかけては,米海軍が隔年で主催している
ハワイ周辺海域で行われる環太平洋合同演習(リムパック)に陸上自衛隊
が参加,米海兵隊と水陸両用訓練を実施しました.この演習は日米両国
のほかオーストラリアや韓国など10カ国以上が参加し,人員約2万人と
艦艇約30隻,航空機も100機以上が集まる大規模なもの.海上自衛隊は
リムパックの常連ですが,陸上自衛隊が参加したのは初めてでした.
軍事交流の一環で中国海軍も参加したので,陸上自衛隊と海兵隊の
連携を見せるという狙いもあったと思われます.

このほか,9月8日から25日までは米国ワシントン州ヤキマ演習場で
第10師団第33普通科連隊基幹(第10特科連隊,第10戦車大隊,第5対戦車
ヘリコプター隊など)の約300名が米陸軍約350名と実動訓練を行なっています.
国内ではちょうど今月,第14旅団第50普通科連隊基幹が米海兵隊と
饗庭野演習場および日本原演習場で,第6師団第44普通科連隊基幹の
約1280名が米陸軍約430名と王城寺原演習場および大和駐屯地で
実動訓練を行なっています.

次回は弾道ミサイルへの対処,サイバー空間における対応,人事教育に
対する施策についてです.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.9.10




陸軍機 vs 海軍機(51)       清水政彦

「零戦と隼(50)」
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「零戦vs隼」の第50回.
今回は,西部ニューギニアからマリアナ諸島に至る
「絶対国防圏」の崩壊と,その影にあった空母機動部隊
の猛威についてです.

▼ 間に合わなかった基地整備

 すでに述べたとおり,大本営は昭和18年の秋に
東部ニューギニア作戦の基本方針を「持久」に転換した.
大本営の計画では,その後約1年をかけて東部ニューギニア
をゆっくり後退しながら時間を稼ぎ,
その間に西部ニューギニアの「絶対国防圏」に縦深陣地
を構築するとともに大規模な航空戦力を蓄積し,
機を見て反撃に転じる「はず」であった.

 しかし,現実には,そのわずか半年後の昭和19年4月には,
連合軍は中部ニューギニアのホランジアまで迫っていた.
連合軍の「飛び石作戦」はきわめて迅速で,
日本側に防備の暇を与えなかったのである.

「絶対国防圏」となるべき西部ニューギニアの「亀の頭」地区
およびインドネシア東部の島嶼部(「豪北」)には,
新たに100カ所あまりの飛行場が建設され,「航空要塞」と
なるはずだった.しかし,連合軍の上陸が目前に迫った
昭和19年4月の時点で,最前線の「亀の頭」地区で飛行部隊
が展開できる飛行場は,わずか数カ所にすぎなかった.
それ以外の飛行場は作業が遅れており,依然工事中なのである.
すでに使用されている飛行場も,何とか滑走路だけが
概成しているにすぎず,滑走路以外の設備については無に等しかった.

▼ 繰り返される悪循環

 決戦場となる西部ニューギニアと豪北地区に「航空要塞」を
建設するため,陸軍は昭和18年末から,これらの地域に
大規模な飛行場設定部隊を投入していた.

 これらの部隊には,ようやく国産化されたばかりのブルドーザー
などの土工機械を装備した虎の子の「機械化設定隊」が多数
含まれており,その規模は陸軍が動員可能な戦力のほぼ全力であった.

「絶対国防圏」を形成する最前線の基地建設が優先されたため,
後背地となるフィリピン方面の飛行場は整備が遅れていた.
このことは,もし西部ニューギニアの防衛線が崩壊すれば,
その後は敵を食い止める足がかりがないことを意味している.

 そして,虎の子の機会化設定隊を多数投入して建設した
西部ニューギニアの飛行場群は,その完成前に連合軍の進攻
を受けてしまう.

▼ 空母機動部隊の猛威

 昭和19年の中頃になると,日本陸海軍の飛行部隊は,
連合軍の陸上航空戦力との戦いだけでなく,米空母の艦上機
による「機動空襲」にも備えなければならなくなった.
そしてこの「機動空襲」は,従来までの陸上機の空襲とは次元
の違う威力を持っていた.

 米空母は,目標地点に対して夜間に高速で接近し,
明け方に空襲部隊を発艦させる奇襲戦術をとることが多かった.
空襲部隊はレーダーを避けて水平線下を超低空で接近し,
十分に接近すると急上昇して飛行場に殺到する.

 仮に機動部隊が25ノットの速力で12時間進むとすると,
空母の位置は一晩で300浬(約560km)も移動する.
艦上機の進出距離を考えると,夕方の時点ではるか1000kmの
海上にいたはずの空母が,翌朝には我が方の飛行場を猛爆
しているということになる.

 1000km以上という遠距離では,海上を機動する艦隊を
確実に発見することはほぼ不可能であるし,仮に発見しても
夜のうちに見失ってしまう.海上には監視ポストもレーダーサイトもない.
そもそも敵空母がどの方角から来るか分からないから,
海上に孤立した飛行場では,機動空襲に対する早期警戒網を
形成することは不可能である.

 いつ何時現れるか分からない敵を陸上で待つ側はきわめて
不利な立場で,容易に奇襲を受けてしまう.陸上基地の航空隊は,
機動空襲に気づいてから戦闘機を緊急発進させようとしても
間に合わず,地上や低空で捕捉されて壊滅的な損害を受けることになる.

 しかも,空母の飛行機搭載力は巨大なものだ.小型の改造空母
でも30〜40機は積めるし,大型の正規空母なら100機近くを運用できる.
1つの任務部隊だけで,搭載されている艦上機の数は200〜300機
は下らない.したがって,機動空襲の場合は100機,200機という数
の敵機が一度に,かつ奇襲的に押し寄せてくる.

 他方,1つの陸上飛行場に収容できる戦闘機はせいぜい
1個戦隊(30機前後)か,多くても1個飛行団(60機前後)である.
多数の滑走路を有機的に集積した「飛行場群」ないし「航空要塞」
を形成していない限り,陸上の飛行隊は態勢的にも数的にも,
機動空襲に対してはまったく対抗不能なのである.

 そして,本格的な「航空要塞」を建設にするには,
どんなに急いでも半年かかる.こうした基地群を500km前方に
推進しようとすれば,1カ所あたり数カ月の時間と数万人の
陸上部隊が必要になり,関連諸部隊に補給する膨大な物資
の輸送が要求される.

 一方,機動部隊は300機の搭載機を抱えて半日で500kmを移動し,
かつ自らは奇襲を受けない.必要な燃料・弾薬・食糧は母艦の
腹の中に納まっており,1カ月くらいなら自由に動き回って
好きなだけ敵を奇襲できる.

 その機動力は圧倒的であり,兵力を奇襲的に集中運用できる利点
は陸上基地では真似ができないものだ.航空機の運用プラットフォーム
として,空母は圧倒的に有利なのである.

▼ 「絶対国防圏」に侵入する連合軍

 連合軍はホランジアを攻略した直後の昭和19年5月,
間をおかずに西部ニューギニアの「サルミ」および「ビアク」地区
を攻撃した.防衛線の構築が間に合っていなかったため,
陸海軍の航空部隊は見るべき抵抗もできぬまま短期間で壊滅した.
その後,西部ニューギニアはあっさり占領され,豪北地区は孤立
して戦略価値を失うことになる.

 さらに6月,米艦隊がマリアナ沖に現れ,マリアナ諸島の
海軍飛行場に対して「機動空襲」を連打した.一連の空襲により,
反撃戦力として育成されつつあった海軍の基地航空部隊はほぼ
全滅してしまう.

 これに対し海軍は「あ号作戦」を発動,空母8隻を基幹とする
機動部隊をマリアナ沖に出撃させて米艦隊に決戦を挑むが,
結果は一方的な敗北に終わった.有名な「マリアナ沖海戦」である.

▼ 性能以前の問題だったマリアナの大敗

 マリアナ沖での敗北についてはさまざまな論評があるが,
そもそも数的に半分以下の戦力で正面から勝負したのだから,
初めから勝てる要素はあまりなかったというしかない.

 また,ニューギニア戦線と同様,マリアナ沖での戦いも飛行機
の性能やパイロットの技量以外の部分で決まった要素が大きい.
日本側の損害のうち,空襲で沈んだのは改造空母「飛鷹」のみで,
正規空母「大鳳」(旗艦)と「翔鶴」は空襲を受ける前の段階で
潜水艦に撃沈されているのである.

 両艦とも飛行機の発進・収容中(風に立って直進する危険な瞬間)
に被雷していることを考えると,やはり対潜哨戒がおろそかだったの
だろう.マリアナ沖での海軍の最大の失敗は,敵艦隊の攻撃に
気を取られて対潜哨戒を怠ったことなのである.

 飛行機の空中喪失にしても,発進した攻撃機が敵艦隊を発見できず,
燃料切れのため母艦に帰らず陸上基地に着陸しようとしたところ,
そこで空襲を受けてなす術なく撃墜されたというパターンが多い.
偵察機のコンパスが狂っていたことや,陸上基地の防空能力が
低いことに根本的な原因があろう.

 敵艦隊に接近した攻撃機が全滅したのも,何らの欺瞞手段を
とらないまま中高度を大編隊で進撃したことが主たる敗因である.
敵艦隊のはるか手前,水平線しか見えていない状況で,
巡航状態のまま多数の戦闘機に奇襲されては手も足も出ない.

 護衛の零戦は3個中隊(48機)がいたが,F6Fに上空後方から
奇襲された時,いずれも増槽を吊ったまま巡航編隊で飛んでおり,
不利な態勢から連続攻撃を受けて何もできないまま散り散りになったようだ.

 要するに,当時の海軍には「航空戦の勝敗は早期警戒と誘導の
成否で決まる」という認識が足りなかった.仮に,少数機の編隊に
よる同時多発的侵入,チャフの散布,超低空飛行,囮の利用など,
CAPの迎撃網を攪乱する工夫を行なっていれば,戦いの経過は
ずいぶん違うものになっていただろう.

▼ 絶対国防圏の崩壊と無防備のフィリピン

 いずれにせよ,マリアナ決戦の敗北により太平洋の大勢は決した.
間もなく米軍はマリアナ諸島を占領し,「絶対国防圏」はあっけなく崩壊する.

 連合軍の次なる攻略目標がフィリピンであることは明白だが,
「絶対国防圏」の構築に人的・物的資源の大部分を注ぎ込んでしまった結果,
昭和19年の夏になっても,フィリピンにおける航空作戦の基盤整備
はまったく進んでいないのだった.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.9.9




荒木 肇
『動員のコスト(12)──日本陸軍の動員(12)
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□はじめに

 新しい護衛艦「かが」についていろいろなご感想
などありがとうございました.中でもK様がおっしゃるように
自衛艦の艦艇名がなぜ「ひらがな」表記なのだろう
という疑問,わたしも持っておりました.

 海上自衛隊が発足したのはご存じのように1954(昭和29)年
のことですが,そのとき防衛庁の訓令で
『船舶の区分等及び名称等を付与する標準』が定められました.
あわせて艦艇名の標記は「ひらがな」にすることになっています.
それはおそらく,やはり帝国海軍とは異なる組織だと示す,
主として国内向けへの配慮だと思われます.
陸上自衛隊も「軍」や「戦」も使えなかったために,
戦車を特車といい,軍曹ではなく陸曹に等級をつける,
師団ではなく管区隊など苦心の命名のあとがみえます.

 いろいろあたってみましたが,
これといった確証もないままに同じような事情があったのでは
と思います.おそらく創立当時の事情を書き残した文書には
検討した経緯が書かれているのではと想像しているところです.

 他に命名基準ですが,ついでに書いてみます.
護衛艦(DD)は天象・気象・山岳・地方名,DEは河川名
とされています.Dは米海軍にならって水上戦闘艦,昔は駆逐艦
といわれた艦種です.
この艦種記号が採用されたのは1956(昭和31)年8月のことでした.
貸与された艦にこのようなDDやDEという記号がついていたからです.
貸与駆逐艦と新造された甲型警備艦にはDD,
貸与護衛駆逐艦,丁型駆逐艦,乙型警備艦にはDEを付けることにしました.
丁型駆逐艦とは帝国海軍の2等駆逐艦のことでした.
同じ記号の艦が複数ある場合は,番号を付けるようになったのもこの時からです.

 山岳名は日本海軍では「金剛」,「榛名」などの巡洋戦艦に使われ,
地方名は昔でいえば旧国名になります.戦艦「伊勢」,「日向」などは
その典型でしょう.同じタイプのフネはペアになり,
「陸奥」と「長門」のように本州の北端と南端に位置する両国でした.
また,「大和」と「武蔵」は帝国の美称と帝(みかど)のおわす国名であり,
「扶桑(日本の美称)」と「山城(京都)」も同じと考えられます.
 
 昔の海軍のように戦艦,巡洋戦艦,巡洋艦,駆逐艦といった
区分をしないために護衛艦はみな一様に護衛艦です.
ただ興味深いことに,国内向けと国外向けの使い分けがここにもあります.
それは軍艦の略称です.英国軍艦は今も「Her Majestic’s Ship」を冠し,
直訳すれば,「女王陛下の軍艦」になり,米国軍艦は「U.S.Ship」,
わが海自艦は国内向けには「Defense Ship」ですが,
外国では「Japan Ship」の略称を使っています.
要するに,対外関係が主として活躍する「海軍」にとって,
国内向けの言葉の使い分けは無駄だということです.
 
 また,懐かしいことをK様のおかげで思い出しました.
海自護衛艦はある時期まで番号だけでなく,艦名をひらがなで
舷側に記していました.昔の海軍の駆逐艦が「カゲラフ(陽炎)」
のように舷側にその名を書いていたように,「あきづき」などと書かれていました.
 
 もう一つ,艦内には必ず神社が祀られています.その標記は漢字です.
イージス護衛艦「あたご」には「愛宕神社」が鎮座しておられます.
神様まで平仮名にはできません(笑).
 
 さて,今回は前回の「最後の幹部養成制度」,陸軍特別甲種幹部候補生,
特別幹部候補生制度を詳しく語る前に,海軍の予備員を説明しておきます.

▼海軍予備員幹部養成の流れ

 陸海軍のさまざまな人的制度を見ていくと,両方の施策がまったく
無関係にできていないことが分かる.限られた人的資産を公平
に分けて行く,この考え方があった.それは将来の生産力や,
ひいては総合的な国力に大きく関わるからである.

 戦争が拡大するにつれて,もっとも必要とされたのは
陸海軍ともに士官と下士官だった.とりわけ高等教育を受けた若者
を士官予備員にすることが緊急の課題である.
すでに日露戦争では下級幹部の損耗があまりに多く,奉天会戦が
終わった後には,もう各部隊に将校がまったく足りないという事態になった.
当時は一年志願兵といわれた中等教育以上を終えた若者たちが
各部隊で教育を受けた中尉,少尉といった階級の人たちである.

 陸軍は前にも書いたように1927(昭和2)年の兵役法の施行
からさまざまに幹部候補生制度を手直ししてきた.では,海軍の
予備員はどうだったのだろうか.
在郷軍人名簿に載る海軍下士官兵の場合は志願兵,徴兵の経験者である.
では,士官はどうなっていたのだろうか.それは予備士官,予備下士官
という制度があった.

 ただし,この人たちは予備役士官・同下士官とは異なっている.
海軍は戦時になっても急に艦艇が増えるわけではなかった.
だから明治の時代から,商船士官を有事には召集すればそれで
足りるという認識でいたようだ.民間船関係者を予備士官にするのは
イギリスの方式を真似たものだった.

 1884(明治17)年には東京商船学校(後の東京商船高専,
同商船大学,現・海洋大学の前身)の卒業者は海軍予備士官に
志願できるとした.兵役義務をこれで代えようとした人もいた.
本格的になったのは日露戦争中の1904(明治37)年7月の
『海軍予備員条例』が出されてからである.それまでも船長や機関士
などの海技免状をもつ者は学校を出ていなくても予備士官になれたが,
逓信省(郵政省)管轄の東京高等商船学校の卒業者は全員が
海軍予備士官になるようにされた.

 1919(大正8)年になると,海軍も本格的な予備士官養成
に乗り出した.『海軍予備員令』が出され,予備少尉への任官条件
が厳しくなった.教育を受ける期間が長くなり,中身も増えてくる.
航海科の生徒は海軍砲術学校で,機関科生徒は海軍工廠で
それぞれ6カ月の教育訓練を受けて,採用試験を受験することになった.
取得する身分は海軍予備生徒といわれた.

 1920(大正9)年に発足した神戸高等商船学校も,
14年には東京と一緒に文部省の管轄下におかれ(それまでは逓信省),
両校が海軍予備少尉,同機関科少尉の供給源になった.
大正時代の世界大戦を契機に我が国の海運は大きく発展し,
多数の乗り組み士官を必要とした.両校の卒業生で予備少尉候補生
に採用される者は毎年100名を超えて,正規士官である兵学校,機関学校
の卒業生の半数以上になった.

 大正8年の制度改正では,「高等」がつかない中等学校にあたる
各地の甲種商船学校の卒業生も予備下士官に志願できるようになる.
主に西日本にあった鳥羽,弓削,大島,鹿児島などにあった一般海員
の養成学校である.この学校の在学生で海軍予備練習生に採用に
なった者は,海兵団で3カ月の教育を受けて,予備1等兵曹,同機関兵曹
に任官した.1曹といえば陸軍では曹長の階級であり,なかなかの優遇
だといえよう.これまでは3等下士官だったのだから一気に2階級も上位にしたのである.

 さらに進んで1937(昭和12)年には水産講習所(農林省の管轄で
後に東京水産大学になる.現・東京海洋大学)遠洋漁業科の卒業生も
予備少尉になった.

▼航空予備員の制度

 陸海軍の航空への取り組みの早さはどこを観点にしていけばいいか難しい.
まず,陸軍は1919(大正8)年にはフランスからフォール大佐一行を招いた.
対して海軍は2年遅れてイギリスからセンピル大佐以下を招いたが,
すでに世界最初の航空母艦「鳳翔(ほうしょう)」が進水していた.
当時,英海軍でも商船を改造した空母はあったが,日本海軍は早くも
専用空母を設計,建造していたのだ.

 人事制度の面でも海軍が早かった.もともと志願制が主体だから,
制度上のいろいろな調整の負担は陸軍より少なかったといえる.
1923(大正12)年には航空予備下士官の制度が始まった.
志願する航空免許所有者を集めて航空隊や空母で3カ月間の勤務を
させて,航空予備2等もしくは同3等兵曹にしたものだ.
同時に海軍は逓信省から委託を受けて郵便機のパイロット養成を
年間数名受け入れていたが,このうちから航空予備下士官を育てる
ことにする.これが1930(昭和5)年から航空予備練習生という制度に発展した.

 現役航空下士官を養成する予科練習生もこれと同時に発足する.
陸軍が同じねらいをもった少年航空兵を始めるのは昭和9年だから,
これも陸軍が遅れたといえる.
 
 海軍はさらに航空予備士官を育てる必要を認め,
1933(昭和8)年には高等商船出身の予備少尉,予備機関少尉を集めた.
操縦員25名,整備10名の予定だったが,半年間の教育を行なうも
実際には半数にもならない結果だった.適性のある人は案外少なかった
のと,ふるいの目が細かく,厳しい成績評価のおかげだろう.
それにすでに商船士官として身分がある人たちである.危険な飛行機乗り
に進んでなる人も少なかったに違いない.
 
 そこで航空予備士官の養成は商船士官からではなく,大学・高専の
卒業生から募集する制度を立ち上げた.選抜に合格すると,基礎教育
2カ月を終えて10カ月の専門教育を受けると予備少尉に任官した.
第一期生は6名である.この制度の特徴は必ずしも操縦経験や免許状
を要しないことだった.海軍予備士官になるには長い間の海上経験や
海に関する知識が必要だったのに,航空に関してそれは不要とされた
のである.これは大きな転換点だった.
 
 また,航空予備下士官の制度も,当然,それに連動する.
商船学校卒業生ではない一般の中学出身者を集めた.この予備練習生
の教育期間は1年であり,予備航空下士官になれた.現役の予科練習生
と異なり,わずかな期間で任官させた.このように海軍は航空勢力を維持,
発展させるために予備員養成に励んでいた.

▼陸軍の予備員養成

 陸軍は1925(大正14)年には航空兵科を独立させた.それまでの
各兵科からの寄せ集めだった航空部隊の人たちは操縦,偵察,整備の
人たちもみな同じ空色の襟章を付けることになった.航空部隊増設の
努力もし,1930(昭和5)年には26個中隊,約400機の勢力をもっていた.
5年後の1935(昭和10)年には54個中隊に増やし,
さらに平時85個中隊,戦時170個中隊を整備目標にして努力中だった.

 この平時85個中隊に必要な現役将校の数は955名,下士官はほぼ同数.
さらに予備員としての将校・下士官数は477名と企画されていた.

 陸軍はこれまで予備役航空将校は幹部候補生から採用していた.
それが海軍と同じように操縦候補生というコースをつくったのは,
海軍が航空予備学生の養成を始めた翌年1935(昭和10)年
のことである.ただし,こちらは飛行士として操縦免許状をすでに
持っている者,日本航空学生連盟や民間飛行学校などで操縦訓練
を受け,陸軍の飛行検定を受け合格した者という制限があった.

 このコースで飛行聯隊に入営すると,一等兵の階級から
始まることになった.一般の幹部候補生が2等兵から内務班生活
をすることから見れば優遇である.埼玉県所沢の陸軍飛行学校に
聯隊から派遣され,9カ月の操縦を中心にした訓練を受けた.
卒業して帰隊し,3カ月の見習士官を経て陸軍航空兵少尉になり,
予備役編入となった.成績その他の事情で将校になれなかった者
は下士官操縦予備員になる.

 ただし実際に採用された者は1937(昭和12)年度の入営,
甲種幹部候補生出身の操縦コース専従者と合わせても10名
にすぎなかった.ところが,翌年にはこれが80名の採用となる.
支那事変の動員のおかげである.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.9.9




陸軍機 vs 海軍機(52)       清水政彦

「零戦と隼(51)」
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「零戦vs隼」の第51回.
今回は,フィリピン航空戦の過程で生まれた「特攻」とその背景についてです.

▼ 準備なき比島決戦

 前述のとおり,マリアナ決戦の敗北によって「絶対国防圏」が
崩壊した時点で,次なる決戦場であるフィリピン方面の戦備
はほとんど着手されていなかった.

 フィリピンにおける航空作戦の唯一の基盤は,戦前に米軍が
整備した「クラーク・フィールド」を中心とする航空基地群であった.
昭和19年夏の時点で,ルソン島南部からセブ島,レイテ島
にかけての一帯には10カ所ほどの飛行場が使用可能だったが,
これらの基地は昭和17年に占領した当時のままの状態で放置
されており,戦時に相応しい防護設備を持たない,
いわば「平時態勢の基地」に過ぎなかった.

 大本営は急遽,フィリピンに大規模な「航空要塞」を建設する
ことを目指したが,頼みの「機械化設定隊」の多くはすでに
西部ニューギニアと豪北方面に投入されており,制海権の喪失
によりその撤退は不可能な状況である.

 結局,泥縄式に行なわれた「航空要塞」の建設は,
またしても米軍の進攻速度に追いつけなかった.
日本陸海軍の航空隊は,ここでも不十分な作戦基盤の制約を
受けながら,苦しい戦いを強いられる.

▼ 「特攻」の始まり

 昭和19年10月下旬,連合軍はフィリピン中部のレイテ島に
上陸した.レイテ島は中部フィリピン群島の一番東側にある
大きな島で,そこには複雑な地形に護られた広大な泊地と,
クラーク航空基地群の一角をなす飛行場があった.

 上陸に先立ち,米空母機動部隊は制空権獲得のため
フィリピンと台湾の航空基地に対して機動空襲を反復した.
同方面に集結して戦力整備中だった日本の航空部隊は,
準備不足の中で圧倒的多数の艦上機から集中攻撃を受け,
ほぼ全滅してしまう.

 6月のマリアナ決戦で大損害を受けていた日本海軍の
空母機動部隊は,この時すでに米空母に対抗する実力を失っており,
レイテ戦では単なる囮として活動するしかなかった.

 連合艦隊はこれまで温存していた戦艦と巡洋艦のすべてを
投入してレイテ泊地への突入を図ったが,米空母機の空襲と
水上艦隊に阻止された.

 この過程で,戦力の大部分を失った海軍航空部隊は,
戦艦部隊のレイテ湾突入作戦を支援する目的で,零戦に250キロ爆弾
を搭載して空母への体当たりを行なう「特別攻撃」を初めて実施した.
6機の特攻隊は初陣でタンカーを改造した護衛空母1隻を撃沈し,
さらに同型の護衛空母3隻を撃破した.一見すると「成功」に見える
この戦果が,その後の航空作戦に大きな影響をもたらすことになる.

▼ 「特攻」の拡大とその背景

「特攻」は,その名の通り,主力戦艦部隊がレイテ湾に突入
する時間を稼ぐための一時的な戦術であり,あくまで「特別」な
攻撃であるはずだった.

 しかし,航空作戦の基盤を欠き,米機動部隊の空襲に対して
まったく打つ手を持たなかった陸軍航空部隊は,たった6機の
戦闘機で空母4隻を撃沈破したという海軍の「特別攻撃隊」の
戦果に注目し,海軍に追随する形で「特攻」を拡大させていった.

 このとき,「統帥の外道」と言われる特攻が急速に拡大していく
背景として,軍の組織全体の中で航空部隊の置かれた立ち位置
が特殊であったことは無視できない要素である.

 航空部隊はほかの兵科よりも人事面や給養面でかなり優遇
されているうえ,極めて貴重な飛行機を地上で破壊されては
撤退するという失態を繰り返したため,航空作戦に振り回される
地上兵団との間に感情的なしこりがあった.

 文字通り地べたを這いずり回って苦闘している陸上部隊からすると,
航空部隊は巨大な予算を使ってふだんから贅沢な生活をしていながら,
肝心な時にはほとんど役に立たず,飛行機を失うと自分たちを捨てて
後方に逃げてしまう卑怯な奴らだ…という風に見えたからだ.

 航空戦力が地上で壊滅しても,パイロットや司令部は輸送機
で後方に撤退できる.しかし,航空部隊のために飛行場や関連施設
を建設し,整備し,補給物資を運び,防衛する地上部隊は,
ひとたび制空権を失ってしまうと撤退が不可能であり,残された道は
玉砕か餓死・病死のみなのである.

 補給を絶たれた絶望的な戦場で死闘を続ける陸上部隊がいる以上,
比較的「守られ,優遇された立場」である航空部隊としては,
飛行機がないからといって彼らを見捨てて撤退するわけにはいかない……
「特攻」が拡大していく背景には,こうした軍内部での「政治的配慮」
ないし「大人の事情」の要素が少なからず作用しているように思われる.

▼ 対艦攻撃力を持たない陸軍機が「特攻」する訳

 レイテ島で激戦が行なわれていた昭和19年末の時点で,
敵の航空基地に対する伝統的な「航空撃滅戦」や,友軍地上部隊
への直接的支援は重要性が低下していた.

 なぜなら,この時期には,縦横無尽に暴れまわる空母機動部隊を
撃破しない限り,およそ制空権の奪還は不可能であることが明確に
認識されていた.制空権を奪還しなければ輸送船の攻撃ができず,
輸送船を攻撃できなければ,敵は無尽蔵の兵力と物資を戦場に
送り込んでくるのだ.死闘を続ける地上部隊が航空部隊に望むことは,
何よりも敵空母と輸送船を撃破し,敵の地上部隊に対する増援と補給
を止めることであった.

 しかし,陸軍には対艦用の徹甲爆弾も魚雷もなく,
飛行機はこれらを運用する前提で作られていない.
パイロットの教育も,対艦攻撃が考慮されるようになったのは直近のことである.

 つまり陸軍航空隊は,ハード的にもソフト的にも,
有効な対艦攻撃手段を持たないなかで,突然に「敵空母の撃破」
という至上命題を与えられた.そこに登場した新戦術が「特攻」であり,
陸軍中央はなりふり構わずにこれに賭けたのである.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.9.16




荒木 肇
『動員のコスト(13)──日本陸軍の動員(13)
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□はじめに

 豪雨災害に遭われた方々に心よりお見舞いを申し上げます.
それにしても思ってもいなかった事がいつも起きているのが
近頃です.天災は忘れたころにやってくると言われます.
備えをと言われても,手の施しようもないというのが実感です.
重ねてお見舞いを申し上げるしかありません.

 さて,不十分なお答えにもかかわらず,K様重ねてのお便り
ありがとうございました.海軍や海上自衛隊については素人ですが,
お役に立てて嬉しかったです.これからも何かありましたら,
これに懲りずにお便りをいただければ有り難く思います.

 さて,安保関連法案,いよいよ大詰めを迎えてきたようです.
テレビや新聞の論調を見る限り,賛成の方の声が聞こえず,
ひたすら反対の方々の意見が多い.まるで国民のほとんどが
安倍政権を呪い,先日の国会周辺のデモについての報道でも
自民・公明の与党は力を失っているようにみえます.

 「60年安保」を思い出させるという論者もおられ,
政権を倒すのが国民の声だと興奮している方々もいるようです.
しかし,ほんとうのところは当時の岸首相も言われたように,
『声なき声が聞こえる』ということではありませんか.
「戦争の準備をしている」のは軍備を増強し,パレードを行ない,
韓国の大統領や国際的な犯罪者を招き,威嚇的な行動をとっている
中国ではないでしょうか.デモをかけるべきは相手側でしょう.

 また,テレビに登場したある女子大生は,『就職先がなく,
私の周りには自衛隊員にでもなろうかと言う人もいっぱいいます』
などと語りました.いったいどこの大学生だろうと一瞬,
目と耳を疑ったものです.事情を知っている人間には常識ですが,
大卒の一般幹部候補生の応募状況は昔も変わらず大難関であり,
曹候補生も大変な倍率です.一般2士といわれる自衛官候補生
の採用も4倍以上と聞いています.何より,勉強もするお金がない
から自衛官なんかになってしまうという上から目線の言い方には
驚きました.

 誰か,若い人を騙す大人がいるのです.
限られた情報しか流さず,しかもそれが間違っている.
それによって「洗脳」してデモをやらせ,発言させ,自分のメシの
タネにする.そういった人々がいることが本当の問題でありましょう.

 さて,戦争は経済行為です.人・もの・金を用意する.
それが戦争準備です.今回も戦時中の人の集め方をご紹介します.

▼海軍と陸軍の募集争い

 陸軍のネックは現役配属将校制度に保障された学校教練だった.
教練には検定があって,教育に当たる将校には評価権があった.
この検定を通っているかいないか,さらには合格していても将校
の目にかなって「将校適」,あるいは「下士官適」の推薦をもらって
いるかが入隊して幹部候補生になれるかどうかの分かれ目だった.

 この配属将校制度についても多くの戦後の誤伝や意図的な
歪められ方がある.それは現役将校が不足するにつれ,
予備役,後備役の将校たちが配属されるようになったことにも
原因の一つがあると思う.

 前にも書いたように現役将校には動員計画に基づいた戦時補職
があった.派遣元であった部隊が動員されると将校たちは続々と
補職に戻った.貴重な現役将校を学校に張りつけておく余裕が
なくなった.そこで陸軍は特別志願士官という制度を考え出した.
予備,後備の将校でも志願し,選考に通れば,制度上現役将校
しか就けないポストに補職される仕組みである.
この特別志願士官制度はのちに志願将校に拡大された.
士官とは尉官のことであり,将校にすれば佐官も含まれる.
中学には少佐,大尉が配属されることになっていたから
予・後備役少・中佐クラスでも任用できるようにしたわけである.

 おかげで,若くして予備役に編入されたり,准尉(特務曹長)から
少尉候補者(士官学校学生)を経ないで少尉になったりした人たち
も配属将校になった.制度発足時の最精鋭が選ばれた時代とは
違って,将校たちのレベルも下がってきてしまった.
地域の有力者に取り込まれて特定の生徒たちに手加減を加えたりもした.
人格的にも中学生などに軽く見られた人も増えた.生徒に反抗
されたり,生徒が教練に不熱心であったりすると体罰などで対応
した人も増えたのは当然だっただろう.

 しかし,この教練修了証制度そのものは,必任義務の徴兵制度下
の学校教育と連動したシステムであった.学歴所有者(中等学校
卒以上)にはさまざまな特典があった時代である.公平な運用が
求められるし,不公平感があってはならない.かたや小学校しか
出ていない若者が兵役に服し,さらには野戦で苦労をしている.
それを授業の一環であるのに真面目に学習しない.
それでもいざとなったら幹部候補生に誰でもなれるとあっては,
世間の目も許すものではなかった.学生に対する眼差しは,
特に戦時になれば厳しかったのである.
 
 アメリカでは1926(大正15)年から一般大学の学生に予備士官
教育を施して合格した者には,卒業と同時に予備少尉にする制度
を始めた.のちのニミッツ大将も当時カリフォルニア大学でこの課程
の実施者となっていた.この動きは当然,わが海軍当局者も承知
していたという.1941(昭和16)年,海軍省人事局にいた
大井篤中佐は海軍兵科予備学生の企画者の一人である.
大井中佐には留学時の見聞があった.回顧を聞いてみよう.
 
「第5次軍備増強計画によれば,日本は広大な太平洋正面の
無数の島々を,すべて海軍兵力で守備することになっていた.
それらの諸島配備の陸戦隊に配属する将校要員は莫大なもの
になるだろうが,しかもこれらの将校には航海や操艦の知識は
必要ではない.とすればこの際,一般大学出身者の中から優秀
な人材を採用してみたら有効ではないだろうか」
 
 このとき海軍の人事担当者の頭の中には,当然,陸軍予備士官学校
などの諸施策との対抗心が働いたことだろう.募集ソースが一緒で
あることから当然,人の奪い合いになる.この回顧に明らかなように,
兵科予備学生はもともと増大が予想される陸戦隊の初級将校をつくる
制度だった.
 
「陸船頭(おかせんどう)」と罵られることが最大の侮辱だった
海軍兵学校出身の正規士官.彼らは中学校卒業後に兵学校に入校し,
4年間でカッターの操船から始めて機動艇に慣れ,遠洋航海で練習艦
の艦橋に立ち,操艦能力を養ってきた.それに比べて陸戦隊の指揮官
を養成するのはさほど時間と手間がかかることではなかった.
 
 もちろん,兵学校の生徒も増やされた.1933(昭和8)年の64期生
は170名と増えた(それまでは毎年130名程度).翌年は200名(65期),
その次の66期,続いて67期は240名.急いで現場に送り込まれた
卒業生への施策は人員増だけではなかった.修学期間の短縮である.
66期は半年,67,68期は8カ月も短くされた.さらには翌年,
1938(昭和13)年入校の69期は354名の大量採用となり,在校期間
も3年間になった.新入生の哀歓を描いた『海兵4号生徒』という映画
があったが,これ以後は最低学年が3号生徒になったのである.
 
 この兵学校生徒の増えた分は多くが飛行科へ進んだことによる.
陸軍にはすでに士官学校予科を終えて進む航空兵だけの士官学校本科
があった(1937年から).ちなみにこの年,陸軍予科士官学校入校者
は1700名に達していた.対して海軍は最後まで飛行科将校養成の
専門学校はもたなかった.その代わり,予備員である学卒者の予備学生
の中から飛行科要員も採用することになってしまったのである.
 
 陸軍航空隊はノモンハン事件で多くの航空科将校を失った.そのため,
航空科将兵,とりわけ操縦者の損耗については深刻な反省をもっていた
のである.ここで陸海軍用語の違いにもふれておこう.陸軍は空中勤務者
といい,海軍は搭乗員という.陸軍パイロットは操縦者であり,海軍は
同じく操縦員という.
 
 兵科予備学生制度が設けられるまでには様々な陸海軍の制度の
調整が必要だった.まず,採用時の階級の問題があった.
兵科予備学生を短期現役軍医官や同主計官と同様に,大卒なら
予備学生課程を終えれば中尉で任用するということだ.これは海軍
からすれば陸軍は幹部候補生なら中卒でも少尉にしているではないか.
ならば,海軍は大卒と高専卒を採用するから中尉でよかろうという理屈
である.
 
 同じ大学の法学部出身者が,かたや主計中尉,その選抜に洩れた
同級生が泥まみれの陸戦隊少尉ではあまりに差がつき過ぎる.
ところが,これは陸軍側の猛反対にあった.そんなことをされては
陸軍幹部候補生の志願者が減ってしまうというのだ.それに階級が
一つ違うということは将来にわたって大きな影響がある.勤務時の
給与,待遇ばかりではない.いつか民間に帰る予備士官・将校は
恩給を受け,受勲資格にも大きな違いが出てしまう.同じ兵役に
服するのに不公平は困るというのが陸軍の言い分の基にあった.

▼海軍予備学生制度

 前回にはあらっぽく説明したので,制度について詳しく述べてみる.
1941(昭和16)年10月25日に第1期兵科予備学生の募集について
海軍大臣名で告示があった.
1) 大学令による大学学部卒業者で,1942(昭和17)年4月1日
において年齢26歳未満の者.
2) 大学令による大学の予科,高等学校高等科,専門学校または
これと同等以上の学校卒業者で同じく満年齢24歳未満の者.
 大学予科とは高等学校に準じるもので,私立大学に多く設置されていた.
専門学校には東京・広島の両高等師範学校もある.高等学校高等科
とは尋常科(中学相当4年間)が併設されている高等学校の生徒
である.関東圏では武蔵,成城,成蹊,東京府立,関西では甲南
などに設置された.府立浪速高校も同じ.

 このときの学校数は高等学校32校,専門学校126校,実業専門77校,
大学47校である.在学生の総数は,高等学校2万2000,
専門学校10万3000,実業専門4万2000,大学7万7000である.
なお,ついでに専門学校と実業専門の違いも述べておこう.
それには学校名が手掛かりになる.

 専門学校とは富山・熊本などの薬学(薬剤官になれる),東京・大阪
の両外国語学校,東京美術学校,東京音楽学校,東京高等歯科医学校,
気象技術官養成所などで以上が官立.公立では大阪商科大学高等商業部
などと女子専門学校が多い.私立では大学に併設された専門部,
薬学,宗教,歯科,音楽などが目立っている.

 戦後はどれも一緒に大卒といわれたが,早稲田大学商学部卒業
の学士と同専門部の人とは立場が違っていた.専門部卒業は学士
とは異なるのである.なお,余談だが軍隊の中にも学歴詐称が多く,
とりわけ私大専門部中退はもっとも詐称しやすい学歴だったという.

 これに対して実業専門は同じく,高等教育だが高等工業,同商業,
同農林などである.東京商船や神戸商船,函館高等水産学校,
秋田鉱山,上田蚕糸,東京高等蚕糸,京都同などがある.私立も多く,
東京写真専門,同電機高等工業,日本高等獣医学校,東京同,
麻布獣医学校,そして教員養成学校なども含まれる.

 身体検査と筆記検査は大東亜戦争の開戦があった12月21日から
25日の間に,仙台,東京,名古屋,大阪,福岡で行われた.
合格して採用された者は17年1月に407名が入団した.蝦名賢造氏
によれば横須賀第1海兵団に入ったのは378名であり,そのうちから
第10期飛行専修予備学生になった者が100名だったという.
岩国航空隊に移って行った.また,特信班といわれる通信科に入った者
が100名,気象班に進んだ者10名ほどだったらしい.
その他,兵科学生は陸戦,対空,通信,対潜,施設,教育,心理,技術,
航空兵器の各班に分かれて修業を始めた.海兵団で6カ月の基礎教育
を終えると,それぞれの術科学校に進み18年1月に少尉になった.

 教育班とはどういう兵科予備学生だったのか.彼らは他の仲間が
術科学校へ学生として入校したのに,彼らは予備学生の身分のまま,
海兵団練習部や土浦航空隊,海軍兵学校に「教官」として赴任していった.
彼らは戦争の拡大で不足する文官教官の代わりとして特別年少兵や
予科練習生,兵学校生徒たちに普通学(国語・数学・英語・物理など)
を教えるための要員だった.心理班は航空心理学の研究員になったり,
現場の航空隊で飛行兵の適性検査をしたりしていた.

 なお,服装や身分は『各科少尉候補生に準ず』ということから士官服
である.階級章は兵曹長より太い金筋一本,袖章も蛇の目といわれた
カールはなかったものの黒毛織線が一本だった.
ただ,こうなったのも兵科予備学生の一期からで,航空予備学生時代
は『海軍生徒に準ず』ということから兵学校や機関学校,経理学校の
生徒より身分が下だった.軍帽前章も肩章も襟章もすべて生徒と同じ
立ち錨に羅針儀(コンパス)マークが載っていた.予備員の印である.

 戦争が続き1943(昭和18)年になると,予備学生の採用はもっと増えた.
後半には科別の採用がなくなり,以前の飛行科は飛行(操縦・偵察)と
飛行要務のそれぞれの専修コースに分かれた.飛行要務とは
飛行隊・航空隊の情報収集,分析,整理,管理などにあたる.
本部などで航空図などを用意する姿が戦中映画などに登場する.
整備は航空機と兵器整備に分けられた.

 神宮外苑で学徒出陣と華々しく送られた学徒出陣組は18年12月
に入団すると,まず臨時徴兵検査で役種が決まる.海軍に送られた
学生は1万8000名といわれる.海兵団で徴兵された2等水兵として
扱われた.水兵服を着たわけである.1カ月後に試験を受け,
19年2月に採用されると各専修コースに分けられ,土浦航空隊や
海軍砲術学校などに入隊していった.なお,海軍士官の服装に区別
があったことはあまり知られていない.彼ら予備学生はあくまでも
予備士官の卵だった.

 それは彼らの先輩である1941(昭和16)年9月に大学・高専を
繰り上げ卒業して志願採用された前期の1期生たちも同じである.
彼らの軍帽前章はコンパス・マークであり,襟に着いた階級章もまた
羅針盤のマークだった(現在も海上保安庁の帽前章や階級章,船艇
の煙突に付くマークと同じ).袖についた蛇腹組線といわれた帯も
正規士官とは異なって山形だったのだ.その一部が廃止されたのが
18年7月,帽前章や階級章は正規士官と変わらなくなったが,
袖章のカールだけは敗戦まで変わらなかった.

▼海軍予備生徒
 
 学徒出陣といわれた彼らは兵科予備学生4期生,飛行科では
14期生だったが,同じ時期,なんと「海軍予備生徒」というコースが
スタートした.もともと予備生徒とは伝統ある名称だった.高等商船学校
の在学生のことである.平時ならふつう5年半の学校在学年の間に修業
を積み,海軍予備少尉,同機関少尉に任官する制度だった.
この伝統ある制度の他に予備生徒という身分,課程を立ち上げたのだ.
士官不足への対応だった.
 
 というのも予備学生は卒業を条件にしていた.在学生はどうなるか.
受験資格がなかったのである.陸軍はとにかく中等学校さえ出ていれば
幹部候補生の受験資格はある.そこで海軍は19年1月31日付で
「海軍予備員任用臨時特例ニ依ル海軍予備生徒規則」を公布する.
予備生徒に採用されると1年間の基礎軍事教育を施し,「予備員タル
海軍少尉候補生」を命じて,6カ月以上の実務訓練をし,
「予備員タル海軍少尉」に任用することにした.この少尉候補生を
経験することが,それまでの船乗り予備生徒と違った.予備生徒は
卒業と同時に予備少尉になった.
 
 実際,第一期飛行専修の人たちは予備生徒10カ月,候補生6カ月
で少尉に任官していた.
 
 次回はいよいよ海軍の見習尉官,陸軍の特別操縦見習士官,
特別甲種幹部候補生制度などをまとめて,戦時の動員の実態の一部
を説明しよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.9.16




『ライター・渡邉陽子のコラム (61) ─ 2015年陸海空自衛隊の装備と運用(8) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

台風18号による豪雨被害に遭われたみなさまにお見舞い申し上げます.
現地に派遣され救助,復旧活動をされている自衛隊をはじめとするみなさん,
お疲れ様です.

また,先週末早朝は東京・神奈川周辺で大きな地震がありました.
我が家は震度4でしたが,親族の結婚式のため前日から不在にしていて,
家には猫のみ.帰宅するとものが落ちたり倒れたり,それなりに騒がしい音
が立ったであろう跡があちこちに残っていました.
怖くて鳴き過ぎて気持ち悪くなったのか,猫が吐いた跡も.

今の住まいでは何度か震度4がありましたが,みごとに100%,
ことごとく私が不在のときなのです.
いささか出張も旅行もためらわれる,今日この頃です.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■2015年陸海空自衛隊の装備と運用(8)


2015年度の防衛予算に含まれる新規事業を中心に,
2015年の陸海空自衛隊の装備と運用についてご紹介する第8回目です.
先週は,米国との共同訓練の話でした.今回は弾道ミサイル攻撃
への対応とサイバー空間における対応,そして人事教育に対する施策
についてご案内します.


弾道ミサイル攻撃への対応

昨年,3月に2度,6月に1度,7月に3度と,北朝鮮による弾道ミサイル
の発射が相次ぎました.いずれの弾道ミサイルも約500キロ飛翔し,
日本海上に落下したと推定されています.
そしてまさに今も,10月10日の朝鮮労働党創建70周年に合わせ,
長距離弾道ミサイル発射実験を行う可能性を示唆しています.

防衛省は弾道ミサイル攻撃への対応として,今年は耐用命数を
迎えるPAC-3ミサイルの部品(シーカー部)を交換するとともに,
ミサイル全体の点検を実施し,所要のPAC-3ミサイルを確保するとしています.

また,弾道ミサイル攻撃に併せ,同時並行的にゲリラ・特殊部隊
による攻撃に対応する態勢を整備するため,新除染セットと化学剤検知器(改)
の取得を予定しています.
新除染セットは核・生物・化学(NBC)攻撃などにおける大量の人員
や装備品の汚染等に迅速に対処して,被害の拡散や二次被害等
を最小限にとどめるため,各種の除染能力を強化したものです.

さらに現有多用途ヘリUH-1J(台風18号による常総市での人命救助
でも活躍しました)の後継として,各種事態における空中機動,大規模災害
における人命救助等に使用する新多用途ヘリコプターUHXの開発も
開始されます.

7月17日,開発業者は富士重工業に決定.選定には川崎重工業も参加
していましたが,開発期間や価格面で富士重が優れていると判断されました.
この選択には賛否両論あるようですが,すでに決定したこと.
富士重と米ベル・ヘリコプターが共同開発する民間用ヘリを陸自向けに
改修し,2021年度末から部隊に配備,20年間で計150機を調達する予定です.

UHXはゲリコマ攻撃事態への対応だけでなく,島しょ侵攻事態,
各種事態における空中機動,航空輸送,患者の後送等の戦闘支援,
大規模震災における人命救助,住民の避難,空中消火,航空偵察,
国際平和協力活動等における支援物資空輸等,多用途ヘリだけに
多彩な場面での活用が期待されます.


サイバー空間における対応

昨年3月,日々高度化・複雑化するサイバー攻撃の脅威に適切に
対応するため,統合幕僚監部自衛隊指揮通信システム隊に
サイバー防衛隊が新編されました.

防衛省・自衛隊のネットワークの監視及びサイバー攻撃発生時
の対処を24時間体制で実施するとともに,サイバー攻撃に関する
脅威情報の収集,分析,調査研究等を一元的に行なっています.

今年もサイバー攻撃に対する十分なサイバー・セキュリティを
常時確保できるよう,人材育成を含め,サイバー攻撃対処能力
の検証が可能な実戦的な訓練環境の整備等,所要の態勢整備
を行なっています.

新規事業は,サイバーレンジの構築等に関する独立行政法人
情報通信研究機構(NICT)との研究協力,防御の実効性を高める
ための演習対抗機能の設置に向けたサイバー空間の利用を妨げる
能力に関する調査研究,実践的な学習教材・教育プログラムとしての
シリアス・ゲーム(教育)導入に向けた取り組みなど.
これらによって実戦的なサイバー演習環境を整備します.


人事教育に関する施策

優秀な人材を確保するため,複数の施策が予定されています.
まず自衛官候補生の適性検査の問題を見直し,現代の受験者
に適したより実効性のある検査にします.

また,予備自衛官等協力事業所制度(仮称)による予備自衛官等
の雇用拡大,技術貸費学生の採用枠を拡大し自衛隊における
技術系分野の強化を図るほか,海自が予備自補を導入することで
民間海上輸送力の活用を見込んでいます.

次回は大規模災害などへの対応についてです.


発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.9.17




body


こんにちは.

エンリケです.


IT技術の発展は,IT革命という形でビジネスや通信分野の驚異的な発展を
もたらしたとともに,IT空間を舞台にした犯罪や詐欺,戦争を生み出しました.


いま手元に小さな本があります.

「漫画で学ぶ サイバー犯罪から身を守る30の知恵」
 http://okigunnji.com/url/18/

といいます.


帯にはこうあります

「今さら聞けないネットの基礎知識 ITサバイバル入門
これさえ知っていればネット犯罪は防げる」

正にこの言葉通りの本で,

全158ページ.
漫画も充実しています.

2時間もかからず読める内容です.

30項目の解説は,漫画と,インストールという言葉にすら意味が書かれている
短い文面(各項目数ページ)の2本立てからなされており,
これを読んで分からない人はいません.


それもそのはず
この本は,情報セキュリティサービス会社「ラック」の
総合研究所「サイバー・グリッド・ジャパン」の
サイバー防護専門家が「ネットの基礎知識」から
「サイバー犯罪対処法」まで,初心者向けにわかりやすく
セキュリティ対策をまとめたものです.

編著者代表の伊東寛さん(元一等陸佐[陸軍大佐])は,
陸自初のサイバー戦部隊「システム防護隊」の初代隊長です.


この本で特筆すべきはマンガですね.
書き手は「ブラックプリンセス 魔鬼」の石原ヒロアキさん
(元一等陸佐[陸軍大佐] 元陸自化学防護隊長)です.

絵の雰囲気とギャグが,本の内容とピッタリ合っており,
文章,マンガ,コラムの3者が
絶妙のバランスで配置されてストレスなく読めるのに,
IT技術の解説に関する内容にまったく妥協はない.

それなのに158ページをいう薄さに収まっている.

プロトコルという言葉の意味が分からないあなたが手にとっても,
PCを通じてあなたが直面しているサイバー空間,IT技術の現実
,悪に対する具体的な対処策を余すところなく伝えてくれる.


それがこの本

「漫画で学ぶ サイバー犯罪から身を守る30の知恵」
 http://okigunnji.com/url/18/

です.


目次など詳細はこちらで.
http://okigunnji.com/url/18/

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.9.17




陸軍機 vs 海軍機(52)       清水政彦

「零戦と隼(51)」
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「零戦vs隼」の第51回.
今回は,フィリピン航空戦の過程で生まれた「特攻」とその背景についてです.

▼ 準備なき比島決戦

 前述のとおり,マリアナ決戦の敗北によって「絶対国防圏」が
崩壊した時点で,次なる決戦場であるフィリピン方面の戦備
はほとんど着手されていなかった.

 フィリピンにおける航空作戦の唯一の基盤は,戦前に米軍が
整備した「クラーク・フィールド」を中心とする航空基地群であった.
昭和19年夏の時点で,ルソン島南部からセブ島,レイテ島
にかけての一帯には10カ所ほどの飛行場が使用可能だったが,
これらの基地は昭和17年に占領した当時のままの状態で放置
されており,戦時に相応しい防護設備を持たない,
いわば「平時態勢の基地」に過ぎなかった.

 大本営は急遽,フィリピンに大規模な「航空要塞」を建設する
ことを目指したが,頼みの「機械化設定隊」の多くはすでに
西部ニューギニアと豪北方面に投入されており,制海権の喪失
によりその撤退は不可能な状況である.

 結局,泥縄式に行なわれた「航空要塞」の建設は,
またしても米軍の進攻速度に追いつけなかった.
日本陸海軍の航空隊は,ここでも不十分な作戦基盤の制約を
受けながら,苦しい戦いを強いられる.

▼ 「特攻」の始まり

 昭和19年10月下旬,連合軍はフィリピン中部のレイテ島に
上陸した.レイテ島は中部フィリピン群島の一番東側にある
大きな島で,そこには複雑な地形に護られた広大な泊地と,
クラーク航空基地群の一角をなす飛行場があった.

 上陸に先立ち,米空母機動部隊は制空権獲得のため
フィリピンと台湾の航空基地に対して機動空襲を反復した.
同方面に集結して戦力整備中だった日本の航空部隊は,
準備不足の中で圧倒的多数の艦上機から集中攻撃を受け,
ほぼ全滅してしまう.

 6月のマリアナ決戦で大損害を受けていた日本海軍の
空母機動部隊は,この時すでに米空母に対抗する実力を失っており,
レイテ戦では単なる囮として活動するしかなかった.

 連合艦隊はこれまで温存していた戦艦と巡洋艦のすべてを
投入してレイテ泊地への突入を図ったが,米空母機の空襲と
水上艦隊に阻止された.

 この過程で,戦力の大部分を失った海軍航空部隊は,
戦艦部隊のレイテ湾突入作戦を支援する目的で,零戦に250キロ爆弾
を搭載して空母への体当たりを行なう「特別攻撃」を初めて実施した.
6機の特攻隊は初陣でタンカーを改造した護衛空母1隻を撃沈し,
さらに同型の護衛空母3隻を撃破した.一見すると「成功」に見える
この戦果が,その後の航空作戦に大きな影響をもたらすことになる.

▼ 「特攻」の拡大とその背景

「特攻」は,その名の通り,主力戦艦部隊がレイテ湾に突入
する時間を稼ぐための一時的な戦術であり,あくまで「特別」な
攻撃であるはずだった.

 しかし,航空作戦の基盤を欠き,米機動部隊の空襲に対して
まったく打つ手を持たなかった陸軍航空部隊は,たった6機の
戦闘機で空母4隻を撃沈破したという海軍の「特別攻撃隊」の
戦果に注目し,海軍に追随する形で「特攻」を拡大させていった.

 このとき,「統帥の外道」と言われる特攻が急速に拡大していく
背景として,軍の組織全体の中で航空部隊の置かれた立ち位置
が特殊であったことは無視できない要素である.

 航空部隊はほかの兵科よりも人事面や給養面でかなり優遇
されているうえ,極めて貴重な飛行機を地上で破壊されては
撤退するという失態を繰り返したため,航空作戦に振り回される
地上兵団との間に感情的なしこりがあった.

 文字通り地べたを這いずり回って苦闘している陸上部隊からすると,
航空部隊は巨大な予算を使ってふだんから贅沢な生活をしていながら,
肝心な時にはほとんど役に立たず,飛行機を失うと自分たちを捨てて
後方に逃げてしまう卑怯な奴らだ…という風に見えたからだ.

 航空戦力が地上で壊滅しても,パイロットや司令部は輸送機
で後方に撤退できる.しかし,航空部隊のために飛行場や関連施設
を建設し,整備し,補給物資を運び,防衛する地上部隊は,
ひとたび制空権を失ってしまうと撤退が不可能であり,残された道は
玉砕か餓死・病死のみなのである.

 補給を絶たれた絶望的な戦場で死闘を続ける陸上部隊がいる以上,
比較的「守られ,優遇された立場」である航空部隊としては,
飛行機がないからといって彼らを見捨てて撤退するわけにはいかない……
「特攻」が拡大していく背景には,こうした軍内部での「政治的配慮」
ないし「大人の事情」の要素が少なからず作用しているように思われる.

▼ 対艦攻撃力を持たない陸軍機が「特攻」する訳

 レイテ島で激戦が行なわれていた昭和19年末の時点で,
敵の航空基地に対する伝統的な「航空撃滅戦」や,友軍地上部隊
への直接的支援は重要性が低下していた.

 なぜなら,この時期には,縦横無尽に暴れまわる空母機動部隊を
撃破しない限り,およそ制空権の奪還は不可能であることが明確に
認識されていた.制空権を奪還しなければ輸送船の攻撃ができず,
輸送船を攻撃できなければ,敵は無尽蔵の兵力と物資を戦場に
送り込んでくるのだ.死闘を続ける地上部隊が航空部隊に望むことは,
何よりも敵空母と輸送船を撃破し,敵の地上部隊に対する増援と補給
を止めることであった.

 しかし,陸軍には対艦用の徹甲爆弾も魚雷もなく,
飛行機はこれらを運用する前提で作られていない.
パイロットの教育も,対艦攻撃が考慮されるようになったのは直近のことである.

 つまり陸軍航空隊は,ハード的にもソフト的にも,
有効な対艦攻撃手段を持たないなかで,突然に「敵空母の撃破」
という至上命題を与えられた.そこに登場した新戦術が「特攻」であり,
陸軍中央はなりふり構わずにこれに賭けたのである.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.9.16




◆菊間千乃『私が弁護士になるまで』を読み解く



※要旨


・30代で人生を変える.
アナウンサーという仕事に迷い選択をせまられた私は,
フジテレビを退社.
退路を絶って司法試験に挑戦することを決意する.
ロースクール卒業後,5年以内に3回しかチャンスはない.


・すべての思考力は暗記に始まる.


・どんな理解力があったとしても,
足し算,掛け算ができなければ難しい数式を解けない.
各科目の基本となる部分は暗記しなければならない.


・同じように,法律の代表的な判例の内容,
そこから導き出される規範,有名な学説の対立などは,
覚えていて当たり前.
それができずに,現場思考もあったものではない.


・それは教授陣にとっては,あまりに当たり前のことであるから,
暗記なんていらないと言うのであって,
初学者にとってみたら,やはり膨大な量の暗記からはじまるのである.


・暗記→自分のものに消化→思考→表現.
この過程をたどって,司法試験の勉強は続いていく.


・理解するといっても,その前提として誤解を恐れずにいえば,
やみくもに暗記をしなければならないものもある.
それを体,頭に染み込ませて,初めて論文の勉強がスタートする.


・試験の直前期に,今までのペースを乱すことなく,
淡々と知識を確認し,復習を重ねた者が,
グーンと実力を伸ばし,合格を勝ち取るのである.
それは決して,直前に猛勉強をするというのとも違う.


・今までやっていたことを淡々とこなすだけ.
その先に,普通に試験がやってくる.
そんな心持ちで試験に臨めば,
自ずと実力を発揮することができるということのような気がする.


・1日15時間の勉強を不思議がる人もいる.
不可能だという人もいる.
私も自分の家で一人っきりで勉強していたら,
無理だったかもしれない.
外に出て,人が行き交う中で勉強することで,
周りの空気が動き,気が流れ,
思考も気持ちも停滞せずに勉強ができていたのかもしれない.


・優しく,強く,そして聡明であれ.


・私の場合,友人との連絡を断ち,
テレビも見ずに情報をシャットアウトした.
そして毎日毎日,勉強にのめり込んでいたから,
結果的に心が研ぎ澄まされていったような感じである.


・冗談で,退社したら山籠りですよ,
などと言っていたが,まさに私にとっては,
修行であったのかもしれない.


※コメント
菊間さんの壮絶な人生を垣間見た.
そして人は努力によって,自分の人生を違うものにできることを知った.
いろいろ学びとりたい.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.8.29





◆佐藤寛『山岡鉄舟,幕末維新の仕事人』を読み解く


※要旨


・山岡鉄舟と聞いて,どのようなイメージを持つだろうか.
一般的には,禅と書と剣の達人だろう.
また,徳川幕府の幕臣出身でありながら,明治天皇の教育係であり,侍従であった.

江戸城無血開城における勝海舟と西郷隆盛会談に先立ち,彼が幕府特使として官軍に派遣されたことも思い出すだろうか.
同時に,彼は優れた交渉人,行政マン,経営者であり,危機管理の達人であった.



・心の奥で理解したことが書となって表現される.
しかがって見る者の心に響く.


・鉄舟は生涯を通じ,人の話を熱心に聞くことによって,相手を引き付けている.
決して人より新しい思想や考え方,人より卓越した論理的戦略を口にして相手を引き付けているわけではない.
なぜか人は鉄舟の周囲に集まる.
相手の話を熱心に心で受け止める姿勢に,人は鉄舟の虜になるのである.


・「武士は胆力を練らなければ,いざという時にうろたえる.
胆力を練るためには剣と禅が一番だ」
鉄舟の父がよく言っていた言葉だ.


・鉄舟は,仲間内の加わる余地のない勢いの議論を,ひたすら教えを乞う姿勢で聞いていた.
幕臣でありながら反論することなく,真剣に議論に耳を傾ける彼に対して彼らの誰もが好意を持った.
彼らは好意を持っただけでなく,鉄舟の約束を守るという実行力にも驚かされた.



・「晴れてよし,曇りてもよし,富士の山,元の姿は変わらざりけり」
と超越した心境に云った男が,山岡鉄舟である.


・西郷隆盛は,鉄舟のことを,次のように評している.

「命もいらず,名もいらず,官位も金もいらぬ人は,どうにも始末におえない.
しかし,あのような始末におえぬ人でなければ,天下の大事はかたれないものです」

西郷は鉄舟と出会い,のちに彼を若き明治天皇の教育係に推挙する.


・鉄舟は,幼い頃より,四書の素読,書道,剣術をみっちり学ぶ.
素読は苦手だったようだが,書道は,得意だったようだ.


※コメント
剣や書で有名な山岡鉄舟の業績について書かれている本は少ない.
ただ,彼の仕事ぶりを読み込むと,その凄まじさに驚く.
数多くいた旗本の中で,頭角を現すには,人間力と胆力が欠かせないことを教えてくれる.
幕府がなくなっても,そういった自分は,新しい世界でも必ず抜擢される.
見ている人は,見ているのだ.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.9.26




◆枡野俊明『禅が教えてくれる美しい人をつくる「所作」の基本』を読み解く


※要旨


・心を整えるために,まずみずからの所作を整えることから入るのが禅の修行.
立ち振る舞いが整えれば,自然と心も整う.
心が穏やかであれば,言葉に優しさや思いやりがにじみ出てくるもの.


・所作を整えれば,心も綺麗になるし,身のこなしもきれいになる.
そういう人は,他人の目に「美しい人」として映るようになる.


・実は,所作が美しい人ほど,その所作は「さりげない」もの.
わざとらしくなく,美しい所作をするから「なぜだか分からないけれど,心惹かれる」のです.


・所作を整えることは心を整えること,所作を磨くことは心を磨くこと.


・多くのものは,簡素になればなるほど美しい.
じつは,美しさは「簡素」のなかにある.
簡素さは美しさの原点であり,そして終着点でもある.
簡素になればなるほど美しい.


・所作,呼吸,心は三位一体.
イライラしている人に,所作の美しい人はいない.


・姿勢を整えると,仕事も健康もいいことだらけ.
一流の女優さんを見ていて「さすがだなぁ」と思うことがある.
対談番組などに出演しているとき,背もたれにいっさい背中をつけないで座っているのです.


・呼吸は正直なあなたの心を示す.
呼吸を整えることができれば,心もいい状態に安定することになる.
さらに,深い呼吸によって体が温まってくる.
呼吸法は,かつて山中で修行をしていた仙人が,厳寒の時期の洞窟で暖をとっていた方法.


・人物判断の際に「足元」は100%チェックされる.


・他人を見て,いいな,素敵だな,と思ったことは,まず10日続ける.
気づきは,美しい人に近づく貴重なきっかけとなる.


・日本語は,世界でもたぐい稀なる美しい言葉.
美しい言葉は,それそのものが,美しくなるための大きな武器.


・畳のヘリを踏まない.
これは和室の所作の基本の基本.
常在戦場,つねに戦いに備えておくことが必要だった武家社会では,
床下に潜んでいる敵に襲われるということもあった.
畳はヘリの部分で合わさっているので,そこを踏んでいると突き抜けてきた刀の切り先で痛手を負うことがあった.


もっとも重要なのは,ヘリは格式をあらわすものだったという点.
ヘリを踏むことは,文字通り,格式を踏みにじることであった.


・汚れたものは,その日のうちに.
「片付け」が,楽しみの後始末ではなく,次の行動のための準備であるのである.


・箸や器を大切に使えば,自然と美しい所作になる.


・早起きをして,縁起よく一日を始める.
そして,朝,5分でいいので,掃除する.
塵や埃がすっかり拭われて,身辺が整うことは,心を整えることに直結する.
掃除をしている間は,拭くこと,磨くこと,掃き清めることに専念して,何も考えないこと.


・朝起きたら,窓を開ける.


・着ているものは,あなたの心をあらわしている.
「服装は生き方である」
(イヴ・サンローラン)


・お寺や神社にお参りするとき,必ずおこなう所作が「お清め」.
身だしなみの美しさの土台になるのは清潔感.


・挨拶の力を知る.
そして,美しい文字を書く.
誰にでもできるのは「相手のことを思い,心を込めて丁寧に書く」ということ.
できれば,墨を使うのがいい.


・禅僧の書はとくに「墨跡」と呼ばれる.
それを記したのが師であれば,その方の業績や人格がその墨の跡にあらわれている,と考えるから.
墨で書かれた文字はさらにクッキリとその人の存在が,その人という人間の全体像が見える.


・メールではなく,直接話す.
感謝は,感じたときに,すぐに伝える.
感謝は手紙であらわす.


・もてなしとは,もてなす側も,もてなされる側も力量が問われる.
もてなしの究極の姿は,その以心伝心の世界にある.


・たかがお茶,されどお茶.
お茶に込めた心は,飲む人にも伝わる.


・携帯電話に頼り過ぎない.


・風呂敷を使おう.
お世話になった人に贈答品を持参するということがある.
その際,紙袋からガサゴソと品物を取り出すのが一般的.
しかし,その際ぜひ,風呂敷を復活させてください.


・丁寧に品物を包んだ風呂敷をほどいて品物を差し出す.
その所作は,「あなたのために心を込めて選ばさせていただいた品物を,こうして大切に持ってまいりました」
という無言のメッセージ.
感謝とともに伝統の香り漂う品位が伝わる.


・ワインはそれ自体おしゃれな贈り物だが,
ボトルを綺麗な色の風呂敷でラッピングして,
そのまま差し上げるというのはどうでしょう.


・割り箸が最高のおもてなしである理由.
日本独特の食文化のひとつが「割り箸」.
食事でおもてなしするお客様に,誰も使っていない真新しい箸を準備する.
ここにも「語らずに通い合う心」がある.


※コメント
われわれにも知らない日本文化というのはたくさんある.
その背景を一つずつ読み解いていくと,面白い.
それを知ることは,自らの所作に繋がる.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.9.25




ライター・渡邉陽子のコラム (62) ─ 2015年陸海空自衛隊の装備と運用(9) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

ラグビーワールドカップが開催中です.
日本は南アフリカとスコットランドという強豪と同一グループ
ですが,いきなりジャイアントキリング,やってくれましたね.
スポーツで泣いたのは,ソチオリンピックの真央ちゃんの
フリーの滑りを見たとき以来です.最後の最後に手堅く同点
で勝ち点2を狙うのではなく,ハイリスクでも世界3位を相手
に逆転を狙い,あえてのスクラム.あの心意気,思い出すだけで
泣けてきた.

ラグビーはちょいちょいルールが変更になるので,いまだに
ちゃんと理解できていない部分も多いのですが,冬のシーズン
は秩父宮でラグビー観戦します.サッカーと違ってみんな応援
もゆるくて,観客の年齢層も高め.そんな会場の雰囲気も大好き
です.4年後のワールドカップ開催国は日本ですから,ラグビー
人気が高まるかもしれませんね.秩父宮ももう少し混むようになるかも.

このメルマガが配信される日にはスコットランド戦の結果も出てい
ることでしょう.テレビでも伝わって来た気迫と闘志,ぜひまた
見せて欲しいです.頑張れブレイブブロッサムズ!



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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■2015年陸海空自衛隊の装備と運用(9)


2015年度の防衛予算に含まれる新規事業を中心に,2015年の
陸海空自衛隊の装備と運用についてご紹介する第9回目です.
先週は,米国との共同訓練の話でした.今回は大規模災害
などへの対応についてです.

茨城県常総市への災害派遣が終わり,自衛隊は現地から
撤収しました.シルバーウイークには多くのボランティアの
方も駆けつけたようですね.箱根に続き先日は阿蘇山も
噴火,先週は津波がチリから半日かけて太平洋沿岸に
到達しました.こんなに小さな島国なのに,自然災害は本当に多いです.


2015年度1四半期,自衛隊の災害派遣の総件数は56件
であり,派遣規模は延べ人員2312名,延べ車両147両,
延べ航空機87機でした.

その内訳は,山林火災に係る災害派遣4件,消火活動(近傍火災)
にかかる災害派遣8件,火山災害に係る災害派遣1件,
捜索救助(行方不明者捜索)にかかる災害派遣3件,
急患輸送(緊急患者空輸)にかかる災害派遣39件,
その他(災害地等の状況偵察)にかかる災害派遣1件でした.

特に,緊急患者空輸の災害派遣では,82%(32件)が
沖縄県において派遣されたものでした.ちなみに昨年同時期
の災害派遣は81件,急患輸送34件(うち沖縄が30件),
人員9662名,車両872両,航空機203機です.多いです.


そう,昨年の2014年も,日本が災害大国だと改めて
思い知らされた1年でした.
2月には広域にわたって大雪に見舞われ,交通機関はマヒ,
孤立する地域が続出し,山梨,群馬,福島(2か所),長野,
静岡,東京,宮城,埼玉の各都県からの災害派遣要請を受けました.
派遣規模は延べ約5060名,車両延べ約990両,航空機延べ131機,
救助者数73名,物資輸送約44トン,除雪距離約281.2キロ
におよびました.何日も降り続いたわけではなく,たった1日か
2日間の雪が,都市としての機能の多くを奪ってしまったのです.

8月には広島市で大雨による土砂災害が発生,第13旅団を
中心に人員延べ約1万4965名,車両延べ約3235両,
航空機延べ66機が派遣され,人命救助,行方不明者捜索,
入浴支援などを行ないました.


さらに9月27日には長野県御嶽山が噴火,災害派遣要請を受けた
松本駐屯地の第13普通科連隊がまずFAST-Force(人員約40名,
車両約5両)を派遣.第12旅団は13連隊を中心とした災害派遣部隊
を編成し,10月16日に撤退するまでに人員延べ7150名,車両延べ
1835両,航空機延べ298機を派遣,23名を救助し56名の心肺停止者
の搬送を行ないました.この災害派遣は標高3000メートル,火山灰,
有毒ガスという,派遣された隊員にとっても極めて過酷な環境下
での活動でした.また,災害派遣に初めて89式装甲戦闘車が派遣
されたことでも注目されました.89式装甲戦闘車は全国で第7師団
の第11普通科連隊と富士教導団普通科教導連隊にしか配備されておらず,
そもそもの車両数が少ないのです.当時は火山弾の直撃を受けて
多くの死傷者が出ていたため,普通科教導隊の89式装甲戦闘車
を緊急時の輸送用として第12旅団へ臨時編入したのでした.


地震に台風,集中豪雨,豪雪に噴火と,この先もどのような災害が
起こるかわかりません.自衛隊は各種災害に際して十分な規模の
部隊を迅速に輸送・展開するとともに,統合運用を基本としつつ,
要員のローテーション態勢を整備することで,長期間にわたって
持続可能な対処態勢を構築するとしています.その一環として,
2015年は災害対処拠点となる駐屯地・基地等の機能維持・強化のため,
市ヶ谷庁舎被災時の代替機能の整備を行ないます.これは首都直下
地震による被災に備え,朝霞駐屯地を代替地として活用できるよう
同駐屯地情報通信基盤の拡充を図るものです.海自は海上作戦センター
の整備として,横須賀の船越地区に自衛艦隊司令部等の新庁舎を
建設するための準備を進めます.


大規模・特殊災害等に対応する訓練としては,離島における台風災害等
に対して統合運用による災害対処能力の維持・向上を図る
離島統合防災訓練,国内の大規模災害発生時における在日米軍等
との連携要領の確立,震災対処能力の維持・向上を図る日米共同
統合防災訓練等を実施します.6月7日には南海トラフ地震が発生した
場合を想定した平成27年度日米共同統合防災訓練,6月29日〜7月3日
には首都直下地震を想定した平成27年度自衛隊統合防災演習,
8月26日〜30日には日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震を想定し
自衛隊,在日米陸軍,第3海兵機動展開部隊及び豪州軍が参加した
ノーザン・レスキュー2015が開催されました.


次回はこの連載の最終回,グローバルな安全保障環境の改善についてです.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.9.24





◆佐藤優『帝国の時代をどう生きるか』を読み解く



※要旨


・叡智とは,生きるために必要な深い知恵のこと.


・エリートは能力の一部を社会に贈与しなくてはならない.


・知らないことに,いい加減なことを言わないのがインテリだ.


・議会制民主主義のもとで,政治家が国民の平均的水準から著しく乖離をすることはない.


・ロシア人は,脅威の対象となる国家や民族については,徹底的に研究する.
外務省,SVR(対外諜報庁),GRU(軍参謀本部諜報総局)などの政府機関とともに,
ロシア科学アカデミー傘下の東洋学研究所と極東研究所が中国に関する詳細な調査と研究を行っている.


・国家にとって,緊急事態が発生したとき,英国政府はマスメディアに対する規制を行うことがある.


・マーク・ロイエンタール氏は,英国について次のように述べている.

→類似性と歴史的結びつきにもかかわらず,英国と米国の政府機構と市民的自由には大きな違いがあり,
それは両国のインテリジェンスの慣行を理解する上で,重要である.

→第一に,英国の行政機関である内閣は,米国大統領を超える優越性を持っている.
議会に諮ることなく,種々の職務に人を任命し,主要な行動つまり宣戦,講和および条約の署名をとる権利を有している.


→第二に,国外のインテリジェンスと国内インテリジェンスの区別が米国に比べるとはっきりしていない.


・国家にとって非常事態が起きたと判断すると,盗聴,身柄拘束など,
市民の基本的人権を侵害する恐れがある措置を英国政府は大胆にとる.
また,検閲も行う.
それを許容する文化が英国にあるということだ.


・閣僚や与党の有力政治家には,「番記者」と呼ばれる担当記者がいる.
特定の政治家に文字通り密着して取材する記者である.
番記者と政治家は非公式の懇談を行う.
この懇談はオフレコ扱いになる.


記者はオフレコ懇談の内容をメモにして上司にあげる.
特に完オフの部分については,「この部分は完オフ」とわかるようにメモを作成する.

このメモは,社内秘の扱いとなっているが,実際は外部に流出することがある.
流出先は政治家や官僚だ.
オフレコメモを見せたり,渡したりすることの対価として,さらに深い情報を得るのだ.


・プーチン氏は帝国主義者である.
常にロシアの国益を考え,外交戦略を構築する.


・外交は言葉の芸術である.
特に首相,外相は,外交ゲームにおいて国家を体現する機能を果たすので,
言葉の使い方に細心の注意を払わなくてはならない.



※コメント
外交もビジネスも言葉から始まる.
文書において,言葉の表現は非常に大事であり,どれだけうまく言葉を活用できるかによって,
コミュニケーションの質が変わってくる.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.9.24




マーケット・ガーデン作戦とインテリジェンス (13)
                長南 政義
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【前回までのあらすじ】

本連載は,精確な内容を持つインテリジェンスが
一九四四年九月上旬に連合軍の指揮官に利用された
かどうかを考察することにある.実は,インテリジェンス
の内容は,マーケット・ガーデン作戦実行に伴うリスク
を連合軍の指揮官に警告していた.

指揮官が決定を下すために利用できるインテリジェンスの
情報源は数多く存在していたが,本連載では「ウルトラ」
情報により提供されたインフォメーションにのみ焦点を
当てて考察を進めることとする.第二次世界大戦を通じて,
連合軍の戦略レヴェル・作戦レヴェルの指揮官たちは
ウルトラ情報を活用し,ウルトラ情報の精確性に関して
めったに疑いを持たなかったからだ.

前回から「ウルトラ」情報について述べている.
前回はギュスターブ・ベルトランとD部の活動がエニグマ
解読に果たした役割と,戦間期アメリカの暗号解読活動
とについて説明した.

今回はポーランドの暗号解読について詳しく述べてみたい.

【ポーランドの暗号局が直面していた問題】

第一次世界大戦後も,ポーランドは他国には解読不可能
と思われたドイツの暗号通信を解読する情報解読能力を
限定的ながらも維持し続けた.ポーランドはポズナニの
スタロガルトに通信情報収集センターを,クシェスワビツェ
にドイツの通信情報を傍受する傍受局を設立した.そして,
傍受した暗号通信を解読する責任を有していたのが,
ワルシャワにあるポーランド軍参謀本部暗号局であった.

ポーランドが直面していた問題はドイツの暗号を解読する
任務に耐えうる能力を持ったよく訓練された暗号解読専門家
の数が不足していることだった.ドイツ海軍が一九二六年
にエニグマ暗号機を使用し始めたときに,この問題はより
悪化することとなった.

【ポーランド軍,大学で暗号学講座を開設する】

高まりつつある脅威に対処するために,ポーランド軍参謀
本部はポズナン市にあるアダム・ミツキェヴィチ大学で暗号
学講座を開設した.アダム・ミツキェヴィチ大学が選ばれた
理由は,この大学の数学部の能力の高さと,この地域から
選ばれた学生がドイツ語を話して成長したこととにあった.
ポズナンは一七九三から一九一八年までの間ドイツ領で
あったため,ドイツ語に堪能な学生が多かったのである.

【選ばれた三人】

暗号学講座の目的はドイツの暗号解読計画を拡張するため
に必要となる暗号学の素養を有する学生を選別することに
あった.講座の最終目的は,組み合わせ理論や確立論とい
った数学理論を応用して,エニグマ暗号を破る組織的活動
を開始することにあった.

一九三一年,この暗号学講座が終わりを告げ,
マリアン・レイェフスキ,ヘンリク・ジガルスキおよび
イェジ・ルジェツキの三人が選ばれて暗号局のメンバーとなり,
エニグマ暗号を解読しようとするポーランド軍の努力を
主導していくことになる.

ポーランドは新しいエニグマ暗号の解読について,
当初あまり成功しなかったものの,努力を続けた.
だがこの努力は無駄ではなかった.ポーランドがフランスの
ギュスターブ・ベルトランから重要文書を受領した時に,
この努力が大きな変化につながったからである.

【ハンス=ティロ・シュミット,フランス側諜報員に接触する】

前回指摘したように,ハンス=ティロ・シュミットがフランス
情報機関の諜報員と接触していた.シュミットはヴァイマ
ル共和国軍暗号部門に勤務するドイツ人で,
フランスに渡したい情報を持っていることをフランス側
諜報員に話したのである.

シュミットは徹底的にフランス側によりその人物を調査された.
一連の会談の後,シュミットは「アッシュ」という暗号名を与
えられた.シュミットの信頼性が確認されると,
フランス側はシュミットに対し,エニグマ暗号機に関する
できる限り多くの文書を提供するように依頼した.
シュミットが提供した文書はポーランド軍の手に渡り,
暗号学者がこれまで解くことのできなかった方程式を
解くのに必要な重要情報を提供することとなった.

【ポーランドによるエニグマ解読の初期の成功】

一九三二年十二月七日,ベルトランはワルシャワでポーラ
ンドに文書を交付した.これらの文書には,暗号キーの説明書,
エニグマの使用説明書や複数の古いキーが含まれていた.
そして,ポーランドはこれらの文書を活用してエニグマ暗
号機の構造を再現することに成功したのである.

こうして,エニグマ暗号機に関する新たな知識を得たポ
ーランドは一九三二年十二月の終わりまでにエニグマ解読
に関し迅速な進歩をすることができたのである.
一九三三年一月上半期の間,ポーランドは限定的ながらも
エニグマの通信文を読み始めることができるようになった.

【初期の成功後の後退】

エニグマで暗号化された通信文を解読することに最初に
成功したことは,ポーランドがエニグマ解読を継続する基礎
となった.だが,ポーランドの暗号解読の努力も成功続き
ではなく,一九三〇年代のポーランドによる暗号解読の努
力は成功と同時に,後退と失敗とによっても特徴づけられている.

ポーランドが新しい暗号の解読に成功したのとちょうど同じ時期に,
ドイツはエニグマ暗号機に改良を施した.
その結果,暗号解読の手続きは再び一からやり直しとなってし
まった.だがすべてがやり直しとなったわけではない.
というのも,ポーランドはエニグマ暗号機がどのように作動
するのかを理解していたので,ドイツ側が行った改良にのみ
焦点を当てればよいことをポーランドは理解していたからである.

こうして,最初の成功が基礎となり,ドイツが行った改良の
ために費やすべき時間は大きく減少したのである.

【「ボンバ」誕生】

ここまでの間,エニグマ解読に成功した唯一の国家は
ポーランドであった.だが,ポーランドは解読の成果を他の
国々と共有していなかった.ポーランドがエニグマの解読に
熟練していくにつれ,彼らは手動・自動を含む一連のシステ
ムとして解読活動を始め,そのことがより迅速に暗号解読
を行なうことに寄与していた.

