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青文字:加筆改修部分
 ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.

※既に分類され,移動された項目を除く.


Kampfgruppe 15

目次

 【追記】 中東短信

 【質問】 南アフリカにおいて,外国人出稼ぎ労働者が行う犯罪について教えられたし.

 【質問】 民主化以降の南アフリカ共和国の,治安状況を教えてください.

 【質問】 アフリカについて,お勧めの資料はありますか?

 【質問】 ナイジェリアの「犯罪国家」ぶりについて教えられたし.

 【質問】 ナイジェリアでは石油収入依存にともない,国内経済状況(再分配)はどのように悪化したのか?

 【質問】 ナイジェリア国民に,石油産業はどのような犠牲を強いているのか?

 【質問】 「MOSOP」という運動と,その結末について教えられたし.


 【追記】

2011年5月25日(水),2007年にイスラエルが空爆したシリアの施設が核施設である可能
性が「非常に高い」と国際原子力機関(IAEA)が発表.(Y,P)

2011年5月25日(水),旧ソ連の政治家レーニンがユダヤ人の血を引いていたことが判明.レ
ーニンの姉が書簡の中で母方の祖父がユダヤ人だと証言.姉はスター
リンの時代に激化した反ユダヤ主義に反対していた.(Y,P)

2011年5月25日(水),米のクリントン国務長官がイランのエネルギー部門と取引をした7つ
の国際企業に制裁を発表.制裁の対象企業にはイスラエルの企業も.
タンカーをイランに販売したとされているが,企業は否定.(P)

2011年5月26日(木),ベエルシェバなどにすでに配備されているロケット砲迎撃システム「
アイアンドーム」の追加配備を米国が支援へ.4基を追加配備.この
システムはイスラエルが独力で開発と配備を行っていた.(H,P)

2011年5月26日(木),ヒズボラは大半の国より多くのミサイルを保有していると米のゲーツ
国務長官.科学・生物兵器保有の可能性もあると指摘.2ヶ月前には,
ヒズボラの軍事基地の詳細な所在地情報も暴露されている.(Y)

2011年5月27日(金),スペインからイランへ違法に輸出される間際だったヘリコプター9機
をスペイン警察が押収.8人が逮捕された.他の違法輸出品も含めて
押収物の総額は1億4千万ドル(約112億円)にのぼる.(Y,H,P)


 【質問】
 南アフリカにおいて,外国人出稼ぎ労働者が行う犯罪について教えられたし.

 【回答】
 さて,前の日記で「グローバル化」によって,南アフリカには犯罪組織が集まることを書いた.
 今回は,外国人出稼ぎ労働者による犯罪について,一例を挙げてみよう.

 モザンビークという国がある.
 この国は,近年アルミニウムの加工(ちなみに,モザンビークでアルミは取れない)で,著しい経済成長を遂げ,「モザンビークの奇跡」とまで呼ばれている.
 実際,内戦が行われていた1990年に5歳未満の死亡率は,千人当たり235人だったのが,2004年には152人とまだ高い水準ではあるものの,80ポイントの改善を見せている.
 モザンビークの成長率は約7%であり,中流階級も増えてきている.

 ただ,内戦時は最貧国であったため,南アフリカに出稼ぎを行っていた労働者は,南アフリカの例と同じく,その恩恵に預れていない.
 これらの人達は,農業やウェイターといった様々な職種に就いており,安価な賃金で,過酷な労働を強いられていた.

 一例を挙げよう.

――――――
 アベルによると,彼は1990年,17歳の時に故郷モザンビークの首都マブトを離れ,南アフリカに不法入国した.
 先に南アに入国していた兄は,南ア北部の白人が経営するトウモロコシ農場で働いており,(中略) 1ヶ月50ランド(当時の為替レートで1500円)の薄給で,奴隷のように働かされる暮らしに嫌気がさした彼は,兄と共謀して農場主夫妻を殺害したのだ.
 すぐに警察に逮捕されたが,当時の南アはアパルトヘイト末期の混乱の極みにあり,警察機能が麻痺していた.
 農場主宅から奪った金を,警察暑の幹部に賄賂として支払った彼は,あっさり釈放されたという.
 こうして晴れて娑婆に戻ったアベルの,強盗生活がスタートしたのだった.

――――――『ルポ 資源大国アフリカ』(白戸圭一著,東洋経済新報社,2009.8),44ページ

 しかも,この手の犯罪を犯して,もし警察に捕まったとしても,賄賂ですぐに釈放されるため,この手の犯罪が減少することはない.
 このアベルは後に,大量のマリファナ所持で捕まったらしいが,恐らく賄賂を贈る余裕があれば,すぐに釈放されるだろう.

 ここで説明が終わってしまえば,
「外国のDQNうぜー」
で終わってしまうので,彼の生い立ちについて少し説明する.
 彼は,モザンビーク内戦の真っ最中に生まれた.
 両親は政府軍に殺された.
 特に母親は,目の前でレイプされた挙句,頭を打ちぬかれたそうだ.
 このような凄絶な経験を持ち,しかも社会に対して絶望感のある人は,犯罪どころか,殺人さえ躊躇わないという.

 日本で暮らしていると,この感覚は理解できないが,生きるか死ぬかの中で生活していて,しかも廻りは犯罪者だらけとくると,その感覚は麻痺していくのだろう.

ますたーあじあ in mixi,2011年04月23日17:40
青文字:加筆改修部分

 さて,今回もモザンビークからの入国者を例に挙げて,外国人犯罪の実態を「一部」説明したいと思う.

 モザンビークは,確かにアルミの加工によって,驚異的とも言える経済成長を遂げているが,当然といえば当然の話しながら,その恩恵に預かれるのは一部の人間に限られる.

 今回,例に挙げるアベル氏の場合,十人兄弟の七番目の子供として生まれた.
 父親がモザンビークの政府広報担当の一人だったため,幼い頃はそれなりの生活ができていたらしいが,父親の死に伴い,生活に余裕がなくなり,南アフリカに出稼ぎに出た.
 その彼が犯罪者に至った道は以下;

――――――
 南ア人もモザンビーク人も黒人従業員は,週給75ランド(当時の為替で2250円)でした.
 レストランは220席もある大きな店で,5人の調理係と12人のウェイターでまわしていましたが,週末は忙しくて全く休めない.
 働き始めて8ヶ月後に,店主に賃上げ要求したところ,
『働きたい奴はいくらでもいる.文句があるなら出て行け』
の一言で首になりました.

――――――『ルポ 資源大国アフリカ』(白戸圭一著,東洋経済新報社,2009.8),48ページ

 当時の南アフリカの失業率は実に40%であり,次の仕事は簡単には見つからない.
 当時のモザンビークは内戦が終結したばかりで,経済は崩壊しており,帰っても職はない.
 彼は,親戚を頼って,一日パンと牛乳を一度だけ食べるという生活を3年ほど続けたが,彼はこの間,英語を学習していたという.
(モザンビークの公用語は,旧宗主国であるポルトガル語)
 彼は,決して努力していなかったわけではなく,向上心を持った人であった.
 そこでの暮らしに見切りをつけたマタベラ氏は,いとこを頼って移動するが,一緒に暮らす約束をしていたいとこは,姿をくらませていた.

 この状況,全く職がない社会状況は,「当然の帰結」として,犯罪者を増やすこととなる.

――――――
「生まれて初めて他人のものを盗んだのは,1997年2月でした.
 ヴェルコムの白人の庭先に,オートバイが止まっていた.
『あれを売れば腹いっぱい飯が食える』
と思い,盗んだ.
 スコッター・キャンプには,盗んだ品を買い取ってくれる男がいるんです.
 男にオートバイを売ったら,思ったとおり金が入ってきた.
 家には電気がないから,夜,暗い家に一人でいると,
『こんなことをして良いのか』
と,気持ちが沈んできました.
 だけど,一度うまくいくとやめられない.
 何で俺だけが貧しくなきゃいけないんだと思えてくるんです」

――――――同,49ページ

 この後,白人の家から銃を盗んだ彼は,「シビーン」といわれる「犯罪者の酒場」(まぁ,ルイーダの店みたいなもんだ,犯罪の)で,仲間を見つけ,犯罪者パーティを組んで,住宅襲撃を生業としていたらしい.
(ちなみに,住宅の警備状況に関しては,ハウスメイドに金を渡せば筒抜けになる)

 ちなみに,このマタベラ氏は犯罪して儲けた金を,母親に送金していたらしい.
 これは,実際に彼の母親から直接話を聞いたらしいのだが,その母親曰く,モザンビークの経済成長の恩恵を受けられるのは,一部に限られるようだ.

――――――
 モザール?(モザンビークのアルミ加工会社)
 あんたね,そんなもんができたって,私ら貧しい者の暮らしに何の変わりがあるもんかい.
 ここの仕事があれば,息子だって南アなんか行かないよ.

――――――同,52ページ

 尚,奇跡的な経済成長率を遂げているはずのモザンビークでは,2006年から2007年で犯罪率が84%も増加した.
 これは,物と金があつまり,しかもそれを手に入れる人達は限られるため,やはり,貧しい人達が,犯罪を犯す確率が格段にあがっている模様.
 これは,南アフリカでも見られた現象だ.

 このように「皆が貧しい」状況下では,犯罪は増加しない.
 みんなが貧しいため,物がそもそもないからだ.
 だが,経済成長が始まった社会で,しかも富の再分配の恩恵に預かれない人間は,容易に犯罪者となるのが,実情となっている.

 日本とは単純に比較できないが,留意すべき事項になる「可能性」はあるかもしれない.
 特に「移民」に関しては,慎重な取り扱いが必要となるだろう.
 私は,別に移民を毛嫌いしているわけではないが,そのリスクが大きいことにも留意する必要がある.
(実際,スウェーデン,オランダなどでは,移民による犯罪の増加が顕著と聞く)
 また,格差の小さかった日本でも,格差が拡大しつつあり,「食べるために」犯罪に手を染める人間は増えていくと想像できる.
(まぁ,日本人の場合,自殺という選択肢をとりがちだが)

ますたーあじあ in mixi,2011年04月24日23:10


 【質問】
 民主化以降の南アフリカ共和国の,治安状況を教えてください.

 【回答】
 南アフリカは,民主化以降,経済発展とともに,格差が拡大し,それが経済のグローバル化と繋がって,結果,組織犯罪が横行している.
 しかも,捕まったところで警察に賄賂を渡せば基本的には釈放されるため,犯罪は増えることはあっても減ることはない.

 しかしながら,南アフリカではこれらが「ビジネス」として成り立っていることもあり,命の保証は「アフリカの中では」確保できると言えるだろう.
(あくまで「アフリカの中」では.
 他の地域基準で考えると,もちろんヤヴァイ国であることは間違いない)
 ヨハネスブルグのビルが立ち並ぶ場所でも,普通に強盗が起きる場所であり,ビルのテナントの中に人身売買組織が入り込んでいることも珍しくもない.

 南アフリカでは,主にモザンビークから女性が売春を含む労働力として,人身売買の対象となっており,その手口も様々だ.
 例えば,モザンビークで美人コンテストを開催する.
「オーディションに受かれば,南アフリカで,芸能デビューできる」
とでも宣伝しておけばいい.
 そして,地元の人間に審査員をやらせて,めぼしい女性を選び出す.
 言葉巧みに南アフリカまで来させれば,後は旅券を取り上げれば,ほぼ逃げ出さない売春婦のできあがりというわけだ.
 この手の犯罪は,完全に組織ぐるみであり,この組織は,モザンビークの入管に賄賂を贈って,白紙のパスポートを取得できる(つまり,写真さえ貼れば,本物のモザンビーク発行パスポートとなる)ため,かなり容易に犯罪を行うことが可能となっている.

 グローバル化によって,経済の成長が著しい南アフリカでは,同時に様々な犯罪組織が集まり,麻薬・武器の密輸,人身売買,組織的な強盗など,ありとあらゆる犯罪が起きていると言える.
 しかも,教育の格差と,地理的要因(アフリカの入り口),経済発展による富の集中,賄賂の横行によって,犯罪は少なくとも横ばい状態だろう.(むしろ,南アフリカでワールドカップを開けたのは奇跡かも知れない)

ますたーあじあ in mixi,2011年04月26日00:51
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アフリカについて,お勧めの資料はありますか?

 【回答】
 既に休刊してはいるのだが,JETROのアフリカ・レポートの情報がかなり豊富.
http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Periodicals/Africa/backnumber.html

 PDFなんで,読みにくいのが難点.

 おまけ.
 実は前にも紹介したんだけど,改めて紹介.
http://d-arch.ide.go.jp/idedp/ZAF/ZAF200903_010.pdf
「家畜を争う戦いで,各部族がAKで武装してヒャッハー」

 武器のみが強力化して,メンタルが中世なのがアフリカクオリティ.

ますたーあじあ in mixi, 2011年04月27日15:44
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ナイジェリアの「犯罪国家」ぶりについて教えられたし.

 【回答】
 さて,一部の酷使様の間では「韓国人,中国人は世界中で最も嫌われている」そうであるが,こんなのは,日本のごく一部でしか通用しない理屈である.

 まぁ,「嫌われている」と「危険」を別途に考えれば,正しい可能性もあるが,例えば,観光客の中で最も嫌われているのはフランス人らしい.
 ・・・話が逸れたんで戻す.

 ナイジェリアは「犯罪輸出国家」として,悪名をとどろかせている.
 例えば,「オンラインで最も取引先として危険な相手」では,2006年の統計でナイジェリアが31%と,ロシアの9%を完全にぶっちぎってトップの数値になっている.
 ちなみに,2004年から,2006年までナイジェリアはトップを守り続けているとのこと.
 これは,ネットでの詐欺行為(メールを使ったもの)で,最も数が多いのがナイジェリア人だ.
 手口としては以下;

――――――
 ある突然,面識のない外国人から,
「緊急かつ極秘の取引」
と銘打ったEメールが届く.
 内容は様々だが,基本的なパターンでは,基本的なパターンでは,差出人はアフリカの某国の政府高官の未亡人,軍官僚の家族などを名乗る.
 そして,巨額の遺産や隠蔽資産などの別の口座への移転にかかる手数料が必要と訴え,手数料を一時的に貸してくれれば,謝礼を添えて返金すると持ちかける.
 話を信じてうっかり指定された口座に振り込むと,謝礼はおろか元金も返ってこない詐欺話だ.

――――――『ルポ 資源大国アフリカ』(白戸圭一著,東洋経済新報社,2009.8),88-89ページ

 正直,間抜けだなぁとは思うが,日本人でも一億円もの被害を受けた人もいるそうな.

 さらにクレジットカードの偽造なども行っており,FBIの調査では,毎年10〜20億ドルを金融犯罪で動かしている.

 また,麻薬の生産国ではないが,麻薬の中継基地としても知られている.
 2005年にヨーロッパで押収された,アフリカ産のコカインは2005年で9%,2006年には12%となり,米国では「国際麻薬統制戦略報告書」の中で,麻薬の生産国ではないが,密輸の主要拠点として認識されている.
 ナイジェリアの麻薬密輸組織は,アフリカだけではなく,アフガニスタンなど中央アジア及び東南アジアにも及んでいて,これはまさしく「犯罪のグローバル化」を示す一端といえるだろう.

 ナイジェリアの麻薬密輸の実態については,以下に例を示す.

――――――
 2001年のことだ.
 オランダ・アムステルダムのスキボール国際空港の税関当局は,カリブ海に浮かぶオランダ領アンティル,オランダ自治領アルバからの到着便に搭乗する,ナイジェリア人乗客の増加に気が付いた.
 そこで税関は,この2つの島からの到着便に搭乗していたナイジェリア人乗客に限り,10日間だけパスポートを所持している乗客よりも厳しい荷物検査を実施してみた.
 すると,なんと検査を受けた83人のナイジェリア人のうち,実に63人が麻薬を所持していたのである.

――――――同,90-91ページ

 麻薬の密輸に関わった人の,以下のような証言でも,これらは補強される.

>「ナイジェリア人って,皆犯罪者なんじゃないの?
> 犯罪に手を染めていないナイジェリア人なんて知らないわ」

>「いい人もいるかもしれないけれど,じゃあ,このナイジェリア人犯罪者の多さは何なのさ」

――――――同,87-88ページ

 南アフリカでも,ナイジェリア人の流入に伴う犯罪の増加は顕著であり.ナイジェリア人の活動拠点は南アフリカにあることが多い.
 ここでも「グローバル化」の影の部分を見ることができるだろう.

※注意しておくが,私は反グローバリゼーションではない.
 「グローバル化」とは単なる現象であり,これをとめることに意味などない.

ますたーあじあ in mixi,2011年04月28日00:05
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ナイジェリアでは石油収入依存にともない,国内経済状況(再分配)はどのように悪化したのか?

 【回答】
 ナイジェリアはご存知の通り,一大産油国の一つである.
 世界で産油されている石油のうち,ナイジェリアが占める割合は3%だが,この資源は,国内経済においては,とてつもなく大きな割合を占めており,政府の歳入利益のうち,実に7割が石油と天然ガスによるものだ.
 貿易に至っては94.2%が,この石油と天然ガスが占めている.
 この採掘権は,「ロイヤル・ダッチ・シェル」といった欧米の企業が保有しており,その利益が政府に入るといった状況になっている.

 そもそもナイジェリアは元々,パーム油(調理用)の生産で世界一の国だった.
 油田が発見される前,1950年代初頭には,ナイジェリアの輸出の25%がパーム油であり,落花生・ココアの輸出でも世界で有数の規模を誇っていた.
 ナイジェリアには,農業を土台にして,自給生活を行い,教育によって農業を発展させて,雇用を生み出すといった方法を取ることもできた.

 だが,ナイジェリアは石油の持つ「莫大な利益」を選択し,結果として,石油・天然ガスといった資源に全面依存する道を歩んだ.
 結果,ナイジェリアの総輸出のうち90%が石油・天然ガスという,歪な産業構造を生む結果となり,以下のような状態をもたらした.

――――――
 石油開発は多額の資本と,高度な採掘技術が要求される,資本集約型産業の典型であり,雇用創出効果は製造業と比べると低い.
 1億人を超える人口を抱える国で,製造業が育たず,伝統的な農業も衰退していけばどうなるか.
 その答を,これほど劇的に見せてくれる国もないだろう.
 ナイジェリアに残されたのは,推定75%の異常な高失業率と凄まじい所得格差だ.
――――――

 もし「運良く」職を手にしたとしても,待っているのはさらに激しい所得格差だという.

――――――
 エロイケ村でパーム油を生産する20代男性の,1ヶ月の手取りは約1万ナイラ(約8300円).
 ボートハーコートの街で,ビールや安ウィスキーを飲ませる庶民向けバーの女性店員(18歳)は,月給約3000ナイラ(約3300円)で働かされており,少々気の毒だった.
 国営ナイジェリア通信のボートハーコート支局で働く,50代の男性記者は月給2万〜3万ナイラ(約16600〜24900円).
 一方,取材に応じてくれた,NNPC社の50代の部長は,月給約180万ナイラ(約149万4000円).
 どこの国でも,大企業の部長と若い飲食店員の給与には差があるだろうが,ナイジェリアでは実にその差は450対1だ.

――――――『ルポ 資源大国アフリカ』(白戸圭一著,東洋経済新報社,2009.8),129ページ

 こういった格差は,世に厭世感と絶望感をもたらし,その人達が犯罪に手を染めていく.
 一度犯罪に手を染めれば,その「美味さ」を忘れられず,しかも前述したとおり,官憲はお金で買収できるため,この手の犯罪が減少することはない.
 こうして「犯罪輸出国家ナイジェリア」は生まれたわけだ.

 上でソースとして出した本の著者は,こう結んでいる.

――――――
 我々はナイジェリア庶民の痛みと引き換えに,石油の恩恵を享受し,同時に彼らに痛みを押し付ける代償として,組織犯罪の脅威に晒されているのではないだろうか.

――――――同,130ページ

 確かに,国がそうなった原因は,その国民に帰結するのだろうが,先進諸国はその恩恵に預かっていることを考えれば,我々の生活が「血まみれ」の資源によって賄われていることを,頭の片隅には覚えておくべきかも知れない.
(まぁ,センチメンタリズムに類することではあるが)

 さて,湿っぽい話になったので,お楽しみTIAの話をば一つ

 ナイジェリアでは,「国勢調査」をするだけでも命がけ.
 なにせ2006年に国勢調査が15年ぶりに行われたが,これがなんと殺し合いに発展してしまった.
 多数の部族が集まるナイジェリアでは,住民同士が「利益」をめぐって対立いしているため,ささいなきっかけで暴力沙汰になる.
 この国勢調査では,
『奴らが自分たちに有利になるよう,人口を水増ししてる』
といった理由で衝突し,5人の死者と多数の死傷者がでる事態となった.
 これはほんの氷山の一角.

――――――
 ベルギーに本部を置く国際NGO,「インターナショナル・クライシス・グループ」の集計では,1999年から08年までの9年間で,約1万4000人が,こうした住民間暴力の犠牲になっている.
 一般の「殺人事件」は別にして,戦争状態ではない社会で,これほど多数が住民間衝突で犠牲になるのは,異常事態と言うほかない.
――――――

 ガイドライン風にいうと・・・

「この前ナイジェリア行ったんです,ナイジェリア.
 そうしたらなんか,部族同士で喧嘩してるんです.
 で,理由聞いたら,
『あいつらが人口水増してむかつくから』
とか言っちゃってるんです.
 もうな,お前アホかと,お前ら国勢調査ごときで殺し合いなんてしてんじゃねーよボケが.
 単なる国勢調査だよ,国勢調査.
 よーし,俺,素手でやっちゃうぞーとか言ってるの見てらんない.
 適当な武器でも渡してやるから,よそで殺しあってろと.
 アフリカっていうのは,もっと殺伐としているもんなんだよ.
 AK持った子供兵が,いつ村を襲撃してくるかわからない,まさしく逃げるか殺されるか,そんな雰囲気こそがTIAなんじゃねーか.
 部族間抗争とかありきたりすぎんだよ,ボケが.
 で,やっと収まったと思ったら,他の調査で過去9年間に1万4千人も,この手の衝突で死んでるって言うんです.
 そこでまたぶち切れですよ.
 お前ら,本当に気に食わないから殺しあってるのかと,単に利権がほしいだけちゃうかと問い詰めたい,小一時間問い詰めたい.
 アフリカ通の俺からいうと,「政府の雇ったPMFが燃料気化爆弾で村ごと消滅」これね.
 ハインド使ってヘリで,住民ごと反政府ゲリラ皆殺し,これ.コレ最強
 しかし,やりすぎると先進国からマークされて,国連使って圧力掛けられる,まさに諸刃の刃.
 素人にはお勧めできない.
 まぁ,お前らは劣化コピーのAKでも撃ってなさいってこった.」

 うーん・・・ちょっとイマイチ?

ますたーあじあ in mixi,2011年04月29日01:04
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ナイジェリア国民に,石油産業はどのような犠牲を強いているのか?

 【回答】
 ナイジェリアで,石油が見つかってから,国は石油への全面依存を始め,そのせいで農業は壊滅状態に近くなっている.

 では,その状況がどうやって生まれたのか.
 それを説明することで,石油産業自体が「国民の犠牲」の上に成り立っていることを,説明して行きたい.

 ナイジェリアで石油が最初に見つかったのは,「オロイビリ」というところ.
 ナイジェリアで最初に石油が見つかったことから,どれだけその恩恵を受けているかというと・・・・

――――――
 記念すべきアフリカ第一号油田の跡地として,国や石油会社によって相応の整備を施された村を想像していた私は,熱帯雨林の只中に残された廃村を前にして,キツネにつままれたような気分を味わった.
 だが,「廃村」に足を踏み入れた私は,二重の勘違いに気付き,早とちりを恥じた.
 崩れかけた民家の軒先に,精神の変調をきたしているとおぼしき,全裸の男性がよだれを垂らしながら座っていた.
 更に進むと,家の中から,突然のアジア人来訪者をいぶかしげな表情で見つめている男性の存在に気付いた.
 村は荒れに荒れていたが,決して「廃村」ではなく,人々の暮らしが営まれていたのだ.

――――――『ルポ 資源大国アフリカ』(白戸圭一著,東洋経済新報社,2009.8),100ページ

 さて,ここからは村人と石油採掘技術者との,心温まる話に入る(微笑)

――――――
「白人技術者たちがやって来たのは,1953年のことでした.
 私は当時19歳.
『オイルを探しているから,沼地を掘らせて欲しい』
というので,村の皆で歓迎しましたよ.
 誰であろうと遠来の客を歓迎するのが,私たちの伝統だからね.
(省略)
 若いイクペスさんは技術者のベースキャンプに遊びに行き,一緒に食事をしたり,技術者と村の若者の間でサッカーの試合をしたこともあったという.
 ベースキャンプが設置されてから3年後の1956年6月,技術者たちは村の外れの沼地で,ついに目当ての宝物を掘り当てた.
 地下3660m.西アフリカギニア湾岸の油田開発の幕があけたのである.
 イクペスさんは
「白人たちが『オイル』を見つけたと喜んだときは,一緒に小躍りして喜びました」

――――――同,101ページ

 ( ;∀;)イイハナシダナー
 石油の発掘で汗を流す白人技師たち,その白人たちとの心温まる交流.
 ここだけ切り取れば,プロジェクトX風なのが一本できるだろう.
 そして,こうなった.

――――――
「私たちが知っていた『オイル』は,調理用のパーム油だけでしたからね.
 白人たちが何を探してるのか,知らないまま喜んでいた」
と寂しげな笑みを浮かべた.
「村の住民は元々,キャッサバやヤムイモを作る農業と,川での漁業で生計を立てていました.
 それが石油の発見で激変した.
 油井が現役の頃は,村には石油産業の関係者が大勢いたし,石油会社のために働いている村人も大勢いました.
 病院も商店もあって,それは大変な賑わいでしたが,1972年に第1号油井が閉じられたのが最後.
 石油会社はあっというまに別の場所に移り,若者は村を見限り,今の村はご覧の通りです」
「いったん石油がみつかったら,石油会社はどこでも掘るんです.
 畑,沼地,住宅地,原油が出る場所はすべて採掘の対象です.
 最初は何も知らずに喜んでいた私たちも,そのうち『何か変だな』と思うようになった.
 川は汚れ,パーム油と同じだと思って,原油交じりの川の水を飲んで死んだ人もいた.
 でも,気が付いたときは手遅れです.
 ナイジェリアは1960年に独立したが,石油企業の後ろには政府が付いている.
 政府は金が欲しいから,住民の言うことなんか絶対に聞かない.
 そのうち,原油から水とガスを分離するフローステーションが,村の周辺で稼動しはじめると,住民は昼も夜も続く爆音に,悩まされることになりました

――――――同,102ページ

 この村には,現在,電気も来ていない状況.

/ || ̄ ̄|| ∧_∧
|.....||__|| (     )  どうしてこうなった・・・
| ̄ ̄\三⊂/ ̄ ̄ ̄/
|    | ( ./     /

 ___
/ || ̄ ̄|| ∧_∧
|.....||__|| ( ^ω^ )  どうしてこうなった!?
| ̄ ̄\三⊂/ ̄ ̄ ̄/
|    | ( ./     /

 ___ ♪ ∧__,∧.∩
/ || ̄ ̄|| r( ^ω^ )ノ  どうしてこうなった!
|.....||__|| └‐,   レ´`ヽ   どうしてこうなった!
| ̄ ̄\三  / ̄ ̄ ̄/ノ´` ♪
|    | ( ./     /

 ___        ♪  ∩∧__,∧
/ || ̄ ̄||         _ ヽ( ^ω^ )7  どうしてこうなった!
|.....||__||         /`ヽJ   ,‐┘   どうしてこうなった! 
| ̄ ̄\三  / ̄ ̄ ̄/  ´`ヽ、_  ノ    
|    | ( ./     /      `) ) ♪


 そして,一緒に喜んだ事を心から後悔しているという.

――――――
「私は50年前,石油会社に採掘を許したことを心から後悔しています.
 50年前の私たちにもう少し教育があったら,こんなひどいことにはならなかったと思う.
 無知に付け込まれてはだめ.
 自分で考えなくてはだめ.
 だから,貧しくとも子供の教育だけは必死にやりました.
 無知ほど恐ろしいことはないと分かったからです」

――――――同 103ページ

 まぁ,しかしその後の国の政策を見るに,結局採掘は時間の問題だったとは思うが・・・.
 ただ,「無知ほど恐ろしいことはない」というのは事実だろう.
 それをクリアしても,「陰謀論に引っかかる」とか,そんなリテラシーの問題は出てくるが.
(実際,他のアフリカ地域などでは,反米プロバガンダで,多くの若者がアメリカに敵愾心を持ち,テロリスト予備軍となっている,
 この辺は,もう少し後で説明することになるだろうが)

ますたーあじあ in mixi,2011年04月29日09:55
青文字:加筆改修部分

 前の日記では,ナイジェリアの石油産業が,如何なる現状にあるか書いた.
 今回は,その内圧が外に向かっているという事を書きたい.

 ナイジェリアには,現在の石油産業に反対する組織「ニジェール・デルタ民志願軍(MEND)」が存在する.
 この組織は,2004年10月にドグボ氏によって率いられ,ナイジェリア政府及び石油企業に「宣戦布告」した.
 ナイジェリア政府は,これに対して,戦闘ヘリコプターでMENDに参加していると見られる.(たぶん,Mi-24Vの輸出型であるMi-35,詳細は知らない)村を攻撃した.
 これに対して,MEND側でも報復攻撃として,石油パイプラインの攻撃を行っており,アフリカらしい「泥沼」の様相を体している.

 攻撃を受けた村では,現在の石油産業への反感もあいまって,MENDを支持しているようだ.

――――――
「理不尽な現実に立ち向かう者は,自由のための戦士だ.
 私はドグボ氏の闘争を支持しているし,彼に率いられて戦った若者たちも支持している.
 世界の富は石油から生まれる.
 だが,油田に住む我々には何の恩恵もない.
 川の汚染で魚や貝は取れなくなる.
 ここには電気も水道もなく,若者たちが働く仕事もない」
――――――

 この地域は,天然ガスも石油もパイプラインを通じて素通りしており,何の恩恵もないようだ.

――――――
 イジョー人コミュニティの足元で採掘された石油と天然ガスは,コミュニティを素通りしてボニ・ターミナルに集められ,タンカーに積まれて世界中に輸出される.
 ナイジェリア産油国の最大の輸出先は米国で,その割合はナイジェリア産原油の約4割.
 米国にとってナイジェリアは,第5位の原油輸入元だ.
 日本向けの輸出はわずかで,2007年に日本に輸出されたナイジェリア産原油は50万キロリットルだった.
 ともあれ,穿った言い方かもしれないが,先進国に住む我々の家や職場を灯す明かりの発電には,遠くナイジェリアで採掘された原油も使われているということである.

 しかし,原油や天然ガスが遠い異国の発電に利用されることはあっても,産油地帯のコミュニティには電気が通っていない.
 そこで住民たちはやむを得ず,金を出し合って自家発電機を購入し,自前で電線を引いた.
 そこで住民は毎月2万ナイラ(約10万円)で発電機の燃料の軽油を買い,産油地帯の真ん中で自家発電しているのである.
 この軽油も大半が「国産」ではない.
 ナイジェリアには4つの製油所があるが,これをフル稼働しても,一日に精製できる原油は45万バレル.
 一日の原油生産量の5分の1だ.
 しかもこれらの精製所は,財政難に伴う老朽化などで稼働率が低下し,日量24万バレル弱と言われる国内需要すら満たせていない.

――――――同,110ページ

 ナイジェリアで採掘された原油のうち,90%以上は精製されず,原油の状態で輸出され,海外の製油所で「石油製品」となってから,ナイジェリアに「逆輸入」されている.
 つまり,ナイジェリアは自分たちで採掘した原油を売って,その利益で原油を「買い戻して」いるわけだ.

         ,. -‐'''''""¨¨¨ヽ
         (.___,,,... -ァァフ|          あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
          |i i|    }! }} //|
         |l、{   j} /,,ィ//|       『俺は原油を発掘して,石油製品を作っていると
        i|:!ヾ、_ノ/ u {:}//ヘ       いると思ったら,実は海外に原油を輸出して
        |リ u' }  ,ノ _,!V,ハ |       石油製品を買い戻していた』
       /´fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人        な… 何を言ってるのか わからねーと思うが
     /'   ヾ|宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ        俺も何をしているのかわからなかった.
    ,゛  / )ヽ iLレ  u' | | ヾlトハ〉     
     |/_/  ハ !ニ⊇ '/:}  V:::::ヽ        頭がどうにかなりそうだった…
    // 二二二7'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ
   /'´r -―一ァ‐゛T´ '"´ /::::/-‐  \    国内精製だとか原油採掘だとか
   / //   广¨´  /'   /:::::/´ ̄`ヽ ⌒ヽ    そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
  ノ ' /  ノ:::::`ー-、___/::::://       ヽ  }
_/`丶 /:::::::::::::::::::::::::: ̄`ー-{:::...       イ  もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…


 産油地帯で採掘された原油は,地元住民の元をスルーして,国外に輸出され「付加価値」をつけて,ナイジェリア国内に戻ってくる.
 それを産油地帯の住民が買い戻しているわけで,何の恩恵も受けていないどころか「付加価値」の分だけ負担を強いられている.
 こうした矛盾は,さらに政府や石油企業への反発を強め,ひいては厭世感をもたらし,反乱や犯罪へと走らせる要因となっている.

――――――
 日暮れから数時間だけ,住民の家々にともる自家発電のささやかな明かり.そこには「石油文明」の源流に積もる住民たちの憤怒が,凝縮されているのだった.

――――――同,111ページ

 こうした状況があるかぎり,仮にMENDが潰れたとしても第二,第三のMENDが発生する可能性が高く,しかも理念自体(MENDにそこまで立派な理念があるかはおいて置いて)も低下するので,まさしく「ただの反政府ゲリラ」になる可能性があるだろう.
 といっても,フランスを見れば分かるとおり,産油国に対して先進国はスルーしないであろうから,事ある毎に介入するだろう.
(まぁ,介入しないより「比較的」マシなことが多いので,それ自体は間違っちゃいないだろうが)
 そうすることで,さらに外国に対しての内圧が高まり,反乱も大規模になりがち.
 ここに「反欧米プロバガンダ」が入り込む余地が大きくなり,さらなる「テロリスト予備軍」が発生する可能性も否定できないだろう.

ますたーあじあ in mixi, 2011年05月03日01:23

 ナイジェリア石油産業は,果たしてナイジェリア国民を幸福にしたのか.
 たしかに,ナイジェリアの石油産業は国に莫大な利益をもたらし,当然,都市部はその恩恵に預かった.
 一方,石油以外の産業育成が遅れている(そもそもどこまでやる気があるのか疑問)ため,農業や漁業は壊滅的被害を受けているところも珍しくない.

――――――
 ロアさんの畑を黒く染めたのは,地下から噴きあがった原油だ.
 油井を掘ると,原油は地下の圧力でひとりでに地上に上がってくる.
 通常は由井にバルブを取り付ければ,原油はパイプラインを流れてフローステーションへと向かう.
 だが,何かの不具合が起きると,鉄管のバルブ部分から漏れ出してしまうのだ.

「こんな場所は珍しくありません.
 いったん原油が流出すれば,土地は使い物にならず,川も汚染され,農業も漁業も壊滅です.
 ナイジェリアの法律では,石油が見つかった土地の所有者は採掘を事実上拒否できません」

――――――同,112ページ

 このような「原油漏れ」は,年間少なくとも100件は起きており,そのたびに被害をこうむる住民が存在している.
 こうした「事故」は,住民たちの政府や石油企業への反感の土壌となっているわけだ.
 ナイジェリアでは,油井の数は多いが,それぞれ小規模なものであるため,あちこちに油井が存在し,畑の中や,民家の庭先に油井があるところも珍しくないようだ.
 それを運ぶパイプラインもそれに準じていて,不純物を分離する「フローステーション」の轟音は,住民たちを悩ませ続けている.

――――――
 「石油産業と住民の共存」と言えば聞こえはいいが,現実はそんな生易しいものではない.
 四国と九州を合わせた広さにほぼ等しい,デルタ地域の推定人口は約2千万人.
 アフリカ有数の人口稠密地帯だが,どう見ても地域全体が石油企業の都合で設計されているとしか思えないのだ.

――――――同,113ページ

ますたーあじあ in mixi,2011年05月04日09:08


 【質問】
 「MOSOP」という運動と,その結末について教えられたし.

 【回答】
 前の日記では,石油産業はナイジェリア人の犠牲の上に立つことを書いた.
 それは,ナイジェリア政府が,石油を発掘して以降,莫大な利益を出していながら,再分配を禄に行わず,国を私物化してきた歴史があるから.

 1966年に軍事クーデターが起き,短い民主化の期間はあったものの,計7度の軍事クーデターがあり,基本的に軍事独裁者が国を私物化したわけだ.
 それが端的に現れているのが,石油採掘とは無縁の北部開発優先.

――――――
 石油産業こそが国家財政を支えていたにも関わらず,連邦政府は石油とは無縁の国の北部の開発を優先した.
 1970年代末期時点で,外国の石油産業から連邦政府に支払われた鉱区借地料のうち,産油地帯の二州(リバーズ,デルタ両州)に還元されたのはわずか2%でしかなかった.

――――――『ルポ 資源大国アフリカ』(白戸圭一著,東洋経済新報社,2009.8),114ページ

 これは当然の結果として,逸れに対する反対運動を生み出した.
 それこそがMOSOP(オゴニ人生存運動)だ.
 これは,オゴニランド出身のケン・サロウィワ氏が作った組織で,アムネスティ・インターナショナルなどからの支援を受け,石油産業を相手取って,環境破壊に対する補償など総額百億ドルを要求した.
(まぁ,百億ドルっていうのは,象徴的な数字なんだと思うが)
 この運動は,国際的にも大きな反響を呼び,軍事政権下で,好き勝手に政権運営を行っていた政府は,これに手を焼いたという.

 しかしながら,「ナイジェリア史上最悪の独裁者」と呼ばれたサニ・アバチャが,クーデターで政権を握ると,このMOSOPは徹底的に弾圧され,上述のケン・サロウィワ氏も,証拠も根拠もないような「殺人教唆罪」で逮捕され(実はその前にも逮捕されてるんだが),数ヶ月に渡り投獄された挙句,禄に裁判もしないで処刑された.
 まぁ,軍事独裁政権にありがちって言えばその通りだけどね.

 ちなみにこのサニ・アバチャ氏は,最終的に民主化運動の激化や人気の低下などにより,身辺に3000人の警護が必要だったという.
 金欲の権化で,「世界の歴史での汚職政治家」で第4位だったという,ある意味「TIA」を体現した存在とも言える.
 コンゴ(当時はザイール)の独裁者・モブツ以上の汚職ぶりだからね.

 MOSOP自体は,サロウィワ氏の遺志を継いで運動を続けてはいるが,かなり行き詰っている模様.

――――――
 サロウィワ氏の遺志を継いで運動を再開したMOSOPは現在,石油産業との補償交渉から住民のHIV感染予防などの社会対策へと,活動の重点を移している.
 MOSOP広報担当のバリアラ・パラップ氏は,
「原油による環境汚染は全く改善されておらず,戦いは続いていますが,石油企業との交渉は補償問題などを巡って行き詰まり,暗礁に乗り上げています」

――――――同 116ページ

 この行き詰まりも,「当然の結果」と言えるべき武力抗争を呼んでいる.
 これが以前にも少しでてきたMENDだ.

 この「志願軍」だの「愛国戦線」だのの名前が出てくると,いよいよTIA!の香りが強くなってくる.
 大体,アフリカ人の組織は「愛国」「志願」「戦線」「抵抗」この辺は,ほぼ武装組織だと覚えておくと,損はない.(ネタ探しの意味で)

ますたーあじあ in mixi,2011年05月07日11:55
青文字:加筆改修部分


『ライター・渡邉陽子のコラム (47) ─ 飛行管理隊/飛行情報隊(2) 』
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


こんばんは.渡邉陽子です.

私もささやかなお手伝いをしている「おーあみ避難所」の
写真展が,神田神保町のカンダカフェにて開催中です.

お店への飲食代のみでご覧いただけますので,お近くを
お通りの際はぜひお立ち寄りくださいませ.
6月3日まで開催しています.

入口横の,里親さんから送られてきた卒業生の写真の中
にはしっかりうちの猫もいます(笑)

おーあみ避難所ブログ http://ameblo.jp/oami-hinanjyo/
おーあみ避難所Twitter @oamihinanjyo



■ 飛行管理隊/飛行情報隊(2)


先週は,航空機を安全に運航させるためにはネットワークを通じ
て多数の機関が情報を共有する必要があること,その情報は
国土交通省の飛行情報管理システム,FDMSから提供されるこ
とをご紹介しました.今回はいよいよ飛行管理隊の登場です.

自衛隊の航空機も日本の上空を飛んでいる以上フライトプランは
提出するし,ノータムも発行します(先週の繰り返しになりますが,
ノータムとは航空機が安全に運航するために出される情報のこと.
「東京湾で花火大会がある」とか「除雪が間に合わず滑走路が閉
鎖」といった情報がノータムで,その事象が発生する飛行場等か
ら発出されます).

訓練する場合も,あらかじめ報告してある訓練空域内で行なわな
ければなりません.輸送機にしても,定められた空の道路から外
れずに飛んでいます.


ただ,航空路管制業務が国交省の仕事なら,航空自衛隊は航空
警戒管制業務が仕事.
「防空」という任務のため,国交省のFDMSではなく自衛隊独自の
システムによって,自衛隊機の飛行情報を関係機関に発信してい
ます.それがFADP(ファダップ)と呼ばれる飛行管理情報処理システムです.

FDMSから届く情報を業務に合わせた形で運用するため,航空会社
や関係省庁はそれぞれ独自のシステムを持っています.それが防衛省
の場合はFADPというわけです(ちなみに気象庁ではADESSという
システムを使っています).


FADPには,ノータムを処理する能力や,運航情報を管制機関に提供す
る航空交通管制情報処理機能があります.また,各航空機の出発時刻
と到着時刻を監視し,予定時刻までに到着しない場合は通信捜索報を関
係機関に出力する運航情報処理機能も持っています.これらはFS(運
航情報業務)と呼ばれ,多少の違いはあれど,国交省のFDMSにも備
わっている機能です.防空に特化した機能ではないということですね.


FADPならではの機能はここからです.航空警戒管制部隊が必要とする
国籍不明機などの情報を提供する防空識別情報処理機能,訓練空域を
通過する民間機の運航情報を航空警戒管制部隊に提供する空域調整
情報処理機能.

これらの機能はAMIS(航空機移動情報業務)と呼ばれ,防空の色合い
が強くなります.このFSとAMISという飛行管理業務を実施するための
システムがFADPというわけです.

さらに言えば,FADPは国交省の管制システムと航空自衛隊の航空警戒
管制システムの間に立ち,通訳の役目も果たしています.FDMSからの
情報はFADPを経由することで「民間語」から「自衛隊語」へ訳され,適切
な形で必要な場所へと送られるのです.


この大切なシステムを運用しているのが飛行管理隊で,自衛隊の発行す
るすべてのノータムに目を通し,不備がないかチェックするのが飛行情報
隊です.最後にようやく部隊名が登場しました.

今回の重要ワードは「FADP」でした.自衛隊機の運航に不可欠な飛行管
理情報処理システムです.
次回は陸海空自衛隊の中でFADPを運用する唯一の部隊である,飛行
管理隊の業務についてご紹介します.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.5.28




マーケット・ガーデン作戦とインテリジェンス (9)
                長南 政義
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

■【前回までのあらすじ】

本連載は,精確な内容を持つインテリジェンスが
1944年9月上旬に連合軍の指揮官に利用されたか
どうかを考察することにある.実は,インテリジェンス
の内容は,マーケット・ガーデン作戦実行に伴うリス
クを連合軍の指揮官に警告していた.

指揮官が決定を下すために利用できるインテリジェ
ンスの情報源は数多く存在していたが,本連載では
「ウルトラ」情報により提供されたインフォメーションに
のみ焦点を当てて考察を進めることとする.第二次
世界大戦を通じて,連合軍の戦略レヴェル・作戦レ
ヴェルの指揮官たちはウルトラ情報を活用し,ウル
トラ情報の精確性に関してめったに疑いを持たなか
ったからだ.

前回からインテリジェンス活動の基幹をなす暗号と
暗号解読についてみてきている.その際にキーワー
ドとなるのは,ドイツ軍が使用した暗号機「エニグマ」
とそれを解読した「ウルトラ」情報であるが,前回は
「エニグマ」誕生の概略と「ウルトラ」情報の概略と
について説明した.

第一次世界大戦後にエニグマは商業用暗号機として
開発・使用され始めた.だが,ドイツがヴェルサイユ講
和条約に違反して再軍備を開始した時に,エニグマの
運命は大きく変化することとなった.というのも,再軍
備計画を秘密裡に継続実行するためには,安全な通
信手段が必要とされたため,ドイツ軍がエニグマに目
を着けたからだ.

第二次世界大戦においてドイツ軍の敵国となるポーランド,
フランスおよびイギリスは,開戦以前からエニグマの暗号を
解読しようと試みていた.エニグマ暗号を解読するという任
務は,エニグマ暗号機が作り出すことができる複雑な暗号
コードを考慮すると気が挫けるような困難な任務であった.
そして,エニグマ暗号機でやりとりされる電文を解読するプ
ログラムに与えられたコードネームが「ウルトラ」であった.

だが,エニグマ暗号機の機種が数多くあることに加えて,
エニグマ暗号機を使用するドイツ陸海空軍およびドイツ政
府各機関がそれぞれ独自の運用手続きでエニグマ暗号機
を使用していたため,暗号解読には多くの困難が伴った.


【エニグマ解読の歴史を書くことの困難さ】

エニグマ暗号を解読しようとするプログラムの起源と成功の
歴史を詳細に書くことは,エニグマ暗号機の進化の過程を追
跡するのと同じくらいの困難が伴う.

これまでこのテーマについて執筆した執筆者は,執筆者各人
の観点からこのテーマに挑戦してきた.だが,エニグマ解読プ
ログラムの全体像を覆い隠している秘密は,解読プログラム
の進化に対する正確な評価を行なうために必要不可欠な過
去の記録文書がすべて公開されているわけではないので,
いまだ解き明かされていない.

ポーランドは,エニグマ暗号を解読しようと真剣に試みた
最初の国々の一つであり,ポーランドによるエニグマ解読
の努力はフランスの支援を多分に受けていた.

だが,最終的にエニグマ暗号解読のために大規模な資源
を投入できたのは英国であり,エニグマ暗号解読から獲得
したインテリジェンスを効果的に利用し得たのも英国であった.

「ウルトラ」情報獲得のための努力は,現在ではインテリジ
ェンスの歴史の中で最も成功したプログラムの一つとして
認識されている.

今回はエニグマ誕生の経緯についてより詳しく述べることとする.


【二人のエニグマの父と,企業の関心が低かったエニグマ暗号機】

エニグマ暗号機にはオランダ人とドイツ人二人の父がいる.

エニグマ暗号機はオランダ人ヒューゴ・アレクサンダー・コッホの
アイデアにその起源を有する.コッホは後に自身のアイデアを
一九一九年に特許登録している.そして,発明家であり暗号に
関心のあったドイツ人技師アルトゥール・シェルビウスが後に
コッホの特許を買い取った.

エニグマ暗号機の基本原理を開発し,エニグマ暗号機の販売
を商業的に成功させた人物がシェルビウスである.

シェルビウスは一八七八年,フランクフルトで誕生した.彼は
ミュンヘン工科大学で電気工学を学び,その後ハノーヴァー大
学に移り,一九〇三年三月にハノーヴァー大学を卒業している.
一九〇四年には「間接水力タービン調整機建設のための提案」
と題する論文を書いて工学博士号を授与された.

彼はその後,ドイツとスイスの電気会社で働き,一九一八年,
シェルビウス&リッター社を設立した.シェルビウスは,電気枕,
セラミック発熱部品,非同期モーターなど数多くの発明をしてい
る.彼の名は,非同期モーターに関するシェルビウス原理とし
て有名である.

シェルビウスは有線歯車を回転させることで暗号化を行なう暗
号機に関する特許を申請した(一九一八年二月二三日出願).
そして,既述したように,シェルビウスは一九一九年に同様の
原理を特許申請していたコッホから権利を購入した.だが,シェ
ルビウスのビジネスは順調なものとはいえず,一九二〇年代に
少なくとも二度の企業再編を行なっている.

一九二三年,シェルビウスは通信の安全に関心を有する大企
業に暗号機を販売するための小さな会社を起業した.しかし,
どの企業もシェルビウスの事業がビジネスとして成功するに十
分な数の暗号機を購入してくれなかった.


【ドイツ海軍,エニグマ暗号機に興味を持つ】

シェルビウスの暗号機は一九二六年まで事実上無視されていた.
だが,一九二六年になりシェルビウスの暗号機の運命は一変する.

この年になり,ドイツ海軍がシェルビウスの暗号機を通信システ
ムに採用する決定を行なったのである.

海軍がシェルビウスの暗号機の持つ潜在的能力を理解した最
初の軍種であったことは自然のことであった.というのも,海軍
は船舶・陸上間通信,船舶間通信のすべてを無線通信に依存
していたからである.

シェルビウスが開発したエニグマ暗号機は,一九三四年に改良さ
れるまで大きな改良を加えられることなく使用され続けた.


【英国政府に見過ごされたシェルビウスの特許申請】

シェルビウスの会社はドイツ海軍が暗号機を艦隊に配備し始め
て以降も商業的努力を行ない続けた.

一九二七年八月一一日,シェルビウスの会社は暗号機が動く原
理の説明書と関連図面つきで英国特許局に特許申請している.
だが,この特許申請は英国政府により見過ごされた.英国政府は
第二次世界大戦が開始されてから,この機械がどのように動くの
かを理解しようとしたのだ.


【シェルビウスの死と拡大するエニグマ暗号機の採用】

シェルビウスは自身が開発したエニグマ暗号機が大活躍する光
景をみることなく,一九二九年,馬車の事故によりベルリンで死亡
した(享年五〇才).

ドイツ陸軍,ドイツ空軍およびその他のドイツ政府機関はドイツ海
軍の動きに追随し,エニグマ暗号機をそれぞれの通信システムに
導入するようになった.そして,第二次世界大戦終了までに,エニ
グマ暗号機は軍のあらゆる部門のみならず,軍以外の政府内の
あらゆる機関でも使用されるようになった.

第二次世界大戦の全期間を通じて,ドイツは自国の通信の安全
が損なわれていたとの疑念を持つことはなく,自国の通信が
安全なままであったと信じ続けていたのであった.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.5.28




陸軍機 vs 海軍機(40)       清水政彦

「零戦と隼(39)」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「零戦vs隼」の第39回.今回は,ニューギニア戦線が
防勢に転じた昭和18年3月〜4月頃における,東部ニ
ューギニアの航空基地事情についてです.

▼ 重爆戦隊の中継基地として整備されたウェワク飛行場

 第六飛行師団に編入された唯一の重爆戦隊である
飛行第14戦隊(97式重爆)は,機材を空母に搭載するこ
とができない関係上,インドネシアから島伝いに東に進
み,ニューギニア北岸の中継基地を経由してラバウルに
進出することとされた.

 しかし,第14戦隊に南太平洋方面への転用が発令され
た時点(昭和17年末)では,ニューギニア北岸の航空基
地はほとんど未整備であり,第14戦隊は中継飛行場の
整備が完了するまでインドネシア方面の基地で待機する
こととなった.

 この時,重爆戦隊の中継基地として突貫工事で整備さ
れたのがウェワク飛行場だった.

 ウェワクはニューギニア島北岸のほぼ真ん中に位置して
おり,一応この地域の中心地といえる街だった.当地には
旧植民地時代(およびその後のオーストラリア委任統治時
代)に建設された小規模な港湾と小型機用の粗末な滑走
路があり,これを拡張して重爆の離着陸を可能にするのである.

 この時まで,ウェワクは連合軍・日本軍ともにまったく展開
していない空白地帯だった.昭和18年1月下旬,歩兵一個
大隊が初めてウェワクに上陸し,人海戦術で飛行場の拡張
作業を始めた.重爆の発着が可能な長さ(おおむね1200メ
ートル)まで滑走路を延長できたのは2月下旬になってか
らで,第14戦隊はその情報を確認してから移動を開始した.

▼ 地上で半減してしまった重爆戦隊

 第14戦隊はウェワクを経て昭和18年3月初旬にラバウルへ
の移動を完了した.これはちょうど「81号作戦」の船団がダン
ピール海峡で壊滅したのと同じタイミングであった.これ以後,
ニューギニア戦線はもっぱら防戦一方となり,重爆本来の進
攻作戦はその機会が激減してしまった.

 ラバウルに進出した第14戦隊は,とりあえず既存の陸軍飛
行場(ココポ)に駐留することになったが,同飛行場は第六飛
行師団の進出に際して泥縄式に急造されたもので,滑走路の
整備状態が悪く,軽爆戦隊の進出直後には着陸事故が続発
していた.

 飛行機の分散隠匿設備も十分に整備されておらず,既存の
軽爆隊に加えて図体の大きな重爆が30機以上も同居したた
め,飛行場は大混雑となった.掩体が不足し,第14戦隊の各
機は滑走路付近に野ざらしで駐機せざるを得なかった.

 準備不足の祟(たた)りはてきめんで,第14戦隊はラバウル
への進出早々,3月16日の夜に行なわれた連合軍機の夜間空
襲によって,保有機材の過半数にあたる23機を地上で撃破さ
れてしまう.

 第14戦隊は損傷機の修理を急いで戦力回復に努めたが,結
局その後第一線定数(27機)を回復できず,フル編成の編隊を
組めないまま,少数機ずつ各種の雑多な任務に酷使されて消
耗していった.

 この一件は,単に第14戦隊の不運というにとどまらず,南太平洋
方面における陸軍航空の「典型的な負けパターン」だといってよい
だろう.同様の悲劇が,その後ニューギニアで何度も繰り返された
のである.

 南太平洋方面では基地施設が最も充実していたはずのラバウ
ル地区ですらこの有り様である.ニューギニア方面の基地では,
さらに悲惨な状況が待ち受けていた.

▼ 消去法で主要根拠地を選定

 昭和18年3月の時点で,連合軍はラエの南西約100キロの地点
にある「ワウ」まで航空基地を推進していた.これにより,ニューギ
ニア島北岸に構築されつつあった日本軍航空基地のうち,最も東
方に位置する「マダン」は完全に敵中小型機(B-25およびP-38)
の行動圏に入ったと考えられた.この事実は,マダン港は間もな
く常時大規模な空襲にさらされ,中型以上の貨物船の在泊が困
難になることを意味していた.

 一方,ウェワクはマダンより300キロほど西方にあり,この時点で
はいまだ敵中小型機の行動圏のギリギリ外側にあると考えられて
いた.ニューギニア島への補給は,ウェワクおよびその若干東方に
ある「ハンサ湾」までは船団輸送が可能だが,そこから先は小型舟
艇による沿岸輸送に頼ることにならざるを得ない.

 つまり,今後はマダンに対して大規模・継続的な補給を維持す
ることは不可能と考えねばならず,したがって,ラバウルからニュー
ギニアに移転する陸軍航空隊の根拠地としては,マダンは不適格
であるということになる.

 ウェワクより西方には,より安全かつ基地としての潜在能力が
高い「ホランジア」があったが,こちらは主戦場までの距離が遠す
ぎた.陸軍機の航続距離との関係上,最前線であるラエ周辺地区
やフォン半島方面で作戦するためには,発進基地はウェワクの西
方約50キロにある「ブーツ」地区までが限度であった.

 後述するとおり,ウェワクのインフラは,一個飛行師団規模の航空
部隊を収容するには貧弱すぎたのだが,ラバウルにある陸軍航空
をニューギニアに移転するにあたり,ほかに選択できる拠点がない
ことも事実である.第六飛行師団は,基地としての能力不足には
目をつぶって,ニューギニアにおける主要拠点をウェワクに選定せ
ざるを得なかった.

 第六飛行師団の司令部は昭和18年4月末にラバウルからウェワク
に移転し,飛行部隊と地上部隊(歩兵部隊のほか,整備要員と飛行
場設定隊および防空部隊)も次々にウェワクに送り込まれた.

 不足する飛行場の能力を補うため,ウェワク地区に第二,第三滑
走路を追加して整備するとともに,近くの「ブーツ」地区にも飛行場を
複数整備して,これらを一つの「飛行場群」として活用することで対
応しようと試みた.

▼ 基地に不向きなウェワクの地形

 こうしてウェワクは,中部ニューギニアにおける陸軍最大の航空基
地かつ補給拠点となった.しかし,ラバウルの場合と異なり,ウェワ
クには都市(基地)としてのポテンシャルが決定的に欠けており,こ
れが陸軍航空の戦力発揮上,非常に大きな足枷(あしかせ)となった.

 ウェワク周辺のニューギニア島北岸は海岸線から急に山地が立ち
上がる急峻な地形になっていて,広い平地はほとんど存在しない.
日本でいえば,熱海から伊豆半島東部にかけての海岸線を想像す
ればわかりやすいだろうか.市街地は海岸沿いのわずかな平地に
へばりついており,その奥はすぐに急斜面となるため,奥地には人
が立ち入ることすら困難である.

 地盤の傾斜がきついため,滑走路は海岸線に並行する方向(東西
方向)にしか建設できず,横風用の交差滑走路は造成不能である.
その滑走路すら,周囲は山と崖,樹高の高い熱帯雨林が障害物とな
って極めて使いにくかった.

 さらに,山地の北側斜面を切り取って造成した滑走路は北風が吹く
と雲に覆われやすく,積乱雲による豪雨も多発するため,悪天候によ
り航空機の活動が大幅に制約された.ひとたび豪雨が降れば,背後
の山から集まった大量の水が滑走路に流れ込むため,排水はほぼ
不可能.滑走路は雨のたびに泥沼と化し,地面が乾くまで使用不能
になった.雨とともに流れ込んだ泥濘が晴天時に大量の砂埃となっ
て舞い上がり,航空機の離着陸を妨害した.

 南側にそびえる山々が視界を遮るため,南方から山伝いに低空飛
行で侵入する敵機の発見が困難だった.レーダーも障害となる地形
を避けて山の上に設置する必要があるが,その作業に手間取ってい
るうちに基地が奇襲を受けた.滑走路の周囲の地形が険しすぎるた
め,飛行機の分散隠匿施設や誘導路を建設することが困難で,空襲に
対して非常に脆弱だった.

 港湾は水深が浅く,中型以上の外航船は岸壁に接岸できない.陸
地付近まで珊瑚礁が発達しているため,港内の浚渫(しゅんせつ)作
業もほぼ絶望的である.

 ごく小さな市街地を一歩出れば,周囲は樹高20メートルに達する未
開の大ジャングル.点在する湿地や湖沼,小河川には大量の蚊が発
生し,マラリアやデング熱の巣窟となっている.近代的な都市インフラ
はほぼ存在せず,急峻な山と崖ばかりの地形では兵舎の増設も困難
だった.苦労して食糧,燃料や弾薬を揚陸しても,これを運ぶトラックを
走らせる道がなく,大量の物資を安全に保管できる倉庫や集積場も不
足している.

 せっかく運んできた補給物資も,しばしば港や飛行場の周辺に野積
みされることがあり,多くの物資が揚陸後に空襲で焼き払われた.

▼ 恐るべきニューギニアのインフラ事情

 ウェワクはニューギニア島中部北岸一体を占める広大な地域(東セピ
ック州)の州都なのだが,その人口は現在でもわずか2万人ほど.ニュ
ーギニア北岸がいかに人口希薄な地域であるか分かるだろう.1940年
代は正確な資料がないが,今よりはるかに小さな集落だったと思われる.

 そしてウェワクには,戦後70年を経た現在ですら満足な物流インフラ
がない.それを物語る興味深い事例があるので,以下に紹介する.

 ウェワク地域に対しては,2008年に日本から総額5億円のODA(政府
開発援助)が供与されており,その使途は港の桟橋と魚市場の整備で
あった.このプロジェクトの開始にあたり,JICA(国際協力機構)が作成
した事前レポートには,以下のような記載がある.(JICAウェブサイトより引用)

「ウェワク桟橋は東セピック州唯一の小型船・漁船用桟橋であり,2002年
の地震による崩落後は全く使用不能となっている.本プロジェクトの対象
地であるウェワク町は東セピック州の州都であり,経済・流通の中心地で
もある」

「既存ウェワク桟橋は2002年の大規模地震によって崩落し現在は全く使
用できない状態であるため,船は桟橋西側(郵便局前)にある砂浜(船溜
り)に接岸・係留して旅客・貨物・鮮魚等を陸揚げしており,(中略)早朝,夕
方は多くの乗降客や荷物で混雑している」

「既存桟橋は,1940年に現在の位置に捨石岸壁として建設されたものである」

 つまり,州都であるにもかかわらず,漁船が接岸する桟橋すらまともなも
のがなく,しかもウェワクを除くと,州内には他にただの一つも桟橋がないとい
うのである.

 JICAの文書にはウェワクの港湾施設の歴史について触れた部分があり,
その記述から推定するに,1943年の時点では,1940年に築造された長さ50
メートル程度の小岸壁が港湾施設のすべてであったようだ.

 ウェブ上で同地の航空写真を見ると,この施設がいかに貧弱であるかを視
覚的に理解できる.ウェワクの海岸からは東西二つの半島が北方に突き出
しているが,その西側の半島の中ほど,東に面した海岸線にこの岸壁の痕
跡を見ることができる.岸壁の周囲は珊瑚礁に囲まれており,明らかに浅瀬
である.岸壁のサイズからしても,中型以上の外航船の接岸は不可能であ
り,せいぜい数百トン級の小型船舶や漁船の利用を想定したものだろう.

 JICAの文書によれば,近年ウェワクには二つの半島の間に新港が建設
され,外航船の接岸が可能になったとある.この新港も航空写真で確認で
きるが,珊瑚礁の浅瀬を貫いて長い桟橋が沖に伸び,その先端部に岸壁が
作られている.この位置は海の色が暗くなっており,大型船が停泊できる水
深があるのだろう.

 逆にいえば,このくらい立派な施設を作らない限り大型船の接岸はできな
い地形だということである.ウェワクに入泊した日本の輸送船は,現在の新
港があるあたりに停泊して沖荷役を行なっていたと想像される.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.5.27




荒木 肇
『野戦の経理部将校(10)──自衛隊&陸軍の高級幹部のつくり方(32)
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□はじめに

 当時の戦時国際法(正確には『陸戦の法規慣例に関する条約』.
その附属書『規則第52条』)には次のような文言がありました.
おおよそです.

(1)現品徴発及び課役は占領軍の需要のためにする非ざれば
市区町村または住民に対して之を要求することを得ず.

 つまり私人である「占領軍兵士もしくは軍属」の個人的需要は
禁じられています.

(2)現品徴発及び課役は地方の資力に相応し,且人民をしてそ
の本国に対する作戦行動に加わるの義務を負わしめざる性質の
ものたることを要す.

 地方の実情を無視した勝手な物資の押収や,それをすると占領
地人民の祖国への裏切り(敵軍の作戦行動に利するような行動)
になるようなことをさせてはならない.

(3)右徴発及び課役は占領地方における指揮官の許可を得るに
非ざれば之を要求することを得ず.現品の供給に対しては成るべ
く即金にて支払い,しからざれば領収証をもって之を証明すべく
且成るべく速やかに金額の支払を履行すべきものとす.

 占領地域の指揮官の命令をなくして勝手に徴発できない.即金
で支払えとは経理部将校が保管する金櫃(きんき)から取りだせ
ということだ.できない時は書類を交付して,人民の請求があれ
ばすぐに野戦倉庫などが支払いをしなければならない.

 こうした国際法が負け戦の軍隊にどれほど実行できたでしょうか.
それでも,人は努力する.そうした実態をいくつか紹介しましょう.


▼『志気即是喰』(しきそくぜくう)の教え

 ビルマ方面軍第28軍第55師団山砲兵聯隊高級主計だった
石原主計大尉は語る.
『志気は食うことが保障されないといかん.給養第一を目標に
努力しましたが幸いにビルマ(現ミャンマー)は米の産地であり,
親日感もあり苦労は少なかった』

 ビルマと言ってもその範囲は広い.中国雲南省に近いところ,
インパール作戦が行なわれた地域,南のベンガル湾に面する
地方に分けられる.第55師団は南の地方だった.物資はあり,
陸続きでもあったから補給は続いていた.粉味噌,粉醤油,時
には乾燥野菜の支給だったが,その他はたいてい現地で間に
あった.米,塩干魚,塩,砂糖,野菜などは師団経理部で調達
し交付を受けた.

 それでも作戦区域内はもともと人口が希薄な所だったし,度重
なる戦争の被害で物資はほとんどなかった.野戦倉庫から受領
する品目は係の下士官兵の裁量一つだった.融通を効かせて
もらうと,その代わりに敵の侵攻が近いということで閉鎖する倉
庫には空伝票を切ってあげるなど助け合った.こうした証言から
は野戦の軍隊の柔軟性が見てとれる.主計大尉が手土産をもっ
ていき,倉庫の係の下士官兵とふだんからくだけた人間関係を
つくておけば交付物資は増える.その代わり倉庫の便宜も図っ
てやるといった,平時や今も同じようの組織の運営が見えてくる.

『わたしが一番活躍したのは,19年3月下旬に後方に下士官以
下を派遣して,烈日を利用して肉,魚,野菜,そうめん等を手当たり
次第集めて乾燥させたところ,5月雨期に入ってから,これが大変
役立ちました』

 大隊長の中には「いかに聯隊命令とはいえ,戦闘中に兵を後方
に下げるとは」と苦情を言ってくる人もいた.しかし,聯隊付の高級
主計が聯隊長の許可を得ての行動である.なんとか実績を挙げ
たことで勘弁してもらった.ところが,なかなかの悪事も行なっている.

『接敵地域につき,住民の感情を顧慮し,その飼う牛に手を付ける
な』という師団経理部長の通達も無視して,生きた牛を徴発,給養
に充てるなどの「離れ業」も行なった.一番不足したのは煙草だった.
酒はなくても我慢できた.ついには枯葉や茶を紙で巻いて吸う者も
出てくる.これはいまの自衛隊でも難しい.喫煙が身体に悪いのは
明らかで,しかも物資が欠乏してくるとタバコが見つからない.

『時にジャワ産の白い紙巻きたばこが補給されると,みんなの目が
違います.ヤッカミ半分に,主計はいつも白いのを吸っているなど言
われますので,スッパリやめました.それをわたしの配給分を経理室
の使役兵に分けてあげたので,みんな喜んで働いてくれました』

 興味深い指摘もある.19年に作戦が終わり,第55師団は休養に
入った.作戦中は緊張しているからよいが,作戦後に消耗があった.
朝元気な者が10時ころになんとなく憂鬱そうな様子を見せる.午後に
なると頭が痛いといって熱が出る.夕方になるとぽっくり死ぬ.マラリ
ヤがもっとも激しい地域だった.

▼イラワジ河の東と西

『19年の7月,インパール作戦があぶなくなって第2師団が雲南省
に転用された.その後へ第55師団は入れということになり,イラワジ
河から東に入りました.様相が一変します』

 物がなんでもある.軍票が使えた.町に行って御用商人(すぐに占
領軍に関係する人が出ることはどこも変わらない.そうしなければ暮
らせないからだ)に「これで物を持ってこい」というとなんでも持ってき
た.近くの村長たちを集めて,あと1週間後に豚と鶏,家鴨を持ってこ
いと適当な数を命じた.3分の1も集まればいいやとタカをくくっていた
ら,その通りの数がそろってしまった.置くところがなくて困った.

 まさに「軍隊とは運隊」とよくいったもので,イラワジ河を境にまさに
将兵の運命は分かれたといっていい.もっともこの第55師団も撤退
では大変な苦労をすることになる.

▼フィリッピンの実態の一つ

 第19師団歩兵第75聯隊の幹部候補生出身の主計少尉の話.
『昭和19年12月末,北サンフェルディナンドに上陸しました.翌年
1月9日には,わが防禦正面になるリンガエン湾に敵の上陸攻撃
が開始されたのでありまして,確か1月5日と記憶しておりますが,
聯隊がいっとき駐留中のアゴー海岸(北サンフェルディナンドの南
約40キロメートル)に敵の艦砲射撃がありまして,内地から携行,
苦労して揚陸した聯隊の糧食のほとんどは吹き飛びました』

 こうしてほとんど糧食がないという状態で,およそ1カ月はナギリア
ン付近(海岸線より約20キロ内陸へ入った地点)で防禦陣地を築き,
その後,山中に入った.第19師団は朝鮮軍の基幹師団だったが,
「虎兵団」という名称で出港,しかし次々と潜水艦による雷撃で沈
み,ルソン島に上陸できたのは師団で1万500名,歩兵第76聯隊
は1400名だった.

 山中では『糧秣補給なども行われず,師団司令部に要求しても
「何もない.とにかく自活せよ」というだけでした』
 実際,フル装備の戦時編制の一級師団である.定員は2万4000
といううちの約1万名が武器弾薬も十分になく,糧食なく,医薬品や
衛生材料もなく,山中に放り出された.それでも無事にあがった部隊
もあった.装備も満足で規律も正しいという評判も立った.しかし,こ
れも食糧欠乏のために3月までの話でしかなかった.

 貴重な教訓も残されている.
(1)馬は暑さのために上陸後,2〜3カ月で死亡した.
(2)金櫃(中に入っていたのは軍票と日本紙幣)は使用することなく
終戦1カ月前に焼却した.
(3)衣服,軍靴は着のみ着のままだったが,最後まで何とか用は
足りた.
(4)上陸して早々に海岸近くで水牛約30頭を徴発.物資運搬用
と食用にした.ただし,領収証を発行.
(5)山中に入る前は,籾の蒐集,水牛の干し肉製造も少しは出来
たが,主食はもっぱらカモテ(甘藷)で,野菜はそれに茎や葉,調
味料は塩だけだった.ときにバナナ,タピオカを口にできたが,後
半はカモテも手に入れられなかった.作戦用の携帯口糧の代わり
に,カモテを飯盒でゆでて,5ミリくらいの厚さに切って天日で干した.
(6)現地自活はわずかながらも松根油を,防疫給水部が自動車用
燃料としてつくった.
  防疫給水部は軍医官を主体とし,経理部将校もいた衛生関係部
隊だが,カモテの携帯口糧をつくっては前線の歩兵部隊に配っていた.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.5.27




● 数学者の新戦争論(3) 非線形爆発のはては“大規模虐殺”
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■ごあいさつ 〜上のレベルへ行っても通用するタイプ〜

こんにちは.渡部です.

いよいよプロ野球のキャンプが始まりました.
元高校球児のわたしとしては,わくわくする時期です.
新人選手の誰が活躍するか予想するのを,毎年楽しみにしていたからです.

ただ,その予想も数年前からしなくなりました.当たらなくなったからです.
わたしのやっていた頃に比べてプロ野球のレベルが上がり過ぎたことも,一因ではない
かと思われます.レベルが上がり過ぎて,新人選手でどのような資質・能力の持ち主
が,上のレベル(プロ野球)にも適応できるのか,感覚的にわからなくなってしまった
といってよいでしょう.

野球のほうはこのように,上のレベルがどのようなものかわからなくなりましたが,
数学ならまあわかりますから,たとえばどんなタイプの小学生が中学数学にもうまく
適応できるかはわかります.

それは〈下のレベルの基本問題を着実に解ける〉ことです.
たとえば小学生なら,教科書ていどの難易度の問題でも〈スラスラ解ける〉であれば,
中学へ進んでも確実に上位グループに入れます.難しい問題が解ける解けないはあまり
関係しません.中学生でも同様です.

小・中学生のお子さんをお持ちの読者の方,ぜひ実行してみてください.


▽南京“大屠殺”

 わが国は昭和十六年十二月八日の真珠湾攻撃以前から戦争をしていた.満洲の権益を
巡り,中国との武力対決に至っていたからである.昭和十二年七月の盧溝橋事件に端を
発するその日中戦争と太平洋戦争を合わせて,一般には今次大戦と呼ばれている.

 その今次大戦において日本軍は,相手側の戦闘員だけでなく,一般民衆をも虐殺的に
殺害するという事件をいくつかひき起こしている.大規模なものは二例あったといわれ
る.まず,南京事件である.

 盧溝橋事件後,日本軍はただちに上海に攻め入った.上海には蒋介石率いる中国軍
三十万がいたからである.戦いは三か月続き,十一月初めの中国軍撤退をもって終了し
た.日本軍は全兵力約十六万のうち,死一万,傷三万ほどであった.全軍の四分の一も
の死傷とは,相当以上の激戦であったことを意味する.

 戦いはそれで終わりにならなかった.中国軍は降伏したわけではなく,上海から
三〇〇キロほど内陸に入った首都(当時)南京に撤退し,さらに強固な防衛陣を構えて
いたからである.それを追って日本軍は各地で小戦を重ねながら南京に迫ったのが
十二月の初め.南京は周囲三十五キロ(山手線と同じくらい)に城壁を張り巡らした
城郭都市である.中国軍はその内外に三線の防衛ラインを敷いていた.それを強行突破
して日本軍が南京に入城したのは十二月十三日.“事件”はそれから二十日までの間,
一週間にわたって行なわれたといわれる.

 発端は便衣兵狩りであった.便衣とは中国語でふだん着のことである.中国兵の多く
は日本軍が南京に入城すると軍服を脱いで便衣に着替え,一般民衆の中に紛れ込んでい
た.それらを探し出して捕虜としなければ,戦いは終わりにならない.便衣兵がいつま
た軍人に戻り,抵抗勢力を形成するかわからないからである.ただ探し出すといって
も,便衣兵と一般人との区別は難しい.いきおい,屈強そうな男たちはたいてい便衣兵
として連行されたといわれる.抵抗した者はもちろん,その場で射殺である.それを
阻止しようとした家族ら一般民衆の少なからずも同様の目に遭った.連行された便衣兵
たちの多くは,再び帰ることはなかった.南京城外を流れる揚子江には,そのようにし
て虐殺された中国人の死体が,毎日のように数百体,数千体と浮かんでいたといわれ
る.

 その数の正確なところは誰にもわからない.日本軍は二万〜三万としているが,中国
側の発表では三十万ほどになっている.当時の南京の人口約一〇〇万に対し,三十万の
死とはいくらなんでも多すぎると思われるが,ともかく数万人規模の虐殺的殺害が行な
われたことは確かではないかと思われる.中国側はこの事件のことを“南京大屠殺”と
称し,以後今日に至るまで反日的気運が盛り上がるたびに,日本人の残虐性を象徴する
事例として,引き合いに出されていることは,周知のとおりである.


▽シンガポールと蘭印の場合

 今次大戦において日本軍はもう一つ,大規模虐殺事件をひき起こしている.シンガ
ポールにおいてである.

 太平洋戦争勃発時,イギリスはシンガポールに東洋最大の軍事基地を築いていた.
シンガポールは淡路島より少し大きいていどの島で,イギリスは十六世紀以来属領と
し,二十世紀になってからは全島を要塞化し,三万の守備隊をおいていた.

 シンガポールを攻略しない限りわが国の南方作戦は進展しない,というわけで開戦当
日の十二月八日,日本陸軍約十万はまずマレー半島のつけ根の町,ジットラとコタバル
に強行上陸を果たした.そこからマレー半島各地の英印連合軍を個別に撃破しながら
南下し,シンガポールに北方から迫る作戦であった.目標のシンガポールを直接攻める
ことをしないで,はるか一一〇〇キロも彼方に上陸したのは,そのあたりの守備陣が
手薄だったからであり,さらに当時の巨大砲の操作能力のモンダイもあった.太平洋
戦争時の要塞砲など巨大砲は,すべてコンクリートの台座に固定されているものだっ
た.そうしないと発射のさいの衝撃で砲座にひびが入ったりし,以後操作不能的状態に
もなりかねないからである(今はそんなことはない.よほどの巨大砲でも三六〇度回転
できるものである).それら巨大砲は洋上からの攻撃に備えて,すべて南方に向けられ
ていた.その南方(海上)から艦船で迫ることは,多大なる損害が発生すると想定され
たからである.

 当時のマスコミが銀輪部隊と報じたことでもわかるように,自転車を連ねた日本軍は
各地で英印連合軍陣地を突破し,それら敗兵を追撃しながら全マレー半島を五十日で
縦断し,シンガポールの対岸の町ジョホールパルに達した.その過程で死一五〇〇,
傷二五〇〇ほどを出しているから,上海戦ほどではないにしろ,それなりの激戦が行な
われた戦線もあったのである.

 シンガポールそのものの攻略戦は一週間で決着した.マレー半島各地から日本軍に
追われて逃げ込んでいた部隊も含めて英印連合軍約十万は,二月十五日に降伏した.
そこでも南京と同様の大虐殺的事件が発生した.当時の日本軍の表現によれば,主とし
て敵性華僑に対してである.

 シンガポールは軍事基地としてよりも,東洋と西洋を結ぶ商業の中継基地として栄え
ていた.人口も一〇〇万人近くあった.その商業資本の多くは中国からの移住者(華
僑)が握っており,日本軍の進出により自らの権益が侵されることをおそれた華僑人に
よる抵抗が,マレー半島全域で激しかった.華僑資本側が義勇兵を募ったり,傭兵を
やとったりした華僑部隊が,日本軍に対して最も勇戦したといわれる.

 その残党の多くがシンガポールに逃げ込み,南京と同様,軍服から便衣に着替えて,
一般民衆の中に紛れ込んでいた.そこでも南京と同様の便衣兵狩りが行なわれ,やはり
南京事件と同様の経過をたどり,日本側の発表によれば二〇〇〇人〜三〇〇〇人もの敵
性華僑が粛清されたといわれる(華僑側の記録ではその十倍ていどの数字になっている
という).

 一方,今次大戦において同じく日本軍が大挙して侵攻しながらも,その種虐殺的事件
がほとんど発生しなかった戦線もあった.蘭印方面戦である.今日のインドネシアのこ
とである.

 攻める日本軍は陸軍第十六軍約十万で,守る側の蘭(オランダ)印(インドネシア)
連合軍は,応援部隊の英・米・豪も合わせてやはり十万ほどであった.戦いは昭和十七
年一月から三月までの二か月で決し,連合軍側が降伏した.日本軍の損害は死二五〇,
傷七〇〇ほどであった.割合的にいえばシンガポール戦の五分の一,上海戦に比べれば
三十分の一といった軽微なものである.蘭印軍の抵抗は海岸部だけに限られたためでも
ある.その上陸戦で圧倒された段階で降伏し,内陸部の人口密集地帯に逃げ込んだりし
なかった.したがって追撃戦が行なわれず,捕虜や一般民衆に対する日本兵による虐殺
どころか,略奪的行為もほとんど発生しなかった(そのようなこともあり,今日でも
インドネシア人の対日感情は一般に良好であるといわれている).


▽非線形爆発のはてに

 同じように十数万の日本軍が攻め入ったのに,一方(南京とシンガポール)では
大規模虐殺的事件が発生し,他方(インドネシア)では発生しなかった.なぜそのよう
な違いになったのか.

 もちろんその答えは単純ではない.南京・シンガポールには軍事的に政治的に強力な
抵抗勢力が存在し,インドネシアにはそのようなものはなかった,といった理由をあげ
るのが一般的なようである.ただ,私はそれを数学的観点からも探ってみたい.

 さきに私はこうのべた.われわれの関係する世界は,数学的にみれば線形的空間と
非線形的空間の二つに分けられると.さらに〈戦争〉という事象を基準にしてみるな
ら,前者は〈平時〉に,後者は〈戦時〉に対応するとしてもそれほどの不都合はないと
も.

 その非線形的空間(戦時的世界)の事象は,そういった事態が進展するにつれて,
次のように二つの事項に拡散,もしくは収斂することが知られている.

(一) 非線形爆発・・・そういった事態が進展すると,その事象全体はある段階で
            爆発的に拡散する.
(二) 非線形凝集・・・そういった事態が進展すると,その事象全体はある段階で
            凝集的に収斂する.

 ようするに南京・シンガポールは,(一)の非線形爆発のケースではなかったかと
言いたいのである.そのカギは〈追撃戦〉にある.南京でもシンガポールでも,日本軍
は逃げる敵軍を追って二か月あまり追撃戦をした.その追撃戦が前記非線形爆発の項に
おける,そういった事態(戦時的事態)のさらなる進展に相当し,その帰結として爆発
的拡散(虐殺)にも至ったのではないかということである.実際,シンガポール作戦に
参加したある兵士はこう語っている.

 「(追撃戦が次第に重なると)理性も常識も失われ,しまいにはどんな残虐なことで
 も平気に行なえるようになった」

 一方,インドネシアではその追撃戦はなかった.緒戦の上陸作戦の段階で蘭印軍は
完全に降伏し,残兵が内陸に逃げ込んで抵抗するようなことはなかった.つまり,戦時
的事態の(さらなる進展)がなかったため,爆発的拡散(虐殺)も発生しなかったので
はないのか.

 ただし,以上のような線形・非線形にかんする数学理論とは,まだ完成されているも
のではない.その〈ある段階になれば爆発的に拡散する〉にかんしても,具体的にどの
ような段階をいうのか,またその爆発の規模がどのていどになるのかなど,まだまだ
未解決的事項の多い理論である.その意味では理論というよりはまだ構想の段階にすぎ
ない,といえるのかもしれない.

 がともかく,戦時において大規模虐殺的事件が発生する理由については,これまでに
みてきたように〈追撃戦〉にもあるのではないかと,私には思われる.


▽日本人が残虐だから大規模虐殺に至ったのではない.

 以上のような“理論”が成り立つことを証明するといえそうな事例が,かつてのわが
国においてあった.源平時代のときである.

 周知のように木曽義仲は都に攻め入り,乱暴狼藉の限りを尽くした.同じ日本人で
あったから乱暴狼藉ていどですんだが,異民族が相手なら大規模虐殺にも至っていた
はずである.

 それは追撃戦のはての行為であった.義仲軍はその年の五月から六月にかけて平家方
の義仲追討軍を,まず倶利伽羅峠の夜襲で破った.さらに逃げる平家軍を追って計五度
の戦いのことごとくに勝利をおさめ,そのままの勢いで都に攻め上ったはての蛮行で
あった.

 一方,同じく平家方の追討軍を富士川で破った頼朝軍は追撃戦をせず,その段階で
いったん兵をおさめ,根拠地の鎌倉に引き返した.範頼・義経兄弟率いる頼朝軍が義仲
追討のため都に攻め上ったのは,その四年後のことである.その戦いは緒戦の勢田・宇
治川戦で決着がつき(義仲はそこで敗死した),追撃戦が行なわれることはなかった.
おそらくはそのためでもあったものと思われる.都に入った義経軍には狼藉的行為は
ほとんど発生しなかったと,伝えられる.

 同じく東国の兵士,源氏軍団でありながら,一方では蛮行が発生し,他方ではなかっ
たことでもわかるように,以上線形,非線形にかんする数学理論は,人種・民族のいか
んにかかわらず,すべての人間に適用されるものである.そもそも数学理論とは,人間
存在全体を対象とするものであるから.人種・民族を問わず,同じような条件下(追撃
戦のあるなし)にあれば,同じような事態にも至りうるのである.日本人が特に残虐性
を有する人種だから大規模虐殺をした,というわけではないということである.

 実際,そうである.近代ヨーロッパにおいて,どれだけ多くそのような事件が発生し
たか.ナポレオンはイベリア半島において逃げるスペイン軍を追って,行く先々の町や
村で虐殺的事件をひき起こした.捕虜や一般民衆合わせて百万を下らない虐殺を行なっ
たといわれる.普仏戦争(一八七〇)でも,一八世紀から十九世紀にかけてのロシアに
よるポーランド侵攻でも,同様であった.

 古い時代はそれはもっと極端であり,大規模的でもあった.ローマは戦いに敗れて
自国に逃げ込んだカルタゴ軍を追撃し,そのはてにカルタゴ一国を攻め滅ぼした.戦闘
員だけでなく一般民衆をも壮年者は奴隷として自国に連行し,残りは殺戮し尽くした.
秦の始皇帝も同様,やはりそのようにして追撃戦のはてに,趙の国の老若男女ことごと
くを生き埋めにしたと伝えられる.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2011.2.4




荒木 肇
『敗戦時の経理部将校(1)──自衛隊&陸軍の高級幹部のつくり方(33)
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□はじめに

 経理部将校たちの活動範囲の広さや,その所掌事務の膨大さ
はいくらかお分かりになったでしょうか.まだまだ方面や部隊別
の奮闘記が残されています.

 大戦末期の陸軍の総兵力はおよそ550万人にもなりました.そ
のうち将校の数は組織制度からいってどこの国の軍隊も変わらな
かったようです.大国の陸軍では全体の4.5%が将校・士官であ
ることが標準と見られています.准士官・下士官が12.6%,兵員は
82.9%といわれてきました.そうすると,帝国陸軍の末期には,
総人員数550万人×0.045,すなわち24万7500名くらいが将
校(兵科・各部少尉以上の武官)となります.

 復員局が作った『動員概史』によれば,終戦時の将校はやはり
約25万人.うち,将官は約1600名,佐官が同4万4000名,尉官
は20万5000名で合計が25万600名となります.現役将校はそ
のうち25%でしかなく,大多数の75%は予備役からの召集将校でした.

 現役将校の数は約4万8000名,そのうち兵科2万9000名で
60.4%です.陸軍は技術軽視といわれたはずですが,技術部将
校は約6700名ですから13.9%,それに経理部主計将校は34
42名で7.2%と建技将校が685名で1.4%.つまり,将校のうち
5人に3人は兵科でしたが,あとの2人のうち1人は階級章の下縁
に黄色の線をつけた技術将校がいて,残りの1人は銀茶色の
主計・建技将校(8.6%),深緑の軍医・薬剤・歯科・衛生将校
(13.3%)だったというわけです.これにおよそ3倍の予備役将校
がいました.

 今回からは敗戦にまつわる多くの話からお届けします.

▼ラバウルの現地自活

 昭和20(1945)年12月31日現在の数字で,ラバウルにあった
第8方面軍の総兵力は9万2784名だった.方面軍とは数個の軍を
まとめる単位で,この時の司令官は今村均大将である.方面軍経理
部では,内地からの補給品はひたすら温存し,現地自活に努めると
言う方針を立てた.農作物の作付け面積は1万9568反歩,これを
1人当たりの平均にすると62.26坪,およそ205平方メートルになる.

 ラバウルを占領し,わが軍を武装解除したオーストラリア軍には一切,
世話にならずにすんだ.どころか,ボーゲンビル方面の第17軍へ,ニ
ューギニア方面の第18軍に糧食や被服,需品などを合計1000トン
ずつ豪軍の輸送船で送るということまでできた.

 当時のもちかえった資料を手に語るのは軍経理部部員だった主計大
尉.中央大学法学部を卒業,現役将校になった人である.のちに厚生
省復員局にも勤めた.
『昭和21年1月20日の現況を申し上げます.人員9万2784名,馬
600頭,精米1845トン,乾パン1432トン,現地栽培の陸稲24トン,
合計で3301トン.1か月消費量678トンとして4.86カ月,すなわち1
46日分.なお,当時の部隊の勤務及健康状態は次の通り』

 さすがに患者の数は多い.およそ2万8000名が軍医の診断を受けた
正規の患者である.うち入院患者数は約3800名,入院するまでには
至らない在隊患者は同2万4200名.現地自活人員は1万4000名で,
豪軍による使役作業などが2万3000名,集団の中での勤務は2万80
00名だった.この自活人員が農作業要員であり,集団内勤務者は部
隊の生活維持のために働いていた.もちろん,衛生部,経理部勤務者
はこちらになることが多かった.

▼今村大将の英知

 1942(昭和17)年12月に第8方面軍司令官として今村大将が着任した.
ただちに方面軍経理部長(主計少将)と大佐の軍医部長を呼んだ.現地住
民の食生活を調査せよとの命令が下った.何を食べているのか,それを
我々が食べて生きていけるのかを調べろというのだ.

『わたしの記憶によりますと,6〜7か所に農事試験場を設けました.なに
しろ我々は全く兵要地誌に基づく現地の物資の利用法も何も知らないわ
けです.そこでパラオから山中技師,神山技師というベテランを,南方糧
食・農耕関係の方々を集めて研究されたのです.そして自活用農器具を
大本営に申請して送ってもらいました』

「兵要地誌」とは軍隊が外地に進出し,あるいは戦闘し,占領駐留すると
きのための情報である.現地の植生,地形,民情,その他たいへんな量
の情報である.この準備がまるでなかった状態で日本軍は海外に出か
けた.出征すれば,そこの住民の意識や交通,通信機関の様子,戦闘の
影響や秩序はどうか,さらには残った敵勢力の影響なども知らねばなら
ない.しかし,多くの南方派遣の軍人たちは何も知らなかったし,参謀本
部から情報もほとんど与えられた形跡がない.

 占領地で困惑させられた事例,体験談を見聞きするたびに心が痛む.
みな現地で手探りである.だれが「ポツダム宣言」などにいう計画的に
世界制服などと考えていたのだろうか.少なくとも陸軍は,大陸での戦
闘はともかく,南方での戦いなどほとんど考えていなかったことが分かる.

 ラバウルでも同じ状態だった.緒戦の勝ち戦の頃である.今村の指示
に戸惑った幹部も多かったらしいが,兵站補給のシステムは現によく作
動していた.ラバウルまでは物資は順調に送りこまれて来ていた.しかし,
今村は,いずれ南方方面の補給は途絶すると予想していたのだった.
その先見の明がラバウル10万の将兵の命を救ったのである.

 現地の農業は苦労の連続だった.地味が薄い,つまり土壌に栄養分が
少なかった.風によって花粉を運ぶ植物はよいが,ハチやトンボ,アブな
どがいない.内地からもっていった種子は育つのだが,実がならなかっ
た.国際連盟からの委任統治領の行政は南洋庁が担っていたが,そこ
で活躍してきた人たちを指導官として招いて農業技術を広めていくしか
なかった.
 
 陸海軍の補給の違いについても主計大尉は語る.
『海軍は,まったくわれわれと戦闘の様式が違いましょう.われわれ陸軍
というのは地下足袋はいて,脚絆を巻いて,おいしいとかいいものは残し
ておいて,まずいものからまず食べて行くと.海軍はもう当時でもちゃんと
夏の白い服を着て,ナイフとホークで西洋料理を食べる,宵越しの銭は持
たないと,畑で自活して戦争をするということは軍艦の戦闘ではございません』

 海軍は『宵越しの銭は持たない』とはよい表現である.海軍は内地の基
地,もしくは巨大な根拠地から十分な糧食をフネに積んで戦闘におもむく.
逆にいえば,めったに洋上補給を受けるようなことはなかった.日本海軍の
興味深いところは太平洋という広い海域を主戦場と考えていた割に,給糧
艦や工作艦といった後方支援のフネが少なかったところだ.これはもちろん
侵攻してくる敵艦隊を近海で待ち受けて洋上決戦をするといった想定に関
わりがあった.また,陸軍と比べれば戦闘の時間的長さが違う.そして「ボカ
チン食らえば」一巻の終わりである.まさに「宵越しの金」などしみったれた
感覚でしかないだろう.

▼補給品の地下への格納と教訓

 1944(昭和19)年の8月になると補給も尽きた.ラバウルを要塞にして,
この中で最後まで戦おうとなった.内地から送って来たものはすべて地下壕
に納めることになった.空襲からの被害を減らすためである.ちょうど東京か
ら熱海に着くくらいの100キロを超えた地下トンネルを掘った.自活のために
農業をしながら地下掘削工事も続けていた.
『海軍の部隊,航空の部隊が引き揚げる前に,どれだけ敵の飛行機がやっ
てきたかというと,19年の1月で2979機,2月が2732機,来ない日もあり
ますが平均一日に100機です.これだけ来るから軍需品を地下に埋めなけ
ればならないと.その間には現地自活もせにゃならんと.だからしてこれを統
率した軍司令官や経理部長が苦心されて,みんなそれについてくるということ
で各部隊長が非常に熱心でしたね.それによって一人でも落っこちる兵隊の
ないようにしようという執念で,ああいうものが出来上がって,ラバウルの現
地自活というのが有名になったと思うんです』

 予期された戦闘は対戦車肉迫攻撃だった.終戦前に貨物廠長に転任した
主計大尉は部下といっしょに,午前中は対戦車戦闘の訓練に励み,夕方は
現地自活にいそしんだ.だからラバウルでは貨物廠長は部隊長章を付ける
べしと命令があって,軍隊指揮権ももたされた.各部将校の指揮権がどうだ
という議論もなくなって,勝たねばならないという時には平時の議論は問題
にもならなかった.

 空襲に備えて地下壕に入ることになった.周りにはタピオカを植えることに
した.そうすると,まさかの時には夜中でも這い出て食べられるようにという
配慮である.

▼米と鍬の思い出

 今村大将は敗戦になってから,兵隊をみな内地に帰すという時にオース
トラリア軍に申し出た.米一升と鍬を一丁つくって,兵隊みんなに渡せるよ
うにしてくれと.米が一升あれば,なんとか家に帰りつけるだろう.そして鍬が
あれば,ここラバウルで何年間のあいだに現地自活を覚えこんだはずだ.そ
の根性と努力があれば必ず復興ができる.日本の復興のために大事なもの
になるだろうからと,みんなに鍬一丁はもたせて欲しいというのである.

 教訓めいたことを言えばと主計大尉は語り続ける.
『部隊長に現地自活というのは作戦だと,どちらがどうのということではなく,
これは一体となるべきものだということを部隊長に教育してあったら非常によ
かっただろうと思うし,また軍司令官の指導がよかったからみんなそういう頭
になってしまったんですけれど,そういうことを兵科の方の部隊長にも徹底す
るような教育がある程度行われていればよかったと思うんです』

 ただしと言う.どこでもラバウルのようにできたか,それは疑問だという.ラバ
ウルは内地から6000キロも離れている.補給線が長すぎて糧秣が来ないと
いうことは,いわなくても兵隊の頭で分かる.だから自分たちでやらなきゃな
らないという気が起きる.何もない所でもやってやろうという気になる.だから,
どこでも模範になるという例ではない.

 ラバウルの現地自活はそれだけで一冊の物語になるだろう.次回は悲惨
な敗走の記録や,敵軍との出会いなどを調べよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.6.3




『ライター・渡邉陽子のコラム (48) ─ 飛行管理隊/飛行情報隊(3) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

いま『チューズデーに逢うまで』を読んでいます.
イラク戦争に2度派遣されたモンタバン大尉が帰還後に
心身を病み,絶望のさなかに介助犬チューズデーと
出会うというノンフィクションです.

チューズデーはつやぴかのゴールデンレトリバー.
もっと早く読み進めたくてうずうずしています.
来週には感想をお伝えしたいと思っています.



■ 飛行管理隊/飛行情報隊(3)

前回は防衛省独自の飛行管理情報処理システム,FADPを
ご紹介しました.
FADPを運用しているのが飛行管理隊,自衛隊の発行するす
べてのノータムに目を通し,不備がないかチェックするのが飛行
情報隊.いずれも航空支援集団の航空保安管制群に属してい
ます.けれど,地味で目立たず,自衛官ですらその存在はあまり
なじみがありません.


ちなみにFADPにつながる組織をざっと挙げてみると,まず警戒
管制,指揮運用,航空管制,洋上管制,航空気象,空輸管理・訓
練管理などの組織のシステム.飛行管理系ではノータム処理装
置,陸上自衛隊のターミナルレーダー情報処理システム,海上自
衛隊と航空自衛隊の基地業務隊,在日米軍の基地業務隊など.
さらに国交省のFDMS.すごい数です.

FADPを中心に置き,オンラインネットワークでつながっている関
係機関を周囲に並べた図を描いてみると,FADPがどれほど重
要な役割を果たしているシステムであるか,そしてどれほど多くの
部隊や組織とつながっているのかよくわかります.FADPなくして
日本の空の安全と平和を守ることは不可能と言っても過言ではありません.

それなのに飛行管理隊も飛行情報隊も目立たない........ ノータムや飛行
計画書がどんな部隊のどんなシステムを経由して必要とするところへ
発信されているのか,提出した隊員も案外知らないものなのです.
しかし認知度は低いとはいえ装備や技術の質は高く,隊員たちは
「自分たちはFADP,ノータムに直接関わる唯一の部隊」という静かな
誇りを抱いています.頼もしいです.


日本の上空への不法な航空機の侵入を防ぎ,空の安全を守る航空
自衛隊の任務をまっとうするためには,空を飛び交う航空機の正確
な情報が不可欠です.
飛行管理,航空警戒管制,航空管制,捜索救難といった関係部隊が
必要とする情報量は増え続ける一方で,今までにも増して迅速,的確
な処理が求められています.そのためにFADPがどのように運用され
ているのか,ノータムがどのように発行されているのか,それぞれの
部隊の内側に踏み込んで見てみることにします.

まずはFADPを運用する自衛隊唯一の部隊である飛行管理隊から.
埼玉県の入間基地にある飛行管理隊.昭和35年に米軍から移管され
た当時は,電信で飛行計画書を送り,音声でやりとりしていたといいます.
しかし昭和46年に全日空機と空自戦闘機の空中衝突事故,いわゆる
雫石事故が発生したことを機に,国交省は全国のIFR(計器飛行)機の
情報を取り扱うFDP(現在のFDMS)の導入を決定.防衛省側も昭和53年
にFADP初号機の運用が始まりました.これにより,飛行管理業務の自動
化,航空管制および空域調整への対応がスタート.FADPは数年おきに
換装されており,現在のFADPは7代目となります.

飛行管理隊の任務はFADPの運用,運航情報業務の実施,ノータム通
信中継業務の実施,保有危機の保守および整備(FADPの保守は部外)
となります.
FADPの運用という部分は,自衛隊機等の飛行計画の点検,飛行監視,
通信捜索等の実施など,自衛隊機等の安全かつ円滑な運航を支援する
FS(運航情報業務)と,防空識別圏を飛行する航空機の飛行計画及び位
置通報を警戒管制部隊に通報し,敵と味方を識別する支援を行なうAMIS
(航空機移動情報業務)にわけられます.FSとAMISという2つを実施する
ためのシステムがFADPであることは前回もご紹介した通りです.

正確性,迅速性,確実性が求められる飛行管理隊の業務.次回もさらに
詳しく見て行きます.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.6.4




荒木 肇
『敗戦時の経理部将校(2)──自衛隊&陸軍の高級幹部のつくり方(34)
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□はじめに

 営々と70年間の努力で築き上げてきた軍隊が崩壊した時,
何が起こり,先人たちはどのような感慨を抱いたのでしょうか.
とりわけ,軍隊と自分を一体化し,生きてきた軍人たちの思い
とはどんなものだったのでしょう.また,それぞれの立場で組織
を支え,過酷な戦場で生きのびてきた人たちの思いはどのよう
なものだったのでしょう.

 武器,装具を奪われ,敵国兵士の監視下にすごした日々に
ついてはさまざまな手記や記録も残っています.そうした中で,
淡々と事務処理に従った軍人たちもいました.

▼経理部将校のホンネ

『陸軍経理部よもやま物語』の中に,「資料」として載っている幹
部候補生出身の主計将校の手記の抜粋がある.そこには軍隊
についてのホンネの考察がある.以下,一部を原文に沿いなが
ら解説してみる.

『「兵隊はなんだったんですか?」
「主計少尉です」
「道理で!それで生きて帰れたのですね」
 何回,いや何十回いわれたことやら.悲しいことです.戦場って,
そんなんじゃないんですよ.歩一(歩兵第1聯隊)の主計将校,私
の他は全員戦死しているんですよ』

 このような会話は筆者も子供時代,いろいろなところで聞いた.
昭和30年代というのは,ようやく『もはや戦後ではない』と政府の
経済白書が宣言した時代である.ということは,多くの日本人が
10年経っても戦争をナマナマしく記憶していた時代だった証拠に
なる.誰もが「戦後,戦後」と言い合い,「ああ,昭和8年に戻りた
い」とぼやき合っていた時代でもある.1933(昭和8)年というの
は満洲事変のための景気上昇で,長く続いた昭和の初めの不況
が終わり,国民生活が豊かになっていたのだ.その後,国力は下
がり続け,大東亜戦争は経済力が低下するなかで始まった.
 
 初めて会った大人同士が自己紹介をするときに,よくこの「兵隊は?」
というフレーズを使っていた.どこでどのように戦争と軍隊と関わった
か,互いに確かめ合った時代でもある.大学生でも79%が入営した
のが戦争末期.30代,40代の大人の男の多くは軍人であったことが
ある時代だった.

「軍隊内務令」には経理部将校についてたった一行書かれていた.
『経理部将校ハ会計経理ノ業務ニ任ズ』である.資料の書き手はこう
書いている.
『実態を表現しない悪書である』.
『それでは主計将校は,砲弾や弾丸の飛んでこない後方の安全な宿
舎で,生ッ白い顔にメガネでもかけて,お茶をすすりながら兵隊さんの
給料の計算でもしている事務員のような存在に思われるではないか.
「馬鹿にするな」とおこってみてもはじまらぬ.戦争前の平和なときの
主計さんは,物品購入に給料支払,こんなのんびりしたものであった
のかも知れぬ』

▼陸軍をひらたく説明すると

 続いて,軍隊の実態についての表現が勉強になる.
『日本陸軍の各兵科を,ひらたく職業見立てしてみよう.
「歩兵」は要するにホントの兵隊である.軍の主兵.主力戦闘員.
「捜索」は昔の騎兵.今は機動力を使い挺進敵情を探り,歩兵を
誘導する.
「砲兵」は大砲をうって敵をひるませ,歩兵の進撃を援ける.
「工兵」は橋を爆破したり,橋を架けたり,塹壕を掘ったり,地雷
をしかけたり.軍隊の土建屋.
「輜重」は運送屋.
「通信」は電信電話局.
「防疫給水」は水道屋.
「兵器」は鉄砲店.
「野戦病院」は師団の診療所.
すべて歩兵の戦闘支援の為にある.

 しかし戦線混乱し,非常事態となれば,全員戦闘員と早変わりする
のは,軍隊である以上当然であり,戦闘員としての訓練は全員修得
済である.』

▼主計は何屋か?

 主計将校,主計部員とは何か.地方(ちほう・軍隊社会以外をこう言
った)の商売にたとえれば次のようになる.
『米屋,八百屋,肉屋,魚屋,乾物屋,漬物屋,酒屋,菓子屋,パン
屋,タバコ屋,食堂,弁当屋,喫茶店,薪炭燃料,荒物,金物,雑貨
業,洋服屋,洋品店,靴屋,フトン屋,クリーニング店,自転車屋,小
型運送店,ペンキ屋,風呂屋,酒場,農業,造園.まだある.銀行・郵
便局は本職.さて,部隊が移動するときは旅行屋,ひとたび戦地の作
戦行動ともなれば,これぞ主計の本領,手配師となる.作戦地の現地
調達を,専門語で「作戦給養」略して「作給」という』

 若い読者のために説明しておきたい.乾物屋(かんぶつや)とは何
か.辞書をひくと,乾物とは『野菜・海藻・魚介類などを保存できるよ
うに乾燥した食品』とある(大辞泉).干しシイタケ,干瓢(かんぴょう),
昆布,するめ,煮干しなどのことである.昭和30年代にはまだ町のそ
こここにあった店.もちろん鰹節も売っていた.食品を保存するための
冷凍や冷蔵技術が広がっていなかった時代の店だった.

 荒物(あらもの)も説明が要るだろう.『粗末な物,雑な物の意から,
ほうき,ちり取り,笊(ざる)など簡単なつくりの家庭用品』と同じく「大辞
泉」にある.荒物屋は雑貨の中でも家庭用品を主に扱っていた.現在
のスーパーマーケットにも同じようなコーナーがあって,掃除用のスポン
ジやほうき,バケツなどが置いてある.
 
 手配師というのも興味深い.いまでいう職業斡旋をする専門家だ.手
数料をとって自由労務者(いまでいうフリーター)に仕事を売る.この時
代には,たくさんの仲士(港湾等で荷揚げ作業をする)や土方(建設労
務者)などがいた.その人集めを手配師といった.
 
 軍隊でも同じく,軍属や兵隊ではない人たちを集め,雇用関係を結ぶ
のも主計将校の仕事のうちだった.ただここでは「喩え」だから,物運び
や保管のために人集めといった意味だろう.経理部には幹部(将校と准
士官・下士官)しかいない.管理にあたる人はいっぱいいるが手足とな
る兵隊がいなかった.だから各部隊に交渉して,人集めから始めなくて
はならなかった.集めた人間をグループに分け,次々と指示を出し,そ
れにも衣食住の面倒をみる.
 
 ここが海軍の主計科とまったく異なっているところだ.海軍には現場で
働く主計兵がいた.海軍主計科士官にはまったく無縁な仕事である.こ
れが「(陸軍)主計の本領」だというのだからめったに聞けないホンネである.

▼各級主計将校の本務

 師団経理部長(主計大・中佐)は,戦況はもとより師団の将来の展望
も的確につかんでいなくては仕事にならない.師団長の気持ちを考え
ながら師団の作戦給養計画を立てる.  聯隊付主計大・中尉は聯隊長
に密接して聯隊の給養計画を立てる.大隊付主計中・少尉は,大隊長
になったつもりで,各中隊のメシの心配をする.主計が頭が悪いと兵隊
の腹が空く.補給されるものを.どこかへ受け取りに行き,それを分配す
るなら,こんな簡単なことはない.誰だってできる.日本陸軍の補給は追
送を軽んじ,現地調達で貫かれていた.
 
「陸軍経理学校」の作戦給養教程の第1ページは,
『糧を敵に拠(よ)るは古来孫子の兵法にして,戦に捷(か)つの要道た
り』で始まる.
 そして,各部隊は兵站や輜重からの追送の量を少しでも減らすように
現地物資を調達するようにせよと教程はいう.とりわけ生鮮品の保存技
術が貧しかったころのことである.生糧品はなるべく現地で入手するのが
原則になっていた.

 調達の方法も示されていた.「努めて温和なる方法」に依るが,状況に
よっては「恩威兼ね備えたる態度」をもって実施することと書いてある.
占領された現地住民にとっては,豊かな地方ならともかく,はいソウデス
カと軍票と引き換えに物資を渡すわけには決していかない.そんな時に
はのちに戦争犯罪者と指定されてしまうような行動をとったこともあるだろう.

 しかも支払いは軍票で行なえというのが原則だった.戦争には勝ってい
てこそ,軍隊が発行する軍票に価値が生まれる.負けそうな軍隊の約束
手形など誰も喜ばない.だから,この手記の筆者が所属した歩兵第1聯隊
が戦ったフィリピンでは,末期になれば誰もが軍票の受け取りはいやがっ
た.戦後,わが国が復興して多くの観光客が訪れたとき,緑色の紙幣が
お土産として売られたことがあった.それがフィリピンに大量に残された帝
国陸軍の軍票だった.

 次回は敗戦処理にしたがった経理部将校たちの姿を見てみよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.6.10




◆ ペースセッター型リーダーシップ

まず,ペースセッター型のリーダーシップですが,これはリーダー自らが手本
となって,部下に同じレベルの行動や結果を求める際に活用されます.

口だけではなかなか人を動かすことは難しいので,リーダー自らが率先して
成果を上げて,部下の手本となっていくのです.

たとえば,日産を見事復活に導いたカルロス・ゴーン氏は強力なリーダー
シップを発揮することでも有名ですが,自らが朝から晩まで企業再建に向けて
のハードワークをこなすことによってペースセッターとなり,他の社員に意識
改革を迫って同様のハードワークを自らの意志でこなすよう奮起を促して見事
日産を再建に導きました.

このペースセッター型のリーダーシップは,日産のように優れた能力を持ち合
わせた組織において,後はモチベーションさえ高めれば,目覚ましい変革を遂
げられると考えられる場合に有効に機能します.優秀な社員は口で命令するだ
けでは動きません.そこで,リーダーが自らビジョンの実現へ粉骨砕身努力す
る姿を見せつければ,意気に感じて行動に移るようになるのです.そういった
意味で,ペースセッター型のリーダーシップがうまくいくポイントは,組織に
属する者全てが高い能力とモチベーションを兼ね備えた場合と言えるでしょう.

一方でリーダーと組織に属する者の能力に非常に大きな開きがある場合,
リーダーの求めている水準に誰も付いていくことができず社員のモチベーショ
ンが急激に低下して,リーダーと部下の間で軋轢が生じて人間関係が悪化し,
組織として空中分解を起こしてしまう可能性も高くなるので注意が必要です.

◆ 強制型リーダーシップ

更に企業が窮地に陥った場合は,強制型リーダーシップで乗り切ることも
可能です.

この強制型のリーダーシップでは,リーダーは部下自らが考えて行動する余地
を与えず,全ての状況において部下の行動をコントロールしていくことに
なります.

本来,組織としての力を十二分に発揮するためには,部下自らが考えてモチ
ベーションを高めて活動することが有効な手段と言えますが,状況によっては
部下に考える余裕を与えずにリーダーの命令するままに動くことも窮地を
脱するためには必要となります.

たとえば,ビジネス環境の悪化により,会社が危機的な状況に立たされている
場合は,一つ一つの行動が重要な意味を持ちます.早急に事業を立て直さなけ
れば事業停止に繋がる場合などは,リーダー自らが重要な決定を下し,部下が
一糸乱れず指示通りに動くことにより,思い描いた復活のシナリオを実現する
ことが可能になります.ここで,部下が全体を見ずに,自分の考えだけで動く
ようなことがあれば,一つの失敗が致命傷となって,会社自体の存続が危ぶま
れる状況に陥る可能性も高くなります.

この強制型のリーダーシップは組織が危機的状況に陥った時に有効に機能しま
すが,部下にとっては常に行動が管理され極度の緊張が続くために,長い期間
に及ぶ場合は多くの脱落者の出現に繋がっていきます.また,有無を言わさず
部下に指示を与えるために不満を持つ者も多くなり,組織内の士気が低下して,
組織として機能しなくなる可能性も十分に考えられますので,活用する際には
細心の注意を払う必要があると言えるでしょう.

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2011/1/31




『ライター・渡邉陽子のコラム (49) ─ 飛行管理隊/飛行情報隊(4) 』
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


こんばんは,渡邉陽子です.

『チューズデーに逢うまで』がまだ読み終わりません.
移動中も読めるよう常に持ち歩いているのですが(歯医
者にも持参し待ち時間に読んでいました),なかなかまと
まった読書時間が取れず歯がゆい思いです.

ただ一気に読み進められない分,毎日ほんの少しずつの
時間でも本を手に取って開いていることで,本との距離が
近くなっていくような楽しさはありますね.


■ 飛行管理隊/飛行情報隊(4)

前回に続き,今回も飛行管理隊の業務内容を見ていきます.
飛行管理隊の任務のひとつに「運航情報業務の実施」という
ものがありましたが,正確には「飛行管理中枢における運航
情報業務の実施」となります.飛行管理中枢とは,「担当区域
の運航情報およびノータムの収集,処理,飛行監視,通信捜索
等の業務を実施するための施設,装備,機能及び人員の総体」
を指します.飛行管理隊では飛行管理班がこれに当たります.

入間発千歳行き自衛隊IFR機のフライトを例に,飛行管理中枢
においてFADPがどのように活躍しているのか見てみます.
まず,出発地である入間基地の飛行場勤務隊に飛行計画書が
提出されると,FADPを通じて入間と千歳の飛行管理中枢,千
歳基地業務隊,国交省の飛行情報管理システム・FDMSへ通
報されます.
FDMSはその情報を東京と札幌のACC(航空交通管制部)へ
送り,さらに東京ACCから横田ターミナルレーダー管制所へと
通報されます.
一方,FDMSからは,航空管制情報がFADP経由で入間,千歳
の管制機関へ送られます.

このように,たった1つのフライトでもこれだけ多くの機関が
関わっています.
そのすべてを繋ぎ,情報を発信・受信,共有できるシステム
がFADPであり,今やFADPなしに自衛隊機が日本の上空を
安全に飛ぶことは不可能です.

それだけに,FADPに障害が発生すると大変な事態になるこ
とは容易に想像できます.
平成15年に国交省のFDMSを構成するFDPS(飛行管理情
報システム)で障害が発生した際は,約20分間,全国の空港
から航空機が出発できなくなりました.
その結果120便が欠航,30分以上の遅延1462便,約30万人
の利用者に影響を与えるという大きな混乱をもたらしました.

FADPもひとたびトラブルに見舞われれば,スクランブルがか
かっても戦闘機が飛び立てない事態もありえます.
そのため,通常は入間に飛行計画情報処理装置(メインとなる
運用系と予備の待機系),春日に支援処理装置(実習や試験
用の支援系と予備の準備系)で運用し,万が一入間の運用系
にトラブルが発生し,待機系も使えないとなった場合は,春日の
準備系を運用,支援系は待機に回ることとしています.このよう
に分散運用することで,一局集中リスクを避けているわけです.

飛行管理隊にあるFADPの運用室やシステム室に休みはありま
せん.24時間365日,かならず隊員がいます.
運用室もシステム室もゆとりある配置になっているのは,FADP
の機器が換装してバージョンアップするたびにコンパクトになって
いったから.かつてはどちらの部屋も機器でぎゅうぎゅうだったそうです.
運用室にはFADPの端末と運用主任席,通信席,FS席,AMIS席
などが並び,運行情報業務や航空機移動情報業務を行なってい
ます.次回は飛行管理隊の隊員たちの仕事ぶりをご紹介します.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.6.11




陸軍機 vs 海軍機(41)       清水政彦

「零戦と隼(40)」
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「零戦vs隼」の第40回.今回は,陸軍航空作戦の分岐点と
なった昭和18年3月から4月にかけてのニューギニア方面
の戦略動向についてです.

▼ もともと中途半端だったニューギニア方面の作戦方針

 南太平洋方面における陸海軍の協力方針を定める「中央
協定」は,ガダルカナルからの撤退にともない昭和17年末に
改定(昭和18年1月4日発令)されていた.この時点の協定
では,建前上,ガ島から撤退する代わりにニューギニア方面
で攻勢をとるという趣旨が強調され,最終的にはポートモレ
スビーの攻略を目指すことが示されていた.

 このニューギニア攻勢方針は,ガ島からの撤退が全軍の
士気や外交政策に与える悪影響を考慮した結果,「南太平
洋戦線は一進一退が続いている」というイメージを醸成する
ことを狙ったものであり,現実的な戦略というよりは多分に
「政治的な作文」という要素を帯びていた.

 現実には,第八方面軍の司令部は総じてポートモレスビーの
攻略など不可能だと考えており,現地部隊は本格的な攻勢
作戦を発動しなかった.要するに,実質的サボタージュないし
計画の先送りによって,「ポートモレスビー攻略」という不可能
な命令に対して消極的に抵抗していたのである.

 一方で,「ポートモレスビーの攻略など不可能」だと正直に
公言する者もほとんどおらず,形だけ「攻勢」のジェスチャーを
とった要領の良い答案だけが東京に送られた.

 この模範答案において「かりそめの攻勢」の標的とされたの
が,ラエの南西にある「ワウ」飛行場とその周辺地区であった.
ポートモレスビー攻略の足掛かりとしてまずワウを攻略し,ワ
ウ周辺の東部ニューギニア地域で地上兵団の会戦を行なって
連合軍を撃破するという壮大な計画が,参謀たちの机の上だ
けで進行していた.

▼ 陸海軍中央協定の再改定

 昭和18年3月,「81号作戦」の失敗によってラエ地区の確保
が危ぶまれるに及び,昭和18年1月の陸海軍中央協定が再改
定され,当面の間,ニューギニア方面の作戦に重点を置くことが
合意された.しかし,協定の締結に際し海軍側から「ソロモン方
面を過度に軽視することは不可」と注文がついたため,両方面
の最終的な優先順位については依然曖昧なままとされた.

 さらに悪いことに,南太平洋方面における最終的な作戦目標
が未だに明確でなかった.3月の改定によっても,「ポートモレ
スビーの攻略」という現実離れした建前が削除されずに残って
いた.後述するとおり,このことが東部ニューギニア方面の兵力
配置をいびつにし,ただでさえ困難な輸送・補給を一層混乱さ
せることになった.

 一方,現地の海軍部隊は中央(軍令部)以上にソロモン方面を
重視する傾向が強く,実際には「ニューギニア重視」の建前は形
骸化した.現実への対応として「ソロモンは海軍,ニューギニアは
陸軍」という役割分担が進み,陸海軍は同床異夢の状態のまま
ソロモン・ニューギニアの二正面作戦を継続していく.

▼ 「不可能命令」と「員数報告」

 南太平洋方面における作戦の最終目標を「ポートモレスビー攻
略」に置くことは,当方面の作戦が開始された昭和17年夏からこ
の時点まで一貫して維持され続けていた.しかし,少なくとも昭和
18年1月以降,この「建前」は現地部隊によって無視されており,
第八方面軍の関心は,もっぱらラエ地区および中部ソロモン方面
の確保と補給の維持にあった.

 ポートモレスビー攻略の建前は書類上でのみ抽象的に語られて
いるにすぎず,この建前と実態のギャップを埋めるために,とりあえ
ずワウ方面に対する「かりそめの攻勢」計画が準備されていた.

 この「ワウ会戦」計画は,戦略目標が実態と乖離していること
(実現不可能な命令)に対する現実的対応ないし消極的抵抗と
して,現地部隊が「実態の伴わない模範答案」あるいは「上司の
稟議を通過するためだけのペーパーワーク」で応じるという図式
の中で生まれたものである.

 著名なノンフィクション作家である山本七平(フィリピン戦線で
同様の実体験あり)は,この図式を「実行不可能な命令と,それに
対する員数報告」と呼んだ.「員数報告」という言葉が分かりにくい
かもしれないが,これは山本の造語であり,要領を使って書類の
辻褄を合わせることを陸軍用語で「員数(いんずう)をつける」と
呼んだことに由来する.

 要は,上司から無茶な要求を受けた部下が正直に「無理です」と
言わず,要領よく「上司に見せる用の書類」を作って「やっているフ
リ」「進捗しているフリ」をするということだ.

 これは何も陸軍の専売特許ではなく,今日でも硬直化した官僚
機構や「ダメな会社」でよく見られる光景であろう.多少の経験が
ある社会人なら,実際には多くの人がこうした「員数報告」の場に
立ち会ったことがあるはずだ.

▼ 「ワウ会戦」という幻想

「ワウ会戦」で勝利を得ようとすれば,必要な陸上兵力は膨大なも
のになる.必要な兵力は3〜5個師団と見積もられたが,すでにラ
エ周辺の制空権が連合軍に奪われつつあるなかで,この大兵力
をすべてラエ地区に船団輸送することは不可能であった.

 そこで,まず3個師団からなる「第18軍」をラエ(第51師団),マダ
ン(第20師団),ウェワク(第41師団)の3カ所に分けて船団輸送
したうえ,ウェワク・マダンに上陸した部隊は陸上道路を構築しつ
つ前進する.計画が書類通り順調にいけば,昭和18年夏頃には
ラエ地区に3個師団が集結する「はず」であった.この第18軍の
ニューギニア展開計画が「81号作戦」の発端であり,前述した
「ダンピールの悲劇」は,この第51師団のラエ輸送の過程で
起こったものだ.

 現地軍の本音は「戦線崩壊を防ぐために,まずラエに1個師団が必要」
なのだが,書類上は「3個師団を集結して攻勢に転じ,連合軍を地上で
撃破する」ことになっている.そして,第51師団が海上で壊滅し「81号作
戦」がその実質的な意味を失ったとき,すでに第20師団と第41師団の
輸送は開始されており,これを途中で止めることができないのである.

 官僚機構とは恐ろしいもので,かりに目標が「建前」に過ぎなくても,
それが目標として存在する以上は確実にそれに向かって動く.いった
ん大きな組織が動き始めて惰性がつくと,その方向性はなかなか変え
られないものだ.

▼ 「員数報告」が招く自滅

 大本営陸軍部では,昭和18年3月の時点で,すでに東部ニューギニ
アを放棄して西部ニューギニアの一端だけを確保する案が真剣に議論
されていた.まさにその時,幻の「ワウ会戦計画」に従い地上決戦に投
入すべき兵団(主に歩兵部隊)が次々にニューギニアへ送り込まれる
という矛盾が生じていた.現地ではその輸送と補給に難渋し,第六飛
行師団は貴重な兵力の大部分を輸送の空中掩護にあてなければなら
なくなった.

 このとき東部ニューギニア方面に本当に必要だったのは地上兵団で
はなく,航空基地を建設する「飛行場設定隊」や建築資材,航空機の
修理工場,衛生部隊,無線通信隊,レーダー班,気象観測隊,防空部
隊などであった.これらの「本当に必要な兵力」の移動は,地上兵力
の輸送を優先したために遅々として進まず,ニューギニア方面の航空
作戦基盤は一向に充実しないのであった.

 仮に東部ニューギニア方面の戦略目標を明確に「長期持久(防勢)」
に置いていれば,これほど大規模な地上兵力を拙速に配置する必要
はなかったはずである.

 結局,マダンやウェワクに上陸した地上兵団は,海上輸送の困難や
「マダン─ラエ道」の未整備のため揚陸点から動けず,海岸線付近に
孤立したまま熱帯感染症と栄養失調に苦しみ,連合軍の爆撃を受け
ながら道路建設作業で消耗していった.

 歩兵は航空戦には何の役にも立たない.ただでさえ不足している
補給力を大食いする地上部隊の存在は,航空関連部隊への補給を
困難にする点で足手まといですらあった.

▼ 正論と現実の間で結論の出ない「東部ニューギニア放棄論」

 多くの幹部がニューギニアの現実から目を背けているとき,堂々と
正論を吐いた男がいた.当時の航空通信保安長官だった吉田喜八
郎少将である.

 航空通信保安部とは,陸軍航空部隊の情報網,通信網や無線航
法設備の運用を指導する役割を担う部署であり,吉田少将は南太平
洋方面における航空機運用システムの状況を視察するためにニュ
ーギニアに派遣された.

 昭和18年4月,吉田少将はニューギニアの各飛行場を視察し現地
の将兵から実情を聴取したが,その基地設備の貧弱さ,地理的・気
候的条件の厳しさ,とくに衛生状態が最悪であることに驚き,ニュー
ギニア方面の航空作戦は「手の施しようがない状態である」という印
象を受けた.最大最良の拠点であるラバウルすら,当方面の大兵力
を支える補給拠点としては不合格と映った.

 吉田少将は帰京後,陸軍参謀総長に対し,ニューギニア方面での
航空作戦は絶望的であるから,東部ニューギニアを放棄してニュー
ギニア島の西端部のみを確保し,インドネシアのチモール島からパ
ラオに至る防衛線を強化すべきであると上申した.

 元来,陸軍省は補給輸送の観点からニューギニア作戦に消極的で
あり,参謀本部の中にもニューギニアの戦略価値を疑問視する意見
が常に存在していた.吉田少将の上申はまったくの正論であり,内心
これに賛同する者も多かったはずだ.

 しかし,折しも東部ニューギニア地区に対する地上兵団の輸送作戦
が進行中で,ソロモン地区を含めると南太平洋方面の総兵力は約20
万まで膨れ上がっており,仮に総撤退となれば膨大な量の輸送船が
必要になる.

 一般に作戦は,前進よりも撤退の方が難しい.まして,離島に近い僻
地から20万もの大兵力を一斉に撤退させることはきわめて困難なこと
で,撤退時の混乱による戦線崩壊(総崩れ)が危惧されるのである.
結局,大本営はこの時点でも,なお「東部ニューギニア放棄」を現実的
な選択肢として受け入れることができなかった.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.6.10




陸軍機 vs 海軍機(42)       清水政彦

「零戦と隼(41)」
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「零戦vs隼」の第41回.劣勢の南太平洋戦線に最新鋭機
「飛燕」が派遣されたが,本来の性能を発揮することはな
かった.けっきょく頼りになるのは,カタログ上の性能よりも,
機械的に稼働が安定している「隼」だった.


▼ 航空戦力増強の要望

 昭和18年3月中旬,第八方面軍の参謀長ら主要幹部が
大本営に召致され,上京して南太平洋方面の戦況を報告した.

 この報告では,南太平洋戦線は衛生状態がきわめて不良
で,第一線部隊の40%が戦病者であるという悲惨な状況が
率直に語られ,当方面の作戦の成否は第一に輸送・補給の
確保にかかっていることが強調された.

 また,第八方面軍参謀長はこの機会を捉えて「南太平洋方
面戦略態勢確立ニ関スル意見」と題する意見書を提出した.
その内容は,当方面への輸送・補給を維持するためには制空
権の確保が絶対的に必要であり,航空戦力の増強がなけれ
ば南太平洋戦線は確実に崩壊するという深刻なものであった.

 当時,東部ニューギニア方面の連合軍機の兵力は約200機
と見積もられ,6月頃には350機程度に増加する予測されて
いた.こうした情勢判断に基づき,第八方面軍は陸軍中央に
対し,戦闘機2個飛行団(4個戦隊),戦闘機・重爆・軽爆各1個
戦隊から成る混成飛行団および高速偵察機(司偵)1個中隊の
追加派遣を要求した.

 つまり,すでに展開している第六飛行師団の約100機に加え
て,新たに7個戦隊+αで約250機(これは第一線の定数であり,
予備機を含めれば300機以上)の大増強を要求したのであった.

▼ 現地軍と大本営の温度差

 航空戦力の増強に関する第八方面軍の意見具申は,戦略的
に正しい内容であり,時宜を得たものであったといえるだろう.
しかし一方で,現代の目から見ると首を傾げてしまう内容も含まれ
ていた.それは,中部ソロモン諸島の戦略価値を強調し,ソロモン
方面の兵力運用を現地軍に完全に委任するよう求めていることで
ある.

 結論から言えば,昭和18年を通じて行なわれた中部ソロモン諸
島をめぐる攻防戦が海軍航空部隊(つまり日本の空軍力の半分)
を半身不随に陥らせ,これが南太平洋戦線全体の崩壊につなが
るのである.もっとも,これはあくまでも後知恵であって,第八方面
軍の主張が間違っていたわけでもない.

 昭和18年3月の時点で,ラバウル・ソロモン・ニューギニア方面に
はすでに約20万の大兵力が展開しており,これに対する補給の起
点は基本的にラバウルであった.ラバウルが連続空襲を受けて港
湾機能を失えば20万の将兵が飢えてしまうから,ラバウルに対す
る空襲の拠点となる中部ソロモン諸島を第八方面軍が「死守」しよ
うとするのは,ある意味当然のことだった.

 絶望的な環境で生き残るために全力を尽くそうとする現地軍と,
中長期的な戦争指導という側面からニューギニアの戦略価値その
ものに疑問を持ち始めていた陸軍中央の間には,相応の温度差
がある.自軍の正面を死守するために大増援を求める現地軍の
理屈も,ニューギニアという泥沼に大兵力を投入することを躊躇す
る中央の感覚も,それぞれに正しいのである.どちらが「より正し
いか」は,昭和18年3月の時点では誰にも分からなかった.

▼ 第六飛行師団の戦力増強

 前述したような「現地と中央の温度差」はあるにせよ,南太平洋
方面への航空戦力増強の必要は明らかである.第八方面軍の意
見具申を受けた陸軍中央は,比較的素早い対応を見せ,4月初旬
には第六飛行師団に対する戦力の増強を発令した.

 しかし,やはり現地軍との「温度差」は埋められず,追加派遣が認
められた戦力は要望の半数以下であった.後方にあった戦闘機2個
戦隊と旧式の「99式軍偵」一個中隊が第六飛行師団に編入され,
4月中旬から下旬にかけてニューギニアへの移動を開始した.

 また,意見具申に基づく戦力増強とは別に,当時の最新鋭機であ
る「三式戦闘機」を装備する1個戦闘飛行団のニューギニア派遣も
決定しており,現地ではその到着を心待ちにしていた.

▼ 三式戦闘機「飛燕」の挫折

 三式戦闘機「飛燕」を南太平洋方面に投入することが発令された
のは昭和18年1月,同機が完成したばかりの時期であった.この
時点ではまだ三式戦を装備する部隊は存在せず,旧式の97式戦
闘機を装備する部隊の機材を三式戦に改編し,そのまま南太平洋
に進出させる計画である.陸軍初の三式戦装備部隊に選ばれた
のは,満洲で対ソ戦に備えていた第14飛行団(飛行第68戦隊,
同78戦隊)であった.

 昭和18年1月といえば,陸軍航空の第一陣である第12飛行団が
ラバウルに着いたばかりだが,陸軍中央では2〜3カ月程度の期間
で最前線の部隊を交代させ,戦力の回復をはかる方針であった.
つまり,中央では第12飛行団が2〜3カ月の前線勤務で消耗するこ
とを最初から見込んでいたのである.

 一式戦装備の第12飛行団は,第14飛行団の進出後,約1カ月の
引き継ぎ期間を経て内地に帰還する予定だったが,この計画は予
定通りにはいかなかった.

 採用されたばかりの新鋭機である三式戦は,この時期はまだ機械
的に不安定で,初期不良の洗い出しが終わっていなかった.さらに
三式戦のエンジン(ハ40)はドイツからライセンスされた液冷式(ダイ
ムラーベンツDB601系列)で,非常にデリケートで凝った造りになって
いたことが,混乱に拍車をかけた.

 古い97戦に馴れた大多数の整備員にとって,ハ40は「初めて触る
難しいエンジン」であり,三式戦は「すべてが新しい未来の飛行機」
であった.一般に「最新鋭」の機械というものは,運用ノウハウはも
ちろん整備マニュアルもろくに存在しないため,いったん調子が悪く
なると手がつけられないものだ.

 南方への進出を命じられた第14飛行団は,幾多の困難を排除
して突貫作業で機種改編を行なったが,機材の故障が頻発して
作業がはかどらず,出発予定の昭和18年3月末までに洋上航法の
訓練を実施することができなかった.

 飛行第68戦隊の第一陣は4月末に航空母艦でトラック島に到着し,
同地から自力飛行でラバウルを目指したが,この移動中に27機の
うち3機が遭難,8機が不時着(パイロットのみ救助)するという大
事故を起こし,いきなり戦力が半減してしまう.同戦隊機のうち,
空母への搭載が間に合わなかった一部は島伝いに陸上基地を
前進したが,同様に遭難事故により途中で少なくない損害を出し
ている.当然,この状況では戦闘加入に不安が残るため,第68戦隊
はその後しばらく戦力とは見なされず,パイロットの訓練と機材の整
備に努めることとされた.

 後続の第78戦隊は機種改編が遅れ,6月中旬に内地を出発し
て島伝いの移動を試みたが,出発時に45機あった機材が到着時
には33機に減少していた.

 この12機は空中で遭難したか,故障して中継飛行場に残置さ
れたことになるが,これらの飛行場には三式戦を整備できる整備
員はいなかったはずである.これらの落伍機がその後どうなった
のかは分からないが,そのまま滑走路の片隅に放置されて朽ちて
いった機体も少なからずあったはずだ.

▼ 結局,頼りになるのは「隼」だった

 大いに期待された三式戦の初陣は,連合軍と戦う前から散々な
結果に終わった.

 戦地への片道移動だけでこの状態だとすれば,連日連夜の出
撃(大部分は哨戒任務で,交戦に至らず空振りに終わる)を続け
ていれば,故障と事故だけで1カ月と経たずに全滅してしまうだろ
う.問題は,単にエンジンの不調だけではないのである.

 高速機である三式戦は,低速な一式戦に比べて着陸時の進入
速度が速く,離陸にも長い距離を必要とする.そのため,三式戦の
運用には長い滑走路(最低1400m)が必要で,荒れた路面では脚
を折ったり横転したりという事故を起こしやすいし,滑走路の一部
がダメージを受けただけで離着陸ができなくなる.地上施設が不
備な環境では,高速機ほど地上損失が多くなる傾向があるから,
三式戦は元来ニューギニアには向いていないというべきだろう.

 一方,三式戦の生産はまだ軌道に乗っておらず,戦地での膨大
な損耗を埋めるだけの迅速な機材の補給は困難だった.しかも,
施設が貧弱なニューギニアの基地には三式戦のエンジンをオーバ
ーホールする施設・人員が存在しないため,分解整備のためには
ラバウルまで機体を空輸する必要があったが,これはまったく現
実的とはいえなかった.

 第14飛行団の三式戦は,昭和18年7月頃からニューギニアで実
戦に参加し始める.当初はある程度の数が揃っており,その高性
能もあいまって空中ではほとんど撃墜されなかったが,出撃のたび
に故障や不時着により戦力をすり減らし,あるいは空襲により地上
で撃破され,次第に十分な数の稼働機を第一線に維持できなくなっ
ていった.

 やがて1個中隊がフルメンバーで揃うことはなくなり,数機から多く
て10機程度が散発的に出撃するだけなので,空中では常に数的劣
勢に立たされた.最終的には,悪条件の中で本来の性能を発揮でき
ないままボロボロと撃墜されていき,最後まで期待された活躍はでき
ずにニューギニアを去ることになる.

 このため,昭和18年の夏以降になっても,南太平洋方面における
主力機は一式戦「隼」であり続けた.戦地では,カタログ上の性能よ
りも,機械的に稼働が安定していること,整備態勢やノウハウを含め
た総合的な運用インフラが存在すること,補給が継続できることが
何よりも重要なのである.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.6.17




『ライター・渡邉陽子のコラム (50) ─ 飛行管理隊/飛行情報隊(5) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

読書中の『チューズデーに逢うまで』,ようやく筆者が介助犬
チューズデーと出会うところまで読み進めました.ここまでは
イラク派遣で心身にダメージを負った過程を中心に描かれて
いました.PTSDは屈強な兵士をも蝕み苦しめることを改めて
感じています(自衛隊員のリスクは増えるとか変わらないとか
実態を伴わない言葉だけの国会のやり取りに,なおさらむな
しさ,情けなさを覚えます).

チューズデーは「鉄格子の中の仔犬」プログラムにより懲役囚
が育成した介助犬です.ここも大変興味深いですね.



■ 飛行管理隊/飛行情報隊(5)

飛行管理班の運用主任は運用現場の指揮・監督をし,運用室
でFADPに関わる隊員の連携を取る役目も果たしています.

運用主任を務める2等空曹によると,ただFADPで情報を送るの
ではなく,「この部隊はこういう仕事をしているからこの情報を送
る」といった具合に,送り先が何をしている部隊や機関なのかを
しっかり把握している必要があるそうです.先々週,FADPが繋が
る組織がどれほど多いかご紹介しましたが,それらすべての業務
内容を理解していなければならないそう.連接している組織を把
握することなくただ情報を流していては,不測の事態が起こったと
きの対応が十分なものにならない可能性もあるからです.


システム室には中央処理装置,外部システム連接用通信機器,シス
テム監視コンソールなどが配置されており,電子計算機班が常駐し,
機器の管理をしています.

電子計算機班の運用係長である2等空曹は,FADPシステムのホス
トの操作に関わっています.今までに一度だけ,1日半ほどFADPに
よるデータのやりとりができなくなってしまったというトラブルに遭遇し
たことがあったそう.そのときは国交省からの情報を印刷し,それを
手に各防空指令所に電話で伝達したとのこと.班員みな総動員で,
誰もが電話をかけっぱなし,しゃべりっぱなし状態.一度システムが
障害を起こすとこれだけ大変なことになるのだと痛感したそうです.


ところでFADPは,そのシステム単体ではその役割を果たしません.
ほかのシステムと連接することで初めて役立つものであり,そのために
不可欠な存在が有線整備員です.

整備班に所属する隊員にとって,数年に一度行なわれるFADPの換装
は大仕事.近年はDII(防衛情報通信基盤)が整備されたので大分回線
が少なくなり,障害も減ったし作業自体も少し楽になりました.以前は光
通信もなく1本ずつ繋げていたため,とんでもない量の配線だったとか.


さらに,FADPの運用は基地内で自己完結できるようになっています.
停電時には電源倉庫の発動発電機2基で電力を確保,これが立ち上が
ってから電流が安定するまでの最初の1〜2分間は,150個のバッテリー
で発電します.発電機を動かすための軽油も地下タンクに保存されて
います.


飛行管理隊の各班をひととおり見たところで,入間基地の管制塔に
上がり,FADPが管制官へどのような情報を提供しているのか実際に
見てみましょう.

管制塔にはストリップと呼ばれる細長い紙が不定期に出力されています.
ペラペラの紙で,サイズは文庫本に付いているしおりと長さはほぼ同じ,
幅は半分程度といったところ.ゴミと間違えられ捨てられてしまいそうな
感じです.

けれどこのストリップこそ,FADPが管制塔に送ってきた情報が集約され
たもの.出発する航空機の識別符号,型式,巡航高度,目的飛行場,飛
行経路の概要,出発予定時刻が記載されています.管制官はこの情報を
使って国交省などから管制承認をもらい,航空機を離発着させます.

細長い形状なのは,管制官にとってはこの形がもっとも使い勝手がいいから.
FADPは必要とする情報を選び出して渡すだけでなく,相手のニーズによっ
てアウトプットの方法を変えることができるのです.こうやって細長い紙であ
ったり,大きな用紙であったり,あるいは印刷せず画面上に表示するとか.
その点もFADPのすごいところです.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.6.18




タリバーンがアフガン議会襲撃,2人死亡40人負傷

朝日新聞デジタル 6月22日(月)20時45分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150622-00000050-asahi-int
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150622-00000050-asahi-int

 アフガニスタンの首都カブールで22日,反政府武装勢力タリバーンが開会中の議会を襲撃した.治安部隊との間で約2時間にわたり銃撃戦となり,建物の近くにいた通行人とみられる市民ら少なくとも2人が死亡,40人が負傷した.アフガンでは今年から,米軍などに代わってアフガン側が戦闘の前面に立つようになったが,治安面の不安が浮き彫りになっている.

 議会下院ではこの日,昨年9月にガニ大統領が就任して以来,政治対立のため空席だった国防相を承認する手続きが予定され,大半の議員が新国防相の到着と審議開始を待っていた.タリバーンは犯行声明で,この日をあえて狙ったことを明らかにした.

 警察当局者によると,襲撃したグループは7人とみられ,議会の敷地の入り口付近で,まず1人が爆弾を満載した車ごと自爆.そのすきに他の6人が議会内に入り込もうとして治安部隊と銃撃戦となった.約2時間後に6人の射殺が確認された.

 議員は全員無事だったが,現地の国連当局者らによると,襲撃に巻き込まれた女性1人と子供1人が死亡,多数が病院に搬送された.

 議場内にいたナキブラ・ファリク下院議員は朝日新聞に「非常に強い爆発の衝撃で建物が揺れ,議場内がほこりや煙で真っ白になった.悲鳴や叫び声の中,走って外へ出ると,近くの建物からタリバーンが撃ってきた」と話した.




爆発の瞬間 アフガン議会爆破テロ 「タリバン」犯行声明(映像)

アフロ 6月22日(月)18時21分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150622-00010005-storyfulv-asia
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150622-00010005-storyfulv-asia

 アフガニスタン議会(カブール)で22日昼,爆発と銃撃が発生した.この爆発直後に反政府武装勢力「タリバン」が犯行声明を発表している.
 地元の報道では議員と報道関係者の全員が安全な場所に避難したと報じている.
 カブール警察署長は,最初の爆発は議会建物の入り口付近で自動車が爆発したとしている.
 死傷者などの正確な情報は伝わっていないが,ラジオ・フリー・ヨーロッパ(Radio Free Europe)は,急襲したタリバンのメンバー6人が死亡したとしている.
 映像は,突然爆発が起こり騒然となる議事堂内部の様子.カメラが衝撃で小刻みに揺れる.その後の外へ避難する姿も捉えられている.

(アフガニスタン,カブール 22日 映像:TOLO News/STORYFUL/アフロ)





『ライター・渡邉陽子のコラム (51) ─ 飛行管理隊/飛行情報隊(6) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

今月は急きょ出張に行くことになったので,前倒しで
やらなければいけないことが山のようにあり,読書の
時間は移動中の電車のみ.

ところで今の時期の電車の空調って蒸し暑かったり寒か
ったり,ぴったり快適という車両になかなか当たらず,苦
痛を伴う移動が少なくありません.特に蒸し暑いのつら
いです(泣)車両自体はどんどん進化しているのに……
空調は車掌さんが管理しているからでしょうか?


■飛行管理隊/飛行情報隊(6)

前回は飛行管理隊の各班の仕事ぶりと,入間基地の管制塔
でFADPがどのように情報を提供しているのかご紹介しました.

FADPは,データ収集ボックス,あるいは素材箱と言えます.
オンラインネットワークでつながっている関係各所へ,相手が
欲しがっている情報を選び出して望む形式で渡してあげる,き
わめて優秀な頭脳を持っている素材箱です.この仕事ぶりを知
れば知るほど,最初はシステムのひとつとしてスタートしたFAD
Pが,今や航空自衛隊のみならず防衛省にとって不可欠なシス
テムとなっていることも納得です.


さて,これまでは飛行管理隊についてご案内してきましたが,
今回からは飛行情報隊についてご紹介します.

航空機が安全に飛行するため,必要に応じて発行されるものを
ノータムということ,ノータムは国土交通省の飛行情報管理シス
テムであるFDMSによって発信されることは,連載第1回で触れ
ました.自衛隊が発行するすべてのノータムの審査・指導を
行なっているのが飛行情報隊です.いわばノータム検問所と
言ってもいいでしょう.また,国交省発行のノータムの確認も行
なうほか,自衛隊機海外派遣の際は関係飛行場や飛行情報区
にかかるノータムの収集,提供および管理といった国外運航支
援も担っています.


ノータムはどんなときに発行されるのか,取材時に飛行情報
隊長が教えてくれました.
「滑走路付近に雪かきでできた山がある,滑走路に雪が積もっ
ているなどは,冬によく発行されるノータムです.また,空港付近
にビル工事のクレーンがある,気球やアドバルーンが飛んでい
る,花火大会があるなどの場合もノータムを発行します.ちょっ
と珍しいケースだと,たまに基地そばの学校や住民から『ヒアリン
グテストがあるからその時間帯は飛ばないで』『お葬式の間は
飛ばないで』といった要望が来ることがあります.これらに対応
できるか否かは,その時の状況によりますね」


テストやお葬式のみならず,「運動会があるから飛ばないで」とい
う要望もあるそうです.対応できるかはそのときの状況によると
いうことは,対応できるときもあるということです.余談ですが,北
海道で野戦特科部隊の実射訓練の取材をしているとき,「今から
○時までは搾乳の時間なんで射撃は行ないません」と言われたこ
とを思い出します.演習場近隣の牧場の牛が大きな音に驚き,
乳の出が悪くなってしまうのだそうです.


飛行情報隊のノータムセンターにはノータム端末とFADP端末が
あり,ここで自衛隊のノータムを審査・指導しています(民間機の
ノータムチェックは国交省が行ないます).略語に記載ミスはない
か,内容に不備がないかなどを確認し,訂正がある場合は発行
者へ戻し,問題がなければ承認,FADPを通じて全国の飛行場
等へと発信します.

ノータム班の空曹は,ノータムを審査する自衛隊唯一の部隊だ
ということがプレッシャーでもありやりがいでもあると言い,こんな
コメントもくれました.

「ノータムとして届くすべての情報がノータム事項とは限りません.
航空機の運用に支障をきたす情報なのかが判断の基準になりま
すが,規則には具体例までこと細かに書かれていませんから,そ
の判断が求められます.また,国交省でノータムを扱っているAIS
センターと調整を行なう部隊でもあるので,自衛隊の代表として慎
重に調整するよう心がけています」


次回も飛行情報隊の話です.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.7.2




陸軍機 vs 海軍機(44)       清水政彦

「零戦と隼(43)」
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「零戦vs隼」の第43回.今回は,昭和18年7月〜8月頃の
陸軍航空部隊の戦いについてです.

▼ ニューギニア方面への航空大増勢

 昭和18年6月頃までに,第六飛行師団の実働戦力が「ジリ
貧」の状況に陥っていたことはすでに述べたとおりである.こ
れまでニューギニア方面への増援に及び腰だった大本営も,
この段階に至ってようやく航空戦力を強化する必要を認め,
昭和18年6月末には一個飛行師団を増援することを内定した.

 ニューギニアへの増援部隊として選ばれたのは,それまでイ
ンドネシア・ビルマ方面に展開していた「第七飛行師団」であっ
た.第七飛行師団は,油田地帯の防空のために一部をインド
ネシアに残して主力がニューギニア方面に転用されることとなり,
昭和18年7月には戦闘機1個戦隊と重爆撃機2個戦隊がニュ
ーギニアへの移動を開始した.

 このときニューギニアに移動した戦闘機隊が飛行第59戦隊
(一式戦2型)で,この連載に何度か登場する南郷茂男大尉が
所属していた部隊である.59戦隊のニューギニア進出が発令さ
れた時点で,すでに大本営はニューギニア戦線崩壊の危機を真
剣に感じていたはずだが,前線に向かう部隊にはまだ悲壮感は
感じられない.

 この頃の南郷大尉の日記には以下のような記述がある.
(7月9日)24戦隊目下僅か6機のみとのこと.今迄のJava,
Timorは真の戦場に非ず.病気も相当多き所とのこと.大い
に緊褌一番奮闘せんことを期す.
(7月12日)一戦二型27機はこの方面のaceとも云うべき信頼
を受けたりとのこと.大いに頑張らざるべからず.

 比較的安定していたジャワ方面から最前線に進出して,「よう
やく本当の戦ができる」といった雰囲気で意気軒昂としている様
子が分かる.「ジャワの天国,ビルマの地獄,死んでも帰れぬ
ニューギニア」という言葉のとおり,ジャワ方面は緊迫度が低く,
地獄のニューギニア戦線をよそに,59戦隊はこの時期まで比較
的恵まれた生活を送っていた.

▼ 第七飛行師団の進出と「第四航空軍」の編成

 同時に,今までニューギニア作戦を単独で遂行してきた第六飛
行師団と,新規参入する第七飛行師団を統括する組織として,
第八方面軍の指揮下に「第四航空軍」が編成された.

 こうした組織の再編に伴う人事異動や司令部の新設,司令部施
設の整備と移動は,それだけでも結構な大仕事だった.新たな司
令部を編成して最前線に送り込むには,膨大な量のペーパーワー
クと「引っ越し作業」が発生し,何かと時間を食うのである.

 第七飛行師団の第一線部隊は7月中旬にはニューギニアに到着
し始めていたが,これを指揮する「第四航空軍」の司令部が活動を
開始するのは,8月の中旬までずれこむことになる.

▼ 現地部隊間の微妙な関係

 第七飛行師団は,ニューギニアへの転用が発令された昭和18年
7月の時点で,広いインドネシア島嶼部に広く薄く展開していたため,
整備員や飛行場要員といった地上勤務部隊の移動が容易でなかった.

 また,飛行部隊も全部がニューギニアに移動するわけではなく,
一部が残留して引き続きインドネシア方面の防空や哨戒を担当す
ることになるので,インドネシア方面の地上要員を大規模に引き上げ
ることもできなかった.

 結果的に,ニューギニアに移動した第七飛行師団の飛行部隊は,
第六飛行師団の建設したインフラと地上要員に依存せざるを得ない
状況に置かれていた.ウェワクに置かれた司令部も,第六飛行師団司
令部と同じ建物に間借りする状態であった.

 本来なら,ここで両部隊が一致協力して難局を打開しなければなら
ないのだが,むしろ両者の間には埋められない温度差があった.満洲
やインドネシアで条件のよい飛行場に馴れていた第七飛行師団の将
兵は,ニューギニアの劣悪すぎる環境を目の当たりにして愕然とし,
「こんな所で戦争なんて,冗談じゃない」という態度が表に出てしまっ
たようだ.『戦史叢書』には,この時の第七飛行師団の反応について,
以下のような記述がある.

「第四航空軍,第六,第七飛行師団間の感情は円滑でなかった.新設
当初の第四航空軍と苦闘半年余の第六飛行師団との間には,情勢判
断の感覚に三か月程度のずれを生じた.第七飛行師団は第六飛行師
団が苦心して作った飛行場を見て,こんな飛行場に重爆師団を入れる
のか,という気持ちであった」

 一方で,地獄の戦場ですでに半年間の悪戦苦闘,文字通り「泥水す
すり,草を食み」という生活を強いられてきた第六飛行師団の将兵から
すれば,新入りの第七飛行師団は「ジャワの天国」で遊んでいた戦場
馴れしていない部隊,要するに気合が足りない連中だと映った.すべて
が不足するニューギニアでは,実際に危険な生水を煮沸して飲用したり,
野菜代わりに名も知れぬ野草を常食していた.

 第七飛行師団の幹部は,地上設備が貧弱なウェワク地区に大兵力
を集中することは危険すぎるとして,重爆戦隊についてはウェワクより
さらに西方(後方)に位置するホーランジア地区を根拠地とし,必要に
応じてウェワクを前進基地として活用すべきことを主張した.

 結果論としては,この主張は明らかに正論だった.しかし第四航空軍
はこの主張を退け,第七飛行師団を含めた大部分の兵力をウェワク地
区とブーツ地区に集中展開するよう命じた.このような集中展開は空
襲による地上撃破のリスクを伴うが,この時点ではウェワク地区に対
する大規模空襲の危険性はまだ真剣に検討されていなかった.

 むしろ,この段階では「ジャワのぬるま湯」に馴れた部隊を一日も早く
最前線に適応させる必要があるという点が強く意識され,あえてこのよ
うな処置をとったと言われている.

▼ 初動で壊滅した第四航空軍

 手間のかかる人事異動や司令部の改編作業を終え,第四航空軍が
ようやく部隊としての活動を開始したのは昭和18年の8月10日頃であった.

 第七飛行師団の加入により一時的に戦力が充実した第四航空軍は,
8月中旬の数日間,東部ニューギニア方面の連合軍基地に対して連続
的な進攻作戦を実施し,一定の成果を上げた.しかし,劣悪な環境下で
の連続出撃には限界がある.機材の整備とパイロットの休養のため作
戦をいったん休止した矢先の8月17日,ウェワク地区の日本軍飛行場は
予想外の大空襲を受けた.この時,多くの飛行機が整備のため駐機場
に引き出されており,第四航空軍は大部分の機材を地上で破壊されて,
実質的に壊滅してしまった.

▼ 戦場にもある「正常性バイアス」

 実は,昭和18年6月頃までには,すでにウェワク地区は連合軍の小型
機の攻撃圏内に入っていた.しかし昭和18年8月までの間,ウェワクに
対する連合軍の空襲は少数の四発重爆による偵察爆撃,いわゆる「定
期便」が主体で,中型機や小型機の大編隊による強襲は行なわれてい
なかった.時折P-38の姿も見られたが,その活動は単機での偵察行動
に限定されており,深刻な脅威とは見なされなかった.

 船団がウェワクに入港する際は,念のため戦闘機を上空に待機させて
空襲を警戒したが,その多くが空振りに終わっており,このことも大規模
空襲のリスクを過小に評価する結果につながった.

 ウェワクに基地が建設されて以来,半年間にわたって繰り返された「定
期便」に馴れきってしまった将兵は,すでに空襲のリスクに対して不感症
になり始めており,確たる根拠がないまま「本格的な空襲はまだ来ない」
という楽観的な観測が支配していたという.

 頭ではリスクがあると分かっていても,実際に身に沁みないと対応でき
ないという「正常性バイアス」は,戦場にも存在するらしい.

▼ 合理的な連合軍の戦術

 一方で連合軍は,ウェワク地区に今までにない大兵力が集結しつつあ
ることを確認し,これを地上で撃破するため大空襲の機会をうかがっていた.

 周到に準備された大空襲は,一連の連合軍基地に対する空襲が一段
落したタイミング,つまり日本軍機が整備のため地上にある瞬間を突い
て決行された.

 まず8月16日の夜,少数の大型機による連続的な夜間爆撃により,
日本機を地上に釘付けにする.これは,翌朝の出撃や戦闘機の邀撃,
空中退避を妨害するための牽制攻撃である.夜が明けると,超低空か
ら戦爆連合の大編隊がウェワク地区の飛行場群を強襲した.

 攻撃部隊の主力となった中型爆撃機は,地上に駐機している日本軍
機を発見すると,超低空で機銃掃射しながら接近し,目標のすぐ手前で
落下傘付きの小型爆弾を連続投下した.
一方,日本側の対空火器は射撃指揮装置と連動する高射砲(つまり
「定期便」の大型機に対する備え)ばかりで,近接防空用の対空機関
砲が少なすぎた.「ヤマ勘」での射撃ができない高射砲は,こうした超
低空からのゲリラ的攻撃にはまったく対処できない.

 戦闘機の緊急発進も間に合わず,連合軍の攻撃隊を阻止するものは
何もなかった.まさに「やりたい放題」のワンサイドゲーム.ほとんど反撃
を受けない状況下で,単純で命中率の高い攻撃が繰り返され,地上の
日本軍機は次々に破壊されていった.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.7.1




荒木 肇
『動員のコスト(2)──日本陸軍の動員(2)
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□はじめに

 K.Y様,まったく同意です.お便りの通り,兵事係は地域
の軍政の最先端にいて地域密着型で情報収集,整理,報告
という煩雑な業務を行なっていました.戦後,さまざまな誤解
や非難を受けた方も多かったようです.動員のシステムも秘
密が多く,たくさんの方々が何も知らないままに赤紙を受け,
戦地に旅立っていかれました.また,馬や荷車,その他の物
資の調達もしばしば悲劇をもたらしたのでしょうね.しばらく,
私の手元にある生な資料のご紹介で実態をお知らせしたいと
思います.

 H.M様,ご愛読ありがとうございます.野戦軍100万のう
ちに20万の輜重兵部隊があり,そのほとんどが輜重輸卒で
した.管理にあたる戦闘兵科である輜重兵はほんのわずかし
かいなかったのです.お便り通りのご理解でお願いします.
分かりにくい書き方をしましたことお詫びします.

▼兵科から兵種への変換

 よく知られているように陸軍は1940(昭和15)年に長く続
いた「兵科」を撤廃した.歩兵,騎兵,砲兵,工兵,輜重兵,
憲兵,航空兵という7つの兵科別を撤廃し,憲兵を除いた6兵
科をすべて「一般兵科」とした.明治の建軍から数年たって「兵
科」を立て,それぞれの教育や人事システムを築きあげてきた.
それがなくなり,それまで砲兵大尉とか,騎兵少尉と言ってき
たものがみな「陸軍大尉」「陸軍少尉」という官名に統一され
たのだ.『万染の桜か襟の色(歩兵の本領』,『襟には映ゆる
山吹色の(砲兵の歌)』といった各兵科の色も軍服からは姿を消した.

 こうなった理由には部隊編成の上で,戦う軍隊の近代化に対応
しにくくなったからだ.日露戦争までは歩兵聯隊はすべて小銃装
備の中隊ばかりだった.火器といえば歩兵聯隊には歩兵銃しかな
かったのだ.歩兵とは小銃を撃ち,大隊ごとの突撃を行なう兵科で
しかなかった.ところが日露戦争では機関銃や砲に守られた堅固な
要塞を攻撃し,掩蓋などで守られた野戦陣地も攻撃しなければな
らなくなった.

 主にヨーロッパで戦われた世界大戦(1914〜1918年)は日露
戦争がさらに大型化したものだった.塹壕戦が当たり前になり,歩
兵は突撃すれば機関銃の猛射を浴びた.火砲は大型化し,使われ
る砲弾も榴霰弾から爆発威力が高い榴弾が主になった.そうした
戦訓を学び,日本陸軍も機関銃を装備しようとしたり,歩兵砲も使っ
たりするように変えられた.もっとも,大正時代の軍縮により,そうし
た近代化も機関銃も時間がかかっていた.

 満洲事変(1931年)以来,その成功の下で軍事充実計画の策定
に有利な情勢になった.日支事変(1937年)からはさらに軍備の大
拡充が容易になった.おかげで平時編制ではともかく,動員がかか
った時の戦時編制で生み出される部隊では人事上のネックが生じた.
これまでの兵科をもとにして人事管理をする,教育を行ない,人材を育
てることが難しくなってきたのだ.

 満洲事変では歩兵聯隊長が手持ちの火力として75ミリ級の火砲を
もつことが有効であることがわかった.大正時代の装備では歩兵聯隊
には機関銃陣地撲滅用の「11年式平射歩兵砲」しかなかった.歩兵
部隊の突撃を妨げる重機関銃の掩蓋の銃眼を狙撃する口径37ミリ,重
量89キロの軽砲である.また,「11年式曲射歩兵砲(迫撃砲)」はあっ
たが運搬にも手間がかかり,弾量も決して大きくなかった(口径70ミリ).

 そこで,大正末期の軍縮で縮小された山砲兵聯隊の装備に目が付け
られた.保管されていた山砲(75ミリ)を歩兵砲として与えてみた.山砲
なら分解して駄馬の背にのせられたし,急な地形でも兵士が担いで推
進できたからである.弾丸口径は野砲と同じ,装薬が少ないだけで爆
発威力は野砲と変わらない.これは使い勝手がよかった.それまでは
砲兵聯隊長のもとから配属を受けた砲兵を使ってきた歩兵聯隊長とす
ればたいへん役に立った.
 
 問題は,その指揮官たる中隊長の養成はどうするかということである.
赤い襟章の歩兵将校のままでは教育をし直さなければならない.歩兵学
校に行かせる代わりに山砲兵指揮官の教育課程を履修することになっ
てしまう.これはプロパーな歩兵将校にしてみれば傍流に行かされるよ
うに思えたことだった.だったら歩兵聯隊の歩兵砲中隊長には黄色の襟
章の山砲兵将校をあてればいいとなろうが,これまた生粋の砲兵からす
れば系列の別企業に出向させられるようなものだ.

 考え出されたのが「兵種管理」である.いまでいう特技,自衛隊でいう
ところのMOS管理になる.新しい兵種である戦車兵はもとは歩兵であ
る人や騎兵だった人,あるいは工兵だった人が集められるようになった.
 
 在郷軍人名簿でも,それまでの兵科に代わって兵種が記載されるよう
になった.歩兵,山砲兵,重砲兵,騎兵,輜重兵といった書き方から,化
兵,機甲,野山砲,野重などの専門職種で管理されるようになった.
 なお,佐官・尉官と准士官・下士官,兵とは表記が違っているので注意
しなければならない.

▼兵種の区分

 どう区分されていたのか詳しく見てみよう.佐官・尉官が記載される動
員関係の名簿には次の種類がある.考科表(評価に関する成績書),戦
時名簿及動員計画書類の2つだった.この戦時名簿というのがいまの自
衛隊と決定的に異なるところだ.当時の佐官・尉官,准士官,下士官は
現役も予備役もみな「戦時補職」をもっていた.
 
 たとえば,歩兵聯隊付の中佐は平時では本部に詰めているが戦時名
簿では特設聯隊の聯隊長であることが多かった.明治の末年生まれで
大正時代の一年志願兵だった私の祖父は,日支事変に応召した時には
福井県鯖江歩兵第36聯隊第2大隊第2機関銃中隊戦銃隊小隊長だっ
た.これは毎年改訂される「戦時名簿」に記載されている通りである.
 
 また,兵種区分も年一回調整される「予備役陸軍将校名簿」にも載って
いる.今の自衛隊は予備役の招集補充がないから一回こっきりの戦いし
かできないし,部隊の実員がそのまま戦場に投入される.いまの陸上自
衛隊は「動員がない軍隊」であり,昔の陸軍は「動員を前提にした軍隊」だった.
 
 兵種区分の実際規定を見てみよう.昭和19年の「陸密第3931号」か
らである.なお以下,当時の文書は読みやすくするために片仮名を平
仮名に,一部は漢字を平仮名に改めてある.
 1)新たに任官した時は所属隊の兵種にする.
 2)転職,特別志願将校に採用される,あるいは召集のため前の兵種
と異なる部隊に編入された者は新しい所属部隊の兵種とする.
 憲兵と各部将校については,陸軍武官官等表の官種別にしたがって区
分する.次のようになる.憲兵,技術,主計,建技,軍医,薬剤,歯科,
衛生,獣医,獣医務,法務,軍楽という区分である.
 また兵種を転換した者は(憲兵また各部に転じた者はのぞく),旧兵種
にカッコをつけて注記する.たとえば,「機甲(歩)」のようだった.
 
 なお,主計と建技は経理部,軍医・薬剤・歯科・衛生は衛生部,獣医・獣
医務は獣医部の所属である.衛生は医師資格がない将校,獣医務も獣医
資格がない将校だった.手元の「現役将校停年名簿」には,階級,現補職
名・その上番の日付,学校歴,兵種,位階勲等功級,序列番号,出身県・
本籍氏名・誕生日,陸士卒業期別が書いてある.
 
『大佐,戦車第五聯隊長,(昭和)一九,五,七,戸校甲・歩校甲,機甲
(歩),正六勲三功四,896,熊本(略)33』という具合である.
 
 それでは准士官,下士官の兵種,さらには兵の場合はどうだったのか.
ここでも『動員計画書類,兵籍,戦時名簿等に記載すべき准士官,下士官
の兵種区分に関する件(昭和16年陸普第三千百十三号)から見てみよう
(原文は漢字カタカナ混じり).
『その在隊する平時(臨時編成)(動員)部隊に入隊又は充用せらるる兵
科兵の兵種区分に応ずる兵種によりその在隊せし順序に列記するものと
す』とされていた.
 ただし,編制上同一部隊に二種以上の兵種の混在する場合にあっては,
その兵種を優先する.また,兵種にふさわしい教育を受けていない,服務
期間が短い場合には記載しない,という規定もあった.
 
 同一部隊に二種以上の兵種がいるときというのは,まさに先ほどの例に
なる.歩兵聯隊の中に山砲兵,工兵,輜重兵がいても彼らの兵種はその
ままである.歩兵聯隊に応召したからといって歩兵に変更がされるわけで
はなかった.
 
 兵はどうかというと将校とは違っている.化学戦関係では将校は化兵と
迫撃兵に区分された.化学戦の専門家である化兵将校と瓦斯弾を撃つか
もしれない迫撃砲兵将校は分かれている.その代わり兵は迫撃兵だけで
ある.将校の機甲の下の兵は騎兵と戦車兵.野山砲将校の下の兵は野砲
兵,山砲兵,騎砲兵になった.あとは将校の野重,重砲,高射,気球,工
兵,鉄道,船舶,輜重の下にはすべて同じ名称の兵がついた.将校の電信
の下は通信兵,航空将校の下には飛行兵,気象将校の下には情報兵とな
り,将校だけしかないのは挺進である.
 
 技術・技能に関連する准士官・下士官・兵についても記載注意があった.
『官等級欄に記載する兵技下士官にありては左の区分に依り階級の下
段に(  )を附し,又経理部下士官は主計,建技,経技に区分記載するも
のとす.火工,鍛工,電工,技工,機工も同様.』
 
 そして兵種確定の元となる所属隊の種類についても,1944(昭和19)
年10月20日の『岐動第218号』の達しを抜粋しよう.大東亜戦争末期の
陸軍部隊の種類を知るには最適である.
 化兵は制毒隊・瓦斯隊・特殊自動車隊,機甲には戦車隊・装甲車隊・騎
兵隊・捜索隊,野山砲には野砲兵,山砲兵,騎砲兵,船舶砲兵(高射関
係者は除く)の各隊,迫撃は迫撃・臼砲の各隊,船舶は船舶工兵・揚陸・
海上輸送・特種艇・泛水(ほうすい)作業の各隊,航空は飛行・航空教
育・航空通信・観測・航空情報・飛行場・飛行場設定の各隊,高射は機
関砲・高射砲兵(船舶砲兵隊の高射関係者を含む)・照空の各隊となっている.
 
▼在郷軍人名簿の記載要領

 調整上の注意が表紙の裏に載っている.
イ)将校について
 詮衡会議に可決したる幹部候補生を含む.また軍医予備員と将校勤務
適任証書所持者,医師,獣医師免許所持者は将校の末尾に編綴(へん
てつ)するものとする.

 幹部候補生とは予備役将校になろうとする者であり,最終的に将校団
が主催する詮衡会議に通らなければ少尉になれなかった.この場合は
任官して予備役編入前の身分の者である.また,軍医予備員とは1937
(昭和12)年の勅令で制定された.陸海軍ともに自前の軍医養成学校を
持たなかったために医師資格のある者を根こそぎ集めようとした.

 17個師団24万人の平時編制の昭和の初め,軍医の定員は1500人で
しかなかった.本省の衛生局,軍医学校,全国師団司令部衛戍病院,部
隊付を集めて現役軍医の数はそんなものだった.現役軍医は大学医学
部・医科大学(中卒後7年),医学専門学校(中卒後4年)に声をかけ学費
を支給して依託学生とした者を採用した.このころ医師免許を手にする人
は毎年3000人くらいだった.

 ところが17個師団に動員がかかり,戦時編制になると軍医の所要数は
5000人にもなった.師団で4個あるいは3個持つ野戦病院,外地の兵站
病院や機関の必要数である.医師免許をもつ者が日本中で約4万7000人
でしかなかったから陸軍はあわてざるを得なかった.1年志願兵,幹部候
補生という制度で予備役軍医を育てた(2年間で軍医少尉)が,その数は
毎年170名前後.医学生全体の中ではわずか5.7%である.

 そこで軍備拡充期に入る1933(昭和8)年にはわざわざ「軍医候補生」
というシステムをつくった.満32歳未満で医師免許をもつ者は選考の上,
即日陸軍生徒・衛生部軍曹にする.2カ月後現役軍医中尉(大学卒),同
少尉(専門学校卒)にして,2年間の現役に服させるとした.海軍の短期
現役軍医と足並みをそろえたものだった.このころの医師は学校卒業まで
徴兵検査を受けることを猶予され,合格しても実際は国民兵役や補充兵
になることが多かった.
 
 軍医予備員を志願すれば短い訓練期間のあとにすぐ予備役衛生軍曹に
する.召集があれば衛生曹長に進め見習士官を命じるという制度である.
獣医もまったく同じ扱いであり,名簿には資格者が明らかになるように記
載することになっていた.
 
 次回はさらに詳しく,その記載内容をお知らせしよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.7.1




マーケット・ガーデン作戦とインテリジェンス (10)
                長南 政義
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【アモス・ギルボア著『イスラエル情報戦史』(並木書房)を推薦する】

本連載に登場するポーランドの事例に代表されるように,国の
四周を敵国に囲まれた国家の情報機関はよく発達する傾向に
ある.現代の事例でいえば,イスラエルの情報機関がそれに該
当するであろう.

一般に,情報機関の活動は機密に属するため,情報機関の活動
の実相に迫ることのできた研究というのは少ない.だが,市民の
間で高まりを見せる情報公開・情報アクセス権の輿論の高まり
に対し,情報機関ですら沈黙を守ることが困難な時代となった.

この時代の流れをうけて二〇一〇年,英国の対外情報部MI6が
正史を刊行して(ジェフリー・キース著『MI6秘録 イギリス秘密情
報部1909〜1949』上下巻,筑摩書房),自身の活動を可能な限り
明らかにして国内外の注目を集めた.このMI6の正史の出版に影
響を受けたのが,イスラエルの情報機関関係者である.モサドや
アマンなどのイスラエルの情報機関も自身の手で明らかにできる
活動の詳細を公表しようとしたのである.それが,イスラエル政府
公認の情報「正史」である本書,アモス・ギルボア著『イスラエル情
報戦史』(並木書房)である.

本書は数多くの論文から構成されているが,その執筆者はアマン,
モサドの元長官,ヒューミントやシギントに関与した指揮官などであ
り,その内容は専門的で,史料的価値が高いものとなっている.

恐らく,本書は,『MI6秘録』とならび,今後,情報戦史の必読本とし
て読み継がれていくであろう.文章も平易で専門外の方でも読みや
すいので,ぜひこの機会に多くの諸賢が本書を繙かれることを期待したい.


モス・ギルボア著
『イスラエル情報戦史』(並木書房)
http://okigunnji.com/url/xr491gnl/


【前回までのあらすじ】

本連載は,精確な内容を持つインテリジェンスが一九四四年
九月上旬に連合軍の指揮官に利用されたかどうかを考察す
ることにある.実は,インテリジェンスの内容は,マーケット・ガ
ーデン作戦実行に伴うリスクを連合軍の指揮官に警告していた.

指揮官が決定を下すために利用できるインテリジェンスの情
報源は数多く存在していたが,本連載では「ウルトラ」情報に
より提供されたインフォメーションにのみ焦点を当てて考察を
進めることとする.第二次世界大戦を通じて,連合軍の戦略レ
ヴェル・作戦レヴェルの指揮官たちはウルトラ情報を活用し,
ウルトラ情報の精確性に関してめったに疑いを持たなかったからだ.

前々回からインテリジェンス活動の基幹をなす暗号と暗号解読
についてみてきている.その際にキーワードとなるのは,ドイツ
軍が使用した暗号機「エニグマ」とそれを解読した「ウルトラ」情
報であるが,前回は「エニグマ」誕生の詳しい経緯について説明した.

エニグマ暗号機の誕生は,ドイツ人技師アルトゥール・シェルビ
ウスが歯車を回転させることで暗号化を行なう暗号機に関する
特許を申請(一九一八年出願)し,シェルビウスが一九一九年
に同様の特許申請を行なっていたオランダ人ヒューゴ・アレクサ
ンダー・コッホの特許を購入したことに端を発する.

一九二三年,シェルビウスは企業に暗号機を販売することを目
的とした会社を起業した.だが,シェルビウスはエニグマ暗号機
を商業用暗号機として販売したものの,彼のビジネスは順調と
はいえないものであった.

事実上無視されていたシェルビウスの暗号機が注目を浴びる契
機となったのが,一九二六年,ドイツ海軍によるエニグマ暗号機
の採用であった.ドイツ陸軍,ドイツ空軍およびその他のドイツ政
府機関はドイツ海軍の動きに追随し,エニグマ暗号機をそれぞれ
の通信システムに導入するようになった.そして,第二次世界大戦
終了までに,エニグマ暗号機は軍のあらゆる部門のみならず,軍
以外の政府内のあらゆる機関でも使用されるようになった.

今回から数回に亙り「ウルトラ」情報について述べることとする.


【忘れられたポーランドのエニグマ暗号解読作業】

よくある誤解の一つに,英国がエニグマ暗号の解読に成功したの
は,英国が単独でなした業績であるというものがある.しかし,英国
の「ウルトラ」計画の系譜は,ポーランドのウイッチャー計画に直接
遡ることができる.というのも,ポーランドがドイツの暗号通信を解読
することで蓄積した,ウルトラ計画以前の十三年間に及ぶ諸経験な
くしては,ウルトラ計画が現在かたられているような成功譚となった
かどうかは極めて疑わしいからだ.

ポーランドが,第二次世界大戦前夜に,自国がやってきた解読作業
の蓄積を,フランスおよび英国に引き渡したとき,英国はわずかに
エニグマ暗号機がどのように動くのかというような極めて初歩的な
知識しか有していなかった.

不幸なことに,ポーランドが蓄積してきたエニグマ解読作業は多く
の歴史家により見過ごされがちである.というのも,ポーランドの解
読作業は大戦中ではなく戦間期に実施され,その規模が小規模だ
ったからである.だが,小規模であってもポーランドの解読作業は効
果的なものであり,後に英国により実施された解読作業に劣らない
どころか,英国による解読作業以上の重要性を持つものであった.


【ウルトラに関するもう一つの誤解】

ウルトラに関するもう一つの誤解として,ウルトラの唯一の任務は
エニグマの暗号コードを解読することであった,というものがある.
この誤解は部分的には正しいが,ウルトラ計画の裾野は広く,
毎日,エニグマ暗号の「鍵」を発見しようと努力する数学者たちの
集団だけの努力にとどまるものではない.

現実には,ウルトラ計画は以下のようなあらゆる段階を含む総合的
な計画であった.すなわち,それらの段階には,

(1)ドイツ軍が送受信する情報を傍受する
(2)傍受した暗号の「鍵」を解読する日々の努力
(3)情報文を読みやすくする
(4)インフォメーションをインテリジェンスに高めるために情報文を分析する
(5)解読・分析が済んだインテリジェンスを第一線部隊の指揮官に伝達する
(6)それを読んだ部隊指揮官たちが「ウルトラ」情報を決断のために利用する

といった諸段階が含まれていた.


【ポーランドによるドイツ無線通信傍受計画の始まり】

第一次世界大戦の後の数年間,大戦に参戦した多くの国家が大戦
中に実施されていた暗号解読のプログラムを維持し続けたが,その
有効性の程度は各国により異なっていた.今回は,ポーランドと英国
の例を説明してみよう(次回で,フランスや米国をとりあげる予定).

それらの国々の中でも,最も積極的に暗号解読プログラムを実施し
ていたのがポーランドである.というのも,ポーランドはヴェルサイ
ユ条約が戦争を終わらせるものではなく,次の戦争までの一時的
休息期間を提供するものに過ぎないということを正確に理解していた
からである.

ポーランドにとって直接の関心事はドイツがポーランドに対してどの
ように反応するのか?というものであった.というのも,ヴェルサイユ
条約はドイツに対しポーランドへの領土割譲を定めていたからである.

ポーランドはこのことを念頭に置き,大戦終了後間もなくからドイツの
無線通信の傍受を開始し,この通信傍受活動はポーランドがドイツ
軍の侵攻を受ける一九三九年まで継続した.


【第一次大戦後における英国暗号解読プログラムの情況】

新たにエニグマにより引き起こされた潜在的な脅威が関係者により
理解された時に,ポーランド以外の連合国はポーランドの情報活動
に匹敵する諜報活動を行なっていなかった.

第一次世界大戦中,英国で行なわれた暗号解読プログラムの名前
は「ルーム40」といった.大戦終結後の一九一九年,ルーム40は解
散され,その機能は政府暗号学校(GC&CS)創設のために英国陸
軍の情報部MI1と統合され,その管轄も海軍省から外務省へと移管された.

政府暗号学校の暗号解読は戦間期も機能していたが,エニグマ暗号
を解読するのに十分な人的・物的資源の配分は適切になされておらず,
第二次世界大戦前夜になってドイツの通信システムを突き破る準備が
できていないことが判明した.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.6.22




『ライター・渡邉陽子のコラム (52) ─ 飛行管理隊/飛行情報隊(7) 』
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは,渡邉陽子です.

昨日,群馬県の板倉というところまで行ってきました.
電車の場合,自宅からはひたすら在来線でいくしか方法がなく,
往復5時間,ロングシートで揺られていました.これだけの距離
だと,JRだったらグリーン車に乗れば仕事もできるし,帰りは
ちょっとビール飲んだりもできるのに,ただただひたすら座って
いるだけ……新幹線も特急もJRも通っていない路線,なかな
か厳しいです.そして明日も板倉に行くのです.


■飛行管理隊/飛行情報隊(7)

航空機が安全に飛行するため,必要に応じて発行されるノータム.
前回はノータムにはどんなものがあるか,そして自衛隊が発行す
るすべてのノータムの審査・指導を行なっているのが飛行情報隊
だということをご紹介しました.

飛行情報隊がチェックするノータムは,1日平均300件とかなりの
数.空港の工事やメンテナンスは夜間が多いので,ノータムは夕方
に集中します.取材時,ノータムセンターの壁に貼られていたノー
タム取扱実績によれば,2011年3月のノータムは陸海空自衛隊と
国交省の発行合わせて8367件.同年11月の5593件と比較すると,
東日本大震災の影響により,ノータムが相次いで発行されたことが
わかります.


飛行情報隊のある府中基地の建物は,戦後進駐軍が建てた年代
物.東日本大震災での震度5弱の揺れは,実際には「建物が倒壊
するかと思った」と隊員たちが青くなるほどの激しい揺れだったそうです.

壁の一部がパラパラとはげ落ち余震が続く中,松島基地から電話が
ありました.津波の被害を受け28機あった航空機全機が水没した基地です.

「間もなく松島基地に津波が来ます.端末が壊れてノータムを発行
できません,そちらで代替発行をお願いします.われわれはこれか
ら避難します」


誰も経験したことのない未曾有の状況.
確かにノータムの代替発行は飛行情報隊の任務のひとつではあり
ますが,松島基地からの命がけの電話も,その内容も,それを受け
て冷静にノータムを発行した飛行情報隊も,自衛隊員が入隊時に
宣誓する「事に臨んでは危険を顧みず,身をもつて責務の完遂に
務め」そのものです.
結局,松島基地の端末が復旧するまで,飛行情報隊は約30通の
ノータムを代替発行しました.


少し話がそれますが,津波に襲われた松島基地についても触れ
させてください.
当時,松島基地には飛べる状態の航空機18機と故障や整備中の
10機がありました.震災当日の午後は天候不順のため午後の訓
練が中止,地震が発生したときはすべての航空機が基地にある
状態でした.
1446に地震が発生,1510には松島基地周辺に大津波が到達する
との警報を入手した基地司令は,地震発生から約10分後に全隊
員へ屋上への退避を指示したといいます.結果的に津波の到達
は地震発生から約1時間後だったため,「隊員の退避が早すぎた
から航空機を空中退避させられなかった」という非難の声が一部
に挙がりました.


自衛隊はこういうときにあまり弁明しないので歯がゆいのですが,
ハンガーに格納されている航空機や故障中・整備中の航空機を
1時間以内に飛ばすのは物理的に不可能です.

格納作業中だった航空機でも,改めて飛行前点検を行ない,か
つ,これほどの揺れの後ですから滑走路や誘導路の目視による
安全確認が必要です.さらに第1回にも書きましたが,航空機の
飛行にはかならず飛行計画書の提出が必要です.

これらすべてを行なうには最短で約40分かかるそうです.しかも
当日は訓練が中止になったほどの天候不良でした.


「スクランブルは5分で上がってるじゃないか」という声もありました.
スクランブル待機している航空機はあらかじめすべての点検や
準備が整っており,航空機もパイロットも「いつでも飛べます」とい
う状態で待機しているからこそ5分で上がれるのです.あまりに
非現実的なコメントです.


つまり,1510頃に大津波が押し寄せるという情報を入手した時点
で,航空機の空中待機という選択はありえませんでした.津波が
予想より遅れてくるかもという希望的観測で,千数百人の隊員の
命を危険にさらすわけにはいきません.


目の前で津波に流されていくF-2を見ていた隊員たちは,北風の
吹き付ける屋上でなにを思っていたのでしょう.ノータムの代替発
行を電話で頼んできた隊員は,どんな思いで避難したのでしょう.

松島基地をベースとしているブルーインパルスが,九州新幹線開
通イベントで展示飛行するため松島基地にいなかったことが,
唯一明るいニュースでした.


次回は飛行管理隊/飛行情報隊の最終回です.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.7.9




荒木 肇
『動員のコスト(3)──日本陸軍の動員(3)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


□はじめに

 こちら関東では長い雨が続いています.いつになったら
梅雨が明けるのか,だんだん落ち込んでくるような気がし
ています(笑).そうした中で,この日曜日は小山町須走
の富士学校で創立61周年記念日が開かれました.いつ
ものことながら,列席された国会議員の方々のお話がた
いへん長く,いささか疲れます.いいお話で心に残ったの
は佐藤正久参議院議員のご挨拶でした.国防のために
共に尽くすという共感にあふれたお話に感動しました.

 逆に民主党政調会長のお話にはいささか眉に唾付ける
思いをもちました.かたや党としては『徴兵制になるかも』
と煽りながら,議員ご本人としては「防衛論議に野党も与
党もない.力を合わせて国防に誠実に対応する」とのこと.
なんとも面妖な話です.面従腹背,腹の中は違うのだな
と,皮肉ながらさすが大物政治家は違うな〜などと感想を
もちました.

 徴兵制,たやすく口にするけれど,実際はたいへんな仕組み
です.

▼詳細な下士官についての記入

 下士官についての記載要領も興味深い.今回も読みやすく
するために現代語の仮名遣いと漢字にあらためる.
『現役を離れた翌日から予備役に入り(服務令15条),その
終わりは任官の年から起算して19年目の3月31日とする
(服務令24条)』
 予備役の期間はなかなか長い.下士官の現役定限年齢は
兵科准士官40歳,ただし各部と憲兵にかぎり48歳である.
曹長,軍曹,伍長は,各部と憲兵は45歳で,兵科は40歳とある.

 次の但し書きも重要である.『操縱候補生の飛行機操縦の検
定に合格し,もしくは飛行機操縦士免許をもつ年齢が25歳未
満の者で予備役の航空関係の兵科下士官を志願し,下士官
に任じられ者は,年齢48年に満ちる年の翌年3月31日を終期
とする(同前25条の2).また,軍医予備員である衛生曹長と
軍曹は年齢45年に満ちる年の3月31日まで予備役とする(軍
医予備員令6).』

 特種技能者である操縦士や医師免許のある者は各部のあつ
かいになる.そして,『志願ニ依ラザル下士官ニ任ゼラレタ者』と
いう類別も登場する.
『志願しないで兵から下士官になった者は兵の服役と同じになる.
ただし,志願して下士官としてさらに現役になった者は志願して
下士官に任じられた者とし,取り扱われる.ただし,補充兵で下士
官になった者は前の服役年月を通算して予備役の終期は17年
4カ月に満ちる日とする(服務令40条)』

 大西巨人の『神聖喜劇』のなかには補充兵である主人公の内
務班長たちが登場する.彼らは昭和7(1932)年兵であり,昭和
16年には対馬要塞の軍曹だった.長期化した北支事変,日華事
変の中で度重なる召集を受け,『大陸で重砲ひっかついで転戦し,
死にそこなった強者』でもある.志願などしなくても下士官不足の
中で伍長になり,軍曹になってきた人たちだろう.

 下士官は必ず学校教育を受けてなった.各地にあった教導隊で
ある.自衛隊でも事情は同じで,全国の方面隊ごとに陸曹教育隊
をもつ.選抜された士長が入校して下士官(曹)になる学校のこと
である.制度の改編で少年自衛官という名前がなくなった陸上自
衛隊高等工科学校(神奈川県横須賀市)の生徒も下士官候補者
であり,成人したころには3等陸曹に任命される.

▼「一国」とのからみ

 ところが戦時になって損耗が起こると,そうした仕組みは崩壊してし
まう.志願して現役下士官になる道の他に,志願しなくても下士官に
されてしまう予備役兵が出てくるということだ.下士官になると(故郷
に)帰りにくくなる,そういった事情が生まれてくる.ただおそらくは人
事関係の上官から,『これだけ戦争が長くなると帰ったってすぐに次の
召集がくる.ならば少しでも階級は上げておいた方がいいではない
か』とさとされた人も多かったに違いない.
 
 注目すべきは「補充兵」から下士官になる者も出てくることだ.補充
兵とはもともと戦時の補充にあてる者であり,上等兵になることも話
題になるほどだという.これまた有名な小説『人間の条件』(五味川
純平)の主人公,梶は補充兵から上等兵になっている.これも下士
官になれる資格があったといっていい.
 
 次に,「第一国民兵役」についての記載がある.
『下士官で年齢45年に満ちる年の3月31日の前に予備役を終え
た者は年齢45年に満ちる年の3月31日まで引き続き第一国民兵
役に服させる(同前27条)』
 国民兵役とは事変または戦争のときに,国民軍を編成するときに
服役義務がある立場だった.まず,召集がくることはなかったが,軍
隊との縁は45歳まで終わることがなかった.
 
『現役と予備役の下士官で身体の故障その他で現役・予備役を免じ
られた者は同じく年齢45歳の3月31日まで第一国民兵役に服する
(同前30条)』
 
 幹部候補生についての記入注意もある.幹部候補生採用までの
区分に応じた定限年齢があった.幹部候補生とは甲種が将校予備
員,乙種が下士官予備員である.いまの自衛隊では警察予備隊から
の制度だろう.外国軍の将校にあたる者だけを幹部というが,昔の
陸軍では『官になった者』が幹部といわれた.したがって判任官だっ
た伍長以上は幹部である.
1)現役兵,または補充兵の出身ならば現役または補充兵役の起算日.
2)国民兵では徴兵免除の徴兵免除処分を終えた年の12月1日.
3)上記以外のほかに志願によって兵籍に編入された者は兵籍編入日

 幹部候補生はふつう現役なら1期(4カ月)の終了と同時に試験を
受けた.補充兵なら教育召集があり,その終わりに採用試験を受け
た.国民兵というのは徴集された年にはおそらく丙種合格者であり,
身体虚弱と判定を受けた人になる.

▼なくなった後備兵役

 1941(昭和16)年から長い間の馴染みがあった「予・後備役」という
区分がなくなった.なんとなく,もう召集はあるまいという気分にさせられ
る後備役という名称はやめて全部予備役という名称に統一しようという
ことだっただろう.

 予備役将校は期間が満了すると「退役」となった.ただし陸軍兵科・各
部将校は裁判官(判事)と同じで死ぬまで官をもつ終身官だった.その
礼遇を受け続けた.

 また現役定限年齢の延長もあった.兵科中尉と少尉は『當分ノ間』
46年に延長された(昭和7年3月).兵科大尉は49年に延長される.
また1937(昭和12)年には兵科大尉は50年に,主計大尉は52年に
延長された.

 大尉というのは将校の中でも初級ではなく中級に位置する.この延
長の意味はたいへん大きい.損耗数の多さがその背景にはあった.
そして各部の中でも主計将校の延長である.これまた戦時の所要数
が足りなかったことが分かる.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.7.8




陸軍機 vs 海軍機(43)       清水政彦

「零戦と隼(42)」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「零戦vs隼」の第42回.今回は,昭和18年3月から6月頃に
かけての第六飛行師団の戦いぶりをダイジェストでお届け
します.

▼ 海上輸送掩護に明け暮れた昭和18年前半

 昭和18年3月から6月にかけて,第六飛行師団はウェワク
地区およびハンサ湾,マダン地区に対する船団輸送の掩護
に忙殺されていた.乗船していたのは主として陸上兵団,道
路構築のための工兵部隊,高射砲部隊,飛行場設定隊,整
備部隊などであり,積み荷はこれらの部隊向けの軍需品や兵
器類であった.

 この時点では三式戦を装備する第14飛行団が戦力として期
待できないため,一式戦装備の第12飛行団を総動員して船団
の上空掩護を行なう必要があった.

 こうした船団輸送はおよそ1カ月に2回のペースで実施され,
第12飛行団はそのたびに数日間にわたり連日出撃して船団の
上空を掩護した.この時期の輸送は連合軍の空襲を受けること
なく無事に終了することが多く,出撃した一式戦も,多くのケース
で全機が帰還している.

▼ ラエ方面での地上戦支援(5月中旬〜6月中旬)

 昭和18年5月中旬,連合軍の小部隊がラエ近郊の「サラモア」
地区に進出し,当地区の警備にあたっていた第51師団の部隊と
交戦した.

 戦況は一進一退が続き,断続的に小規模な戦闘が発生した
が,第六飛行師団も船団掩護の合間を縫って何度かサラモア地
区に出撃し,敵陣地に対する爆撃・銃撃を行なって第51師団の
戦闘を支援した.

 この際,連合軍の航空部隊との間に大規模な交戦はなく,攻
撃に参加した機の大部分が無事に帰投した.一方でとくに目覚
ましい戦果もなかったようで,逆に友軍部隊を誤爆して20名程度
の死傷者を生じている.

▼ 連合軍の偽装工作に騙される(5月〜6月)

 昭和18年4月末ころ,中部ニューギニアの脊梁山系にある「ウィ
ルヘルム山」山麓の高原地帯に突如多数の滑走路が出現し,連
合軍による基地建設が進んでいると判断された.

 ウィルヘルム山はウェワクから南東に約300キロ,マダンから南に
100キロ程度という至近距離にあり,仮にこれらの滑走路が連合軍
の根拠飛行場となれば,ウェワク地区に対する小型機での連続空
襲が可能になる.

 前述したとおり,東部ニューギニアの戦略態勢は,「連合軍はニュ
ーギニア島北岸沿いに西に反攻する」「脊梁山系の突破は不可能」
という前提のもとに成立している.

 仮にウィルヘルム山一体が大航空基地となれば,この前提が崩
れる.ウェワクとマダンは「背中から刺される」状況になり,ニューギ
ニア北岸への船団輸送が不可能になって全戦線が崩壊するであろう.

 とはいえ,ウィルヘルム山は沿海部から隔絶された内陸の高地で
あり,陸上からのアクセスが不可能な立地だ.常識的に考えれば当
地への補給は継続不能で,大規模な飛行隊が常駐することはない
(単なる不時着用滑走路である)と考えるべきだった.

 実際,これらの「飛行場」の実態は草原の草を刈っただけの偽装
基地で,日本側の攻撃を無価値な目標に誘引するための罠だった.
同時期にラエ近郊(陸上からのアクセスが可能な立地)で本格的な
根拠飛行場の建設が始まっており,ウィルヘルム山でのこれ見よが
しな「基地建設」はそのための煙幕でもあった.

 しかし,日本側は連合軍の空輸能力を過大評価していたため,ま
んまと連合軍の罠に落ちてしまった.「連合軍の物量ならば,空輸で
大基地を維持できるのではないか」という不安に耐えられなかった
のだろう.ウィルヘルム山周辺に多数の滑走路が出現したことは戦
略的な大事件と受け止められ,その建設と運用を妨害することが是
非とも必要であるとされたのだった.

 第六飛行師団は,乏しい戦力を輸送掩護や地上作戦支援に振り
向けつつ,昭和18年5月以降,可能な限りの兵力を動員して繰り返
しウィルヘルム山に出撃し,「ただの草原」を爆撃し続けた.

▼ 陸上交通路の遮断

 ラエの南方にある小集落「ワウ」が第八方面軍の当面の攻略目標
となっていたことはすでに述べた.ワウの地形は「険しい山の中に
開けた小盆地」であり,北岸のラエ地区との間にだけ,獣道のような
細い道路が通じていた.

 連合軍が支配するニューギニア南岸とワウの間には陸上交通路が
存在しなかったので,ワウの連合軍は補給をすべて空輸に依存して
おり,連日多数の輸送機が動員されていた.

 しかし,いくら多数機を動員しても空輸で維持できる兵力量には限界
があり,昭和18年4月頃の時点でワウに進出していたのは少数のオー
ストラリア軍のみ.飛行場には若干数の小型機が進出していたようであ
るが,やはり補給の問題で,この時点では本格的な根拠飛行場とはな
らない.連合軍は南岸地区とワウを結ぶ自動車道路の建設を急ぎ,昭
和18年夏頃の完成を目指していた.

 日本側も,写真偵察によってこの道路構築作業の進捗を把握してい
た.自動車道が開通すればワウに駐留する連合軍の兵力は大幅に増
加し,その攻略は不可能になる.また,ワウに本格的な航空部隊が常
駐すれば,ラエはもちろんマダンやハンサ湾の制空権が脅かされ,爾
後の作戦に大きな悪影響を与えることになるだろう.

 第六飛行師団では,連合軍の道路建設を妨害するため航空攻撃の
必要性を感じたが,兵力不足と悪天候に妨げられてなかなか実行でき
ず,結局は小兵力による散発的な攻撃を数回実施しただけに終わった.

▼ 海上輸送の妨害攻撃

 ラエ方面に対する連合軍の本格反攻を一日でも遅らせるためには,陸
上交通の遮断と同時に,ニューギニア北岸沿いに行なわれている連合
軍の海上輸送を妨害する必要がある.しかし,海軍航空部隊はニューギ
ニア方面での輸送船攻撃にはまったく不熱心であったので,こうした海上
輸送妨害の作戦も第六飛行師団の仕事となった.

 このとき,第六飛行師団の戦闘機隊は,友軍の船団掩護とウィルヘル
ム山への進攻作戦に忙殺されて兵力に余裕がなく,泊地攻撃に赴く爆
撃隊を掩護することは不可能だった.そこで,泊地への攻撃は戦闘機を
伴わず,夜間に少数の重爆や軽爆が単独で進攻することになった.

 こうした夜間攻撃は雲に阻まれて目的地に到達できないことが多かっ
たが,目標まで到達した機はおおむね爆撃を成功させて無事に帰還し
ている.興味深いのは,陸軍の場合,海軍と違って船そのものを攻撃目
標とせず,泊地の揚陸点を爆撃して,海岸に積み上げられた物資を炎
上させる戦術がとられたようである.

▼ 敵飛行場に対する航空撃滅戦

 数に勝る連合軍の航空戦力を削ぐためには,根拠地となる飛行場に対
する空襲を連続して連合軍機を地上で撃破するしかないが,前述したと
おり,第六飛行師団は少ない兵力で膨大な量の任務を与えられており,
まとまった兵力で敵地に進攻する余裕は持てなかった.

 少ない兵力をやりくりして何度かブナやワウの飛行場に対する航空撃
滅戦が企図されたが,せっかく出撃しても悪天候に阻まれて引き返す
ことが多かった.

 もっとも,天候に恵まれて飛行場の攻撃に成功した場合には,連合軍
の反撃にもかかわらずわずかの損害で戦果を挙げている.この時点で
は,日本陸軍の航空隊は「空中では」負けていなかったといってよいだろう.

▼ 増加しない稼働機数

 空中での損害はなくても,「ただ飛んでいるだけ」で機材と人員は消耗
する.荒れた滑走路では一定確率で事故が発生することは避けられない
し,連日のように高空での長時間任務にあたるパイロットには疲労が蓄
積し,感染症の蔓延を助長した.

 さらに,運転時間が蓄積したエンジンは念入りな整備が必要になる.
1個飛行団を連日フル回転させようとすれば,整備のために膨大なマン
パワーが要求されるが,マラリアは地上勤務の整備員の間にも猛威を振
るっており,地上要員の4割から半数が発熱のため任務に就けない状況
であった.残りの6割も大なり小なり感染症にかかっており,解熱剤を飲
んで勤務できる者は病人と見做されなかった.

 加えて,地上要員はさまざまな雑務(基地施設や宿舎の建設と補修,
給水,荷役,弾薬や燃料ドラム缶の分散遮蔽作業など)に追われ,本来
の任務に専念できないのである.こうした悪条件が折り重なり,第六飛
行師団の整備力は慢性的に不足していた.

 都市インフラの不在と劣悪な衛生環境がパイロットの体力を消耗させ,
整備力の低下を招き,「飛行機があるのに飛べない」という状況が出現
しつつあった.

 また,爆撃隊は夜間空襲によって地上で機材を破壊されるケースが目
立ち,空中での損失が少ない割には一向に実働戦力が回復しなかった.

 第六飛行師団の戦力不足は日増しに深刻になり,戦況打開のため,
さらなる航空戦力の大増強が求められるようになっていく.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.6.24




荒木 肇
『国民皆兵制のコスト──日本陸軍の動員(1)』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

□はじめに

 民主党の枝野さんの発言にはびっくりしました.『安保法
制の次は徴兵制度だ』.これほど,現在のわが国社会にお
いて非現実的な夢物語はありません.

 徴兵制度のために用意しなければならない各種の法制度
を創りだし,その実態を支える多くのシステムを構築し,それ
らを維持する努力をする.同時に反戦思想の持ち主や厭戦
気分をもつ人を内部に抱えるリスクの大きさが生まれます.
その厖大な人事管理も問題です.
 
 仮にも政党の幹部であり,一度は政権の中で複雑な行政の
実態も知っているでしょうに.おそらく実現などは決してできな
いことを知っていながらの「為にする」発言でしょう.
 
 もっとも戦前の兵役制度について多くの方はご存じないようです.
 その理由の一つは,もともと国民皆兵制のもとで軍隊が身
近にありすぎて常識は記録に残らなかったことです.現役を
終えて予備役,後備役(のちには士気があがらないということ
で後備役も予備役に統一された)になった人たちは,完全に
お役御免になるまで,数年に一度は「簡閲点呼(かんえつてん
こ)」がありました.
 
 指定された部隊に「奉公袋」をもって出頭し,いつでも召集に
応じられる状態かどうか検閲を受けたのです.職場から1週間
の休暇をもらい出て行く人も珍しくなかったのでしょう.それが
滅多にないことなら誰もが驚き,記録にも書きます.それがな
いということはごく当たり前のことだったに違いありません.同
僚や先輩,後輩が『点呼だから』と言って何泊も出かけて行く.
それが日常の光景なら誰もが当然と受け止める社会だったのです.

 第二の理由は,徴兵の手続きを始めとして在郷軍人の管理
などのシステムが秘密のベールに包まれていたことでしょう.
書類の多くは市町村長と兵事係という吏員しか読むことができ
ませんでした.亡くなった松本清張氏も召集令状にまつわる小
説を書きました.戦後になって書かれたもので,不公平な召集
によって運命を狂わせられた男が,召集令状を自分に下した人
たちに復讐をするという話(『遠くからの声』)です.例によって
名文書きであり構想力も天才的な作家でした.あたかも史実で
あるかのように受け取られ,文芸評論家や一部の歴史学者も
引用するといったことがありました.

 しかし,事実はまるで違います.そんな一部の人のほしいまま
に神聖なる召集業務は行なわれてはいませんでした.研究者の
中にも大江志乃夫氏のように史実を大切にする人もいました.
福井県のある村から発掘された兵事関係書類を紹介し,多くの
伝説や定説をくつがえす業績も出されました.同じようにNHKの
記者だった小澤眞人氏もその村の資料を使って立派な紹介も
書かれました.

 たとえば,『赤紙は一銭五厘のハガキでやってきた』などという
定説があります.兵隊はハガキ一枚で集め放題だというたとえで
す.このデタラメもいつの間にか事実とされ,昭和60年代にベス
トセラーになった岩波新書『戦中用語集(三國一郎)』にもそのよ
うに書かれていました.そして,誰もそれに異議を唱えようとしな
かったのです.

 これは全く事実ではありません.召集令状は役場の兵事係が
直接,本人に手渡す規則が守られていました.本人が不在の時
には戸主が受け取り,寄留先に戸主が手紙で知らせることになっ
ていたのです.わたしの叔父がそうでした.小学校の高等科を出
るとすぐに,東京の自転車屋に奉公していた叔父に祖父からハガ
キが届きました.1週間後に入営せよという令状が来たという知ら
せです.叔父はただちに帰省しました.そして役場に出向き,兵事
係に出頭報告をし令状の半券を受け取ったのです.

 わたしは学部時代に「大正時代の教育改革と陸海軍教育」に関心
をもち,亡母の故郷の町で聞き取りや,青年訓練所,実業補習学
校,青年団運動について調べていました.気持ちよく協力してくれ
る人たちが多く,なかでも母の同級生で陸軍少尉だった方が教え
てくれたのが「兵事関係書類」の存在でした.役場の奥深く,当時の
兵事係のY氏が責任感から焼却をすることもせず守り通してきたものです.

 いまもその膨大な記録の一部をわたしは持っています.今回から
動員,その実態を何回かにわたって紹介していきましょう.

▼兵事関係書類とは?

 まず,壮丁名簿,現役兵調書,陸軍在郷軍人名簿,現住地在郷軍
人名簿,陸軍動員件銘簿,陸軍動員実施に関する発来翰綴,陸軍
充員臨時召集令状受領証綴,陸軍動員日誌,馬匹徴発実施に関す
る発来翰綴などがこれから述べる内容に関するものだ.他にも陸軍
下士官兵在隊間成績調書,陸軍兵籍に関する書類綴,入営延期者
名簿や海軍軍人に関するほぼ同じようなものも多くある.たとえば海
軍は陸軍の現役兵身上調書に対して身上書という.

 兵事係の仕事の中味は多方面にわたった.徴兵検査,召集,志願
兵について,馬や車輛の徴発,戦死の告知や軍人遺家族への掩護,
叙勲業務,遺族年金の手続きなどである.しかも極秘扱いだった軍人
たちの身上調査まで行なっていた.その精密さは驚くべきだ.わたし
の伯父にあたる人の身上調査書を見たが,本籍,現住所,学歴,学
校時代の成績,近所での評判,家の財産,家族それぞれの生業,収
入,学歴,職業歴などなど合計では16項目にも及んでいた.財産も,
上中下がそれぞれ3段階に分かれ,上の上から下の下まで9階層に
なっている.母の実家は『下の上』とされていた.

 几帳面な楷書で書かれた書類には次のように書かれていた.
『戸主○○(私の祖父)は中等学校(実際の校名あり)在学中に疾病に
依り失明.その後鍼灸師として生業を営み,福井県より転入せし鉄道
建設請負業○○の長女○○(私の祖母)と一家を成し,子女多く,貧窮の
中にも刻苦勉励を進め…』という調子だった.総合的な評価はたいへ
ん好意的だったことに安心した記憶がある.これを書いた兵事係Y氏は
町の名士の家の出であり,小学校卒業後,農会の技手から役場に転
職した.周囲に声望もあり,信頼され,公平な人物とされていた.

▼在郷軍人名簿

 在郷軍人とは現役をおえ予備役(ある時期まで後備役もあった)に
あったり,現役兵ではあるが帰休中の者であったり,補充兵役,第一
国民兵役に在役中だったりする人をいう.かんたんにおさらいすれば,
当時の若者はたいていが満20歳で徴兵検査を受けた.兵事係は検
査時期の1年前から戸籍簿を確認して該当者を抜きだしていた.

『戸籍法の適用を受くる者にして前年12月1日より其の年11月30日
迄の間に於いて年齢20年に達する者』が徴兵検査を受けることになっ
ていた.わざわざ戸籍法というのは,朝鮮人,台湾人や先住民,南洋群
島の住民などは「民籍」といわれて兵役の義務がなかったからである.

 この徴兵検査を受ける義務の年齢を徴兵適齢という.20歳とは限らな
いのはさまざまな徴集猶予があったからである.高等教育を受けている
者は卒業まで猶予があった.だから帝国大学の学部生は26歳まで検査
を受ける義務が免除されていた.また,陸海軍の兵籍に編入された生
徒(海兵・陸士・海機・陸経や少年飛行兵など)と,これらのうちでも病
気やけがなどで兵役を免除された者,志願兵として現役兵の者,また志
願兵出身で現役を終えた者,また病気やけがで兵役免除された者,徴
兵適齢年であるが短期現役兵として徴兵検査を受ける者(師範学校卒
業者)は除かれた.そして,6年以上の懲役刑,もしくは禁錮刑に服した
者も届ける必要がなかった.名誉ある帝国軍人には重い罪を犯した罪人
はなれなかったのだ.

 徴兵検査では「役種」が決定される.翌年初めに入営する現役,とりあ
えず戦時に応召する立場の補充兵である.補充兵は教育召集といって
3カ月の訓練を受ける.この3カ月というのが兵隊の基本訓練に要する
時間である.すでに教育を受けた補充兵を「既教育」といい,まだ未終了
者は「未教育補充兵」とされた.この役種を決定することを「徴集」という.
ドラマや小説,ときに研究書の中にも入営することを徴集という書き方が
あるが史実的には注意を必要とする.徴集猶予は検査を待つこと,入営
猶予は入営を遅らせることである.

 さて,現役兵が2年を終えると予備役になる.補充兵は現役兵と同じ
期間,兵役について教育召集を受けて待機する.補充兵には第一と
第二があり,通算すると12年4カ月になった.現役兵は通算15年4カ月
の現役・予備・後備を終えると満40歳までの第一国民兵役についた.
補充兵の中の既教育兵はやはり第一国民兵役.未教育の者は第二国
民兵役についた.大東亜戦争末期に,根こそぎ動員といわれ,召集され
た人が多かった.その体格の貧弱さ,老年ぶりに『また,二国の補充兵
か』と現役や予備役の下士官・上等兵を嘆かせた人たちである.

 これらの人の詳細な記録,在郷軍人名簿こそ,動員・召集のための
重要なものだった.兵事係だったY氏によれば,もっとも苦労し,正確
を期そうとしたのがこの名簿だったという.そして存在は秘密とされ,当
時,町長しか見ることができなかった.だから多くの在郷軍人もそうし
た資料があることすら知らなかったのだ.

 分厚い在郷軍人名簿綴りの表紙の次には記入の際しての注意事項
があった.要約すれば,在郷軍人全員が漏れなく,既教育者(現役・予
備・後備役と補充兵役)は在隊間成績調書,軍隊手帳の基づき,補充
兵は補充兵証書,その他は聯隊区司令官と旧兵籍地市区町村長の通
知に基づき,戸籍簿と対照点検の上,記入する.「身上の異動と諸般の
調査並びに各種召集,点呼の準備及び実施の要に資するものとす」ともあった.

 内容は次の7つの項目に分かれた.
1)戸主または家族,あるいは召集通報人住所氏名
2)本籍地(寄留地)
3)兵種・部
4)官等級
5)職業(特有の技能)分(特)業
6)健康度
7)摘要

 摘要とは入隊した部隊名や日時のほか死亡,転入,所在不明かどうか,
刑罰の有無などが書かれた.異動を明らかにして,召集の対象外になる
者を選別した.戸主や家族,通報人が書かれている.これは確実に令状
が届くためのものである.

 以下,次回に紹介する.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.6.24




荒木 肇
『動員のコスト(4)──日本陸軍の動員(4)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

□はじめに

 動員とは陸軍が実際の戦闘を行なうために,緻密に
準備・計画し,人,物,金を集めて平時編制から戦時
編制に移ることをいいます.平時の陸軍の,そのほとん
どの活動は教育・訓練でした.初年兵や補充兵を毎年
受け入れ,初級将校や下士官はその教官・助教となり
ました.なぜ戦時に陸軍は動員を必要とするかというと,
陸軍という組織が平時と戦時ではまったくその構成が
違っているからでした.1万人ほどの師団が戦時になる
と2万5000人の規模になりました.それは平時には教
育や組織維持に必要な編制しかもっていないからです.

 海軍はこれに対して艦隊などをすぐに大きくできません.
軍艦を造り,その乗組員を訓練するには数年がかかるから
です.したがって,平時編制と戦時編制の差は陸軍のほ
うがはるかに大きいものでした.また,海軍は陸軍の動
員に対して「出師準備(すいしじゅんび)」といいました.海
軍の平時の仕事が教育・訓練であることは変わりません
が,各鎮守府には海兵団という新人教育専門の部隊が
あります.これが陸軍との一番の違いであったともいえます.

 戦争になると陸海軍全体が戦時編制になるかというとそ
うではありません.それぞれの部隊や艦隊が別々に体制移
行します.動員の反対後は復員です.戦時にも復員という
ことがありました.原則として,復員されて平時編制にもどっ
た部隊の召集兵は召集解除となって帰郷します.日露戦争
後にも1年から2年もかけて,そうしたことが行なわれました.

 今回は,まだ説明が動員の下部構造,現場の兵事書類
の解説ですが,次回は全体の仕組みについて語る予定です.

 MT様,わたしと同じく富士学校の創立記念日に行かれた
ようですね.お便りありがとうございました.わたしの意見に
ご賛同くださり重ねてお礼を申し上げます.それにつけても
某野党は故意か,無知によってか『徴兵制キャンペーン』を
ビラでも展開しているようです.あやしい昔風のイラストなどを
描いて出征する若者と見送る母親らしい人を登場させていま
す.そうしたことが失礼なことという感覚がないのでしょう.

 多くの人がさまざまな思いで令状を受け取り,家族がそれを
どう受け止めたか,きちんと知識がないままに自分たちの政
治活動に利用する.そういったことが平気でできるところに
彼ら,彼女らの人権感覚を疑うのは私だけではないでしょう.


▼召集のデータベース・在郷軍人名簿

 実物の名簿は縦長のA4サイズになっている.1人が1枚に
なり,綴じられたものには黒い厚紙の表紙がついた.縦書き
で枠に区切られ,右端の枠内には,在郷軍人名簿という表題,
その下には役場の名前が印刷されている.大きくは上下二段
に分かれ,在郷軍人の個人情報がすべて見て取れるように
なっている.

 研究者の間でよく知られている富山県庄下村(現在は砺波
市)の兵事資料は当時の兵事係であるD氏が保存された功労
者である.わたしのメモである岐阜県N市のそれも,当時のS
町のY氏の努力によって現存する.ただし,戦後の大型台風に
より,多くが失われてもいる.

 記載様式は庄下村とほぼ同じであろう.これから説明する.

▼健康度

 まず,「健康度」,これが甲・乙・丙・丁という4等級になる.兵
事係に聞いてみると,これは当時でもかなりの個人情報だった.
ふだんの暮らしや働きぶりから推察したらしい.医者に定期的に
診てもらっていると,その病名や状況について調べてもいたという.

 甲と乙は召集対象者になる.甲は「身体強壮にして激務に堪ゆ
る者」ということから野戦でも使えるし,乙は「常務に堪ゆる」ので
後方部隊や留守隊の要員にあてることができる.丙は「疾病虚
弱にして常務に堪えざる」,丁は除役見込み該当者である.

 ただし『乙丙の者については』と但し書きがついた.勤務に影
響すると思われるような症状を記入する.丙は『充要可能予定
期日』つまり,治癒にいたるまでの加療の見込み期間を調査して
付箋に記入して,後に述べる『摘要』の欄に貼りつける.市町村
の兵事係はこうして毎年,その年の軍人たちの健康状態を調べ,
報告しなければならなかった.それは同時に,少しでも身体を
悪く見せようとし,自己申告では不正になるということを予想させる.
 
 また軍隊ばかりではなく戦前社会の人が恐れたのは「結核」で
ある.今でこそ抗生物質も豊富になり,決して恐ろしい病気で
はないが当時は「死病」と思われていた.貧しい農山村や,労
働条件のひどかった都会の底辺の暮らしの人には,その疑いも
含めれば多くの人がいたことが事実である.軍隊は何より伝染
病を嫌う.よく戦後に抵抗して兵役拒否をしたという人がいると,
聞いてみると徴兵検査の前に醤油を大量に飲んでとか,『息をす
ると苦しい』などと軍医に申告した人も多かったらしい.申告書類
の中にも『呼吸音微弱』や『心雑音』などの表現が見られる.

 つづいて,毎年度ごとの「照合」という欄がある.戸籍と兵籍と
のチェックだった.次に「配當(はいとう)」という欄があり,年度
ごとに「動員符号」が書かれていた.この符号は師管区ごとに
決められていて,動員の範囲を表すものである.これについて
はあらためて仕組みの解説の中で詳しく説明する.

▼令状が渡された仕組み「一銭五厘のハガキはウソ」

 さらに「戸主又ハ家族若クハ召集通報人住所氏名」という
大きな欄がある.召集令状は原則として兵事係が警察に連絡
し,召集区ごとに出かけて直接本人に手渡し,受領証を受け
取ってくる.ところが,よその市区町村へ住んで勤めに出てい
る,あるいは外国へ行っているなどという事態が起きると戸主
や家族が受け取ることになった.その人の姓名が書いてある.
その横には,「寄留地」と「本籍地」の記載があった.

 戦後,長く言い伝えられた伝説の中に『一銭五厘のハガキ
でいくらでも人は集められる』と当時の軍人が言ったとかいう
ものがある.読者の中には,それこそが軍隊の人命軽視を表
しているとか,軍隊は非人間的なところだなどという解説と合わ
せて知っている人もいるかもしれない.しかし,これは徴兵制
度の仕組みを雑に見せようとするいい加減なデマの1つでしか
ない.

 岩波新書に1985(昭和60)年発行の『戦中用語集』という
本がある.戦後40年が経ち,世間で戦争が知られなくなった.
そこで記憶を確かにして,史実を伝えるために書いたという.
筆者は東京帝大卒業のマスコミ人,高名なアナウンサーだっ
た三國一朗氏だった.その中にも,『その「召集」の「令状」は,
いわゆる一銭五厘の「赤紙」である』と書いてある.これでは,
ハガキ1枚で軍隊に入れられたという誤解が生まれるのも無理
はない.

 実際はどうかというと,召集令状は役場から本人に直接届けられ
た.もちろん郵便事務が関わったり,配達人が届けたりしたもので
はなかった.兵事係が手渡し,受領証の部分を切り離し,月日時刻
を記入して記名捺印をするというのが本来の姿だった.

 これがいつごろから一銭五厘のハガキ1枚と兵卒の命が同じだ
というような使われ方になったのだろうか.手がかりの1つはハガ
キの値段である.1937(昭和12)年4月からはハガキは2銭だっ
た.1銭5厘は1883(明治16)年以来,長く続いたものである.と
すると,大動員が始まる1937年以前に生まれたフレーズであるこ
とがわかる.
 
 大江志乃夫氏によれば,1930(昭和5)年に「陸軍召集規則」の
改正があった.そこに「応召員に代わって令状を受けとった者が,
召集員に連絡をする時の郵便は特別な標示をするように」という文
言がある.この標示がついたハガキは速達と同じ扱いをされたとい
う.現に岐阜県各務原の工場に働いていた人が,郷里S町の戸主
である兄からハガキが届いて召集されたことを知ったという証言を
得たことがある.つまり,令状が来たことがハガキによって知らされ
た,それがハガキ=令状というイメージにつながったのではないだ
ろうか.

▼兵種・部

 その下の欄は「兵種・部」である.「豫・野砲兵」,「経・経技兵」など
になる.豫は予備役の旧字による略号だった.予備役将校の名簿を
確認したが,下士官以上の出身区分の標記をせよという指示通りである.

 たとえば,歩兵・幹部候補生・少尉,徴集16年,予備役満了は昭
和48年3月31日,任官は歩兵第136聯隊などが見られる.すぐに
これだけの情報が読み取れる.騎兵少尉,高射砲兵少尉,主計少
尉,軍医予備員・軍医中尉,准尉出身・歩兵中尉,また県立N工
業の教員が技術部幹部候補生になり機工の特技をもつ曹長であ
ること,第11野戦砲兵聯隊に入営したこともわかる.獣医将校もいた.

「官等級」という記述がつき,「適・兵長」,「軍曹」などである.
官とは判任武官である伍長以上,等級とは兵長,上等兵,1・2等
兵といったランクを表す.もちろん兵科将校や各部将校にも前に
説明した「兵種・部」の記載があった.兵長の横についた「適」と
いうのは「下士官適」という意味であり,次回の召集では「志願ニ
依ラザル下士官」になったケースが多い.

▼やたら詳しい職業欄

「職業」という欄もある.そして「特有ノ技能」は朱書きされること
になっていた.たとえば,電気工事業などの横には資格といっしょ
に「電工」などとある.自動車運転免許証なども朱書きだった.
船舶操縦者なども同じである.

 これに「身上明細」という書類があり,合わせればその人がす
べてわかってしまうというほどのものである.

 会社員なら○会社重役,外交員,出納帳簿関係事務,倉庫掛,
事務,穀物検査員などとある.鉄道員なら出札,改札,車掌,機
関助手,機関手,整備掛,電信手.大工とあれば建築,建具,
指物師(家具など),船大工.職工なら旋盤工,板金工,組立工
などである.

 蹄鉄技術者も重要視された.獣医師資格をもたない獣医務下
士官候補者などがあぶりだされる.学校歴もうるさく書かれた.と
りわけ中等学校以上の卒業者は学校名や専攻科目,履修した課
程などは細かく記入された.通信事務者も同じである.有線,無
線,鉄道電信,郵便関係の技能も重要だった.

 また中等学校以上の教員免許状についても書かれた.ただし,
数学,理科,英語,物理,外国語関係である.文化系科目につ
いてとくに記載するようにはなっていない.そして小学校教員で
ある「訓導」については,そのほとんどが既に国民軍伍長になっていた.

 仮名にするが身上明細書の例を挙げよう.
 原 ○○ 大正13年10月2日生まれ 県立N商業学校卒 川崎
市O工業事務 家産の状況 中の上 家族8人 農業・寒天製造 
兄現役兵 弟O工業 妹N高等女学校 

 原 ○△ 大正14年5月3日生まれ 県立N農林卒 教練合格 
満洲で農業に従事 家産の状況 上 家族7人 父木材組合委員 
兄2人現役兵 妹N高等女学校 

 長谷部 ○○ 明治42年5月11生まれ 青年学校本科3中退 
M電気N工場 ミシン縫工 などである.

▼摘要

 全体の3割くらいの面積にあたる『摘要』という記述もある.
過去に入隊した部隊,その日時,所在不明かどうか,刑罰などで
ある.また転居して戸籍に編入した場合,所在が判明した場合,
その日時,場所等の記入例もある.
『一,何罪ニ依リ昭和○年○月○日懲役○カ月,
 一,昭和○年○月○日充員召集ノ為中部第○部隊ヘ応召
 一,昭和○年○月○日召集解除
 一,昭和○年○月○日ヨリ昭和○年○月○日迄教育召集ノ為中部第○部隊ヘ応召
 一,昭和○年○月○日以降所在不明,昭和○年○月○日所在分明 』
と,このように詳しいものだった.

 本籍地以外に居住する者についても記載は詳しい.海外につい
ても同じで,資料には満洲,朝鮮,台湾,アメリカ,ブラジル,内南
洋,シンガポール,あるいは中国各地の都市名もある.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.7.15




『ライター・渡邉陽子のコラム (53) ─ 飛行管理隊/飛行情報隊(最終回) 』
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは,渡邉陽子です.

飛行管理隊・飛行情報隊の連載は本日が最終回です.

約2か月に渡ってお読みいただき,どうもありがとうござ
いました.


■飛行管理隊/飛行情報隊(最終回)

自衛隊が発行するすべてのノータムの審査・指導する飛行
情報隊には,もうひとつ大切な任務があります.それは飛行
情報に関わる出版物の編集・校正です.

防空という任務において必要な飛行情報は,民間機のそれ
と異なる部分も少なくありません.市販されていないのだか
ら,自己完結の自衛隊としては出版物も自分たちで手掛け
てしまうのです.


代表的な出版物には『航空路図誌』があります.これは国内
すべての飛行場の情報をパイロットのために編集したもので,
搭乗員が機上に持ち込んで使用します.非売品ですが,それ
ゆえマニアにとっては喉から手が出るほど憧れる逸品だとか.

『航空路要図』は航空路,航空保安無線施設等の情報を図面に
したもの.
『飛行計画要覧』にはフライトプランの記入要領等が書かれています.
そのほか『訓練/試験空域図』『自衛隊航空図』などもあり,
少人数でこれだけの数の出版物を編集するのはさぞ苦労も
多いことでしょう.


出版物を手掛ける図誌班は,企画・点検(校正)と編集のグループに
分かれています.
収集した情報を誌面に反映させるには管制官や搭乗員の知識も
必要とされるので,図誌班の班長は代々航空管制官が務めるこ
とになっています.

作図のために使うソフトは全員同じですが,一括処理する能力や
ソフトの性能をどれくらい有効活用できるかで,作業スピードに差が
出るそう.
およそ3年で編集が一人前になり,その後,企画グループへとス
テップアップするという流れです.ちなみに企画の隊員の校正能
力は,プロの校正者レベルだとか!


図誌班のある2曹は,ユーザーが明確なこと,自分の扱ったもの
が目に見える形で存在するわかりやすさがいいと話してくれました.

「図誌班に来てからは,市販の地図も今までとは違った目で見る
ようになりました.この色使いはいいなと思ったり,ミスを見つけた
り.今後は,データを編集してから印刷し納品されるまでのタイム
ラグを,ネットなどでフォローできないかといった点も考えていきたいです」

取材から約3年経っているので,これは今ごろすでに実現しているか
もしれませんね.


飛行管理隊,飛行情報隊という2つの部隊を取材した際,何人も
の隊員に同じ質問をしました.

「同じ自衛隊の中ですら存在を知らない人もいる部隊にいることを
どう思いますか」

すると,誰もが申し合わせたように「特に気にならない」「目立たな
くてもかまわない」と即答しました.

さらにしつこくなぜそう思うかと尋ねると,隊員たちはそれぞれ自分
の言葉で語ってくれた.
FADPという重要なシステムに関わっていることの充実感のほうが
はるかに大きいと言う人もいたし,知られてないのはFADPの運用が
安定している何よりもの証明と前向きにとらえる人もいました(なるほど!).
目立たないこと,知られていないことは任務に対するモチベーションと
何ら関係ないというのが,彼らの共通した意見でした.


そんな隊員のひとりが何の気負いもなく発した言葉が,この2つの部
隊を何よりもよくものがたっている気がします.

「自衛隊には自衛官にも知られていない部隊が山ほどあります.そう
いう部隊がいくつもあって,自衛隊は成り立っているんです」

航空自衛隊といえば,誰もが最初にイメージするのはおそらく戦闘機と
パイロットでしょう.
しかしその戦闘機も,飛行管理隊と飛行情報隊の働きなくして任務を
遂行することは困難です.「縁の下の力持ち」を具現したような2つの部
隊に,自衛隊の底力を見せつけられました.



(飛行情報隊 おわり)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.7.16




陸軍機 vs 海軍機(45)       清水政彦
「零戦と隼(44)」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「零戦vs隼」の第44回.今回は,「ウェワク大空襲」後の
陸軍航空隊の凋落についてです.

▼ 連合軍の連続攻撃と第四航空軍の壊滅

 前述した通り,新編されたばかりの第四航空軍は,昭和18年
8月17日に行なわれた連合軍の大空襲によって,その兵力
の大部分を地上で喪失した.わずか数時間の間に,航空軍の
保有機約200機のうち半数が地上で破壊されるという悪夢の
ような大敗北だった.残存機材の大部分は飛行場の外れで
修理・整備中だったもので,滑走路付近に置かれていた実
動機の大部分が破壊されたことになる.

 8月17日午後の時点で,第四航空軍の実働戦力は40機
(うち戦闘機23機)に減少しており,連合軍はこのわずかな
残存兵力に対して連続攻撃を畳みかけた.

 本来なら,勝ち目のない戦いを避けて空中退避すべき状
況だが,東部ニューギニアには飛行隊を退避させられる後
背地がない.加えて,編成早々に大敗を喫してしまった司令
部の名誉挽回という心理も手伝い,翌8月18日以降,第四
航空軍は稼働できる全兵力を挙げて積極的な邀撃戦を展開
する.各飛行隊は奮戦して多大の戦果を報じたが,損害も少
なくなかった.

 しかも,連合軍は一日ごとに戦術を改善していったので,いつ
も同じ戦法の日本側は被撃墜率が徐々に増えていき,これを
上回るペースで地上での損害も累積した.「ウェワク大空襲」以
降,9月初旬までの主な航空戦の結果は以下の通りである.
(出典はいずれも「戦史叢書 東部ニューギニア方面陸軍航空
作戦」による.)

8月18日 ウェワクの港湾地区,宿営地に対する空襲
戦闘機23機で邀撃,損害3機(被撃墜2,大破1)
戦果:17機撃墜を主張(実戦果はP-38×2,B-25×1撃墜,B-25×1撃破)

8月20日 ウェワク飛行場に対する空襲
戦闘機約40機で邀撃,損害8機(被撃墜4,不時着1,地上撃破3)
戦果:6機撃墜を主張(実戦果不明)

8月21日 ウェワク飛行場に対する空襲
戦闘機28機で邀撃,損害17機(被撃墜7,地上撃破10)
戦果:15機撃墜を主張(実戦果不明)

8月29日 ウェワク飛行場に対する空襲
戦闘機48機で邀撃,損害15機(被撃墜4,地上撃破11)
戦果:9機撃墜を主張(実戦果不明)

8月30日 ウェワク飛行場に対する空襲
空襲を察知して稼働全機が緊急発進するが,偽装進路をとった
敵機を捕捉できず.邀撃機の着陸後に空襲を受け7機が炎上,
多数が被弾損傷した.

9月2日 ウェワクに入泊中の補給船団に対する空襲
戦闘機36機で邀撃,損害9機(被撃墜3,不時着3,大破3),輸送船2隻沈没
戦果:17機撃墜を主張(実戦果不明)

損害(空戦):被撃墜20,不時着4,大破4
損害(地上):31機+α
戦果:64機撃墜(日本側認定数)

 こうして見てみると,8月17日の「ウェワク大空襲」のあとも,損
傷機の修理や新機の補充によって相当数の戦闘機が戦列に加
わっていたようだ.しかし,せっかく補充された機材も,連合軍の
空襲があるたびに各個撃破されて失われた.「大空襲」後の2週間
で喪失した飛行機約60機のうち,その過半が地上撃破であったこ
とも分かる.
いったんこのような負のスパイラルに陥ってしまうと,態勢の立て直
しは困難である.事実上,東部ニューギニア方面の航空戦はこの2週
間で「勝負あった」といって良いだろう.

▼ 本当に「数で負けた」のか?

「大空襲」後の2週間で,陸軍の戦闘機部隊は連合軍機64機の撃
墜を主張している.この時期の陸軍戦闘機隊の撃墜戦果の「膨張率」
を仮に4倍とすると,実際の戦果は16機程度であろうか.日本側は空
戦だけで30機近くを失っていることを考えると,地上撃破に加えて空
中でもほぼ2対1の比率で劣勢ということになる.

 彼我の兵力差を考えれば善戦と言えなくもないが,手放しで評価す
ることはできない.そもそも,「数の差」は一般に信じられているほど
大きくなかったようだ.

 この時期の日本側の戦闘記録は,来襲する連合軍機の数をかな
り過大に評価しており,連合軍側の出撃記録と符合しないことが多
い.上述したウェワク上空の邀撃戦では1回あたり30〜40機の戦闘
機が出撃しているが,空襲にやってくる連合軍の戦闘機もほぼ同数
か,やや多い程度だったはず.日本側は「敵が実態以上に大きく
見えている」状態で,士気が沈滞して心理的に追い込まれていた
ことを示唆している.

 確かに,東部ニューギニア方面に投入できる総兵力という観点で
は日本側が劣勢だったが,一方で日本側には味方基地上空の迎
撃戦という優位性がある.「その時,その場で空中にある戦闘機
の数」という観点では,日本側の戦力も連合軍にさほど劣ってはい
なかったはずなのだ.

 空中での戦果が不振である本当の要因は,無線通信が円滑でな
いことに加え,早期警戒情報が満足に得られないことに起因する
空中指揮の欠如にあった.

▼ 不振を極める早期警戒情報と無線通信

 当時,東部ニューギニアの陸軍は防空レーダーを運用していなかっ
た.レーダー機材自体はすでに搬入されていたものの,劣悪な地形に
阻まれて設置作業に手間取り,兵器としては稼働していなかったの
である.

 レーダーが稼働を開始するまでの間,ウェワク地区の陸軍飛行隊
にもたらされる早期警戒情報は,基地の周辺に派出された対空監視
哨からの目視と,近隣地区の地上部隊からの通報にすべてを依存し
ていた.

 この態勢では,敵機が友軍の目視範囲外を飛行した場合は探知で
きる可能性がない.友軍基地のあるハンサ湾,マダン地区(ウェワク
地区からは十分な距離がある)を通過して海岸沿いに侵入する敵
機に対しては迎撃の時間的余裕が得られたが,敵機が脊梁山系の
山肌に沿うように南から侵入する場合や,北に迂回して沖合から侵
入されるとお手上げだった.

 さらに,連合軍はわざとハンサ湾,マダン地区を通過してウェワク
を攻撃するように見せかけ,その後に行方をくらませるという偽装
空襲を繰り返し,日本の戦闘機はそのたびに全力出撃しては空振
りさせられた.

 仮に迎撃に成功しても,日本の戦闘機は無線電話の不調が慢性
化しており,複数の編隊間で連携して行動することがきわめて困難
だった.30〜40機という機数は一見するとそれなりに多いように
見えるが,実は戦闘機5個戦隊の残存戦力を合計したものにすぎ
ず,いわば「寄せ集め」の兵力だったからだ.

 一個戦隊あたりの兵力は数機から多くても10機程度で,小さな編
隊がそれぞれバラバラに敵を求めて飛んでいる状態である.多くは
効率的に戦闘に参加できず,一隊が会敵しても他の部隊がこれを
救援する位置につくことができなかった.

 つまり,出撃数がほぼ同数でも,日本側の戦力には「遊び」が多
く相互の連携がないため,局所的には常に日本側が数的劣勢に陥
り,各個撃破される状況である.

▼ 難渋する補給

 昭和18年8月中旬以降,東部ニューギニア方面で作戦できる戦
闘機の数は常に30〜40機程度で,必死の補給と修理作業にもか
かわらず,その数は一向に増加しなかった.そして,稼働機の大部
分は一式戦「隼」となり,整備と補給に難のある三式戦「飛燕」は次
第にその姿を消していった.

 この頃,第四航空軍に対して割り当てられた補給機の数は月間
150〜200機であり,週に40〜50機というペースで飛行機が補充さ
れるはずであった.しかし,実際には補給機の多くはトラック島やマ
ニラといった兵站拠点に滞留して動くことができず,しかも空輸途中
で脱落する機も少なくなかった.

 これは,本土とニューギニアを結ぶ兵站線が長すぎ,途中の航空路
の整備がほとんど進捗していないからだ.中継飛行場にはろくな設備
がなく,熟練した整備員もいないため,途中でどこかの調子が悪くな
ると修理ができない.

 また,補給機を(分解搬送ではなく)自力飛行で前線の部隊まで
輸送する「フェリー飛行」そのものも困難をきわめた.数千キロの行程
のうち大部分が,海上やジャングルの上だからである.不時着が不
可能で,かつ何の目標物もない所を長距離飛行することは非常に危
険で困難な任務なのである.

 さらに,飛行機が自機の位置を標定するための無線標識が設置さ
れていないこと,気象データが不足で飛行経路の天候が予測でき
ないことから空中での遭難が多発し,空輸中の飛行機が目的地ま
で到達できずに途中で引き返すことも多かった.

 本来,こうした困難を伴う長距離フェリー飛行には熟練者を充てる
べきだったのだが,戦況のひっ迫がそれを許さなかった.輸送部隊
のパイロット不足によりフェリー飛行が飛行機の補給計画に追いつ
かず,結果として兵站拠点に補給機が滞留する現象を生んだ.

 補給機の滞留問題は陸軍中央でも問題視され,一時的に内地の
飛行学校の教官を引き抜いて輸送部隊に転勤させるという奥の手
まで使っている.

▼ 再びジリ貧に陥った陸軍航空

 上記のとおり,ニューギニアに対する補給のパイプが細いので,
前線の稼働機は一向に増えない.その結果,前線では少ない稼
働機を酷使して無理な作戦をすることになり,連合軍の空襲があ
るたびに損害が拡大する.せっかく着いた補給機も,到着するそ
ばから各個撃破されて喪失する…という悪循環が生まれた.

 第四航空軍は「ウェワク大空襲」の損害から立ち直ることができ
ず,月間200機に迫る多数の補給機をつぎ込みながら,東部ニュ
ーギニア戦線はわずか30〜40機程度の戦闘機が絶望的な防戦
を続けるのみという惨めな状態に陥っていった.
陸軍航空は,主に地上設備と無線通信および補給態勢の貧弱さ
から,空中でも「ジリ貧」となったのである.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.7.15




◎ 数学者が見た二本松戦史(15):
第七章・流亡(2)
■善政
■護送
■処分
■一死をもって主人左京の罪を贖いたく候
■風に散る
◎ 二本松あれこれ:「五郎君世子事件」
◎ 読者アンケート
◎ 著者略歴

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
● ごあいさつ 
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんにちは.渡部です.

今年も残すところあと1週間になりました.このあたりで,本稿の総括をしてみたいと
思います.

まず,本稿が生まれるにいたった経緯についてです.それは一つの必然と一つの偶然の
たまものでした.

必然とは,わたしが若いころから相当以上熱心な戦史書ファンだったということです.
古今東西を問わず,時代・ジャンルを問わず,〈戦争〉と名がつけばフィクション以外
はとにかく読んでみる,というふうなことをしている時期がありました.
そのような戦史書ファンとして,現役を引退して時間ができたら戦史関係書を書いてみ
たい,それも自分の専門である数学・科学的視点も加味したものを,というふうなこと
を前々から考えておりました.それが本稿が生まれるに至った“必然”です.

偶然の方は,それが〈二本松〉になったことです.
わたしの郷里は日本海に面した寒村(秋田県由利郡松ヶ崎村ー現在は由利本荘市に編
入)です.人口三千人ほどのその小さな村で,小・中学校時代の九年間を過ごしまし
た.文化の香りなどにはおよそ縁がなく,海と山と川しかないような環境でした.戦後
の混乱期,物質的には恵まれなかっただけに,七十人ばかりいた同級生たちとの人間関
係は,今よりはるかに濃密でした.
十年前,還暦の祝いを機会にその関係がまた復活しました.以来,年に一度ほど東北
近辺の温泉地などに一泊ていどの小旅行を重ねております.

平成20年度はいわき温泉でした.帰りに二本松に立ち寄りました.菊人形展がたけな
わの季節でした.旧二本松城址を歩き回り,眼ではいろとりどりの菊人形を追いなが
ら,わたしは心の中では別のことを考えておりました.戦史書ファンとして,少年隊の
ことはもちろん知っていました.ただ,二本松戦争全体についての知識はあまりありま
せんでした.少年隊も含めて二本松戦争全般には,なにか重要な〈意味〉があるのでは
と,そのとき考えておりました.それが本稿が生まれるに至った“偶然”です


(渡部由輝)

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● 第七章・流亡(2)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

二本松の戦いは終った.城は焼け落ち,首脳部は自刃した.
落城後に二本松藩士が参加した主な戦いは,母成峠攻防戦くらいであった.
藩主丹羽長国以下,藩士たちの逃避行は続いた.

戦から約二ヵ月たった九月.
二本松藩は西軍に降伏.武装解除されるに至った.


■善政

  〈十月三日〉

 二本松に宿陣していた総督府の会計局が藩の重臣を呼び出し,次のような布令を
伝えた.

 「藩士とその家族全員四千百人に対し,当分のあいだ一人一日七合ずつの白米を供与
する」

 そのころ藩主一家に続き,藩士の家族たちも疎開先の米沢からほとんど帰国してい
た.七月二十九日以後は藩が消滅したようなものであるから,彼らはみな収入の途を
絶たれていたことになる.この日までは蓄えを取り崩したり,衣類や家財道具を売った
りしながら,細々と暮らしていたものと思われる.以後は独立して生計を立てて行くこ
とが可能になったのである.

 当時,一人一日白米七合(一キログラム少々)とは相当な量である.ただ食うだけな
ら大人でもその半分で足りる.残りは売って金銭に替えたり,寄留先の農家に提供した
りして,藩士の家族たちも以後はあまり気兼ねのない疎開生活をおくることができた
ものと思われる.

 これは新政府側の善政の一つであった.他にも藩士だけでなく,戦災に遭って困窮し
た一般民衆に対しても,救恤(きゅうじゅつ)米を支給するなどして,維新政府もそれ
なりに民心をとらえようとしていたものらしい.

 民心を得るという点では,二本松藩も同様であった.落城後,藩士の家族たちの中に
は住む家も家財道具もなにもかも失い,身一つで領内の村里に避難してくる者も少なく
なかった.そのような疎開者に対しても,村人たちは「累代の善政は民その後を慕うこ
と深く,恩を報ずるのは正に今日に在りしとなし,待遇することすこぶる意を用いしか
ば・・・」(『二本松藩史』)とは,いささか自己宣伝もあるのかもしれないが,とも
かくそれに近いような接し方であったらしい.やはり例の『戒石銘碑』の「汝の俸禄は
民の血と汗のたまものなり,下民虐げるべからず」の効果も,相当にあったのではな
かったのか.

 事実,二本松藩の領民に対する態度は,かなり寛大的なものだったらしい.『二本松
藩史』には幕末時の税収の記録が載せられている.その一例をあげてみよう.本宮近郊
の典型的な農村地帯の一つ,荒井村のものである.

 本田高,九百三十六石,免四つ五分
 新田高,百六十石,免三つ

 免四つ五分とは,税率が四割五分ということである.本田(旧田)より新田の方が
税率が低くなっているのは,それによって新田の開発を促そうとする意図があったもの
と思われる.荒井村の場合,本田と新田を合わせた加重平均的税率は四割一分ていどに
なっている.それは他村も同じようなもので,たとえば郡山組全十四ヶ村について同様
な計算をしてみたところ,四割三分ほどになっている.

 当時は一般に五公五民といわれていたように,税率五割が標準で,下限で四公六民,
厳しい藩になると六公四民,はては七公三民というケースもあったらしい.それからす
れば,二本松藩の税率四割少々とは,下限にかなり近い数値である.

 なお,二本松藩は幕末時の安政五年(一八五八)から慶応三年までの九年間,東京湾
口富津(千葉県富津市)砲台の警備を勤めさせられ,藩兵四百,人夫百ばかりを常駐さ
せている.例のペリー来航(一八五三)の余波を受けてのものと思われる.もちろんタ
ダではなく,その経費として富津周辺三十一ヶ村の預かり支配をまかされてのものであ
る.その役を終えて撤退するさい,村々の代表者が幕府に「丹羽家の永続的支配を望
む」というむねの,嘆願書を提出している.預かり領の富津でも二本松と同様,低い税
率を適用していたためもあったのではないのか.また,その嘆願書に「前任者は(金
を)とるだけとって何もしてくれなかったが,二本松は民政にも尽くしてくれた」とい
う意味の文言もあったらしいところをみると,治安対策や今でいえばインフラ整備的事
業なども,行なっていたものと思われる(富津市には二本松藩のそのような善政ぶりを
称えた石碑が残されているという).

■護送

  〈十月八日〉

 藩兵がすべて米沢から帰国し,自藩内の各寺院に入って謹慎した.その数三〇〇人ほ
どであった.

  〈十月九日〉

 武器類のすべてを福島の当局に引き渡した(前回は目録だけ).目録になかったもの
をいくつかあげておく.

 (一) 元込銃十八挺
 (二) 和筒三十六挺(うち十匁玉筒二十挺,三匁玉筒十六挺)

 (一)は後装銃のことで,これを見ると二本松藩も一応はスナイドルなんかがあった
ものと思われる.ただしそれは十月の時点でのことである.おそらく会津と共同して
戦った八月十七日〜二十一日あたりに,会津藩から供与を受けていたものと思われる.
そのころは会津も外人の軍事顧問などを通じて,後装銃も相当入手していたらしいから
(会津の降伏は九月二十二日).(二)の十匁玉筒とは,火薬が十匁(三七.五グラ
ム)ほど装填できる弾を撃てる砲のことである.口径はせいぜい三,四センチほどの軽
砲というよりは小砲である.三匁玉筒はそれより小さい,少々太めの火縄銃のことらし
い.

  〈十月九日〉

 福島の軍事局が藩の重臣を呼び出し,次のような命令を伝えた.

 「藩主長国は近々東京に護送されることになった.供の者を五人まで認めるからその
準備をするように」

 長国は前年の秋あたりから健康がすぐれず,病床にあることが多かった.そこで藩士
たちは次の三事項を願い出た.

(一) (長国の)病篤く,長途の旅行には耐えられそうもない.病が癒えるまで延期
     してもらえないか.

(二) (一)がかなわないなら,長国の護送中の警護を佐土原兵ではなく,
    (縁戚藩の)大垣藩兵に変更してもらえないか.

(三) 付き添いの人数をもう五人ばかり多くしてもらえないか.

 (一)は長国の召喚は私事ではなく公事であるからと却下され,(二)も既に決定事
であるからと変更はされず,(三)だけ認められた.ただ,二本松側ではそれでも不安
だったらしく,藩士五人ばかりを下人態に変装させて後を追わせた.そんな目つきの
鋭い連中がすぐ後ろについてくるのであるから,目につかないわけはない.佐土原兵も
二本松藩士と知ってはいたが,見て見ぬふりをしてくれたらしい.

 長国の一行は十月十五日に出発した.「藩士潜に奉送す,衆皆涙を垂る」と『二本松
藩史』は伝えている.東京着は同月の二十六日であった.十二日かかったことになる.
通常は八日ていどの行程であるから,長国の体調に配慮してかなり余裕のある旅程で
あったものと思われる.

■処分

 江戸が東京に改称されたのは,慶応四年(明治元年)七月のことである(首都機能が
移され,いわゆる遷都となったのは翌二年の三月).また,新暦が採用されたのは明治
五年十一月九日であるから,本稿ではそれ以前の日付けは,特にことわり書きをしてい
ない限り,すべて旧暦である.

  〈十月二十六日〉

 その東京に到着早々の長国に,次のような朝命が伝えられた.

 「その方,官軍に抗し士民をして方向を誤らせた.あまつさえ,逃亡した.その罪は
重い.とりあえず当地において謹慎し,追っての沙汰を待つように」

 二本松にいたころは総督府からの通告であるから“命令”,もしくはたんなる“令”
であるが,東京ではその上部組織である朝廷からの正式な通達であるから,〈朝命〉で
ある.それにもとづき,前橋藩主松平大和守邸(赤坂霊南坂にあった)に屏居(へいき
ょ)されることになった.一室に閉じ込められることをいう.蟄居(ちっきょ)とはた
んに一家の中に留まらされることで,その家の中での移動は自由であるから,それより
一段階重いといえる.同時に二本松から随従してきた家臣たちも自由を奪われ,佐倉藩
に預けの身となった.

  〈十一月五日〉

 「長国の官爵(従四位であった)を削り,京都藩邸を没収する」との布告が出され
た.

 処分を下す前に官位を剥奪し,無位無官の一庶民に落しておく必要があるからであ
る.

  〈十二月八日〉

 佐倉藩に預けられていた家老丹羽掃部助が一橋邸に呼び出され,次のような朝命を
受けた.

 「(長国は)王師に抗して落城するまで戦い,そのはてに逃亡した.罪は重い.よっ
て城地召し上げのうえ,東京において謹慎を命ずる」.さらに

 「反乱首謀者の名を書いて差し出すように」

  〈十二月八日〉

 同日のうちにほどなく,次のような朝命も受けた.

 「今般,(丹羽家には)特別な温情をもって家名存続を許し,五万石を下賜し,二本
松藩を預からせる.ついては血脈のものを早々に後嗣として選定し,願い出るように」

 まず最初に罪状を明らかにし,罪は罪として罰する.そのあとで罪の一部を“格別な
温情をもってさし許す”ということである.さらに一橋家には長国を同邸内に引き取
り,謹慎させるようにとの朝命も出された.謹慎もその家の中での移動は自由であり,
公的な外出は認められているから,蟄居より一段階軽い処分といえる.

■一死をもって主人左京の罪を贖いたく候

  〈十二月十一日〉

 長国に対する最終的処分が下された後,二本松から随従してきた家老丹羽掃部助が
一橋家を通じ,刑法局に次のような意味の嘆願書を提出した.

 「今般,主人左京(長国のこと)儀,順逆を誤り大罪を犯したてまつり,誠に申し訳
なき仕儀に至りました.ただ,左京は昨年来病床にあり,国政はすべて私共に委任して
おりましたゆえ,名分順逆を誤った罪はことごとく執政をつとめておりました私一身に
あります.先般,反乱首謀者を差し出すようにとのことでしたが,私以外にそれに該当
する者はおりません.一死をもって主人の罪を贖いたく,なにとぞお願い申し上げま
す」

 嘆願の趣旨について吟味するということで,十六日をもって掃部助も一橋家に預けら
れることになった.

 丹羽掃部助(かもんのすけ)は千石取りの家老という,禄高からすれば二本松では
七番目の高位にありながら,相当以上に影の薄い人物である.第一,本誌ではこの戦後
処理の段階になって初めて登場している.家老の一人であったから,抗戦か和平かを
決める二十七日の老臣会議には当然出席していたものと思われるが,どのような思想・
信条の持ち主で,したがってその席ではどのような発言をしたかなど,およそ肉声が
伝えられていない,存在感の薄い人物である.ただ,そのように存在感が薄い,言い換
えるなら表面にはあまり出ず,裏方的立場で黙々として職責を果たすのが,この人物の
持ち味ではなかったかと思われる.

 掃部助のその裏方的職責とは,病弱な藩主長国を精神的に身体的に支え,守護すると
いうふうなものだったように思われる.落城と逃避行,さらに他国への流亡生活の中
で,掃部助は常に長国の身辺を離れず,影のように寄り添っている.長国が東京に護送
されるさいも,千石取りの家老という,通常ならば供を何人か連れて駕籠に乗れる身分
でありながら,十人の付き添い人の一人として,おそらくは片時も長国の駕籠脇を離れ
ず,ついて行っている.一身をもって主君を護衛し,こととしだいによっては身代わり
になって果てる,との覚悟であったものと思われる.その覚悟を長国の処分が決定した
さいに実行に移そうとした,のではなかったのか.

 結果をいえば,掃部助は「身代わりになって果てる」までには至らないですんだ.
西軍方最高司令官板垣退助が「武士道の鑑」と激賞したことからもわかるように,二本
松藩の戦いぶりが西軍方首脳部の心証を良くしていたことも,相当に作用したためと
思われる.が,それは結果論である.当時は戦争に至った藩は敗戦時にはその責任を
問われ,首脳部が何人か処刑されるのがふつうだった.長州藩などは蛤御門・第一次
征長の二度の敗戦で,合わせて十人近い刑死者(自刃も含む)を出している.丹羽一学
のように,華々しく戦って城を枕に討ち死にをするのも武士道なら,“逃亡”との汚名
を覚悟でその城から脱出し,戦後処理の段階に至って主君の身代わりになっての“死”
を果たそうとするのも,また一つの「武士道」といってよいのではないのか.

  〈十二月十二日〉

 二本松の大隣寺で謹慎していた家老の一人丹羽丹波と,御勝手方頭羽木権蔵が密かに
脱け出して上京し,刑法局に嘆願書を出した.二人は三日に二本松を出たのであるか
ら,八日の長国に対する処分内容も,掃部助の嘆願書のことも知らなかった.内容は
掃部助のものとほぼ同様であった.

 「主人は永らく病床にあり,政務はすべて私共にまかされておりました.順逆を誤っ
た罪はすべてこの私一身にあります.願わくば我が身を処断されて,主人の罪に替えん
がことを」

 丹波は二本松ではあまり評判の良くない人物であったらしい.ある種の開明論者,
現実主義者でもあったようである.そのような,ある意味では進取的思想の持ち主は,
二本松のような武士道的倫理道徳が重要視されていた社会では評価されにくいものであ
る.

 白石会盟のさい,二本松藩の役割は「先鋒となって西軍を防ぐ」と定められた.丹羽
丹波は,その先鋒軍たる二本松藩の坐上(筆頭)家老兼軍事総裁として,藩兵の半数ほ
どを率い,四月の末あたりから須賀川軍団に出張していた.以来三カ月あまり,先鋒軍
にふさわしいような戦いはほとんどしていない.あまりの戦意のなさに,仙台兵からは
「二本松は西軍と通じているのではないか」(『仙台戊辰史』)と疑われたりしてい
る.現実主義者の丹波としては,須賀川で白河戦の敗兵たちから西軍の軍事力の強大ぶ
りをきいたりし,それに抗することの無益さを十分に悟らされたがため,自藩兵の温存
を図っていたものと思われる.

 二本松戦争当日も,丹波は須賀川〜本宮間の奥州街道が封鎖されていたため,自城に
は帰り着けなかった.帰城しようと安達太良山麓あたりの間道を急いだが,間に合わな
かった.以後も,母成峠戦では二本松側の隊長であったものの,先頭に立って奮戦する
ようなことはせず,結果的に生き永らえられた.ともかく,二本松軍の最高司令官であ
りながら,その名に値するような働きはほとんどしていない,といってよい.

 がやはり,丹波も二本松武士の一人であった.最後の最後になって筆頭家老そして
軍事総裁としての責任をとり,敗戦の責を己れ一身で引き受け,藩主の身代わりになっ
て果てようとしたのである.なお,羽木は丹波の盟友的存在であったらしい.二人もま
た一橋家に預けの身となった.

■風に散る

  〈十二月十七日〉

 米沢藩主上杉茂憲の弟頼丸(前藩主斉憲の第九子)を,養子として丹羽家を継がせる
ことを願い出て,許された.これで丹羽家も二本松藩も存続することになった.

  〈十二月二十六日〉

 二本松藩は反逆の首謀者として丹羽一学・丹羽新十郎の名を書いて弁事局に差し出し
た.もちろん二人は七月二十九日に自刃している.特に重大な犯罪的行為がなかった藩
については,このように死者を抗戦の責任者とすることは,新政府側からの内々の示
唆・了解があったものと思われる.米沢藩も新潟で戦死した家老色部長門を責任者とし
ている.

  〈明治二年五月〉

 反逆首謀者として丹羽一学・丹羽新十郎が認定され,その両者の家名断絶が布告され
た.同時に丹羽丹波の一橋家永蟄が命ぜられた.

  〈明治二年九月二十八日〉

 長国の謹慎が解除された.これでかつての二本松藩主はすべての罪を許されたことに
なる.白日の身となった長国は翌十月,ほぼ一年ぶりで帰藩し,二本松の松岡寺に仮寓
した.さらに明治四年十月再び上京し,以後は東京で余生をおくった.

 なお,丹羽一学の辞世は次のようなものだった.

   『風に散る露の我が身は厭わねど

         心にかかる君が行く末』

 二本松藩抗戦の全責任を負って散るのは覚悟の上であるが,主人長国と丹羽家,さら
に二本松藩の行く末が案じられる,ということである.ただし,一学の身の方はともか
く,それ以外の憂慮事はすべて解消された,といえる.

 丹羽一学の先祖は,二本松藩の始祖丹羽長秀の弟秀重である.長秀の死後,二代目長
重は越前小松で十二万石を領していたが,関ヶ原で対応ミスをした.豊臣方についた責
を問われ,取りつぶしにあった.そのあと,長重の妻(信長の娘)が徳川二代将軍秀忠
の正室(お市の方の三女)と従姉妹だった縁もあり,秀忠の将軍宣下後,常陸の国古渡
(茨城県稲敷郡桜川村)一万石にまず取りたてられた.さらに大坂冬の陣では徳川方に
属し,大坂城の東北二キロほどの鴫野砦攻防戦で勇戦をした.それは冬の陣最大の激戦
といわれたもので,丹羽軍では副将格であった秀重が戦死している.

 秀重は家康とは顔見知りであったものと思われる.その四十年ほど前,徳川が世に
出るきっかけとなった姉川の戦いでは,丹羽軍と徳川軍は共同して戦い,朝倉勢を打ち
破っているからだ.家康とはおそらく旧知の仲であったと思われる秀重の,老躯をおし
ての奮戦と死のためもあったろう.大坂の陣の後,丹羽家は同じく常陸の国で江戸崎
(霞ヶ浦湖畔)一万石を加増され,さらに棚倉五万石,白河十万石,二本松十万七百石
と,太平の世のしかも外様藩としては異例ともいえる出世を果たすことができた.

 先祖秀重は,一身をもって丹羽家が再び世に出るきっかけを作った.後裔の一学はや
はり一身をもって,二本松藩が同盟の信に背いたとの汚名を着せられるのを防いだ,と
いえる.

  〈明治三年二月〉

 丹羽掃部助・羽木権蔵が家名断絶の上,親族預け替えとなり,二本松に送還された.
士籍から除かれた以外の処罰はなにもなくなったから,ある種の放免といえる.

  〈明治五年一月〉

 丹羽丹波の永蟄が免ぜられた.丹波はこれですべての罪を許されたことになる.二本
松では藩主に次ぐ高位にあった丹波の処分が比較的軽かったのは,やはり二本松戦争時
は藩内にいなかったためもあり,七月二十九日の抗戦には関与していないという事情も
斟酌されたものと思われる.

  〈明治十年〉

 丹羽家がそれまで慣用的に用いていた藤原姓を廃し,朝許を得て本姓の良峯に復し
た.武家の姓(藤原)から藩祖長秀が天正の昔,京師の民政に尽くした功により,当時
の正親町天皇より賜った桓武天皇につながる由緒ある公家の姓(良峯)に戻し,名実と
もに朝臣の仲間入りを再び果たしたのである.

  〈明治十六年二月二十一日〉

 丹羽掃部助・丹羽一学・丹羽新十郎・羽木権蔵の家名断絶が解かれ,再興を許され
た.

 この日をもって二本松藩で戊辰戦争において戦犯とされた者は,すべてその指定から
解除されたことになる.それは他藩も同様であった.明治新政府もこのあたりで過去の
負債一切を清算し,全国民こぞって新しい時代への出発を期そうとしたものと思われ
る.


(以下次号)


(渡部由輝)


■著者へのお便りはこちらからどうぞ.⇒     
 http://okigunnji.com/s/watanabeyoshiki/


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● 二本松あれこれ (渡部由輝)
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■五郎君世子事件

 戊辰東北戦争に臨むにあたり,東軍の各藩にはさまざまな思惑があったらしい.
仙台・米沢といった同盟を主導した大藩は特にそうである.あわよくば戦国の昔に還
り,関東方面や越後平野に進出するとか,もっと過激に朝廷の規範を逸脱して東北独立
政権を樹立しよう,などともくろんでいた勢力もあったと伝えられる.

 だが,二本松藩に限っては,そのような大それた意図は全くなかったといってよい.
そのことを証明するある事実をあげておこう.

 幕末時,二本松藩主丹羽長国には嫡子がいなかった.二人の男子が生まれていたが,
いずれも満一歳になるやならずのうちに夭折していた.いつまでも世子なしというわけ
にもいかず,戊辰の雲行きが怪しくなったころ,幕臣一柳播磨守の四男五郎君を迎えて
長国の長女峯子を配し,養嗣子としようとした.

 他家から養子をとって娘を娶あわせるといっても,大名家となるとカンタンにはいか
ない.上部組織に伺いを立てる必要がある.江戸時代ならその上部組織とは徳川幕府で
あるが,幕府は前年の慶応三年十月,朝廷に大政を奉還していた.そこで二本松藩は
慶応四年の五月二十一日,その朝廷に「五郎君と峯子との婚姻を許可していただきた
い」とのむねの,嘆願書を提出した.

 ことわっておくが,戊辰の年の五月二十一日である.本誌をこれまで読み進んでこら
れた方なら,その日付け前後に東北と二本松藩にどのような事件があったか,覚えてお
られるはずだ.白河で二本松藩も属していた東軍が,新政府軍つまり朝廷の軍隊に歴史
的惨敗を喫した二十日後のことである.その歴史的敗戦に二本松藩は関わっていないが
(参加するべく奥州街道を急いでいたが,間に合わなかった),嘆願書が提出された
日付けあたりは,白河を奪還するべく,東軍の一員としてその北方で新政府軍と小戦を
行ったりしていた.

 ようするに丹羽家と二本松藩は,戦っていた当の相手に「娘と養子との婚姻を許可し
ていただきたい」との,嘆願書を出したのである.二本松側にしてみれば,自分たちは
戦っている相手を朝廷(または新政府)の軍隊とは認識していない,薩長の軍隊としか
見なしていない,ということなのかもしれないが,それにしても朝廷の関係者は面食ら
ったことだろう.「この連中,いったいなにを考えているのか」と.

 だが,悪い気はしなかったに違いない.二本松藩は朝廷の統御から脱する意図はない
ことが,はっきりしたのであるから.その証拠に嘆願書は受理され,翌二十二日にその
むねは許可されている(ただし,五郎君はその一か月後に急死している.十三歳という
若すぎる死であった).


(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2010.12.24




荒木 肇
『動員のコスト(5)──日本陸軍の動員(5)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

□はじめに

 台風11号による被害は,皆さまいかがでしたでしょうか.
わたしの暮らす関東地方では幸いなことに直撃をまぬが
れました.しかし,それでも地域によっては豪雨に襲われ,
床下浸水やそれ以上の被害にあったところもあったよう
です.心よりお見舞いを申し上げます.

 政治の世界では「安全保障法案」の衆議院通過にとも
ない,さまざまな議論や出来事がありました.いちいち論
評するのもつまらなく,わたしのように「過去の人たち」との
対話しかできない人間はどこか浮世離れをしている気が
します.資料を集め,過去の文献に現れる先人たちの思
考や行動をみる,それだけしか興味をもてない,そんな自
分がつまらなく見えるときもあります.

 今回からは「動員下令」,「召集令状」といった下部構造
の上にある「年度作戦計画」や「動員計画」についてお話し
ましょう.華々しい戦闘の話ではない,「戦う軍隊」を支え
た実態の一つです.

 さて,T様お便りありがとうございました.お尋ねへのお答え
になるかどうか.お父上のご遺談の中で,『現役の入営兵は
無給だった.召集の連中は給与が出た』という内容でした.
これはおそらく出頭する部隊への「旅費」のことと思われます.
現役兵は国民の義務を果たしに各部隊に入隊しました.つま
り部隊に到着して手続きが済み,初めて兵籍に編入されまし
た.もちろん宣誓式があり,正式に陸軍兵になり,等級を指定
されます.これからがスタートですから着隊前に旅費は出ません.

 これに対して召集兵は令状によって出頭を命じられるわけ
ですから,すでに兵籍はある.部隊への赴任旅費が支給され
る.こういったシステムです.もちろん本人の立て替え払いで,
各中隊事務室の給養掛曹長が経理部から渡された現金を着
隊後に渡しました.よく映画や小説の中で,「本部動員室」と
いう言葉が出ますが,そこでは旅費や各種手当の支給をす
る事務もとっていました.

▼令状の種類

 召集令状には,いわゆるアカガミとシロガミがあった.「赤
紙」(朱鷺色)と「白紙」のことをいう.また,アオガミ(水色)もあった.
 1927(昭和2)年から施行された「兵役法」には,『帰休
兵・予備役兵・後備役兵・補充兵または国民兵は戦時また
は事変に際して必要に応じて召集する』と定められていた.

 召集には平時のそれと戦時・事変に際してのそれの2種類
があった.平時の召集には次の種類がある.
1)帰休兵を在営兵の補欠その他必要な時に召集する「補欠召集」(白紙)
2)警備その他に必要な場合に服役一年次の予備役兵を召
集する(滅多にない)「臨時召集」(赤紙)
3)予備・後備役兵をその在役期間を通じて5回以内,1回35日
以内召集する「演習召集」(白紙)
4)第1補充兵を教育のために召集する「教育召集」(白紙)
5)帰休兵,予備・後備役兵,補充兵に対する毎年1回の「簡
閲点呼」(白紙)

 1)に登場する帰休兵というのは耳慣れない方もいるだろう.
陸軍の現役は2年間だったが青年訓練所で優秀な成績をおさ
め,また部隊でも品行方正,成績上位の者は6カ月の在営期間
の短縮があった.これを帰休兵といった.こうした恩典を得た人
もかなりの数がいたらしいが,記録に残るだけで戦記物などには
まず登場しない.

 青年訓練所というのは小学校に大正末期に設置された実業
補習学校に併設された軍事訓練をするところだ.職場単位にも
置かれたこともある.そこでは在郷軍人会が主導して初歩的な
軍事訓練が行なわれた.「身上調書」にも『青訓・優』などと記載
された.もともと生活程度の高い家の子弟が熱心に通った.入営
しても素養があったために上等兵になりやすく,しかも帰休という
制度で半年早く家に帰れたのである.

 2)の臨時召集はのちに「防衛召集」(青紙)という名称に改めら
れた.敵軍がわが沿岸に近づいたり,不穏な情勢があったりした
場合,現役を終えたばかりの錬度が高い兵員を集めようとしたわ
けである.

 3)については「世間に身近な陸軍」という風に説明できるだろ
う.前にも書いたように,戦前社会はサラリーマンや農山漁村の
若い衆で予備役に就いている人が多かった.会社でも課長は大
正時代の1年志願兵出身の予備歩兵伍長,部下の高等商業出身
の若い課員が予備主計少尉などということはけっこうあった.こう
した人たちが錬度維持のために指定された部隊に召集されて演習
に参加させられていた.現在の陸自でも「即応予備自衛官」,「予
備自衛官」の制度がこれに相応している.
 
 4)の補充兵教育も昭和になってからのことだが,戦時に損耗
する軍隊の補充要員とするために120日以内(のちに180日)
の教育を行なった.日数からいっても現役兵を一人前にするため
の1期の教育期間とほぼ同じであり,内容も変わらない.なお,
教育が終わると『既教育補充兵』とされ,戦時では召集の可能性
が当然高くなった.
 
 5)もあまり知られていない.まさに常識は記録されない例であ
る.兵役義務の意味は誰もが入営しなくてはならないという規定
ではなかった.じっさい,日支事変が拡大し,大規模動員が行な
われるようになると多くの人が軍人になった.それ以前は,同世
代の7人に1人が入営する,兵籍をもつというのがふつうだった.
だからけっこう不公平感もあった.同時に,それとは逆に兵籍を
持つ人の誇りは高かったといっていい.

 戦時・事変での召集は,動員が下令され戦時編制の部隊の要
員を満たすための「充員召集」が代表的なアカガミだった.編制の
定員を充たすための要員を集めるから充員召集である.国民兵を
召集する「国民兵召集(白紙)」も戦時の召集だった.

▼「年度作戦計画」と「動員計画」

 陸軍参謀本部とは陸軍省とならんで「省・部」といわれた陸軍の
重要官衙である.ここの構成は,参謀総長(大・中将)と次長(中
将)をトップとし,総務部長と第1から第4までの5部,そして海外
にある大・公使館付武官・同補佐官,陸地測量部,陸軍大学校と
なる.ただし,これは1930(昭和5)年を例にとっている.1936
(昭和11)年の初めころまでこのような組織だった.

 総務部は庶務課,第1課で構成された.この1課が編制動員を
担当した.課長は大佐,部員といわれた構成員は中・少佐,大尉
であり定員は10人.また「派遣」といわれた定員外の将校が3人
である.

 
 第1部は第2課(作戦),第3課(防衛)を担当.第2部は
第4課(諜報),第5課(兵要地誌),第3部は第6課(鉄道船
舶),第7課(通信),第4部は第8課(演習),第9課(内国戦史),
第10課(外国戦史)で構成されていた.
 
 大・公使館付武官も参謀職にある将校である.参謀総長に直隷
した.だからふだんから勤務時には参謀飾緒を肩から吊っていた.
英・米・露・仏・オーストリア,イタリア,ポーランド,アルゼンチン,
支那,メキシコ,トルコで佐官12名.必要によって中・少将をあて
ることもある.
 
 第2課は課長の大佐以下,部員が10名.これに海軍からの派
遣参謀がいる.この部員たちの仕事は,「年度作戦計画」を立て
ることである.軍隊はいつでも「有事即応」という集団である.情報
を分析し,どこの国とどのような紛争が起きるかを予想し,それに
対して計画を練った.年度作戦計画にしたがって動員計画を立て
る.作戦計画の内容を満たすように人や兵器・物資を集めるのが
動員計画である.
 
 では作戦計画はどのような指針で決められたか.国家の国防の
方針のもとに,国家の枠組みの中で決められたのである.作戦計
画が立てられる前に決められたのが「国防方針」であり「国防所要
兵力量」だった.国防方針とは,外交問題と国力を包括した大方
針であり,所要兵力量は国家の財政規模に合わせた軍隊の規模
である.この2つの決定をもとに「用兵綱領」が作られた.これは戦
時,または事変での軍隊の行動のおおまかな方針である.
 
 これら「国防方針」,「所要兵力量」,「用兵綱領」は日露戦後,
1907(明治40)年に策定された.これらは毎年新しく作りなおされ
るものではなかった.情勢の変化に応じて1918(大正7)年,1923
(大正12)年,1936(昭和11)年に改訂された.それぞれが国際情
勢に対応していることがよく分かるはずだ.18年のものは世界大戦
の終結を背景にし,23年は軍縮とソ連の変化に目を配り,36年は中
国情勢が大きく変わったころである.
 
 この用兵綱領と作戦計画は最高機密として守られていた.いまのよ
うに軍隊が作戦計画を立てれば「憲法違反」,「民主主義の崩壊」など
と騒ぐ勢力はいなかった.陸軍大臣ですら内容は知らされなかったし,
作戦を立てた参謀たちだけが知っていた.
 
 もう一度,まとめておこう.帝国国防方針→所要兵力量→用兵綱
領→作戦計画→動員計画という流れになる.

▼1833(昭和8)年の国防方針から

 昭和8年はわが国が国際連盟を脱退した年でもあった.満洲帝国
が否定されたからである.その年に国防方針が改訂されたが実物は
残っていない.敗戦時に多くの資料が焼かれたり,隠匿されたりした
からである.今から思えば,一億玉砕,帝国滅亡とどれだけ思おうと
将来のために自分たちの足跡くらい残せばよいと思うが,当事者たち
は次々と火をつけて書類を焼いてしまった.結局,戦後になって生き
残った陸海軍軍人たちの証言や記憶に頼らなければならなくなった.

 以下は『大東亜戦争全史』などから読み取るしかない.
「国防方針」
『将来の戦争は長期にわたることを想定.仮想敵国はアメリカとソビ
エト連邦を中心にし,支那,英国にも備えることとする』という.陸軍は
ソ連だけを考えたが,海軍の主敵はアメリカである.陸軍は対ソ連,
海軍はアメリカという二面作戦という構図になった.

「所要兵力量」
『陸軍は常設20個師団,これをもとに戦時50個師団をつくり,方面
軍,軍,軍直轄部隊等を必要とする.海軍は戦艦・巡洋戦艦を12隻,
航空母艦10隻,巡洋艦28隻とした.』
 陸海軍とも,これに基づいて「軍備拡充計画」を立てた.その計画
の実施は1937(昭和12)年からになり,その年,盧溝橋を中心に
支那事変が起こる.おかげで損耗が増え,拡充どころか損耗を補う
ことに精力を費やすことになった.支那事変の拡大など陸軍中央は
誰も望んでいなかった.

「用兵綱領」
『陸海軍共同で先制攻撃,攻勢をとり速戦即決を図る.対ソ連戦で
はウスリー方面の敵勢力の撃破,根拠地ウラジオストックの攻略,樺太,
カムチャツカ半島,樺太対岸の占領.対米戦はアメリカ東洋艦隊の撃破,
ルソン,グアム島の占領.対支那戦は京津地区,青島,上海の占領と
揚子江の精圧.対英戦はイギリス東洋艦隊の撃破.

 こうしてみると,対ソ連戦にち密な計画を立てる陸軍.艦隊決戦に熱
意をもつ海軍.問題は陸軍がほとんど海軍の作戦に関心をもたず,ル
ソン,グアムを占領といっても,ろくに南方作戦の研究や準備などして
いなかった事実である.

 陸軍は兵要地誌を大切にする.対ソ連戦ではウラジオや北蒙古などの
調査を十分にし,準備も怠りなかった.ところが,フィリピンもマレー半島
もろくに知識がなかった.装備品も同様である.
 
 次号ではいよいよ動員計画と実態について詳しく述べよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.7.22




『ライター・渡邉陽子のコラム (54) ─ 2015年陸海空自衛隊の装備と運用(1) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

先週,北海道に陸自の演習取材で行ってきました.昨年も
同じ時期に同じ演習場に行っているのですが,昨年とは
比較にならないほどの猛暑.隊員のみなさんも「この演習
場でこの陽気はありえない」と驚いていました.冷房設備
のない宿で,熱気のこもったままの部屋で寝るのは暑さ
に弱い私とってかなりの苦行でした.そういえば昨年も
宿は暑かった……(泣)

今回は暑さに加えて虫刺されでダメージ大.まさか虫に
刺されて皮膚科に行くことになるとは思ってもみません
でした.夏の北海道,恐るべしです.



■2015年陸海空自衛隊の装備と運用(1)

本日から新連載です.

ちょっと固い内容になりますが,今年のはじめに
雑誌に掲載した「2015年陸海空自衛隊の装備と
運用」という記事を,一部リライトしてお送りします.

2015年も7か月を過ぎたこの時点でなぜ今年の装
備と運用についてわざわざ語るかと言えば,それ
はちょうど平成27年度版防衛白書も閣議決定された
し,安保法案を巡る世論の稚拙さにもがっくりしている
からです.なんだかPKO法案成立のことを思い出し
ます.社会党が牛歩戦術してましたよね.

ちょうど今日,こんなおもしろいまとめサイトを見つけま
した.安保法案をマンガ「るろうに剣心」で説明したもの
なのですが,よくできていてわかりやすいです.「るろう
に剣心」をご存じの方は,さらに「なるほど,そうそう」と
思えるのでは.ご参考までにURLはこちら.


安保法案をわかりやすく『るろ剣』で例えてみた
http://hamusoku.com/archives/8902860.html


さて,本題に入りましょう.

2013年12月に閣議決定された防衛大綱と中期防衛力
整備計画に基づき,2015年度の防衛予算は過去最大の
5兆円を計上した防衛省.その予算の内訳からは,対中
シフトの色がはっきり見て取れます.

「統合機動防衛力の構築に向け防衛力整備を実施する」
という主題は2014年度予算と同じですが,新たに導入す
る装備品がことごとく南西地域・島しょ部の防衛強化に関わ
っており,新編・改編される部隊についても同様です.

そこで予算に含まれる新規事業を中心に,2015年の陸海
空自衛隊の装備と運用についてまとめてみることにします.


まずは領海,領空を守るための新装備からです.
新装備が必要な背景として,2014年に日本周辺の海域と
空域がどのような状況にあったか,おもな事案を振り返ってみます.

海域については,中国の領海侵入は32日に及びました.
そのほとんどは南西諸島に集中しています.今も毎日のよ
うに領海侵犯を繰り返していますね.

日本が同じことをしたら,中国が間違いなく武力でもって排
除しようとするでしょう.しかしそれは中国に限ったことでは
なく,ソ連は民間人の乗っている大韓航空機だって領空侵
犯を理由に撃墜しました.領空・領海を侵すというのはそれ
だけ相手の国に脅威を与えることであり,その国から攻撃
されてもおかしくない行為です.

また,昨年は9月から小笠原諸島周辺海域等で中国サンゴ船
による密漁が連日のように行なわれたりもしました.


空域については,5月と6月に航空自衛隊のYS-11EB及び海上
自衛隊のOP-3が,中国軍のSu-27戦闘機2機から4回にわた
り異常接近を受けるという事案が発生しました.

そのうち一度は自衛隊機に下方から接近し,急上昇して前方
に出た際,乱気流を起こして自衛隊機の飛行を妨害するという
危険行為を行なっています.「そういえばそんなことあった」と,
思い出された方もいらっしゃるのではないでしょうか.


統合幕僚監部発表による2014年度のスクランブルは943回で,
1958年に空自が対領空侵犯措置を開始して以来,57年間で
2番目に多い回数でした.

その内訳はロシア機約50%,中国機約49%,その他約1%.
ロシア機に対する緊急発進回数は473回で,前年度に比べて
114回の大幅な増加となりました.対象は情報収集機が中心で
日本列島を一周する飛行も目立ち,このうち36件については
「特異な飛行」として公表しました.

中国機に対する緊急発進回数は464回で,前年度から49回
増加.対象は戦闘機が多く,尖閣諸島北方の東シナ海への
飛来が中心です.中国機については15件の事例について
「特異な飛行」として公表しました.


このような不安定要素を抱えた広域を常続監視し,さまざま
な兆候を早期に態勢を強化するために取得したのが,早期警
戒機と滞在型無人機です.

昨年11月,早期警戒機はE-2D,滞空型無人機はグローバ
ルホークに決定しました.いずれも米国政府提案の機種です.
E-2Dは現在空自が保有している早期警戒機E-2Cの後継機
に当たり,老朽化の進んだE-2Cに代わって2018年度までに
4機導入される予定です.


次回も引き続き領海,領空を守るための新装備とそれを
運用する部隊についてです.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.7.23




【1.1日3分で身につけるMBA講座】


■ ディズニーランドに学ぶデフレ時代の価格戦略


12月15日付の日経MJの1面でディズニーランドが来年の4月から1日券を400円
値上げすることが報道されました.この値上げで現行5800円の1日券が6200円
となる予定です.

デフレ経済の下,多くの企業が値下げ競争に走る中,このディズニーランドの
値上げは果たして消費者に受け入れられるのでしょうか?

今回はデフレ経済下における企業の価格戦略を検証していくことにしましょう.

今や多くの業界で値下げ競争が繰り広げられています.特に牛丼業界は値下げ
をすればするほどライバル企業からの顧客を奪い去ることに成功するなど,
激しい価格競争が展開されている業界の代表例と言えるでしょう.

そんな各社が値下げでなんとか顧客を繋ぎとめておこうという値下げ合戦に
打って出る状況の中で,値上げはディズニーランドにとって顧客を減らす
マイナス要因にはならないのでしょうか?

実のところ,ディズニーランドは過去値上げをするたびに大きく入場者数を
増やしてきた実績があります.日経MJよれば,2000年度に300円値上げした際
には4.8%入場者数が増加し,2006年度に同じく300円値上げした際には4.2%
の入場者増を記録したとのこと.

通常値上げをすれば顧客の減少に繋がるはずですが,なぜディスニーランドは
逆に顧客を増やすことに成功したのでしょうか?

その答えは恐らく非常にシンプルです.

値上げ以上の“価値”を顧客に提供したからに他なりません.

ディズニーランドは,値上げをするたびに収益増を原資とした設備投資を
行って,アトラクションを増やし,ゲストに新たな感動を届けることに成功
したのです.実際今回も来年4月の値上げに際して,4つの新アトラクションを
オープンし,加えて東京ディズニーシーの開業10周年イベントも大々的に開催
する予定になっています.

私達は時として安ければ売れると勘違いすることがありますが,顧客にとって
安さというのはあまり重要なことではないのかもしれません.安くてもそれに
見合う価値のないものであれば,見向きもされないということです.

たとえば,街中で配っているポケットティッシュはお店ではお金を出さなけ
れば買えませんが,無料で配っていても多くの人が見向きもしないことからも
わかるように,不必要な人にとっては価格が重要なのではなく,その商品や
サービスが自分にとって価値があるのかどうかが重要なのです.

このことを鑑みれば,デフレだから取り敢えず価格を安くすれば売れるのでは
ないかという短絡思考に陥るのではなく,顧客にとって価値のあるものを適正
価格で提供しようという前向きな価格戦略が重要な鍵を握ることがわかります.

ディズニーランドは自社の提供するサービスの価値を熟知していて,適正価格
を設定する努力を怠らないからこそ,値上げをしても入場者が減ることなく,
逆に増えるというマーケティングの成功に繋げているというわけです.

もしかするとみなさんの中には,ディズニーランドの1日券の6200円は“遊園
地”にしては高額だと思っている方がいらっしゃるかもしれません.確かに
同じ“遊園地”カテゴリにおいて,としまえんの3900円,富士急ハイランドの
4800円と比べれば,1400円から2300円も高い価格設定です.

ここで重要なのは,ディズニーランドは“只の遊園地”ではないということで
す.乗り物に加えてショーやパレードなど,園内に入場するだけで“非日常”
が体験できるという,他に類を見ない体験型アミューズメントパークなのです.

全く同じプロダクトがないので比較することは難しいですが,上記の遊園地に
加えて,たとえばライオンキングなどのミュージカルが9800円ですから,たく
さんの乗り物に乗れた上に,いくつものショーやパレードが見られて6200円と
いう価格設定はまだまだ割安感があり,たとえ値上げしたとしても多くの顧客
がそれ以上の価値を感じるはずです.

ただ,全ての企業がディズニーランドと同じように値上げしても更に多くの
顧客を引き付けることができるわけではありません.値上げが成功するか
どうかは自社の提供する商品やサービスの『価格弾力性』にかかっています.

『価格弾力性』とは価格の変動がどのような需要の変化をもたらすかを表した
ものです.

たとえば,ガソリンなど商品自体が差別化しにくいものは1円でも安い価格に
顧客が流れていきます.このような場合,価格弾力性が大きく,値上げをする
と需要が大きく減ってライバルに顧客を奪われることになります.

一方でディズニーランドのように他では提供していないサービスで熱狂的な
ファン客を囲い込んでいれば,価格弾力性が小さく値上げをしたとしても需要
には大きな変化は見られないでしょう.

このことから,デフレ下で不当に安い商品価格に悩まされないためには,価格
弾力性を小さくする必要があり,そのためにはディズニーランドのように他で
は得ることのできないオンリーワンの商品やサービスを提供することを心掛け
なければいけないというわけです.

「顧客は価格でモノを選ぶのではなく,価格に対する価値で選ぶ」・・・
この言葉を肝に銘じて,いかに安いものを提供するかという価格志向のマーケ
ティングではなく,いかに価値のあるものを提供するかという価値志向の
マーケティングがどんなビジネス環境においても成功を収めるポイントになる
ことをディズニーランドは教えてくれるのではないでしょうか.

◎ビジネスマン必読!1日3分で身につけるMBA講座
http://archive.mag2.com/0000108765/index.html
2010.12.22



マーケット・ガーデン作戦とインテリジェンス (11)
                長南 政義
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【前回までのあらすじ】

本連載は,精確な内容を持つインテリジェンスが一九四四
年九月上旬に連合軍の指揮官に利用されたかどうかを考
察することにある.実は,インテリジェンスは,マーケット・
ガーデン作戦実行に伴うリスクを連合軍の指揮官に警
告していた.

指揮官が決定を下すために利用できるインテリジェンスの
情報源は数多く存在していたが,本連載では「ウルトラ」情
報により提供されたインフォメーションにのみ焦点を当てて
考察を進めることとする.第二次世界大戦を通じて,連合
軍の戦略レヴェル・作戦レヴェルの指揮官たちはウルトラ
情報を活用し,ウルトラ情報の精確性に関してめったに疑
いを持たなかったからだ.

前回から「ウルトラ」情報について述べている.前回はイギリ
スのウルトラ情報解読について説明した.

エニグマ暗号解読に関しては二つの誤解が存在する.第一
の誤解は,イギリスがエニグマ解読に成功したのは,イギリス
単独の業績であるというものだ.だが,前回説明した通り,イ
ギリスの「ウルトラ」計画の系譜は,ポーランドのウイッチャー
計画に直接遡ることができる.というのも,ポーランドがドイツ
の暗号通信を解読することで蓄積した,ウルトラ計画以前の
十三年間に及ぶ諸経験なくしては,ウルトラ計画が現在か
たられているような成功譚となったかどうかは極めて疑わし
いからだ.たとえ小規模であっても,戦間期になされたポーラ
ンドの解読作業は効果的なものであり,後にイギリスにより
実施された解読作業に劣らないどころか,イギリスによる解
読作業以上の重要性を持つものであった.

ウルトラに関するもう一つの誤解として,ウルトラの唯一の任
務はエニグマの暗号コードを解読することであった,というも
のがある.だが,ウルトラ計画の裾野は広く,エニグマ暗号の
「鍵」を発見しようと努力する数学者たちの集団だけの努力に
とどまるものではなかった.現実には,ウルトラ計画は以下の
ようなあらゆる段階を含む総合的な計画であった.すなわち,
それらの段階には,

(1)ドイツ軍が送受信する情報を傍受する
(2)傍受した暗号の「鍵」を解読する日々の努力
(3)情報文を読みやすくする
(4)インフォメーションをインテリジェンスに高めるために情報
文を分析する
(5)解読・分析が済んだインテリジェンスを第一線部隊の指
揮官に伝達する
(6)それを読んだ部隊指揮官たちが「ウルトラ」情報を決断の
ために利用する

といった諸段階が含まれていた.

今回は,フランスとアメリカによる戦間期暗号解読の状況につ
いて概説する.


【戦間期フランスの暗号解読の状況】

ドイツの暗号解読に関するフランスの状況イギリスと同じよう
な状態であった.フランス陸軍参謀本部第二局の無線情報の
責任者であったギュスターブ・ベルトラン大尉は,フランスによ
るドイツ暗号解読の努力を語る際に重要となる人物の一人で
ある.

一九三〇年,ベルトランはフランス情報部D部部長に就任し,
ドイツ暗号解読に関する彼の努力を継続していた.フランスが
エニグマ暗号解読に不成功であった期間,D部はエニグマ暗号
解読に精を出すポーランドを助けることで,エニグマ解読に重要
な役割を果たした.すなわち,D部は,エニグマ計画に関与して
いたドイツ人と接触することによって得た情報をポーランドに提
供したのである.

ベルトランは,技術的手段ではなく,秘密裡に入手した文書を
ポーランド側に渡すことにより,ドイツの暗号通信を解読する手
助けをしたのみならず,最終的には第二次世界大戦勃発時に
ポーランド人暗号専門家がパリに亡命する手助けをすることで,
フランスとポーランドとを結びつける紐帯の役割を果たしたので
ある.

以下,ベルトランとD部について詳細に述べてみたい.


【ギュスターブ・ベルトラン】

日本の読者にはなじみがないかもしれないが,ギュスターブ・ベ
ルトラン(一八九六〜一九七六)は,一九三二年にドイツのエニ
グマ暗号の解読に成功したポーランドの暗号局による暗号解読
に死活的に重要な役割を演じた情報将校の一人である.ベルト
ランが果たした役割が,有名な第二次世界大戦中のイギリスに
よるウルトラ作戦の成功につながったのだ.

ベルトランの軍歴は第一次世界大戦が勃発した一九一四年に
一兵卒としてフランス軍に従軍したことから始まる.翌一九一五
年にはダーダネルスにおける作戦で負傷している.ベルトランが
無線情報に関与したのは一九二六年からのことである.戦間期
の一九二〇年代,大戦中大きな部門であったフランスの無線情
報部門は分権化された.外国暗号の解読──主としてドイツお
よびイタリアのものを解読していた──が参謀本部暗号部の責
任となる一方で,無線監視・無線傍受は参謀本部情報部により
実施されていたのだ.


【ベルトラン,「アッシュ」から機密文書を購入する】

一九三〇年末,暗号解読が参謀本部情報部の役割となり,D部
が創設され,ベルトランがD部部長に就任した.情報部のベルト
ランの同僚たちは,暗号名「アッシュ」の名で呼ばれていたハン
ス=ティロ・シュミットからエニグマ暗号機に関する文書を購入し
た.シュミットはドイツ軍の暗号局に勤務していた人物であった.


【機密文書,フランスからポーランドに引き渡される】

一九三二年十二月,ベルトラン大尉(当時)はポーランド軍暗号
局の局長であったグイド・ランガー少佐にアッシュから購入した文
書を引き渡した.

当時,ポーランドの暗号研究者マリアン・レイェフスキは,エニグ
マ解読の第一段階として,エニグマ暗号機の暗号化ローターの
配線を復元する作業を行なっていた.レイェフスキは,エニグマ
暗号機のローターやプラグボードを流れる電気信号を未知数を含
む方程式で書くことに成功していたが,未知数が非常に多いた
め,彼の方程式はとても複雑であった.レイェフスキによれば,
彼の方程式に多くは,追加のデータが無ければ解を与えないも
のであったという.

しかし,幸運なことに,フランスがポーランド側に引き渡した文書
に,エニグマ暗号機の設定が含まれていた.こうして,レイェフス
キの方程式から未知数の箇所が減少することとなったのである.

レイェフスキの証言によれば,実際に,エニグマ暗号機の配線復
元に関する数学的解決にとってフランスがアッシュから購入した
文書は極めて重要であった.レイェフスキの回想には,フランス情
報部からの「情報が,暗号機の解読を決定づけたと考えるべきで
ある」と書かれている.

ポーランドとの仕事に際して,ベルトランはポーランドから与えられ
たコードネーム「ボレック」を使用していた.だが,ベルトランがポー
ランドによるエニグマ暗号解読の成功を知ったのは,それから約
六年半が経過した後のことであった.それは,ポーランド・イギリ
ス・フランスの三国の関係者による会談がワルシャワ南方のカバ
ティの森で開催された一九三九年七月二十五日のことで,第二
次世界大戦が勃発するわずか五週間前のことであった.


【第二次世界大戦中のベルトランの数奇な人生】

一九三九年九月,ドイツ軍がポーランドに侵攻した後,当時少佐
であったベルトランは,一九三九年十月から一九四二年十一月
まで,ポーランド暗号局の要員の仕事を後援し続けた.初期の
拠点はパリ郊外のPCブルノに置かれ,ドイツによるフランス侵
攻の後はヴィシー政権の自由区域の南部にあったキャディック
ス・センターで,それは実施された.ドイツ軍による逮捕を回避す
るために,キャディックス・センターが解散されてから一年以上が
経過した一九四四年一月五日,ベルトランは,ロンドンからの
クーリエをモルマントンのサクレ・クール寺院で待っていた時に,
ドイツにより逮捕された.

ベルトランを逮捕したドイツは有能な情報将校であったベルト
ランに目を着け,ドイツのために働くことを要請した.これに対
しベルトランは同意した振りを装った.こうしてベルトランは,イ
ギリス情報部と接触するために,妻のマリーと共にヴィシーに
帰ることを許された.ヴィシーに戻ったベルトランは,仲間たち
を地下に潜伏させ,自身も地下に身を隠した.

ノルマンディ上陸作戦四日前の一九四四年六月二日,フラン
ス中央高地に即席で作られた仮設滑走路で,ベルトランとそ
の妻,およびポーランドのレジスタンス活動家とのクーリエを
務めていたイエズス会の司祭が小型で非武装のライサンダー
機に乗り込み,イギリス諸島へと飛び去った.

イギリスに到着したベルトランとその妻はポーランド軍の無線傍受
局と暗号部門が置かれた村からすぐの所にあるハートフォードシャ
ー州のボックスムーア村に居を構えた.ボックスムーア村近在のポ
ーランド軍の無線傍受局と暗号部門ではマリアン・レイェフスキら
が働いていた.

第二次世界大戦後,ベルトランは一九五〇年にフランスの情報
部から退役し,南フランスのあるコミューンの市長に就任している.


【戦間期アメリカの暗号解読活動】

アメリカも積極的な暗号解読計画を持っていたが,その主たる対象
はドイツではなく日本であった.確かに,アメリカの分析官たちはド
イツの暗号能力に対し強い関心を抱いており,ベルリン駐在の武官
が一九二七年にエニグマ暗号機のコピーを購入していた.だが,こ
のことはエニグマ解読のうえであまり大きな重要性を持たなかった.
というのも,当時のアメリカの関心は日本の外交通信に置かれてい
たからである.

一九二九年,国務長官ヘンリー・スチムソンが「紳士はお互いの手
紙を盗み見ない」と語り,国務省の暗号解読局MI−8を閉鎖した時
に,アメリカの全体的な暗号解読能力は大きく後退してしまった.

だが,アメリカの暗号解読の努力は一九二九年の時点で終了しなか
った.暗号解読は部署の名前を変える形で継続され,その活動はよ
り慎重なものになっただけであった.アメリカはエニグマ解読の初期
段階においてはエニグマ解読に大きな関心を持っていなかったが,結
局はイギリスなどと並んでウルトラ情報の最大の消費者となるのである.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.7.30




陸軍機 vs 海軍機(46)       清水政彦

「零戦と隼(45)」

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「零戦vs隼」の第45回.今回は,昭和18年9月におけ
る東部ニューギニア防衛線の状況についてです.

▼ 東部ニューギニア作戦の方針転換

 すでに述べたように,昭和18年夏までの南太平洋方
面作戦の基本方針は,東部ニューギニアから中部ソロ
モン諸島にかけての防衛線を死守することにあった.

 このような「前がかり」ともいえる兵力配置に対しては,
補給の面から絶えずその妥当性に疑問が投げかけら
れていた.とくにニューギニア自体の戦略価値を疑問視
する陸軍中央では,次第に東部ニューギニアからの撤
退論が力を増しつつあった.

 このような環境下で陸軍があえてニューギニア方面の
航空兵力を大増強し「第四航空軍」を編成したのは,こ
の「前がかり」になった兵力に対して補給を確保するた
めのやむを得ない措置と認識されていたが,インド洋方
面でも連合軍の反攻が予想されるなかで,補給が困難
な東部ニューギニア方面に大兵力を投入することは,陸
軍中央としても一大決心を要する「賭け」であった.

 8月中旬,ウェワク空襲による大損害の報告を受けた
陸軍中央部は,この「賭け」に敗れたことを悟ったが,こ
れはちょうど,大本営が東部ニューギニア放棄に関する
陸海軍合同研究を開始したのと同じタイミングであった.

 ソロモン・ニューギニア戦線が急変した直後,8月15日
から開始された図上演習を通じ,大本営は急速に東部
ニューギニア放棄の決断に傾いていった.そして,ウェワ
ク大空襲から約半月後の昭和18年8月末,大本営は東
部ニューギニア方面の作戦方針を「持久」に転換するこ
とを決定する.

「持久」作戦とは,敵の進攻兵力に対してもっぱら防勢
をとり,ジリジリと後退しながら後方の防衛線を構築する
時間を稼ぎ,最終的にはその地域を放棄するということ
である.

 東部ニューギニア放棄後の後方防衛線は,西部ニュー
ギニアからパラオ,マリアナ諸島を結ぶ線とされ,この防
衛線の構築と「反撃戦力」の蓄積に約1年を要するもの
と見積もられた.つまり,東部ニューギニア作戦の目的は,
「持久」によりこの1年間の時間を稼ぎ出すことと定義され
たのである.

 もっとも,東部ニューギニア方面作戦の方針が「持久」に
変更されたことは,航空作戦を消極的にすることを意味し
ない.一般に撤退戦というのは難しいものだが,とくに航
空作戦での撤退戦は「総崩れ」になりやすい特性がある
ため非常に難しいのである.航空戦は基本的に攻勢側が
優位に立ちやすいからだ.

 東部ニューギニアにおいても,むしろ劣勢であればこそ
積極的・攻勢的な航空運用を行なうことが重要だと認識
されていた.従来は船団掩護や基地の防空だけに偏り
がちだった兵力運用を,敵の航空基地や船団への攻撃
にシフトすることで,少ない兵力を有効に活用すべきだと
考えられたのである.

▼ 東部ニューギニアの天王山「フォン半島」

 フォン半島の戦略的位置づけについては先に述べたが,
これは東部ニューギニアの持久作戦を理解するうえで重
要なのでここで再確認しておこう.

 フォン半島は,ニューギニア島を亀に喩えたとき「尻尾」の
付け根にあり,ダンピール海峡に向けて大きく丸く突き出し
た地形をしている.フォン半島は日本側の重要拠点である
マダンとラエをつなぐ位置にあり,ラエに対する補給の中継
地点である.同時に,連合軍がニューギニア島北岸沿いに
反攻するに際して最大の関門となる地形である.フォン半
島周辺の港湾と飛行場を日本側が抑えている限り,連合
軍はダンピール海峡を安全に通行できず,仮にマダンより
西の地域に上陸しても補給が続かない.

 日本側は,フォン半島とダンピール海峡周辺地域を極力
長く「持久」することによって連合軍の反攻速度を鈍らせ,
後方防衛線の構築に必要な1年の時間を確保しようと試み
た.逆に,ひとたびダンピール海峡を突破されてしまうと,
連合軍はニューギニア北岸のどこにでも奇襲的に上陸でき
ることになり,防禦する日本側の方が圧倒的に不利になる.

 このような事情から,フォン半島をめぐる攻防が,東部ニュ
ーギニア「持久」作戦の天王山となった.

▼ ラエの放棄

 昭和18年9月3日,ついに連合軍がフォン半島の南岸に上
陸し,激戦が続くラエ地区を日本側支配地域から切り離そう
と試みた.さらに9月5日にはラエの近郊に連合軍の空挺部
隊が落下傘降下して,日本軍守備隊の退路を断つ動きを
見せる.

 第四航空軍は全力で出撃して上陸(降下)部隊の攻撃に
努めたが,一度に出撃できる爆撃機は数機から10機程度し
かなく,連合軍の進撃を阻止する力はなかった.

 第八方面軍司令部では,もはやラエ地区の保持は不可能
と判断し,所在の部隊に対して同地を放棄して後方に撤退す
るよう指示した.12日,ラエ地区の残存部隊は2週間分の食
料を背嚢に詰め込んでジャングルに入り,徒歩で山脈を越え
て撤退を開始する.

 ラエ地区が放棄されたことによって,戦いの焦点はフォン半
島の中心拠点である「フィンシュハーフェン」に移った.

▼ フォン半島をめぐる攻防

 ラエの失陥後まもない9月下旬,連合軍はフォン半島の中心
に位置するフィンシュハーフェンに対しても上陸を開始した.

 この時,第四航空軍の手元にあった実働戦力は約90機であ
り,そのうち爆撃機は30機余りに過ぎなかった.フォン半島を
めぐる攻防を東部ニューギニアの天王山と位置付ける第四航
空軍は,可能な限りの戦力を振り絞ってフィンシュハーフェン付
近の船団や揚陸点に対する攻撃を反復するが,やはり爆撃戦
力が少なすぎた.

 何度となく送り込まれる攻撃隊も,その構成は直掩の戦闘機
ばかり.爆撃機は3個小隊9機の編成が精一杯で,その爆撃
は揚陸作業を一時的に妨害する「嫌がらせ」程度の効果しか
なかった.
それでも,9月中の陸軍航空部隊の奮戦には特筆すべき点がある.

 公式記録で確認できるだけでも20回以上の進攻作戦が企図
され,参加機数では延べ数百機に及ぶ反復攻撃が行なわれ
たにもかかわらず,空中で撃墜された機が極めて少ないのである.

▼ 「ニューギニアは南郷で持つ」

 9月の進攻作戦でもっとも損害が大きかったのは9月21日の
フィンシュハーフェン上陸船団に対する攻撃だが,攻撃に参加し
た戦闘機23機と重爆9機のうち,空中で失われたのは戦闘・重
爆各2機のみで,生還率は88%.船団上空でP-38が厳重に警
戒するなかでの強襲であったこと,同時期の海軍の攻撃では
1回に10機以上の被撃墜機を出すのが当たり前であったことな
どを考えると,このスコアはかなり凄みがある.

 これ以外の作戦では全機が無事帰還する例が多く,多数の
連合軍機から邀撃を受けたケースでも数機が損傷するのみか,
多くて1〜2機の犠牲で切り抜けている.質量ともに日本側が圧
倒的に劣勢ななかで,昭和18年9月の空中戦は意外ともいえる
善戦が目立つ.

 その理由はおそらく複合的なものだが,1つの要素として,この
時期に行なわれた進攻作戦の多くに飛行第59戦隊(南郷茂男
大尉)の一式戦が参加していたことが挙げられるだろう.

 南郷大尉は部隊の中心幹部として常に上空で指揮をとっており,
その沈着・適格な指揮ぶりは59戦隊内部からだけでなく他の部隊
からも称賛を集めていた.彼自身もこの時点ではまだ負けている
という意識はなかったようで,「まだまだやれる」と感じていたこと
が陣中日誌の記載から伝わってくる.

 この時期の59戦隊の実績を見れば,航空戦における空中指揮
の重要性とともに,「ニューギニアは南郷で持つ」と呼ばれた理由
が納得できるだろう.

▼ 蔓延する感染症と戦力の枯渇

 昭和18年9月末の時点で,第四航空軍の実働戦力は50機程度
に低下していた.

 空中での喪失が少ないのに,なぜ実働戦力が減るのか? それ
は,空襲での地上撃破や,荒れた滑走路での離着陸事故が多い
ことに加え,感染症の蔓延と整備力の不足が追い打ちをかけたか
らである.

「戦史叢書」によれば,第四航空軍の第一線定数(書類上の定数)
356機に対し,9月末時点で実際に保有する機材は240機あったが,
このうち損傷・故障しておらず飛行できる状態のものは80機に過ぎ
なかった.しかも,機体が故障していなければすべて「出撃可能」
なわけではない.

 パイロットが病気や極度の疲労によって戦闘任務に就くことがで
きない(飛行機よりパイロットが少ない)場合や,整備員のマンパワ
ー不足で飛行機の整備が追いつかないために直ちに出動できない
ことが多いのだ.そして,こうした状況を招いている根本的な原因は,
マラリアやデング熱の蔓延を抑制できないことにあった.昭和18年
9月の段階でも,なおニューギニア地区の衛生状態は改善できてお
らず,一般に極めて劣悪だったのである.

 以下に「戦史叢書 東部ニューギニア方面陸軍航空作戦」から
該当する記載を抜粋する.

「各戦隊の実情を見ると,ほとんど全員がマラリヤにかかっており,
消化器病などと関連して何時発熱するかわからぬものが大部分で
あった.戦闘隊の操縦者の疲労は特に著しかった.食欲がなくな
り,疲労回復の注射をうちながら出動しているものが大部であっ
た.」(474頁)
「第68戦隊操縦者の健康状態は悪く,下痢をしても一日五回くらい
では患者扱いはできなかった.」(496頁)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.7.29




荒木 肇
『動員のコスト(6)──日本陸軍の動員(6)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

□はじめに

 梅雨が明けました.とたんに関東は猛暑です.先日
はまさに局地的なゲリラ豪雨がありました.首都圏では
電車も止まり混乱がおきました.
 毎日の暑さにいささか参っています.みなさまもご自愛ください.


▼「用兵綱領」

 用兵綱領とは読んで字のごとく,どのように軍隊を用い
るのかという基本方針である.要点,眼目,基本方針の
ことをいう.前にも述べた「動員」への流れを確認する.
制定された国防方針に国力を勘案し,必要な兵力量を決
める.それをどうやり繰りして戦うかという計画の基本に
なるのが用兵綱領である.

 国防方針と所要兵力量は政府と統帥部の協議事項だ
った.何をおいても国家には財政と民政がある.国民
生活とのバランスが取れなくては戦争の遂行そのもの
が不可能になる.ただし,用兵綱領となれば軍隊をど
う動かすかという統帥事項になった.だから,用兵綱領
と年度作戦計画は統帥部(陸軍参謀本部と海軍軍令部)
の専管事項であり,陸軍省や海軍省といえどもタッチす
ることはできなかった.

 用兵綱領と作戦計画は陸軍の中でも最高機密である.
陸軍大臣や教育総監といった立場でも知ることはできない.
わずかに参謀本部作戦課の担当者だけが知ることができ
た.戦時の軍の行動計画は,そのごく少ない人間たちが
心血を注いで作りだしたものだった.

 その作戦計画も敗戦と同時に多くが焼却処分された.
『日本の一番長い日』(映画・小説)にも描かれているよう
に,市ヶ谷台上には数日間も書類を焼いている煙が立ち
上っていたという.わずかに防衛研究所に残っているの
が1940(昭和15)年度の作戦計画である.37ページの
本文と付表3枚,付図1枚といった小冊子でしかない.想
定されている敵国は,ソビエト連邦,アメリカ,支那,イギ
リス,フランスである.それぞれの計画がシミュレーション
されている.

1)支那ニ対スル作戦中,露国ガ参戦セル場合ノ作戦
2)支那ニ対スル作戦中,米国ガ参戦セル場合ノ作戦
3)支那ニ対スル作戦中,英国及ビ仏国ガ参戦セル場合ノ作戦
4)支那ニ対スル作戦中,露国,米国,英国及ビ仏国ノ内
二国乃至四国ガ参戦セル場合ノ作戦

「総則」を見てみると第3章に次のような文言がある.
「部隊ノ整備並ビニ兵力ノ区分」である.分かりやすく現
代語化する.
『作戦の初期に使用する部隊は,主として昭和15年度の
帝国陸軍動員計画を使って整備を企画する.作戦上の用
途に応じられるように動員し,すでに動員済みの部隊を運
用し,作戦が進むにつれ必要になった部隊は臨機に整備する』

▼動員計画とは

 動員計画を見てみよう.まず,師団は平時編制から戦時の
それに変わる.ふつう平時の人員1万2000人,馬匹1600
頭という規模から2万5000人,同前8000頭にもふくれあが
る.師団司令部も平時の70名,14頭から330名,170頭に
もなってしまう(昭和11年度の平時編制表と12年度の常
備〈甲〉師団戦時編制表から).

 その膨張する実態についてだが,増員される部隊と特設さ
れる部隊がある.増員される部隊の代表例は歩兵聯隊であ
る(昭和初めの頃).平時の2000名,馬70頭が,3700名,
馬500頭あまりに増える.野砲兵聯隊も平時1200名,馬6
00頭から2900名,2300頭になってしまう.工兵聯隊,輜
重兵聯隊も巨大化するという事情は変わらない.また,師団
と隷下の各聯隊とをつなぐ通信隊(133名,19頭)も人,馬と
もに倍増した.2倍以上になるのは輜重兵聯隊である(150
0名,300頭から3500名,2600頭).
 
 特設される部隊の代表は4個の野戦病院(それぞれ250名,
馬75頭),衛生隊(1100名,馬130頭),兵器勤務隊(121
名)などである.衛生隊は3個担架中隊,1個車輛中隊で戦場
での救急業務にあたった.
 
 戦時編制になった師団が野戦師団として出征すると留守師団
がつくられる.後方からの補給や支援,また補充兵の教育や初
年兵の教育などをルーティンワークとして行なう必要からだ.この
留守師団から現役の人員を抽出して,さらに召集で集めた予備
役・後備役を集めて構成されるのが特設師団である.つまり1つ
の常設師団から野戦師団と特設師団がつくられる.これを2倍動
員という.戦う師団の数が2倍になるからである.

 わが陸軍の常設師団数はピーク時には朝鮮の2個師団,近衛
師団もいれて総計21個だった.軍縮直前の実態は朝鮮の2個師
団には戦時編制の計画はなかった.また,九州小倉に司令部を
おいた第12師団も人口基盤が薄く2倍動員の計画はなかった.
朝鮮の2個師団は全国各地からの選抜した兵士がいるだけだっ
た.警備が主任務だったからだ.

 小倉も師管区の召集可能人口が少なかったために,野戦師団,
留守師団,特設師団という3つをつくれなかった.福岡県という人
口の多い県があっても,重砲兵旅団(下関),警備大隊(対馬),
要塞砲兵(対馬)のための徴募もしなくてはならない.さらに重工
業地帯だったので技術者や技能者が多く,召集猶予者も多かっ
たからだろう.この召集猶予についても後に詳しく述べる.

 こうした事情は1933(昭和8)年になってもあまり変わらなかっ
た.戦時編制にできるのは17個師団でしかない.第13,第15,
第17,第18の4個師団は大正末期の軍縮でなくなってしまった
からである.しかも,朝鮮の第19,20の2個師団,近衛師団,北
海道の第7師団は2倍動員が不能だった.近衛師団は砲兵隊な
どの特科隊は別にして,歩兵聯隊は全国区からの選抜だったか
らだ.つまり独自の徴募区がない.第7師団も北海道全体が管区
だったが人口が少なすぎた.

 これに加えて,当時,兵庫県姫路の第10師団,栃木県宇都宮
の第14師団は満洲へ派遣中であり,この年は2倍動員ができず,
平時では最低の28個野戦師団が用意できるだけだった.

▼歩兵聯隊戦時編制表から

 時代が少し下がるが動員とはどれほどの召集兵が必要になるか
みてみよう.

 手元に「昭和16年度動員計画」がある.大きな紙一枚で,縦軸
には部隊の種類,上から順に聯隊本部,大隊本部,中隊,機関銃
中隊,歩兵砲小隊,大隊,歩兵砲大隊本部,歩兵砲中隊,速射砲
中隊,歩兵砲大隊,通信中隊そして総計の欄がある.総計の欄に
は大隊3箇,歩兵砲大隊1箇,通信中隊1箇とまとめられている.

 横軸には階級と補職名,人員数がある.たとえば歩兵聯隊本
部を見るとしよう.大(中)佐は聯隊長,乗馬1頭,少佐が1名,乗
馬1頭,大尉もしくは中尉が副官と兵器掛の各1名ずつ.中尉もし
くは少尉は3名で給養掛と瓦斯掛,そして少尉の聯隊旗手にな
る.曹長は書記が4名,軍曹もしくは伍長が3名,職務は暗号掛,
兵器掛と瓦斯掛である.他に輜重兵中尉や同軍曹,獣医中尉,
軍医大尉などがあり,下士官も技術,鍛工,火工,鞍工(あんこ
う・馬具関係),木工,電工,銃工,獣医務,衛生など.それに馬
取扱兵9名が定員だったことがわかる.

 備考欄は,煩雑になるが歩兵聯隊の具体的編制がよくわかる
ので書いておこう.現代語に直しておく.
1)中隊は3小隊に区分して中(少)尉を小隊長とする.小隊は
4個分隊に分けて軍曹(伍長)を分隊長とする.第1,2,3分隊
は13名で軽機関銃1挺,小銃11挺を装備し,第4分隊は12名
で重擲弾筒3筒と小銃9挺をもつ.

2)機関銃中隊は大隊のナンバーに従って第1から第3の番号を
付ける(第2大隊には第2機関銃中隊がある).機関銃中隊は戦
銃隊(せんじゅうたい),自動砲小隊と弾薬小隊からなっている(自
動砲とは口径20ミリの対戦車砲で自動装填式だった.制式名称
は九七式自動砲).戦銃隊は3個小隊に区分して中(少)尉が小
隊長になる.小隊は4個分隊に分け軍曹(伍長)を分隊長とし,弾
薬小隊は准尉を小隊長とする.弾薬小隊は3分隊とし分隊長は
上等兵とする.

3)歩兵砲小隊は各大隊に一個ずつ,第1から第3までとする.
戦砲隊(九二式歩兵砲・70ミリ)と弾薬分隊とし,戦砲隊は2個
分隊とし,軍曹もしくは伍長が分隊長となる.

4)歩兵砲中隊は戦砲隊と弾薬小隊とする.別に観測車1輌と
観測通信に必要な人馬をつける.戦砲隊は歩兵砲4門(75ミリ
山砲)と弾薬車8輌とする.2小隊に区分して少(中)尉が小隊
長,2個分隊(各砲が1分隊)で分隊長は軍曹もしくは伍長.弾
薬小隊は弾薬車12輌,器材予備品車4輌,予備馬をもち准尉
が小隊長.5分隊に分ける.

5)速射砲中隊は戦砲隊と弾薬小隊から成って,戦砲隊は37ミ
リ対戦車砲4門(九四式三七粍砲),弾薬車4輌,予備品車で構
成し2個小隊に分ける.小隊は中(少)尉が指揮官となり2個分
隊に分ける.分隊長は軍曹もしくは伍長.弾薬小隊は弾薬車6
輌と予備馬をもち准尉が長となり2個分隊に分ける.

6)通信中隊は電話機20箇,被覆線30粁(キロメートル),5号
無線機5箇,6号無線機12箇などをもつ.2個小隊に分け小隊
長は中(少)尉.第1小隊は6個分隊に分け,第1から第5分隊
まではそれぞれ電話機2箇,被覆線6巻を装備する.第6分隊は
電話交換機をもつ.第2小隊は同じく6個分隊に分け,第1分隊
から第5分隊まではそれぞれ5号無線機1台,6号無線機1台を
もつ.第6分隊は6号無線機7箇をもたせる.

7)聯(大)隊本部書記のうち1名は給養掛,輜重兵下士官のう
ち1名は瓦斯掛を兼ねる.

8)聯隊本部の上(一・二)等兵のうち5名は軍旗衛兵とする.

9)乗馬のうち1頭は将校予備馬とし,もう1頭は伝令用とする.

10)本表の他,所要の人馬を増加することができる.

 たいへん面倒なことだったが,こうして歩兵聯隊の編制装備の全
容がわかった.人員は4487名であり,馬匹は乗馬,輓馬,駄馬
あわせて927頭である.幹部の数は佐官6名,尉官が兵科だけで
87名にのぼる.准尉18名,下士官373名だった.一個中隊は
190名,同機関銃中隊は223名となる.

▼平時編制と比べての人員増

 これらのデータを平時編制の歩兵聯隊と比べてみよう.まず,
小銃中隊の数である.平時は3個大隊だが各3個中隊でしかな
かった.第4,第8,第12の各中隊は欠番だった.また,歩兵砲
中隊,機関銃中隊もそれぞれ1個ずつである.平時の歩兵中隊
はおおよそ120名くらいだった.下士官以上の幹部も20名前後
でしかない.中隊長,中隊付の中尉・少尉が3人ほどで准尉が
1人,もしくは2人.曹長も2人,軍曹と伍長が5人ずつくらいのも
のだった.平時の歩兵聯隊には軍医や主計,獣医などの各部
将校を合わせても60人くらいしか将校団の構成員はいなかった
のである.

 階級別にみても大尉は各中隊長で11人,聯隊副官を入れても
12人.これが,戦時編制になると小銃中隊は12個に増え,機関
銃中隊も3個,歩兵砲大隊には2個中隊,通信中隊もあるから合
計18人の大尉が必要になる.この大尉という階級はいつの時代
も難しいポストである.なお,大尉からは少佐とともに中級将校と
いう扱いを受けた.

 少尉任官から各兵科の実施学校(職種学校と陸自ではいう)で
の課程教育を受け,10年くらい経って特業といわれた専門をもつ
のが大尉である.野砲兵なら観測,通信,弾薬,車輛などの専攻
別の科目があった.海軍も同じである.中尉までは一通りの教育
を受け,大尉になると航海,通信,砲術,水雷などのそれぞれの
専門家になる.したがって,平時の陸軍の中隊長は半分くらいが
部隊にはいなかった.陸軍大学校へ通う者,実施学校の課程学
生,中には籍だけあって臨時勤務で官衙,研究所などへ派遣され
た者などがそれにあたる.

 小隊長である中尉,少尉といった初級将校はもっと増える.歩兵
大隊3個の中隊数は12個,各3小隊だから36個小隊.それに機
関銃中隊の戦銃隊小隊長が9人に自動砲小隊長が3人,歩兵砲
小隊長が3人となり合計51人になる.歩兵砲大隊は2個中隊だが
小隊長が4人であり,合計55人.それに通信中隊の2人の小隊長
で総合計57人になる.大尉12人と合わせると69人になった.聯
隊本部や大隊本部の尉官と合わせれば87名が定員である.これ
に佐官の6名や各部将校を合わせると,ざっと100名の現役将校
が必要になった.

 下士官の必要数も戦時には大きく増えた.もともと陸軍には
「伍長勤務上等兵」という制度があった.現役兵のエリートだった
上等兵のうちでもトップクラス,各中隊で4名から6名の上等兵が
指名され,特別の袖章を付けて「ゴキン」といわれる立場について
いた.これは予算不足で平時編制の下士官の充足度を低く抑え
たためである.他に優秀者は衛生兵である.各中隊に年度ごと
に1名がいて2年目には必ず上等兵になった.これもふだんは
聯隊の医務室で勤務したが優秀者は「下士官適」の証書をもら
って除隊した.予備役の召集時にはたいていが「志願ニ依ラザ
ル」下士官になった.

 このように戦時編制の軍隊は現役兵だけではとてもまかなえ
ず,そこで動員がかかり召集兵が集められる.昭和の初めには
毎年およそ10万人が入営していたから,予備役兵5年分を集め
れば50万人,後備役や既教育補充兵をさらに召集して100万
を集めることも可能だったわけだ.実態はそんな簡単なものでは
なかったが.

▼兵役期間についた4カ月の端数

 昭和16年まで,現役2年,予備役5年4カ月,後備役10年だっ
た.徴兵検査のすぐあとに入営しない補充兵役は在役期間が17
年4カ月である.この4カ月の端数こそ動員計画と関わりがある.

 ついでに補充兵役についても述べておこう.補充兵役は明治・
大正の時代にはなかった.1927(昭和2)年の「兵役法」で初め
て設けられた制度である.創設の理由は2つである.
1)平時の部隊の定員と動員部隊の人員比率,つまり戦時の人
員拡張率を「動員倍率」という.それが高くなるにつれて,予備
役・後備役だけでは人員が足りなくなる.
2)戦争の長期化が予想されるようになり,各部隊の戦力を長く
維持するためには補充兵を召集する必要が出る.

 こうして補充兵役は始まったが予備役と同じく4カ月の端数が
ついた.それは兵役期間の起算日が12月1日であることと関係
がある.それに4カ月の端数を付けると翌年の3月31日になる.
その3月31日に意味があった.

 3月31日は「動員年度」の最終日にあたる.年度動員計画は
4月1日から翌年の3月31日までが有効である.4月1日以降
の動員部隊の要員に充てられた兵員は翌年の年度末3月31日
まで在役していなければ困る.ところが兵役期間の起算日は
12月1日だからこの端数がついていないと,予・後備役の15
年目の兵員は,動員年度の有効期間中の11月末日に兵役義
務を終えてしまう.そうなってしまわないように4カ月の端数を
付けるようになっていた.

 次回はいよいよ作戦計画に基づいた「動員計画」について
報告しよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.7.29




『ライター・渡邉陽子のコラム (55) ─ 2015年陸海空自衛隊の装備と運用(2) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

先週,北海道に陸自の演習取材で行って猛暑と
虫刺されで大変なことになったとお伝えしました.

虫に刺されてから10日経って,ようやくかゆみが
治まりました.いやいやながら皮膚科に行った
甲斐がありました.でも刺された場所がけっこう
しっかり痕になっています.何歳になろうが肌の
ダメージは悲しいものです.



■2015年陸海空自衛隊の装備と運用(2)

2015年度の防衛予算に含まれる新規事業を中心に,
2015年の陸海空自衛隊の装備と運用について
ご紹介する第2回目です.

先週は,領空の常設監視をさらに強化するため
に早期警戒機E-2Dと滞空型無人機グローバル
ホークを取得したことまでお話しました.


早期警戒機を運用している警戒航空隊は,1つの
部隊が2つの機種を3つの基地で運用するという
稀有な部隊であり,早期警戒管制機E-767,通称
AWACSを浜松基地に,早期警戒機E-2Cを三沢
基地及び那覇基地にそれぞれ配備しています.

もとは浜松と三沢だけでしたが,ここ数年は尖閣諸
島周辺の早期警戒監視のため三沢基地から那覇
基地への展開が常態化,無理のある運用が続いて
いました.そこで昨年4月に部隊を改編,飛行警戒
監視群と第601飛行隊(三沢),第603飛行隊(那
覇)を新編し,那覇基地でE-2C 4機の運用が始まりました.

また,浜松基地でAWACSを運用する飛行警戒管
制隊については,第602飛行隊と改称されました.
三沢の部隊を2つに分ける形で部隊が新編されたお
かげで,早期警戒機のイレギュラーともいえる運用
は解消されました.新たに導入されるE-2Dは三沢に
配置される予定です.


広域における常続監視能力の強化のために取得した
滞空型無人機グローバルホークは,昨年から米空軍
が三沢基地で運用しています.本来の拠点はグアム
のアンダーセン空軍基地なのですが,現地が台風など
の気象条件により運用に制約を受ける5〜10月の間は,
毎年三沢基地に展開することになっているのです.

自衛隊も同機を導入後は三沢に配備しますが,部隊は
陸海空3自衛隊の共同部隊となります.
無人機ですが地上での操縦はパイロットである米空軍
にならい,自衛隊でもグローバルホークの操縦は航空自
衛隊のパイロットから選抜,米国で訓練を行ない操縦資
格を取得することになります.グローバルホークを運用す
る部隊は2018年までに新設されます.


このほか,複数のヘリとの連携により敵潜水艦を探知す
るマルチスタティック能力等を付与した哨戒ヘリの開発が
スタートします.試作総経費481億円のうち70億円を概算
要求,機体は現有のSH-60K哨戒ヘリを使用することでコ
スト削減を図ります.今後5年間で開発試作,その後2年
かけて性能確認試験を行なう計画となっています.


三菱重工業に研究開発を委託している先進技術実証機は,
来月に機体が公開される予定で,その後,ステルス性,高
運動性等について検証することになっています.ステルス性
と高い運動性能を備えた第5世代のステルス戦闘機は各国
が開発を進めており,中国は数年以内に配備されるとされ
ているJ-20のほか,J-31も昨年12月にテスト飛行する姿を
初公開しました.

ロシアのT-50は2016年に部隊配備予定とされています.
韓国はインドネシアと4.5世代機KF-Xを共同開発,インドは
ロシアとT-50の共同開発に加え,中型第5世代機AMCAを
開発中です.


一方,空自が現在保有する戦闘機は第4世代のF-15とF-2,
第3世代のF-4であり,ステルス戦闘機は存在しません.導入
の決まった第5世代のF-35Aが初めて保有するステルス機と
なり,退役の迫っているF-4と置き換わります.
F-2の後継機については国際共同開発と国産機のどちらにす
るか,2018年までに最終判断するとしています.実証機の検
証結果次第では,F-2の後継機が国産ステルス機になる可能
性もあり,防衛省が提唱しているカウンターステルス能力の高
いi3FIGHTER(アイ・ファイター)の実現に一歩近づくことになります.

i3FIGHTERとは「高度に情報(Informed)化/知能(Intelligent)
化され,瞬時(Instantaneous)に敵をたたく」戦闘機.ステルスと
機動性の両立と先進的なアビオニクスを備えている第5世代戦闘
機のさらに先を行く,カウンターステルス,情報・知能化,瞬間撃
破力,外部センサー連携能力を備えた第6世代戦闘機を目指す
ものです.

次回は島しょ部に対する攻撃への対応について(のさわり)です.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.7.30




ライター・渡邉陽子のコラム (56) ─ 2015年陸海空自衛隊の装備と運用(3) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

仕事は好きなのですが,テープ起こしは好きになれ
ません.インタビューすることもそれを記事にするこ
とも好きですが,その間に入る作業,テープ起こしが
いつも苦痛です.自分の話しぶりを聞くのがたまらなく
嫌なのです.

そしてテープ起こし以上に苦手なのが電話で,
かかってくるのはまだ耐えられるのですが,自分から
かけることができません.レストランに予約の電話をす
るのも人に頼むくらいなので,かなり重症だと思います.

電話ができないことは仕事にも支障をきたすので,もう
ちょっとなんとかならないものかと思うのですが……
学生時代,家の電話で(携帯はまだ登場していません
でした)友人と1時間でも平気で無駄話をしていたのが
嘘のようです.




■2015年陸海空自衛隊の装備と運用(3)

2015年度の防衛予算に含まれる新規事業を中心に,
2015年の陸海空自衛隊の装備と運用についてご紹介す
る第3回目です.

先週は,航空自衛隊の警戒航空隊や今後三沢基地に配置
される予定の早期警戒機E-2Dと滞空型無人機グローバル
ホーク,研究開発中の実証機などについての話でした.
今週は,最近も連日のように中国国籍の船が領海侵犯を行
なっている島しょ部についてです.


一昨年に決定された防衛計画の大綱も中期防衛整備計画
も,それに基づいた来年度予算も,すべては島しょ部をめぐ
る中国からの攻撃に対応しうる態勢を整えることが前提に
あります.そこで,島しょ部に対する攻撃の対応についてご
説明する前に,改めて尖閣諸島をめぐる日本と中国のこれ
までの経緯を見てみることにします.


尖閣諸島は南西諸島西端に位置する魚釣島や久場島,北小
島,南小島などからなる島々の総称で,沖縄県石垣市に属しています.
石垣島の北約170キロ,沖縄本島の西約410キロに位置し,
最も大きい魚釣島が3.6平方キロメートル.日本政府は尖閣
諸島が無人島かつ他国の支配が及ぶ痕跡がないことを検討
した上で,1895年1月,国際法上正当な手段で尖閣諸島を日
本の領土に編入しました.編入以降は日本人が移住,最盛期
には200人以上の日本人が居住していたといいます.


戦後は沖縄の一部としてアメリカが施政下に置き,射爆撃場とし
て使用していました.1972年の沖縄返還協定では,日本に施政
権を返還する対象地域にも含まれているなど,尖閣諸島は一貫
して日本領土として扱われてきました.中国政府は,1895年の尖
閣諸島の日本領への編入から約75年の間,日本による尖閣諸
島の実効支配に対し一切の異議を唱えていませんでした.


それが1960年代後半に,東シナ海に石油埋蔵の可能性が指摘さ
れ尖閣諸島に注目が集まると,いきなり尖閣諸島の「領有権」につ
いて独自の主張を始めたのです.

2008年12月には中国公船2隻が尖閣諸島周辺の日本の領海内
に初めて侵入,2010年9月には中国漁船が海上保安庁の巡視船
に衝突,2012年9月に日本が尖閣諸島のうち魚釣島・北小島・南小
島を国有化してからは,中国公船は荒天の日を除きほぼ毎日接続
水域に入域するようになり,毎月領海侵入を繰り返すようになっています.


日本は尖閣諸島について「尖閣諸島が日本固有の領土であるこ
とは歴史的にも国際法上も明らか.したがって尖閣諸島をめぐって
解決しなければならない領有権の問題は存在しない」という姿勢を
一貫してきました.しかし現実として今日も中国の挑発は続いており,
尖閣諸島を不法占拠する事態への備えは不可欠です.防衛省・自衛
隊は冷戦下の北方対策から南西シフトへとすでに大きく舵を切ってい
ますが,さらに島しょ防衛を意識した体制を進めています.


島しょを占領された場合の奪還シナリオは「海上自衛隊の艦艇に
より島まで数キロの沿岸まで輸送された陸上自衛隊の水陸機動団
が速やかに水陸両用車で上陸,オスプレイやヘリ部隊が続く.さら
に全国各地の機動師団・旅団も島しょ部へ急速に機動展開,空自
による航空攻撃と海自護衛艦による艦砲射撃が上陸部隊を掩護」と
いうものです.

これを実現させるため,中期防では「平素の部隊配置」,「機動展開」
及び「奪回」の3つの段階を実効性あるものとすべく,各種取り組みに
ついて示しました.次週はそのうち2015年の新規事業についてご説
明します.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.8.6




陸軍機 vs 海軍機(47)       清水政彦

「零戦と隼(46)」

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◆お知らせ

 このたび,元航空自衛隊パイロットの渡邉吉之さん
との対談本『零戦神話の虚像と真実-零戦は本当に
無敵だったのか-』を宝島社より出版いたしました.


「零戦vs隼」の第46回.今回は,東部ニューギニア航
空作戦のクライマックスとなる昭和18年10〜11月の
航空作戦についてです.

▼ 第四航空軍の戦力立て直し

 前述のとおり,昭和18年9月の1カ月間,第四航空軍は
寡兵ながら善戦してはいたが,大局的にはジリ貧と言わ
ざるをえない状況にあった.

 第四航空軍に対する10月の補給機割当は約200機とな
る予定だが,フェリー飛行の人手が足りないために中継
地のマニラで補給機が滞留していた.

 さらに,飛行第13戦隊(二式複戦)と68戦隊(三式戦)は
機材に信頼性がなく,飛行機の稼働率が極端に低下して
実質的に戦力外となっていた.戦闘機隊の負担は一式
戦装備の飛行第24戦隊と第59戦隊に集中し,両戦隊は
パイロットの疲労が極限に達していた.

 つまり,「人はいるが飛べる飛行機がない部隊」がある
かと思えば,一方に「飛行機はあるが人員が疲弊した部
隊」があり,補給拠点に飛行機が届いても前線までフェリ
ー飛行できるパイロットがいないというちぐはぐな状態である.

 第四航空軍は,この状況を打開して戦力を回復する
「非常措置」として,疲弊した飛行第24戦隊と第59戦隊を
後方に後退させるとともに,両戦隊が保有する機材を残留
部隊(飛行第13戦隊,68戦隊)に引き渡し,現地で機種改
編教育を行なうことにした.

 飛行第24戦隊と第59戦隊のパイロットは,補給機の空輸
を兼ねて10月2日に輸送機でマニラに後退し,以後10月の
1カ月間を休養と飛行機の受領整備に充てることになる.

 マニラに向かった2個戦隊のうち第59戦隊は11月初旬を
めどに東部ニューギニア戦線に再進出し,24戦隊は補給機
をニューギニアに輸送後,内地から転進してくる飛行第248
戦隊と交代してニューギニアを去ることとなる.

「戦史叢書」によれば,飛行第24戦隊は昭和18年4月に当
方面に進出して以来,4カ月半にわたる激戦でパイロット20
名が戦死,その間の戦果は敵機撃墜80機と認定された.戦
果を4分の1に割り引いても互角のスコアということになり,
最悪の環境下で長期間戦った割にはかなり善戦したと評価
できるだろう.

▼ 低調となった10月の航空作戦

 前述の2個戦隊がマニラに後退するより以前に,第78戦
隊(三式戦)が補給機を受領するためマニラに出張し,ニュ
ーギニアの前線を離れていた.

 10月初旬,第四航空軍は都合3個戦闘戦隊を欠いた状
態となり,戦闘機隊の実働は2個戦隊のみ.しかも機材は
本来の装備機ではなく他部隊から譲渡された一式戦が中
心で,一度に出撃可能な戦闘機は20機程度という寂しい状
況である.

 基地の防空や船団掩護にすら事欠く兵力では,到底大規
模な進攻作戦は実施できない.第四航空軍は戦力回復部隊
の復帰を待つ間,少数機の重爆や軽爆を繰り出して夜間や
薄暮にゲリラ的攻撃を行なうのが精一杯で,フィンシュハー
フェンで激戦を続けていた第20師団に対する有効な援護を
行なうことができない.

 一方,第20師団に対する補給は次第に困難となり,10月中
旬には食糧の不足が深刻化する.この頃になると,地上部隊
は第四航空軍に対し爆撃支援よりも食糧や薬品の空中投下
を求めるようになり,第四航空軍としてもこれを断ることはで
きなかった.その結果,10月下旬の航空作戦はもっぱら友軍
部隊に対する物料投下に明け暮れるという状況であった.

 10月における最大の激戦はその最中,27日の物料投下
作戦の際に発生した.フィンシュハーフェン付近に低空・低
速で侵入した重爆隊(投下機)を連合軍機が上空で待ちか
まえており,25機の掩護戦闘機がこれに反撃して大空戦と
なった.

 帰還した戦闘機隊は合計13機の敵戦闘機を撃墜したと主
張したが,その一方で戦闘機と重爆各3機が撃墜されるとい
う手痛い損害も受けている.この空戦の模様は地上から第2
0師団の将兵によって目撃されており,後日,第四航空軍司
令部に対して「物料投下時,赫々タル戦果ヲ挙ゲラレタルヲ祝
ス」との電報があったという.

 しかし,この作戦によって制空権のない空域に低速・低空飛
行で侵入することは自殺的であることが再確認され,これ以
降昼間の物料投下は中止された.

 この間,ウェワク地区やマダン地区に対しては間欠的な空襲
があり,そのたびに邀撃した戦闘機から2〜3機の犠牲を出し
ている.確認できる損害は以下の通りである.

 11日ウェワク地区空襲 被撃墜2機以上
 16日マダン地区空襲 被撃墜3機
 16日ウェワク地区空襲 被撃墜3機
 22日ウェワク地区空襲 被撃墜2機

 10月中に発生した戦闘機の損害はこうした邀撃戦によるものが
大部分で,数機ずつの損害でも積み重なると手痛いことがよくわ
かる.第四航空軍が作成した統計によれば,10月中の戦闘機パ
イロットの損耗率は17パーセントであった.

▼ 激戦の11月

 11月になると,マニラで戦力回復を終えた飛行第59戦隊に
加え,内地から新たに第248戦隊(一式戦装備)が前進してき
た.両戦隊の参加により戦闘機の実働戦力は80機を超えるこ
ととなり,第四航空軍としては,11月以降はこの戦力を集中運
用して積極的な航空撃滅戦を実施する方針であった.

 しかし,重爆・軽爆の飛行隊は連日の夜間・薄暮攻撃や物料投
下,輸送,哨戒などの雑多な任務に酷使されて疲弊しており,さ
らに度重なる空襲で次々に機材を破壊されるため一向に戦力が
回復しない.爆撃戦力が極度に低下しているため,空襲部隊は
戦闘機中心の編成とならざるを得ず,せっかく敵飛行場の爆撃に
成功しても,地上の飛行機に決定的な打撃を与えることができな
かった.

 11月6日から9日にかけて,第四航空軍は戦爆連合の大編隊
でラエ周辺の連合軍飛行場に対して連続攻撃を行なったが,成
功したと言えるのは最初の1回だけで,第二撃以降は連合軍の
妨害や日本側の通信ミス・連携ミスなどが重なり,多くの損害を
出した割に戦果は振るわなかった.

 第四航空軍の集計によると,4日間の作戦期間で出動延機数
は213機,うち17機が未帰還(平均損耗率8パーセント)となり,戦
闘機パイロットは参加者の2割が損耗,戦果は撃墜57(うち17機
不確実),地上撃破122と判定された.

 17機の未帰還機以外にも,不時着機や整備修理を必要とする
機が多数発生したため,第四航空軍の実働機数は,作戦開始前
の126機から86機に減少した.

▼ 連合軍の再反撃と戦術の改善

 東部ニューギニア方面の日本軍機が増加していることを確認し
た連合軍は,早速反撃を開始した.11月13日と15日,前進基地で
あるマダン地区の飛行場群に多数の連合軍機が来襲し,地上施
設や物資に大きな損害を受ける.16日にはウェワク地区にも空
襲があり,邀撃した戦闘機のうち5機が未帰還となっている.

 予想外に善戦していた9月と比べると,10月,11月は空中戦で
のスコアが次第に悪化してきているが,これは連合軍戦闘機の
性能向上(新鋭機P-47の投入,P-38のバージョンアップ)に加
え,戦術の改善と工夫によるところが大きいようだ.

 この頃,日本側はようやく基地周辺にレーダーを活用した早期
警戒網を構築し始めていたが,これに対して連合軍機はしばし
ば超低空で侵入したり,山肌に沿うように飛行してレーダー探知
を避ける戦術をとった.併せて,レーダーを欺瞞するチャフの散
布,偽装進路の駆使,大きな時間差による侵入,空振りを誘う
偽装空襲を繰り返した.

 また,10月以降になると連合軍は少数の戦闘機グループを散発
的に侵入させて邀撃機を誘引し,奇襲を試みるようになった.少
数機によるゲリラ的な侵入は,レーダー画面上では攻撃や哨戒
任務から帰還する友軍機と区別がつかないため,日本側のレー
ダー警戒情報は誤報だらけとなり,防空指揮が著しく妨げられた.

 仮に「敵味方不明機」や「囮」に対して全力で緊急発進して空振
りすれば,着陸時の無防備なタイミングを狙われて全滅しかねな
い.日本側は,仮に空襲の兆候があっても来襲が確実視されるま
で待機し,見切り発車で緊急発進しないという対応をとることが
増えていった.

 邀撃機が大損害を受けた11月16日のウェワク空襲の際も,事
前に早期警戒情報があり空襲が予期されていたが,敵機が基地
から100km圏に侵入するまで緊急発進を躊躇してしまった.100
kmの距離は,戦闘機なら巡航速度でも15分で到達してしまう.

 1個戦隊が緊急発進するだけでも10分はかかるから,この距
離では発進後の上昇が間に合わない.16日の空戦で緊急発進し
た第13戦隊は戦闘のための高度をとる余裕がなく,中低空域を
上昇中に上空から捕捉されて大敗したようである.

▼ 厄介な「追尾攻撃」と地上損失

 また,この頃になると日本軍の空襲に対する連合軍機の戦術に
も変化が見え始める.従来は,日本側が戦力を集中して進攻する
と連合軍機は空中退避してしまい空戦にならないことが多かった
が,P-47が前線に投入された10月中旬頃を境に,連合軍戦闘機
は空襲に対して積極的に反撃してくるようになった.

 しかも,この時の連合軍戦闘機の戦い方は,爆撃の阻止よりも,
むしろ攻撃後の爆撃機を追尾して撃墜することを狙っていた節が
ある.P-47やP-38がその長い航続距離と高々度性能を生かし
て,攻撃を終えた日本機の編隊を高空から延々と追尾し,隙を
見て死角から襲撃してくるのである.

 たとえば11月15日,日本側はラエ近郊の連合軍飛行場を戦
闘機65機,爆撃機15機で攻撃し7機を失ったが,損害の多く
は追尾攻撃によるもののようだ.この日の連合軍戦闘機の追
撃は執拗で,P-47やP-38の編隊が日本側の拠点であるマダ
ン地区まで追尾してきたという.その後27日にも,地上攻撃に
参加した戦闘機のうち5機が連合軍機の追尾攻撃により撃墜
されている.

 戦闘を行なったあとの編隊は乱れがちで,部隊間の連携の維
持が難しいため,攻撃後の帰路に追尾攻撃を行なえば比較的
容易に各個撃破が可能なのである.

 こうした手痛い損害が累積したことに加え,相変わらず空襲に
より地上で飛行機を破壊される事例も目立つ.ウェワクでは11月
27日と28日の2日だけで約30機が地上撃破されており,これで
はいくら補給しても実働機数は一向に増加しない.

 11月中旬以降も,第四航空軍の実働機数は80〜90機のライ
ンからなかなか回復せず,連合軍との兵力差は拡大する一方
であった.

 フィンシュハーフェンを守る第20師団はすでに弾薬を撃ち尽く
し,食糧の補給も絶たれようとしていた.日本側が確保していた
陣地も逐次連合軍に圧迫され,11月末の時点で,「天王山」た
るフォン半島の維持は絶望的になりつつあった.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.8.5




荒木 肇
『動員のコスト(7)──日本陸軍の動員(7)
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□ はじめに

 8月になりました.梅雨明け以来,全国を猛暑が襲っ
ています.大気が不安定になったためでしょう.関東
地区では大雨や雹や霰が降るといった異変が起きて
います.大きな土砂災害も予想されます.心配です.

 わたしも休暇を取らせていただき,資料集めに歩きま
す.今週は九段の靖国神社の中にある偕行社文庫に
お邪魔します.そこには戦前の陸軍士官たちの研究
会だった偕行社に所蔵された多くの史料が保管され
ています.戦後の出版物もあり,いまも会員たちばか
りではなく,一般の方にも公開されております.陸軍史
に関心のある皆様はぜひ,訪れられるとよいでしょう.

 昭和15年といえばノモンハン事件の翌年のことです.
戦後ずっと,あるいは今に至るまで,関東軍は惨敗を喫
したと思い込まされてきました.どうにもならない陸軍の
欠陥をさらけだしたとも言われます.装備もろくになく,
精神主義しかなかったかのように言われてきました.現場
の歩兵聯隊長の証言,『まるで元亀・天正の装備で近代
戦に立ち向かった』というような認識が普通に受け入れら
れてきたのです.元亀・天正とは戦国時代の年号です.火
縄銃と刀で戦車・装甲車と戦った,十分な装備も与えられ
ず,兵站補給もどうにもならなかったと主張したいのでしょう.

 ところが公開された相手側の資料をみると,実はかなり
関東軍は善戦していました.ソ連軍,内蒙古軍の実情が
書かれた当時の資料が公開されるようになったのです.惨
敗説は戦後の連合軍の宣伝,それを利用した勢力のでた
らめにみんなが乗せられてきたせいでしょう.たしかにわ
が軍の歩兵は陣地を失い,砲兵は射撃戦で負けました.
航空戦でも当初は優勢でしたが,後になるにつれ不利に
なりました.

 しかし,陸軍は本気を出していたわけではありませんで
した.あくまでもソ連の本音を知るために関東軍がチョッカイ
を出しただけだったのでしょう.板垣陸軍大臣の『1個師団
くらい関東軍の好きにさせてやればいい』という放言が有
名です.それで戦場に立たされた第23師団の将兵や増
援の将兵こそいい面の皮でしたが,ソ連兵もモンゴル兵も
たいへんな損害を出していました.
 
 日本軍の速射砲は的確にソ連軍戦車や装甲車をとらえ,
その装甲を撃ち抜いていました.歩兵は接近すれば白兵戦
では圧倒的な強みをみせたのです.航空戦も初期にはソ
連軍は大損害を受けました.今ではソ蒙軍の内部の統制
の乱れや補給システムの不具合なども知られています.
 
 陸軍参謀本部が本気を出した対ソ作戦計画(昭和15年度
作戦計画)は次の通りになっていました.
『ソ連が参戦した場合,支那方面から満洲方面に兵力を転
用し,中支那の大部分は放棄する.情勢によっては南支那
の一角も放棄することがある.』
 陸軍は有利に進めていた対支那戦争を放棄しても極東ソ
連軍を完膚なきまでに叩きのめそうと計画していたのです.
 
 その前に陸軍は1936(昭和11)年に12年度から17年度
までの計画で常設師団を増やし,同時に戦時所要量である
50個師団を実現しようと計画を立てていました.

▼ 師団を改編して増やす
 
 1936(昭和11)年に陸軍は「軍備充実計画」を制定してい
た.昭和12年から昭和17年までに満洲に常設師団を10個,
朝鮮に3個,内地に14個師団をおくという雄大な計画である.
合計で常設27個師団になる.戦時には内地の14個師団を
2倍動員して28個とする.あわせて外地にある独立歩兵団
(3個歩兵聯隊)や旅団を動員して9個師団に改編.そうして
合計50個師団とする計画である.

 27個師団も造れるのか,それは師団をこれまでの4単位
から3単位に改編することで達成される.それは師団の4単
位制を3単位制に改編することで実現可能だった.歩兵4個
聯隊を基幹として特科部隊も4単位にしていることを4単位制
といった.歩兵2個聯隊で歩兵1個旅団をつくる.この2個旅
団と野(山)砲兵聯隊,騎兵聯隊,工兵聯隊,輜重兵聯隊など
によって1個師団ができた.師団は中将,旅団を少将が指揮
をとった.砲兵聯隊は4個大隊であり,騎兵聯隊も4個中隊,工
兵聯隊も4個中隊,輜重兵聯隊も4個縦列(中隊),野戦病院
も4個というようにすべてが4単位になる.

 欧州諸国の陸軍と比べると師団が大きいのが特徴だった.
それはわが陸軍には軍団という単位がなかったからだ.明治
の陸軍大学校の教官ヤコブ・メッケルの提案だったという.欧
州陸軍では軍団長が中将であり,その隷下に師団が2個あっ
た.師団長は少将であり,その下の旅団長は准将である.わ
が陸海軍には准将という階級がなかった.軍団には砲兵や工
兵などの特科隊や兵站部隊などがついた.だから欧州の師団
は編制もあっさりしていた.重砲隊は軍団砲兵としてまとまって
いたし,工兵も軍団を援護するべく強力大型のものだった.

 この4単位を3単位に変える.歩兵3個聯隊をまとめて歩兵団
として少将が指揮する.そうすると,17個の常設師団から歩兵
聯隊が1個ずつあまるので,合計で17個聯隊が余る.それを
3個ずつにまとめて1個歩兵団とすれば5個師団ができる.2個
聯隊あまるが,あと1個聯隊をひねりだせば合計6個師団がで
きる.これで17+6=23個師団である.あとは4個師団を新し
く作ればいい.

 単位数を減らせば機動力も増すし,兵站補給も負担が減る.
砲兵などの特科隊も規模が小さくできるので小回りが利くよう
になる.とりわけ満洲でソ連領内に侵攻する師団などは輜重兵
による補給が楽になるというメリットを主張したらしい.ろくに道
もない密林地帯を工兵が伐開し道を造らねばならない.そこを
1列縦隊で進撃することになる.4単位ではその日のうちに補給
品目を師団輜重が全部の部隊に届けられないといった現実が
あったらしい.ノモンハンで戦った第23師団は3単位制師団の
1つだった.
 
 軍隊が移動するときの長さを行軍長径というが,近代化すれ
ばするほど師団は大きくなり,行軍長径も伸びるばかりだった.
第1次大戦後の装備改編のおかげで歩兵だけでも機関銃隊,
通信隊,歩兵砲隊と人員装備は増えるばかりである.弾薬は
多くなるし,携行食糧も増えた.戦列部隊が増えれば輜重も
大きくなる.
 
 機動力を馬に頼った当時の軍隊は馬も増えた.馬が増えれ
ば,その分の馬糧も用意しなければならない.自動車を使え
ばよかったと,後知恵ではいくらでも論評できるが,満洲のぬ
かるみの道や密林の急造道路では現実的な解決策だったか
どうか.それに国内の自動車生産力の問題,燃料の輸送も難し
かった.それでも昭和9年度の動員計画では兵站自動車隊が
70個中隊にも増えていた.努力はしていたのである.

 さらに見落としてならないのは,この拡充計画には飛行54個
中隊が142個中隊に増やす計画もついていたことである.『之
に応ずる部隊を整備すると共に,補充,動員,教育,補給,衛生
等の諸施設を増備する』と書かれている.

▼航空戦力の増大

 航空部隊とは真っ先に戦端をひらく戦力である.だから平時編
制とはいえ,装備,人員の充足度も高めておかねばならない.
1937(昭和12)年は航空界で大きな改革が行なわれた年だっ
た.それは「空地分離」という言い方で表された.

 これまでは飛行聯隊は「飛ぶ部隊」と「飛ばせる地上勤務部
隊」でできていた.飛行聯隊は大佐の聯隊長のもとに,機種に
よって2個〜5個の飛行中隊があった.中隊数が多かったとき
は2個大隊に区分した.整備は中隊の整備兵と,中・少佐を長
とする材料廠の整備隊が行なった.聯隊の人員はふつう600名
前後である.

 これを「飛行戦隊」という飛ぶことを専門にする部隊と,「飛行
場大隊」という地上勤務を行なう部隊に分けたのである.整備
や補給は飛行場大隊に任せてしまう.飛行戦隊はこれで飛行
場から飛行場へとたやすく移動できるようになった.わずかな
機付兵と空中勤務者(陸軍は海軍でいう搭乗員をこう呼んだ)
だけで身軽に移動できる.これは鉄道の列車と駅の関係によく
似ている.
 
 飛行場大隊は機材の整備修理と基地警備を行なった.人員6
56名である.この大隊には2個整備中隊と警備中隊があった.
この構成員のほとんどは徴兵検査で指定された航空兵科の現役
の人たちである.欠員が出れば予備役を召集した.

 3個飛行戦隊をまとめる司令部として飛行団ができた.新しい
戦術単位の登場である.偵察,戦闘,軽爆撃機,重爆撃機の
各飛行戦隊と,航空地区司令部,教育部隊としての飛行教育
隊を隷下においた.

 1940(昭和15)年には飛行中隊数では偵察18,戦
闘35,軽爆40,重爆20,遠距離爆撃2の合計116個
中隊である.飛行団をまとめたのは飛行兵団である.兵
団長はのちに飛行集団長といわれた.飛行集団長のもと
には飛行団のほかに通信聯隊,2個航空情報隊があっ
た.航空情報隊には気象観測技術者や,通信関係のプロ,
さらには今でいう気象予報士も必要だった.

▼昭和15年度作戦計画・一期の作戦計画

□ 関東軍は30個師団とその他の部隊からなっていた.
まず烏蘇里(ウスリー)方面の敵を撃破し,ついで黒龍方
面および大興安嶺方面の敵を撃破し,『ルフロウ』付近およ
び大興安嶺西麓の線以東の地域を領有す.
□ 第1方面軍(19個師団基幹)は兵力の集中ならびに整
備に伴い,なるべく速やかに第3軍(5個師団基幹)および
第7軍(3個師団基幹)をもって綏東方面より,第5軍(4個
師団基幹)をもって,穆稜河,河孟方面より烏蘇里(ウスリ
ー)方面に攻勢をとり,同方面の敵を撃破する.
□ 第4軍(4個師団)は小興安嶺方面に於いて持久を策し,
爾後の作戦を準備する.
 
 解説しておこう.関東軍が30個師団をもっているという
ことは動員の結果である.しかも方面軍司令部まである.
第1方面軍は3つの軍で構成された.第3,第5,第7の3
個軍である.第3軍は5個戦車聯隊と架橋材料中隊,渡河
材料中隊をそれぞれ3個もつ.黒龍江をこえて突進する
主力軍だった.
 
 これに対して第7軍は3個師団に戦車聯隊が2個つき,野戦
重砲兵聯隊も2個だけである.軽快な機動力を生かして突進
するのがこの軍である.

▼ 二期の作戦

□ 第1方面軍は速やかに一部を以て帝国海軍と協力して
浦塩斯徳(ウラジオストック)など敵海軍の根拠地を攻略し,
主力を以て『ハバロフスク』その他の要地を占領し,爾後小
興安嶺方面作戦軍に呼応して黒龍方面に向かい作戦す.
□ 航空兵団は開戦劈頭より帝国海軍航空部隊と共同して,
烏蘇里方面に於ける敵航空勢力を撃破し,次いで黒龍方面
若しくは呼倫貝爾(ホロンバイル)方面の敵航空勢力を撃破す.

 作戦計画には師団ごとの任務が書かれていた.それぞれ
の師団にはあらかじめ特徴が設けられていた.トラックの配
備を多くして自動車化した師団,駄馬を多くして物資や兵器
を馬の背で運ぶことを主にした師団,敵前上陸用の装備を充
実させた師団などである.自動車化が進んだ師団の砲兵は
野砲を装備した砲兵聯隊,駄馬編成の師団は分解して駄載
する山砲兵聯隊をつけた.だから上海事変では戦場にクリ
ーク(水路)が多く,橋が少なかったので山砲兵をもつ師団
が投入された.

▼ 作戦の要求に応える動員計画とその実施

 作戦計画が立ち,それぞれの内容に応じた方面軍,軍,
師団のそれぞれの割り振りが決まると,それらを補助する
部隊をつくる.これが主に戦時特設部隊といわれる.参謀
本部作戦課と編制動員課が協力して調製する.人員,兵
器,資材を集めなくてはならない.
 
 どんな特業をもつ兵員をどれだけ配備するか,彼らに交
付する武器や装具がどれだけ必要か.各種装備だけでは
なく軍隊が行動するための物資すべてが決められた.事務
用箋や鉛筆,消しゴムの数までが決められた.軍隊ほど物
品管理が厳しいところはなかったと言っていい.
 
 作戦に必要な部隊が作戦計画の中で決まると編制動員課
はその中身を編成表に表した.そして,その部隊をどの師団
管区が担当して編成するかの割り振りをする.
 
 割り振りを実現化するには在郷軍人の実態をつかむことが
大前提になる.各地域にどれほどの在郷軍人がいるか,その
健康程度はどれほどか,技能者はどれほどいるか,そうした総
数の把握をして召集をかける地域を決定した.こうして作られ
るのが「動員管理区分表」である.
 
 この他に動員計画の実施にはさまざまな前提となる作業が
必要だった.まず,野戦師団を戦地へ送るまでの輸送計画が
ある.人,馬,物資を国内で輸送する計画,港に集結した部
隊や資材を戦地へ輸送する船舶の運用計画が必要になった.
 
 大陸へ移動する多くの部隊は広島県の宇品港から出発し
た.部隊の終結地から最寄の鉄道の駅まで行軍し,列車に
分乗して広島駅に向かう.馬や資材は貨物列車を編成して送
り出す.また民間船舶をチャーターして宇品港に送り届けた.
軍は独自の輸送機関をもっていないから当時の国有鉄道や
民間船舶を使うことになる.運行ダイヤの隙間を縫って軍用
列車を編成することもあったが,多くは民間用の列車のダイヤ
を変更してもらった.妥協して大都市の周辺や中を通り抜ける
ときにはたいていが真夜中になった.
 
 列車で人員輸送をするときには途中で弁当なども支給する.
人間の飲料水や,大量に必要な馬用の水の準備もあった.もち
ろん馬糧もである.移動途中で人馬が具合が悪くなったらどう
するか.計画はそうしたことから始まった.
 
 次回は具体的な人選,部隊を編成するまでの経緯を詳しく説
明しよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.8.5




陸軍機 vs 海軍機(48)       清水政彦

「零戦と隼(47)」

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◆お知らせ

 このたび,元航空自衛隊パイロットの渡邉吉之さん
との対談本『零戦神話の虚像と真実-零戦は本当に
無敵だったのか-』を宝島社より出版いたしました.


「零戦vs隼」の第47回.今回は,東部ニューギニア戦線
が崩壊しはじめる昭和18年12月の戦いについてです.

▼ ダンピール海峡の失陥と,その戦略的意味

 昭和18年12月,日本側の航空戦力は陸海軍とも大幅に
弱体化し,ダンピール海峡上空の制空権を失いつつあった.
これにともない,連合軍の艦船が堂々とダンピール海峡
に侵入するようになっていた.

 たとえば,昭和18年11月末,連合軍の駆逐艦がダンピール
海峡を突破してマダンを砲撃した.さらに12月に入ると,
海峡周辺海域を連合軍の魚雷艇が昼夜を問わず跳梁する
ようになり,マダン地区からダンピール海峡を超えて行なわ
れていた舟艇輸送(フォン半島の地上部隊に対する補給)が
困難となった.

 12月中旬,連合軍はニューブリテン島西部南岸
の「マーカス岬」に上陸,ついで同島西部北岸の「ツルブ」に,
さらにフォン半島北岸に立て続けに上陸する.
日本側の地上部隊は弱体で,ダンピール海峡一帯は
ほどなく連合軍に制圧されてしまう.

 ダインピール海峡を連合軍に突破されたことは,
方面軍司令部のあるラバウルとニューギニアの連絡路が絶たれ,
フォン半島で抵抗を続ける第20師団の退路も断たれたこと
を意味していた.

 ラバウルに対する空襲も激化し,
12月中旬以降は連日100機以上の大編隊が来襲するようになる.
大型船の入港が困難になり,ラバウルと北部ソロモン諸島
は補給を絶たれて孤立した状態となりつつあった.

 持久作戦の天王山と目された東部ニューギニア防衛線は崩壊し,
すでに連合軍はマダンの目前まで迫っていた

▼ 12月の航空作戦(防空戦)

 12月に入ると,連合軍と第四航空軍の戦力差は
質量とも目に見えて拡大し,連合軍の戦術が一層巧妙
になったことも相俟って,日本側にとって苦しい戦いが増えていった.

 たとえば,12月1日にウェワクに対して行なわれた大規
模空襲は5波からなる連続攻撃で,日本側は多数の飛行機
を地上で破壊された.この空襲の模様について,
「戦史叢書」は以下のように記している.

「0605にP-40八機,0816にP-38六機が侵入し,
次いで1040〜1120の間,B-24五三機が三回に分かれて来襲し,
ウェワク地区飛行場を爆撃した.わが戦闘隊は三式戦一四機,
一式戦二〇機をもって邀撃し,B-24三機,P-40二機を,
また別に,高射砲によりB-24三機(内,不確実二)撃墜を報じた.
わが飛行機の炎上大破一一機,海トラ一隻沈没,
高射砲弾二〇〇〇発以上爆発などの損害を生じた.」

 この日,連合軍は爆撃隊の本隊が到達する4時間前と
2時間前に少数の戦闘機をそれぞれ単独で侵入させて
日本側の戦闘機を誘引し,邀撃機が着陸したタイミングで
3回の爆撃をたたみかけることを狙ったようである.
これに対する日本側の対応は,59戦隊の南郷大尉の日記
から確認することができる.

「12月1日 朝食前邀撃,爾後一回,第14飛行団より情報
ありしも,やめて待機中,大型機ハンサ通過の方により出動,
第78戦隊と連携ウェワク上空で攻撃,P-40二機,
B-24一機とを確実に撃墜す」

 つまり,早朝の第一波には誘い出されたものの,
朝8時頃に侵入した第二波(P-38)に対する緊急発進を
見送って待機した判断が正解で,見事に後続のB-24を迎撃
することに成功したようだ.仮に発進のタイミングを誤って
第二波のP-38と交戦していたら,着陸後に地上で攻撃されて
一層手酷い損害を受けていたことだろう.

 連合軍はその後も,少数(4〜8機程度)の戦闘機を単独
でゲリラ的に侵入させる誘引戦術を多用した.
日本側からすると,これらの戦闘機が単なる牽制なのか,
大規模空襲の露払いであるのかを見極めるのが難しかった.

 さらに,ウェワクには12月22日にも大規模空襲があった.
当日はウェワク泊地に輸送船団が入港しており,
日本側は戦闘隊の全力で船団の掩護にあたっていた.
この日の空中戦闘について,再び「戦史叢書」の記載を引用する.

「0700過ぎアテンブル(ウェワク南東250キロ)を各機種混合
大編隊が通過の情報があり,0850まず戦闘機四〇〜五〇機
が来襲,次いでB-25三六機が西方から一八機,九機,
九機の三波をもって侵入し,飛行場付近を低空で攻撃した.
わが戦闘隊は奮戦して,地上砲火と相いまちB-25一一機(四),
P-38六機(二)の撃墜を報じた.また無線傍受によれば,
連合軍機は帰還途中に三機墜落,四機不時着のようであった.
わが損害は,四コ戦隊に各二機,計八機が撃墜されたが,
うち五機の操縦者は落下傘により降下した.
そのうちには高月第七十八戦隊長や
本山明徳(陸士五三期)第六十八戦隊中隊長も含まれていたが,
生死が不明であった」

 この記録を見てまず目を引くのは,連合軍機はわずか
250キロの距離を2時間近くかけて侵入していることだ.
大編隊での強襲である以上,日本側の早期警戒網に
引っかかることは計算済みで,あえて遠回りして時間を
つぶすことで迎撃態勢を混乱させようとしたのだろう.

 B-25が「西方」から侵入しているという事実も興味深い.
連合軍の発進基地はウェワクより東側であり,
早期警戒網に探知されたのはウェワクの250キロ「南東」の地点だから,
B-25は山沿いに低空飛行しながらウェワクの南方を通過し,
いったん西側に出てから戻ってきて爆撃進路に入ったことになる.

 この方法だと,予期しない方向から侵入することによる
奇襲効果に加え,爆撃機は投弾後に帰還方向に旋回する
必要がないため飛行速度が落ちず,敵の迎撃機に捕捉されにくい.
先行したP-38は日本軍戦闘機を誘引しつつ,
低空でB-25の後方に喰いついた日本機に対して上空から
単純な「ダイブ&ズーム」攻撃を繰り返せばそのまま帰還進路に
乗れるから,空中指揮が非常に楽になる.
空戦中の進路が自軍基地に向いていることは,
帰りの燃料の心配が要らない点や退路に回り込まれるリスクが
低い点で非常に有利である.

 22日の空襲で日本側に被撃墜機が多いのは,
B-25の侵入方法がP-38にとって有利な状況を作り出したからだろう.
一方,日本側の被撃墜機8機のうち5機でパイロットが脱出に成功し
ていることは,陸軍機の防弾装甲の有効性を示唆している.
同時に,必ずしも「脱出=生還」ではない(とくに海上戦では,
落下傘降下しても多くは未帰還となる)という厳しい現実も垣間見える.

▼ 12月の航空作戦(進攻戦)

 12月は天候不良の日が多く,中旬まで大規模な進攻作戦は
実施されなかった.9日と10日には戦闘機のみで航空撃滅戦
を実施したが,わずかの成果と引き換えに5機の戦闘機と
3名のパイロットを失った.

 大規模な昼間攻撃は12日と16日に実施されたが,
この2回の攻撃で重爆戦隊がほぼ全滅してしまう.
とくに16日の攻撃で出撃した6機の重爆が全滅したことの
衝撃は大きく,以後第四航空軍は積極的な進攻作戦を行なわなくなった.

 16日の戦闘では,高度4000〜5000m付近を進撃する日本機
の編隊に対し,多数のP-38が後上方の優位な態勢から連続攻撃
を加える状況だったようで,戦闘機隊からも5機の未帰還機を
出す惨敗となっている.

 12月中旬の時点で爆撃戦隊の残存機はゼロに近くなり,
以後,軽爆撃機は一出撃あたり1〜2機程度の小兵力で夜間攻撃に専念し,
重爆はダンピール海峡を横行する魚雷艇を牽制するための
哨戒飛行程度しかできなくなった.

 一方,戦闘機隊は中旬以降も奮戦している.
たとえば12月18日,マーカス岬沖に出撃した約30機の
戦闘機隊は,待ちかまえていたP-38約20機に上空から
奇襲されたものの,逆に4機を撃墜したと報告した.
この日の南郷大尉の日記には以下のような記載がある.

「マーカス岬上空にてP-38二〇機,約一千米の高位より
攻撃し来れるも,巧みにかわし,これを捕捉,完全に潰走せしめ,
戦場に一機も見ず.悠々戦場上空にて空中集合後,帰還す.
完全なる戦勝なり.戦のかけひきというもの,
やや,わかりたるがごとき気持なり.P-38二(一)撃墜の戦果
は大したことなきも,全然不利なる態勢より,完全に敵を潰走
せしめ得たるは既に大戦果というべし」

 この頃,P-38の性能はすでに一式戦の手の届かないレベル
に達していたはずである.南郷大尉自身,わずか3日前の
15日の日記には,「(わずか2機のP-38が)性能を十分に発揮し,
散々やらる.一戦の時代にあらず」とまで書いていたのだが,
18日の「完全なる戦勝」で自信を取り戻したようだ.これを
どう解釈するかは難しいが,足手まといになる重爆がおらず,
かつ数的な不利がない状態であれば何とか戦えた…ということだろうか.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.8.12




荒木 肇
『動員のコスト(8)──日本陸軍の動員(8)
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□はじめに

 暑い日が続いています.
熱中症で搬送され,亡くなる方も多いようです.
皆様はいかがおすごしでしょうか.

わたしはおかげさまで夏の休暇をいただき,
ゆっくりしています.毎年,この時期になると戦争
をふり返るマスコミの企画,とりわけテレビには
多くのドラマやセミ・ドキュメンタリーの番組が多くなります.

それぞれに製作者の皆さんのご努力もあるのでしょうが,
なかには考証的にいかにも適当だとしか思えないものもあります.


 敗戦から70年,正確な記憶も薄れてきて,
正確な知識もなくなってきているのでしょう.
作られる方々の中に,まあ,軍隊はこんなものだっただろう,
らしくあればいいじゃないかとでも思っているのかのよ
うな姿勢,考え方が透けて見えるのはわたしだけでは
ないと思います.

 今年も鎮魂の日,8月15日が近づいてきました.
戦われた先人たちに感謝し,より正しい歴史を伝承
していきましょう.

「陸軍軍戦備」を見ると,戦時には動員によって
平時兵力の数倍になるように計画されています.
ところが実際には,日露戦争や支那事変ではその
計画のおよそ2倍,大東亜戦争では4倍の兵力が
使われました.これほどの違いはどこから来るものだったのでしょうか.

 その答えが当局者からありました.『軍事史学』には
座談会によって,当時の担当者の方々から聞き取りが
行なわれていました.まず,「戦域」の問題がありました.
『平時はなんとか手持ちの兵力でまかなうように,
切りつめて作戦を計画しているが,いざ戦いになると
勝たねばならぬということで,敵の出方に応じて,
どうしても戦域が広がってくる.
特に大東亜戦争では,いろいろな事情から北と南の
二正面作戦をやらねばならなくなってしまったので
戦域が著しく拡がってしまった』

 次に,『作戦期間が長くなっている.昔は一つの
決戦が数日で終わったものが,どうかすると一ヶ月く
らいすぐたってしまう.何とか早く終わらせようとする
には大きな兵力を集めることになり,兵力所要が増すことになる.
要するに縦深横広(じゅうしん・おうこう)になって増加した』とあります.

 どれだけ平時に計画を立てていても,
いざ戦さになってみると思いのほかに兵力を必要とする
ということです.「暴力行使の無限界性」というのは
クラウゼビッツが主張したことですが,戦争の本質の一つに基づくものでしょう.

▼北支那の動員

 1937(昭和12)年7月7日,
支那駐屯歩兵第1聯隊の1個中隊が夜間演習中に射撃を受けた.
中隊長はただちに全員の集合と人員把握を命じた.
すると確かに1名の初年兵が足りなかった.これはのちに
用便のために部隊から離れたことが判明した.
しかし,「正体不明の相手から実弾の射撃を受けた」
「兵が1名行方不明になった」というのは中隊長が
自衛戦闘を決心するには十分な理由になった.

 これが盧溝橋事件の発端である.
当時の支駐歩1聯隊長は牟田口歩兵大佐,大隊長は一木歩兵少佐.
牟田口はのちに軍司令官となってインパール作戦を指揮する.
一木はのちに歩兵第28聯隊長となり,
ガダルカナル戦に投入され米海兵隊と激突,支隊は全滅した.
この時,どうすればいいかと指示をあおいだ一木少佐に
電話で「敵に撃たれてどうすればいいかなどと聞く軍人
がいるか.断固攻撃せよ」と答えたのが牟田口大佐だった.
有名な逸話である.

 すでに前年4月には支那駐屯軍は兵力を増強して,
以下のような新編制になっていた.
 支那駐屯軍司令部の隷下には支那駐屯歩兵旅団
司令部(旅団長はインパール作戦時のビルマ方面軍司令官,
当時は少将河辺正三),2個歩兵聯隊,支那駐屯戦車隊,
(以下すべて冠称に支那駐屯をつける)騎兵隊,砲兵聯隊,
工兵隊,通信隊,憲兵隊,軍病院,軍倉庫,総兵力5774名である.

 日本政府はただちに「事件の不拡大」と「現地解決」の
方針を決定した.ところが現地はそうできるはずもなかった.
北平(北京)周辺,天津には日本人居留民も多くいたし,
支那軍もぞくぞくと兵力を送ってきた.射撃事件の4日後,
11日には関東軍,朝鮮軍から一部の兵力を派遣し,
支那駐屯軍を増強した.現地の交渉はなかなかまとまらず,
その間に事件が続出,ついに参謀本部は内地の3個師団を
動員することを決めた(27日).

 広島の第5師団,熊本の第6師団は「応急動員」である.
この応急動員とは戦列部隊だけを戦時編制にすることをいう.
所要時間は3日間とされた.最前線の槍先である歩兵・騎兵・砲
兵・工兵部隊は戦時定員通りに充足し,後方支援部隊は
平時編制でとにかく後から追いかけるという形式である.
また,さらに速いのは警急編成といわれ8時間以内で戦列隊
が出動できることをいう.

 召集令状はすでに毎年4月1日には各情況の事態に
応じて聯隊区司令部で作られている.
本動員なら第○動員の甲,応急動員なら第△動員の乙な
どと区分(これが「動員区分」)されて人員が用意されていた.
これを動員符号という.応急動員で集められる人馬は
戦時編制の定数のおよそ8割といわれた.
現役兵と召集兵の割合はほほ同数である.

 これに対して姫路の第10師団だけは本動員だった.
平時1万2000名,馬1600頭が人員2万5000,
馬8000頭になった.また,朝鮮龍山の第20師団は
「充足人馬動員」だった.これは平時編制の定員を充足さ
せることになる.もともと独自の師管区をもたない朝鮮駐屯
の2個師団は平時編制すら満たしていなかったことがわかる.
この平時定員を満たした師団の戦闘力はふつうの師団
の戦時編制の戦力の5割と見積もられていた.

 目覚ましいのはこの戦時編制に移行する,
つまり動員完了までの時間である.わずか2週間か
ら3週間といわれた.平時編制というのは歩兵聯隊で
は3個大隊9個中隊と1個機関銃中隊でしかなく,
大隊長の秘書である副官(大尉)は臨時勤務かある
いは陸軍大学校などに入校中であり,中隊長の半分
は不在というのがふつうだった.それを戦時編制の
定員通りに最短2週間で集めてくるのである.
わずか14日で動員が完結するというのは国内に
鉄道網が整備され,動員システムがよく機能していたということだ.

▼動員が下令されたら

 盧溝橋事件の後に最初に下された動員令は
1937(昭和12)年7月15日の「動第1号」である.
年度動員計画令にもとづいた「動員区分」があり,
それぞれを「動員符号」で分類したことはすでに説明した.
次は具体的な部隊側の動きを書いてみる.

 歩兵聯隊の場合を例にとろう.まず,聯隊本部内に
「動員室」がつくられる.動員主座といわれる責任者は
少佐クラス,動員主任は中尉がついて兵器委員や
経理委員などの将校たちが補佐した.『一兵一馬,
一日一時間の誤差もないように各業務の流れが
巧く組み合わせるように計画が立ててある』というようなものだった.

 戦時体制が当たり前になり,予備将校が大量に入隊し
た北支那事変,大東亜戦争などの経験者の手記など
には出てこない話である.聯隊の全将校は毎年「動員
教育」を受けていた.戦時命課(補職)の確認,
下令されたら誰はいつ何をすればいいかを徹底した.演習もする.
いったん動員の事態になったら質問は一切許されないこと
になるからみんな真剣だった.新年度までにはそれらが
全部終わって,動員計画書は1年間保管される.

 検閲するのは参謀本部第3課の動員班長である.経験者の話から.
『一兵一馬の毎日毎時間の行動を書き込んだ日課予定表
があるでしょう.日課予定表さえ見ていれば動員間,
迷うことはない,というぐらいきちんとしたものなんですよ.
それを点検するんだが,まあ必ず間違いがあるものなんだ.
馬は来たけど蹄鉄工手はまだいないとか,人は集まったけど,
汽車がないとか,あるいは到着日時とか.
各人ごとに本人の家から指定された部隊まで行くのに
何日かかるか計算したものがあるんですが,
何日に入隊せよとなっている人が入隊できないじゃないか,
というようなことが到着日時表を見ればわかるんです』

 毎年くり返させられた動員計画の作成,検閲,修正
をくり返してきた蓄積が,いざ本番に実力を発揮させた.
人を集めるだけならけっこう簡単である.
問題は動員というものは,集めた人員と装備で役に
立つように団結と訓練のできた部隊を次々と造っていくことである.

 次回は聯隊区司令部の動きについて,
召集令状の届けられ方を実際の史料にそって説明したい.
 
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.8.12




──[富士山]→[石油]───────────────────────
★富士山から石油が出た!と話題になった事がある.帝国資源富士鉱業所とい
 う会社が「富士ぐらい凄い山なら石油ぐらい出るだろう」と適当に掘り進ん
 だが石油が出ず資金難になり,掘った穴に石油を流し込み騒いだもの.

※第二次世界大戦の頃の話です.

──[石油]→[短縮]────────────────────────
★石油という単語はもともと「石炭に代わる物」という意味で「石炭油:せき
 たんゆ」と呼ばれていた物が短縮されて出来た言葉.石から出来る油ではな
 い.

──[伴淳三郎]→[女装]──────────────────────
★伴淳三郎は第二次世界大戦時,召集が掛かったがその検査に舞台用の化粧で
 女装して出かけ,検査官が激怒して「あのようなふざけたヤツを兵隊にする
 ワケにいかない」と兵役を逃れている.(あくまでも本人談)

※他に検査直前に醤油を大量に飲んで,肝臓疾患が
 あるように装ったという逸話もある.

◎雑学大作戦:知泉
http://archive.mag2.com/0000017191/20150808121827000.html



『軍事情報 別冊  「数学者が見た二本松戦史(9)」 』

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◇◆◇ 発行講読者数:11,501名/平成22年(2010年)11月12日(金)発行 ◇◆◇

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取材・インタビュー・原稿作成・webコンテンツ用テキスト文作成・自費出版の
原稿作成支援およびアドバイス・その他《書く》ことに附帯する一切の業務に
ついて執筆活動を展開しております.     ライター・平藤清刀
E-mail hirafuji@mbr.nifty.com
WEB http://homepage2.nifty.com/hirayan/
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● もくじ
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◎ ごあいさつ:「病弱だった二本松藩主丹羽長国」
◎ 数学者が見た二本松戦史(9):
第四章・降伏か死か(2)
■二本松藩がもし降伏していたら
■ただ〈信〉に殉ずるのみ
■重臣二人間に合わず
■二心なし
■非戦闘員の退去
◎ 二本松あれこれ:
   二本松藩の歴史(5) ●三代目光重のミス
◎ 著者略歴
◎ 読者アンケート

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● ごあいさつ 
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こんにちは.渡部です.

二本松戦争もいよいよクライマックスにさしかかります.
二本松藩が抗戦か降伏かの意志決定をするさい,最高的責任者はもちろん藩主です.
その藩主丹羽長国は,本誌ではこれまでほとんど登場しておりません.
それは長国は当時,病に伏せっていたからです.生来,頑健な体質ではなかったのに
加え,幕末の動乱期による心労も相当にあったものと思われます.

長国が25歳で襲封した安政5年は安政の大獄があった年です.以来戊辰までの十年間
は激動の時代でした.まともな神経の持ち主なら,あの時代に藩主として平常な体調で
おれるはずはないでしょう.

ただ長国は,
自らの体調が思わしくないからといって周囲に当たり散らすというようなタイプでは
なく,そのこともあって藩士たちには慕われていたようです.二本松藩が結果的に徹底
抗戦に至った理由の一つとして,「この殿さまに恥をかかせてはいけない」といった
藩士たちの総意,のようなものがあったのかもしれません


(渡部由輝)

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● 第四章・降伏か死か(2)
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戊辰戦争における西軍と東軍の軍事力格差については,
それぞれが保有していた小銃,砲力を通じて詳細に比較分析し,戦力比を
「単純比較で西軍は東軍の10倍」と推定するに至った.
また,戦力の高い武器を調達する経済力と科学技術力における東西の差を検討する
なかで,薩長の強さには明確な裏づけがあったことを明らかにした.

そういう背景の下,戊辰東北戦争の火蓋は斬って落とされた.
一方的屠殺のような戦闘を続けながら西軍は進撃し,七月二十七日,ついに,
二本松城下まであと数時間の地点に到達した.

西軍首脳部は「二本松は十分に東軍への義理を果たした.もう手を上げてもいい頃だ」
と判断していた.


■二本松藩がもし降伏していたら

 七月二十七日,西軍は二本松領の本宮と小浜に進出した.どちらも二本松城下まで
至近距離にある.だが翌二十八日は,そのままの体勢で停滞していた.二本松藩の降伏
使節が来るのを待っていたのである.

 勝敗はすでに決着がついている.「在外の兵いまだ帰らざる者あり,列藩の援軍未だ
来らず,兵力寡少にして防禦力はなはだ薄弱なり」と,『二本松藩史』にも記している
とおり,二本松城の守備が手薄なことは,隣藩の三春兵を通じて西軍首脳部は正確に
知っていた.とすれば,このあたりで降伏するはずというあたりが,おおかたの認識
だったからである.

 ここで一つ,ある仮定をしてみよう.その二十八日に二本松藩がもし降伏していたら
どうなっていたかということである.

 もちろん,無罪放免にされた可能性は一〇〇パーセントない.奥羽征討軍の最終的目
標である会津はまだ健在であった.二本松はその会津の隣藩である.当時,奥州街道か
ら会津へ至るルートは二本松経由が本道であった.二本松からすぐ西方へ向かい,安達
太良山麓の母成峠を越える山道が,最も一般的であった.戦国の昔,会津の芦名氏を
攻めた伊達政宗もその山越えの道を通っている(今は郡山から磐越西線に沿ったコース
が本道になっている).当然,西軍が会津へ攻め入るにあたり,その付近の地理に最も
詳しい二本松兵を先導としたであろうことも,一〇〇パーセント確実である.

 その会津も当時,母成峠から猪苗代湖に至る一帯に強固な防衛陣を構えていた.攻め
る二本松兵と守る会津兵との間で,戦いが始まる.それは圧倒的に会津側が有利であっ
た.会津藩の兵備は二本松よりは勝っていた.砲数においてはるかに勝り,一部後装銃
部隊もあった.なによりもまず,戦意においてはるかに会津が上であった.会津は全藩
あげて死力を尽くして戦う覚悟であったのに対し,二本松は新政府側に監視されながら
イヤイヤ戦うだけである.その差は比較にならないほど大きい.戦況が不利になったら
薩摩か長州の新式銃砲部隊なんかが駆けつけてくれるだろうから,壊滅的惨敗にまでは
至らないのかもしれないが,ともかく降伏して仙台藩と戦わせられた相馬藩と同様,
相当な損害が発生することは必至である.

 以上は,降伏したことによりほぼ確実に見込まれる損害であるが,不確実的なそれも
ある.会津攻めがそのようにして終了したとする.だが,二本松藩の贖罪行為はそれで
終わりにはならない.その二十八日の時点では仙台・米沢はまだ降伏していない.
最悪の場合,それら大藩との戦いに至り,そこでも隣藩としてまたまた二本松兵が先兵
的役割をつとめさせられる可能性がある.そうなったら会津戦以上の損害が発生するこ
とは間違いない.加えて,そのように西軍方の使役兵的に頤使されることによる精神的
損害である.二本松武士としての誇りなどズタズタにされることが予想される.

 仮定のはなしなどこのあたりでやめよう.ともかく,下世話な言い方をするならば,
「ごめんなさい」と頭を下げればそれですむ,というわけではなかった.それまで西軍
に抵抗した罪をあがなうため,相応の犠牲を払うことが要求されていた.そしてそのこ
とは二本松藩の首脳部も藩士たちも,十分に承知していた.それが戦国の昔から武士世
界に厳然として存在する“おきて”のようなものだったからだ.


■大書院会議

 その二十七日夜,二本松城の一劃に藩の首脳部が集まり,きわめて重要な会議が行な
われた.議題はむろん,決まっている.〈降伏〉〈抗戦〉のいずれを選ぶかである.

 ただし,その一劃とは大広間ではなかった.当時の二本松城に大広間などはない.
そもそも,テレビドラマなどによく見られるような,城主が上段に座り,その下手に家
臣一同が居並べるほど広い部屋は,江戸城や国持ち大名といった大々名家にしかないも
のだった.二本松のような中藩はそれに代わるものしかなかった.それを大書院といっ
た.武家における表座敷のことを意味する.大きさはだいたい,畳数にして五十帖てい
どのものだったらしい.

 大広間がないことでもわかるように,当時の二本松城は,城とは名ばかりの一般住宅
を何軒かつなぎ合わせたような,平屋の建物であった.大きさは東西四十メートル,南
北三十メートルていどのものだったらしい.城というよりは館といったほうがむしろ正
しい.藩士たちは御殿(ごてん)と称していたようである.御城(おしろ)と呼ぶには
さすがにふさわしくない,というふうな認識があったためと思われる.城門(箕輪門と
いった)だけはかなり立派なものがあったが,城にふさわしい建造物はそれくらいのも
ので,天守閣も堀もない.その二日後,城攻めと意気込んで二本松に乗り込んできた
西軍方兵士は,目指す城のあまりの見すぼらしさに驚いている.二本松城がそのような
一般住宅ではなく,何層かの櫓・鉄砲狭間・厚い土壁の塀にうがかれた銃眼等々,通常
の防御機能を有する“城” であったなら,いくら双方の戦力に差があっても半日で
陥とされるようなこともなく,もっとましな抵抗ができていたのではないかと思われ
る.

 ともかく,大広間ではなく,その五十帖ほどの広さの大書院において,二本松藩の
存亡を左右する重大な会議が行なわれた.今でいえば小教室ていどの広さであるから,
収容できる人数も限られる.『二本松藩史』は「老臣会議」と記しているから,家老・
城代・用人など,主だった家臣数十人,おそらく二,三十人くらいではなかったかと
思われる.ただし,それだけいれば十分である.そもそも二本松藩に限らず,当時の
武家社会においては,全藩士が集まって何かを相談する,というような文化はなかっ
た.すべて上意下達である.その上意を決定する人員はごく少数者で間に合うもので
あるから.

 だが,その会議に列席した人物が正確に誰と誰であったかはわかっていない.家老の
丹羽一学と用人(外交官)の丹羽新十郎・大城代の内藤四郎兵衛,小城代の服部久左衛
門がいたことは確かであるが,それ以外ははっきりしていない.そこにいた人物の多く
は二日後に戦死,または自死しているし,生き残った者もそれを恥じて,二本松戦争の
ことは終生あまり語らなかったからである.

 ただ,藩主の丹羽長国が臨席していなかったことは確かである.長国は生来蒲柳の
質で,当時は病床に伏せっていたのであるから.

 ■ただ〈信〉に殉ずるのみ

 藩主がいないのであるから,その大書院会議における最高的地位者は家老である.
その家老は二本松藩ではそのころ六人いた.それはどの藩でも同じようなものだった.
江戸幕府の統治システムにならったものといわれている.幕府においては,将軍を除く
最高的地位者である老中(大老はあくまでも臨時の措置であって,常時おかれていた
わけではない)は,常に四,五人はいた.それらは月毎に交代で,政務等の責任を担っ
ていた.

 それはある意味では最良とまではいかないまでも,かなり良好な統治・または意志
決定のシステムであった.月毎に最高的責任者が交代するのであるから,独裁的権力者
がまず出ない.あまり極端すぎる意向や特殊な思想なども出せない.次の月になれば,
そのような極論はすぐ廃止されたりするのであるから.いきおい,藩士全体の意志・意
向を反映した平均的意見が重要視される.それは藩内に対立する大きな派閥のようなも
のがある場合,月毎にその派閥の意向が通ったりして,結果的に藩論がクルクル変わる
というマイナス点も生むが(仙台など大藩はたいていそうであった),二本松藩など
藩士の数があまり多くない中小規模の藩では,相当に有効な意志決定のシステムで
あった.今日の間接的民主制にかなり近い制度といえる.家老職にある者はそれぞれ
自らの配下の者(組といった)を何十人か抱えている.彼らと常に接してもいる.代表
者といえど,自分自身だけでなく配下者の意志や意向を常に意識し,またそれを反映し
た政策をとらざるをえないからである.

 ついでにいうと,わが国では今日,国民がまず自分たちの代表者を選び,その代表者
が政治を行なうという代議制,もしくは間接的民主制をとっている.それは江戸時代に
二本松藩のような中小藩はもちろんのこと,多くの大藩も似たような統治制であった
こともあり,その制度が容易に受け入れられたためといわれている.

 ともかく当時の武家社会では,上意下達的意志決定のシステムが,厳然としてあっ
た.ただし,特に二本松のような藩士の数があまり多くない(三百数十家しかなかっ
た)藩では,その上意とはおおかたの藩士の意志を相当に反映させたものだった.
下達する立場にある上位者の独善的,あるいは独断的思想や意向では決してなかった.

 したがって,その大書院会議において誰がどのような発言をし,それに対して誰が
どのように反駁し,または疑念を発し,というようなことを細かくせんさくしてもあま
り意味はない.大書院会議において決定された事項が,すなわち藩士全体の意志である
と言っても,それほどの違いはない.

 その結論とはこのようなものだった.

 『徹底抗戦』

 〈降伏〉ではなく〈抗戦〉を選んだ理由については,その会議をおそらくは主導した
と思われる家老の一人丹羽一学が,しめくくりとして発した次のことばに尽くされてい
る.

 「三春藩信に背きて西軍を城中に引く.神人ともそれを怒る.我にして今,同じよう
なことをしたら,人これをなんというか.また,西軍に降って一時的に社稷を全うして
も,東北諸藩を敵にしたらいずれは亡ぼされる.すなわち,降伏しても亡び,しなくて
も亡びる.同じく亡びるなら,列藩の信を守って亡びよう」

 降伏したならば西軍の走狗とされ,三春のような天にも地にも容れられない卑劣な
行為もしなければならない.それによって一時的に安泰を保つことができても,今度は
東北諸藩を敵に回すことになり,いずれはそれら大藩に圧服されることは必至である.
すなわち,降るも滅び,降らなくてもまた滅びる.同じく滅びるなら同盟の信をあくま
でも守り,〈信に殉じて滅びるほうがまだまし〉ということである.

 結果論的にいえば,東北諸藩を敵に回したらいずれは滅ぼされる,との見方は正しく
なかった.二本松人は仙台・米沢・会津ら東北大藩の実力をそれだけ過大に評価してい
たのかもしれない.あるいは,西軍の戦力のほどをまだ正確には見極められていなかっ
たのかもしれない.がともかくその二十七日,二本松城大書院における会議の参列者
は,二種類の滅亡のいずれを採るかの決断を迫られ,信に殉じてのそれを選んだもので
あることは間違いない.もちろんそれは,二本松藩士の総意,と言ってよいものだっ
た.


■重臣二人間に合わず

 ただし,藩全体の〈滅亡〉とは,藩士個々人にとっては自らの〈死〉を意味する.
当時の武士社会において“死”は,今日われわれが考えるよりは“軽い”行為であった
とはいえ,やはり重大な決断である.いくら二本松藩の立場が特殊だったにしても,
少人数ならともかく,全藩士こぞってとはなかなかできる選択ではない.そのことは
戊辰期,そのように新政府側,または敵対的勢力に城下を圧服されそうになった藩は
少なからずあったが,戦わずして屈することを潔しとせず,武門の面目にかけて抵抗
し,文字通りの意味で城を枕に討ち死にを果たした藩は,全三百余藩の中で二本松藩し
かないことでもわかる.二本松藩がなぜ降伏を肯じえず,徹底抗戦という絶望的選択に
至ったのかを,もっと詳しくみてみよう.

 わたしはそれにはまず,四人の老臣の存在がかなり大きなウエイトを占めていたので
はないかと,考えている.

 その老臣会議で最も強硬に抗戦論を主張したのは,丹羽一学(四十六歳),丹羽新十
郎(四十三歳)のコンビであったことははっきりしている.この二人は戊辰の早い時期
から二本松藩を代表する正使(一学),副使(新十郎)として,白石におかれていた
同盟の連絡会に出張していた.年齢が近いこともあり,個人的にも親しい間柄だった
ようである.

 ただ,その老臣会議においては,この二人の強硬論がはじめから大勢派であったわけ
ではなかったらしい.そのことは,老臣会議に出席できず,おそらくは次室に控えてこ
との成り行きをかたずをのんで見守っていたであろうある藩士が後年,「和平論者の声
は次第に低くなり,抗戦論が強くなっていった」(『二本松藩史』)と証言しているこ
とでもわかる.ようするに,はじめは抗戦派・和平派入り乱れて相当に突っ込んだ話し
合いがされていたが,途中から抗戦論が優勢になり,最終的にはそれに決したというこ
とである.

 そのように抗戦論が優勢になった理由の一つとして,和平論者の重臣二人がその席に
いなかったことがあげられるのではないかと,私には思われる.

 当時の二本松藩には,一学・新十郎の抗戦論コンビを相当ていど抑えられたであろう
と思われる和平論者の,しかも重臣が,おそらくは二人だけいた.一人は家老坐上(筆
頭)の丹羽丹波(五十二歳)である.丹波は三千百六十石という二本松藩では最高の禄
を食んでおり,同じく家老であっても六百石にすぎない一学より,年齢的にも地位的に
も格が上であった.病弱な藩主長国の名代というかたちで,戊辰当時,政治的にも軍事
的にも二本松藩を主導する立場にあった.ただ,その席にはいなかった.二本松藩の軍
事総裁として五月の初めあたりから須賀川軍団に出張しており,その二十七日には本宮
が西軍に奪われて奥州街道が封鎖されたためもあり,老臣会議には出席できなかったの
である.

 もう一人,もしかすると丹波よりさらに確実に強硬論コンビをおさえられたと思われ
る重臣がいた.小城代の丹羽和左衛門(六十六歳)である.二本松藩の致仕年齢は六十
歳であるから,通常ならば引退しているはずであるが,幕末の非常時とあって和左衛門
はまだ現役であった.小城代の他に用人(外交官)も兼ねており,それ以前には郡代・
勘定奉行を勤めていたこともある.剛直,かつ清廉な熱血漢として,二本松では相当以
上にきこえた人物であった.新十郎の義父でもあったから,年齢的にも地位的にも,
そして藩内における声望の高さからして,和左衛門ならばさらに確実に抗戦論者を制し
えたのではないかと思われる.が,やはり老臣会議には出席できなかった.年齢に似合
わぬ熱血漢ぶりが災いした.その二十七日には藩の外交責任者の一人として,西軍と
和平交渉をするべく,単騎で本宮周辺をかけずり回っていた.しかし,戦時錯綜として
おり,西軍首脳部との面会はできず,急遽帰藩しようとしたものの,本道(奥州街道)
は通れず,安達太良山麓あたりの間道を辿ってようやく帰城したのは翌二十八日の
昼ころのことであった.老臣会議は既に終了しており,藩主は退城し,藩士はそれぞれ
戦闘配置についた後であった.なお,和左衛門は翌二十九日,落城を見届けた後,自刃
している.藩論を和平に導けず,結果として二本松藩を壊滅に至らしめた責任をとった
ものと思われる.


■二心なし

 老臣会議において,年齢的にも地位的にも,一学・新十郎の抗戦論コンビに対抗しう
る人物は他にもいた.大城代の内藤四郎兵衛(五十二歳)と,和左衛門と同役(小城代
かつ用人)の服部久左衛門(五十六歳)である.二本松藩の大城代,小城代の職掌区分
ははっきりしないが,この三人が交代で城の最高的管理責任者の役を果たしていたもの
と思われる.

 和左衛門以外の二人の城代が,抗戦派か和平派かはわかっていない.だが,二人は
会議の席では積極的な発言はあまりしなかったのではないかと思われる.会議の結論が
〈和〉〈戦〉いずれになろうと,二人とも〈死〉をすでに決していたものと考えられる
からである.

 たとえば服部はその二十七日,城中に赴くにあたり,家人にこう告げている.

 『二心なし』

 二心(ふたごころ)とは当時,両極端的思想のことを意味するものであった.〈和〉
と〈戦〉,〈生〉と〈死〉というふうな,相反する両様の考え方のことである.その
両様の行き方のうちの一方にすでに決めている,ということである.とすれば服部の
立場としては,〈死〉しかない.

 〈戦〉になったとする.敗戦は必至である.城は陥ちる.となれば,その城の最高的
管理責任者として,生きてはおれない.また,〈和〉になったとする.“和”とはきこ
えは良いが,ようするに降伏ということである.城は西軍の管理下におかれ,城内は
かつての敵兵の土足で踏みにじられる.やはり城の最高的管理責任者として,それを座
視するにはしのびない.となれば同様に〈死〉以外にない.いずれにせよ,『二心なく
死を果たす』,(したがってこの家にはもう帰ることはない)という意味での,決別の
ことばだったのである.実際,服部久左衛門はその覚悟どおり,二日後の二十九日,
城内で抗戦派コンビの一学・新十郎とともに,三人鼎坐(ていざ)となっての自刃をと
げている.

 大城代の内藤四郎兵衛は,和戦いずれになろうと,さらに強烈に二心なく〈死〉を
考えていたのではないかと思われる.内藤は二か月前の五月二十六日,白河口羅漢山の
戦いで,長男の隼人(三十四歳)を戦死させている.それは白河を奪われた同盟側の,
最初の大規模な奪回戦であった.隼人は二本松藩側の隊長として銃士隊一個小隊を
率い,会津・仙台・棚倉などと連合で白河の西軍に攻め入ったものの,兵器の格差はい
かんともしがたく,惨敗を喫し,退却戦を指揮しているうち,スナイドルなんかで狙い
撃たれたといわれている.そのこともあり,また城の最高的管理責任者として,内藤も
おそらくは西軍が城下に迫ってきたあたりから,〈死〉を決していた.実際,やはり
二日後の二十九日,大城代らしく城門の前で,敵兵がまだ一人も城内に入らないうち
に,自殺的戦死をとげている.大城代として,二本松城が敵兵に蹂躙されるのをわが眼
で見るにはしのびなかった,ものと思われる.

 ともかく,二人の城代は,老臣会議では抗戦論・和平論いずれにも与せず,積極的に
はあまり発言しなかったのではないかと考えられる.その席には和平論者も相当にいた
はずである.人数的にはその方が多かったのかもしれない.“老臣”の立場としては,
それがむしろ必然である.何度もいうように,二本松藩は新政府側の攻撃の標的とされ
たわけでは全くない.会津・庄内に対するたんなる応援藩にすぎない.降伏してもそれ
で終わりにはならず,相応の人的・物質的・精神的損害が予想されるといっても,抵抗
して全藩が壊滅されるよりははるかにましである.老臣としては,藩の行く末,前途
ある多くの若者の未来を考えたら,降伏論に傾くのがむしろ自然である.

 ただ,彼らもやはり〈武士〉である.二人の城代の「二心なき覚悟」は,気配で
わかっていたろう.一学・新十郎ら強硬派も同様な決意でいることも,十分に伝わって
いたはずである.とすれば,同じく〈二本松武士〉として,和平とは聞こえがよいが
その実〈降伏〉などとそうそう強くは言い出せなくなった,というあたりが,老臣会議
の特に最終的段階での雰囲気ではなかったのか.


■非戦闘員の退去

 抗戦と決まった.あとはそれに備えることである.

 その第一は非戦闘員の退去である.西軍の本宮・小浜進出はあまりにも電撃的にすぎ
た.棚倉進発のわずか四日後のことである.二本松人にしてみれば,西軍が棚倉を出た
との報が届いたときは,その大軍がすぐ目と鼻の先にまで迫っていた,ようなものだっ
たろう.非戦闘員の多くはまだ城とその付近に居残っていた.それら女・子ども・老人
など弱者をできるだけ早く安全地帯に避難させなければならなない.

 当時,二本松城には藩主夫妻やその幼い子女たち,前藩主夫人,それぞれの侍女・従
者など,弱者集団が二百人ばかりいたらしい.一部は二十七日の昼あたりから城を出て
いたが,本格的に退出が開始されたのはその日の深夜十二時ころからであった.そのお
り,奥女中たちがあれもこれもとあまりにも多くのものを持とうとしすぎるため,担当
の藩士が「死ぬか生きるかの瀬戸際なのにそんなものまで持たなくてもよいのに」と,
イライラしていたと『二本松藩史』は伝えている.

 さらに城下の同じような立場にある者である.藩士の妻・母・子女たちである.それ
らもその二十七日のおそらくは深夜のうちに退去命令を受け,城内の退去集団の後を
追って,翌二十八日の早朝あたりから,西軍部隊の配置されていない北方面に去って
いった.行く先は領内の米沢領に近い水原村近辺であった.

 最後の退城者は藩主であった.ただしそれは難渋した.藩主長国はそのころ病床に
あった.前年の暮れあたりから宿痾に悩まされ,それが回復していなかった.退出を
うながす藩士に「自分の命も長くない.ここで助かったところでどうなるか.皆と一緒
に城を守って死ぬ」と,抵抗したと伝えられる.

 だが,長国にはそれができない事情があった.二本松藩には当時,嫡子がいなかっ
た.世子と定められていた五郎君がその一か月ほど前,急逝していた.わずか十三歳で
あった.他に男子はいなかった.長国も死んでしまったら二本松藩も丹羽家も社稷が
絶えることになる.それは先祖に対する重大な罪である.藩主としてまた家主として,
絶対にしてはならない行為である.藩士からそのことを強く説かれると,それ以上は
抵抗できなかった.それでも渋る長国を数人がかりで布団ごと抱え上げ,そのまま駕籠
に乗せて出発させたと伝えられる.午前十時ころのことであった.


(以下次号)


(渡部由輝)


■著者へのお便りはこちらからどうぞ.⇒     
 http://okigunnji.com/s/watanabeyoshiki/


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● 二本松あれこれ (渡部由輝)
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■二本松藩の歴史(5)

●三代目光重のミス

 家伝の城造りのウデを見込まれたのか,丹羽家は白河城が完成してわずか四年後の
寛永二〇年(一六四三年),今度は白河よりさらに十五里(六十キロ)ばかり奥州に
入った二本松に移封された.そのころは丹羽家も三代目の光重の時代になっていた.
徳川も三代目の家光である.〈光〉という偏諱を受けていることでもわかるように名目
上は外様であったが,実質的には譜代のようなものであった.家格も高く,江戸城に
おける控えの間は,御三家・御三卿らに次ぐナンバー2の席次,島津・伊達などと同格
の大広間であった.江戸城において大名が控える間は全部で八階級あり,会津は二本松
の次席でナンバー3の溜間,明治新政府で二本松から県名を“奪った”福島藩(板倉
家)などは,下から三番目の雁間であった.

 その光重も丹羽家の家風(?)にならい,時代の趨勢からズレた対応というミスを
犯した.二つもである.一つはさきにのべた〈山嶽の中に城下町を築いた〉ことである
が,もう一つはその城下町造りにあたり,〈武士階級者の居住地を他階級者のそれから
完全に隔離した〉ことである.“分離”ならていどの差はあれ,どの藩でも行なわれて
いた.江戸の町並みそのものが基本的にはそのような構造をしている.江戸城を中心と
してその外側には武家屋敷街,さらにその外側には商工町人街というふうな形態をして
いる.

 二本松ではそれが極端であった.城郭の南部から横手に伸びる盆地は武家屋敷街,
中央山脈を隔てたもう一つの盆地は商工町人街と,完全に分離されていた.しかもたん
なる分離ではなく,あいだの山嶽にさえぎられ,往来が簡単にできないようになって
いる.事実,その二つの区画をつなぐ四本の道路にはすべて関門が設けられ,特に武家
屋敷街から商工町人街への移動は容易ではなかったらしい.

 加えて光重は,移封当時は武家屋敷街を通っていた奥州街道を,商工町人街を通るよ
うにつけ変えた.武家屋敷街には他藩者や旅人・遊芸人などが簡単には入り込めないよ
うにしたのである.光重移封の四十六年後の元禄二年(一六八九),芭蕉は『奥の細
道』への旅の途次,二本松を通っているが,城のあたりは見ていないはずである.
芭蕉が通ったと思われる奥州街道からは山嶽にさえぎられて城郭部は見えないのである
から.そのせいか『奥の細道』には二本松に関する記述はなにもない.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2010.11.12




『ライター・渡邉陽子のコラム (57) ─ 2015年陸海空自衛隊の装備と運用(4) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

8月10日に発売された「ジャパニズム」26号(*)に,
「自衛隊海外派遣の歩み 前編」を掲載していただきました.
後編は10月発売の27号に掲載されます.
(*)http://okigunnji.com/url/10/

また防衛とはまったく無縁なのですが,
「メシ通」というサイト(*)でグルメ関連の執筆を始めました.
(*)https://www.hotpepper.jp/mesitsu/

こちらは「椿あきら」というペンネームで,現在は2本アップされています.
今後は毎月4本ほど随時アップされていく予定なので,
気が向かられたら「メシ通 椿あきら」で検索してみてくださいませ.
ただしこちらのメルマガとは文体が思いきり違うので,
あまり余計なものを見たくない方は無視ということでお願いいたします!



■2015年陸海空自衛隊の装備と運用(4)

2015年度の防衛予算に含まれる新規事業を中心に,
2015年の陸海空自衛隊の装備と運用についてご紹介
する第4回目です.
先週は,尖閣諸島をめぐる日本と中国のこれまでの
経緯の話でした.島しょ部を占領された場合の奪還シナリオ
を実効性あるものとするための,2015年の新規事業は以下
の通りです.

●第303沿岸監視隊(仮称)の新設
付近を航行・飛行する艦船や航空機の沿岸監視を担う
第303沿岸監視隊(仮称)を与那国島に新編・配置します.
基地は現在建設中.南西地域での自衛隊配置の空白を埋める
のが目的で,2015年度末までに陸上自衛隊の沿岸監視部隊
百名と後方支援部隊50名が駐留,運用を開始する予定となっています.

空自が全国に展開している固定式警戒管制レーダーのうち
FPS−20,FPS−6及びFPS−2については,
運用開始から20年以上が経過しており機器の老朽化が深刻です.
対領空侵犯に対しても,航空機の高機能化にレーダーの探知能力
や追尾能力の低下が進んでいるため,
南西地域のレーダーから優先的に新型レーダーへ換装します.
沖永良部島は2015年度にFPS−7へ換装完了予定.
それにより,これまではただの固まりにしか見えなかった機体が,
何機か特定できるほど視力が高まることになります.


●第9航空団(仮称)の新編
戦闘機F−35Aを6機取得するほか,戦闘機F−2 2機に対し
JDCS(F)(自衛隊デジタル通信システム・戦闘機搭載用)を搭載改修.
また,南西地域における防空態勢の充実のため,
那覇基地に築城基地第8航空団の第304飛行隊(F−15部隊)を移動
させるとともに,同基地の第83航空隊を廃止し第9航空団(仮称)を
新編します.これによって同機は計約40機に倍増,
巡航ミサイル対処能力を含む防空能力の総合的な向上が見込めます.
築城基地には三沢基地のF−2が20機移駐されます
(三沢基地にはF−35Aの飛行隊が新設予定).


●コンパクト護衛艦の建造
25大綱で明記された「多様な任務への対応能力の向上と船体の
コンパクト化を両立させた新たな護衛艦」について,
建造に向けた調査研究が開始されます.コンパクト護衛艦の基準
排水量は約3000トン,速力は40ノット.海自が現在保有する
護衛艦のうち基準外水量が3000トン以下は「はつゆき型」と
「あぶくま型」の計11隻で,速力はいずれも30ノット.
取り外し可能な装備の搭載により機雷掃海や対潜戦に対応できるほか,
離島奪還作戦における小規模な陸上戦力の輸送や揚陸作業にも
活用可能です.また,漁船を装った不審船などに対する戦力となる
ほか,従来の護衛艦では入港できなかった港も利用できるため,
大規模災害時の緊急物資輸送も期待できます.


●オスプレイとAAV7の取得
ティルトローター機V−22,通称オスプレイを17機取得し
(今年は5機調達),水陸両用作戦における部隊の展開能力を強化します.
滑走路不要という回転翼の利点と航続距離が長いという
固定翼の利点を兼ね備えている米軍のMV−22オスプレイは,
2012年に米軍普天間飛行場へ配備されました.
半径600キロを給油なしで飛行できる行動範囲は,
武装していない輸送機でありながら存在自体が中国に対する抑止力
となります.また,日本国内での災害派遣などでの支援でもその
機動力は心強いものです.

余談ながら,東日本大震災の救援作戦「オペレーション・トモダチ」に
おいて,CH−46Eを擁する第265海兵中型輸送ヘリコプター飛行
隊(オスプレイに換装されるにあたって第265海兵輸送ティルト
ローター飛行隊と改名)は普天間から被災地へ支援物資を輸送しました.
しかし飛行だけでも10時間,厚木や横田での休憩や複数回の給油
を含めると,実質2日を要しています.オスプレイならばノンストップ
の約4時間半で到着できていました.


次週もオスプレイとAAV7の続きからです.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.8.20




荒木 肇
『動員のコスト(9)──日本陸軍の動員(9)
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□はじめに

 映画「日本のいちばん長い日」を観ての感想です.
素人ですから映画論ではありません.
 15日に午前中は靖国大社にお参りし,
午後から映画を観ました.宮中に偽命令で動かされた
近衛兵が乱入し,陛下の詔勅を録音したレコード盤を
奪取しようとした事件を描いた「日本のいちばん長い日」です.
すでに中学生の時に岡本喜八監督の作品を観ていた私は,
新しい映画でどこか解釈を変えたものがあるだろうかと楽しみでした.

 全体の感想を申せば,若い俳優陣の熱演が印象的です.
うといもので俳優さんたちの名前がよく分からずにいるのですが,
陸軍省軍務局軍務課の畑中少佐を熱演された松坂さんに
拍手です.「国体護持」を願い,「交戦を継続しよう」と「本土決戦」
に期待をする熱意.さらには近衛師団を動かし,東部軍も決起さ
せようと計画するシーンの緊迫感.近衛師団長を殺害してしまう
瞬間の戸惑いと勢い.演技がたいへん見事だったと思います.

 細かい描写もよくできていて,たとえば近衛師団の参謀が
『近衛の帽章がついていないと門を通りにくい』といい,
畑中少佐が略帽(戦帽)を替えるシーンです.
CGも使われたのでしょうが昔の皇居の様子も見事でした.

 ただ,一般の観客の皆さんにとっては,「軍務局」,「軍事課」,
「軍務課」,それに東部軍,総軍,近衛師団という仕組みが
分かっていないと登場人物の役割も識別しにくいと思います.

 陸軍省軍務局軍事課にいた畑中少佐は「大本営参謀」も
兼務しているため,参謀職緒を吊っていました.
さらに近衛師団参謀,その上部にある東部軍参謀,
さらには近衛師団長の義弟で殺されてしまう総軍参謀,
みな職緒を下げています.どういう職制で,どんな役目を
もっていたのか分かりにくいと思いました.

 観客の皆さんは古賀と畑中の両少佐がすべて起こした事件
だったんだろうと思ってしまいそうです.当時の陸軍の組織から見て,
若い末端の課員である2人だけで行なったとするとどうにもつじつ
まが合いません.敗戦の混乱期だったから,陸軍の組織がおかし
かったから・・・といくらでも解釈ができるわけですが,
納得できないのは死んだ2人がすべてやったように描かれて
いることです.どうもほんとうはもっと上部にも参画者がいたように思えます.
 
 一つだけ指摘しておきます.原作も映画もそろって2人の少佐は
皇居前広場で自決しますが目撃者はおりません.市ヶ谷台の中
でも自決した方がおられますが,こちらは目撃証言もあり,
現在も慰霊の碑が立っています.実は敗戦の責任をとって自決さ
れた将校は珍しかった.たしかにご家族とともに責任をとって
亡くなられた方もおられました.しかし,その実数はひどく少ないと思います.
 
 参謀職緒を吊った将校が2人,皇居前で自殺したなら話題に
なるはず.皇宮警察官も何をしていたのでしょうか.
また,憲兵隊は何をしていたのでしょうか.
この事件もまた時間が必要で歴史の審判を受けなくてはなりません.

□演習召集のこと

 愉快な兵隊がいました.娑婆より軍隊がとても居心地がいいか
らと秋季演習で間近に見た天皇陛下に直訴しようというのです.
ぜひ,一人ぐらい満期が終わっても兵隊でいさせてくださいというの
が訴えの中身でした.あわてた同年兵は止めます.
「直訴は不敬罪だ」と納得させるのですが・・・.
昭和初年の兵隊生活を描いた棟田博の『拝啓天皇陛下様』の一場面でした.

 この作品は映画化もされ,一選抜の伍長勤務上等兵に
長門裕之さん,どうしようもない兵隊を渥美清さんが演じた名作です.
この上等兵のモデルは早稲田大学を出て入営し,幹部候補生を
志願しなかった棟田博さんご本人でした.この人の作品の中に
予備役中の演習召集の話が出てきました.もちろん召集令状は
「シロガミ=白紙」でした.この話は,『拝啓皇后陛下様』という
小説に出てきます.

『現役二カ年を満期除隊すると,その日から自動的に予備役に
編入されるわけだが,予備役中に,かならず一度,「予備役演習召集」
というのがあった.演習期間は約一カ月間,たいてい秋季演習の時期
に引っ張り出されて,在郷でなまっている心身をシボラレル仕組み
になっていた.私が演習召集を受けたのは,除隊後三年目の秋であった.』

 こうした当時の予備役の人の常識は記録に残りません.
棟田さんは文章を書く人になりましたが,「兵隊作家」でしたし歩兵伍長
だったのです.軍隊の思い出を書いてきたのは主に学校出の人が
多かったために,しかも1937(昭和12)年の大動員以降の人たち
だったために記録が残らなかったのでしょう.

 それでは今回は赤紙が家に届くまでの道のりをお知らせしましょう.

▼動員担任官

 いずれ詳しく述べるが,戦時動員は1943(昭和18)年の改正まで
1927(昭和2)年の「陸軍動員計画令」に基づいて行なわれた.
それは内地常設師団を中心にした動員だった.動員下令は統帥権者
である天皇陛下にしかなかった.だから動員について内閣は口をはさむ
余地もまったくなかった.動員管理官である師団長は天皇に直隷していた.
陸軍大臣や参謀総長であっても動員を総監はできたが,
動員について師団長を区処することしかできなかった.
師団長とこれと同等以上(たとえば飛行集団長)の者が動員担任官となった.

 動員管理官である師団長(もしくは同等者)は管理を隷下部隊長に
分担する.この立場の部隊長を動員担任官という.ここでいう部隊長
とは師団長に直隷する軍隊の長である.
歩兵,野(山)砲兵,工兵,騎兵の各聯隊長もしくは捜索隊長などをいう.
動員管理官は自分の管区の在郷軍人を管轄して,
馬匹や自動車などの徴発管区をもち召集徴発権も与えられていた.

 人員の配当と充員召集準備の一般はおおよそ次のように行なわれた.
動員管理官は,管理する動員部隊(戦時編制部隊)の要員と在営する者
と在郷軍人の現員を基礎として,各部隊の任務特性などを考慮して
在営者と在郷者を各部隊に配当する.例を挙げて説明する.
自動車化部隊なら,運転免許証をもつ者,自動車整備の技能がある者,
運行管理教育を受けた者,機械工の経験がある者,無線の取り扱い資格
をもつ者,さらには燃料商に関わった者などを把握し,人を分けていく.
もちろん,衛生隊の要員の中にも自動車免許をもつ者が必要だから
詳しく分けて行くことは勿論である.

 その配当人員をさらに各警察署管区と市に配当し,
同時に召集者名を確定し,充員召集名簿,充員召集令状を作成し,
警察署長と市長に保管させる.動員が下令されると直ちに令状を市町村長
から当人に届くようにさせた.
郡という制度が廃止されたのは1923(大正12)年だが,
それ以前は郡長と市長が保管していた.郡が廃止されたので
警察署長が保管するようになったのである.

▼聯隊区司令部の仕事

 いまも各都道府県には自衛隊の地方協力本部があり,
本部長は1等陸・海・空佐,あるいは防衛事務官である.
そこでは現職隊員も多く勤務しており,募集案内,退官者の就職援護,
各種広報等を主な仕事にしている.昔は各聯隊区に必ず聯隊区司令部
という分類でいえば官衙があった.長は聯隊区司令官といい現役の
陸軍兵科大(中)佐である(実際には歩兵が大多数を占めた).

 1941(昭和16)年には府県の数と聯隊区を一致させたので合計で
50個(北海道だけは4つ)あった.
その前には1個歩兵聯隊区ごとに1つずつあったので70個以上もあった
時代もある.ただ,聯隊区は司令部のある都市名をつけたので行政区画
の府県名と聯隊区名は必ずしも一致しない.
たとえば山梨県は甲府聯隊区であり,埼玉県は浦和聯隊区,
神奈川県も横浜聯隊区というようにである.ただし北海道だけは広いので,
旭川,札幌,凾館,釧路になっていた.

 外地には兵事部という組織があって,内地の聯隊区司令部と同じ
役割を果たしていた.朝鮮には京城師管区と羅南師管区があって,
それぞれ4つと2つの兵事部があった.台湾にも台北などに置かれた.
誤解がないようにつけ加えるが,朝鮮や台湾の人を徴兵したわけではない
(朝鮮に限っては末期に徴兵制をとった).在留している在郷軍人が
多数いたからである.

 聯隊区司令部には大東亜戦争の最末期までは2つの課があった.
第一課が徴兵,召集をあつかい,第二課が国防思想の普及などの
広報活動を行なった.この2つの課は昭和20年に,聯隊区司令部が
戦時編制になり3つの課に増えることになった.第三課は在郷軍人会,
青年学校,学校の軍事教練などに関する事項を分掌した.
もちろん,第一,第二課もその担当業務は変わっている.

 さて,平時2課制時代の業務分掌を見てみよう.第一課の仕事は,
1)部内の事務整理に関する事項
2)部内の庶務,人事及経理に関する事項
3)徴兵及召集に関する事項
4)在郷将校団に関する事項
5)在郷軍人(将官を除く)の恩給,賜金,扶助金及章典に関する事項

 以上のように,第一課が召集の業務を行なっていた.
 次回は主に,その具体的な作業をみてみよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.8.19




■アルカーイダ系組織が声明

前号でお伝えした「イエメン発米向けの二つの航空貨物から爆弾が見つかった事件」
で,イエメンに本拠を置くとされるイスラム原理主義武装勢力「アラビア半島のアル
カーイダ」が101105,犯行を認める声明をサイト上で発表しました.

100903に発生し,乗員二名が死亡した「UAEのドバイにおける米ユナイテッド・パーセ
ル・サービス(UPS)貨物機墜落事故」も,自分たちがやった犯行と主張しています.

⇒もしUAEにおける墜落事故がこの主張どおりとしたら,
「アラビア半島のアルカーイダ」は航空機テロで初めて死者を作ったことになります.

これについて米当局は現時点で「関与を確認していない」としています.
また,UAE当局も五日までに,「鑑定の結果,爆破装置による爆発の証拠はなかった」
とする声明を出しています.

■パキスタンで自爆テロ

パキスタン北西部ペシャワル近郊のモスクで101105,自爆テロが発生し,少なくとも
六十名が死亡,百名以上が負傷しました.

イスラム武装勢力「パキスタンのタリバーン運動(TTP)」の地元指揮官が犯行を
認めています.

⇒自爆犯は十キロ以上の爆発物を使用したそうです.
大爆発の衝撃で,モスクの壁や屋根の一部が崩れ,瓦礫の下敷きになっている人が
いるようです.

■イラクで連続爆弾テロ

イラクのバグダッドにあるイスラム教シーア派住民が多くすむ地域で101102,車爆弾
やIED,迫撃弾などを使用した連続爆弾テロが発生し,九十人以上が死亡,約二百人が
負傷しました.最大規模のテロは,バグダッド北東部のサドルシティーで発生してい
ます.

八月にイラク駐留米軍戦闘部隊が完全撤収して以降,最大規模のテロとなりました.

⇒バグダッドでは101031にアルカーイダ系武装勢力がキリスト教の教会に立てこもる
事件が発生しています.このときはイラク治安部隊が突入し,人質を含む五十一名が
死亡しました.


■ジュンダラをテロ組織に指定

米国務省は三日,イラン治安当局に対する攻撃を繰り返し行っているイスラム教スンニ
派武装勢力「ジュンダラ」を,クリントン国務長官が海外テロ組織に指定したと発表
しました.

⇒ジュンダラはこの七月,イラン南東部(シスタンバルチェスタン州)にあるモスクで
自爆テロを行い,イランの革命防衛隊隊員など約三十名を死亡させています.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2010.11.8






『ライター・渡邉陽子のコラム (58) ─ 2015年陸海空自衛隊の装備と運用(5) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

本日発売の「丸」10月号(*)に,
陸上自衛隊第2師団の演習記事が掲載されました.
おもに取材したのは,北海道で唯一10式戦車を運用する第2戦車連隊です.
(*)http://okigunnji.com/url/12/

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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■2015年陸海空自衛隊の装備と運用(5)

2015年度の防衛予算に含まれる新規事業を中心に,
2015年の陸海空自衛隊の装備と運用について
ご紹介する第5回目です.

先週は,島しょ部を占領された場合の奪還シナリオ
を実効性あるものとするための新規事業についてご紹介し,
そのひとつにオスプレイとAAV7の取得があることまで
お伝えしました.本日はその続きからです.


陸自が運用するオスプレイは17機全機を佐賀空港に配備,
米軍のオスプレイの一部も佐賀空港への移転を進め,
沖縄の負担軽減を図ります.
佐賀空港を選んだ理由としては,
島しょ部への侵攻に対処する水陸両用作戦に関わる
主要部隊が多く存在する九州北部に所在していること,
騒音などの面で地元住民への負担を最小限に抑制しつつ
十分な地積の確保が可能であること,
陸上自衛隊目達原駐屯地からも近く,同駐屯地に配備
されているヘリコプターの移設先としても活用できること等を挙げています.


8月23日に行なわれた総合火力演習では,オスプレイが飛来しましたね.
私は行かなかったのですが,もともと陸自から海兵隊へ
依頼していたとのこと.ただし離島奪回作戦のシナリオの中で
登場したわけではなく,演習終了後「みなさまお気をつけて
お帰りください」のアナウンスが流れた後,不意打ちのように現れたとか.
予定通りのプログラムを終えた後での飛来だったので,
ネット動画での生中継でも放送されなかったのですね.
自衛隊側としてはもちろん「あえて」の,この時間帯での登場だったのでしょう.


さて,オスプレイと並ぶ2015年新装備の目玉が,
水陸両用車AAV7の取得です.2018年度までに新設される
陸自の水陸機動団に導入する52両のうち,30両を調達します.

AAV7は最大24名を海上から島しょ等に運ぶことができますが,
アメリカではすでに生産終了している装備品であり,
水上航行能力が時速13キロ程度といった不安要素があることも否めません.


海自はAAV7輸送のためおおすみ型輸送艦を改修,
空自はC-2輸送機10機の着実な整備なども昨年に引き続き継続して行ない,
迅速かつ大規模な輸送展開能力を確保し実効的な対処能力の向上
に努めています.ただし水陸両用作戦等における指揮系統,
大規模輸送,航空運用能力を兼ね備えた多機能艦艇のあり方
についてはまだ検討すべき点も多く,
統合運用がいかに有効に機能するかが問われることになります.


機動戦闘車は即応性,機動性を高める観点からも戦車に代わる
装備品として2016年に装備化,全国の戦闘部隊に装備される予定です.
機動戦闘車は運用構想のひとつに島しょ部に対する侵略事態対処
があるため,空輸性と路上機動性に優れているほか,
105ミリ砲の走行間射撃に対しても高い走行安定性を確保しています.
来年,装備化された暁には大きなニュースとなるでしょう.


次回は陸上総隊,水陸機動団新編の準備の話です.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.8.27




マーケット・ガーデン作戦とインテリジェンス (12)
                長南 政義
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


【前回までのあらすじ】

本連載は,精確な内容を持つインテリジェンスが
一九四四年九月上旬に連合軍の指揮官に利用された
かどうかを考察することにある.実は,インテリジェンス
の内容は,マーケット・ガーデン作戦実行に伴うリスク
を連合軍の指揮官に警告していた.

指揮官が決定を下すために利用できるインテリジェンスの
情報源は数多く存在していたが,本連載では「ウルトラ」
情報により提供されたインフォメーションにのみ焦点を
当てて考察を進めることとする.第二次世界大戦を通じて,
連合軍の戦略レヴェル・作戦レヴェルの指揮官たちは
ウルトラ情報を活用し,ウルトラ情報の精確性に関して
めったに疑いを持たなかったからだ.

前回から「ウルトラ」情報について述べている.
前回はギュスターブ・ベルトランとD部の活動がエニグマ
解読に果たした役割と,戦間期アメリカの暗号解読活動
とについて説明した.

今回はポーランドの暗号解読について詳しく述べてみたい.

【ポーランドの暗号局が直面していた問題】

第一次世界大戦後も,ポーランドは他国には解読不可能
と思われたドイツの暗号通信を解読する情報解読能力を
限定的ながらも維持し続けた.ポーランドはポズナニの
スタロガルトに通信情報収集センターを,クシェスワビツェ
にドイツの通信情報を傍受する傍受局を設立した.そして,
傍受した暗号通信を解読する責任を有していたのが,
ワルシャワにあるポーランド軍参謀本部暗号局であった.

ポーランドが直面していた問題はドイツの暗号を解読する
任務に耐えうる能力を持ったよく訓練された暗号解読専門家
の数が不足していることだった.ドイツ海軍が一九二六年
にエニグマ暗号機を使用し始めたときに,この問題はより
悪化することとなった.

【ポーランド軍,大学で暗号学講座を開設する】

高まりつつある脅威に対処するために,ポーランド軍参謀
本部はポズナン市にあるアダム・ミツキェヴィチ大学で暗号
学講座を開設した.アダム・ミツキェヴィチ大学が選ばれた
理由は,この大学の数学部の能力の高さと,この地域から
選ばれた学生がドイツ語を話して成長したこととにあった.
ポズナンは一七九三から一九一八年までの間ドイツ領で
あったため,ドイツ語に堪能な学生が多かったのである.

【選ばれた三人】

暗号学講座の目的はドイツの暗号解読計画を拡張するため
に必要となる暗号学の素養を有する学生を選別することに
あった.講座の最終目的は,組み合わせ理論や確立論とい
った数学理論を応用して,エニグマ暗号を破る組織的活動
を開始することにあった.

一九三一年,この暗号学講座が終わりを告げ,
マリアン・レイェフスキ,ヘンリク・ジガルスキおよび
イェジ・ルジェツキの三人が選ばれて暗号局のメンバーとなり,
エニグマ暗号を解読しようとするポーランド軍の努力を
主導していくことになる.

ポーランドは新しいエニグマ暗号の解読について,
当初あまり成功しなかったものの,努力を続けた.
だがこの努力は無駄ではなかった.ポーランドがフランスの
ギュスターブ・ベルトランから重要文書を受領した時に,
この努力が大きな変化につながったからである.

【ハンス=ティロ・シュミット,フランス側諜報員に接触する】

前回指摘したように,ハンス=ティロ・シュミットがフランス
情報機関の諜報員と接触していた.シュミットはヴァイマ
ル共和国軍暗号部門に勤務するドイツ人で,
フランスに渡したい情報を持っていることをフランス側
諜報員に話したのである.

シュミットは徹底的にフランス側によりその人物を調査された.
一連の会談の後,シュミットは「アッシュ」という暗号名を与
えられた.シュミットの信頼性が確認されると,
フランス側はシュミットに対し,エニグマ暗号機に関する
できる限り多くの文書を提供するように依頼した.
シュミットが提供した文書はポーランド軍の手に渡り,
暗号学者がこれまで解くことのできなかった方程式を
解くのに必要な重要情報を提供することとなった.

【ポーランドによるエニグマ解読の初期の成功】

一九三二年十二月七日,ベルトランはワルシャワでポーラ
ンドに文書を交付した.これらの文書には,暗号キーの説明書,
エニグマの使用説明書や複数の古いキーが含まれていた.
そして,ポーランドはこれらの文書を活用してエニグマ暗
号機の構造を再現することに成功したのである.

こうして,エニグマ暗号機に関する新たな知識を得たポ
ーランドは一九三二年十二月の終わりまでにエニグマ解読
に関し迅速な進歩をすることができたのである.
一九三三年一月上半期の間,ポーランドは限定的ながらも
エニグマの通信文を読み始めることができるようになった.

【初期の成功後の後退】

エニグマで暗号化された通信文を解読することに最初に
成功したことは,ポーランドがエニグマ解読を継続する基礎
となった.だが,ポーランドの暗号解読の努力も成功続き
ではなく,一九三〇年代のポーランドによる暗号解読の努
力は成功と同時に,後退と失敗とによっても特徴づけられている.

ポーランドが新しい暗号の解読に成功したのとちょうど同じ時期に,
ドイツはエニグマ暗号機に改良を施した.
その結果,暗号解読の手続きは再び一からやり直しとなってし
まった.だがすべてがやり直しとなったわけではない.
というのも,ポーランドはエニグマ暗号機がどのように作動
するのかを理解していたので,ドイツ側が行った改良にのみ
焦点を当てればよいことをポーランドは理解していたからである.

こうして,最初の成功が基礎となり,ドイツが行った改良の
ために費やすべき時間は大きく減少したのである.

【「ボンバ」誕生】

ここまでの間,エニグマ解読に成功した唯一の国家は
ポーランドであった.だが,ポーランドは解読の成果を他の
国々と共有していなかった.ポーランドがエニグマの解読に
熟練していくにつれ,彼らは手動・自動を含む一連のシステ
ムとして解読活動を始め,そのことがより迅速に暗号解読
を行なうことに寄与していた.

レイェフスキはエニグマのローターの配列を迅速に割り出す
ために「ボンバ」と呼ばれる機械を製作した.ボンバは現在
のコンピューターの前身といえる機械であり,暗号分析者
がエニグマのローター配列を迅速に推測することを可能にした.

ボンバなしでは,人間がエニグマのローターの配列をイン
テリジェンスとして価値がある速度で特定することは不可能であった.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.8.27




陸軍機 vs 海軍機(49)       清水政彦

「零戦と隼(48)」
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◆お知らせ

 発売されたばかりの『文藝春秋スペシャル2015秋号』(*)で
「最大の失策『三国同盟』を招いた対ソ恐怖症」寄稿しました.
ご興味がありましたらご一読ください.

(*)http://okigunnji.com/url/13/

「零戦vs隼」の第48回.
今回は,東部ニューギニア戦線の崩壊と西部ニューギニアへ
の撤退に至る昭和19年初頭の情勢についてです.


▼ 沈滞する士気,遅すぎた対応

 昭和18年末,東部ニューギニア戦線の戦況は次第に悪化し,
すでに敗色濃厚となっていた.先の見えない状況に加え,
最悪に近い衛生環境で死闘を続けるパイロットは極度の疲労にさいなまれていた.

 戦闘飛行によってパイロットに蓄積する強度の疲労と
ストレスは「航空疲労」と呼ばれ,航空疲労の増大は次第
にパイロットの精神面にも悪影響を与えるようになる.
航空疲労問題について「戦史叢書」は次のように述べている.

「昭和18年8月後半以降,ウェワク方面に対する空襲の激化とともに,
第四航空軍空中勤務者の出動回数が急激に増加し,
航空疲労が著しくなってきた.9月中旬ごろウェワクでは,
各戦隊の交代勤務,飛行前後の操縦者に対する薬剤
(ビタミンB・C,ブドウ糖)注射等を実施して疲労の軽減を図った.
また,10月ごろから各戦隊では,空中戦に伴う加速度対策用として,
第八陸軍航空技術研究所が開発した航空用腹帯の試用が
励行されるようになっていた.けれども,長い間に蓄積された
疲労は容易に解消されず,薬剤や休息による疲労回復所要日数も,
しだいに長くなっていった.空中勤務者は一様に不眠に悩まされ,
食欲が減退し,脱力感・倦怠感がひどかった.
また,過労と不良な衛生環境のため,結核などの胸部疾患の
発生がしだいに目立ち始めていた.10月,11月と日を重ねるに
つれて,第四航空軍空中勤務者の航空疲労の状況は,
まことに容易ならぬ様相を呈するに至り,
その可動率は11月ついに約30%まで低落した.」

「空中勤務者の志気の問題が重大であった.
悪戦苦闘が連続していたこの戦線において,
第一戦空中勤務者の志気は一般に沈滞しているのが実情であった.」

 また,第四航空軍の参謀から大本営に異動した高木作之少佐は,
昭和18年12月下旬に開かれた参謀本部の会議において,
概ね以下のように説明している.

「空中勤務者の精神状態が問題である.最初は沈着な勇敢であったが,
最近は自暴自棄的な勇敢に変わっている.
その疲労は極度に達しているが,ぶとう糖の注射を拒否する者がある.
戦隊は中堅幹部を失い,戦隊長の指揮が困難になっている.」

 さらに,ニューギニア戦線を訪問した大本営の視察団も,
昭和19年1月に陸軍中央部に対し概ね次のように報告した.

「東部ニューギニア方面第四航空軍の保管総機数は約250機であるが,
その整備完了機数は約150機に過ぎない.整備の能力が実際上
足りなかったのである.出動可能機数が整備完了機数よりはるか
に少ないのは,空中勤務者の応役率が悪いためである.
そしてその最大原因は空中勤務者の心身衰弱である.」

 これらの報告により,遅まきながら大本営もニューギニア戦線の
「実相」をリアルに理解したようだ.昭和19年初頭から,
前線パイロットの心身の健康を維持するための対策が,
つぎつぎと実行に移されはじめる.

 まず,疲弊したパイロットの休養と健康維持のための保養所が
設置することになり,東部ニューギニア戦線については3カ所
の設置が発令された.

 最前線のウェワク,中部ニューギニアのホランジアおよび
後方のメナド(インドネシア)に,それぞれ軍医3名を中心とする
医療団を配置した休養施設を建設し,ウェワクには軽症者,
メナドに重症者,ホランジアにはその中間の症状の者を収容する
という計画である.第1号のウェワク保健所が開業したのは
昭和19年1月初旬であった.

 また,戦力の配置という点でも,激戦が続くニューギニア方面
と比較的安定している後方との部隊交代を活発に行なうことによって,
極力,第一線パイロットの心身の疲労を軽減する方針が確認された.

 しかし現実には,こうした「まっとうな」対策が功を奏する前に,
東部ニューギニア戦線は急速に崩壊してしまうのである.

▼ 第51師団と第20師団の撤退

 昭和19年1月2日,フォン半島とマダンの中間点にあたる
「グンビ」に連合軍が上陸した.

 これにより,フォン半島で防戦を続けていた陸上部隊
(第51師団と第20師団)は退路を断たれる形になった.

 東部ニューギニアを管轄する第18軍は,両師団を山越えで
撤退させてマダン地区に収容することを試み,
第四航空軍に対して撤退作戦の支援を要請した.
航空支援といっても,積極的に敵を攻撃するのではなく,
主として糧食の空輸と空中偵察をするだけである.

 当時,第四航空軍で使用可能な輸送機や重爆はわずかであり,
空輸能力は1日あたりせいぜい1〜2トンしかない.
仮にすべてが投下・回収できたとしても約1万の兵力を養うには
まったく足りないもので,投下後の現実的な回収率を考えると,
この程度の補給は気休めに過ぎない.

 それでも陸上部隊を見殺しにするわけにはいかず,
第四航空軍はわずかに残った爆撃機を掻き集め,
夜間や薄暮を利用して食糧の空中投下を試みた.
しかし,その多くは悪天候や暗闇に阻まれて成功せず,
別途海軍が試みていた潜水艦輸送も失敗が続いた.

 ついに第四航空軍は損害を覚悟で昼間に投下を行なうことを決断し,
その掩護のため,迎撃戦に忙しい戦闘機をやりくりして空輸計画を立て,
飛行機を準備した.しかし,出撃間近になって潜水艦輸送が成功した
ことが判明し,危険な昼間の強行輸送は中止される.

 結局,第四航空軍は意味のない空輸作戦に振り回され,
昭和19年1月初旬から中旬までの期間を空費してしまった.

▼ 累積する損害と指揮官の焦り

 昭和19年1月中旬以降,第四航空軍は連合軍飛行場への
攻撃を再開するが,爆撃戦力が枯渇しているため戦闘機単独での攻撃となった.

 15日の攻撃は成功し,1機を失っただけで大きな戦果を報じたが,
翌16日の攻撃は悪天候の中で無理な低空侵入を試みたことが
災いし,不利な態勢から奇襲されて一挙に10機が未帰還となる.
昭和19年に入ると,空中戦での「キル・レシオ」は日を追うごとに
確実に日本側に不利になっていった.
これは機体の性能差だけでなく,パイロットの体力・気力が低下し,
負け戦の中で焦りが募っている(状況判断の鈍化)ことが大きく
作用していると思われる.

 18日には,ウェワクに対して戦闘機のみ約100機の空襲があった.
明らかに我が戦闘機を誘い出す意図であり,敢えて交戦する必要
がない状況だったが,第四航空軍はほぼ全力の56機で邀撃して
4機を失った(1名落下傘降下).戦果は17機(うち4機不確実)と
報じられたが,戦死した3名のパイロットのうち2名が中隊長級の大尉であった.

 パイロットの士気が喪失しつつある状況下で,部下を鼓舞する
ために上級将校が無理をしはじめていた様子が垣間見える.

 また,士気が低下すると敵を恐れる気持ちが先に立ち,誤報も多くなる.
19日,マダン付近に敵が上陸したとの通報により戦闘機を出撃させたが,
これは誤報で出撃は空振りだった.翌20日にも「船団らしきもの」を
発見したとの通報があったが誤報であり,一部が出撃したが空振り
に終わった.第四航空軍では,念のため21日もほぼ全力で
索敵攻撃隊を出撃させたが,やはり空振りであった.

 この間,戦闘機隊はウェワク向け輸送船団の掩護や地上部隊
への食糧投下作戦の準備にも奔走したが,船団に対する空襲はなく,
昼間の強行投下作戦は22日の決行直前で中止されたので,
結局この数日の作戦はすべて空振りに終わった.
こうしたミスや空振りが続くと,人間は焦ってくる.焦りが作用した
という確証はないが,翌23日の戦いはちょっとしたミスから
大きな痛手を蒙ってしまった.

▼ 南郷大尉の戦死

 23日,ウェワクに対し約70機の空襲があり,
所在の戦闘機隊はこれを全力で邀撃して18機撃墜(うち6機不確実)を報じた.
この戦果と引き換えに7機の戦闘機が失われたが,うち1機が
南郷茂男大尉機であった.

 この日,南郷大尉は第59戦隊の空中指揮官として,
諸部隊の先頭に立って爆撃機の大編隊に突入したが,
その途中に後方から敵戦闘機の奇襲を受けたようだ.防空情報の
到達も遅かったようで,会敵時に十分な高度に達していなかった
可能性もある.

 南郷小隊に続航していた戦隊主力は,敵戦闘機の攻撃を受けた際
に回避のため旋回したが,南郷大尉の小隊は回避行動をとらず,
そのまま爆撃機に突っ込んでいったという.後続機は南郷小隊を見失い,
南郷大尉は僚機とともに未帰還となったため最期の様子は不明である.
おそらく,味方の援護を失い孤立した状態で多数の敵戦闘機に取り
囲まれ,撃墜されたと思われる.

 奇襲を受けた際,南郷大尉がなぜ回避行動をとらなかったのかは
分からない.僚機からの無線が通じなかったのかもしれないし,
あるいは,幕僚たちが危惧していたような「自暴自棄な勇敢」に陥ったのだろうか.

 第59戦隊は間もなく新鋭部隊と交代してニューギニアから後退する
予定であり,この日無理をせずに回避行動をとっていれば,
おそらく南郷大尉は「地獄のニューギニア戦線」を生き残れた可能性が
高いのだが,これは何とも惜しいことである.

▼ 間に合わなかった追加派遣部隊

 昭和19年に入ると,戦線崩壊の危機感から大本営もようやく重い腰を
上げ,東部ニューギニア戦線のテコ入れを試みる.

 ビルマ・ジャワ方面の南方軍から主力航空部隊(5個戦隊)を抽出して
西部ニューギニア戦域の「第二方面軍」に転属させるとともに,
これらの戦力を一時的に東部ニューギニア戦線にも派遣するという
一大決心であった.西部ニューギニアは,ここを抜かれればもう後が
ないという「絶対国防圏」の一角であり,その防備の要である精鋭
航空部隊を最前線に投入するという決断は,大本営が当方面の
戦局についてきわめて重大な危機感を持っていたことを意味している.

 しかし,東部ニューギニアの貧弱な基地群は,元来これだけの
大部隊を受け入れるだけの収容力を持ち合わせていない.
しかも,派遣部隊が現地に到着して活動を開始したのは昭和19年
の3月以降であり,この頃になるとウェワク地区の飛行場は連続する
空襲によって滑走路が荒れ果て,大型機が装備と燃料を満載する
と離陸すら困難という有様であった.

 仕方なく,派遣部隊は後方(西部・中部ニューギニア)の飛行場
を根拠地とし,機を見て前線飛行場に進出して給油のうえ奇襲的
に敵を攻撃する…という曲芸的な運用を要求された.
しかし,現実には後方根拠地となるべき西部・中部ニューギニアの
飛行場の整備も遅々として進んでおらず,こうした曲芸的運用は
所詮絵にかいた餅にすぎなかった.

 大きな期待とともに投入された派遣部隊だったが,繰り返される
空襲によって進出早々に大きな損害を出してしまう.第四航空軍は
これ以上の損耗を避けるため,3月中旬までに飛行部隊を
中部ニューギニアに引き揚げた.

 戦闘機隊が去ったあとのウェワク地区は,連合軍の空襲に
対する抵抗手段がなくなり,滑走路は爆撃され放題,完全な修復
はほぼ不可能となった.ウェワク地区の飛行場が無力化したことにより,
事実上,東部ニューギニアでの航空作戦は終局を迎えた.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.8.26




荒木 肇
『動員のコスト(10)──日本陸軍の動員(10)
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□ 富士総合火力演習

 今年も大人気だった富士の裾野の総合火力演習でした.
もっとも天候に恵まれたのは土曜日22日でした.
本番の23日は防衛大臣をはじめ多くの国会議員の
方々もみえました.もちろん一般の方々も超満員.
入場券は25倍の競争にもなったそうです.
雲が低く,富士は見えず,ようやく着弾地が見える状態でしたが,
富士教導団は日ごろの鍛錬の腕を見事に見せてくれました.
 
 今年の会場の変化は横断歩道橋がなくなったことでした.
例年,シャトルバスの駐車場と観覧席の間は施設教育支援隊
が架けた歩道橋で結ばれていました.
今年は経費節約のためにそれをなくしたそうです.
およそ1000万円の節約になったとのこと.
そのほか,富士学校が負担している経費はさまざまですが,
主に観客が出されるゴミの処理費も相当な額になると聞きました.
また.各駐屯地や宿営地に臨時に設けられる駐車場と会場を
結ぶシャトルバスの経費もかなりのものだろうと思います.
 
 そうした問題はいろいろあるとしても部外の皆さんの称賛の
声を浴びることは隊員の士気を上げる元になります.
「命中!」のアナウンスがされるたび,満場のどよめき,
それと拍手.退場する戦車の乗員に手を振る子供たち.
そうした交流が自衛隊を強くし,国民の信頼を得る最大の手段だと思います.
 
 世間では「戦争は嫌だ」「徴兵制になっても行かない」など
と「平和を祈る声」がかまびすしくなっています.祈ることは
自由ですが,どうしたら平和を築いていけるのか.
それを若者も含めて国民みんなが考えていかなければなりません.
しかし,これだけは確かです.
いちばん戦争などして欲しくないのは,現代兵器の威力をよく知り,
それらを操ることができる自衛隊員とその家族です.
 
 何を語ろうと,信じようと勝手ですが,
いま目の前の危機にどうすれば対処できるのか.
悪意のある相手と戦争を起こさないようにするにはどうするのか.
「戦場には行かない,行かせない」と語っていれば,
攻めてくる国はなくなるのか.
 
 わたしはやはり抑止力として精鋭の武装組織は必要だと
考えています.そして,誰かがそれをやらねばならないなら,
嫌がる人に無理やりやらせることはできません.
割の悪い仕事であっても,辛くて,苦しくて,恐ろしい仕事で
あっても,誰かがやらねばならないなら自分がやりましょう
という若者を応援しています.


▼ 聯隊区司令部の仕事

 聯隊区司令部の組織は1課から3課に分かれた.
それぞれに課長がいた.この課長は現役の少佐,または大尉だった.
ただし課長ではあっても部下の評価権はもてない.
課はその中で班に分けられた.第1課は庶務班と経理班.
第2課は徴兵班,軍人恩給班,章典班などなどである.
 
 第3課は動員を主に扱うので,将校・各部将校班,下士官班,
歩兵班,特科兵(歩兵以外の騎兵,砲兵,工兵,航空兵,輜重兵,
憲兵など)班と国民兵班だった.各班長は曹長か軍曹という
下士官であり,その下には下級の判任官の軍属や雇員が配属
させられていた.ただし,どこの班も人数はそれほど多くはない.
もっとも大きかった歩兵班でも曹長の班長と軍属3人といったところである.
動員課全体でも20人あまりにしかすぎなかったところが多い.
 
 動員業務を扱う人間たちは司令部内の決められた部屋に
集められていた.秘密は厳重に守られ,部屋には気軽に立ち入る
こともできなかった.
動員課の仕事は召集者を決めて,召集令状を発行することである.
召集者の数やその内訳は師団司令部からおりてくる.
歩兵なら階級は兵長か上等兵か一党兵か,馬の取扱兵になれるか,
ラッパの特技はもっているか,重機関銃や軽機関銃の射手か,
擲弾筒の操作は,などなど.そうした内容はすべて役場の兵事係
が作成した在郷軍人名簿に書かれていた.動員課はそれらを
あらためて別の書式の名簿に作り直して,そこから召集者を決めていたのだった.
 
 赤紙といわれた淡紅色の令状には2種類があった.
充員召集令状と臨時召集令状である.書式や見た目は変わらないが,
参謀本部内での計画段階に差があった.
 1)充員召集令状・・・年度動員計画に基づいて,前年度に作成し,
あらかじめ市役所・警察署に保管し,動員令が下ると配布された.
 2)臨時召集令状・・・戦時,事変などで元々の動員計画にない
部隊を特設するときに発行された.参謀本部から出される
「臨時編成令」をもとに作られる.
 
 そして,中央,参謀本部の計画と関わりなく,戦地の野戦師団
からも損耗を埋めるための召集があった.師団管区内でいつでも作られ,
送られた赤紙は,これも臨時召集令状である.

▼戦時下の兵役制度

 もう一度,昭和戦前,戦中期の兵役制度についてふり返っておこう.
1927(昭和2)年の「兵役法」によって定められた兵役義務があった.
帝国臣民である男子は満17歳で第二国民兵役に編入され,
ほかの兵役に服さない者はそのまま満40歳まで服役する.
この年齢の上限は,1943(昭和18)年11月の兵役法改正で
45歳までに引き上げられた.

 20歳で徴兵検査を受けると役種を指定された.
現役,予備役,補充兵役,国民兵役などの区別を役種といった.
この役種を指定することを「徴集」という.
よく軍隊に入ることをなんでも徴集する,されるという言葉を使う人が
研究者にもいるが,厳密には間違い.
軍隊に入ることを陸軍は入営,海軍は入団というが,それも実は
間違いで,海軍でも入営というのが正しい.
慣用的に,海軍は海兵団に入るから「入団」と言ったのだろう.

 現役は陸軍が2年,海軍が3年だった.この1943(昭和18)年
にはもう一つ大きな特例ができた.12月に制定された「徴兵適齢
臨時特例」である.適齢を特別に19歳にするということである.
したがって,翌年の検査を受ける壮丁は2倍になった.
大東亜戦争も拡大し,兵員の数が足りなくなったからである.
 
 また,すでに1938(昭和15)年2月には法の改正で1年6カ月の
在営制度が廃止されていた.
青年訓練所などの優等生が半年在営を短縮されるという優遇措置
がなくなっていたのである.さらには同年10月制定の陸軍省の省令で,
『現役兵は別に定められた者の他は,延長を免ぜられるまで現役
を延長する』となっていた.だから,15年の年末に除隊するはず
だった者はそのまま現役として残り,16年には3年兵,17年には
4年兵となっている.
大西巨人作の『神聖喜劇』に登場する神山上等兵は現役3年兵の上等兵だった.

 現役を終えた者は,陸軍では5年4カ月,海軍では4年の予備役
に編入された.4か月の端数についてはすでに説明してある.
予備役が満了すると陸軍は10年,海軍は5年の後備役になり,
その後は第一国民兵役に服役する.
第一補充兵役の服役期間は陸軍では12年4カ月,海軍は1年だった
(ただしその後は11年4カ月の第二補充兵役に服した).
陸軍の第二補充兵役は12年4カ月である.その中で軍隊に教育召集
を受けた経験者は,そののちに,第一国民兵役に編入されている.
だから第二補充兵役はまるで軍事には素人であり在郷軍人とはいわれ
なかったが,1938(昭和13)年8月の兵役法施行規則の改正で
第一補充兵と同じ扱いを受けるようになった.

 1939(昭和14)年3月の兵役法改正では海軍の予備役を1年延長し,
後備役も2年延ばした.
あわせて陸軍の補充兵役も5年延長し,第二補充兵役もついに
教育召集を義務付けるようになり,いわゆる「根こそぎ動員」の
準備ができた.
そして,1941(昭和16)年4月の兵役法改正で「後備役」がなくなり,
みな予備役に繰り入れた.
これと同時に,前に述べたように「陸軍管区表」の見直しがあり,
聯隊区司令部を府県一聯隊区として行政区画と一致させるようになった.
徴兵事務の合理化といえよう.ついでに「防衛召集制度」についても触れておこう.

 1942(昭和17)年9月には「防衛召集規則」が制定された.
戦時,あるいは事変の時には防衛上必要があると認められれば,
在郷軍人を召集する制度だった.防空召集と警備召集の2種類があった.
あらかじめ,本人には予告しておき,「召集待命令状」を渡しておく.
空襲や警備出動が必要な時には状況に応じて近くに住む在郷軍人
を召集し,部隊を編成し,必要がなくなると召集を解除して帰宅させる
という方法である.これが実際に機能したのは戦争末期の沖縄戦で
あろう.防衛召集が下され,沖縄に居住する在郷軍人にはこれに
応じた人が多かった.

▼他にもあったさまざまな制度(1)

 昔の師範学校は各都道府県に置かれた.師範学校とは小学校の
高等科を出て5年間の教育を受けるか,中学校や高等女学校の卒業生
が1年間の教育を受けた.
小学校の訓導(教諭というのは中等学校教員のこと)を養成する学校だった.
男子師範学校生はここで軍事教育を受けた.
この教練を修了したものは5カ月,していない者は7カ月だけ現役に
服すことができた.短いので短期現役兵といった.
現役を満了すると陸軍は歩兵伍長,海軍は三等兵曹に任じて,
すぐに第一国民兵役に編入するという優遇施策だった.国民教育に
従事する義務教育学校に勤務する者を確保するのがねらいである.
これを「師範のタンゲン」といった.

 戦後,海軍予備士官の養成制度を「短期現役」,「短現」という人
が体験者の中にもいるがそれは間違いである.
海軍はもともと予備兵科士官は高等商船学校卒業生からとったが,
各科の士官(将校相当官)には予備員はいなかった.
1925(大正14)年に軍医の戦時の不足を補うために「二年現役士官」
という制度を作った.同時に予備員薬剤官の制度も作ったが実際に
は応募がなかった.
 
 これは陸軍の現役2年と揃えるためである.当時(昭和2年から),
陸軍軍医は幹部候補生から採用した.1等卒(2等卒の間違いで
はない)の経験から始めて,大卒なら10カ月,専門学校卒なら
1年の兵営生活で陸軍軍医少尉になった.
 
 これに対して,海軍では現役期間は2年だが,
大卒なら入団即日中尉に,医専なら少尉にした.
この制度を1938(昭和13)年から技術関係と主計科に拡大した.
大学工学部なら造兵中尉に,工専卒なら同少尉にするという具合である.
主計科では商科大卒なら主計中尉,高商卒なら主計少尉だった.
2年間の現役を終えるときに当局から意向を打診される.現役を継続するか,
あるいは予備役になるかである.予備役編入を望めば階級を一つ進め,
中尉は大尉に,少尉は中尉にして次の召集に備えさせた.
これを「二年現役志願士官」といい,周囲も本人も「短期」と言い
換えたので,「タンゲン士官」という言い方ができたのだろう.
 
 この小学校教員を優遇する制度は毎年2月の特別な徴兵検査の
実施で特徴づけられる.一般の徴兵検査は6月ころに行なわれたが,
25歳未満の師範卒業生は2月上旬に実施された.
乙種合格以上の全員が現役兵と指定され,毎年4月1日に指定された
歩兵聯隊や海兵団に入営した.この制度の下士官は第一国民兵役
に編入され,まず召集を受けることはなかった.
それは1939(昭和14)年3月の法改正で他の中等学校卒業者並み
になるまで続いていた.
 
 次回はさらに幹部養成制度や徴集猶予や召集免除などについて説明しよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.8.26




『ライター・渡邉陽子のコラム (58) ─ 2015年陸海空自衛隊の装備と運用(5) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

本日発売の「丸」10月号(*)に,
陸上自衛隊第2師団の演習記事が掲載されました.
おもに取材したのは,北海道で唯一10式戦車を運用する第2戦車連隊です.
(*)http://okigunnji.com/url/12/

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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■2015年陸海空自衛隊の装備と運用(5)

2015年度の防衛予算に含まれる新規事業を中心に,
2015年の陸海空自衛隊の装備と運用について
ご紹介する第5回目です.

先週は,島しょ部を占領された場合の奪還シナリオ
を実効性あるものとするための新規事業についてご紹介し,
そのひとつにオスプレイとAAV7の取得があることまで
お伝えしました.本日はその続きからです.


陸自が運用するオスプレイは17機全機を佐賀空港に配備,
米軍のオスプレイの一部も佐賀空港への移転を進め,
沖縄の負担軽減を図ります.
佐賀空港を選んだ理由としては,
島しょ部への侵攻に対処する水陸両用作戦に関わる
主要部隊が多く存在する九州北部に所在していること,
騒音などの面で地元住民への負担を最小限に抑制しつつ
十分な地積の確保が可能であること,
陸上自衛隊目達原駐屯地からも近く,同駐屯地に配備
されているヘリコプターの移設先としても活用できること等を挙げています.


8月23日に行なわれた総合火力演習では,オスプレイが飛来しましたね.
私は行かなかったのですが,もともと陸自から海兵隊へ
依頼していたとのこと.ただし離島奪回作戦のシナリオの中で
登場したわけではなく,演習終了後「みなさまお気をつけて
お帰りください」のアナウンスが流れた後,不意打ちのように現れたとか.
予定通りのプログラムを終えた後での飛来だったので,
ネット動画での生中継でも放送されなかったのですね.
自衛隊側としてはもちろん「あえて」の,この時間帯での登場だったのでしょう.


さて,オスプレイと並ぶ2015年新装備の目玉が,
水陸両用車AAV7の取得です.2018年度までに新設される
陸自の水陸機動団に導入する52両のうち,30両を調達します.

AAV7は最大24名を海上から島しょ等に運ぶことができますが,
アメリカではすでに生産終了している装備品であり,
水上航行能力が時速13キロ程度といった不安要素があることも否めません.


海自はAAV7輸送のためおおすみ型輸送艦を改修,
空自はC-2輸送機10機の着実な整備なども昨年に引き続き継続して行ない,
迅速かつ大規模な輸送展開能力を確保し実効的な対処能力の向上
に努めています.ただし水陸両用作戦等における指揮系統,
大規模輸送,航空運用能力を兼ね備えた多機能艦艇のあり方
についてはまだ検討すべき点も多く,
統合運用がいかに有効に機能するかが問われることになります.


機動戦闘車は即応性,機動性を高める観点からも戦車に代わる
装備品として2016年に装備化,全国の戦闘部隊に装備される予定です.
機動戦闘車は運用構想のひとつに島しょ部に対する侵略事態対処
があるため,空輸性と路上機動性に優れているほか,
105ミリ砲の走行間射撃に対しても高い走行安定性を確保しています.
来年,装備化された暁には大きなニュースとなるでしょう.


次回は陸上総隊,水陸機動団新編の準備の話です.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.8.29




『ライター・渡邉陽子のコラム (60) ─ 2015年陸海空自衛隊の装備と運用(7) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

今日の記事でご紹介している日米共同訓練(正確には米国
における統合訓練)のドーン・ブリッツが先月半ばにスタート,
事前訓練を経て,総合訓練が8月31日から9日9日まで
行われました.報道公開されている訓練もあるので,
ニュースで目にされた方もいるのではないでしょうか.

今回は初めて後方支援部隊が参加したそうですね.
弾薬や燃料,食糧など,兵站なくして戦闘は成立しません.
訓練がいかに現実的な想定のもと行なわれているかわかります.
私にとってドーン・ブリッツに兵站部隊が参加したというのは,
かなり大きなニュースでした.


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■2015年陸海空自衛隊の装備と運用(7)


2015年度の防衛予算に含まれる新規事業を中心に,2015年の
陸海空自衛隊の装備と運用についてご紹介する第7回目です.
先週は,陸上総隊,水陸機動団新編の準備の話でした.
今週は米国との共同訓練についてです.

島しょ部を攻撃された場合の陸海空自衛隊の統合運用要領
及び米軍との共同対処要領の向上のため,
自衛隊は米国が主催する実動訓練へも参加しています.
米国における統合訓練(ドーン・ブリッツ)はこれまで米軍単独訓練
として実施されてきましたが,2013年に自衛隊も初めて参加しました.
陸自からは西普連と西方航空隊,海自からは護衛艦「ひゅうが」,
「あたご」,輸送艦「しもきた」,空自から航空総隊が主力部隊として参加.
米軍との相互運用性の向上とともに,陸・海・空自衛隊の幕僚が
一つの司令部を組織し,統合により島しょ侵攻対処にかかる
指揮幕僚活動及び訓練を行ないました.
今年のドーン・ブリッツ15にも海自の掃海隊群,護衛艦2隻
(「ひゅうが」と「あしがら」),輸送艦「くにさき」,艦載航空機3機のほか,
陸自の西部方面隊,中央即応連隊,空自の航空総隊の約1100名が
参加.カリフォルニア州キャンプ・ペンデルトンや米海軍サンクレメンテ
島訓練場および同周辺海・空域で,9月9日まで訓練が行なわれました.
人数的には1コ普通科連隊規模の隊員がアメリカで訓練を行なっているという,
その事実自体も抑止力になりそうです.

米カリフォルニア州にあるキャンプ・ペンデルトンで行われる
日米合同実働訓練(アイアン・フィスト)には,2006年から西部方面
普通科連隊が毎年参加.今年も1月19日〜3月7日,西部方面総監部
と西普連の人員約270名,米海兵隊約500名が参加し,離島奪還の
ための強襲揚陸を想定した訓練を行ないました.今回は水陸両用車
を使用した上陸訓練を初めて実施するほか,29パームス訓練場において
実弾による航空火力等の誘導訓練を含む日米共同の戦闘射撃訓練
も行なわれました.

また,昨年6月から8月にかけては,米海軍が隔年で主催している
ハワイ周辺海域で行われる環太平洋合同演習(リムパック)に陸上自衛隊
が参加,米海兵隊と水陸両用訓練を実施しました.この演習は日米両国
のほかオーストラリアや韓国など10カ国以上が参加し,人員約2万人と
艦艇約30隻,航空機も100機以上が集まる大規模なもの.海上自衛隊は
リムパックの常連ですが,陸上自衛隊が参加したのは初めてでした.
軍事交流の一環で中国海軍も参加したので,陸上自衛隊と海兵隊の
連携を見せるという狙いもあったと思われます.

このほか,9月8日から25日までは米国ワシントン州ヤキマ演習場で
第10師団第33普通科連隊基幹(第10特科連隊,第10戦車大隊,第5対戦車
ヘリコプター隊など)の約300名が米陸軍約350名と実動訓練を行なっています.
国内ではちょうど今月,第14旅団第50普通科連隊基幹が米海兵隊と
饗庭野演習場および日本原演習場で,第6師団第44普通科連隊基幹の
約1280名が米陸軍約430名と王城寺原演習場および大和駐屯地で
実動訓練を行なっています.

次回は弾道ミサイルへの対処,サイバー空間における対応,人事教育に
対する施策についてです.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.9.10




陸軍機 vs 海軍機(51)       清水政彦

「零戦と隼(50)」
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「零戦vs隼」の第50回.
今回は,西部ニューギニアからマリアナ諸島に至る
「絶対国防圏」の崩壊と,その影にあった空母機動部隊
の猛威についてです.

▼ 間に合わなかった基地整備

 すでに述べたとおり,大本営は昭和18年の秋に
東部ニューギニア作戦の基本方針を「持久」に転換した.
大本営の計画では,その後約1年をかけて東部ニューギニア
をゆっくり後退しながら時間を稼ぎ,
その間に西部ニューギニアの「絶対国防圏」に縦深陣地
を構築するとともに大規模な航空戦力を蓄積し,
機を見て反撃に転じる「はず」であった.

 しかし,現実には,そのわずか半年後の昭和19年4月には,
連合軍は中部ニューギニアのホランジアまで迫っていた.
連合軍の「飛び石作戦」はきわめて迅速で,
日本側に防備の暇を与えなかったのである.

「絶対国防圏」となるべき西部ニューギニアの「亀の頭」地区
およびインドネシア東部の島嶼部(「豪北」)には,
新たに100カ所あまりの飛行場が建設され,「航空要塞」と
なるはずだった.しかし,連合軍の上陸が目前に迫った
昭和19年4月の時点で,最前線の「亀の頭」地区で飛行部隊
が展開できる飛行場は,わずか数カ所にすぎなかった.
それ以外の飛行場は作業が遅れており,依然工事中なのである.
すでに使用されている飛行場も,何とか滑走路だけが
概成しているにすぎず,滑走路以外の設備については無に等しかった.

▼ 繰り返される悪循環

 決戦場となる西部ニューギニアと豪北地区に「航空要塞」を
建設するため,陸軍は昭和18年末から,これらの地域に
大規模な飛行場設定部隊を投入していた.

 これらの部隊には,ようやく国産化されたばかりのブルドーザー
などの土工機械を装備した虎の子の「機械化設定隊」が多数
含まれており,その規模は陸軍が動員可能な戦力のほぼ全力であった.

「絶対国防圏」を形成する最前線の基地建設が優先されたため,
後背地となるフィリピン方面の飛行場は整備が遅れていた.
このことは,もし西部ニューギニアの防衛線が崩壊すれば,
その後は敵を食い止める足がかりがないことを意味している.

 そして,虎の子の機会化設定隊を多数投入して建設した
西部ニューギニアの飛行場群は,その完成前に連合軍の進攻
を受けてしまう.

▼ 空母機動部隊の猛威

 昭和19年の中頃になると,日本陸海軍の飛行部隊は,
連合軍の陸上航空戦力との戦いだけでなく,米空母の艦上機
による「機動空襲」にも備えなければならなくなった.
そしてこの「機動空襲」は,従来までの陸上機の空襲とは次元
の違う威力を持っていた.

 米空母は,目標地点に対して夜間に高速で接近し,
明け方に空襲部隊を発艦させる奇襲戦術をとることが多かった.
空襲部隊はレーダーを避けて水平線下を超低空で接近し,
十分に接近すると急上昇して飛行場に殺到する.

 仮に機動部隊が25ノットの速力で12時間進むとすると,
空母の位置は一晩で300浬(約560km)も移動する.
艦上機の進出距離を考えると,夕方の時点ではるか1000kmの
海上にいたはずの空母が,翌朝には我が方の飛行場を猛爆
しているということになる.

 1000km以上という遠距離では,海上を機動する艦隊を
確実に発見することはほぼ不可能であるし,仮に発見しても
夜のうちに見失ってしまう.海上には監視ポストもレーダーサイトもない.
そもそも敵空母がどの方角から来るか分からないから,
海上に孤立した飛行場では,機動空襲に対する早期警戒網を
形成することは不可能である.

 いつ何時現れるか分からない敵を陸上で待つ側はきわめて
不利な立場で,容易に奇襲を受けてしまう.陸上基地の航空隊は,
機動空襲に気づいてから戦闘機を緊急発進させようとしても
間に合わず,地上や低空で捕捉されて壊滅的な損害を受けることになる.

 しかも,空母の飛行機搭載力は巨大なものだ.小型の改造空母
でも30〜40機は積めるし,大型の正規空母なら100機近くを運用できる.
1つの任務部隊だけで,搭載されている艦上機の数は200〜300機
は下らない.したがって,機動空襲の場合は100機,200機という数
の敵機が一度に,かつ奇襲的に押し寄せてくる.

 他方,1つの陸上飛行場に収容できる戦闘機はせいぜい
1個戦隊(30機前後)か,多くても1個飛行団(60機前後)である.
多数の滑走路を有機的に集積した「飛行場群」ないし「航空要塞」
を形成していない限り,陸上の飛行隊は態勢的にも数的にも,
機動空襲に対してはまったく対抗不能なのである.

 そして,本格的な「航空要塞」を建設にするには,
どんなに急いでも半年かかる.こうした基地群を500km前方に
推進しようとすれば,1カ所あたり数カ月の時間と数万人の
陸上部隊が必要になり,関連諸部隊に補給する膨大な物資
の輸送が要求される.

 一方,機動部隊は300機の搭載機を抱えて半日で500kmを移動し,
かつ自らは奇襲を受けない.必要な燃料・弾薬・食糧は母艦の
腹の中に納まっており,1カ月くらいなら自由に動き回って
好きなだけ敵を奇襲できる.

 その機動力は圧倒的であり,兵力を奇襲的に集中運用できる利点
は陸上基地では真似ができないものだ.航空機の運用プラットフォーム
として,空母は圧倒的に有利なのである.

▼ 「絶対国防圏」に侵入する連合軍

 連合軍はホランジアを攻略した直後の昭和19年5月,
間をおかずに西部ニューギニアの「サルミ」および「ビアク」地区
を攻撃した.防衛線の構築が間に合っていなかったため,
陸海軍の航空部隊は見るべき抵抗もできぬまま短期間で壊滅した.
その後,西部ニューギニアはあっさり占領され,豪北地区は孤立
して戦略価値を失うことになる.

 さらに6月,米艦隊がマリアナ沖に現れ,マリアナ諸島の
海軍飛行場に対して「機動空襲」を連打した.一連の空襲により,
反撃戦力として育成されつつあった海軍の基地航空部隊はほぼ
全滅してしまう.

 これに対し海軍は「あ号作戦」を発動,空母8隻を基幹とする
機動部隊をマリアナ沖に出撃させて米艦隊に決戦を挑むが,
結果は一方的な敗北に終わった.有名な「マリアナ沖海戦」である.

▼ 性能以前の問題だったマリアナの大敗

 マリアナ沖での敗北についてはさまざまな論評があるが,
そもそも数的に半分以下の戦力で正面から勝負したのだから,
初めから勝てる要素はあまりなかったというしかない.

 また,ニューギニア戦線と同様,マリアナ沖での戦いも飛行機
の性能やパイロットの技量以外の部分で決まった要素が大きい.
日本側の損害のうち,空襲で沈んだのは改造空母「飛鷹」のみで,
正規空母「大鳳」(旗艦)と「翔鶴」は空襲を受ける前の段階で
潜水艦に撃沈されているのである.

 両艦とも飛行機の発進・収容中(風に立って直進する危険な瞬間)
に被雷していることを考えると,やはり対潜哨戒がおろそかだったの
だろう.マリアナ沖での海軍の最大の失敗は,敵艦隊の攻撃に
気を取られて対潜哨戒を怠ったことなのである.

 飛行機の空中喪失にしても,発進した攻撃機が敵艦隊を発見できず,
燃料切れのため母艦に帰らず陸上基地に着陸しようとしたところ,
そこで空襲を受けてなす術なく撃墜されたというパターンが多い.
偵察機のコンパスが狂っていたことや,陸上基地の防空能力が
低いことに根本的な原因があろう.

 敵艦隊に接近した攻撃機が全滅したのも,何らの欺瞞手段を
とらないまま中高度を大編隊で進撃したことが主たる敗因である.
敵艦隊のはるか手前,水平線しか見えていない状況で,
巡航状態のまま多数の戦闘機に奇襲されては手も足も出ない.

 護衛の零戦は3個中隊(48機)がいたが,F6Fに上空後方から
奇襲された時,いずれも増槽を吊ったまま巡航編隊で飛んでおり,
不利な態勢から連続攻撃を受けて何もできないまま散り散りになったようだ.

 要するに,当時の海軍には「航空戦の勝敗は早期警戒と誘導の
成否で決まる」という認識が足りなかった.仮に,少数機の編隊に
よる同時多発的侵入,チャフの散布,超低空飛行,囮の利用など,
CAPの迎撃網を攪乱する工夫を行なっていれば,戦いの経過は
ずいぶん違うものになっていただろう.

▼ 絶対国防圏の崩壊と無防備のフィリピン

 いずれにせよ,マリアナ決戦の敗北により太平洋の大勢は決した.
間もなく米軍はマリアナ諸島を占領し,「絶対国防圏」はあっけなく崩壊する.

 連合軍の次なる攻略目標がフィリピンであることは明白だが,
「絶対国防圏」の構築に人的・物的資源の大部分を注ぎ込んでしまった結果,
昭和19年の夏になっても,フィリピンにおける航空作戦の基盤整備
はまったく進んでいないのだった.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.9.9




荒木 肇
『動員のコスト(12)──日本陸軍の動員(12)
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□はじめに

 新しい護衛艦「かが」についていろいろなご感想
などありがとうございました.中でもK様がおっしゃるように
自衛艦の艦艇名がなぜ「ひらがな」表記なのだろう
という疑問,わたしも持っておりました.

 海上自衛隊が発足したのはご存じのように1954(昭和29)年
のことですが,そのとき防衛庁の訓令で
『船舶の区分等及び名称等を付与する標準』が定められました.
あわせて艦艇名の標記は「ひらがな」にすることになっています.
それはおそらく,やはり帝国海軍とは異なる組織だと示す,
主として国内向けへの配慮だと思われます.
陸上自衛隊も「軍」や「戦」も使えなかったために,
戦車を特車といい,軍曹ではなく陸曹に等級をつける,
師団ではなく管区隊など苦心の命名のあとがみえます.

 いろいろあたってみましたが,
これといった確証もないままに同じような事情があったのでは
と思います.おそらく創立当時の事情を書き残した文書には
検討した経緯が書かれているのではと想像しているところです.

 他に命名基準ですが,ついでに書いてみます.
護衛艦(DD)は天象・気象・山岳・地方名,DEは河川名
とされています.Dは米海軍にならって水上戦闘艦,昔は駆逐艦
といわれた艦種です.
この艦種記号が採用されたのは1956(昭和31)年8月のことでした.
貸与された艦にこのようなDDやDEという記号がついていたからです.
貸与駆逐艦と新造された甲型警備艦にはDD,
貸与護衛駆逐艦,丁型駆逐艦,乙型警備艦にはDEを付けることにしました.
丁型駆逐艦とは帝国海軍の2等駆逐艦のことでした.
同じ記号の艦が複数ある場合は,番号を付けるようになったのもこの時からです.

 山岳名は日本海軍では「金剛」,「榛名」などの巡洋戦艦に使われ,
地方名は昔でいえば旧国名になります.戦艦「伊勢」,「日向」などは
その典型でしょう.同じタイプのフネはペアになり,
「陸奥」と「長門」のように本州の北端と南端に位置する両国でした.
また,「大和」と「武蔵」は帝国の美称と帝(みかど)のおわす国名であり,
「扶桑(日本の美称)」と「山城(京都)」も同じと考えられます.
 
 昔の海軍のように戦艦,巡洋戦艦,巡洋艦,駆逐艦といった
区分をしないために護衛艦はみな一様に護衛艦です.
ただ興味深いことに,国内向けと国外向けの使い分けがここにもあります.
それは軍艦の略称です.英国軍艦は今も「Her Majestic’s Ship」を冠し,
直訳すれば,「女王陛下の軍艦」になり,米国軍艦は「U.S.Ship」,
わが海自艦は国内向けには「Defense Ship」ですが,
外国では「Japan Ship」の略称を使っています.
要するに,対外関係が主として活躍する「海軍」にとって,
国内向けの言葉の使い分けは無駄だということです.
 
 また,懐かしいことをK様のおかげで思い出しました.
海自護衛艦はある時期まで番号だけでなく,艦名をひらがなで
舷側に記していました.昔の海軍の駆逐艦が「カゲラフ(陽炎)」
のように舷側にその名を書いていたように,「あきづき」などと書かれていました.
 
 もう一つ,艦内には必ず神社が祀られています.その標記は漢字です.
イージス護衛艦「あたご」には「愛宕神社」が鎮座しておられます.
神様まで平仮名にはできません(笑).
 
 さて,今回は前回の「最後の幹部養成制度」,陸軍特別甲種幹部候補生,
特別幹部候補生制度を詳しく語る前に,海軍の予備員を説明しておきます.

▼海軍予備員幹部養成の流れ

 陸海軍のさまざまな人的制度を見ていくと,両方の施策がまったく
無関係にできていないことが分かる.限られた人的資産を公平
に分けて行く,この考え方があった.それは将来の生産力や,
ひいては総合的な国力に大きく関わるからである.

 戦争が拡大するにつれて,もっとも必要とされたのは
陸海軍ともに士官と下士官だった.とりわけ高等教育を受けた若者
を士官予備員にすることが緊急の課題である.
すでに日露戦争では下級幹部の損耗があまりに多く,奉天会戦が
終わった後には,もう各部隊に将校がまったく足りないという事態になった.
当時は一年志願兵といわれた中等教育以上を終えた若者たちが
各部隊で教育を受けた中尉,少尉といった階級の人たちである.

 陸軍は前にも書いたように1927(昭和2)年の兵役法の施行
からさまざまに幹部候補生制度を手直ししてきた.では,海軍の
予備員はどうだったのだろうか.
在郷軍人名簿に載る海軍下士官兵の場合は志願兵,徴兵の経験者である.
では,士官はどうなっていたのだろうか.それは予備士官,予備下士官
という制度があった.

 ただし,この人たちは予備役士官・同下士官とは異なっている.
海軍は戦時になっても急に艦艇が増えるわけではなかった.
だから明治の時代から,商船士官を有事には召集すればそれで
足りるという認識でいたようだ.民間船関係者を予備士官にするのは
イギリスの方式を真似たものだった.

 1884(明治17)年には東京商船学校(後の東京商船高専,
同商船大学,現・海洋大学の前身)の卒業者は海軍予備士官に
志願できるとした.兵役義務をこれで代えようとした人もいた.
本格的になったのは日露戦争中の1904(明治37)年7月の
『海軍予備員条例』が出されてからである.それまでも船長や機関士
などの海技免状をもつ者は学校を出ていなくても予備士官になれたが,
逓信省(郵政省)管轄の東京高等商船学校の卒業者は全員が
海軍予備士官になるようにされた.

 1919(大正8)年になると,海軍も本格的な予備士官養成
に乗り出した.『海軍予備員令』が出され,予備少尉への任官条件
が厳しくなった.教育を受ける期間が長くなり,中身も増えてくる.
航海科の生徒は海軍砲術学校で,機関科生徒は海軍工廠で
それぞれ6カ月の教育訓練を受けて,採用試験を受験することになった.
取得する身分は海軍予備生徒といわれた.

 1920(大正9)年に発足した神戸高等商船学校も,
14年には東京と一緒に文部省の管轄下におかれ(それまでは逓信省),
両校が海軍予備少尉,同機関科少尉の供給源になった.
大正時代の世界大戦を契機に我が国の海運は大きく発展し,
多数の乗り組み士官を必要とした.両校の卒業生で予備少尉候補生
に採用される者は毎年100名を超えて,正規士官である兵学校,機関学校
の卒業生の半数以上になった.

 大正8年の制度改正では,「高等」がつかない中等学校にあたる
各地の甲種商船学校の卒業生も予備下士官に志願できるようになる.
主に西日本にあった鳥羽,弓削,大島,鹿児島などにあった一般海員
の養成学校である.この学校の在学生で海軍予備練習生に採用に
なった者は,海兵団で3カ月の教育を受けて,予備1等兵曹,同機関兵曹
に任官した.1曹といえば陸軍では曹長の階級であり,なかなかの優遇
だといえよう.これまでは3等下士官だったのだから一気に2階級も上位にしたのである.

 さらに進んで1937(昭和12)年には水産講習所(農林省の管轄で
後に東京水産大学になる.現・東京海洋大学)遠洋漁業科の卒業生も
予備少尉になった.

▼航空予備員の制度

 陸海軍の航空への取り組みの早さはどこを観点にしていけばいいか難しい.
まず,陸軍は1919(大正8)年にはフランスからフォール大佐一行を招いた.
対して海軍は2年遅れてイギリスからセンピル大佐以下を招いたが,
すでに世界最初の航空母艦「鳳翔(ほうしょう)」が進水していた.
当時,英海軍でも商船を改造した空母はあったが,日本海軍は早くも
専用空母を設計,建造していたのだ.

 人事制度の面でも海軍が早かった.もともと志願制が主体だから,
制度上のいろいろな調整の負担は陸軍より少なかったといえる.
1923(大正12)年には航空予備下士官の制度が始まった.
志願する航空免許所有者を集めて航空隊や空母で3カ月間の勤務を
させて,航空予備2等もしくは同3等兵曹にしたものだ.
同時に海軍は逓信省から委託を受けて郵便機のパイロット養成を
年間数名受け入れていたが,このうちから航空予備下士官を育てる
ことにする.これが1930(昭和5)年から航空予備練習生という制度に発展した.

 現役航空下士官を養成する予科練習生もこれと同時に発足する.
陸軍が同じねらいをもった少年航空兵を始めるのは昭和9年だから,
これも陸軍が遅れたといえる.
 
 海軍はさらに航空予備士官を育てる必要を認め,
1933(昭和8)年には高等商船出身の予備少尉,予備機関少尉を集めた.
操縦員25名,整備10名の予定だったが,半年間の教育を行なうも
実際には半数にもならない結果だった.適性のある人は案外少なかった
のと,ふるいの目が細かく,厳しい成績評価のおかげだろう.
それにすでに商船士官として身分がある人たちである.危険な飛行機乗り
に進んでなる人も少なかったに違いない.
 
 そこで航空予備士官の養成は商船士官からではなく,大学・高専の
卒業生から募集する制度を立ち上げた.選抜に合格すると,基礎教育
2カ月を終えて10カ月の専門教育を受けると予備少尉に任官した.
第一期生は6名である.この制度の特徴は必ずしも操縦経験や免許状
を要しないことだった.海軍予備士官になるには長い間の海上経験や
海に関する知識が必要だったのに,航空に関してそれは不要とされた
のである.これは大きな転換点だった.
 
 また,航空予備下士官の制度も,当然,それに連動する.
商船学校卒業生ではない一般の中学出身者を集めた.この予備練習生
の教育期間は1年であり,予備航空下士官になれた.現役の予科練習生
と異なり,わずかな期間で任官させた.このように海軍は航空勢力を維持,
発展させるために予備員養成に励んでいた.

▼陸軍の予備員養成

 陸軍は1925(大正14)年には航空兵科を独立させた.それまでの
各兵科からの寄せ集めだった航空部隊の人たちは操縦,偵察,整備の
人たちもみな同じ空色の襟章を付けることになった.航空部隊増設の
努力もし,1930(昭和5)年には26個中隊,約400機の勢力をもっていた.
5年後の1935(昭和10)年には54個中隊に増やし,
さらに平時85個中隊,戦時170個中隊を整備目標にして努力中だった.

 この平時85個中隊に必要な現役将校の数は955名,下士官はほぼ同数.
さらに予備員としての将校・下士官数は477名と企画されていた.

 陸軍はこれまで予備役航空将校は幹部候補生から採用していた.
それが海軍と同じように操縦候補生というコースをつくったのは,
海軍が航空予備学生の養成を始めた翌年1935(昭和10)年
のことである.ただし,こちらは飛行士として操縦免許状をすでに
持っている者,日本航空学生連盟や民間飛行学校などで操縦訓練
を受け,陸軍の飛行検定を受け合格した者という制限があった.

 このコースで飛行聯隊に入営すると,一等兵の階級から
始まることになった.一般の幹部候補生が2等兵から内務班生活
をすることから見れば優遇である.埼玉県所沢の陸軍飛行学校に
聯隊から派遣され,9カ月の操縦を中心にした訓練を受けた.
卒業して帰隊し,3カ月の見習士官を経て陸軍航空兵少尉になり,
予備役編入となった.成績その他の事情で将校になれなかった者
は下士官操縦予備員になる.

 ただし実際に採用された者は1937(昭和12)年度の入営,
甲種幹部候補生出身の操縦コース専従者と合わせても10名
にすぎなかった.ところが,翌年にはこれが80名の採用となる.
支那事変の動員のおかげである.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.9.9




陸軍機 vs 海軍機(52)       清水政彦

「零戦と隼(51)」
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「零戦vs隼」の第51回.
今回は,フィリピン航空戦の過程で生まれた「特攻」とその背景についてです.

▼ 準備なき比島決戦

 前述のとおり,マリアナ決戦の敗北によって「絶対国防圏」が
崩壊した時点で,次なる決戦場であるフィリピン方面の戦備
はほとんど着手されていなかった.

 フィリピンにおける航空作戦の唯一の基盤は,戦前に米軍が
整備した「クラーク・フィールド」を中心とする航空基地群であった.
昭和19年夏の時点で,ルソン島南部からセブ島,レイテ島
にかけての一帯には10カ所ほどの飛行場が使用可能だったが,
これらの基地は昭和17年に占領した当時のままの状態で放置
されており,戦時に相応しい防護設備を持たない,
いわば「平時態勢の基地」に過ぎなかった.

 大本営は急遽,フィリピンに大規模な「航空要塞」を建設する
ことを目指したが,頼みの「機械化設定隊」の多くはすでに
西部ニューギニアと豪北方面に投入されており,制海権の喪失
によりその撤退は不可能な状況である.

 結局,泥縄式に行なわれた「航空要塞」の建設は,
またしても米軍の進攻速度に追いつけなかった.
日本陸海軍の航空隊は,ここでも不十分な作戦基盤の制約を
受けながら,苦しい戦いを強いられる.

▼ 「特攻」の始まり

 昭和19年10月下旬,連合軍はフィリピン中部のレイテ島に
上陸した.レイテ島は中部フィリピン群島の一番東側にある
大きな島で,そこには複雑な地形に護られた広大な泊地と,
クラーク航空基地群の一角をなす飛行場があった.

 上陸に先立ち,米空母機動部隊は制空権獲得のため
フィリピンと台湾の航空基地に対して機動空襲を反復した.
同方面に集結して戦力整備中だった日本の航空部隊は,
準備不足の中で圧倒的多数の艦上機から集中攻撃を受け,
ほぼ全滅してしまう.

 6月のマリアナ決戦で大損害を受けていた日本海軍の
空母機動部隊は,この時すでに米空母に対抗する実力を失っており,
レイテ戦では単なる囮として活動するしかなかった.

 連合艦隊はこれまで温存していた戦艦と巡洋艦のすべてを
投入してレイテ泊地への突入を図ったが,米空母機の空襲と
水上艦隊に阻止された.

 この過程で,戦力の大部分を失った海軍航空部隊は,
戦艦部隊のレイテ湾突入作戦を支援する目的で,零戦に250キロ爆弾
を搭載して空母への体当たりを行なう「特別攻撃」を初めて実施した.
6機の特攻隊は初陣でタンカーを改造した護衛空母1隻を撃沈し,
さらに同型の護衛空母3隻を撃破した.一見すると「成功」に見える
この戦果が,その後の航空作戦に大きな影響をもたらすことになる.

▼ 「特攻」の拡大とその背景

「特攻」は,その名の通り,主力戦艦部隊がレイテ湾に突入
する時間を稼ぐための一時的な戦術であり,あくまで「特別」な
攻撃であるはずだった.

 しかし,航空作戦の基盤を欠き,米機動部隊の空襲に対して
まったく打つ手を持たなかった陸軍航空部隊は,たった6機の
戦闘機で空母4隻を撃沈破したという海軍の「特別攻撃隊」の
戦果に注目し,海軍に追随する形で「特攻」を拡大させていった.

 このとき,「統帥の外道」と言われる特攻が急速に拡大していく
背景として,軍の組織全体の中で航空部隊の置かれた立ち位置
が特殊であったことは無視できない要素である.

 航空部隊はほかの兵科よりも人事面や給養面でかなり優遇
されているうえ,極めて貴重な飛行機を地上で破壊されては
撤退するという失態を繰り返したため,航空作戦に振り回される
地上兵団との間に感情的なしこりがあった.

 文字通り地べたを這いずり回って苦闘している陸上部隊からすると,
航空部隊は巨大な予算を使ってふだんから贅沢な生活をしていながら,
肝心な時にはほとんど役に立たず,飛行機を失うと自分たちを捨てて
後方に逃げてしまう卑怯な奴らだ…という風に見えたからだ.

 航空戦力が地上で壊滅しても,パイロットや司令部は輸送機
で後方に撤退できる.しかし,航空部隊のために飛行場や関連施設
を建設し,整備し,補給物資を運び,防衛する地上部隊は,
ひとたび制空権を失ってしまうと撤退が不可能であり,残された道は
玉砕か餓死・病死のみなのである.

 補給を絶たれた絶望的な戦場で死闘を続ける陸上部隊がいる以上,
比較的「守られ,優遇された立場」である航空部隊としては,
飛行機がないからといって彼らを見捨てて撤退するわけにはいかない……
「特攻」が拡大していく背景には,こうした軍内部での「政治的配慮」
ないし「大人の事情」の要素が少なからず作用しているように思われる.

▼ 対艦攻撃力を持たない陸軍機が「特攻」する訳

 レイテ島で激戦が行なわれていた昭和19年末の時点で,
敵の航空基地に対する伝統的な「航空撃滅戦」や,友軍地上部隊
への直接的支援は重要性が低下していた.

 なぜなら,この時期には,縦横無尽に暴れまわる空母機動部隊を
撃破しない限り,およそ制空権の奪還は不可能であることが明確に
認識されていた.制空権を奪還しなければ輸送船の攻撃ができず,
輸送船を攻撃できなければ,敵は無尽蔵の兵力と物資を戦場に
送り込んでくるのだ.死闘を続ける地上部隊が航空部隊に望むことは,
何よりも敵空母と輸送船を撃破し,敵の地上部隊に対する増援と補給
を止めることであった.

 しかし,陸軍には対艦用の徹甲爆弾も魚雷もなく,
飛行機はこれらを運用する前提で作られていない.
パイロットの教育も,対艦攻撃が考慮されるようになったのは直近のことである.

 つまり陸軍航空隊は,ハード的にもソフト的にも,
有効な対艦攻撃手段を持たないなかで,突然に「敵空母の撃破」
という至上命題を与えられた.そこに登場した新戦術が「特攻」であり,
陸軍中央はなりふり構わずにこれに賭けたのである.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.9.16




荒木 肇
『動員のコスト(13)──日本陸軍の動員(13)
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□はじめに

 豪雨災害に遭われた方々に心よりお見舞いを申し上げます.
それにしても思ってもいなかった事がいつも起きているのが
近頃です.天災は忘れたころにやってくると言われます.
備えをと言われても,手の施しようもないというのが実感です.
重ねてお見舞いを申し上げるしかありません.

 さて,不十分なお答えにもかかわらず,K様重ねてのお便り
ありがとうございました.海軍や海上自衛隊については素人ですが,
お役に立てて嬉しかったです.これからも何かありましたら,
これに懲りずにお便りをいただければ有り難く思います.

 さて,安保関連法案,いよいよ大詰めを迎えてきたようです.
テレビや新聞の論調を見る限り,賛成の方の声が聞こえず,
ひたすら反対の方々の意見が多い.まるで国民のほとんどが
安倍政権を呪い,先日の国会周辺のデモについての報道でも
自民・公明の与党は力を失っているようにみえます.

 「60年安保」を思い出させるという論者もおられ,
政権を倒すのが国民の声だと興奮している方々もいるようです.
しかし,ほんとうのところは当時の岸首相も言われたように,
『声なき声が聞こえる』ということではありませんか.
「戦争の準備をしている」のは軍備を増強し,パレードを行ない,
韓国の大統領や国際的な犯罪者を招き,威嚇的な行動をとっている
中国ではないでしょうか.デモをかけるべきは相手側でしょう.

 また,テレビに登場したある女子大生は,『就職先がなく,
私の周りには自衛隊員にでもなろうかと言う人もいっぱいいます』
などと語りました.いったいどこの大学生だろうと一瞬,
目と耳を疑ったものです.事情を知っている人間には常識ですが,
大卒の一般幹部候補生の応募状況は昔も変わらず大難関であり,
曹候補生も大変な倍率です.一般2士といわれる自衛官候補生
の採用も4倍以上と聞いています.何より,勉強もするお金がない
から自衛官なんかになってしまうという上から目線の言い方には
驚きました.

 誰か,若い人を騙す大人がいるのです.
限られた情報しか流さず,しかもそれが間違っている.
それによって「洗脳」してデモをやらせ,発言させ,自分のメシの
タネにする.そういった人々がいることが本当の問題でありましょう.

 さて,戦争は経済行為です.人・もの・金を用意する.
それが戦争準備です.今回も戦時中の人の集め方をご紹介します.

▼海軍と陸軍の募集争い

 陸軍のネックは現役配属将校制度に保障された学校教練だった.
教練には検定があって,教育に当たる将校には評価権があった.
この検定を通っているかいないか,さらには合格していても将校
の目にかなって「将校適」,あるいは「下士官適」の推薦をもらって
いるかが入隊して幹部候補生になれるかどうかの分かれ目だった.

 この配属将校制度についても多くの戦後の誤伝や意図的な
歪められ方がある.それは現役将校が不足するにつれ,
予備役,後備役の将校たちが配属されるようになったことにも
原因の一つがあると思う.

 前にも書いたように現役将校には動員計画に基づいた戦時補職
があった.派遣元であった部隊が動員されると将校たちは続々と
補職に戻った.貴重な現役将校を学校に張りつけておく余裕が
なくなった.そこで陸軍は特別志願士官という制度を考え出した.
予備,後備の将校でも志願し,選考に通れば,制度上現役将校
しか就けないポストに補職される仕組みである.
この特別志願士官制度はのちに志願将校に拡大された.
士官とは尉官のことであり,将校にすれば佐官も含まれる.
中学には少佐,大尉が配属されることになっていたから
予・後備役少・中佐クラスでも任用できるようにしたわけである.

 おかげで,若くして予備役に編入されたり,准尉(特務曹長)から
少尉候補者(士官学校学生)を経ないで少尉になったりした人たち
も配属将校になった.制度発足時の最精鋭が選ばれた時代とは
違って,将校たちのレベルも下がってきてしまった.
地域の有力者に取り込まれて特定の生徒たちに手加減を加えたりもした.
人格的にも中学生などに軽く見られた人も増えた.生徒に反抗
されたり,生徒が教練に不熱心であったりすると体罰などで対応
した人も増えたのは当然だっただろう.

 しかし,この教練修了証制度そのものは,必任義務の徴兵制度下
の学校教育と連動したシステムであった.学歴所有者(中等学校
卒以上)にはさまざまな特典があった時代である.公平な運用が
求められるし,不公平感があってはならない.かたや小学校しか
出ていない若者が兵役に服し,さらには野戦で苦労をしている.
それを授業の一環であるのに真面目に学習しない.
それでもいざとなったら幹部候補生に誰でもなれるとあっては,
世間の目も許すものではなかった.学生に対する眼差しは,
特に戦時になれば厳しかったのである.
 
 アメリカでは1926(大正15)年から一般大学の学生に予備士官
教育を施して合格した者には,卒業と同時に予備少尉にする制度
を始めた.のちのニミッツ大将も当時カリフォルニア大学でこの課程
の実施者となっていた.この動きは当然,わが海軍当局者も承知
していたという.1941(昭和16)年,海軍省人事局にいた
大井篤中佐は海軍兵科予備学生の企画者の一人である.
大井中佐には留学時の見聞があった.回顧を聞いてみよう.
 
「第5次軍備増強計画によれば,日本は広大な太平洋正面の
無数の島々を,すべて海軍兵力で守備することになっていた.
それらの諸島配備の陸戦隊に配属する将校要員は莫大なもの
になるだろうが,しかもこれらの将校には航海や操艦の知識は
必要ではない.とすればこの際,一般大学出身者の中から優秀
な人材を採用してみたら有効ではないだろうか」
 
 このとき海軍の人事担当者の頭の中には,当然,陸軍予備士官学校
などの諸施策との対抗心が働いたことだろう.募集ソースが一緒で
あることから当然,人の奪い合いになる.この回顧に明らかなように,
兵科予備学生はもともと増大が予想される陸戦隊の初級将校をつくる
制度だった.
 
「陸船頭(おかせんどう)」と罵られることが最大の侮辱だった
海軍兵学校出身の正規士官.彼らは中学校卒業後に兵学校に入校し,
4年間でカッターの操船から始めて機動艇に慣れ,遠洋航海で練習艦
の艦橋に立ち,操艦能力を養ってきた.それに比べて陸戦隊の指揮官
を養成するのはさほど時間と手間がかかることではなかった.
 
 もちろん,兵学校の生徒も増やされた.1933(昭和8)年の64期生
は170名と増えた(それまでは毎年130名程度).翌年は200名(65期),
その次の66期,続いて67期は240名.急いで現場に送り込まれた
卒業生への施策は人員増だけではなかった.修学期間の短縮である.
66期は半年,67,68期は8カ月も短くされた.さらには翌年,
1938(昭和13)年入校の69期は354名の大量採用となり,在校期間
も3年間になった.新入生の哀歓を描いた『海兵4号生徒』という映画
があったが,これ以後は最低学年が3号生徒になったのである.
 
 この兵学校生徒の増えた分は多くが飛行科へ進んだことによる.
陸軍にはすでに士官学校予科を終えて進む航空兵だけの士官学校本科
があった(1937年から).ちなみにこの年,陸軍予科士官学校入校者
は1700名に達していた.対して海軍は最後まで飛行科将校養成の
専門学校はもたなかった.その代わり,予備員である学卒者の予備学生
の中から飛行科要員も採用することになってしまったのである.
 
 陸軍航空隊はノモンハン事件で多くの航空科将校を失った.そのため,
航空科将兵,とりわけ操縦者の損耗については深刻な反省をもっていた
のである.ここで陸海軍用語の違いにもふれておこう.陸軍は空中勤務者
といい,海軍は搭乗員という.陸軍パイロットは操縦者であり,海軍は
同じく操縦員という.
 
 兵科予備学生制度が設けられるまでには様々な陸海軍の制度の
調整が必要だった.まず,採用時の階級の問題があった.
兵科予備学生を短期現役軍医官や同主計官と同様に,大卒なら
予備学生課程を終えれば中尉で任用するということだ.これは海軍
からすれば陸軍は幹部候補生なら中卒でも少尉にしているではないか.
ならば,海軍は大卒と高専卒を採用するから中尉でよかろうという理屈
である.
 
 同じ大学の法学部出身者が,かたや主計中尉,その選抜に洩れた
同級生が泥まみれの陸戦隊少尉ではあまりに差がつき過ぎる.
ところが,これは陸軍側の猛反対にあった.そんなことをされては
陸軍幹部候補生の志願者が減ってしまうというのだ.それに階級が
一つ違うということは将来にわたって大きな影響がある.勤務時の
給与,待遇ばかりではない.いつか民間に帰る予備士官・将校は
恩給を受け,受勲資格にも大きな違いが出てしまう.同じ兵役に
服するのに不公平は困るというのが陸軍の言い分の基にあった.

▼海軍予備学生制度

 前回にはあらっぽく説明したので,制度について詳しく述べてみる.
1941(昭和16)年10月25日に第1期兵科予備学生の募集について
海軍大臣名で告示があった.
1) 大学令による大学学部卒業者で,1942(昭和17)年4月1日
において年齢26歳未満の者.
2) 大学令による大学の予科,高等学校高等科,専門学校または
これと同等以上の学校卒業者で同じく満年齢24歳未満の者.
 大学予科とは高等学校に準じるもので,私立大学に多く設置されていた.
専門学校には東京・広島の両高等師範学校もある.高等学校高等科
とは尋常科(中学相当4年間)が併設されている高等学校の生徒
である.関東圏では武蔵,成城,成蹊,東京府立,関西では甲南
などに設置された.府立浪速高校も同じ.

 このときの学校数は高等学校32校,専門学校126校,実業専門77校,
大学47校である.在学生の総数は,高等学校2万2000,
専門学校10万3000,実業専門4万2000,大学7万7000である.
なお,ついでに専門学校と実業専門の違いも述べておこう.
それには学校名が手掛かりになる.

 専門学校とは富山・熊本などの薬学(薬剤官になれる),東京・大阪
の両外国語学校,東京美術学校,東京音楽学校,東京高等歯科医学校,
気象技術官養成所などで以上が官立.公立では大阪商科大学高等商業部
などと女子専門学校が多い.私立では大学に併設された専門部,
薬学,宗教,歯科,音楽などが目立っている.

 戦後はどれも一緒に大卒といわれたが,早稲田大学商学部卒業
の学士と同専門部の人とは立場が違っていた.専門部卒業は学士
とは異なるのである.なお,余談だが軍隊の中にも学歴詐称が多く,
とりわけ私大専門部中退はもっとも詐称しやすい学歴だったという.

 これに対して実業専門は同じく,高等教育だが高等工業,同商業,
同農林などである.東京商船や神戸商船,函館高等水産学校,
秋田鉱山,上田蚕糸,東京高等蚕糸,京都同などがある.私立も多く,
東京写真専門,同電機高等工業,日本高等獣医学校,東京同,
麻布獣医学校,そして教員養成学校なども含まれる.

 身体検査と筆記検査は大東亜戦争の開戦があった12月21日から
25日の間に,仙台,東京,名古屋,大阪,福岡で行われた.
合格して採用された者は17年1月に407名が入団した.蝦名賢造氏
によれば横須賀第1海兵団に入ったのは378名であり,そのうちから
第10期飛行専修予備学生になった者が100名だったという.
岩国航空隊に移って行った.また,特信班といわれる通信科に入った者
が100名,気象班に進んだ者10名ほどだったらしい.
その他,兵科学生は陸戦,対空,通信,対潜,施設,教育,心理,技術,
航空兵器の各班に分かれて修業を始めた.海兵団で6カ月の基礎教育
を終えると,それぞれの術科学校に進み18年1月に少尉になった.

 教育班とはどういう兵科予備学生だったのか.彼らは他の仲間が
術科学校へ学生として入校したのに,彼らは予備学生の身分のまま,
海兵団練習部や土浦航空隊,海軍兵学校に「教官」として赴任していった.
彼らは戦争の拡大で不足する文官教官の代わりとして特別年少兵や
予科練習生,兵学校生徒たちに普通学(国語・数学・英語・物理など)
を教えるための要員だった.心理班は航空心理学の研究員になったり,
現場の航空隊で飛行兵の適性検査をしたりしていた.

 なお,服装や身分は『各科少尉候補生に準ず』ということから士官服
である.階級章は兵曹長より太い金筋一本,袖章も蛇の目といわれた
カールはなかったものの黒毛織線が一本だった.
ただ,こうなったのも兵科予備学生の一期からで,航空予備学生時代
は『海軍生徒に準ず』ということから兵学校や機関学校,経理学校の
生徒より身分が下だった.軍帽前章も肩章も襟章もすべて生徒と同じ
立ち錨に羅針儀(コンパス)マークが載っていた.予備員の印である.

 戦争が続き1943(昭和18)年になると,予備学生の採用はもっと増えた.
後半には科別の採用がなくなり,以前の飛行科は飛行(操縦・偵察)と
飛行要務のそれぞれの専修コースに分かれた.飛行要務とは
飛行隊・航空隊の情報収集,分析,整理,管理などにあたる.
本部などで航空図などを用意する姿が戦中映画などに登場する.
整備は航空機と兵器整備に分けられた.

 神宮外苑で学徒出陣と華々しく送られた学徒出陣組は18年12月
に入団すると,まず臨時徴兵検査で役種が決まる.海軍に送られた
学生は1万8000名といわれる.海兵団で徴兵された2等水兵として
扱われた.水兵服を着たわけである.1カ月後に試験を受け,
19年2月に採用されると各専修コースに分けられ,土浦航空隊や
海軍砲術学校などに入隊していった.なお,海軍士官の服装に区別
があったことはあまり知られていない.彼ら予備学生はあくまでも
予備士官の卵だった.

 それは彼らの先輩である1941(昭和16)年9月に大学・高専を
繰り上げ卒業して志願採用された前期の1期生たちも同じである.
彼らの軍帽前章はコンパス・マークであり,襟に着いた階級章もまた
羅針盤のマークだった(現在も海上保安庁の帽前章や階級章,船艇
の煙突に付くマークと同じ).袖についた蛇腹組線といわれた帯も
正規士官とは異なって山形だったのだ.その一部が廃止されたのが
18年7月,帽前章や階級章は正規士官と変わらなくなったが,
袖章のカールだけは敗戦まで変わらなかった.

▼海軍予備生徒
 
 学徒出陣といわれた彼らは兵科予備学生4期生,飛行科では
14期生だったが,同じ時期,なんと「海軍予備生徒」というコースが
スタートした.もともと予備生徒とは伝統ある名称だった.高等商船学校
の在学生のことである.平時ならふつう5年半の学校在学年の間に修業
を積み,海軍予備少尉,同機関少尉に任官する制度だった.
この伝統ある制度の他に予備生徒という身分,課程を立ち上げたのだ.
士官不足への対応だった.
 
 というのも予備学生は卒業を条件にしていた.在学生はどうなるか.
受験資格がなかったのである.陸軍はとにかく中等学校さえ出ていれば
幹部候補生の受験資格はある.そこで海軍は19年1月31日付で
「海軍予備員任用臨時特例ニ依ル海軍予備生徒規則」を公布する.
予備生徒に採用されると1年間の基礎軍事教育を施し,「予備員タル
海軍少尉候補生」を命じて,6カ月以上の実務訓練をし,
「予備員タル海軍少尉」に任用することにした.この少尉候補生を
経験することが,それまでの船乗り予備生徒と違った.予備生徒は
卒業と同時に予備少尉になった.
 
 実際,第一期飛行専修の人たちは予備生徒10カ月,候補生6カ月
で少尉に任官していた.
 
 次回はいよいよ海軍の見習尉官,陸軍の特別操縦見習士官,
特別甲種幹部候補生制度などをまとめて,戦時の動員の実態の一部
を説明しよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.9.16




『ライター・渡邉陽子のコラム (61) ─ 2015年陸海空自衛隊の装備と運用(8) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

台風18号による豪雨被害に遭われたみなさまにお見舞い申し上げます.
現地に派遣され救助,復旧活動をされている自衛隊をはじめとするみなさん,
お疲れ様です.

また,先週末早朝は東京・神奈川周辺で大きな地震がありました.
我が家は震度4でしたが,親族の結婚式のため前日から不在にしていて,
家には猫のみ.帰宅するとものが落ちたり倒れたり,それなりに騒がしい音
が立ったであろう跡があちこちに残っていました.
怖くて鳴き過ぎて気持ち悪くなったのか,猫が吐いた跡も.

今の住まいでは何度か震度4がありましたが,みごとに100%,
ことごとく私が不在のときなのです.
いささか出張も旅行もためらわれる,今日この頃です.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■2015年陸海空自衛隊の装備と運用(8)


2015年度の防衛予算に含まれる新規事業を中心に,
2015年の陸海空自衛隊の装備と運用についてご紹介する第8回目です.
先週は,米国との共同訓練の話でした.今回は弾道ミサイル攻撃
への対応とサイバー空間における対応,そして人事教育に対する施策
についてご案内します.


弾道ミサイル攻撃への対応

昨年,3月に2度,6月に1度,7月に3度と,北朝鮮による弾道ミサイル
の発射が相次ぎました.いずれの弾道ミサイルも約500キロ飛翔し,
日本海上に落下したと推定されています.
そしてまさに今も,10月10日の朝鮮労働党創建70周年に合わせ,
長距離弾道ミサイル発射実験を行う可能性を示唆しています.

防衛省は弾道ミサイル攻撃への対応として,今年は耐用命数を
迎えるPAC-3ミサイルの部品(シーカー部)を交換するとともに,
ミサイル全体の点検を実施し,所要のPAC-3ミサイルを確保するとしています.

また,弾道ミサイル攻撃に併せ,同時並行的にゲリラ・特殊部隊
による攻撃に対応する態勢を整備するため,新除染セットと化学剤検知器(改)
の取得を予定しています.
新除染セットは核・生物・化学(NBC)攻撃などにおける大量の人員
や装備品の汚染等に迅速に対処して,被害の拡散や二次被害等
を最小限にとどめるため,各種の除染能力を強化したものです.

さらに現有多用途ヘリUH-1J(台風18号による常総市での人命救助
でも活躍しました)の後継として,各種事態における空中機動,大規模災害
における人命救助等に使用する新多用途ヘリコプターUHXの開発も
開始されます.

7月17日,開発業者は富士重工業に決定.選定には川崎重工業も参加
していましたが,開発期間や価格面で富士重が優れていると判断されました.
この選択には賛否両論あるようですが,すでに決定したこと.
富士重と米ベル・ヘリコプターが共同開発する民間用ヘリを陸自向けに
改修し,2021年度末から部隊に配備,20年間で計150機を調達する予定です.

UHXはゲリコマ攻撃事態への対応だけでなく,島しょ侵攻事態,
各種事態における空中機動,航空輸送,患者の後送等の戦闘支援,
大規模震災における人命救助,住民の避難,空中消火,航空偵察,
国際平和協力活動等における支援物資空輸等,多用途ヘリだけに
多彩な場面での活用が期待されます.


サイバー空間における対応

昨年3月,日々高度化・複雑化するサイバー攻撃の脅威に適切に
対応するため,統合幕僚監部自衛隊指揮通信システム隊に
サイバー防衛隊が新編されました.

防衛省・自衛隊のネットワークの監視及びサイバー攻撃発生時
の対処を24時間体制で実施するとともに,サイバー攻撃に関する
脅威情報の収集,分析,調査研究等を一元的に行なっています.

今年もサイバー攻撃に対する十分なサイバー・セキュリティを
常時確保できるよう,人材育成を含め,サイバー攻撃対処能力
の検証が可能な実戦的な訓練環境の整備等,所要の態勢整備
を行なっています.

新規事業は,サイバーレンジの構築等に関する独立行政法人
情報通信研究機構(NICT)との研究協力,防御の実効性を高める
ための演習対抗機能の設置に向けたサイバー空間の利用を妨げる
能力に関する調査研究,実践的な学習教材・教育プログラムとしての
シリアス・ゲーム(教育)導入に向けた取り組みなど.
これらによって実戦的なサイバー演習環境を整備します.


人事教育に関する施策

優秀な人材を確保するため,複数の施策が予定されています.
まず自衛官候補生の適性検査の問題を見直し,現代の受験者
に適したより実効性のある検査にします.

また,予備自衛官等協力事業所制度(仮称)による予備自衛官等
の雇用拡大,技術貸費学生の採用枠を拡大し自衛隊における
技術系分野の強化を図るほか,海自が予備自補を導入することで
民間海上輸送力の活用を見込んでいます.

次回は大規模災害などへの対応についてです.


発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.9.17




body


こんにちは.

エンリケです.


IT技術の発展は,IT革命という形でビジネスや通信分野の驚異的な発展を
もたらしたとともに,IT空間を舞台にした犯罪や詐欺,戦争を生み出しました.


いま手元に小さな本があります.

「漫画で学ぶ サイバー犯罪から身を守る30の知恵」
 http://okigunnji.com/url/18/

といいます.


帯にはこうあります

「今さら聞けないネットの基礎知識 ITサバイバル入門
これさえ知っていればネット犯罪は防げる」

正にこの言葉通りの本で,

全158ページ.
漫画も充実しています.

2時間もかからず読める内容です.

30項目の解説は,漫画と,インストールという言葉にすら意味が書かれている
短い文面(各項目数ページ)の2本立てからなされており,
これを読んで分からない人はいません.


それもそのはず
この本は,情報セキュリティサービス会社「ラック」の
総合研究所「サイバー・グリッド・ジャパン」の
サイバー防護専門家が「ネットの基礎知識」から
「サイバー犯罪対処法」まで,初心者向けにわかりやすく
セキュリティ対策をまとめたものです.

編著者代表の伊東寛さん(元一等陸佐[陸軍大佐])は,
陸自初のサイバー戦部隊「システム防護隊」の初代隊長です.


この本で特筆すべきはマンガですね.
書き手は「ブラックプリンセス 魔鬼」の石原ヒロアキさん
(元一等陸佐[陸軍大佐] 元陸自化学防護隊長)です.

絵の雰囲気とギャグが,本の内容とピッタリ合っており,
文章,マンガ,コラムの3者が
絶妙のバランスで配置されてストレスなく読めるのに,
IT技術の解説に関する内容にまったく妥協はない.

それなのに158ページをいう薄さに収まっている.

プロトコルという言葉の意味が分からないあなたが手にとっても,
PCを通じてあなたが直面しているサイバー空間,IT技術の現実
,悪に対する具体的な対処策を余すところなく伝えてくれる.


それがこの本

「漫画で学ぶ サイバー犯罪から身を守る30の知恵」
 http://okigunnji.com/url/18/

です.


目次など詳細はこちらで.
http://okigunnji.com/url/18/

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.9.17




陸軍機 vs 海軍機(52)       清水政彦

「零戦と隼(51)」
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「零戦vs隼」の第51回.
今回は,フィリピン航空戦の過程で生まれた「特攻」とその背景についてです.

▼ 準備なき比島決戦

 前述のとおり,マリアナ決戦の敗北によって「絶対国防圏」が
崩壊した時点で,次なる決戦場であるフィリピン方面の戦備
はほとんど着手されていなかった.

 フィリピンにおける航空作戦の唯一の基盤は,戦前に米軍が
整備した「クラーク・フィールド」を中心とする航空基地群であった.
昭和19年夏の時点で,ルソン島南部からセブ島,レイテ島
にかけての一帯には10カ所ほどの飛行場が使用可能だったが,
これらの基地は昭和17年に占領した当時のままの状態で放置
されており,戦時に相応しい防護設備を持たない,
いわば「平時態勢の基地」に過ぎなかった.

 大本営は急遽,フィリピンに大規模な「航空要塞」を建設する
ことを目指したが,頼みの「機械化設定隊」の多くはすでに
西部ニューギニアと豪北方面に投入されており,制海権の喪失
によりその撤退は不可能な状況である.

 結局,泥縄式に行なわれた「航空要塞」の建設は,
またしても米軍の進攻速度に追いつけなかった.
日本陸海軍の航空隊は,ここでも不十分な作戦基盤の制約を
受けながら,苦しい戦いを強いられる.

▼ 「特攻」の始まり

 昭和19年10月下旬,連合軍はフィリピン中部のレイテ島に
上陸した.レイテ島は中部フィリピン群島の一番東側にある
大きな島で,そこには複雑な地形に護られた広大な泊地と,
クラーク航空基地群の一角をなす飛行場があった.

 上陸に先立ち,米空母機動部隊は制空権獲得のため
フィリピンと台湾の航空基地に対して機動空襲を反復した.
同方面に集結して戦力整備中だった日本の航空部隊は,
準備不足の中で圧倒的多数の艦上機から集中攻撃を受け,
ほぼ全滅してしまう.

 6月のマリアナ決戦で大損害を受けていた日本海軍の
空母機動部隊は,この時すでに米空母に対抗する実力を失っており,
レイテ戦では単なる囮として活動するしかなかった.

 連合艦隊はこれまで温存していた戦艦と巡洋艦のすべてを
投入してレイテ泊地への突入を図ったが,米空母機の空襲と
水上艦隊に阻止された.

 この過程で,戦力の大部分を失った海軍航空部隊は,
戦艦部隊のレイテ湾突入作戦を支援する目的で,零戦に250キロ爆弾
を搭載して空母への体当たりを行なう「特別攻撃」を初めて実施した.
6機の特攻隊は初陣でタンカーを改造した護衛空母1隻を撃沈し,
さらに同型の護衛空母3隻を撃破した.一見すると「成功」に見える
この戦果が,その後の航空作戦に大きな影響をもたらすことになる.

▼ 「特攻」の拡大とその背景

「特攻」は,その名の通り,主力戦艦部隊がレイテ湾に突入
する時間を稼ぐための一時的な戦術であり,あくまで「特別」な
攻撃であるはずだった.

 しかし,航空作戦の基盤を欠き,米機動部隊の空襲に対して
まったく打つ手を持たなかった陸軍航空部隊は,たった6機の
戦闘機で空母4隻を撃沈破したという海軍の「特別攻撃隊」の
戦果に注目し,海軍に追随する形で「特攻」を拡大させていった.

 このとき,「統帥の外道」と言われる特攻が急速に拡大していく
背景として,軍の組織全体の中で航空部隊の置かれた立ち位置
が特殊であったことは無視できない要素である.

 航空部隊はほかの兵科よりも人事面や給養面でかなり優遇
されているうえ,極めて貴重な飛行機を地上で破壊されては
撤退するという失態を繰り返したため,航空作戦に振り回される
地上兵団との間に感情的なしこりがあった.

 文字通り地べたを這いずり回って苦闘している陸上部隊からすると,
航空部隊は巨大な予算を使ってふだんから贅沢な生活をしていながら,
肝心な時にはほとんど役に立たず,飛行機を失うと自分たちを捨てて
後方に逃げてしまう卑怯な奴らだ…という風に見えたからだ.

 航空戦力が地上で壊滅しても,パイロットや司令部は輸送機
で後方に撤退できる.しかし,航空部隊のために飛行場や関連施設
を建設し,整備し,補給物資を運び,防衛する地上部隊は,
ひとたび制空権を失ってしまうと撤退が不可能であり,残された道は
玉砕か餓死・病死のみなのである.

 補給を絶たれた絶望的な戦場で死闘を続ける陸上部隊がいる以上,
比較的「守られ,優遇された立場」である航空部隊としては,
飛行機がないからといって彼らを見捨てて撤退するわけにはいかない……
「特攻」が拡大していく背景には,こうした軍内部での「政治的配慮」
ないし「大人の事情」の要素が少なからず作用しているように思われる.

▼ 対艦攻撃力を持たない陸軍機が「特攻」する訳

 レイテ島で激戦が行なわれていた昭和19年末の時点で,
敵の航空基地に対する伝統的な「航空撃滅戦」や,友軍地上部隊
への直接的支援は重要性が低下していた.

 なぜなら,この時期には,縦横無尽に暴れまわる空母機動部隊を
撃破しない限り,およそ制空権の奪還は不可能であることが明確に
認識されていた.制空権を奪還しなければ輸送船の攻撃ができず,
輸送船を攻撃できなければ,敵は無尽蔵の兵力と物資を戦場に
送り込んでくるのだ.死闘を続ける地上部隊が航空部隊に望むことは,
何よりも敵空母と輸送船を撃破し,敵の地上部隊に対する増援と補給
を止めることであった.

 しかし,陸軍には対艦用の徹甲爆弾も魚雷もなく,
飛行機はこれらを運用する前提で作られていない.
パイロットの教育も,対艦攻撃が考慮されるようになったのは直近のことである.

 つまり陸軍航空隊は,ハード的にもソフト的にも,
有効な対艦攻撃手段を持たないなかで,突然に「敵空母の撃破」
という至上命題を与えられた.そこに登場した新戦術が「特攻」であり,
陸軍中央はなりふり構わずにこれに賭けたのである.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.9.16




◆菊間千乃『私が弁護士になるまで』を読み解く



※要旨


・30代で人生を変える.
アナウンサーという仕事に迷い選択をせまられた私は,
フジテレビを退社.
退路を絶って司法試験に挑戦することを決意する.
ロースクール卒業後,5年以内に3回しかチャンスはない.


・すべての思考力は暗記に始まる.


・どんな理解力があったとしても,
足し算,掛け算ができなければ難しい数式を解けない.
各科目の基本となる部分は暗記しなければならない.


・同じように,法律の代表的な判例の内容,
そこから導き出される規範,有名な学説の対立などは,
覚えていて当たり前.
それができずに,現場思考もあったものではない.


・それは教授陣にとっては,あまりに当たり前のことであるから,
暗記なんていらないと言うのであって,
初学者にとってみたら,やはり膨大な量の暗記からはじまるのである.


・暗記→自分のものに消化→思考→表現.
この過程をたどって,司法試験の勉強は続いていく.


・理解するといっても,その前提として誤解を恐れずにいえば,
やみくもに暗記をしなければならないものもある.
それを体,頭に染み込ませて,初めて論文の勉強がスタートする.


・試験の直前期に,今までのペースを乱すことなく,
淡々と知識を確認し,復習を重ねた者が,
グーンと実力を伸ばし,合格を勝ち取るのである.
それは決して,直前に猛勉強をするというのとも違う.


・今までやっていたことを淡々とこなすだけ.
その先に,普通に試験がやってくる.
そんな心持ちで試験に臨めば,
自ずと実力を発揮することができるということのような気がする.


・1日15時間の勉強を不思議がる人もいる.
不可能だという人もいる.
私も自分の家で一人っきりで勉強していたら,
無理だったかもしれない.
外に出て,人が行き交う中で勉強することで,
周りの空気が動き,気が流れ,
思考も気持ちも停滞せずに勉強ができていたのかもしれない.


・優しく,強く,そして聡明であれ.


・私の場合,友人との連絡を断ち,
テレビも見ずに情報をシャットアウトした.
そして毎日毎日,勉強にのめり込んでいたから,
結果的に心が研ぎ澄まされていったような感じである.


・冗談で,退社したら山籠りですよ,
などと言っていたが,まさに私にとっては,
修行であったのかもしれない.


※コメント
菊間さんの壮絶な人生を垣間見た.
そして人は努力によって,自分の人生を違うものにできることを知った.
いろいろ学びとりたい.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.8.29





◆佐藤寛『山岡鉄舟,幕末維新の仕事人』を読み解く


※要旨


・山岡鉄舟と聞いて,どのようなイメージを持つだろうか.
一般的には,禅と書と剣の達人だろう.
また,徳川幕府の幕臣出身でありながら,明治天皇の教育係であり,侍従であった.

江戸城無血開城における勝海舟と西郷隆盛会談に先立ち,彼が幕府特使として官軍に派遣されたことも思い出すだろうか.
同時に,彼は優れた交渉人,行政マン,経営者であり,危機管理の達人であった.



・心の奥で理解したことが書となって表現される.
しかがって見る者の心に響く.


・鉄舟は生涯を通じ,人の話を熱心に聞くことによって,相手を引き付けている.
決して人より新しい思想や考え方,人より卓越した論理的戦略を口にして相手を引き付けているわけではない.
なぜか人は鉄舟の周囲に集まる.
相手の話を熱心に心で受け止める姿勢に,人は鉄舟の虜になるのである.


・「武士は胆力を練らなければ,いざという時にうろたえる.
胆力を練るためには剣と禅が一番だ」
鉄舟の父がよく言っていた言葉だ.


・鉄舟は,仲間内の加わる余地のない勢いの議論を,ひたすら教えを乞う姿勢で聞いていた.
幕臣でありながら反論することなく,真剣に議論に耳を傾ける彼に対して彼らの誰もが好意を持った.
彼らは好意を持っただけでなく,鉄舟の約束を守るという実行力にも驚かされた.



・「晴れてよし,曇りてもよし,富士の山,元の姿は変わらざりけり」
と超越した心境に云った男が,山岡鉄舟である.


・西郷隆盛は,鉄舟のことを,次のように評している.

「命もいらず,名もいらず,官位も金もいらぬ人は,どうにも始末におえない.
しかし,あのような始末におえぬ人でなければ,天下の大事はかたれないものです」

西郷は鉄舟と出会い,のちに彼を若き明治天皇の教育係に推挙する.


・鉄舟は,幼い頃より,四書の素読,書道,剣術をみっちり学ぶ.
素読は苦手だったようだが,書道は,得意だったようだ.


※コメント
剣や書で有名な山岡鉄舟の業績について書かれている本は少ない.
ただ,彼の仕事ぶりを読み込むと,その凄まじさに驚く.
数多くいた旗本の中で,頭角を現すには,人間力と胆力が欠かせないことを教えてくれる.
幕府がなくなっても,そういった自分は,新しい世界でも必ず抜擢される.
見ている人は,見ているのだ.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.9.26




◆枡野俊明『禅が教えてくれる美しい人をつくる「所作」の基本』を読み解く


※要旨


・心を整えるために,まずみずからの所作を整えることから入るのが禅の修行.
立ち振る舞いが整えれば,自然と心も整う.
心が穏やかであれば,言葉に優しさや思いやりがにじみ出てくるもの.


・所作を整えれば,心も綺麗になるし,身のこなしもきれいになる.
そういう人は,他人の目に「美しい人」として映るようになる.


・実は,所作が美しい人ほど,その所作は「さりげない」もの.
わざとらしくなく,美しい所作をするから「なぜだか分からないけれど,心惹かれる」のです.


・所作を整えることは心を整えること,所作を磨くことは心を磨くこと.


・多くのものは,簡素になればなるほど美しい.
じつは,美しさは「簡素」のなかにある.
簡素さは美しさの原点であり,そして終着点でもある.
簡素になればなるほど美しい.


・所作,呼吸,心は三位一体.
イライラしている人に,所作の美しい人はいない.


・姿勢を整えると,仕事も健康もいいことだらけ.
一流の女優さんを見ていて「さすがだなぁ」と思うことがある.
対談番組などに出演しているとき,背もたれにいっさい背中をつけないで座っているのです.


・呼吸は正直なあなたの心を示す.
呼吸を整えることができれば,心もいい状態に安定することになる.
さらに,深い呼吸によって体が温まってくる.
呼吸法は,かつて山中で修行をしていた仙人が,厳寒の時期の洞窟で暖をとっていた方法.


・人物判断の際に「足元」は100%チェックされる.


・他人を見て,いいな,素敵だな,と思ったことは,まず10日続ける.
気づきは,美しい人に近づく貴重なきっかけとなる.


・日本語は,世界でもたぐい稀なる美しい言葉.
美しい言葉は,それそのものが,美しくなるための大きな武器.


・畳のヘリを踏まない.
これは和室の所作の基本の基本.
常在戦場,つねに戦いに備えておくことが必要だった武家社会では,
床下に潜んでいる敵に襲われるということもあった.
畳はヘリの部分で合わさっているので,そこを踏んでいると突き抜けてきた刀の切り先で痛手を負うことがあった.


もっとも重要なのは,ヘリは格式をあらわすものだったという点.
ヘリを踏むことは,文字通り,格式を踏みにじることであった.


・汚れたものは,その日のうちに.
「片付け」が,楽しみの後始末ではなく,次の行動のための準備であるのである.


・箸や器を大切に使えば,自然と美しい所作になる.


・早起きをして,縁起よく一日を始める.
そして,朝,5分でいいので,掃除する.
塵や埃がすっかり拭われて,身辺が整うことは,心を整えることに直結する.
掃除をしている間は,拭くこと,磨くこと,掃き清めることに専念して,何も考えないこと.


・朝起きたら,窓を開ける.


・着ているものは,あなたの心をあらわしている.
「服装は生き方である」
(イヴ・サンローラン)


・お寺や神社にお参りするとき,必ずおこなう所作が「お清め」.
身だしなみの美しさの土台になるのは清潔感.


・挨拶の力を知る.
そして,美しい文字を書く.
誰にでもできるのは「相手のことを思い,心を込めて丁寧に書く」ということ.
できれば,墨を使うのがいい.


・禅僧の書はとくに「墨跡」と呼ばれる.
それを記したのが師であれば,その方の業績や人格がその墨の跡にあらわれている,と考えるから.
墨で書かれた文字はさらにクッキリとその人の存在が,その人という人間の全体像が見える.


・メールではなく,直接話す.
感謝は,感じたときに,すぐに伝える.
感謝は手紙であらわす.


・もてなしとは,もてなす側も,もてなされる側も力量が問われる.
もてなしの究極の姿は,その以心伝心の世界にある.


・たかがお茶,されどお茶.
お茶に込めた心は,飲む人にも伝わる.


・携帯電話に頼り過ぎない.


・風呂敷を使おう.
お世話になった人に贈答品を持参するということがある.
その際,紙袋からガサゴソと品物を取り出すのが一般的.
しかし,その際ぜひ,風呂敷を復活させてください.


・丁寧に品物を包んだ風呂敷をほどいて品物を差し出す.
その所作は,「あなたのために心を込めて選ばさせていただいた品物を,こうして大切に持ってまいりました」
という無言のメッセージ.
感謝とともに伝統の香り漂う品位が伝わる.


・ワインはそれ自体おしゃれな贈り物だが,
ボトルを綺麗な色の風呂敷でラッピングして,
そのまま差し上げるというのはどうでしょう.


・割り箸が最高のおもてなしである理由.
日本独特の食文化のひとつが「割り箸」.
食事でおもてなしするお客様に,誰も使っていない真新しい箸を準備する.
ここにも「語らずに通い合う心」がある.