レイェフスキはエニグマのローターの配列を迅速に割り出す
ために「ボンバ」と呼ばれる機械を製作した.ボンバは現在
のコンピューターの前身といえる機械であり,暗号分析者
がエニグマのローター配列を迅速に推測することを可能にした.

ボンバなしでは,人間がエニグマのローターの配列をイン
テリジェンスとして価値がある速度で特定することは不可能であった.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.9.24






荒木 肇
『動員のコスト(14)──日本陸軍の動員(14)』
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□はじめに

 シルバーウィークをいかが過ごされましたか.
わたしは東京都の西の外れに一人で住む叔母を
訪ねました.叔母は5年前に連れ合いを亡くし,
それでも元気に暮らしています.亡父の妹です.
連れ合いの義叔父は戦時中には海軍,戦後,
海上自衛隊に入隊した人で,わたしが子供の頃
から可愛がってくれました.

 戦時中の話で興味深かったのは,敵機が来襲する
と高射砲や機関銃が迎え撃つけど,その弾片が
落ちてきて大変危なかったという話です.
ずいぶんそれで死んだ人もいるのよという話に
リアルな戦場を感じました.

 安保法制も心配していました.いろいろ誤解は
解いておきましたが,自衛官が海外へどんどん
出されてしまうのではないかというのです.
理解しにくい話が多いのだと思います.どれほどの人が
法案を読み,理解できたのでしょうか.少なくともわたしは,
戦争に対しての抑止力は向上したと思えます.

 さて,今週と来週は先の戦争の最後になる人的動員の話です.


▼陸軍特別操縦見習士官

 海軍が学卒者の優遇を考えて予備学生制度を拡大
すると,当然,陸軍も同じような制度を造る.
それが1943(昭和18)年7月に公布された「特別操縦
見習士官」というものだった.

『陸軍航空関係予備役将校補充及服役臨時特例に
よって,操縦に従事する兵科将校を志望する見習士官
にして少尉に任ぜらるる資格を具うる者を以て補充する
ことを得』というのが元になる特例である.

 ということは,幹部候補生ではあるが,すでに見習士官
である者でなくてはならない.応募資格は高等学校,
専門学校卒業者であり,ついに「学校教練の修了証」も
必要ないとした.そこのところに背に腹を代えられないという
切羽つまった感じがある.採用と同時に曹長になり,
見習士官を命じられた.教育期間は1年6カ月,少尉任官
ただちに予備役編入という計画だった.

 ただ実際は短縮がされ,基本操縦5カ月,機種別(戦闘・偵
察・重,軽爆撃)の教育飛行隊で4カ月,さらに実用機の
錬成飛行隊で4カ月の教育を受けた.約1年1カ月であり,
実際は錬成飛行隊の教育中に少尉になった.ただちに
臨時召集,そのまま応召将校として勤務を続けた.

 1943(昭和18)年10月入隊の「繰り上げ卒業」をした
一期生は2,654名,続いて学徒出陣組の二期生が1,136名
である.二期生はいったん12月1日に各兵科の部隊に入り,
志願した者のうち合格者が19年2月1日に飛行学校へ入校した.
三期生は同年6月,四期生は同じく8月に採用された.

 戦没者は一期生738名,二期生139名という不確かながら
記録がある.戦没者は訓練中や作戦間の事故などによる殉職,
本土防空や外地においての空戦,特別攻撃隊による戦死
などに大別される.陸軍航空の特攻による戦死将校の過半数
は248名にもなる特操出身将校だった.

 1期生の戦没率は27.8%にもなる.また2期生は同じく12.2%
であり,陸軍は正規将校を温存したと非難を浴びた.
しかし,同じ世代の陸航士卒業の正規航空将校の戦没率は
7割にも及んでいる.予備員の母体数が多いためによる誤解
である.陸軍の名誉のために記しておく.

▼陸軍特別甲種幹部候補生と特幹

「とっこうかん」は先の特別操縦見習士官制度を兵科と経理部
将校に拡大した制度だった.軍医や技術部,獣医部については
すでに書いた短期現役があり,補充も順調だった.優遇する
といった観点からも問題はなかった.大卒は中尉に,専門卒は
少尉という格差も考えられていた.ところが兵科と経理部にはない.
経理部には主計だけではなく建技将校という技術者のコース
もあり,帝大法学部や工学部卒業でも少尉にしかなれなかった.
そこで,既存の甲種幹部候補生制度とすり合わせを行うことにした.

 これまでの幹部候補生は1等兵で入営したが,特甲幹は
いきなり伍長だった.教育期間も1年8カ月から同6カ月と2カ月
短縮し,特操と足並みをそろえた.海軍予備生徒とも同じように
在学生も採用したが,教練検定については必須としたところが
陸軍の意地ともいえる.なお,経理部将校の募集については
卒業生のみにした.資格問題や技能水準が関係するからであろう.

 この制度が始まったことで,それまでの甲種幹部候補生制度
は中等学校卒業者のみのコースになった.専門,高等学校
在学生でも特甲幹には志願できたから,すぐに伍長は魅力だった
からだ.最初の採用は19年10月,翌年6月に予備士官学校
での教育が終わったので少尉にはならずに敗戦,復員を味わった.


 この数字は同時期の海軍予備学生操縦専修者の数と比べる
とやや少ない.というのも海軍は偵察専修者(航法や戦術指揮
も行なう)を操縦員と同じくらい採用するので予備員全体でいえば
海軍は陸軍の倍を数えた.

 甲種に特例があるなら乙種にもできた.昭和18年末に
考えられた特別幹部候補生,略称「トッカン」であった.
予備役下士官の養成コースだった.少年飛行兵や砲兵,通信兵,
防空兵,戦車兵(すべて少年がつく),海軍飛行予科練習生など
はあくまでも現役下士官の補充である.これに対して「幹部」という.
それは予備役下士官の証拠になる.任官させる,同時に予備役編入,
ただちに召集,いつか復員という予定である.

 学歴に制限はなく,おおよそ中学校3年,あるいは4年生くらい
を対象とした.専攻に分かれ,教育期間はおおよそ1年6カ月,
伍長に任官させて現役扱い半年で予備役編入という制度である.
航空,船舶,通信などに分かれた.興味深いのは,当時の新聞記事
によると『中等学校卒業または特殊技能をもつ者はただちに軍曹に
任じ,軍曹,曹長,准尉の階級にある者は己種学生(在学1年間)の
受験資格を与えられ,最も早いものは4年ぐらいで少尉に任官できる
もので…』という解説である.たしかにウソはない.ただ戦争が続き,
あるいは停戦となっても宣伝通りに少尉になれる者はほとんど
いなかったことだろう.己種学生とは現役下士官から入校できる
少尉候補者制度である.彼らトッカンはあくまでも予備役下士官だった.
将校でさえ,当別志願から現役転官は面倒なものである.
制度の根幹につながる「役種」の変更は簡単にできるものではなかった.

 なお実態に迫ってみよう.「トッカン」の略称を使い始めたのは
昭和19年1月の朝日新聞からだという.浦田耕作氏はそのように
書いている.学科試験は数学と国語で,数学は中学3年1学期修了
程度,国語は「ハガキ」を書くことだったというから,ずいぶんお手軽
である.とにかく下級幹部要員を集めようというわけだろう.

 戦争も最末期の様子がよくわかるので浦田氏の記述に沿ってみよう.
入隊は1年を3つに区分して前・中・後期として4カ月ごとになった.
浦田氏は19年8月15日に兵庫県篠山町の中部第110部隊に入った.
この部隊は正式には第31航空通信聯隊だったという.聯隊は
7個中隊で構成され,うち2個が特幹で1000名.他は航空の現役兵
である.中隊長は東京商大出身の予備中尉,区隊長は3人.
少尉候補者出身の現役少尉,横浜高商卒予備少尉,航空通信学校
尉官学生出身の予備少尉だった.

 内務班長は砲兵通信から航空通信に変わった召集伍長,
班付きは学徒出陣で伍長の階級を与えられていた乙種幹候の2人
の伍長,指導候補生は甲幹に採用されて伍長だった2人,現役上等兵,
衛生上等兵,ラッパ手の2等兵という構成である.このように予備員が
予備員を教育する.精鋭度が下がるのはやむを得なかったことが分かる.

▼海軍見習尉官

 戦争末期の学徒士官の方の思い出を聞くと,海軍にはなじみがない
「見習尉官」という言葉が出てくる.敗戦時には160万人の勢力に
なった海軍,うち士官が約5万4000名にのぼった.構成比では
3.3%が士官だから一応の軍隊らしい体裁はとっていた.
それも全体のおよそ54%,半数以上の2万9000名が予備士官だった
からだ.

 海軍の複雑さは士官たちの出身がさまざまだったところにある.
悪名高い軍令承行令という「軍隊指揮権継承順」の問題はやむを
得なかったと思える.

 敗戦時の兵科・機関科・主計科士官たちは出身の区分では,以下のようになった.
(1) 兵学校・機関学校卒業の現役兵科将校と予備役からの召集者
(2) 経理学校卒業の現役主計科士官と予備役からの召集者
(3) 召集され服務中の商船学校出身の予備兵科士官・同機関科士官(予備員)
(4) 召集され服務中の予備学生出身の予備兵科士官
(5) 召集され服務中の航空予備学生出身の予備航空士官
(6) 特別任用による予備(員)士官からの現役将校
(7) 特務士官からの特選佐官(非常に少数)

 各科士官には軍医科,歯科医科,薬剤科,看護科(識別色は赤),
主計科(同白),技術科(同蝦茶色,ただし昭和17年まで造船・造機科
は鳶色,造兵科が蝦茶),法務科(萌黄),軍楽科(藍色)の存在があった.
この中では看護科,軍楽科以外の士官はみな大学,あるいは
専門学校の卒業者である.

 前にも述べたように,各科には短期現役士官制度があった.
2年間の兵役義務があったことから2年間は現役服務,その後は
永久服役(定年まで勤務する)か予備役編入かを選ぶことができた.
その制度下では医科・薬学専門学校卒は軍医少尉,薬剤少尉に,
大学医・薬学部,工学部,経済学部,商学部卒などは各科中尉
である.その他の専門学校卒業者(高等商業など)は少尉候補生
から少尉に任じることになっていた.

 戦時中には高等専門卒,大卒は予備学生も短期現役士官の
試験も同時に受けることができた.問題は序列である.採用された
予備学生の位置づけは士官の下であり,少尉候補生(兵学校・機関
学校卒),准士官(各科兵曹長),下士官の上である.ところが,
短期現役士官に採用されると即日,中尉,少尉となる.これを
『貴官らは海軍イチヤク中尉という』と訓示された人もいる.
もちろんからかい半分の言葉だが,多少の嫌味も当然あった.

 中学校卒業後,海兵,海機,海経で生徒時代を送り,遠洋航海や
艦隊実習を終えてようやく少尉になった人たちとしては面白くない.
平時の採用数が少ない頃なら目につかなかったが,大量採用され
た学徒上がりは「士官らしい物腰」もないではないかという批判が
起こった.そこで,できたのが「見習尉官」制度である(昭和17年4月).
服装は裾長の士官服,そのくせ短ジャケットの少尉候補生のすぐ下,
准士官の上という位置づけがされたのがこの人たちだった.

 敗戦時には海軍軍医大尉だった人の経験談がある.

『昭和17年4月16日,日本本土初空襲の日.その2日後,
東大医学部在学中のわたしは区役所に出頭を命じられた.
召集延期中(注・体験者の誤りの例である.徴集延期中が正しい)の
繰り上げ卒業者に対しての臨時徴兵検査であった.』

 太平洋に戦火が広がり,17年3月卒業予定の学生は3カ月間
の学業短縮措置を受けて16年の末に卒業した.続いて18年3月
卒業予定の者はさらに6カ月間の短縮措置で17年の9月に卒業
が決まった.教育課程の短縮とは大きな作業である.夏休みも
返上するという慌ただしさだった.

『昭和17年10月1日付で海軍見習尉官に採用になった.
海軍士官としての基礎教育は北朝鮮の元山航空隊で行われた.
昭和18年1月15日に海軍軍医中尉に任官した.同時に普通科学生
を拝命し,宮中賢所に参拝の上,伺候記帳して軍医学校の学生舎
に戻った.』

 次回は陸軍のまとめをしよう.
 
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.9.30




『ライター・渡邉陽子のコラム (59) ─ 2015年陸海空自衛隊の装備と運用(6) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

8月31日に2016年度防衛予算の概算要求が発表されました.
過去最高額の5兆911億円,その内訳にはオスプレイ12機
の一括購入(1321億円)のほか,南西諸島防衛強化のため
の陸自警備部隊配備費用(宮古島108億円,奄美大島86億円)
が盛り込まれました.

与那国島の陸自沿岸監視部隊については施設整備費76億円
となっています.この辺りは想定内でしたが,佐賀空港への
オスプレイ配備費用が2016年度要求には計上されていません
でした(2015年度は109億円).受け入れの了解にいたっていな
いため見積りができないというのが防衛省の説明です.
当初はもう少し順調に佐賀空港への配備が進みそうな空気
だったのですが.12月の予算策定を見守りたいと思います.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■2015年陸海空自衛隊の装備と運用(6)

2015年度の防衛予算に含まれる新規事業を中心に,
2015年の陸海空自衛隊の装備と運用について
ご紹介する第6回目です.

先週は,オスプレイとAAV7を中心とした装備品の話でした.
今回は陸上総隊,水陸機動団新編の準備の話です.


組織の改編では,陸自の各方面隊を束ね一元的に指揮する
陸上総隊を新編するために準備室が設置されます.
陸上総隊の新編についてはこれまでも何度か検討されては
見送られるということを繰り返しており,25大綱でようやく明記されました.

海自は自衛艦隊,空自は航空総隊により命令が一元化されていますが,
統幕長から陸自への指令・指示は各方面総監部へ出す必要がありました.
陸上総隊ができることで,統幕長からの報告や命令は陸上総隊のみ
で済むほか,海自,空自,米軍との調整も総合的に行うことができます.

ただし方面総監部の廃止については25大綱では見送られたため,
運用如何ではかえって指示系統が複雑,煩雑化する懸念もあります.
これは陸上総隊が創設され実際に運用が始まってからの課題と
なるかもしれません.

なお,今年5月には司令部が朝霞駐屯地に配置されることが決まり,
2017年度の創設に向け,今年度末には準備室が設置されます.


また,陸上総隊の直轄部隊として新編される水陸機動団と
作戦関連部隊の展開基盤の整備も行われます.
水陸両用作戦専門部隊である水陸機動団は,島しょへの侵攻が
あった場合に速やかに上陸・奪回・確保するための部隊であり,
西部方面普通科連隊の約700人を母体に3連隊からなる約3000人
規模の大部隊となります.

水陸両用作戦に必要な各種機能を保有し自ら作戦を行える米海兵隊
に対し,水陸機動団は海自や空自部隊との統合運用により水陸両用
作戦を行ないます.

2018年度までに編制完結の予定ですが,それに先がけ,昨年3月末
には西普連に西部方面普通科連隊教育隊が設置されました.
これは水陸両用作戦を担う人材の育成を行う教育専門部隊で,
教官約20人を含む25人程度で人材を育成します.
具体的には離島奪還のための基本技術である洋上からボートで
島に上陸する着上陸訓練などを実施し,隊員の技術向上を図ります.
この水陸機動団が離島奪回時に「足」として使用するのが,
オスプレイとAAV7というわけです.


このほか,2018年までに行われる組織の効率化,合理化を目的
とした改編として,戦車は本州の部隊からは廃止,北海道の師旅団と
西部方面隊直轄部隊のみの配備となります.本州の部隊から戦車が
消える,これはかなりのニュースですね.
また,りゅう弾砲などの火砲も現在の約600両から約300両へと
約半数に削減し,全国に配置されている火砲を各方面隊直轄部隊
へ集約する予定です.これも相当な削り方です.

さらに現在15ある師団・旅団のうち,7つを高い機動力や警戒監視
能力を備える即応機動連隊などからなる機動師団・機動旅団に改編し,
機動運用化することとしました.この機動師団・旅団が,いざという時
には増援部隊として南西方面へ急派されます.

これら陸自の改編は,人も装備品も大がかりな移動を伴う,従来の
改編とは比較にならないほど大がかりなものとなります.


次回は米国との共同訓練についてです.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.9.3




陸軍機 vs 海軍機(50)       清水政彦

「零戦と隼(49)」
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「零戦vs隼」の第49回.
今回は,東部ニューギニア防衛線の崩壊に続き,
南方戦線全体が総崩れとなっていく過程について見ていきます.

▼ ラバウルの無力化

 東部ニューギニア防衛線の破綻とほぼ時を同じくして,
海軍航空部隊の中核根拠地であるラバウルも完全に無力化された.

 ラバウル地区に対する空襲は昭和18年12月から
すでに激化していたが,昭和19年に入って来襲する
連合軍機の数はさらに増加し,もはやラバウル港に
船舶が安全に停泊することは不可能になった.
飛行場も連日の爆撃を受け,陸攻や重爆のような
大型機が多数常駐することも困難であった.
ラバウルにあった第四航空軍の飛行機修理施設も,
昭和19年には中部ニューギニアやパラオ方面に後退せざるを得なくなった.

 すでに昭和19年初頭の時点で,ラバウルの兵站拠点
としての価値は失われていたのである.

 それでも,ラバウルの海軍航空部隊は来襲する連合軍機
を積極的に邀撃し,連日のように数十機〜百機以上を撃墜
したとする「大戦果」を報じていたが,現実には大部分が誤認で,
実際の「キル・レシオ」はほぼ互角であった.

 もっとも,大勝利が幻だとしても,質・量ともに大きく優る
連合軍機に対してほぼ互角の戦いを継続できていたことは
特筆に値する.これは,ラバウル地区の航空基地群に十分
な空襲耐性と縦深性が備わっていたからであり,
「地上がしっかりしていれば空中での大負けはない」という
航空戦の特性をよく示している.

 仮に戦略的な態勢がこのままであれば,相当の長期間に
わたり,ラバウル上空の防空戦で連合軍にさらなる出血を
強いることも可能だったかもしれない.
しかし,「航空要塞」ラバウルの最期は実にあっけないものだった.

 まず昭和19年1月末,中部太平洋のマーシャル諸島に
米空母が出現し,空襲により所在の海軍航空部隊が壊滅.
上陸した米軍部隊は間もなくその要地を占領した.

 さらに昭和19年2月17日,海軍のトラック泊地が米空母機動部隊
に奇襲され,同地の海軍航空戦力は大部分が地上で撃破された.
連合艦隊の主力はその直前に退避して無事だったが,
停泊を続けていた艦艇の多くは撃沈・撃破され,残存艦もトラックから撤退した.

 これは,トラック泊地が連合艦隊(とくに空母機動部隊)の
出撃拠点としての価値を失ったことを意味していた.
これに伴い,ラバウルは南東方面の兵站拠点としてだけでなく,
トラックを空襲から守る前哨基地としての価値も喪失したのである.

 これを受けて,海軍はラバウルに残る航空戦力を引き抜いて
中部太平洋方面の防備に転用する決断を下した.2月末までに,
海軍航空部隊の大部分がトラック方面に移動し,
これにより約1年半に及んだ「ラバウル航空戦」は終了した.

▼ アドミラルティ諸島への連合軍上陸

「アドミラルティ諸島」は,東部ニューギニア北岸に位置する
「マダン」の北方約400kmの太平洋上に浮かぶ比較的大きな
島々で,良好な港湾と広い飛行場適地があった.

 これらの島々は昭和19年初頭の時点まで連合軍の
中小型機の行動圏外にあり,かつニューギニア北岸を西進
する連合軍を横合いから攻撃できる間合いにある.
アドミラルティ諸島は,陸軍部隊が東部ニューギニアから
撤退するに際し連合軍の進撃速度を鈍らせるための航空作戦
の拠点として,ぜひとも確保しておくべき地域と認識されていた.

 アドミラルティ諸島での飛行場建設は昭和18年中から開始
されており,少数ながら陸上兵力も配置されていたが,
その防備の強化は間に合わなかった.

 昭和19年2月末,連合軍は奇襲的にダンピール海峡を突破,
ラバウルを素通りしてアドミラルティ諸島に「飛び石」上陸した.
日本軍の抵抗は微弱で,連合軍は短期間に同地を占領して
港湾と飛行場を整備した.

▼ 加速する連合軍の進攻速度

 すでに述べてきたように,昭和19年3月までに第四航空軍の
打撃力は皆無となり,ラバウルの海軍航空部隊は無力化された.
地上ではダンピール海峡が突破され,ビスマルク海に浮かぶ
アドミラルティ諸島も占領された.この時点で,日本軍の東部
ニューギニア戦線は完全に崩壊したといえる.

 東部ニューギニア方面の日本軍航空戦力が壊滅し,
連合軍の完全な制空圏がビスマルク海にまで及んだことにより,
連合軍の上陸船団・補給船団はニューギニア島の北側海域を
ほぼ自由に航行できるようになった.

 この「船団の航行の自由」が確立して以降,連合軍の進撃速度
は従前とは比べ物にならないほど速くなった.海上行動の自由を
得た連合軍は,日本側が防衛線を後退させて戦備を整えるより前に,
最前線より後方の防備の弱い場所を選んで奇襲上陸するという
「飛び石作戦」を行なうようになる.

 戦略的にいえば,守備側(日本軍)の防衛線の建設速度が,
攻撃側(連合軍)の進攻速度に追い越された状態…つまり「総崩れ」である.

 東部ニューギニア戦線が連合軍に突破されたあと,
後背地の戦備が不足していた日本軍は「総崩れ」となり,
昭和19年3月以降はほとんど有効な抵抗すらできないまま大敗を重ねることになる.

▼ 西部ニューギニアへの戦線後退

 東部ニューギニアを放棄した陸軍航空部隊は,昭和19年3月以降,
中部ニューギニアのほぼ唯一の拠点であるホランジアに後退し,
西部ニューギニア方面の「ソロン」「ビアク」「バボ」などに新たに
多数の飛行場群を設定して縦深陣地を構成する予定であった.

 しかし,ホランジア飛行場の整備は未完であるうえ,
中部ニューギニアにはほかに見るべき拠点がない.
ホランジアは地形的には「孤島」に近い状態で,攻撃を受ければ
逃げ場がない.さりとて,西部ニューギニアの基地建設はほとんど
手つかずに近い状態であり,多数の飛行機を受け入れる余地はない.

 狭いホランジアの飛行場には,東部ニューギニアから後退してきた
部隊に加え,新たに後方から進出してきた新鋭部隊が同居し,
さらに内地から送られてくる補給機(月200〜300機)が充満して大混雑していた.

▼ ホランジアに対する連合軍の空襲と上陸

 第四航空軍がウェワクからホランジアに撤退してから
2週間ほど経った3月末,ホランジアの飛行場に対して大空襲があり,
無防備に駐機されていた飛行機が一挙に地上撃破された.
この日だけで地上損害は130機あまりと言われており,
まさに従前の負けパターンを繰り返す惨敗であった.

 この時点で誰しも,過去1年間の失敗と同じ轍を西部ニューギニア
でも踏むことになるという「悪夢」を予感したはずだ.
しかし,それでも西部ニューギニアは「絶対国防圏」の一角であり,
もう後へは退けないのである.

 陸軍中央はニューギニア戦線に対し必死の飛行機補給を続けたが,
連合軍は日本側に防備を整える時間を与えなかった.米空母は
続けてパラオ地区を空襲し,所在の海軍航空戦力を撃破.
さらに4月21日,米空母機が大挙してホランジアに来襲し,
再建途上にあった陸軍航空部隊はまたしても地上で壊滅する.

 日本側の航空戦力を撃破すると,すかさず連合軍はホランジアに
「飛び石」上陸した.一定の防備があるウェワク地区を飛び越えて,
その後方にある無防備なホランジアを突いたのである.
ホランジアの日本軍には有力な陸上戦力がなく,中部ニューギニア
はあっという間に連合軍に制圧されてしまった.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.9.2




荒木 肇
『動員のコスト(11)──日本陸軍の動員(11)
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□ご挨拶

 いよいよヘリ搭載護衛艦,「いずも」の2番艦が進水しました.
これから本格的な儀装工事が始まり,来年の秋には就役する
そうです.その名前は,「かが」となりました.
これまでこのタイプの護衛艦は「いせ」,「ひゅうが」,「いずも」
と旧国名が選ばれてきました.昔の海軍には末期に航空機を
搭載する航空戦艦として「伊勢・日向」という同型艦がありました.
だから,「いずも」と命名されたときには,たぶん出雲のことであり,
出雲大社がイメージされ,ならばペアの艦名としてはどうなんだろう
と考えていたものです.

 予想を超えた「かが」,加賀国であったとは,ちょっと驚きでした.
しかも,「加賀」は武勲艦です.
あの1937(昭和12)年の上海事変では艦載機を飛ばし
国民党軍を猛撃し,ハワイ真珠湾にも空襲をかけました.
そうした歴史を誇る伝統ある名前が選ばれたことに,
感銘を受けた次第です.

 しかし,いろいろな背景があり,航空母艦とは言えない宿命
がある海上自衛隊.昔のように,同じく武勲艦である「翔鶴(しょうかく)」,
「瑞鶴(ずいかく)」や,「飛龍」,「蒼龍」,はたまた「雲龍」という
名前は復活できないのでしょうか.
そうまで考えたとき,旧国名なら「信濃(しなの)」があったな
と思いつきました.建造中の次の艦は「しなの」でしょうね.

 戦時中の兵役制度について続いて紹介します.『在郷軍人名簿』
にはそれぞれの軍人の経歴が記載されていました.その出身,
たとえば「幹候」,「志願」などです.支那との紛争が長期化するにつれ,
さまざまな制度が案出され,複雑で多岐にもわたるようになりました.
少年航空兵といえば陸軍,飛行予科練習生というのは
海軍と読者の大方は正しく理解されていると思いますが,
その内部にもさまざまな種類がありましたし,その実態の数々は
本稿のテーマの動員にも大きく関わっているのです.
 
 海軍のことにもふれますので長くなります.我慢してお付き合いください.

▼陸軍幹部候補生
 
 幹部とは陸軍では下士官以上の判任官のことをいう.
幹部候補生とは兵役法で,それまでの一年志願兵の制度を
引き継いでつくられた.昭和の初めころには,中等学校以上の
学歴をもつ者のうち志願する者から選抜して予備士官教育をする.
ただし,卒業した中等学校以上の学校に配属された現役将校の
行なう教練検定に合格していなくてはならなかった.
 
 反軍思想が高まっていた大正時代から引き続いた昭和の初め,
教練なんてとそっぽを向く人も多かったようだ.反軍,平和主義,
マルクス・レーニン主義が若者ばかりか世間の流行になっていた
時代である.昭和の初めには,配属将校にわざと反抗して検定を
不合格にされた人もいるようだった.まさか学生で検査も乙種,
第一補充兵になり,まさか召集なんか来ないだろうと考えていた.
ところが,動員が続き,実際に補充兵として教育召集を受けてから,
その若気の至りを初めて後悔した人もいたともいう.
 
 また経費(食費,弾薬,装具,被服などの損耗費)を自弁する
ことになっていた.その代わり,現役としての服役期間が短かった.
中等学校とその同等以上の卒業者は1年間,大学,高等専門学校
卒業者は10ヵ月の在営で予備役に編入された.
志願できる年齢は17歳以上28歳未満である.案外知られていない
ことだが,中学に入るのに回り道をする人や大学や高専への浪人
もけっこう多かったのが昭和戦前期である.その上,高等教育の
在学生は徴集猶予の特権があったので,入営するのが25,6歳
という大卒も珍しくなかった.
 
 大学学部卒業者は10ヶ月の在営中に曹長の階級に進め,他は軍曹にした.
前者は終末試験に合格し,配属された聯隊の将校団の銓衡会議で
認められれば予備役少尉になった.なお法律・経済・商業関係の
専門学校以上の卒業生は経理部,医師免許証・薬剤師免許状をもつ者,
取得資格のある者は衛生部,獣医師免許証をもつ者,取得資格のある者
は経理部のそれぞれ幹部候補生を志願する資格があった.
 
 歯科医師免許証についての規定がないことに注意したい.
歯科医官が武官になるのは大東亜戦争のさなかであり,
それまでは一般の高等学歴がある者として扱われ,兵科予備将校
になった人も多かった.石川達三の『生きてゐる兵隊』の中には
歯科医師の1等兵が登場する.おそらく幹部候補生を志願しなかった人だろう.
 
 この制度は1933(昭和8)年に改正され,経費の自弁制度がなくなった.
予備役将校を養成する目的の「甲種」と同下士官養成のための
「乙種」に区分された.この2種の採用は学歴の高低では必ずしもなかった.
予備役将校は在郷軍人会の有力な構成員であり,
郷土に定着する農業学校出身者は甲種になりやすく,
都会などへ出てしまう高等商業出身者は乙種にされることが多かったらしい.
 
 大きく変えられたのは支那事変が続いていた1938(昭和13)年10月の
改正である.一般の現役兵のうちの優等者が半年間,在営期間を
短くされた制度がなくなったと同時に,幹部候補生も現役が満期する
2ヵ年まで在営することになった.また在営している補充兵,
短期現役兵のうちからも志願ができるようにした.いよいよ大動員の始まりである.
 
 特設師団ができ,それが4個聯隊基幹のものだったら小銃を主装備
とする中隊数は12個×4で48個中隊.1個中隊3個小隊編成では3×48,
小銃小隊長だけで所要数は140名以上になる.
これ以外に歩兵砲中隊小隊長,機関銃中隊小隊長など少尉,中尉のポスト
はひどく多い.特設歩兵聯隊も聯隊長や副官,大隊長はせめてもの現役
だが,中隊長も半数は予備役将校にならざるを得ない.
 
 一般兵と同じく初年兵として入営する.その日から幹部候補生試験
に合格するまでは,ひたすら我慢である.本籍地主義ではあるが,
学歴のある人の多くは親が都会に出ている人が多かった.
ふつうの兵隊には小学校や青年団活動,実業補修学校,青年学校などで
結びついている人脈がある中で孤独だったのが当時の学歴所有者である.
「いじめ」がひどかったというのはこの時期のことである.
 
 幹部候補生試験はおよそ4ヵ月の1期の教育が終わるころに
行なわれた.甲種に採用されればただちに上等兵に進み,
襟に座金(ざがね)といわれた円形の徽章を付けた.
そして,各地に開かれた予備士官学校に入校した.そこで1年間の教育を受け,
卒業時には曹長に進み部隊に配属された.聯隊長から「見習士官」を
命じられ,3ヵ月は准尉の下,4ヵ月目に将校勤務になれば准尉の
上になった.聯隊将校団の「詮衡会議」を通れば予備少尉に任官した
(これで現役期間は2年間になった).満2ヵ年の現役を終えて
予備役編入,直ちに召集を受け,『現職務を続行せよ』といわれた人
がこの時期の人には多かった.
 
 このとき,陸軍は細やかな配慮を見せた.候補生の帰る部隊は
同じ師団であっても別の聯隊に帰すようにした.歩兵以外の兵科でも
師団の壁を超えてまで異動させた.颯爽とした見習士官が,
1年前には初年兵として絞られていたという記憶が周囲にないように
したのである.なお,戦後のいわば定説によって,「学徒出陣」の学生
たちはみな将校,士官になったかのように思われているが,
甲種の合格率はおよそ兵科では3割である.乙種が4割,したがって
残りの3割は兵隊で終わることになった.大学,高専さえ出ていれば
誰でも将校,下士官になれたほど軍隊は甘くなかったのである.
 
 1939(昭和14)年には,兵科の少・中尉の総数およそ2万8000名
のうち,70%がこうした予備役の召集将校だった.

▼少年兵

 1933(昭和8)年,少年飛行兵と通信兵の制度ができた.
受験資格は満14歳以上,同17歳未満である.学歴の指定は
小学校尋常科卒だが,実際は高等科卒業者が多かった.
すでに説明したように,満17歳になると男子はみな第二国民兵役
に編入された.ただし,これは兵籍ではないために17歳未満の人
を採用し陸軍生徒にしようとすれば,わざわざ「少年」という言葉を
使わねばならなかった.

 飛行兵は埼玉県所沢の陸軍少年飛行兵学校で1年間の
基礎教育課程を終えた.この間は軍人ではなく陸軍生徒である.
卒業と同時に上等兵になり兵籍がついた.この1年間の成績,
適性をみられて陸軍飛行学校,同航空整備学校,同航空通信学校
へ入校した.そこで専門教育を2年間受けて部隊付を6ヵ月,
陸軍航空兵伍長に任官する.

 少年兵制度は現役下士官の養成コースである.それまで現役
下士官は現役2年を終えた志願者から養成していたが,
世間の景気動向の影響を受け,下士官不足は陸軍にとっては
慢性的な悩みだった.これを解消するには,世間にあふれる
小学校卒の優秀者を育てようという企画である.中等学校に
進めた者は同世代の1割くらいで,家庭の経済状況,
環境のおかげで多くは小学校尋常科,あるいは高等科卒で
少年の多くは世間に出ていたのだった.

 少年通信兵,同砲兵(野戦砲兵・重砲兵),同高射兵,同戦車兵
は小学校が国民学校と名称が変わってから,その高等科卒業程度
が受験要件になった.満14歳以上,満18歳未満でそれぞれの学校
に入った.こちらは基礎教育に2ヵ年をかけた.卒業と同時に下士官
候補者の指定を受け,隊付を1年間おえて伍長に任官した.
ただし,この隊付期間も身分は生徒だった.兵長の階級を与えられたが,
まだ兵籍には入らない.航空兵の場合と違い,教育中の事故など
での殉職も少なかったのが理由だろう.

▼技術系下士官

 どの部隊の定員表を見ても必ずあるのが,火工,木工,鍛工,
銃工などの技術系下士官のポストである.のちに技術部の中の
兵技将校,准士官,下士官になったが,彼らも少年兵に準じた
志願兵が多かった.砲兵には火工長,鞍工長,銃工長,鍛工長
という階級もあった.それぞれ1等から3等に分かれた.
同じように工兵には木工長,機工長,電工長があった.
彼らの最終階級は1931(昭和6)年までは上等工長(兵科特務曹長)だった.

 この人々を養成したのが明治初めの「諸工伝習所」」であり,
制度の改変とともに,1920(大正11)年には陸軍工科学校となった.
生徒の受験資格は小学校高等科卒業程度満14歳以上,
満20歳未満となっており,中等学校だった工業学校の卒業生も受験した.
現役兵の中からも受験ができて,これは満23歳未満である.
3年間の教育を受けると技術部伍長になれた.1940(昭和15)年
には陸軍兵器学校になった.

▼軍医候補生と予備員

 陸軍は自前で軍医を作ることを明治の初めにやめてしまった.
森鴎外などの経歴でも分かるように大学学部卒業者,
医師免許をもつ者を採用して現役軍医にしていた.
予備役軍医は一年志願兵,後には幹部候補生から採用した.
軍医候補生という制度を作ったのは海軍の短期現役軍医に
対抗するためだった.1933(昭和8)年には幹部候補生からの
採用をやめて,満32歳までの医師免許をもつ者を対象にする.
それまでの制度では年間170人前後しか確保できない.
用兵綱領にいう戦時50個師団態勢では約5000人の医官
を必要とするからとても足りなかった.昭和の初め,現役医官は
1500人しかいなかったので,危機感はそうとうのものだった.

 志願して認められると居住地の近くにある歩兵聯隊に入った.
身分は陸軍生徒である.与えられる階級は衛生軍曹であり,
1ヵ月後には曹長に進み見習医官になった.
その1ヵ月後には大卒は現役軍医中尉に,医専卒は同少尉に
任官した.満2ヵ年の現役を終えるとそのまま現役医官として
勤務するか,除隊して予備役に編入されるか決めることができた.

 空前の大動員に合わせて1937(昭和12)年には
「軍医予備員令」という勅令が出された.大正から昭和の初め,
医学生たちのほとんどは補充兵や国民兵になっていた.
その人たちに志願しなければ召集で一兵卒だぞと脅しをかけた
制度だった.すでに各科の予備役伍長になっていた人は
志願すれば予備役衛生伍長にして15日間の教育を行う.
予備役の兵,既教育補充兵・国民兵は21日間である
(予備役衛生伍長にする).それ以外の人は上等兵にして
75日間の教育を行う.それぞれ教育が修了すると予備役
衛生軍曹にしていったん除隊.召集があるとただちに曹長,
見習士官を命じて軍医の勤務をとらせた.

▼陸軍特別甲種・乙種幹部候補生

 「トッコウカン」あるいは「トッカン」という言葉があった.
陸軍が崩壊する直前の制度なので,あまり詳しくは知られていない.
予備員であることはどちらも「幹部」という言葉が使われている
ことが分かる.戦後になっての手記の中には,しばしば当人たち
も「現役将校あるいは下士官」を育てる制度だと思い込んだ記述
もあるが,それは例の現役が当分続くという当座の方便から
生まれた誤解である.陸軍は戦争が終わった後の事も考えるから,
膨大な現役軍人は必要とはしなかったのだ.
とにかく幹部というのは予備員のことをいう.

 次回はこの末期の制度と,海軍についてまとめる.
その次からは本格的な大動員として,「関東軍特種演習」に
ついて取り上げてみよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.9.2





◆玉井忠幸『亡国の宰相・菅直人:官邸機能停止の180日』を読み解く


※要旨


・政治家にとって人生とは結果でしかない.
その成し得た結果を歴史という法廷において裁かれることでのみ,評価されるのだ.
1806日の首相在任記録を持つ中曽根康弘・元首相の言葉である.


・「ここには,熾烈な重圧があります.
翌日の新聞に踊る大きな批判記事の活字など,
たいした問題ではなく,この国の将来は自分の決断ひとつにかかっていると,
感じたときの恐ろしいほどの重圧感です.
その重圧感に立ち向かわせるのが,若き日の直感と,
成熟により獲得した知恵なのです」
(中曽根康弘)


・2011年3月に起きた東日本大震災という戦後最大の国難に,
時の菅直人政権はどう立ち向かったのか.
国家の指導者としての菅氏の働きぶりに,
中曽根氏のいう歴史法廷はどういう裁きを下すのだろうか.


・日本の政治はこれからも大きな変化を積み重ねていくだろう.
そして,私たち政治記者は引き続き,
変化する政治の姿を丁寧に記録し,
多くの有権者に伝える責務があると自覚している.
本書は,東日本大震災発生から菅首相退陣までの日本政治の動きを検証し,
読売新聞の政治記事を大幅に加筆修正してまとめたものである.


・震災直後から,自衛隊と米軍は,過去に例のない
大規模な被災地支援・救援救助の共同作戦「トモダチ作戦」を展開する.
2009年の政権交代後,鳩山政権は日米同盟関係をずたずたにしかけたが,
非常時にあっての自衛隊と米軍の結びつきを再強化しただけでなく,
国民の米軍に対する視線にも,大きな影響を与えた.


・米軍は震災直後に発動した「トモダチ作戦」に,
最大時で1万8000人の兵力を動員した.


・米軍が注目したのは,被災の激しかった仙台空港だった.
海岸に近く,津波の直撃を受けた同空港の滑走路は,
がれきや車などで埋め尽くされ,,使用不能になっていた.
米軍はここを「キャンプ・センダイ」と呼び,
空軍部隊や沖縄駐留の海兵隊を投入した.


・自衛隊と米軍の連携は,現場同士の調整に多くが委ねられたが,
その後ろ盾となる政府間の連携と交渉で,
米側の窓口になったのがジョン・ルース駐日大使だった.


・本国政府への連絡は,ルースが携帯電話などで行った.
ワシントンは真夜中だったが,
ルースはホワイトハウスのスタッフに「大統領を起こせ」と命じた.
オバマ大統領の有力な資金協力者であるルースの強みは,
オバマに直接,働きかけができることだった.


・ルースはオバマに,
「同盟国の日本で未曾有の大震災が発生した」
と報告,支援準備を要請した.


・菅首相は,課題に対応するための「プロジェクト」には反応よく飛びつくのに,
問題意識や情報の共有,根回しをしない.
政策面でも,瞬間,瞬間の「最適解」を,
整合性を気にせず追求するから,一貫性に欠けていると映る.


・当時,政府関係者からは,
「民主党は政権をどう動かすか,官僚という『ボタンの押し方』が分かっていない」
と嘆きが漏れた.


※コメント
さまざまなトップがいる.
今回は反命教師として学びたい.
いつ自分が,どういったリーダーになるか分からない.
つねに準備して想定しておくことが大切だ.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.10.2




ライター・渡邉陽子のコラム (63) ─ 2015年陸海空自衛隊の装備と運用(10) 』
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは,渡邉陽子です.

2015年度の防衛予算に含まれる新規事業を中心に,
2015年の陸海空自衛隊の装備と運用について
ご紹介する連載は今回が最終回です.

お付き合いただきありがとうございました.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■2015年陸海空自衛隊の装備と運用(10)


今回はグローバルな安全保障環境の改善についてご案内します.


防衛省はグローバルな安全保障上の課題等に適切に対応
するため,国際平和協力活動等をより積極的に実施するとしています.

新規事業としては,まず国連平和維持活動教官要員訓練
の共催があります.これは各国のPKOセンター等の教官要員
に対する訓練を国際連合と共同で開催するもので,
わが国のPKO活動に対する主体的な取り組みを示すとともに,
他国を含むPKO要員の能力向上に貢献することができます.
また,統幕学校国際平和協力センターの教官要員の参加による
教授能力の向上を通じ,PKO活動等に参加する自衛隊員を
育成するという目的もあります.

昨年12月には,栗田千寿2等陸佐が「女性・平和・安全保障分野
担当のNATO事務総長特別代表」のアドバイザーとして,
約2年間の予定で自衛官として初めてNATO本部に派遣されました.
栗田2佐は東ティモールの国連平和維持活動(PKO)に参加した
経験もあり,NATOでは紛争予防,平和構築での女性参画などを担当しています.


今年も継続して行われている海外での活動としては,
ソマリア沖・アデン湾における海賊対処があります.
アデン湾はソマリアとイエメンに挟まれた長さ約1000km,
最大幅約400kmの海域で,年間で約2万隻もの船舶が通過,
その10隻に1隻が日本と関わりのある船舶です.

この海域で武装した海賊による事案が多発したため,自衛隊は
2009年から護衛艦2隻による派遣海賊対処行動水上部隊を継続的
に派遣しています.また,P−3C哨戒機2機もアデン湾上空を
パトロール,不審な船舶に関する情報を随時提供しています.

2013年には,これまでの直接護衛に加えCTF151(第151連合任務部隊)
に参加してゾーンディフェンス(CTF151司令部から割り当てられた
担当の海域内で行う警戒監視)の実施を決定.さらに自衛隊から
CTF151司令官と同司令部要員を派遣することも決まりました.
今年5月末から7月23日までは伊藤弘海将補が司令官を務め,
訓練でなく実動の多国籍部隊の司令官に自衛官が就任した初のケース
となっています.なお,今年7月,海賊対処活動に参加している海上自衛隊
の活動期間を来年7月まで1年間延長することが閣議で決定しました.

以前はアデン湾を通行する護衛対象の船舶を2隻の護衛艦が
前後からガード,約900kmの航路を2日ほどかけて進む形で護衛を
実施していました.CTF151に参加している現在は,基本的に1隻が
アデン湾を往復しながら直接護衛を行い,もう1隻がゾーンディフェンス
を行なっています.2014年12月31日現在,3614隻の船舶が自衛隊
による護衛のもと,1隻も海賊の被害を受けることなく無事にアデン湾を通過しました.


国際連合南スーダン共和国ミッション(UNMISS)には,2011年11月から
司令部要員を,2012年1月から陸上自衛隊の施設部隊等を派遣しています.
現在は第8次要員が南スーダン派遣施設隊として,首都ジュバの
国連施設内において避難民保護区域の敷地造成などを行なっています.
2013年12月には,南スーダンにおいて治安情勢が急速に悪化する中,
要請を受けた自衛隊が韓国軍へ弾薬を譲渡,翌月に返還されるという
出来事もありました.また,安全保障関連法案の成立により,
政府は南スーダンPKOに派遣されている自衛隊員に,離れた場所で
襲撃された他国部隊などを武器で守る「駆け付け警護」の任務を追加
することを検討しています.


また,今年に入ってすぐ,インドネシア・スラバヤからシンガポールに
向かう途中で墜落したとみられるエア・アジア機の捜索救援のため,
ソマリア沖での海賊対処活動を終えて帰国途上にあった護衛艦「たかなみ」
と「おおなみ」およびヘリコプター3機をインドネシア国際緊急援助水上部隊
として派遣しました.

昨年3月にもマレーシア航空370便消息不明事案に関して国際緊急援助活動
を実施,P−3C哨戒機がマレーシア及びオーストラリアを拠点として,
C−130H輸送機がマレーシアを拠点として,計46回(約400時間)の
捜索活動を行っています.さらに昨年11月には国際連合エボラ緊急対応
ミッション(UNMEER)からの要請により,西アフリカ国際緊急援助空輸隊等
を編組し,航空自衛隊のKC−767 1機によりガーナ共和国まで個人防護具
(約2万着)の輸送活動を実施しました.今後も国際緊急援助活動には
迅速かつ柔軟に対応していくことが予想されます.

(2015年陸海空自衛隊の装備と運用 おわり)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.10.1




◆上阪徹『リブセンス:25歳上場社長・村上太一』を読み解く



※要旨


・2011年12月,25歳で上場の承認を得た日,
仲間とお祝いをするでもなく,
自宅近くの定食屋でから揚げ定食を食べたそうだ.


・彼の名前は,村上太一.
インターネットでアルバイト情報サイトなどを運営する,
リブセンスの代表取締役社長である.


・ひっとしたら,あのニコニコした笑顔の下には,
誰にも負けない天才的な頭脳が隠されているかもしれない.
もしくは,ベンチャー経営の王道を誰かに叩き込まれ,
恵まれた環境で学んできたのかもしれない.


・だが,長時間にわたるインタビューで村上から直接話を聞き,
こうして原稿をまとめている今,
はっきりと確信したことがある.
それは,彼はやはり「ごく普通の25歳の青年」であるといことだ.


・ヒントになるのは,リブセンスの経営理念の言葉である.
「幸せから生まれる幸せ」

つまり,人を幸せにすることによって,
自分たちも幸せになれるということだ.


・本に答えを求めず,自分の頭で考え続ける.


・彼は,高校2年生のとき,いつか役立つだろうと,
簿記やシステムアドミニストレータの資格を取っている.


・村上は現在,相当な読書家だ.


・大学入学時には,事業計画書を作っていた.


・段取りの良さを発揮して,
創業まで綿密なスケジュールを作っている.


・村上は,50代の舞台美術のアーティストからアドバイスを受けている.

「美術のプロですから,内装をお願いしようと相談したら,
今いる人数でギリギリの狭いオフィスを借りるな,
これから会社は成長して人数も増えていくから,
広いところを借りておかないと絶対に後悔するぞ,と叱られました」
と村上はいう.


・「もうひとつもらったアドバイスが,
デスクや道具も中途半端な安っぽいものは買うな,でした.
お前らの会社はでかくなるんだから,
将来もずっと使えるものを買いなさい,と」


・新規事業のヒントは,「既存のモデルの組み合わせ」.


・小さいころから大人と接し,
物怖じしない若者になった.


・東証マザーズに上場したとき,
村上は驚くほど冷静だった.
「そうですね.喜びを爆発させたという感じではなかったかもしれません.
もちろんうれしかったですよ.
でも,私の『妄想』の中では,
すでに上場をしてしまっていたんです」


・自分がやりたいことは,過去を振り返れば見つかる.


・「ジョブスは,やりたいことを見つけなさい,
そのためのヒントはあなたが歩んできた道を
掘り起こせば絶対にある,といっていました」


・「お金のために人は働かない.
それはもはや大きな流れです」




※コメント
彼の自然体の経営手法,生き方には共感を覚える.
その飄々とした前進には本当の力強さを感じる.
今後も,ウォッチしながら応援したい.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
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2015.10.1



◆ジェームス・スキナー『心をひらく:あなたの人生を変える松下幸之助』を読み解く


※要旨


・松下幸之助がやっていたことはすべて,
この「心をひらく」ということだけだった.


・素直になって初めて心がひらかれる.


・「共存共栄」という文字.
やろうとしていることは,
皆にとっていいことにならなければいけない.


・山田利郎が松下電器のペルー子会社を任されていたとき,
年に一度,松下幸之助にあいさつに行っていた.
松下がどんな話をするかと思えば,
業績の話ではなく,人の心の話ばかりであったという.

幸之助は,
「ご苦労様.家族は元気か.現地従業員は喜んで働いているか.
販売店やペルー政府には,喜んでもらっているか」

そして,最後に,
「皆さんに喜んでいただくという前提で,
その国に貢献するために君は行った.
そのことを一生懸命に考えていれば,
必ず経営というものはあとからついてくる.
そうなっていくのだ」
と励ましてくれたそうだ.


・お金はどうにでもなる.
心さえひらければ,不可能はない.


・願いを持てば,手段が与えられる.


・熱意があると,インスピレーションが湧く.
朝,早く仕事に行きたくなる.
勉強も研究も熱心になる.
最低限の努力ではなく,
自分の成し得る最高の成果を出したい.
それ以下では満足しない.


・そうすれば,仕事は仕事で遊びとなる.
仕事は仕事ではなく,芸術になる.
そう.
あなたは芸術家でなければならない.


・自分の道を歩めば,成功の扉はひらかれる.
商売は芸術のレベルまで発達しないといけない.
商品,サービス,顧客に情熱を注ぎ込むからこそ,
新しいアイデアも湧いてくる.
そして問題解決策も浮かぶし,
最後はこの熱意が相手に伝わる.


・顧客は結局のところ,商品やサービスを求めているのではない.
気持ちの変化を求めている.
退屈な気持ちから解放されたい,など.


・心をひらくということは,素直になるということだ.
素直になれば,道がひらかれる.


・アメリカ海軍特殊部隊ネイビーシールズの基礎訓練は,
地獄を超えるような過酷な訓練をされられる.
普通の人なら,辞めてしまう.
彼らはこう考える.

「基礎訓練って所詮こんなものさ」

また困難な実戦では,
「戦争って所詮こんなものさ」

という一言でその気持ちを片づけるようにしている.


・人生最悪の日は,人生の最高の日である.
最低であればあるほど,自分を大きくしてくる.


・トップは孤独,だからいい.
トップにいるということは,
すべてを師匠と呼ぶ自由があるということでもある.


・一度,頭を空っぽにしよう.
無の境地になろう.


・インドのあるヨガの行者は,常に平常心のままでいた.
弟子の一人が彼に「あなたの秘訣はなんですか?」
と尋ねた.
彼は笑いながらこう答えた.

「起きたことを気にとめない」


・100%の心は,日本の美徳.
私は14歳から合気道の道場に通った.
そこで最初に教わったことは,
「道場に入るときは靴をきっちり並べる」
ということだった.
稽古に対する姿勢を100%にすることだ.


・花一輪をさすことに一生涯の価値を見出す.
刀の一振りに人生を見つける.
中途半端にしない.
徹底的にやる.
改善は永遠なり.
限界はない.


・合気道家であり思想家であった藤平光一氏の葬儀に参列した.
そこで思ったことは,100%の人生を送った人の葬儀は,
悲しくともなんともない.
美しいだけである.


・くもりのない心で生きる人は,偉大である.
くもりのない心で生きる人は,美しい.


・真心に勝てる営業はない.
人間はやはり,感情と本能の動物である.
匂いで分かる.
自分の利益を求めているのか,相手の利益を求めているのか.


人は素晴らしい.
人はできる.
人は思いつかないような素晴らしい方法を考える.


・プラスを言えば,プラスを引き寄せる.


・お辞儀の基本は,手に何も持たないことだ.


・すべてが感謝のみである.
もっているものに感謝するから,もっているものが増える.
今のお客様に感謝するから,お客様がふえる.
やってもらっていることに感謝するから,
やってもらえることが増える.


・天変地異を起こしてくれる天地自然にも感謝しよう.
人生は短く,もろく,生を与えられているあいだ精一杯生きる必要があるということを
教えてくれているからである.


・思いついたことをとにかく実行しよう.


・人を育てることこそ最高の錬金術.


・奉仕は,この地球に住む家賃である.
奉仕は,高貴の印である.
奉仕は,社会の心をひらき,
あなたの夢をすべて可能にする.


・大きなビジョンを示そう.
社会はリーダーを求めているし,
素晴らしいビジョンを必要としている.


・建築家のダニエル・バーナムの言葉を,いつも思い出す.

「小さい計画を立てるな.
小さい計画は人の心を動かす力がなく,
達成されないであろう」


・大きなビジョンさえあれば,
世界のすべての財産を持っているのと同じである.


※コメント
彼の美しい言葉には,見習う点が多い.
あらためて,このメルマガの読者の方々に感謝いたします.
いつも読んでいただき,ありがとうございます.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
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2015.9.29



荒木 肇
『動員のコスト(15)──日本陸軍の動員(15)
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□はじめに

 制度論はどうしても硬い言葉が並び,読むのに疲れることと
思います.しかし,軍隊が戦うための態勢をつくるための動員は,
おびただしい数字と難しい言葉の連続です.人・モノ・カネを
集める動員とはたいへんな作業だったことがお分かりになりましょう.
今回の安保法制の審議にからんで,野党の一部が『徴兵制』だの
『戦争にできる国になる』だのと言ったプロパガンダを使いました.
それがいかにデタラメかお分かりになると思います.
戦争はやると言って,すぐにできるものではありません.

 自衛隊は「一回こっきり」の軍隊です.長く戦争を続ける準備
などしたくてもできなかったのが事実.動員の仕組みもなく,
兵員の補充どころか戦争で最も損耗する士官・将校たちの養成
も平時のものでしかありません.戦えるとしたら,現役の今現在
の部隊や艦艇・航空機が自衛のために立ち上がるくらいのものです.


▼陸軍末期の将校集団

 前回の海軍にならって,陸軍の人集めをさらっておこう.
 まず,最末期の陸軍兵科将校,同各部将校の人的構成である.
陸軍は海軍と違って「将校相当官」という制度を廃止した.
1937(昭和12)2月のことである.それまでの経理・衛生・獣医・
軍楽の各部の将校相当官を各部将校とした.階級名も1等主計正,
2等軍医,3等獣医をそれぞれ,主計大佐,軍医中尉,獣医少尉
というように兵科と同じように変えたのである.

 士官の階級名を兵科将校と同じにすることについては海軍の方
が早かった.海軍も長い間,兵科将校とは別に相当官として機関科
士官他の各科士官には独特の階級名称をつけていた.
1920(大正9)年にはこれを改めて,『海軍武官官階表』からも
将校の文字をなくし,少尉以上大将まで全部を士官とした.階級名
も大軍医監,中薬剤監,造船少技士,少主計などから,それぞれ
軍医大佐,薬剤中佐,造船少尉,主計少尉という官名になった.
ただし,海軍は相当官という言い方を最後で使っていた.

 各部将校という言い方で外見では平等に近くなった.
階級呼称も各部中将から同少尉へと変えた陸軍.しかし,将校と
いう言葉にはもともと兵科士官という意味がある.軍隊の指揮権を
もつ者のことをいう.つまり,各部がついている限り,彼らは兵科将校
なみのポストには就けなかった.主計大佐は歩兵聯隊長には決して
なれない.軍医中将は師団長にはなれなかった.その代わり,
官衙の長官にはなることができた.補給廠や研究機関などは定員と
して各部将校や将官のポストがあった.また,各部の学校長,
経理学校長,軍医学校長などは当然,主計中将・少将,軍医中将・少将が就いた.

 兵科は1940(昭和15)年には兵科別がなくなり,歩兵,騎兵,砲兵,
工兵,輜重兵も航空兵もみないっしょに兵科に統一された.兵科で
特別に残ったのは憲兵だけである.なお,ついでに言えば憲兵の
腕章を将校は着けなかった.襟章の上に「旭日章」を着けて識別していた.
 
 これに対して各部の士官は「各部将校」といわれるようになっても
(昭和12年から)軍隊指揮権をもつことはなかった.たとえば,戦時
に編成される師団衛生隊の隊長は軍医でもなければ薬剤官でもない.
兵科将校しか衛生隊長にはなれなかった.戦闘場面になれば野戦病院長
の軍医少佐も護衛隊の兵科中尉の指揮下に入った.兵科将校同士の
序列,指揮権継承の順位も厳密に決まっていて,実力集団の軍隊の
場合は兵科将校だけが順位令で指揮権の継承権をもっていた.
 
 まず,兵科将校の世界は次のようだった.
(1) 陸軍士官学校,同航空士官学校卒で士官候補生出身の
現役将校と召集者
(2) 下士官・准士官出身で士官学校己種学生(あるいは同等課程
の航空科など)卒の少尉候補者出身現役将校と召集者.
(3) 甲種幹部候補生を経て予備士官学校あるいは同程度の
候補生隊卒業,召集によって服務中の予備将校
(4) 特別志願将校といわれた現役と似たような扱いを受ける服務中
の予備役将校
(5) 予備役将校から士官学校丁種学生を経て役種が変わった
現役将校と召集者
(6) 操縦候補生出身の予備役将校で召集され服務中の者
(7) 特別任用を受けて少尉になった准尉経験者と召集服務中の者
(8) 1年志願兵から任官した予備将校で召集服務中の者
 これがおおよその出身区別からみた人員構成である.敗戦時の
現役将校数は約4万8000名だったが,うち兵科将校は2万8833名
であり,全体の59.7%だった.

 指揮権の継承は簡単である.まず,階級が高いものが上位である.
同じ階級なら任官した時が早い者が上位になる.同階級では現役が優先し,
召集者は下位につく.召集された者同士はその日時が早いものが上位
になった.このとき,陸軍は海軍と異なって出身の区分は問題にならない.
予備役召集中の幹部候補生出身の中尉は陸士出の少尉の指揮をとったし,
少尉候補者出身の大尉は中隊長として学卒者の中尉の上官だった.

▼各部将校の世界

 海軍の主計科に対して経理部,衛生科に対して衛生部というように
陸軍は部という言い方をした.経理部(識別色は銀茶),衛生部(深緑),
技術部(黄色),獣医部(紫),法務部(白)である.国家資格免許がある
のは衛生部・獣医部の医官,歯科医官,薬剤官,獣医官だった.
また法務官も法務将校は今でいう司法試験合格者である.

 敗戦時の資料によると,一番の大所帯は大方が驚くが意外なことに
技術部である.意外と言うのは他でもない.陸軍は「技術軽視」だった
はずである.とんでもない.近代軍は技術を軽んじては戦えないのだ.
技術部将校はいっとき,航空,兵器のそれぞれ航技,兵技と区分
されていたこともある.合計で6724名にものぼった.13.9%である.

 次は衛生部になって6725名で現役将校総数のうち,13.9%を
占める.現役軍医は5721名,薬剤373名,歯科28名,衛生268名の
合計6390名.衛生将校というのは医師免許がないが臨床検査などの
特技をもつ.全体の4万8236名中の13.2%にもあたる.
3位は経理部で,主計将校3442名と建技将校685名の合計4127名(同8.6%).

▼陸軍航空隊の将校と下士官

 陸軍航空の活躍は,海軍のゼロ戦人気や紫電改の343航空隊の
知名度が高く,いささか低調であるかのように受け取られている.
また,陸海軍とも高名なパイロットは多くが兵,あるいは下士官出身
の人たちであり,将校や士官パイロットはあまり知られていない.
このことは陸海軍航空の人材育てと関係があるのではないだろうか.

 まず,陸軍の将校操縦員は陸士・陸航士卒業の士官候補生出身者,
予備役は甲種幹部候補生と特別操縦見習士官で構成された.
下士官は下士官操縦学生,少年飛行兵と乙種予備生徒である.
陸軍は戦車と航空機は幹部搭乗主義といって,幹部である下士官(伍長
以上)でなければパイロットにはしなかった.この点で兵長や上等兵が
多かった海軍搭乗員とはずいぶん事情が異なっている.

 もう一度,海軍の制度をおさらいする.海軍兵学校を出た現役将校
の飛行学生,予備役では飛行予備学生が士官搭乗員を育てた.
下士官・兵をつくるのは操縦練習生(のちの丙種予科練),甲種飛行
予科練習生,乙種同,そして特乙飛行予科練習生と予備練習生である.
この予備練習生は前にも説明した逓信省乗員養成所出身で課程の
修了と同時に予備2等飛行兵曹になった.こうしてみると海軍の制度
の方が,やや複雑であることが分かる.

 興味深いのはやはり陸自と海自の比較である.陸自の航空機操縦者
は防衛大学校,一般大学を卒業し,幹部候補生になったあとに航空科
を指定された者から選ばれる.下士官にあたる陸曹からも陸曹操縦課程
というコースがあり,そこに選抜されて教育を受ける.もちろん,
一人前のパイロットになる頃には3等陸尉として士官になる.

 海自にはこれに対して防大・一般大出身の他に航空学生という
募集制度がある.高卒で受験して大学を経ずに士官パイロットになれる.
これは空自も同じである.海自はいまも,防大・一般大卒の士官
になってからのパイロット養成,入隊当初からパイロットを目指す
航空学生というコースになっている.もちろん,こちらも資格を取る頃
には士官(3尉)になっている.

 陸軍パイロットは全員が幹部だった.幹部と陸軍でいう場合は
下士官以上を指す.現在の自衛隊では士官から幹部とされる.
これはおそらく警察予備隊からの制度である.警察では巡査→巡査長→
巡査部長→警部補→警部→警視→警視正→警視長→警視監→警視総監
という順番になるが,巡査と巡査長は兵にあたり,巡査部長は
下士官(英語ではサージャン=軍曹)であり,警部補以上が幹部と
いわれる.ここから陸海軍で士官といわれた階級にあたるものとして
幹部という言葉になったのだろう.

 もともと陸軍は操縦者や偵察者に判任官である伍長以上しか
採用しなかった.海軍はそれに対して兵の身分の搭乗員が多かった.
兵から始まり,下士官(兵曹),准士官(兵曹長)と進級し,おおかたが
特務士官たる海軍少尉になった.陸軍の場合は下士官から准尉になり,
その後,陸軍少尉になる.ところが,陸軍には海軍のような特務士官
というスペシャリストの待遇はなく,曹長・准尉になると少尉候補者に
ならねばならなかった.この少尉候補者は1年間の士官学校への入校
が必須であり,合格率は数パーセントといった難関だった.
そのため,陸軍将校パイロットにはいわゆるたたき上げが少ない.
現役将校パイロットのほとんどは陸士,陸航士出身だった.そこに加えて,
指揮権継承順位の問題がない.陸軍の方がはるかに「民主的」だった
といえよう.

 次回はいよいよ本格的な戦争準備,「関東軍特種演習」で見られた
大動員の様子を説明しよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.10.7





◆兼原信克『戦略外交原論』を読み解く


兼原氏は,内閣官房副長官補.2014年から国家安全保障局次長兼務.
外交官として駐韓公使,内閣情報調査室次長などを歴任.


※要旨


・外交では,国家という巨大な人間集団が垣間見せる,
ぎらりとした動物的な生存本能を理解することが大切である.
しかし同時に,決して冷徹な権力政治だけが外交に必要なわけではない.

むしろ最も大切にせねばならないのは,人間一人ひとりの心の底に輝いている良心である.



・外交官は言葉が命である.
軍人の武器は銃弾だが,外交官は言葉が武器となる.
世界の政治は,稀に戦争によって大きく動かされるが,
ほとんどの場合が言葉によって利益を調整し,
価値観を整えることによって動かされる.



・吉田松陰が松下村塾で教えたのは,洋学でも蘭学でもない.
孟子である.
松陰は,儒家らしくかぎりない優しさを持ちながら,過激とも言える発信と行動の人であった.
そのメッセージは,自分が正しいと思うことには命をかけよ,という一点に尽きる.



・戦略論の基礎に入ろう.
まず,外交と軍事は連続している,ということを覚えていてほしい.
外交が平和担当で,軍事が戦争担当,と言えるほど世の中は単純ではない.
外交と軍事の交わる部分を安全保障と呼ぶ.



・武士の伝統が強く尚武の気風の強い日本人には意外かもしれないが,
安全保障戦略の大半は外交戦略である.
すぐに手が出るのはチンピラと同じである.

大国は,戦わない.
長期にわたって覇権を維持するためには,戦わずして勝つことが重要なのである.
そもそも戦争は,おおかた誰と組むかで初めから勝敗が決まる.



・外交と軍事の判断を,政治が最高レベルで統括してはじめて,国家安全保障が機能する.
外交工作が崩れて軍事に移っていく,軍事作戦が終わりに近づいて外交的処理に移っていく,
あるいは軍事作戦の開始直前に外交交渉に引き戻す,
こういった外交と軍事の狭間を国家最高レベルで調整する必要がある.


安全保障の判断,決断を下すことができるのは,外務大臣でも,防衛大臣でもない.
国家最高指導者として外交と軍事を統括する総理大臣だけなのである.


・安全保障の決断は,突然求められることが多い.
そのため,専門性の高い外交問題,軍事問題に精通した者に,最高指導者を補佐させることが多い.

諸外国では,外交顧問という名であれ(フランス),安全保障補佐官という名であれ(米国),
一人の人間が外交と軍事を統括して,最高指導者への進言に責任を持っている.




・自国の軍事力や,軍事史に対する知識を欠落させれば,過去の戦略的・軍事的失敗に学び,
今日の安全保障政策に生かすことができなくなる.
「どこでどう間違えたか」というような,将来に役立ち得る知的反省や省察が出てこなくなる.



・国家安全保障戦略は,現実主義の結晶である.
目的は理想主義でもよい.
それを現実主義の手段と組み合わせてこそ,実効的な戦略が生まれる.


・戦略眼を持つには,古代から現代まで,世界史のレベルで歴史を動かしている大きな力を
俯瞰することができなくてはならない.
軍事力,経済力,思想の力が,歴史を動かす根本的な力である.
世界史には,常に,この3つの力を兼ね備えた歴史の重心が存在する.



※コメント
教科書で,はじめて世界史を学ぶことは難しい.
無乾燥でなかなか,ストーリーが頭に入らない.
そんなときは漫画でわかる世界史などが,活用できる.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.10.7





◆竹内一正『イーロン・マスクの野望:未来を変える天才経営者』を読み解く



※要旨


・自動車王のヘンリー・フォード,
石油の世紀を築いたジョン・ロックフェラー,
そしてパソコンで未来を創ったスティーブ・ジョブスなど,
天才経営者や偉人は数々登場してきた.


・しかし,その誰をも凌駕する桁違いの発想と,
比類なき行動力を持ち,アメリカ大統領以上に世界中がいま注目する人物がいる.
それがイーロン・マスクだ.


・宇宙ロケット,電気自動車,そして太陽光発電.
この3つの先端産業で革命を起こそうと挑んでいる異色の経営者である.
イーロンが異色なのは外見ではない.
彼が,金儲けのだめではなく,人類を救い,
地球を助けるために会社を起こしていった点であった.


・アメリカのペンシルベニア大学で物理学と経営学を学んだイーロンは,
スタンフォード大学の大学院に進学したが,
たった2日で辞めて,ソフト制作会社を起業.
その後,ペイパルの母体を築き,ペイパル社売却で170億円を手にした.


・彼はロケットを従来の10分の1という激安な製造コストで作り上げた.
これだけでも驚くが,イーロンの視線は遥か彼方を目指している.
「人類を火星に移住させる」
これこそが彼の究極のゴールだ.


・大きなことをいう奴ほど,現場の実態など知らないものだ.
しかし,イーロンは違っていた.
ロケットに使う材料や溶接方法に至るまで細部を知り尽くし,
その上でロケット開発に挑んでいた.


・彼の卓越した能力の一つは,
成功を単なる「点」ではなく,「線」で捉えることにある.


・振り返ると,大学生時代のイーロンはたびたび,
「人類の将来にとって最も大きな影響を与える問題は一体何か」
と考えていた.
そして,辿りついた結論が,
「インターネット,持続可能なエネルギー,宇宙開発の3つ」だった.


・彼の資産は,今や約8000億円と言われる.


・1971年,南アフリカの裕福な家庭で生まれたイーロン・マスクは,
幼いときから本が大好きだった.
弟たちがおもちゃに夢中になるのをよそに,
「ロードオブザリング」や「銀河帝国の興亡」に熱中し,
本を読みふけった.
8歳でブリタニカ百科事典を全巻読破,
小学校の高学年になると10時間も本を読みふけることさえあった.


・10歳のときに彼は小遣いを貯めて,
足りない分は父に出してもらって,念願のパソコンを購入した.
そして,プログラムの教科書を手に入れ,
独学でマスターしていった.


・彼はペンシルベニア大学で物理学を専攻したが,
彼ほど物理学的思考を実際のビジネスで,
縦横無尽に活用した経営者は他にいないかもしれない.
物理学ではモノマネでなく,「原理」から思考を展開する.


・ペイパル社にまつわる「ペイパル・マフィア」という言葉をご存じだろうか.
ペイパル社出身者の多くがその後,大活躍していることを表している.


・ペイパル社の卒業生はみんな世界中で輝かしい活躍をしている.
そして全員が,サイバー空間を戦場としていた.
そんなペイパル・マフィアの中で,
ネットの世界を飛び出して,宇宙ロケットに電気自動車という
「リアル」の世界で戦うことを選んだ唯一の例外がイーロン・マスクである.


・彼は,スペースX社のCEOであるだけでなく,
最高技術責任者(CTO)でもある.
実際のロケット開発で様々な技術的な決断を下している.
「私は自分たちが作るロケットのあらゆることを知り尽くしている」
と言い切れるだけのハードな努力をしてきた.
イーロンは詳細まで理解し判断していた.


・彼の天才的にして型破りなところは,
このようにロケットの詳細開発に入り込む一方で,
NASAから多額の開発補助金を引き出すという
まったく別次元の才能を発揮している点にある.
理系の頭に,文系の交渉力を兼ね備えたCEOだ.
しかも,両方とも超高度なレベルが要求された.


・イーロンの妻だったジャスティンは,
夢を追いかける夫についてこう評していた.
「彼は単なる夢追い人じゃなく,夢に向かって爆走する桁外れの野心家なの」


・彼は奇跡的に,お金に振りまわされないための
「取扱説明書」を持っていたようだ.

「相手が何を大切にしているかを考え,
それを形にできれば,相手は喜んでお金を支払う.
お金は私たちの必要なところへ流れていくんです」
とお金の真理を示唆していた.


・21世紀のビジネス競争では,単品の性能を高めるだけでなく,
全体を取り組んだ便利で使いやすいシステムを生み出すことが,
成功の秘訣である.
イーロンは車についてこう語っている.
「人は車を購入するとき,実は自由を買っているのだ.
つまり,いつでも,どこへでも自分の行きたいところへ行くことができる」


・イーロン・マスクがやっているのは,
地球さえ超えた宇宙規模の壮大なスケールの事業であり未曾有のチャレンジだ.


・彼の,国や政府さえ動かす破天荒な行動力を見ていると,
小さい心配事に気を取られている自分が情けなってしまう.


・私達は運が良い.
歴史上,類を見ないこんな凄いことをやろうとしている男を,
私たちはリアルタイムで見られるんだ.


・イーロンの戦いを見ていると,
自分の悩みが何だが小さく感じられてしょうがない.
我々は人類史上最も偉大で,歴史がガラッと変わる大変革のときに,
居合わせているのではないか.




※コメント
イーロンの圧倒的な構想力と実行力は,見ていて清々しい.
そこまで行くと,人間の可能性は限りなく広いと感じる.
宇宙を考えた場合,人の悩みはちっぽけになるかもしれない.
ちなみに小学生のときに,百科事典を全巻読破した億万長者は多い.
それは,イーロンの他に,ビル・ゲイツ,堀江貴文などだ.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.9.23




◆本多静六『自伝・体験八十五年.努力と奮闘の一代記』を読み解く



※要旨


・不思議なことに私は,父を失い家計も次第に苦しくなり,
百姓仕事の手伝いもさせられるようになってからは,
かえって学問が好きになってきたのである.


・私の体験によれば,人生の最大幸福は,
家庭生活の円満と職業の道楽化による.


・努力こそ人生のすべてで,
努力の体験こそ最も貴重なる体験といわなければならぬ.
そこで,私は自分自身の至らぬ努力体験を語ることに大いなる喜びを感ずる.


・ミュンヘン大学での博士号試験に臨んだ.
試験官のブレンタノ教授が講義の種本としている
『エーアベルグの財政原論』という菊判257ページの本を,
一字一句も余さず暗誦しようと破天荒の決意をした.
だが,いよいよ暗誦にとりかかってみて驚いた.
本の内容がなんとも難解なのである.
1日半ページも進まない.
しかも翌日になるとケロリと忘れてしまう.


・こんなことではとてもダメだ.
せっかくここまできて望みが達せられないとは無念.
このままでそうしておめおめと故国に帰られよう,
どの面下げて養父にまみえよう,
いたずらに屈辱を受けんよりは,
むしろ潔く切腹することが男子の面目ではないか.


・ついに切腹の決心を固め,養父から与えられた,
伝家の宝刀を取り出した.
しかし,いよいよ腹に当てようとすると一分も切れない.
己が卑怯を嘆きながらも,
きょうきょうたる白刃を見ると妙に心は澄みわたり,
理性が頭をもたげてきた.


・「もう一度死力を尽くしてやってみろ.
切腹はいつでもできる.
盲目の塙保己一は630巻の群書類従の内容をことごとく
その頭脳の中にしまっていたのだ.
たった一冊の財政原論が頭の中に入れられぬことがあるものか!」

自分で自分を叱りつけながら,
気を取り直して再び勉強を始めた.


・だが,やってみるとまたダメ.
刀を取り出す.
またやってみる.
そんなことを繰り返しながら,
不安焦燥の数日を過ごすと,不思議にも一週間ののちに,
ようやく精神が統一されてきて,
驚くほどの暗記力がついてきた.


・ついに1日4,5ページの行程で進み,
かつ翌日になっても暗誦でき,さらに10〜15ページ,
ときには20ページも進むことさえあった.


・勇気100倍した私は,昼は孜々として暗誦につとめ,
夜になると下宿の主人や娘に発音や辞句の不熟を訂正してもらった.
かくて弛まず続けること1ヶ月,ついに題さえいわば,
どこでもすらすらと一句も違わずに,
質問に答えられるようになった.
そして博士号に合格した.


・帰国後,「4分の1貯金」と共に,
25歳から始めたのが,「1日1ページ」の文章執筆であった.
これは1日1頁分以上の文章,それも著述原稿として印刷価値をもつものを,
毎日書き続けるという「行」である.


・職業を道楽化する方法は,ただ一つ,勉強に存する.
努力また努力のほかはない.
あらゆる職業は,あらゆる芸術と等しく,
それに入るに,はじめの間こそ多少苦しみを経なければならぬ.
しかし,何人も自己の職業,自己の志向を天職と確信して,
迷わず,疑わず,専心に努力するからには,
早晩必ずその仕事に面白味を生じてくるものである.


・とにかく,後藤新平は,私ばかりでなく,あらゆる一芸一能,
ないし一癖ある人物を隔意なく近づけ各人それぞれの長所,
持ち駒をよく調べておいて,有事のときに,有用な人材を,
それっとばかりに活用し,利用するという天才的存在であった.
人を使い,人を動かす包容力と器量がきわめて大きかったようである.
これが,ついに後藤を後藤新平伯爵の大にまでなすに至った,
最大要素だったと私は考える.




※コメント
本多さんの人生には見習う点が多い.
また自分でもすぐにできるところが沢山あり,
まさに役に立つ教訓集だ.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.9.22





◆小板橋太郎『異端児たちの決断:日立製作所・川村改革の2000日』を読み解く




※要旨


・1999年,日立製作所の副社長川村隆は,
北海道への出張のため全日空新千歳行き61便の飛行機に乗り込んだ.
その飛行機は,旅客機マニアの犯人にハイジャックされた.
犯人は,機長を殺害し,副機長を外に出し,操縦した.
たまたま乗り合わせた非番のベテランパイロットの山内が,
マニュアルを無視し,ドアを破ってコックピットに入り,
あと20秒で墜落というところで,機体の失速を回避した.


・この事件からちょうど10年後の2009年,
日立製作所は製造業史上最大となる7873億円の最終赤字を計上した.
売上高10兆円,日本最大のコングリマリットは,
33万人の従業員を乗せながら,全日空61便のように急降下した.
そして同年4月,旧経営陣の多くは退陣し,
6年前に副社長を最後に子会社に転出していた川村を会長兼社長に起用する.


・歴史の奇妙な偶然を感じさせるのは,
61便を救出した山内がその日,
便の運行には携わらない「非番のパイロット」だったことだ.
乗客が証言しているように,ハイジャックの事実を間近に見ながら,
マニュアル通りの対応しかできなかった客室乗務員ら.
その静止を押しのけて,山内や数名の乗客が協力してコックピットに入り,
機体を再上昇させたことは,
10年後に日立に起きたことと酷似している.


・川村はもともと,何かを決めるときに人に相談をするタイプではない.
川村を長く知る社内の人々は,
「即断即決で味気ないぐらいドライ」
という印象を持っている.
そもそも会議や合議というものをあまり好まない.


・「時計の針を巻き戻したような布陣」
62歳の古川から69歳の川村への社長交代は,
メディアの格好の餌食になった.
だが,川村は意に介さなかった.


・「23人の専務と常務は意思決定の会議から外そう.
今はスピードが最重要だ.
重要な意思決定はこの6人で決める」
4月1日の新体制発足直後の経営会議で,
川村は集まった5人の副社長にこう宣言した.


・川村隆という人物を一言で表現するのは難しい.
日立のエリートコースを歩んできたが,
若い頃からガツガツしたところをあまり見せなかった.


・それは,荘子のつぎの言葉が川村に当てはまる.
「君子の交わりは淡きこと水の如し,
小人の交わりは甘きこと禮の如し」

つまり,
「物事をよくわきまえた人の交際は水のようだ.
つまらぬ小人物の交際は,まるで甘酒のように甘く,
ベタベタした関係であり,一時的には濃密のように見えても,
長続きせず,破綻を招きやすいものだ」



・日立本体の顧客は,受注金額順に業種を並べると,
電力,ガス,通信,金融となる.
古くからインフラ企業を顧客にしてきた日立らしい顧客構成だ.

だが,これを日立グループに切り替えるとまったく異なる風景が見えてきた.
それは,電機,自動車,流通となる.


・川村は,出血している事業のリストラ.
近づける事業と遠ざける事業の峻別を行った.
そして今後成長が見込まれる情報システム系の上場子会社をTOBで取り込み,
社外に流出している利益を取り込んだ.


・「日立に追い風が吹いている」
2010年4月,新社長に就任した中西宏明は,
はじめての記者会見で開口一番,こう宣言した.
過去1年,守り6割と言ってきた緊急事態フェーズから,
一気攻めに転じる旗印を鮮明にしたのだ.
キーワードは「グローバル」.
「日立を世界有数の社会イノベーション企業にする」
と中西は強調した.


・中西は1970年に東京大学工学部を卒業,日立に入社した.
「入社した頃から社長候補」と言われ,
30代の初めにはスタンフォード大学院に留学.
大みか工場副工場長,日立ヨーロッパ社長,
北米総代表,欧州総代表も務めるなど,約束されたエリートコースを歩んできた.


・中西は物腰は穏やかだが,クールで頭が切れる.
そんな彼は5年前にはこの壇上に立つことは予想していなかった.
中西は,2006年に副社長に昇進するが,
日立GST再建に専念するため,同年末には副社長を退任.



・傍目からは中西の北米行きは,
社長レースに破れた都落ちと捉えられた.
だが,中西の経営の真骨頂はここから始まる.
そして,3年間にわたる日立GSTの再建は,
その後,川村とともに進めていく日立「改造」の重要な伏線となるのだ.


・川村にせよ,中西にせよ,他の日立再建チームを見るにつけ,
感じることがある.
一度一線を退いた,あるいは外れた人間が何かの偶然で
再度経営に携わることになった時,
そこにはある種の思い切りや大胆さが発揮されるように思えてならない.
言葉は悪いが,一度捨てた命,一度は死んだ身.
悲壮感ややぶれかぶれというのとも違う,
しがらみから解き放たれた「達観」が経営を動かしていく.
そうでなければ,その後の日立の復活は説明のつけようがない.


・北米サンノゼで,タフ・ネゴシエイターとして名を馳せた中西だが,
単身赴任のプライベート生活は気ままに過ごした.
中西は根っからの料理好きで知られる.
多忙な生活の傍らで,食材を買い込み,
毎晩一人でも3品ほどの料理を作るのが常だった.


・日立GSTの会長の三好が,ゴルフ帰りにワインを携えて中西の部屋に行くと,
エプロンをして自作料理を準備した中西が待っている.

「包丁の研ぎ方一つで料理の味は変わるんだよ」


・入社した頃から社長候補と言われ,
エリート街道を進み,自らもそれを認識しながら,
時の運には恵まれなかった.
それでも腐ることなく,海外での困難なミッションに力を尽くし,
プライベートの時間も疎かには過ごさない.
カルフォルニアでのエピソードは,
豪腕とかタフと呼ばれる中西のもう一つの横顔をよく表している.