※コメント
われわれにも知らない日本文化というのはたくさんある.
その背景を一つずつ読み解いていくと,面白い.
それを知ることは,自らの所作に繋がる.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.9.25




ライター・渡邉陽子のコラム (62) ─ 2015年陸海空自衛隊の装備と運用(9) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

ラグビーワールドカップが開催中です.
日本は南アフリカとスコットランドという強豪と同一グループ
ですが,いきなりジャイアントキリング,やってくれましたね.
スポーツで泣いたのは,ソチオリンピックの真央ちゃんの
フリーの滑りを見たとき以来です.最後の最後に手堅く同点
で勝ち点2を狙うのではなく,ハイリスクでも世界3位を相手
に逆転を狙い,あえてのスクラム.あの心意気,思い出すだけで
泣けてきた.

ラグビーはちょいちょいルールが変更になるので,いまだに
ちゃんと理解できていない部分も多いのですが,冬のシーズン
は秩父宮でラグビー観戦します.サッカーと違ってみんな応援
もゆるくて,観客の年齢層も高め.そんな会場の雰囲気も大好き
です.4年後のワールドカップ開催国は日本ですから,ラグビー
人気が高まるかもしれませんね.秩父宮ももう少し混むようになるかも.

このメルマガが配信される日にはスコットランド戦の結果も出てい
ることでしょう.テレビでも伝わって来た気迫と闘志,ぜひまた
見せて欲しいです.頑張れブレイブブロッサムズ!



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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■2015年陸海空自衛隊の装備と運用(9)


2015年度の防衛予算に含まれる新規事業を中心に,2015年の
陸海空自衛隊の装備と運用についてご紹介する第9回目です.
先週は,米国との共同訓練の話でした.今回は大規模災害
などへの対応についてです.

茨城県常総市への災害派遣が終わり,自衛隊は現地から
撤収しました.シルバーウイークには多くのボランティアの
方も駆けつけたようですね.箱根に続き先日は阿蘇山も
噴火,先週は津波がチリから半日かけて太平洋沿岸に
到達しました.こんなに小さな島国なのに,自然災害は本当に多いです.


2015年度1四半期,自衛隊の災害派遣の総件数は56件
であり,派遣規模は延べ人員2312名,延べ車両147両,
延べ航空機87機でした.

その内訳は,山林火災に係る災害派遣4件,消火活動(近傍火災)
にかかる災害派遣8件,火山災害に係る災害派遣1件,
捜索救助(行方不明者捜索)にかかる災害派遣3件,
急患輸送(緊急患者空輸)にかかる災害派遣39件,
その他(災害地等の状況偵察)にかかる災害派遣1件でした.

特に,緊急患者空輸の災害派遣では,82%(32件)が
沖縄県において派遣されたものでした.ちなみに昨年同時期
の災害派遣は81件,急患輸送34件(うち沖縄が30件),
人員9662名,車両872両,航空機203機です.多いです.


そう,昨年の2014年も,日本が災害大国だと改めて
思い知らされた1年でした.
2月には広域にわたって大雪に見舞われ,交通機関はマヒ,
孤立する地域が続出し,山梨,群馬,福島(2か所),長野,
静岡,東京,宮城,埼玉の各都県からの災害派遣要請を受けました.
派遣規模は延べ約5060名,車両延べ約990両,航空機延べ131機,
救助者数73名,物資輸送約44トン,除雪距離約281.2キロ
におよびました.何日も降り続いたわけではなく,たった1日か
2日間の雪が,都市としての機能の多くを奪ってしまったのです.

8月には広島市で大雨による土砂災害が発生,第13旅団を
中心に人員延べ約1万4965名,車両延べ約3235両,
航空機延べ66機が派遣され,人命救助,行方不明者捜索,
入浴支援などを行ないました.


さらに9月27日には長野県御嶽山が噴火,災害派遣要請を受けた
松本駐屯地の第13普通科連隊がまずFAST-Force(人員約40名,
車両約5両)を派遣.第12旅団は13連隊を中心とした災害派遣部隊
を編成し,10月16日に撤退するまでに人員延べ7150名,車両延べ
1835両,航空機延べ298機を派遣,23名を救助し56名の心肺停止者
の搬送を行ないました.この災害派遣は標高3000メートル,火山灰,
有毒ガスという,派遣された隊員にとっても極めて過酷な環境下
での活動でした.また,災害派遣に初めて89式装甲戦闘車が派遣
されたことでも注目されました.89式装甲戦闘車は全国で第7師団
の第11普通科連隊と富士教導団普通科教導連隊にしか配備されておらず,
そもそもの車両数が少ないのです.当時は火山弾の直撃を受けて
多くの死傷者が出ていたため,普通科教導隊の89式装甲戦闘車
を緊急時の輸送用として第12旅団へ臨時編入したのでした.


地震に台風,集中豪雨,豪雪に噴火と,この先もどのような災害が
起こるかわかりません.自衛隊は各種災害に際して十分な規模の
部隊を迅速に輸送・展開するとともに,統合運用を基本としつつ,
要員のローテーション態勢を整備することで,長期間にわたって
持続可能な対処態勢を構築するとしています.その一環として,
2015年は災害対処拠点となる駐屯地・基地等の機能維持・強化のため,
市ヶ谷庁舎被災時の代替機能の整備を行ないます.これは首都直下
地震による被災に備え,朝霞駐屯地を代替地として活用できるよう
同駐屯地情報通信基盤の拡充を図るものです.海自は海上作戦センター
の整備として,横須賀の船越地区に自衛艦隊司令部等の新庁舎を
建設するための準備を進めます.


大規模・特殊災害等に対応する訓練としては,離島における台風災害等
に対して統合運用による災害対処能力の維持・向上を図る
離島統合防災訓練,国内の大規模災害発生時における在日米軍等
との連携要領の確立,震災対処能力の維持・向上を図る日米共同
統合防災訓練等を実施します.6月7日には南海トラフ地震が発生した
場合を想定した平成27年度日米共同統合防災訓練,6月29日〜7月3日
には首都直下地震を想定した平成27年度自衛隊統合防災演習,
8月26日〜30日には日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震を想定し
自衛隊,在日米陸軍,第3海兵機動展開部隊及び豪州軍が参加した
ノーザン・レスキュー2015が開催されました.


次回はこの連載の最終回,グローバルな安全保障環境の改善についてです.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.9.24





◆佐藤優『帝国の時代をどう生きるか』を読み解く



※要旨


・叡智とは,生きるために必要な深い知恵のこと.


・エリートは能力の一部を社会に贈与しなくてはならない.


・知らないことに,いい加減なことを言わないのがインテリだ.


・議会制民主主義のもとで,政治家が国民の平均的水準から著しく乖離をすることはない.


・ロシア人は,脅威の対象となる国家や民族については,徹底的に研究する.
外務省,SVR(対外諜報庁),GRU(軍参謀本部諜報総局)などの政府機関とともに,
ロシア科学アカデミー傘下の東洋学研究所と極東研究所が中国に関する詳細な調査と研究を行っている.


・国家にとって,緊急事態が発生したとき,英国政府はマスメディアに対する規制を行うことがある.


・マーク・ロイエンタール氏は,英国について次のように述べている.

→類似性と歴史的結びつきにもかかわらず,英国と米国の政府機構と市民的自由には大きな違いがあり,
それは両国のインテリジェンスの慣行を理解する上で,重要である.

→第一に,英国の行政機関である内閣は,米国大統領を超える優越性を持っている.
議会に諮ることなく,種々の職務に人を任命し,主要な行動つまり宣戦,講和および条約の署名をとる権利を有している.


→第二に,国外のインテリジェンスと国内インテリジェンスの区別が米国に比べるとはっきりしていない.


・国家にとって非常事態が起きたと判断すると,盗聴,身柄拘束など,
市民の基本的人権を侵害する恐れがある措置を英国政府は大胆にとる.
また,検閲も行う.
それを許容する文化が英国にあるということだ.


・閣僚や与党の有力政治家には,「番記者」と呼ばれる担当記者がいる.
特定の政治家に文字通り密着して取材する記者である.
番記者と政治家は非公式の懇談を行う.
この懇談はオフレコ扱いになる.


記者はオフレコ懇談の内容をメモにして上司にあげる.
特に完オフの部分については,「この部分は完オフ」とわかるようにメモを作成する.

このメモは,社内秘の扱いとなっているが,実際は外部に流出することがある.
流出先は政治家や官僚だ.
オフレコメモを見せたり,渡したりすることの対価として,さらに深い情報を得るのだ.


・プーチン氏は帝国主義者である.
常にロシアの国益を考え,外交戦略を構築する.


・外交は言葉の芸術である.
特に首相,外相は,外交ゲームにおいて国家を体現する機能を果たすので,
言葉の使い方に細心の注意を払わなくてはならない.



※コメント
外交もビジネスも言葉から始まる.
文書において,言葉の表現は非常に大事であり,どれだけうまく言葉を活用できるかによって,
コミュニケーションの質が変わってくる.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.9.24




マーケット・ガーデン作戦とインテリジェンス (13)
                長南 政義
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【前回までのあらすじ】

本連載は,精確な内容を持つインテリジェンスが
一九四四年九月上旬に連合軍の指揮官に利用された
かどうかを考察することにある.実は,インテリジェンス
の内容は,マーケット・ガーデン作戦実行に伴うリスク
を連合軍の指揮官に警告していた.

指揮官が決定を下すために利用できるインテリジェンスの
情報源は数多く存在していたが,本連載では「ウルトラ」
情報により提供されたインフォメーションにのみ焦点を
当てて考察を進めることとする.第二次世界大戦を通じて,
連合軍の戦略レヴェル・作戦レヴェルの指揮官たちは
ウルトラ情報を活用し,ウルトラ情報の精確性に関して
めったに疑いを持たなかったからだ.

前回から「ウルトラ」情報について述べている.
前回はギュスターブ・ベルトランとD部の活動がエニグマ
解読に果たした役割と,戦間期アメリカの暗号解読活動
とについて説明した.

今回はポーランドの暗号解読について詳しく述べてみたい.

【ポーランドの暗号局が直面していた問題】

第一次世界大戦後も,ポーランドは他国には解読不可能
と思われたドイツの暗号通信を解読する情報解読能力を
限定的ながらも維持し続けた.ポーランドはポズナニの
スタロガルトに通信情報収集センターを,クシェスワビツェ
にドイツの通信情報を傍受する傍受局を設立した.そして,
傍受した暗号通信を解読する責任を有していたのが,
ワルシャワにあるポーランド軍参謀本部暗号局であった.

ポーランドが直面していた問題はドイツの暗号を解読する
任務に耐えうる能力を持ったよく訓練された暗号解読専門家
の数が不足していることだった.ドイツ海軍が一九二六年
にエニグマ暗号機を使用し始めたときに,この問題はより
悪化することとなった.

【ポーランド軍,大学で暗号学講座を開設する】

高まりつつある脅威に対処するために,ポーランド軍参謀
本部はポズナン市にあるアダム・ミツキェヴィチ大学で暗号
学講座を開設した.アダム・ミツキェヴィチ大学が選ばれた
理由は,この大学の数学部の能力の高さと,この地域から
選ばれた学生がドイツ語を話して成長したこととにあった.
ポズナンは一七九三から一九一八年までの間ドイツ領で
あったため,ドイツ語に堪能な学生が多かったのである.

【選ばれた三人】

暗号学講座の目的はドイツの暗号解読計画を拡張するため
に必要となる暗号学の素養を有する学生を選別することに
あった.講座の最終目的は,組み合わせ理論や確立論とい
った数学理論を応用して,エニグマ暗号を破る組織的活動
を開始することにあった.

一九三一年,この暗号学講座が終わりを告げ,
マリアン・レイェフスキ,ヘンリク・ジガルスキおよび
イェジ・ルジェツキの三人が選ばれて暗号局のメンバーとなり,
エニグマ暗号を解読しようとするポーランド軍の努力を
主導していくことになる.

ポーランドは新しいエニグマ暗号の解読について,
当初あまり成功しなかったものの,努力を続けた.
だがこの努力は無駄ではなかった.ポーランドがフランスの
ギュスターブ・ベルトランから重要文書を受領した時に,
この努力が大きな変化につながったからである.

【ハンス=ティロ・シュミット,フランス側諜報員に接触する】

前回指摘したように,ハンス=ティロ・シュミットがフランス
情報機関の諜報員と接触していた.シュミットはヴァイマ
ル共和国軍暗号部門に勤務するドイツ人で,
フランスに渡したい情報を持っていることをフランス側
諜報員に話したのである.

シュミットは徹底的にフランス側によりその人物を調査された.
一連の会談の後,シュミットは「アッシュ」という暗号名を与
えられた.シュミットの信頼性が確認されると,
フランス側はシュミットに対し,エニグマ暗号機に関する
できる限り多くの文書を提供するように依頼した.
シュミットが提供した文書はポーランド軍の手に渡り,
暗号学者がこれまで解くことのできなかった方程式を
解くのに必要な重要情報を提供することとなった.

【ポーランドによるエニグマ解読の初期の成功】

一九三二年十二月七日,ベルトランはワルシャワでポーラ
ンドに文書を交付した.これらの文書には,暗号キーの説明書,
エニグマの使用説明書や複数の古いキーが含まれていた.
そして,ポーランドはこれらの文書を活用してエニグマ暗
号機の構造を再現することに成功したのである.

こうして,エニグマ暗号機に関する新たな知識を得たポ
ーランドは一九三二年十二月の終わりまでにエニグマ解読
に関し迅速な進歩をすることができたのである.
一九三三年一月上半期の間,ポーランドは限定的ながらも
エニグマの通信文を読み始めることができるようになった.

【初期の成功後の後退】

エニグマで暗号化された通信文を解読することに最初に
成功したことは,ポーランドがエニグマ解読を継続する基礎
となった.だが,ポーランドの暗号解読の努力も成功続き
ではなく,一九三〇年代のポーランドによる暗号解読の努
力は成功と同時に,後退と失敗とによっても特徴づけられている.

ポーランドが新しい暗号の解読に成功したのとちょうど同じ時期に,
ドイツはエニグマ暗号機に改良を施した.
その結果,暗号解読の手続きは再び一からやり直しとなってし
まった.だがすべてがやり直しとなったわけではない.
というのも,ポーランドはエニグマ暗号機がどのように作動
するのかを理解していたので,ドイツ側が行った改良にのみ
焦点を当てればよいことをポーランドは理解していたからである.

こうして,最初の成功が基礎となり,ドイツが行った改良の
ために費やすべき時間は大きく減少したのである.

【「ボンバ」誕生】

ここまでの間,エニグマ解読に成功した唯一の国家は
ポーランドであった.だが,ポーランドは解読の成果を他の
国々と共有していなかった.ポーランドがエニグマの解読に
熟練していくにつれ,彼らは手動・自動を含む一連のシステ
ムとして解読活動を始め,そのことがより迅速に暗号解読
を行なうことに寄与していた.

レイェフスキはエニグマのローターの配列を迅速に割り出す
ために「ボンバ」と呼ばれる機械を製作した.ボンバは現在
のコンピューターの前身といえる機械であり,暗号分析者
がエニグマのローター配列を迅速に推測することを可能にした.

ボンバなしでは,人間がエニグマのローターの配列をイン
テリジェンスとして価値がある速度で特定することは不可能であった.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.9.24






荒木 肇
『動員のコスト(14)──日本陸軍の動員(14)』
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□はじめに

 シルバーウィークをいかが過ごされましたか.
わたしは東京都の西の外れに一人で住む叔母を
訪ねました.叔母は5年前に連れ合いを亡くし,
それでも元気に暮らしています.亡父の妹です.
連れ合いの義叔父は戦時中には海軍,戦後,
海上自衛隊に入隊した人で,わたしが子供の頃
から可愛がってくれました.

 戦時中の話で興味深かったのは,敵機が来襲する
と高射砲や機関銃が迎え撃つけど,その弾片が
落ちてきて大変危なかったという話です.
ずいぶんそれで死んだ人もいるのよという話に
リアルな戦場を感じました.

 安保法制も心配していました.いろいろ誤解は
解いておきましたが,自衛官が海外へどんどん
出されてしまうのではないかというのです.
理解しにくい話が多いのだと思います.どれほどの人が
法案を読み,理解できたのでしょうか.少なくともわたしは,
戦争に対しての抑止力は向上したと思えます.

 さて,今週と来週は先の戦争の最後になる人的動員の話です.


▼陸軍特別操縦見習士官

 海軍が学卒者の優遇を考えて予備学生制度を拡大
すると,当然,陸軍も同じような制度を造る.
それが1943(昭和18)年7月に公布された「特別操縦
見習士官」というものだった.

『陸軍航空関係予備役将校補充及服役臨時特例に
よって,操縦に従事する兵科将校を志望する見習士官
にして少尉に任ぜらるる資格を具うる者を以て補充する
ことを得』というのが元になる特例である.

 ということは,幹部候補生ではあるが,すでに見習士官
である者でなくてはならない.応募資格は高等学校,
専門学校卒業者であり,ついに「学校教練の修了証」も
必要ないとした.そこのところに背に腹を代えられないという
切羽つまった感じがある.採用と同時に曹長になり,
見習士官を命じられた.教育期間は1年6カ月,少尉任官
ただちに予備役編入という計画だった.

 ただ実際は短縮がされ,基本操縦5カ月,機種別(戦闘・偵
察・重,軽爆撃)の教育飛行隊で4カ月,さらに実用機の
錬成飛行隊で4カ月の教育を受けた.約1年1カ月であり,
実際は錬成飛行隊の教育中に少尉になった.ただちに
臨時召集,そのまま応召将校として勤務を続けた.

 1943(昭和18)年10月入隊の「繰り上げ卒業」をした
一期生は2,654名,続いて学徒出陣組の二期生が1,136名
である.二期生はいったん12月1日に各兵科の部隊に入り,
志願した者のうち合格者が19年2月1日に飛行学校へ入校した.
三期生は同年6月,四期生は同じく8月に採用された.

 戦没者は一期生738名,二期生139名という不確かながら
記録がある.戦没者は訓練中や作戦間の事故などによる殉職,
本土防空や外地においての空戦,特別攻撃隊による戦死
などに大別される.陸軍航空の特攻による戦死将校の過半数
は248名にもなる特操出身将校だった.

 1期生の戦没率は27.8%にもなる.また2期生は同じく12.2%
であり,陸軍は正規将校を温存したと非難を浴びた.
しかし,同じ世代の陸航士卒業の正規航空将校の戦没率は
7割にも及んでいる.予備員の母体数が多いためによる誤解
である.陸軍の名誉のために記しておく.

▼陸軍特別甲種幹部候補生と特幹

「とっこうかん」は先の特別操縦見習士官制度を兵科と経理部
将校に拡大した制度だった.軍医や技術部,獣医部については
すでに書いた短期現役があり,補充も順調だった.優遇する
といった観点からも問題はなかった.大卒は中尉に,専門卒は
少尉という格差も考えられていた.ところが兵科と経理部にはない.
経理部には主計だけではなく建技将校という技術者のコース
もあり,帝大法学部や工学部卒業でも少尉にしかなれなかった.
そこで,既存の甲種幹部候補生制度とすり合わせを行うことにした.

 これまでの幹部候補生は1等兵で入営したが,特甲幹は
いきなり伍長だった.教育期間も1年8カ月から同6カ月と2カ月
短縮し,特操と足並みをそろえた.海軍予備生徒とも同じように
在学生も採用したが,教練検定については必須としたところが
陸軍の意地ともいえる.なお,経理部将校の募集については
卒業生のみにした.資格問題や技能水準が関係するからであろう.

 この制度が始まったことで,それまでの甲種幹部候補生制度
は中等学校卒業者のみのコースになった.専門,高等学校
在学生でも特甲幹には志願できたから,すぐに伍長は魅力だった
からだ.最初の採用は19年10月,翌年6月に予備士官学校
での教育が終わったので少尉にはならずに敗戦,復員を味わった.


 この数字は同時期の海軍予備学生操縦専修者の数と比べる
とやや少ない.というのも海軍は偵察専修者(航法や戦術指揮
も行なう)を操縦員と同じくらい採用するので予備員全体でいえば
海軍は陸軍の倍を数えた.

 甲種に特例があるなら乙種にもできた.昭和18年末に
考えられた特別幹部候補生,略称「トッカン」であった.
予備役下士官の養成コースだった.少年飛行兵や砲兵,通信兵,
防空兵,戦車兵(すべて少年がつく),海軍飛行予科練習生など
はあくまでも現役下士官の補充である.これに対して「幹部」という.
それは予備役下士官の証拠になる.任官させる,同時に予備役編入,
ただちに召集,いつか復員という予定である.

 学歴に制限はなく,おおよそ中学校3年,あるいは4年生くらい
を対象とした.専攻に分かれ,教育期間はおおよそ1年6カ月,
伍長に任官させて現役扱い半年で予備役編入という制度である.
航空,船舶,通信などに分かれた.興味深いのは,当時の新聞記事
によると『中等学校卒業または特殊技能をもつ者はただちに軍曹に
任じ,軍曹,曹長,准尉の階級にある者は己種学生(在学1年間)の
受験資格を与えられ,最も早いものは4年ぐらいで少尉に任官できる
もので…』という解説である.たしかにウソはない.ただ戦争が続き,
あるいは停戦となっても宣伝通りに少尉になれる者はほとんど
いなかったことだろう.己種学生とは現役下士官から入校できる
少尉候補者制度である.彼らトッカンはあくまでも予備役下士官だった.
将校でさえ,当別志願から現役転官は面倒なものである.
制度の根幹につながる「役種」の変更は簡単にできるものではなかった.

 なお実態に迫ってみよう.「トッカン」の略称を使い始めたのは
昭和19年1月の朝日新聞からだという.浦田耕作氏はそのように
書いている.学科試験は数学と国語で,数学は中学3年1学期修了
程度,国語は「ハガキ」を書くことだったというから,ずいぶんお手軽
である.とにかく下級幹部要員を集めようというわけだろう.

 戦争も最末期の様子がよくわかるので浦田氏の記述に沿ってみよう.
入隊は1年を3つに区分して前・中・後期として4カ月ごとになった.
浦田氏は19年8月15日に兵庫県篠山町の中部第110部隊に入った.
この部隊は正式には第31航空通信聯隊だったという.聯隊は
7個中隊で構成され,うち2個が特幹で1000名.他は航空の現役兵
である.中隊長は東京商大出身の予備中尉,区隊長は3人.
少尉候補者出身の現役少尉,横浜高商卒予備少尉,航空通信学校
尉官学生出身の予備少尉だった.

 内務班長は砲兵通信から航空通信に変わった召集伍長,
班付きは学徒出陣で伍長の階級を与えられていた乙種幹候の2人
の伍長,指導候補生は甲幹に採用されて伍長だった2人,現役上等兵,
衛生上等兵,ラッパ手の2等兵という構成である.このように予備員が
予備員を教育する.精鋭度が下がるのはやむを得なかったことが分かる.

▼海軍見習尉官

 戦争末期の学徒士官の方の思い出を聞くと,海軍にはなじみがない
「見習尉官」という言葉が出てくる.敗戦時には160万人の勢力に
なった海軍,うち士官が約5万4000名にのぼった.構成比では
3.3%が士官だから一応の軍隊らしい体裁はとっていた.
それも全体のおよそ54%,半数以上の2万9000名が予備士官だった
からだ.

 海軍の複雑さは士官たちの出身がさまざまだったところにある.
悪名高い軍令承行令という「軍隊指揮権継承順」の問題はやむを
得なかったと思える.

 敗戦時の兵科・機関科・主計科士官たちは出身の区分では,以下のようになった.
(1) 兵学校・機関学校卒業の現役兵科将校と予備役からの召集者
(2) 経理学校卒業の現役主計科士官と予備役からの召集者
(3) 召集され服務中の商船学校出身の予備兵科士官・同機関科士官(予備員)
(4) 召集され服務中の予備学生出身の予備兵科士官
(5) 召集され服務中の航空予備学生出身の予備航空士官
(6) 特別任用による予備(員)士官からの現役将校
(7) 特務士官からの特選佐官(非常に少数)

 各科士官には軍医科,歯科医科,薬剤科,看護科(識別色は赤),
主計科(同白),技術科(同蝦茶色,ただし昭和17年まで造船・造機科
は鳶色,造兵科が蝦茶),法務科(萌黄),軍楽科(藍色)の存在があった.
この中では看護科,軍楽科以外の士官はみな大学,あるいは
専門学校の卒業者である.

 前にも述べたように,各科には短期現役士官制度があった.
2年間の兵役義務があったことから2年間は現役服務,その後は
永久服役(定年まで勤務する)か予備役編入かを選ぶことができた.
その制度下では医科・薬学専門学校卒は軍医少尉,薬剤少尉に,
大学医・薬学部,工学部,経済学部,商学部卒などは各科中尉
である.その他の専門学校卒業者(高等商業など)は少尉候補生
から少尉に任じることになっていた.

 戦時中には高等専門卒,大卒は予備学生も短期現役士官の
試験も同時に受けることができた.問題は序列である.採用された
予備学生の位置づけは士官の下であり,少尉候補生(兵学校・機関
学校卒),准士官(各科兵曹長),下士官の上である.ところが,
短期現役士官に採用されると即日,中尉,少尉となる.これを
『貴官らは海軍イチヤク中尉という』と訓示された人もいる.
もちろんからかい半分の言葉だが,多少の嫌味も当然あった.

 中学校卒業後,海兵,海機,海経で生徒時代を送り,遠洋航海や
艦隊実習を終えてようやく少尉になった人たちとしては面白くない.
平時の採用数が少ない頃なら目につかなかったが,大量採用され
た学徒上がりは「士官らしい物腰」もないではないかという批判が
起こった.そこで,できたのが「見習尉官」制度である(昭和17年4月).
服装は裾長の士官服,そのくせ短ジャケットの少尉候補生のすぐ下,
准士官の上という位置づけがされたのがこの人たちだった.

 敗戦時には海軍軍医大尉だった人の経験談がある.

『昭和17年4月16日,日本本土初空襲の日.その2日後,
東大医学部在学中のわたしは区役所に出頭を命じられた.
召集延期中(注・体験者の誤りの例である.徴集延期中が正しい)の
繰り上げ卒業者に対しての臨時徴兵検査であった.』

 太平洋に戦火が広がり,17年3月卒業予定の学生は3カ月間
の学業短縮措置を受けて16年の末に卒業した.続いて18年3月
卒業予定の者はさらに6カ月間の短縮措置で17年の9月に卒業
が決まった.教育課程の短縮とは大きな作業である.夏休みも
返上するという慌ただしさだった.

『昭和17年10月1日付で海軍見習尉官に採用になった.
海軍士官としての基礎教育は北朝鮮の元山航空隊で行われた.
昭和18年1月15日に海軍軍医中尉に任官した.同時に普通科学生
を拝命し,宮中賢所に参拝の上,伺候記帳して軍医学校の学生舎
に戻った.』

 次回は陸軍のまとめをしよう.
 
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.9.30




『ライター・渡邉陽子のコラム (59) ─ 2015年陸海空自衛隊の装備と運用(6) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

8月31日に2016年度防衛予算の概算要求が発表されました.
過去最高額の5兆911億円,その内訳にはオスプレイ12機
の一括購入(1321億円)のほか,南西諸島防衛強化のため
の陸自警備部隊配備費用(宮古島108億円,奄美大島86億円)
が盛り込まれました.

与那国島の陸自沿岸監視部隊については施設整備費76億円
となっています.この辺りは想定内でしたが,佐賀空港への
オスプレイ配備費用が2016年度要求には計上されていません
でした(2015年度は109億円).受け入れの了解にいたっていな
いため見積りができないというのが防衛省の説明です.
当初はもう少し順調に佐賀空港への配備が進みそうな空気
だったのですが.12月の予算策定を見守りたいと思います.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■2015年陸海空自衛隊の装備と運用(6)

2015年度の防衛予算に含まれる新規事業を中心に,
2015年の陸海空自衛隊の装備と運用について
ご紹介する第6回目です.

先週は,オスプレイとAAV7を中心とした装備品の話でした.
今回は陸上総隊,水陸機動団新編の準備の話です.


組織の改編では,陸自の各方面隊を束ね一元的に指揮する
陸上総隊を新編するために準備室が設置されます.
陸上総隊の新編についてはこれまでも何度か検討されては
見送られるということを繰り返しており,25大綱でようやく明記されました.

海自は自衛艦隊,空自は航空総隊により命令が一元化されていますが,
統幕長から陸自への指令・指示は各方面総監部へ出す必要がありました.
陸上総隊ができることで,統幕長からの報告や命令は陸上総隊のみ
で済むほか,海自,空自,米軍との調整も総合的に行うことができます.

ただし方面総監部の廃止については25大綱では見送られたため,
運用如何ではかえって指示系統が複雑,煩雑化する懸念もあります.
これは陸上総隊が創設され実際に運用が始まってからの課題と
なるかもしれません.

なお,今年5月には司令部が朝霞駐屯地に配置されることが決まり,
2017年度の創設に向け,今年度末には準備室が設置されます.


また,陸上総隊の直轄部隊として新編される水陸機動団と
作戦関連部隊の展開基盤の整備も行われます.
水陸両用作戦専門部隊である水陸機動団は,島しょへの侵攻が
あった場合に速やかに上陸・奪回・確保するための部隊であり,
西部方面普通科連隊の約700人を母体に3連隊からなる約3000人
規模の大部隊となります.

水陸両用作戦に必要な各種機能を保有し自ら作戦を行える米海兵隊
に対し,水陸機動団は海自や空自部隊との統合運用により水陸両用
作戦を行ないます.

2018年度までに編制完結の予定ですが,それに先がけ,昨年3月末
には西普連に西部方面普通科連隊教育隊が設置されました.
これは水陸両用作戦を担う人材の育成を行う教育専門部隊で,
教官約20人を含む25人程度で人材を育成します.
具体的には離島奪還のための基本技術である洋上からボートで
島に上陸する着上陸訓練などを実施し,隊員の技術向上を図ります.
この水陸機動団が離島奪回時に「足」として使用するのが,
オスプレイとAAV7というわけです.


このほか,2018年までに行われる組織の効率化,合理化を目的
とした改編として,戦車は本州の部隊からは廃止,北海道の師旅団と
西部方面隊直轄部隊のみの配備となります.本州の部隊から戦車が
消える,これはかなりのニュースですね.
また,りゅう弾砲などの火砲も現在の約600両から約300両へと
約半数に削減し,全国に配置されている火砲を各方面隊直轄部隊
へ集約する予定です.これも相当な削り方です.

さらに現在15ある師団・旅団のうち,7つを高い機動力や警戒監視
能力を備える即応機動連隊などからなる機動師団・機動旅団に改編し,
機動運用化することとしました.この機動師団・旅団が,いざという時
には増援部隊として南西方面へ急派されます.

これら陸自の改編は,人も装備品も大がかりな移動を伴う,従来の
改編とは比較にならないほど大がかりなものとなります.


次回は米国との共同訓練についてです.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.9.3




陸軍機 vs 海軍機(50)       清水政彦

「零戦と隼(49)」
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「零戦vs隼」の第49回.
今回は,東部ニューギニア防衛線の崩壊に続き,
南方戦線全体が総崩れとなっていく過程について見ていきます.

▼ ラバウルの無力化

 東部ニューギニア防衛線の破綻とほぼ時を同じくして,
海軍航空部隊の中核根拠地であるラバウルも完全に無力化された.

 ラバウル地区に対する空襲は昭和18年12月から
すでに激化していたが,昭和19年に入って来襲する
連合軍機の数はさらに増加し,もはやラバウル港に
船舶が安全に停泊することは不可能になった.
飛行場も連日の爆撃を受け,陸攻や重爆のような
大型機が多数常駐することも困難であった.
ラバウルにあった第四航空軍の飛行機修理施設も,
昭和19年には中部ニューギニアやパラオ方面に後退せざるを得なくなった.

 すでに昭和19年初頭の時点で,ラバウルの兵站拠点
としての価値は失われていたのである.

 それでも,ラバウルの海軍航空部隊は来襲する連合軍機
を積極的に邀撃し,連日のように数十機〜百機以上を撃墜
したとする「大戦果」を報じていたが,現実には大部分が誤認で,
実際の「キル・レシオ」はほぼ互角であった.

 もっとも,大勝利が幻だとしても,質・量ともに大きく優る
連合軍機に対してほぼ互角の戦いを継続できていたことは
特筆に値する.これは,ラバウル地区の航空基地群に十分
な空襲耐性と縦深性が備わっていたからであり,
「地上がしっかりしていれば空中での大負けはない」という
航空戦の特性をよく示している.

 仮に戦略的な態勢がこのままであれば,相当の長期間に
わたり,ラバウル上空の防空戦で連合軍にさらなる出血を
強いることも可能だったかもしれない.
しかし,「航空要塞」ラバウルの最期は実にあっけないものだった.

 まず昭和19年1月末,中部太平洋のマーシャル諸島に
米空母が出現し,空襲により所在の海軍航空部隊が壊滅.
上陸した米軍部隊は間もなくその要地を占領した.

 さらに昭和19年2月17日,海軍のトラック泊地が米空母機動部隊
に奇襲され,同地の海軍航空戦力は大部分が地上で撃破された.
連合艦隊の主力はその直前に退避して無事だったが,
停泊を続けていた艦艇の多くは撃沈・撃破され,残存艦もトラックから撤退した.

 これは,トラック泊地が連合艦隊(とくに空母機動部隊)の
出撃拠点としての価値を失ったことを意味していた.
これに伴い,ラバウルは南東方面の兵站拠点としてだけでなく,
トラックを空襲から守る前哨基地としての価値も喪失したのである.

 これを受けて,海軍はラバウルに残る航空戦力を引き抜いて
中部太平洋方面の防備に転用する決断を下した.2月末までに,
海軍航空部隊の大部分がトラック方面に移動し,
これにより約1年半に及んだ「ラバウル航空戦」は終了した.

▼ アドミラルティ諸島への連合軍上陸

「アドミラルティ諸島」は,東部ニューギニア北岸に位置する
「マダン」の北方約400kmの太平洋上に浮かぶ比較的大きな
島々で,良好な港湾と広い飛行場適地があった.

 これらの島々は昭和19年初頭の時点まで連合軍の
中小型機の行動圏外にあり,かつニューギニア北岸を西進
する連合軍を横合いから攻撃できる間合いにある.
アドミラルティ諸島は,陸軍部隊が東部ニューギニアから
撤退するに際し連合軍の進撃速度を鈍らせるための航空作戦
の拠点として,ぜひとも確保しておくべき地域と認識されていた.

 アドミラルティ諸島での飛行場建設は昭和18年中から開始
されており,少数ながら陸上兵力も配置されていたが,
その防備の強化は間に合わなかった.

 昭和19年2月末,連合軍は奇襲的にダンピール海峡を突破,
ラバウルを素通りしてアドミラルティ諸島に「飛び石」上陸した.
日本軍の抵抗は微弱で,連合軍は短期間に同地を占領して
港湾と飛行場を整備した.

▼ 加速する連合軍の進攻速度

 すでに述べてきたように,昭和19年3月までに第四航空軍の
打撃力は皆無となり,ラバウルの海軍航空部隊は無力化された.
地上ではダンピール海峡が突破され,ビスマルク海に浮かぶ
アドミラルティ諸島も占領された.この時点で,日本軍の東部
ニューギニア戦線は完全に崩壊したといえる.

 東部ニューギニア方面の日本軍航空戦力が壊滅し,
連合軍の完全な制空圏がビスマルク海にまで及んだことにより,
連合軍の上陸船団・補給船団はニューギニア島の北側海域を
ほぼ自由に航行できるようになった.

 この「船団の航行の自由」が確立して以降,連合軍の進撃速度
は従前とは比べ物にならないほど速くなった.海上行動の自由を
得た連合軍は,日本側が防衛線を後退させて戦備を整えるより前に,
最前線より後方の防備の弱い場所を選んで奇襲上陸するという
「飛び石作戦」を行なうようになる.

 戦略的にいえば,守備側(日本軍)の防衛線の建設速度が,
攻撃側(連合軍)の進攻速度に追い越された状態…つまり「総崩れ」である.

 東部ニューギニア戦線が連合軍に突破されたあと,
後背地の戦備が不足していた日本軍は「総崩れ」となり,
昭和19年3月以降はほとんど有効な抵抗すらできないまま大敗を重ねることになる.

▼ 西部ニューギニアへの戦線後退

 東部ニューギニアを放棄した陸軍航空部隊は,昭和19年3月以降,
中部ニューギニアのほぼ唯一の拠点であるホランジアに後退し,
西部ニューギニア方面の「ソロン」「ビアク」「バボ」などに新たに
多数の飛行場群を設定して縦深陣地を構成する予定であった.

 しかし,ホランジア飛行場の整備は未完であるうえ,
中部ニューギニアにはほかに見るべき拠点がない.
ホランジアは地形的には「孤島」に近い状態で,攻撃を受ければ
逃げ場がない.さりとて,西部ニューギニアの基地建設はほとんど
手つかずに近い状態であり,多数の飛行機を受け入れる余地はない.

 狭いホランジアの飛行場には,東部ニューギニアから後退してきた
部隊に加え,新たに後方から進出してきた新鋭部隊が同居し,
さらに内地から送られてくる補給機(月200〜300機)が充満して大混雑していた.

▼ ホランジアに対する連合軍の空襲と上陸

 第四航空軍がウェワクからホランジアに撤退してから
2週間ほど経った3月末,ホランジアの飛行場に対して大空襲があり,
無防備に駐機されていた飛行機が一挙に地上撃破された.
この日だけで地上損害は130機あまりと言われており,
まさに従前の負けパターンを繰り返す惨敗であった.

 この時点で誰しも,過去1年間の失敗と同じ轍を西部ニューギニア
でも踏むことになるという「悪夢」を予感したはずだ.
しかし,それでも西部ニューギニアは「絶対国防圏」の一角であり,
もう後へは退けないのである.

 陸軍中央はニューギニア戦線に対し必死の飛行機補給を続けたが,
連合軍は日本側に防備を整える時間を与えなかった.米空母は
続けてパラオ地区を空襲し,所在の海軍航空戦力を撃破.
さらに4月21日,米空母機が大挙してホランジアに来襲し,
再建途上にあった陸軍航空部隊はまたしても地上で壊滅する.

 日本側の航空戦力を撃破すると,すかさず連合軍はホランジアに
「飛び石」上陸した.一定の防備があるウェワク地区を飛び越えて,
その後方にある無防備なホランジアを突いたのである.
ホランジアの日本軍には有力な陸上戦力がなく,中部ニューギニア
はあっという間に連合軍に制圧されてしまった.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.9.2




荒木 肇
『動員のコスト(11)──日本陸軍の動員(11)
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□ご挨拶

 いよいよヘリ搭載護衛艦,「いずも」の2番艦が進水しました.
これから本格的な儀装工事が始まり,来年の秋には就役する
そうです.その名前は,「かが」となりました.
これまでこのタイプの護衛艦は「いせ」,「ひゅうが」,「いずも」
と旧国名が選ばれてきました.昔の海軍には末期に航空機を
搭載する航空戦艦として「伊勢・日向」という同型艦がありました.
だから,「いずも」と命名されたときには,たぶん出雲のことであり,
出雲大社がイメージされ,ならばペアの艦名としてはどうなんだろう
と考えていたものです.

 予想を超えた「かが」,加賀国であったとは,ちょっと驚きでした.
しかも,「加賀」は武勲艦です.
あの1937(昭和12)年の上海事変では艦載機を飛ばし
国民党軍を猛撃し,ハワイ真珠湾にも空襲をかけました.
そうした歴史を誇る伝統ある名前が選ばれたことに,
感銘を受けた次第です.

 しかし,いろいろな背景があり,航空母艦とは言えない宿命
がある海上自衛隊.昔のように,同じく武勲艦である「翔鶴(しょうかく)」,
「瑞鶴(ずいかく)」や,「飛龍」,「蒼龍」,はたまた「雲龍」という
名前は復活できないのでしょうか.
そうまで考えたとき,旧国名なら「信濃(しなの)」があったな
と思いつきました.建造中の次の艦は「しなの」でしょうね.

 戦時中の兵役制度について続いて紹介します.『在郷軍人名簿』
にはそれぞれの軍人の経歴が記載されていました.その出身,
たとえば「幹候」,「志願」などです.支那との紛争が長期化するにつれ,
さまざまな制度が案出され,複雑で多岐にもわたるようになりました.
少年航空兵といえば陸軍,飛行予科練習生というのは
海軍と読者の大方は正しく理解されていると思いますが,
その内部にもさまざまな種類がありましたし,その実態の数々は
本稿のテーマの動員にも大きく関わっているのです.
 
 海軍のことにもふれますので長くなります.我慢してお付き合いください.

▼陸軍幹部候補生
 
 幹部とは陸軍では下士官以上の判任官のことをいう.
幹部候補生とは兵役法で,それまでの一年志願兵の制度を
引き継いでつくられた.昭和の初めころには,中等学校以上の
学歴をもつ者のうち志願する者から選抜して予備士官教育をする.
ただし,卒業した中等学校以上の学校に配属された現役将校の
行なう教練検定に合格していなくてはならなかった.
 
 反軍思想が高まっていた大正時代から引き続いた昭和の初め,
教練なんてとそっぽを向く人も多かったようだ.反軍,平和主義,
マルクス・レーニン主義が若者ばかりか世間の流行になっていた
時代である.昭和の初めには,配属将校にわざと反抗して検定を
不合格にされた人もいるようだった.まさか学生で検査も乙種,
第一補充兵になり,まさか召集なんか来ないだろうと考えていた.
ところが,動員が続き,実際に補充兵として教育召集を受けてから,
その若気の至りを初めて後悔した人もいたともいう.
 
 また経費(食費,弾薬,装具,被服などの損耗費)を自弁する
ことになっていた.その代わり,現役としての服役期間が短かった.
中等学校とその同等以上の卒業者は1年間,大学,高等専門学校
卒業者は10ヵ月の在営で予備役に編入された.
志願できる年齢は17歳以上28歳未満である.案外知られていない
ことだが,中学に入るのに回り道をする人や大学や高専への浪人
もけっこう多かったのが昭和戦前期である.その上,高等教育の
在学生は徴集猶予の特権があったので,入営するのが25,6歳
という大卒も珍しくなかった.
 
 大学学部卒業者は10ヶ月の在営中に曹長の階級に進め,他は軍曹にした.
前者は終末試験に合格し,配属された聯隊の将校団の銓衡会議で
認められれば予備役少尉になった.なお法律・経済・商業関係の
専門学校以上の卒業生は経理部,医師免許証・薬剤師免許状をもつ者,
取得資格のある者は衛生部,獣医師免許証をもつ者,取得資格のある者
は経理部のそれぞれ幹部候補生を志願する資格があった.
 
 歯科医師免許証についての規定がないことに注意したい.
歯科医官が武官になるのは大東亜戦争のさなかであり,
それまでは一般の高等学歴がある者として扱われ,兵科予備将校
になった人も多かった.石川達三の『生きてゐる兵隊』の中には
歯科医師の1等兵が登場する.おそらく幹部候補生を志願しなかった人だろう.
 
 この制度は1933(昭和8)年に改正され,経費の自弁制度がなくなった.
予備役将校を養成する目的の「甲種」と同下士官養成のための
「乙種」に区分された.この2種の採用は学歴の高低では必ずしもなかった.
予備役将校は在郷軍人会の有力な構成員であり,
郷土に定着する農業学校出身者は甲種になりやすく,
都会などへ出てしまう高等商業出身者は乙種にされることが多かったらしい.
 
 大きく変えられたのは支那事変が続いていた1938(昭和13)年10月の
改正である.一般の現役兵のうちの優等者が半年間,在営期間を
短くされた制度がなくなったと同時に,幹部候補生も現役が満期する
2ヵ年まで在営することになった.また在営している補充兵,
短期現役兵のうちからも志願ができるようにした.いよいよ大動員の始まりである.
 
 特設師団ができ,それが4個聯隊基幹のものだったら小銃を主装備
とする中隊数は12個×4で48個中隊.1個中隊3個小隊編成では3×48,
小銃小隊長だけで所要数は140名以上になる.
これ以外に歩兵砲中隊小隊長,機関銃中隊小隊長など少尉,中尉のポスト
はひどく多い.特設歩兵聯隊も聯隊長や副官,大隊長はせめてもの現役
だが,中隊長も半数は予備役将校にならざるを得ない.
 
 一般兵と同じく初年兵として入営する.その日から幹部候補生試験
に合格するまでは,ひたすら我慢である.本籍地主義ではあるが,
学歴のある人の多くは親が都会に出ている人が多かった.
ふつうの兵隊には小学校や青年団活動,実業補修学校,青年学校などで
結びついている人脈がある中で孤独だったのが当時の学歴所有者である.
「いじめ」がひどかったというのはこの時期のことである.
 
 幹部候補生試験はおよそ4ヵ月の1期の教育が終わるころに
行なわれた.甲種に採用されればただちに上等兵に進み,
襟に座金(ざがね)といわれた円形の徽章を付けた.
そして,各地に開かれた予備士官学校に入校した.そこで1年間の教育を受け,
卒業時には曹長に進み部隊に配属された.聯隊長から「見習士官」を
命じられ,3ヵ月は准尉の下,4ヵ月目に将校勤務になれば准尉の
上になった.聯隊将校団の「詮衡会議」を通れば予備少尉に任官した
(これで現役期間は2年間になった).満2ヵ年の現役を終えて
予備役編入,直ちに召集を受け,『現職務を続行せよ』といわれた人
がこの時期の人には多かった.
 
 このとき,陸軍は細やかな配慮を見せた.候補生の帰る部隊は
同じ師団であっても別の聯隊に帰すようにした.歩兵以外の兵科でも
師団の壁を超えてまで異動させた.颯爽とした見習士官が,
1年前には初年兵として絞られていたという記憶が周囲にないように
したのである.なお,戦後のいわば定説によって,「学徒出陣」の学生
たちはみな将校,士官になったかのように思われているが,
甲種の合格率はおよそ兵科では3割である.乙種が4割,したがって
残りの3割は兵隊で終わることになった.大学,高専さえ出ていれば
誰でも将校,下士官になれたほど軍隊は甘くなかったのである.
 
 1939(昭和14)年には,兵科の少・中尉の総数およそ2万8000名
のうち,70%がこうした予備役の召集将校だった.

▼少年兵

 1933(昭和8)年,少年飛行兵と通信兵の制度ができた.
受験資格は満14歳以上,同17歳未満である.学歴の指定は
小学校尋常科卒だが,実際は高等科卒業者が多かった.
すでに説明したように,満17歳になると男子はみな第二国民兵役
に編入された.ただし,これは兵籍ではないために17歳未満の人
を採用し陸軍生徒にしようとすれば,わざわざ「少年」という言葉を
使わねばならなかった.

 飛行兵は埼玉県所沢の陸軍少年飛行兵学校で1年間の
基礎教育課程を終えた.この間は軍人ではなく陸軍生徒である.
卒業と同時に上等兵になり兵籍がついた.この1年間の成績,
適性をみられて陸軍飛行学校,同航空整備学校,同航空通信学校
へ入校した.そこで専門教育を2年間受けて部隊付を6ヵ月,
陸軍航空兵伍長に任官する.

 少年兵制度は現役下士官の養成コースである.それまで現役
下士官は現役2年を終えた志願者から養成していたが,
世間の景気動向の影響を受け,下士官不足は陸軍にとっては
慢性的な悩みだった.これを解消するには,世間にあふれる
小学校卒の優秀者を育てようという企画である.中等学校に
進めた者は同世代の1割くらいで,家庭の経済状況,
環境のおかげで多くは小学校尋常科,あるいは高等科卒で
少年の多くは世間に出ていたのだった.

 少年通信兵,同砲兵(野戦砲兵・重砲兵),同高射兵,同戦車兵
は小学校が国民学校と名称が変わってから,その高等科卒業程度
が受験要件になった.満14歳以上,満18歳未満でそれぞれの学校
に入った.こちらは基礎教育に2ヵ年をかけた.卒業と同時に下士官
候補者の指定を受け,隊付を1年間おえて伍長に任官した.
ただし,この隊付期間も身分は生徒だった.兵長の階級を与えられたが,
まだ兵籍には入らない.航空兵の場合と違い,教育中の事故など
での殉職も少なかったのが理由だろう.

▼技術系下士官

 どの部隊の定員表を見ても必ずあるのが,火工,木工,鍛工,
銃工などの技術系下士官のポストである.のちに技術部の中の
兵技将校,准士官,下士官になったが,彼らも少年兵に準じた
志願兵が多かった.砲兵には火工長,鞍工長,銃工長,鍛工長
という階級もあった.それぞれ1等から3等に分かれた.
同じように工兵には木工長,機工長,電工長があった.
彼らの最終階級は1931(昭和6)年までは上等工長(兵科特務曹長)だった.

 この人々を養成したのが明治初めの「諸工伝習所」」であり,
制度の改変とともに,1920(大正11)年には陸軍工科学校となった.
生徒の受験資格は小学校高等科卒業程度満14歳以上,
満20歳未満となっており,中等学校だった工業学校の卒業生も受験した.
現役兵の中からも受験ができて,これは満23歳未満である.
3年間の教育を受けると技術部伍長になれた.1940(昭和15)年
には陸軍兵器学校になった.

▼軍医候補生と予備員

 陸軍は自前で軍医を作ることを明治の初めにやめてしまった.
森鴎外などの経歴でも分かるように大学学部卒業者,
医師免許をもつ者を採用して現役軍医にしていた.
予備役軍医は一年志願兵,後には幹部候補生から採用した.
軍医候補生という制度を作ったのは海軍の短期現役軍医に
対抗するためだった.1933(昭和8)年には幹部候補生からの
採用をやめて,満32歳までの医師免許をもつ者を対象にする.
それまでの制度では年間170人前後しか確保できない.
用兵綱領にいう戦時50個師団態勢では約5000人の医官
を必要とするからとても足りなかった.昭和の初め,現役医官は
1500人しかいなかったので,危機感はそうとうのものだった.

 志願して認められると居住地の近くにある歩兵聯隊に入った.
身分は陸軍生徒である.与えられる階級は衛生軍曹であり,
1ヵ月後には曹長に進み見習医官になった.
その1ヵ月後には大卒は現役軍医中尉に,医専卒は同少尉に
任官した.満2ヵ年の現役を終えるとそのまま現役医官として
勤務するか,除隊して予備役に編入されるか決めることができた.

 空前の大動員に合わせて1937(昭和12)年には
「軍医予備員令」という勅令が出された.大正から昭和の初め,
医学生たちのほとんどは補充兵や国民兵になっていた.
その人たちに志願しなければ召集で一兵卒だぞと脅しをかけた
制度だった.すでに各科の予備役伍長になっていた人は
志願すれば予備役衛生伍長にして15日間の教育を行う.
予備役の兵,既教育補充兵・国民兵は21日間である
(予備役衛生伍長にする).それ以外の人は上等兵にして
75日間の教育を行う.それぞれ教育が修了すると予備役
衛生軍曹にしていったん除隊.召集があるとただちに曹長,
見習士官を命じて軍医の勤務をとらせた.

▼陸軍特別甲種・乙種幹部候補生

 「トッコウカン」あるいは「トッカン」という言葉があった.
陸軍が崩壊する直前の制度なので,あまり詳しくは知られていない.
予備員であることはどちらも「幹部」という言葉が使われている
ことが分かる.戦後になっての手記の中には,しばしば当人たち
も「現役将校あるいは下士官」を育てる制度だと思い込んだ記述
もあるが,それは例の現役が当分続くという当座の方便から
生まれた誤解である.陸軍は戦争が終わった後の事も考えるから,
膨大な現役軍人は必要とはしなかったのだ.
とにかく幹部というのは予備員のことをいう.

 次回はこの末期の制度と,海軍についてまとめる.
その次からは本格的な大動員として,「関東軍特種演習」に
ついて取り上げてみよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.9.2





◆玉井忠幸『亡国の宰相・菅直人:官邸機能停止の180日』を読み解く


※要旨


・政治家にとって人生とは結果でしかない.
その成し得た結果を歴史という法廷において裁かれることでのみ,評価されるのだ.
1806日の首相在任記録を持つ中曽根康弘・元首相の言葉である.


・「ここには,熾烈な重圧があります.
翌日の新聞に踊る大きな批判記事の活字など,
たいした問題ではなく,この国の将来は自分の決断ひとつにかかっていると,
感じたときの恐ろしいほどの重圧感です.
その重圧感に立ち向かわせるのが,若き日の直感と,
成熟により獲得した知恵なのです」
(中曽根康弘)


・2011年3月に起きた東日本大震災という戦後最大の国難に,
時の菅直人政権はどう立ち向かったのか.
国家の指導者としての菅氏の働きぶりに,
中曽根氏のいう歴史法廷はどういう裁きを下すのだろうか.


・日本の政治はこれからも大きな変化を積み重ねていくだろう.
そして,私たち政治記者は引き続き,
変化する政治の姿を丁寧に記録し,
多くの有権者に伝える責務があると自覚している.
本書は,東日本大震災発生から菅首相退陣までの日本政治の動きを検証し,
読売新聞の政治記事を大幅に加筆修正してまとめたものである.


・震災直後から,自衛隊と米軍は,過去に例のない
大規模な被災地支援・救援救助の共同作戦「トモダチ作戦」を展開する.
2009年の政権交代後,鳩山政権は日米同盟関係をずたずたにしかけたが,
非常時にあっての自衛隊と米軍の結びつきを再強化しただけでなく,
国民の米軍に対する視線にも,大きな影響を与えた.


・米軍は震災直後に発動した「トモダチ作戦」に,
最大時で1万8000人の兵力を動員した.


・米軍が注目したのは,被災の激しかった仙台空港だった.
海岸に近く,津波の直撃を受けた同空港の滑走路は,
がれきや車などで埋め尽くされ,,使用不能になっていた.
米軍はここを「キャンプ・センダイ」と呼び,
空軍部隊や沖縄駐留の海兵隊を投入した.


・自衛隊と米軍の連携は,現場同士の調整に多くが委ねられたが,
その後ろ盾となる政府間の連携と交渉で,
米側の窓口になったのがジョン・ルース駐日大使だった.


・本国政府への連絡は,ルースが携帯電話などで行った.
ワシントンは真夜中だったが,
ルースはホワイトハウスのスタッフに「大統領を起こせ」と命じた.
オバマ大統領の有力な資金協力者であるルースの強みは,
オバマに直接,働きかけができることだった.


・ルースはオバマに,
「同盟国の日本で未曾有の大震災が発生した」
と報告,支援準備を要請した.


・菅首相は,課題に対応するための「プロジェクト」には反応よく飛びつくのに,
問題意識や情報の共有,根回しをしない.
政策面でも,瞬間,瞬間の「最適解」を,
整合性を気にせず追求するから,一貫性に欠けていると映る.


・当時,政府関係者からは,
「民主党は政権をどう動かすか,官僚という『ボタンの押し方』が分かっていない」
と嘆きが漏れた.


※コメント
さまざまなトップがいる.
今回は反命教師として学びたい.
いつ自分が,どういったリーダーになるか分からない.
つねに準備して想定しておくことが大切だ.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.10.2




ライター・渡邉陽子のコラム (63) ─ 2015年陸海空自衛隊の装備と運用(10) 』
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは,渡邉陽子です.

2015年度の防衛予算に含まれる新規事業を中心に,
2015年の陸海空自衛隊の装備と運用について
ご紹介する連載は今回が最終回です.

お付き合いただきありがとうございました.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■2015年陸海空自衛隊の装備と運用(10)


今回はグローバルな安全保障環境の改善についてご案内します.


防衛省はグローバルな安全保障上の課題等に適切に対応
するため,国際平和協力活動等をより積極的に実施するとしています.

新規事業としては,まず国連平和維持活動教官要員訓練
の共催があります.これは各国のPKOセンター等の教官要員
に対する訓練を国際連合と共同で開催するもので,
わが国のPKO活動に対する主体的な取り組みを示すとともに,
他国を含むPKO要員の能力向上に貢献することができます.
また,統幕学校国際平和協力センターの教官要員の参加による
教授能力の向上を通じ,PKO活動等に参加する自衛隊員を
育成するという目的もあります.

昨年12月には,栗田千寿2等陸佐が「女性・平和・安全保障分野
担当のNATO事務総長特別代表」のアドバイザーとして,
約2年間の予定で自衛官として初めてNATO本部に派遣されました.
栗田2佐は東ティモールの国連平和維持活動(PKO)に参加した
経験もあり,NATOでは紛争予防,平和構築での女性参画などを担当しています.


今年も継続して行われている海外での活動としては,
ソマリア沖・アデン湾における海賊対処があります.
アデン湾はソマリアとイエメンに挟まれた長さ約1000km,
最大幅約400kmの海域で,年間で約2万隻もの船舶が通過,
その10隻に1隻が日本と関わりのある船舶です.

この海域で武装した海賊による事案が多発したため,自衛隊は
2009年から護衛艦2隻による派遣海賊対処行動水上部隊を継続的
に派遣しています.また,P−3C哨戒機2機もアデン湾上空を
パトロール,不審な船舶に関する情報を随時提供しています.

2013年には,これまでの直接護衛に加えCTF151(第151連合任務部隊)
に参加してゾーンディフェンス(CTF151司令部から割り当てられた
担当の海域内で行う警戒監視)の実施を決定.さらに自衛隊から
CTF151司令官と同司令部要員を派遣することも決まりました.
今年5月末から7月23日までは伊藤弘海将補が司令官を務め,
訓練でなく実動の多国籍部隊の司令官に自衛官が就任した初のケース
となっています.なお,今年7月,海賊対処活動に参加している海上自衛隊
の活動期間を来年7月まで1年間延長することが閣議で決定しました.

以前はアデン湾を通行する護衛対象の船舶を2隻の護衛艦が
前後からガード,約900kmの航路を2日ほどかけて進む形で護衛を
実施していました.CTF151に参加している現在は,基本的に1隻が
アデン湾を往復しながら直接護衛を行い,もう1隻がゾーンディフェンス
を行なっています.2014年12月31日現在,3614隻の船舶が自衛隊
による護衛のもと,1隻も海賊の被害を受けることなく無事にアデン湾を通過しました.


国際連合南スーダン共和国ミッション(UNMISS)には,2011年11月から
司令部要員を,2012年1月から陸上自衛隊の施設部隊等を派遣しています.
現在は第8次要員が南スーダン派遣施設隊として,首都ジュバの
国連施設内において避難民保護区域の敷地造成などを行なっています.
2013年12月には,南スーダンにおいて治安情勢が急速に悪化する中,
要請を受けた自衛隊が韓国軍へ弾薬を譲渡,翌月に返還されるという
出来事もありました.また,安全保障関連法案の成立により,
政府は南スーダンPKOに派遣されている自衛隊員に,離れた場所で
襲撃された他国部隊などを武器で守る「駆け付け警護」の任務を追加
することを検討しています.


また,今年に入ってすぐ,インドネシア・スラバヤからシンガポールに
向かう途中で墜落したとみられるエア・アジア機の捜索救援のため,
ソマリア沖での海賊対処活動を終えて帰国途上にあった護衛艦「たかなみ」
と「おおなみ」およびヘリコプター3機をインドネシア国際緊急援助水上部隊
として派遣しました.

昨年3月にもマレーシア航空370便消息不明事案に関して国際緊急援助活動
を実施,P−3C哨戒機がマレーシア及びオーストラリアを拠点として,
C−130H輸送機がマレーシアを拠点として,計46回(約400時間)の
捜索活動を行っています.さらに昨年11月には国際連合エボラ緊急対応
ミッション(UNMEER)からの要請により,西アフリカ国際緊急援助空輸隊等
を編組し,航空自衛隊のKC−767 1機によりガーナ共和国まで個人防護具
(約2万着)の輸送活動を実施しました.今後も国際緊急援助活動には
迅速かつ柔軟に対応していくことが予想されます.

(2015年陸海空自衛隊の装備と運用 おわり)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.10.1




◆上阪徹『リブセンス:25歳上場社長・村上太一』を読み解く



※要旨


・2011年12月,25歳で上場の承認を得た日,
仲間とお祝いをするでもなく,
自宅近くの定食屋でから揚げ定食を食べたそうだ.


・彼の名前は,村上太一.
インターネットでアルバイト情報サイトなどを運営する,
リブセンスの代表取締役社長である.


・ひっとしたら,あのニコニコした笑顔の下には,
誰にも負けない天才的な頭脳が隠されているかもしれない.
もしくは,ベンチャー経営の王道を誰かに叩き込まれ,
恵まれた環境で学んできたのかもしれない.


・だが,長時間にわたるインタビューで村上から直接話を聞き,
こうして原稿をまとめている今,
はっきりと確信したことがある.
それは,彼はやはり「ごく普通の25歳の青年」であるといことだ.


・ヒントになるのは,リブセンスの経営理念の言葉である.
「幸せから生まれる幸せ」

つまり,人を幸せにすることによって,
自分たちも幸せになれるということだ.


・本に答えを求めず,自分の頭で考え続ける.


・彼は,高校2年生のとき,いつか役立つだろうと,
簿記やシステムアドミニストレータの資格を取っている.


・村上は現在,相当な読書家だ.


・大学入学時には,事業計画書を作っていた.


・段取りの良さを発揮して,
創業まで綿密なスケジュールを作っている.


・村上は,50代の舞台美術のアーティストからアドバイスを受けている.

「美術のプロですから,内装をお願いしようと相談したら,
今いる人数でギリギリの狭いオフィスを借りるな,
これから会社は成長して人数も増えていくから,
広いところを借りておかないと絶対に後悔するぞ,と叱られました」
と村上はいう.


・「もうひとつもらったアドバイスが,
デスクや道具も中途半端な安っぽいものは買うな,でした.
お前らの会社はでかくなるんだから,
将来もずっと使えるものを買いなさい,と」


・新規事業のヒントは,「既存のモデルの組み合わせ」.


・小さいころから大人と接し,
物怖じしない若者になった.


・東証マザーズに上場したとき,
村上は驚くほど冷静だった.
「そうですね.喜びを爆発させたという感じではなかったかもしれません.
もちろんうれしかったですよ.
でも,私の『妄想』の中では,
すでに上場をしてしまっていたんです」


・自分がやりたいことは,過去を振り返れば見つかる.


・「ジョブスは,やりたいことを見つけなさい,
そのためのヒントはあなたが歩んできた道を
掘り起こせば絶対にある,といっていました」


・「お金のために人は働かない.
それはもはや大きな流れです」




※コメント
彼の自然体の経営手法,生き方には共感を覚える.
その飄々とした前進には本当の力強さを感じる.
今後も,ウォッチしながら応援したい.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
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2015.10.1



◆ジェームス・スキナー『心をひらく:あなたの人生を変える松下幸之助』を読み解く


※要旨


・松下幸之助がやっていたことはすべて,
この「心をひらく」ということだけだった.


・素直になって初めて心がひらかれる.


・「共存共栄」という文字.
やろうとしていることは,
皆にとっていいことにならなければいけない.


・山田利郎が松下電器のペルー子会社を任されていたとき,
年に一度,松下幸之助にあいさつに行っていた.
松下がどんな話をするかと思えば,
業績の話ではなく,人の心の話ばかりであったという.

幸之助は,
「ご苦労様.家族は元気か.現地従業員は喜んで働いているか.
販売店やペルー政府には,喜んでもらっているか」

そして,最後に,
「皆さんに喜んでいただくという前提で,
その国に貢献するために君は行った.
そのことを一生懸命に考えていれば,
必ず経営というものはあとからついてくる.
そうなっていくのだ」
と励ましてくれたそうだ.


・お金はどうにでもなる.
心さえひらければ,不可能はない.


・願いを持てば,手段が与えられる.


・熱意があると,インスピレーションが湧く.
朝,早く仕事に行きたくなる.
勉強も研究も熱心になる.
最低限の努力ではなく,
自分の成し得る最高の成果を出したい.
それ以下では満足しない.


・そうすれば,仕事は仕事で遊びとなる.
仕事は仕事ではなく,芸術になる.
そう.
あなたは芸術家でなければならない.


・自分の道を歩めば,成功の扉はひらかれる.
商売は芸術のレベルまで発達しないといけない.
商品,サービス,顧客に情熱を注ぎ込むからこそ,
新しいアイデアも湧いてくる.
そして問題解決策も浮かぶし,
最後はこの熱意が相手に伝わる.


・顧客は結局のところ,商品やサービスを求めているのではない.
気持ちの変化を求めている.
退屈な気持ちから解放されたい,など.


・心をひらくということは,素直になるということだ.
素直になれば,道がひらかれる.


・アメリカ海軍特殊部隊ネイビーシールズの基礎訓練は,
地獄を超えるような過酷な訓練をされられる.
普通の人なら,辞めてしまう.
彼らはこう考える.

「基礎訓練って所詮こんなものさ」

また困難な実戦では,
「戦争って所詮こんなものさ」

という一言でその気持ちを片づけるようにしている.


・人生最悪の日は,人生の最高の日である.
最低であればあるほど,自分を大きくしてくる.


・トップは孤独,だからいい.
トップにいるということは,
すべてを師匠と呼ぶ自由があるということでもある.


・一度,頭を空っぽにしよう.
無の境地になろう.


・インドのあるヨガの行者は,常に平常心のままでいた.
弟子の一人が彼に「あなたの秘訣はなんですか?」
と尋ねた.
彼は笑いながらこう答えた.

「起きたことを気にとめない」


・100%の心は,日本の美徳.
私は14歳から合気道の道場に通った.
そこで最初に教わったことは,
「道場に入るときは靴をきっちり並べる」
ということだった.
稽古に対する姿勢を100%にすることだ.


・花一輪をさすことに一生涯の価値を見出す.
刀の一振りに人生を見つける.
中途半端にしない.
徹底的にやる.
改善は永遠なり.
限界はない.


・合気道家であり思想家であった藤平光一氏の葬儀に参列した.
そこで思ったことは,100%の人生を送った人の葬儀は,
悲しくともなんともない.
美しいだけである.


・くもりのない心で生きる人は,偉大である.
くもりのない心で生きる人は,美しい.


・真心に勝てる営業はない.
人間はやはり,感情と本能の動物である.
匂いで分かる.
自分の利益を求めているのか,相手の利益を求めているのか.


人は素晴らしい.
人はできる.
人は思いつかないような素晴らしい方法を考える.


・プラスを言えば,プラスを引き寄せる.


・お辞儀の基本は,手に何も持たないことだ.


・すべてが感謝のみである.
もっているものに感謝するから,もっているものが増える.
今のお客様に感謝するから,お客様がふえる.
やってもらっていることに感謝するから,
やってもらえることが増える.


・天変地異を起こしてくれる天地自然にも感謝しよう.
人生は短く,もろく,生を与えられているあいだ精一杯生きる必要があるということを
教えてくれているからである.


・思いついたことをとにかく実行しよう.


・人を育てることこそ最高の錬金術.


・奉仕は,この地球に住む家賃である.
奉仕は,高貴の印である.
奉仕は,社会の心をひらき,
あなたの夢をすべて可能にする.


・大きなビジョンを示そう.
社会はリーダーを求めているし,
素晴らしいビジョンを必要としている.


・建築家のダニエル・バーナムの言葉を,いつも思い出す.

「小さい計画を立てるな.
小さい計画は人の心を動かす力がなく,
達成されないであろう」


・大きなビジョンさえあれば,
世界のすべての財産を持っているのと同じである.


※コメント
彼の美しい言葉には,見習う点が多い.
あらためて,このメルマガの読者の方々に感謝いたします.
いつも読んでいただき,ありがとうございます.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
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2015.9.29



荒木 肇
『動員のコスト(15)──日本陸軍の動員(15)
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□はじめに

 制度論はどうしても硬い言葉が並び,読むのに疲れることと
思います.しかし,軍隊が戦うための態勢をつくるための動員は,
おびただしい数字と難しい言葉の連続です.人・モノ・カネを
集める動員とはたいへんな作業だったことがお分かりになりましょう.
今回の安保法制の審議にからんで,野党の一部が『徴兵制』だの
『戦争にできる国になる』だのと言ったプロパガンダを使いました.
それがいかにデタラメかお分かりになると思います.
戦争はやると言って,すぐにできるものではありません.

 自衛隊は「一回こっきり」の軍隊です.長く戦争を続ける準備
などしたくてもできなかったのが事実.動員の仕組みもなく,
兵員の補充どころか戦争で最も損耗する士官・将校たちの養成
も平時のものでしかありません.戦えるとしたら,現役の今現在
の部隊や艦艇・航空機が自衛のために立ち上がるくらいのものです.


▼陸軍末期の将校集団

 前回の海軍にならって,陸軍の人集めをさらっておこう.
 まず,最末期の陸軍兵科将校,同各部将校の人的構成である.
陸軍は海軍と違って「将校相当官」という制度を廃止した.
1937(昭和12)2月のことである.それまでの経理・衛生・獣医・
軍楽の各部の将校相当官を各部将校とした.階級名も1等主計正,
2等軍医,3等獣医をそれぞれ,主計大佐,軍医中尉,獣医少尉
というように兵科と同じように変えたのである.

 士官の階級名を兵科将校と同じにすることについては海軍の方
が早かった.海軍も長い間,兵科将校とは別に相当官として機関科
士官他の各科士官には独特の階級名称をつけていた.
1920(大正9)年にはこれを改めて,『海軍武官官階表』からも
将校の文字をなくし,少尉以上大将まで全部を士官とした.階級名
も大軍医監,中薬剤監,造船少技士,少主計などから,それぞれ
軍医大佐,薬剤中佐,造船少尉,主計少尉という官名になった.
ただし,海軍は相当官という言い方を最後で使っていた.

 各部将校という言い方で外見では平等に近くなった.
階級呼称も各部中将から同少尉へと変えた陸軍.しかし,将校と
いう言葉にはもともと兵科士官という意味がある.軍隊の指揮権を
もつ者のことをいう.つまり,各部がついている限り,彼らは兵科将校
なみのポストには就けなかった.主計大佐は歩兵聯隊長には決して
なれない.軍医中将は師団長にはなれなかった.その代わり,
官衙の長官にはなることができた.補給廠や研究機関などは定員と
して各部将校や将官のポストがあった.また,各部の学校長,
経理学校長,軍医学校長などは当然,主計中将・少将,軍医中将・少将が就いた.

 兵科は1940(昭和15)年には兵科別がなくなり,歩兵,騎兵,砲兵,
工兵,輜重兵も航空兵もみないっしょに兵科に統一された.兵科で
特別に残ったのは憲兵だけである.なお,ついでに言えば憲兵の
腕章を将校は着けなかった.襟章の上に「旭日章」を着けて識別していた.
 
 これに対して各部の士官は「各部将校」といわれるようになっても
(昭和12年から)軍隊指揮権をもつことはなかった.たとえば,戦時
に編成される師団衛生隊の隊長は軍医でもなければ薬剤官でもない.
兵科将校しか衛生隊長にはなれなかった.戦闘場面になれば野戦病院長
の軍医少佐も護衛隊の兵科中尉の指揮下に入った.兵科将校同士の
序列,指揮権継承の順位も厳密に決まっていて,実力集団の軍隊の
場合は兵科将校だけが順位令で指揮権の継承権をもっていた.
 
 まず,兵科将校の世界は次のようだった.
(1) 陸軍士官学校,同航空士官学校卒で士官候補生出身の
現役将校と召集者
(2) 下士官・准士官出身で士官学校己種学生(あるいは同等課程
の航空科など)卒の少尉候補者出身現役将校と召集者.
(3) 甲種幹部候補生を経て予備士官学校あるいは同程度の
候補生隊卒業,召集によって服務中の予備将校
(4) 特別志願将校といわれた現役と似たような扱いを受ける服務中
の予備役将校
(5) 予備役将校から士官学校丁種学生を経て役種が変わった
現役将校と召集者
(6) 操縦候補生出身の予備役将校で召集され服務中の者
(7) 特別任用を受けて少尉になった准尉経験者と召集服務中の者
(8) 1年志願兵から任官した予備将校で召集服務中の者
 これがおおよその出身区別からみた人員構成である.敗戦時の
現役将校数は約4万8000名だったが,うち兵科将校は2万8833名
であり,全体の59.7%だった.

 指揮権の継承は簡単である.まず,階級が高いものが上位である.
同じ階級なら任官した時が早い者が上位になる.同階級では現役が優先し,
召集者は下位につく.召集された者同士はその日時が早いものが上位
になった.このとき,陸軍は海軍と異なって出身の区分は問題にならない.
予備役召集中の幹部候補生出身の中尉は陸士出の少尉の指揮をとったし,
少尉候補者出身の大尉は中隊長として学卒者の中尉の上官だった.

▼各部将校の世界

 海軍の主計科に対して経理部,衛生科に対して衛生部というように
陸軍は部という言い方をした.経理部(識別色は銀茶),衛生部(深緑),
技術部(黄色),獣医部(紫),法務部(白)である.国家資格免許がある
のは衛生部・獣医部の医官,歯科医官,薬剤官,獣医官だった.
また法務官も法務将校は今でいう司法試験合格者である.

 敗戦時の資料によると,一番の大所帯は大方が驚くが意外なことに
技術部である.意外と言うのは他でもない.陸軍は「技術軽視」だった
はずである.とんでもない.近代軍は技術を軽んじては戦えないのだ.
技術部将校はいっとき,航空,兵器のそれぞれ航技,兵技と区分
されていたこともある.合計で6724名にものぼった.13.9%である.

 次は衛生部になって6725名で現役将校総数のうち,13.9%を
占める.現役軍医は5721名,薬剤373名,歯科28名,衛生268名の
合計6390名.衛生将校というのは医師免許がないが臨床検査などの
特技をもつ.全体の4万8236名中の13.2%にもあたる.
3位は経理部で,主計将校3442名と建技将校685名の合計4127名(同8.6%).

▼陸軍航空隊の将校と下士官

 陸軍航空の活躍は,海軍のゼロ戦人気や紫電改の343航空隊の
知名度が高く,いささか低調であるかのように受け取られている.
また,陸海軍とも高名なパイロットは多くが兵,あるいは下士官出身
の人たちであり,将校や士官パイロットはあまり知られていない.
このことは陸海軍航空の人材育てと関係があるのではないだろうか.

 まず,陸軍の将校操縦員は陸士・陸航士卒業の士官候補生出身者,
予備役は甲種幹部候補生と特別操縦見習士官で構成された.
下士官は下士官操縦学生,少年飛行兵と乙種予備生徒である.
陸軍は戦車と航空機は幹部搭乗主義といって,幹部である下士官(伍長
以上)でなければパイロットにはしなかった.この点で兵長や上等兵が
多かった海軍搭乗員とはずいぶん事情が異なっている.

 もう一度,海軍の制度をおさらいする.海軍兵学校を出た現役将校
の飛行学生,予備役では飛行予備学生が士官搭乗員を育てた.
下士官・兵をつくるのは操縦練習生(のちの丙種予科練),甲種飛行
予科練習生,乙種同,そして特乙飛行予科練習生と予備練習生である.
この予備練習生は前にも説明した逓信省乗員養成所出身で課程の
修了と同時に予備2等飛行兵曹になった.こうしてみると海軍の制度
の方が,やや複雑であることが分かる.

 興味深いのはやはり陸自と海自の比較である.陸自の航空機操縦者
は防衛大学校,一般大学を卒業し,幹部候補生になったあとに航空科
を指定された者から選ばれる.下士官にあたる陸曹からも陸曹操縦課程
というコースがあり,そこに選抜されて教育を受ける.もちろん,
一人前のパイロットになる頃には3等陸尉として士官になる.

 海自にはこれに対して防大・一般大出身の他に航空学生という
募集制度がある.高卒で受験して大学を経ずに士官パイロットになれる.
これは空自も同じである.海自はいまも,防大・一般大卒の士官
になってからのパイロット養成,入隊当初からパイロットを目指す
航空学生というコースになっている.もちろん,こちらも資格を取る頃
には士官(3尉)になっている.

 陸軍パイロットは全員が幹部だった.幹部と陸軍でいう場合は
下士官以上を指す.現在の自衛隊では士官から幹部とされる.
これはおそらく警察予備隊からの制度である.警察では巡査→巡査長→
巡査部長→警部補→警部→警視→警視正→警視長→警視監→警視総監
という順番になるが,巡査と巡査長は兵にあたり,巡査部長は
下士官(英語ではサージャン=軍曹)であり,警部補以上が幹部と
いわれる.ここから陸海軍で士官といわれた階級にあたるものとして
幹部という言葉になったのだろう.

 もともと陸軍は操縦者や偵察者に判任官である伍長以上しか
採用しなかった.海軍はそれに対して兵の身分の搭乗員が多かった.
兵から始まり,下士官(兵曹),准士官(兵曹長)と進級し,おおかたが
特務士官たる海軍少尉になった.陸軍の場合は下士官から准尉になり,
その後,陸軍少尉になる.ところが,陸軍には海軍のような特務士官
というスペシャリストの待遇はなく,曹長・准尉になると少尉候補者に
ならねばならなかった.この少尉候補者は1年間の士官学校への入校
が必須であり,合格率は数パーセントといった難関だった.
そのため,陸軍将校パイロットにはいわゆるたたき上げが少ない.
現役将校パイロットのほとんどは陸士,陸航士出身だった.そこに加えて,
指揮権継承順位の問題がない.陸軍の方がはるかに「民主的」だった
といえよう.

 次回はいよいよ本格的な戦争準備,「関東軍特種演習」で見られた
大動員の様子を説明しよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.10.7





◆兼原信克『戦略外交原論』を読み解く


兼原氏は,内閣官房副長官補.2014年から国家安全保障局次長兼務.
外交官として駐韓公使,内閣情報調査室次長などを歴任.


※要旨


・外交では,国家という巨大な人間集団が垣間見せる,
ぎらりとした動物的な生存本能を理解することが大切である.
しかし同時に,決して冷徹な権力政治だけが外交に必要なわけではない.

むしろ最も大切にせねばならないのは,人間一人ひとりの心の底に輝いている良心である.



・外交官は言葉が命である.
軍人の武器は銃弾だが,外交官は言葉が武器となる.
世界の政治は,稀に戦争によって大きく動かされるが,
ほとんどの場合が言葉によって利益を調整し,
価値観を整えることによって動かされる.



・吉田松陰が松下村塾で教えたのは,洋学でも蘭学でもない.
孟子である.
松陰は,儒家らしくかぎりない優しさを持ちながら,過激とも言える発信と行動の人であった.
そのメッセージは,自分が正しいと思うことには命をかけよ,という一点に尽きる.



・戦略論の基礎に入ろう.
まず,外交と軍事は連続している,ということを覚えていてほしい.
外交が平和担当で,軍事が戦争担当,と言えるほど世の中は単純ではない.
外交と軍事の交わる部分を安全保障と呼ぶ.



・武士の伝統が強く尚武の気風の強い日本人には意外かもしれないが,
安全保障戦略の大半は外交戦略である.
すぐに手が出るのはチンピラと同じである.

大国は,戦わない.
長期にわたって覇権を維持するためには,戦わずして勝つことが重要なのである.
そもそも戦争は,おおかた誰と組むかで初めから勝敗が決まる.



・外交と軍事の判断を,政治が最高レベルで統括してはじめて,国家安全保障が機能する.
外交工作が崩れて軍事に移っていく,軍事作戦が終わりに近づいて外交的処理に移っていく,
あるいは軍事作戦の開始直前に外交交渉に引き戻す,
こういった外交と軍事の狭間を国家最高レベルで調整する必要がある.


安全保障の判断,決断を下すことができるのは,外務大臣でも,防衛大臣でもない.
国家最高指導者として外交と軍事を統括する総理大臣だけなのである.


・安全保障の決断は,突然求められることが多い.
そのため,専門性の高い外交問題,軍事問題に精通した者に,最高指導者を補佐させることが多い.

諸外国では,外交顧問という名であれ(フランス),安全保障補佐官という名であれ(米国),
一人の人間が外交と軍事を統括して,最高指導者への進言に責任を持っている.




・自国の軍事力や,軍事史に対する知識を欠落させれば,過去の戦略的・軍事的失敗に学び,
今日の安全保障政策に生かすことができなくなる.
「どこでどう間違えたか」というような,将来に役立ち得る知的反省や省察が出てこなくなる.



・国家安全保障戦略は,現実主義の結晶である.
目的は理想主義でもよい.
それを現実主義の手段と組み合わせてこそ,実効的な戦略が生まれる.


・戦略眼を持つには,古代から現代まで,世界史のレベルで歴史を動かしている大きな力を
俯瞰することができなくてはならない.
軍事力,経済力,思想の力が,歴史を動かす根本的な力である.
世界史には,常に,この3つの力を兼ね備えた歴史の重心が存在する.



※コメント
教科書で,はじめて世界史を学ぶことは難しい.
無乾燥でなかなか,ストーリーが頭に入らない.
そんなときは漫画でわかる世界史などが,活用できる.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.10.7





◆竹内一正『イーロン・マスクの野望:未来を変える天才経営者』を読み解く



※要旨


・自動車王のヘンリー・フォード,
石油の世紀を築いたジョン・ロックフェラー,
そしてパソコンで未来を創ったスティーブ・ジョブスなど,
天才経営者や偉人は数々登場してきた.


・しかし,その誰をも凌駕する桁違いの発想と,
比類なき行動力を持ち,アメリカ大統領以上に世界中がいま注目する人物がいる.
それがイーロン・マスクだ.


・宇宙ロケット,電気自動車,そして太陽光発電.
この3つの先端産業で革命を起こそうと挑んでいる異色の経営者である.
イーロンが異色なのは外見ではない.
彼が,金儲けのだめではなく,人類を救い,
地球を助けるために会社を起こしていった点であった.


・アメリカのペンシルベニア大学で物理学と経営学を学んだイーロンは,
スタンフォード大学の大学院に進学したが,
たった2日で辞めて,ソフト制作会社を起業.
その後,ペイパルの母体を築き,ペイパル社売却で170億円を手にした.


・彼はロケットを従来の10分の1という激安な製造コストで作り上げた.
これだけでも驚くが,イーロンの視線は遥か彼方を目指している.
「人類を火星に移住させる」
これこそが彼の究極のゴールだ.


・大きなことをいう奴ほど,現場の実態など知らないものだ.
しかし,イーロンは違っていた.
ロケットに使う材料や溶接方法に至るまで細部を知り尽くし,
その上でロケット開発に挑んでいた.


・彼の卓越した能力の一つは,
成功を単なる「点」ではなく,「線」で捉えることにある.


・振り返ると,大学生時代のイーロンはたびたび,
「人類の将来にとって最も大きな影響を与える問題は一体何か」
と考えていた.
そして,辿りついた結論が,
「インターネット,持続可能なエネルギー,宇宙開発の3つ」だった.


・彼の資産は,今や約8000億円と言われる.


・1971年,南アフリカの裕福な家庭で生まれたイーロン・マスクは,
幼いときから本が大好きだった.
弟たちがおもちゃに夢中になるのをよそに,
「ロードオブザリング」や「銀河帝国の興亡」に熱中し,
本を読みふけった.
8歳でブリタニカ百科事典を全巻読破,
小学校の高学年になると10時間も本を読みふけることさえあった.


・10歳のときに彼は小遣いを貯めて,
足りない分は父に出してもらって,念願のパソコンを購入した.
そして,プログラムの教科書を手に入れ,
独学でマスターしていった.


・彼はペンシルベニア大学で物理学を専攻したが,
彼ほど物理学的思考を実際のビジネスで,
縦横無尽に活用した経営者は他にいないかもしれない.
物理学ではモノマネでなく,「原理」から思考を展開する.


・ペイパル社にまつわる「ペイパル・マフィア」という言葉をご存じだろうか.
ペイパル社出身者の多くがその後,大活躍していることを表している.


・ペイパル社の卒業生はみんな世界中で輝かしい活躍をしている.
そして全員が,サイバー空間を戦場としていた.
そんなペイパル・マフィアの中で,
ネットの世界を飛び出して,宇宙ロケットに電気自動車という
「リアル」の世界で戦うことを選んだ唯一の例外がイーロン・マスクである.


・彼は,スペースX社のCEOであるだけでなく,
最高技術責任者(CTO)でもある.
実際のロケット開発で様々な技術的な決断を下している.
「私は自分たちが作るロケットのあらゆることを知り尽くしている」
と言い切れるだけのハードな努力をしてきた.
イーロンは詳細まで理解し判断していた.


・彼の天才的にして型破りなところは,
このようにロケットの詳細開発に入り込む一方で,
NASAから多額の開発補助金を引き出すという
まったく別次元の才能を発揮している点にある.
理系の頭に,文系の交渉力を兼ね備えたCEOだ.
しかも,両方とも超高度なレベルが要求された.


・イーロンの妻だったジャスティンは,
夢を追いかける夫についてこう評していた.
「彼は単なる夢追い人じゃなく,夢に向かって爆走する桁外れの野心家なの」


・彼は奇跡的に,お金に振りまわされないための
「取扱説明書」を持っていたようだ.

「相手が何を大切にしているかを考え,
それを形にできれば,相手は喜んでお金を支払う.
お金は私たちの必要なところへ流れていくんです」
とお金の真理を示唆していた.


・21世紀のビジネス競争では,単品の性能を高めるだけでなく,
全体を取り組んだ便利で使いやすいシステムを生み出すことが,
成功の秘訣である.
イーロンは車についてこう語っている.
「人は車を購入するとき,実は自由を買っているのだ.
つまり,いつでも,どこへでも自分の行きたいところへ行くことができる」


・イーロン・マスクがやっているのは,
地球さえ超えた宇宙規模の壮大なスケールの事業であり未曾有のチャレンジだ.


・彼の,国や政府さえ動かす破天荒な行動力を見ていると,
小さい心配事に気を取られている自分が情けなってしまう.


・私達は運が良い.
歴史上,類を見ないこんな凄いことをやろうとしている男を,
私たちはリアルタイムで見られるんだ.


・イーロンの戦いを見ていると,
自分の悩みが何だが小さく感じられてしょうがない.
我々は人類史上最も偉大で,歴史がガラッと変わる大変革のときに,
居合わせているのではないか.




※コメント
イーロンの圧倒的な構想力と実行力は,見ていて清々しい.
そこまで行くと,人間の可能性は限りなく広いと感じる.
宇宙を考えた場合,人の悩みはちっぽけになるかもしれない.
ちなみに小学生のときに,百科事典を全巻読破した億万長者は多い.
それは,イーロンの他に,ビル・ゲイツ,堀江貴文などだ.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.9.23




◆本多静六『自伝・体験八十五年.努力と奮闘の一代記』を読み解く



※要旨


・不思議なことに私は,父を失い家計も次第に苦しくなり,
百姓仕事の手伝いもさせられるようになってからは,
かえって学問が好きになってきたのである.


・私の体験によれば,人生の最大幸福は,
家庭生活の円満と職業の道楽化による.


・努力こそ人生のすべてで,
努力の体験こそ最も貴重なる体験といわなければならぬ.
そこで,私は自分自身の至らぬ努力体験を語ることに大いなる喜びを感ずる.


・ミュンヘン大学での博士号試験に臨んだ.
試験官のブレンタノ教授が講義の種本としている
『エーアベルグの財政原論』という菊判257ページの本を,
一字一句も余さず暗誦しようと破天荒の決意をした.
だが,いよいよ暗誦にとりかかってみて驚いた.
本の内容がなんとも難解なのである.
1日半ページも進まない.
しかも翌日になるとケロリと忘れてしまう.


・こんなことではとてもダメだ.
せっかくここまできて望みが達せられないとは無念.
このままでそうしておめおめと故国に帰られよう,
どの面下げて養父にまみえよう,
いたずらに屈辱を受けんよりは,
むしろ潔く切腹することが男子の面目ではないか.


・ついに切腹の決心を固め,養父から与えられた,
伝家の宝刀を取り出した.
しかし,いよいよ腹に当てようとすると一分も切れない.
己が卑怯を嘆きながらも,
きょうきょうたる白刃を見ると妙に心は澄みわたり,
理性が頭をもたげてきた.


・「もう一度死力を尽くしてやってみろ.
切腹はいつでもできる.
盲目の塙保己一は630巻の群書類従の内容をことごとく
その頭脳の中にしまっていたのだ.
たった一冊の財政原論が頭の中に入れられぬことがあるものか!」

自分で自分を叱りつけながら,
気を取り直して再び勉強を始めた.


・だが,やってみるとまたダメ.
刀を取り出す.
またやってみる.
そんなことを繰り返しながら,
不安焦燥の数日を過ごすと,不思議にも一週間ののちに,
ようやく精神が統一されてきて,
驚くほどの暗記力がついてきた.


・ついに1日4,5ページの行程で進み,
かつ翌日になっても暗誦でき,さらに10〜15ページ,
ときには20ページも進むことさえあった.


・勇気100倍した私は,昼は孜々として暗誦につとめ,
夜になると下宿の主人や娘に発音や辞句の不熟を訂正してもらった.
かくて弛まず続けること1ヶ月,ついに題さえいわば,
どこでもすらすらと一句も違わずに,
質問に答えられるようになった.
そして博士号に合格した.


・帰国後,「4分の1貯金」と共に,
25歳から始めたのが,「1日1ページ」の文章執筆であった.
これは1日1頁分以上の文章,それも著述原稿として印刷価値をもつものを,
毎日書き続けるという「行」である.


・職業を道楽化する方法は,ただ一つ,勉強に存する.
努力また努力のほかはない.
あらゆる職業は,あらゆる芸術と等しく,
それに入るに,はじめの間こそ多少苦しみを経なければならぬ.
しかし,何人も自己の職業,自己の志向を天職と確信して,
迷わず,疑わず,専心に努力するからには,
早晩必ずその仕事に面白味を生じてくるものである.


・とにかく,後藤新平は,私ばかりでなく,あらゆる一芸一能,
ないし一癖ある人物を隔意なく近づけ各人それぞれの長所,
持ち駒をよく調べておいて,有事のときに,有用な人材を,
それっとばかりに活用し,利用するという天才的存在であった.
人を使い,人を動かす包容力と器量がきわめて大きかったようである.
これが,ついに後藤を後藤新平伯爵の大にまでなすに至った,
最大要素だったと私は考える.




※コメント
本多さんの人生には見習う点が多い.
また自分でもすぐにできるところが沢山あり,
まさに役に立つ教訓集だ.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.9.22





◆小板橋太郎『異端児たちの決断:日立製作所・川村改革の2000日』を読み解く




※要旨


・1999年,日立製作所の副社長川村隆は,
北海道への出張のため全日空新千歳行き61便の飛行機に乗り込んだ.
その飛行機は,旅客機マニアの犯人にハイジャックされた.
犯人は,機長を殺害し,副機長を外に出し,操縦した.
たまたま乗り合わせた非番のベテランパイロットの山内が,
マニュアルを無視し,ドアを破ってコックピットに入り,
あと20秒で墜落というところで,機体の失速を回避した.


・この事件からちょうど10年後の2009年,
日立製作所は製造業史上最大となる7873億円の最終赤字を計上した.
売上高10兆円,日本最大のコングリマリットは,
33万人の従業員を乗せながら,全日空61便のように急降下した.
そして同年4月,旧経営陣の多くは退陣し,
6年前に副社長を最後に子会社に転出していた川村を会長兼社長に起用する.


・歴史の奇妙な偶然を感じさせるのは,
61便を救出した山内がその日,
便の運行には携わらない「非番のパイロット」だったことだ.
乗客が証言しているように,ハイジャックの事実を間近に見ながら,
マニュアル通りの対応しかできなかった客室乗務員ら.
その静止を押しのけて,山内や数名の乗客が協力してコックピットに入り,
機体を再上昇させたことは,
10年後に日立に起きたことと酷似している.


・川村はもともと,何かを決めるときに人に相談をするタイプではない.
川村を長く知る社内の人々は,
「即断即決で味気ないぐらいドライ」
という印象を持っている.
そもそも会議や合議というものをあまり好まない.


・「時計の針を巻き戻したような布陣」
62歳の古川から69歳の川村への社長交代は,
メディアの格好の餌食になった.
だが,川村は意に介さなかった.


・「23人の専務と常務は意思決定の会議から外そう.
今はスピードが最重要だ.
重要な意思決定はこの6人で決める」
4月1日の新体制発足直後の経営会議で,
川村は集まった5人の副社長にこう宣言した.


・川村隆という人物を一言で表現するのは難しい.
日立のエリートコースを歩んできたが,
若い頃からガツガツしたところをあまり見せなかった.


・それは,荘子のつぎの言葉が川村に当てはまる.
「君子の交わりは淡きこと水の如し,
小人の交わりは甘きこと禮の如し」

つまり,
「物事をよくわきまえた人の交際は水のようだ.
つまらぬ小人物の交際は,まるで甘酒のように甘く,
ベタベタした関係であり,一時的には濃密のように見えても,
長続きせず,破綻を招きやすいものだ」



・日立本体の顧客は,受注金額順に業種を並べると,
電力,ガス,通信,金融となる.
古くからインフラ企業を顧客にしてきた日立らしい顧客構成だ.

だが,これを日立グループに切り替えるとまったく異なる風景が見えてきた.
それは,電機,自動車,流通となる.


・川村は,出血している事業のリストラ.
近づける事業と遠ざける事業の峻別を行った.
そして今後成長が見込まれる情報システム系の上場子会社をTOBで取り込み,
社外に流出している利益を取り込んだ.


・「日立に追い風が吹いている」
2010年4月,新社長に就任した中西宏明は,
はじめての記者会見で開口一番,こう宣言した.
過去1年,守り6割と言ってきた緊急事態フェーズから,
一気攻めに転じる旗印を鮮明にしたのだ.
キーワードは「グローバル」.
「日立を世界有数の社会イノベーション企業にする」
と中西は強調した.


・中西は1970年に東京大学工学部を卒業,日立に入社した.
「入社した頃から社長候補」と言われ,
30代の初めにはスタンフォード大学院に留学.
大みか工場副工場長,日立ヨーロッパ社長,
北米総代表,欧州総代表も務めるなど,約束されたエリートコースを歩んできた.


・中西は物腰は穏やかだが,クールで頭が切れる.
そんな彼は5年前にはこの壇上に立つことは予想していなかった.
中西は,2006年に副社長に昇進するが,
日立GST再建に専念するため,同年末には副社長を退任.



・傍目からは中西の北米行きは,
社長レースに破れた都落ちと捉えられた.
だが,中西の経営の真骨頂はここから始まる.
そして,3年間にわたる日立GSTの再建は,
その後,川村とともに進めていく日立「改造」の重要な伏線となるのだ.


・川村にせよ,中西にせよ,他の日立再建チームを見るにつけ,
感じることがある.
一度一線を退いた,あるいは外れた人間が何かの偶然で
再度経営に携わることになった時,
そこにはある種の思い切りや大胆さが発揮されるように思えてならない.
言葉は悪いが,一度捨てた命,一度は死んだ身.
悲壮感ややぶれかぶれというのとも違う,
しがらみから解き放たれた「達観」が経営を動かしていく.
そうでなければ,その後の日立の復活は説明のつけようがない.


・北米サンノゼで,タフ・ネゴシエイターとして名を馳せた中西だが,
単身赴任のプライベート生活は気ままに過ごした.
中西は根っからの料理好きで知られる.
多忙な生活の傍らで,食材を買い込み,
毎晩一人でも3品ほどの料理を作るのが常だった.


・日立GSTの会長の三好が,ゴルフ帰りにワインを携えて中西の部屋に行くと,
エプロンをして自作料理を準備した中西が待っている.

「包丁の研ぎ方一つで料理の味は変わるんだよ」


・入社した頃から社長候補と言われ,
エリート街道を進み,自らもそれを認識しながら,
時の運には恵まれなかった.
それでも腐ることなく,海外での困難なミッションに力を尽くし,
プライベートの時間も疎かには過ごさない.
カルフォルニアでのエピソードは,
豪腕とかタフと呼ばれる中西のもう一つの横顔をよく表している.


・英国での鉄道ビジネスで苦戦を強いられた日立は,
セールスマネジャーの求人広告を出した.

そこに現れたのは,元英国海軍の軍人で,
国防企業BAEシステムズやアルストムでセールスを担当した,
アリステア・ドーマーだ.

「日本のHITACHIが,
なんのツテもないイギリスで鉄道車両を売ろうなんて,
チャレンジングで面白そうじゃないか」

「日立の技術が優れていることは知っているが,
英国でビジネスをするには私のコネクションが必要だ」

と言って現れた.


・ドーマーは,現地を理解するメンバーで体制をつくり,
その結果,公式・非公式の様々な場において,
複雑に入り組むステークホルダーから
情報を適切に吸い上げることが可能になった.


・ドーマーは,英国鉄道戦略庁の担当官だったアンディー・バールをスカウトした.
最初に煮え湯を飲まされた担当官庁から,
直接人材を引き抜くドーマーの人脈と手腕を見て,
日本人幹部は,「やはりボタンの押し方が違うな」
と感心せざるを得なかった.


・2014年6月,川村隆は株式総会において取締役を退任した.
何人かの取締役が簡単な退任の挨拶をするのと同じように,
川村も通りいっぺんの挨拶を残し,取締役会を後にした.
5年にわたる日立再建をなし遂げた主人公は,
最後に気の利いた言葉でも発して取締役会を去るのかと思いきや,
その去り際は拍子抜けするぐらい淡白なものだった.


・川村が日立工場の設計課長だった頃,
日立工場長の綿森力は,こう言ったという.

「この工場が沈むときがもし来たら,キミたちは先に船を下りろ.
それを全部見届けたら,俺はこの窓を蹴破って飛び降りる.
それがザ・ラストマンだ」


・「2009年4月,今にも沈もうとしている日立の舵を握ったのは,
綿森や全日空の山内の言動からザ・ラストマンの精神を
学んだからなのかもしれない」

川村は大略,こう話してくれた.



※コメント
日立の改革はどうやって行われたか.
その一旦が見えて面白い.
またその改革が,60代の重鎮たちが行ったところに興味がそそられる.

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2015.9.21




◆高橋洋一『財務省の逆襲:誰のための消費税増税だったのか』を読み解く


※要旨


・2013年4月に日銀が遅ればせながら採用したような,世界標準ともいえる金融政策を今後も続け,
名目GDP成長率を4%以上に維持.
その一方で先日,法案が成立した納税者の共通番号制度(マイナンバー)や,
歳入庁をつくって,見逃されている脱税分をきっちり徴収する.
この両方ができれば,財政再建は可能だ.
8年もあればできるし,10年あれば楽勝だ.


・経済成長の源泉は,設備投資だ.
成長戦略の成否は,設備投資がどれだけ伸びたかで判断できる.


・日本の財政関係の学者先生は大半は不勉強だ.
数学がわからず,基本的な経済分析すら自分ではできない.
また日本の財政を外野から見て研究している学者先生は,
当事者として財政に取り組んでいる役人たちに,情報,知識ではまったくかなわない.


・財務省の役人がマスコミを味方にする方法は単純だ.
1.出向く.
2.「内部資料」といって資料を持っていく.
3.メールアドレス,携帯電話を教える.
これだけで態度が変わる.


・記者のほとんどは自力でデータなど調べられないから,資料をわたすと喜ばれる.
内部資料といっても,実際にはマスコミ配布用につくられた資料だが.


・国税庁の調査査察部長を経験した財務省キャリアは,その次には官邸に入り,
事務方として官房長官などの政治家に仕えるのが通例である.
仕えてもらう側の政治家にとって,元国税庁調査査察部長は貴重な情報源である.
電話一つで古巣の国税庁に連絡でき,普通では知ることのできないような情報をこっそり教えてもらえる.


・財政は複雑な制度のかたまりだ.
大量にある予算関連の法とその運用は,財政を専門とする学者でさえ,
財務官僚に教えを請わなければ右も左もわからない.
まして門外漢の政治家は,財務官僚の助けなしでは答弁一つままならないのだ.


・誰であれ財務省のトップに就いた者は,その瞬間から財務官僚に依存し始まる.
財務大臣として毎日,役人から大量のレクチャーとサポートを受け続ける.


・財務省の権力は,「カネ」と「情報」を握っていることから来ている.
「カネ」とは,予算である.
国税庁を支配下に置き,国庫に入ってくる税収を管理.
さらに予算編成権を握っていて,集めたカネをどのように使うかの決定権を持っている.
「情報」は,官邸その他の官庁に張り巡らされた人事権から生まれている.


・財務省はしばしば軍隊組織にたとえられている.
管理職は後方で戦火に遭わない将校のようなものだ.
余った時間を使って,政治家やマスコミの懐柔を行う.


・官僚に対抗した竹中平蔵氏の手腕.
竹中氏が普通の外部の学者と違う点は,自分自身が大蔵省に出向していた経験があり,
「どのようにしたら官僚のコントロールを破れるか」を知っていたことだ.


・竹中氏のモットーは「戦略は細部に宿る」である.
徹底してディテールにこだわる.
社会人経験があり,大蔵省で官僚生活も経験していたので,役人のテクニックを熟知し,
彼らに対しては細部をおろそかにしてはいけないことを理解していた.


※コメント
高橋さんからの視点であるが霞ヶ関の内部事情がわかっておもしろい.
仕事の進め方やプロジェクトの遂行において,いろいろ学ぶ点は多い.
ただ計画を書くだけでは物事は進まない.
それをいかに実際に運営するかが肝になる.

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2015.9.20




◆安保徹『こうすれば病気は治る:心とからだの免疫学』を読み解く




※要旨


・心も体も毎日気持ちよく過ごしたい.
これは誰もが願うことだろう.
しかし考えてみると,自分の体のしくみについて,
本当に理解している人は少ないのではないだろうか.


・私たちの健康状態を知るには,
何がもっとも大切なのだろうか.
それは自律神経の働きを理解することである.
すると,もらさず健康状態が把握できる.
私たちの体の調節は,基本になればなるほど,単純化している.


・その基本の基本が自律神経であり,
それは交感神経と副交感神経から成っている.
興奮の体調を準備してくれているのが交感神経で,
リラックスの体調を準備してくれているのが副交感神経である.
たった2つの系の揺れで,すべての体調がつくられているのである.


・基本的で単純な系の特徴は,
すべてを網羅できることに繋がる.


・交感神経は興奮の体調をつくっているので,
いってみれば,この体調のときは元気がでる,
やる気十分という感じである.


・逆に副交感神経はリラックスの体調をつくっているので,
この体調のときは,ゆったりして,
気持ちが落ち着いた状態になる.
食事もすすむ.


・このようなことを理解していると,
薬に頼らなくても自分を健康な状態に戻すことができる.
具体的にいえば,交感神経緊張気味の人は,
働き過ぎを止めたり,心の悩みから脱却することである.


・逆に,副交感神経が優位すぎる人は,
食べる量を少し減らす,運動する,
きびきびした日常生活を送るなどに注意すればよいのだ.


・理解してしまえば,そんな単純なことで,と思われるかもしれない.
そう大切なことは単純なのである.


・本書では,この自律神経の働きをわかりやすく解説し,
さらに自律神経と白血球の連動のしくみも明らかにする.
ここまで理解が進むと,日常の不快な体調はもちろんのこと,
多くの難病からでさえすぐに脱却できるのである.
ぜひとも,健康増進と難病からの脱却の2つを手に入れていただきたい.


・入浴は日本が誇る健康法.
入浴ほど血行を良くさせるものはない.
だから健康法としては非常に効果がある.


・誰でも日常的にできるマッサージに「爪もみ」がある.
手や足の爪は神経や血管が集中しているところなので,
手や足の爪をもむだけでも鍼の半分ぐらいの刺激を与える.


・姿勢はとても大切.
健康を維持するうえで姿勢はとても大切だが,
骨や関節を支える筋肉がないと,良い姿勢が保てない.
筋力がないと姿勢は保てないのである.
逆に言えば,姿勢がいいのは筋力がある人なのである.


・私たちは,筋力がつけば必ず姿勢は良くなるのである.
だから無理な体勢で良い姿勢をつくるのではなくて,
筋力をつけることが大切なのだ.





※コメント
心と体の関係がシンプルに書かれて嬉しい.
しかもお医者さんなので,説得力がある.
いろいろな健康法の本質を知ることができる.

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http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.10.10




ライター・渡邉陽子のコラム (64) ─ 海上自衛隊 第111航空隊(1) 』
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは,渡邉陽子です.

「休日」の定義はいろいろあると思いますが,私にとっての休日は
「家から一歩も出ず,誰とも会わず,ただ静かに過ごすこと」です.

友人と会うとか,美術館に行くとか,釣りに行くといったプライベート
な用事が入ると,それは私にとって休日ではなく「予定のある日」
となります.勤め人だった時代も,できるだけ土日のどちらかは
出かけずに家にこもるようにしていました.それがもっともリフレッシュ
できる方法なのですが,「休みの日に家にいるなんてもったいない,
出かけずにはいられない」と言う友人もいるので,休日の定義って
ほんと,人それぞれですね.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■海上自衛隊 第111航空隊(1)


今回から海上自衛隊第111航空隊をご紹介します.
取材したのは3年ほど前になりますが,111空は非常
に印象強く残っている部隊のひとつです.

安全保障関連法が国会で審議されている際,
「ペルシャ湾口のホルムズ海峡の機雷掃海に掃海部隊を派遣」
といった言葉を何度も耳にされたと思いますが,
今回ご紹介するのは掃海部隊でも「掃海艇」ではなく「掃海ヘリ」です.


海を漂い,船舶に反応すると爆発する兵器,機雷.
海の安全を脅かすだけに,周囲を海に囲まれた日本にとっては,
その脅威はとてつもなく大きいものです.
わが国の生命線といえる海路を守るため,
ヘリコプターを使って空から機雷を除去するという,
唯一の掃海部隊が海上自衛隊の第111航空隊です.


海の中に仕掛けられる爆発物である機雷は,船舶に当たる,
もしくは船舶の音や磁気に反応することで爆発し,船舶を沈没させます.
潜水艦から発射される魚雷は高価なものですが,機雷は1つ数十万円
で作れるものもあるといいます.しかも漁船からでもたやすく投下
できるうえに威力は絶大ということで,極めてコストパフォーマンスが
高い兵器です.そのためしばしば戦争や紛争で使用される,
厄介な代物です.


敷設された機雷を取り除く作業が「掃海」ですが,
周囲を海に囲まれた日本は機雷,掃海との関わりが深い国です.
第2次世界大戦中,瀬戸内海と日本近海には約6万7000個もの
機雷が敷設されました.戦後,旧海軍から海上自衛隊にいたるまで
所属は変遷しながら,掃海部隊はこれらの膨大な機雷の掃海に従事,
主要航路や港湾泊地を切り開きました.その間,作業中に機雷が
爆発するなどして79名の犠牲者も出しています.

1991年,自衛隊初の海外派遣となったペルシャ湾での掃海作業.
掃海部隊は「金は出しても人は出さない」と散々な言われようだった
日本の国際協力に対する評価を覆した立役者であり,自衛隊の
海外派遣の礎となりました.掃海部隊の確かな掃海技術がペルシャ湾
で各国の海軍から賞賛され,国際的な評価を受けたことが,
翌年のPKO法成立の追い風となったのです.


さて,航空機による掃海は,朝鮮戦争時,日本海の沿岸に流れ着く
機雷を上空から発見しようという発想から始まりました.
取材した第111航空隊(以下,111空)は,ヘリコプターによる航空掃海
を行う部隊.掃海艦艇の到着に時間がかかるような遠隔地に機動力
を生かして早期に展開し,機雷除去を行う役目を担っています.


111空は1974年に千葉県の下総基地に新編,現在は退役したV-107,
通称バートルというヘリコプターでのスタートでした.1989年に現在の
山口県の岩国基地へ移り,翌年から海上自衛隊最大サイズのMH-53Eが,
さらに2008年にはMCH-101が配備されました.

主要任務は航空掃海と輸送,MCH-101のみ救難にも利用されています.
MH-53Eは吹き下げ流,いわゆるダウンウォッシュが強すぎて救難には
向かないのです.ちなみに海上自衛隊のヘリコプターの中で最新の
MCH-101は,南極観測船『しらせ』に搭載されている輸送ヘリCH-101
と同じ機種.そのためCH-101の搭乗員養成は111空が実施しています.

次回は航空掃海の方法と,その訓練についてご紹介します.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.10.8




◆春田真『黒子の流儀:DeNA不格好経営の舞台裏』を読み解く



春田真氏は,30歳で住友銀行を辞め,2000年にDeNAに参加.
財務戦略や上場準備を担当.
2011年,会長に就任,
同年12月に横浜DeNAベイスターズ取締役オーナーに就任.
2015年,DeNA取締役を退任.


※要旨


・本書は,DeNAの創業者・南場智子さんの本『不格好経営』の
舞台裏的な位置づけで読んでいただけたらと思う.
DeNAの歴史をひも解いていくと,
そのときどきの重要なイベントは当然ながら似通ってくる.
南場さんが表舞台とすれば,
私はその舞台裏を切り盛りする役.
舞台裏の臨場感を感じてもらえば嬉しい.


・M&A案件というのは,
そこに何らかの縁があれば順調に進むケースが多い.
論理的に説明することは難しい.
企業買収や合併には,そうした要素が大きく働いたりするから不思議なものだ.
相手との縁がなければ,
こちらがどれだけ欲しても実現できなかったりする.
横浜ベースターズの買収でもそうであった.


・プロ野球をビジネスとして見た場合,
実はその規模自体はそれほど大きいものではない.
ところが,その存在感や影響力たるや,同規模のビジネスのみならず,
それを大きく上回る規模のビジネスをはるかに凌駕する.
これが日本社会に根付く野球という文化の大きさなのだと改めて実感させられた.


・大学を卒業した私は,1992年,住友銀行の銀行員としてスタートした.


・配属先は京都の支店だった.
元来の融資先は地元で古くから商売をしている小さな企業や個人事業主が多かった.
土地柄だけあって,お寺関係の取引先もあり,
さまざまな業種の取引先があることは新入社員の私でもすぐにわかった.


・バブルの宴が終わったことで,
全国の支店から「融資回収のプロ」のような,
肝の据わった社員たちが集結していた.


・あるとき強面の支店長からあるノートのコピーを頼まれた.
コピーをしていると,そこに書かれている内容に視線が釘付けになった.
なんとそこには京都の実力者たちの裏人脈のような相関図が,
手書きで記されていた.
その資料を眺めていると,
普通の人には見ることのできない剥き出しの京都の姿に触れた気分になった.


・支店で学んだ基礎.
入社してから2年間,窓口業務や事務作業,督促作業をこなしていったことで,
私はきちんとした仕事をすることの大切さを叩き込まれた.
さらには強面の年配者たちとしっかりと話をする際の度胸といったものも身につけていた.


・バブル崩壊後,一時関係を断っていたお客さんの
ところへ戻ろうという方針になった.
当然,多くのお客さんから厳しい言葉を浴びせられた.
そんなことが続くとさすがにへこんでくるのだが,
人間というのは強いもので,
そうした状況にもいつしか慣れてしまうのだった.


・その段階にまで到達すると,
今度は逆に図々しくなり,厳しいことを言われても受け流し,
どうにか預金を集めようと考えられるようになるのだ.


・こういう図太さを身につけるには,
一度厳しい状況にさらされる必要がある.
それを経ることで,
人はどんな状況にも耐えられるしたたかさを養うことができるのだ.
細かいことをあまり気にせず,
すぐに次のことを考えられる図太さを,
私はこの時期に体得できたと思っている.


・人のつながりというのは,
どこでどうなって自分に返ってくるかわからないところがある.
相手がどんな人であっても誠実にお付き合いすることが大切だということを,
私は常に自分に言い聞かせている.


・DeNAの社内で上場準備を一緒にやったのが公認会計士で,
総合企画部の真田智子さんだ.
実際のところ,書類作成や事務作業に関して,
私はこれまで彼女以上にできる人を見たことがない.
短い時間しかない中で,準備がスムーズに進められたのは,
彼女の力によるところが非常に大きかった.
「実務の神様」と呼びたくなるほど,
彼女の事務処理能力は高かった.


・2007年からモバイルコンテンツの業界で
自主規制団体をつくることになった.
こういう作業をしているときに大切なのが,
必ず紙に落とし込んでいくことだ.
つまり,組織構成から団体規程に至るまで,
話し合いを経て決まったことはすべて書類として残していくのである.


・こうした作業はDeNAがすべて引き受け,作成していった.
これも公開準備のときと同じ要領で,
いつまでもこちら側で抱えないようにした.
できる限り迅速に書類にしていき,
それについていつでも詰めの議論ができる状態にしておいた.


・DeNAの設定するゴールははるか先にある.
それだけに,いまだに最終地点にまで到達できていない.




※コメント
春田氏の実務能力の高さ,裏方ぶりは格好いい.
成長しているチームには,そういった人材が必ずいるものだ.
見習いたい.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.9.18




◆原口泉『龍馬を超えた男,小松帯刀』を読み解く


※要旨


・小松帯刀を一言で語るなら,坂本龍馬や西郷隆盛や大久保利通を活躍させた人物であるという一語に尽きる.


・彼は薩摩藩の名門・肝付家出身.
小松家に養子に出て,薩摩藩の要職を歴任.
持ち前の社交性と人間性により,藩主と実力下級武士との橋渡しを行う.
朝廷や幕府とも良好な関係を保ち,維新の立役者となる.


・帯刀は,藩政の最高位である城代家老時代も,政治,経済,外交,教育と,
あらゆる分野に関わる一方,勝手掛として,予算と資金繰りを直接担当していた.
また優れた経済人であった.


・彼は,身分,国籍を超えて慕われる人格を作った.
名門の生まれながら,幼少体験から苦労人のところもあり,
人の気持ちがよくわかる,この気質あってこそ,さまざまな考え方や勢力が渦巻く薩摩藩を,
大きくまとめあげることができた.


・供を連れずに庶民と交わる「独行の人」.
帯刀は身分が高かったにもかかわらず,供も連れずに一人で,
あちこち出歩いていた.


・彼は探究心が旺盛だったようで,自ら大砲の撃ち方を習い,実弾射撃の練習を繰り返すなど,
最新技術の研究に熱心に取り組んでいた.


・有力諸侯や公卿方への帯刀の交渉術は,実に卓越したものであった.
この手腕を高く評価した島津久光は,27歳の若き帯刀を,家老に昇格させた.
さらには,軍事,財政,教育,商工業など各種の重要な掛も兼任させていく.


・帯刀の社交性は,いうなれば「庶民性を持った貴族」とも言うべきものだった.
それは人種や身分の壁を超えて民意を聞く耳を持ち,宴会やパーティなどの社交的空間においてふんだんに発揮されていく.


・社交の場で情報をキャッチするには,優れたアンテナを要し,
収集した情報が信頼できるものか時間をかけて精査しなければならない.
そうして初めて信じるに足る質のいい情報が得られる.
帯刀はそうした一連の能力にも長けていた.


・維新は,個人の力ではなく,組織の力で成就した.
歴史をみるときは,いざという決定的なときに,組織が動いたか動かなかったか,
動いたとしたらどう動いたかという,政治力学的な観点が必要.



※コメント
薩摩藩に隣接する人吉藩の家老・犬童は,あるとき5,000両の借財を帯刀に求めた.
小松帯刀は家老になったばかりであった.
人吉藩は,突然の火事に見舞われ,借財に走り回ったが,どうにも5,000両足りなかった.
窮状を訴える犬童に帯刀は多くを語らず,五千両を都合することを約束した.
どうにも工面できなかった大金をずいぶん若い家老が,即答で都合すると言っているのだ.
あまりのあっけなさに,驚いたのは犬童であった.
人吉藩と薩摩藩は,これをきっかけに密接な関係になっていく.

のちに薩英戦争で,大きな打撃を受けた薩摩は,人吉藩より膨大な米の支援を受けることになる.
まさに,困ったときは,お互い様である.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.9.18



◆板羽忠徳『20歳若く見える頭髪アンチ・エイジング』を読み解く


板羽氏は,45年間理容師として,ヘアサロンにたずさわっている.



※要旨


・私はこれまでに様々な養毛剤や,育毛法を調べ,独自の発毛・育毛法,
そして「カニ」「イソギンチャク」「エイ」などの組み手による「頭皮マッサージ」,
さらに「髪様シャンプー」などの方法を編み出してきた.



・新しい髪は必ず生えてくる.
育毛剤だけでなく,いつものシャンプーやマッサージなどを丹念に,
正しい方法を同時に行って初めて,髪の毛はうまく快復し始める.



・大切なことは,効果的な育毛剤・発毛剤を使い,原因や誘因に対して適切な対処をして,
食事面や精神面を含めた正しい知識を持ち,髪への負担を取り除く適切なケアを続けていくこと.



・頭皮が弱る最大の原因は「全身の病気」.
腎臓,心臓,肝臓などの病気や,糖尿病,胃腸の不調,さらに偏食や不摂生,
ストレス過多で体力が弱ってしまうこと自体が皮膚に良くない.


・薄毛は「予防に勝る治療なし」である.



・健康な毛髪を作るためには,健康な身体作りが基本.
生活習慣病を起こすような食生活は禁物.


・胃腸の消化吸収をよくしておくことが大切.
また,肩こりは結果的に頭皮への血行を悪くするので,早めにマッサージなどでほぐしましょう.



・マッサージシャンプーが基本.
脱毛予防や育毛のためには,頭皮を柔らかくし,血行をよくしておくことが第一.



・シャンプー時に最も注意しなければならないのは「すすぎ」.
シャンプー剤が頭皮や髪に残らないように十分にすすぎ流しましょう.



・育毛法のいろいろ

1.黒ゴマを毎食ごとに食べる.

2.桑の皮を煎じた汁を塗る.

3.緑茶で頭皮をすすぐ.

4.米ぬか,センブリ,アロエなどを塗る.



※コメント
一昔前と比べて,育毛に関する情報のレベルが上がってきている.
現在の医学の進歩はとても早く,近い将来,薄毛の悩みなどは全くなくなるかもしれない.
そのような日を期待して,日々ストレスをなるべく減らしながら,頭皮に負担をかけないようにしよう.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.9.17




◆榊原英資『財務省』を読み解く


※要旨


・財務官僚の振る舞いは,政策実現のため,根回し,腹の探りあい,パワーバランスの見極め,
落としどころの設定など,極めて人間くさいものとなる.



・予算編成は政治そのもの.
9月からほぼ4ヶ月をかけて調整作業が行われ,最終的に財務省原案が出来る.

予算案は,総理大臣や各省大臣の意見,党の幹事長や政調会長の意見を
しっかりと反映させた予算をつくらなければ,閣議で承認されないし,国会で可決されない.



・族議員の有力者が強く反対する法案を国会で通すことはかなり困難である.
この根回しは法案作成・提出のプロセスのなかで最も重要な事項である.


・財務省は悪役とされることが常.
普通の組織ならばイメージアップを図るところだが,財務省はそんな気配は見られない.
トップも世間に流布しているイメージに反論することなく,いつも沈黙を守っている.


・彼らは自分の職務の性質上,自分たちは悪役でいい,と割り切っている.
財務官僚たちの中には,「悪役と思われる方がカッコいい」という美学というか,空気がある.


・手柄は大臣,秘書官は黒衣.
秘書官の仕事は黒衣だが,財務官僚は他のポストでも多くは黒衣に徹している.
黒衣に徹するというのは,実は強い自信とプライドがあるからできること.



※コメント
榊原氏は,どちらかというと親財務省の立場だ.
しかし,彼は中長期での消費税増税は賛成しているが,現段階の増税には反対している.
財務省に対する見方は,いろいろな意見があり,面白い.

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http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.9.16




◆佐藤優『功利主義者の読書術』を読み解く


※要旨


・外交官の現役時代,筆者は若手外交官の教育係をつとめていたが,
そこではロシア人との論争に勝つためには論理学を勉強せよと強調した.



・現代のような帝国主義の時代には,インテリジェンス(情報)力,交渉力などのソフトパワーの外交力が重要になる.
紛争が起きた場合には,外交官の,交渉力,さらに普段からの人脈がものをいう.


・外交の世界では,宴会がよく行われる.
表面上,和気藹々とした話し合いをしながら,相手が隠している情報をうまく引き出したり,
相手の腹を探るのにカクテル・パーティーほど重要な場はない.


・同時に,カクテルパーティーでは本当の友人はできないという.
外交やインテリジェンスの業界用語で「カクテル・サーキット」というが,
カクテル・パーティーをいくつもはしごして,情報を収集することがある.



・カクテル・パーティーは,いわば情報戦争の戦場なので,そこで出会う人々は,潜在的な敵なのである.
外交やインテリジェンスの世界では,自国の国益がすべてであり,友情も愛情も,
すべて国益のために利用するというのが「ゲームのルール」だ.



・外交官として,モスクワに勤務するようになってから,ロシア人の心情を知るために,
ロシアの小説を読むようになった.
しかし,文学を鑑賞するとか,小説自体を楽しむという優雅なレベルではなく,
日々,虚々実々の駆け引きが展開される外交の現場で,
相手の内在的論理をとらえ,日本側を有利にするという目的のために読書したのだ.



・重要なのは,自分の言葉を持っていることだ.
酒場で喫茶店で,同僚と話すときに,短時間でもよいから,自分の言葉で,自分について話すことが大事だ.




※コメント
小説を実用的に生かすことは高度なテクニックが必要である.
ただ,好きこそものの上手であり,一見無駄とも思えることもどこかで生かされる.
自分の興味あることをとことん研究するもの大切だ.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.9.15




◆菅野一勢『他力本願で金持ちになる人』を読み解く



※要旨


・私は人から成功する秘訣を教えてほしいとか,
どうすれば夢を実現できるかと尋ねられます.
その答えは「自分でやってみること」です.
(ウォルト・ディズニー)


・私は不得意なことは一切やらず,得意なことだけやるようにしている.
(本田宗一郎)


・会社の出口は4つしない.
上場,継承,売却,清算です.
(資産数百億円の富豪Sさん)


・私は決して失望などしない.
どんな失敗も,新たな一歩となるからだ.
(エジソン)


・大丈夫だ.失敗するな.なんとかなる.
(一休さんの遺言状)



・成功するには,成功するまで決して諦めないことだ.
(アンドリュー・カーネギー)


・チャレンジして失敗することを恐れるよりも,
何もしないことを恐れろ.
(本田宗一郎)


・「ウダウダ言ってないで,今すぐやれ!」
今やらないと,90歳になったときに,
もっと冒険しておけばよかった,
って間違いなく後悔するよ.


・みんな知らないんだ.
実は私がやった仕事で成功したのは,
たった1%に過ぎなかったことを.
(本田宗一郎)


・イメージしたものがすべて現実化するのがこの世の仕組み.
(七田眞)


・金運,強運,起業運がつく神社.
毎年,ぼくが欠かさずお参りに行く神社をシェアします.

1.強運の神様で有名な日本橋にある小網神社.

2.金運神社として有名な富士山のふもとにある新屋山神社.

3.箱根神社.


・「君には無理だよ」という人の言葉を,聞いてはいけない.
もし,自分で何かを成し遂げたかったら,
出来なかった時に他人のせいにしないで自分のせいにしなさい.
(マジックジャクソン)


・日本に生まれただけでついている.


・ないものを数えるのではなく,あるものに感謝する.


・もしかしたら,あなたにも辛い過去があるかも知れません.
もしかしたら,今まさに辛い経験をしているかもしれません.
しかし,その経験はすべて自分にとってプラスの経験です.


・15年間で培ったビジネス12の真実.


1.考える前に飛び込むこと.

2.新たな発想は捨てて2番,3番煎じでいこう.


3.誰もメインにしていない,おまけみたいな商品があれば,
それをメインにすることができないか,考えてみよう.

4.3分考えても結論が出ないことは,
3年考えても結論は出ない.



・絶頂期にいち早く次のビジネスを仕掛ける.


・10回起業すれば誰でも成功できる.
当たりにいきつくまでチャレンジし続ける.
そして当たりを引いたら,
そこに全資金と全能力を注ぎ込むのです.


・もの凄いスピードで成功する人の共通点は,
「考える前に行動する」


・最初にあったのは,夢と根拠のない自信だけ.
(孫正義)


・人生のバッターボックスに立ったら,
見送りの三振だけはするな.
(小林繁)


・PKを外すことができるのは,
PKを蹴る勇気を持った者だけだ.
(ロベルト・バッジョ)


・24時間,自分のひらめきに敏感でいる.




※コメント
世界には,いろいろなビジネスのスタイルがある.
一番自分に合ったやり方を見つけることが肝要だ.
つねにアンテナを張り巡らせたい.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.9.15




『ライター・渡邉陽子のコラム (65) ─ 海上自衛隊 第111航空隊(2) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

観艦式の予行に行ってきました.
今回は初めて艦艇からの取材ではなく,航空機からの取材でした.
館山航空基地からSH-60Kに乗り,相模湾を一列縦隊で進む艦艇を
パチパチと撮影.大きな護衛艦から潜水艦やミサイル艇まで
列を乱さず進むというのは,シンプルながら練度がはっきり見える
ものかもしれないと,上空から見ていて感じました.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■海上自衛隊 第111航空隊(2)


今回は航空掃海の方法についてご紹介します.
機雷が敷設された場合,その一帯は危険海域と設定されます.
危険海域全体の掃海には時間がかかるので,まずは船舶が
安全に航行できるために必要な分の水路を掃海します.
掃海具を曳航してこの水路をひたすら往復する,それが航空掃海です.


白いマス目に無数の直線を引いて最終的に黒く塗り潰すように,
掃海ヘリは掃海具を曳航し,水路をくまなく往復します.
一度通過しただけでは反応しない機雷もあるので,同じ場所も
何往復もするのです.
なんとも根気,粘り強さ,忍耐力が求められる,しかも危険を伴う作業です.

機雷には浮遊機雷,上昇機雷,ホーミング機雷,自走機雷など
さまざまな種類がありますが,代表的なものに係維式機雷と
沈底式機雷があります.
係維式機雷は,海底に沈む重りとワイヤーでつながった球体が,
船舶に接触することで爆発する機雷です.沈底式機雷は海底に
沈んだ状態で,船舶の音や磁気に反応して爆発します.


余談ですが,広島県呉市にある海上自衛隊呉史料館,通称てつのくじら館
の2階は「掃海の歴史と世界貢献」と称し,ペルシャ湾への掃海部隊派遣
の際に持ち帰ってきたイラク製の触発機雷をはじめ,何種類もの実物の
機雷が展示されています.てつのくじら館は退役した潜水艦あきしおの
中に入れることが「売り」ではありますが,この2階の展示は,海上自衛隊
の英知と技術の結晶であり,掃海技術の高さを証明しているものです.
訪問する機会のある方は,ぜひすべての説明パネルを読まれることを
おすすめします.

ちなみに館内を案内してくださるボランティアの皆さんは,自衛隊のOB.
掃海の説明は元掃海部隊の隊員が,潜水艦の紹介は元サブマリナーが
説明してくれるのです.

てつのくじら館のウェブサイトはこちら.サイトの野暮ったさがいささか
残念ですが,詳細が載っています.
てつのくじら館 http://www.jmsdf-kure-museum.go.jp/index.php


さて,機雷によって掃海の仕方は異なるので,使用する掃海具も違ってきます.
掃海具はマーク103,104,105と呼ばれる3種類.ちょっと味気ない名称ですね.

103は係維式機雷を掃海するためのもので,ワイヤー切断機を連結した索
をヘリが曳航し,機雷を係維しているワイヤーを切断します.浮かび上がった
機雷は掃海部隊のEODという水中処分員が処分するか,MH-53Eに
取り付けられた20ミリ機関銃で銃撃します.

104は沈底式機雷の中でも音に反応する音響機雷に対応しています.
筒状の中のディスクを水流によって回転させることで,船舶のスクリュー音
に似た音響を発生させ,音響機雷を誘発処分するというものです.
103と104はヘリに搭載し,索につないで水中へ降ろし,ヘリで曳航する
という形になります.


一見ボートのように見える105は,船舶を模擬した磁場を発生させる掃海具.
発電した電流を電線ケーブルに流して海中に磁場を発生させ,磁気機雷を
掃海します.
105はサイズが大きいので掃海ヘリには搭載できません.そこでまずは
掃海母艦に搭載され,現場の海域に到着してからヘリとつないで曳航します.
111空が岩国基地で訓練する際は,基地内にある「すべり」と呼ばれる海への
スロープ部分から105を進水させます.

次回は航空掃海訓練の様子をご紹介します.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.10.15





■ 1日3分で身につけるMBA講座
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≪不適切会計で揺れる東芝の経営を財務の視点から分析する≫


さて,前回はワタミの財務分析をお届けしましたが,
たいへん大きな反響をいただきました.

ご感想をいただいた中に,次回は是非とも東芝の今後についても
財務分析の観点から検証していただきたいというご意見がありましたので,
今回はご要望に応えまして東芝の財務分析を行っていきたいと思います.

東芝はみなさんもご存知のように今年の4月に不適切会計が発覚し,
現在“東芝ブランド”に対する信頼が大きく揺らいでいます.

この不祥事が事業,そして財務にどのような影響を与えているのか?

最新の決算短信から検証を行っていきましょう.


■ 東芝のキャッシュの水準をチェックする


まずは企業の事業活動に欠かすことのできないキャッシュの水準から
見ていきましょう.

東芝の直近の現預金残高は2015年6月30日時点で,2,055億円です.

これだけでは現預金残高の水準が高いか低いかわかりませんので,
比較を行ってみます.

たとえば,東芝の昨年度の売上高は6兆6千億円ですから,
月商に直すと5,500億円です.

つまり,東芝は現状売上の0.37ヶ月分の現金残高しかないということに
なります.

他社との比較で見ていくと,同業種のシャープは年商2兆8千億円と東芝の
半分以下の規模ですが,2015年6月30日時点では,2,143億円と東芝を上回る
現預金残高となっています.

また,日立は年商が9兆8千億円で2015年6月30日現在の現預金残高は
6,900億円なので,売上の0.85ヶ月分に相当する現預金を保有している
ということになります.

このように比較分析を行うと,東芝の現預金残高の少なさが際立つ格好と
なります.


■ 流動負債と流動資産のバランスを見る


続いて流動負債と流動資産のバランスをチェックしてみましょう.


(※注)
流動負債とは?・・・1年以内に支払わなければならない負債,
もしくは営業に関わる負債

流動資産とは?・・・1年以内に現金化される資産,
もしくは営業に関わる資産


東芝は2015年6月30日現在で,4,053億円の短期借入金を計上しています.

この短期借入金は同年3月31日より,わずか3ヶ月で1,090億円も
増加しています.

これは,恐らく不適切会計が発覚した影響で売上が急落し,
費用の支払いに窮して信用不安が起こらないように,
事前に借入をして万が一の事態に備えた結果の表れと推測されます.

ただ,4,000億円以上に膨らんだ短期借入金に対して,2000億円程度の
現預金しかなければ,金融機関が一斉に手を引いた時に
東芝はひとたまりもありません.

つまり,この短期借入金と現預金のバランスについては決して理想的なもの
ではなく,逆に不適切会計から業績が悪化した場合に経営危機に陥るリスクが
高いといっても過言ではないのです.

ただ,より大きな視点で,流動負債と流動資産のバランスを見ると,
流動負債が合計で2兆9,249億円に対して流動資産が3兆3,288億円ありますので,
流動比率を計算すると113.8%となり,経営危険度の目安となる100%は上回って
いますので短期的に危機的な状況に陥る可能性は低いといえるでしょう.

とはいえ,流動資産に計上されている『受取手形及び売掛金』と
『棚卸資産』には注意が必要です.

『受取手形及び売掛金』とは,簡単にいえば,製品やサービスを販売した際に,
販売先に支払いの猶予を与えることです.

通常であれば製品を渡す代わりに現金を受け取るはずですが,商習慣として
製品は先に渡して支払いは受取手形や売掛金として数週間から数ヶ月先に
現金化されるのが一般的であり,現金化されるまでは流動資産の
『受取手形及び売掛金』に計上されることになるのです.

東芝はこの『受取手形及び売掛金』の残高が6月30日現在で1兆1,787億円に
達しています.

これは,売上の2.14ヶ月分に相当します.

この『受取手形及び売掛金』が100%回収できるようであれば問題は
ありませんが,もし販売先が倒産するなど債権が焦げ付くようであれば,
流動資産が目減りすることにつながっていきます.

同じように『棚卸資産』を見ていくと,1兆1,499億円の残高があります.

この『棚卸資産』とは簡単にいえば,製品在庫のことであり,
もし製品が古くなって売れなくなるような不良在庫が発生するようであれば,
『棚卸資産』の残高は大きく減少する可能性も考えられるのです.

そこで,より詳細に東芝の財務状況を把握するためには,このような
『受取手形及び売掛金』や『棚卸資産』が不良債権化していないか
チェックしていく必要があるといえるでしょう.


■ 自己資本をチェックする


それでは最後に,東芝の自己資本はどうでしょうか?

東芝は老舗企業らしくこれまで大きく内部留保を積み立ててきています.

利益剰余金の額は3,710億円に達しており,日立の1兆4,775億円には
遠く及びませんが,シャープの984億円に比べれば,まだ余裕のある水準
といえるでしょう.

また,自己資本比率を計算すると17.3%であり,日立の24.1%ほどでは
ありませんが,シャープの12.3%よりは高い水準にあります.

自己資本部分も1兆円を超える水準にあり,余程巨額の赤字を計上しない
限りは,債務超過に陥って経営が破綻する可能性は低いといえるでしょう.


このように,東芝の貸借対照表を分析する限りは,もちろん健全とは
言い難い面もありますが,すぐに経営危機を迎えるような“瀕死の状態”に
陥っているというわけではないようです.

不適切会計を二度と繰り返さないと反省し,大きな背伸びをしない経営に
徹すれば,現状の体力で十分に再起は可能といえるのではないでしょうか.

今回は貸借対照表から東芝の経営状況を分析してきましたが,
次回は損益計算書とキャッシュフローの観点から東芝の今後を
占っていきたいと思います.

◎1日3分で身につけるMBA講座
http://archives.mag2.com/0000108765/
2015.10.15




陸軍機 vs 海軍機(53)       清水政彦

「零戦と隼(52)」
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 2週お休みして申し訳ありませんでした.
「零戦vs隼」の第52回.今回は,フィリピン陥落から
沖縄戦までの航空作戦全般と,常態化してしまった
「特攻」についてです.


▼ フィリピンの喪失とその意味

 1944年10月にフィリピン東部のレイテ島に上陸した連合軍は,
翌45年1月にはさらにルソン島に上陸して首都マニラに迫り,
激戦の末,1945年3月にマニラ市を奪還した.

 マニラ陥落と相前後して,周辺地区に構築されていた
クラーク・フィールド基地を中心とする航空基地群も連合軍
の手に落ちている.これにより,ルソン島周辺海域を含む
フィリピン全土の制空権が連合軍に握られることになった.

 日本側にとって,ルソン島と台湾を隔てる「バシー海峡」
上空の制空・制海権を失ったことは致命的であった.
「バシー海峡」は,南方の資源地帯と日本本土を結ぶ
ほぼ唯一の連絡路であり,南方から石油を積んで日本に
向かうタンカーは必ずバシー海峡を通過しなければならない.
バシー海峡を空と海から封鎖されることは,すなわち石油の
輸入が不可能となることを意味していた.

 フィリピンを失った時点で,日本の戦争は実質的に終わった.
この時点で国内に備蓄されているわずかな燃料を使い果たせば,
その後は飛行機を飛ばすことも,車両を動かすことも不可能
になる.仮にそうなれば,連合軍が本土に上陸しようがしまいが,
日本本土に残る7千万の軍民は座して死を待つほかに選択肢はない.

 軍事的な観点からは,1945年3月の時点で大日本帝国は
敗北している.陸海軍の軍人の多くも,政府の要人や天皇も,
フィリピン喪失が決定的となった時点で真剣に「早期講和」という
選択肢を考えていたはずだ.

 1945年3月から8月までの約半年の戦いの目的は,すでに
軍事的に「負けている」戦争を政治的・外交的に「終わらせる」
ための時間を稼ぎ出すことにあった.

▼ 沖縄戦とその特異性

 フィリピンを制圧したあと,連合軍は防備の堅い台湾を素通りして,
次の「飛び石作戦」の照準を沖縄に定めていた.連合軍にとって
沖縄を攻略する意味は,日本本土(九州)上陸作戦のための
足がかりにほかならない.

 本土が完全に焦土になる前に講和を実現しなければならないが,
終戦工作にはなおしばらくの時間が必要である.連合軍の
本土上陸を一日でも遅らせるため,沖縄を守備する第32軍は,
前例のない厳しい持久(玉砕)戦の任務を与えられていた.

 撤退の選択肢がない孤島で,10万以上もの将兵が,文字通り
最後の一兵まで抗戦するのである.それまでも「玉砕」の事例は
少なからず存在したが,これらはあくまで「決戦」の結果としての
敗北であり,わずかではあっても勝ち目があると信じる要素が
残っていた.

 しかし,沖縄の場合,もはやはじめから「勝ち」はない状況である.
敵を撃破して勝利することではなく,一日でも長く持久すること,
死ぬまで戦うこと自体が目的であった.第32軍の持久作戦は,
「生還を期し得ない」あるいは「死ぬことが目的である」という点で,
「特攻」に限りなく近い任務だと言えるだろう.

▼ 常態化する「特攻」

 沖縄戦に際して,陸海軍の航空部隊は残存する稼働機の大部分
を投入して大規模な特攻作戦を実施した.これを境として「特攻」は
「特別」なものではなくなり,むしろ「特攻」が通常の対艦攻撃手段
として常態化していく.

 このように「特攻」が常態化していく背景には,いくつかの要因が
あったと考えられる.

 まず,沖縄までの進出距離の問題がある.九州南端から那覇
までの直線距離だけでも約620kmあり,発進基地から沖縄本島沖合
を遊弋する連合軍艦船までの総飛行距離は少なくとも700km以上
を想定しなければならない.一般に航続距離の短い陸軍機にとっては,
この距離では片道攻撃にならざるを得ない.

 次に燃料の問題がある.1945年初頭の時点で,金属材料や
ゴムなどの資材はストックにまだ若干の余裕があり,飛行機の
生産は何とか継続していた.しかし,この時点で日本はすでに
石油の輸入を絶たれており,将来的な燃料供給のメドはまったく
立たない状況である.

 航空部隊は,「飛行機はあるが燃料がない」という状況のなか,
燃料があるうちに何とか有効な攻撃を…という強いプレッシャーに
さらされており,しだいに飛行機を使い捨てる戦術に抵抗を感じなく
なっていった.

 さらに,沖縄戦の戦略的な位置づけも影響しているだろう.
沖縄での戦いは,戦略的に見ると,本土決戦の前に連合軍を
海上で叩く最後のチャンスであった.仮に連合軍が本土に上陸
すれば,日本本土の飛行場は連続空襲を受け,飛行機はたちまち
地上で破壊されてしまうだろう.また,本土への上陸を許す段階に
なれば,仮に飛行機が残っていても,すでに燃料不足で作戦不能
になっている可能性が高い.

 陸上部隊を撃破する最も有効な方法は,海上で輸送船ごと
沈めてしまうことであり,制空権維持の最も有効な手段は,米空母
をその搭載機ごと炎上させることである.一方,当時の飛行機は
陸上部隊に対する打撃力が微弱で,対地攻撃任務は労多くして功少ない.

 1945年の段階では,質的,数的に劣る日本の航空部隊がとるべき
道は,「連合軍が本土に上陸する前に対艦攻撃に注力する」ことしか
なかった.

 沖縄で第32軍が頑張っている間は,連合軍の機動部隊や
補給船団を沖縄近海に拘束しておくことができ,かつ,周囲には
連合軍が利用できる飛行場が存在しない.陸海軍の航空部隊は,
第32軍の犠牲によって生み出された有利な状況を最大限利用し,
可能な限りの戦力を投入して最大限の戦果を挙げようと試みたのである.

▼ 有効な対艦攻撃手段がない

 しかし,いわば「最後のチャンス」である沖縄での航空戦が
開始されたとき,日本陸海軍の航空隊は,戦果を期待できる
有効な対艦攻撃手段を持っていなかった.このことが,「特攻」
を常態化させることになった決定的要素の一つであろう.

 1945年に入ると,連合軍艦隊の対空防禦は一層強化され,
ほとんど鉄壁といってよいレベルに達していた.とくに空母機動部隊
の防空システムは強力で,仮に「特攻」でない通常攻撃(急降下爆撃
や雷撃)を行なったとしても,出撃機のほぼ全部が失われる一方で,
攻撃の成果はほとんど望めないという絶望的な状況であった.

 つまり,1945年の段階では,「特攻」であろうがなかろうが,
攻撃飛行隊の乗員は,ほぼ「会敵=戦死」であると覚悟する必要が
あった.「どうせ死ぬなら確実な戦果を…」という前線将兵の心情も,
「体当たり戦術」という禁じ手の敷居を下げる結果につながったと思われる.

▼ 航空部隊を「特攻」に駆り立てた「空気」

 しかし,後述するとおり,単に「有効な対艦攻撃」という観点から
のみ考えれば,何も爆弾もろとも体当たりする必要はなかったはずである.

 陸海軍の統帥部が,あえて体当たりという異常な戦法を常用する
に至った決定的な要因は,戦術的な合理性とは無縁の,もっぱら
心理的・政治的な「空気」であったように思われる.その「空気」とは,
レイテ作戦に際して陸軍航空隊を海軍の「特攻」に追随させた「空気」
と同じものだろう.

 つまり,単に時間稼ぎのために「玉砕」するという地上部隊の不条理
な犠牲に報いるためには,航空部隊も同様の犠牲を払わなければ
死者に顔向けできず,軍の士気も保てない…という無言のプレッシャー
に負けたのだ.

 繰り返しになるが,そもそも航空部隊という存在自体が,巨大な軍
の組織全体の中で見れば「ひと握りのエリート」だといってよい.
内地の国民や前線の歩兵が飢えている最中でも,パイロットに対して
だけは食事も酒も大盤振る舞いが許されていた.すべてが逼迫した
当時の情勢下で,日常的に肉や刺身・寿司・菓子・果物などを食べ,
かつ酒盛りができたのは,一部の特権階級を除けば航空部隊の
空中勤務者だけだった.

 なかでも内地や中国大陸方面から動員されてきた航空部隊は,
それまでは戦時下とはいえ比較的平穏な環境下で,当時の基準
でみればかなり「贅沢な」生活をしてきた人々である.

 そうした「ひと握りのエリート」たちが軍予算の大部分を食いつぶす
一方で,一向に見るべき戦果を挙げられず,その不手際の尻拭い
をするかたちで地上部隊が「玉砕」を強いられる…沖縄戦とは,
そういう不条理に満ちた戦いだった.

 実際,「特攻」で戦死したパイロットの数は,ソロモン・ニューギニア
やフィリピンでジャングルに消えていった地上部隊の餓死者・病死者
(戦死者ではない)の数と比べれば桁が二つ少ない.「特攻」だけが
不条理なのではなく,当時はもっとはるかに巨大な不条理がそこら中
に存在したのだ.「玉砕」を覚悟した地上部隊将兵の心中,彼らが
抱いていた航空部隊に対する羨望,不満,怨嗟の感情は,現代人
には想像を絶するものである.

「ひと握りのエリート」である航空部隊は,軍全体の士気と秩序を維持
するため,全力で「特攻」することで地上部隊の犠牲に報いることを
求められた.地上部隊が今まさに体験している不条理を共有するため
には,航空部隊に課せられる任務もまた不条理でなければならない.
比較的恵まれた環境にあった航空部隊は,「特攻」という不条理に
あえて身を投じることで,ようやく地上部隊並みになったと見なされるのである.

▼ 「大和」特攻も同じ理屈

 沖縄戦に際しては,戦艦「大和」も合理性を度外視した「水上特攻」
に出撃しているが,これも上記と同様の理屈に基づくものと解釈できる.
「大和」は巨大な予算を投じて建造され,最高の装備と最良の乗員を
揃えていながらほとんど前線に出ることがなかった.

 同艦は戦争の大部分を安全な泊地で過ごし,もっぱら冷暖房完備の
快適な海上司令部として利用されていたため,最前線で死闘を繰り広げる
部隊の目には無用の長物と映った.海軍が誇る最強の戦艦は,いつしか
友軍将兵から「大和ホテル」と陰口を叩かれる存在になっていた.

「一兵卒を死地に追いやっておきながら,エリートが後方で楽をしている」
という批判を許さないためには,最も恵まれた存在である「大和」こそが,
まず率先して最も不条理な作戦に身を投じる必要があると感じられたの
だろう.

次回が最終回の予定です.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.10.14




荒木 肇
『関東軍特種演習──史上空前の大動員(1)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


□はじめに

 今回から平時に行なわれた史上空前の大動員,「関特演」と
略称された関東軍特種演習について紹介してみます.
人員50万,馬匹15万頭という大軍が海を渡り,満洲各地に
展開し,ソビエト連邦に侵攻する姿勢を示した昭和陸軍の行動でした.

 すでに1940(昭和15)年,関東軍はノモンハンで手ひどい
損害を受けました.作戦を指導した司令部のメンバーは,
それぞれ不手際の責任を取らされ,更迭されたり,左遷されたり
したのですが,今度は陸軍中央の後押しを手に入れます.
戦後,防衛庁戦史室の質問に瀬島龍三氏(陸士44期)は
次のように答えていました.
「参謀本部は16個師団態勢を整えるといいながら,
実は軍直(直轄)部隊,兵站部隊に関する限りは,
作戦開始兵力20〜25個師団に応ずる兵力の軍直部隊を
あらかじめ派遣してしまおうとしたのである」
と語っているのです.

 それまでも南へ進み南方資源地帯を手に入れるか,
北へ行ってソ連を撃つか,陸軍の中では意見が大きく揺れていました.
海軍の方針はもとから南進です.陸軍は長く続く支那事変の
解決に悩んでいました.一方でソ連に備えて軍備を一新しよう
としているのに,泥沼化する事変,その解決は糸口も見つかりませんでした.
 
 そこに突然のヒトラーの背信,「独ソ不可侵条約」(1939年9月)
に陸軍は茫然自失します.その結果,欧州戦争には不介入を
決めたものの,ヒトラーの「電撃戦」が成功する(1940年5月).
ここで一気にドイツへの傾倒が息を吹き返したのです.
さらに,ドイツ自慢の装甲機械化軍団があっという間にフランスを屈服させました.
 
 好機がやってきた,強気に出ようという意見が大勢を占める
ようになってきたのでした.

▼ドイツ軍,ソビエト連邦に侵攻す

 1941(昭和16)年6月22日,ドイツ軍はソ連に侵攻を始める.
すでに4月中旬には,その情報は陸軍省,参謀本部には届いて
いたらしい.その頃には政府当局に対して調整をする陸軍省軍務局や,
作戦・動員を企画する参謀本部では論争が続いていた.
どう対処するかである.すでに6月2日には参本作戦部長,田中新一少将
は満洲の新京に飛んでいた.関東軍司令官梅津美治郎大将以下
の関東軍首脳部と話し合いをもつためである.
 
 陸軍中枢は大騒ぎになっていた.この機を逃さず一気にソ連を倒し,
北の脅威を除こうではないか,ソ連は必ず崩壊する,そういった議論
が三宅坂(陸軍省と参謀本部)を駆けめぐっていた.
 
 ただ,陸軍にはひどく苦い思い出もあった.
2年前のノモンハン事変(満洲帝国とモンゴル人民共和国との国境紛争)
の最中である.1939(昭和14)年8月,ヒトラーはスターリンと突然
手を結び,相互不可侵条約を締結.日独伊防共協定を推進した陸軍
の政策担当者たちは茫然とするしかなかった.
だからこそと言うべきか,それなのにと言った方がいいか,今度こそ
はこれに賭けるといった声がまたまた高まっていたのである.
 
 それというのも,前年1940(昭和15)年5月,ドイツ軍は「電撃戦」
によってフランスを屈服させ,オランダも押さえてしまった.当時の
両国は植民地大国だったから,ジャワ(インドネシア),インドシナ(ベトナム)
などのアジアにあるいわば海外支店は力を失うことになった.
それと同時に,大英帝国もいよいよ本土にドイツ軍が上陸しては
全面降伏するのではないかという観測も当時のマスコミや世間
での常識になっていた.
 
 英国空軍(RAF)が救国の英雄を多く出したバトル・オブ・ブリテン
は1940(昭和15)年9月から始まった.名戦闘機スピットファイア
と防空システムによって英国空軍は善戦健闘する.国民もまた結集
して英国史上最大の国難に耐えた.予想された英国本土侵攻作戦
は断念せざるを得なかった.
 
 それにしてもヒトラーの打つ手は次々と華々しい戦果を上げ続けた.
北アフリカではロンメルの率いるアフリカ軍団が常勝し,バルカン半島
でも機甲部隊が活躍を続ける.これではドイツびいきの多かった陸軍
では,ますますこの機を逃すなという気分が高まってきてしまった.
 
 それでは当時の陸軍はどういう環境,状況にあったかを少し時計の針
を戻してみよう.

▼軍備充実6カ年計画・1号軍備とは

 陸軍は満洲帝国(成立は1933=昭和8年)で直接にソ連と国境を
接することになった.日満議定書によって,日本は満洲国の防衛を
直に担当することになった.緩衝地帯がなくなったのである.
正式な国土である朝鮮から地続きで仮想敵国と向き合うことになった.
ソ連はまた同時にモンゴル人民共和国(当時の認識では外蒙古)の
後ろ盾となり,軍備を充実させた.極東ソ連軍の増強ぶりは目をみはる
ものがあった.

 陸軍は戦時41個師団を構想した.これ以前はせいぜい30個師団
を動員できるだけだった.常備17個師団を核にして,特設13個師団
を設ける.その他,各種の特設部隊をつくらねばならない.
1934(昭和9)年の動員計画によれば,野戦軍が94万8827人,
馬匹32万8494人である.この他に攻城部隊5254人,馬匹151頭,
兵站部隊,海岸要塞,台湾守備隊などの警備・防衛にあたる守備部隊
が14万393人,馬匹5579頭,鉄道部隊などの特種部隊は9万8495人
と馬匹581頭,内地の留守師団管区などを運営する留守部隊は
24万3147人,同じく馬匹2万5403頭になっていた.合計143万6116名,
馬匹36万211頭である.

 この他,航空部隊は5個飛行隊司令部をはじめとして4個戦闘飛行大隊,
5個偵察飛行大隊,1個軽爆撃機大隊,2個重爆撃機大隊,それに
独立飛行中隊が戦闘・偵察が各4個ずつ,3個軽爆独飛中隊,
1個重爆独飛中隊,超重爆といわれた4発の大型爆撃をもつ
独飛中隊1個(フィリッピンへの渡洋爆撃用)だった.

 1936(昭和11)年,「帝国国防方針」と「用兵綱領」などが裁可
された.国家ただ一人の主権者にして,陸海軍最高司令官の天皇の
名によって認められたのだ.陸軍兵力は50個師団,航空142個中隊
だった.ちなみに陸海軍対等という原則をもち,海軍の艦艇は
主力艦(戦艦と巡洋戦艦)12隻,航空母艦12隻,巡洋艦28隻,
水雷戦隊6隊(駆逐艦96隻),潜水戦隊若干(潜水艦70隻),
航空兵力は65隊となっていた.陸海軍ともに,これを政府に突き付け
実施を要求できるようになった.

 陸軍の50個師団は計画完成時ということで,とりあえず41個師団
と航空142個中隊の整備を高らかに打ち上げたのが1号軍備,
部内でいわれた「本格的軍備充実」である.
(1) 戦時兵力
 昭和17年度までに41個師団とこれに応じた諸部隊,飛行142個中隊
とこれに応じた諸部隊を整備する.
(2) 平時兵力
 昭和17年度までに満洲に駐屯する10個師団,内地と朝鮮にある
17個師団とこれらに応じる諸部隊,飛行142個中隊とこれらに応じる
諸部隊を整備しながら補充,動員,教育,補給,衛生等の諸施設を増備する.

 このころの平時兵力は17個師団である.これらを2倍動員し,
戦時兵力を32個師団とする.この仕組みはもう一度おさらいしておこう.
出征する野戦師団は現役兵を主とするが,若い予備役兵も動員され
定数を満たした.内地で管理業務をするのは留守師団であり,動員された
人馬は再編成されて特設師団となる.たとえば,東京の第1師団から
実際に生まれたのが第101師団である.

 さらに41個師団とする工夫がされた.朝鮮にはこれまでの2個師団では
なく,1個師団を増やす.内地の14個師団を2倍動員し28個,これに
満洲の10個で41個.残りの9個師団は外地に出征中の独立歩兵団
や警備師団,旅団を改編して9個師団にする.合計50個師団である.

 さらに常設師団を17から27に増やす方法があった.
これは1939(昭和14)年から実施することになった.さきの(1),(2)
に続いて(3)には作戦資材の整備という項目があり,さらに(4)があった.
『現制師団より歩兵1個聯隊及び野砲兵3個中隊を減少し,3単位師団
に改編する』

▼昭和12年度の改編

 1号軍備の初年度になる1937(昭和12)年1月,「兵科将校補充計画」
が立てられた.陸軍士官学校予科生徒の採用数を倍加する.
さらに士官学校の教育期間を短くする.幹部候補生,少尉候補者,
特別志願将校の採用数を増やすなどの施策である.また,准士官である
各科特務曹長を予備役にして少尉に任官させる.この予備役少尉を
特別志願将校に任用し,現役少尉が就くべきポストに充てる.
これらにともなって,陸軍大学校,各兵科の実施学校(兵科別の教育・研究
を行なう.歩兵学校,野砲兵学校など)のそれぞれ学生の定員も増やす
ことにする.

 この特別志願将校制度は1932(昭和7)年度に創設された.
予備役召集将校は現役将校に比べて,さまざまな不利益があった.
指揮権が後回しになる.現役将校が就くべきポストに充てられない.
まずは階級的には「士官」から始めようとする.「士官」とは大尉,中尉,
少尉のことである.次に佐官にまで,それを拡充したのが「特別志願将校」
ということになる.

 4月には,「准士官・下士官補充計画」が立てられ,下士官候補者の
採用数を増やすことにもなった.こうして,人の面の手当てを行なった.

 次回は師団増設計画を詳しく見てみよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.10.14




◆佐藤優『プラハの憂鬱』を読み解く


※要旨


・趣味というのは,ライフワークということでもある.
仕事に関わらず学生時代からのテーマを研究し続けることはとても重要.


・私は外務省のロシア語研修の一環で,
イギリスの陸軍語学学校でロシア語を学んだ.
宿舎の将校食堂は8時までやっている.
英国軍はドレスコードが厳しく,
夕食時はネクタイと上着の着用が義務づけられている.


・サロンには新聞があった.
高級紙だけでなくタブロイド判の大衆紙もある.
将校は必ず高級紙を手に取る.
このときどこの新聞をいちばん初めに読むかで,その人の政治的傾向がわかる.


・私はチェコの神学を研究したかったため,
ロンドンの亡命チェコ人が経営する古本屋を見つけた.


・英国海軍将校の友人はこう解説してくれた.
「一般論としてインテリジェンスの世界の人たちは,
飛び込みで誰かがアプローチしてくると警戒する.
もっとも相手は古本屋を経営しているわけだから,
飛び込みで新しい人脈を開拓することも考えているのだと思う.
その古本屋はとても不思議な感じがするな」


・チェコ人はどんなことでも首を突っ込む.
この世界で起きているすべてのことを知ろうとする.
チェコ人でチェコ語以外にドイツ語,英語,フランス語,
ロシア語を上手に操る知識人はたくさんいる.
われわれはヨーロッパでもっとも外国語に堪能な民族だと思う.
それは世界で起きているいろいろなことを知らないと,
生き残ることができないという強迫観念がチェコ人に強いからだ.
(古本屋店主・亡命チェコ人)


・優れた思想家は,優れた編集者だ.
過去の資料はそれこそ無限にある.
そこから何を選び出し,どうつなぎ合わせるかによって物語が形成される.


・この英国陸軍語学学校(ベーコンズフィールド)では,英連邦だけでなく,世界各地の将校を招いている.
英語を教えるとともに,中東,アフリカ,アジア,
中南米などの軍人とネットワークをつくっておくことをイギリス人は何となく考えている.
何となく考えるのがイギリス人の特徴だ.
ドイツ人のように物事を詰めて考えない.
また,アメリカ人のように実証的なデータを分析して予測するという方法もとらない.
これまでの経験を踏まえて,ゆるやかな人脈をつくるのだ.
将来,佐藤が日本外務省幹部になるか,政治家になれば,
ベーコンズフィールドの同級生や同窓生が現れる.
こういう方法で,英国はアフリカ,中東,中南米の非民主的な国家の王族や,
軍事独裁政権幹部と良好な関係を維持している.
(友人の英国海軍将校)


・ロシア革命前のロシア語の文献は,大英博物館の図書館にほとんど入っている.
きちんとしたコレクションがある.
大英帝国にとってロシア帝国は仮想敵国だった.
ロシア帝国がソ連と名称を変えても,敵対の構造は変わらない.
第二次大戦前から1950年代初めまで,
モスクワの英国大使館で勤務する文化アタッシュは,
ソ連で刊行された書籍やパンフレットを網羅的に入手してロンドンに送っていた.


・ロシア人の生活の文法,内在的論理をつかむためには,
できるだけ普通のモスクワ市民に近い生活をすることだ.
モスクワ国立大学に通う間は,なるべく自家用車を使わないで,
地下鉄,バス,路面電車などの公共交通機関を使うこと.
(亡命チェコ人のアドバイス)


・一般の商店を利用して,普通のロシア人がどういう生活をして,
どの物資が欠乏して,何を買ったときに喜ぶか,皮膚感覚で知っておくことが重要.
それからロシアの高級紙だけではなく,
夕刊紙や生活に密着した記事が載った雑誌にも目を通すこと.
また,ロシアのテレビを見る.
そこから普通のロシア人がどういうことで喜び,怒るかを知る.
これは実際にロシアで生活しないとわからない.
(亡命チェコ人のアドバイス)


※コメント
佐藤氏の記憶力に驚く.
20年以上前のことを細かく覚えている.
これらは彼の仕事や作家活動に役立っているようだ.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.10.17




◆田中裕輔『なぜマッキンゼーの人は年俸1億円でも辞めるのか』を読み解く


※要旨


・筆を執ろうと思った理由は,
僕のマッキンゼーでの自己変革体験を書くことが,
「インパクト志向」を皆と共有していく上で重要ではないかと考えたからである.
今の僕のすべてはマッキンゼーが教えてくれたものと言っても過言ではない.


・いわゆるマッキンゼー流の思考方法だけではなく,
「日本にインパクトを与えたい」という志もマッキンゼーが教えてくれた.


・僕は海外留学期間も含めると,合計8年間マッキンゼーに所属した.
そこでは頭の使い方だけではなく,先輩・同期・後輩から多くの価値観を学んだ.
「寄らば大樹の陰」の思考を捨てること.
そして自らがリーダーシップを発揮して日本や世界に対してインパクトを与えること.
これこそが僕がマッキンゼーの中で学んだ価値観である.


・今の日本人に欠けているのは知識ではない.
必要なのは,自分の人生に対して責任をもって積極的に「志」に向けて突き進むこと,
それだけである.
その一歩を踏み出せる人間がこれから何人出てくるかによって,今後の日本は大きく変わってくる.


・マッキンゼーの研修期間中,何度もいわれたことが「常にバリュー(価値)を出すように」だ.
黙って聞いているだけ,勉強しているだけの時間なんて許されない.
そんな徹底した「バリュー主義」を改めて思い知った.


・パートナーやマネージャーは,若いコンサルタントたちにフュイードバックを与え続ける.
「皆が成長できるように最大限の支援をする」
これこそがマッキンゼーの姿なのだ.


・マネージャーたるもの,クライアントが満足すればよいというものではない.
チームメンバーとも信頼関係を構築し,彼らのモチベーションを高めつつ,
成長機会も与えていかなければならない.


・マッキンゼーがMBAに留学するコンサルタントたちに期待することの一つとして,
時間をかけて「マインド・サーチ」を行うことが挙げられる.
マインドサーチとは,この人生の中で自分が一体何を成し遂げたいか,
何が自分にとって重要な価値観なのか,など「自分」と徹底的に向き合うことである.


※コメント
マッキンゼーとはどんなところかを知れる貴重な体験談だ.
さまざまな視点,さまざまな役職の人のマッキンゼー本を読むと全体像を知れる.
なにかの気付きを得られる.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.10.16




◆土佐茂生『安倍政権の裏の顔:攻防・集団的自衛権ドキュメント』を読み解く



※要旨


・2001年初夏.
元駐タイ大使の岡崎久彦は,
安全保障研究の第一人者である佐瀬昌盛の自宅に電話した.
佐瀬は『集団的自衛権』(PHP新書)を出版したばかりだった.



★佐瀬昌盛『集団的自衛権』

http://amzn.to/1LNdVPh



岡崎は電話で佐瀬にこう伝える.
「この本は最高の教科書だ.これで政治家を教育しよう」

その後,2人は作戦を練るために会った.
佐瀬は尋ねた.
「どうやって政治家を教育するんだ」

岡崎は,
「各個撃破だ.一人一人教育していこう」

「誰からやるんだ?」
佐瀬の問いに岡崎は,まだ衆院当選3回に過ぎなかった若手議員の名を即答した.

「安倍晋三だ.あれはぶれない」



・「悪代官」と「越後屋」.
2014年3月,公明党との交渉役を務める自民党副総裁の高村正彦は,
前副総裁の大島理森の部屋にいた.
「注意深い楽観主義者」と自称する高村は,
公明党代表の山口那津男も副代表の北側一雄も説得できると踏んでいた.
2人とも自分と同じ弁護士で,安全保障政策にも理解がある.


・しかし,「情」も使って公明党の警戒心を解かなければとも感じていた.
高村が狙いを定めたのが,
公明党国会対策委員長の漆原良夫だった.
信望が厚い漆原が納得すれば,
他の議員も分かってくれるはず,という読みだった.


・漆原と,自民党で最も絆が深いのが大島理森だ.
2人は第一次安倍,福田,麻生の3つの政権で,
国対委員長だった.
当時は衆参で与野党逆転の「ねじれ国会」.
国会運営の方策を練る2人の間を縮めた.


・そして,親密さと容姿から,大島を「悪代官」,
新潟出身の漆原を「越後屋」と,
それぞれが呼び合う仲に.
「おねしも悪よのう」
国会運営の方策を思いつくと,
大島が漆原に冗談を飛ばすこともあった.


・高村は大島に懇願した.
「あなたには人に寄り添う能力がある.
集団的自衛権の問題で何かあったら,漆原との仲を頼みたい」

大島は,
「分かりました.公明党の考え方を率直に聞いておきますよ」
と引き受けた.


・動き出した寝業師.
「集団的自衛権の難しい話は分からないが,
もし自公の交渉が暗礁に乗り上げたら,メシでもセットしますから」

大島は,公明党の北側に電話して,
北側に加え,漆原,井上義久との会合をセットした.
高村も「私も行くよ」
と言ったが,大島は,
「まあ,最初は私が率直に公明党の意見を聴いてきますよ」
と制した.


・大島も,井上と同様に少人数での協議の必要性を感じていた.
首相の安倍晋三は,集団的自衛権の行使を容認する閣議決定について,
2014年6月に会期末を迎える通常国会中の憲法解釈の変更を
期限と考えていた.


・大島は,国会の法案審議など運営を切り盛りする国会対策委員長を
計4年も務めてきた経験から,
「この問題は中身ではなく,スケジュールや人選など進め方が大事だ.
大人数で議論してもまとまらない」
と読んでいたのだ.
大島は頭の中に日程を描きながら,
高村と北側の仲を取り持つ重要な会合を2014年3月25日にセットした.


・人情派が模索する「落としどころ」.
砂川判決をめぐり,自民党副総裁の高村正彦と,
公明党副代表の北側一雄がマスコミを通じて牽制し合っていた時だった.
「越後屋」こと,公明党国会対策委員長の漆原良夫は,
議論の行く末を案じていた.


・この状況を打開しなければ.
漆原の足が向かったのは,
盟友で「悪代官」と呼ぶ自民党の前副総裁・大島理森のもとだった.


・漆原は,自身と大島,そして,
自民党前総務会長代行の二階俊博の3人を「絶滅危惧種」と呼んでいた.
エリート議員にありがちな,
政策の論理的な是非ばかりに議論が集中してしまうのではなく,
「人情」を通じて互いの落としどころを探っていく.
相手の立場を考え,時に主張を曲げることもいとわない.
そんな古いタイプの政治家がずいぶんと減ってしまった.
ただ,この集団的自衛権をめぐる交渉では,
「絶滅危惧種」の出番はまだ残っているとも思っていた.


・2014年3月下旬.
大島と漆原は,衆院議員会館9階の漆原の部屋で話し合った.
空中戦の現状を憂える気持ちを漆原は吐露した.
大島は,
「うるちゃんの考えは分かった.
いま言ったことを紙にまとめてくれんかのう」
と提案した.

「私の考え」
漆原は自身がまとめたA4判一枚の紙に,
こうタイトルをつけて,大島に手渡した.
この紙を受け取った大島は,
高村に渡した後,官邸にも届けた.
以降,砂川判決をめぐる議論は徐々に沈静化していき,
具体的事例をめぐる議論に移っていった.


・前代未聞の厳秘ファイル.
集団的自衛権の行使を認める閣議決定で,
議論の推進役を果したのは,国家安全保障局だ.
安倍が創設した「国家安全保障会議(日本版NSC)」の事務局である.
閣議決定を裏で主導した「5人組」のメンバーで,
政府側の理論武装を担った兼原信克,高見沢将林の両副官房長官補は,
国家安全保障局次長を兼務する.
ただ,その動きは秘密主義で,情報漏れに細心の注意を払っていた.


・集団的自衛権の行使容認という,
戦後の安全保障政策の大転換は,
国家安全保障局による徹底した秘密主義のもと,
政治家と官僚の「5人組」によって水面下で決められた.




※コメント
本書は,集団的自衛権行使反対の立場であるが,
どのようにこの政治決断がなされたか,
詳細に取材しており面白い.
やはり大きな課題を解決するには,
プロセスやスケジュールが大事になってくる.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.10.25




『ライター・渡邉陽子のコラム (66) ─ 海上自衛隊 第111航空隊(3) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

8〜9年前にレーシック手術をして,両眼0.1から1.5と1.2まで
視力が回復しました.快適な裸眼生活を送っていたのですが,
昨年あたりから明らかに視力の低下を感じるようになり,
近視に老眼と,もうごっちゃごっちゃな感じです.

レーシック後は,老眼以外の視力低下はないと聞いていたのに,
ポストに入っていた視力回復センターのチラシで簡易測定
してみたら,なんと片目は0.3! 

正確な数字ではないでしょうが,めちゃくちゃショックです……


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■海上自衛隊 第111航空隊(3)


今回は航空掃海訓練の様子をご紹介します.
MH-53Eには沈底式機雷の中でも音に反応する音響機雷
に対応している掃海具,マーク104が積み込まれていました.
この日は音響機雷の航空掃海訓練です.

掃海具を牽引するパワーを持つ巨大ヘリコプターMH-53Eは,
米海軍が開発した対機雷戦用航空機.全長約30m,海上自衛隊
が保有するヘリの中では大きさ,航続距離ともに最大です.
エンジンは4380馬力が3つと,とんでもないパワー.このパワーの
おかげで,105のように大きな掃海具の曳航も可能なのです.
機体の左右にどんと膨らんだ部分は燃料タンクで,左右合わせて
ドラム缶約60缶分が入るそうです.

搭乗員は7名.機長である正操縦士,副操縦士,航空機関士,
機上電子整備員が各1名ずつ,そしてAOと呼ばれる機上掃海員
が3名と.AOは海上自衛隊で唯一航空掃海を行なうこの部隊にしか
存在しません.

大きな機体にも関わらずパイロット2人が並ぶコックピットは狭く,
しかもパイロットの後ろのわずかな空間に,航空機関士までも
ほとんど「収納」のような形で座り込みます.
操縦席から1段下がった場所に,その操縦席に背中を向ける形
で座っているのが機上電子整備員です.機体にはいくつもの
電子機器が搭載されていますが,中でもレーダーで周辺海域
の安全を確認するのは大切な役割のひとつ.
ヘルメットに付いているマイクを通じて,各種情報をパイロットに伝えます.

掃海具を水中に降ろしたり上げたりする作業のため,飛行中も機体
の後部は開いたままです.エンジン音やローター音で,機内は
とてつもない騒音に包まれています.どれほど顔を寄せ合っても
話すことなど不可能なので各クルーが黙々と自分の仕事をしている
ように見えますが,実際はマイク越しにほとんど途切れることが
ないほど会話が交わされ,全員の間に情報が飛び交っています.

「あれ波かな,それとも船?」
「波ですね」
パイロットの独り言のようなつぶやきに,すぐさま海上を監視していた
AOが返します.すべてのクルーで安全を確認しながら飛行している
様子は,とても自然です.訓練するメンバーは固定ではなくその日に
よって違うということなので,おそらく彼らは誰と乗り合わせても,
こうしてきちんと連携を取っているのでしょう.

この日の操縦士の3等海佐は,MH-53E導入とほぼ同じ時期から
パイロットして関わってきた,いわばMH-53Eのスペシャリストでした.
あり余るパワーと大きな割には軽快に動く操縦性が,この機体の特徴
だそう.この日の機長は別の隊員で,この3佐は取材陣のために同乗し,
随所で解説をしてくれました.
「案外きびきび動いてくれる点はいいんですが,着陸についてはほかの
機種に比べて少し難しいかもしれません.ダウンウォッシュが強烈
なので,慣れるまではふらふらっとするんですよ」

航空掃海部隊はアメリカにもありますが,掃海だけで飛行時間3000時間
などといった熟練パイロットはいないそうです.だから操縦の練度につい
ては「日本のほうが断然上」と,その3佐はきっぱり断言.では,アメリカ
と同じ掃海具を使っている,AOたちの練度はどうでしょう? 
次回も航空掃海訓練の続きです.衝撃的なシーンが出てきます……!

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.10.22




◆小林吉弥『田中角栄の才覚,松下幸之助の知恵』を読み解く


※要旨


・田中角栄の大局観も,松下幸之助同様の「余力」がうかがえる.
勝負にかかると,たとえばそれが総選挙となると,
すでに全国のすべての選挙区は田中の超頭脳によりそれぞれが地図として頭に入っており,
それをどう利用するかに頭をめぐらすことで,余力たっぷりの戦法が生じるのである.


・大局観を持つための俯瞰の仕方にも特徴がある.
つねに「すそ野」細部への目配りをし,それを一つ一つ整理,絞り込む形で,
核心の中央部制覇を目指すものである.


・「勘というと一般的にはなんとなく曖昧なもののように思われるけど,
修練を積み重ねたところから生まれる勘というものは,
科学も及ばぬ正確性,的確性をももっている.
そこに,人間の修練の尊さというものがある」(田中角栄)


・「過去の統計というものは動かないもの.
数字に興味のない者,そういうものの正確さとことを信じない人には選挙はわからない.
衆議院の選挙区すべての実態を知ってなきゃだめだ.
これはやっぱり自分でそこへ行って,少なくともその県が何市何郡だぐらいはわかってなかくちゃ.
加えて府県の歴史というものを知らなきゃだめ」(田中角栄)


・「そういう意味で政治家が講談本など読んじゃだめだなんていうけれど,
講談本を読まない政治家なんていうのは選挙は弱い.
そのくらいの知識と,あとは自分が行ってね,お寺の縁起とか神社がいつできたかとか,
教わった日本史というものがダブるようになると,すべての選挙区はちゃんと頭に入る」(田中角栄)


・「やっぱり経験というものは大事.
しかし,ふつうは経験だけでものを言うからだめだ.
私はそうじゃなくて,経験のほかに統計とか,そういうものを非常に重視している」(角栄)


・田中角栄がいかなる政局動乱の折りでも常勝であったのは,
全国津々浦々に張り巡らせた,豊富な情報ネットワークの差によるところが大きい.
それも,他の実力とはまったく異なった独自のネットワークである.


・田中の情報力は凄いというのは鳴り響いていたが,
その裏には,こと情報を得るということに関してカネを惜しまなかったことがある.
かつて,官僚たちを懐柔したときにまいたカネも,
彼らの知恵,情報を摂取吸収しようということからの部分が大きかった.


・田中角栄は,多くの海千山千の政治家がやるように新聞記者にウソの情報を流したり,
アドバルーンをあげるようなコメントは一切出すことをしなかったことで有名だ.
こうして政治家と政治部記者との関係を保った.


・田中は新人の立候補者には,まず自分で難局を踏むことを強いる.
「当選したければ,戸別訪問を3万軒,辻説法を5万回やれ.
2,30人のちっちゃな村にも入れ.
そして,じいさん,ばあさんから嫁と婿まで,名前と顔を全部覚えろ.
神社,鎮守様の来歴が寝言で言えるようにしろ.
雨,吹雪,カンカン照りでも,毎日,歩くことだ.
歩きまくって辻説法をやれ.
流した汗の分だけ結果が出る.
選挙に僥倖はないと知れ.
そうして当選して来い」


・「政治家でも講談本を読んでいない奴はダメだな.
その土地の歴史,神話はどういう経緯でできたか.
そういうことを知らぬ奴は選挙には勝てない.
講談本はそれを教えている」(田中角栄)


・「努力,努力,努力.
根気と勉強の積み重ねが運命をとらえる」(角栄)


※コメント
選挙と営業活動は,よく似ている.
角栄の凄まじい行動力は,民間の営業の大きな手本となる.
ビジネスの基盤はセールスだ.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.10.22




荒木 肇
『関東軍特種演習──史上空前の大動員(2)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


□はじめに

 1888(明治21)年のことでした.日本陸軍は外地で
戦える軍隊になるために,それまでの鎮台から師団へと
編制を変えました.これによって従来の6鎮台は,
そのまま第1から第6までの6個師団になりました.
近衛師団の編成完結は費用のことから3年遅れて
1891(明治24)年12月でした.こうして近衛,第1(東京),
第2(仙台),第3(名古屋),第4(大阪),第5(広島),
第6(熊本)の7個師団ができました.

 歩兵旅団は近衛第1・第2を加えて,歩兵第1旅団から
第12までの14個旅団.隷下の歩兵聯隊は合計28個になりました.
この軍隊は,戦時には平時の3倍にものぼる兵員を組織
できるようになったのです.この他に要塞砲兵,憲兵隊,
屯田兵がありました.各師団に属する砲兵(野砲兵と山砲兵)は
聯隊です.騎兵・工兵・輜重兵は大隊編成であり,
部隊番号は師団と同じになります.衛戍地は師団司令部と同じでした.
例外は第4師団の工兵隊で,京都府の伏見に駐屯しました.
また,青森の歩兵第5聯隊第3大隊は青函海峡防衛のため
に北海道函館に分屯しています.

 また,1889(明治22)年には徴兵令に大改正を加えて,
兵役の区分を常備(のちの現役と予備役)・後備・国民兵役
として動員体制も整えていきました.この時代の兵役は現役
が陸軍3年,海軍は4年,予備役は陸軍4年,海軍3年で
後備兵役がそれぞれ5年間でした.戦時に国民軍が編成
されると召集される予定の国民兵役は17歳から40歳までです
(実際にはそういう事態にはとうとうなりませんでした).

 注目されるのは予備役幹部養成の「一年志願兵令」が改正
されました.17歳から26歳以下の中学校卒業以上程度の者
が経費自弁で服役するものでした.現役1年,予備役2年,
後備役3年です.兵科でいえば伍長から少尉までの幹部予備員養成です.
 
 これまでは学歴のある人のための優遇策として,1883(明治16)年
からの看護卒(のちの衛生兵)養成のコースだけがありました.
中等学校卒業者のうちから経費自弁で看護卒になるという制度
です.これを一歩進めて,兵科(歩・騎兵・砲兵・工兵)・軍医・薬
剤・主計・獣医などの予備役幹部養成制度を立てました.
 
 公立学校教育制度が大きく変わったのもこの頃です.
現在の制度のほぼ原型になる4年制の小学校ができ,中等学校
も整備され,高等教育もさまざまな学校が造られます.『教育に
関する勅語(教育勅語)』が出されたのは1890(明治23)年
のことです.この年には「小学校令」をはじめとして多くの改革
がされたり,準備されたりしました.
 
 当時,小学校の訓導(くんどう・正教員)は官(国)立府県立
師範学校の卒業者ですが,「六週間現役兵」に服役する義務
がありました.経費も官費です.ただし,1カ月半の現役を終えれば,
ただちに伍長になり,国民兵役に服するという国民教育に携わる者
への優遇策でした.もともと師範学校生は全寮制の軍隊式生活を
送っていました.教育課程の中で下士官(当時は下士)になれるくらい
の訓練・知識は与えられていたので,それほど軍にとって負担には
なりませんでした.
 
 その後,日清・日露の両大戦を経験し,徴兵制度は大きく変わります.
この関東軍特種演習の物語の時代では1927(昭和2)年の
「兵役法」によったものでした.注目すべきはさまざまな予備員幹部
(伍長以上)を養成する制度が大きく変わったことです.「一年志願兵」
という言い方は「幹部候補生」と変わりました.経費を自弁するのは
変わりませんが,学校配属現役将校の行なった教練検定を合格した者
が対象者でした.入営した者は大学学部の卒業者は8カ月で曹長
に進み,10カ月で少尉に任官しました.
 
 大正末期から始まった青年訓練所の修了者は,陸軍では
在営期間の短縮を受けました.現役は陸軍2年,海軍3年,予備役
は陸軍5年4カ月,海軍が4年.後備役は陸軍10年,海軍5年です.
そして,1895(明治28)年3月から始まった補充兵役がありました.
第一補充兵役は陸軍12年4カ月,海軍は1年でしかありませんでした.
そのかわり第二補充兵役は陸軍12年4カ月に対して海軍は11年4カ月
です.つまり,陸軍は徴兵検査で第一か第二に振り分けられるのに
対して,海軍は全員が第一補充兵役になり,1年経つと第二補充兵役
になるという仕組みでした.
 
□読者の方からのご質問に答えて

 (笑)様,お便りありがとうございました.関東軍特種演習の時代,
つまり第2次世界大戦が始まったころの国際条約に対する各国の
遵守気分とでも言いましょうか,それとからめて米英蘭各国への
わが陸海軍の開戦通告の問題,さらには戦争末期のソ連の中立条約
違反,北方領土についてのご見解まで興味深く読ませていただき,
たいへん勉強になりました.ありがとうございました.

 わたしは国際条約については全くの素人です.そこで聞きかじり,
耳学問や,浅い読書の結果ではありますが,できるだけ整理して
私の愚見をもってお答えしようと思います.
 まず,国際条約の遵守精神がどれほどあったか.これは,どこの国
でも(今も変わらず・笑),自分に都合の良い解釈を押し通すわけで,
とりわけわが国,あるいはソ連だけが悪いというわけでもないと考えて
います.開戦の日時についての通告も,特に厳格に行なう習慣は
当時にはなく,たいていの戦争は両軍の衝突からしばらく経って
行なわれています.真珠湾をことさらに宣伝するのも,アメリカ合衆国
が勝者だったことからでしょう.

 北方領土を占拠するロシアに対しては前政権であるソビエト政府が,
領土不拡大をうたったポツダム宣言に署名していることから,わが国
はもっと返せと主張してもいいと思います.ただ,すべては軍事力の
問題ですから,そこはお互い様.ロシア人にとっては,負けてもいない
のに,樺太の南半分を取られたと思っているようです.

▼4単位(スクウェアー)から3単位(トラアイアンギュラー)へ

 師団数を増やす方法として師団の歩兵聯隊数を4個から3個に
減らした.また,それだけでは整備目標に足りずに歩兵聯隊を増設し,
それぞれの師団内の特科隊(砲・工・騎・輜重の各兵科部隊)も新編
する.参謀本部作戦課の要求する所要兵力量に応えるために陸軍省
動員編制課以下の関連部署では大騒ぎになった.新編される部隊
のためには装備だけではなく,その集める幹部・兵員の練度,技術,
能力なども考えなければならない.装備・消費物資の準備,調達,
備蓄が計画できたとする.その備蓄場所の手当てや管理業務に
関わるすべてを企画・実行できなくてはならない.輸送手段も当然,必要である.

 歩兵聯隊は17個師団にある68個から81個へ増える.
ほかに関東軍の満洲へ3個,支那駐屯軍,台湾軍へもそれぞれ2個
増設する.師団歩兵大隊数もその3倍だから243個に増えた.
砲兵中隊も増設された.兵器廠などに保管されていた大正時代の
軍縮で余剰になった火砲もペト(鉱油)を落とされ曳きだされる.
師団砲兵だけでも中隊数は201個とほぼ倍増する計算になる.

 当時,大尉の中隊長を育てるには士官学校を卒業して10年が
かかった.大隊長の少佐には20年,聯隊長の大佐になるには30年
余りが必要だったといわれる.いまの防衛大や一般大学を出た
陸自幹部もほぼ同じことが言われているのが興味深い.
陸自でも特科(砲兵),施設(工兵)通信,輸送などの中隊長は1等陸尉
だが30歳前後であり,普通科(歩兵)中隊長は3佐(少佐)で,
やはり30代半ば,連隊長の1佐は40代半ばになる.こうした部隊数
の拡充は,指揮官や管理要員の幹部を多く必要とすることを意味する.

 未教育の現役兵は徴集数を増やせばいい.大正時代の毎年の
現役兵入営者は11万人前後であり,補充兵も15万から20万人くらい
だった.このころの採用率は,おおよそ20%だった.若者のうち5人に
1人が現役兵になった.補充兵と合わせても50%くらいだった.
この数字は1923(大正12)年から1933(昭和8)年までの18%前後
だというものによく合う.また徴兵令が発布され,徴兵検査の結果が
分かる1876(明治9)年の採用率17.7%にも近い数字である.

 それが1935(昭和10)年になると,現役兵13万4338人,
補充兵17万5279人と増える.さらに数字が伸びるのは部隊を増設し
始めた1937(昭和12)年からだった.この年,現役兵は17万9371人,
補充兵22万8489人,合計40万7860人にもなった.徴兵検査を受ける
「壮丁(そうてい)」は65万1622人だから,受験者の27.5%が現役兵
として入営し,補充兵と合わせると62.6%が,いざ動員というときの
対象者になった.もちろん,現役兵が動員対象になるのは入営して
4カ月が経ち,一応の教育を受けてからであり,補充兵も留守師団の
補充兵教育を受けてからではあるけれど.それにしてもおよそ若者の
4人に1人でしかないことに注目すべきだろう.

 精鋭な軍隊を維持するには兵員や下士官の質を落とさないことが
もっとも重要なことである.多くの方にとっては意外だろうが,
この後も陸軍が現役兵と補充兵の採用率をことさらに上げたわけではない.
1938(昭和13)年から1942(昭和17)年まで,現役兵と補充兵の
合計数は,およそ43万人,45万人,48万人,47万人,44万人であり,
うち現役兵の採用率は受験者中の同44.8%,54.8%,46.7%,
67.7%,46.7%でしかなかった.注目すべき数字は昭和16年だが,
これは壮丁数が少なかったことが理由である.

 陸軍は長い間,17個師団の態勢に合わせるように将校の養成
をしてきた.日露戦争の初級将校の大量損耗に備えて,
19期生(中学校卒のみ),20期生(幼年学校卒)が合わせて1500名近く
にもなっていた.その上,日露戦後の平時25個師団整備を目指して
士官候補生の採用を増やしていた.陸軍省軍事課は1907(明治40)年
には『軍備充実に関する士官候補生採用人員決定計画表』を作り,
明治39年から15年間の採用予定を組んだ.ところが,戦後不況で
とうてい25個師団どころではない.とは言いながら,人事当局としては
何もしないわけにはいかない.現に計画があるのだ.そのため毎年,
783名を採用しなければならなかった.
 
 大正時代(1911〜1926)と満洲事変(1931年)までの時代は
陸軍に逆風が吹いた.最大兵力は平時21個師団でしかなく,
軍縮でさらに4個師団が減らされた.昭和初めの陸軍は平時17個師団
とその他の部隊をもつ実力しかなかったのだ.

▼さらに軍備拡充,「修正軍備充実計画」

 ノモンハンでは陸軍は大変な欠陥を現わした.新しく造られた
3単位師団の実力はどうだったか.これまでの4単位師団では,
主攻2個歩兵聯隊,助攻1個歩兵聯隊,師団長のもつ予備1個歩兵聯隊
の4個で作戦は考えられてきた.それにふさわしい特科部隊,補給・支援
をする部隊,衛生隊,野戦病院,兵器勤務隊などが用意されていた.
3単位になるということは作戦だけではなく,それを支える補給・兵站の
システムも大きく変わるということである.ノモンハンで戦った第23師団は,
初めての3単位制師団だった.どうにも兵力が足りずに,北海道の
第7師団から歩兵1個聯隊を借りてくるしかなかった.

 戦車も落第点だった.ソ連戦車の初速が高いカノン砲は,あっさりと
わが戦車の装甲を貫いた.こちらの砲弾は良くあたった.しかし,ソ連戦車
の装甲にあっさりと跳ね返された.もともと敵の機関銃陣地をつぶすための
移動トーチカだったから対戦車戦闘は考えていなかった.初速の遅い榴弾
を撃ちだすだけだったのだ.

 航空機も緒戦は活躍したものの,相手が戦法を変え,新しい戦闘機を
投入してくるとパイロットたちは次々と倒れていった.複葉のイ15は
格闘戦に応じてきたが,新型の引き込み脚のイ16は一撃離脱戦法に
切り替えてきた.わが97式戦闘機の得意な,巴戦といわれる
ドッグ・ファイトができなくなった.敵は高度をかせぎ,そこから射撃をし,
一気に急降下していってしまう.
 
 また,興味深いのは日ソ両軍ともに航空機には地上砲火による
損害が多かった.高射砲部隊も機関砲部隊も,なかなかの戦果を
挙げたということだ.ただし,日本軍の記録にはソ連戦闘機による
地上銃撃の被害がよく書かれている.逆に,日本戦闘機部隊の記録
にはソ連軍部隊への地上銃撃の事実が少ない.戦闘機の機関銃
は小口径の7.7ミリであり,敵の操縦員を射殺するものだから,
地上目標を撃っても戦果はあまりあがらなかった.そして,陸軍航空の
人的被害はたいへん大きかった.空中勤務者の養成は,しかも将校
の補充は簡単にはきかない.

 野砲兵や野戦重砲も期待外れだった.射程の短さや,訓練不足
が露呈された.馬は倒れ,トラックは足りなかった.通信機器は
うまく動かなかった.大損害を出しながら奮闘したのは歩兵と工兵
だった.営々と築いてきた陸軍はすべてがだめだと言われたようなものである.
 
 中国戦線はすっかり停滞している.泥沼化である.参謀本部の危機感
は大きかった.ノモンハン事件が終わってすぐのことだった.
1939(昭和14)年9月,参謀本部は陸軍省の尻を叩いて,さらに動員
可能兵力を増やそうと大蔵省と折衝を始めた.年末にはこれまでの計画
を大きく上回る「65個師団,164個飛行中隊」という案を成立させた.
資材と人員の大きな損耗を続けながら,同時に新軍備を推進しようという
のだからこれは大変なことである.そこで,陸軍はそれまでの支那で
行動する軍隊85万人を50万人に削減しようということにした.35万人
の大兵力を帰国させ,それを前提に1942(昭和17)年までに2年間で
整備しようというわけだ.これが『修正軍備充実計画』といわれるものだった.
 
 次回は1939(昭和14)年3月に公布された「兵役法改正」の詳細を
説明する.同時に,当時の陸軍省軍事課の資料を解説する.
動員とロジスティクスの関係は表裏一体ということが明らかになると,
『バスに乗り遅れるな』という掛け声で対ソ連戦に希望をもった陸軍当局者
たちの思いがよく理解できると考えている.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.10.21





『ライター・渡邉陽子のコラム (67) ─ 海上自衛隊 第111航空隊(4) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

1か月で2度,携帯が壊れました.
最初はホーム画面などのタッチパネルが一切反応しなくなり,
今日は画面が真っ黒になって一切表示されなくなりました.

メールは届きますが電話はつながりません.長時間待つのを覚悟
で仕事道具持参してドコモショップへ行ったら,開店前から待っていた
甲斐があり,待ち時間なしで対応してもらえました.

しかしどうも,前回の修理が原因で(つまり万全ではなく)新たな故障
につながってしまった可能性ありですって.うむむ.うむむです.


A.Sさま 貴重な情報ありがとうございました.大変参考になりました.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■海上自衛隊 第111航空隊(4)


前回に続き,航空掃海部隊の訓練の様子です.
いよいよ訓練海域に到達し,機体は高度100フィート(約30m)の
上空で停止しました.AOと呼ばれる機上掃海員の3等海曹が,
いよいよ掃海具のマーク104を水中へ降ろします.


「ええええっ!?」


目を疑いました.
104を降ろそうとする海曹の立っている床がどんどん傾き「下り坂」状態
となり,海に滑り落ちろと言わんばかりの状態になっていきます.
しかも最終的には,海面からほとんど垂直状態にまでなってしまいました.

確かに,約30gある104をできるだけスムーズに降ろすには,
床自体を傾けてしまうのがベストな方法なのでしょう.けれど,
104はそれでよくても,そこは人が,AOが,海曹が立っているところ
じゃないですか!

実際,海曹はそれまで104が固定されていた心もとない場所を
足掛かりにしており,ほとんどスタントマン状態なのです.
彼の足もとにもはや床はなく,白波の立つ海原が広がっています.
30mの高さの飛び込み台に立っていると想像してみてください.
そんな感じです.


こちらの目が点になっている間も彼らはいたって落ち着いた様子で
作業を進め,パイロットは実に安定したホバリングを続け(それは上空
にいることを忘れてしまいそうなほどでした),そして104はゆっくり海
へ投下されました.

機体は再び飛び始め,104と機体をつなぐ索が伸びきった状態で,
定められた海域を往復し,掃海していきます.
長い索で曳航している104が,通過していない場所のないよう操縦
するのは,航空掃海ならではの難しさ.パイロットの腕の見せどころです.


飛行中,別のMH-53Eが行っている掃海訓練も眼下に見かけました.
そちらは係維機雷を掃海する,マーク103を使った訓練のようです.
猛烈なダウンウォッシュが海面を吹き上げ,その水しぶきが機体にも
降り注ぎ,小さな虹が浮かんでいました.こうして目の当たりにすると,
改めてMH-53Eのパワーに圧倒されます.


一方,乗っている機体では一定の往復を終え,今度は104を機内へ
上げる作業が始まりました.またしてもAOの曲芸レベルの身のこなし
による作業が行なわれるのでしょうか.

索が巻き上げられ,次第に104が機体後部へ近づいてきます.
いくら慎重に巻き上げても,少々振り子のように揺れるのは避けられません.
案の定,海曹は104を投下したとき以上にアクロバティックな姿勢で,
右に左に振れる104の索をつかもうと腕を伸ばします.その体は完全に
海の上,足元に床はありません.機体のわずかな足場から,不安定な
姿勢で,体全体を伸ばして策をつかもうとするのです.
AOの恐怖心というのは一体どこにしまい込んでいるのでしょう?


索が手に触れたもののまだ振れる勢いが強く,無理して握っていると
AOまで海に放り出されてしまいます.そこで,少し触れては104の振れ幅
を抑えるということを何度か繰り返し,そして間もなく104をつかまえました.
ここでようやく海に向かって垂直に落ちていた床が元に戻り,
104がしっかりと固定されました.


AOの仕事ぶりは,控えめにいっても衝撃的でした.掃海に関わる職種
の中でとりわけ危険と隣り合わせなものといえば,EOD(水中処分員)が
思い浮かびます.しかしAOも相当なものです.

AOはその「とんでもなさ」があまり知られていないだけで,やっていること
は究極の度胸試しのようなもの.いくら命綱を付け,背後で安全確認を
してくれているクルーがいても,勇気と責任感がなければこなすことは困難です.


次回はAOのものすごさをさらにPRしてから,MCH-101のご紹介をします.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.10.29





マーケット・ガーデン作戦とインテリジェンス (14)
                長南 政義
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【前回までのあらすじ】

本連載は,精確な内容を持つインテリジェンスが
一九四四年九月上旬に連合軍の指揮官に利用された
かどうかを考察することにある.実は,インテリジェンス
の内容は,マーケット・ガーデン作戦実行に伴うリスク
を連合軍の指揮官に警告していた.

指揮官が決定を下すために利用できるインテリジェンス
の情報源は数多く存在していたが,本連載では「ウルトラ」
情報により提供されたインフォメーションにのみ焦点を
当てて考察を進めることとする.第二次世界大戦を
通じて,連合軍の戦略レヴェル・作戦レヴェルの指揮官
たちはウルトラ情報を活用し,ウルトラ情報の精確性
に関してめったに疑いを持たなかったからだ.

前々回から戦間期ポーランドの暗号解読活動について
詳しく述べている.前回は,ポーランド軍参謀本部暗号局
が「ボンバ」を開発し,エニグマ暗号解読で大きな進歩
を見せたにもかかわらず,ドイツがエニグマのローター
を増加させたため,暗号が強固となったことや,ポーランド
には強固になった暗号を解読する理論的知識はあったが,
それを実践する人的・予算的資源がなかったため,
一九三九年七月開催の情報関係者協議の席で,ポーランド
がイギリスとフランスに,ワルシャワの南方に所在する
ピレ郊外のカバティの森にある暗号局の秘密基地で
自国が保有するエニグマ暗号解読の能力を公開した
ことなどを詳述した.

つまり,戦間期ポーランドのエニグマ暗号解読活動は,
イギリスの「ウルトラ」計画の前史というべき重要性
を持っていたのである.

今回から数回にわたり,イギリスの「ウルトラ」計画に
ついて述べることとする.今回は主として第一次世界大戦中
のイギリスの暗号解読プログラムについてと,大戦後の
政府暗号学校創設の経緯について説明する.


■ポーランド単独でのエニグマ解読プロジェクトの終焉

一九三九年九月一日,ドイツ軍がポーランドへの進攻を
開始した.ドイツに続き,九月十七日にはソ連軍が
ポーランド領に攻め込んだ.独ソによるポーランド侵攻
により,ポーランド単独でのエニグマ暗号解読プロジェクト
は終焉を迎えた.

マリアン・レイェフスキ,ヘンリク・ジガルスキおよび
イェジ・ルジェツキの三人を含む多くのポーランド軍参謀本部
の暗号局員が,様々な移動ルートでポーランドから亡命した.
暗号局員は南方へと逃げ,ルーマニアに避難した.
そして,ルーマニアで,フランス政府が暗号局員をフランス
へ亡命することを許可した文書がフランス側より交附され,
フランス側によりフランスへの脱出ルートが提供された.


■暗号局員に対する保護を断ったイギリス

彼らがフランスに逃れたのには次のような理由がある.
ルーマニアのブカレストにあった避難民収容施設で,レイェフスキ,
ジガルスキおよびルジェツキーはイギリス大使館と接触を維持
していたが,イギリスは彼らの保護を断った.
そこで,ギュスターブ・ベルトランを通じて暗号局員と深い関係
のあったフランスが彼らを保護することとなったのである.

こうして,彼らはフランス大使館員の助けを借りて,
一九三九年九月末頃にフランスに到着したのである.
そして,フランスに亡命したポーランドの暗号局員は
ベルトラン率いるD部のメンバーとなり,再びドイツ軍の魔の手
を逃れてイギリスに亡命するまで,フランスで暗号解読作業
に携わったのである.


■第二次世界大戦以前のイギリスの暗号プログラムの状況

欧州大陸に戦火が拡大する以前のイギリスの暗号プログラムは,
大変な資金不足と人手不足とに悩まされていた.

連合軍にとって幸運なことに,イギリスは,全力で暗号プログラム
を推進し始めるようになった時に,暗号プログラムのために
リクルートできるその方面に才能を持った人物がかなり多く存在した.
この経験豊富な人物がイギリスの新たな暗号解読プログラムの
中核を形成することになる.彼らは,大学の学問研究分野で活躍
していた一部の有能な人物と共にエニグマ暗号解読のために
政府暗号学校に結集することとなる.

連合国がナチス・ドイツを打倒する努力を開始した時,
この経験豊富な老練者,風変わりな天才および新規採用者から
なる混合チームは,連合国の財産となって大活躍する機能的組織
へと迅速に変貌を遂げることとなる.


■MI1bとは?

ウルトラ計画に参加した経験豊富な暗号の老練者たちは,
自身の経験を第一次世界大戦中に得ていた.

第一次世界大戦当時,陸軍省(War Office)の一部門に,
情報収集活動を行なう陸軍情報局(DMI:Directorate of Military
Intelligence)が存在した.後にDMIと呼ばれるようになった組織
が最初に歴史の舞台に登場した時,その名称は地誌統計部であった.
地誌統計部は,一八五四年,クリミア戦争初期にトーマス・ジャービス少佐
によりつくられた機関である.

第一次世界大戦中,陸軍情報局内にはMI1(Military Intelligence,
Section 1)という組織がつくられた.MI1にはMI1a(報告書類の
配布などを行なう)からMI1g(防諜を担当)までの分課が存在した.
そのうちのMI1bが通信傍受および暗号解読を担当しており,
MI1bは大戦中のイギリス政府機関で最初に暗号解読を実施
した部署であった.


■第一次世界大戦中のMI1bによる暗号解読活動

MI1bは創設して間もない組織であったにもかかわらず,
ドイツの暗号の多くを解読することができた.というのも,第一次世界
大戦中の暗号は第二次世界大戦中に使用されていた暗号の水準
と比較して,比較的単純であったからだ.第一次世界大戦期の
暗号作成読解能力はまだその程度の水準であったのだ.

暗号解読分野でのMI1bの最初の大きな成功は,一九一六年の
クリスマス中に起きた.中東において,あるドイツ軍少佐がクリスマス
メッセージを部隊に出した.このクリスマスメッセージは隷下の指揮官
たちにより指揮系統を下って何度も繰り返されて出された.

このクリスマスメッセージが出される以前,MI1bは限られた数のドイツ軍
暗号を解読できていたにすぎなかった.このクリスマスメッセージには
MI1bが解読できない六つの異なる暗号コードが存在していた.
しかし,クリスマス休暇時季で通信量がそれほど多くなかったため,
このメッセージは容易にイギリスの傍受網に引っかかり,MI1bの
暗号解読者たちは六つの新しい暗号コードを解読することに成功したのである.


■第一次世界大戦中のイギリス海軍による暗号解読活動

時の海軍大臣ウィンストン・チャーチルの下で,海軍省は自身の
暗号解読プログラムを実施していた.この暗号解読プログラム
にはルーム40の名が与えられていた.ルーム40という変わった
名称は,この暗号解読担当部門が海軍省の古い庁舎の中の一室
を占めていたことに由来する.

ルーム40がなした最も顕著な成功はツィンメルマン電報の解読であろう.
一九一七年一月十六日,時のドイツ帝国外務大臣アルトゥール・ツィンメルマン
がメキシコ政府に電報を送った.ツィンメルマン電報は,来る二月初頭から
ドイツ帝国は無制限潜水艦戦を開始することを意図しており,万が一
アメリカが参戦したならば,ドイツはメキシコと同盟を締結したいと提案
していた.そして,その見返りとして,第一次世界大戦でドイツが勝利した暁
には米墨戦争でメキシコが失ったテキサス州・ニューメキシコ州・アリゾナ州
をメキシコに返還すると述べていた.


■暗号解読プログラムの成功と失敗

以上見てきたように,第一次世界大戦中,たしかにイギリスの陸軍
および海軍は敵国であるドイツの暗号解読には成功していた.
だが,翻って国内をみてみると,両機関の協調・調整には必ずしも成功
していなかった.というのも,両機関は各機関の暗号解読の成果は共有
していたが,各機関がどのようにして暗号解読という果実を手にしたのか
という技術的手法に関しては情報を共有していなかったからである.
結局,この状態は戦争終結まで変化することはなかった.


■政府暗号学校の創設と外務省管轄であったことの弊害

一九一九年に,MI1bとイギリス海軍のルーム40は解散して,
両機関が合併する形で有名な政府暗号学校(GC&CS)が創設された.
この時,ルーム40には両機関から選ばれた二十五人の要員が配属された.

最初の頃の政府暗号学校は海軍省の管轄下にあった.そして,一九二二年,
政府暗号学校は,海軍省の管轄から外務省の管轄へと移管された.
だが,この変更は,戦間期に多くの弊害を作り出す結果となってしまった.
というのも,政府暗号学校に予算を附与し,政府暗号学校を統制する機関
が外務省であったがため,政府暗号学校の主たる対象が軍事通信では
なく外交電報分野に向けられてしまったからである.そしてこのことが,
イギリスが暗号解読分野でポーランドのはるか後塵を拝するようになって
しまった理由の一つであるといえる.

イギリスは一九三〇年代になりドイツの軍事通信を傍受・解読すること
に資源を集中し始めた.そしてこの時,再活性化した政府暗号学校の核
となったのが,退役から呼び戻されたMI1bとルーム40のベテラン暗号
解読者たちであった.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.10.29





陸軍機 vs 海軍機(54)       清水政彦

「零戦と隼(53)」
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「零戦vs隼」の第53回.今回は,1943年以降に太平洋方面で
行なわれた航空作戦全般の総括を行ないます.通常より長めの
原稿となりましたが,お付き合いください.

 なお,連載はこれで最終回とします.当初の予定よりだいぶ
延びて,1年3カ月ほどの連載となりましたが,お読みいただき
本当にありがとうございました.ひと段落したら,本連載を単行本
にする作業に取りかかるつもりです.本が出来上がりましたら,
あらためてご案内したいと思います.(清水)


▼ 「爆弾もろとも体当たり」は合理的か?

 前述した通り,単に合理的な対艦攻撃という観点を追及
するならば,何も爆弾もとろも敵艦に体当たりする必要はなかった
はずだ.十分に目標に接近しさえすれば,衝突直前に爆弾を投下
しても命中率は大して変わらないか,むしろ改善するはず
(機体の被弾やコントロール喪失によりコースを逸れてしまう
おそれがない)である.

 仮に,命中の2秒前(約300m手前)の地点で爆弾を投下
したとすると,その後の2秒間の爆弾の落下量は20mでしかない.
もう少し早く3秒前(約450m手前)に投下しても,命中までの
落下量は約40mである.

 仮に目標が正規空母なら,その全長250mは以上,幅が30m以上,
海面から飛行甲板までの高さが15mはある.最終突入時の降下角を,
投弾後にギリギリ引き起しが可能な25〜30度としても,艦橋上部
やマストを照準して投弾すれば,高い確率で命中が期待できる
計算になる.

 体当たり覚悟の至近距離まで接近する覚悟さえあれば,
大型艦船に対する爆撃の命中率は非常に高い.実際,ダンピール海峡
(ビスマルク海海戦)で連合軍が採用した超低空爆撃は極めて高い
命中率を示し,一方で攻撃機の損害はゼロであった.

▼ 「特攻機」も実際には投弾していた

 現実問題として,爆弾を機体に装着したまま敵艦に体当たりしても,
必ずしも高い効果は望めない.爆弾には必ず安全装置が付いており,
原則として,機体から離れたあとに一定時間空中を飛翔しないと信管
が作動しない.

 また,爆弾を機体に装着したまま敵艦に突入すると,機体がクッション
になって貫通力が低下する,爆弾の命中姿勢が崩れて不発となる,
爆弾が甲板上でバウンドしてそのまま海に落ちてしまう,といった失敗
が発生しやすくなる.

 なかでも安全装置の問題は致命的に重要である.特攻機の場合,
「体当たり」を前提として出撃する場合には機内からの操作で安全装置
を解除できるように改造する必要がある.しかし,改造が間に合わない
機体は通常の装備と爆弾で出撃したはずだ.

 通常装備の場合,機体に爆弾を付けたままだと信管が作動しないから,
有効な攻撃を行なおうとすれば爆弾を投下せざるを得ない.

 実際に「カミカゼ攻撃」を受けた連合軍艦船のレポートをみると,
「特攻」出撃した機体も,実際にはかなりの割合で爆弾を投下して
いたようだ.

 たとえば,最も有名な「カミカゼ」映像の一つに,戦艦「ミズーリ」の
艦上から撮影された,同艦に突入直前の零戦の写真がある.
「ミズーリ」は米国が誇る当時最大かつ最新の戦艦だが,この写真は
その艦橋付近から右舷後方に向けて撮影され,多数の対空火器が
密集する艦の中央部と,そこに向けて超低空から突入する零戦の姿を
鮮明に捉えている.

 しかし,突入する零戦の翼下には爆弾の姿がない.理由は諸説あるが,
この機体は突入前に爆弾を「ミズーリ」に向けて放っていたという報告も
ある.突入直前の零戦に目立った損傷はないように見え,煙一つ吐いて
いない.「ミズーリ」の対空砲はバラバラの方向を向いて旋回中であり,
艦尾方向の低空(隣の砲座が邪魔で死角となる)から飛来した零戦を
照準できていないことも分かる.

 撮影場所は沖縄近海であり,もしこの機体が「ミズーリ」艦上を機銃
掃射しただけで通り過ぎていれば,そのまま沖縄まで飛んで不時着する
ことも可能だっただろう.当時として世界最強の対空火力を持つ「ミズーリ」
が相手でも,突入方法を工夫しさえすれば,ほぼ零距離まで接近したうえ
で爆弾を叩きつけ,かつ生きて帰ることも可能だったのだ.

 ここで紹介した「ミズーリ」の事例以外にも,連合軍側の目撃報告により
「投弾後,機体は撃墜され爆弾のみ命中した」または「投弾後,続いて
機体も突入した」と判定されている「特攻」事例も多数ある.

 公式記録には残っていないが,生き残ったパイロットの回想の中は,
敵艦に投弾して帰還した「特攻機」も登場する.

▼ それでも「体当たり」する理由は?

 すでに述べたように,一般に「特攻」と理解されている攻撃任務で
あっても,それは必ずしも「爆弾もろとも自爆」することを意味しない.
むしろ,現代人のイメージとは異なり,突入前に爆弾を投下している
ケースがかなり多いのである.

 一方で,爆弾を抱えたまま敵艦に体当たりした事例も多数報告され
ている.こうした事例の違いが何に起因するのか,今のところ確かな
答えはない.

 一つの要素として,目標の価値の大小が影響したことが考えられる.
実際,部隊によっては,特攻出撃であっても通常の目標に対しては
「投弾する」ことを原則とし,空母に対しては「突入」するのが不文律
とされていたという.

 しかし,目標の価値の大小だけでは説明できない事例もある.
陸軍特攻機の目標は,多くの場合,空母ではなく揚陸艦や輸送船,
護衛駆逐艦といった小艦艇であり,これらの目標に対して「体当たり」
が選択されることも多かった.

 こうした小目標は,「ミズーリ」のような大型戦闘艦と比較して火力も
防御力も弱い.対空砲火で直ちに撃墜される危険性は相対的に低く
なるから,「体当たり覚悟で肉薄後,投弾して離脱,不時着」という方法
はより現実的な選択肢だったはずだが,実際にはこの方法が積極的
に試みられたという形跡は見られない.

 結局のところ,多くの特攻機は,必然性がないのに「体当たり」を選択
していたように思われる.そして,不時着の可能性に賭けることなく
「体当たり」を選ぶ本当の理由は,指揮官・パイロットともに「すでに
心が折れていたから」なのかもしれない.

▼ 「割に合わない犠牲」が正当化できない

 海上に脱出したパイロットの救助は,当時の日本の技術では極めて
困難である.極論すれば,海上でのパイロットの生存可能性はゼロに
近いと言ってよい.少数のパイロットのわずかな生存可能性のために,
多数の地上部隊や水上部隊を危険な救助任務に動員することは,
1945年の時点ではもはや政治的・心理的に不可能だったと思われる.

 海上に脱出したパイロット(数名)を収容するために潜水艦を派遣したと
しても,実際に海上で漂流者を発見できる可能性は極めて低い.
制空権を失った海で潜水艦が浮上することは危険で,仮に救助活動中
に潜水艦が1隻でも撃沈されれば,それだけで100人近くの将兵が戦死
する.追い詰められ士気が沈滞した当時の日本軍には,この「割に合わない
犠牲」を正当化するだけのガッツが残っていなかった.

 1945年の春以降ともなれば,東京では空襲で一晩に10万人が焼死し,
沖縄では30万の軍民が玉砕覚悟の死闘を繰り広げているという異常な
状況である.当時の人々が感じていた異常なプレッシャーを想像すれば,
余裕のない状況下で他部隊に「パイロット(数名)の救助」を要請する
ことなどとてもできないという空気が理解できるのではないだろうか.

 出撃するパイロットとしても,不時着後の救助が期待できない以上,
「海上で漂流死するくらいなら,機体もとろも突入して即死したい」と
考えるのは無理からぬところがある.実際,機体だけでも敵艦に
ぶつければ,ガソリン火災による相当の効果(甲板上の人員殺傷)が
ある.陸兵が手りゅう弾片手に玉砕するより,機体だけでも敵艦に
突入した方が,「キル・レシオ」ははるかに高いのである.

▼ 「B-29に負けた」は本当か?

 本稿では,B-29の迎撃という意味での「本土防空戦」について大きく
取り上げることはしない.なぜなら,対B-29戦には戦略的な重要性
がないからである.

 B-29による本土空襲が本格化した時,すでに日本は石油の輸入を
絶たれており,長期間の抗戦は不可能な状況だった.日本の継戦能力
を奪うという観点で見れば,あえてB-29を投入せずとも,空母艦上機
による空襲によって物流を妨害するだけで十分だったはずだ.

 さらに,ドイツが降伏し,石油の輸入が絶たれ,ソ連が参戦するという
三つの要素が揃った時点で,もはや日本が全世界を相手に戦い続ける
意味は失われている.ソ連の対日参戦によって「中立国・ソ連の仲介
による停戦」という選択肢が消えた以上,戦えば戦うほど,講和の条件
は悪くなるからだ.

 政府や陸軍の一部に「本土決戦」を主張する者がいたのは事実だが,
これは多分にポジショントーク(立場上そう言わざるを得ないだけ)という
面があり,誰が見ても本土決戦は現実的な選択肢ではなかった.

 1945年8月の時点では,すでに燃料不足と鉄道網の破壊(主に艦上機
による攻撃),および内航水路の機雷封鎖によって日本国内の物流が
停止しており,仮に「本土決戦」を断行しようにも兵力の移動すら困難で,
燃料の補給に至っては絶望的だった.要するに,仮に本土で決戦しても
有効な抵抗ができる見込みはまったくないのである.

 この状況では,仮にB-29による「本土空襲」や「原爆投下」がなくても,
日本は史実とほぼ同じ時期に敗北的講和を決断せざるを得なかったはずだ.

 米軍は,日本に対する戦略爆撃を総括する戦後の研究で,もっとも有効
だったのは内航水路と港湾に対する機雷戦(夜間に空中から機雷を撒く)
であり,都市に対する爆撃は有効でなかったと結論づけている.つまり,
日本が戦争に負けた理由は,零戦や隼がB-29を撃墜できなかったから
ではない.大日本帝国の運命は,B-29が東京に飛来するよりずっと前に,
すでに決まっていたのだから.

▼ 本当の失敗は何か?

 第二次世界大戦において日本が連合軍に敗北するという結果は,
ドイツとの「三国同盟」を破棄するという政治的な決断を放棄してしまった
時点で,おおむねすでに確定している.

 そして,日本陸海軍が太平洋でどんなに頑張ろうが,敗北のタイムリミット
は欧州戦線の帰趨によって決せられる.仮に太平洋戦線で最良のシナリオ
が実現しても,欧州戦線の結末が史実通りならば,1945年の後半には
ソ連が対日参戦し,その時点で天皇は講和を選択しただろう.

 つまり,陸海軍がどれだけ善戦しようが,1945年中に日本は敗戦(または
敗北的な講和)に追い込まれる.もっとも,航空部隊の努力次第では,
本土の主要都市を焦土にしないで済むという意味で,「よりマシな負け方」
を実現することは可能だっただろう.

 日本の航空部隊の実力は,米軍ほどでないにせよ相当のものである.
これだけの戦力をもってすれば,運命の時である1945年夏頃までフィリピン
やマリアナ諸島の防衛線を維持し,「大負けしない」戦いを継続することは
できたはずなのだ.そして,結果として「大負けしない」戦い方ができなかった
最大の原因は,足場の悪いソロモン・ニューギニア戦域での消耗戦に,
日本陸海軍が自ら飛び込んでしまったことにある.

▼ 太平洋戦線の本質は空母の戦い

 補給のすべてを船舶に頼る太平洋戦線では,空母戦力による航空支援
がない限り,補給路の制空権・制海権が確保できない.補給路が確保
できなければ,地上の航空機はどんなに戦力があっても前線基地に推進
できない.そして,孤島の航空基地は,基本的に空母機による機動空襲には
対抗不能である.結果論ではあるが,絶海の孤島と大ジャングルばかりの
太平洋戦線は,つまるところ「空母で戦うほかない地形」だった.

 日本陸軍の航空隊が東部ニューギニアの防衛線を1944年初頭まで
維持できたのも,それまで日米の空母戦力がほぼ拮抗していたからだ.
仮にこの時点で日本側が米空母に対する有効な打撃手段を保有していれば,
1944年夏以降に「絶対国防圏」が総崩れになることもなかったであろう.

 そんななかで,日本の航空部隊が手にした唯一の空母打撃手段が
「特攻」だった.たとえば1945年初頭には,日本本土近海でごく少数の
攻撃機が米空母部隊に大打撃を与え,その活動を大きく制約する戦果
を挙げている.仮に海軍航空隊がこうした有効な攻撃を早い段階から
繰り返していれば,その損害に応じて連合軍の進攻速度はかなり低下
したはずだ.空母を集中的に叩いて連合軍の進攻速度を鈍らせ,
本土への空襲を史実より1年間遅らせることができていれば,
あるいは講和成立時に東京の街がきれいに残っていたかもしれない.

▼ 対艦攻撃戦術の不備こそが最大の失敗

 しかし,海軍の航空部隊は,対艦攻撃に関して「愚直」と評しうるほど硬直的
だった.新しい技術に適応しない1930年代(教官が現役だった時代)の
古い教科書を墨守したり,必殺技的な高等技術に走ったり,実証されていない
野心的なアイデアに飛びついたり,過去の成功体験が絶対視されたりする
一方で,現実に対応した地道な工夫を積み重ねる作業は置き去りにされていた.

 豪快な海軍航空の気風は,いつでも誰でもすぐに実践できるような,
手堅く単純な戦術を育てようとする傾向,つまり「多少格好が悪くても
泥臭く勝ちに行く」という意識とは真逆のものだった.ともすれば,最前線
の実情に目を向けるよりも,単に見た目に美しいだけの「訓練のための
訓練」に走ってしまう傾向があったように思われる.

 一方で陸軍の航空隊は,1943年の後半になるまで対艦攻撃にまったく
興味を示さず,基礎研究すら行なっていなかった.

 対艦攻撃に対する合理的な研究をもっと早い時期から熱心に行なって
いれば,米空母が太平洋に押し出してきた1944年以降,「特攻」に依存
しなくても損害に見合う戦果が得られていただろう.対艦攻撃戦術の不備
は日本空軍の致命的ともいえる失敗であり,この点は大いに反省の余地
がある.

▼ 空母戦力の活用不十分

 連合艦隊が空母戦力を有効活用できなかったことも,「絶対国防圏」
の崩壊を早めた大きな原因だろう.実は,4隻の空母を失ったミッドウェイ海戦
のあとも,連合艦隊は有力な空母を多数保有していた.しかし,その多くは
泊地に停泊して無為に時間を過ごし,あるいは単なる飛行機輸送船として
使われて,前線に出撃することはなかった.

 1942年12月にソロモン海域で戦われた「南太平洋海戦」を境に,
日本空母の行動は一層消極的となり,以降はほとんど泊地に閉じこもる
ようになる.「南太平洋海戦」のあと,日本の空母艦隊は1944年6月の
「マリアナ沖海戦」に出撃するまで,実に1年半もの間,連合軍とまったく
交戦しないまま平和に過ごしたのである.

 日本空母の行動を制約した要因として,しばしば「船舶燃料(重油)の
不足」が挙げられているが,これは油田に近いインド洋・豪州方面での
作戦の足枷(あしかせ)にはならないはずだ.インドネシアの油田地帯
は基本的に平穏で,原油の生産は順調だった.タンカー不足のため輸送
できない油が余っており,貯蔵能力を超えた分を焼却処分することすらあった.

 第二の要因としてパイロットの補充困難を指摘する声もあるが,これは
空母勤務者にひときわ高い熟練度を求めるからで,比較的飛行時間の
短いパイロットまで動員すれば数は十分に揃ったはずである.

▼ 「零戦」最大の利点を生かせず

 零戦の最大の特徴は,離着陸(発着艦)が極めて容易で事故が少ない
ことにある.仮に飛行時間の短いパイロットが多くても,発艦時の滑走距離
を長くとる,荒天や薄暮の出撃を控える,進出距離を短くする,誘導の
偵察機にベテランを配置する,必要に応じて陸上基地に帰投させるなど,
運用を工夫すれば十分に母艦勤務が可能だったはずだ.

 パイロットの教育という意味では,有利な態勢とタイミングで実戦を経験
できる機動空襲は,訓練を兼ねて可能な限り反復すべきものであった.

 インド洋や豪州西岸方面の連合軍航空戦力は比較的に弱体で,
付近に有力な艦隊もいないと考えて差し支えない.ここに奇襲的な
機動空襲を繰り返せば,小さな損害で一定の戦果が期待でき,連合軍の
戦力を広範囲に分散させる副次効果も大きかっただろう.

 比較的平穏なインド洋方面や豪州西岸に対して陽動的な攻撃を行なって
牽制すれば,連合軍は戦力の一部を割いて当該方面の防備を強化せねば
ならない.これは主正面である中部太平洋やニューギニア方面に
供給される戦力を削る効果があり,その分だけ連合軍の進攻速度を
鈍らせることができただろう.

 しかし,古参の熟練パイロットを見慣れてしまった管理職の将校は,
母艦勤務者の合格レベルを下げることを良しとせず,むしろパイロットの
高い飛行技術が運用上・作戦上の選択肢を広げてくれることを望んでいた.
よほど気合いの入った人物でない限り,サラリーマンである善良な一般将校
は,発着艦でミスして飛行機を壊す(指揮官である自分の点数を下げる)
ようなパイロットを部下にしたくはないのが普通である.実際,事故で
死んだり大怪我するパイロットも多いから,「下手クソは乗せない」という
方針は確かに部下想いとも言える.

▼ 「逃げる余地」があるうちは本気になれない

 すべての結果が分かっている今の時代から見れば,1943年から44年
初頭にかけての1年間こそが戦局の転換点であり,天下分け目の決戦期
であった.1943年春(陸軍航空の第一陣がラバウル進出し始めた直後)
の時点で,日本海軍はすでになりふり構わぬ本気を見せるべき状況に
足を踏み入れていた.「下手クソは空母に乗せない」などと呑気なことを
言っている場合ではなかったはずだ.

 もし海軍がこの時点でソロモン諸島を放棄して母艦航空戦力の養成
に全力を挙げ,内地や後方基地の防空はすべて陸軍に委ねるくらいの
思い切りを持てていれば,1年後の戦況は随分違ったものになっていた
だろう.しかし実際には,海軍はこの段階に至ってもソロモン諸島の
保持にこだわっており,そのための基地航空部隊の増強に心を奪われていた.

 機動部隊を構成する大型空母がひたすら温存される一方,小型の
改造空母は固有の搭載機を与えられず,単に基地航空部隊への
補給機を運ぶ輸送船として使われた.

 結局,海軍が膨大な戦力を投入して維持してきたソロモン戦線は,
数隻の米空母がトラック泊地を空襲しただけであっけなく崩壊した.
一方で日本海軍は,優秀な空母を多数保有しながら有効に活用せず,
戦局の転換点となった1943年から1944年初頭にかけて,空母機動部隊
を積極的に活用する作戦をほとんど企図していない.

 この結果を見れば,海軍がどう言い訳したところで,「大型艦を失うこと
を恐れて戦機を逸した」という批判は免れない.海軍は基本的に船乗り
の組織だから,箔のつく人気ポストは大型艦勤務であり,人事はフネ
を中心に回っている.大型艦が一隻沈めば,数百人単位の仲間が一度
に死ぬことになるから,可能な限り大型艦を温存したいという思想は
基本的に健全な発想だ.ただし,文字通り国運をかけた総力戦という
環境下で,国民の命を預かる海軍軍人として,それが正しい判断だった
のか?と問われれば,それはまた別の問題である.

 もっとも,どこか弛んでいたところがあるのは海軍軍人だけではない.
陸軍も,政治家も,新聞記者も,そのほかの日本国内の多くの人々が,
1944年夏に「絶対国防圏」が崩壊する瞬間まで,本当の意味での
危機感というものを感じていなかったように見受けられる.

 人間は破滅を目前にしても,「まだ逃げられる余地」があるうちは真剣
になれないのだ.

▼ 平時に準備していないことは,戦時になってもできない

 1943年から45年までの陸海軍の航空作戦を見ていくと,参謀や司令官
レベルの高級軍人たちは,かなり早い時点から「我が航空戦力は弱体
であり,時間の問題でジリ貧となり壊滅する」という結論に気づいていた
ことが分かる.破滅することを認識しているがゆえに,これに直面すること,
あえてそれを口にすることから逃げ続けた気持ちも分かる.

 そして,「よりマシな負け方」を模索せずに逃げ続けているうちに,
ふいに「絶対国防圏の崩壊」ないし「出撃=ほぼ戦死」という現実,
つまり破滅が目前に現れて思考する余裕がなくなり,「ほかにできる
ことがない」という現状を追認するかたちで,なし崩しに「特攻」を常態化
させていった.

「特攻」による大量死という結果は確かに異常だが,そこに至る過程
をよく見れば,こういった事例はどこの組織でも,いつの時代でも日常的
に見られる光景であり,多くの人がその渦中で当事者となった経験の
ある類のものだろう.

 残念ながら,1941年12月から約3年半の対米戦の間,日本の航空部隊
が開発した戦術の中で,独自性がありかつ有効だったと認められるのは,
「特攻」がほぼ唯一の事例である.結局,普段から準備していないことは,
どんなに追い詰められて努力しても,そう急にはできないものらしい.
だから,有り余る時間と正常な思考力の担保された平時のうちに,
できるだけ多くのことを想定し準備しておく必要があるのだ.

 将来再び「特攻」の轍を踏むことがないよう,普段から非常時への備え
をおろそかにしないことが肝要である.

(おわり)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.10.28





■ 1日3分で身につけるMBA講座
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≪不適切会計で揺れる東芝の経営を“フロー”の視点から分析する!≫


さて,前回のメルマガでは不適切会計に揺れる東芝の財務分析を貸借対照表の
観点から行ってきました.

貸借対照表は,企業のある一時点の“ストック”を表しているので,
「現状は大分悪化しつつあるものの,まだまだ余力があるのでは?」
という結論をお伝えしました.

それでは,今回は企業の“フロー”部分である,損益計算書とキャッシュ
フロー計算書の観点から東芝の経営を分析していくことにしましょう.

どのような結果になるのでしょうか?

そこには,貸借対照表と異なる意外な結論が・・・


■ 急速に悪化する東芝の損益計算書


先月発表された東芝の2015年度第1四半期の決算短信を分析すると,東芝は
2015年4月から6月までの3ヶ月間で,1兆3,499億円ほどの売上を上げています.

これは,前年同期が1兆4,140億円になりますので,
641億円も減少したことになります.

やはり,不適切会計の発覚によって,社内では積極的に営業活動に取り組み
にくい状況となり,また社外では東芝との取引を控える企業も現れるなどの
理由で売上が振るわなかったものと推測できます.

加えて,営業損益段階では,前年の第1四半期には,
477億円の利益を計上していましたが,今年度は110億円の赤字に転落.

損益分岐点の売上を下回り,現状の水準の売上では損失が積み重なっていく
構造に陥ってしまっているのです.


■セグメント別では多くのセグメントが赤字に転落


続いては,セグメント別の損益を確認していきましょう.

東芝の事業は,現状『電力・社会インフラ』『コミュニティ・ソリューション』
『ヘルスケア』『電子デバイス』『ライフスタイル』『その他』という
6つのセグメントに分かれています.

それぞれのセグメントでどのような製品やサービスを扱っているのか,より
詳細な事業内容にご興味がある方は,東芝のホームペーでご確認いただけます.
https://www.toshiba.co.jp/about/ir/jp/private/pro_all.htm

この6つの事業セグメントは,2015年3月期(12ヶ月ベース)には
以下のような損益を記録していました.

電力・社会インフラ・・・195億円
コミュニティ・ソリューション・・・539億円
ヘルスケア・・・239億円
電子デバイス・・・2,166億円
ライフスタイル・・・△1,097億円
その他・・・75億円

つまり,『ライフスタイル』以外は大きな黒字を計上していたのです.

それが,不適切会計発覚後の2016年3月期第1四半期(3ヶ月ベース)には,
次のような損益となります.

電力・社会インフラ・・・△107億円
コミュニティ・ソリューション・・・△65億円
ヘルスケア・・・1億円
電子デバイス・・・356億円
ライフスタイル・・・△207億円
その他・・・△7億円

季節要因もあるために,一概に結論付けることはできませんが,不適切会計を
境に,『電力・社会インフラ』や『コミュニティ・ソリューション』,
『その他』のセグメントが大幅な赤字に転落してしまったのです.

加えて,『ヘルスケア』や『電子デバイス』も黒字は計上していますが,
前年同期比大幅な減少に見舞われ,東芝の事業の多くが利益の上がらない
体質に陥ってしまったことが見て取れるのです.


■ キャッシュフロー,フリーキャッシュフローが連続でマイナスに!


それでは,最後にキャッシュフローを見ていきましょう.

キャッシュフローでも不適切会計を境に大きな変化が見受けられます.

たとえば,営業活動によるキャッシュフローは,2014年度の第1四半期には
220億円の黒字でしたが,2015年度の第1四半期は391億円の赤字に
転落しています.

つまり,不適切会計の影響で営業活動によるキャッシュフローが610億円もの
マイナスに陥ってしまったのです.

また,投資活動によるキャッシュフローを見ると,2014年度の第1四半期には
830億円のマイナスだったのに対し,2015年度の第1四半期には,
投資はほぼ半減し,438億円のマイナスとなっています.

この営業活動に投資活動のキャッシュフローを足したものは,
『フリーキャッシュフロー』と呼ばれ,企業の事業活動に伴う
キャッシュフローを分析するうえで重要な指標とされています.

たとえば,フリーキャッシュフローがプラスであれば,企業は借入金を
返済したり,現金を積み増したりして,財務状況は好転していきますが,
逆にフリーキャッシュフローがマイナスになれば,財務活動を通して
キャッシュを調達したり,現金を取り崩して事業活動や投資活動に
充当していかなければならず,財務指標の悪化要因につながっていくのです.

このフリーキャッシュフローを計算する限り,東芝はこの2期間で611億円,
829億円と大幅なマイナスを記録しています.

すなわち,多額のキャッシュがどんどん流出していく由々しき事態が
続いていると結論付けることができるのです.


■“フロー”の面を分析すると,東芝の今後は決して楽観できるものではない


東芝の貸借対照表を分析する限りは,差し迫った危機というのは
まだ感じられませんでしたが,損益計算書とキャッシュフロー計算書を
分析すると,不適切会計が発覚したのを境に急速に業績が悪化し,
キャッシュが流出する深刻な危機に直面していることがわかります.

例えて言うなら,まだまだ体は健康だけれども,傷口からどんどん出血が
続いているという状態なのです.

もし,出血を早く止めなければ,健康自体も危うくなります.

このような東芝にとって経営危機が現実のものとならないためにも,
一刻も早く顧客の信頼を取り戻して,利益の上がる水準まで業績を
回復させることが望まれます.

そのためには,今回の危機をきっかけに,これまで赤字を垂れ流してきた
ライフスタイル部門の不採算事業からは撤退を図るなど,ドラスティックな
改革を推し進めていく必要があるといえるでしょう.


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実際に財務諸表を見ながら読むと理解も深まります.

今回のコラムで活用した財務諸表は以下のサイトからダウンロード
いただけますので,是非ともご活用下さい!


東芝:2015年度第1四半期決算(連結)
https://www.toshiba.co.jp/about/ir/jp/library/er/index_j.htm

◎ビジネスマン必読!1日3分で身につけるMBA講座
http://archives.mag2.com/0000108765/index.html
2015.10.28




荒木 肇
『関東軍特種演習──史上空前の大動員(3)
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□はじめに

 史上最大の動員といわれた1941(昭和16)年の関東軍
特種演習について書き続けています.そのためには少し時計
の針を元に回して1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件
から始まる日支事変を知らなければなりません.
まさに戦争は前の戦争から考えなければならないのです.
日清戦争は朝鮮の壬午軍乱から起きていますし,日露戦争
も日清戦争から学ばなければなりません.唐突に,太平洋戦争
はとか,日露戦争とはなどと議論されますが,戦争は戦争に
よって説明されるのが一番です.

 前回では陸軍の師団についての解説もしました.
今回も,新しい読者の方々のことも考えて,師団についての
補足説明しておきます.

 師団が各兵科の混合で戦略単位であることを説明しました.
師団長は天皇陛下が直に任命する「親補職」であり,
中将であってもただの中将ではありません.師団長でなければ
高等官1等の勅任官にしか過ぎなかったのです.中将という官
の補職の幅はたいへん広いものでした.各部,たとえば
主計中将も中将ですが,親補職である師団長には決してなれない
ということを前にも説明しました.

 4単位制から3単位制に師団の編成を変えた.そのことについて,
「戦略単位の数を増やし,また指揮を軽快にするために3単位制
師団を造った」というのが定説になっています.
ある種の歴史研究者たちは実態を調べず,考えずに軍隊を
語ることがしばしばあります.それに司馬遼太郎氏のような「陸軍史
の権威者」がさらにそれを援護するかのような解説を加えてしまいました.
『師団と言えば列国の師団と同じ,まるで師団と言えば(戦力が)同等
であるかのように考えて増設したのだ』などという悪口を書かれました.
しかし,現実を知る当事者たちである陸軍将校たちはそれほど
愚かではありませんでした.

『(戦略単位の数を増やし…)と,編制装備の複雑化に伴う
行軍長径の延伸(その日のうちに師団輜重をもって糧秣を補給
することができなくなるほど伸びる)を抑えるために,
一個の歩兵旅団と一個の歩兵聯隊を廃した』というのが編制の
当事者の弁です.戦略単位の増加も指揮の軽快さというのも,
後からつけられた理由に他ならないと書かれました.

 この説明は師団輜重や兵站部隊のことを考えるとたいへん
説得力があります.腹は減っては戦はできない.当事者である
軍人だからこそ,誰よりも納得のできる説明です.行軍中の各部隊
は部隊本部につく大行李の糧秣を食糧とします.
携帯口糧(けいたいこうりょう)というのは非常時に口にするもので
ふだんは開けられません.その大行李の糧秣を補充するのは師団輜重.
輜重兵聯隊の役目でした.師団輜重は戦闘部隊などで構成される
本隊の後ろを行軍するので,本隊の行軍長径が伸びるとその日
のうちに補給ができなくなります.ということは,翌日分の糧秣
が届かないから大行李は空っぽで本隊についていくか,輜重が
来るまで路傍で待たなくてはなりません.

▼1939(昭和14)年の兵役法改正の裏側事情

 相次ぐ動員に備えて兵役法が改正された.
1939(昭和14)年3月9日のことである.この背景を考えてみよう.
日独伊防共協定を結ぶことによって,陸軍はアメリカ・イギリスと
ソ連が行なっている中国への援助姿勢をけん制しようと考えていた.

 前年10月に行なわれた武漢三鎮(武昌・漢口・漢陽)の攻略後
も中国は対日抵抗姿勢を崩そうとしない.武漢攻略作戦とは
中支那派遣軍が8月に実施した大作戦だった.中支那派遣軍
は第3・9・13の3個師団と101師団から配属された砲兵1個大隊
と歩兵5個大隊を主力としていた.
 
 これに第2軍,第11軍を隷下に入れ集中地に前進させたのが
6月である.第2軍は皇族東久邇宮稔彦王中将を司令官にし,
第10・13・16の3個師団と7月からは第3師団,10月以降は
騎兵第4旅団と兵站各部隊をもつことになった.
第11軍は第6・101・106師団の3個を主力にし,7月以降は
第27師団,8月から第9師団,さらに第116師団や第15師団
の一部から増派を受けた.合わせて約30万人,馬12万頭の
大兵力である.

 1938(昭和13)年には内地では新設師団が次々と生まれていた.
4月には第15師団(敦賀),17師団(姫路),21師団(金沢),
22師団(仙台),7月には23師団(熊本),6月には27師団(佐倉)
そして110師団(姫路)の7個師団である.それぞれの師団管区から
集められた予備役・後備役の下士官・兵を主力にしている.

 編成地を見ると,いずれも常設師団の所在地である.人口が多く,
動員基盤が高かったことがわかる.歩兵聯隊もその他の特科隊も
現役将校を主とし,基幹人員は現役・若手の予備役が多かった
ことだろう.師団番号も第15,同17といった大正軍縮で解散させら
れた名称が復活している.ただし,第15師団は廃止時には愛知県
の豊橋にあった.第17師団の旧編成地は岡山である.このあたり,
陸軍は合理的である.伝統とか,あれこれは言わなかった.

 なお,前年の1937(昭和12)年に復活した師団は第13(仙台)と
第18(久留米)の2個師団.これに新編された名古屋師管で編成
された第26師団だった.第13師団の司令部所在地はもともと
越後高田(現上越市),新潟県であり,第18師団だけは日露戦後
の1907(明治40)年の創設時から福岡県久留米が編成地である.
久留米は1925(大正14)年5月の廃止以来,わずか12年の中断
があっただけの師団復活だった.

 武漢三鎮の攻略後に話をもどす.9月には南支那の重要な資源を
奪い,さらには対外連絡補給路を断つために第21軍が編成されていた.
この軍は第5・第18・第104の3個師団で10月に集結地台湾を出発,
バイアス湾に上陸し,広東付近を占領していた.第5師団とは広島
の常設師団で,上陸作戦を得意とする.もともと海になじんだ瀬戸内海
出身者が多い師団である.方面軍の漢口攻略を支援するための行動
であり,たちまち広東を占領したが中国軍はこれ以後も激しい抵抗
を示していた.

 11月には帝国政府は,東亜新秩序建設を目指すという声明を発表
する.陸軍は長期持久態勢に方針を変える.北支と揚子江下流域
の占領地区の安定化,漢口と広東方面の限定的攻勢作戦を企画する.
同時に,航空戦力による中国の政・戦略中枢を制圧し,海上封鎖
も合わせて行い,兵器輸入ルートの遮断にも努めることとした.

 1938(昭和13)年末頃には,在支那兵力は24個師団,飛行45個中隊
という大兵力が展開していた.動員兵力も累計で73万人に達している.
昭和の初めの毎年の現役兵は10万人くらいであり,ざっと6カ年分くらい
になっていた.これでは既教育補充兵(教育召集を受けて一応の訓練
を終えた者)を召集して補っても,若い年次の予備兵だけではとても
足りなかった.

 当時のわが国の有業者人口中では職業別では45%が農林水産業
に従事している.次いで工業の30%,商業は15%程度という数字
がある(国勢図絵).動員の規模が大きくなると,在郷軍人の過半数
が農山漁村出身であることは定説通りだから,農業生産力がもっとも
影響を受けてしまう.働き手である20代の男性が容赦なく軍隊に
とられるのだ.人力に頼る労働の割合が現在よりはるかに高い時代
のことだ.米作だけではなく,畑の作物の栽培も手が足らず,カイコを飼う
といった養蚕農家も労働力不足に苦しんだ.

 動員がかかり,その種類(本動員・応急動員などの区別)によって
召集令状が来る順番は変わる.計画通りの新設部隊なら,その要員
は特業(現在の陸自でもMOS管理といわれている)ごとに割り振られていた.
既教育の補充兵を含めて,在郷軍人名簿には「特業」の欄があり,
そこには以下のように分類されて略称で書き込みがされていた.
1943(昭和18)年の一例である.( )内が略称である.小銃手(小),
狙撃手(狙),擲弾筒手(擲),軽MG手(軽機),MG手(機),
AAMG手(高機),車載MG手(車機),砲手(砲),速射砲手(速砲),
観測手(観).

 動員部隊ごとに定員表がある.そこの欠員のところを産めるように
特技と階級をあてはめて聯隊区司令部では召集令状を作っていく.
しかし,すべてが計画通りにいくものではなかった.突然の病気や,
場合によっては勤務先から動員対象者から外してほしいといった要望
も実はあった.これがまた,秘密だったから,公平ではないという苦情
がしばしば役場の兵事係りには持ち込まれた.

 関東軍の増強も企画され,これまでの第3軍の他に第4軍が新設
されていた.満洲での動員の考え方も変わっていった.黒竜江をはさんで
ソ連と対峙する満洲の師団は「接壌国動員方式」に変えていく.
これまでのように内地で優良装備の常設師団を動員し,これらを速やか
に満洲に派遣するという考え方ではない.満洲国や朝鮮,その他周辺
に常駐する師団から動員をかけるというやり方である.支那にある師団
でも,中国軍との戦闘を続けながら,基本的には満洲に転用できるように
改編された師団も現れた.1939(昭和14)年に編成された
第32師団(東京)から第41師団(宇都宮)などの9個師団がそれである.

▼改正の要点

 陸軍省徴募課が起案を終えて,陸軍大臣が改正案をもって閣議に
はかったのは1938(昭和13)年12月24日だった.このときの陸軍大臣
は板垣征四郎,海相は米内光正である.
(1) 戦時の要員を確保するために,海軍兵の服役期間を予備役も
後備役もそれぞれ1年と2年を延長する.予備役を5年,後備役を7年とする.
(2) さらに予備後備を延長する方法もあるが,義務過重になるし,
年齢上限が40歳を超えてしまう.そこで第一補充兵役を陸軍の場合,
これまでより5年延長し,17年4カ月とする.海軍も11年4カ月を16年4カ月
に延ばすことする.
(3) 師範学校卒業生の短期現役制度を廃止する.
(4) 在学徴集延期の期間を短縮することとした.また,『戦時又ハ事変ニ
際シ特ニ必要アル場合ハ・・・』と但し書きをつけて,これまで満27歳まで
徴兵検査を受けなくてもよかった制度を満26歳までとした.
(5) 体格が良いものから兵員にするため,これまでの抽選の方法をとる
場合を限定する.
(6) 勤務演習の召集日数では海軍だけではなく,陸軍も必要があるとき
には50日以内ではあるが延長できるようにする.
(7) 教育召集を第二補充兵にも行えるようにする.

 解説については,板垣陸相の議会での説明を紹介しよう.
 『内外の情勢変化にともない,帝国軍備の迅速かつ飛躍的充実を
必要とし,戦時所要兵力量を確保するため』,最近の戦争の経験から
分かったことは『幹部の新鋭化と在郷軍人の能力向上』であり,予備員幹部
の確保のために「徴集猶予(徴兵検査を遅らせる)・召集延期(召集を遅らせる)」
の制度を見直す必要がある.小学校教員の短期現役(5カ月)を無くしたのは,
むしろ小学校教員も国防の第一線に立つ方が国民教育上も有益である.

 では,議会側の反応はどうだったか.興味深いのは文部行政に詳しい
議員からの質問だった.中身は師範学校生への特典を廃止すると
教員志望者が減るのではないかという心配である.事実,小学校訓導は
短い1年間の現役生活を終えて,直ちに第一国民兵役に服していた.
戦場に出る可能性はまったくないと言っていい.師範に入り,短現になること
は合法的軍隊生活忌避の手段とも言える認識が世間にあったことを示している.
議員の不安に対して,文部省は師範学校への補助金を増やし,農業学校
などの実業学校からの転入にも便宜を図るので教員不足になる心配
はないと答弁している.

 また徴集猶予の年令引き下げについては陸軍省兵務局長が答弁に立ち,
『戦場で兵の先頭に立つ初級将校は若ければ若いほど良い』と説明している.
幹部候補生の教育はすでに前年(1938年)に1年間から2年間に延長
となっていた.2等兵で入営し,甲種幹部候補生として予備士官学校へ
入校し,少尉に任官するのは2年後に改められている.そこで,1年でも
早く入営者が欲しいといった事情が陸軍にはあった.

▼「国防の台所」

 ドイツの西方電撃作戦の成功で,それまでおとなしかった参謀本部
も一気に気分が高揚したようだった.1940(昭和15)年7月22日には
第二次近衛内閣が成立した.27日には大本営政府連絡会議は
『武力を用いても南進する』と国策を決定する.9月23日にはフランス領
インドシナ(当時は仏印といい,現在のベトナム)に進駐した.この時,
陸路から第5師団,海上からは印度支那派遣軍が使われた.
『ヨーロッパの戦争には不介入』と言っていたわが国は,27日『日独伊
三国同盟』を締結し,世界中にドイツの仲間であると宣言することになった.
 1940(昭和15)年7月,一冊のパンフレットが刷られた.陸軍省軍務局
軍事課資材班に勤務した中原茂敏砲兵大尉がその筆者だった.
『戦史叢書33号附録』にその要約がある.それを紹介しよう.軍需動員
の関係事項が書かれている.当時の軍隊の実態の一部がうかがわれる.
(1) 航空機
 1937(昭和12)年,年産800機.13年,1700機,14年,2800機,
15年度は3500機の見込みである.18年には7000機を生産する.
ただし,これは陸軍のみの数字である.15年度の米国は2万機,
ドイツを1万5000機,英国は8000機と予想している.昭和14年度には
陸軍はおよそ5億円の生産をした.
(2) 火砲
 年生産量2000門を生産できる.製造の割合は官立大阪造兵工廠が35%,
日本製鋼,神戸製鋼などの民間が65%である.新軍備充実計画が完成
すると,およそ4000門の生産が必要だが,現在の保有量は2万1000門
である.全軍が動員されると現在の補給率(50%とされている)でも
年間1万門以上造らねばならない.ことに15センチ加農(カノン)以上の
大口径火砲は現在150門を保有するが,その製造能力は年間5門でしかない.
15加は製造に8カ月,24センチ榴弾砲は18カ月を要するのが現状でしかない.
(3) 弾薬
 (ア)砲弾については現在1日6万発を製造し,年産2000万発である.
3分の1を支那で射耗し,3分の2が備蓄されている.現在の保有量は
1500万発であり,およそ4億円になる.18年度末の新軍備完成時には
6000万発,16億円分を保有していることになる.
(イ)実包(小銃・機関銃弾)
 月産6000万発,18年度には1億2000万発に倍増させる.
(ウ)爆弾(航空用)
 年産17万発で約6000万円.18年度には120万発,約4億円を保有
することになろうが,(対ソ連)開戦時には200万発,7億円ほどを必要とする.
支那事変勃発より14年度までに,弾薬の製造に費やした鋼材は
約50万トンにのぼった.新軍備の完成までには毎年100万トンを必要とする.
(エ)火薬
 爆弾が多くなったので,炸薬(さくやく・爆発用),装薬(そうやく・砲弾
の発射用火薬)の生産比率が2:1となった.現在,月産3000トンの能力
がある.開戦時には月産1万トンが必要だが,18年度末には月産6000トン
に達する.
(オ)自動車
 わが国の自動車保有台数は総数で22万台.うち貨車(トラック)は
6万台で年間生産台数は3万台である.全軍が動員時には,軍需資材
補給量は1200万トンにのぼる(内訳は弾薬200万トン,糧秣450万トン,
武器類350万トン,その他200万トン).それを運ぶにはトラック10万台
を必要とする.軍の機械化が進めば15万台が必要だろう.自動車の命数
を考えると18年度には年産13万台の製造能力が必要とされる.燃料事情
からも自動車エンジンのディーゼル化は必須である.

(カ)戦車
 戦車,牽引車(火砲を引くトラクター),各種装軌式器材車(クローラー,
無限軌道のこと)は,製造設備は共通部分が多いので,一括で考えれば,
現在,月産中戦車クラスにして月産70輌である.18年度には同じく180輌
であり,およそ戦車はその半分,90輌くらいである.18年度末の戦車保有量
は3200輌に対しては開戦時には年産4000輌,月産にして350輌の
製造能力が必要である.もしも,これが不可能なら3200輌を保有していても
半数しか戦場に出せないことになる.
(キ)被服
 官が20%,民間が80%の製造配分である.年産160万人分,
約3億5000万円を製造している.開戦時には年間約15億円を製造する
必要がある.現在の能力の4倍を必要とする.

 このように中原砲兵大尉は数字を挙げ,「お寒い事情」を赤裸々に
描き上げていた.これに対応する数字がある.加登川幸太郎歩兵大尉(のちに中佐),
当時は中原少佐と同じく資材班勤務だった.著書から引用する.
1940(昭和15)年3月の兵器生産実績である.

 38式歩兵銃はすでに生産を中止している.新型の99式小銃である.
これが月産わずかに4万挺でしかない.14年度いっぱいかかっても53万挺
しか造れていない.軽機関銃も11年式軽機関銃を月産1000挺,
92式重機関銃も月産1000.前年すべてで1万3200挺余りである.
92式歩兵砲という歩兵大隊に配備される小型砲が20門,94式山砲
という比較的新型の分解駄載できる砲兵装備の砲が2門,41式山砲
という歩兵聯隊の聯隊砲中隊がもつ砲が7門である.大きな火砲になると,
新鋭の96式15センチ榴弾砲(機械化牽引)が10門,4年式15センチ
榴弾砲(輓馬牽引)も3門,96式15加が2門,89式15加も3門,
96式24センチ榴弾砲もわずか1門.これが正面装備生産の一端である.
 
 戦車は95式軽戦車が5輌.97式中戦車はゼロ.4輪の自動貨車(トラック)は
800台,6輪自動貨車が160台である.6輪自動貨車というのは,
列国がハーフトラックという前輪はタイヤ,後輪の代わりに無限軌道がついた
車両を開発したことに対して,陸軍が開発した後輪が4つのものである
貨車をいう.ふつうの4輪トラックが5000円だとすると,およそその倍,
10000円した.

 次回は,予算や経費の話をしよう.  

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.10.28




◆篠原匡『神山プロジェクト:未来の働き方を実験する』を読み解く


※要旨


・少子高齢化の田舎に企業が来た.


・鮎喰川の畔に広がる人口6,100人ほどの町,神山.
徳島市内から40分の距離だが,平地が少なく,
急峻な斜面にへばりつくような集落が点在している.


・かつては林業で一時代を築いたが,
木材価格の低迷とともに人口は減少の一途をたどる.
高齢化率も46%と,少子化と高齢化に悩む苦しむ中山間の典型のような地域だ.


・ところが,神山はITベンチャーの「移転ラッシュ」に沸いている.
名刺管理サービスを提供しているSansanが,
2010年にサテライトオフィス「神山ラボ」を開設したのを皮切りに,
9社のベンチャー企業が古民家を借りた.


・移住者の増加にともなって,店舗や施設のオープンも相次いでいる.
ここ数年を見ても,パン屋やカフェ,歯医者,パスタ屋,お好み焼き屋,
ビストロ,図書館などが神山Mapに登場した.


・アーティストやクリエイターなどクリエイティブな人材の移住も加速しており,
まさに新しく町が生まれ変わっている印象だ.


・若者の流出や高齢化に伴って,日本の山間僻地では過疎化が進んでいる.
「出口なし」といった状況だ.
その中で,神山は異彩を放つ.


・エンジニアやクリエイターがここに押し寄せる.
それはなぜか.
神山に固有な理由はいくつかある.
例えば,抜群のIT環境だ.


・その街並みからは想像できないが,神山は全国でも屈指の通信インフラを誇る.
徳島県知事の飯泉が情報化に熱心だったこともあり,
2000年代半ば以降,徳島県は県内全域に光ファイバー網を整備した.


・企業や移住者は,IT環境だけではなく,神山という「場」が醸し出す雰囲気に引かれたようだ.
その雰囲気の中心にいるのは,神山に本拠を置くグリーンバレーだ.


・日本の田舎をステキに変える.
グリーンバレーは,移住者支援や空き家再生,アーティストの滞在支援などを手がけるNPO法人だ.
主な活動は,上記に加え,人材育成,道路清掃など.


・彼らのミッションは,「日本の田舎をステキに変える」.
そのミッションを体現している存在といっても過言ではない.


・この本では,グリーンバレーの道程をひもとく.
「奇跡の町」とささやかれる今の神山をいかに築き上げたのか.
そのプロセスは多くの示唆を与えるに違いない.


・新しい発想やプロジェクトは異なる価値観やスキルを持つ人同士の対話を通じて,
生まれるものだ.
そのために必要なことは,クリエイティブな人材が集まる場を作ること.
その場を作り出してさえいれば,あとは自然発生的に何かが生まれる.


・ある意思を持った人が5人いれば町は変わる.


・日本の地方は人口流出と高齢化にあえいでいる.
全体の人口減少と都市化の波を考えれば,その中の多くは限界集落と化していくだろう.
それを押しとどめるものがあるとすれば,それは道路でもなく美術館でもなく,
クリエイティブな人間の集積以外にない.
人が集まる場をつくる.
それこそが,生き残りの解だ.


※コメント
シンプルなことであるが,本質を突いている一冊だ.
地方のあり方について,実践とインスピレーションを与えてくれる.
ビジネスについて新しい何かを発想できそうだ.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.10.28





◆高橋洋一『日本郵政という大罪』を読み解く




※要旨


・筆者は役人時代に郵政民営化の詳細設計図を書いた.
その郵政民営化のキモは,ゆうちょ銀行とかんぽ生命の金融2社の
完全民営化によって民有・民営を行うことだった.


・ところが民主党は,ゆうちょ銀行とかんぽ生命の株式の一定割合を
実質的に政府が保有し続ける方向に転換した.
つまり完全民営化を改悪したのだ.
これは「官業への逆戻り」である.


・「日本郵政グループ3社の株は,やはり買いか?」
この質問に対し,かつて小泉政権下で「郵政民営化」の制度設計に携わり,
日本郵政グループの内実をよく知る筆者は,
即座に「ノー!」と答える.
なぜなら日本郵政グループ3社は,
投資対象としての魅力がゼロに等しいからだ.


・実はゆうちょ銀行は,「普通の銀行」ではないのである.
ゆうちょ銀行以外の「普通の銀行」は
どうやって利益の大半を稼ぎ出しているかというと,
企業や個人に対する貸し出し,すなわち融資業務である.
預金者から調達した資金を,
借りたいと考えている企業や家計に高い金利で貸し出すことにより,
支払利息と受取利息の差,つまり「利ざや」で収益を生み出している.


・では,ゆうちょ銀行のビジネスモデルは一体どうなっているのか.
それはある意味極めて明快で,
個人などから集めてきた資金の大半を国債で運用するという
単純な構造になっている.
だが,このビジネスモデルでは,
そもそも大きな収益を期待することはできない.


・では,政府が日本郵政の株式をすべて売却し,
日本郵政が完全な民間企業になったとしたらどうだろうか.
政府保証という一種の呪縛から解放されたゆうちょ銀行は,
金融市場という名の大海原に胸を張って漕ぎ出すことができるようになる.


・もし融資業務に参入できるようになったとしても,
ゆうちょ銀行の前に待ち構えているのは,凄まじき荒波だ.
なぜなら,ゆうちょ銀行が参入したがっている融資業務には,
信用審査や債権管理で極めて高度なスキルと知見が必要になるからだ.


・信用審査及び債権管理のスキルとノウハウは,
そう簡単には確立できない.
長期にわたる実績の積み重ねによって構築される,
情報と信頼の集積が必要になるからだ.
それを担える人材の育成と組織体制の確立には,
少なくとも10〜20年はかかると思ったほうがいい.


・郵政民営化の実現に筆者が一役買ったことは事実だが,
その最大の立役者といえば,やはり竹中平蔵氏である.
もちろん小泉首相を除外すればの話だ.


・なぜ竹中氏は筆者に白羽の矢を立てたのか.
もちろん,かねてからの友人ということもあっただろうが,
何より筆者が郵政3事業に精通していたからに他ならない.
それまで郵政事業について徹底的に調べ,
「ミルク補給」はもとより,おおよその問題点は把握していた.


・竹中氏から,
「多くの学者や専門家にヒアリングしたが,
かつて財投改革を担当した高橋君ほど
郵政3事業について詳しい人間はいなかった.
郵便事業や簡易保険などの一分野に精通している人はいるが,
郵政全体をバランスよく知っている人はいない.
高橋君が適任だから,頼むよ.
世界に通用する民営化案をつくってくれ」
と言われ,筆者は引き受けることにしたのである.


・暗中模索から始まった設計図づくりであった.


・郵政のシステム問題への対策で,
竹中氏から再び白羽の矢を立てられたのは筆者である.
筆者は普段はプログラミングなどとは疎遠の一介の官僚にしては,
かなりシステムに詳しいほうだった.
なぜなら以前,財務省の「ALM(資産・負債総合管理)システム」
をほぼ一人で組み上げた経験があったからである.


・もともと筆者は数学科の出身で,
コンピュータ言語やプログラムにはほかの人より慣れ親しんできたし,
実際に,コンピュータ言語を駆使してプログラムを組んだ経験が幾度もあった.


・結局のところ,システムはプログラムの塊である.
そしてプログラムとは,
この本を構成している一つひとつの文章のようなものだ.
言葉さえ知っていれば,とりあえず本を読むことはできるし,
細かいところまでは理解できなくても,
エッセンスは理解することができる.


・筆者はたいていのコンピュータ言語を知っていたし,
コンピュータシステムである以上は,
郵政のシステムも基本的な構成は同じだろうと考え直し,
まずは概要の把握から始めることにし,
郵政公社へ乗り込んでいった.


・待ち構えていたのは,数十人におよぶシステムエンジニアたちである.
彼らはもちろん,外部のシステムベンダーのエンジニアだ.
幸いにして,筆者はプログラム言語を読むことができた.
当然のことながら,システムなどについて議論をするとき,
プログラム言語がわかっているかどうかは決定的な差となってくる.


・プロジェクトマネジメントで超筋肉質のシステムに.
筆者らが構築しようとしていた郵政のシステムは,
当面は必要がないと思われるパーツを徹底的にそぎ落とした,
「暫定システム」である.
それで大丈夫なのか,と思われるかもしれないが,
そもそも論でいえば,世の中に存在するすべてのコンピュータシステムは,
どれも暫定的なシステムだ.
完璧なシステムなど,世界のどこを見渡しても一つとして存在しない.


・システムというシンプルな置き土産.
官公庁が採用している大規模システムは,
どうしても「過剰スペック」になりがちである.
筆者が手がける前まで,郵政のシステムも同様だった.
なぜそうなるかといえば,
システムを発注して実際に使用する側の官僚が,素人だからである.


・郵政民営化を実現した原動力が何かといえば,
やはり筆頭に挙げられるのは,小泉純一郎首相の「情熱」である.
今あらためて振り返ってみても,
小泉首相は本当に凄い人だった.
筆者が特に驚かされたのは,小泉首相の政治感覚である.
「直感力」と言い換えてもいいかもしれない.


・小泉首相は,竹中氏経由で筆者の「郵政民営化必然論」を聞き,
「これは使える!」とピンと来たのだと思う.
おそらく,自身の政治感覚と筆者の理論がピタリと符合したのだろう.
その証拠に,筆者の説明に異論を唱えたことは一度もなかった.


・ここが政治の面白いところで,
小泉首相は小泉首相で,筆者とはまったく別の政治的意図で
郵政民営化論を主張していた.
そこへタイミング良く,筆者のような人間が登場したわけだ.
小泉首相の郵政民営化にかける情熱には凄まじいものがあり,
執務室でさまざまな報告を行っていた際,
郵政民営化に話題が及ぶと,とたんに目の色が変わったことをよく覚えている.


・縁というのは本当に不思議なもので,
類い稀なるリーダーシップと決断力,
行動力を兼ね備えた小泉首相という人物の持論がたまたま郵政民営化で,
その担当大臣に任命された竹中氏は,
抜群の吸収力と国民へのプレゼンテーション能力を持った人物だった.
その竹中氏の友人である筆者が,
偶然にも郵政民営化の理論的裏付けとなる論文をまとめていた.


・事実を丹念に追えば自ずと「真実」が見えてくる.


・筆者が思うマスコミの最大の問題点は,
自分で一次情報やデータをあたって調べられないことだ.
なぜ調べられないかといえば,単に調べる能力がないからである.
たとえば,政府の予算書は数千ページの分量に及ぶ.
それに目を通すのがイヤだから,
代わりに記者たちは財務省のレクチャーを受け,
官僚が「マスコミ用」にまとめた資料を丸呑みして,
記事を作成したり報道番組を制作したりするのだ.


・官僚は「頭がいい」から仕事ができない.
役人時代にある仕事を担当していたとき,
当然のことながら役人を部下につけてもらったことがある.
この役人というのが,信じがたいほど仕事ができない人物だった.
筆者が指示した仕事を何一つまともにこなせないので,
最終的に「連絡係」に徹してもらった.
この役人だけでなく,筆者にいわせれば,
基本的に,役人はおしなべて仕事ができないのだ.


・なぜ役人は仕事ができないのか.
それは「頭がいい」からである.
なぜ「頭がいい」と仕事ができないのか.
それは「御託を並べるのが得意」だからである.


・何をするにしても,役人はまず御託から入る.
口ばかり動かして,手を動かそうとしない.
しかも,トライする前から「できない」と口にしがちだ.
できる理由を見つけることはやらないが,
できない理由を見つけるのは得意中の得意なのである.


・急を要する仕事であっても,
御託ばかり並べて手をつけようとしない.
彼らと仕事をしているとき,筆者は,
「四の五の言っている間に,さっさと始めてくれればいいのにな」
とウンザリすることが多々あった.




※コメント
政治の裏舞台がいろいろ見れて面白い.
また高橋氏の文章は,シンプルである.
さすが数学科出身といえる.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html





兵法三十六計(1)
                 元防衛省情報分析官・上田篤盛(あつもり)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

□はじめに

 中国が尖閣の領有化を目指し,わが国に対する攻勢を強めている.
この状況を座視していると,やがて尖閣は中国の手中に落ちてしまう
であろう.それのみならず,沖縄までもが中国に略取されることになる
かもしれない.ではわが国としては,いかなる戦略・戦術をもって,
これに対処すべきであろうか? そのためには,まず中国の戦略的
意図を解明することが前提となる.

 中国は歴史的に戦略を重視してきた.それは「兵法」と呼称され,
歴史的に兵法書が編纂・体系化されてきた.中国の代表的な兵法書
には『孫子』,『呉子』,『司馬法』,『尉繚子』(うつりょうし),『李衛公問対』
(りえいこうもんたい),『六韜』(りくとう)および『三略』などがあり,これらは
『武経七書』と総称されている.

 なかでも「兵は詭道(きどう)である」と喝破する『孫子』は最も体系化された
至上最高の兵法書である.同書は「戦わずして勝つ」という不戦主義を採用し,
戦いよりも,平時から戦勝のための有利な態勢を構築する必要性を説いて
いる.今日の中国も,兵法に学び,平素から『孫子』の兵法を利用して対日工作
を仕掛けている可能性がある.この意味からも,中国の攻勢に対応するため
には『孫子』をはじめとする,中国の兵法を研究する必要があるのである.

 ところで中国には『孫子』と並び称されるもう一つの兵法書がある.
それは『兵法三十六計(以下,三十六計)』である.『孫子』は為政者が
愛用した崇高な哲学経典であったが,一方の『三十六計』は日常を生きる
実践哲学として,『孫子』よりも民間において広く流通した.その教えは
今日まで継承され,現代中国人はビジネスや,国際政治や国内政治
において自己の有利な立場を築くために『三十六計』を『孫子』以上の
実用書として参考しているという.実際,毛沢東語録や現在の中国指導者
の発言のなかでも,しばしば『三十六計』が引用されている.

 このことは今日の中国の対日戦略に『三十六計』が応用されて
いることをうかがわせるものである.よって尖閣領有化,反日デモ
などの,中国による対日有害活動を『三十六計』に基づいて分析
すれば,水面下に隠されている中国の意図をより深く読み解くことが
できるであろう.『孫子』と同様に『三十六計』に知悉(ちしつ)すれば,
中国との競合において負けない戦いができるのではないだろうか.
こうしたことを読者とともに考えていきたい,これが本連載の狙いである.

 ところで,『三十六計』は17世紀の明末から清初の時代の編纂である
とされる.その原本は1941年に?州(寧州〔ねいしゅう〕の前身,現在の
甘粛省慶陽市寧県)において発見された.その著者は,明代に『孫子』
の注釈本を編纂し,「易」の理を軍事戦略に応用した兵法家である
趙本学,あるいはその影響を深く受けた人物であるといわれているが,
その実態は定かではない.

 中国古代の兵法書には「易経」(えききょう)の考え方が広く反映して
おり,中国古代の兵法家はいずれも「易」の理に精通していた.
『三十六計』においても「易経」の考え方が反映されている.
なお日本では「三十六計逃げるにしかず」との諺が有名であるが,
これは魏晋南北朝時代の宋の将軍・檀道済からの引用であり,
『三十六計』との直接の関係はない.

『三十六計』は「勝戦計」「敵戦計」「攻戦計」「混戦計」「併戦計」および
「敗戦計」の6組に区分され,各組が6つの計,合計36計で構成されて
いる.一つの計が4字,あるいは3字の熟語からなる総計186文字
の極めてシンプルなものである.その最大の特徴は「孫子」をはじめ
とする従前の兵法書から貴重なエキスを抽出し,簡潔にまとめている点
にある.それゆえに,民間人にも馴染みやすく,『孫子』よりも民間に
広く流通し,日常生活やビジネスの世界ではしばしば応用されているである.

 一方で記述内容が粗削りであり,各兵法には類似品があり,
その解釈には明確な境界線がないものが多く,六組六計の配列にも
合理性に欠ける,という欠点もある.この配列の不合理性は認識しつつも,
今後,本来の配列どおりに『三十六計』を第一計から順に解説し,
そのなかに潜む中国による現在の対日戦略をひも解くことにする.

 また,『三十六計』の内容の理解を助けることを目的に,守屋洋氏
の『兵法三十六計』,永井義男氏の『中国軍事成語集成』,
そのほかの一般書籍から,適宜に中国小史を引用することにする. 

 では,第一計からご覧あれ.

◆第一計「瞞天過海」(まんてんかかい)侵攻作戦の欺騙

「瞞天過海」は「天を瞞(あざむ)いて海を渡る」と読む.天とは皇帝
のことであり,「皇帝をあざむいて,平穏無事に大海を渡らせる」という
意味である.

 この計は,唐の軍人,張士貴(ちょうしき 586〜657年)が,
高句麗遠征の時,主君の太宗(第二代皇帝)が怖がって乗船を恐れた
のに対し,船に土を盛り陸上の屋敷のように偽装して,太宗を乗船
させて海を渡らせたという故事にちなむ.

 このことから転じて,「瞞天過海」は,敵に対し,繰り返しいつもの
行動をみせつけて,見慣れさせ,少しも奇妙に思わない“錯覚”を生じさせ,
我の本来の目的を達成するという意味である.戦術的には,侵攻準備
を繰り返し,その開始時期をたびたび変更し,相手に「またか!」いう気
を起こさせ,本来の侵攻時には敵の油断を誘い,一気呵成に攻撃し,
電撃的に侵攻目的を達成することである.

 南北朝の末期,隋の文帝は名将・賀若弼(がじゃくひつ,544〜607年)
を使い,長江(揚子江)を渡河させ,陳の首都建?(現在の南京)に侵攻
させ,陳を滅ぼした.当時,隋は長安(現在の西安)に都を置き,
長江以北の土地を領有していた.一方の陳は,長江以南の土地を領有
していた.隋が陳を討つためには長江を渡河しなければならなかった.
そこで隋の賀若弼は長江の対岸沿いに陣を張った.陳はこの動きに
応じて,自軍を配置して隋の攻撃に備えた.

 賀若弼は,自軍の兵士に対して攻撃準備を命じ,攻撃開始を告げる音
がこだまする.陳軍は陣形を整えるが,隋軍が渡河している気配は一向
にない.こんなことが2,3回繰り返されると,やがて陳軍も“見せかけ”だと
思い,隋軍の集結を知っても本気になってそれに備えようとしなくなった.
そうこうしているうちに,隋軍は密かに長江を渡るための船を集結し,
一気呵成に長江を渡河して攻め込んだ.かくして隋軍は,陳軍からほとんど
組織的な抵抗を受けることなく建?を攻略したのである.

 これとよく似た寓話がイソップの「狼と羊飼い」である.羊飼いの少年
が気晴らしに「狼が出た」と嘘をついては騒ぎを起こす.しかし,少年が
嘘を繰り返してばかりいるので,本当に狼が現れた時には,大人たちは
誰も信用せず,助けにもいかず,結局,村の羊がすべて食べられた
という話である.この話は,「人は嘘ばかりつくと,たまに真実を言っても
信じてもらえなくなる.だから,常日頃から正直になりなさい」という
道徳的訓話であるが,では,この物語の主人公である羊飼いを中国
に置き換えたらどうだろうか.

▼中国は「海洋強国」を目指している!

 中国は今日,「中華民族の偉大なる復興」を国家の戦略目標に据え,
そのための方法論として「海洋強国」の建設を謳っている.伝統的に
ユーラシア大陸の「ランドパワー」であった中国が,近年は自らを
「太平洋の西側に位置する臨海国家」などと呼称し,15世紀の
鄭和(ていわ,1371〜1434年)の数次にわたるアフリカ遠征を賞賛
するなど,「シーパワー」を前面に強調するようになってきた.

 2000年代,「走出去(海外進出)」戦略に連動するかたちで,
中国は「海洋強国」建設の方針に基づき海洋進出を押し進めている.
2010年に発表された『中国海洋発展報告』では,「『海洋強国』は
『「中華民族の偉大なる復興』のために回避できない道である.
『海洋強国』建設は21世紀の偉大な歴史任務である」と明記された.

 ところで,中国はなぜ「海洋強国」建設を目指すようになったので
あろうか? それは中国の「国内安定」「安全保障」および「経済発展」
という3つの国益に基づく.

「国内安定」からは,海洋は13億の膨大な民に必要な「食(食料)」と
「職(職業)」を安定供給してくれる.中国の耕作面積は膨大な人口
に比して狭小であるうえ,近年の森林伐採などの影響で国土の生態系
が崩れ,砂漠化し,それが陸域における食料生産量の低減を招いている.
このため中国は食魚を求めて海洋進出し,海洋漁業は多くの漁民に
「職」を提供している.

「国内安定」のもう1つの柱である政権の安定については,海洋に勢力
を拡大し,失地領土と主張する台湾,南沙諸島および尖閣諸島などを
奪取することが中国共産党の政権の正統性を証明することになる.
 
「安全保障」からは,中国は18世紀中葉に,帝国主義列強により海洋
からの侵略を受けるという屈辱の歴史を受けた.これを繰り返さないために,
国土防衛上のバッファーを海洋に求めている.また,中国は今日,台湾有事
における米軍介入,とくに米空母戦闘群からのスタンドオフ攻撃を最大の
脅威と認識している.そのため東シナ海および南シナ海における海洋の
支配と,西太平洋における米空母戦闘群の自由な遊弋を妨害することを
軍事戦略の柱としている.これを,米国は「A2AD(アンティ・アクセス,
エリア・ディナイアル,接近阻止,領域拒否)」と呼称して,警戒している
のである.

「経済発展」からは,経済成長を持続するためのエネルギーの安定供給
を海洋に求めている.1970年代末から開始された「改革開放」により,
中国経済は急速に発達した.しかし,エネルギー消費量の爆発的増加と
陸域資源の制約から,1993年には中国はエネルギーの純輸入国に転じた.
現在,中東・アフリカ方面からエネルギーを輸入し,そのためのシーレーン
防衛が中国の課題となっている.パキスタンのグワダル港などのシーレーン
沿いの港湾整備などの動きを活発化させており,米国シンクタンクは,
これを「真珠の首飾り」戦略と呼称し,警戒感を発信している.

 このほか東シナ海の日中中間線で油ガス田の開発を強行している.
さらに南シナ海方面での石油掘削も活発であり,2014年5月には,ベトナム沖
の西沙諸島海域で中国とベトナムとの間で一触即発の状態が生起した.

▼東・南シナ海の支配は「海洋強国」建設の第一歩だ!

 中国にとって,周辺海域である東シナ海および南シナ海への進出は
「海洋強国」建設の第一歩であろう.これらの海洋には,中国が歴史的
な固有領土と称する台湾,南沙諸島,尖閣諸島などの「失地領土」の
回復という意味合いも横たわっている.

 南シナ海では岩礁を埋め立てて,人工島を造成し,一部の人工島
には3000メート級の滑走路やレーダーが建設されるなど,領有権の主張
ばかりか,軍事拠点としての機能が整えられつつある.

 東シナ海では2010年9月,中国漁船が尖閣諸島沖のわが国領海内
に侵入し,退去を要請する海上保安庁巡視船に衝突を仕掛けるという事件
が発生した.2012年9月のわが国による尖閣国有化以後,中国は
国家海洋局の「海監」,農業部所属の「漁政」の活動を活発化させ,
もはや領海侵犯は恒常化している.

 2013年の全国人民代表大会(国会)では,海洋監視体制の強化が
謳われ,「海監」や「漁政」をはじめ,警察および税関を担任する監視部門
組織の運用を統合化することが承認された.

 つまり,国家海洋局が「中国海警局」の名称で警察権を保有したうえで,
統一的に監視活動を行なう新たな体制が確立された.海洋権益に
かかわる部門の調整機能として,「国家海洋発展戦略」を設定する
国家海洋委員会も新設された.こうした組織改革は,尖閣諸島や南シナ海
をめぐる周辺国との対立を念頭に置いたものである.

 中国はまず南シナ海,次いで東シナ海を支配し,「海洋強国」建設の
地歩を築こうとしている.

▼「瞞天過海」により尖閣に侵攻か!

 中国はこれまで,南シナ海においては軍事的手段を用いて
西沙諸島(永興島)をベトナムから奪取し,南沙諸島への支配も拡大してきた.
しかし,米国や日本の軍事力が存在する,台湾や東シナ海での領土拡大
は容易ではない.

 また,中国が台湾攻撃のための作戦準備を開始しても,その状況は,
米国の偵察衛星や台湾独自の電波傍受などにより,「手に取る」ように
わかるであろう.状況を事前に察知され,1996年の「台湾海峡危機」のように,
米空母が台湾海峡に派遣されれば,中国としては非常に厄介なことになる.

 しかし,中国が軍事演習を台湾対岸や上海沖などで何回か繰り返す
ことで,本当の攻撃を欺騙したとすればどうであろうか? 米国も台湾も,
それが「単なる軍事演習なのか,それとも攻撃準備なのか」は区別が
つかなくなるであろう.そのうちに,米国や台湾が警戒心をゆるめてしまえば,
中国の電撃作戦が成功する可能性が高まる.これが「瞞天過海」の計の
応用なのである.

「瞞天過海」は当然,わが国の尖閣に対する奪取にも活用されよう.
中国がわが国の尖閣諸島を奪取するシナリオは,海上民兵が漁民を装い,
尖閣諸島に上陸し,日本側の官憲ともめているうちに,自国民の保護を
名目に中国が法執行船や軍艦を派遣して,尖閣に上陸し,そのまま実効
支配に持ち込む.わが自衛隊が出動すれば,日本側の“軍事力の先制使用”
を世界に喧伝し,軍艦を派遣する,というものである.

 中国は2012年以降,尖閣周辺での漁船の活動や法執行船による活動
が活発化し,接続海域には荒天の日を除きほぼ毎日,最近では毎月3回
程度の頻度で領海侵犯は繰り返している(『外務省ホームページ』).

 一方の中国海軍軍艦は,沖縄と南西諸島の間の領域を通過し,沖ノ鳥島
付近に進出しては,毎年のように軍事演習を実施している.こうした中国の
監視活動,沖ノ鳥島での軍事演習が「尖閣侵攻とはまったく無関係だ」と,
いったい誰が断言できようか.ひょっとすると,それは尖閣諸島の奪取のため
の欺騙であり,「瞞天過海」の前夜かもしれないのである.

 わが国の領土をみすみす失わないためには,中国の東シナ海における
日常活動に対する警戒を決して怠ってはならないのである.


(つづく)


【著者紹介】
上田篤盛(うえだ・あつもり)
1960年広島県生まれ.元防衛省情報分析官.防衛大学校(国際関係論)卒業後,
1984年に陸上自衛隊に入隊.87年に陸上自衛隊調査学校の語学課程に入校以降,
情報関係職に従事.92年から95年にかけて在バングラデシュ日本国大使館におい
て警備官として勤務し,危機管理,邦人安全対策などを担当.帰国後,調査学校
教官をへて戦略情報課程および総合情報課程を履修.その後,約15年以上にわたり,
防衛省情報本部および陸上自衛隊小平学校において,情報分析官と情報教官
として勤務.2015年に小平学校教官を最後に定年退官.共著に『中国軍事用語
辞典』(蒼蒼社,2006年11月),『中国の軍事力 2020年の将来予測』(蒼蒼社,
2008年9月)など.近刊に『戦略的インテリジェンス入門』を予定.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.11.3





『ライター・渡邉陽子のコラム (68) ─ 海上自衛隊 第111航空隊(5) 』
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは,渡邉陽子です.先日,この欄で「レーシック手術を
したのに視力が低下した」とぼやいたところ,読者の方がある病院
を紹介してくださいました.いささか見えにくさが不安になっていた
ので,教えていただいた病院に行ってみました.

その結果,以前受けたレーシック手術はなんの不備もなくきれいな
処置ができていることをはじめ,非常にわかりやすく丁寧な説明を
受けることができ,ものすごくすっきりしました! 本当にいい先生でした.
目の疲労をこれ以上ひどくしないための策も教えていただけました.


A.Sさま,「貴女のこれからの大切な仕事にも差し支えます」という
言葉が胸に響き,重い腰を上げた結果,良心的な先生に診ていただく
ことができました.ありがとうございました.


私信:Sさま
ご無沙汰してます! もちろん覚えてます! 取材の際はお世話
になりました,どうもありがとうございました.今もお会いしたときと
同じ部署でご活躍されていらっしゃるのでしょうか.その後,素敵な
ご縁はありましたか?(笑)
こちらは相変わらずです.取材時一緒だったI氏は,現在管制隊長
をされてますね.同行したカメラマンは,先日甥の結婚式の撮影
をしてくれました.
またお会いできる機会がありますように.メッセージありがとうございました.



---------------------------------------
○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■海上自衛隊 第111航空隊(5)


先週は航空掃海訓練において曲芸かと思えるような作業
をこなした機上掃海員,AOについてご紹介しました.

このAO,勇気と実力があるだけではありません.
3種類の掃海具を取り仕切るために,いくつもの資格も保有しています.

「持っているのは1級船舶,フォークリフト,大特,玉かけ,潜水に,
あと何でしたっけ(笑)」

思い出せないとは! 取材に応じてくれた海曹がすべて
思い出せないほど多くの資格がなければ,掃海具は扱えないのです.

「MH-53Eは大きなヘリコプターですが,それでも30kgほどある
掃海具を操作するには,狭く限られた空間です.
けがにも気を付けなくてはいけません.また,掃海は天候によって大きく
左右されるので,気象条件に合った掃海を行なうその判断が難しい
ところです.同時に,そこが面白さを感じる点でもあります」
そのAOはそう話してくれました.面白いんですか!!


一度でもこの航空掃海訓練の様子がテレビで取り上げられることが
あったら,話題になると思うのですが……岩国にしかない海自唯一
の部隊なので,取材対応も難しいのでしょうね.


さて,MH-53Eの航空掃海訓練の次は,降下救助訓練が行われて
いるMCH-101のところへ向かいました.ここからはMCH-101の
ご紹介です.このヘリ,先日の観艦式で安倍総理を乗せて
護衛艦「くらま」に着艦したヘリです.


MH-53Eの後継機として導入された欧州製の機体は,
サイズだけでなくフォルムもMH-53Eと異なります.
大型のアメ車やバイクとどこか雰囲気が似ている「ザ・アメリカン」
といった趣のMH-53Eに対し,MCH-101は何となくしゃれた印象
を受けます.イギリスとイタリアの企業の共同開発だからでしょうか.

全長約23m,高さ6.6m.掃海用としての運用は始まっていないので,
輸送業務を主とし(だから観艦式で出番があったわけです)救難にも
出動します.

MH-53Eの後継機として導入されたはずなのに掃海用としての運用
は行なわれていないとは,不自然ですよね.取材時,部品取り寄せ
や整備に時間がかかり,飛ばせない時間が多いという話は聞きました.
しかし実際の任務は今後も輸送業務が主体となるのではないでしょうか.
おそらく特別警備隊,通称特警隊を運ぶ任務がMCH-101本来の役割
なのではないかと思われます.特警隊は言わずもがな,海上自衛隊
の特殊部隊ですね.


クルーはパイロット2名にCRという航空士が2名と,MH-53Eに比べて
少ないです.掃海作業がないことと,電子化が進み,航空機関士や
航空電子整備員の仕事はコンピュータが行なってくれるからです.

搭乗前,CRは列線整備隊と一緒にウインチの役割を果たすホイスト
の巻き出し点検を念入りに行なっていました.すべて引っ張り出される
ケーブルも地面に触れて傷がつくことのないよう,隊員たちが手に持つ
徹底ぶりです.

一方のパイロット2名は,操縦席で最終点検を行なっています.
後部座席はいつでも準備よしの状態になっても,ヘッドセットからは
まだパイロットとコパイロットが点検を続ける声が響いています.
コンピュータ化した分,最後の点検事項がMH-53Eよりも増えたのです.
実際,コックピットの計器はアナログの針が並ぶMH-53Eとは対照的で,
必要な情報はモニタに表示されています.

ようやく点検を終えてMCH-101は離陸,本日の訓練場所である
岩国基地内のスロープに向かいました.次週はこのMCH-101の
訓練風景の続きをご紹介します.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.11.5




◆嶋浩一郎『なぜ本屋に行くとアイデアが生まれるのか』を読み解く


※要旨


・発想のためには,目的をもって調べた情報はもちろん有効.
だが,日常生活の中で偶然出会う,「想定外」の「無駄」な情報が役に立ったりすることも多い.


・日常生活の中で,そんな想定外で無駄な情報にたくさん出会える場,それが本屋.
だから,「いい企画やアイデアをひらめきたいなら,まず本屋に行こう」というのが,この本で伝えたいこと.


・ネット書店には無いが,リアルの本屋は「想定外の情報との出会い」がある.
その想定外の情報こそ,実は自分の求めていた情報であったり,意外にも役立つ情報であったりする.


・本屋の歩き方:5か条.

1.本屋に行くのに目的はいらない.

2.自分の持っている本を探してみる.

3.普段行かないコーナーに行ってみる.
あえて自分が行かないコーナーを回ってみると,驚きの発見がある.

4.レジ横は見逃さない.

5.迷ったら買え.


・人は自分のやりたいことを知らない.
いい本屋は欲望を言語化してくれる.


・情報量という観点からみれば,本屋さんに5分間いるだけでも,
その情報量はものすごいものがある.


・大切なのは無駄な情報.
私は,役立つ情報よりは,むしろ一見,役に立たない「無駄なもの」を集めている人のほうが,
いい企画の立案やいい仕事ができるのではないか.


・本は全部読む必要はない.
基本的に本は,最初に大切なことや結論が書いてある.
ヌーベルバーグの旗手として知られるフランスの映画監督ジャン・リュック・ゴダール曰く,
「映画は15分だけ見ればわかる」とのこと.


・本にどんどんメモする.
本は読むだけではなく,道具として使うことができる.


・私は本の中で面白い部分には付箋を貼り,1ヶ月寝かせる.
そして,その中からやはりおもしろい情報は,ノートに書き写す.
それらの情報を分類したり,順番を考えたりする必要はない.
そのままひたすら書き写す.


・私がやっているのは,書き写した情報に順番に番号を振っておくだけ.
いわば情報を「放牧」しておく.
この一軍ノートを折に触れて読み返してみる.
いずれそうした無関係な情報が,何かの役に立ったり,情報どうしが結びついたりする経験を,
私はこれまで何度も経験してきた.


・こうして毎日本を買っていると,やはり本棚はすごいことになってくる.
いまの自宅を建てるとき,妻に「床は全部あげる.代わりに壁をくれ」といいました.
妻は何を言われているのか,わからないのです.
そして,建築家には「壁を全部本棚にしてください」と注文しました.
出来上がったのを見て,妻が怒ったのはいうまでもありません.


・情報は本棚の中で化学反応する.
いい本棚には「星座」がある.


・仕事柄,どのように企画を立てているのか,とよく訊かれる.
企画や新しいアイデアに必要な要素を一言でいえば,「想定外」と「欲望」.


・「寄り道思考」が大事.
あちこち寄り道しながら,無駄な情報を集めるのに,読書はもっとも適した方法のひとつ.
読書とは旅である.


※コメント
嶋浩一郎氏は,博報堂出身のクリエイティブ・ディレクター.
さまざまな企画やプランニングを行っている.
彼の本屋さんを活用したアイデア術は,すぐにできる手法だ.
視点を変えるだけで,いろんな企画が生まれる.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
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2015.9.6




◆木山泰嗣『弁護士が書いた究極の読書術』を読み解く


※要旨


・仕事に必要な情報の入手は「スピード」「効率」が重要.
しかし,これは「リサーチ」です.


・読書から得られるものは,実に様々.
本には,無限の宝が眠っている.
無限の宝を発掘するのが読書.


・歴史も含めて「繰り返し」が人の本質.
言い古された内容だからこそ,重要だと思えるようになることが大切.


・本には発想力という宝も眠っている.
アイデアというものは,既存の概念の組み合わせでできている.
インスピレーションを得るには,多くの本を読むこと.


・本には「本の情報」という宝も眠っている.
本の情報というのは,あなたが次に読む本の情報のこと.


・本の醍醐味は,偉大な人物の頭脳と議論することができる.
偉大な人物の脳とあなたの脳の間を,思考が行き来する.
その不思議なレベルまで行くためには徹底して読むこと.
その人物の本を何冊も読む.
繰り返し読む.
暗記するくらい読む.


・いまやっている仕事に関する新しいテーマの専門書を読む.
そういった仕事があるときは本を読むチャンスです.
その分野に関する本を片っ端から買い集めて,読む.


・本は楽しむもの.
楽しんで読みたいものを読むのが読書.


・同じジャンルの本を何冊もたて続けに読む.
同時並列で大量に読む.
それは,好奇心にガソリンを注ぎ続ける行為.


・書店の近くの喫茶店で読む.
本は買ったときが一番ホット.
鉄は熱いうちに打て.
それと同じで,本も買ったらすぐに読む.
これが好奇心を絶やさないための鉄則.


・同時並行で大量に読むようになると,読むスピードが速くなる.


※コメント
人それぞれ本の読み方がある.
そして,他の人の方法を参考にすることでさらにレベルアップできる.
違う分野の人の読書論というものは興味深い.

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2015.9.4




◆ダン野村『交渉力,交渉とは何か』を読み解く



ダン野村氏は,スポーツエージェントであり,最近ではアーン・テレム氏と提携して,
ダルビッシュ有のレンジャーズ移籍を成功させている.
野村克也氏は,彼の養父にあたる.



※要旨


・私は交渉が下手である.
少なくとも,自分ではけして上手だとは思っていない.
私よりはるかに交渉がうまい人はたくさんいる.

それでは,交渉とは何か.
ひとことでいうと,それは「納得」ではないかと私は考える.



・私がフルタイムのエージェントとなる決意を固めたのは,野茂英雄と知り合ったときだった.
したがって,すでに10年以上の歳月が過ぎた.
これまで,日米の球団とそれこそ数え切れないほどの交渉を経験してきた.
そのなかであらためて実感したのが,

「お互いが納得しあうことこそ,交渉の本質である」ということだ.



・私が痛切に感じたのは,日本の交渉は「クリエイティビティ」に欠けているということだ.
日本の球団はいずれも「相手の話を聞く耳」を持っていないという点で共通していた.

「相手がこう出てきたら,こちらはこのような提案をしよう」と,
お互いが柔軟に対応できるだけの創造性を持ったほうがいい.


・アメリカ人は,意外と思われるかもしれないが,まずお互いが相手の言い分を聞いたうえで,
それに合意できるかできないかを検討し,判断を下す.



・市場を知る.
交渉に臨むにあたって,大切なことは何か.
まず絶対に欠かせないのが「市場を知る」こと.

野球選手を売り込むのなら,経済効果も含めてその選手の市場的価値がどれくらいなのかを,
調査するのはもちろん,その選手に興味を示してそうな球団はどれくらいあるのか,
交渉相手は何を望んでいるのか,その選手をどのように使うつもりなのか,
あらゆるマーケティングを行う.



・緻密なマーケティングを怠ると,その選手の適正な市場価値を算出できず,
不相応な要求をして撥ね退けられたり,足元を見られて,
不当に安く買い叩かれたりする可能性がある.



・ゲームにはルールがあるように,交渉においてもルールを熟知することが大切だ.
そのうえで交渉を成功させるためには,それなりの心構えと準備,そして実践的な技術が必要である.



・相手側の動向を事前に想定し,対策を考えておくこと,いわば外堀を埋めておくことは,
交渉の成否を分ける大きなカギとなる.


・交渉のテクニック

一,複数のプランを用意し,ほのめかす.

一,市場を知る.

一,相手の話を聞き,猶予を与える.

一,約束したことは,必ず書面にする.


一,口約束は信用するな.

一,怒るときは冷静に.

一,ネットワークと正しい情報を得るには自ら動くこと.

一,絶対に諦めない.



※コメント

スポーツ選手の代理人は,気配りが欠かせない.
それこそ,彼らには法律知識や会計,税務,業界の豊富な情報をもっていないと成り立たない.
そのためには,自らの強みを活かし,経験を積み,気配りを行い,選手の信用を勝ち取らなければならない.

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2015.9.3




◆中村彰彦『闘将伝:立見尚文,東洋一の用兵家』を読み解く


※要旨


・立見尚文は,幕末の戊辰戦争で佐幕派の桑名藩・雷神隊に所属し,西軍の山縣有朋を翻弄した.
明治維新後に新政府に出仕すると,その「戦上手」を買われ,
西南の役,日清・日露と,近代日本の命運を左右した戦場を稲妻のごとく疾駆した.
日露戦争後は,陸軍大将へと上り詰め,その巧みな戦術から「東洋一の用兵家」と称された.


・立見は,柳生新陰流の剣と風伝流の槍術とを併せ修め,
15歳からは甲州流の軍学も学んでいた.


・彼は国許の藩校立教館の学生としても『春秋左子伝』の素読に11歳で合格する非凡さがあった.
抜群の学力と,弓術,馬術の稽古にも励んで文武両道に磨きをかけた.


・桑名藩出身の立見尚文は,日本史はもとより世界史でも不敗の将軍として知る人ぞ知る人だ.
一個の武人として勇敢であり,指揮官としても胆力と判断力にすぐれ,
軍人政治家としては大局観に恵まれていた.
立見の戦上手は,職人芸とか天賦の才に加えて,
実戦で鍛えられた経験と持ち前の思慮深さによるところが大きい.


・戊辰戦争における朝日山の戦いでは,奇兵隊出身の山縣有朋の盟友たる参謀・時山直八を
討ち取り殊勲を挙げる.
この戦いで,立見の状況把握能力が敵よりもすぐれ,戦闘における管制高地や要地を早く確保し,
敵よりも優位に布陣する立見の才を発揮する機会となった.


・新政府への降伏後,立見はやがて司法省に出仕,下級判事などを務め司法官や行政官としても
有能ぶりを発揮した.
明治時代は面白い時代であり,軍人になるべき人間が文官になったり,反対の現象が起きたりもした.


・各地で不平士族の反乱が相次ぐと,立見も乞われ陸軍に入った.
陸軍ですぐに少佐になり新撰旅団一個大隊を指揮した立見は,
西郷軍最後の拠点,城山の攻略戦でも第一級の功労を立て錦絵にまでなった.


・日清戦争でも陸軍少将として歩兵第10旅団長に任じられた立見は,
際立った統率力を発揮した.
平壌作戦を立案した第5師団長の野津道貫中将の計画を見てすぐに,
戊辰戦争における官軍の白河攻撃策と瓜二つと見抜く戦史的知識をもっていた.


・日清戦争においても,敵の数が断然優勢な状況に顔が士気色になった副官に向かって,
こんなことに腰を抜かしていたら,あれは22歳で討ち死にしておったよ,
と軽く応じる余裕はさすがである.


・野津中将は,薩摩出身だったにもかかわらず,
藩閥外の立見を「東洋一の用兵家」と高く評価した.
幕末に江戸でフランス人教官から近代軍事学を修めた立見は,
「ナポレオン時代のフランスに生まれていたなら.30歳になる前に将軍になっただろう」
と称賛されている.


・苦境を打開するには,強襲につぐ強襲あるのみと22歳のときからあまたの戦場を疾駆してきた立見の心理であった.
日露戦争においては,師団の総力を挙げて夜襲する決意をした.
これは世界戦史に類例の無い作戦である.
当時でも2万人の夜襲とは破格のものであった.


・零下40度の厳寒で高齢の将軍が戦地に立つのもつらいのに,
先頭で指揮を執り続けた粘り強さには驚くほかない.
戦後大将となった立見がいくばくもなく没したのは,児玉源太郎と同じく日露戦争に
精神とエネルギーのすべてを捧げた代償であった.


※コメント
たとえ,かつて敵方であったとしても,能力があれば抜擢されるという典型であろう.
立見の才能と胆力は,戊辰戦争で戦った相手方にもしっかり記憶されていた.
いかなるときも全力を尽くしたい.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
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2015.9.2




◆ドナルド・トランプ『トランプ自伝:不動産王にビジネスを学ぶ』を読み解く



※要旨


・私は金のために取引をするわけではない.
金ならもう十分持っている.
一生かかっても使い切れないほどだ.
私は取引そのものに魅力を感じる.
キャンバスの上に美しい絵を描いたり,
素晴らしい詩を作ったりする人がいる.
しかし私にとっては取引が芸術だ.
私は取引をするのが好きだ.
それも大きければ大きいほどいい.
私はこれにスリルと喜びを感じる.


・私の取引のやり方は単純明快だ.
ねらいを高く定め,求めるものを手に入れるまで,
押して押して押しまくる.


・私は物事を大きく考えるのが好きだ.
子供のころからそうしてきた.
どうせ何か考えるなら,大きく考えたほうがいい.
私にとってはごく単純な理屈だ.
大抵の人は控えめに考える.
成功すること,決定を下すこと,勝つことを恐れるからだ.
これは私のような人間には,まことに都合がいい.


・大きく考えるためのカギは,あることに没頭することだ.
抑制のきく神経症といってもいい.
これは起業家として成功した人によく見られる特質だ.
彼らは何かにつかれたように,
何かにかりたてられるようにある目的に向かって進み,
時には異常とも思えるほどの執念を燃やす.
そしてそのエネルギーをすべて仕事に注ぎ込む.


・市場に対する勘の働く人と働かない人がいる.
たとえば,スティーブン・スピルバークはこの勘を持っている.
スルベスター・スタローンを批判するひともいるが,
彼の実績は認めるべきだ.
41歳という若さで,ロッキーとランボーという,
映画史上に残る偉大な人物像を2つも作りあげたのだから.
彼はいわば磨いていないダイヤモンド,
つまり勘がすべてという天才である.
彼は観客が何を望んでいるかを心得ており,それを提供する.


・私にもそのような勘がある,と自分では思っている.
だから複雑な計算をするアナリストはあまり雇わない.
最新技術によるマーケット・リサーチも信用しない.
私は自分で調査し,自分で結論を出す.
何かを決める前には,必ずいろいろな人の意見を聞くことにしている.
私にはこれはいわば反射的な反応のようなものだ.


・土地を買おうと思うときには,
その近くに住んでいる人々に学校,治安,商店のことなどを聞く.
知らない町へ行ってタクシーに乗ると,
必ず運転手に町のことを尋ねる.
根ほり葉掘りきいているうちに,何かがつかめてくる.
その時に決断を下すのだ.


・私は有名なコンサルティング会社より自己流の調査によって,
はるかに多くのことを学んできた.


・マスコミについて私が学んだのは,
彼らはいつも記事に飢えており,
センセーショナルな話ほど受けるということだ.
トランプ・タワーのような不動産プロジェクトの宣伝がある.
そのような宣伝の最後の仕上げは,ハッタリである.
人びとの夢をかき立てるのだ.
人は自分では大きく考えないかもしれないが,
大きく考える人を見ると興奮する.
だからある程度の誇張は望ましい.
これ以上大きく,豪華で,素晴らしいものはない,
と人びとは思いたいのだ.


・私の父,フレッド・トランプは,小さい頃から地元の果物屋の配達から靴磨き,
建設現場での木材の運搬など,
ありとあらゆる半端仕事を引き受けるようになった.
彼は建築に興味を持ち続け,高校生のとき,
夜学に通って大工仕事と図面の見方,見積を学んだ.
建築のことを学んでおけば,いつでも生計を立てられると思ったのだ.


・私は幼い頃から,近所のガキ大将だった.
人から好かれるか,非常に嫌われるかのどちらかで,
これは今も変わっていない.
けれども仲間内では大いに人気があり,
みなのリーダー格になることが多かった.


・私はヨチヨチ歩きができるようになった頃から,
父と建築現場へ出かけていった.
10代のころは,休暇で学校から帰省すると父のあとをついてまわり,
商売のことをつぶさに学んだ.
業者との交渉,現場めぐり,
新たな建設用地を手に入れるための交渉など.


・私は1964年にニューヨーク・ミリタリー・アカデミーを
そつぎょうすると,フォーダム大学に2年いった.
その後,ペンシルベニア大学の大学院ウォートン・スクールに入った.
ビジネススクールであった.


・ウォートンで学んだ一番重要なことは,
学業成績にあまり感動してはいけないということだろう.
ウォートンで得たもう一つの重要なものは,
ウォートンの学位だった.
私にいわせればそんな学位は何の証明にもならない.
だが仕事をする相手の多くは,これをいたく尊重する.
この学位は非常に権威あるものと思われているのだ.
というわけで,あらゆることを考えあわせると,
やはりウォートンへ行ってよかったと思っている.


・父と一緒に最初働いたが,やがて自分の道を歩き出した.


・父が建設途中のトランプタワーの現場を見に来たときのことは,
いまだに覚えている.
父はひと目見るなり,私に言った.

「こんな高価なガラス壁を使うことないじゃないか.
4,5階までこれを使って,あとは普通のレンガを使ったらどうだ.
どうせ上を見上げる者なんかいないよ」

これはまさにフレッド・トランプ的発想だった.
私は父の倹約精神に心を打たれたし,
もちろん父の気持ちもよくわかった.
だが同時に,なぜ自分が父のもとを離れたかという理由も,
はっきり認識した.


・父の商売を継ぎたくなかった本当の理由は,
私にはもっと遠大な夢とビジョンがあったからだ.
これは父の仕事が肉体的にも経済的にも厳しかったという事実より,
はるかに重要だった.


・考えてみると,私のショーマン的な性格は,
母から受け継いだもののように思う.
母はドラマチックで壮大なことが好きだった.
ごく平凡な主婦だったが,自分を越えた大きな世界観ももっていた.
エリザベス女王の戴冠式のとき,
スコットランド人である母はそれを見るために,
テレビの前に釘付けになり,一日中動かなかったことを覚えている.


・母は式の壮麗さと王室の華やかな雰囲気にただ心を奪われていたのだ.


・その日の父のこともやはり記憶に残っている.
父はイライラと歩き回り,母に言った.
「メアリ,いい加減にしてくれ.
もうたくさんだ.消しなさい.
あんなものニセ芸術家の集まりじゃないか」

母は顔も上げなかった.
この点で2人はまったく対照的だった.
母は華やかさと壮大さを好む.
だが父はきわめて現実的で,
能力や効率の良さにしか心を動かされないのだ.


・大事な取引をする場合は,
トップを相手にしなければラチがあかない.
その理由は,企業ではトップでない者はみな,
ただの従業員にすぎないからだ.



※コメント
トランプのもの凄いパワーを感じる.
同時に彼は,ビジネス成功のために細心の準備をしているようだ.
大胆さと緻密さが,彼のビックプロジェクトを推し進めている.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.9.1




兵法三十六計(2)

第二計 囲魏救趙(いぎきゅうちょう)
─警戒せよ,離間工作の罠─

                 元防衛省情報分析官・上田篤盛(あつもり)
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▼「各個撃破」で勝利する

「囲魏救趙」(いぎきゅうちょう)は,「魏(ぎ)を囲(かこ)んで
趙(ちょう)を救う」と読む.集中している敵に正面から攻撃を
加えることは難しい.それよりも,まず相手の兵力を分散,離間させ,
そのうえで攻撃することの方がたやすい.これこそが兵法の常套
である.この計は,敵の兵力を分散し,これを「各個撃破」すること
に勝ち目を見いだしているのである.

 この計の由来は,紀元前353年,魏と斉(さい)との間で行なわれた
「桂陵(けいりょう)の戦い」に遡る.当時,魏の大軍が趙の都,
邯鄲(かんたん,現在の河北省邯鄲市)を包囲した.

 思案に暮れた趙は,同盟国である斉に救援を求めた.
そこで,斉の軍師であった孫ピン(月へんに「濱」のつくり.
『孫子』の作者とも目される人物)がとった策は,「包囲されている
邯鄲には行かず,魏の都である大梁(だいりょう,現在の河南省
開封市)に軍を派遣する」というものであった.

 魏軍は自らの「横腹」に相当する大梁を急襲され,包囲作戦を
仕掛けている邯鄲との「二正面作戦」を強いられることになった.
結局,魏軍は邯鄲における包囲網を解いて,昼夜兼行で大梁の
救援に向かった.斉は,邯鄲から大梁に至る経路上の要点である
桂陵で魏軍を待ち伏せてこれを撃破した.
 
▼第2次大戦時,ソ連は二正面作戦を画策した!

 第2次世界大戦時,日本は中国戦線と太平洋戦線での二正面
作戦を強いられ,それがわが国敗戦の最大原因となった.
二正面作戦はまったくの“愚策”であり,米国ほどの大国でも,
この回避に懸命であった.それを資源が乏しいわが国が行なった
のだから,戦う前から負けることが当然の帰結であったと言っても
過言ではない.
 
 この際の二正面作戦を画策したのはソ連である.ソ連はドイツとの
ヨーロッパ戦線と,日本とのアジア戦線との二正面作戦を回避する
ため,米国を日本との太平洋戦争に誘導し,日本による対ソ参戦を
回避させることを画策した.

 その際に活躍したのが,伝説のスパイマスターであるリヒャルト・ゾルゲ
である.彼の情報工作の目的は,わが国による対ソ参戦の是非を
見極め,日本に対し南方作戦を採用させ,米国と戦うよう仕向けること
であった.ゾルゲの情報工作は,スターリンの意思決定には
影響しなかったようであるが,結果的にソ連は,わが国に対して
二正面作戦を強いることに成功した.

 しかもソ連は,米国に対する南方作戦に兵力を充当せざるをえない
日本に対して,満洲,北朝鮮,南樺太,千島列島から侵攻を敢行し,
「囲魏救趙」を首尾よく完遂した.

◆「囲魏救趙」は中国共産党の常套手段だ!

 中国共産党は「抗日戦争」や国共内戦で「囲魏救趙」を応用した.
毛沢東は著書『持久戦論』の中で,「根拠地内に長く留まる敵に
対しては『囲魏救趙』が有利である」と述べている.

 これは一部の兵力をもって正面の敵を動けないように拘束しておき,
我は主力をもって敵がかつていた場所に展開し,そこで有利な態勢を
築く.敵が慌てて正面兵力をかつていた場所に転用すれば,
我は有利な態勢(「待ち受けの利」)をもって,転用してきた敵兵力を
撃破するという戦術であり,現代戦術における「攻撃機動の方式」の
「迂回」に相当する.

 なお「攻撃機動の方式」には「突破(正面攻撃)」,「包囲(側背攻撃)」
および「迂回」の3種類があるが,まず「迂回」を追求することが現代戦術
の要諦(ようてい)なのである.

「囲魏救趙」は,戦場以外の場面でもしばしば用いられる.要するに,
敵の関心や努力の指向を分散し,同盟関係などを分かち(離間工作),
敵の集中力や結束を弱めて,倒すというのが,この計の要諦なのである.

 中国は歴史的に敵を離間させる工作や,中立国と「統一戦線」を
組むことなど得意としているが,これも「囲魏救趙」の応用といえよう.

 中国の兵法では「戦わずして勝つ」(『孫子』)を最善とする.そのため,
各種の離間工作が用いられる.『虎の巻』で有名な兵法書『李衛公問対』
では離間工作を「間君(君主どうしを離間させる),「間親」(親族を離間
させる),「間能」(能力のある者を離間させる),「間助」(協力者を
離間させる),「間隣」(友好国を離間させる),「間左右」(君主の側近を
離間させる),「間縦横」(政治顧問を離間させる)に区分している.

 一方の「統一戦線」は毛沢東が採用した戦略・戦術である.主敵を崩壊
させるために,まず主敵の内部分裂と孤立を謀り,孤立した敵の一部や
中立国に働きかけ,これを味方として広範囲に結集し,主敵を倒すという
ものである.

 中国は建国後,ソ連を友とし,米国を主敵として,アジア,アフリカ,
南米を中間地帯として,これらに対する共産主義の革命輸出を行なった.
わが国も中間地帯として共産主義の革命輸出の対象となった.

 つまり,米国の勢力が中国に集中しないように,中国は「囲魏救趙」の
策を広範囲に展開し,米国の勢力指向の分散を謀ったのである.

▼中国は「囲魏救趙」で離間工作を仕掛けている!

 中国は現在,わが国に対し「囲魏救趙」の応用である離間工作を
さかんに仕掛けている.近年の中国指導者は,米中首脳会談などの場
を利用し,「歴史問題」を持ち出しては,「日本軍国主義が中国に多大
な影響をもたらした」「米中は過去において日本ファシズムに対して,
一緒に戦った」という構図作りに懸命である.これは米国との統一戦線
を組んで,わが国を攻撃するという方式である.

 習近平・国家主席は2014年7月に初訪韓し,経済力を梃子(てこ)に
韓国支援を打ち出す一方で,「歴史問題」での韓国との連携を強化した.
これは韓国を触媒とする日米離間工作の一環である.つまり,「慰安婦
問題」(※日本にとって慰安婦問題は存在しないが)などに言及し,日韓
の歴史問題を複雑化させることで,中立でなければならない米国の対日
協力姿勢を牽制した可能性がある.

 2015年10月の訪英でも(10月20日〜24日),公式晩餐会(20日)で
第2次世界大戦における「日本の残虐性」に言及した.習氏は「今回の
訪問が中英関係を新たな段階に引き上げる」と自賛する一方,「第2次
世界大戦で英国は軍備や医薬品を提供して抗日戦争に協力した」と述べた.
11分弱の演説時間のうち,習氏が口にした国名は英中両国では唯一,
日本だけだったという(2015.10.21『産経新聞』).これも英国を触媒
とする日米離間工作の一面があったとみなければならない.

 その一方で,英国に対する多額な投資を約束した“札束外交”は,中国
による南シナ海での人工島建設が米中問題としてクローズアップされるなか,
伝統的な米英関係に楔(くさび)を打ち,米海軍による人工島周辺での
イージス艦による哨戒活動(10月27日)を,英国を触媒として牽制しよう
とする,「囲魏救趙」の高度な応用があった点も見逃せないであろう.

▼最も警戒すべきは,政経離間工作である!

 離間工作ではさらに警戒すべきことがある.それは,わが国の
政財界に対する離間工作である.

 まず政界内部に対する離間工作としては,親中・反米派の政治家を
中国に招聘し,わが国の政治家から,反日,親中の発言を世界に向けて
発信することを試みている.

 2014年6月21日,鳩山元首相は北京で開催された「世界フォーラム」
で講演し,安倍政権の「中国脅威論」を批判した.中国は自らの官製メディア
を通じて(一部のわが国メディアも?),あたかも「現在の日中関係の悪化
の根源が日本である」かのように,中国有利の報道を国内外に発信した.

 2015年11月4日,中国による南シナ海での人工島建設が取り沙汰
されるなか,マレーシアのクアランプール近郊で,ASEAN国防相会議
が開催された.同会議では,米中が南シナ海問題で対立し,中国の
常万全・国防部長(大臣)がいっさいの譲歩をせずに,米国による干渉
排除を主張し,結果,共同宣言の採択が見送られるという異例の事態
となった.わが国は,南シナ海における米国の「航行の自由」作戦に
賛成する立場を表明し,中国との政治的立場の違いを浮き彫りにした.

 他方,同日,経団連の榊原会長をはじめとする「日中経済協会」の
メンバーが,李克強・総理と面会した.これは,同訪中団としては6年ぶり
の中国総理(序列第2位)との面会となった.李総理は日本からの
対中投資拡大や,日中韓の3カ国自由貿易協定(FTA)に期待し,わが国
訪中団も,経済協力発展には両国間の関係改善が必要だという認識で
一致した.

 こうした状況をみるに,中国がわが国の経済界に対して“秋波”(しゅうは)
を送ることで,わが国における政界と経済界を分かち,わが国による
対中政治批判の矛先(ほこさき)を回避しようとしているのであろう.

 これに関してはすでに昨年から顕著なる序奏がある.2014年5月,中国
商務部長(大臣)はAPEC貿易担当閣僚会合に出席し,わが国の
茂木経済産業相(当時)と会談し,「日本との経済関係を重視し,関係安定
を望む」との発言を行なった.この布石として,同会合の1週間前に,
日中の外交関係のブレーンが「両国関係の難局の打開」をテーマに非公開
の討論会を行ない,中国側の有識者が「『少数の軍国主義者と大多数の
日本人民を区別せよ』とする毛沢東時代からの対日政策の『二分法』を
堅持することを習政権に対し提言する」と明言していたようである.
(2014.5.24『産経新聞』)
 
 つまり,今回の「日中経済協会」と李克強総理との面会については,
中国がわが国の政府に対する“真っ向批判”を避け,経済界に対する“飴”を
与えて「二分法」による政治と経済の離間工作を謀ることで,わが国政府
による対中政治攻勢の矛先をかわそうとしたのである.まさに「囲魏救趙」
の応用であるとみなければならない.
 
▼政経離間工作の歴史がいま蘇る!

 こうした政経離間の試みは目新しいものではない.中国共産党の常套手段
なのである.1972年の日中国交回復以前には,中国は政治的に合格とみなす
「友好商社」とのみの日中貿易を行なっていた.「友好商社」は日共系の人物
が運営する中小企業であり,その事業主や従業員には,毛沢東主義を
礼賛(らいさん)し,共産主義革命の輸出を手助けする役割が求められた.
その一方,中国との貿易を望む企業に対しては中国の政治的擁護者となる
ことが強要された. 

 このようにして中国は日本の経済界に対する政治工作を展開することにより,
1970年代の日中国交回復に向けた政治土壌を構築していったのである.
 
 中国が今日,経済界に対し“秋波”を送っている背景には,尖閣問題の
顕在化などにより,日本からの対中投資が減衰しているという,中国側の
現実的な苦しい台所事情がある.

 しかし,中国は尖閣問題などでは一歩たりとも譲歩しない強硬姿勢を崩して
いない.あくまでも,政界と経済界を離間させ,経済界とのパイプを再構築,強化
することで,経済のみならず政治においても有利な態勢を構築することが
真の狙いといえよう.まさに過去の成功体験を,いま一度,繰り返そうとしている
のである.

 民主党政権から自民党政権に復帰し,安倍政権の日米同盟を基本とする
外交姿勢が,北東アジアによる中国包囲網を形成し,徐々に中国の「力による
現状変更の試み」に対する牽制力として機能しつつある.これに対し,
中国は,“あの手この手”を使って,日米離間や政経離間の工作を仕掛けてくる
であろう.

 こうした中国による「囲魏救趙」の策略に嵌(はま)らないためには,
わが国は「国益堅守」という大局に立ち,日米同盟を堅持し,政界と経済界
がともに一致結束して,“中国脅威の増大”という,国家存続上の未曾有の
危機に立ち向かうことが重要なのである.

 安倍政権により形成されつつある“対中牽制力の効果”を決して止めては
ならないであろう.


(第三計「借刀殺人」に続く)

◎国際インテリジェンス機密ファイル
http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
2015.11.10





『ライター・渡邉陽子のコラム (69) ─ 海上自衛隊 第111航空隊(6) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.
朝霞駐屯地内にある体育学校に行ってきました.

体育館では音楽隊や自衛太鼓が,自衛隊音楽まつり本番に
向けて練習を行なっています.そちらも見たかったのですが,
今日の目的は体育学校のアスリートや指導者.いいお話が
たくさんうかがえました.今日改めて思ったのは,自衛隊は
教育に始まり教育に終わる組織だということです.

「教えることが好きな組織」と言われた方もいたのですが,
体育学校でも教える側が選手に負けず劣らず楽しそうというか,
生き生きしていました.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■海上自衛隊 第111航空隊(6)

MCH-101の訓練風景の続きからです.
点検を終えて離陸したMCH-101は,本日の訓練場所である
岩国基地内のスロープに向かいました.
要救助者の位置を確認し,適切な位置で機体を停止するよう,
CRが操縦士へ細かな指示を出します.


扉が開き,降下の準備が始まりました.この日はCRになるべく
トレーニング中の訓練員が救助員,地上で待つ教官が要救助者役.
搭乗員として乗っている2人のCRは,訓練の支援に回っています.

ホイストを操作しているCRが教えてくれました.
「CRは物資の搭載や搭乗している人員の安全確保などを担当するほか,
陸上,洋上の降下救助を行なう救助員にもなります.要は,コックピット
から後ろのことは全部CRの仕事ですね.航空機を誘導するのもCR
の仕事のひとつですが,誘導位置が悪ければ救助者を釣り上げるとき
にケーブルが振れてしまい,救助する人を危険な目に合わせてしまう
可能性があるので,かなり神経を使う点です」

このCR,元特警隊員でした…….MCH-101,公にできない任務が多そうです.


訓練員が降下している間,MCH-101は安定した姿勢を保ったまま,
同じ位置に留まっています.この日の機長はMH-53Eから機種転換し,
この最新ヘリのパイロットとなった方でした.

「MH-53Eの後継機として研究,導入にも関わった機種なので,写真で
見ていたものを実際に操縦できる喜びはあります.この機体の大きな
特色としては,他機種に比べて充実している自動操縦機能が挙げられます.
この機能をうまく使うことで,操縦だけに専念するのではなく,本来任務に
集中できます」


訓練員が降り立った地上は,要救助者役のいる場所にぴたり.
CRの誘導,見事です.

訓練員はハーネストリングという器具を要救助者の脇に通し,
その体をしっかり支えます.機上のCRはケーブルが大きく触れたり
しないか,細心の注意を払いながら2人を巻き上げていきます.
無事に機上に戻ると,今度は要救助者に見立てたダミーの人形を単独
で巻き上げ,訓練員は地上でダミーの姿勢の安定を保持するという
救助方法を行ないました.こうして何通りもの降下救助を訓練していくのです.


私は途中から地上に降りて訓練の様子を見ていたのですが,
そのダウンウォッシュの激しさといったら半端ではありませんでした.
到底立っていられる状態ではなく,座り込んで頭を低くして,それでも
何度も体を後ろに持って行かれそうになりました.背後は海,しゃれ
になりません.

MCH-101でこの勢いです.MH-53Eのダウンウォッシュを浴びた
ことのある隊員が「誇張なしで,転がりました.マンガみたいですよ,
ほんと.ごろごろごろって」と真顔で言っていたのを思い出しました.


洋上をフライトするたびに,海水を浴びた機体は洗浄が必要になります.
2機種の軽微な整備やラインサービスと呼ばれる飛行前点検などを
行う列線整備隊は,クルーが乗り込む何時間も前から準備をし,
航空機が訓練を終えて戻ってきてから何時間も掛けて洗浄,整備点検
を行ないます.それが彼らの仕事ではありますが,頭が下がります.

毎年,インフルエンザにかかる割合は列線整備隊がいちばん多いそうです.
早朝や日没後の厳しい寒さ,容赦なく吹きつける海からの強風に
さらされるエプロン,暖房設備皆無の格納庫.ようやく屋内に入れば,
そこは人口密度の高い,乾燥しきった暖房の効いた部屋.少しでも体調
を崩せば,インフルエンザも近寄ってくるというものです.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.11.12





荒木 肇
『関東軍特種演習──史上空前の大動員(4)
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□ご挨拶

 暦の上では立冬,北海道や各地から雪のお便りをいただきました.
長かった夏,そして急に秋が来て,今度は冬らしい気温が続いて
います.わたしの周りでも急激な気温の変化で体調を崩す人も
増えました.皆様,いかがお過ごしですか.

 日本陸軍の大きな動員,しかも平時に行なわれた関東軍特種演習
について書き続けています.その中でもいつか「軍馬」について
書かなければなりません.数年前のこと,映画『WAR HORSE』
が公開されました.原題はずばり「軍馬」でしたが,邦題では「戦場の馬」
とされて話題を呼びました.

 日本陸軍は機動力,輸送力の多くを馬に頼っていました.
ただし,馬の軍隊であることは20世紀の軍隊では当たり前のことでした.
第一次世界大戦では各国とも100万頭単位の馬が戦場に送り込まれ
ました.トラックが使われ,戦車が出現し,飛行機が飛んでも,馬の
必要性は増えるばかりでした.戦場で道路が整備されていることは
むしろ少なく,夜間偵察や不整地での機動は馬の方が優れていたからです.

 わが陸軍が背負っていた弱点は軍馬でした.もともと在来種の馬は
たいへん小さく,源平時代から戦国時代まで西洋風にいえば,
ポニーにもならない馬格が普通でした.江戸期になってアラブ種の馬が
輸入もされましたが,泰平が260年も続けば,軍馬改良などは後回し.
明治維新になって初めて慌てだしたというのが真相です.

 YMさま,お便りありがとうございました.およそ動員できる軍馬の数は,
平時保有数の3割までといわれています.第一次大戦ではフランスは
95万5000頭を徴発し,1916年には176万3000頭を投入していました.
損耗数は55%にのぼりました.英国は同じく136万1000頭をそろえ,
損耗数は57%でした.ドイツは動員初期には123万6000頭を徴発し,
62%にあたる70万頭を失いました(『富国強馬』武市銀治郎氏・講談社
選書メチエ・1999年による).

 支那事変,大東亜戦争で戦場に送られた軍馬は約70万頭といわれます.
また,満洲では多く現地農民の馬を買い上げました.支那方面では24万頭
が使われ,8年間で11万6000頭を失い,敗戦時には残存12万4000頭
を保有したと記録があります.その77%が各地で中国側に引き渡された
といいます.人が帰国するのが精いっぱいのとき,すべての馬が大陸に
残されたことは当然です.

 馬への思いは多くの将兵が語り残してくれています.いまも靖国のお社の
中には『軍馬の碑』があり,先日も越後高田(新潟県)の自衛官の方から
高田城二の丸の騎兵第17聯隊の駐屯地跡には慰霊塔があるとお知らせが
ありました.

 さて,炊爨(すいさん)・調理用の燃料です.陸軍は固形燃料を用意して
います.野外炊事具や飯盒を使うとき,十分な補給があれば専用燃料を
使ったことでしょう.しかし,現地ではそこにある材木や場合によっては
建造物を壊して使ったことが多いのではありませんか.あらためてご指摘
を調べてみます.


▼昭和16年の気分とは

「バスに乗り遅れるな」.ドイツの快進撃を見て,誰もがこの機会を逃すな
という気分をもった.結果を知っているわたしたちは他力本願の便乗主義
とか,国際情勢分析の甘さだったとか笑うが,これが当時のほとんどの
国民がもっていた本音だった.1941(昭和16)年6月22日のドイツ軍の
突如のソ連侵攻である.

 軍事専門家である軍人も多くは,ドイツの勝利を確信していた.
いや,実は自分は危ぶんでいたとか,口には出さなかったが反対だったとか
戦後になって語っている人は多い.しかし,たいていはウソである.なかには
ほんとうに心配していた人もいただろうが,口にする勇気はなかったのだ.
そういう人は黙っていればいいのだが,いつの時代にも知恵誇りはいるものだ.
そういう回顧録や証言をまともに受け取ってはならない.

 それほどにドイツ軍によって進められた電撃戦とアフリカ軍団の活躍は
世界中の注目を集めていた.新聞やラジオは連日,同盟国ドイツ軍の勝利
を書きたて,ニュースによって流し続けた.すぐにも英国は屈服するだろうし,
ヨーロッパはドイツに席巻される.ソ連に攻め込んだドイツ軍の力を見よ.
これこそが天佑神助というものだ.一気にソ連を友邦ドイツと挟撃だ.
バイカル方面に攻め込んでゆき,ウラジオストックも占領する.満洲も安泰
だし,ノモンハンで苦しめられた外蒙古も占領できる.

 この1941(昭和16)年12月8日,政府の英・米・蘭に対する開戦が
あった.大東亜戦争の始まりだった.この知らせを多くの国民が『気分が
すっきりした』と喜んだという事実がある.誰が否定しようと,この大きな
戦争に多くの人が希望をもった.今でいう「民意」は我慢しきれないところ
まで来ていたといっていい.国民の気持ちに「どこまで続くぬかるみぞ」と
いう軍歌「討匪行(とうひこう)」の歌詞のように,いつまでも解決しない「事変」
へのいら立ちがつのり,つのってきた結果だった.

 国民生活はもう4年も続く「戦争」によって,安定した発展が得られなく
なっていた.この年の初めには米屋の自由営業が廃止され,清酒も配給制
になった.全国で桑畑が次々と整理され米麦の栽培が優先された.大都市
では米穀の配給通帳制度が始まり,外食も券がなくてはできなくなった.
この当時,米の配給量は成人1人あたり1日2合3勺(約330グラム)だった.
 
 学校制度も大きく変わった.この4月から小学校尋常科,高等科だったが,
国民学校と改称され,合計8年間が義務教育になった.

▼支那事変後の動員のまとめ
 
 予備役,後備役の召集も増え,1938(昭和13)年には師団数は合計で
34個,歩兵聯隊は131個にもなり,総兵力は115万人である.この年の
現役兵は昭和12・13年度を合わせれば18万人と32万人の50万人だから,
65万人が動員された予備・後備兵である.予備役は5年と4カ月だから,
計算上は平時兵力の2.67倍の予備役がいる.ところがこれが単純な話
ではない.つまり平時兵力50万×2.67=戦時兵力133万5000人という
わけには行かないのだ.どういうことかというと,師団が増設されると現役兵
は増えるが,過去の蓄積である予備役が増えるわけではない.
 
 13年度に予備役が終わる人は昭和7年兵である.1932(昭和7)年から
1936(昭和11)年までの現役兵は合計でおよそ60万人しかいない.
しかも,予備役の期間中に病気にかかる者や怪我などで軍務に耐えない者
が出る.また,20代の働き盛りでもある.企業や役所などから召集猶予の
願いが出ている者もいる.
 
 だから,この60万人をそのまま全部召集するわけでもないし,できるはず
もなかった.そうすると,不足分は当時ではすでに兵隊としては初老と
考えられていた30代の後備兵,あるいは補充兵を教育召集して急速養成
して間に合わせるしかない.『現役だけが兵隊さん,予備役はアンチャン,
後備はオッサン』といわれたらしい.兵隊生活はつらい.野戦に出ることは,
これに加えての苦労はさらに積もる.陸軍の伝統的な精鋭主義は中国戦線
が片付かないので一気に崩壊したといえる.
 
 1939(昭和14)年にはさらに師団が増設された.戦線からは常設4個師団
が帰国して復員した(戦時編制から平時編成に戻ること).1937(昭和12)年
に臨時編成された第101,109,114の3個師団が廃止された.召集解除
が行なわれ,予備・後備の軍人は帰郷して,ふだんの生活に戻ることができた.
しかし,あらためて11個師団と32個歩兵連隊が編成され,中国の占領地警備
に10個師団,関東軍に1個師団が送られた.陸軍の総兵力は42個師団,
124万人となった.

 1940(昭和15)年には9個師団と歩兵11個聯隊が編成,2個師団が廃止
され総兵力は49個師団,135万人.この関東軍特種演習の1941(昭和16)年
には2個師団,10個歩兵聯隊が増設,総兵力51個師団,210万人になって
いた.下士官・兵の不足もあったが,少佐・大尉といった中級将校たちも足りなく
なっていた.陸士を出て,中隊長になるには10年,大隊長は15年から20年
が必要とされた時代である.

 1939(昭和14)年には大隊長を務める少佐の定員は全軍で約7400名
必要だった.それが現役の充足人数はおよそ6割にもならない同4200名
でしかなかった.中隊長要員の大尉は定員の約1万8600人に対して充足率
はわずか37.4%でしかない約7200名.それで何が起きたかというと,
大尉で大隊長,中尉が中隊長を務めるということがふつうになってしまうことである.
 
 しかも,兵科将校だけに限っても現役の占有率は少佐で83%,大尉では78%,
中・少尉では21%にまで下がっていた.少佐・大尉の5人に1人,中・少尉といった
下級将校のうち5人に4人は予備役召集の人たちだった.陸軍はついに予備士官
学校という予備役将校を養成する専門の学校を各地で開いていた.それはもう,
これまでの部隊内だけでの教育では,十分な指揮能力や企画力のある予備将校
は育てられないという認識から来たものだった.資質の低下は兵や下士官ばかり
ではない.指揮官である将校たちにも経験不足・能力の低下は明らかに現われて
きていたのである.

▼支那事変と軍備充実,それにもう一つの戦争

 参謀本部は2個師団を関東軍に増派する.満洲・朝鮮の14個師団を動員
して,軍直属部隊,兵站諸部隊も海を越えて行かせるという.陸軍省軍事課
はそんなことを認めるわけにはいかない.動員は明らかに開戦決意をしてから
することだ(つまり,陛下の裁可がなければならない).関東軍が戦争準備
をするなら現有兵力の35万人で行なえ.それ以上は認めないと主張した.

 6月29日には参謀本部作戦部長田中新一少将が,陸軍省軍事課長
真田穣一郎大佐に本格動員の実施を迫った.怒鳴られようが,脅されようが
屈するわけにはいかない.7月2日には作戦課長服部卓四郎大佐が主導
した強引な提案が「御前会議」にかけられた.服部卓四郎,ノモンハンで失敗
をし,のちにガダルカナルでも強引な作戦指導をし,戦後は生き延びて再軍備
の新陸軍の中心になろうと画策した秀才である.

 この会議で決まったのは,南方では南部仏印(ベトナム)に進出し,北では
事態の変化に備えて関東軍や朝鮮軍の兵力を大きくするということだった.
結局,参謀本部がいう「北進論」が大勢となった.ことが決まれば次は動員
の準備である.時期が問題になる.これから後は『戦史叢書』の記述による
ことにする.

 軍事課は14個師団だけはやむなく同意するが,内地2個師団の動員派遣
には不同意だった.すでに動員をしようにも精鋭は枯渇し,内地の生産労働
人口にも影響が出てきてしまう.当時の男子人口は20歳から40歳までで
約1250万人である.このうち現役入営者が毎年おおよそ17%とすれば
210万人あまりでしかない.すでに現役,補充兵役,予備役,後備役を
合わせて1940(昭和15)年には総兵力135万人という数字を挙げてある.
もちろん,戦力を考えれば若い予備役が召集の中心になる.そして,補充兵
も教育召集がかけられた.

 いまに置き換えて考えればいい.高校の同級生の5人に1人は入営し,
もう1人は補充兵教育を受けて召集される.就職している仲間も,健康で
頑健な人たちが予備役なら次々と応召していく.学卒者だって例外ではない.
幹部候補生から任官した予備少尉,予備下士官もどんどん召集令状が
舞い込んだ.村や町のお医者さんも出征である.残るのはよほど軍務に
向いていないか,特別な措置を受けている(ただし秘密)召集猶予者だけだった.
どうしてあの人には召集が来ないのか,来る人には何回も来ているのにと
世間にも不公平感が増えてきたのもこの頃からである.
 
 兵員の補充にどれだけ真剣に取り組んだか.実は前年の1940(昭和15)年
の8月から10月の間に第51から同57までの7個師団が編成された.
これは平時編制だったが,人員資材は通常師団の6割であり,幹部の
比率が高かった.補充兵教育をくり返し実施しては野戦に人員を送り込む
「教育師団」だった.編成地を書いておこう.第51(宇都宮),第52(金沢),
第53(京都),第54(姫路),第55(善通寺),第56(久留米),第57(弘前)である.
 
 また,これまでの師管区を改めて上部組織として軍管区を設けた.
東部,中部,西部(以上は8月),北部(12月)の4軍管区だった.動員の
計画・実施範囲を大きく広げるためだった.そして将来は師団を造るための
独立歩兵団(師団の中に入らない歩兵団)を7個も造りだしていた.定員を
下げた100番台の歩兵聯隊3個で編成された歩兵団である.独立第61から
同第67歩兵団で,編成地は,それぞれ東京,新潟県高田,愛知県豊橋,
奈良,岡山県福山,福岡県小倉,岩手県盛岡である.戦後,戦友会が多く
持たれたが,いわゆる郷土部隊といっても,その複雑さがよく分かる.
 
 陸軍省軍事課は予算のことや他省庁との折衝がある.編制動員課も苦しい
立場に追い込まれる.軍管区司令部の動員担当官からは師管区から
上がってくる現場の苦しさがあがってくる.臨時動員が多くなれば,
それだけ事務は煩雑化し,名簿のやり繰りも大変になる.補充兵の教育
の予算や場所,装備,資材,教育者の手当てなども大きな仕事になった.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.11.11





軍事情報 別冊  「数学者が見た二本松戦史(8)」 』

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◇◆◇ 発行講読者数:11,493名/平成22年(2010年)11月5日(金)発行 ◇◆◇

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取材・インタビュー・原稿作成・webコンテンツ用テキスト文作成・自費出版の
原稿作成支援およびアドバイス・その他《書く》ことに附帯する一切の業務に
ついて執筆活動を展開しております.     ライター・平藤清刀
E-mail hirafuji@mbr.nifty.com
WEB http://homepage2.nifty.com/hirayan/
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● もくじ
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◎ ごあいさつ:「好きこそものの上手なれ」
◎ 数学者が見た二本松戦史(8):
第四章・降伏か死か(1)
■勧降使
■功をもって罪をあがなえ
■黒羽藩は酷使された
■降伏してからの方が損害が大きい
■米沢藩は〈武士の誇り〉を失わされた
◎ 二本松あれこれ:二本松藩の歴史(4)
          ●城造りは丹羽家の〈家伝〉
◎ 著者略歴
◎ 読者アンケート

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● ごあいさつ 
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こんにちは,渡部です.

 日本シリーズが始まりました.今年はひいきのチーム(巨人)が出ておりませんの
で,あまり関心はありません.中日・ロッテファンには申し訳ありませんが,勝手に
やってくれといった心境です.

 ただ,巨人の将来の戦力に関係するドラフトには大いに興味があります.今年は2位
で指名した宮國投手(沖縄糸満高)に注目しております.『野球小僧』(これは良書で
す)という雑誌に載った同選手のインタビュー記事が,印象に残っていたからです.

 宮國投手はその中で,「自分はまだまだ未熟ですが,野球が好きなことにかけては
自信がある」と,答えておりました.人間,好きなことには努力を惜しまないもので
す.同選手は投手としての素質は相当なものがあるようです.それに加えて努力を惜し
まなかったら,二,三年後には大きく花開くのではないかと,期待している次第です.
(ただ,沖縄の人は他人を押しのけてというアクの強さがあまりないらしいので,その
あたりが少々不安なのですが).

追記
 Kさまという読者の方から,次のような趣旨のお便りがありました.

「とても面白いです.歴史の本などではわからない細かな各藩の関係や,違う角度から
の見方・心理描写などもあり,興味深く読んでおります」

 わたしは歴史については全くの門外漢です.この年になるまで,数学関係書以外の
文章など,まず書いたことはありません.本稿も「素人が見当はずれのことを書くな」
とのお叱りを覚悟で,書き始めたようなものです.

 Kさまのようなお便りが寄せられますと,自分の方向性がそれほど間違っていないらし
いと,つくづく嬉しくなります.Kさま,有難うございました.二本松戦争もいよいよ
佳境にさしかかったところです.今後ともよろしくお願いいたします


(渡部由輝)

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● 第四章・降伏か死か(1)
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七月二十四日ごろ,二本松の隣藩・三春藩は,無抵抗で西軍の軍門に下った.
西軍は,本宮,小浜の二方面から,守備隊を蹴散らしつつ二本松城下に迫り,
城下まであと10キロあまりを残すのみとなった.

しかし二本松藩は戦闘姿勢を解かない.
なぜ,そこまでして戦う道を選ぶのか?


■勧降使

 七月二十七日,西軍は本宮と小浜に進出した.あと二本松城下まで障害となるものは
なにもない.ほんの二,三時間で達せられる.だが,一気呵成に二本松に殺到すること
はしなかった.一日待った.

 それは戦術的には愚的作戦といってよい.まずその一日の遅延のあいだに,相手によ
り強固な防御体勢を整えられる.さらに応援部隊である.本宮・小浜を抑えたといって
も,二本松を中心として南と東をふさいだにすぎない.北と西はガラ空きである.西方
は安達太良山塊であるから心配ないにしても,北方の奥州街道からは仙台・米沢の応援
部隊が駆けつけてくる恐れがある.

 加えて兵士の士気のモンダイである.二本松が会津へ至るためのとりあえずの目標で
あることは,西軍方兵士はみな知っている.その目標を前にしての一日の猶予は,獲物
を眼前にした猟犬を手綱につないだまま空しく待たせておくようなものである.待たせ
られた兵士の間には,気勢をそがれたことによる怠惰の雰囲気が当然生まれる.ともか
く,戦術的にはほめられた策では決してない.

 二本松攻撃をそのように一日延期した理由について,西軍方の記録は次のように伝え
ている(『東山新聞』).

 「彼(二本松藩)はさほどの大藩でもない.本心から反逆したいわけではなかった
が,周囲の大藩の意向に逆らえず,やむをえず同盟側に属していたのかもしれない.こ
のように大軍を連ねて迫られ,隣藩の三春はすでに降伏した.二本松も降伏したいのか
もしれないが,西軍の進出があまりにも急すぎて,降伏の使節を出す時間的余裕がない
のかもしれない.一日待ってみよう」

 ようするに,二本松藩の降伏使が来るのを待っていたのである.二本松などどうせ
中藩,自らの意志で抵抗していたわけではない.それなのに,城下が敵軍に圧服させら
れるまで戦った.同盟に対する義理は十分に果たしたのであるから,このあたりで手を
上げるのが当然というのが,西軍方のおおかたの認識だったのである.

 実際,そのような行動をとった藩があった.守山藩二万九千石である.守山は三春と
郡山の中間あたりにあった小藩である.独立した城郭はなく,いわゆる陣屋大名であっ
た.一応は大名であるから同盟側に属し,二百か三百の兵を出して戦っている.西軍は
その守山藩も無視するようにして二十六日に三春まで進出した.西軍方の勢力圏の中に
取り残されたかたちになった守山藩は案の定,その二十六日に三春の板垣支隊に降伏の
使節を派遣し,謝罪文を提出している.二本松藩も守山と同列視していたわけでもなか
ったろうが,ともかく二十八日は一日中,二本松からの降伏使が来るのを待っていた.

 ただ待っていただけでなく,降伏しやすいようにと工作も行なっている.大垣藩を
通じてである.本宮まで攻めてきた西軍は八藩の連合軍であった.その中に大垣藩もい
た.大垣藩は二本松藩と相当以上密接な縁戚関係にあった.二本松藩主丹羽長国の正室
は大垣の前藩主戸田氏正の二女であり,氏正の嫡男,十代藩主氏良には長国の妹が嫁い
でいた.藩主同士が娘と妹を嫁がせ合っていたのである.まだ存命中であった氏正が娘
を思い,戊辰の早い時期から二本松藩に対し,「順逆を誤ることなかれ(西軍は王師で
あるから抵抗してはいけない)」,というむねの働きかけをしきりに行なっていた.
その二十七日にも,二本松に大垣藩からの勧降使が訪れている.『二本松藩史』によれ
ば,それはこのようなものだった.

 「我(二本松藩士玉木銀兵)は八番組丹羽右近隊に属し,大壇口を警備中,二十七日
の朝百姓体に変装せる大垣藩の密使来たりて,隊長に面会を求め,人払いにて面談し,
懐中より密書を出し,隊長に渡して去って行った」

 二十七日の朝(正確には午前中であったろうが),大垣藩にすればおそらくは最後の
説得を試みようというわけで,勧降使を派遣していたのである.その密書はもちろん城
中に届けられ,首脳部にも被見されていたものと思われる.


■功をもって罪をあがなえ

 ともかく,二本松と大垣はかなり以上に親しい縁戚藩であった.したがって二本松藩
は幕末当時の大垣藩の動向は,ほぼ正確に知っていたものと思われる.ただし,その知
りすぎるほど知っていたことがかえって障害になり,二本松が降伏せず,結果的に徹底
抗戦するに至った理由の一つではなかったのか.

 当時,新政府側の降伏藩に対する態度は,次のようなものだった.

 『功をもって罪をあがなえ』

 大垣藩はそれを実行させられた藩の見本のようなものであった.大垣藩十万石は,
もともとは佐幕藩であった.藩代々の当主戸田氏が家康の祖父清康の時代から徳川に
仕えていた生粋の譜代藩である.その縁もあって大垣という東海道・東山道の分岐点に
あたる要衝の地におかれた.西南あたりの雄藩が反乱を企てて東上でもしてきたら,
そこでまず食い止めることを期待されての配置であったものと思われる.徳川方からす
れば実際にその雄藩が決起したようなものといえる鳥羽伏見の戦いでは,当然ながら幕
府方に属して鳥羽堤において戦っている.それも多くの幕府方他藩のように,後陣あた
りでウロウロしていたわけではない.藩兵五百を出し,幕府方の主力軍の一つとして勇
戦している.その結果,十名の死を出した.それは幕府方に属した藩の中では,会津・
桑名に次いで多い損害であった.

 鳥羽伏見後,新政府側にその罪を問われた.ふつうなら藩主退隠・責任者何名かの
処刑,減封くらいの罰は免れえないところであったが,その危機を藩の重臣小原鉄心が
救った.鉄心は幕末の早い時期から勤皇の志士として行動し,岩倉具視・木戸孝允らに
接触していた.その縁で大垣藩はとりあえず“執行猶予”ということにしてもらった.
以後,新政府側の一員として行動し,その働きぐあい次第によっては許してもらえる.
犯した罪に相当する功を上げたらカンベンしてもらえる,ということである.

 結果をいえば大垣藩は,その功を上げんがため孜々として働いた.いや,働かせられ
た.新政府軍が大垣に集結したのは鳥羽伏見のすぐ後の二月一日.以来,大垣兵はその
一員として東海道・東山道と従軍し,関東平野から奥羽・越後にと,函館戦争を除く
ほとんどすべての方面戦に参加させられた.あまりにも多くの戦線に兵を派遣したた
め,準三藩(薩長土に次ぐ)とまで言われたりした.

 ただし,そのつけは大きかった.東日本をそのように転戦する過程において,大垣藩
は四十四名の死者を出した.それは新政府側としては薩長土肥を除いては,加賀藩(九
十五名),広島藩(七十二名),黒田藩(五十七名),鳥取藩(五十六名)に次いで多
い人的損害であった.以上四藩はすべて大藩であるから,石高あたりの損害は大垣藩の
方が多い.ともかく,「犯した罪に相当するほどの功を上げる」ためには,それこそ身
を粉にして働く必要があったのである.

■黒羽藩は酷使された

 もう一つ,罪をあがなうに値する功を立てんがため,新政府側に酷使された藩をあげ
よう.黒羽藩(栃木県)一万八千石である.

 黒羽藩は幕末時,相当以上に異色的藩であった.藩主の大関増浩が相当以上に異色的
人物だったからである.黒羽藩は外様の小藩であった.通常ならそのていどの石高の外
様藩など,幕末史の表舞台に登場することなどまずないのだが,黒羽藩はそうでなかっ
た.藩主の増浩が今でいえば科学技術マニア,軍事オタクであった.数学や科学といっ
た理系の学問は人生経験をそれほど必要としないこともあって,才能のある人物は二十
歳くらいでその分野の最高的段階にまで到達できたりするものであるが,増浩もそのよ
うなタイプだったらしい.その優れた科学関係の能力を生かし,特に火薬の研究に熱中
した.自領の那須火山帯には良質な硫黄がある.それらを用いて,当時としては最高的
レベルの良質火薬を製造していたといわれる.その良質火薬を使用する銃砲の研究・開
発にももちろん取り組み,とりわけ大砲類に関しては,全国的にみても最新鋭的兵備を
整えていたらしい.

 そのウデを幕閣に買われた.はじめは幕府の陸軍奉行,さらに海軍奉行と歴任させら
れた.今でいえば陸軍大臣,海軍大臣である.増浩はそのころまだ二十代の後半であ
る.そのような若さでしかも外様小藩の藩主が幕府の要職につくなど,異例のことであ
った.当時の幕閣にはメカに強い人物がそれだけいなかったのか,増浩の科学的知見が
ことほどに群を抜いていたのか,たぶんその両方だったものと思われる.

 黒羽藩は鳥羽伏見に参戦したわけでなく,関東平野に進出してきた新政府軍に特に反
抗的姿勢を示したわけでもなかったが,藩主が幕府の要職にあり,しかも兵器・兵制の
近代化に尽力したという経歴がたたった.増浩自身は鳥羽伏見の一か月ほど前,科学者
としての実験中に事故死(銃砲用の火薬の暴発といわれる)しているが,北関東にまで
進撃してきた新政府側に最新式の火砲類を砲兵ごと押収された.以後,それらはすべて
西軍の管理下におかれ,やはり犯した罪に値するほどの功を立てよとばかりに,黒羽兵
は酷使されている.黒羽は地理的に奥羽地方と最も近い藩だったこともあり,特に二本
松戦争も含む福島の中通り地帯における作戦にはことごとく参加させられ,死者二十四
名を出している.それは石高一万石あたりの死者の割合としては,西軍方では最高で
あった.

■降伏してからの方が損害が大きい

 ともかく戊辰時,降参したからといってそれですべておしまい,あとは高見の見物,
というわけにはいかなかった.さらなる苦難が待ち構えていたりした.降伏後のそのさ
らなる苦難の方が,ときには降伏前のそれより大きかったりした.そのような藩を一つ
あげてみよう.相馬藩六万石である.

 相馬藩は仙台の隣藩である.石高こそ少ないが,全国的にみても有数の伝統を誇る
名門藩であった.平安末期あたりから中村氏が連綿としてその地を領していた.そのよ
うに長期にわたって同じ地方に根を生やしていた藩は,薩摩など数藩しかないといわれ
ている.

 だが,いくら伝統はあっても,六万石ていどでは戦力的にたいしたものでもない.
同盟側としては隣接する大藩仙台の意のままに頤使されていた,ようなものであった.
仙台の先兵のようなかたちで白河・棚倉・いわきと出兵させられた.兵備の近代化に
立ち遅れ,特に銃器の多くが旧式の火縄銃やゲベール銃であったこともあり,いずれも
惨敗を喫し,七月下旬ころには,いわき三藩を葬った勢いで浜通りを進撃してきた西軍
に押され,自領防衛も危うい,というような情勢になった.西軍が中村城下に迫り,応
援部隊の仙台・米沢兵が退散した八月六日に降伏した.藩主相馬季胤は城を出て,自領
内の菩提寺長松寺に謹慎し,西軍の管理下におかれた.人質にされたのである.

 藩兵はもちろん無罪放免ではない.それまで新政府側に抵抗した罪をあがなわなけれ
ばならない.降伏の翌七日には,もう西軍の先兵として駒ヶ峰において仙台軍と戦わせ
られている.昨日までは南方に向けていた銃砲を,今日からは一転して北方に向けなけ
ればならない立場になったのである.仙台藩は結局,その自領の駒ヶ峰を奪われたこと
がきっかけとなって九月十五日に降伏したのであるが,それまで一か月あまりのあい
だ,駒ヶ峰とその近辺の旗巻峠において仙台軍と西軍との間で小戦も含めると十度もの
戦いが行なわれ,そのほとんどすべてに中村兵は参加させられた.その結果,西軍方と
して戦ったその一か月少々で三十七名の死を出した.一方,それ以前,つまり同盟側と
して戦った三か月半での死者は八十四名であった.一か月あたりの死者の割合として
は,新政府側として戦ったときの方が多い.

 それもやはり藩主を人質にされたというためもあったものと思われる.東軍方のとき
は戦況が不利になったような場合,退却する自由は相当にあった.西軍のときはそれは
あまり多くない.すぐ後ろにはその西軍の監督者(監察,もしくは軍監といった)が眼
を光らせている.戦況がどうであろうと,いやおうなしに戦わざるをえない.

 なお,そのように降伏者をただちに自軍の先兵的部隊として活用することは当時,
ある種の常識のようなものだった.降参してきたといっても,それらをすぐ自軍内に
取り込むわけにはいかない.反乱でも起こされたら一大事である.先兵としてとりあえ
ず最前線に配置し,相手側と戦わせてみる.その戦いぶりによって,真に降伏の意志が
あるのか偽装的降伏なのかがわかる.それで勝てたらもうけもの,敗れてその先兵的部
隊が壊滅されようと,味方は痛くもかゆくもない.むしろやっかいな降参者を始末する
手間がはぶける,というわけで戦国時代あたりはごくふつうに行なわれていたものであ
る.

 たとえば関ヶ原における小早川秀秋隊である.周知のように関ヶ原では小早川隊の裏
切りによって,東軍(家康)方の圧勝に終わった.が,小早川はその裏切った時点で,
それまで東軍に抗していた罪を許してもらえる,というわけではなかった.早速,西軍
の主将石田三成の居城佐和山城攻めに活用されている.それも関ヶ原が終了したその
日,九月十五日の夕刻,徳川四天王の一人井伊直政の監督のもとにただちに出発,とい
うあわただしいものであった(佐和山城は翌十六日に陥落した).

 それでも戦国時代なら,犯した罪に値する功を立てるためには,せいぜい〈兵〉を
提供するだけですんでいたが,戊辰期はそうはいかなかった.だいたいは〈金〉まで支
払わせられたものである.実際,相馬藩は償金として一万両を出させられている.現在
の価格に換算すると三〇〜四〇億円くらいであるから,相馬藩の財政的規模(年間四〜
五万両ていどであったと推定される)からすれば,決して少ない額ではない.

■米沢藩は〈武士の誇り〉を失わされた

 相馬藩は降伏したことにより人的・物質的損害を受けたケースであるが,精神的迫害
を被った藩もあった.米沢藩である.

 七月二十九日,二本松藩が降伏した.時をほぼ同じくして隣藩の福島藩三万石は
藩主・藩士ともども城を捨て,米沢や仙台方面に逃亡した.十万石の二本松藩をほんの
半日で壊滅させた西軍の実力からすれば,福島藩など鎧袖一触のごとく葬り去られるこ
とは,あまりにも明白だったためである.

 それで最も脅威を受けたのは,福島藩に隣接していた米沢藩であった.西軍にそのま
ま米沢まで進撃して来られたら,二本松ほど短時間ではないにしろ,やはり壊滅させら
れることは必至である.というわけで,降伏に向けての工作が種々行なわれた.都合が
良いことに,二本松まで進撃してきた西軍の主力部隊である土佐藩は,米沢藩の縁戚藩
であった.米沢藩主上杉斉憲の正室は土佐藩主山内容堂の姪であり,その容堂のすぐ下
の妹が斉憲の弟上杉勝道に嫁いでいた.

 そういった縁もあり,米沢は土佐藩を通じて投降工作を行ない,自領がまだ寸土も侵
されていない九月四日に正式に降伏した.がやはり,当時のならいとして,それで無罪
放免とはならなかった.人的・物質的損害はあまり発生しなかったが,精神的なそれが
待ち構えていた.そのころの記録を集めた『米沢藩戊辰文書』によれば,次のようなも
のだった.

 米沢が降伏した時期,会津盆地には新政府側の大軍が集結していた.その進駐軍に対
して米沢藩はまず,「会津の酒だけでは不足でしょう.自領から取り寄せましょうか」
と申し出ている.実際に何樽か差し出している.周知のように米沢藩の始祖上杉謙信
は,ライバル武田信玄に塩を贈ったと伝えられる.それによって合戦において手心を加
えてもらおう,などというさもしい根性によるものではむろんない.一般民衆をも苦し
める食糧攻めのような姑息な手段などによらず,正々堂々と雌雄を決したいがためであ
ることはいうまでもない.その三百年後,新政府軍に自ら進んで酒を提供した後輩の行
為はそれとは似て非なるものである.強者に対する弱者側からのこびへつらい,阿諛追
従以外のなにものでもない.

 米沢藩は他にも同種の行為をしている.降伏して米沢藩は西軍の管理下におかれた.
そのさい「自藩兵から決死の士を募り,使節として若松城に乗り込み,降伏を勧告す
る.聞き入れなかったら火を放ち,城内を混乱させるから,そのスキに攻め入ったらど
うか」というような申し出までしている.西軍首脳部がそんな奇策など受け入れるわけ
はないことを見越しての,やはり強者側の心証を良くしておきたいがための,弱者側か
らのこびへつらい的行為であることはいうまでもない.

 そんな米沢藩士の卑屈な態度を見透かされてか,西軍方兵士に難クセをつけられても
いる.米沢城下にも西軍が進駐してきた.そのさい,ある西軍方兵士の一群が,宿舎と
された旅館に掲げられた提灯の紋が自藩のものと違うと騒ぎ立てた.はては刀を振り回
し,旅館で暴れたりした.つい数日前まで敵方であった藩の紋入り提灯など,緊急に用
意できるものではない.それを十分承知の上での,酒手目当てかなんかのゆすり的行為
だったのだろう.その種の狼藉的行為は他にも頻発していたらしい.前記『米沢藩戊辰
文書』は,「世良一味よりひどい」と嘆いている.

 ただし,西軍方兵士の行為を弁護するわけではないが,彼らにしてみれば,「二本松
は中藩ながら全藩あげて城を枕に討ち死にするまで戦った.それに比べてお前らは謙信
公の末裔などとイバっているくせに,城下に敵がまだ迫らないうちにヘナヘナと降参し
た.なんたるザマだ」といったところではなかったのか.

 西軍に降伏した後の米沢兵はもちろん,その一員として会津軍と戦わせられている.
西軍が米沢に進駐してきたのは九月十一日,ただちに米沢藩兵による会津追討軍か編成
され,今度は西軍の先兵となってその四日後にはもう会津鶴ヶ城下に迫った.会津の降
伏はそのちょうど一週間後の九月二十二日であるから,当時は会津戦争はほとんど終焉
的状態に至っており,米沢兵も残敵掃討的小戦しかしていないが,そのさいの報告書に
なんと,「会賊」と記している.昨日までの友軍・同盟者が今日は一転して“賊”であ
る.

 藩祖謙信は〈義の人〉であったといわれている.例の川中島は領土的野心によるもの
ではなかった.自らを頼って落ちてきた北信濃の小領主村上義清らに,旧領を回復させ
てやるため,であったらしい.戦国の群雄の中で,そのように他者を助けるために戦っ
たのは謙信ただ一人とも言われている.それほど〈義〉に生きた泉下の謙信公が,三百
年後の戊辰においていったんは盟友の契りを結んでおきながら,形勢が不利になるや一
方的にそれを破棄し,あまつさえ,かつての敵対者の歓心を買うべく,その盟友を
“賊”などとののしった後輩の変節ぶりを知ったら,なんと言ったろう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2010.11.5





荒木 肇
『関東軍特種演習──史上空前の大動員(5)
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□はじめに

 欧州でのドイツ軍の快進撃,あれよあれよという間に攻撃を
受けた各国は次々と軍門に下ってしまいました.そうなると,
いつも世間は軽薄で,『バスに乗り遅れるな』の大合唱になって
しまいます.いつまでも片付かない日支事変.だんだんと物不足
が感じられるようになり,出征兵士は次々と郷里を後にします.
若い予備役兵から召集されましたから生産力は下がってきます.

 陸軍は満洲国や朝鮮の防衛のために関東軍を増強しました.
国境紛争もしばしば起きていたので,当時の軍人たちの危機感
も笑うことはできません.ソ連の極東軍もどんどん増強されてきます.
長引く事変があり,同時に装備も改良し続けなければなりません.

▼東條陸軍大臣の変心

 1941(昭和16)年7月2日のことである.ドイツ軍はソ連領内
への侵攻500キロメートルを記録し,ドニエプル河畔に到達しよう
としていた.そのころ,参謀本部は自分たちが主張する大動員
を実現しようと連日のように東條陸相にかけ合いを続けている.
陸軍省軍事課長の真田大佐は,『田中部長から二度も部長室
に呼びつけられ,割れるような大声で怒鳴られても一歩も引かなかった』
と戦史叢書には書いてある.

 新聞をひっくり返すと,支那各地の戦線は依然として膠着.東京市内
では野菜が不足し,奥さんたちが八百屋に行列をしているという記事
がある.また,軍需産業の景気がよく,女子従業員の募集が多くなり,
デパートガールのなり手が少なくなっていた.デパートガールから
工場勤めに変わることも多かった.
 
 商工省が買占めや売り惜しみを禁止したというから,当時から目端
が利いて裏の世界で儲けをたくらむ人たちがいた.物が配給制になり,
物流が統制されれば巧く立ち回る人が出るのは昔も変わらない.
 
 7月4日の夜のこと.東條大臣の官邸に田中作戦部長が乗りこんだ.
直に訴えようというわけである.何が話されたかは不明だが,翌日
から東條陸相は参謀本部案に賛成した.大臣が同意すれば,
参謀本部総長は天皇陛下に上奏する.陸軍の行政と運用の意見が
一致したのだ.あとは陛下の裁可さえ貰えば計画は実行化された.
上奏文の内容は分からないが,当時,軍事課員の加登川中佐によれば,
『内地からは二個師団を基幹とする部隊の動員派遣とあった』というから,
陛下へはまったくのウソを申し上げたことになる.
 
 陸軍はこの手をよく使った.マスコミや議会も含めて,軍隊の編成や
編制にうとい人たちは簡単に騙された.議会で『歩兵1個旅団を出します』
といえば,ふつうの人は歩兵のあたま数だと思ってしまった.ふだんから
近所の歩兵聯隊を見ていれば,10個中隊くらいである.およそ2000人,
馬70頭.旅団ならそれの2倍かと思う.『ああ,4000人くらいか.大した
数じゃないな』と受け止めてしまう.
 
 読者はすでにお分かりだろう.歩兵聯隊に動員がかかれば,平時の
小銃3個中隊でできていた1個大隊が4個中隊になる.第1から第3の
機関銃中隊ができ,歩兵砲小隊が編成され,大隊ごとに大行李がつく.
それに歩兵砲中隊や通信中隊もできる.人員が増え,補給品や弾薬,
医薬品などなどが集められ,大隊本部動員室は大騒ぎの状態になる.
 
 馬も集められ,馬糧が集積され,厩も増設された.歩兵聯隊は平時の
1996人,馬71頭が,戦時には3747人,526頭と約2倍に大型化する
のだ.したがって,歩兵旅団は75人,馬20頭をもつ旅団司令部以下,
7569人,馬1102頭という兵力になる.人は2倍,馬はなんと7倍に増える.
これに輜重兵聯隊からの配属輜重兵や兵站部隊が附属する.近代軍隊
では戦列部隊より後方支援部隊の人数が倍になるのが常識である.
 
▼人50万,馬17万頭

「関東軍特種演習」,略称「カントクエン」の始まりである.戦後,さまざまな
陸軍軍人の自己弁護めいた証言の中には『ソ連の方から仕掛けてくるのに
備えた自衛準備だった』というものがたくさん出た.しかし,現在の研究から
はそういうことは考えられない.防衛庁の公刊戦史などでも,書き手たち
(元陸海軍人)の性向から「同期の恥は隠す」,あるいは「失敗は繕う」という
基本方針が存在する.これが政府の公刊物かと疑うような記述がよく
見られる.日露戦争史と同じである.

 ソ連は西からドイツ軍の強烈な侵略を受けている.全力でそれに対抗したい.
ところが,東には「強大な関東軍」が満洲国内で爪を研いでいる.
その関東軍の備えのためにはシベリアに戦力を蓄えなくてはならない.
極東ソ連軍は1940(昭和15)年には狙撃師団(列国の歩兵師団)30個,
戦車2700輌,航空機2800機,潜水艦103隻,総兵力70万人をもっていた.
当時のソ連首脳としてはこの戦力がつくづく西部方面に欲しかっただろう.
安心してドイツ軍にあたりたい,そのためには東の日本軍の動静が気になって
くる.こうした時に関東軍は戦争をしかけようとし,参謀本部はそれに協力
していた.スターリンでなくとも深い恨みをもつのがふつうだろう.

 そこへ関東軍の大増強である.関東軍の当時の戦力(昭和15年末)は
人員40万人,12個師団,27個飛行戦隊,9個独立守備隊,13個国境守備隊
だった.これに加えるのは確かに上奏通り,2個師団(第51,57)に過ぎない.
しかし,送り込む人馬の数は大変である.満洲や朝鮮の師団は14個あった.
それらに動員をかけて戦時定員の編制にする.飛行集団にも動員がかかる.
それに軍直轄の砲兵隊や,兵站部隊が500個隊ほど用意される.予算人員
では約50万人,馬は15万頭の増え方である.なんやかやで,関東軍は
85万人,馬が22万頭になった.

 軍備を充実させるために中国戦線を縮小し,35万人を復員させようとしていた.
それと同時に,50万人の軍隊を新しく満洲に送り込もうというのだ.誰が考えても
無茶としか思えないのだが,そこは『バスに乗り遅れるな』の大合唱である.

 戦争は金がかかる.もちろん,軍備にいくら金を投じても,それが抑止力と
なるのなら平和を維持でき,戦争よりはるかにマシに違いない.では,当時の
わが陸軍はどれほど金を使っていたのか.実は正確な数字は分かりにくい.
さまざまな証言や記録を読む限り,満洲の軍事費は兵士1人当たり年間3500円
くらいかかったらしい.当時の1円を今の5000円くらいと考えると,先に出た
加登川氏によれば,年間1800万円くらいかかった.10万人を送り込めば
1兆8000万円になる.50万人なら9兆円になる.
 
 支那の戦争での経費はというと,1人当たり4500円くらいだった.年間では
38億円ほどで,現在の20兆円くらいだろう.35万人を削減すれば8兆円の
節約になる.修正軍備充実計画はその金をあてにしたものだった.

▼軍事課の仕事

 動員,召集は7月中旬から始まった.動員担任官の師団長からは聯隊区
司令部に動員符号によって示された指示が出る.『第5動員の甲』などといえば,
司令部の要員はそれに従って市役所の兵事係に召集令状の準備を命じた.
町村の分は地元警察署に厳重に保管された令状が用意された.
兵事係は配達区ごとに区分けして,自ら令状を届けた.本人,もしくは代理
に指定された人は受領印をおして確認する.本籍地に不在の人には急いで
通報する.これが速達扱いの令状到着を知らせる郵便はがきだったことが,
『兵隊を集めるのは一銭五厘』の神話の始まりである.

 多くの人は汽車で召集先に向かった.遅れれば大事件である.部隊の方
では『一人一馬の到着が日時で指定されていた』のだ.動員係に指定された
将校以下は体を壊してしまうくらい大忙しになった.動員部隊の編成が完結
すると,物資といっしょに船に乗った.馬はもちろん貨車に載せられた.
ついでにいえば,屋根つきの貨車はワゴンで記号は「ワ」であり標準型は
「ワム」と略称された.この「ム」とは,「ム(ウ)マ=馬」を運ぶことが多かった
からだ.なお,今もJRで使われる貨車の積載重量記号は「ムラサキ」の順
に大きくなっていくが,ムを頭文字に響きのよい4文字はと考えた結果だそうだ.

 大陸への人馬・物資の輸送のために民間船舶も90万トンが徴用された.
民需物資の輸送に支障が出ようがお構いなしである.満洲国でも鉄道の
輸送能力の半分は軍事輸送に充てられた.それが戦う軍隊の当然の姿だった.
陸軍はこれと同時期に南部仏印に進駐した.アメリカの反発は在米日本資産
の凍結と油の禁輸措置に現われた.

 大きな軍隊を集結させるには宿舎が必要である.50万人と馬17万頭を
収容する兵舎と厩はあったのか.満洲にはそんな物はなかった.
その建設資金を用意するのは経理局建築課の仕事だった.経理部の将校
たちの仕事を以前にも書いたが,土地,建物の管轄は経理局である.
参謀本部からの要求は軍事課予算班が仲介して,経理局との間の連絡を
図ることになる.

 季節は7月の下旬に近づく.満洲の夏は短く,戦闘の進展によっては
ウラジオストックで野営をする部隊もあるかも知れない.冬はもうすぐである.
宿舎もなければ露営具もない.第一,露営などできる場所ではなかった.

 戦史叢書を開くと,そこには参謀本部の計画が書いてある.動員は開戦時期
と大きく関係する.速戦即決を旨とする陸軍は,その準備期間がなるべく短い
ことを期待していた.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.11.18




『ライター・渡邉陽子のコラム (70) ─ 海上自衛隊 第111航空隊(7) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.
第111航空隊の連載は今日で終了です.

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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■海上自衛隊 第111航空隊(7)


搭乗員たちはそれぞれ担当する機種がありますが,
整備員にはその分担がありません.

列線整備隊隊長によれば,整備員の人数が少ないため
機種をわけて担当する余裕はなく,整備員はみなどちらの
機種も整備できるのが基本だそうです.

また,こうも話してくれました.
「MH-53Eはコックピットがアナログなので,故障したときの
原因の探求は断然MH-53Eのほうがやりやすいです,
今までの蓄積もありますし.MCH-101はエラー表示が出ても,
何が原因でそのエラーが出ているんだろうと悩むこともあります.
それから小さなことではありますが,MH-53Eはアメリカ製
ですからインチ,ポンド表示.一方,欧州製のMCH-101はメートル,
キログラム表示で,ネジや工具まで違います.私達の頭の中は,
整備に関しては完全にインチ,ポンド仕様でしたから(笑),
慣れるまでは換算表を作ったりして,その切り替えが大変でした」


取材時の111空司令は,3回目の111空勤務でした.
「海上自衛隊唯一の航空掃海部隊ですから,おのずと勤務が
長くなります.規模もこぢんまりしているので,家族的な雰囲気の
強い部隊ですね.メジャーな機種でない分,教育や研究開発など
にも関わるので苦労が尽きません」
大変なんですよと笑う声には,111空への愛情がにじみ出ていました.
航空掃海一筋に生きてきたからこそ,思い入れも強いのでしょう.
「われわれは日本全国すべての港湾に展開する可能性があるので,
通常の訓練も各地で行います.年中旅烏のように機動展開すること
に慣れているので,東日本大震災でも私が何かいうまでもなく,
すぐさま対応できました」

パイロットは震災当日の夜,フライトの目印にする灯台の明かりが
見当たらず海岸線も漆黒の闇,けれど上空から部分的に見える妙に
明るい光が火災炎だと分かったとき,愕然としたそうです.
それにベテランパイロットである彼らですら,緯度と経度だけ伝えられ
「グラウンドがあるはずだからそこに降りて」と言われるのは,初めて
の経験でした.しかも上空にはほかの部隊や報道のヘリまで飛び交い
大混雑,管制による情報提供も指示も一切ありません.目的地に
向かうのも降りる場所を探すのも,そして実際に降りられるのか
確認するにも難儀しました.


着替えも持たず着の身着のまま向かった東北で,それでも彼らは
しっかりと任務を果たました.MH-53Eの機長は数週間ぶりに岩国に
戻ってきたとき,改めて感じ入るものがあったといいます.

「われわれは災害派遣のための訓練はしていないので,有事を想定
して行っている訓練を応用しているにすぎません.けれどその応用
がちゃんとうまくいった.つまり,普段通りの訓練を積み重ねていれば,
未曽有の災害にもしっかり対応できるのだと改めて思いました」
有事を想定して備える,それは自衛隊の存在理由にもつながります.


この取材でつくづく感じたのは,機雷という安価な兵器が持つ効果
の大きさでした.
極論でいえば,「機雷を撒いた」とデマを流すだけでも,その海域の
船舶の航行に影響を与えることができるのです.


日本は四方を海に囲まれた島国です.生活基盤の多くを海外から
輸入し,加工貿易により経済が支えられている部分も大です.
日本にとって生命線である海上交通を害する手段として最も手軽
に用いられ,しかも費用対効果の高いものが機雷なのです.


司令は111空の今後についても触れました.
「島しょ防衛を考えたとき,真っ先に出るのはうちの部隊です.
機雷除去だけでなく,輸送任務も行うことになるでしょう.MCH-101
については,不審船対処やテロ対処などの新たな付加任務に向けて
の試験も実施中です.また,かつて掃海部隊がペルシャ湾まで派遣
されたことを考えれば,今後海外での活動も出てくるかもしれません.
艦艇で寝起きしながら発着艦することは,日ごろから訓練しているとは
いえ,厳しい任務になることでしょう.それでもわれわれには昔から
培ってきた『掃海魂』があります.それは自分を律し,忍耐強く,
チームワークを大切にし,掃海に命を賭けるという伝統でもあります」
この取材から時間を経て法整備が進んだ今,司令のコメントがより重く
感じられます.


111空の隊員たちからは,「自分は海上自衛隊唯一の航空掃海部隊
にいる」という誇りが感じられました.それは掃海部隊を持つ米海軍
をもうならせる航空掃海の技量の高さ,同じ機種を運用する他国から
称賛される整備力,そして先人から継承した伝統があるからこそ.
彼らの任務は今後さらに増えていくはずですが,111空はことごとく
やり遂げてくれることでしょう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.11.19




■大礒さまのメガフロート案を拝読しました.
この案はお話のようにかつて存在し,土建屋的な公共事業発想から却下された案
でした.
沖縄県が「50m沖合に出せ」と主張していたのも,本音は埋立土砂量が増えて
地元(土砂を採取する山を既に買い占めた地元地権者,及び工事関係者)がより
潤う,ということでしょう.

その観点から言えば,辺野古沖へのメガフロート案は大磯さまと全く逆の見方も
出来ます.
1.沖縄県民は「基地は沖縄県内移動に過ぎず,メリットが無い」
2.山を買い占めた地権者は「土砂を使わないならメリットが無い」
3.沖縄県は「米軍からの借地代が無くなるだけで,メリットが無い」
4.民主党は「県外,国外の公約を果たせないから,メリットが無い」
5.米軍は「メガフロートでは基地の抗堪性に欠け,メリットが無い」
と,反対派は言うのではないでしょうか.

メガフロート案は,確かに「工事期間の短縮」,「環境への影響の少なさ」,
「基地撤去の期待可能性」,「造船業界の救済」等の面ではメリットがあります.

しかし,ことは軍事基地ですから有事の敵の攻撃に対する抗堪性の面からも見る
必要性があります.
陸上基地の場合は,爆弾命中の穴を塞いで航空機の発着可能な強度に修復するこ
とは比較的に容易です.朝鮮戦争当時,ソウル近郊の金浦空港は南北両軍の撤退
や占領の度に,敵からの猛爆に曝されましたが,直ぐに復旧しました.
一方,鋼鉄の箱の場合は,第二次大戦中の日米の空母被弾の例に見るように決し
て容易ではありません.殆どの場合,沈没は免れ得ても艦載機の発着可能なまで
の被害復旧は現場では出来ませんでした.
メガフロートはたくさんのユニットを連結しているので,被爆した場合にそのユ
ニットだけを交換することも可能ですが,長時間を要するでしょう.
したがって,結局は空母と同様に重厚な防空対策が必要となります.

つまり,メガフロートは平時用・後方用には有用でも,有事用・前線用としては
使いづらい,と言えるでしょう.
そして,沖縄は東シナ海有事の際には否応なく最前線になってしまいます.
米軍は,地面に置かれた“不沈”基地でなければ,同意しないのではないでしょ
うか.

以上,ヨーソロの管見でした.

(ヨーソロ)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2010.1.28




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                 荒木 肇
『関東軍特種演習──史上空前の大動員(6)
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□はじめに

 勤労感謝の日(昔は新嘗祭)はこちら関東では冷たい雨も
ぱらつく天気になりました.もっとも全国各地からは先日は
二十四節季の「小雪」でもあり,初雪のお知らせをいただいて
います.八戸の航空群の友人からは気温が4℃と低くテンション
も下がるというメッセージがありました.いよいよ冬の到来です.
皆様,お身体ご自愛ください.

 さて,先日,徴兵制度についてのお問い合わせをいただきました.
朝鮮半島の人や,台湾の方々への兵役の問題です.
実は,兵役制度は国民の神聖な義務であり,同時に権利でした.
それまでの武士階級しか兵器をもてず,政治への公的な参加資格
もないという近世・江戸時代の制度.それが否定されて『帝国臣民
の男子』ならば誰もが等しく軍事に関われるという画期的な制度
が「徴兵令」によって定められたのです.この兵役が義務だけでは
なく,国民の権利だったという側面が,今までの論者によっては
あまり指摘されていません.「戸籍に載る」,すなわち天皇陛下の下
にすべての国民が平等であるという意義が徴兵制には含まれていました.

 それに対して,朝鮮・台湾総督府,樺太庁,南洋庁など帝国統治
機構の出先機関の治下にある人々は「帝国臣民」の中では,『民籍』
といわれる個人把握の下にありました.したがって,臣民ではない者
は軍人には原則はなれません.志願しなければなることはできなかった
のです.朝鮮では1938(昭和13)年4月から,台湾では1942(昭和
17)年から志願兵の募集を行ないました.そして,1943(昭和18)年
から朝鮮に,1945(昭和20)年からは台湾でも徴兵制を施行します.

 もともと,入営するためには日本語の習得や習慣への順応が必要
であり,忠誠心への不信もあり,軍はあまり積極的ではなかったようです.
戦後は兵力が枯渇したから,なりふり構わずというように説明されて
きましたが,「皇民化政策」とのからみもあったのでしょう.「ひとしく陛下
の赤子(せきし)」であるなら,権利としての兵役も考えなければならない
という理屈もあります.

▼大本営作戦課のズサンな計画

 まことにあなた任せの無責任な計画だった.それは対ソ連戦の開始
時期に現われている.開戦の決意は8月10日,戦闘の開始日は
8月29日,作戦完了は10月だったという.なぜ,決意が10日か.
それは,8月の上旬もしくは中旬になって,極東ソ連軍がヨーロッパに
送られるだろう.30個の狙撃師団が半分になり,航空その他の戦力
が3分の1になったと判断されたら8月下旬には開戦するという計画
だったのだ.

 あまりに安易としか言いようがない.ドイツ軍は確かに破竹の進撃を
したが,7月中旬,スモレンスクに到達,態勢整理に入った.ほぼ同時
にソ連軍もまた戦線を整理し,防衛態勢を整え始めた.戦線というもの
は停滞するものなのだ.ふり返れば,ドイツ装甲師団が英国海峡に進出
して,いわゆるダンケルクの悲劇(英国軍が大陸から撤収した)まで
に3週間がかかっている.ここから南に進撃方向を変えてパリに入城
するのに1カ月ほど,休戦までには1カ月半もかかったのである.

 それを広大な東方戦線の独ソ戦のおかげで,わずか1カ月や2カ月
くらいで,はるか極東の戦場にまで影響が出るだろうか.結果を知って
いる現在の視点からだけ言っているのではない.極東ソ連軍30個狙撃
師団の半分,15個師団をシベリア鉄道でヨーロッパに送り込むことが
簡単にできることではない.航空兵力2800機の3分の2,2000機
近い航空機が地上器材や燃料・弾薬・部品・人員まで含めて移動する.
素人が考えてもわずか2週間や3週間でできるわけがないことくらい
考えられる.

 くり返して言う.こういうことが「戦史叢書」に書いてあるのだ.
本当の戦争は,ゲームや空想小説でもあるまいし,そんな簡単なこと
ではない.8月下旬の武力行使は見送りになった.ソ連軍は一向に移動
する気配もなかった.だが,当時の参謀本部は『まったく止めるわけでは
ない.少なくとも年内だ』などと,まだうそぶいていたらしい.開戦決定
予定日の前日,8月9日には陸軍省に「年内にはソ連への武力行使
はしない」と参謀本部は通報してきた.その間にも50万人,馬15万頭
は大陸へと動いていたのである.急には止められないのが輸送計画
であり,動員令だった.

 すでに満洲全土では作戦準備が着々と始まっていた.動いてくる将兵
には入るに兵舎なく,物資を集める倉庫もなく,兵站施設が建設中だから
病院もない.こうなると,関東軍司令部は困ることになる.参謀本部は
止めたですむが,実際に人・物・金を動かさねばならない現地軍は
とたんに手当てに奔走されることになった.

▼金の後始末

 金の問題になると,陸軍予算の担任を整理しておかねばならない.
軍人は官吏だから俸給や赴任旅費,出張手当などの人件費は経理部
主計課が担任する.兵器関係費,兵器そのものや保存・手入れ用品
までが兵器局各課,衣糧に関係する諸費用は経理局衣糧課,医薬品や
衛生材料などは医務局医事課である.陸軍省軍事課には予算班があり,
全軍の機密費をもっていることは以前にも書いた.演習費用なども軍事課
予算班の担当であり,地上部隊の演習費用は兵務課が分担していた.

 実際に当時関東軍に出張した加登川少佐(当時)の回顧録では,
総勢20人にも及ぶ一行だったそうだ.後始末に予算関係から査定を
行なうためである.関東軍各部門から寄せられた要望金額はなんと
21億円という巨額だった.1円を現在の5000円で換算すれば,
11兆円というものだった.50万人の大軍を移動させる,暮らさせるという
ことは1人当たり,当時でも約2200万円というわけだ.ただし,これは
関東軍の戦備・兵站だけの額である.国内各地からの移動経費や物資
などの集積にかかった費用は入っていない.

 たとえばと加登川少佐は言う.『なにしろ北満の各地で何十万トンという
木炭を焼いている』.木炭がなければ北方では戦争ができなかった.戦車
のエンジンの下では一日中,火を焚いて温めていなければエンジンが
かからない.木を燃やすときに出る水蒸気はすぐに凍るから,たき火で
物を温めるとすぐに表面が凍ってしまう.この注文は打ち切れないか,
そうしたら違約金としてどれだけ業者に払わねばならないか,などと項目
ごとに査定作業は続いた.参謀部の各課,兵器,経理,軍医,獣医などの
各部課ごとに細かい作業をくり返していく.『3日くらいかかったのでは
ないか』と手記にはある.

 21億円のうちようやく4億円ほど削った.それでも,残りは17億円.
この年度中に,いまの金額で8兆円から9兆円ほどがかかる.当時,関東軍
の年間経常費は1人当たりおよそ3500円くらいだった.今なら1800万円
ほどである.関東軍の兵力はおよそ35万人だから,ふだんでも年に10億円,
ざっと5兆円だった.植民地をもって侵略したというけれど,鉄道を始め
社会資本を整備しつつ,防衛のためにもこれだけの金を使っていたのが実態だった.

 年度途中でも年内3カ月のうちに10億円は手当てが必要である.作戦準備
に使った金は現在に直せば3兆円か4兆円というところだろう.装備改新,
弾薬の備蓄,組織の改編が誰にでも分かっていたはずなのに,こういう無駄遣い
が一方で行なわれていたのだった.

▼無駄に召集された人たち

 東條陸相は当然怒った.『なんでこんなに金を使わせた』.しかし,『あなたが
動員に賛成したからではないか』とはもちろん言えなかったそうだ.
 実はここにこそ,思い切り戦う軍隊への理解が必要なところである.戦争準備
の大命を受けた関東軍司令官という現場の最高責任者を予算などで縛ること
はできないのだ.戦場の軍人は命を懸けて戦う.その最高指揮官が,
「金が出ないから弾薬を送るな」「予算が認められそうもないから糧食を削れ」
「節約するから被服の交換を遅らせろ」などと隷下部隊に言うはずもない.

 また,壮年の50万人が職場を捨て,生産の現場から引き離されたことは,
どれだけの国力の低下をもたらしただろうか.そして,農村からの馬の徴集
である.一部の地域ではトラクターなども導入されていたが,農村の耕作力
や民間の物流にまだまだ馬の力は大きなものだった.そして大東亜戦争
が始まる直前である.その年内だけでも,9兆円という負担が国民に課せられたのだ.

 8月からあとのわが国は,大本営陸海軍部ともに日米交渉の行方や,
南方作戦準備に大忙しだった.華々しい作戦準備の裏側では,陸軍省の
予算班はたいへんである.冬が近づくのに,満洲には兵舎や厩がない.
病院も,病馬を収容する施設もなかった.軍医も獣医も民間から多く召集
したので,勤務者も足りない.

 関東軍の兵舎は二段ベッドを発注して収容力を増やした.前線の部隊は
穴を掘り,三角形の屋根をもつ「三角兵舎」を急造させた.柱と壁だけでも
節約できたからである.

 幸いというか,大東亜戦争の開始とともに,関東軍にあった兵站部隊の
多くは,そのまま南方作戦に移動していった.夏の最中に召集され,
冬服に替えることもなく南の前線に送り込まれたという思い出話をする人にも
多く出会った.

 次回は関東軍特種演習のさらに裏側を語って終わりにしよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.11.25




『ライター・渡邉陽子のコラム (71) ─ 自衛隊海外派遣の歩み(1) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.
月刊「丸」の2016年1月号(*)が明日あたり発売されますので(防衛整備庁に
ついて書かせていただきました),今回から12月号(**)に掲載された
「自衛隊海外派遣の歩み」に加筆して連載します.

(*)http://okigunnji.com/url/30/
(**)http://okigunnji.com/url/31/

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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■自衛隊海外派遣の歩み(1)


今年9月,通常国会としては戦後最長の会期で約220時間の議論
を重ね,安全保障関連法が成立しました.

「戦争法案」「海外派兵」などの声を上げたデモも行なわれましたが,
デモに参加している人の中に,法案の内容を理解できている人
がどれだけいたのでしょう.安保法案=戦争と思い込んでいる人
が多かったのではないでしょうか.

また,自衛隊が海外派遣される際にどの法律に基づきどのような制約
の中で活動しているか,はっきり把握している人がどれほどいたの
でしょう.海外派遣=PKOと思っている人も少なくなかったのでは
ないでしょうか.

言論の自由,集会・結社の自由,表現の自由,みな憲法で認められている
国民の権利です.デモを行なうことに異議を唱えるつもりはありません.
けれどデモの先頭で声を上げる若者の主張は悲しいほど短絡的で,
それに乗ろうとする政党・政治家の姿もみじめなものでした(私には
そう映りました).

話を戻しましょう.確かに国際平和協力法(PKO法)によって自衛隊
が派遣されたケースは過去に9度ありますが,災害派遣の場合は
国際緊急援助法に基づいての派遣,それ以外は海外派遣のニーズ
が発生してから急きょ時限法を制定,期間限定の法律に基づいて
派遣されています.

そこで今回の連載では「自衛隊海外派遣の歩み」と称し,
自衛隊の海外派遣の歴史を振り返ってみます.


海外派遣のさきがけとなったペルシャ湾掃海派遣部隊
イラク軍によるクウェート侵攻から端を発した湾岸戦争.日本は
自衛隊を海外派遣するか否かという問題に直面し,他国からの
プレッシャーと賛否渦巻く世論に大きく揺れました.


1990年8月2日,イラク軍がクウェートに侵攻し首都を制圧.
翌年1月17日,多国籍軍による「砂漠の嵐作戦」が始まり,湾岸戦争
が勃発します.

イラクは劣勢挽回のため,湾岸海域へ原油を意図的に流出したり,
クウェートの油井への放火といった行動を起こします.さらにペルシャ湾
北部に約1200もの機雷を敷設し,展開中の多国籍軍艦艇に大きな脅威
をもたらしました.実際,米艦が触雷して大きな被害を受けています.

2月24日早朝に地上戦闘が開始され,約100時間後の28日に多国籍軍
の圧倒的勝利をもって戦闘は終了,4月11日には停戦が発効されました.
しかしペルシャ湾には多数の機雷が残されたままで,依然として船舶
の安全を脅かしていました.


湾岸危機直後,日本政府は「クウェート侵攻は遺憾」というコメントをした後,
石油輸入禁止等の経済制裁措置を決定しました.

さらに8月13日には,15日から予定されていた海部俊樹首相の
中東5か国訪問の延期を決めます.これは他国の迅速な対応と比べ,
かなり慎重といえる対応でした.

人道的援助を求める声に対しても,ボランティアの医療要員派遣の
可能性を表明するなど,限定的な協力にとどまる姿勢を見せました.


しかし,イラクが外国人を即時に出国させる要請にも応じず,在留邦人
を軍事施設の盾にしていることが判明すると,政府は「国連平和協力法」
の検討を始めます.その背景には,9月末の段階ですでに40億ドルに
達する多国籍軍への財政支援を行なっていたものの,「資金援助だけでは
国際社会に通用する貢献とはいえない」と,アメリカなどから強く言われて
いた事情もありました.

ところが審議は難航,11月に同法案は廃案となります.


代わって急浮上したのが,自衛隊法を改正したり新法を制定したりする
必要のない,航空自衛隊輸送機による難民輸送案です.

「砂漠の嵐作戦」が始まると,政府は内閣に「湾岸危機対策本部」を設置.
自衛隊輸送機派遣の方針を固め,多国籍軍への追加資金協力90億ドル
拠出と合わせた貢献策を決定しました.難民の輸送準備のため,事前調査団
もヨルダンに出向きました.

しかし2月に入ると,ヨルダン国内の情勢が輸送機運航に適さず,避難民
の数も少ないことなどを理由に,自衛隊機派遣に慎重論が出てきます.

その結果,追加の資金協力は行なう一方,自衛隊輸送機派遣は見送られる
ことになりました.


多国籍軍へ130臆ドルもの財政支援は行なったものの,クウェートや
アメリカからの視線は「金は出しても人は出さない」と,きわめて冷たいものでした.

クウェートはアメリカの主要な新聞に,各国の支援に対する感謝の広告
を掲載しましたが,その中に日本の国名はありませんでした.

130億ドルとは当時のレートで約1兆5500億円です.
それほどの大金をはたいても,日本はクウェートをはじめ国際社会からの
理解も評価も得られなかったのです.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.11.26




マーケット・ガーデン作戦とインテリジェンス (15)
                長南 政義
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■前回までのあらすじ

本連載は,精確な内容を持つインテリジェンスが一九四四年九月上旬
に連合軍の指揮官に利用されたかどうかを考察することにある.
実は,インテリジェンスの内容は,マーケット・ガーデン作戦実行
に伴うリスクを連合軍の指揮官に警告していた.

指揮官が決定を下すために利用できるインテリジェンスの情報源
は数多く存在していたが,本連載では「ウルトラ」情報により提供
されたインフォメーションにのみ焦点を当てて考察を進めることとする.
第二次世界大戦を通じて,連合軍の戦略レヴェル・作戦レヴェル
の指揮官たちはウルトラ情報を活用し,ウルトラ情報の精確性
に関してめったに疑いを持たなかったからだ.

前回から,イギリスの「ウルトラ」計画について述べている.
前回は主として第一次世界大戦中のイギリスの暗号解読プログラム
についてと,大戦後の政府暗号学校創設の経緯について説明した.

戦間期のイギリスの暗号プログラムは,大変な資金不足と人手不足
とに悩まされていて,暗号解読分野ではポーランドの後塵を拝していた.

第一次世界大戦中,イギリス国内で暗号解読を担当していたのは,
陸軍情報局(DMI:Directorate of Military Intelligence)内
のMI1(Military Intelligence, Section 1)であった.
MI1にはMI1a(報告書類の配布などを行なう)からMI1g(防諜を担当)
までの分課が存在した.そのうちのMI1bが通信傍受および暗号解読
を担当していた.また,MI1bとは別に,海軍省も独自の暗号解読
プログラムを有しており,その部門はルーム40と呼ばれていた.

一九一九年,MI1bとイギリス海軍のルーム40が解散して,
両機関が合併する形で有名な政府暗号学校(GC&CS)が創設された.

当初,政府暗号学校は海軍省の管轄下にあったが,一九二二年,
政府暗号学校は外務省の管轄へと移管された.だが,この変更は,戦間期
に多くの弊害を作り出す結果となってしまった.

というのも,政府暗号学校に予算を附与し,政府暗号学校を統制する機関
が外務省であったがため,政府暗号学校の主たる対象が軍事通信ではなく
外交電報分野に向けられてしまったからである.そしてこのことがポーランド
と比べてイギリスの暗号解読能力が後れをとる一因となった.

今回もイギリスの「ウルトラ」計画について述べることとするが,
今回は特にブレッチリー・パークについて説明したい.

■コードネーム「ステーションX」

ドイツとの戦争が不可避であることが明白となった時,イギリス政府
はその政府機関の多く,特に国防関係の機関を,ロンドンの外へと
移転させ始めた.ブレッチリー・パークはロンドンから移転してくる
政府機関を収容する目的でイギリス政府により購入された多くの場所
の内の一つであり,ここが政府暗号学校の新たな拠点となった.

当時,政府暗号学校が最高機密に属する活動を展開していたため,
この場所がブレッチリー・パークと呼ばれることはなかった.
そのため,ブレッチリー・パークには「ステーションX」という暗号名
が附与された.このステーションXという奇妙な名称は,MI6により
十番目に購入された用地であり,MI6が用地を呼称する際にローマ字
を使用していたことに由来する.


■理想的環境にあったブレッチリー・パーク

ブレッチリー・パークは政府暗号学校にとって理想的な場所に位置
していた.というのも,ブレッチリー・パークはロンドンの北西約七十キロ
メートルの地点に所在しており,政府暗号学校に多数の人材を輩出
したオックスフォードとケンブリッジの中間に位置していたからだ.
しかも,ブレッチリー・パークはイングランドの田園地帯に孤立していた
にもかかわらず,ここには道路と鉄道とが存在し,これが必要が生じた時
にはロンドンへの容易なアクセスを提供していた.つまり,人材面および
交通アクセスの両面で地理的に好環境であったのだ.

一九三九年における政府暗号学校の限られた規模を考慮すると,
初期の頃の建物の規模は適切な大きさであった.しかしながら,
成長し続ける政府暗号学校の関係者を収容するためには増築が必要
であることが間もなく明らかとなった.

ちなみに,戦争が終了する前,ブレッチリー・パークでの活動を支援
するために周辺地区に建設された多数の施設およびブレッチリー・パーク
で働いていた人の数は約一万人にも及んだ.


■ブレッチリー・パークの改修作業と小屋番号

一九三九年の夏,元は荘園であったブレッチリー・パークを単なる大邸宅
から連合軍の暗号解読拠点施設へと改装する仕事が開始された.
最初の改修作業は電気・水道・道路などといったインフラ施設を改良
することから始まった.

そして,そうこうするうちに,現在使用可能な面積よりもより多くの
作業スペースが必要であることが明らかとなった.

「ウルトラ」計画が一握りの暗号解読者集団からなるプログラムからより
組織的なプログラムへと拡大するにつれ,増加する所要スペース
を充たすためにブレッチリーの地には多数の小屋が建てられた.

各小屋はウルトラ情報の生産過程で異なる役割を演じていた.
これらの小屋には番号が附与されていたが,この小屋番号はよく考えられて
附けられたものであった.というのも,小屋番号は単に物理的な位置を
示すだけでなく,各小屋でなされている作業の種類をも示していたからである.

■Yサービス

いかなる暗号解読作業も電文を解読する前に最初に通信を傍受
しなければならないが,通信傍受を担当していたのが「Yサービス」である.

Yサービスの主たる職務は敵が送受信している通信を傍受して,傍受した通信
をさらなる分析のためにブレッチリー・パークに送信することにあった.
最初の頃の傍受諸施設はイングランドにあったが,ウルトラ計画が拡大
するにつれて,傍受施設も世界中に設置されることとなった.


■Yサービスの任務

Yサービスの任務には,(1)敵の通信を傍受することの他に,(2)敵の無線
ネットワークや通信運用手順に関する広範な知的基盤を開発することが
含まれていた.後者は長期的にみてとても有益であった.というのも,
ドイツが周波数を変更したり,コールサインを二十四時間ごとに変えはじめる
ようになったりした時に,このことがウルトラ計画にとってたいへんな強み
となったからだ.

周波数が変更された場合,傍受した通信文をブレッチリー・パークに
送信して解読・分析作業が行なえるようにするために,傍受する側の
オペレーターは迅速に新しい周波数を特定することが緊要となってくる.
もし,Yサービスが周波数を特定できず敵の通信との接触を上手く保持
することができなかったら,それはウルトラ計画プロセス全般の遅延を
生じさせてしまう.


■ハット6(第六号棟)の任務

ブレッチリー・パークに送られてくる傍受された通信文の受取り窓口や
暗号解読作業の中心部となったのがハット6(第六号棟)であった.
ハット6では暗号解読のために集められた数学者たちが,その日の
エニグマのセッティングを特定し,それをハット3(第三号棟)で働く
分析官たちが判読できる通信文とするため二十四時間働いていた.

ここで注意が必要なのは以下の点だ.すなわち,ハット6は通信文
を分析することを一切行わないだけではなく,通信文を英語に翻訳
したわけではないということだ.ハット6の仕事は単に傍受した暗号化
された通信文をドイツ語で読める通信文にして,それをハット3
に送ることだけであった.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.11.26



兵法三十六計(5)

第五計 趁火打劫(ちんかだきょう)
─第二次列島線への進出─

                 元防衛省情報分析官・上田篤盛(あつもり)
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▼苦境に付け込む

「趁火打劫」は,「火に趁(つけこ)んで,劫(おしこみ)を打(はたら)く」と読む.

 敵の苦境(くきょう)につけ込み,あるいは苦境に追い込んだときには,
嵩(かさ)にかかって一挙に攻め立て決着をつける,いわゆる“火事場泥棒”
がこの計である.

 我が好機を失しない点では,第十二計の「順守牽羊」(じゅんしゅけんよう)
と相通ずるものがあるが,「趁火打劫」には,自らがマッチポンプ的に
仕掛けて好機を作為するという,より積極性が特性である.また,「火」を
題材とする第九計「隔岸観火」(かくがんかんか)は傍観策略であるが,
「趁火打劫」これとは真逆の積極策略である.

 春秋時代の呉越戦争(BC496−473)に遡る.呉王・闔閭(こうりょ)は
越に侵攻したが,破れてその時の怪我が原因で死亡した.闔閭の次男
である呉王・夫差は「3年以内に必ず越に復讐する」と誓い,自らは薪の上
で寝ることの痛みで屈辱を忘れず,国力の増強にいそしんだ.やがて夫差
は「越王・勾践(こうせん)の捕獲」(会稽の恥)に成功した.その際,呉王
の部下である伍子胥(ごししょ)は「越王を許してはならない」と進言したが,
伍子胥の意見は退けられた.

 助けられた越王は馬小屋の番人になって苦労を重ねたが,許されて
越に帰国した.越王は豚の肝を舐めて,その苦味で「会稽の恥」を思い返し,
復讐を誓った.また,越王は夫差に美女を献上して,彼の警戒感を解いた.

 そうこうしている間に,斉で内紛が起こった.呉王はこの機に乗じて斉を
併合することを決意したが,部下の伍子胥は「今は越に備える時」と進言
した.しかし呉王はその忠告を聞き入れず,斉に攻め込み,これに勝利した.

 勾践は「この機会が呉に攻め入るチャンス」と考えたが,越王の部下は,
「猛獣が獲物を捕らえるときは一気呵成に行なうべきで,意図を気づかれて
はならない」とこれを諌めた.呉王・夫差は勝利して,凱旋帰国し,部下の
伍子胥を遠ざけ,これを処刑した.越王は「これこそが本当の好機だ」と
判断し,夫差が諸侯会議に出席している留守を狙って呉を攻撃して大勝した.

◆「趁火打劫」は中国人のメンタリティ?

 わが国には「情けは人の為ならず」ということわざがある.これは
「情けは,いずれは,めぐりめぐって自分に恩恵が返ってくるのだから,誰にも
親切にせよ」という意味である.

 一方,中国には「宋襄(そうじょう)の仁」という言葉がある.これは宋の
襄公が楚の成王と戦った際(B.C638年の「泓水(おうすい)の戦い」),
襄公が敵に対して無用の情けをかけたばかりに手痛い失敗をおかした
故事に基づいている.すなわち「敵に対する無用の情けはしてはならない」
という戒めである.

 2015年10月末,関東・東北豪雨で被災した茨城県常陸市の民家から
銅線を盗んだとして中国人2名が窃盗容疑で逮捕された.彼らは「水害
で廃品が多くあると思って常陸市に来た.廃品なので窃盗になるとは
思わなかった」などと話した(『YOMIURI ONLINE』2015年10月30日).

 日本人の感覚では「盗人猛々しい」ということになるのであろうが,
2011年7月に起きた中国の温州市で起きた鉄道衝突事故においても,
アルミニュウムなどの高速鉄道用車両の特殊金属を求めて,「周辺住民
と名乗る」多くの中国人が当然のごとく現場に殺到したというから,
茨城県の被災での彼らの発言は,ごく自然な発想であったのかもしれない.

 被災地におけるこうした“輩”は,なにも中国人に限らないのであって,
「盗人=中国人」のような扇情的,差別的な論調は慎まなければならない.
ただし,侵略と被侵略が織り成す激動の歴史を生き抜いてきた中国人
にとって,「宋襄の仁」や『兵法三十六計』などを通じて「利用できるものは
利用する」「無用の情けは身を滅ぼす」という行動論理や精神構造は当然
のことなのであろう.

◆東日本大震災で展開された「趁火打劫」

 冷厳な国際政治のなかでは,むしろ「趁火打劫」の方が,常識
なのかもしれない.

 2011年3月11日,東日本大震災と福島第一原発事故が発生し,
日本は未曾有の危機的状況に見舞われ,自衛隊は10万人態勢
でこの未曾有の危機に立ち向かった.
 
 こうしたなか,後述するように中国による“準軍事活動”が生起したが,
この種の活動は中国に限ったことではなかった.

 ロシアは3月17日(IL-20)と3月21日(Su-27×2)に軍用機を日本海
上空の領空ぎりぎりに接近飛行させた.こうしたロシアの行為は大震災
に際して,「わが国の防空能力,海洋監視能力がどの程度低下して
いるのか?」「日米共同対応がどの程度機能しているのか?」など,
有事を想定した威力偵察を行なった可能性がある.他方で,中国の
対応行動を予測して,これに対する偵察,あるいは牽制を行なった
可能性も否定できない.

 韓国も,わが国による大震災復旧のさなか,日韓が領有を主張
している竹島においてヘリポートの改修工事に着手し,同島の
実効支配の強化を狙った(韓国『聨合ニュース』2011年3月31日).

 わが国が大震災復興に苦労するなか,2010年4月から2011年3月
にかけて,ロシアと中国の軍用機が日本領空に接近する回数は,
それぞれ前年度比の1.5倍,2倍に達した.まさに国際政治において
は「情けは無用」が当たり前なのである.

◆中国は東日本大震災を海洋進出に利用した!

 中国は東日本大震災で国防が手薄になったことを“奇貨”とするか
のように,海洋進出に向けた地歩拡大の動きをみせた.

 2011年3月19日付の香港紙『東方日報』は,日本が大震災で混乱
している時期に乗じて,「中国が釣漁島を奪回するにはコスト,リスク
を最小限にしなくてはならない.今が中国にとって最高のチャンスだ」
と記述し,「『趁火打劫』を発動せよ!」とばかりの論調を張った.
 
 同記事は「極端な記者が投稿した偏向記事」であったのかもしれないが,
これに呼応するかのように,同年3月26日と4月1日に,中国国家海洋局
所属の「海監」とその搭載ヘリ(Z-9)が海上自衛隊の護衛艦「いそゆき」
に異常接近し,挑発行為を繰り返すという事件が発生した.

 中国国家海洋局は5月13日,福島原発の放射能の海洋への流入
状況を監視することを名目に多くの船舶を日本の東側海域に派遣した.
さらに海洋局は「日本の排他的経済水域(EEZ)に進出して監視協力
を行なうつもりである」ことを公表した.6月23日には,宮城県・金華山
の約330キロの沖合のわが国EEZ内で中国海洋調査船が約4時間
停滞し,海洋観測していたことも判明した.海上保安庁巡視船の退去警告
に対して「合法な海洋環境調査をしている」と応じた.

 当時,国家海洋局・海洋環境保護司の李暁明司長は「日本の放射能
漏れは今後5年以内,西太平洋に対して長期にわたり,汚染をもたらす
だろう」「西太平洋は中国の海域と非常に近いことから,中国は監視,
警戒を強化しなければならない.中国が日本海以東の海域に出向いて
海洋の放射能汚染を監視する必要がある.日本のEEZ内での調査により,
放射能の海洋への流出データもより正確なものになるだろう」と述べ,
活動の正当性を主張した.

 なお李司長は,劉賜貴・国家海洋局長が丹羽宇一郎・駐中国日本
大使(当時)と会見し,日本のEEZで監視協力を行なうことを要求
したことも明らかにした.

 中国側このような活動に対し,当時の日本政府は正式コメントを
控えたが,中国が日本の原発危機に乗じて,第一列島線を突破して,
太平洋へと進出するための既成事実化をはかっているとの疑念が
生じた.つまり,環境調査を名目に,長期的視野で推進している
海洋進出のための軍事情報収集活動を行なった可能性が指摘される.
まさに「趁火打劫」の実践であったろうか.

◆中国は第二列島線までの支配を開始した!

 2004年頃から,中国の海洋調査船は沖ノ鳥島のEEZ内を日本に
無断で徘徊するようになった.これは海洋調査を偽装し,真の目的
は軍事情報収集活動の可能性がある.こうした収集活動の成果
が,実戦的な潜水艦の行動や海洋での軍事訓練の強化につながって
いる可能性は否定できない.

 2009年の「海軍創設60周年記念式典」で,呉勝利・海軍司令員(司令官)
は「外洋訓練が常態化され,毎年多くの外洋訓練を実施している」と
語った.この発言にみられるように,中国海軍は2008年頃から沖縄
近海の第一列島線を越えた海域での艦艇の活動を活発化させた.
2011年6月には,約2週間にわたって,東海艦艇の駆逐艦,フリゲート
など10隻以上の艦艇が沖縄近海を通過し,沖ノ鳥島南西450kmの
太平洋海域において射撃訓練,UAVおよび艦載ヘリコプターの飛行
訓練,洋上補給訓練などを行なった.

 2011年11月には,北海艦隊の駆逐艦,フリゲートなど6隻が沖縄近海
を通過し,太平洋海域に進出して,海上訓練を行なった.12年2月,
東海艦艇のフリゲート4隻が沖縄近海を通過し,太平洋へ進出した.
このように中国海軍の太平洋における訓練は定例化し,逐次,訓練
内容の質的向上がみられる.15年5月,中国空軍の爆撃機(H-6×2)
が初めて沖縄本島─宮古海峡上空を通過し,西太平洋に進出して
訓練を行ない,再び宮古海峡を西進,中国本土に帰還した.

 こうした一方,2014年9月から10月にかけて小笠原諸島および伊豆
周辺海域で大量の“漁船団”が出没した.これら漁船団は赤サンゴの
密漁が目的だとされるが,漁船団の動きが計画的・統制的であり,
なかには艤装が漁船とは異なる船舶,行動のおかしい船舶も存在するという.

 こうした点から,海洋事情の専門家である東海大学教授・山田吉彦氏は,
尖閣諸島と小笠原諸島との2正面作戦,第二列島線(※)までの支配に
関連した軍事偵察であったなどの可能性を指摘した.同氏の見方について
筆者もまったく同意する.

(※)第二列島線は伊豆諸島を起点に小笠原,グアム・サイパン,
パプア・ニューギニアに至る線で戦力展開の目標ライン,対米防衛線.
ただし,中国は公式に第一列島線,第二列島線という用語を使用して
いない.

 中国が台湾統一やアジアにおける覇権を確立するためには,太平洋
における米軍関与を排除しなければならない.よって,中国は第一列島線
から第二列島線までの海域において,米軍に対するA2AD(接近阻止・領域
拒否)能力の取得を目指している.

 そのために中国海軍は,「海上・航空優勢獲得のための水上打撃力と
防空能力」「艦艇部隊を防護するための対潜戦能力」「C4ISR関連装備
の充実と統合運用能力」などを軍事力整備の課題としている.これら課題
を克服するため,中国は海軍による太平洋での外洋活動を強化していく
とともに,“漁船団”と称する海上民兵を利用して,軍事調査や威力偵察
などを今後も繰り返す必要があるのであろう.

 中国が台湾作戦における米空母などからのスタンドオフ攻撃の回避を
想定した場合,太平洋に進出して海洋防衛バッファーを拡大し,米軍
に対するA2AD能力を強化するという選択肢はもはや回避できない.
すでに第二列島線までの侵食が開始されているのである.

 中国は,今後もわが国の苦境に躊躇することなく,むしろそれを利用して,
海洋支配を強化してくるであろう.中国による太平洋への進出は,中国
による東シナ海と太平洋との両翼包囲の形成を意味し,わが国の防衛態勢上,
極めて不利となる.さらにはロシア,北朝鮮,韓国の不透明な行動も予想
される.わが国は複数正面対処を念頭においた,防衛態勢・体制を強化
しなければならない.


(第六計「声東撃西」に続く)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.12.1




荒木 肇
『関東軍特種演習・最終章──史上空前の大動員(7)
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□はじめに

 わたしの関心事は,もともと日露戦争後(1905年)から,
大正時代(1912〜1926年),そして満洲事変(1931年)まで
の社会と学校の関係です.戦史や軍隊の行動については
門外漢であり,この時代の陸軍の動きも初めて真面目に
読みました.それにしても事実を残そうとしない
防衛庁『戦史叢書』にはいささか呆れるところです.

 いまだに,過去の15年間にわたるわが国の軍事行動については,
それが侵略か自衛かどうかの「神学論争」が続いています.
どのように企画し,どのように戦ったのか,それでどうして負けたのか.
せめて実態を明らかにしようと思うときに,頼るべき「公刊戦史」
がこのような矛盾と粉飾,欺瞞に満ちた内容だったということに
腹が立つほどです.

 問題は記述・編纂した防衛庁戦史部にあったのでしょう.
昔から軍事に関わることを恐れ,あるいは軽視していたのがわが国
の学界です.あの複雑な軍事用語,戦術記号などを読み解くことは
学者・研究者にはとうてい能力の及ばないところでした.
しかも日清・日露の昔から,戦史は参謀本部の戦史セクションが
書くことになっています.敗れたとはいえ,参謀本部の構成員の
ほとんどは生き残りました.軍事行動の大元を,企画し,実行させ,
評価し,さらに計画を練り,部隊に新たな行動をとらせた人々です.

 さぞや率直に,正直に自らが属した組織について証言を残した
はずと信じていました.それが生き残ったプロの軍人の使命の一つ
だと思うのです.多くの素人を召集して,むざむざと殺してしまった.
それが近代国家の国民軍だということも確かです.そのことにとやかく
言うつもりはありません.また,多くのプロたちが身を挺して先頭に
立ち,国に殉じたことも確かでしょう.陸士,陸経,海兵,海機,海経
といった軍学校出身者たちの戦没率は一般に比べてはるかに高い
ことも事実です.
 
 しかし,生き残った高級軍人たちは責任をきちんととったのだろうか.
確かに,それぞれに人には言い分があります.死ねばいいというもの
でもありますまい.しかし,自分の言動に責任を負うのは,立場に
関係なく,人として当然のことでしょう.しかも,命令を遵奉し,
亡くなった方たちにどうお詫びをするべきでしょうか.
 
『君たちだけを行かせはしない.最後には俺も突っ込む』と豪語した人
だって,戦後には『自分は死ぬわけにはいかない.戦後復興に尽くす
義務がある』と言い出す始末です.陸軍高級将校の圧倒的な多数は,
戦後,立派に生き抜きました.

 防衛庁が戦史を編むとなったら,自薦,他薦,さまざまな人が
出てきたのでしょう.みな陸軍大学校を出た人ばかり,元方面軍参謀,
大本営参謀といった人ばかりでした.つまり「サンボウ=3つのボウが
集まった」,『乱暴・横暴・無謀』といわれた人たちの仲間でした.
お互いの失敗を隠し,うまく言い繕う文章作りには長けた人ばかりです.
都合のいい証言だけを取り上げて,仲間のミスや無責任を隠し通す.
それが『戦史叢書』だといっていいでしょう.公刊『日露戦争史』も同じ
だったというのはよく知られている事実です.

 勝った戦争ですら正確に書き残せなかったのが日本陸軍でした.
それが負けたのだから猶更でしょう.今回は,さまざまな証言を交えながら
関東軍特種演習のまとめをいたします.

▼なんの準備もしていなかった

『おおい,この一本道で俺の聯隊はどう展開しろと言うのだ』
 九州から動員された野戦重砲兵聯隊長の嘆きだった.現地へ視察
に出た野戦砲兵学校の研究官の前で吐かれた言葉である.関東軍
特種演習の動員が始まり,九州などの近い部隊はすでに攻撃発起地点
に向けて前進中の話である.聯隊は15センチ榴弾砲の輓馬編成部隊
だった.その場所は関東軍第5軍が担当する,ソ連領イマン方面を
前にした興凱湖付近の大湿地帯である.

 関東軍の作戦計画によれば,第3軍は東寧,綏芬河(すいふんが)
から直進してウラジオストックを衝く.第5軍はその北方の大湿地帯を
突破してイマン方面に急進撃する.ウラジオを第3軍とともに落とせば,
すぐにハバロフスクに転進するという計画である.ところが,この大湿地帯
を通っているのは,たった一本の道路しかない.わずかトラックが2台,
ようやくすれ違える道,その両側は水を含んだブヨブヨの湿地である.
人ですら踏み込めばズブズブと膝までも沈んでしまう.重火器どころか
トラックですら入り込めない所だったのだ.

 ところが戦史叢書には不思議な事が書かれている.この事実より
2カ月も前のこと,6月上旬に来訪した参謀本部作戦部長,田中新一少将
に関東軍司令官河辺正三中将は次のように語ったと書かれている.
(1) 対戦車装備は貧弱で,実戦的訓練も甚だ低調である.
(2) 将兵の対砲火訓練は甚だ低水準である.
(3) わが国境陣地の対火砲抗堪力(こうたんりょく)は不十分である.
(4) 綏芬河のソ連軍はすでに大要塞化している.

 ノモンハンで対戦したソ連軍機械化部隊から受けた教訓は生かされて
いない.対戦車装備といえば,筆頭にあがるのは対戦車速射砲だろう.
ドイツのラインメタルの37ミリ砲をコピーした九四式三十七粍速射砲は
確かに効果があった.実際,かなりのソ連軍戦車や装甲車はこの砲の前
には無力で大損害を出した.ただし,射程内に捉えた場合だけだったし,
何より装備数が不足し,それに砲弾の補給もままならなかった.

 (1)について,2年前のノモンハンの戦訓を中央部が知らなかったわけ
ではない.1939(昭和14)年10月には大本営陸軍部内に研究委員会
が置かれていた.編制装備と作戦資材を担当した技術本部部員の
砲兵大尉は次のような内容の報告をした.
『37ミリ対戦車砲は,近距離でこそ効果があったが敵戦車の遠距離停止
射撃に対抗できなかった』
 射程外から発見されれば,たちまち対戦車砲陣地は砲撃され破壊された.
わが射程を延ばそうとすれば大口径化するしかない.現在の敵の45ミリ砲
にも勝ち目がないのだから,さらに大きな砲弾を高い初速で撃ちだす
長射程砲を開発するのが緊要だ.また75ミリ以上の火砲で撃つことに
よって敵戦車に発火をさせた.しかし,敵もガソリンエンジンを使い続ける
保証もない.ジーゼルだったらどうなのか.だから,火炎瓶(かえんびん)
なども期待できない.
 
 そして委員会は47ミリ対戦車砲の開発を急ぐようにと結論を出した.
ところが,それがすぐに実行されなかったのだ.支那での戦場では
手ごわい敵戦車はいなかった.しかもカネは次々と戦場で消費されて
いた.ここでも戦いながら,新しく兵器を開発し,装備することができて
いなかったのだ.
 
 (2)についてはノモンハンでも苦い思い出ばかりだった.ある砲兵少佐は,
敵弾下での訓練など,それまでしたこともなかったと言っている.
対砲兵戦闘とは「撃ち,撃たれる」ことである.敵の砲弾で次々と砲手
は倒れる.こちらは強装薬で無理な射撃を継続する.砲尾は灼(や)ける.
閉鎖機には細かい砂塵が入って琺瑯(ほうろう)のように固まってしまう.
塞環(そくかん)はすぐに損耗した.塞環とは砲身の後部と閉鎖機の隙間
をふさぐ交換消耗部品である.それが不足して,場合によってはガス漏れ
を承知しながら撃つことがふつうだった.当然,射撃の精度は劣った.
厳しい戦場環境を想定して演習をしたことがないから,カタログデータ
を信じて,部品補給にも手落ちがあったのだ.
 
 輸送部隊にも誤算があった.馬である.現地馬と違って精鋭の国産馬
は伏せる訓練などしたことがなかった.立ったままなので,砲弾の破片
で傷を受けてしまう.仕方なく馬が入れる高さの壕を掘らざるを得なかった.
また,1日1頭当たり25リットルにものぼる馬の必要とする水の集積も
うまく行かなかったのである.もちろん,歩兵隊の兵士たちも敵弾下で
訓練したことなどなかった.戦車を初めて見たという兵も将校も多かった.
 
 (3)については想像するだけで貧弱さがよく分かる.攻めるつもりばかり
だから,頑丈な敵トーチカの破壊には熱意をもつが,自分の陣地を補強
するということには案外無関心なのだ.もし,逆に攻め込まれたら・・・
という不安は,4年後のソ連の不法侵入で的中してしまった.

 (4)についていえば対ソ連情報活動は盛んに行ない,実態はけっこう
把握していたのだろう.敵の綏芬河要塞も,イマン要塞も頑強で,
包囲されても3カ月や半年は持つらしいと判断をしていたという.
 
 ▼どんどん行けばいいんですよ
 
 読者はこの叢書の欺瞞に気づくだろう.6月2日に河辺中将が田中少将
に語った内容がこれである.その田中少将のメモにあったというのだが,
田中少将こそ50万人,馬15万頭の動員をせかした人ではなかったか.
7月になっても,ソ連は倒れない.8月ならばと言いながらドイツ軍の前進
は停滞する.極東ソ連軍が去って行った様子もない.ということから参謀本部
はソ連侵攻を断念するが,それを叢書は次のように書いている.
 
「8月上旬に至り中央省部は情勢に鑑み年内対北方武力行使を断念
したのであるが,その連絡に関東軍司令部に赴いた田中第一部長は
『率直明快』に関東軍の作戦準備が甚だ不備である旨を指摘し,
今次の独ソ開戦の機会にこそ一挙に戦備を充実向上すべきであると述べた」
 
 何より奇怪なのは,前のメモ(6月)で十分承知していたという関東軍
の戦力の実態を知りながら陸軍省の反対を押し切り,兵力を増強し,
戦費を使わせた当人,田中作戦部長の責任を問うていない.
8月に作戦準備ができていないと指摘,指導したかのように粉飾した
書き方をしている.
 
 どころか,この筆者は『この作戦部長(田中少将)の嘆きの声は,
わが方の努力不足に故に非ず,恐るべきソ連の国力,軍事力に対する実感
にほかならず』などと提灯持ちの文を書いていると加登川氏も書いている.
それもそのはず,田中新一中将が亡くなったのは1977(昭和52)年のこと
である.直情径行の人と言われ,ビルマで第18師団長,さすが勇将と
仲間うちでは大変褒められている人だった.書かれているうちも存命
だったのだ.戦史部の編纂官の中には直接恩を蒙った人もいたろうし,
仲間が多かったのだろう.

 素人がどう考えてもおかしいと思うのは,行軍縦列の長さ(長径)を
どう考えていたかということだ.1個砲兵聯隊が1列縦隊で戦闘行軍
をすれば,先頭から末尾までおよそ2キロメートルにはなるだろう.
馬の数は1000頭以上にもなる.弾薬車や部品車,観測車などの車輛
がある.しかも時速は4キロ程度にしか過ぎない.身軽な歩兵聯隊
といっても大隊ごとに糧食や弾薬,陣営具を積んだ行李があり,歩兵砲(山砲)
は分解駄載する.重機関銃分隊だって弾薬馬や予備品馬や手入れ具
を積んだ馬がいる.速射砲中隊も馬だらけである.師団輜重はこれらを
追い抜きつつ糧食や秣(まぐさ)を補給する.

 稲田正純という砲兵出身の少将がいた.陸軍大学校第37期の恩賜卒業,
フランス駐在も経験し,ノモンハン戦のときの大本営作戦課長だった.
それが責任を取らされ,部隊に飛ばされる.阿城の重砲兵聯隊長だった
のが第5軍の参謀副長を命課された(7月7日).7月10日に関東軍司令部
に顔を出した.すると歩兵科の作戦主任参謀が「何をぼやぼやしているの
ですか」と言う.こういう言い方を先輩にできるのは,互いにもともとよく
知っている関係だからだ.

 さらには,関東軍作戦主任参謀の歩兵大佐にとって相手は先輩とはいえ,
砲兵大佐(少将進級は10月15日)の隷下軍参謀副長である.「砲兵は
予備をとらないから戦術が分からん」というのが歩兵のエリートの気分
だった.戦術がそのまま戦争であるなら,その認識でもいいだろう.
だが稲田砲兵大佐は現地の部隊行動に関わる事実を述べにきたのだ.

 第5軍の進撃正面の湿地帯には道が1本しかない.道以外は踏み込む
ことは不可能だ.数個師団もそこへ出せるとは思えないと答えると,
『ナーニ,たなぼたですよ.ソ連の抵抗など問題ではない.とにかく行けば
よいのデスヨ』と『一笑に付して』真面目に言い分を聞こうとしなかった.
これは戦後の稲田中将の「叢書編纂委員会」への証言である.

▼昔も今も
 
 戦後,やはりある会合でこの第5軍の兵站参謀だった人が加登川氏
の質問に答えている.「第5軍は作戦できると思っていたのか?」という
問いに,「作戦なんてとんでもない」と言明しているのだ.
 
 興味深いのはこの稲田中将である.張鼓峰事件,ノモンハンの
参謀本部作戦課長だった.満洲の実態について何も知らなかったはずはない,
けれども知らなかったと言っていい.また,別の証言もある.ソ連をやる
のだと力んでいたのは田中部長だけだったと言うのである.他の人は
ほとんど不賛成だったという.ならば,なぜ,止められないのか.
後になって,ほらやっぱり思った通りだめだった.自分は失敗を予想
していた・・・というなら,今もこうした人物は周囲にいないだろうか.
 
 陸軍将校,出世の3条件という笑い話があったという.『大声・馬鹿・野暮』
だそうだ.大声というのは,いつも気魄があるというジェスチャーである.
元気な声を出している.いつも前向きで,上司の覚えが良く,上の人の
言うことならイエスマン,これを馬鹿.外見を飾って,おしゃれな様子
は嫌われる.言語・動作,服装は野暮.今もこうした人が出世の階段を
登っていないだろうか.
 
 昔の陸軍を笑うことは簡単だが,わたしも含めて,私たちの中には
日本軍が生きている.
 
 次回からは,兵站の始まり,建軍当初の明治からふりかえってみよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.12.2




『ライター・渡邉陽子のコラム (72) ─ 自衛隊海外派遣の歩み(2) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.
ファンタジーは普段読まないのですが,先月遅ればせながら
上橋菜穂子にドはまりしました.最初に「獣の奏者」でがつんとやられ,
今は「守り人」シリーズです.

先月は電車に乗っている時間が多かったのですが,
その移動時間がまったく苦にならない(朝の満員電車は別ですが…),
スマホいじくったり居眠りしたりしている場合じゃないというおもしろさです.
早く続きを読みたいために,仕事も早く終わらせようと必死です.

その反面,読み進めるほど終わりが近づいてしまう,ずっとずっと続きを
読みたいのにという葛藤も.児玉清さんが書かれた解説でも絶賛の嵐.
まずは「精霊の守り人」からおすすめします.
男も女もバルサに惚れますよ,ほんと.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■自衛隊海外派遣の歩み(2)


湾岸戦争において多国籍軍へ130臆ドルもの財政支援を行なっても,
クウェートをはじめ国際社会からの理解も評価も得られなかった日本.

自衛隊嫌いで知られた海部俊樹首相も,さすがに重い腰を上げざるを
得ない状況となっていきます.同時に,「目に見える形での具体的な
国際貢献は行う必要がある」という声が国内でも次第に大きくなっていきました.

そして停戦後,政府はついにペルシャ湾の機雷除去作業のため掃海部隊
の派遣を決定したのです.


政府は掃海任務を定めた「自衛隊法第99条」に基づき,
ペルシャ湾に掃海部隊を派遣する方針を固め,1991年4月16日には
「ペルシャ湾における機雷等の除去の準備に関する長官指示」が正式
に発出されました.


自衛隊初の海外派遣の主役となった艦艇は最新鋭の装備を誇る護衛艦
ではなく,海外演習の経験もない小さな木造の掃海艇でした.

掃海派遣部隊の編成は,掃海母艦「はやせ」,掃海艇「ひこしま」,
「ゆりしま」,「あわしま」,「さくしま」及び補給艦「ときわ」の計6隻.
第1掃海隊群司令の落合?一等海佐(当時)が指揮することになりました.
余談ながら落合氏は沖縄戦で「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電報を送った
ことで知られる落合実中将のご子息です.


掃海部隊の派遣準備が始まってから出航までの猶予はわずか10日間.
それは,持っていく必要があると考えつくあらゆるものを,梱包も解かず
積み方も考えず,とにかく船にどんどん積み込むという怒涛の日々でした.

限られた時間のなか,一度も寄航・訪問経験がない海域の情報収集
や航路の選定が進められ,横須賀,呉,佐世保の3つの基地では隊員
たちによる不眠不休の準備が続きました.同時に,自衛隊の海外派遣
に反対する声が聞こえるなかでも派遣隊員の士気を高め,そして残された
家族に対しては一切の不安を与えないよう,各種の措置をとる必要がありました.


そんななか,落合氏は1日も早くペルシャ湾に到着したいと思っていた
そうです.取材時,落合氏は次のように語りました.

「インド洋の海況が心配でした.出発が遅れるほどモンスーンをまともに
受けることになり,500トンに満たない小さな掃海艇には厳しい航海
になることが予想されたので.4月末の出発というのは,モンスーンを
避けられるまさにぎりぎりのリミットだったのです.それに日本以外の
掃海部隊がすでにペルシャ湾で機雷の掃海に当たっていましたから,
自分たちだけが遅れて参加するというのは国内の事情でやむを得ない
ものの,けれどやはり一刻も早くほかの国と協力しあって掃海作業を
進めたい,そう思っていました」


しかし4隻の掃海艇はいずれも沿岸作業用に造られた木造船.時速
はどんなに頑張っても10ノット程度,自転車と変わらないようなスピードで,
片道約6800マイルもの航程を進まなくてはいけません.到着までは1ヵ月
と1週間かかることが予想されました.

「この日数を少しでも短くするにはどうしたらいいか.それには水や食料,
燃料補給のために立ち寄る港での滞在時間をできる限り短縮するしか
ありません.朝8時に入港,補給したものを船に搭載する作業が終わったら
即出航,その時点でまだ午後4時,こんな感じです.搭載には大体6時間
かかりますから,隊員たちが上陸して一息つく時間なんてまったくありません.
往路で寄港したスービック,シンガポール,ペナン,コロンボ,カラチ,
すべての港でこのようなハードスケジュールでした.よく隊員たちが一言
の文句も言わず耐えてくれたと思います.おかげで海が静かな時にインド洋
を渡れ,予定より1週間早くドバイに到着できました」


4月26日,ペルシャ湾掃海派遣部隊は横須賀,呉,佐世保から部隊集結場所
である奄美群島に向けて出港.

落合氏のコメントにあるように補給のために立ち寄る港での滞在時間
もできる限り短縮し,予定より1週間早い5月27日にUAEのドバイに入港
しました.

当時,肩身の狭い思いをしていたクウェート在住の日本人は,自衛隊の到着
に涙を流して喜んだといいます.

その後6月5日から9月11日までの99日間にわたり,主としてペルシャ湾
の北部海面でアメリカおよび他の多国籍軍派遣部隊と協力して掃海作業
を行ないました.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.12.3





荒木 肇
『兵站の定義について──日本陸軍の兵站戦(1)
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□はじめに

 今年も大東亜戦争の開戦記念日が近づいてきました.
皆様,いかがお過ごしでしょうか.74年前の今頃,陸海軍
将兵はまなじりを決して戦端が開かれるときを待っていました.
その裏側では,膨大な人,物,金が動いていました.
開戦準備は半年以上も前から企画され,それぞれの部署で
人が動き,物が集められ,運ばれていたのです.
今回から,まとめた形で昔の陸軍の一端をご紹介していきます.
これまで書いたものと重複する記述がありますが,諸事情
をご配慮の上,煩雑さはお許しください.

 HY様,お便り誠にありがとうございます.お説の通りです.
戦う軍隊を国民がどう支えるか.まさに国民的議論が必要
というご指摘はほんとうに正鵠を射ています.
そこで,わたしも大きなテーマである「日本人とはどういう
国民か」について考えてみたいと思っています.
その一端が,この兵站を考えることになります.
よろしくお願いいたします.


▼言い換えができなかった兵站という用語

 戦後,軍隊ではないとしてスタートした自衛隊,兵や軍という
言葉は決して使われなかった.その代わりいろいろな言い換え
を考えた.警察予備隊の初めのころ,歩兵は兵という言葉
を使ってしまうと軍隊になる.そこで普通科と呼ぼう.砲兵は
特科だ.工兵は施設科,憲兵は警務科,騎兵はなくなったが
機甲科にすれば兵は使わなくてすむ.輜重兵は物資を
運ぶのだから輸送科にしてみよう.そういった工夫がされて
現在につながっている.もちろん,すべての言葉の言い換え
などは面倒なもので,特車といわれたタンクはいつの間にか
戦車となったし,管区隊は師団となり,混成団は旅団となった.

 階級名も同じ工夫がされた.1950(昭和25)年に発足した
警察予備隊では警査(兵),警察士補(下士官),警察士(尉官),
警察正(佐官),警察監補(いまの将補),警察監(同じく将)とした.
査というのは明治初めに採用された巡査の言葉からきている.
これを1等・2等・3等と細かく分けた.ただし当初,3等警査と
3等警察士もなかった.現在の3等陸尉(少尉)が作られたのは
1952(昭和27)年3月からになる.補というのは「次ぐ者」と
いうことで,いまも警察官には警部補というランクがある.
これは警察予備隊だから元の身分が警察官だからそれでよかった.

 次いで保安隊(1952年)と海上保安庁の海上警備隊が
別々に存在していた.防衛2法といわれた防衛庁設置法と
自衛隊法が1954(昭和29)年6月に国会で可決された.
これで陸・海・空の3自衛隊が発足する.階級名も昔ながらの
将官,佐官,尉官が復活し,下士官も曹で統一され,兵だけは
士となった.ただし,陸自には軍曹はなく陸曹がいる.海自は
兵曹がいなくて海曹といい,空自には空曹という名称がある.
軍隊ではありませんが,似たような武装組織ですといった
思い入れがあったに違いない.ただし,律令体制(8世紀)から
の伝統ある大(つかさどる),中,少(助ける)といった3区分が
士官には使われず,1・2・3等となっていることはよく知られている.
 
 自衛隊らしい名称は,海空自衛隊も事情は同じで駆逐艦や
フリゲートは護衛艦と言い換えられた.空自の対地攻撃機は
支援戦闘機などと今でも言われている.兵器とは言えないから
武器といい,陸自の戦略単位の名称も初めのころは昔の軍隊
をイメージしやすい師団を使えず管区隊といった.駐屯地の警備
などにあたるのは警衛隊であり,衛兵隊ではない.
 
 しかし,どんな言葉でも言い換えができたわけではなかった.
今でも自衛隊で堂々と「兵」が使われている.それは「兵站」
という単語である.適当な新しい言葉が見つからなかったらしい.
兵站とは単に補給,輸送,整備などという狭い範囲の考え方の
集合体ではないからだ.元の言葉は英語のロジスティクス(Logistics)
である.自衛隊ではこれを「後方支援」と訳語を使うからだろう.
職種(これも言い換えだが,兵科のことをいう)でいえば,輸送,
衛生,武器,需品などの専門家で構成される後方支援連隊(師団),
後方支援隊(旅団)という部隊がある.英語の名称では連隊は
ロジスティクス・レジメントであり,隊ではユニットを使っている.

 防衛研修所の定義によれば,「兵站」を『戦争を遂行するために
必要な人的戦闘力と物的戦闘力を造成・維持・発展させ,もって
戦争手段を提供する軍事活動をいう』としている.

 自衛隊ではこれをさらに具体化して,補給・整備・輸送・建設・衛生・人事
および行政管理とする.

 具体化といっても,われわれ普通人にとってはこれだけでは
分かりにくい.そこで陸軍が行なっていた説明を参照してみよう.
日本帝国陸軍にとっては,戦地へ出動している野戦軍と国内の
策源地との間に,必要とする物資の物流ラインとシステムを構築・維持
することをいった.まず,物資の調達やその保管・管理,搬送・配送
などを行なう拠点の確保がある.次に,搬送手段(船舶・鉄道・車輛・馬など),
それらを支える通信連絡網,必要な設備や機材,これらを実際に
運用する人の組織(部隊・機関)などのシステムの全体を「兵站」と
まとめていた.

 1930(昭和5)年といえば,陸軍が新しい「昭和2年度動員令」を
策定したすぐ後のことだが,『兵站綱要』には次のように書いてある
(元は旧漢字カタカナ混じりのもの.現代語に書き直す).
『作戦軍と本国における策源とを連絡し,その連絡線に所要の設備
を施し,必要の機関を使用し,これによって軍需をみたし,障害を排除し,
それによって作戦軍が目的を遂行できる様々な施設や,その運用をいう』

『陣中要務令』には「兵站勤務」の項がある.これを見ると,さらに理解
が容易になるだろう.これも分かりやすく箇条書きにする.
(1)馬匹,軍需品を前線に送ること.
(2)補給作戦に必要がない人馬,物件の収容とそれらを後方に送ること.
(3)交通する人馬の宿泊や給養と診療その他を行うこと.
(4)野戦軍の後方連絡線の確保をすること.
(5)戦場に遺棄された軍需品の収集と修理・再生すること.
(6)戦地においての諸資材の調査利用と民生へも関与すること

 実際に砲火を交えている戦場の後ろには,こうした広大で奥行きも
ある複雑なシステムが広がっていた.損耗した人員と軍馬の補充
は常に行なわれた.内地の留守部隊の教育隊からは補充の兵員
が続々と送られる.軍馬も送られてくる.負傷兵や傷病馬は前線から
後送されてくる.当面する戦場の実態に合わなくなった装備・資材
も転用や保管のために戻ってきた.移動途中の人馬もいる.
そのための兵站宿舎や病馬廠,病院なども設置する.輸送路である
鉄路や道路,水運路なども警備,維持,確保が必要である.
遺棄され回収された軍需品,鹵獲品,兵器や装具,糧秣(りょうまつ)
などもあった.修理・再生する貨物廠や兵器廠といった施設もある.
糧秣補給は兵站勤務員ばかりか移動する人馬へも用意しなくては
ならない.

 このように,兵站は単に人を送り,物を運べばいいというような簡単な話
ではない.軍隊の活動,それは主に戦闘だが,部隊の行動に支障がない
ように必要な時と場所に必要とされる人と物と,それらに必ず付きまとう
サービスを合わせて配分することをいう.

 陸上自衛隊の需品科の仕事を「宿屋のオヤジ」だという説明の仕方が
ある.食わせて,眠らせ,服を着せるという役割を上手にたとえたものだ.
給食設備,野外入浴セット,野外洗濯機,浄水機などの需品科部隊
の主要装備は災害派遣などでも知られるようになってきた.これらの仕事
は昔の陸軍では主に経理部将兵の仕事だった.物資や弾薬を運ぶのは
現在では主に輸送科が行なっている.昔は輜重兵の業務になる.
輜重兵は輸送を任務とし,配分を行なうのが経理部の担任とおおよそ
理解してもいい.

 いくら陸上自衛隊が軍隊ではないといっても,いったん戦えば,
昔の陸軍となんら変わらない事態に出会うことだろう.病人も出るし,
負傷者や死者も出る.弾丸は撃てばなくなるし,トラックや戦闘車輛も
損傷する.食糧や燃料,水の補給は止められない.衛生環境や装備も
整えるのは当然である.これらについては,自衛隊は過去のPKOなど
の実績から多くを学んできている.これまで1件の重大な事故が起きて
いないのは,その賜物であり,われわれ国民もそのことは誇ってもいい.
 
 近頃の安全保障法改正にからめて,戦争に巻き込まれる恐れがある
などと安易に発言する人がいる.ところが,実際のところ,戦争を支える
兵站は複雑かつ面倒なもので,他の国家機関や民間企業との協力関係
が不可欠なものだ.だから,自衛隊だけで戦争ができるというものではない.
軍人は,あるいは自衛官は戦争をしたがるなどと語る人もいるが,
戦争をよく知る自衛官は現在のような体制で安心して戦えるとは思っていない.

▼海外派兵を支えた「動員」

 昔の陸軍では軍隊が戦時態勢をとり,編制も変わり,物資も十分に
用意される状態を『動員』といった.部隊の定員は大きくふくれ上がり,
装備品も十分に支給され,軍需品が大量に必要になる.平時定員と
戦時のそれの間を埋めるのは予備役や後備役の将兵の召集である.
陸軍は1927(昭和2)年の兵役法から現役2年,予備役5年4カ月,
後備役10年という服役制度をとった.予・後備役に編入された人たち
は厳重に管理され,毎年,「在郷軍人名簿」の記載も実態に合わせて
改訂されていた.もちろん,演習召集や観閲点呼などという行事もあり,
戦闘員としての戦力維持も図られている.

 召集業務を直接担当するのは各歩兵聯隊区にあった司令部だ.
たいていが大佐を司令官として,徴兵検査,在郷軍人の管理などをする課
に分かれていた.聯隊区司令官は動員担任官の一人として師団管区
の責任者である師団長の指示を受けた.市役所や町村役場には専任
の兵事係がいて,名簿の作成や改訂を業務としていた.召集令状の
保管責任者は市では市長であり,町村では警察署長である.

 動員計画は参謀本部の作成する年度作戦計画にそって毎年作り
変えられる.国際情勢を分析し,起こりそうな武力紛争を想定し,その際
の使用兵力を決めておく.動員には(本)動員と応急動員があった.
動員にはおおよそ2週間から3週間を必要とした.応急動員は動員の完結
を待たずに対敵行動をとることに必要な一部要員(主に戦闘部隊)だけ
を充足させる.戦闘部隊を戦時編制にし,補給関係の諸隊は後から送る.
これは3日間で完結させることになっていた.これとは別に,緊急時に
行なわれる警急編成があった.平時の人員装備のままだが,とりあえず
対敵行動をとれる態勢にする.応急派兵などともいわれたが,これは8時間
で編成が完結した.

 1937(昭和12)年7月7日に北京郊外盧溝橋で起きた日支両軍の衝突
は突然のことだった.もともとは条約に基づく権利で正当に駐屯し,
演習を行なっていたわが陸軍の支那駐屯歩兵第1聯隊の部隊に対して
何者かが実弾を撃ってきた.参謀本部は不拡大を主張したが,当時,平津地区
には1万2000人の在留邦人がいた.平津地区とは北平(北京)と天津を
合わせた地域をいう.この居留民を保護するのは当然である.
しかも,中国軍は素早く兵力を移動させてきた.しかも,7月28日には通州
で守備隊と居留民が合わせて142人が虐殺されるという事件も起きた.

 この時,動員が行なわれた.7月12日にはまず,朝鮮に駐留する第20師団
と内地と満洲の航空部隊に動員が下令され,編成された臨時航空兵団が
動き出した.27日,広島の第5師団,熊本の第6師団,姫路の第10師団
に動員令が下された.

 このうち第20師団は充足人馬動員といわれる平時編制を定数通りにする
規模のものである.朝鮮の第20,21の両師団は正規師団とはいえ,
現役兵は内地の師管区からの割り当てにそった差し出し人員であり,
いわゆる基盤がない植民地である.したがってふだんから治安維持に
何とか対応する兵力しか備えていない.平時編制を満たすだけで
手いっぱいだった.戦闘力も低く見積もられ,正規野戦師団の5割程度と
されていた.

 第5と第6の両師団は応急動員だった.戦列兵だけを戦時定数にして
送り出した.このとき,部隊の構成は現役兵と召集兵がほぼ同数であり,
補給,衛生,輸送などの後方部隊は順々に定員が充足されていく.
戦力はやはりフル編制の野戦師団の8割ほどになる.

 第10師団で行なわれたのは本動員である.このころの平時編制は
人員が約1万2000人,馬匹1600頭だった.それが2週間あまりで
約2万5000人,馬匹8000頭というものになる.結果的に,内地の3個師団
だけで兵員が20万9000人,馬匹5万4000頭が動員された.

 この人員,馬匹,軍需品が各地から大移動して軍港に向かった.
輸送機関の主なものは鉄道,当時は国鉄といわれた国有鉄道,いまのJR
である.この運行計画を立て,民需を圧迫し過ぎないように調整する.
参謀本部にはこの計画を立てるための鉄道輸送,船舶輸送,統制の専門家
がいた.また陸軍省にも調整部署があった.列車の旅をする人員には行く先々
で弁当を調達する.こうした場合,民間業者をあてにするのが普通である.
そのゴミの処理もする.急病人やけが人への対応も必要だし,軍馬も輸送
することになるから馬の世話もある.
 
 こうしたことから当時,軍隊が国外に出征するのはたいへんなことだった.
少しでも計画と実行に狂いがあってはならない.陸軍では,『一兵,一馬の
(召集された部隊への)到着』も厳密に管理されていた.この動員の担任者
とされた各部隊の将校たちには身体を壊す人も多かったという.動員の
それぞれの種類に合わせた計画の立案をし,厳密な検閲までも毎年必ず
受けていたのである.

 動員と兵站とは密接な関係があった.そして,戦うには兵站が必ず必要な
ものだった.
 次回は,戦後の通説,陸軍の「兵站軽視」といった批判が必ずしもあたらない
ことを説明しよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.12.9




『ライター・渡邉陽子のコラム (73) ─ 自衛隊海外派遣の歩み(3) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.
街のあちこちがイルミネーションに輝く時期になりましたね.

私はイルミネーションが好きではありません.
いくら今はLEDといえど,節電の精神はどこにいったという
白けた気持ちになるのです.もともと夜景にも興味がなく,
函館でも香港でも,眼下に広がる夜景に感激するとか
感動するという気持ちは湧きません.

電飾は護衛艦と東京スカイツリー,東京タワーだけで十分
だと思っています.護衛艦は身びいき(笑),スカイツリーと
東京タワーはイルミネーションで公共性のあるメッセージを
発信できるので,私の中ではありです.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■自衛隊海外派遣の歩み(3)


アラビア半島からの砂塵やクウェートの油井火災による煤煙が
舞い,日中の最高気温は40度以上にも達します.掃海作業
はそのような過酷な環境条件下で行なわれました.

しかも多国籍部隊に遅れて参入した掃海派遣部隊には,
結果として技術的に非常に困難な海面が割り当てられることになりました.
1200個あった機雷の約80%はすでに処理されていましたが,
残り20%の機雷のある場所が,政治的,海域的にも難しいエリアでした.
後から参加した自衛隊は,必然的にこのエリアを担当せざるをえません.


「シャトルアルブ川の河口なので砂で濁って視界が悪い,海は浅く流れ
は速い.しかも海中油田のパイプラインが海中を走っているから,
機雷を見つけてもその場で処理できない.まずは機雷本体に入っている
炸薬には手を付けずセンサー部分だけを壊して,水中アドバルーン
でパイプラインのないところまで運んでから破壊する.ほかのエリアの
倍の手間がかかりました」

それでも作業そのものは普段行っていることと同じです.
隊員たちは日頃の訓練同様冷静に作業を進め,この最難関のエリア
でも17個の機雷を処理しました.


掃海派遣部隊は日頃の訓練の成果を発揮して掃海作業を遂行,
99日(航海期間を含めると188日)におよぶ全期間を通じ隊員の人身事故
や船体などに影響を及ぼすような損傷は1件もないまま,合計で34個
の機雷を無事処分しました.実際には事故につながる可能性のある故障
や不具合は315件も発生したのですが,そのほぼすべてを隊員たちだけで
直し,現地でも常時100%の稼働率を誇りました.

彼らの作業に取り組む姿勢とその技術は,他国の部隊からも高い評価を受けました.


退官後,当時を振り返った落合氏は

「派遣部隊511名の最年少は19歳.平均年齢32.5歳という部隊を指揮して
感じたのは,若い隊員が非常によくやってくれるということです.教育隊を出て
からせいぜい6ヵ月程度の若者が,海外演習の経験もなくいきなり海上自衛隊
初の海外派遣,しかもペルシャ湾ですよ.
最初の頃はどうにも心配で.それがどんなに劣悪な環境下でも愚痴ひとつ言わず,
実に働く.毎朝4時半起床,40度を超す灼熱地獄の中で日没まで掃海作業,
与えられたわずかな水で体の汚れを落とすころは夜10時近い.しかも掃海作業中
は船内に留まれないため,非番だろうが日中は甲板に出ていなくてはいけない.
それでもぐっとこらえ,自分のなすべきことに真摯な態度で取り組む,その姿
には本当に感動しました.『今の若い者は何と立派だろう』と思うようになったのは,
この派遣からです」と語っています.

落合氏の口からは,隊員たちへの感謝の言葉が幾度となく発せられました.
それは階級や年齢を超え,共通の任務に対して心をひとつにしたという事実
があってこそ生まれた,ゆるぎない思いだったのです.


「もちろん若い隊員たちだけではありません.誰もが素晴らしい順応性を見せる
と同時に,任務達成に向けて強い意志を持ち続けてくれました.これは日常の
訓練によって培われた,プロフェッショナリズムとしての静かな自信があってこそ
生まれる気持ちなのでしょう.同時に『日本を代表してペルシャ湾にいるのだ.
もしもここで自分たちが失敗すれば,自衛隊の国際貢献が日の目を見ない
可能性がある』という自覚があったからです.だからこそ,188日間1件の事故もなく,
常時100%の稼働率を誇れたのではないでしょうか.事故につながる可能性の
ある故障や不具合も,そのほぼすべてを隊員たちだけで直しただけでなく,
予防整備も徹底して行なった.寝る前に自分の担当する機器をチェックするんですよ,
毎日欠かさず.1日中働いてくたくたに疲れた体には,さぞ辛い作業だったと
思います.隊員一人ひとりが任務に対する使命感を持っていたからこそ,
そこまで頑張ってくれたのです」

指揮官にここまで褒められる隊員たちです,ほかの国からの評価が高い
のは当然の結果といえます.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.12.10




兵法三十六計 番外編

中国の軍改革(前)
─兵力削減は軍の近代化が狙い─

                 元防衛省情報分析官・上田篤盛(あつもり)
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▼ 中国軍の兵力削減は軍縮なのか?

 習近平が中国の国家最高指導者兼ねて軍指導者(中央軍事委員会
主席,統帥権者)に就任して,はや3年あまりが経過した.
最近はとみに中国軍における習の存在感が高まっている.

 本年9月3日に「戦勝70周年記念式典」が開催された.
習は兵士1万2千人による大規模な軍事パレードを主宰し,
少将クラスの隊列指揮官が指揮する“最新兵器のオンパレード”
を国内外に向けて演出した.

 一方で,「平和的な台頭を目指す」「国連憲章を核心とする
国際秩序を守っていくべき」という中国の“平和的立場”をアピール
しつつ,「中国軍兵力を30万人削減する」と発言した.
 
 これらに関して専門家諸氏は「習主席による軍に対する完全掌握
を国内外にアピールした」,「A2AD(接近阻止・領域拒否)用
の最新兵器を披露して米国を牽制した」「軍拡路線を歩まないこと
を主張して中国脅威論を払拭した」などと分析したが,筆者の分析
もほぼ同様である.

 しかし,わが国の一部においては以下のような残念な動きもあった.

 中国国防部の楊宇軍・報道官は「戦勝70周年記念式典」の記者会見で,
「習主席が今回の大会で30万人の兵力削減を宣言したことで,
世界各国と共に平和を守り,共に発展を図り,共に繁栄を享受する
との中国の誠意と願いが十分にはっきりと示された.また,国際的
な軍備抑制・軍縮が推進するとの中国の積極的な責任ある姿勢が
示された」と述べた(2015年9月4日『人民日報日本語版』).

 こうした宣伝に相乗りするかのごとく,『朝日新聞』が「覇権を唱えず」
との見出しで関連記事を掲載した.その後,鳩山元総理は10月14日
に中国天津市で開かれた国際会議において,習が表明した
「兵力30万人削減」をとりあげ,「たいへん称賛されるべきで,
近隣諸国もこれに従おう」と講演した.

 こうした一連の動向には,中国の軍拡路線から目をそらし,
中国の宣伝をわが国の「安保関連法」に対する国内批判とリンク
させようとの作為が感じられた.

▼兵力削減は軍の精強化が狙い

 中国における兵力削減は軍近代化を狙いとする,軍事合理性
に基づいた軍改革の一環であることを明確に認識しておく必要がある.

 兵力削減が公表されてまもなく,11月24日から26日に北京で開催
された中央軍事委員会の改革工作会議において,習は中央レベル
の「統合作戦指揮機構」を改善するとともに,現在の地域ごとの
防衛態勢である「7軍区」を整理・統合して「戦区」を常設し,
「戦区統合作戦指揮機構」を設置する,などの一連の軍改革を
行なう方針を打ち出した(11月27日『中国軍網』など).

 つまり,中国は現代戦に勝利できる強軍を目指して,
1)兵力削減により,人件費を抑制して,その余剰の軍事費を先端兵器
の配備や軍事訓練などに充当する.
2)現在の陸軍中心の軍隊の指揮機構を改善し,陸軍,海軍,空軍
および第二砲兵(※戦略ミサイル部隊)による統合作戦機能を強化する.
 という方針を明らかにしたのである.

 30万人兵力削減を断行するためには「7軍区」の整理・統合し,
不必要な部隊を削減し,陸・海・空軍および第二砲兵による縦割りで
重複する指揮系統を一体化することで不必要な部署を削減すること
が必要となる.

 すなわち,兵力削減は軍の精強化を目的とする軍改革の一環として
行なわれるものであり,中国が喧伝するような軍備抑制・軍縮の一環
などでは決してないのである.

▼軍改革は「規定路線」である

 次に,わが国のマスコミは,今回の軍事改革を習による軍掌握,
権力闘争の手段に関連づけ,「習近平と中国軍が戦慄バトルを
演じている」などと,おもしろおかしく語るきらいがある.

 たとえば,11月28日付『産経新聞』は「(今回の軍事改革で)廃止
される瀋陽軍区と蘭州軍区は昨年から今年にかけて失脚した制服組
トップである郭伯雄,徐才厚氏のそれぞれの出身軍区である.
この二つの軍区が廃止されることは粛清的意味が強い」と報じた.

 たしかに,党指導部による中国軍に対する政治的統制は十分である
とは言いがたい.習は就任以来,「党中央と中央軍事委員会に従え」
との演説を繰り返していることや,本年1月28日『解放軍報』に「軍の
指導者は中央軍事委員会主席である」との記事が掲載されるなど,
“当然の制度”が改めて強調されていることは,逆に党指導部が軍を
十分に統制できていない証左ととらえることも可能である.

 そのうえ,郭や徐が,胡錦濤政権下において10年以上にわたって
中央軍事委員会の制服組トップ(副主席)に君臨し,文民は軍事的素人
の胡が唯一という体制をよいことに,汚職・腐敗,階級の売買,派閥
に与する部下のコネ昇任などを行なっていた節もある.したがって,今回の
軍事改革には,習指導部が軍に対する政治統制を強化して,軍内に
はびこる不正常な風紀を是正するという政治的目的もないではない.

 しかし,習近平政権VS中国軍の熾烈な覇権争いがあり,その勝者
である習が軍に対する軍改革の“大鉈”を振るわけではない.軍改革
は軍事の専門家である軍人によって行なわれるのであり,軍改革の
必要性についての認識はむしろ軍側にあるのである.

 そもそも,今回の軍改革の柱となる「軍区」の整理・統合は,
習が国家指導者に就任し,郭と徐を検挙・失脚させる以前から取り沙汰
されてきたことである.また,今回の軍改革は習の発案ではないのである.
これは「規定路線」であり,言いかえれば,習が中央軍事委員会主席
に就任していようがしまいが,今回の軍改革は回避できなかったとみられる
のである.

 筆者は2008年に『中国の軍事力−2020年の将来予測−』
(茅原郁生編,蒼蒼社,2008年9月刊)の第11章「中国の陸軍戦力の
将来像」と第12章「中国軍の統合化の将来像」のなかで,「陸軍兵力が
20〜30万人削減」(同著531頁),「現在の7個軍区体制から4個軍区体制
に整理統合」(同書567頁),「総部を廃止し米軍式の統合参謀本部を設置」
(同書568頁)などと予測した.

 こうした予測がほぼ的中することになったのは,とりもなおさず今回の
軍改革が軍事合理性に立脚した「規定路線」であることの証左である.
したがって,今回の軍改革を「習近平政権VS中国軍」という文脈でとらえると,
重要な本質を見落とすことになりかねない.

▼2020年に軍改革の重要結節を迎える

 今回の一連の軍事改革は2020年までに一応の成果を出すことを目標
にしている.では2020年が中国軍にとっていかなる意義を有するのか?

 これを明らかにするために,これまでの中国の軍改革の流れを概観しておこう.

中国は1991年の湾岸戦争における米軍のC4ISR(指揮・統制・通信・
コンピュータ・情報・監視)を駆使した統合作戦に衝撃を受けた.1996年
の台湾海峡危機では,米空母戦闘群の同海峡への派遣に対し,
中国はなんらなす術がなく,“屈辱”を味わった.以降,中国は米国を
仮想敵国として,台湾有事などの戦争において米軍に負けない軍隊
を構築することを目指し,まずは武器・装備などのハード面の近代化,
すなわち「機械化」に着手した.

 2000年代以降,中国の軍近代の力点が「機械化」から,C4ISRによる戦力
の組織的連接などを目標とする「情報化」に移行した.2000年12月,江沢民
主席(当時)は中央軍事委員会拡大会議の席上で「『情報化』が軍隊の
戦闘力の倍増機である」と述べた(※おそらく,この時が「情報化」という
用語の公式的な初登場).2003年3月の第10期全国人民代表大会の
中国軍代表団会議で,軍近代化の目標を「機械化」から「情報化」へ転換
することが提起された.

 2004年版『中国の国防』(国防白書)では「新時代の積極防御戦略」と
銘打って,中国は「情報化条件下の局地戦」勝利に向けて「中国の特色
ある軍事改革」を推進していく方針を明示した.

 2006年版『中国の国防』では「『機械化』を基礎に『情報化』を主たる方向
にし,「情報化」と「機械化」の複合的発展を推進する」旨が記述された.

 同時に2006年版『中国の国防』では,「情報化」軍隊の建設を長期目標
とする「三段階発展戦略」が提起された.同発展戦略では,
第一段階(2010年まで)に「堅実な基礎を築く」,第二段階(2020年まで)に
「『機械化』を基本的に実現し,『情報化』建設で重大な進展を遂げる」,
第三段階(2050年まで)に「国防と軍近代化の目標を基本的に実現する」
との発展目標を掲げられている(2008年版『中国の国防』).

 このように中国は2050年までに「情報化」軍隊の建設することを目標に
軍近代にまい進しており,その重要な中間結節が2020年なのである.

 習は中央軍事委員会主席として2020年を迎えることになる(※習の任期
は2022年まで).2020年にはさまざまな分野における軍事関連の成果が
求められる.たとえば,中国は米GPSに依存しない,独自の「北斗衛星測位
システム」の運用を行なっているが,全世界規模での運用体制の確立する
期限目標が2020年である.

 2016年からは2020年に向けた第二段階の後半がいよいよスタートする.
おそらく,2020年までの軍事訓練の方向性を規定する「軍事訓練大綱」
などが2016年には制定されることになろう.

 習は2020年に「情報化建設で重大な進展を遂げる」という目標の具体的
成果を問われることになる.その改革に失敗すれば,もともと戦歴も軍歴
もなく,カリスマ性のない習の権威は一挙に失墜することになる.習自身
にとっても軍改革は「待ったなし」の厳しい状況を迎えているのである.

 今回の軍改革の柱は三つある.一つが兵力削減,二つ目が「軍区」から
「戦区」の改編,三つ目が「統合作戦指揮機構」の改善である.
次週は,これらの要点などについて解説することとする.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.12.15




荒木 肇
『陸軍の「兵站軽視」はほんとうだったか?〈1〉──日本陸軍の兵站戦(2)
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□はじめに

 今年も残すところ2週間になりました.12月8日は大東亜戦争
の開戦記念日でしたが,マスコミもだんだん,扱いが低調に
なってきていると感じるのは私だけでしょうか.若者の中には,
戦争があったことも知らない,あるいはそれを聞くと何処の国と
戦争をしたのか分からなかったと笑えない話も聞かれます.
そういう人たちは先日の作家,野坂昭如氏の逝去の報道を
どう受け止めたのでしょうか.

 読者のNM様からお尋ねをいただきました.話題の「通州事件」
についてです.仰る通り,当時の軍民の被害者数には多くの説
があります.わたしもどれに与するほど詳しくもなく,専門では
ありませんが,わたしの昔の救援隊に属した方からの聞き取り
などのよって数字を出しました.しかし,研究者によっておよそ
120名から400名にのぼるといった違いがあります.わたしが
数字を出したのは軽率でした.ここに「犠牲者数には幅があり,
120名余りから400名と明らかにはなっていない」とお詫びして
訂正します.

 元陸上自衛官のHI様,ありがとうございます.化学学校には今回
の企画の取材でもたいへんお世話になっています.写真では見た
ことがある馬用の防毒面(被乙),軍犬用のそれも資料を提供
していただいています.これからもよろしくご指導をお願いします.


 ▼兵站がなかった幕府脱走兵

 幕末の話である.のちに新政府に仕えて,清国駐箚公使,
枢密顧問官にもなった大鳥圭介(おおとり・けいすけ:1833〜1911)
は,当時,幕府陸軍きっての戦術家だった.もともとは大坂の
緒方洪庵の適塾で蘭学を学び,韮山代官江川英敏塾で西洋兵学
を学んだ.幕府の蘭書翻訳方に出仕,1864年には歩兵指図役(中尉)
になり,同頭取(大尉)から歩兵頭(大佐),歩兵奉行(少将)と昇進
を重ねた.ただし,鳥羽・伏見などでの実戦の経験はなかった.

 江戸で直に率いた部下は自ら育てた「仏式伝習隊」というフランス式
の近代装備歩兵である.自伝によれば,鳥羽伏見の戦争に負けて
大坂城から逃げてきた最後の将軍,徳川慶喜に徹底抗戦を説いた
という.ところが,負けて意気消沈の慶喜は乗ってこない.大鳥は
時期を待った.

 1868(明治元)年2月になると,大坂から敗走してきた幕府洋式歩兵隊
は次々と脱走を始めた.5日,フランス式伝習大隊の一部,400人が
八王子方面に去った.7日には勝海舟自らが鎮圧に説得に出向いた
歩兵第11連隊と同12連隊の集団脱走があった.当直将校を殺して
脱営した彼らは,驚いたことに幕府高官の勝海舟にも発砲する.東北地方,
会津,庄内に向かえば,必ず雇ってもらえるという首謀者の煽動にのった
結果である.崩壊寸前の幕府には彼らに払う給与もなかった.十分な
衣食住も提供できなかったのだから,「傭兵」としては義理を感じること
もなかった.

 大鳥は歩兵奉行だった.幕府陸軍の官制では尉官級将校が
「歩兵指図役」といわれ,佐官を「歩兵頭」,将官を「奉行」といった.
陸軍奉行はロイテナンド・ゼネラール(中将),歩兵奉行が
ゼネラール・マヨール(少将),以上が将官.歩兵頭をコロネル(大佐)
といい,歩兵頭並はロイテナンドコロネル(中佐)が佐官.尉官は
カピテイン(大尉)といい歩兵指図役頭取という.歩兵指図役は1等
ロイテナンド(中尉),同並を2等ロイテナンド(少尉)とした.コロネルは
連隊長,ロイテナンドコロネルは大隊長,カピテインは中隊,1等ロイテナンド
は半隊(中隊を2分したもの)を指揮した.この階級の呼び方と編制を
みただけで,それまでのサムライの軍隊とは違っていることが分かる.

 これらの洋式歩兵の訓練は厳格だった.フランス陸軍の将校と下士官
が顧問団になり,演習でとことん鍛え上げた.しかも,雇われた伝習兵
の多くは幕末に失業した,江戸にごろごろしていた武家奉公人だった.
大名たちが江戸屋敷で雇いあげていた駕籠かき(陸尺という,身長が
6尺=180センチだったからという説もある)や奴(やっこ),中間(ちゅうげん)
といった体力自慢の連中だったのだ.もちろん,風儀がいいとはとても
言えない者たちだった.しかし,身体は大きく,健康で,何より軍隊くらい
しか食える場所がなかったのである.

 江戸城引き渡しの日,4月11日には千葉県国府台(こうのだい=市川市)
に集結した脱走隊の兵力は大きなものだった.江戸大手町にいた
伝習第1大隊700,神田小川町(古本屋街のそば)の伝習第2大隊が400,
歩兵第7連隊350,幕府御料兵200がそろった.洋式歩兵隊が合計で1650人.
それに幕府陸軍砲兵隊2門が護衛兵とともに100を数え,幕府陸軍工兵隊
である土工兵が200,桑名藩兵200,会津藩伝習隊80,そして京都を
震え上がらせた新撰組の残党が90といわれている.合わせて2320名
という戦力だった.

 この国府台の脱走軍は指揮官に大鳥圭介を選んだ.語学力を生かし,
洋式戦術を学び,将校の昇進の梯子を一気に登った男に信頼を寄せた
のだった.副指揮官・参謀には新撰組副長だった土方歳三が推された.
土方にはすでに槍や刀の時代が過ぎたことが分かっていた.
すでに新撰組も最末期には洋式銃をもった軍隊だったし,指揮官の天分
が土方には十分にあったに違いない.彼が最期を迎えた箱館でも,
戦術に優れ,実兵指揮に長けていたことは有名である.

 脱走隊の主力だった伝習兵は当時,最新式の元込めライフル銃の
シャスポー銃で装備されていた.官軍の主力だった薩摩軍でさえ,
先込めのエンフィールド銃をもっていた頃である.射程も優れているし,
集弾率も高かった.何より,発射速度が大違いだし,元込めは寝たまま
弾丸を装填できた.先込め銃は装填時にどうしても姿勢が高くなる.
それに加えて集団戦闘訓練の度合いが,寄せ集めの官軍とはけたが
違っていた.

 大鳥軍は快進撃を続ける.目指したのは栃木県日光である.日光には
神君家康公をまつる東照宮があり,鬼怒川を北上すれば会津と連絡する.
当面,日光に駐屯し,情勢変化を見ながら会津藩に合流しようという腹
である.

 新式装備と訓練の積み重ねのおかげで,脱走軍は各地で連勝する.
官軍の拠点,宇都宮城も陥落した.ところが,入城したものの兵站が続かない.
周囲を占領して城にこもるとなれば,たちまち治安維持や物資の調達
といった兵站事務が必要になる.城下町には軍政をしかねばならないし,
周辺には警戒するための分哨も置く.防衛線を築くための通信網も作らねば
ならない.
 
 本格的な攻撃を受け始めて大鳥は動揺した.慌てて今市に下がること
にする.ところが浮足立った敗兵は止まらない.大鳥軍は4月25日には
日光に逃げ込んだ.
 
 大鳥はのちに自著,『南柯紀行(なんかきこう)』でおおよそ次のように
述べている.
『江戸を出て以来,弾薬の予備がたいへん少なかった.屯所を出るときには
それなりの用意があったが,係が持ち出すのを忘れてしまった.ある人に
頼んで送ってもらうように頼んだが,途中でさえぎられ届かなかった.
鹿沼(栃木県)に宿営していたとき,江戸から2人の知り合いが逃れてきて,
その人たちが日光に在勤していたことがあり,地元に詳しいので弾丸の製造
を頼んだ』

 5000発も造ってもらったが,とても実用品ではなかったという.
それはそうであろう,シャスポー銃の弾丸は装薬と椎の型の弾丸が一体化し,
薬莢は厚紙でできていた.見よう見まねで小銃弾ができるわけがない.
やむなく,会津藩に弾薬の供給を頼んだがどうなるかわからなかったと大鳥
はぼやいている.

『弾薬運送の重要さはかつて書物でも十分に読み,知っていたことだったが,
今回のように前後が混乱した中ではどうにもなるものではなかった』
と後悔している.実戦経験がないばかりか,軍隊が行動するという実態への
想像力が欠如していたわけだ.

 大鳥軍は日光を追い出された.当然だろう.『米塩も少ない』と元幕府家臣
の日光奉行が来て言うのだ.4月29日には大鳥軍は会津を目指して出発した.
「六方越え」といわれた帝釈山系の南面,険しい間道しかありはしない.
民家もないから食糧を徴発もできない.兵士たちは米もなく,味噌をなめ,
たくあん漬け,梅干をかじるだけで重い銃を担ぎ歩き続けた.ようやく
会津藩領,田島に着いたのは翌月の閏4月5日だった.

 大鳥は当時の部下たちから「兵を語るのは上手だが,兵を用いるのは
下手」と常に言われ続けた.戦術や戦闘の方法,あるいは大きな戦略は
語れても,それだけでは指揮官ではない.兵に十分に食わせ,眠らせ,
負傷には手当てをするといった兵站を保障することが兵を用いると
いうことであるからだ.

▼大東亜戦争での失敗

 ガダルカナルでは悲惨な戦いになった.輸送船は次々と沈められ,
揚陸した物資も銃爆撃で次々と燃やされた.食糧は来ない,燃料も
揚がらないからトラクターが動かないので重砲は放棄される.弾薬も
医薬品も来ないから,無傷な将兵もまともに戦闘などできるわけがない.
栄養失調から病気になる,風土病はまん延する.最初は駆逐艦に頼んで,
魚雷を下し,その代わりにドラム缶を積んだ.中には食糧や補給品が
入っている.夜間に高速で海を越え,海岸近くになってロープでつないだ缶
を落とした.夜明け前に海岸に出た人間が引っ張りあげる.それでも
焼け石に水だった.1日5合の定量の米だけで2万人なら100石,
つまり15トン必要になる.ドラム缶は250リットルだから一杯に入れても
200キロそこそこだろう.75本の米入りドラム缶も1個師団の1日分
でしかない.しかも,全部が回収されてこそで,それが揚陸されて
ジャングル内に回収されて,蓄積されて,配分されて・・・と考えると,
その大変さが想像できる.

 インパール作戦はチンドウィン河を越えて,標高3000メートル級の
アラカン山系を踏破する進撃である.これも補給が続かなかった.
むしろ包囲されたはずの英軍は空中補給で肥え太っていくのに,
日本軍は後方をウィンゲート旅団に攪乱され,補給もほとんど届かなかった.
やせ衰えていったのは包囲した方だった.敵陣を目前にして前のめりに
倒れた将兵,後退途中に力尽きた将兵,後方へ下がる道は白骨街道
といわれた.ニューギニアも似たような状況である.将兵は敵弾に
倒れるより飢えと病気に勝てなかった.

 進攻ではなく防御に回ったフィリピンの戦いでも飢えと病気に負けた
ことは変わらない.補給が途絶え,射つに弾丸なく,食糧も,医薬品
も不足していた.ここでも輸送船の損害が大きかった.激しい空襲の
合間をぬって,せっかく接岸しても,揚陸した物資は敵機の銃爆撃
にあって港で焼かれた.海岸線から内陸へ運ぶことにもたいへんな
苦労を要した.

 こうしたことから,陸軍は補給を,兵站を,後方を軽視したといわれてきた.
しかし,負けていた時ではなく,勝っていたときはどうだったのか?
 勝った戦闘は兵站を軽視していたのに勝てたのだろうか?
 上海事変や『日軍百万上陸』のアドバルーンで有名な杭州湾上陸
などは兵站を軽視していても成功したのか? そもそも「腹が減っては
いくさは出来ぬ」という古くからの諺(ことわざ)は何を表してきたのかということだ.

 よく,ろくろく補給を考えずに,「現地徴発」をして戦争をしたという.
しかし,日本陸軍は近代国家の軍隊である.現地徴発とはあくまでも
主ではなく,後方からの追送の負担を減らすための従となる手段だった.
経理部将校たちの手記がある.法的手続きをとって,相手に書類を渡し,
その場で決済したり,司令部で軍票を交付したりするという手続きが正統
である.住民がいなかったので,仕方なく書類を家の柱に貼り付けてきた
ともいう.軍票が効力を得られなかったら物々交換である.中国の奥地
では,野菜や豚と医薬品で取り引きしたという経験も聞かれる.

▼陸軍は兵站補給を軽視などしていなかった!

 つまり,(作戦の)失敗・成功と(兵站の)軽視・重視はあまり関係がない
というのがわたしの考え方になる.

 重視すれば成功したというなら,日本陸軍は日清・日露戦争では兵站を
重視し,その後,軽視をしてきたことになる.そうであるなら,軽視がいつから
始まったか,どういう文書が出たかという証拠がなくてはならないだろう.
ところが,調べてみれば陸軍は建軍から一貫して後方補給や兵站,
その手段や装備,人材育成にもひたすら努力を続けていた.戦場の輸送力
の中心となる軍馬の品種改良にも手を尽くし,軍用自動車の開発にも熱心
だった.将兵にもたせる糧食も研究を重ね,戦後のインスタント食品業界の
隆盛は戦前軍隊のおかげでもある.粉味噌や粉末醤油,さらには
乾燥された餅まで用意されていた.

「物量に負けた」という言い方は戦時中からあった.「科学力も負けている」
という冷静な意見も持っている人は多かった.高空を飛ぶB29にわが
高射砲弾は届かなかったし,防空戦闘機も追いつけなかった.日本人は
みんな,占領軍として進駐してきたアメリカ兵を見て,とてもかなわないと
思った.栄養も良く,健康的で,物資をふんだんに使い,贅沢な服装を
していたアメリカ兵.負けて当然だったと納得した人も多かった.

 もはや戦後ではないと大見えをきった生活白書.あの昭和30年代から,
「技術では負けていなかったが,物量に負けた」という人が増えてきた.
同時に,兵站を軽視していたからだというようになった.技術では
負けなかったという人はゼロ戦や戦艦大和を挙げた.あるいは酸素魚雷
や末期の紫電改の活躍などが語られた.興味深いのは陸軍兵器や技術
で有名になったものは少なかったことだ.アメリカ軍が恐れたというのが
現在も使われるお決まりのフレーズである.しかし,それも眉唾であると思う.

 戦後,たくさん作られたアメリカ映画を見るといい.中国人かアジア系の人
が演じる日本兵はまったく弱い.自動小銃,機関銃の前に立ち上がる日本兵,
たった1人で何百人もの日本兵をなぎ倒すアメリカ兵.空中戦でも次々と
撃ち落とされるゼロ戦.1940年代後半から50年代の終わりにかけて
作られた戦争映画はみな,卑怯で,だらしがなくて,間抜けな日本兵が
描かれていた.

 少し様子が変わってきたのは60年代からだろう.間抜けで弱い敵を
いくらやっつけても自慢にならない.

 次回はさらに,兵站についての制度的な問題点について詳しく語ろう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.12.16




『ライター・渡邉陽子のコラム (74) ─ 自衛隊海外派遣の歩み(4) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.

現在発売中のジャパニズム28号に掲載されている
「初が盛りだくさん,平成27年度海上自衛隊観艦式」
の記事が,近日中にBLOGOSに公開されるようです.
6年前の観艦式のことにも触れていますので,
よろしければご笑覧ください.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■自衛隊海外派遣の歩み(4)

湾岸戦争が日本に与えた影響は非常に大きなものでした.

「金は出すが人は出さない」と国際社会から批判されたことで,
日本は国際貢献の真の意味を自身に問いかけるようになりました.
そして,国際貢献のために自衛隊がより活用される最善の道を
検討するきっかけとなったのです.

小さな掃海艇が果たした大きな役割.それは日頃の訓練と隊員
の志の高さによって達成されました.
落合氏は最後にこう締めくくりました.
「この掃海派遣の翌年にPKO法が成立したことを考えると,
ペルシャ湾での苦しく地道な作業は,自衛隊が国際貢献に関わる
布石となれたのではないかと思います」


自衛隊初,海上自衛隊初の海外派遣となったペルシャ湾
への掃海艇派遣.

続いては,陸上自衛隊初の海外派遣であり,日本が真に
国際社会の一員として歩み出すことになったカンボジアPKO
について振り返ります.


湾岸戦争後,日本は国際平和協力法(PKO法)を制定しました.

覚えていらっしゃるでしょうか,PKO法が制定されるまでの国会
の大混乱.社会党は国会における採決で牛歩作戦を展開,
時間切れ廃案に持ち込もうとしました.当時の私は自衛隊とまったく関わり
のない立場で,おまけになんとなく護憲派で,PKO法に根拠のない不安
を抱いていました.それでもなお,いい年をした大人が札を持ちつつ
のらりくらり行ったり来たりして時間稼ぎしている姿は,
テレビで見ていてもかなり違和感のあるものでした.
「これが国会議員なのか」という落胆,呆れ.

「自分たちはやるだけやりましたからね」と有権者(というか支持者)
に示すためのパフォーマンスは,PKO法に賛成と思っているわけ
でもない私ですら興醒めするものでした.


そういう混乱を経て制定されたPKO法.初めて適用されたのが,
カンボジアへの海外派遣です.

現地では道路や橋などの修理が主任務となるため,施設団を基幹
とした約600名からなる施設大隊を編成.渡邊隆2等陸佐(当時)が
第1次カンボジア派遣大隊長として現地におもむきました.

私が渡邊氏に取材したときは陸将補,東部方面総監部幕僚副長
という立場でした.
「年齢的にも時期的にもそろそろ大隊長かなと思っていたら,
その時期がたまたまカンボジア派遣と重なっただけの話ですよ」と,
当時の感想を聞くとまるで他人事のような飄々とした答え.
けれどこれが渡邊氏の魅力であり強みです.


PKO法が成立して自衛隊がカンボジアに派遣されると決まってからも,
周囲にはそれを反対する猛烈な声が湧き上がっていました.
それをすべてまともに受け止めていたら,大隊長の任務は務まりません.

渡邊氏は「行くと決まってからは忙しかったから,周囲の声はあまり
感じていなかった」と述べていますが,実際には「周囲の声を感じない
ようにしていた」が正しかったのだろうと思います.それでもそのどっしり
構えた大隊長の姿に,第1次派遣隊の隊員たちはどれほど勇気づけられた
でしょう.


防衛庁長官から正式な準備命令が出てから,わずか2カ月半後には
600名がカンボジアに派遣されていなくてはならないという厳しい日程
のなか,合同訓練や準備が進められました.この期間,隊員たちは
8本もの予防注射を受けたそうです.

「1992年9月11日に編成完結式,17日には出発でしょう.はっきりいって
もうバタバタでしたね.訓示も言えなかった.私自身に経験があって知識
も深ければそれなりのアドバイスもできたのでしょうが,そもそも現地
のことがわからないんですから.そんな状態で訓示を言ってもしょうがない,
とりあえず大体が見えるまでは何も言わないでおこうと」.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.12.17





兵法三十六計 番外編

中国の軍改革(中)
─「軍区」に代えて4つの「戦区」を創設か?─

                 元防衛省情報分析官・上田篤盛(あつもり)
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▼ 2010年前後から兵力削減の検討開始

 先週は今回の軍改革の柱を,兵力削減,「軍区」の廃止と「戦区」
の常設,「統合作戦指揮機構」の改善─の3点に絞ったが,
今週はまず1つ目の柱である兵力削減から解説することとしよう.

 2003年9月,江沢民・中央軍事委員会主席(当時)は,2005年
までに20万人の兵力削減を達成することを発表した.
江は「兵力削減は有限の戦略資源を集中し,軍の『情報化』建設
の歩みを加速することに有益である」と述べた.すなわち,兵力削減
が「情報化」建設の鍵となると強調した.

 2002年に行なわれた事前調整では,削減数が20万〜50万人の間
で協議されたという.つまり20万人削減は「情報化」建設のための
最低限の目標であり,いずれは,さらなる「兵力削減論」が浮上する
宿命にあったといえよう.

 2009年9月,米国『ロイター通信』が「兵力70万人の削減」構想を
報道した.当時,「中国軍備管理・軍縮協会」の徐光裕・退役少将は
70万人という兵力数は否定したが,「削減が迫っていることは承知
している」と述べた.

 2011年4月,『香港紙』が徐光裕の発言を引用して「兵力80万人の
削減」を報じた.これについて,韓旭東・国防大学教授は『環球時報』
の取材を受けて,「兵力80万人の削減」は否定したが,「中央が
将来的に適切な規模の兵力を削減することを検討しているのは事実だ」
と述べた.

 このように「三段階発展戦略」が第二段階に移行する2010年の前後
から兵力削減の検討が本格化したとみられる.このことは,2020年までに
「情報化建設で重大な進展を遂げる(第二段階の目標)」ためには
兵力削減は回避できないということが,第一段階における総括で軍内
の共通認識として確立されたことを示しているのであろう.

▼ 陸軍兵力の大幅な削減が予想

 中国軍は過去に計3回の大規模な兵力削減を行なった.すなわち,
1985年〜87年にかけての100万人削減,1997年〜99年にかけての
50万人削減,2003年〜05年にかけての20万人削減である.

 これらの兵力削減における削減対象は主として陸軍であった.
海・空軍および第二砲兵の兵力削減は最低限に留められた.つまり,
中国における兵力削減は陸軍兵力の削減と同義語であるといっても
過言ではない.

 過去の兵力削減においては,陸軍の最大戦闘単位である
集団軍(※師団の上位,戦域軍や方面軍に相当)の一部が解体され,
それによって生じる余剰兵力は準軍隊である人民武装警察などに吸収された.

 100万人削減では11軍区・35個野戦軍から7軍区・24個集団軍に
改められ,50万人削減では3個集団軍が解体されて7軍区・21個集団軍体制
になった.20万人削減では3個集団軍が解体され,現在の7軍区・18個集団軍
体制になった.

 陸軍兵力の削減は武器・装備が旧式で機動力が鈍重な陸軍から,
新型の武器・装備を保有するコンパクトで機動力に富んだ陸軍を新生できる
という狙いがある.つまり兵力を削減することで人件費を浮かせ,
それを武器・装備や軍事訓練に回すのである.また,有限な軍事費を
海・空軍および第二砲兵に優先配分して,軍全体としての近代化をはかる
などの狙いがある.

 また,過去の陸軍兵力の削減では,中・ロ関係の安定を背景に
瀋陽,北京軍区などの北部正面の兵力を削減して,重要な戦略正面と
なった台湾対岸の東南正面(南京,広州軍区)に近代化された陸軍兵力
が重点配備された.

 これまでの兵力削減により陸軍兵力は相当に削減された.しかし,現在でも
陸軍兵力は軍全体の約7割を占めている.この比率は,さらに広大な
陸地面積を有するロシアの陸軍兵力比率に比べてもかなり高い.つまり,
依然として,中国軍は機動力,戦力投射(パワープロジェクション)能力が
劣る陸軍を中心とした軍隊にとどまっているといえる.

 よって今回の兵力削減も,これまで同様に,陸軍兵力が主たる対象になろう.
そして,陸軍偏重の軍隊からのさらなる脱皮を図り,陸・海・空軍および
第二砲兵のバランスが保たれ,統合作戦能力の高い軍隊を目指すのであろう.

▼ 陸軍は「全域機動型」軍隊へ純化

 では,大幅な兵力削減が予想される陸軍にはいかなる変化が生じるので
あろうか? 現在の陸軍は作戦正面に展開する「機動型」部隊と,地域に
密着して国境警備や治安維持などを担任する「地域防衛型」部隊に大きく
区分される.

 前者が,師団や旅団が数個組み合わされて構成される集団軍であり,
後者が省軍区である.省軍区は民兵の作戦,後方支援,警備,兵役動員
などを任務とし,軍分区,予備役師団,警備師団,守備師団,歩兵師団
などからなる.

 現在,陸軍は「三段階発展戦略」に基づき「地域防衛型」から「全域機動型」
への転換を目指している(2006年版『中国の国防』).これは,後述する「軍区」
という“弊害”を取っ払って,「機動型」部隊である集団軍またはその隷下の
師団・旅団を全国の有事正面に迅速に機動展開させるという構想に立脚している.

 今回の兵力削減により,集団軍隷下の「機動型」部隊はさらに少数精鋭化
されることになろう.これは「軍区」の整理・統合と一体となって行なわれる
ことになる.

 他方の省軍区は,同じく国境警備などを任務とする人民武装警察への
整理・統合が加速されることになろう.これに関しては,2010年8月,
『人民網』が「陸軍と人民武装警察が共に有する国境警備などの共通的
部隊を合併する」との論文を掲載しており,すでに共通的部隊の合併は
漸進している可能性がある.

 今回の兵力削減が終了すれば,陸軍は集団軍以下の「全域機動型」部隊
に純化し,「情報化条件下の局地戦」を戦う戦闘任務に特化し,海・空軍等
との連携,統合作戦能力の強化がはかられることになろう.

 同時に国境警備,治安維持,災害対処などの対応を念頭に,平時は
非軍事任務に就いている民兵組織の充実や,軍・官・民が一体となった
国防動員態勢・体制の強化がはかられよう.

▼ 「軍区」廃止は統合作戦能力の強化が狙い

 今回の軍改革の2つ目の柱は「軍区」に代えて「戦区」を新設する点である.

 建国以前,中国軍は毛沢東の「人民戦争戦略」に基づき,旧ソ連を参考に
全国を軍事区画に区分し,その区画内に敵を誘致・導入して殲滅する作戦
を有していた.そして,建国時の1949年には全国を「軍区」に区分し,
「軍区」司令部が戦闘を独立的に指揮するという地域防衛態勢をとった.

 しかし1980年代に入り,?小平は当面は小規模な局地戦対処が主体となる
との情勢認識と,経済発展のためには国内の経済資源を犠牲にしてはならない
との判断から,敵を国土に誘致・導入する戦い方を改めた.つまり,国境付近
において開戦し,迅速に国境線以遠に押し出すという戦い方へ転換した.
すなわち,「現代条件下の人民戦争戦略」への転換であった.

 こうした戦略転換のなかで「戦区」という概念が登場した.これは,局地戦
が勃発したならば,全国動員をかけることなく,各正面の主戦場となる地域
を「戦区」に設定し,「戦区」司令部がその局地戦を指導するものである.

 つまり,陸軍の「軍区」司令部を基本に,海軍の「艦隊司令部」,空軍の
「軍区空軍司令部」および第二砲兵の「基地司令部」の一部機能を吸収
して「戦区」司令部を設定し,陸・海・空軍を指揮・運用する構想である.

 ただし,現在の「軍区」に統合作戦指揮機能がまったくないわけではない.
たとえば,海軍・北海艦隊司令官と済南軍区空軍の司令官(中国語では
司令員)は,それぞれ済南軍区の副司令官を兼務している.

 しかしながら「軍区」司令部の実態は,陸軍高官が軍区司令官などの要職
をすべて独占し,統合作戦指揮を行なう司令部とは名ばかりである.

 しかも,陸軍には中央レベルの司令部が存在しないことから,「軍区」司令部
は直接,中央軍事委員会および総参謀部などの4総部にぶら下がり,
陸軍高官である7人の「軍区」司令官は,中央の海・空軍および第二砲兵司令官
と同格にある.たとえれば,陸上自衛隊の5人の方面総監が,海上幕僚長,
航空幕僚長と同格に位置づけられている.

「軍区」は地域に密着し,「軍区」所属の将校は少将クラスになるまで全国異動
がない.地域の言語で軍を指揮し,軍事物資や兵器の部品にいたるまで
「軍区」内で調達し,「軍区」を越えた機動訓練も最近まで行われていなかった.
「軍区」は,地域に密着した陸軍の既得権益の“牙城”であり,中央の統制も
十分に及ばず,全国で生起する局地戦に対して迅速に戦力を統合・結集して,
要点に投射するという構想に合致していないのである.

▼すでに?小平時代に「戦区」設定の検討開始

 有事になって「軍区」を基礎に「戦区」を設定するという構想は,
上述のように?小平による1980年代半ばに萌芽したが,それが具体化
するようになったのは1990年代である.

 中国は1991年の湾岸戦争以降,?小平の「現代条件下の人民戦争戦略」
を「ハイテク条件下の局地戦戦略」へと発展させた.軍事力整備の方針を
「量重視から質重視」へ,「人的重視から科学技術重視」へと転換した.

 1990年代半ばに中台関係が緊張化し,対台湾着上陸を想定した統合演習
が行なわれるなか,広州軍区と南京軍区からなる「東南戦区」や「南京戦区」
の設定が検討された.以降,統合演習などにおいて「戦区」という用語が
『解放軍報』紙上などで頻出するようになった.

 このように「戦区」は「ハイテク条件下の局地戦戦略」に対応するという文脈
で定着した.しかし同時に,「迅速戦」を旨とする現代戦では有事になって
いきなり「戦区」を立ち上げても時機を逸する,地域主義の強い「軍区」が
複数集まって1つの「戦区」を設定したとしても円滑な指揮は可能なのか? 
統合運用のための編制・組織が未整備であり,統合作戦能力は発揮できない─
などの懸念が提起された.

 そのため「軍区」を廃止し,平素から三軍統合の「戦区」指揮部を常設する
という案が,これまでたびたび取り沙汰されてきた.しかしながら陸軍の“牙城”
である「軍区」撤廃の“壁”は厚く,1985年以降の「7軍区体制」に変化は
なかったのである.

▼ 4つの「戦区」が新設か?

 2010年前後,兵力削減の検討と時を同じくして「戦区」を常設する案が
検討されるようになった.

 2009年7月,香港紙『鏡報』は「7大軍区を廃止し,4大戦略区を設立する.
各戦略区が区内の海軍艦隊,空軍部隊,第二砲兵部隊および人民武装警察
を隷下におく」という改革案を報じた.

 2009年11月,ネット上で梁光烈・国防部長(当時)が「軍の国家化」
(※党の軍隊から国家の軍隊への転換,紙幅の関係から細部は割愛)を
上申し,「7大軍区を撤廃して,各軍区隷下の部隊を国防部の指揮下に
直接おく.中央軍事委員会を廃止し,国防部の下に陸軍部,海軍部,
空軍部を新たに設置する」という案を具申したとの情報がネット上で流された.

 2014年1月1日の『読売新聞』は第一面で「中国軍,有事即応型に」と題し,
「複数の軍幹部の情報として,7大軍区を5大戦区に改編することがわかった」
と報じた.

 2009年に「跨越2009」演習では,瀋陽,蘭州,済南軍区の各軍区に所属
する4個師団が他の「軍区」に長距離移動した.翌年に「使命行動2010」演習
が行なわれ,両演習では,北京,蘭州,成都の各軍区に所属する師団など
に加え,空軍および第二砲兵などの総兵力約3万人が参加し,長距離機動能力
のほか,統合作戦能力の向上を図ったとみられている(『防衛白書』).

 この2つの演習は,2006年の『中国の国防』で明記された,「地域防衛型」
から「全域機動型」の転換という陸軍部隊の整備方針とともに,「軍区」を廃止
して「戦区」を常設するという構想の下で行なわれた可能性が高い.

「軍区」を廃止すれば,陸軍兵力を削減できる,陸軍重視の風潮を是正して
陸軍の地域における影響力を削ぐ,さらに統合作戦能力を向上させるという
効果が期待できる.他方,陸軍による抵抗力に対する懐柔や,退役を余儀なく
される軍人の再就職問題への取り組みが避けられない.

 現段階では,現在の「7軍区」をどのように整理・統合して,どこにいくつの
「戦区」を常設するのかなど,その具体案は明らかにされていない.

 これまでの報道と,中国海軍の3艦隊編成を踏まえれば,北京,瀋陽,
済南の軍区(以下,軍区空軍を含む)と海軍・北海艦隊を中心に「北部戦区」,
南京軍区および海軍・東海艦隊を中心に「東部戦区」,広州軍区および
成都軍区の一部と海軍・南海艦隊を中心に「南部戦区」,成都軍区の一部
と蘭州軍区を中心に「西部戦区」の4つの「戦区」を創設する案などが有力であろう.

 あるいは,首都である北京の戦略的重要性に鑑み,「北部戦区」を2つに
区分して,済南軍区と北京軍区を中心に「中央戦区」を創設して「5戦区」体制
にする案も有力であろう.

 次週は,軍改革の三番目の柱である「統合作戦指揮機構」の改善と,習が
軍改革を行なううえでの課題などについて解説することとしよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.12.22




荒木 肇
『陸軍の「兵站軽視」は本当か?〈2〉──日本陸軍の兵站戦(3)
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□ご挨拶

 いよいよ今年も残すところわずかとなりました.先日は秀峰富士
のふもと,陸上自衛隊富士駐屯地にお邪魔しました.毎年恒例の,
幹部特修課程の学生の皆さんに講話をすることになっているから
です.テーマは『陸軍兵站史点描』ということで,兵站と動員に
関するお話にしました.

 通史的に日本陸軍の兵站と動員をふり返り,多くの戦後の定説
への批判としました.学生の皆さんは部隊の現場での経験も
豊かな1尉(大尉)や3佐(少佐)という面々であり,来年3月に
卒業を迎えます.その後には中隊長や大隊長として,あるいは
司令部の幕僚として活躍する方々です.

 短い時間の中で大量の,しかも断片的な内容を一方的に与えられ,
さぞや混乱させたかなと反省していました.ところが,終講後の
懇親会では多くのありがたい賛辞をいただけました.「兵站軽視」
は事実だったか? 「兵站補給の失敗」は軽視の直接の結果だったか?
というわたしの主張は,多くの防衛現場の専門家からは支持を
得るのだと嬉しくなりました.

 一方で翌日の新聞記事を見たら,国際戦略論専門家の防衛大学校
の元教官が若い方々に,依然として「陸軍の兵站軽視」という見方
を伝えていることを知りました.戦没者のうちの多くが餓死だった
という事実から,「昔の陸軍の兵站軽視」という言葉を使われている
ようです.制海権を奪われ,輸送船による補給が失敗したことは事実
でしょう.しかし,それと組織全体の問題としての,体質としての軽視
という見方がどう結びつくのかの説明はありません.海上護衛の計画
や輸送船の建造実績などをお調べになっているのでしょうか.陸軍の
兵站組織やその規模,多くの工夫や努力をすべて承知の上で,
まったく無駄で間違っていた,軽視していたから失敗したのだというのでしょうか.

 軍事専門家の権威者にわたしのような素人が疑問を呈する.
とんでもない身のほど知らずではないかと自省しながらも,今後も調べた
ことを地道に伝えていくしかないと決意しました.

▼軽視ではなく,計画の失敗だった!

 一国の軍隊が何を持つか,それをどう運用するのか,そのために
どういう組織を作り,人にどう教育・訓練を施すのかというのは複雑で,
かつ広大な企画である.しかも,それの実現には国家財政というカネの
問題が大きく関わってくる.軍隊は国家機関の一部だから,軍人という
一部の官僚だけが自分たちの「軍事的合理性」だけを盾にして要求を
通すことはあり得ない.

 今から見れば無謀だったと評価される大正時代の海軍の「八八艦隊」
の建設計画も,当時は適法な手続きを経て裁可されたものだった.
あの時代は,国内の主要幹線道路の数パーセントすらも舗装されて
いなかった貧しい国家だった.それが戦艦8隻,巡洋戦艦8隻とそれを
支える支援艦船を巨額な維持費も含めて認めていたくらいだ.

 海軍の遠大な計画のために,陸軍は自分たちの要求を我慢せざるを
得なかった.平時25個師団,戦時50個師団という整備計画を取り下げる
ことになった.併合した朝鮮の治安維持のための2個師団創設でさえ,
「陸軍のごり押し」と評価される始末である.のちの時代の話だが,
戦艦大和1隻の主砲1門の砲身鋼材で,陸軍は野戦重砲5個大隊分の
装備ができたはずだ.あくまでも単純計算だが,重さだけならそういうこと
になる.もっとも,それを牽引するトラクターを十分に調達でき,その燃料
を用意できたかはまた別の問題ではあるが.
 
 今も似たような問題は起きている.詳しくは知らないが,政府当局は
数年前,戦闘ヘリコプターの導入にあたって財政問題を理由に某社に
発注を中止した.おかげでその会社は大損害をこうむり,政府が数百億円
を補償することになったらしい.記事の扱いは小さく,一般世間では大きな
話題にはならなかったが,軍備と一般国家財政との関係をよく表している.
要は今も昔も,その点では変わらないということである.

▼日露戦後の陸軍

 さて,陸軍史に詳しいであろう読者の方々にはくどい話だが,日露戦後
の陸軍の様子をふり返って見るのも興味深い.ポーツマス条約に反対した
新聞世論があった.もっと戦え!賠償金を取れ!そのためにはもう一回
戦争だというのが,自分は戦地に決して行かない人々の主張である.
実は陸軍には,もう戦争を続ける余力はほとんどなかった.内地の人的
な資源はほとんど戦地に送られてしまった.とりわけ下級将校の損耗は
大きく,予備,後備将校の名簿は戦死傷者で埋まっていた.陸士出身,
下士・准士官からの現役将校は開戦当初から不足していた.それが
大損耗である.奉天の会戦後,もうひといくさなどできる状態ではなかった.

 講和に反対する世論にかかわらず,史上最大の野戦軍だった満洲軍
は「軍凱旋計画」を立てていた.動員によってふくれ上がった戦時編制
の軍隊,機関を復員させるのが軍隊のまず重要な仕事だったからだ.
 
 戦争中に急いで創設された師団があった.兵力の不足を補うために
臨時動員された第13,14,15,16の各師団である.第13師団は
朝鮮北部に送り,ほかの3個師団は満洲で戦場に立った.和平が
成ったあと,第3軍で戦った第14師団と第4軍隷下の第16師団を満洲
に残し,第2軍で戦った第15師団を朝鮮に移駐させる.朝鮮駐箚部隊
はこの第15師団と交代させる計画だった.

 計画書は主文がわずかに3条である.
(1) 第14ないし第16師団を除き,鉄道を使って乗船地まで輸送する.
(2) 第14と第16師団は満洲に残留する.ただし,各野戦電信隊と輜重,
兵站諸部隊は凱旋する.
(3) 第15師団は韓国駐箚となって派遣される.その輜重は凱旋する.

 当時の1個野戦師団の戦時編制は次の通りである(標準的な編制).

 師団司令部に歩兵旅団司令部2個,歩兵4個聯隊,騎兵,砲兵が
各1個聯隊,工兵大隊,輜重兵大隊が各1,架橋(がきょう)縦列,
弾薬大隊,馬廠,衛生隊が各1,そして4個の野戦病院である.
合計1万8689人と野戦電信隊129人となる.戦闘部隊は司令部,
歩兵・騎兵・砲兵の各聯隊と工兵大隊である.ほかは輸送と治療など
にあたる支援部隊からできている.戦闘部隊の中には大行李(衣糧品
など),小行李(弾薬など)といわれる輜重兵科の運搬部隊,経理,衛生,
獣医などの各部や技術系の工長(下士官)や従卒,馬卒なども含んで
いて,これらは非戦闘兵員といえる(ただし,法的な意味ではなく,
戦場火力の第一線ではないという意味である.法的には衛生部員のみ
が非戦闘員になる).

 支援部隊には工兵材料の運搬を専門とする架橋縦列(中隊規模)と,
歩兵と砲兵の弾薬運搬にあたる弾薬大隊(歩兵弾薬縦列2個と砲兵
弾薬縦列3個),糧食運搬の輜重兵大隊(糧食縦列4個),輜重馬の
管理をする馬廠,衛生隊と野戦病院があった.

 この師団が抱える兵站諸部隊とは,兵站監部員(兵站監部への差し出し
人員・65人),6個兵站司令部,野戦兵器廠,兵站弾薬縦列,兵站糧食
縦列,輜重監視隊,衛生予備員,衛生予備廠,患者輸送部,予備馬廠
で構成され,1225人となる.
 
 また,常設師団は留守師団を持ち,野戦に後備旅団その他を編成して
出征させた.その人員は,後備歩兵旅団司令部と,後備歩兵4個聯隊,
同砲兵中隊,同工兵中隊,同弾薬大隊,同糧食縦列,同歩兵弾薬縦列,
臨時衛生隊や後備旅団衛生隊などを各1,と1個後備旅団野戦病院
の合計1万1316人にのぼった.
 
 さらに軍隊が動くためにはそれを支える部隊がいた(カッコ内は人員).
補助輸卒隊(3640),補助水上輸卒隊(520),建築補助輸卒隊(478),
これらはさらに召集令状によって集められ,臨時編成がされて出征した.
ある師団はこれらが合計1万人になる.
 
 ついでに内地の留守師団といわれる後方支援部隊も調べておこう.
各歩兵旅団の下にある4個の歩兵聯隊にはそれぞれ補充大隊があった.
砲兵聯隊も補充大隊,騎兵聯隊,工兵大隊,輜重兵大隊には各1個の
補充隊,補充馬廠,兵站基地司令部や予備病院などがあり,これらの
総人員は6820人になる.
 
 まとめて言えば,当時の野戦師団の歩兵小銃数は約1万と計算された.
直接戦闘に従う兵員数は砲兵・騎兵・工兵を合わせて,ざっと全体の
65パーセントくらいである.4個歩兵聯隊の小銃火力は兵卒が9600,
下士が800と計算された.留守部隊とは出征部隊への人馬の補充,
新たに動員される部隊の基幹となる現役兵の教育,補充兵の教育
にあたる.また,同時に戦地から帰還した傷病兵,還送患者の治療
やリハビリにもあたった.
 
 こうした野戦師団や後備歩兵旅団は大陸に渡った.戦闘部隊,支援部隊,
兵站諸部隊の軍人,軍属の総数は軍人が約94万5000人,軍属が同じく
5万4000人だった.合計およそ100万人である.内地勤務は軍人が
14万3000人,軍属は10万人だった.あわせておよそ124万人となる.
100万の野戦軍,しかし,戦闘正面に立つのは65パーセントくらいと考えれば,
30万人以上が兵站・補給の任についていたのである.

▼日露戦後の軍備拡充

 1906(明治39)年,平時兵力が増強された.第13から第16までの
4個師団が常設化された.近衛師団もあわせて17個師団態勢といわれる.
『平和克復と雖(いえど)も戦役の結果により新たに獲得したる国権を
確保するため・・・』を理由として戦時に特設した4個師団を常設化すること
にした.実務的には,新たな駐屯地や演習場,病院などの土地を確保し,
あらゆる設備を建て,師団管区を改定しなくてはならない.これに加えて,
1907年から10年までに第17,同18の2個師団が新編された.ロシア
から賠償金もとれず,深刻な戦後不況のなか,あらたな6個師団をよくも
作ったものである.

 ここで1907(明治40)年の『陸軍平時編制』を見ておこう.そこから
見られる兵站関係の機関を抜き出してみる.陸軍の組織は
「軍隊・官衙・学校・特務機関」に大きく分けられた.さらに樺太・韓国・南満州
に駐屯する部隊があった.

 まず,官衙の中にある兵站や人事に関わる組織である.陸軍軍馬補充部,
(以下,すべてに陸軍を冠する)兵器廠,砲兵工廠,火薬研究所,運輸部,
会計監督部,衛生材料廠,被服廠,糧秣廠,陸軍を冠しない千住製絨所,
衛戍病院(全国に77カ所),衛戍監獄,東京廃兵院,台湾衛戍病院など
があった.

 外地にあった組織は,樺太衛戍病院,兵器支廠,軍馬補充部支部,
韓国駐箚衛戍病院(4カ所),陸軍倉庫,衛戍監獄,関東兵器支廠,
関東軍馬補充部支部,関東衛戍病院(3カ所),関東陸軍倉庫,
関東衛戍監獄,陸軍運輸部支部などである.

 これに人材育成のための学校があった.陸軍経理学校,陸軍獣医学校,
陸軍軍医学校,陸軍砲兵工科学校である.経理学校では兵站,補給の
中心になる経理部将校相当官,同下士官を養成し,獣医学校や軍医学校
もそれぞれ専門家を育てていた.

 それぞれの詳細は次回に譲るが,こうした組織やそれらをつなげる
システムはしっかりと構成されていた.問題は,19個師団から朝鮮の
2個師団の増設がされ,合計21個師団.大正末の軍縮で4個師団が廃止され,
平時のボトムだった17個師団.戦時になれば,それから生まれる特設師団
などを入れて40個師団くらいを持つのが限度いっぱいだったのだろう.

 補給組織も兵站のシステムもそのあたりの規模で計画されていた.
しかも,仮想敵国はロシア・ソ連であり,予想された戦場は満洲だった.
それが,1937(昭和12年)以後の日支事変以後に師団増設が
相次いでいく.人も物も金も戦争の拡大に追いついていけなくなった.
その挙句に南方進出である.装備も教育もすべて北方の戦場向きで
行なわれてきた陸軍は「兵站・補給軽視」どころか対応・適応するのに
おおわらわという状態だった.
 
 兵站と動員は表裏一体の関係にある.兵站を裏付けるのは国家の豊かさ
であり,あるいは資源の集中や統制の成果といえよう.また,兵站を支える
のは主に人の知的レベルである.企画能力,調整能力,運営能力などなど,
いわば国民の知力の結集でもある.

 補給は,そのごく一部でしかない.ガダルカナル,インパール,
ニューギニア,フィリピンなどを「地獄の戦場」にしたのは補給の失敗
なのである.それを兵站すなわち補給と考え,細かく考えずに軽視していた
とまとめてしまう.そこにわたしたちが自分たちの現在を考えるカギの一つ
があると思っている.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.12.23




『ライター・渡邉陽子のコラム (75) ─ 自衛隊海外派遣の歩み(5) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.

今年の連載は本日が最後になります.
1年間,ありがとうございました.
師走は仕事に追われに追われ,なんとか元旦だけは
休日にしたいと思っているのですが,どうなることやら.
帰省もお預けです.

みなさまもよいお年をお迎えください.
来年もどうぞよろしくお願いいたします!


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■自衛隊海外派遣の歩み(5)

第1次カンボジア派遣大隊長である渡邊氏が出発前に懸念している
ことのひとつに,隊員の健康管理がありました.

「現地の生活環境は劣悪,隊員は日本の豊かな生活に慣れて
しまっている.そういう隊員600名を連れていって,本当にちゃんと
6か月勤務できるのか心配でした」

実際,現地では隊員の健康状態には問題が生じることもあったよう
ですが,「部隊そのものが揺らぐような事態はなかったのでその点
はほっとした」とのことでした.


また,現地の人々が自衛隊を受け入れてくれるか,それも不安
だったそうです.

「基本的に道路工事というのは,地域の住民の方に迷惑をかける
わけでしょう.道路は封鎖しなくてはいけない,大型車両が通れば
埃まみれになる,橋を架けようと思えば迂回路を作らなければいけない.
地域の方々に不便を強いることになるので,工事する現場近くの村
や部族の長のところにはかならず挨拶に行きました」


カンボジアは雨季になると陸の孤島になってしまう地域が
少なくありません.ある日,とある橋が落ちたままになっていて
住民が不自由を強いられているというので,「ちょこちょこっと
直しに行った」そうです.

「われわれが橋を作り始めてから完成するまで,地元の方が
見ているんです,ずっと.それで橋ができあがったら,みんな渡り初め
をするんです.非常に感謝されて,あれは嬉しかったですね.
相手の喜びがダイレクトに伝わる,そこがPKOでいちばん達成感
のあるところかもしれません」


一方,飲料水と生活用水の確保には苦労しました.
派遣部隊の飲み水や生活用水を確保するためには,井戸を掘る
必要がありました.現地にも井戸はあったのですが10m程度の浅井戸で,
雨季と乾季で水量が違うし,浸透水を吸い上げるだけなので質が
よくありません.そのため岩盤を抜いた地下の深層水を求めたのですが,
約80mもの深さまで掘ってもまだ深層水が出ないのです.

しかも井戸を掘る技術というのは,もともと施設科にはありません.
意外に思われるかもしれませんが,分野としては需品科が担当する
ものなのです.とはいえ,需品科ですら国内の訓練で水源を掘り当てる
必要などないし,本来は「水を綺麗にする,飲めるようにする」というのが
役目です.現地では業者から指導を受けながらなんとか掘ったそうですが,
これも初の海外派遣ならではの混乱といえるかもしれません.

「タケオ温泉」と呼ばれたドラム缶の浴槽を作るほど風呂を求めた隊員たち
にとって(しかもお湯は川の濁った水を沸かしたもの),生活用水すら
自由にならない日々はさぞきつかったことでしょう.


ネット環境どころか携帯電話も普及していない時代,日本に残した家族
とのやりとりは,通信衛星を使った電話が6台のみが頼りでした.
しかし公務で常に何台かはふさがっているので,600名の隊員に
対して3台程度しか割り当てられません.これはほとんど使えない
に等しいレベルです.

「だから隊員には手紙を書きなさいと言ってました.手紙もいいですよ.
お互いに出し合うと,ちょうど1週間に1回くらいやり取りできるいい
ペースなんです.そういえば女房に手紙を書いたのは,後にも先にも
あのときだけですね」

渡邊氏はそう言って笑っていました.現在,南スーダンやジブチで活動
している隊員たちにとっては,「ケータイなし,メールなし,スカイプなし」は,
もはや想像のつかない世界かもしれません.ただしその分,カンボジア
PKO時代にはなかった苦悩やジレンマを背負っていることでしょう.


カンボジアPKOの話は来年に続きます.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.12.24




兵法三十六計 番外編

中国の軍改革(後)
─総参謀部に代わって「統合作戦指揮部」が創設か?─

                 元防衛省情報分析官・上田篤盛(あつもり)
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 拙著『戦略的インテリジェンス入門』を多数ご注文いただき
誠にありがとうございました.忌憚ないご意見・ご感想を
いただければ幸いです.
 どうぞ良いお年をお迎えください.

「中国の軍改革」の最終回です.少し長めになりましたが,
お付き合いください.


▼統合作戦能力の必要性

 軍改革の三つ目の柱は「統合作戦指揮機構」の改善である.
今次の改革工作会議では,「戦区」を常設して「戦区統合作戦指揮機構」
を置くとともに,中央レベルの「統合作戦指揮機構」を改善することが
うたわれた.

「情報化」を推進する中国軍にとって統合作戦能力の向上は
必要不可欠である.2007年2月,中国軍の「情報化」建設の第一人者
であった章沁生・上将(※当時は広州軍区司令官.その後,
筆頭副総参謀長に昇任したのちに退官)は,「情報化」について
「部隊の一体化,すなわち『統合化』の実現である.センサー,打撃,
自動指揮システムなどが一体化した軍隊の建設である」と述べた.

 最大の「情報化条件下の局地戦」として想定される台湾有事で喩えれば,
中国は海・空軍および第二砲兵により海上・航空優勢を獲得したうえで,
陸軍戦力を台湾海峡越えに戦略投射しなければならない.このためには
C4ISRによって各戦力を有機的に連結して,これを要事・要点に結集
しえる高度な統合作戦能力が不可欠となる.

▼中国軍は統合作戦能力の向上を追求

 中国軍は統合作戦能力の向上を追求し,これまで「統合作戦指揮機構」
に向けた改革(準備),統合訓練・演習の強化,統合後方支援体制の
構築などに取り組んできた.

 中央レベルの「統合作戦指揮機構」を設立する準備行動は,すでに2000年代
に萌芽した.すなわち,陸軍の独擅場であった中央軍事委員会に2004年,
海・空軍から各司令官がメンバー入りした.このほか海・空軍高官が総参謀部
の作戦部副部長などの要職に配置された.2012年,それまでは陸軍ポスト
であった中央軍事委員会副主席に空軍司令官の許其亮・空軍上将が
登用された.これらの人事措置は「統合作戦指揮機構」の設立を念頭に
置いた準備行動としてとらえられよう.

「三段階発展戦略」の第二段階に移行した2011年,軍事作戦を所掌する
総参謀部の組織改編が大々的に行なわれた.戦略企画部の新編,
軍事訓練兵種部から軍事訓練部への改編,情報化通信部から情報化部
への改編,総参謀部情報保障基地の新編などである.これらに関して,
陳炳徳・総参謀長(当時)は「情報化」と統合作戦指揮能力の向上を意識した
改編である旨の発言を行なった.

 しかし現在までのところ,4総部(総参謀部,総政治部,総後勤部,総装備部)
への抜本的改革には未着手である.すなわち,従来どおり中央軍事委員会
の下に4総部が並列して存在し,それらのトップはすべて陸軍高官で
占められている.海・空軍および第二砲兵に対しては,副総参謀長などの
副職ポストが与えられているにすぎない.

 統合訓練・演習の分野では,2008年版『中国の国防』にて「情報化条件下
の局地戦」を戦う基本的な作戦形態として「一体化統合作戦」の概念が提起
された.同年,「中国人民解放軍戦略規定」および「中国人民解放軍戦略項目」
が発出され,統合訓練・演習の基本方針が示された.2009年1月から施行
された「軍事訓練・評価大綱」では「各軍種・兵種の作戦を融合する試み」
が重点課題として掲げられた.

 2007年,済南軍区が統合作戦運用を検証するための「モデル戦区」に指定
された.2009年2月,同軍区に全国で初めて統合訓練・演習を企画・統裁する
「戦区統合訓練指揮機構」が設置された.同年11月の「鉄騎2009」および
「統合2009」では,陸・海・空の統合演習部隊が編成され,同訓練指揮機構
が演習を統裁する状況が確認された.「前方2009」では
第20集団軍司令部(済南軍区)が陸軍と空軍の各演習司令部からなる
統合演習司令部を設置した.

「三段階発展戦略」の第二段階に入った2011年の「統合2011」では,
第26集団軍(済南軍区)を基幹に海軍北海艦隊(青海),済南軍区空軍(済南)
から兵力を集成した統合演習部隊が編成され,北海艦隊司令官が統合指揮官
として演習を統裁した.陸・海・空軍からなる統合演習部隊を海軍指揮官が
指揮したことは中国軍史上,初めてのことであった.

 統合後方支援体制の分野では,済南軍区が2007年4月から統合後方支援
体制(大聨勤体制)を開始した.中央軍事委員会は同年12月に「近代化後方支援
の全面的建設綱要」を公布した.同綱要では「2020年までに後方支援の
『情報化』と『統合化』を推進し,情報化局地戦に勝利するための堅実な基礎
を建設する」ことが目標に掲げられた.そして後方支援指揮システム
(一体化後勤平台)を整備し,補給品の保管状況をデータ管理し,それを
ネットワークで連接し,適時,適切な配給などが行なえる統合後方支援体制
の確立を目指す努力が続けられている.

 しかしながら,こうした努力にもかかわらず,中国軍の統合後方支援は
十分とはいえない.米国防省は遠距離における統合作戦を行なううえで
最大の難点は後方支援の未整備にあるとみている.

▼軍総参謀部が改編され「統合作戦指揮部」が新設か?

 中央レベルの「統合作戦指揮機構」の改善についての詳細は現段階
では明らかにされていないが,2011年以降の総参謀部における改編動向
を踏まえれば,総参謀部が「統合作戦指揮部」に改編される案が有力であろう.

 その場合,総政治部,総後勤部,総装備部の一部機能が「統合作戦指揮部」
に吸収される.また総政治部などの一部機能は整理・統合されて残存し,
「統合作戦指揮部」に並立する,あるいは下位に位置づけられる可能性があろう.

 陸軍司令部が新設されて,既存の海・空軍および第二砲兵司令部と同列
に位置し,「統合作戦指揮部」と同列もしくはその隷下におかれることになろう.
また中央レベルの「統合作戦指機部」が「戦区統合作戦指揮部」を直接指揮
する体制が確立されるであろう.

 中央レベルの「統合作戦指揮部」が確立された場合,重要ポストは
陸,海,空軍および第二砲兵にどのように振り分けられるのであろうか?

 2011年の「統合2011」では,北海艦隊司令官が統合演習指揮官となった
ことから,「戦区統合作戦指揮部」司令官の一部ポストに陸軍以外の高官
が就任する可能性もあるか? これらの点は「統合作戦指揮機構」の融合性
レベルを評価するうえで大いに注目される.

 また近年,中国軍においては宇宙軍(空天軍)の創設をめぐる動きがある.
これに関しても,陸軍,空軍および第二砲兵がその主導権の確保に関して
どのような取り組みを示すのかも注目点となろう.

▼改革推進には政治的安定が不可欠

 先述のとおり,今回の軍改革は軍事合理性に基づく「既定路線」である
とはいえ,軍改革が所望の成果を挙げるためには習指導部の政治的安定
が必要不可欠なことには異論はないであろう.

 中国における指導部選定は公開選挙による国民の審判ではなく,
密室合意による.そのため,選定過程で「派閥力学」が働き,党内対立が
生起することになる.

 習の選定過程においては,薄熙来・政治局委員香(当時)と周永康・政治局
常務委員(当時)が中国軍の一部と密着し,習に対するクーデターを仕掛けた
との疑念も浮上した.

 習には毛沢東,?小平のような戦歴を背景とするカリスマ性はない.
江沢民や胡錦濤のように,カリスマ指導者である?小平が後継者として指名
したわけでもない.つまり,習は「派閥力学」が生成した指導者であり,
派閥の微妙な力関係に配慮した集団指導体制による国家運営を行なわなければ
ならない.

 転じて,習をとりまく内外環境には厳しい局面が待っている.経済成長が
鈍化するなか,東シナ・南シナ海の情勢をめぐる「中国脅威論」の国際的
高まりと米中対立の兆し,新疆ウイグル自治区に忍び寄るイスラム国の影響,
経済格差や宗教問題などの国内問題の山積など,その趨勢はいずれも
習政権の安定性を揺るがすものとして予断を許さない.

 習が2022年まで国家最高指導者であり続けることは制度上保障されており,
ほかの政治指導者が習を蔑(ないがし)ろにすることはできないし,重要案件
に対する最終判断も習に仰がなければならない.しかし,習が国内問題,
台湾問題などの重大案件で失政をおかし,国内世論が党批判に発展する
ようなことにでもなれば,カリスマ性のない習の権威は一挙に失墜する可能性
がある.その場合,習に“面従腹背”している党内ライバルが他との連携を
模索し,軍高官などを取り込み,習に圧力をかける可能性は否定できない.

▼軍掌握はいまだ不透明

 習は2012年の第18期党大会で総書記就任と同時に中央軍事委員会主席
に就任した.同年12月には中央海洋権益工作指導小組を設置し,
2013年11月の第18期3中全会で国家安全委員会を設置し,組長(トップ)に就任.
2014年3月に「国防・軍隊改革深化指導小組」(「全面改革深化指導小組」の
軍隊版)を設置し,自らが組長に就任し,範長龍・副主席を一副組長,
許其亮・副主席を常務副組長に指名し,軍改革と軍掌握にまい進中である.

 また習は「中央軍隊党委員会巡視組」を設置し,許其亮を工作指導組長,
張陽・総政治部主任を第一副組長,杜金才・総政治部副主任(兼ねて規律
検査委員会書記)を常務副組長,候樹森・副総参謀長を委員に指名し,
「不退転の決意」をもって軍に対する汚職・腐敗の検査・摘発,風紀問題の
是正に取り組んでいる.

 その検査・摘発は,総後勤部副部長の谷俊山・中将の汚職摘発
(2012年に解任,軍事検察院は2014年3月に起訴)に始まり,かつての
制服トップの徐才厚(2014年6月30日党籍剥奪),郭伯雄の両氏まで及んだ.

 以上から,習は十分な存在感と強い指導力を発揮しており,習の軍掌握
はきわめて順調に映る.また,習が郭,徐とこれに連なる軍高官の“首根っこ”
を押さえたことで軍改革に向けた抵抗勢力の排除が完成したようにも映る.

 しかし,筆者は以下の理由から「軍掌握は未だに不透明」と判断せざるをえない.

 第一に,前述(前篇)したような「党中央と中央軍事委員会に従え」との演説
の繰り返しや,『解放軍報』紙上での「軍の指導者は中央軍事委員会主席である」
との記事である.“当たり前”の制度を強調することは尋常ではない証左である.

 これに関連して,徐才厚に対する検査・摘発が本格化する前の
2014年3月〜4月,『解放軍報』で3回にわたり,馬暁天・空軍司令官,
「7軍区」司令官などが習への忠誠を誓う文章が見開き紙面で掲載された.
この「忠誠文」は習が掲げる「中国の夢」,その一部である「強軍の夢」に
対して強い支持を表明するものであった.

 この忠誠文を「習の軍掌握が順調である」とみる一方,忠誠文そのものが
異例であり,「軍掌握に不安がある」ことの証左との見方も存在した.

 また「戦勝70周年記念式典」における,異例ともいうべき少将クラスによる
隊列指揮は,習指導部と“習派”軍高官が,習の軍掌握における不安要素を
意図的に覆い隠すための“宣伝臭さ”がつきまとう.

 第二に,国家安全委員会についてである.2013年11月の第18期3中全会
で同安全委員会の創設が決定された.同委員会は米国の国家安全保障会議(NSC)
にならい,党中央や国務院の関係部署,中国軍,外交担当者が加わる
中国版NSCに発展するかとみられた.しかし,同委員会の実態はいまだに
不透明である.これは,国家機関が軍内に介入することに対して軍内になお
強い抵抗があり,これに習が手をこまねいている可能性もある.

 なぜならば,江沢民時代に中国版NSCたる国家安全委員会の創設が
提起されたが,この構想は軍の反対により結局は中央外事工作指導小組
とほぼ一体化した国家安全指導小組を設置することに矮小化されたという
前例があるからだ.

 第三は,軍事関連活動の活発化である.東シナ海におけるADIZ設定や
軍事活動の活発化の背後には,習による軍内の汚職・腐敗の検査・摘発
を牽制しようとする軍側の狙いがあるのかもしれない.つまり,軍がさまざまな
かたちで外患を作為し,習に間接的圧力を加えている可能性が排除されない.

 逆に習の軍に対する過剰ともいえる露出と鼓舞,経済成長が鈍化するなか
で国防費の二桁台伸長がなんとか維持されていることは,軍による間接的圧力
に対して習が配慮する構図が形成されている可能性がある.

▼目に見えるかたちでの軍事的成果をあげるのは容易ではない

 陸軍の既得権益の“牙城”である「軍区」を撤廃するとなれば,一般的には
「陸軍は抵抗,海・空軍等は賛成」とみるべきであろう.しかし,実態はそれほど
単純ではない.陸軍も“一枚岩”ではなく,郭や徐らの旧態勢力の流れをひく者と,
習により抜擢された者との水面下での“つばぜり合い”が繰り広げられている
可能性がある.

 こうしたなか,習と“習派”軍高官が,さまざまな抵抗を排除して軍改革の
内実を整えていくためには,目に見えるかたちでの軍事的成果を内外に示す
ことで,軍内支持を強化していくほかはない.

 江沢民は上将昇任という“大判振い”の人事措置と,台湾に対する強硬姿勢
などで成果を挙げて,軍内支持を獲得した.

 胡錦濤は,右肩上がりの経済力に支えられて十分な国防費を配当し,
軍人給与を大幅に引き上げ,中国軍を質・量ともに大幅に増強した.
PKOや海賊対処などを通じて,中国軍の国際デビューを果たし,月面探査
の成功や有人潜水船による世界最深記録の達成なども胡の歴史的成果
として後世に残ることになる.

 これに対し,経済成長が鈍化するなか,習には成果が表に出にくいソフト面
の近代化が求められている.また胡が残した“負の遺産”である軍内の
汚職・腐敗の検査・撤廃,兵力削減にともなう軍人の再就職問題,陸軍に
忍容を強いる「軍区」の撤廃など,厳しい課題が直面している.

 習は頻繁に軍を慰問し,「戦える軍から」から「戦って勝てる軍」への転換を
繰り返し演説している.しかしながら,国防費が削減され,軍人に“アメ”を
与えることもできず,目に見えるかたちでの軍事的成果もあげられないとなれば,
軍内から「習は“言うだけ番長”だ」との批判も生起しよう.

 それでも「軍改革は規定路線」であるので,軍内に反対論を表立って
唱える者は出現しない.そして習指導部が一枚岩であるかぎりは,
党による軍に対する統制上の問題も軍改革における大きな支障も,
おそらく生じないであろう.

 しかし,習が外交,内政上の重大な失政などをおかした場合などには,
党内における派閥対立が一挙に先鋭化し,“面従腹背”の党内ライバルと
軍高官が互いに結託して,習に揺さぶりを仕掛ける事態が発生する可能性
は排除されない.

 このようなことになれば,たちまち軍改革どころではなくなってしまう.

▼中国軍を過小評価してはならない

 2016年から「三段階発展戦略」の第二段階の後半が開始され,
習と習派の軍高官は,2020年をメドに軍改革に本格的に着手することになろう.

 上述したように政治的安定と軍内支持の獲得という重い課題は残っているが,
習指導部がこれを克服し,今回の軍改革をやり遂げた暁には,時期まもなくして,
強大な中国軍がわが国の東側正面に常在し,そのパワープロジェクション能力
はわが国の沖縄,南西諸島を横切って西太平洋に達することになる.

 わが国は,こうした中国軍の取り組みを絶対に軽視してはならない.
最近,軍高官の汚職・腐敗という一面を根拠にして「中国軍は風紀が乱れ,
精強ではない」などと安閑としたり,中国軍の能力を過小に評価して
「自衛隊の方が強い」と“溜飲”を下げたりしている余裕はない.

 逆に,今日の中国軍を過大に評価して,「わが国の防衛努力はもはや
無駄だ」などの悲観論に走る必要もさらさらない.なぜならば,「先端兵器の
重要部分は輸入品」「陸軍装備の多くは依然として旧式」「空中給油機や
早期警戒機などの不足により連携作戦が困難」「対潜哨戒機の不足により
対潜戦能力が脆弱」「海軍艦艇と空軍航空機による共同訓練は未着手
であり,本格的な統合作戦は困難」「統合作戦に不可欠なC4ISRは未整備」
など,中国軍が多くの問題点を有していることも事実であるからだ.

 しかしながら,この10年間,中国軍の武器・装備は大幅に進展し,
軍事訓練は格段に実戦的になって統合作戦が体をなすようになってきたこと,
アデン湾・ソマリア沖の護衛活動を通じた遠洋航海能力の堅調な向上が
認められこと,などもまた事実なのである.その間,軍人トップに君臨していた
のが郭伯雄であり徐才厚である.このことから,軍高官が蓄財にうつつをぬかし,
階級を売買し,愛人を囲うことと,中国軍の軍事能力が増強していることは
切り離して考えなくてはならないのである.

 要は,中国軍の能力を等身大に評価し,弱点を追求した戦略を構築し,
中長期的なトレンドと能力向上を至当に見積もり,それに対して,わが国は
必要な軍事力整備計画を立てて,平素の防衛努力を継続することが肝要である.

 その意味では,まずは今回の軍改革における軍事的意義をしっかりと認識
することが,今日の我々に課せられた責務である.

(「中国の軍改革」おわり,次週は第七計「無中生有」を解説します)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.12.29





荒木 肇
『陸軍の「兵站軽視」は本当か?〈3〉──日本陸軍の兵站戦(4)
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 今回が年内最後のメルマガです.少し長めですが,お付き合いください.

▼経理官の啓蒙活動

 陸・海軍に奉職する人には軍人と軍属がいた.軍人とは制服
を着て階級章を着け,勤務する.軍人は身分の上では高等官と
判任官になる.これらを武官といい,それに兵役義務を果たしている
兵がいた.軍属には陸軍文官といわれる人たちもいて,武官と
同じように高等官から判任官,それに兵にあたる雇員と傭人など
である.現在の制服を着る自衛官と私服で勤務する防衛省職員(自衛隊員)
の関係と変わらない.

 軍属は将官相当官もいれば,伍長相当の技手もいて,
通訳官なども軍属である.また,陸軍看護婦も軍属であり,陸軍病院
などに勤務した.赤十字の日赤看護婦は従軍看護婦といわれるが,
それとは別の人たちである.また,文官では判任官は「属官」ともいわれ,
官衙や特務機関では何でもこなせる裏方の実力者だった.
今でいえば,高等官はキャリアであり,判任官以下はノン・キャリ
といわれる人たちと考えれば分かりやすい.

 陸軍軍人は戦闘を行なうことを主とする兵科と,支援業務を行なう
各部に所属した.兵科は歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵と憲兵である.
大正末にはこれに航空兵が加わり,1940(昭和15)年には兵科の
区分がなくなって,憲兵以外はすべて兵科に統一された.それまでの
「陸軍砲兵大佐」,「陸軍輜重兵少尉」,「陸軍工兵軍曹」は,それぞれ
兵科の肩書がとれて,陸軍大佐,同少尉,同軍曹と呼ばれることになった.