・英国での鉄道ビジネスで苦戦を強いられた日立は,
セールスマネジャーの求人広告を出した.

そこに現れたのは,元英国海軍の軍人で,
国防企業BAEシステムズやアルストムでセールスを担当した,
アリステア・ドーマーだ.

「日本のHITACHIが,
なんのツテもないイギリスで鉄道車両を売ろうなんて,
チャレンジングで面白そうじゃないか」

「日立の技術が優れていることは知っているが,
英国でビジネスをするには私のコネクションが必要だ」

と言って現れた.


・ドーマーは,現地を理解するメンバーで体制をつくり,
その結果,公式・非公式の様々な場において,
複雑に入り組むステークホルダーから
情報を適切に吸い上げることが可能になった.


・ドーマーは,英国鉄道戦略庁の担当官だったアンディー・バールをスカウトした.
最初に煮え湯を飲まされた担当官庁から,
直接人材を引き抜くドーマーの人脈と手腕を見て,
日本人幹部は,「やはりボタンの押し方が違うな」
と感心せざるを得なかった.


・2014年6月,川村隆は株式総会において取締役を退任した.
何人かの取締役が簡単な退任の挨拶をするのと同じように,
川村も通りいっぺんの挨拶を残し,取締役会を後にした.
5年にわたる日立再建をなし遂げた主人公は,
最後に気の利いた言葉でも発して取締役会を去るのかと思いきや,
その去り際は拍子抜けするぐらい淡白なものだった.


・川村が日立工場の設計課長だった頃,
日立工場長の綿森力は,こう言ったという.

「この工場が沈むときがもし来たら,キミたちは先に船を下りろ.
それを全部見届けたら,俺はこの窓を蹴破って飛び降りる.
それがザ・ラストマンだ」


・「2009年4月,今にも沈もうとしている日立の舵を握ったのは,
綿森や全日空の山内の言動からザ・ラストマンの精神を
学んだからなのかもしれない」

川村は大略,こう話してくれた.



※コメント
日立の改革はどうやって行われたか.
その一旦が見えて面白い.
またその改革が,60代の重鎮たちが行ったところに興味がそそられる.

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2015.9.21




◆高橋洋一『財務省の逆襲:誰のための消費税増税だったのか』を読み解く


※要旨


・2013年4月に日銀が遅ればせながら採用したような,世界標準ともいえる金融政策を今後も続け,
名目GDP成長率を4%以上に維持.
その一方で先日,法案が成立した納税者の共通番号制度(マイナンバー)や,
歳入庁をつくって,見逃されている脱税分をきっちり徴収する.
この両方ができれば,財政再建は可能だ.
8年もあればできるし,10年あれば楽勝だ.


・経済成長の源泉は,設備投資だ.
成長戦略の成否は,設備投資がどれだけ伸びたかで判断できる.


・日本の財政関係の学者先生は大半は不勉強だ.
数学がわからず,基本的な経済分析すら自分ではできない.
また日本の財政を外野から見て研究している学者先生は,
当事者として財政に取り組んでいる役人たちに,情報,知識ではまったくかなわない.


・財務省の役人がマスコミを味方にする方法は単純だ.
1.出向く.
2.「内部資料」といって資料を持っていく.
3.メールアドレス,携帯電話を教える.
これだけで態度が変わる.


・記者のほとんどは自力でデータなど調べられないから,資料をわたすと喜ばれる.
内部資料といっても,実際にはマスコミ配布用につくられた資料だが.


・国税庁の調査査察部長を経験した財務省キャリアは,その次には官邸に入り,
事務方として官房長官などの政治家に仕えるのが通例である.
仕えてもらう側の政治家にとって,元国税庁調査査察部長は貴重な情報源である.
電話一つで古巣の国税庁に連絡でき,普通では知ることのできないような情報をこっそり教えてもらえる.


・財政は複雑な制度のかたまりだ.
大量にある予算関連の法とその運用は,財政を専門とする学者でさえ,
財務官僚に教えを請わなければ右も左もわからない.
まして門外漢の政治家は,財務官僚の助けなしでは答弁一つままならないのだ.


・誰であれ財務省のトップに就いた者は,その瞬間から財務官僚に依存し始まる.
財務大臣として毎日,役人から大量のレクチャーとサポートを受け続ける.


・財務省の権力は,「カネ」と「情報」を握っていることから来ている.
「カネ」とは,予算である.
国税庁を支配下に置き,国庫に入ってくる税収を管理.
さらに予算編成権を握っていて,集めたカネをどのように使うかの決定権を持っている.
「情報」は,官邸その他の官庁に張り巡らされた人事権から生まれている.


・財務省はしばしば軍隊組織にたとえられている.
管理職は後方で戦火に遭わない将校のようなものだ.
余った時間を使って,政治家やマスコミの懐柔を行う.


・官僚に対抗した竹中平蔵氏の手腕.
竹中氏が普通の外部の学者と違う点は,自分自身が大蔵省に出向していた経験があり,
「どのようにしたら官僚のコントロールを破れるか」を知っていたことだ.


・竹中氏のモットーは「戦略は細部に宿る」である.
徹底してディテールにこだわる.
社会人経験があり,大蔵省で官僚生活も経験していたので,役人のテクニックを熟知し,
彼らに対しては細部をおろそかにしてはいけないことを理解していた.


※コメント
高橋さんからの視点であるが霞ヶ関の内部事情がわかっておもしろい.
仕事の進め方やプロジェクトの遂行において,いろいろ学ぶ点は多い.
ただ計画を書くだけでは物事は進まない.
それをいかに実際に運営するかが肝になる.

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2015.9.20




◆安保徹『こうすれば病気は治る:心とからだの免疫学』を読み解く




※要旨


・心も体も毎日気持ちよく過ごしたい.
これは誰もが願うことだろう.
しかし考えてみると,自分の体のしくみについて,
本当に理解している人は少ないのではないだろうか.


・私たちの健康状態を知るには,
何がもっとも大切なのだろうか.
それは自律神経の働きを理解することである.
すると,もらさず健康状態が把握できる.
私たちの体の調節は,基本になればなるほど,単純化している.


・その基本の基本が自律神経であり,
それは交感神経と副交感神経から成っている.
興奮の体調を準備してくれているのが交感神経で,
リラックスの体調を準備してくれているのが副交感神経である.
たった2つの系の揺れで,すべての体調がつくられているのである.


・基本的で単純な系の特徴は,
すべてを網羅できることに繋がる.


・交感神経は興奮の体調をつくっているので,
いってみれば,この体調のときは元気がでる,
やる気十分という感じである.


・逆に副交感神経はリラックスの体調をつくっているので,
この体調のときは,ゆったりして,
気持ちが落ち着いた状態になる.
食事もすすむ.


・このようなことを理解していると,
薬に頼らなくても自分を健康な状態に戻すことができる.
具体的にいえば,交感神経緊張気味の人は,
働き過ぎを止めたり,心の悩みから脱却することである.


・逆に,副交感神経が優位すぎる人は,
食べる量を少し減らす,運動する,
きびきびした日常生活を送るなどに注意すればよいのだ.


・理解してしまえば,そんな単純なことで,と思われるかもしれない.
そう大切なことは単純なのである.


・本書では,この自律神経の働きをわかりやすく解説し,
さらに自律神経と白血球の連動のしくみも明らかにする.
ここまで理解が進むと,日常の不快な体調はもちろんのこと,
多くの難病からでさえすぐに脱却できるのである.
ぜひとも,健康増進と難病からの脱却の2つを手に入れていただきたい.


・入浴は日本が誇る健康法.
入浴ほど血行を良くさせるものはない.
だから健康法としては非常に効果がある.


・誰でも日常的にできるマッサージに「爪もみ」がある.
手や足の爪は神経や血管が集中しているところなので,
手や足の爪をもむだけでも鍼の半分ぐらいの刺激を与える.


・姿勢はとても大切.
健康を維持するうえで姿勢はとても大切だが,
骨や関節を支える筋肉がないと,良い姿勢が保てない.
筋力がないと姿勢は保てないのである.
逆に言えば,姿勢がいいのは筋力がある人なのである.


・私たちは,筋力がつけば必ず姿勢は良くなるのである.
だから無理な体勢で良い姿勢をつくるのではなくて,
筋力をつけることが大切なのだ.





※コメント
心と体の関係がシンプルに書かれて嬉しい.
しかもお医者さんなので,説得力がある.
いろいろな健康法の本質を知ることができる.

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http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.10.10




ライター・渡邉陽子のコラム (64) ─ 海上自衛隊 第111航空隊(1) 』
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは,渡邉陽子です.

「休日」の定義はいろいろあると思いますが,私にとっての休日は
「家から一歩も出ず,誰とも会わず,ただ静かに過ごすこと」です.

友人と会うとか,美術館に行くとか,釣りに行くといったプライベート
な用事が入ると,それは私にとって休日ではなく「予定のある日」
となります.勤め人だった時代も,できるだけ土日のどちらかは
出かけずに家にこもるようにしていました.それがもっともリフレッシュ
できる方法なのですが,「休みの日に家にいるなんてもったいない,
出かけずにはいられない」と言う友人もいるので,休日の定義って
ほんと,人それぞれですね.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■海上自衛隊 第111航空隊(1)


今回から海上自衛隊第111航空隊をご紹介します.
取材したのは3年ほど前になりますが,111空は非常
に印象強く残っている部隊のひとつです.

安全保障関連法が国会で審議されている際,
「ペルシャ湾口のホルムズ海峡の機雷掃海に掃海部隊を派遣」
といった言葉を何度も耳にされたと思いますが,
今回ご紹介するのは掃海部隊でも「掃海艇」ではなく「掃海ヘリ」です.


海を漂い,船舶に反応すると爆発する兵器,機雷.
海の安全を脅かすだけに,周囲を海に囲まれた日本にとっては,
その脅威はとてつもなく大きいものです.
わが国の生命線といえる海路を守るため,
ヘリコプターを使って空から機雷を除去するという,
唯一の掃海部隊が海上自衛隊の第111航空隊です.


海の中に仕掛けられる爆発物である機雷は,船舶に当たる,
もしくは船舶の音や磁気に反応することで爆発し,船舶を沈没させます.
潜水艦から発射される魚雷は高価なものですが,機雷は1つ数十万円
で作れるものもあるといいます.しかも漁船からでもたやすく投下
できるうえに威力は絶大ということで,極めてコストパフォーマンスが
高い兵器です.そのためしばしば戦争や紛争で使用される,
厄介な代物です.


敷設された機雷を取り除く作業が「掃海」ですが,
周囲を海に囲まれた日本は機雷,掃海との関わりが深い国です.
第2次世界大戦中,瀬戸内海と日本近海には約6万7000個もの
機雷が敷設されました.戦後,旧海軍から海上自衛隊にいたるまで
所属は変遷しながら,掃海部隊はこれらの膨大な機雷の掃海に従事,
主要航路や港湾泊地を切り開きました.その間,作業中に機雷が
爆発するなどして79名の犠牲者も出しています.

1991年,自衛隊初の海外派遣となったペルシャ湾での掃海作業.
掃海部隊は「金は出しても人は出さない」と散々な言われようだった
日本の国際協力に対する評価を覆した立役者であり,自衛隊の
海外派遣の礎となりました.掃海部隊の確かな掃海技術がペルシャ湾
で各国の海軍から賞賛され,国際的な評価を受けたことが,
翌年のPKO法成立の追い風となったのです.


さて,航空機による掃海は,朝鮮戦争時,日本海の沿岸に流れ着く
機雷を上空から発見しようという発想から始まりました.
取材した第111航空隊(以下,111空)は,ヘリコプターによる航空掃海
を行う部隊.掃海艦艇の到着に時間がかかるような遠隔地に機動力
を生かして早期に展開し,機雷除去を行う役目を担っています.


111空は1974年に千葉県の下総基地に新編,現在は退役したV-107,
通称バートルというヘリコプターでのスタートでした.1989年に現在の
山口県の岩国基地へ移り,翌年から海上自衛隊最大サイズのMH-53Eが,
さらに2008年にはMCH-101が配備されました.

主要任務は航空掃海と輸送,MCH-101のみ救難にも利用されています.
MH-53Eは吹き下げ流,いわゆるダウンウォッシュが強すぎて救難には
向かないのです.ちなみに海上自衛隊のヘリコプターの中で最新の
MCH-101は,南極観測船『しらせ』に搭載されている輸送ヘリCH-101
と同じ機種.そのためCH-101の搭乗員養成は111空が実施しています.

次回は航空掃海の方法と,その訓練についてご紹介します.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.10.8




◆春田真『黒子の流儀:DeNA不格好経営の舞台裏』を読み解く



春田真氏は,30歳で住友銀行を辞め,2000年にDeNAに参加.
財務戦略や上場準備を担当.
2011年,会長に就任,
同年12月に横浜DeNAベイスターズ取締役オーナーに就任.
2015年,DeNA取締役を退任.


※要旨


・本書は,DeNAの創業者・南場智子さんの本『不格好経営』の
舞台裏的な位置づけで読んでいただけたらと思う.
DeNAの歴史をひも解いていくと,
そのときどきの重要なイベントは当然ながら似通ってくる.
南場さんが表舞台とすれば,
私はその舞台裏を切り盛りする役.
舞台裏の臨場感を感じてもらえば嬉しい.


・M&A案件というのは,
そこに何らかの縁があれば順調に進むケースが多い.
論理的に説明することは難しい.
企業買収や合併には,そうした要素が大きく働いたりするから不思議なものだ.
相手との縁がなければ,
こちらがどれだけ欲しても実現できなかったりする.
横浜ベースターズの買収でもそうであった.


・プロ野球をビジネスとして見た場合,
実はその規模自体はそれほど大きいものではない.
ところが,その存在感や影響力たるや,同規模のビジネスのみならず,
それを大きく上回る規模のビジネスをはるかに凌駕する.
これが日本社会に根付く野球という文化の大きさなのだと改めて実感させられた.


・大学を卒業した私は,1992年,住友銀行の銀行員としてスタートした.


・配属先は京都の支店だった.
元来の融資先は地元で古くから商売をしている小さな企業や個人事業主が多かった.
土地柄だけあって,お寺関係の取引先もあり,
さまざまな業種の取引先があることは新入社員の私でもすぐにわかった.


・バブルの宴が終わったことで,
全国の支店から「融資回収のプロ」のような,
肝の据わった社員たちが集結していた.


・あるとき強面の支店長からあるノートのコピーを頼まれた.
コピーをしていると,そこに書かれている内容に視線が釘付けになった.
なんとそこには京都の実力者たちの裏人脈のような相関図が,
手書きで記されていた.
その資料を眺めていると,
普通の人には見ることのできない剥き出しの京都の姿に触れた気分になった.


・支店で学んだ基礎.
入社してから2年間,窓口業務や事務作業,督促作業をこなしていったことで,
私はきちんとした仕事をすることの大切さを叩き込まれた.
さらには強面の年配者たちとしっかりと話をする際の度胸といったものも身につけていた.


・バブル崩壊後,一時関係を断っていたお客さんの
ところへ戻ろうという方針になった.
当然,多くのお客さんから厳しい言葉を浴びせられた.
そんなことが続くとさすがにへこんでくるのだが,
人間というのは強いもので,
そうした状況にもいつしか慣れてしまうのだった.


・その段階にまで到達すると,
今度は逆に図々しくなり,厳しいことを言われても受け流し,
どうにか預金を集めようと考えられるようになるのだ.


・こういう図太さを身につけるには,
一度厳しい状況にさらされる必要がある.
それを経ることで,
人はどんな状況にも耐えられるしたたかさを養うことができるのだ.
細かいことをあまり気にせず,
すぐに次のことを考えられる図太さを,
私はこの時期に体得できたと思っている.


・人のつながりというのは,
どこでどうなって自分に返ってくるかわからないところがある.
相手がどんな人であっても誠実にお付き合いすることが大切だということを,
私は常に自分に言い聞かせている.


・DeNAの社内で上場準備を一緒にやったのが公認会計士で,
総合企画部の真田智子さんだ.
実際のところ,書類作成や事務作業に関して,
私はこれまで彼女以上にできる人を見たことがない.
短い時間しかない中で,準備がスムーズに進められたのは,
彼女の力によるところが非常に大きかった.
「実務の神様」と呼びたくなるほど,
彼女の事務処理能力は高かった.


・2007年からモバイルコンテンツの業界で
自主規制団体をつくることになった.
こういう作業をしているときに大切なのが,
必ず紙に落とし込んでいくことだ.
つまり,組織構成から団体規程に至るまで,
話し合いを経て決まったことはすべて書類として残していくのである.


・こうした作業はDeNAがすべて引き受け,作成していった.
これも公開準備のときと同じ要領で,
いつまでもこちら側で抱えないようにした.
できる限り迅速に書類にしていき,
それについていつでも詰めの議論ができる状態にしておいた.


・DeNAの設定するゴールははるか先にある.
それだけに,いまだに最終地点にまで到達できていない.




※コメント
春田氏の実務能力の高さ,裏方ぶりは格好いい.
成長しているチームには,そういった人材が必ずいるものだ.
見習いたい.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.9.18




◆原口泉『龍馬を超えた男,小松帯刀』を読み解く


※要旨


・小松帯刀を一言で語るなら,坂本龍馬や西郷隆盛や大久保利通を活躍させた人物であるという一語に尽きる.


・彼は薩摩藩の名門・肝付家出身.
小松家に養子に出て,薩摩藩の要職を歴任.
持ち前の社交性と人間性により,藩主と実力下級武士との橋渡しを行う.
朝廷や幕府とも良好な関係を保ち,維新の立役者となる.


・帯刀は,藩政の最高位である城代家老時代も,政治,経済,外交,教育と,
あらゆる分野に関わる一方,勝手掛として,予算と資金繰りを直接担当していた.
また優れた経済人であった.


・彼は,身分,国籍を超えて慕われる人格を作った.
名門の生まれながら,幼少体験から苦労人のところもあり,
人の気持ちがよくわかる,この気質あってこそ,さまざまな考え方や勢力が渦巻く薩摩藩を,
大きくまとめあげることができた.


・供を連れずに庶民と交わる「独行の人」.
帯刀は身分が高かったにもかかわらず,供も連れずに一人で,
あちこち出歩いていた.


・彼は探究心が旺盛だったようで,自ら大砲の撃ち方を習い,実弾射撃の練習を繰り返すなど,
最新技術の研究に熱心に取り組んでいた.


・有力諸侯や公卿方への帯刀の交渉術は,実に卓越したものであった.
この手腕を高く評価した島津久光は,27歳の若き帯刀を,家老に昇格させた.
さらには,軍事,財政,教育,商工業など各種の重要な掛も兼任させていく.


・帯刀の社交性は,いうなれば「庶民性を持った貴族」とも言うべきものだった.
それは人種や身分の壁を超えて民意を聞く耳を持ち,宴会やパーティなどの社交的空間においてふんだんに発揮されていく.


・社交の場で情報をキャッチするには,優れたアンテナを要し,
収集した情報が信頼できるものか時間をかけて精査しなければならない.
そうして初めて信じるに足る質のいい情報が得られる.
帯刀はそうした一連の能力にも長けていた.


・維新は,個人の力ではなく,組織の力で成就した.
歴史をみるときは,いざという決定的なときに,組織が動いたか動かなかったか,
動いたとしたらどう動いたかという,政治力学的な観点が必要.



※コメント
薩摩藩に隣接する人吉藩の家老・犬童は,あるとき5,000両の借財を帯刀に求めた.
小松帯刀は家老になったばかりであった.
人吉藩は,突然の火事に見舞われ,借財に走り回ったが,どうにも5,000両足りなかった.
窮状を訴える犬童に帯刀は多くを語らず,五千両を都合することを約束した.
どうにも工面できなかった大金をずいぶん若い家老が,即答で都合すると言っているのだ.
あまりのあっけなさに,驚いたのは犬童であった.
人吉藩と薩摩藩は,これをきっかけに密接な関係になっていく.

のちに薩英戦争で,大きな打撃を受けた薩摩は,人吉藩より膨大な米の支援を受けることになる.
まさに,困ったときは,お互い様である.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.9.18



◆板羽忠徳『20歳若く見える頭髪アンチ・エイジング』を読み解く


板羽氏は,45年間理容師として,ヘアサロンにたずさわっている.



※要旨


・私はこれまでに様々な養毛剤や,育毛法を調べ,独自の発毛・育毛法,
そして「カニ」「イソギンチャク」「エイ」などの組み手による「頭皮マッサージ」,
さらに「髪様シャンプー」などの方法を編み出してきた.



・新しい髪は必ず生えてくる.
育毛剤だけでなく,いつものシャンプーやマッサージなどを丹念に,
正しい方法を同時に行って初めて,髪の毛はうまく快復し始める.



・大切なことは,効果的な育毛剤・発毛剤を使い,原因や誘因に対して適切な対処をして,
食事面や精神面を含めた正しい知識を持ち,髪への負担を取り除く適切なケアを続けていくこと.



・頭皮が弱る最大の原因は「全身の病気」.
腎臓,心臓,肝臓などの病気や,糖尿病,胃腸の不調,さらに偏食や不摂生,
ストレス過多で体力が弱ってしまうこと自体が皮膚に良くない.


・薄毛は「予防に勝る治療なし」である.



・健康な毛髪を作るためには,健康な身体作りが基本.
生活習慣病を起こすような食生活は禁物.


・胃腸の消化吸収をよくしておくことが大切.
また,肩こりは結果的に頭皮への血行を悪くするので,早めにマッサージなどでほぐしましょう.



・マッサージシャンプーが基本.
脱毛予防や育毛のためには,頭皮を柔らかくし,血行をよくしておくことが第一.



・シャンプー時に最も注意しなければならないのは「すすぎ」.
シャンプー剤が頭皮や髪に残らないように十分にすすぎ流しましょう.



・育毛法のいろいろ

1.黒ゴマを毎食ごとに食べる.

2.桑の皮を煎じた汁を塗る.

3.緑茶で頭皮をすすぐ.

4.米ぬか,センブリ,アロエなどを塗る.



※コメント
一昔前と比べて,育毛に関する情報のレベルが上がってきている.
現在の医学の進歩はとても早く,近い将来,薄毛の悩みなどは全くなくなるかもしれない.
そのような日を期待して,日々ストレスをなるべく減らしながら,頭皮に負担をかけないようにしよう.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.9.17




◆榊原英資『財務省』を読み解く


※要旨


・財務官僚の振る舞いは,政策実現のため,根回し,腹の探りあい,パワーバランスの見極め,
落としどころの設定など,極めて人間くさいものとなる.



・予算編成は政治そのもの.
9月からほぼ4ヶ月をかけて調整作業が行われ,最終的に財務省原案が出来る.

予算案は,総理大臣や各省大臣の意見,党の幹事長や政調会長の意見を
しっかりと反映させた予算をつくらなければ,閣議で承認されないし,国会で可決されない.



・族議員の有力者が強く反対する法案を国会で通すことはかなり困難である.
この根回しは法案作成・提出のプロセスのなかで最も重要な事項である.


・財務省は悪役とされることが常.
普通の組織ならばイメージアップを図るところだが,財務省はそんな気配は見られない.
トップも世間に流布しているイメージに反論することなく,いつも沈黙を守っている.


・彼らは自分の職務の性質上,自分たちは悪役でいい,と割り切っている.
財務官僚たちの中には,「悪役と思われる方がカッコいい」という美学というか,空気がある.


・手柄は大臣,秘書官は黒衣.
秘書官の仕事は黒衣だが,財務官僚は他のポストでも多くは黒衣に徹している.
黒衣に徹するというのは,実は強い自信とプライドがあるからできること.



※コメント
榊原氏は,どちらかというと親財務省の立場だ.
しかし,彼は中長期での消費税増税は賛成しているが,現段階の増税には反対している.
財務省に対する見方は,いろいろな意見があり,面白い.

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http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.9.16




◆佐藤優『功利主義者の読書術』を読み解く


※要旨


・外交官の現役時代,筆者は若手外交官の教育係をつとめていたが,
そこではロシア人との論争に勝つためには論理学を勉強せよと強調した.



・現代のような帝国主義の時代には,インテリジェンス(情報)力,交渉力などのソフトパワーの外交力が重要になる.
紛争が起きた場合には,外交官の,交渉力,さらに普段からの人脈がものをいう.


・外交の世界では,宴会がよく行われる.
表面上,和気藹々とした話し合いをしながら,相手が隠している情報をうまく引き出したり,
相手の腹を探るのにカクテル・パーティーほど重要な場はない.


・同時に,カクテルパーティーでは本当の友人はできないという.
外交やインテリジェンスの業界用語で「カクテル・サーキット」というが,
カクテル・パーティーをいくつもはしごして,情報を収集することがある.



・カクテル・パーティーは,いわば情報戦争の戦場なので,そこで出会う人々は,潜在的な敵なのである.
外交やインテリジェンスの世界では,自国の国益がすべてであり,友情も愛情も,
すべて国益のために利用するというのが「ゲームのルール」だ.



・外交官として,モスクワに勤務するようになってから,ロシア人の心情を知るために,
ロシアの小説を読むようになった.
しかし,文学を鑑賞するとか,小説自体を楽しむという優雅なレベルではなく,
日々,虚々実々の駆け引きが展開される外交の現場で,
相手の内在的論理をとらえ,日本側を有利にするという目的のために読書したのだ.



・重要なのは,自分の言葉を持っていることだ.
酒場で喫茶店で,同僚と話すときに,短時間でもよいから,自分の言葉で,自分について話すことが大事だ.




※コメント
小説を実用的に生かすことは高度なテクニックが必要である.
ただ,好きこそものの上手であり,一見無駄とも思えることもどこかで生かされる.
自分の興味あることをとことん研究するもの大切だ.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.9.15




◆菅野一勢『他力本願で金持ちになる人』を読み解く



※要旨


・私は人から成功する秘訣を教えてほしいとか,
どうすれば夢を実現できるかと尋ねられます.
その答えは「自分でやってみること」です.
(ウォルト・ディズニー)


・私は不得意なことは一切やらず,得意なことだけやるようにしている.
(本田宗一郎)


・会社の出口は4つしない.
上場,継承,売却,清算です.
(資産数百億円の富豪Sさん)


・私は決して失望などしない.
どんな失敗も,新たな一歩となるからだ.
(エジソン)


・大丈夫だ.失敗するな.なんとかなる.
(一休さんの遺言状)



・成功するには,成功するまで決して諦めないことだ.
(アンドリュー・カーネギー)


・チャレンジして失敗することを恐れるよりも,
何もしないことを恐れろ.
(本田宗一郎)


・「ウダウダ言ってないで,今すぐやれ!」
今やらないと,90歳になったときに,
もっと冒険しておけばよかった,
って間違いなく後悔するよ.


・みんな知らないんだ.
実は私がやった仕事で成功したのは,
たった1%に過ぎなかったことを.
(本田宗一郎)


・イメージしたものがすべて現実化するのがこの世の仕組み.
(七田眞)


・金運,強運,起業運がつく神社.
毎年,ぼくが欠かさずお参りに行く神社をシェアします.

1.強運の神様で有名な日本橋にある小網神社.

2.金運神社として有名な富士山のふもとにある新屋山神社.

3.箱根神社.


・「君には無理だよ」という人の言葉を,聞いてはいけない.
もし,自分で何かを成し遂げたかったら,
出来なかった時に他人のせいにしないで自分のせいにしなさい.
(マジックジャクソン)


・日本に生まれただけでついている.


・ないものを数えるのではなく,あるものに感謝する.


・もしかしたら,あなたにも辛い過去があるかも知れません.
もしかしたら,今まさに辛い経験をしているかもしれません.
しかし,その経験はすべて自分にとってプラスの経験です.


・15年間で培ったビジネス12の真実.


1.考える前に飛び込むこと.

2.新たな発想は捨てて2番,3番煎じでいこう.


3.誰もメインにしていない,おまけみたいな商品があれば,
それをメインにすることができないか,考えてみよう.

4.3分考えても結論が出ないことは,
3年考えても結論は出ない.



・絶頂期にいち早く次のビジネスを仕掛ける.


・10回起業すれば誰でも成功できる.
当たりにいきつくまでチャレンジし続ける.
そして当たりを引いたら,
そこに全資金と全能力を注ぎ込むのです.


・もの凄いスピードで成功する人の共通点は,
「考える前に行動する」


・最初にあったのは,夢と根拠のない自信だけ.
(孫正義)


・人生のバッターボックスに立ったら,
見送りの三振だけはするな.
(小林繁)


・PKを外すことができるのは,
PKを蹴る勇気を持った者だけだ.
(ロベルト・バッジョ)


・24時間,自分のひらめきに敏感でいる.




※コメント
世界には,いろいろなビジネスのスタイルがある.
一番自分に合ったやり方を見つけることが肝要だ.
つねにアンテナを張り巡らせたい.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.9.15




『ライター・渡邉陽子のコラム (65) ─ 海上自衛隊 第111航空隊(2) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

観艦式の予行に行ってきました.
今回は初めて艦艇からの取材ではなく,航空機からの取材でした.
館山航空基地からSH-60Kに乗り,相模湾を一列縦隊で進む艦艇を
パチパチと撮影.大きな護衛艦から潜水艦やミサイル艇まで
列を乱さず進むというのは,シンプルながら練度がはっきり見える
ものかもしれないと,上空から見ていて感じました.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■海上自衛隊 第111航空隊(2)


今回は航空掃海の方法についてご紹介します.
機雷が敷設された場合,その一帯は危険海域と設定されます.
危険海域全体の掃海には時間がかかるので,まずは船舶が
安全に航行できるために必要な分の水路を掃海します.
掃海具を曳航してこの水路をひたすら往復する,それが航空掃海です.


白いマス目に無数の直線を引いて最終的に黒く塗り潰すように,
掃海ヘリは掃海具を曳航し,水路をくまなく往復します.
一度通過しただけでは反応しない機雷もあるので,同じ場所も
何往復もするのです.
なんとも根気,粘り強さ,忍耐力が求められる,しかも危険を伴う作業です.

機雷には浮遊機雷,上昇機雷,ホーミング機雷,自走機雷など
さまざまな種類がありますが,代表的なものに係維式機雷と
沈底式機雷があります.
係維式機雷は,海底に沈む重りとワイヤーでつながった球体が,
船舶に接触することで爆発する機雷です.沈底式機雷は海底に
沈んだ状態で,船舶の音や磁気に反応して爆発します.


余談ですが,広島県呉市にある海上自衛隊呉史料館,通称てつのくじら館
の2階は「掃海の歴史と世界貢献」と称し,ペルシャ湾への掃海部隊派遣
の際に持ち帰ってきたイラク製の触発機雷をはじめ,何種類もの実物の
機雷が展示されています.てつのくじら館は退役した潜水艦あきしおの
中に入れることが「売り」ではありますが,この2階の展示は,海上自衛隊
の英知と技術の結晶であり,掃海技術の高さを証明しているものです.
訪問する機会のある方は,ぜひすべての説明パネルを読まれることを
おすすめします.

ちなみに館内を案内してくださるボランティアの皆さんは,自衛隊のOB.
掃海の説明は元掃海部隊の隊員が,潜水艦の紹介は元サブマリナーが
説明してくれるのです.

てつのくじら館のウェブサイトはこちら.サイトの野暮ったさがいささか
残念ですが,詳細が載っています.
てつのくじら館 http://www.jmsdf-kure-museum.go.jp/index.php


さて,機雷によって掃海の仕方は異なるので,使用する掃海具も違ってきます.
掃海具はマーク103,104,105と呼ばれる3種類.ちょっと味気ない名称ですね.

103は係維式機雷を掃海するためのもので,ワイヤー切断機を連結した索
をヘリが曳航し,機雷を係維しているワイヤーを切断します.浮かび上がった
機雷は掃海部隊のEODという水中処分員が処分するか,MH-53Eに
取り付けられた20ミリ機関銃で銃撃します.

104は沈底式機雷の中でも音に反応する音響機雷に対応しています.
筒状の中のディスクを水流によって回転させることで,船舶のスクリュー音
に似た音響を発生させ,音響機雷を誘発処分するというものです.
103と104はヘリに搭載し,索につないで水中へ降ろし,ヘリで曳航する
という形になります.


一見ボートのように見える105は,船舶を模擬した磁場を発生させる掃海具.
発電した電流を電線ケーブルに流して海中に磁場を発生させ,磁気機雷を
掃海します.
105はサイズが大きいので掃海ヘリには搭載できません.そこでまずは
掃海母艦に搭載され,現場の海域に到着してからヘリとつないで曳航します.
111空が岩国基地で訓練する際は,基地内にある「すべり」と呼ばれる海への
スロープ部分から105を進水させます.

次回は航空掃海訓練の様子をご紹介します.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.10.15





■ 1日3分で身につけるMBA講座
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≪不適切会計で揺れる東芝の経営を財務の視点から分析する≫


さて,前回はワタミの財務分析をお届けしましたが,
たいへん大きな反響をいただきました.

ご感想をいただいた中に,次回は是非とも東芝の今後についても
財務分析の観点から検証していただきたいというご意見がありましたので,
今回はご要望に応えまして東芝の財務分析を行っていきたいと思います.

東芝はみなさんもご存知のように今年の4月に不適切会計が発覚し,
現在“東芝ブランド”に対する信頼が大きく揺らいでいます.

この不祥事が事業,そして財務にどのような影響を与えているのか?

最新の決算短信から検証を行っていきましょう.


■ 東芝のキャッシュの水準をチェックする


まずは企業の事業活動に欠かすことのできないキャッシュの水準から
見ていきましょう.

東芝の直近の現預金残高は2015年6月30日時点で,2,055億円です.

これだけでは現預金残高の水準が高いか低いかわかりませんので,
比較を行ってみます.

たとえば,東芝の昨年度の売上高は6兆6千億円ですから,
月商に直すと5,500億円です.

つまり,東芝は現状売上の0.37ヶ月分の現金残高しかないということに
なります.

他社との比較で見ていくと,同業種のシャープは年商2兆8千億円と東芝の
半分以下の規模ですが,2015年6月30日時点では,2,143億円と東芝を上回る
現預金残高となっています.

また,日立は年商が9兆8千億円で2015年6月30日現在の現預金残高は
6,900億円なので,売上の0.85ヶ月分に相当する現預金を保有している
ということになります.

このように比較分析を行うと,東芝の現預金残高の少なさが際立つ格好と
なります.


■ 流動負債と流動資産のバランスを見る


続いて流動負債と流動資産のバランスをチェックしてみましょう.


(※注)
流動負債とは?・・・1年以内に支払わなければならない負債,
もしくは営業に関わる負債

流動資産とは?・・・1年以内に現金化される資産,
もしくは営業に関わる資産


東芝は2015年6月30日現在で,4,053億円の短期借入金を計上しています.

この短期借入金は同年3月31日より,わずか3ヶ月で1,090億円も
増加しています.

これは,恐らく不適切会計が発覚した影響で売上が急落し,
費用の支払いに窮して信用不安が起こらないように,
事前に借入をして万が一の事態に備えた結果の表れと推測されます.

ただ,4,000億円以上に膨らんだ短期借入金に対して,2000億円程度の
現預金しかなければ,金融機関が一斉に手を引いた時に
東芝はひとたまりもありません.

つまり,この短期借入金と現預金のバランスについては決して理想的なもの
ではなく,逆に不適切会計から業績が悪化した場合に経営危機に陥るリスクが
高いといっても過言ではないのです.

ただ,より大きな視点で,流動負債と流動資産のバランスを見ると,
流動負債が合計で2兆9,249億円に対して流動資産が3兆3,288億円ありますので,
流動比率を計算すると113.8%となり,経営危険度の目安となる100%は上回って
いますので短期的に危機的な状況に陥る可能性は低いといえるでしょう.

とはいえ,流動資産に計上されている『受取手形及び売掛金』と
『棚卸資産』には注意が必要です.

『受取手形及び売掛金』とは,簡単にいえば,製品やサービスを販売した際に,
販売先に支払いの猶予を与えることです.

通常であれば製品を渡す代わりに現金を受け取るはずですが,商習慣として
製品は先に渡して支払いは受取手形や売掛金として数週間から数ヶ月先に
現金化されるのが一般的であり,現金化されるまでは流動資産の
『受取手形及び売掛金』に計上されることになるのです.

東芝はこの『受取手形及び売掛金』の残高が6月30日現在で1兆1,787億円に
達しています.

これは,売上の2.14ヶ月分に相当します.

この『受取手形及び売掛金』が100%回収できるようであれば問題は
ありませんが,もし販売先が倒産するなど債権が焦げ付くようであれば,
流動資産が目減りすることにつながっていきます.

同じように『棚卸資産』を見ていくと,1兆1,499億円の残高があります.

この『棚卸資産』とは簡単にいえば,製品在庫のことであり,
もし製品が古くなって売れなくなるような不良在庫が発生するようであれば,
『棚卸資産』の残高は大きく減少する可能性も考えられるのです.

そこで,より詳細に東芝の財務状況を把握するためには,このような
『受取手形及び売掛金』や『棚卸資産』が不良債権化していないか
チェックしていく必要があるといえるでしょう.


■ 自己資本をチェックする


それでは最後に,東芝の自己資本はどうでしょうか?

東芝は老舗企業らしくこれまで大きく内部留保を積み立ててきています.

利益剰余金の額は3,710億円に達しており,日立の1兆4,775億円には
遠く及びませんが,シャープの984億円に比べれば,まだ余裕のある水準
といえるでしょう.

また,自己資本比率を計算すると17.3%であり,日立の24.1%ほどでは
ありませんが,シャープの12.3%よりは高い水準にあります.

自己資本部分も1兆円を超える水準にあり,余程巨額の赤字を計上しない
限りは,債務超過に陥って経営が破綻する可能性は低いといえるでしょう.


このように,東芝の貸借対照表を分析する限りは,もちろん健全とは
言い難い面もありますが,すぐに経営危機を迎えるような“瀕死の状態”に
陥っているというわけではないようです.

不適切会計を二度と繰り返さないと反省し,大きな背伸びをしない経営に
徹すれば,現状の体力で十分に再起は可能といえるのではないでしょうか.

今回は貸借対照表から東芝の経営状況を分析してきましたが,
次回は損益計算書とキャッシュフローの観点から東芝の今後を
占っていきたいと思います.

◎1日3分で身につけるMBA講座
http://archives.mag2.com/0000108765/
2015.10.15




陸軍機 vs 海軍機(53)       清水政彦

「零戦と隼(52)」
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 2週お休みして申し訳ありませんでした.
「零戦vs隼」の第52回.今回は,フィリピン陥落から
沖縄戦までの航空作戦全般と,常態化してしまった
「特攻」についてです.


▼ フィリピンの喪失とその意味

 1944年10月にフィリピン東部のレイテ島に上陸した連合軍は,
翌45年1月にはさらにルソン島に上陸して首都マニラに迫り,
激戦の末,1945年3月にマニラ市を奪還した.

 マニラ陥落と相前後して,周辺地区に構築されていた
クラーク・フィールド基地を中心とする航空基地群も連合軍
の手に落ちている.これにより,ルソン島周辺海域を含む
フィリピン全土の制空権が連合軍に握られることになった.

 日本側にとって,ルソン島と台湾を隔てる「バシー海峡」
上空の制空・制海権を失ったことは致命的であった.
「バシー海峡」は,南方の資源地帯と日本本土を結ぶ
ほぼ唯一の連絡路であり,南方から石油を積んで日本に
向かうタンカーは必ずバシー海峡を通過しなければならない.
バシー海峡を空と海から封鎖されることは,すなわち石油の
輸入が不可能となることを意味していた.

 フィリピンを失った時点で,日本の戦争は実質的に終わった.
この時点で国内に備蓄されているわずかな燃料を使い果たせば,
その後は飛行機を飛ばすことも,車両を動かすことも不可能
になる.仮にそうなれば,連合軍が本土に上陸しようがしまいが,
日本本土に残る7千万の軍民は座して死を待つほかに選択肢はない.

 軍事的な観点からは,1945年3月の時点で大日本帝国は
敗北している.陸海軍の軍人の多くも,政府の要人や天皇も,
フィリピン喪失が決定的となった時点で真剣に「早期講和」という
選択肢を考えていたはずだ.

 1945年3月から8月までの約半年の戦いの目的は,すでに
軍事的に「負けている」戦争を政治的・外交的に「終わらせる」
ための時間を稼ぎ出すことにあった.

▼ 沖縄戦とその特異性

 フィリピンを制圧したあと,連合軍は防備の堅い台湾を素通りして,
次の「飛び石作戦」の照準を沖縄に定めていた.連合軍にとって
沖縄を攻略する意味は,日本本土(九州)上陸作戦のための
足がかりにほかならない.

 本土が完全に焦土になる前に講和を実現しなければならないが,
終戦工作にはなおしばらくの時間が必要である.連合軍の
本土上陸を一日でも遅らせるため,沖縄を守備する第32軍は,
前例のない厳しい持久(玉砕)戦の任務を与えられていた.

 撤退の選択肢がない孤島で,10万以上もの将兵が,文字通り
最後の一兵まで抗戦するのである.それまでも「玉砕」の事例は
少なからず存在したが,これらはあくまで「決戦」の結果としての
敗北であり,わずかではあっても勝ち目があると信じる要素が
残っていた.

 しかし,沖縄の場合,もはやはじめから「勝ち」はない状況である.
敵を撃破して勝利することではなく,一日でも長く持久すること,
死ぬまで戦うこと自体が目的であった.第32軍の持久作戦は,
「生還を期し得ない」あるいは「死ぬことが目的である」という点で,
「特攻」に限りなく近い任務だと言えるだろう.

▼ 常態化する「特攻」

 沖縄戦に際して,陸海軍の航空部隊は残存する稼働機の大部分
を投入して大規模な特攻作戦を実施した.これを境として「特攻」は
「特別」なものではなくなり,むしろ「特攻」が通常の対艦攻撃手段
として常態化していく.

 このように「特攻」が常態化していく背景には,いくつかの要因が
あったと考えられる.

 まず,沖縄までの進出距離の問題がある.九州南端から那覇
までの直線距離だけでも約620kmあり,発進基地から沖縄本島沖合
を遊弋する連合軍艦船までの総飛行距離は少なくとも700km以上
を想定しなければならない.一般に航続距離の短い陸軍機にとっては,
この距離では片道攻撃にならざるを得ない.

 次に燃料の問題がある.1945年初頭の時点で,金属材料や
ゴムなどの資材はストックにまだ若干の余裕があり,飛行機の
生産は何とか継続していた.しかし,この時点で日本はすでに
石油の輸入を絶たれており,将来的な燃料供給のメドはまったく
立たない状況である.

 航空部隊は,「飛行機はあるが燃料がない」という状況のなか,
燃料があるうちに何とか有効な攻撃を…という強いプレッシャーに
さらされており,しだいに飛行機を使い捨てる戦術に抵抗を感じなく
なっていった.

 さらに,沖縄戦の戦略的な位置づけも影響しているだろう.
沖縄での戦いは,戦略的に見ると,本土決戦の前に連合軍を
海上で叩く最後のチャンスであった.仮に連合軍が本土に上陸
すれば,日本本土の飛行場は連続空襲を受け,飛行機はたちまち
地上で破壊されてしまうだろう.また,本土への上陸を許す段階に
なれば,仮に飛行機が残っていても,すでに燃料不足で作戦不能
になっている可能性が高い.

 陸上部隊を撃破する最も有効な方法は,海上で輸送船ごと
沈めてしまうことであり,制空権維持の最も有効な手段は,米空母
をその搭載機ごと炎上させることである.一方,当時の飛行機は
陸上部隊に対する打撃力が微弱で,対地攻撃任務は労多くして功少ない.

 1945年の段階では,質的,数的に劣る日本の航空部隊がとるべき
道は,「連合軍が本土に上陸する前に対艦攻撃に注力する」ことしか
なかった.

 沖縄で第32軍が頑張っている間は,連合軍の機動部隊や
補給船団を沖縄近海に拘束しておくことができ,かつ,周囲には
連合軍が利用できる飛行場が存在しない.陸海軍の航空部隊は,
第32軍の犠牲によって生み出された有利な状況を最大限利用し,
可能な限りの戦力を投入して最大限の戦果を挙げようと試みたのである.

▼ 有効な対艦攻撃手段がない

 しかし,いわば「最後のチャンス」である沖縄での航空戦が
開始されたとき,日本陸海軍の航空隊は,戦果を期待できる
有効な対艦攻撃手段を持っていなかった.このことが,「特攻」
を常態化させることになった決定的要素の一つであろう.

 1945年に入ると,連合軍艦隊の対空防禦は一層強化され,
ほとんど鉄壁といってよいレベルに達していた.とくに空母機動部隊
の防空システムは強力で,仮に「特攻」でない通常攻撃(急降下爆撃
や雷撃)を行なったとしても,出撃機のほぼ全部が失われる一方で,
攻撃の成果はほとんど望めないという絶望的な状況であった.

 つまり,1945年の段階では,「特攻」であろうがなかろうが,
攻撃飛行隊の乗員は,ほぼ「会敵=戦死」であると覚悟する必要が
あった.「どうせ死ぬなら確実な戦果を…」という前線将兵の心情も,
「体当たり戦術」という禁じ手の敷居を下げる結果につながったと思われる.

▼ 航空部隊を「特攻」に駆り立てた「空気」

 しかし,後述するとおり,単に「有効な対艦攻撃」という観点から
のみ考えれば,何も爆弾もろとも体当たりする必要はなかったはずである.

 陸海軍の統帥部が,あえて体当たりという異常な戦法を常用する
に至った決定的な要因は,戦術的な合理性とは無縁の,もっぱら
心理的・政治的な「空気」であったように思われる.その「空気」とは,
レイテ作戦に際して陸軍航空隊を海軍の「特攻」に追随させた「空気」
と同じものだろう.

 つまり,単に時間稼ぎのために「玉砕」するという地上部隊の不条理
な犠牲に報いるためには,航空部隊も同様の犠牲を払わなければ
死者に顔向けできず,軍の士気も保てない…という無言のプレッシャー
に負けたのだ.

 繰り返しになるが,そもそも航空部隊という存在自体が,巨大な軍
の組織全体の中で見れば「ひと握りのエリート」だといってよい.
内地の国民や前線の歩兵が飢えている最中でも,パイロットに対して
だけは食事も酒も大盤振る舞いが許されていた.すべてが逼迫した
当時の情勢下で,日常的に肉や刺身・寿司・菓子・果物などを食べ,
かつ酒盛りができたのは,一部の特権階級を除けば航空部隊の
空中勤務者だけだった.

 なかでも内地や中国大陸方面から動員されてきた航空部隊は,
それまでは戦時下とはいえ比較的平穏な環境下で,当時の基準
でみればかなり「贅沢な」生活をしてきた人々である.

 そうした「ひと握りのエリート」たちが軍予算の大部分を食いつぶす
一方で,一向に見るべき戦果を挙げられず,その不手際の尻拭い
をするかたちで地上部隊が「玉砕」を強いられる…沖縄戦とは,
そういう不条理に満ちた戦いだった.

 実際,「特攻」で戦死したパイロットの数は,ソロモン・ニューギニア
やフィリピンでジャングルに消えていった地上部隊の餓死者・病死者
(戦死者ではない)の数と比べれば桁が二つ少ない.「特攻」だけが
不条理なのではなく,当時はもっとはるかに巨大な不条理がそこら中
に存在したのだ.「玉砕」を覚悟した地上部隊将兵の心中,彼らが
抱いていた航空部隊に対する羨望,不満,怨嗟の感情は,現代人
には想像を絶するものである.

「ひと握りのエリート」である航空部隊は,軍全体の士気と秩序を維持
するため,全力で「特攻」することで地上部隊の犠牲に報いることを
求められた.地上部隊が今まさに体験している不条理を共有するため
には,航空部隊に課せられる任務もまた不条理でなければならない.
比較的恵まれた環境にあった航空部隊は,「特攻」という不条理に
あえて身を投じることで,ようやく地上部隊並みになったと見なされるのである.

▼ 「大和」特攻も同じ理屈

 沖縄戦に際しては,戦艦「大和」も合理性を度外視した「水上特攻」
に出撃しているが,これも上記と同様の理屈に基づくものと解釈できる.
「大和」は巨大な予算を投じて建造され,最高の装備と最良の乗員を
揃えていながらほとんど前線に出ることがなかった.

 同艦は戦争の大部分を安全な泊地で過ごし,もっぱら冷暖房完備の
快適な海上司令部として利用されていたため,最前線で死闘を繰り広げる
部隊の目には無用の長物と映った.海軍が誇る最強の戦艦は,いつしか
友軍将兵から「大和ホテル」と陰口を叩かれる存在になっていた.

「一兵卒を死地に追いやっておきながら,エリートが後方で楽をしている」
という批判を許さないためには,最も恵まれた存在である「大和」こそが,
まず率先して最も不条理な作戦に身を投じる必要があると感じられたの
だろう.

次回が最終回の予定です.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.10.14




荒木 肇
『関東軍特種演習──史上空前の大動員(1)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


□はじめに

 今回から平時に行なわれた史上空前の大動員,「関特演」と
略称された関東軍特種演習について紹介してみます.
人員50万,馬匹15万頭という大軍が海を渡り,満洲各地に
展開し,ソビエト連邦に侵攻する姿勢を示した昭和陸軍の行動でした.

 すでに1940(昭和15)年,関東軍はノモンハンで手ひどい
損害を受けました.作戦を指導した司令部のメンバーは,
それぞれ不手際の責任を取らされ,更迭されたり,左遷されたり
したのですが,今度は陸軍中央の後押しを手に入れます.
戦後,防衛庁戦史室の質問に瀬島龍三氏(陸士44期)は
次のように答えていました.
「参謀本部は16個師団態勢を整えるといいながら,
実は軍直(直轄)部隊,兵站部隊に関する限りは,
作戦開始兵力20〜25個師団に応ずる兵力の軍直部隊を
あらかじめ派遣してしまおうとしたのである」
と語っているのです.

 それまでも南へ進み南方資源地帯を手に入れるか,
北へ行ってソ連を撃つか,陸軍の中では意見が大きく揺れていました.
海軍の方針はもとから南進です.陸軍は長く続く支那事変の
解決に悩んでいました.一方でソ連に備えて軍備を一新しよう
としているのに,泥沼化する事変,その解決は糸口も見つかりませんでした.
 
 そこに突然のヒトラーの背信,「独ソ不可侵条約」(1939年9月)
に陸軍は茫然自失します.その結果,欧州戦争には不介入を
決めたものの,ヒトラーの「電撃戦」が成功する(1940年5月).
ここで一気にドイツへの傾倒が息を吹き返したのです.
さらに,ドイツ自慢の装甲機械化軍団があっという間にフランスを屈服させました.
 
 好機がやってきた,強気に出ようという意見が大勢を占める
ようになってきたのでした.

▼ドイツ軍,ソビエト連邦に侵攻す

 1941(昭和16)年6月22日,ドイツ軍はソ連に侵攻を始める.
すでに4月中旬には,その情報は陸軍省,参謀本部には届いて
いたらしい.その頃には政府当局に対して調整をする陸軍省軍務局や,
作戦・動員を企画する参謀本部では論争が続いていた.
どう対処するかである.すでに6月2日には参本作戦部長,田中新一少将
は満洲の新京に飛んでいた.関東軍司令官梅津美治郎大将以下
の関東軍首脳部と話し合いをもつためである.
 
 陸軍中枢は大騒ぎになっていた.この機を逃さず一気にソ連を倒し,
北の脅威を除こうではないか,ソ連は必ず崩壊する,そういった議論
が三宅坂(陸軍省と参謀本部)を駆けめぐっていた.
 
 ただ,陸軍にはひどく苦い思い出もあった.
2年前のノモンハン事変(満洲帝国とモンゴル人民共和国との国境紛争)
の最中である.1939(昭和14)年8月,ヒトラーはスターリンと突然
手を結び,相互不可侵条約を締結.日独伊防共協定を推進した陸軍
の政策担当者たちは茫然とするしかなかった.
だからこそと言うべきか,それなのにと言った方がいいか,今度こそ
はこれに賭けるといった声がまたまた高まっていたのである.
 
 それというのも,前年1940(昭和15)年5月,ドイツ軍は「電撃戦」
によってフランスを屈服させ,オランダも押さえてしまった.当時の
両国は植民地大国だったから,ジャワ(インドネシア),インドシナ(ベトナム)
などのアジアにあるいわば海外支店は力を失うことになった.
それと同時に,大英帝国もいよいよ本土にドイツ軍が上陸しては
全面降伏するのではないかという観測も当時のマスコミや世間
での常識になっていた.
 
 英国空軍(RAF)が救国の英雄を多く出したバトル・オブ・ブリテン
は1940(昭和15)年9月から始まった.名戦闘機スピットファイア
と防空システムによって英国空軍は善戦健闘する.国民もまた結集
して英国史上最大の国難に耐えた.予想された英国本土侵攻作戦
は断念せざるを得なかった.
 
 それにしてもヒトラーの打つ手は次々と華々しい戦果を上げ続けた.
北アフリカではロンメルの率いるアフリカ軍団が常勝し,バルカン半島
でも機甲部隊が活躍を続ける.これではドイツびいきの多かった陸軍
では,ますますこの機を逃すなという気分が高まってきてしまった.
 
 それでは当時の陸軍はどういう環境,状況にあったかを少し時計の針
を戻してみよう.

▼軍備充実6カ年計画・1号軍備とは

 陸軍は満洲帝国(成立は1933=昭和8年)で直接にソ連と国境を
接することになった.日満議定書によって,日本は満洲国の防衛を
直に担当することになった.緩衝地帯がなくなったのである.
正式な国土である朝鮮から地続きで仮想敵国と向き合うことになった.
ソ連はまた同時にモンゴル人民共和国(当時の認識では外蒙古)の
後ろ盾となり,軍備を充実させた.極東ソ連軍の増強ぶりは目をみはる
ものがあった.

 陸軍は戦時41個師団を構想した.これ以前はせいぜい30個師団
を動員できるだけだった.常備17個師団を核にして,特設13個師団
を設ける.その他,各種の特設部隊をつくらねばならない.
1934(昭和9)年の動員計画によれば,野戦軍が94万8827人,
馬匹32万8494人である.この他に攻城部隊5254人,馬匹151頭,
兵站部隊,海岸要塞,台湾守備隊などの警備・防衛にあたる守備部隊
が14万393人,馬匹5579頭,鉄道部隊などの特種部隊は9万8495人
と馬匹581頭,内地の留守師団管区などを運営する留守部隊は
24万3147人,同じく馬匹2万5403頭になっていた.合計143万6116名,
馬匹36万211頭である.

 この他,航空部隊は5個飛行隊司令部をはじめとして4個戦闘飛行大隊,
5個偵察飛行大隊,1個軽爆撃機大隊,2個重爆撃機大隊,それに
独立飛行中隊が戦闘・偵察が各4個ずつ,3個軽爆独飛中隊,
1個重爆独飛中隊,超重爆といわれた4発の大型爆撃をもつ
独飛中隊1個(フィリッピンへの渡洋爆撃用)だった.

 1936(昭和11)年,「帝国国防方針」と「用兵綱領」などが裁可
された.国家ただ一人の主権者にして,陸海軍最高司令官の天皇の
名によって認められたのだ.陸軍兵力は50個師団,航空142個中隊
だった.ちなみに陸海軍対等という原則をもち,海軍の艦艇は
主力艦(戦艦と巡洋戦艦)12隻,航空母艦12隻,巡洋艦28隻,
水雷戦隊6隊(駆逐艦96隻),潜水戦隊若干(潜水艦70隻),
航空兵力は65隊となっていた.陸海軍ともに,これを政府に突き付け
実施を要求できるようになった.

 陸軍の50個師団は計画完成時ということで,とりあえず41個師団
と航空142個中隊の整備を高らかに打ち上げたのが1号軍備,
部内でいわれた「本格的軍備充実」である.
(1) 戦時兵力
 昭和17年度までに41個師団とこれに応じた諸部隊,飛行142個中隊
とこれに応じた諸部隊を整備する.
(2) 平時兵力
 昭和17年度までに満洲に駐屯する10個師団,内地と朝鮮にある
17個師団とこれらに応じる諸部隊,飛行142個中隊とこれらに応じる
諸部隊を整備しながら補充,動員,教育,補給,衛生等の諸施設を増備する.

 このころの平時兵力は17個師団である.これらを2倍動員し,
戦時兵力を32個師団とする.この仕組みはもう一度おさらいしておこう.
出征する野戦師団は現役兵を主とするが,若い予備役兵も動員され
定数を満たした.内地で管理業務をするのは留守師団であり,動員された
人馬は再編成されて特設師団となる.たとえば,東京の第1師団から
実際に生まれたのが第101師団である.

 さらに41個師団とする工夫がされた.朝鮮にはこれまでの2個師団では
なく,1個師団を増やす.内地の14個師団を2倍動員し28個,これに
満洲の10個で41個.残りの9個師団は外地に出征中の独立歩兵団
や警備師団,旅団を改編して9個師団にする.合計50個師団である.

 さらに常設師団を17から27に増やす方法があった.
これは1939(昭和14)年から実施することになった.さきの(1),(2)
に続いて(3)には作戦資材の整備という項目があり,さらに(4)があった.
『現制師団より歩兵1個聯隊及び野砲兵3個中隊を減少し,3単位師団
に改編する』

▼昭和12年度の改編

 1号軍備の初年度になる1937(昭和12)年1月,「兵科将校補充計画」
が立てられた.陸軍士官学校予科生徒の採用数を倍加する.
さらに士官学校の教育期間を短くする.幹部候補生,少尉候補者,
特別志願将校の採用数を増やすなどの施策である.また,准士官である
各科特務曹長を予備役にして少尉に任官させる.この予備役少尉を
特別志願将校に任用し,現役少尉が就くべきポストに充てる.
これらにともなって,陸軍大学校,各兵科の実施学校(兵科別の教育・研究
を行なう.歩兵学校,野砲兵学校など)のそれぞれ学生の定員も増やす
ことにする.

 この特別志願将校制度は1932(昭和7)年度に創設された.
予備役召集将校は現役将校に比べて,さまざまな不利益があった.
指揮権が後回しになる.現役将校が就くべきポストに充てられない.
まずは階級的には「士官」から始めようとする.「士官」とは大尉,中尉,
少尉のことである.次に佐官にまで,それを拡充したのが「特別志願将校」
ということになる.

 4月には,「准士官・下士官補充計画」が立てられ,下士官候補者の
採用数を増やすことにもなった.こうして,人の面の手当てを行なった.

 次回は師団増設計画を詳しく見てみよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.10.14




◆佐藤優『プラハの憂鬱』を読み解く


※要旨


・趣味というのは,ライフワークということでもある.
仕事に関わらず学生時代からのテーマを研究し続けることはとても重要.


・私は外務省のロシア語研修の一環で,
イギリスの陸軍語学学校でロシア語を学んだ.
宿舎の将校食堂は8時までやっている.
英国軍はドレスコードが厳しく,
夕食時はネクタイと上着の着用が義務づけられている.


・サロンには新聞があった.
高級紙だけでなくタブロイド判の大衆紙もある.
将校は必ず高級紙を手に取る.
このときどこの新聞をいちばん初めに読むかで,その人の政治的傾向がわかる.


・私はチェコの神学を研究したかったため,
ロンドンの亡命チェコ人が経営する古本屋を見つけた.


・英国海軍将校の友人はこう解説してくれた.
「一般論としてインテリジェンスの世界の人たちは,
飛び込みで誰かがアプローチしてくると警戒する.
もっとも相手は古本屋を経営しているわけだから,
飛び込みで新しい人脈を開拓することも考えているのだと思う.
その古本屋はとても不思議な感じがするな」


・チェコ人はどんなことでも首を突っ込む.
この世界で起きているすべてのことを知ろうとする.
チェコ人でチェコ語以外にドイツ語,英語,フランス語,
ロシア語を上手に操る知識人はたくさんいる.
われわれはヨーロッパでもっとも外国語に堪能な民族だと思う.
それは世界で起きているいろいろなことを知らないと,
生き残ることができないという強迫観念がチェコ人に強いからだ.
(古本屋店主・亡命チェコ人)


・優れた思想家は,優れた編集者だ.
過去の資料はそれこそ無限にある.
そこから何を選び出し,どうつなぎ合わせるかによって物語が形成される.


・この英国陸軍語学学校(ベーコンズフィールド)では,英連邦だけでなく,世界各地の将校を招いている.
英語を教えるとともに,中東,アフリカ,アジア,
中南米などの軍人とネットワークをつくっておくことをイギリス人は何となく考えている.
何となく考えるのがイギリス人の特徴だ.
ドイツ人のように物事を詰めて考えない.
また,アメリカ人のように実証的なデータを分析して予測するという方法もとらない.
これまでの経験を踏まえて,ゆるやかな人脈をつくるのだ.
将来,佐藤が日本外務省幹部になるか,政治家になれば,
ベーコンズフィールドの同級生や同窓生が現れる.
こういう方法で,英国はアフリカ,中東,中南米の非民主的な国家の王族や,
軍事独裁政権幹部と良好な関係を維持している.
(友人の英国海軍将校)


・ロシア革命前のロシア語の文献は,大英博物館の図書館にほとんど入っている.
きちんとしたコレクションがある.
大英帝国にとってロシア帝国は仮想敵国だった.
ロシア帝国がソ連と名称を変えても,敵対の構造は変わらない.
第二次大戦前から1950年代初めまで,
モスクワの英国大使館で勤務する文化アタッシュは,
ソ連で刊行された書籍やパンフレットを網羅的に入手してロンドンに送っていた.


・ロシア人の生活の文法,内在的論理をつかむためには,
できるだけ普通のモスクワ市民に近い生活をすることだ.
モスクワ国立大学に通う間は,なるべく自家用車を使わないで,
地下鉄,バス,路面電車などの公共交通機関を使うこと.
(亡命チェコ人のアドバイス)


・一般の商店を利用して,普通のロシア人がどういう生活をして,
どの物資が欠乏して,何を買ったときに喜ぶか,皮膚感覚で知っておくことが重要.
それからロシアの高級紙だけではなく,
夕刊紙や生活に密着した記事が載った雑誌にも目を通すこと.
また,ロシアのテレビを見る.
そこから普通のロシア人がどういうことで喜び,怒るかを知る.
これは実際にロシアで生活しないとわからない.
(亡命チェコ人のアドバイス)


※コメント
佐藤氏の記憶力に驚く.
20年以上前のことを細かく覚えている.
これらは彼の仕事や作家活動に役立っているようだ.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.10.17




◆田中裕輔『なぜマッキンゼーの人は年俸1億円でも辞めるのか』を読み解く


※要旨


・筆を執ろうと思った理由は,
僕のマッキンゼーでの自己変革体験を書くことが,
「インパクト志向」を皆と共有していく上で重要ではないかと考えたからである.
今の僕のすべてはマッキンゼーが教えてくれたものと言っても過言ではない.


・いわゆるマッキンゼー流の思考方法だけではなく,
「日本にインパクトを与えたい」という志もマッキンゼーが教えてくれた.


・僕は海外留学期間も含めると,合計8年間マッキンゼーに所属した.
そこでは頭の使い方だけではなく,先輩・同期・後輩から多くの価値観を学んだ.
「寄らば大樹の陰」の思考を捨てること.
そして自らがリーダーシップを発揮して日本や世界に対してインパクトを与えること.
これこそが僕がマッキンゼーの中で学んだ価値観である.


・今の日本人に欠けているのは知識ではない.
必要なのは,自分の人生に対して責任をもって積極的に「志」に向けて突き進むこと,
それだけである.
その一歩を踏み出せる人間がこれから何人出てくるかによって,今後の日本は大きく変わってくる.


・マッキンゼーの研修期間中,何度もいわれたことが「常にバリュー(価値)を出すように」だ.
黙って聞いているだけ,勉強しているだけの時間なんて許されない.
そんな徹底した「バリュー主義」を改めて思い知った.


・パートナーやマネージャーは,若いコンサルタントたちにフュイードバックを与え続ける.
「皆が成長できるように最大限の支援をする」
これこそがマッキンゼーの姿なのだ.


・マネージャーたるもの,クライアントが満足すればよいというものではない.
チームメンバーとも信頼関係を構築し,彼らのモチベーションを高めつつ,
成長機会も与えていかなければならない.


・マッキンゼーがMBAに留学するコンサルタントたちに期待することの一つとして,
時間をかけて「マインド・サーチ」を行うことが挙げられる.
マインドサーチとは,この人生の中で自分が一体何を成し遂げたいか,
何が自分にとって重要な価値観なのか,など「自分」と徹底的に向き合うことである.


※コメント
マッキンゼーとはどんなところかを知れる貴重な体験談だ.
さまざまな視点,さまざまな役職の人のマッキンゼー本を読むと全体像を知れる.
なにかの気付きを得られる.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.10.16




◆土佐茂生『安倍政権の裏の顔:攻防・集団的自衛権ドキュメント』を読み解く



※要旨


・2001年初夏.
元駐タイ大使の岡崎久彦は,
安全保障研究の第一人者である佐瀬昌盛の自宅に電話した.
佐瀬は『集団的自衛権』(PHP新書)を出版したばかりだった.



★佐瀬昌盛『集団的自衛権』

http://amzn.to/1LNdVPh



岡崎は電話で佐瀬にこう伝える.
「この本は最高の教科書だ.これで政治家を教育しよう」

その後,2人は作戦を練るために会った.
佐瀬は尋ねた.
「どうやって政治家を教育するんだ」

岡崎は,
「各個撃破だ.一人一人教育していこう」

「誰からやるんだ?」
佐瀬の問いに岡崎は,まだ衆院当選3回に過ぎなかった若手議員の名を即答した.

「安倍晋三だ.あれはぶれない」



・「悪代官」と「越後屋」.
2014年3月,公明党との交渉役を務める自民党副総裁の高村正彦は,
前副総裁の大島理森の部屋にいた.
「注意深い楽観主義者」と自称する高村は,
公明党代表の山口那津男も副代表の北側一雄も説得できると踏んでいた.
2人とも自分と同じ弁護士で,安全保障政策にも理解がある.


・しかし,「情」も使って公明党の警戒心を解かなければとも感じていた.
高村が狙いを定めたのが,
公明党国会対策委員長の漆原良夫だった.
信望が厚い漆原が納得すれば,
他の議員も分かってくれるはず,という読みだった.


・漆原と,自民党で最も絆が深いのが大島理森だ.
2人は第一次安倍,福田,麻生の3つの政権で,
国対委員長だった.
当時は衆参で与野党逆転の「ねじれ国会」.
国会運営の方策を練る2人の間を縮めた.


・そして,親密さと容姿から,大島を「悪代官」,
新潟出身の漆原を「越後屋」と,
それぞれが呼び合う仲に.
「おねしも悪よのう」
国会運営の方策を思いつくと,
大島が漆原に冗談を飛ばすこともあった.


・高村は大島に懇願した.
「あなたには人に寄り添う能力がある.
集団的自衛権の問題で何かあったら,漆原との仲を頼みたい」

大島は,
「分かりました.公明党の考え方を率直に聞いておきますよ」
と引き受けた.


・動き出した寝業師.
「集団的自衛権の難しい話は分からないが,
もし自公の交渉が暗礁に乗り上げたら,メシでもセットしますから」

大島は,公明党の北側に電話して,
北側に加え,漆原,井上義久との会合をセットした.
高村も「私も行くよ」
と言ったが,大島は,
「まあ,最初は私が率直に公明党の意見を聴いてきますよ」
と制した.


・大島も,井上と同様に少人数での協議の必要性を感じていた.
首相の安倍晋三は,集団的自衛権の行使を容認する閣議決定について,
2014年6月に会期末を迎える通常国会中の憲法解釈の変更を
期限と考えていた.


・大島は,国会の法案審議など運営を切り盛りする国会対策委員長を
計4年も務めてきた経験から,
「この問題は中身ではなく,スケジュールや人選など進め方が大事だ.
大人数で議論してもまとまらない」
と読んでいたのだ.
大島は頭の中に日程を描きながら,
高村と北側の仲を取り持つ重要な会合を2014年3月25日にセットした.


・人情派が模索する「落としどころ」.
砂川判決をめぐり,自民党副総裁の高村正彦と,
公明党副代表の北側一雄がマスコミを通じて牽制し合っていた時だった.
「越後屋」こと,公明党国会対策委員長の漆原良夫は,
議論の行く末を案じていた.


・この状況を打開しなければ.
漆原の足が向かったのは,
盟友で「悪代官」と呼ぶ自民党の前副総裁・大島理森のもとだった.


・漆原は,自身と大島,そして,
自民党前総務会長代行の二階俊博の3人を「絶滅危惧種」と呼んでいた.
エリート議員にありがちな,
政策の論理的な是非ばかりに議論が集中してしまうのではなく,
「人情」を通じて互いの落としどころを探っていく.
相手の立場を考え,時に主張を曲げることもいとわない.
そんな古いタイプの政治家がずいぶんと減ってしまった.
ただ,この集団的自衛権をめぐる交渉では,
「絶滅危惧種」の出番はまだ残っているとも思っていた.


・2014年3月下旬.
大島と漆原は,衆院議員会館9階の漆原の部屋で話し合った.
空中戦の現状を憂える気持ちを漆原は吐露した.
大島は,
「うるちゃんの考えは分かった.
いま言ったことを紙にまとめてくれんかのう」
と提案した.

「私の考え」
漆原は自身がまとめたA4判一枚の紙に,
こうタイトルをつけて,大島に手渡した.
この紙を受け取った大島は,
高村に渡した後,官邸にも届けた.
以降,砂川判決をめぐる議論は徐々に沈静化していき,
具体的事例をめぐる議論に移っていった.


・前代未聞の厳秘ファイル.
集団的自衛権の行使を認める閣議決定で,
議論の推進役を果したのは,国家安全保障局だ.
安倍が創設した「国家安全保障会議(日本版NSC)」の事務局である.
閣議決定を裏で主導した「5人組」のメンバーで,
政府側の理論武装を担った兼原信克,高見沢将林の両副官房長官補は,
国家安全保障局次長を兼務する.
ただ,その動きは秘密主義で,情報漏れに細心の注意を払っていた.


・集団的自衛権の行使容認という,
戦後の安全保障政策の大転換は,
国家安全保障局による徹底した秘密主義のもと,
政治家と官僚の「5人組」によって水面下で決められた.




※コメント
本書は,集団的自衛権行使反対の立場であるが,
どのようにこの政治決断がなされたか,
詳細に取材しており面白い.
やはり大きな課題を解決するには,
プロセスやスケジュールが大事になってくる.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.10.25




『ライター・渡邉陽子のコラム (66) ─ 海上自衛隊 第111航空隊(3) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

8〜9年前にレーシック手術をして,両眼0.1から1.5と1.2まで
視力が回復しました.快適な裸眼生活を送っていたのですが,
昨年あたりから明らかに視力の低下を感じるようになり,
近視に老眼と,もうごっちゃごっちゃな感じです.

レーシック後は,老眼以外の視力低下はないと聞いていたのに,
ポストに入っていた視力回復センターのチラシで簡易測定
してみたら,なんと片目は0.3! 

正確な数字ではないでしょうが,めちゃくちゃショックです……


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■海上自衛隊 第111航空隊(3)


今回は航空掃海訓練の様子をご紹介します.
MH-53Eには沈底式機雷の中でも音に反応する音響機雷
に対応している掃海具,マーク104が積み込まれていました.
この日は音響機雷の航空掃海訓練です.

掃海具を牽引するパワーを持つ巨大ヘリコプターMH-53Eは,
米海軍が開発した対機雷戦用航空機.全長約30m,海上自衛隊
が保有するヘリの中では大きさ,航続距離ともに最大です.
エンジンは4380馬力が3つと,とんでもないパワー.このパワーの
おかげで,105のように大きな掃海具の曳航も可能なのです.
機体の左右にどんと膨らんだ部分は燃料タンクで,左右合わせて
ドラム缶約60缶分が入るそうです.

搭乗員は7名.機長である正操縦士,副操縦士,航空機関士,
機上電子整備員が各1名ずつ,そしてAOと呼ばれる機上掃海員
が3名と.AOは海上自衛隊で唯一航空掃海を行なうこの部隊にしか
存在しません.

大きな機体にも関わらずパイロット2人が並ぶコックピットは狭く,
しかもパイロットの後ろのわずかな空間に,航空機関士までも
ほとんど「収納」のような形で座り込みます.
操縦席から1段下がった場所に,その操縦席に背中を向ける形
で座っているのが機上電子整備員です.機体にはいくつもの
電子機器が搭載されていますが,中でもレーダーで周辺海域
の安全を確認するのは大切な役割のひとつ.
ヘルメットに付いているマイクを通じて,各種情報をパイロットに伝えます.

掃海具を水中に降ろしたり上げたりする作業のため,飛行中も機体
の後部は開いたままです.エンジン音やローター音で,機内は
とてつもない騒音に包まれています.どれほど顔を寄せ合っても
話すことなど不可能なので各クルーが黙々と自分の仕事をしている
ように見えますが,実際はマイク越しにほとんど途切れることが
ないほど会話が交わされ,全員の間に情報が飛び交っています.

「あれ波かな,それとも船?」
「波ですね」
パイロットの独り言のようなつぶやきに,すぐさま海上を監視していた
AOが返します.すべてのクルーで安全を確認しながら飛行している
様子は,とても自然です.訓練するメンバーは固定ではなくその日に
よって違うということなので,おそらく彼らは誰と乗り合わせても,
こうしてきちんと連携を取っているのでしょう.

この日の操縦士の3等海佐は,MH-53E導入とほぼ同じ時期から
パイロットして関わってきた,いわばMH-53Eのスペシャリストでした.
あり余るパワーと大きな割には軽快に動く操縦性が,この機体の特徴
だそう.この日の機長は別の隊員で,この3佐は取材陣のために同乗し,
随所で解説をしてくれました.
「案外きびきび動いてくれる点はいいんですが,着陸についてはほかの
機種に比べて少し難しいかもしれません.ダウンウォッシュが強烈
なので,慣れるまではふらふらっとするんですよ」

航空掃海部隊はアメリカにもありますが,掃海だけで飛行時間3000時間
などといった熟練パイロットはいないそうです.だから操縦の練度につい
ては「日本のほうが断然上」と,その3佐はきっぱり断言.では,アメリカ
と同じ掃海具を使っている,AOたちの練度はどうでしょう? 
次回も航空掃海訓練の続きです.衝撃的なシーンが出てきます……!

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.10.22




◆小林吉弥『田中角栄の才覚,松下幸之助の知恵』を読み解く


※要旨


・田中角栄の大局観も,松下幸之助同様の「余力」がうかがえる.
勝負にかかると,たとえばそれが総選挙となると,
すでに全国のすべての選挙区は田中の超頭脳によりそれぞれが地図として頭に入っており,
それをどう利用するかに頭をめぐらすことで,余力たっぷりの戦法が生じるのである.


・大局観を持つための俯瞰の仕方にも特徴がある.
つねに「すそ野」細部への目配りをし,それを一つ一つ整理,絞り込む形で,
核心の中央部制覇を目指すものである.


・「勘というと一般的にはなんとなく曖昧なもののように思われるけど,
修練を積み重ねたところから生まれる勘というものは,
科学も及ばぬ正確性,的確性をももっている.
そこに,人間の修練の尊さというものがある」(田中角栄)


・「過去の統計というものは動かないもの.
数字に興味のない者,そういうものの正確さとことを信じない人には選挙はわからない.
衆議院の選挙区すべての実態を知ってなきゃだめだ.
これはやっぱり自分でそこへ行って,少なくともその県が何市何郡だぐらいはわかってなかくちゃ.
加えて府県の歴史というものを知らなきゃだめ」(田中角栄)


・「そういう意味で政治家が講談本など読んじゃだめだなんていうけれど,
講談本を読まない政治家なんていうのは選挙は弱い.
そのくらいの知識と,あとは自分が行ってね,お寺の縁起とか神社がいつできたかとか,
教わった日本史というものがダブるようになると,すべての選挙区はちゃんと頭に入る」(田中角栄)


・「やっぱり経験というものは大事.
しかし,ふつうは経験だけでものを言うからだめだ.
私はそうじゃなくて,経験のほかに統計とか,そういうものを非常に重視している」(角栄)


・田中角栄がいかなる政局動乱の折りでも常勝であったのは,
全国津々浦々に張り巡らせた,豊富な情報ネットワークの差によるところが大きい.
それも,他の実力とはまったく異なった独自のネットワークである.


・田中の情報力は凄いというのは鳴り響いていたが,
その裏には,こと情報を得るということに関してカネを惜しまなかったことがある.
かつて,官僚たちを懐柔したときにまいたカネも,
彼らの知恵,情報を摂取吸収しようということからの部分が大きかった.


・田中角栄は,多くの海千山千の政治家がやるように新聞記者にウソの情報を流したり,
アドバルーンをあげるようなコメントは一切出すことをしなかったことで有名だ.
こうして政治家と政治部記者との関係を保った.


・田中は新人の立候補者には,まず自分で難局を踏むことを強いる.
「当選したければ,戸別訪問を3万軒,辻説法を5万回やれ.
2,30人のちっちゃな村にも入れ.
そして,じいさん,ばあさんから嫁と婿まで,名前と顔を全部覚えろ.
神社,鎮守様の来歴が寝言で言えるようにしろ.
雨,吹雪,カンカン照りでも,毎日,歩くことだ.
歩きまくって辻説法をやれ.
流した汗の分だけ結果が出る.
選挙に僥倖はないと知れ.
そうして当選して来い」


・「政治家でも講談本を読んでいない奴はダメだな.
その土地の歴史,神話はどういう経緯でできたか.
そういうことを知らぬ奴は選挙には勝てない.
講談本はそれを教えている」(田中角栄)


・「努力,努力,努力.
根気と勉強の積み重ねが運命をとらえる」(角栄)


※コメント
選挙と営業活動は,よく似ている.
角栄の凄まじい行動力は,民間の営業の大きな手本となる.
ビジネスの基盤はセールスだ.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.10.22




荒木 肇
『関東軍特種演習──史上空前の大動員(2)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


□はじめに

 1888(明治21)年のことでした.日本陸軍は外地で
戦える軍隊になるために,それまでの鎮台から師団へと
編制を変えました.これによって従来の6鎮台は,
そのまま第1から第6までの6個師団になりました.
近衛師団の編成完結は費用のことから3年遅れて
1891(明治24)年12月でした.こうして近衛,第1(東京),
第2(仙台),第3(名古屋),第4(大阪),第5(広島),
第6(熊本)の7個師団ができました.

 歩兵旅団は近衛第1・第2を加えて,歩兵第1旅団から
第12までの14個旅団.隷下の歩兵聯隊は合計28個になりました.
この軍隊は,戦時には平時の3倍にものぼる兵員を組織
できるようになったのです.この他に要塞砲兵,憲兵隊,
屯田兵がありました.各師団に属する砲兵(野砲兵と山砲兵)は
聯隊です.騎兵・工兵・輜重兵は大隊編成であり,
部隊番号は師団と同じになります.衛戍地は師団司令部と同じでした.
例外は第4師団の工兵隊で,京都府の伏見に駐屯しました.
また,青森の歩兵第5聯隊第3大隊は青函海峡防衛のため
に北海道函館に分屯しています.

 また,1889(明治22)年には徴兵令に大改正を加えて,
兵役の区分を常備(のちの現役と予備役)・後備・国民兵役
として動員体制も整えていきました.この時代の兵役は現役
が陸軍3年,海軍は4年,予備役は陸軍4年,海軍3年で
後備兵役がそれぞれ5年間でした.戦時に国民軍が編成
されると召集される予定の国民兵役は17歳から40歳までです
(実際にはそういう事態にはとうとうなりませんでした).

 注目されるのは予備役幹部養成の「一年志願兵令」が改正
されました.17歳から26歳以下の中学校卒業以上程度の者
が経費自弁で服役するものでした.現役1年,予備役2年,
後備役3年です.兵科でいえば伍長から少尉までの幹部予備員養成です.
 
 これまでは学歴のある人のための優遇策として,1883(明治16)年
からの看護卒(のちの衛生兵)養成のコースだけがありました.
中等学校卒業者のうちから経費自弁で看護卒になるという制度
です.これを一歩進めて,兵科(歩・騎兵・砲兵・工兵)・軍医・薬
剤・主計・獣医などの予備役幹部養成制度を立てました.
 
 公立学校教育制度が大きく変わったのもこの頃です.
現在の制度のほぼ原型になる4年制の小学校ができ,中等学校
も整備され,高等教育もさまざまな学校が造られます.『教育に
関する勅語(教育勅語)』が出されたのは1890(明治23)年
のことです.この年には「小学校令」をはじめとして多くの改革
がされたり,準備されたりしました.
 