 いまの陸上自衛隊では軍や兵は使えないから,兵科の代わりに職種
という言葉が使われる.そして,陸軍のような各部という区分がないので,
昔の軍医である医官も1等陸佐(大佐),音楽隊長も2等陸佐(中佐)など
と階級名をいい,制服の襟部の職種徽章を見ないと専門が分かりにくく
なっている.

 各部は衛生,経理,獣医,軍楽であり,昭和になって技術,法務が加わった.
1937(昭和12)年までは,それぞれ兵科将校・下士官・兵とは違う独特の
官名があった.ただし,陸軍には経理兵という制度そのものがなく,主計兵
という存在があった海軍とは異なっている.陸軍1等軍医正が同軍医大佐
に,陸軍2等主計が同主計中尉に,陸軍1等獣医が同獣医大尉に,
陸軍1等軍楽長が同軍楽大尉になったのは,それより後のことである.
また,それまで将校相当官といわれてきた各部士官以上は,各部将校
ともいわれるようになった.将校とは軍隊指揮権を持つ士官以上のこと
である.だから,各部将校といわれるようになったからといって,軍隊の長
にはならなかった.
 
 なお,陸軍で幹部といわれるのは伍長とその相当官の各部下士官以上
である.兵科の伍長,軍曹,曹長と准士官である准尉(元の特務曹長)と,
それぞれの各部相当官である判任武官だった.判任官は進級や任免
といった人事を所属官庁の長官が委任されていた.准尉までの下士官は,
たとえば師団長が人事を受け持った.高等官とは人事が陸軍大臣の名
で発令され,天皇に名簿を奏上して裁可を受ける奏任官(尉官と佐官,
その各部相当官)と勅語をもって辞令が出される勅任官(少将と中将,その
各部相当官)と,親任式を行なう親任官である大将のことである.
また,各部には大将は存在しない.

 陸軍には陸軍将校とその相当官しか読めない雑誌があった.
それを「偕行社記事」という.偕行社とは兵科将校たちの親睦,自主研究
のための団体である.毎月1回発行される月刊誌のことを「偕行社記事」といった.

 その中に,大正時代の末期に書かれた佐伯正一1等主計(大尉相当官)
の『軍隊經理に關する問答』という投稿記事があった.経理,とりわけ
軍隊経理についての解説である.佐伯経理官は自分の所属隊(長崎県
大村の歩兵第46聯隊)の友人である歩兵大尉に向かって,問答集の
かたちで軍隊経理について説明している.以下,原文をなるべく活かしつつ
紹介しよう.それを読むと,当時の軍隊経理官がどんな仕事をし,どのような
考えで仕事をしていたかがよく分かるからだ.

『経理という言葉を広く使うと行政という意味になる.しかし,ふつうに軍隊
で経理部,経理官,経理事務という風に使われると会計経理のことになる.
陸軍に必要な品物を買い込んだり,保存整理したり,規則に従って人馬に
金銭や物品を支給したり,することをいう.これを定義的に表すと,
金銭衣食住に関する事項を処理するとなる』

 軍隊経理とは師団以下の経理をいい,主には聯(大)隊経理を指している.
これは陸軍がその組織を「軍隊,官衙,学校,特務機関」と分けていること
からである.また,陸軍の経理事務では,「委任経理」という特徴的なこと
がなされていた.それは現場の部隊長が金銭出納の責任者となり,将校団
から選ばれた経理委員がそれぞれの職務を行なうことである.もちろん,
聯隊や工兵大隊,輜重兵大隊に配属された経理官(将校相当官)が実務
の多くを担当していた.

 師団司令部には経理部があり,部長である1等主計正(大佐相当官)が
部隊ごとに決まった金額や,現品(米や麦,まぐさ等)を部隊長に渡す.
その使い方は現場の部隊長の自由になり,廃品や空き箱,空き缶,残飯等
を民間に払い下げて収入を図ることもできた.その金や余剰金は聯(大)隊
の積立金とされた.それは年に一度の聯隊の軍旗祭などの行事で加給品
として兵隊たちに振る舞われる菓子や酒,折詰などになることもあった.

 この委任経理制度は1875(明治8)年に施行された.その半世紀に
およぶ長い歴史の間には戦役があり,社会情勢の変化も大きい.6鎮台の
時代(1890年代初め)には物価は低かったし,経費もゆとりがあった.
ところが日清戦争(1894〜5年)のあとから経費節減の要請がされるよう
になった.日清戦争を戦ったのは近衛師団以下の7個師団である.
昔からの鎮台を改編して6個師団とし,これに近衛を含めて合計7個師団
で戦った.

 やっとの思いで勝利を得て,賠償金のほか,領土の割譲も受けることが
できた.ところが,三国(独・仏・露)干渉で遼東半島を返還させられた.
国民は「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の合言葉のもと,次の戦争の相手
はロシアと思い,陸海軍の拡充に走った.おかげで軍隊の経費節減への
努力ということが強調されることになった.日露戦争が勝利に終わっても,
ロシアのリターンマッチを恐れる陸軍はなお軍備拡充を怠らなかった.
限られた予算のなかで,やり繰りをしようとすれば節約が第一歩である.
 
 ところが,戦うこと,平時では兵卒を教育訓練することこそが仕事だと
思っている兵科将校は経理に関する意識が低かった.そこで佐伯主計は
分かりやすく,経理への関心をもたせるために,この一文を兵科将校の
必読書だった「偕行社記事」に投稿し,編集委員会もこれを掲載したのである.

▼歩兵聯隊の内務経理

『昔,軍靴は1組6カ月の給与期限だったが,6カ月半になり,7カ月になり
現在では7カ月半となり,1カ月半の節約になった.これを1人当たりの1年
の金額に換算すれば,2円15銭4厘だけ節約になったわけだ.聯隊の総人員
をおよそ1500名と見ると,聯隊では1年間で3231円になる.これを陸軍全体
の兵員を約20万とみれば,1年間で軍靴だけで節約される軍事費は
43万余円になる.この額はほとんど歩兵1個聯隊の1年間の総経費に相当する』

 佐伯主計は言う.『国家の義務兵に対して,もともと豊富ではない給与状態に
あるのに靴下の履きのばしをせよ,洗濯の石鹸も節約しろとは心苦しい』が,
小額の経費で軍備の充実を図らねばならないのが現状である.兵科将校が
分担する経理委員会は,経費の運用や,金銭出納,物品の保管,支給交換,
手入れ,倉庫の管理など,どうしても給与の計画方面にのみ関心も偏ってしまう.
軍隊経理の全体とはとてもいえない.

 将校・下士は率先して,「内務経理」に力を注ぐ,つまり「兵卒の中に官物尊重心」
を育てなければいけないという.たしかに「軍隊内務書」には『中隊長ハ法規ノ
定メル所ニ従ヒ経理ノ業務ヲ処理ス』とも書いてある.しかし,その実態は中隊
事務室の給養掛曹長に給与の支払いなどを任せるばかりではないか.
 
 佐伯主計は食事についても話題を広げる.大村聯隊は長崎県全県を徴募区
とした.入営する現役兵の出身地域は12の徴集区から成っていた.長崎市,
佐世保市と壱岐,対馬,沖縄の島嶼部,そして東西の彼杵(そのぎ)郡,
南北の松浦郡,そして南北の高郡である.そこで入営前の常食(ふだん
食べてきた主食)を調べてみた.それを見ると,大正末期の地方の人の
暮らしをしのぶことができる.
 
 長崎市では白米だけを食べていた入営兵は全体の中の70%,米麦混食
が25%である.麦だけは4%にしかならない.県庁所在地の豊かさが
しのばれる.これが佐世保市になると,白米は50%,米麦31%で麦だけ
は19%にのぼる.おそらく港湾の労働者の子弟が貧しい階層になり,
麦を常食とする人がいたに違いない.離島になる壱岐島だと白米17%と
ずいぶん下がり,米麦46%,麦13%になる.ほかの郡部でも白米食は
おおよそ20〜30%である.全体では白米食は3割であり,米麦混食も
ほぼ同じ3割,それに甘藷(さつまいも)を混ぜていた者が1割,麦食は16%である.
 
 それに対して,『国民の中等程度』の食事を給するというのが陸軍の方針
だった.1日の賄い料,副食や調味料,茶などの経費はこの第12師団管内
では19銭4厘だった.そうしてみると,主食以外で1カ月およそ5円が支出
されていたことがわかる.当時の一般家庭の生活水準で,米麦6合の他に
家族1人あたり5円の食費を支出するのはかなり暮らし向きも良い方であろう.
全体の30%しか進学しない中等学校にあたる師範学校出の22歳の教員の
給与は1カ月40〜50円くらいだった.正確な比較はいつも難しいが,
1円はいまの6000円くらいの使いでがあったと見ると,1日の主食を除いて
食費がおよそ1000円となる.1200円くらいだと言えないのは,風呂の
燃料代,調理の補助のアルバイトやボイラーマンの給料も賄い料に含まれる
からだ.
 
 戦後,陸軍の兵営生活をふり返り,悲惨だった,苦しかったという回想録
を発表した人が多かった.それは当時,同世代の3%くらいの高等教育に
進んだ人である.また,陸軍にとっても異常だった戦時の軍隊の体験談が
多かった.高学歴のホワイトカラーの人たちが陸軍にたくさん入ったのは
1937(昭和12)年の日支事変による大動員からである.
 
 明治大正時代に,兵役義務を果たしたあとに刻苦して技師や医師になった
若者の手記が残っている.彼らは例外なく,陸軍の平時の暮らしの良さを
よく記録している.そして,地方新聞の記事の中には,『軍隊から帰ってきて
毎日,肉が食いたいという長男がいて困る』という人生相談などを見ること
ができる.ちなみに現在の陸上自衛隊の1日3食の賄い料もほぼ1000円
であり,不思議な整合性がある.家族1人に主食抜きで1月3万円の食費
をかける家庭がどれほどあるだろうか.いつも陸軍は「中程度」の食事を
支給する伝統がある.
 
 佐伯主計は続ける.1厘とはたくあん漬け6匁(22.5グラム)になる.
『帝国陸軍衙の炊事場を総計すれば300カ所になる.1日3回炊事を
すれば900回である.これを1年に見積もると32万8500回で,1炊事場
が1回の炊飯で洗米,配米で流失するものが1合(150グラム)と仮定
すれば,1年に328石5斗の損失で,平時定員の歩兵聯隊の約40日分
の糧米になる』
 
『次に被服について言うと軍用の被服のうち,羅紗(絨・らしゃ)で製造
されているものは,軍帽,軍衣,軍袴(ズボン),外套(コート),
雨覆(レインコート),巻脚絆(ゲートル)を主としている.これらの原料は
羊毛である.そして,わが国には羊はほとんど飼育されていない・・・』
 
 陸軍は東京に千住(せんじゅ)製絨所という工場を持っていた.そこでは
平時では軍用の絨(ウール)を作りながら,民間向けの羅紗も製造していた.
民間向けには再生毛を混ぜていたが,軍用はすべて新毛しか使って
いなかった.だから,「戦用被服」といわれた毎年交付される新品は,
たしかに高級な生地を使ったものばかりだった.もちろん,羊毛の輸入先
は大英帝国のオーストラリアであり,商社を使って買い上げていた.
 
 皮革についても述べている.陸軍の匂いは『汗と馬糞とスピンドル・オイル,
それに加えて皮,保革油だった』という思い出話がある.歩兵なら
弾薬盒(前に2個,背中側に2個着ける),帯革(たいかく・ベルト),背嚢,
水筒の吊紐,編上靴(へんじょうか・軍靴),銃剣の吊具などである.
平均,牛1頭で編上靴なら5足,長靴なら3足だという.生産状況は内地,
台湾,朝鮮を合わせて300万頭内外である.うち,朝鮮牛は背嚢の皮に
用いるし,総数には乳牛や子牛も入っている.靴用の牛皮を取れるのは
約120万頭くらいだろう.これでは戦時に100万にもなる野戦軍にとっては
軍靴の補充は2年くらいしか続かないといっていい.

▼経理官の始まり
 
 佐伯1等主計のような経理官はどのように養成されていたのだろうか.
通史的にみてみよう.
 建軍当初はフランス式の経理官制度を導入した.それがドイツ式に
改められたのは1902(明治35)年からといわれている.フランス式は
指揮統帥では軍司令官は大統領(国王)に直属して,陸軍大臣は行政系統
のトップに立つ.会計監督は陸軍大臣に直属し,軍司令官の隷下には
ならない.戦時には大臣が人員補充・兵站・補給を担当し,軍の指揮統帥
には総軍司令官が任命される.
 
 これに対してドイツ(プロシャ)式では,皇帝が最高指揮者であり,
軍団では会計監督部は軍団長に隷属し,財政上のことは陸軍大臣と事務
を往復した.これが陸軍崩壊までの経理部の在り方と同じであるから,
明治35年の改革で日本陸軍は経理制度をドイツ式に改めたということが分かる.
 
 建軍当時は,ほかの兵科・部も同じように自薦,他薦も含めて,欧米式
経理の知識のある人たちが集められた.近代的な組織の帳簿を作ることから
外国文献と首っ引きの時代だった.外国語ができなくては,官に仕えること
などできなかった時代である.

 1873(明治6)年3月に陸軍省職制と条例が制定された.7つの局が
置かれたが,そこの第5局が監督部,軍吏部会計事務を扱い,糧食・薪炭
を担当する第1課から被服・陣営具の第2課,それらから始まり第9課までの
9つの課に分かれている.

 定員表によれば,局長は監督長(三等官・少将相当),副長は監督
(四等官・大佐同)で1等副監督(五等官・中佐同)が3人である.各課長は
軍吏正(六等官・少佐相当)や2等副監督(六等官・少佐同)となっている.
監督長は津田出(つだ・いずる)である.津田は1832(天保3)年に
紀州徳川家の藩士の家に生まれ,江戸で蘭学を学び,和歌山藩政改革
制度をリードしたが,勤皇運動で失脚.のち,執政として復職し,維新に
よって和歌山藩大参事に昇任した.徴兵制,市民平等による藩政を実行
しようとし,中央政府に招かれたのである.

▼経理官・監督と軍吏

 同年5月には陸軍武官官等表が定められ,将官,上長官(のちの佐官),
士官,下士,卒などの区分ができた.そのほかには会計部,軍医部などの
総括的名称も定められた.会計部には副監督,司契,軍吏などの官を新設
した.そして,1874(明治7)年2月には「鎮台職官表」が出され,軍隊に
初めて経理官が付属することになった.

 このときの6個鎮台の総定員は3万720名であり,会計官等は394名
だった.軍人・軍属全体の中で1.3%弱である.この時の鎮台会計部の
定員も見ておこう.
(1) 派出監督課
1(2)等副監督(中・少佐相当官)6名,1等書記(曹長相当官)18名.
司契課には1等司契(中佐相当官),2等同(少佐同)が各3名ずつ,
司契副(大尉同)が6名で1・2・3等書記(曹長・軍曹・伍長同)が18名
という陣容である.
(2) 糧食・薪炭課
軍吏(大尉相当官)6名,軍吏副(中尉同)6名,書記(階級指定なし)12名,
それに雇員である夫長6名.
(3) 被服・陣営課
軍吏6名,軍吏副6名,2(3)等書記12名.それに庫守と夫長がそれぞれ6名.
(4) 病院課
軍吏5名,軍吏副7名,2(3)等書記17名,1(2・3)等看病人(衛生下士官)27名,
看病人104名,厨夫19名,それに守門10人.
(5) 兵隊付属軍吏(軍隊に配属される軍吏)
聯隊には軍吏14名,他の各隊には軍吏副77名.

 1877(明治10)年に起こった薩摩軍の反乱である西南戦争には
多くの経理官が参戦する.当時は,各鎮台から臨時編成の旅団が
出征した.旅団司令部の各部職員表がある.
 第1旅団を例にとると,参謀部,会計部,軍医部,砲兵部,輜重部に
分かれている.参謀部長は中佐,ほかに3人,下士卒文官を合わせて
24名になる.会計部長は2等司契(少佐相当),司契課長は
軍吏副(中尉相当)心得1名と下士書記が2名,三井銀行からの使役が
1名の合計4名.糧食課が軍吏副心得1名を長として軍吏補が1名,
下士書記5名の合計7名.被服課は軍吏(大尉相当)を長として
下士書記2名の合計3名.人員的に多かったのが病院課であり,
長は軍吏補(少尉相当),下士の看病人8名,それに看病卒39名で
合計48名.会計部全体では68名になっていた.

 司令部の中で会計部に次ぐ人員数は輜重部である.輜重部長は大尉,
ほかに大尉2名,少尉試補1名が士官であり,軍曹3名,伍長5名に
兵卒が42名の合計54名だった.当時の輜重は主に現地で雇い入れた
軍夫や馬方,人力車の指揮,監督,護衛を任務とした.

 1883(明治16)年の太政官達は,各兵科各部を通じたすべての官等
がそろった初めてのものになる.それによると,会計監督長(少将相当官),
会計監督(大佐同),会計1等副監督(中佐同),同2等(少佐同)と
会計監督補(大尉同)という監督官の系列と,会計1等・2等・3等の
軍吏(大尉〜少尉同),それに判任官1〜3等の会計書記(曹長・軍曹・伍長)
という2つのコースがあった.発足当時の制度にあった「司契」という
契約担当官は監督・軍吏に吸収された.

 最高官が中将級になったのは1897(明治30)年のことだった.
これは衛生部武官も同じで,軍医もこのとき最高官が中将級となった.
経理部では監督総監が新設され,これと少将級の監督監が将官(親任官)と
なり,1〜3等の監督,監督補はこれまで通り,ただし1886(明治19)年
には会計という言葉が官名から省かれていた.軍吏系統も変わらないが,
判任官では書記が計手という名称になり,他に縫工長と靴工長という
技術系下士ができた.これまで各兵科に属して被服や靴の修理に
携わっていた下士をまとめて経理部に移したのだった.

 この後の大きな改革は1902(明治35)年の日露戦争直前のことである.
1等から3等の副監督(大尉〜少尉級)ができて,准士官である上等計手が
新設された.そして,翌年には監督と軍吏の2系統を合わせて主計に統一
される.そして,翌1904(明治37)年には上等計手が廃止され,それが
復活するのは1909(明治42)年のことだった.

 こうして経理部高等武官は1903(明治36)年から後に,主計総監,
主計監,主計正(佐官相当,1〜3等に分かれる)と主計(尉官相当,同前)
という官名を使うようになった.1936(昭和11)年の2.26事件で決起した
将校,元将校の中でただ1人,元一等主計(大尉相当)がいるが,彼は
歩兵科から転科した人だった.

▼初期の養成制度

 1886(明治19)年,陸軍軍吏学舎が創設された.初めての系統的な
士官養成の学校だった.1等書記(曹長相当),明治22年からは兵科曹長
からも試験選抜し,おおよそ10カ月の教育を行なって3等軍吏(少尉級)に
任官させた.この制度は1902(明治35)年まで続き,第14期生まで
総員514名が経理部士官となった.このうちから主計総監8名,
主計監14名が生まれている.

 並行して監督の補充教育を行うなために,1890(明治23)年には
陸軍経理学校を創設する.各兵科中尉のうち2年以上現職にある者,
1,2等軍吏のうち優秀者を試験選抜して入校させた.2年間の教育を
行ない,監督補(大尉相当)に任命した.

 日清戦争を勝ち抜き,軍備拡張の声が上がるなかで,経理部も高級幹部
をさらに必要とすることになった.1894(明治27)年には監督部・軍吏部士官
の特別補充制度がスタートする.各兵科大尉や1等軍吏の中から適格者
を経理局長,野戦監督長官(日清戦争の戦時態勢で置かれた)の推薦で
監督補に任用した.さらには高等商業学校卒業生から軍吏に採用し,
監督講習生として経理学校で教育を行なうようになった.軍吏は
現場実務を担当するが,それ以上の素養がなかったため,監督にする
には学校教育が必要だったためである.

 なお,当時の「地方の高等商業学校」というのは,1894(明治27)年現在
では,東京にあった官立商法講習所から発展した高等商業学校のことである.
のちに東京商科大学,戦後には国立一橋大学になった,当時唯一の専門学校
だった.ついでに当時の高等教育機関をあげると,高等学校が7校,専門学校
は33校,中学が82校しかなかった時代である.もちろん,進学率などは1%
にもならない.帝国大学生は全部で1500人にもならず,専門学校生も8500人,
中学生は2万2000人という数字がある.

 続いて1902(明治35)年には,大学出身者にも採用の枠を広げること
になった.その頃,ようやく近代的教育制度が産んだ人材が増えてきて,
各官庁にも帝国大学出身者が主流になってきた.そこで,それらとの
整合性を図るために帝国大学出身者を採用することになった.3期生まで
の4人である.ところが,この人たちは高官にはなったが,「実務を主眼と
する」軍隊経理には向かずに多くの批判があった.周囲と比べると,
あまりに識見・知識レベルが高すぎ,軍隊の実態とはかけ離れていたのだった.
再び大卒が採用されるようになったのは1927(昭和2)年になった.

▼日露戦後の大補充と主計候補生

 日露戦争後の平時25個師団,戦時50個師団という整備目標は,
兵科候補生の大量採用をまねいた.1906(明治39)年の臨時学生制度
である.1等計手(曹長級)から選抜し,およそ380名の3等主計を作った.
これは兵科将校の養成制度に比べると,いささか甘いものであり,兵科
では学校を出ていない下士からはよほど特別なことがない限り将校には
しなかった.いまの陸自でいう部内幹部候補生(陸曹出身者)制度ができて
下士から士官に任用される制度(少尉候補者)は大正半ばにならなくては
始まらなかった.兵科ではない,各部であるということから反対意見も
少なかったのだろう.

 大きな改革は1903(明治36)年,日露戦争勃発の1年前である.
経理学校に生徒を集め,兵科の士官学校と同じように士官候補生制度
を採用した.もちろん,名称は「主計候補生」だった.受験資格は中学校卒業
以上,1年志願兵(予備役幹部になるために入営した経費自弁の学歴所有者),
満18歳以上21歳以下,または現役下士官から志願した者(満26歳以下)で
ある.候補生に採用されると,9カ月間の指定された歩兵聯隊での研修を
受けた.師団経理部長などの教育や実習を行ないやすいので師団司令部所在
の聯隊に限られた.

 その後,東京の陸軍経理学校に入校し,兵科士官と同じく1年9カ月の
教育を受け,見習主計として部隊に帰った.そこで6カ月間の実務を習得し,
3等主計に任官した.ところが,この制度は長続きしなかった.
1920(大正9)年に突然,主計候補生制度は廃止されてしまう.理由は
さまざまに解説されているが,世界大戦後の軍縮の気分,日露戦後の
兵科将校の大量採用者を経理官に転科させるなどの理由があってのことだろう.
1907(明治40)年卒業の第1期生,76名から1922(大正11)年卒業の
第16期生,77名まで,毎年およそ50名の主計候補生の総数は905名で
ある.この人たちは大正時代の経理官の主流であり,長い戦争の続いた
昭和期には高級経理官として活躍した.戦没者も多い.

 大正末期から昭和期にかけての経理官補充については次回に譲ろう.
さらに輜重兵についての話も次回に行なう.

どうぞ良いお年をお迎えください.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.12.30




マーケット・ガーデン作戦とインテリジェンス (16)
                長南 政義
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■前回までのあらすじ

本連載は,精確な内容を持つインテリジェンスが一九四四年九月
上旬に連合軍の指揮官に利用されたかどうかを考察することにある.
実は,インテリジェンスの内容は,マーケット・ガーデン作戦実行
に伴うリスクを連合軍の指揮官に警告していた.

指揮官が決定を下すために利用できるインテリジェンスの情報源
は数多く存在していたが,本連載では「ウルトラ」情報により提供
されたインフォメーションにのみ焦点を当てて考察を進めることとする.
第二次世界大戦を通じて,連合軍の戦略レヴェル・作戦レヴェルの
指揮官たちはウルトラ情報を活用し,ウルトラ情報の精確性に
関してめったに疑いを持たなかったからだ.

複数回にわたりイギリスの「ウルトラ」計画について述べている.
前回は主として,政府暗号学校の拠点となったブレッチリー・パーク
について説明した.

ドイツとの戦争が不可避であることが明白となった時,イギリス政府
はその政府機関の多くを,ロンドンの外へと移転させた.
ブレッチリー・パークはロンドンから移転してくる政府機関を収容する
目的でイギリス政府により購入された多くの場所の内の一つで,
ここが政府暗号学校の新たな拠点となった.

機密保持のため,ブレッチリー・パークには「ステーションX」という
暗号名が附与された.このステーションXという奇妙な名称は,
MI6により十番目に購入された用地であり,MI6が用地を呼称する際
にローマ字を使用していたことに由来する.

「ウルトラ」計画が一握りの暗号解読者集団からなるプログラムから
より組織的なプログラムへと拡大するにつれ,増加する収容スペース
を充たすためにブレッチリーの地には多数の小屋が建てられた.
各小屋はウルトラ情報の生産過程で異なる役割を演じていた.
これらの小屋には番号が附与されていたが,小屋番号は単に物理的
な位置を示すだけでなく,各小屋でなされている作業の種類をも示していた.

通信傍受はYサービスが担当していた.そして,Yサービスから
ブレッチリー・パークに送られてくる傍受された通信文の受取り窓口
や暗号解読作業の中心部となったのがハット6(第六号棟)であった.
ハット6では暗号解読のために集められた数学者たちが,その日の
エニグマのセッティング(日鍵)を特定し,それをハット3(第三号棟)で
働く分析官たちが判読できる通信文とするため二十四時間働いていた.

今回はハット6のコントロール・セクションとハット3の活動について
述べてみたい.


■Yサービスとハット6

ハット6のコントロール・セクションは,Yサービスから送られてくる通信文
を受領し,適切な周波数がモニタリングされていることや,Yサービスから
送られてきた通信文が利用されるのを確実にするために,
絶えずYサービスと接触していた.

ハット6内のコントロール・セクションはテレタイプとオートバイ伝令を経由
して傍受通信を受領していた.コントロール・セクションは,テレタイプ通信
を経由して,傍受通信の序文と最初の部分を受領し,その後,
暗号解読者たちが暗号文解読に取り組む前に,暗号設定や情報の価値
を決定するためにその部分を利用した.そして,オートバイ伝令が完全な
通信文をもたらすのである.

換言するならば,Yサービスが傍受した通信文全体のうちの一部分
がテレタイプにより,コントロール・セクションに送られ,そこでその通信文
の暗号設定や価値が判断され,その後,オートバイ伝令が傍受した
通信文全体を持ってコントロール・セクションにやってくるということだ.


■コントロール・セクション

コントロール・セクションの機能は,現代の情報収集管理や配布部門に
相当する.コントロール・セクションは情報収集と情報分析とをつなぐ導管
であり,情報収集担当部門が重要な周波数に収集の焦点を当て,
あまり価値がなかったり全く価値のない周波数の通信文を収集しないこと
を確実にしていた.情報収集部門および分析部門の限定された予算を
考慮するならば,最も価値のある情報をやりとりしている周波数の通信文
のみを収集することが緊要であった.


■日鍵の数を減らす

暗号解読者は「ウォッチ」と呼ばれる場所で働いていた.暗号解読者
が完全もしくは一部分のみの通信文を受領し,その日の暗号の
鍵設定(日鍵)がなにかを判定するために作業しているのがこのウォッチ
であった.

暗号解読者はめったに手で作業することはない.その代わりに
暗号解読者は,ボンブ(Bombe)に入力される「メニュー」を考え出していた.
彼らの経験やドイツ人が使用している作業手順に関する知識を使うこと
により,暗号解読者は無数にある可能性のある日鍵の数を減らし,
ボンブが演算できる扱いやすい数に可能性のある日鍵の数を減少させた
のである.


■日鍵の例

分かりにくいので例を挙げて説明しよう.エニグマ暗号機の強みは
当日のみしか使用できない日鍵を使用している点にある.エニグマを
運用するドイツ人に課せられていた作業上の規則の一つとして,
一度使用した日鍵は同じ月に二度と使用してはいけないという規則
があった.

もし,ある日の日鍵の設定が1−2−3であるならば,暗号解読者は
翌日の日鍵が1−2−3でないことを知っており,これにより可能性の
あるエニグマ暗号機の歯車の配列は六十パターンから三十パターン
に減少するのである.


■ハット3

ひとたび日鍵が首尾よく特定されると,解読された通信文(ただし,ドイツ語
のまま)は分析のためにハット3へと送られる.ハット3はドイツ空軍および
陸軍に関する通信文のすべてを担当しており,陸軍や空軍の問題に
ついて知識を有する要員が配属されていて,しかもその全員がドイツ語
に堪能であった.

関係する情報ならどんなものでも通信文から抜き取られ,未来の
レファレンスのためにハット3で維持されているインデックス・システム
にファイルされた.いったん通信文が翻訳され分析されると,通信文が
「ウルトラ」情報アクセス権限者リストの誰に,どういった優先順位を
つけて送付されるのか,を決定するためにウォッチの長に通信文が
送られた.

優先順位システムは「Z」文字を使用した五段階で表現されていた.
すなわち,緊急性が最も低いものにはZが付与され,最も緊急性の
高いものには「ZZZZZ」が付与されたのだ.


■オールソース・インテリジェンス

ハット3から送られる通信文は,シングル・メッセージでもパラグラフ単位
で抜粋したものでもなく,通信文そのものを正確に翻訳したものであった.

日本ではインテリジェンスの本でもなかなか見ない言葉だが,
オールソース・インテリジェンスという用語がある.
オールソース・インテリジェンスとは,ヒューミント(人間を媒介とした諜報
活動),画像諜報情報(imagery intelligence),シギント(通信・電磁波・信号等
を傍受する諜報活動),オープンソース・インテリジェンス(新聞雑誌や
官報・白書などの公開情報を利用した諜報活動)といったあらゆる情報源
から得られた情報を最終的に製造されるインテリジェンスのために利用する
情報活動,ないし諜報機関のことを意味する.

ブレッチリー・パークはオールソース・インテリジェンス・センターになる
のではなく,暗号解読に特化したシングルソースを担当する機関
となることが,早期に決定されていた.分析官は時にコメントを書くこと
があったが,これはある特定のメッセージ部分を明確化するために
行われたに過ぎなかった.

つまり,ブレッチリー・パークから送り出される通信文に対し加味された
唯一の主観的なインプットは,ウォッチの長が割り当てた優先順位だけ
であったのである.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2015.12.31




荒木 肇
『再び経理学校生徒を募集──日本陸軍の兵站戦(5)
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新年明けましておめでとうございます.
今年も続けて「日本陸軍の兵站戦」を紹介して行きます.


▼日露戦争で明らかになった将校不足

 日露戦争では将校が足りなくなった.戦地へ出征した軍人
約95万人のうち戦死者と戦傷死者の合計は全軍で6万人あまり
にのぼった.その割合はおよそ6.4%である.階級の低い兵卒
ほど死ぬことが多いという偏見は捨てたほうがいい.実際に戦う
軍隊では上級者ほど危険である.兵卒の死亡率は約5.7%であり,
100人いたら6人が死ぬ.これはこれで大変な数だが,
それに対して将校の斃れる割合ははるかに高い.

 全兵科・各部の尉官の戦傷死率は8.4%にもなる.
上長官(佐官)は階級別の割合では最も高い.12.8%にものぼった.
およそ8人に1人である.2番目に高率なのは下士の12.3%であり,
いずれも突撃の最先頭に立ったり,危険なところへは率先して
進む立場にあったりしたからだ.また,敵の狙撃は指揮者が
立ち上がる瞬間をねらった.のちの第1次大戦でも,ヨーロッパ戦場
に補充された少尉の平均余命は4日だなどという信じられない記録
が残っている.

 歩兵だけに限ると,もっと日露戦場の実相が浮かび上がってくる.
戦闘死(即死と戦傷死を合わせた)の比率は佐官では20.9%,
尉官も15%というものだった.ただし,この数字の元となった
『日露戦役統計』では,大尉が亡くなり少佐に進むと佐官に分類
された.だから,戦死進級の中隊長の大尉がここの佐官に含まれ
ている可能性がある.とはいえ,歩兵は階級が上になるほど死ぬ,
負傷するという危険が高まることが分かる.

 ふつう,近代戦では戦死者の2倍が負傷者だから,歩兵大隊長や
聯隊長は5人に1人が死に,2人が負傷して後送されるという有様だった.
当時は「大隊突撃」といって,大隊長が『突撃に前へ!』と号令し軍刀
を振りあげれば,各中隊長はすぐに抜刀し後に続いた.なかには聯隊長
自らが先頭に立った例も多い.敗戦後,戦艦ミズーリ号上で降伏文書
調印に立ち合った梅津美治郎陸軍大将も歩兵第1聯隊の聯隊旗手・少尉
として突進中に敵弾に倒れた経験者である.

 要塞攻撃や,野外会戦でもロシア軍の堡塁陣地への突撃は指揮官たち
の損耗を増やした.戦役2年目(1905年)の7月には歩兵少・中尉の7割,
大尉ですら2割強は1年志願兵出身の予・後備役からの召集者だった.

 1年志願兵とは中等学校卒業以上の有資格者が,将来,幹部になる
ことを志願し,在営中の経費を自弁し,1年間の現役に服する制度をいう.
これがのちの昭和時代には幹部候補生制度に発展する.
当時は,入営後の1年間の教育期間の成績によって,予備役各科少尉,
3等軍吏,同軍医,同獣医,同薬剤官になれた.制度が始まった当初は,
予備役1年,後備役5年いう優遇ぶりだったが,1893(明治26)年には
条例が改正され,兵役服務期間は一般兵と同じ12年4カ月になっていた.

 この1年志願兵になれた人は豊かな人だった.当時の中学校以上への
進学ができた階層であり,入営にあたっては100円以上の自弁経費を
出すことができる若者だった.また,将校に任官するにあたって軍装,
武装,正・礼装ほか装具一切を揃えるゆとりがなくてはならない.
明治36(1903)年度の中学校卒業生はおよそ1万2500人にしか過ぎず,
満17歳の男子人口は同じく43万5000人でしかなかった.3%にも
満たない恵まれた青年たちだったのだ.

 日露戦争開戦時の予・後備役将校数は,予備役約2700名(うち歩兵
2041),後備役同1300名(同前1039)の合計4000名にしか過ぎなかった.
そのうち少尉の8割は1年志願兵出身者だった.あとの2割は病気や家庭
の事情などで予備役に編入された陸士卒の人や,日清戦争で特別進級した
下士出身者だった.これに対して,現役将校数は将官を除いて約6800名である.

 ついでに階級別の在籍者数をあげておこう.当時の陸軍の実相の一つ
でもある.大佐131名(うち歩兵65),中佐139名(同前60),
少佐594名(354),大尉1698名(1003),中尉2603名(1656),
少尉1598名(940)で合計6763名(4078)だった.歩兵は全兵科将校
の60.3%を占めていた.

 将校は陸士出身,あるいは中等学校卒を原則とした.当時の将校が
必要とされた素養は,外国語,物理,化学,数学などの外来知識を
こなせる能力である.そんな若者は,当時,どれだけいたか.若者の
95%は4年制小学校卒業,あるいはそれの中退といった人たちだった.
下士官(当時は下士である)養成の教導団でも,当時の最高の高等教育
である陸士にはとても教育内容で追いつけるものではなかった.
追いつめられていた陸軍は,下士・准士官の優秀者を3500人も特別任用し,
少尉にしたが,それも焼け石に水だった.

 また戦時中の特別措置として,1年志願兵の大量養成を行なった.
1904(明治37)年6月には前年に現役を終えて予備役曹長になっている
終末試験受験(合格すると翌年3カ月の演習召集を受ける)資格者には
ただちに召集令状を発行した.入営すると直ちに見習士官勤務を命じ,
教官には戦地から負傷などで帰還している現役将校をあてて将校不足
に対処せよという内訓を出した.10月には教育総監が『一般将校が備える
べき学識見聞を広く与えるのではなく,その実務を執行できるだけの技量
を確実に養成せよ』とも訓令を出した.こうして特別補充で任官した予備役
少尉は1600名あまり,うち歩兵は1400名近い数にのぼった.いかに
歩兵の下級将校の損耗が激しかったか.

 現役将校である士官候補生も用意された.1905(明治38)年11月卒業
の920人(うち歩兵742人),これが第18期生である.次には第19期生
と20期生を合わせて1344名もの士官候補生を採用した.第19期生は
中学卒業者1068名(明治40年5月31日卒業),20期生は幼年学校
卒業者だけの276名である(同41年5月27日卒).

 この人たちは一度も戦場に出ることなく,士官学校生徒で講和を迎えた.
この大量採用が大正時代の平時陸軍の人事に大きな問題を引き起こしていく.
さらに陸軍は士官候補生の採用数を戦後も増やしていかなければならなかった.

▼大正時代の人事のネック

 1906(明治39)年,陸軍は平時25個師団整備,戦時50個師団動員計画
を立てた.将校になる士官候補生の大量採用を続けるしかなかった.兵科将校
の補充はすぐにできるものではない.陸士の卒業から,中隊長は10年,
大隊長は15年,聯隊長は20〜25年かかるという.
中隊長は幹部(将校・准士官・下士官)30人と兵卒150人を率いるポストである.
中隊の英語名,カンパニーは同じ釜の飯を食う間柄をいい,キャプテンとは
そのリーダーのことをいう.10年かかるのは当然だろう.

 いまの陸自でも,大卒から1年間の幹部候補生教育を受ける.その後,
3尉(少尉)任官から2年が経って2尉に昇任,3年後に1尉となってようやく
中隊長になる資格の第一歩を踏み出す.いま,陸自普通科(歩兵)の
中隊長は3佐(少佐)ポストだが,もっとも早い者ですら1尉を4年半,
事故なく過ごさないと3佐にはなれない.大卒後10年と半年である.

 また,大隊長は戦術単位である大隊を率いる.歩兵であれば4個小銃中隊
を指揮して,2個中隊を主攻正面にあて,1個中隊を助攻に手配し,手元に
予備の1個中隊をもつ.戦機をとらえ,聯隊長の命令を実現化するように努力
する.また,部下への給養・補給の責任は大隊長にかかっている.行李という
補給部隊も指揮下にある.中隊長としての経験を積み,戦術を磨いた者だけ
が大隊長になれた.予備役将校ではとても勤まるものではなかった.

 平時25個師団とは,歩兵100個聯隊を必要とする.50個の野戦師団ならば
200個聯隊,その大隊数は600個である.中隊数はその4倍であり,
小隊数は12倍になる.つまり,7200人の小銃小隊長を必要とする.
毎年の1年志願兵による予備歩兵少尉が生まれる数は1000人くらいだった.
問題は,戦時になって動員をかけても,その全員が応召するわけでもない
ことだ.兵役で予備役幹部になるような高学歴者は社会の中で重要な地位
にある者も多い.官吏(国家公務員)や公吏(地方公務員),大きな企業の
社員などであれば,組織から『召集猶予願い』が出されることも多い.

 昭和の初め,大動員がかかり召集令状はたいへんな数が発行された.
しかし,その得員率(在郷軍人名簿登載者中のどれだけが実際に応召可能
かの数字)は陸軍省担当者によれば,おおよそ6割にしかならなかった.

 現在と違って社会全体の保健・衛生環境も貧しかった.身体の具合が悪い,
慢性的な病気にかかっていて軍隊勤務不能という例が多い.大正時代の
データによれば,官吏の平均寿命は52歳,陸軍士官は46歳,海軍士官は
42歳という数字もある.士官学校を卒業しても,同期生で少佐になれた人
は全体の4割くらい,あとは中尉・大尉で病気にかかり,あるいは大ケガが
治らずに予備役編入というのが普通だった.

 歩兵ばかりを例にとったが,現役将校も毎年どれだけ育てるかというのは
人事当局をずいぶんと迷わせたものだった.陸軍省では平時25個師団,
戦時50個師団にふさわしい将校数を予想した.

 そのため,明治39年から15年間にわたる士官候補生採用計画を立てた.
1907(明治40)年から毎年783名を6年間にわたって採用するというのだ.
中学校等から隊付候補生になる者516名,それに中央幼年学校卒業者
267名を採用予定という数字がある.

 当時の陸軍の構成を知る上で,兵科別の採用数を知っておくことも大切
だろう(1913=大正2年).歩兵は463名(全体の約59%),
騎兵55名(同7%),野山砲兵142名(同18%),重砲兵29名(同4%),
工兵46名(同6%),輜重兵48名(同6%)である.興味深いのは工兵も
輜重兵もほぼ同じ数だということだ.ただし,輜重兵には幼年学校出身者
が1名もいない.輜重兵将校は全員が中学卒だったのだ.

 ところが,戦後の不況,反陸軍感情などで常設師団が増えることはなかった.
たちまち,陸軍は増えすぎた現役将校たちの扱いに困ってしまう.
1914(大正3)年には,前年比27%近い削減をし,574名の採用に
減らしてしまうことになった(大正6年5月卒業,536名の第29期生).
翌年の30期生だけは632人と持ち直すが,以降400人くらいが続き,
300人台,ついに1930(昭和5)年卒の42期生は最低の218人しか
卒業生がいないという時代になる.

 1917(大正6)年になると軍事費削減の政策がとられるようになった.
陸軍は佐官の定員を増やした.とくに歩兵中尉・少尉を32名削減して,
大尉級を36名増やし,佐官を7名,将官1名を増やす.その代わり,
他の兵科は一様に大尉級を減らし,大佐が増えたのは重砲兵と輜重兵だけ
だった.これはつまり,歩兵の少尉・中尉が余っているということだ.

「准尉」を作ったのも,こうした少・中尉削減の一環の施策だった.
この准尉というのは昭和期の准尉=准士官と同じではない.当時の准士官
は特務曹長である.准尉は少尉と同じ階級であり,立派な将校だった.
ただし,中尉には進級できない.これによって,少尉や中尉の現員を減らし,
穴があいたところに准尉で埋めていこうとしたわけである.

 この時代の中隊の将校定員を見ておこう.歩兵聯隊は全部で12個
小銃中隊である.この各中隊の士官候補生出身中・少尉の定数は2.2人,
准尉は1.8人だった.合計で4人,ただし陸士出は聯隊全部で
2.2×12=26.4人となる.この4人で初年兵と2年兵の教官となり中隊長
になる修業をしていた.この率を低くした理由に注目してほしい.

 陸軍の進級は海軍に比べて遅かった.なぜなら,海軍は艦内の編制だけ
をみても,兵科将校のスタートは分隊士であり,大尉の分隊長は1名,
その上の科長は1名である.これに比べて,中隊長1人に対して,戦時の
小隊長要員である陸軍の少・中尉は3人から4人だった.せめて2人に
しなかったら,大尉になることも難しかったのである.

 他兵科・部隊も見てみよう.関東軍の隷下にあった独立守備隊歩兵中隊
は陸士卒2名に准尉1名,騎兵中隊は陸士卒2.4名に准尉1.6名に
なっている.野砲兵中隊は学理的な知識が必要なので陸士卒3.3人に
准尉1.7人,山砲兵中隊も同じく3.3人に准尉0.7人,工兵中隊・鉄道
聯隊・航空大隊も3.1人と准尉0.9人という比率である.電信隊が3.1人
と2.9人と現場の熟練者が多くなっている.

 興味深いのは輜重兵大隊の4.2人と2.8人という比率である.中隊の
付将校が7人にもなる.これは現役の輜重兵は少ないけれど,
短期間(おおよそ3カ月)在営して後は帰休する輜重輸卒の教育が多いから
である.なお,この准尉制度はわずか2年間しか続かず,かわりに少尉候補者
という下士からの登用制度ができた.

▼ねらわれた経理部

 さて,余った将校,とりわけ歩兵科の将校をどうするかである.陸士で
育てなかった兵科は憲兵科である.憲兵将校は他兵科からの転科者で補充
してきた.また,たたき上げの下士官,准士官から少尉候補者(1年間,士官
学校や憲兵学校で教育した)出身者を将校にしてきた歴史がある.そして,
兵科ではない経理部である.経理部はもともと兵科からの転科者を受け入れる
制度があった.部隊の激しい行動には向かない,ただし軍務に就くことは
できるといった人が勧められて経理官になった例が多い.

 もともと陸軍経理官はヨーロッパ軍隊の制度から来ている.軍隊経理も
一般経理と同じかというとそうではなく,部外業者との交渉や契約,
軍の不動産などの管理,戦時給与のことなど,軍事一般に通じていなくては
困ることになった.そこから軍経理官の必要性がいわれた.経理官には
高級経理官要員と現場実務要員と2つのコースがあり,明治の昔は
監督コースと軍吏コースに分けられていた.それが時代の流れにつれ,
海軍と同じく候補生課程を作るようになった.こうして,下士・准士官から,
生徒から,大学・専門学校出身者からという3つのコースができあがった.

 ところが,この候補生課程に目を付けられたのだ.兵科将校とはもともと軍事
については専門知識があり,これに経理学校で会計面や実務教育をしさえ
すれば面倒な主計候補生制度は不要だという論議が起きた.そして,経理学校
の候補生課程は閉ざされた.さらには軍縮の流れの中で,経理官は大学・高専
の卒業者と下士・准士官からの登用と2つのコースになってしまった.

 戦時にならなければ経理官は不足することもなかった.まず,戦死すること
は珍しかった.平時の軍隊現場の勤務は3個大隊に2名,聯隊本部に高級主計
という1名,それに師団司令部の経理部勤務者くらいにしか過ぎない.
戦時編制になっても各大隊に1名,本部に2名というくらいで,兵科将校のように
人員が急膨張するわけでもないと考えられたのだろう.また,現場部隊の
経理室勤務はそれこそたたき上げの実務の練達者が多かったのである.

 そこで,経理部はまたまた昔に逆戻りし,大学・高等専門学校からの
「見習主計」という制度をとった.政策的なことは大卒経理官に,現場の実務
は下士・准士官からの登用者にというわけである.この制度は
1935(昭和10)年に経理学校の生徒募集が再開するまで高級経理官の
養成制度として続いてしまう.それが1926(大正15)年から始まる乙種学生
制度だった.大学の法学・経済・商学部を卒業した者をただちに見習主計
に採用し,3〜4カ月間の教育で中尉相当の2等主計に育てる.
この1期生の入校が1927(昭和2)年10月である.

 この制度は1期生5名,2期生3名というように細々と続いた.転科する
兵科将校も実際はひどく少なく(大正時代にはわずか30名ほど),すぐに
使えるということから最終的には80名ほども採用するようになった.
敗戦までの総員は780名といわれる.

 満洲事変(1931年)から後,陸軍の人気が高まった.昭和10(1935)年頃
になると陸海軍は若者の人気を集めるようになった.海兵や陸士に入るには
厳重な身体検査があって,とりわけ視力にはうるさかった.どちらも裸眼視力
が1.0以上である.ところが,陸軍経理学校,海軍経理学校はそれぞれ
0.7と0.2以上だった.陸軍の方がやや厳しかったのは野戦という環境が
あったからだろう.

 1935(昭和10)年に経理学校の生徒課程(受験学力は中学校4年修了者
レベル)の復活が決まると,とたんに入校希望者が殺到した.第1期生は
30名の募集に対し,60倍の志願者がやってくる.同じ年度の陸士の志願倍率
は16倍だったから,人気のほどがよく分かる.敗戦時までの在学者と卒業者
の合計は1200名,卒業し戦列に加わったのは650名あまりだった.
その時の経理部現役将校は主計3437名,建技685名であり,合計4122名
である.また,幹部候補生出身将校は9000名から1万名といわれている
(別の資料では幹部候補生学校卒業者1万3000名ともいう).

 次回は,輜重兵について語ろう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.1.6




ライター・渡邉陽子のコラム (76) ─ 自衛隊海外派遣の歩み(6) 』
                 渡邉陽子
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あけましておめでとうございます.
渡邉陽子です.

みなさまはどのようなお正月をお過ごしでしたか.
私は締め切りが気になって,結局元旦もだらだら仕事をしてしまい,
オンオフのメリハリのないお正月になってしまいました.

初取材は3日の箱根駅伝.大手町のゴールから夜に行われた報告会
まで,某大学に同行していました.今年は部隊取材もどんどん行きたい
と思っています.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■自衛隊海外派遣の歩み(6)

昨年に続き,カンボジアPKOの話です.

第1次カンボジア派遣大隊長である渡邊氏は,現地で痛感した
ことがいくつかありました.ひとつは他国の部隊との交流が不可欠だ
ということです.PKOは国連のもとで各国が協力しあってやるものだから,
情報交換したり意見を言い合ったりすることで相互理解が深まる最大の
恰好の場でもあります.だから友好親善はあって当然のもの,そう感じた
そうです.

「定期的な指揮官会議だけではなく,それぞれの国のイベントに招待
したりされたり.これは国内で訓練しているだけじゃわからないことでしたね」

今では当然すぎるほどのことかもしれませんが,四半世紀前の陸上自衛隊
にこの発想はありませんでした.そもそも海外派遣という想定がなかった
のですから,ほかの国の軍隊とコミュニケーションを図る必要性がありません.


それからもうひとつ.
渡邊氏が自衛隊に入隊した頃,ちょうどガイドラインができて日米共同訓練
が始まったそうで,渡邊氏は米軍の通訳をやりながら初めて世界が少し見えた
と言います.その世界は,とてつもなく巨大なアメリカという組織の影から
見ていたものでした.けれどPKOには,ほとんどアメリカの影がありませんでした.
それは日米安全保障条約の枠ではなく国連という枠だからで,「当たり前といえば
当たり前なんですが,これは私にとって大きな発見と驚きでした」.


PKO法が陸上自衛隊に適用された初めての例となったカンボジアPKOにおいて,
法について不自由とか不便といったことを考えてもしょうがない,法律なんだから
その枠の中でやるしかない,その枠から出ることは許されない.それが渡邊氏
の考えでした.この考えは現在海外派遣に赴く指揮官にも共通している
ことでしょう.自衛官は法の良し悪しを言いません.ただ定められた法に従い,
その中で最大限にできることを行なうのみです.(だからこそ法整備はとても
とても大切なのです)


カンボジアでは,あえて不自由を挙げるとすれば二重指揮という点だったそうです.
これはどういうことかというと,たとえば,フランスの軍隊はフランスの政府から
やりなさいと言われたことと,UNTACからやってくださいと言われていることに
ほとんど違いがありません.ところが国連と日本が自衛隊の派遣部隊に抱く期待は,
ちょっと食い違っていたそうです.けれど渡邊氏は,多少かみ合わなくても無理
に歩み寄る必要はないと思うと,取材時には言っていました.

「日本に限らず,どこもそれぞれの事情の中でPKOに参加している.だから人を
いっぱい出せるところは人を,お金を出せるところはお金を,技術力があるところ
は技術を出せばいい.どの国もできる範囲で最大限のことをすればそれで
いいんじゃないか,そんなことを考えました」


「カンボジアの復興に役立てたと思いますかと多くの人から尋ねられましたが,
そのような自負はまったくありませんでした.復興への手伝いって,最初は
ボランティアやNGOから始まるんですよね.ただ,それでは日本という国の姿
が見えないので,国が何か行なうときの先頭にいるのが自衛隊だったり外交官
だったりするわけです.だからその後ろにはODA,海外青年協力隊,文化使節団
など,さまざまな人たちがいる.これらすべて含めて国際平和協力なのだと思います」

 余談ですが,取材時に渡邊氏の口からこれを聞いたとき,「いい言葉だなあ」
としみじみ感じいったことをよく覚えています.特に「復興への手伝いはボランティア
やNGOから始まるが,それでは日本という国の姿が見えないので,自衛隊が先頭
に立つ」というくだりは,自衛隊以外の国際平和に尽力している団体にもしっかり
眼差しが向けられていることを感じて,とてもうれしかったのです.

帰国後一躍「時の人」となり,自衛隊の歩く広報のような立場を経験した渡邊氏
ですが,きわめて客観的な視点で一連の活動を捉えているのが印象的でした.
この冷静さこそ,大隊長という立場にもっとも求められたものだったのかもしれません.

次回は国際貢献の新たな道を開いた国際緊急援助活動についてご紹介します.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.1.7




荒木 肇
『輜重兵について──日本陸軍の兵站戦(6)
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□ご挨拶

 平成28年の年も明けました.当地では暖冬を実感する
年末・年始でした.昨日は習志野演習場に第1空挺団の
降下初めにお招きをいただき,お邪魔してきました.
いつもながらの精鋭の訓練展示ぶり,空自輸送機の見事な
航過,陸自ヘリの鮮やかな機動,十分に満足させていただきました.

 なお,たいへん感心したことがあります.ここ10数年も
お世話になっていますが,訓練終了後の野宴のことです.
例年,紙皿が配られていましたが,今年からなんと
硬質プラスチック製でしょうか.白い重い,きれいな皿が各人
に2枚ずつ用意されていました.後片づけや運搬にも,
たいへん隊員さんの負担を増やしたと思います.
実行された皆さんに心から感謝します.
毎年,風でよく吹き飛ばされていたものですから.

 呆れたのは千葉県選出の参院議員とかいう若い人.
壇上に上がって開口一番,先般の新安保法についての審議中の話を
されました.「そこにいるヒゲの隊長こと佐藤議員に殴られた○○です」.
これには一部が失笑しただけで,多くの方々は黙っていました.
なんたる非礼かと呆れたのですが,彼はなお鳴りやみません.
「自衛官の方々の命を守るのは私たち政治家です」.これには驚くばかり.
なお,最後に「わたしは自分の信条は身体を張っても貫きます」.
いったい何を言うために現れたのでしょうか.不思議な民主党議員でした.

▼在来馬の大きさの話

 輜重(しちょう)の「輜」とは覆いのある,幌のある車のことをいった.
輜で重量物を運ぶので輜重と名づけられた.建軍当初は,戦国時代
の小荷駄隊の連想もあり,歩兵と騎兵が華々しい戦闘兵科だったから
人気がある兵科ではなかった.戦国時代の小荷駄の存在も一般には
知られておらず,詳しいことは分からない.現地で集めた人足や馬方を
指揮・監督して輸送することが仕事であり,近代軍隊としての編制も
規模は小さなものだった.

 始まりは各鎮台におかれた輜重隊である.平時では60名,戦時に
なってようやく80名になる.6個の鎮台にそれぞれ1個隊ずつ置く計画
だった.全軍で3万2000人弱,その中で360名だから割合でいえば
1%くらい,少ないといえば確かに少ない.しかし,限られた予算の中で,
戦える近代陸軍を造ろうとした姿勢を評価したい.欧州風の陸軍制度を
学び,戦闘兵科の一つをよくも揃えたということができる.

 この頃の輸送手段は馬に負わせることより人の背が主だった.
駄馬が荷物を載せて歩いた(これを駄載という)が,在来の日本馬は
たいへん小さかった.もともとわが国の馬の体高(足先から肩・背まで)
は低いもので,4尺(およそ121センチメートル)を「小馬」とし,それを
成馬の基準にしたものだった.4尺5寸(136センチメートル)を「中馬」と
したのが室町時代.戦国時代になると,さすがに4尺8寸〜9寸
(145〜148センチメートル)という馬が現われた.加藤清正の愛馬
「帝釈栗毛(たいしゃくくりげ)」などの5尺を超す馬も使われるようになった.
当時,南蛮人の宣教師が秀吉に贈った5尺2分(152センチ)のアラビア種
の馬があったことが記録にある.

 ところが,泰平が続く江戸時代になると馬の体高は伸びなくなってくる.
大きな馬は好まれなくなった.外観の美しさばかりを追求するから,
軍用の実力を備えなくなってしまった.馬が前脚を「足掻(あが)かせる」と
格好がいいとなれば,推進力の元となる後躯(後ろ脚)の筋力をつけること
はおろそかにされた.だから,幕末の馬は軍用であるはずの大名家の馬
でさえ,後躯の筋肉は貧弱で,人を乗せることしかできない小型の馬ばかりだった.

 陸軍の建設当初,担当官たちを悩ませたのは強い軍馬を揃えられなかった
ことである.西欧では野砲を曳くのは馬であった.それを輓曵(ばんえい)と
いい,それに使われる馬を輓馬(ばんば)といった.ナポレオンは砲兵隊の
機動力を誇った.それはフランスの軍馬の優秀性を物語る.ナポレオンが
没落するきっかけになったワーテルローの戦い(1815年)では前夜来の嵐
のおかげで,さすがの砲兵隊も道が泥海となって野砲隊が計画通り進めなかった
ことも敗因の一つとされる.

 幕末には幕府軍も新政府軍も四斤山砲や野砲を使ったが,ほとんどが
人力で運んでいたらしい.薩摩藩はよく大型の臼砲を使ったが,戊辰戦争
の戦記には分解して人力で搬送していたことが書いてある.理由は馬の
入手困難ももちろん,牽引用の馬具もなかったのだから当然だっただろう.

 初期の輜重隊では,馬の積載量も27貫(101.25キログラム)が基準
とされた.江戸時代の道中では20貫目(75キロ)を標準として,加えて
荷の持ち主が乗っていくことを乗掛(のりかけ)といった.おそらく人の体重
は10貫〜15貫くらいだから,当時の馬の限界だっただろう.ゆったり歩くから,
それですんだに違いない.

 対して,人は7貫(26.25キロ)を背負うとされた.当時のわが国の
道路事情はひどかったので,道幅も馬車どころか馬どうしがすれ違うのも
難しかったところが多い.橋も同じく整備がされていなかった.大きな河川
は浅瀬を選んで歩いて渡る.あるいは小川なら飛び石をつたって流れを
越すようなことがほとんどだった.

 そうなると,経路によっては人の方が効率的であり,馬はあまりあてには
できなかったのだろう.それに日本の馬は蹄鉄(ていてつ)を打たれること
がなかった.だから坂道や泥だらけの道では踏ん張る力も弱かった.
加えて牡馬(ぼば)を去勢する習慣もなかったから,扱いにくいことこの上ない.
噛みつく,蹴る,暴れる,奔走する.北清事変(1900=明治33年)で列国
とならんで出兵した時,『日本軍は馬のような猛獣を使っている』と外国新聞
の記者に報道されたことでわが国の軍馬の資質劣等ぶりは有名になった.

 ともあれ,日本陸軍の輜重部隊が大きな力を発揮させられたのは
1877(明治10)年の西南戦争のことだった.陸軍始まって以来の旅団が
編成された.鎮台が各所に駐屯している軍隊なら,旅団は移動する軍隊である.
各鎮台から選抜されて旅団は編成された.このとき各旅団司令部に「会計部」
が置かれることになった.この長官である司契が一般から募集して,高額な
賃金で運搬人を雇いあげた.それで編成したのが「臨時輸送隊」である.

 ところが,これが大変な問題を起こした.まず戦費総額4156万円の
半分以上がこの人夫の給与に消えてしまった.それに民間人だから統制
に服さず,計画通りに行動しなかったばかりか,当然のことだが西郷軍に
襲撃されると,荷物を放り出して逃げてしまった.

 西南戦争は多くの教訓を産んだ.戦時動員のこと,物資集積や配分,
通信,兵器,戦術などこれからの課題が明らかになった経験になった.
なかでも弾薬・糧食・医薬品,その他の物資運搬についても大きな学びの場
であったことがいえる.

 軍隊で物資の運搬にあたる兵が必要だということから輜重輸卒(ゆそつ)と
いう軍人が徴兵検査で指定されるようになった.ただし,戦闘を行なう輜重兵
とは違う.駄馬の世話をし,荷物を馬の背に載せたり,おろしたり,歩くときには
馬のくつわを取って牽くというのが主な仕事だった.もちろん,馬がいない時
には,自分の背で運んだ.身体は頑丈だが,一般兵になるには背が小さい
などという人が選ばれた.

 その数はたいへんなものである.1912(明治45)年度の数字がある.
この年の現役兵は全兵科で10万3742人,うち歩兵は6万9137人,
輜重兵は1836人で輜重輸卒が1万5492人である.現役兵全体の15%
にもあたる.輜重兵が1.8%だからざっと8倍.これにすぐに入営はしないが,
いずれ教育召集を受けるだろう補充兵は,歩兵が7万2740人,
輜重兵は950人,輜重輸卒はなんと6万3012人にもなっていた.
補充兵に指定された者は全部で15万3080名だから,その全体の4割が
輸卒だった.

▼輜重兵と輜重輸卒

 輜重兵は戦闘兵科である.この兵科が確定したのは1872(明治5)年
の徴兵令の発布からだった.常備軍・後備軍・国民軍と役種を分けた.
兵種を歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵の5つに分けた.翌73年5月には
陸軍武官官等表ができた.このとき,憲兵科が初めて設けられた
(ただし,「憲兵条例」が出され,部隊が置かれたのは1881年のこと).
輜重科にもほかの兵科と同じに大佐から少尉までの将校,曹長・軍曹・伍長
の下士がある.このとき興味深いのが参謀科,要塞参謀科という兵科が
あることだ.ただし参謀科には下士がなく,要塞参謀科には下士があった.

 輜重兵は徴兵検査の概則によれば,『馬の扱いに慣れ,数理的な能力
が高く,指揮能力がある者』を選ぶとある.砲兵の『体格がよく,膂力に
すぐれ,数理的・・・』と比べるとその特性がよく分かる.騎兵と同じで乗馬兵
であり,騎兵銃を背負い,指揮用のサーベルを吊っていた.いわゆる
「乗馬・帯刀本分」とされた.ほかの兵科兵は騎兵以外「帯剣本分」であり,
銃剣を腰に着ける規定だった.それが輜重兵は2等卒でも乗馬長靴,
騎兵用の外套,颯爽たる姿と思われていた.指揮能力が必要というのは,
たとえ下級の1等卒でも駄馬を牽く輸卒4人を指揮したからだ.『輜重上等兵
は歩兵軍曹,輜重下士は歩兵少尉』と謳われたのは指揮する人の数を
言ったものである.輜重兵操典を見ても,主な記述は下馬しての歩兵戦闘
である.3人で組を作り,2人が馬を1人に預け,歩兵と同じく射撃で敵に対抗する.

 輸卒の教育は,まず『馬事提要(ばじていよう)』という馬の取り扱いに関する
マニュアルから始まる.陸軍省副官の名義で発行されたそれは一般書店でも
買うことができた.1944(昭和19)年5月5日,入営当日,安田万吉は分隊長
の軍曹から『輓馬及び駄馬の馭術其他規程の動作を習熟するため』に
召集されたと言われる.『輜重兵操典』と『馬事提要』は入営時にそれぞれが
書店で買ってくるように令状の裏に書かれていた.

 この軍隊生活の苦労は大東亜戦争になって召集された,一作家の体験を
元にした小説に詳しく書かれている.『越前竹人形』や『五番町夕霧楼』など
で知られる水上勉(みなかみ・つとむ)は輜重特務兵だった(ただし,制度では
昭和14年には特務兵という名称はなくなっていた).作中では安田2等兵
だった水上の体験記は第七回吉川栄治文学賞を与えられた『兵卒の?(たてがみ)』
(1972年・新潮社)という.水上が教育を受けた中部ヨンサンは,輓馬2個中隊,
自動車1個中隊の3個中隊で編成されていた.その第2中隊(輓馬)第1小隊
第11分隊に作家は編入されることになった.

 1931(昭和6)年に陸軍は階級呼称を変えた.それまでの1等卒・2等卒
を廃止し,一律に兵とした.もともと兵というのは,単独任務をこなせる上等兵
だけだった.あわせて兵卒といったが,このときの改正で,輜重輸卒も「輜重特務兵」
といわれるようになった.同じように,衛生部の看護卒・補助看護卒・磨工卒も
廃止された.それぞれ看護兵・補助看護兵・磨工兵と改称された.
また,1937(昭和12)年には輜重特務1等兵,同2等兵とされ,翌々年には
すべて輜重兵とされるようになった.

 25歳で小学校助教だった水上(丙種合格・第二国民兵役・私立大学文学部
中退)の充員(補充)召集令状には中部第43部隊,もともとは「墨染輜重隊
(京都第16師団・第53輜重兵聯隊)」に出頭せよとあり,その令状の枠の外
に○に囲まれた馬というスタンプがあった.日露戦争後に輜重輸卒で入営した
父は言った.『とうとう来よったわ,馬のシルシは輸卒やでぇ』と.しかし,
そうであれば,父親のように1カ月,あるいは平時のように3カ月で帰れるかも
しれないと父も本人も少しは安心したらしい.というのは輸卒の人員数である.

 1912(明治45)年の数字をあげたが,平時に1万5000名もの輸卒を全部
収容する設備もなければ,教育にあたる人の余裕もない.そこで輜重輸卒の
現役兵は1年間を4期に分けて入営し,それぞれ3カ月の教育で帰休兵になった.
帰休兵とは兵営にいずに家郷で働きながら服役することをいう.つまり,身分
は現役兵だが,ふだん通りの生活が保証されたのだ.補充兵役や第二国民兵
の輸卒などには教育召集のほかに,まず令状など来なかったのである.

 輜重輸卒は,ほかの雑卒といわれた砲兵輸卒,砲兵助卒,補助看護卒と
同じように2等卒から上級に進む道がなかった.つまり,どれだけ軍隊にいよう
と永久に1つ星の2等卒扱いだった.砲兵輸卒と助卒はそれぞれ砲兵科の中
にあり,輸卒は野戦で弾薬大隊に所属して弾薬輸送を行なった.助卒は要塞
砲兵の下にいて,弾薬運搬に従った.なお,この2つの卒は1907(明治40)年
に廃止された.銃砲弾の補給は輜重兵が行なうようになったからだろう.

 補助看護卒は1900(明治33)年に置かれて,上等・1等・2等の正規看護卒
の補助作業を行なった.補助衛生兵といわれるようになり1等卒まで進めるよう
になったのは,やはり1937(昭和12)年からである.そして輜重特務兵と同じく,
昭和14年から衛生兵の中に吸収された.

▼兵站,行李と輜重兵

 1885(明治18)年,輜重兵1個大隊の編制が定められた.これを明治20年
までの整備目標としたのだった.大隊本部には少佐の大隊長,副官中尉,
下副官の曹長,器械掛曹長,1等軍曹(書簡掛),2等軍曹は4名,書記,
病室掛,喇叭長.軍曹に2階級あるのは,この時期,伍長という官名が廃止
されていたからである(明治17年から,伍長復活は明治32年).2等軍曹は
伍長にあたる.なお,副官とは大隊長の秘書の役目を果たす将校である.
本部付として,経理官,軍医官,副軍医官,獣医官,副獣医官の5人の士官
がいる.下士は蹄鉄工長(軍曹相当),蹄鉄下工長(伍長同),書記(経理部下士),
看護長(衛生部下士),看馬長(獣医部下士),看護卒(のちの衛生兵)2名,
看馬卒(獣医部の卒)2名,それに職工として蹄鉄工6名(獣医部卒),縫工2名,
靴工2名(いずれも経理部卒)がいた.

 中隊は2個である.中隊は4個小隊だった.中隊長は大尉,小隊長は中尉,
少尉2名ずつ,曹長2名,1等軍曹10名(うち半小隊長4・給養掛1),2等軍曹
5名(うち1名は炊事掛),上等兵(分隊長)16名,1等卒25名(喇叭卒1),
2等卒48名(喇叭卒2)であり,輜重輸卒が180名というのが定数になる.
乗馬が71頭,駄馬と駕馬がそれぞれ40頭.駕馬とは後の輓馬のことで荷車
を牽く.合計151頭である.2個中隊と本部をあわせて,人員618名,馬が311頭
だった.

 備考欄を見ると,輸卒は毎年360名を入営させる.ただし,3期に分けて4カ月間
に120名ずつ教育するとある.輸卒の服役は現役1年,予備役6カ年,その後,
後備役に編入する.輸卒の現役徴集人数は各軍管では2500人ずつなので,
360人以外は入営させない.郷里で服務させるので,簡閲点呼には呼び出し
軍隊手帳を交付するとある.

 また,1886(明治19)年には前年の編制の見直しと,部隊付の「行李」,
「兵站縦列」,「輜重監視隊」が定められた.平時編制の1個大隊の大隊本部
と2個中隊を,戦時には大隊本部と5個糧秣縦列と1個馬廠にすることになった.
各中隊は戦時に動員される輜重輸卒他を加えて,戦闘態勢が整った人員も
増えた縦列に変わることになる.馬廠は損耗に備えて,常時100頭の
予備軍馬をもつ部隊である.

 行李は大・小の二種に分けられた.大行李は『宿営地に於いて要する物品』,
少行李は『戦闘中必需の物品』を運び,前者は軍隊とは少し離れて従う.
後者は軍隊に直従する存在である.小行李は衛生資材,弾薬を運ぶ駄馬で
編成される.大行李は将校荷物,炊事具,糧秣を運ぶのが役目だった.

 兵站の輸送隊も考えられ,各師団に1個ずつ「兵站縦列」と3個の「輜重監視隊」
を編成させ運用することにした.兵站縦列は師団長から離れ,軍司令官の
直轄部隊として軍兵站監の隷下となり,後方の倉庫から師団までの糧秣輸送に
働くことになる.つまり,輜重兵大隊は師団兵站の主役であり,軍単位では
兵站部隊がその役をこなすことになった.陸軍大学校教官のプロシャ陸軍
メッケル少佐の指導の結果だった.

 輜重監視隊もよく知られていない部隊だろう.将校以下50名の主に後備役
兵科下士によって編成される完全乗馬部隊だった.輜重兵と同じく乗馬ズボン
に軍刀を吊り,騎兵銃を背負った.師団単位で民間から公募された「軍夫」が
構成する「輜重縦列(主に糧秣輸送)」を管理し,指揮し,護衛する戦闘部隊
である.同年兵と戦場で出会った召集歩兵軍曹の日記がある.
騎兵服(乗馬ズボン)をはいて軍刀を提げ,それでいて緋色(歩兵)の襟章を
着けたままの後備役からの召集軍曹から『わしは輜重監視隊じゃ』と教わった
ことを日記に書いている.輜重監視隊は将校以下50名の完全乗馬部隊だった.

 注目すべきは日清戦争直前の1894(明治27)年の輜重兵大隊編制拡充の
完成である.4月には徴集新入営兵人員数が定められた.近衛師団輜重兵80,
輸卒240,以下第1師団から第6同まで各輜重兵64名,輸卒360名ずつの
合計464名と2400名だった.6月には「兵站竝(ならびに)集積場各部」の
所在を明らかにする標旗を制定した.縦2尺(約60センチメートル),
横3尺(同90センチメートル)の日章旗で「兵站監本部」,「停車場司令部」,
「野戦首砲廠」などと縦書きで記入された.7月2日には馬で牽く輜重車,
大隊弾薬車とそれぞれの輓具の制式が決められた.この図を見ると,輓馬
の体高は1400ミリメートルとされている.体長も鼻の先から尻まで2メートル
25センチである.体高はやはり5尺にはとても届いていなかったのだ.

 そして,8月1日,清国に対して宣戦が布告された.このとき,大本営幕僚
の中に,兵站総監部総監として陸軍中将川上操六,同参謀として歩兵少佐
田村怡與造の名前があり,運輸通信長官部長官は歩兵大佐寺内正毅,
運輸鉄道船舶輸送委員は工兵少佐山根武亮,運輸野戦高等電信部長は
工兵少佐渡辺当次だった.全国から動員された軍隊を港に運び,渡海させ,
戦場へ移動させる仕組みの一端である.

 開戦時の輜重兵大隊職員表の一部を見てみよう.第1師団輜重兵第1大隊
は以下の通りである.

 輜重兵少佐(大隊長),大隊付同大尉1,副官中尉1,下副官曹長1,
中隊長大尉2,大隊付中尉4,同少尉4,輜重廠長大尉1,監務中尉1とある.
興味深いのは将校の中に爵位をもつ華族がいることだ.中尉の中に男爵,
少尉の中に子爵がいた.難波宗美輜重兵少尉は公家の羽林家の家柄の当主
であり,山名義路同中尉は但馬国村岡の旧藩主だった.やっぱり華族様は
輜重兵かと言われたのか,どうか.おそらく2人はもともと華族出身者が多かった
騎兵科からの転科だったのだろう.

 次回は「戦う輜重隊」として,日清戦争を戦い抜いた輜重隊とさらに拡大した
兵站を説明しよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.1.13




『ライター・渡邉陽子のコラム (77) ─ 自衛隊海外派遣の歩み(7) 』
                 渡邉陽子
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$(lastName)さま

こんばんは.渡邉陽子です.

正月に帰省できなかったので,先週末の連休を利用して
実家に行ってきました.

これまでは姉家族と実家で合流していたのですが,
今年は甥っ子のお嫁さんというかわいい家族も増え,
楽しいひとときでした.

若い夫婦がいるって,それだけで場が
華やぎますね(しみじみ).

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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■自衛隊海外派遣の歩み(7)

自衛隊海外派遣の歩みと称し,前回までペルシャ湾掃海艇派遣,
カンボジアPKOをご紹介してきました.今回からはその歩みの3つめ
に当たる,国際貢献の新たな道を開いた国際緊急援助活動について
ご紹介します.

最初の派遣となったのは1998年10月,ホンジュラス共和国のハリケーン
に際しての国際緊急援助活動です.


1992年に「国際緊急援助隊の派遣に関する法律の一部を改正する法律」が
制定され,自衛隊は国際緊急援助活動に参加できるようになりました.

大規模な災害によって被害を受けた国への救援は,スピーディな対応と
短期間で成果をあげることが求められます.派遣される隊員に負担はかかり
ますが,その分「目に見える国際貢献」を果たした達成感もまた大きいものです.


日本は海外,特に開発途上地域で大規模な災害が発生した場合に,
JICAなどが中心となって国際緊急援助活動を行なってきました.
しかし災害の規模によってはより大規模な援助隊が必要だったり,
被災地で自己完結的に活動を行なえる体制が求められたりと,
従来の法の枠では解決が難しい課題も抱えていました.

法律の改正によって自衛隊が国際緊急援助活動やそのための人員などの
輸送を行なえるようになった現在は,これらの問題は解消されました.
自衛隊ならば現地で移動,宿泊,給食,給水,通信,衛生といった支援が
受けられない場合でも,その装備や組織,訓練などの成果を生かして
援助活動を実施できます.


少し話がそれますが,東日本大震災では官民それぞれが持ち味を生かした
支援が被災地で展開されました.多くのボランティアも被災地に足を運び,
今でも息の長い支援を続けています.しかし阪神淡路大震災が起きたときは,
今ほどボランティアは身近なものではなく,困っている人の助けになりたい
と思ってもその手段がわからないということも多々ありました.

また,これは実際に現地にいた人から聞いた話ですが,ボランティアに来ましたよ
と市役所にやってきた人の中には「それで僕らの食事はどこですか」と尋ねた人
もいて,職員を唖然とさせたそうです.一方,自衛隊は自己完結が鉄則.
自衛隊ならば間違っても「助けに行った人間が助けられる」というような事態
はありえないわけです.


1998年,ハリケーンによる大きな被害を受けた中米のホンジュラスに,
自衛隊が初めて国際緊急援助隊として派遣されることになりました.

現地で宿営し支援活動を行なうのは陸上自衛隊の部隊で,その部隊の必要と
する装備品などを輸送するため,藤川壽夫1等空佐(当時)を隊長とした105名
からなる空輸隊が編成されました.


「国際緊急援助法が改正されて,自衛隊も援助隊として参加できるように
なりましたね.ちょうどその時期,空幕運用一班の総括をやっていたので,
国際緊急援助活動関連の基本計画については私も関わりました.

ただしこれはアジア,太平洋,オセアニア,このエリアだけに限定した計画でした.
それが中米,約1万8000km離れたホンジュラスでしょう.検討している地域では
なかったので行くことはないだろうと思っていたのですが,どんどん状況が変化
して,1週間後には出発ということになりました.当時,国外に運航できる機種
は政府専用機とC-130Hだけ,必然的に小牧基地の第1輸送航空隊にお鉢が
回ってきました.そしてそのときは小牧の副司令だったものですから,
私も隊長として行くことになったのです」

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.1.14




兵法三十六計(9)

第九計 「隔岸観火(かくがんかんか)」
    ─「内政不干渉」政策の実態─

     元防衛省情報分析官・上田篤盛(あつもり)
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□はじめに

 北朝鮮が電撃ともいえる核実験を挙行しました.
これに関しては,先週号で若干の分析を掲載しましたが,
拙者のコメントが今月18日発売の「週刊プレイボーイ」号の
巻頭特集で掲載されます.よろしければ,ご確認ください.
http://okigunnji.com/url/54/

 また,今回のメルマガでも少し,北朝鮮の核実験について言及します.

▼「隔岸観火」は「内政不干渉」政策

「隔岸観火」は「岸を隔(へだ)てて,火を観(み)る」と読む.
この計は対岸の火事,すなわち他人の災難に対しては手を貸さず,
じっと静観するというものである.類語に「拱手傍観」(きょうしゅぼう
かん)がある.

 ただし,重要な局面にただ傍観しているだけでは兵法でもなんでもない.
この計が兵法たる所以(ゆえん)は,敵の内部分裂などをじっくりと静観し,
無駄な労力を費やすことなく力を蓄えて,機をみて敏に自らの利益を
得る行動にでるからである.

 中国の外交は「内政不干渉」を基本原則としている.この原則は
「国家は国際法に反しない限り,一定の事項について自由に処理できる
権利を持ち,他国はその事項について干渉してはならない義務がある」
というものである.

 実はこれは中国の一流のレトリックであって,中国の「内政不干渉」は,
最小限の労力で最大限の国益確保を追求する「隔岸観火」の応用でもある.

▼曹操が「隔岸観火」により戦わずして勝利

 後漢時代末期に遡る.曹操と袁紹の戦いで曹操は次々と勝利を重ね,
袁紹は敗北の精神的苦労が重なって病に伏した.

 袁紹には三人の息子がおり,いずれも袁紹の地位継承を狙っていた.
袁紹の地位を継承したのは次男であった.長男は当然,大きな不満を抱えた.

 曹操はこの内部紛争を好機としてとらえ,袁紹の一族を一気に攻め落とす
ことを考えたが,三人が一致団結して,曹操の攻撃を防御する動きをみせた.

 これをみた曹操は「いま攻撃を仕掛けることは得策ではない」と判断し,
袁兄弟の内紛が再燃するのをじっと待った.案の定,兄弟間で内紛が
再燃したが,それでも曹操は大掛かりな攻撃を控えた.

 その後,曹操は三兄弟の長男を殺害した.自らの身を案じた次男・袁尚と
三男・袁熙の兄弟は,中国北部(現在の内モンゴル自治区)に居住する
異民族の烏恒(うがん)の下に身を寄せた.曹操は烏恒を攻撃してこれを
破った(白狼山の戦い).

 しかし袁兄弟は,さらに辺境にいる遊牧民族の公孫康(こうそんこう)に
助けを求めた.部下が曹操に対して,「公孫康と袁兄弟もろとも一挙に片づける」
よう進言したが,曹操は「公孫康は袁兄弟を恐れていた.だが,いま攻撃を
行なえば,公孫康と袁兄弟は連合する.しばらくすれば,お互いが寝首を
かこうとする.わが軍をわざわざ動かして犠牲を払うことはない」と述べた.

 曹操の読みどおり,公孫康は袁兄弟を殺害し,その首を曹操の下に届けてきた.

▼対アフリカ政策にみられる「隔岸観火」

 中国は石油資源の確保などからアフリカ諸国への進出を強化しているが,
この対アフリカ政策において,中国は「隔岸観火」,すなわち「内政不干渉」
の原則を基本に据えた巧みな外交を展開している.

 2011年の「リビア内戦」への対応などその好例であろう.2011年,リビアでは
カダフィ大統領が1969年以来,41年間というアフリカ最長の独裁政権を
誇っていた.ところが,チュニジア発の「ジャスミン革命」,エジプトにおける
内乱などの「アラブの春」が発生し,その波紋により,リビアでは民衆による
カダフィ大統領の退陣要求へと発展した.やがて,カダフィ勢力と反カダフィ勢力
であるリビア国民評議会との本格的な内戦へと突入した.

 その結果,カダフィは死亡し,国民評議会がリビア全土を掌握し,新たに
リビア共和国が建国された.この間,欧米はカダフィ勢力によるデモ弾圧
を厳しく非難し,人権尊重を要求するなど,早くから国民評議会の支持で
結束していた.

 しかし中国は「内政不干渉」の立場を示し,欧米の国民評議会支持に
同調しなかった.だが,カダフィ派の形勢が不利になるにつれ,中国は
国民評議会との接触を開始した.そして国民評議会の勝利が確定すると
すぐに国民評議会を正当政府として承認した.中国は国民評議会から
「中国によるリビア再建のための参加を歓迎する」との言質(げんち)を得る
ことに見事に成功した.

 リビアは世界第8位の石油埋蔵量を誇る石油資源国である.中国に
とって同国に対する影響力を保持しておくことは石油戦略のうえからも
重要である.そのため中国は「内政不干渉」の原則を示し,カダフィ派
と反カダフィ派のどちらが内戦に勝利しても,影響力を保持できるよう
「隔岸観火」を採用したのであろう.

 中国の対アフリカ政策の基本路線ははっきりしている.“人権侵害”が
行なわれている国においてもこれを問題とせずに,「内政不干渉」の原則
を保持し,「問題解決は主権当事国におまかせする」ことを建前とする.
しかし,その実態は資源などの権益を確保するためのレトリックなのである.

 近年は,世界各地における中国の関与が大きくなり,自国権益を守る
ためには欧米諸国と連携・協調する必要性が強調されている.これに
ともない,中国は「内政不干渉」の原則を転換したかのように,積極的な
国際支援の側面も出してきてはいる.

 しかしながら,中国は欧米諸国の行動や対応を見極めつつ,自らが
構築した既得権益や影響力を失わないよう,「内政不干渉」を原則に掲げ,
最小限の犠牲で最大限の効果を求める,慎重な政策を追求することに
変化はない.

▼対中東政策における「隔岸観火」

 中東ではシリア情勢が混沌としている.米国は,シリアのアサド政権の
退陣とIS(イスラム国)の打倒を狙いに,反政府武装組織の「自由シリア軍」
(反アサド勢力)への軍事支援などを行なっている.しかし,米国の
対シリア政策は袋小路に迷い込んだようである.

 他方,ソ連はISの撲滅よりもアサド政権を擁護することを狙いに,
反アサド勢力に対する本格的な軍事介入を行なっている.
しかし,エジプト・シナイ半島上空におけるロシア航空機の爆破や,
トルコ戦闘機によるロシア軍機の撃墜など,対シリア作戦の行方は安閑
とはいえない.

 このように対シリア政策をめぐり米ロがそれぞれの思惑で動き,
ともに明確な終結地点が見えないなか,中国のスタンスはどうであろうか?

 中国は「シリア問題は政治的に解決すべきである」「暴力的手段に道
はない」「国際社会の人道主義支援を強化し,同時に国際テロ協力を強化
する」(2015年11月20日,洪磊報道官)と主張している.
すなわち,「隔岸観火」を決め込んでいる.

 この背景には,イスラム教の新疆ウイグル族を抱える中国が,「ISを過度
に刺激すれば国内問題への対応が複雑化する」「IS対応に払う労力よりも
新疆ウイグル対処の方を重視すべきだ」「中東地域における米・ロの影響力
増大は望まない」などの戦略的判断があるとみられる.

 2015年11月13日のパリ同時多発テロ事件後の15〜16日にトルコで開催
されたG20では,中国の王毅外交部長(外務大臣)は「反テロでのダブル
スタンダードを持つべきできない」「中国国内のテロも重視すべき」だと主張した.

 そして王毅外交部長は「国外の過激派組織が直接指揮する襲撃が中国国内
で増加している」として,国際の目を新疆ウイグルの実情に注目させようとした.

 このように中国は自らが“火の粉”をかぶる可能性がある事項や,自らの
国益に反する事項に対しては「隔岸観火」を決め込む傾向にある.
逆に新疆ウイグルなどの国内問題に対しては,外国報道機関や人権団体
の活動を厳しく規制し,事件に対する一方的な中国側の発表を国外宣伝して,
これを根拠に弾圧強化などの“免罪符”を得ようとしているのであろう.

 ところで,中東ではISの活動のみならず,サウジアラビアとイランの国交断裂
という激震級の事態が発生した.早速,イスラム教スンニー派が大多数を
占めるバーレーンやスーダンがサウジアラビアに味方し,イランとの国交断絶
を発表した.

 他方,イランはイスラム教シーア派の盟主として,イラクおよびシリアとの
連携強化を模索していくであろう.そうなれば,中東は“第5次中東戦争”へ
突入する危険があると言っても過言ではない.

 米・ロは中東における事態が拡大しないよう,両国に対して自制を促している.
仮にイランを孤立させるようなことにでもなれば,米国が長年努力してきた
イランの核廃棄に向けた外交努力は水泡に帰し,さらにはイランが北朝鮮
と結びつき,北朝鮮の核が中東に流出し,中東情勢を著しく不安定化する
という“悪の連鎖”が生じる危険性さえある.

 中国はこれまで石油大国であるサウジアラビア,イランの両国に対し,
ともに良好な関係を築くようバランス外交に留意してきた.今国の対立
においても,いずれの一方にも加担することはできないであろう.

 他方,この地域に対しては,中国は米ロほどに影響力を有しておらず,
基本的には米ロの動向を「隔岸観火」し,“漁夫の利”を得る作戦に出る
であろう.ただし,中東は習政権が目指す「一帯一路」の大動脈にあたり,
かかる地域の政情不安定は他人事ではない.

▼中国の対北朝鮮政策はいかに?

 本年1月6日,北朝鮮が核実験を実施した.これに対して,中国は
同日の声明で「核実験に断固として反対する」と強く反発する声明を出した.

 しかし,その一方で,米国が1月10日,B-52戦略爆撃機を南北境界線
に近い烏山(オサン)の軍基地上空を飛行させたことに対して,中国外務省
の洪磊・副報道官は,11日の記者会見で「北東アジアの平和と安定を守る
ことは各国の共同の利益に合致する.各国は慎重に対応し,情勢の緊張
を高めることを避けることを希望する」と述べ,米国に自重を促した.

 北朝鮮のミサイル実験や核実験に対して,中国は最近,「国連安保理
決議を粛々と履行する」などの姿勢を保持している.しかし,これは中国の
権益が世界規模に拡大している状況で,「責任大国」としての自らの立場
を対外的に誇張することに大きな狙いがあると思われる.

中国は,1)朝鮮半島が不安定化して難民が中国国内に流入する,
2)北朝鮮における自らの経済利益が喪失する,3)北朝鮮が崩壊して米国
に対する安全保障上のバァファーが失われる,4)核放射能が国内に飛散
するなどを懸念している.そのため,北朝鮮を過度に追い込み,暴発させない
ため,米・韓に必要以上の協調は回避する可能性が高い.

 この点に関しては過去の事例が参考となろう.2010年,韓国艦艇「天安号」
の爆破事件が生起した.これは9分9厘,北朝鮮の仕業だと推量され,韓国
は米国と連携して激しく北朝鮮を批判した.同時に,中国に対しても,北朝鮮
に圧力をかけ,こうした無法行動を抑制するよう促した.

 しかし,中国は「この事件が北朝鮮の仕業とは断定できない.関係国には
冷静さと自制を要望する」「六者会合を通じた対話が唯一の解決策であり,
北朝鮮を過度に刺激すべきではない」との「隔岸観火」を決め込んだのである.

▼中国の別の動きにも注意せよ!

 今回の北朝鮮の核実験に対し,中国は国連の求めに応じて制裁に同意
するであろうが,日・米の期待どおりの役割を果たすのかは,はなはだ疑問である.

 わが国は独自に「拉致問題」の解決と,安保理非常任理事国として北朝鮮
の非核化という難しい舵取りに向かうことになる.そこで,わが国が強硬姿勢
で北朝鮮に圧力を加えようとしても,中国との連携に配慮しようとしても,
そこに中国兵法の“落とし穴”が待ち受けている可能性に注意しなければならない.

 中谷防衛大臣は1月12日,「尖閣諸島周辺などで中国軍艦がわが国の領海
に侵入した場合には,海上自衛隊の艦船が対処に当たる可能性がある」との
認識を示した.これに対し中国外務省は,「東シナ海の緊張状態がエスカレート
するのをみたくない」と不快感を示したうえで,「対話と協議を通じて問題を解決
していきたい」と述べた.

 中国は北朝鮮問題が注目を浴びている最中でも海洋に対する進出をゆるめる
ことはないであろう.1月12日には武装した法執行船がわが国の領海を侵犯した.

 また中国は「日本は北朝鮮問題ばかりか,東シナ海でも“力による現状変更”を
追求している」と国際宣伝して,自らの“汚名”をそのまま日本に着せ,自らは
あたかも“平和愛好家”かのような国際世論の醸成を狙ってくる可能性がある.

 わが国は,北朝鮮問題での中国の積極姿勢をうながすばかりに,南シナ海
および東シナ海における中国による進出への警戒をゆるめてはならないし,
中国の“舌戦”に負けてはならないのである.

(次週,第10計「笑裏蔵刀」に続く)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.1.19




【短期連載】 外人部隊の真実 

最低限の基礎体力をつけてから志願しよう─外人部隊の真実(2)

 元上級伍長 合田洋樹
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□はじめに

 この項では,外人部隊に志願するに際して,最低限達して欲しい
基礎体力について,私の経験をもとに書きました.明確な目標を志願者
に与えると,それに向けて努力しようとする者が増えるとの思いがあるから
です.またこの最低基準を設けることにより,この10年ほどで増えた
「軍人としてまったく適性のない日本人」志願者に,志願を思いとどませる
狙いもあります.一般の方には信じられないかもしれないですが,恐ろしく
貧弱な日本人も志願しにくるのです.

 まったく走れず,懸垂が4回しかできずによく外人部隊に志願する気になるなと,
逆に感心してしまいます.そのような人たちは明らかに軍隊のことを甘く
見すぎています.外人部隊に入隊すれば「鍛え直してくれる」,そう思って
いたのでしょうか?

 日本人に限らず,他国出身の志願者の中にもこのような者は多いのです.
私が志願した時には「俺は元スペツナズだ」とまわりに言いふらしていた
ロシア人が,まったく運動ができず失笑をかっていました.

 なんの準備もしないで入隊すると,基礎教育中の同期や上官から
ゴミのように扱われることとなるでしょう.運動ができず,マラソンや行軍に
ついて行けなくなると,皆の足を引っ張ることになります.そうなれば当然,
仲間や上官は苛立ちます.逆にしっかりと準備してくれば,基礎教育の
段階で同期よりも頭一つ抜きん出ていることに気づくはずです.志願前に
流した汗は必ず報われます.

 マラソンや腕立て伏せといった基礎体力づくりとは別に,10キログラム以上
の荷物を入れたバックパックを背負い,起伏のある道を10キロほど早足
で歩きまわるのもよい訓練になります.とくに落下傘連隊を目指すので
あれば,このトレーニングは行なっておいたほうがよいでしょう.

 前置きが長くなりましたが,以下,本編です.

▼最低限の基礎体力をつけてから志願しよう!

 入隊前に身につけてほしい最低限の基礎体力は次のとおりである.
人によってはハードルが高く感じられるかもしれないが,本気で入隊を
希望するならこれくらいできるはずだ.逆にこれができないのなら,
本気ではないという証拠.
若者であれば半年もトレーニングをすれば,これくらいのレベルには
なるだろう.私は高校2年生のころから少しずつ準備を始めたので,
志願前にこのレベルはクリアしていた.

● 腕立て伏せ50回
● 懸垂10回(順手)
● 腹筋は2分間以内に60回
● スクワット40回
● 5メートルのロープ登りを両腕だけで1回.さらに両腕と両足を
使ってもう1回(ロープ登りをする場所がなければ,懸垂10回でOK).
● クーパーテスト(400メートルトラックを12分間走り続けた距離)で
最低3000メートル以上走れること.
● 水泳は入隊時のテストにはないが,基本的に志願者は全員泳げる
という前提だ.だから最低でも100メートルは泳げるようにしよう.
クロールでも平泳ぎでも構わない.それに最低10メートルの
潜水(筆者注:毎年一回,どこの連隊でもCCPMと呼ばれる体力テスト
が行なわれ,その際に水泳テストもある).

 今までまったく運動してこなかった人は,少しずつ身体を慣らしながら
やっていく.もしケガをしたら無理せず,しっかり休養をとろう.運動を
始める前には身体を温め,終了後はきちんとクールダウンをする.
寒い時は薄着ではなく,厚着をした方がよい.夏でも冬でも暑いと感じる
くらいの方が,蒸し暑いアフリカや南米のギアナに派遣される前の訓練にもな
る.柔軟性を保つためのストレッチも忘れずに.柔軟性を欠いた身体はケガ
をしやすい.

 最低限これくらいの体力がないと基礎訓練を上位で終えることはできない.
それは自分が望む連隊に配属されるチャンスを逃すことにつながる.
逆に運動の成績がよければ基礎訓練での成績も上がり,望む連隊へ行ける
確率が飛躍的に高くなる.だから日本にいる時に,ある程度以上の基礎体力
を養っておく必要がある.志願前に流した汗は入隊後に必ず報われる.

 体力に余裕があれば心の余裕も生まれる.小隊の先頭をきって走るのは
壮快だ.毎日のように部隊で行なわれる体力錬成も楽しみへと変わっていく
だろう.周囲に一目置かれるようになれば部隊の生活も楽しくなること請け合いだ.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.1.20




荒木 肇
『戦う近代日本・日清戦争──日本陸軍の兵站戦(7)
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▼兵站勤務令の制定

 1889(明治22)年,『野外要務令草案』が作られた.また,91年(明治24)年
には,『野外要務令』が制定され,『兵站勤務令草案』も発表された.
この兵站勤務令は5つに分かれていた.『戦時輜重兵大隊勤務令』,
『弾薬大隊勤務令』,『架橋(がきょう)縦列勤務令』,『輜重監視隊勤務令』と
『兵站糧食縦列勤務令』の5つである.

 手元にある野外勤務令の中の歩兵大隊大行李の編制を見る.
荷物駄馬9頭(以下同じ),炊事具駄馬8,糧秣駄馬13,予備駄馬2の馬は
合計で32頭.「尋常糧秣」は精米6合,塩もしくは梅干,魚菜類若干.「携帯糧秣」
が「糒(ほしい)」2日分,ただし1日分は3合.食塩若干,状況によって糒の代わり
に「乾麺麭(かんめんぽう)」ないし精米とある.また,単位ごとの携行糧食の分類
と保有日数が示されている.それによると,携帯糧食は2日分,大行李1日分,
兵站縦列3日分の合計で6日分になる.

 尋常糧秣は野外炊事具を使って給食する.各大隊には「戦用炊具」といわれた
竈(かまど)と鍋がある.歩兵大隊では大行李の中の炊事班が調理給食を
行なっていた.各師団では,前に書いたように6日間分をもち,軍の兵站縦列
が大行李への補充のために3日分をいつも保管していた.

 ここで給食のシステムをまとめれば,兵站監の隷下の兵站縦列(中隊規模)
が大行李の使う尋常糧秣を補給する.大行李が各中隊の炊事班に食材を
供給し,それを戦用炊具で調理した.できあがった食事を各兵に支給すると
いうことになる.こうした食糧を運搬する大行李の中の「糧秣駄馬」は
主食駄馬8頭,副食駄馬3頭,馬糧駄馬2頭の合計13頭が編制になっていた.
この歩兵大隊大行李には,歩兵のほかに輜重兵下士が1名,輜重兵卒が4名,
輸卒が60名くらい配属されていた.

▼日清戦争は初めての大動員だった

 日清戦争では,近代日本始まって以来の大規模動員が行なわれた.
国内各地の聯隊や大隊が海を越えて出征していった.その動員計画は,
ち密かつ膨大なもので,全国各地の駅から鉄道を使って乗船地へ向かう
ことになった.東京の近衛師団は東京の青山(師団司令部所在地)から
広島まで569.96マイル(およそ900キロメートル)を44時間で移動した.
同じく第1師団でも群馬県高崎の第1歩兵旅団第15歩兵聯隊は629.79マイル
(同1000キロ)を50時間で移動した.第2師団の歩兵第5聯隊は最長区間
の青森・広島間の1020マイル(1600キロ)を78時間あまりで走り抜けている.
近衛・第1・第2・第3師団と第4師団は広島・宇品に向かい,第6師団1次隊
は熊本・門司の120マイル(190キロ)を7時間半で動いた.

 近衛師団の移動した総人員は約1万8000名,馬匹3800頭,それらが
61個の列車に分乗し,客車およそ500,貨車1000輛を使った.
6日14時間22分で広島に着いている.第1師団は8日半,第2師団は9日半,
第3師団は17日10時間,このような長時間の移動は10年後の日露戦争
に比べるとひどくゆっくりしていた.動員完結までの時間の違いも大きかった
からだろう.道路事情も悪く,人馬が召集された部隊に集まるまでの時間も
多くかかったからだ.

 もちろん,広島県宇品港,福岡県門司港,小倉港からはチャーターされた
民間船舶が朝鮮へ向けて出港した.その数は2000トン以上の大型船が8隻,
1000トン以上の中型船は61隻,1000トン未満の小型船は43隻が
使われた.登簿トン数は合計で約13万4000トンだった.
 
 この時の動員計画は1893(明治26)年に改正された戦時編制によるもの
である.戦時には現役・予備役・後備役の者で野戦隊・守備隊・補充隊を編成
する.また,必要に応じて国民軍を召集・編成することとされた.当時の徴募組織
は1888(明治21)年の勅令によって定められた師団司令部条例,旅団同,
大隊区同によっていた.師管区は2個の旅管区に,1個旅管区は数個の
大隊区に区分されている.のちに大隊区は聯隊区に改められた.

 開戦の決定とともに,兵站糧食縦列を増やして2個縦列とした.そのほか,
動員計画にはなかった部隊を編成しなければならなかった.面倒だがすべて
を列挙してみよう.まず,開戦の年,6月からつくられたもの.
 ・臨時攻城廠縦列(大陸式の城壁に囲まれた都市への攻撃が予定されたため)
 ・第1・第2電線架設(がせつ)支隊(兵站総監の隷下)
 ・臨時南部兵站電信部(南部兵站監の隷下)
 ・臨時東京湾守備隊司令官(第1師団長が区処する)
 ・臨時東京湾守備砲兵隊(臨時東京湾守備隊司令官の隷下)
 ・臨時下関守備隊司令部(第6師団長の隷下)
 ・臨時長崎守備砲兵隊(長崎守備歩兵大隊長の隷下)
 ・下関水雷布設部(下関守備隊司令官の隷下)

 続いて9月以降には,第1軍所属の予備砲廠,同じく第1軍の臨時攻城廠,
第2軍所属の臨時攻城廠がそれぞれ1個,第2軍兵站電信部が編成された.
また,軍馬の徴発,買い入れなどに役立たせるために各師管区の中に1個
ずつ臨時予備馬廠を開いた.大本営所属の臨時測図部(地図を整備する部隊)
もおくことになった.

▼兵站監と隷下部隊

 全野戦軍の兵站を統括するのは野戦兵站総監になる.このときの
野戦兵站総監は参謀本部次長として名高い川上操六中将(1848〜1899)
であり,兵站事務,運輸通信事務,野戦監督事務,野戦衛生事務を
統理(統一しておさめること)した.大本営の総監部には参謀・運輸通信長官・
野戦監督長官・野戦衛生長官や管理部長などの職員がいた.これらは平時職
からそのまま戦時職に移行した.たとえば陸軍省経理局長が戦時補職として
野戦監督長官になり,衛生部長が同じく野戦衛生長官になった.運輸通信長官は,
鉄道・船舶・車馬などで行なう運輸と電信・郵便の事務を統理する.監督長官は
野戦軍に関しての会計事務を統理する.衛生長官は野戦軍に関する衛生事務
を統理した.

 野戦軍では師団の上に軍がおかれた.この軍ごとに兵站監部がある.
長官は兵站監で,その下には参謀長・兵站監部・兵站輜重と兵站司令部があった.
兵站監部は憲兵・法官部・監督部・軍医部・兵站電信部で構成された.監督部は
糧食や馬糧を担当する糧餉(りょうしょう)部と物資の調達業務や現金を扱う
金櫃(きんき)部に分かれた.

 兵站輜重はその編成は多様だった.現地軍の実情に合わせたためである.
戦闘序列によって第3師団と第5師団は第1軍軍司令官山縣有朋大将の隷下
にあった.その表を見てみよう.軍参謀長は小川又次少将,砲兵部長黒田少将,
工兵部長矢吹工兵大佐,第3師団長は桂太郎中将,第5師団長は野津道貫中将
である.この第1軍の兵站監は陸軍少将塩屋正圀,参謀長は歩兵中佐竹内正策.
塩屋少将は砲兵出身,のち中将に昇任,日露戦争では留守第7師団長を務めた.
以下,( )内は団体の個数になる.

 野戦砲廠(2),野戦工兵廠(2),砲廠監視隊(2),輜重監視隊(4),
衛生予備員(2),衛生予備廠(2),患者輸送部(3),兵站糧食縦列(2),
それに兵站司令部(1)という構成だった.砲廠監視隊は技術系統の勤務者が
多い砲廠を護衛する部隊である.衛生予備員というのは戦地定立病院とも
いう.師団隷下の部隊である野戦病院とは違っている.あとになると兵站病院
に統合されることになった.

▼戦病死者が戦死者より多かった衛生環境

 のちに詳しく「脚気(かっけ)と兵食」の項で述べることになるが,日清戦争
の人的損害は死亡者数2万159名だった.うち軍人・軍属の死亡者数は
1万3488名である.さらにそのうちで戦闘死者,戦傷死者は1417名にしか
過ぎなかった.死者全体の10.5%である.では残りの9割の死因はどうだった
のか.『日清戦役統計』から見てみよう.

 腸チフス患者数2587人(うち死亡率29%),コレラ4241人(同58%),
マラリア5691人(同5%),赤痢7213人(同12%),脚気1万7546人(同6%),
肺炎324人(同16%),急性胃腸カタル6325人(同10%)である.
 
 実は,「脚気」は大騒ぎされている割には戦場で脚気と診断されても,死に
即つながるというものではなかった.危険だったのは2500人近くが亡くなったコ
レラであり,700人以上が死んだ腸チフスである.これら伝染病と比べると,
死者の絶対数は確かに987名と多かったのが脚気である.しかし,罹患者数
が多かった割に死者が少なかったのも事実というしかない.
 
 ここで,衛生関係の兵站のシステムを整理しておこう.1894(明治27)年
6月10日に仮制定された「戦時衛生勤務令」によって定められた表を
見ておきたい.戦時陸軍衛生各部の系統は次のようになる.
 
 平時職の陸軍省衛生部長は明治27年現在,少将相当官の軍医総監だった.
これが中将相当官に格上げされるのは1897(明治30)年のことだった.
日清戦争時には大佐級の軍医監以下,1等軍医正(中佐級),
2等軍医正(少佐級)と1等・2等・3等軍医(大・中・少尉)が軍医官である.
また,薬剤官は最高官等が少佐相当官の薬剤監であり,下士には曹長相当の
1等看護長から3等看護長まで,同じく1等調剤手から3等同(伍長相当)まで
がいた.
 
 野戦衛生長官の下は2系統に分かれる.まず,軍司令部のスタッフである
軍軍医部長,その下には師団軍医部長,混成旅団軍医部長が続き,
師(旅)団軍医部長は「隊属衛生部」,「衛生隊」,「野戦病院」を統理した.
隊属衛生部とは各聯隊・大隊についている衛生部員である.聯(大)隊本部
には2名の,各大隊には1名ずつの軍医がいた.ほかに衛生下士官である
看護長や兵にあたる看護手,補助看護卒がいる.衛生隊は衛生関係者の
部隊ではなく,各兵科から差し出された戦時だけの部隊になる.担架を
かついで前線から負傷者などを後方へ運ぶのが仕事である.野戦病院と
いうのは,そうした建物があるような整備されたものではない.最前線で
応急処置をされた患者を,後方の兵站病院に送るまでの処置をする部隊
である.病院長は少佐相当官か大尉同の医官だった.
 
 もう1つは兵站軍医部長の系列である.兵站軍医部長は中佐相当官で
ある1等軍医正が任じられるのが普通だった.その下には,「兵站司令部
附衛生部」,「兵站病院」,「衛生予備員」,「衛生予備廠」,「患者輸送部」,
「鉄道輸送」,「水路輸送」という各部署がついた.ところで,NHKが製作
したドラマ「坂の上の雲」の中に戦地に記者として出かけた正岡子規の前
に第2軍兵站軍医部長の森鴎外が軍衣の上に医師の白衣を着て現われた.
軍兵站軍医部長が司令部で白衣を着たとは思えない.分かりやすくする
ための演出だろう.
 
 1894(明治27)年8月末に鴎外は「中路兵站軍医部長」に補された.
9月4日に朝鮮釜山に上陸した.中路というのは,釜山から京城を結ぶ道路
のことで延長はおよそ400キロメートルになった.これを中路兵站線といった.
鴎外はその兵站監部の軍医部長だった.このとき,鴎外は石黒野戦衛生長官
あてに報告書を書いている.まず,道路事情や兵站病院,伝染病舎,
患者宿泊所の設置状況だけでなく,兵站線上の飲用水の供給の状況,
兵站軍医部の職員配置,仮舎・天幕の設置状況等である.兵站軍医部長
の仕事とは,こういう幅広いものであったのだ.

▼輸送の主体は雇い人夫だった

 日清戦争では兵站部も,野戦部隊でも糧秣輸送の多くは雇いあげの人夫
の力が主力になった.各師団の輜重兵は主として歩兵聯隊と行動する
野戦輜重兵である.兵站にはほとんど回ることはなかった.10年後の
日露戦争では輜重輸卒を多くそろえ,輜重助卒隊なども編成したが,この時
には民間人の雇いに頼ることになった.

 その総数はおよそ15万2000人(ただし,うち2万3000人は職工・とび職等)
にもなる.外地に出征した現役軍人が8万4000人,予備役5万9000人,
後備役3万1000人の合計17万1000人(すべて概数)に対して,その9割近く
にものぼる民間人が戦地に立ったのである.

 また,道路輸送の主体は駄馬だった.朝鮮と清国の満洲南部の道路の
整備状況はひどく悪く,車両編成部隊は駄馬をつかうことにした.野砲編成の
砲兵部隊も急きょ,駄馬による山砲編成に変えることになった.兵站輸送も
輓馬による車輛牽引から駄馬に,さらには人夫による運送に切り替わった.
おかげで国内の馬の徴発や購入は約3万頭で済んだ.日露戦争時の16万頭
あまりに比べると,国内の生産活動にも負担はかけなかったといえる.

 次回は日露戦争についてまとめてみよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.1.21




『ライター・渡邉陽子のコラム (78) ─ 自衛隊海外派遣の歩み(8) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.

先月末あたりから,いちばん好きな種類のお酒を飲んでしばらくすると,
ひどい頭痛がするようになりました.

グラス1杯飲んだだけで,ほぼ100%痛くなります.
おのずと飲まなくなり,晩酌が習慣でなくなりました.

なにげにこれはすごいです.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■自衛隊海外派遣の歩み(8)

先週に続き,自衛隊初の国際緊急援助活動となった1998年
ホンジュラス共和国への空輸隊の話です.

隊長の藤川氏はメンターとT33で教官を勤め,回転翼に機種転換
してからは救難に関わってきた人物です.

「準備命令が出てから出発までは,約1週間ありました.
航空機には荷物を積み込む手順があり,そこに重量と容積という
ふたつの要素が関わってきます.さらに今回はあちこちに立ち寄り
給油しながら行きますから,最長距離を飛ぶときの燃料と荷物の積載量
で飛行距離が確定します.この辺の準備に時間がかかると困るのですが,
積載する荷物を用意する陸自の医療支援隊は小牧に近い守山駐屯地
からの出発だったので助かりました.距離的にも陸上と航空の専門家同士
での調整がつけやすかったのです」

効率的な積み方は,専門家だからこそ短期間にできること.航空機に
関わる職種というと操縦士や整備員が真っ先に思い浮かびますが,
ロードマスターも輸送機運用に欠かせない非常に重要な役目を担っています.


旅客機なら米本土での一度乗り継ぎで行けるホンジュラスですが,
航続距離に限りのある輸送機は,あちこちの米軍基地に立ち寄って給油
しなければなりません.時間も労力もかかりますが,当時はまだ海外派遣
の経験が多いとはいえない自衛隊に,米軍は非常に親切だったそうです.

「ホンジュラスまではグアム,マーシャル諸島,ハワイ,サンフランシスコ,
テキサスと経由しました.ほとんどが米軍基地なので,飛行場の支援の心配
は全くありませんでした.このときの私たちに対する米軍の支援,協力は実に
スムーズで,非のうちどころがないほどよくしてもらいました.アメリカは
人道支援というのが風潮としてあるせいでしょうか,自衛隊がホンジュラスに
行くということを高く評価していましたね.ホンジュラスの空港の情報なども,
米軍経由で入手できましたし.経路も米軍の戦術訓練に何度も参加しているので,
初めてのところはケリー米軍基地とホンジュラスだけ.飛行距離は長いしきつい
日程でしたが,日頃の訓練と米軍のサポートに支えられました.唯一の懸念事項
だった天候にも幸い恵まれたので,その点は本当にラッキーでした」


そうして飛行時間だけでも片道約35時間,移動に4日を費やした先で待っていた
のは,濁流に飲み込まれた街と,周囲を山に囲まれたすり鉢状の空港でした.


「ホンジュラスのソトカノ空港は米空軍のジェット輸送機でも降りられる長さ
のランウェイがあったし,施設も行き届いた飛行場でした.ここを利用できれば
よかったのですが,医療支援隊がいる首都のテグシガルパまで約80キロ
離れているうえ,そこまでの道路があちこち寸断されているという状況でした.
迅速に資機材を渡すためには,道路が復旧するまではテグシガルパ市内の
トンコンティン空港に降りざるを得ません.しかしこれが着陸に高度な技術を
要求される大変な空港でした.周囲を全部山に囲まれていて,すり鉢状の底の
部分に短いランウェイがあるのです」


「トンコンティン空港」で検索してみると「世界でもっとも危険な空港ワースト10」
「ありえない着陸」など,スリリングな言葉が出てきます.山に近すぎる立地,
短く,しかも斜めに傾いた滑走路.着陸の動画もあるので,興味のある方は
見てみてください.実際,2008年にはTACA航空の航空機がオーバーラン
する事故が起きています.


「ダブルキャプテンで行ったのですが,着陸復行してもいいよと言っておいた
くらいです.それくらいアプローチが難しい空港でした.それが全機一発で
着陸したものだから,米軍のパイロットたちも驚いていました」

素晴らしい! 空自パイロット,お見事です.


「最終的には医療支援隊の資機材を日本からトンコンティン空港まで
約20トン,テキサスのケリー空軍基地からソトカノ空港まで約11トン運びました」

藤川氏が取材時に見せてくださった写真には,現地の惨状が収められていました.

電信柱の中ほどに引っかかっているかろうじて車と分かる鉄の塊,土砂の中に
埋まっている屋根.モノクロの写真かと間違えそうになるほど,すべてが泥一色
に染まっていました.

「ホンジュラスの街の様子は酷いものでした.普段はちょろちょろと流れている川
があって,その周囲はすべて山.トンコンティン空港と同じですね.山の谷間に川と
街があるので,上流で大雨が降るとあっという間に水かさが増して,街ごと濁流に
飲まれてしまった.向こうの民家というのはドロ造りなので,跡形もなくなっていました」

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.1.21




兵法三十六計(10)

第十計 「笑裏蔵刀(しょうりぞうとう)」
    ─中国の「平和的発展」戦略の実態─

     元防衛省情報分析官・上田篤盛(あつもり)
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▼「笑裏蔵刀」は微笑み戦術

「笑裏蔵刀」は「笑いの裏に刀を蔵(かく)す」と読む.この計は,
文字どおり表向きは温和で友好的な態度で接するが,心の奥底には
邪険な企みを持っており,相手が警戒心を解いたところを突いて,
隠していた企みをもって一気呵成に攻めるというものである.
同意語に「口密腹剣(こうみつふくけん)」がある.

 唐の則天武后の時代に遡る.李義府(りぎぶ:614年〜666年)という
政治家がいた.彼は人と話をするときには常に笑顔を絶やさない.
しかし,宰相に抜擢されたとたん,自分に逆らう者は容赦なく斬り捨てた.
このことから「義府は笑中に刀あり」と恐れられた.

 この計は,しばしば“平和愛好家”や“友好家”のように装い,
大衆の立場に立って大衆を助け,大衆を魅了するが,その真の狙いは
大衆の支持を得て自らの立場や権力を強化して本来の目的を達成する
ことにある.成功の暁には大衆のことなどどうでもよい.

 この計はいわば「微笑み戦術」である.ちなみにわが国では,
「微笑み戦術」は某政党の党勢拡大戦術として注目されてきた.

▼東日本大震災時で温家宝総理が見せた「笑裏蔵刀」

 2011年3月11日,わが国の東北地方を襲った東日本大震災において,
わが国は中国から救援チーム15名の派遣と,支援物資などの提供を
受けた.これらの援助に関しては素直に感謝すべきである.

 同年5月21日には温家宝・国務院総理(当時)が来日し,宮城県の
被災地を訪問した.訪問先の小学校体育館で,温氏は津波で家が
流された被災者と膝を交えて“満面の笑み”を浮かべて会談し,子どもたち
にはパンダのぬいぐるみを配った.さらに福島県の訪問先では野菜や
さくらんぼを,都内での晩餐会では被災地の食材を食して「食の安全性」
アピールに一役買った.

 中国側のこうした友好的対応を否定するつもりはさらさらないが,
「友好モード」の演出は“役者宰相”と呼ばれた温氏の真骨頂でもあった.
筆者は,温氏がこの半年前の2010年9月の中国漁船衝突事件で,
訪問先の米国から「(漁船船長を)釈放しなければ,中国はさらなる対抗
措置をとる.すべての責任は日本側が負わなければならない」との
強硬発言を行なったことを忘れることはできない.

 また「友好ムード」が演出される陰で,わが国の南西地域では
中国海洋調査船に搭載されたヘリが,自衛隊護衛艦の上空を
旋回(2011年3月26日)するなど,中国による東シナ海における
影響力拡大の動向があったことも見逃してはならない.

 なお,これに関しては,第五計「趁火打劫」(ちんかだきょう)ですでに
解説したので,これ以上の言及は割愛する.

▼胡錦濤政権が展開した「笑裏蔵刀」の応用

 中国の対外戦略をみるうえでの最近の重要なキーワードが
「平和的発展」(和平発展)である.これは胡錦濤・総書記(当時)が2003年
に提起した国の近代化の基本理念である.当初は「平和的台頭」(和平崛起:くっき)
と呼称された.

 その内容は「中国は現在も将来も覇権を唱えず,外国の脅威にはならない.
善隣外交を軸に周辺国と友好協力条約を締結し,平和的な環境の中で経済的
繁栄を実現し,これをもって世界平和に貢献する」というものである.

 胡氏は「平和的台頭」を掲げた際,「中国が他国を犠牲にして台頭(崛起)
することはない.他国の邪魔をすることも他国の脅威になることもない」と述べ,
「平和国家」としての中国をアピールした.

 また,胡錦濤政権下における外交活動では,「平和的発展」を
中心キーワードに「平和的」「防御的」「友好的」「互恵的」「反覇権主義」
などのキーワードが連発された.この背後には,対外関係の緊張化が生む
コストを軽減し,江沢民政権下で広まった中国脅威論を打ち消すという狙い
があったとみられる.

 この「平和的発展」戦略は,しばしば相手側に対する戦略的牽制として
用いられる.すなわち,「自分も平和を指向しているのだから,お前もそれに
ならえ」との強要である.たとえば,中国はわが国に対して,「日本側が
歴史上の侵略の犯罪行為を深く反省し,『平和的発展』の道を歩むことを望む」
との文脈で用いている.


▼「平和的発展」白書の狙い

「平和的発展」戦略を掲げる一方,胡政権下の約10年間で国防費は
4倍以上に膨張し,南シナ海や東シナ海では強引な海洋進出が展開された.

 こうしたなか,2010年3月に訪中したスタインバーグ米国務副長官(当時)
に対して,中国高官が「南シナ海は中国の『核心的利益』である」と述べたとの
“噂”が広がると中国脅威論が一挙に高まった.

 これに対し,中国は「南シナ海を核心的利益とは言っていない」と,
その打ち消しに翻弄し,「核心的利益」についての定義付けを開始した.
外交担当の国務委員で「戴秉国(たいへいこく,『核心的利益』の発言者?)
が2010年末に論文を発表し,中国の「核心的利益」は,1)中国の国体・政治
体制・政治の安定,共産党の指導,社会主義制度,中国の特色ある社会主義,
2)中国の主権の安全・領土保全・国家統一,3)経済社会の持続可能な発展
の基本的保障,などと定義した.

 2011年11月,国務院新聞弁公室は『平和的発展白書』を発表し
(※6年ぶりの「平和的発展」白書の発表),「核心的利益」を,1)国家主権,
2)国家安全,3)領土の完全性,4)国家統一,5)中国憲法によって確立した
国家政治制度と社会全般の安定,6)経済社会の持続可能な発展の基本的
保障,の6項目に整理した.

『平和的発展白書』について,中国は共産党機関紙『人民日報』で
「国際社会は白書に強い関心を寄せ,中国が『平和的発展』の道によって
世界の平和をもたらすことができると積極的に評価している」と自画自賛した.

「南シナ海は中国の核心的利益である」との発言により,中国脅威論が予想
以上に噴出したため,中国はなんとか「核心的利益」を定義し,「平和国家と
しての中国」を強調することで,噴出する中国脅威論を収束させようとしたの
であろう.

 しかし,その後の中国による南シナ海での海洋進出は止むばかりか,
いっそう活発となり,やがて人工島の建設が着々と進展したのは周知の
とおりである.

 まさに,「微笑み戦術」たる「笑裏蔵刀」の計を用いたのである.

▼習近平政権に引き継がれる「平和的発展」戦略

 2013年3月,全国人民代表大会で国家主席に就任した習氏は,
国連事務総長に対して「揺らぐことなく『平和的発展』の道を進む」と強調した.

 その一方で習氏は,「海洋権益を断固と守り,海洋強国を建設する」こと
を宣言し,国家海洋委員会の新設と国家海洋局の改編という2つの組織改編
を進めることを表明した.

 2015年5月26日,中国は『中国の軍事戦略』白書を発表した.
同白書では,「新情勢のもとで積極的防御という軍事戦略方針を徹底し,
国防と軍隊の近代化を推進し,国家の主権,安全,発展の利益を断固として
擁護する」ことなどが謳われ,とくに「海上の軍事闘争と軍事闘争の備え」
という文言が注目された.

『中国の軍事戦略』白書が『海上の軍事闘争と軍事闘争の備えを最優先する』
ことを際立たせたことに対し,菅義偉・内閣官房長官は「いかなることであっても
武力の使用は避けなければならない.日本は戦後70年平和国家として世界
から高い評価を受けてきた」と発言し,中国を牽制した.

 これに対し,5月27日の定例記者会見で華春瑩・報道官は,
「中国は『平和的発展』路線を堅持し,防御的な国防政策を遂行している」として,
わが国を逆牽制するとともに,「歴史の教訓は,国家の安全に必要で経済の
発展水準に見合った国防力を建設し,絶対にいかなる国家でも中国の主権と
領土の完全性を侵犯することは許さない」とわが国を脅迫した.

 このように,習氏は胡政権の「平和的発展」戦略を踏襲して「平和国家としての
中国」をアピールしているが,その実態は,軍事力を背景とする海洋進出の
ますます活発化であって,それが尖閣などに対する攻勢というかたちで顕在化
しているのである.

▼「平和的発展」のレトリックを用いる中国とわが国メディア

 2015年9月3日,習氏は「戦勝70周年記念式典」を挙行し,兵士1万2千人
による大規模な軍事パレードと,“最新兵器のオンパレード”を国内外に向けて
演出した.この際,習氏は「平和的発展を目指す」「国連憲章を核心とする国際
秩序を守っていくべき」という中国の「平和国家」との地位をアピールしつつ,
「中国軍兵力を30万人削減する」と発言した.

 さらに中国国防部の楊宇軍・報道官は「戦勝70周年記念式典」の
プレスブリーフィングで,「習主席が今回の大会で30万人の兵力削減を宣言した
ことで『世界各国と共に平和を守り,共に発展を図り,共に繁栄を享受する』との
中国の誠意と願いが十分にはっきりと示された.また,国際的な軍備抑制・軍縮
が推進するとの中国の積極的な責任ある姿勢が示された」と述べ,「平和的発展」
の言及と兵力削減をリンクさせた.

 こうした中国の動向に対し『朝日新聞』は,「覇権を唱えず」との見出しで,
「戦勝70周年記念式典」の関連記事を掲載した.この記事は,筆者には
「中国が“平和路線”をまい進している」かのように世論を誘導する一方で,
わが国の「安保関連法」反対動向に利することを意図的に狙った作為が感じられた.

 2015年10月14日,鳩山由紀夫元総理は中国天津市で開かれた国際会議に
おいて,習氏が表明した「兵力30万人削減」をとりあげ,「たいへん称賛されるべきで,
近隣諸国もこれに従おう」と講演した.

 しかし,中国における兵力削減は軍の精強化を目的とする軍改革の一環として
行なわれるものであって,中国が喧伝(けんでん)するような軍備抑制・軍縮の
一環などでは決してない(なお,これについては本連載の番外編『軍改革』で
詳述ずみ).

 おそらく,これが天下の『朝日新聞』にわからないはずはなく,むしろ『朝日新聞』
の報道や鳩山元総理の行動は,中国の「笑裏蔵刀」の計を承知したうえで,
それに便乗して自らの主義・主張を正当化する確信的行為であった可能性さえある.

▼中国の「笑裏蔵刀」に惑わされてはならない!

 わが国を取り巻く環境情勢のさまざまな分野で,中国による「笑裏蔵刀」の計略
が跋扈し,それを礼賛する一部マスコミの報道により,真実が見えにくくなっている.

 まずは,中国の「平和」「友好」「防御」などの美名に決して惑わされることなく,
冷静かつ複眼的な視点から中国の真実の意図を解明する努力を継続する必要がある.
その一つの視座が中国兵法であることはいうまでもない.


(次週,第11計「李代桃僵」に続く)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.1.26




短期連載】 外人部隊の真実 

軍隊でも腕力がものを言う─外人部隊の真実(3)

 元上級伍長 合田洋樹
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□はじめに

 今回は,ほかの軍隊と同様,外人部隊でも最終的には
「腕力が物を言う」ということについて書きます.
外人部隊では,体格がよく,腕っ節の強い者は,良い意味
でも悪い意味でも一目置かれる存在となっています.

 しかし,志願時には格闘技をやっていてもあまり重要視されません.
外人部隊側にとって重要なのは格闘技歴ではなく,
「犯罪歴がないか,また身元確認がしっかりとできるか」だからです.

 もちろんその分野で実績を上げていれば入隊に有利になる
かもしれません.外人部隊には柔道,ボクシング,キックボクシング
といった格闘技クラブがあり,有望だと思われる者は各連隊に
配属されたあと,格闘技クラブに入るよう勧誘されます.
そこで実績を上げればさまざまな大会に出られるチャンスが訪れるでしょう.

 最近では第2外人落下傘連隊の軍曹が,ISKA(国際競技キック
ボクシング協会)のヨーロッパチャンピオンになったり,伍長が
フランス軍のボクシングチームの一員に選ばれ,韓国で行なわれた
ミリタリーワールドゲームズに参加しています.

 当然のことですが,仮に柔道の元金メダリストや,ボクシングの
世界チャンピオンが入隊しても,伍長になるまでは便所掃除などの
雑用はやらなければなりません.外人部隊に志願した段階から,
バックグラウンドの違うすべての入隊者が,同じスタートラインに
立つことになるからです.

 それでは本編に入ります.

▼軍隊では「腕力」がものを言う

 どこの世界でもそうだが,軍隊でも腕力がものを言う.たいていの者
は自分より強い相手には遠慮してしまう.軍隊で暮らすには「強い男」
であるということはかなり重要だ.いくら上官でも,自分よりも明らかに
強い部下であれば多少は気を使う.同じ中隊の仲間ならなおさらだ.
だから日本人部隊兵にはまわりから畏怖されるような存在になってほしい.

 もちろん日常生活で暴力的な行動や態度をとれと言っているのではない.
それでは単なるパワハラで,仲間の恨みを買い,敵を作ることになる.
何か問題に巻き込まれても誰も助けてくれないだろうし,下手をすれば
戦闘中のどさくさで背後から撃たれないとも限らない.

 個人どうしが尊重し合える関係にならなければ,不要な争いごと
が生まれる.それは日本の武道の教えにも反するだろう.

 警務課で一緒に働いていたスロバキア人伍長は,「オレは日本人
は好きだけど,韓国人は嫌いだ」と言っていた.理由を聞いたら,
彼の基礎教育中の同期だった韓国人がテコンドーの有段者
でありながら,非常に暴力的で,気に入らない同期によく暴力を
振るっていたそうだ.

 日本人も含め,外人部隊兵の中には「外人部隊では何をやっても
許される」と勘違いをしている者がいる.誇張された映画や本の影響
かもしれないが,妙に態度が尊大な者がいる.同僚に限らず,
民間人に対しても同様な態度をとる.それが残念でならない.
民間人に嫌われては,部隊の存続にも関わる.

 ここで言う「畏怖される存在」とは,単に暴力的で,恐怖心を与える
威圧的な輩ではない.謙虚ながらも,やる時はやるという心構えを,
自然と見せられる者だ.そしてその強さゆえに周囲に気を配ること
ができる部隊兵である.

 落下傘連隊にいる日本人部隊兵の中には,格闘技をやっていた者
が数人いるが,みんな度胸が座っており,同僚からも一目置かれている.

 勤続4年半の北村伍長は,私と同年齢で,人生経験豊富な男だ.
サラリーマン経験があるからか,人あたりがとてもよく,誰からも
好かれるタイプだ.軍人でありながら,民間人気質も備えていて,
しかもムエタイをやっていたので,肉体的にも精神的にも強く,
まわりからも高く評価されている.

 しかし,なかには「お前が格闘技をやっていようがそんなことは
どうでもいい.オレにはこれがあるからな」と不敵な笑いとともに
巨大なつるはしの柄(え)を持ち出してくる古参の下士官もいる.
つるはしの柄は,過去に部隊内で「罰」を与えるためによく使われた
ものだ.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.1.27





陸軍史あちらこちら
                 荒木 肇
『日露戦争を目指して──日本陸軍の兵站戦(8)』
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□はじめに

 全国各地から大寒波の襲来,大雪の知らせです.
皆様,いかがお過ごしですか.当地では好天が続いています.
申し訳ないようですが,お見舞いを申し上げます.
 今回は,日清戦争後の軍備拡張に励む陸軍の姿をお送りします.

▼陸軍の拡張へ

 日清戦争(1894〜95年)で当時の日本円に換算して3億4400万円
の賠償金を得た我が国は,次の戦争に備えた.独・仏・ロシアの
三国干渉から得た教訓とは世界は強欲であって,力を持つものだけが
正義だという残酷なものだった.さらに南下するロシアの勢力は生命線
もおびやかすものと考えられた.

 賠償金のうち約7900万円は戦費,臨時軍事費の補?に向けられた.
5400万円が陸軍の拡充に,1億2500万円が海軍の建艦費などに
回された.また,5000万円が来る戦争に備えての備蓄となった.
それまでの陸軍省の歳出経常費のうち,軍事費は毎年,約1100万円
あまりだったものが,日清戦後から1903(明治36)年までは約3倍の
3200万円に増えた.正確な比較は難しいが,およそ1円を現在の1万円
とみると,その巨額さが理解できるだろう.一般会計に占める軍事費の割合も,
平均して27%あまりが39%になり,国民総生産に占める割合も2.27%
から3.93%へと大きくなった.

 陸軍の拡張は1898(明治31)年の常備団隊配備表の改正で始まった.
これまで近衛師団の充実は後回しにされて,通常師団に比べて実質6割
しか戦力がなかった近衛師団もほかの師団と同じ編制とされた.
さらに加えて,6個師団と騎兵旅団,野戦砲兵旅団をそれぞれ2個新設する
とした.

 野戦砲兵の火力も充実し,騎兵の増加は機動力と情報収集能力を向上
させ,工兵の兵力も増え,築城・架橋・通信などの技術力も高まった.
陸軍の伝統だった火力重視は新しい連発小銃の採用,新型速射野砲の
開発・整備として花開いた.野戦騎兵旅団と砲兵旅団の新設は,
大きな機動兵力と大火力を運用しようとする新しい編制思想の表れだった.

 新設された師団と歩兵聯隊の数を見よう.北海道の第7師団は,すでに
戦時中に屯田兵を基幹とした臨時旅団から正規の常設師団に昇格していた.
ほかの第8から第12までの5個師団は1898(明治31)年には増設がされた.
歩兵聯隊は20個にのぼる.開戦時には近衛を含めて合計13個師団に
なっていた.師団は司令部に2個歩兵旅団(4個聯隊),騎兵聯隊,
野戦砲兵聯隊,工兵大隊,輜重兵大隊になる.師団騎兵聯隊は乙編制と
いわれ3個中隊である.砲兵聯隊には野砲(輓馬),山砲(駄馬)の2つがあり,
第5,第8,第9,第10,第11,第12の各師団が山砲を装備した.
第7師団は混合,ほかの師団は野砲編制だった.山砲は野砲を軽量化して,
分解して馬の背に載せたり,人力でも運べたりするようにした砲である.
道路が整備されていない戦場に向いている.砲兵聯隊は2個大隊で
各3個中隊,合計36門の砲を装備した.工兵大隊は3個中隊だった.

 近衛師団と第1師団の所管には騎兵旅団,野砲兵旅団がそれぞれ1個ずつ
あり,近衛師団には鉄道大隊も1個おかれていた.騎兵旅団は甲編制と
いわれた4個中隊の騎兵聯隊2個があり,野戦砲兵旅団は3個野戦砲兵聯隊
(合計108門)である.このほかに要塞防衛のための要塞砲兵聯隊が5個と
4個大隊があった.そして,長崎県対馬には警備歩兵大隊がおかれている.
外地に派遣されている部隊は台湾に2個守備混成旅団,基隆,澎湖島に
各要塞砲兵大隊,韓国駐箚部隊,清国駐屯軍などがあった.
これらの外地にある部隊は,みな内地の師団から交代で派遣された.
台湾守備混成旅団は2個合わせて11個の歩兵大隊を持っていたが,近衛と
第7師団を除く11個師団から送られた部隊である.つまり,44個の歩兵聯隊
から1個中隊ずつ選ばれた混成大隊だった.

▼当時の兵役制度

 戦時中に5年間の後備役が10年に延長されるまで,陸軍の兵役は
現役3年,予備役4年4カ月,後備役5年だった.徴兵検査を受験する者を
「壮丁(そうてい)」といった.これは徴兵検査が行なわれる年の前年12月10日
からその年の11月30日までに満20歳になる戸籍法の適用を受ける男子
だった.戸籍法の適用を受けるとは日本帝国臣民のことであり,
のちになってもある時期まで,外地の総督府の管轄下にある「民籍」の適用
を受ける人,朝鮮人や台湾人には兵役義務はなかった.壮丁の生まれ月
も注意してほしい.4月2日生まれから始まる学校の学年とは異なっている.
また,予備役の4カ月の端数が付くのは,これも予算年度と動員年度の違い
によるものだ.現役兵の満期後の除隊は11月30日であり,動員年度は4月
から始まる.新兵の基礎教育期間は4カ月であり,その間は一人前の兵員
としての能力がない.動員が1月から3月までに起きた時,除隊したばかり
の予備役兵卒を召集できるようにするためだ.

 徴兵や召集などの兵事行政は,内務省管轄下の地方行政単位の道府県
とは別に,師管区によって行なわれた.師管区の首席徴兵官は師団長である.
師管区は2個旅管区,各旅管区は2個聯隊区に分かれた(第1師団だけは
8個聯隊区).ただし,近衛師団長だけは師管区を持たない.ふつう同じ聯隊区
に属する若者は同じ歩兵聯隊に入った.郷土聯隊と親しまれたのはここからくる.
ほかの特科隊,騎兵聯隊・工兵・輜重兵大隊へは師管区全体から選ばれた.
近衛歩兵聯隊だけは全国区からの選抜である.天皇陛下の身近に勤務し,
警衛,儀仗に従事する.地方の名士や健全とされた家庭の若者から選考された.
名誉とされた立場だった.ただし,近衛騎兵,同野砲兵,同工兵,同輜重兵など
はほかと同じ,第1師管区から集められた.また,誤解があるが,予備役に編入
されてからの召集は一般部隊へ入営することも珍しくなかった.

 離島の壮丁の徴集(現役か補充兵か,国民兵役か服役の種類を決定する
行政用語)の担当区(警備隊区)も説明しておこう.小笠原(第1師管,以下
数字は師管番号),佐渡(第2),隠岐(第5),沖縄(第6),奄美大島(第6),
対馬(第12),五島(第12)であり,沖縄と対馬以外は麻布聯隊区─小笠原
警備隊区,柏崎聯隊区─佐渡警備隊区,浜田聯隊区─隠岐警備隊区,
鹿児島聯隊区─大島警備隊区,大村聯隊区─五島警備隊区という関係だった.
例外は対馬警備隊区の入営兵は対馬警備歩兵大隊に,沖縄警備隊区の兵
は歩兵のみであり,第6と第12師管の歩兵聯隊に分散して配属されることと
なっていた.

 また,第1師管区だけは8個の聯隊区に分かれた.これには理由がある.
もともと近衛にも師管区があった.1896(明治29)年に聯隊区制度が
始まったとき,本郷,宇都宮,佐倉,水戸の各聯隊区を所管した.
それが1899(明治32)年に近衛歩兵を全国からの選抜にするときに
近衛師管区は廃止され,4つの聯隊区は第1師管区に編入されることになった.
それで第1師団だけは8個の聯隊区をもつようになったのだ.北海道の
第7師団は人口が少なかったため,第1,第2,第8の各師管区からも兵を
集めた.

▼兵事行政の系列

 それぞれの師管,旅管,聯隊区で2つの府県にまたがる地域を持つこと
もあった.逆に1つの府県が2つの師管に分かれることもあった.
しかし,当時の町村を集めた郡が2つの聯隊区になることは一部の例外を
除いてなかった.その珍しい例が北海道にあった.北海道の空知郡が
札幌聯隊区であるのに,空知郡富良野村だけが旭川聯隊区に属しているのだ.
これは動員・召集の場合を考えた特別措置だった.当時,富良野へは旭川
とは官営鉄道で結ばれていたが,滝川から空知川に沿って富良野へ通じる
鉄道がなかったからである.

 聯隊区司令官(ふつう兵科大佐)は兵事行政については直接に郡や市を
管轄していた.兵事行政については,陸軍大臣─徴兵官の首座である師団長─聯隊区
司令官─郡(市区)長─町村長というラインになっている.聯隊区徴兵官は
司令官と郡市長や島司が務め,司令官が首座となり,徴募区(市あるいは
郡のすべてが1つになった)をとりまとめて管轄していた.

 毎年,徴集される現役兵と補充兵の人員数は陸軍大臣が天皇の決裁を
受けて師団長におろす.師団長は聯隊区(警備隊区)司令官に人員を配当
する.司令官は徴募区,市や郡に割り当て数を通知した.徴兵検査までの
手続きは町村長が戸籍簿から兵事掛を使って適齢者名簿を作る.
法律に指定された学校の生徒・学生ならば,戸主がその申請書を提出した.
「徴集猶予」を願うためである.できあがった「壮丁名簿」は2月25日までに
郡長に提出される.郡長はそれを点検後に徴募区にまとめて聯隊区徴兵署
に持っていった.

 徴兵検査はこの徴兵署の管轄だった.身体検査を行ない甲種・乙種の
合格者は順序を決めるために籤(くじ)を引いた.現役兵・補充兵・要員超過
の3つに分けるためである.現役兵は12月1日に指定された部隊に入営
することになった.日露戦争のころの毎年の壮丁数はおよそ40万人だった.
甲種・乙種の合格者はおよそ全体の35%ほどで,丙種(身長5尺未満
など・約30%)は国民兵役に編入された.ただし,徴集率は14%くらいだった.

 兵事行政の特徴は,いま見てきたように,道府県を飛び越えて
直接郡市区町村に直結することである.このことは戦時になると,動員・召集
の事務とあわせて大きな負担を郡市区町村の担当者たちにかけることになった.

 四国はその名の通り,律令体制以来,4つの行政区分が残っていた.
おかげで第11師団(初代師団長は乃木希典中将)は一般行政と兵事の
それがシンプルな結びつきを示している貴重な例である.つまり師管区は
四国全部であり,松山(歩兵第22聯隊)は愛媛県全部,高知(歩44)は
高知全県,丸亀(歩12)は香川全県,徳島(歩43)は徳島全県だった.
管区と行政区域がまったく一致するのはこの師管区の特徴である.

▼後備旅団について

 前にも書いたが師団は動員された結果,戦時編制になる.各部隊は
戦時編制になり召集された人員が増え,装備も運び込まれる.さらに
野戦部隊,兵站,後備隊,留守部隊などを編成する.野戦部隊は人員・装備
も充足した戦闘部隊と兵站をいい,これとは別の兵站があることは前にも
説明した.留守部隊は留守師団長のもとに勤務する補充隊などの諸隊
をいう.それでは後備隊とは何だろうか.

 後備の諸部隊は日露戦争の時には第1次から第2,第3の編成があった.
第1次は近衛師団,第1から第6師団で行なわれた.これらは各兵科に
わたった.第8から第12までの師団では,後備歩兵聯隊と後備工兵中隊
が編成された.第7師団だけは4個歩兵聯隊がそれぞれ後備歩兵1個大隊
を編成するだけにとどまった.第1次の後備歩兵聯隊は野戦師団の歩兵聯隊
と同じナンバーを持ち,聯隊旗の総(周囲を囲むふさ)が現役の紫に対して
緋色だった.そして現役聯隊が3個大隊編制だったのに対して2個大隊つまり
8個中隊である.後備歩兵聯隊は3個で後備歩兵旅団を構成した.
つまり現役歩兵旅団が2個聯隊・6個大隊に対して,後備は3個聯隊・6個大隊
だった.後備旅団の番号は編成を担当した師団の番号を使った.
近衛後備歩兵旅団は近衛後備第1歩兵聯隊,同第2,同第3で編成されていた.
同じく,後備第1歩兵旅団は,後備歩兵第1,同15,同16の各聯隊である.
全部で10個旅団が生み出された.

「花の梅沢旅団」と謳われた近衛後備歩兵旅団は1904(明治37)年11月
には2個聯隊編成だったのが,後備野戦砲兵大隊・後備工兵中隊を配属され
混成旅団になった.その後,さらに後備歩兵聯隊を1個増やされた.
同じように,ほかの旅団も次々と混成旅団になっていった.

 第2次の後備隊は第49から第60までの後備歩兵聯隊(3個大隊編成)で
構成された.第3次は第61,同62の2個聯隊(2大隊編成)をはじめとして,
第13から第16までの後備歩兵旅団に編合された.

 動員された後備歩兵大隊は合計137個にものぼり,現役歩兵大隊数の
156個にもせまる勢いだった.後備騎兵中隊も8個,野戦砲兵も27個中隊,
工兵中隊も19個にもなった.このように,日露戦争は用意された現役兵だけ
の戦争にはならなかった.

▼長大な補給路とその維持

 ロシアは遠くヨーロッパから単線のシベリア鉄道に補給を頼らねば
ならなかった.わが国は距離こそ近いけれど,海を越え,やはり陸路の
苦労も絶えなかった.結局,それは両軍ともに兵力を集中すること,
軍需物資の補給に大きな努力を必要とすることになった.両軍の前主力
を結集して短期決戦を企画しようとも,その必要条件の達成は難しく,
速戦即決型の戦争も不可能だった.だから,一定の兵力の集中を待って
小規模の会戦をくり返すという戦争しかできなかった.

 兵力を集中しようとしても,長く,不安定な輸送路に頼らねばならない.
補給の苦労は大きなものだった.長く続く消耗戦は物資だけではなく,
人員の損耗を補充する必要もある.そのための補充隊や教育部隊の整備,
要員の養成,人はどれだけいても足りなかった.日清戦争では後方の警備
だけをしていればよかった後備部隊も,現役師団と肩をならべて野外決戦
に臨まねばならなかった.当時のわが国は厳しい生活環境の中で,
30歳にもなれば農山漁村では「中老」といわれていた.後備兵役が10年
に延長され,37歳の当時では初老のベテランが戦野で活動したのである.

 次回は,当時行なわれた「壮丁教育調査」から見た陸軍を検討しよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.1.27




『ライター・渡邉陽子のコラム (79) ─ 自衛隊海外派遣の歩み(9) 』
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは.渡邉陽子です.

かつて防衛省の広報誌にセキュリタリアンという雑誌がありました.
私が防衛関係の仕事するきっかけになった雑誌で,防衛弘済会が
発行し,内局広報の陸海空自衛官とフリーランスのカメラマン,
ライターで誌面を作っていました.

「一緒に力を合わせて作り上げる」という思いが強かったうえ,
自衛官の異動や忘年会など宴席で集まる機会が多く,通常なら一緒
に仕事をする機会がない同業者のライターさんとも親しくなりました.
先週は新年会と称してその仲間のひとりの慶事を祝い,久しぶりに
みんなで集って楽しいひとときを過ごしました.

一緒の電車で帰ったひとりが「なんでこんなにほっとするんだろう.
高校の同級生に会ったときみたいな感じだよね」と言っていて,
まさにそのとおりだと思いました.最近は久しぶりに集まるって
誰かが亡くなるとか法事とかのほうがめっきり多くなってしまいましたが,
おめでたい集まりは本当にいいですね.しかし日頃,超健全生活
を送っているので,宴の後半は眠くなって困りました.

R・Fさま
現場の自衛官たちは,自らの活動を発信しません.過小評価や
誤解にも沈黙を貫きます.ほんのわずかでも代弁者の役目を
果たせればという思いで取材をしています.
励みになります,ありがとうございました.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■自衛隊海外派遣の歩み(9)

ハリケーンはホンジュラスだけで死者6400人以上,
行方不明者約1万1000人という惨事を引き起こしました.
150万世帯が家を失い,穀物収穫の70%が壊滅しました.

地球の裏側にあたるような日本にも支援を要請したのは,
天災によって国そのものまで失いかねない危機だったからです.
陸自の医療支援隊は藤川さん率いる空輸隊が往復して
運んだ支援物資や医薬品を使いって診療施設を開設,防疫活動
を行ないました.わずか開設2日目で,医療テントには約2000人
の市民が訪れたといいます.


藤川氏は言いました.
「この任務で印象深かったことは,普段の訓練どおりにやっていれば
できるのだということですね.隊員たちのも通常の訓練同様,
自分の仕事をしっかりやってくれました.ミッションというと気負い
がちになるのではと思いきや,そういうものが隊員たちにはまったく
ありませんでした.現場は非常事態でも,任務の面だけで見れば
極めてノーマルな環境でした」

国際緊急援助活動への参加は初めてでも,すでにPKOで
カンボジアやモザンビークを経験していたので,ノウハウは
蓄積されつつありました.とはいえ現在に比べればはるかに少ない
ノウハウではありますが,それでも隊員たちはさも当然のごとく,
まかせておけという空気を醸し出していたそうです.


藤川氏はホンジュラスの過酷な状況を目の当たりにして,
こう感じたそうです.
「ホンジュラスの人たちはひどい被害に遭っているのにも関わらず,
明るいのです.こちらはスペイン語がわからないから言葉は
通じないのに,すごくほがらかで人懐こくて,目が合えば白い歯を
見せてにっこり笑ってくれます.大変な状況なのにすごいなと
思いましたね.また,JICAの方々が極めて積極的にサポートして
下さっていたのが印象的でした.現地に根付いて技術協力や
指導をしている皆さんは実に立派でした.困っている人を見たら
手を差し伸べる互助精神,それを同じ日本人が外国で実践して
いる姿を目の当たりにして,じんときましたね」

カンボジアPKOの第1次カンボジア派遣大隊長,渡邊隆氏の
「自衛隊,外交官,ODA,海外青年協力隊,文化使節団など
これらすべて含めて国際平和協力」という言葉と,どこか重なります.


取材時はちょうどイラク・サマーワに復興業務支援隊が派遣されて
いる時期でした.
「隊員たちはこのような任務に積極的に参加するべきだと思います.
今回,みんな行きたいと手を挙げるものですから人選に苦労しました.
普段の訓練通りにやっていればどこでも通用するよという話を
経験者から直接聞くと,自分も力を試してみたいという意識が生まれる
のかもしれません.実際,現地で若い隊員の一挙手一投足を
見ていると,頼もしく思えます.隊員一人ひとりが背中に日の丸
背負っているから,上が何も言わなくても行動が統制される.
恐らく今回サマーワに派遣されている人たちも,基本的には同じような
考えを持っているのではないかと思います」


どんな国際緊急援助活動についても,空輸隊は常に主役の影に
隠れた存在です.しかし,彼らの働きがなくては現地での医療・防疫活動
は機能しません.現在では輸送機C−130Hとそれに関わる隊員たち
にとって,国際緊急援助活動による国際貢献は日常の延長に過ぎない,
ごく当たり前の任務になっています.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.1.28




マーケット・ガーデン作戦とインテリジェンス (17)
                長南 政義
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■前回までのあらすじ

本連載は,精確な内容を持つインテリジェンスが一九四四年九月上旬
に連合軍の指揮官に利用されたかどうかを考察することにある.
実は,インテリジェンスの内容は,マーケット・ガーデン作戦実行に
伴うリスクを連合軍の指揮官に警告していた.

指揮官が決定を下すために利用できるインテリジェンスの情報源は
数多く存在していたが,本連載では「ウルトラ」情報により提供された
インフォメーションにのみ焦点を当てて考察を進めることとする.
第二次世界大戦を通じて,連合軍の戦略レヴェル・作戦レヴェルの
指揮官たちはウルトラ情報を活用し,ウルトラ情報の精確性に
関してめったに疑いを持たなかったからだ.

複数回にわたりイギリスの「ウルトラ」計画について述べている.
前回は主として,ハット6のコントロール・セクションとハット3の活動
について述べた.

ハット6のコントロール・セクションの機能は,現代の情報収集管理
や配布部門に相当する.コントロール・セクションは情報収集と
情報分析とをつなぐ導管であり,情報収集担当部門が重要な周波数
に収集の焦点を当て,あまり価値がなかったり全く価値のない周波数
の通信文を収集しないことを確実にしていた.

暗号解読者は「ウォッチ」と呼ばれる場所で働いていた.暗号解読者は,
完全もしくは一部分のみの通信文を受領し,その日の暗号の
鍵設定(日鍵)がなにかを判定するために作業していた.

日鍵が首尾よく特定されると,解読された通信文(ただし,ドイツ語のまま)
は分析のためにハット3へと送られる.ハット3はドイツ空軍および陸軍
に関する通信文のすべてを担当しており,陸軍や空軍の問題について
知識を有する要員が配属されていて,しかもその全員がドイツ語に堪能
であった.

関係する情報ならどんなものでも通信文から抜き取られ,
未来のレファレンスのためにハット3で維持されているインデックス・システム
にファイルされた.いったん通信文が翻訳され分析されると,通信文が
「ウルトラ」情報アクセス権限者リストの誰に,どういった優先順位を
つけて送付されるのか,を決定するためにウォッチの長に通信文が
送られることになっていた.

つまり,Yサービスにより傍受(収集)された通信文はハット6の
コントロール・セクションに送られ,ハット6の暗号解読者が暗号解読
を実施する.暗号解読者により暗号解読が終了した通信文は,
分析担当のハット3に送られてインデックス・システムにファイルされる.
その後,ブレッチリー・パークの担当官で配布先と優先順位が
つけられた後に,分析官の手によるコメントがほぼ附されない形で,
傍受された通信文全体が「ウルトラ」情報のアクセス権限者に配布される
のである.

前回までで,「ウルトラ」情報の「収集」・「分析」過程を説明し終わったので,
今回は,「ウルトラ」情報の「配布」について述べることとする.


■伝達手段開発の必要性

初期の頃,「ウルトラ」情報の配布は,閣僚に限られており,伝令使
もしくは電話を経由して行われていた.しかし,野戦軍司令部が展開
すると,無線通信経由で「ウルトラ」情報を送信することが必要となった.

だが,無線通信を使用してドイツ側通信文の正確な複製を送受信する
には大きな危険が伴う.というのも,ドイツ側が英国がやったのと同じ
くらい容易に英国の暗号を解読し,自国の暗号通信が英国により解読
されていることをたちまちのうちに理解する危険があったからだ.

だが,連合国側が大戦中を通じて,ドイツ軍に暗号読解されることなく,
遠距離にある野戦軍司令部に「ウルトラ」情報を伝達することができる
解決策が考案された.


■ウルトラ計画2つの難問

連合国の通信問題を解決するために,
特別連絡部隊(Special Liaison Units :SLU)が創設されたのである.
ウルトラ計画は,計画の運用的安全を維持するという問題に対処する
ために,2つの大きな難問を抱えていた.

第一の問題は,ドイツ軍に傍受されることなく,野戦軍司令官に「ウルトラ」
情報を伝達することである.この問題は,英国空軍通信部隊から選抜要員
をリクルートし,彼らを特別連絡部隊に配置することで解決された.
空軍通信部隊員は,ワンタイムパッド(乱数鍵を一回のみ使用する暗号の
運用法で,数学的に解読不能とされる)を使用する訓練を特別に受けていた.
ワンタイムパッドは通信を送受信するには好ましい方法ではなかったが,
ワンタイムパッドを使用することで,暗号通信文は事実上解読不可能
であった.というのも,ワンタイムパッドは,通信発信者と受領者のみ
が使い捨て方式の乱数表を持っていて,一回使用された乱数表は
二度と使用されずに廃棄される方式であるからだ.

ただし,ワンタイムパッドも,運用上の誤りや,乱数表が使いまわされると,
解読される危険性が高まる.実際に,米英両国の情報機関がソ連の
暗号文を解読するために行なったヴェノナ計画において,ワンタイムパッド
を使用していたため解読不可能といわれたソ連側の暗号が,一度使用
した鍵(乱数表)を再利用する誤りを犯したために,解読されている.

だが,英国空軍通信部隊員は高度に訓練され,鍵を原則通り使い捨て
にしたため,ドイツ側は特別連絡部隊の通信を解読することはできなかった.

第二の懸念にして,「ウルトラ」情報がドイツにより解読されるパターン
としてより可能性の高かった問題は,情報を受領した部隊が情報源
を偽装することなく,報告書の形で下部部隊に「ウルトラ」情報を配布
してしまうという問題であった.もし,ドイツ側がこの情報が書かれた文書
を鹵獲することに成功し,唯一の可能性のある情報源がエニグマ暗号
であると判断したならば,ウルトラ計画そのものが崩壊してしまう.

特別連絡部隊所属の担当将校が,この事態発生を防止することを確実
にするという報われない仕事を与えられた.司令部内において「ウルトラ」情報
の配布を限定するために,いくつかの保安措置が採用された.

例えば,特別連絡部隊が暗号化された「ウルトラ」情報を復号すると,
担当将校が自身で司令部に赴き,復号された「ウルトラ」情報を
アクセス権限者リストに記載のある人物に閲覧させ,その後,部署に戻って
廃棄するのである.これにより,「ウルトラ」情報を記載した文書が司令部内
で机の上に置きっぱなしにされないことが確実となった.

担当将校にはこれとは別の任務もあった.それは,「ウルトラ」情報が
情報報告書や作戦命令の中で直接言及されないようにすることである.
司令官は「ウルトラ」情報を使用することができるが,情報源を適切に
偽装したり,報告書や作戦命令といった文書内で「ウルトラ」情報に
直接言及しないことを要求された.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.1.28





誠究塾のひとこと(39) 

●安江仙弘大佐 対米外交戦略実行部隊 停戦工作はどうして失敗したの?
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安江仙弘大佐ですね.

彼はユダヤ関係の外交業務を担当していたようですが,
実は日本の停戦工作に奔走しています.

日本はいつの段階で停戦をしていたら良かったかという問題ですね.

 国民党もタイミングによっては戦争をやめたい訳なので,国民党,
米国が戦争をやめていれば,北方領土,満州国,台湾を失わないで
よかった可能性がありますよね.ただ米国がどこで停戦するつもり
があったかという問題はありますけどね.

 このような状況を気球の火事に例示してみようと思います.

 気球が火事になって熱でコントロールが利かなくなると上昇する
しかなくなる為,コントロール可能な段階で一番降下したと思われる
時点で落下できないと,上昇して死ぬ事になりますね.
つまり,どんな手段で下に降りれるのか,どこの時点が一番下であり,
いつ気球から降りて,どこの高度なら死なないかなどを計算する必要
がありますね.
 そして気球から降りたら,気球が浮くので,他の人がその分死ぬ事
になりますから,落ちる時はみんなで降りなければいけませんね.

1,どこが一番下か理解しているのか.
2,いつ降りるのか.
3,いつまで乗っていられるのか.

 気球の事故に気がついたら,これらの事をとっさに考えなければ
いけません.

つまり戦争に負けそうになった時,(気球が落ちそうになったとき,)

1,一番有利な落下(停戦)時期はいつなのか.
2,いつ落下(停戦)するのか.
3,破滅(降伏)するのはいつなのか.

という事をあらかじめ考えていたかどうかという問題です.

 安江仙弘大佐はユダヤの専門家であり,ユダヤ人を通じて
ルーズベルト大統領と交渉し,米国との戦争をぎりぎりまで回避した
という記述があります.しかしながら三国同盟成立もあり米国との和平
は実らず残念ながら米国と戦争になります.開戦後も米国との停戦
をユダヤロビーに働きかけ実現しようとしたら,畑大将に阻止されたり,
重光外務大臣に反対されたり,それでもめげずに敗戦ぎりぎりまで
国民党と停戦を実現しようとして,蒋介石がテーブルに着くという時に
敗戦を迎えたとの記録があります.

 戦争は確かにあまり望ましい手段ではありませんが,しかたなく
開戦するのであれば,首脳陣が以上の3つのことをどう考えていたか
というのは気になります.

 なぜなら勝利目標としてのアジア解放は既に達成されていたのであり,
あとは石原莞爾が言う様な冷戦にて対応するだけで,平和的な戦争
が行えていたのではないかと思うのです.

 石原莞爾はサイパン陥落が戦争を止めれなくなるポイントだと認識
していたようですよね.彼は戦後にサイパン防衛を唱えていますが,
制海権を失った時にいかに要塞化しても島の防衛はできないという点
をどう考慮するのか,しかしラバウルは防衛に成功しているので,
地形的に可能であれば防衛は可能なのか,いろんなポイントがあるのか
と思います.サイパンを最終ラインにするならば,米国と開戦前までに
サイパンの要塞化は済んでいないと米国には開戦してはいけなかった事
になりますよね.サイパン陥落後は日本が敗戦に傾く訳ですから
蒋介石も態度を硬化したでしょうから,停戦にはなかなか応じて
くれなさそうなのも理解できます.

 停戦工作を考える上では上記のような軍事とセットであり,
言葉だけの外交が全く意味を持たないのはオバマ政権でもよくわかり
ますよね.だから安江大佐がいくら動いても,首脳が停戦に興味が
なければ,工作などできっこありませんよね.

つまり

1,一番有利な時期はいつなのか. >サイパン陥落前
2,いつ停戦するのか.>サイパン陥落前
3,破滅するのはいつなのか.>サイパン陥落後 同盟国敗戦後

 ってことでしょうね.つまりサイパン陥落後に停戦交渉しても無意味だし,
それを維持できなかった大本営に大きな責任があると思います.
失敗したから総辞職してなんとかなるものではありませんよね.

 この3つも視点は,外交だけではなく,普段の行動でも役に立つと
思うので,自分としては重要なポイントだと思っています.日本は日本で,
いつでも大本営発表でも別に良いのですが,優れた戦略的視野を
持っていてこその問題だと思っていますよ!

 当時の米国との開戦を避けるというポイントは,現在中国との戦争を
避けるということとも関係してくるので,重要な視点であると考えています.

文責 亀田

参考
大連特務機関と幻のユダヤ国家
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4893503146/

森羅万象の歴史家
http://oncon.seesaa.net/article/124934958.html
 「私が戦争指導をやったら,補給線を確保するため,
ソロモン,ビスマーク,ニューギニアの諸島を早急に放棄し,
戦略資源地帯防衛に転じ,西はビルマ国境から,シンガポール,
スマトラ中心の防衛線を構築し,中部は比島の線に退却,
他方,本土周辺,およびサイパン,テニアン,グアムの南洋諸島
をいっさい難攻不落の要塞化し,何年でも頑張りうる態勢をとる
とともに,外交的には支那事変解決に努力を傾注する.

 とくにサイパンの防衛には万全を期し,この拠点は断じて確保する.
日本が真にサイパンの防備に万全を期していたら,米軍の侵入は
防ぐことができた.米軍はサイパンを奪取できなければ,日本本土爆撃
は困難であった.それ故サイパンさえ守り得ていたら,ボロなガタガタ
飛行機でもなんとか利用できてレイテを守り,当然五分五分の持久戦
で断じて負けてはいない.

 蒋介石氏がその態度を明確にしたのは,サイパンが陥落してからである.
サイパンさえ守り得たなら,日本は東亜の内乱を政治的に解決し,
中国に心から謝罪して支那事変を解決し,次に民族の結合力を利用して
東亜一丸になる事が出来たであろう」(秘録石原莞爾)

 石原莞爾がUP記者カリシャーとAP記者ホワイトに語った日本の
対米持久戦略は石原の後知恵ではなく,1942年ガダルカナル攻防戦が
始まった頃,石原は,意見を求められた高松宮海軍大佐に同様の戦略
を助言した.しかしこれは海軍首脳には届かなかった.
 同年六月末,陸軍参謀本部内では,田中新一作戦部長が次の三要件
(石原の持論である日中和平と東亜連盟の研究)を挙げて石原莞爾の
現役復帰と参謀次長起用を企図し,これを杉山元参謀総長に具申した.

「日支関係調整に関する件」
1,過去五十年における日支関係の回顧,之が原因除去に関する検討
2,将来永遠に亘る日支関係の樹立に関する新原則の設定
3,当面の対支措置に関する再検討

 戦局重大化の折りから,国の総力を挙げて戦う以上,野に遺賢あらしむ
べからず.殊に洞察の明に富める石原中将を起用するのは当然であり,
それも第一線ではなく,統帥部の事実上の首班たらしめることが最も
適切である,という第一部長の平素の考えを実現したものである」

 しかし杉山総長は難色を示し,田中部長は自ら意見を取り下げ,
石原莞爾参謀次長起用論は立ち消えてしまった.

 日米戦争は日中戦争の延長戦であるから,日米間の早期講和のきっかけ
を生み出すために,まず日中講和を実現して日本の国力を回復しつつ
アメリカから対日戦争遂行の大義名分を奪うのは戦時外交の正道であり,
吉田茂らのグループが日中講和を模索していたが,実際には石原莞爾が
東亜連盟運動を通じて行った繆斌(ミョウヒン)工作が小磯内閣の
最高戦争指導会議に採り上げられた.

 繆斌工作の骨子は,(一)南京政府の解消(二)日中停戦と日本軍の
撤兵(三)中華民国が日本と英米との和平を斡旋する,というもので,
小磯首相はこの和平工作の実施を主張したものの,重光葵外相の
猛反対に遭い,小磯内閣は崩壊し繆斌工作は潰えてしまった.

 ソ連の対日参戦と日本の完全敗北が引き起こすソ連および中国共産党
の勢力拡大を危惧していた蒋介石は,この繆斌工作を積極的に支持
しており,共産党に敗れた国民党が台湾に落ち延びた後,蒋介石は側近
の白団長の白鴻亮こと富田直亮少将へ次のように述懐したという.

 「あれは私がやった.あんなことにならねば,こんなことにはならなかったろう.
日本が取り上げなかったことは,まことに残念であった…」


(2016/1/17)

「誠究塾ブログ」より(転載許諾済み)
http://ameblo.jp/seikyujuku/entry-12031854565.html

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.2.1




兵法三十六計(11)

第十一計 「李代桃僵(りだいとうきょう)」
    ─熾烈な権力闘争─

     元防衛省情報分析官・上田篤盛(あつもり)
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▼「李代桃僵」で中国の権力闘争をひも解く

「李代桃僵」は「李(すもも)が桃の代わりに僵(たお)れる」と読む.

「桃よりも質が劣る李が,桃のために倒れる」ことを喩(たとえ)に,
負け戦を捨てて大局の勝利をえる,損害を受けざるをえない時に不要な
部分を犠牲にして,全体の被害を少なくしつつ勝利をえるという計である.

 一時的な損には目をつぶって,将来の大きな利益をえようとする
「損して得取れ」(※もともとは損して「徳」取れ)とほぼ同意義である.

 不祥事などが発覚したとき,下位の者に責任をかぶせて,上の者が
追及を逃れることを「トカゲの尻尾切り」というが,これも一種の
「李代桃僵」である.

▼田忌賽馬

 戦国時代の中国では皇族や将軍たちは競馬に熱中していた.
名高い軍師である孫?(そんぴん ぴんはにくづきに濱のつくり)が斉の
田忌将軍に仕えていた時,斉の威王の開催する競馬大会において,
この策略を用いた.

 孫?(にくづきに濱のつくり)は田忌に対して,威王が持つ,速さが
上・中・下の馬に対し,孫?の馬を下・上・中の順番で当てるように献策した.
威王の最も早い馬にはどの馬を当てても勝てないため一番遅い馬を
当てて負け,中位の馬には最も早い馬で確実に勝利し,中位の馬で
威王の最も遅い馬に勝った.その結果,全体では2勝1敗で勝利した.

 つまり孫?(にくづきに濱のつくり)の最も遅い馬を犠牲することで全体
として勝利したわけである.以後,田忌が孫?の知略を信頼するように
なったのは言うまでもない.

 このように中国兵法では「李代桃僵」を用いて大局的な勝利をえる
ことが重視される.今週は「李代桃僵」で中国共産党指導部の権力闘争
を紐解いてみたい.

▼中国の政治決定機構の選出

 中国では中国共産党からなる党中央政治局常務委員(トップ7名)および
党中央政治局委員(トップ7名を含むトップ25名)によって重要事項は決定される.

 これら委員は5年1回,1週間ほど開催される中国共産党全国代表大会
(党大会と略称)で選出される.まず一般(ヒラ)党員の代表者である
約2,000名が党大会に参集され,この党大会で中央委員(約200人)と
同候補委員を選出する.

 次に党大会直後,選出された中央委員によって第1回の中央委員会全体会議
(1中全会と略称)を開催し,1中全会で総書記,政治局常務委員と政治局委員
を選出する.2012年11月の第18回党大会では,習近平氏が総書記に,
習氏のほか李克強氏ら7名が政治局常務委員に,彼らを含む計25名が
政治局委員に選出された.
 
 中国では党大会における指導部人事をめぐって,毎回のように熾烈な
権力闘争が繰り広げられる.この理由は中国の独特の選出過程と
党内派閥の存在にある.

 共産党の一党独裁体制下にある中国では,党・国家指導者は民主選挙
で選出されるのではない.形式上は前述のとおり,党大会が中央委員を
選出し,中央委員が政治局常務委員などを選出するという“ボトムアップ方式”
であるが,実態は,前期の政治局常務委員や党長老らによる密室政治に
おける“談合”で,党総書記以下の政治局常務委員と,それに連なる
政治局委員および中央委員などが“トップダウン方式”で選出される.

 また,中央委員以上の党指導部層は一枚岩ではない.
現在は「共産主義青年団派(団派)」,江沢民派「上海閥」,そして新たに形成
された「習近平派閥」などの政治派閥が存在しているといわれている.
 
▼江沢民氏による派閥形成

 1989年の天安門事件当時,江沢民氏は上海市党委書記であったが,
その時の政治手腕が?小平氏から高く評価され,江氏は天安門事件後
に総書記に突如就任した.

 したがって,中央における江氏の権力基盤は脆弱であり,軍長老や
「北京派閥」などからその地位を脅かされていた.

 江沢民氏は軍長老や「北京派閥」の排除に乗り出した.当時の「北京派閥」
の大物は陳希同氏(1930年-2013年)であった.陳氏は1992年10月の
第14回党大会で政治局員に昇任,同年12月に北京市党委書記に就任し,
「北京独立王国の建設を進めている」といわれるほど影響力を持った.
 
 ところが陳氏は1995年に汚職嫌疑で摘発され,同年9月に政治局委員
などから解任,97年には党籍までも剥奪された.陳氏の表向きの罪状は
汚職・職務怠慢であったが,実態は,江氏が自らの権力を脅かす陳氏を
粛清したとみられている.

 江沢民氏の権力闘争を支えたのが曹慶紅氏(1937年〜)であった.
曹氏は両親が共産党高官(その子弟を太子党という)であり,血筋を背景
に石油関係の国有企業を経て上海市の幹部として順調に出世した.
天安門事件当時,曹氏は江氏の直属の部下として上海市の政治安定
に大きな貢献を果たした.

 江沢民氏は総書記に就任すると直ちに,曹氏を北京に呼び寄せ,
党中央弁公庁副主任に任命し,党務の重責を彼に託した.曹氏は江氏の
右腕として頭角を現し,1993年に党中央弁公庁主任,すなわち総書記である
江氏の秘書として幹部人事に影響力を保持し,江氏の政治ライバルである
軍長老や陳希同氏らの失脚を演出する一方,江氏の息のかかった「上海閥」
を次々に昇進させた.

 曹慶紅氏自身も1997年に党中央政治局委員候補(党中央組織部長)に
昇進し,2002年秋に政治局常務委員(中央書記処常務書記,中央党校校長)
に昇進した.

▼胡錦濤氏の中央世界への進出

 他方,胡錦濤氏は普通の家庭に生まれ,1964年に清華大学在学中(21歳)
に共産党に入党した.大学卒業後は政治指導員として大学に残り,1980年
共青団の甘粛省委員会書記に就任,82年12月に共青団中央書記処書記
に就任した.84年に共青団中央書記処第一書記に昇任し,85年7月に
貴州省党委書記に抜擢された.

 1989年の天安門事件ではチベット自治区党委書記として,天安門事件に
先立ち,ラサ全市に戒厳令を敷いた.このことが?小平氏や陳雲氏らに高く
評価され,胡氏は1992年に党中央政治局常務委員に大抜擢された.
すなわち,?氏が「ポスト江沢民は胡錦濤である」ことを決定したのである.

 彼の経歴が示すように胡錦濤氏は共青団と経済発展が遅れた地方
での勤務が主であった.太子党であり上海,北京の大都市で勤務した
曹慶紅氏とは真逆の政治キャリアを歩んだということになる.

▼2002年における権力闘争

 2002年の第16回党大会で胡錦濤氏が江沢民氏から総書記を継承した.
江氏は総書記を辞任しヒラ党員になったが,軍最高位である党中央軍事委員会
主席には留任した(※この理由については複数説がある).

 この際,曹慶紅氏は中央委員から政治局委員を飛び越えて政治局常務委員
に就任(2階級特進)した.2003年3月,江氏が国家主席を胡錦濤氏に譲ると,
曹氏は国家副主席に就任した.

 この異例ともいえる2階級特進がなされた背後には,江氏が曹氏を通じて
中央政界に権力を保持しようとする江氏の野心が働いた可能性がある.
胡錦濤氏は?小平氏による指名であるので,江氏としてもこれに逆らうこと
はできない.よって曹氏を国家副主席に就任させて,ある種の“院政”を目論んだ
との見方がなされた.

 江沢民氏による“院政”の企みについては異論もあるが,曹氏は胡氏にとって
無視できない政治権力を保持し,胡錦濤政権は胡氏が率いる「団派」と
曹氏が率いる「上海閥」による微妙な権力バランスのうえに立った.

▼「上海閥」は「李代桃僵」により権力基盤の保持を企図

 胡錦濤氏は自らの権力基盤を強化するうえで「上海閥」を排除しなければ
ならなかった.これは江氏が「北京派閥」を排除したことと同じ文脈でとらえられる.

 胡氏は2006年に「上海閥」の大物である陳良宇・上海市党委書記(1946年〜)
を失脚させた.この際,曽慶紅氏は江沢民氏とやや距離を置くようになったとされ,
曽氏は胡錦濤氏に協力したといわれている.「上海閥」のボスである江氏は
激怒したものの,しぶしぶ陳良宇氏の失脚を了承したとされる.

 その一方,胡錦濤氏も犠牲を払った.胡氏は「団派」の李克強氏(現在の
国務院総理)を自らの後継者に望んでいたとみられる.

 2007年の第17回党大会において李氏は政治局常務委員に順当に昇格
したが,それまでダークホースとも目されなかった習近平氏が2階級特進
して政治局常務委員に選出された.しかも政治局常務委員の序列では李氏の
上位(序列6位,李氏は序列7位)となり,兼ねて党務を担当する党中央書記処
の筆頭書記に選出された. 

 2008年3月に習近平氏は国家副主席に就任し,将来の総書記,すなわち
国家最高指導者は習氏という流れがここに形成された.

 第17回党大会で習氏が大抜擢された背景には,江氏と曽氏による
強い推しがあったとされる.彼らは陳良宇氏の失脚を受け入れる代わりに,
習氏を押し上げることで自らの権力基盤の保持を企図した可能性が指摘
されている.

 とくに曽氏は自らの政治局常務委員の辞職(第17回党大会で辞職)を
引き換えに,習氏の政治局常務委員入りを強力に押したとの見方が
なされている.

「上海閥」全体としては,引退が噂されていた李長春氏や賈慶林氏を
政治局常務委員として留任させ,周永康氏の政治局常務委員入りも
果たした.なお周氏の昇格には,「石油派閥」「上海派閥」の関係でつながる
曽氏が,引退後の自らの影響力を保持するために協力に関与したと
伝えられている.

 かくして政治局常務委員会9名の構成は,胡錦濤氏,温家宝氏および
李克強氏の3人を除いてすべて「上海閥」となったのである.
つまり,陳良宇氏という“李(すもも)”を切ることで「上海閥」という“桃”を
守ったとの見方ができる.

▼「団派」が「李代桃僵」により権力基盤の保持か?

 2012年の第18回党大会では政治局常務委員は9名から7名になった.
現在の内訳をあえて派閥で分類するならば,習近平氏と王岐山氏が
「習近平派」,李克強氏が「団派」,張徳江氏以下4名は江沢民派「上海閥」
に属するとみられている.

 第18回党大会で「政治局常務委員に昇格する」として前評判の高かった
「団派」の李源潮氏,汪洋氏はともに昇任せず,政治局委員に留まった.
ただし,李氏は政治局委員でありながらも国家副主席に就任した(これは異例
である).汪氏も国務院副総理に就任し,また「団派」のホープ胡春華氏が49歳
という最年少で政治局委員入りした.

 2017年の第19回党大会では習氏と李克強氏以外は全員が政治局常務委員
を定年退職することになる.その際,「団派」である李源潮氏と汪洋氏が
政治局常務委員に昇格する可能性は高い.胡春華氏も政治局常務委員に
昇格し,将来の国家最高指導者の有力候補となろう.

 第18回党大会において,胡錦濤氏が率いる「団派」は李源潮氏と汪洋氏
の政治局常務委員入りを無理強いせず,張徳江氏らの長老に“花”を持たせた.

 一方で,将来のポスト習近平人事を見据えて,胡春華氏を国家最高指導者
とする道を開拓し,それを李克強氏,李源潮氏,汪洋氏らが支える体制を模索
したとみられる.まさに,一時的な損を覚悟して,将来の得を狙った「李代桃僵」
の策が発動された可能性がある.

▼習近平氏の権力基盤固め

 将来の国家最高指導部人事をめぐる駆け引きはこれからである.
現在,習近平氏は自らの権力基盤を固めるために,江沢民派「上海閥」や
「団派」の権力伸張を牽制するため,権力闘争を仕掛けているとの見方
がある.

 江沢民派の軍人高官である徐才厚氏や郭伯雄氏,「上海閥」大物で
曹慶紅氏の腹心の周永康氏,胡錦濤氏の番頭といわれた「団派」の
令計画氏(元政治局委員)などの失脚の背後に,権力闘争の陰が
まったくないとはいえない.

 昨年9月の「戦勝70周年式典」に江沢民氏と胡錦濤氏の参列が注目
されていたが,両人とも揃って参列した.習氏といえども,歴代の
国家最高指導者に直接対決を臨む力はないであろう.その一方で,
習氏は両人につらなる勢力の失脚と「習近平派」の登用を画策するであろう.
逆に江氏と胡氏は「トカゲの尻尾切り」で自派閥の勢力を保持しようとする
であろう.

 次期国家最高指導者も胡春華氏で決まったわけではない.第18回党大会
では「習近平派」に属するとされる孫政才氏が胡春華氏と同じ49歳という
最年少で政治局委員入りを果たした.おそらく彼も,第19回党大会で
政治局常務委員入りし,2022年の第20回党大会での総書記選出を競う
ことになろう.「団派」の周強氏,「習近平派」の陸昊(りくこう)氏らの人事
についても要注目である.

▼中国の権力闘争と日本の対応

 中国においては権力闘争に勝利するためには強硬な対外政策が不可欠
であり,とくに“弱腰”の対日政策は絶対排除が原則である.
したがって,中国指導部人事における権力闘争が対日戦略にいかなる波紋
を起こすのかという視点を忘れてはならないであろう.

 また,中国共産党が「一時的な損を覚悟して,将来的な徳を取る『李代桃僵』
を駆使するしたたかな組織である」とするならば,尖閣諸島の一時的な棚上げ
や,東シナ海のガス田の共同開発などを画策することは,極めて当然のこと
といえよう.

 これについても引き続き用心を怠ってはならない.


(次週,第12計「順手牽羊」に続く)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.2.2




【短期連載】 外人部隊の真実 

なぜ日本人はフランス語が喋れないのか?─外人部隊の真実(4)

 元上級伍長 合田洋樹
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はじめに

 今回は,なぜ日本人部隊兵はフランス語がなかなか上達しないのか,
その理由を考えてみます.最近の日本人部隊兵のフランス語上達は,
私の先輩たちと比べると遅い気がするからです.

 信じられないかもしれませんが,勤続5年になっても会話がまったく
できない日本人部隊兵もいるのです.彼らは在隊中,語学力向上
のための努力をまったくしなかったのでしょう.それでも何とかなって
しまうのが,外人部隊なのです.

 外人部隊ではフランス語をほとんど話せず,また理解できなくても,
一度入隊してしまえば,最初の1任期(5年)であれば,よほどのヘマ
をしないかぎり追い出されることはありません.それは外人部隊側
の理念として,「ケピ・ブラン(白いケピ帽,外人部隊兵の象徴)を
一度かぶった者は,同じ家族の一員である」.これが根底にあるから
でしょう.だから入隊させ,ケピ・ブランをかぶった者を部隊は守ろう
とするのです.言葉ができない,体力がないなど,そのような理由
で部隊兵を追い出すことはありません.

 残念なことにこの外人部隊の「優しさ」が,一部の怠惰な部隊兵を
生む原因になっています.「仕事をサボっても除隊させられない」
と開き直ってしまうのです.

▼なぜ日本人はフランス語が喋れないのか?

「フランス語さえ話せれば……」.いったい何人の日本人がこのぼやき
を漏らしているだろう? 部隊に入隊する日本人が最も苦労すること,
それはフランス語の習得だ.会話力や理解力が劣っていると,
まわりから容赦なくバカにされる.それが大きなストレスとなり,
日本人部隊兵の脱走につながっている.

 私の先輩たちと比べると,最近入隊してくる日本人のフランス語上達
は遅く感じる.原因を考えると,先輩たちがいたころは「容赦のない鉄拳
制裁」が残っていた.命令が理解できずにミスすれば,頭を思いっきり
はたかれた.そのたびに殴られていたのではたまらないと,必死に
フランス語を覚えようとしたのだろう.ヒトは危機的状況に追い込まれないと,
甘えてしまってなかなか本気にならないものだ.

 今では鉄拳制裁は御法度だ.そのため口で罵詈雑言を浴びせられるが,
殴られることは稀だ.口で言われるだけだと,腹は立つが,恐怖心は
生まれない.だから必死になれずになかなかフランス語が上達しない
のではないだろうか.

 ただ面白いことに日本人ほどフランス語を勉強している部隊兵はいない.
私がまだ戦闘中隊にいたころ,35人ほどの小隊に19カ国の部隊兵が
いたが,フランス語を勉強していたのは私と韓国人だけだ.ほかの者が
勉強しているのをほとんど見たことがない.暇つぶしにフランス語の雑誌
を読んでいた(見ていた?)くらいだ.

 日本人はそれなりに文法の勉強をしているから,基礎的なフランス語
はいちおう書けるが,会話力と理解力がきわめて低い.逆に他国の
部隊兵は文法の勉強をしてないから,フランス語を書くことは苦手だ.
簡単な単語の綴りも間違うし,動詞の活用となるともうお手上げだ.
しかし会話力と理解力は非常に高い.

 たまにフランス語のテストが行なわれると,たいていの日本人部隊兵
は他国の部隊兵より筆記テストの成績がよい.だからテストを担当する
小隊長は「この日本人はオレの話すことは理解できないのに,
なぜほかの連中よりフランス語が書けるんだ?」と首を傾げることになる.

 仲のよいポーランド人から「おいゴーダ,『今日』ってフランス語で
どう書くんだっけ?」と聞かれたことがある.彼は勤続20年を超えており,
とうの昔にフランスに帰化している.そこで「マジかよ,お前フランス人
じゃなかったっけ?」と皮肉ったら,「Oh ta gueule !(うるせーな!),
Esp?ce d’enfoir? !(ボケ!),vas te faire foutre !(お前,うぜーんだよ!)」
と,完璧な発音と文法で罵倒されたのであった.


(つづく)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.2.3




陸軍史あちらこちら

『壮丁教育調査が語る日露戦争:人の動員──日本陸軍の兵站戦(9)』

                 荒木 肇
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□はじめに

 兵站を支えたのは人でした.複雑精緻な仕組みの中で,企画し,
実行し,評価し,不具合を改良し,さらに新しい事態に立ち向かっていく.
それを支えたのは,ごくふつうの人々の知恵でした.私たちの先人は
清国・ロシアという当時の超大国と戦い,二度も続けて勝利を収める
ことができました.たとえ,それが綱渡りのような事態の連続で,
幸運の数々に助けられた結果とはいえ,戦いに勝ち,国家の独立を
保つことできたのです.

 この連載を通じて,軍隊のことばかりではなく,社会全体を
うかがえるようなものにしたいと思っています.それが戦争を支えた
国家,国民の力だと思うからです.いま,わが国は隣国たちから,
さまざまな言いがかりをつけられています.固有の領土が侵されよう
とし,現に竹島は韓国の海洋警備隊が占拠しています.中国は中国
で離島を支配しようとする野望を隠そうともしません.

 今から1世紀以上の昔も似たような状況にありました.似た状況といえば,
当時も国論の中には相手を恐れ,話し合えば解決するといった意見
もありました.刺激するな,そうすると商売がうまく行かなくなる.相手の
言い分を聞いて平和を維持した方がよい,そういう意見もあったようです.
それが実行されていたなら,今のわが国のような社会が実現していた
でしょうか.興味深い仮定ですが,それを考えても面白いですね.
 
 今回は,ごく一部の研究者しか語らない「壮丁教育調査」から見る,
当時のわが国の実態の一部を読み解きましょう.背嚢に20キロを背負い,
4キロの小銃を担い,3キロの弾薬を持ち,1キロの銃剣をさげ,1日6合
の白米と貧しい副食を食べ,歩幅75センチで歩いて戦った先人たちの姿
の一部です.

▼壮丁教育調査

 戦後になって,あまり知られていないことだが,徴兵検査の行なわれた日
の午後には,道府県が行なう「壮丁教育調査」が実施された.国語・算術・公民科
の3科目である(昭和時代).中等学校以上の卒業生は参考とするために,
公民科のみを受験したので思い出に語る人が少なかった.高名なある作家
の父親などは,丙種になった息子の手を引いて検査場から急いで逃げる
ように立ち去った思い出は書いても,試験の間,待たされていたことは
書いていない.

 文部省は義務教育(明治43年から6年制となる),あるいは自由進学
だった高等科卒業生(2年制と4年制の2種があった)の学力の実態や,
実施してきた教育課程の効果などを知りたかったのである.逆に軍隊としては,
それぞれの壮丁の能力を知り,選兵(陸海軍の別,各兵科・各部への
振り分けをいう)の参考にするため,また入営後の教育上の配慮などの
情報を得るためにこの調査を重視していた.

 日露戦争に参加した兵卒は1904(明治37)年12月に入営した人たち,
つまり前年(1903年)12月当時に満19歳以上の若者,そして1904(明治37)年
当時に満32歳までの青年だった.現役3カ年,予備役4年4カ月,
後備役5年の制度下の服役者である.兵役対象人口は全国でおよそ500万人
であり,開戦の前年に徴兵検査を受けた壮丁は約41万人,その8%ほどであった.

 教育調査は全国統一された形式で陸軍省が1899(明治32)年度から実施した.
これは「普通教育検査」とされて入営兵の教育程度を調べるものだった.
それに府県が便乗して独自に教育程度や学力(成績)を調査するようになった.
当時の教育ジャーナリズムはこれを大歓迎している.兵種の選定や,
入営後の教育に有効であり,文部省も各府県の実態に合わせた教育行政
を推進する参考になるととらえていたからだ.

 府県のねらいは,まず壮丁の教育程度の種別化の調査だった.
役場の兵事掛は詳しく調べているが,文部省の系列ではとてもそれを
追いきれていなかった.また,それぞれの種別の徴兵検査の時点での
学校でつけてきた学力がどれほど保存されているか,あるいは進んでいるか
を調べるものだった.

 教育程度の種別とは,義務教育(4年尋常科)未就学・中退者,同卒業,
高等科(2年)卒業,高等科(4年)卒業,中等学校卒業といった区別のこと
をいう.また,学校教育修了後の社会生活の中で,どれほど学力は減退
するか,あるいは増進するかの実態をつかむための検査でもあった.
県によっては徴兵検査上に郡視学(府県の教育吏員で学校現場への
指導監督を行なう)や小学校長が出張するところもあった.

▼教育程度と入営兵

 1899(明治32)年の『陸軍省統計年報』によれば,興味深い事実
が見られる.高学歴者の比率は,明らかに入営兵の方が,壮丁一般の
数字より高い.入営兵のうち,「全く読み書きができない者」の比率
は10.75%でしかなく,壮丁一般では23.40%にのぼる.日本人は
昔から読み書きが誰にでもできたという定説の信奉者には意外な事実
だろう.たしかに江戸時代から庶民の識字率は高いといわれてきたが,
20世紀の初頭,およそ100年前のわが国の青年の4人に1人は
「文盲(もんもう)」だったのだ.

 これは昭和はじめの落語家の回想にもあるエピソードを裏付ける.
高座にかける落語の演題には,しばしば弱者を笑うものがある.
なかでも文字を読み書きできない人が登場する小噺(こばなし)は多い.
落語そのものが大都会の江戸や大坂で生まれたものであるからだろう.
当時の社会の30代から40代の働き盛りの中にはかなりの割合で,
笑われる側の人がいたのである.ざっと客席を見渡して,話の枕にする
ことすら避けたという.
 
 ただし,当時の列国と比べるとこれらはとんでもなく低い数字になる.
そもそも調査統計をしないのが普通だったから,しっかりした数字は残念
ながらない.ただ,およその見当だが英国では庶民では70%はかろうじて
自分の名前が書けたらしい.フランスでは読み書きのできない大人が60%
もいたそうだし,移民国家のアメリカもかなり文盲率が高かったことだろう.
ロシアなどはまるで不明である.ただ,ロシア海軍の水兵はほとんど新聞が
読めなかったことは,主計兵ノビコフ・プリボイの『ツシマ』の中の様子が
書かれたことでよく分かる.こうしてみると,やはりわが国民は教育熱心で,
学校教育の効果がよく表れていたことがはっきりしている.
 
 また,入営兵の教育程度を兵種別に分けた結果がある.それによると,
程度の高い兵卒が多いのは,第1位が騎兵・輜重兵・看護卒だった.
わが陸軍の騎兵は欧米流にいえば,偵察や警戒,情報伝達などに
使われる「軽騎兵」である.当然,判断力やコミュニケーション力が
高くなければならない.日露戦中でも捕虜になった騎兵の1等卒がロシア軍
の尋問に対して,的確かつ高度な対応をしたことが相手から驚かれている.
 
 輜重兵はまさに指揮能力が高く,計数能力もなくてはならない.看護卒は
当時では最高の知識人である軍医官の助手を務め,衛生環境の整備など
にも心を配る.学校歴でいえば,尋常小学校卒業者以上が8割を占めている.
この順位は当然のことだっただろう.
 
 第2位は野戦砲兵・要塞砲兵・工兵・経理部縫工卒が上げられている.
砲兵・工兵ともに数理的な理解力がなくては無理な兵種である.
陸軍将校の中でも砲兵や工兵の大尉といえば,世間一般とは隔絶した頭脳
の持ち主とされた時代だった.縫工卒もまた近代工業技術の粋ともいえる
ミシン(ソーイング・マシンがなまったもの)を扱い,その原理や構造を理解
できなくてはならない.これらの兵種もまた尋常科卒業者が5割以上6割
くらいになっていた.
 
 陸軍はすでに西南戦争(1877年)以後から,輜重兵と看護卒について
「読み書き算術」のできる者を選ぶ方針をとっていた.騎兵についても
1891(明治24)年には「言語明晰で普通の文字が読める者」を選ぶべき
という通達があった.これは単独任務を果たし,命令報告ができるように
という配慮である.
 
 各兵種の選定にあたっての基準が明確化されたのは1893(明治26)年
のことである.日清戦争の直前のことだった.『兵種選定ノ要旨』である.
これは陸軍省軍務局長と同医務局長が協議して草案が作られたものだった.
それ以前は,騎兵・砲兵・工兵・輜重兵が選ばれた後に歩兵は採用され,
ろくに基準などなかった.ここで初めて,歩兵も選兵の元になるスタンダード
ができたのである.まとめて言えば,軍が要求する兵卒は学力が高く,
騎兵・砲兵・工兵・輜重兵については特に優れた者が選ばれた.
 
 それは,それらの兵種が業務を行なうにあたって,他者との接触が多く,
協同作業が多いという特徴があったからだ.砲兵や輜重兵は
砲兵助卒・同輸卒・輜重兵輸卒を指揮・監督しなければならない.工兵も
架橋縦列などでは輜重輸卒と行動を共にし,何より技術兵科だった.
騎兵も伝令・偵察任務では他兵科と接触する.それだけに「言語明晰」であり,
「機敏な動作」が要求された.それはやはり学校教育における知識や訓練
の程度が高い者を必要とすることになった.

▼明治三十六年大阪府壮丁教育調査

 手元にある1903(明治36)年大阪府壮丁教育調査を見てみよう.
この年の徴兵検査を受けた全国の壮丁数は約41万人である.
そのうち大阪府は1万1663人だった.大阪府は行政区分として大阪市内
の5区と堺市を持ち,ほかは西・東成郡や泉南・北郡,南・北・中の各河内郡,
三島郡,豊能郡,堺市外の9郡などでできていた.

 この年の壮丁を当時の用語でいう「教育程度」で表すと,その構成比率
は次の通りになった.
(1) 中学卒業の者・1.03%,実員では120名である.
(2) 中卒と同等の学力(商業・工業等の専門学校)を有する者・1.73%,
同じく200名.
(3) 高等小学卒業の者・7.13%,同831名.
(4) 右と同じ学力を有する者・7.96%,同929名.
(5) 尋常小学校卒業の者・25.60%,同2986名.
(6) 右と同じ学力を有する者・13.05%,同1523名.
(7) 稍(やや)読み書き算術ができる者・18.37%,同2143名.
(8) 自分の氏名を書くことができる者・10.75%,同1254名.
(9) 自分の氏名も書けない者・14.38%,同1677名.
 
 こうしてみると,教科書でも有名な与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』
に歌われた実弟,堺市の和菓子の老舗の若旦那はまさにエリート中のエリート
であることがわかる.1万人の中で300名ほどの人間である.彼は1年志願兵
出身(中等学校卒以上)の予備役輜重兵少尉だった.実際に出征した彼
は兵站輸送部隊に勤務し,無時凱旋し,天寿を全うしたという.

 当時の徴兵基準は甲種から戊種までの5段階だった.現役に適する者は
甲種・乙種合格者で身長5尺(151.5センチ)以上,身体強健な者である.
丙種は身長5尺以上であるが体格が良くない者と,身長4尺8寸(145.4センチ)以上で,
次に述べる丁種や戊種にはあたらない者である.国民兵役に編入された.
丁種は不合格である.身長が4尺8寸未満で身体上の不具合があった者だった.
戊種は発育途上である者や,病気療養中の状態にあり,翌年度以降に
徴集(役種の決定)がされる再検査要員となる.

 甲種乙種はそれぞれ全体の36.56%,20.99%だった.
合わせて57.55%になった.丙種は30.01%であり,平時では補充兵にも
指定されず,まず軍隊とは縁がない人々である.丁種で兵役が免除になった者
は11.78%だった.戊種と判定された者は実員で75名,割合では0.64%
にしかならなかった.

 学校歴と甲・乙種合格との関係がある.320名の中卒・同等者のうち164名
が現役にふさわしいとされた.その率は51.25%になる.高等小学校卒の者
は58.36%,同等者は62%,尋常科卒61.55%,同等者は57.92%,
やや読み書き算術ができる者からは57.86%が甲種もしくは乙種となった.
これが「読・書・算,術ヲ知ラサル者」は52.10%と最も低くなっている.
つまり現役兵の主力は高小卒と尋常科卒であり,学校歴の高い者や社会の
底辺にあった人はわき役ということになる.

 身長の分布も記録されていた.4尺8寸未満は2.27%,以上5尺未満は
11.12%,5尺以上5尺2寸(151.5〜157.56センチ)未満は33.44%,
5尺2寸以上同4寸(163.62センチ)未満は36.77%.
同4寸以上6寸(168.68センチ)未満が14.23%であり,6寸以上の偉丈夫
も2.17%がいた.

 5尺以上の者が占める割合は中学校卒が最も高く96%(以下概数),
同等者も同じ,高小卒が続き92%,同等者も同じ.尋常科卒88%,
同等が85%,やや読み書き算術ができる者は84%,読み書き算術の不能者
は81%となる.まさに身長と学歴は相関関係があった.結論がある.
『中卒とその同等者は身長の発育は良いが,健全でない者が多い』,
『高等小学校卒業,同等者,尋常科卒が最も身体健全で身長,体格共に優れている』

 受験者中,甲種合格者の割合がもっとも高かったのは北河内郡の47.75%
である.第2位は堺市の41.81%で,最低は大阪市東区の31.14%であり,
低所得層の都市生活者が多かったことが分かる.丙種では目立つのは
大阪市南区の33%,西成郡36%,豊能郡の35%,中河内郡33%である.
いずれも大都市,近郊の商業地帯でもある.国民兵役に編入され,日露戦で
ろくに訓練も受けずに砲兵・輜重輸卒,砲兵助卒などに召集されたのが
こうした人々だった.

▼兵の等級

 日露戦争当時の陸軍軍人は戦闘を専門とする各兵科と,軍隊の日常運営
に従事する各部に所属した.兵科は歩・騎・砲兵(野戦・要塞)・工兵・輜重兵
と軍事警察を専門とする憲兵科である.各部には経理部,衛生部,獣医部
と軍楽部があった.各部のトップは中将相当官の主計総監と軍医総監,
次いで主計監,軍医監という少将相当官があった.以下,佐官相当官の上長官,
佐官相当官の士官がいた.

 衛生部には薬剤官もいたが当時は大佐相当官の1等薬剤正が最高官だった.
獣医部も同じく大佐級の1等獣医正があった.地位がきわだって低かったのが,
軍楽部の最高官である楽長である.少尉相当官にしか過ぎなかった.
大尉級になったのは1921(明治10)年の1等から3等までの楽長ができて,
ようやく大尉・中尉・少尉の相当官ができた.

 准士官には兵科の特務曹長のほかに,砲兵と工兵には技術者である
上等工長,各部では経理部に上等計手と軍楽部には楽長補があった.
下士は兵科では曹長・軍曹・伍長があり,各兵科には技能職の1等から3等
までの工長がいた.この工長は専門技能職で,騎兵・砲兵・輜重兵には
蹄鉄工長,砲兵科には鞍工長,銃工長,木工長,鍛工長というポストがあった.
当時は後の時代の技術部がなかったので各兵科に属していたのである.
服制では左上腕部に決められたマークを付けていたので一般下士とは区別
することができた.経理部には計手,衛生部には看護長,軍楽部には楽手
がいて,それぞれ1等から3等までの区分である.

 兵卒は官等ではなく1〜3級によって示された等級表があった.各兵科とも
憲兵を除いて,1級上等兵,2級1等卒,3級2等卒である.憲兵は上等兵のみ
だった.砲兵には各兵2等卒と同じ3級に助卒と輸卒があった.輜重兵にも
3級として輸卒があったことは前にも書いた.これらは1等卒に進級すること
はない.何年いようと2等卒のままだ.経理部には1級がなく2級1等縫工と
3級2等縫工がある.これらには兵がつかないように,(具軍隊(部隊)には
いなかった.被服廠などの官衙に勤務していた.

 衛生部には上等兵相当の1級に看護手があり2級はない.2等卒の3級に
看護卒があった.そして補助看護卒もあった.後に衛生兵と名前が改められた
国際法上,非戦闘員となる衛生部の兵には3種類あった.軍隊付きの看護手
と後方の病院などに勤務する看護卒である.補助看護卒は病院などで雑役
などをこなしていた.看護手は軍医が来るまでに応急処置ができ,
国際法などの知識もなくてはならない.小学校尋常科卒以上が8割を占めて,
高学歴者も珍しくなかったというのも当然のことだろう.負傷兵や重い衛生器材
なども運ぶために体力もなくては勤まらなかった.看護手や下士の看護長は
身体も大きかったという記録がある.
 
 当時は学校歴のある者や,特別な資格所有者はひどく大切にした社会である.
もともと,優秀な兵卒を衛生部に送り込んだ.その結果の優遇である.
軍楽部の兵もまた上等兵にあたる楽手補があるだけだった.

▼上等兵の地位

 この上等兵という立場も説明が要るだろう.現役3年制のこの時代,上等兵の
定員はおよそ兵卒全体の6分の1でしかなかった.建軍の初期のころは
歩兵中隊160名のうち9名でしかない.「上等卒」は歩兵と騎兵にしか置かれず,
1等卒36名,2等卒115名のうちのトップエリートだった.砲兵に上等卒が
おかれるのは1883(明治16)年のことであり,工兵と輜重兵には
1885(明治18)年にようやく追加された.戦闘正面に立つ者と後方勤務
という差だったのだろう.そしてこのとき,初めて上等兵といわれるようになった.
 
 1883(明治16)年には,上等卒は歩兵・騎兵・砲兵隊では,分隊長,
鍬兵長(しゅうへいちょう),照準手の職務に就くこと,下士の勤務をとれるように
することなどが規定された.鍬兵とは歩兵中隊に10名程度がおかれた
土木作業を行なう兵卒である.現在の陸自の普通科連隊にも本部管理中隊
の中に,ブルドーザーやパワーシャベルを持つ施設小隊がある.
ただし,専門の工兵ではない.
 
 1886(明治19)年には上等兵から下士に進めるようになった.
このことは身分制度の気分も江戸時代を引き継いでいたその頃,たいへんな
改革だった.当時の下士は原則として陸軍教導団の出身で士族出身者が
多かった.下士の名称も「下等士官」を略したものだったから,士官学校へ
入学できなかった者も教導団に入った.その経路を省いて,部隊の兵から
現役下士へ進めるようになった.陸軍は人件費の削減にもつながり,
下士の養成費用も節約できると考えたのだ.
 
 しかし,元から軍隊は一般世間に人気があるわけではなかった.
厳しい修業期間を終えて上等兵になるような者は確かにいた.
ただし,そういう優秀者は学校歴もあり,除隊すれば職に困るような人々
ではなかった.当時の優秀な若者は現役伍長になることは嫌ったといっていい.
その代わり,戦時になって召集されれば伍長になる『下士適任證書』を
与えられる予備役上等兵になって除隊する道を選んだ.このことは
陸軍の解体(1945年)まで続く現役下士官補充の苦労につながっていく.
 
▼上等兵になる資格

 陸軍省は上等兵になるためには「相当の学術」ある者でなくてはならないとした.
部下兵卒に命令を与え,上官に部下兵卒の事情を直接報告するために文字の
筆記ができること,部下を指揮するために操典類を理解できること,
斥候(せっこう)として勤務したときに報告を筆記し,略図なども描けなくてはならない
とした.また,部下から尊敬され,服従させ,率先する気力がある者,戦闘技術
や庶務能力など「技芸がおよそ兵卒の上位をしめる」者であることを必要とする
ことを達した.

 このことは軍隊生活を嫌いながらも,そこでの生活や訓練の評価が兵卒
たちの除隊後の暮らしにつながるという現実をもたらした.近代国民国家は
機会平等主義であり,能力主義,成果主義を標榜する.ろくに字も読めなかった,
人前で話すことも苦手だった人が帰郷後には一応の地位を得たなどという話
がある.華族も平民も,金持ちも貧乏人も,学校出もそうでない者もみな平等
に扱われた,努力が報われた社会だったと軍隊を懐かしむ人も多かった.

 上等兵はこの時代でも,160人の歩兵中隊のうち25人ほどしかいなかった.
毎年の入営兵が途中損耗を考えて余分に採用した55名としても,2年兵で
上等兵になれる(これを一選抜といった)のは10人ほどでしかなかった.
帰郷すれば,村などではひとかどの人物として尊敬された.
伍長勤務上等兵(これまた同年兵の中で4名ほど)で除隊した人は郡長から
表彰されたなどという話も伝わっている.

 次回は兵站が送った兵器や装備,食糧などについて語ろう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.2.3




■自衛隊海外派遣の歩み(10)

前回まで陸海空それぞれ初めての海外派遣について,
その指揮官へのインタビュー記事も含めてご紹介してきました.

今回からは実績を積み重ねる国連平和維持活動,PKOに
ついてご案内します.


国連平和維持活動は,国連が主体となって実施する国際紛争の
平和的解決を目的とした活動です.

日本で1992年に国際平和協力法が制定されて以来,自衛隊は
この国連平和維持活動に参加して,与えられた任務を遂行してきました.

現地の過酷な環境の下で黙々と汗を流す隊員たちの姿は,
国民のPKOに対する意識を徐々に変化させていきました.
世論だけではなく,法律や海外からの評価をも動かす原動力となったのです.


国際連合は「国際平和と安全の維持」を大きな目的のひとつとして
発足しましたが,米ソを中心とする冷戦構造の中では,紛争解決
に対する活動は十分に機能できませんでした.
そこで,これに代わる活動として紛争の平和的解決のために実施
されるようになったのが,国連平和維持活動(PKO)です.

具体的には,紛争当事国や対立する当事者の同意のもと,国連によって
組織された平和維持隊(PKF)による停戦監視・兵力引き離し,
停戦監視団による停戦監視,文民による行政的支援活動を行ないます.
この活動は国際的にも高い評価を得ており,1988年にはPKFが
ノーベル平和賞を授与されています.


湾岸戦争後,日本では国際社会でより積極的な役割を果たす必要性
を再認識.国際平和のために本格的な人的,物的協力を行なえる制度
となる国際平和協力法を制定しました.

それには「国連平和維持活動への協力」,「人道的な国際救援活動への協力」,
「国際的な選挙監視活動への協力」の3つの柱の規定とともに,
PKO参加5原則にしたがって活動を行なうことが定められています.


PKO参加5原則
(1)停戦の合意が存在している
(2)受け入れ国などの同意が存在している
(3)中立性を保って活動する
(4)(1)(2)(3)の原則のいずれかが満たされなくなった場合には
一時業務を中断し,さらに短期間のうちにその原則が回復しない場合
には派遣を終了させる
(5)武器の使用は要員の生命等の防衛のために必要な最小限度に限る


制定にあたっては,自衛隊の国連平和維持活動への参加は,
憲法が禁じる「武力の行使」にあたらないか,自衛隊の海外派遣に対する
近隣諸国の理解は得られるのかなど,賛否両論の白熱した議論が
繰り返し交わされました.

その結果,国際平和協力法には先のPKO参加5原則が組み込まれること,
PKF本体業務については当面の間,実施を見送ることとなりました.


法の施行後,カンボジア,モザンビーク,ルワンダ難民救援,ゴラン高原,
東ティモール避難民救援,アフガニスタン難民救援,東ティモール国際
平和業務,イラク人道復興支援,そして現在活動中の南スーダンなど,
自衛隊の国際平和協力活動は着実に実績を重ねていったわけです.


その後,1998年に国際平和協力法が改正され,上官が武器使用に関する
命令を出せるようになりました.それまでは武器の使用は隊員各自の判断
によるものとされ,上官には防戦のための指揮権限もなかったのです.

さらに2001年,平和維持隊PKF本体業務への部隊参加の凍結解除を含む
国際平和協力法改正法が成立します.

これによって,平和維持隊の業務のうち,医療,輸送,通信,建設などの
後方支援業務に加え,自衛隊の部隊による武装解除の監視や緩衝地帯
などでの駐留・巡回,検問,放棄された武器の処分といったPKF本体業務
が行なえるようになりました.

武器を使用して防衛できる対象者としては「自己と共に現場に所在する
他の隊員もしくはその職務を行うに伴い自己の管理の下に入った者」
が追加され,自衛隊の装備品などの防護のための武器使用も可能となりました.
国際平和協力に対する日本の取り組みは,さらに一段上のステップへ進んだ
といえます.

そして昨年成立した安全保障関連法により,新たに「駆け付け警護」の
任務も付与されることとなりました.
施行時期については,今の時点では未定です.


(以下次号)
(わたなべ・ようこ)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.2.4




豆知泉 ┃ シリトリ雑学757
┗━━━━━┛
──[ヒツジ]→[第一次世界大戦]──────────────────
★「有刺鉄線」は元々怠け者の羊飼いがいつも居眠りをしている間にヒツジに
 逃げられてしまう事から考え出したもの.発明直後に第一次世界大戦が勃発
 して,需要が発生した事でこの羊飼いは大金持ちになった.

──[第一次世界大戦]→[戦争に勝った]───────────────
★「カッターシャツ」は1918年にスポーツ用品メーカー・ミズノが発売したシ
 ャツ.この年は第一次世界大戦直後で「戦争に勝った」という意味から「ス
 ポーツにも勝った」にもひっかけ「カッターシャツ」となったもの.

※美津濃の創業者・水野利八考案




兵法三十六計(12)

第十二計 順手牽羊(じゅんしゅけんよう)
    ─勢力空白をとらえ,支配権を拡大する─

     元防衛省情報分析官・上田篤盛(あつもり)
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▼「順手牽羊」はわずかな“隙”をつく計略

「順手牽羊」は「手に順(したが)いて羊を牽(ひ)く」と読む.本策略は,
敵のちょっとした“不手際”や“隙”をとらえて,自軍の小さな勝利に結びつける
ことを主眼とする.

 第5計「趁火打劫」(ちんかだきょう)は,本策略と同様に,敵の苦境に
つけ入ることである.ただし,「趁火打劫」が敵の危機的状況につけ入る
のに対し,「順守牽羊」は敵のちょっとした“隙”を見逃さず,わずかな利益
でも確実に手に入れることを狙いとする.そのため,本策略は準備の
周到と継続的な敵情観察が必要となる.

 本策略は,貧しい旅人が,片田舎で羊の群れに出くわした民話に由来
している.旅人が,ある羊の群れの脇を通り過ぎようとしていた時,
羊飼いが何かに気を取られていることに気づいた.そこで旅人は,
この“隙”を見逃さず,こっそりと群れの中から一匹の羊を捕まえて,
あたかも何事もなかったかのように,その場から立ち去った.
つまり,この旅人は,羊飼いの注意散漫なことを好機として捉え,
機に乗じてマンマと人の羊を盗んだのである.

▼過去にも好機を捉えて領土を拡張

 中国はこれまで,好機を捉えては自国領土を拡張してきた.
その一例が1962年11月の中印国境紛争である.

 1950年にチベットを侵攻して強硬姿勢を示していた中国は,1950年代末
から,インドとの間で国境をめぐって対立を深めていた.

 中国は歴史的に自らの軍事力が劣勢な場合には他国から領土を
侵奪された.この苦い歴史的教訓をもとに,中国はチベット侵攻以後,
対インド国境の陸軍兵力を着々と増強した.他方,政治的には,
周恩来・国務院総理が1954年にネール首相との間で「平和五原則」を
締結していた.そのため,インドの対中警戒心は薄らいでいた.

 つまり,中印国境紛争は,中国側が周到な軍事的準備を整え,
インド側の隙をついて起こした先制攻撃であった.中国は見事に軍事的
勝利を収め,国境側をインド側に進めることに成功した.

 この時期,世界的にはキューバ危機が生起していた.世界は「あわや米ソ
による『第三次世界大戦』が勃発するではないか」と,関心をその一点に
集めていた.世界の目がキューバに釘付けになっていたため,
中国のインドに対する攻撃準備などには誰も関心がなかった.つまり,中国は
こうした世界の無関心という“隙”に乗じて,インドに先制攻撃を仕掛けた
のである.すなわち,計算しつくされた「順手牽羊」の策略の発動であった
といえよう.

▼「勢力空白」をとらえた南シナ海における支配権の拡大

 中国は現在,南シナ海において海洋進出を強硬に進めている.
これに関しては,本連載メルマガでたびたび言及しているところであるが,
今回は「順手牽羊」という視点から,改めて解説しておこう.

 南シナ海において,中国は「9条断裂線」(その形から「牛の舌」と
呼ばれる)を提示し,その内側は中国の「海洋国土」であると主張している.
「9条断裂線」は南シナ海のほぼ全海域にかかっているので,「南シナ海
を自らの海洋国土だ」と言っているようなものである.

 中国による海洋における支配権拡大のパターンは,
まず,1)領有権を主張する,2)領有権の主張を国際法および国内法に
よって法的に補強する,3)「海監」,「漁政」などの法執行機関によって
海洋監視活動を常態化して領有権の既成事実化を積み上げる,
4)最終的に,海軍力により強硬奪取する,というものである.

 この際,大国の撤退という“隙”を見逃さないという点が,中国の戦略・戦術
の特徴である.1973年,米国がベトナムから撤退を開始した.すると中国
は1974年に西沙諸島をベトナムから武力奪取した.

 1984年,ソ連海軍がベトナム・カムラン湾から撤退を開始した.
すると,中国は1988年にベトナムから南沙諸島のジョンソン南礁(赤瓜礁)を
武力で奪取した.1992年末に米軍がフィリピンのスービックおよびクラークの
両基地から撤退すると,1995年にフィリピンからミスチーフ礁(美済礁)を
武力で奪取することに成功した.

 このように中国は,米ソ両大国が当該海域から撤退し,領有権を争って
いるベトナムおよびフィリピンが強力な後ろ盾を失うという“隙”を見逃す
ことなく,自らの実効支配地域を着実に拡大していったのである.
まさに「順守牽羊」の実践である.

 現在,南シナ海は大いに緊張状態にある.フィリピンおよびベトナムの
両国は,東南アジア諸国連合(ASEAN)と結束し,米国を南シナ海問題
に関与させて中国の進出を阻止しようと企図している.これに対し中国は,
「領土問題はあくまでも二国間問題」との原則論を標榜し,経済支援を
梃子にASEAN諸国の結束を切り崩し,米国が南シナ海問題に関与しない
よう,あの手この手で画策している.

 南シナ海では中国による岩礁の埋め立て,人工島の造成が進み,
一部の人工島には3000メートル級の滑走路やレーダーが建設されるなど,
軍事拠点としての機能が整えられつつある.

 この大規模な埋め立ては,2014年頃から開始された.これはオバマ大統領
が2013年9月,シリア内戦への軍事介入の見送りを表明した際,「米国は
世界の警察官ではない」旨を述べ,同年10月5日から12日まで日程で
予定していた東南アジア歴訪を中止し,APEC首脳会談,ASEAN首脳会談
などを欠席したことが関係したのであろう(本連載の第7計で言及).

 つまり,中国は南シナ海における米国の「勢力空白」をとらえた「順守牽羊」
を発動したといえよう.

▼南シナ海と同様に「順守牽羊」が発動される東シナ海

 こうした中国の支配圏の拡大は東シナ海においても適用されている.
たとえば,中国による東シナ海ガス田開発である(ガス田問題の全般
については,第8計「暗渡陳蔵」で既述).これに関して中国は,わが国
の政治的空白,あるいは日米同盟の関係希薄化の“隙”をついて,
ガス田開発の既成事実化をすすめてきた.

 中国は2004年5月から白樺(中国名,春暁)ガス田の建設工事を開始した.
これに対し,わが国は当時,「日中中間線の中国側の鉱脈と日本側の鉱脈
がつながっているため,『ストロー効果』により日本側のガスが汲み上げられる」
ことを懸念し,中止を求めた.

 2005年4月,中川昭一・経済産業大臣(当時)は,日本による試掘手続き
の開始を声明し,同年7月,株式会社「帝国石油」に対して,東シナ海に
おける試掘権を許可した.

 これに対し,中国側はいったん,白樺ガス田の開発を中断した.
その後,2008年6月,日中両政府は,1)日中中間線付近にある「翌檜(同,龍井)」
周辺の共同開発,2)中国がすでに開発に着手していたガス田に対する
日本企業の参加,という2点で合意した.これは中川大臣の断固たる対応
が,中国側の「共同開発の合意」という一定譲歩を引き出した可能性はある.
ただし,中国外交部は「白樺は完全に中国の主権の範囲内」であると釘を
指すことに怠りはなかった.

 その後,日本側は「共同開発の合意」を実行に移すための条約締結に
向けた交渉開始を再三にわたって要求した.しかし,中国側はこれに
応じなかった.「共同開発の合意」が,当初から中国の「持久戦法」であったか,
あるいは中国当局に対抗する勢力が,「共同開発の合意」を推進することを
牽制していた可能性がある.

 そうこうしているうち,中国側は2009年7月に一方的に白樺ガス田の工事
を再開した.これに対して,わが国が外務省を通じて抗議したところ,
中国側は「維持整備を行なっている」とだけ回答し,白樺ガス田の海上施設
を大幅に改善した.

 当該時期,わが国では衆議院が解散していた時期であった.2008年9月,
福田康夫・総理は,「自分に代わる新総裁が衆議院議員総選挙で信任を
受けるべきである」として辞任した.この後を継いだ麻生太郎・総理は,
名古屋市、千葉市,さいたま市の政令指定都市の市長選挙で敗北し,
静岡県知事選挙でも敗北した.都議会選挙でも大幅に議席を失い,
都議会第1党の座を民主党により奪われた.そこで,2009年7月,麻生総理
は衆議院を解散し,国会は空転状況となっていたのである.

 中国が一方的に白樺ガス田の開発を再開したのは,まさにこの時期であった
のである.つまり,わが国の「政治的空白」という“隙”をついて,白樺ガス田
の開発を再開したというわけである.

▼日米同盟の堅持し,国民の防衛意識を高揚することが必要

 現在,中国は東シナ海ガス田や尖閣諸島に対する攻勢を仕掛けている.
これは,民主党政権下で「友愛の海」という非現実的な“甘言”の下で国益軽視
の対中政策が行なわれ,普天間基地の移設問題が現在も“二転三転”している
ことと大きく関係している.
 
 中国は,わが国の領土を防衛するという国家意識の希薄,日米同盟の
関係希薄化という“隙”をついて,東シナ海に対する支配圏の拡大を試みた
とみるべきである.

 東シナ海と南シナ海はともに,漁業資源も含めた資源エネルギーの宝庫
である.エネルギー豊富な中東・アフリカ方面に対する海上シーレーンの要衝
でもある.わが国にとって,二つの海の安全を守ることは「死活的国益」であり,
中国の遠謀深慮により,二つの海の戦略図が塗り替えられようとしている事態
を決して見過ごしてはならない.

 1962年の中印国境紛争,1970代以降の米ソの勢力空白を狙っての
南シナ海における島嶼奪取,わが国の政権空白期をついた東シナ海ガス田
の再開発などを思い起こせば,いたずらな政権抗争を繰り返している余裕はない.

 眼前に立ちはだかる中国の増大する脅威に対し,わが国は日米同盟を堅持し,
中国に対する牽制をゆるめることなく,愛国心と防衛意識を醸成し,
国民が一致一団して中国の支配圏拡大に立ち向かう必要があると考える.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.2.9




【短期連載】 外人部隊の真実 

今も受け継がれる「アノニマ(偽名)」制度─外人部隊の真実(5)

 元上級伍長 合田洋樹
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はじめに

 初めてのメルマガ連載に不安がありましたが,読者の方々から
さまざまなお便りをいただき,執筆の励みになります.
ご支援ありがとうございます.

 さて,本連載の元になっています,『外人部隊125の真実』が
いよいよ最終段階まで来ました.大袈裟ではなく構想3年,
執筆に1年かかりました.2014年末に17年半の外人部隊生活を
終えて以来,ずっとこの本にかかりきりでした.これができるのも
毎月,軍人恩給が支給されているからで,外人部隊に感謝して
います.本の詳細は,近日中にお知らせできると思います.
 
今回は,フランス外人部隊特有の「偽名」について紹介します.
これは過去から受け継がれている外人部隊で最も有名な伝統
と言えるでしょう.

「偽名を与える」というと「指名手配犯や犯罪者を匿(かくま)うため」
と思われがちですが,それは誤解です.現代の外人部隊には
指名手配犯や,殺人,麻薬密売,強姦などの重罪を犯した者は
入隊できません.十分な志願者を確保できる現在,そのような者
を入隊させるメリットも必要もありません.

 仮に志願者のウソが見抜けず重犯罪者を入隊させてしまっても,
後日,露見した段階で,部隊側はその部隊兵を強制除隊させ,
指名手配者であれば警察などに引き渡します.外人部隊はウソ
をつく志願者や,部隊兵を非常に嫌います.

 志願者の一部には,何らかの理由で外部とのコンタクトを
いっさい絶ちたいと申し出る者がいます.理由はさまざまですが,
家族や友人間のトラブルが最も多く,次に仕事上のトラブルでしょうか.

 この「厳格なアノニマ(偽名)」を活用すると,本人の意思で過去
と決別し,まったくの別人となることができます.

 しかし,在隊中は非常に不便な生活を強いられることになります.
外部とのコンタクトはいっさい断つことになるため,家族,友人,
知人などとの連絡は禁止,休暇中の海外渡航も禁止,受けられる
特技課程も幅が狭くなり,携帯電話はプリペイド式のもの以外は
不可です.仲間に写真を撮られることも控えなくてはなりません.

 通常1任期5年を終えれば,営外居住や結婚,車の購入など,
民間人とほぼ同様の生活を送ることが可能ですが,「厳格なアノニマ」
の部隊兵にはそれらがすべて禁じられているのです.そのような生活
をずっと続けるのはほぼ不可能で,私の知る限り,5年以上
そのような生活をしていた部隊兵は皆無です.

 それでは本編に入りましょう.

▼今も受け継がれる「アノニマ(偽名)」制度

 外人部隊は,その創設期から志願者の申告する身分での入隊
を認めてきた.入隊時に全員,仮の身分となるので,RSMの手続き
を終えない限り部隊兵は基本的に「偽名者扱い」となる.

 これとは別に,志願者のごく一部には,さまざまな理由から外部
との接触を絶ちたいと申し出る者もいる.志願者の抱えている問題
の中身により,部隊側から「外部との接触をすべて絶て」と言われる
こともある.このような処置を「厳格なアノニマ(偽名)」と呼ぶ.

 たとえば,コロンビア人の麻薬捜査官であるモントーヤ・カルロスは,
地元の麻薬カルテルに潜入調査を行なっていた.しかし正体がバレ
命の危険を感じた彼は,カルテルの暗殺者から逃れるためフランス
に渡り外人部隊に志願した.
 部隊側は彼が麻薬捜査官であった経歴を信用し入隊を許可する.
そして彼に及ぶであろう危険から守るために「厳格なアノニマ」を与える.

 入隊時にモントーヤ・カルロスは「マルチネス・コンスタンチノ」という
偽名を与えられ,生年月日など,すべての個人情報は部隊側により
書き換えられ,まったくの別人となった.

 在隊中,モントーヤの家族を装った麻薬カルテルから,
パリのコロンビア大使館を通じて,彼の情報を提供するよう部隊側
に何度も要請がきた.そのたびに部隊側は「モントーヤ・カルロスなる者
は存在しない」と突っぱねた.実際,マルチネス・コンスタンチノとして
入隊しているので,モントーヤ・カルロスは部隊に存在しないのだ.
それから何年間か在隊し,危険性が薄らいだと判断したマルチネスは,
警務部の許可を得てRSMの手続きをして本名に戻した.

 そしてフランス国籍も取得し,フランス人風に改名した.外部から
当該者である部隊兵の情報開示を求められても,相手がその部隊兵
の本名や生年月日程度しか知らないのであれば,部隊側は
「そのような名前の者は存在しない」と突っぱねることができる.
外人部隊は創設期から入隊者を外部の干渉から守ってきた.
しかし,相手側がすべての情報を持っていれば,応じないわけには
いかなくなる.部外者がすべての情報を入手することはかなりむずかしい
だろう.

 このように「厳格なアノニマ」の対象者の存在は,よほどのことが
ない限りバレることはないが,些細なミスから露見してしまうことがほとんどだ.

「外部との接触をすべて絶て」と言われているのに,家族が心配で
手紙を書いてしまい,その家族を監視していた者に手紙を読まれて,
外人部隊にいることが発覚してしまうのだ.ありがちなミスである.

 また「厳格なアノニマ」の対象者が犯罪をおこした場合,強制的に
即刻除隊させられる.部隊としてそのような者を守る義務はない.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.2.10




『日露戦争の兵器と装備──日本陸軍の兵站戦(10)

                 荒木 肇

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□はじめに
 
 海軍のファンでいるとおっしゃる読者のお一人,古船屋さんからの
お便りには勇気をいただきました.今から十年あまり前のこと,
「日露戦争開戦百年」を謳った企画がずいぶん賑やかに催された
記憶があります.日露戦争から1世紀というと,ずいぶん昔のようですが,
わたしたちはその体験者とも同じ空気を吸っていたことが
忘れられそうになっています.

 わたしの曽祖父は予備役砲兵として出征し,戦死しました.
祖父はその直後に生まれ,父親の戦死の賜金(しきん)と勲章
の年金で幼い子供は成長します.日露戦争はわたしの祖父が
生まれたころの出来事だったのです.戦争は前の戦争から語る.
そういったことが忘れられ,あの悲惨な未曾有の敗戦のことばかり
が自明のことのように語られる.大東亜戦争は,その前の日華事変,
それは満洲事変を,満洲事変は日露戦争,日露戦争は日清戦争
から説明されなくては正確な理解はできないと思います.
『日本陸軍は日露戦争の成功体験が忘れられなかった』とも批判
されてきました.
 
 では,日本の軍隊はどのような努力の結果,成功したのでしょうか?

 戦場での人の暮らしを支える食糧や兵器・弾薬・医薬品,さらには
組織運営のための厖大な物資.その損耗の補充や回収をどうしていた
のかが,今回からのテーマになります.

▼完成された連発銃・30年式

 兵卒たちが生命を託した小銃.それには2つのタイプがあった.
1つは歩兵銃(ライフル)と,もう1つは銃身を切りつめた短い騎兵銃(カービン)
である.日本陸軍は日露戦争には30年式歩兵銃と同騎兵銃を主力装備
としてのぞんだ.2つの全長と重さはそれぞれ1275ミリ,4050グラムと,
より短く軽量にした963ミリ,3300グラムである.全長の差と軽量化
は主に銃身長の795ミリと480ミリの違いが生み出した.機関部や
銃床部分はまったく変わらない.

 ほかに外観上の細かい違いでは,歩兵銃は銃身の上部をおおう
木部が長く,騎兵銃はそれが省かれている.負い皮(スリング)を付ける
留め具が騎兵銃は銃床の左にあって斜めにして背中に負いやすくなっていた.
初期の生産品は銃剣を付けることができなかった.騎兵は騎兵刀
という長大なサーベルを左腰に吊るからである.銃剣まで同時に装備
するのはなんとも不便だったからだ.

 どちらも5連発で,機関部の遊底から右に直角に飛び出した
槓杆(こうかん)を操作して,実包の薬室への装?,排莢をくり返す.
いわゆるボルト・アクション方式である.連発小銃というと第2次大戦時代
の自動装填機構のオートマチック・ライフルを連想する人がいるが,
この連発銃とは,それまでの1発ずつ実包をこめる単発銃と区別した
名称である.この30年式歩兵銃と騎兵銃が,厳しい実戦を経て改良された
のが大東亜戦争までの主力38式歩兵銃だった.重量や全長,
そのほかはほとんど変わらない.

 右側に突き出した槓杆を垂直に立てると遊底を後ろに動かすことができる.
遊底を前に押し出すことで,弾倉の一番上の実包を薬室に押し込める.
すると,遊底の内部のスプリングが撃針をロックする.遊底を閉じて槓杆
を右に倒せば撃発状態になる.30年式歩兵銃では,遊底後部に
引手(ひきて・副鉄)がついている.発射可能な時にはこれが14ミリくらい
露出した状態になる.この引手を右へ4分の1回転をさせると安全装置
がかかった.引手が垂直に立つので照準操作ができなくなるために撃発
ができなくなった.

 5発入りの弾倉は箱型尾筒という形式で,外からは見えない.
実包は5発ずつが金属製のクリップでまとめられて慣れれば一挙動で込める
ことができる.弾丸は弾倉の内部で左右に分かれてジグザグに入った.
左に3発,右に2発である.これが改良型の38年式では逆になったから
注意を要する.また,弾倉の下は「底鈑(ていはん)」といわれる薄い金属
でできており,ボタンを押すことで簡単に取り外せた.戦闘後の残弾を抜く時
にはとても便利だった.戦う軍隊は安全には神経質なほど気を配る.
この残弾抜きは戦後の戦争映画などでは面倒なので,絶対に再現しない
史実である.戦前の映画では必ずこの動作があった.戦場に立った軍人
には常識になっていたからこそ,それを必ず実行しなくては経験者の観客
が納得しなかったのだろう.
 
▼両軍実包の違い

 両軍小銃の大きな違いはそれぞれの弾丸口径だった.ロシア軍の
1891年式3リーニア(1リーニアは2.54ミリ)は7.62ミリ,わが軍は6.5ミリ
である.この小口径弾が採用されるまでには多くの議論があった.
6.5ミリ弾への極端な評価は,「これでは威力が低く不殺銃」だというもの
だった.敵兵を1発で殺せなくては軍用銃の意味はないというものだ.
 
 しかし,弾丸の初速が高まり,その衝撃力は敵の突進してくる騎兵の乗馬
の大腿骨を粉砕することができた.戦闘時の射撃距離は300メートルから
200メートル.また,敵が負傷すれば,後方に担架で運ぶためには4名の
敵兵が働く.その装具などを運ぶためにさらに2名が必要になる.
要は敵兵を一時的にでも戦闘不能の状態におけばよい.長く苦しい療養期間
を取らせ,治っても不具にするようなものより,はるかに人道的な銃弾だ
という主張がされた.
 
 しかし,本音を言えば資源の節約ということも考えられる.列国の採用する
7.62ミリや7.92ミリという大口径銃弾と比べると,弾丸に使われる銅や鉛,
ニッケルの量が格段に減るのだ.また,真鍮製だった薬莢の小型化も図れる.
弾頭は貫通力を高めるために純鉛の本体に銅80%,ニッケル20%の
白銅をかぶせたものだった(弾頭だけの重量は10.5グラム).
大国ロシアの7.62ミリ弾は全重量25.8グラム,弾頭重量は13.7グラム
にもなる.21.5グラムの30年式に比べれば1発ごとの重量差は4.3グラム
だったが,この差は補給上でも大きな利点になった.日露戦争の一会戦でも
数百万発の小銃弾が消費されたのである.

▼30年式銃前史

 日清戦争(1894〜5年)では野戦師団の歩兵と工兵は村田銃の
明治13年(1880)式,もしくは同18年式で戦った.これらは幕末以来
の単発銃である.1発撃つごとに筒尾(とうび・銃身の最後部にある機関部)を
開け,排莢し,弾頭と薬莢が一体化した口径11ミリの金属薬莢を手で込めた.
大陸の寒さと緊張で,手指がうまく動かず,装填に苦労したという話が
残っている.

 もう一つの主力だったのは22年式連発銃である.銃身の下にあった
チューブ式弾倉で知られる無煙火薬使用の22年式小銃は口径8ミリ,8連発
である.この戦争では台湾の領収に進出した近衛師団と第4師団だけが
装備していた.大陸で戦った将兵は手にしていなかった.
 
 11ミリから8ミリへと弾丸が小口径化したのは,
もちろん無煙火薬(コットン・パウダー)の採用のおかげである.この火薬は
燃焼時間が黒色火薬(ガン・パウダー)に比べて多かった.そのかわり発生
するガスの量はたいへん多い.そのため銃身に大きな衝撃を急に与える
ことなく,弾丸に十分な加速を加えられた.弾丸の衝突速度が速ければ
衝撃エネルギーはそれだけ大きくなる.大口径であっても弾速が遅い弾丸
よりはるかに有効だった.
 
 無煙火薬は1885(明治15)年にフランスで発明された.以来,列国は
これを使った小口径・連発の小銃を次々と開発し,実用化した.戦闘射撃
の距離は大きくなるばかりだった.敵をより遠くから倒せる,そういった思想
を「遠戦主義」と名付ければ,日本陸軍も当然,それの信奉者だった.
もともと日本人は戦国時代の昔から,投石,弓矢,鉄砲が大好きで,
戊辰戦争でももっぱら火力戦闘を重視していた.西南戦争で銃器や弾薬の
補給が続かなかった薩摩軍の白兵斬り込みも,決して好きで行なったわけ
ではない.
 
 22年式小銃は,アメリカの西部劇に見られるウィンチェスター・ライフル
のように銃身の下に並行してチューブ弾倉(前床管という)が付いていた.
戦闘になる前に1発ずつ手で8発を込めておく.その後,薬室に1発を装?し,
「搬筒匙(はんとうし)」という部品の上にも1発を入れておく.この搬筒匙
には,単発と連発モードがあって,ツマミで操作することができた.
単発にすることで弾倉からの給弾を止めることができた.連発にすれば,
合計で10発が連続発射できることになる.残されている写真では
1900(明治33)年の北清事変に出動した歩兵が携帯しているのが確認
できる.このときは居留民保護のために列国は多くの兵士を出動させた.
そのなかで日本陸軍だけが「時代遅れ」の管弾倉式小銃を持っている
と欧米では話題になった.
 
 この陸軍最初の連発銃については「悪評さくさく」だったとされる.
ところが不思議なことに,実戦で使われた台湾領収戦争,北清事変では
とくにこれといったトラブルが報告されてはいない.悪評のもとは,開戦直後
に古くなった村田連発銃をもたされた後備歩兵旅団の将兵たちの声だった.
しかも,軍事研究家の兵頭二十八氏によれば,その苦情の多くは日露戦争
の後,ずいぶん経ってから回顧談だったという.その中身の多くは管弾倉
についての苦情によるものだ.それは8発を撃ち尽くしてしまうと,戦闘中
には20秒近くもかかる再装?をする暇(いとま)がなく,結局,単発銃に
なったからだとする.
 
 しかし,北清事変の従軍記などを見ると,北京の大使館籠城戦の中では,
戦闘とはしばしば「撃ち方止め」がかかるものだった.その際に銃弾を補?
するゆとりはあった.それに乱射ではなく狙撃を大切にすれば,単発で十分
間に合うようである.では,敵が退却中の追撃などがあったらどうか.
これはその直前に連発モードに切り換えればよかったという.再装?
に立ち止まる必要がないからだ.逃げる敵を撃つ,そのとき連発モードは
たいへん便利だったらしい.
 
 問題は複雑な機関部に入りこむ砂粒だった.大陸の目に見えない細かい
砂塵は複雑な機構に不具合を与えた.機関部の動きを滑らかにするための
油を入れるポケットもあった.また,現役から離れた後備兵が手入れに
慣れていないことも原因の一つだっただろう.そして何よりも,その命中率
の低さだった.このことは『偕行社記事』にも載っており,有効射程は
300メートル以下だったことが指摘もされている.おそらくそれは銃身長が
短かったことに理由があるのではないか.村田連発銃(22年式)の全長は
1215ミリ,銃身長は746ミリである.全長は30年式に比べて60ミリ,
銃身長も49ミリ短い.装薬(薬莢内の火薬)量と銃身長の関係はたいへん深い.
軽量化を目指して銃身を切り詰めれば,装薬は十分に効果を示さず弾丸速度
は遅くなる.その結果の命中率不良ではなかっただろうか.

▼小銃弾薬の携行量

 弾丸の口径が小さくなり火薬の量も減れば実包全体が軽くなる.
日清戦争の村田18年式の実包重量は約46グラムである.村田22年式
でも同31グラムだった.それが30年式では同21.5グラムに軽くなって
いったのである.

 日清戦争では歩兵が携行するのは各兵が70発(46×70=3220グラム),
小行李に1銃あたり30発,弾薬大隊の歩兵弾薬縦列に1銃あたり100発の
合計200発だった.革製の弾薬盒や手入具,実包を合わせておよそ5キログラム.
これに18年式では全長580ミリ,鞘も含めた総重量720グラムの銃剣を
腰に着けた.13年式銃剣では全長708ミリ,総重量は990グラムにもなった.
 
 日露戦争では腰の前にベルト(帯革・たいかく)に通した2つの革製弾薬盒
を着け,それぞれ5発をまとめるクリップ(挿弾子・そうだんし)を6個ずつ収めた.
これらを前盒(ぜんごう)といい,腰の後ろには大型でクリップが12個入る箱
を付けた.これを後盒(こうごう)という.合計で120発(2580グラム)これらと
別に背嚢の中には30発から60発,小行李には1銃あたり60発,
弾薬大隊の縦列に同じく90発で合計1銃あたり300〜330発を用意していた.
日清戦争時のおよそ5割増しである.
 
 銃剣は陸軍の解体まで使い続けられた30年式といわれる当時の
西欧列国の標準装備に近いものだった.全長525ミリ(鞘に入った状態),
剣長398ミリ,重量690グラムである.30年式歩兵銃の銃口への取り付け
はワンタッチで行なえた.そうなると全長は1670ミリになった.対して
ロシア軍のモシン・ナガン小銃はねじ止め形式で長い銃槍を着けた.
銃全長1.29メートルに対し,槍を着ければ1.73メートルにもなった.
 
『日本陸軍は白兵信仰だった.火力を軽視し,銃剣だけを頼りに白兵戦を
勝ち抜こうとし,そのために長大な38式歩兵銃を採用した』.そうした悪口
が戦後長く語り継がれてきた.ところが,30年式歩兵銃が設計・開発された
のは陸軍が火力主義だった時代のことだ.当時のプロシャ式の歩兵操典
では,『突撃は敵が退却したとき,勝利の確認のために行なう』とされていた.
実際,「偕行社記事」などを見ると,陸軍軍人はロシア兵が突撃をしかけ
白兵戦を挑んでくることに驚きと当惑を隠せないでいた.
 
『射撃では十分に圧倒した.300メートルから射撃を始め,ロシア兵が
斃れるのが目撃された.ところが根を生やしたように逃げない.それまでの
訓練では敵は耐えきれずに退却するはずだった.それどころか,将校が
抜刀し,先頭に立ち,全員が槍を着けた筒先を揃えて突進してきた.
もう不要だとまで考えていた銃剣が,やはり最終兵器になるのだと
思い知った』.ある将校の実戦談である.
 
 白兵戦の出来があまりにお粗末であったことから「白兵信仰」を陸軍中枢
が打ちだしたのは1909(明治42)年の歩兵操典の改正からである.
当時も今も,歩兵銃の重さは人間の体力上の限界があり,およそ4キログラム
だった.戦後の陸上自衛隊の主力小銃だった64式も4.2キロである.
38式が重かった,銃剣突撃のために無用な長さだったというのは,戦後,
戦前社会への悪口を言う自由を手にした弱兵のインテリたちがまき散らした
弱音にしか過ぎない.

▼30年式銃の生産と補充(1)

 銃の主要な部分は銃身と機関部である.銃身は連発なので発射速度が
高まる.弾丸数が増えるので,当然,発熱と内部の摩耗が増える.銃身内部
の施条(ライフリング)がすり減れば当然弾道が不安定になる.発熱によって
銃腔(じゅうこう・銃身内部の直径)が拡大すれば,弾頭の施条への食いこみ
が減り,回転が甘くなってくる.そうした事態を銃腔開大というが,生産に
関わった兵器本廠でも実戦を経た小銃を回収していた.

 文書によれば,6.55ミリの腔中検査器が全通しないものは合格.6.57ミリ
の検査器が通り抜けたものは不良と決めている.つまり,生産時の誤差と実用
しての耐久性を合わせて0.05ミリ以内,最大で0.07ミリ以内という銃身製造
には恐ろしいほどの精密さを要求しているということだ.

 その命中精度がどれほどのものかというと,200メートルで30発の射撃
を行なって,半数が直径30センチメートルの円内に弾着が集中した.
200メートルといえば,地上から見た東京タワーの展望台付近であり,
その窓に全弾がほぼ命中するということだ.こういう精度が保証されなくては,
国民の誰もが,しかも射撃の素人が集められ,短期間で養成される国民軍の
制式小銃にはなれなかったのだ.

 銃身よりもなお,精密さを要求されたのは機関部である.単発銃の時代は
銃身の腔部につながって,弾薬の装?と遊底の作動部分の尾筒(びとう)と内部
で作動する遊底でしかなかった.ところが連発銃になると,銃腔の閉鎖・密閉と
同時に撃発と空薬莢の抽出(ちゅうしゅつ)である.装?と排莢は手動で,密着と
同時に滑らかな摺動(しゅうどう・すれ動くこと)が要求された.装?,閉鎖,撃発,
排莢,再装填といった一連の流れを支える精密さである.これが戦場では
『武人の蛮用』といわれる過酷な戦場で,いつも有効に機能しなければならない.
しかも,部品は小さい.毎日の分解手入れと破損・摩耗した部品の交換を
専門的知識のない一般兵卒が行なうのが軍用銃の宿命でもあった.

 生産にあたったのは東京砲兵工廠の小銃製造所(現在の北区十条)である.
開戦時においての歩兵銃の陸軍全体での保有数は以下の通りだった
(いずれも概数.『戦役統計』)
(1) 各師団・旅団には,30年式19万7000,村田連発銃32,村田単発銃
11万3000,その他2000,合計31万2000挺である.
(2) 憲兵隊・要塞には,村田連発銃2万8800,村田連発銃600,
合計2万9400挺.
(3) 教育総監部・学校には,30年式1600,村田連発銃130,村田単発銃20,
その他430,合計2200挺.
(4) 兵器本廠には,30年式5万2000,村田連発銃9万5000,
村田単発銃3万7000挺,その他10万8000,合計29万2000挺.
 保有の割合では,全小銃数のうち約40%が30年式,村田連発銃が20%,
村田単発銃が24%である.騎兵銃は全保有数が約5万挺,うち30年式が
60%,村田連発騎兵銃が20%を占めていた.

 30年式歩兵銃・騎兵銃の制式の制定は1898(明治31)年2月,生産開始
は10月.それから1904(明治37)年1月までに28万挺あまりを生産している.
平均の月産数は4460挺である.開戦を1カ月後に迎える1月は12時間操業
で月産6500挺,24時間のフル稼働では1万挺になった.

 以下,小銃の生産については(2)で細かく説明する.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.2.10




『ライター・渡邉陽子のコラム (81) ─ 自衛隊海外派遣の歩み(11) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.

先週,拙メルマガが配信された日に,今月末に期限を迎える自衛隊
の南スーダンPKOが10月末まで8か月間延長される方針であることが
発表されました.さらに安倍首相は国会で,駆け付け警護などの任務拡大
の検討をすると発言.現在,現地では第10師団を基幹とする第9次要員
約350名が活動しています.彼らには駆け付け警護の任務は付与されません
でしたが,今年5〜6月に派遣される第10次要員は,これまでの派遣部隊
とは違う覚悟で現地に赴くことになるかもしれません.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■自衛隊海外派遣の歩み(11)

先週はPKOの歴史について触れました.では,国民のPKO業務に対する
意識と自衛隊への関心は,どのように変化していったのでしょう.
内閣府による「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」で,その推移をたどってみます.


1993年度は,自衛隊が初めて国連平和維持活動に参加した翌年に当たります.
自衛隊・防衛問題に対する関心は,半数を超える人が「関心がある」と答え,自衛隊
に対する全般的な印象は,「良い印象を持っている」「悪い印象は持っていない」が77%と,
前回調査の1990年度の調査に比べ9%増加しました.「今後の国連平和維持活動へ
の参加」については,「賛成」「どちらかといえば賛成」が48%だったのに対し,
「反対」「どちらかといえば反対」が31%でした.


2002年度はテロ対策特措法に基づき,インド洋で海上自衛隊による燃料・水の
補給支援活動が引き続き行われていた年です.
自衛隊の全般的な印象は「良い印象を持っている」「悪い印象はもっていない」が80%と,
自衛隊に対する肯定的な評価が着実に定着してきています.「今後の国連平和維持活動
への参加」については,「賛成」「どちらかといえば賛成」が70%と大きな割合を占めた
のに対し,「反対」「どちらかといえば反対」は13%にとどまり,賛成派が大幅に増えました.

このような国民の意識変化は,カンボジアPKOへの参加から10年以上を経て,
国民の国際平和協力に対する理解が深まったためと考えられますが,同時に,自衛隊
の業務に対する真摯な態度と能力の高さが認められた結果でもあります.
国際貢献のために汗を流す隊員たちの姿を見ているのは,海外だけではないのです.


では,最新のものである2014年度の自衛隊・防衛問題に関する世論調査では
どうなっているでしょう.

自衛隊に対する全般的な印象は,「良い印象を持っている」「悪い印象は持っていない」
が92.2%です.
首相から「日陰者」と言われ,国民から「税金泥棒」と責められ,異動先では住民票の
登録を断られ,大学への入学を拒否された時代があったことを思うと,今や国民の9割以上
が自衛隊を支持しているという事実は,なんだか泣けます.広報下手,アピールも苦手
な自衛隊は,黙々と任務を遂行する姿を積み重ねることで,ここまで国民の信頼を得た
のです.
ほかの回答も見てみましょう.


自衛隊・防衛問題に対する関心は「関心がある」 71.5%
これまでの自衛隊の海外での活動について「評価する」 89.8%
災害派遣活動について「評価する」 98.0%


自衛隊による国連PKOへの参加や国際緊急援助活動などの『国際平和協力活動』
については,
「これまで以上に積極的に取り組むべきである」 25.9%
「現状の取り組みを維持すべきである」65.4%
「これまでの取り組みから縮小すべきである」 4.6%
「取り組むべきでない」 1.0%
「現状の取り組みを維持すべきである」は,前回の61.3%より増加しています.


自衛隊が存在する目的は何だと思うかという問いには
災害派遣 81.9%
国の安全の確保 74.3%
国内の治安維持 52.8%
国際平和協力活動への取組 42.1%
という順になりました.


ちなみに,「自衛隊はどのような面に力を入れていったらよいか」という問いも,
「自衛隊が存在する目的」の回答と同じ順序となっています.
ただし前回の調査結果との比較では,「国際平和協力活動への取組」を挙げた者
の割合が低下(43.5%→35.7%),「国内の治安維持」は上昇しました(41.7%→48.8%).
この傾向は,おそらく今後も続くのではないでしょうか.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.2.11




【短期連載】 外人部隊の真実 

外人部隊への志願者数と入隊者数─外人部隊の真実(6)

 元上級伍長 合田洋樹
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はじめに

 今回は外人部隊の志願者数について紹介します.
過去から現在まで,外人部隊への志願者は減ることはありません.
平時でも戦時でも同様です.しかし創設期には志願者を集める
のにかなり苦労したようです.当時は名前が知られていなかった
ので当然でしょう.また一度入隊しても,あまりにもお粗末な装備
や食事事情のせいで,脱走者はあとをたたなかったようです.

 日本人が多く志願するようになったのは,1980年代後半からです.
この頃からフランス外人部隊に関する書籍が少しずつ出てくる
ようになったからでしょう.さらに第一次湾岸戦争,ボスニア紛争
(国連軍の一員として)に参加した日本人数名の活動が,テレビで
放映されたことも影響したと思われます.

 第一次湾岸戦争ではイラク兵と外人部隊兵の間で,激しい戦闘
は行なわれませんでしたが,第1外人工兵連隊に在隊していた
日本人は,多くの地雷を除去する任務を遂行しました.
地雷除去活動は地味な活動ですが,常に死と隣り合わせの危険な
任務です.

 ボスニア紛争では,流れ弾に被弾した(幸いにヘルメットを
かすめただけでしたが)日本人部隊兵が放映されました.
私の知る限り,近年外人部隊に在隊していた日本人の中で,
被弾した経験を持つのは彼だけです.

 2000年以降,コートジボワール,アフガニスタン,マリ,中央アフリカ
などの紛争地で,流れ弾が飛び交うなかを駆け抜ける修羅場を
十数名の日本人部隊兵が体験しています.しかし幸いなことに
被弾することはありませんでした.

 90年代中頃には落下傘連隊には,20人以上の日本人が在隊
していたと聞いています.私が落下傘連隊に配属された1999年
にも15名以上在隊していました.2004年頃には私も含めて3人
まで減りましたが,その後少しずつ増え,2015年の段階で15名と
なり,現在は10名ほどが在隊しています.

 現在,おそらく50名あまりの日本人が,各連隊に在隊していると
思われます.今後も冒険を求める,日本人志願者が減ることはない
でしょう.
 

▼外人部隊への志願者数と入隊者数

 2009年の情報であるが,約1万1500人がフランス各地の徴募所
を訪れ,志願した.志願した直後に4000人が落とされ,7500人
が予備選考を受けることになった.不合格の理由はさまざまで,
身分を証明できる書類がなかった,明らかに健康上に問題があった,
あるいは懸垂が3回もできなかったのかもしれない.

 予備選考でさらに1600人が落とされ,残り5900人が本選抜
を受けることになった.本選抜はオバーニュで行なわれ,CSIと
呼ばれる部署が担当する.この段階でDSPLE(警務部)による
面接もある.ここで3500人が落とされ,2400人が最後の難関
である「コミッション」と呼ばれる審議委員会にかけられ,
1000人が落とされた.最終的に認識番号を与えられて入隊した
のは1400人だった.

 近年,外人部隊では毎年約1000人前後の志願者を採用している.
400人も多く採用した2009年は,志願者にとっては非常にラッキー
な年だったわけだ.

 現在,フランス正規軍では新兵の獲得に非常に苦労している.
陸軍の場合,兵卒の採用倍率は2倍に満たない.この採用倍率は
徴兵制の終了以降,2.5倍を超えたことがない.そのため正規軍
では質のよい志願者を集めにくい状況が続いている.空軍と海軍
も似たような状況だ.しかし,パリのテロ以降,愛国心に燃えた若者
の志願が増えている.付け加えるなら士官学校は15倍と創立以来,
非常に人気が高い.

 それに比べて外人部隊の採用倍率は,近年7倍から10倍で,
それだけポテンシャルの高い者を選ぶことができる(ポテンシャル
が高いことと,有能な兵士は別ものだが).

 これは世界の軍隊の中でも珍しい傾向だろう.国内外で大規模な
広報活動をする必要がない.そんなことをしなくても各国のメディア
が外人部隊を取り上げて勝手に宣伝してくれる.

 そのおかげで歴史と伝統のある外人部隊は,世界中に知られ,
多くの志願者がやってくる.長い歴史が培ったネームバリューのおかげ
だろう.しかし,時に過度に誇張されてしまうので,「外人部隊は特殊部隊
である」と誤解されてしまうこともある.

 部隊では2015年から2016年にかけて1700人を新規採用する話
が出ている.通常の1・7倍以上だ.このタイミングで志願すれば入隊
もしやすいかもしれないが,くれぐれも最低限の体力と語学レベルに
達してから志願してもらいたい.準備なしに志願すると,間違いなく大恥
をさらすことになるだろう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.2.17





『日露戦争・小銃,野砲,機関銃の製造──日本陸軍の兵站戦(11)

                 荒木 肇

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▼小銃の配当

 開戦時に約25万挺あった30年式歩兵銃は,うち20万挺が
各野戦師団に配当された.定数は各師団1万5037挺,うち歩兵隊は
兵卒用に9600挺である.30年式騎兵銃も約3万挺あり,騎兵隊,輜重兵隊
が携行した.しかし,兵器本廠の保有数は歩兵銃5万2000挺,
騎兵銃1万2000挺しかなかったので,後備諸部隊,兵站諸部隊,補充隊など
はこの新鋭銃を持つことはできなかった.

 そこで,動員された後備歩兵隊,同工兵隊は保管されていた
村田連発銃(22年式),後備騎兵隊と同輜重兵隊は村田騎兵銃
(22年式5連発・銃身が短くチューブ弾倉も短い)を配当された.輜重輸卒には
4人あたりに1挺の村田歩兵銃(単発18年式・口径11ミリ)が支給され,
戦時中の師団新設のための臨時特設部隊の歩兵・工兵は村田歩兵銃,
騎兵・輜重兵には村田騎兵銃(単発)が渡された.小銃弾は6.5ミリと8ミリ,
11ミリと3系統になり,そのぶん補給は複雑になった.それぞれの生産ライン
は廃止できず,手入具などの調達・備蓄・追送・配布なども当然のことである.
 
 兵卒は銃の手入れ用具や交換部品も支給された.部品は「携帯予備品嚢(のう)」
にまとめられ,兵卒に支給されていた.以下はその部品の名称と働きである.

 撃茎(げきけい・実包の雷管に激突して発射薬を発火させる先端が尖った
太い針),撃茎発条(コイル・スプリング,撃鉄を引くと解除された弾性で撃茎
を突き出す.疲労による折損が多かった),撃茎駐螺(ちゅうら・撃鉄に
加えられた力を撃茎に連接する),同発条(撃鉄を引いた後に復元する),
蹴子(しゅうし・空薬莢をはね出す),抽筒子(ちゅうとうし・空薬莢を薬室から
抜き出す),弾倉発条(弾倉から実包を上部に送る)という多様なものだった.
しかも,そのそれぞれには同じ番号が刻まれていた.微妙な摺り合せは工場
で生産されたときに,熟練した職工が一つ一つ「やすり」で仕上げていたからである.
 
 これらの生産を受け持ったのは小銃製造所だった.現在も3自衛隊の
補給統制本部がある東京都北区十条・王子付近は,元々そのほとんどが
陸軍用地である.古い時代,幕末から火薬製造所が置かれたのも理由が
ないわけではない.まず,高台にあって人家が少ない.現在でも東北・上越新幹線
の高架線路から見れば,目の上に台地の線が見える.上野忍ヶ丘から続く
丘陵地の上に十条台はある.江戸時代を通じて畑地がほとんどだった.
台地の下には滝野川の流れがあり,すぐ荒川に続いている.製紙業が発達した
のもそのおかげである.水運の便もよく,それでいて人口が少ない.
まさに火薬や兵器を製造するのに最適な立地だったのだ.
 
 そこで働く職工数は日露開戦の直前1903(明治36)年末で男工3800名
あまり,女工200名あまりだった.当時,所長は砲兵中佐南部茂時,高級所員
は南部麒次郎砲兵少佐,ほかに村田綱次郎陸軍技師(高等官)などがいた.
村田技師は村田経芳(つねよし)の子息である.このほか,戦時になると
高等工業出身者,帝国大学出身工学士で出征中の野戦部隊にいた者を
探し出して戦地から召喚し,製造所に配属したこともあった.こうしたところが
陸軍人事の硬直性を示すもので,貴重な技術者や医師資格を持った者も
第一線の歩兵少尉で命を落とす者も珍しくなかった.小銃製造所もなんとか
所長以下将校,技師など10人が集められた.
 
 中堅幹部は工長(技術下士)出身の技手(判任官)や上等工長(技術准士官)
だった.彼らはそれぞれ工場長として鍛工場,銃身場,機関場,銃床場,
修理場,旋工場を統率した.これに事務職として雇員や臨時傭人を配属していた.
小銃の製造能力は初期の日産300挺から最後には10倍の数にも達した.
職工だけで1万人という規模にもなった.新しく採用した職工は見習い期間
をおいて,熟練者が中心になって教育し働かせた.
 
 開戦当時の平均日給は男工63銭,女工16銭という数字があるが,
1円を使いでから見て,およそ現在の1万円とみて男子が6300円,女子は
1600円になる.これは民間と比べて少しも低くはない高給だった.
民間では平均日給男子で37銭,女子で12銭というのがふつうだったからだ.
 
 男工が25日間働き,諸手当がつけば手取りで月収18円ほど.妻と子供2人
を養っても,1日の米飯代は夫婦で1升,子ども2人が5合として28銭5厘である.
30日で8円55銭,長屋家賃が1円20銭(当時の板橋村仲宿の平均),
薪炭費1俵15キロで50銭,味噌・醤油その他が1円50銭としても合計で
およそ12円である.副食費,銭湯代や晩酌の一杯,女房の髪結や床屋代,
被服費を払っても十分ゆとりがあったはずだ.子供たちが通う小学校の教員
の初任給が12円,夏目漱石の「坊ちゃん」,中学教員の給料が30円ほどである.
学歴としては小学校卒業者の職工の給料は高い方だった.
 
 1万人もの職工を集めた.当時,大阪砲兵工廠でも野山砲や攻城砲を造り,
砲弾の大増産も行なわれていた.職工の不足は大阪でも変わらず人集めは
続いていた.ついには争奪戦になり,敦賀(福井県)と伊勢湾(三重・愛知両県)
を境に互いに募集を限るようになった.幹部も人不足になるのが当然で,
看護卒や輸卒として服役していた高等工業卒業者や帝大出身者を
またまた探し出した.一時的に文官技師待遇者として入所させ,威厳を持たせる
ために階級相応の軍服を着せずに,洋服,フロックコートなどを着用させた
という笑い話もある.こうしたことを反省点として,陸軍は戦後,真剣に
動員制度を考え直すことになる.
 
 小口径弾薬の統一化,すなわち機関銃も歩兵銃も騎兵銃も同じ弾薬を使う方が,
はるかに効率が良いことは当然である.そうしたかったができなかった.
それでも30年式銃の生産は拡大し,前線に送られ続けた.全軍が6.5ミリ
の30年式実包を使うようになったのは開戦から8カ月後の沙河会戦
(1904年10月)のころだった.
 
 なお,日本陸軍について不当な批判が続けられていることに苦言を呈しておく.
戦後,ろくに事実も確かめずに欠点ばかりをあげつらう風潮があった.
前にも述べた30年式,あるいは38年式歩兵銃の長さを白兵重視のために
決定したといった誤認がある.また主力小銃が自動装填化されず,日露戦後
の明治38年に制式化された槓杆式小銃であることを旧式の兵器で戦った
とあざ笑う.
 
 ではロシア軍はどうかというと,1891(明治24)年式を基本形にした槓杆式
小銃をソ連になっても使い続けた.イギリス軍の主力小銃はやはり槓杆式の
1939(昭和14)年式リー・エンフィールド小銃だった.ドイツ軍はやはり
1935(昭和10)年制式のモーゼルKar98という槓杆式.アメリカ陸軍や
海兵隊も大東亜戦争開戦時には1903(明治36)年式のスプリングフィールド
槓杆式小銃だった.
 
 米軍のM1オートマチック・ライフルを世界標準だったと思いこむ人は,
世界一の生産力と,その後方補給・兵站能力がそれを支えていたことを知らない.
知ってはいても観念としてしか知らないのだろう.あの自動銃は恐ろしいほど
の弾薬を必要とした.また,南方の地形・風土では多くの破損があった.
米軍のジープはどんな地形でも踏破して前線まで小銃弾や補充の小銃を運んだ.
それが米軍の,見方を変えれば浪費としか思えない小銃・機関銃火力の元に
なっていたのだ.
 
▼日清戦争の7珊(センチ)野山砲

 各師団にあった砲兵聯隊には野砲と山砲編制があった.野砲は6頭の馬
が曳く「輓曵(ばんえい)」といわれる運用で,山砲は野砲をより軽くし,
分解して5頭の馬が背で運んだ.これを「駄載(ださい)」という.軍馬の中でも
輓曵する馬を「輓馬」といい,駄載する馬を「駄馬」といった.山砲は道路が
整備されていないところや,山岳地帯ではたいへん機動性があった.

 その代わり軽量化ゆえに砲弾が届く射程を犠牲にしたものである.
野山砲はどちらも同じ弾丸を使った.異なっていたのは発射薬(装薬)の量の
多寡(たか)である.山砲は砲身や砲架,尾栓(砲尾の閉鎖機)の強度を
下げた.分解すれば5頭の馬で運べる重量にするためには,射程を得る
装薬を減らすしかなかったのだ.

 日本陸軍は銅の生産が国内で多いことから,イタリア式の青銅砲を採用した.
1885(明治18)年に採用が決まった7珊(センチ)半野山砲であり,
翌86年に制式化された.その翌年,明治20年までに全野戦砲兵の装備
がおわった.口径は75ミリ,射程は野砲が3560メートル,山砲は2700メートル
である.弾丸はイタリアのグレゴリーニ銑鉄,または釜石銑鉄を原料としていた.

 弾種は榴弾(りゅうだん),榴霰弾(りゅうさんだん),霰弾の3種類で,
陸軍で初めて銅帯式弾丸を使った.榴弾は内部に炸薬が詰められ,信管が
作動し爆裂する.弾丸の破片や爆風によって危害を加える.榴霰弾は内部に
パチンコ玉のような鉄球がこめてある.空中で時限信管によって炸裂し,
前下方を掃射するように鉄球を撃ちだす.霰弾は砲口から発射されて
一定の距離まで飛ぶと炸裂し,内部の鉄球を飛び散らせる.狩猟用の散弾銃
を考えると分かりやすい.砲兵の自衛戦闘や近距離に密集した敵に使うことがあった.
 
 銅帯付き砲弾というのは砲身内部(砲腔)の中のライフリングに砲弾を
食いつかせやすくするために砲弾の尾部に巻いた銅製の帯をいう.
だから砲弾は摩擦で熱せられた銅を砲腔内にこすりつけながら回転してゆく.
撃ち終わった砲兵の砲身内の手入れは悲惨をきわめた.今も昔も変わらない.
洗杆(せんかん)という長いブラシを洗浄液にひたし,こびりついた銅を剥がし
落としていかねばならない.何十回も,ときには何百回もみんなで力を合わせて
洗杆を砲口から突きこむのが砲兵の射撃後に必ず行なう手入れである.
 
 日清戦争では野戦師団の野砲兵聯隊の戦時編制定数は合計で野砲168門,
山砲72門,の合計240門だった.この青銅砲は十分に威力を発揮した.
清国兵はとりわけ,空中で炸裂して多くの被害を与えた榴霰弾を「天弾」と
呼んで恐れたという.

▼速射野砲
 
 1890年代になると,列国では速射砲の研究が盛んになった.速射とは
それまでのように弾丸と薬嚢(やくのう・布製の袋に入った発射薬)を別々に
砲身に押し込むのではなく,一体化した金属薬莢砲弾(金属薬筒)を使うこと
をいった.装填時間が短くてすむ.構造は小銃弾を大きくしたものと思えばよい.
ただし,小銃弾には発火用に雷管が付いていたのに対して砲弾には「爆管」
が中に入っていた.それまでの薬嚢を使う砲の閉鎖機には「火門孔」という穴
が開いており,装薬への点火装置である「門管」を差しこまなければならなかった.
 
 これに加えて砲は砲弾が発射されると飛びだす砲弾の反作用として後退する.
元に戻すには人力で押すしかないが,これがいちいち照準をつけ直す必要を
生む.もし,砲身が自動で元に戻り,砲の位置そのものが動かなかったら,
どれほど楽になることだろうか.陸軍の造兵家なら世界中誰でも夢に描いたもの
である.原理は分かり切っている.なぜなら海軍の艦載砲では,
すでに砲身復座機構は現実化していた.ところが,陸軍の野山砲は艦砲に
比べればはるかに軽量であり,機動力を高めるためには,できるだけ軽量で
なくてはならなかった.野戦の生地(せいち・整備されていない野原)で馬6頭
が曳けなければ野砲ではなかったからだ.
 
 1896(明治29)年,砲兵大佐有坂成章(なりあきら)は
東京砲兵工廠提理(工廠長)に補された.この年9月末から陸軍は新型野砲
のトライアルを始めた.場所はのちに陸軍航空の軽爆撃機の学校になり,
いまは陸上自衛隊高射学校(現在は千葉市若葉区)がある千葉県下志津原
だった.英国アームストロング,独国クルップ,仏国カネーの各社が参加し,
陸軍独自の砲も3種類(それぞれ技術系の砲兵将校が設計した)があり,
合計10門が試された.
 
 結果は有坂の設計した砲が選ばれた.どうも国産品であることが重視された
ということだった.ただ,この1897(明治30)年にはフランスのシュナイダー社
が完全な砲身駐退復坐機構を持つ野砲を完成させた.砲身の下にはシリンダー
があり,その中には液体と空気が詰まっている.その液体の抵抗と,
空気の圧縮への反発力で後退エネルギーを吸収し,空気の反発力で砲身
を元に戻す仕組みである.もっとも,バネではなく空気を使ったことから
シリンダーをよほど頑丈に造る必要があった.それがかなりの重量を
生んでしまっていた.軍馬の牽引力が弱い日本陸軍にはそれを真似する
ゆとりもなかったのだ.
 
 では,31年式とされる日露戦を戦った速射野砲にはどのような復坐装置
が着けられていたのだろうか.写真で見ると野砲の砲架から伸びた
単箭(たんせん・弾薬車と連結するための脚)の中にシリンダーのような物が
見える.また,砲車の車輪には鎖状の物が取りつけられている.これが砲車
の復坐装置と言えるものである.兵頭二十八氏はこれを『バネ仕掛けの
糸巻き車』という表現をされている.シリンダー(「伸縮機関」と表記してある.
以下同じ)の中には強力な皿型のバネが仕込まれていた(「蝸状ばね」).
単箭の両側にはフック(「槓杆」)が出ていて,それは前に引っ張られると
バネを圧縮するようになっている.
 
 砲車が陣地に進入して放列位置に就くと5人の砲手は発射準備にかかる.
装填と撃発を担当する1番砲手はワイヤーを2本取りだす.単箭から出た
フックにそれぞれを引っかけると,そのワイヤーを砲車の車軸の下を通して
車輪の外縁に装着する.閉鎖機を開けて薬筒を装填し,閉鎖機を閉じる.
2番砲手は照準担当である.砲車の長である分隊長の号令で
射撃諸元(目標への方位・遠近)を整える.砲車小隊長の号令で「撃て」の
命令が下ると,1番砲手は「ハッシャー!」と叫びながら拉縄(りゅうじょう)を
引っ張る.「撃て!」と同時に発射されたら砲手たちはたまらない.体勢が
整えられないのだ.
 
 砲身と砲架は固定されている.砲身が激しく後退すると,ワイヤーが車軸
のキャプスタンに巻き取られ,バネは圧し縮められる.車輪は回転をとどめられ
約80センチで後退は止まる.次はバネの反発力の出番である.
フックが元に戻ろうとし,ワイヤーは巻き戻され,キャプスタンは逆転する.
それで砲車は80センチを前進し,元の位置に戻るというのが一連の流れである.
 
 量産型の試製品は1899(明治32)年に完成する.常設師団のすべてに
配備されたのは1903(明治36)年2月のことだった.口径は75ミリ,
初速は487メートル/秒,(山砲は263メートル同,以下同じ),
最大射程7800(4300)メートル,最大仰角28(30)度,最大俯角5(10)度,
砲身長2.2(1)メートル,砲車重量900(360)キログラム,
轍間1.2(0.7)メートル.使用する砲弾は榴霰弾と榴弾である.
 
 戦役中に戦時補充された31年式野山砲の数は次の通りである.
戦前の保有数は野砲が642門,兵器本廠保管分が36門であり,戦時補充は
門司野戦兵器本廠に77門,出征軍に283門の合計360門だった.
戦前保有数と補充の合計数は967門に達した.砲兵工廠の戦時生産数は
272門であり,戦地で破損したのは55門,敵に鹵獲されたり亡失したりした
ものは10門だった.山砲は戦前支給数と補充の合計で482門,
戦時生産は70門であり,破損は10門,被鹵獲,亡失数は5門だった.
 
 次回は機関銃や輸送兵站の実態などを知らせよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.2.17





『ライター・渡邉陽子のコラム (82) ─ 自衛隊海外派遣の歩み(12) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.

周囲の人がどんどんインフルエンザにかかっていておののいています.
インフルエンザになったのは24年前が最後.ここ数年は手洗い,うがい,
移動時のマスク使用が功を奏しているのか,風邪も引きにくくなりました.

でもインフルエンザだけはどうにもならないですよね.かかるときはかかる,
うつるときはうつる.万が一かかってしまい取材に穴を空けてしまうことを
考えると,むしろそれがショックで発熱してしまいそうです.

あ,でも去年の今ごろは確か腐ったおでんのこんにゃくを食べて大変な
思いをしたのでした……

インフルエンザ云々よりまずは腐ったもの食べるなって感じですね,
お恥ずかしい.



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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
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■自衛隊海外派遣の歩み(12)

先週は国民のPKO業務に対する意識と自衛隊への関心の変化を
振り返ってみました.今回は自衛隊がいつ,どこで,どんな支援を
行なってきたのか,その海外派遣の具体的な記録を見てみます.


自衛隊の海外派遣を一覧にすると,どれだけ実績を重ねてきた
のかよくわかります.PKO法案成立時に社会党が牛歩で時間を稼ぎ
廃案に持って行こうとしていたのが,遠い昔のようです.
いえ,実際に四半世紀経っているのですから,時代が変わるには十分な時間です.


自衛隊の海外派遣の内訳は

・国際平和協力法(PKO法)に基づく国際平和協力業務
・各種特別措置法に基づく活動
・国際緊急援助法に基づく国際緊急救援活動

にわけられるので,それぞれの実績を見てみましょう.

ただ,かなりのボリュームなので,今週はそのうちPKO活動のみのご紹介とし,
続きは来週に.箇条書きの記録になるので退屈かもしれませんが,
「自衛隊はこれだけ実績を重ねてきたのか」と思っていただければ幸いです.
なお,いくつかの活動については,その内容についても触れておきます.


PKO法は1992年6月に制定されました.
以来,自衛隊は国際平和協力活動を付随的な業務としてきましたが,
2007年,わが国の防衛や公共の秩序の維持といった任務と並ぶ,
自衛隊の本来任務に位置づけました.実績は以下のとおりです.

活動名称,活動期間,派遣された人数の順で記載しています.

●国連カンボジア暫定機構(UNTAC)施設部隊 1992年9月〜1993年9月 1200名

●国連モザンビーク活動(ONUMOZ)輸送調整部隊 1993年5月〜1995年1月 144名

●国連兵力引き離し監視隊(UNDOF)輸送部隊 1996年2月〜2013年1月 約1500名

※ゴラン高原の国連兵力引き離し監視隊(UNDOF)に対し自衛隊の輸送隊など
を派遣,約6カ月交代で部隊を派遣してきました.おもな業務は,UNDOFの活動
に必要な日常生活物資などをイスラエル,シリア,レバノンの港湾や空港,市場
などから各宿営地まで輸送すること,道路の補修や標高2800mを超える山岳地帯
での除雪作業などの後方支援業務です.

走行距離はのべ約340万km,地球約85周分におよびました.また,航空自衛隊は
派遣輸送隊に対する物資輸送のため,C-130H輸送機を半年に1度の割合で
派遣してきました.さらにUNDOFの司令部要員として派遣されている自衛官2名は,
輸送などの後方支援分野に関する企画・調整などの業務を担当しました.
UNDOFへの派遣期間は当初2年をめどとされていましたが,
国連からの強い要請などもあり,逐次延長されてきました.

しかしシリア・アラブ共和国の情勢悪化により,2012年12月に現地からの撤収
が決定.当時は民主党政権でしたが,防衛大臣が安全保障のスペシャリスト
である森本敏氏だったことは,撤収の決断やその後の迅速な撤収作業,
そして情勢が悪化する現地からひとりの犠牲者を出すこともなく全員が無事に
帰国する結果に,大いに関係したと思います.


●国連東ティモール暫定行政機構(UNTAET)施設部隊 2002年2月〜2004年6月 
※2002年5月以降は国連東ティモール支援団(UNMISET)に継続参加 2287名

※国連東ティモール暫定行政機構(UNTAET)が行なう国連平和維持活動への
参加要請を受け,2002年2月から自衛隊の派遣.第1,2次派遣施設群
それぞれ680名は6〜7カ月間,道路・橋などの維持補修など後方支援分野の
業務を実施しました.自衛隊の行なう国連平和維持活動における過去最大の
人員派遣で,初めて女性自衛官も派遣された活動です.
派遣施設群は現地住民との交流も活発に行ないました.

なお,海上自衛隊の輸送艦や航空自衛隊の輸送機などが,人員・資器材の
輸送と補給支援を実施.その後はUNTAETの後継である国連東ティモール支援団
(UNMISET)で活動を展開しました.


●国連ネパール政治ミッション(UNMIN)軍事監視要員 2007年3月〜2011年1月 24名

※国連からUNMINへの軍事監視要員派遣の要請を受け,軍事監視任務を
実施したものです.国連の規定に従い,武器は携行していません.

●国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)施設部隊  2010年2月〜2013年2月 約2200名

※ハイチ大地震災害に対する緊急の復旧,復興,安定化に向けた努力を支援
するため,ハイチ派遣国際救援隊を編成してMINUSTAHへ派遣.施設部隊
は重機類を含む多数の車両を装備し,地震によって発生した大量の瓦礫の除去,
難民キャンプの造成・補修作業,ドミニカ共和国との国境へ通じる道路の
補修作業,市内道路や倒壊した行政庁舎の瓦礫の片付け,孤児院施設の建設
などを実施しました.

●国連東ティモール統合ミッション(UNMIT)軍事連絡要員 2010年9月〜2012年9月 8名

●国連南スーダン共和国ミッション(UNMISS)施設部隊 2012年1月〜現在

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.2.18





日の丸父さん(2)石原ヒロアキ

 自衛隊と動物
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□はじめに

 今回の「日の丸父さん」は,「自衛隊と動物」です.
漫画では「樹海からの脱出」と題して,自衛官の日常を描いています.
普通の人とちょっと違った日常をお楽しみください.

 さて,これと並行して『ブラックプリンセス魔鬼』(*)も第5巻が出ました.
この2つの漫画は,平時と有事を描き分けていて,いわば一対に
なっています.「魔鬼」は戦争シミュレーション漫画です.
戦争モノを正確に描こうとすると,自衛官OBの場合,どうしても守秘義務
という壁にあたります.そこで,際どいところは魔女やブラックユーモア
で隠喩的に表現しています.

 最近発売になった「魔鬼」の第5巻は,いよいよ日中開戦直前の様子
が描かれています.教育訓練や兵站の準備が終われば,あとは実戦
ですが,現代はサイバー戦が重要な地位を占めています.第5巻は
このサイバー戦がメインです.しかし,サイバー戦は「秘」が多く,
かつビジュアルに表現するのが困難で,いかに読者に理解してもらうか
苦労しました.

 そこで日本のサイバー戦の第一人者の協力を得ることにしました.
第25話「開戦前夜」は,その方との議論の末に完成させたものです.
サイバー戦も攻撃があり防御があり逆襲があります.その本質的な
ところは描くことができたと自負しております.ぜひ「日の丸父さん」と
あわせてご覧いただければ幸いです.(*)http://okigunnji.com/url/50/

 なお,「日の丸父さん」は,これからも描き続ける予定ですので,
もし自衛隊についてこれが知りたい,こんな話が読みたいというのが
ありましたら,ご希望,ご意見をお寄せください.お待ちしています.

▼ http://okigunnji.com/1tan/lc/toiawase.html


 さて,本編に入ります.


▼自衛隊と動物

 自衛隊,とくに陸上自衛隊は人里離れた演習場を使うことが多く,
動物とのエピソードに事欠きません.以下,私が体験したこと,
聞いたこと,諸々をアトランダムに紹介します.


「牛」

九州の演習場には牛がいます.自衛隊のものではなく,
近くの農家が防衛省と協定を交わして演習場に放し飼いにしている
のです.訓練中でも牛はおかまいなしに歩き回ります.

思い出1:教官から「その場に伏せ」と言われ,伏せようとしたら
牛の糞だらけだった.躊躇していたら「こら,伏せんか!」と怒られ
仕方なくそこに伏せた.

思い出2:防御訓練中,「敵が来る」と言われ,旗を持った敵部隊が
来るかと思ったら牛が大挙して押し寄せてきた.

思い出3:訓練が終わり,天幕で寝ていたら翌朝,飯盒が牛の唾液
でべっとり汚れていた.

思い出4:銃を置いて休憩していたら,その間に牛が銃の上にまたがり
銃を取れなくなった.なんとか牛を動かして無事に銃を取り戻したが,
なかには牛に踏みつけられて銃身が曲がったものがあった.

思い出5:あるとき,防御訓練をしていて,蛸壺(タコツボ)に身を潜ませて
いたら,中隊長から「穴から出ろ!」と無線で怒鳴られた.なにごとかと
蛸壺から身を乗り出して後ろを振り向いてみたら,なんと農家の人が
野焼きをやっていた! いい“牧草”を育てるためだが,農家の人には
自衛官より牛が大切らしい.


「熊」

本州にはツキノワグマがいますが,演習場ではめったに会いません.
しかし,北海道ではよく出ます.ヒグマが.そのときは「熊警報」という
アドバルーンがあがり,訓練は一時中止になります.

 私が本州の部隊にいたとき,北海道へ転地訓練がありました.
本州の人間はヒグマをあまり見慣れていません.訓練中の部隊から
「熊の足跡を見た」という情報が入り,警務隊が検証に行きました.
日ごろ足跡鑑定などを訓練している警務隊ですが,動物の足跡は
さすがに経験がないみたいでどうも鹿らしいということになりました.
その直後,熊を目撃した隊員が現れ,ただちに熊情報が出たのですが,
警務隊に対する信頼が一時さがりました.

 訓練中に直接被害にあった話は聞いたことがありませんが,
熊が出たら車両に避難して警報が消えるまで待機します.
あるとき自走155mmりゅう弾砲の実射訓練中にヒグマが現れ,
隊員があわてて自走砲の中に避難したことがあったそうです.
そのヒグマはよほど腹に据えかねていたのでしょう,40トンもある
自走砲をゆさゆさと揺さぶったそうです.


「キツネ」

 北海道の演習場や駐屯地ではよくキタキツネを見ます.
エキノコックスという風土病があるので,触らないよう注意されますが,
彼らは残飯などをあさりに来ます.スキー訓練中に後で食べようと
おにぎりを雪の中に隠していたら,キツネに食べられていたことが
ありました.


「鹿」

 これも北海道の演習場ではよく見ます.矢臼別(やうすべつ)演習場
という,日本最大の演習場があり,ジープで鹿と並走したことがあります.
道路を横断することがよくあるので,事故も多発します.人よりも鹿の
飛び出しに注意が必要です.かつて旭川駐屯地には野生の鹿がいた
こともあります.


「ヘビ」

 レンジャー隊員はヘビをよく食べます.レンジャーは山野で自活せねば
ならないため,ヘビのさばき方を学びます.私が幹部候補生のとき,
レンジャー出身の教官が生きたヘビを目の前でさばいて心臓を食べて
見せたことがあります.病気にならないか心配になりました.


「猪」

 私は,猪は見たことありませんが,実際演習場には結構いて,部外者が
ワナを仕掛けています.「猪のワナ注意」と標記してありますが,我々に
通知はありませんし,標記も演習場の外に向いていて,内部の自衛官
には見えません.自衛官のことをまったく考えていません.なかには猟銃
をもって演習場をうろついているものもいて,非常に危険です.
「今訓練中で危険ですから出て行ってください」と注意しても,「どうせ鉄砲
に弾なんて入ってないんだろう」と言ってやぶの中に消えていきました.


「その他」

 駐屯地に野良犬やウサギがいる場合があります.飛行場がある場合,
航空機の運航に支障が出るので,定期的に排除します.野良猫もいて,
駐屯地から出る残飯を餌にしている場合があります.野良犬はしばしば
駐屯地のマスコットになります.非常呼集のさいに最初に反応して吠えた
ということで,表彰されて副賞にドッグフードをもらった犬がいたことを
聞いたことがあります. 

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.2.20





兵法三十六計 番外編

『孫子』は最高の「インテリジェンス教科書」(前編)
─敵に先立って知り,先の先を見通す─

                 元防衛省情報分析官・上田篤盛(あつもり)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


□はじめに

 メルマガ『軍事情報』の読者の皆さまには,
筆者の『戦略的インテリジェンス入門』(本年1月上梓)をお買い上げ
いただき,誠にありがとうごさます.

 佐藤優先生より「優れたインテリジェンスの教科書」との過分な推薦文
をいただき大変恐縮しているところですが,筆者は『孫子』こそが至高の
「インテリジェンス教科書」であると思っています.

『孫子』には,さまざまな読み方がありますが,筆者は『孫子』を
「インテリジェンス指南書」ととらえて読んでいます.『戦略的インテリジェンス入門』
においても『孫子』から,さまざまなフレーズを引用したほか,『孫子』の思想
を間接的に導入している箇所が随所にあります.

 そこで,今週から3週(前,中,後)にわたり,『兵法三十六計』番外編
として,インテリジェンス教科書としての『孫子』を解説したいと思います.

 やや理屈ぽくて,退屈な内容であるかもしれませんが,我慢してお付き合い
いただければ幸甚です.


▼『孫子』は至高の「インテリジェンス教科書」

『孫子』は最強の兵法書と呼ばれるに相応しく,古今東西の軍事戦略
はもとより,さまざまな組織における統率の参考書などとして用いられてきた.
現代の企業経営などにおいても『孫子』から凝縮された知恵と英知を
得る試みが行なわれている.

 ところで『孫子』は「インテリジェンス指南書」でもある.

『孫子』と並び称されるクラウゼヴィッツの『戦争論』では,「戦争中に得られる
情報の大部分は相互に矛盾している.誤報はそれ以上に多く,
その他のものとても何らかの意味で不確実だ.言ってしまえば,たいていの
情報は間違っている」と述べている.このようにクラウゼヴィッツには戦争に
インテリジェンスを活用し,管理していくという発想が乏しい.

 しかし,『孫子』はほぼ全編にわたってインテリジェンスの価値を高く評価
している.この点をもってしても,『孫子』は『戦略論』よりも卓見であった,
と筆者は考えているのである.

▼『孫子』の記述体系

『孫子』はご存知のように「始計」にはじまり,「作戦」「謀攻」「軍形」「兵勢」
「虚実」「軍争」「九変」「行軍」「地形」「九地」「火攻」「用間」までの計13編
からなる.

 第1編「始計」は戦争の指導に関する総論・序論である.第2編「作戦」は
経済的側面から,第3編「謀攻」は外交的側面から,それぞれ戦争の在り方
を解説している.

 これらの3つの編と,情報活動について述べている第13編「用間」(ようかん)
が戦争の指導方針について述べており,「戦略」と「作戦・戦術」の区分
でいえば「戦略」の解説書に相当する.

 第4編「軍計」(第4)から第12編「火攻」までが「作戦・戦術」の解説書
になる.これらの編では,作戦対処の基本事項,敵に対する対応行動,
作戦行動に及ぼす環境要因などについて解説されている.

▼『孫子』の特徴

『孫子』の第1の特徴は,国家指導者や軍事指揮官を対象とする戦争の
心構えを述べている点である.

『孫子』の冒頭部分は以下の句から始まる.

◇「兵は国の大事である.死生の地,存亡の道なり.察せざるべからず」(始計)

 ここでいう「兵」とは戦争の意味である.つまり,「戦争は国家の重大事項
であるので,国家指導者は軽々しく戦争を行なうべきではない」と,
国家指導者などに対して戒めている.

 第2の特徴は,「戦わずして勝つ」という「不戦主義」の採用である.
その代表的な句が以下である.

◇「およそ兵を用うるの法は,国を全うすることを上となし,国を破るは
これに次ぐ」(謀攻)

◇「百戦百勝は善の善なるものにあらず」「戦わずして人の兵を屈する
ものは善の善なる者なり」(謀攻)

 中国には古来,「良い鉄は釘にならない」(好人物は兵士にならない
の意味)との俚諺(りげん)に象徴されるように「文民優位」の思想があった.

『孫子』では,戦争よりも外交・謀略で問題解決をはかる漢民族特有の
思想的特性が随所に反映されているといえよう.また,やむをえずに戦う
場合でも,敵や敵陣地を武力によって攻撃することは下策であり,
「謀略や外交を重視せよ」として,以下のように説く.

◇「上兵は謀を伐つ.その次は交わりを伐つ.その次は兵を伐つ.
その下は城を攻む」(謀攻)

 さらに「無理のない戦いをしなければならない」ことを強調する.

◇「好く戦うものは勝ち易きに勝つ者なり.故に善く戦う者勝つや,
智名もなく勇功なし」(軍形)

◇「勝兵はまず勝ちて後に戦いを求め,敗兵はまず戦いて後に勝ちを求む」(軍形)

 日米開戦後の見通しについて,当時の近衛文麿(ふみまろ)首相から
質問を受けた山本五十六・連合艦隊司令官は「ぜひやれといわれれば,
初めの半年や1年は,ずいぶんと暴れてごらんにいれます.
しかし,2年,3年となっては,全く確信を持てません」と答えたという.

 まさしく「敗兵は戦いて,しかる後に勝ちを求む」であったのである.

▼『孫子』の最大の特徴はインテリジェンスの重視

『孫子』の第3の特徴は,インテリジェンスを重視している点である.
なお,これが今回の主題である.

『孫子』とインテリジェンスとの関係については,第13編「用間」において
5種類の間者(スパイ)の運用法が述べられていることと,第3編「謀攻」に
「敵を知り己を知れば,百戦殆(あやう)からず」という有名な句があること
を紹介するだけでも,ほぼ足りるといっても過言ではない.

 ただし,『孫子』を注意深く,インテリジェンスの視点から読み直してみると,
さまざまなインテリジェンス上の教訓を得ることができる.

 まず,『孫子』の最終章「用間」の結句について着目してみよう.

◇「昔,殷(いん)の興るや,伊摯(いし)夏(か)に在り.周の興(おこ)るや,
呂牙(りょうが),殷に在り.故に明君賢将のみ能(よ)く上智(じょうち)を
以て間(かん)と為すも,必ず大功を成す.これ兵の要にして,三軍の
恃(たの)みて動くなり」(用間)

 伊摯は中国の歴史上,最も古い間者である.彼は殷の湯王に推挙され,
夏の桀王に奉仕していたが,桀王に疎略に扱われたために殷に逃げ帰った.
この伊尹が,のちに湯王を助けて夏を滅ぼし天下を統一した.湯王は伊尹
をスパイとして重用したことで夏を滅ぼし,殷を建国することができた.

 一方,呂牙は周時代の軍師,間者にして,兵法書『六韜』(りくとう)の作者
である.彼は周の武王に仕え,殷を滅ぼし,周を建国した功労者である.
周の文王は,渭水(いすい)のほとりで呂牙に出会った.これが先君太公の
待ち望んだ賢人であったため,彼は太公望(たいこうぼう)とも呼ばれた.
なおわが国では,呂牙が渭水のほとりで釣りをしていたことから,釣り好き
の人を「太公望」という.

 ここでいう「上智」とは「道理を知っている,有能な人物」という意味である.
すなわち『孫子』は「国家指導者や軍事指揮官は有能な人物を間者として
活用してこそ,戦いに勝利し,成功を収めることができる」と説いている.

「間者」とは,その使用者に対して,今でいうインテリジェンスを提供する者
である.つまり,国家指導者や軍事指導者が間者を使用して,敵の国情,
軍事状況,地勢,物資などの事項を明らかにし,これを基礎に戦略および
戦術を立案すれば,全軍の行動は自然と理に適ったものとなるというわけ
である.

『孫子』が「用間」をもって最終編としたことは(「火攻」が最終編という解釈
もあるが),『戦わずして勝つ』あるいは『戦いに勝つ』ためにはインテリジェンス
が必須要件であることを最も強調したかったからだと筆者は解釈したい.

▼インテリジェンスは国家盛衰を左右する

 そもそもインテリジェンスとは何か? その主要な意味は「国策や政策に
役立てるため,国家機関に準ずる組織が生のインフォーメーションを
処理して得た知識」ということになる.(詳しくは『戦略的インテリジェンス入門』)

 したがって,正しいインテリジェンスが正しく活用されれば国益は増進するが,
逆に誤ったインテリジェンスに基づいて国策や政策を行なえば,たちまち国家
崩壊の危機に瀕することになる.

 まして,インテリジェンスもろくに得ずに戦争をするなどは暴挙以外の何物でもない.

これについては,以下の句に注目してほしい.

◇「およそ師を興すこと十万,師を出すこと千里なれば,百姓(ひゃくせい)の
費(つい)え,公家の奉,日に千金を費やし,・・・.相い守ること数年,
以て一日の勝を争う.而るに爵禄百金を愛(ほし)みて敵の情を知らざる者
は不仁の至りなり・・・」(用間) 

 つまり,『孫子』は「戦争には莫大な国家予算がかかり,国民に犠牲を強いる
非常事態を長年続けることになる.しかし,勝敗は一日の決戦で決まる.
それなのに,国家予算を使うのを惜しんで,インテリジェンスを得ようとしないのは
本末転倒である」と述べ,戦略的インテリジェンスの軽視を厳しく戒めているのである.

▼インテリジェンスの本質は「先知」である

 では,『孫子』が強調する「戦わずして勝つ」ことを追求するためには
どうすればよいのだろうか.その鍵となるのが以下の句である.

◇「明主・賢将の動きにて人に勝ち,功を成すこと衆に出づる所以の者は,
先知なり.先知は鬼神に取るべからず.事にかたどるべからず.
度に験(ため)すべからず.必ず人に取りて,敵の情を知るものなり」(用間)

「先知」とは,「敵に先立って敵情や諸処の事情を知り,先の先まで見通し
をたてること」である.当然のことであるが,先知を獲得するためには,
神頼みや占いに頼ってはならない.

 つまり,人を使用して情報を得て,希望的観測や直感,思い込みなどの
バイアスを排除して,得た情報を客観・合理的に処理して,将来情勢を見通す
インテリジェンスを生成する.そして,相手が行動をとる前に,
そのインテリジェンスを使用者である国家指導者や軍事指導者に提供する.

 さらに,相手に先立って知るためには,相手側の情報活動を無力化する
必要もあり,カウンターインテリジェンスも重要になる,というわけである.

 筆者は,この「先知」こそがインテリジェンスの本質であると思っている.

 すなわち「先知」が得られれば,相手国に対する抑止戦略が奏功し,
「戦わずして勝つ」式の外交・謀略戦の勝利が可能となり,国民に犠牲を
強いることなく,国益が増進できるのである.

 万一の戦争においては,敵の機先を制して,我の有利な態勢で敵を
待ち受けることができるし,敵が予期しない時期,場所において奇襲を
仕掛けることも容易になるのである.

 これらすべての鍵となるのがインテリジェンスなのである.

 ところで,今日のインテリジェンス議論において
「ヒューミント(人的インテリジェンス)か,テキント(技術的インテリジェンス)
のいずれを重視すべきか?」という視点がある.

 テキントとは,通信傍受などから得られるシギント(信号インテリジェンス),
偵察衛星などから得られるイミント(画像インテリジェンス)などである.
テキントは科学技術の発達に伴い,その重要性を高めてきたが,これらの
インテリジェンスも結局は人を介して分析・処理を行なう.

『孫子』の時代背景を踏まえれば,『孫子』がヒューミントを重視している
という狭い解釈をしてはならないであろう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.2.23




短期連載】 外人部隊の真実 

スローライフを夢見る部隊兵─外人部隊の真実(7)

 元上級伍長 合田洋樹
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 今回は15年以上在隊し,恩給を支給されている外人部隊兵は,
除隊後にどのような生活を望んでいるかを紹介します.

 「15年以上も外人部隊にいたのなら,その経験を活かして
民間軍事会社で高給取りのコントラクターとして,危険な紛争地で
活動するのだろう」「除隊後もエキサイティングな生活を望んでいる
だろう」と思われるかもしれません.

 しかし,長く在隊し,恩給を受給している元部隊兵の大半は
「除隊後はあくせくせず,家族と一緒にtranquille(トランキル,平穏の意)
に過ごしたい」と思っているのです.今回紹介する元上級伍長の
ような部隊兵は実際に非常に多いのです.これは正規軍の恩給受給者
も同様です.

 除隊直後から毎月死ぬまで支払われる,一定額の不労所得を
得られることにより,大きな心のゆとりが生まれます.
そのため,あくせく働かなくても,ちょっとしたアルバイトをして恩給と
同額,またはそれ以上の副収入を得れば十分暮らしていけるわけです.

 ちなみに17年半勤めた私の場合,手取りで毎月803ユーロ
(約11万円,注:為替レートにより多少変化)を受け取っています.

 一部の部隊兵は,在隊中から住宅ローンを組み(軍人は毎月必ず一定額
の給料が支払われるので,銀行としてもお金を貸しやすい),マンション
の一棟を購入します.購入した棟はすぐに賃貸に出して,無料の駐屯地内
に住みながら,賃貸料をローン返済に充てるのです.なかには1人で3棟も
持っている強者もいました.

 15年以上在隊すれば,除隊前にはローンはほぼ完済されており,
除隊後は家賃収入が得られます.しかもフランスでは,日本のように
新築物件の価値がすぐに下がることはありません.

 なお,現在では最低17年在隊しないと,除隊直後からの恩給受給は
ありません.今後は20年,もしくはそれ以上に引き延ばされることが予想
されます.

▼除隊後はスローライフを夢見る部隊兵

 除隊後,部隊兵はどのような仕事に就くのか? 私の友人である
ハンガリー人の元上級伍長のケースを紹介しよう.

 コルシカ島には世界中の金持ちが所有している別荘(villa)が数多く
ある.彼はこの別荘の一つに奥さんと住み込みで働いている.

主な仕事は,別荘の管理と補修,それに警備だ.別荘の近くに管理人用
の住居も用意されている.当然,家賃はかからず,給料はそのまま懐に入る.

 真夏の2カ月間は別荘の持ち主が家族とともに滞在するので,それなりに
忙しいが,残りの10カ月間は夫婦だけで,たいして仕事もない.平日は,
のんびり別荘の手入れをし,週末は自分の舟で釣り三昧.部隊の仲間たち
と庭で釣った魚を焼いて食べるという,豊かなスローライフを満喫している.

 彼は部隊に20年以上勤め,多数の海外派遣も経験しているので,
毎月1200ユーロ(約16万円)ほどの軍人恩給をもらっている.別荘の管理で
同額以上の給料がもらえ,ほかに不動産も所有しているので,そこからの
家賃収入もある.

 彼はまだ40代半ば.この歳で悠々自適な暮らしを送れるなど,
日本ではまず考えられないだろう.そのようなチャンスを外国人にも与えて
くれるのが外人部隊なのだ.もちろん在隊中,時に危険な目に遭いながら
フランスと部隊のために勤務したことは忘れないでほしい.

 彼のように恩給をもらえるまで勤めた部隊兵は,除隊後はあくせくせず,
マイペースで仕事をしながら,スローライフを送りたいと思っている者は
非常に多い.

 ちなみに,この元上級伍長は連隊内のカゼルヌマン(casernement:施設
の補修などを担当する部署)で長い間働いていた.大工仕事はもちろん,
溶接,配管,電気,車の整備はお手のものだし,普通免許から超大型免許
(バス含む),さらにクレーンやフォークリフトいった特殊免許まで持っている.

 要するに何でもできる男であり,つぶしの利く仕事を現役時代からやって
いたわけだ.だからどこに住んでも就職先に困ることはない.彼はコルシカ島
での田舎暮らしをとても気に入っているので,しばらく島に残ると言っている.

 若い部隊兵の中にも,除隊後は自分のペースで働き,平穏(tranquille)
な生活を望む者も多い.軍隊という非常に束縛された環境で過ごしていると,
その反動から毎日17時半に仕事を終えて帰宅できる生活にあこがれるよう
になるのだ.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.2.24




『機関銃の製造と用法──日本陸軍の兵站戦(12)』

                 荒木 肇
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□はじめに

 早いもので,つい先日に新年を迎えたと思ったら,
もう2月も末に近づきました.今年は夏季オリンピックのある
「閏年」で29日までありますが,それにしても春近い様子
が景色にもうかがわれます.

 おかげさまで読者の皆様から元気の出るお便りをたくさん
いただき,感謝しています.

 HY様からはロシアの民衆,兵卒たちの教育程度などに
ついて貴重なご教示をいただきました.ありがとうございました.
FR様からも過分なお褒めの言葉で感激です.これからも
よろしくご愛読お願いします.わたしは実銃(38式歩兵銃)を
実際に手にとっているので少しでも実感が伝わると嬉しいです.

さて,今日は小銃,野砲ときて最後に機関銃を説明します.
陸軍の空冷式重機関銃の原型となった「保式機関銃」です.


▼水冷式マキシムと空冷式ホチキス

『日露戦争当時,日本陸軍は機関銃を知らなかった』という俗説が
長く信じられてきた.ところがそれはまったくの誤りである.
大正時代には日本陸軍の白兵主義が大いに喧伝(けんでん)され,
昭和の初めにも国民性の優秀さとからめて主張された.
質量ともに劣った装備で勝利を得たのは精神力と白兵の力だと
いうことが陸軍上層部から言われ出したのである.

 実態はまったく逆で,日本兵はしばしば戦意も低く,
小銃と機関銃の威力で勝てたという局面がしばしば見られた.
そのことに危機感をもって実態を受け止めた上層部が,ロシア軍
にしか機関銃はなかったと言い始めたのが,誤認の始まりだった.

 元来,火力の信奉者だったフランス軍,プロシャ軍の忠実な弟子
だった日本軍は「機関砲」が大好きだった.小銃弾と同じ弾薬を
使う機関砲は1890(明治23)年にマキシム式機関銃を輸入した
のが始まりといっていい.それ以前にも,幕末の頃から多銃身回転式
のガトリング砲を採用し,海軍は艦上で使える連発砲を次々と
買い込んでいた.以後,混乱を避けるため機関銃に用語を統一したい.

 1895(明治28)年には,日清戦争で獲得した台湾の領収に
向かった近衛師団に口径8ミリの機関銃を携行させた.
2個の歩兵旅団に各4隊(24挺)ずつ配属した.ただし,当時の
マキシム式機関銃は分解して駄載する方式ではなく,2輪車に
載せて運んだ.そのため悪路に悩まされ,マラリヤの流行で隊員も
次々と倒れ,合計6隊に編成変えをしなくてはならなくなった.
合わせて36挺が戦闘に参加した.

『日清戦史』によると,6月25日に行なわれた「新竹」の防衛戦闘では,
小銃弾の消費5600発に対して機関銃隊は6挺で1200発あまりを
撃っている.このマキシム(当時,馬式と表記した)機関銃は水冷式
であり,「砲身及閉鎖機ノ後坐」式という火砲構造だった.
 
 機関銃のメカニズムは複雑である.小銃なら手動で行なう
装?・排莢・再装?を自動で行なう.しかも,その発射速度は
毎分500〜600発というものである.人間の手に代わる動力を
何に求めるかが19世紀半ば以降の開発者たちの最大の技術的
なネックだった.アメリカ人ハイラム・マキシムは発射反動にそれを
求めた.1884(明治17)年には造船業者のアルバート・ビッカース
が出資して,マキシム・ガン・カンパニーが設立された.
これからは,軍事史家兵頭二十八氏の記述に多くを頼って説明しよう.

▼機関銃の連発能力

 銃弾が撃発されると多くのエネルギーが生まれる.銃口から
飛び出す前進運動エネルギー,薬室の中では薬莢を後ろ向きに
吹き飛ばそうとする反動エネルギー,銃身内で急速に膨張する
火薬燃焼ガスの圧力.銃身に伝わる熱や,銃口から生まれる音
もエネルギーの一つに数えられる.マキシムはこの発射にともなう
反動エネルギーを使うことに選んだ.
 
 まず,銃身が動くようにした.銃身の末端にある薬室をしっかり
閉じておけば,空薬莢は自分の反動力で銃身全体を動かそうとする.
この銃身が後退している途中にカムのような仕掛けを作っておいて,
その働きで薬室が開放されるようにした.そこまで薬室を閉じて
おいたのは小銃でもお馴染の「遊底」といわれる部分である.
カムの働きで銃身が後退を止めても,遊底だけは後ろに動き続ける.
その遊底の最先端には鉄の爪が付いていて,空薬莢のリム
(起縁部・掴まれやすいようにしてある溝)を掴み後ろに引き出す.
それをエジェクター(蹴出子)が横から弾き飛ばす.遊底が後退を
止めるとバネの力でまた元の位置に戻ろうとする.
そのとき,布ベルトに並んだ次の弾丸を薬室に送り込む.
 
 これを実現させたのは精密な精度をもつ工作機械と薬莢の材質
である.連発と高速の動きに耐える.高い圧力を受けて膨張しても
破裂しない,薬室に密着して完璧にガスシールの働きをし,
それでいて役目が終われば粘りつくこともなく,滑らかに後退する.
これにはカートリッジ・ブラス(真鍮)といわれる特殊な真鍮の開発,
西洋冶金学の成果が生かされていた.

 1887(明治20)年8月に陸軍は「マキザム砲附属弾薬」を
「ヂャーデンマヂソン商会」から購入した記録がある.当時,横浜には
第一埠頭のそばに,兵器輸出を得意とする英国のジャーディン・マセソン
商会があった.9月には,おそらくそこから1万5000発の機関銃用
の実包を買ったのではないだろうか.この商会の代理人は
武器輸入商だった大倉喜八郎(1837〜1928)だった.
大倉は越後国新発田の生まれ,幕末から武器の輸入に着目し,
つづいて軍需品の調達・輸送,鉄道・建築物関係の土木工事などで
富を蓄えていった.のちの大倉財閥の創業者である.

 この1887(明治20)年には,22年式と俗称された村田連発銃
(口径8ミリ)の製造を始めるようになった.『偕行社記事』によると,
1892(明治25)年には国産8ミリ弾薬を使うために特別に発注した
機関砲4門をコピー生産するために東京砲兵工廠は受け取っている.
約200門を製造したとされている.この一部が先に述べた台湾領収
の戦闘に使われたことは,まず間違いはないだろう.
 
 ところが,精妙な反動利用式のマキシム機関銃を造ることは難しかった.
それは,この反動利用式の機関銃の製造上の技術レベルがとても手に
届かないものだったからだ.遊底などの可動部品の加工精度がとても
真似できるものではなかった.手動である小銃の遊底とはまるで出来が
違うのが機関銃だった.100分の数ミリといえば素人が目で見たり,
手で触ったりしてすらも気がつかない数字である.それが機関銃の死命
を制したといっても言い過ぎではない.わずかの誤差が薬莢の貼り付き
をもたらし,薬室にちぎれた空薬莢が残ってしまう.そうなると悲劇である.
手入れ具にあるペンチやヤットコで破損した薬莢を排除し,再装?をする
といった連発銃どころか単発すら難しいものになる.

▼造りやすかったホチキス銃

 こうしてたどり着いたのが,小銃部品並みの仕上がりでも作動する
ガス圧利用式である.フランスのホチキス社が開発した機関銃こそそれだった.
製品に許容された誤差が100分の1ミリならば,それを加工する工作機械
は1000分の1ミリといった精度で造られていなければならない.
こうした精密な工作機械は,当時,目の玉が飛び出るほどの価格だった.
 
『外国では機械1台の値段が数千円,日本では200円から300円以下
というものだった』とは,南部麒次郎中将の後世での回顧談である.
少数の超熟練工を集め,やすりで細かいすり合わせをさせて,どうやら小銃
を完成させていたのが当時の砲兵工廠だった.ガタが来たような中古の
舶来旋盤工作機械などではとても反動利用式の機関銃など造れなかった
のだ.そこで,陸軍は正式にライセンス契約を結んだフランスのホチキス社
の機関砲を採用することとした.

 ホチキスはガス利用式である.連発の原動力は銃身の中を膨張しながら
進む銃弾推進薬の燃焼ガスだった.銃身の下にはガスの筒があり,
銃身の穴から漏れるガスをそこに入れる.筒の中のピストンをガスは
強力に押す.押されたピストンは,弾丸が銃口を離れた直後に遊底と銃身
の結合を解除する.遊底はマキシムと同じように後退しながら空薬莢の
抽出を行ない,次弾をくわえて薬室に送り込む.ただ,給弾方式には違い
があって,マキシムのようにベルトではなく,挿弾鈑(そうだんはん)と
いわれる薄い金属でできたプレートを使った.1連は6.5ミリ弾なら30発
である.これを射手のほかについた挿弾手が銃の左手から次々と挿入していく.

 一見複雑そうな外観をもつが部品の精密度は甘くても済んだ.連発機能
を維持するためには「規制子(きせいし)」というガス筒についている部品を
ひねって,ガスの導入量を加減することで十分だった.しかも,戦前日本を
通じてずっと苦手としたスプリング(バネ)の数がマキシムより少なかった.
マキシム機関銃の遊底は部品35個,バネ14本.ホチキスは部品28個と7本.
この1本でも折れたり,弱ったりすれば連発銃でなくなる機関銃.バネの数
が少ないことはリスクをより減らすことだった.強力な特殊鋼であるバネを
製造し,ふんだんに供給することは難しい.戦争末期に貨車の廃棄された
板バネですら,すぐに軍刀や銃剣になったことを聞かされた人も多いことだろう.

 フランス軍がこのホチキス機関銃を採用したのが1897(明治30)年,
輸入が確認できるのが翌年,要塞の防御兵器として購入された.
1899(明治32)年には東京砲兵工廠では本格的に機関銃の生産が始まった.
ライセンス生産とはいえ,一応の国産化である.もちろん,検査器具や
組み立て治工具も同時に輸入されたと思われる.開戦時には202挺が
保有されていたという.
 
 開戦前の月産能力は,12時間操業で5挺,24時間操業で8挺だった.
開戦後のフル操業でも12時間で25挺,24時間で36挺だったという.
開戦の直前には陸軍省は機関銃材料400挺分を輸入することを決めた.
これはロシア軍が機関銃を要塞に据え付けるばかりではなく,野戦に持ち出す
だろうという情報が入ったためである.結局,東京砲兵工廠によるホチキス
機関銃の生産数は627挺に達した.

▼血であがなったマニュアル

 しかし,開戦当初から半年あまり,機関銃の配布はなかなか進まなかった
というのも事実だった.それは野砲と同じく,機動力や銃弾の推進力の大元
となる軍馬の不足と非力のせいが大きな理由になるだろう.1930(昭和5)年
の『偕行社記事』を見ても,当時の苦労が書かれている.歩兵隊には
車輛積載,騎兵隊には繋駕式,駄載式として,制式は未決定のまま戦地に
送られたとある.このことは重い機関銃をどのようにして運び,地上でセットし,
どのように使うかということが確立していなかったということだ.
 
 分解して複数の馬の背に載せるか,組み立てたまま砲車の上に載せて馬
で曳くのか.それらの場合,それぞれ何頭の馬を駄載,輓曵にあてるのか.
弾薬馬はどれほど必要か,それらの飼料運搬にはどれほどの駄馬が
要るのか.また,射撃をするには砲車の上から行なうのか,それとも
卸下(しゃか・おろすこと)して三脚架に据えて行なうのか.これらすべてが
まったくの霧の中だったのだ.こういった各種マニュアルが西欧先進国にも
できていなかった.機関銃の用法は,当時の先進国だった日露両陸軍が,
自分の国土から遠く離れ,条件も異なる満洲で血を流しながら確立していった
というのが史実である.
 
 確認されているのは戦争の全期間を通じて使われた機関銃は534挺
だった.その一部の記録は南山(なんざん)の戦いに残されている.
ロシア軍の配備した機関銃は10挺だった.対してわが第1師団には
第1機関砲隊24挺,第3師団には第2機関砲隊24挺,各歩兵聯隊には
6挺ずつ合計48挺である.戦闘第1日目には銃弾7万8000発あまりを発射
した.機関銃数ではおよそ5倍,なかったどころの話ではなかった.

 ホチキス機関銃の諸元ははっきりしていない.推定だが全長は1270ミリ,
銃身長775ミリ,重量は23.6キログラムである.操作するのは,
銃長(指揮官),藍手(属品箱を持ち整備する),射手,装填手,弾薬手の6名
だった.この重量で反動を受け止め,安定した弾道を確保するのが機関銃
である.その全システムは弾薬箱や属品箱,替え銃身などを合わせて
50キログラムにもなった.

▼兵器製造の機関

 1871(明治4)年に兵部省の中に「造兵司」が置かれた.輸入された銃器
や火砲の管理をするためである.つづいて明治8年には,
東京の小石川(現在の文京区春日・後楽園)に砲兵本廠と大阪に砲兵支廠
がおかれた.『陸軍職制及事務章程』によると,

『凡(およそ)陸軍銃砲兵仗(ひょうじょう)諸械ヲ製スル為ニ砲兵本廠ヲ置ク
其支廠ハ大阪ニ置キ以テ各鎮台営所及要塞ノ運輸ニ便ス』

 全国各地の6鎮台と,兵営のあるところ「営所」,要塞に輸送しやすくすると
ある.有名な大村益次郎がいずれ西方に乱が起きる,その備えに大阪に
兵器工場を置くとしたことも知られている.「兵仗」というのは実戦用の
兵器・武器のことで儀式用の「儀仗」と区別してある.

 西南戦争後の1879(明治12)年には,大阪砲兵支廠が砲兵工廠に格上げ
された.廠長である提理(ていり)は砲兵科の大(中)佐で,製造された兵器
は各方面の『庫内』に輸送すると職制にはある.大佐あるいは中佐が廠長
ということは,当時の佐官級の定員の少なさ,陸軍が小世帯だったことが
うかがわれる.日清戦争後の1897(明治30)年には『砲兵工廠条例』が改正
され,東京・大阪に加えて台北(台湾)砲兵工廠が増やされた.

 20世紀に入ってからの改正は1911(明治44)年に台北砲兵工廠が廃止
されることだ.以後,1923(大正12)年の『造兵廠令』まで大きな改正は
なかった.この改正は大規模なもので,集合体としての「造兵廠」という名称
ができた.長は造兵廠長官である.隷下に各工廠と長官直轄の製造所を
置いた.工廠は東京,王子,名古屋と大阪に置く.直轄製造所は小倉と平壌
に開かれた.東京というのはこれまでの文京区小石川であり,王子とは現在
の東京都北区王子,小倉は北九州市小倉区,平壌は朝鮮にある.大正時代
は軍縮の時代といいながら兵器技術の進展があり,組織はいよいよ規模を
広げ,分担業務も細かくなっていく.なお,長官は陸軍中将,もしくは少将
であり,陸軍大臣に直隷していた.

 これが1940(昭和15)年になると,陸軍兵器廠に改組された.いささか
細かくなるが,3月30日付の勅令第209号を読んでみよう.旧字やカタカナ
はいつものように直しておく.

『陸軍兵器廠は,兵器の考案と設計を行い,兵器,兵器材料,自動車燃料
その他の軍需品の製造,購買,検査,保管,修理,補給と廃品処分を行い,
(同時に)兵器及び兵器材料の製造と軍用火薬と兵器用金属材料に関する
調査,研究と試験を行う.ただし,他部隊の所掌事項は除くものとする』

 と,きわめて広範なものだった.さらに兵器廠は独自の「技術に従事する
各兵科幹部候補生(航空兵科の者を除く)の教育と,海軍所要の火薬や
一般火薬類の製造と修理を行なうことができると書かれている.

 また,組織のことを規定してある.

 陸軍兵器廠は兵器本部,兵器補給廠と造兵廠から成っている.
兵器本部長は陸軍大臣に直隷し,陸軍兵器廠の業務の総責任者である.
つまり造兵廠長は兵器本部長に隷属することになった.

 最後の改正は1942(昭和17)年である.大臣に直隷するのは
兵器行政本部長であり,その下に所在地名を冠する陸軍造兵廠が置かれる.
造兵廠の中には課や製造所,研究所と技能者の養成所を置いた.
この年には,東京に第1(東京市王子区下十条町)と第2(東京市板橋区
板橋町)の各造兵廠があった.また,相模原陸軍造兵廠は神奈川県高座郡
大野町に置かれていた.

▼兵器補給機関

 1871(明治4)年には兵器の製造を担当する造兵司に対して,
補給は武庫司がうけもっていた.そして同8年の規程では,砲兵本廠の下
に武庫と火薬庫があり,各鎮台に支庫があった.1879(明治12)年になると,
砲兵方面,工兵方面という聞きなれない名称が出てくる.

『砲兵と工兵の2兵はそれぞれその管轄地を分担して,兵器弾薬の貯蔵や
建築の作業を区処する.このことを砲・工兵方面という.各方面では提理は
砲兵・工兵の大(中)佐をあてる.ただし,砲兵は武庫・弾薬庫を分割して
分配・支給を行う.工兵は方面内の工事を取り締まることとする』

 改正の内容は1890(明治23)年に各方面についての詳しい解説が
出されている(「砲兵方面条例」).
砲兵第1方面・本署東京・第1,第2師管と北海道
砲兵第2方面・本署大阪・第3,第4師管
砲兵第3方面・本署下関・第5,第6師管
がそれぞれの管轄地域である.師団司令部や要塞司令部の所在地には
「砲兵方面支署」を置いて,支署が近くにない旅団司令部所在地には武庫
を置き,支署の管轄とする.要するに火砲や兵器弾薬の購買・保存・貯蔵・修理
と支給分配はすべて砲兵が行なっていた.

 1889(明治22)年の「工兵方面条例」も見てみよう.要塞堡塁砲台や付属
する官営物の建築・修繕・監視の工兵事業を担任し,歩兵工兵の工具材料を
調達し,工兵所属地を管轄する.歩兵隊の土工具,ツルハシやスコップなども
工兵が保管,配分するということだ.工兵方面はその規模が砲兵と比べると
小さい.2方面である.本署を東京に置いた第1方面は第1,2,3師管と
北海道,第2方面は大阪に本署,第4,5,6師管を管轄した.管内の要塞や
重要な砲台については支署を置くこととする.

 後世の我々が混乱しやすいのは,次々と改正される組織名称である.
1897(明治30)年に「陸軍兵器廠」ができる.これは兵器の補給を担当する
官衙(かんが)である.この年,製造担当の「陸軍砲兵工廠」ができている.
このとき,「陸軍兵器本廠」は東京・大阪・門司・台北と4つもあった.
その下部には支廠が置かれた.東京本廠が担当するのは近衛,
第1,2,7,8師管,大阪本廠は第3,4,9,10師管,門司本廠は
第5,6,11,12師管,台北本廠は台湾島と澎湖島.台湾には当時,
各師団から交代派遣されていた台湾守備混成旅団が駐留していた.
そうした要地や要塞には「兵器支廠」が置かれていた.
 
 大改正は1913(大正2)年である.4個の兵器本廠を1つに統合した.
これはようやく旧砲兵方面思想からの変換といえる.大戦争をはさんで20年
以上もかかっての脱却である.大きな組織はなかなか改編が難しい.
本廠は東京だけになり,師団司令部所在地と台北,朝鮮の龍山,関東省
の旅順に支廠が置かれた.台北は台湾所在部隊,同じく龍山も朝鮮駐留部隊,
旅順も関東州警備部隊への対応である.

 つづいて1918(大正7)年の改正は師団司令部の中に兵器部ができたこと
による.本廠は東京にあり,支廠は東京,大阪,名古屋,広島,小倉と
龍山(同12年,龍山は千葉兵器支廠に改められる)に減らされた.師団長の
幕僚としての兵器部長(砲・工兵技術系大佐)が支廠の業務を行なうことに
なったからだ.
 
「陸軍兵器補給廠」と補給を全面に出した改正は1940(昭和15)年に
行なわれた.この「補給」という名称が付けられた理由は,「兵器廠」という
旧来の官衙名が同年に発足した「陸軍兵器廠」に名称を乗っ取られたこと
にある.東京兵器補給廠と所要の地に地名を冠した兵器補給廠ができる.
そして,敗戦までの組織は1942(昭和17)年勅令677号に規定されている.
その業務は,兵器と兵器材料(ただしどちらも航空兵器を除く),自動車燃料
その他の軍需品の保管,修理,補給と廃品の処分を行なう.所要の地
とされたのは,東京,千葉,名古屋,大阪,岡山,広島,小倉,北海道そして
平壌だった.


▼日露戦争の銃砲弾準備

 陸軍にはトラウマがあった.1877年の西南戦争においての小銃とその弾丸
の不足である.当時は幕末以来の輸入銃の時代であり,その種類も雑多で,
口径も異なる弾丸がそれぞれ調達された.その轍を踏まないように日清戦争
では,野戦軍主力には村田11年式,18年式の小銃を携帯させ,弾丸の
生産・備蓄・配当に十分に配慮した.日清戦争では補充した小銃実包は
134万発あまり,野山砲弾は3万4000発だった.

 日露開戦時の30年式実包の備蓄は3200万発(約24倍),野山砲弾は
30万発あまりで9倍を用意していた.また,野戦師団・旅団が保有していた
実包は6400万発,野山砲弾は28万発があった.これで戦争が続いても,
砲兵工廠の生産能力を考えて十分だろうと考えられていた.

 ところがである.緒戦の南山攻撃ではわずか1日で歩兵30個大隊,
約3000挺の小銃が射耗した弾丸数は220万発にもなった.機関銃24挺も
このうち8万発を発射した.36個中隊・216門の野山砲が撃った砲弾は
3万4000発.遼陽会戦では銃弾840万発,砲弾10万6000発あまり.
旅順要塞の第1回総攻撃でも撃たれたのは270万発の小銃実包,砲弾は
5万発だった.奉天会戦は大兵力と長期間にわたったせいで,
小銃実包2000万発,野山砲弾だけで28万発にのぼった.兵器・弾薬の製造
といっても,その原材料のほとんどを資源小国のわが国は外国からの輸入
に頼らねばならなかった.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.2.24




『ライター・渡邉陽子のコラム (83) ─ 自衛隊海外派遣の歩み(13) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.

自宅そばの老朽化したマンションが建て替えられることになり,
今週から本格的な解体作業が始まりました.3台の重機が計画的
に破壊していく様子を見ているのは大変楽しく,仕事がはかどりません!

ここに住み続けていれば,古いマンションが解体され
いったん更地になり,そこに新たなマンションが誕生するという,
その土地の歴史の一部分を目の当たりにすることになります.

そういえば先日,ある演出家への取材したとき,その方が
「ひとつの土地に家が建てられ,年月が経ち壊されまた新しい建物
がそこに建ち,そういう上に私たちの人生はある」とおっしゃっていました.
わかるようなわからないような,でもわかるような気がします.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■自衛隊海外派遣の歩み(13)

先週は自衛隊がいつ,どこで,どんな支援を行なってきたのか,
その海外派遣の具体的な記録のうち,PKO活動についてご紹介
しました.PKO活動にはまだ続きがあります.

以下は,国際平和協力業務の実績に含まれる「人道的な国際救援活動」
の実績です.

●ルワンダ難民救援活動 難民救援隊(23名の先遣隊を含む)
1994年9月〜12月 283名/空輸隊1994年9月〜12月 118名

●東ティモール避難民救援活動 空輸隊 1999年11月〜2000年2月 113名
※UNHCR(国連避難民高等弁務官事務所)からの依頼に基づき,
インドネシアのスラバヤにC-130Hを3機派遣.航空自衛隊が初めて
単独で派遣された活動となりました.

●アフガン難民救援活動 空輸隊 2001年10月 138名

●イラク難民救援活動 空輸隊(6名の運航支援要員を含む)
2003年3月〜4月 56名

●イラク被災民救援活動 空輸隊(6名の運航支援要員を含む)
2003年7月〜8月 104名

※東ティモール避難民救援空輸隊に参加されたH・K様,
ご指摘ありがとうございました.もともと2週にわけてご紹介するつもりで,
東ティモールの案件は今週掲載予定でした.
先週のメルマガの最後に「PKO活動の実績は来週に続きます」と一言添えておけば
よかったのですが,不親切な案内で活動が抜け落ちているかのような記述
になってしまい,大変失礼いたしました.なお,派遣隊員は防衛省HPならびに
防衛白書では113名となっておりますので,ここでも113名とさせていただきます.


続いて,各種特別措置法に基づく活動の実績です.
特別措置法とは,現行の法制度では対応できない場合に,有効期限付きで
制定される法律です.自衛隊が海外派遣される法的根拠が恒久法にない
場合は,特措法の制定が必要となります.

参議院議員の「ヒゲの隊長」こと佐藤正久氏は,自衛隊を海外派遣させる必要
が生じた際に急いで制定する特措法では,部隊は十分な訓練を行なう時間が
取れないことを指摘,昨年9月に成立した安全保障関連法のような恒久法の制定
を長らく訴えてきました.自衛隊は日頃から訓練を重ねていますから,災害派遣
のための訓練は行なっていなくても,日頃の訓練で培っている実力で救助活動
を行なえます.特措法による海外派遣でも任務を完遂しますし,その働きぶりが
現地で高い評価を受けていることは周知の事実です.

けれど「これは自衛隊派遣ということになるのでは」という声が上がってから
特措法が制定され,実際に部隊が派遣されるまでの限られた期間での
「最善を尽くした準備」と,現地でのさまざまな想定を踏まえた訓練を日頃から
行ない万全の状態でおもむく海外派遣では,結果として隊員の身の安全に差が
生じます.そういう意味でも「安全保障関連法が自衛官を危険にさらす法律」
という批判は,100%間違っているとは思いませんが,違う側面から見れば
自衛官を守る法律でもあると,個人的には考えます.

話がそれました.特措法の活動実績は以下のとおりです.

●旧テロ対策特措法に基づく協力支援活動 2001年12月〜2007年11月
※インド洋でOEF(「不朽の自由」作戦)に参加している国への艦艇用燃料
の補給を行ないました.燃料補給のたびに艦艇が港に戻らなくて済むよう,
洋上のガソリンスタンドを務めたものです.補給する艦艇と40〜50m距離を
置き,時速20〜25キロで並走しながら(船が洋上で止まると波や風の動き
に左右されてコントロールできず,受給艦とぶつかってしまう恐れがある
のです)補給する作業を1日2〜3隻に実施.補給は1隻につき約1時間半
かかります.(あまり大きな声では言えませんが,給油用に伸ばしたロープ
にかごをぶら下げ,おやつの交換なども行なわれたとか.中には「ありがとう」
のメッセージカードも入っていて,日本から返すかごにはカップ麺を入れると
めちゃくちゃ喜ばれたそうです)

●補給支援特措法に基づく補給支援活動 2008年1月〜2010年1月
※旧テロ対策特別措置法に基づき,インド洋における海上阻止活動に参加
する各国艦船に対して海上自衛隊による燃料・水の補給支援を実施しました.

●イラク人道復興支援特措法に基づく活動 2003年12月〜2009年12月
※陸自はイラク南部のサマーワで,イラク人による自由で民主的な政権を早急に
樹立するための人道復興支援活動を行ないました.医療,給水,公共施設の
復旧・整備などのほか,安全確保支援活動としての医療,輸送,補給などの
復興活動に従事.サマーワ母子病院における新生児死亡率が3分の1に低下
するなど,現地の復興に貢献しました.海自は陸自車両等を積載した輸送艦
「おおすみ」と護衛艦「むらさめ」がクウェートまで車両等を輸送,空自はC-130H
輸送機により各種物資や人員などを合計821回,輸送物資重量計約673トン輸送しました.

次週はインド洋で給油活動を行なった派遣部隊の指揮官と隊員のコメントと,
国際緊急援助法に基づく国際緊急救援活動の実績をご紹介します.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.2.25




マーケット・ガーデン作戦とインテリジェンス (18)
                長南 政義
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■1月号までのあらすじ

本連載は,精確な内容を持つインテリジェンスが一九四四年九月上旬
に連合軍の指揮官に利用されたかどうかを考察することにある.
実は,インテリジェンスの内容は,マーケット・ガーデン作戦実行
に伴うリスクを連合軍の指揮官に警告していた.

指揮官が決定を下すために利用できるインテリジェンスの情報源は
数多く存在していたが,本連載では「ウルトラ」情報により提供された
インフォメーションにのみ焦点を当てて考察を進めることとする.
第二次世界大戦を通じて,連合軍の戦略レヴェル・作戦レヴェルの
指揮官たちはウルトラ情報を活用し,ウルトラ情報の精確性に関して
めったに疑いを持たなかったからだ.

複数回にわたりイギリスの「ウルトラ」計画について述べてきた.
前回は,「ウルトラ」情報の「配布」について述べた.

初期の頃,「ウルトラ」情報の配布は,閣僚に限られており,伝令使
もしくは電話を経由して行われていた.しかし,野戦軍司令部が展開
すると,無線通信経由で「ウルトラ」情報を送信することが必要となった.
だが,無線通信では傍受・解読される危険性が伴う.そこで,ドイツ軍
に暗号読解されることなく,遠距離にある野戦軍司令部に「ウルトラ」
情報を伝達できるための解決策として,特別連絡部隊
(Special Liaison Units :SLU)が創設された.

ウルトラ計画は情報保全の面で二つの大きな問題を抱えていた.
第一の問題は,ドイツ軍に傍受されることなく,野戦軍司令官に
「ウルトラ」情報を伝達することである.この問題は,英国空軍通信部隊
から選抜要員をリクルートし,彼らを特別連絡部隊に配置し,
彼らにワンタイムパッド(乱数鍵を一回のみ使用する暗号の運用法で,
数学的に解読不能とされる)を使用させることで解決された.

第二の問題は,情報を受領した部隊が情報源を偽装することなく,
報告書の形で下部部隊に「ウルトラ」情報を配布してしまうことである.
この問題は,「ウルトラ」情報が情報報告書や作戦命令の中で直接言及
されないようにすることで解決された.司令官は「ウルトラ」情報を使用
することができるが,情報源を適切に偽装したり,報告書や作戦命令と
いった文書内で「ウルトラ」情報に直接言及しないことを要求されたのである.


前回までで,「ウルトラ」情報のインテリジェンス・サイクルの全過程を
説明し終わったので,今回は,「ウルトラ」計画に対する著者なりの評価
を述べてみたい.


▼ウルトラ計画,最大の成功要因

ウルトラ計画の真に傑出している点は,エニグマ暗号解読に必要な
技術的部分にあるのではなく,戦後約30年以上にわたって,秘密が
保持されたという点にある.英国政府が1970年代に機密解除するまで,
世界はウルトラ計画の存在を全く知らなかったのである.

秘密が保持されたというと単純なように聞こえるかもしれない.
だが,ロンドン郊外で約1万人以上の人間がウルトラ計画に関与する
と共に,複数国の多数の軍人が「ウルトラ」情報を見ていたことを考慮
するならば,これは驚くべきことである.

まずは,ウルトラ計画があれほどの成功をおさめることができた最大要因
として,秘密保全が万全であったことを指摘したい.

▼長期間秘密が保持できた理由

長期間にわたって秘密が保持できた理由の一つは,秘密保持を誓約し,
戦争が終了してからも長きにわたって誓約を守り続けた人々に帰する
べきである.

第二の理由としては,ウルトラ計画の細分化を指摘できる.
ウルトラ計画の全貌を知っていたのは極めて少数の人間にすぎず,
大部分の人間は自身が関与した「ウルトラ」情報製作過程の極めて狭い
役割しか理解していなかった.

▼厳格な秘密保持の弊害

これまで説明した対策はウルトラ計画の存在を守るために必要であった
ことは確かであるが,いくつかの点で,「ウルトラ」情報が野戦軍指揮官
を支援する可能性を限定してしまったこともまた確かであった.

ブレッチリー・パークで勤務する人々は戦場における次の作戦について
何も知らされていなかった.その理由の一つは,現在起こるかもしれない
事象を見ようとして,分析に先入観が入ることを防止しようとしたことに
あった.だが,このことは次のような弊害を招いてしまったことも確かである.

すなわち,戦場で部隊を指揮する野戦軍司令官にとって危機的に重要で
あることが,ブレッチリー・パークで勤務する人々にとっては重要度が低い
問題であると見なされる事態が起こり得たということである.

▼起こってしまった失敗

この典型的事例が,マーケット・ガーデン作戦が開始される二日前の
一九四四年九月十五日の「ウルトラ」情報報告書であった.この報告書は,
ドイツ軍のB軍集団がオランダのオーステルベークに司令部を移動した
と書かれていた.そして,この場所は,英国第一空挺師団の降下地点
からわずか2〜3マイルの地点であったのだ.

ブレッチリー・パークで勤務する分析官は来たるべき作戦について
何も知らなかったため,この重要な情報がかかれた通信文に「ZZ」
(五段階中の下から二番目)のプライオリティーをつけたに過ぎなかった
のである.

確かに,この情報が師団長の手に渡っていたとしても,作戦自体が成功
したかどうかは疑わしい.だが,師団長が最も知りたがっていた情報で
あったことは確かであり,もしかしたら,実際に生じた損害は減少した
かもしれない.

次回から数回にわたり,連合国側によるマーケット・ガーデン作戦まで
の第二次世界大戦中における「ウルトラ」情報の利用について述べる
こととする.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.2.25




『技術研究・教育系統の官衙と人──日本陸軍の兵站戦(13)

                 荒木 肇
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□ご挨拶

 早いもので如月も過ぎて,もう弥生三月です.梅の花も咲き,
我が家の近所の白木蓮も開いています.全国では雪の話も
まだまだあるのに,当地ではすっかり春の気分です.
とはいえ,インフルエンザもまだまだ流行とのこと,皆様もご自愛ください.


▼技術は砲兵と工兵の担任だった

 陸軍が創設された時代には「技術」という言葉は,わざわざ使われ
なかった.では技術導入,とりもなおさず兵器や機器の審査,調達など
はどうしていたのだろうか? 現在なら,防衛装備品は装備調達本部
などがあり,そこで各種の兵器や装備品の審査などを行なっている.

 明治の初めには,陸軍に砲兵会議,工兵会議という組織があった.
1881(明治14)年に砲兵会議,翌々年の83年には工兵会議がおかれた.
技術というものは砲兵や工兵の独壇場だったのだ.

「砲兵会議条例」によると,
(1)砲兵科に関わる編制または教則
(2)各種兵器弾薬及び諸器械の改正材料の良否
(3)各種兵器弾薬及び諸器械の模範
(4)砲兵に関わる官衙工場の建設及び廃除
(5)兵器弾薬材料及び諸器械に関する建言の得失
 と,各兵科で使われるすべての兵器はすべて審議事項になっている.

 会議といっても常設の官衙(かんが)ではなく,今でいう委員会に
あたる組織になる.陸軍省内に事務局はあるが,議員たちの多くはほかに
職務を持っていた.本務のほかに『砲兵会議議員被仰付(おおせつかる)』
という辞令が出た.何か審議事項ができると召集されて会議に列席する
という形式である.これが1888(明治21)年になると,『砲兵会議は砲兵監
に隷し武器弾薬装具材料器械及びその使用法を調査議定し,且つ常に
外国砲兵の事項を研究する所とす』と変わってくる.

 さらに1891(明治24)年になると,審議し議決する事項が技術関係に絞られる.
(1)兵器弾薬,国防に関する兵器事業
(2)砲兵の教育
(3)砲兵の技術

 そして,議長は兵監(野戦砲兵監,要塞砲兵監のうち古参の者)に改められて
陸軍大臣の直轄とされた.ただし,教育に関しては「監軍」に直隷する.
この規定はそのまま工兵会議にも当てはめられた.中身は同じくの内容で,
文言の「砲兵」を「工兵」に変えれば変わりはない.

 この明治24年の軍隊教育の元締めにあたる「監軍」は後世の教育総監部
の前身である.各兵監も総監部の中の職制の一つだった.ところが,誤解を
受けやすい同名の職制が過去にも存在した.

 1878(明治11)年に陸軍参謀本部がおかれたと同時に「監軍本部」が
できた.この時の条例の要旨を紹介する.

『監軍本部は東京にあり,平時ではわが陸軍の検閲と軍令出納のことを
総理する』.「軍令出納」であり,会計出納ではない.訓練の精度を確かめ,
指導し,軍令(作戦関係令)を出す軍令機関だった.

 監軍部長は勅任官であり,それぞれの軍管内の検閲,軍令をつかさどる.
東部監軍部長は第1(東京鎮台,以下同じ)と第2(仙台)の現役旅団と
第1後備軍,中部監軍部長は第3(名古屋),同4(大阪)の現役旅団と
第1後備軍,西部監軍部長は第5(広島),同6(熊本)の現役旅団と第1後備軍
を管轄した.各監軍部長は動員時の師団司令長官になるものとされ,
現役中将が補職された.前年の西南戦争では,各鎮台から臨時編成の
野戦旅団が出征した.少将の旅団司令長官の上には,それを統率する師団長
はおかれていなかった.したがって,この監軍とは,あくまでも戦時に隷下の
2個現役旅団と後備軍を率いて師団司令長官として「方面の防衛」にあたる職
をいう.しかも,それぞれが天皇に直隷し,「監軍本部長」はいなかった.

 砲兵・工兵会議に関わる「監軍」は1887(明治20)年におかれた「監軍部」
の長官である.のちにこのポストは陸軍教育総監になる(1900・明治33年).
その下には参謀長,参謀,副官と将校学校監,騎兵監,砲兵監,工兵監,
輜重兵監が隷属していた.
 
 定員の規程をみると,当時の各兵科の勢力の違いが分かって興味深い.
まず,監軍は大将もしくは中将,『陸軍軍隊練成ノ斉一ヲ規画セシム』が責任事項
である.参謀長は少将もしくは各科大佐,将校学校監は少将,騎兵・砲兵・工兵監
は少将もしくはそれぞれの大佐,輜重兵監だけは輜重兵中佐である.将官に
ついては兵科がなくなることは読者もご存じだろう.参謀長は各科大佐だけれど,
歩兵であることは容易に想像できる.
 
 将校学校監は1893(明治26)年に廃止されるが,管轄したのは各兵科の
将校教育のための各学校と士官学校,幼年学校だった.また,戸山学校と
下士養成の教導団は監軍の直轄だった.明治23年には砲兵監は野戦砲兵監
と要塞砲兵監に分かれた.

 技術の重要性が高まり,砲兵会議と工兵会議は廃止・統合された.
そこで常設の官衙として技術審査部が生まれたのが1903(明治36)年である.
また,火薬研究所が東京砲兵工廠の板橋火薬製造所の中におかれた.
審査部の業務内容は『砲工兵技術兵器材料に関する事項を研究調査して
陸軍大臣に意見を上申し,その諮問に答える』ということになる.この技術審査部
は1919(大正8)年に陸軍技術本部とその下の陸軍科学研究所に発展した.

▼技術者たちの養成

 日露戦争はそれまでの戦争とは大きく概念を変えたものだった.それ以前の
戦争は,平時に備蓄した装備や弾薬で戦うものだったからだ.軍隊の姿まで
もが変わった.人員も平時の数倍にもなった.召集された後備・予備役の軍人
によって大兵力が集められた.その装備や補給の大増産が必要になり,
さらに予想もされなかったレベルの消耗戦という,新しい戦争像が現われた.
日露戦争は,戦時工業力が戦力を左右する戦争,総力戦の様相をはっきりと
示し始めたのだった.

 小銃や野山砲の説明で述べたように,火砲や弾薬,砲弾の信管製造技術
などは精密機械工業の分野である.それは民間企業では簡単に追いつけるような
レベルではない.東京,大阪の二大砲兵工廠だけで,火砲も,小銃も,弾薬も,
砲弾も造るしかなかった.そうした技術も,建軍当初は外国人技師や技術将校
を招いて教育を受け,模倣をするしかなかったのである.

 わが国独自の技術(系)兵科将校養成の制度は,1889(明治22)年の
陸軍砲工学校普通科と同高等科の設置が始まりである.もともと砲兵と工兵
の教育はほかの兵科より,その理数系科目の多さが特徴だった.任官して
部隊に赴任しても士官学校の教育だけでは不足するということから,
わざわざ全員が入校する義務教育である課程が作られた.なお,ここでいう
技術将校は,昭和期になってからの技術「部」将校とは異なることに注意して
おきたい.あくまでも砲兵,工兵といった兵科将校の中で特別に高い技術的
教育を受けた人を技術将校としたのである.のちの(兵技・航技)技術部将校
は,あくまでも将校相当官であり軍隊指揮権を持っていないエンジニアだった.

 日露戦争の開戦時には,砲工学校高等科優等卒業生であり,その後欧米
留学をした砲兵将校たちが砲兵工廠で勤務していた.その中に東京帝大
卒業生がいる.陸士7期,8期,10期の若い砲兵大尉たちだった.
陸士7期というのは,新しい士官候補生制度,すなわちプロシャ式に一般兵卒
の暮らしを経験してから士官学校に入校する制度の7回目にあたる.
1874(明治7)年ころの生まれで,当時同期の多くは大尉である.

 これは1900(明治33)年に東京帝大に『工科大学及理科大学陸軍砲工学生
規程』が制定されたことによるものだ.高等科卒業生のうちから,砲兵中尉の
まま大学に派遣された「員外学生」といわれた制度である.のちには工学部
と改称されるが当時の東京帝国大学工科大学には,すでに1887(明治20)年
には造兵学科,火薬学科がおかれていた.また,1901(明治34)年には
造兵学科が2講座に増えた.
 
 造兵学科は火薬学,炮学,砲架論,弾丸論,弾道学,大炮構造論,砲架弾丸構造,
水雷学などの学科課程を含んでいた.また,火薬学科には弾丸論,弾道学,
火工学,火薬学,砲学,爆裂薬,水雷学などの学科課程もあった.卒業生は
主に陸海軍工廠の高等官である技師になるというケースが多かったようだ.

 この員外学生の第1回卒業は1903(明治36)年のことである.2名の工兵科,
砲兵科1名で合計3名.続いて翌年は砲兵科のみ3名である.戦時中には陸大
すら閉鎖されて,学生は野戦に向かった.員外学生もその教育を中止したので,
戦時中に活躍したのは4名だった.東京,大阪の両砲兵工廠に2名ずつが勤務
した.大尉として中堅に位置したのが彼らである.

 彼らの上司にあたる製造所長のような砲兵中佐,少佐たちは砲工学校の
優等生で海外留学をした人たちであり,廠員として勤務していたすぐ上の世代は,
砲工学校高等科の優等卒業生だった.しかし,当時の風潮を考えてみれば,
高等科の優等卒業生も決して好きで研究開発の道に入ったのではないようだ.
普通科にせよ,高等科にせよ,そこで学び,教えられるのは砲兵・工兵の部隊
で役立つ初級士官の必修事項でしかなかった.むしろ優等卒業の彼らは,
広い視野で軍事を学べる陸軍大学校へ進学を希望していたのである.

 のちに南部式拳銃や,三十八年式歩兵銃の開発で名を馳せた南部中将
(陸士2期)などは,1897(明治30)年のことを振り返った話をしている.
砲兵中尉で野砲兵第6聯隊から東京砲兵工廠附を命じられたときには,技術を
専攻する考えはなかったという.自分は技術官衙のことなど思ったこともなかった.
やはりできたら陸軍大学校へ入学したかったとも言っている.
 
 陸軍の教育は,「士官学校」の名称からも分かるように隊付き尉官の教育を
施すことを目的としていた.砲工学校の教育もまた,技術的教育もあったけれど
部隊で兵を率いて働く将校を育てることが中心になっている.青年将校も,
部隊で新兵の教育にあたりながら,現場の機材の使い方などを習得することで
精一杯だったのだ.そのうえ,海外留学組の技術系の将校たちのほとんどは
学校教官にはならなかった.人事上のゆとりのなさである.
 
 部隊勤務ばかりで,技術官衙に縁がない教官たちは夢を語れない.優秀な
学生に対しても,技術開発の話もできず,ひたすら部隊での実務を教え込む
しかなかったのだ.だから,右も左も分からない若造中尉が,戦時になって繁忙
をきわめた砲兵工廠になどにいきなり放り込まれて大変戸惑ったという.
昭和になってからある中将の回顧談での話である.技術将校の養成には今後は
根本的な研究を必要とするという.
 
 興味深いのは,学校の成績を必ずしも大切にしない陸軍の人事らしいところが
あることだ.優等生ばかりが員外学生にならなかったという事実がある.
もう一度,おさらいをしておくと,砲兵・工兵の将校になると1年間の普通科課程
に入校を命じられる.このうち上位の三分の一,もしくは四分の一が高等科に
進んだ.やはり年限は1年であり,優等生は普通科では銀時計,高等科では
軍刀が与えられた.しかも人事上では,陸大卒業者と同じように待遇された.
具体的には序列を上げられ,同期の最先頭に立つようにされた.抜擢進級の
対象者にもなった.この中から,さらに帝大に「定員外学生」として派遣された
者は,3年間の履修ののち学士号を授与される.理学士中尉,工学士中尉と
畏敬された.
 
 さて,明治期に陸軍学生として帝大を卒業したのは25名.しかし,そのうち
高等科での優等卒業生はわずか3名しかいない.優等卒業者は同期全員で
27名の中の3名である.帝大出の学士将校は陸士第6期生以降だが,
大正の末までに将官に進んだ11期生までの課程別,成績別の人数と
将官進級比率をみると興味深い.
 
 将官になった人の総数は99名である.全体の卒業生数は876名だから,
およそ11.3%になる.陸大卒業生は46名でうち36名が将官になった.
これが78.3%の高率.では帝大出はどうかというと卒業生が12名だが,
うち83.3%の10名が将官になっていた.砲工学校の優等卒は16名中12名
だから75%であり,最も高いのは学士将校だったわけだ.
 
 なお,普通科優等生も捨てたものではなかった.99名の将官に進んだ人
のうち大将になったのはわずかに4名,陸大優等生,砲工学校普通科優等生,
陸大卒業,員外学生出身者が1名ずつで分けあっている.普通科優等生の
7期の緒方勝一大将は高等科では優等を逃した.少尉・中尉は要塞砲兵科
である.1901(明治34)年にフランス駐在を命じられて,帰国後は第4軍で
副官として出征する.砲兵少佐で凱旋後は技術審査部に長く勤務した.
世界大戦のチンタオ攻略では独立攻城重砲兵第2大隊長として出征し,その後は
部隊での勤務はなかった.1915(大正4)年には,フランスへ出張,
フランス軍に従軍,つぶさに各国の様子を見てくる.帰国後,技術本部第1部長
になり,1920(大正9)年に少将,重砲兵学校長,砲工学校長,科学研究所長
を歴任する.同25年中将に進み,同28(昭和3)年には造兵廠長官となり,
軍需工業動員計画などにも関わり,同31(昭和6)年に大将に親任,
技術本部長を3年務めて予備役に入った.この人などは普通科の優等で能力
を認められ,員外にも行かなかった代わりに海外派遣というコースだった.
 
 それでは当時,帝国大学へ進めた人はどれだけだっただろうか.帝国大学
は1897(明治30)年に京都帝国大学が2校目の帝大として開学した.
法学部・医学部・文学部・理工学部の4学部で構成されていた.高等学校は
当時,官立の高等中学校が7校だった.例外はあったものの,この高等中学校
を出ていなければ帝大には進めなかった.
 
 1903(明治36)年の学生数は4051名である.だいたい入学するのが
22歳くらいで,在学年数は3年から4年(法科・医科)である.この年現在の
満22歳以上25歳の男子青年数は126万3991名だった.同世代男子数
のわずか0.3%である.
 
 明治7年の前後に生まれた人たちはどのような教育環境にいたのだろうか.
中学校は全国で53校(1889=明治22年,以下同年)しかなく,高等学校は
7校,専門学校が35校である.中学に在学の者は1万1000人あまり,
同じく高校生が4000人,専門学校生は9500人,大学生が774人という時代
である.明治27(1894)年に徴兵検査を受けた壮丁数は,およそ44万人
だった.うち中等学校卒業者は4000人程度.さらに陸軍士官学校へ進学
したというだけでも,たいへんなことである.

▼工長(技術下士)の養成

 造兵関係の技術下士の養成は1872(明治5)年に諸工伝習所(造兵司管轄)
の開設に始まった.同75(明治8)年には砲兵工廠生徒学舎,同79年には
東京砲兵工廠生徒学舎,同85年には再び砲兵工廠生徒学舎に戻り,
同90年に陸軍砲兵工科学舎と名称と組織を改めてきた.そして日清戦争後
の同96年に陸軍砲兵工科学校となった.
 
 明治5年の生徒数は,火工11名,銃工10名,木工20名の合計41名
だった.これらの生徒はフランス陸軍から派遣された砲兵大尉ルボンと6人
の技術下士によって教育された.他に火薬製造については,ヲルセル砲兵大尉
の指導を受けたとある.砲兵本廠の職制表によれば,提理(廠長),副提理,
局長2人,副官,6人の工場長と火薬製造所長が将校であるほか,
課の責任者,各工場・製造所の次長はすべて技術下士だった.

 次回はこの技術系下士官の養成を詳しく見よう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.3.2




『ライター・渡邉陽子のコラム (84) ─ 自衛隊海外派遣の歩み(14) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.

今週と来週はいつもよりやや長めになりますが,お付き合いください.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■自衛隊海外派遣の歩み(14)

先週は各種特別措置法に基づく活動の実績をご紹介しました.
そのうち,旧テロ対策特措法に基づく協力支援活動として,インド洋で
給油活動を行なった派遣部隊の指揮官と隊員へインタビューした際の
一部をご紹介します.

指揮官
「幸いわれわれの派遣された時期は,最高気温がせいぜい34度程度と
比較的涼しい時期だったので,その点は非常に恵まれていました.(略)
最後までひとりのけが人も病人も出さず,大きな故障もなく無事に帰国できた
原因のひとつには,この気候的条件もあったと思います.(略)
私がインド洋に行った時期はちょうど補給艦の数が少なくて,『ときわ』が
引っ張りだこで大変感謝されました.日本がこれだけ立派な補給艦を
送ってくれて洋上で給油してくれる,それがどれほどオペレーションの効率化
に役立っているかわからないと,再三言われました.
また,帰国してからアメリカのベーカー大使にお会いした際,大使は
『あなたは偉大な貢献をされた』と自らコーヒーを注ぎ,温かく迎えて
下さいました.そのときも『ああ,われわれの派遣部隊はこれだけ高く
評価されたんだな』と大変うれしく思いました」

2等海尉
「100キロリッターという燃料を搭載するのに,自衛隊なら何分でできるという
時間がありますが,ある国ではその3倍,4倍の時間がかかったりします.
補給を受けているときというのは船がとても弱い状態ですから,
われわれは『迅速に作業を終わらせる』という教育を受けてきています.
できるだけ早く補給して離脱するのが望ましいという考えなので,
そういうのんびりしたペースに最初は戸惑いを感じました.けれど相手に
してみれば,危険な海域で補給はしない,後方の安全な場所でこうやって
補給してもらうんだから,そんなに大急ぎでやる必要はないという考え
なのかもしれません.また,現場では想像していた以上に英語力が必要
だったこと,用具の点検は見るだけではなく,裏側まで手で触れて確認する
ことが大事だということなど,新たな発見や,すでに実践していたことの
重要性を再確認したりしました」


続いては,国際緊急援助法に基づく国際緊急救援活動の実績です.
1987年に制定された国際緊急援助法(正式名称は国際緊急援助隊に関する法律)は,
海外において大規模な自然災害等が発生した場合,被災国政府等の要請に
応じて国際緊急援助活動を行なうことを定めています.

もともとは国際協力機構(JICA)主体で行なわれていましたが,
1992年に法改正され,自衛隊の参加も可能となりました.また,2006年に
統合幕僚監部が新設され統合運用体制となったことで,国際緊急援助活動に
おいても統合任務部隊が編成できるようになりました.

自衛隊の海外派遣の法的根拠でもっとも多いのが,この国際緊急援助法です.
以下,ずらりと並びます.


●ホンジュラス国際緊急援助活動(ハリケーン災害) 1998年11月〜12月 185名
●トルコ国際緊急援助活動に必要な物資輸送(地震災害) 1999年9月〜11月 426名
●インド国際緊急援助活動(地震災害) 2001年2月 94名
●イラン国際緊急援助活動(地震災害) 2003年12月〜2004年1月 31名
●タイ国際緊急援助活動 (地震・津波被害) 2004年12月〜2005年1月 590名

●スマトラ沖大規模地震及びインド洋津波における国際緊急援助活動(地震・津波災害) 
 2005年1月〜3月 925名
●ロシア連邦カムチャッカ半島沖国際緊急援助活動(潜水艇事故) 2005年8月 346名
●パキスタン・イスラム共和国への国際緊急援助活動(地震災害) 2005年10月〜12月 261名
●インドネシア共和国における国際緊急援助活動(地震災害) 2006年10月 234名

●インドネシア国際緊急援助活動(地震災害) 2009年10月 33名
●ハイチ共和国における国際緊急援助活動(医療活動)関連 2010年1月〜2月 234名
●パキスタン・イスラム共和国における洪水被害に対する国際緊急援助活動 
 2010年8月〜10月 514名

●フィリピン共和国における台風被害に対する国際緊急援助活動 
 2013年11月〜12月 約1100名
※大型の台風により壊滅的な被害を受けたフィリピンに対し,国際緊急援助活動では
初となる統合任務部隊「フィリピン国際緊急援助統合任務部隊」を組織し,
過去最大規模となる約1100名態勢で同国における救援活動を実施.統合運用のもと,
のべ2946名の診療,のべ1万1924名へのワクチン接種,約9万5600平方メートルの
防疫活動,約630トンの物資の空輸,のべ2768名の被災民の空輸などを実施しました.

●マレーシア航空機消息不明事案に対する国際緊急援助活動 2014年3月〜4月 130名
クアラルンプール発北京行きのマレーシア航空機370便が消息を絶ったことを受け,
海自のP-3C哨戒機2機および 空自のC-130H輸送機2機が計46回,約400時間
の捜索救助活動を実施した.

●西アフリカにおけるエボラ出血熱の流行に対する国際緊急援助活動に必要な物資
の輸送(ガーナ共和国) 2014年12月 14名
※国際連合エボラ緊急対応ミッション(UNMEER)からエボラ出血熱の感染拡大への
対応に使用する個人防護具の提供等につき要請があり,西アフリカ国際緊急援助空輸隊
を編成して輸送活動を実施.また,ガーナ現地調整所を設置し,国際緊急援助活動に
従事する外務省,国際協力機構(JICA),UNMEERおよびその他関係機関との
調整を行ないました.

●インドネシア・エアアジア機消息不明事案に対する国際緊急援助活動  
2014年12月〜2015年1月 350名
※スラバヤ発シンガポール行きのエア・アジア8501便がカリマタ海峡付近で消息不明に.
ソマリア沖での海賊対処活動を終えて帰国途上にあった派遣海賊対処行動水上部隊
(護衛艦おおなみ,護衛艦たかなみ,および艦載ヘリ3機)が,インドネシア国際緊急
援助水上部隊として現場海域において捜索救助活動を実施しました.


次週は現在活動中の取り組みについてご紹介します.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.3.3




短期連載】 外人部隊の真実 

フランス人に頼りにされている「外人部隊」─外人部隊の真実(8)

 元上級伍長 合田洋樹
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「軍事情報」読者の皆様へ

拙著「外人部隊125の真実」に多数のご注文をいただき,
まことにありがとうございました.
事前の反応も上々で,精魂込めた甲斐がありました.

なお,初版の印税は,外人部隊の養護院「ピュルビエ」に全額寄付する
つもりです.ご購入していただいた皆様には,本書に出てくる「元外人部隊兵
のための養護院」の運営に間接的に関わったと思っていただけたら幸いです.

養護院「ピュルビエ」のことは,こんごメルマガでも紹介するつもりです.

(合田洋樹)


 今回は,一般のフランス人が,外人部隊に対してどんな思いを抱いて
いるか,書いてみます.私は17年半も在隊していたので,多くの一般の
フランス人とも交流がありました.

 職業を聞かれ,「外人部隊兵です」と答えて,嫌な顔をされることは
ほとんどありませんでした.ただ,まれに部隊兵が嫌いな民間人もいます.
過去に部隊兵と何かしらのトラブルがあったのかもしれません.

 実際,コルシカ島でレンタカーを借りようとしたら,店員から「あなたは
外人部隊兵ですね? 前回部隊兵に車を貸したらボロボロにされたので,
それ以降,部隊兵には貸さないことにしているのです」と言われたこともあります.

 またフランス正規軍の中には,階級に限らず,外人部隊兵のことを
嫌がる者もいます.一部の上品な正規軍兵士からすれば,粗野で刺青
だらけの外人部隊兵は「ギャングスター(ゴロツキ)」に映るようです.

 さらに正規軍と外人部隊が協同作戦をした場合,先頭に立って作戦を
遂行できる外人部隊の方が必ず成果を上げ,評価されます.そんな嫉妬心
から外人部隊を嫌う正規軍兵もいるようです.

 アフガニスタンでの任務後,ある将軍が落下傘連隊を視察したことが
あります.私は「アフガニスタンでの落下傘連隊の活躍を褒めてくれるの
だろう」と思っていました,褒められるだけのことを落下傘連隊が行なった
からです.

 最初こそ感謝の言葉をかけてくれましたが,あとはALAT(フランス陸軍
軽航空隊)がいかにアフガニスタンで活躍したかを熱弁し始めました.
この将軍はこの軽航空隊の出身だったのです.

 この将軍は,明らかに外人部隊に対して好意的ではありませんでした.
私を含めすべての部隊兵が,その発言に大きく落胆していたことは
その場の雰囲気ですぐにわかりました.

 ただ,この将軍のケースは例外で,多くの正規軍兵は,部隊兵に対して
どちらかといえば好意的です.イザという時,外人部隊兵が最も頼りに
なることを彼らも知っているからです.


▼フランス人に頼りにされている「外人部隊」

 一般のフランス人は外人部隊に対してどのような感情を持っているの
だろうか? 基本的にフランス人は軍隊には理解がある,これは2世紀に
およぶ徴兵制度のおかげだ.

 しかし徴兵制は1996年にシラク大統領により,軍隊の職業化
(プロフェッショナル化)を目的に停止された.1979年以降に生まれた人は,
兵役の義務を停止された(完全に廃止されたわけではない.2015年の
シャルリ・ヘブド襲撃事件以降,徴兵制を復活すべきとの声が一部に
上がっている).

 2015年時点で,36歳以上のフランス人男性は,期間は短いが兵役経験
がある.だからフランス人家庭の多くは家族親戚の中に必ず元軍隊経験者
がいる.

 そのため軍隊アレルギーは日本ほどない.むしろ好意的である.
国を守るためには軍隊が必要だという,当たり前のことを理解している.
私が出会ったフランス人で,私が部隊兵だと言って嫌悪感を持たれたことは
まずない.

 だが,ごく少数ではあるが,なかには露骨に顔をしかめる人もいた.
休暇でパリのホテルに泊まろうとしたら,フロントで身分証の提示を求められた
ので,軍人証明書を見せた.

 その際,露骨に迷惑そうな顔で,「酒の持ち込みはダメですよ!」と
言われた.こちらも腹がたったので,なぜそんなことを言うのかと聞くと,
「前回泊まった部隊兵が,酔っ払って客室の物を壊したんですよ!」と
言われ,怒る気力も失せた.

 フィリピンを旅行中,70代のフランス人マダムに,フランスで何をしている
のか聞かれたので,「外人部隊に勤務しています」と答えたら,驚いた顔
で「あなた,ずいぶんひどい仕事をしているのね!」と言われた.

 このマダムは幼少期や多感な時期に,インドシナ戦争やアルジェリア戦争
に参加していた部隊の風評をニュースなどを通して見聞きしていたの
だろう.そのころの部隊の悪い印象をマダムは思い出したようだ.

 毎年7月14日のフランス革命記念日には,各地で軍の閲兵式とパレード
が行なわれる.最も有名なのが,パリのシャンゼリゼ通りで行なわれる
軍事パレードだ.陸海空軍が一堂に会し,大統領が閲兵したあと,観衆の前
で大規模なパレードが行なわれる.

 この時にいちばん声援と拍手を送られるのが外人部隊兵である.
ここにフランス人の部隊に対する国民感情がよく現れている.
現在でもフランス国民にとって,外人部隊はフランスの国防の一翼を担う
頼りがいのある存在なのだ.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.3.7




兵法三十六計 番外編

『孫子』は最高の「インテリジェンス教科書」(後編)
─インテリジェンスに経費を惜しむなかれ─

                 元防衛省情報分析官・上田篤盛(あつもり)
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□はじめに

 今週は『兵法三十六計』番外編の最後です.イエール大学歴史学部
教授からCIA分析官となったシャーマン・ケント氏は,インテリジェンス
は「知識であり,活動であり,組織である」と言っています.
今週はインテリジェンスを情報活動の側面から解説します.

▼情報活動の区分

 第13編「用間」は,情報活動のなかでも非公然かつ水面下で行われる
諜報活動について述べている.ほとんどのインテリジェンスは公開資料
を基に作成される.これをオシントと呼び,全インテリジェンスの
95パーセントに及ぶとされる.しかしながら,保全された重要な情報を
得るためには,秘密のベールの内側を覗く諜報活動などが不可欠なのである.
 
 諜報活動はしばしばスパイを使って行なわれる.『孫子』はスパイを
間者と呼称し,これを以下のとおり5種類に区分している.
 
 「郷間」:敵国および第三国の一般大衆から情報収集を行なう者
 「内間」:敵国の官僚,軍人などを誘惑して秘密情報を収集する者
 「反間」:敵国のスパイ(二重スパイ)が我が方に寝返った者
 「死間」:自らを犠牲にして,敵側に浸入して,偽情報を自白して,
相手側を撹乱させる者
 「生間」:最終的に生きて敵側から重要な情報を持ち帰る者
 
 また,それぞれの間者は情報活動の区分としてもとらえられる.

 「郷間」:公然に行なわれる情報収集活動
 「内間」:非公然かつ水面下で行なわれる諜報活動
 「反間」:敵国のスパイ(二重スパイ)を寝返らせ,我の偽情報を意図的に
流し,敵の誤判断や官民の離隔を謀る,宣伝工作あるいは謀略
 「死間」:自らを犠牲にして,命と引き換えに敵国を油断させ,真実の目的
を達成する謀略
 「生間」:本国と敵国と行き来し,情報を報告・通報する通信活動

 国家が生存・繁栄するためにはさまざまな情報活動を国家目的の遂行
という一点に収斂しなければならない.『孫子』ではこれらの間者を同時
に投入しなければならないとしている.それは,「多数の糸からできた
魚網が結局は一本の細い綱で結ばれている」ことに喩えられる(アレン・ダレス).

▼ 保全の重要性

 情報活動には積極的活動と消極的活動とがある.前者には,情報を
収集・処理してインテリジェンスを生成する活動のほか,相手側の意図を
破砕し,我の思うとおりに誘導し,我の利する活動を積極的に行なわせる
秘密工作がある(後述).

 後者には,我の情報活動やインテリジェンスを守る(秘密漏洩の防止,
窃取の防止など)受動的かつ公然の活動である保全(Security Intelligence)
とカウンターインテリジェンス(Counter Intelligence)がある.

 今日の情報活動において,我の情報活動やインテリジェンスを
保全(秘密漏洩の防止,窃取の防止など)する必要があることには異論がない.

『孫子』からは,インテリジェンスの保全についても貴重な教訓を得る
ことができる.

◇ 善く守る者は九地の下に蔵(かく)れ,善く攻める者は九天の上に動く.
故に能く自ら保ちて勝を全うするなり(軍形)

◇ 知りがたきこと陰のごとし.良く士卒の耳目を愚にして,告ぐるに言を以て
すること勿(なか)れ(九地)

 前者は「戦いの巧者は大地の奥深くに潜行して,好機を見て表に出て決戦
を行なう.そのため,自軍の存在・行動を敵の攻撃から保全することが重要
である」と解釈される.

 後者は,端的にいえば「兵隊に対して余計なこと伝えるな」ということで,
米国など重視される「知るべき人に知らせる」(NEED TO KNOW)の原則
を説いていると解釈できる.

 第6編「虚実」では「無勢で多勢に勝つ」方法を追求している.
つまり「人を致して人に致されず」として,自らが受動に陥らず,主導権を
握ることの重要性を説いている.この極意の一つとなるのが以下の句である.

◇ 故に兵を勝たすの極は無形に至る.無形慣れれば,則ち深間も窺うこと
能わず.形に因りて勝を錯(お)くも,衆は知ることは能ず(虚実)

◇ 夫れ兵の形は水に象(かたど)る.故に兵に常勢なく,水に常形なし.
能く敵に因りて変化して勝ちを取る者,これを神と謂う(虚実)

 つまり,「我が主動性を発揮するためには,我の態勢を敵から悟られない
ようにしなければならない.我の態勢を保全すれば,深く入り込んだスパイや,
智謀の優れた者でも我の企図を解明することはできない」と説いているのである.

 また,「軍の態勢は水のようなもので,軍の態勢は一定ではなく,
水の流れは一定ではない.敵情のままに従って変化して勝つのが神業で
ある」と述べており,敵から変化や異変を察知されないことの重要性を説いている.

 毛沢東は抗日戦争で農村ゲリラを組織し,「遊撃戦」と称するゲリラ戦を
展開した.彼は「遊撃戦」論で「人民は水であり,解放戦士は水を泳ぐ魚で
ある」と語った.これは,人民の“大海の渦”のなかで自己の組織を保全
することを狙ったものである.
 
 翻って今日,我の社会や組織に敵対勢力が浸透している可能性は否定
できない.そのため,浸透した敵対勢力を排除する積極的かつ能動的な
保全,すなわち以下に述べるカウンターインテリジェンスが必要となる.

▼ カウンターインテリジェンスの重要性

 保全は公然かつ受動的な活動であるが,カウンターインテリジェンスは
相手国の情報機関による情報活動や各種工作から我が情報機関の要員
や情報活動を防護するための,非公然な活動も含む組織的かつ積極的な
活動なのである.

 我が組織は敵対国の情報機関による水面下での諜報や秘密工作を
受けている.我が組織を防護するためには受動・防勢的な情報保全だけでは
不十分である.敵対国スパイが所属している情報機関の組織,活動方法
および活動目標を能動的に解明し,これを破砕する必要がある.
つまり,能動的な対抗策,すなわちカウンターインテリジェンスが必要なのである.

 いくら我の情報機関の対外情報収集機能が優れていても,相手側の
カウンターインテリジェンス機能が強力な場合,我の情報活動が成果を
挙げることはできない.なぜならば,相手国の組織にスパイを潜入させても,
相手国のカウンターインリジェンス機関によって我のスパイ網が解明・摘発
され,逆に偽情報によって我が組織は壊滅的打撃を被ることになるからだ.
 
 したがって,各国情報機関はいずれもカウンターインテリジェンスを重視し,
そのための専門組織を持っている.カウンターインテリジェンス機能の優劣
がインテリジェンスの優劣と言っても過言ではないだろう.

▼ カウンターインテリジェンスの極意

では我が組織に対し,敵側のスパイが浸透し,我に対する情報活動を
行なっているとすればどうすればよいのだろうか?

これに対し,『孫子』はまず以下のように説く.

◇ 五間の事,主必ず之を知る.之を知るは必ず反間に在り.故に反間は
厚くせざるをべからざるなり(用間)

 反間とは,我が方に寝返ったスパイを二重スパイのことである.『孫子』では,
5つの間者のなかで反間を最も重視せよと言っている.

 なぜならば,反間の利用には,敵側の我に対する情報活動や情報関心
を探ることに加え,反間を通して偽情報を流布して敵の情報活動を混乱
させる(秘密工作),と自らの組織に潜入している敵スパイ網を解明して
排除する(カウンターインテリジェンス)の役割があるからだ.すなわち,
カウンターインテリジェンスのために反間を利用することは極めて有用なのである.

 では,実際に組織内に敵側のスパイを発見したらどうすればよいの
だろうか? 以下の句に注目してみよう.

◇間事未だ発せざるに而も先ず聞こゆれば,其の間者と告ぐる所の者と,
皆な死す(用間)

 これは「スパイを運用して行なっている我の諜報・謀略活動が,
未だ外部に発覚するはずのない段階で,他の経路から耳に入ってきた
場合,スパイとそれを伝達してきた者は,みな死刑に処する」という意味である.

 なんとも,いかなる妥協も許さない,すざましい教義であるが,これこそ
が激動の時代を生き抜くうえで体得したに組織防衛上の極意なのであろう.

 なお,欧米諸国の情報機関では,組織内の二重スパイの発見・摘発に
ポリグラフが使用されているという.

▼秘密工作への取り組み

 インテリジェンスの世界には,秘密工作(破壊工作,隠密工作)という分野
がある.秘密工作は相手の活動自体を破壊する目的を持って非公然に
行なわれる活動で,敵対国の機能発揮を妨害することが目的である.
一般的に非公然性および非合法性が強い.

 秘密工作がインテリジェンスの領域なのか,情報機関の任務であるのか
については疑問の余地もあるが,米CIAやソ連KGBが歴史的に大がかり
な秘密工作に従事してきたことは間違いない.

 日本では秘密工作を「謀略」という言葉で総称することが多い.
また,わが国では「謀略」は過分に暴力性のともなう行為であると解釈
される傾向が強い.これは,戦前の我が国の特務機関が秘密戦の一環
として,暴力性をともなう非公然,非合法な活動を展開し,これを一括して
「謀略」として説明したことが原因とみられる.

 なお陸軍参謀本部第2部第8課は謀略課と通称され,陸軍は秘密戦を
諜報,宣伝,防諜,謀略と定義し,陸軍中野学校では「諜報」「宣伝」および
「謀略」とが一体化されて教育された.

 他方,中国では古来,才能有徳の士を「君子」と尊称し,その君子が
事前に周密な計画を立てることを「謀」と言い,これを政治・軍事面で
用いた言葉が「謀略」である.

『孫子』では第1編「始計」で「謀」を「廟算」と言い,これに勝つものが
勝利すると説く.また,第3編「謀攻」においては以下の有名な句がある.

◇ 上兵は謀を伐ち,その次は交わりを伐ち,その下は城を攻めるにあり
 
 わが国は「謀略」を「ダーティな活動」と一括して忌み嫌い,「知恵の戦い」
や「戦わずして勝つ」という活動をすべてタブー視してきた.少なくとも,
宣伝や偽情報の流布などの暴力性の少ない秘密工作については,
インテリジェンス機能と積極的に捉え,インテリジェンスの研究対象とすべき
余地はあろう.
 
▼情報機関の運用

『孫子』は戦いには金を惜しんではならないとして以下のように説く.

◇ 日に千金を費やししかる後に十万の師挙がる(作戦)

◇ 爵禄百金を愛(ほし)んで敵の情を知らざる者は不人の至りなり(用間)

◇ 賞は間より厚きは莫(な)く,事は間よりも密なるはなし(用間)
 
 つまり『孫子』は,「戦争には一日で莫大な費用がかかる.こうした費用を
出し惜しみせずして,初めて十万の軍隊を動かすことができる」.
それなのに「インテリジェンスを得るためのお金を惜しんでは,結局は敗戦
を招き,支援してくれた民衆を苦しめることなる」と言っているのである.

 そして,「インテリジェンスに携わるは表に出せないし,階級を与えるわけ
にはいかないので,禄を与えよ」と言っているのである.

 諸外国は情報機関や情報要員の運用に膨大な費用をかけている.
米国の国家情報機関の予算は500億ドル以上とされる.

 現在,わが国の国家情報機関の費用に関する具体的なデータは不明
であるが,おそらくは米国とは比べようもないであろう.インテリジェンス
に従事する要員の努力に対する理解や人事処遇も十分とはいえない.

 旧軍にはおいては,明石元二郎大佐の工作活動に100万円の国家予算
を充当して自由に使わせた.明石大佐は地下組織のボスであるシリヤクス
と連携し,豊富な資金を反ロシア勢力にばら撒き,反帝勢力を扇動し,
日露戦争の勝利に貢献した.

 当時の国家予算が2億5千万であったことから,渡された工作資金は
単純計算では現在の2000億円を越える額であったとされる.明石の活動
に国家的支持が与えられていたことがうかがえる.
 
 情報機関の運用には不透明性が付き物であり,使途不明金もある.
エージェントの運用資金などの詳細は明らかにすることはできない.
使途不明金は許されないからとして,インテリジェンスにかかる経費が
切り詰められれば,「爵禄百金を愛(ほし)んで敵の情を知らざる者は不仁
の至りなり」ということになりかねない.

 インテリジェンス機関の創設や要員の育成に経費の出し惜しみは禁物
なのである.

□おわりに

 以上,3週にわたり,『孫子』からインテリジェンス関連の記述を抜粋し,
若干のコメントを加えてきましたが,読者の皆さまにおかれても『孫子』を
インテリジェンスの視点から読み直されることをお薦めします.
そうすれば,新たな発見をされること請け合いです.
 
 また,国家指導者の方々に「インテリジェンスにお金がかかる」ことを
理解していただくことも重要だと思いますが,我々個人としても国家に物を
申すための「インテリジェンス・リテラシー」を向上させるためには,ある程度
の個人出費を惜しんではならないことも,僭越ながら若手の読者の方々
に対し申し添えたいと思います.
 
 筆者は自衛隊の若手幹部の時代,先輩諸兄から「居酒屋に行くのを
一回減らして本を買って読め.借りた本では本当の知識は身につかない」
と教えられてきました.

 日清・日露を勝利に導いた明治の軍人は先進軍事学への知識欲が旺盛
であり,「月給の大半が洋書店の丸善に流れる」といわれた軍人も少なく
なかったようです.(谷光太郎『情報敗戦』217頁)

 インターネット記事が氾濫し,多くの情報を瞬時に入手することができる
ようになった一方,国家全体としての読書量が低下しているといいます.

 筆者もこれを自戒として,今年はわが国の歴史などに関する長編の通読
に挑戦したいと考えています.そして,そこから貴重な教訓が得られれば,
本メルマガを通して読者の皆さまにご紹介できればと思う次第です.

 これで,「兵法三十六計」番外編(2)は終わります.お付き合いありがとう
ございました.来週はお休みをいただき,再来週より第13計「打草驚蛇」から
6週連続で解説します.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.3.8





【短期連載】 外人部隊の真実 

日本人が入隊することで部隊にプラスになる─外人部隊の真実(9)

 元上級伍長 合田洋樹
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「軍事情報」読者の皆様へ

拙著「外人部隊125の真実」に多数のご注文をいただき,
まことにありがとうございました.
事前の反応も上々で,精魂込めた甲斐がありました.

なお,初版の印税は,外人部隊の養護院「ピュルビエ」に全額寄付する
つもりです.ご購入していただいた皆様には,本書に出てくる「元外人部隊兵
のための養護院」の運営に間接的に関わったと思っていただけたら幸いです.

養護院「ピュルビエ」のことは,こんごメルマガでも紹介するつもりです.

(合田洋樹)


 拙著『外人部隊125の真実』が書店でもようやく発売され,
うれしい便りが届き始めています.このメルマガも今回を含めて
あと4回.もうしばらくお付き合いください.

 今回は日本人が多く入隊すると,外人部隊にどのようなメリット
が出てくるのか書いてみます.長く在隊している日本人部隊兵の
大半は,非常に規律正しく,責任感を持って仕事にあたり,問題
を起こすことはほとんどありません.

 これは日本人部隊兵全般に当てはまることですが,他国出身の
部隊兵よりも非常に真面目に勤務しています.もちろん脱走兵
は除きますが.

 日本人部隊兵の特長として,兵卒でありながらも非常に責任感
が強いことでしょう.他国出身の部隊兵でも,軍曹以上になると
多くの部下を持つことになるので,自然と責任感を持って仕事に
当たるようになります.しかし,兵卒の中で日本人ほど責任感の
強い部隊兵ほとんど見受けられません.

 多くの日本人は志願した時から,除隊するまで,真面目に勤務
するのです.やはり日本人は根が真面目なのでしょう.

 まれに日本人が問題を起こすこともありますが,それはアルコール
に起因することが大半です.ちなみに酔っ払って部隊兵どうしで
喧嘩することは「外人部隊兵らしい」ということで,あまり大きな問題
にされません.もちろん何度も同じことをすれば,部隊側も何らかの
対策を講じることとなります.

 最近の傾向として,他国の部隊兵の中に無責任な者が増えたよう
に思います.その背景には体罰が禁止されていることがあると
思います.私がまだ新兵だった頃は「ヘマをしたら殴られる」,これが
皆の頭の中にあったので,無責任な行動をとる者はほとんどいません
でした.しかし今は体罰はご法度で,ヘマをしても殴られることは
ほとんどなくなりました.それが無責任な部隊兵を生み出す一因に
なっているのは間違いありません.


▼日本人が入隊することで部隊にプラスになる

 第2外人落下傘連隊には現在,15名ほどの日本人が勤務しているが,
彼らの働きぶりを見ていると感心させられる.

 後方支援中隊に上級伍長として勤務しているMさんは,私の入隊
以来の友人だ.私より認識番号が1つだけ古く,1日だけ先輩である.
Mさんは仕事が生きがいのような人で,責任感の塊で,俗物的な考え
をいっさい持たない.自分のことは後回しで,まず仲間のことを優先する.
「大事な仕事を任されている」という強い責任感から,すべての仕事を
完璧にこなす.私が最も信頼する仲間の1人だ.

 叩き上げの幹部(元3尉,少尉)として,自衛隊で,16年勤務した
松下さんも連隊では知られた日本人だ.はじめは戦闘中隊にいたが,
「ここでは自分の時間を持てない.後方支援中隊に移って勉強時間に
あてたい」との希望で同中隊に配属された.

 松下さんも仕事に対する責任感が非常に強い.元自衛隊の幹部で
あったから,一部のバカで年下の伍長から命令されるのはストレスの
はずだが,すべてを受け入れ,日々の業務を精一杯こなしている.

 そういった彼らの様子を上級伍長以上の上官はしっかりと見ている.
「ゴーダ,マツシタはよく働いてくれるぞ,ボン・メック(いいヤツだ)!」と
何度も言われた.日本人が褒められるのはいつ聞いてもうれしいものだ.

 2人とも上官から絶大な信頼を寄せられている.兵卒でありながらも
彼らのように責任感の強い部隊兵は,他国の出身者にはあまり見られない.

 それまで,豊かな日本で生活し,なんの覚悟もなく志願して,簡単に
脱落する日本人が他国から必死の覚悟でやってくる志願者の居場所
を奪っていると思っていた.しかし必ずしもそうではなく,むしろ東欧や
発展途上国から来る連中は明らかに勤勉さにかけ,入隊した時点で安心
して慢心してしまい,部隊に対する恩義を忘れて不平を言うようになる.

 一方,部隊にちゃんと残っている日本人は愚痴の一つもないわけでは
ないが,他国の出身者よりもはるかに規律正しく,真面目に勤務している.
部隊兵の規律がゆるんできた今,外人部隊に必要なのは彼らのような
模範的な部隊兵だと思う.

 真面目な日本人志願者が入隊すればするほど,他国の不真面目な
志願者は,自然に淘汰され,部隊側としてもプラスになることは多いと
信じている.もちろん脱落しないことが前提であるが.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.3.9





『補給を支えた技術者たち──日本陸軍の兵站戦(14)

                 荒木 肇

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□ご挨拶

 各地から梅の便りが届いています.すっかり春らしくなりました.
来週には,あの東日本大震災から5年になる日がやってきます.
犠牲になった方々には心からご冥福をお祈りし,その残された
ご親族,親しい方をなくされた皆様に,心からお見舞いを申し上げます.

 現場に行かれた自衛隊員の皆さんからのお便りを読みながら,
何度も胸がせまり,苦しい思いもいたしました.何より,以前,
ご縁があった隊員の方や,そのご家族の訃報も届き,心が挫けそう
にもなりました.それでも,なぜ隊員は頑張れたか,皆さんからの
教えを受けながら書きあげた拙著『東日本大震災と自衛隊』
(並木書房)がその答えの一部になると思っています.

□おたずねに答えて

 A様,毎週,ご愛読ありがとうございます.また,兵站についての
ご質問にも感心させていただきました.毎回,皆様からのお励まし
の言葉や,こうしたお尋ねがあるたびに元気が出ています.

 さて,兵站監というポストですが,師団や旅団が戦時編制に
よって軍になったことはご存じだと思います.これを戦闘序列といい,
編組されるともいいました.兵站はその野戦軍ごとに設けられました.

輜重,これは物を運ぶことですが,兵站という概念はそれだけでは
ありません.物資の調達・管理・搬送・配送などの拠点の維持,
船舶や鉄道などの輸送手段,通信連絡網,それらに必要な設備・機材,
それにこれらを運用する人の組織,こうした補給の物流システム全体
を兵站と呼びました.

 野戦軍の兵站組織の長となる補職を「兵站監」といいました.
軍ごとの責任分担のエリアを「軍兵站管区」といいます.その中には
最前線の部隊にまで人体の血管のように物流の流れ,ラインがあり,
各所に兵站地が置かれます.兵站地区司令部・同支部・同出張所
などになり,ご質問の「兵站司令官」とは,兵站地区司令部の長で
ありましょう.また,兵站監の下にはスタッフとしての参謀がおりました.

注意すべきは師団司令部の中に,のちに補職されるようになった
「後方参謀」との違いです.


▼工長たち

 造兵技術に従った技術下士はそれぞれの専門を持っていた.
いくら西欧から機械を輸入し,知識を習得した将校がいても,それだけで
戦場で使える装備を生産することは不可能だった.
しかも生産現場では管理業務を行ない,部隊においては簡単な修理
などを企画・実行できる技能者の養成は簡単にはできはしなかった.
そのため,陸軍は建軍当初から中下級技術者養成のための学校を作り,
着々と近代軍隊の基礎を用意してきたのだった.その卒業生は,砲兵の
中に合算された火工を除いては,准士官225,銃工長342,木工長136,
鍛工長154,鞍工長123の合計980人にものぼった.

 1885(明治18)年の「砲兵工廠生徒学舎規則」によると,生徒の募集
は火工,鞍工,銃工,木工,鍛工の五工科である.修業年限は火工が2年,
ほかは3年だった.年齢は18歳から25歳まで,身長が5尺(151.5センチ),
興味深いのは体質という項目があり,「強壮,就中(なかんずく)銃木鍛工
は膂力(りょりょく)最強き者」という注記があることだ.学科は読書・作文・算術
である.この年の定員表を見ると,学舎長は大尉,副長が中(少)尉,
監護(曹長相当の技術下士)1,曹長1,1・2等軍曹2,これに相当する
火工下長や鞍工,銃工,木工,鍛工下長たちが8名に生徒150名である.
ほかに判任文官の算学教官が3,図画学教官が4名いる.

 この受験科目に読書・作文があることが注目される.すでに多くの教育用
文献が日本語訳されていることが想像できる.ところが,この日本語の
多くに難解な漢語が多く使われていたのだろう.当時の中等学校卒業者
を想定した士官候補生の受験でも,漢文が必須項目だった.高等教育
の受験に英語が重視されたように,技術下士官には漢語を理解できる
人材を必要としていたのである.

 1890(明治23)年になると,「砲兵工科学舎」となり,生徒の応募資格者
が限定された.「火工科は砲兵隊上等兵中志願の者を選抜分遣して学生
となし,卒業後に火工下士となる者」となった.なた,卒業後には原隊に
復帰し,さらに3年間の現役服務をし,欠員あるごとに火工2等軍曹(伍長)
に任ずることになった.ほかの専攻者は卒業後に全員が下長(下士相当)
となるが,この生徒志願者も兵卒からの志願の受験資格は現役兵としての
服務を6カ月以上経過した者と限られた.25年には火工学生志願者は
現役20カ月以上の者とされ,原隊復帰後の3年間現役は廃止された.
この年には火工学生44名,諸工生徒100名だった.

 日清戦争後の1896(明治29)年,砲兵工科学校は大騒ぎになった.
100名の募集に対し,応募はわずかに44名,うち合格者は26名だった
からだ.火工学生は砲兵隊上等兵で現役20カ月以上服務者から,ほかの
諸工は現役6カ月以上の者からとし,民間からの受験を停止した結果である.
あわてて東京・大阪で再募集し,どうやら定員を満たしたらしい.このことは
当時も今も変わらない,軍隊の人気と景気に関係がある.日清戦争後は
資本主義がさらに進んだ時代だった.世間は好景気,軍隊になど入るという
気分がひどく下がった時代である.また,上等兵になれたような人物は,
十分に社会で活躍できる人材だった.陸軍は現役下士官の募集にもひどく
苦労した時代である.

 1899(明治32)年には,階級呼称も火工長,火工下長といった独特の
ものから砲兵曹長・同軍曹・同伍長となった.同時に火工学生も砲兵隊
の長期下士から学校へ分遣し,1年間の教育を終えて原隊に復帰,
火工掛下士になるようにした.

 長期下士というのも陸軍現役下士官養成の苦肉の策だった.長期下士
とは現役下士を志願した者をいい,定年まで服役した.短期下士とは上等兵
の中から選抜し3年目には伍長にして,除隊時に予備役伍長にする制度
だった.ただし,この制度は長く続かなかった.日露戦後には上等兵から
志願して受験入学した者もいたという.これも日露戦後の不況の影響で,
現役下士への就職志望が増えたからだろう.

▼野戦兵器廠に応召した下士

 東京市下蒲田近郊から稲垣砲兵曹長は応召した.行先は近衛師団
野戦兵器廠である.1904(明治37)年2月8日のことだった.同日に
兵器廠火工掛になった.15日には動員が完結し,24日午前3時には
宿舎を出て,大塚火薬庫から品川駅まで弾薬その他を運ぶ.30年式小銃弾,
31年式速射野砲榴弾,同榴霰弾,黄色火薬,工兵用具,爆管,信管など
である.午後11時11分,品川駅を出発した.

 26日の午前5時,大阪梅田駅に到着.ここまで,およそ30時間かかっている.
午後5時に岡山駅に着き,3時間の休息があった.27日の午後7時,
宇品停車場(広島)に到着し,およそ600メートル離れた倉庫に弾薬資材
を運び込んだ.宿舎までおよそ1里を歩いた.民家宿泊である.翌日は休養.
1日は師団兵站監の武装検査が行なわれた.広島東練兵場で整列し,
検査を受けた.2日には広島兵器支廠に村田銃実包を受領に出張,
支廠長は学生時代の教官(砲兵少佐)だったので挨拶.2万6000発あまり
の実包は支廠の倉庫内に預けて帰る.

 3日は東京兵器廠から第1軍司令部あての工兵用黄色火薬34箱を
受け取り,支廠の火薬庫に預ける.角形,丸形の黄色火薬数千個と
雷管1000個,導火索400束,電勢信管300個などである.6日も
村田銃実包受領に支廠に出張.7日には忙しい思いをする.速射野砲用
の薬莢爆管のうち不発火の不良品が出た.宇品の倉庫に爆管の
製造年月を調べに午前7時から午後5時まで出かける.9日には30年式
薬莢の爆管不発があり,これも製造年月調査のために宇品倉庫に出張.
10日はいよいよ貨物船に積み込みをするために,近衛野戦兵器廠の
保有する「弾薬・火具の箱」の立法尺(体積を測った)を報告する.

 11日には広島市内で現役時代の同僚たちと懇親会をした.
そこで玉川村(現川崎市内)の田中軍曹と出会う.「輜重服」を着ていたので,
会ってすぐに誰かわからなかった.聞けば輜重監視隊だという.輜重服
とは騎兵のようにサーベルをさげ,乗馬長靴を履いている服装を指した.
当時の仲間の大崎,前田の両軍曹とも輜重監視隊にいるという.この隊
は輸卒で編成された兵站輸送隊の護衛や監督を行なう戦闘部隊である.
全員が乗馬し,主に予備役兵科下士,同上等兵が応召していた.

 15日にはいよいよ支廠から荷馬車9輌で,預けていた弾薬を宇品に運ぶ.
午前11時30分に人夫(にんぷ)代用の輸卒40名を使って艀(はしけ・小型船)
で本船に積み込む.すでに民間人の仲士と呼ばれた人夫は不足していた
ことがわかる.

 16日は朝から雨が降り,午前7時に全員本部前に背嚢を背負い集合,
宇品まで1里半(6キロ)を行軍した.ところがいっしょに乗るはずの弾薬縦列
の馬も搭載が終わっていない.応援を出す.11時にようやく全員が乗船した.
 
 17日,午後1時宇品港を出港する.兵器廠長は砲兵少佐,将校2名,
准士官3名,上等工長・下士13名,兵卒28名,代用工長6名である.
代用工長とは技術下士の扱いを受ける雇いの民間人である.

▼鎮南浦(ちんなんぽ)に上陸した野戦兵器廠

 24日,朝鮮半島の付け根にあたる補給の拠点,鎮南浦に到着する.
稲垣曹長は先頭に上陸し,弾薬置き場を選定した.弾薬をまずそこに集積
する.27日には兵器と諸材料を陸揚げした.翌日,兵器廠が全部上陸し,
弾薬庫を移した.29日には各工具の手入れを行なった.30日は倉庫内
の整頓を行ない,担任業務割を発表する.

・平沢上等工長 
 武器出納簿の作成管理,弾薬の出納,新調・修理・交換の区分,
取り扱い材料と消耗品の授受,新調あるいは修理を終えた物品の
取り扱い,工場の巡視,器具材料出納簿,輜重器具材料の出納簿の
作成管理.

・青木上等工長 
 工場監視,工場日記,武器新調修理簿,輜重兵器具材料簿,修理簿
の作成管理.各工場でなされた修理,新調の物品の一覧表など.

・吉田上等工長
 歩工兵器具材料出納簿,歩兵器具材料出納簿.

・稲垣砲兵曹長
 武器弾薬器具材料出納とその貯蔵所での格納保存配置と危害を受ける
ことの予防等に関する件.

・田村,高橋軍曹
 信管の装着,弾薬箱に弾薬の填実と武器器具等の清拭を管掌(兵器出納簿
の助手).

 ほかに各工長たちはいずれも倉庫主任を命じられた.銃工,鋳工,木工,
鞍工の4つの倉庫である.また,1名の砲兵軍曹は歩工兵器具を扱った.
ほかに庶務掛3名,亀田計手(経理部下士)は経理業務にあたり,
砲兵伍長1名はその助手を務めた.
 
 このように,師団全部の弾薬や火薬,輜重器具材料,たとえば駄載用の
鞍,輓曵用の荷車から始まり,各種兵器材料のすべてを扱い,修理も行なう
のが野戦兵器廠である.輸送の仕事もあった.村田連発銃実包8万4000発
を平壌城内の兵站監部に水路を使って送れという命令が来る.曹長は軍曹1名
と輜重兵1名を連れて,兵站部から指定された韓船(傭船契約を結んだ)に
弾薬を積み込んで,輜重車15輌分の荷を運んでいる.

 4月7日には門司野戦兵器本廠から届けられた野砲砲弾爆管365個と
薬莢蓋730個,点火薬包365包を倉庫から受領する.その他木工場では
重砲の車輛修理,鋳工場では針金を曲げ,焼き入れをしている.野戦電信
の電柱を造るために杉材を4間(約7メートル)の長さに切り,頭部を削って
成形していた.

 軍隊は何でも自分で作る.組織の運営も含めてこれを自己完結機能
というが,命令を受けた個々人の能力や意欲がその裏付けをなしている.
稲垣曹長は「合信火箭(ごうしんかせん)」の作成者を命じられた.信号用
のロケット花火のようなものだろう.『何一ツトシ機械無ク又之レニ要スル
要品モマトマラズ』というのが稲垣曹長の原文である.とにかく,竹を使おう
ということで設計し,第2師団,第12師団の火工掛の指揮下に入って
作り上げた.

▼後方勤務員は何を食べていたか

 8月8日の記載に兵站部倉庫から受け取った3日分の食糧がある.
精米が1升8合,つまり1日あたり6合(900グラム)である.以下,1日1人
当たりの数量を写してみよう.粉味噌5匁(約19グラム),エキス5匁(乾燥
粉末醤油),乾物20匁(75グラム・大根の切干),砂糖3匁(11グラム),
塩乾物30匁(110グラム・イワシの干しか),福神漬け10匁(38グラム),
茶1匁(4グラム)という実態である.まさに主食は白米で贅沢そのもの,
副菜はひどくお粗末といったところだった.

 ほかにも支給された品目が書かれている.牛肉缶詰が100匁(375グラム)
とあり,39人の3日分だという.ほかに340匁(1275グラム)の牛のテール(尾)
の乾物.これらが精米1人当たり1日6合とともに渡されていた.さすがに食事
に文句をいうものが多く,将校や下士の命で周辺の民家からニワトリや豚など
を買い,工夫していた.後方地域であればこそ現地の住民がいて,物々交換
や,金で食糧を買うこともできたことが分かる.ところが,これが前線となる
とそうはいかなかった.

 次回はいよいよ「脚気(かっけ)」について調べよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.3.9





『ライター・渡邉陽子のコラム (85) ─ 自衛隊海外派遣の歩み(15) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.東日本大震災から5年が経ちますね.

私は東北在住ではありませんが,友人は失いました.計画停電に
振り回されましたし,原発についての政府の発表がまるで信じられず
本当に怖かったし,スーパーマーケットの棚から商品が消えた姿も,
ガソリンスタンドに長蛇の列をなす車も目の当たりにしました.

何度もある余震も,深夜でも関係なく鳴る緊急地震速報も怖かった.
紙が不足して雑誌の増刊号が出せず仕事がキャンセルになったり,
予定されていた自衛隊の部隊取材が中止になったりもしました.
いま私が一緒に暮らしている猫は,浪江町に取り残されて1年間
放浪したのちにボランティアに救出された猫です.どのくらい被爆
したのかは不明です.もとの飼い主さんは5年経っても見つかって
いません(見つかってももうお返しすることはできませんが…).
私にとって東日本大震災は,終わった出来事ではありません.

震災から1年が経つ頃に九州へ行って現地の友人に会ったとき,
津波や原発の被害は自分とは無縁のことであり,まったく関係ない
こととして忘れ去られていることに衝撃を受けました.というより,
その人にとってはそもそも,いつまでも気にしているような出来事
ではなかったのです.2012年3月11日の名古屋である場所でも,
地震発生の時間に黙とうを呼びかけたアナウンスに,誰も反応
しなかったと聞きました.

「関係ないこと」に興味や関心を持てと言っても難しいのは当然です.
だから「関係ない」と思わないようにすることから始めないといけない
のだと,震災を通じて改めて感じました.おそらくこの世に,自分に
「関係ない」ことなどない.すべてはどこかでつながっている,
そう思うのです.




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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■自衛隊海外派遣の歩み(15)

「自衛隊海外派遣の歩み」は来週が最終回です.
今週,来週の2回は,現在活動中の取り組みについてご紹介します.

●南スーダン国際平和協力業務(PKO)
スーダン南部が独立前は,スーダン政府(イスラム教・アラブ系)と
スーダン人民解放運動・軍(キリスト教・アフリカ系)の対立が
長年にわたり続いていました.犠牲者の数は約200万人とも言われています.

2005年1月,両者はCPA(南北包括和平合意)に署名,ようやく紛争
は終結.
同年3月,CPA履行支援等を任務とする国連スーダン・ミッション(UNMIS)
が設立され,日本は2008年10月以降,UNMIS司令部要員として
自衛官2名を派遣していました.


2011年7月の南スーダン独立に伴い,UNMISがその任務を終了する
一方,新たに国際連合南スーダン共和国ミッション(UNMISS)が設立されます.
日本は国連事務総長からの協力要請に基づき,同年11月より司令部
要員2名(兵站幕僚および情報幕僚)を派遣,2012年1月には施設部隊等
を派遣しました.

派遣部隊は,自衛隊の得意分野を活かしたインフラ整備などにより,
南スーダンの自立的発展に寄与することが期待されていて,
国連施設の整備や道路補修,国際機関の敷地整備等の施設活動を
実施する中で,ODAやNGOなどとも連携しています.
同年4月から国連施設外での活動を開始,翌月には活動地域拡大に
関する自衛隊行動命令が発出され,派遣施設隊の活動地域は東および
西エクアトリア州にも拡大されました.


ところが12月以降,南スーダンにおける治安情勢が悪化.以来,派遣施設隊
はジュバの国連施設内で,避難民の支援として,避難民保護区域の敷地造成
などを実施しています.

覚えていらっしゃいますか? 2013年12月,南スーダンの治安情勢が急速
に悪化するなか,要請を受けた自衛隊が韓国軍へ弾薬を譲渡するという
出来事もありました.孤立無援になった韓国軍に,同じ現場に携わる立場として
可能な範囲で力になりたいと思う,派遣部隊指揮官の判断でした.残念ながら,
というか当然ながらそこに政治が絡み,韓国側は「頼んだ覚えはない」と言いはじめ,
翌月には貸したわけではなくあげたはずの弾薬が返却されました.個人的には
かなりむかっとしましたが,おそらく現場レベルでは心が通じ合っていたのでは
とも思います.だから韓国軍の指揮官も,この顛末につらい思いをしたのではないかと.


現在は第10師団を基幹とした第9次要員約350名が派遣されています.
第9次要員は今年5〜6月まで首都ジュバ周辺で道路整備などにあたっており,
昨年制定された安全保障関連法に基づく「駆け付け警護」の新任務は付与
されていません.


スーダンPKOは2016年2月末に期限を迎えましたが,さらに8か月間延長される
ことが決まりました.その際に安倍首相は,駆け付け警護などの任務拡大の検討
をすると言いました.
次に派遣される第10次要員は,すでに新たな任務に備えた訓練を行なっている
かもしれません.


次回はソマリア沖・アデン湾における海賊対処と,最後に,安全保障関連法成立
によって自衛隊の海外派遣がどう変わるのかをご紹介してフィニッシュです.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.3.10





【短期連載】 外人部隊の真実 

外人部隊の裏が見える警務課での経験ー外人部隊の真実(10)


 元上級伍長 合田洋樹
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「軍事情報」読者の皆様へ

拙著「外人部隊125の真実」に多数のご注文をいただき,
まことにありがとうございました.
事前の反応も上々で,精魂込めた甲斐がありました.

なお,初版の印税は,外人部隊の養護院「ピュルビエ」に全額寄付する
つもりです.ご購入していただいた皆様には,本書に出てくる「元外人部隊兵
のための養護院」の運営に間接的に関わったと思っていただけたら幸いです.

養護院「ピュルビエ」のことは,こんごメルマガでも紹介するつもりです.

(合田洋樹)


 今回は私が5年半在籍した警務課(いわゆるミリタリーポリス)に
ついて書きます.自衛隊の「警務隊」に近い部署ですが,逮捕権は
ありません.しかし部隊内で起きた問題の解決のために,独自で
内部調査をしたり,入隊以前に問題を起こした部隊兵が,同じような
問題を起こさないように監視し,未然に防ぐ努力をしています.

 また部隊兵に対し,規律を順守させる重要な役割を担っています.
規律のない外人部隊は「危険な暴力集団」となってしまうからです.

 警務課や警務部(通称“ゲシュタポ”)は,一般の部隊兵が決して
知ることのない各部隊兵の「本当の過去」を知れる特殊な部署でも
あります.警務課は,オバーニュの警務部を上級部署としています.
お互いに緊密に連絡を取りあい,部隊兵が起こした問題の解決に
あたるのです.

 一部の部隊兵にとり,過去の知られたくない事情を知っている
警務課の存在はきっと疎(うと)ましかったでしょう.

 警務課の仕事は長い在隊期間中,最もストレスを感じる部署でした.
部隊兵に規律を遵守させる部署なので,部隊兵からは嫌われます.
それがわかっていながらも,彼らの抱えているトラブルを解決する仕事
をしなければならなかったのです.相手からは嫌われても,こちらは
彼らの知らないところで,彼らのために働いていたのです.

「アラ探しをしている」と思われているミリタリーポリスは,どこの国の
軍隊でもよく思われてはいないでしょうが,いまではこの部署に勤務
できたことに,非常に感謝しています.警務課で約5年半勤務したから
こそ,より深く外人部隊のことを理解できるようになったのですから.

▼外人部隊の裏が見える警務課での経験

 私は11年ほど裏方の事務職を務めた.そこで外人部隊がいかに
懐の深い組織であるか,身をもって知ることができた.とくにそのうち
の5年半を過ごしたOPSR(連隊付き警務課)で得られた経験は,
部隊を深く理解するうえで非常に得がたいものであった.

 この警務課は各連隊に存在し,第1連隊の警務部が上部組織と
なる.連隊内で起きた問題は逐一,警務部に報告し,互いに情報を
共有しながら解決策を練っていく.

 各連隊の警務課は,叩き上げの中尉または大尉が責任者で,
それを補佐する古株の曹長以上の下士官1名,彼らが作成した書類等
を仕分ける上級伍長2名で構成されている.名目上は副連隊長が
警務課のトップであるが,ほとんどの事案は実質上の責任者である
中尉または大尉によって処理される.

 落下傘連隊では,この警務課を畏怖を込めてB2(ベードゥ)と呼ぶ.
私がここでやっていたのは個人情報の管理である.

 さらに警務課の責任者から直接命令を受けて行動する
PLE(Patrouille de la L?gion Etrang?re:外人部隊パトロール隊)
がある.過去にはPM(Police Militaire:ポリスミリテール)と呼ばれ
ていたが,「ポリスという言葉が強すぎる」という意見が一部にあり
(外人部隊が嫌いな人たちだろう),現在では「パトロール(Patrouille)」
というように改名された.

 このPLEは曹長または上級軍曹をリーダーに,5,6名の上級伍長
がパトロールリーダーを務め,常時4,5名の伍長が彼らをサポート
するため詰め所に待機している.状況に応じてPLEは増員される.

 第2落下傘連隊では,事務方を担当する部署と行動部隊のPLEは
同じ警務課であるが,厳密には別の組織である.事務方は個人情報を
扱うので,PLEのリーダー以外は基本的にアクセスできないことに
なっている.このあたりは各連隊によって規則が異なる.

 部隊兵の中にいる身元が不確かな者,問題を抱えている者,
素行の怪しい者などに目を光らせるのも警務課の仕事だ.

 また海外休暇申請をはじめ,フランス国籍への帰化,機密情報
取り扱い資格,CBC,特技課程申し込み等々の申請が各中隊付き
事務所から送られてくる.それらを個人ごとに入隊以前に起こした
問題,現在の勤務評定をチェックし,オバーニュの警務部に最終決定
を仰ぎ,申請書に対して「ウイかノン」を出すのも大きな役割だ.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.3.16





日露戦争の将兵は何を食べていたか?─またしても脚気の惨害─
 日本陸軍の兵站戦(15)

                 荒木 肇

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□はじめに

 5回目の3.11がやってきました.東日本大震災からもう5年経ちます.
犠牲になられた方々に心やすらかにお眠りくださることをお祈りいたします.
また,ご遺族の方々,復興途上,原発事故等で避難生活をお続けの
方々には満腔のお悔やみと応援する気持ちを捧げます.

 読者の方々はご存じでしょうか.わたしは拙著『被害日本大震災と自衛隊』
の取材に現地を訪れ,また多くの隊員の方々からお話を伺いました.親しい
友人の映画プロデューサーの方から,貴重なお話を聞きました.盲点だった
と私自身も反省しました.

 被災地で最も足りず緊急性を要求されたのは何だったか? 子供用の
紙おむつと女性の生理用品だったそうです.ところが,ボールペン1本の購入
までも予算で決められているのが国家の組織です.隊員が使う文書の罫紙,
掃除用の箒,はては食堂の紙ナプキンも認められた予算の執行になります.

 子供用の紙おむつ,生理用品への支出を会計検査院から認めてもらえる
のでしょうか.それは無理でした.問い合わせに対して,満18歳以上の男性
が多く所属する自衛隊に紙おむつの支給は認めないという回答が来たそうです.
災害派遣で国民の最後の砦だと大声で叫ぶ政治家はいましたが,誰も心から
の関心を持たなかったのでしょう.「何とかしろ!」と怒鳴りまくる首相や閣僚
はいても,現場の兵站の実情については何も理解していなかったのです.

 助けてくれたのはアメリカ軍でした.米軍はその話をするとすぐに,
厚木基地のスーパーマーケットから調達し,ありったけの紙おむつをただちに
ヘリ搭載護衛艦に運んでくれたのです.おかげで護衛艦から飛び立った
ヘリは紙おむつを被災者のもとに運ぶことができました.

 私たちは平時の生活に慣れてきました.私たちの平和と安定は,
実は突然の,たいていが不条理といっていい災害(戦争も含む)によって簡単
に覆されるものです.3月11日の朝も,まさか誰も赤ちゃんの紙おむつや
生理用品が手に入らない事態が起きるとは誰も考えてはいなかったことでしょう.
あれから5年,役所も私たちもどれほど変わったことでしょうか.「戦争法」が
作られるそうです(笑).米軍の基地は要らないそうです.徴兵制も布かれ
るかも知れないそうです.そういう愚かな,まるで現実味のない考えを口に
する方々はこうした事実を想像したことがあるのでしょうか.
 
 突然の非常事態への備えはされているのでしょうか? 暗澹たる思い
になるのはわたしだけではないと信じています.

□お便りを下さったA様へ

 またまたご丁寧なお返事をありがとうございました.御曽祖父様が
後備砲兵大尉として応召され,兵站司令官になられたとのこと.なるほど,
まず補助輸卒隊の指揮官,つづいて兵站勤務ということだったのですね.
ありがとうございました.これから順々に,後世の基本となった日露戦争の
兵站の事情について書いていきます.少しでもお役に立てればいいと思います.
これからも御愛読,お願いいたします.


▼「酔っぱらう日本兵」という誤報

 旅順要塞を攻撃中の第3軍に従軍した英国人記者は驚いた.攻囲軍の兵卒
が昼日中から千鳥足で歩いているのだ.よろめき,なかにはしゃがみ,
腰を落として,がっくり首を落としてという様子で休む姿が目についた.膝に力
が入っていない.まるで酔っ払いの行動そっくりだった.将校も下士も,それを
見とがめないどころか,下士までもふらつく者がいる.「べトン(コンクリート)に
血を投げつけるような激戦の恐怖を日本兵は酒で紛らわせているのだ」と考えて
無理はない.彼ら西欧人にとって脚気(かっけ)はよほどの専門家を除いて
聞いたことも,見たこともないアジアの米食地域だけの「風土病」だったからだ.

 脚気という病はすでに奈良時代から存在していた.もともとは紀元前3世紀,
古代中国で米食の広がりと同時に発生していたと医学史の研究者はいう.
わが国でも奈良時代には上流階級の中に患者がいたことが確認できる.
白米を常食とし,仏教思想の影響で貧しい副食を摂るようになってからのこと
である.平安時代の文学書からも「キヤクキ」「アシノケのぼる」「カクビヤウ
いたはりて」などという記述があることが確認される.

 鎌倉時代,この病気は上層階級,天皇家の人々や公卿たちに罹患者が
多かった.それが,室町期になると将軍家や上層の幕臣たちに広がっていった.
江戸期になると,まず徳川幕府の上層部に病気は発生する.三代将軍家光
の死因は,おそらく脚気による「衝心(急性心臓麻痺)」に違いないという研究
もある.この後,徳川将軍家では13代家定,14代家茂も脚気衝心で亡くなって
いる.皇女和宮も夫と同じく,明治の初めに脚気で夫の後を追ったことはよく
知られていることだ.

 一般の階層にも脚気は広がっていった.富裕な町人や都市に住む上級武士
がまず患者になった.元禄時代(18世紀初頭)にはすでに流行し,幕末の
文化・文政時代(19世紀初めころ)には地方都市でも広まっていた.しかし,
爆発的なともいえる罹患者が増えたのは,皮肉なことに文明開化の明治からだった.

 脚気は神経障害(感覚が鈍くなる)や筋肉障害(力が入らない)から始まる.
循環器障害(心臓の障害),水腫(むくみ),胃腸障害を併発しながら最後には
心臓麻痺を起こして死亡する.初めは脚が重くなる.続いて動きが悪くなり,
膝に力が入りにくくなる.浮腫(むくみ)が起こり,食欲がなくなる.心臓の動悸
が高まり,動くと息切れがする.

 筆者が子供のころ,昭和30年代(1960年前後)にも内科医はゴム製の
検査器具を使っていた.椅子に腰かけさせて,脚をぶらぶら脱力させ,膝の下
を叩くのだ.反射でつま先がピンと上がれば脚気の疑いは晴れた.それが
いつの間にか行なわれなくなり,脚気などという病気はすっかり忘れられて
しまった.社会全体が豊かになり,食生活が向上し,多様な食物を誰もが
口にするようになったからである.
 
 驚いたことに数年前の新聞記事に脚気の記事が載った.アルバイトに夢中
になっていた大学生が病院を訪れた.症状は脚の感覚が鈍くなり,食欲が減退し,
動悸がして,脚がむくむというものだった.医者たちは困惑した.そんな訴えは
長い間,聞いたこともない.古い医学書を見ていた大学病院の医師は,「さては」
と気がついたという.コンビニ弁当やカップ食品が中心の食生活にひたっていた
若者の病名は『江戸わずらい』だったのだ.
 
 ビタミンという微量栄養素は20世紀になって発見された.『江戸わずらい』と
いわれた脚気はビタミンB1の欠乏が原因だった.健康だった地方の若者が
江戸に出てくる.しばらくすると脚気になる.故郷に帰った者だけは健康を回復した.
おそらく都会の生活環境が問題だと考えられた.目に見えないものは,人にとって
は存在しない.栄養バランスという考え方もなく,白米を腹いっぱい食べることが
贅沢だとされた時代は長く続いた.
 
 江戸時代になると,都会の食事では毎日が精白された白米が主流だった.
江戸の町には搗米屋(つきごめや)という店があった.送られてきた玄米を,臼で
精白する商売である.地方にいては食べられない白米を食べられる.
それが江戸時代の,大坂や江戸ではふつうになっていった.
 
 おかずは白米を多く食べられる塩辛い漬物や,具のない味噌汁,せいぜい干物
の魚,野菜の煮つけなどだった.こうした貧しい副食では,ビタミンが不足して脚気が
起きても不思議ではなかった.現在のような時代でも,腹をふくらませればそれで
足りるといった食事をしていれば,確実に脚気は忍び寄ってくる.

▼西南戦争で起きた脚気

 熊本城は反政府軍に包囲された.陸上自衛隊第8師団修親会が研究した
『西南戦争史』によると,明治10(1877)年2月21日から4月14日までの戦闘で,
籠城した軍人などは約4500名,そのうち2460名が戦闘死傷者となっている.
半分以上が負傷し亡くなった.大変な激戦だったことが分かる.

 病死者も出た.コレラ21名,腸チフス13名,脚気7名,赤痢・痘瘡いずれも
5名,各種発熱による者も5名,胃カタル4名,腸カタル3名,自殺は3名である.
その他も合わせて75名だった.脚気の死亡率は,もともとたいへん低い.
およそ1〜2%だから,脚気の死者が7名ということは,罹患者は100倍も
いたのだろう.700人から1400人が患者なら,籠城軍全体のざっと16%から
32%の人間が脚気症状を訴えていたわけだ.

 この時の鎮台会計部の記録を見ると,籠城戦最末期を除いて毎日1人あたり
6合(900グラム)ないし7合(1050グラム)の白米を支給している.おかずは
塩,味噌,たまに干魚という.これではビタミン不足の脚気が出ても少しもおかしく
ない.では城外の野戦軍はどうかというと,大繃帯所といわれる野戦病院に収容
された患者の第1位はやはり脚気.後方の軍団病院でも脚気患者が最も多かった.
 
 脚気の死者は正確な統計が残っている明治末期から調べると,全国では毎年
1万から3万人にのぼっているという(乳幼児脚気を推定で含む).腸チフス,赤痢
という当時の致死性が高い伝染病の死者がそれぞれ6000〜7000人だから,
脚気は十分に死病といえたのだ.そして,死亡率が1%から2%だから,実際の
患者数はたいへんな数にのぼっていたわけだ.しかも,脚気は不思議と青壮年の
男性に多く発生した.このことは労働力を奪い,家庭の働き手を失わせ,国民生活
に大きな影を落としていた.

▼目に見えない大敵

 1882(明治15)年7月,朝鮮の壬午(じんご)軍乱で仁川湾(済物浦・さいもっぽ)
に進出した軍艦金剛,日進,比叡,清輝は清国軍艦と睨み合っていた.40日余りの
緊迫した事態が続いたが,金剛,比叡の両艦では,その間,乗組兵員の3分の1以上
が脚気に倒れた.他の2艦も大差ない状態だった.戦闘力を喪失していたといって
いい状況だったのである.品川沖で応援のため待機していた軍艦扶桑(ふそう)でも
兵員309名のうち,180名が脚気症状を訴えていた.戦闘どころか航海もできる
ような状況ではなかったのが実態だった.

 さらにこの年,上層部を衝撃が襲った.12月に日本を発ち,ニュージーランドの
ウェリントン,南米チリ,ペルー,太平洋のハワイを巡航し,翌年9月に帰国した
練習艦龍驤(りゅうじょう)の惨事である.271日間の航海で376名の乗員中,
脚気患者169名,うち死亡者25名を出してしまった.ハワイに向かう途中では,
ついに人手不足で汽罐から十分に蒸気が上がらず,帆走でようやくホノルルに
たどり着くという状態だった.この2つの事件から海軍では英国から帰国したばかり
の軍医高木兼寛(たかぎかねひろ)の改革は始まるのだった.

 一方,陸軍は1870(明治3)年に大阪の陸軍兵学寮(士官学校の前身)で
生徒たちに脚気患者が大発生した.続いて翌年には東京の御親兵(のちの近衛兵)
の部隊でも脚気が大流行する.『明治七,八年頃には脚気病が非常に多く,夏期
になると殆ど五分の一は脚気という有様』とは軍医団の回顧記事の一節である.
対策としては転地療養しかなく,仮病院も多く開かれた.東京の郊外にあたる,
音羽の護国寺(いまの豊島区),小石川の伝通院(同文京区),戸山学校(同新宿区)
などに患者を収容し,軽井沢(長野県)や箱根(神奈川県)などに転地させた
という記録がある.

 これほどの大惨害があった.国民皆兵,富国強兵が叫ばれても,戦えない
軍艦,動けない部隊では戦えない.では,当時の対策はどうだったのか.今から
考えれば白米中心の貧しい副菜が原因というのは当たり前だが,その時代には
ビタミンの重要性に気づくどころか,その存在すら想像もできていなかったのだ.
では脚気の原因はどのように考えられていたのか.原因はどうして分からなかった
のか,その理由を知らねばならない.

▼原因追求が難しかった理由

 まず,第1に脚気の症状が複雑で変化が大きかったこと.いろいろな症状が
複雑に絡み合い,病気の症状が変わりやすかった.また,栄養状態が良さそうな
元気なはずの若者,とくに男子に患者が多い.老人,女性,子供,もともと虚弱
な人など,体力の弱そうな人は発病しないといった複雑さがあった.

 第2には,いつも粗食をしていると思われている人は発病しない.上等な食物
である精白米を食べている人が罹り,玄米や粗精米(そせいまい)や麦などを
食べている人は脚気にならなかった.現に麦飯を支給されていた監獄(刑務所)
の囚人は脚気にはまるで縁がなかったのである.社会の上中層の人が患者に
なるので,食物が関係しているとは考えられなかったのだ.

 第3には,西洋医学には脚気に関する研究がろくになかったことがある.
明治維新は西洋崇拝の改革だった.医学も蘭法といわれたオランダ医学,
ドイツ医学がもてはやされた.それまでの漢方医はいっさいの権威を失い,
時代遅れとされた.その西洋医学には脚気という病気は知られていなかったのだ.
せっかく招かれた外国人医師たちもまるで初めて見る脚気の症状に戸惑うばかり
だった.

 そして,何より最大の理由こそ,当時の医学界,栄養学界にはビタミンという
微量栄養素の存在すら知られていなかったことだ.日露戦争の時代,20世紀
初頭までは,タンパク質,脂肪,炭水化物と塩類さえあれば栄養は十分だと
考えられていた.身体の調子を整える栄養と今なら説明されるビタミンなど
誰もが想像すらしていなかったのである.

▼明治時代の主な原因説

 幕末から明治にかけて,漢方の脚気専門医として信頼を集めていたのは
遠田澄庵(とおだ・ちょうあん)である.遠田(1819〜89)は千葉県佐倉藩士
の家に生まれた.医学を幕府奥医師に学び,美作国津山藩の侍医となり,
のちに招かれて幕府奥医師になった.独自の脚気原因説,つまり米食が元で
あると正論を唱えた.米の代わりに麦飯を食べさせることで症状を軽くし,
しまいには完治させるという実績があった.しかし,この完璧な正論も西洋医学
崇拝の中で,漢方医の旧い俗説とされて葬られてしまうのである.

 当時のヨーロッパ医学では細菌学が盛んだった.ふつうでは目に見えない
細菌が多くの病気を引き起こすということから,脚気もまた細菌繁殖による
伝染病だとされたのだ.これを主導したのは,ドイツ人医師ベルツとショイベで
ある.ベルツはのちの帝国大学医科大学,ショイベは京都療病院のお雇い
外国人だった.2人はそれぞれに有能で熱意のある医師だったが,当時の
最先端にいた人々であるがゆえに,かえって漢方医の意見を封じてしまう
権威者になった.そして存在しない細菌を探すという大迷走に医学界は陥っていく.

 ありもしない細菌を探すという無駄な努力はなかなか報われなかった.
そこで中毒説が出された.脚気患者の様子は中毒症と似ていた.乳児脚気
の症状は中毒症と同じである.犯人とされたのは変質した青魚,米についた
黴(かび)などである.これを主張したのは,帝国大学の医学者たちだった.
この説もかなり熱心に支持され,今度は脚気毒が探されるようになった.

 米食原因説と同じように日陰者扱いの説があった.栄養障害によるものだ
という考え方である.食事の中の脂肪とタンパク質の不足が原因とされるという
ものだった.食餌(しょくじ)が原因という点では鋭い視点といえたが,ビタミン
という存在が知られていないのだから,脂肪とタンパク質の不足という考察では
説得力に欠けるといえた.肉,卵,牛乳,乳製品が伝統的な和食には少ない
ということは明らかである.しかし,それでは西洋崇拝,白人優越主義になって
しまう.これもまた,なかなか世の中全体に支持されるわけではなかった.

 ところが,この栄養障害説を果敢に実践に取り入れた勇敢な医師がいた.
海軍軍医だった高木兼寛である.

▼海軍の栄養障害説と陸軍の伝染病説

 1880(明治13)年11月,5年間の英国留学から帰ってきた
高木兼寛(1849〜1920)はただちに栄養障害説の見方に立った.日本人の
食事にはタンパク質が少なく,炭水化物が多いという点に着目して,食餌を
変えていこうとする主張である.高木はとりあえず,タンパク質を摂ることを
増やしていくという方向で海軍の脚気対策を考えていったのだった.

 高木の生まれには諸説あるが,日向国(宮崎県)出身,貧しい郷士格の大工の
家で育ったともいう.医者を志し,鹿児島の蘭法医石神良策(豊民)の門下で医学
を学んだ.その後,戊辰戦争では薩摩軍所属の軍医として東北地方を転戦する.
薩摩に帰り,1869(明治2)年には鹿児島藩医学校で英国人医師ウィリスに学ぶ.
1872(明治5)年に石神の世話で海軍に出仕することとなった(翌年の名簿には
海軍少医監=少佐相当として載っている).同75年には英国に派遣,ロンドンの
セント・トーマス病院医学校に入学,優秀な成績をおさめた.同80(明治13)年
に帰国後,ただちに東京海軍病院長を命じられた.

 この高木の留学中には大きな改革があった.1876(明治9)年には『海軍省
職制』の制定で,海軍省は軍務局,会計局,主船局,水路局,医務局,兵務局
の六局制となった.医務局は庶務,薬剤,計算の3課で発足した.
また,これまで文官だった医官は「海軍軍医」とされて武官となった.医官の養成
制度も整備され,同73(明治6)年にはセント・トーマス病院の外科助教授,
英国人アンデルソンが招かれ軍医寮学舎の教官になる.同79(明治12)年には
海軍軍医学舎と改称されていたここから14名を卒業させてアンデルソンは帰国
した.つづいて翌明治13年には,正規の第1期生15名が卒業する.高木の
実践を支えたのは,この英国流医学を学んだ若い後輩たちの力が大きかったと
思われる.

 高木は果敢に,勇気をもって自分の信念にそった行動をとった.彼はまず,
現場に出向き,脚気流行の現場を直に見た.すると艦船によって発生状況に
大きな差があること,下士兵卒に多く患者が出て士官には見られないことを
発見した.そこから各艦船で購入している食糧の違いではないかと考えた.
さらに高木は海軍卿(海軍省の長官)に直訴して,広く調査を行なった.
すると,買われた食糧のうち,タンパク質の割合が高く,炭水化物が少ない
艦船や団隊では発生率が低いことが分かった.逆に患者発生が多い艦船や団隊
では,タンパク質の割合が低く,炭水化物が多いことが判明した.

 こうして高木は衛生行政担当官として兵食の改革を実行に移すのである.
ちなみに,1883(明治16)年まで海軍兵食は「無標準金給時代」といわれた
ように,食費を金銭で支給していた.下士兵員はそれぞれ勝手に好きなものを
買い,勝手な食事をとっていたのである.もちろん,グループ制でメンバーの
意見を尊重しながら代表が買い込んでいたのだろう.そうなると,下士兵卒は
食費を節約する.差額を戻され,貯金し,あるいは家族に送金するといった
ことになった.当時の食費は艦船乗り組み中には日額18銭,陸上勤務は
同じく15銭,航海中は30銭である.これをおおよそ10銭程度に切りつめて
いたらしい.

 なお,士官には「食卓料」が支給されたが,将官は1日1円20銭,
上長官(佐官)同80銭,士官(尉官)同40銭だった.彼らは英国流の貴族生活
を行なっており,金を出し合って委員を選び,コックも雇い,洋食を食べ,バランス
のとれた食事をとっていた.脚気にはまったく縁がなかったのだ.現在からみれば
支給額の違いに驚くかもしれないが,欧州海軍との交際もあり,わが海軍ばかり
が「民主的」にはなれなかった.また,下士兵卒にも外国航海中は日額36銭
が支給された.そこから見ても,対外的には立派な海軍をもたねばならない
明治国家の貧しさがうかがい知れるのである.
 
 次回は兵食改革と陸軍の改革の様子を比べてみよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.3.16




『ライター・渡邉陽子のコラム (86) ─ 自衛隊海外派遣の歩み(16) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.

「自衛隊海外派遣の歩み」は今回が最終回です.
長らくお付き合いいただきありがとうございました.

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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■自衛隊海外派遣の歩み(16)

現在取り組み中の活動の続きです.

●ソマリア沖・アデン湾における海賊対処

ソマリア沖・アデン湾は,ソマリアとイエメンに挟まれた長さ約1000キロ,
最大幅約400キロの海域です.

アデン湾は年間で約2万隻もの船舶が通過,そのうち日本関係船舶
約1600隻が通行するなど,日本の暮らしを支える重要な海上交通路
となっています.


ところが数年前からこの海域で,機関銃やロケット・ランチャーなどで武装
した海賊による事案が多発,急増しました.

自衛隊は2009年に施行された海賊対処法に基づき,派遣海賊対処行動
水上部隊を継続的に派遣し,護衛艦2隻でこの海域を通行する船舶の
護衛を実施.同時に,広大な海域における海賊対処をより効果的に
行なうため,派遣海賊対処行動航空隊(P-3C哨戒機2機)を現地(ジブチ共和国)
に派遣してアデン湾上空をパトロール,不審な船舶に関する情報を随時提供
しています.

2011年6月からは,派遣海賊対処行動航空隊を効率的かつ効果的に
運用するため,ジブチ国際空港北西地区に活動拠点を整備,運用しています.


この活動は海自だけで行なっているものではありません.
陸自はジブチでP-3C哨戒機やその他の装備品の警備を,空自もC-130H
輸送機やKC-767空中空輸機・輸送機からなる空輸隊が輸送任務を
行なっています.ですから最新の活動状況は,陸海空各自衛隊のHPのほか,
統合幕僚監部のHPでも見ることができます.


2013年7月,海賊対処に関わる諸外国の部隊と協調してより柔軟かつ
効果的な運用を目指し,これまでの直接護衛に加え,CTF151(第151連合
任務部隊)に参加してゾーンディフェンス(CTF151司令部から割り当てられた
担当の海域内で行なう警戒監視)を実施することを決定.まず艦艇が同年12月
からゾーンディフェンスを始めました.

以前はアデン湾を通行する護衛対象の船舶を2隻の護衛艦が前後からガード,
約900キロの航路を2日ほどかけて進む形で護衛を実施していました.
CTF151に参加している現在は,基本的に1隻がアデン湾を往復しながら
直接護衛を,もう1隻がゾーンディフェンスを行なっています.

2014年2月からは航空隊もCTF151に参加,各国の航空部隊の運用方針や
海賊対処に関する情報分析など,これまで接することのできなかった情報を
入手することができるようになり,各国の部隊との連携が強化されました.

2015年7月には,自衛隊からCTF151司令官と同司令部要員を派遣する方針
を決定.昨年5月末から7月23日までは伊藤弘海将補が司令官を務め,訓練で
なく実動の多国籍部隊の司令官に自衛官が就任した初のケースとなりました.

2016年2月12日現在,3652隻の船舶が自衛隊による護衛のもと,1隻も海賊
の被害を受けることなく無事にアデン湾を通過しています.

今のところ活動期間は今年7月までとなっていますが,例年1年単位で延長
されているので,このままいけばこの夏さらに1年の延長が決定するでしょう.



最後に,安全保障関連法成立によって自衛隊の海外派遣がどう変わるのか,
改めてまとめておきます.

2015年9月30日に交付された安全保障関連法は,集団的自衛権行使を可能
にする「改正武力攻撃事態法」,日本の安全に重要な影響がある場合に
地球規模で米軍などを支援できるようにする「重要影響事態法」,国連主導以外
の人道復興支援などへの参加を可能にする「改正国連平和維持活動(PKO)協力法」
などの法律10本をまとめた「平和安全法制整備法」と,日本の安全に関係のない
国際紛争でも自衛隊の派遣を随時可能にする恒久法である「国際平和支援法」
の2本です.

これによって自衛隊の活動は次のように変化します.

自分や自分の近くにいる人の身を,武器を使って守る(自己保存) 
安全保障関連法成立前○ 成立後○

住民の安全を守るなど,仕事に伴って武器を使う(任務遂行) 
成立前× 成立後○

離れたところにいる人を,武器を使って助ける(駆けつけ警護) 
成立前× 成立後○


日本はこれまで武力行使について,他国に比べてきわめて厳しい基準で制限
してきました.その結果,実際の現場では「使うべき状況で使えない」,という
ケースも発生しました.

昨年6月に行なわれた衆院予算委員会における質疑応答で,
小野寺五典元防衛大臣は,2002年に東ティモールのディリ市で現地の日本人
から救援要請があった際,自衛隊員は「現地視察」という名目でそこに赴き救出
したという事例を挙げています.法が整っていないから「隊員が自らの判断で,
まず自らが危険にさらされる」というわけです.

法を整備しないままの海外派遣は,現地で任務を遂行する自衛隊員に
負担を強いてきました.
4半世紀,着実に実績を重ねてきた自衛隊の海外派遣は,今年新たな転換点
を迎えることになります.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.3.17




日の丸父さん(3)石原ヒロアキ

 地下鉄サリン事件と自衛隊(上九一色村編)
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□はじめに

 今年で地下鉄サリン事件は21年目を迎えました.
事件は次第に忘れられてきていますが,まだ被害者はじめ当事者
にとっては現在進行形であり,化学テロは今でも脅威です.

 事件については多くの本や記録媒体などで知ることはできますが,
自衛隊の「化学職種」がいかに事件全般に貢献したか,
いかに対化学戦の準備を営々と地道に続けてきたかはあまり知られていません.

 当然守秘義務があり,語れない部分もあるのですが,
多くの化学科隊員が事件の陰で人知れず努力してきたことはもっと
広く国民に知られてもいいのではないかと思い,今回のエッセイと漫画
を描くことを決心しました.捜査の内容については書けませんが,
当時の雰囲気だけでも感じていただければと思います.

 また,「ブラックプリンセス魔鬼」も第6巻が出ました.こちらは日中間の
本格的武力紛争を描いています.とくに対着上陸作戦のシーンは,
将官の同期からも「よく描けている」と好評を得ました.こちらもあわせて
ご覧ください. http://okigunnji.com/url/50/


▼地下鉄サリン事件と自衛隊

 地下鉄サリン事件は,日本にとってもエポックメイキングな事件でしたが,
我々自衛官,とくに化学職種にとっても衝撃的な事件でした.日本は
核兵器に対しては被爆国で核アレルギーがありますし,化学兵器や
生物兵器にしても旧軍が研究していた(一部は使用したとも言われて
いますが)ということでずっとタブー視されてきました.

 しかし,世界にはこれらNBC(今はCBRN:Chemical Biological
Radiological Nuclearと言われています)は普通にありますので,
自衛隊でもその専門知識を持った化学職種が必要なわけです.
もちろん自衛隊の主要な職種ではなく,人数も音楽職種を除いて最小の職種で,
極めてマイナーなため,この事件前までは「自衛隊の中の自衛隊」と自らを
自虐的に呼んでいるくらいでした.

 かつては部隊と言っても第101化学防護隊が大宮にあるだけで,
化学の初級幹部は最初,普通科連隊に配置され,主に小銃小隊長として
勤務します.連隊でも「どうせいつかは出ていくんだから」と,普通科の
同期がキャリアアップのためいろいろな学校に入校するのを尻目に,
部隊の即戦力として野外訓練や銃剣道の合宿などに参加させられます.

 逆にそれが部隊の実情を理解するうえで大変役に立ったのでよかった
のですが,化学職種だからということでまわりから一種覚めた目で見られて
いたのは事実です.のちに師団に化学防護隊小隊ができ,他職種と協同訓練
ができるようになってもそうでした.

 私が平成元年頃,化学防護小隊長の時,ある連隊と協同訓練するように
命ぜられ,連隊本部に行くと「何で来たんだ.訓練の邪魔だから帰れ!」と
言われたことがあります.つまり化学状況が入ると,ほかの訓練がストップ
するのでやめてくれということです.

 この状況を一変させたのが1995年3月20日の「地下鉄サリン事件」でした.
当時,警備隊区の第32普通科連隊が地下鉄駅に派遣されましたが,実際は
化学学校や化学科部隊の隊員が地下鉄駅や車両に入り,駅構内や車両を
除染,検知しました.

 上九一色村の強制捜査でも,化学職種の自衛官が警察を支援し,捜査
を成功に導きました.地下鉄の方は,災害派遣の枠組みで自衛隊が主体的
に動いたこともあり,本にもなっていてその活躍はよく知られていますが,
強制捜査は警察の所管であり,その多くは公表されていません.
しかしここでも化学職種の隊員は大変な苦労をしているのです.また家族も一緒です.

 今回漫画にしたのはもちろん捜査の内容ではなく,その苦労の一端です.
警察は化学兵器に対してはお手上げでした.当時の防護衣もマスクもすべて
自衛隊が貸与したものです.化学兵器を日ごろから真剣に研究し,訓練して
いたのは自衛隊,それも化学科部隊くらいでした.

 強制捜査に参加した化学科隊員は,誰もが「これは日本の危機だ.
我々がここで踏ん張らねばだれがやるんだ」という気持ちで臨み,その使命感
は福島第1原発の災害派遣と同じくらい強かったのです.

 このころ,化学科部隊ができ始めていたのは幸いでした.現代戦では化学戦
は過去のものと思われていたのが,イラン・イラク戦争で化学兵器が使用され,
1990?1991年の湾岸戦争でも化学戦の脅威が高いとされ,兵士は当初,
全員防護衣を着て戦闘に参加しました.化学兵器の脅威が世界的に再認識
されるなか,化学兵器禁止条約が締結され発効されることになり,日本でも
化学兵器が注目を浴び始めていたその時だったのです.

 湾岸戦争後も化学職種の自衛官が,イラクの化学兵器廃棄監視のため,
国連の要請に基づき2名ごとバクダッドに派遣されてもいます.彼らは昼間50℃
にもなる炎天下で,ゴム製の防護衣,マスクを装着してがんばりました.

 このような努力の結果,ようやく化学職種もほかの職種と同じレベルでみられる
ようになったといえます.

 オウム真理教事件が終わり,落ち着いたあとでさまざまな教訓事項を
まとめました.とくに警察,消防,自衛隊の連携強化は重要な課題でした.
これ以降,共同訓練が頻繁に行なわれ,組織間の交流もさかんになったのです.

 この事件の2カ月前には阪神淡路大震災もありました.ここでも自衛隊は
大活躍をします.1995年は自衛隊にとって大きな転換点になったといっても
いいでしょう.

 この大事件は,世界はどう見ていたのでしょう? 次回はこの事件を通じて
見たアメリカについて書きたいと思います.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.3.20





兵法三十六計(13)

第十三計 打草驚蛇(だそうきょうだ)
    ─中国軍高官による強硬発言の裏側─

     元防衛省情報分析官・上田篤盛(あつもり)
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□はじめに

 先々週まで3週にわたり「孫子からみるインテリジェンス」を解説してきましたが,
いかがだったでしょうか? さて,今週からは本来の「兵法三十六計」の解説を
再開します.

▼市民が打草驚蛇により行政官を追放!

「打草驚蛇」は「草を打(うっ)て,蛇を驚かす」と読む.草むらに毒蛇がいる
場合,草むらを棒で叩きながら進めば,毒蛇が驚いて逃げるか,攻撃してくるか
わかり,いずれにしても安全に進むことができる.

 唐王朝の時代に遡る.常日頃から賄賂を受け取っていたある地方の
行政官がいた.この行政官の汚職にうんざりしていた市民が抗議文を出す
ことにした.

 ただし,彼らは抗議文を行政官に直接手渡すのではなく,行政官の助手に
告訴状を提出するという手段をとった.彼らは,行政官の仕返しを恐れていた
のか,あるいは行政官が汚職に関与していた確証を得ていなかったのであろう.

 いずれにせよ,彼らの策は奏功した.行政官(蛇)は,助手宛に告訴状が
出されたのをみて,自分が失脚させられるのを恐れた.行政官はその後,
二度と汚職行為をはたらくことはなかった.

 行政官は「市民は草むらを叩いただけであったが,そうすることによって,
草むらに潜んでいた蛇を驚かせた」と書き残した.

▼「打草驚蛇」は威力偵察である

 敵などの状況を探ることを一般的に偵察(偵知)というが,通常の偵察は敵に
気づかれないようにひっそりと観察する.しかし,敵が厳重に防御陣地を秘匿
していた場合,あるいは防御線が不明確な市街戦などにおいては,ひっそりと
観察していても,敵の防御線を解明することはできない.

 そこで小規模な偽装攻撃(限定攻撃)を行ない,相手の反応をみる.こちらの
射撃などに対し,敵が激しく応戦すれば,そこが防御線だということになる.
これを「威力偵察」というが,「打草驚蛇」とはまさしく威力偵察のことである.

 無論,「打草驚打」は戦場における戦闘という狭い局面にはとどまらない.
平時において,あえて強硬な発言や行動を行なって敵国政府などの反応や
対応状況をうかがう“観測気球”の打ち上げも「打草驚蛇」の応用であるといえよう.

「打草驚蛇」で気をつけなければならないのは,事態のエスカレーション化
と「打草驚蛇」で入手した情報およびインテリジェンスにより,本当の攻撃や
本来の目的行動が行なわれることにある.

▼中国による数々の「打草驚蛇」が反復される

 中国軍は2010年以降,東シナ海の公海上で,わが国護衛艦への意識的
なニアミスが繰り返されている.2010年9月には尖閣諸島沖での中国漁船に
よる衝突事件が発生した.2013年1月,中国海軍軍艦による護衛艦に対する
レーダー照射事件が発生した.同年11月,中国は東シナ海上空上空における
防空識別圏を設定した.

 これらの事件や事象をめぐっては,中国軍が意図的に行動をエスカレートさせ,
日米の対応を見極める威力偵察を行なっているとの見方がある.こうした文脈
からみれば,2014年9月の小笠原諸島沖での大量の中国漁船が出現した事象
についても,サンゴ漁を騙(かた)った海上民兵による威力偵察という見方も
成り立つであろう.

 2015年12月と16年2月,千葉県・房総半島付近の海域で中国海軍軍艦が
数日間以上同じ海域を往復するといった「特異な航行」を繰り返した.
これもわが国の対応を見極める威力偵察の一種の可能性があろう.

▼中国軍高官による強硬発言に注目

 上記のような東シナ海や太平洋上で生起している一連の事象のほかに,
中国が意図的に相手国の対応を見極めるために「打草驚蛇」の策を応用している
節がある.それが,今回解説する軍高官による強硬発言である.

 従来,中国軍高官による強硬発言は異例の存在として注目を集めてきた.
西側諸国は,かかる強硬発言を中国共産党指導部と軍部との軋轢,すなわち
党軍関係の不正常の兆候という視点で分析してきた.

 西側諸国においては,政府の指導方針から逸脱した軍人の発言は容認されず,
直ちに人事処分の対象となる.しかし,こうした発言をめぐって,中国軍高官が
重処分を受けたという話はほとんど聞かない.まことに摩訶不思議なことである.

 以下,最近の主要な強硬発言を列挙してみよう.

◇2012年10月,豪州で開催された豪州陸軍司令官の晩餐会で,任海泉副院長
が「第2次世界大戦の教訓を顧みない人が,戦後の国際構図に挑んでいる.
人は歴史を忘れてはならず,歴史から教訓を学ぶべきだ.ファシスト国家がつけた
戦火が多くの地域に燃え広がった歴史があり,ダーウィンも爆弾が落とされた
じゃないか」などと述べた.

◇2013年1月14日,彭光謙少将(国家安全政策委員会副秘書長)「日本が曳航弾
を1発でも射ったら,それは開戦の一発を意味する.中国は直ちに反撃して2発目
を射たさない」と述べた.

◇2013年1月15日,羅援少将(軍事科学学会副秘書長)が「私たちは戦争を
まったく恐れていない.一衣帯水といわれる中日関係を一衣帯血にしないように
日本政府に警告する」と述べた.

 このほかにも「軍事衝突に備えよ」「我々はタカ派と呼ばれることに反対しない」
「戦いによって,日本に失敗の末路をはっきりみせるべきだ」など,“勇ましい発言”の
オンパレード状況にある.

▼中国軍高官による強硬発言の背景とその理由

 そもそも,軍高官による強硬発言として,もっとも注目を集めたのが,
2005年7月の国防大学教授・朱成虎少将(中国建軍の父と呼ばれた朱徳の孫)
による発言であった.

 朱氏は,「米国政府が台湾海峡での武力紛争に介入した場合,核攻撃も
辞さない」などと発言した.この発言は,米国をすぐに驚愕させ,「核の先制不使用
を明言してきた中国の核政策が修正されたのでは?」などとの分析が走った.
これに対し,中国外交部(外務省)は「朱氏の発言は個人の観点であり,中国政府
の立場ではない」と弁明した.

 この発言に代表されるように中国軍高官は比較的に自由に大胆な発言をして
きたし,その後,朱氏が特段の重大処分を受けたという話も聞かない.

 この理由・背景としては以下のことが考えられる.

1)中国軍は歴史的な功労者であり,軍人の地位が非常に高いために,軍高官は
党指導部にいちいち許可を受けなくても自由に発言できる気風が確立されている.

2)軍高官の発言が主権や領土などの国益擁護に関する事項であるため,
国内世論が味方し,逆に党指導部が軍高官に対する発言封殺,処分をすれば,
たちまち国民から「弱腰」とのレッテルを貼られかねない.つまり,反日デモと同様
に「愛国無罪」として,軍高官による強硬発言は容認せざるを得ない.

 2009年,中国が外交方針を「韜光養晦,有所作為(とうこうようかい,ゆうしょさくい)」
から,より積極的な「堅持韜光養晦,積極有所作為」に転換した.これ以降,軍高官
の強硬発言が目立つようになったともみられている.

 軍高官は台湾,南シナ海,東シナ海の領有権確保に向けた軍事活動の正当性
について主張し,米国の対台湾武器売却問題および米軍艦船などによる東シナ海
や南シナ海における情報収集活動を,中国に対する「不当」な接近であるとして,
激しく抗議する論調を強めているのである.

 こうした背景・理由について分析してみよう.以下のことが考えられる.

1)軍事力の増強を背景に中国軍が対外政策形成への関与度を強めている.

2)中国軍が専門家集団あるいは官僚機構として,国防予算等において優先的な
扱いを受けることを狙いに,強硬発言を利用して党指導部に対し圧力をかけている.

3)対外政策形成の新たな担い手であるネットユーザーや,対外的な拡張政策を好む
軍内世論が軍高官による強硬発言を増幅させている.

▼中国軍高官による強硬発言は「打草驚蛇」である!

 しかし,上述の見方に加えて非常に興味深い一つの視点がある.これは,党指導部
が意図的に軍高官に“強行発言”を行なわせ,相手国を政治的に牽制する一方,
その反応を観測するというものである.

 つまり,党指導部と軍部が裏で戦略・戦術的に連携し,軍高官が強硬派または悪者
を演じることで,中国全体として対外的な政治的牽制を有利に進めるとともに,相手側
の出方を探って,事後の対応行動を検討しているのである.

 同時に国内民意を推し量り,国内不満の緩和と党指導部に対する“弱腰”批判の回避
を狙っている可能性がある.

 すなわち「打草驚蛇」の実践である.

 筆者は,中国軍高官による強硬発言には上述のようなさまざまな要因が影響
しているとみられるが,党指導部による「打草驚蛇」であるとの見方がもっとも的を
射ていると考えている.

「打草驚蛇」によって,相手側が自制的な行動をとるならば,それは中国側の政治的
牽制が奏功したことになる.

 他方,相手側の反発が予想以上に激しく,「中国脅威論の噴出や一触即発の事態
に発展する可能性あり」と判断すれば,上述の朱成虎少将の発言の時のように,
「軍高官の個人的発言だ」として居直ればよい.

▼「打草驚蛇」に過剰反応しない!

 このところ,中国によるさまざまな行動や軍高官による強硬発言が繰り返されている.
それに対し,わが国は一触即発の事態を懸念し,対応行動を控えるよう自制する必要
はないであろう.

 わが国が自制的な行動に出れば,それはマンマと中国側の術中に嵌(はま)った
ことになる.中国はこれを成果に,一挙に領有権確保などに向けた既成事実化を促進
することになろう.

 わが国が領土,領海を守るためには,中国が仕掛ける「打草驚蛇」に過剰反応
することは禁物だといえよう.(次週,第14計「借屍還魂」に続く)
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.3.22





脚気の惨害―陸海軍の対策―』
 日本陸軍の兵站戦(16) 荒木 肇

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□ご挨拶

 今年も春がやってきました.防衛大学校の卒業式も行なわれ,
若い幹部の卵たちが総理の訓示をいただいて巣立って行きました.
毎年のことですが,いわゆる任官辞退者が47名だったということを意地悪
な口調で報道するマスコミがあります.ひと言,言わせて下さい.
もういい加減に陳腐な「税金泥棒」みたいな言い方は止めませんか.
任官を拒否するのではなく,身体を壊し,あるいは家族の事情のために
転勤が宿命である幹部にはなれず,泣く泣く辞退する学生もいるのです.
景気が良くなると,一般企業からの声かけも増えます.あのバブル期には
もっと多くの人たちが自衛官になりませんでした.

 もう一つ,彼ら彼女らは幹部になる予定者です.責任ある地位に就き,
場合によっては部下の命を預かる人たちです.4年間の生活で,そうした立場
になることに自信が持てないという人がいても仕方がないではありませんか.
全員を育てられなかった防衛大学校の教育が悪いというなら,『教育には
出来ることと出来ないことがある』という「常識」を無視した言葉です.

 安保法案のせいだという論者もおられました.それでは日々,危険な目に
遭う海上保安官はどうでしょう.海上保安大学校の任官辞退者はどうなので
しょうか.マスコミの多くは防衛大学校ばかりを論じています.バランスを
欠くのではありませんか.

 わたしには多くの任官辞退をして民間に進んだ友人たちがいます.あるいは
途中で退官して自衛隊以外の場で活躍する人も知っています.防衛大学校
で学んだ知識や経験を生かしてみんな奮闘しています.公平な報道をして
もらいたいと願っています.

□お礼

 A様,いつもありがとうございます.アジア研究資料センターの資料もありますが,
わたしは主に陸海軍の公文書を元に記述しています.ご指摘の通り,民間の脚気
に対しての関心も高く,当時の危機感がよく分かります.

 M様,応召→脚気→召集解除,のお話はなるほどと感じ入りました.
ありがとうございました.さて,T様,酒びんなどでの米搗きについて,鋭いところ
に気が付かれました.感服しました.もちろん,玄米はご覧になりましたでしょう.
モミです.あれは炊けません.なんとか表皮を落とさなければ生煮えになり,
とても食べにくい.無理して食べても,すぐに消化不良を起こしてしまいます.
戦場では下痢につながり,体力を消耗し,かえって死に近づきます.当時の人
は糠も食べました.小麦粉に混ぜたり,いろいろ工夫したりしたようです.
また,都会だけが食料欠乏だったのでは,というところもいい視点です.有名な
コラムニスト,故山本夏彦氏も書いておられます.「戦時中も食うに困らなかった
とはとても戦後言えなくなった」と(笑).ありがとうございました.


▼海軍の食事改善の試み

 脚気の原因は「タンパク質」の摂取量が少ないからだと海軍軍医だった
高木兼寛(たかぎ・かねひろ)は考えた.そこで1882(明治15)年に,
戸塚文海医務局長名で川村純義海軍卿(内閣制度の前は海軍省長官は
卿だった)に食事の改善について上申書を出した.その内容のおおよそは,
1)栄養の改良こそ第一に着手すべきことだが,経費の問題がある.
2)そこで2,3年間で3隻の軍艦の兵食を西洋食にする.
3)他の艦船は規程の食卓料で献立をつくる.
4)現金の払い戻しというシステムをなくす.
というものだった.

 金だけ渡して好きなものを勝手に食べさせる.そのことがタンパク質の
不摂取につながり,食事のバランスを崩している.だから管理するのだという
発想である.

 これに対する将官会議の審議結果は,高木の思惑通りにならなかった.
将来,いつか現物給与にすることはほぼ決めてよかろう.しかし,具体的な事項
を決める糧食条例は主船局(艦船運用を所掌する)で審理する.とりあえず医務局は,
海軍病院の患者数名にかぎって西洋食献立を実験すべしということになってしまった.
そのことによる経費の増大や,経理部門の主計局の抵抗などがあったからである.

 長年なじんだ食事の嗜好は容易に変えられるものではない.また,食費を
還付する制度そのものを改編することも大変な事務量の増大を必要とする.
主計官たちの反対も,海軍病院での実験結果を見ればもっともだった.西洋食
は和食と比べ被験者たちの健康は増進されたが,問題は経費である.
パン,ビスケット,肉類で構成された西洋食は港内日額33銭1厘,航海同は
39銭1厘と,およそ3倍にもなっていた.そのため,反対勢力はますます勢いを
増した.翌年の流行期である夏を前にしても,主船局での審理は一向に
進まなかった.

▼高木軍医の上奏

 そこで高木はさらに強硬な手段をとった.当時の仁禮景範(にれ・かげのり)
中艦隊司令官に直訴したのだ.東京と異なって地方都市ならば物価も安い.
西洋食献立を艦隊の中で実施してほしいというのだ.もちろん,これは司令官
に拒否された.経費の増大,食材の調達などの不便でとても実行できない.
海軍卿のほうでよろしく検討されたいというのが返事だった.それでも高木は
めげない.中央に働きかけ,ついに「脚気病調査特別委員(会)」を設置させる.
さらには天皇にも兵食改善を直訴する.おそらく自身も脚気患者だった明治帝
は高木の上奏をよく受け入れたのだろう.これが1883(明治16)年11月の
ことだった.

 このころ,学界では中毒説と伝染病説が主流であり,食事原因説はほとんど
顧みられていなかった.旧い漢方医学の対症療法にしか過ぎないと考えられて
いたからだ.そこへ天皇に対しての直の奏問,しかも支持者もほとんどいない
脚気の原因は食事だという断言.まさに高木の医師,医学者としての勇気は
高く評価されねばならない.しかし,この時代に,この高木の独走は他部局の
軍人からはどう受け止められたか.

 政府は西南戦争(1877年)の戦費調達に苦闘し,国内の混乱の後始末に
困っていた.しかも,隣国朝鮮の政情は不安定だった.そこに清国海軍の増強
という不安要因,その他の事情が山積し,海軍は主力艦船の整備すら思うように
できていなかったのである.そんな時期に,兵食の改善などという瑣末なことを
上奏した.しかもそれを実行すれば経費は3倍にもなる.なんだ,軍医はそうした
事情に無関心なのかという批判にさらされたのも無理はない.しかも,最前線の
艦船部隊では,自分の食費を節約して払い戻された現金を家族に送るという
のは「美談」と受け止められていたのである.

 陸海軍上層部はみな幕末維新の英雄豪傑ばかりだった.彼らは腹一杯に白米
を詰め込み,粗末な副食で戦い抜き,革命戦を生き延びた人々である.
武士(軍人)は食事のことなどをあれこれ言うものではないといった美意識も
あったに違いない.それに加えて,日本海軍軍医界の指導者,英国人医師
アンダーソンも伝染病説の支持者だった.『タンパク質を多く摂れば脚気がなくなる.
そういうことはない』という今でも正しい意見が,同時期にお雇い外国人からも
出されていたのである.

▼海軍では脚気が絶滅する

 ところが,高木はホームランを打った.1883(明治16)年11月24日,上奏
の日より5日前のことになる.高木は遠洋航海に出る軍艦「筑波(つくば)」に対して,
食費の全額消費を目指す指示を要請した.つまり,下士兵卒の節約,その結果の
現金払い戻しを止めさせたのだ.同26日には「調査表」の作成を筑波主計長に
依頼する.どんな材料をいくらで購入し,どのように調理し,支給したかの記録
である.これからの流れは,まさに高木の計画通りになったといっていい.
おそらく天皇直々の言葉のおかげだろう.

 翌年1月15日には,のちに「標準指定金給時代(明治17?同22年まで)」
といわれる施策のスタートになった.決まった金額で購入した現品を支給し,
その食品の種類も軍医・主計の監督を受けるというものだった.タンパク質を
増やし,炭水化物(つまり白米)を減らし,パン食をさせたわけである.

 筑波の実験は大成功となった.1884(明治17)年2月3日,品川沖を出航した
筑波は,ニュージーランド,南米,ハワイを経て11月16日に帰ってきた.
287日間の航海で乗員333名中,患者わずか16名(4.8%)を出しただけ
だった.国内でも患者は激減した.全体で700名あまりになった.これは例年の
半分にしか過ぎなかった.

 これによって海軍は兵食改革の効果について誰もが認めるようになった.
ところが,事態はこじれた.パン食を嫌った艦船乗員たちは海にパンを捨てた
というのだ.また,西洋食など食べられるかと反発する下士・兵員が多く,現場
からの医務局への怒りの声が伝わってきたのだ.では,と高木は次の対策を
打った.米麦混食給与だった.パン食は廃止されたが,5割の挽き割り麦と5割
の白米を給与することにした.この麦飯支給(実際の比率は麦4,白米6)は,
またまた大ヒットだった.洋食支給では半減しただけの患者数が,麦食後はほぼ
絶滅したのである.

▼当時の世間の評価

 高木の論をもう一度検討しておこう.彼は食事のタンパク質(窒素)と
炭水化物(炭素)の量の比率がカギだと考えた.本来,窒素:炭素は1:15が
ふさわしいのに,脚気患者は1:28にもなる.だからタンパク質の摂取量を増やす
のが脚気に対して有効だ.その証拠は患者が大発生した龍驤の食物の窒素・炭素
の比率は1:28で,患者減少の筑波では1:17だったという事実がある.

 これを高木は1885(明治18)年に医学界に発表する.ただし,この論で納得
したら,学問というものが分かっていない.学問はあくまでも学理が立たなくては
ならないからだ.反論はのちに帝国大学医科大学教授になる衛生学者
緒方正規(おがた・まさのり)から出された.緒方は「脚気菌」を発見したというので
ある(のちにこれは誤りと認められた).

 つづいて東京大学生理学者も反論する.これは栄養学の観点からである.
米の擁護論ともいえる.さらには,生理学教授が登場,病気には流行期とそうで
ない時がある.たった1年の結果ではどうか.また,麦飯は白米に比べて窒素が
多いというが,不消化分もきわめて多い.5合(900グラム)の米から得るタンパク質
は40.2グラムだが,同量の麦からは26.24グラムにしか過ぎない.これは机上
の計算と実際を重視する消化吸収試験という学問的検証を比べた結果で,高木の
論の不備を指摘している.

 さらに陸軍衛生行政官はどう反応しただろうか.軍医本部次長の
石黒忠悳(いしぐろ・ただのり)は次の通り語っている.

「肉食も一般化してきて,牛の屠殺量も増えている.東京近辺では食肉の消費量も
増え,全国的にも最高だが,むしろ東京でこそ脚気は多い.脚気は兵隊や書生に
多く,粗食の貧窮者や魚,肉,鳥,滋養物を摂らない禅僧にはきわめて患者は稀で
ある.脚気で急死するのは,みな多血強壮な体格雄偉な者であり,田舎にはまれで
都会に多い.転地療養で軽快するのも理由が不明である.脚気が滋養不給からくる
というなら,女性に脚気が少ないのはなぜか」

 高木の脚気の原因説と麦飯有効の理論は間違いだった.だが,副食が改良
されれば脚気は減る.麦飯を食べれば同じ結果になるといった事実は確かだった.
だから,高木の業績はビタミン発見以前の実績としては高く評価すべきものである.
また,個人の信念を周囲の反対をものともせず,実行に移した行政手腕には
学ぶべきものが多い.

▼陸軍の流行病説と対策

 当時の陸軍軍医本部次長石黒忠悳は福島県梁川(やながわ)に弘化2(1845)年
に生まれた.父は幕府代官所の吏員である手代(てだい)だった.全国の幕府領を
管理する代官は将軍直臣の旗本の優秀者が選ばれた.その現地採用者が庶民出身
の手代である.御家人身分の者は手附(てつき)という.優秀な手代は代官の転勤や,
新任者への引き継ぎとして継続採用される.石黒の父親は優秀な人だったのだろう.
石黒の姓は父方の叔父の養子となってからである.

 1864(元治元)年,江戸で医学と洋学を学んだ.幕府江戸医学所に進み,
1869(明治2)年には文部省に出仕,大学東校に奉職後,兵部省軍医寮に入り
軍医の道を進む.同73(明治6)年には1等軍医正になる.同79(明治12)年には
軍医本部次長になる.同80(明治23)年に軍医総監(少将相当官)に昇任,
医務局長になった.1901(明治34)年に予備役編入,1941(昭和16)年に死去,
96歳の大往生をとげた.毀誉褒貶,入り混じる人物である.

 さて,衛生兵站の大元締めである軍医の世界は発足当初から人手不足に悩んだ.
まず,優秀な人材がやってこない.兵部省時代の軍医寮の頃からそうだった.
若手で西洋医学を学んだ者は大学教員候補だったし,各府県立医学校の教員に配当
するのが最優先だった.そこへもってきて軍医の社会的地位の低さである.江戸時代
から彼らは儒学者と同じく「長袖者(ながそでもの)」とか「長袖者流(ちょうしゅうしゃりゅう)」
と言われて一般の武家とは違う扱いだった.帯刀していながら僧侶のように剃髪し,
官位も僧官と同じである.

 大学東校は旧幕府の医学所を明治政府が引き継いだものだ.湯島(文京区)にあった
昌平坂学問所を大学校と改称した.ここでは国学を教えることとし,
開成校(幕府蕃書調所),医学校を統合することとした.それぞれを本部にあたる湯島
からの位置で,開成校を南校,医学校を東校とした.

 東校はミュルレル,ホフマンというドイツ人医師を招き東京医学校ともいわれ,
1877(明治10)年に南校と統合され東京大学となった(帝国大学となるのは明治19年).
したがって,ここの卒業生はほとんどがドイツ医学の信奉者となり,ドイツ人が言うように
脚気は伝染病だと信じた.

 陸軍はこの東京大学出身者を軍医に採用した.東校時代からの勤務歴のある
石黒も,この動きに大きな役割を果たした.そして,これ以後も陸軍軍医界は
東大医学部,帝国大学医科大学に頼ることができ,陸軍軍医の主流は東京帝大
医学部卒業者になっていった.これに対して,海軍は前にも書いたように英国人医師
を招き,独自に軍医を養成した.高木のような優等者は英国に留学させた.
おかげで海軍軍医は伝染病説にふれる機会もなかったのである.

 陸軍も全軍あげて伝染病対策にまい進した.室内外の完全清掃で細菌を減らす.
夏にはできるかぎり脚絆(きゃはん)をとらせ脚を楽にする.床に胡坐(あぐら)を
かかせる.夏の暑いときには演習を涼しい時間に行なう.部屋の換気を励行する.
身体をよく動かすようにさせる.新陳代謝を増やすためだ.できるだけ滋養の
多いものを摂らせる.ただし,粗食が脚気の原因だということには反対する.

 これらを推進したのは石黒とその東大卒のスタッフだった.当時としては先進的な
対策をとっている.むしろ完璧といっていい施策といっていい.ところが,脚気は
容赦なく兵卒を襲ったのだ.

▼戊辰戦争の規程が兵食の始まり

 白米1日6合支給の規程は戊辰戦争から始まった.1人1日白米6合,金1朱と
通達された.1朱とは1両の16分の1,およそ現在の1万円と考えるとうなずける数字
である.白米は炊いて食べ,宿泊料他副食もつけて1万円.このまま1872(明治5)年
まで陸海軍ともに同じである.その6合の根拠となったのは,江戸時代に支給された
一人扶持一日五合の慣行からだったといわれる.平時の5合は戦時には6合に
すべきだろうと考えられたらしい.

 この2月に陸海軍は分離する.兵部省は海軍省と陸軍省になった.兵食を海軍
は現金給与にした.陸軍は徴兵令の施行に合わせて,同6年1月から「食料の規程」
を出した.これを考えたのは経理部の項でも説明した陸軍会計局長
津田出(つだ・いずる)と言われる.それによると,1日の支給は白米6合,賄い料6銭6厘
である.定量は牛肉24匁(90グラム),これが2銭2厘,魚菜は1銭4厘,味噌,醤油,
漬物,茶,薪,鰹節などを合わせて6銭5厘5毛から出された数字だという.
海軍の1日10銭と比べると,ずいぶん貧しい食事と言えるだろう.これが西南戦争後
のインフレのおかげでもっと購買力は落ちた.

 当時の兵卒給与は技術系の火工卒が日額9銭9厘,砲兵1等卒が日給6銭,
1等馭者(砲兵の砲車馭卒・工兵の資材運搬車馭卒)が同8銭,騎兵1等卒・輜重兵同
が同5銭5厘,歩兵1等卒が5銭である.新興国らしく,技術系の火工や運転手に
あたる馭兵の優遇が目立っている.

 1880(明治13)年の牛肉の値段は中等肉で100グラム当たり3銭とあり,
牛鍋屋では1人前15銭とある.酒は中等で1升8銭というところ(明治14年).
兵卒が外出して居酒屋で一杯やるには2日分の給料が必要だっただろう.それでも
当時の陸軍の食事に不満の声は聞かれない.それはおそらく腹一杯の米の飯が
あったからだろう.肉や魚が食べられるのも,地方では特に喜ばれたに違いない.

 1882(明治15)年6月,石黒は上司を経由して大山陸軍卿に兵食改良の上申書
を出した.インフレで物価が西南戦争後にそれ以前の5割増しになったからである.
米の値段もあがった.明治10年の10キロ当たり51銭が同15年には81銭にもなり
1.6倍にもなった.同じように味噌,醤油なども3割増し,魚菜,蔬菜も4割から5割増し
になった.日額6銭6厘をそれに見合って増額しなくては買える食材の量が減るばかり
だった.ところが,食費の増額は認められなかった.当時の兵員は6鎮台や各地の
要塞などにおよそ4万人だった.数千人の海軍下士・兵卒とは比べ物にならない.
緊縮財政の折から,白米を減らすことはできないが,副食代金の支出増など
認められないというわけである.

 上申は認められなかったものの石黒は全国の軍医官に兵食改良への意見書の
提出を求めた.なかでも出色とされたのが大阪陸軍病院治療科の小池正直の意見書
だった.小池は前年に東京大学医学部を卒業し軍医になった8人のうちの1人である.
のちに軍医総監になった俊秀で同時に任官した者の中には森林太郎もいた.
小池の「改正意見草案」の要旨は次の通りである.

1)人は一日にタンパク質120グラムと無窒素物(炭水化物と脂肪)420グラムを
摂らなければならない.
2)配合ではタンパク質と炭水化物の比例,あるいはタンパク質と炭水化物・脂肪
(合わせて無窒素物)の比例を一定化することが大切である(窒素タンパク質と炭素
の比例は,1:13ないし15,タンパク質と無窒素物は1:4ないし5が標準だという).
3)英・仏・独・墺(オーストリア)・米の兵卒はタンパク質をほぼ120?160グラムを
毎日摂り,タンパク質と無窒素物の比例が1:5以上なので,わが国もこれに倣うべし.
4)精米6合は偏ったもので,澱粉が過剰,脂肪が不足,タンパク質が最も不足.
これを米の増量で補うと1日1800グラム,1升2合となる.これではますます澱粉
が過剰になる.副食代6銭でタンパク質67グラムの不足を補えるか.

 ここで小池は陸軍軍医らしく現場の状況を描いている.魚はタンパク質がたいへん多い.

 ところが,実際の大阪の第8歩兵聯隊では副食費は4銭あまりである.それで購入
できる魚類は20?23匁(75?86グラム強)でしかなかった.したがって,何か肉に
替えるものが必要であると語り,米の脂肪とタンパク質の不足は魚と植物で考えて
いこうという.牛肉は牧畜が盛んでないから都会や開港地でなくては手に入れにくい.
そうなると注目すべきは値段も安い豆腐であると論を進める.その定量は
精米900グラム(今まで通り),魚類200グラム,豆腐500グラムである.
こうすればタンパク質は合計で1グラム強,脂肪29グラム弱,炭水化物698グラム強
となる.タンパク質と炭水化物の比例は1:5.27になり各国の兵食と変わらない.
むしろ養分は多くなる.

 この明治15年8月に発表された小池の論は,高木の主張した窒素と炭素の
比例論に先立つこと半年以上も前のものである.陸軍軍医本部は同年9月から
10月にかけて東京市ヶ谷の陸軍士官学校生徒の食事の分析と欧州人の食事
との比較をオランダ人お雇い教師ヨハン・フレデリク・エイクマンに依頼した.
このエイクマンは東京大学化学製薬学薬剤学教官として勤務していた.
後にジャワで脚気のほんとうの原因を発見するクリスチアン・エイクマンの実兄だった.

 その調査結果は,小池の指摘した通りになった.欧州人の食事と比べると,
タンパク質が微量,脂肪も最少量,炭水化物の最多量というものだった.この調査
は高木の行なった海軍兵食分析より早く行なわれたものだった.陸軍軍医本部
はこの結果も含めて,兵食改善の意見と費用増額を陸軍中枢に提出したが,
ついに認められることにはならなかった.理由は,緊縮財政・経費節約と何より
食事への無関心だったのだ.

▼陸軍はなぜ白米にこだわったか

 結論からいえば,石黒忠悳や森林太郎(鴎外)が脚気の惨害をもたらした訳では
なかった.副食が貧しいからビタミンB1が欠乏して脚気になった.玄米や粗精米
にはあったビタミンB1を含む胚芽が,精米される間に削ぎ取られてしまう.
それにビタミンB1が少ない副食の組み合わせが発病の真因だった.たとえ白米
を食べていても,豊かな副食があれば脚気にはかからなかった.いまの我々が
ほとんど脚気と縁が切れたのも,副食に多くのビタミンB1が含まれているからだ.

 麦飯が脚気治癒に効果がある.このことは田舎育ちの石黒はよく知っていたし,
当時の脚気対策の名漢方医遠田澄庵とも『すこぶる懇意な友人である』と言い合う仲
だった.官立の脚気病院(明治11?15年)でも同僚だった関係もある.それなのに,
なぜ麦飯を採用しなかったのか.そのことを頑迷であったとか,間違った学問を
信じていたとかいう批判は簡単である.とりわけ,ビタミンが発見された以後に非難
するのは簡単である.ましてや21世紀の現在からみれば,愚かな人間としか
思えないという人もいるだろう.

 しかし,当時の石黒や他の高級軍医たちも苦慮していたのだ.副食費は
上げられない,兵食を改良することもできない,麦飯を食わせてくれという現場
の部隊からの突き上げもある.実は師団以下の軍隊指揮官の側からは,脚気予防
のために麦飯を支給してくれという声もあがっていたのだ.協議の結果,麦飯は勝手
に食べてよいとした.ただし,米は害があるから代わりに麦を食わせよという命令は
出せない.麦は米より安いから余った金は副食費に回してもよいという通達を出す
ことにした.1886(明治17)年9月には『精米ニ雑穀混用ノ達』である.麦,小豆,
その他の雑穀を自由に混ぜてよいという許可だった.

 次回は日清・日露の脚気の惨害について詳しく書こうと思う.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.3.23





『ライター・渡邉陽子のコラム (87) ─ オリンピックと自衛隊(1) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.
今週から新しい連載「オリンピックと自衛隊」を始めます.

1964年の東京オリンピックで自衛隊がどのような支援を行なったか,
現役自衛官にすらほとんど知られていません.当時は自衛隊が創設
されて約10年,世間からの風当たりはまだまだ猛烈に強かった時代です.

そんな時代に自衛隊がスポーツの祭典で行なった支援は,その規模も
支援内容もとてつもないボリュームでした.読み進めながら「へえ〜!」
とか「そんなことがあったのか!」とか感じていただければ幸いです.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■オリンピックと自衛隊(1)

最初は第18回オリンピック東京大会開催が決まるまでのお話からです.

1964年10月,オリンピック東京大会が開催されました.これは東京にとって「
3度目の正直」となる,約四半世紀におよぶ悲願でもありました.

最初に東京での開催が予定されていたのは1940年のことです.
東京は第12回オリンピックの開催地だったものの,満州事変から日中戦争,
そして第2次世界大戦前の緊張した空気は日本での開催を許さず,1938年7月
に日本政府は中止を決定します.
開催地は東京の次点だったヘルシンキに変更となりましたが,こちらも結局
第2次世界大戦勃発により中止となっています.

あまり知られていていませんが,実は1952年5月に,東京都は1960年開催の
第17回オリンピックの東京招致を決めています.
戦後7年にしてオリンピック開催地として再び名乗りを上げるとは,なんとも
たくましい話です.
新丸の内ビルヂングが竣工し,青山に日本初のボウリング場ができ,年末の
アメ横は現在と同じように正月用の食材を買いに来た人々でごったがえす,
それが1952年の東京でした.
ちなみに日本が主権を回復し,日米安全保障条約が制定され,16年ぶりに
オリンピック(ヘルシンキ大会)に参加したという年でもあります.
ついでに言えばロシアのプーチン大統領や元防衛大臣で衆議院議員の小池百合子氏
が生まれ,手塚治虫の「鉄腕アトム」の連載がスタートした年でもあります.

しかしやはり時期尚早だったのか,第17回の開催地はローマに決定,東京は落選してしまいます.

それでも東京都はあきらめませんでした.

1956年10月,今度はローマ大会の4年後,1964年に開催される第18回オリンピックの
東京招致を決めます.
そして今度は東京のみならず政府が動きました.
これまでは東京都が中心に進めてきた招致運動ですが,国を挙げての体制のもとに
展開しなければ開催国の栄誉は勝ち取れないと気づいたのです.
内閣総理大臣を委員長として,政・財・スポーツ界等各方面からの参加を得て
「東京オリンピック準備委員会」を結成,全般にわたる計画の推進に当たりました.
さらに国会でも衆・参両議院とも招致運動を強力に推し進め,その準備態勢を整備
することが決議されるなど,まさに国を挙げての招致運動となりました.

その努力が実り,1959年5月26日,ミュンヘンで行われた第55回IOC総会において,
第18回の開催地が東京に決定したのです.第12回の辞退,第17回の落選を経ての悲願達成でした.

ところで,近代オリンピックと軍隊の関係をご存じでしょうか.
近代オリンピック競技大会は1896年に第1回がアテネで開催されて以来,
第17回のローマ大会まで,各大会の開催国軍隊の協力によって運営された面が少なくありません.
とはいえ,第10回までは,軍隊の協力する部門は軍楽隊による奏楽,祝砲の発射,
王侯・貴族の警護などが中心で,運動競技に関わる協力などは行なわれていませんでした.

大きな転機となったのは,1936年の第11回ベルリン大会です.
聖火リレーが始まったのはこのベルリン大会からですが,そのコースとなるギリシャ,
ブルガリア,ユーゴスラビア,オーストリア,チェコスロバキア,ドイツの道路を選定し,
偵察するなどの準備を進めたのはドイツ軍でした.
また交通,輸送,通信,医事衛生,選手村の運営もすべてドイツ軍によって実施されました.
さらに競技運営の面でも射撃,近代五種,ヨット,フェンシングなどに協力しています.
ヒトラー政権下でオリンピックを政治・軍事に利用したという批判も大きかったのですが,
軍隊の協力による大会運営の成果があったことも事実です.
ベルリン大会以降,オリンピックにおける軍隊の果たす役割が大幅に増えたことがその証明
ともいえるでしょう.

このように軍隊が協力するようになったのは,オリンピックの規模が大きくなるにしたがい,
その運営は多くの人が組織的・機能的に規律ある活動をする必要が生じたためです.
また,運営・輸送等の器材も大量に必要となり,それらを十分な数だけ保有している
軍隊の協力は不可欠となったのです.

そんなわけで,東京で開催されることになったオリンピックにも,当然自衛隊の協力が
求められることとなりました.
ところが防衛庁の扱う業務内容の中には,運動競技に協力する業務は含まれていません.
それでも,挙国的な体制で開催するというのが政府の方針だし,近代オリンピック大会
では各国とも軍隊の協力が必然となっている状況から,防衛庁も協力する必要がある
ということになりました.

そこで1961年,スポーツ振興法などが制定された国会で自衛隊法も改正され,
自衛隊の任務に支障を生じない限度において,運動競技会の運営に協力できるようになりました.
こうして法整備がなされてから,防衛庁は1962年からオリンピック大会組織委員会,
通称OOCと本格的に折衝をスタートします.

次週からはオリンピックに向けた防衛庁の動きをご紹介します.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.3.24





……【特集:軍需産業と民間セクターの結びつきの強化】…………………………
●中国の軍需産業の開放進む 1000社以上の民営企業参入
 英「ジェーンズ・ディフェンス・ウィークリー」は3月14日,国家国防科技工業
局が民営国防産業の発展促進に乗り出していることを伝えた.財政が逼迫していく
中で,中国は国防産業を就職の受け皿,経済成長の力としようとしている.

 国防科技工業局によると,現段階で中国では既に1000社を超える民営企業が武器
装備科学研究・生産許可証を得ており,第11次五カ年計画終了時に比べ127%増加した.
 国防科技工業局は,第13次五カ年計画期間中において,伝統的に国有企業が独占
してきた契約競争を促進するべく,民間セクターの国防産業参画度引き上げを加速,
強化する.
 構造調整,協力,海外進出戦略に重点を置く上において,これらの措置と,中国
の輸出・購買,外国企業との連携で国際市場へ浸透させるという目標は相互に結び
ついている.

 国防科技工業局は2016年,新たな軍用品の科学研究・生産能力の構造調整を行い,
完全に公平で秩序のある軍用品市場の監督・管理組織を整える.また,国防科学技
術のコラボレーションによるイノベーションを推進し,国際協力を強化し,国防科
学技術工業の海外進出を推し進め,軍需産業と地域経済との融合した発展を実現さ
せる.

 民間セクターの発展支援の鍵となる政策は,軍民融合の発展戦略の「踏み込んだ
実施」である.軍事工業はこれらの戦略を通して,商業部門のイノベーション技術
を軍事転用,逆もあると予想される.
 中国は軍隊のイノベーションを国家のイノベーション体制に組み込み,軍民によ
るコラボレーションによるイノベーションを強化,展開し,国防科学技術のイノベ
ーションを有利に進めるためのシステム構築を試み,軍民融合の深いレベルでの発
展を推進することで,国防と軍隊の現代化を行うためのプラス条件をつくる.

 近年,中国は民間セクターの国防産業の参画を徐々にふやすことにより,競争を
促し,工業能力を増強し,人民解放軍の戦闘力アップを行った.
 報道によると,恐らく確かなところは,中国経済に対する憂いが大きくなるので,
中央政府は輸出とイノベーションを創出し,民間セクターの発展でさらなる推進力
を得たいということだとしている.〔参考消息2016年3月16日〕

●民営企業がいかにして9000億元近い軍需産業を分け合うか
 先日,国家国防科技工業局から得た情報によると,同局は軍民融合の発展戦略を
さらに進めるため,国防科学技術工業の軍民融合の深いレベルでの発展の推進を加
速させる.
 国防科技工業局は現在,既に一連の具体措置を発しており,軍需産業の開放が推
進されている.現在,既に多くの措置により,実質的に開放がなされている.今現
在,中国では既に1000社以上の民営企業が武器装備科学研究・生産許可証を取得し
ている.
 最新の統計によると,現在,軍需産業に参画している民営企業数は以前より約127%
の大幅増となった.

 国防科技工業局は現在,「国防科技工業軍民融合のさらなる発展の推進に関する
意見」の立案を研究中で,軍需産業の開放をさらに推進することで,軍需産業の民
生品転換や民生品の軍事転用の良好な政策環境をつくる.
 現在,最も新しい武器装備科学研究・生産許可目録では,既に過去の目録よりも
許認可事項が62%減少した.そして,新しく印刷配付される「国有企業の軍需産業
固定資産投資項目関連事項申告に関する通知」では,軍需産業を目指す企業への方
向性を明示され,民営企業が軍需産業固定資産投資プロジェクトを申告するルート
が開かれた.

 現在,国防科技工業局は以下のように見ている.
 軍需産業と民間セクターとのイノベーション戦略グループづくりをさらに支援す
ることで,軍需産業体系の開放的な競争と科学技術成果の事業化を加速させる.
 同時に,民営企業と軍需産業部門とが研究の協力枠組みをつくることを支援する
べきである.ルール制定の分野において,軍民ルールの共通化の推進を加速し,軍
需産業と国家計量技術機構がリードした最前線の計量科学技術の難題の解決を共同
で展開するべきである.
 このほか,さらに,各方面で軍民融合戦略協力協議の締結を適宜推進し,新政策
のお手本と試行を行う軍民融合イノベーションモデル地域をつくるべきである.

 現在,人民解放軍のパラシュート部隊のパラシュート供給は,多くを民営企業が
提供する生地の加工生産に頼っている.その品質は価格に見合うもので,調達コス
トを節約するとともに,企業に相当な利益をもたらす.

 今現在で,民営企業は既に中国の軍需産業体系の中でも存在感のある位置を占め
ている.
 浙江永康中国の全地形対応車の生産基地で生産される新型車,江蘇啓東のある企
業で生産されるパラシュートの生地は既に大量の注文を得ている.
 中国の国防事業のために貢献すると同時に,企業には大量の利益をもたらす.現
在,軍用車両と航空機製造分野では,複数の企業がPRし,軍需産業の注文のための
努力を怠っていない.

 全地形対応車は今年台頭した特殊用途の車両である.現在,永康の企業が研究開
発する軍用タイプは,既に人民解放軍に大量に配備された.

 国防科技工業局の担当者によると,改革深化を原動力,軍需産業の閉鎖性の打破
を突破口,軍需産業の開放,発展の牽引によって,軍民コラボレーションの正しい
方向を堅持し,優位な民営企業の軍用品科学研究生産やメンテナンス分野への進出
を導くことで,「小さい核心,大きな協力,専門家,開放的」という軍事品の科学
研究・生産体系を速やかに確立し,国防科学技術工業の軍民融合のさらなる発展を
推進する.

 現在,軍需産業の「四証」の資格獲得が,意欲のある軍需産業を目指す広大な民
営企業の業界進出の鍵となっている.
 しかし,現在,軍需産業の「四証」申請プロセスは非常に煩雑で,許認可も比較
的厳格で,豊富な経験を有する企業プラットフォームでプロセス短縮の成功率を高
めることが必要である.例えば,飛天衆智の中国製造科学技術サービスプラットフ
ォーム(www.techina2025.com)等は相談や申請指導サービスを提供している.
 このほか,「四証」を申請する企業は,同時並行的にプラットフォーム上で技術
マッチングを行うことが可能で,研究開発効率を高めている.軍需産業への進出の
ため,2段構えの準備をしっかり行っている.

 現在の計画に基づき,国防科技工業局は2016年新たな軍用品の科学研究・生産能
力の構造調整を行い,完全に公平で秩序のある軍用品市場の監督・管理組織を整え
る.また,国防科学技術のコラボレーションによるイノベーションを推進し,国際
協力を強化し,国防科学技術工業の海外進出を推し進め,軍需産業と地域経済との
融合した発展を実現させる.
〔飛天衆智2016年3月15日〕

●中国原子力発電所分布地図 沿海から内陸へ
 最近,国務院新聞弁公室は記者会見である数字を公表した.建設中の原発が24基
という数は世界一,稼動中の原発が30基という規模は世界第4位というものである.
 2011年福島の事故後,停滞状態にあったが,中国各地の原子力発電所事業は2015
年に新たに再開され,迅速に推進されてきた.

 公式発表によれば,中国で現在建設中の原子力発電は依然として主に山東,広東,
福建等沿海地域に分布している.
 内陸三大原子力発電事業と呼ばれる湖南桃花江原子力発電所,湖北咸寧大〓(*1)
原子力発電所,江西彭澤原子力発電所は早々に国家発展改革委員会の批准を得たが,
日本の放射能漏れ事件後,再開未定の状態に入っている.

 しかし,各地方政府と原子力企業は内陸原子力発電の積極的な準備をとめておら
ず,2015年9月の報道では,各地で既に31基の原子力発電が第一段階のフィジビリ
ティースタディーを完了しているとされた.
 完全に整理されているわけではないが,そのうち,明確な日程計画があるのは,
既に運転中の24基を除くと,第13次五カ年計画で原発建設事業決定がされた11省の
40基である.具体的な運転時期は未定ではあるが,早々に計画の検討課題に挙げら
れているのは19省の170基で,そのうち,内陸地域は湖北,湖南,江西以外では四
川,河南,安徽,河北等である.

 第13次五カ年計画によれば,2020年の中国における原子力発電の総設備容量は5800
万キロワット,建設を3000万キロワットとする.
 しかし,現在の出力は2831万キロワット,建設が2672万キロワットという数字で
は目標に遠く及ばないのは明らかである.ここから見るに,内陸原子力発電事業の
再開はほとんど時間の問題であると言える.

〈中国原子力発電所分布地図〉
 世界に視線を移してみると,福島の放射能漏れ事件発生後,日本国内の43基全て
の停止のみならず,世界じゅうの原子力発電建設事業は基本的に停滞状態に入って
おり,ここ2年でようやく回復の兆しが見えてきたと言える.
 世界原子力協会のデータによれば,今年1月までで,世界じゅうで66基が建設中
で,そのうち24基が中国のものであった.

 世界じゅうで現在稼働可能な原子力発電は439基である.そのうちアメリカが最
大の原子力発電における発展国であり,99基を保有,発電量は全電力供給量の19.5%
を占める.第2位のフランスは58基を保有し,全供給量の76.9%を占め,原子力に最
も依存する国家と言える.
 比較すれば,中国の原子力発電の総設備容量は既に世界第4位に達しているが,
2015年,原子力が全電力供給に占める割合は3%で,75%は依然として石炭火力発電
に頼っている.しかし,長期計画にある数量と総設備容量から見るに,意気込み盛
んな中国の目標は世界第1位の原子力発電国家であり,全ての計画を完了したあか
つきには,アメリカの2倍の総設備容量となる.

▽計画中の原発
 チャムス,靖宇,東港,乳山,南陽,蕪湖,山〓(*2),吉陽,松滋,〓(*3)陵,
小墨山,龍游,蒼南,瑞金,煙家山,韶関,掲陽,白沙,海豊,肇慶

▽原子力発電数原子力発電数
  稼動中  建設中  計画中
徐大堡   ─  ─  2    寧徳    3  1  2
紅沿河   4  3  ─     三明    ─  ─  2
石島湾   ─  3  ─    福清    2  4  ─
海陽    ─  2  2     〓(*4)州  ─  ─  6
田湾    2  2  2     陸豊    ─  ─  2
泰山    1  ─  ─    嶺澳    4  ─  ─
泰山二期  4  ─  ─    大亜湾   2  ─  ─
泰山三期  2  ─  ─    恵州    ─  ─  2
方家山   2  ─  ─    陽江    3  3  ─
三門    ─  2  2     台山    ─  2  2
大〓(*1)  ─  ─  2    昌江    1  1  2
彭澤    ─  ─  2    防城港   1  1  4
桃花江   ─  ─  4    白龍    ─  ─  2

▽世界原子力発電の現状
  原子力率  原発数  建設中
アメリカ  19.5  99  5     韓国    30.4  24  4
フランス  76.9  58  1     インド   3.5   21  6
日本    29.2  43        カナダ   16.8  19  3
ロシア   18.8  35  8     イギリス  17.2  15
中国    2.4   30  24     ウクライナ 49.4  15

※日本の原子力発電所は全部停止しているため,データは2010年の数字.
※原発数のデータは2016年1月現在,原子力率は2014年のデータ.
注)〓(*1)は「田」の横に「反」,〓(*2)はつちへんに「覇」,〓(*3)は「倍」の
へんをさんずいにする,〓(*4)はさんずいに「章」
〔網易2016年1月28日〕

中国最新情報 No.647 2016/3/29 特集:軍需産業と民間セクターの結びつきの強化 - 中国最新情報 [まぐまぐ!]
http://archives.mag2.com/0000009261/





【短期連載】 外人部隊の真実

外人部隊の老人ホーム「ピュルビエ」ーー外人部隊の真実(最終回)

 元上級伍長 合田洋樹
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 計12回にわたって私のメルマガにお付き合いいただき,本当に
ありがとうございました.このメルマガや拙著『外人部隊125の真実』
によって,少しでも「フランス外人部隊」のイメージが良い方に変わり,
私たち部隊兵のことを理解していただければ幸いです.

 また,どこかでお目にかかる機会があれば,「メルマガ読んだよ」
「本読んだよ」と声をかけていただければと思います.

 さて,最終回は外人部隊が運営する元部隊兵のための老人ホーム
「ピュルビエ(養護院)」について書きます.この施設があるからこそ,
外人部隊は完全に自己完結型の軍隊と言えるのです.

 仮に最年少の17歳半で入隊し,1任期の5年で除隊したとしても,
本人が望めば死ぬまで「ピュルビエ」で暮らすことができるのです.
このような施設は世界中を見ても,私の知る限り,フランス外人部隊
以外に存在しません.

 ここには,除隊後に民間での生活に馴染めなかった者,在隊中
または除隊後のケガや病気が原因で働けなくなった者,家族をなくし
天涯孤独の身になった元部隊兵などが暮らしています.

 1人の入居者を養うために,毎月約1000ユーロ(13万5千円)ほど
がかかるそうですが,もちろんこの額を支払える入居者はほとんど
いません.でも問題はありません,「ピュルビエ」ではワインやオリーブ,
また各種の外人部隊記念グッズを作っており,これらの作業に従事する
ことで賃金が発生するからです.賃金の85パーセントを施設に納め,
残りは自身の小遣いになります.

 外人部隊は名誉と忠誠のもとに勤務した部隊兵のことを,除隊後
も見放さないのです.もちろん在隊中,しっかりと勤務したことが絶対条件
ですが.

 仮に「ピュルビエ」が何かしらの理由で閉鎖されることになれば,
それは外人部隊が最も大事にしている「Solidalit? (連帯,団結)」が
失われることを意味します.だから現役や元部隊兵は,「ピュルビエ」を
大切に守っていかなくてはなりません.そうすることが,我々にとっての
将来に対する保険にもつながるからです.

「もし人生に行き詰まったらピュルビエがあるさ!」.この思いがあれば,
長い人生で苦境に立たされても,きっと踏ん張ることができるはずです.
すべてを失っても,我々部隊兵には「帰る家」があるのです.

 健康で,希望に燃え,将来の不安のない若い部隊兵にはピンと来ない
かもしれませんが,年齢を重ね,甘くない現実が見えてきた時に,
「ピュルビエ」のありがたさは身に沁みてわかるはずです.

 残念なことに今でも「外人部隊は傭兵で,フランスの捨て駒である」と
言われることがあります.それでは,なぜ外人部隊は,元部隊兵のための
養護院を用意しているのか? なぜ部隊兵にはフランスの社会保障が
適応され,傷痍軍人手当や軍事恩給もあるのでしょうか?

 この連載を読んでくださった読者ならお分かりと思いますが,外人部隊
は傭兵でも,捨て駒でもありません.フランス正規軍としての地位を保証
された軍隊なのです.


▼外人部隊の老人ホーム「ピュルビエ」

 部隊にはIILE(L‘Institution des Invalides de la L?gion ?trang?re)
と呼ばれる,元部隊兵のための「養護院」がある.

 フランス語の「Invalide」は日本語に直すと「廃兵院」.廃兵院とは,過去
の戦争で負傷し,二度と戦闘に従事できなくなった兵士や一般社会での就労
がむずかしい兵士を保護する施設のことだ.

 私はこの「廃兵」という言葉が好きになれないので,本書では「養護院」としたい.

 この養護院は,第一次インドシナ戦争中の最大の激戦「ディエン・ビエン・フー
の戦い」が行なわれた1954年に完成し,60年以上の歴史を持つ.

 戦闘で負傷した部隊兵に休養をとらせる施設はすでにあったが,激しい
戦闘が続いたインドシナ戦争では,それまで以上に多くの戦死傷者を出した.

 外国人でありながら部隊とフランスに忠誠を誓って戦い,負傷し,
時に命までなくした.社会復帰が困難な戦傷者のために,永続的な養護施設
の設立が急務となった.

 1953年,フランス政府は,南仏のエクス・アン・プロヴァンスに近い
ピュルビエ村の外れの200ヘクタール(現在は230ヘクタールに拡張)の
広大な領地を買い上げ,部隊に引き渡した.部隊はここを「ダンジュー大尉
の領地(Domaine Capitaine Danjou)」と名づけた.ダンジュー大尉は
カメロンの戦いの英雄だ.

 この養護院を部隊兵は「ピュルビエ」,または「部隊兵の老人ホーム」と
呼んでいる.サント・ヴィクトワール山の裾野に広がる広大な敷地内には,
現在100人ほどの元部隊兵が暮らしている.

 責任者である中佐の下で15人ほどの現役部隊兵と,26人の民間人
(大半が元部隊兵)がスタッフとして働いている.

 彼らは入居者が不自由なく暮らせるためのサービスを提供し,入居者
が望めば,就職の斡旋など,社会復帰の手伝いもする.

 病気で身寄りのない元部隊兵が,治療と療養を兼ねて養護院を訪れる
こともある.回復したら施設を出て,一般社会に戻ってそれまで通りの生活
を送る.

 もし将来,私が大病して恩給だけでは暮らせないと思ったら,この養護院
で養生できるし,ここで一生を終えることもできるのだ.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.3.30





『日清・日露の戦争の脚気の惨害と兵站』
 日本陸軍の兵站戦(17)

荒木 肇

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


□ご挨拶

 全国各地から桜の便りが届いています.桜は華やかで良いですね.
寒の戻りといいますかいくらか気温が低くなったせいか,開花も遅れ,
長持ちもしそうです.今週末は,市ヶ谷,土浦,習志野駐屯地へ
お邪魔しますが楽しみです.

 さて,黒猫ファン様,いつもご愛読ありがとうございます.この項を
書くにあたっては,医学史を学ぶことができました.山下政三医学博士
といえば,ビタミンと日本人についての大権威者ですが,やはり滋養の
あるものへの漢方の研究にも言及されています.西洋文化の輸入に
懸命だった先人たちが昔からの漢方医学をすべて捨てたところから
悲劇が始まったような気がします.今後ともよろしくお願いします.

▼日清戦争の慌ただしい動員

 1894(明治27)年5月,朝鮮に農民による反乱(甲午農民戦争)が
起きると,朝鮮政府は清国に救援を求めた.6月2日,わが国も条約に従い,
また居留民保護の名目で出兵が裁可された.漢城(現ソウル)の公使館の警備
には海軍陸戦隊があたっていた.大本営の設置もまた認められた.大本営の
設置は「戦時大本営条例」で規定されていた.同時に参謀総長は5日に動員
を発令した.『第5師団の一部を動員し別表戦闘序列の通り(第9)混成一旅団
を編成し派遣相成りたし』という動員・派兵の允裁(いんさい)を経て発令されたものだ.

 第5師団(広島)への混成旅団充員召集は6月5日午後0時13分発とされている.
続いて師団残部第1充員召集は12日午後5時45分発令とある.詳しい説明
が残っている.混成旅団動員のときには,予備役歩兵科の下士兵卒及び
輜重輸卒に限って,その到着日数が少ない者から召集し,他は現役兵で戦時
編制要員を充足した.戦時編制になって最も定数が増えるのは歩兵聯隊である.
また,輸卒の現役在営者はひどく少なく,多くは帰休兵として民間で暮らしていた
ので,ただちに多数の人員を必要としたからだ.

 当時の歩兵聯隊の平時人員は将校以下1600名であり,戦時旅団の
歩兵2個聯隊(この時は歩兵第11聯隊と同21聯隊)の動員計画定員は5770名
である.差し引き2600ほどの召集兵が必要だった.これに旅団に配属された
騎兵第5大隊第1中隊(充員208名),工兵第5大隊第1中隊(同292名),
輜重兵隊(同154名),衛生隊(同244名),野戦病院2個(同354名)が
混成第9旅団の野戦部隊である.その合計人員は7957名だった.

 混成第9旅団は野戦部隊と兵站部はともに6月17日に「動員が結了」した.
だが,「その部隊はいずれも臨時の編制で行李と輜重は駄馬ではなく,輸卒と
人夫で代えられ兵站部要員の多くは陸軍省より配属した」と戦役統計には
書かれている.実際の動員と派遣はあわただしいものがあったようだ.

 5日の充員召集発令時には第5師団長野津道貫中将は広島県知事に
「歩兵科の帰休兵・予備役下士卒で5日間のうちに広島に来られない者,
現役・予備役の輜重輸卒のうち7日以内に着隊できない者は召集しない」と
通達している.完全な動員体制確立ではなく,応急派兵的な動員だったことが
分かる.また,鉄道網が発達していないその頃,部隊に到着するには現在
からは想像もできない多くの時間がかかった.令状も人の脚で運ばれ,
赤紙を渡された者も山を越え,歩いてくることが普通だった.

 12日には臨時第9混成旅団(約8000名,うち戦闘員は同6300名)の
先遣部隊が仁川に上陸する.これは6日に兵営を出発し,8日に宇品で乗船,
9日に出航した部隊である.一戸兵衛(いちのへ・ひょうえ)歩兵少佐の指揮
する歩兵第11聯隊第1大隊と工兵1個小隊(芹沢正勝工兵大尉)の人員1123名
がその陣容だった.13日朝には仁川から漢城(ソウル)へ出発,その夕方には
公使館に到着,護衛の任を海軍陸戦隊から引き継いだ.一戸少佐とは10年後
の日露戦争において一戸堡塁で有名になった勇将である.以上,くどくど書いた
のは,平時の軍隊が戦う軍隊に変わるための手続きをより理解してもらうためである.
 
 7月25日には,豊島沖で海軍が清国艦隊を攻撃,7月29日には陸軍は成歓
と牙山の清国軍を撃破した.そして8月1日に宣戦布告がなされた.この海戦
の中で東郷平八郎艦長が英国船籍のチャーター商船「高陞号」を撃沈した.
国際法規に従った沈着な行動だったが,これを兵站・輸送・補給の面からみると,
東郷艦長の功績もさらに輝くことが分かる.高陞号で移動中の清国兵1200,
なかでも輸送中だった砲14門(12門との説もある)が成歓の戦闘に投入されて
いたらどうなったか.混成旅団はかなり苦戦を強いられたことだろう.混成旅団
がもっていた山砲は8門しかなかった.高陞号撃沈の結果,14門の大砲は
清国軍に使われず,もともとの8門と均衡することとなったからだ.

 このとき,陸軍は初めて戦時の軍の編成を行なった.師団などの戦略単位を
統括する上級司令部である.第1軍は山縣有朋を司令官とし,臨時混成旅団,
第5師団,第3師団をあわせ指揮して,8月までに仁川,釜山,元山から半島に
上陸していた.9月15・16日には平穣の戦いで清国軍守備隊を敗走させ,
10月下旬には鴨緑江を越えて南満洲に進撃した.

 この間,海軍は9月17日,『煙も見えず 雲もなく』で始まる「勇敢なる水兵」の
軍歌で知られる「黄海の海戦」で清国北洋艦隊を撃破.黄海の制海権を手にした.
これによって海上兵站線の安全は確保された.島国である日本,大陸で戦う陸軍
の補給には膨大な軍需品を運ぶ海上の安全は必須なものである.

 第2軍の編成下令は10月2日,混成第12旅団,第1師団,第2師団が隷下に
おかれた.軍司令官は大山巌大将だった.この軍は遼東半島の占領を目的に,
10月24日から南岸の花園口に上陸する.11月6日には金州城を落とし,翌日
に大連湾を占領,22日には旅順を攻略した.1895(明治28)年2月2日には
北洋艦隊の根拠地である山東半島の威海衛軍港も占領してしまう.

 アメリカの仲介によって下関(山口県)で日清講和条約が結ばれたのは4月17日
のことだった.この条約の中では遼東半島の割譲が決まったが,ロシア・フランス・
ドイツの口出しのために清国に返還するという決定があった.これを三国干渉
といい,世論は大反発した.しかし,国民は「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を
合言葉にしてさらに軍備の充実を決意することになった.当時の世界情勢では,
力の無い者の主張は認められなかったからである.

 臥薪嘗胆はそのころ広く知られた中国春秋時代の故事から生まれた言葉
である.越王勾践(こうせん)と呉王夫差(ふさ)の復讐劇だった.夫差は父の
仇勾践を討とうと寝台に横にならず薪の上に寝た.こうして夫差は報復を
遂げたが,勾践は敗北を味わった会稽(かいけい)の恥を雪(そそ)ごうとし,
いつも苦い胆(きも)を嘗(な)めていたという話である.国民はこの両王の心意気
を自分たちのものとした.領土の割譲は澎湖島(ほうことう)と台湾にしか
過ぎなかったが,多くの償金を手に入れた.陸軍は師団その他を増設し,
海軍も新鋭艦の購入・建造にいそしむことができた.

▼日清戦争の人的損害

「日清戦役統計」によると,軍人と軍属を合わせて外地服務者は約17万8000名,
内地には6万9000名,合計24万7000名である.当時のわが国の総人口は
約4100万人,うち男性が2100万人であり,兵役人口は423万人だった.
男性のおよそ5人に1人,20歳から32歳までの人がそれにあたった.毎年の
壮丁数はおよそ40〜43万人くらいである.ただそのうち現役兵として入営した
のはおよそ12万人だった.

 1893(明治26)年末で,予備役兵卒は歩兵科6万人,騎兵科1300人,
砲兵科6300人,工兵科2700人,輜重兵科1400人,その他1万8000人
(雑卒など)の合計9万人.4年間の予備役を終えると後備役に編入された.
この服役は5年間である.その数はおよそ10万4000人.これに予備役下士
が各兵科・各部合わせて4100人,後備役同は6800人.この20万4900人
の予・後備下士兵卒,それに予・後備役将校およそ1500人が動員規模の
最大員数だった.

 現役軍人は将官とその相当官が63人,上長官(佐官と相当官)626人,
士官(尉官と相当官)3870人,准士官49人,下士1万2987人,兵卒25万1847人,
諸生徒2187人,合計27万1629人という勢力だった.これに加えて,軍属は
奏任官が92人,判任官785人,生徒1人,傭人1427人の2305人.
陸軍に勤務する者の合計27万3934人である.軍属は陸軍に勤務するが
武官ではない.技術職や学校教官,事務官,雑役夫などをいった.
奏任官は佐官・尉官と同等の官位をもち,判任官は属ともいわれ下士相当だった.
 
 当時の現役将校,とりわけ若手の上長官以下はみな高等教育機関出身
である.准士官がわずか50人ほどしかいないことに不審をもつ方もいよう.
それは当時,士官学校か国家資格をもたせる学校出身者でなければ将校,
士官にはなれなかったからである.准士官になるのもごく一部の技術系下士
の最終進級先であったことに他ならない.中等学校卒業以上でなくても士官に
なれるようになったのは,大正時代になって少尉候補者に選ばれて士官学校
に学べるようになってからのことである.また日露戦中や戦後には特別進級で
任官した下士・准士官もいたが,それはまだ10年も後のことになる.
 
 さて,日清戦争の人的損害である.死亡者数は2万159人だった.そのうち
軍人・軍属の死亡者数は1万3488人である(67%).さらに特徴的なのは,
戦闘死者と戦傷が原因となって亡くなった人は1417人にすぎない.全死者
の7%しか戦闘による死者がいないのである.ならば93%を占める死者は
というとほとんどが病死者だったのだ.軍人・軍属以外の死亡者は多くが
民間人の傭い人夫だった.
 
 この戦争では,兵站部でも野戦隊でも糧秣輸送の多くを人夫の背中に頼った.
陸軍は師団編成をとったときに輜重兵を各師団に配分したが,この輜重兵大隊
は主に歩兵聯隊と行動を共にする野戦輜重兵だった.輜重兵は師団輜重
といわれたように,兵站輸送部隊によって運ばれた物資を集積所に受け取り
に行き,師団内の各部隊に物資を配当するのが仕事である.後方からの補給
を主任務とする軍兵站補給部隊の編成にまで,とても手が回らなかったのが
実情だった.だから兵站補給部隊の大多数は内地で集めた人夫によって構成
されていた.その数はすべてで15万2000人にも及んだ.たとえば第1師団
では野戦隊に9500人,兵站部に4700人もの傭い人夫が従軍していた
のである.この他,大本営,第1軍,第2軍に所管された者などがいた.
 
 病死者の病名は戦地入院患者が多い順に挙げてみよう.(  )内は死者数
である.第1位は脚気3万126人(1860),急性胃腸カタル1万1361人(1595),
赤痢1万1164人(1611)以下,マラリヤ,コレラ,腸チフス,肺炎の順になる.
ただしコレラによる死者は入院患者8481人中の5211人と死亡率が圧倒的
である.それにしても,脚気の死亡率は6%とはいえ,患者数の多さは最大,
死者もコレラに次いでいる.軍人・軍属に限れば脚気にかかって1万7546人
が入院し,うち死者は987人(致死率5.6%)で,人夫・職工の入院数1万2580人,
うち死亡が873人(前同6.9%)という悲惨な状況にあった.

▼脚気をもたらした野戦給食

 大本営の幹部は参謀本部や陸軍省の平時職に就いていた者が多く充てられた.
陸軍省医務局長は戦時職として野戦衛生長官になった.戦時中の長官は
白米至上主義の石黒忠悳である.石黒の下には各軍の軍医部長,その下には
師団軍医部長がいて衛生隊,隊属衛生部,野戦病院を統括した.もう一方には
軍単位の兵站軍医部長がいて,司令部附衛生部,兵站病院,戦地定立病院
(衛生予備員),衛生予備廠,患者輸送部,鉄道輸送,水路輸送などを統括
していた.この中の第二軍兵站軍医部長に森林太郎軍医監の名前が見える.

 森はエリートだった.ドイツ帰りの衛生学の新知識であり,洋食や麦食と比較
して白米食の優秀さについてさまざまな実験を行ない,その結果を発表していた.
石黒がたいへん頼りにしていた有能な後輩だったのだ.石黒は頑なに白米支給
にこだわった.そして森も忠実な軍人として,この方針に従っていたことは疑えない.

 とりわけ脚気の惨害をこうむったのは台湾へ派遣された部隊だった.台湾の
領収のために派遣されたのは第2軍の近衛師団の将兵である.講和条約の
締結は4月17日,5月10日には樺山資紀海軍大将が台湾総督に任じられて,
近衛師団と海軍の常備艦隊が総督の指揮下に入った.予想外だったのは現地
の住民,豪族,清国軍隊が頑強な抵抗をしたことだ.当初,穏やかに民政を
行なうこととした方針を変えて征討を行なうこととなった.

 7月下旬には混成第4旅団が編成されて,8月2日に大連から出航する.
9月2日には遼東半島から第2師団の投入も決定,8日には先発部隊が台湾
に向かった.16日に「南進軍」が編成され,2個師団,1個混成旅団という大兵力
で10月下旬,ようやっと全土を平定できた.宣戦布告から威海衛の攻略までが
6カ月,台湾平定は5カ月もかかった.

 そして脚気は,戦争全般を通して内地,野戦を通じて見られたが,とりわけ
この台湾領収部隊で猛威をふるったのだ.その患者数は10カ月間
(28年3月〜12月)で2万1087人,発生率107.7%,死亡率9.98%にも
のぼった.そして戦死は284人である.発生率が100%を超すのは,2回,3回
と罹る者がいたからだろう.

 実際に現場では何を食べていたのだろうか.輸送は順調である.海路を安全
に運ばれた白米はふんだんに提供された.内地米を十分に食べているという
報告がある.では,副食はどうか.『前進部隊ハ勿論兵站地ニ駐屯スル部隊
スラ』梅干,干魚,佃煮,氷豆腐(乾燥した高野豆腐のこと),かんぴょう,
かぼちゃ,芋,シイタケ,大根漬けなどであり,味噌汁もろくろく飲めなかった
とある.白米をたらふく食べてビタミン不足の粗末な副食.いまの栄養学から
見れば,まさに模範的な脚気食だったわけだ.

 そして,この時,森軍医監は台湾総督府陸軍部軍医部長の職に就いていた
のだった.しかし,当時の森にとっても手を拱(こまね)いているしかなかったのだ.
白米は素晴らしい食品であり,おかずが粗末だからだとは考えられなかったに
違いない.せめて麦飯を支給する勇気さえあればと現在からは思えるが,
それは自分の栄養学の敗北を認めるようなものだったのだろう.

▼海軍からの批判と石黒の反論

 ひるがえって海軍はどうだったか.『戦時糧食条例』に基づいて,白米を減らし,
副食を2割増しにしたという.おかげで海軍の脚気発生は入院患者,わずかに
34名だった.陸軍は3万人という数字に比べたら,誰もが首をひねったことだろう.
やはり攻撃は海軍軍医が口火を切った.それに対して,東京大学出身者を
中心にした陸軍高級軍医たちは「学理的」な反論を行なった.ビタミンが発見
されない以前の世界では,とても解決できない問題でもある.

 海軍軍医界も執拗だった.麦食を戦時だからと止めたら,海軍でもとたんに
脚気が再発生した.すぐに麦食に戻したら,すぐに脚気の患者はいなくなった.
まず,食事の改善,しかも麦食を採用せよというのだ.これに対して石黒は
どう答えたか.まず,兵隊を尊重し,学問を信じるからだという.味が悪く,
消化もよくない麦を大切な兵隊に命令で食べさせるわけにはいかない.
また,米食と脚気に関係があるとは帝国大学の医学者も明言してはいない.
さらに栄養・保健学界の権威である人(森林太郎のこと)が学問的な研究で
米食が麦食より優位であることを発表している.軍隊に給与する物を学理的
な納得をなくして変えるわけにはいかないというのが石黒の反論
『兵食談(明治29年4月に「時事新報」に掲載された)』だった.

 この反論ははなはだ意味がない.それどころか,米と麦の栄養学上の比較
と対症療法としての麦食給与をわざと混同している.一部の陸軍軍医と
海軍軍医のすべては,理由の解明はともかく,脚気を減らすには麦飯が有効
だと主張しているのである.不思議なのは,1884(明治17)年の全国の部隊
への雑穀混入を認めた自分の態度をどう説明するかである.
そして,その結果,陸軍の脚気発生は下火になった.そのことを十分に承知
していながら,石黒は戦時中に白米だけを給与した誤りを認めないのである.

 1897(明治30)年,石黒は休職の辞令を受け取った.停年のはるか前の
52歳のことだった.軍医総監(中将相当)の停年は65歳である.病気療養
のためと,後進に道を譲るためと自分から言いふらしたが,当時,真に受けた
人はいなかったらしい.

 台湾の脚気も1896(明治29)年から3割の麦飯を給与するようになって
から発生も終息するようになった.翌年には患者数は2700人に減少,
続いて次の年には1700人に,1901(明治34)年には111人になり,
その翌年には53人となっていった.

 こうであるのに,なぜ,また日露戦争では脚気の惨害が起きたのだろうか.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.3.30





『ライター・渡邉陽子のコラム (88) ─ オリンピックと自衛隊(2) 』
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは.渡邉陽子です.

今春の人事で,知り合いの自衛官が各地に異動となりました.
入校した方,ようやく幕から解放?され部隊勤務となった方,
さらに単身赴任が続く方,防衛駐在官として海外に赴く方,
みなさんいろいろです.取材に行きたいところがまた増えました.

OBの方へ
ご丁寧なメッセージをありがとうございます.東京オリンピックで
自衛隊が甚大な支援を行なったことは,驚くほど知られていませんね.
半世紀前も今と変わらず,与えられた任務を粛々と遂行する姿に,
調べるほど頭が下がりました.
そちらはまだまだ不自由も多く,ご苦労もおありかと存じます.いつでも
被災地の復興を心よりお祈りしています.ありがとうございました.

笑氏様
確かに旧枢軸国が選ばれていますね.第18回の開催地を東京と争った
のがアメリカ,オーストリア,ベルギーであったのも,偶然ではないのか
もしれません.興味深いご指摘をありがとうございました.


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○ライター・渡邉陽子とは?
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■オリンピックと自衛隊(2)

前回は第18回オリンピック東京大会開催が決まるまでのお話でした.
今週からはオリンピックに向けた防衛庁の動きをご紹介します.

オリンピック東京大会の開催が決まったのが1959年です.
開催までの5年間,防衛庁はどのように準備を整えていったのでしょうか.
そもそも防衛庁にはどのような協力が求められたのでしょう.そしてその
要請すべてを防衛庁は受け入れたのでしょうか?

それがわかるのが,東京大会の公式記録です.
防衛庁の協力に関して記載されている東京大会の公式記録は,OOC(*),
文部省,防衛庁がそれぞれ作成しています.
(*)オリンピック大会組織委員会の略称


もっとも細かく記載されているのは当然ながら防衛庁の記録で,協力の要請
があった項目と引き受けた項目についての詳細も記載されています.

文面はあくまでも淡々としていますが,その文脈の合間に,OOCと防衛庁の
間で何度も行なわれた支援業務についての攻防がちらついています.
そこには「自衛隊にやってもらおう」という思惑のOOCと,「そこまで頼んでくるか」
と抵抗する防衛庁という構図が浮かび上がってくるのです.


東京大会までの5年間,防衛庁がオリンピックに向けてどのように準備
を進めていったかは,3つのフェーズにわけられます.
それぞれのフェーズで防衛庁の支援内容も変わっていったので,
準備の様子を振り返りつつ,支援内容の変遷も見てみることにします.

1960~1962年度
基礎的な準備段階の時期に当たります.
どの部門をどのように協力する必要があるかを調査し,協力する場合の
法的根拠,協力準備態勢,協力開始時期などについて検討し,関係法令
を整備し,基本的方針の決定を見た段階です.


1960年8月,防衛庁は職員3名をオリンピックローマ大会に派遣して,
イタリア軍の協力状況を調査しました.
するとイタリアの場合,軍が協力することは「国際的慣例であり法律以前
のもの」と,法的根拠がないことが判明します.これは防衛庁にとって相当
な驚きだったことでしょう.

けれど実際のところはイタリアだけでなく,他国も軍のオリンピックへの協力
に関する法律は,少なくとも当時はありませんでした.「オリンピックが自国
で開催されるのは数十年,数百年に一度のこと.国を挙げての祭典である
ことは間違いなく,それに軍が協力しないなどありえない」というのが,
各国の共通した認識だったのです.


しかし日本の場合はそうもいきません.防衛庁はすでに国民体育大会や
アジア大会などのスポーツイベントへの協力を行なっていましたが,
その法的根拠が明らかでないために,いろいろ不便が生じつつありました.
そこで1961年に自衛隊法を改正します.このように法を整えたのは,
他国とは一線を画したところです.

少し堅苦しくなってしまいますが,改正された内容は以下のとおりです.


(運動競技会に対する協力)
第百条の三  防衛大臣は,関係機関から依頼があった場合には,
自衛隊の任務遂行に支障を生じない限度において,国際的若しくは全国的規模
又はこれらに準ずる規模で開催される政令で定める運動競技会の運営につき,
政令で定めるところにより,役務の提供その他必要な協力を行なうことができる.

(運動競技会の範囲)
第百二十六条の十二  法第百条の三に規定する政令で定める運動競技会は,
次の各号に掲げるものとする.
一  オリンピック競技大会
二  アジア競技大会
三  国民体育大会
四  ワールドカップサッカー大会

(運動競技会の運営についての協力の範囲)
第百二十六条の十三  法第百条の三の規定により運動競技会の運営
について協力を行なうことができる範囲は,次の各号に掲げるとおりとする.
一  式典に関すること.
二  通信に関すること.
三  輸送に関すること.
四  奏楽に関すること.
五  医療及び救急に関すること.
六  会場内外の整理に関すること.
七  前各号に掲げるもののほか,運動競技会の運営の事務に関すること.

(運動競技会の運営についての協力に要する費用の負担区分)
第百二十六条の十四  第百二十四条の規定(※注 土木工事等の実施に
必要な費用のうち旅費を除く隊員の給与,食費,車両等の修理費以外は,
工事を委託してきた側が負担するというもの)は,法第百条の三の規定により
運動競技会について協力を行なう場合の費用の負担区分について準用する.


こうして法整備ができた1961年7月,OOCから防衛庁へ,東京大会の運営支援
に対して正式な依頼がありました.
支援事項は自衛隊法第126条の13に規定する事項全般についてです.
この法律を見れば一目瞭然ですが,要はオリンピックのあらゆる部門で協力を
求められたということになります.


次回はOOCから依頼のあった支援内容についてなどをご紹介します.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.3.31





マーケット・ガーデン作戦とインテリジェンス (19)
                長南 政義
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■2月号までのあらすじ

本連載は,精確な内容を持つインテリジェンスが一九四四年九月上旬に
連合軍の指揮官に利用されたかどうかを考察することにある.
実は,インテリジェンスの内容は,マーケット・ガーデン作戦実行に伴うリスク
を連合軍の指揮官に警告していた.

指揮官が決定を下すために利用できるインテリジェンスの情報源は数多く
存在していたが,本連載では「ウルトラ」情報により提供されたインフォメーション
にのみ焦点を当てて考察を進めることとする.第二次世界大戦を通じて,
連合軍の戦略レヴェル・作戦レヴェルの指揮官たちはウルトラ情報を活用し,
ウルトラ情報の精確性に関してめったに疑いを持たなかったからだ.

前回は,「ウルトラ」計画に対する著者なりの評価を述べた.
前号で説明したように,「ウルトラ」計画最大の成功要因は徹底化
された秘密保全にあった.だが,秘密保全の徹底化は弊害も孕んでいて,
いうなれば諸刃の剣であった.

今回から数回にわたり,連合国側によるマーケット・ガーデン作戦
までの「ウルトラ」情報の利用について述べることとする.

▼ウルトラに懐疑的な関係者

第二次世界大戦勃発当時,「ウルトラ」計画は,組織的規模および態勢の両面
で小規模なプログラムであった.大戦勃発以前,ウルトラ計画がその将来に
おいて戦争遂行上いかに死活的なものになるのかということを,誰も予見
できなかったし,大戦勃発当初,多くの関係者がウルトラに関して懐疑的で
あっただけでなく,ウルトラよりも低水準の暗号解読,画像情報およびヒューミント
といったありふれた情報源に多くを依存していた.

しかし,こういった関係者のウルトラ計画に対する懐疑的姿勢も,ウルトラ
が信頼性を確立し,指揮官に対し絶え間なく増大する量の情報を提供し
続けたことにより,最終的には変化することとなった.

▼ウルトラ計画最初の成功

作戦情報提供面でのウルトラの最初の成功は一九四〇年四月にドイツ軍
により実施されたノルウェイ侵攻作戦に際してであった.ドイツ国防軍最高
司令部(OKW)がノルウェイ侵攻軍のために特別に作成した暗号は,一週間
以内に解読され,最終的に1000のメッセージを生み出した.

成功はこれに止まらなかった.一九四〇年五月十日に開始されたドイツ軍
のフランス侵攻作戦においてもウルトラ計画は成功をおさめたのだ.
もちろん,ウルトラ情報は六月二十二日の独仏休戦協定調印という事態
を食い止めることはできなかった.だが,ウルトラ情報が野戦軍指揮官に対し
有益な情報を提供することができる潜在的可能性を有していることが証明
されたのだ.

▼情報は死活的に重要だが助演俳優に過ぎない

確かに「情報」は大戦初期にドイツ軍の快進撃を止めることができなかった.
だが,単に連合国がドイツ軍を撃破する能力を持っていなかったに過ぎない.
暗号史や軍事情報について数多くの著作を書いているデビッド・カーンは,
一九三九年のポーランドの敗北を論じた人物であるが,一九四〇年の連合軍
の敗北について論じた中で,次のように述べている.

「敗北はインテリジェンスの素顔を明らかにした.すなわち,大砲や士気とは違い,
インテリジェンスは戦争において二次的要素でしかないということである.
ポーランド人の暗号解読,あらゆる悲痛な努力と英雄的成功は,ポーランド軍
を少しも助けなかった.インテリジェンスは力を通じてのみ作用することができるのだ」.

だが,軍事力に対するインテリジェンスの弱い立場は,第二次世界大戦が進み,
連合国側がウルトラにより提供された情報を利用できるようになってから強い
立場へと変化することとなる.

▼モントゴメリー将軍による「ウルトラ」情報の使用

最初は押され気味であった連合国側も,一九四二年までに攻勢に出られるよう
になり,戦場にいる指揮官がウルトラ情報を利用できるようになった.
たとえば,英国のバーナード・モントゴメリー将軍は,一九四二年八月十八日に
第八軍司令官に就任した直後に,「ウルトラ」情報を使用し,情報面でドイツ軍
に対し有利な地位に立てるようになっている.

モントゴメリー将軍が最初に「ウルトラ」情報を使用した戦闘は,エル・アラメイン
の戦いの前哨戦であるアラム・ハルファの戦いである.モントゴメリー将軍は
アラム・ハルファの戦いにおいて堅実な防御作戦を採用して,「砂漠のキツネ」
エルヴィン・ロンメル元帥に対し勝利をおさめている.この戦闘において
モントゴメリーは,ロンメルの主攻軸やドイツ軍の攻撃開始時期に関して報告
した「ウルトラ」情報に基づき防御作戦を準備し,ロンメルのアフリカ軍団を
撃破することに成功したのである.これにより,連合国側は攻勢に出られる
ようになった.

インテリジェンス研究におけるアラム・ハルファの戦いの意義は次のように
評することができよう.すなわち,マーケット・ガーデン作戦の提案者である
モントゴメリー将軍が早くも一九四二年の段階で「ウルトラ」情報を使用し
始めており,大戦中を通じて「ウルトラ」情報を使い続けることになるきっかけ
となった戦いである,ということだ.

モントゴメリー将軍の情報将校を務めたことのあるビル・ウィリアムズは,
一九四二年八月の出来事やモントゴメリー将軍の情報使用について
次のように述べている.

「彼はいつロンメルが攻撃を仕掛けるか,ロンメルがどこで何を使用して
攻撃するのかを知ることを望んでいた.・・・彼は与えられた情報を受け取る
ことにより彼の最初の戦闘─アラム・ハルファの模範的な防御帯─で勝利を
得た.・・・その時の情報が適切であることが判明したので,モントゴメリー
は情報をその後も信じることになった」.

だが,皮肉にも,あれほど「ウルトラ」情報の利用に熱心であったモントゴメリー
がマーケット・ガーデン作戦実施までの数週間に情報を有効利用し続けなかった
ことが,マーケット・ガーデン作戦において彼が失敗する原因となった.

▼軍団レヴェルより下の部隊には秘匿された「ウルトラ」計画

「ウルトラ」計画は戦争の進行と共に拡大し続けた.「ウルトラ」計画は,
大西洋の戦いにおけるドイツ海軍の敗北,イタリア戦役,およびドイツ本土
に対する戦略爆撃において重要な役割を果たした.

連合国側が大君主作戦(オーバーロード作戦=ノルマンディ上陸作戦)を
実行に移す時までに,ウルトラは軍レヴェル以上の部隊において主たる
情報源となった.その一方で,情報保全上の用心から軍団レヴェルより
下の部隊はウルトラを使用する対象から除外された.戦術部隊は情報要約
や報告書を通じて「ウルトラ」情報の間接的な受益者であったが,
「ウルトラ」計画の存在についてはまったく気付いていなかった.

たとえば,一九四四年八月二日に創設され,マーケット・ガーデン作戦
の司令部として働いた第一連合空挺軍でさえも「ウルトラ」情報の配布先
リストから外されていたのである.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.3.31





兵法三十六計(15)

第十五計 調虎離山(ちょうこりざん)
    ─中国によるサイバー戦の脅威─

     元防衛省情報分析官・上田篤盛(あつもり)
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▽我の優位な分野に誘い込む

「調虎離山」は「虎を調(あしら)って山を離れしむ」と読む.山の中で育った虎は,
虎が慣れ親しんだ山の中では捕獲できない.しかし,虎を山から,不慣れな
平地に誘い出すことができれば,虎を捕獲することも可能となる.

 この策略は,敵の得意とする分野から,不得意な分野に誘い出し,敵の優位性
を失わせるものである.『孫子』では,「城攻めは下策である」ことを説いているが,
スポーツでも同様にアウェイで戦うには苦戦を強いられる.正攻法で戦うには
危険すぎる強力な敵に対してはこの策略が有効なのである.

 毛沢東は,地形を熟知している中国内陸部に日本軍や国民党軍を誘致・導入
してゲリラ戦を展開して勝利した.

 ベトナム戦争では,北ベトナム軍が米軍をジャングルに誘き寄せて戦力を消耗
させた.圧倒的に優勢な戦力を誇る米軍もジャングルでは“山から離れた虎”に
すぎなかったのである.

 このように,自らの有利な場所で戦うことで,弱者が強力な敵に勝利できる可能性
があるのである.これが「調虎離山」の計である.

「調虎離山」は兵法第二十八計の「上屋抽梯」(じょうおくちゅうてい)と同じく,
敵の得意な領域から誘い出す策略である.しかし,必ずしも我が得意な領域に
誘い出すことを必須とはせず,敵と対等に戦える領域に誘い出すことで,
“五分五分”の勝負の持ち込むことを狙っている.

▽毛沢東が採用した「調虎離山」の計

 1971年9月13日,林彪(りんぴょう)派が毛沢東暗殺とクーデターを企てて失敗し,
国外脱出を試みた.彼らは逃亡中の航空機墜落により死亡した.いわゆる林彪事件
である.

 以下,その内容を要約する.

・1959年の彭徳懐(ほうとくかい)国防部長の失脚後,林彪は後任の国防部長
として急激に台頭した.66年からの文化大革命による劉少奇(りゅうしょうき)派
の粛清運動を行なうなか,林彪系の第四野戦軍系軍人は地方を中心に権力を
手中に収めるようになる.
 林彪自身は66年の第8期11中全会で,単独の党副主席に就任し,毛沢東に
次ぐ序列に2位に昇格,69年4月の第9回党大会で毛沢東の後継者に指定された.
 同時に林彪の妻である葉群,部下の黄永勝(総参謀長),呉法憲(空軍司令員),
邱会作(総後勤部長),李作鵬(海軍第1政治委員)も党中央政治局委員に選出
され,林彪の政治的立場は強化されたかにみえた(この点については後述).

・毛沢東は,1970年9月,「中共中央発表56号」通知を発表し,劉少奇が失脚
してから空席となっていた国家主席を設けないことを発表した.これに対し,
国家主席就任を目論む林彪が反対したことから,彼の野心が毛沢東から
ますます疑われることになった.

・林彪は毛沢東の秘書役である陳伯達(ちんはくたつ)を抱きこみ,70年の
9期2中全会で,「国家主席擁立論」(毛沢東を国家主席に擁立する理論)と
「天才論」(毛沢東を天才とする理論)を展開して“生き残り”をかけた.
 しかし,もはや手遅れだった.林彪派は次第に追い詰められた.71年3月27日,
林彪の息子の林立果(空軍作戦部副部長)が,地方視察の毛沢東を爆殺する
というクーデターを計画した(「五七一工程紀要」の作成).
 
・毛沢東は71年8月,林彪の粛清を決断し,林彪を油断させるために地方旅行を
開始した.そして旅先で,林彪を「極右」と激しく非難した.
 これに追い詰められた林彪派は9月5日,毛沢東の乗った専用列車の爆破を
計画した.しかし,暗殺計画を事前に入手した毛沢東は帰路を変更し,暗殺を
回避した(なおこの暗殺計画の漏洩には,娘の林立衡による周恩来への密告説や,
林彪派の暗号電報を毛沢東派が傍受することに成功したとの説がある).

・林彪と葉群は9月12日,暗殺後のクーデター準備のため,河北省の北戴河の
自分の別荘で会議を開催した.しかし,この動きがすべて毛沢東派に漏洩した.
そこで林彪らは急遽,ソ連への逃亡を謀った.

 実は林彪派は69年の第9回大会で,北京中央の要職に就いた(就かされた)ため,
自由な身動きがとれなかったのである.他方,毛沢東は康正(こうせい,特務機関
のボスで文化大革命の影の指導者),汪東興(おうとうこう,中央警衛師団長),
華国鋒(かこくほう,毛沢東死亡後の後継者)らの特務グループに命じ,林彪派
の動きをつぶさに監視していた.

 つまり,第9回党大会は,表面上は林彪の政治的立場が強化されたが,
実は林彪派は“檻の中の虎”状態になったのである.つまり,毛沢東は林彪を
早くから警戒し,「調虎離山」の計を発動することで林彪派の一斉粛清に成功
したのである.

▽中国軍は「調虎離山」に基づきサイバー戦能力を強化

 中国の最大な軍事敵大国が米国ではあることには異論がない.ただし,中国は
強大な米軍と真っ向勝負しては勝ち目がないことを認識している.

 そこで“負けない戦い”の戦場となるのが「サイバー空間」である.

 中国軍は「サイバー空間」では圧倒的な軍事力を誇る米軍も弱点を有すると
認識している.なぜならば,米国の湾岸戦争以後の戦いはC4ISRに基づく,
高度な指揮統合作戦を強化する方向に進んでいるが,指揮系統の要となる
「サイバー空間」に対する「麻痺戦」に十分な対応ができていないからである.

 これを象徴するかのように,中国国防大学で情報戦に携わる司光亜大佐は
2011年11月,「サイバー空間を制する者が戦争の主導権を握る」「サイバー空間
は海洋以上に大切な安全保障の砦である」と主張した.

▽中国軍によるサイバー戦能力の強化動向

 中国軍はすでに1991年の湾岸戦争後からサイバー戦への取り組みを開始し,
1999年のコソボ紛争からその取り組みを加速化したとみてほぼ間違いはない.

 台湾淡江大学のサイバー戦専門家である林穎佑氏によれば,1999年5月に
起きたNATOによる在ユーゴ中国大使館誤爆事件が「中国によるサイバー戦能力
の強化に向けた重要結節となった」と述べる.

 誤爆後,米政府系ホームページが中国側から次々とサイバー攻撃を受けたが,
これを契機に,「中国軍総参謀部第3部に『網軍』と呼ばれるサイバー部隊が設置
された」との見解を彼は示した.