 当時,小学校の訓導(くんどう・正教員)は官(国)立府県立
師範学校の卒業者ですが,「六週間現役兵」に服役する義務
がありました.経費も官費です.ただし,1カ月半の現役を終えれば,
ただちに伍長になり,国民兵役に服するという国民教育に携わる者
への優遇策でした.もともと師範学校生は全寮制の軍隊式生活を
送っていました.教育課程の中で下士官(当時は下士)になれるくらい
の訓練・知識は与えられていたので,それほど軍にとって負担には
なりませんでした.
 
 その後,日清・日露の両大戦を経験し,徴兵制度は大きく変わります.
この関東軍特種演習の物語の時代では1927(昭和2)年の
「兵役法」によったものでした.注目すべきはさまざまな予備員幹部
(伍長以上)を養成する制度が大きく変わったことです.「一年志願兵」
という言い方は「幹部候補生」と変わりました.経費を自弁するのは
変わりませんが,学校配属現役将校の行なった教練検定を合格した者
が対象者でした.入営した者は大学学部の卒業者は8カ月で曹長
に進み,10カ月で少尉に任官しました.
 
 大正末期から始まった青年訓練所の修了者は,陸軍では
在営期間の短縮を受けました.現役は陸軍2年,海軍3年,予備役
は陸軍5年4カ月,海軍が4年.後備役は陸軍10年,海軍5年です.
そして,1895(明治28)年3月から始まった補充兵役がありました.
第一補充兵役は陸軍12年4カ月,海軍は1年でしかありませんでした.
そのかわり第二補充兵役は陸軍12年4カ月に対して海軍は11年4カ月
です.つまり,陸軍は徴兵検査で第一か第二に振り分けられるのに
対して,海軍は全員が第一補充兵役になり,1年経つと第二補充兵役
になるという仕組みでした.
 
□読者の方からのご質問に答えて

 (笑)様,お便りありがとうございました.関東軍特種演習の時代,
つまり第2次世界大戦が始まったころの国際条約に対する各国の
遵守気分とでも言いましょうか,それとからめて米英蘭各国への
わが陸海軍の開戦通告の問題,さらには戦争末期のソ連の中立条約
違反,北方領土についてのご見解まで興味深く読ませていただき,
たいへん勉強になりました.ありがとうございました.

 わたしは国際条約については全くの素人です.そこで聞きかじり,
耳学問や,浅い読書の結果ではありますが,できるだけ整理して
私の愚見をもってお答えしようと思います.
 まず,国際条約の遵守精神がどれほどあったか.これは,どこの国
でも(今も変わらず・笑),自分に都合の良い解釈を押し通すわけで,
とりわけわが国,あるいはソ連だけが悪いというわけでもないと考えて
います.開戦の日時についての通告も,特に厳格に行なう習慣は
当時にはなく,たいていの戦争は両軍の衝突からしばらく経って
行なわれています.真珠湾をことさらに宣伝するのも,アメリカ合衆国
が勝者だったことからでしょう.

 北方領土を占拠するロシアに対しては前政権であるソビエト政府が,
領土不拡大をうたったポツダム宣言に署名していることから,わが国
はもっと返せと主張してもいいと思います.ただ,すべては軍事力の
問題ですから,そこはお互い様.ロシア人にとっては,負けてもいない
のに,樺太の南半分を取られたと思っているようです.

▼4単位(スクウェアー)から3単位(トラアイアンギュラー)へ

 師団数を増やす方法として師団の歩兵聯隊数を4個から3個に
減らした.また,それだけでは整備目標に足りずに歩兵聯隊を増設し,
それぞれの師団内の特科隊(砲・工・騎・輜重の各兵科部隊)も新編
する.参謀本部作戦課の要求する所要兵力量に応えるために陸軍省
動員編制課以下の関連部署では大騒ぎになった.新編される部隊
のためには装備だけではなく,その集める幹部・兵員の練度,技術,
能力なども考えなければならない.装備・消費物資の準備,調達,
備蓄が計画できたとする.その備蓄場所の手当てや管理業務に
関わるすべてを企画・実行できなくてはならない.輸送手段も当然,必要である.

 歩兵聯隊は17個師団にある68個から81個へ増える.
ほかに関東軍の満洲へ3個,支那駐屯軍,台湾軍へもそれぞれ2個
増設する.師団歩兵大隊数もその3倍だから243個に増えた.
砲兵中隊も増設された.兵器廠などに保管されていた大正時代の
軍縮で余剰になった火砲もペト(鉱油)を落とされ曳きだされる.
師団砲兵だけでも中隊数は201個とほぼ倍増する計算になる.

 当時,大尉の中隊長を育てるには士官学校を卒業して10年が
かかった.大隊長の少佐には20年,聯隊長の大佐になるには30年
余りが必要だったといわれる.いまの防衛大や一般大学を出た
陸自幹部もほぼ同じことが言われているのが興味深い.
陸自でも特科(砲兵),施設(工兵)通信,輸送などの中隊長は1等陸尉
だが30歳前後であり,普通科(歩兵)中隊長は3佐(少佐)で,
やはり30代半ば,連隊長の1佐は40代半ばになる.こうした部隊数
の拡充は,指揮官や管理要員の幹部を多く必要とすることを意味する.

 未教育の現役兵は徴集数を増やせばいい.大正時代の毎年の
現役兵入営者は11万人前後であり,補充兵も15万から20万人くらい
だった.このころの採用率は,おおよそ20%だった.若者のうち5人に
1人が現役兵になった.補充兵と合わせても50%くらいだった.
この数字は1923(大正12)年から1933(昭和8)年までの18%前後
だというものによく合う.また徴兵令が発布され,徴兵検査の結果が
分かる1876(明治9)年の採用率17.7%にも近い数字である.

 それが1935(昭和10)年になると,現役兵13万4338人,
補充兵17万5279人と増える.さらに数字が伸びるのは部隊を増設し
始めた1937(昭和12)年からだった.この年,現役兵は17万9371人,
補充兵22万8489人,合計40万7860人にもなった.徴兵検査を受ける
「壮丁(そうてい)」は65万1622人だから,受験者の27.5%が現役兵
として入営し,補充兵と合わせると62.6%が,いざ動員というときの
対象者になった.もちろん,現役兵が動員対象になるのは入営して
4カ月が経ち,一応の教育を受けてからであり,補充兵も留守師団の
補充兵教育を受けてからではあるけれど.それにしてもおよそ若者の
4人に1人でしかないことに注目すべきだろう.

 精鋭な軍隊を維持するには兵員や下士官の質を落とさないことが
もっとも重要なことである.多くの方にとっては意外だろうが,
この後も陸軍が現役兵と補充兵の採用率をことさらに上げたわけではない.
1938(昭和13)年から1942(昭和17)年まで,現役兵と補充兵の
合計数は,およそ43万人,45万人,48万人,47万人,44万人であり,
うち現役兵の採用率は受験者中の同44.8%,54.8%,46.7%,
67.7%,46.7%でしかなかった.注目すべき数字は昭和16年だが,
これは壮丁数が少なかったことが理由である.

 陸軍は長い間,17個師団の態勢に合わせるように将校の養成
をしてきた.日露戦争の初級将校の大量損耗に備えて,
19期生(中学校卒のみ),20期生(幼年学校卒)が合わせて1500名近く
にもなっていた.その上,日露戦後の平時25個師団整備を目指して
士官候補生の採用を増やしていた.陸軍省軍事課は1907(明治40)年
には『軍備充実に関する士官候補生採用人員決定計画表』を作り,
明治39年から15年間の採用予定を組んだ.ところが,戦後不況で
とうてい25個師団どころではない.とは言いながら,人事当局としては
何もしないわけにはいかない.現に計画があるのだ.そのため毎年,
783名を採用しなければならなかった.
 
 大正時代(1911〜1926)と満洲事変(1931年)までの時代は
陸軍に逆風が吹いた.最大兵力は平時21個師団でしかなく,
軍縮でさらに4個師団が減らされた.昭和初めの陸軍は平時17個師団
とその他の部隊をもつ実力しかなかったのだ.

▼さらに軍備拡充,「修正軍備充実計画」

 ノモンハンでは陸軍は大変な欠陥を現わした.新しく造られた
3単位師団の実力はどうだったか.これまでの4単位師団では,
主攻2個歩兵聯隊,助攻1個歩兵聯隊,師団長のもつ予備1個歩兵聯隊
の4個で作戦は考えられてきた.それにふさわしい特科部隊,補給・支援
をする部隊,衛生隊,野戦病院,兵器勤務隊などが用意されていた.
3単位になるということは作戦だけではなく,それを支える補給・兵站の
システムも大きく変わるということである.ノモンハンで戦った第23師団は,
初めての3単位制師団だった.どうにも兵力が足りずに,北海道の
第7師団から歩兵1個聯隊を借りてくるしかなかった.

 戦車も落第点だった.ソ連戦車の初速が高いカノン砲は,あっさりと
わが戦車の装甲を貫いた.こちらの砲弾は良くあたった.しかし,ソ連戦車
の装甲にあっさりと跳ね返された.もともと敵の機関銃陣地をつぶすための
移動トーチカだったから対戦車戦闘は考えていなかった.初速の遅い榴弾
を撃ちだすだけだったのだ.

 航空機も緒戦は活躍したものの,相手が戦法を変え,新しい戦闘機を
投入してくるとパイロットたちは次々と倒れていった.複葉のイ15は
格闘戦に応じてきたが,新型の引き込み脚のイ16は一撃離脱戦法に
切り替えてきた.わが97式戦闘機の得意な,巴戦といわれる
ドッグ・ファイトができなくなった.敵は高度をかせぎ,そこから射撃をし,
一気に急降下していってしまう.
 
 また,興味深いのは日ソ両軍ともに航空機には地上砲火による
損害が多かった.高射砲部隊も機関砲部隊も,なかなかの戦果を
挙げたということだ.ただし,日本軍の記録にはソ連戦闘機による
地上銃撃の被害がよく書かれている.逆に,日本戦闘機部隊の記録
にはソ連軍部隊への地上銃撃の事実が少ない.戦闘機の機関銃
は小口径の7.7ミリであり,敵の操縦員を射殺するものだから,
地上目標を撃っても戦果はあまりあがらなかった.そして,陸軍航空の
人的被害はたいへん大きかった.空中勤務者の養成は,しかも将校
の補充は簡単にはきかない.

 野砲兵や野戦重砲も期待外れだった.射程の短さや,訓練不足
が露呈された.馬は倒れ,トラックは足りなかった.通信機器は
うまく動かなかった.大損害を出しながら奮闘したのは歩兵と工兵
だった.営々と築いてきた陸軍はすべてがだめだと言われたようなものである.
 
 中国戦線はすっかり停滞している.泥沼化である.参謀本部の危機感
は大きかった.ノモンハン事件が終わってすぐのことだった.
1939(昭和14)年9月,参謀本部は陸軍省の尻を叩いて,さらに動員
可能兵力を増やそうと大蔵省と折衝を始めた.年末にはこれまでの計画
を大きく上回る「65個師団,164個飛行中隊」という案を成立させた.
資材と人員の大きな損耗を続けながら,同時に新軍備を推進しようという
のだからこれは大変なことである.そこで,陸軍はそれまでの支那で
行動する軍隊85万人を50万人に削減しようということにした.35万人
の大兵力を帰国させ,それを前提に1942(昭和17)年までに2年間で
整備しようというわけだ.これが『修正軍備充実計画』といわれるものだった.
 
 次回は1939(昭和14)年3月に公布された「兵役法改正」の詳細を
説明する.同時に,当時の陸軍省軍事課の資料を解説する.
動員とロジスティクスの関係は表裏一体ということが明らかになると,
『バスに乗り遅れるな』という掛け声で対ソ連戦に希望をもった陸軍当局者
たちの思いがよく理解できると考えている.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.10.21





『ライター・渡邉陽子のコラム (67) ─ 海上自衛隊 第111航空隊(4) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

1か月で2度,携帯が壊れました.
最初はホーム画面などのタッチパネルが一切反応しなくなり,
今日は画面が真っ黒になって一切表示されなくなりました.

メールは届きますが電話はつながりません.長時間待つのを覚悟
で仕事道具持参してドコモショップへ行ったら,開店前から待っていた
甲斐があり,待ち時間なしで対応してもらえました.

しかしどうも,前回の修理が原因で(つまり万全ではなく)新たな故障
につながってしまった可能性ありですって.うむむ.うむむです.


A.Sさま 貴重な情報ありがとうございました.大変参考になりました.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■海上自衛隊 第111航空隊(4)


前回に続き,航空掃海部隊の訓練の様子です.
いよいよ訓練海域に到達し,機体は高度100フィート(約30m)の
上空で停止しました.AOと呼ばれる機上掃海員の3等海曹が,
いよいよ掃海具のマーク104を水中へ降ろします.


「ええええっ!?」


目を疑いました.
104を降ろそうとする海曹の立っている床がどんどん傾き「下り坂」状態
となり,海に滑り落ちろと言わんばかりの状態になっていきます.
しかも最終的には,海面からほとんど垂直状態にまでなってしまいました.

確かに,約30gある104をできるだけスムーズに降ろすには,
床自体を傾けてしまうのがベストな方法なのでしょう.けれど,
104はそれでよくても,そこは人が,AOが,海曹が立っているところ
じゃないですか!

実際,海曹はそれまで104が固定されていた心もとない場所を
足掛かりにしており,ほとんどスタントマン状態なのです.
彼の足もとにもはや床はなく,白波の立つ海原が広がっています.
30mの高さの飛び込み台に立っていると想像してみてください.
そんな感じです.


こちらの目が点になっている間も彼らはいたって落ち着いた様子で
作業を進め,パイロットは実に安定したホバリングを続け(それは上空
にいることを忘れてしまいそうなほどでした),そして104はゆっくり海
へ投下されました.

機体は再び飛び始め,104と機体をつなぐ索が伸びきった状態で,
定められた海域を往復し,掃海していきます.
長い索で曳航している104が,通過していない場所のないよう操縦
するのは,航空掃海ならではの難しさ.パイロットの腕の見せどころです.


飛行中,別のMH-53Eが行っている掃海訓練も眼下に見かけました.
そちらは係維機雷を掃海する,マーク103を使った訓練のようです.
猛烈なダウンウォッシュが海面を吹き上げ,その水しぶきが機体にも
降り注ぎ,小さな虹が浮かんでいました.こうして目の当たりにすると,
改めてMH-53Eのパワーに圧倒されます.


一方,乗っている機体では一定の往復を終え,今度は104を機内へ
上げる作業が始まりました.またしてもAOの曲芸レベルの身のこなし
による作業が行なわれるのでしょうか.

索が巻き上げられ,次第に104が機体後部へ近づいてきます.
いくら慎重に巻き上げても,少々振り子のように揺れるのは避けられません.
案の定,海曹は104を投下したとき以上にアクロバティックな姿勢で,
右に左に振れる104の索をつかもうと腕を伸ばします.その体は完全に
海の上,足元に床はありません.機体のわずかな足場から,不安定な
姿勢で,体全体を伸ばして策をつかもうとするのです.
AOの恐怖心というのは一体どこにしまい込んでいるのでしょう?


索が手に触れたもののまだ振れる勢いが強く,無理して握っていると
AOまで海に放り出されてしまいます.そこで,少し触れては104の振れ幅
を抑えるということを何度か繰り返し,そして間もなく104をつかまえました.
ここでようやく海に向かって垂直に落ちていた床が元に戻り,
104がしっかりと固定されました.


AOの仕事ぶりは,控えめにいっても衝撃的でした.掃海に関わる職種
の中でとりわけ危険と隣り合わせなものといえば,EOD(水中処分員)が
思い浮かびます.しかしAOも相当なものです.

AOはその「とんでもなさ」があまり知られていないだけで,やっていること
は究極の度胸試しのようなもの.いくら命綱を付け,背後で安全確認を
してくれているクルーがいても,勇気と責任感がなければこなすことは困難です.


次回はAOのものすごさをさらにPRしてから,MCH-101のご紹介をします.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.10.29





マーケット・ガーデン作戦とインテリジェンス (14)
                長南 政義
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【前回までのあらすじ】

本連載は,精確な内容を持つインテリジェンスが
一九四四年九月上旬に連合軍の指揮官に利用された
かどうかを考察することにある.実は,インテリジェンス
の内容は,マーケット・ガーデン作戦実行に伴うリスク
を連合軍の指揮官に警告していた.

指揮官が決定を下すために利用できるインテリジェンス
の情報源は数多く存在していたが,本連載では「ウルトラ」
情報により提供されたインフォメーションにのみ焦点を
当てて考察を進めることとする.第二次世界大戦を
通じて,連合軍の戦略レヴェル・作戦レヴェルの指揮官
たちはウルトラ情報を活用し,ウルトラ情報の精確性
に関してめったに疑いを持たなかったからだ.

前々回から戦間期ポーランドの暗号解読活動について
詳しく述べている.前回は,ポーランド軍参謀本部暗号局
が「ボンバ」を開発し,エニグマ暗号解読で大きな進歩
を見せたにもかかわらず,ドイツがエニグマのローター
を増加させたため,暗号が強固となったことや,ポーランド
には強固になった暗号を解読する理論的知識はあったが,
それを実践する人的・予算的資源がなかったため,
一九三九年七月開催の情報関係者協議の席で,ポーランド
がイギリスとフランスに,ワルシャワの南方に所在する
ピレ郊外のカバティの森にある暗号局の秘密基地で
自国が保有するエニグマ暗号解読の能力を公開した
ことなどを詳述した.

つまり,戦間期ポーランドのエニグマ暗号解読活動は,
イギリスの「ウルトラ」計画の前史というべき重要性
を持っていたのである.

今回から数回にわたり,イギリスの「ウルトラ」計画に
ついて述べることとする.今回は主として第一次世界大戦中
のイギリスの暗号解読プログラムについてと,大戦後の
政府暗号学校創設の経緯について説明する.


■ポーランド単独でのエニグマ解読プロジェクトの終焉

一九三九年九月一日,ドイツ軍がポーランドへの進攻を
開始した.ドイツに続き,九月十七日にはソ連軍が
ポーランド領に攻め込んだ.独ソによるポーランド侵攻
により,ポーランド単独でのエニグマ暗号解読プロジェクト
は終焉を迎えた.

マリアン・レイェフスキ,ヘンリク・ジガルスキおよび
イェジ・ルジェツキの三人を含む多くのポーランド軍参謀本部
の暗号局員が,様々な移動ルートでポーランドから亡命した.
暗号局員は南方へと逃げ,ルーマニアに避難した.
そして,ルーマニアで,フランス政府が暗号局員をフランス
へ亡命することを許可した文書がフランス側より交附され,
フランス側によりフランスへの脱出ルートが提供された.


■暗号局員に対する保護を断ったイギリス

彼らがフランスに逃れたのには次のような理由がある.
ルーマニアのブカレストにあった避難民収容施設で,レイェフスキ,
ジガルスキおよびルジェツキーはイギリス大使館と接触を維持
していたが,イギリスは彼らの保護を断った.
そこで,ギュスターブ・ベルトランを通じて暗号局員と深い関係
のあったフランスが彼らを保護することとなったのである.

こうして,彼らはフランス大使館員の助けを借りて,
一九三九年九月末頃にフランスに到着したのである.
そして,フランスに亡命したポーランドの暗号局員は
ベルトラン率いるD部のメンバーとなり,再びドイツ軍の魔の手
を逃れてイギリスに亡命するまで,フランスで暗号解読作業
に携わったのである.


■第二次世界大戦以前のイギリスの暗号プログラムの状況

欧州大陸に戦火が拡大する以前のイギリスの暗号プログラムは,
大変な資金不足と人手不足とに悩まされていた.

連合軍にとって幸運なことに,イギリスは,全力で暗号プログラム
を推進し始めるようになった時に,暗号プログラムのために
リクルートできるその方面に才能を持った人物がかなり多く存在した.
この経験豊富な人物がイギリスの新たな暗号解読プログラムの
中核を形成することになる.彼らは,大学の学問研究分野で活躍
していた一部の有能な人物と共にエニグマ暗号解読のために
政府暗号学校に結集することとなる.

連合国がナチス・ドイツを打倒する努力を開始した時,
この経験豊富な老練者,風変わりな天才および新規採用者から
なる混合チームは,連合国の財産となって大活躍する機能的組織
へと迅速に変貌を遂げることとなる.


■MI1bとは?

ウルトラ計画に参加した経験豊富な暗号の老練者たちは,
自身の経験を第一次世界大戦中に得ていた.

第一次世界大戦当時,陸軍省(War Office)の一部門に,
情報収集活動を行なう陸軍情報局(DMI:Directorate of Military
Intelligence)が存在した.後にDMIと呼ばれるようになった組織
が最初に歴史の舞台に登場した時,その名称は地誌統計部であった.
地誌統計部は,一八五四年,クリミア戦争初期にトーマス・ジャービス少佐
によりつくられた機関である.

第一次世界大戦中,陸軍情報局内にはMI1(Military Intelligence,
Section 1)という組織がつくられた.MI1にはMI1a(報告書類の
配布などを行なう)からMI1g(防諜を担当)までの分課が存在した.
そのうちのMI1bが通信傍受および暗号解読を担当しており,
MI1bは大戦中のイギリス政府機関で最初に暗号解読を実施
した部署であった.


■第一次世界大戦中のMI1bによる暗号解読活動

MI1bは創設して間もない組織であったにもかかわらず,
ドイツの暗号の多くを解読することができた.というのも,第一次世界
大戦中の暗号は第二次世界大戦中に使用されていた暗号の水準
と比較して,比較的単純であったからだ.第一次世界大戦期の
暗号作成読解能力はまだその程度の水準であったのだ.

暗号解読分野でのMI1bの最初の大きな成功は,一九一六年の
クリスマス中に起きた.中東において,あるドイツ軍少佐がクリスマス
メッセージを部隊に出した.このクリスマスメッセージは隷下の指揮官
たちにより指揮系統を下って何度も繰り返されて出された.

このクリスマスメッセージが出される以前,MI1bは限られた数のドイツ軍
暗号を解読できていたにすぎなかった.このクリスマスメッセージには
MI1bが解読できない六つの異なる暗号コードが存在していた.
しかし,クリスマス休暇時季で通信量がそれほど多くなかったため,
このメッセージは容易にイギリスの傍受網に引っかかり,MI1bの
暗号解読者たちは六つの新しい暗号コードを解読することに成功したのである.


■第一次世界大戦中のイギリス海軍による暗号解読活動

時の海軍大臣ウィンストン・チャーチルの下で,海軍省は自身の
暗号解読プログラムを実施していた.この暗号解読プログラム
にはルーム40の名が与えられていた.ルーム40という変わった
名称は,この暗号解読担当部門が海軍省の古い庁舎の中の一室
を占めていたことに由来する.

ルーム40がなした最も顕著な成功はツィンメルマン電報の解読であろう.
一九一七年一月十六日,時のドイツ帝国外務大臣アルトゥール・ツィンメルマン
がメキシコ政府に電報を送った.ツィンメルマン電報は,来る二月初頭から
ドイツ帝国は無制限潜水艦戦を開始することを意図しており,万が一
アメリカが参戦したならば,ドイツはメキシコと同盟を締結したいと提案
していた.そして,その見返りとして,第一次世界大戦でドイツが勝利した暁
には米墨戦争でメキシコが失ったテキサス州・ニューメキシコ州・アリゾナ州
をメキシコに返還すると述べていた.


■暗号解読プログラムの成功と失敗

以上見てきたように,第一次世界大戦中,たしかにイギリスの陸軍
および海軍は敵国であるドイツの暗号解読には成功していた.
だが,翻って国内をみてみると,両機関の協調・調整には必ずしも成功
していなかった.というのも,両機関は各機関の暗号解読の成果は共有
していたが,各機関がどのようにして暗号解読という果実を手にしたのか
という技術的手法に関しては情報を共有していなかったからである.
結局,この状態は戦争終結まで変化することはなかった.


■政府暗号学校の創設と外務省管轄であったことの弊害

一九一九年に,MI1bとイギリス海軍のルーム40は解散して,
両機関が合併する形で有名な政府暗号学校(GC&CS)が創設された.
この時,ルーム40には両機関から選ばれた二十五人の要員が配属された.

最初の頃の政府暗号学校は海軍省の管轄下にあった.そして,一九二二年,
政府暗号学校は,海軍省の管轄から外務省の管轄へと移管された.
だが,この変更は,戦間期に多くの弊害を作り出す結果となってしまった.
というのも,政府暗号学校に予算を附与し,政府暗号学校を統制する機関
が外務省であったがため,政府暗号学校の主たる対象が軍事通信では
なく外交電報分野に向けられてしまったからである.そしてこのことが,
イギリスが暗号解読分野でポーランドのはるか後塵を拝するようになって
しまった理由の一つであるといえる.

イギリスは一九三〇年代になりドイツの軍事通信を傍受・解読すること
に資源を集中し始めた.そしてこの時,再活性化した政府暗号学校の核
となったのが,退役から呼び戻されたMI1bとルーム40のベテラン暗号
解読者たちであった.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.10.29





陸軍機 vs 海軍機(54)       清水政彦

「零戦と隼(53)」
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「零戦vs隼」の第53回.今回は,1943年以降に太平洋方面で
行なわれた航空作戦全般の総括を行ないます.通常より長めの
原稿となりましたが,お付き合いください.

 なお,連載はこれで最終回とします.当初の予定よりだいぶ
延びて,1年3カ月ほどの連載となりましたが,お読みいただき
本当にありがとうございました.ひと段落したら,本連載を単行本
にする作業に取りかかるつもりです.本が出来上がりましたら,
あらためてご案内したいと思います.(清水)


▼ 「爆弾もろとも体当たり」は合理的か?

 前述した通り,単に合理的な対艦攻撃という観点を追及
するならば,何も爆弾もとろも敵艦に体当たりする必要はなかった
はずだ.十分に目標に接近しさえすれば,衝突直前に爆弾を投下
しても命中率は大して変わらないか,むしろ改善するはず
(機体の被弾やコントロール喪失によりコースを逸れてしまう
おそれがない)である.

 仮に,命中の2秒前(約300m手前)の地点で爆弾を投下
したとすると,その後の2秒間の爆弾の落下量は20mでしかない.
もう少し早く3秒前(約450m手前)に投下しても,命中までの
落下量は約40mである.

 仮に目標が正規空母なら,その全長250mは以上,幅が30m以上,
海面から飛行甲板までの高さが15mはある.最終突入時の降下角を,
投弾後にギリギリ引き起しが可能な25〜30度としても,艦橋上部
やマストを照準して投弾すれば,高い確率で命中が期待できる
計算になる.

 体当たり覚悟の至近距離まで接近する覚悟さえあれば,
大型艦船に対する爆撃の命中率は非常に高い.実際,ダンピール海峡
(ビスマルク海海戦)で連合軍が採用した超低空爆撃は極めて高い
命中率を示し,一方で攻撃機の損害はゼロであった.

▼ 「特攻機」も実際には投弾していた

 現実問題として,爆弾を機体に装着したまま敵艦に体当たりしても,
必ずしも高い効果は望めない.爆弾には必ず安全装置が付いており,
原則として,機体から離れたあとに一定時間空中を飛翔しないと信管
が作動しない.

 また,爆弾を機体に装着したまま敵艦に突入すると,機体がクッション
になって貫通力が低下する,爆弾の命中姿勢が崩れて不発となる,
爆弾が甲板上でバウンドしてそのまま海に落ちてしまう,といった失敗
が発生しやすくなる.

 なかでも安全装置の問題は致命的に重要である.特攻機の場合,
「体当たり」を前提として出撃する場合には機内からの操作で安全装置
を解除できるように改造する必要がある.しかし,改造が間に合わない
機体は通常の装備と爆弾で出撃したはずだ.

 通常装備の場合,機体に爆弾を付けたままだと信管が作動しないから,
有効な攻撃を行なおうとすれば爆弾を投下せざるを得ない.

 実際に「カミカゼ攻撃」を受けた連合軍艦船のレポートをみると,
「特攻」出撃した機体も,実際にはかなりの割合で爆弾を投下して
いたようだ.

 たとえば,最も有名な「カミカゼ」映像の一つに,戦艦「ミズーリ」の
艦上から撮影された,同艦に突入直前の零戦の写真がある.
「ミズーリ」は米国が誇る当時最大かつ最新の戦艦だが,この写真は
その艦橋付近から右舷後方に向けて撮影され,多数の対空火器が
密集する艦の中央部と,そこに向けて超低空から突入する零戦の姿を
鮮明に捉えている.

 しかし,突入する零戦の翼下には爆弾の姿がない.理由は諸説あるが,
この機体は突入前に爆弾を「ミズーリ」に向けて放っていたという報告も
ある.突入直前の零戦に目立った損傷はないように見え,煙一つ吐いて
いない.「ミズーリ」の対空砲はバラバラの方向を向いて旋回中であり,
艦尾方向の低空(隣の砲座が邪魔で死角となる)から飛来した零戦を
照準できていないことも分かる.

 撮影場所は沖縄近海であり,もしこの機体が「ミズーリ」艦上を機銃
掃射しただけで通り過ぎていれば,そのまま沖縄まで飛んで不時着する
ことも可能だっただろう.当時として世界最強の対空火力を持つ「ミズーリ」
が相手でも,突入方法を工夫しさえすれば,ほぼ零距離まで接近したうえ
で爆弾を叩きつけ,かつ生きて帰ることも可能だったのだ.

 ここで紹介した「ミズーリ」の事例以外にも,連合軍側の目撃報告により
「投弾後,機体は撃墜され爆弾のみ命中した」または「投弾後,続いて
機体も突入した」と判定されている「特攻」事例も多数ある.

 公式記録には残っていないが,生き残ったパイロットの回想の中は,
敵艦に投弾して帰還した「特攻機」も登場する.

▼ それでも「体当たり」する理由は?

 すでに述べたように,一般に「特攻」と理解されている攻撃任務で
あっても,それは必ずしも「爆弾もろとも自爆」することを意味しない.
むしろ,現代人のイメージとは異なり,突入前に爆弾を投下している
ケースがかなり多いのである.

 一方で,爆弾を抱えたまま敵艦に体当たりした事例も多数報告され
ている.こうした事例の違いが何に起因するのか,今のところ確かな
答えはない.

 一つの要素として,目標の価値の大小が影響したことが考えられる.
実際,部隊によっては,特攻出撃であっても通常の目標に対しては
「投弾する」ことを原則とし,空母に対しては「突入」するのが不文律
とされていたという.

 しかし,目標の価値の大小だけでは説明できない事例もある.
陸軍特攻機の目標は,多くの場合,空母ではなく揚陸艦や輸送船,
護衛駆逐艦といった小艦艇であり,これらの目標に対して「体当たり」
が選択されることも多かった.

 こうした小目標は,「ミズーリ」のような大型戦闘艦と比較して火力も
防御力も弱い.対空砲火で直ちに撃墜される危険性は相対的に低く
なるから,「体当たり覚悟で肉薄後,投弾して離脱,不時着」という方法
はより現実的な選択肢だったはずだが,実際にはこの方法が積極的
に試みられたという形跡は見られない.

 結局のところ,多くの特攻機は,必然性がないのに「体当たり」を選択
していたように思われる.そして,不時着の可能性に賭けることなく
「体当たり」を選ぶ本当の理由は,指揮官・パイロットともに「すでに
心が折れていたから」なのかもしれない.

▼ 「割に合わない犠牲」が正当化できない

 海上に脱出したパイロットの救助は,当時の日本の技術では極めて
困難である.極論すれば,海上でのパイロットの生存可能性はゼロに
近いと言ってよい.少数のパイロットのわずかな生存可能性のために,
多数の地上部隊や水上部隊を危険な救助任務に動員することは,
1945年の時点ではもはや政治的・心理的に不可能だったと思われる.

 海上に脱出したパイロット(数名)を収容するために潜水艦を派遣したと
しても,実際に海上で漂流者を発見できる可能性は極めて低い.
制空権を失った海で潜水艦が浮上することは危険で,仮に救助活動中
に潜水艦が1隻でも撃沈されれば,それだけで100人近くの将兵が戦死
する.追い詰められ士気が沈滞した当時の日本軍には,この「割に合わない
犠牲」を正当化するだけのガッツが残っていなかった.

 1945年の春以降ともなれば,東京では空襲で一晩に10万人が焼死し,
沖縄では30万の軍民が玉砕覚悟の死闘を繰り広げているという異常な
状況である.当時の人々が感じていた異常なプレッシャーを想像すれば,
余裕のない状況下で他部隊に「パイロット(数名)の救助」を要請する
ことなどとてもできないという空気が理解できるのではないだろうか.

 出撃するパイロットとしても,不時着後の救助が期待できない以上,
「海上で漂流死するくらいなら,機体もとろも突入して即死したい」と
考えるのは無理からぬところがある.実際,機体だけでも敵艦に
ぶつければ,ガソリン火災による相当の効果(甲板上の人員殺傷)が
ある.陸兵が手りゅう弾片手に玉砕するより,機体だけでも敵艦に
突入した方が,「キル・レシオ」ははるかに高いのである.

▼ 「B-29に負けた」は本当か?

 本稿では,B-29の迎撃という意味での「本土防空戦」について大きく
取り上げることはしない.なぜなら,対B-29戦には戦略的な重要性
がないからである.

 B-29による本土空襲が本格化した時,すでに日本は石油の輸入を
絶たれており,長期間の抗戦は不可能な状況だった.日本の継戦能力
を奪うという観点で見れば,あえてB-29を投入せずとも,空母艦上機
による空襲によって物流を妨害するだけで十分だったはずだ.

 さらに,ドイツが降伏し,石油の輸入が絶たれ,ソ連が参戦するという
三つの要素が揃った時点で,もはや日本が全世界を相手に戦い続ける
意味は失われている.ソ連の対日参戦によって「中立国・ソ連の仲介
による停戦」という選択肢が消えた以上,戦えば戦うほど,講和の条件
は悪くなるからだ.

 政府や陸軍の一部に「本土決戦」を主張する者がいたのは事実だが,
これは多分にポジショントーク(立場上そう言わざるを得ないだけ)という
面があり,誰が見ても本土決戦は現実的な選択肢ではなかった.

 1945年8月の時点では,すでに燃料不足と鉄道網の破壊(主に艦上機
による攻撃),および内航水路の機雷封鎖によって日本国内の物流が
停止しており,仮に「本土決戦」を断行しようにも兵力の移動すら困難で,
燃料の補給に至っては絶望的だった.要するに,仮に本土で決戦しても
有効な抵抗ができる見込みはまったくないのである.

 この状況では,仮にB-29による「本土空襲」や「原爆投下」がなくても,
日本は史実とほぼ同じ時期に敗北的講和を決断せざるを得なかったはずだ.

 米軍は,日本に対する戦略爆撃を総括する戦後の研究で,もっとも有効
だったのは内航水路と港湾に対する機雷戦(夜間に空中から機雷を撒く)
であり,都市に対する爆撃は有効でなかったと結論づけている.つまり,
日本が戦争に負けた理由は,零戦や隼がB-29を撃墜できなかったから
ではない.大日本帝国の運命は,B-29が東京に飛来するよりずっと前に,
すでに決まっていたのだから.

▼ 本当の失敗は何か?

 第二次世界大戦において日本が連合軍に敗北するという結果は,
ドイツとの「三国同盟」を破棄するという政治的な決断を放棄してしまった
時点で,おおむねすでに確定している.

 そして,日本陸海軍が太平洋でどんなに頑張ろうが,敗北のタイムリミット
は欧州戦線の帰趨によって決せられる.仮に太平洋戦線で最良のシナリオ
が実現しても,欧州戦線の結末が史実通りならば,1945年の後半には
ソ連が対日参戦し,その時点で天皇は講和を選択しただろう.

 つまり,陸海軍がどれだけ善戦しようが,1945年中に日本は敗戦(または
敗北的な講和)に追い込まれる.もっとも,航空部隊の努力次第では,
本土の主要都市を焦土にしないで済むという意味で,「よりマシな負け方」
を実現することは可能だっただろう.

 日本の航空部隊の実力は,米軍ほどでないにせよ相当のものである.
これだけの戦力をもってすれば,運命の時である1945年夏頃までフィリピン
やマリアナ諸島の防衛線を維持し,「大負けしない」戦いを継続することは
できたはずなのだ.そして,結果として「大負けしない」戦い方ができなかった
最大の原因は,足場の悪いソロモン・ニューギニア戦域での消耗戦に,
日本陸海軍が自ら飛び込んでしまったことにある.

▼ 太平洋戦線の本質は空母の戦い

 補給のすべてを船舶に頼る太平洋戦線では,空母戦力による航空支援
がない限り,補給路の制空権・制海権が確保できない.補給路が確保
できなければ,地上の航空機はどんなに戦力があっても前線基地に推進
できない.そして,孤島の航空基地は,基本的に空母機による機動空襲には
対抗不能である.結果論ではあるが,絶海の孤島と大ジャングルばかりの
太平洋戦線は,つまるところ「空母で戦うほかない地形」だった.

 日本陸軍の航空隊が東部ニューギニアの防衛線を1944年初頭まで
維持できたのも,それまで日米の空母戦力がほぼ拮抗していたからだ.
仮にこの時点で日本側が米空母に対する有効な打撃手段を保有していれば,
1944年夏以降に「絶対国防圏」が総崩れになることもなかったであろう.

 そんななかで,日本の航空部隊が手にした唯一の空母打撃手段が
「特攻」だった.たとえば1945年初頭には,日本本土近海でごく少数の
攻撃機が米空母部隊に大打撃を与え,その活動を大きく制約する戦果
を挙げている.仮に海軍航空隊がこうした有効な攻撃を早い段階から
繰り返していれば,その損害に応じて連合軍の進攻速度はかなり低下
したはずだ.空母を集中的に叩いて連合軍の進攻速度を鈍らせ,
本土への空襲を史実より1年間遅らせることができていれば,
あるいは講和成立時に東京の街がきれいに残っていたかもしれない.

▼ 対艦攻撃戦術の不備こそが最大の失敗

 しかし,海軍の航空部隊は,対艦攻撃に関して「愚直」と評しうるほど硬直的
だった.新しい技術に適応しない1930年代(教官が現役だった時代)の
古い教科書を墨守したり,必殺技的な高等技術に走ったり,実証されていない
野心的なアイデアに飛びついたり,過去の成功体験が絶対視されたりする
一方で,現実に対応した地道な工夫を積み重ねる作業は置き去りにされていた.

 豪快な海軍航空の気風は,いつでも誰でもすぐに実践できるような,
手堅く単純な戦術を育てようとする傾向,つまり「多少格好が悪くても
泥臭く勝ちに行く」という意識とは真逆のものだった.ともすれば,最前線
の実情に目を向けるよりも,単に見た目に美しいだけの「訓練のための
訓練」に走ってしまう傾向があったように思われる.

 一方で陸軍の航空隊は,1943年の後半になるまで対艦攻撃にまったく
興味を示さず,基礎研究すら行なっていなかった.

 対艦攻撃に対する合理的な研究をもっと早い時期から熱心に行なって
いれば,米空母が太平洋に押し出してきた1944年以降,「特攻」に依存
しなくても損害に見合う戦果が得られていただろう.対艦攻撃戦術の不備
は日本空軍の致命的ともいえる失敗であり,この点は大いに反省の余地
がある.

▼ 空母戦力の活用不十分

 連合艦隊が空母戦力を有効活用できなかったことも,「絶対国防圏」
の崩壊を早めた大きな原因だろう.実は,4隻の空母を失ったミッドウェイ海戦
のあとも,連合艦隊は有力な空母を多数保有していた.しかし,その多くは
泊地に停泊して無為に時間を過ごし,あるいは単なる飛行機輸送船として
使われて,前線に出撃することはなかった.

 1942年12月にソロモン海域で戦われた「南太平洋海戦」を境に,
日本空母の行動は一層消極的となり,以降はほとんど泊地に閉じこもる
ようになる.「南太平洋海戦」のあと,日本の空母艦隊は1944年6月の
「マリアナ沖海戦」に出撃するまで,実に1年半もの間,連合軍とまったく
交戦しないまま平和に過ごしたのである.

 日本空母の行動を制約した要因として,しばしば「船舶燃料(重油)の
不足」が挙げられているが,これは油田に近いインド洋・豪州方面での
作戦の足枷(あしかせ)にはならないはずだ.インドネシアの油田地帯
は基本的に平穏で,原油の生産は順調だった.タンカー不足のため輸送
できない油が余っており,貯蔵能力を超えた分を焼却処分することすらあった.

 第二の要因としてパイロットの補充困難を指摘する声もあるが,これは
空母勤務者にひときわ高い熟練度を求めるからで,比較的飛行時間の
短いパイロットまで動員すれば数は十分に揃ったはずである.

▼ 「零戦」最大の利点を生かせず

 零戦の最大の特徴は,離着陸(発着艦)が極めて容易で事故が少ない
ことにある.仮に飛行時間の短いパイロットが多くても,発艦時の滑走距離
を長くとる,荒天や薄暮の出撃を控える,進出距離を短くする,誘導の
偵察機にベテランを配置する,必要に応じて陸上基地に帰投させるなど,
運用を工夫すれば十分に母艦勤務が可能だったはずだ.

 パイロットの教育という意味では,有利な態勢とタイミングで実戦を経験
できる機動空襲は,訓練を兼ねて可能な限り反復すべきものであった.

 インド洋や豪州西岸方面の連合軍航空戦力は比較的に弱体で,
付近に有力な艦隊もいないと考えて差し支えない.ここに奇襲的な
機動空襲を繰り返せば,小さな損害で一定の戦果が期待でき,連合軍の
戦力を広範囲に分散させる副次効果も大きかっただろう.

 比較的平穏なインド洋方面や豪州西岸に対して陽動的な攻撃を行なって
牽制すれば,連合軍は戦力の一部を割いて当該方面の防備を強化せねば
ならない.これは主正面である中部太平洋やニューギニア方面に
供給される戦力を削る効果があり,その分だけ連合軍の進攻速度を
鈍らせることができただろう.

 しかし,古参の熟練パイロットを見慣れてしまった管理職の将校は,
母艦勤務者の合格レベルを下げることを良しとせず,むしろパイロットの
高い飛行技術が運用上・作戦上の選択肢を広げてくれることを望んでいた.
よほど気合いの入った人物でない限り,サラリーマンである善良な一般将校
は,発着艦でミスして飛行機を壊す(指揮官である自分の点数を下げる)
ようなパイロットを部下にしたくはないのが普通である.実際,事故で
死んだり大怪我するパイロットも多いから,「下手クソは乗せない」という
方針は確かに部下想いとも言える.

▼ 「逃げる余地」があるうちは本気になれない

 すべての結果が分かっている今の時代から見れば,1943年から44年
初頭にかけての1年間こそが戦局の転換点であり,天下分け目の決戦期
であった.1943年春(陸軍航空の第一陣がラバウル進出し始めた直後)
の時点で,日本海軍はすでになりふり構わぬ本気を見せるべき状況に
足を踏み入れていた.「下手クソは空母に乗せない」などと呑気なことを
言っている場合ではなかったはずだ.

 もし海軍がこの時点でソロモン諸島を放棄して母艦航空戦力の養成
に全力を挙げ,内地や後方基地の防空はすべて陸軍に委ねるくらいの
思い切りを持てていれば,1年後の戦況は随分違ったものになっていた
だろう.しかし実際には,海軍はこの段階に至ってもソロモン諸島の
保持にこだわっており,そのための基地航空部隊の増強に心を奪われていた.

 機動部隊を構成する大型空母がひたすら温存される一方,小型の
改造空母は固有の搭載機を与えられず,単に基地航空部隊への
補給機を運ぶ輸送船として使われた.

 結局,海軍が膨大な戦力を投入して維持してきたソロモン戦線は,
数隻の米空母がトラック泊地を空襲しただけであっけなく崩壊した.
一方で日本海軍は,優秀な空母を多数保有しながら有効に活用せず,
戦局の転換点となった1943年から1944年初頭にかけて,空母機動部隊
を積極的に活用する作戦をほとんど企図していない.

 この結果を見れば,海軍がどう言い訳したところで,「大型艦を失うこと
を恐れて戦機を逸した」という批判は免れない.海軍は基本的に船乗り
の組織だから,箔のつく人気ポストは大型艦勤務であり,人事はフネ
を中心に回っている.大型艦が一隻沈めば,数百人単位の仲間が一度
に死ぬことになるから,可能な限り大型艦を温存したいという思想は
基本的に健全な発想だ.ただし,文字通り国運をかけた総力戦という
環境下で,国民の命を預かる海軍軍人として,それが正しい判断だった
のか?と問われれば,それはまた別の問題である.

 もっとも,どこか弛んでいたところがあるのは海軍軍人だけではない.
陸軍も,政治家も,新聞記者も,そのほかの日本国内の多くの人々が,
1944年夏に「絶対国防圏」が崩壊する瞬間まで,本当の意味での
危機感というものを感じていなかったように見受けられる.

 人間は破滅を目前にしても,「まだ逃げられる余地」があるうちは真剣
になれないのだ.

▼ 平時に準備していないことは,戦時になってもできない

 1943年から45年までの陸海軍の航空作戦を見ていくと,参謀や司令官
レベルの高級軍人たちは,かなり早い時点から「我が航空戦力は弱体
であり,時間の問題でジリ貧となり壊滅する」という結論に気づいていた
ことが分かる.破滅することを認識しているがゆえに,これに直面すること,
あえてそれを口にすることから逃げ続けた気持ちも分かる.

 そして,「よりマシな負け方」を模索せずに逃げ続けているうちに,
ふいに「絶対国防圏の崩壊」ないし「出撃=ほぼ戦死」という現実,
つまり破滅が目前に現れて思考する余裕がなくなり,「ほかにできる
ことがない」という現状を追認するかたちで,なし崩しに「特攻」を常態化
させていった.

「特攻」による大量死という結果は確かに異常だが,そこに至る過程
をよく見れば,こういった事例はどこの組織でも,いつの時代でも日常的
に見られる光景であり,多くの人がその渦中で当事者となった経験の
ある類のものだろう.

 残念ながら,1941年12月から約3年半の対米戦の間,日本の航空部隊
が開発した戦術の中で,独自性がありかつ有効だったと認められるのは,
「特攻」がほぼ唯一の事例である.結局,普段から準備していないことは,
どんなに追い詰められて努力しても,そう急にはできないものらしい.
だから,有り余る時間と正常な思考力の担保された平時のうちに,
できるだけ多くのことを想定し準備しておく必要があるのだ.

 将来再び「特攻」の轍を踏むことがないよう,普段から非常時への備え
をおろそかにしないことが肝要である.

(おわり)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.10.28





■ 1日3分で身につけるMBA講座
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≪不適切会計で揺れる東芝の経営を“フロー”の視点から分析する!≫


さて,前回のメルマガでは不適切会計に揺れる東芝の財務分析を貸借対照表の
観点から行ってきました.

貸借対照表は,企業のある一時点の“ストック”を表しているので,
「現状は大分悪化しつつあるものの,まだまだ余力があるのでは?」
という結論をお伝えしました.

それでは,今回は企業の“フロー”部分である,損益計算書とキャッシュ
フロー計算書の観点から東芝の経営を分析していくことにしましょう.

どのような結果になるのでしょうか?

そこには,貸借対照表と異なる意外な結論が・・・


■ 急速に悪化する東芝の損益計算書


先月発表された東芝の2015年度第1四半期の決算短信を分析すると,東芝は
2015年4月から6月までの3ヶ月間で,1兆3,499億円ほどの売上を上げています.

これは,前年同期が1兆4,140億円になりますので,
641億円も減少したことになります.

やはり,不適切会計の発覚によって,社内では積極的に営業活動に取り組み
にくい状況となり,また社外では東芝との取引を控える企業も現れるなどの
理由で売上が振るわなかったものと推測できます.

加えて,営業損益段階では,前年の第1四半期には,
477億円の利益を計上していましたが,今年度は110億円の赤字に転落.

損益分岐点の売上を下回り,現状の水準の売上では損失が積み重なっていく
構造に陥ってしまっているのです.


■セグメント別では多くのセグメントが赤字に転落


続いては,セグメント別の損益を確認していきましょう.

東芝の事業は,現状『電力・社会インフラ』『コミュニティ・ソリューション』
『ヘルスケア』『電子デバイス』『ライフスタイル』『その他』という
6つのセグメントに分かれています.

それぞれのセグメントでどのような製品やサービスを扱っているのか,より
詳細な事業内容にご興味がある方は,東芝のホームペーでご確認いただけます.
https://www.toshiba.co.jp/about/ir/jp/private/pro_all.htm

この6つの事業セグメントは,2015年3月期(12ヶ月ベース)には
以下のような損益を記録していました.

電力・社会インフラ・・・195億円
コミュニティ・ソリューション・・・539億円
ヘルスケア・・・239億円
電子デバイス・・・2,166億円
ライフスタイル・・・△1,097億円
その他・・・75億円

つまり,『ライフスタイル』以外は大きな黒字を計上していたのです.

それが,不適切会計発覚後の2016年3月期第1四半期(3ヶ月ベース)には,
次のような損益となります.

電力・社会インフラ・・・△107億円
コミュニティ・ソリューション・・・△65億円
ヘルスケア・・・1億円
電子デバイス・・・356億円
ライフスタイル・・・△207億円
その他・・・△7億円

季節要因もあるために,一概に結論付けることはできませんが,不適切会計を
境に,『電力・社会インフラ』や『コミュニティ・ソリューション』,
『その他』のセグメントが大幅な赤字に転落してしまったのです.

加えて,『ヘルスケア』や『電子デバイス』も黒字は計上していますが,
前年同期比大幅な減少に見舞われ,東芝の事業の多くが利益の上がらない
体質に陥ってしまったことが見て取れるのです.


■ キャッシュフロー,フリーキャッシュフローが連続でマイナスに!


それでは,最後にキャッシュフローを見ていきましょう.

キャッシュフローでも不適切会計を境に大きな変化が見受けられます.

たとえば,営業活動によるキャッシュフローは,2014年度の第1四半期には
220億円の黒字でしたが,2015年度の第1四半期は391億円の赤字に
転落しています.

つまり,不適切会計の影響で営業活動によるキャッシュフローが610億円もの
マイナスに陥ってしまったのです.

また,投資活動によるキャッシュフローを見ると,2014年度の第1四半期には
830億円のマイナスだったのに対し,2015年度の第1四半期には,
投資はほぼ半減し,438億円のマイナスとなっています.

この営業活動に投資活動のキャッシュフローを足したものは,
『フリーキャッシュフロー』と呼ばれ,企業の事業活動に伴う
キャッシュフローを分析するうえで重要な指標とされています.

たとえば,フリーキャッシュフローがプラスであれば,企業は借入金を
返済したり,現金を積み増したりして,財務状況は好転していきますが,
逆にフリーキャッシュフローがマイナスになれば,財務活動を通して
キャッシュを調達したり,現金を取り崩して事業活動や投資活動に
充当していかなければならず,財務指標の悪化要因につながっていくのです.

このフリーキャッシュフローを計算する限り,東芝はこの2期間で611億円,
829億円と大幅なマイナスを記録しています.

すなわち,多額のキャッシュがどんどん流出していく由々しき事態が
続いていると結論付けることができるのです.


■“フロー”の面を分析すると,東芝の今後は決して楽観できるものではない


東芝の貸借対照表を分析する限りは,差し迫った危機というのは
まだ感じられませんでしたが,損益計算書とキャッシュフロー計算書を
分析すると,不適切会計が発覚したのを境に急速に業績が悪化し,
キャッシュが流出する深刻な危機に直面していることがわかります.

例えて言うなら,まだまだ体は健康だけれども,傷口からどんどん出血が
続いているという状態なのです.

もし,出血を早く止めなければ,健康自体も危うくなります.

このような東芝にとって経営危機が現実のものとならないためにも,
一刻も早く顧客の信頼を取り戻して,利益の上がる水準まで業績を
回復させることが望まれます.

そのためには,今回の危機をきっかけに,これまで赤字を垂れ流してきた
ライフスタイル部門の不採算事業からは撤退を図るなど,ドラスティックな
改革を推し進めていく必要があるといえるでしょう.


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実際に財務諸表を見ながら読むと理解も深まります.

今回のコラムで活用した財務諸表は以下のサイトからダウンロード
いただけますので,是非ともご活用下さい!


東芝:2015年度第1四半期決算(連結)
https://www.toshiba.co.jp/about/ir/jp/library/er/index_j.htm

◎ビジネスマン必読!1日3分で身につけるMBA講座
http://archives.mag2.com/0000108765/index.html
2015.10.28




荒木 肇
『関東軍特種演習──史上空前の大動員(3)
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□はじめに

 史上最大の動員といわれた1941(昭和16)年の関東軍
特種演習について書き続けています.そのためには少し時計
の針を元に回して1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件
から始まる日支事変を知らなければなりません.
まさに戦争は前の戦争から考えなければならないのです.
日清戦争は朝鮮の壬午軍乱から起きていますし,日露戦争
も日清戦争から学ばなければなりません.唐突に,太平洋戦争
はとか,日露戦争とはなどと議論されますが,戦争は戦争に
よって説明されるのが一番です.

 前回では陸軍の師団についての解説もしました.
今回も,新しい読者の方々のことも考えて,師団についての
補足説明しておきます.

 師団が各兵科の混合で戦略単位であることを説明しました.
師団長は天皇陛下が直に任命する「親補職」であり,
中将であってもただの中将ではありません.師団長でなければ
高等官1等の勅任官にしか過ぎなかったのです.中将という官
の補職の幅はたいへん広いものでした.各部,たとえば
主計中将も中将ですが,親補職である師団長には決してなれない
ということを前にも説明しました.

 4単位制から3単位制に師団の編成を変えた.そのことについて,
「戦略単位の数を増やし,また指揮を軽快にするために3単位制
師団を造った」というのが定説になっています.
ある種の歴史研究者たちは実態を調べず,考えずに軍隊を
語ることがしばしばあります.それに司馬遼太郎氏のような「陸軍史
の権威者」がさらにそれを援護するかのような解説を加えてしまいました.
『師団と言えば列国の師団と同じ,まるで師団と言えば(戦力が)同等
であるかのように考えて増設したのだ』などという悪口を書かれました.
しかし,現実を知る当事者たちである陸軍将校たちはそれほど
愚かではありませんでした.

『(戦略単位の数を増やし…)と,編制装備の複雑化に伴う
行軍長径の延伸(その日のうちに師団輜重をもって糧秣を補給
することができなくなるほど伸びる)を抑えるために,
一個の歩兵旅団と一個の歩兵聯隊を廃した』というのが編制の
当事者の弁です.戦略単位の増加も指揮の軽快さというのも,
後からつけられた理由に他ならないと書かれました.

 この説明は師団輜重や兵站部隊のことを考えるとたいへん
説得力があります.腹は減っては戦はできない.当事者である
軍人だからこそ,誰よりも納得のできる説明です.行軍中の各部隊
は部隊本部につく大行李の糧秣を食糧とします.
携帯口糧(けいたいこうりょう)というのは非常時に口にするもので
ふだんは開けられません.その大行李の糧秣を補充するのは師団輜重.
輜重兵聯隊の役目でした.師団輜重は戦闘部隊などで構成される
本隊の後ろを行軍するので,本隊の行軍長径が伸びるとその日
のうちに補給ができなくなります.ということは,翌日分の糧秣
が届かないから大行李は空っぽで本隊についていくか,輜重が
来るまで路傍で待たなくてはなりません.

▼1939(昭和14)年の兵役法改正の裏側事情

 相次ぐ動員に備えて兵役法が改正された.
1939(昭和14)年3月9日のことである.この背景を考えてみよう.
日独伊防共協定を結ぶことによって,陸軍はアメリカ・イギリスと
ソ連が行なっている中国への援助姿勢をけん制しようと考えていた.

 前年10月に行なわれた武漢三鎮(武昌・漢口・漢陽)の攻略後
も中国は対日抵抗姿勢を崩そうとしない.武漢攻略作戦とは
中支那派遣軍が8月に実施した大作戦だった.中支那派遣軍
は第3・9・13の3個師団と101師団から配属された砲兵1個大隊
と歩兵5個大隊を主力としていた.
 
 これに第2軍,第11軍を隷下に入れ集中地に前進させたのが
6月である.第2軍は皇族東久邇宮稔彦王中将を司令官にし,
第10・13・16の3個師団と7月からは第3師団,10月以降は
騎兵第4旅団と兵站各部隊をもつことになった.
第11軍は第6・101・106師団の3個を主力にし,7月以降は
第27師団,8月から第9師団,さらに第116師団や第15師団
の一部から増派を受けた.合わせて約30万人,馬12万頭の
大兵力である.

 1938(昭和13)年には内地では新設師団が次々と生まれていた.
4月には第15師団(敦賀),17師団(姫路),21師団(金沢),
22師団(仙台),7月には23師団(熊本),6月には27師団(佐倉)
そして110師団(姫路)の7個師団である.それぞれの師団管区から
集められた予備役・後備役の下士官・兵を主力にしている.

 編成地を見ると,いずれも常設師団の所在地である.人口が多く,
動員基盤が高かったことがわかる.歩兵聯隊もその他の特科隊も
現役将校を主とし,基幹人員は現役・若手の予備役が多かった
ことだろう.師団番号も第15,同17といった大正軍縮で解散させら
れた名称が復活している.ただし,第15師団は廃止時には愛知県
の豊橋にあった.第17師団の旧編成地は岡山である.このあたり,
陸軍は合理的である.伝統とか,あれこれは言わなかった.

 なお,前年の1937(昭和12)年に復活した師団は第13(仙台)と
第18(久留米)の2個師団.これに新編された名古屋師管で編成
された第26師団だった.第13師団の司令部所在地はもともと
越後高田(現上越市),新潟県であり,第18師団だけは日露戦後
の1907(明治40)年の創設時から福岡県久留米が編成地である.
久留米は1925(大正14)年5月の廃止以来,わずか12年の中断
があっただけの師団復活だった.

 武漢三鎮の攻略後に話をもどす.9月には南支那の重要な資源を
奪い,さらには対外連絡補給路を断つために第21軍が編成されていた.
この軍は第5・第18・第104の3個師団で10月に集結地台湾を出発,
バイアス湾に上陸し,広東付近を占領していた.第5師団とは広島
の常設師団で,上陸作戦を得意とする.もともと海になじんだ瀬戸内海
出身者が多い師団である.方面軍の漢口攻略を支援するための行動
であり,たちまち広東を占領したが中国軍はこれ以後も激しい抵抗
を示していた.

 11月には帝国政府は,東亜新秩序建設を目指すという声明を発表
する.陸軍は長期持久態勢に方針を変える.北支と揚子江下流域
の占領地区の安定化,漢口と広東方面の限定的攻勢作戦を企画する.
同時に,航空戦力による中国の政・戦略中枢を制圧し,海上封鎖
も合わせて行い,兵器輸入ルートの遮断にも努めることとした.

 1938(昭和13)年末頃には,在支那兵力は24個師団,飛行45個中隊
という大兵力が展開していた.動員兵力も累計で73万人に達している.
昭和の初めの毎年の現役兵は10万人くらいであり,ざっと6カ年分くらい
になっていた.これでは既教育補充兵(教育召集を受けて一応の訓練
を終えた者)を召集して補っても,若い年次の予備兵だけではとても
足りなかった.

 当時のわが国の有業者人口中では職業別では45%が農林水産業
に従事している.次いで工業の30%,商業は15%程度という数字
がある(国勢図絵).動員の規模が大きくなると,在郷軍人の過半数
が農山漁村出身であることは定説通りだから,農業生産力がもっとも
影響を受けてしまう.働き手である20代の男性が容赦なく軍隊に
とられるのだ.人力に頼る労働の割合が現在よりはるかに高い時代
のことだ.米作だけではなく,畑の作物の栽培も手が足らず,カイコを飼う
といった養蚕農家も労働力不足に苦しんだ.

 動員がかかり,その種類(本動員・応急動員などの区別)によって
召集令状が来る順番は変わる.計画通りの新設部隊なら,その要員
は特業(現在の陸自でもMOS管理といわれている)ごとに割り振られていた.
既教育の補充兵を含めて,在郷軍人名簿には「特業」の欄があり,
そこには以下のように分類されて略称で書き込みがされていた.
1943(昭和18)年の一例である.( )内が略称である.小銃手(小),
狙撃手(狙),擲弾筒手(擲),軽MG手(軽機),MG手(機),
AAMG手(高機),車載MG手(車機),砲手(砲),速射砲手(速砲),
観測手(観).

 動員部隊ごとに定員表がある.そこの欠員のところを産めるように
特技と階級をあてはめて聯隊区司令部では召集令状を作っていく.
しかし,すべてが計画通りにいくものではなかった.突然の病気や,
場合によっては勤務先から動員対象者から外してほしいといった要望
も実はあった.これがまた,秘密だったから,公平ではないという苦情
がしばしば役場の兵事係りには持ち込まれた.

 関東軍の増強も企画され,これまでの第3軍の他に第4軍が新設
されていた.満洲での動員の考え方も変わっていった.黒竜江をはさんで
ソ連と対峙する満洲の師団は「接壌国動員方式」に変えていく.
これまでのように内地で優良装備の常設師団を動員し,これらを速やか
に満洲に派遣するという考え方ではない.満洲国や朝鮮,その他周辺
に常駐する師団から動員をかけるというやり方である.支那にある師団
でも,中国軍との戦闘を続けながら,基本的には満洲に転用できるように
改編された師団も現れた.1939(昭和14)年に編成された
第32師団(東京)から第41師団(宇都宮)などの9個師団がそれである.

▼改正の要点

 陸軍省徴募課が起案を終えて,陸軍大臣が改正案をもって閣議に
はかったのは1938(昭和13)年12月24日だった.このときの陸軍大臣
は板垣征四郎,海相は米内光正である.
(1) 戦時の要員を確保するために,海軍兵の服役期間を予備役も
後備役もそれぞれ1年と2年を延長する.予備役を5年,後備役を7年とする.
(2) さらに予備後備を延長する方法もあるが,義務過重になるし,
年齢上限が40歳を超えてしまう.そこで第一補充兵役を陸軍の場合,
これまでより5年延長し,17年4カ月とする.海軍も11年4カ月を16年4カ月
に延ばすことする.
(3) 師範学校卒業生の短期現役制度を廃止する.
(4) 在学徴集延期の期間を短縮することとした.また,『戦時又ハ事変ニ
際シ特ニ必要アル場合ハ・・・』と但し書きをつけて,これまで満27歳まで
徴兵検査を受けなくてもよかった制度を満26歳までとした.
(5) 体格が良いものから兵員にするため,これまでの抽選の方法をとる
場合を限定する.
(6) 勤務演習の召集日数では海軍だけではなく,陸軍も必要があるとき
には50日以内ではあるが延長できるようにする.
(7) 教育召集を第二補充兵にも行えるようにする.

 解説については,板垣陸相の議会での説明を紹介しよう.
 『内外の情勢変化にともない,帝国軍備の迅速かつ飛躍的充実を
必要とし,戦時所要兵力量を確保するため』,最近の戦争の経験から
分かったことは『幹部の新鋭化と在郷軍人の能力向上』であり,予備員幹部
の確保のために「徴集猶予(徴兵検査を遅らせる)・召集延期(召集を遅らせる)」
の制度を見直す必要がある.小学校教員の短期現役(5カ月)を無くしたのは,
むしろ小学校教員も国防の第一線に立つ方が国民教育上も有益である.

 では,議会側の反応はどうだったか.興味深いのは文部行政に詳しい
議員からの質問だった.中身は師範学校生への特典を廃止すると
教員志望者が減るのではないかという心配である.事実,小学校訓導は
短い1年間の現役生活を終えて,直ちに第一国民兵役に服していた.
戦場に出る可能性はまったくないと言っていい.師範に入り,短現になること
は合法的軍隊生活忌避の手段とも言える認識が世間にあったことを示している.
議員の不安に対して,文部省は師範学校への補助金を増やし,農業学校
などの実業学校からの転入にも便宜を図るので教員不足になる心配
はないと答弁している.

 また徴集猶予の年令引き下げについては陸軍省兵務局長が答弁に立ち,
『戦場で兵の先頭に立つ初級将校は若ければ若いほど良い』と説明している.
幹部候補生の教育はすでに前年(1938年)に1年間から2年間に延長
となっていた.2等兵で入営し,甲種幹部候補生として予備士官学校へ
入校し,少尉に任官するのは2年後に改められている.そこで,1年でも
早く入営者が欲しいといった事情が陸軍にはあった.

▼「国防の台所」

 ドイツの西方電撃作戦の成功で,それまでおとなしかった参謀本部
も一気に気分が高揚したようだった.1940(昭和15)年7月22日には
第二次近衛内閣が成立した.27日には大本営政府連絡会議は
『武力を用いても南進する』と国策を決定する.9月23日にはフランス領
インドシナ(当時は仏印といい,現在のベトナム)に進駐した.この時,
陸路から第5師団,海上からは印度支那派遣軍が使われた.
『ヨーロッパの戦争には不介入』と言っていたわが国は,27日『日独伊
三国同盟』を締結し,世界中にドイツの仲間であると宣言することになった.
 1940(昭和15)年7月,一冊のパンフレットが刷られた.陸軍省軍務局
軍事課資材班に勤務した中原茂敏砲兵大尉がその筆者だった.
『戦史叢書33号附録』にその要約がある.それを紹介しよう.軍需動員
の関係事項が書かれている.当時の軍隊の実態の一部がうかがわれる.
(1) 航空機
 1937(昭和12)年,年産800機.13年,1700機,14年,2800機,
15年度は3500機の見込みである.18年には7000機を生産する.
ただし,これは陸軍のみの数字である.15年度の米国は2万機,
ドイツを1万5000機,英国は8000機と予想している.昭和14年度には
陸軍はおよそ5億円の生産をした.
(2) 火砲
 年生産量2000門を生産できる.製造の割合は官立大阪造兵工廠が35%,
日本製鋼,神戸製鋼などの民間が65%である.新軍備充実計画が完成
すると,およそ4000門の生産が必要だが,現在の保有量は2万1000門
である.全軍が動員されると現在の補給率(50%とされている)でも
年間1万門以上造らねばならない.ことに15センチ加農(カノン)以上の
大口径火砲は現在150門を保有するが,その製造能力は年間5門でしかない.
15加は製造に8カ月,24センチ榴弾砲は18カ月を要するのが現状でしかない.
(3) 弾薬
 (ア)砲弾については現在1日6万発を製造し,年産2000万発である.
3分の1を支那で射耗し,3分の2が備蓄されている.現在の保有量は
1500万発であり,およそ4億円になる.18年度末の新軍備完成時には
6000万発,16億円分を保有していることになる.
(イ)実包(小銃・機関銃弾)
 月産6000万発,18年度には1億2000万発に倍増させる.
(ウ)爆弾(航空用)
 年産17万発で約6000万円.18年度には120万発,約4億円を保有
することになろうが,(対ソ連)開戦時には200万発,7億円ほどを必要とする.
支那事変勃発より14年度までに,弾薬の製造に費やした鋼材は
約50万トンにのぼった.新軍備の完成までには毎年100万トンを必要とする.
(エ)火薬
 爆弾が多くなったので,炸薬(さくやく・爆発用),装薬(そうやく・砲弾
の発射用火薬)の生産比率が2:1となった.現在,月産3000トンの能力
がある.開戦時には月産1万トンが必要だが,18年度末には月産6000トン
に達する.
(オ)自動車
 わが国の自動車保有台数は総数で22万台.うち貨車(トラック)は
6万台で年間生産台数は3万台である.全軍が動員時には,軍需資材
補給量は1200万トンにのぼる(内訳は弾薬200万トン,糧秣450万トン,
武器類350万トン,その他200万トン).それを運ぶにはトラック10万台
を必要とする.軍の機械化が進めば15万台が必要だろう.自動車の命数
を考えると18年度には年産13万台の製造能力が必要とされる.燃料事情
からも自動車エンジンのディーゼル化は必須である.

(カ)戦車
 戦車,牽引車(火砲を引くトラクター),各種装軌式器材車(クローラー,
無限軌道のこと)は,製造設備は共通部分が多いので,一括で考えれば,
現在,月産中戦車クラスにして月産70輌である.18年度には同じく180輌
であり,およそ戦車はその半分,90輌くらいである.18年度末の戦車保有量
は3200輌に対しては開戦時には年産4000輌,月産にして350輌の
製造能力が必要である.もしも,これが不可能なら3200輌を保有していても
半数しか戦場に出せないことになる.
(キ)被服
 官が20%,民間が80%の製造配分である.年産160万人分,
約3億5000万円を製造している.開戦時には年間約15億円を製造する
必要がある.現在の能力の4倍を必要とする.

 このように中原砲兵大尉は数字を挙げ,「お寒い事情」を赤裸々に
描き上げていた.これに対応する数字がある.加登川幸太郎歩兵大尉(のちに中佐),
当時は中原少佐と同じく資材班勤務だった.著書から引用する.
1940(昭和15)年3月の兵器生産実績である.

 38式歩兵銃はすでに生産を中止している.新型の99式小銃である.
これが月産わずかに4万挺でしかない.14年度いっぱいかかっても53万挺
しか造れていない.軽機関銃も11年式軽機関銃を月産1000挺,
92式重機関銃も月産1000.前年すべてで1万3200挺余りである.
92式歩兵砲という歩兵大隊に配備される小型砲が20門,94式山砲
という比較的新型の分解駄載できる砲兵装備の砲が2門,41式山砲
という歩兵聯隊の聯隊砲中隊がもつ砲が7門である.大きな火砲になると,
新鋭の96式15センチ榴弾砲(機械化牽引)が10門,4年式15センチ
榴弾砲(輓馬牽引)も3門,96式15加が2門,89式15加も3門,
96式24センチ榴弾砲もわずか1門.これが正面装備生産の一端である.
 
 戦車は95式軽戦車が5輌.97式中戦車はゼロ.4輪の自動貨車(トラック)は
800台,6輪自動貨車が160台である.6輪自動貨車というのは,
列国がハーフトラックという前輪はタイヤ,後輪の代わりに無限軌道がついた
車両を開発したことに対して,陸軍が開発した後輪が4つのものである
貨車をいう.ふつうの4輪トラックが5000円だとすると,およそその倍,
10000円した.

 次回は,予算や経費の話をしよう.  

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.10.28




◆篠原匡『神山プロジェクト:未来の働き方を実験する』を読み解く


※要旨


・少子高齢化の田舎に企業が来た.


・鮎喰川の畔に広がる人口6,100人ほどの町,神山.
徳島市内から40分の距離だが,平地が少なく,
急峻な斜面にへばりつくような集落が点在している.


・かつては林業で一時代を築いたが,
木材価格の低迷とともに人口は減少の一途をたどる.
高齢化率も46%と,少子化と高齢化に悩む苦しむ中山間の典型のような地域だ.


・ところが,神山はITベンチャーの「移転ラッシュ」に沸いている.
名刺管理サービスを提供しているSansanが,
2010年にサテライトオフィス「神山ラボ」を開設したのを皮切りに,
9社のベンチャー企業が古民家を借りた.


・移住者の増加にともなって,店舗や施設のオープンも相次いでいる.
ここ数年を見ても,パン屋やカフェ,歯医者,パスタ屋,お好み焼き屋,
ビストロ,図書館などが神山Mapに登場した.


・アーティストやクリエイターなどクリエイティブな人材の移住も加速しており,
まさに新しく町が生まれ変わっている印象だ.


・若者の流出や高齢化に伴って,日本の山間僻地では過疎化が進んでいる.
「出口なし」といった状況だ.
その中で,神山は異彩を放つ.


・エンジニアやクリエイターがここに押し寄せる.
それはなぜか.
神山に固有な理由はいくつかある.
例えば,抜群のIT環境だ.


・その街並みからは想像できないが,神山は全国でも屈指の通信インフラを誇る.
徳島県知事の飯泉が情報化に熱心だったこともあり,
2000年代半ば以降,徳島県は県内全域に光ファイバー網を整備した.


・企業や移住者は,IT環境だけではなく,神山という「場」が醸し出す雰囲気に引かれたようだ.
その雰囲気の中心にいるのは,神山に本拠を置くグリーンバレーだ.


・日本の田舎をステキに変える.
グリーンバレーは,移住者支援や空き家再生,アーティストの滞在支援などを手がけるNPO法人だ.
主な活動は,上記に加え,人材育成,道路清掃など.


・彼らのミッションは,「日本の田舎をステキに変える」.
そのミッションを体現している存在といっても過言ではない.


・この本では,グリーンバレーの道程をひもとく.
「奇跡の町」とささやかれる今の神山をいかに築き上げたのか.
そのプロセスは多くの示唆を与えるに違いない.


・新しい発想やプロジェクトは異なる価値観やスキルを持つ人同士の対話を通じて,
生まれるものだ.
そのために必要なことは,クリエイティブな人材が集まる場を作ること.
その場を作り出してさえいれば,あとは自然発生的に何かが生まれる.


・ある意思を持った人が5人いれば町は変わる.


・日本の地方は人口流出と高齢化にあえいでいる.
全体の人口減少と都市化の波を考えれば,その中の多くは限界集落と化していくだろう.
それを押しとどめるものがあるとすれば,それは道路でもなく美術館でもなく,
クリエイティブな人間の集積以外にない.
人が集まる場をつくる.
それこそが,生き残りの解だ.


※コメント
シンプルなことであるが,本質を突いている一冊だ.
地方のあり方について,実践とインスピレーションを与えてくれる.
ビジネスについて新しい何かを発想できそうだ.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.10.28





◆高橋洋一『日本郵政という大罪』を読み解く




※要旨


・筆者は役人時代に郵政民営化の詳細設計図を書いた.
その郵政民営化のキモは,ゆうちょ銀行とかんぽ生命の金融2社の
完全民営化によって民有・民営を行うことだった.


・ところが民主党は,ゆうちょ銀行とかんぽ生命の株式の一定割合を
実質的に政府が保有し続ける方向に転換した.
つまり完全民営化を改悪したのだ.
これは「官業への逆戻り」である.


・「日本郵政グループ3社の株は,やはり買いか?」
この質問に対し,かつて小泉政権下で「郵政民営化」の制度設計に携わり,
日本郵政グループの内実をよく知る筆者は,
即座に「ノー!」と答える.
なぜなら日本郵政グループ3社は,
投資対象としての魅力がゼロに等しいからだ.


・実はゆうちょ銀行は,「普通の銀行」ではないのである.
ゆうちょ銀行以外の「普通の銀行」は
どうやって利益の大半を稼ぎ出しているかというと,
企業や個人に対する貸し出し,すなわち融資業務である.
預金者から調達した資金を,
借りたいと考えている企業や家計に高い金利で貸し出すことにより,
支払利息と受取利息の差,つまり「利ざや」で収益を生み出している.


・では,ゆうちょ銀行のビジネスモデルは一体どうなっているのか.
それはある意味極めて明快で,
個人などから集めてきた資金の大半を国債で運用するという
単純な構造になっている.
だが,このビジネスモデルでは,
そもそも大きな収益を期待することはできない.


・では,政府が日本郵政の株式をすべて売却し,
日本郵政が完全な民間企業になったとしたらどうだろうか.
政府保証という一種の呪縛から解放されたゆうちょ銀行は,
金融市場という名の大海原に胸を張って漕ぎ出すことができるようになる.


・もし融資業務に参入できるようになったとしても,
ゆうちょ銀行の前に待ち構えているのは,凄まじき荒波だ.
なぜなら,ゆうちょ銀行が参入したがっている融資業務には,
信用審査や債権管理で極めて高度なスキルと知見が必要になるからだ.


・信用審査及び債権管理のスキルとノウハウは,
そう簡単には確立できない.
長期にわたる実績の積み重ねによって構築される,
情報と信頼の集積が必要になるからだ.
それを担える人材の育成と組織体制の確立には,
少なくとも10〜20年はかかると思ったほうがいい.


・郵政民営化の実現に筆者が一役買ったことは事実だが,
その最大の立役者といえば,やはり竹中平蔵氏である.
もちろん小泉首相を除外すればの話だ.


・なぜ竹中氏は筆者に白羽の矢を立てたのか.
もちろん,かねてからの友人ということもあっただろうが,
何より筆者が郵政3事業に精通していたからに他ならない.
それまで郵政事業について徹底的に調べ,
「ミルク補給」はもとより,おおよその問題点は把握していた.


・竹中氏から,
「多くの学者や専門家にヒアリングしたが,
かつて財投改革を担当した高橋君ほど
郵政3事業について詳しい人間はいなかった.
郵便事業や簡易保険などの一分野に精通している人はいるが,
郵政全体をバランスよく知っている人はいない.
高橋君が適任だから,頼むよ.
世界に通用する民営化案をつくってくれ」
と言われ,筆者は引き受けることにしたのである.


・暗中模索から始まった設計図づくりであった.


・郵政のシステム問題への対策で,
竹中氏から再び白羽の矢を立てられたのは筆者である.
筆者は普段はプログラミングなどとは疎遠の一介の官僚にしては,
かなりシステムに詳しいほうだった.
なぜなら以前,財務省の「ALM(資産・負債総合管理)システム」
をほぼ一人で組み上げた経験があったからである.


・もともと筆者は数学科の出身で,
コンピュータ言語やプログラムにはほかの人より慣れ親しんできたし,
実際に,コンピュータ言語を駆使してプログラムを組んだ経験が幾度もあった.


・結局のところ,システムはプログラムの塊である.
そしてプログラムとは,
この本を構成している一つひとつの文章のようなものだ.
言葉さえ知っていれば,とりあえず本を読むことはできるし,
細かいところまでは理解できなくても,
エッセンスは理解することができる.


・筆者はたいていのコンピュータ言語を知っていたし,
コンピュータシステムである以上は,
郵政のシステムも基本的な構成は同じだろうと考え直し,
まずは概要の把握から始めることにし,
郵政公社へ乗り込んでいった.


・待ち構えていたのは,数十人におよぶシステムエンジニアたちである.
彼らはもちろん,外部のシステムベンダーのエンジニアだ.
幸いにして,筆者はプログラム言語を読むことができた.
当然のことながら,システムなどについて議論をするとき,
プログラム言語がわかっているかどうかは決定的な差となってくる.


・プロジェクトマネジメントで超筋肉質のシステムに.
筆者らが構築しようとしていた郵政のシステムは,
当面は必要がないと思われるパーツを徹底的にそぎ落とした,
「暫定システム」である.
それで大丈夫なのか,と思われるかもしれないが,
そもそも論でいえば,世の中に存在するすべてのコンピュータシステムは,
どれも暫定的なシステムだ.
完璧なシステムなど,世界のどこを見渡しても一つとして存在しない.


・システムというシンプルな置き土産.
官公庁が採用している大規模システムは,
どうしても「過剰スペック」になりがちである.
筆者が手がける前まで,郵政のシステムも同様だった.
なぜそうなるかといえば,
システムを発注して実際に使用する側の官僚が,素人だからである.


・郵政民営化を実現した原動力が何かといえば,
やはり筆頭に挙げられるのは,小泉純一郎首相の「情熱」である.
今あらためて振り返ってみても,
小泉首相は本当に凄い人だった.
筆者が特に驚かされたのは,小泉首相の政治感覚である.
「直感力」と言い換えてもいいかもしれない.


・小泉首相は,竹中氏経由で筆者の「郵政民営化必然論」を聞き,
「これは使える!」とピンと来たのだと思う.
おそらく,自身の政治感覚と筆者の理論がピタリと符合したのだろう.
その証拠に,筆者の説明に異論を唱えたことは一度もなかった.


・ここが政治の面白いところで,
小泉首相は小泉首相で,筆者とはまったく別の政治的意図で
郵政民営化論を主張していた.
そこへタイミング良く,筆者のような人間が登場したわけだ.
小泉首相の郵政民営化にかける情熱には凄まじいものがあり,
執務室でさまざまな報告を行っていた際,
郵政民営化に話題が及ぶと,とたんに目の色が変わったことをよく覚えている.


・縁というのは本当に不思議なもので,
類い稀なるリーダーシップと決断力,
行動力を兼ね備えた小泉首相という人物の持論がたまたま郵政民営化で,
その担当大臣に任命された竹中氏は,
抜群の吸収力と国民へのプレゼンテーション能力を持った人物だった.
その竹中氏の友人である筆者が,
偶然にも郵政民営化の理論的裏付けとなる論文をまとめていた.


・事実を丹念に追えば自ずと「真実」が見えてくる.


・筆者が思うマスコミの最大の問題点は,
自分で一次情報やデータをあたって調べられないことだ.
なぜ調べられないかといえば,単に調べる能力がないからである.
たとえば,政府の予算書は数千ページの分量に及ぶ.
それに目を通すのがイヤだから,
代わりに記者たちは財務省のレクチャーを受け,
官僚が「マスコミ用」にまとめた資料を丸呑みして,
記事を作成したり報道番組を制作したりするのだ.


・官僚は「頭がいい」から仕事ができない.
役人時代にある仕事を担当していたとき,
当然のことながら役人を部下につけてもらったことがある.
この役人というのが,信じがたいほど仕事ができない人物だった.
筆者が指示した仕事を何一つまともにこなせないので,
最終的に「連絡係」に徹してもらった.
この役人だけでなく,筆者にいわせれば,
基本的に,役人はおしなべて仕事ができないのだ.