 この「網軍」の詳細は明らとなっていないが,中央に数千人規模の要員を有し
7大軍区に拠点を設置し,本部と各拠点を光ファイバーで結び,サイバー攻撃を
想定した軍事作戦訓練を頻繁に行なっているという.

 以下は,最近の中国軍のサイバー戦への主要な取り組み動向である.

1)2010年7月,各部門に分かれたサイバー部局の作戦や研究をまとめるために,
総参謀部第4部内に情報保障基地が設立されたという.これは,その2カ月前に
米軍が立ち上げたサイバー司令部を意識したものだという.同年10月には,
陸・海・空軍と第2砲兵(戦略ミサイル部隊)が加わり,電磁波による通信妨害や
サイバー攻撃などで敵司令部の機能を奪う訓練を行なったとされる.

2)2011年3月,中国の『国防白書』(『2010年中国の国防』)が発表され,ここで
中国軍の新たな任務に「サイバー空間における国家の安全保障上の利益を擁護
すること」が追加された.

3)2011年5月,国防部報道官が「広州軍区内から30人余りの専門家を召集し,
サイバー空間における安全防護を行なうサイバー対抗部隊を創設した」と発表した.
 他方,中国国防部は同部隊の任務を「防衛レベルを高めること」と説明し,
他国に攻撃を仕掛けるハッカー集団であるとの疑惑を否定した.

4)軍機関誌『解放軍報』が,設立されたサイバー対抗部隊の演習模様を報じた.
報道によれば,この演習はサイバー部隊がウィルスをばら撒き,数では圧倒的に
優勢な対抗部隊の情報網に入り込み,兵力配置など軍事機密を盗み出すという
内容であった.

5)2015年12月末,陸軍指揮機構の設置と同時に,これまでの陸・海・空軍と
第2砲兵による三軍種一兵種の体制から,ロケット軍(第2砲兵が改編)と
戦略支援部隊が新たな軍種として創設され,5軍種体制になった.
 戦略支援部隊の任務内容は明らかではないが,電子戦,宇宙における
人工衛星の管理などとともにサイバー戦を担任するための専門部署とみられている.
 
 このように,中国軍はすでに着々とサイバー戦能力を強化しているのである.

▽サイバー戦の脅威とは?

 サイバー攻撃には平時の活動と戦時の活動がある.

 平時の主な活動には,1)敵国の政府機関等のネットワークに密かに侵入して
重要情報を窃取する,2)戦時におけるサイバー攻撃に必要な偵察活動を行なう,
3)戦時のサイバー攻撃を狙いにマルウェア(悪意のソフトウェア)を敵のネットワーク上
に事前に残置する(事前攻撃)が考えられる.

 2)については,戦時において敵の指揮統制,兵站システム,電力施設などの
インフラ設備に対し大々的なサイバー攻撃を仕掛けるための事前偵察である.
すなわち,敵のネットワークのどこにサイバー攻撃を仕掛ければ敵の混乱・麻痺状態
を有効に作為できるかなどを明らかにする.

 戦時には,中国軍は組織的に各種インフラに対するサイバー攻撃を仕掛けて,
「サイバー空間」を支配し,米国のインフラ施設の破壊や米軍に対する「麻痺戦」を
展開する可能性がある.

 米国はその可能性を早くから警戒し,2003年に米国北東部を襲った大規模な
停電,2008年2月にフロリダで発生した停電について,「中国軍が電力網を管理
しているコンピュータに侵入し,連鎖的な大停電を引き起こした可能性がある」との
見解を述べた.

▽中国はますますサイバー戦能力を強化する

 中国は,1)サイバー戦は伝統的なスパイ活動または軍事活動に比較して
低コストである,2)相手国から発信源が特定されることもなく責任回避が容易である,
3)経済混乱などが作為でき,影響力行使が多領域に及ぶ,4)国際的な法的枠組み
が発達不十分であるため規制されにくい,などの利点を認識している.

 これらにも増して,中国がサイバー戦の強化を狙っているのは,米国が「サイバー空間」
における優位を保持できないばかりか,高度情報社会が米国の弱点であることを
中国が認識しているからにほかならない.つまり,中国は「調虎離山」の兵法に基づき,
米軍が不利とする領域での軍事能力の強化が重要であることを認識しているのである.

 言い換えれば,中国軍による台湾侵攻の際には,「中国は大々的なサイバー攻撃
を仕掛けて,米軍の作戦能力を麻痺できる」ということを示し,米国の軍事関与を排除
しようとしているのである.

 中国は,「サイバー戦においては,国家および軍の明確な関与を立証することは
困難」という点を利用しつつ,民間のコンピュータ専門家の軍事機構への登用や,
秘密ルートを通してのコンピュータ関連企業の活用により,平素の情報窃取および
偵察活動を繰り返しながら,戦時におけるサイバー戦能力を強化していくのであろう.

 この際,「中国もサイバー攻撃の犠牲者である」「米国こそが世界最大のスパイ国家
であり起訴されるべきだ」との政治的牽制姿勢を追求していくとみられる.

▽わが国の対応

 わが国においては,高度情報化社会にともなう通信・情報インフラの脆弱性,
サイバー防護対処能力の不備が指摘されている.わが国に対して,平時から戦時
にかけてサイバー戦を仕掛ける主たる対象国は中国とみておいてほぼ間違いない
であろう.

 平時における重要機密情報の漏洩防止,戦時における「サイバー空間」の
支配排除を念頭に,中国のサイバー戦能力の強化動向を注視するとともに,
その保全対策におけるさらなる努力が必要である.

(次週,第16計「欲擒姑縦」に続く)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.4.5





『日露戦争の脚気惨害』
 日本陸軍の兵站戦(18)
荒木 肇

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□ご挨拶

 全国各地から桜の便りが続いています.わたしも自宅近所の
公園やお寺の境内の桜を楽しみました.また,週末には霞ヶ浦,
習志野の桜を楽しませていただいたところです.一方,いまだに
一部ではインフルエンザや,花粉症が盛んだとのこと.
皆様,ご自愛ください.

▼日清戦後の角逐(かくちく)

 台湾領収のための平定軍に脚気が大発生したことはすでに書いた.
この時の総督府陸軍局軍医部長が森林太郎だった.1895(明治28)年9月,
陸軍は森を更迭して第1軍軍医部長だった石阪惟寛(いしざか・いかん)
軍医総監を送り込んだ.

 石阪は軍医界の序列でいえば石黒に次ぐナンバー・ツーだった.
石阪は臨床経験が森よりはるかに豊富で,西南戦争でも活躍し,麦飯給与
が脚気対策に有効であること,海軍の脚気減少が食事の改善であることも
十分に理解していた.石阪は石黒の米飯至上主義には内心反対していた
ために,澎湖島要塞砲兵隊や一部の後備歩兵大隊に麦飯給与を黙認した
ことが記録に残っている.しかし,これは石黒に知られることとなり,
石阪はわずか4カ月足らずで更迭されてしまう.

 石阪は1840(天保11)年,岡山に生まれた.大阪で西洋医学を学び,
1870(明治3)年に岡山藩に雇われる.2年後に陸軍2等軍医副(少尉相当)
に任官.広島鎮台に勤務,佐賀の乱(1874),萩の乱(1876),
西南戦争(1877)に従軍,明治12(1879)年には陸軍本病院(東京)課長を
務める.その間に順調に昇進,1880(明治13)年には1等軍医正(中佐相当)
になり,その治療術の高さは有名だった.1887(明治20)年には軍医監(大佐
相当)に進み,軍医界の中枢にいた.日清戦争には第1軍軍医部長,森林太郎
の後に台湾総督府陸軍局軍医部長,土岐頼徳がその後任となり,石阪は休職後
に第4師団軍医部長になる.その後1897(明治30)年9月に陸軍省医務局長
と最高官をきわめ,翌年8月辞任,予備役編入.

 続いて台湾に赴任したのは第2軍軍医部長だった土岐頼徳(とき・よりのり)で
ある.階級は同じく軍医総監.序列でいえば第3位の高官だった.この土岐が
大反乱を起こした.現地の惨状を目撃した土岐は独断で全台湾部隊に麦飯給与
の指令を出したのだ.戦時給与令を無視した越権行為であり,軍律違反にも
問われるような重大な出来事だった.その結果については,わが国医学史界の
権威者である山下政三博士の著作に詳しい.

 土岐頼徳は1843(天保14)年に岐阜県に生まれた.江戸医学所に学ぶ.
このとき,石黒とは学友だった.のち大学東校に勤務,真偽は分からないが
1874(明治7)年には2等軍医正(少佐相当)として官員録に名前がある.
西南戦争(1877)には新撰旅団軍医長として従軍,のち仙台鎮台,名古屋鎮台,
近衛軍医長を歴任する.1888(明治21)年から近衛諸隊4000人に
麦飯(麦3:精米7)を給与し,脚気患者の激減を確認する.同23年には東京医学会
総会で『麦飯を給与すれば脚気は消滅する』と口頭報告をする.
翌年,陸軍軍医監(大佐相当)に昇任,第4師団軍医長を務め,日清戦争では
第2軍軍医部長,1895(明治28)年に軍医総監(少将相当)に進む.翌々年には
官等改正で軍医監(少将相当),石阪の後任として台湾に赴任する.この時のこと
である.土岐は石黒に意見書を送った.
 
 山下博士は,長命した石黒の指示で隠されていた土岐の意見書を発見し,
『明治期における脚気の歴史』で発表された.以下はその概要である.土岐は
「野戦衛生長官訓令第30号」,すなわち石黒の麦飯否定,白米至上主義に
疑問をもったと冒頭にいう.石黒野戦衛生長官は小官(土岐のこと)が台湾への
赴任にあたり口頭で訓示されたが,その中に議会対策として軍医が麦飯で脚気
を予防するとは言いにくい(予算承認の関係か).しかし,陸軍大臣の内意として
雑穀混用はできる.監督部長(のちの主計総監)に協議すれば麦を支給しても
問題はないという内容があった.そこで私はそれを実行したわけである.

 そうであるのに,麦の混入を実施したら早速文句を(貴官は)いう.およそこの
十余年間全国の軍隊や学校では麦の混入で患者数は減っている.第3師団では
師団軍医部長に私が就任してから,前任者の消毒・環境改善方針を変更して
麦を食べさせた.すると同20年には432の患者数があり,21年には771だったが,
22年には8名に激減した.23年には4名,翌年は2名だった.

 このことは誰もが認めることで,『全国数万の常備兵を養ふ.各部隊に於て
此旨味少なきと称する麦飯に安んじ,異を唱えることなし』,みな満足して異論を
となえる者もいない(筆者註:白米と比べれば不味いというのは当然).加えて,
麦飯実行以来十余年が経つが,胃腸病が増えた事実もなく(同前:麦は消化が悪い),
コレラおよびその他の伝染病の発生時にも麦飯を継続して有害だったという証拠
もない(同前:麦は米に比べ栄養劣等は定説だった,森軍医はそう発表していて
これは間違いではない).これが米食を主食とすることは動かせないというなら,
国内軍隊現状は違法である.麦飯に脚気予防の効果はないというなら,
なぜ,これを停止しないのか.

 今や脚気におよぼす米と麦の優劣を試験などしている場合ではない.純米食を
兵食とすれば,多数の兵力を減殺し,兵士を滅殺することは明白である.内地に
おいてさえ明らかなのに,台湾のような天候が炎熱の地で純米食を行なえば,
害毒を流すこと当然.戦役の前の麦食する軍隊には患者が少なく,昨年の米食
した台湾平定軍での患者激増はあまりに明白な事実ではないか.『皇天は吾人に
理由を告げずと雖も』明確に米・麦の間に利害があることを示している(同前:天は
理由は教えてくれないが事実は明らかなのだ).

 こうして土岐は石黒を糾弾する.この続きにさらに学問界への批判もあるので,
当時の日本人を知る上で有益と思うのでさらに紹介しよう.『また,学問界に多少
脚気研究に熱心な者もいるが,青魚中毒説や米の黴説など自分一身の名誉を
得ることに熱心で,自分に関係が少ないので米麦の優劣に関わる者が少ない
のが現在の学者社会の実情といえる.このような米麦関係に冷淡な学問界の
承認を得なければならないというのは何という考えか』

 つまり,大学の学者たちは自分が有名になりたい,地位を高めたいというだけ
である.現実社会の実態や困窮に冷淡だと非難する.こうしたことはどうやら,
当時の社会だけでなく現在でも通じる「学問界」の実情だっただろう.一般民衆や
兵卒などという世間とは関係しない.西洋風エリートである学歴主義者たちは
いまもその眼差しを庶民には向けないのだ.米麦論争などという過去の漢方医学
と経験論が幅を利かせてしまうものは,当時の学問的には価値がなかったからだ.

 この意見書を石黒は隠してしまう.つい先ごろ,自身は日清戦争の論功行賞で
功3級金鵄勲章と旭日重光章を授けられた.さらには男爵までも叙せられたばかり
である.それなのに自分が戦時中の麦食を禁じたばかりに,多くの死者を出した.
戦地入院脚気患者は3万7000人,脚気死亡3800人,しかもそのうち台湾では
入院2万1000人,死者は2100人にのぼった.対して戦闘死は284人である.
日清戦争の損害の実態は大陸の戦闘ではなく,大部分が戦後の台湾領収のため
の戦いによるものだった.

 そんなことが明らかになれば身の破滅であり,陸軍軍医界の権威も損なわれる.
台湾平定軍の脚気の惨害が明らかになるにつれて,海軍軍医たちからの非難
はますます高まっていった.ところが,石黒たちは台湾の脚気惨害の実態を
隠そうとした.そして,それは世間に対してはほぼ成功するのである.

 土岐は冷遇された.1896(明治29)年5月10日に東京に帰る.同日に休職
になり,同34年5月10日予備役編入,同36年4月に後備役の後に退役,
同44年死去.その間に目立つ言動は一つもなく,軍医界との交渉もなかった.
「軍医団雑誌」にも死去については何も書かれていない.当時の医務局長は
森林太郎であり,そこに石黒の息がかかった主流派の意図が見える気がする.

▼日露戦争でも再現された脚気の惨害

 日露戦争(1904〜05年)の戦時兵食も精白米1日6合とする規程が出された.
当時の陸軍大臣は麦飯愛好者であり,麦食給与推進派の寺内正毅である.
麦飯を脚気対策に効果ありとする陸軍幹部も多かった.また師団軍医部長クラス
の高級軍医たちの間にも,麦飯採用を推す人々もいた.それなのに,大本営が
出した給与令はまたまた白米だった.

 非難は簡単だが,そうした愚かとしかいえない決定には,さまざまな事情が
あった.まず,国民一般の白米嗜好である.『白い飯を腹一杯食べる』ことは憧れ
だった.麦は不味い,低級なものだというのがふつうの見方である.すっかり
忘れていることだが,わが国でも誰もが精白米を食べられるようになったのは
昭和40年代(1960年代後半)という,つい先頃のことになる.

 平和な生活から召集を受け,一転,軍隊という過酷な環境に投じられ,戦地に
連れて行かれ,明日をも知れない境遇になる.それが国民国家,近代の国民の
運命だった.せめて,そうした人たちに白米を食べさせたい.それが現場に近い
軍人たちの思いだったのである.理屈では十分に理解している,麦飯は脚気予防
になる,しかし,心情面では白米を腹一杯食べさせて死地に赴かせてやりたい
というのが多くの指揮官たちの思いだった.
 
 日露戦争では陸軍衛生部門では次のような構成をとった.
 各聯・大隊には軍医,看護長(下士),看護手がいた.軍医の半数は最前線に
立った.半数はやや後方に仮繃帯所という臨時治療部署をつくった.師団には
多くの人員をもつ衛生隊があった.軍医や看護長,看護手だけでなく,負傷者の
捜索や収容,輸送のために担架中隊もあり,各所に繃帯所を開設する.野戦病院
はふつう歩兵聯隊の数だけある.繃帯所や戦線から患者を収容し,病院に近い環境
で治療する.野戦病院長は軍医である.師団が長く駐留をする場合には,舎営病院
を開くこともある.以上を野戦衛生機関といい,運用と指揮には師団軍医部長があたった.
 
 軍がもつ兵站には衛生予備員がいた.前進する部隊が置いていった野戦病院を
引き継いで,あるいはその後方に定立病院を開いた.戦況によっては患者集合所,
患者療養所を設けることもあった.兵站病院はその定立病院の患者を引き継いだ.
患者輸送部は,兵站線の中の傷病者の輸送を任務とする.主に野戦病院と
定立病院の間の患者輸送を行う.途中に患者収容所や同宿泊所を置くこともある.
これらを兵站衛生機関として,兵站軍医部長が業務を指揮監督する.
 
 師団の戦闘担任地域を野戦地区といい,野戦衛生機関は主にこの地区で活動
した.複数の師団その他で構成された軍野戦地域の後方はその軍の兵站地区
という.そこは兵站監と兵站軍医部長がその業務を指揮監督する.すべての
最高指揮官は軍司令官であり,軍軍医部長は隷属し衛生部門を統括した.
 
『明治三十七八年戦役陸軍衛生史』は公刊された報告書だが,その数字の解釈は
難しい.まず,数値は入院患者を中心に調査したものだ.山下博士も指摘するように,
入院後病床日誌を作成する前に亡くなった者や内地への送還者は除いてある.
だから実際の患者数はもっと多いはずである.
 
 戦死は4万6400人,戦傷15万3600人,戦傷死合計20万人である(いずれも
概数).海外出征数100万のうち,およそ2割が戦傷死した.戦地入院数は25万
1000人になる.その入院患者数の半数以上が脚気と診断された.11万人
である.ところが,この他に症状を訴える在隊患者がいた.14万1000人に
のぼる.合計すれば25万人を超す膨大な脚気患者数になった.戦地に立つ
4人に1人が脚気である.
 
 しかも死者は巧みに隠されている.戦地入院患者の中で治癒は5万7000人
とあり,死亡者は5700人とあるが,事故2万2000人とある.この事故が
脚気衝心(急性心臓麻痺)と考えると,脚気死亡者は合計で2万7000人にも
なるのだ.これは日清戦争の患者4万人,死者4000人という数字と比べると,
患者数は6倍強,死者は5倍強という恐るべき惨害となった.
 
 この時も,まだ脚気の原因については不明のままである.どうにも医学界でも
仕方のないことだったと言えよう.次回はいよいよ最終稿として,兵站の終末点,
兵食の実態や海軍との比較,戦後の対応などを語ろう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.4.6





『ライター・渡邉陽子のコラム (89) ─ オリンピックと自衛隊(3) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.
今日は冒頭のごあいさつがちょっと長くなりますが,ぜひ聞いてください.


先月末に小澤征爾指揮,水戸室内管弦楽団のコンサートに行ってきました.
小澤さんの出番は休憩後の後半のみです.

後半が始まり,楽団員がステージに姿を見せる前,突然,客席にいた一部
の人々が立ち上がり拍手を始めました.私はてっきり,私の座席からは死角
になっているステージの一角に,小澤さんの姿が見えたのかと思いました.

ところがなにげなく正面に目を向けると(私の席はステージの真横にあたる
部分だったので対面にも座席がありました),なんと 天皇,皇后両陛下が
客席への階段を降りてくるではありませんか!

気がつけばサントリーホールの満員の観客全員が,起立して拍手で 両陛下
をお迎えしていました.
おふたりはほとんど私の対面に着席されました.これほど間近に 天皇,皇后両陛下
を拝見するのは生まれて初めてです.


小澤さんの指揮も水戸室内管弦楽団の演奏も,いつもながら素晴らしいもの
でした.小澤さんはいつも通り,楽章の合間は椅子に座り,ヴィオラの
首席奏者から受け取った500mlのミネラルウォーターを何口か飲みます.

いつものルーティーンで,ほかの指揮者に比べて長い時間をかけて1楽章
で消耗した体力を回復させます. 天皇陛下,皇后陛下が臨席されていても,
それは変わりません.


演奏と同じくらい感動したことがありました.
曲が終わり割れるような拍手が会場に広がったとき,誰よりも早く
スタンディングオベーションで演奏を称えたのは 天皇陛下だったのです.
 陛下は立たれるだろうかと邪推していた自分が恥ずかしくなりました.

水戸室内管弦楽団はアンコール曲を演奏しません.いくら拍手しても,
もう1曲聴けることはありません.多くの観客はそれを知っています.

けれど拍手は鳴りやまず,小澤さんと楽団員は何度もアンコールに応えるため,
ステージに戻ってきます.私はあれほど長いスタンディングオベーションに
遭遇したのは,人生で2度目です. 天皇,皇后両陛下はその間,ずっと
拍手する手を止めることはありませんでした.

5度目のアンコールが終わり,ようやく拍手が鳴り止みました.通常のコンサート
では,この時点で会場を出る人も少なくないのですが,この日は誰に止められ
ているわけでもないのに,みんな客席に留まっています.そして 両陛下が
退席されるのを,アンコールに負けないほどの拍手でお見送りしました.


あのときの会場の雰囲気はなんというか,生まれて初めて体験するものでした.
強制されるわけでもなく自然と芽生える敬意というものが,あの場にいた人たち
全員の心に宿っていたような気がします.

心もち前のめりになって鑑賞される 天皇陛下. 天皇陛下の袖に
そっとつかまる 皇后陛下.誰よりも早くから,誰よりも長く拍手していた 両陛下.
本当に感動しました.

自衛隊音楽まつりや合同コンサートなどの催しに総理大臣や防衛大臣などの
要人がやってくると,退場の際はかならず一般の人々は案内があるまで席に
とどまるようアナウンスがあります.それは当然といえば当然なのですが,
この夜のコンサートでは, 天皇,皇后両陛下が臨席されることも含め,
一切のアナウンスはありませんでした.起立して大きな大きな拍手でお迎えした
ことも,同じようにお見送りしたことも, 両陛下が退席されるまでほとんどの人
が席を離れようとしなかったことも,すべて個人の意思によるものでした.
あの場にいられたこと,そこで受けた感動は,一生忘れません.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.4.7





『日露戦争の脚気惨害(最終稿)』
 日本陸軍の兵站戦(19)

  荒木 肇

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□ご挨拶

 戦場とは平時の環境とは想像を絶する恐ろしい場所です.
目に見えない細菌は繁殖し,慣れない環境に送られた人間はふつうでは
すぐに疾病に倒れてしまう.もちろん,負傷することが当然という戦場.
そうした中で衛生部員は与えられた物で最大の努力をしていました.

 いまも陸上自衛官の中では衛生科隊員は大柄で,体力的にも秀でた人
が多いようです.「重い衛生資材を運び,時には装具を付けた負傷者を
引っ担ぎますから(笑)」という解説を聞きました.


▼一汁一菜の贅沢

『軍隊はいい所(どこ)でがんした』.これは戦後すぐに,古着の行商をしながら
東北地方の農山村を歩いた大牟羅良(おおむら・りょう)氏の聞き書きにある話である.

『軍隊ず(という)所(どこ)ァいいもんでがんした.明るくなるまで寝せておいて
くれで,暗ぐなれば,寝ろって寝せでくれだ』『洋服着せで革の靴はがせて呉れ
だった』『おらハァ,軍隊のおかげで字っコを覚え,手紙っコも書げるようになり
あんした』『あそこのオンジ(次三男)は,軍隊で伍長になって来てス,それがら
青年訓練所の指導員かなんかやって,今では村会議員でがんす』『大学出も
おらも,同じに撲(なぐ)ってくれるっけス』と続き,『米のメシを食(か)せでけ
るっけァ,いい所(どこ)だった』と兵隊から復員してきた人たちの軍隊話は
続く(『軍隊は官費の人生道場?!』).

 米の飯を食べることは私たちの祖父母たちにとって,どれほどの喜びだった
のか.それを理解することは,私たちが小説や映画で作ってきた近代史の中
の民衆の姿を見直す一つのきっかけになるだろう.百年少し前の陸軍兵の
多くが脚気に倒れた.米飯をやめて麦を混ぜて食べれば,確実に罹患者は
減らせることができた.それなのに,陸軍軍医界の上層部の都合で麦の支給
は見送られた.だから,前線に立つ兵士の多くは脚気に苦しんでいたのだ.

 私たちが過去の時代相(ある時代のイメージ)を作るときの手がかりは
小説や劇映画であることが多い.ところが,その中で脚気に苦しむ人の姿
を見たことはない.江戸時代,都市,地方を問わず,登場人物たちのほとんど
は居酒屋や飯屋で今と変わらない食生活を送っていたように描かれている.
時代劇の中の侍や,岡っ引きや,商店主たちは刺身を食べている.江戸や
大坂では,鶏やイノシシ肉の鍋を囲み,野菜の煮付けや漬物をおかずに
して酒を飲んでいるようだ.庶民はアサリや納豆,豆腐を買い,朝食の
おかずにし味噌汁を飲んでいる.

 先ごろ亡くなった時代小説作家たちがいる.藤沢周平はグルメだった
池波正太郎と比べると,さらりと食事風景を描く人だった.具体的な献立より
米の量に関わる話が多い.用心棒を稼業とする侍は『ざっと二食,しかも粥に
して二食』と米櫃(こめびつ)の中の残った米を見て考えている.稼ぎに
行かなくてはと侍は決意する.そんな文章を見ると,江戸時代の人はどれほど
の米を食べていたのだろうかと考えてしまう.

 江戸時代でも19世紀になると菜種油が町には出回るようになった.
おかげで暗くなったら寝ていた時代に比べると活動時間が長くなった.
一日三食の習慣が定着してくる.木炭を手軽に使えるようになった七輪(しちりん)
の普及もこれを助けた.幕末の資料だが,ある大坂の商家では1人当たり
年に一石六斗(240キロ)を食べていた.1日に直すと約670グラム,
四合五勺弱である.大ぶりの茶碗でいえば10杯というところになる.

 明治時代でも初めのころは老若男女すべての平均で米は300グラム以上,
これに100グラムの麦が消費されていた.米の消費は増え続け,大正時代
(1912〜1926)の中ごろには年間226キログラム,1日当たり620グラム
にもなった.やはり四合を超している.

 大正時代,シベリア出兵による米の投機で米価は上がった.軍の兵站が兵食
として買い上げるだろうという予想がでたからである.教科書にも載る米騒動
(1918年)は富山県魚津で漁師のおかみさんたちの暴動から始まった.
漁師は1日に1升2合(1.8キロ)の飯を食っていた.同17年から米価はじりじり
上昇し,事件の6月には1升34銭,7月には45銭にもなった.同16年と比べると
3倍の値段になる.親子で出漁したら2升4合,それに家族が3人で1升として
1日に3升4合,ざっと1円50銭.月収はせいぜい30円,コメだけで45円も
かかったのでは家計を預かる女房たちの怒りが爆発するわけである.

 食物史の研究者は米食の普及は大正時代だったという.また,全国津々浦々
まで米食が広まったのは1939(昭和14)年の米穀配給統制令による米の
配給制度のおかげだったらしい.それではおかずはどうだったのか.
実は「米,味噌汁,漬物,茶」という一汁一菜の食事は大正時代に「小家族」が
生まれたからだと民俗学者の柳田國男はいう.資本主義の発達のおかげで,
農村の次三男は都会に出た.それが小家族,つまり核家族のことだ.夫婦と子供
だけの食事が豊かさをもたらしたという.

 それがいま,私たちは一菜というと,魚や肉や,あるいは炒め物などのおかず
を考える.しかし,研究史上ではこの一菜は漬物のことをいうのが常識であるらしい.

 明治時代の職工や女工の実態を調べる当時のドキュメンタリーを見てみよう.
紡績工場の朝食である.「たくあん・らっきょう・菜・梅干」という漬物と「小松菜・切干
大根・豆腐・大根・ワカメ」の味噌汁だけだった.主食は何かといえば,
「南京米(なんきんまい)」という中国産の粘りも甘みも少ない「外国産米」と麦である.
脚気の予防ではない.外米は安く,麦も廉価だった.給食のコストを下げ,
米を減らし,かさましを狙った米麦混合である.

「挽き割り麦1升に米2合」「南京米に同量の挽き割り」「南京米2升5合,
挽き割り麦5合,国産米2升5合」という配分で,「蒸したるもの・・・美味なく」と
いう表現がされている.栃木県桐生といえば絹の名産地である.そこでの
織物女工の食事の様子も描かれている.

『飯は米と麦を等分にしたワリ飯.朝と晩には汁はつくが昼には汁なし,
おかずなし.しかも汁は特に塩辛くした味噌汁で,ふつう汁の具は菜っ葉で,
大根などは秋に入れば刻んで入れるが,それは珍膳佳?(ちんぜん・かこう:めった
に見られない素晴らしいおかず)だった』

 大正末期(1920頃から)になっても『鮮魚の刺身は一度もなく,牛肉は月に1,2回
食べさせたが,皮のむいていない馬鈴薯(ジャガイモ)と共に煮つけたものが一人前
5匁(約20グラム)くらいが関の山だった』とある.では,これが特に悲惨だったか
というと,日本中どこであれ庶民の食生活はこのようなものだったらしい.
だから,多くの貧しい青年が多かったからこそ,肉や魚,野菜をバランスよく配合し,
白米を食べさせた軍隊は「いい所」だったのだ.

▼日露戦争の給食の実態

 陸軍は副食の価値をほとんど理解していなかった.それは国民国家の軍隊は,
その国の民度と文化の実態の反映でもあるからだ.麦は下級の食物であり,
白米を食べることは幸せである.

 先に女工や職工の給食にふれたが,野戦病院の献立を見てみよう.
1904(明治37)年8月の第1師団第2野戦病院の1週間の記録がある.

 朝食はワカメのみそ汁,梅干1個,味噌漬大根,福神漬け,ネギのみそ汁,
大根漬け,かんぴょうのみそ汁である.ただし,汁のあるときには漬物は付かない.
昼はかんぴょう,干鱈(鱈を乾燥させた塩味),切り昆布の煮付け,麩,ネギの煮付け,
芋,缶詰の鮭,切干大根と牛肉の煮付け.夜は麩の煮付け,かんぴょうの煮付け,
牛肉とネギの煮付け,卵,煮干し(雑魚とある)というのが1週間のメニューの
すべてだった.他に鰹節がある.これが滋養を旨とした患者の入院食である.

 野戦の兵士の給食も記録があった.

『五分(1.5センチ)ばかりの奈良漬が朝食のおかず.昼は干したエビが少々,
夜は千切り大根と牛肉缶詰を煮たもの少し,肉には出会えない.翌日は梅干2個
が朝食,昼は千切り大根に牛肉8匁(30グラム),夜も昼と同じ.3日目はたくあん
漬けの大根1切れで朝食,昼は卵1個と千切り大根,夜は馬鈴薯に千切り大根』
という,これまた貧しい内容が日記に書かれている.白米と貧しい副食,メニューを
見ただけでビタミン欠乏食であることが分かる.

 また戦争も2年目となると,内地の補充隊でも食事は貧しくなっていった.
作家長谷川伸(1884〜1963)が補充兵として入隊(明治37年11月1日)した
のは千葉県国府台にあった野戦砲兵第一聯隊の補充隊だった.中隊長は
のちの元帥陸軍大将畑俊六(はた・しゅんろく)である.畑は東京府立1中から
中央幼年学校へ進み,1900(明治33)年に陸士卒業,野戦砲兵第一聯隊付き
の砲兵中尉として出征した.旅順要塞西方高地を攻撃中に敵弾を胸に受け,
野戦病院から内地に還送され,翌年3月原隊に復帰,補充大隊中隊長になった.
そこでのちの大作家と出会うことになる.

 この長谷川伸の弟子が高名な兵隊作家棟田博である.棟田は師匠の思い出話
として,支給されたシャツとズボン下がボロだったこと,銃剣も当初,支給されなかった
ことを書いた.だいぶ後になって,戦場で鹵獲したロシア製の銃剣を帯びたともいう.
班内にはベッドもなく,藁を床に敷いて1枚の毛布を2人でかぶったという話もあった.
食事は麦7,白米3で,規定では1日6合6勺(990グラム)だったが,5合くらい
しかなかったという.さらに副食である.水曜日と土曜日の昼飯だけはご馳走が
出た.コノシロという魚の煮つけとカマボコが一切れ,イモの葉っぱか何かを煮た
ものが少し.あとは毎日,ネワラとあだ名した切り干し大根にワカメを少し混ぜて,
酢醤油に通したものだった.その形と色が,馬の寝る厩舎にあった寝藁(ねわら)
にそっくりだったからという.戦場に送られてゆくべき補充兵への給養の低下,
まさに国力の限界を示すエピソードである.

▼行われた麦飯給与

 日露戦前,国内ではすでに行なわれていた麦飯給与は,戦地ではなかなか
実行されなかった.第1軍軍医部長は開戦の月には「米麦混食」を上申した.
ときの野戦衛生長官は陸軍省医務局長の小池正直である.小池は1854(安政元)年,
山形県鶴岡藩の医官の家に生まれた.1873(明治6)年に上京,ドイツ語を学び,
11月に第1大学区医学校予科に入学する.同77年に在学中に陸軍軍医生徒
に応募,採用された.同81年に東京大学医学部卒業,鴎外森林太郎とは同窓で
同期生になる.6月陸軍軍医副(少尉相当),朝鮮釜山領事館附属病院の院長
などを歴任.中央勤務が多かった森とは対照的に地方回りが多かった.

 1888年にドイツ留学,ミュンヘン大学で衛生学の研究法を学ぶ.同94年,
日清戦争で第5師団軍医部長,第1軍兵站軍医部長,占領地総督部軍医部長
を務める.同98年,陸軍軍医監,陸軍省医務局長となる.日清戦争では終始戦場
にあって戦功を大きく評価された.それだけに,日清戦時中の脚気惨害にも直面
した.ところが,彼もまた東大卒であり,ドイツ留学組でもあった.麦食という
脚気対策には必ずしも熱心ではなかった.

 その小池が医務局長となり,戦時体制になると野戦衛生長官を務めることとなった.
第1軍軍医部長の上申は一応受け入れられた.大本営会議で協議はされた.
しかし,戦地で主食を複雑にするのは実施上の困難が多いという理由で米麦混食
は認められなかった.第5師団でも出征前の会議では軍医部長が麦を混ぜること
を提案したが,麦は虫がつきやすい,変敗しやすい,輸送が困難になる,味が悪い
などの反対が多く否決されてしまった.代わりに実行されたのは重焼?麭といわれる
堅いビスケットの支給だった.挽割麦の発送は5月まで行なわれなかった.

 その結果は,脚気患者が増えて兵站病院も収容しきれないという有様になる.
世間にも知られるようになって陸軍への非難は激しさを増してきた.11月には
寺内陸軍大臣が新聞記者を集めて弁明までさせられる始末である.
1905(明治38)年3月,陸相訓令が出された.

「脚気予防のため,麦飯を喫食させる必要がある.主食日量精米4合,挽割麦2合
を給与することに努力せよ」というのがその主旨だった.

 この効果は確かにあった.開戦の年8月に1万6000名を数えた患者は一部に
麦飯が支給されたことによって,年末には約7000名となった.そして,訓令の結果,
翌6月には3000名余りと激減したのである.しかし,減りながらもなお患者の発生
は止んでいない.夏の最盛期には再び6000名が脚気患者として後送されていた.
全体の3割程度の麦飯では脚気を完全に封じることはできなかったのである.
現在の栄養学から見ても,米4合・麦2合のビタミンB1の量は0.9グラムほど
にしかならず,兵隊には不足しているという.

▼戦後の大紛争

 1907(明治40)年1月,紛争の口火を切ったのは海軍軍医だった.脚気は
食糧によって予防できる,陸軍は海軍の脚気予防の実績を見習うべきだというのだ.
続いて帝国大学医科大学(東京帝国大学医学部の前身)卒業の内科医師の
発表があった.広島陸軍予備病院に勤務したときの経験から,脚気の病因は
運搬中や貯蔵中に変質したコメの中毒によるという説である.米麦混食は
脚気を減少させるだけだから,米食を全廃せよとも提言した.

 これに対して,余計なお世話だとばかりに陸軍軍医が反論した.陸軍だって
脚気の原因究明には努力している.伝染病か,中毒か,それ以外が原因か,
医学的な検討は十分している.それに加えて,返す刀で海軍だって実は脚気患者
がいるのに病名を変えて統計をごまかしているのだと発言してしまった.

 これには海軍軍医も黙っていなかった.陸軍が言う,環境に陸海では差がある
という主張はばかばかしい.反論としては旅順要塞戦での海軍陸戦重砲隊での
事実を示した.陸軍の糧食があまりに粗末だったので,陸戦隊軍医長は
聯合艦隊軍医長や司令長官に具申した.結果,陸戦隊員には艦上と同じ食事
を運ぶことになった.すると,海軍兵には一人も脚気などにかかる者はいなかった.
これから見れば,主食は麦を混ぜ,副食を豊かにすることがとにかく重要な対策
なのだと主張した.

 そして,いつか批判の的は小池軍医総監に向けられるようになってきた.
しかし,これは個人攻撃にする方が無体(むたい)だと思える.小池は野戦衛生長官
として,たしかに仕事に励んだ.膨大な死傷者,環境の劣悪さの中で陸軍衛生部
は小池以下,みな奮闘をした.物資の不足,補給兵站の貧しさ,国力のないなかで,
みなが勇戦敢闘をしたと言っていい.

 陸軍が当初に麦を送らなかったのは送れなかったからである.弾薬,兵器,馬,
兵員を戦場に送るだけで手一杯だったのだ.『輸送が困難だったから麦が送れなかった』
というのは嘘ではなかった.しかし,そうした実態を知らせては国内に厭戦気分が
生まれてしまう.ただでさえ,世界最大の陸軍国であるロシアと開戦することに不安
をもつ人は多かった.しかし,戦争は綱渡りの連続でなんとか勝ち抜いていた.
そうした実態を知らせなかったから,国内ではすべて陸軍衛生部の責任にするのは
当たり前だった.

 山下博士はさらに一人の補助輸卒隊にいた輜重輸卒の手記を紹介している.
手記には第1軍で大量の麦の輸送を行なっていたことが書かれている.開戦直後
の3月のある日,精米2斗(30キログラム)入りの叺(カマス)359,麦504叺
を港から内陸へ,別の日には韓国米5斗入りの米俵を24,同じく2斗入りの叺23,
大麦626叺を運ぶ.また,ある日には麦1斗入り叺250,精米2斗入り叺200,
大麦同200を運んでいる.そして,4月には精米180叺,大麦400叺,
塩鮭400俵(重量は不明),醤油エキス(乾燥粉末醤油)12箱,福神漬17箱
を送っている.

 手記はまた,過酷な労働を行なう輸卒の姿が赤裸々に描かれている.脚気は
この輜重輸卒隊にもっとも多く発生した.歩兵ほか戦闘兵科の兵士の脚気罹患率
はほぼ2%である.これに比べて補助輸卒隊では5%強とたいへん多い.山下博士
も指摘するが,およそ3倍近くも輸卒は脚気にかかっている.


▼大団円

 1908(明治41)年5月末,臨時脚気病調査会の官制が公布された.
当時の医学界の総力をあげたメンバーである.この発会の席で陸軍大臣寺内正毅
は爆弾発言をする.それは日清戦争当時,脚気対策に麦を送れという大方の声を,
当時の石黒医務局長と森林太郎が妨害したというのだ.そのことを現医務局長鴎外
を前にして公言したのである.実は鴎外は石黒とともにコメの優秀性を主張し,
麦食に理解がなかった.おかげで序列も下げられ,人事上では恵まれてこなかった
のである.そのことを明らかにされた鴎外の胸中はどんなものだったか.

 脚気の原因は意外なところから解明された.インドネシアのジャカルタ付近では,
鶏に白米ばかりを食べさせると脚気に似た症状を起こす病気が有名だった.
ベリベリという.それをオランダ人医師エイクマン(明治初期のお雇い医師の実弟)が
研究し,人のベリベリと鶏の脚気は同じだと発表していた(1889年).
そして明治30年代の終わりころには,ベリベリの原因が白米食にあることが知られ,
予防には豆や玄米が使われるようになっていた.それが少しもわが国の関心を
ひかずに,だれも気がついていなかったのだ.学界の目も陸海軍軍医たちもヨーロッパ
には関心をもったが,列強の植民地のアジアについての話題など知らなくても済んで
いたことがわかる.

 都築2等軍医正(中佐相当)は直ちにインドネシアに出張した.そこでのエイクマン
らの業績を追試した結果,白米主食の問題点と「未知なる不可欠栄養素」の存在を
報告した.伝統的な「一汁一菜」では確実に,ある栄養素が不足することが確認された.

 1910(明治43)年には東京帝国大学農科大学教授の鈴木梅太郎が『白米の
食品的価値並びに動物の脚気様疾病について』を発表し,注目を集めた.それは
精米過程で出るコメの表皮や胚芽に含まれる糠(ぬか)を分析した結果である.
この糠に含まれる不可欠栄養素はコメの学名「オリザ・サティバ」にちなんで
「オリザニン」と命名された.発見は世界的にも評価を受けた.なお,この後も
鈴木の苦労は続くが,世界大戦の影響などで研究は中断し,純粋なオリザニンの
開発は1931(昭和6)年にずれこんだ.

 この脚気病調査会の設立,継続には鴎外森林太郎は大きな功績をあげたと
山下博士は指摘する.陸軍は兵食を改善し,少しでも豊かな副食を支給しようと
努力するようになる.それには森の貢献も大きいものだったという.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.4.13




『ライター・渡邉陽子のコラム (90) ─ オリンピックと自衛隊(4) 』
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは.渡邉陽子です.
4月6日,空自の飛行点検隊のU-125が鹿児島県鹿屋市の御岳付近
に墜落,搭乗していた航空自衛官が亡くなりました.

機長の平岡勝3佐は2010年から2013年までブルーインパルスのパイロットで,
東日本大震災で東松島基地が被災して苦労した時期には,飛行隊長として
部隊を支えた方です.全国の基地で展示飛行を行なうブルーインパルスは
国民と接する機会も多いだけに,この訃報に衝撃を受けた方は全国に
いらしたことでしょう.

また,副操縦士の原口司1尉は地元,南九州市知覧町の出身でした.
同乗していた機上整備員と機上無線員と合わせて6名の命が失われた,
痛ましい事故でした.

先月,航空自衛隊のパイロットを目指す者の初等教育を行なう
第11飛行教育団を取材したばかりです.初めてソロフライトを経験したばかり
の彼らが,今回の事故をどう受け止めているのかと思います.
ご冥福をお祈りします.


Fさま
メッセージありがとうございます.私は右翼でも左翼でもないごく一般的な日本人
ですが,あの日は「日本が皇室のある国でよかった」という思いが自然と
湧きました.「共和国の国民にはこのDNAはわからないだろうな」とも思えるような
ひとときでした.
南半球に拙文を読んでくださっている方がいることにも感激です.
ありがとうございました.




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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
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■オリンピックと自衛隊(4)

先週は1962年度のオリンピックに向けた防衛庁の動きをご紹介しました.
今週はその続きからです.

1963年度は計画を補備修正するフェーズです.協力する業務と主要協力
担任部隊を定め,陸・海・空幕僚監部はオリンピック準備室および東京オリンピック
支援集団司令部を設け,諸計画を作成しました.
また,陸自はほぼ全般協力を行なうため,支援業務に専念する臨時編成部隊が
必要だという結論に至りました.


陸自の第1師団と海自の横須賀地方隊は,計画の具体化ならびにオリンピック
での協力をよりスムーズに行なうことを目指し,東京国際スポーツ大会にも協力
しました.これはプレオリンピックという位置付けだったため,運営の要領など
については,翌年に控えたオリンピックの予行として行なわれました.そのため
陸自は,オリンピックの協力予定部隊をできる限りこの大会に協力させました.

その結果,さまざまな成果を得ることができました.まずは協力全般が成功した
ことで,オリンピックに対する大きな自信となりました.また,準備訓練の要点や
期間などの目安もわかりました.さらに,協力担当部隊と競技団体との間に
人間関係が確立できたことも大きな収穫でした.広報についても「一貫性のある
広報が必要」という教訓を得たことが,東京オリンピック支援広報渉外センター
の設置へとつながります.

そして1963年6月には,防衛大学校の学生が標識係として協力することと,
空自のジェット機による五輪飛行が決まりました.


さて,1963年度の動きで注目すべきは,先週ご紹介したOOCから要請のあった
支援内容について「自衛隊が協力するのは適当でない」と判断,協力を断った
業務があることです.
それは

選手村の清掃
(警視庁の使用する)警備用資材の輸送
天幕の提供
大会役員用乗用車の操縦
広報用通信技術支援
馬術における馬の誘導作業

です.
OOCも防衛庁からのノーを受け入れ,これらに対する支援は取り止めとなりました.
防衛庁としてみれば「選手村の掃除まで自衛隊にやらせるのか」,「なぜ警察の
資材をうちが運ぶのか」,「天幕は自衛隊しか持っていないのか」と,忸怩たる思い
があったに違いありません.

現在の自衛隊は冬に除雪作業に駆り出されることがありますが,なかには
自衛隊が災害派遣される基準である「緊急性」「公共性」「非代替性」の原則を
本当に満たしているのか問題視されるケースもあります.

数年前,選挙区が豪雪地帯のある国会議員が,地元に「○月の大雪の際は自衛隊
に災害派遣を依頼しました」と自分の手柄のようにPRしていましたが,いろいろ
突っ込みどころ満載の発言ですね.

オリンピックについても,自衛隊でなければ支援できないことならば,防衛庁は
協力を惜しまないでしょう.けれど「自衛隊ならなんでもやってくれる」という便利屋
扱いでの要請は,受け入れられるものではなかったはずです.オリンピックへの協力
と災害派遣は法的根拠も異なりますが,なぜその支援は自衛隊でなければいけない
のか,警察や消防,あるいは民間企業ではできないことなのか,依頼の根拠をOOC
が防衛庁にしっかり明示できないものがあったということなのでしょう.


そして,支援できない事項だと判断したのは,防衛庁長官でもオリンピック準備室室長
の防衛事務次官でもなく,陸上幕僚監部でした.

陸幕はオリンピックローマ大会の視察に,2名の幹部自衛官(1等陸佐)を防衛庁
長官官房の職員と共に派遣しています.その後は陸幕オリンピック研究委員会を
立ち上げ,協力のあり方を研究してきました.そのため「自衛官としてふさわしくない
もの,あるいは自衛隊の組織や装備を提供しなくても十分運営できると思われる項目」
について,客観的に判断することができました.そこで要請を取りやめるよう,防衛庁
オリンピック準備室に伝えたのです.


防衛庁から拒否された支援事項があったことは,OOCにとってはもしかしたら想定外
だったかもしれません.

今よりもはるかに自衛隊に対する風当たりが強い時代,テレビ放送を通じて日本国内
のみならず世界中に自衛隊の雄姿をアピールする絶好の機会に,防衛庁が乗らない
わけがないと思っていた節もあるのではないでしょうか.だから選手村宿舎の掃除
まで支援を依頼したのだとしても,不思議ではありません.ところが防衛庁は,OOC
が反論できないしごくまっとうな理由で断ってきたのです.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.4.14





『脚気の惨害(補遺)』
 日本陸軍の兵站戦(20)
荒木 肇

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□はじめに

 このたびの九州熊本地方を中心とする大震災,被害に遭われた方々
に心からの応援を送ります.また,不幸にして命を落とされた方々,
ご家族,知人の皆様にはお悔やみを申し上げます.

 そして救援活動に従事される自衛隊員,消防官,警察官,現場の
自治体の皆さまに存分なお働きを期待するとともに,ご自身の心身の
安全も図られますようにお願いいたします.出動された方々のご家族
の皆様もご不安なことでしょう.ぜひ,ご自愛ください.
 
 陸海軍の脚気につきまして,日露戦争のありさまをお伝えしました.
気になるのはいまだに,「陸軍悪玉・海軍善玉」説があり,「高木偉大・森が
戦犯」などの正確とは思われない見方があることです.そこで,今回は
「補遺」として,両者についての現代から見た評価を医学史,ビタミン史の
第一人者の山下博士の研究を紹介させていただきます.

□お礼

(笑)様,ご愛読ありがとうございます.いったい誰が「麦は不味い」と
言ったか? おそらく当時の日本人のほとんどは,脚気と白米の関係を
知ることなく,白米の美味さに感動していたのでしょう.雑穀は粘りがなく,
麦も同様ですが,ぽろぽろして箸でうまくつかめません.だから,掻き込む
ようにして食べたといいます.白米の甘さ,粘り,甘味,それらが本当に
嬉しかった.それが日本人の実態の一部でした.


▼脚気は撲滅できたか?

 海軍は日露戦争では脚気罹患者がわずか87名という数字を公表している.
これに対して陸軍は海・陸の活動環境の違いなどをあげて患者数の多少
を説明しようとした.ところが,旅順要塞戦に海軍部隊は参加していた.
陸戦重砲隊を揚陸し,陸軍の攻撃を支援していたのだった.そのときの
逸話である.

 戦後の論争の中で,乃木第3軍司令部に大本営連絡将校として派遣
された上泉海軍中佐の目撃談が暴露された.このときの海軍陸戦重砲隊
の指揮官は,のちの海軍大将黒井悌次郎中佐だった.艦砲の12斤砲,
12糎,15糎砲合計16門をもち,隊員750名の勢力である.この中には
砲隊長として永野修身海軍中尉(のち元帥)もいた.

 給与は当然,第3軍兵站から受けた.ところがその支給された食糧を見て,
重砲隊の軍医長は驚いた.あまりに貧しい副食,それに発酵したような白米
が大量に渡されたのだ.現地を視察した大本営付きの連絡将校だった
上泉中佐は次のような裏話をしている.

『多くの陸軍兵士が脚気の惨状にあるのに,一方米俵は雨ざらしとなりその
発酵した米で米飯を炊き,おまけに副食物の粗悪なこと言語に絶するほど
なのを見て,素人ながらも脚気の原因ここにありと推断し,帰朝後ときの
山縣参謀総長に直面して,忌憚なく復命したので,それは大変だと急に陸軍
経理局長を派出させて実際をたしかめ,医務局長の意見に関係なしに,
どしどし麦を輸送して,38年3,4月ころからはじめて麦飯を支給することと
なったのである』

 重砲隊の軍医長が聯合艦隊軍医長に直訴し,東郷司令長官もそれを
受け入れ,隊員たちは艦隊から海軍兵員食を支給された.おかげで重砲隊
からは脚気患者は出なかったという.

 この話を公表したのは,当時の医学界の大手業界誌『医事新報』に載った
一人の仮名の海軍軍医である(1907・明治40年).山下博士によれば,この
記事の筆者は当時の横須賀海軍病院副院長の斎藤軍医大監(大佐相当)で
ある.斎藤は開戦前に海軍省医務局第2課長,開戦と同時に大本営附になり
戦地衛生行政の担当者だった.だからこの裏話も信じられるようだが,陸軍
はすでに開戦の年の11月には寺内陸相が記者会見し,対策として3月から
麦飯支給を行なっている.すでに大本営陸軍部では現地の実情を知っていて,
改善の手は打っていたのである.山縣参謀総長が海軍中佐の直訴だけで
動くとはとても考えられない.当事者だけが知るというこうした施政上の裏話
を公開するのは,多くがためにするためのことが多い.この斎藤大監も陸軍
への攻撃に熱が入りすぎたというところだろう.

▼粉飾の疑いをもたれた海軍の報告

 実は脚気は海軍でも増えていた.高木は若くして後進に道を譲り,
1892(明治25)年に予備役に編入,海軍を去った.まだ44歳だった.
高木の海軍軍医としての活躍は何より脚気の撲滅にあった.同85(明治18)年
に37歳で軍医総監(少将相当)にのぼり,7年間の医務局長の激務を終えた.
その後を継いだのは同じく薩摩出身の実吉安純,次もまた薩摩人の木村荘介
だった.この木村が海軍医務局長在任時(明治38〜大正4年)には海軍の
脚気患者数はいくらか増えている.それでも70名から40名前後の少数がふつうだった.

 ところが,1915(大正4)年に東京帝大医科大学卒業の本多忠夫が医務局長
になると,とたんに脚気の患者数が増えていった.まず,同14(大正3)年に
100名余りだった患者数が翌年(大正4)には218名と倍増した.同19年に
なると300名を超え,同21年になると365名,1928(昭和3)年になると
1100名という増大だった.この後も毎年の増減はありながら,1937(昭和12)年
には2000名という過去最大の発病者を出した.

 山下博士は次のように指摘している.まず,海軍の統計を見て驚かされる
のは,脚気の入院率の異常な高さだという.脚気患者の入院率は5割から7割
である.脚気と診断されてからも陸軍では在隊治療も多いのだが,海軍は半数以上
が入院する.通常は数パーセントという入院率が海軍ではそんな異常に高い数値
がある.これこそ,重症患者だけを脚気とし,軽症患者は脚気ではないとしている
のではないか.海軍にはすでに日露戦争中から,脚気を「末梢神経疾患」「神経痛」
「神経疾患等」と診断しているという噂があった.これを見直せと本多軍医総監は
指導したのではないか.もともと,本多は若いころから森林太郎の研究姿勢には
共感をもっていたらしい.森が構想,設置に推進した臨時脚気病調査委員会の
設立運動にも熱いエールを送っていた人物である.

「わが海軍には脚気はない」と思いこめば,初期症状を神経系の病気と誤診しても
当時は仕方がない面もあった.そのように山下博士は推論する.

▼なぜ,海軍で脚気は「再発」したか

 高木が撲滅したはずの海軍の脚気はなぜ再発したか.そのカギは兵食の
改悪にあった.海軍で初めて兵食が規定されたのは1886(明治19)年のこと
である.高木の積年の努力が実った結果である.その1日の食糧は,米120匁
(450グラム,以下グラムで表記する),麦300,パン187.5,肉225,
魚187.5,野菜525,鶏卵60,漬物225だった.4割の麦飯と贅沢な副食で
あり,ビタミンB1の量は軽く2ミリグラムを超えている.現代の目から見ても
十分すぎる健康食である.

 ところが高木が退職後の2回の改正,とりわけ1900(明治33)年の改正兵食
から問題が生じてしまう.艦船が洋上にいる航海食の場合,白米375,麦131,
貯蔵獣肉150,貯蔵魚肉150,乾物野菜75グラムとなった.主食はわずかに
2割6分の麦混入率になる.金給された賄い費用の1割で兵員は自由に白米を
買っていたという.しかも麦の味の不評に対抗して麦の精白技術も向上した.
胚芽が落ちてしまう,麦の脚気予防力も落ちてきているのである.

 それに加えて,缶詰肉や缶詰魚肉,乾燥野菜だけを摂っていた航海中には副食
からのビタミン補給は望めなかった.また,日露戦後の海軍の行動範囲はますます
拡大した.貯蔵食品,缶詰に頼らざるを得なかった.その時に問題になるのは,
高木が唱えた「タンパク質が少なく,炭水化物が多い」という脚気原因論である.
そのため西洋食への切り替え,続いて主食を麦飯にした.その結果,脚気は激減
したが,それはタンパク質の増加が原因ではなく,たまたま副食の豊かさがビタミン
B1の摂取増量につながった結果だった.

 海軍軍医界は脚気患者数の減少に狂喜した.高木の「窒素と炭素の比例が
失われているからだ」との誤った(とはいえ,ビタミンなど誰も知らなかった)理論を
信じてしまう.そのため,タンパク質の量だけを問題にし,缶詰食で十分だとした.
缶詰や乾燥野菜にはビタミンは破壊され,ほとんど残っていなかった.

 そして脚気はないと思いこんでしまえば,初期の症状を他の病名を診断してしまう.
また,当時のというより戦前社会の兵士たちは白米食が大好きだった.
元海軍主計中佐で,戦後には陸上自衛官になり需品学校長になった瀬間喬氏
の『素顔の帝国海軍』によれば,兵員が白米食を喜ぶ有様が次のように描かれている.

『本日は銀飯だと聞くと,兵員一同万歳を三唱し,君が代を斉唱するほどだった』

 そして,米麦食のうち米の消費ばかりが多くなり,麦が余ってしまう.それを監査
の前には夜のうちに主計兵が海にこっそり流してしまうほどだったらしい.

 全身がけだるい,食欲がない,脚が重い,しびれる,胸に圧迫を感じる,動悸が
する,息切れがひどいなどの症状を訴えると,軍医はまず「神経衰弱」とし,
「脚のこむらがえり」「下肢の筋痛」「神経麻痺前の異常知覚」「刺激感」「ピリピリ感」
などの脚気初期症状を「神経痛」と診断を下していたのである.

 本多は軽症脚気患者が実際は多いことに気づき,軍医たちに注意させるように
した.脚気はあると思えば,症状に目が向いてくる.こうしたことから海軍にも脚気
が「増えて」きたことになった.

▼森の何がいけなかったのか?

 ある時期から,森林太郎(森鴎外)が脚気の戦犯だと言われるようになった.
とくに日清・日露の戦役での脚気惨害の責任をすべて森が負わねばならないかの
ような主張もあった.しかし,それは軍隊,軍事衛生,軍医官についての無知が
いわせたものだ.戦時には最高統帥機関として大本営が置かれる.陸軍の衛生管理
については野戦衛生長官部がすべて指揮した.日清戦争では石黒であり,日露戦争
では小池という2人の軍医総監がその最高責任者だった.

 そのいずれの戦時にも森は最高責任者ではなかった.日清戦争では兵站軍医部長,
軍司令官の部下であり,陸軍の給食を左右する権限などこれっぽっちもなかった.
台湾でも総督府陸軍部軍医部長だったに過ぎない.日露戦争でも軍司令官の幕僚
である軍軍医部長でしかなく,その行動はすべて野戦衛生長官の区処を受けた.
麦をどうこうしようとしても,輸送・配当に関しては野戦運輸長官の職分だった.
調達・購入や貯蔵・保管については野戦経理長官の職掌であり,たかだか少将
相当官の一軍医が口出しできるものではなかった.それが軍の統帥というもので
あり,いかに文豪であろうと,医学博士であろうと,森はただの軍医官でしかなかった
のだ.
 
 森が白米食に固執したという人がいる.前にも述べたように,たかだか海外から
帰ってきたばかりの若い軍医が主張しようが,それは戦時の就職には何がいいか
という決定には何の関係もなかった.戦時兵食が白米であることは,大本営の決定
と勅令で決まったことなのだ.森は白米食を主張などしていない.上司に命じられる
まま,兵食試験を行ない,米飯が最も優秀,麦飯がそれに次ぎ,洋食が不良だと,
当時の先進栄養学の結果を報告しただけである.カロリーとタンパクの補給の観点,
体内での活性度を測定し,正しい結果を出しただけだった.ビタミンの存在を知った
今から見て,もっともビタミンがない白米を優秀だと報告したというのが間違いだ
というのは,まさに「後ろ向きの予言」にしか過ぎない.
 
 ただ,山下博士の指摘によれば,森の悪評には理由があるという.まず,海軍の
兵食改革に悪口を言いすぎたことだ.1888(明治21)にドイツから帰国した森は
ドイツの最新の栄養学の成果をもとに,「日本食擁護」を唱えた.日本食はタンパク質
が不足しているといった高木の説を真っ向から否定してしまった.26歳の軍医中尉
が海軍軍医少将に喧嘩を挑み,あろうことか「ロウスビーフ(ローストビーフ)ニ飽クコト
ヲ知ラザル英吉利流ノ偏屈学者」と高木を名指したのである.
 
 次に,ドイツ医学が採っていた脚気伝染病説を信じていたことだった.また論理
がことのほか好きだったのだ.医学,とりわけ軍医が奉じなくてはならない軍陣医学
は実学である.「脚気に麦飯が効く」と言われたら,「ほんとうに効くか」という真偽
をたずねる態度に出なくてはならない.それを,森はまず,「どうして効くのか」という
学理的な根拠を要求してしまう.事実より論理を優先するのは医学的にはおかしい.
海軍兵食改革への非難も,まず脚気が激減している事実を認め,そこから何が
効いているのかを考えるのがふつうだろう.それなのに伝染病説を妄信して,
タンパク質の不足論を論理的に非であるとした.麦飯が効果ありとする先輩軍医
たちにも食物原因論は間違っていると主張した.麦は消化吸収が悪い,栄養的には
白米が上だ,漢方医学は古臭いと言ってしまった.
 
 第三に医学界の大ボス,石黒に引き立てられていたことがあった.森の大学の
卒業成績は優秀だったが,決して序列的には高くなかった.それを抜擢してドイツ留学
に真っ先に送りだしたのは石黒だった.有名な「舞姫」事件では奔走して無難に収めた.
最初の結婚である赤松海軍中将の娘との縁組も奔走した.これを恩義に感じない
わけがない.台湾で麦飯の支給を許可しなかったのも,石黒野戦衛生長官の命令
を忠実に守っただけである.
 
 たしかに以上のように森にも多くの失敗があった.しかし,以後の森は軍医界最高
のポストに就いてからは,懸命に脚気の原因究明に努めるのである.

▼やはり偉大だった高木兼寛

 高木は脚気の原因に食物があることに注目したことで世界的な評価はいまも高い.
「ビタミン」という術語を創り出したフンクは,その著書『ビタミン』(1914年)の中で,
先覚者のトップとして日本海軍軍医中将の高木を1ページにわたって紹介している.
アメリカでも有名な栄養化学者マッカラムは,1929年の著書の中で「高木によるヒト
の脚気の研究」として先駆的業績として評価した論文を載せている.近く(1982年)
には英国の医学書の中でも,ビタミンB1発見史の中で高木の仕事を「脚気の征服
の始まり」として,ビタミンB1の発見で1929年にノーベル医学賞を受けたエイク
マンより先に紹介されていた.ビタミン発見史の中でその名声は日本海軍とともに
不朽である.

 一方で森林太郎は地道な研究をリードし,「脚気の原因はビタミンB」の欠乏に
よることを確定する大業績を挙げた.文豪として高く評価される森はやはり誠実な
軍医官だったことは間違いない.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.4.20





日の丸父さん(4)石原ヒロアキ

地下鉄サリン事件と自衛隊(アメリカ編)
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□はじめに

 今回の話は,地下鉄サリン事件のつづきです.
マンガでは長谷部3佐は化学剤の検知器調査のため,
アメリカに行くことになりました.いつまでも「カナリア」に頼る
わけにもいきません.海外に装備品調達のため調査に行く
ことはよくありますが,現地で実際運用しているところを見たり,
現地関係者と人間関係を築けたりとメリットはたくさんあります.
そのとき頼りになるのが現地の駐在武官です.私もだいぶ
お世話になりました.

 さて,『ブラックプリンセス魔鬼』の第7巻が出ました.
今回は中国解放軍の原子力空母が出てきます.
ラストシーンは海上自衛隊の同期も共感してくれました.
ぜひご覧ください.

ブラックプリンセス 魔鬼(マキ) [第7巻]
http://okigunnji.com/url/96/

 また,最近「石原ヒロアキまんが館」(URL:http://okigunnji.com/url/97/)
というホームページを開設しました.
ここには,化学学校ホームページで掲載中の4コマ漫画
『CBRNロボタマ子さんが行く!!』を毎週1話ずつアップしていきます.
このホームページは部内用なので普通閲覧できませんが,
CBRN(シーバーン)の啓蒙も兼ねて化学学校の許可を得て
掲載しています.こちらもぜひご覧ください.


▼地下鉄サリン事件と自衛隊(アメリカ編)

 地下鉄サリン事件は,日本だけではなく,世界も震撼させました.
とくにアメリカは敏感に反応しました.

 まず,この時代,アメリカは世界でどういう立場にあったのかを理解
する必要があります.この事件が起きたのは1995年です.この6年前
の1989年,ベルリンの壁が崩壊し東西冷戦が終わりました.ソ連が崩壊し,
アメリカが勝ち残ったのです.これで平和になるかと思ったら超大国
のタガが外れて世界中で戦争や内戦が勃発します.そのなかでも
最大の戦争は1991年の湾岸戦争です.

 アメリカは世界の警察官として中東の秩序維持のため中東に
コミットしていきます.ここから今に続くアメリカと中東との複雑で
悩ましい関係が始まるのですが,米軍にとってこの戦争の意義は
大きな意味がありました.というのは,ベトナムで失った自信と信頼
を取り戻すことができたからです.

 しかしこの戦争に勝つことによってアメリカは世界で唯一の超大国
となり,敵対する国がいなくなりました.彼らは次に強大な軍事力を
どの方向に持っていったらいいか考え始めましたが,そこにこの事件
が起きたのです.テロとの戦いは非対称戦ともいわれます.弱い勢力
でもテロという手段で巨大な国に戦いを挑むことができるのです.
彼らが「アメリカはテロとの戦いに入るのではないか?」そう考える
のも不思議ではありません.

 ですから,これまでにない,まったく新しい戦いに備える必要が
あると感じたでしょう(一部にはこれで国防費をあまり削られずに
済むと考えた者もいたでしょう).特に化学兵器は高度な技術を
要する通常兵器に比べて,手軽に作れて単価も安く,使用した際の
効果は甚大です.地下鉄サリン事件はそれを証明して見せました.

 アメリカのNBC(今はCBRN〔シーバーン〕:Chemical〔化学〕,
Biological〔生物〕,Radiological〔放射性物質〕,Nuclear 〔核〕と
呼びます)戦能力は,第2次世界大戦後急速に伸びました.それは
宿敵ソ連が化学生物兵器を重視していたからです.核戦略は別格
ですが,アメリカは化学兵器にしても生物兵器にしても防護装備
だけではなく,報復用に大量に攻撃用兵器を保有していました(今はありません).

 研究施設もいくつか持っており,化学生物兵器の基礎研究は,
アバディーン試験場にあるエッジウッド化学生物兵器研究センター
(Edgewood Chemical Biological Center:ECBC)で行なわれ
(生物兵器の研究はアメリカ陸軍伝染病医学研究所:USAMRIIDでも
実施),実用試験はユタ州にあるダグウェイ試験場(Dugway Proving
Ground:DPG)で行なわれています.

 アメリカ陸軍の化学部隊は,旅団単位でいくつか存在し(自衛隊の
場合,1佐が長の中央特殊武器防護隊が最大の化学部隊),基礎教育
は陸,海,空,海兵隊とも陸軍化学学校(アラバマ州フォートマクレラン
から現在はミズーリ州フォートレオナルドウッドに移駐)で行ないます.
防衛省,自衛隊では考えられないような規模です.

 彼らは化学生物兵器を大量に持つソ連が消え,目標が一時なくなり
つつあったところに,新たな化学生物テロの脅威対処という目標を
みいだしたことでしょう.

 冷戦終結はいいことばかりではありません.ソ連はじめ東ヨーロッパ
の共産国家が崩壊し,大量の軍人が解雇され,多くの兵器が管理不能
になりました.化学兵器や生物兵器(もちろん核兵器も含めて)に関係
する軍人,技術者,資材,兵器も例外ではなく,過激な組織やならず者
国家がそれらを利用するのではないかという脅威が出てきました.

 地下鉄サリン事件の6年後,2001年9月11日,アメリカは同時多発
テロの攻撃を受けますが,同じ年の9月18日と10月9日に炭疽(たんそ)菌
によるテロ攻撃を受けます.テロとの戦いは現実のものとなったのです.

 私はそうした雰囲気の中でアメリカに行く機会を得ました.どこに行っても
温かく迎えてくれましたが,それは「地下鉄サリン事件で活躍した日本の
軍人」というだけではなく,軍人に対する尊敬の念が一般にアメリカ人に
強いからかもしれません.

 彼らは歴史が浅い多民族国家です.よく国としてまとまっているなと
思います.しかし「アメリカの合衆国の脅威」に対してはすさまじいほど
の団結心を見せます.第1次世界大戦時のルシタニア号事件や,
第2次世界大戦の真珠湾攻撃のときがまさしくそうです.私は地下鉄
サリン事件でアメリカの見せた反応を現地で見て,この団結心,愛国心
がアメリカという国家の根源を創っていると感じました.

 いま日本の周辺では,かつてなく脅威が高まっています.アメリカほど
ではないにしろ,日本はもっと脅威に対する国民としての団結心が必要
なのではないかという印象を持ちます.それが真の抑止力になるのでは
ないでしょうか.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.4.20




■オリンピックと自衛隊(5)

先週,防衛庁のほうから「オリンピックでその支援はできません」と
断った項目があることをご紹介しました.

OOCもまずいと思ったのでしょうか,協力できないと言われた項目
について再度検討します.そしてその結果,「選手村管理事務所
事務と馬術補助審判についてだけは,なんとかお願いしたい」と,
譲歩しつつ防衛庁へ再度要請してきました.

そこで,防衛庁も(というか陸幕も)「ならば仕方がない」と,
この2点については協力することにします.
また,衛生救護についてもOOCは当初「陸上競技場における
担架要員」という支援業務を要請していましたが,これについては
競技運営に協力する種目のみ協力することとしました.

この結論にいたるまでに防衛庁とOOCの間にどれだけのやりとり
があったのかはわかりませんが,防衛庁としても陸自としても,
これは譲れない,負けられない戦いだったに違いありません.


一方,OOCもじわじわと要求を拡大させていきます.
1年前の1962年と比べ,要請人員・装備の合計はいずれも増加
しています.

要請人員・装備合計
人員4795名(競技関係)
1/4トントラック357台
3/4トントラック52台
1/2トントラック82台
救急車9台
レッカー車1台
無線機148台
有線機273台
交換機8台
航空機10機
砲3門
給水セット1個
艦艇55隻
発電機2
折り畳み舟5


次に,オリンピック支援の中核となる陸自の動きを見てみましょう.

陸自の東部方面隊は,1963年8月上旬に東京オリンピック支援集団
準備本部を編成,支援集団の編成準備等を担当させました.
後に東京オリンピック支援集団長となる梅沢陸将補を筆頭に,各部隊
から選抜された20名が支援集団の基幹要員として配置されます.

そして東部方面総監部から臨時勤務中の陸幕オリンピック準備室の
幹部や,OOCに派遣されている幹部と相互の連携を保持しつつ,
12月に集団司令部が編成完結しました.


さて,東京オリンピック支援集団という支援組織の編成要綱が決定される
までの間には,解決しなければならないいくつもの問題点がありました.


まず,特別の支援部隊を編成するか,あるいは1962年1月に編成された
第1師団を増強して協力を担当させるか,です.

第1師団は東京都練馬駐屯地に司令部を置き,東京,神奈川,埼玉,
静岡,山梨,千葉,茨城という人口が集中した地域の防衛・警備および
災害派遣の担任地区とする政経中枢師団です.第1師団はやはり態勢
を維持していなければいけないということと,対外的影響を考慮し,
支援業務に専念する臨時編成部隊を編成することになりました.


ではこの協力グループはどんな地位に置くのが適当でしょうか.
これには長官直轄,東部方面総監直轄,第1師団長に配属という3案
がありましたが,部隊の指揮運用や行政管理支援などから東部方面総監
直轄案が採用されました.


次に,グループの長は東部方面総監兼任にするか,あるいは別に立てるか
を決める必要がありました.

その結果,方面総監は隷下の第1師団と第12師団を統括して従来の任務を
遂行,協力グループには専任の指揮官を配して東京大会協力に専念させる
こととしました.


まだあります.
編成の時期について,支援集団の全部隊を早い段階で同時編成するか,
それとも集団司令部のみ早期に発足して各群隊は直前に編成するかが
問題となりましたが,後者の案が選択されました.


ならば集団司令部の「早期」発足とはいつが適当なのか.
これはオリンピック支援集団準備本部が編成された1963年8月がいいのか,
あるいは1964年3月以降がいいのか議論されましたが,ローマ大会に
協力したイタリア軍隊の準備の経緯などを参考に,1963年12月という
中間の時期に決まりました.


このほかにも編成の要領や支援集団主力の配置場所(朝霞駐屯地に決定),
集団司令部の配置場所(市ヶ谷駐屯地となったが駐屯地が手狭で,陸海空
各幹部学校共用の兵棋講堂に司令部を置きました)など,実に細かで
さまざまな課題を根気強く,ひとつずつクリアしていきました.


こうして東部方面総監統轄のもと,各方面隊や海・空自,防大からなる,
4625名によるオリンピック支援集団が,特別部隊として臨時に編成されたのです.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.4.21





『鉄道と軍隊』
 日本陸軍の兵站戦(21)

                 荒木 肇

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□ご挨拶

 I様,いつもご愛読ありがとうございます.このたびの震災の被害は
いかがでしたか.ご無事のようで何よりですが,お知り合いの方々には
被害はありませんでしょうか.いつも貴重なご意見をありがとうございます.
北里柴三郎関連のお話もヒントになります.森の悪玉論の背景には学界
の勢力争いもあったというご指摘,ありがたく頂戴します.

 K様,そんなに熱心にご愛読くださりありがとうございました.恐縮です.
今後は鉄道輸送,そして船舶輸送に関わってまいります.ぜひ,お楽しみ
くださり,感想など賜ればありがたく存じます.


▼鉄道事始め─狭軌のくびき

 メートル法でいえば1067ミリ,わが国の鉄道の標準軌間(ゲージ)である.
世界の標準は1435ミリで,わが国では新幹線や一部の私鉄ではそれを
採用している.1067ミリというと半端な数だが,英国風にいえば3フィート6インチ
で,12インチで1フィートだから3.5フィートときまりの良い数字になる.
ちなみに国際標準の前述のゲージは4フィート8インチ半というヤード・ポンド法
(英国式単位)でも半端な数である.これを切りのいい4フィートとか5フィート
になぜしなかったかは謎だそうだ.

 鉄道建設が決まった時に外人お雇い技師が,「さて,ゲージはどうなさい
ますか」と政府高官に訊ねた.高官がそれは何かと説明を求めたというのだから,
基礎・基本から学ぶしかなかったのだろう.ゲージとは鉄道の線路の幅のこと
である.現在は2本のレールの頭の車輪が当たる所の間隔で計るという.
そのレールの間の幅によってカーブの半径も決まるし,鉄橋,トンネル,線路設備
の各種の規格,駅や信号などの付属施設の規模なども変わってしまう.
『金がない折から,少しでも長く線路を敷きたかったから狭い方にした』という
当時の高官による,のちの時代の証言が残っている.それでは,当時の
機関車,客車,貨物車などのハードの説明と,鉄路を支えるソフトについて
調べてみよう.

 線路は路盤,道床,枕木,レールでできあがる.路盤はレールや枕木,道床
の重さを支えるだけではない.それ自体がかなり堅固でなくては,線路そのもの
が不安定になる.道床は枕木とレールを上に載せるが列車が通るたびに枕木
は沈む.それを受け止めてまた元の位置にレールを戻す.ふつうの道路と違う
ところは瞬間的に非常に重い物が通り過ぎるという点であり,そのために道路
よりもはるかに堅固に造られる.枕木は犬釘でレールを止めるが,これも正確に
同じレールの幅を維持する役目がある.この枕木はレールといっしょに列車の
重量を支える.そこで一定の長さのレールの下に,何本枕木を入れるかという
ことが鉄路の強固さに関係する.開業当時は栗の木を使ったという.英語名を
スリーパーといった.

 諸説あるが,蒸気動力機関車の発明は1804年といっていい.これが実用化
されたのは,ビートルズの歌にもある炭鉱の町マンチェスターと港町リヴァプール
の間を1830年に結んだ鉄道の機関車である.それまではいつボイラーが爆発
するかと恐れられていたこともあり,乗客が乗る客車は馬による牽引がなかなか
廃(すた)れなかった.

 蒸気機関車は搭載した水をボイラーで過熱して蒸気にする.ただ,その蒸気
圧力はいつも変化する.そこで蒸気機関車の運転は必要な圧力をいつも発揮
できるように,なかなか複雑な手順が必要になる.まず,ボイラーの水を温める
火室にくべる石炭の量,その石炭が生み出すカロリー,ボイラーの中の水の量,
これらを考えながら圧力を加減していく.しかも石炭には産出地による質の差
がある.生産地が違えば発生するカロリー量がまったく違うのが当たり前だった.

 昭和の初めの1930(昭和5)年の超特急「つばめ」の運転について分かり
やすい話がある.東京−大阪間は当時,特別急行で12時間だった.それを
9時間で走り切り2時間40分も短縮するとした.機関車は新しく造らずに
1919(大正8)年に製造されたC51型機関車を使う.動輪の直径は1750ミリ,
世界でも狭軌鉄道では最大のものだった.登り坂では機関車はつらい.
これまでは低速で走っていたが,超特急ではかえって高速で走りぬける.
たとえば国府津から山北への急勾配区間では時速30キロから最高で80キロ
にする.関ヶ原でもやはり70キロを出す.停車駅は横浜・名古屋・京都,
上りは沼津で,下りは国府津・大垣で機関車を付けかえる.ついでにいえば,
東京駅から横浜まで24分41秒で,現在の東海道線の28分を軽く超えている.

 この時は,区間によって使用する石炭の種類を指定していた.筑豊のどこの
産出品,北海道夕張の石炭はどこで使うというように決めておき,事前に
カロリー量を計算し,ボイラーで発生できる蒸気の量,シリンダーの中の
圧力を完全に把握していたのだ.このカーブで,この勾配で使える蒸気は
これくらいで,決められた速度を維持するにはどこの石炭がどれほど必要か
を機関手は知っていたのである.

 だから,開業当時の機関手は技師とも言うべき専門職だった.

 わが国の要路者は開港された横浜と東京を結ぶ鉄道をまず開こうとした.
そのときに英国の技師,設備の一切を輸入することとする.

▼鉄道国産化への関心

 異文化としての鉄道への関心は高かった.1840年代にはすでに鉄道に
関する正確な知識は手に入れていた.ヨーロッパで書かれた解説書を忠実
に翻訳して,機関車のメカニズムについては十分に知っている人が多かった.
ペリーが日本人を驚かそうと持ってきた機関車のミニチュアもそれほどの効果
はなかった.その一方で,幕府や諸大名家では黒船に対抗できる蒸気船を
自分で造ろうとする,あるいは大砲までも鋳造(ちゅうぞう)しようとする動きが
あった.他のアジアの植民地になった国々とはそこが違ったのである.

 直に外国から製品を買い付ける方法をとったのが幕府だった.オランダから
軍艦などを購入し海軍を創始しようとした.しかし,この方法は危険な面も
持っている.いろいろな利権が絡み合い,植民地化の危険があった.事実,
幕府はのちにフランスから資金の融通を受けて横須賀に軍港を整備しようと
する.一歩,間違えば担保の土地や鉱山の採掘権などを奪われてしまう結果
にもなったことだろう.

 自立の方向に進む勢力もあった.肥前佐賀の鍋島家は模型作りから入った.
薩摩鹿児島では一気に実物を造る方向に向かった.佐賀では軍艦の模型も
造ろうとする.基礎技術や原理の習得から始めようとするのは,まさに西欧式
近代化への必須要件だったのだ.しかし,産業革命という大きな流れが進んで
いなかった日本では,鉄道の必要性がそれほど強く認識されていなかった
のも事実である.おかげで,将来にわたって大きな禍根を残す,鉄道ゲージ
の小ささが生まれてしまったともいえる.

 興味深いのは幕末にアメリカ公使館の1職員が横浜と江戸との間の鉄道
敷設権を手に入れ,それが明治新政府を悩ませたことである.無思慮な幕府
の閣僚が無造作に認可して調印してしまった.これを撤回させたのは英国政府
の資金援助である.当時も新政府の中でも鉄道建設など無意味だとする意見
が多かったなかで,大隈重信や伊藤博文などは鉄道推進派だったらしい.
ただし,彼らもまた,東京と京都を鉄道で結べば中央集権化に有利であると
いうくらいの理由でしかなかった.それが大きく変わったのは,1868(明治元)年
から翌年にかけての飢饉である.

 英国公使パークスは維新の豪傑たちに説いた.飢饉で苦しむ地域に,
大量に短時間で食糧を運び込むには鉄道は有効であると.政府の基盤が弱く,
飢饉への対応に苦しむ維新の志士たちはようやく,鉄道が輸送手段として効果
が大きいことに気がついたらしい.非公式会議で鉄道の建設が決定すると,
アメリカの影響力は後退し,英国が大きな発言権を持つようになった.こうして
英国の資金と技術を基として東京−横浜,大坂−神戸の間の鉄道が建設される
ことになる.

 わが国が幸せだったことは建設の指導に雇った英国人技師長が誠実な人
だったことだ.モレルは精魂を日本に注ぎ込んで妻と一緒に横浜で亡くなった.
日本の伝統土木技術の優秀さを正しく評価し,工事を進めさせた.品川御殿山
の切り取り,その土を使った品川・高輪の海岸埋め立て,横浜の高島台の
切り崩しと鉄路の海中建設などである.鉄の枕木の輸入を止めさせて,国産木
による調達に替えさせた.こうした誠実な態度はモレルだけではなく,多くの
外国人技術者たちにも共通するものだった.彼らの友好的な指導,それに
応えた先人たちによって,わが国の鉄道は他のアジアの植民地鉄道とは
違った発展を遂げるようになった.

▼東海道か中山道か

 東京から群馬県の高崎へ,そこから碓氷峠を越えて軽井沢へ,諏訪から
関ヶ原に向かい京都へつなごうという中山道ルートが企画された.海岸にそって
線路を敷くと,敵の軍艦による艦砲射撃を恐れなくてはならない.
だから,トンネルや橋梁が多くなり,カーブが多くなるような内陸に路線をつなぐ
べきだという考えが陸軍にあった.

 1887(明治20)年,清国との対決を準備する陸軍参謀本部は『鉄道論』と
いう上奏文を出した.その要旨は2つになる.まず第1に,鉄道は戦時輸送を
重視しルートを計画すべし.第2には単線の鉄道は軍事輸送には向かないと
いう.単線では終末点で荷をおろした貨・客車が帰りの道のりで向かってくる
列車とぶつかり,すれ違いのための無駄な待機時間が増えてしまうからだ.
このことはのちの日露戦争で単線だったロシアのシベリア鉄道がずいぶん
ロシア軍に負担をかけた.さらにこの上奏文には補足事項が付いていた.
輸送量を考えれば広軌で大馬力の大型機関車が必要であること,客車もまた
装備を身に付けた兵士が多数乗るために頑丈な構造の客車が要ること,
軍馬の輸送のために配慮された装備を付けた貨車が必須だとも付け加えている.

 すでに東海道線は海岸沿いに敷設が進み,この年には新橋−国府津
(神奈川県小田原市)に路線は伸びていた.そして箱根を越えるのが難しい
ので,足柄山コース(すなわち現在の御殿場線)を取って山北(神奈川県山北町)
経由の沼津(静岡県)までの工事が進んでいた.次の年には浜松(静岡県)
から西もつながり,1889(明治22)年7月には新橋から神戸までの全線開通
が実現した.

 少し時計の針を戻すと,今もそうだが海岸線を多く走る東海道線の開通を
優先させる決定が出たのはようやく1886(明治19)年のことだった.それは
主に陸軍が中山道コースを主張していたからだ.しかし,一刻も早く本州を縦貫
する鉄道が欲しい.対清国戦のときは物資・馬匹・兵員の動員時の輸送と,
清国軍が上陸してきた時には軍隊の移動が必要になるからである.ところが
財政上の理由が大きく,ことはそう簡単には運ばなかった.トンネルや山中に
橋を架けることはたいへんな費用がかかったからである.そのため,政府は
鉄道建設公債までも発行していた.

 1883(明治16)年のことである.2000万円の中山道鉄道建設公債の発行
が認められた.今ではおよそ4000億円あまりになるだろうか.その関連工事と
して日本海側の新潟県直江津(現高田市)から軽井沢まで(現在の信越線)の
工事に着手してみると,山岳地帯の工事には途方もない金がかかることがわかった.
中部の山岳地帯を抜けることになる中山道コースは山あり谷ありの連続で,
とても公債額では足りないことが判明した.信越線は日本海側から東京への
主要幹線とするので中止にはならなかった.ところが,難関がもう一つ待ち構えていた.
アプト式で有名な碓氷峠である.この峠を走る線路は直線にすれば8.5キロ,
そのうち曲線のトンネルが4キロ以上もあり,通過するのに75分もかかった.
それでも高崎と東京の上野の間には日本鉄道という政府の試験援助を受けた
民間会社が列車を走らせており,日清戦争にはかろうじて間に合っていた.

 さて,東海道線の話にもどろう.中山道ルートにこだわったのは陸軍である.
そのボスは山縣有朋だった.この山縣に伊藤博文は説明した.参謀本部の不安
は当然でもある.艦砲による攻撃だけではなく,ひそかに上陸した工作員によって
鉄路が破壊されたり,運行が妨害されたりしたら,その警備用の兵力が必要に
なってしまう.海岸線の長いわが国には上陸するのにふさわしい地形が多かった.
自在に行動する軍艦にとっては,どこでも戦場を選べるのである.守る側はどうしても
後手に回ってしまわざるを得ない.だから,線路は少しでも海岸から遠いところ
にあることが望ましい,それが陸軍の主張だった.

 このころ,清国の軍艦4隻が長崎に来航し,上陸した水兵たちによって暴動が
起こり,町が戦場のようになった経験も大きかった.山縣は幕末の下関での
外国艦船砲撃で,反撃のために上陸してきた外国軍の怖さは身にしみていた.
それであるのに,山縣は苦渋の決断をし,本州縦貫鉄道を造るために妥協をした
のである.こうして,中山道コースは後に回されることになり,現在の東海道線は
1889(明治22)年7月に全通を迎えることになった.

▼山陽線の確保

 神戸までつながっても,その先が問題だった.山陽線が重要である.西に
鉄道が伸びなければ経済活動にも不便であることは当然だった.また,東北
から上野に向かう路線も重要である.北から東北,東海道,山陽道という路線
がつながってこそ本当の本州縦貫鉄道になる.東海道は官設になったが東北線
と山陽線は民間からの投資で建設が進められた.東北線は1881(明治14)年
に設立された日本鉄道株式会社が持っていた高崎線からの分岐線として建設
が始まった.これには第15国立銀行から政府資金が回った.これに対して
山陽線は,純粋に財界人の資金によって設立された山陽鉄道によって敷設
された(明治21年).

 山陽線は民間会社だったので路線も利益第一で海岸に沿って建設される.
参謀本部は不満だったが,瀬戸内海の入り口には1887(明治20)年から
要塞砲が据えられていた.山陽線は同91(明治24)年に神戸−尾道間が開通し,
同94(明治27)年6月10日に広島まで伸びていった.その直後に日清戦争は
始まり,からくも兵站・輸送の役に立つことができた.東北線もまた青森から上野
まで同91(明治24)年には全線が開通していたので,青森の歩兵聯隊も広島
まで列車を使うことができた.ただ,開戦時には広島駅から宇品港までの鉄道
がなく,陸軍が急いで用地を買収し仮設線を造った.

 鉄道といっしょに伸びるのは電信である.この当時では長崎までの有線電信
が開通していた.九州から対馬を経由して釜山へ,そこから京城までという
朝鮮半島に伸びる海底電線もあったが,使用状況は不安定だった.上陸した
有線電信は朝鮮半島の中での信頼性が低かったのである.そこで通信船が
釜山港に待機したという状況だった.

 広島に天皇陛下をお迎えして大本営を建設したのも通信上の便利のため
である.9月15日,半島に上陸して転戦中の第5師団司令部に天皇は入られた.
この時の陛下の移動状況の記録が残っている.簡単に記してみよう.

 13日7時25分,新橋停車場をお召し列車は出発した.侍従長と大山陸軍大臣
が御料車に同乗し,後方の供奉車には侍従や警衛の将校達が乗りこんだ.
参謀総長以下の大本営メンバーはその後,3本の列車に乗って後を追った.
陸海軍の佐官以上でも33名,これに尉官,下士官,馬丁や兵卒,馬なども移動
するので列車3本が必要だった.最後の列車が出たのは午前10時5分である.
最初の宿泊地名古屋に御料車が着いたのは夕方の午後6時40分だった.
およそ11時間かかったわけだ.翌日は神戸に一泊,そして15日午後6時40分
に広島到着だった.

 次回は普仏戦争で,フランスに対しプロシャ方式の鉄道利用の兵力集中,
兵站輸送の優越を学んだ陸軍の鉄道利用と実際の状況を説明しよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.4.27





マーケット・ガーデン作戦とインテリジェンス (20)
                長南 政義
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■前号までのあらすじ

本連載は,精確な内容を持つインテリジェンスが一九四四年九月上旬に
連合軍の指揮官に利用されたかどうかを考察することにある.
実は,インテリジェンスの内容は,マーケット・ガーデン作戦実行に伴う
リスクを連合軍の指揮官に警告していた.

指揮官が決定を下すために利用できるインテリジェンスの情報源は数多く
存在していたが,本連載では「ウルトラ」情報により提供されたインフォメーション
にのみ焦点を当てて考察を進めることとする.第二次世界大戦を通じて,
連合軍の戦略レヴェル・作戦レヴェルの指揮官たちはウルトラ情報を活用し,
ウルトラ情報の精確性に関してめったに疑いを持たなかったからだ.

前号から,連合国側によるマーケット・ガーデン作戦までの「ウルトラ」情報
の利用について述べている.

前号では,英国のバーナード・モントゴメリー将軍が,一九四二年八月十八日
に第八軍司令官に就任した直後に,「ウルトラ」情報を使用し,情報面で
ドイツ軍に対し有利な地位に立てるようになったことや,彼が「ウルトラ」情報
を利用して,アラム・ハルファの戦いに勝利して以降,大戦中を通じて
「ウルトラ」情報を使い続けることになったことを説明した.

また,英米首脳は「ウルトラ」情報の保全に熱心であり,ウルトラは軍レヴェル以上
の部隊において主たる情報源となったが,軍団レヴェルより下の部隊は
ウルトラを使用する対象から除外されたことについて説明した.つまり,戦術部隊
は情報要約や報告書を通じて「ウルトラ」情報の間接的な受益者であったが,
「ウルトラ」計画の存在についてはまったく気付いていなかったのだ.

今回は,ノルマンディ上陸作戦直後の連合軍の状況とファレーズ包囲戦に
ついて述べることとする.

■作戦レヴェルと戦術レヴェルで相反する要求

一九四四年六月,ノルマンディに上陸した連合軍は,ノルマンディのボカージュ地帯
でドイツ軍に進撃を阻止されていたが,コブラ作戦およびブルーコート作戦の
成功により,一九四四年八月二十五日までにまでに,ノルマンディ上陸作戦に
参加した四個軍すべてがセーヌ川に到達した.いまや,ドイツ侵攻のための準備
をすることが現実的なものとなったのである.

作戦レヴェルから見た場合,ドイツへの侵攻計画は,ドイツへの進撃を支援できる
適切な兵站基地の設定を連合軍に要求していた.しかし,戦術レヴェルの要求
はこれとは異なった.主としてドイツ軍がフランスを横断して退却中であるという
戦術状況は,再集結し,他の地点で防衛拠点を確立する時間的余裕をドイツ軍
に与えないために,ドイツ軍を迅速に追撃することを要求していたのである.

適切な兵站インフラの強化は,バラバラになって敗走中の敵軍を撃破する
またとない機会を利用するためにとりあえず後回しにされることとなった.

■連合軍が直面した兵站問題

八月十九日,連合軍部隊がドイツ国境への進撃のためにセーヌ川を渡河し始めた.
連合国遠征軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワー将軍は,連合軍の主攻を
アルデンヌ北方へ向けることと,主攻がカナダ第一軍・英第二軍・米第一軍で
構成される,という決定を下した.パットンの第三軍は支援部隊として,アルデンヌ
の南方を進撃することとなった.この進撃の最終目標はドイツ領内にあるルール
産業地域であった.だが,連合軍は多くの問題が直面していた.

連合軍が直面した最大の障害は長く細く延びた兵站状況とライン川であった.
連合軍とは反対に,ドイツ軍は時間が進むにつれて,取り組むべき障害も
少なくなるはずであった.

■厳しいドイツ軍の状況とリュティヒ作戦

しかしながら,ドイツ軍が直面している状況は連合軍を撃破もしくは遅滞させる
という性格のものではなく,第三帝国の生存のための戦いという性格のもので
あった.欧州大陸のすべての戦線でドイツ軍は連合軍の攻勢により
追い立てられており,彼らには退却以外の選択肢が残されていなかったのである.

特に,ドイツ軍を苦境に追い詰めたのが,ヒトラー総統が現地指揮官の反対を
押し切って実施を命じた,リュティヒ作戦(八月七日〜十三日)と呼ばれる,
モルタン近郊での反撃作戦である.この作戦は,米第一軍がコブラ作戦以降に
獲得した地域を回復するとともに,コタンタン半島の付け根に位置するアヴランシュ
地域への進出により,ブルターニュ半島に進出していた米第三軍を孤立させる
ことを目的としていた.
装甲師団保有の戦車だけで三個装甲師団約三百輛という大量の戦車を装備する
装甲軍団をつぎ込んだこの作戦は,初期の頃は成功をおさめたものの進撃は
すぐに停滞し,連合軍の航空攻撃により,作戦に参加したドイツ軍の約半数の
戦車(約百五十輛)が失われた.

装甲予備戦力をノルマンディ西部に集中したこの作戦はドイツ軍に悲惨な結果
をもたらした.というのも,戦線の東端が崩壊し,南側面を包囲されたドイツ軍は,
ファレーズ・ポケットと呼ばれる大包囲網に捕捉されてしまったからである.
ヒトラーの誤った作戦介入は,フランス西部におけるドイツ軍の崩壊を早める結果
をもたらしたに過ぎなかったのだ.

■リュティヒ作戦におけるインテリジェンス

リュティヒ作戦での連合軍の勝利はインテリジェンスの勝利でもあった.
西部戦線におけるドイツ軍の責任者は西方総軍司令官ギュンター・フォン・クルーゲ元帥
であった.クルーゲは八月六日夜にリュティヒ作戦の開始を決定し,
米軍に攻撃開始を察知されないように攻撃準備射撃を実施しない決定を
下した.しかし,ドイツ軍が使用するエニグマ暗号機の暗号を解読していた
連合軍は,リュティヒ作戦に関する暗号を8月4日に解読しており,
リュティヒ作戦について把握していたのだ.そのため,連合軍側はドイツ軍
の攻勢に対する対応を万全にしていたのである.

■ファレーズ包囲戦

ファレーズ包囲戦はドイツ軍の弔鐘となった.ドイツ軍が反撃に出た翌日,
カナダ第一軍がモルタン東部のファレーズで攻撃を開始した.ドイツ軍を包囲
する機会が訪れたと判断したモントゴメリー将軍が南側に米第一軍,中央に
英第一軍,北側にカナダ第一軍という配置で攻撃を開始したのだ.

以後二週間の間,連合軍の三個軍は,ドイツ第七軍および第五装甲軍を
包囲する.ドイツ軍には東部への退却路が存在したが,ゆっくりと閉じられつつ
あった.ドイツ軍の損害については諸説あるが,約八万から十万の将兵が
包囲網に取り残され,ドイツ軍は約四万五千から五万の捕虜,約八千から一万
の戦死者を出し,約二万名が包囲網からの脱出に成功したといわれている.
これら人的損害に加えて,驚くべき量の車輛・火砲・補給品が破壊もしくは鹵獲
されたのである.

人的・物的損害に加えて,部隊全体が包囲網から脱出する際に個人もしくは
小集団へと寸断された点もドイツ軍の以後の作戦に大きな悪影響を与えた.
さらに,ファレーズ包囲戦での大損害は,ドイツ国防軍の士気に大きな打撃を
与え,これは軍がドイツ国境に到達するまで回復しなかった.

■組織が破断したドイツ軍

ファレーズ・ポケット内部の破壊と混乱の状況は,八月一日刊行の連合国
遠征軍最高司令部の週刊情報要約で以下のように述べられている.

「レーヌにおいて,敵の戦闘序列は18の師団に所属する百人の捕虜を出した
ことに代表されるほど混乱していた」.

一つの町で獲た百人の捕虜を調査したら,所属が18もの師団に分かれていたとは,
もはやドイツ軍は組織として完全に崩壊していたと評価することができよう.
ドイツ軍が組織的統制を喪失していることや,連合軍の前進を食い止めるために
調整された協同作戦を実施することが困難になっている実情が,急速に明らか
となったのである.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.4.28





『ライター・渡邉陽子のコラム (92) ─ オリンピックと自衛隊(6) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.

先日,20センチほど髪を切りました.
何日も経つのにまだ落ち着きません.

本当は,切るときは40センチ以上一気に切って,抗がん剤治療を
受けている人のためのかつらを作っている団体に寄付したいと
思っていたのですが,まだそこまでの思いきりがありませんでした.

これからまた地味に伸ばしつつ,次にばっさり切るときこそ,
40センチカットを目指したいと思っています.



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■オリンピックと自衛隊(6)

今回はオリンピック支援集団長の梅沢治雄陸将補(1964年に陸将に昇任)の
ご紹介からです.

梅沢陸将補は山形県出身,1911年(明治44年)生まれ.陸軍士官学校44期生,
1938年に陸軍大学校を卒業.
太平洋戦争開戦直前に参謀本部員となり,1945年3月に陸軍中佐に昇任.
翌月,参謀本部員兼大本営参謀となって,そこで終戦を迎えました.
1952年に自衛隊入隊(正確にはこの年に警察予備隊から保安隊へと名称が
変わっています),第1普通科連隊長,富士学校普通科部長を経て1959年陸将補
へ昇任.
1960年に陸上自衛隊幹部候補生学校長,翌年に陸上自衛隊幹部学校副校長
を歴任し,東京オリンピック支援集団長に就任します.
1964年に陸将となり,オリンピック終了後の11月に第11師団長となっています.
1969年に退官後は綜合警備保障に入社,専務まで勤めました.
正4位勲3等旭日中綬章,2003年に老衰のため91歳で逝去.まさに激動の
20世紀を生き抜いた人物です.

梅沢集団長は集団司令部の編成に当たり,次の統率方針で支援上の心構え
を示しました.

統率方針:融和団結,職務の完遂,自衛隊の真価の発揮
支援上の心構え:今一歩の親切心,厳正確実しかも「スマート」に,突発事態
に心の余裕,事故の防止に手ぬかりはないか,功は他に譲り,縁の下の力持ち
に徹せよ

開会式が1カ月先にせまった1964年9月11日の毎日新聞に,梅沢陸将(当時)の
インタビューが載っています.人となりがわかる一文なので,抜粋して紹介します.

「競技のルールから,語学にマナー,隊員はまったくよくがんばってくれた.
それと,これまでの開催各国ともうまくいかなかった輸送関係をどうするかで,
いちばん苦労しました」.
(略)陸士44期で陸大はトップ,第6師団参謀や大本営陸軍参謀などをやり
終戦時は陸軍中佐.戦後は復員局から自衛隊入りをして,前職は統合参謀本部
第4幕僚室長と,ほぼ一貫して動員・編成畑を歩いてきた.身長175センチ,
体重87キロの堂々たる美丈夫(略)
「むかしの軍隊はいくさのことばかりを考えておればよかったが,いまは違う.
さきごろも災害に出動して感謝されたが,こんどはオリンピック支援の任務を
立派に果たして,平和時における自衛隊の姿がどうあるべきかを国民にシカと
認めてもらうように努力したい.(略)本当は,もっと年が若かったら,陸士時代
にやった馬術,水泳,射撃などで近代五種に出る資格があるんですがね」


さて,続いては1964年1月上旬〜3月下旬の動きです.
この時期は,オリンピック支援集団司令部にとって諸計画の準備期に当たります.
それまでOOCはじめ部外関係機関などとの直接交渉は集団司令部の任務として
与えられていませんでしたが,集団司令部の編成完結によって,また業務の
必要性や先方からの要請により,各担当者を必要な会議に出席させられるよう
になりました.
また,所要の調整も実施できるようになったことで,各関係機関との調整が
スムーズになりました.

記録に詳細は記されていませんが,どうもこの時期は,先にできていた内局の
オリンピック準備委員会や陸幕のオリンピック準備室が対外的な窓口となって
いたようで,さらにOOCに派遣されている幹部自衛官もいたため,実任務に
当たる集団司令部が自由に関係者とやりとりできないゆえの不都合が生じて
いたようです.
いつの時代も,実際に汗を流す現場レベル同士で話すのが,いちばん話が
通りやすいはずなのですが.同じ組織であるものの,水面下ではパワーゲーム
が繰り広げられていたのかもしれません.

こうしていよいよオリンピック開催年,1964年度の最終フェーズを迎えます.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.4.28





──[一画多い]→[子孫]──────────────────────
★江戸将軍家の徳川は本来は「徳」の中にある「四」の下にもう一本「一」の
 字が入る一画多い文字.徳川慶喜の子孫・宗英氏は正式な書類にこの文字を
 書くと「漢字を間違えるなんて,本当に子孫か?」と疑われる.

※ちなみに年賀状500通の中,4通だけが正しい字で苗字を書い
 てあったそうです.

◎雑学大作戦:知泉
⇒ http://archives.mag2.com/0000017191/index.html?l=son065f321
2016.5.1





『鉄道と軍隊(2)』
 日本陸軍の兵站戦(22)

荒木 肇

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□ご挨拶

 皆様連休をいかがお過ごしでしょうか.また,今回の地震の被害に
あわれた方々には,あらためてお見舞いを申し上げます.
しかし,それにしてもインフラの復旧のテンポは思っていたよりも早く,
新幹線や高速道路の開通の知らせが次々と届き,あらためてわが国
の底力を見せてもらった気がします.

 今回は鉄道と近代化,そして日本人と鉄道について考え直そうと思いました.


▼鉄道の利用に注目した陸軍

 1872(明治5)年に始まったわが国の鉄道は,欧米に比べればほぼ
40年の差をつけられていた.このことは大きな危機感をもって受け止められた
かというと,そうでもなかったと思わざるを得ない.なにぶん,何から何まで
後発国である.産業も,社会の在り方もひどく違っていて明治維新政府
もどこから手を付けていいか分からないといったところだったのだ.
あまりに絶望的な状況では,人はある意味,楽天家になるしかない.
楽天家は同時に現実的でもある.とにかく目の前のことを片付けようとする.

 すでに同70(明治3)年の普仏戦争ではプロシャ軍は,鉄道によって戦場に
多くの兵員と物資を集中させ,フランス軍に勝利していた.この直前に
ヨーロッパに渡り,現地の軍事情勢を視察していた山縣有朋他のわが陸軍
首脳陣がこれに目を付けないわけはなかった.

 この戦争までのドイツは多くの王国や公国の連合体だった.なかでも
プロシャ王国はほぼ1世紀前のフリードリッヒ大王(1712〜86)のころから
抜きん出た軍事力を誇り,同66(慶応2)年には隣国オーストリアをも破って
いた(普墺戦争).この戦争ではプロシャ軍は5路線の鉄道でエルツ山脈
の北側に20万の大軍を集めた.開戦のほぼ1カ月前である.1路線しか
使えなかったオーストリア軍は,同じころようやく十数万の兵力を集めた
だけだった.
 
 プロシャ軍はこの経験を生かした.当時のプロシャ王国の首相は鉄血宰相
といわれたビスマルク(1815〜98)であり,諸王公国連合体から統一ドイツ
帝国を生み出そうとしていた.それを支えたのがプロシャ陸軍参謀総長
だったモルトケ(1800〜91)である.モルトケは鉄道の大量輸送力に注目し,
対フランス戦では9つもの路線を使えるようにした.そのために鉄道建設に
努力し,自分でも鉄道会社の役員を務めたほどだった.
 
 鉄道には運行状況の把握のために駅間や本部などの間を結ぶ通信線
が引かれる.わが国でも大正時代には,一般に電話が普及していなかった頃,
鉄道電話が地方と東京・大阪をつなぐ便利な道具だった.大正バブルと
いわれた景気がよかった時代には(1920年ころ),駅の鉄道電話を地方
の投資家が株の売買に使っていたぐらいである.
 
 さておき,普仏戦争のころの軍隊が移動できたのは徒歩で1日20キロ
くらいだった.大砲や弾薬,食糧,その他軍需物資などは馬による輸送
だったので,集結には思わぬ時間がかかった.これが鉄道ならば,搭載(積み込み)
や卸下(しゃか・積み下ろし)に手間が必要でも,移動時間そのものは
5分の1くらいで済んでしまった.つまり,1日に100キロの移動が可能に
なった.しかし,問題点も指摘された.積み下ろした物資を保管する倉庫
がないことや,せっかく大量に物資を送っても停車場から先は,やはり馬による
不完全な輸送に頼らねばならないことだった.
 
 また列車の輸送力も問題になった.そのころの非力な機関車や貨車の能力
では1列車で400トンが限界だった.のちの時代のわが国の主力貨車は1輌
で15トン積載が標準であり,せいぜい25輌編成といったところである.
1個師団が250キロを移動するのに,50本もの列車が必要だったという.
当時の列車の平均速度は毎時25キロぐらいだった.

 普仏戦争では鉄道の利用で両軍には大きな差がついた.プロシャの
宣戦布告(7月19日)より4日前からフランス軍の動員は始まった.ここでいう
動員は平時編制の軍隊を戦時編制に変えることである.具体的には民間
にいる予備役軍人を召集し,備蓄していた軍需物資を配分し,軍隊が大きく
膨れあがることをいう.対してプロシャ軍の動員開始は3日前の7月16日
からである.プロシャ軍が第一線兵力の集結・展開を終えたのは8月3日
だった.兵力は38万人である.フランスは同じ時期に25万人.この差が
生まれた理由の一つは鉄道の利用の違いによってできたものだった.
プロシャが9路線を使えたのに対して,フランスは半分以下の4路線でしかなかった.
 
 もう一つの理由は,兵役制度の違いだったと指摘されている.当時の
フランスでは納金制度,つまり一定の金を納めれば入営することはしなくて
済んでいた.したがって教育が終わった予備役兵,すぐに戦える現役兵力
も少なかったのである.しかも,数少ない現役兵の多くは国境にあった要塞
守備部隊に配当されていた.軍隊移動の機動力がひどく不足していた
という実態があった.これに対してプロシャ軍は鉄道を使って,全土から
予備役兵力を集めることができた.しかも,大兵力を短い時間で移動させて,
敵軍が予想しなかった地点から進攻が可能だった.鉄道の運行統制も商務省
と参謀本部から出向した軍人たちで委員会をつくった.民需輸送と軍需輸送
の調整のためである.
 
 戦後の反省点も生まれた.進攻後の敵地の鉄道利用である.フランス軍
は撤退に際して,必ず鉄道路線を破壊し車輌を後送していった.ドイツ軍は
軽便鉄道を建設したり,破壊箇所の復旧を行なう鉄道部隊を編成したりした.
それでも前線への物資を送り届けるにはさまざまな困難があった.組織にも,
機構にも,人材にも大きな不備があったのだ.
 
 戦争の結果は大きく両国の国家体制をゆるがせた.セダンの戦いでフランス
皇帝ナポレオン3世は捕らえられ,フランスは第3共和制に移行する.
プロシャ国王ウィルヘルム1世は皇帝となり,全ドイツ帝国の主権者となった.
ビスマルクは帝国の首相となり,モルトケも帝国陸軍参謀総長の地位を得ること
になる.このモルトケが推薦し,日本の新しい陸軍建設に大きな力を発揮した
のが有名なメッケル参謀少佐だった.メッケルが来日し,陸軍大学校で教鞭を
とったのは1885(明治18)年のことである.

▼ 官有鉄道と私設鉄道

 有事にあたっての動員,補給の継続などからみて鉄道は官有がいいか,
それとも資本を持つ者たちが経営する私設鉄道が良いか.この問題は鉄道建設
が順調に進み始めてから幾度も話し合われた.

 鉄道の軍事利用は当初,建設にあたった人々には関心外だった.伊藤博文
や大隈重信,初代鉄道頭(てつどうのかみ)井上勝も同じだった.鉄道といえば
鉱山という英国の技術指導で始まったせいもあるだろう.英国はもともと島国
であり,海軍の勢力が強く,陸軍にも鉄道を軍事に利用するという発想が
薄かったに違いない.

 それは当初の陸軍が「鎮台」というシステムをとっていたことにも関係がある.
元の大藩があった城(東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本)に本営を置き,
各地に分営という部隊配置を行なう.これは内国の治安維持のための軍隊であり,
兵力の移動や軍需品の輸送には海運や水運を使うという考え方である.事実,
西南戦争では徒歩でしか移動できない西郷軍は,政府軍の海軍や民間からの
チャーターだった輸送船の機動力に負けたといってもいい.

 西南戦争の翌年に山縣有朋が参謀本部長になると軍制もプロシャ式の導入
に決まり,陸軍も進んで軍事利用に関心を持ち始めた.敵国が(具体的には
清国)どこかの地方に侵攻してきた場合,制海権はあてにならず,鉄道を使って
兵力を集中すべしと考えたからだ.こうしたことから鉄路が脆弱であっては
ならない.海岸線からなるべく離す,当時の主力艦砲である口径32センチの
射程外が安全であり,海岸線から3キロメートル以上離せという要求があった.
新設路線の位置は陸軍と鉄道当局の合議とすることを認める太政官の裁定
で確定した(1884年).
 
 とはいうものの,明治初年の貧しい国家予算では戦時の輸送力増強に
応じることができる官有鉄道の建設は思うように進まなかった.それでも政府
と軍は軍隊の命脈が輸送力にあることを重視し,多くの手を打っていた.
 
 現在の御殿場線は1934(昭和9)年に難工事だった静岡県の丹名トンネル
ができるまでは東海道線だった.東京から沼津に向かうと,国府津から線路は
右に折れ曲がり,神奈川県の松田町から山北町に向かう.山北には大きな
機関庫が置かれた.御殿場は標高400メートルの高地にある.そこにたどり
着くまでに当時の鉄道技術の限界である1000分の25という急勾配があった.
平地で1000メートル進む間に25メートルを登るという傾斜である.
 
 こうなると,条件によっては蒸気の圧力を上げ,砂を線路に撒いても,機関車
は動かなくなり,車輪は空転し,最悪の場合は坂道を滑り落ちてしまう.
この区間は後ろから補機をつけたり,強力な機関車を輸入したりしてなんとか
工夫をしていたのである.ここの輸送力を向上させるために複線化が進められた
のは1891(明治24)年に終わっていた.
 
 日清戦争が始まってから広島から宇品港までの鉄路が造られたことは前にも
書いた.それに似た突貫工事が東京の品川や神奈川県の横浜でも行なわれた.
当時,青森や高崎から南下する路線は私設の日本鉄道だった.大宮から現在
の池袋,新宿,渋谷を経て目黒を過ぎ,大崎から大きく左にカーブし品川に入った.
 
 するとどうなるだろう.機関車は一番前で新橋方向に向いている.横浜に
向かうには機関車を付け替えて最後部に回す.それが無駄な時間を生んでしまう.
戦時の輸送の損失を考えて,陸軍は大崎から品川に出ずに南下して東海道線
につながる線路を建設した.これが現在も湘南新宿ラインといわれる品川西南線
と名付けられた官有鉄道のコースである.
 
 横浜でもよく似た事情があった.現在の三代目横浜駅近くの高島付近は
海の中の築堤を走った.初代横浜駅である現桜木町駅には大きく左カーブをして
到着した.そこから神戸方面に走るにはやはり機関車の付け替え作業が必要
になる.そこで,保土ヶ谷方面に直行する新線が建設された.昭和30年代後半
になって根岸線ができるまでは桜木町までが盲腸線だったのはそういう理由があった.

▼ 日露戦争への準備

 日清戦争では鉄道の輸送力が高く評価された.全国津々浦々から召集された
兵員は鉄道を使って兵営に到着し,あるいは徒歩で集まった.動員部隊に
来れば,そこからは列車に乗って宇品や小倉,下関などの港に向かった.
軍需品も鉄道で送られ,船に載せられた.そこでは同時に多くの反省点が
生まれた.軍事ダイヤを作ることで,どこまで民需を保障しながら特別列車を
編成できるか,武装した兵卒を乗せるのに普通の客車は適当か,馬を貨車に
乗せるが,そのために便利な設備はどうか,停車場も馬や兵員,軍需品を同時
に乗降させる,そのためには駅設備にどういう配置が適当か,などなどである.
また,鉄道会社の存続も保障する形で運賃の体系も考えねばならなかった.
日清戦争では平時の4割という特別運賃を適用した.
 
 軍事列車は重い.しかも通常より,少しでも高速で走らせることが必要だった.
ということは基盤から始まり,レールも強度が高くなくてはならない.平時の運転
に十分だった線路に大型の機関車を走らせることはできないのだ.橋梁やトンネル,
ポイントなども戦時の輸送に耐えられるものにしなくてはならなかった.軍事ダイヤ
もいつも毎年,陸海軍の動員や輸送要求に対応するものを常備しておくことが
必要になる.
 
 こうなると民営鉄道は不適当であることが多い.戦時という非常時に備えて,
線路や施設に余裕のある設計はとてもできない.民営は少しでも利益を上げる
ことが資本主義の原則だからだ.また,動員や物資の補給・兵站計画を民営会社
に漏らすことになる.そうなると国家の安全が保てないという主張が出てきた.
その上,お手本にするドイツはすでに鉄道国有化を進めていた.1892(明治25)年
に制定された「鉄道敷設法」はそうした流れを背景に制定されたものである.
 
 興味深いのは日露戦争への準備の中で広軌への改良論が力を失っていった
ことである.東海道線は御殿場ルートの複線化が終わっても,続けて全線複線化
を目指して工事を行なっていた.今でも新幹線が止まるほど関ヶ原は難所だが,
1900(明治33)年にはここも複線化され,関ヶ原の北側を通っていた線路は
南側に付け替えられた.すでに日露戦争の前には東海道線の全行程の70%
は複線化していた.また,日清戦争の前には複線化していた御殿場の近くでも
トンネルが掘られて登り勾配がゆるくなった.日露戦争に備えて幹線の複線化
を急いだので,トンネルや橋梁の拡大・改修が必要な広軌化はいったん棚上げ
されてしまった.

▼鉄道建設のエネルギー

 日露戦争中の鉄道の活躍を見る前にここまででのわが国の鉄道建設の特徴
などをまとめておこう.まず,英国をはじめとして欧米の先進国では産業革命と鉄道
が深く結びついていた.同時に蒸気機関の採用といった動力革命も起きた.鉄道の
建設は,この動力を車両の運転,とりもなおさず輸送に使おうということだ.
だから鉄道の開通とは,産業革命を推進しようという目的と,動力の革命がそれを
可能にしたということと,2つの相互作用のおかげで発展したといっていい.

 ところが,わが国は産業革命とは何の関係もなしに鉄道を建設した.そこが
わが国の鉄道の大きな特徴である.重工業が何もない.たとえば,機関車を造る,
線路やさまざまな設備を造る,そういったときに自前で製造することができない.
結局,機関車や貨車・客車の台車やレールなどは全部,輸入しなくてはならなかった.

 もう一つの特徴は,産業革命を呼び起こしたということがわが国の鉄道
なのだった.鉄道が敷かれることで,その地方に産業革命が起こっていく.そうした
力を鉄道はもっていた.たとえば,政府は幹線鉄道を造っていった.すると,
中世以来,あるいは前近代社会から地方にあった産業が活性化した.とくに繭や
生糸といった輸出産業の製品が横浜や神戸に運ばれるというようになった.
静岡の茶などもそうである.それまで手工業といったレベルで作られていたそれら
製品が輸出用に大量に求められるようになる.そこから新しい工場を造って,
動力革命も行なわれ,地域が近代産業化していくのだった.

 静岡の茶畑の中でも,旧幕臣が帰農して生産した茶は,もともと清水港に
送られていた.そこで船積みされて横浜港に送られたのだが,茶葉は湿気に弱かった.
そこで清水に原材料を集めて工場を建て,加工し,港から出荷するようになった.
それがしばらく続いたが,鉄道が通るようになると,加工前の茶葉を直接横浜に
運ぶようになった.生産地から貨車で横浜に送り,より大きな工場を建て,
そこで加工し,船積みするといったやり方に変わっていった.

 繭や生糸についても同じことが言えた.群馬県の前橋から栃木県の足利に
かけては有数の機業地だった.東京から前橋まで日本鉄道がつながり,
前橋から栃木県の小山まで両毛(かみつ毛の国・しもつ毛の国,すなわち両毛)鉄道
が開かれると機業地帯は結びついていった.この日本鉄道,両毛鉄道を走り,
品川から横浜までの官設鉄道に直通運転する列車が走り始めた.おかげで,
それまでより大量の繭や生糸が生産され,機業地にも蒸気動力の産業が
育つようになった.

 1880年代(明治10年代後半)から鉄道の企業家たちがこうしたことに注目する
ようになり,産業革命を起こすために鉄道を使うといった傾向が強まっていった.
同時に,江戸時代以来の「人は陸を,物は水上を」とはやされた内陸水運や
道路輸送が力を失っていく.こうしてわが国の鉄道は発展していくのだが,
完全な自立化にはほど遠かった.それはまだまだ重工業に力がついていなかったからだ.
 
 初めての国産機関車が造られたのはようやく1896(明治29)年のことでしか
なかった.日清戦争の軍事列車をひっぱっていたのは,先進国から輸入された
各種さまざまな蒸気機関車ばかりだったのだ.夏目漱石も利用したことで知られる
「坊ちゃん列車」こと伊予鉄道のドイツ製タンク機関車も1887(明治21)年に
ドイツからやってきた.北海道のアメリカ製,本州の英国製,それに九州には
ドイツ製が主流であり,さらにフランス,ベルギー,イタリアなどが激しい
売り込み合戦を行なった.
 
 輸入する側は,それぞれの好みにしたがって買い入れた.輸出先は
さまざまな国で,それぞれが製造会社を複数もっている.そうなると,機種や
形式もふんだんになって,まさに百花繚乱,今も鉄道好きな方々の研究対象
になるくらいだ.
 
 この問題点はすぐに分かる.規格の統一がなく,部品なども含めて標準
というものがない.運行にも,保守,点検,修理にもたいへんな手間がかかる
ということだ.ほんとうの大量輸送が可能になるのは同じ形式の機関車を
数多くそろえられるという状況があってのことである.
 
 重工業が確立していなかったというと語弊があるので最後に付け加えておく.
軍事史ではすでに明治30年には,完成された連発式小銃である三十年式歩兵銃
が生産されていた.また速射野砲や各種重工業製品はほぼ国産化されている.
小銃弾や野砲弾の製造は立派な重工業だった.しかし,そうした国家安全の
表舞台に立つ兵器の製造は自立化したが,背景にある民需用の重工業は
残念ながらまだ不安定である.鋳物工業が弱いので高い圧力に耐えるボイラー
は輸入し,動輪やシリンダーなどはみな海外から買うしかなかった.軍事工業は
先行し,民需産業は後追いだったという日本近代工業の一つの形がここにあった.
 
 次回は日露戦争で実際に戦った鉄道のことを調べよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.5.4





『ライター・渡邉陽子のコラム (93) ─ オリンピックと自衛隊(7) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.

東北から熊本へ災害派遣に出ていた自衛官の知人から,
「入浴支援で現地に一部残っていますが戻ってきました」と
連絡がありました.被災されている方にGWなど関係ない
ですね,1日も早い復興を祈るばかりです.

私は2日に足をねんざしてしまい,這うように歩く始末.
もともとGWは仕事の予定でしたがそれでもちょこちょこ
約束は入っていて,それらはすべてキャンセル.
道路の段差で足をくじくという自分の鈍くささにがっくりです.
みなさま,楽しい休日をお過ごしください.


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■オリンピックと自衛隊(7)

1964年はいよいよ最終フェーズです.
オリンピックが約半年後に迫り,これまでの机上における準備や計画,
会議といった「静」から,支援部隊の編成や訓練など,流れが一気
に「動」へと転じた時期です.
まず1964年4月,OOCからの最終要請があり,防衛庁が協力する
人員と装備は以下の通り決定しました.

最終要請人員・装備合計
人員5345名(競技関係),1/4トントラック469台,3/4トントラック74台,
1/2トントラック186台,救急車9台,レッカー車2台,無線機248台,
有線機525台,交換機4台,発電機2台,航空機(ヘリコプター)12機,
砲3砲,給水トレーラー2台,艦艇72隻,折り畳み舟5

第1回の要請時より,車両や無線機,有線機は激増したことになります.
なお,基本的な必要経費はOOCが負担することになりました.
防衛庁はさぞや胸をなでおろしたに違いありません(少なくともこのときは).
また,自衛隊が協力する項目は式典,近代五種競技,馬術競技,
ライフル射撃,クレー射撃,自転車競技,陸上競技,カヌー,漕艇,ヨット,
代々木選手村,八王子選手村分村,輸送,衛生とすることも決まりました.

一方,前述したとおり,依頼があったものの協力しないことになったのは,
次のとおりです.

選手村の宿舎の清掃
交通警備における警備資材の輸送
大会役員用乗用車の運転
広報における技術支援および記録の整理
国外聖火リレー
近代五種の馬術における馬の誘導作業
マラソンでの天幕の提供,救護(競技運営に協力する種目のみ協力)

このほか,各音楽隊の制服を新調することは決まりましたが,選手村を支援
する隊員の服装については,自衛隊の制服を着用するか,それとも背広を
貸与するか,この時点でも「さらに検討する」こととして決定していません.
なにを着るか,これは案外深刻な事案でした.

広報についても本格的に稼働し始めます.
テレビ放送されるオリンピックは自衛隊をPRする絶好の機会です.5月に
長官官房広報課オリンピック広報室を設置,オリンピック広報実施要綱を
定めました.自衛隊の協力状況をパンフレットや週刊誌,広報写真などに
よって計画的に広報に務め,さらに協力した隊員の手記『東京オリンピック
作戦』の作成なども行ないました.

さて,協力予定部隊は,1964年度初頭から協力業務の複雑なものの
教育訓練や図上研究を始めたほか,OOCや競技団体の行なう選手選考
大会・大会運営予行に参加して経験値を重ねていきました.
この時期の陸海空各自衛隊の動きは以下の通りです.

陸上自衛隊
輸送(ジープ隊),選手村,近代五種,ライフル射撃支援隊の基幹幹部要員
教育,車両操縦手および支援群(隊)長要員教育訓練など,主要な種目の
教育は東京で,語学教育や協力のための基礎的事項などについては
それぞれの方面隊で教育訓練を行ないました.

海上自衛隊
ヨット競技支援図上演習により関係部隊基幹要員の教育を行なったほか,
港湾調査と合わせて浮標設置訓練を実施.さらに大会選手権選考予選に
協力することで問題点や未解決点の解決を図り,協力の方法を固めました.

航空自衛隊
陸自と調整しつつクレーおよび漕艇支援要員に対ししつけ教育,基本教練
を行ないました.また,大会選手選考予選に協力しました.

防衛大学校
5月に標識隊のメンバーを選定.授業と定期訓練の余暇を利用し,さらに
夏季休暇における合宿で,基礎的体力の充実とともに標識の操作を訓練.
さらにオリンピックに関する知識も学ぶなど教育訓練を重ねました.

次週は支援の中心となる陸自の訓練について,詳しく見ていきます.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.5.5





『鉄道と軍隊(3)』
 日本陸軍の兵站戦(23)

荒木 肇

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□ご挨拶

 2日間の通常日を除けば連続して10日間にもわたる大型連休でした.
皆様いかがお過ごしでしたか.わたしどもはお陰様で亡父母の神事や,
墓所の整備をすることができました.行き帰りの道路事情にも恵まれ,
久しぶりに長女夫婦や孫も帰省し,次女もそろい,賑やかな毎日を送ること
ができました.

 一方で熊本地方の動きはなかなか収まらず,いまも地震がしばしば
起こっている様子です.あらためて,被害に遭われた皆様にお見舞い
を申し上げます.


▼日露戦争を目指して

 ようやく手に入れた遼東半島をロシア・フランス・ドイツの3国による口出し
で清国に返すことになった.油断も隙もないのが当時も今も国際的な力関係
である.ロシアは清国に恩を着せて自分たちはしっかりと旅順と大連を手に
入れた.この時の清を実質的に動かしていたのは李鴻章(り・こうしょう:1823〜1901)
である.李はロシアと接近した.ロシアもまた,シベリアの南に広がる満洲に
関心をもっていた.1896(明治29)年6月,ロシアと清帝国は秘密のうちに,
『露清防敵相互援助条約』というれっきとした対日攻守同盟を結んだ.
もし,日本が清やロシアと戦端を開いたら,協働して作戦し,戦おうというものである.

 この条約の中に,黒竜江省と吉林省を通ってロシアのウラジオストックに通じる
中東鉄道(東清鉄道ともいわれる)の敷設権がフランスとロシアの銀行に与えられた.
李はこれによって莫大な財宝を得たといわれる.さらに1898年には清国内で
起こった排外運動の賠償と,日本に下関条約で払った賠償金援助の担保として
旅順・大連の25年間の租借権と,中東線から分岐して遼東半島末端の旅順まで
通る鉄道の敷設権を得た.これを南支線と当時言った.シベリア鉄道は厄介な
ことに大きく迂回していた.それを一気にウラジオに直線的に通す路線をロシアは
手に入れたのだ.

 では,わが国はどのように外国に線路を延ばそうとしていたのか.
まず,1898(明治31)年には釜山から漢城(のちの京城)への鉄道敷設権を
入手した.1901(明治34)年には民間会社による鉄道建設が始まっている.
この時にはすでに朝鮮を縦断して満洲に進み,シベリア鉄道を通ってヨーロッパ
へ届く大陸鉄道の構想がすでにあったという.なお,ソウル(京城)の外港にあたる
仁川(じんせん)との間を結ぶ京仁線はアメリカ資本が手を着けていたが,これを
わが国が買収し,1900(明治33)年にはすでに営業を始めていた.この会社の
社長は有数の資本家,渋沢栄一(1840〜1931)だった.

 日露間に戦争が始まるとわが国はただちに韓国に圧力をかけた.清国内の
義州とソウル(京城)を結ぶ京義線の建設を認めさせた.もともとは韓帝国
(1897年に改称)が独自に建設し,釜山からの日本建設路線と結ぶはずだったが,
その国力もなく,約束が果たせそうもなかったのでわが国が工事を始めることと
なった.工事を進めたのは陸軍臨時軍用鉄道監部である.名称は大げさだが,
のちの鉄道大隊のことである.その完成は日露講和後の1905(明治38)年
12月になった.

▼軍事輸送の実態

 鉄道の発達による輸送への貢献は大きかった.わずか10年前の日清戦争では
仙台から部隊が列車に乗り,広島の宇品港まで9日と14時間がかかった.
それが日露戦争では青森から宇品まで4日間,新橋からは2日と7時間,
名古屋からは1日と9時間に短縮された.相手のロシア軍はモスクワから奉天まで,
約1万キロメートル.一応の直通運転ができたが,単線でもあり,列車の運行も
1日あたり4〜5往復でしかなかった.1本の列車が運んでくる食糧や弾薬などは
およそ5万人の1日分にしかならなかったという.最初に増強された兵力6万人
の将兵は集結の完了まで50日間がかかった.

 当時,野戦運輸通信長官として大本営にいたのは大沢界雄(おおさわ・かいゆう)
という輜重兵大佐だった.大沢は愛知県出身,陸士旧4期,陸軍大学校4期生で
ある.日清戦争中にはドイツに駐在して戦時輸送や鉄道統制について多くを学んだ.
参謀本部第3部部員から1901(明治34)年には中佐で部長心得,大佐には同年
11月に進級した.陸大卒業時には恩賜であり,運輸通信のエキスパートだった.
戦時中の明治38年1月には少将になっている.

 この大沢が1898(明治31)年に帰国して報告したのが『鉄道ノ改良ニ関スル
意見書』である.その内容は,ドイツでは軍部関係官庁とその他官庁とが緊密な
連絡をとって軍事輸送の計画や実施の態勢がつくり上げられていることをいい,
行政面での態勢の確立が重要だと主張していた.こうした努力もあり,開戦が
間近に迫った1904(明治37)年1月23日には『勅令第12号鉄道軍事供用令』
が出され,25日には『鉄道軍事輸送規程』も公布された.

 供用令は私設鉄道(以後私鉄とする)会社に軍事輸送に従うことを義務付けた.
他の私鉄会社から援助を求められたときには可能な限り応じることが定められて
いた.また,何より効率を高めるために,官有鉄道(以後官鉄とする)・私鉄,会社
の違いをこえて,搭載地から卸下(しゃか)地まで軍用列車の直通運転を義務付けた.
また,軍事輸送での物資・兵員の搭載・卸下に必要なものは様々な分野にわたった.
ホームの延長,したがって線路の付け替え,移設,駅施設の改良,倉庫の建設,
各種機械設備の規格の見直しなどは,軍から要求されたときには拒むことが
できなかった.馬の輸送時に必要な水の供給なども鉄道会社を困らせた.
軍馬は1日に水を大量に飲む.ふだんの駅前の荷馬車屋の数頭の馬の需要を
満たす状況どころではなかったからだ.新しく井戸を掘り,あるいは水を水路で引き,
貯水場まで設けるといったことも負担のごく一部でしかなかった.しかも指示に
応じなかった時には会社の役員には刑事罰まで適用されることになっていたのだ.

 戦中・戦後に陸軍が行なった鉄道輸送は,動員輸送,作戦輸送,還送輸送,
臨時編成部隊充足要員と補充のための徴発馬の輸送や凱旋輸送があった.
その評価は『戦役統計』に載っている.まず,『戦争で先制の利益は動員と集中の
迅速が必要だが,運輸業務が整えられていなくてはならない.それなのにわが国
の鉄道は小会社が各地で独立営業していて,鉄道作業局(官鉄のこと)と1,2の
大会社線(日本鉄道や山陽鉄道など)を除くと,およそ軍事上の価値に乏しい.
主要の大幹線すら狭軌単線で,機関車や客貨車も豊富とはいえない.しかも鉄道
の職員は軍事輸送に慣れていない.軍の要求する「輸送効程」に対して,ひどく
不十分だった』という.

▼召集の手抜かり

 当初の計画では,全軍同時の動員輸送を計画していたが,実際は船舶輸送力の
問題があり,第1軍と第2軍,その隷下部隊の輸送は普通列車と臨時の計画で
行なわれた.その他の動員輸送はほとんど平時からの事前計画で対処することが
できた.手抜かりと分かったのは召集令状を受けた者が指定地に集まらなかった
ことだった.各自が最も近い停車場から普通列車に乗ってきたので,調整して
用意した軍用列車に空席が目立ったことである.

 この動員輸送に大変な手抜かりがあったからである.それは充員召集令状を
配布するシステムが実態に合っていなかったからである.令状の裏には注意書き
があった.動員計画は「一人一馬」に至るまで召集した部隊に到着する日時が
明記されていた.それは厳密に企画されたもので,各部隊の動員室では列車・汽船
などの乗車船時刻を指定することで成り立っていた.決められた日時に,決められた
場所から乗車,乗船がされる,その前提で計画は作られていたのだ.また,駅や港
では令状を発券係員に見せて,割引値段で優先的に乗車船できるようになっていた.

 しかし,当時からすでに人口の都会集中という実態が存在した.東京や大阪,
名古屋といった大都会には現役をおえて出稼ぎに,あるいは職を求めていた
予備・後備役の下士卒が多くいたのだ.令状は本人の本籍地に出される.
当時は,大隊区司令部がそれを警察や市長のもとに発送していた.本人が都会
に寄留,あるいは旅行中で不在だった場合は収集通報人とされた戸主に兵事掛
が手渡しし受領証を受け取ることになっていた.それを受け取った召集人は,
急いで令状受令者(被召集者)に召集部隊の所在地,到着日時を通報しなければ
ならなかった.

 本人が遠いところにいた場合は電信(電報)を使って連絡し,本人に令状を
渡さねばならなかった.問題はここにあった.令状は戸主の元にあり,本人は電報
しか持っていない.旅費は当然,割引の適用を受けられず自分払いである.
このため上野駅ではたいへんな混雑があった.仙台の第2師団に動員が下された
のは2月5日だった.野戦師団を編成するためには多くの予・後備兵が要る.
その他,兵站諸部隊,留守部隊,第1次後備隊,陸上勤務補助輸卒隊8個その他である.

 本籍地が第2師管にある東京に寄留していた召集を受けた下士卒は上野駅に
集まった.歩兵第16(新発田),同30聯隊の応召兵だけで200名以上が集まった
のが2月7日のことだった.私鉄日本鉄道(のちの国鉄東北本線)の駅員は「令状が
ないから割引切符は発行できない」というのである.この事件は応召者の代表である
後備役曹長が憲兵隊に事情を訴え,憲兵隊から駅側に説明をすることで決着が
ついた.同じようなことは第3師団の動員下令時の静岡駅でも起きている.

 積雪期の冬には多くの東北地方の農村人口が出稼ぎに都会に出ていた.
このような事件は,当時の動員担当者が,そうした農村の事情にうといことから
起きたことだった.動員計画をいくら緻密に立てていても頑固に本籍地主義を
とっていれば,どうしても起きてしまう手違いだった.

▼各種輸送の問題

 軍事輸送の中でも重視されたのが「大輸送」ともいわれた「作戦輸送」である.
運輸通信長官部では全国の鉄道網を数個の線区に分けるのは不利であると判断した.
機関車や客貨車の運行上,すべてを掌握させるように線区司令部を1個だけ置いた.
その隷下に出張所を配置しておいた.1列車以上の組織を必要とする諸部隊の輸送
は運輸通信長官部で企画・管理した.その他は線区司令部が担任してほぼうまくいった.
ただ,集中の初期のことだった.仙台と広島の間に,毎日14本以上の軍用列車を
運行したところ,普通列車はわずか2列車しかなかった.おかげで沿線の普通貨物
はひどく滞留してしまい,やむを得ず,3月10日以後では軍用列車は最大13本,
民需用の普通列車を3本と改めることとなった.また,輸送途中には人馬に水や
食料,飼葉などを支給する.約6時間ごとに停車できる給養停車場を置いた.

 還送輸送とは主に傷病兵や馬,戦場から集めた再生可能な傷ついた軍需品など
である.これらは急ぐ必要もないので,集中輸送に使われた列車が返送されることを
利用した.凱旋鉄道輸送は戦後の明治38年10月から39年3月までに行なわれた
が,検疫所を通すために広島,門司,神戸と限られた.

 どれほどの量になるかを統計から見てみよう.開戦の翌月,明治37年3月の
数字である.軍用列車本数は312本,客車1372両,貨車2722両,人員5万6600人,
軍馬1万1419頭,車輛3752台,貨物9290駄,火薬854箱だった.もちろん,
最大の記録は開戦の2月だった.貨物は3月の2倍,火薬は10倍にのぼっている.

 軍事列車の運行の複雑さは人員・馬匹・貨物の混合編成であることだった.
ある部隊には人だけいて別の列車に弾薬がある,馬も到着が遅れるなどでは戦力
をただちに発揮することなどとてもできない.どうしても同じ列車で装備・軍需品・馬
を運ぶ客貨車混合にならざるを得なかった.しかも,生き物は水と食糧を必要とするのだ.

 東海道線では沼津,浜松,名古屋,米原,大阪の各停車場を給養停車場に指定
した.特別運行では1時間30分,普通運行では30分から1時間の停車を行ない,
弁当を渡したり,馬には水を飲ませたりする.そのために特別運行の場合は
野戦第1師団(品川─広島)では54時間がかかった.走行時間は各列車の平均では
36時間.平均18時間が停車している時間になった.

 野戦第1師団の細かい記録が残っているが,兵站部隊や後備部隊を除くと集中
に必要な列車数は82本,客車462両,貨車1193両になった.細かい事例をいくつか
見てみよう.歩兵第1聯隊第1大隊(ただし第2中隊と大行李は欠)は人員476名が
馬29頭と一緒に客車11,貨車6の編成で,新橋から54時間かかり広島に到着.
馬が多い野砲兵隊はどうかというと,第1大隊本部と1中隊の段列(補給中隊)大行李
で人員83,馬匹99頭が2両の客車と21両の貨車で移動.品川─広島間をやはり
54時間である.こうした大移動が集中輸送の一端である.
 
 このころの普通急行の運行時間は新橋─大阪間を14時間13分だった.軍隊輸送
が優先されたために26時間がかかるようになった.これは上野─盛岡間の日本鉄道
も同じで14時間39分がやはり26時間かかった.

▼朝鮮と満洲の鉄道輸送

 国内の鉄道輸送は軍需優先のために民間の物流に大きな影響を与えた.
工業の原材料の輸送や製品の搬送なども大きな被害があった.それに加えて,朝鮮
や満洲での鉄道の新設と改修,また運行のために国内から多くの資材や機材,
人員が大陸に送られたことも国内鉄道輸送にしわ寄せがあった.

 すでに前に書いたように,京仁鉄道,京釜鉄道(一部竣工)が利用できた.
対してロシア軍はハルピンと旅順間の東清鉄道南支線が開通していた.開戦後に
大本営は京義鉄道を建設しようと臨時軍用鉄道監部を編成し,馬山浦(まさんぽ)
から京釜線に接続する鉄道を建設しようと建築班を編成し,監部の隷下に入れた.
他にも安東から奉天に向かう路線や京城から元山に向かう路線も計画された.
 
 また占領地の中の東清鉄道の修理と利用のために野戦鉄道提理部を編成した.
この提理部は1904(明治37)年5月14日に編成が発令された.武内工兵中佐
が提理(長官)となり,野戦鉄道第1運転班,同第1建築班,同第1工場班,
同第1材料班の編成も下令される.これらの提理部と隷下諸班は6月14日,
輸送船佐渡丸に乗船して宇品を出港した.
 
 ところが悲劇が起こる.ウラジオにいたロシア海軍の,ロシア,グロムボイ,
リューリックの3隻の巡洋艦戦隊に襲われた.この巡洋艦隊は,捜索・追跡する
上村提督が指揮する日本艦隊をかわし続け,通商破壊に従っていたのである.
僚船だった常陸丸は撃沈された.これには後備近衛歩兵第1聯隊本部第1大隊
が乗っていた.後甲板で軍旗を焼き,幹部将校は自決し,多くの下士兵卒が
溺れ死んだ.
 
 野戦鉄道提理部,攻城砲兵司令部,第2築城団を載せた佐渡丸も大破し,
徴用されていた鉄道技師1,書記5,技手5,書記補1,工長1,作業雇員25,
工夫長3,機関手6,転轍手8,操車掛2,鍛冶工6,木工8,煉瓦工3,製罐工6,
組立工2,車輛検査番5,諸品番1,火夫6,作業傭2,注油夫3,工夫31,
駅夫6,掃除夫10の合計146人が死亡した.鉄道という組織は,これほど
多種多様な人材を必要とする.それを知らせたくていささか煩雑な数字をあげた.
もちろん,すべて護国の英霊である.被害を受けた諸班は下関で再編され,
7月5日と7日に大連に到着.業務を開始した.

 近衛師団の管下にあった鉄道大隊が動員令を下されたのは,2月17日のこと
だった.臨時軍用鉄道監部に配属されて,4月5日には第3中隊が増設された.
本部,3個中隊による臨時鉄道大隊が編成され,臨時鉄道大隊と名称を変えられた.
翌年にはさらに第4中隊が加えられた.通常の建制による常備団体であるのに
「臨時」の名称がつけられた.おそらく編成の中に多数の官有鉄道の職員を
含んだからだろう.
 
 次回は戦場での鉄道の様子を調べてみよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.5.11





『ライター・渡邉陽子のコラム (94) ─ オリンピックと自衛隊(8) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.

先日,取材で喜多方に行ってきました.
以前行ったときに食べた喜多方ラーメンがさほどおいしく
なかったので今回も期待していなかったのですが,
今回の店はおいしかった! 

本来味噌ラーメン派ですが,おいしい店だとしょうゆもありだ,
と思いました.ちなみに取材先は酒造.震災時のことや風評
被害の話など,いろいろ考えることの多い,実りある1日でした.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■オリンピックと自衛隊(8)

今週は支援の中心となる陸自の訓練について,詳しく見ていきます.


陸自はジープ隊基幹要員訓練と支援関係幹部教育を皮切りに,
所要の支援群隊の基幹要員に対して各種教育訓練が行なわれました.
この時期はまだ支援集団編成完結前のため,主要な教育訓練は
東部方面隊が担任しました.

4月,各国選手団長用ジープ操縦手250名が,走行1万km以上無事故の
実績を持つ隊員から選ばれました.

輸送学校は訓練に先立ち,2月から約40日かけて都内主要道路の状況,
交通量,そして各競技場の状況などを調査して,車両操縦手集合訓練に
必要な教官資料を提供しています.

選手団長のジープ操縦手以外にも,ジープ隊基幹要員教育が約1カ月
行なわれました.この時期に行なわれたほかの支援関係の訓練が
1週間程度だったことを考えると,やはり選手団長や関係者を乗せて
走り慣れていない都心の道路を走行するというのは,相当高いハードル
だったのでしょう.

実は輸送がうまくいくかいかないかは,オリンピックの評価に大きく
関わっています.

過去のオリンピックでは,一度たりともスムーズな輸送が行なわれた
大会がありませんでした.それほど輸送支援は難しいものであり,
防衛庁にとっても最大の難関だったのです.


このほかには,選手村基幹要員訓練やライフル射撃基幹要員訓練,
近代五種基幹要員訓練と支援群・隊長要員集合訓練も行なわれました.


東部方面隊以外では,北部方面隊はスペイン語,東北方面隊は英語,
中部方面隊はドイツ語,西部方面隊はフランス語と,選手村支援群管理
事務所要員に対する語学教育を,部外講師を招いて2〜3週間実施しました.
普段は地元の方言で話している隊員たちがスペイン語やらフランス語
やらを必死に学ぶ姿を想像すると,どこかユーモラスです.ちなみに
選手村関係に関わる幹部100名は,最初から語学堪能な者が選出された
そうです.

また,馬術支援隊の東北方面隊は5月に約1週間の馬術連盟主催の
審判教育を,さらに8月中旬に七戸で行なわれた総合馬術競技最終予選会
に協力して実施訓練を行ないました.

中部方面隊は6月中旬に自転車競技支援隊を仮編成,祝園弾薬支処
や鈴鹿サーキットなどで追従訓練,安全追い越し訓練,急制動訓練を
行ないました.自転車競技支援も輸送と並ぶ,きわめてハードルの高い
協力業務でした.


なお,集団司令部は1964年に入ってからOOCなどとの会議に出席できる
ようになっていましたが,開会式までのカウントダウンが始まっている5月
以降は,OOCその他関係部外機関との調整も,ようやく直接行なえるよう
になりました.

それまでは防衛事務次官を委員長とする防衛庁東京オリンピック準備委員会
(正確にはその事務局であるオリンピック準備室)と陸幕のオリンピック準備室
が対外的な窓口となっていました.防衛庁側の窓口がいくつもあることは
対外的な混乱を招くため,オリンピック支援集団司令部が「いつから,どの
範囲まで」関係機関と直接調整するかの判断は,確かに難しいものがあった
でしょう.けれど集団司令部としては,「やっとか!」という思いがあったことは
想像に難くありません.

そして担当業務ごとにいよいよ活発な調整,連絡が始まると,とりわけOOCとの
調整は広範多岐におよびました.記録によれば「OOC経費予算の折衝は曲折
が多かった」とありますから,金銭面ではだいぶ丁々発止の攻防があったと
思われ…というよりも実際にあったことが東京大会の教訓として記録に
残っています.


こうして着実に準備が進むなか,7月には防衛庁とOOCとの間で東京大会の
運営に関する協定が正式に締結されました.


8月にはいよいよ支援部隊の編成も始まりました.
最初に編成されたのは,選手村開村と同時またはそれ以前から協力を始める
必要のある業務(選手村・輸送の各支援群)と,事前に相当な訓練と準備を
現地で実施する必要のある近代五種,射撃,自転車,ヨットの各支援隊です.

陸自は9月15日までに残りの部隊も編成完結,東京オリンピック支援集団の
陣容が完全に整いました.21日には防衛庁長官臨席のもと,
東京オリンピック支援集団観閲式を挙行しています.


じわじわとオリンピック本番が近づいてきました!

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.5.12





『鉄道と軍隊(4)』
 日本陸軍の兵站戦(24)
荒木 肇

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□ご挨拶

 YHさま,このたびのシベリア鉄道についてのご教示ありがとうございました.
満洲に向けて進行するにつれて,列車の編成がだんだん短くなるなど,
いろいろ教えていただき有難うございました.これからもよろしくお願いします.
 Kさま,ほんとうにいつもご愛読有難うございます.お励ましの言葉には
元気が出ます.史料は自分でもよく集めていますが,整理してきちんとお伝え
できているのか心配でした.メルマガはどうしても図版や写真を使うことに
制限がありますので,本には遠慮なく使えるのでお楽しみになさってください.


▼鉄道職員と機材の派遣

 ロシア軍は撤収にあたって線路を壊し,車輛を持ち去っていった.乃木将軍
の指揮する第3軍は要塞攻略の前に,この破壊された東清鉄道を復旧して
大連港から長嶺子までの区間を使えるようにしていた.さらにそこから南西
ほぼ10キロメートルまでトロッコレールを敷いた.攻城資材や銃砲弾など
を運ぶためである.ただし,東清鉄道のゲージはロシアの誇る5フィート
1インチ(154.9センチ)という広軌だった.しかも,機関車をはじめとして
客・貨車はほとんど残されていなかった.鉄道部隊は線路の復旧・補修だけ
でなく,わが国の規格に軌間を直さねば貨車も動かせなかったのだ.

 改軌された東清鉄道も内地から機関車や客・貨車が運ばれてくるまでは,
人力の手押しで動かすことになった.トロッコもまた,人が取りついて押す
しかなかった.軽便鉄道を建設するために部隊がつくられた.
1905(明治38)年4月,第1と第2軽便手押鉄道班が,7月20日には
第3軽便手押鉄道班が編成された.この3個の班には,技手26,判任文官3,
雇員14,工夫代用兵卒26,通訳と職工25の合計94名の民間人が
含まれた.同じく臨時鉄道大隊にはやはり技手(1ないし2),傭人50名が
加わっていた.

 このような鉄道関係の諸部隊には多くの鉄道関係職員が配属された.
各省の定員外とされて陸軍に出向,派遣されて戦時勤務をした政府職員
はおよそ2万人にのぼった.その内訳の最大は逓信省所属の人々である.
業務内容別では鉄道事務1万7000,電信事務1700,郵便事務1700
となった.圧倒的に鉄道関係が多かった.派遣された鉄道職員は,
臨時鉄道監部,臨時鉄道大隊,野戦鉄道提理部に配属を受けた.

 待遇は次の通りである.高等官待遇が93名,判任官待遇は5034名,
傭人待遇約1万2000名だった.高等官とは高等教育を受けた者で文官技師,
事務職では高等文官をいう.戦地での居住や給養などでは同官階の将校
と同じ待遇を受けた.判任官待遇は陸軍では下士・准士官(判任武官)と
同待遇,陸軍文官の官名では書記にあたる.そうされたのは逓信省書記や
駅長,駅長助役などである.技手・電信掛・貨物掛・保線手・機関庫主任・機関庫助手
は書記補待遇,事務雇・技術雇・車掌・操車掛・保線手助手・機関手取締・機関手・
火夫・工長・工場取締などの雇員待遇者である.これら約5000名は技能をもつ
者として下士と同じ給養を受け,恵まれた待遇を受けていた.これ以外の傭人
待遇,鉄道作業局職員の身分を認められていたのは約1万2000名である.

 こうした官吏の細かい区分は現在でも行なわれているが,当時は戦時である.
また戦地でもある.不慮の事故や戦闘に巻き込まれ死傷することも捕虜にも
なる可能性もあった.身分関係,国家との雇用関係を明らかにしておかなければ
補償や叙勲,恩給の支給などでも公平性が期待できなくなる.

 これだけの職員が出征したことで逓信省鉄道作業局は大きな混乱をきたした.
とりわけ長い教育期間を必要とする管理職である文官補充はたいへんだった.
内地の役所では職務を兼任したり,下級の人を上級職にあてたりといった緊急
手段で業務に取り組んだ.陸軍側が戦後になって不満を述べた「鉄道職員に
は軍事輸送に不慣れ」などの状況は当然でもあった.

 戦う軍隊が要求したのは人ばかりではなかった.モノもである.膨大な数の
鉄道機材が海を渡った.

 開戦時の官鉄・私鉄の機関車の総数は1538輌である.うち官鉄は489輌
(全体の31.8%),その14.7%の72輌が戦地に送られた.続いて多く供出
させられた会社は日本鉄道(のちの東北本線),九州鉄道の2社で,それぞれ
23輌,15輌である.それは各社の機関車保有数のそれぞれ7%余りになった.
 
 貨物を運ぶのは貨車であり,人員輸送は客車である.貨車の開戦時保有
総数は有蓋貨車(屋根がある)が9400輌,無蓋貨車(屋根がない)は
1万3400輌,合計で2万2800輌,それぞれ1900輌と2800輌が海を渡った.
実にそれぞれ全体の20.2%,20.9%が軍用になって内地から消えてしまった.
これに対して客車は開戦時にあったのが4400輌,戦地に向かったのは126輌
というわずか2.9%という数でしかない.戦地では有蓋貨車に,馬や濡れては
ならない物を載せ,あとは何でも無蓋車に載せてしまったからだ.
野戦の軍司令部でも有蓋貨車の内部を整頓して椅子やテーブルを持ちこんで
幕僚たちが事務を執っている場面が日記などにも出てくる.
 
 戦地へ向かう動員輸送や作戦輸送の時には,まだ戦地への人・機材の転用
はあまり行なわれていなかった.しかし,戦争も後半になってくると機関車が
足りない,貨車が不足しているということが普通になっていた.熟練した鉄道員
も姿を消し,臨時に養成された不慣れな人たちが業務に従った.戦後の復員,
100万人の凱旋輸送はこうした人不足,車輛不足の中で行なわれたのだ.

▼兵站輸送のための新線建設

 戦争の全期間を通じて陸軍が企画経営した鉄道は,
(1) 朝鮮の京義線(臨時軍用鉄道監部)
(2) 馬山浦線(同上)
(3) 満洲の安奉線(臨時鉄道大隊から臨時軍用鉄道監部へ渡された)
(4) 新民線(臨時鉄道大隊)
 と,占領地内の東清鉄道の改築運転(野戦鉄道提理部)があった.そのほか
に起工後すぐに講和成立で中止になった京元鉄道(京城から東進して元山を
結ぶ)と手押軽便鉄道だった.この軽便鉄道も総延長は数百マイルといわれている.

 ソウルと義州を結ぶ京義線は建設途中の京釜鉄道と竜山で連絡する.釜山から
鴨緑江左岸の義州までを通して結ぶ計画だった.開戦すぐの1904(明治37)年
3月に着工された.この鉄道が通れば,ソウル外港の仁川から京釜鉄道京仁線
経由で,鴨緑江北岸までの兵站鉄道輸送が実現するはずだった.

 しかし,この計画ルートは開城の直前で臨津江,平壌の手前で大同江,
安州の先では清川江と大寧江という4つの川を越さねばならなかった.
しかもこの区間といえば山間の僻地ばかりを通る.およそそれが100マイル
(約160キロ)にもなったので建設用の資材・機材を送ることから困難が
始まった.内地から船で送って揚陸してからも大変だった.結局,わざわざ
支線を敷いて陽陸場から現場に運ぶことになった.

 大急ぎの工事で1905(明治38)年の1月中には橋梁のほかは軌条を敷く
ことができた.2月には臨津江,3月には大同江の鉄橋が完成,4月には
なんとか2つの橋で中断部分を除いて運転開始.しかし,2つの鉄橋が完成した
のは翌年4月になってしまった.しかも,完成を急いだために,難しかったトンネルの
掘削をしなかったために最大勾配が300分の1(御殿場線の1000分の25
よりきつい),曲線半径が800メートルという急カーブもあった.おかげで全線の
直通運転が可能なのは22トン車3輌がやっとという有様だった.戦後の営業運転
に対応するには全面的なルート変更や路線改築が必要なものに過ぎなかった.

 馬山浦は朝鮮半島突端の鎮海湾に面している.はるか昔,元寇といわれる
高麗・元の連合軍による日本への遠征時にはここに「征東行省」が置かれた.
ここで侵攻用の艦船を艤装し,物資の搭載も行なった港である.しかし,逆に
豊臣秀吉による朝鮮征伐では物資の卸下(しゃか)地に使われた.
また1900(明治33)年にはロシアがここを租借しようと軍艦マンチュリアンが
占拠した.このころのロシアは武力を背景にして無法であり,対岸の巨済島を
他の国に割譲することもしないよう朝鮮政府に要求した.これに対抗してわが国も
巨済島を割譲せよと要求した因縁深い要地でもある.

 日露戦争の勃発により鎮海湾は日本海軍の根拠地になった.この地の防備
のために大本営は開戦の年7月,要塞建設を始め,11月には鎮海湾要塞砲兵
大隊が編成され,翌年4月には要塞司令部が置かれた.釜山から北へ向かった地,
三浪津から分岐する馬山浦線の建設はこの動きと関連がある.講和の年5月
に洛東江をわたる橋梁が完成し,京釜線との連絡ができるようになった.
しかし,水害で橋梁が使えなくなり,再開通は10月にずれこんでしまった.
結局,戦時の海軍根拠地とそれを守る要塞への兵站機能は果たせなかった
といえる.

▼満洲の軍用鉄道と第1軍兵站

 満洲では鴨緑江の北岸の安東から奉天に向かう安奉線と,新民屯と奉天を
結ぶ新民線があり,さらに最大の仕事は占領地内の東清鉄道の改修と運行だった.

 安奉線は第1軍(黒木軍・近衛,第2,12師団)の兵站輸送(糧食,被服,
陣営具,衛生材料,獣医材料など)を目的に建設された.臨時鉄道大隊が開戦の
年,8月に起工し,11月3日までに安東と鳳凰城の間を結び,翌年2月11日に
鳳凰城と下馬塘の間を開通させた.下馬塘から奉天へ直行するように線路を
延ばしたが開通は戦後の12月15日になった.結局,戦時の輸送に役立ったのは
安東と下馬塘の間,110マイルだった.

 第1軍の行動は鴨緑江の戦い以前では,鎮南浦を揚陸地にし,平壌を兵站主地
として兵站監部を置いた.次に,梨花浦─安州を結ぶ線に北上し,鴨緑江の渡河戦
に勝利してからは竜厳浦─安東のラインに進んだ.ここで竜厳浦を除いて,鴨緑江
の南岸の管轄を野戦軍ではない韓国駐箚軍に任せるようになった.
これから第1軍は竜厳浦に碇泊場司令部を設け,安東を兵站主地とした.これ以後,
満洲軍の右翼として行動する第1軍は安東を起点とする兵站線に支えられるように
なった.ところが第1軍の進撃路は山地が多く,水運が使えず,陸路に頼るしか
なかった.補助輸卒隊を増加投入しても,その数が少なすぎ,輸送手段も少なかった.
現地の中国人から牛馬や車両を徴発し,朝鮮人を雇ってみてもとても満足は
いかなかった.『賃金が安い,家から離れるのはいやだ,馬の飼葉も貰えない,
雨が降るのも困るなどと言って,黙って逃亡する者まで出た』というのが当時の
幹部の思い出話にも出てくる.

 ここで活躍したのは補助輸卒が押す軽便鉄道だった.7月には鳳凰城まで開通し,
補助輸卒隊が軽便貨車を人力で推進することとなった.8月になると機関車式の
鉄道の建設が始まり,軽便路線も通遠堡まで開いた.ところが,9月に遼陽会戦に
勝利すると,軍兵站線は大きく変わることになった.東清鉄道の野戦鉄道が
改修され開通すると,10月27日に第1軍は兵站主地を遼陽に指定した.
すでに25日には下馬塘より南を韓国駐箚軍に任せて,兵站線を接続させるよう
にし,軍が必要とする軍需品の大部分を遼陽方面から送らせることにするように
なった.つまり,安東からのラインは副次的なものになったといっていい.

 この竜厳浦から安東へ,安東から下馬塘の北上ラインが再び活気を帯びる
のは,鴨緑江軍が編成された時のことだった.戦争2年目の1月23日,大本営
は第1軍兵站監に『臨時鉄道大隊が管理する安東県以北の手押式軽便鉄道
と機関車式同は状況の許す限り鴨緑江軍の軍需品を輸送させよ』という訓令を
発した.問題は鴨緑江軍には独自の兵站監部がなかったことだ.とりあえず
第3軍の兵站監部をそのまま転用することになった.現地で兵站諸部隊の転用
というのはなかなか難しい.第3軍兵站部隊は半数が遼東守備軍の仮設した
兵站線上にあって,その業務を助けていた.それに内地で編成された部隊が
来るのは早くても3月下旬,いま手元の補助輸卒隊も少なかった.そうした兵站線
が未完成のまま3月初旬の奉天会戦に参加した鴨緑江軍にとって,2月初旬に
開通した下馬塘までの機関車式軽便鉄道の輸送力は大きな助けになった.

▼第2軍の兵站

 第2軍(奥軍・第3,4,6師団)は5月,遼東半島の塩大澳に上陸した.
大連港を根拠地にするために金州付近の敵を撃破し,南山の堅固な陣地を
占領する.そののちに東清鉄道に沿う地区を遼陽に向けて前進した.ところが
当初,この軍の兵站は困難をきわめた.大連湾の掃海が終わらず,機雷が
敷設されている危険があり,大連と柳樹屯の揚陸場が使えなかった.おかげで
遼東半島がもっともふくらんだ所にある東岸の揚陸地,塩大澳から半島を横断して
西岸にある普蘭店へ物資を陸送しなくてはならなかった.ところがこの半島横断
道路がほとんど整備されていなかったのだ.そのため,第2軍は普蘭店から前進
が難しく,いわゆる攻勢防御の態勢をとらざるを得なかった.

 6月15日の遭遇戦は南下して反攻するロシア軍との戦いだが,退却する敵軍
を追撃できないという不手際を演じなければならなかった.これを得利寺の戦闘
という.その時のことを「機密日露戦史」には次の通り書かれている.

『第2軍は当時,追撃のための兵站機能の諸準備が未定であることから,
大本営に対し復州西海岸よりの側面補給について意見を具申したが,
大本営陸軍部は海軍部の協力を得られなかったので,その実施をためらった
という事実があった(言葉づかいを変え要旨を記した)』

 これは旅順艦隊の出撃を思うと軽々と船を出せないという事情があったことからだ.
遼東湾の制海権をまだ海軍はつかんでいなかったのだ.

 第2軍の輸送状況が好転するのは,ロシア軍が無蓋貨車をたまた遺棄していった
ことからだった.

 次回はさらに詳しく鉄道輸送と各軍の行動を調べよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.5.18





『ライター・渡邉陽子のコラム (95) ─ オリンピックと自衛隊(9) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.

現在連載中のこのコラムは,6月1日に発売予定の拙本
『オリンピックと自衛隊1964-2020』から抜粋したものです.

軍事情報さんより先行予約をお申込みくださった方,
どうもありがとうございます.購入を検討中の方,ゆっくりご検討
なさってください.購入予定のない方,発売され書店で見かけた暁には,
ぱらぱら立ち読みしていただければ幸いです.

「支援部隊の編成などの詳細は別に知らなくていい」という方は,
支援の苦労話だけを拾って読んでくださっても結構です.
「体育学校のことだけ知りたい」という方は,体育学校の章のみ
読んでくださっても結構です.

本は,手に取った方の望む形で読み進めるのがいちばん.
その結果,「へえ,そうだったのか」と思っていただけたら,
最高にうれしいです!


□お便りへのお返事

R・Fさま
拙本をお求めいただきありがとうございます.
職場にOBがいらっしゃるのですね.以前,最上級先任曹長のOBから
聞いた「部隊でしっかり仕事ができた人間は,民間の企業でもしっかり
やっていける」という言葉が,とても心に残っています.まさにその言葉
どおりの方ですね.
本がお手元に届きましたら,お楽しみいただければ幸いです.
ありがとうございました.

N・Fさま
拙本をお求めいただきありがとうございます.国防や災害派遣のみならず,
このような側面からも自衛隊を知っていただければと思っています.
メッセージありがとうございました.



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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■オリンピックと自衛隊(9)

先週は1964年の最終フェーズにおける陸自の準備や訓練に
ついてご紹介しました.

同時期の海自はコース標示浮標の設定,陸上基地要員などの
準備に必要な部隊から逐次編成し,10月初頭に編成を終えました.

そしてこれまで今ひとつ影の薄かった空自ですが,ブルーインパルスは
1年半にわたって五輪飛行の訓練を重ねていました.

7月に満を持してOOC関係者を招いて発表会を開催,9月19日には
OOCから五輪飛行の実施要請が提出されます.

そしてついに10月1日,五輪飛行隊が臨時編成されたのでした.


なお,OOCから防衛庁への支援の要請は,最後の最後,9月末日
にさらに追加されました.

大会時の役員・選手に対する応急治療後の医療を行なうため,
自衛隊中央病院への協力を要請されたのです.

応急処置は各会場の医療救護室で行ないますが,これで不十分な
患者については各会場から至近距離の病院と契約し,そこで医療を
行なうというものでした.ちなみに診療にかかる費用はOOCの負担です.


これで協力態勢はすべて完了しました!


選手村支援群は8月22日から,ヨット支援任務部隊は9月1日から,
そしてその他の部隊は9月15日からそれぞれ協力をスタート.

10月8日,オリンピック支援集団長は心をひとつにして任務を完遂するよう,
最後の訓示を行なって隊員を激励.

翌日の9日には,集団全員に対して「全支援隊員に告げる.万国の旗われら
を見る.真心をこめて自己の任務を完遂せよ」という電報を発しました.
電報というところに時代を感じます.

あとは開会式当日を待つのみです.


さて,オリンピック支援集団協力の実施とその成果についてですが,
結果を先にお伝えします.

支援集団は開会式における式典支援群の協力を皮切りに,
指揮下13個群隊計4625名で,15日間にわたりのべ約1万1000名の
競技協力を実施しました.

この4625名とはオリンピック支援集団を構成する人数であり,
支援集団隷下以外で支援に関わった隊員も含めると,
総勢約7000名におよびます.

支援集団は選手村ならびに輸送関係は約80日間,のべ8万8000名
の協力を実施.


陸海空各自衛隊に防大生まで加わった臨時編成部隊にも関わらず,
きわめて順調に協力任務を完遂したことで,陸自は「自衛隊史上前例
のない大規模な臨時編成部隊であったが,寄合世帯の弱点を克服し
見事な部隊運用を展開した.これは各級指揮官の卓越した指揮統率・最高
の栄誉を自覚した全隊員の行動・周囲の温かいバックアップ等が結集
した成果であった.この協力の世界に対し国内はもちろん,参加国の
役員・選手からも絶賛を送られた」と盛大に自画自賛しました.
それもよしと十分思えるほど,自衛隊はよくやりました.

OOC会長から感謝状および盾を贈与,防衛庁長官からも1級賞詞を
授与されていることからも,自衛隊のはたらきに対する感謝と高い評価は,
客観的に見ても確かなものでした.


来週は近代五種競技支援についてご紹介します.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.5.19




日の丸父さん(5)石原ヒロアキ

「自衛隊の糧食」
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□はじめに

 今回の話は,自衛官の糧食についてです.よく災害派遣などで,
被災者が食事に苦労しているなかで自衛官は何を食べているのですか?
という質問がありますが,このエッセイのなかに回答があります.

 被災地や戦場ではコンビニはありません.自衛官は食料や飲料水
の大切さを演習場の訓練などで身をもって学びます.自衛官が被災地
で被災者の身になって寄り添うような支援ができるのも,被災者の苦労
がわが身のように感じられるからだと思います.

 さて,「ブラックプリンセス魔鬼」も第8巻が出ました.
http://okigunnji.com/url/103/

いよいよ日中戦争も終盤です.戦争でいちばん大変なのはいかに
終わらせるかです.
ここでは現在中国が抱えている戦略的弱点を提示してみました.
日露戦争のときの日本の戦略を参考にしています.漫画なので
気軽に見ていただけたらと思います.


自衛隊の戦闘糧食

自衛隊は自己完結性の組織なので,食料も自前で準備します.
機動隊などは仕出し弁当です.

 災害派遣や訓練などで出される非常食です.ミリメシと言われるもの
です.缶詰タイプとレトルトパックタイプがあります.缶詰(カンメシ)は,
昔は非常食の主流でしたが,今はレトルトパック(パックメシ)に変わり
つつあります.以前は種類も少なく,かつ味もよくありませんでしたが,
今はだいぶ改善されました.

 若いころあまった飯を猫に与えたら,猫が吐いたことがあります.
カロリーは1食分約1000〜1100kcalと多めです.これは第一線で
活躍する若い隊員を基準にしているためで,40代,50代の後方勤務者
が三度三度食べていたらとんでもないことになります.
おじさんが必要とするカロリーは1日1400〜1500kcalといわれているからです.

 また,ささやかな改善としてはスプーンが付いたことです.カンメシの
場合,缶切りは付いてくるのですが箸(はし)はありません.自分で割りばし
などを持っていきます.ない場合は小枝を代用にするか缶詰のふたを
はずし,折り曲げて食器代わりにするかです.

 パック飯にはスプーンが付いてくるのですが,なくとも直接パックから
食べることができるので,便利です.カンメシでもおいしいものがあって,
とくに沢庵(たくあん)は人気でした.赤飯もあったのですが,
東日本大震災を境になくなりました.大量の死者が出ている被災地で
赤飯はないでしょうということですね.

 最近のパックメシのおかずはバラエティに富んでいて,さんまのかば焼き,
やきとり,肉じゃが,ハンバーグ,手羽先などがあり,粉末のスープや
味噌汁なども付いています.とてもおいしいのですが,味は濃い目に
つくられています.これは肉体作業で失った塩分補給も兼ねているから
でしょう.また,結構腹にずしんと来て,もたれる場合があります.
活動中できるだけ空腹を感じないように,腹持ちがいいようなつくりに
なっているようです.

 自衛隊では野外炊具(すいぐ)という炊事セットがあって,一度に100名分
の温かい食事ができます.この準備ができるまで戦闘糧食を食べること
になるのです.飽きないようにメニューは毎回変えてあるはずですが,
一度カレーが朝昼晩と続いたことがありました.糧食の仕事は大変なのです.
これに増加食と言ってお茶などが付くことがあります.

 パックメシは,カンメシと違ってまた別のメリットもあります.食後の処置
が容易なのです.缶詰は金属容器なので,食べたあともあまり容積が
減らず,重くて処分が大変でした.その分パックメシは,袋を折りたたんで
簡単に捨てられるのです.

 私が普通科連隊の小隊長の時,戦闘糧食にパンが出たことがあります.
軽くて徒歩行進に良いという中隊長の判断だったのでしょう.しかし結果は
裏目に出ました.真夏に,行進に引き続き攻撃という訓練科目でした.
40kmを夜間歩き通し,そのまま演習場に入って攻撃という行動です.

 体重の半分ほどの背嚢(はいのう)と銃を背負い,徹夜で山を登るのですが,
その日は熱帯夜で大量の汗をかき,喉が渇きました.熱中症でベテラン隊員
も倒れるような過酷な環境です.早朝の攻撃の時は水筒に水はなく,
喉の渇きは耐えがたいまでになっていました.

 さて,攻撃が無事成功し,小隊で休憩を取ってパンを食べようとしたら,
パンが口蓋に張り付いてのどを通りません.唾も出ず,水もなく,
しばらくパンを口に入れたまま呆然としていました.暑さと,喉の渇きと,
空腹で気を失いかけていましたが,間一髪水の補給が来ました.あの時
の感動は今でも忘れられません.

▼米軍の戦闘糧食
 
 米軍の戦闘糧食はMRE(Meal,Ready-to-Eat)と言い,
パックに入っています.日米共同訓練や米軍研修などでたびたび食べる
機会がありました.これも1パック1200kcalほどあり,私は一度に全部
食べきれませんでした.チリビーンズ,ビーフステーキ,グリルドチキン
などの主食のほか,クラッカーやチョコレート,ケーキ,粉末ジュース,
コーヒーなどいろいろパックに入っています.

 それなりにおいしいのですが,やはり味は濃く,水かお茶なしには
食べられませんでした.ただケーキだけは甘すぎて一口でもうだめでした.
ときどき米軍基地でもデザートでケーキを食べることがありますが,
砂糖のかたまりかと思うほど甘いものがあります.彼らの味覚は
我々とは違うのでしょう.

 日米共同訓練では彼らは有り余るほどのMREを持ってきます.
食べ飽きているのかよく我々にくれたり,ホームヴィジットで民間宅に
訪問の際はお土産にしたり,たくさんの方々に配っていました.

▼駐屯地の食堂の飯
 
 幹部食堂と隊員食堂に分かれていますが,メニューは一緒です.
パイロットなどは加給食と言って,さらにプリンやヨーグルトなどが
1品多くなっています.

 最近はメニューに対するアンケートを取り,隊員の嗜好に合った食事を
出すよう工夫を凝らしている駐屯地もあります.野外でステーキを焼いて
配ったり,焼き立てのナンを出したり,新鮮なネタのすしを出すところ
もあります.ごはんは自分でよそいますから,食べ過ぎないよう注意する
必要があります.

 栄養管理は栄養士さんがいてしっかりしていますから,短大などから
研修に来ることがあります.女子大生から「お疲れ様です!」と
声をかけられ,食事をもらうと一気に士気が上がります!

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.5.20





『鉄道と軍隊(5)』
 日本陸軍の兵站戦(25)

                 荒木 肇

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□ご挨拶

 すっかり初夏の陽気です.北海道では夏日になった知らせもあり,
札幌ではライラックの咲く頃になりました.急な温度変化で周囲には
風邪気味の人も多いようです.熊本地方に派遣になった自衛隊員の
皆さんもだんだんと撤収されているとのこと,お疲れ様でした.
体調を崩されないようご注意ください.また,熊本を中心にした
地震被害に遭われた方々にお見舞いを申し上げます.


▼第4軍の輸送力不備のため遼陽会戦の構想を変える

 日露戦争の経緯については途中でも軽く触れていきながら記述を進める.
読者は遼陽,沙河,奉天の3大会戦や満洲軍の行動などについては
すでに知っておられるだろう.だから以下は私自身の再確認のためのメモである.

 第1軍(黒木為?大将)は近衛,第2,第12師団によってなっていた.
韓国の仁川,鎮南浦に上陸し,韓国を制して平壌付近に集中したあとに
北進し,5月の鴨緑江の渡河作戦の緒戦に成功した.重砲を多く集めて
ロシア軍野砲を圧倒したためである.

 第2軍(奥保鞏大将)は第3,第4,第6師団を中心に5月,遼東半島塩大澳
に上陸したあと,大連港を根拠地として確保するため金州付近の敵を撃破,
南山の要塞を突破した.このとき,機関銃による大損害を受けた.
そののちは,東清鉄道に沿った地区を遼陽に向かって進撃した.

 この両軍の中間地点には,5月中旬に独立第10師団が上陸,北上して
(6月には第4軍として編成),各軍は遼陽での会戦に向けて準備を行なった.
この師団の兵站線は半島付け根に近い大洋河の河口にある大孤山から
岫巌(しゅうげん),続いて折木城へ,さらに東清鉄道の海城にとどく陸路
があった.また,大孤山から大洋河をこぎのぼって哨子河へ北上し
(水路輸送),そこからは陸路で岫巌に進む路線もあった.

 上陸当初は1個師団を中心にした第4軍だったから兵站補給に
それほどの困難はなかった.ところが7月中旬に第5師団が
第4軍(野津道貫大将)の隷下に入ると事態は変わってきた.

『大洋河の輸送力も次第に向上したが,陸上運搬力が弱く,揚陸した糧秣
がだんだんと哨子河に堆積するようになった.補充輸卒隊を増やしたが,
とても水路輸送力とは比べ物にならなかった.これは哨子河と岫巌の間の
道路が不良で車輛の積載量が追いつかなかったことにある.兵站監はこの道路
に軽便鉄道を敷設したらどうか,主として糧秣を輸送し,患者の後送にも使いたい
と大本営に具申した』という.

 ところが上申を受けた大本営は所見を異にした.

『軌道を完成させたとしても大洋河が凍結するまで最長でも1ヶ月半くらい
である.まず哨子河と岫巌の間の陸路輸送力を改良して対応せよ』

 と,大本営は兵站監からの具申を容れなかったのである.この第4軍の
兵站輸送力の弱体は満洲軍の遼陽会戦の構想に大きな変更をもたらすもの
になった.

 遼陽会戦の構想は次のようになっていた.第4軍の右翼を岫巌から北に直進
させ,同じく左翼を折木城から北北東に直進させる.この間,第1軍は鳳凰城から
北西方向に遼陽を目指す.第2軍も東清鉄道に沿って北東に遼陽へ進む.
こうした理想的な「分進合撃(ぶんしんごうげき)」を実現できるように考えていた
のだ.それぞれの軍が別々のルートをとり進撃し,最後には目標地点で同時に
攻撃を行なうことをいう.日清戦争では清国軍が立てこもる平壌城を攻撃したのも,
この分進合撃の方法だった.

 ところが,第4軍への糧秣補給が不十分である.そこで第4軍の進撃経路に
変更が加えられた.8月8日には第4軍は東清鉄道の海城に出て,鉄道沿い
の東側を北東に進むことになった.第4軍の兵站補給は臨時に第2軍兵站
倉庫から行なわれることにされた.このトラブルで遼陽会戦では右翼の第1軍
の正面はひどく広いものになった.右へ戦線を広げることが兵力不足で
できなくなり,遼陽の西方を流れる太子河を渡って右岸での
「繞回(じょうかい)運動」の半径が小さくなってしまった.繞回とは敵にもつれ合う
ように接触しながらつつみ込む軍隊運動をいう.

 第4軍の兵站監部は9月5日に主地を海城に移した.それでも第2軍の
兵站線上の輸送力が2個軍をまかなうにはとても不足していたので,旧兵站線
も維持しなければならなかった.限られた軍兵站の組織,人員は新旧2つのライン
を維持しなければならない.ただし9月14日には占領地警備の遼東守備軍
の編成があった.満洲軍が遼陽に支倉庫を設置したので,25日には主地を
遼陽に移転して海城より南の兵站線の撤去を始めることができるようになった.

▼好転した第2軍の兵站輸送

 柳樹屯にはロシア軍が撤退の時に,破壊できず遺棄していった無蓋貨車45両
があった.6月17日には,それらを普蘭店に搬送して得利寺との間の手押し輸送
を始めた.さらに第3軍(乃木希典大将)が大連で鹵獲した無蓋貨車300両の
投入によって北瓦房店まで鉄路が利用できるようになり,さらに事態は好転した.
もちろん,機関車ではなく人が押すのだ.また,7月には大連湾の機雷掃海が
進み,柳樹屯に物資の揚陸ができるようになった.6日には柳樹屯から金州へ,
続いて金州から普蘭店への貨車手押し輸送が始まった.しかも洋上輸送も順調
になり,野戦鉄道提理部の活動で26日には柳樹屯と金州間の列車運転を可能
になった.こうして8月の初めには柳樹屯から鉄路に沿う兵站主線を除いて
他の路線を撤収するようになった.

 続いて8月10日,黄海の海戦が行なわれ,旅順艦隊は傷つき港内に逃げて
行った.14日には第2艦隊が蔚山(うるさん)沖でウラジオ艦隊を撃破した.
この通商破壊を狙いとした艦隊はウラジオストックを母港とする大型巡洋艦3隻
でなっていて,日本列島の周りを周遊し,海上輸送路をおびやかしていたのだった.
国民はいら立ち,『海上の濃霧によって敵を発見しえず』という海軍の発表にも
納得せず,「濃霧,濃霧,逆さに読めば無能なり」とまで海軍を非難していた.

 しかし,この通商破壊戦を行なったロシア艦隊は再起不能となった.
これでわが海軍の制海権を優位とすることができた.これによってわが国内の港
から渤海湾に面した営口まで輸送船が直航できるようになった.営口は,東清鉄道
の大石橋を経由した貨車による輸送と,大遼河をさかのぼり牛荘城へ向かう
水路輸送の起点となることができた.そして牛荘は物資の中間集積のための
重要な基地となった.これ以後,戦場が北に進むにつれて,東清鉄道の手押し
貨車輸送と大遼河の水運輸送実績も大きく伸びていった.

 遼陽会戦はかろうじて勝利に終わった.両軍の交戦兵力,わが13万4500,
ロシア軍22万4600という大規模なものだった.人的損害もまた大きく,
わが軍は2万3500,ロシア軍はおよそ2万と数えられる.

▼東清鉄道の改修と野戦鉄道部隊

 野戦鉄道提理部は1904(明治37)年7月5日から7日の間に大連に到着した.
まず,最初の作業はゲージ(軌間)をどうするかが問題になった.東清鉄道は
ロシアの5フィート1インチ規格だったからだ.将来にシベリア鉄道とつなげる
ことから考えれば,改修などせずに破壊された箇所の修理だけでおえれば
簡単なことだった.ところが,ロシア軍が残した車輛は無蓋貨車ばかりだった.
機関車も有蓋貨車・客車もすべてロシア軍は持ち去ったか破壊していった
のである.だからせっかくの貨車も当初の手押し運行にしか使えなかった.

 朝鮮の鉄道と同じく標準軌(4フィート8インチ=1435ミリ)に改修することは,
規模も小さく,作業量も少なかったし,機関車も含めて車輛関係の部品や資材
もアメリカからの輸入がすぐ間に合った.しかし,その輸入費用が大きかったし,
制海権が不十分.現にウラジオ艦隊が小笠原諸島にまで出没している.
とても輸入は不安だということから,国内の鉄道と同じ3フィート6インチ(1067ミリ)
にすることとなった.そこで大本営運輸通信部は国内の官私設鉄道から機関車
をはじめとする車輛を徴発したことはすでに書いた.

 野戦鉄道への改修は旅順付近,柳樹屯支線と金州へ通じる線路から
始まった.8月頃にはすでに運転を開始したのだからたいしたものだった.
9月になって遼陽を占領し,会戦での負傷者は初め手押し貨車で後送されたが,
営口から乗船させるために営口と大石橋の間を改修し17日には列車運転を
始めた.9月中には患者4000人あまりを営口から船に乗せることができた.

 鉄道の輸送量については興味深い数字がある.沙河の会戦後のこと
である.いずれ奉天の占領も確実だろうということから,満洲軍総参謀長の
児玉大将は井口高級参謀の意見を採用し,大連と奉天の間の複線化構想
を参謀総長と陸軍大臣に提案をしている.『勝敗結局の争は運搬力の争と
いうも過当の言にあらざるなり』とし,ロシアはヨーロッパから1万キロの単線
をもっている,これを複線化するのは大変だという.これに対して我は地の利
があり,『この上の兵力の増加は適度の程度に止め』て,努力を輸送力の
増強に努めて彼に対して優越しようというのが児玉の意見だった.

 しかし,この計画にかかる経費を大本営が試算したら複線化には700万円
の金がかかる.しかも竣工は11月下旬になり,路盤の固定や軌条面の
平準化にも時間が要る.単線であっても,すれ違いのための中間停車場
を23カ所設ければ,30個師団の補給軍需品の日量3000トン,臨時輸送
500トンが運べる.経費も22万円ですむと大本営は主張した.
つまり日露戦争時の1個師団は1日あたり100トンの物資を必要としていた
ことがわかる.

▼補助輸卒隊の悲惨さ

 補助輸卒隊は大活躍した.鉄道・水路輸送の整備,末端輸送,手押し貨車,
手押し軽便鉄道による輸送,水運では舟の運行まで補助輸卒隊は働いた.
戦地勤務をした軍人は約94万5000だった.そのうち輜重輸卒は,戦列にある
部隊の大行李や縦列,兵站の各種部隊の要員などで25万2000人を占めた.
全体の26.6%にものぼった.くり返すが,戦場で戦ったのは将校・下士・兵卒
ばかりではなかった.4人に1人は一等卒にも進級できなかった万年二等卒の銃
ももたない輸卒だったのだ.

 補助輸卒隊は,陸上勤務,水上勤務,建築勤務の3つに分かれた.水路輸送
にあたる水上,建築資材の運搬にあたる建築の各勤務もあったが,主力はやはり
陸上で糧秣輸送にあたった陸上補助輸卒隊である.開戦の2月,動員された
補助輸卒隊は39個隊,建築1,水上2,陸上36がその内訳だった.人員数でも
建築194,水上723に対して陸上は1万6373名にもなった.

 くり返すが,輜重輸卒は砲兵輸卒とともに正規の部隊の定員の中にあった.
輜重兵大隊や歩兵聯隊大行李,弾薬大隊などに属していた.あるいは,
兵站諸部隊の中で働いた.これらに入らないのが「補助」輸卒隊だった.
大江志乃夫氏の著作にもあるが,近衛歩兵第4聯隊中隊長から第1軍兵站
参謀になった一将校の手記がある.

『中央部の計画では400人,150両くらいの民間使用の荷車で一隊をつくる.
その2個隊で1師団分くらいの糧秣を運ばせ,しかもその上に自分たちの食糧
も運ばせようということだった.ところが悪路である.泥んこ道でもある.
そのため積載量は3分の1に低下し,荷車が壊れても修理用の部品すらない.
車輪用の油もなかった.輸卒隊の車輛の数は50台以下になり,兵站路の
いたるところに壊れた車輛が散乱していた.輸卒もその苦心努力が報われず,
宿営地に到着しても炊爨する余力もなく,生米をかじりながら死んだ方がいい
と口にする者までいた』(現代語に直し意訳)

 鴨緑江を越えたのちはさらに状況はひどくなった.現地人の馬車さえ通らない
山間の悪路を荷車で進んだ.輸卒の中には1日に数十回も河川を渡る者もあり,
水虫が悪化し,栄養不良にもなり,おかげで夜盲症となる者も出た.

『一隊300人の編成だったのが鎮南浦上陸以来,10名にも満たないくらい
の減員になってしまった』

 悲惨だったのはその外見である.補充の被服,靴もなく,ほとんど裸で
足も素足,現地の中国人は彼らを『苦力兵(くーりーぴん)』とバカにしていた.

 実はこの補助輸卒隊の輸卒こそ,『輜重輸卒が兵隊ならば,ちょうちょ,
とんぼも鳥のうち』と差別され,蔑視された輜重輸卒なのだった.その兵役区分
では第二補充兵とされた平時では教育もされていない体力もなく,体格も劣った人
ばかりだったのだ.その出身はといえば,
『文士もあり,医師あり,僧侶あり,富豪の子息あり,門地高き人もいるだろう.
いわゆる箸より重いものは持ったことがない人が少なからずいた.学校教育を
長く受け,専門職などになっていたのに体格不完全なために第二補充兵など
になってしまった』
というのが当時の新聞記者の書いたものにある.

 こうしたひ弱で体格の劣った人が,同じ兵隊たちからさえ軽蔑され,仲間とは
見てもらえないという境遇に落とされた.手押し貨車といい軽便貨車といい,
彼らが現地の労務者と混じって綱を引き,手で押し動かし続けたのが鉄路兵站
の実態だったのだ.

 次回は,日露戦後の鉄道国有化のことを書こう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.5.25





マーケット・ガーデン作戦とインテリジェンス (21)
                長南 政義
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□前号までのあらすじ

本連載は,精確な内容を持つインテリジェンスが一九四四年九月上旬
に連合軍の指揮官に利用されたかどうかを考察することにある.
実は,インテリジェンスの内容は,マーケット・ガーデン作戦実行に伴うリスク
を連合軍の指揮官に警告していた.

指揮官が決定を下すために利用できるインテリジェンスの情報源は
数多く存在していたが,本連載では「ウルトラ」情報により提供された
インフォメーションにのみ焦点を当てて考察を進めることとする.
第二次世界大戦を通じて,連合軍の戦略レヴェル・作戦レヴェルの指揮官
たちはウルトラ情報を活用し,ウルトラ情報の精確性に関してめったに
疑いを持たなかったからだ.

前々回から連合国側によるマーケット・ガーデン作戦までの「ウルトラ」情報
の利用について述べている.前回は,ノルマンディ上陸作戦直後の連合軍
の状況とファレーズ包囲戦について述べた.

今回は,ドイツ国防軍のドイツ国境への退却戦の実態を,通信傍受情報を
使用してみてみることとする.

■ドイツ国境への追撃戦

連合軍がフランスを横断してベルギーに向けて突進した時,ドイツ国防軍
は不可避の事態を遅らせようとして限界に近い状態であった.適切な量の
兵員も戦車もないドイツ国防軍は,残りの部隊が長期間にわたって放置
されていた「西の壁」(ジークフリート線.フランス〜オランダ国境沿いに構築
されたドイツの要塞線で,ドイツ軍は連合軍のドイツへの侵攻をここで
食い止めようとした)を確保できることを願い,何とかしてドイツ国境に到達
しようと試みると同時に,連合軍の前進を遅滞する以外にほとんど何もできなかった.

このような状態にあったドイツ国防軍が少しは抵抗できたという事実は印象的
であり,その功績は軍の大部分を前線から退却することを可能とした遅滞戦闘
を戦った兵士と小部隊指揮官に帰せられるべきものである.そして,彼らの抵抗
でフランス戦線から脱出できた部隊が,連合軍のドイツ本土への進撃を
遅らせることを可能にしたのである.

■インテリジェンスから見た追撃戦の意味

インテリジェンスの観点から見ると,フランスを横断してのドイツ軍の追撃は,
多くの傍受通信と情報を連合軍側に提供してくれた.

『ウルトラ・イン・ザ・ウェスト』の著者でありハット3で勤務した経験を有する
ラルフ・ベネットは次のように証言している.

「八月下旬の大退却は,ハット3が最も繁劇な期間の一つであった」.

「ウルトラ」情報の量は,ドイツ軍がドイツ国境へ向けて大急ぎで退却する間,
爆発的に増加した.これには二つの理由が存在する.

第一の理由は,事実上,全陸軍部隊が移動状態にあり,もはや電話通信の
使用を可能にするような固着した指揮施設から作戦を指揮することが
できなくなった点だ.これにより,無線通信が主たる通信手段となり,英国の
政府暗号学校は奔流のような通信量と格闘しなければならなかった.

第二の理由は,ドイツ国防軍が組織的に崩壊していたことである.ドイツ軍の
退却が,計画された退却作戦ではなく,組織的に崩壊していた部隊による
小規模ないし個々人の退却行動であったため,ドイツ軍指揮官が混乱の
渦中で行われている退却を統制・調整することは極めて困難な状況にあった.
ドイツ軍指揮官にとって,隷下部隊の位置を特定し,隷下部隊の行動を調整
しようと試みる際に,無線通信が唯一の通信手段であったのだ.しかも,
その無線通信は,連合軍側により,傍受・暗号解読されていた.

■ドイツ軍の困難な通信状態

西方総軍司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥の参謀長
ジークフリート・ヴェストファール将軍が,隷下司令部が電話を介して西方総軍
からの命令を受領するまでにしばしば二十四時間以上の時間を要した,と語っている
ことから推測されるように,ドイツ軍の通信状態は極めて悪かった.

また,ハインツ・グデーリアン将軍は,指揮官たちは戦場で何が起きているのか
について正確に理解することをやめてしまった,とまで述べている.

■通信傍受情報が示すドイツ軍の無統制状態

ヴェストファールおよびグデーリアンの証言は,この当時のドイツ軍が
指揮統制を発揮できなかったことを強調する通信傍受情報によっても裏付け
が取れる.

たとえば,連合軍側が傍受した通信情報によれば,あるドイツ軍師団は,
「終日,いかなる指示もなかった」と述べたうえで,防衛線を確立するために
隣接する部隊と調整中である,と報告している.多くのドイツ軍部隊は,
自身の生存のために戦うだけではなく,その戦闘を上級司令部からの
いかなる指示なしに実行せねばならなかったのだ.

■連合軍側の困難

だが,ドイツ軍の混乱状態は,連合軍にとって良い面ばかりであったわけではない.

ドイツ軍高級司令部が前線での戦況を把握しようと懸命にもがいていたのと
同じ頃,英国の政府暗号学校および連合軍の野戦軍指揮官は,ドイツ軍の
現在の配置や戦闘序列を把握するのに困難を感じていた.

ファレーズ包囲戦以前,ドイツ国防軍はいまだ部隊としての結束性を維持
していたため,連合軍がドイツ軍の移動や企図を追跡することにそれほどの困難
はなかった.だが,ファレーズ包囲戦以後,連合軍が把握できるドイツ軍の配置
や企図はとても混乱的なものとなった.

退却するドイツ軍は正規の戦闘序列を崩して,ごちゃ混ぜの編成となり,
状況により周囲の部隊をグループ化して戦闘群がつくられた.戦闘群は,
追尾してくる連合軍の前進を遅滞する戦術的必要性から生み出された,
その場しのぎの臨時的な部隊編成であった.

セーヌ川渡河後の,混乱しているがとても楽観的な内容を持つ情報報告書が,
連合軍指揮系統のあらゆるレヴェルをして「勝利の幸福感」に感染せしめた理由
の一つであったのだ.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.5.26





『ライター・渡邉陽子のコラム (96) ─ オリンピックと自衛隊(10) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.

現在連載中のこのコラムは,6月1日に発売予定の拙本
『オリンピックと自衛隊1964-2020』(*)から抜粋したものです.
(*) http://okigunnji.com/url/101/

私事ですが,昨年は自衛隊をテーマに仕事をすることに対して,迷いが
生じた年でもありました.そんなときも常にこの本の原稿を進めるという作業
があったことに,どれほど救われたかわかりません.山のような資料が
「まだ自衛隊のことを書き続けていい」と言ってくれているようで,
『オリンピックと自衛隊』を書くことが心の支えになりました.

さて,先週まではオリンピックを迎えるまでをご紹介してきましたが,
今週と来週は競技支援の中でも近代五種競技支援についてご紹介します.
これまでとはまた違う「読み物としての面白さ」があると思いますので,
お楽しみいただければ幸いです.




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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■オリンピックと自衛隊(10)

近代五種支援隊は新潟県高田駐屯地の第2普通科連隊を基幹とし,
第30普通科連隊(新発田)の5名を加えた215名で構成されました.
協力業務の内容は次のとおりです.

馬術補助審判
馬術障害物の維持
馬術選手の前後検量
断郊コースの標示・維持
当該コース走者の監視
記録・成績掲示・呼び出し
競技運営本部などの設置・維持および撤去
馬術・断郊競技の競技中継中におけるコースの保守
成績掲示板・天幕などの輸送
競技運営に必要な通信

やること満載,盛りだくさんです.断郊とはあまり聞き慣れない言葉ですが,
郊外の田野や森林などを横断する,要はクロスカントリーのことです.
また,大賞典馬術競技の支援も近代五種支援隊が担当,以下の協力業務
を行なうことになりました.

馬場馬術用可動馬場柵の設置・撤収および入口扉の開閉
障害物の維持
大賞典障害飛越競技用障害物の設置・撤収
大賞典障害飛越競技用障害物の競技場への輸送

近代五種競技は,近代オリンピックの提唱者であるクーベルタン男爵が考案,
創設した「オリンピック生まれ」の競技で,馬術,水泳,フェンシング,射撃,
断郊(現在は断郊ではなくランニング.さらに射撃とランニングを交互に競技
するので,ふたつの種目を合わせてコンバインドと呼ばれます)からなります.
もとは男子のみの競技でしたが,2000年のシドニー大会からは女子種目も
加わりました.

当然ながら日本の近代五種競技の歴史は浅く,選手を出している自衛隊ですら,
当時はほとんど認識されていないのが現実でした.
そのため支援基幹要員は「近代五種とはどのような競技か」という,
競技そのものの内容を認識することから始めなければなりませんでした.
しかも第2普通科連隊には,スポーツ大会支援の経験がありません.
経験値0からのスタートでした.

1964年5月,支援要員の幹部など15名が選手選考競技会を見学し,
初めて近代五種競技を間近に見ました.
ただその後も新潟という地理的特性もあり具体的な訓練はかなわず,
座学程度しか行なえませんでした.オリンピックまであと5カ月の時点でこれです.

さらに不運というか,同年6月中旬から7月下旬にかけては,死者26名を出した
新潟地震や,1万3970戸が床下浸水するなどの被害をもたらした豪雨に対する
災害派遣に追われました.
近代五種支援隊長の青木修兵衛2等陸佐は『東京オリンピック支援集団史』に,
集結地である朝霞駐屯地に行くまで,支援任務達成のための具体的な計画を
立てることもできず,事前教育もろくにできなかった隊員が,華やかなオリンピック
の会場で厳正かつスマートに行動できるのか不安を抱いたと記しています.
無理もありません.

しかし環境が整ってからの自衛隊というのは,驚異的な忍耐力や愚直なまでの
真面目さで,周囲も驚くほどの成長,上達を見せます.
近代五種支援隊も例に漏れず,充実した訓練ができるようになった8月の
編成完結後はめきめきと練度を上げ,訓練の内容も部分訓練から総合訓練が
中心になっていきました.
特に技術上の問題で協力に多くのハードルが待ち構えていると予想される馬術
については,近代五種競技連合馬術部の協力を得て座学を受け,さらに現在の
西東京市にある,東伏見早大きゅう舎で馬の取り扱いの実地教育なども
行ないました.
小池武典1等陸士の手記によると,近代五種連盟の人から「馬は非常に臆病な
動物」と言われたそうだが「臆病なのはわれわれのほう」で,最初は「オーラオーラ」
の掛声もか細く,馬の顔色をうかがって近づく始末だったそうです.
手綱を持っては馬に引かれるという,笑うに笑えない光景も繰り広げられたようですが,
そこはさすがの自衛隊,最後は馬に乗ってグラウンドを1周できるようになった隊員
もいたほどでした.

一方,馬術競技の補助審判を務めた桑原京平3等陸曹によると,馬術競技に
まったくの素人である自分たちに審判ができるのかと不安は募るばかり,
しかも規約が細部まで網羅されていなかったため「考えれば考えるほどわからなくなった」
こともあったといいます.さらにはその規約自体も競技直前まで変更が生じたと
いうから,現場の苦労と混乱がしのばれます.隊員たちは不明な点はメモしておき,
関係者に直接質問することもたびたびだったとか.日本での歴史の浅い競技ゆえ
の混乱かもしれません.

大賞典馬場馬術は馬術競技のひとつです.1932年のロサンゼルス大会で,
ウラヌス号に乗る西竹一選手が金メダルを獲得した競技でもあります.
それだけではピンと来ない人でも,映画『硫黄島からの手紙』に愛馬と共に登場した,
戦車第26連隊を率いるバロン西といえば「ああ,あの人!」とわかるかもしれません.
大賞典馬術競技については,近代五種競技の馬術競技と支援内容が重複する部分
も少なくなかったため,技術的な点での特別な訓練は必要としませんでした.
といっても,支援するために必要な訓練はもちろん行なわれました.

大賞典障害飛越競技を支援した北村和彦陸士長は訓練の際,障害物に
「まるで石うすみたい」と衝撃を受けました.肩に担ぐとあまりの重さに腰が曲がる
ほどです.そんな恰好で閉会式に集まった観客の前を歩いたら笑い者になると
おののくたび,「自衛隊の支援は自衛隊のみが評価されるのではなく,日本全部に
通ずるもの」という上司の言葉が頭の中をめぐったといいます.


近代五種支援隊最大の難関であり最大の見せ場でもある任務は,実はこちらの
大賞典馬術競技にありました.それは「障害物撤去」という一見なんの変哲もない
作業なのですが,その話はまた来週に.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.5.26





『鉄道と軍隊(6)─我田引鉄』
 日本陸軍の兵站戦(26)

                 荒木 肇

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□はじめに・鉄道の国有化

 JRとなってからの民営鉄道の姿になじんでいる人たちは,昔の国鉄職員
の威張り方を知らないのでしょう.JRという民営化以後,ずいぶん経ちますが,
わたしのような都会で生まれ育った者にとっては国鉄には悪いイメージしか
持たないのが本当のところです.違法なストをする,そればかりかスト権を
手に入れるためにストをしました.職員たちもまさに無法・無頼でした.学生の頃
にはよくストがありました.都会にいると国鉄職員は有名な浅田次郎氏の『鉄道員』
が描いた誠実な職員などウソみたいでした.

 国鉄職員は荷抜きをしました.昔は国鉄で荷物を送るときは途中で職員に
よる泥棒,抜き取りを覚悟したものです.鉄道の作業員の中にはそうした悪習
がありました.夕方からの勤務の時に詰所でスキ焼をする,それは全部タダ
でした.材料全部が運ばれていたからです.牛肉もネギも豆腐も醤油も全部貨車
の積み荷から失敬してこれました.ウソではありません.全部の人とは言いませんが,
そういう国鉄職員も少なからずいました.
 
 乗せてやっているんだと態度が大きく,客をお前呼ばわりしました.腕には
帝国主義反対などのスローガンを巻き,長髪でだらしなく作業服を着ていました.
ズック靴のかかとを潰して履き,駅長や助役,鉄道公安官を権力の手先呼ばわり
をして政治活動にはとても熱心でした.電車にベトナム戦争反対のスローガン
を書いていたのは覚えています.『おい,学生.キセルだろう!』と腕を乱暴に
つかまれたこともあります.誤解だったのですが,自分の間違いを認めず,
最後まで私に謝りませんでした.

 JRにされて民営化・分割化されるらしい.国鉄職員も人員整理されるらしい.
それを聞いてザマを見ろと思ったのは私だけではないでしょう.彼らが頼った
のは当時の社会党などの野党政治家や,やたら「人民・労働者の連帯」を叫ぶ
活動家でした.国鉄労働者を守れ,権力の弾圧を許すな,ずいぶん大きな声
を出していました.経営難に陥ったのは国鉄労働者のせいではない,政治のせい,
権力者のせいなのだと声を嗄(か)らしていたのです.だから職員のせいでは
ない,彼らを救えといわれても,私たちは何をしたでしょう.そこに私たちの何か
がある.そう考えてもいます.

 これからは政治のせい,権力者のおかげで国鉄は滅んだと彼らが主張した
歴史背景を描きます.その前にまず,満洲の鉄道経営権をめぐる日露双方
の主張を見てみましょう.つづいて「満鉄」の設立,そこから国内の鉄道国有化
などを語っていきます.

□お願い

 おかげさまで「陸軍と兵站」のテーマで語り続けることができています.
皆様のご愛読,ご声援のおかげです.そこで,版元とご相談の上,
まず『脚気と軍隊』を上梓する計画を立てました.過去5回の連載内容に大幅に
加筆することに致しました.人物にもっと焦点をあて,陸軍軍医界,海軍軍医界,
帝国大学医学部のことも詳しく語り,一冊の本を目指します.次には『鉄道と軍隊』,
さらには『学校と軍隊』というように企画を立ててまいります.

 つきましては誠に勝手ですが,メルマガの連載を「隔週」とさせていただくと
有り難く存じます.次回は再来週とさせていただきます.


▼日露講和条約での鉄道問題

 第1回講和会議(1908年8月10日)では外務大臣小村寿太郎はロシアが
もっていた東清鉄道南満支線,すなわちハルピン(哈爾濱)より南の線路をすべて
割譲せよという要求を出した.この他の日本側の条件は,

(1)韓国からのロシアの撤退
(2)満洲からの日露両国軍隊の撤兵
(3)日本が遼東半島租借を行なうにことについてのロシアの承認
(4)賠償金の支払い
(5)樺太の割譲

 などの多くにわたっていた.わが国はこのほかにハルピンから遼東半島南端の
旅順までの鉄道路線を管理下に置くことを主張した.このことはすでに6月30日
に閣議決定されていた.条件中でも最重要事項と認識されていたのは間違いない.
資料によれば,野戦鉄道提理部が上陸した前年の7月には小村の構想に入って
いたという.ロシア軍の南下を防ぐには鉄道を押さえるのが一番である.
このことは次に再びロシアがリターンマッチ(復讐戦)を企てた場合にも有効になる.

 8月16日,ロシア全権ウイッテは反論した.割譲は日本軍が自国の狭軌企画に
改めた昌図よりも南だけなら認めようというのである.
つまり,ブーツ・オン・ザ・グラウンド(軍靴が踏み込んだ地)ではなく,
運行実績がある所までだとウイッテは主張した.全線を手に入れることで
満洲の安全度を高めようとする日本と,影響力を維持し続けようとするロシアの,
満洲の戦後経営をめぐる対立でもあった.鉄道の譲渡は兵力配備にも
影響する.場所によって違いはあるが,鉄道周辺の土地の管理権の問題が
あり,そこへ警備のために兵力を派遣することは当時,国際的な慣習でもあった.
のちに悪名高くなる関東軍は平時の軍ではあるが,独立守備隊などをもつ
鉄道施設などの警備を任務とする現役部隊である.

 ウイッテの強い抵抗にあった小村は全線割譲をあきらめた.ハルピンと長春
の間,自然境界になる第二松花江を境界として折り合いをつけようとした.
しかし,ロシアはそれも認めず,長春(寛城子)から以北はロシア,以南は日本
と支配権を分けることで妥結することになった.ただし,小村はここでしたたかさ
を見せつけた.ロシアの主張を認める代わりに吉林と長春の間の「吉長線」の
敷設権を受け取ることにした.この路線はロシアが清国からすでに受けていた
未完成のものだった.地図を見れば分かる通り,長春から東へ伸びるコース
である.この路線こそ,開戦前から韓国の会寧を結ぶように計画された
路線(吉会鉄道)に接続する重要なものだった.つまりハルピンから綏芬河
を通りシベリア鉄道に接続するロシア側の東清鉄道の平行線となる鉄路の
建設計画の一部である.

 ロシアの「勝者もなければ敗者もない.一寸の土地も1コペックの金も渡さない」
という強硬な主張.さらには再戦までほのめかされては日本側も主張を
続けられなかった.戦費も枯渇し,軍隊も増やせない,国民生活は破たんの
限界まで達していた.諸外国への戦時公債も発行できない,陸軍兵力は
これ以上の動員は不可能であり,増税によっての財源確保も望めない.
政府と軍部はその現況を正確につかんでいた結果である.

 結局,樺太の南半分の割譲,ロシア近海での漁業権の承認などで講和を
妥結することになった.このなかで長春以南の鉄道の運行管理権と吉長鉄道
の敷設権の獲得はのちの満洲経営に大きな力を発揮した.このとき,マスコミ
の煽動にのった民衆は各地で講和反対の暴動を起こした.いまも教科書に
載る日比谷暴動や名古屋,大阪でも起きた講和反対の暴動は「市民運動を
マスコミが煽動する」といったよい教訓になる.

 賠償金30億円,樺太ばかりか沿海州の割譲までも東京帝大教授をはじめ
として大衆は要求した.無能・弱腰の政府と国賊小村を非難する声は高まった.
相次ぐ会戦の勝利,日本海海戦の大勝利と戦局は優位にある,それが譲歩
とは何事ぞとマスコミは大衆の不満を代弁する論陣を張った.戦争継続のため
には人,モノ,金を必要とし,国家全体の収支計算ができなかったとしか言いよう
がない.

 大衆もマスコミも知識人も事実を知らず,判断せず,勝手な思い込みで
よく間違いを起こすという貴重な教訓でもある.

 10月31日,日露講和条約第6条に従って,日本側代表満洲軍参謀
福島安正少将とロシア満洲軍参謀次長オラノフスキー少将の間に,日露鉄道
線路引渡順序議定書が調印された.これによってロシアが管理していた昌図
以北,長春以南の東清鉄道南満州支線の一部は日本側の手に渡ることになった.

▼桂・ハリマン協定

 当時,アメリカの鉄道王といわれた人物がいた.彼こそはユニオン・パシフィック鉄道,
パシフィック・メール汽船会社などをもつエドワード・ヘンリー・ハリマンである.
彼は自社所有の鉄道や船舶で世界一周路線を築こうとするほどの大資産家
でもあった(いささか荒唐無稽の妄想でもあった).彼はポーツマス講和条約が
交渉中の9月,静かにわが国を訪れていた.

 9月6日,ハリマンを歓迎する晩餐会がアメリカ公使の主催で行なわれた.
招かれたのは伊藤博文,井上馨といった元老,首相の桂太郎,曾根大蔵大臣,
大浦逓信大臣,珍田外務次官,松尾日本銀行総裁,添田日本興業銀行総裁
などの政財界の大物ばかりだった.ハリマンは日露戦争の戦時公債を500万
ドルも引き受けてくれた人物である.戦費は15億円ともいわれたが,その多くは
戦時外債でまかなわれた.うち1000万円以上を個人で受けてくれた人物で
あればこその大歓迎だった(当時の円ドル換算レートは1ドル=2円だった).

 その翌日の夜はお返しの首相主催の晩餐会である.これまた閣僚を中心
にした華やかなパーティーだったが,あいにく日比谷で暴動が起きた.
首相官邸にも暴徒が押し寄せてきたので会は中断された.さらにはハリマンの
宿泊場所は日比谷公園前の帝国ホテルだったのは皮肉な巡り合わせといえる.
しかし,ハリマンは長春以南の鉄道についての共同経営を政府に申し入れ,
10月12日には桂首相との間に予備協定覚書を調印することになった.

 当時の財政状況ではせっかくの路線も維持できないという判断があった.
ロシアは依然として満洲北部に駐兵し,いつでも再戦の機会をねらっていたとも
思える.そうであるなら南満州支線は最重要な戦略手段だった.財政逼迫の折
から,ハリマンの申し出は仕方なく応じることしかできなかっただろう.

 ところが小村が反対したのである.論拠は日露講和条約にあった.
南満州支線については清国の承諾が必要であること,日露両国が協議して
戦後経営にあたるといった条項があることを指摘した.小村にしてみれば,
せっかく獲得した利権を単独で手に入れられないという屈辱的な協定の内容
には耐えられなかったのだろう.結局,政府部内では桂・ハリマン協定は破棄
されることに決めた.

 協定の完全破棄がハリマンに通告されたのは翌年(1906年)1月のことだった.
前年末の日清満洲善後条約が結ばれ,そこに第三国による南満州支線への
資本投下が認められないことが明記されたからである.ハリマンはなおも満洲
への野心を諦めることなく,シベリア鉄道や東清鉄道の買収についてロシアに
働きかけもした.1909(明治42)年にハリマンは成功を見ることなく急死する.
それは彼の娘婿であるストレート・ハリマンが清国から錦愛鉄道の敷設権を
獲得する直前のことでもあった.

▼日清満洲善後条約

 日露戦争は清にとっては戦場を提供しただけの戦争だった.日露両国とも
主戦場はあくまでも外国である.そこでの戦後処理には当然,主権地が戦場に
なった清国が大きく関わってくる.教科書も一般の知見もそこに及ばないから,
この条約も知られることが少ない.これは日清戦争でも,あの悲惨だった台湾
領収戦争の詳細がいまも伝わっていないこととも関係する.戦争は始めることも
大変だが,終わってからの処理も大仕事だった.ポーツマス条約にもある通り,
日露両国が南満州支線長春以南の権利譲渡についていくら話し合っても,
主権国である清国が認めなければ国際的にはまったくの無効である.

 さらには戦時中に日本の臨時鉄道監部が建設した安奉鉄道,新奉鉄道に
ついても清国との協議が必要だった.ロシアの撤退にともなって日本が進出する.
そのことは当時の国際常識でもあったが,南満州に進出する日本にとって清国
との交渉は重大事であったし,今後を支える鉄道は重要なアイテムだった.

 政府は10月27日,偶然にもその日はハリマンがアメリカで覚書実行延期の
通告を受けた日だったが,日清交渉にのぞむ方針を立てた.

(1)南満州支線とその附属線(営口線や旅順線など)についてのロシアからの権利譲渡
(2)吉長鉄道建設のロシア権利の譲渡
(3)安奉鉄道,新奉鉄道の経営の承認

 これらの鉄道関係の条件ばかりではなかった.鉄道経営の附帯として,撫順,
煙台炭鉱の採掘事業を認めさせる.満洲の主要都市の開市・開放を求める.
さらには鴨緑江右岸,つまり満洲側の森林伐採権も認めよということが
含まれていた.それは実は清国が過去にロシアに認めていた利権でもあった.
森林資源が欲しかっただけではない.森林を伐採すると道を通し,資材を運び,
鉄道も建設できる.

 11月2日,ここでも全権に任じられ,横須賀を出航したのは小村寿太郎であり,
交渉相手の代表は袁世凱(えん・せいがい)である.袁世凱は当時,直隷総督と
して北洋軍閥の大物だった.1901(明治34)年に李鴻章が亡くなり後継者の
地位にあった.袁世凱の主張は次の通りだった.

(1)東清鉄道の租借期間は36年でロシアと締結したが,ここまでの3年間を引き,
残りの33年間とする.支線の南満州支線も同じとする.
(2)営口線は撤去.
(3)新奉線は清国に売却せよ.
(4)安奉線は日本に5年間の租借は認める.
(5)吉長鉄道は日本に借款優先権は認めるが,建設は清国があたることとする.

 小村は当然,厳しい口調ではねつけた.安奉,新奉の両線については南満州支線
と同じ条件で経営させること,吉長鉄道は日本に有線敷設権があることを認めよ
とした.25日には鉄道問題についての協議が始まった.安奉鉄道は清国も基本的
に譲歩することになった.袁世凱は鉄道が商工業にも利用できるよう改良すること
を認め,撤兵後の2年間に限って改良工事を行なうことで合意した.改良工事が
終わってからは15年間にわたって日本の経営権を認めることとなった.

 延長60キロにも満たない新奉線については厄介な事があった.重要な京奉鉄道
の最終区間でもあり,英国の利権も関係していたからである.1898(明治31)年
に英国は清国と京奉鉄道借款契約で新民屯より東方への延長線について
敷設優先権を手にしていた.小村が奉天から遼河東岸までの経営権移譲について
も袁世凱が認めなかったのは,その英国との関係もあったからだった.

 12月17日には鉄道関係の協議はおおかた終わった.ただし,この英国との
関係がからむ新奉線についてだけは解決しなかった.そのころ国内の情勢は政府
も国民の不満を抑えきれず,桂内閣は退陣することになった(21日).おかげで
新奉線問題では小村も踏ん張り切れず妥協することとなった.22日になって
ようやく善後条約が結ばれ,新奉線は清国に売却され改築と運営は清が行なう
ことになった.遼河以東の改築資金の半分を日本側からの借款とすることで
合意した.

 吉長鉄道問題も難航したが,結局清国の言い分を通し,清国が建設にあたる
ことになった.ただし建設費の半分は日本の借款になる.こうして長春以南の
支線管理権は日本側のものとなり,これが国策会社南満州鉄道株式会社設立
の動きになっていく.

(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.6.1





『ライター・渡邉陽子のコラム (97)─ オリンピックと自衛隊(11) 』

                 渡邉陽子

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こんばんは.渡邉陽子です.


現在連載中のこのコラムは,6月1日発売の

『オリンピックと自衛隊1964-2020』(*)から抜粋したものです.

(*) http://okigunnji.com/url/101/


執筆にあたり協力いただいた部隊などから,「本が届きました」というお知らせが

届いています.その中には,『MAMOR』の取材に何度となく一緒に行き,

苦楽を共にした人も.昇任してすっかりえらくなっていますが,会話を交わせば

懐かしいキャラそのままでうれしくなります.


ところで拙本をお読みいただくとおわかりになると思いますが,

自衛隊体育学校が長らく日本代表選手をオリンピックに送り出してきたレスリング,

今回のリオではついにその記録が途切れてしまいました.

レスリング班の抱く危機感は相当なものだと思いますが,現在はちょうど日本の

レスリング界が世界で勝てない冬の時代.ロンドン五輪で一度頂点を極めているので,

2020年の東京に向けて,今はひたすら耐える時期になっています.

幸い,つい先日開催された全日本選手権では新旧交代が進み,

自衛官アスリートも好成績を残しました.体育学校と自衛官アスリート,

これからも注目&応援していきます.






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○ライター・渡邉陽子とは?

 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/


○ライターとしてこんな仕事をしています

 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/

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■オリンピックと自衛隊(11)


先週に引き続き,近代五種競技と大賞典馬術競技支援のご紹介です.



10月11日,近代五種競技は朝霞根津地区で馬術競技からスタート.

12日は早大記念堂でフェンシング,13日は朝霞の25m射場でピストル射撃

が行なわれました.このピストル射撃については,射線と監的業務は

近代五種支援隊ではなくライフル射撃支援隊が行なっています.


4日目は国立競技場のプールで競泳,そして最終種目の断郊競技は,

千葉市検見川の東大総合グラウンドで全長400m,高低差約100m以上と

いうコースで行なわれました.



連日,競技と会場が変わるのは当時の近代五種競技ならではの特色ですが,

支援する側にとってはどれほど大変だったことでしょう.実際,各競技を支援

しつつ次の支援の準備を行なうという,目まぐるしい5日間だったようです.


ちなみに現在のオリンピックでは,近代五種はなんと1日ですべての競技を

行ないます.


フェンシングの対戦数が減ったことや断郊からコンバインドへの変更はありますが,

これだけ異なる種類の競技を1日でこなすとは,選手の心身は極限の状態

まで追い込まれるのではないでしょうか.


近代五種の勝者とは,間違いなくアスリートの頂点のひとつの形といえるでしょう.



続いての支援は大賞典馬術競技です.

これは大賞典馬場馬術と大賞典障害飛越競技からなり,10月22日から

オリンピック最終日に当たる24日まで行なわれました.


最初に行なわれた馬場馬術は馬事公苑,24日に行なわれた飛越競技は,

国立競技場のフィールド芝生が会場でした.


近代五種競技の支援の際には,支援隊の隊員は各地に分散して協力業務を

行なっていましたが,24日は全隊員が国立競技場に投入され,障害物の維持,

障害物前後の整地作業,馬場出入口柵の開閉などの業務を担当しました.


この日は天皇・皇后両陛下がご臨場になり午前の競技を見学されています.

近代五種支援隊はこのもっとも華々しい場で訓練の成果を発揮,

これまでの苦労も報われ,胸の震える思いだったかもしれません.



しかもそれだけではありません.

最大の難関であり最大の見せ場というのは,まさに大賞典障害飛越競技終了後

にありました.


競技終了後から表彰式までは15分.そのわずかな時間で,馬場柵や

障害構成部品など一切を撤去し,馬術表彰式から引き続き行われる閉会式会場

の広場を整える必要があったのです.


撤去する大小の障害物は740点にもなり,短時間に撤去するには相当な訓練

が必要です.


ところがOOCの障害物調達の入札,発注,業者の朝霞新倉地区への納品

などの遅延といったごたごたの理由で,本番までに十分な訓練回数を重ねること

ができませんでした.国立競技場での訓練にいたっては,なんと前日の23日夜間,

障害物搬入直後に行なったただ1度のみです.


どうするの! と思わず言いたくなります.


多数の障害物は多種多様で雑然としており,運搬しにくいものばかり.

しかも観客席からは何万という視線が,撤去作業を行なう隊員に注がれています.

この作業の間,支援隊長はどっしり構えていられたのか,それとも胃が痛くなる思い

だったのか……



しかしさすが自衛隊.13分30秒で見事に撤去作業をきっちり終わらせ,表彰式と

その後に続くオリンピックの幕を閉じる閉会式に,支障がないようにしました.

やはりやるときはやるのです.


防衛庁の記録では「この作業の進行ぶりは観衆に多大な好感を与えた」と

控えめに記しているものの,OOCの公式報告書と文部省発行のいずれの記録

にも「競技終了から表彰のファンファーレ吹奏までの15分間に約700点におよぶ

障害物を撤去するという難事を,13分30秒で完了させた」と明記されています.

公式記録に特筆すべき働きだったのです.


てきぱきとした働きぶりは,国立競技場に集まった観衆にとっても,

競技の観戦とはまた違った新鮮な驚きや,そして「すごいね」と純粋に感心する

思いがあったのではないでしょうか.



こうして,近代五種支援隊は近代五種競技と大賞典馬術競技を東京,埼玉,千葉県下

の7競技場において,8日間にわたりのべ776名で協力しました.


選手や役員から不満や抗議の声が挙がることは皆無,不測の事故なども1件もなく,

その任務を完遂しました.そして国際近代五種連合会長トフェルト准将(スウェーデン)

や日本近代五種連合会長をはじめとする多数の関係役員からは,謝辞と賛辞が

寄せられました.



日本近代五種競技連合の副会長である藤井舜次氏は『オリンピック支援集団史』に,

「競技の運営は支援隊があったからこそ出来たので,若し支援隊がなかったら

どんな結果に成ったろう.(略)競技連合からは無理な御願いもしたかもしれないし,

連絡不十分な事もあったかも知れないが,梅沢支援集団長始め実地に支援を

担当された支援隊長及び隊員の皆様の御苦労に厚く感謝申上げる」という一文を

贈っています.


「近代五種競技とは何ぞや」というところから始めて5カ月.近代五種支援隊,

おみごとでした!

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.6.2





『ライター・渡邉陽子のコラム (98)─ オリンピックと自衛隊(12) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.

現在連載中のこのコラムは,6月1日発売の
『オリンピックと自衛隊1964-2020』(*)から抜粋したものです.
(*) http://okigunnji.com/url/101/

先日,高等工科学校に行ってきました.来月ジュニア世界選手権に出場
するカヌー部の生徒にも会ってきました.カヌーは体育学校が力を入れ始めた
種目のひとつ.未来のオリンピアンのにおいがぷんぷんしていましたよ(笑)
もちろん私も注目していきます.

評論家・作家の宮崎正弘氏のメルマガのブックレビューでご紹介いただきました
http://melma.com/backnumber_45206_6375754/

S・Sさま
メッセージをいただいた当日,ちょうどK氏よりお話をお聞きしたところでした.
競技支援とはまた別の大変なご苦労があった選手村支援,お父様はさぞ
ご活躍されたことと思います.「名前が出ているよ,活躍ぶりが紹介されているよ」と,
ぜひお伝えくださいませ.うれしいメッセージをありがとうございました!




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■オリンピックと自衛隊(12)

出版社の許可をいただいたので,引き続き本書の中身をご紹介させていただきます.
今回からはライフル射撃支援です.
「同業者」の支援という重い重圧を背負ったライフル射撃,支援隊は
どのように乗り越えたのでしょうか.お楽しみいただければ幸いです!


ライフル射撃競技の支援は,第31普通科連隊(朝霞)を基幹とし,
第1師団隷下の隊員762名からなるライフル射撃支援隊が担任しました.
支援隊の協力業務は次のとおりです.


射撃指揮の補助
射撃の記録
射撃動作の監視補助
監的業務
標的審査の補助
競技実施中の会場内の監視
射線と標的交換をする監的壕間,競技運営本部と各射撃間の通信
競技役員の射場区域内における輸送


競技の会場が,支援隊の中心となる第31普通科連隊が所在する朝霞駐屯地内
の朝霞射撃場であったことは,会場が点在していた近代五種競技や地の利
のない軽井沢で行なわれた馬術競技などに比べ,非常に恵まれていた環境
と言えるでしょう.

しかも1963年10月に開催されたプレオリンピックの東京国際スポーツ大会でも,
支援隊長以下270名が5日間にわたってライフル射撃を支援したので,
その際に約50日間の基幹要員訓練,約40日間の部隊訓練を行なっていました.

そのため,ライフル射撃支援準備室が設置されたのは1964年7月と,
こちらが焦ってしまうほどのスロースタートです.それだけ素地があったからで,
まずはどんな競技かを学ぶところから始めなければならなかった競技を担当
した部隊にしてみれば,普段勤務している駐屯地で経験済みのことを支援
するというのは,なんともうらやしかったのではないでしょうか.


ライフル射撃ならではの面白い訓練としては,米軍横田基地の射撃クラブ員
約50名の射撃競技会に協力し,幹部自ら採点手や監的手をしたことが
挙げられます.外国人と接触があったということ自体も,支援隊にとって貴重な
経験になったようです.

8月半ばからは部隊訓練開始,下旬には全日本選手権大会の支援を行ないました.


ライフル射撃支援隊50m射場隊の監的勤務員だった石田尾勝憲3等陸曹は,
『東京オリンピック支援集団史』に訓練の様子を記しています.

それによれば,いかに選手がいかに気持ちよく安心して射撃ができるかを,
常に念頭に置いて訓練したといいます.

たとえば記録手の記録方法にしても,どうすればより迅速かつ確実な記録が
できるか,監的手の示点方法にしても,選手にもっともわかりやすい表示方法は
どれかなど,疑問点が出るたびに話し合い修正し,ひたすら単調な訓練を繰り返した
そうです.

緊張の糸が緩んだのか,公式練習の支援中に2,3回の失敗がありました.
その際,射場隊長から「本番をあと数日後に控え,こんなことでどうする.
われわれは日本軍隊の代表として勤務しているのだ.この重責を完全に遂行
しなければならない」と叱られ,改めて気持ちを引き締めたといいます.


このほか,7月から米軍横田基地のウエデル伍長を講師として,59名に対して
語学教育を計24時間実施しました.
選手村や輸送に関わる隊員は語学教育を受けていますが,競技支援隊でこのような
正式な形での語学を教育したケースはきわめて珍しいことです.
つまり,この時期に語学教育に時間を割けるほど,ライフル射撃の支援準備には
余裕があったということです.


そして同時に,この競技の持つ特殊性が,語学の必要性を支援隊に意識させた
ことも十分考えられます.
それは,ライフル射撃の選手には軍人が多いということです.


ルールから覚える競技の支援を行なう部隊からは一見うらやましく思える
ライフル射撃支援かもしれませんが,実際は「同業者相手に決してみっともない
姿は見せられない」という激しいプレッシャーを背負っている支援でもあったのです.
決して支援準備に余裕があるイコール準備が楽である,ということではありません
でした.支援に対する重圧は,もしかしたらどの競技よりも大きかったかもしれません.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.6.9





『鉄道と軍隊(7)』
 日本陸軍の兵站戦(27)

                 荒木 肇

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□ご挨拶

 関東地方の一部分では貯水量の不足から取水制限も始まっています.
梅雨は好きではありませんが,雨もほどほど降ってくれないと困ります.
美しく水が張られた水田は目の保養です.
 
みなさま,いかがお過ごしでしょうか.いよいよ,日露戦後の新しい軍備
の形と鉄道の話です.今回はまず南満州鉄道株式会社,満鉄の話をします.

▼南満洲鉄道株式会社設立まで

 満洲に固有の権益を手に入れることができた.とはいえ,確立した鉄道は
東清鉄道南満支線とその付属線(野戦鉄道提理部がゲージを変えた),
安東・奉天間の安奉鉄道(陸軍臨時軍用鉄道監部鉄道大隊が建設)だけ
であり,奉天と新民屯の間の新奉鉄道は清国がすでに英国に敷設権を
与えていたので日本の経営権は認められなかった.
 
 問題はその認められた鉄道の経営主体はどこかということである.
というのは,これらの鉄道はいずれも陸軍が建設したものであり,資産と
しては陸軍のものであることは明白だった.だから経営について陸軍の意向
がどうしても重くなるのは仕方がなかった.しかし,満洲の門戸開放に
ついては1906(明治39)年3月19日には英国から,26日には米国から
抗議を受けていた.早く軍政から民政に移管することが必要になって
いたのだ.ただ英米両国が主張するように満洲の占領地を民政に移管
するということは,同時に軍用鉄道の経営もまた民間が担当するように
なることを意味した.

 当然,陸軍は軍政の継続を願う.しかし,戦後経営を含めて英米との
協調を重視する外務省は当然,民政移管,門戸開放を要求した.
この3月4日には西園寺第一次内閣の加藤高明外相が辞任した.
在任,わずか2カ月だった.表向きはこのときの内閣による鉄道国有化政策
への反対ということだったが,ほんとうのところは陸軍の影響を受けて満洲
の門戸開放に消極的な内閣への反発だったといわれている.満洲の門戸開放
についての政府部内の対立解消が戦後の最初の課題であった.

 満洲を西園寺公望首相は自ら視察することになった.4月14日から密かな
旅行だった.総理の外国視察という前例のない行動だったために,
大蔵次官若槻礼次郎に満洲視察を命じ,その随員に紛れ込んで正体を
くらますという方法までとった.奉天では清国の奉天省官吏とも懇談し,
対日不信を除こうと努めたという.5月14日,西園寺は初めての外遊から
帰国した.

 満洲問題協議会が開かれたのは5月22日のことだった.初代の韓国統監
に就任していた伊藤博文は首相官邸に元老や政府・軍の関係者を召集した.
元老は枢密院議長山縣有朋,枢密顧問官松方正義,井上馨,元帥大山巌,
政府からは西園寺首相,寺内正毅陸軍大臣,斎藤実海軍大臣,阪谷芳朗
大蔵大臣,林董外務大臣,軍からは桂太郎陸軍大将,山本権兵衛海軍大将,
児玉源太郎参謀総長だった.
 
 会議はまず,伊藤がマクドナルド駐日英国大使からの私信を紹介した.
中身は日本の満洲においての軍政がロシアの昔と変わらないこと,
日露戦争で英米両国から支援を受けたにもかかわらず,両国の商業活動
を制限しているかに見えると指摘し,軍政の早い時期の撤廃を要求したもの
だった.

 もちろん,すでに前年10月末には野戦鉄道提理部は「野戦鉄道普通輸送
規定」を制定していた.民間人もこの軍用鉄道を使えるようにするためである.
外務省もいずれ列強の資本が満洲に展開されたとき,対抗できるだけの
邦人資本力を養っておくために有効であると陸軍に働きかけた結果だった.
もちろん,野戦軽便鉄道である臨時軍用鉄道監部が管理する鉄道も規定を
設けたことは言うまでもない.満洲各地の開市,開港を求める列強の要求
と軍用鉄道の運営は密接に関連していたわけだった.

 満州鉄道協議会では意見が対立した.伊藤は軍政から民政への移行を主張し,
児玉源太郎は陸軍を代表して強い反対意見を表明する.「十万の国帑(こくど),
十万の英霊」を費やした土地をみすみす列強の圧力に屈して好きに利用させる
など,満洲軍総参謀長として戦争を指導した児玉にとっては何とも承服できない
ことだったのだろう.しかし,伊藤は言う.「満洲は決してわが属地ではない.
純然たる清国の一部であり,属地でもない場所にわが国の主権が行われる
道理がない」

 6月7日,勅令によって満鉄の成立が公布された.7月13日には西園寺首相
は満鉄設立委員を任命した.その数,80名にも及んだ.メンバーは渋沢栄一,
竹内綱といった京釜鉄道建設に携わった財界人,野戦鉄道提理竹内徹,
のちに鉄道大臣も務める仙石貢といった技術者たち,外務省の山座円次郎
政務局長,石井菊次郎通商局長をはじめとした大蔵,逓信両省の高官,軍部
の代表などによって構成されていた.これを見ただけで満鉄が京釜鉄道のような
純民間鉄道でないことがよくわかる.

 7月25日,児玉源太郎が急死した.設立委員長の後任には寺内正毅陸相
が就いた.8月1日には阪谷芳朗蔵相,林董外相,山県伊三郎逓信相の3大臣
の署名による命令書が寺内に渡された.この命令書の重大な内容は,開業の日
から3年以内にゲージを国際標準軌間に改築するということがあったことだ.
大陸の鉄道は標準軌間(1435ミリ)で敷かれることが決定したのである.

▼満鉄の開業

 1906(明治39)年11月26日,満鉄が設立され,初代総裁に後藤新平が
就任した.前職は台湾総督府民政長官である.幕末に奥州水沢藩の下士の家
に生まれ,福島の須賀川医学校を卒業し,愛知県病院に勤務した.
1883(明治16)年から内務省衛生局に入り,ドイツ留学後1892(明治25)年
に衛生局長となる.翌年,相馬家のお家騒動に巻き込まれ起訴され非職となった.
その翌年,無罪が確定して官職に復帰する.98(明治31)年3月,児玉源太郎
台湾総督に呼ばれ民政局長,続いて民政長官になる.まさに維新動乱期の
出世ストーリーである.

 児玉と出会ったのは兵站と関係があった.日清戦争の復員業務の中の重要
だったものは,内地上陸時の検疫である.1895(明治28)年3月に臨時検疫部
がつくられた.部長は児玉源太郎陸軍次官である.その隷下の宇品検疫所で
働くことになったのが後藤だった.児玉から応援されて後藤は衛生局長に戻る
ことができた.後藤にとって児玉は悲惨な末路しかなかった自分を引き立てて
くれた恩人だった.この児玉と後藤の関係が満鉄の企業としての性格に大きく
影響したと評価する研究者は多い.

 時計の針を少し戻す.設立4カ月前の7月22日のことである.原敬内務大臣
に首相官邸に行くように指示された後藤に提示されたのは,満鉄総裁のポスト
だった.西園寺首相からの要請だった.ところが後藤は辞退した.自分は不適任
だというのだ.児玉は説得した.満洲経営案を自分に寄せてきたのは貴官
ではないか,満鉄総裁にふさわしいのは貴官しかいない,そう児玉は説きつづけた.

 しかし,後藤には不満があった.受けようとはしなかったのである.満鉄は
満洲経営の根幹でなければならない.満鉄による一元支配がもっとも効率が
良い.そうであるのに満鉄に対する監督権という行政指導力をもつ関東都督府や,
外務省などの内地官庁の口出しが気に入らなかったのだ.

 ところが,その夜,児玉が急に亡くなった.後藤は総裁就任を受けることに
した.8月1日,後藤は条件を付けて総裁就任を受けた.関東都督,外務大臣
の指揮監督を受けるが,自身も関東都督府顧問として都督府行政の全般に
ついて関与するというものである.このことはのちに満洲の三頭政治といわれる
統治システムのもととなった.つまり関東州の長官である都督,満鉄総裁,
そして在奉天総領事の3つのトップによる行政があった.これらはバラバラでは
なく,あくまでも協議体制として存在したものの,やはりそれぞれの思惑のせい
で決して一枚岩になるようなものではなかった.

▼改軌工事

 開業した満鉄にとって最初の課題は全線を標準軌にするといった大問題
だった.期限は3年以内だから1910(明治43)年3月末日までに工事を
終えなければならない.面倒だったのは,工事にあたって列車運転を続ける
という条件があったことだ.この問題を解決するために満鉄はこれまでの
狭軌線路の外側にもう一本のレールを付けた.もちろん,ポイント部分は
除いての全線である.このゲージ改築工事はたいへんな事業だったのだが,
満鉄は3線の内側2本を使って狭軌列車を走らせた.そして外側2本を使って
広軌列車を動かした.狭・広両方を運転させながら工事を完成したのだった.

 最初に旅順と大連の間が完成した.1907(明治40)年12月には初めて
広軌の列車が運転された.翌年の1月には本線の大連から瓦房店まで,
2月には遼陽まで伸びた.3月には奉天,4月は鉄嶺,公主嶺,西寛城子
までの区間で試運転がされた.5月に入ってからは,全区間で広軌,狭軌
両方の列車が同じ線路の上を走るようになった.

 5月20日からは長春から大連方向へ次々と狭軌車両を回送し,逆に大連
からは広軌車両を長春方向へ送り出した.そして30日からはついに全線で
広軌車両だけの運転が始まった.営口線その他の附属線もすべて広軌になった.
こうして安奉鉄道を除いて,南満洲から軍用鉄道は姿を消した.

▼告別式

 5月31日,大連の郊外に狭軌車両がすべて集められた.これらは満鉄が
野戦鉄道提理部から引き継いだものだった.機関車217両,客車157両,
貨車3727両である.それがつながれた全長は30キロメートルにもなったらしい.
これらは再び海峡を越えて母国に帰った.全国各地の鉄道で再び活躍する
ことになる.

 満鉄社員も在留邦人も軍人も3000人余りが狭軌車両との別れを惜しんだ.
社員の大部分は野戦鉄道提理部から身分を移していた.そこに集められた
車両には多くの思いが宿っていた.戦時中の苦労や悲しみ,そして戦勝を
得た喜び,戦後の運行の苦労,厳しかった改築工事,それらさまざまな思い
が人々の心の中を占めただろう.

 次回は鉄道の国有化について

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.6.15




『ライター・渡邉陽子のコラム (99)─ オリンピックと自衛隊(13) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.

現在連載中のこのコラムは,6月1日発売の
『オリンピックと自衛隊1964-2020』(*)から抜粋したものです.
(*) http://okigunnji.com/url/101/

先日,著書についてインタビューを受けました.
取材先でさらさらっと質問されるようなことは過去にもありましたが,
取材依頼が届き,取材日時と場所を決め…といったしっかりした取材
を受けたのは初めてです.

日頃は取材する側なので,これがもう落ち着かないのなんの……
「なるほど,こういう尋ね方をすると答えやすいな」とか,「あ,これは
私も気をつけよう」とか,どうしても取材者の視点で取材してださって
いる方を見てしまうという,なんとも落ち着かないひとときでした(笑).
そして改めて,インタビューの難しさを感じました.

それにしても,オリンピックと自衛隊の関係に興味を持っていただける
とはうれしいことです.インタビュー記事が掲載されましたら,
このメルマガにご報告させていただきます.


S・Sさま
たくさんの資料,お父様は半世紀以上にわたり,大切に保管されて
いたのですね.私にとってもまさに宝の山です.

執筆時は支援に関わったOB探しに大変難儀したのですが,
本が世に出たことで声を上げてくださる方が現れ,本当にうれしいです.

今すぐはせ参じて資料を拝見したい思いですが,あいにく目の前の
仕事に追われる日々です.
けれどそちらには取材に行く機会もありますので,よろしければその際
にぜひぜひ拝見させてくださいませ.

レビューもありがとうございました.お父様にどうぞよろしくお伝えくださいませ.





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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■オリンピックと自衛隊(13)

先週に続き,ライフル射撃支援のお話です.


先週は,競技会場は朝霞駐屯地内の朝霞射撃場,かつ,すでに支援経験
があったことなどから,一見余裕に見えたライフル射撃支援ですが,
実は選手の多くが軍人であったことから「同業者相手に決してみっともない姿
は見せられない」という激しいプレッシャーを背負っている支援であったこと
をご紹介しました.


より完璧な支援を目指し,英語学習が行なわれたことにも触れました.


防衛庁の記録によれば,「射場勤務以外の分野においても他国の軍隊に
劣らないように特に留意して,精神教育および基本訓練等を実施した」とあります.
最低限の英語力がないと,自衛隊そのものの評価が下がるという懸念があった
としても不思議ではありません.

また,ライフル協会の理事長,副理事長を招いて講話を聴く機会も設けました.
これは人間関係の樹立にも大いに役立ったそうです.


支援の準備は「夏からで間に合う」という姿勢でしたが,出場する選手たちの
練習の支援があったため,実際の支援が始まったのは早い時期からです.

9月15日から競技が始まる10月13日までの28日間,台風の日ですら休むことなく,
6種目計51か国,延べ1822名の選手の練習を支援しました.
1日も休まずって……休んでくださいよ! と思わず言いたくなります.


さて,射場には25m,50m,300mがあり,支援隊員はそれぞれ担当の射場を
割り当てられていました.

25m射場は95名が担当しましたが,近距離射場だけに観衆の目も近く,
隊員たちの一挙一動に注目が集まりました.
目立つことに慣れていない隊員たち,さぞや緊張したことでしょう.

観衆の支援を浴びつつ,射撃指揮の補助・監的・得点の読み上げおよび表示,
審査の補助,記録などを実施しましたが,隊員は動作や態度のみならず,数字の
書き方や発声にいたるまで最新の注意を払ったといいます.

なお,この射場では最初に近代五種ピストル射撃が行なわれたのですが,
その際,選手のひとりがなんと覚せい剤を使用しトラブルが発生したという記録
が残っています.

詳細は不明ですが,25m射場支援の責任者である射場長の的確な証言が
運営委員会の判断の参考となり,競技に混乱はなかったそうです.


このほか,25m射場はライフル射撃のラピット・ファイア・ピストル射撃でも
使われました.

この競技は進行のテンポが速く射手の動作が変化に富んでいるので,
観衆の盛り上がりも大きいものでした.
特に採点手である支援隊員の迅速かつ正確な点数表示は,厳正な動作も
あって各国選手や役員の注目を引きました.おそらく一生懸命とか,
真面目とか,そういう言葉が隊員からにじみ出ている支援だったに違いありません.

点数表示が手動でなくなった現在では,もう見ることの叶わない雄姿です.


300m射場では,射撃競技としてはもっとも伝統のあるフリー・ライフルが
行なわれました.
この競技の選手のほとんどは軍人です.

個々の動作のひとつひとつが自衛隊の評価につながるものとして,隊員たちの
緊張度は一段と増します.

しかもこの競技は時間が長いのです.
支援は連続6時間半にもおよび,132名の監的勤務員はその間,
食事(いなりずしとの記録が残っています.アメリカ人選手からなにを食べている
のか聞かれ,ジェスチャーで狐の真似をしたけれど通じなかったとか)は立ったまま,
トイレにも行けないので水分の摂取も控えるなど,肉体的・精神的負担も大きいもの
でした.

防衛庁の記録には「煙草ものまず」という一節もあり,時代を感じます.


来週は,ライフル射撃支援でちょっとじーんと来るエピソードもご紹介します!

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.6.16





日の丸父さん(6)石原ヒロアキ

「官舎の子供たち」
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□はじめに

 今回の話は,自衛隊官舎の子供たちについてです.自衛隊官舎は
お互いの職場が近いため,よその家庭のことがよくわかります.
どこの子がいじめっ子かとか,どこの子が頭がいいとか夕食の時など
によく話題になります.ですから官舎の子供たち全般のことがわかります.

そこで感じるのは,エッセイにも書いていますが,自衛官の子は
一般的にまじめで勉強家だということです.漫画の内容はほぼ事実です.
まるで昭和の話みたいですが.

さて,「ブラックプリンセス魔鬼」も8巻が出版され,9巻がそろそろ出る
ころです.こちらは日中戦争から中東へのPKOの話に移ります.最近尖閣
へ中国の軍艦が来たり,ISが化学兵器を使ったのではないかと噂されたり,
現実が漫画に近づいてきたなと感じます.よろしければこちらもお楽しみください.
http://okigunnji.com/url/103/

「石原ヒロアキ まんが館」を立ち上げました. 現役時代に頼まれて描いた4コマ漫画
もアップしています.
http://okigunnji.com/url/97/


▼ 元気な声で挨拶する官舎の子供たち

自衛隊の官舎には小さい子供たちがたくさんいます.これにはいくつか
の理由があります.官舎に入居するには点数制になっていて,点数の
高いものから入ります.階級が低くて若い隊員は官舎入居に必要な点数
が低いのですが,子供が多いと点数が飛躍的に増えるのです.

また,家を買うまでのあいだ,若いうちに官舎に住んで資金を貯める人も
結構います.転属が多い幹部は,子供が小学校までは基本的に家族同伴
で官舎住まいですが,中高生になると家を買って定住し,本人は単身赴任
になる傾向があります.これらの理由により官舎に小さい子供が多いのです.

 官舎には通常小さい公園や広場があります.官舎の奥さんどうしは,
旦那さんも同じ職場が多いため顔見知りが多く,この公園や広場で井戸端
会議をしますので子供たちも自然とこの公園や広場で一緒に遊ぶように
なります.

 またこの公園や広場は,まわりが柵で囲われており,不審者も入って
きにくいし,子供も遠くに行ってしまう心配がないため,監視役の大人が
少なくてよいという利点もあります.

 昔はガキ大将がいて小さい子供たちをまとめて遊んでいた,ということ
をよく聞きますが,官舎ではいまだにこの風習が生きているところが多い
ように思います.とくに小学生の高学年はよく低学年の面倒を見ます.
一緒に遊ぶだけではなく,トイレに連れて行ったり,ケガをしないように
注意したり,集団で行動するルールを守らせたりと感心します.挨拶など
もしっかりします.朝夕,すれ違うたびに元気な声で挨拶されると,
こちらもすごく気持ちがよくなります.

▼引っ越しが多い官舎の子供たち
 
 自衛官の子供たちは一般によく勉強をします.真面目な子が多いような
気がします.自衛官の子弟が通う学校の成績は非常に良いという話も
聞きます.私の周りの同僚,部下の子供たちは,多くが国立大学や
防衛大学校などに進学していました.理由はよくわかりませんが,
自衛官は仕事上よく勉強するため,親の背中をみて育ったせいでしょうか.

 自衛官は専門知識(MOS:Military Occupational Speciality,
自衛隊内で使用する各種資格)を使って働くので,よく入校したり国家資格
を取ったりします.2〜3歳の親と遊びたい年頃の子供が泣きじゃくるのを
振り切って,心を鬼にして勉強机にかじりついた記憶がある幹部は多いはず
です(とくに幹部学校の指揮幕僚課程受験).

 私も自衛隊に入隊してから,英語検定,第1種放射線取扱主任者,
幹部学校技術高級課程受験などの試験勉強をしました.また,親は子供が
勉強することに非常に熱心に後押しします.私の先輩の娘さんが,音大に
行きたいというので官舎にグランドピアノを入れていました.彼女は寝る
場所がなく,ピアノの下に寝ていたということです.

 もちろん中にはとんでもない悪ガキもいるわけで,いろいろと困らせますが,
いつも大人が見ているのでたいがい大事にはいたりません.

 また,自衛官の幹部は転属が多いので,官舎の子供も出入りが多いと
いうのも特徴があります.そのたびに出会いと別れがあるのですが,
子供にとっては友だちと別れるのはやはりつらいのではないでしょうか?

 幹部は平均2年で転属しますので,2年ごとの出会いと別れはかわいそうな
気がします.まれにですがうつになったり,登校拒否になったりする子がいる
と聞きます.私の同期でも幹部自衛官を親に持つ者がいます(彼らは「官品」
(かんぴん)と呼ばれることがあります).「子供には自分のようなつらい思い
をさせたくない」という者もいれば,「そんなの気にしない.本人の気の持ち
ようだ」という者もいます.

 私の子供は一人娘ですが,官舎ではいつも大勢の子供たちと遊んで
いました.家の中もいつも大勢の子供たちがいました.同じ年の友だちだけ
ではなく,さまざまな学年の子供たちと遊べる独特のコミュニティが官舎には
あります.娘にとってはいい社会勉強の場になったと思います.それこそ官舎
に感謝しています.

おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.6.20




兵法三十六計(25)

第二十五計 「偸梁換柱(とうりょうかんちゅう)」
    ─少数民族地域の中国化─

     元防衛省情報分析官・上田篤盛(あつもり)
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□はじめに

 東シナ海は波高しですが,その陰で米中の熾烈な政治戦が戦われている
ことに注目する必要があります.6月15日,ダライラマ14世とオバマ大統領が
ホワイトハウスで面会しました.

 中国はこれに先立ち,定例記者会見で「13億の中国人民が反対することを
するな」との反対の意を唱え,会見後は,『環球時報』を通じてこれに反対する
社説を掲載しました.

 中国にとってチベットは新疆ウイグルとともに火薬庫.海外からの民主化
の波を警戒しています.

 今週は,チベット,新疆問題について言及します.

▼「骨抜き」の計略

「偸梁換柱」は「梁(はり,りょう)を偸(ぬみ)みて柱を換(か)う」と読む.

 梁とは建物の水平短径方向にかけられ,床や屋根などの加重を柱に伝える材
のことである.梁と柱はともに建物を支えており,「梁を盗んで柱を取り替える」
とは,表面上は変わらないようにみせながら,建物を弱い構造にしてしまうことである.

 軍の戦闘隊形を崩す軍事用語としても用いられており,敵の急所,拠り所を攻め,
「骨抜き」にする作戦である.

▼秦の始皇帝が用いた「偸梁換柱」

 紀元前221年にさかのぼる.秦の始皇帝は「遠交近攻」の計略を駆使し,
斉(せい)の国を滅ぼし,ついに天下を統一した.その際,始皇帝は武力討伐と
並行して謀略,すなわち「偸梁換柱」を用いた.

 当時,斉では宰相に任命された后勝(こうしょう)が国政の実権を握っていた.
始皇帝は多額の金品を贈って后勝を買収した.后勝は始皇帝の要請を受け入れ,
自分の部下や賓客たちを秦に送り込んだ.秦は彼らを諜報員として養成し,
多額の金を与えて斉に送り返し,偽情報を流すように命じた.

 諜報員は斉に帰国し,盛んに秦の強国ぶりを宣伝し,「斉は秦と戦うべきではない,
戦争はやめるべきだ」と口をそろえて反戦メッセージを斉王に送った.のちに秦軍
が斉の都に迫った時,斉の人民は誰一人として抵抗する者がなかった.

▼中国共産党を危機にさらす少数民族問題

 国内安定を著しく損なうおそれのあるのは民主化運動と少数民族による
分離独立運動である.

 中国には55の少数民族がいる.少数民族の居住地はチベット,蒙古,新疆
など5つの自治区,延辺朝鮮自治州など30の自治州,120の自治県に分かれている.
これらの総人口は中国全体の約1割にすぎないが,分母が13億以上であるので,
少数民族の総合人口はゆうに1億人を超えている.

 また少数民族の居住地域は中国全土の6割を超えている.つまり,中国共産党
にとって少数民族問題の対応を誤れば,たちまち危機に瀕することになる.

 現在,少数民族問題でもっとも注目されているのがチベット族と新疆ウイグル族
である.両民族の分離独立運動は水面下で燻(くすぶ)り,時折,間欠泉のように
重大な治安問題となって表出する.

▼少数民族統治に「偸梁換柱」が発動

 先述のとおり,香港に対する「一国二制度」の実態は中国共産党の傀儡政権で
ある香港行政府による間接統治である.

 表面上は「高度な自治」を保障し,香港の政治状況が返還前と何ら変わらない
ように対外的にみせながら,中身は中国共産党の影響力を強化する.
これは「偸梁換柱」の実践であるといえよう.

 少数民族の統治についても「偸梁換柱」の側面がうかがえる.少数民族地域は
もともと独立国であったものが清王朝時代に併合された.したがって清王朝の崩壊
とともに分離・独立するのが自然の流れであったが,建国後の中国共産党が力
による併合を行なった.かくして建国後まもなく内蒙古,チベット,新疆ウイグルが
併呑された.

 中国の少数民族統治は「民族区域自治制度」を採用している.これは「連邦制」
とは異なり,少数民族が独立して自治を実施するものではなく,少数民族地域を
統治する地方政府が一定の自治権を持つというものである.すなわち,中国共産党
の管轄下にある地方政府による間接統治である.

 地方政府のトップや主要役職は漢族がほぼすべて握っており,少数民族による
政治への参画は限られている.

▼チベット自治区の統治

 中国当局によるチベット統治は1951年から開始された.当初は,人民解放軍が
駐留し,軍による共産党支配体制を開始した.その一方で,「チベット仏教の信仰
や風習には干渉しない」「チベット語の教育は奨励する」「僧院は保護する」といった
「高度な自治」を与えることを確約した.

 しかし,いつのまにか「チベットは歴史的に中国の不可分の一部分である」との
対外宣伝を強化し,チベット仏教の真髄である「活仏転生(かつぶつてんしょう:高僧
が亡くなると生まれ変わりを探す制度)」を中国の許認可制度とする法律を施行して,
チベット仏教を完全に統制した.

 チベット族の抗議デモに対しては,治安機関と情報機関を活用し,暴力的な弾圧まで
加えているという.

 チベット族の子弟に対する教育は中国語で行なわせ,毛沢東主義の学習教育も
義務付けた.漢族男性に対して多額の補助金を与え,チベットへの大規模な移住政策
を推進し,チベット族女性との婚姻を奨励している.反対に漢族女性とチベット族男性
の結婚は事実上禁止している.その結果,チベット自治区の人口は漢族750万人,
チベット族600万となり,チベット族はマイノリティになってしまったのである.

▼新疆ウイグル自治区の統治

 新疆ウイグル自治区のイスラム族についてもチベット同様の状況がみられる.
中国は建国後直ちに新疆の統一に乗り出す.1952年に人民解放軍を建設兵団
として派遣し,開墾と辺境防衛任務を与えた.これらの部隊には54年に「新疆軍区
生産建設兵団」の名称が与えられた.

 1955年にウイグル自治区が設置された.その後ずっと共産党の息のかかった
ウイグル人を使って間接統治を継続してきた.70年代に南疆鉄道が施設されると,
漢族は石油,天然ガス,ウランなどの希少金属を求めて,新疆ウイグル自治区
に大量移入を開始する.これに加え人民解放軍も投入され,新疆ウイグル自治区
の人口はウイグル人1500万人に対して漢族2000万人となり,ここでもウイグル人
がマイノリティとなった.

 結婚適齢期のウイグル人女性を都市へ移住・就労させる運動が2006年から
開始された.青少年は無償での国内留学の機会が与えられるが,国内留学の実態
は中国語学習と漢族伝統文化の学習でもある.こうして新疆ウイグル自治区に
おいては,「高度の自治容認」という大義名分の下で,実際には,小数民族の尊厳
や精神文化を破壊し,少数民族としての自尊心を喪失させる「偸梁換柱」の計略が
進展しているのである.

▼わが国に対する「偸梁換柱」にも注意せよ!

 中国の「偸梁換柱」は当然にわが国にも仕掛けられているといってよい.日本の
政治家・マスコミ・企業がわが国の国益ではなく中国の利益誘導によって動く事例や,
日本人としての心根を失っているとしか思われない一部政治家の仰天発言もある.

 こうした根本原因は日本人としての愛国心の欠如にある.それは歴史教育の
杜撰さが原因と思われる.第2次世界大戦後,わが国は意識的に「愛国心」高揚
施策を回避してきた.そのツケが回ったのかもしれない.

 中国では毎日国旗が掲揚され,愛国心教育が小・中学校から行なわれている.
こうしたなか,わが国が“いかさまの民主主義教育”の下で歴史教育を怠り,
逆に自虐史観の扶植が行なわれるのであれば,中国による「偸梁換柱」により,
わが国民の「精神的骨抜き」状態が進展する危険性があろう.


(次週,第26計「指桑罵槐」に続く)

おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.6.21




『ライター・渡邉陽子のコラム (100)─ オリンピックと自衛隊(14) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.

現在連載中のこのコラムは,6月1日発売の
『オリンピックと自衛隊1964-2020』(*)から抜粋したものです.
(*) http://okigunnji.com/url/101/


さて,今回で軍事情報でのコラムが連載100回を迎えました.
2014年6月26日,ちょうどほぼ2年前にスタートしてから,
気づけば100回.あっという間でした.

このような場を提供し続けてくださる軍事情報の管理人様と,
飽きずに読んでくださり,あたたかいメッセージも送ってくださる読者
のみなさまには,感謝の思いでいっぱいです.本当にありがとう
ございます.

これからも精進いたします.





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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■オリンピックと自衛隊(14)


ライフル射撃支援のお話を続けます.


監的勤務員がいるのは選手から300m離れた標的の下,
深さ2mの監的壕の中です.

弾が当たるとすぐに標的を下ろして当たり具合を調べ,
長い棒で標的の上に点数を記し選手に伝えます.

そして射撃2発につき1枚ずつ,計60枚の的をひたすら貼り替え続けます.
この的の上げ下ろしのタイミングも非常に重要で,
選手の呼吸とぴったり合っていないと,選手の集中力や精神安定に
支障をきたします.射撃は選手のメンタルが成績に大きく関係する競技
とあって,監的勤務員にかかる重圧は並々ならぬものがあありました.

選手と監的勤務員はお互いに姿は見えないものの,両者の息が
ぴったり合って初めていい成績が生まれるのです.

だから監的勤務員は,自分が担当している顔のわからない300m先の
選手の勝利を祈りつつ支援しました.これはスモールボアライフルや
フリーピストルの行なわれる50m射場でも同様でした.


雨が降ればずぶ濡れ,晴れれば的が反射して目が痛みます.
けれど選手は6時間半以内に120発撃てばいいルールなので,
その間は緊張の糸をゆるめるわけにはいきません.

思い出したようにときどき撃つ選手,機関銃のように一気に撃ちまくる
選手など十人十色で,隊員は「いつ撃ってくるか」と,標的を見上げた
ままの姿勢を保っていなければならなりませんでした.


『東京オリンピック支援集団史』によれば,ライフル射撃支援隊長の
倉重翼1等陸佐は,新聞記者に「各国選手が一様に自衛隊の支援を
素晴らしいと絶賛しているが,このような支援ができた秘訣や苦心談
を聞かせて欲しい」と取材されました.倉重1佐の脳裏に,隊員たちに
課した厳しい訓練の日々がよみがえってきます.

射場内外での支援隊員の行動が軍人の目で評価されるという重圧
に打ち克てるよう,注意力と忍耐心の養成,ルールの研究,規律訓練
の徹底など,射撃勤務に直接関係のないものまで試験,検閲を強行
しました.それは落伍者が出るほど厳しいものでした.

これが,「ライフル射撃は支援準備に余裕があるといえど楽というわけ
ではない」と前述したゆえんです.

公式練習が始まってからは1カ月近く,休みなしで支援を続けました.
そしてこうやって本番を迎え,隊員たちはこれまでの成果を存分に発揮し,
こうして高い評価を得ています.

梅沢支援集団長が支援上の心構えのひとつとして示していた
「縁の下の力持ちに徹せよ」を承知していたものの,倉重1佐は
「新聞記者の質問に対して部下の苦労に思いを馳せ,つい口を滑らし
翌朝の新聞に載せられ反省」したとあります.軍隊が傲慢であっては
なりませんが,自衛隊の謙虚さは今も昔も突き抜けています.


50m射場ではスモールボアライフル伏射,フリーピストル,
スモールボアライフル3姿勢が行なわれました.
この射場ではちょっとしたサプライズがありました.
スモールボアライフル伏射は73名の選手が参加したのですが,
そのうち18名がオリンピック新記録,さらに上位3名が世界新記録
という予想外の好成績を収めたのです.

52名の選手が参加したフリーピストル射撃は,朝から雨という最悪
のコンディションでした.標的は雨に叩かれ,弾痕補修のテープは
濡れてくっつかず,監的壕で弾着を待って標的を見上げる隊員の顔
には雨が降り注ぎます.

雨天だからと訓練が中止されるわけではないし,軍人は私服でない限り
傘をささないので,自衛官は日頃から雨に濡れることは慣れています.
しかしオリンピックの競技支援という特殊な状況下での全身ずぶ濡れは,
当然ながら初体験です.

隊員の苦労は大変なものでしたが,この日は荒天にも関わらず
 皇太子殿下がご来場され,隊員たちの大きな励みとなりました.

さらに期待されていた日本の吉川貴久選手がローマ大会に続き銅メダル
を獲得,日の丸が揚がったことは,隊員の苦労を吹き飛ばしてくれる
うれしい出来事でした.

おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.6.23





マーケット・ガーデン作戦とインテリジェンス (22)
                長南 政義
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□前号までのあらすじ

本連載は,精確な内容を持つインテリジェンスが一九四四年九月上旬に
連合軍の指揮官に利用されたかどうかを考察することにある.
実は,インテリジェンスの内容は,マーケット・ガーデン作戦実行に伴う
リスクを連合軍の指揮官に警告していた.

指揮官が決定を下すために利用できるインテリジェンスの情報源は数多く
存在していたが,本連載では「ウルトラ」情報により提供されたインフォメーション
にのみ焦点を当てて考察を進めることとする.第二次世界大戦を通じて,
連合軍の戦略レヴェル・作戦レヴェルの指揮官たちはウルトラ情報を活用し,
ウルトラ情報の精確性に関してめったに疑いを持たなかったからだ.

この数回,連合国によるマーケット・ガーデン作戦までの「ウルトラ」情報の
利用について述べている.前回は,ドイツ国防軍のドイツ国境への退却戦
の実態を,通信傍受情報に注目して考察した.

連合軍がフランスを横断してベルギーに向けて突進した時,ドイツ国防軍は
不可避の事態を遅らせようとして限界に近い状態であった.適切な量の兵員
も戦車もないドイツ国防軍は,長期間にわたって放置されていた「西の壁」
(ジークフリート線)の線で連合軍を食い止めることを願い,何とかしてドイツ
国境に到達しようと試みると同時に,連合軍の前進を遅滞する以外にほとんど
何もできなかった.

指揮統制面でもドイツ軍は困難な状態にあった.たとえば,西方総軍司令官
ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥の参謀長ジークフリート・ヴェストファール将軍は,
隷下司令部が電話を介して西方総軍からの命令を受領するまでにしばしば
二十四時間以上の時間を要した,と語っている.

だが,ドイツ軍の混乱状態は,連合軍にとって良い面ばかりであったわけではない.

ドイツ軍高級司令部が前線での戦況を把握しようと懸命にもがいていたのと
同じ頃,英国の政府暗号学校および連合軍の野戦軍指揮官は,ドイツ軍の
現在の配置や戦闘序列を把握するのに困難を感じていた.

ファレーズ包囲戦以前,ドイツ国防軍はいまだ部隊としての結束性を維持して
いたため,連合軍がドイツ軍の移動や企図を追跡することにそれほどの困難
はなかった.だが,退却するドイツ軍は正規の戦闘序列を崩して,ごちゃ混ぜ
の編成となり,状況により周囲の部隊をグループ化して戦闘群がつくられた.
そのため,ファレーズ包囲戦以後,連合軍が把握できるドイツ軍の配置や企図
はとても混乱的なものとなったからである.