・なぜ役人は仕事ができないのか.
それは「頭がいい」からである.
なぜ「頭がいい」と仕事ができないのか.
それは「御託を並べるのが得意」だからである.


・何をするにしても,役人はまず御託から入る.
口ばかり動かして,手を動かそうとしない.
しかも,トライする前から「できない」と口にしがちだ.
できる理由を見つけることはやらないが,
できない理由を見つけるのは得意中の得意なのである.


・急を要する仕事であっても,
御託ばかり並べて手をつけようとしない.
彼らと仕事をしているとき,筆者は,
「四の五の言っている間に,さっさと始めてくれればいいのにな」
とウンザリすることが多々あった.




※コメント
政治の裏舞台がいろいろ見れて面白い.
また高橋氏の文章は,シンプルである.
さすが数学科出身といえる.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html





兵法三十六計(1)
                 元防衛省情報分析官・上田篤盛(あつもり)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

□はじめに

 中国が尖閣の領有化を目指し,わが国に対する攻勢を強めている.
この状況を座視していると,やがて尖閣は中国の手中に落ちてしまう
であろう.それのみならず,沖縄までもが中国に略取されることになる
かもしれない.ではわが国としては,いかなる戦略・戦術をもって,
これに対処すべきであろうか? そのためには,まず中国の戦略的
意図を解明することが前提となる.

 中国は歴史的に戦略を重視してきた.それは「兵法」と呼称され,
歴史的に兵法書が編纂・体系化されてきた.中国の代表的な兵法書
には『孫子』,『呉子』,『司馬法』,『尉繚子』(うつりょうし),『李衛公問対』
(りえいこうもんたい),『六韜』(りくとう)および『三略』などがあり,これらは
『武経七書』と総称されている.

 なかでも「兵は詭道(きどう)である」と喝破する『孫子』は最も体系化された
至上最高の兵法書である.同書は「戦わずして勝つ」という不戦主義を採用し,
戦いよりも,平時から戦勝のための有利な態勢を構築する必要性を説いて
いる.今日の中国も,兵法に学び,平素から『孫子』の兵法を利用して対日工作
を仕掛けている可能性がある.この意味からも,中国の攻勢に対応するため
には『孫子』をはじめとする,中国の兵法を研究する必要があるのである.

 ところで中国には『孫子』と並び称されるもう一つの兵法書がある.
それは『兵法三十六計(以下,三十六計)』である.『孫子』は為政者が
愛用した崇高な哲学経典であったが,一方の『三十六計』は日常を生きる
実践哲学として,『孫子』よりも民間において広く流通した.その教えは
今日まで継承され,現代中国人はビジネスや,国際政治や国内政治
において自己の有利な立場を築くために『三十六計』を『孫子』以上の
実用書として参考しているという.実際,毛沢東語録や現在の中国指導者
の発言のなかでも,しばしば『三十六計』が引用されている.

 このことは今日の中国の対日戦略に『三十六計』が応用されて
いることをうかがわせるものである.よって尖閣領有化,反日デモ
などの,中国による対日有害活動を『三十六計』に基づいて分析
すれば,水面下に隠されている中国の意図をより深く読み解くことが
できるであろう.『孫子』と同様に『三十六計』に知悉(ちしつ)すれば,
中国との競合において負けない戦いができるのではないだろうか.
こうしたことを読者とともに考えていきたい,これが本連載の狙いである.

 ところで,『三十六計』は17世紀の明末から清初の時代の編纂である
とされる.その原本は1941年に?州(寧州〔ねいしゅう〕の前身,現在の
甘粛省慶陽市寧県)において発見された.その著者は,明代に『孫子』
の注釈本を編纂し,「易」の理を軍事戦略に応用した兵法家である
趙本学,あるいはその影響を深く受けた人物であるといわれているが,
その実態は定かではない.

 中国古代の兵法書には「易経」(えききょう)の考え方が広く反映して
おり,中国古代の兵法家はいずれも「易」の理に精通していた.
『三十六計』においても「易経」の考え方が反映されている.
なお日本では「三十六計逃げるにしかず」との諺が有名であるが,
これは魏晋南北朝時代の宋の将軍・檀道済からの引用であり,
『三十六計』との直接の関係はない.

『三十六計』は「勝戦計」「敵戦計」「攻戦計」「混戦計」「併戦計」および
「敗戦計」の6組に区分され,各組が6つの計,合計36計で構成されて
いる.一つの計が4字,あるいは3字の熟語からなる総計186文字
の極めてシンプルなものである.その最大の特徴は「孫子」をはじめ
とする従前の兵法書から貴重なエキスを抽出し,簡潔にまとめている点
にある.それゆえに,民間人にも馴染みやすく,『孫子』よりも民間に
広く流通し,日常生活やビジネスの世界ではしばしば応用されているである.

 一方で記述内容が粗削りであり,各兵法には類似品があり,
その解釈には明確な境界線がないものが多く,六組六計の配列にも
合理性に欠ける,という欠点もある.この配列の不合理性は認識しつつも,
今後,本来の配列どおりに『三十六計』を第一計から順に解説し,
そのなかに潜む中国による現在の対日戦略をひも解くことにする.

 また,『三十六計』の内容の理解を助けることを目的に,守屋洋氏
の『兵法三十六計』,永井義男氏の『中国軍事成語集成』,
そのほかの一般書籍から,適宜に中国小史を引用することにする. 

 では,第一計からご覧あれ.

◆第一計「瞞天過海」(まんてんかかい)侵攻作戦の欺騙

「瞞天過海」は「天を瞞(あざむ)いて海を渡る」と読む.天とは皇帝
のことであり,「皇帝をあざむいて,平穏無事に大海を渡らせる」という
意味である.

 この計は,唐の軍人,張士貴(ちょうしき 586〜657年)が,
高句麗遠征の時,主君の太宗(第二代皇帝)が怖がって乗船を恐れた
のに対し,船に土を盛り陸上の屋敷のように偽装して,太宗を乗船
させて海を渡らせたという故事にちなむ.

 このことから転じて,「瞞天過海」は,敵に対し,繰り返しいつもの
行動をみせつけて,見慣れさせ,少しも奇妙に思わない“錯覚”を生じさせ,
我の本来の目的を達成するという意味である.戦術的には,侵攻準備
を繰り返し,その開始時期をたびたび変更し,相手に「またか!」いう気
を起こさせ,本来の侵攻時には敵の油断を誘い,一気呵成に攻撃し,
電撃的に侵攻目的を達成することである.

 南北朝の末期,隋の文帝は名将・賀若弼(がじゃくひつ,544〜607年)
を使い,長江(揚子江)を渡河させ,陳の首都建?(現在の南京)に侵攻
させ,陳を滅ぼした.当時,隋は長安(現在の西安)に都を置き,
長江以北の土地を領有していた.一方の陳は,長江以南の土地を領有
していた.隋が陳を討つためには長江を渡河しなければならなかった.
そこで隋の賀若弼は長江の対岸沿いに陣を張った.陳はこの動きに
応じて,自軍を配置して隋の攻撃に備えた.

 賀若弼は,自軍の兵士に対して攻撃準備を命じ,攻撃開始を告げる音
がこだまする.陳軍は陣形を整えるが,隋軍が渡河している気配は一向
にない.こんなことが2,3回繰り返されると,やがて陳軍も“見せかけ”だと
思い,隋軍の集結を知っても本気になってそれに備えようとしなくなった.
そうこうしているうちに,隋軍は密かに長江を渡るための船を集結し,
一気呵成に長江を渡河して攻め込んだ.かくして隋軍は,陳軍からほとんど
組織的な抵抗を受けることなく建?を攻略したのである.

 これとよく似た寓話がイソップの「狼と羊飼い」である.羊飼いの少年
が気晴らしに「狼が出た」と嘘をついては騒ぎを起こす.しかし,少年が
嘘を繰り返してばかりいるので,本当に狼が現れた時には,大人たちは
誰も信用せず,助けにもいかず,結局,村の羊がすべて食べられた
という話である.この話は,「人は嘘ばかりつくと,たまに真実を言っても
信じてもらえなくなる.だから,常日頃から正直になりなさい」という
道徳的訓話であるが,では,この物語の主人公である羊飼いを中国
に置き換えたらどうだろうか.

▼中国は「海洋強国」を目指している!

 中国は今日,「中華民族の偉大なる復興」を国家の戦略目標に据え,
そのための方法論として「海洋強国」の建設を謳っている.伝統的に
ユーラシア大陸の「ランドパワー」であった中国が,近年は自らを
「太平洋の西側に位置する臨海国家」などと呼称し,15世紀の
鄭和(ていわ,1371〜1434年)の数次にわたるアフリカ遠征を賞賛
するなど,「シーパワー」を前面に強調するようになってきた.

 2000年代,「走出去(海外進出)」戦略に連動するかたちで,
中国は「海洋強国」建設の方針に基づき海洋進出を押し進めている.
2010年に発表された『中国海洋発展報告』では,「『海洋強国』は
『「中華民族の偉大なる復興』のために回避できない道である.
『海洋強国』建設は21世紀の偉大な歴史任務である」と明記された.

 ところで,中国はなぜ「海洋強国」建設を目指すようになったので
あろうか? それは中国の「国内安定」「安全保障」および「経済発展」
という3つの国益に基づく.

「国内安定」からは,海洋は13億の膨大な民に必要な「食(食料)」と
「職(職業)」を安定供給してくれる.中国の耕作面積は膨大な人口
に比して狭小であるうえ,近年の森林伐採などの影響で国土の生態系
が崩れ,砂漠化し,それが陸域における食料生産量の低減を招いている.
このため中国は食魚を求めて海洋進出し,海洋漁業は多くの漁民に
「職」を提供している.

「国内安定」のもう1つの柱である政権の安定については,海洋に勢力
を拡大し,失地領土と主張する台湾,南沙諸島および尖閣諸島などを
奪取することが中国共産党の政権の正統性を証明することになる.
 
「安全保障」からは,中国は18世紀中葉に,帝国主義列強により海洋
からの侵略を受けるという屈辱の歴史を受けた.これを繰り返さないために,
国土防衛上のバッファーを海洋に求めている.また,中国は今日,台湾有事
における米軍介入,とくに米空母戦闘群からのスタンドオフ攻撃を最大の
脅威と認識している.そのため東シナ海および南シナ海における海洋の
支配と,西太平洋における米空母戦闘群の自由な遊弋を妨害することを
軍事戦略の柱としている.これを,米国は「A2AD(アンティ・アクセス,
エリア・ディナイアル,接近阻止,領域拒否)」と呼称して,警戒している
のである.

「経済発展」からは,経済成長を持続するためのエネルギーの安定供給
を海洋に求めている.1970年代末から開始された「改革開放」により,
中国経済は急速に発達した.しかし,エネルギー消費量の爆発的増加と
陸域資源の制約から,1993年には中国はエネルギーの純輸入国に転じた.
現在,中東・アフリカ方面からエネルギーを輸入し,そのためのシーレーン
防衛が中国の課題となっている.パキスタンのグワダル港などのシーレーン
沿いの港湾整備などの動きを活発化させており,米国シンクタンクは,
これを「真珠の首飾り」戦略と呼称し,警戒感を発信している.

 このほか東シナ海の日中中間線で油ガス田の開発を強行している.
さらに南シナ海方面での石油掘削も活発であり,2014年5月には,ベトナム沖
の西沙諸島海域で中国とベトナムとの間で一触即発の状態が生起した.

▼東・南シナ海の支配は「海洋強国」建設の第一歩だ!

 中国にとって,周辺海域である東シナ海および南シナ海への進出は
「海洋強国」建設の第一歩であろう.これらの海洋には,中国が歴史的
な固有領土と称する台湾,南沙諸島,尖閣諸島などの「失地領土」の
回復という意味合いも横たわっている.

 南シナ海では岩礁を埋め立てて,人工島を造成し,一部の人工島
には3000メート級の滑走路やレーダーが建設されるなど,領有権の主張
ばかりか,軍事拠点としての機能が整えられつつある.

 東シナ海では2010年9月,中国漁船が尖閣諸島沖のわが国領海内
に侵入し,退去を要請する海上保安庁巡視船に衝突を仕掛けるという事件
が発生した.2012年9月のわが国による尖閣国有化以後,中国は
国家海洋局の「海監」,農業部所属の「漁政」の活動を活発化させ,
もはや領海侵犯は恒常化している.

 2013年の全国人民代表大会(国会)では,海洋監視体制の強化が
謳われ,「海監」や「漁政」をはじめ,警察および税関を担任する監視部門
組織の運用を統合化することが承認された.

 つまり,国家海洋局が「中国海警局」の名称で警察権を保有したうえで,
統一的に監視活動を行なう新たな体制が確立された.海洋権益に
かかわる部門の調整機能として,「国家海洋発展戦略」を設定する
国家海洋委員会も新設された.こうした組織改革は,尖閣諸島や南シナ海
をめぐる周辺国との対立を念頭に置いたものである.

 中国はまず南シナ海,次いで東シナ海を支配し,「海洋強国」建設の
地歩を築こうとしている.

▼「瞞天過海」により尖閣に侵攻か!

 中国はこれまで,南シナ海においては軍事的手段を用いて
西沙諸島(永興島)をベトナムから奪取し,南沙諸島への支配も拡大してきた.
しかし,米国や日本の軍事力が存在する,台湾や東シナ海での領土拡大
は容易ではない.

 また,中国が台湾攻撃のための作戦準備を開始しても,その状況は,
米国の偵察衛星や台湾独自の電波傍受などにより,「手に取る」ように
わかるであろう.状況を事前に察知され,1996年の「台湾海峡危機」のように,
米空母が台湾海峡に派遣されれば,中国としては非常に厄介なことになる.

 しかし,中国が軍事演習を台湾対岸や上海沖などで何回か繰り返す
ことで,本当の攻撃を欺騙したとすればどうであろうか? 米国も台湾も,
それが「単なる軍事演習なのか,それとも攻撃準備なのか」は区別が
つかなくなるであろう.そのうちに,米国や台湾が警戒心をゆるめてしまえば,
中国の電撃作戦が成功する可能性が高まる.これが「瞞天過海」の計の
応用なのである.

「瞞天過海」は当然,わが国の尖閣に対する奪取にも活用されよう.
中国がわが国の尖閣諸島を奪取するシナリオは,海上民兵が漁民を装い,
尖閣諸島に上陸し,日本側の官憲ともめているうちに,自国民の保護を
名目に中国が法執行船や軍艦を派遣して,尖閣に上陸し,そのまま実効
支配に持ち込む.わが自衛隊が出動すれば,日本側の“軍事力の先制使用”
を世界に喧伝し,軍艦を派遣する,というものである.

 中国は2012年以降,尖閣周辺での漁船の活動や法執行船による活動
が活発化し,接続海域には荒天の日を除きほぼ毎日,最近では毎月3回
程度の頻度で領海侵犯は繰り返している(『外務省ホームページ』).

 一方の中国海軍軍艦は,沖縄と南西諸島の間の領域を通過し,沖ノ鳥島
付近に進出しては,毎年のように軍事演習を実施している.こうした中国の
監視活動,沖ノ鳥島での軍事演習が「尖閣侵攻とはまったく無関係だ」と,
いったい誰が断言できようか.ひょっとすると,それは尖閣諸島の奪取のため
の欺騙であり,「瞞天過海」の前夜かもしれないのである.

 わが国の領土をみすみす失わないためには,中国の東シナ海における
日常活動に対する警戒を決して怠ってはならないのである.


(つづく)


【著者紹介】
上田篤盛(うえだ・あつもり)
1960年広島県生まれ.元防衛省情報分析官.防衛大学校(国際関係論)卒業後,
1984年に陸上自衛隊に入隊.87年に陸上自衛隊調査学校の語学課程に入校以降,
情報関係職に従事.92年から95年にかけて在バングラデシュ日本国大使館におい
て警備官として勤務し,危機管理,邦人安全対策などを担当.帰国後,調査学校
教官をへて戦略情報課程および総合情報課程を履修.その後,約15年以上にわたり,
防衛省情報本部および陸上自衛隊小平学校において,情報分析官と情報教官
として勤務.2015年に小平学校教官を最後に定年退官.共著に『中国軍事用語
辞典』(蒼蒼社,2006年11月),『中国の軍事力 2020年の将来予測』(蒼蒼社,
2008年9月)など.近刊に『戦略的インテリジェンス入門』を予定.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.11.3





『ライター・渡邉陽子のコラム (68) ─ 海上自衛隊 第111航空隊(5) 』
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは,渡邉陽子です.先日,この欄で「レーシック手術を
したのに視力が低下した」とぼやいたところ,読者の方がある病院
を紹介してくださいました.いささか見えにくさが不安になっていた
ので,教えていただいた病院に行ってみました.

その結果,以前受けたレーシック手術はなんの不備もなくきれいな
処置ができていることをはじめ,非常にわかりやすく丁寧な説明を
受けることができ,ものすごくすっきりしました! 本当にいい先生でした.
目の疲労をこれ以上ひどくしないための策も教えていただけました.


A.Sさま,「貴女のこれからの大切な仕事にも差し支えます」という
言葉が胸に響き,重い腰を上げた結果,良心的な先生に診ていただく
ことができました.ありがとうございました.


私信:Sさま
ご無沙汰してます! もちろん覚えてます! 取材の際はお世話
になりました,どうもありがとうございました.今もお会いしたときと
同じ部署でご活躍されていらっしゃるのでしょうか.その後,素敵な
ご縁はありましたか?(笑)
こちらは相変わらずです.取材時一緒だったI氏は,現在管制隊長
をされてますね.同行したカメラマンは,先日甥の結婚式の撮影
をしてくれました.
またお会いできる機会がありますように.メッセージありがとうございました.



---------------------------------------
○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■海上自衛隊 第111航空隊(5)


先週は航空掃海訓練において曲芸かと思えるような作業
をこなした機上掃海員,AOについてご紹介しました.

このAO,勇気と実力があるだけではありません.
3種類の掃海具を取り仕切るために,いくつもの資格も保有しています.

「持っているのは1級船舶,フォークリフト,大特,玉かけ,潜水に,
あと何でしたっけ(笑)」

思い出せないとは! 取材に応じてくれた海曹がすべて
思い出せないほど多くの資格がなければ,掃海具は扱えないのです.

「MH-53Eは大きなヘリコプターですが,それでも30kgほどある
掃海具を操作するには,狭く限られた空間です.
けがにも気を付けなくてはいけません.また,掃海は天候によって大きく
左右されるので,気象条件に合った掃海を行なうその判断が難しい
ところです.同時に,そこが面白さを感じる点でもあります」
そのAOはそう話してくれました.面白いんですか!!


一度でもこの航空掃海訓練の様子がテレビで取り上げられることが
あったら,話題になると思うのですが……岩国にしかない海自唯一
の部隊なので,取材対応も難しいのでしょうね.


さて,MH-53Eの航空掃海訓練の次は,降下救助訓練が行われて
いるMCH-101のところへ向かいました.ここからはMCH-101の
ご紹介です.このヘリ,先日の観艦式で安倍総理を乗せて
護衛艦「くらま」に着艦したヘリです.


MH-53Eの後継機として導入された欧州製の機体は,
サイズだけでなくフォルムもMH-53Eと異なります.
大型のアメ車やバイクとどこか雰囲気が似ている「ザ・アメリカン」
といった趣のMH-53Eに対し,MCH-101は何となくしゃれた印象
を受けます.イギリスとイタリアの企業の共同開発だからでしょうか.

全長約23m,高さ6.6m.掃海用としての運用は始まっていないので,
輸送業務を主とし(だから観艦式で出番があったわけです)救難にも
出動します.

MH-53Eの後継機として導入されたはずなのに掃海用としての運用
は行なわれていないとは,不自然ですよね.取材時,部品取り寄せ
や整備に時間がかかり,飛ばせない時間が多いという話は聞きました.
しかし実際の任務は今後も輸送業務が主体となるのではないでしょうか.
おそらく特別警備隊,通称特警隊を運ぶ任務がMCH-101本来の役割
なのではないかと思われます.特警隊は言わずもがな,海上自衛隊
の特殊部隊ですね.


クルーはパイロット2名にCRという航空士が2名と,MH-53Eに比べて
少ないです.掃海作業がないことと,電子化が進み,航空機関士や
航空電子整備員の仕事はコンピュータが行なってくれるからです.

搭乗前,CRは列線整備隊と一緒にウインチの役割を果たすホイスト
の巻き出し点検を念入りに行なっていました.すべて引っ張り出される
ケーブルも地面に触れて傷がつくことのないよう,隊員たちが手に持つ
徹底ぶりです.

一方のパイロット2名は,操縦席で最終点検を行なっています.
後部座席はいつでも準備よしの状態になっても,ヘッドセットからは
まだパイロットとコパイロットが点検を続ける声が響いています.
コンピュータ化した分,最後の点検事項がMH-53Eよりも増えたのです.
実際,コックピットの計器はアナログの針が並ぶMH-53Eとは対照的で,
必要な情報はモニタに表示されています.

ようやく点検を終えてMCH-101は離陸,本日の訓練場所である
岩国基地内のスロープに向かいました.次週はこのMCH-101の
訓練風景の続きをご紹介します.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.11.5




◆嶋浩一郎『なぜ本屋に行くとアイデアが生まれるのか』を読み解く


※要旨


・発想のためには,目的をもって調べた情報はもちろん有効.
だが,日常生活の中で偶然出会う,「想定外」の「無駄」な情報が役に立ったりすることも多い.


・日常生活の中で,そんな想定外で無駄な情報にたくさん出会える場,それが本屋.
だから,「いい企画やアイデアをひらめきたいなら,まず本屋に行こう」というのが,この本で伝えたいこと.


・ネット書店には無いが,リアルの本屋は「想定外の情報との出会い」がある.
その想定外の情報こそ,実は自分の求めていた情報であったり,意外にも役立つ情報であったりする.


・本屋の歩き方:5か条.

1.本屋に行くのに目的はいらない.

2.自分の持っている本を探してみる.

3.普段行かないコーナーに行ってみる.
あえて自分が行かないコーナーを回ってみると,驚きの発見がある.

4.レジ横は見逃さない.

5.迷ったら買え.


・人は自分のやりたいことを知らない.
いい本屋は欲望を言語化してくれる.


・情報量という観点からみれば,本屋さんに5分間いるだけでも,
その情報量はものすごいものがある.


・大切なのは無駄な情報.
私は,役立つ情報よりは,むしろ一見,役に立たない「無駄なもの」を集めている人のほうが,
いい企画の立案やいい仕事ができるのではないか.


・本は全部読む必要はない.
基本的に本は,最初に大切なことや結論が書いてある.
ヌーベルバーグの旗手として知られるフランスの映画監督ジャン・リュック・ゴダール曰く,
「映画は15分だけ見ればわかる」とのこと.


・本にどんどんメモする.
本は読むだけではなく,道具として使うことができる.


・私は本の中で面白い部分には付箋を貼り,1ヶ月寝かせる.
そして,その中からやはりおもしろい情報は,ノートに書き写す.
それらの情報を分類したり,順番を考えたりする必要はない.
そのままひたすら書き写す.


・私がやっているのは,書き写した情報に順番に番号を振っておくだけ.
いわば情報を「放牧」しておく.
この一軍ノートを折に触れて読み返してみる.
いずれそうした無関係な情報が,何かの役に立ったり,情報どうしが結びついたりする経験を,
私はこれまで何度も経験してきた.


・こうして毎日本を買っていると,やはり本棚はすごいことになってくる.
いまの自宅を建てるとき,妻に「床は全部あげる.代わりに壁をくれ」といいました.
妻は何を言われているのか,わからないのです.
そして,建築家には「壁を全部本棚にしてください」と注文しました.
出来上がったのを見て,妻が怒ったのはいうまでもありません.


・情報は本棚の中で化学反応する.
いい本棚には「星座」がある.


・仕事柄,どのように企画を立てているのか,とよく訊かれる.
企画や新しいアイデアに必要な要素を一言でいえば,「想定外」と「欲望」.


・「寄り道思考」が大事.
あちこち寄り道しながら,無駄な情報を集めるのに,読書はもっとも適した方法のひとつ.
読書とは旅である.


※コメント
嶋浩一郎氏は,博報堂出身のクリエイティブ・ディレクター.
さまざまな企画やプランニングを行っている.
彼の本屋さんを活用したアイデア術は,すぐにできる手法だ.
視点を変えるだけで,いろんな企画が生まれる.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
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2015.9.6




◆木山泰嗣『弁護士が書いた究極の読書術』を読み解く


※要旨


・仕事に必要な情報の入手は「スピード」「効率」が重要.
しかし,これは「リサーチ」です.


・読書から得られるものは,実に様々.
本には,無限の宝が眠っている.
無限の宝を発掘するのが読書.


・歴史も含めて「繰り返し」が人の本質.
言い古された内容だからこそ,重要だと思えるようになることが大切.


・本には発想力という宝も眠っている.
アイデアというものは,既存の概念の組み合わせでできている.
インスピレーションを得るには,多くの本を読むこと.


・本には「本の情報」という宝も眠っている.
本の情報というのは,あなたが次に読む本の情報のこと.


・本の醍醐味は,偉大な人物の頭脳と議論することができる.
偉大な人物の脳とあなたの脳の間を,思考が行き来する.
その不思議なレベルまで行くためには徹底して読むこと.
その人物の本を何冊も読む.
繰り返し読む.
暗記するくらい読む.


・いまやっている仕事に関する新しいテーマの専門書を読む.
そういった仕事があるときは本を読むチャンスです.
その分野に関する本を片っ端から買い集めて,読む.


・本は楽しむもの.
楽しんで読みたいものを読むのが読書.


・同じジャンルの本を何冊もたて続けに読む.
同時並列で大量に読む.
それは,好奇心にガソリンを注ぎ続ける行為.


・書店の近くの喫茶店で読む.
本は買ったときが一番ホット.
鉄は熱いうちに打て.
それと同じで,本も買ったらすぐに読む.
これが好奇心を絶やさないための鉄則.


・同時並行で大量に読むようになると,読むスピードが速くなる.


※コメント
人それぞれ本の読み方がある.
そして,他の人の方法を参考にすることでさらにレベルアップできる.
違う分野の人の読書論というものは興味深い.

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2015.9.4




◆ダン野村『交渉力,交渉とは何か』を読み解く



ダン野村氏は,スポーツエージェントであり,最近ではアーン・テレム氏と提携して,
ダルビッシュ有のレンジャーズ移籍を成功させている.
野村克也氏は,彼の養父にあたる.



※要旨


・私は交渉が下手である.
少なくとも,自分ではけして上手だとは思っていない.
私よりはるかに交渉がうまい人はたくさんいる.

それでは,交渉とは何か.
ひとことでいうと,それは「納得」ではないかと私は考える.



・私がフルタイムのエージェントとなる決意を固めたのは,野茂英雄と知り合ったときだった.
したがって,すでに10年以上の歳月が過ぎた.
これまで,日米の球団とそれこそ数え切れないほどの交渉を経験してきた.
そのなかであらためて実感したのが,

「お互いが納得しあうことこそ,交渉の本質である」ということだ.



・私が痛切に感じたのは,日本の交渉は「クリエイティビティ」に欠けているということだ.
日本の球団はいずれも「相手の話を聞く耳」を持っていないという点で共通していた.

「相手がこう出てきたら,こちらはこのような提案をしよう」と,
お互いが柔軟に対応できるだけの創造性を持ったほうがいい.


・アメリカ人は,意外と思われるかもしれないが,まずお互いが相手の言い分を聞いたうえで,
それに合意できるかできないかを検討し,判断を下す.



・市場を知る.
交渉に臨むにあたって,大切なことは何か.
まず絶対に欠かせないのが「市場を知る」こと.

野球選手を売り込むのなら,経済効果も含めてその選手の市場的価値がどれくらいなのかを,
調査するのはもちろん,その選手に興味を示してそうな球団はどれくらいあるのか,
交渉相手は何を望んでいるのか,その選手をどのように使うつもりなのか,
あらゆるマーケティングを行う.



・緻密なマーケティングを怠ると,その選手の適正な市場価値を算出できず,
不相応な要求をして撥ね退けられたり,足元を見られて,
不当に安く買い叩かれたりする可能性がある.



・ゲームにはルールがあるように,交渉においてもルールを熟知することが大切だ.
そのうえで交渉を成功させるためには,それなりの心構えと準備,そして実践的な技術が必要である.



・相手側の動向を事前に想定し,対策を考えておくこと,いわば外堀を埋めておくことは,
交渉の成否を分ける大きなカギとなる.


・交渉のテクニック

一,複数のプランを用意し,ほのめかす.

一,市場を知る.

一,相手の話を聞き,猶予を与える.

一,約束したことは,必ず書面にする.


一,口約束は信用するな.

一,怒るときは冷静に.

一,ネットワークと正しい情報を得るには自ら動くこと.

一,絶対に諦めない.



※コメント

スポーツ選手の代理人は,気配りが欠かせない.
それこそ,彼らには法律知識や会計,税務,業界の豊富な情報をもっていないと成り立たない.
そのためには,自らの強みを活かし,経験を積み,気配りを行い,選手の信用を勝ち取らなければならない.

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2015.9.3




◆中村彰彦『闘将伝:立見尚文,東洋一の用兵家』を読み解く


※要旨


・立見尚文は,幕末の戊辰戦争で佐幕派の桑名藩・雷神隊に所属し,西軍の山縣有朋を翻弄した.
明治維新後に新政府に出仕すると,その「戦上手」を買われ,
西南の役,日清・日露と,近代日本の命運を左右した戦場を稲妻のごとく疾駆した.
日露戦争後は,陸軍大将へと上り詰め,その巧みな戦術から「東洋一の用兵家」と称された.


・立見は,柳生新陰流の剣と風伝流の槍術とを併せ修め,
15歳からは甲州流の軍学も学んでいた.


・彼は国許の藩校立教館の学生としても『春秋左子伝』の素読に11歳で合格する非凡さがあった.
抜群の学力と,弓術,馬術の稽古にも励んで文武両道に磨きをかけた.


・桑名藩出身の立見尚文は,日本史はもとより世界史でも不敗の将軍として知る人ぞ知る人だ.
一個の武人として勇敢であり,指揮官としても胆力と判断力にすぐれ,
軍人政治家としては大局観に恵まれていた.
立見の戦上手は,職人芸とか天賦の才に加えて,
実戦で鍛えられた経験と持ち前の思慮深さによるところが大きい.


・戊辰戦争における朝日山の戦いでは,奇兵隊出身の山縣有朋の盟友たる参謀・時山直八を
討ち取り殊勲を挙げる.
この戦いで,立見の状況把握能力が敵よりもすぐれ,戦闘における管制高地や要地を早く確保し,
敵よりも優位に布陣する立見の才を発揮する機会となった.


・新政府への降伏後,立見はやがて司法省に出仕,下級判事などを務め司法官や行政官としても
有能ぶりを発揮した.
明治時代は面白い時代であり,軍人になるべき人間が文官になったり,反対の現象が起きたりもした.


・各地で不平士族の反乱が相次ぐと,立見も乞われ陸軍に入った.
陸軍ですぐに少佐になり新撰旅団一個大隊を指揮した立見は,
西郷軍最後の拠点,城山の攻略戦でも第一級の功労を立て錦絵にまでなった.


・日清戦争でも陸軍少将として歩兵第10旅団長に任じられた立見は,
際立った統率力を発揮した.
平壌作戦を立案した第5師団長の野津道貫中将の計画を見てすぐに,
戊辰戦争における官軍の白河攻撃策と瓜二つと見抜く戦史的知識をもっていた.


・日清戦争においても,敵の数が断然優勢な状況に顔が士気色になった副官に向かって,
こんなことに腰を抜かしていたら,あれは22歳で討ち死にしておったよ,
と軽く応じる余裕はさすがである.


・野津中将は,薩摩出身だったにもかかわらず,
藩閥外の立見を「東洋一の用兵家」と高く評価した.
幕末に江戸でフランス人教官から近代軍事学を修めた立見は,
「ナポレオン時代のフランスに生まれていたなら.30歳になる前に将軍になっただろう」
と称賛されている.


・苦境を打開するには,強襲につぐ強襲あるのみと22歳のときからあまたの戦場を疾駆してきた立見の心理であった.
日露戦争においては,師団の総力を挙げて夜襲する決意をした.
これは世界戦史に類例の無い作戦である.
当時でも2万人の夜襲とは破格のものであった.


・零下40度の厳寒で高齢の将軍が戦地に立つのもつらいのに,
先頭で指揮を執り続けた粘り強さには驚くほかない.
戦後大将となった立見がいくばくもなく没したのは,児玉源太郎と同じく日露戦争に
精神とエネルギーのすべてを捧げた代償であった.


※コメント
たとえ,かつて敵方であったとしても,能力があれば抜擢されるという典型であろう.
立見の才能と胆力は,戊辰戦争で戦った相手方にもしっかり記憶されていた.
いかなるときも全力を尽くしたい.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
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2015.9.2




◆ドナルド・トランプ『トランプ自伝:不動産王にビジネスを学ぶ』を読み解く



※要旨


・私は金のために取引をするわけではない.
金ならもう十分持っている.
一生かかっても使い切れないほどだ.
私は取引そのものに魅力を感じる.
キャンバスの上に美しい絵を描いたり,
素晴らしい詩を作ったりする人がいる.
しかし私にとっては取引が芸術だ.
私は取引をするのが好きだ.
それも大きければ大きいほどいい.
私はこれにスリルと喜びを感じる.


・私の取引のやり方は単純明快だ.
ねらいを高く定め,求めるものを手に入れるまで,
押して押して押しまくる.


・私は物事を大きく考えるのが好きだ.
子供のころからそうしてきた.
どうせ何か考えるなら,大きく考えたほうがいい.
私にとってはごく単純な理屈だ.
大抵の人は控えめに考える.
成功すること,決定を下すこと,勝つことを恐れるからだ.
これは私のような人間には,まことに都合がいい.


・大きく考えるためのカギは,あることに没頭することだ.
抑制のきく神経症といってもいい.
これは起業家として成功した人によく見られる特質だ.
彼らは何かにつかれたように,
何かにかりたてられるようにある目的に向かって進み,
時には異常とも思えるほどの執念を燃やす.
そしてそのエネルギーをすべて仕事に注ぎ込む.


・市場に対する勘の働く人と働かない人がいる.
たとえば,スティーブン・スピルバークはこの勘を持っている.
スルベスター・スタローンを批判するひともいるが,
彼の実績は認めるべきだ.
41歳という若さで,ロッキーとランボーという,
映画史上に残る偉大な人物像を2つも作りあげたのだから.
彼はいわば磨いていないダイヤモンド,
つまり勘がすべてという天才である.
彼は観客が何を望んでいるかを心得ており,それを提供する.


・私にもそのような勘がある,と自分では思っている.
だから複雑な計算をするアナリストはあまり雇わない.
最新技術によるマーケット・リサーチも信用しない.
私は自分で調査し,自分で結論を出す.
何かを決める前には,必ずいろいろな人の意見を聞くことにしている.
私にはこれはいわば反射的な反応のようなものだ.


・土地を買おうと思うときには,
その近くに住んでいる人々に学校,治安,商店のことなどを聞く.
知らない町へ行ってタクシーに乗ると,
必ず運転手に町のことを尋ねる.
根ほり葉掘りきいているうちに,何かがつかめてくる.
その時に決断を下すのだ.


・私は有名なコンサルティング会社より自己流の調査によって,
はるかに多くのことを学んできた.


・マスコミについて私が学んだのは,
彼らはいつも記事に飢えており,
センセーショナルな話ほど受けるということだ.
トランプ・タワーのような不動産プロジェクトの宣伝がある.
そのような宣伝の最後の仕上げは,ハッタリである.
人びとの夢をかき立てるのだ.
人は自分では大きく考えないかもしれないが,
大きく考える人を見ると興奮する.
だからある程度の誇張は望ましい.
これ以上大きく,豪華で,素晴らしいものはない,
と人びとは思いたいのだ.


・私の父,フレッド・トランプは,小さい頃から地元の果物屋の配達から靴磨き,
建設現場での木材の運搬など,
ありとあらゆる半端仕事を引き受けるようになった.
彼は建築に興味を持ち続け,高校生のとき,
夜学に通って大工仕事と図面の見方,見積を学んだ.
建築のことを学んでおけば,いつでも生計を立てられると思ったのだ.


・私は幼い頃から,近所のガキ大将だった.
人から好かれるか,非常に嫌われるかのどちらかで,
これは今も変わっていない.
けれども仲間内では大いに人気があり,
みなのリーダー格になることが多かった.


・私はヨチヨチ歩きができるようになった頃から,
父と建築現場へ出かけていった.
10代のころは,休暇で学校から帰省すると父のあとをついてまわり,
商売のことをつぶさに学んだ.
業者との交渉,現場めぐり,
新たな建設用地を手に入れるための交渉など.


・私は1964年にニューヨーク・ミリタリー・アカデミーを
そつぎょうすると,フォーダム大学に2年いった.
その後,ペンシルベニア大学の大学院ウォートン・スクールに入った.
ビジネススクールであった.


・ウォートンで学んだ一番重要なことは,
学業成績にあまり感動してはいけないということだろう.
ウォートンで得たもう一つの重要なものは,
ウォートンの学位だった.
私にいわせればそんな学位は何の証明にもならない.
だが仕事をする相手の多くは,これをいたく尊重する.
この学位は非常に権威あるものと思われているのだ.
というわけで,あらゆることを考えあわせると,
やはりウォートンへ行ってよかったと思っている.


・父と一緒に最初働いたが,やがて自分の道を歩き出した.


・父が建設途中のトランプタワーの現場を見に来たときのことは,
いまだに覚えている.
父はひと目見るなり,私に言った.

「こんな高価なガラス壁を使うことないじゃないか.
4,5階までこれを使って,あとは普通のレンガを使ったらどうだ.
どうせ上を見上げる者なんかいないよ」

これはまさにフレッド・トランプ的発想だった.
私は父の倹約精神に心を打たれたし,
もちろん父の気持ちもよくわかった.
だが同時に,なぜ自分が父のもとを離れたかという理由も,
はっきり認識した.


・父の商売を継ぎたくなかった本当の理由は,
私にはもっと遠大な夢とビジョンがあったからだ.
これは父の仕事が肉体的にも経済的にも厳しかったという事実より,
はるかに重要だった.


・考えてみると,私のショーマン的な性格は,
母から受け継いだもののように思う.
母はドラマチックで壮大なことが好きだった.
ごく平凡な主婦だったが,自分を越えた大きな世界観ももっていた.
エリザベス女王の戴冠式のとき,
スコットランド人である母はそれを見るために,
テレビの前に釘付けになり,一日中動かなかったことを覚えている.


・母は式の壮麗さと王室の華やかな雰囲気にただ心を奪われていたのだ.


・その日の父のこともやはり記憶に残っている.
父はイライラと歩き回り,母に言った.
「メアリ,いい加減にしてくれ.
もうたくさんだ.消しなさい.
あんなものニセ芸術家の集まりじゃないか」

母は顔も上げなかった.
この点で2人はまったく対照的だった.
母は華やかさと壮大さを好む.
だが父はきわめて現実的で,
能力や効率の良さにしか心を動かされないのだ.


・大事な取引をする場合は,
トップを相手にしなければラチがあかない.
その理由は,企業ではトップでない者はみな,
ただの従業員にすぎないからだ.



※コメント
トランプのもの凄いパワーを感じる.
同時に彼は,ビジネス成功のために細心の準備をしているようだ.
大胆さと緻密さが,彼のビックプロジェクトを推し進めている.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.9.1




兵法三十六計(2)

第二計 囲魏救趙(いぎきゅうちょう)
─警戒せよ,離間工作の罠─

                 元防衛省情報分析官・上田篤盛(あつもり)
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▼「各個撃破」で勝利する

「囲魏救趙」(いぎきゅうちょう)は,「魏(ぎ)を囲(かこ)んで
趙(ちょう)を救う」と読む.集中している敵に正面から攻撃を
加えることは難しい.それよりも,まず相手の兵力を分散,離間させ,
そのうえで攻撃することの方がたやすい.これこそが兵法の常套
である.この計は,敵の兵力を分散し,これを「各個撃破」すること
に勝ち目を見いだしているのである.

 この計の由来は,紀元前353年,魏と斉(さい)との間で行なわれた
「桂陵(けいりょう)の戦い」に遡る.当時,魏の大軍が趙の都,
邯鄲(かんたん,現在の河北省邯鄲市)を包囲した.

 思案に暮れた趙は,同盟国である斉に救援を求めた.
そこで,斉の軍師であった孫ピン(月へんに「濱」のつくり.
『孫子』の作者とも目される人物)がとった策は,「包囲されている
邯鄲には行かず,魏の都である大梁(だいりょう,現在の河南省
開封市)に軍を派遣する」というものであった.

 魏軍は自らの「横腹」に相当する大梁を急襲され,包囲作戦を
仕掛けている邯鄲との「二正面作戦」を強いられることになった.
結局,魏軍は邯鄲における包囲網を解いて,昼夜兼行で大梁の
救援に向かった.斉は,邯鄲から大梁に至る経路上の要点である
桂陵で魏軍を待ち伏せてこれを撃破した.
 
▼第2次大戦時,ソ連は二正面作戦を画策した!

 第2次世界大戦時,日本は中国戦線と太平洋戦線での二正面
作戦を強いられ,それがわが国敗戦の最大原因となった.
二正面作戦はまったくの“愚策”であり,米国ほどの大国でも,
この回避に懸命であった.それを資源が乏しいわが国が行なった
のだから,戦う前から負けることが当然の帰結であったと言っても
過言ではない.
 
 この際の二正面作戦を画策したのはソ連である.ソ連はドイツとの
ヨーロッパ戦線と,日本とのアジア戦線との二正面作戦を回避する
ため,米国を日本との太平洋戦争に誘導し,日本による対ソ参戦を
回避させることを画策した.

 その際に活躍したのが,伝説のスパイマスターであるリヒャルト・ゾルゲ
である.彼の情報工作の目的は,わが国による対ソ参戦の是非を
見極め,日本に対し南方作戦を採用させ,米国と戦うよう仕向けること
であった.ゾルゲの情報工作は,スターリンの意思決定には
影響しなかったようであるが,結果的にソ連は,わが国に対して
二正面作戦を強いることに成功した.

 しかもソ連は,米国に対する南方作戦に兵力を充当せざるをえない
日本に対して,満洲,北朝鮮,南樺太,千島列島から侵攻を敢行し,
「囲魏救趙」を首尾よく完遂した.

◆「囲魏救趙」は中国共産党の常套手段だ!

 中国共産党は「抗日戦争」や国共内戦で「囲魏救趙」を応用した.
毛沢東は著書『持久戦論』の中で,「根拠地内に長く留まる敵に
対しては『囲魏救趙』が有利である」と述べている.

 これは一部の兵力をもって正面の敵を動けないように拘束しておき,
我は主力をもって敵がかつていた場所に展開し,そこで有利な態勢を
築く.敵が慌てて正面兵力をかつていた場所に転用すれば,
我は有利な態勢(「待ち受けの利」)をもって,転用してきた敵兵力を
撃破するという戦術であり,現代戦術における「攻撃機動の方式」の
「迂回」に相当する.

 なお「攻撃機動の方式」には「突破(正面攻撃)」,「包囲(側背攻撃)」
および「迂回」の3種類があるが,まず「迂回」を追求することが現代戦術
の要諦(ようてい)なのである.

「囲魏救趙」は,戦場以外の場面でもしばしば用いられる.要するに,
敵の関心や努力の指向を分散し,同盟関係などを分かち(離間工作),
敵の集中力や結束を弱めて,倒すというのが,この計の要諦なのである.

 中国は歴史的に敵を離間させる工作や,中立国と「統一戦線」を
組むことなど得意としているが,これも「囲魏救趙」の応用といえよう.

 中国の兵法では「戦わずして勝つ」(『孫子』)を最善とする.そのため,
各種の離間工作が用いられる.『虎の巻』で有名な兵法書『李衛公問対』
では離間工作を「間君(君主どうしを離間させる),「間親」(親族を離間
させる),「間能」(能力のある者を離間させる),「間助」(協力者を
離間させる),「間隣」(友好国を離間させる),「間左右」(君主の側近を
離間させる),「間縦横」(政治顧問を離間させる)に区分している.

 一方の「統一戦線」は毛沢東が採用した戦略・戦術である.主敵を崩壊
させるために,まず主敵の内部分裂と孤立を謀り,孤立した敵の一部や
中立国に働きかけ,これを味方として広範囲に結集し,主敵を倒すという
ものである.

 中国は建国後,ソ連を友とし,米国を主敵として,アジア,アフリカ,
南米を中間地帯として,これらに対する共産主義の革命輸出を行なった.
わが国も中間地帯として共産主義の革命輸出の対象となった.

 つまり,米国の勢力が中国に集中しないように,中国は「囲魏救趙」の
策を広範囲に展開し,米国の勢力指向の分散を謀ったのである.

▼中国は「囲魏救趙」で離間工作を仕掛けている!

 中国は現在,わが国に対し「囲魏救趙」の応用である離間工作を
さかんに仕掛けている.近年の中国指導者は,米中首脳会談などの場
を利用し,「歴史問題」を持ち出しては,「日本軍国主義が中国に多大
な影響をもたらした」「米中は過去において日本ファシズムに対して,
一緒に戦った」という構図作りに懸命である.これは米国との統一戦線
を組んで,わが国を攻撃するという方式である.

 習近平・国家主席は2014年7月に初訪韓し,経済力を梃子(てこ)に
韓国支援を打ち出す一方で,「歴史問題」での韓国との連携を強化した.
これは韓国を触媒とする日米離間工作の一環である.つまり,「慰安婦
問題」(※日本にとって慰安婦問題は存在しないが)などに言及し,日韓
の歴史問題を複雑化させることで,中立でなければならない米国の対日
協力姿勢を牽制した可能性がある.

 2015年10月の訪英でも(10月20日〜24日),公式晩餐会(20日)で
第2次世界大戦における「日本の残虐性」に言及した.習氏は「今回の
訪問が中英関係を新たな段階に引き上げる」と自賛する一方,「第2次
世界大戦で英国は軍備や医薬品を提供して抗日戦争に協力した」と述べた.
11分弱の演説時間のうち,習氏が口にした国名は英中両国では唯一,
日本だけだったという(2015.10.21『産経新聞』).これも英国を触媒
とする日米離間工作の一面があったとみなければならない.

 その一方で,英国に対する多額な投資を約束した“札束外交”は,中国
による南シナ海での人工島建設が米中問題としてクローズアップされるなか,
伝統的な米英関係に楔(くさび)を打ち,米海軍による人工島周辺での
イージス艦による哨戒活動(10月27日)を,英国を触媒として牽制しよう
とする,「囲魏救趙」の高度な応用があった点も見逃せないであろう.

▼最も警戒すべきは,政経離間工作である!

 離間工作ではさらに警戒すべきことがある.それは,わが国の
政財界に対する離間工作である.

 まず政界内部に対する離間工作としては,親中・反米派の政治家を
中国に招聘し,わが国の政治家から,反日,親中の発言を世界に向けて
発信することを試みている.

 2014年6月21日,鳩山元首相は北京で開催された「世界フォーラム」
で講演し,安倍政権の「中国脅威論」を批判した.中国は自らの官製メディア
を通じて(一部のわが国メディアも?),あたかも「現在の日中関係の悪化
の根源が日本である」かのように,中国有利の報道を国内外に発信した.

 2015年11月4日,中国による南シナ海での人工島建設が取り沙汰
されるなか,マレーシアのクアランプール近郊で,ASEAN国防相会議
が開催された.同会議では,米中が南シナ海問題で対立し,中国の
常万全・国防部長(大臣)がいっさいの譲歩をせずに,米国による干渉
排除を主張し,結果,共同宣言の採択が見送られるという異例の事態
となった.わが国は,南シナ海における米国の「航行の自由」作戦に
賛成する立場を表明し,中国との政治的立場の違いを浮き彫りにした.

 他方,同日,経団連の榊原会長をはじめとする「日中経済協会」の
メンバーが,李克強・総理と面会した.これは,同訪中団としては6年ぶり
の中国総理(序列第2位)との面会となった.李総理は日本からの
対中投資拡大や,日中韓の3カ国自由貿易協定(FTA)に期待し,わが国
訪中団も,経済協力発展には両国間の関係改善が必要だという認識で
一致した.

 こうした状況をみるに,中国がわが国の経済界に対して“秋波”(しゅうは)
を送ることで,わが国における政界と経済界を分かち,わが国による
対中政治批判の矛先(ほこさき)を回避しようとしているのであろう.

 これに関してはすでに昨年から顕著なる序奏がある.2014年5月,中国
商務部長(大臣)はAPEC貿易担当閣僚会合に出席し,わが国の
茂木経済産業相(当時)と会談し,「日本との経済関係を重視し,関係安定
を望む」との発言を行なった.この布石として,同会合の1週間前に,
日中の外交関係のブレーンが「両国関係の難局の打開」をテーマに非公開
の討論会を行ない,中国側の有識者が「『少数の軍国主義者と大多数の
日本人民を区別せよ』とする毛沢東時代からの対日政策の『二分法』を
堅持することを習政権に対し提言する」と明言していたようである.
(2014.5.24『産経新聞』)
 
 つまり,今回の「日中経済協会」と李克強総理との面会については,
中国がわが国の政府に対する“真っ向批判”を避け,経済界に対する“飴”を
与えて「二分法」による政治と経済の離間工作を謀ることで,わが国政府
による対中政治攻勢の矛先をかわそうとしたのである.まさに「囲魏救趙」
の応用であるとみなければならない.
 
▼政経離間工作の歴史がいま蘇る!

 こうした政経離間の試みは目新しいものではない.中国共産党の常套手段
なのである.1972年の日中国交回復以前には,中国は政治的に合格とみなす
「友好商社」とのみの日中貿易を行なっていた.「友好商社」は日共系の人物
が運営する中小企業であり,その事業主や従業員には,毛沢東主義を
礼賛(らいさん)し,共産主義革命の輸出を手助けする役割が求められた.
その一方,中国との貿易を望む企業に対しては中国の政治的擁護者となる
ことが強要された. 

 このようにして中国は日本の経済界に対する政治工作を展開することにより,
1970年代の日中国交回復に向けた政治土壌を構築していったのである.
 
 中国が今日,経済界に対し“秋波”を送っている背景には,尖閣問題の
顕在化などにより,日本からの対中投資が減衰しているという,中国側の
現実的な苦しい台所事情がある.

 しかし,中国は尖閣問題などでは一歩たりとも譲歩しない強硬姿勢を崩して
いない.あくまでも,政界と経済界を離間させ,経済界とのパイプを再構築,強化
することで,経済のみならず政治においても有利な態勢を構築することが
真の狙いといえよう.まさに過去の成功体験を,いま一度,繰り返そうとしている
のである.

 民主党政権から自民党政権に復帰し,安倍政権の日米同盟を基本とする
外交姿勢が,北東アジアによる中国包囲網を形成し,徐々に中国の「力による
現状変更の試み」に対する牽制力として機能しつつある.これに対し,
中国は,“あの手この手”を使って,日米離間や政経離間の工作を仕掛けてくる
であろう.

 こうした中国による「囲魏救趙」の策略に嵌(はま)らないためには,
わが国は「国益堅守」という大局に立ち,日米同盟を堅持し,政界と経済界
がともに一致結束して,“中国脅威の増大”という,国家存続上の未曾有の
危機に立ち向かうことが重要なのである.

 安倍政権により形成されつつある“対中牽制力の効果”を決して止めては
ならないであろう.


(第三計「借刀殺人」に続く)

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.11.10





『ライター・渡邉陽子のコラム (69) ─ 海上自衛隊 第111航空隊(6) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.
朝霞駐屯地内にある体育学校に行ってきました.

体育館では音楽隊や自衛太鼓が,自衛隊音楽まつり本番に
向けて練習を行なっています.そちらも見たかったのですが,
今日の目的は体育学校のアスリートや指導者.いいお話が
たくさんうかがえました.今日改めて思ったのは,自衛隊は
教育に始まり教育に終わる組織だということです.

「教えることが好きな組織」と言われた方もいたのですが,
体育学校でも教える側が選手に負けず劣らず楽しそうというか,
生き生きしていました.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■海上自衛隊 第111航空隊(6)

MCH-101の訓練風景の続きからです.
点検を終えて離陸したMCH-101は,本日の訓練場所である
岩国基地内のスロープに向かいました.
要救助者の位置を確認し,適切な位置で機体を停止するよう,
CRが操縦士へ細かな指示を出します.


扉が開き,降下の準備が始まりました.この日はCRになるべく
トレーニング中の訓練員が救助員,地上で待つ教官が要救助者役.
搭乗員として乗っている2人のCRは,訓練の支援に回っています.

ホイストを操作しているCRが教えてくれました.
「CRは物資の搭載や搭乗している人員の安全確保などを担当するほか,
陸上,洋上の降下救助を行なう救助員にもなります.要は,コックピット
から後ろのことは全部CRの仕事ですね.航空機を誘導するのもCR
の仕事のひとつですが,誘導位置が悪ければ救助者を釣り上げるとき
にケーブルが振れてしまい,救助する人を危険な目に合わせてしまう
可能性があるので,かなり神経を使う点です」

このCR,元特警隊員でした…….MCH-101,公にできない任務が多そうです.


訓練員が降下している間,MCH-101は安定した姿勢を保ったまま,
同じ位置に留まっています.この日の機長はMH-53Eから機種転換し,
この最新ヘリのパイロットとなった方でした.

「MH-53Eの後継機として研究,導入にも関わった機種なので,写真で
見ていたものを実際に操縦できる喜びはあります.この機体の大きな
特色としては,他機種に比べて充実している自動操縦機能が挙げられます.
この機能をうまく使うことで,操縦だけに専念するのではなく,本来任務に
集中できます」


訓練員が降り立った地上は,要救助者役のいる場所にぴたり.
CRの誘導,見事です.

訓練員はハーネストリングという器具を要救助者の脇に通し,
その体をしっかり支えます.機上のCRはケーブルが大きく触れたり
しないか,細心の注意を払いながら2人を巻き上げていきます.
無事に機上に戻ると,今度は要救助者に見立てたダミーの人形を単独
で巻き上げ,訓練員は地上でダミーの姿勢の安定を保持するという
救助方法を行ないました.こうして何通りもの降下救助を訓練していくのです.


私は途中から地上に降りて訓練の様子を見ていたのですが,
そのダウンウォッシュの激しさといったら半端ではありませんでした.
到底立っていられる状態ではなく,座り込んで頭を低くして,それでも
何度も体を後ろに持って行かれそうになりました.背後は海,しゃれ
になりません.

MCH-101でこの勢いです.MH-53Eのダウンウォッシュを浴びた
ことのある隊員が「誇張なしで,転がりました.マンガみたいですよ,
ほんと.ごろごろごろって」と真顔で言っていたのを思い出しました.


洋上をフライトするたびに,海水を浴びた機体は洗浄が必要になります.
2機種の軽微な整備やラインサービスと呼ばれる飛行前点検などを
行う列線整備隊は,クルーが乗り込む何時間も前から準備をし,
航空機が訓練を終えて戻ってきてから何時間も掛けて洗浄,整備点検
を行ないます.それが彼らの仕事ではありますが,頭が下がります.

毎年,インフルエンザにかかる割合は列線整備隊がいちばん多いそうです.
早朝や日没後の厳しい寒さ,容赦なく吹きつける海からの強風に
さらされるエプロン,暖房設備皆無の格納庫.ようやく屋内に入れば,
そこは人口密度の高い,乾燥しきった暖房の効いた部屋.少しでも体調
を崩せば,インフルエンザも近寄ってくるというものです.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.11.12





荒木 肇
『関東軍特種演習──史上空前の大動員(4)
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□ご挨拶

 暦の上では立冬,北海道や各地から雪のお便りをいただきました.
長かった夏,そして急に秋が来て,今度は冬らしい気温が続いて
います.わたしの周りでも急激な気温の変化で体調を崩す人も
増えました.皆様,いかがお過ごしですか.

 日本陸軍の大きな動員,しかも平時に行なわれた関東軍特種演習
について書き続けています.その中でもいつか「軍馬」について
書かなければなりません.数年前のこと,映画『WAR HORSE』
が公開されました.原題はずばり「軍馬」でしたが,邦題では「戦場の馬」
とされて話題を呼びました.

 日本陸軍は機動力,輸送力の多くを馬に頼っていました.
ただし,馬の軍隊であることは20世紀の軍隊では当たり前のことでした.
第一次世界大戦では各国とも100万頭単位の馬が戦場に送り込まれ
ました.トラックが使われ,戦車が出現し,飛行機が飛んでも,馬の
必要性は増えるばかりでした.戦場で道路が整備されていることは
むしろ少なく,夜間偵察や不整地での機動は馬の方が優れていたからです.

 わが陸軍が背負っていた弱点は軍馬でした.もともと在来種の馬は
たいへん小さく,源平時代から戦国時代まで西洋風にいえば,
ポニーにもならない馬格が普通でした.江戸期になってアラブ種の馬が
輸入もされましたが,泰平が260年も続けば,軍馬改良などは後回し.
明治維新になって初めて慌てだしたというのが真相です.

 YMさま,お便りありがとうございました.およそ動員できる軍馬の数は,
平時保有数の3割までといわれています.第一次大戦ではフランスは
95万5000頭を徴発し,1916年には176万3000頭を投入していました.
損耗数は55%にのぼりました.英国は同じく136万1000頭をそろえ,
損耗数は57%でした.ドイツは動員初期には123万6000頭を徴発し,
62%にあたる70万頭を失いました(『富国強馬』武市銀治郎氏・講談社
選書メチエ・1999年による).

 支那事変,大東亜戦争で戦場に送られた軍馬は約70万頭といわれます.
また,満洲では多く現地農民の馬を買い上げました.支那方面では24万頭
が使われ,8年間で11万6000頭を失い,敗戦時には残存12万4000頭
を保有したと記録があります.その77%が各地で中国側に引き渡された
といいます.人が帰国するのが精いっぱいのとき,すべての馬が大陸に
残されたことは当然です.

 馬への思いは多くの将兵が語り残してくれています.いまも靖国のお社の
中には『軍馬の碑』があり,先日も越後高田(新潟県)の自衛官の方から
高田城二の丸の騎兵第17聯隊の駐屯地跡には慰霊塔があるとお知らせが
ありました.

 さて,炊爨(すいさん)・調理用の燃料です.陸軍は固形燃料を用意して
います.野外炊事具や飯盒を使うとき,十分な補給があれば専用燃料を
使ったことでしょう.しかし,現地ではそこにある材木や場合によっては
建造物を壊して使ったことが多いのではありませんか.あらためてご指摘
を調べてみます.


▼昭和16年の気分とは

「バスに乗り遅れるな」.ドイツの快進撃を見て,誰もがこの機会を逃すな
という気分をもった.結果を知っているわたしたちは他力本願の便乗主義
とか,国際情勢分析の甘さだったとか笑うが,これが当時のほとんどの
国民がもっていた本音だった.1941(昭和16)年6月22日のドイツ軍の
突如のソ連侵攻である.

 軍事専門家である軍人も多くは,ドイツの勝利を確信していた.
いや,実は自分は危ぶんでいたとか,口には出さなかったが反対だったとか
戦後になって語っている人は多い.しかし,たいていはウソである.なかには
ほんとうに心配していた人もいただろうが,口にする勇気はなかったのだ.
そういう人は黙っていればいいのだが,いつの時代にも知恵誇りはいるものだ.
そういう回顧録や証言をまともに受け取ってはならない.

 それほどにドイツ軍によって進められた電撃戦とアフリカ軍団の活躍は
世界中の注目を集めていた.新聞やラジオは連日,同盟国ドイツ軍の勝利
を書きたて,ニュースによって流し続けた.すぐにも英国は屈服するだろうし,
ヨーロッパはドイツに席巻される.ソ連に攻め込んだドイツ軍の力を見よ.
これこそが天佑神助というものだ.一気にソ連を友邦ドイツと挟撃だ.
バイカル方面に攻め込んでゆき,ウラジオストックも占領する.満洲も安泰
だし,ノモンハンで苦しめられた外蒙古も占領できる.

 この1941(昭和16)年12月8日,政府の英・米・蘭に対する開戦が
あった.大東亜戦争の始まりだった.この知らせを多くの国民が『気分が
すっきりした』と喜んだという事実がある.誰が否定しようと,この大きな
戦争に多くの人が希望をもった.今でいう「民意」は我慢しきれないところ
まで来ていたといっていい.国民の気持ちに「どこまで続くぬかるみぞ」と
いう軍歌「討匪行(とうひこう)」の歌詞のように,いつまでも解決しない「事変」
へのいら立ちがつのり,つのってきた結果だった.

 国民生活はもう4年も続く「戦争」によって,安定した発展が得られなく
なっていた.この年の初めには米屋の自由営業が廃止され,清酒も配給制
になった.全国で桑畑が次々と整理され米麦の栽培が優先された.大都市
では米穀の配給通帳制度が始まり,外食も券がなくてはできなくなった.
この当時,米の配給量は成人1人あたり1日2合3勺(約330グラム)だった.
 
 学校制度も大きく変わった.この4月から小学校尋常科,高等科だったが,
国民学校と改称され,合計8年間が義務教育になった.

▼支那事変後の動員のまとめ
 
 予備役,後備役の召集も増え,1938(昭和13)年には師団数は合計で
34個,歩兵聯隊は131個にもなり,総兵力は115万人である.この年の
現役兵は昭和12・13年度を合わせれば18万人と32万人の50万人だから,
65万人が動員された予備・後備兵である.予備役は5年と4カ月だから,
計算上は平時兵力の2.67倍の予備役がいる.ところがこれが単純な話
ではない.つまり平時兵力50万×2.67=戦時兵力133万5000人という
わけには行かないのだ.どういうことかというと,師団が増設されると現役兵
は増えるが,過去の蓄積である予備役が増えるわけではない.
 
 13年度に予備役が終わる人は昭和7年兵である.1932(昭和7)年から
1936(昭和11)年までの現役兵は合計でおよそ60万人しかいない.
しかも,予備役の期間中に病気にかかる者や怪我などで軍務に耐えない者
が出る.また,20代の働き盛りでもある.企業や役所などから召集猶予の
願いが出ている者もいる.
 
 だから,この60万人をそのまま全部召集するわけでもないし,できるはず
もなかった.そうすると,不足分は当時ではすでに兵隊としては初老と
考えられていた30代の後備兵,あるいは補充兵を教育召集して急速養成
して間に合わせるしかない.『現役だけが兵隊さん,予備役はアンチャン,
後備はオッサン』といわれたらしい.兵隊生活はつらい.野戦に出ることは,
これに加えての苦労はさらに積もる.陸軍の伝統的な精鋭主義は中国戦線
が片付かないので一気に崩壊したといえる.
 
 1939(昭和14)年にはさらに師団が増設された.戦線からは常設4個師団
が帰国して復員した(戦時編制から平時編成に戻ること).1937(昭和12)年
に臨時編成された第101,109,114の3個師団が廃止された.召集解除
が行なわれ,予備・後備の軍人は帰郷して,ふだんの生活に戻ることができた.
しかし,あらためて11個師団と32個歩兵連隊が編成され,中国の占領地警備
に10個師団,関東軍に1個師団が送られた.陸軍の総兵力は42個師団,
124万人となった.

 1940(昭和15)年には9個師団と歩兵11個聯隊が編成,2個師団が廃止
され総兵力は49個師団,135万人.この関東軍特種演習の1941(昭和16)年
には2個師団,10個歩兵聯隊が増設,総兵力51個師団,210万人になって
いた.下士官・兵の不足もあったが,少佐・大尉といった中級将校たちも足りなく
なっていた.陸士を出て,中隊長になるには10年,大隊長は15年から20年
が必要とされた時代である.

 1939(昭和14)年には大隊長を務める少佐の定員は全軍で約7400名
必要だった.それが現役の充足人数はおよそ6割にもならない同4200名
でしかなかった.中隊長要員の大尉は定員の約1万8600人に対して充足率
はわずか37.4%でしかない約7200名.それで何が起きたかというと,
大尉で大隊長,中尉が中隊長を務めるということがふつうになってしまうことである.
 
 しかも,兵科将校だけに限っても現役の占有率は少佐で83%,大尉では78%,
中・少尉では21%にまで下がっていた.少佐・大尉の5人に1人,中・少尉といった
下級将校のうち5人に4人は予備役召集の人たちだった.陸軍はついに予備士官
学校という予備役将校を養成する専門の学校を各地で開いていた.それはもう,
これまでの部隊内だけでの教育では,十分な指揮能力や企画力のある予備将校
は育てられないという認識から来たものだった.資質の低下は兵や下士官ばかり
ではない.指揮官である将校たちにも経験不足・能力の低下は明らかに現われて
きていたのである.

▼支那事変と軍備充実,それにもう一つの戦争

 参謀本部は2個師団を関東軍に増派する.満洲・朝鮮の14個師団を動員
して,軍直属部隊,兵站諸部隊も海を越えて行かせるという.陸軍省軍事課
はそんなことを認めるわけにはいかない.動員は明らかに開戦決意をしてから
することだ(つまり,陛下の裁可がなければならない).関東軍が戦争準備
をするなら現有兵力の35万人で行なえ.それ以上は認めないと主張した.

 6月29日には参謀本部作戦部長田中新一少将が,陸軍省軍事課長
真田穣一郎大佐に本格動員の実施を迫った.怒鳴られようが,脅されようが
屈するわけにはいかない.7月2日には作戦課長服部卓四郎大佐が主導
した強引な提案が「御前会議」にかけられた.服部卓四郎,ノモンハンで失敗
をし,のちにガダルカナルでも強引な作戦指導をし,戦後は生き延びて再軍備
の新陸軍の中心になろうと画策した秀才である.

 この会議で決まったのは,南方では南部仏印(ベトナム)に進出し,北では
事態の変化に備えて関東軍や朝鮮軍の兵力を大きくするということだった.
結局,参謀本部がいう「北進論」が大勢となった.ことが決まれば次は動員
の準備である.時期が問題になる.これから後は『戦史叢書』の記述による
ことにする.

 軍事課は14個師団だけはやむなく同意するが,内地2個師団の動員派遣
には不同意だった.すでに動員をしようにも精鋭は枯渇し,内地の生産労働
人口にも影響が出てきてしまう.当時の男子人口は20歳から40歳までで
約1250万人である.このうち現役入営者が毎年おおよそ17%とすれば
210万人あまりでしかない.すでに現役,補充兵役,予備役,後備役を
合わせて1940(昭和15)年には総兵力135万人という数字を挙げてある.
もちろん,戦力を考えれば若い予備役が召集の中心になる.そして,補充兵
も教育召集がかけられた.

 いまに置き換えて考えればいい.高校の同級生の5人に1人は入営し,
もう1人は補充兵教育を受けて召集される.就職している仲間も,健康で
頑健な人たちが予備役なら次々と応召していく.学卒者だって例外ではない.
幹部候補生から任官した予備少尉,予備下士官もどんどん召集令状が
舞い込んだ.村や町のお医者さんも出征である.残るのはよほど軍務に
向いていないか,特別な措置を受けている(ただし秘密)召集猶予者だけだった.
どうしてあの人には召集が来ないのか,来る人には何回も来ているのにと
世間にも不公平感が増えてきたのもこの頃からである.
 
 兵員の補充にどれだけ真剣に取り組んだか.実は前年の1940(昭和15)年
の8月から10月の間に第51から同57までの7個師団が編成された.
これは平時編制だったが,人員資材は通常師団の6割であり,幹部の
比率が高かった.補充兵教育をくり返し実施しては野戦に人員を送り込む
「教育師団」だった.編成地を書いておこう.第51(宇都宮),第52(金沢),
第53(京都),第54(姫路),第55(善通寺),第56(久留米),第57(弘前)である.
 
 また,これまでの師管区を改めて上部組織として軍管区を設けた.
東部,中部,西部(以上は8月),北部(12月)の4軍管区だった.動員の
計画・実施範囲を大きく広げるためだった.そして将来は師団を造るための
独立歩兵団(師団の中に入らない歩兵団)を7個も造りだしていた.定員を
下げた100番台の歩兵聯隊3個で編成された歩兵団である.独立第61から
同第67歩兵団で,編成地は,それぞれ東京,新潟県高田,愛知県豊橋,
奈良,岡山県福山,福岡県小倉,岩手県盛岡である.戦後,戦友会が多く
持たれたが,いわゆる郷土部隊といっても,その複雑さがよく分かる.
 
 陸軍省軍事課は予算のことや他省庁との折衝がある.編制動員課も苦しい
立場に追い込まれる.軍管区司令部の動員担当官からは師管区から
上がってくる現場の苦しさがあがってくる.臨時動員が多くなれば,
それだけ事務は煩雑化し,名簿のやり繰りも大変になる.補充兵の教育
の予算や場所,装備,資材,教育者の手当てなども大きな仕事になった.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.11.11





軍事情報 別冊  「数学者が見た二本松戦史(8)」 』

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◇◆◇ 発行講読者数:11,493名/平成22年(2010年)11月5日(金)発行 ◇◆◇

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取材・インタビュー・原稿作成・webコンテンツ用テキスト文作成・自費出版の
原稿作成支援およびアドバイス・その他《書く》ことに附帯する一切の業務に
ついて執筆活動を展開しております.     ライター・平藤清刀
E-mail hirafuji@mbr.nifty.com
WEB http://homepage2.nifty.com/hirayan/
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● もくじ
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◎ ごあいさつ:「好きこそものの上手なれ」
◎ 数学者が見た二本松戦史(8):
第四章・降伏か死か(1)
■勧降使
■功をもって罪をあがなえ
■黒羽藩は酷使された
■降伏してからの方が損害が大きい
■米沢藩は〈武士の誇り〉を失わされた
◎ 二本松あれこれ:二本松藩の歴史(4)
          ●城造りは丹羽家の〈家伝〉
◎ 著者略歴
◎ 読者アンケート

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● ごあいさつ 
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こんにちは,渡部です.

 日本シリーズが始まりました.今年はひいきのチーム(巨人)が出ておりませんの
で,あまり関心はありません.中日・ロッテファンには申し訳ありませんが,勝手に
やってくれといった心境です.

 ただ,巨人の将来の戦力に関係するドラフトには大いに興味があります.今年は2位
で指名した宮國投手(沖縄糸満高)に注目しております.『野球小僧』(これは良書で
す)という雑誌に載った同選手のインタビュー記事が,印象に残っていたからです.

 宮國投手はその中で,「自分はまだまだ未熟ですが,野球が好きなことにかけては
自信がある」と,答えておりました.人間,好きなことには努力を惜しまないもので
す.同選手は投手としての素質は相当なものがあるようです.それに加えて努力を惜し
まなかったら,二,三年後には大きく花開くのではないかと,期待している次第です.
(ただ,沖縄の人は他人を押しのけてというアクの強さがあまりないらしいので,その
あたりが少々不安なのですが).

追記
 Kさまという読者の方から,次のような趣旨のお便りがありました.

「とても面白いです.歴史の本などではわからない細かな各藩の関係や,違う角度から
の見方・心理描写などもあり,興味深く読んでおります」

 わたしは歴史については全くの門外漢です.この年になるまで,数学関係書以外の
文章など,まず書いたことはありません.本稿も「素人が見当はずれのことを書くな」
とのお叱りを覚悟で,書き始めたようなものです.

 Kさまのようなお便りが寄せられますと,自分の方向性がそれほど間違っていないらし
いと,つくづく嬉しくなります.Kさま,有難うございました.二本松戦争もいよいよ
佳境にさしかかったところです.今後ともよろしくお願いいたします


(渡部由輝)

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● 第四章・降伏か死か(1)
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七月二十四日ごろ,二本松の隣藩・三春藩は,無抵抗で西軍の軍門に下った.
西軍は,本宮,小浜の二方面から,守備隊を蹴散らしつつ二本松城下に迫り,
城下まであと10キロあまりを残すのみとなった.

しかし二本松藩は戦闘姿勢を解かない.
なぜ,そこまでして戦う道を選ぶのか?


■勧降使

 七月二十七日,西軍は本宮と小浜に進出した.あと二本松城下まで障害となるものは
なにもない.ほんの二,三時間で達せられる.だが,一気呵成に二本松に殺到すること
はしなかった.一日待った.

 それは戦術的には愚的作戦といってよい.まずその一日の遅延のあいだに,相手によ
り強固な防御体勢を整えられる.さらに応援部隊である.本宮・小浜を抑えたといって
も,二本松を中心として南と東をふさいだにすぎない.北と西はガラ空きである.西方
は安達太良山塊であるから心配ないにしても,北方の奥州街道からは仙台・米沢の応援
部隊が駆けつけてくる恐れがある.

 加えて兵士の士気のモンダイである.二本松が会津へ至るためのとりあえずの目標で
あることは,西軍方兵士はみな知っている.その目標を前にしての一日の猶予は,獲物
を眼前にした猟犬を手綱につないだまま空しく待たせておくようなものである.待たせ
られた兵士の間には,気勢をそがれたことによる怠惰の雰囲気が当然生まれる.ともか
く,戦術的にはほめられた策では決してない.

 二本松攻撃をそのように一日延期した理由について,西軍方の記録は次のように伝え
ている(『東山新聞』).

 「彼(二本松藩)はさほどの大藩でもない.本心から反逆したいわけではなかった
が,周囲の大藩の意向に逆らえず,やむをえず同盟側に属していたのかもしれない.こ
のように大軍を連ねて迫られ,隣藩の三春はすでに降伏した.二本松も降伏したいのか
もしれないが,西軍の進出があまりにも急すぎて,降伏の使節を出す時間的余裕がない
のかもしれない.一日待ってみよう」

 ようするに,二本松藩の降伏使が来るのを待っていたのである.二本松などどうせ
中藩,自らの意志で抵抗していたわけではない.それなのに,城下が敵軍に圧服させら
れるまで戦った.同盟に対する義理は十分に果たしたのであるから,このあたりで手を
上げるのが当然というのが,西軍方のおおかたの認識だったのである.

 実際,そのような行動をとった藩があった.守山藩二万九千石である.守山は三春と
郡山の中間あたりにあった小藩である.独立した城郭はなく,いわゆる陣屋大名であっ
た.一応は大名であるから同盟側に属し,二百か三百の兵を出して戦っている.西軍は
その守山藩も無視するようにして二十六日に三春まで進出した.西軍方の勢力圏の中に
取り残されたかたちになった守山藩は案の定,その二十六日に三春の板垣支隊に降伏の
使節を派遣し,謝罪文を提出している.二本松藩も守山と同列視していたわけでもなか
ったろうが,ともかく二十八日は一日中,二本松からの降伏使が来るのを待っていた.

 ただ待っていただけでなく,降伏しやすいようにと工作も行なっている.大垣藩を
通じてである.本宮まで攻めてきた西軍は八藩の連合軍であった.その中に大垣藩もい
た.大垣藩は二本松藩と相当以上密接な縁戚関係にあった.二本松藩主丹羽長国の正室
は大垣の前藩主戸田氏正の二女であり,氏正の嫡男,十代藩主氏良には長国の妹が嫁い
でいた.藩主同士が娘と妹を嫁がせ合っていたのである.まだ存命中であった氏正が娘
を思い,戊辰の早い時期から二本松藩に対し,「順逆を誤ることなかれ(西軍は王師で
あるから抵抗してはいけない)」,というむねの働きかけをしきりに行なっていた.
その二十七日にも,二本松に大垣藩からの勧降使が訪れている.『二本松藩史』によれ
ば,それはこのようなものだった.

 「我(二本松藩士玉木銀兵)は八番組丹羽右近隊に属し,大壇口を警備中,二十七日
の朝百姓体に変装せる大垣藩の密使来たりて,隊長に面会を求め,人払いにて面談し,
懐中より密書を出し,隊長に渡して去って行った」

 二十七日の朝(正確には午前中であったろうが),大垣藩にすればおそらくは最後の
説得を試みようというわけで,勧降使を派遣していたのである.その密書はもちろん城
中に届けられ,首脳部にも被見されていたものと思われる.


■功をもって罪をあがなえ

 ともかく,二本松と大垣はかなり以上に親しい縁戚藩であった.したがって二本松藩
は幕末当時の大垣藩の動向は,ほぼ正確に知っていたものと思われる.ただし,その知
りすぎるほど知っていたことがかえって障害になり,二本松が降伏せず,結果的に徹底
抗戦するに至った理由の一つではなかったのか.

 当時,新政府側の降伏藩に対する態度は,次のようなものだった.

 『功をもって罪をあがなえ』

 大垣藩はそれを実行させられた藩の見本のようなものであった.大垣藩十万石は,
もともとは佐幕藩であった.藩代々の当主戸田氏が家康の祖父清康の時代から徳川に
仕えていた生粋の譜代藩である.その縁もあって大垣という東海道・東山道の分岐点に
あたる要衝の地におかれた.西南あたりの雄藩が反乱を企てて東上でもしてきたら,
そこでまず食い止めることを期待されての配置であったものと思われる.徳川方からす
れば実際にその雄藩が決起したようなものといえる鳥羽伏見の戦いでは,当然ながら幕
府方に属して鳥羽堤において戦っている.それも多くの幕府方他藩のように,後陣あた
りでウロウロしていたわけではない.藩兵五百を出し,幕府方の主力軍の一つとして勇
戦している.その結果,十名の死を出した.それは幕府方に属した藩の中では,会津・
桑名に次いで多い損害であった.

 鳥羽伏見後,新政府側にその罪を問われた.ふつうなら藩主退隠・責任者何名かの
処刑,減封くらいの罰は免れえないところであったが,その危機を藩の重臣小原鉄心が
救った.鉄心は幕末の早い時期から勤皇の志士として行動し,岩倉具視・木戸孝允らに
接触していた.その縁で大垣藩はとりあえず“執行猶予”ということにしてもらった.
以後,新政府側の一員として行動し,その働きぐあい次第によっては許してもらえる.
犯した罪に相当する功を上げたらカンベンしてもらえる,ということである.

 結果をいえば大垣藩は,その功を上げんがため孜々として働いた.いや,働かせられ
た.新政府軍が大垣に集結したのは鳥羽伏見のすぐ後の二月一日.以来,大垣兵はその
一員として東海道・東山道と従軍し,関東平野から奥羽・越後にと,函館戦争を除く
ほとんどすべての方面戦に参加させられた.あまりにも多くの戦線に兵を派遣したた
め,準三藩(薩長土に次ぐ)とまで言われたりした.

 ただし,そのつけは大きかった.東日本をそのように転戦する過程において,大垣藩
は四十四名の死者を出した.それは新政府側としては薩長土肥を除いては,加賀藩(九
十五名),広島藩(七十二名),黒田藩(五十七名),鳥取藩(五十六名)に次いで多
い人的損害であった.以上四藩はすべて大藩であるから,石高あたりの損害は大垣藩の
方が多い.ともかく,「犯した罪に相当するほどの功を上げる」ためには,それこそ身
を粉にして働く必要があったのである.

■黒羽藩は酷使された

 もう一つ,罪をあがなうに値する功を立てんがため,新政府側に酷使された藩をあげ
よう.黒羽藩(栃木県)一万八千石である.

 黒羽藩は幕末時,相当以上に異色的藩であった.藩主の大関増浩が相当以上に異色的
人物だったからである.黒羽藩は外様の小藩であった.通常ならそのていどの石高の外
様藩など,幕末史の表舞台に登場することなどまずないのだが,黒羽藩はそうでなかっ
た.藩主の増浩が今でいえば科学技術マニア,軍事オタクであった.数学や科学といっ
た理系の学問は人生経験をそれほど必要としないこともあって,才能のある人物は二十
歳くらいでその分野の最高的段階にまで到達できたりするものであるが,増浩もそのよ
うなタイプだったらしい.その優れた科学関係の能力を生かし,特に火薬の研究に熱中
した.自領の那須火山帯には良質な硫黄がある.それらを用いて,当時としては最高的
レベルの良質火薬を製造していたといわれる.その良質火薬を使用する銃砲の研究・開
発にももちろん取り組み,とりわけ大砲類に関しては,全国的にみても最新鋭的兵備を
整えていたらしい.

 そのウデを幕閣に買われた.はじめは幕府の陸軍奉行,さらに海軍奉行と歴任させら
れた.今でいえば陸軍大臣,海軍大臣である.増浩はそのころまだ二十代の後半であ
る.そのような若さでしかも外様小藩の藩主が幕府の要職につくなど,異例のことであ
った.当時の幕閣にはメカに強い人物がそれだけいなかったのか,増浩の科学的知見が
ことほどに群を抜いていたのか,たぶんその両方だったものと思われる.

 黒羽藩は鳥羽伏見に参戦したわけでなく,関東平野に進出してきた新政府軍に特に反
抗的姿勢を示したわけでもなかったが,藩主が幕府の要職にあり,しかも兵器・兵制の
近代化に尽力したという経歴がたたった.増浩自身は鳥羽伏見の一か月ほど前,科学者
としての実験中に事故死(銃砲用の火薬の暴発といわれる)しているが,北関東にまで
進撃してきた新政府側に最新式の火砲類を砲兵ごと押収された.以後,それらはすべて
西軍の管理下におかれ,やはり犯した罪に値するほどの功を立てよとばかりに,黒羽兵
は酷使されている.黒羽は地理的に奥羽地方と最も近い藩だったこともあり,特に二本
松戦争も含む福島の中通り地帯における作戦にはことごとく参加させられ,死者二十四
名を出している.それは石高一万石あたりの死者の割合としては,西軍方では最高で
あった.

■降伏してからの方が損害が大きい

 ともかく戊辰時,降参したからといってそれですべておしまい,あとは高見の見物,
というわけにはいかなかった.さらなる苦難が待ち構えていたりした.降伏後のそのさ
らなる苦難の方が,ときには降伏前のそれより大きかったりした.そのような藩を一つ
あげてみよう.相馬藩六万石である.

 相馬藩は仙台の隣藩である.石高こそ少ないが,全国的にみても有数の伝統を誇る
名門藩であった.平安末期あたりから中村氏が連綿としてその地を領していた.そのよ
うに長期にわたって同じ地方に根を生やしていた藩は,薩摩など数藩しかないといわれ
ている.

 だが,いくら伝統はあっても,六万石ていどでは戦力的にたいしたものでもない.
同盟側としては隣接する大藩仙台の意のままに頤使されていた,ようなものであった.
仙台の先兵のようなかたちで白河・棚倉・いわきと出兵させられた.兵備の近代化に
立ち遅れ,特に銃器の多くが旧式の火縄銃やゲベール銃であったこともあり,いずれも
惨敗を喫し,七月下旬ころには,いわき三藩を葬った勢いで浜通りを進撃してきた西軍
に押され,自領防衛も危うい,というような情勢になった.西軍が中村城下に迫り,応
援部隊の仙台・米沢兵が退散した八月六日に降伏した.藩主相馬季胤は城を出て,自領
内の菩提寺長松寺に謹慎し,西軍の管理下におかれた.人質にされたのである.

 藩兵はもちろん無罪放免ではない.それまで新政府側に抵抗した罪をあがなわなけれ
ばならない.降伏の翌七日には,もう西軍の先兵として駒ヶ峰において仙台軍と戦わせ
られている.昨日までは南方に向けていた銃砲を,今日からは一転して北方に向けなけ
ればならない立場になったのである.仙台藩は結局,その自領の駒ヶ峰を奪われたこと
がきっかけとなって九月十五日に降伏したのであるが,それまで一か月あまりのあい
だ,駒ヶ峰とその近辺の旗巻峠において仙台軍と西軍との間で小戦も含めると十度もの
戦いが行なわれ,そのほとんどすべてに中村兵は参加させられた.その結果,西軍方と
して戦ったその一か月少々で三十七名の死を出した.一方,それ以前,つまり同盟側と
して戦った三か月半での死者は八十四名であった.一か月あたりの死者の割合として
は,新政府側として戦ったときの方が多い.

 それもやはり藩主を人質にされたというためもあったものと思われる.東軍方のとき
は戦況が不利になったような場合,退却する自由は相当にあった.西軍のときはそれは
あまり多くない.すぐ後ろにはその西軍の監督者(監察,もしくは軍監といった)が眼
を光らせている.戦況がどうであろうと,いやおうなしに戦わざるをえない.

 なお,そのように降伏者をただちに自軍の先兵的部隊として活用することは当時,
ある種の常識のようなものだった.降参してきたといっても,それらをすぐ自軍内に
取り込むわけにはいかない.反乱でも起こされたら一大事である.先兵としてとりあえ
ず最前線に配置し,相手側と戦わせてみる.その戦いぶりによって,真に降伏の意志が
あるのか偽装的降伏なのかがわかる.それで勝てたらもうけもの,敗れてその先兵的部
隊が壊滅されようと,味方は痛くもかゆくもない.むしろやっかいな降参者を始末する
手間がはぶける,というわけで戦国時代あたりはごくふつうに行なわれていたものであ
る.

 たとえば関ヶ原における小早川秀秋隊である.周知のように関ヶ原では小早川隊の裏
切りによって,東軍(家康)方の圧勝に終わった.が,小早川はその裏切った時点で,
それまで東軍に抗していた罪を許してもらえる,というわけではなかった.早速,西軍
の主将石田三成の居城佐和山城攻めに活用されている.それも関ヶ原が終了したその
日,九月十五日の夕刻,徳川四天王の一人井伊直政の監督のもとにただちに出発,とい
うあわただしいものであった(佐和山城は翌十六日に陥落した).

 それでも戦国時代なら,犯した罪に値する功を立てるためには,せいぜい〈兵〉を
提供するだけですんでいたが,戊辰期はそうはいかなかった.だいたいは〈金〉まで支
払わせられたものである.実際,相馬藩は償金として一万両を出させられている.現在
の価格に換算すると三〇〜四〇億円くらいであるから,相馬藩の財政的規模(年間四〜
五万両ていどであったと推定される)からすれば,決して少ない額ではない.

■米沢藩は〈武士の誇り〉を失わされた

 相馬藩は降伏したことにより人的・物質的損害を受けたケースであるが,精神的迫害
を被った藩もあった.米沢藩である.

 七月二十九日,二本松藩が降伏した.時をほぼ同じくして隣藩の福島藩三万石は
藩主・藩士ともども城を捨て,米沢や仙台方面に逃亡した.十万石の二本松藩をほんの
半日で壊滅させた西軍の実力からすれば,福島藩など鎧袖一触のごとく葬り去られるこ
とは,あまりにも明白だったためである.

 それで最も脅威を受けたのは,福島藩に隣接していた米沢藩であった.西軍にそのま
ま米沢まで進撃して来られたら,二本松ほど短時間ではないにしろ,やはり壊滅させら
れることは必至である.というわけで,降伏に向けての工作が種々行なわれた.都合が
良いことに,二本松まで進撃してきた西軍の主力部隊である土佐藩は,米沢藩の縁戚藩
であった.米沢藩主上杉斉憲の正室は土佐藩主山内容堂の姪であり,その容堂のすぐ下
の妹が斉憲の弟上杉勝道に嫁いでいた.

 そういった縁もあり,米沢は土佐藩を通じて投降工作を行ない,自領がまだ寸土も侵
されていない九月四日に正式に降伏した.がやはり,当時のならいとして,それで無罪
放免とはならなかった.人的・物質的損害はあまり発生しなかったが,精神的なそれが
待ち構えていた.そのころの記録を集めた『米沢藩戊辰文書』によれば,次のようなも
のだった.

 米沢が降伏した時期,会津盆地には新政府側の大軍が集結していた.その進駐軍に対
して米沢藩はまず,「会津の酒だけでは不足でしょう.自領から取り寄せましょうか」
と申し出ている.実際に何樽か差し出している.周知のように米沢藩の始祖上杉謙信
は,ライバル武田信玄に塩を贈ったと伝えられる.それによって合戦において手心を加
えてもらおう,などというさもしい根性によるものではむろんない.一般民衆をも苦し
める食糧攻めのような姑息な手段などによらず,正々堂々と雌雄を決したいがためであ
ることはいうまでもない.その三百年後,新政府軍に自ら進んで酒を提供した後輩の行
為はそれとは似て非なるものである.強者に対する弱者側からのこびへつらい,阿諛追
従以外のなにものでもない.

 米沢藩は他にも同種の行為をしている.降伏して米沢藩は西軍の管理下におかれた.
そのさい「自藩兵から決死の士を募り,使節として若松城に乗り込み,降伏を勧告す
る.聞き入れなかったら火を放ち,城内を混乱させるから,そのスキに攻め入ったらど
うか」というような申し出までしている.西軍首脳部がそんな奇策など受け入れるわけ
はないことを見越しての,やはり強者側の心証を良くしておきたいがための,弱者側か
らのこびへつらい的行為であることはいうまでもない.

 そんな米沢藩士の卑屈な態度を見透かされてか,西軍方兵士に難クセをつけられても
いる.米沢城下にも西軍が進駐してきた.そのさい,ある西軍方兵士の一群が,宿舎と
された旅館に掲げられた提灯の紋が自藩のものと違うと騒ぎ立てた.はては刀を振り回
し,旅館で暴れたりした.つい数日前まで敵方であった藩の紋入り提灯など,緊急に用
意できるものではない.それを十分承知の上での,酒手目当てかなんかのゆすり的行為
だったのだろう.その種の狼藉的行為は他にも頻発していたらしい.前記『米沢藩戊辰
文書』は,「世良一味よりひどい」と嘆いている.

 ただし,西軍方兵士の行為を弁護するわけではないが,彼らにしてみれば,「二本松
は中藩ながら全藩あげて城を枕に討ち死にするまで戦った.それに比べてお前らは謙信
公の末裔などとイバっているくせに,城下に敵がまだ迫らないうちにヘナヘナと降参し
た.なんたるザマだ」といったところではなかったのか.

 西軍に降伏した後の米沢兵はもちろん,その一員として会津軍と戦わせられている.
西軍が米沢に進駐してきたのは九月十一日,ただちに米沢藩兵による会津追討軍か編成
され,今度は西軍の先兵となってその四日後にはもう会津鶴ヶ城下に迫った.会津の降
伏はそのちょうど一週間後の九月二十二日であるから,当時は会津戦争はほとんど終焉
的状態に至っており,米沢兵も残敵掃討的小戦しかしていないが,そのさいの報告書に
なんと,「会賊」と記している.昨日までの友軍・同盟者が今日は一転して“賊”であ
る.

 藩祖謙信は〈義の人〉であったといわれている.例の川中島は領土的野心によるもの
ではなかった.自らを頼って落ちてきた北信濃の小領主村上義清らに,旧領を回復させ
てやるため,であったらしい.戦国の群雄の中で,そのように他者を助けるために戦っ
たのは謙信ただ一人とも言われている.それほど〈義〉に生きた泉下の謙信公が,三百
年後の戊辰においていったんは盟友の契りを結んでおきながら,形勢が不利になるや一
方的にそれを破棄し,あまつさえ,かつての敵対者の歓心を買うべく,その盟友を
“賊”などとののしった後輩の変節ぶりを知ったら,なんと言ったろう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2010.11.5





荒木 肇
『関東軍特種演習──史上空前の大動員(5)
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□はじめに

 欧州でのドイツ軍の快進撃,あれよあれよという間に攻撃を
受けた各国は次々と軍門に下ってしまいました.そうなると,
いつも世間は軽薄で,『バスに乗り遅れるな』の大合唱になって
しまいます.いつまでも片付かない日支事変.だんだんと物不足
が感じられるようになり,出征兵士は次々と郷里を後にします.
若い予備役兵から召集されましたから生産力は下がってきます.

 陸軍は満洲国や朝鮮の防衛のために関東軍を増強しました.
国境紛争もしばしば起きていたので,当時の軍人たちの危機感
も笑うことはできません.ソ連の極東軍もどんどん増強されてきます.
長引く事変があり,同時に装備も改良し続けなければなりません.

▼東條陸軍大臣の変心

 1941(昭和16)年7月2日のことである.ドイツ軍はソ連領内
への侵攻500キロメートルを記録し,ドニエプル河畔に到達しよう
としていた.そのころ,参謀本部は自分たちが主張する大動員
を実現しようと連日のように東條陸相にかけ合いを続けている.
陸軍省軍事課長の真田大佐は,『田中部長から二度も部長室
に呼びつけられ,割れるような大声で怒鳴られても一歩も引かなかった』
と戦史叢書には書いてある.

 新聞をひっくり返すと,支那各地の戦線は依然として膠着.東京市内
では野菜が不足し,奥さんたちが八百屋に行列をしているという記事
がある.また,軍需産業の景気がよく,女子従業員の募集が多くなり,
デパートガールのなり手が少なくなっていた.デパートガールから
工場勤めに変わることも多かった.
 
 商工省が買占めや売り惜しみを禁止したというから,当時から目端
が利いて裏の世界で儲けをたくらむ人たちがいた.物が配給制になり,
物流が統制されれば巧く立ち回る人が出るのは昔も変わらない.
 
 7月4日の夜のこと.東條大臣の官邸に田中作戦部長が乗りこんだ.
直に訴えようというわけである.何が話されたかは不明だが,翌日
から東條陸相は参謀本部案に賛成した.大臣が同意すれば,
参謀本部総長は天皇陛下に上奏する.陸軍の行政と運用の意見が
一致したのだ.あとは陛下の裁可さえ貰えば計画は実行化された.
上奏文の内容は分からないが,当時,軍事課員の加登川中佐によれば,
『内地からは二個師団を基幹とする部隊の動員派遣とあった』というから,
陛下へはまったくのウソを申し上げたことになる.
 
 陸軍はこの手をよく使った.マスコミや議会も含めて,軍隊の編成や
編制にうとい人たちは簡単に騙された.議会で『歩兵1個旅団を出します』
といえば,ふつうの人は歩兵のあたま数だと思ってしまった.ふだんから
近所の歩兵聯隊を見ていれば,10個中隊くらいである.およそ2000人,
馬70頭.旅団ならそれの2倍かと思う.『ああ,4000人くらいか.大した
数じゃないな』と受け止めてしまう.
 
 読者はすでにお分かりだろう.歩兵聯隊に動員がかかれば,平時の
小銃3個中隊でできていた1個大隊が4個中隊になる.第1から第3の
機関銃中隊ができ,歩兵砲小隊が編成され,大隊ごとに大行李がつく.
それに歩兵砲中隊や通信中隊もできる.人員が増え,補給品や弾薬,
医薬品などなどが集められ,大隊本部動員室は大騒ぎの状態になる.
 
 馬も集められ,馬糧が集積され,厩も増設された.歩兵聯隊は平時の
1996人,馬71頭が,戦時には3747人,526頭と約2倍に大型化する
のだ.したがって,歩兵旅団は75人,馬20頭をもつ旅団司令部以下,
7569人,馬1102頭という兵力になる.人は2倍,馬はなんと7倍に増える.
これに輜重兵聯隊からの配属輜重兵や兵站部隊が附属する.近代軍隊
では戦列部隊より後方支援部隊の人数が倍になるのが常識である.
 
▼人50万,馬17万頭

「関東軍特種演習」,略称「カントクエン」の始まりである.戦後,さまざまな
陸軍軍人の自己弁護めいた証言の中には『ソ連の方から仕掛けてくるのに
備えた自衛準備だった』というものがたくさん出た.しかし,現在の研究から
はそういうことは考えられない.防衛庁の公刊戦史などでも,書き手たち
(元陸海軍人)の性向から「同期の恥は隠す」,あるいは「失敗は繕う」という
基本方針が存在する.これが政府の公刊物かと疑うような記述がよく
見られる.日露戦争史と同じである.

 ソ連は西からドイツ軍の強烈な侵略を受けている.全力でそれに対抗したい.
ところが,東には「強大な関東軍」が満洲国内で爪を研いでいる.
その関東軍の備えのためにはシベリアに戦力を蓄えなくてはならない.
極東ソ連軍は1940(昭和15)年には狙撃師団(列国の歩兵師団)30個,
戦車2700輌,航空機2800機,潜水艦103隻,総兵力70万人をもっていた.
当時のソ連首脳としてはこの戦力がつくづく西部方面に欲しかっただろう.
安心してドイツ軍にあたりたい,そのためには東の日本軍の動静が気になって
くる.こうした時に関東軍は戦争をしかけようとし,参謀本部はそれに協力
していた.スターリンでなくとも深い恨みをもつのがふつうだろう.

 そこへ関東軍の大増強である.関東軍の当時の戦力(昭和15年末)は
人員40万人,12個師団,27個飛行戦隊,9個独立守備隊,13個国境守備隊
だった.これに加えるのは確かに上奏通り,2個師団(第51,57)に過ぎない.
しかし,送り込む人馬の数は大変である.満洲や朝鮮の師団は14個あった.
それらに動員をかけて戦時定員の編制にする.飛行集団にも動員がかかる.
それに軍直轄の砲兵隊や,兵站部隊が500個隊ほど用意される.予算人員
では約50万人,馬は15万頭の増え方である.なんやかやで,関東軍は
85万人,馬が22万頭になった.

 軍備を充実させるために中国戦線を縮小し,35万人を復員させようとしていた.
それと同時に,50万人の軍隊を新しく満洲に送り込もうというのだ.誰が考えても
無茶としか思えないのだが,そこは『バスに乗り遅れるな』の大合唱である.

 戦争は金がかかる.もちろん,軍備にいくら金を投じても,それが抑止力と
なるのなら平和を維持でき,戦争よりはるかにマシに違いない.では,当時の
わが陸軍はどれほど金を使っていたのか.実は正確な数字は分かりにくい.
さまざまな証言や記録を読む限り,満洲の軍事費は兵士1人当たり年間3500円
くらいかかったらしい.当時の1円を今の5000円くらいと考えると,先に出た
加登川氏によれば,年間1800万円くらいかかった.10万人を送り込めば
1兆8000万円になる.50万人なら9兆円になる.
 
 支那の戦争での経費はというと,1人当たり4500円くらいだった.年間では
38億円ほどで,現在の20兆円くらいだろう.35万人を削減すれば8兆円の
節約になる.修正軍備充実計画はその金をあてにしたものだった.

▼軍事課の仕事

 動員,召集は7月中旬から始まった.動員担任官の師団長からは聯隊区
司令部に動員符号によって示された指示が出る.『第5動員の甲』などといえば,
司令部の要員はそれに従って市役所の兵事係に召集令状の準備を命じた.
町村の分は地元警察署に厳重に保管された令状が用意された.
兵事係は配達区ごとに区分けして,自ら令状を届けた.本人,もしくは代理
に指定された人は受領印をおして確認する.本籍地に不在の人には急いで
通報する.これが速達扱いの令状到着を知らせる郵便はがきだったことが,
『兵隊を集めるのは一銭五厘』の神話の始まりである.

 多くの人は汽車で召集先に向かった.遅れれば大事件である.部隊の方
では『一人一馬の到着が日時で指定されていた』のだ.動員係に指定された
将校以下は体を壊してしまうくらい大忙しになった.動員部隊の編成が完結
すると,物資といっしょに船に乗った.馬はもちろん貨車に載せられた.
ついでにいえば,屋根つきの貨車はワゴンで記号は「ワ」であり標準型は
「ワム」と略称された.この「ム」とは,「ム(ウ)マ=馬」を運ぶことが多かった
からだ.なお,今もJRで使われる貨車の積載重量記号は「ムラサキ」の順
に大きくなっていくが,ムを頭文字に響きのよい4文字はと考えた結果だそうだ.

 大陸への人馬・物資の輸送のために民間船舶も90万トンが徴用された.
民需物資の輸送に支障が出ようがお構いなしである.満洲国でも鉄道の
輸送能力の半分は軍事輸送に充てられた.それが戦う軍隊の当然の姿だった.
陸軍はこれと同時期に南部仏印に進駐した.アメリカの反発は在米日本資産
の凍結と油の禁輸措置に現われた.

 大きな軍隊を集結させるには宿舎が必要である.50万人と馬17万頭を
収容する兵舎と厩はあったのか.満洲にはそんな物はなかった.
その建設資金を用意するのは経理局建築課の仕事だった.経理部の将校
たちの仕事を以前にも書いたが,土地,建物の管轄は経理局である.
参謀本部からの要求は軍事課予算班が仲介して,経理局との間の連絡を
図ることになる.

 季節は7月の下旬に近づく.満洲の夏は短く,戦闘の進展によっては
ウラジオストックで野営をする部隊もあるかも知れない.冬はもうすぐである.
宿舎もなければ露営具もない.第一,露営などできる場所ではなかった.

 戦史叢書を開くと,そこには参謀本部の計画が書いてある.動員は開戦時期
と大きく関係する.速戦即決を旨とする陸軍は,その準備期間がなるべく短い
ことを期待していた.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.11.18




『ライター・渡邉陽子のコラム (70) ─ 海上自衛隊 第111航空隊(7) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.
第111航空隊の連載は今日で終了です.

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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■海上自衛隊 第111航空隊(7)


搭乗員たちはそれぞれ担当する機種がありますが,
整備員にはその分担がありません.

列線整備隊隊長によれば,整備員の人数が少ないため
機種をわけて担当する余裕はなく,整備員はみなどちらの
機種も整備できるのが基本だそうです.

また,こうも話してくれました.
「MH-53Eはコックピットがアナログなので,故障したときの
原因の探求は断然MH-53Eのほうがやりやすいです,
今までの蓄積もありますし.MCH-101はエラー表示が出ても,
何が原因でそのエラーが出ているんだろうと悩むこともあります.
それから小さなことではありますが,MH-53Eはアメリカ製
ですからインチ,ポンド表示.一方,欧州製のMCH-101はメートル,
キログラム表示で,ネジや工具まで違います.私達の頭の中は,
整備に関しては完全にインチ,ポンド仕様でしたから(笑),
慣れるまでは換算表を作ったりして,その切り替えが大変でした」


取材時の111空司令は,3回目の111空勤務でした.
「海上自衛隊唯一の航空掃海部隊ですから,おのずと勤務が
長くなります.規模もこぢんまりしているので,家族的な雰囲気の
強い部隊ですね.メジャーな機種でない分,教育や研究開発など
にも関わるので苦労が尽きません」
大変なんですよと笑う声には,111空への愛情がにじみ出ていました.
航空掃海一筋に生きてきたからこそ,思い入れも強いのでしょう.
「われわれは日本全国すべての港湾に展開する可能性があるので,
通常の訓練も各地で行います.年中旅烏のように機動展開すること
に慣れているので,東日本大震災でも私が何かいうまでもなく,
すぐさま対応できました」

パイロットは震災当日の夜,フライトの目印にする灯台の明かりが
見当たらず海岸線も漆黒の闇,けれど上空から部分的に見える妙に
明るい光が火災炎だと分かったとき,愕然としたそうです.
それにベテランパイロットである彼らですら,緯度と経度だけ伝えられ
「グラウンドがあるはずだからそこに降りて」と言われるのは,初めて
の経験でした.しかも上空にはほかの部隊や報道のヘリまで飛び交い
大混雑,管制による情報提供も指示も一切ありません.目的地に
向かうのも降りる場所を探すのも,そして実際に降りられるのか
確認するにも難儀しました.


着替えも持たず着の身着のまま向かった東北で,それでも彼らは
しっかりと任務を果たました.MH-53Eの機長は数週間ぶりに岩国に
戻ってきたとき,改めて感じ入るものがあったといいます.

「われわれは災害派遣のための訓練はしていないので,有事を想定
して行っている訓練を応用しているにすぎません.けれどその応用
がちゃんとうまくいった.つまり,普段通りの訓練を積み重ねていれば,
未曽有の災害にもしっかり対応できるのだと改めて思いました」
有事を想定して備える,それは自衛隊の存在理由にもつながります.


この取材でつくづく感じたのは,機雷という安価な兵器が持つ効果
の大きさでした.
極論でいえば,「機雷を撒いた」とデマを流すだけでも,その海域の
船舶の航行に影響を与えることができるのです.


日本は四方を海に囲まれた島国です.生活基盤の多くを海外から
輸入し,加工貿易により経済が支えられている部分も大です.
日本にとって生命線である海上交通を害する手段として最も手軽
に用いられ,しかも費用対効果の高いものが機雷なのです.


司令は111空の今後についても触れました.
「島しょ防衛を考えたとき,真っ先に出るのはうちの部隊です.
機雷除去だけでなく,輸送任務も行うことになるでしょう.MCH-101
については,不審船対処やテロ対処などの新たな付加任務に向けて
の試験も実施中です.また,かつて掃海部隊がペルシャ湾まで派遣
されたことを考えれば,今後海外での活動も出てくるかもしれません.
艦艇で寝起きしながら発着艦することは,日ごろから訓練しているとは
いえ,厳しい任務になることでしょう.それでもわれわれには昔から
培ってきた『掃海魂』があります.それは自分を律し,忍耐強く,
チームワークを大切にし,掃海に命を賭けるという伝統でもあります」
この取材から時間を経て法整備が進んだ今,司令のコメントがより重く
感じられます.


111空の隊員たちからは,「自分は海上自衛隊唯一の航空掃海部隊
にいる」という誇りが感じられました.それは掃海部隊を持つ米海軍
をもうならせる航空掃海の技量の高さ,同じ機種を運用する他国から
称賛される整備力,そして先人から継承した伝統があるからこそ.
彼らの任務は今後さらに増えていくはずですが,111空はことごとく
やり遂げてくれることでしょう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.11.19




■大礒さまのメガフロート案を拝読しました.
この案はお話のようにかつて存在し,土建屋的な公共事業発想から却下された案
でした.
沖縄県が「50m沖合に出せ」と主張していたのも,本音は埋立土砂量が増えて
地元(土砂を採取する山を既に買い占めた地元地権者,及び工事関係者)がより
潤う,ということでしょう.

その観点から言えば,辺野古沖へのメガフロート案は大磯さまと全く逆の見方も
出来ます.
1.沖縄県民は「基地は沖縄県内移動に過ぎず,メリットが無い」
2.山を買い占めた地権者は「土砂を使わないならメリットが無い」
3.沖縄県は「米軍からの借地代が無くなるだけで,メリットが無い」
4.民主党は「県外,国外の公約を果たせないから,メリットが無い」
5.米軍は「メガフロートでは基地の抗堪性に欠け,メリットが無い」
と,反対派は言うのではないでしょうか.

メガフロート案は,確かに「工事期間の短縮」,「環境への影響の少なさ」,
「基地撤去の期待可能性」,「造船業界の救済」等の面ではメリットがあります.

しかし,ことは軍事基地ですから有事の敵の攻撃に対する抗堪性の面からも見る
必要性があります.
陸上基地の場合は,爆弾命中の穴を塞いで航空機の発着可能な強度に修復するこ
とは比較的に容易です.朝鮮戦争当時,ソウル近郊の金浦空港は南北両軍の撤退
や占領の度に,敵からの猛爆に曝されましたが,直ぐに復旧しました.
一方,鋼鉄の箱の場合は,第二次大戦中の日米の空母被弾の例に見るように決し
て容易ではありません.殆どの場合,沈没は免れ得ても艦載機の発着可能なまで
の被害復旧は現場では出来ませんでした.
メガフロートはたくさんのユニットを連結しているので,被爆した場合にそのユ
ニットだけを交換することも可能ですが,長時間を要するでしょう.
したがって,結局は空母と同様に重厚な防空対策が必要となります.

つまり,メガフロートは平時用・後方用には有用でも,有事用・前線用としては
使いづらい,と言えるでしょう.
そして,沖縄は東シナ海有事の際には否応なく最前線になってしまいます.
米軍は,地面に置かれた“不沈”基地でなければ,同意しないのではないでしょ
うか.

以上,ヨーソロの管見でした.

(ヨーソロ)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2010.1.28




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                 荒木 肇
『関東軍特種演習──史上空前の大動員(6)
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□はじめに

 勤労感謝の日(昔は新嘗祭)はこちら関東では冷たい雨も
ぱらつく天気になりました.もっとも全国各地からは先日は
二十四節季の「小雪」でもあり,初雪のお知らせをいただいて
います.八戸の航空群の友人からは気温が4℃と低くテンション
も下がるというメッセージがありました.いよいよ冬の到来です.
皆様,お身体ご自愛ください.

 さて,先日,徴兵制度についてのお問い合わせをいただきました.
朝鮮半島の人や,台湾の方々への兵役の問題です.
実は,兵役制度は国民の神聖な義務であり,同時に権利でした.
それまでの武士階級しか兵器をもてず,政治への公的な参加資格
もないという近世・江戸時代の制度.それが否定されて『帝国臣民
の男子』ならば誰もが等しく軍事に関われるという画期的な制度
が「徴兵令」によって定められたのです.この兵役が義務だけでは
なく,国民の権利だったという側面が,今までの論者によっては
あまり指摘されていません.「戸籍に載る」,すなわち天皇陛下の下
にすべての国民が平等であるという意義が徴兵制には含まれていました.

 それに対して,朝鮮・台湾総督府,樺太庁,南洋庁など帝国統治
機構の出先機関の治下にある人々は「帝国臣民」の中では,『民籍』
といわれる個人把握の下にありました.したがって,臣民ではない者
は軍人には原則はなれません.志願しなければなることはできなかった
のです.朝鮮では1938(昭和13)年4月から,台湾では1942(昭和
17)年から志願兵の募集を行ないました.そして,1943(昭和18)年
から朝鮮に,1945(昭和20)年からは台湾でも徴兵制を施行します.

 もともと,入営するためには日本語の習得や習慣への順応が必要
であり,忠誠心への不信もあり,軍はあまり積極的ではなかったようです.
戦後は兵力が枯渇したから,なりふり構わずというように説明されて
きましたが,「皇民化政策」とのからみもあったのでしょう.「ひとしく陛下
の赤子(せきし)」であるなら,権利としての兵役も考えなければならない
という理屈もあります.

▼大本営作戦課のズサンな計画

 まことにあなた任せの無責任な計画だった.それは対ソ連戦の開始
時期に現われている.開戦の決意は8月10日,戦闘の開始日は
8月29日,作戦完了は10月だったという.なぜ,決意が10日か.
それは,8月の上旬もしくは中旬になって,極東ソ連軍がヨーロッパに
送られるだろう.30個の狙撃師団が半分になり,航空その他の戦力
が3分の1になったと判断されたら8月下旬には開戦するという計画
だったのだ.

 あまりに安易としか言いようがない.ドイツ軍は確かに破竹の進撃を
したが,7月中旬,スモレンスクに到達,態勢整理に入った.ほぼ同時
にソ連軍もまた戦線を整理し,防衛態勢を整え始めた.戦線というもの
は停滞するものなのだ.ふり返れば,ドイツ装甲師団が英国海峡に進出
して,いわゆるダンケルクの悲劇(英国軍が大陸から撤収した)まで
に3週間がかかっている.ここから南に進撃方向を変えてパリに入城
するのに1カ月ほど,休戦までには1カ月半もかかったのである.

 それを広大な東方戦線の独ソ戦のおかげで,わずか1カ月や2カ月
くらいで,はるか極東の戦場にまで影響が出るだろうか.結果を知って
いる現在の視点からだけ言っているのではない.極東ソ連軍30個狙撃
師団の半分,15個師団をシベリア鉄道でヨーロッパに送り込むことが
簡単にできることではない.航空兵力2800機の3分の2,2000機
近い航空機が地上器材や燃料・弾薬・部品・人員まで含めて移動する.
素人が考えてもわずか2週間や3週間でできるわけがないことくらい
考えられる.

 くり返して言う.こういうことが「戦史叢書」に書いてあるのだ.
本当の戦争は,ゲームや空想小説でもあるまいし,そんな簡単なこと
ではない.8月下旬の武力行使は見送りになった.ソ連軍は一向に移動
する気配もなかった.だが,当時の参謀本部は『まったく止めるわけでは
ない.少なくとも年内だ』などと,まだうそぶいていたらしい.開戦決定
予定日の前日,8月9日には陸軍省に「年内にはソ連への武力行使
はしない」と参謀本部は通報してきた.その間にも50万人,馬15万頭
は大陸へと動いていたのである.急には止められないのが輸送計画
であり,動員令だった.

 すでに満洲全土では作戦準備が着々と始まっていた.動いてくる将兵
には入るに兵舎なく,物資を集める倉庫もなく,兵站施設が建設中だから
病院もない.こうなると,関東軍司令部は困ることになる.参謀本部は
止めたですむが,実際に人・物・金を動かさねばならない現地軍は
とたんに手当てに奔走されることになった.

▼金の後始末

 金の問題になると,陸軍予算の担任を整理しておかねばならない.
軍人は官吏だから俸給や赴任旅費,出張手当などの人件費は経理部
主計課が担任する.兵器関係費,兵器そのものや保存・手入れ用品
までが兵器局各課,衣糧に関係する諸費用は経理局衣糧課,医薬品や
衛生材料などは医務局医事課である.陸軍省軍事課には予算班があり,
全軍の機密費をもっていることは以前にも書いた.演習費用なども軍事課
予算班の担当であり,地上部隊の演習費用は兵務課が分担していた.

 実際に当時関東軍に出張した加登川少佐(当時)の回顧録では,
総勢20人にも及ぶ一行だったそうだ.後始末に予算関係から査定を
行なうためである.関東軍各部門から寄せられた要望金額はなんと
21億円という巨額だった.1円を現在の5000円で換算すれば,
11兆円というものだった.50万人の大軍を移動させる,暮らさせるという
ことは1人当たり,当時でも約2200万円というわけだ.ただし,これは
関東軍の戦備・兵站だけの額である.国内各地からの移動経費や物資
などの集積にかかった費用は入っていない.

 たとえばと加登川少佐は言う.『なにしろ北満の各地で何十万トンという
木炭を焼いている』.木炭がなければ北方では戦争ができなかった.戦車
のエンジンの下では一日中,火を焚いて温めていなければエンジンが
かからない.木を燃やすときに出る水蒸気はすぐに凍るから,たき火で
物を温めるとすぐに表面が凍ってしまう.この注文は打ち切れないか,
そうしたら違約金としてどれだけ業者に払わねばならないか,などと項目
ごとに査定作業は続いた.参謀部の各課,兵器,経理,軍医,獣医などの
各部課ごとに細かい作業をくり返していく.『3日くらいかかったのでは
ないか』と手記にはある.

 21億円のうちようやく4億円ほど削った.それでも,残りは17億円.
この年度中に,いまの金額で8兆円から9兆円ほどがかかる.当時,関東軍
の年間経常費は1人当たりおよそ3500円くらいだった.今なら1800万円
ほどである.関東軍の兵力はおよそ35万人だから,ふだんでも年に10億円,
ざっと5兆円だった.植民地をもって侵略したというけれど,鉄道を始め
社会資本を整備しつつ,防衛のためにもこれだけの金を使っていたのが実態だった.

 年度途中でも年内3カ月のうちに10億円は手当てが必要である.作戦準備
に使った金は現在に直せば3兆円か4兆円というところだろう.装備改新,
弾薬の備蓄,組織の改編が誰にでも分かっていたはずなのに,こういう無駄遣い
が一方で行なわれていたのだった.

▼無駄に召集された人たち

 東條陸相は当然怒った.『なんでこんなに金を使わせた』.しかし,『あなたが
動員に賛成したからではないか』とはもちろん言えなかったそうだ.
 実はここにこそ,思い切り戦う軍隊への理解が必要なところである.戦争準備
の大命を受けた関東軍司令官という現場の最高責任者を予算などで縛ること
はできないのだ.戦場の軍人は命を懸けて戦う.その最高指揮官が,
「金が出ないから弾薬を送るな」「予算が認められそうもないから糧食を削れ」
「節約するから被服の交換を遅らせろ」などと隷下部隊に言うはずもない.

 また,壮年の50万人が職場を捨て,生産の現場から引き離されたことは,
どれだけの国力の低下をもたらしただろうか.そして,農村からの馬の徴集
である.一部の地域ではトラクターなども導入されていたが,農村の耕作力
や民間の物流にまだまだ馬の力は大きなものだった.そして大東亜戦争
が始まる直前である.その年内だけでも,9兆円という負担が国民に課せられたのだ.

 8月からあとのわが国は,大本営陸海軍部ともに日米交渉の行方や,
南方作戦準備に大忙しだった.華々しい作戦準備の裏側では,陸軍省の
予算班はたいへんである.冬が近づくのに,満洲には兵舎や厩がない.
病院も,病馬を収容する施設もなかった.軍医も獣医も民間から多く召集
したので,勤務者も足りない.

 関東軍の兵舎は二段ベッドを発注して収容力を増やした.前線の部隊は
穴を掘り,三角形の屋根をもつ「三角兵舎」を急造させた.柱と壁だけでも
節約できたからである.

 幸いというか,大東亜戦争の開始とともに,関東軍にあった兵站部隊の
多くは,そのまま南方作戦に移動していった.夏の最中に召集され,
冬服に替えることもなく南の前線に送り込まれたという思い出話をする人にも
多く出会った.

 次回は関東軍特種演習のさらに裏側を語って終わりにしよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.11.25




『ライター・渡邉陽子のコラム (71) ─ 自衛隊海外派遣の歩み(1) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.
月刊「丸」の2016年1月号(*)が明日あたり発売されますので(防衛整備庁に
ついて書かせていただきました),今回から12月号(**)に掲載された
「自衛隊海外派遣の歩み」に加筆して連載します.

(*)http://okigunnji.com/url/30/
(**)http://okigunnji.com/url/31/

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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■自衛隊海外派遣の歩み(1)


今年9月,通常国会としては戦後最長の会期で約220時間の議論
を重ね,安全保障関連法が成立しました.

「戦争法案」「海外派兵」などの声を上げたデモも行なわれましたが,
デモに参加している人の中に,法案の内容を理解できている人
がどれだけいたのでしょう.安保法案=戦争と思い込んでいる人
が多かったのではないでしょうか.

また,自衛隊が海外派遣される際にどの法律に基づきどのような制約
の中で活動しているか,はっきり把握している人がどれほどいたの
でしょう.海外派遣=PKOと思っている人も少なくなかったのでは
ないでしょうか.

言論の自由,集会・結社の自由,表現の自由,みな憲法で認められている
国民の権利です.デモを行なうことに異議を唱えるつもりはありません.
けれどデモの先頭で声を上げる若者の主張は悲しいほど短絡的で,
それに乗ろうとする政党・政治家の姿もみじめなものでした(私には
そう映りました).

話を戻しましょう.確かに国際平和協力法(PKO法)によって自衛隊
が派遣されたケースは過去に9度ありますが,災害派遣の場合は
国際緊急援助法に基づいての派遣,それ以外は海外派遣のニーズ
が発生してから急きょ時限法を制定,期間限定の法律に基づいて
派遣されています.

そこで今回の連載では「自衛隊海外派遣の歩み」と称し,
自衛隊の海外派遣の歴史を振り返ってみます.


海外派遣のさきがけとなったペルシャ湾掃海派遣部隊
イラク軍によるクウェート侵攻から端を発した湾岸戦争.日本は
自衛隊を海外派遣するか否かという問題に直面し,他国からの
プレッシャーと賛否渦巻く世論に大きく揺れました.


1990年8月2日,イラク軍がクウェートに侵攻し首都を制圧.
翌年1月17日,多国籍軍による「砂漠の嵐作戦」が始まり,湾岸戦争
が勃発します.

イラクは劣勢挽回のため,湾岸海域へ原油を意図的に流出したり,
クウェートの油井への放火といった行動を起こします.さらにペルシャ湾
北部に約1200もの機雷を敷設し,展開中の多国籍軍艦艇に大きな脅威
をもたらしました.実際,米艦が触雷して大きな被害を受けています.

2月24日早朝に地上戦闘が開始され,約100時間後の28日に多国籍軍
の圧倒的勝利をもって戦闘は終了,4月11日には停戦が発効されました.
しかしペルシャ湾には多数の機雷が残されたままで,依然として船舶
の安全を脅かしていました.


湾岸危機直後,日本政府は「クウェート侵攻は遺憾」というコメントをした後,
石油輸入禁止等の経済制裁措置を決定しました.

さらに8月13日には,15日から予定されていた海部俊樹首相の
中東5か国訪問の延期を決めます.これは他国の迅速な対応と比べ,
かなり慎重といえる対応でした.

人道的援助を求める声に対しても,ボランティアの医療要員派遣の
可能性を表明するなど,限定的な協力にとどまる姿勢を見せました.


しかし,イラクが外国人を即時に出国させる要請にも応じず,在留邦人
を軍事施設の盾にしていることが判明すると,政府は「国連平和協力法」
の検討を始めます.その背景には,9月末の段階ですでに40億ドルに
達する多国籍軍への財政支援を行なっていたものの,「資金援助だけでは
国際社会に通用する貢献とはいえない」と,アメリカなどから強く言われて
いた事情もありました.

ところが審議は難航,11月に同法案は廃案となります.


代わって急浮上したのが,自衛隊法を改正したり新法を制定したりする
必要のない,航空自衛隊輸送機による難民輸送案です.

「砂漠の嵐作戦」が始まると,政府は内閣に「湾岸危機対策本部」を設置.
自衛隊輸送機派遣の方針を固め,多国籍軍への追加資金協力90億ドル
拠出と合わせた貢献策を決定しました.難民の輸送準備のため,事前調査団
もヨルダンに出向きました.

しかし2月に入ると,ヨルダン国内の情勢が輸送機運航に適さず,避難民
の数も少ないことなどを理由に,自衛隊機派遣に慎重論が出てきます.

その結果,追加の資金協力は行なう一方,自衛隊輸送機派遣は見送られる
ことになりました.


多国籍軍へ130臆ドルもの財政支援は行なったものの,クウェートや
アメリカからの視線は「金は出しても人は出さない」と,きわめて冷たいものでした.

クウェートはアメリカの主要な新聞に,各国の支援に対する感謝の広告
を掲載しましたが,その中に日本の国名はありませんでした.

130億ドルとは当時のレートで約1兆5500億円です.
それほどの大金をはたいても,日本はクウェートをはじめ国際社会からの
理解も評価も得られなかったのです.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.11.26




マーケット・ガーデン作戦とインテリジェンス (15)
                長南 政義
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■前回までのあらすじ

本連載は,精確な内容を持つインテリジェンスが一九四四年九月上旬
に連合軍の指揮官に利用されたかどうかを考察することにある.
実は,インテリジェンスの内容は,マーケット・ガーデン作戦実行
に伴うリスクを連合軍の指揮官に警告していた.

指揮官が決定を下すために利用できるインテリジェンスの情報源
は数多く存在していたが,本連載では「ウルトラ」情報により提供
されたインフォメーションにのみ焦点を当てて考察を進めることとする.
第二次世界大戦を通じて,連合軍の戦略レヴェル・作戦レヴェル
の指揮官たちはウルトラ情報を活用し,ウルトラ情報の精確性
に関してめったに疑いを持たなかったからだ.

前回から,イギリスの「ウルトラ」計画について述べている.
前回は主として第一次世界大戦中のイギリスの暗号解読プログラム
についてと,大戦後の政府暗号学校創設の経緯について説明した.

戦間期のイギリスの暗号プログラムは,大変な資金不足と人手不足
とに悩まされていて,暗号解読分野ではポーランドの後塵を拝していた.

第一次世界大戦中,イギリス国内で暗号解読を担当していたのは,
陸軍情報局(DMI:Directorate of Military Intelligence)内
のMI1(Military Intelligence, Section 1)であった.
MI1にはMI1a(報告書類の配布などを行なう)からMI1g(防諜を担当)
までの分課が存在した.そのうちのMI1bが通信傍受および暗号解読
を担当していた.また,MI1bとは別に,海軍省も独自の暗号解読
プログラムを有しており,その部門はルーム40と呼ばれていた.

一九一九年,MI1bとイギリス海軍のルーム40が解散して,
両機関が合併する形で有名な政府暗号学校(GC&CS)が創設された.

当初,政府暗号学校は海軍省の管轄下にあったが,一九二二年,
政府暗号学校は外務省の管轄へと移管された.だが,この変更は,戦間期
に多くの弊害を作り出す結果となってしまった.

というのも,政府暗号学校に予算を附与し,政府暗号学校を統制する機関
が外務省であったがため,政府暗号学校の主たる対象が軍事通信ではなく
外交電報分野に向けられてしまったからである.そしてこのことがポーランド
と比べてイギリスの暗号解読能力が後れをとる一因となった.

今回もイギリスの「ウルトラ」計画について述べることとするが,
今回は特にブレッチリー・パークについて説明したい.

■コードネーム「ステーションX」

ドイツとの戦争が不可避であることが明白となった時,イギリス政府
はその政府機関の多く,特に国防関係の機関を,ロンドンの外へと
移転させ始めた.ブレッチリー・パークはロンドンから移転してくる
政府機関を収容する目的でイギリス政府により購入された多くの場所
の内の一つであり,ここが政府暗号学校の新たな拠点となった.

当時,政府暗号学校が最高機密に属する活動を展開していたため,
この場所がブレッチリー・パークと呼ばれることはなかった.
そのため,ブレッチリー・パークには「ステーションX」という暗号名
が附与された.このステーションXという奇妙な名称は,MI6により
十番目に購入された用地であり,MI6が用地を呼称する際にローマ字
を使用していたことに由来する.


■理想的環境にあったブレッチリー・パーク

ブレッチリー・パークは政府暗号学校にとって理想的な場所に位置
していた.というのも,ブレッチリー・パークはロンドンの北西約七十キロ
メートルの地点に所在しており,政府暗号学校に多数の人材を輩出
したオックスフォードとケンブリッジの中間に位置していたからだ.
しかも,ブレッチリー・パークはイングランドの田園地帯に孤立していた
にもかかわらず,ここには道路と鉄道とが存在し,これが必要が生じた時
にはロンドンへの容易なアクセスを提供していた.つまり,人材面および
交通アクセスの両面で地理的に好環境であったのだ.

一九三九年における政府暗号学校の限られた規模を考慮すると,
初期の頃の建物の規模は適切な大きさであった.しかしながら,
成長し続ける政府暗号学校の関係者を収容するためには増築が必要
であることが間もなく明らかとなった.

ちなみに,戦争が終了する前,ブレッチリー・パークでの活動を支援
するために周辺地区に建設された多数の施設およびブレッチリー・パーク
で働いていた人の数は約一万人にも及んだ.


■ブレッチリー・パークの改修作業と小屋番号

一九三九年の夏,元は荘園であったブレッチリー・パークを単なる大邸宅
から連合軍の暗号解読拠点施設へと改装する仕事が開始された.
最初の改修作業は電気・水道・道路などといったインフラ施設を改良
することから始まった.

そして,そうこうするうちに,現在使用可能な面積よりもより多くの
作業スペースが必要であることが明らかとなった.

「ウルトラ」計画が一握りの暗号解読者集団からなるプログラムからより
組織的なプログラムへと拡大するにつれ,増加する所要スペース
を充たすためにブレッチリーの地には多数の小屋が建てられた.

各小屋はウルトラ情報の生産過程で異なる役割を演じていた.
これらの小屋には番号が附与されていたが,この小屋番号はよく考えられて
附けられたものであった.というのも,小屋番号は単に物理的な位置を
示すだけでなく,各小屋でなされている作業の種類をも示していたからである.

■Yサービス

いかなる暗号解読作業も電文を解読する前に最初に通信を傍受
しなければならないが,通信傍受を担当していたのが「Yサービス」である.

Yサービスの主たる職務は敵が送受信している通信を傍受して,傍受した通信
をさらなる分析のためにブレッチリー・パークに送信することにあった.
最初の頃の傍受諸施設はイングランドにあったが,ウルトラ計画が拡大
するにつれて,傍受施設も世界中に設置されることとなった.


■Yサービスの任務

Yサービスの任務には,(1)敵の通信を傍受することの他に,(2)敵の無線
ネットワークや通信運用手順に関する広範な知的基盤を開発することが
含まれていた.後者は長期的にみてとても有益であった.というのも,
ドイツが周波数を変更したり,コールサインを二十四時間ごとに変えはじめる
ようになったりした時に,このことがウルトラ計画にとってたいへんな強み
となったからだ.

周波数が変更された場合,傍受した通信文をブレッチリー・パークに
送信して解読・分析作業が行なえるようにするために,傍受する側の
オペレーターは迅速に新しい周波数を特定することが緊要となってくる.
もし,Yサービスが周波数を特定できず敵の通信との接触を上手く保持
することができなかったら,それはウルトラ計画プロセス全般の遅延を
生じさせてしまう.


■ハット6(第六号棟)の任務

ブレッチリー・パークに送られてくる傍受された通信文の受取り窓口や
暗号解読作業の中心部となったのがハット6(第六号棟)であった.
ハット6では暗号解読のために集められた数学者たちが,その日の
エニグマのセッティングを特定し,それをハット3(第三号棟)で働く
分析官たちが判読できる通信文とするため二十四時間働いていた.

ここで注意が必要なのは以下の点だ.すなわち,ハット6は通信文
を分析することを一切行わないだけではなく,通信文を英語に翻訳
したわけではないということだ.ハット6の仕事は単に傍受した暗号化
された通信文をドイツ語で読める通信文にして,それをハット3
に送ることだけであった.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.11.26



兵法三十六計(5)

第五計 趁火打劫(ちんかだきょう)
─第二次列島線への進出─

                 元防衛省情報分析官・上田篤盛(あつもり)
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▼苦境に付け込む

「趁火打劫」は,「火に趁(つけこ)んで,劫(おしこみ)を打(はたら)く」と読む.

 敵の苦境(くきょう)につけ込み,あるいは苦境に追い込んだときには,
嵩(かさ)にかかって一挙に攻め立て決着をつける,いわゆる“火事場泥棒”
がこの計である.

 我が好機を失しない点では,第十二計の「順守牽羊」(じゅんしゅけんよう)
と相通ずるものがあるが,「趁火打劫」には,自らがマッチポンプ的に
仕掛けて好機を作為するという,より積極性が特性である.また,「火」を
題材とする第九計「隔岸観火」(かくがんかんか)は傍観策略であるが,
「趁火打劫」これとは真逆の積極策略である.

 春秋時代の呉越戦争(BC496−473)に遡る.呉王・闔閭(こうりょ)は
越に侵攻したが,破れてその時の怪我が原因で死亡した.闔閭の次男
である呉王・夫差は「3年以内に必ず越に復讐する」と誓い,自らは薪の上
で寝ることの痛みで屈辱を忘れず,国力の増強にいそしんだ.やがて夫差
は「越王・勾践(こうせん)の捕獲」(会稽の恥)に成功した.その際,呉王
の部下である伍子胥(ごししょ)は「越王を許してはならない」と進言したが,
伍子胥の意見は退けられた.

 助けられた越王は馬小屋の番人になって苦労を重ねたが,許されて
越に帰国した.越王は豚の肝を舐めて,その苦味で「会稽の恥」を思い返し,
復讐を誓った.また,越王は夫差に美女を献上して,彼の警戒感を解いた.

 そうこうしている間に,斉で内紛が起こった.呉王はこの機に乗じて斉を
併合することを決意したが,部下の伍子胥は「今は越に備える時」と進言
した.しかし呉王はその忠告を聞き入れず,斉に攻め込み,これに勝利した.

 勾践は「この機会が呉に攻め入るチャンス」と考えたが,越王の部下は,
「猛獣が獲物を捕らえるときは一気呵成に行なうべきで,意図を気づかれて
はならない」とこれを諌めた.呉王・夫差は勝利して,凱旋帰国し,部下の
伍子胥を遠ざけ,これを処刑した.越王は「これこそが本当の好機だ」と
判断し,夫差が諸侯会議に出席している留守を狙って呉を攻撃して大勝した.

◆「趁火打劫」は中国人のメンタリティ?

 わが国には「情けは人の為ならず」ということわざがある.これは
「情けは,いずれは,めぐりめぐって自分に恩恵が返ってくるのだから,誰にも
親切にせよ」という意味である.

 一方,中国には「宋襄(そうじょう)の仁」という言葉がある.これは宋の
襄公が楚の成王と戦った際(B.C638年の「泓水(おうすい)の戦い」),
襄公が敵に対して無用の情けをかけたばかりに手痛い失敗をおかした
故事に基づいている.すなわち「敵に対する無用の情けはしてはならない」
という戒めである.

 2015年10月末,関東・東北豪雨で被災した茨城県常陸市の民家から
銅線を盗んだとして中国人2名が窃盗容疑で逮捕された.彼らは「水害
で廃品が多くあると思って常陸市に来た.廃品なので窃盗になるとは
思わなかった」などと話した(『YOMIURI ONLINE』2015年10月30日).

 日本人の感覚では「盗人猛々しい」ということになるのであろうが,
2011年7月に起きた中国の温州市で起きた鉄道衝突事故においても,
アルミニュウムなどの高速鉄道用車両の特殊金属を求めて,「周辺住民
と名乗る」多くの中国人が当然のごとく現場に殺到したというから,
茨城県の被災での彼らの発言は,ごく自然な発想であったのかもしれない.

 被災地におけるこうした“輩”は,なにも中国人に限らないのであって,
「盗人=中国人」のような扇情的,差別的な論調は慎まなければならない.
ただし,侵略と被侵略が織り成す激動の歴史を生き抜いてきた中国人
にとって,「宋襄の仁」や『兵法三十六計』などを通じて「利用できるものは
利用する」「無用の情けは身を滅ぼす」という行動論理や精神構造は当然
のことなのであろう.

◆東日本大震災で展開された「趁火打劫」

 冷厳な国際政治のなかでは,むしろ「趁火打劫」の方が,常識
なのかもしれない.

 2011年3月11日,東日本大震災と福島第一原発事故が発生し,
日本は未曾有の危機的状況に見舞われ,自衛隊は10万人態勢
でこの未曾有の危機に立ち向かった.
 
 こうしたなか,後述するように中国による“準軍事活動”が生起したが,
この種の活動は中国に限ったことではなかった.

 ロシアは3月17日(IL-20)と3月21日(Su-27×2)に軍用機を日本海
上空の領空ぎりぎりに接近飛行させた.こうしたロシアの行為は大震災
に際して,「わが国の防空能力,海洋監視能力がどの程度低下して
いるのか?」「日米共同対応がどの程度機能しているのか?」など,
有事を想定した威力偵察を行なった可能性がある.他方で,中国の
対応行動を予測して,これに対する偵察,あるいは牽制を行なった
可能性も否定できない.

 韓国も,わが国による大震災復旧のさなか,日韓が領有を主張
している竹島においてヘリポートの改修工事に着手し,同島の
実効支配の強化を狙った(韓国『聨合ニュース』2011年3月31日).

 わが国が大震災復興に苦労するなか,2010年4月から2011年3月
にかけて,ロシアと中国の軍用機が日本領空に接近する回数は,
それぞれ前年度比の1.5倍,2倍に達した.まさに国際政治において
は「情けは無用」が当たり前なのである.

◆中国は東日本大震災を海洋進出に利用した!

 中国は東日本大震災で国防が手薄になったことを“奇貨”とするか
のように,海洋進出に向けた地歩拡大の動きをみせた.

 2011年3月19日付の香港紙『東方日報』は,日本が大震災で混乱
している時期に乗じて,「中国が釣漁島を奪回するにはコスト,リスク
を最小限にしなくてはならない.今が中国にとって最高のチャンスだ」
と記述し,「『趁火打劫』を発動せよ!」とばかりの論調を張った.
 
 同記事は「極端な記者が投稿した偏向記事」であったのかもしれないが,
これに呼応するかのように,同年3月26日と4月1日に,中国国家海洋局
所属の「海監」とその搭載ヘリ(Z-9)が海上自衛隊の護衛艦「いそゆき」
に異常接近し,挑発行為を繰り返すという事件が発生した.

 中国国家海洋局は5月13日,福島原発の放射能の海洋への流入
状況を監視することを名目に多くの船舶を日本の東側海域に派遣した.
さらに海洋局は「日本の排他的経済水域(EEZ)に進出して監視協力
を行なうつもりである」ことを公表した.6月23日には,宮城県・金華山
の約330キロの沖合のわが国EEZ内で中国海洋調査船が約4時間
停滞し,海洋観測していたことも判明した.海上保安庁巡視船の退去警告
に対して「合法な海洋環境調査をしている」と応じた.

 当時,国家海洋局・海洋環境保護司の李暁明司長は「日本の放射能
漏れは今後5年以内,西太平洋に対して長期にわたり,汚染をもたらす
だろう」「西太平洋は中国の海域と非常に近いことから,中国は監視,
警戒を強化しなければならない.中国が日本海以東の海域に出向いて
海洋の放射能汚染を監視する必要がある.日本のEEZ内での調査により,
放射能の海洋への流出データもより正確なものになるだろう」と述べ,
活動の正当性を主張した.

 なお李司長は,劉賜貴・国家海洋局長が丹羽宇一郎・駐中国日本
大使(当時)と会見し,日本のEEZで監視協力を行なうことを要求
したことも明らかにした.

 中国側このような活動に対し,当時の日本政府は正式コメントを
控えたが,中国が日本の原発危機に乗じて,第一列島線を突破して,
太平洋へと進出するための既成事実化をはかっているとの疑念が
生じた.つまり,環境調査を名目に,長期的視野で推進している
海洋進出のための軍事情報収集活動を行なった可能性が指摘される.
まさに「趁火打劫」の実践であったろうか.

◆中国は第二列島線までの支配を開始した!

 2004年頃から,中国の海洋調査船は沖ノ鳥島のEEZ内を日本に
無断で徘徊するようになった.これは海洋調査を偽装し,真の目的
は軍事情報収集活動の可能性がある.こうした収集活動の成果
が,実戦的な潜水艦の行動や海洋での軍事訓練の強化につながって
いる可能性は否定できない.

 2009年の「海軍創設60周年記念式典」で,呉勝利・海軍司令員(司令官)
は「外洋訓練が常態化され,毎年多くの外洋訓練を実施している」と
語った.この発言にみられるように,中国海軍は2008年頃から沖縄
近海の第一列島線を越えた海域での艦艇の活動を活発化させた.
2011年6月には,約2週間にわたって,東海艦艇の駆逐艦,フリゲート
など10隻以上の艦艇が沖縄近海を通過し,沖ノ鳥島南西450kmの
太平洋海域において射撃訓練,UAVおよび艦載ヘリコプターの飛行
訓練,洋上補給訓練などを行なった.

 2011年11月には,北海艦隊の駆逐艦,フリゲートなど6隻が沖縄近海
を通過し,太平洋海域に進出して,海上訓練を行なった.12年2月,
東海艦艇のフリゲート4隻が沖縄近海を通過し,太平洋へ進出した.
このように中国海軍の太平洋における訓練は定例化し,逐次,訓練
内容の質的向上がみられる.15年5月,中国空軍の爆撃機(H-6×2)
が初めて沖縄本島─宮古海峡上空を通過し,西太平洋に進出して
訓練を行ない,再び宮古海峡を西進,中国本土に帰還した.

 こうした一方,2014年9月から10月にかけて小笠原諸島および伊豆
周辺海域で大量の“漁船団”が出没した.これら漁船団は赤サンゴの
密漁が目的だとされるが,漁船団の動きが計画的・統制的であり,
なかには艤装が漁船とは異なる船舶,行動のおかしい船舶も存在するという.

 こうした点から,海洋事情の専門家である東海大学教授・山田吉彦氏は,
尖閣諸島と小笠原諸島との2正面作戦,第二列島線(※)までの支配に
関連した軍事偵察であったなどの可能性を指摘した.同氏の見方について
筆者もまったく同意する.

(※)第二列島線は伊豆諸島を起点に小笠原,グアム・サイパン,
パプア・ニューギニアに至る線で戦力展開の目標ライン,対米防衛線.
ただし,中国は公式に第一列島線,第二列島線という用語を使用して
いない.

 中国が台湾統一やアジアにおける覇権を確立するためには,太平洋
における米軍関与を排除しなければならない.よって,中国は第一列島線
から第二列島線までの海域において,米軍に対するA2AD(接近阻止・領域
拒否)能力の取得を目指している.

 そのために中国海軍は,「海上・航空優勢獲得のための水上打撃力と
防空能力」「艦艇部隊を防護するための対潜戦能力」「C4ISR関連装備
の充実と統合運用能力」などを軍事力整備の課題としている.これら課題
を克服するため,中国は海軍による太平洋での外洋活動を強化していく
とともに,“漁船団”と称する海上民兵を利用して,軍事調査や威力偵察
などを今後も繰り返す必要があるのであろう.

 中国が台湾作戦における米空母などからのスタンドオフ攻撃の回避を
想定した場合,太平洋に進出して海洋防衛バッファーを拡大し,米軍
に対するA2AD能力を強化するという選択肢はもはや回避できない.
すでに第二列島線までの侵食が開始されているのである.

 中国は,今後もわが国の苦境に躊躇することなく,むしろそれを利用して,
海洋支配を強化してくるであろう.中国による太平洋への進出は,中国
による東シナ海と太平洋との両翼包囲の形成を意味し,わが国の防衛態勢上,
極めて不利となる.さらにはロシア,北朝鮮,韓国の不透明な行動も予想
される.わが国は複数正面対処を念頭においた,防衛態勢・体制を強化
しなければならない.


(第六計「声東撃西」に続く)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.12.1




荒木 肇
『関東軍特種演習・最終章──史上空前の大動員(7)
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□はじめに

 わたしの関心事は,もともと日露戦争後(1905年)から,
大正時代(1912〜1926年),そして満洲事変(1931年)まで
の社会と学校の関係です.戦史や軍隊の行動については
門外漢であり,この時代の陸軍の動きも初めて真面目に
読みました.それにしても事実を残そうとしない
防衛庁『戦史叢書』にはいささか呆れるところです.

 いまだに,過去の15年間にわたるわが国の軍事行動については,
それが侵略か自衛かどうかの「神学論争」が続いています.
どのように企画し,どのように戦ったのか,それでどうして負けたのか.
せめて実態を明らかにしようと思うときに,頼るべき「公刊戦史」
がこのような矛盾と粉飾,欺瞞に満ちた内容だったということに
腹が立つほどです.

 問題は記述・編纂した防衛庁戦史部にあったのでしょう.
昔から軍事に関わることを恐れ,あるいは軽視していたのがわが国
の学界です.あの複雑な軍事用語,戦術記号などを読み解くことは
学者・研究者にはとうてい能力の及ばないところでした.
しかも日清・日露の昔から,戦史は参謀本部の戦史セクションが
書くことになっています.敗れたとはいえ,参謀本部の構成員の
ほとんどは生き残りました.軍事行動の大元を,企画し,実行させ,
評価し,さらに計画を練り,部隊に新たな行動をとらせた人々です.

 さぞや率直に,正直に自らが属した組織について証言を残した
はずと信じていました.それが生き残ったプロの軍人の使命の一つ
だと思うのです.多くの素人を召集して,むざむざと殺してしまった.
それが近代国家の国民軍だということも確かです.そのことにとやかく
言うつもりはありません.また,多くのプロたちが身を挺して先頭に
立ち,国に殉じたことも確かでしょう.陸士,陸経,海兵,海機,海経
といった軍学校出身者たちの戦没率は一般に比べてはるかに高い
ことも事実です.
 
 しかし,生き残った高級軍人たちは責任をきちんととったのだろうか.
確かに,それぞれに人には言い分があります.死ねばいいというもの
でもありますまい.しかし,自分の言動に責任を負うのは,立場に
関係なく,人として当然のことでしょう.しかも,命令を遵奉し,
亡くなった方たちにどうお詫びをするべきでしょうか.
 
『君たちだけを行かせはしない.最後には俺も突っ込む』と豪語した人
だって,戦後には『自分は死ぬわけにはいかない.戦後復興に尽くす
義務がある』と言い出す始末です.陸軍高級将校の圧倒的な多数は,
戦後,立派に生き抜きました.

 防衛庁が戦史を編むとなったら,自薦,他薦,さまざまな人が
出てきたのでしょう.みな陸軍大学校を出た人ばかり,元方面軍参謀,
大本営参謀といった人ばかりでした.つまり「サンボウ=3つのボウが
集まった」,『乱暴・横暴・無謀』といわれた人たちの仲間でした.
お互いの失敗を隠し,うまく言い繕う文章作りには長けた人ばかりです.
都合のいい証言だけを取り上げて,仲間のミスや無責任を隠し通す.
それが『戦史叢書』だといっていいでしょう.公刊『日露戦争史』も同じ
だったというのはよく知られている事実です.

 勝った戦争ですら正確に書き残せなかったのが日本陸軍でした.
それが負けたのだから猶更でしょう.今回は,さまざまな証言を交えながら
関東軍特種演習のまとめをいたします.

▼なんの準備もしていなかった

『おおい,この一本道で俺の聯隊はどう展開しろと言うのだ』
 九州から動員された野戦重砲兵聯隊長の嘆きだった.現地へ視察
に出た野戦砲兵学校の研究官の前で吐かれた言葉である.関東軍
特種演習の動員が始まり,九州などの近い部隊はすでに攻撃発起地点
に向けて前進中の話である.聯隊は15センチ榴弾砲の輓馬編成部隊
だった.その場所は関東軍第5軍が担当する,ソ連領イマン方面を
前にした興凱湖付近の大湿地帯である.

 関東軍の作戦計画によれば,第3軍は東寧,綏芬河(すいふんが)
から直進してウラジオストックを衝く.第5軍はその北方の大湿地帯を
突破してイマン方面に急進撃する.ウラジオを第3軍とともに落とせば,
すぐにハバロフスクに転進するという計画である.ところが,この大湿地帯
を通っているのは,たった一本の道路しかない.わずかトラックが2台,
ようやくすれ違える道,その両側は水を含んだブヨブヨの湿地である.
人ですら踏み込めばズブズブと膝までも沈んでしまう.重火器どころか
トラックですら入り込めない所だったのだ.

 ところが戦史叢書には不思議な事が書かれている.この事実より
2カ月も前のこと,6月上旬に来訪した参謀本部作戦部長,田中新一少将
に関東軍司令官河辺正三中将は次のように語ったと書かれている.
(1) 対戦車装備は貧弱で,実戦的訓練も甚だ低調である.
(2) 将兵の対砲火訓練は甚だ低水準である.
(3) わが国境陣地の対火砲抗堪力(こうたんりょく)は不十分である.
(4) 綏芬河のソ連軍はすでに大要塞化している.

 ノモンハンで対戦したソ連軍機械化部隊から受けた教訓は生かされて
いない.対戦車装備といえば,筆頭にあがるのは対戦車速射砲だろう.
ドイツのラインメタルの37ミリ砲をコピーした九四式三十七粍速射砲は
確かに効果があった.実際,かなりのソ連軍戦車や装甲車はこの砲の前
には無力で大損害を出した.ただし,射程内に捉えた場合だけだったし,
何より装備数が不足し,それに砲弾の補給もままならなかった.

 (1)について,2年前のノモンハンの戦訓を中央部が知らなかったわけ
ではない.1939(昭和14)年10月には大本営陸軍部内に研究委員会
が置かれていた.編制装備と作戦資材を担当した技術本部部員の
砲兵大尉は次のような内容の報告をした.
『37ミリ対戦車砲は,近距離でこそ効果があったが敵戦車の遠距離停止
射撃に対抗できなかった』
 射程外から発見されれば,たちまち対戦車砲陣地は砲撃され破壊された.
わが射程を延ばそうとすれば大口径化するしかない.現在の敵の45ミリ砲
にも勝ち目がないのだから,さらに大きな砲弾を高い初速で撃ちだす
長射程砲を開発するのが緊要だ.また75ミリ以上の火砲で撃つことに
よって敵戦車に発火をさせた.しかし,敵もガソリンエンジンを使い続ける
保証もない.ジーゼルだったらどうなのか.だから,火炎瓶(かえんびん)
なども期待できない.
 
 そして委員会は47ミリ対戦車砲の開発を急ぐようにと結論を出した.
ところが,それがすぐに実行されなかったのだ.支那での戦場では
手ごわい敵戦車はいなかった.しかもカネは次々と戦場で消費されて
いた.ここでも戦いながら,新しく兵器を開発し,装備することができて
いなかったのだ.
 
 (2)についてはノモンハンでも苦い思い出ばかりだった.ある砲兵少佐は,
敵弾下での訓練など,それまでしたこともなかったと言っている.
対砲兵戦闘とは「撃ち,撃たれる」ことである.敵の砲弾で次々と砲手
は倒れる.こちらは強装薬で無理な射撃を継続する.砲尾は灼(や)ける.
閉鎖機には細かい砂塵が入って琺瑯(ほうろう)のように固まってしまう.
塞環(そくかん)はすぐに損耗した.塞環とは砲身の後部と閉鎖機の隙間
をふさぐ交換消耗部品である.それが不足して,場合によってはガス漏れ
を承知しながら撃つことがふつうだった.当然,射撃の精度は劣った.
厳しい戦場環境を想定して演習をしたことがないから,カタログデータ
を信じて,部品補給にも手落ちがあったのだ.
 
 輸送部隊にも誤算があった.馬である.現地馬と違って精鋭の国産馬
は伏せる訓練などしたことがなかった.立ったままなので,砲弾の破片
で傷を受けてしまう.仕方なく馬が入れる高さの壕を掘らざるを得なかった.
また,1日1頭当たり25リットルにものぼる馬の必要とする水の集積も
うまく行かなかったのである.もちろん,歩兵隊の兵士たちも敵弾下で
訓練したことなどなかった.戦車を初めて見たという兵も将校も多かった.
 
 (3)については想像するだけで貧弱さがよく分かる.攻めるつもりばかり
だから,頑丈な敵トーチカの破壊には熱意をもつが,自分の陣地を補強
するということには案外無関心なのだ.もし,逆に攻め込まれたら・・・
という不安は,4年後のソ連の不法侵入で的中してしまった.

 (4)についていえば対ソ連情報活動は盛んに行ない,実態はけっこう
把握していたのだろう.敵の綏芬河要塞も,イマン要塞も頑強で,
包囲されても3カ月や半年は持つらしいと判断をしていたという.
 
 ▼どんどん行けばいいんですよ
 
 読者はこの叢書の欺瞞に気づくだろう.6月2日に河辺中将が田中少将
に語った内容がこれである.その田中少将のメモにあったというのだが,
田中少将こそ50万人,馬15万頭の動員をせかした人ではなかったか.
7月になっても,ソ連は倒れない.8月ならばと言いながらドイツ軍の前進
は停滞する.極東ソ連軍が去って行った様子もない.ということから参謀本部
はソ連侵攻を断念するが,それを叢書は次のように書いている.
 
「8月上旬に至り中央省部は情勢に鑑み年内対北方武力行使を断念
したのであるが,その連絡に関東軍司令部に赴いた田中第一部長は
『率直明快』に関東軍の作戦準備が甚だ不備である旨を指摘し,
今次の独ソ開戦の機会にこそ一挙に戦備を充実向上すべきであると述べた」
 
 何より奇怪なのは,前のメモ(6月)で十分承知していたという関東軍
の戦力の実態を知りながら陸軍省の反対を押し切り,兵力を増強し,
戦費を使わせた当人,田中作戦部長の責任を問うていない.
8月に作戦準備ができていないと指摘,指導したかのように粉飾した
書き方をしている.
 
 どころか,この筆者は『この作戦部長(田中少将)の嘆きの声は,
わが方の努力不足に故に非ず,恐るべきソ連の国力,軍事力に対する実感
にほかならず』などと提灯持ちの文を書いていると加登川氏も書いている.
それもそのはず,田中新一中将が亡くなったのは1977(昭和52)年のこと
である.直情径行の人と言われ,ビルマで第18師団長,さすが勇将と
仲間うちでは大変褒められている人だった.書かれているうちも存命
だったのだ.戦史部の編纂官の中には直接恩を蒙った人もいたろうし,
仲間が多かったのだろう.

 素人がどう考えてもおかしいと思うのは,行軍縦列の長さ(長径)を
どう考えていたかということだ.1個砲兵聯隊が1列縦隊で戦闘行軍
をすれば,先頭から末尾までおよそ2キロメートルにはなるだろう.
馬の数は1000頭以上にもなる.弾薬車や部品車,観測車などの車輛
がある.しかも時速は4キロ程度にしか過ぎない.身軽な歩兵聯隊
といっても大隊ごとに糧食や弾薬,陣営具を積んだ行李があり,歩兵砲(山砲)
は分解駄載する.重機関銃分隊だって弾薬馬や予備品馬や手入れ具
を積んだ馬がいる.速射砲中隊も馬だらけである.師団輜重はこれらを
追い抜きつつ糧食や秣(まぐさ)を補給する.

 稲田正純という砲兵出身の少将がいた.陸軍大学校第37期の恩賜卒業,
フランス駐在も経験し,ノモンハン戦のときの大本営作戦課長だった.
それが責任を取らされ,部隊に飛ばされる.阿城の重砲兵聯隊長だった
のが第5軍の参謀副長を命課された(7月7日).7月10日に関東軍司令部
に顔を出した.すると歩兵科の作戦主任参謀が「何をぼやぼやしているの
ですか」と言う.こういう言い方を先輩にできるのは,互いにもともとよく
知っている関係だからだ.

 さらには,関東軍作戦主任参謀の歩兵大佐にとって相手は先輩とはいえ,
砲兵大佐(少将進級は10月15日)の隷下軍参謀副長である.「砲兵は
予備をとらないから戦術が分からん」というのが歩兵のエリートの気分
だった.戦術がそのまま戦争であるなら,その認識でもいいだろう.
だが稲田砲兵大佐は現地の部隊行動に関わる事実を述べにきたのだ.

 第5軍の進撃正面の湿地帯には道が1本しかない.道以外は踏み込む
ことは不可能だ.数個師団もそこへ出せるとは思えないと答えると,
『ナーニ,たなぼたですよ.ソ連の抵抗など問題ではない.とにかく行けば
よいのデスヨ』と『一笑に付して』真面目に言い分を聞こうとしなかった.
これは戦後の稲田中将の「叢書編纂委員会」への証言である.

▼昔も今も
 
 戦後,やはりある会合でこの第5軍の兵站参謀だった人が加登川氏
の質問に答えている.「第5軍は作戦できると思っていたのか?」という
問いに,「作戦なんてとんでもない」と言明しているのだ.
 
 興味深いのはこの稲田中将である.張鼓峰事件,ノモンハンの
参謀本部作戦課長だった.満洲の実態について何も知らなかったはずはない,
けれども知らなかったと言っていい.また,別の証言もある.ソ連をやる
のだと力んでいたのは田中部長だけだったと言うのである.他の人は
ほとんど不賛成だったという.ならば,なぜ,止められないのか.
後になって,ほらやっぱり思った通りだめだった.自分は失敗を予想
していた・・・というなら,今もこうした人物は周囲にいないだろうか.
 
 陸軍将校,出世の3条件という笑い話があったという.『大声・馬鹿・野暮』
だそうだ.大声というのは,いつも気魄があるというジェスチャーである.
元気な声を出している.いつも前向きで,上司の覚えが良く,上の人の
言うことならイエスマン,これを馬鹿.外見を飾って,おしゃれな様子
は嫌われる.言語・動作,服装は野暮.今もこうした人が出世の階段を
登っていないだろうか.
 
 昔の陸軍を笑うことは簡単だが,わたしも含めて,私たちの中には
日本軍が生きている.
 
 次回からは,兵站の始まり,建軍当初の明治からふりかえってみよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.12.2




『ライター・渡邉陽子のコラム (72) ─ 自衛隊海外派遣の歩み(2) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.
ファンタジーは普段読まないのですが,先月遅ればせながら
上橋菜穂子にドはまりしました.最初に「獣の奏者」でがつんとやられ,
今は「守り人」シリーズです.

先月は電車に乗っている時間が多かったのですが,
その移動時間がまったく苦にならない(朝の満員電車は別ですが…),
スマホいじくったり居眠りしたりしている場合じゃないというおもしろさです.
早く続きを読みたいために,仕事も早く終わらせようと必死です.

その反面,読み進めるほど終わりが近づいてしまう,ずっとずっと続きを
読みたいのにという葛藤も.児玉清さんが書かれた解説でも絶賛の嵐.
まずは「精霊の守り人」からおすすめします.
男も女もバルサに惚れますよ,ほんと.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■自衛隊海外派遣の歩み(2)


湾岸戦争において多国籍軍へ130臆ドルもの財政支援を行なっても,
クウェートをはじめ国際社会からの理解も評価も得られなかった日本.

自衛隊嫌いで知られた海部俊樹首相も,さすがに重い腰を上げざるを
得ない状況となっていきます.同時に,「目に見える形での具体的な
国際貢献は行う必要がある」という声が国内でも次第に大きくなっていきました.

そして停戦後,政府はついにペルシャ湾の機雷除去作業のため掃海部隊
の派遣を決定したのです.


政府は掃海任務を定めた「自衛隊法第99条」に基づき,
ペルシャ湾に掃海部隊を派遣する方針を固め,1991年4月16日には
「ペルシャ湾における機雷等の除去の準備に関する長官指示」が正式
に発出されました.


自衛隊初の海外派遣の主役となった艦艇は最新鋭の装備を誇る護衛艦
ではなく,海外演習の経験もない小さな木造の掃海艇でした.

掃海派遣部隊の編成は,掃海母艦「はやせ」,掃海艇「ひこしま」,
「ゆりしま」,「あわしま」,「さくしま」及び補給艦「ときわ」の計6隻.
第1掃海隊群司令の落合?一等海佐(当時)が指揮することになりました.
余談ながら落合氏は沖縄戦で「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電報を送った
ことで知られる落合実中将のご子息です.


掃海部隊の派遣準備が始まってから出航までの猶予はわずか10日間.
それは,持っていく必要があると考えつくあらゆるものを,梱包も解かず
積み方も考えず,とにかく船にどんどん積み込むという怒涛の日々でした.

限られた時間のなか,一度も寄航・訪問経験がない海域の情報収集
や航路の選定が進められ,横須賀,呉,佐世保の3つの基地では隊員
たちによる不眠不休の準備が続きました.同時に,自衛隊の海外派遣
に反対する声が聞こえるなかでも派遣隊員の士気を高め,そして残された
家族に対しては一切の不安を与えないよう,各種の措置をとる必要がありました.


そんななか,落合氏は1日も早くペルシャ湾に到着したいと思っていた
そうです.取材時,落合氏は次のように語りました.

「インド洋の海況が心配でした.出発が遅れるほどモンスーンをまともに
受けることになり,500トンに満たない小さな掃海艇には厳しい航海
になることが予想されたので.4月末の出発というのは,モンスーンを
避けられるまさにぎりぎりのリミットだったのです.それに日本以外の
掃海部隊がすでにペルシャ湾で機雷の掃海に当たっていましたから,
自分たちだけが遅れて参加するというのは国内の事情でやむを得ない
ものの,けれどやはり一刻も早くほかの国と協力しあって掃海作業を
進めたい,そう思っていました」


しかし4隻の掃海艇はいずれも沿岸作業用に造られた木造船.時速
はどんなに頑張っても10ノット程度,自転車と変わらないようなスピードで,
片道約6800マイルもの航程を進まなくてはいけません.到着までは1ヵ月
と1週間かかることが予想されました.

「この日数を少しでも短くするにはどうしたらいいか.それには水や食料,
燃料補給のために立ち寄る港での滞在時間をできる限り短縮するしか
ありません.朝8時に入港,補給したものを船に搭載する作業が終わったら
即出航,その時点でまだ午後4時,こんな感じです.搭載には大体6時間
かかりますから,隊員たちが上陸して一息つく時間なんてまったくありません.
往路で寄港したスービック,シンガポール,ペナン,コロンボ,カラチ,
すべての港でこのようなハードスケジュールでした.よく隊員たちが一言
の文句も言わず耐えてくれたと思います.おかげで海が静かな時にインド洋
を渡れ,予定より1週間早くドバイに到着できました」


4月26日,ペルシャ湾掃海派遣部隊は横須賀,呉,佐世保から部隊集結場所
である奄美群島に向けて出港.

落合氏のコメントにあるように補給のために立ち寄る港での滞在時間
もできる限り短縮し,予定より1週間早い5月27日にUAEのドバイに入港
しました.

当時,肩身の狭い思いをしていたクウェート在住の日本人は,自衛隊の到着
に涙を流して喜んだといいます.

その後6月5日から9月11日までの99日間にわたり,主としてペルシャ湾
の北部海面でアメリカおよび他の多国籍軍派遣部隊と協力して掃海作業
を行ないました.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.12.3





荒木 肇
『兵站の定義について──日本陸軍の兵站戦(1)
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□はじめに

 今年も大東亜戦争の開戦記念日が近づいてきました.
皆様,いかがお過ごしでしょうか.74年前の今頃,陸海軍
将兵はまなじりを決して戦端が開かれるときを待っていました.
その裏側では,膨大な人,物,金が動いていました.
開戦準備は半年以上も前から企画され,それぞれの部署で
人が動き,物が集められ,運ばれていたのです.
今回から,まとめた形で昔の陸軍の一端をご紹介していきます.
これまで書いたものと重複する記述がありますが,諸事情
をご配慮の上,煩雑さはお許しください.

 HY様,お便り誠にありがとうございます.お説の通りです.
戦う軍隊を国民がどう支えるか.まさに国民的議論が必要
というご指摘はほんとうに正鵠を射ています.
そこで,わたしも大きなテーマである「日本人とはどういう
国民か」について考えてみたいと思っています.
その一端が,この兵站を考えることになります.
よろしくお願いいたします.


▼言い換えができなかった兵站という用語

 戦後,軍隊ではないとしてスタートした自衛隊,兵や軍という
言葉は決して使われなかった.その代わりいろいろな言い換え
を考えた.警察予備隊の初めのころ,歩兵は兵という言葉
を使ってしまうと軍隊になる.そこで普通科と呼ぼう.砲兵は
特科だ.工兵は施設科,憲兵は警務科,騎兵はなくなったが
機甲科にすれば兵は使わなくてすむ.輜重兵は物資を
運ぶのだから輸送科にしてみよう.そういった工夫がされて
現在につながっている.もちろん,すべての言葉の言い換え
などは面倒なもので,特車といわれたタンクはいつの間にか
戦車となったし,管区隊は師団となり,混成団は旅団となった.

 階級名も同じ工夫がされた.1950(昭和25)年に発足した
警察予備隊では警査(兵),警察士補(下士官),警察士(尉官),
警察正(佐官),警察監補(いまの将補),警察監(同じく将)とした.
査というのは明治初めに採用された巡査の言葉からきている.
これを1等・2等・3等と細かく分けた.ただし当初,3等警査と
3等警察士もなかった.現在の3等陸尉(少尉)が作られたのは
1952(昭和27)年3月からになる.補というのは「次ぐ者」と
いうことで,いまも警察官には警部補というランクがある.
これは警察予備隊だから元の身分が警察官だからそれでよかった.

 次いで保安隊(1952年)と海上保安庁の海上警備隊が
別々に存在していた.防衛2法といわれた防衛庁設置法と
自衛隊法が1954(昭和29)年6月に国会で可決された.
これで陸・海・空の3自衛隊が発足する.階級名も昔ながらの
将官,佐官,尉官が復活し,下士官も曹で統一され,兵だけは
士となった.ただし,陸自には軍曹はなく陸曹がいる.海自は
兵曹がいなくて海曹といい,空自には空曹という名称がある.
軍隊ではありませんが,似たような武装組織ですといった
思い入れがあったに違いない.ただし,律令体制(8世紀)から
の伝統ある大(つかさどる),中,少(助ける)といった3区分が
士官には使われず,1・2・3等となっていることはよく知られている.
 
 自衛隊らしい名称は,海空自衛隊も事情は同じで駆逐艦や
フリゲートは護衛艦と言い換えられた.空自の対地攻撃機は
支援戦闘機などと今でも言われている.兵器とは言えないから
武器といい,陸自の戦略単位の名称も初めのころは昔の軍隊
をイメージしやすい師団を使えず管区隊といった.駐屯地の警備
などにあたるのは警衛隊であり,衛兵隊ではない.
 
 しかし,どんな言葉でも言い換えができたわけではなかった.
今でも自衛隊で堂々と「兵」が使われている.それは「兵站」
という単語である.適当な新しい言葉が見つからなかったらしい.
兵站とは単に補給,輸送,整備などという狭い範囲の考え方の
集合体ではないからだ.元の言葉は英語のロジスティクス(Logistics)
である.自衛隊ではこれを「後方支援」と訳語を使うからだろう.
職種(これも言い換えだが,兵科のことをいう)でいえば,輸送,
衛生,武器,需品などの専門家で構成される後方支援連隊(師団),
後方支援隊(旅団)という部隊がある.英語の名称では連隊は
ロジスティクス・レジメントであり,隊ではユニットを使っている.

 防衛研修所の定義によれば,「兵站」を『戦争を遂行するために
必要な人的戦闘力と物的戦闘力を造成・維持・発展させ,もって
戦争手段を提供する軍事活動をいう』としている.

 自衛隊ではこれをさらに具体化して,補給・整備・輸送・建設・衛生・人事
および行政管理とする.

 具体化といっても,われわれ普通人にとってはこれだけでは
分かりにくい.そこで陸軍が行なっていた説明を参照してみよう.
日本帝国陸軍にとっては,戦地へ出動している野戦軍と国内の
策源地との間に,必要とする物資の物流ラインとシステムを構築・維持
することをいった.まず,物資の調達やその保管・管理,搬送・配送
などを行なう拠点の確保がある.次に,搬送手段(船舶・鉄道・車輛・馬など),
それらを支える通信連絡網,必要な設備や機材,これらを実際に
運用する人の組織(部隊・機関)などのシステムの全体を「兵站」と
まとめていた.

 1930(昭和5)年といえば,陸軍が新しい「昭和2年度動員令」を
策定したすぐ後のことだが,『兵站綱要』には次のように書いてある
(元は旧漢字カタカナ混じりのもの.現代語に書き直す).
『作戦軍と本国における策源とを連絡し,その連絡線に所要の設備
を施し,必要の機関を使用し,これによって軍需をみたし,障害を排除し,
それによって作戦軍が目的を遂行できる様々な施設や,その運用をいう』

『陣中要務令』には「兵站勤務」の項がある.これを見ると,さらに理解
が容易になるだろう.これも分かりやすく箇条書きにする.
(1)馬匹,軍需品を前線に送ること.
(2)補給作戦に必要がない人馬,物件の収容とそれらを後方に送ること.
(3)交通する人馬の宿泊や給養と診療その他を行うこと.
(4)野戦軍の後方連絡線の確保をすること.
(5)戦場に遺棄された軍需品の収集と修理・再生すること.
(6)戦地においての諸資材の調査利用と民生へも関与すること

 実際に砲火を交えている戦場の後ろには,こうした広大で奥行きも
ある複雑なシステムが広がっていた.損耗した人員と軍馬の補充
は常に行なわれた.内地の留守部隊の教育隊からは補充の兵員
が続々と送られる.軍馬も送られてくる.負傷兵や傷病馬は前線から
後送されてくる.当面する戦場の実態に合わなくなった装備・資材
も転用や保管のために戻ってきた.移動途中の人馬もいる.
そのための兵站宿舎や病馬廠,病院なども設置する.輸送路である
鉄路や道路,水運路なども警備,維持,確保が必要である.
遺棄され回収された軍需品,鹵獲品,兵器や装具,糧秣(りょうまつ)
などもあった.修理・再生する貨物廠や兵器廠といった施設もある.
糧秣補給は兵站勤務員ばかりか移動する人馬へも用意しなくては
ならない.

 このように,兵站は単に人を送り,物を運べばいいというような簡単な話
ではない.軍隊の活動,それは主に戦闘だが,部隊の行動に支障がない
ように必要な時と場所に必要とされる人と物と,それらに必ず付きまとう
サービスを合わせて配分することをいう.

 陸上自衛隊の需品科の仕事を「宿屋のオヤジ」だという説明の仕方が
ある.食わせて,眠らせ,服を着せるという役割を上手にたとえたものだ.
給食設備,野外入浴セット,野外洗濯機,浄水機などの需品科部隊
の主要装備は災害派遣などでも知られるようになってきた.これらの仕事
は昔の陸軍では主に経理部将兵の仕事だった.物資や弾薬を運ぶのは
現在では主に輸送科が行なっている.昔は輜重兵の業務になる.
輜重兵は輸送を任務とし,配分を行なうのが経理部の担任とおおよそ
理解してもいい.

 いくら陸上自衛隊が軍隊ではないといっても,いったん戦えば,
昔の陸軍となんら変わらない事態に出会うことだろう.病人も出るし,
負傷者や死者も出る.弾丸は撃てばなくなるし,トラックや戦闘車輛も
損傷する.食糧や燃料,水の補給は止められない.衛生環境や装備も
整えるのは当然である.これらについては,自衛隊は過去のPKOなど
の実績から多くを学んできている.これまで1件の重大な事故が起きて
いないのは,その賜物であり,われわれ国民もそのことは誇ってもいい.
 
 近頃の安全保障法改正にからめて,戦争に巻き込まれる恐れがある
などと安易に発言する人がいる.ところが,実際のところ,戦争を支える
兵站は複雑かつ面倒なもので,他の国家機関や民間企業との協力関係
が不可欠なものだ.だから,自衛隊だけで戦争ができるというものではない.
軍人は,あるいは自衛官は戦争をしたがるなどと語る人もいるが,
戦争をよく知る自衛官は現在のような体制で安心して戦えるとは思っていない.

▼海外派兵を支えた「動員」

 昔の陸軍では軍隊が戦時態勢をとり,編制も変わり,物資も十分に
用意される状態を『動員』といった.部隊の定員は大きくふくれ上がり,
装備品も十分に支給され,軍需品が大量に必要になる.平時定員と
戦時のそれの間を埋めるのは予備役や後備役の将兵の召集である.
陸軍は1927(昭和2)年の兵役法から現役2年,予備役5年4カ月,
後備役10年という服役制度をとった.予・後備役に編入された人たち
は厳重に管理され,毎年,「在郷軍人名簿」の記載も実態に合わせて
改訂されていた.もちろん,演習召集や観閲点呼などという行事もあり,
戦闘員としての戦力維持も図られている.

 召集業務を直接担当するのは各歩兵聯隊区にあった司令部だ.
たいていが大佐を司令官として,徴兵検査,在郷軍人の管理などをする課
に分かれていた.聯隊区司令官は動員担任官の一人として師団管区
の責任者である師団長の指示を受けた.市役所や町村役場には専任
の兵事係がいて,名簿の作成や改訂を業務としていた.召集令状の
保管責任者は市では市長であり,町村では警察署長である.

 動員計画は参謀本部の作成する年度作戦計画にそって毎年作り
変えられる.国際情勢を分析し,起こりそうな武力紛争を想定し,その際
の使用兵力を決めておく.動員には(本)動員と応急動員があった.
動員にはおおよそ2週間から3週間を必要とした.応急動員は動員の完結
を待たずに対敵行動をとることに必要な一部要員(主に戦闘部隊)だけ
を充足させる.戦闘部隊を戦時編制にし,補給関係の諸隊は後から送る.
これは3日間で完結させることになっていた.これとは別に,緊急時に
行なわれる警急編成があった.平時の人員装備のままだが,とりあえず
対敵行動をとれる態勢にする.応急派兵などともいわれたが,これは8時間
で編成が完結した.

 1937(昭和12)年7月7日に北京郊外盧溝橋で起きた日支両軍の衝突
は突然のことだった.もともとは条約に基づく権利で正当に駐屯し,
演習を行なっていたわが陸軍の支那駐屯歩兵第1聯隊の部隊に対して
何者かが実弾を撃ってきた.参謀本部は不拡大を主張したが,当時,平津地区
には1万2000人の在留邦人がいた.平津地区とは北平(北京)と天津を
合わせた地域をいう.この居留民を保護するのは当然である.
しかも,中国軍は素早く兵力を移動させてきた.しかも,7月28日には通州
で守備隊と居留民が合わせて142人が虐殺されるという事件も起きた.

 この時,動員が行なわれた.7月12日にはまず,朝鮮に駐留する第20師団
と内地と満洲の航空部隊に動員が下令され,編成された臨時航空兵団が
動き出した.27日,広島の第5師団,熊本の第6師団,姫路の第10師団
に動員令が下された.

 このうち第20師団は充足人馬動員といわれる平時編制を定数通りにする
規模のものである.朝鮮の第20,21の両師団は正規師団とはいえ,
現役兵は内地の師管区からの割り当てにそった差し出し人員であり,
いわゆる基盤がない植民地である.したがってふだんから治安維持に
何とか対応する兵力しか備えていない.平時編制を満たすだけで
手いっぱいだった.戦闘力も低く見積もられ,正規野戦師団の5割程度と
されていた.

 第5と第6の両師団は応急動員だった.戦列兵だけを戦時定数にして
送り出した.このとき,部隊の構成は現役兵と召集兵がほぼ同数であり,
補給,衛生,輸送などの後方部隊は順々に定員が充足されていく.
戦力はやはりフル編制の野戦師団の8割ほどになる.

 第10師団で行なわれたのは本動員である.このころの平時編制は
人員が約1万2000人,馬匹1600頭だった.それが2週間あまりで
約2万5000人,馬匹8000頭というものになる.結果的に,内地の3個師団
だけで兵員が20万9000人,馬匹5万4000頭が動員された.

 この人員,馬匹,軍需品が各地から大移動して軍港に向かった.
輸送機関の主なものは鉄道,当時は国鉄といわれた国有鉄道,いまのJR
である.この運行計画を立て,民需を圧迫し過ぎないように調整する.
参謀本部にはこの計画を立てるための鉄道輸送,船舶輸送,統制の専門家
がいた.また陸軍省にも調整部署があった.列車の旅をする人員には行く先々
で弁当を調達する.こうした場合,民間業者をあてにするのが普通である.
そのゴミの処理もする.急病人やけが人への対応も必要だし,軍馬も輸送
することになるから馬の世話もある.
 
 こうしたことから当時,軍隊が国外に出征するのはたいへんなことだった.
少しでも計画と実行に狂いがあってはならない.陸軍では,『一兵,一馬の
(召集された部隊への)到着』も厳密に管理されていた.この動員の担任者
とされた各部隊の将校たちには身体を壊す人も多かったという.動員の
それぞれの種類に合わせた計画の立案をし,厳密な検閲までも毎年必ず
受けていたのである.

 動員と兵站とは密接な関係があった.そして,戦うには兵站が必ず必要な
ものだった.
 次回は,戦後の通説,陸軍の「兵站軽視」といった批判が必ずしもあたらない
ことを説明しよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.12.9




『ライター・渡邉陽子のコラム (73) ─ 自衛隊海外派遣の歩み(3) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.
街のあちこちがイルミネーションに輝く時期になりましたね.

私はイルミネーションが好きではありません.
いくら今はLEDといえど,節電の精神はどこにいったという
白けた気持ちになるのです.もともと夜景にも興味がなく,
函館でも香港でも,眼下に広がる夜景に感激するとか
感動するという気持ちは湧きません.

電飾は護衛艦と東京スカイツリー,東京タワーだけで十分
だと思っています.護衛艦は身びいき(笑),スカイツリーと
東京タワーはイルミネーションで公共性のあるメッセージを
発信できるので,私の中ではありです.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■自衛隊海外派遣の歩み(3)


アラビア半島からの砂塵やクウェートの油井火災による煤煙が
舞い,日中の最高気温は40度以上にも達します.掃海作業
はそのような過酷な環境条件下で行なわれました.

しかも多国籍部隊に遅れて参入した掃海派遣部隊には,
結果として技術的に非常に困難な海面が割り当てられることになりました.
1200個あった機雷の約80%はすでに処理されていましたが,
残り20%の機雷のある場所が,政治的,海域的にも難しいエリアでした.
後から参加した自衛隊は,必然的にこのエリアを担当せざるをえません.


「シャトルアルブ川の河口なので砂で濁って視界が悪い,海は浅く流れ
は速い.しかも海中油田のパイプラインが海中を走っているから,
機雷を見つけてもその場で処理できない.まずは機雷本体に入っている
炸薬には手を付けずセンサー部分だけを壊して,水中アドバルーン
でパイプラインのないところまで運んでから破壊する.ほかのエリアの
倍の手間がかかりました」

それでも作業そのものは普段行っていることと同じです.
隊員たちは日頃の訓練同様冷静に作業を進め,この最難関のエリア
でも17個の機雷を処理しました.


掃海派遣部隊は日頃の訓練の成果を発揮して掃海作業を遂行,
99日(航海期間を含めると188日)におよぶ全期間を通じ隊員の人身事故
や船体などに影響を及ぼすような損傷は1件もないまま,合計で34個
の機雷を無事処分しました.実際には事故につながる可能性のある故障
や不具合は315件も発生したのですが,そのほぼすべてを隊員たちだけで
直し,現地でも常時100%の稼働率を誇りました.

彼らの作業に取り組む姿勢とその技術は,他国の部隊からも高い評価を受けました.


退官後,当時を振り返った落合氏は

「派遣部隊511名の最年少は19歳.平均年齢32.5歳という部隊を指揮して
感じたのは,若い隊員が非常によくやってくれるということです.教育隊を出て
からせいぜい6ヵ月程度の若者が,海外演習の経験もなくいきなり海上自衛隊
初の海外派遣,しかもペルシャ湾ですよ.
最初の頃はどうにも心配で.それがどんなに劣悪な環境下でも愚痴ひとつ言わず,
実に働く.毎朝4時半起床,40度を超す灼熱地獄の中で日没まで掃海作業,
与えられたわずかな水で体の汚れを落とすころは夜10時近い.しかも掃海作業中
は船内に留まれないため,非番だろうが日中は甲板に出ていなくてはいけない.
それでもぐっとこらえ,自分のなすべきことに真摯な態度で取り組む,その姿
には本当に感動しました.『今の若い者は何と立派だろう』と思うようになったのは,
この派遣からです」と語っています.

落合氏の口からは,隊員たちへの感謝の言葉が幾度となく発せられました.
それは階級や年齢を超え,共通の任務に対して心をひとつにしたという事実
があってこそ生まれた,ゆるぎない思いだったのです.


「もちろん若い隊員たちだけではありません.誰もが素晴らしい順応性を見せる
と同時に,任務達成に向けて強い意志を持ち続けてくれました.これは日常の
訓練によって培われた,プロフェッショナリズムとしての静かな自信があってこそ
生まれる気持ちなのでしょう.同時に『日本を代表してペルシャ湾にいるのだ.
もしもここで自分たちが失敗すれば,自衛隊の国際貢献が日の目を見ない
可能性がある』という自覚があったからです.だからこそ,188日間1件の事故もなく,
常時100%の稼働率を誇れたのではないでしょうか.事故につながる可能性の
ある故障や不具合も,そのほぼすべてを隊員たちだけで直しただけでなく,
予防整備も徹底して行なった.寝る前に自分の担当する機器をチェックするんですよ,
毎日欠かさず.1日中働いてくたくたに疲れた体には,さぞ辛い作業だったと
思います.隊員一人ひとりが任務に対する使命感を持っていたからこそ,
そこまで頑張ってくれたのです」

指揮官にここまで褒められる隊員たちです,ほかの国からの評価が高い
のは当然の結果といえます.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.12.10




兵法三十六計 番外編

中国の軍改革(前)
─兵力削減は軍の近代化が狙い─

                 元防衛省情報分析官・上田篤盛(あつもり)
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▼ 中国軍の兵力削減は軍縮なのか?

 習近平が中国の国家最高指導者兼ねて軍指導者(中央軍事委員会
主席,統帥権者)に就任して,はや3年あまりが経過した.
最近はとみに中国軍における習の存在感が高まっている.

 本年9月3日に「戦勝70周年記念式典」が開催された.
習は兵士1万2千人による大規模な軍事パレードを主宰し,
少将クラスの隊列指揮官が指揮する“最新兵器のオンパレード”
を国内外に向けて演出した.

 一方で,「平和的な台頭を目指す」「国連憲章を核心とする
国際秩序を守っていくべき」という中国の“平和的立場”をアピール
しつつ,「中国軍兵力を30万人削減する」と発言した.
 
 これらに関して専門家諸氏は「習主席による軍に対する完全掌握
を国内外にアピールした」,「A2AD(接近阻止・領域拒否)用
の最新兵器を披露して米国を牽制した」「軍拡路線を歩まないこと
を主張して中国脅威論を払拭した」などと分析したが,筆者の分析
もほぼ同様である.

 しかし,わが国の一部においては以下のような残念な動きもあった.

 中国国防部の楊宇軍・報道官は「戦勝70周年記念式典」の記者会見で,
「習主席が今回の大会で30万人の兵力削減を宣言したことで,
世界各国と共に平和を守り,共に発展を図り,共に繁栄を享受する
との中国の誠意と願いが十分にはっきりと示された.また,国際的
な軍備抑制・軍縮が推進するとの中国の積極的な責任ある姿勢が
示された」と述べた(2015年9月4日『人民日報日本語版』).

 こうした宣伝に相乗りするかのごとく,『朝日新聞』が「覇権を唱えず」
との見出しで関連記事を掲載した.その後,鳩山元総理は10月14日
に中国天津市で開かれた国際会議において,習が表明した
「兵力30万人削減」をとりあげ,「たいへん称賛されるべきで,
近隣諸国もこれに従おう」と講演した.

 こうした一連の動向には,中国の軍拡路線から目をそらし,
中国の宣伝をわが国の「安保関連法」に対する国内批判とリンク
させようとの作為が感じられた.

▼兵力削減は軍の精強化が狙い

 中国における兵力削減は軍近代化を狙いとする,軍事合理性
に基づいた軍改革の一環であることを明確に認識しておく必要がある.

 兵力削減が公表されてまもなく,11月24日から26日に北京で開催
された中央軍事委員会の改革工作会議において,習は中央レベル
の「統合作戦指揮機構」を改善するとともに,現在の地域ごとの
防衛態勢である「7軍区」を整理・統合して「戦区」を常設し,
「戦区統合作戦指揮機構」を設置する,などの一連の軍改革を
行なう方針を打ち出した(11月27日『中国軍網』など).

 つまり,中国は現代戦に勝利できる強軍を目指して,
1)兵力削減により,人件費を抑制して,その余剰の軍事費を先端兵器
の配備や軍事訓練などに充当する.
2)現在の陸軍中心の軍隊の指揮機構を改善し,陸軍,海軍,空軍
および第二砲兵(※戦略ミサイル部隊)による統合作戦機能を強化する.
 という方針を明らかにしたのである.

 30万人兵力削減を断行するためには「7軍区」の整理・統合し,
不必要な部隊を削減し,陸・海・空軍および第二砲兵による縦割りで
重複する指揮系統を一体化することで不必要な部署を削減すること
が必要となる.

 すなわち,兵力削減は軍の精強化を目的とする軍改革の一環として
行なわれるものであり,中国が喧伝するような軍備抑制・軍縮の一環
などでは決してないのである.

▼軍改革は「規定路線」である

 次に,わが国のマスコミは,今回の軍事改革を習による軍掌握,
権力闘争の手段に関連づけ,「習近平と中国軍が戦慄バトルを
演じている」などと,おもしろおかしく語るきらいがある.

 たとえば,11月28日付『産経新聞』は「(今回の軍事改革で)廃止
される瀋陽軍区と蘭州軍区は昨年から今年にかけて失脚した制服組
トップである郭伯雄,徐才厚氏のそれぞれの出身軍区である.
この二つの軍区が廃止されることは粛清的意味が強い」と報じた.

 たしかに,党指導部による中国軍に対する政治的統制は十分である
とは言いがたい.習は就任以来,「党中央と中央軍事委員会に従え」
との演説を繰り返していることや,本年1月28日『解放軍報』に「軍の
指導者は中央軍事委員会主席である」との記事が掲載されるなど,
“当然の制度”が改めて強調されていることは,逆に党指導部が軍を
十分に統制できていない証左ととらえることも可能である.

 そのうえ,郭や徐が,胡錦濤政権下において10年以上にわたって
中央軍事委員会の制服組トップ(副主席)に君臨し,文民は軍事的素人
の胡が唯一という体制をよいことに,汚職・腐敗,階級の売買,派閥
に与する部下のコネ昇任などを行なっていた節もある.したがって,今回の
軍事改革には,習指導部が軍に対する政治統制を強化して,軍内に
はびこる不正常な風紀を是正するという政治的目的もないではない.

 しかし,習近平政権VS中国軍の熾烈な覇権争いがあり,その勝者
である習が軍に対する軍改革の“大鉈”を振るわけではない.軍改革
は軍事の専門家である軍人によって行なわれるのであり,軍改革の
必要性についての認識はむしろ軍側にあるのである.

 そもそも,今回の軍改革の柱となる「軍区」の整理・統合は,
習が国家指導者に就任し,郭と徐を検挙・失脚させる以前から取り沙汰
されてきたことである.また,今回の軍改革は習の発案ではないのである.
これは「規定路線」であり,言いかえれば,習が中央軍事委員会主席
に就任していようがしまいが,今回の軍改革は回避できなかったとみられる
のである.

 筆者は2008年に『中国の軍事力−2020年の将来予測−』
(茅原郁生編,蒼蒼社,2008年9月刊)の第11章「中国の陸軍戦力の
将来像」と第12章「中国軍の統合化の将来像」のなかで,「陸軍兵力が
20〜30万人削減」(同著531頁),「現在の7個軍区体制から4個軍区体制
に整理統合」(同書567頁),「総部を廃止し米軍式の統合参謀本部を設置」
(同書568頁)などと予測した.

 こうした予測がほぼ的中することになったのは,とりもなおさず今回の
軍改革が軍事合理性に立脚した「規定路線」であることの証左である.
したがって,今回の軍改革を「習近平政権VS中国軍」という文脈でとらえると,
重要な本質を見落とすことになりかねない.

▼2020年に軍改革の重要結節を迎える

 今回の一連の軍事改革は2020年までに一応の成果を出すことを目標
にしている.では2020年が中国軍にとっていかなる意義を有するのか?

 これを明らかにするために,これまでの中国の軍改革の流れを概観しておこう.

中国は1991年の湾岸戦争における米軍のC4ISR(指揮・統制・通信・
コンピュータ・情報・監視)を駆使した統合作戦に衝撃を受けた.1996年
の台湾海峡危機では,米空母戦闘群の同海峡への派遣に対し,
中国はなんらなす術がなく,“屈辱”を味わった.以降,中国は米国を
仮想敵国として,台湾有事などの戦争において米軍に負けない軍隊
を構築することを目指し,まずは武器・装備などのハード面の近代化,
すなわち「機械化」に着手した.

 2000年代以降,中国の軍近代の力点が「機械化」から,C4ISRによる戦力
の組織的連接などを目標とする「情報化」に移行した.2000年12月,江沢民
主席(当時)は中央軍事委員会拡大会議の席上で「『情報化』が軍隊の
戦闘力の倍増機である」と述べた(※おそらく,この時が「情報化」という
用語の公式的な初登場).2003年3月の第10期全国人民代表大会の
中国軍代表団会議で,軍近代化の目標を「機械化」から「情報化」へ転換
することが提起された.

 2004年版『中国の国防』(国防白書)では「新時代の積極防御戦略」と
銘打って,中国は「情報化条件下の局地戦」勝利に向けて「中国の特色
ある軍事改革」を推進していく方針を明示した.

 2006年版『中国の国防』では「『機械化』を基礎に『情報化』を主たる方向
にし,「情報化」と「機械化」の複合的発展を推進する」旨が記述された.

 同時に2006年版『中国の国防』では,「情報化」軍隊の建設を長期目標
とする「三段階発展戦略」が提起された.同発展戦略では,
第一段階(2010年まで)に「堅実な基礎を築く」,第二段階(2020年まで)に
「『機械化』を基本的に実現し,『情報化』建設で重大な進展を遂げる」,
第三段階(2050年まで)に「国防と軍近代化の目標を基本的に実現する」
との発展目標を掲げられている(2008年版『中国の国防』).

 このように中国は2050年までに「情報化」軍隊の建設することを目標に
軍近代にまい進しており,その重要な中間結節が2020年なのである.

 習は中央軍事委員会主席として2020年を迎えることになる(※習の任期
は2022年まで).2020年にはさまざまな分野における軍事関連の成果が
求められる.たとえば,中国は米GPSに依存しない,独自の「北斗衛星測位
システム」の運用を行なっているが,全世界規模での運用体制の確立する
期限目標が2020年である.

 2016年からは2020年に向けた第二段階の後半がいよいよスタートする.
おそらく,2020年までの軍事訓練の方向性を規定する「軍事訓練大綱」
などが2016年には制定されることになろう.

 習は2020年に「情報化建設で重大な進展を遂げる」という目標の具体的
成果を問われることになる.その改革に失敗すれば,もともと戦歴も軍歴
もなく,カリスマ性のない習の権威は一挙に失墜することになる.習自身
にとっても軍改革は「待ったなし」の厳しい状況を迎えているのである.

 今回の軍改革の柱は三つある.一つが兵力削減,二つ目が「軍区」から
「戦区」の改編,三つ目が「統合作戦指揮機構」の改善である.
次週は,これらの要点などについて解説することとする.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.12.15




荒木 肇
『陸軍の「兵站軽視」はほんとうだったか?〈1〉──日本陸軍の兵站戦(2)
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□はじめに

 今年も残すところ2週間になりました.12月8日は大東亜戦争
の開戦記念日でしたが,マスコミもだんだん,扱いが低調に
なってきていると感じるのは私だけでしょうか.若者の中には,
戦争があったことも知らない,あるいはそれを聞くと何処の国と
戦争をしたのか分からなかったと笑えない話も聞かれます.
そういう人たちは先日の作家,野坂昭如氏の逝去の報道を
どう受け止めたのでしょうか.

 読者のNM様からお尋ねをいただきました.話題の「通州事件」
についてです.仰る通り,当時の軍民の被害者数には多くの説
があります.わたしもどれに与するほど詳しくもなく,専門では
ありませんが,わたしの昔の救援隊に属した方からの聞き取り
などのよって数字を出しました.しかし,研究者によっておよそ
120名から400名にのぼるといった違いがあります.わたしが
数字を出したのは軽率でした.ここに「犠牲者数には幅があり,
120名余りから400名と明らかにはなっていない」とお詫びして
訂正します.

 元陸上自衛官のHI様,ありがとうございます.化学学校には今回
の企画の取材でもたいへんお世話になっています.写真では見た
ことがある馬用の防毒面(被乙),軍犬用のそれも資料を提供
していただいています.これからもよろしくご指導をお願いします.


 ▼兵站がなかった幕府脱走兵

 幕末の話である.のちに新政府に仕えて,清国駐箚公使,
枢密顧問官にもなった大鳥圭介(おおとり・けいすけ:1833〜1911)
は,当時,幕府陸軍きっての戦術家だった.もともとは大坂の
緒方洪庵の適塾で蘭学を学び,韮山代官江川英敏塾で西洋兵学
を学んだ.幕府の蘭書翻訳方に出仕,1864年には歩兵指図役(中尉)
になり,同頭取(大尉)から歩兵頭(大佐),歩兵奉行(少将)と昇進
を重ねた.ただし,鳥羽・伏見などでの実戦の経験はなかった.

 江戸で直に率いた部下は自ら育てた「仏式伝習隊」というフランス式
の近代装備歩兵である.自伝によれば,鳥羽伏見の戦争に負けて
大坂城から逃げてきた最後の将軍,徳川慶喜に徹底抗戦を説いた
という.ところが,負けて意気消沈の慶喜は乗ってこない.大鳥は
時期を待った.

 1868(明治元)年2月になると,大坂から敗走してきた幕府洋式歩兵隊
は次々と脱走を始めた.5日,フランス式伝習大隊の一部,400人が
八王子方面に去った.7日には勝海舟自らが鎮圧に説得に出向いた
歩兵第11連隊と同12連隊の集団脱走があった.当直将校を殺して
脱営した彼らは,驚いたことに幕府高官の勝海舟にも発砲する.東北地方,
会津,庄内に向かえば,必ず雇ってもらえるという首謀者の煽動にのった
結果である.崩壊寸前の幕府には彼らに払う給与もなかった.十分な
衣食住も提供できなかったのだから,「傭兵」としては義理を感じること
もなかった.

 大鳥は歩兵奉行だった.幕府陸軍の官制では尉官級将校が
「歩兵指図役」といわれ,佐官を「歩兵頭」,将官を「奉行」といった.
陸軍奉行はロイテナンド・ゼネラール(中将),歩兵奉行が
ゼネラール・マヨール(少将),以上が将官.歩兵頭をコロネル(大佐)
といい,歩兵頭並はロイテナンドコロネル(中佐)が佐官.尉官は
カピテイン(大尉)といい歩兵指図役頭取という.歩兵指図役は1等
ロイテナンド(中尉),同並を2等ロイテナンド(少尉)とした.コロネルは
連隊長,ロイテナンドコロネルは大隊長,カピテインは中隊,1等ロイテナンド
は半隊(中隊を2分したもの)を指揮した.この階級の呼び方と編制を
みただけで,それまでのサムライの軍隊とは違っていることが分かる.

 これらの洋式歩兵の訓練は厳格だった.フランス陸軍の将校と下士官
が顧問団になり,演習でとことん鍛え上げた.しかも,雇われた伝習兵
の多くは幕末に失業した,江戸にごろごろしていた武家奉公人だった.
大名たちが江戸屋敷で雇いあげていた駕籠かき(陸尺という,身長が
6尺=180センチだったからという説もある)や奴(やっこ),中間(ちゅうげん)
といった体力自慢の連中だったのだ.もちろん,風儀がいいとはとても
言えない者たちだった.しかし,身体は大きく,健康で,何より軍隊くらい
しか食える場所がなかったのである.

 江戸城引き渡しの日,4月11日には千葉県国府台(こうのだい=市川市)
に集結した脱走隊の兵力は大きなものだった.江戸大手町にいた
伝習第1大隊700,神田小川町(古本屋街のそば)の伝習第2大隊が400,
歩兵第7連隊350,幕府御料兵200がそろった.洋式歩兵隊が合計で1650人.
それに幕府陸軍砲兵隊2門が護衛兵とともに100を数え,幕府陸軍工兵隊
である土工兵が200,桑名藩兵200,会津藩伝習隊80,そして京都を
震え上がらせた新撰組の残党が90といわれている.合わせて2320名
という戦力だった.

 この国府台の脱走軍は指揮官に大鳥圭介を選んだ.語学力を生かし,
洋式戦術を学び,将校の昇進の梯子を一気に登った男に信頼を寄せた
のだった.副指揮官・参謀には新撰組副長だった土方歳三が推された.
土方にはすでに槍や刀の時代が過ぎたことが分かっていた.
すでに新撰組も最末期には洋式銃をもった軍隊だったし,指揮官の天分
が土方には十分にあったに違いない.彼が最期を迎えた箱館でも,
戦術に優れ,実兵指揮に長けていたことは有名である.

 脱走隊の主力だった伝習兵は当時,最新式の元込めライフル銃の
シャスポー銃で装備されていた.官軍の主力だった薩摩軍でさえ,
先込めのエンフィールド銃をもっていた頃である.射程も優れているし,
集弾率も高かった.何より,発射速度が大違いだし,元込めは寝たまま
弾丸を装填できた.先込め銃は装填時にどうしても姿勢が高くなる.
それに加えて集団戦闘訓練の度合いが,寄せ集めの官軍とはけたが
違っていた.

 大鳥軍は快進撃を続ける.目指したのは栃木県日光である.日光には
神君家康公をまつる東照宮があり,鬼怒川を北上すれば会津と連絡する.
当面,日光に駐屯し,情勢変化を見ながら会津藩に合流しようという腹
である.

 新式装備と訓練の積み重ねのおかげで,脱走軍は各地で連勝する.
官軍の拠点,宇都宮城も陥落した.ところが,入城したものの兵站が続かない.
周囲を占領して城にこもるとなれば,たちまち治安維持や物資の調達
といった兵站事務が必要になる.城下町には軍政をしかねばならないし,
周辺には警戒するための分哨も置く.防衛線を築くための通信網も作らねば
ならない.
 
 本格的な攻撃を受け始めて大鳥は動揺した.慌てて今市に下がること
にする.ところが浮足立った敗兵は止まらない.大鳥軍は4月25日には
日光に逃げ込んだ.
 
 大鳥はのちに自著,『南柯紀行(なんかきこう)』でおおよそ次のように
述べている.
『江戸を出て以来,弾薬の予備がたいへん少なかった.屯所を出るときには
それなりの用意があったが,係が持ち出すのを忘れてしまった.ある人に
頼んで送ってもらうように頼んだが,途中でさえぎられ届かなかった.
鹿沼(栃木県)に宿営していたとき,江戸から2人の知り合いが逃れてきて,
その人たちが日光に在勤していたことがあり,地元に詳しいので弾丸の製造
を頼んだ』

 5000発も造ってもらったが,とても実用品ではなかったという.
それはそうであろう,シャスポー銃の弾丸は装薬と椎の型の弾丸が一体化し,
薬莢は厚紙でできていた.見よう見まねで小銃弾ができるわけがない.
やむなく,会津藩に弾薬の供給を頼んだがどうなるかわからなかったと大鳥
はぼやいている.

『弾薬運送の重要さはかつて書物でも十分に読み,知っていたことだったが,
今回のように前後が混乱した中ではどうにもなるものではなかった』
と後悔している.実戦経験がないばかりか,軍隊が行動するという実態への
想像力が欠如していたわけだ.

 大鳥軍は日光を追い出された.当然だろう.『米塩も少ない』と元幕府家臣
の日光奉行が来て言うのだ.4月29日には大鳥軍は会津を目指して出発した.
「六方越え」といわれた帝釈山系の南面,険しい間道しかありはしない.
民家もないから食糧を徴発もできない.兵士たちは米もなく,味噌をなめ,
たくあん漬け,梅干をかじるだけで重い銃を担ぎ歩き続けた.ようやく
会津藩領,田島に着いたのは翌月の閏4月5日だった.

 大鳥は当時の部下たちから「兵を語るのは上手だが,兵を用いるのは
下手」と常に言われ続けた.戦術や戦闘の方法,あるいは大きな戦略は
語れても,それだけでは指揮官ではない.兵に十分に食わせ,眠らせ,
負傷には手当てをするといった兵站を保障することが兵を用いると
いうことであるからだ.

▼大東亜戦争での失敗

 ガダルカナルでは悲惨な戦いになった.輸送船は次々と沈められ,
揚陸した物資も銃爆撃で次々と燃やされた.食糧は来ない,燃料も
揚がらないからトラクターが動かないので重砲は放棄される.弾薬も
医薬品も来ないから,無傷な将兵もまともに戦闘などできるわけがない.
栄養失調から病気になる,風土病はまん延する.最初は駆逐艦に頼んで,
魚雷を下し,その代わりにドラム缶を積んだ.中には食糧や補給品が
入っている.夜間に高速で海を越え,海岸近くになってロープでつないだ缶
を落とした.夜明け前に海岸に出た人間が引っ張りあげる.それでも
焼け石に水だった.1日5合の定量の米だけで2万人なら100石,
つまり15トン必要になる.ドラム缶は250リットルだから一杯に入れても
200キロそこそこだろう.75本の米入りドラム缶も1個師団の1日分
でしかない.しかも,全部が回収されてこそで,それが揚陸されて
ジャングル内に回収されて,蓄積されて,配分されて・・・と考えると,
その大変さが想像できる.

 インパール作戦はチンドウィン河を越えて,標高3000メートル級の
アラカン山系を踏破する進撃である.これも補給が続かなかった.
むしろ包囲されたはずの英軍は空中補給で肥え太っていくのに,
日本軍は後方をウィンゲート旅団に攪乱され,補給もほとんど届かなかった.
やせ衰えていったのは包囲した方だった.敵陣を目前にして前のめりに
倒れた将兵,後退途中に力尽きた将兵,後方へ下がる道は白骨街道
といわれた.ニューギニアも似たような状況である.将兵は敵弾に
倒れるより飢えと病気に勝てなかった.

 進攻ではなく防御に回ったフィリピンの戦いでも飢えと病気に負けた
ことは変わらない.補給が途絶え,射つに弾丸なく,食糧も,医薬品
も不足していた.ここでも輸送船の損害が大きかった.激しい空襲の
合間をぬって,せっかく接岸しても,揚陸した物資は敵機の銃爆撃
にあって港で焼かれた.海岸線から内陸へ運ぶことにもたいへんな
苦労を要した.

 こうしたことから,陸軍は補給を,兵站を,後方を軽視したといわれてきた.
しかし,負けていた時ではなく,勝っていたときはどうだったのか?
 勝った戦闘は兵站を軽視していたのに勝てたのだろうか?
 上海事変や『日軍百万上陸』のアドバルーンで有名な杭州湾上陸
などは兵站を軽視していても成功したのか? そもそも「腹が減っては
いくさは出来ぬ」という古くからの諺(ことわざ)は何を表してきたのかということだ.

 よく,ろくろく補給を考えずに,「現地徴発」をして戦争をしたという.
しかし,日本陸軍は近代国家の軍隊である.現地徴発とはあくまでも
主ではなく,後方からの追送の負担を減らすための従となる手段だった.
経理部将校たちの手記がある.法的手続きをとって,相手に書類を渡し,
その場で決済したり,司令部で軍票を交付したりするという手続きが正統
である.住民がいなかったので,仕方なく書類を家の柱に貼り付けてきた
ともいう.軍票が効力を得られなかったら物々交換である.中国の奥地
では,野菜や豚と医薬品で取り引きしたという経験も聞かれる.

▼陸軍は兵站補給を軽視などしていなかった!

 つまり,(作戦の)失敗・成功と(兵站の)軽視・重視はあまり関係がない
というのがわたしの考え方になる.

 重視すれば成功したというなら,日本陸軍は日清・日露戦争では兵站を
重視し,その後,軽視をしてきたことになる.そうであるなら,軽視がいつから
始まったか,どういう文書が出たかという証拠がなくてはならないだろう.
ところが,調べてみれば陸軍は建軍から一貫して後方補給や兵站,
その手段や装備,人材育成にもひたすら努力を続けていた.戦場の輸送力
の中心となる軍馬の品種改良にも手を尽くし,軍用自動車の開発にも熱心
だった.将兵にもたせる糧食も研究を重ね,戦後のインスタント食品業界の
隆盛は戦前軍隊のおかげでもある.粉味噌や粉末醤油,さらには
乾燥された餅まで用意されていた.

「物量に負けた」という言い方は戦時中からあった.「科学力も負けている」
という冷静な意見も持っている人は多かった.高空を飛ぶB29にわが
高射砲弾は届かなかったし,防空戦闘機も追いつけなかった.日本人は
みんな,占領軍として進駐してきたアメリカ兵を見て,とてもかなわないと
思った.栄養も良く,健康的で,物資をふんだんに使い,贅沢な服装を
していたアメリカ兵.負けて当然だったと納得した人も多かった.

 もはや戦後ではないと大見えをきった生活白書.あの昭和30年代から,
「技術では負けていなかったが,物量に負けた」という人が増えてきた.
同時に,兵站を軽視していたからだというようになった.技術では
負けなかったという人はゼロ戦や戦艦大和を挙げた.あるいは酸素魚雷
や末期の紫電改の活躍などが語られた.興味深いのは陸軍兵器や技術
で有名になったものは少なかったことだ.アメリカ軍が恐れたというのが
現在も使われるお決まりのフレーズである.しかし,それも眉唾であると思う.

 戦後,たくさん作られたアメリカ映画を見るといい.中国人かアジア系の人
が演じる日本兵はまったく弱い.自動小銃,機関銃の前に立ち上がる日本兵,
たった1人で何百人もの日本兵をなぎ倒すアメリカ兵.空中戦でも次々と
撃ち落とされるゼロ戦.1940年代後半から50年代の終わりにかけて
作られた戦争映画はみな,卑怯で,だらしがなくて,間抜けな日本兵が
描かれていた.

 少し様子が変わってきたのは60年代からだろう.間抜けで弱い敵を
いくらやっつけても自慢にならない.

 次回はさらに,兵站についての制度的な問題点について詳しく語ろう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.12.16




『ライター・渡邉陽子のコラム (74) ─ 自衛隊海外派遣の歩み(4) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.

現在発売中のジャパニズム28号に掲載されている
「初が盛りだくさん,平成27年度海上自衛隊観艦式」
の記事が,近日中にBLOGOSに公開されるようです.
6年前の観艦式のことにも触れていますので,
よろしければご笑覧ください.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■自衛隊海外派遣の歩み(4)

湾岸戦争が日本に与えた影響は非常に大きなものでした.

「金は出すが人は出さない」と国際社会から批判されたことで,
日本は国際貢献の真の意味を自身に問いかけるようになりました.
そして,国際貢献のために自衛隊がより活用される最善の道を
検討するきっかけとなったのです.

小さな掃海艇が果たした大きな役割.それは日頃の訓練と隊員
の志の高さによって達成されました.
落合氏は最後にこう締めくくりました.
「この掃海派遣の翌年にPKO法が成立したことを考えると,
ペルシャ湾での苦しく地道な作業は,自衛隊が国際貢献に関わる
布石となれたのではないかと思います」


自衛隊初,海上自衛隊初の海外派遣となったペルシャ湾
への掃海艇派遣.

続いては,陸上自衛隊初の海外派遣であり,日本が真に
国際社会の一員として歩み出すことになったカンボジアPKO
について振り返ります.


湾岸戦争後,日本は国際平和協力法(PKO法)を制定しました.

覚えていらっしゃるでしょうか,PKO法が制定されるまでの国会
の大混乱.社会党は国会における採決で牛歩作戦を展開,
時間切れ廃案に持ち込もうとしました.当時の私は自衛隊とまったく関わり
のない立場で,おまけになんとなく護憲派で,PKO法に根拠のない不安
を抱いていました.それでもなお,いい年をした大人が札を持ちつつ
のらりくらり行ったり来たりして時間稼ぎしている姿は,
テレビで見ていてもかなり違和感のあるものでした.
「これが国会議員なのか」という落胆,呆れ.

「自分たちはやるだけやりましたからね」と有権者(というか支持者)
に示すためのパフォーマンスは,PKO法に賛成と思っているわけ
でもない私ですら興醒めするものでした.


そういう混乱を経て制定されたPKO法.初めて適用されたのが,
カンボジアへの海外派遣です.

現地では道路や橋などの修理が主任務となるため,施設団を基幹
とした約600名からなる施設大隊を編成.渡邊隆2等陸佐(当時)が
第1次カンボジア派遣大隊長として現地におもむきました.

私が渡邊氏に取材したときは陸将補,東部方面総監部幕僚副長
という立場でした.
「年齢的にも時期的にもそろそろ大隊長かなと思っていたら,
その時期がたまたまカンボジア派遣と重なっただけの話ですよ」と,
当時の感想を聞くとまるで他人事のような飄々とした答え.
けれどこれが渡邊氏の魅力であり強みです.


PKO法が成立して自衛隊がカンボジアに派遣されると決まってからも,
周囲にはそれを反対する猛烈な声が湧き上がっていました.
それをすべてまともに受け止めていたら,大隊長の任務は務まりません.

渡邊氏は「行くと決まってからは忙しかったから,周囲の声はあまり
感じていなかった」と述べていますが,実際には「周囲の声を感じない
ようにしていた」が正しかったのだろうと思います.それでもそのどっしり
構えた大隊長の姿に,第1次派遣隊の隊員たちはどれほど勇気づけられた
でしょう.


防衛庁長官から正式な準備命令が出てから,わずか2カ月半後には
600名がカンボジアに派遣されていなくてはならないという厳しい日程
のなか,合同訓練や準備が進められました.この期間,隊員たちは
8本もの予防注射を受けたそうです.

「1992年9月11日に編成完結式,17日には出発でしょう.はっきりいって
もうバタバタでしたね.訓示も言えなかった.私自身に経験があって知識
も深ければそれなりのアドバイスもできたのでしょうが,そもそも現地
のことがわからないんですから.そんな状態で訓示を言ってもしょうがない,
とりあえず大体が見えるまでは何も言わないでおこうと」.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.12.17





兵法三十六計 番外編

中国の軍改革(中)
─「軍区」に代えて4つの「戦区」を創設か?─

                 元防衛省情報分析官・上田篤盛(あつもり)
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▼ 2010年前後から兵力削減の検討開始

 先週は今回の軍改革の柱を,兵力削減,「軍区」の廃止と「戦区」
の常設,「統合作戦指揮機構」の改善─の3点に絞ったが,
今週はまず1つ目の柱である兵力削減から解説することとしよう.

 2003年9月,江沢民・中央軍事委員会主席(当時)は,2005年
までに20万人の兵力削減を達成することを発表した.
江は「兵力削減は有限の戦略資源を集中し,軍の『情報化』建設
の歩みを加速することに有益である」と述べた.すなわち,兵力削減
が「情報化」建設の鍵となると強調した.

 2002年に行なわれた事前調整では,削減数が20万〜50万人の間
で協議されたという.つまり20万人削減は「情報化」建設のための
最低限の目標であり,いずれは,さらなる「兵力削減論」が浮上する
宿命にあったといえよう.

 2009年9月,米国『ロイター通信』が「兵力70万人の削減」構想を
報道した.当時,「中国軍備管理・軍縮協会」の徐光裕・退役少将は
70万人という兵力数は否定したが,「削減が迫っていることは承知
している」と述べた.

 2011年4月,『香港紙』が徐光裕の発言を引用して「兵力80万人の
削減」を報じた.これについて,韓旭東・国防大学教授は『環球時報』
の取材を受けて,「兵力80万人の削減」は否定したが,「中央が
将来的に適切な規模の兵力を削減することを検討しているのは事実だ」
と述べた.

 このように「三段階発展戦略」が第二段階に移行する2010年の前後
から兵力削減の検討が本格化したとみられる.このことは,2020年までに
「情報化建設で重大な進展を遂げる(第二段階の目標)」ためには
兵力削減は回避できないということが,第一段階における総括で軍内
の共通認識として確立されたことを示しているのであろう.

▼ 陸軍兵力の大幅な削減が予想

 中国軍は過去に計3回の大規模な兵力削減を行なった.すなわち,
1985年〜87年にかけての100万人削減,1997年〜99年にかけての
50万人削減,2003年〜05年にかけての20万人削減である.

 これらの兵力削減における削減対象は主として陸軍であった.
海・空軍および第二砲兵の兵力削減は最低限に留められた.つまり,
中国における兵力削減は陸軍兵力の削減と同義語であるといっても
過言ではない.

 過去の兵力削減においては,陸軍の最大戦闘単位である
集団軍(※師団の上位,戦域軍や方面軍に相当)の一部が解体され,
それによって生じる余剰兵力は準軍隊である人民武装警察などに吸収された.

 100万人削減では11軍区・35個野戦軍から7軍区・24個集団軍に
改められ,50万人削減では3個集団軍が解体されて7軍区・21個集団軍体制
になった.20万人削減では3個集団軍が解体され,現在の7軍区・18個集団軍
体制になった.

 陸軍兵力の削減は武器・装備が旧式で機動力が鈍重な陸軍から,
新型の武器・装備を保有するコンパクトで機動力に富んだ陸軍を新生できる
という狙いがある.つまり兵力を削減することで人件費を浮かせ,
それを武器・装備や軍事訓練に回すのである.また,有限な軍事費を
海・空軍および第二砲兵に優先配分して,軍全体としての近代化をはかる
などの狙いがある.

 また,過去の陸軍兵力の削減では,中・ロ関係の安定を背景に
瀋陽,北京軍区などの北部正面の兵力を削減して,重要な戦略正面と
なった台湾対岸の東南正面(南京,広州軍区)に近代化された陸軍兵力
が重点配備された.

 これまでの兵力削減により陸軍兵力は相当に削減された.しかし,現在でも
陸軍兵力は軍全体の約7割を占めている.この比率は,さらに広大な
陸地面積を有するロシアの陸軍兵力比率に比べてもかなり高い.つまり,
依然として,中国軍は機動力,戦力投射(パワープロジェクション)能力が
劣る陸軍を中心とした軍隊にとどまっているといえる.

 よって今回の兵力削減も,これまで同様に,陸軍兵力が主たる対象になろう.
そして,陸軍偏重の軍隊からのさらなる脱皮を図り,陸・海・空軍および
第二砲兵のバランスが保たれ,統合作戦能力の高い軍隊を目指すのであろう.

▼ 陸軍は「全域機動型」軍隊へ純化

 では,大幅な兵力削減が予想される陸軍にはいかなる変化が生じるので
あろうか? 現在の陸軍は作戦正面に展開する「機動型」部隊と,地域に
密着して国境警備や治安維持などを担任する「地域防衛型」部隊に大きく
区分される.

 前者が,師団や旅団が数個組み合わされて構成される集団軍であり,
後者が省軍区である.省軍区は民兵の作戦,後方支援,警備,兵役動員
などを任務とし,軍分区,予備役師団,警備師団,守備師団,歩兵師団
などからなる.

 現在,陸軍は「三段階発展戦略」に基づき「地域防衛型」から「全域機動型」
への転換を目指している(2006年版『中国の国防』).これは,後述する「軍区」
という“弊害”を取っ払って,「機動型」部隊である集団軍またはその隷下の
師団・旅団を全国の有事正面に迅速に機動展開させるという構想に立脚している.

 今回の兵力削減により,集団軍隷下の「機動型」部隊はさらに少数精鋭化
されることになろう.これは「軍区」の整理・統合と一体となって行なわれる
ことになる.

 他方の省軍区は,同じく国境警備などを任務とする人民武装警察への
整理・統合が加速されることになろう.これに関しては,2010年8月,
『人民網』が「陸軍と人民武装警察が共に有する国境警備などの共通的
部隊を合併する」との論文を掲載しており,すでに共通的部隊の合併は
漸進している可能性がある.

 今回の兵力削減が終了すれば,陸軍は集団軍以下の「全域機動型」部隊
に純化し,「情報化条件下の局地戦」を戦う戦闘任務に特化し,海・空軍等
との連携,統合作戦能力の強化がはかられることになろう.

 同時に国境警備,治安維持,災害対処などの対応を念頭に,平時は
非軍事任務に就いている民兵組織の充実や,軍・官・民が一体となった
国防動員態勢・体制の強化がはかられよう.

▼ 「軍区」廃止は統合作戦能力の強化が狙い

 今回の軍改革の2つ目の柱は「軍区」に代えて「戦区」を新設する点である.

 建国以前,中国軍は毛沢東の「人民戦争戦略」に基づき,旧ソ連を参考に
全国を軍事区画に区分し,その区画内に敵を誘致・導入して殲滅する作戦
を有していた.そして,建国時の1949年には全国を「軍区」に区分し,
「軍区」司令部が戦闘を独立的に指揮するという地域防衛態勢をとった.

 しかし1980年代に入り,?小平は当面は小規模な局地戦対処が主体となる
との情勢認識と,経済発展のためには国内の経済資源を犠牲にしてはならない
との判断から,敵を国土に誘致・導入する戦い方を改めた.つまり,国境付近
において開戦し,迅速に国境線以遠に押し出すという戦い方へ転換した.
すなわち,「現代条件下の人民戦争戦略」への転換であった.

 こうした戦略転換のなかで「戦区」という概念が登場した.これは,局地戦
が勃発したならば,全国動員をかけることなく,各正面の主戦場となる地域
を「戦区」に設定し,「戦区」司令部がその局地戦を指導するものである.

 つまり,陸軍の「軍区」司令部を基本に,海軍の「艦隊司令部」,空軍の
「軍区空軍司令部」および第二砲兵の「基地司令部」の一部機能を吸収
して「戦区」司令部を設定し,陸・海・空軍を指揮・運用する構想である.

 ただし,現在の「軍区」に統合作戦指揮機能がまったくないわけではない.
たとえば,海軍・北海艦隊司令官と済南軍区空軍の司令官(中国語では
司令員)は,それぞれ済南軍区の副司令官を兼務している.

 しかしながら「軍区」司令部の実態は,陸軍高官が軍区司令官などの要職
をすべて独占し,統合作戦指揮を行なう司令部とは名ばかりである.

 しかも,陸軍には中央レベルの司令部が存在しないことから,「軍区」司令部
は直接,中央軍事委員会および総参謀部などの4総部にぶら下がり,
陸軍高官である7人の「軍区」司令官は,中央の海・空軍および第二砲兵司令官
と同格にある.たとえれば,陸上自衛隊の5人の方面総監が,海上幕僚長,
航空幕僚長と同格に位置づけられている.

「軍区」は地域に密着し,「軍区」所属の将校は少将クラスになるまで全国異動
がない.地域の言語で軍を指揮し,軍事物資や兵器の部品にいたるまで
「軍区」内で調達し,「軍区」を越えた機動訓練も最近まで行われていなかった.
「軍区」は,地域に密着した陸軍の既得権益の“牙城”であり,中央の統制も
十分に及ばず,全国で生起する局地戦に対して迅速に戦力を統合・結集して,
要点に投射するという構想に合致していないのである.

▼すでに?小平時代に「戦区」設定の検討開始

 有事になって「軍区」を基礎に「戦区」を設定するという構想は,
上述のように?小平による1980年代半ばに萌芽したが,それが具体化
するようになったのは1990年代である.

 中国は1991年の湾岸戦争以降,?小平の「現代条件下の人民戦争戦略」
を「ハイテク条件下の局地戦戦略」へと発展させた.軍事力整備の方針を
「量重視から質重視」へ,「人的重視から科学技術重視」へと転換した.

 1990年代半ばに中台関係が緊張化し,対台湾着上陸を想定した統合演習
が行なわれるなか,広州軍区と南京軍区からなる「東南戦区」や「南京戦区」
の設定が検討された.以降,統合演習などにおいて「戦区」という用語が
『解放軍報』紙上などで頻出するようになった.

 このように「戦区」は「ハイテク条件下の局地戦戦略」に対応するという文脈
で定着した.しかし同時に,「迅速戦」を旨とする現代戦では有事になって
いきなり「戦区」を立ち上げても時機を逸する,地域主義の強い「軍区」が
複数集まって1つの「戦区」を設定したとしても円滑な指揮は可能なのか? 
統合運用のための編制・組織が未整備であり,統合作戦能力は発揮できない─
などの懸念が提起された.

 そのため「軍区」を廃止し,平素から三軍統合の「戦区」指揮部を常設する
という案が,これまでたびたび取り沙汰されてきた.しかしながら陸軍の“牙城”
である「軍区」撤廃の“壁”は厚く,1985年以降の「7軍区体制」に変化は
なかったのである.

▼ 4つの「戦区」が新設か?

 2010年前後,兵力削減の検討と時を同じくして「戦区」を常設する案が
検討されるようになった.

 2009年7月,香港紙『鏡報』は「7大軍区を廃止し,4大戦略区を設立する.
各戦略区が区内の海軍艦隊,空軍部隊,第二砲兵部隊および人民武装警察
を隷下におく」という改革案を報じた.

 2009年11月,ネット上で梁光烈・国防部長(当時)が「軍の国家化」
(※党の軍隊から国家の軍隊への転換,紙幅の関係から細部は割愛)を
上申し,「7大軍区を撤廃して,各軍区隷下の部隊を国防部の指揮下に
直接おく.中央軍事委員会を廃止し,国防部の下に陸軍部,海軍部,
空軍部を新たに設置する」という案を具申したとの情報がネット上で流された.

 2014年1月1日の『読売新聞』は第一面で「中国軍,有事即応型に」と題し,
「複数の軍幹部の情報として,7大軍区を5大戦区に改編することがわかった」
と報じた.

 2009年に「跨越2009」演習では,瀋陽,蘭州,済南軍区の各軍区に所属
する4個師団が他の「軍区」に長距離移動した.翌年に「使命行動2010」演習
が行なわれ,両演習では,北京,蘭州,成都の各軍区に所属する師団など
に加え,空軍および第二砲兵などの総兵力約3万人が参加し,長距離機動能力
のほか,統合作戦能力の向上を図ったとみられている(『防衛白書』).

 この2つの演習は,2006年の『中国の国防』で明記された,「地域防衛型」
から「全域機動型」の転換という陸軍部隊の整備方針とともに,「軍区」を廃止
して「戦区」を常設するという構想の下で行なわれた可能性が高い.

「軍区」を廃止すれば,陸軍兵力を削減できる,陸軍重視の風潮を是正して
陸軍の地域における影響力を削ぐ,さらに統合作戦能力を向上させるという
効果が期待できる.他方,陸軍による抵抗力に対する懐柔や,退役を余儀なく
される軍人の再就職問題への取り組みが避けられない.

 現段階では,現在の「7軍区」をどのように整理・統合して,どこにいくつの
「戦区」を常設するのかなど,その具体案は明らかにされていない.

 これまでの報道と,中国海軍の3艦隊編成を踏まえれば,北京,瀋陽,
済南の軍区(以下,軍区空軍を含む)と海軍・北海艦隊を中心に「北部戦区」,
南京軍区および海軍・東海艦隊を中心に「東部戦区」,広州軍区および
成都軍区の一部と海軍・南海艦隊を中心に「南部戦区」,成都軍区の一部
と蘭州軍区を中心に「西部戦区」の4つの「戦区」を創設する案などが有力であろう.

 あるいは,首都である北京の戦略的重要性に鑑み,「北部戦区」を2つに
区分して,済南軍区と北京軍区を中心に「中央戦区」を創設して「5戦区」体制
にする案も有力であろう.

 次週は,軍改革の三番目の柱である「統合作戦指揮機構」の改善と,習が
軍改革を行なううえでの課題などについて解説することとしよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.12.22




荒木 肇
『陸軍の「兵站軽視」は本当か?〈2〉──日本陸軍の兵站戦(3)
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□ご挨拶

 いよいよ今年も残すところわずかとなりました.先日は秀峰富士
のふもと,陸上自衛隊富士駐屯地にお邪魔しました.毎年恒例の,
幹部特修課程の学生の皆さんに講話をすることになっているから
です.テーマは『陸軍兵站史点描』ということで,兵站と動員に
関するお話にしました.

 通史的に日本陸軍の兵站と動員をふり返り,多くの戦後の定説
への批判としました.学生の皆さんは部隊の現場での経験も
豊かな1尉(大尉)や3佐(少佐)という面々であり,来年3月に
卒業を迎えます.その後には中隊長や大隊長として,あるいは
司令部の幕僚として活躍する方々です.

 短い時間の中で大量の,しかも断片的な内容を一方的に与えられ,
さぞや混乱させたかなと反省していました.ところが,終講後の
懇親会では多くのありがたい賛辞をいただけました.「兵站軽視」
は事実だったか? 「兵站補給の失敗」は軽視の直接の結果だったか?
というわたしの主張は,多くの防衛現場の専門家からは支持を
得るのだと嬉しくなりました.

 一方で翌日の新聞記事を見たら,国際戦略論専門家の防衛大学校
の元教官が若い方々に,依然として「陸軍の兵站軽視」という見方
を伝えていることを知りました.戦没者のうちの多くが餓死だった
という事実から,「昔の陸軍の兵站軽視」という言葉を使われている
ようです.制海権を奪われ,輸送船による補給が失敗したことは事実
でしょう.しかし,それと組織全体の問題としての,体質としての軽視
という見方がどう結びつくのかの説明はありません.海上護衛の計画
や輸送船の建造実績などをお調べになっているのでしょうか.陸軍の
兵站組織やその規模,多くの工夫や努力をすべて承知の上で,
まったく無駄で間違っていた,軽視していたから失敗したのだというのでしょうか.

 軍事専門家の権威者にわたしのような素人が疑問を呈する.
とんでもない身のほど知らずではないかと自省しながらも,今後も調べた
ことを地道に伝えていくしかないと決意しました.

▼軽視ではなく,計画の失敗だった!

 一国の軍隊が何を持つか,それをどう運用するのか,そのために
どういう組織を作り,人にどう教育・訓練を施すのかというのは複雑で,
かつ広大な企画である.しかも,それの実現には国家財政というカネの
問題が大きく関わってくる.軍隊は国家機関の一部だから,軍人という
一部の官僚だけが自分たちの「軍事的合理性」だけを盾にして要求を
通すことはあり得ない.

 今から見れば無謀だったと評価される大正時代の海軍の「八八艦隊」
の建設計画も,当時は適法な手続きを経て裁可されたものだった.
あの時代は,国内の主要幹線道路の数パーセントすらも舗装されて
いなかった貧しい国家だった.それが戦艦8隻,巡洋戦艦8隻とそれを
支える支援艦船を巨額な維持費も含めて認めていたくらいだ.

 海軍の遠大な計画のために,陸軍は自分たちの要求を我慢せざるを
得なかった.平時25個師団,戦時50個師団という整備計画を取り下げる
ことになった.併合した朝鮮の治安維持のための2個師団創設でさえ,
「陸軍のごり押し」と評価される始末である.のちの時代の話だが,
戦艦大和1隻の主砲1門の砲身鋼材で,陸軍は野戦重砲5個大隊分の
装備ができたはずだ.あくまでも単純計算だが,重さだけならそういうこと
になる.もっとも,それを牽引するトラクターを十分に調達でき,その燃料
を用意できたかはまた別の問題ではあるが.
 
 今も似たような問題は起きている.詳しくは知らないが,政府当局は
数年前,戦闘ヘリコプターの導入にあたって財政問題を理由に某社に
発注を中止した.おかげでその会社は大損害をこうむり,政府が数百億円
を補償することになったらしい.記事の扱いは小さく,一般世間では大きな
話題にはならなかったが,軍備と一般国家財政との関係をよく表している.
要は今も昔も,その点では変わらないということである.

▼日露戦後の陸軍

 さて,陸軍史に詳しいであろう読者の方々にはくどい話だが,日露戦後
の陸軍の様子をふり返って見るのも興味深い.ポーツマス条約に反対した
新聞世論があった.もっと戦え!賠償金を取れ!そのためにはもう一回
戦争だというのが,自分は戦地に決して行かない人々の主張である.
実は陸軍には,もう戦争を続ける余力はほとんどなかった.内地の人的
な資源はほとんど戦地に送られてしまった.とりわけ下級将校の損耗は
大きく,予備,後備将校の名簿は戦死傷者で埋まっていた.陸士出身,
下士・准士官からの現役将校は開戦当初から不足していた.それが
大損耗である.奉天の会戦後,もうひといくさなどできる状態ではなかった.

 講和に反対する世論にかかわらず,史上最大の野戦軍だった満洲軍
は「軍凱旋計画」を立てていた.動員によってふくれ上がった戦時編制
の軍隊,機関を復員させるのが軍隊のまず重要な仕事だったからだ.
 
 戦争中に急いで創設された師団があった.兵力の不足を補うために
臨時動員された第13,14,15,16の各師団である.第13師団は
朝鮮北部に送り,ほかの3個師団は満洲で戦場に立った.和平が
成ったあと,第3軍で戦った第14師団と第4軍隷下の第16師団を満洲
に残し,第2軍で戦った第15師団を朝鮮に移駐させる.朝鮮駐箚部隊
はこの第15師団と交代させる計画だった.

 計画書は主文がわずかに3条である.
(1) 第14ないし第16師団を除き,鉄道を使って乗船地まで輸送する.
(2) 第14と第16師団は満洲に残留する.ただし,各野戦電信隊と輜重,
兵站諸部隊は凱旋する.
(3) 第15師団は韓国駐箚となって派遣される.その輜重は凱旋する.

 当時の1個野戦師団の戦時編制は次の通りである(標準的な編制).

 師団司令部に歩兵旅団司令部2個,歩兵4個聯隊,騎兵,砲兵が
各1個聯隊,工兵大隊,輜重兵大隊が各1,架橋(がきょう)縦列,
弾薬大隊,馬廠,衛生隊が各1,そして4個の野戦病院である.
合計1万8689人と野戦電信隊129人となる.戦闘部隊は司令部,
歩兵・騎兵・砲兵の各聯隊と工兵大隊である.ほかは輸送と治療など
にあたる支援部隊からできている.戦闘部隊の中には大行李(衣糧品
など),小行李(弾薬など)といわれる輜重兵科の運搬部隊,経理,衛生,
獣医などの各部や技術系の工長(下士官)や従卒,馬卒なども含んで
いて,これらは非戦闘兵員といえる(ただし,法的な意味ではなく,
戦場火力の第一線ではないという意味である.法的には衛生部員のみ
が非戦闘員になる).

 支援部隊には工兵材料の運搬を専門とする架橋縦列(中隊規模)と,
歩兵と砲兵の弾薬運搬にあたる弾薬大隊(歩兵弾薬縦列2個と砲兵
弾薬縦列3個),糧食運搬の輜重兵大隊(糧食縦列4個),輜重馬の
管理をする馬廠,衛生隊と野戦病院があった.

 この師団が抱える兵站諸部隊とは,兵站監部員(兵站監部への差し出し
人員・65人),6個兵站司令部,野戦兵器廠,兵站弾薬縦列,兵站糧食
縦列,輜重監視隊,衛生予備員,衛生予備廠,患者輸送部,予備馬廠
で構成され,1225人となる.
 
 また,常設師団は留守師団を持ち,野戦に後備旅団その他を編成して
出征させた.その人員は,後備歩兵旅団司令部と,後備歩兵4個聯隊,
同砲兵中隊,同工兵中隊,同弾薬大隊,同糧食縦列,同歩兵弾薬縦列,
臨時衛生隊や後備旅団衛生隊などを各1,と1個後備旅団野戦病院
の合計1万1316人にのぼった.
 
 さらに軍隊が動くためにはそれを支える部隊がいた(カッコ内は人員).
補助輸卒隊(3640),補助水上輸卒隊(520),建築補助輸卒隊(478),
これらはさらに召集令状によって集められ,臨時編成がされて出征した.
ある師団はこれらが合計1万人になる.
 
 ついでに内地の留守師団といわれる後方支援部隊も調べておこう.
各歩兵旅団の下にある4個の歩兵聯隊にはそれぞれ補充大隊があった.
砲兵聯隊も補充大隊,騎兵聯隊,工兵大隊,輜重兵大隊には各1個の
補充隊,補充馬廠,兵站基地司令部や予備病院などがあり,これらの
総人員は6820人になる.
 
 まとめて言えば,当時の野戦師団の歩兵小銃数は約1万と計算された.
直接戦闘に従う兵員数は砲兵・騎兵・工兵を合わせて,ざっと全体の
65パーセントくらいである.4個歩兵聯隊の小銃火力は兵卒が9600,
下士が800と計算された.留守部隊とは出征部隊への人馬の補充,
新たに動員される部隊の基幹となる現役兵の教育,補充兵の教育
にあたる.また,同時に戦地から帰還した傷病兵,還送患者の治療
やリハビリにもあたった.
 
 こうした野戦師団や後備歩兵旅団は大陸に渡った.戦闘部隊,支援部隊,
兵站諸部隊の軍人,軍属の総数は軍人が約94万5000人,軍属が同じく
5万4000人だった.合計およそ100万人である.内地勤務は軍人が
14万3000人,軍属は10万人だった.あわせておよそ124万人となる.
100万の野戦軍,しかし,戦闘正面に立つのは65パーセントくらいと考えれば,
30万人以上が兵站・補給の任についていたのである.

▼日露戦後の軍備拡充

 1906(明治39)年,平時兵力が増強された.第13から第16までの
4個師団が常設化された.近衛師団もあわせて17個師団態勢といわれる.
『平和克復と雖(いえど)も戦役の結果により新たに獲得したる国権を
確保するため・・・』を理由として戦時に特設した4個師団を常設化すること
にした.実務的には,新たな駐屯地や演習場,病院などの土地を確保し,
あらゆる設備を建て,師団管区を改定しなくてはならない.これに加えて,
1907年から10年までに第17,同18の2個師団が新編された.ロシア
から賠償金もとれず,深刻な戦後不況のなか,あらたな6個師団をよくも
作ったものである.

 ここで1907(明治40)年の『陸軍平時編制』を見ておこう.そこから
見られる兵站関係の機関を抜き出してみる.陸軍の組織は
「軍隊・官衙・学校・特務機関」に大きく分けられた.さらに樺太・韓国・南満州
に駐屯する部隊があった.

 まず,官衙の中にある兵站や人事に関わる組織である.陸軍軍馬補充部,
(以下,すべてに陸軍を冠する)兵器廠,砲兵工廠,火薬研究所,運輸部,
会計監督部,衛生材料廠,被服廠,糧秣廠,陸軍を冠しない千住製絨所,
衛戍病院(全国に77カ所),衛戍監獄,東京廃兵院,台湾衛戍病院など
があった.

 外地にあった組織は,樺太衛戍病院,兵器支廠,軍馬補充部支部,
韓国駐箚衛戍病院(4カ所),陸軍倉庫,衛戍監獄,関東兵器支廠,
関東軍馬補充部支部,関東衛戍病院(3カ所),関東陸軍倉庫,
関東衛戍監獄,陸軍運輸部支部などである.

 これに人材育成のための学校があった.陸軍経理学校,陸軍獣医学校,
陸軍軍医学校,陸軍砲兵工科学校である.経理学校では兵站,補給の
中心になる経理部将校相当官,同下士官を養成し,獣医学校や軍医学校
もそれぞれ専門家を育てていた.

 それぞれの詳細は次回に譲るが,こうした組織やそれらをつなげる
システムはしっかりと構成されていた.問題は,19個師団から朝鮮の
2個師団の増設がされ,合計21個師団.大正末の軍縮で4個師団が廃止され,
平時のボトムだった17個師団.戦時になれば,それから生まれる特設師団
などを入れて40個師団くらいを持つのが限度いっぱいだったのだろう.

 補給組織も兵站のシステムもそのあたりの規模で計画されていた.
しかも,仮想敵国はロシア・ソ連であり,予想された戦場は満洲だった.
それが,1937(昭和12年)以後の日支事変以後に師団増設が
相次いでいく.人も物も金も戦争の拡大に追いついていけなくなった.
その挙句に南方進出である.装備も教育もすべて北方の戦場向きで
行なわれてきた陸軍は「兵站・補給軽視」どころか対応・適応するのに
おおわらわという状態だった.
 
 兵站と動員は表裏一体の関係にある.兵站を裏付けるのは国家の豊かさ
であり,あるいは資源の集中や統制の成果といえよう.また,兵站を支える
のは主に人の知的レベルである.企画能力,調整能力,運営能力などなど,
いわば国民の知力の結集でもある.

 補給は,そのごく一部でしかない.ガダルカナル,インパール,
ニューギニア,フィリピンなどを「地獄の戦場」にしたのは補給の失敗
なのである.それを兵站すなわち補給と考え,細かく考えずに軽視していた
とまとめてしまう.そこにわたしたちが自分たちの現在を考えるカギの一つ
があると思っている.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.12.23




『ライター・渡邉陽子のコラム (75) ─ 自衛隊海外派遣の歩み(5) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.

今年の連載は本日が最後になります.
1年間,ありがとうございました.
師走は仕事に追われに追われ,なんとか元旦だけは
休日にしたいと思っているのですが,どうなることやら.
帰省もお預けです.

みなさまもよいお年をお迎えください.
来年もどうぞよろしくお願いいたします!


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■自衛隊海外派遣の歩み(5)

第1次カンボジア派遣大隊長である渡邊氏が出発前に懸念している
ことのひとつに,隊員の健康管理がありました.

「現地の生活環境は劣悪,隊員は日本の豊かな生活に慣れて
しまっている.そういう隊員600名を連れていって,本当にちゃんと
6か月勤務できるのか心配でした」

実際,現地では隊員の健康状態には問題が生じることもあったよう
ですが,「部隊そのものが揺らぐような事態はなかったのでその点
はほっとした」とのことでした.


また,現地の人々が自衛隊を受け入れてくれるか,それも不安
だったそうです.

「基本的に道路工事というのは,地域の住民の方に迷惑をかける
わけでしょう.道路は封鎖しなくてはいけない,大型車両が通れば
埃まみれになる,橋を架けようと思えば迂回路を作らなければいけない.
地域の方々に不便を強いることになるので,工事する現場近くの村
や部族の長のところにはかならず挨拶に行きました」


カンボジアは雨季になると陸の孤島になってしまう地域が
少なくありません.ある日,とある橋が落ちたままになっていて
住民が不自由を強いられているというので,「ちょこちょこっと
直しに行った」そうです.

「われわれが橋を作り始めてから完成するまで,地元の方が
見ているんです,ずっと.それで橋ができあがったら,みんな渡り初め
をするんです.非常に感謝されて,あれは嬉しかったですね.
相手の喜びがダイレクトに伝わる,そこがPKOでいちばん達成感
のあるところかもしれません」


一方,飲料水と生活用水の確保には苦労しました.
派遣部隊の飲み水や生活用水を確保するためには,井戸を掘る
必要がありました.現地にも井戸はあったのですが10m程度の浅井戸で,
雨季と乾季で水量が違うし,浸透水を吸い上げるだけなので質が
よくありません.そのため岩盤を抜いた地下の深層水を求めたのですが,
約80mもの深さまで掘ってもまだ深層水が出ないのです.

しかも井戸を掘る技術というのは,もともと施設科にはありません.
意外に思われるかもしれませんが,分野としては需品科が担当する
ものなのです.とはいえ,需品科ですら国内の訓練で水源を掘り当てる
必要などないし,本来は「水を綺麗にする,飲めるようにする」というのが
役目です.現地では業者から指導を受けながらなんとか掘ったそうですが,
これも初の海外派遣ならではの混乱といえるかもしれません.

「タケオ温泉」と呼ばれたドラム缶の浴槽を作るほど風呂を求めた隊員たち
にとって(しかもお湯は川の濁った水を沸かしたもの),生活用水すら
自由にならない日々はさぞきつかったことでしょう.


ネット環境どころか携帯電話も普及していない時代,日本に残した家族
とのやりとりは,通信衛星を使った電話が6台のみが頼りでした.
しかし公務で常に何台かはふさがっているので,600名の隊員に
対して3台程度しか割り当てられません.これはほとんど使えない
に等しいレベルです.

「だから隊員には手紙を書きなさいと言ってました.手紙もいいですよ.
お互いに出し合うと,ちょうど1週間に1回くらいやり取りできるいい
ペースなんです.そういえば女房に手紙を書いたのは,後にも先にも
あのときだけですね」

渡邊氏はそう言って笑っていました.現在,南スーダンやジブチで活動
している隊員たちにとっては,「ケータイなし,メールなし,スカイプなし」は,
もはや想像のつかない世界かもしれません.ただしその分,カンボジア
PKO時代にはなかった苦悩やジレンマを背負っていることでしょう.


カンボジアPKOの話は来年に続きます.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.12.24




兵法三十六計 番外編

中国の軍改革(後)
─総参謀部に代わって「統合作戦指揮部」が創設か?─

                 元防衛省情報分析官・上田篤盛(あつもり)
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 拙著『戦略的インテリジェンス入門』を多数ご注文いただき
誠にありがとうございました.忌憚ないご意見・ご感想を
いただければ幸いです.
 どうぞ良いお年をお迎えください.

「中国の軍改革」の最終回です.少し長めになりましたが,
お付き合いください.


▼統合作戦能力の必要性

 軍改革の三つ目の柱は「統合作戦指揮機構」の改善である.
今次の改革工作会議では,「戦区」を常設して「戦区統合作戦指揮機構」
を置くとともに,中央レベルの「統合作戦指揮機構」を改善することが
うたわれた.

「情報化」を推進する中国軍にとって統合作戦能力の向上は
必要不可欠である.2007年2月,中国軍の「情報化」建設の第一人者
であった章沁生・上将(※当時は広州軍区司令官.その後,
筆頭副総参謀長に昇任したのちに退官)は,「情報化」について
「部隊の一体化,すなわち『統合化』の実現である.センサー,打撃,
自動指揮システムなどが一体化した軍隊の建設である」と述べた.

 最大の「情報化条件下の局地戦」として想定される台湾有事で喩えれば,
中国は海・空軍および第二砲兵により海上・航空優勢を獲得したうえで,
陸軍戦力を台湾海峡越えに戦略投射しなければならない.このためには
C4ISRによって各戦力を有機的に連結して,これを要事・要点に結集
しえる高度な統合作戦能力が不可欠となる.

▼中国軍は統合作戦能力の向上を追求

 中国軍は統合作戦能力の向上を追求し,これまで「統合作戦指揮機構」
に向けた改革(準備),統合訓練・演習の強化,統合後方支援体制の
構築などに取り組んできた.

 中央レベルの「統合作戦指揮機構」を設立する準備行動は,すでに2000年代
に萌芽した.すなわち,陸軍の独擅場であった中央軍事委員会に2004年,
海・空軍から各司令官がメンバー入りした.このほか海・空軍高官が総参謀部
の作戦部副部長などの要職に配置された.2012年,それまでは陸軍ポスト
であった中央軍事委員会副主席に空軍司令官の許其亮・空軍上将が
登用された.これらの人事措置は「統合作戦指揮機構」の設立を念頭に
置いた準備行動としてとらえられよう.

「三段階発展戦略」の第二段階に移行した2011年,軍事作戦を所掌する
総参謀部の組織改編が大々的に行なわれた.戦略企画部の新編,
軍事訓練兵種部から軍事訓練部への改編,情報化通信部から情報化部
への改編,総参謀部情報保障基地の新編などである.これらに関して,
陳炳徳・総参謀長(当時)は「情報化」と統合作戦指揮能力の向上を意識した
改編である旨の発言を行なった.

 しかし現在までのところ,4総部(総参謀部,総政治部,総後勤部,総装備部)
への抜本的改革には未着手である.すなわち,従来どおり中央軍事委員会
の下に4総部が並列して存在し,それらのトップはすべて陸軍高官で
占められている.海・空軍および第二砲兵に対しては,副総参謀長などの
副職ポストが与えられているにすぎない.

 統合訓練・演習の分野では,2008年版『中国の国防』にて「情報化条件下
の局地戦」を戦う基本的な作戦形態として「一体化統合作戦」の概念が提起
された.同年,「中国人民解放軍戦略規定」および「中国人民解放軍戦略項目」
が発出され,統合訓練・演習の基本方針が示された.2009年1月から施行
された「軍事訓練・評価大綱」では「各軍種・兵種の作戦を融合する試み」
が重点課題として掲げられた.

 2007年,済南軍区が統合作戦運用を検証するための「モデル戦区」に指定
された.2009年2月,同軍区に全国で初めて統合訓練・演習を企画・統裁する
「戦区統合訓練指揮機構」が設置された.同年11月の「鉄騎2009」および
「統合2009」では,陸・海・空の統合演習部隊が編成され,同訓練指揮機構
が演習を統裁する状況が確認された.「前方2009」では
第20集団軍司令部(済南軍区)が陸軍と空軍の各演習司令部からなる
統合演習司令部を設置した.

「三段階発展戦略」の第二段階に入った2011年の「統合2011」では,
第26集団軍(済南軍区)を基幹に海軍北海艦隊(青海),済南軍区空軍(済南)
から兵力を集成した統合演習部隊が編成され,北海艦隊司令官が統合指揮官
として演習を統裁した.陸・海・空軍からなる統合演習部隊を海軍指揮官が
指揮したことは中国軍史上,初めてのことであった.

 統合後方支援体制の分野では,済南軍区が2007年4月から統合後方支援
体制(大聨勤体制)を開始した.中央軍事委員会は同年12月に「近代化後方支援
の全面的建設綱要」を公布した.同綱要では「2020年までに後方支援の
『情報化』と『統合化』を推進し,情報化局地戦に勝利するための堅実な基礎
を建設する」ことが目標に掲げられた.そして後方支援指揮システム
(一体化後勤平台)を整備し,補給品の保管状況をデータ管理し,それを
ネットワークで連接し,適時,適切な配給などが行なえる統合後方支援体制
の確立を目指す努力が続けられている.

 しかしながら,こうした努力にもかかわらず,中国軍の統合後方支援は
十分とはいえない.米国防省は遠距離における統合作戦を行なううえで
最大の難点は後方支援の未整備にあるとみている.

▼軍総参謀部が改編され「統合作戦指揮部」が新設か?

 中央レベルの「統合作戦指揮機構」の改善についての詳細は現段階
では明らかにされていないが,2011年以降の総参謀部における改編動向
を踏まえれば,総参謀部が「統合作戦指揮部」に改編される案が有力であろう.

 その場合,総政治部,総後勤部,総装備部の一部機能が「統合作戦指揮部」
に吸収される.また総政治部などの一部機能は整理・統合されて残存し,
「統合作戦指揮部」に並立する,あるいは下位に位置づけられる可能性があろう.

 陸軍司令部が新設されて,既存の海・空軍および第二砲兵司令部と同列
に位置し,「統合作戦指揮部」と同列もしくはその隷下におかれることになろう.
また中央レベルの「統合作戦指機部」が「戦区統合作戦指揮部」を直接指揮
する体制が確立されるであろう.

 中央レベルの「統合作戦指揮部」が確立された場合,重要ポストは
陸,海,空軍および第二砲兵にどのように振り分けられるのであろうか?

 2011年の「統合2011」では,北海艦隊司令官が統合演習指揮官となった
ことから,「戦区統合作戦指揮部」司令官の一部ポストに陸軍以外の高官
が就任する可能性もあるか? これらの点は「統合作戦指揮機構」の融合性
レベルを評価するうえで大いに注目される.

 また近年,中国軍においては宇宙軍(空天軍)の創設をめぐる動きがある.
これに関しても,陸軍,空軍および第二砲兵がその主導権の確保に関して
どのような取り組みを示すのかも注目点となろう.

▼改革推進には政治的安定が不可欠

 先述のとおり,今回の軍改革は軍事合理性に基づく「既定路線」である
とはいえ,軍改革が所望の成果を挙げるためには習指導部の政治的安定
が必要不可欠なことには異論はないであろう.

 中国における指導部選定は公開選挙による国民の審判ではなく,
密室合意による.そのため,選定過程で「派閥力学」が働き,党内対立が
生起することになる.

 習の選定過程においては,薄熙来・政治局委員香(当時)と周永康・政治局
常務委員(当時)が中国軍の一部と密着し,習に対するクーデターを仕掛けた
との疑念も浮上した.

 習には毛沢東,?小平のような戦歴を背景とするカリスマ性はない.
江沢民や胡錦濤のように,カリスマ指導者である?小平が後継者として指名
したわけでもない.つまり,習は「派閥力学」が生成した指導者であり,
派閥の微妙な力関係に配慮した集団指導体制による国家運営を行なわなければ
ならない.

 転じて,習をとりまく内外環境には厳しい局面が待っている.経済成長が
鈍化するなか,東シナ・南シナ海の情勢をめぐる「中国脅威論」の国際的
高まりと米中対立の兆し,新疆ウイグル自治区に忍び寄るイスラム国の影響,
経済格差や宗教問題などの国内問題の山積など,その趨勢はいずれも
習政権の安定性を揺るがすものとして予断を許さない.

 習が2022年まで国家最高指導者であり続けることは制度上保障されており,
ほかの政治指導者が習を蔑(ないがし)ろにすることはできないし,重要案件
に対する最終判断も習に仰がなければならない.しかし,習が国内問題,
台湾問題などの重大案件で失政をおかし,国内世論が党批判に発展する
ようなことにでもなれば,カリスマ性のない習の権威は一挙に失墜する可能性
がある.その場合,習に“面従腹背”している党内ライバルが他との連携を
模索し,軍高官などを取り込み,習に圧力をかける可能性は否定できない.

▼軍掌握はいまだ不透明

 習は2012年の第18期党大会で総書記就任と同時に中央軍事委員会主席
に就任した.同年12月には中央海洋権益工作指導小組を設置し,
2013年11月の第18期3中全会で国家安全委員会を設置し,組長(トップ)に就任.
2014年3月に「国防・軍隊改革深化指導小組」(「全面改革深化指導小組」の
軍隊版)を設置し,自らが組長に就任し,範長龍・副主席を一副組長,
許其亮・副主席を常務副組長に指名し,軍改革と軍掌握にまい進中である.

 また習は「中央軍隊党委員会巡視組」を設置し,許其亮を工作指導組長,
張陽・総政治部主任を第一副組長,杜金才・総政治部副主任(兼ねて規律
検査委員会書記)を常務副組長,候樹森・副総参謀長を委員に指名し,
「不退転の決意」をもって軍に対する汚職・腐敗の検査・摘発,風紀問題の
是正に取り組んでいる.

 その検査・摘発は,総後勤部副部長の谷俊山・中将の汚職摘発
(2012年に解任,軍事検察院は2014年3月に起訴)に始まり,かつての
制服トップの徐才厚(2014年6月30日党籍剥奪),郭伯雄の両氏まで及んだ.

 以上から,習は十分な存在感と強い指導力を発揮しており,習の軍掌握
はきわめて順調に映る.また,習が郭,徐とこれに連なる軍高官の“首根っこ”
を押さえたことで軍改革に向けた抵抗勢力の排除が完成したようにも映る.

 しかし,筆者は以下の理由から「軍掌握は未だに不透明」と判断せざるをえない.

 第一に,前述(前篇)したような「党中央と中央軍事委員会に従え」との演説
の繰り返しや,『解放軍報』紙上での「軍の指導者は中央軍事委員会主席である」
との記事である.“当たり前”の制度を強調することは尋常ではない証左である.

 これに関連して,徐才厚に対する検査・摘発が本格化する前の
2014年3月〜4月,『解放軍報』で3回にわたり,馬暁天・空軍司令官,
「7軍区」司令官などが習への忠誠を誓う文章が見開き紙面で掲載された.
この「忠誠文」は習が掲げる「中国の夢」,その一部である「強軍の夢」に
対して強い支持を表明するものであった.

 この忠誠文を「習の軍掌握が順調である」とみる一方,忠誠文そのものが
異例であり,「軍掌握に不安がある」ことの証左との見方も存在した.

 また「戦勝70周年記念式典」における,異例ともいうべき少将クラスによる
隊列指揮は,習指導部と“習派”軍高官が,習の軍掌握における不安要素を
意図的に覆い隠すための“宣伝臭さ”がつきまとう.

 第二に,国家安全委員会についてである.2013年11月の第18期3中全会
で同安全委員会の創設が決定された.同委員会は米国の国家安全保障会議(NSC)
にならい,党中央や国務院の関係部署,中国軍,外交担当者が加わる
中国版NSCに発展するかとみられた.しかし,同委員会の実態はいまだに
不透明である.これは,国家機関が軍内に介入することに対して軍内になお
強い抵抗があり,これに習が手をこまねいている可能性もある.

 なぜならば,江沢民時代に中国版NSCたる国家安全委員会の創設が
提起されたが,この構想は軍の反対により結局は中央外事工作指導小組
とほぼ一体化した国家安全指導小組を設置することに矮小化されたという
前例があるからだ.

 第三は,軍事関連活動の活発化である.東シナ海におけるADIZ設定や
軍事活動の活発化の背後には,習による軍内の汚職・腐敗の検査・摘発
を牽制しようとする軍側の狙いがあるのかもしれない.つまり,軍がさまざまな
かたちで外患を作為し,習に間接的圧力を加えている可能性が排除されない.

 逆に習の軍に対する過剰ともいえる露出と鼓舞,経済成長が鈍化するなか
で国防費の二桁台伸長がなんとか維持されていることは,軍による間接的圧力
に対して習が配慮する構図が形成されている可能性がある.

▼目に見えるかたちでの軍事的成果をあげるのは容易ではない

 陸軍の既得権益の“牙城”である「軍区」を撤廃するとなれば,一般的には
「陸軍は抵抗,海・空軍等は賛成」とみるべきであろう.しかし,実態はそれほど
単純ではない.陸軍も“一枚岩”ではなく,郭や徐らの旧態勢力の流れをひく者と,
習により抜擢された者との水面下での“つばぜり合い”が繰り広げられている
可能性がある.

 こうしたなか,習と“習派”軍高官が,さまざまな抵抗を排除して軍改革の
内実を整えていくためには,目に見えるかたちでの軍事的成果を内外に示す
ことで,軍内支持を強化していくほかはない.

 江沢民は上将昇任という“大判振い”の人事措置と,台湾に対する強硬姿勢
などで成果を挙げて,軍内支持を獲得した.

 胡錦濤は,右肩上がりの経済力に支えられて十分な国防費を配当し,
軍人給与を大幅に引き上げ,中国軍を質・量ともに大幅に増強した.
PKOや海賊対処などを通じて,中国軍の国際デビューを果たし,月面探査
の成功や有人潜水船による世界最深記録の達成なども胡の歴史的成果
として後世に残ることになる.

 これに対し,経済成長が鈍化するなか,習には成果が表に出にくいソフト面
の近代化が求められている.また胡が残した“負の遺産”である軍内の
汚職・腐敗の検査・撤廃,兵力削減にともなう軍人の再就職問題,陸軍に
忍容を強いる「軍区」の撤廃など,厳しい課題が直面している.

 習は頻繁に軍を慰問し,「戦える軍から」から「戦って勝てる軍」への転換を
繰り返し演説している.しかしながら,国防費が削減され,軍人に“アメ”を
与えることもできず,目に見えるかたちでの軍事的成果もあげられないとなれば,
軍内から「習は“言うだけ番長”だ」との批判も生起しよう.

 それでも「軍改革は規定路線」であるので,軍内に反対論を表立って
唱える者は出現しない.そして習指導部が一枚岩であるかぎりは,
党による軍に対する統制上の問題も軍改革における大きな支障も,
おそらく生じないであろう.

 しかし,習が外交,内政上の重大な失政などをおかした場合などには,
党内における派閥対立が一挙に先鋭化し,“面従腹背”の党内ライバルと
軍高官が互いに結託して,習に揺さぶりを仕掛ける事態が発生する可能性
は排除されない.

 このようなことになれば,たちまち軍改革どころではなくなってしまう.

▼中国軍を過小評価してはならない

 2016年から「三段階発展戦略」の第二段階の後半が開始され,
習と習派の軍高官は,2020年をメドに軍改革に本格的に着手することになろう.

 上述したように政治的安定と軍内支持の獲得という重い課題は残っているが,
習指導部がこれを克服し,今回の軍改革をやり遂げた暁には,時期まもなくして,
強大な中国軍がわが国の東側正面に常在し,そのパワープロジェクション能力
はわが国の沖縄,南西諸島を横切って西太平洋に達することになる.

 わが国は,こうした中国軍の取り組みを絶対に軽視してはならない.
最近,軍高官の汚職・腐敗という一面を根拠にして「中国軍は風紀が乱れ,
精強ではない」などと安閑としたり,中国軍の能力を過小に評価して
「自衛隊の方が強い」と“溜飲”を下げたりしている余裕はない.

 逆に,今日の中国軍を過大に評価して,「わが国の防衛努力はもはや
無駄だ」などの悲観論に走る必要もさらさらない.なぜならば,「先端兵器の
重要部分は輸入品」「陸軍装備の多くは依然として旧式」「空中給油機や
早期警戒機などの不足により連携作戦が困難」「対潜哨戒機の不足により
対潜戦能力が脆弱」「海軍艦艇と空軍航空機による共同訓練は未着手
であり,本格的な統合作戦は困難」「統合作戦に不可欠なC4ISRは未整備」
など,中国軍が多くの問題点を有していることも事実であるからだ.

 しかしながら,この10年間,中国軍の武器・装備は大幅に進展し,
軍事訓練は格段に実戦的になって統合作戦が体をなすようになってきたこと,
アデン湾・ソマリア沖の護衛活動を通じた遠洋航海能力の堅調な向上が
認められこと,などもまた事実なのである.その間,軍人トップに君臨していた
のが郭伯雄であり徐才厚である.このことから,軍高官が蓄財にうつつをぬかし,
階級を売買し,愛人を囲うことと,中国軍の軍事能力が増強していることは
切り離して考えなくてはならないのである.

 要は,中国軍の能力を等身大に評価し,弱点を追求した戦略を構築し,
中長期的なトレンドと能力向上を至当に見積もり,それに対して,わが国は
必要な軍事力整備計画を立てて,平素の防衛努力を継続することが肝要である.

 その意味では,まずは今回の軍改革における軍事的意義をしっかりと認識
することが,今日の我々に課せられた責務である.

(「中国の軍改革」おわり,次週は第七計「無中生有」を解説します)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.12.29





荒木 肇
『陸軍の「兵站軽視」は本当か?〈3〉──日本陸軍の兵站戦(4)
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 今回が年内最後のメルマガです.少し長めですが,お付き合いください.

▼経理官の啓蒙活動

 陸・海軍に奉職する人には軍人と軍属がいた.軍人とは制服
を着て階級章を着け,勤務する.軍人は身分の上では高等官と
判任官になる.これらを武官といい,それに兵役義務を果たしている
兵がいた.軍属には陸軍文官といわれる人たちもいて,武官と
同じように高等官から判任官,それに兵にあたる雇員と傭人など
である.現在の制服を着る自衛官と私服で勤務する防衛省職員(自衛隊員)
の関係と変わらない.

 軍属は将官相当官もいれば,伍長相当の技手もいて,
通訳官なども軍属である.また,陸軍看護婦も軍属であり,陸軍病院
などに勤務した.赤十字の日赤看護婦は従軍看護婦といわれるが,
それとは別の人たちである.また,文官では判任官は「属官」ともいわれ,
官衙や特務機関では何でもこなせる裏方の実力者だった.
今でいえば,高等官はキャリアであり,判任官以下はノン・キャリ
といわれる人たちと考えれば分かりやすい.

 陸軍軍人は戦闘を行なうことを主とする兵科と,支援業務を行なう
各部に所属した.兵科は歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵と憲兵である.
大正末にはこれに航空兵が加わり,1940(昭和15)年には兵科の
区分がなくなって,憲兵以外はすべて兵科に統一された.それまでの
「陸軍砲兵大佐」,「陸軍輜重兵少尉」,「陸軍工兵軍曹」は,それぞれ
兵科の肩書がとれて,陸軍大佐,同少尉,同軍曹と呼ばれることになった.

 いまの陸上自衛隊では軍や兵は使えないから,兵科の代わりに職種
という言葉が使われる.そして,陸軍のような各部という区分がないので,
昔の軍医である医官も1等陸佐(大佐),音楽隊長も2等陸佐(中佐)など
と階級名をいい,制服の襟部の職種徽章を見ないと専門が分かりにくく
なっている.

 各部は衛生,経理,獣医,軍楽であり,昭和になって技術,法務が加わった.
1937(昭和12)年までは,それぞれ兵科将校・下士官・兵とは違う独特の
官名があった.ただし,陸軍には経理兵という制度そのものがなく,主計兵
という存在があった海軍とは異なっている.陸軍1等軍医正が同軍医大佐
に,陸軍2等主計が同主計中尉に,陸軍1等獣医が同獣医大尉に,
陸軍1等軍楽長が同軍楽大尉になったのは,それより後のことである.
また,それまで将校相当官といわれてきた各部士官以上は,各部将校
ともいわれるようになった.将校とは軍隊指揮権を持つ士官以上のこと
である.だから,各部将校といわれるようになったからといって,軍隊の長
にはならなかった.
 
 なお,陸軍で幹部といわれるのは伍長とその相当官の各部下士官以上
である.兵科の伍長,軍曹,曹長と准士官である准尉(元の特務曹長)と,
それぞれの各部相当官である判任武官だった.判任官は進級や任免
といった人事を所属官庁の長官が委任されていた.准尉までの下士官は,
たとえば師団長が人事を受け持った.高等官とは人事が陸軍大臣の名
で発令され,天皇に名簿を奏上して裁可を受ける奏任官(尉官と佐官,
その各部相当官)と勅語をもって辞令が出される勅任官(少将と中将,その
各部相当官)と,親任式を行なう親任官である大将のことである.
また,各部には大将は存在しない.

 陸軍には陸軍将校とその相当官しか読めない雑誌があった.
それを「偕行社記事」という.偕行社とは兵科将校たちの親睦,自主研究
のための団体である.毎月1回発行される月刊誌のことを「偕行社記事」といった.

 その中に,大正時代の末期に書かれた佐伯正一1等主計(大尉相当官)
の『軍隊經理に關する問答』という投稿記事があった.経理,とりわけ
軍隊経理についての解説である.佐伯経理官は自分の所属隊(長崎県
大村の歩兵第46聯隊)の友人である歩兵大尉に向かって,問答集の
かたちで軍隊経理について説明している.以下,原文をなるべく活かしつつ
紹介しよう.それを読むと,当時の軍隊経理官がどんな仕事をし,どのような
考えで仕事をしていたかがよく分かるからだ.

『経理という言葉を広く使うと行政という意味になる.しかし,ふつうに軍隊
で経理部,経理官,経理事務という風に使われると会計経理のことになる.
陸軍に必要な品物を買い込んだり,保存整理したり,規則に従って人馬に
金銭や物品を支給したり,することをいう.これを定義的に表すと,
金銭衣食住に関する事項を処理するとなる』

 軍隊経理とは師団以下の経理をいい,主には聯(大)隊経理を指している.
これは陸軍がその組織を「軍隊,官衙,学校,特務機関」と分けていること
からである.また,陸軍の経理事務では,「委任経理」という特徴的なこと
がなされていた.それは現場の部隊長が金銭出納の責任者となり,将校団
から選ばれた経理委員がそれぞれの職務を行なうことである.もちろん,
聯隊や工兵大隊,輜重兵大隊に配属された経理官(将校相当官)が実務
の多くを担当していた.

 師団司令部には経理部があり,部長である1等主計正(大佐相当官)が
部隊ごとに決まった金額や,現品(米や麦,まぐさ等)を部隊長に渡す.
その使い方は現場の部隊長の自由になり,廃品や空き箱,空き缶,残飯等
を民間に払い下げて収入を図ることもできた.その金や余剰金は聯(大)隊
の積立金とされた.それは年に一度の聯隊の軍旗祭などの行事で加給品
として兵隊たちに振る舞われる菓子や酒,折詰などになることもあった.

 この委任経理制度は1875(明治8)年に施行された.その半世紀に
およぶ長い歴史の間には戦役があり,社会情勢の変化も大きい.6鎮台の
時代(1890年代初め)には物価は低かったし,経費もゆとりがあった.
ところが日清戦争(1894〜5年)のあとから経費節減の要請がされるよう
になった.日清戦争を戦ったのは近衛師団以下の7個師団である.
昔からの鎮台を改編して6個師団とし,これに近衛を含めて合計7個師団
で戦った.

 やっとの思いで勝利を得て,賠償金のほか,領土の割譲も受けることが
できた.ところが,三国(独・仏・露)干渉で遼東半島を返還させられた.
国民は「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の合言葉のもと,次の戦争の相手
はロシアと思い,陸海軍の拡充に走った.おかげで軍隊の経費節減への
努力ということが強調されることになった.日露戦争が勝利に終わっても,
ロシアのリターンマッチを恐れる陸軍はなお軍備拡充を怠らなかった.
限られた予算のなかで,やり繰りをしようとすれば節約が第一歩である.
 
 ところが,戦うこと,平時では兵卒を教育訓練することこそが仕事だと
思っている兵科将校は経理に関する意識が低かった.そこで佐伯主計は
分かりやすく,経理への関心をもたせるために,この一文を兵科将校の
必読書だった「偕行社記事」に投稿し,編集委員会もこれを掲載したのである.

▼歩兵聯隊の内務経理

『昔,軍靴は1組6カ月の給与期限だったが,6カ月半になり,7カ月になり
現在では7カ月半となり,1カ月半の節約になった.これを1人当たりの1年
の金額に換算すれば,2円15銭4厘だけ節約になったわけだ.聯隊の総人員
をおよそ1500名と見ると,聯隊では1年間で3231円になる.これを陸軍全体
の兵員を約20万とみれば,1年間で軍靴だけで節約される軍事費は
43万余円になる.この額はほとんど歩兵1個聯隊の1年間の総経費に相当する』

 佐伯主計は言う.『国家の義務兵に対して,もともと豊富ではない給与状態に
あるのに靴下の履きのばしをせよ,洗濯の石鹸も節約しろとは心苦しい』が,
小額の経費で軍備の充実を図らねばならないのが現状である.兵科将校が
分担する経理委員会は,経費の運用や,金銭出納,物品の保管,支給交換,
手入れ,倉庫の管理など,どうしても給与の計画方面にのみ関心も偏ってしまう.
軍隊経理の全体とはとてもいえない.

 将校・下士は率先して,「内務経理」に力を注ぐ,つまり「兵卒の中に官物尊重心」
を育てなければいけないという.たしかに「軍隊内務書」には『中隊長ハ法規ノ
定メル所ニ従ヒ経理ノ業務ヲ処理ス』とも書いてある.しかし,その実態は中隊
事務室の給養掛曹長に給与の支払いなどを任せるばかりではないか.
 
 佐伯主計は食事についても話題を広げる.大村聯隊は長崎県全県を徴募区
とした.入営する現役兵の出身地域は12の徴集区から成っていた.長崎市,
佐世保市と壱岐,対馬,沖縄の島嶼部,そして東西の彼杵(そのぎ)郡,
南北の松浦郡,そして南北の高郡である.そこで入営前の常食(ふだん
食べてきた主食)を調べてみた.それを見ると,大正末期の地方の人の
暮らしをしのぶことができる.
 
 長崎市では白米だけを食べていた入営兵は全体の中の70%,米麦混食
が25%である.麦だけは4%にしかならない.県庁所在地の豊かさが
しのばれる.これが佐世保市になると,白米は50%,米麦31%で麦だけ
は19%にのぼる.おそらく港湾の労働者の子弟が貧しい階層になり,
麦を常食とする人がいたに違いない.離島になる壱岐島だと白米17%と
ずいぶん下がり,米麦46%,麦13%になる.ほかの郡部でも白米食は
おおよそ20〜30%である.全体では白米食は3割であり,米麦混食も
ほぼ同じ3割,それに甘藷(さつまいも)を混ぜていた者が1割,麦食は16%である.
 
 それに対して,『国民の中等程度』の食事を給するというのが陸軍の方針
だった.1日の賄い料,副食や調味料,茶などの経費はこの第12師団管内
では19銭4厘だった.そうしてみると,主食以外で1カ月およそ5円が支出
されていたことがわかる.当時の一般家庭の生活水準で,米麦6合の他に
家族1人あたり5円の食費を支出するのはかなり暮らし向きも良い方であろう.
全体の30%しか進学しない中等学校にあたる師範学校出の22歳の教員の
給与は1カ月40〜50円くらいだった.正確な比較はいつも難しいが,
1円はいまの6000円くらいの使いでがあったと見ると,1日の主食を除いて
食費がおよそ1000円となる.1200円くらいだと言えないのは,風呂の
燃料代,調理の補助のアルバイトやボイラーマンの給料も賄い料に含まれる
からだ.
 
 戦後,陸軍の兵営生活をふり返り,悲惨だった,苦しかったという回想録
を発表した人が多かった.それは当時,同世代の3%くらいの高等教育に
進んだ人である.また,陸軍にとっても異常だった戦時の軍隊の体験談が
多かった.高学歴のホワイトカラーの人たちが陸軍にたくさん入ったのは
1937(昭和12)年の日支事変による大動員からである.
 
 明治大正時代に,兵役義務を果たしたあとに刻苦して技師や医師になった
若者の手記が残っている.彼らは例外なく,陸軍の平時の暮らしの良さを
よく記録している.そして,地方新聞の記事の中には,『軍隊から帰ってきて
毎日,肉が食いたいという長男がいて困る』という人生相談などを見ること
ができる.ちなみに現在の陸上自衛隊の1日3食の賄い料もほぼ1000円
であり,不思議な整合性がある.家族1人に主食抜きで1月3万円の食費
をかける家庭がどれほどあるだろうか.いつも陸軍は「中程度」の食事を
支給する伝統がある.
 
 佐伯主計は続ける.1厘とはたくあん漬け6匁(22.5グラム)になる.
『帝国陸軍衙の炊事場を総計すれば300カ所になる.1日3回炊事を
すれば900回である.これを1年に見積もると32万8500回で,1炊事場
が1回の炊飯で洗米,配米で流失するものが1合(150グラム)と仮定
すれば,1年に328石5斗の損失で,平時定員の歩兵聯隊の約40日分
の糧米になる』
 
『次に被服について言うと軍用の被服のうち,羅紗(絨・らしゃ)で製造
されているものは,軍帽,軍衣,軍袴(ズボン),外套(コート),
雨覆(レインコート),巻脚絆(ゲートル)を主としている.これらの原料は
羊毛である.そして,わが国には羊はほとんど飼育されていない・・・』
 
 陸軍は東京に千住(せんじゅ)製絨所という工場を持っていた.そこでは
平時では軍用の絨(ウール)を作りながら,民間向けの羅紗も製造していた.
民間向けには再生毛を混ぜていたが,軍用はすべて新毛しか使って
いなかった.だから,「戦用被服」といわれた毎年交付される新品は,
たしかに高級な生地を使ったものばかりだった.もちろん,羊毛の輸入先
は大英帝国のオーストラリアであり,商社を使って買い上げていた.
 
 皮革についても述べている.陸軍の匂いは『汗と馬糞とスピンドル・オイル,
それに加えて皮,保革油だった』という思い出話がある.歩兵なら
弾薬盒(前に2個,背中側に2個着ける),帯革(たいかく・ベルト),背嚢,
水筒の吊紐,編上靴(へんじょうか・軍靴),銃剣の吊具などである.
平均,牛1頭で編上靴なら5足,長靴なら3足だという.生産状況は内地,
台湾,朝鮮を合わせて300万頭内外である.うち,朝鮮牛は背嚢の皮に
用いるし,総数には乳牛や子牛も入っている.靴用の牛皮を取れるのは
約120万頭くらいだろう.これでは戦時に100万にもなる野戦軍にとっては
軍靴の補充は2年くらいしか続かないといっていい.

▼経理官の始まり
 
 佐伯1等主計のような経理官はどのように養成されていたのだろうか.
通史的にみてみよう.
 建軍当初はフランス式の経理官制度を導入した.それがドイツ式に
改められたのは1902(明治35)年からといわれている.フランス式は
指揮統帥では軍司令官は大統領(国王)に直属して,陸軍大臣は行政系統
のトップに立つ.会計監督は陸軍大臣に直属し,軍司令官の隷下には
ならない.戦時には大臣が人員補充・兵站・補給を担当し,軍の指揮統帥
には総軍司令官が任命される.
 
 これに対してドイツ(プロシャ)式では,皇帝が最高指揮者であり,
軍団では会計監督部は軍団長に隷属し,財政上のことは陸軍大臣と事務
を往復した.これが陸軍崩壊までの経理部の在り方と同じであるから,
明治35年の改革で日本陸軍は経理制度をドイツ式に改めたということが分かる.
 
 建軍当時は,ほかの兵科・部も同じように自薦,他薦も含めて,欧米式
経理の知識のある人たちが集められた.近代的な組織の帳簿を作ることから
外国文献と首っ引きの時代だった.外国語ができなくては,官に仕えること
などできなかった時代である.

 1873(明治6)年3月に陸軍省職制と条例が制定された.7つの局が
置かれたが,そこの第5局が監督部,軍吏部会計事務を扱い,糧食・薪炭
を担当する第1課から被服・陣営具の第2課,それらから始まり第9課までの
9つの課に分かれている.

 定員表によれば,局長は監督長(三等官・少将相当),副長は監督
(四等官・大佐同)で1等副監督(五等官・中佐同)が3人である.各課長は
軍吏正(六等官・少佐相当)や2等副監督(六等官・少佐同)となっている.
監督長は津田出(つだ・いずる)である.津田は1832(天保3)年に
紀州徳川家の藩士の家に生まれ,江戸で蘭学を学び,和歌山藩政改革
制度をリードしたが,勤皇運動で失脚.のち,執政として復職し,維新に
よって和歌山藩大参事に昇任した.徴兵制,市民平等による藩政を実行
しようとし,中央政府に招かれたのである.

▼経理官・監督と軍吏

 同年5月には陸軍武官官等表が定められ,将官,上長官(のちの佐官),
士官,下士,卒などの区分ができた.そのほかには会計部,軍医部などの
総括的名称も定められた.会計部には副監督,司契,軍吏などの官を新設
した.そして,1874(明治7)年2月には「鎮台職官表」が出され,軍隊に
初めて経理官が付属することになった.

 このときの6個鎮台の総定員は3万720名であり,会計官等は394名
だった.軍人・軍属全体の中で1.3%弱である.この時の鎮台会計部の
定員も見ておこう.
(1) 派出監督課
1(2)等副監督(中・少佐相当官)6名,1等書記(曹長相当官)18名.
司契課には1等司契(中佐相当官),2等同(少佐同)が各3名ずつ,
司契副(大尉同)が6名で1・2・3等書記(曹長・軍曹・伍長同)が18名
という陣容である.
(2) 糧食・薪炭課
軍吏(大尉相当官)6名,軍吏副(中尉同)6名,書記(階級指定なし)12名,
それに雇員である夫長6名.
(3) 被服・陣営課
軍吏6名,軍吏副6名,2(3)等書記12名.それに庫守と夫長がそれぞれ6名.
(4) 病院課
軍吏5名,軍吏副7名,2(3)等書記17名,1(2・3)等看病人(衛生下士官)27名,
看病人104名,厨夫19名,それに守門10人.
(5) 兵隊付属軍吏(軍隊に配属される軍吏)
聯隊には軍吏14名,他の各隊には軍吏副77名.

 1877(明治10)年に起こった薩摩軍の反乱である西南戦争には
多くの経理官が参戦する.当時は,各鎮台から臨時編成の旅団が
出征した.旅団司令部の各部職員表がある.
 第1旅団を例にとると,参謀部,会計部,軍医部,砲兵部,輜重部に
分かれている.参謀部長は中佐,ほかに3人,下士卒文官を合わせて
24名になる.会計部長は2等司契(少佐相当),司契課長は
軍吏副(中尉相当)心得1名と下士書記が2名,三井銀行からの使役が
1名の合計4名.糧食課が軍吏副心得1名を長として軍吏補が1名,
下士書記5名の合計7名.被服課は軍吏(大尉相当)を長として
下士書記2名の合計3名.人員的に多かったのが病院課であり,
長は軍吏補(少尉相当),下士の看病人8名,それに看病卒39名で
合計48名.会計部全体では68名になっていた.

 司令部の中で会計部に次ぐ人員数は輜重部である.輜重部長は大尉,
ほかに大尉2名,少尉試補1名が士官であり,軍曹3名,伍長5名に
兵卒が42名の合計54名だった.当時の輜重は主に現地で雇い入れた
軍夫や馬方,人力車の指揮,監督,護衛を任務とした.

 1883(明治16)年の太政官達は,各兵科各部を通じたすべての官等
がそろった初めてのものになる.それによると,会計監督長(少将相当官),
会計監督(大佐同),会計1等副監督(中佐同),同2等(少佐同)と
会計監督補(大尉同)という監督官の系列と,会計1等・2等・3等の
軍吏(大尉〜少尉同),それに判任官1〜3等の会計書記(曹長・軍曹・伍長)
という2つのコースがあった.発足当時の制度にあった「司契」という
契約担当官は監督・軍吏に吸収された.

 最高官が中将級になったのは1897(明治30)年のことだった.
これは衛生部武官も同じで,軍医もこのとき最高官が中将級となった.
経理部では監督総監が新設され,これと少将級の監督監が将官(親任官)と
なり,1〜3等の監督,監督補はこれまで通り,ただし1886(明治19)年
には会計という言葉が官名から省かれていた.軍吏系統も変わらないが,
判任官では書記が計手という名称になり,他に縫工長と靴工長という
技術系下士ができた.これまで各兵科に属して被服や靴の修理に
携わっていた下士をまとめて経理部に移したのだった.

 この後の大きな改革は1902(明治35)年の日露戦争直前のことである.
1等から3等の副監督(大尉〜少尉級)ができて,准士官である上等計手が
新設された.そして,翌年には監督と軍吏の2系統を合わせて主計に統一
される.そして,翌1904(明治37)年には上等計手が廃止され,それが
復活するのは1909(明治42)年のことだった.

 こうして経理部高等武官は1903(明治36)年から後に,主計総監,
主計監,主計正(佐官相当,1〜3等に分かれる)と主計(尉官相当,同前)
という官名を使うようになった.1936(昭和11)年の2.26事件で決起した
将校,元将校の中でただ1人,元一等主計(大尉相当)がいるが,彼は
歩兵科から転科した人だった.

▼初期の養成制度

 1886(明治19)年,陸軍軍吏学舎が創設された.初めての系統的な
士官養成の学校だった.1等書記(曹長相当),明治22年からは兵科曹長
からも試験選抜し,おおよそ10カ月の教育を行なって3等軍吏(少尉級)に
任官させた.この制度は1902(明治35)年まで続き,第14期生まで
総員514名が経理部士官となった.このうちから主計総監8名,
主計監14名が生まれている.

 並行して監督の補充教育を行うなために,1890(明治23)年には
陸軍経理学校を創設する.各兵科中尉のうち2年以上現職にある者,
1,2等軍吏のうち優秀者を試験選抜して入校させた.2年間の教育を
行ない,監督補(大尉相当)に任命した.

 日清戦争を勝ち抜き,軍備拡張の声が上がるなかで,経理部も高級幹部
をさらに必要とすることになった.1894(明治27)年には監督部・軍吏部士官
の特別補充制度がスタートする.各兵科大尉や1等軍吏の中から適格者
を経理局長,野戦監督長官(日清戦争の戦時態勢で置かれた)の推薦で
監督補に任用した.さらには高等商業学校卒業生から軍吏に採用し,
監督講習生として経理学校で教育を行なうようになった.軍吏は
現場実務を担当するが,それ以上の素養がなかったため,監督にする
には学校教育が必要だったためである.

 なお,当時の「地方の高等商業学校」というのは,1894(明治27)年現在
では,東京にあった官立商法講習所から発展した高等商業学校のことである.
のちに東京商科大学,戦後には国立一橋大学になった,当時唯一の専門学校
だった.ついでに当時の高等教育機関をあげると,高等学校が7校,専門学校
は33校,中学が82校しかなかった時代である.もちろん,進学率などは1%
にもならない.帝国大学生は全部で1500人にもならず,専門学校生も8500人,
中学生は2万2000人という数字がある.

 続いて1902(明治35)年には,大学出身者にも採用の枠を広げること
になった.その頃,ようやく近代的教育制度が産んだ人材が増えてきて,
各官庁にも帝国大学出身者が主流になってきた.そこで,それらとの
整合性を図るために帝国大学出身者を採用することになった.3期生まで
の4人である.ところが,この人たちは高官にはなったが,「実務を主眼と
する」軍隊経理には向かずに多くの批判があった.周囲と比べると,
あまりに識見・知識レベルが高すぎ,軍隊の実態とはかけ離れていたのだった.
再び大卒が採用されるようになったのは1927(昭和2)年になった.

▼日露戦後の大補充と主計候補生

 日露戦争後の平時25個師団,戦時50個師団という整備目標は,
兵科候補生の大量採用をまねいた.1906(明治39)年の臨時学生制度
である.1等計手(曹長級)から選抜し,およそ380名の3等主計を作った.
これは兵科将校の養成制度に比べると,いささか甘いものであり,兵科
では学校を出ていない下士からはよほど特別なことがない限り将校には
しなかった.いまの陸自でいう部内幹部候補生(陸曹出身者)制度ができて
下士から士官に任用される制度(少尉候補者)は大正半ばにならなくては
始まらなかった.兵科ではない,各部であるということから反対意見も
少なかったのだろう.

 大きな改革は1903(明治36)年,日露戦争勃発の1年前である.
経理学校に生徒を集め,兵科の士官学校と同じように士官候補生制度
を採用した.もちろん,名称は「主計候補生」だった.受験資格は中学校卒業
以上,1年志願兵(予備役幹部になるために入営した経費自弁の学歴所有者),
満18歳以上21歳以下,または現役下士官から志願した者(満26歳以下)で
ある.候補生に採用されると,9カ月間の指定された歩兵聯隊での研修を
受けた.師団経理部長などの教育や実習を行ないやすいので師団司令部所在
の聯隊に限られた.

 その後,東京の陸軍経理学校に入校し,兵科士官と同じく1年9カ月の
教育を受け,見習主計として部隊に帰った.そこで6カ月間の実務を習得し,
3等主計に任官した.ところが,この制度は長続きしなかった.
1920(大正9)年に突然,主計候補生制度は廃止されてしまう.理由は
さまざまに解説されているが,世界大戦後の軍縮の気分,日露戦後の
兵科将校の大量採用者を経理官に転科させるなどの理由があってのことだろう.
1907(明治40)年卒業の第1期生,76名から1922(大正11)年卒業の
第16期生,77名まで,毎年およそ50名の主計候補生の総数は905名で
ある.この人たちは大正時代の経理官の主流であり,長い戦争の続いた
昭和期には高級経理官として活躍した.戦没者も多い.

 大正末期から昭和期にかけての経理官補充については次回に譲ろう.
さらに輜重兵についての話も次回に行なう.

どうぞ良いお年をお迎えください.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.12.30




マーケット・ガーデン作戦とインテリジェンス (16)
                長南 政義
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■前回までのあらすじ

本連載は,精確な内容を持つインテリジェンスが一九四四年九月
上旬に連合軍の指揮官に利用されたかどうかを考察することにある.
実は,インテリジェンスの内容は,マーケット・ガーデン作戦実行
に伴うリスクを連合軍の指揮官に警告していた.

指揮官が決定を下すために利用できるインテリジェンスの情報源
は数多く存在していたが,本連載では「ウルトラ」情報により提供
されたインフォメーションにのみ焦点を当てて考察を進めることとする.
第二次世界大戦を通じて,連合軍の戦略レヴェル・作戦レヴェルの
指揮官たちはウルトラ情報を活用し,ウルトラ情報の精確性に
関してめったに疑いを持たなかったからだ.

複数回にわたりイギリスの「ウルトラ」計画について述べている.
前回は主として,政府暗号学校の拠点となったブレッチリー・パーク
について説明した.

ドイツとの戦争が不可避であることが明白となった時,イギリス政府
はその政府機関の多くを,ロンドンの外へと移転させた.
ブレッチリー・パークはロンドンから移転してくる政府機関を収容する
目的でイギリス政府により購入された多くの場所の内の一つで,
ここが政府暗号学校の新たな拠点となった.

機密保持のため,ブレッチリー・パークには「ステーションX」という
暗号名が附与された.このステーションXという奇妙な名称は,
MI6により十番目に購入された用地であり,MI6が用地を呼称する際
にローマ字を使用していたことに由来する.

「ウルトラ」計画が一握りの暗号解読者集団からなるプログラムから
より組織的なプログラムへと拡大するにつれ,増加する収容スペース
を充たすためにブレッチリーの地には多数の小屋が建てられた.
各小屋はウルトラ情報の生産過程で異なる役割を演じていた.
これらの小屋には番号が附与されていたが,小屋番号は単に物理的
な位置を示すだけでなく,各小屋でなされている作業の種類をも示していた.

通信傍受はYサービスが担当していた.そして,Yサービスから
ブレッチリー・パークに送られてくる傍受された通信文の受取り窓口
や暗号解読作業の中心部となったのがハット6(第六号棟)であった.
ハット6では暗号解読のために集められた数学者たちが,その日の
エニグマのセッティング(日鍵)を特定し,それをハット3(第三号棟)で
働く分析官たちが判読できる通信文とするため二十四時間働いていた.

今回はハット6のコントロール・セクションとハット3の活動について
述べてみたい.


■Yサービスとハット6

ハット6のコントロール・セクションは,Yサービスから送られてくる通信文
を受領し,適切な周波数がモニタリングされていることや,Yサービスから
送られてきた通信文が利用されるのを確実にするために,
絶えずYサービスと接触していた.

ハット6内のコントロール・セクションはテレタイプとオートバイ伝令を経由
して傍受通信を受領していた.コントロール・セクションは,テレタイプ通信
を経由して,傍受通信の序文と最初の部分を受領し,その後,
暗号解読者たちが暗号文解読に取り組む前に,暗号設定や情報の価値
を決定するためにその部分を利用した.そして,オートバイ伝令が完全な
通信文をもたらすのである.

換言するならば,Yサービスが傍受した通信文全体のうちの一部分
がテレタイプにより,コントロール・セクションに送られ,そこでその通信文
の暗号設定や価値が判断され,その後,オートバイ伝令が傍受した
通信文全体を持ってコントロール・セクションにやってくるということだ.


■コントロール・セクション

コントロール・セクションの機能は,現代の情報収集管理や配布部門に
相当する.コントロール・セクションは情報収集と情報分析とをつなぐ導管
であり,情報収集担当部門が重要な周波数に収集の焦点を当て,
あまり価値がなかったり全く価値のない周波数の通信文を収集しないこと
を確実にしていた.情報収集部門および分析部門の限定された予算を
考慮するならば,最も価値のある情報をやりとりしている周波数の通信文
のみを収集することが緊要であった.


■日鍵の数を減らす

暗号解読者は「ウォッチ」と呼ばれる場所で働いていた.暗号解読者
が完全もしくは一部分のみの通信文を受領し,その日の暗号の
鍵設定(日鍵)がなにかを判定するために作業しているのがこのウォッチ
であった.

暗号解読者はめったに手で作業することはない.その代わりに
暗号解読者は,ボンブ(Bombe)に入力される「メニュー」を考え出していた.
彼らの経験やドイツ人が使用している作業手順に関する知識を使うこと
により,暗号解読者は無数にある可能性のある日鍵の数を減らし,
ボンブが演算できる扱いやすい数に可能性のある日鍵の数を減少させた
のである.


■日鍵の例

分かりにくいので例を挙げて説明しよう.エニグマ暗号機の強みは
当日のみしか使用できない日鍵を使用している点にある.エニグマを
運用するドイツ人に課せられていた作業上の規則の一つとして,
一度使用した日鍵は同じ月に二度と使用してはいけないという規則
があった.

もし,ある日の日鍵の設定が1−2−3であるならば,暗号解読者は
翌日の日鍵が1−2−3でないことを知っており,これにより可能性の
あるエニグマ暗号機の歯車の配列は六十パターンから三十パターン
に減少するのである.


■ハット3

ひとたび日鍵が首尾よく特定されると,解読された通信文(ただし,ドイツ語
のまま)は分析のためにハット3へと送られる.ハット3はドイツ空軍および
陸軍に関する通信文のすべてを担当しており,陸軍や空軍の問題に
ついて知識を有する要員が配属されていて,しかもその全員がドイツ語
に堪能であった.

関係する情報ならどんなものでも通信文から抜き取られ,未来の
レファレンスのためにハット3で維持されているインデックス・システム
にファイルされた.いったん通信文が翻訳され分析されると,通信文が
「ウルトラ」情報アクセス権限者リストの誰に,どういった優先順位を
つけて送付されるのか,を決定するためにウォッチの長に通信文が
送られた.

優先順位システムは「Z」文字を使用した五段階で表現されていた.
すなわち,緊急性が最も低いものにはZが付与され,最も緊急性の
高いものには「ZZZZZ」が付与されたのだ.


■オールソース・インテリジェンス

ハット3から送られる通信文は,シングル・メッセージでもパラグラフ単位
で抜粋したものでもなく,通信文そのものを正確に翻訳したものであった.

日本ではインテリジェンスの本でもなかなか見ない言葉だが,
オールソース・インテリジェンスという用語がある.
オールソース・インテリジェンスとは,ヒューミント(人間を媒介とした諜報
活動),画像諜報情報(imagery intelligence),シギント(通信・電磁波・信号等
を傍受する諜報活動),オープンソース・インテリジェンス(新聞雑誌や
官報・白書などの公開情報を利用した諜報活動)といったあらゆる情報源
から得られた情報を最終的に製造されるインテリジェンスのために利用する
情報活動,ないし諜報機関のことを意味する.

ブレッチリー・パークはオールソース・インテリジェンス・センターになる
のではなく,暗号解読に特化したシングルソースを担当する機関
となることが,早期に決定されていた.分析官は時にコメントを書くこと
があったが,これはある特定のメッセージ部分を明確化するために
行われたに過ぎなかった.

つまり,ブレッチリー・パークから送り出される通信文に対し加味された
唯一の主観的なインプットは,ウォッチの長が割り当てた優先順位だけ
であったのである.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.12.31




荒木 肇
『再び経理学校生徒を募集──日本陸軍の兵站戦(5)
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新年明けましておめでとうございます.
今年も続けて「日本陸軍の兵站戦」を紹介して行きます.


▼日露戦争で明らかになった将校不足

 日露戦争では将校が足りなくなった.戦地へ出征した軍人
約95万人のうち戦死者と戦傷死者の合計は全軍で6万人あまり
にのぼった.その割合はおよそ6.4%である.階級の低い兵卒
ほど死ぬことが多いという偏見は捨てたほうがいい.実際に戦う
軍隊では上級者ほど危険である.兵卒の死亡率は約5.7%であり,
100人いたら6人が死ぬ.これはこれで大変な数だが,
それに対して将校の斃れる割合ははるかに高い.

 全兵科・各部の尉官の戦傷死率は8.4%にもなる.
上長官(佐官)は階級別の割合では最も高い.12.8%にものぼった.
およそ8人に1人である.2番目に高率なのは下士の12.3%であり,
いずれも突撃の最先頭に立ったり,危険なところへは率先して
進む立場にあったりしたからだ.また,敵の狙撃は指揮者が
立ち上がる瞬間をねらった.のちの第1次大戦でも,ヨーロッパ戦場
に補充された少尉の平均余命は4日だなどという信じられない記録
が残っている.

 歩兵だけに限ると,もっと日露戦場の実相が浮かび上がってくる.
戦闘死(即死と戦傷死を合わせた)の比率は佐官では20.9%,
尉官も15%というものだった.ただし,この数字の元となった
『日露戦役統計』では,大尉が亡くなり少佐に進むと佐官に分類
された.だから,戦死進級の中隊長の大尉がここの佐官に含まれ
ている可能性がある.とはいえ,歩兵は階級が上になるほど死ぬ,
負傷するという危険が高まることが分かる.

 ふつう,近代戦では戦死者の2倍が負傷者だから,歩兵大隊長や
聯隊長は5人に1人が死に,2人が負傷して後送されるという有様だった.
当時は「大隊突撃」といって,大隊長が『突撃に前へ!』と号令し軍刀
を振りあげれば,各中隊長はすぐに抜刀し後に続いた.なかには聯隊長
自らが先頭に立った例も多い.敗戦後,戦艦ミズーリ号上で降伏文書
調印に立ち合った梅津美治郎陸軍大将も歩兵第1聯隊の聯隊旗手・少尉
として突進中に敵弾に倒れた経験者である.

 要塞攻撃や,野外会戦でもロシア軍の堡塁陣地への突撃は指揮官たち
の損耗を増やした.戦役2年目(1905年)の7月には歩兵少・中尉の7割,
大尉ですら2割強は1年志願兵出身の予・後備役からの召集者だった.

 1年志願兵とは中等学校卒業以上の有資格者が,将来,幹部になる
ことを志願し,在営中の経費を自弁し,1年間の現役に服する制度をいう.
これがのちの昭和時代には幹部候補生制度に発展する.
当時は,入営後の1年間の教育期間の成績によって,予備役各科少尉,
3等軍吏,同軍医,同獣医,同薬剤官になれた.制度が始まった当初は,
予備役1年,後備役5年いう優遇ぶりだったが,1893(明治26)年には
条例が改正され,兵役服務期間は一般兵と同じ12年4カ月になっていた.

 この1年志願兵になれた人は豊かな人だった.当時の中学校以上への
進学ができた階層であり,入営にあたっては100円以上の自弁経費を
出すことができる若者だった.また,将校に任官するにあたって軍装,
武装,正・礼装ほか装具一切を揃えるゆとりがなくてはならない.
明治36(1903)年度の中学校卒業生はおよそ1万2500人にしか過ぎず,
満17歳の男子人口は同じく43万5000人でしかなかった.3%にも
満たない恵まれた青年たちだったのだ.

 日露戦争開戦時の予・後備役将校数は,予備役約2700名(うち歩兵
2041),後備役同1300名(同前1039)の合計4000名にしか過ぎなかった.
そのうち少尉の8割は1年志願兵出身者だった.あとの2割は病気や家庭
の事情などで予備役に編入された陸士卒の人や,日清戦争で特別進級した
下士出身者だった.これに対して,現役将校数は将官を除いて約6800名である.

 ついでに階級別の在籍者数をあげておこう.当時の陸軍の実相の一つ
でもある.大佐131名(うち歩兵65),中佐139名(同前60),
少佐594名(354),大尉1698名(1003),中尉2603名(1656),
少尉1598名(940)で合計6763名(4078)だった.歩兵は全兵科将校
の60.3%を占めていた.

 将校は陸士出身,あるいは中等学校卒を原則とした.当時の将校が
必要とされた素養は,外国語,物理,化学,数学などの外来知識を
こなせる能力である.そんな若者は,当時,どれだけいたか.若者の
95%は4年制小学校卒業,あるいはそれの中退といった人たちだった.
下士官(当時は下士である)養成の教導団でも,当時の最高の高等教育
である陸士にはとても教育内容で追いつけるものではなかった.
追いつめられていた陸軍は,下士・准士官の優秀者を3500人も特別任用し,
少尉にしたが,それも焼け石に水だった.

 また戦時中の特別措置として,1年志願兵の大量養成を行なった.
1904(明治37)年6月には前年に現役を終えて予備役曹長になっている
終末試験受験(合格すると翌年3カ月の演習召集を受ける)資格者には
ただちに召集令状を発行した.入営すると直ちに見習士官勤務を命じ,
教官には戦地から負傷などで帰還している現役将校をあてて将校不足
に対処せよという内訓を出した.10月には教育総監が『一般将校が備える
べき学識見聞を広く与えるのではなく,その実務を執行できるだけの技量
を確実に養成せよ』とも訓令を出した.こうして特別補充で任官した予備役
少尉は1600名あまり,うち歩兵は1400名近い数にのぼった.いかに
歩兵の下級将校の損耗が激しかったか.

 現役将校である士官候補生も用意された.1905(明治38)年11月卒業
の920人(うち歩兵742人),これが第18期生である.次には第19期生
と20期生を合わせて1344名もの士官候補生を採用した.第19期生は
中学卒業者1068名(明治40年5月31日卒業),20期生は幼年学校
卒業者だけの276名である(同41年5月27日卒).

 この人たちは一度も戦場に出ることなく,士官学校生徒で講和を迎えた.
この大量採用が大正時代の平時陸軍の人事に大きな問題を引き起こしていく.
さらに陸軍は士官候補生の採用数を戦後も増やしていかなければならなかった.

▼大正時代の人事のネック

 1906(明治39)年,陸軍は平時25個師団整備,戦時50個師団動員計画
を立てた.将校になる士官候補生の大量採用を続けるしかなかった.兵科将校
の補充はすぐにできるものではない.陸士の卒業から,中隊長は10年,
大隊長は15年,聯隊長は20〜25年かかるという.
中隊長は幹部(将校・准士官・下士官)30人と兵卒150人を率いるポストである.
中隊の英語名,カンパニーは同じ釜の飯を食う間柄をいい,キャプテンとは
そのリーダーのことをいう.10年かかるのは当然だろう.

 いまの陸自でも,大卒から1年間の幹部候補生教育を受ける.その後,
3尉(少尉)任官から2年が経って2尉に昇任,3年後に1尉となってようやく
中隊長になる資格の第一歩を踏み出す.いま,陸自普通科(歩兵)の
中隊長は3佐(少佐)ポストだが,もっとも早い者ですら1尉を4年半,
事故なく過ごさないと3佐にはなれない.大卒後10年と半年である.

 また,大隊長は戦術単位である大隊を率いる.歩兵であれば4個小銃中隊
を指揮して,2個中隊を主攻正面にあて,1個中隊を助攻に手配し,手元に
予備の1個中隊をもつ.戦機をとらえ,聯隊長の命令を実現化するように努力
する.また,部下への給養・補給の責任は大隊長にかかっている.行李という
補給部隊も指揮下にある.中隊長としての経験を積み,戦術を磨いた者だけ
が大隊長になれた.予備役将校ではとても勤まるものではなかった.

 平時25個師団とは,歩兵100個聯隊を必要とする.50個の野戦師団ならば
200個聯隊,その大隊数は600個である.中隊数はその4倍であり,
小隊数は12倍になる.つまり,7200人の小銃小隊長を必要とする.
毎年の1年志願兵による予備歩兵少尉が生まれる数は1000人くらいだった.
問題は,戦時になって動員をかけても,その全員が応召するわけでもない
ことだ.兵役で予備役幹部になるような高学歴者は社会の中で重要な地位
にある者も多い.官吏(国家公務員)や公吏(地方公務員),大きな企業の
社員などであれば,組織から『召集猶予願い』が出されることも多い.

 昭和の初め,大動員がかかり召集令状はたいへんな数が発行された.
しかし,その得員率(在郷軍人名簿登載者中のどれだけが実際に応召可能
かの数字)は陸軍省担当者によれば,おおよそ6割にしかならなかった.

 現在と違って社会全体の保健・衛生環境も貧しかった.身体の具合が悪い,
慢性的な病気にかかっていて軍隊勤務不能という例が多い.大正時代の
データによれば,官吏の平均寿命は52歳,陸軍士官は46歳,海軍士官は
42歳という数字もある.士官学校を卒業しても,同期生で少佐になれた人
は全体の4割くらい,あとは中尉・大尉で病気にかかり,あるいは大ケガが
治らずに予備役編入というのが普通だった.

 歩兵ばかりを例にとったが,現役将校も毎年どれだけ育てるかというのは
人事当局をずいぶんと迷わせたものだった.陸軍省では平時25個師団,
戦時50個師団にふさわしい将校数を予想した.

 そのため,明治39年から15年間にわたる士官候補生採用計画を立てた.
1907(明治40)年から毎年783名を6年間にわたって採用するというのだ.
中学校等から隊付候補生になる者516名,それに中央幼年学校卒業者
267名を採用予定という数字がある.

 当時の陸軍の構成を知る上で,兵科別の採用数を知っておくことも大切
だろう(1913=大正2年).歩兵は463名(全体の約59%),
騎兵55名(同7%),野山砲兵142名(同18%),重砲兵29名(同4%),
工兵46名(同6%),輜重兵48名(同6%)である.興味深いのは工兵も
輜重兵もほぼ同じ数だということだ.ただし,輜重兵には幼年学校出身者
が1名もいない.輜重兵将校は全員が中学卒だったのだ.

 ところが,戦後の不況,反陸軍感情などで常設師団が増えることはなかった.
たちまち,陸軍は増えすぎた現役将校たちの扱いに困ってしまう.
1914(大正3)年には,前年比27%近い削減をし,574名の採用に
減らしてしまうことになった(大正6年5月卒業,536名の第29期生).
翌年の30期生だけは632人と持ち直すが,以降400人くらいが続き,
300人台,ついに1930(昭和5)年卒の42期生は最低の218人しか
卒業生がいないという時代になる.

 1917(大正6)年になると軍事費削減の政策がとられるようになった.
陸軍は佐官の定員を増やした.とくに歩兵中尉・少尉を32名削減して,
大尉級を36名増やし,佐官を7名,将官1名を増やす.その代わり,
他の兵科は一様に大尉級を減らし,大佐が増えたのは重砲兵と輜重兵だけ
だった.これはつまり,歩兵の少尉・中尉が余っているということだ.

「准尉」を作ったのも,こうした少・中尉削減の一環の施策だった.
この准尉というのは昭和期の准尉=准士官と同じではない.当時の准士官
は特務曹長である.准尉は少尉と同じ階級であり,立派な将校だった.
ただし,中尉には進級できない.これによって,少尉や中尉の現員を減らし,
穴があいたところに准尉で埋めていこうとしたわけである.

 この時代の中隊の将校定員を見ておこう.歩兵聯隊は全部で12個
小銃中隊である.この各中隊の士官候補生出身中・少尉の定数は2.2人,
准尉は1.8人だった.合計で4人,ただし陸士出は聯隊全部で
2.2×12=26.4人となる.この4人で初年兵と2年兵の教官となり中隊長
になる修業をしていた.この率を低くした理由に注目してほしい.

 陸軍の進級は海軍に比べて遅かった.なぜなら,海軍は艦内の編制だけ
をみても,兵科将校のスタートは分隊士であり,大尉の分隊長は1名,
その上の科長は1名である.これに比べて,中隊長1人に対して,戦時の
小隊長要員である陸軍の少・中尉は3人から4人だった.せめて2人に
しなかったら,大尉になることも難しかったのである.

 他兵科・部隊も見てみよう.関東軍の隷下にあった独立守備隊歩兵中隊
は陸士卒2名に准尉1名,騎兵中隊は陸士卒2.4名に准尉1.6名に
なっている.野砲兵中隊は学理的な知識が必要なので陸士卒3.3人に
准尉1.7人,山砲兵中隊も同じく3.3人に准尉0.7人,工兵中隊・鉄道
聯隊・航空大隊も3.1人と准尉0.9人という比率である.電信隊が3.1人
と2.9人と現場の熟練者が多くなっている.

 興味深いのは輜重兵大隊の4.2人と2.8人という比率である.中隊の
付将校が7人にもなる.これは現役の輜重兵は少ないけれど,
短期間(おおよそ3カ月)在営して後は帰休する輜重輸卒の教育が多いから
である.なお,この准尉制度はわずか2年間しか続かず,かわりに少尉候補者
という下士からの登用制度ができた.

▼ねらわれた経理部

 さて,余った将校,とりわけ歩兵科の将校をどうするかである.陸士で
育てなかった兵科は憲兵科である.憲兵将校は他兵科からの転科者で補充
してきた.また,たたき上げの下士官,准士官から少尉候補者(1年間,士官
学校や憲兵学校で教育した)出身者を将校にしてきた歴史がある.そして,
兵科ではない経理部である.経理部はもともと兵科からの転科者を受け入れる
制度があった.部隊の激しい行動には向かない,ただし軍務に就くことは
できるといった人が勧められて経理官になった例が多い.

 もともと陸軍経理官はヨーロッパ軍隊の制度から来ている.軍隊経理も
一般経理と同じかというとそうではなく,部外業者との交渉や契約,
軍の不動産などの管理,戦時給与のことなど,軍事一般に通じていなくては
困ることになった.そこから軍経理官の必要性がいわれた.経理官には
高級経理官要員と現場実務要員と2つのコースがあり,明治の昔は
監督コースと軍吏コースに分けられていた.それが時代の流れにつれ,
海軍と同じく候補生課程を作るようになった.こうして,下士・准士官から,
生徒から,大学・専門学校出身者からという3つのコースができあがった.

 ところが,この候補生課程に目を付けられたのだ.兵科将校とはもともと軍事
については専門知識があり,これに経理学校で会計面や実務教育をしさえ
すれば面倒な主計候補生制度は不要だという論議が起きた.そして,経理学校
の候補生課程は閉ざされた.さらには軍縮の流れの中で,経理官は大学・高専
の卒業者と下士・准士官からの登用と2つのコースになってしまった.

 戦時にならなければ経理官は不足することもなかった.まず,戦死すること
は珍しかった.平時の軍隊現場の勤務は3個大隊に2名,聯隊本部に高級主計
という1名,それに師団司令部の経理部勤務者くらいにしか過ぎない.
戦時編制になっても各大隊に1名,本部に2名というくらいで,兵科将校のように
人員が急膨張するわけでもないと考えられたのだろう.また,現場部隊の
経理室勤務はそれこそたたき上げの実務の練達者が多かったのである.

 そこで,経理部はまたまた昔に逆戻りし,大学・高等専門学校からの
「見習主計」という制度をとった.政策的なことは大卒経理官に,現場の実務
は下士・准士官からの登用者にというわけである.この制度は
1935(昭和10)年に経理学校の生徒募集が再開するまで高級経理官の
養成制度として続いてしまう.それが1926(大正15)年から始まる乙種学生
制度だった.大学の法学・経済・商学部を卒業した者をただちに見習主計
に採用し,3〜4カ月間の教育で中尉相当の2等主計に育てる.
この1期生の入校が1927(昭和2)年10月である.

 この制度は1期生5名,2期生3名というように細々と続いた.転科する
兵科将校も実際はひどく少なく(大正時代にはわずか30名ほど),すぐに
使えるということから最終的には80名ほども採用するようになった.
敗戦までの総員は780名といわれる.

 満洲事変(1931年)から後,陸軍の人気が高まった.昭和10(1935)年頃
になると陸海軍は若者の人気を集めるようになった.海兵や陸士に入るには
厳重な身体検査があって,とりわけ視力にはうるさかった.どちらも裸眼視力
が1.0以上である.ところが,陸軍経理学校,海軍経理学校はそれぞれ
0.7と0.2以上だった.陸軍の方がやや厳しかったのは野戦という環境が
あったからだろう.

 1935(昭和10)年に経理学校の生徒課程(受験学力は中学校4年修了者
レベル)の復活が決まると,とたんに入校希望者が殺到した.第1期生は
30名の募集に対し,60倍の志願者がやってくる.同じ年度の陸士の志願倍率
は16倍だったから,人気のほどがよく分かる.敗戦時までの在学者と卒業者
の合計は1200名,卒業し戦列に加わったのは650名あまりだった.
その時の経理部現役将校は主計3437名,建技685名であり,合計4122名
である.また,幹部候補生出身将校は9000名から1万名といわれている
(別の資料では幹部候補生学校卒業者1万3000名ともいう).

 次回は,輜重兵について語ろう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.1.6




ライター・渡邉陽子のコラム (76) ─ 自衛隊海外派遣の歩み(6) 』
                 渡邉陽子
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あけましておめでとうございます.
渡邉陽子です.

みなさまはどのようなお正月をお過ごしでしたか.
私は締め切りが気になって,結局元旦もだらだら仕事をしてしまい,
オンオフのメリハリのないお正月になってしまいました.

初取材は3日の箱根駅伝.大手町のゴールから夜に行われた報告会
まで,某大学に同行していました.今年は部隊取材もどんどん行きたい
と思っています.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■自衛隊海外派遣の歩み(6)

昨年に続き,カンボジアPKOの話です.

第1次カンボジア派遣大隊長である渡邊氏は,現地で痛感した
ことがいくつかありました.ひとつは他国の部隊との交流が不可欠だ
ということです.PKOは国連のもとで各国が協力しあってやるものだから,
情報交換したり意見を言い合ったりすることで相互理解が深まる最大の
恰好の場でもあります.だから友好親善はあって当然のもの,そう感じた
そうです.

「定期的な指揮官会議だけではなく,それぞれの国のイベントに招待
したりされたり.これは国内で訓練しているだけじゃわからないことでしたね」

今では当然すぎるほどのことかもしれませんが,四半世紀前の陸上自衛隊
にこの発想はありませんでした.そもそも海外派遣という想定がなかった
のですから,ほかの国の軍隊とコミュニケーションを図る必要性がありません.


それからもうひとつ.
渡邊氏が自衛隊に入隊した頃,ちょうどガイドラインができて日米共同訓練
が始まったそうで,渡邊氏は米軍の通訳をやりながら初めて世界が少し見えた
と言います.その世界は,とてつもなく巨大なアメリカという組織の影から
見ていたものでした.けれどPKOには,ほとんどアメリカの影がありませんでした.
それは日米安全保障条約の枠ではなく国連という枠だからで,「当たり前といえば
当たり前なんですが,これは私にとって大きな発見と驚きでした」.


PKO法が陸上自衛隊に適用された初めての例となったカンボジアPKOにおいて,
法について不自由とか不便といったことを考えてもしょうがない,法律なんだから
その枠の中でやるしかない,その枠から出ることは許されない.それが渡邊氏
の考えでした.この考えは現在海外派遣に赴く指揮官にも共通している
ことでしょう.自衛官は法の良し悪しを言いません.ただ定められた法に従い,
その中で最大限にできることを行なうのみです.(だからこそ法整備はとても
とても大切なのです)


カンボジアでは,あえて不自由を挙げるとすれば二重指揮という点だったそうです.
これはどういうことかというと,たとえば,フランスの軍隊はフランスの政府から
やりなさいと言われたことと,UNTACからやってくださいと言われていることに
ほとんど違いがありません.ところが国連と日本が自衛隊の派遣部隊に抱く期待は,
ちょっと食い違っていたそうです.けれど渡邊氏は,多少かみ合わなくても無理
に歩み寄る必要はないと思うと,取材時には言っていました.

「日本に限らず,どこもそれぞれの事情の中でPKOに参加している.だから人を
いっぱい出せるところは人を,お金を出せるところはお金を,技術力があるところ
は技術を出せばいい.どの国もできる範囲で最大限のことをすればそれで
いいんじゃないか,そんなことを考えました」


「カンボジアの復興に役立てたと思いますかと多くの人から尋ねられましたが,
そのような自負はまったくありませんでした.復興への手伝いって,最初は
ボランティアやNGOから始まるんですよね.ただ,それでは日本という国の姿
が見えないので,国が何か行なうときの先頭にいるのが自衛隊だったり外交官
だったりするわけです.だからその後ろにはODA,海外青年協力隊,文化使節団
など,さまざまな人たちがいる.これらすべて含めて国際平和協力なのだと思います」

 余談ですが,取材時に渡邊氏の口からこれを聞いたとき,「いい言葉だなあ」
としみじみ感じいったことをよく覚えています.特に「復興への手伝いはボランティア
やNGOから始まるが,それでは日本という国の姿が見えないので,自衛隊が先頭
に立つ」というくだりは,自衛隊以外の国際平和に尽力している団体にもしっかり
眼差しが向けられていることを感じて,とてもうれしかったのです.

帰国後一躍「時の人」となり,自衛隊の歩く広報のような立場を経験した渡邊氏
ですが,きわめて客観的な視点で一連の活動を捉えているのが印象的でした.
この冷静さこそ,大隊長という立場にもっとも求められたものだったのかもしれません.

次回は国際貢献の新たな道を開いた国際緊急援助活動についてご紹介します.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.1.7




荒木 肇
『輜重兵について──日本陸軍の兵站戦(6)
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□ご挨拶

 平成28年の年も明けました.当地では暖冬を実感する
年末・年始でした.昨日は習志野演習場に第1空挺団の
降下初めにお招きをいただき,お邪魔してきました.
いつもながらの精鋭の訓練展示ぶり,空自輸送機の見事な
航過,陸自ヘリの鮮やかな機動,十分に満足させていただきました.

 なお,たいへん感心したことがあります.ここ10数年も
お世話になっていますが,訓練終了後の野宴のことです.
例年,紙皿が配られていましたが,今年からなんと
硬質プラスチック製でしょうか.白い重い,きれいな皿が各人
に2枚ずつ用意されていました.後片づけや運搬にも,
たいへん隊員さんの負担を増やしたと思います.
実行された皆さんに心から感謝します.
毎年,風でよく吹き飛ばされていたものですから.

 呆れたのは千葉県選出の参院議員とかいう若い人.
壇上に上がって開口一番,先般の新安保法についての審議中の話を
されました.「そこにいるヒゲの隊長こと佐藤議員に殴られた○○です」.
これには一部が失笑しただけで,多くの方々は黙っていました.
なんたる非礼かと呆れたのですが,彼はなお鳴りやみません.
「自衛官の方々の命を守るのは私たち政治家です」.これには驚くばかり.
なお,最後に「わたしは自分の信条は身体を張っても貫きます」.
いったい何を言うために現れたのでしょうか.不思議な民主党議員でした.

▼在来馬の大きさの話

 輜重(しちょう)の「輜」とは覆いのある,幌のある車のことをいった.
輜で重量物を運ぶので輜重と名づけられた.建軍当初は,戦国時代
の小荷駄隊の連想もあり,歩兵と騎兵が華々しい戦闘兵科だったから
人気がある兵科ではなかった.戦国時代の小荷駄の存在も一般には
知られておらず,詳しいことは分からない.現地で集めた人足や馬方を
指揮・監督して輸送することが仕事であり,近代軍隊としての編制も
規模は小さなものだった.

 始まりは各鎮台におかれた輜重隊である.平時では60名,戦時に
なってようやく80名になる.6個の鎮台にそれぞれ1個隊ずつ置く計画
だった.全軍で3万2000人弱,その中で360名だから割合でいえば
1%くらい,少ないといえば確かに少ない.しかし,限られた予算の中で,
戦える近代陸軍を造ろうとした姿勢を評価したい.欧州風の陸軍制度を
学び,戦闘兵科の一つをよくも揃えたということができる.

 この頃の輸送手段は馬に負わせることより人の背が主だった.
駄馬が荷物を載せて歩いた(これを駄載という)が,在来の日本馬は
たいへん小さかった.もともとわが国の馬の体高(足先から肩・背まで)
は低いもので,4尺(およそ121センチメートル)を「小馬」とし,それを
成馬の基準にしたものだった.4尺5寸(136センチメートル)を「中馬」と
したのが室町時代.戦国時代になると,さすがに4尺8寸〜9寸
(145〜148センチメートル)という馬が現われた.加藤清正の愛馬
「帝釈栗毛(たいしゃくくりげ)」などの5尺を超す馬も使われるようになった.
当時,南蛮人の宣教師が秀吉に贈った5尺2分(152センチ)のアラビア種
の馬があったことが記録にある.

 ところが,泰平が続く江戸時代になると馬の体高は伸びなくなってくる.
大きな馬は好まれなくなった.外観の美しさばかりを追求するから,
軍用の実力を備えなくなってしまった.馬が前脚を「足掻(あが)かせる」と
格好がいいとなれば,推進力の元となる後躯(後ろ脚)の筋力をつけること
はおろそかにされた.だから,幕末の馬は軍用であるはずの大名家の馬
でさえ,後躯の筋肉は貧弱で,人を乗せることしかできない小型の馬ばかりだった.

 陸軍の建設当初,担当官たちを悩ませたのは強い軍馬を揃えられなかった
ことである.西欧では野砲を曳くのは馬であった.それを輓曵(ばんえい)と
いい,それに使われる馬を輓馬(ばんば)といった.ナポレオンは砲兵隊の
機動力を誇った.それはフランスの軍馬の優秀性を物語る.ナポレオンが
没落するきっかけになったワーテルローの戦い(1815年)では前夜来の嵐
のおかげで,さすがの砲兵隊も道が泥海となって野砲隊が計画通り進めなかった
ことも敗因の一つとされる.

 幕末には幕府軍も新政府軍も四斤山砲や野砲を使ったが,ほとんどが
人力で運んでいたらしい.薩摩藩はよく大型の臼砲を使ったが,戊辰戦争
の戦記には分解して人力で搬送していたことが書いてある.理由は馬の
入手困難ももちろん,牽引用の馬具もなかったのだから当然だっただろう.

 初期の輜重隊では,馬の積載量も27貫(101.25キログラム)が基準
とされた.江戸時代の道中では20貫目(75キロ)を標準として,加えて
荷の持ち主が乗っていくことを乗掛(のりかけ)といった.おそらく人の体重
は10貫〜15貫くらいだから,当時の馬の限界だっただろう.ゆったり歩くから,
それですんだに違いない.

 対して,人は7貫(26.25キロ)を背負うとされた.当時のわが国の
道路事情はひどかったので,道幅も馬車どころか馬どうしがすれ違うのも
難しかったところが多い.橋も同じく整備がされていなかった.大きな河川
は浅瀬を選んで歩いて渡る.あるいは小川なら飛び石をつたって流れを
越すようなことがほとんどだった.

 そうなると,経路によっては人の方が効率的であり,馬はあまりあてには
できなかったのだろう.それに日本の馬は蹄鉄(ていてつ)を打たれること
がなかった.だから坂道や泥だらけの道では踏ん張る力も弱かった.
加えて牡馬(ぼば)を去勢する習慣もなかったから,扱いにくいことこの上ない.
噛みつく,蹴る,暴れる,奔走する.北清事変(1900=明治33年)で列国
とならんで出兵した時,『日本軍は馬のような猛獣を使っている』と外国新聞
の記者に報道されたことでわが国の軍馬の資質劣等ぶりは有名になった.

 ともあれ,日本陸軍の輜重部隊が大きな力を発揮させられたのは
1877(明治10)年の西南戦争のことだった.陸軍始まって以来の旅団が
編成された.鎮台が各所に駐屯している軍隊なら,旅団は移動する軍隊である.
各鎮台から選抜されて旅団は編成された.このとき各旅団司令部に「会計部」
が置かれることになった.この長官である司契が一般から募集して,高額な
賃金で運搬人を雇いあげた.それで編成したのが「臨時輸送隊」である.

 ところが,これが大変な問題を起こした.まず戦費総額4156万円の
半分以上がこの人夫の給与に消えてしまった.それに民間人だから統制
に服さず,計画通りに行動しなかったばかりか,当然のことだが西郷軍に
襲撃されると,荷物を放り出して逃げてしまった.

 西南戦争は多くの教訓を産んだ.戦時動員のこと,物資集積や配分,
通信,兵器,戦術などこれからの課題が明らかになった経験になった.
なかでも弾薬・糧食・医薬品,その他の物資運搬についても大きな学びの場
であったことがいえる.

 軍隊で物資の運搬にあたる兵が必要だということから輜重輸卒(ゆそつ)と
いう軍人が徴兵検査で指定されるようになった.ただし,戦闘を行なう輜重兵
とは違う.駄馬の世話をし,荷物を馬の背に載せたり,おろしたり,歩くときには
馬のくつわを取って牽くというのが主な仕事だった.もちろん,馬がいない時
には,自分の背で運んだ.身体は頑丈だが,一般兵になるには背が小さい
などという人が選ばれた.

 その数はたいへんなものである.1912(明治45)年度の数字がある.
この年の現役兵は全兵科で10万3742人,うち歩兵は6万9137人,
輜重兵は1836人で輜重輸卒が1万5492人である.現役兵全体の15%
にもあたる.輜重兵が1.8%だからざっと8倍.これにすぐに入営はしないが,
いずれ教育召集を受けるだろう補充兵は,歩兵が7万2740人,
輜重兵は950人,輜重輸卒はなんと6万3012人にもなっていた.
補充兵に指定された者は全部で15万3080名だから,その全体の4割が
輸卒だった.

▼輜重兵と輜重輸卒

 輜重兵は戦闘兵科である.この兵科が確定したのは1872(明治5)年
の徴兵令の発布からだった.常備軍・後備軍・国民軍と役種を分けた.
兵種を歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵の5つに分けた.翌73年5月には
陸軍武官官等表ができた.このとき,憲兵科が初めて設けられた
(ただし,「憲兵条例」が出され,部隊が置かれたのは1881年のこと).
輜重科にもほかの兵科と同じに大佐から少尉までの将校,曹長・軍曹・伍長
の下士がある.このとき興味深いのが参謀科,要塞参謀科という兵科が
あることだ.ただし参謀科には下士がなく,要塞参謀科には下士があった.

 輜重兵は徴兵検査の概則によれば,『馬の扱いに慣れ,数理的な能力
が高く,指揮能力がある者』を選ぶとある.砲兵の『体格がよく,膂力に
すぐれ,数理的・・・』と比べるとその特性がよく分かる.騎兵と同じで乗馬兵
であり,騎兵銃を背負い,指揮用のサーベルを吊っていた.いわゆる
「乗馬・帯刀本分」とされた.ほかの兵科兵は騎兵以外「帯剣本分」であり,
銃剣を腰に着ける規定だった.それが輜重兵は2等卒でも乗馬長靴,
騎兵用の外套,颯爽たる姿と思われていた.指揮能力が必要というのは,
たとえ下級の1等卒でも駄馬を牽く輸卒4人を指揮したからだ.『輜重上等兵
は歩兵軍曹,輜重下士は歩兵少尉』と謳われたのは指揮する人の数を
言ったものである.輜重兵操典を見ても,主な記述は下馬しての歩兵戦闘
である.3人で組を作り,2人が馬を1人に預け,歩兵と同じく射撃で敵に対抗する.

 輸卒の教育は,まず『馬事提要(ばじていよう)』という馬の取り扱いに関する
マニュアルから始まる.陸軍省副官の名義で発行されたそれは一般書店でも
買うことができた.1944(昭和19)年5月5日,入営当日,安田万吉は分隊長
の軍曹から『輓馬及び駄馬の馭術其他規程の動作を習熟するため』に
召集されたと言われる.『輜重兵操典』と『馬事提要』は入営時にそれぞれが
書店で買ってくるように令状の裏に書かれていた.

 この軍隊生活の苦労は大東亜戦争になって召集された,一作家の体験を
元にした小説に詳しく書かれている.『越前竹人形』や『五番町夕霧楼』など
で知られる水上勉(みなかみ・つとむ)は輜重特務兵だった(ただし,制度では
昭和14年には特務兵という名称はなくなっていた).作中では安田2等兵
だった水上の体験記は第七回吉川栄治文学賞を与えられた『兵卒の?(たてがみ)』
(1972年・新潮社)という.水上が教育を受けた中部ヨンサンは,輓馬2個中隊,
自動車1個中隊の3個中隊で編成されていた.その第2中隊(輓馬)第1小隊
第11分隊に作家は編入されることになった.

 1931(昭和6)年に陸軍は階級呼称を変えた.それまでの1等卒・2等卒
を廃止し,一律に兵とした.もともと兵というのは,単独任務をこなせる上等兵
だけだった.あわせて兵卒といったが,このときの改正で,輜重輸卒も「輜重特務兵」
といわれるようになった.同じように,衛生部の看護卒・補助看護卒・磨工卒も
廃止された.それぞれ看護兵・補助看護兵・磨工兵と改称された.
また,1937(昭和12)年には輜重特務1等兵,同2等兵とされ,翌々年には
すべて輜重兵とされるようになった.

 25歳で小学校助教だった水上(丙種合格・第二国民兵役・私立大学文学部
中退)の充員(補充)召集令状には中部第43部隊,もともとは「墨染輜重隊
(京都第16師団・第53輜重兵聯隊)」に出頭せよとあり,その令状の枠の外
に○に囲まれた馬というスタンプがあった.日露戦争後に輜重輸卒で入営した
父は言った.『とうとう来よったわ,馬のシルシは輸卒やでぇ』と.しかし,
そうであれば,父親のように1カ月,あるいは平時のように3カ月で帰れるかも
しれないと父も本人も少しは安心したらしい.というのは輸卒の人員数である.

 1912(明治45)年の数字をあげたが,平時に1万5000名もの輸卒を全部
収容する設備もなければ,教育にあたる人の余裕もない.そこで輜重輸卒の
現役兵は1年間を4期に分けて入営し,それぞれ3カ月の教育で帰休兵になった.
帰休兵とは兵営にいずに家郷で働きながら服役することをいう.つまり,身分
は現役兵だが,ふだん通りの生活が保証されたのだ.補充兵役や第二国民兵
の輸卒などには教育召集のほかに,まず令状など来なかったのである.

 輜重輸卒は,ほかの雑卒といわれた砲兵輸卒,砲兵助卒,補助看護卒と
同じように2等卒から上級に進む道がなかった.つまり,どれだけ軍隊にいよう
と永久に1つ星の2等卒扱いだった.砲兵輸卒と助卒はそれぞれ砲兵科の中
にあり,輸卒は野戦で弾薬大隊に所属して弾薬輸送を行なった.助卒は要塞
砲兵の下にいて,弾薬運搬に従った.なお,この2つの卒は1907(明治40)年
に廃止された.銃砲弾の補給は輜重兵が行なうようになったからだろう.

 補助看護卒は1900(明治33)年に置かれて,上等・1等・2等の正規看護卒
の補助作業を行なった.補助衛生兵といわれるようになり1等卒まで進めるよう
になったのは,やはり1937(昭和12)年からである.そして輜重特務兵と同じく,
昭和14年から衛生兵の中に吸収された.

▼兵站,行李と輜重兵

 1885(明治18)年,輜重兵1個大隊の編制が定められた.これを明治20年
までの整備目標としたのだった.大隊本部には少佐の大隊長,副官中尉,
下副官の曹長,器械掛曹長,1等軍曹(書簡掛),2等軍曹は4名,書記,
病室掛,喇叭長.軍曹に2階級あるのは,この時期,伍長という官名が廃止
されていたからである(明治17年から,伍長復活は明治32年).2等軍曹は
伍長にあたる.なお,副官とは大隊長の秘書の役目を果たす将校である.
本部付として,経理官,軍医官,副軍医官,獣医官,副獣医官の5人の士官
がいる.下士は蹄鉄工