さらに悪いことに,無秩序で敗走するドイツ軍のイメージが,連合軍の将兵をして
「勝利の幸福感」に感染せしめた理由の一つとなっていた.

今回は,「ウルトラ」情報が明らかにしたドイツ軍の人的・物的状態について
論じることとする.


■ドイツの補充兵不足が生んだ連合軍の「勝利の幸福感」

「ウルトラ」情報にのみ基づくならば,連合軍がいかにして戦争が終結に近づき
つつあると考え始めるようになったのかを説明するのはたやすい.

モルタン攻勢が始まった八月七日,ドイツ軍は,ノルマンディ上陸作戦当日の
六月六日から八月六日までの期間を対象とした統合報告書を送信している.

この報告書によれば,ドイツ軍の人的損害は,将校三千二百十九人,下士官兵
十三万千四十六人であった.連合軍がこの報告書から得ることができた情報
は人的損害ばかりではない.上記の損害を補充するために前線に送られた
補充部隊がいかに少数であるかが,この報告書から明らかとなった.

計算すると,損害合計十三万四千二百六十五人を補充するために,ドイツ軍
が前線に送ることのできた補充兵の数は,わずかに一万九千九百四人であった.
これは,【十五人の損害に対して一人の補充兵】しか送れていない計算となる.
また,この他に,一万六千四百五十七人の補充兵が間もなく前線に到着する
予定となっていた.ちなみに,上記の損害にはファレーズ包囲戦での捕虜・死傷者
六万人が含まれていない.


■ドイツ軍の戦闘能力評価

連合軍は,隷下部隊の戦闘能力に関するドイツ軍の評価もまた,「ウルトラ」情報
により入手していた.通常,報告書は,悲観的な内容であっても,楽天的な表現
を使用して,悲観的状況を和らげようとするものであるが,この前線からの評価報告
は極めて率直な内容であり,ドイツ軍が置かれている状況について楽天的な文面
を含むものではなかった.

前線からの評価報告は以下のように論じている.最近の戦闘での敗北後にドイツ軍
が直面する無数にある問題の一つは低い士気である.士気が低いことの徴候は,
脱走率が高まりつつあることからも証明されている.武装親衛隊と空挺部隊は
その団結と規律とを維持し続けているが,正規部隊はそれらエリート部隊と同レヴェル
の闘志を持っていない.

ドイツ軍の通信を八月二十五日に傍受した「ウルトラ」情報によれば,八月二十三日
から二十四日の二日間で,第179予備擲弾兵大隊から約五十人の脱走兵が
でており,第217予備擲弾兵大隊の約六十%が脱走している.

武装親衛隊は正規軍部隊が直面しているような士気の問題に直面していないが,
この一ヶ月間の戦闘が部隊の戦闘能力に悪影響を与え始めていた.たとえば,
可能な限り多くのドイツ兵が逃亡できるようにファレーズ包囲網の東端を開放していた
第2 SS装甲軍団は,「将兵はたいへん消耗している」と報告している.

この報告書を読んだ我々が,武装親衛隊が退却戦の期間を通じてその規律と
団結力とを維持し続けていることや,高い消耗率にもかかわらず,部隊としての戦闘力
を維持して戦闘を持続していることに注目することが重要である.

実際,第2 SS装甲軍団は,八月の戦闘で大損害を受け消耗していたが,
マーケット・ガーデン作戦において,連合軍によるアルンヘムの橋梁の奪取を阻止する
という重要な役目を果たす部隊となった.


■「ウルトラ」情報が明らかにしたドイツ軍の物的状態

「ウルトラ」情報は,【人的情報(質・士気・数量)】のみならず,ドイツ軍が連合軍の前進
を阻止し続けるのに必要とされる物的戦闘資源の状態に関する洞察も提供していた.

ドイツ軍は,自軍の分析官をして,退却期間中に部隊としての一体性を維持し続けた
ドイツ軍部隊の戦闘力を正確に評価せしめるために,装備状態に関する極めて
詳細な報告書を作成していた.

たとえば,第1 SS装甲軍団は,隷下にある戦車大隊のうちの二個大隊の状態を,
以下のように報告している.

第101 SS戦車大隊は,総計十八輛の戦車を保持している.うち七輛が使用可能で,
二輛が短期の修理を,九輛が長期の修理を必要としている.第503 SS戦車大隊は,
総計十七輛の戦車を保有している.うち,三輛が使用可能で,六輛が短期修理を,
八輛が長期修理を必要としている.

このように,連合軍は,「ウルトラ」情報により,大隊レヴェルの敵戦車の稼働状況を
把握していたのだ.

■ドイツ軍の兵站報告書

「ウルトラ」情報によりドイツ軍の物的状態が明らかになったのに加え,ドイツ軍の
兵站報告書を傍受分析することを通じて,連合軍は,ドイツ軍の重要軍事物資が
いかに不足しているのかも把握していた.

たとえば,第5装甲軍は,八月二十九日に,「例外なくすべての燃料が交付されてし
まった」と報告している.

つまり,ドイツ軍は危険な水準まで戦車を喪失していただけではなく,彼らが保有する
極めて少数の戦車にすら燃料を再補給できない兵站の限界点に近づきつつあったのである.

また,ドイツの軍需産業が喫緊の需要を供給できないほど弱体化していたことと
相まって,ファレーズ・ポケットに遺棄された兵器と軍需物資の量は,ドイツ軍にとり
危機的損害であったことを,連合軍は「ウルトラ」情報により把握していた.

解読不能により師団名は特定できないものの,あるドイツ軍師団は,八月二十七日に,
「歩兵はカービン銃以外のものをほとんど持っていない.二個大隊はその弾薬を
ほとんど使い尽くしている.補給が送られたが,いまだ到着していない」と報告している.

八月末,消耗品・耐久財の両面での補給不足が,ドイツ軍の通信を傍受した
「ウルトラ」情報の主たるテーマとなっていた.だが,補給の問題は,ドイツ軍がドイツ本国
の補給基地に向かって退却するにつれて,ドイツ軍の後方連絡線が短くなるため,
改善されるようになる.

おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.6.24





『鉄道と軍隊─国有化の問題─(8)』
 日本陸軍の兵站戦(28)

荒木 肇

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□ご挨拶

 梅雨に入りました.よく降りますが,関東では山間の水源地に降雨が
足りず,一部では取水制限もあるとか.そのくせ,地震災害復興を進めて
いる最中の九州,中国では豪雨により被害が出ているとのこと.
お見舞申し上げます.

 また,参議院選挙も告示され,先日から候補者の方々のお声が聞こえて
きます.先日はある政党の運動員の方から電話があり,「戦争法に反対です.
自衛官の方々が心配です」といわれます.先日,ネットで噂になった夜間に
国道を走る陸自の指揮通信車を「戦車」といい,前方監視の隊員さんのことを
「得意げな顔をしている」と書いた方の運動員です.「とても真面目ないい女性
です」とのこと.「どんな自衛隊が正しいのですか」と聞くと,「海外など行かず,
国内だけのことをするようにする」と言っていました.「じゃあ,海外派遣をして
国益にかなう行動はどうするのですか」とお尋ねしたら,「どこか大企業に
お勤めですか」と聞き返されました(笑).
 いろいろな意見があるものですが,わたしは現実味のない話はたくさんです.

▼鉄道国有化への動き

 国鉄がなくなってずいぶん年月が経った.1987(昭和62)年に,
長い歴史をもつ日本国有鉄道はいわゆる分割・民営化によって6つのJR旅客鉄道
と1つのJR貨物鉄道になった.1872(明治5)年に鉄道が初めて東京(新橋)と
横浜(桜木町)の間を走ってから,国が建設し運営する官設鉄道と私設鉄道が
並走する時代が1906(明治39)年まで続いた.

 国有鉄道という場合には,1906年の鉄道国有化法の公布と施行以後のこと
をいう.それまではあくまでも官設鉄道,官鉄と呼ぶのが正しい.これに対して
私設鉄道は1883(明治16)年に日本鉄道会社が創立された.1889(明治22)年
以後は各地に私鉄が敷かれ,営業キロ数では官鉄をいつも上回ってきた.
そのうち主な会社17社が官有化された.これからを国鉄という.

 国有化の最大の理由は,まず営業制度,とくに運賃,経理などの統一が企画
されたためだ.運賃が統一されれば全体としての利用者の負担は軽くなる.
利用者も増えるだろう.次に一貫輸送体制が確立する.列車の直通運転,
運転時間の短縮,整備や部品補充の効率化が図られる.とくに各地の産業が
発達すれば,その運ぶ貨物の輸送経費の軽減や積み替える手間が減ることだろう.

 この時代には鉄道は大量輸送機関としての地位が確立されていた.江戸時代の,
物は水の上,人は歩いて道路という原則がすっかり当てはまらなくなっていた.
1905(明治38)年度には乗客数は1億1370万人を数え,貨物輸送量も
2188万トンを示していた.新橋から下関,上野から青森といった長距離列車
が走るようになった.

▼『坊ちゃん』,『三四郎』と汽車

 夏目漱石はずいぶん汽車が好きだったのではないか.その作品中には
多く列車の旅が描かれる.たとえば名作『坊っちゃん』である.関川夏央氏の
『汽車旅放浪記』は何度も読んだが,そこに「漱石と汽車」という章があった.
それには精密な考証があり,それを借りて当時の汽車旅を再現してみたい.

 坊ちゃんは30円を懐に旅に出た.松山に着いたら,汽車と汽船の切符代
と雑費を引いて,まだ14円あるという.物語は1905(明治38)年秋を時間的
舞台としている.漱石の書いたものには戦争を大きく描いたものがないが,
本来,このときは日露戦争の戦勝気分,その後の講和条約への不満が社会
にあったころだ.

 坊ちゃんは下女の清に見送られて新橋駅から汽車に乗った.18時05分発
の神戸行急行列車だった.17時間あまりかけて翌日の11時19分に神戸に
着いた.私設鉄道の山陽鉄道がすでにあったから,広島の宇品へ向かい,
船に乗り松山に行くコースもあった.しかし,松山からの帰京に使った道のり
を考えてみたい.

 神戸までの2等乗車券が7円23銭,急行券は1円,通行税25銭となる.
今のいくらにあたるかといえば,およそ1円が8000円くらいと考えるか.
当時の長距離の旅は高価なものだったことがわかる.神戸からは大阪商船の
宮崎行の船に乗ったのだろう.高松,多度津,今治と寄港しながらの旅である.
松山の外港三津ヶ浜まで17時間40分,船賃は2円80銭,東京を出て3日目
の午後1時40分に着いた.そこから7銭の軽便鉄道に乗った.

 これまでですべての運賃の合計は11円35銭.それに各地の人力車代や
食事,あるいは船を待つ間の旅館の休息代などを考えると,漱石の書いた
16円はほぼ正しいと関川氏はいう.

 漱石の作品には長い旅をする主人公が出てくる.1907(明治40)年の
9月初めに上京する帝大文科大学生三四郎もそうである.熊本第五高等学校
を7月に卒業して帝大に入学すべく彼は汽車に乗った.当時の旧制高校は
7月に卒業,大学に入るのは9月だった.彼の故郷は福岡県京都郡である.

 国有化は1906(明治39)年から始まった.山陽鉄道は山陽線になり,
九州鉄道も国鉄になった.私鉄17社を買収した結果,営業延長は2400キロ
から7000キロにまで伸びていた.小川三四郎の汽車旅はどうだったか.
関川氏の考証に従うとする.

 1907(明治40)年,三四郎は行橋(大分県)駅から宇佐発門司行きの
上り列車に乗った.午前9時57分である.小倉(北九州市)に11時06分に到着.
門司には11時44分である.この門司駅は現在の門司港駅になる.
連絡船で馬関海峡を渡る.関門トンネルの開通は1942(昭和17)年に下りが
開通,2年後に上りが開通であるから仕方がない.下関で14時40分発の
上り京都行き列車に乗る.広島着は21時23分,岡山着2時30分.
神戸に着いたのは早朝の6時25分である.

 そのまま乗り続ければ京都には8時58分着になる.関川氏によれば,
どうも三四郎は神戸で降りたらしい.神戸からは東京行きもあるが,三四郎は
8時間も空けて14時30分発の名古屋行きに乗ったという.旅館で休息したり
食事を摂ったりもしたのかもしれない.動きのとれない列車の旅では,途中で
休みを入れるのが常識だったのか.

 京都には16時52分に着いた.草津18時07分着,彦根19時15分着,
米原19時25分で7分停車,彦根で買った弁当をここで食べたらしい.
『駅夫が屋根をどしどし踏んで,上から灯の点いた洋燈(ランプ)を挿し込んで行く』
という描写の後に三四郎は弁当を食べる.車内は油の入ったランプが照らす.
それでは夜間の車内はひどく薄暗かったことだろう.

 食べ終わった弁当のからを三四郎は窓から放り投げる.それが時代の常識だった.
その折りの蓋が風にあおられて正面に座る女の顔にあたる.三四郎は謝り,
口をきくことになり名古屋でいっしょに降りることとなった.22時39分,列車は
名古屋に着いた.町はまだ宵の口のように賑やかだったというから,明治の昔
から駅前は繁華だったのだ.

 女に頼まれ一緒の宿に泊まった三四郎は女の誘いに乗らなかった.
翌朝,名古屋を午前8時発の列車に乗った.車内で三四郎は広田先生と出会う.
列車はその日の夜,20時2分に東京に着いた.名古屋から12時間である.
九州を出てから3日目の夜に東京に着いたことになる.

▼難航していた国有化

 1890年代の初めには国有化構想がすでにあった.ところがなかなか進展
しなかった.その理由は財界の利害と大きくからんでいたからだ.景気がよくなる
と鉄道経営はひどく儲かった.逆に不景気になると財界は鉄道を手放したがった.
景気の変動でいつも財界は主張を変えてきた.
 
 ところが一貫して国有化論を主張し続けたのは軍部だった.日清戦争を準備する
中で,軍隊は全国の衛戍地から宇品港まで物資や兵員・馬匹を運ぶように計画した.
青森から広島まで直通できる路線を期待したのである.その場合,輸送の企画
から指示,運賃の計算,車両の運用まで,官・私鉄をまたがることの煩雑さは
効率の低下を生んだ.軍事輸送を円滑に行なうためには国有化は必須である
と考えてきたのだ.

 さらに日露戦後には,戦後経営を実現するためには国内の鉄道と朝鮮の鉄道,
さらには南満洲鉄道の一貫輸送体制を整えることが急務とされた.そのため
にも国内の鉄道だけでもまず国有化を進めようと考えた.当初は32の私鉄を
買収しようとしたが,結局17社にとどめることになった.買収費は公債である.
それでも全国の鉄道の80%は国鉄となった.

▼国有化がもたらしたもの

 鉄道国有法がすんなり議会を通ったかというと決してそうではなかった.
衆議院では採決をめぐって,大乱闘まで起こった.野党議員が全員退場する中
でようやっと法案が通過した.このようになったのは,三菱が国有化への反対の
態度をとり始めたからだ.三菱は九州鉄道をほぼ支配し,株主配当は毎年1割
を超えるというものだった.あらためて三菱は鉄道国有化に反対の意思を示し
始めた.当時の外務大臣は加藤高明であり,三菱の女婿だった.そのため加藤
は外相を辞任までした.

 さらに当時の西園寺内閣は倒そうとする野党ととことん戦い抜くという決意を
固めていた.国有化を通さねば内閣が危ういという窮地にあったのだ.
結局,国有化法は成立した.その法の中には「わが国の鉄道は国家が経営する」
という原則が書かれていた.これは国鉄の分割・民営化(1987年)まで生き続けた.
同時に,地方の小さな鉄道は私鉄に任せてもよいという例外規定も残された.
1919(大正8)年の地方鉄道法は私鉄を「地方鉄道」という名称で認めるようになった.

 1910(明治43)年の統計では,全国鉄道の総延長の90%が国鉄となる.
営業路線が50キロ以上の私鉄は,東武鉄道,成田鉄道,南海鉄道,中国鉄道
といったほどでしかなかった.このように国鉄が全国を網羅すると,すべての駅の
運賃表は全国版になり,駅の表示も職員の制服も,帽子の徽章も同じになった.
「桐と動輪」の国鉄のマークの成立もこれからであり,車両の形式も統一される
ようになり,全国どこに行っても私鉄らしい個性はなくなっていった.

▼全国的な流通網が生まれた

 江戸時代後半になると,とりわけ18世紀の後半から全国的な流通体制は
整っていたといえる.上方からの下り酒は有名だし,北前船による日本海航路を
使った肥料や,紅花などもすでに輸送体制が確立していた証明である.その商品
の中味はといえば,米,酒,藍,干物,古着や織物といった衣食に関わるものが
主流だった.必ずしも商品全般にいきわたることはなかったといえる.

 ところが産業革命が進み,大量生産による商品の全国市場ができ上がると,
運ばれる荷物が変わってきた.農産物だけではなく工業製品,とりわけ衣料品,
綿製の下着などが多くなってくる.工業原料や燃料,つまり鉱石や石炭などの
輸送が大切になってきた.鉄道はこのような運ぶものの範囲が広がったこと,
運ぶ距離が大きく増えたことに対応できる必要に応えるようになった.
それが国有化運動でもあったのだ.

 国有化によって青函,宇高,関門といった鉄道の連絡航路も国鉄が運営する
ようになった.さらに下関と朝鮮の釜山を結ぶ関釜航路は国が経営することと
なる.1910(明治43)年には朝鮮は併合され,統治のためにおかれた総督府
が鉄道の建設・運営をするようになった.

 鉄道の役割は大きくなった.国民生活もその意識から変えていってしまう.
その影響について次回は語ろうと思う.

おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.6.29





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『ライター・渡邉陽子のコラム (101)─ オリンピックと自衛隊(15) 』
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.

現在連載中のこのコラムは,6月1日発売の
『オリンピックと自衛隊1964-2020』(*)から抜粋したものです.
(*) http://okigunnji.com/url/101/

うれしいニュースが入ってきました.体育学校所属の近代五種の選手,
岩元勝平3等陸曹が,リオ五輪出場を決めました.近代五種は三口智也3等陸曹
がすでに出場を決めているため,体育学校からふたりの代表を送り出すことに
なります.

岩元3曹は『オリンピックと自衛隊』のため,トレーニングの時間を割いて取材
に応じてくれた選手です.先月の世界選手権が五輪への切符を手にする
ラストチャンスだったのですが成績が振るわず,オリンピック出場は2020年
の東京まで持ち越しだろうかと落胆していていました(私が).

ところが,まさかの朗報です.日本近代五種協会によると,世界選手権で
韓国選手が銅メダルを獲得して五輪代表に決まったことで,昨年6月の
アジア選手権で11位だった岩元がアジア枠で出場権を獲得したとのこと.
運も味方につけましたね.岩元3曹おめでとう!

発売中の「月刊モデルグラフィックス」8月号,「月刊丸」8月号にて
『オリンピックと自衛隊1964-2020』をご紹介いただきました.
また,丸では特集「陸上自衛隊災害派遣マニュアル」を執筆しました.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■オリンピックと自衛隊(15)

ライフル射撃支援のお話は,今回が最終回です.
先週までは試合と選手を支援する隊員たちの活躍をご紹介しましたが,
「支援する隊員を支援する」隊員もいます.これぞ究極の縁の下の力持ちです.

300mと50m射場の射撃が終わった標的を確認,分類,整理して
標的審査室に運搬するのは,標的整理班14名の仕事です.

またロッカー室や射場の警戒,通信網の構成と交換勤務隊員,
資材および協会役員の輸送など,支援隊の支援を担当したのは59名
の射場勤務隊です.

観衆や他国軍人の目を意識しつつというある意味華のある支援を支える,
このような裏方の裏方ともいえる存在があったことも忘れてはなりません.


ライフル射撃支援隊は6日間にわたり6種目計52か国,延べ294名の選手
を迎え,射場勤務から成績審査の補助にいたるまで,大会運営の主要部分
を担当しました.

フリーライフル競技で世界新記録を樹立して優勝したアンダーソン選手(アメリカ)
は記者会見で,「今までにこのようにすばらしく運営された大会に参加した
ことはない.用意していた望遠鏡をほとんど使わなかった.標的はタイミング
よく上下され,その操作は機械より正確で,私はただ冷静に銃を構えるだけ
でよかった.世界新記録で優勝できたのは,まったく協力隊員のおかげである」
と絶賛しました.

この言葉が嘘でないことは,彼が優勝を決めた際,自分の標的を担当した
1等陸士の監的勤務員ふたりと肩を叩いて喜び合い,ふたりのサインを所望した
ことからもわかります.監的勤務員は世界新記録を表示した記念の示点表に
サインしてアンダーソン選手に贈ったそうです.


従来,射撃は世界選手権で出た記録をオリンピックで更新することは難しい
とされています.
ところがこの東京大会では,そのジンクスが破られました.これは選手の技量
あってのことですが,整った設備に加え,選手と心をひとつにして支援した
支援隊員の健闘が一役買ったことは間違いありません.

採点手だった吉丸重政陸士長は「任務完遂に大きな役割を果たしてくれたのは,
選手と採点手との心の結びつき」と残しています.言葉が通じなくても,選手の
笑顔が感謝の意を表していることはわかったし,ノルウェー選手からサインを
求められたといいます.

また射撃界の長老である国際射撃連合事務総長チンメンアン氏(ドイツ)は,
「私は50年にわたる射撃歴においてこれほど立派な協力を見たことない」と
語っています.


すでにこの競技の支援経験もあり,語学教育をしたり講話を聞いたりと事前準備
は余裕たっぷり,しかも競技会場は自分たちのいる駐屯地と,そこだけを見れば
「おいしいところをいただいた支援隊」と思えるかもしれません.

しかし軍人相手という大きなプレッシャー,9月から不休で行なわれた練習への
支援,世界新記録が複数出るほど環境の整った射場と質の高い支援,さらに
どれほどの荒天でもしっかり支援を完遂していることなど,やはり大したものです.

おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.6.30




『ライター・渡邉陽子のコラム (102)― オリンピックと自衛隊(16) 』
                 渡邉陽子
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消印所沢さま

こんばんは.渡邉陽子です.

現在連載中のこのコラムは,6月1日発売の
『オリンピックと自衛隊1964-2020』(*)から抜粋したものです.
(*) http://okigunnji.com/url/101/

またまたうれしいニュースが入ってきました.

体育学校所属のウエイトリフティング56kg級,高尾宏明選手
がリオ五輪出場を決めました.これで自衛官アスリートの
リオ五輪代表は9名となりました.

五輪まで約1か月というぎりぎりでの決定には事情があります.

ウエイトリフティング競技では,昨秋から複数国の強豪選手の
ドーピング問題が浮上.それにより,当初は1枠だった日本男子
のリオ五輪出場枠が3名に増えることは確実と言われており,
高尾選手の代表入りも間違いないと見られていました.

ところが年が明けても,春になっても,その正式発表がありません.
日本ウエイトリフティング協会はやむを得ず,もともと決まっていた
男子の日本代表1名のみを5月に発表していました.
それがようやく,この時期での決定です.

昨年からひたすら待つ日々だった高尾選手,もやもやと落ち着かない
毎日はどれほど苦しかったでしょう.本当におめでとうございます.
体育学校から8年ぶりのウエイトリフティング代表です.

体育学校設立の目的は1964年の東京オリンピックで優秀な成績を
収める選手の育成で,その第一号がウエイトリフティングで金メダル
を受賞した三宅義信氏でした.体育学校の伝統競技,応援しましょう!

『オリンピックと自衛隊1964-2020』
http://okigunnji.com/url/101/

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■オリンピックと自衛隊(16)

さて,リオネジャネイロオリンピックまで1か月を切りました.

今週からは,『オリンピックと自衛隊』の中でもリオ五輪に関わる
自衛隊体育学校と,日本代表としてリオ五輪に出場する体育学校の
選手についてご紹介します.


1964年の東京オリンピックから2012年のロンドンオリンピックまで,
何人もの自衛官アスリートがオリンピックというひのき舞台で活躍,
メダルを獲得してきました.

ロンドン大会では金メダルと銅メダルが2つずつと,1984年の
ロサンゼルス大会に次ぐ成績を残しました.
ロサンゼルス大会では金メダルと銀メダルが各2つでしたが,
ソ連や東欧諸国が不参加だったことを考えれば,ロンドンで獲得した
4つのメダルはロサンゼルス以上の重みがあるといえるかもしれません.


ところで,自衛官アスリートの活躍は知られているにも関わらず,彼らが
所属している自衛隊体育学校は驚くほど認知度が低いのが現実です.

特にアスリートやその関係者以外の,競技スポーツと特に関わりを持たない
国民にとっては,体育学校という名を耳にしたこともないという人が圧倒的
に多いでしょう.

しかしこの体育学校こそ,オリンピックで活躍する自衛官を世に送り出して
いるところであり,2012年にはJOC(日本オリンピック委員会)から
ロンドンオリンピックでもっとも活躍した団体に贈られる『トップアスリート
サポート賞2012年度最優秀団体賞』を受賞している機関です.これは
体育学校がオリンピック選手育成ならびにサポートに関し,もっとも優秀な
団体機関のひとつであるという証です.


体育学校は陸上自衛隊朝霞駐屯地内に所在する陸・海・空自衛隊の
共同機関であり,オリンピックでのメダル獲得を目指す選手たちが所属
しています.自衛隊の組織のひとつなので,選手の身分はみな自衛官です.


近代オリンピックに軍隊の支援が不可欠であることはこの「オリンピックと
自衛隊」の連載第1回目で述べましたが,かつて外国では多数の軍人が
競技者としてオリンピックを含む国際大会に出場し,好記録,好成績を
上げていました.

国際大会が国家の精強さを示すひとつの目安だと考えれば,軍人とスポーツ
の深い関わりも自然な成り行きです.体育学校も1964年オリンピックが
東京で開催されることに決まり,開催国として恥ずかしくない成績を挙げる
ための手段として設立されたという経緯があります.

東京での開催は決まったものの,それまでのオリンピックにおける日本の
成績は振るいませんでした.開催国がぱっとしない成績では国の威信に
関わります.オリンピックで活躍できる,つまりメダルを狙える選手の育成は
国を挙げて取り組むべき重要事項でした.

当時の防衛庁長官だった江崎真澄氏は,自衛隊の中に体育の専門学校を設置
してオリンピック選手を育成し,オリンピック成功に寄与しなければならないと考え,
学校の創設を後押ししました.

そうして1961年8月に自衛隊体育学校が誕生したのです.ウエイトリフティング
の三宅義信選手や陸上長距離の円谷幸吉選手は,体育学校の第1期生です.


とはいえ,スポーツ選手を量産することは自衛隊の本来任務ではありません.
実際,体育学校設立の目的は「部隊における体育指導者の育成と体育に関する
調査・研究」とあります.

体育学校にかかる費用はすべて税金から出ていることを考えれば,体育学校で
行なわれていることが部隊に還元され,結果として隊員の体力向上,しいては
部隊の精強化につながらなければなりません.


そこで,体育学校には2つの教育課が設けられています.
ひとつは部隊の体育・格闘指導者育成のための教育や訓練を行なう第1教育課,
そしてもうひとつがオリンピック出場など国際級選手の育成を行なう第2教育課です.

また,体育学校には「部隊等における体育指導者の育成」,「オリンピック等国際級
選手の育成」,「体育に関する調査研究」という3つの使命が課せられています.


第1教育課隷下には教務班,体育班,格闘・武道班があり,一般体育課程教育や
集合訓練を実施し,部隊の体育・格闘指導者としての必要な基本的な知識および
技能を習得させています.
第1教育課の体育課程や集合訓練を受けた隊員が各部隊で隊員を指導することで,
部隊の精強化が図られるのです.


オリンピックをはじめとする国際級選手の育成を任務とする第2教育課は,
教務班,運用班(スカウト係,スポーツ・トレーナー係),レスリング班,ボクシング班,
柔道班,射撃班,アーチェリー班,ウエイトリフティング班,陸上班,水泳班,
近代五種班からなります.

自衛隊が取り組んでいる競技は原則としてこの9種目,さらに今年3月,冬季戦技教育隊
の特別体育課程教育室が冬季特別体育教室となり,これまでの北部方面隷下から
体育学校隷下となったことで,バイアスロンとクロスカントリーも加わりました.2007年
に新設されたスポーツ科学科には総括支援班,マルチサポート班(測定分析係)があり,
国際級選手の強化および体育指導者の育成のため,科学的トレーニングを実施しています.


来週もリオ五輪に出場する選手たちが所属する体育学校についてご紹介します.
体育学校に通いつめて取材した記事が続きますので,お読みいただければ幸いです!

おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.7.7






『鉄道と軍隊─狭軌か広軌かの争い─(9)』
 日本陸軍の兵站戦(29)

                 荒木 肇

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

□ご挨拶

 梅雨が続いています.激しい雨が降る地域もあれば,関東地方の
ように首都圏の水がめ地域にはほとんど降らず,夏に向かっての心配
がある.そういったことは長い視野で見れば普通かもしれません.
どうか,どなたもお困りになりませんように.

 YHさま,そうですね.行橋市は福岡でした.以前,自衛隊福岡地方連絡部
の企画で講話をさせていただき,お邪魔したことをすっかり忘れていました.
また,電化ではなく,気動車の導入はどうしてされなかったのか.興味深い
ご指摘,ありがとうございました.


▼狭軌採用は国土の狭さではなく,山が多く,資金がなかったこと

 いささか随想風な書き出しを許してもらいたい.

 幼い頃だったか,「狭い日本,そんなに急いでどこへ行く」というポスターを
見た.自動車があふれ出し,交通事故が増えた.その原因はとりわけスピード
の出しすぎといわれていた時代のことだったか.
 
 学校でも先生からしばしば言われたことが,「わが国は狭く,小さく,資源
がない」ということだった.そうか,わが国は狭いし,小さいからなと妙に納得
したが,中学生のころにおかしなことに気付いた.世界地図を見て列国と
比べると,わが日本はそれほど狭く小さいわけではなかった.

 狭軌を採用し,それからも広軌(標準軌)になかなかできなかったのも狭い
国土のせいだったという俗説がある.大隈重信などは晩年に,「小さな狭い国
じゃから狭軌でよい」と言ってしまったなどと書いたものだからますますそれが
定説になっている.

 確かに日本は狭い.アメリカやカナダ,ロシア,オーストラリアや中国,
インドに比べれば確かに小さい.しかし,ヨーロッパ大陸という見方ではなく,
各国の大きさを見ればいい.国ごとに見れば,わが国より広いのはフランス,
スペインとスウェーデンだけだ.それでも標準軌の鉄道を敷き,国際列車を
走らせている.英国も面積はわが国の3分の2もない.

 鉄道は兵器,軍需物資,兵員,機動力の元である馬や,車輛を大量に運ぶ
ことができる.近代の戦争に鉄道は必須のものだった.わが国を悩ませた
ロシアの5フィート(1524ミリ)という広いゲージはアメリカ人技師の売り込み
によるものらしい.それを皇帝ニコライ2世が受け入れた.おかげでヨーロッパ
の諸国とお互いに,そのままでは乗り入れができない.車輪のついた台車ごと
交換するといった方法を採っている.

 ロシアは,19世紀末にはその広大な線路をシベリアに伸ばしてきた.
20世紀の初めには鉄道がシベリアを横断し,軍港ウラジヲストックにまで線路
は達した.シベリア鉄道本線はアムール河北岸を蛇行しながら進み,
ハバロフスクにやってくる.さらに急角度で南下してウラジヲに着くが,新しい
東清鉄道は700キロも行程を短くした.しかも本線はハバロフスクでアムール河
を越さなければならない.そのため長い大鉄橋を必要とするが,東清鉄道は
ハルビンでアムールの支流松花江を越すだけでいい.鉄橋も短くてすむ.

 ハルビンが大きな都市になったのは東清鉄道建設のおかげだった.ハルビン
からは南下して旅順や大連に通じる南満洲支線が建設された.5フィートの軌間
がある地域はロシアの勢力が及ぶ.もしも,シベリア鉄道東朝鮮支線が造られ
元山に通じ,西朝鮮支線が奉天から平壌に伸び,さらに漢城から釜山にまで
到達したら朝鮮はロシアの植民地になっただろう.そうなればロシアは当然,
幕末からの懸案だった対馬を租借したいと申し出た.対馬の次は長崎県の
佐世保であり,関門海峡と津軽海峡も要求してきただろう.よくも先人たちは
奮闘してくださった.日露戦争はまさにわが国の独立を守った民族戦争だった.

 わが国の鉄道が狭軌になった本当の理由は,山が多く,貧乏だったことが
唯一最大の理由だった.軌間が小さいと設備も安い,そういった問題ではなかった.
軌道敷やレールをお手軽な規格にしたかったからである.現在は1メートル当たり
60キログラムという重いレールが使われている.当時はその半分,30キロぐらい
の細い,軽いレールが使われていた.それは軽い機関車で小さな荷物を運べば
いいと考えられていたからだ.

 国土が広く,長い割には日本には山や深い谷が多い.トンネルや鉄橋は
金食い虫だった.だからなるべく線路は平らなところを選んでいった.低い山なら
切通しをつくった.どうしても越えられない角度は,スイッチバックや碓氷峠に
使われたアプト式を使った.スイッチバックとは進みながら登り,後退しながら
登り,だんだんと高度を稼ぐ方法である.アプト式とは機関車の動輪にピニオン
歯車を着け,線路の間にラックを敷いて,歯車同士を噛み合わせて粘着力の
代わりにさせるシステムのことだ.

 実は世界最大長の狭軌鉄道を持つ国は南アフリカである.植民地帝国だった
英国は,北アフリカから標準軌間の鉄道をアフリカの縦断路線として敷きたかった.
ところが南アフリカの地形は海岸から台地がすぐ切り立っている.この高い,
1000から1500メートルの台地に汽車が上がるには小さなカーブをたくさん
造っていかねばならない.

 標準軌間が中速,もしくは高速(おおよそ時速60キロから80キロ)を出す
にはカーブの最低半径を300メートルはとらねばならない.それが狭軌で
40キロの最高速度なら半径が100メートルでもよかったのである.そのくせ,
JRをはじめとして,欧州の鉄道と比べてさほど車輛が小さいわけではない.
わたしは狭軌のくせに,標準軌の車輛とあまり変わらない規格になっている車輛
を走らせるわが国の鉄道の健気さを思う.

▼「建主改従」か「改主改従」か?

 国有化以後の鉄道政策は,その時々の政治のありかたに振り回される面を
多くもっていた.その大きな例は「建主改従」という建設を先にして,改良は後回し
だという考え方をとる政策のありかただった.政治家の利害のために鉄道の建設
が考えられるといういささか問題があることも起きてきた.地域の要望に応え,
自分の利益のために鉄道を誘致する,駅を造らせるといったやりかたが目立った
のだ.

 しかし,同時に国全体の経済政策のために,鉄道の建設を考えるといった気分
も育ってくる.鉄道政策は国家経営のために,経済政策を実現化するために考える
といった態度が見られてくるようになった.単に政治家の票集めのために鉄道誘致
が使われるのではなく,国家全体のため,経済興隆のために鉄道政策を考える
といった気分が育ってきた.

 広軌(国際標準軌間1435ミリ)への改築要望はすでに日清戦争を見据えた
軍部から始まった.1880年代からである.それがとにかく一貫輸送のために
後回しにされた.次は鉄道当局の中で構想が建てられた.ところが日露戦争の
準備のために予算がつかず,結局延期にされた.

 しかし,日露戦争の後には大陸との連絡輸送を考えるというところから,また
日本国内での輸送力を高めるという要望から広軌にすべきという考え方が出てきた.
実際,広軌と狭軌の鉄道の間には大きな輸送力の差があることはすぐに分かる.
箱(車輛)の大きさが違うのだ.

 改軌計画の最初は20世紀の初めだった.1909(明治42)年に鉄道院総裁の
後藤新平が立案した東京─下関間の改築計画である.後藤は1857(安政4)年
生まれ,1929(昭和4)年まで生きた.岩手県水沢で伊達家の陪臣の子として
成長した.後藤は前にも書いたが政界でも主流ではなく惑星的存在だったという.
そのアイデアは自由で,大風呂敷とも悪口をいわれたが,壮大な計画を立てる
人物である.ところが財政ひっ迫を理由に,この標準軌への改築は西園寺内閣
によって否決された.

 それでも1914(大正3)年に大隈重信が組閣すると,再び鉄道院総裁になった
後藤は,またまた改築計画を立てる.この年に勃発した世界大戦のおかげである.
貨物量が増えたのだ.戦争によってアジアに欧米の製品が運び込まれないように
なったのである.おかげで日本はアジア全体の市場をほぼ独占するといった役割
を担うようになる.しかもその当時には,わが国でも産業革命が起こり,重工業が
発達し,国内の各種工業品の生産力は飛躍的に高まっていったのである.

 この計画は進み,実験線まで造られた.いまもJR東神奈川駅構内にはその資料
が公開されているが,横浜線の原町田と橋本間に広軌の線路を敷いてさまざまな
実験を行なったほどである.牽引力や輸送量の問題,または改軌にあたって,
まず3本のレールを敷くか,それとも一気に4本にするかなど,各種の状況が比較
された.しかし,この実験にはすでに満洲で改軌の先行経験があったために特に
目新しい結果が出たことはなかっただろう.

 ただ,大正7・8年(1918・9)ころは,やはり緊縮財政のこともあり,政府や軍部
は狭軌論だった.結局,狭軌論に統一され,全国的に鉄道を津々浦々まで敷く建設
ブームの時代になる.

 政友会は広軌への改築を潰してしまったが,では一方で主張した複線化などの
改良に金を使ったかというとそうではない.「建主改従政策」を推し進め膨大な建設
予算を獲得して新線の建設に努めていった.毎年,8000万円もの予算が
つぎ込まれ,鉄道の大拡張が行なわれた.この新線の建設は政党の党勢拡大に
効果があった.政友会は大きくなり,地方の人々を喜ばせ,ますます党の力は
伸びていった.

 これに対して憲政会は「改主建従」である.鉄道をむやみに造って,山間僻地に
まで線路を伸ばしていくことは採算が取れない赤字線を生むだけだと主張した.
自動車がやがて発達し,それは道路の改善を伴う.鉄道は交通機関として競争に
負けるだろう.鉄道はいまある路線だけにして,複線化し,電化し,スピードを上げ,
操車場や貨車を造り,貨物輸送を充実すればいい.むしろ自動車も経営し,
国鉄自動車によって貨客を運ぶ方が国民にも有益だというのが反対派の意見
だった.当時の世界大戦の経験からも,自動車の威力が大きな声で叫ばれていた
のである.

▼こぼれ話・弾丸列車計画

 鉄道の建設が得票に結びつく.鉄道誘致に反対だなどと言ったら,落選は間違い
なしと言われていた.政友会も憲政会も,どちらも相当強引に鉄道当局に圧力を
かけては新線を建設させた.

 広軌案が完全に息を止められたのは1919(大正8)年2月の原敬政友会内閣
のときである.ところが1939(昭和14)年に再び広軌による「弾丸列車」を
東京─下関に走らせようという計画が浮上した.計画委員会はこれの実現化に努力
して,同区間を9時間で結ぶ新線建設を実行し始めた.全行程のおよそ3分の1を
建設したところで,1942(昭和17)年におりからの戦時体制のなかで,やむなく
中止することになった.しかし,この計画が1962(昭和37)年の東海道新幹線建設
に結びついていく.

おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.7.13





『ライター・渡邉陽子のコラム (103)─ オリンピックと自衛隊(17)』 
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.

現在連載中のこのコラムは,6月1日発売の
『オリンピックと自衛隊1964-2020』(*)から抜粋したものです.
(*) http://okigunnji.com/url/101/

札幌在住の映像作家,小島肇氏(冬季遊撃レンジャーでいらした自衛隊
OBです)が,拙書の中に実名が掲載されている支援隊員の方に取材
されました.その方は当時の貴重な資料も多数保存していらっしゃり,
今回の小島氏の映像と合わせ,いずれも貴重な「生きた歴史」です.

また,先日はカヌー競技支援に関わった空挺隊員のOBからも,
ご丁寧なお便りを頂戴しました.
執筆中は支援関係者がなかなか見つけられず,最後まで頭を悩ませました.
それがこうして本を世に出したことで,現在もご健在の方の存在を知ること
ができ,本当にうれしいです.


『オリンピックと自衛隊1964-2020』
http://okigunnji.com/url/101/

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○ライター・渡邉陽子とは?
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○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■オリンピックと自衛隊(17)

今回も自衛隊体育学校のご紹介です.

日本陸連公認の全天候型トラック,日本水連公認のプール,
総合体育館,屋内射撃場,馬術訓練場などのトレーニング施設
が整備されており,競技できる場所が限られている射撃や,
五種目すべてのトレーニングが一か所で行なえる近代五種などは,
体育学校だからこその恵まれた環境です.

また,各種専門のトレーナーによるフィットネス,スキル,メンタル,
栄養などの観点から充実したサポートが行われ,専属の医官も常駐.
さらに指導陣の多くは各競技の強化委員会や日本代表ナショナル
チームの指導者とあり,選手へのサポート態勢は手厚いものです.

一般企業からも声がかかったものの体育学校入校を選んだという選手
の多くは,この充実した設備とサポートが決め手になったといいます.


東京オリンピックの会場となった射場は半世紀以上の年月が経ち
施設の老朽化が進んでいましたが,建て替えが決定.ほかの建物
への補修も始まるなど,体育学校への予算もつきやすくなりました.

その背景には,2020年のオリンピック開催地が東京に決まった直後,
小野寺五典防衛大臣(当時)のかけ声により開催された「防衛省・自衛隊
2020東京オリンピック・パラリンピック特別行動委員会」における
ロンドン大会メダリストたちの発言も大きく関わっています.

同年10月の第2回特別行動委員会に参加したロンドン大会のメダリスト
たちは,体育学校の冷房装置や老朽化したトレーニング器材などの設備的
なハード面とトレーナーというソフト面での強化について,アスリートの立場
から意見を述べました.それに加え,現在の体育学校施設が建設から
20年以上経っているという状況も考慮し,大規模な改修が行なわれる
ことになったのです.

予算がつきやすくなっていた,自身もスキーやテニスに親しむ小野寺大臣
が体育学校や自衛官アスリートに理解があった,なども要因として大きい
ですが,体育学校がロンドン大会で活躍したという事実がそれらをさらに
後押ししたことは間違いありません.結果を出せない組織に予算をつけにくい
のは,公企業も私企業も同じです.


さて,1961年に自衛隊体育学校が設立すると,翌年にオリンピック選手育成
のための第2教育課がスタートしました.

重量挙げの三宅義信選手は体育学校の第1期生です.1960年のローマ大会
で銀メダルを獲得した三宅への周囲の期待は絶大なもので,大会2日目に
行なわれた試合には皇太子ご夫妻(現在の天皇,皇后両陛下)も観戦に訪れて
います.三宅選手はすさまじい重圧を乗り越え,周囲の期待通り金メダルを獲得.

これは東京大会の日本のメダル第1号でもあり,最終競技の男子マラソンでは
円谷幸吉選手が銅メダルを獲得と,オリンピックの最初と最後が自衛官アスリート
のメダルで飾られる結果となりました.

同時に,体育学校からメダリストが誕生したことにより,体育学校の存在意義も
確固たる盤石なものとなったのです.


東京大会からロンドン大会までの,体育学校のメダル実績は以下の通りです.

第18回東京 金1(重量挙げ),銅1(陸上)
第19回メキシコ 金3(重量挙げ),(レスリング×2)
第20回ミュンヘン 銀1(レスリング)
第21回モントリオール 銅1(レスリング)
第23回ロサンゼルス 金2(レスリング,射撃),銀2(レスリング)
第24回ソウル 銀1(レスリング)
第25回バルセロナ 銅1(ライフル射撃)
第28回アテネ 銅1(レスリング)
第30回ロンドン 金2(レスリング) 銅2(レスリング,ボクシング)


1996年の第26回アトランタ大会,2000年の第27回シドニー大会では無冠に
終わり,オリンピックのメダルが獲得できない8年間は,選手のみならず
コーチ陣もさぞや苦しい時期だったことでしょう.

アテネでレスリングの井上謙二選手が銅メダルを獲得してくれたことで,
3大会連続メダルなしという最悪の状況は回避することができました.
結果を出せない選手が体育学校にいられないように,結果を出せない体育学校
の前途も明るいものではありません.


こうして一覧にするとよくわかるように,ロンドン大会の好結果はここ数回の
オリンピックの中でも突出しています.

その要因は,新たな指導法を取り入れたことにあります.選手の「個」を重視し,
各隊員の能力や性格に合わせたきめ細やかなトレーニングメニューを作成しました.

体育学校自体も変化を恐れず,選手の能力だけでなく個性も持ち味として
伸ばすという柔軟な対応に挑戦した結果が,ロサンゼルス大会以来の
メダル数獲得へとつながったのです.

おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.7.14





日の丸父さん(7)石原ヒロアキ

「官舎生活と泥棒退治」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

□はじめに

今回は,官舎での泥棒退治の話です.
私が幹部候補生だったころ,当時の候補生隊長の2佐の方が官舎
での泥棒退治の話をしてくださいました.その当時は笑い話だろう
と思っていましたが,まさかそれから10年後に自分が同じような体験
をするとは思いませんでした.漫画の内容はほとんど真実です.

 ⇒ http://okigunnji.com/url/127/


さて,近く「ブラックプリンセス魔鬼」第10巻が発刊される予定です.
今回は内容が濃く,戦車対戦車,戦車対歩兵,CBRNテロ対処など
陸上戦闘のハイライトを集中的に描いています.

私は化学職種ですが,機甲部隊である第7師団勤務が長いので,
現代の戦車戦についてはほぼ実相に近い戦闘シーンが描けたと
思っています.作者ノートも私の自衛隊勤務で得た経験や知識をかなり
掘り下げて書いています.一部は専門的な内容になっていますが,
これを機会にもっと軍事に興味をもたれて,さらに専門書を読みこむような方
が増えたら幸いです.


「石原ヒロアキ まんが館」を立ち上げました. 現役時代に頼まれて描い
た4コマ漫画
もアップしています.
http://okigunnji.com/url/97/


▼官舎の自治組織

 官舎は柵で囲われていますが,だれでも自由に出入りできます.
とくに監視しているわけでもありません.ですので,たまに駐車場の車
にいたずらされたり,駐輪場のバイクや自転車が盗まれるということが
起こります.
 
 かつて沖縄に自衛隊が移駐した時,官舎内の車のタイヤをパンク
されたり,車体を傷つけられるという嫌がらせがあったと聞きます.
警察に通報してもいつも巡察してくれるわけでもないので,自分たちで
対応せざるを得ません.

官舎は,ある程度自治組織ができています.通常階段ごとに班があり,
班長がいます.棟には棟長がいて,官舎全体で自治会長がいます.
班長や棟長は持ち回りで,1カ月ごととかに定期的に回ってきます.
彼らは通常回覧板を回したり,官舎の維持費を集金したり,公共場所の
電気を替えたりという雑務をこなします.

自治会長や役員(会計係,監査係など)は年1回全体選任集会があり,
選任後約1年間動きません(年2回人事異動の時期があり,このとき人員
が変わることがあります).役員の選定に階級は関係ありません.
官舎によって細部違うでしょうが,だいたいこんな組織で官舎が運営されます.


▼自治会長の銅像を官舎に立てる!?

官舎の自治組織は生活に密着することを実施します.草刈りはそのなかでも
大切な行事です.年に数回あります.休日の朝に全員出てきて官舎周りの草
を刈ります.各階段や棟ごとに刈る範囲が決まっています.班長や棟長は
各人に草刈りや清掃の範囲を割り当てたり,集めたごみを自治体の清掃担当者
と集積場所などで調整したりします.

鎌や熊手といった道具は駐屯地業務隊厚生科の維持費から出ますが,
足りない場合は自分たちで購入します.また,官舎によっては草刈りに
出てこなかった人は代わりにお金を出すことがあります(罰金として).
しかし,本来草刈りに出るのが原則なのに金を払えば出なくともいいと考える人
が増え,ちょっと問題になりました.業者に頼んで草を刈るという案もありましたが,
自分たちの方が安上がりなのでその案はすぐに消えました.

官舎には集会所があり,そこで会合が開かれます.ここでは役員選任集会
のほか,なにか特別の行事などが発生した時に集まります(余談ですが,
以前ヘンな自治会長がいて,維持費が予想以上に余り,その使い方を議論
しようと全体集会をかけました.そのとき彼は,自分の銅像を官舎の公園に
建てたらどうかと提案したのです!! もちろん全員で却下です).


▼日ごろの集団行動で泥棒逮捕

この泥棒退治もそうです.バイクや自転車は官舎の駐輪場に集めて
置いてあるので,頻繁に盗まれる場合は自治会で対応します.本来自衛官
は駐屯地警備も日ごろ行なっているので,泥棒対策はお手の物です.
駐屯地警備には不審者に対する対応要領のマニュアルがあり,そのための
訓練も行ないます.駐輪場の警戒監視から泥棒の捕捉まで手際よく決めて
いきます.警戒監視に必要な双眼鏡も普通個人で持っていますし(陸上自衛官
の必需品),木銃なども銃剣道が盛んな部隊は個人で持っています.

官舎には,連絡網という電話の連絡体制があって,緊急の時はこれで
声をかけあいます.いったん集まると,自衛官は集団行動をとるのに
慣れているので,長が決まればあとはその人の指示に従って整斉と行動
します.

私も実際に泥棒退治に参加したことがあります.このときは誰かが外で
「泥棒が出た,みんな集まれ!」と大声で叫び,あっというまに40〜50人
ほど集まって容疑者を捕えました.たぶん泥棒もたまげたのではないでしょうか.

官舎といっても新旧があり,一戸建てとアパートタイプとさまざまです.
私がまだ若いころ,25年前ですが,当時某駐屯地に築35年以上の木造平屋
の官舎がありました.1世帯一戸ですが,屋根はトタンでできており,部屋の
中央はくぼみ,隙間風が吹き,全体的にカビ臭く,トイレも汲み取り式という
ひどいものでした.取り壊す2年前に入ったのですが,最初見たときは廃屋
かと思いました.このような官舎には泥棒など来る心配はなかったのですが,
かわりに虫の侵入に悩まされました.

おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.7.20





『ライター・渡邉陽子のコラム (104)─ オリンピックと自衛隊(18) 
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.

現在連載中のこのコラムは,6月1日発売の
『オリンピックと自衛隊1964-2020』(*)から抜粋したものです.
(*) http://okigunnji.com/url/101/


リオ五輪がいよいよ近づいてきましたね.

体育学校から送り出す9名の日本代表のうち,
最初の競技は水泳の江原騎士2等陸曹です.

日本時間の8月6日午前に400m自由形の予選&結晶があります.
次はボクシングライト級の成松大介2等陸尉,6日午後に1回戦です.
翌日7日午後にはウエイトリフティング56kg級の高尾宏明3等陸尉が登場.

活躍を期待します!


『オリンピックと自衛隊1964-2020』
http://okigunnji.com/url/101/

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■オリンピックと自衛隊(18)

今回も体育学校のご紹介です.
体育学校に入校し,自衛官という立場からオリンピックを目指す
にはどうすればいいのでしょう.


体育学校の入校資格は競技によって異なりますが,高校か大学・社会人
で一定の成績を残していることが条件となります.

たとえばレスリングの場合は「全日本選手権大会,全日本選抜選手権大会,
国民体育大会(成人)のいずれかで3位以内」,あるいは「全日本大学
選手権大会,全日本大学グレコローマン選手権大会,内閣総理大臣杯
のいずれかで3位以内」が採用基準です.また,自衛隊入隊後に競技を
始める選手が多い近代五種の場合,採用には水泳の成績が重視されます.

これらの条件を満たす者は「体育特殊技能者」として採用され,大学院卒は1曹,
大卒は2曹,20歳未満は2士からスタート.入校後は特別体育課程学生,
通称特体生として各種目の専門訓練に従事,という流れになります.


体育特殊技能者には満たないものの,将来的に有望な資質を持っている
という選手の場合は,まずは一般曹候補生・自衛官候補生として入隊し,
半年間の新隊員教育を受けてから一般部隊に配属されます.

つまり最初の部分は普通の隊員と同じ道を進みますが,そこから約5か月
におよぶ特別体育課程学生候補者集合訓練に参加します.

この訓練で候補者たちはふるいにかけられ,選ばれた者は晴れて特体生
として体育学校でオリンピックを目指します.
一方,選考から漏れた者は原隊に復帰,自衛官として国防を担ったり,
体育指導者として隊員の指導を行なったりします.


これまで部隊経験を経ずに直接入校できる体育特殊技能者は20歳以上
が対象となっていたため,高校生はどれほど優秀な成績を残していても,
一般曹候補生・自衛官候補生として入隊し,半年間の新隊員教育を経なければ
入校することはできませんでした.

しかし2020年を見すえ,東京でメダルを取れる有望な若手選手を獲得し育成
するため,2015年度から高校生(正式には20歳未満)を直接体育学校に採用
できる制度が始まりました.

2015年度は近代五種に1名,ボクシングに1名(ボクシング班初の女子選手
である)を採用,一部メディアからは「スーパー高校生」というネーミングで紹介
されました.2016年度も3名が採用されています.


特体生になれた者も,それで安泰ではありません.
新たな体育特殊技能者は毎年入校してくるし,集合教育で生き残って特体生
を目指す隊員もいます.結果を出せない選手との「入れ替え」を毎年行なわなければ,
体育学校の限りある定員で収めることはできません.

成績が思わしくない選手に「次こそは」という期待だけでいつまでも置いて
やれるほど,体育学校も世間の目も甘くはないのです.
オリンピックでメダルを取って現役引退というのは選手としての理想的な王道
ですが,それが叶うのはごくわずかな,限られた一部の選手のみ.

それでも自分の限界を感じて引退する者はまだしも,ケガや故障に泣く者,
まだ競技を続けたいが結果が出せない者など,本人の意思に反して現役続行
が難しいケースも少なくないのが現実です.


しかし現役引退=退職=再就職先を探す,とならないのが体育学校です.
もともと現役時代も特別国家公務員という身分の保証された立場である自衛官
アスリートは,引退後も自衛官であることに変わりありません.とはいえ,右も左も
わからない世界にいきなり放り込まれるわけではなく,各種教育を行なってから
第二の自衛官人生がスタートします.

「この間までアスリートだったのに,いきなり小銃を持ってほふく前進しなければ
ならないのだろうか」と不安がるのは行き過ぎで,戦闘職種だけでなく支援職種
もあるように,仕事の内容も多岐にわたります.

たとえば,広報,隊員募集,援護などは,アスリートとしての知名度が生かせる職域
です.また,隊員の希望や能力によっては,体育学校でのコーチやスタッフ,
あるいは体育教育に従事することも可能です.「引退後も自衛官としての身分も生活
も保障されている」という安心感は大きいものです.


引退に限らず,ケガや故障で試合に出られないときも,放り出される心配はありません.
むしろトレーナーたちがその選手のためのプログラムを作り,ケガや故障をする以前
よりも強い体になるよう,徹底的にサポートします.

体育学校で競技を続けられなくなった選手が,現役選手として競技を続けるために
自衛隊を去っていくこともあります.けれど正直なところ,体育学校という枠の中での
勝負で勝てなかった人間が,日本や世界を相手にして勝てるとは思いにくいですね.

おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.7.21





『ライター・渡邉陽子のコラム (105)─ オリンピックと自衛隊(19) 
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは.渡邉陽子です.

現在連載中のこのコラムは,6月1日発売の
『オリンピックと自衛隊1964-2020』(*)から抜粋したものです.
(*) http://okigunnji.com/url/101/


リオ五輪がいよいよ近づいてきましたね.

体育学校から送り出す9名の日本代表のうち,
最初の競技は水泳の江原騎士2等陸曹です.

日本時間の8月6日午前に400m自由形の予選&結晶があります.
次はボクシングライト級の成松大介2等陸尉,6日午後に1回戦です.
翌日7日午後にはウエイトリフティング56kg級の高尾宏明3等陸尉が登場.

活躍を期待します!


※五輪観戦の座右にどうぞ
『オリンピックと自衛隊1964-2020』
http://okigunnji.com/url/101/

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■オリンピックと自衛隊(19)

先週は体育学校についてご紹介しましたが,今週からは体育学校所属の
選手がリオ五輪に出場する競技についてご紹介します.
トップバッターは射撃です.


体育学校の射撃班ではライフル射撃とピストルを行なっており,東京大会
以来,日本が参加したすべてのオリンピックに計20名の代表を送り出した
自衛隊のお家芸です.

ロサンゼルス大会で48歳にしてラピッドファイアピストル(RFP)種目で
金メダルを獲得した蒲池猛夫氏は,「孫のいる金メダリスト」として一躍有名
になりました.

日本ライフル射撃協会選手強化委員ライフル副部会長でもある射撃班総監督
の木場良平3等陸佐は,ロサンゼルス,ソウル,バルセロナオリンピックと
3大会連続でオリンピックに出場,バルセロナの50mフリースモールボアライフル
3姿勢120発競技の銅メダルメダリストです.ライフル射撃の日本人メダリストは,
現在にいたるまで木場3佐ただひとりです.


2020年東京大会では金メダル30個がJOCの目標であり,その達成には
射撃競技の成績が大きく影響するのではと言われています.

そこで体育学校の射場には電子標的が導入され,これ以上ないトレーニング施設
となりました.しかも2020年の試合会場は,自衛隊朝霞訓練場に仮設施設が
建てられます.射場こそ異なりますが,いわばホームがオリンピック会場となるのです.
これほど有利な条件はないでしょう.

ただし近代五種競技同様,出場はもちろん,自衛隊として結果を出すことが
求められる競技という重圧はついて回ります.


リオ代表にはライフル射撃の山下敏和1等陸尉と,体育学校の出場は12年ぶり
となるラピッドファイアピストルから森栄太3等空尉の2名が出場します.


山下1尉は2008年の北京大会に出場しながら,2012年のロンドン大会では
代表の座を逃しました.今回は8年分の思いを込めて上位を狙います.
体育学校からの出場選手9名の中で最年長の39歳です.

森3尉は,普通に部隊勤務している中で射撃の腕を見込まれ,体育学校の
特体生となった経歴の持ち主です.


木場3佐は,東京はもちろん,リオでもメダルの可能性は大いにあり,
ルールの変更も日本には有利にはたらくと踏んでいます.

「これまでは予選で撃った点数に本戦の点を加算していたので,予選で開きが
あると本戦で追いつくのが難しかったのです.それが本戦は本戦だけで得点
されるようになり,予選で差をつけられがちな日本にとっては有利になりました.

的の中心の10点を的確に狙える実力を持っている選手がメダルを取れるかは,
最後は他国の選手ではなく自分との戦いです.1発撃つごとに気持ちを安定
させていられるか.終盤になってくると自分の点数が次第にわかってきますが,
『このままいけばメダルを取れる』と思った途端に崩れます.

安定して最後の最終弾まで撃てれば勝てるでしょう.ひたすら自分との戦いの
競技なだけに,負けた時の悔しさは尋常ではありません.私もトイレで泣いた
こともあります.負けたことを風などの天候のせいにする選手もいますが,
条件はどの選手もほぼ一緒.そういうことを言う選手は伸びないですね」


また,以前に比べて観戦がぐっと楽しくなり,射撃の面白さがより伝わるよう
になったそうです.

「昔は射手の後ろに点数表示がなく,見ていてもよくわからないという観戦する人に
不親切な競技でしたが,現在は選手の弾痕もモニタに表示されるほか,
一発ごとに点数と順位が表示されるので,応援している選手がどの辺の位置に
いるかわかります.また,選手の表情も見ているとおもしろいですよ.

ポーカーフェイスもいれば感情むき出しもいますし,私などは首をひねったり
頭を押さえたりしている選手が視界に入ると『こいつには勝ったな』と
思っていました(笑).選手のそんな様子を見るのも観戦の楽しみ方のひとつです」


そういう木場3佐は一発撃つごとに声を出さずに口だけ動かし,なにやら独り言を
呟くことで有名でした.

なにを言っていたのか聞いてみれば,「次は真ん中だ」とか「10点取るぞ」とか,
シンプルな言葉ばかりだったそうです.
オリンピックの射撃競技で体育学校の選手が活躍することを期待したいですね.


山下1尉の競技日程
男子10mエアライフル
8日 2100〜 予選
9日 0000〜 決勝
男子50mライフル伏射個人
12日 2100〜 予選
12日 2300〜 決勝
男子50mライフル3姿勢個人
14日 2100〜 予選
15日 0100〜 決勝


森3尉の競技日程
男子25mRFP個人
13日 0015〜 予選
14日 0030〜 決勝



(つづく)

おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.7.28





『鉄道と軍隊─自動連結器への交換─(10)』
 日本陸軍の兵站戦(30)

荒木 肇
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


□ご挨拶

 なかなか関東では梅雨が明けません.他の地域では猛暑が続いて
いるとか.ご自愛ください.
 Bさま,いつもご愛読ありがとうございます.広軌か狭軌か,いまだに
国内に2つのゲージが残り,難しいところです.
 後藤新平の出自についてですが,人物事典などには「伊達家の家中,
留守氏の臣下」という表記が多く,それを採りました.水沢を預かる重臣の
奥小姓という記録もあります.もちろん,維新で本藩の士族籍を得ていたなら
直臣といえるかと存じますが.何かありましたらご教示ください.
ありがとうございます.

▼連結器(カプラー)

 どこでも次の数字が使われている.1925(大正14)年,国鉄の連結手
1810名,うち1年間の死傷者は537名にのぼった.29.7%である.
およそ3人の1人が命を落とし,あるいはけがをする.どうしてそんなことがあったのか?

 貨車でも客車でも,車両と車両の間に連結や解放(外す)のたびに人が
入っていたからだ.毎年数十の人命が失われ,数多くの人が重傷を負っていた.

 機関車や客車,貨車をつなげるには連結器(カプラー)が必要である.
明治の初め,英国式技術の導入から始まったわが国の鉄道は,アメリカ技術
の北海道を除いて,みな連環(リンク)連結器,螺旋(らせん・ネジ)連結器と
いわれる物を車体の前後に付けていた.同時にバッファーといわれた緩衝器
も車両の左右に付いていた.

 いまもヨーロッパの鉄道車両の多くはこれである.車両の片方には
リンク連結器,もう一方にネジ連結器が付いている.ネジは必ず隣の車両の
リンクに面するようにしてあって,ネジ連結器の太い大きな鎖を向かい側の
フックにかける.その上でリンク連結器をさらにつないで二重連結として安全性
を高めるものだった.

 連結器に要求されるのは,牽引するときの力を伝えること,それと確実性
である.機関車が貨車を牽引する貨物列車なら,機関車とすぐ後ろの貨車に
最大の引張力がかかる.とりわけ上り勾配や,加速するときには大きな力が
もっとかかる.そのため,これに耐えるだけの強度がなくてはならない.
大事故につながりかねない連結器が破壊される事態は絶対に避けなければ
ならない.下り坂や,機関車が減速するとき,あるいは後ろから押すときは
推進力を受けるからこれに耐えられる強度が必要になる.
リンクは引っ張ることはできるが,押すことはできないから緩衝器が取り付けられている.

 構造は単純だが強度が低いのが欠点である.おかげで列車を長大にする
ことが難しい.輸送力が高まらない.連結や解放の時にはリンク(太い鎖)を
持ち上げなくてはならない.当時の国鉄では20キロにもなる装置だった.

▼当時の連結と解放の様子

(1) 緩衝器どうしをくっつけて,やや内部のバネを圧縮した状態で車両を止める.
(2) 片方の車両の格納用フックにかけてあるリンクを,相手側フックにかける.
(3) リンクの中間にあるネジ機構は,ハンドルを正面から見て右に回すとリンク
は短くなり,左に回すとゆるんでくる.およそピンと張るところで連結が完了した.

 旅客列車は軽いので,けっこうきっちりと締め付ける.列車全体に機関車の
牽引力がすぐに伝わっても危険がない.

 ところが,重量がある貨車で編成された貨物列車ではゆるくしておく.
その方が列車が動き始める時に楽だからだ.自動連結器になった今も,
その事情は変わらない.筆者が子供のころに見に行った時など,貨車の列の
前の方から,順々にカタ,カタ,カタ,カタと連結器が引かれる音がしてきたもの
だった.最後の緩急車(車掌が乗っている)まで音が来ると,貨物列車は
ゆっくりと走り出す.

▼自動連結器への一斉交換

 1925(大正14)年7月,この螺旋式連結器を,人手が減るアメリカ製
のシャロン,アライアンスなどの自動連結器に取り換えた.おかげで連結手の
死傷は翌年からほとんどなくなってしまった.ところが,数万両もあるような
機関車や客車,貨車などのすべてを取り換えることは大変な費用がかかる.
しかも計画を立て,列車運行に妨げがないように工事を効率よく,
なるべく全国一斉に実行しなければならない.だから,アメリカは早くから
自動連結器を採用していたが,ヨーロッパでは一部の高速列車を除いて,
今も連結器は昔のままである.

 交換することが難しいのは,機関車も客車も貨車も走っているからだ.
車両は列車を編成して走っているから,たとえ何万両あろうとも一斉に,
しかも短い時間でやらなければ輸送が止まってしまう.その損害は全国では
たいへんなものになるだろう.付け替えも正確に行なわれていなくては大事故
を起こしてしまう.

 では交換の対象になる車両がどれほどあったか? まず,3500両の機関車
があった.客車は8600両である.これらは数が少ないから困らない.
問題は5万2000両の貨車だった.貨車は米から野菜,石炭,木材などなど
多様な種類の荷を積んでいる.1つの貨物列車は,車両ごとに行き先が
違っている.列車は途中駅で決められた貨車を切り離し,あるいは増結して
走り続ける.

 5万2000両もの貨車が,ある日時にいったいどこを何両が走っているのか.
新しく付け替える自動連結器をどこに,何個ずつ集めておくのか,
これが大問題だった.どうすればいいか.鉄道省では会議が開かれたが,
なかなかアイデアは出るものの決定には至らない.

 ところが1人の工作技師のヒラメキの一言で実行方法が決まった.
「付け替える自動連結器を貨車にぶらさげておけばいい.走らせておいて,
決まった日時にその場で古いタイプと交換すればいい」
 外出して,どこの店で食事をするかと悩むより,弁当をもっていけばいいと
いう理屈である.こうして大難問は解決した.

 7月1日から10日までに8600両の客車の交換ができた.貨車は本州と四国
は7月17日,九州は7月20日の午前零時から24時間を貨車の運行をすべて
止めて交換を行なうことにした.7月17日は当時の調査で,1年中でもっとも
貨物輸送が少ない日だった.作業員は6000人があてられた.外国の鉄道関係者
も見学にやってきた.また自動連結器のメーカーも映画を撮影して,偉大な実験
を世界中に知らせようとしていた.

 一切は手落ちなく実行された.こうしてわが国の国鉄の優秀さは世界中に
知られることとなった.

▼天才・島安次郎と空気ブレーキ

 この偉大な連結器交換を企画・推進したのは鉄道院理事工作局長だった
島安次郎(1870〜1946年)である.島は1918(大正7)年にアメリカから
帰ると,輸送量の増大と連結手の死傷をなくすという目的で自動連結器の採用
を進めることにした.

 島は和歌山県和歌山市の出身で,実家は有名な薬種商だった.
東京帝国大学工科大学を卒業し,1894(明治27)年に私設鉄道の関西鉄道
に入社する.旅客サービスの改善を進めた.

 関西鉄道が1907(明治40)年に国有化されると鉄道院に入る.鉄道作業局
工作課長となり,後藤新平の指示で広軌化への研究を行なった.その後,
満鉄の筆頭理事を経て,1925(大正14)年には汽車製造の社長になる.
のち,広軌の「弾丸列車計画」にも加わった.それは戦争で挫折したが,
東海道新幹線は島の長男・秀雄によって企画された.

 島の大きな遺産は,もう一つある.それは列車のブレーキを「真空ブレーキ」から
「空気ブレーキ」に替えたことだ.新幹線もそうだが,高速で走らせることよりも,
列車を危険なく止めることの方が難しい.列車を速くするのも,本数を増やすにも,
列車の車両数を増やすにも,それらすべてはブレーキにかかっていると言える.

 ブレーキは機関士が全部の客車のブレーキを1カ所から制御することが理想
だった.はるか昔は列車の中に「緩急車」を入れて,そこで制動手がブレーキを
かけた.汽笛の合図が決まっていて,それを聞いた制動手はいっせいにハンドル
を回した.それがすでに明治20年代には,全部の車両を制御する「貫通ブレーキ」
が普通になっていた.

 次回はこのブレーキについて語ろう.

おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.7.27





──[暗号]→[点字]────────────────────────
★点字の原形は兵隊が暗闇でも指令を読めるように開発されたもの.12つの点
 の組み合わせで暗号用として考案した物を基本に,6点の組合わせで63通り
 の表記が可能と現在の6点式点字をルイ・ブライユが考案した.

※それ以前までは,単にアルファベットの文字を浮き出させていた.

◎雑学大作戦:知泉
のバックナンバーはこちら
⇒ http://archives.mag2.com/0000017191/index.html?l=son065f321
2016.7.24





『ライター・渡邉陽子のコラム (105)─ オリンピックと自衛隊(19) 
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは.渡邉陽子です.

現在連載中のこのコラムは,6月1日発売の
『オリンピックと自衛隊1964-2020』(*)から抜粋したものです.
(*) http://okigunnji.com/url/101/


近所の古いマンションが壊され,来年3月完成予定の新しいマンションが
建設中です.わが家はその工事現場をちょうど見下ろす位置にあるので,
真冬に始まった解体作業からずっと,定点観測のごとく見ています.

いろいろな業者が出入りする中で一貫しているのは,建設現場が極めて
整然としていることです.資材は定められた場所にきれいに並び,
大きな分別ごみ入れも置かれています.解体作業中のときですら,
ショベルカーが連日がれきを分別しトラックが回収,1日の終わった現場
にはゴミのかけらも見当たりませんでした.

ひとつの建物が壊され,新たな建物が誕生する経緯をつぶさに目にする
のは初めてのことなので,その経過自体も面白いのですが,とにかく現場
が整然としていることに感動する日々です.日本はすごいと思いました.

雪の降る日,強風が吹き荒れる日,猛暑の日,厳しい気候に関係なく,
8時から17時までよく働く現場の人たちにも頭が下がります.

私も窓の外ばかり見ていないで仕事しなければ……


※五輪観戦の座右にどうぞ
『オリンピックと自衛隊1964-2020』
http://okigunnji.com/url/101/

-------------------------------------
○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
-------------------------------------


■オリンピックと自衛隊(19)

先週は体育学校についてご紹介しましたが,今週からは体育学校所属の
選手がリオ五輪に出場する競技についてご紹介します.
トップバッターは射撃です.


体育学校の射撃班ではライフル射撃とピストルを行なっており,東京大会
以来,日本が参加したすべてのオリンピックに計20名の代表を送り出した
自衛隊のお家芸です.

ロサンゼルス大会で48歳にしてラピッドファイアピストル(RFP)種目で
金メダルを獲得した蒲池猛夫氏は,「孫のいる金メダリスト」として一躍有名
になりました.

日本ライフル射撃協会選手強化委員ライフル副部会長でもある射撃班総監督
の木場良平3等陸佐は,ロサンゼルス,ソウル,バルセロナオリンピックと
3大会連続でオリンピックに出場,バルセロナの50mフリースモールボアライフル
3姿勢120発競技の銅メダルメダリストです.ライフル射撃の日本人メダリストは,
現在にいたるまで木場3佐ただひとりです.


2020年東京大会では金メダル30個がJOCの目標であり,その達成には
射撃競技の成績が大きく影響するのではと言われています.

そこで体育学校の射場には電子標的が導入され,これ以上ないトレーニング施設
となりました.しかも2020年の試合会場は,自衛隊朝霞訓練場に仮設施設が
建てられます.射場こそ異なりますが,いわばホームがオリンピック会場となるのです.
これほど有利な条件はないでしょう.

ただし近代五種競技同様,出場はもちろん,自衛隊として結果を出すことが
求められる競技という重圧はついて回ります.


リオ代表にはライフル射撃の山下敏和1等陸尉と,体育学校の出場は12年ぶり
となるラピッドファイアピストルから森栄太3等空尉の2名が出場します.


山下1尉は2008年の北京大会に出場しながら,2012年のロンドン大会では
代表の座を逃しました.今回は8年分の思いを込めて上位を狙います.
体育学校からの出場選手9名の中で最年長の39歳です.

森3尉は,普通に部隊勤務している中で射撃の腕を見込まれ,体育学校の
特体生となった経歴の持ち主です.


木場3佐は,東京はもちろん,リオでもメダルの可能性は大いにあり,
ルールの変更も日本には有利にはたらくと踏んでいます.

「これまでは予選で撃った点数に本戦の点を加算していたので,予選で開きが
あると本戦で追いつくのが難しかったのです.それが本戦は本戦だけで得点
されるようになり,予選で差をつけられがちな日本にとっては有利になりました.

的の中心の10点を的確に狙える実力を持っている選手がメダルを取れるかは,
最後は他国の選手ではなく自分との戦いです.1発撃つごとに気持ちを安定
させていられるか.終盤になってくると自分の点数が次第にわかってきますが,
『このままいけばメダルを取れる』と思った途端に崩れます.

安定して最後の最終弾まで撃てれば勝てるでしょう.ひたすら自分との戦いの
競技なだけに,負けた時の悔しさは尋常ではありません.私もトイレで泣いた
こともあります.負けたことを風などの天候のせいにする選手もいますが,
条件はどの選手もほぼ一緒.そういうことを言う選手は伸びないですね」


また,以前に比べて観戦がぐっと楽しくなり,射撃の面白さがより伝わるよう
になったそうです.

「昔は射手の後ろに点数表示がなく,見ていてもよくわからないという観戦する人に
不親切な競技でしたが,現在は選手の弾痕もモニタに表示されるほか,
一発ごとに点数と順位が表示されるので,応援している選手がどの辺の位置に
いるかわかります.また,選手の表情も見ているとおもしろいですよ.

ポーカーフェイスもいれば感情むき出しもいますし,私などは首をひねったり
頭を押さえたりしている選手が視界に入ると『こいつには勝ったな』と
思っていました(笑).選手のそんな様子を見るのも観戦の楽しみ方のひとつです」


そういう木場3佐は一発撃つごとに声を出さずに口だけ動かし,なにやら独り言を
呟くことで有名でした.

なにを言っていたのか聞いてみれば,「次は真ん中だ」とか「10点取るぞ」とか,
シンプルな言葉ばかりだったそうです.
オリンピックの射撃競技で体育学校の選手が活躍することを期待したいですね.


山下1尉の競技日程
男子10mエアライフル
8日 2100〜 予選
9日 0000〜 決勝
男子50mライフル伏射個人
12日 2100〜 予選
12日 2300〜 決勝
男子50mライフル3姿勢個人
14日 2100〜 予選
15日 0100〜 決勝


森3尉の競技日程
男子25mRFP個人
13日 0015〜 予選
14日 0030〜 決勝

おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.7.29




『ライター・渡邉陽子のコラム (106)─ オリンピックと自衛隊(20) 
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは.渡邉陽子です.

現在連載中のこのコラムは,6月1日発売の
『オリンピックと自衛隊1964-2020』(*)から抜粋したものです.
(*) http://okigunnji.com/url/101/


いよいよリオオリンピック開幕ですね.
私はもともとオリンピックが好きです.初めてオリンピックとして
意識してテレビ観戦したのはロサンゼルスオリンピックでした.

開会式のファンファーレの旋律の美しさが衝撃的で,
ずっとずっと後になって,スター・ウォーズなどの音楽を手がけた
ジョン・ウィリアムズの作曲と知り,さらに驚いたのでした.


君が代で起立しないとか,国旗を敬わないとかいう人たちの存在を
知ってからは,そういう人たちはオリンピックや国際大会で優勝した
アスリートをどんな気持ちで応援しているのか,気になるように
なりました.

サッカーやバレーボールで連呼される「ジャパン」の声援はありでも,
日の丸の小旗を振るのはNGなのでしょうか.金メダルはおめでとうと
思っても,君が代が流れるなか日本の国旗が掲揚されるのはNG
なのでしょうか.優勝した選手が国旗を身にまとってフィールドを
走るのもNGなのでしょうか.私にはよくわかりません.


ところで,私がライブ中継を見るとかならず応援しているほうのチーム
が負けるという恐ろしい法則があるので,自衛官アスリートが出場
する競技はすべて録画で見ようと思います.ボクシングライト級,
成松選手の1回戦は,6日2300からです!



※五輪観戦の座右にどうぞ
『オリンピックと自衛隊1964-2020』
http://okigunnji.com/url/101/

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○ライター・渡邉陽子とは?
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■オリンピックと自衛隊(20)

自衛隊体育学校から選出されたリオ五輪の代表選手9名のうち,
もっともメダルに近いと言われているのは誰か,ご存じですか?

それは男子50km競歩の谷井孝行3等空尉です.

今回は谷井選手をご紹介します.『オリンピックと自衛隊』執筆
にあたり,本人への直接インタビューが実現しました.
貴重なコメント,ぜひご一読ください.


谷井選手は,入隊前は佐川急便に所属,石川県を拠点として
午前中は社員として勤務,午後に練習というスタイルで競技生活
を送ってきました.

自衛隊という未知の世界に新たな練習環境を求めたのには,
30歳を過ぎた谷井3尉が現役引退後のセカンドキャリアを
はっきりと意識するようになったことがあります.


まずは自分が納得いくまで競技を続けたい.その上で,引退後は
選手として培ったことを次の世代の選手へ伝えていきたい,
指導者として選手を育てていきたいというというのが谷井3尉の希望でした.

しかし競歩選手の受け入れ先はもともと少なく,指導者まで抱える
企業となればなおさらです.その点,体育学校には競技生活を
終えた後も指導者として活躍できる環境が整っていました.


とはいえ,谷井3尉ほどの実力者には,ほかの企業からも
誘いの声がかかります.

悩んだ結果,自衛隊を選んだのは,そこに指導者への道が開けて
いたことと,なによりも自衛隊が今の自分を最大限に伸ばせる環境
であると思ったことでした.


体育学校を見学した際,その充実した施設と練習に専念できる環境に,
谷井3尉は「これはすごい」と驚いたといいます.

これまでは午前中の仕事を終えてから車で40分かけて練習先に向かい,
自分で作った練習メニューをこなし(競歩そのものだけでなくジムでの
トレーニングや水泳なども含まれる),治療院に寄り体のケアを
行なってから帰宅していました.練習場所の確保から移動もすべて
ひとりで行なう日々は,いつも余裕がなかったそうです.


それが体育学校の環境を見て,必要なものがひとつに集約されている
ここでなら効率的な練習ができる,そう考えたのです.ちょうど子ども
が幼稚園入園の時期だったこともあり,「このタイミングしかない」と
思ったといいます.


31歳にして入隊した谷井3尉.しかも航空自衛隊が初めて採用した
2曹採用の体育特殊技能者です.

これも一般にはわかりにくいところかもしれませんが,体育学校で競技に
専念している選手たちも自衛官である以上,陸・海・空いずれかの自衛隊
に所属しています.

圧倒的に多いのが陸上自衛官ですが,競泳はやはり海上自衛官が
多いです.
谷井3尉はあえて航空自衛隊を選びました.それは空自の
体育特殊技能者第1号というプレッシャーを自ら進んで背負ったということです.

自身の結果次第で,今後も空自の体育特殊技能者採用が続くかにも
影響があります.しかしそれが谷井3尉にとっては魅力なのだといいます.

もともと積極的に自分にプレッシャーをかけ,それを力にするタイプです.
「プレッシャーがない状態は望まない.プレッシャーがあるからこそアスリート」
とまで言い切っていました.


2014年に社会人1年生のような気持ちで入隊し,初めて袖を通す自衛隊の
制服に「なんだか感動しました」と笑い,最初は自衛官としての基礎教育も
受けました.

そして入隊してわずか3週間後に行なわれた日本選手権で,谷井3尉は
同僚の山崎2等陸尉と終盤までトップを競い合い,そして日本歴代2位の
記録で見事優勝.

入隊した年齢からしても即戦力として結果を求められていることは明らか
でしたが,その重圧も力に変えて,谷井3尉は初陣を飾ったのです.


充実した設備,優秀なトレーナー,24時間体制のサポート,そして山崎2尉,
荒井広宙3等陸尉(このふたりは50キロ競歩代表最後の1枠を同僚で争い,
荒井3尉が代表の座をつかみました)というレベルの高いライバル.

現在の環境で谷井3尉はより力をつけ,そして4度目となるオリンピックの
切符をつかみました.


練習メニューは今でも自分で考えますが,その練習にはサポートがつきます.
タイムの計測も給水もひとりでやっていた時代と違い,心強く思うと同時に,
サポートしてもらえることでスタートを切るときの集中力の持っていき方が違うそうです.


ロンドン大会のようなメダル数獲得は厳しいと予想されるリオデジャネイロ大会
において,谷井3尉は体育学校のみならず全自衛隊の期待を一身に背負って
試合に臨むことになります.けれどそのプレッシャーも谷井3尉ならば,
いつものように,自分の力に変えていくのでしょう.


ちなみに,「現在,自衛官としての自覚はありますか」という意地の悪い質問を
したところ,谷井3尉は少し考えてからこう答えました.

「自衛官としての自覚は,正直まだ難しいところはあります.けれど自衛官アスリート
であるという自覚はあります.今はオリンピックのメダル獲得が体育学校の目標
であり自分の目標でもあるので,それが自衛官としての自覚ということになる
のではと思います.競技を辞めた後に,『自衛官アスリート』から『自衛官』へと
気持ちを切り替えていければ,そう思っています」


男子50キロ競歩は8月19日2000からです!

おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.8.4




『ライター・渡邉陽子のコラム (107)─ オリンピックと自衛隊(21) 
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは.渡邉陽子です.

現在連載中のこのコラムは,6月1日発売の
『オリンピックと自衛隊1964-2020』(*)から抜粋したものです.
(*) http://okigunnji.com/url/101/


ライフル射撃の山下3佐,残念ながら予選通過はなりませんでした.
お疲れ様でした.

ボクシングライト級の成松2曹とオリンピック開始1か月前に出場が
決まったウェイトリフティングの高尾3尉は,次のステージへ駒を
進めました.引き続き頑張って欲しいですね.次はラピッドファイア
ピストルの森3尉の出番です!


先日,久しぶりに従兄会がありました.姉,従兄1,従兄2,
そして従兄2の長男がゲスト参加で,計5名の集まりです.
姉と従兄1は会社員,従兄2とその息子はふたりとも陸上自衛官です.

自衛官の従兄と仕事上でつながりがあるのは当たり前ですが,
先日,姉の勤めている会社の系列会社からは,『オリンピックと自衛隊』
の取材を受けました.さらに会社員の従兄とは,彼の勤める会社の
社内報の仕事に関わったのです.

仕事でつながるって,なんだかとっても不思議な気がします…



※五輪観戦の座右にどうぞ
『オリンピックと自衛隊1964-2020』
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○ライター・渡邉陽子とは?
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○ライターとしてこんな仕事をしています
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■オリンピックと自衛隊(21)

長らく続いてきた「オリンピックと自衛隊」の連載は,来週で終了です.
今週と来週は,日本時間の19日0230からフェンシング予選,
20日2200に5種目が行なわれる近代五種競技についてご案内します.


近代五種競技は,オリンピックの創始者であるクールベルタン男爵が
ナポレオン戦争の故事をヒントに発案した,いわば「オリンピック生まれの
ミリタリースポーツ」です.

それだけに,体育学校だから五輪代表選手を送り出すのは必須という,
常に高いハードルを設定された宿命の種目でもあります.


1964年の東京大会から1992年のバルセロナ大会までは毎回代表を
送り出していましたが,その後3大会出場を逃します.

しかし北京,ロンドンと再び連続出場を果たし,ロンドンでは
山中詩乃3等陸曹(当時は士長)が女子初の代表となったことが話題に
なりました.今回は体育学校から三口智也3等陸曹と岩元勝平3等陸曹
のふたりが出場します.


フェンシング,水泳,馬術,コンバインド(射撃,ランニング)という5つの
競技は,かつての東京大会では1日1種目で5日間にわたって行なわれ
ましたが,現在は1日ですべての種目を行なう形となっており,その分1日
の競技時間は約8時間におよびます.

フェンシングはエペ(全身すべてが有効面で,先に突いたほうにポイント
が入ります.日本選手が強いフルーレの有効面は胴体のみ)による1分間
1本勝負の総当たり戦,水泳は200m自由形,馬術は貸与馬による12障害
15飛越,射撃とランニングを交互に4回行なうコンバインドでは制限時間
50秒以内にレーザーピストルで的に5回命中させることと,800m走を4回行ないます.

ゴールした順位が最終順位となるので,最後のコンバインドは観戦していて
も見ごたえがあり,会場も盛り上がります.


体育学校の近代五種班の監督は,バルセロナオリンピックの日本代表であり
日本近代五種協会競技力強化副委員長でもある宮ヶ原浩1等海尉が務めて
います.

「私が代表の頃に比べて選手の層は厚くなり,世界の強豪と互角に戦えるよう
になりました.特に水泳のレベルは高く,世界でもトップクラスです.フェンシング
さえ取れれば,リオでも入賞の可能性は高いでしょう.体育学校は5種目すべて
を練習できる施設が整っているという,非常に恵まれた環境です.しかし近代五種
が人気競技であるヨーロッパではクラブチームも多数存在し,中国や韓国もそれ
に習ってクラブチームで中学生くらいから選手を育てていますから,高校や大学を
出て体育学校に入校してから競技を始める日本は,スタート時点で差がついて
しまっているのが現状です」

しかもフェンシングや乗馬は,入校後に生まれ始めて取り組むという選手がほぼ
すべて.水泳でめぼしい選手をスカウトして採用しても,そこから育てるには最低
3〜4年,選手によっては5〜6年かかります.これでは日本代表にはなれても,
世界で通用するのは難しいでしょう.

けれど2015年度から始まった高卒の体育特殊技能者採用により,近代五種にも
2020年にメダルを目指す選手が入ってきました.さらにリオと東京,
2つのオリンピック出場を目指せる有望な選手もいます.そのひとりが
岩元勝平3曹です.

来週は岩元3曹にインタビューした際に聞いた話などもご紹介します.

おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.8.18





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『ライター・渡邉陽子のコラム (108)─ オリンピックと自衛隊(22) 
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.

現在連載中のこのコラムは,6月1日発売の
『オリンピックと自衛隊1964-2020』(*)から抜粋したものです.
(*) http://okigunnji.com/url/101/


昨日,「リオオリンピックのボランティア」とキャプションが付いた
写真をネットの記事で見ました.それはボート競技のウォーターマンでした.
1964年の東京オリンピックでは,自衛官が担った役目です.そして防衛庁が
大会終了後,「自衛隊がすべき支援ではない」「この支援が前例とならないよう」と,
強い言葉で否定した協力業務でもありました.

2020年の東京大会で,自衛隊が1964年と同様の支援を要請されるとは
さすがに思いませんが,1964年当時はなかった支援が発生することは
おそらく間違いないでしょうね.


いよいよリオオリンピックも閉幕が近づいてきました.
近代五種と競歩50キロ,応援します!




※五輪観戦の座右にどうぞ
『オリンピックと自衛隊1964-2020』
http://okigunnji.com/url/101/

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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■オリンピックと自衛隊(22)

長らく連載してきた「オリンピックと自衛隊」は今回が最終回となります.
先週に続き,今回も近代五種競技についてご紹介します.

今回のリオオリンピックには,三口智也3等陸曹と岩元勝平3等陸曹が
近代五種の日本代表として出場します.

「近代五種は気持ちの切り替えが大事な競技です.1種目終わった後に
いかに次の種目へ気持ちを切り替えられるかによって,勝敗に影響が出ます.
たとえば水泳が得意の選手で,最初の種目であるフェンシングで思うように
勝率が上がらなかった場合,『次は水泳だ』とぱっと気持ちを切り替えられれば
いいのですが,それを引きずると本来得意の水泳まで悪くなってしまうと
いうことがあります.気持ちを引きずりがちな選手は近代五種には
向いていません.その点,岩元は非常に切り替えがうまいですね」

体育学校の近代五種班の監督で日本近代五種協会競技力強化副委員長
でもある宮ヶ原1尉がそう評価する岩元勝平3等陸曹は,高校卒業後,
2008年に入隊しました.
高校までは水泳の選手で,近代五種という競技は体育学校に声をかけられて
初めて知ったそうです.

はじめは「水泳以外はすべて不安,特に乗馬は自分にできるのかと不安
しかなかった」といいますが,実際に競技を始めてみると意外な発見がありました.
自分の強みであるはずの水泳はどの選手も得意な種目であるため,
レベルが高く差がつきにくい一方,もともと走るのは速いほうだった上に,
射撃がよく当たったのです.今や「自分の武器はコンバインド」と言えるまで
となり,その実力は世界にも引けを取りません.

「フェンシングは,始めたばかりの頃は面白かったんですが,練習を重ねる
ほど壁にぶつかるように感じていて,悩むことがいちばん多い種目かも
しれません.馬術は最初こそ戸惑いましたが,今は馬の性格や癖に自分の
技量を合わせ,馬が動きやすいようにできていると感じます.気持ちは確かに
引きずらないですね.最終種目のコンバインドに賭けているので,
そこまで引きずっているわけにはいかず,むしろ最後にテンションが最大に
なるようにしないといけませんから」

岩元3曹は,近代五種の面白さは,1種目ごとにまったく違う競技なゆえに,
得意・不得意がありながらもカバーしながらやっていけるところだと言います.
苦手な種目をカバーしつつ得意な種目を伸ばす,難しさと楽しさが表裏一体
の競技なのだと.

岩元3曹は2012年から全日本選手権3連覇,リオへの出場は確実と
思われていました.全日本選手権で4連覇,そして2015年のアジア・オセアニア
選手権で好成績を残せていれば,リオ出場はあっさり決まっていたでしょう.
おそらく本人もその流れを何度もイメージしていたはずです.しかしその道を
進んだのは同僚の三口3曹でした.

「さすがに,試合後すぐにおめでとうとは言えなかったです.けれどあと1枠
残ってよかったというのが正直な気持ちですね.試合のときはピリピリして
みんな変わりますが,普段は一緒に練習している仲間だし,仲はいいんですよ」

そう話す岩元3曹の言葉を裏付けするように,宮ヶ原1尉は「試合のときは
ライバル意識を持っていますが,日常生活ではとても仲がいいですね.
外出も一緒に行くし,営外の選手は家族ぐるみで付き合っています」と話していました.
体育学校から五輪代表を出すこと,メダル獲得を目指すことが使命とされている
近代五種競技では,親しい仲間が最大のライバルでもある.しかし競歩同様,
互いに刺激し合い,励まし合い,切磋琢磨することで,それぞれがより実力を
つけていくのでしょう.

その後,岩元3曹は実力だけでなく運も引き寄せて,リオ行きの最後の1枚の
切符をつかみとりました.まずはこのリオでオリンピックの経験値を積み,
さらに2020年の東京大会を目指して欲しいと思います.

取材をして感じたのですが,近代五種は話を聞けば聞くほど面白そうで,
応援したくなるし競技を実際に見てみたくなります.もっとメジャーな競技に
なるにはどうすればいいのか考えさせられました.

長い連載にお付き合いいただきありがとうございました!

おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.8.18





『鉄道と軍隊─自動連結器への交換─(11)』
 日本陸軍の兵站戦(31)
荒木 肇
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□ご挨拶

 お休みをいただきました.亡父母の墓を掃除したり,家の内外を整備,
荷物の整理もしたりできました.

 リオのオリンピックでも日本選手の活躍はめざましく,楽しく見せて
もらっています.

 また,東京都知事選も小池氏の当選がありました.国政の課題を
もちこんだ野党の不思議な連携で生まれた自称ジャーナリスト候補は
大差をつけられました.不思議なのは与党も2つに分れ,『小池氏は自民党
ではない』などと都連の幹部がほえる始末.都議会にはドン(黒幕になるボス)
がいたことなどが明らかになりました.

 これから4年,次のオリンピックまで都政はどのようになっていくのでしょうか.
お隣の県に住むわたしは大きな関心をもっています.


▼ブレーキシステムのこと

 島安次郎という天才ともいうべき鉄道技師がいた.大正末の自動連結器
への交換を推進し,その恩恵をいまも私たちは受けている.島は和歌山県
和歌山市出身で東大を出て,関西鉄道に入社,国に買収されるとそのまま
官吏となった.満鉄筆頭理事などを経て,1925(大正14)年には
鉄道車両製作の「汽車製造」の社長となる.

 この島が手がけた偉大な仕事の一つにブレーキの改良もあった.

 考えてみれば,列車は走らせることが何より大切だが,安全に止めることも
できなくてはならない.自動車のブレーキも同じで,速度を落とし,停止させ,
その状態を維持し続けるというのがブレーキの役目である.ところが鉄道の
ブレーキは単独走行が多い車やバイクと違って,複数の車両をつないで
いるときに一斉に同時にブレーキをかける必要がある.また,モーターや
エンジンといった原動機がある車両と,ただ引っ張られている車両もあり,
それらが一斉に制動されるということからシステムも複雑になっている.

▼鉄道ブレーキの初め

 昔といっても筆者が高校生のころには貨物列車にも車掌がいた.
長い編成の貨車の列の後ろには緩急車(フという記号だった)という車掌
が乗っていることができる車両が付いていた.この名前の付け方に歴史を
感じるが,「緩急」ゆるめたり締めたりするという意味があり,これこそまさに
ブレーキが付いている車両だった.

 つまり19世紀の初めころ,鉄道の草創期にはブレーキが付いている車両
が少なく,長い編成の時には,緩急車を間に挟み,それぞれに制動手という人
を乗せていた.もちろん,ブレーキをかけるときには機関手が汽笛を鳴らす
などの合図を送る.制輪子というと難しく聞こえるが,車輪にパッドを
押し付けて摩擦で回転を止める方法では,この制輪子を手動で押し付けて
いた.また,その位置をロックすることもできたので,駐車中も動かないよう
に自動車でいえば,パーキング・ブレーキにもなった.

 下り坂にさしかかると,まず,いったん停止し,ブレーキ付の車両の中
から一定の割合で選んで駐車ブレーキの位置にロックして再発進したらしい.
つまり一部では制動しっぱなしで坂を下りて行った.それだけでは足りなく
なると,また緩急車のブレーキを制動手がかけて歩いたという.
平坦な線路で,また停止し,ブレーキを解除して歩いたのだから,
ずいぶん運行上の時間的ロスもあったものだ.

 有名なスチーブンソンは蒸気力を使ったブレーキを製造した.1833年
のことである.これは機関車だけに付けられ,ふつうの客貨車はやはり
手動だった.

▼貫通ブレーキ

 いまはどんな列車も運転士の操作一つで一斉にブレーキがかかる.
これを「貫通ブレーキ」という.明治20年代には旅客列車にはこれができて
いたらしい.ただし,この時代のものは真空ブレーキ,
英語ではバキューム・ブレーキといわれるシステムだった.もちろん貨車には
この装置はついていなかったので,貨物列車には一定の割合で間に緩急車
が連結されて,制動手(車掌)が手でかけていた.一斉にうまくはかからない
ので,がたがたと大きな音をたてて停車していたという.

 真空ブレーキの発明は1874(明治7)年のことだそうだ.機関車に
載せられたエクゼターあるいは真空ポンプでブレーキ管から空気を抜き,
ブレーキシリンダーのピストンを動かすものだった.これは値段も安く,
構造も簡単で効果もあった.しかし,問題は走行中にブレーキ管に穴でも
開くとまったく作動しなくなるといった致命的な欠陥があった.

 ウェステイングハウス社といえば空気ブレーキで有名である.
1872(明治5)年には,現在の自動空気ブレーキの原理で特許をとった
のが創業者のジョージ・ウェスティングだった.これは圧力を高めた空気
を使うもので,空気圧がブレーキ管から抜ける時に作動するようになって
もいた.わが鉄道で使われるのは1919(大正8)年のことである.
翌々年の大正10年から取り付け工事が始まり,1925(大正14)年
までに全車両に空気ブレーキが採用されていた.これを決定し,
実行したのもこの島技師である.貨物列車が長く,したがって飛躍的に
輸送量が伸びたのもこのおかげがあった.

▼強力な機関車を生み出す

 鉄道は国有化され,政治・社会のシステムに組み込まれ,さらに全国
津々浦々までの地域に密着していった.鉄道は輸送力を増やすための
変革を行なっていく.1930年代の半ばまでに非常に高度な鉄道技術
を手に入れることになった.明治の初めには大きな異文化として導入された
鉄道は,わずか40年の間に建設も車両製造も欧米からは自立し,
独自の発達を遂げている.

 大量輸送の実現ということから考えてみよう.輸送単位の増大と線路網の
充実が生まれた.世界大戦(1914〜1918)を通じて,わが国の化学工業
や重工業は大きな発展をした.そこで起こる変化は原料や材料,製品を
運ぶ時に人や馬が引く馬車ではとてもまかなえないものになった.
大量輸送手段が必要になってくる.

 わが国で自給できる鉱業産物としてはセメントがあるが,その原料である
石灰石は東京近郊では奥多摩が産地だった.それが800トン,900トンと
いった単位で列車が編成されるようになったのは大正時代の中期である.
1923(大正12)年には国産大型テンダー機関車である9900型(のちにD50)
が東海道本線で900トンの列車を牽引し始めた.それまでの9600型では
600トンから650トンしか運ぶことができなかった.重化学工業の発展が
機関車の大型化,強力化を要請していたことになる.

 こうした大量輸送の態勢が1910年代の終わりから20年代の初めに
整えられていった.明治の最末期から大正のほぼいっぱいにかけてである.
ふつう,重工業部門が鉄道に頼ることが多いのだが,わが国の場合は化学工業
がとくに鉄道に依存することが多かった.化学肥料やセメント,さらには燃料の
石炭などが鉄道によって運ばれていた.この体質は第2次大戦後の80年代
まで続いていた.当時の国鉄では,石油,石炭,石灰を3Sと呼んでいた.
この3つのSは国鉄解体まで貨物列車で多くが運ばれていたのが事実である.

▼工業地帯の形成と鉄道

 いまも京浜東北線JR鶴見駅から小さな電車が伸びている.鶴見線という.
それは京浜工業地帯が埋立地に大正時代に造られた.それにあたって敷かれた
分岐線である.駅名も浅野財閥で有名な「浅野駅」や,安田財閥の創始者善次郎
にちなむ「安善駅」が残っている.また,多くの人が集められた.横浜市鶴見区
には沖縄県出身者が今も多い.それはこの時代の労働力として,本土へ渡って
来た人がいたからだ.

 九州では門司から小倉にかけての臨港鉄道の線路網,関西でも阪神工業地帯
と鉄道との関わりなどがいまも残っている.中京地区の名古屋も変わらない.
貨物駅の新設や名古屋港の建設なども同じような状況のおかげである.
また,輸送量が増えるにつれて,レールがより頑丈に重くなっていく.1メートル
あたりの重さが37キロから50キログラムに増えていった.これを重軌条化
というが,主要幹線ばかりか重い工業製品や原材料を運ぶ列車の通る路線は
次々と改良されていく.

 1913(大正2)年には東海道本線の複線化が完成する.主要幹線の複線化
は大都市や工業地帯を中心に進められた.単線では上り下りの行き違いによる
停車時間が増えたり,安全確保のための信号管理などが複雑化したりする.
御殿場線は丹那トンネルの開通により,複線が撤去され単線に戻ったままだが,
いまも各駅ですれ違いのための停車時間を体験することができる.

 複線化と並んで幹線の勾配を緩やかにしたり,曲線半径を大きくしたりする
ための改良や新路線の開設などが行なわれた.別線や短絡線といわれるものだ.
象徴的なものは滋賀県の大津から京都へ向かう線路である.東海道本線は
御殿場付近でも知られるが急勾配の限度を1000分の25とした.
水平距離1000メートルの間の高低差を25メートルとするという意味だ.
これでは機関車の力が不足して補助機関車を後部に付けた.いまも神奈川県
の山北駅はその雰囲気を残しているが,東海道本線時代には大きな機関庫が
あった.補助機関車がいつも待機していたからだ.

 大津と京都の間も1000分の10という緩やかな勾配にするために新線を
建設した.新逢坂山と東山トンネルという難工事を行なって路線を短くすること
に成功する.これと同じ目的で計画されたのが,神奈川県国府津と静岡県沼津
の間のルートである.この工事では熱海と三島の間の丹那トンネルの建設が
大きな課題となった.なにぶん,箱根・富士火山帯の真下に長い隧道を掘ろう
というのだから難工事だった.17年の歳月がかかったのだ.

 次回は丹那トンネルの建設をくわしく調べてみよう.

おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.8.17





兵法三十六計(33)

第三十三計 「反間計(はんかんけい)」
    ─日常茶飯的な二重スパイの活用─

     元防衛省情報分析官・上田篤盛(あつもり)
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□はじめに

 オリンピックが開始されました.日本選手の活躍で大いに盛り上がっていますが,
会場ではトイレの水が流れなかったり,ナイジェリアの国歌をニジュールのものと
取り違えたり,ハプニング続出です.日本ではあれば,“腹切りもの”といところ
でしょうが,そこはおおらかな国民性で,大した問題でもないのかもしれません.

 オリンピック最大の惨劇といえば,1972年9月のミュンヘン・オリンピックでの
出来事です.パレスチナ武装組織「黒い9月」のメンバー8人がイスラエル選手
ら9人を殺害しました.そこで,ゴルダ・メイヤ首相が「神の怒り作戦」を発動して,
関係者の殺害に乗り出します.国家が暗殺を命じることは極めて特異なことです.
結局,実行犯のアリ・ハッサン・サメラの暗殺に6年以上かけて1979年1月
にようやく成功します.

 この事件はイスラエルのモサド機関の能力の高さを物語るものですが,
こうした暗殺作戦に没頭していたため,1973年の第四次中東戦争でイスラエル
はエジプト・シリアから奇襲を受けることとなります(奇襲にはこのほかの要因も
ありますが).情報活動の難しさをつくづく思い知らされます.

 今日は反間計,ダブルエージェントのお話です.

▼敵スパイを逆用する計略

「反間計」とは,敵の間者(スパイ)や内通者を我の二重スパイとして利用する
計略を言う.二重スパイとは,敵(または我)の情報機関の要員であってわが国
(または敵国の)ために情報活動に従事する者をいう.

 すなわち敵国のスパイを利用して敵内部の秘密情報を収集する,敵のスパイ
に偽情報を意図的に流し,敵の誤判断や官民の離隔を謀る(情報操作)など
がこの計略である.

『孫子』の第13篇「用間」では「郷間」「内間」「反間」「死間」「生間」の5種類の
間(スパイ)を挙げている.

 この5つの間のなかで,「反間」は最も高度な情報活動である.『孫子』では,
「五間の事,主必ず之を知る.之を知るは必ず反間に在り.故に反間は厚く
せざるをべからざるなり」と述べる.つまり,君主が敵の内情を知るためには
二重スパイを敵の情報機関に浸透させなければならないので,反間に対しては
厚く処遇しなければならないというのである.

▼曹操が「反間」を利用して周瑜に勝利

 三国時代,魏の曹操(そうそう)は,ライバルである呉の周瑜(しゅうゆ)と
対決していた.曹操は戦力に勝っていたので通常ならば周瑜軍に勝利する
ことは簡単であった.しかし曹操が周瑜軍を破るためには,大河を渡河して,
向こう岸まで渡らなければならなかった.内陸部で生まれ育った曹操は川での
戦いには不慣れであった.

 曹操は,水場での経験が豊富な将軍を登用し,戦闘指揮を執らせた.
その一方で,曹操は旧知の参謀を用いて周瑜に降伏するよう誘った.

 周瑜は曹操が派遣した参謀が到着すると,歓迎し,酒宴で参謀をもてなした.
周瑜は参謀に一緒に寝ようと言った.参謀は,周瑜がぐっすりと眠っていると
信じて,曹操に持ち帰る手土産を物色した.

 参謀は,周瑜の机の中から,衝撃的な内容の手紙をみつけた.その手紙は,
「曹操が登用した将軍が周瑜への忠誠を誓い,曹操による周瑜への攻撃を妨害
するつもりである」と書かれていた.もちろん,この手紙は,曹操内部に不和
を生じさせるために,周瑜が仕組んだ偽物であった.翌日,参謀が帰り,
この情報を早々に伝えた.曹操は怒り狂って2人の将軍の処刑を命じた.
周瑜が曹操の参謀を「反間」として運用することで,曹操に勝利した.

▼反間(二重スパイ,逆スパイ)の効用

 かつてソ連は,英国SIS(MI6)のキム・フィルビーを二重スパイとして活用し,
英国から重要な情報を根こそぎ入手していた.元CIA対ソ防諜部長の
オルドリッチ・エイムズは9年間にわたってソ連のKGBに情報を流し続けた.
その中にはCIAのソ連国内の情報網が含まれ,浸透工作員10人が殺害された
という.

 このように情報機関が敵側のスパイを獲得する最大の効果は,浸透工作員
のネットワークを摘発することにある.また,偽情報を敵側の情報組織に流布し,
情報活動を混乱させる,我の情報組織が行なう諜報活動や秘密工作の進展度
を見極めることなどが狙いである.

▼中国の伝説的スパイである金無怠

 中国の伝説的スパイである金無怠(ラリー・ウタイ・チェン)は,米国CIAに在籍し,
「中華人民共和国と国交を開くことを希望する」というニクソン大統領の機密文書
を1970年10月に北京に渡したほか,中国や東アジアに関する秘密情報リポート,
同僚のCIA職員の経歴情報,CIAの秘密要員の氏名と身元,といった重要情報
を流した.

 彼のスパイ活動が発覚したのは,1985年に中国国家安全部の安全部外事局長
の要職にある愈真三(ゆしんせい)が米国に亡命したことにより,中国が米国で展開
していた秘密諜報網が暴露された.その結果,米CIAに41年間も在籍し,
中国の忠実なスパイであった金無怠に悲劇が起こった.

 彼は中国のスパイであることを認め,中国当局に庇護を求めたが,
一方の中国当局は「米国の反中勢力による捏造であり,金無怠という人物は全く
知らない」と切って捨てた.金は失意のどん底のなか,刑務所において自殺した.
(拙著『中国が仕掛けるインテリジェンス戦争』)

 愈真三の亡命は,米情報機関による主導的な獲得工作ではないが,結果として,
米情報機関が中国のハイレベルの情報要員を獲得に成功し,彼の有する秘密情報
を活用できた事例であり,「反間」の利用であった.

▼中国は「反間」の重要性を認識

 こうした手痛い経験から,中国は「反間」の重要性を十分に認識しているとみられる.
2011年10月,台湾国防部の最高軍事法院は,羅奇正大佐を「利敵スパイ活動従事罪」
で無期懲役とした.同大佐は台湾の情報部門で諜報員の募集や派遣工作などを担任
していた.大佐は2007年から12回にわたり,台湾当局がビジネスマンを偽装して中国
に派遣した男性諜報員(二重スパイ)に籠絡(ろうらく)されて,自らも二重スパイに
なった.男性諜報員は中国に逮捕され,拷問を受けた結果,釈放と引き換えに
二重スパイに転向したようだ.(『中国が仕掛けるインテリジェンス戦争』)

▼第三国情報機関との連携を強化せよ!

 羅大佐の事案に見られるように,中国国内でスパイを検挙し,逮捕し,
命と引き換えに二重スパイを行なわせることがこれまでの中国情報機関のやり方
であった.

 しかし最近は,第三国において敵国のスパイを籠絡させるような積極手口も
見られるようになった.これは第三国や他国の情報当局から探知・妨害されかねない
環境での徴募工作となり,中国の徴募活動の巧妙性が高まっている可能性がある.

 訪中,在中する日本人だけでなく,その他の海外に赴任などする邦人に対しても
中国人との接触における警戒心を喚起するとともに,友好国情報機関などとの
十分な連絡支援体制を確立する必要がある.


(次回,第三十四計「苦肉計」に続く)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.8.16





▼服務の宣誓

 自衛官になるとき,私たちは服務の宣誓をします.その内容は,
「私は,わが国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し,日本国
憲法及び法令を遵守し,一致団結,厳正な規律を保持し,常に徳操を
養い,人格を尊重し,心身をきたえ,技能をみがき,政治的活動に
関与せず,強い責任感を持って先進職務の遂行にあたり,
事に臨んでは危険を顧みず,身をもって責務の完遂に努め,
もって国民の負託にこたえることを誓います」です.

 ここに「事に臨んでは危険を顧みず」とありますが,これは他の
公務員の宣誓にはないものです.つまり戦闘など危険な状況で
命を落とすことも覚悟せよということですが,これはあくまでも
任務遂行上のことです.自衛官は任務遂行上必要な技能,
戦闘戦技を身につけるために訓練しますが,これは言い換えますと,
過酷な環境の中で,死なず,怪我をせず,事故を起こさず,
生き残って任務を遂行する技術を身につけることです.

 ですから訓練で死傷者を出すのは本末転倒なのです.
絶対にあってはならないことです.しかし,危険と隣り合わせの
ぎりぎりの状況で訓練をすることもあるので,死傷者が出ること
もあります.

 訓練事故は本人や家族だけでなく,部隊に与える影響も大きな
ものがあります.とくに士気に与える影響は無視できません.
また,指揮官は部隊の行動に全責任を負っているため,
指揮官に与える精神的ダメージは計り知れないものがあります.

▼常にぎりぎりの判断を迫られる

 私は第7化学防護隊長,第101化学防護隊長と2回指揮官を経験
させていただきましたが,いつでもどこでも隊員や部隊のことが
頭から離れませんでした.部下隊員が仮に100人いたとすると,
彼らの家族も含めると300人以上の人たちの生活にも責任を持って
いることになるからです.

 部隊には,一種独特の雰囲気があります.家族的な繋がりと
いっていいかもしれません.一般の人の中には,旧軍のイメージで,
自衛隊も先輩のいじめがあるのではないかとか,職権を乱用する
ような非常識な指揮官がいるのではないかと思う人もいるかもしれません.
しかしいたとしてもごく一部です(一般社会でもあるのと同じように).
今の指揮官や先輩は,日ごろの生活全般まで懇切丁寧に指導します.
任期制隊員に対しても早く一人前にして新たな社会に出してやろうと
いう気持ちで親身に接します.

 指揮官になると一般に統率方針というものを示します.これから
部隊をどのように統率するかということですが,多くの指揮官は
「任務の完遂」をあげます.これは当たり前のようで,実はとても
厳しいことなのです.任務の遂行にあたってはお前たちの命を
預かるぞということで,そのためぎりぎりの訓練をします.

 ある時は夏の暑さや豪雨といった厳しい状況の中で,ある時は
不眠不休の疲労困憊状況の中で,練度向上のために訓練を続けるか,
安全を優先して中止にするか,指揮官は常にぎりぎりの判断を
迫られるのです.

 私は訓練事故で部下隊員を亡くした先輩を知っています.
その方は退職してもその隊員の墓に命日になると毎年かかさず
花を手向(たむ)けていました.

 常にポケットに辞表を入れて訓練をしていた連隊長もいました.

▼自衛隊はいつも厳しい訓練をしている

 私は幸いにも指揮官を拝命中は,死亡者を出すような訓練事故は
1件もありませんでした.化学科部隊の場合はゴム製の防護衣を装着
して任務を遂行することが多いため,とくに夏の訓練は厳しいものが
あります.訓練中に熱中症で何人も部下を倒してしまったこともあります.
重大な車両事故を起こしそうになったこともあります.本当に幸運だった
のかもしれません.

 指揮官を下番(かばん)するときは,「もうこれで部隊の責任を負わなくて
すむ」という気持ちで大きなため息が出ました.しかし,離任式で隊員の
前に立ち,離任の辞を言うためみんなの顔を見た瞬間,彼らと別れるのか
と思うとこみ上げるものがあり一瞬言葉に詰まってしまいました.

 自衛隊はいつも厳しい訓練をしています.国際情勢がめまぐるしく変化し,
日本の防衛環境が緊迫化する中で,必死に愚直に今日も訓練しています.
私は彼らに対し,とくに指揮官に対してはいつも敬意をもって見ています.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.8.20





兵法三十六計(34)

第三十四計 「苦肉計(くにくけい)」
    ─全世界に展開した中国人スパイ─

     元防衛省情報分析官・上田篤盛(あつもり)
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□はじめに

 さる8月13日(土)に横浜で開催された軍学堂様が主宰する軍学講座
に講師として行ってまいりました.

「インテリジェンスと安全保障」というテーマで,第1回目が「中東戦争から
得られる教訓」,第2回目が「中国の過去の武力行使事例から得られる教訓」
について述べるというもので,先日はその第1回目でした.

 その講演会のあと,有志の方々との懇親会を設けていただきました.
そこで,ある方から,本連載メルマガのコピーを見せていたただきまして,
肌身離さず(?)ご活用していただいているご様子に,筆者は大いに勇気
づけられました.
 
なお来月の講演会は9月11日(日)に行なわれますので,ご興味が
おありの方は,インターネットの軍学堂のサイトにアクセスしてみてください.
http://www.gungakudo.com/study/

 さて今週は苦肉計です.先週に引き続きスパイのお話です.

『孫子』をはじめ,中国兵法ではスパイ,スパイ活動(諜報活動)の類は
必要不可欠ということでしょう.

▼わが身を犠牲に警戒心を解く

「苦肉計」は,我が身を痛みつけて敵を信用させ,情報活動を成功に導く
情報心理戦である.自らの地位を犠牲にして,相手の警戒心を解き,
まんまと利益を得る計略である.

 三国時代,呉の周愈が赤壁の戦いで曹操を迎撃した時のことである.
武将の黄蓋(こうがい)が周愈に,「曹操のもとに密使を送って降伏を
申し入れる」ことを進言した.しかし,それだけでは相手を信用させることは
できない.そこで,黄蓋は作戦会議の席上で降伏論を主張して譲らず,
周瑜の怒りを買って「百叩きの刑」に処され,血まみれになった.

 そのありさまを呉軍の陣屋にもぐりこんでいた曹操の諜報員がみていて,
曹操に伝えた.初めは黄蓋の降伏申し入れに半信半疑だった曹操も黄蓋の
降伏申し入れを信じた.

 曹操は黄蓋の船団が川を渡って接近した時,黄蓋が降伏したものと
信じ込んで警戒を怠った.その結果,曹操は,黄蓋によって,やすやすと
「焼き討ちの計」を許してしまった.

▼「苦肉計」は日常茶飯事

 この計略で思い起こされるのは三浦和義氏の「ロス疑惑」である.
1981年,三浦の妻が,ロサンゼルスで何者かに射撃され意識不明の重態
になった.三浦氏自身も自らの足を打たれて負傷し,マスコミは「悲劇の夫」
として報じた.

 しかし,2年後に三浦氏が保険金目当ての殺人を自作自演したとの疑惑
が生起した.この事件の真相は,米当局が三浦氏を再逮捕し,取り調べを
再開しようとして拘置していた時に,三浦氏が拘置所で自殺したために
闇の中に葬られた.

 ただし,「自らが痛みを伴うような,バカなことをするはずはない」との
先入観が,事件発生当時の初動捜査を遅らせ,事件の真相解明の機会を
みすみす逃したとの教訓を認識させた.

▼天安門事件後に中国人スパイが全世界に展開

 天安門事件後,民主化を叫んだ学生活動,知識人は逮捕・投獄されるか,
国外亡命するかを余儀なくされた.たとえば,天安門事件の首謀者とされる
魏京生の釈放を要求する署名を呼びかけた,天文物理学者の方励之は
事件後に米国に亡命した(方励之は2014年米国で死亡).

 彼らは亡命先の海外において民主化組織を結成し,海外から中国国内
の民主化運動に加担する動きを示しているとされる.

 こうした動きに対し,中国の情報機関はいち早く対応した.国家安全部は,
亡命する民主化指導者の中に情報要員を混入させ,出国させるという対策
を取ったのである.(拙著『中国が仕掛けるインテリジェンス戦争』)


 その後,情報機関の要員は海外における民主化組織の中に秘密裏に
協力者網を構成し,民主化組織の動向を厳重に監視していくことになる.

 1990年,中国政府は「中国海外交流協会」という民間組織を設立し,
海外の華僑に対する工作を開始した.その工作目的の一つには
華僑ネットワークを使って海外の民衆化運動を抑え込む狙いがあったとされる.
これらの組織化も中国から派遣された情報要員の成果といえよう.

 中国は人権・民主活動家を国外追放という形で出国させた.これは各国
からの人権批判を回避する狙いがあった.その陰で,秘密工作員を国外追放
された民主活動家という偽装で派遣したということになる.

 各国ともに,国外追放された中国人に対しては,中国当局によって人権弾圧
された“悲劇の主人公”としてマークが甘くなる.中国は各国の政府機関や
情報機関に浸透工作員をまんまと潜入させることに成功したのであろう.

▼よくよく注意することが必要である

 中国の情報機関は,日本発の中国民主化運動あるいは反中活動に対しても
目を光らせているとみられる.その際,天安門事件後の対応でもみられた
ように,わが国の各種組織の中に情報要員を混入させ,その動向をじっと監視
していることは常套手段であるとみなければならない.

 これらの情報要員は,身分を隠すため,表面的には親日本家を装おう,
あるいは,中国から迫害されて日本国籍を保有するに至ったというカバー,
すなわち「苦肉計」を駆使している可能性は否定できない.

 浸透工作員は直接的に民主化運動や反中活動を阻止するという野暮な工作
は回避するといわれている.逆に反中国,反共産主義を標榜して,わが国の
保守派に広くネットワークを構築し,反中活動の首謀者が誰であり,どのような
ネットワークがあるか,どのような活動を行なっているかなどを密かに解明して
いる可能性も否定できない.

 こうした間接的手段はわが国の優秀な警察当局をもってしてもなかなか
尻尾を捕まえることは困難であろう.

 とくに国益保持に従事する者は,親日的な中国人や日本国に転籍した
中国人であろうとも,「不自然さはないか」という視点で,常に沈着冷静さを
もって彼らと接する必要があろう.

(来週は第35計と第36計について述べます.
よって来週で本メルマガは最終回となります.)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.8.23





『鉄道と軍隊─丹那トンネル─(12)』
 日本陸軍の兵站戦(32)

 荒木 肇
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□はじめに

 皆様いかがお過ごしでしょうか.大型台風10号は珍しいブーメランの
ような動きをしています.東北地方に上陸する珍しいものだと聞いています.
大きな被害が出ないように祈っております.

 先週末は富士総合火力演習が開かれ,28日の日曜日には稲田防衛大臣
はじめ2万7000人もの方々が東富士演習場にでかけられたとか.
わたしも会場にうかがい,陸海空自衛隊の精強さにあらためて感動いたしました.

 さて,わが国は島国であると同時に山国でもあります.平均すると,わが国は
内陸部ではおよそ30キロメートルごとに盆地があるそうです.
すると,汽車では1時間も走れば必ず山になるということでもあります.

 東海道線の丹那トンネルは17年間の長い間の工事期間を費やし,
多くの犠牲も払って貫通いたしました.1934(昭和9)年のことでした.
おかげで経路は短くなり,線路の傾斜も緩やかになり,輸送量も大幅に
改善されました.

 今回は,まずトンネルの雑学から始めます.鉄道には熱心なファンが多く,
専門書も読まれ,わたしなどが出る幕もありません.今尾さんという国際地図学会
評議員などを務められる研究者がおられます.以下,その方のご著書に多くを
負います.また,亡き国鉄記者・青木槐三氏の『国鉄』を参考にさせていただきました.

▼丹那トンネル

 1918(大正7)年,国鉄は770万円の予算で工事完成まで7年という
見込みで丹那トンネルの掘削を始めた.ところが工事費は予算の約3倍の
2600万円,工期は2倍半の正味16年間がかかった.完成は1934(昭和9)年
の末になった.

 鉄道建設のような大型工事は,企画されてから実際に工事に着手するまで
相当の年月を必要とする.この丹那トンネルもまた,1908(明治41)年に
東海道線の箱根越えをやめて,国府津から小田原,熱海を経由する路線の
調査を始めてから,着手まで11年間がかかった.ルートの調査を命じたのは
有名な後藤新平である.

 およそ調査費は工費の1割程度は調査費を要する.工費も最初の予算より
たいていが大きく増えてしまう.また,長い工事期間のうちに用地費や,
実際の工費が増えてしまい,想定外のトラブルに出遭うこともある.

▼丹那トンネルの大障害

 1921(大正10)年,熱海口から990呎(およそ270メートル)のところで大崩壊
が起きた.33名の作業員が埋まり,完全に閉塞されてしまった.
4月1日午後4時20分のことである.責任者は鉄道技師・富田保一郎という
山間鉄道建設の第一人者といわれた人だった.関係者は非常呼集で集められ,
ただちに救助坑が3本掘られた.この日は休日だったので,坑内の作業員は
少なく,多くの仲間が救助にかかった.

 坑内は支保工(崩落を防ぐために内部に張る)の木材が折り重なっていた.
また鉄材もへし曲り,酸素ガスでそれを切るとい作業も必要とされた.
坑内には悪性のガスも発生し,死者の死臭もそれに混じった.気持ちは誰も
が焦り,生存者の救出に全力をあげたが,救助坑は狭く,一時に130人くらい
しか働くことはできなかった.

 救助坑は崩落の翌日から掘られ,2日目はわずかに2呎,3日目が15呎,
4日目は25呎まで進み,6日目は47呎,7日目は62呎とあと一息のところ
まで近づいた.

 4月8日,午後9時20分,救助抗はついに現場に届いた.17名の人々が
生存していた.

 生存者の中には現場のリーダーだった人がいたが,その人は克明な記録を
残した.一部は公開されたが,当時の事務所長だった富田によって隠された
部分があった.それは工事に対する疑問だった.

『複線1本といったこうした大型トンネルを掘るより,小型の単線2本を掘る方が
安全でかつ,工事も楽で,しかも将来も事故が減るのではないか』という感想
である.

 当時のマスコミは東京に近く,熱海という行楽地のそばで起きた事件だったから
熱心な報道体制をしいた.なかでも事故について,「ずさんな計画」「無謀な工事」
という批判キャンペーンを繰り広げていた.だから,この事故の被害者,当事者が
こうした感想,意見を書いたということが明らかになると,世論全体が工事中止
に傾くことになると心配された.手記は隠され,書いた当人は厳重に口止めを
された.

 埋没者の遺体が運び出された.16名の犠牲が出て,なかには女性もいた.
事故の原因はトンネルの上部の堅い岩が薄く,その上に軟弱な地盤があったため,
一気に崩落が起こったという.

▼第2の障害

 1924(大正13)年,今度は前回と反対側の西側三島方面函南口で事故が
起こった.2月10日,午前9時20分である.入口から4950呎(約1500メートル)
で大崩壊が起こった.生き埋めになったのは16名である.

 4450呎(同1360メートル)までは順調に工事が進み,その時に予兆があった.
鉄製の支持工が曲がり始めた.そのとき断層に突き当たった.水の吹き出しが
多くなった.そこで迂回坑を掘って前進に成功.後戻りして2本の導坑を貫通させた.

 しかし,この4950呎付近のわずか27呎(約8.2メートル)ばかりで,地質が
悪く鉄の支持工を使い,鉄柱も立て,鉄の輪まで入れて補強したが,5回も土砂
が噴出してきた.そこへおよそ600坪(2000平方メートル)の土砂が坑内に
あふれた.おかげで水が坑内にあふれ,16名は溺死してしまったのである.

 土砂はさらに木材や岩石を押し流して,1250呎(約380メートル)にわたる
地域を埋め尽くしてしまった.救助坑が掘られ,死体の収容には17日間がかかった.

 溺死体が出たのは2月27日だった.午前3時である.

 その後,1930(昭和5)年11月26日の北伊豆地震でも小さな崩壊が起きた.
西の函南口から1万8000呎(約5500メートル)のところで5人が埋まった.
うち2人が救助された.

▼丹那盆地の渇水

 坑内には大湧水があった.軟らかい地質にセメントを注入し,薬液も打ち込んだ.
圧搾空気も使った.しかし,もっとも大変だったのは地下水である.これに対して
は水抜きの小型坑を掘って解決した.

 ところがトンネルの真上の丹那盆地ではすっかり地下水が出なくなった.
政府はその補償も行なったが,この水抜きのトンネルを掘るといった工夫も,
当初は誰も考えつかなかった.現在の丹那トンネルは旧丹那トンネルよりもやや上
を掘り進んだ.大工事ではあったが,6年間で完成させた.水が少なかったことと
技術の進歩である.

 丹那トンネルの完成は東海道線の全長を約12キロメートルも短くした.
何より,上りの限界に近い1000分の25の急こう配が1000分の10と緩やか
になった.国府津から御殿場まで7つのトンネルがあったが,昭和9年の末から
明るい海を見ながら熱海まで列車は走るようになった・

 次回は昭和戦前期のトンネルを紹介しよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.8.31




『ライター・渡邉陽子のコラム (109)─ 陸上自衛隊防災マニュアル(1)
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

先週,2年ぶりにセイジ・オザワ・フェスティバル2016に行ってきました.
あいにく当日は台風9号の北上とスケジュールがぴたりとはまり,
特急券を購入済みだった特急は運休,慌てて高速バスのチケットを
何とか購入できたものの,今度は新宿までの電車にトラブル発生と,
大変な道中となりました.無事に松本駅に着けたときの安堵といったら!

小澤征爾氏の指揮は相変わらず素晴らしいものでしたが,
また一回り体が小さくなっていたように感じました.彼の振るコンサートの
チケットはいつも入手に苦労しますが,これからも聴き続けたいと改めて
思った夜でした.

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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■陸上自衛隊防災マニュアル(1)

今週から新連載です.月刊「丸」2016年8月号に掲載された
「陸上自衛隊防災マニュアル」に加筆し,災害大国日本で培われた
陸上自衛隊の災害対処能力をひも解きます.

まずは「災害派遣の苦い教訓 阪神・淡路大震災」として,
阪神・淡路大震災の前と後で自衛隊の災害派遣にどのような変化が
生じたかをご紹介します.

次に東日本大震災の災害派遣では何が変わったか」として,
自衛隊の災害派遣を阪神・淡路大震災と比較します.

そして最後は「災害対処へ対応するための平素から行なわれている
取り組み」として,自衛隊の現在の災害対処への取り組みと,
その一例として千葉県にある陸上自衛隊高射学校の防災訓練の
レポートをご紹介します.


2016年4月14日21時26分頃,そして2日後の16日1時25分頃,
熊本県熊本地方を震度7の地震が襲いました.

自衛隊はいずれの地震も発生直後から情報収集を開始,
14日に熊本県知事,16日には大分県知事から人命救助にかかる
災害派遣要請を受けました.

以来,5月30日に撤収開始するまでの間に,即応予備自衛官を含む
人員延べ81万4200名(ピーク大時約2万6000名),航空機延べ2618機
(最大時132機)艦船延べ300隻(最大時15隻)を派遣しました.

ほか,4月18日〜4月23日には米軍輸送機による輸送支援として,
米軍輸送機UC-351機,C-130延べ4機,MV−22オスプレイ延べ12機により,
生活支援物資等が南阿蘇村へ輸送されました.


倒壊家屋からの住民救出,崩落した阿蘇大橋付近で行方不明者の捜索,
避難所における給水や入浴支援,物資配給,がれき搬出などに加え,
民間フェリー「はくおう」を休養施設として開放するなど,その活動は多岐に
わたりました.

これら一連の活動が円滑かつ効率的に進み着実な成果を挙げたのは,
自衛隊が常日頃から災害派遣に備えていることや自衛隊が災害派遣するための
法的根拠が整備されていること,さらに自治体とのスムーズな連携など,
複合的な要因によります.それらは一朝一夕に構築されたものではなく,
1995年の阪神淡路大震災の教訓から積み重ねられてきたものです.


自衛隊の災害に対する行動には「災害派遣」「地震防災派遣」「原子力災害派遣」
の3種類が定められています.

それらの災害派遣をすぐに行なえるよう,平素からファスト・フォースと
呼ばれる初動対処部隊を全国158カ所の駐屯地に待機させています.

ファスト・フォースは一定規模以上の地震が発生するとヘリによる偵察を行い,
1時間を基準とした陸自の出動,また海自の初動対応艦の出動などの体制を整えています.


災害派遣には,
1・情報収集,
2・派遣部隊投入,
3・災害派遣活動
という3つの大きな流れがあります.

まず災害が発生すると,自衛隊は災害派遣要請と前後して指揮所を開設,
情報収集を行ないます.それにより部隊の投入地域を検討し,部隊の前進目標
や経路を決め,自治体や関係機関との派遣活動に関する調整等を経て派遣部隊
を投入.そして人命救助や生活支援,増援部隊の受け入れといった災害派遣活動
を行なうという流れです.


次回は阪神・淡路大震災における自衛隊の災害派遣とその教訓についてご紹介します.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.9.1




『ライター・渡邉陽子のコラム (110)─ 陸上自衛隊防災マニュアル(2)
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

今週は舞鶴へ取材に行ってきます.といっても現地滞在は半日の
超駆け足スケジュールなので,インタビューだけ済ませてとんぼ返りです.

舞鶴は10年ぶりくらいで,前回はテロ特措法に基づく支援活動として
インド洋に派遣されていた「ましゅう」乗組員の取材をしたのでした.
同行した当時3佐の自衛官は現在1佐に,私と同じ年だったカメラマン
はすでに鬼籍に入っています.

取材を終えた夜,3人で繰り出した舞鶴の町で思わず歓声をあげる
ほどの刺身盛り合わせが出てきたこと,岩牡蠣のおいしさに絶句
したこと,飲んで食べて笑ってしゃべって,楽しい夜を過ごしたこと.
得ることの多かった取材自体と同じくらい,心に残っています.


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■陸上自衛隊防災マニュアル(2)

自衛隊の災害派遣が大きな注目を集めるきっかけとなったのが,
死者約5500名,負傷者4万名以上を出した1995年の阪神・淡路大震災です.

20年以上経った今も,神戸市のあちこちで火災が発生している様子を
上空から撮影した光景は,私には東日本大震災の津波の映像と同様,
はっきり脳裏に焼き付いています.

三ノ宮に昔勤めていた会社の社員寮があり,西宮には親しい友人が
いたため,彼らの安否が確認できるまでは随分と不安な時間を
過ごしたことも,今でも昨日のことのように覚えています.

余談になりますが,防衛大学校の元校長の五百旗頭真氏は
当時神戸大学の教授でした.学校長時代にインタビューした際,
「若い教え子たちを亡くしたことがつらかった」と語られていて,
不覚にもインタビュアーの私が涙目になるという失態にありました.


都市を直撃した大型の直下型地震は,各種応急活動を迅速に
実施する責任のある行政機関自体を被災させ,復旧活動に不可欠な
道路や港湾施設などのインフラも甚大な被害を受けました.

自衛隊は延べ225万名,車両34万台・航空機1万3000機・艦艇679隻
を派遣.その活動は高く評価され,自衛隊そのものの評価向上にも
つながりました.


しかし,初動対処の遅れという人命に直結する深刻な問題が浮き彫り
となりました.


兵庫県知事から自衛隊に災害派遣要請があったのは,地震発生から
4時間以上も経過してからです.

当時,都道府県が災害派遣要請を行うためには,市町村から都道府県
への「災害派遣要請の要求」が必要とされていたのですが,通信手段
が途絶え双方の連絡が取りあえず,市町村からの要求が確認できなかったのです.

また,自治体の行政機能がマヒしていたため被害状況の把握も
遅れました(これは政府も同様でした).
さらに兵庫県や神戸市の防災会議や訓練に自衛隊はしていなかったなど,
そもそも自治体と自衛隊の連携が取れていませんでした.もともと自衛隊
へのネガティブな感情が比較的強い地域だったため,「日頃からの連携
などとんでもない」という状態だったのです.

このような複数の要素が重なり,自衛隊への要請が遅れることとなったのです.


災害時における人命救助のタイムリミットが72時間であることを考えると,
最初の4時間のロスがなければより多くの命が救われたことは間違いありません.


ちなみに,選挙での落選を機に政界を引退した社民党の阿部知子氏は,
後にブログで「自衛隊の初動が遅れたから救えるべき人命が失われた」と
自衛隊を非難したところ,「当時の政権がどこだと思っている」とブログが
大炎上,記事が削除されるというどうしようもないエピソードもありました.
4時間のロスの責任は自衛隊にあるというのです(勝手に出動すれば
これまた盛大に文句を言ったことでしょう).この話は今でもネットで検索
すれば出てくると思います.個人的には「どの口が言うか」という気持ちです.
自衛隊に否定的な人間や組織ほど,災害派遣の際に「助けに来るのが
遅い」と,なんの裏付けもない稚拙な主張を堂々と本気で言う気がします.


話を戻しましょう.4時間のロスという苦い教訓から,法整備をはじめ,
各種対策が講じられることになったのです.


まず,1995年に災害対策基本法が改正され,災害派遣時の自衛官は
(警察官がその場にいない場合に限り),緊急通行車両の通行を確保するため,
道路上の放置車両を除去できることになりました(阪神・淡路大震災では
勝手に除去できないため立ち往生するシーンも少なくありませんでした).

また,市町村長は,都道府県知事に対して災害派遣要請を要求できない
場合,防衛庁長官に災害の状況を直接通知できるとしました.

さらに災害派遣時の自衛官は市町村長,警察官および海上保安官が
その場にいない場合に限り,次のような権限も与えられました.

・警戒区域を設定し,立ち入り制限・禁止,または退去を命じること
・救援活動拠点等のため,土地や建物を使用すること
・人命救助を行なう場合など,障害となるものを移動,あるいは撤去すること
・土地,建物その他の工作物を1時使用,または土石,竹木その他の
物件を使用・収用すること
・現場の自衛官では足りない場合などに,住民または現場にいる者に
人命救助や水防などの業務を行なわせること


次回は法整備や各種対策のご紹介の続きと,東日本大震災における自衛隊
の災害派遣についてご紹介します.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.9.8





■陸上自衛隊防災マニュアル(3)

阪神淡路大震災の教訓により,法整備や各種対策が講じられました.
今回はその続きからです.


政府の防災基本計画も4年ぶりに修正され,情報連絡体制の充実や共同の
防災訓練の実施など,平常時から自衛隊と地方公共団体などとの連携も
より強化されました.同年10月には防衛庁防災業務計画が修正,自主派遣
の基準が次のように定められました.

・関係機関に対して当該災害に係る情報を提供するため,自衛隊が情報収集
を行なう必要があると認められること

・都道府県知事等が自衛隊の災害派遣に係る要請を行なうことができないと
認められる場合に,直ちに救援の措置をとる必要があると認められること

・自衛隊が実施すべき救援活動が明確な場合に,当該救援活動が人命救助に
関するものであると認められること

・その他,特に緊急を要し,都道府県知事等からの要請を待ついとまがないと認められること


また,震度5弱以上の地震が発生した場合,災害派遣要請の有無に関わらず
速やかに自衛隊の航空機により発生地域およびその周辺について目視,撮影等
による情報収集を行ない,官邸などにその情報を伝達できる態勢も整いました.

熊本地震でも14日の地震発生から21分後には,福岡県の航空自衛隊築城基地
からF-2戦闘機が緊急発進,続いて9州北部の各基地・駐屯地からヘリコプターや
P-3C哨戒機,U−125A救難捜索機が発進しています.

東日本大震災でも,情報収集のため飛行した自衛隊のヘリから撮影された,
川を遡上し田畑を飲み込んでいく津波の光景は,いまだ記憶に新しいものです.

さらに状況に応じ,関係地方公共団体などへ連絡要員を派遣,情報収集を
行なうこととしています.


次に,東日本大震災における自衛隊の災害派遣についてご紹介します.


2011年3月11日14時46分,東日本大震災が発生しました.
マグニチュード9.0,阪神・淡路大震災の1450倍ものエネルギーの地震であり,
死者・行方不明者1万8455名という甚大な被害を受けた未曽有の災害です.

さらに福島第1原子力発電所事故により,自衛隊の災害派遣は地震・津波被害に
対する災害派遣と原子力災害派遣が同時に進行することとなりました.


防衛省は14時50分に防衛省災害対策本部を設置,15時30分には第1回防衛省
災害対策本部会議を開催しています.この早さにご注目ください.道県知事から
の災害派遣要請も岩手県知事の14時52分を筆頭に,阪神・淡路大震災に比べ
きわめて早い時点で行なわれています.


自衛隊は震災発生当日の深夜までに約8400名の人員と航空機190機,艦船25隻
を投入,翌日には2万人,4日後には約7万名の人員が救援活動に従事.

陸自東北方面総監を指揮官とする初の統合任務部隊も編成され,航空機による
情報収集,被災者の捜索および救助,消火活動,人員および物資輸送,給食支援,
給水支援,入浴支援,医療支援,道路啓開,がれき除去,防疫支援,ヘリコプター
映像伝送による官邸および報道機関等への情報提供,自衛隊施設(防衛大学校)
における避難民受け入れ,慰問演奏,政府調査団等の輸送支援を実施しました.


災害派遣の活動実績は延べ人員約1058万人(1日の最大派遣人員約10万7000人)
が出動し,人命救助1万9286人(全体の約7割),遺体収容9505体(全体の約6割),
給食支援約500万食,入浴支援約100万人,物資輸送1万3906トン,
給水支援3万2985トンと,その規模は阪神・淡路大震災をはるかに上回るものとなりました.

また,原子力災害派遣については3月11日〜12月26日の間で,避難支援,給水支援,
人員および物資輸送,原子炉冷却のための放水,モニタリング支援,ヘリコプター映像
伝送による官邸および報道機関等への情報提供,上空からの撮像,集じん飛行支援,
現地調査団等の輸送支援,除染活動の拠点となりうる役場の除染を実施.
延べ人員約8万人が従事しました.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.9.15




『トンネルの話─鉄道と兵站─(13)』
 日本陸軍の兵站戦(33)
荒木 肇

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□はじめに
 
 わが国の鉄道技術は熱心な人々の努力でたいへんな進歩を遂げました.
今尾氏のご著書から鉄道学の面白さを学ばせていただいています.
今回はトンネル・隧道についての話題をご紹介します.

 なお,大雨や台風被害にあわれた皆様に心よりお見舞いを申し上げます.


▼戦前鉄道トンネルランキング

 今もあるダイヤモンド社が1936(昭和11)年に発行した旅行ガイドの中に
当時のトンネルランキングがあるという.これらのトンネルは大半が峠の下を
貫通している.わが国のような山国では汽車の線路は等高線に沿って走る.
川に沿い,山裾をめぐり,少しずつ高さを上げていった.それでもいつか峠を
越えることになる.

 そうした峠越えのトンネルの前後はたいていが急勾配である.もうこれ以上,
登れないというところから一気に隧道を穿っていくというのが戦前の方法だった.
いまのように長大なトンネルを掘る技術も資金もなかったからである.
 
□第1位は上越線の清水(しみず)トンネル(9702メートル)

 上越線は上州(上野国=群馬県)高崎から,越後(新潟県)長岡までの幹線で
ある.その開通まで高崎から線路は西に向かった.江戸時代の中山道である.
難所の碓氷峠を越えて軽井沢,上田などを通り信州(長野県)へ通じ,そこから
越後へ北上したのが信越線.それを短縮して一気に新潟県に出るための路線に
なる.

 この清水トンネルによって,それまでの上越北線と南線がつながった.
これが1931(昭和6)年のことで,従来,東京から新潟まで長野経由で11時間
余りかかっていたものが7時間少しに短縮された.しかも,峠の釜めしで有名な
横川と軽井沢の間の碓氷峠のアプト式を使わなくてすんだ.この輸送量の増大
はたいへん有り難いことだった.勾配もゆるく,おかげで長大な貨物列車も
走らせることができた.

「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」で始まる川端康成の『雪国』に登場する
上越国境のトンネルがこの清水トンネル.この長いトンネルを知っていても前後
に大きなループ線があることは案外知られていない.螺旋(らせん)を描くような
鉄路をループ線というが,1982(昭和57)年に上越新幹線が開通してから
馴染がなくなった.同67(昭和42)年に複線化された時,下り専用で新清水
トンネルが掘られた.これは13.49キロにもなる長いものだが,上り専用と
なった旧来の湯檜曽(ゆびそ)ループは残っている.ループ線は国内では珍しい.

 興味深いのは,東京湾にある「ゆりかもめ」である.レインボーブリッジは
夜の眺めも素晴らしいが,その高さは半端ではない.下を大型船が通るため
(海面から50メートル)だが,「ゆりかもめ」はその高さに取りつくために一周
するという路線になっている.

 長大なトンネルがあることは電化を促進させる.煙にまかれる乗務員,機関士
と機関助士の苦労は並大抵ではなかった.熱気と熱い煙で気を失ってしまうこと
もあった.思い出話の中に,あまりの苦しさに後部の炭水車の石炭の中に顔を
突っ込んだというものがある.冷たい空気がわずかでも石炭の隙間にあったから
だそうだ.上越線も水上と石打にはそれぞれ電気機関車が待機して,トンネル内
はこれが牽引した.

□第2位 丹那(たんな)トンネル(7804メートル)

 前にも書いた静岡県熱海(あたみ)から函南(かんなみ)に抜ける丹那トンネル
である.箱根火山のふもとを通る難工事.しかも地上の丹那盆地は地下水がみな
トンネル内に流れ落ち,異常な渇水に見舞われた.しかし,三島までの距離は
12キロも短くなり,何より最大勾配が10パーミル(1000分の10)に抑えられる.
もちろん機関車は電機であり,牽引出力は2.5倍から3倍にもなった.
補助機関車の付け替えも不要になり,時間短縮も30分,経費の節減もできた.
難工事については詳しくは前回の記事を参照されたい.

□第3位 笹子(ささご)トンネル(4656メートル)

 新宿から走り出す中央本線は武蔵野の平野を直線で走り抜ける.立川から
八王子,高尾と江戸時代の甲州街道に沿って線路は敷かれた.もともとは東京
と京都を結ぶ大幹線とする予定だったが,山また山の難工事が予想されたこと
から,東海道が主流になった.
 
 難所は笹子峠である.江戸時代でも荷車も通れず,人がようやく越えられる,
そんな難所だった.しかし,わざわざ坑口近くに水力発電所を建て,アメリカから
輸入した掘削機を動かし,ズリ(山を掘って出た土砂)を運ぶのにも電気機関車
を使い,1902(明治35)年に完成した.着工は1896(明治29)年である.
信州や甲府からの生糸を大量に短時間で運ぶことができるようになった.

□第4位 石北(せきほく)トンネル(4329メートル)

 北海道の石狩国と北見国を結ぶ石北線の国境トンネルである.北海道は地名
の名づけ方が先住民の言葉にルーツがあるもの以外は困惑させられない.
他にも石狩国と十勝国を結べば「狩勝(かりかち)峠」などが分かりやすい.
このトンネルができるまでは,札幌から網走に行こうとすると大変だった.
まず滝川から根室本線に乗り換え帯広に行き,池田で網走本線に乗り換えて
北上するというコースだった.それが旭川から北見(当時は野付牛と言った)へ
まっすぐに北上できるようになった.最短でも13時間半かかったものが,
トンネル開通後は9時間52分で行けるようになった.

□第5位 猪鼻(いのはな)トンネル(3845メートル)

 四国には大きな脊梁山脈が走っている.讃岐(さぬき)平野(香川県)の
丸亀(まるがめ)・琴平(ことひら)から吉野川沿いの池田へ出る阿波街道が
讃岐と阿波(徳島県)の国境を越えるのが猪ノ鼻峠である.その峠の真下を
貫通するのが猪鼻トンネル.1929(昭和4)年に開通した.

□第6位 冷水(ひやみず)トンネル(3259メートル)

 九州の石炭産出地筑豊炭田の中を貫流する筑豊本線にある.筑前国(福岡県)
と豊前国(大分県北部)を結ぶ鉄路である.筑豊炭田の石炭を九州南部,西部
に運ぶために建設された.八幡製鉄所や若松港(いずれも北九州市)に石炭を
運ぶことがメインだったために,1901(明治34)年に直方平野の南端の町
長尾(現在は桂川・けいせん)まで開通した.その後,1929(昭和4)年になって
ようやく,このトンネルができて,原田(はるだ)まで開通する.北九州市の折尾
から原田まで鹿児島本線ならば67.8キロ,対して55.3キロと12キロ余りも
短縮した.

 炭鉱が力を失うと博多を通らないだけに優等旅客列車も走らせにくくなった.
昭和60年までは新大阪と佐世保の間を結ぶ寝台特急「あかつき」が走っていたが,
いまは完全なローカル線になっている.この路線は江戸期の長崎街道に沿って
いた.長崎に到来した南蛮貿易や鎖国下のオランダ貿易の品々が運ばれた
ルートでもある.幕末のオランダ医師,シーボルトの江戸への紀行もこの道を
通ったという.

□第7位 欽明路(きんめいじ)トンネル(3117メートル)

 岩国(山口県)から徳山の間で山陽本線は海岸線に沿って走り柳井(やない)
を通っている.1934(昭和9)年にこれを短縮するために岩徳(がんとく)線が
建設された.欽明路トンネルの掘削のおかげである.以後,山陽本線はこちら
になった.欽明路峠は,「きんめいじだお」と読む.トンネルの東口になる
柱野(はしらの)は江戸期の山陽道に面した市場町だった.

 岩国と櫛ヶ浜(くしがはま・徳山の東隣)の間はそれまでの65.4キロから
43.7キロと3分の2になった.しかし,この長いトンネルの機関車の煤煙問題
で戦時中の昭和19年には旧線が本線に戻り,岩徳線に格下げされる羽目に
なる.今尾氏によれば,戦時中の輸送力増強を望む声から,新線にもう1本の
トンネルを掘るより,旧山陽線を複線化した方が経費も安く済むといった事情
もあったらしい.

 トンネルの話題をさらに次回も進めたい.経済と戦争は大きな関係があり,
さらに経済と鉄道は密接につながっていた.次回は呉線なども紹介しよう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.9.14




石原ヒロアキさんの連載

「日の丸父さん」

http://okigunnji.com/url/109/
※バックナンバーが全部見れます
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□はじめに

 家を買うことが大きな決心であることは,自衛官も同じです.
ただ自衛官の場合,定年が早いので早めに買う人が多いみたいです.
私は40代前に買いました.

 エッセイにも書いていますが,買うときはいろいろと悩むものです.
私の場合,戦術の考え方が家を買う考え方に似ているなと思ったので,
応用してみました.戦術はいろいろな要素を組み合わせて,最良の
行動方針を決めていきます.家を買うときも場所,時期,コストなど
いろいろな要素を組み合わせて自分にいちばん合った家を購入します.
漫画では仕事しながら家探しをしていますが,実際このようなことは
ありませんのであしからず.

http://okigunnji.com/url/144/

「ブラックプリンセス魔鬼」は全10巻がそろいました.
このなかには防衛出動,国際貢献,テロ対処などの自衛官の活躍が
描かれています.ぜひ通して読んでみてください.自衛官の仕事が
どんなものなのか概要がつかめると思います.

「石原ヒロアキ まんが館」を立ち上げました. 現役時代に頼まれて
描いた4コマ漫画もアップしています.
http://yonekurahiroaki.wix.com/cbrn


▼自衛官は早めに家探し

自衛官は,定年が55歳前後(階級により差があり)のため,
その前に家を準備する必要があります.実家に入る,あるいはずっと借家に
いるという人は別ですが,たいがい30代か40代で家を買います.

 家については,駐屯地に定期的にハウスメーカーが来て説明会を
行ないます.昼休みになると厚生センターのホールに各社のブースが
でき,結構にぎわいます.そこでかなり情報を集めることができます.

 問題はどこに建てるかです(マンションでもいいわけですが).
自衛官は国家公務員なので全国区で転属があります.
陸曹や部内幹候(陸曹で昇任試験を受けて幹部になった人.I課程出身者ともいう)
の全国異動は在任中1〜2回程度で,だいたい地元中心ですが,
防大(B課程出身者ともいう)や一般大(U課程出身者ともいう)出身の幹部
は基本2年周期で,日本全国どこに異動があるかわかりません.
一応希望勤務地を文書で毎年提出しますが,あくまで参考です.
私の場合は出身が宮城なので,一度は東北勤務がしたいと30年間東北
を希望していましたが,結局北海道と九州と関東勤務で終わりました.

 そこで建てる場所ですが,BやUの場合,定年後どこに住むかが問題に
なります.普通自衛官は定年後も再就職する必要があるので,再就職と
定住地は密接な関係があります.となると,就職先が多い都市部に集まる
傾向があります.子供がいる場合,子供の学校なども考慮に入れます.

地の利でいえば,自分がいちばんよく知っている土地が住みやすいわけ
ですが,全国異動といっても職種ごと職種学校の勤務が多くなり,学校近辺
に家を構える人が多いようです.面白いことに,普通科,特科,機甲科の
富士学校(静岡県御殿場市)や航空科の航空学校(三重県伊勢市,宇都宮
や霞ケ浦にも分校がありますが)を除き,他の職種は東京近辺に集中して
います.

ちなみに化学職種は埼玉県さいたま市,高射学校は千葉県千葉市,
武器学校は茨城県稲敷郡阿見町,施設学校は茨城県ひたちなか市,
通信学校は神奈川県横須賀市,需品学校は千葉県松戸市,輸送学校,
小平学校,衛生学校はそれぞれ朝霞,小平,三宿と都内にあります.
私もさいたま市のすぐ北の上尾市に家を構えました.

▼うらやましい米軍の引退生活

さて,家を買ったらそれで安心かというとそうはいきません.
たいがい単身赴任が待っています.単身赴任の場合手当が出ますが,
二重生活のため結構費用がかさみます.ですからローンを組む場合,
その辺のことも考えて余裕を持つことが大切です.銀行などは,自衛官に
対してかなりの額を貸してくれるので,調子に乗ると大変なことになります.
指揮官になりますと,隊員がローンを払えず自己破産することがないよう
に服務指導することも大切です.

退職後,残ったローンを,退職金を使って支払う人がいますが,
定年から年金受給まで10年近くあることを考えるとリスクがあります.
再就職も自分に合ったところに必ずしもいけると限らず,途中でやめて
しまう人が多いからです.

アメリカに出張の際,米軍OBの方の自宅に招待されたことが何度か
ありましたが,かなり広い土地に家を構えており,驚きました.
なかには自宅にプールまで持っている人がいました.土地が安いのも
あるのでしょうが,米軍は,定年後も軍の恩恵があり,家の購入も含め,
PX(駐屯地や基地にある売店)を使うといっさい税金がかからないのも
理由かもしれません.自衛官の場合いつでもどこでも税金がかかりますが.
それに再就職先も年金も自衛官に比べかなりいいみたいです.

しかし,自衛官といってもさまざまで,定年後の人生もいろいろです.
私の化学科職種の先輩などは,定年後カンボジアに渡り,
カンボジア女性(それも当時20代!!)と再婚してカンボジア陸軍に再就職し,
陸軍中将にまでなった人がいます(定年時は1佐でした)!!

定年後の話はまた改めて書こうと思います.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.9.24




『ライター・渡邉陽子のコラム (112)─ 陸上自衛隊防災マニュアル(4)
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは,渡邉陽子です.

8月30日から始まった大雨被害による岩手県への災害派遣が,
9月16日で一区切りつきました.災害派遣に従事した第9特科連隊長は,
彼が内局広報勤務時代にMAMOR取材で苦楽を共にした仲です.
災害派遣中に連隊長のお父様が逝去され,1日だけ離脱したものの,
すぐに現場に戻ったそうです.頭が下がります.

Fさま
九州にご在住とのこと,台風16号の被害に遭われていないといいのですが…
天災は防ぎようがありませんが,その被害をどれだけ最小限にとどめるかは
人の努力次第ですね.
拙本,自衛官OBにも読んでいただけたらうれしい限りです.ありがとうございます!



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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■陸上自衛隊防災マニュアル(4)

阪神・淡路大震災における救助実績は,警察3495名,消防1387名,
自衛隊165名.
一方,東日本大震災での救助実績は,警察3749名,消防4614名,
自衛隊1万9286名でした.


この自衛隊の飛躍的な救助実績アップは,初動対処部隊を整えていた
ことが要因に挙げられます(これが後にファスト・フォースという名称で呼ばれるものです).

また,地方自治体との連携という面では,近い将来起こると予測されていた
宮城県沖地震への対処能力向上を目的に,東北方面隊全部隊,太平洋に
面した24自治体,防災関係35機関ならびに一般市民を含めた約1万6000名もの
人員が参加した東北方面隊震災対処訓練「みちのくALERT2008」の経験等が
生かされました.


防衛省は2012年11月30日,東日本大震災への対応に関し,意思決定,運用,
各国との協力,通信,人事・教育,広報,情報,施設,装備,組織運営の教訓事項
について,それぞれ改善点と今後の方向性を盛り込んだ最終取りまとめを発表.

さらに震災後に災害対策基本法を3度改正し,被災自治体の要請を待たずに
国や都道府県が物資を支援できるようにするなど,多くの教訓を反映させました.

防災基本計画もさらなる改定が重ねられ,津波や原子力災害対策を強化,
大規模災害復興法も整備されました.

そして2013年9月には,前述のとおり救援の初動部隊の名称を「ファスト・フォース」
に改め態勢を強化.2015年度は陸自人員3870名,車両約1100両,航空機36機
が全国の駐屯地で24時間待機,命令受領後1時間を基準に出動する態勢が
整ったのです.


続いて,災害対処へ対応するための平素から行なわれている取り組みについて
ご紹介します.


自衛隊はこの先想定される大規模地震に対応するため,「首都直下地震対処計画」
をはじめ,各種の大規模地震対処計画を策定しています.さらに,防衛省が災害発生時
に行なうことを定めた防災業務計画も,適宜改正されています.

現在の防衛省防災業務計画は2015年10月に改正されたものであり,災害に対する
準備措置,災害時における措置,大規模災害時の措置のほか,東海地震,
東南海・南海地震,日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震,原子力災害時の措置,
都市部,山間部,島しょ部における災害への対応などが定められています.


また,災害派遣活動を円滑に行うためには地方公共団体などとの平素からの連携
の強化がこれまで以上に重要なため,次の事項の実施により地方公共団体との
連携の強化を進めています.

・自衛隊地方協力本部に国民保護・災害対策連絡担当官を設置
・自衛官の出向(東京都の防災担当部局)および事務官による相互交流(陸自中部
方面総監部と兵庫県の間)
・地方公共団体からの要請に応じ,防災の分野で知見のある退職自衛官の推薦

2015年3月末現在,全国46都道府県・220市区町村に,334人の退職自衛官が
地方公共団体の防災担当部門などに在籍しています.
このような人的協力は,防衛省・自衛隊と地方公共団体との連携を強化する上で
きわめて効果的であり,東日本大震災においてもその有効性が確認されました.

さらに,各種防災訓練の実施および地方公共団体などが行なう防災訓練への
積極的参加等を通して,各省庁などの関係機関との連携を図っています.

2014年度の災害派遣にかかる主な訓練の実施および参加実績だけ見ても,
これだけずらりと並んでいます.

自衛隊統合防災演習(南海トラフ地震対処訓練)
防衛省災害対策基本本部運営訓練
「防災の日」政府本部運営訓練
政府図上訓練
平成26年度原子力総合防災訓練
津波防災訓練
原子力防災訓練
広域医療搬送訓練
静岡県総合防災訓練と連携した訓練
9都県市合同防災訓練と連携した訓練
近畿府県合同防災訓練と連携した訓練
東海地域広域連携防災訓練と連携した訓練

その他,統幕が主催する平成27年度日米共同統合防災訓練,
平成27年度自衛隊統合防災演習などもあります.

次回は防災訓練の一例として,千葉県の下志津駐屯地にて行なわれた
平成28年度下志津分区防災訓練をご紹介します.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.9.22




マーケット・ガーデン作戦とインテリジェンス (23)
                長南 政義
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□前号までのあらすじ

本連載は,精確な内容を持つインテリジェンスが一九四四年九月上旬に連合軍
の指揮官に利用されたかどうかを考察することにある.実は,インテリジェンスの
内容は,マーケット・ガーデン作戦実行に伴うリスクを連合軍の指揮官に警告していた.

指揮官が決定を下すために利用できるインテリジェンスの情報源は数多く存在して
いたが,本連載では「ウルトラ」情報により提供されたインフォメーションにのみ
焦点を当てて考察を進めることとする.第二次世界大戦を通じて,連合軍の戦略
レヴェル・作戦レヴェルの指揮官たちはウルトラ情報を活用し,ウルトラ情報の
精確性に関してめったに疑いを持たなかったからだ.

この数回,連合国によるマーケット・ガーデン作戦までの「ウルトラ」情報の利用
について述べている.前回は,「ウルトラ」情報を典拠として,ドイツ軍の人的・物的
状態について説明した.

一九四四年八月のドイツ軍は,人的損害,補給不足という二つの大問題を抱えていた.

まず人的損害について確認すると,損害合計十三万四千二百六十五人を補充する
ために,ドイツ軍が前線に送ることのできた補充兵の数は,わずかに一万九千九百四人
であった.これは,十五人の損害に対して一人の補充兵しか送れていない計算となる.
ちなみに,上記の損害にはファレーズ包囲戦での捕虜・死傷者六万人が含まれていない
ので,人的損耗はより深刻であった.

人的側面に関していえば,ドイツ側は士気の面でも問題を抱えていた.たとえば,
八月二十三日から二十四日の二日間で,第179予備擲弾兵大隊から約五十人の
脱走兵がでており,第217予備擲弾兵大隊の約六十%が脱走している.
ただし,士気・規律の問題は,主として正規部隊のもので,武装親衛隊や空挺部隊の
士気・規律の問題はそれほど深刻ではなかった.

物的側面では,ドイツ軍の軍需品不足は深刻であり,ドイツの軍需産業が喫緊の
需要を供給できないほど弱体化していたのと相まって,ファレーズ・ポケットに
遺棄された兵器と軍需物資の量は,ドイツ軍にとり危機的損害であった.たとえば,
あるドイツ軍師団は,八月二十七日に,「歩兵はカービン銃以外のものをほとんど
持っていない.二個大隊はその弾薬をほとんど使い尽くしている.補給が送られたが,
いまだ到着していない」と報告している.

さらに,物の量的側面=物不足のみならず,物の動的側面=稼働率でもドイツ軍
は問題を抱えていた.たとえば,第101 SS戦車大隊は,総計十八輛の戦車を保持して
いたが,そのうちの七輛が使用可能で,二輛が短期の修理を,九輛が長期の修理を
必要としていた.第503 SS戦車大隊は,総計十七輛の戦車を保有していたが,
そのうちの三輛が使用可能で,六輛が短期修理を,八輛が長期修理を必要としていた.

今回は,「ウルトラ」情報が生み出した,連合国遠征軍最高司令部(SHAEF)の
楽観論について述べる.


■傍受されたヒトラー総統・国防軍最高司令部の指令が明かす兵員不足

野戦指揮官は戦場に展開する隷下部隊との通信に問題を抱えていたが,西部での
戦争をどのように遂行するのかを明記したヒトラー総統や国防軍最高司令部(OKW)
からの指令が届かないことも悩みの種であった.

通常,ヒトラー総統や国防軍最高司令部からのメッセージの大部分は,陸上通信線
経由で送受信されており,従って,「ウルトラ」はこれらのメッセージを読むことが
できなかった.だが,陸上通信線が利用しにくくなったため,ドイツ軍はヒトラー総統
や国防軍最高司令部のメッセージを無線で送受信するようになった.その結果,
「ウルトラ」はこれらのメッセージを傍受することが可能となった.

そして,傍受した様々なメッセージをつなぎ合わせることにより,ブレッチリー・パーク
(政府暗号学校)はヒトラー総統もしくは国防軍最高司令部から発信されたメッセージ
の大部分を復元することができた.

その一例として,八月二十六日に傍受された西方総軍司令官のメッセージがある.
このメッセージにおいて,二十五日に送られたヒトラー総統のメッセージが引用されて
いた.このメッセージは,八月の戦闘がドイツ国防軍をいかに極端に消耗させたのか
を示すとともに,野戦部隊に兵力を補充するためにドイツ国防軍高等司令部がとった
手段をも示していた.このメッセージを分析した「ウルトラ」情報は以下のように述べている.

「二十六日附の西方総軍司令官のメッセージは,次に述べる二十五日附のヒトラー総統
のメッセージを引用している.

第一に,西方での戦闘の流れの結果としてすべての参謀,司令部および部隊は解散
される.後方で使用する必要のない参謀,司令部および部隊はただちに解散する.
第二に,解散された陸軍部隊は,適切な限りにおいて,戦線を強化するために
西方総軍司令官の直接指揮下に置かれる.第三に,解散された海軍および空軍部隊
は西方総軍司令官の指揮下に置かれ,野戦部隊(空挺部隊を含む)と合流するため
最短ルートで戦線に送られる.第四に,この地域の国防軍最高司令部隷下の組織は
解散され,それらの要員と装備はただちに西方総軍司令官の指揮下に置かれる」.

このメッセージはドイツ軍が直面する兵員不足を明らかにしているだけではなく,
ドイツ国防軍高等司令部が,いまだ責任を負って作戦指示を出しており,連合軍の
前進に対処するために前線部隊の諸活動を調整していたことをも示している.


■「ウルトラ」情報とSHAEFの情報要約

「ウルトラ」情報は,司令部の情報要約に影響を与えた.連合国遠征軍最高司令部
(SHAEF)は,主として西部戦線での一週間の諸活動を要約する,週刊情報報告書
を作成していたが,これにはほかの戦線で発生した重要な出来事も含まれていた.
連合国遠征軍最高司令部の情報要約の情報源として,隷下指揮官からの報告,
捕虜の尋問報告書,鹵獲文書,レジスタンスからの情報などがあった.保安制限の
関係もあって,週刊情報要約において「ウルトラ」情報が明確に登場することは
なかったが,「ウルトラ」情報が連合国遠征軍最高司令官に提出される週刊情報要約
に大きな影響を与えていたことは確実だ.


■欧州での戦争の終結はもう目の前だ

ファレーズ包囲網でドイツ第七軍が撃破された後,連合国遠征軍最高司令部の
週刊情報要約は,連合軍が直面する状況を極めて楽観的に描き始めた.
これは,連合軍がドイツ軍を部分的に撃破し,包囲網を逃れた残りのドイツ軍部隊
がドイツ国境へ向けて退却していたことを考慮に入れるならば,驚くべきことではない.

ファレーズ包囲戦の後に最初に出された情報要約は,八月十九日附のものであった.
この週刊情報要約は無防備な楽観論の模範である.この情報要約の主たる話題は,
ドイツ軍の増援不足,すでに連合軍により占領されている地点に退却を命じる命令,
ドイツ国防軍内の全体的混乱状況である.

楽観的観測で満ちた情報要約において,特に,楽観的な個所は,ドイツ軍の能力
を描写した部分に看取できる.それは以下のような内容だ.

「ドイツ軍がどのようにしてより長く抵抗できるのかを理解するのは困難である.
二つの確実なことがある.敵は戦争に敗北し,第七軍と西方装甲集団は終末への
歩みを加速化しているということである」.

八月二十六日に出された情報要約で連合軍の楽観論は最高潮に達した.
この情報要約には,米国で今もよく頻繁に引用される有名な一文が存在する.

「二ヶ月半の激戦は・・・欧州における戦争の終結を,目で見える範囲に,
ほとんど手の届く範囲にまで近づけた.パリはふたたびフランスのものとなり,
連合軍は第三帝国の国境に向かって奔流のように流れ込む」.

マーケット・ガーデン作戦の失敗の原因が情報の失敗にあると指摘する書籍や論文
は八月二十六日の情報要約を引用する.だが,そういった書籍や論文は,ドイツ国防軍
の崩壊が実現しないと書き,より悲観的になった翌週以降の週刊情報要約を引用しない
ことが多い.八月二十六日号の後に刊行された情報要約は,八月のドイツ軍とは
全く異なるドイツ軍の状況を描き出している.


■SHAEFの情報要約を支持しなかったコーク大佐

連合国遠征軍最高司令部の週刊情報要約が開陳する過度に楽観的な情勢評価に,
すべての人間が同意したわけではない.実際,前線に近い情報分析官であれば
あるほど,その分析官の書く報告書において楽観論は影を潜める傾向にあった.

米第3軍司令部G2(情報部)のコーク(Koch)大佐は,八月二十八日附の
第3軍G2情報見積第9号において以下のように述べている.

「通信網の寸断,無秩序,人員および装備面での大損害といった破壊的な要素にも
かかわらず,敵軍は,しっかりとした戦線を十分維持し続けており,戦術状況の全体的
統制を発揮している.敵の退却は継続しているが,潰走や大規模な敗走ではない・・・
敵が基本的に時間稼ぎのために戦っていることに絶えず留意しなければならない.
我が軍が狭い回廊を東進するため,まもなく天候や地形が敵の最も潜在的な同盟者
の一つとなるであろう.しかし,祖国内部の騒動やドイツ国防軍内の反乱という
かすかな可能性を除けば,破壊されるか,捕えられるまで,ドイツ軍が戦い続けると
予想される」.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.9.29




『弾丸列車計画と海底トンネル─鉄道と兵站─(14)』
 日本陸軍の兵站戦(34)

 荒木 肇
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□はじめに

 雨が長く続いています.今年はやはり,天気もどこかおかしいですね.
全国的にさまざまな事故が起きて大変です.細かい地震も多く,不安になります.

 民進党の蓮舫代表も,世論調査では期待している方が多いようです.
では,民進党が政権を担えるかという問いに,そう思うと答えた方は10%台とは.
要は個人的人気が女性に高く評価され,世間一般の受け止め方では彼女はタレント
でしかないという結果です.まあ,国家観もなく,経世に関する識見もない.
他人を攻撃する時には痛快丸出し,自分が突っ込まれるとウソを次々とつく.
これではまともな大人の男性はゲンナリです.

 民進党の新しい幹部人事をみると,あの菅さんが最高顧問,幹事長の野田さんは
自身が首相の時に,あの日教組のドン,山梨県の輿石ナニガシを幹事長にした人
です.そういえば,最高顧問の横路さんといえば,お父さんがやはり日教組副委員長
でしたね.また,ご本人も日教組関係の政治団体のメンバーです.まるで某人民共和国
のような父子相伝を思わせます.

 副代表には元日教組中央執行委員の神本さんという『慰安婦問題』の権威が
選ばれています.常任監査には左派公務員労組・自治労出身の相原さんでは,
どこが「バリバリの保守(蓮舫語録)」なんだか(爆笑).保守というのは,あの不毛
だった冷戦時代を理想とするという意味ですかねと皮肉を言いたくもなります.

 いずれにせよ,日教組や自治労の活動家を重用して,教育という国家の大事を
「刷り込み教育」に戻していこうともしているのでしょうか.そうした執行部を選ぶ人
に「期待する」という7割以上の方々がいるのです.まだ,洗脳が解けないのだろう
としか言いようがありません.産経新聞のご指摘の通りです.

 ところで,私事ですが家内の実家は神奈川県小田原市にあります.
すぐ裏に東海道新幹線が通っています.ほんとうの真裏で,線路までにあるのは防音壁
だけです.数百年も建っている民家のすぐ横に新幹線.今は亡くなった義父に聞くと,
『戦時になる前に政府から強制的に買い上げになった』とのこと.調べてみると,
戦前の弾丸列車計画の路線でした.東海道新幹線が意外に早く出来上がったのは,
戦前の計画のおかげでもありました.


▼弾丸列車計画

 トンネルの話題から関門海底トンネル,つづいて朝鮮・大陸へのトンネル計画を
紹介する.

 1912(明治45)年には新橋─下関の間に特急列車が運行されるようになった.
所要は25時間である.それが1925(大正14)年には線路の改良や経路の短縮
などが行なわれ,20時間を切るようになった.下関から朝鮮の釜山には連絡船が
あったので,半島から満洲を経てシベリア鉄道に連絡する国際列車が本格的に
検討されるようになった.
 
 列車が乗り入れるわけではないが,国際連絡輸送がこのコースで始まったのは
1927(昭和2)年の夏のことだった.釜山から満洲鉄道全体のゲージは1435ミリ
に統一されていた.わが本土との連絡も,対馬海峡と朝鮮海峡を海底トンネルで
結ぶ計画もあって,その予備的な実験もあり,関門海底トンネルが計画され始める.

 すでに明治時代には後藤新平鉄道員総裁がこのアイデアを披露していた.
1914(大正3)年ころには資料集めが始められ,同7年には帝国議会で工事の
調査開始が認められた.それが世界大戦後の不況,いわゆる大正バブルの崩壊
(同8=1919年)や続いての関東大震災(同12=1923年)のおかげで工事の
実施は保留されていた.
 
 1930(昭和5)年には東京─大阪間を結ぶ「超特急つばめ」が走った.
この区間が8時間20分になったことはすでに書いた.ただし,これはあくまでも在来線
を機関車の運行を高速化して得た結果だった.この翌年に起こったのが「満洲事変」
である.陸軍の出先機関だった関東軍が事を運び,満洲から張学良軍を駆逐し,
満洲国を生みだした.
 
▼満洲帝国の誕生と海底トンネル計画

 1934(昭和9)年には清朝の廃帝溥儀(ふぎ)を担ぎ出し執政にしていたが,
本人も望んで皇帝となり,「五族協和」をスローガンにした満洲帝国が発足する.
このころ,?介石の中国政府も,奉天─北京・天津の間の鉄道運行を認めるなど
している.これは満洲帝国を認めているかのような行動である.

 ソビエト連邦も自分がもつ北満洲の鉄道をわが国に譲るといった態度を見せ始めた.
東清鉄道は1935(昭和10)年,満洲国に譲渡され,ゲージも1500ミリのソ連規格
から1435ミリに改められた.満鉄は満洲国から鉄道の運用を任されていたので,
いわば自由に行動できた.

 中国共産党軍はこの頃,「長征」を始めており,日満の行動に介入する力もなかった.
満洲帝国の陰の支配者は,関東軍と満鉄をもつわが国であり,北海道から東京,
下関,釜山,満洲とつながる鉄路の建設が夢ではなくなった.

 おりから大量の出水に苦しんだ静岡県の丹那トンネルも完成し,技術的な経験から
も自信をもつことができた.

 では,朝鮮とわが国の間を結ぶにはどこから掘り始めるか.過去の経験が
役に立った.経験とは有名な豊臣秀吉による「朝鮮征伐=1592・文禄の役」のこと
である.韓国側ではその発生年から壬辰倭乱と称し,被害者意識ばかりで語られる.
しかし,両国の交戦関係で見直すと,わが国から見れば過去の朝鮮勢力による幾度か
の侵害から考えると初めての進攻だった.
 
 なお,「征伐」とは不穏当であり,日本の侵略への反省がないという戦後の左派学者
による主張が今も根強く,教科書にもその用語は使われなくなっている.当時から
伝わる歴史的名称も後世のイデオロギーで変えられてしまうという例である.

 余談はさておき,秀吉軍が朝鮮への渡海に使った港は肥前北部の唐津(佐賀県),
呼子である.兵站集積の拠点だった名護屋城もそこにあった.最短距離であったからだ.
その近くからトンネルを掘り,玄界灘の海底100メートル以上の深さに潜っていく案も
出てきた.壱岐,対馬を経由して釜山付近で地上に出る.そのために関門トンネルを
掘削することは重要だった.いずれ青函トンネルで北海道と本州を結び,
さらに宗谷海峡の下を掘りぬいて樺太へ行く計画も出た.本州と四国を結ぶトンネルを
掘る案も出された.

 陸軍は当然,関門トンネルや朝鮮海峡を地下で結ぶ案に好意的だった.
参謀本部の運輸通信部長だった後宮淳(うしろくじゅん)少将も満洲への軍需品輸送
の便を考えて朝鮮半島へ直通するトンネルに賛成した.その上で,まず実現可能性が
高い関門トンネルの重要性に目をつけていた.それは当時,大陸向けの軍需物資の
集積には門司と小倉が使われていたからだ.そこで後宮少将は1934(昭和9)年秋,
参謀総長閑院宮載仁(かんいんのみやすけひと)親王(元帥陸軍大将)に働きかけ,
鉄道大臣に向けて関門トンネルの実現に努力するよう意見を出してもらった.

 翌年には内田鉄道大臣は関門トンネル計画について上奏し,翌々年2月に建設予算
は議会を通り,9月には門司側で起工式が行なわれた.

▼弾丸列車計画

 1934(昭和9)年,鉄道省岐阜建設事務所長を務めていた1人の鉄道技師が
地図を見ていて気がついたという.国鉄は名古屋から関西方面に出るには2ルートある.
名古屋から岐阜へ向かう東海道本線と桑名・奈良方面に行く関西本線である.
その関西線と東海道線の間が空いているから,もう1本,伊勢,桑名あたりから京都
へ抜ける「新しい東海道線」があってもいいのではと考えた.このアイデアを本省に
持ち込み,周囲も巻き込んで話がだんだん大きくなっていった.

『東京と下関間を14時間くらいで結ぶ高速列車を走らせて,下関と釜山の間に
海底トンネルを掘りぬいて,朝鮮から満洲の奉天へ抜け,北京まで結ぼう』
という話に発展していく.

 実現化し始めたのは1939(昭和14)年8月.新幹線を造るために省内に幹線課が
でき,ついで新幹線調査会が生まれる.この調査会には海軍から山本五十六,
陸軍からは阿南惟幾(これちか),実業界からは小林一三(いちぞう)なども加わった.
この調査会では11月に答申案が出されたが,会では広軌(標準ゲージ)か従来の狭軌か
でもめた.陸軍は当初,広軌には反対,さらに電化については戦時の爆撃を受ける
ことを考えて絶対に否定した.それやこれらの議論が続き,国鉄側の島安次郎などの
調整努力もあり,大陸と同じ広軌にすることが認められた.速度も実行案が11月6日
に出されたときには,下関まで東京から9時間に決定された.

 答申によると,線路は現在線に並行する必要はない.複線がよい.長距離高速度の
旅客列車を集中して運転する.貨物列車運転のためには速度は落とさない.線路は
広軌とする.線路や建造物の規格は朝鮮や満洲の幹線鉄道と同じにし,それ以上でも
いい.東京と大阪間は4時間半,東京と下関の間は9時間を目標とする.

 次回はさらに弾丸列車計画と海底トンネルについて詳しく述べる.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.9.28




『ライター・渡邉陽子のコラム (113)─ 陸上自衛隊防災マニュアル(5)
                 渡邉陽子
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こんばんは,渡邉陽子です.

先日,雑用をあれこれ済ませ,ようやくすべて終わってさあ帰ろうと駅に向かったら,
人身事故で電車が止まったばかりではありませんか.しかもいま自分がいる駅と
自宅のある最寄り駅の間の駅で発生したとのこと.

折り返し運転している3つ先の駅に行くには,なんと3回バスを乗り継いで
行かなければならないというのです.電車の復旧を待っていたら入院中の猫の
面会時間に間に合わなくなってしまうので,40分並んでようやくタクシーに乗れました.
しかもこの路線,なんと同じ日の夜にも,今度はうちの最寄り駅で人身事故.
呪われているのでしょうか.

それにしても,折り返し運転している駅まで,鉄道会社は振替輸送バスを手配
して欲しいものです

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■陸上自衛隊防災マニュアル(5)

今回は防災訓練の一例として,2016年5月に陸上自衛隊下志津駐屯地にて
行なわれた平成28年度下志津分区防災訓練を紹介します.


下志津駐屯地は千葉市の旧陸軍下志津飛行学校跡地に位置し,高射学校と
東部方面隊隷下の部隊が所在しています.

高射学校では高射特科部隊の要員に陸上防空に必要な知識や技能の
教育訓練を行なうほか,陸上防空についての研究も行なっています.
企画室,総務部,第1・第2教育部,研究部,作戦評価室,高射教導隊によって
組織され,学校長は下志津駐屯地司令も兼ねています.


高射学校は千葉県の災害担当区分の中で県南の下志津分区,北は千葉市,
南は館山市までの22市町村(人口約200万人)を担任しています.

学校の災害対処能力としては,人員約1000名(東部方面隊隷下部隊を含む.
内訳は災害派遣500名,本部要員100名,兵站支援・駐屯地業務各200名),
車両大型約70両,中型約20両,小型約30両.施設機械として油圧ショベル1両,
バケットローダ1両,給食給水として野外炊具5台,水トレーラ7台,除染として
除染装置1台,携帯除染器AP2C13個となっています.


今回の訓練の目的は,学校と自治体との訓練を実施することで災害対処における
実効性を向上させ,今後のさらなる連携強化を図るというもの.
さらに下志津分区市町村の防災関係者に自衛隊および高射学校の災害対処態勢
や能力等についての理解を深めてもらうという狙いもあり,各自治体など関係機関
から約60名が参加しました.


10時,高射学校長兼ねて下志津駐屯地司令から「防災担当の方と直接顔を
合わせながら調整あるいは指揮所訓練を行なうことでスムーズな運営ができる.
今回はわれわれの訓練の一端や装備品を見ていただき,防災に関わる能力や装備
の概要を習得していただければありがたい」とあいさつ.続いて企画室管理班長
によるプレゼンが行なわれました.

まず災害派遣の3原則についてと,災害派遣要請から派遣,撤収までの一連の流れを
説明.陸上自衛隊,東部方面隊,千葉県,下志津分区それぞれの災害派遣区分や
過去の災害派遣活動の紹介,さらに高射学校災害対処能力や災害対処器材,
自衛隊の任務・役割(即時救援活動,応急救援活動,応急復旧支援活動)についても
触れました.企画室管理班長が熊本地震の災害派遣に参加したため,
その経験談が説明の随所に挟まれます.配布した資料をただ読むだけではない
中身の濃いプレゼンに,参加者が熱心に聞き入っているのがわかります.


続いて,首都直下地震が起きた場合の陸自の対応と,高射学校の災害派遣計画の
説明が行なわれました.ファスト・フォースが発災から60分以内に出動すること,
90以内に1個中継班(通信),2時間以内に先遣4個小隊および必要に応じて追加の
連絡班と偵察班,3時間以内に主力部隊を各地域に派遣できる態勢であることを紹介.

そして災害派遣発生時の流れや昨年度の自治体との連携状況(防災訓練への参加),
今年度の自治体防災訓練への参加予定を説明し,プレゼンは終了.作戦室に移動して
指揮所訓練が始まりました.


次回も平成28年度下志津分区防災訓練についてご紹介します.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.9.29





──[ナポレオン]→[佐久間象山]──────────────────
★幕末の思想家・佐久間象山はナポレオンを尊敬していた.その事もあって,
 ナポレオンを日本に招き将軍にして世界征服をする野望を持っていた.

──[佐久間象山]→[鏡]──────────────────────
★幕末の思想家・佐久間象山は,つねに鏡を懐に携帯していた.議論中に相手
 が軽薄な事を喋った際に「そんな事を言う君は自分の顔をご覧なさい」と言
 うため.

◎雑学大作戦:知泉
のバックナンバーはこちら
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2016.10.8




『ライター・渡邉陽子のコラム (114)─ 陸上自衛隊防災マニュアル(6)
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは,渡邉陽子です.

近所のマンション建設を,古いマンションの解体から
ずっと見てきましたが,ようやく最上階の6階部分の建設
まできました.

マンション1棟が建つまでをこうして日々観察していると
(暇ですみません),それぞれの工程で多くの業者と人が関わり,
それを工務店がしっかり進行管理している構図が
よく見えました.



現場はいつでもゴミひとつ落ちておらず,
資材もきれいに置かれています.


建設現場の整然さは,日本が世界一だろうと思います.


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■陸上自衛隊防災マニュアル(6)

先週に続き,今週も2016年5月に陸上自衛隊下志津駐屯地
にて行なわれた平成28年度下志津分区防災訓練のご紹介です.


高射学校の作戦室は,前方壁左面に会議用画面,
右面に得られた情報が時系列で記入されるクロノロジー
が映し出されるようになっています.

左側の壁には人員現況や装備現況等を記入するボード,
部屋前方中央には被害状況や部隊運用を随時反映させる
地図(オーバーレイ),その正面に学校長,副校長,幕僚長の机,
そして右手には自治体等関係者用の椅子が並びます.
なお,今回の災害のシナリオは企画室が作成しています.



10時45分,緊急地震速報が鳴り響き,千葉県東方沖40キロを
震源とするマグニチュード7.3の地震が発生しました.
千葉県の最大震度は6,テレビにはあらかじめ用意しておいた
地震のニュースが流れ,作戦室が一気に慌ただしい雰囲気に
包まれます.

室内の隊員は総務・人事の1科,情報収集・分析の2科,
部隊運用の3科,活動支援基盤の4科で構成されており,それぞれが
自らの役割にしたがって動いています.

作戦室にひんぱんに出入りする隊員がいたり,
複数の声が同時に飛び交ったりすることも多々あるので
混然としているように見えるものの,
実際は各々の役割分担に沿ってむしろ整斉としています.

例えば1科なら呼集状況および派遣可能人員の状況の確認や,
隊員および隊員家族等の被害状況の確認を急ぎ,2科なら
部隊の運用に必要な情報を収集するといった具合です.





大津波警報発令,千葉県内鉄道全線運転中止,
高速道路全面通行止めなどの情報が続々と入ってきます.

「駐屯地内装備異常なし,22号倉庫とホーク教場の1部施設倒壊」
の声は,4科からの報告です.3科長の役割を担う企画副室長が

「高射学校については初動対処部隊の連絡班を県庁に派遣.
高射教導隊本管中隊を千葉市役所,1中隊は鴨川市役所,
2中隊は茂原市役所,3中隊は市原市役所,4中隊は君津市役所,
310中隊はいすみ市役所へそれぞれLOを派遣せよ」

と指示を飛ばしているさなかに茂原市から災害派遣要請が届きます
(阪神・淡路大震災の後に災害基本法が改正されたことで,こうして
市町村による直接災害派遣の要請が可能となりました).

ちなみに今回の防災訓練では,茂原市は高射学校内の作戦室と
同じフロアに災害対策s本部を設置(茂原市防災マネージャーは
自衛隊OBです).そのため,参加した関係機関は自衛隊と
自治体の動きや相互の連携を同時に確認することができました.

また,作戦室に関係者全員が同時に入室すると身動きが
取れなくなるため,見学は交代で行なわれました.
そのためロビーにもモニタが設置され,そこに作戦室の様子が
映し出されるようになっていました.



津波第1波の観測,土砂崩れによる通行止め,家屋倒壊,
液状化による車両通行不能,歩道橋落下,アクアライン崩落など,
次々と報告が入り,クロノロジーに追加されていきます.

第1空挺団からの状況報告,第34普通科連隊からの
増援受け入れ準備,第1偵察班が茂原市へ出発など,矢継ぎ早に
情報が届く中,11時30分に千葉県庁より災害派遣要請,
その数分後に県庁が津波による浸水被害を受けます.

このような怒涛の勢いで届く膨大な情報をどのようにまとめ対処
しているのかを自治体関係者に適宜解説しているのは,
副校長兼企画室長です.




11時45分,現在までに判明した被害状況および自治体・関係部隊
の状況について報告し,じ後の高射学校派遣隊の運用
(活動地域,内容,規模)および増援部隊の活動地域等
について幕僚案を決定するため,
第1回幕僚会議が開催された後,午前の部は終了となりました.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.10.6




『弾丸列車計画と昭和初めの鉄道─鉄道と兵站─(15)』
 日本陸軍の兵站戦(35)

                 荒木 肇

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


□はじめに

 各地で自衛隊行事が目白押しです.
今年は3年ごとの中央観閲式,朝霞訓練場で
陸上自衛隊を中心にしたパレードなどが
行なわれます.

いよいよ来週末は総合予行です.
親しくさせていただいている師団長から
貴重な入場券をいただき,楽しみにしています.


 それにしても今年はまるで秋がなかったような
気がする横浜でした.30度を超えるような猛暑の
翌日には10月下旬の20度といった気温.

台風はしばしば本土を直撃,もちろん,沖縄や九州の
方々は大きな被害に遭われ,お見舞いを申し上げます.


 仲良しだった自衛官たちの退職の挨拶が
送られてきます.若年停年のおかげでみな,50代の
前半からの第二の人生です.

彼ら,彼女たちからのお便りをいただきます.
黙々と国防の任をそれぞれの場所で果たして
こられた方々との交流を思い出します.


『一隅(いちぐう)を照らす灯(ともしび)となれ』


 自衛隊の素晴らしい教えです.
どんな能力でも役に立たないことはない.
いつでも,どこでも自衛官の任務に軽重はなく,
すべては全体につながるのだといいます.


 それにしても総理の,
『いまこの場でも任務を果たしている海上保安庁,
警察官,自衛隊の皆さんに感謝をしようではありませんか』
という呼びかけに拍手が起きました.それに対して,
『違和感があった』『どこの国の国会かと思った』
という野党幹部の発言.

これで彼らに,海保職員,警察官諸官,自衛隊員たち
の生命をかけた活動に感謝の気持ちなどまるでないことが
はっきりしました.

二重国籍の党首がいるどころか,売国奴であることを
自分の口から出したのです.


 その同じ口で彼,民進党の某大幹部は自衛隊の
駐屯地の挨拶で,私の目の前で,ぬけぬけと
『皆さんの社会的地位の向上に全力で努めます』
と語っておりました.

それと比べての今回の発言.
「面従腹背」,ウソをつくことをなんとも思っていないこと
がよく分かりました.彼らには「一隅を照らす」などという
気持ちなどこれっぽっちもなく,いつも舞台でも
スポットライトを浴びていたいのです.

それが自分たち「選良」という,
まやかしのエリートの当然の権利であるかのように.


 いまだ,こんな人たちにも支持者がいる.
そのことにも,失望のため息が出てきます.



▼弾丸列車計画と海底トンネル

 1936(昭和11)年9月,関門海底トンネルは
起工式が行なわれた.九州の門司側からだった.

トンネルは上下線が別々に2本掘られることになった.
その方が安全だし,万一,完成後に事故があっても,
戦時に被害があっても復旧が易しいということもあった.

最初の一本を掘るにかかる費用は1612万円であり,
およそ1円を現在の2000円と見れば320億円余りで,
丹那トンネルの建設費2600万円(約520億円)と
比べれば,はるかに安かった.

もちろん,長さが3600メートルで丹那の半分以下でもあった.


 技術的にも進歩があり,難しい問題はあまりなかった
といっていい.そこに北支事変,のちに日華事変,
今は日中戦争といわれる日中両軍の衝突が始まった.

1937(昭和12)年7月のことだった.
当初,小規模紛争で収まるかと思われたが,
中国側の挑発や陰謀もあり,戦争というような事態
になる.そうなると大陸への兵站輸送の需要も拡大
する.掘削工事が急がれた.

下り線の開通は1941(昭和16)年7月のことになった.
待望の上り線の開通は翌年6月になり,
電気機関車による運行が始まった.
正式の開通は11月のことだった.


 こうして関門トンネルが開通すれば,
次は朝鮮半島から満洲への直通路線の建設計画が
本格的になった.

しかし,関門トンネルに比べると,朝鮮海峡の路線予想は
130キロメートル以上になる.そこでとにかく東京−下関間
の路線を改善し,下関と釜山の国鉄連絡船を使って
大陸へ延ばそうという計画が立てられた.

そのためにも朝鮮に投資してきた標準ゲージの鉄道に
つなげるための国内線の改軌が必要になった.
青函連絡船のように連絡船内に線路を敷いて,
列車をそのままに載せる.到着地では連絡船と地上の
レールを接続すればそのまま継続して走らせることができる.


 鉄道省内でも全面的な改軌について意見が分かれた.
国内での必要性の問題(つまり狭軌のままでも十分に
輸送需要には対応できる)というグループ.トンネルや橋梁,
駅設備,機関区などを改造・整備する改造費用が
かかるから今のままでいい.そういう意見をもった人たち
である.

もう一方には,そういうコストパフォーマンスを考える
のだったら,別に新しい路線を建設すればいいという
第2のグループもあった.思い切って在来線とは別に
広軌で新しい線路や設備を用意する.大陸と同じ規格
でトンネルや橋梁にも十分な配慮をすればいいと主張した.


 軍の要求は当然,広軌がいいというものだった.
まず,輸送量が倍になる.速度を速くできる.
そしてトンネルの最大幅が狭軌のままだと4.5メートル
しかない.それも安全限界は2.2メートルにしか
過ぎなかった.問題になるのは重火器や戦車のサイズ
である.

戦車兵だった司馬遼太郎氏はわが国の戦車がちっぽけ
で貧弱だったというが,大きくしようとしても(当然,大きい
戦車が有利な事は当時の軍人は誰でも知っていた),
輸送時の安全を考えたら2.2メートル以上の
車幅をもてなかったのだ.


 このことは戦後になっても問題になった.
新戦車(のちに61式戦車と制式化された)が計画
されたときに戦前の苦しみがよみがえらされた.

陸軍はシベリアの森林地帯を突破するために,
工兵機材としてクローラー付きの伐開機(ばっかいき)
という車輛を開発した.東部満洲からウスリーの
密林地帯を突進し,ウラジオストックを占領しよう
という作戦計画に応じるものだった.

ところがこれを九州に運べない.
やむなく日本海側を回してようやく運ぶ
といった事件があった.


 自衛隊では国産新主力戦車の幅を3メートルを切る
ようにまとめるとした案に落ち着いた.戦後の陸自の戦車
には米軍供与のM4,M24,M41と3種類があった.

このうちM41は主砲口径76.2ミリ,車重23.5トン
という軽戦車だったが,全幅3.20メートルだった.
全長は6.94メートルである.
姿を見てもバランスのとれた安定感ある優美な
ものだった.縦横比がおよそ7:3.


 戦車は敵の上陸地点近くまで鉄道輸送を
しなければならない.あるいは専用トレーラーで運ぶ.
そうなると道路の規格や橋の強度が問題になる.

そこで61式戦車の幅は3メートルより狭い2.9メートル
となり,重量は35トン,主砲は口径90ミリで
全長は8.19メートルとなった.縦横比がおよそ8:3である.
全体的バランスが「いささか阻害された」という証言
がある.

どうしても大きくなった90ミリ主砲を載せた砲塔の割に
正面から見るとアンバランスに下部が小さかった.


 しかし,素人が考えるほど単純に広軌がいい
というものではないようだ.レールの幅が鉄道のもつ
能力のすべてを決めると考えてもいいが,
制約はゲージではなく,線路の基盤の軟弱さや
ヤード(停車場や貨物停留所の有効長)の長さが
不足するなどの施設面が問題だった.

また,旅客列車の高速性については,当時は牽引する
機関車の動輪の直径に頼っていたから
(旅客用は1750ミリ,貨物用は1400ミリ),線路の幅が
広い方が安定性に優れていた.


 広軌が優れている点は確かに多い.
だが,それだけ余計に投資しなければ効果は発揮できない
ことを計算に入れて計画を立てねばならない.

なかなかに複雑な計算が必要なことはお分かりになるだろう.
今まで造ってきた線路と長期間にわたって輸送の分断
が起きるマイナスがあることも考えれば,
それほど安易に広軌化に賛成できるものではない.

しかし,世論やマスコミはいつも面倒で厄介な複雑な問題
の検討はしないで,華やかな主張に同調するものだ.
当時の世論は圧倒的に国際化や大国化ということで,
広軌を待望するものだった.


 改軌にもともと賛成だったのは陸軍である.
しかし,戦時において考えた時,単に輸送量の比較ではなく,
一気にはできない,つまり分断化による不利益が大きい
とした.

その結果,陸軍が広軌化に消極的だったことは
すでに書いた.しかし,実際に戦火が大陸に広がりそうに
なった1937(昭和12)年には貨車などの大型化が
望める広軌化に反対する者は少なくなっていった.


 なお朝鮮海峡トンネルの計画は,
朝鮮−対馬間52キロメートル,対馬−壱岐間49キロメートル,
壱岐−呼子間24キロメートルになった.
小倉−博多−唐津−呼子が地上部分の計画である.


▼弾丸列車計画は進む

 実行案が答申されたのは1939(昭和14)年11月6日だった.
東京─下関間は9時間だった.昭和30年代の
「新幹線計画(東京・新大阪)」を下関まで延長すれば,
やはり6時間くらいであり,現在の「のぞみ」では5時間だから,
電車列車ではなかった当時のこと,ずいぶん野心的な計画だった.


 その答申を詳しく見ると,
(1)路線は在来線と並行する必要はない.
(2)線路はすべて複線とする.
(3)長距離高速の旅客列車を集中して運転する.
  貨物列車を走らせるために旅客列車の速度を落とさない.
(4)線路のレールの幅は1435ミリ.
(5)線路と建造物の規格は朝鮮・満洲と同等もしくはそれ以上.
(6)東京−大阪間は4時間30分,東京−下関間は9時間.

 これによって,この案は15カ年計画で実行に移される
ことになった.総額で5億5610万円(およそ1兆1000億円)と
計算されたが,昭和15年から600万円(同120億円)が
投じられ用地買収と,それにともなった測量を始めることになる.

細かい数字を青木槐三氏の著書から借りると,
ゲージは1435ミリ,曲線半径は1500メートル以上,
最高速度200キロメートルの走行ができ,
勾配は上りの連続最高は1000分の10(水平面で1000メートル
走ると10メートル登る),下りは1000分の12,レールの
規格は60キロ以上(1メートル当たりの重量),
カント(カーブする時の片側線路の高さ)最大で160ミリメートル
である.

停車場の有効長は旅客列車500メートル(現在の新幹線
は16両で約300メートルといったところか),
貨物列車600メートル,旅客用ホームの高さは1200ミリだった.


 牽引用に想定された蒸気機関車をHD53型という.
軸配置は2C2,前・後従輪はそれぞれ2軸,動輪は3つ,
3気筒過熱テンダー機関車である.もう一形式はHC51型と
いわれた.

これも同じく2C2スリーシリンダー,他に貨物専用機のHD60型,
2D2過熱機関車の3種類だった.合計4種である.
HC51型は運転整備重量160トン,HD60型は172トン
というから,在来規格のC55(昭和10年製造・114トン)や
D51(昭和11年同・125トン)等と比べるとその大型化が
想像できる.

国際標準軌間を走る機関車とはこういうものだった.
電気機関車はHEF10とHEH50である.
動輪がそれぞれ6つ(F)と8つ(H)の2種類だった.
Hが付くのは試作機の記号である.制式化される前の
仮の呼び名だった.


 こうした機関車の設計と試作は1年間もあれば十分とされた.
その前に検討されたのが停車駅である.
東京,横浜,小田原,沼津,静岡,浜松,豊橋,名古屋,
京都,大阪,神戸,姫路,岡山,福山,広島,徳山,下関の17駅
であり,いまの新幹線より少ない.

路線の実キロ数は東京−大阪間492.5キロ,
大阪−下関間489.7キロを予定していた.全線では10%以上
も短縮化している.問題になったのは「熱海」である.
結局は停車することになった.


 特別急行の停車駅は,東京,名古屋,大阪,広島,下関で
全線1100キロ.これを1つの踏切もない立体交差路線を,
最高時速200キロで駆け抜ける.

そのころドイツでは時速80マイル(約130キロ)を超す列車
は2本もあった.フリゲント・ハンブルガアという特急列車である.
海の商船オイローパ,ブレーメンといった大型船,
戦艦ドイッチランドとともにドイツ国民の誇りだった.


 アメリカの高速列車はユニオン・パシフィック鉄道の
シティ・オブ・デンバーである.これが80マイルで走った.

時速70マイル(約100キロ)以上を出す列車はいくつもあった.
ハイアワサ号は74マイル,デトロイト・アロー号は73マイル
を出した.イギリスのコロネーション号はやはり72マイルである.
いずれも平均時速だった.

これに対して,わが国の超特急「つばめ」は
平均速度43マイル(69キロ),最高速度95キロでしかなかった.
そこへ最高速度150キロも出す列車を走らせようとするのだ.


 次回は,設計された新形機関車の話を中心にさらに弾丸列車計画を語ろう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.10.12





『ライター・渡邉陽子のコラム (115)─ 陸上自衛隊防災マニュアル(7)
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは,渡邉陽子です.

読書の秋到来ですね.

パソコンと携帯の登場以来,
私の読書時間はそれらがなかった時代に比べて
減りましたが,本が好きという気持ちは
変わっていません.


ただ昔のように本を溜め込まず,
読了してから「また読み返したいか否か」を判断し,
手元に残す本をかなり限定するようになりました.



モノを増やさない生活を,今後はさらに
徹底させたいと思っています.



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○ライター・渡邉陽子とは?
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■陸上自衛隊防災マニュアル(7)

今回で「陸上自衛隊防災マニュアル」は最終回です.

先週に引き続き,2016年5月に陸上自衛隊下志津駐屯地にて
行なわれた平成28年度下志津分区防災訓練について,
午後の様子からご紹介します.


午後は自治体との意見交換会が行なわれ,
自衛隊側からは大型ヘリの場外離着陸場等の確保
についての依頼がありました.

東日本大震災や昨年の関東・東北豪雨の災害では,
自衛隊の回転翼機が多くの被災者の救助を実施
したように,人員および搭載能力の高いCH-47に対応
した場外離着陸場の確保が重要となるためです.

「CH-47のダウンウォッシュによる影響を考慮しつつ,
着陸場の不測事態発生に対応できるよう複数の候補地
の準備をお願いしたい.特に山間部集落の近傍に
こういう場所があればいいのですが」

という声に,自治体関係者は地図をのぞきこみながら,
自分たちの自治体に該当する場所があるか熱心に
話しています.

そのほか,平素からの当該市町村と担当部隊長(中隊長)
との連携向上を図るため,分区内の担当中隊長を
防災会議委員として委嘱してもらいたいという要望も出され,
自治体側からも積極的な発言が相次ぎました.


22市町村もあれば自治体ごとに多少の温度差は
あるでしょうが,災害に備え,いざという時は被害を
最小限にとどめたいという思いはどこも同じです.

自衛隊側も東日本大震災以降,従来の見せる展示型
防災訓練を見直し,自治体を主体とした指揮所訓練の
必要性を再認識しました.

そのため自治体が実施する訓練にも積極的に参加して
自治体とのさらなる連携を図り,実効性のある
災害対処を行なっています.


最新の世論調査によると,自衛隊が存在する目的は
「災害派遣(災害の時の救援活動や緊急の患者輸送など)」
が81.9%と,「国の安全の確保(周辺海空域における安全
確保,島しょ部に対する攻撃への対応など)」の74.3%
を抜いてトップとなっています.
「自衛隊はどのような面に力を入れていったらよいと思うか」
という質問の回答も同様です.

災害派遣は自衛隊の主たる任務ではありませんが,
災害派遣における国民の自衛隊に寄せる期待と信頼は
きわめて大きいものです.


阪神・淡路大震災では被災地でのボランティア活動にも
注目が集まり,「ボランティア元年」とも言われています.

自衛隊の災害派遣はそれ以前から行なわれていましたが,
阪神・淡路大震災での規模は過去に類を見ないものだったこと,
その後は法整備や各種見直しが行なわれ,さらには
自衛隊に対する世論まで劇的なまでに変わったことを
考えると,自衛隊にとっては「災害派遣元年」といえるかも
しれません.

災害大国ともいえるわが国において,自衛隊の備えと
対処能力は今後もさらに高まっていくことが予想されます.


(陸上自衛隊防災マニュアル おわり)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.10.14




▼自衛官の引越し

 前回自衛官の引越しについて少し書きました.
今回はその引越しがメインテーマです.


 幹部自衛官,とくに防衛大学校や一般大出身の
幹部は,平均2年ごとに異動があります.
勤続年数は32〜34年くらいなので,多い人では
17回の引越しを経験することになります.

当然手当は付きますが,家族で移動となると
費用がかさみます(たとえばピアノとか).
これが「引越し貧乏」と言われる理由です.


 引越しには準備するタイミングが大事です.
異動内示が出てから引越し準備が始まるのですが,
その内示がなかなか出ない場合があります.

とくに1佐以上になると,
異動日まで1週間くらいしかない場合があります.
1週間で異動先の官舎の調整や引越し業者の
選定などをしなければなりません.
子供がいる場合,転校の手続きも必要になります.


 異動は主に3月と8月の年に2回あります
(将官など高級幹部の場合は別).
8月は異動のシーズンを外れているので問題は
ないのですが,3月は事務官や一般の公務員など
の異動が集中するため,引越し業者がなかなか
見つからないこともよくあります.

自衛官の場合,最後の手段として大型を
レンタカーで借りて,引越しを職場の仲間に
手伝ってもらうという手があります.
自衛官はたいがい大型免許を持っているからです.


 とくに引越し業者が少なかった20〜30年前までは,
自衛官どうしで助け合っていました.

しかし当然業者のような引越しのプロではありませんし,
引越し用の器材もありません.そこでいろいろな
ハプニングが起こります.私の場合,タンスに穴を
あけられました.

またある人は,タンスを誤って2階から落とされて
バラバラにされたこともあります.それでもとくに
問題になることはありませんでした.今と比べると
おおらかだったのでしょう.


 官舎の奥さんたちは,荷物を出したあとの部屋
のふき掃除などを手伝ってくれます.最後に業務隊
の官舎係の点検で終わりです.


 引越しというのは住環境が変わるので,
かなりのストレスですが,とくに家族にとっては大きい
と思います.人間関係をまたゼロから始めなければ
いけませんし,生活そのものが激変する場合が
あるからです.以下私の例です.


 若いころ,私は福岡の市街地の官舎から本州の
とある村の官舎に引越したことがありますが,
まわりは何もなく,買い物も,通院も,外食も
すべて車が必要なところでした.

通勤経路も田んぼのあぜ道で,
往きは毎朝近くの牛に挨拶をし,帰りは街灯が
ないため懐中電灯をもって用水路に落ちないよう
注意して歩かねばなりませんでした.


 官舎も昭和30年代の木造平屋で,
隙間だらけのうえ,部屋の中央が凹んでいます.
冬は水道の蛇口から氷柱ができ,
夏は屋根がトタンのため,耐えがたい暑さになりました.
官舎代が月2000円だったのを覚えていますが,
とても人が住める環境ではないと思いました.


 子供はまだ赤ん坊だったので学校の心配は
ありませんでしたが,妻はかなりのショックを受けて
いました.引越しをしたその日に泣きながら
「早くここから出してよ」と言われ,一念発起.

家族のため猛勉強をして,幹部学校(当時は市ヶ谷)
の試験に合格し,1年でその官舎を脱出,
東京近郊に移ることに成功しました.


 ほかの軍隊ではどうでしょう?

 米軍の場合,海兵隊がいちばん転属が多く,
ひどいときは3カ月ごとに世界中を異動します.
主に日本,韓国,ドイツですが,彼らの場合,
移動に家族ぐるみで軍用機の使用ができるそうです.
自衛隊でもかなり昔には自前のトラックで近距離
の引越しを支援したり,小学生の通学にトラックを
出したことがあると聞いたことがありますが,
さすがに飛行機はないでしょうね.

そういえば私の同期が駐屯地のリヤカーを
借りて引越しをしていたのを思い出しました.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.10.20




『ライター・渡邉陽子のコラム (116)─ 高等工科学校(1)
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
こんばんは,渡邉陽子です.

先週,桜林美佐さんのネット番組「国防ニュース最前線」に
出演させていただきました.

自分の容姿や下品な話し方が正視できず,
前回出演させていただいた際に冒頭を3分ほど
見たのが限界で,今回もアップされたものは
見ていません.


ほかの方に見られるのも恥ずかしいので
自分からは告知もしません(桜林さんすみません!).

じゃあ出演しなければいいという話なのですが,
桜林さんとお話するのは楽しくて,
ついつい「喜んで!」と足を運び,ぺらぺらと
しゃべってしまうのです......
できればお面かぶりたいです.



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■高等工科学校(1)

今週から数回にわたり,
今年6月に取材し,JDA Club2016年夏号に掲載された
陸上自衛隊高等工科学校の記事に,
大幅に加筆してご紹介します.


陸上自衛隊では近代化する装備を取り扱う人材
の育成を目的として,昭和30年に生徒制度が
発足しました.昭和38年度には少年工科学校を開校,
少年自衛官に対する教育を行なってきました.

その後,平成22年度からの自衛隊生徒制度の変更に伴い,
少年工科学校は高等工科学校となり,
これまでの伝統を継承しつつ任務の多様化や
高等学校教育の趨勢など,時代の変化に対応した
教育を行なうこととなりました.


陸上自衛隊武山駐屯地の敷地内にある高等工科学校は

「技術的な識能を有し,知徳体を兼ね備えた伸展性ある
陸上自衛官としてふさわしい人材を育成する」

という理念のもと,陸上自衛官を育成する組織です.

少年工科学校時代の生徒は「3等陸士」だったため
月額約15万円の俸給がありましたが,現在の生徒は
特別職国家公務員で自衛隊員の身分になるため
(現在の生徒は自衛隊員ではありますが自衛官ではありません.
3士だった生徒は自衛隊員かつ自衛官です【自衛隊員という
くくりの中に自衛官も含まれます】),

「生徒手当」という名称で,額面で約10万円が支給されます
(ほかに「期末手当」もあります).自衛官ではないので
制服も装いを新たに,かつての陸上自衛隊の制服
とほぼ同じスタイルから,防衛大学校の制服と似た
詰襟となりました.全員が駐屯地で生活し,衣食住は無料です.


ここでの3年間の教育は普通科高校と同様の教育を
行なう「一般教育」,工業高校に準ずる電子機械工学や
情報工学などの門的技術の教育を行なう「専門教育」,
陸上自衛官(陸曹候補者)として必要な防衛教養や各種訓練
を行なう「防衛基礎学」からなります.学校の教育体系は,
これらにクラブ活動を加えた4本柱となっています.


専門教育と防衛基礎学は高等工科学校ならではの教育なので,
補足としてパンフレットに記載されている説明を加えておきます.
まず専門教育ですが,

「陸上自衛隊では,高機能化・システム化された多くの車両,
通信電子機器,火器及び航空機等を装備してあらゆる任務を
遂行します.これらの装備品の能力を発揮させるためには,
専門的知識や技能が必要とされており,この能力が本校生徒
に求められています.

このための教育は,本校における教育と卒業後に
おこなわれる教育に大別され,本校においては,
3学年時に将来の技術的スペシャリストとしての素地を
身につけるための教育を実施しています.」

としています.

具体的には,電子機械工学,情報工学,ロボット制作等を
通じての教育などが行なわれます.


防衛基礎学は,
「陸上自衛官として必要な基礎的事項の教育」
とあります.

さらに「課目は,法令等を学ぶ服務及び防衛教養と,
野外における基礎的な行動を学ぶ戦闘及び戦技訓練に大別
されます.この他,学年ごとに特色ある競技会を行って
体力・気力・チームワークを養い,また職種学校研修等を
行って陸上自衛隊に関する理解と知識を深めるように
しています.1・2学年は,主に駐屯地内の訓練場で行います.

(行進訓練時は部外地を使用します.)この教育は課目の
特性上,訓練準備等に時間を要するために集中訓練
という名称でまとめて行うようにしています.3学年は,
総合的な訓練を行うために東富士演習場で行う課目もあります.」

とあります.


余談ですが,今夏,東富士演習場での訓練中に
生徒の集団食中毒が発生しました.

なにがあったのかとニュースを目にしたとき思わず緊張した
のですが,その後「調理担当の生徒がちゃんと手を洗って
いなかったっぽい」という話を別のところから聞き,
深刻な原因でなくよかったと安堵すると同時に,
演習場での訓練中に腹痛に見舞われた生徒たちの悲劇
を想像し,申し訳ないけれど少し口角がゆるんでしまいました……
手洗いって大事ですね!


次回は高等工科学校長インタビューなどをご紹介します.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.10.27






マーケット・ガーデン作戦とインテリジェンス (24)
                長南 政義
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


□前号までのあらすじ

本連載は,精確な内容を持つインテリジェンスが
一九四四年九月上旬に連合軍の指揮官に利用されたかどうかを
考察することにある.実は,インテリジェンスの内容は,
マーケット・ガーデン作戦実行に伴うリスクを連合軍の指揮官に
警告していた.


指揮官が決定を下すために利用できるインテリジェンスの
情報源は数多く存在していたが,本連載では「ウルトラ」情報に
より提供されたインフォメーションにのみ焦点を当てて
考察を進めることとする.

第二次世界大戦を通じて,連合軍の戦略レヴェル・作戦レヴェル
の指揮官たちはウルトラ情報を活用し,ウルトラ情報の
精確性に関してめったに疑いを持たなかったからだ.



この数回,連合国によるマーケット・ガーデン作戦までの
「ウルトラ」情報の利用について述べている.
前回は,「ウルトラ」情報が生み出した,
連合国遠征軍最高司令部(SHAEF)の楽観論について説明した.



「ウルトラ」情報は,司令部の情報要約に影響を与えた.
連合国遠征軍最高司令部(SHAEF)は,主として西部戦線での
一週間の諸活動を要約する,週刊情報報告書を作成していたが,
これにはほかの戦線で発生した重要な出来事も含まれていた.

連合国遠征軍最高司令部の情報要約の情報源として,
隷下指揮官からの報告,捕虜の尋問報告書,鹵獲文書,
レジスタンスからの情報などがあった.

保安制限の関係もあり,
週刊情報要約において「ウルトラ」情報が
明確に登場することはなかったが,
「ウルトラ」情報が連合国遠征軍最高司令官に提出
される週刊情報要約に大きな影響を与えていたことは確実だ.


ファレーズ包囲戦でドイツ第七軍が撃破された後,
連合国遠征軍最高司令部の週刊情報要約は,
連合軍が直面する状況を極めて楽観的に描き始めた.

ファレーズ包囲戦の後に最初に出された情報要約は,
八月十九日附のものであったが,この情報要約の主たる話題は,
ドイツ軍の増援不足,すでに連合軍により占領されている地点に
退却を命じる命令,ドイツ国防軍内の全体的混乱状況であった.


八月二十六日に出された情報要約で連合軍の楽観論は
最高潮に達した.この情報要約には,米国で今もよく頻繁に
引用される有名な一文が存在する.

「二ヶ月半の激戦は・・・欧州における戦争の終結を,
目で見える範囲に,ほとんど手の届く範囲にまで近づけた.
パリはふたたびフランスのものとなり,連合軍は第三帝国の
国境に向かって奔流のように流れ込む」.


だが,連合国遠征軍最高司令部の週刊情報要約が開陳する
過度に楽観的な情勢評価に,すべての人間が同意したわけではない.
実際,前線に近い情報分析官であればあるほど,
その分析官の書く報告書において楽観論は影を潜める傾向にあった.


今回は,連合軍によるアントワープ占領とその影響について述べる.



■アントワープ占領は第二次世界大戦最大の失敗?

九月四日,連合軍は,アントワープを占領した.
だが,アントワープは,連合軍によるドイツ国防軍追撃の
限界点であった.ドイツ軍に対してさらなる攻撃を仕掛けることが
できなかった失敗は,ドイツ軍が防禦態勢を再編成する
時間的余裕をヒトラーに与えた.

英国のモントゴメリー元帥の伝記の著者である
アリスタ・ホーンは以下のように述べている.


「一九四四年九月初めにアントワープとその接近路を占領した
という失敗は,年月を経過して,第二次世界大戦最大の錯誤の
一つであることが明らかとなった.

この失敗は,(筆者注:モントゴメリーによる)アルンヘムの失敗
よりも大きい.この失敗とアルンヘムの一件は密接に関係
している」
(出典:アリスタ・ホーン『モンティ 孤独なリーダー 一九四四〜一九四五』).


英第三十軍団軍団長のブライアン・ホロックス将軍は,
この意見を繰り返し以下のように述べている.

「私の考えでは,九月四日は,ラインの戦いにとって重要な日付で
ある.もしわれわれがその日も前進することができたならば,
敵の薄い防衛線を破って,北方へ前進することができたであろう.
我々を止めるものは少し,もしくは何もなかった」
(出典:ブライアン・ホロックス『軍団司令官』).


■ホロックスの機甲師団,アントワープ港を無傷で占領後,停止を命じられる

ホロックス将軍率いる第三十軍団の先頭師団である
第十一機甲師団は,九月四日アントワープに入城し,
直ちに港湾を占領した.

こうして,アントワープ港はほぼ無傷のまま,
連合軍の手に落ちた.これ以前の日々の英第三十軍団の
迅速な進撃が,ドイツ軍にアントワープ港の重要インフラを
破壊させる時間的余裕を与えなかったのだ.


英国軍は,アントワープ占領に加えて,
グスタフ=アドルフ・フォン・ツァンゲン歩兵大将率いる
第十五軍の退却路を遮断することに成功した.
約八万名の将兵で構成される第十五軍は,
英第二軍とスヘルデ河の間で罠に落ちた形となった.

コーネリアス・ライアンは,第十五軍の代替退却路を遮断するために,
英国軍がアントワープの北方に向かって前進しなかった失敗を,
「最大のミス」と評価している.ライアンは,以下のように述べている.


「ルントシュテット元帥は,迅速に戦況を利用して,
連合軍にアントワープ港を使用させないようにしながら,
第十五軍を退却させる計画を考案した.

ルントシュテット元帥は,ツァンゲン歩兵大将に対して,
スヘルデ河を渡河してワルヘレン島に行くように命じた.
そうすれば,第十五軍は,欧州大陸とつながっている
南ベーフェラント半島へ後退することができるであろう.

ホロックス将軍によれば,「ブリュッセルとアントワープを
占領した後,英第三十軍団は進撃停止を命じられた.
示された理由では,われわれは軍事資源を使いつくした
ということであった」.


■南ベーフェラント半島遮断失敗の影響

連合軍が南ベーフェラント半島遮断に失敗したことは,
第十五軍の大多数がオランダに逃走することを
可能としてしまった.

そして,包囲網から抜け出すことに成功した第十五軍の
将兵は,オランダで,マーケット・ガーデン作戦に
抵抗するための貴重な戦力となったのである.


さらに,第十五軍の将兵がマーケット・ガーデン作戦に
参加できたことに加えて,ドイツがスヘルデ河河口北側の
支配を維持し続けることができたというメリット
(連合軍にとってはデメリット)もあった.

というのも,そこを占領し続けることで,
連合軍によるアントワープ港の使用を妨害できたからである.
ドイツ軍がワルヘレン島と南ベーフェラント半島に大砲を
配置すれば,連合軍はそれを除去しない限り,補給物資を
満載した輸送船にスヘルデ河河口を通過させることができないのだ.


実際,連合軍の最初の輸送船がアントワープ港に
初めて入港したのは,一九四四年十一月九日のことであった.


■ドイツ軍,ワルヘレン島死守を命じる

ドイツ軍がいかにして連合軍によるアントワープ港使用を
妨害しようとしているのかを示す最初の「ウルトラ」情報が
報告書として提供されたのは,九月五日のことであった.

ヒトラー総統の命令を転信する際に,B軍集団が,
ワルヘレン島とフラッシング・ハーバーを保持する重要性
について述べていたのだ.スヘルデ河河口部,
しかも河口部が最も広がっている地点に位置する両所は,
わずか2マイルしか離れていない.


九月六日附の「ウルトラ」情報は,「ワルヘレン島の指揮官には
要塞司令官と同等の権力が附与されている」と報じている.
さらに以前の報告書では,最後の一兵まで死守せよと
命じられている,と書かれていた.


九月七日附の「ウルトラ」情報は,「六日遅くまでに,
北部海軍司令官が,ワルヘレン島防衛がスヘルデ河口防衛
の鍵として極めて重要なものとなった,と指摘している」と
報告している.


第十五軍に対する九月七日朝附のヒトラーの命令は,
「従って,スヘルデ河河口部は,歩兵を含む適切な占領態勢,
ワルヘレンおよびスハウウェン島の堅固な防衛により
閉じられなければならない」.

いまや,ドイツ軍が連合軍のアントワープ使用を妨害することに
最重点を置いていることが明白となったのだ.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.10.27





▼機関車の軸の数の話


 弾丸列車計画の蒸気,電機機関車はもちろん完全に国産だった.
初めての標準軌間に使う機関車である.初めて英国製の
小さなタンク機関車を見て,「陸蒸気(おかじょうき)」と驚いたのが
1872(明治5)年のことだった.それからわずか半世紀,
国産機関車は設計・生産され実用化されていた.




 大陸に渡り,外地の線路を狭軌に変えて戦った.
ロシアの東清鉄道はアメリカなどの標準ゲージより広い
5フィートもあった.そのままでは機関車が走れないので,
上陸した日本軍は鹵獲したロシアの貨車を手で押すしか
なかった.


急いで欧米に機関車を発注しても時間がかかる.
経費も増える.そこで2本の線路の片方を外し,
間隔を狭くして3フィート6インチ(1067ミリ)に変えた.
しかし,これにも無理があった.ポイントはスムースに働かず,
ターンテーブルでも重量が片方に偏って脱線事故なども
多発したらしい.




 また,厳しい寒気が訪れる冬の間,それまで日本人が
経験したこともない事故があった.機関車の水槽や給水パイプ
などが凍結,破裂もした.これらもロシアの技術を盗むこと
で解決してきた.それにしても,機関車の国産とは難しいものだった.




 蒸気機関車を形式別に分けることは知られている.
機関車には小さな車輪と大きな車輪がある.
まず,小さな先輪(せんりん),大きな動輪,キャブ(運転台)の下
にある,やはり小さな従輪(じゅうりん)になる.


これを数字とアルファベットを組み合わせて表示する.
たとえば,1−C−1といえば,先輪が1,動輪は3つ,
従輪が1つということになる.わが国最初の陸蒸気である
1号機関車は1−Bである.




 1911(明治44)年になると,6700型といわれる国産機が
初めてできた.これは従輪がない2−B−0というものだった.
この時代,狭軌の鉄道では強力な機関車を造るためには,
従輪をつけて大きな火室をもつボイラーを載せるのが常識に
なっていた.


従輪がないということは,つまり火室が小さい,
石炭を燃やす火床が狭いということである.火床が小さくては
十分な火力が得られない.蒸気を作りだす力が弱いということ
になり,それだけ非力な機関車ということになる.




 これからは齋藤晃氏の『蒸気機関車の挑戦』の記述に
多くを負うこととする.日露戦争後に当時の「官鉄」の基本方針
は旅客用には2−B−0,貨物用は1−D−0だった.


それというのも,当時の設計陣は従輪を付けると動輪にかかる
重量がそれだけ減ることを問題にしていた.ちなみに車体の
重量を軸数で割って「軸重」というが,これが機関車の牽引力
に当然関わってくる.


軸重が重ければ,それだけ線路への粘着力が増えると
いうわけだ.その代わり軸重が増えれば,それだけ頑丈な路盤
が必要になるし,レールの規格(1メートル当たりの重さ)も
上げなくてはならない.


そんなこんなで,とにかく機関車の重さが同じなら軸を
増やすのは軸重が減るということで,機関車の牽引力が
小さくなるということだ.




▼機関車のボイラー


 ボイラーは前に煙突があり,後ろには火室がある.
火室は運転席に突き出していて,蓋を開けて火床に石炭をくべる.
燃え上がるためには空気の流れがあり,後ろ(火床)から前に
向かって登り坂のように傾いていることはすぐ分かる.


すると,その最も下の端は動輪の中心線近くにまで下がる.
すると,従輪がない機関車の場合,火床の中の火格子は
動輪の間,つまりフレーム(枠組み)の間に落としこむこと
になる.




 この車輪の間の幅を決めるのは線路のゲージである.
車輪幅が1067ミリしかないから,火床の幅がせいぜい70センチ
くらいしかとれなかった.すると2.2平方メートルの火格子を
つくれば長さが2.7メートルにもなってしまう.


そんなに奥深いと,機関助手がどれほど投炭訓練をしようと
奥まで石炭が届かせるのが難しい.それが標準軌(いわゆる
広軌=1435ミリ)になれば,火床の幅は107センチになる.
そうなれば奥行きは2メートルですむ.また,長さをそのまま
2.7メートルにしておくと,火床面積は5割増しになり,
かなり高出力になる.




 これが従輪をつければ,火格子を広くすることができ,
ひいては大きなボイラーを載せることが可能になる.
狭軌の機関車でも,従輪を付けることで(ひいては軸重が分散
されても)大きなボイラーを付け,高出力を出すことが可能だった.




 1917(大正6)年には,横浜線(東神奈川〜八王子)の
原町田と橋本の間を3線化した.標準軌に変えた
タンク機関車B6を走らせてみた.


火室は幅広になり,ボイラーのパワーは1.4倍になった.
実験は成功だったが,1919(大正8)年には,国鉄は狭軌の
ままでゲージを変えないという大方針を立てた.
やはり国力の限界というか,改めての鉄道設備の全国的な
大改築をするほどの金がないということだった.




 わが国の機関車は狭軌鉄道の中で従輪を付けて出力を
上げる方向に進んだ.C53,C54,C55という
大型テンダー機関車(炭水車付き)が次々と投入されていった.




▼弾丸列車計画の機関車まで


 北支事変(後,日華事変)が勃発した1937(昭和12)年7月
の近衛内閣の鉄道大臣は中島知久平である.


中島は海軍機関学校出身の機関科将校だった.航空機を国産化
するという熱意に燃えて,機関大尉のときに予備役に自ら入った.
中島航空機をつくった英雄である.鉄道省の使命は大陸との連絡
であると言明し,大陸に向かう東海道山陽の幹線輸送力増強の
方針が打ち出された.




 陸軍は当時,まだゲージの分断化を嫌っていた.
狭軌で輸送力が少ないから増やせというより,全国の鉄道が
バラバラの規格で一貫化しないことの方を恐れたのである.
しかし,東海道と山陽に関してだけは,なんとか広軌による
新幹線の建設が企画されるようになった.




 客車はアメリカのそれを参考にした.すでに南満州鉄道では
アメリカ製の客車が使われていた.長さは25メートル,
郵便車と手荷物車は22メートルと短くされた.これは満鉄の
特別急行「あじあ」の反省から生まれたという.
どちらも中はがらがらである.それに25メートルはもったいない
という理由からだ.




 齋藤氏は要目を著書に載せている.それによれば,
1等展望車(イテ)は空車重量50トン,定員19人,1等寝台(イネ)
は同じく52.5トン,20人,2等座席車(ロ)同40トン,同80人,
2等寝台車(ロネ)同52.5トン,36人,3等座席車(ハ)40トン,
96人,3等寝台車(ハネ)43.5トン,66人となっている.


他に食堂車(シ)同50トン,36人,手荷物車(テ)38.5トン,
荷物15トン,郵便車(ユ)37トン,郵便物17トンである.




 編成は特急列車(昼行)で,ニ+ハ×5+シ+ロ+イテの9輌で
牽引重量425トン,乗客357人(定員の60%乗車).
夜行特急の場合はニ+ハ×3+ハネ+シ+ロネ×2+イネの9輌,
同450トン,同270人である.これに普通急行,それにも昼行,
夜行がある.そして夜行急行があった.


普通急行はいずれも12輌編成,夜行急行は
15輌(732トン・定員524人)というものだった.
満鉄の「あじあ」が6輌編成だったことからみても実現したら,
当時としても世界的な長大列車だった.




 東京と下関間は特急で9時間,急行で11時間,夜行急行で
12時間という.この夜行急行はつい以前のブルートレイン,
寝台特急「富士」や同「さくら」よりもやや速い.蒸気機関車が主力
だった時代にとてつもない記録だったことは疑えない.




 当時の国産大型機といえば,有名な満鉄の「パシナ」型だった.
ただ,最高速度は135キロ,運転速度は110〜120キロ程度
だったので,直線の平らなところでは150キロで走りたかった
「弾丸列車」からみれば力不足である.




 ところで,準国鉄のような南満州鉄道(満鉄)の機関車は
どのように育っていったのだろうか.1911(明治44)年には
大連郊外に車輛工場を造った.1914(大正3)年からは輸入
したアメリカ製の機関車をコピーしながら独自で製造を始めた.
この国産化前までに輸入された機関車は257輌らしい.




 内訳は208輌が米国,45輌が英国,特殊なクレーン機関車4輌
がドイツ製となっていたという.形式で分けると,
1−D(先輪1軸・動輪4軸)の貨物用機関車が
108輌(うち40輌が英国製)と最大だった.


近距離区間用の1−C−2のタンク機関車が69輌,
混合列車用の1−C−1が35輌,軽量の旅客用2−B−0が
4輌,旅客用の2−C−0が30輌,急行用の2−C−1が7輌あった.
ほかクレーン機関車である.こうしてみると,輸送の主力は
貨物だったことがわかる.




 急行用の2−C−1(軸配置の愛称はパシフィック)とは
いえ,動輪の直径は1753ミリでしかなく,ボイラーも細かった.
それが面目を一新したのが1919(大正8)年の「パシニ」型
の国産化成功である.


 次回はこの満鉄の機関車の機構や技術を調べてみよう.




(以下次号)




(あらき・はじめ)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.10.26





『ライター・渡邉陽子のコラム (117)― 高等工科学校(2)
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


消印所沢さま


こんばんは,渡邉陽子です.


『オリンピックと自衛隊』にプロフィールを載せる際,出身地を千葉県と
書いたのですが,小学校入学時に神奈川県に引っ越して以来,
ずっと神奈川に住んでいます.本籍も神奈川です.


そのため千葉と言われても私にとっては縁遠く
自分のことではないようで,書くことに非常に違和感がありました.
で,今さらですが今日になって調べたら,出身地=出生地では
ないのですね!


 そうだとばかり思い込んでいました.いちばん長く住んでいる
場所を「出身地」としてもいいそうで,「神奈川って書けばよかった」
と激しく後悔しています.というわけで,まずはこのメルマガの
プロフィールから修正していただくことにします…


( エンリケです.
この号から,渡邉さんの略歴の出身地を修正しています.
サイト(*)は修正済です.
(*)http://okigunnji.com/watanabe/category5/entry119.html )


以下,私信です.


H様
詳細な情報をありがとうございます.初めて知ることばかりで,
大変勉強になりました.


T様
おっしゃる通りです.稚拙な発言に対する的確なご指摘,
ご意見をありがとうございました.






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■高等工科学校(2)


学校組織は学校長のもとに自衛官と文官の副校長が各1名,
企画室,総務部,教育部,生徒隊で構成されています.


教育部には「一般教育」を担当する第1教官室,
「専門教育」を担当する第2教官室があります.


生徒隊は「防衛基礎学」を担当し,
第1〜3教育隊(一般高校の1〜3学年に当たります)が置かれ,
さらにそれぞれの隷下に1個区隊約30名からなる
区隊(一般高校のクラスに当たります)が11個あります.


卒業後は士長に任官,生徒陸曹候補生課程に進み,
約1年間の教育を受けたのち3等陸曹に昇任します.
あるいは防大,航空学生の道へ進みます.


3曹就任後は,衛生科を除く各職種の技術分野における
陸曹として勤務します.ほか,選抜試験を経て
陸曹操縦学生(ヘリ)や部内幹部など,幹部として
勤務する道も開けています.




高等工科学校長兼ねて武山駐屯地司令である
滝澤博文陸将補は,少年工科学校から防衛大学校へ
進学して幹部自衛官となり,いくつもの要職を務めてきました.


「われわれの時代は,『19歳で技術陸曹の3曹となるのが
お前たちの目標だ』と言われてきました.


しかし今,私は『19歳で技術陸曹の3曹になるのはひとつの
通過点だ』言っています.卒業生は自衛隊のほとんどの
コースに進んでいて,行ってないのは防衛医大くらいです.
つまり,あらゆる可能性が開けているのです.


今や技術陸曹の3曹を育成するためだけの学校ではありません.
とてもいい形に変わってうれしいですね」


職員への要望事項は「情熱と愛情,理論と実践」.


「私は常々,生徒たちのことを『陸自の今後30数年の将来を
担う宝』だと言っています.というのも,私くらいの年になると,
要所をみんな少年工科学校出身者が押さえているのです.
階級も所属もいろいろですが,それぞれが今いるポスト
でしっかり評価されているというのが素晴らしいことです」




滝澤学校長の時代は親の希望や家庭の事情で入校する
生徒が目立ったそうですが,今は「自衛官になりたい」という
確固たる意志を持ち,自ら高校工科学校進学の道を
選んでくる生徒のほうがはるかに多くなっています.


「自分の意志でやってくる生徒は知能も高く伸びしろがあり,
成長が楽しみです.実際,着任したとき,
生徒たちの何事にも一生懸命打ち込む姿を見て感心しました.


また,ここでは先輩が後輩を教える機会が非常に多いので,
生徒にとっては大変でしょうが,3曹になれば陸士を育てる
という大事な役目が待っています.その経験を早くから
経験することが,結果として本人を伸ばすことになるのです」




さて,生徒は全員,入校と同時に校内の生徒舎で,
日課時限にしたがって規律正しい団体生活を送ります.


起床は6時,すぐさま上半身裸で生徒舎前へ集合し,
点呼と乾布摩擦.清掃を済ませてから7時に朝食,
8時に朝礼と国旗掲揚,そして8時半から12時まで授業です.


昼食を挟み13時から15時35分まで再び授業,
終礼の後は18時までクラブ活動です.


入浴や夕食を終えた後は20時から22時まで自習室にて自習時間,
消灯は22時30分ですが,必要がある場合は延長しての
自習も可能です.このスケジュールは防衛大学校とほぼ同じですね.




次回は高等工科学校の職員たちをご紹介します.






(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.11.3




『南満州鉄道の列車たち─鉄道と軍隊─(17)』
 日本陸軍の兵站戦(37) 荒木 肇
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


□はじめに


 いよいよアメリカの大統領選挙が近づいてきました.
楽勝のように見えたクリントン氏が意外や苦戦,
最初は日本のマスコミでも泡沫候補のような悪意ある
扱いを受けたトランプ氏が健闘中.まったく将来が読めません.


 また,お隣の韓国では,女性大統領が史上最低の支持率
となり,窮地に追い込まれています.
どうも権力者には腐敗とミスが多発するお国柄とつくづく
ため息が出ます.そして,火遊びが大好きな北朝鮮の
指導者たち.盛んにミサイルを撃ちあげています.


 中国はいまだに尖閣諸島を狙う態勢を変えることもなく,
フィリピンとの関係もどうなることか見えてこない.


 そこへもってきて沖縄の大阪府警の機動隊員の「暴言」問題.
もっとも暴行や暴言,脅迫などは県外からの「平和主義者」の
ほうが,むしろ積極的だとか.おかしさ,いかがわしさは
前から分かっていましたが,新聞やテレビ局といった
マスメディアの偏向ぶりはますます明らかになってきています.


 ネットを中心にした「真相」や「事実」が次々と世間に知られる
ようになってきて,ある勢力は焦りを感じているのではないでしょうか.
某東大教授とかいう人の「暴言を引き出してうまくやったな」と
言わんばかりの発言も暴露されています.


 古くから伝わる暴力革命の煽動者の手口です.騙されない人
がいるということを理解していないのでしょう.何のために学問や
知識があるのでしょうか.


 さて,今回は,案外知られていない南満州鉄道の実態です.


▼特急「あじあ」


 1932(昭和7)年,「五族協和」を理想とする満洲国が造られた.
まず,メインの鉄道は大連と新京(長春)の間である.
距離は701.4キロメートル.内地では下関と岐阜(700.2キロ)の
間に匹敵する.当時,超特急「つばめ」はそこを約12時間で走っていた.


 戦後になっても,少し前まで東海道・山陽線の寝台特急「はやぶさ」は,
同じ区間を9時間55分で走っている.それよりも1時間半近い速さ
で駆け抜けて行った.満鉄の特急「あじあ」の速さがしのばれる.
しかも,全経路を蒸気機関車が牽引し続けたのだ.


 特別急行列車を走らせようとする計画は早くも建国の翌年に
満鉄の役員会で決まった.それまでの急行「はと」の所要時間
10時間半を一気に2時間も縮めようという計画だった.


 編成は手荷物郵便車+3等車×2+食堂車+2等車+1等展望車
の合計6両編成.定員は292名,増備車として展望室がない1等車が
あった.客車の全長は24.5メートル,台車は3軸であり,
スウェーデン製ローラーベアリング付きで抵抗を減らし55トンの重量
を支えた.その名は「あじあ」.塗られた色は淡い緑で下方には白線
が1本入っていた.流線型の車体はドイツ製の高張力鋼材で造られ,
金具類をアルミニウム,マグネシウムを使って軽量化を図った.
また,張殻(ちょうかく)構造といい,木造時代からの伝統で車体強度
を台枠(だいわく・車体の下を支える長方形の枠)に90%をもたせて
いたものを,大枠と外板に50%ずつ割り振っていた.このおかげで
車体重量は67トンから55トンに減らすことができた.


▼特急牽引機関車パシナ


 牽引する機関車は満鉄最大の旅客用機関車パシナ型である.
機関車の軸配置ごとにアメリカでは愛称を付けたが,
先輪2+主動輪3軸(すなわちC)+従輪1の形式をパシフィックとした.
満鉄はその頭文字をとって,パシナと名付けた.同じように満鉄には
貨物列車牽引用として大型蒸気ミカイ型などをもっていた.ミカはミカド,
その1−D−1の軸配置は明治の昔,世界で初めて「ミカド(帝)の国」
から発注を受けた形式だったから,そう名付けられた歴史がある.


 パシナは「あじあ」のために設計された.その開発決定から3分の1
くらい設計が進んだところで「流線型」にされることが決まった.
わが国の技術力を誇示し,新しい国家の文化的なイメージを印象付け
ようというものが狙いだった.欧米諸国でもこのころ,空気抵抗を
意識した流線型というものが大いに流行していた.上から下までカバー
をかけてしまうようなもので,当然,重量は増えた.整備点検の手間
もかかった.それでも恰好のいい淡緑色のスマートな芋虫のような
「あじあ」の写真を見ると,感嘆の気持ちでいっぱいになる.


 困難もあった.給炭は自動化された「メカニカル・ストーカー」である.
炭水車の下から伸びた給炭管の中には回転するスクリューが
仕込まれていた.機関助士による手のスコップによる投炭では
間に合わないからだ.これらの設備が重くなり,その上,乗務員室も
覆うカバーがある.そこで,従輪を2軸とする2−C−2(ハドソン)も
検討されたが,初めてのことで心配があったためである.
それを給炭装置のエンジンをテンダー(炭水車)側に移すなどをして
解決することもできた.


 外形デザインも国際的な高い評価を受けた.
レイモンド・ローウィーというデザイナー(煙草のピースの考案者)に
よれば「世界で最も美しい機関車である」とされた.先頭の外形を
決めるために風洞実験も行なわれた.その結果は,近頃の新幹線
のような「あひるの嘴(くちばし)」が最適と分かったが,蒸気機関車
ではとても難しかった.頭を丸めた形で我慢するしかなかったが,
その仕上がりは自慢していいものだろう.


 1934(昭和9)年,満鉄で設計されたパシナは自社工場で3両,
納期から9両は内地の川崎車輛で造られた.同じころ,わが国鉄も
C53型が1両,試験的に流線型カバーを付けた形に改造された.
鉄板を叩きだし,微妙なカーブをつくる手間を省いたために,
妙に平面的な雰囲気ばかりでデザインの冴えは見られない.
その後のC55型も同じである.


 パシナの動輪直径は2メートルもあった.いま,東京駅構内の
動輪広場にある国鉄最大のC62型機関車の動輪の直径は1750ミリ
である.当時のアメリカ技術では動輪直径1インチで1マイルの速度
ということから考えると,2メートルの動輪では時速127キロメートル
が可能ということになる.


 パシナのキャブ(運転台)搭乗体験者の話では最高運転速度は
時速110キロとされていた.水平区間では常時100キロ,
110キロに達し,試運転では135キロも出したという.
当時の日本の技術は主にアメリカを志向していたが,
復活ドイツの機関車技術にも目を向けていた.
ドイツの最新鋭機関車は,いまも鉄道模型マニアでは人気の
01型である.先輪直径は1メートル,時速130キロを出していた.
パシナも01と同じく2気筒,動輪は2メートルだが,ボイラーの直径,
伝熱面積もパシナが大きかった.


 火床面積は01が4.41平方メートルに対してパシナは
6.25平方メートルで大きく引き離している.ボイラー圧力は
01の方が0.5気圧高いが,総合的にはボイラーの発揮する力
はパシナが大きい.シリンダーも大きく,引張力も8%ほど大きかった.
軸重は20.25トンの01に対しパシナは24トン.牽引力を発揮する
には軸重がある方が有利である.仕様面からすればパシナは
一回りも大きい強力な機関車だったことは明らかである.


▼「あじあ」の原動力パシナ


 1936(昭和11)年満鉄発行のパンフから主要な部分を抜粋する.
現代語に直し,漢字も変えてみる.


『全長25.7メートル,総重量202トン,動輪1軸上24トンで,
日本最初の機関車の総重量23.5トンと比べれば,いかに大きいか
分かるだろう.動輪の直径2メートル,全高4.8メートル,
全幅3.2メートル,この雄大な機関車が砂塵を巻いて走るときの
風圧を避けるため,怪異な流線型の覆いが施されている.
気缶圧力は従来のものより10%を高めて,
15.5トン毎平方センチメートルとし,細管式を用い,
過熱温度を上昇し,熱効率を高め,燃料の節減が図られている.
 最大実馬力は2400で,この容量を作るには多大の重量を要し,
線路の重量制限を超過することとなるので,汽缶胴はニッケル鋼板,
その他の箇所には軽金属を利用し,できるだけ重量を軽減し,
トン当たりの馬力を増加した.その他,技術的立場より,
種々の改善が施されており,なかんずく材料及び部分品のほとんど
が国産品でできあがっていることは前述の通りである』
と誇らしげに書いてある.


▼「あじあ」のエピソードあれこれ


 1941(昭和16)年10月から満鉄の料金は1キロメートル
当たり1等6銭,2等4銭,3等2銭1厘となった.18年4月からは
それぞれ5厘ずつ改定値上げされた.たとえば大連−奉天間は
1等28円,2等19円,3等10円70銭になった.大連と新京の間は,
それぞれ48円85銭,33円25銭,18円85銭となっていた.
およそ1円を2000円と換算すると,いまの10万円弱,6万7000円弱,
3万7000円弱と考えるのも興味深い.


 もちろん,「あじあ」に乗るには特急料金が請求された.
500キロまで1等6円,2等4円,3等2円と低減された.
800キロまではそれぞれ8円・5円・2円50銭である.
普通急行料金はこれより安い.300キロまでは,1・2・3等,
それぞれ2円50銭・1円50銭・75銭といったところである.


 車両は全部,エアコン完備だった.夏は外気温が35℃でも26℃,
零下も当然の冬でも車内は18℃に保たれるようになっていた.
客車の窓は完全に締め切りで,高速運転中の機関車からばい煙や
粉じんが飛び込むこともなかった.このような空調装置を備えた列車
は世界的にも珍しかった.


 一列車あたりの定員がわずか288名である.現在の新幹線は
16両編成で1323名だから切符の入手は大変だった.このため
発着駅には1往復しかなかった当日の「あじあ」の特急券を
プレミアム付きで売るダフ屋も現れた.入場券だけを買って
うまく列車に乗り込み,車内で課徴金を取られて強制下車される人
もいた.完全定員制をとっていたからこそである.「あじあ」だけは
満鉄総裁でも特急券を買わなければ乗車できず,うそか本当かは
わからないが,例外は関東軍司令官だけだったとか.


 次回はさらにエピソードを加え,満鉄の人員・貨物輸送の状況などを書こう.




(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.11.9




『ライター・渡邉陽子のコラム (118)─ 高等工科学校(3)
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは,渡邉陽子です.


遅ればせながら伊藤祐靖氏の「国のために死ねるか」(*)を
読了しました.1999年に初の海上警備行動が発令された際,
北朝鮮の工作船を追っていた護衛艦「みょうこう」の艦内の様子は,
その場にいた伊藤氏だからこそ記せる生々しさがあり圧倒されました.


当時の私はまだ勤め人で単なる旅好き飛行機好きの人間でしたが,
新聞の一面を飾った「自衛隊初海上警備行動」という見出しに,
ことの重大さを感じていました.テポドンやノドンが日本海沖に
落ちるたび,たまらない不快感と不安を抱いていた時期でもありました.


国際武器見本市で伊藤氏の頭に浮かんだ「はしたない」という
言葉も非常に印象的で,頭でというよりも同じ日本人の「血」が
激しく共感しました.私と同じ感覚になった読者の方は少なくない
と思います.


また,書き手視点からすると,この流れるように読みやすい文体は
(読者にとって大切なことですよね),おそらくおわりのあいさつ
にあるフリーライターのオバタカズユキ氏の尽力があってこそ
ではないかと思いました.


伊藤氏,インタビューしたいです!


(*)http://okigunnji.com/url/164/




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■高等工科学校(3)


引き続き高等工科学校のご紹介です.
先週は学校長のインタビューなどをご紹介しましたが,
今週は職員をご紹介します.
なお,職員や生徒の固有名詞はアルファベットでの表記とします.




彼ら生徒の生活面と学習面,両面で生徒を支えているのが職員です.
第2教育隊第9区隊長のA1等陸尉も,かつて生徒としてここで
学んだひとりです.区隊長はおもに生徒舎生活における
服務指導を実施する,区隊における親父的な存在です.


「生徒舎生活は,自衛官として必要な知識・技能を学ぶ修行の場です.
私はそこで生徒29名の服務指導を実施しています.
『すべては生徒のために』を合言葉に,生徒の自主自立を促す
ことを目的として,部隊に行ったときに恥ずかしくない自衛官に
育成するとともに,部隊から信頼される人材となれるよう
教育しています」


「生徒だったときは雲の上の存在に思えた区隊長の地位に
自分が就けるとは思ってもいませんでした.
今,こうして将来の国防を担う後輩をこの手で育て,全国に輩出
できることを誇りに思います.また,生徒の成長をいちばん身近
で感じられることが,仕事のやりがいにつながっています.


自分の思いが生徒にうまく伝わらず悩んだ時期もありましたが,
彼らの心にもっとも刻まれるのは,われわれ職員の日頃からの
立ち振る舞いであると気づきました.
彼らは常にわれわれ職員を見ています.それを意識し,
背中で語れる区隊長を目指し日々奮闘しています」


プライベートではわが子の成長を見るのが楽しく,
イクメンを目指しているそう.
「家族には申し訳なく思いつつ,朝も夜も休日も犠牲にして
教育することに理解を示してくれ,感謝しています.
また,生徒たちには『この学校では寝食を共にした同期という
最高の仲間ができる.この同期の絆は一生のつながりとなるので,
同期を大切にし,切磋琢磨して互いに成長してもらいたい』と
伝えたいですね」




B2等陸曹は,付陸曹として生徒の指導に当たっています.
区隊長が父親なら付陸曹は母親,区隊長よりも生徒との距離
が近い分,生徒の変化に気づきやすくなります.


「悩みを言ってくれる生徒はいいのですが,言わない生徒に
対しても気づいてやれるよう,気さくに部屋に遊びに行って会話
を交わすようにしています.厳しくすべきときはしますが,
リラックスした環境で対話するのもひとつの指導方法です.


反応がない生徒や,返事だけよくて実際は何もしてない生徒には
困ることもありますが,将来を背負っている優秀な人材である
ことは間違いありません.昨年は初めての勤務だったので,
3月の最後には思わずうるっとこみ上げるものがありました(笑).


教育に当たって重視しているのは,基本基礎の徹底と,
私自身が曹学出身のため経験不足に苦労したので,
自分が経験したことはできるだけ後輩に伝えるようにすると
いうことです.生徒たちには,ゆくゆくは上の気持ちも下の気持ち
もわかる自衛官になってもらいたいです」


B2曹のふたりの子どもはまだ小さいけれど,
「こんな生徒のように育ってほしいな」と思う生徒もいるそうです.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.11.10





──[綿]→[南北戦争]───────────────────────
★南北戦争中,南軍は軍服用の綿花が余っていたが,負傷者鎮痛用の阿片が不
 足していた.そして北軍はその逆だった.その為に戦争中にも関わらず,そ
 のための貿易はリンカーン公認で行われていた.

──[南北戦争]→[嫌がらせ]────────────────────
★アメリカ南北戦争終結後,反乱軍指揮者リー将軍への嫌がらせに,リー家の
 周辺に戦死者を埋葬する共同墓地を作った.そこが現在も戦没者の墓所とし
 て有名なアーリントン軍用墓地となった.
◎雑学大作戦:知泉
のバックナンバーはこちら
⇒ http://archives.mag2.com/0000017191/index.html?l=son065f321
2016.11.12





『ライター・渡邉陽子のコラム (119)─ 高等工科学校(4)
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


こんばんは,渡邉陽子です.


先週,与那国島に行く機会を得ました.


今年3月に与那国駐屯地開庁ならびに沿岸監視隊が発足
してから半年以上が経ち,与那国島の名をニュースで
聞く機会もすっかりなくなりましたが,現地では隊員たちが
日々,大海原の監視を続けています.


高等工科学校の連載終了後は,与那国レポートを
お届けしたいと思っています.




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■高等工科学校(4)


高等工科学校における一般教育では普通科高校と同等の
教育を行なっているため,3年間の修了時には提携校である
神奈川県立修悠館高校(通信制)の卒業資格が得られます.


C防衛教官は国語を担当,1教隊の学級担任でもあります.
担任は生活面の区隊長と学習面の教官とふたり体制なのです.


C防衛教官は小学校から大学院まで一貫校で学んだそうです.


「校則の厳しい学校だったので,『学校の規則は守って当然』と
いう意識を持ってずっと過ごしてきました.
そのため,教師になるなら一般の高校よりも規律正しい学校,
できれば警察学校の教官をやってみたいと思っていました.


学生時代はまだ少年工科学校(当時)の存在を知らなかったのです.
大学院で初めてそういう学校があることを知り,
夢が確立されている生徒たちの役に立てればと思い,着任しました.


当時は自衛隊生徒だったので,みんな陸上自衛隊の制服と
似ている緑色の制服を着ていました.その姿の生徒が
すれ違うたびに敬礼するというのが,私の中では『すごい学校だな』と.


友人にも教師が多いのですが,話を聞くと『まず授業のために
席に着かせるのが大変だ』と.この学校では考えられないことです.
自衛官を育てるという確固たる信念のあるここで教鞭を取る
ことができ,うれしく思います」


C防衛教官は着任して15年目ですが,その間にC防衛教官自身にも
結婚,出産という大きな変化がありました.


「最初の頃は生徒と年も近かったので『自衛官としてこうあるべき,
授業ではこうあるべき』と,生徒にいろいろ望んでいました.
だからそこから外れた生徒を怒ってしまったり……けれど結婚や
出産を経験してから,それは違うんじゃないかなと思うように
なりました.


また,彼らのご両親の存在をより感じるようになったと思います.
親元離れて規律正しい集団生活を送る生徒たちはほかの
高校生よりはるかにしっかりしている反面,やはり年齢相当の
幼い面も残っているので,教員でありつつ母親の視点をもって
育てていかなければと思うようになりました」


ちょうど取材時,1教隊は入校して3カ月目を迎えた時期です.


「生徒たちも随分ここに慣れてきました.最初はうっかり『先生』と
言っていたのが『教官』と言えるようになったり,『僕』じゃなくて
『自分』と言うようになったり,時計の読み方も自衛隊的になったり.
今後は自分の国語についてのスキルアップもしていきたいですね.
また,初級カウンセラーの資格を持っているので,
心の問題を抱えている生徒にはそれも活かして助けになれればと
思っています」




自らこの道を選んだ生徒たちの話も聞いてみましょう.


青森県出身のD生徒(1教隊)は小さい頃から抱いていた
自衛官になるという目標のため,今春入校しました.


「家のそばに駐屯地があったので駐屯地祭などで親しんでいた
こともあり,将来を考えたとき,自然に陸上自衛官になる道を
選びました.


入校してから洗濯やアイロンがけも自分でするようになって,
改めて母をすごいと思うようになりました.部活は強い部で
鍛えられたくてカヌー部に入りました.レギュラー争いは大変
でしょうし,まだうまく乗れませんが,先輩から指導していただくなか,
自分が日々成長していると感じられるのが楽しいです.


今は時間に追われる毎日ですが,消灯前の10分ほどの時間に,
班の仲間と1日のできごとを話し合ったりするのが一番の楽しみ
です.同期の存在の大きさをすでに感じます.搭乗体験があって
操縦している姿に憧れたので,将来は航空科に進み,ヘリパイを
目指したいです」


ゴールデンウイークの帰省時は,お母さんの手料理を
山のように食べてきたそうです.


「帰省するまでは心配していたようですが,自分の姿を見て
安心してくれたみたいですね」




次回は2,3教隊の生徒の話やクラブ活動についてご紹介します.






(以下次号)

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.11.17





『ライター・渡邉陽子のコラム (120─ 高等工科学校(5)
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.


先日,竹本三保さんの「任務完了」と山崎豊子の「約束の海」を
入手しました.海上自衛官だった竹本さんには,
彼女が青森地本部長だったときに取材しました.


聡明で発言に迷いがなくて,けれどさらりと語る過去は実は
とてつもなく重くて,彼女が自衛官として職務を遂行するために
失ったものやあきらめたものの大きさに,私のほうが圧倒される
思いでした.これまで取材した女性自衛官の中でも圧倒的に
印象に残っている人なので,読むのが楽しみです.


「約束の海」は山崎豊子の絶筆となった本であり,
なだしお事件をベースにした話(のよう)です.帯に書かれた
著者の「戦争は絶対に反対ですが,だからといって,守るだけの
力も持ってはいけない,という考えには同調できません.
いろいろ勉強していくうちに,『戦争をしないための軍隊』,という
存在を追究してみたくなりました」という言葉が胸に響きました.
本来は3部作になる予定だったそうです.


1日中寝転がって読書したいです.そういう休日を作れるよう,
もっと集中して仕事しなければと思う夜なのでした.




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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/


○ライターとしてこんな仕事をしています
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■高等工科学校(5)


高等工科学校のF生徒(2教隊)は兵庫県淡路島の出身.
一度は不合格で普通高校へ進学したもののあきらめきれず,
あと一度残された受験のチャンスに賭けてみごと合格しました.


「普通高校では,目的もなくただ授業を聞いて試験を受けて
の繰り返しでしたが,ここへ入校してから常に,
未来に向かって勉強していると実感できます.
自分はまだ生まれていませんでしたが,
阪神・淡路大震災で自宅が被災したこと,さらに
東日本大震災での自衛隊の活動を目にしたこと
などから,自衛官を志すようになりました.


同級生は1つ下ですが,ギャップは感じません.
同じ境遇で入った人とは仲良くなれて楽しいですね.
将来は幹部自衛官として,人の役に立つ仕事が
したいと思っています」




最上級生であるG生徒(3教隊)は,
1年のときは言われたことをただこなすだけで精一杯
でしたが,学年が上がると次第に周囲にも
目を向けられるようになったそうです.


「休日に外出して柔道部の同期と買い物や食事を
楽しむのは,いい気分転換になります.自衛官を
意識したのは東日本大震災がきっかけで,
なかでもヘリの活躍を見て,自分もそれに関わる仕事
がしたいと思うようになりました.視力の面でヘリパイ
は難しくても,この学校でヘリ部隊を指揮する人の存在
を知り,将来は航空科で指揮官として働くことが目標
になりました.現在は防大進学を目指して受験勉強中です」




高校工科学校におけるクラブ活動は,選択科目訓練の
ひとつでもあります.ドリル部部長のH1等陸尉は,
自身も生徒時代にドリル部で活動しました.


「学校の記念行事や開校祭,入校式,卒業式のほか,
要請に応じて各駐屯地や神奈川県のイベントなどに
参加しています.競技会があるわけではないので,
そういう場に呼んでいただき歓声や拍手をいただくことが,
部員にとっての目標です.


自衛隊のPRや学校の広告塔としての役目も果たしている
ということがモチベーションにつながっているので,
私の要望事項も『ドリル部員として誇りを持て』です.
また,自主性を重んじ,上級生が下級生を教えるので,
この学校が推奨するリーダーシップ・フォロワーシップを
具現化している部でもあります」




H1尉が自衛隊生徒だった時と今の生徒との違いも
感じるそうです.


「20年前に生徒だった私たちの時代より,明確な目標を
持って入校してくる生徒が多いと感じます.また,私たちの頃は
区隊長が白いものを黒と言えば,『区隊長がそういうのだから
黒なんだ』と,そのまま受け止めました.


一方,今の生徒は『なぜ黒なんだろう』と真剣に悩みますね.
それは決して悪いことではないと思います.さらに,昔は自衛官
の子息が多かったのですが,今はまったく関係ないところからの
入校も非常に増えました.私は1教隊の担任になることが
多いため,生徒だけでなく保護者にも自衛隊とはどういう組織か
というところから説明しています」




全国優勝の経験もあり強豪で知られるカヌー部の
I生徒(3教隊)は,夏にベラルーシで開催された
カヌージュニア世界選手権に日本代表として出場しました.


過去にもカヌー部からの出場はありましたが,
シングル(1人乗り)での出場は初の快挙です.
結果は8位でしたが,7月上旬の富士野営訓練で10日以上
も練習できなかったことを考えれば素晴らしい成果です.
ちなみにI生徒は日本オリンピック委員会よりオリンピック
強化指定選手の認定も受けています.


「カヌーは腕だけで漕いでいるように見えますが,実は全身を
使うので,体の連動が難しいスポーツです.入部したばかりの頃
は沈してばかりでしたが,慣れてくると,自分の体を使って
どんどんスピードを出せることが楽しくなりました.卒業後の
進路はまだはっきり決まっていませんが,カヌーを続けるなら,
陸曹となって体育学校に入校できればと思っています」




海自と空自も陸自同様,昭和30年に生徒制度が発足しましたが,
現在は廃止されています.統合運用の機会が増えた現在の
自衛隊において,高等工科学校出身者は陸自のみならず
自衛隊全体の各所で活躍する,まさに宝なのです.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.11.24




マーケット・ガーデン作戦とインテリジェンス (25)
                長南 政義
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□前号までのあらすじ


本連載は,精確な内容を持つインテリジェンスが
一九四四年九月上旬に連合軍の指揮官に利用されたか
どうかを考察することにある.


実は,インテリジェンスの内容は,
マーケット・ガーデン作戦実行に伴うリスクを連合軍の
指揮官に警告していた.




指揮官が決定を下すために利用できるインテリジェンスの
情報源は数多く存在していたが,本連載では「ウルトラ」情報
により提供されたインフォメーションにのみ焦点を当てて
考察を進めることとする.


第二次世界大戦を通じて,
連合軍の戦略レヴェル・作戦レヴェルの指揮官たちは
ウルトラ情報を活用し,ウルトラ情報の精確性に
関してめったに疑いを持たなかったからだ.




数回にわたり,連合国によるマーケット・ガーデン作戦
までの「ウルトラ」情報の利用について述べてきた.
前回は,連合軍によるアントワープ占領とその影響について述べた.


一九四四年九月四日,連合軍は,アントワープを占領した.
だが,アントワープは,連合軍によるドイツ軍追撃の限界点
であった.


ドイツ軍に対してさらなる攻撃を仕掛けることができなかった
失敗は,ドイツ軍が防禦態勢を再編成する時間的余裕をヒトラーに与えた.




英国軍は,アントワープ占領に加えて,
グスタフ=アドルフ・フォン・ツァンゲン歩兵大将率いる
第十五軍の退却路を遮断することに成功した.


約八万名の将兵で構成される第十五軍は,
英第二軍とスヘルデ河の間で罠に落ちた形となった.




だが,連合軍は南ベーフェラント半島遮断に失敗し,
第十五軍の大多数がオランダに逃走することを可能と
してしまった.


そして,包囲網から抜け出すことに成功した第十五軍
の将兵は,オランダで,マーケット・ガーデン作戦に
抵抗するための貴重な戦力となったのである.




さらに,連合軍は,ドイツがスヘルデ河河口北側の支配を
維持し続けることを可能にするミスも犯した.


ドイツ軍がこの地点を占領し続けることで,
連合軍によるアントワープ港の使用を妨害できたからだ.
実際,連合軍の最初の輸送船がアントワープ港に
初めて入港したのは,一九四四年十一月九日のことであった.




今回は,マーケット・ガーデン作戦前夜の両軍の状態に
ついて述べる.




■マーケット・ガーデン作戦前夜の両軍


連合軍がアントワープ占領を祝っている間,
ドイツ軍はドイツ本土防衛の準備に忙しくしていた.


一九四四年七月二日,西方総軍司令官を解任された
ルントシュテット元帥は,西方総軍司令官に復帰し,
九月四日にヒトラーがいる総司令部を離れて前線に赴いた.


ルントシュテット元帥がゲルリッツを出発した同日,
クルト・シュトゥデント上級大将は,
新設された第一降下猟兵軍をオランダに配置する
のに忙しくしていた.


ちょうど四年前,
シュトゥデントはドイツ国防軍がオランダに突進するために
使用する重要な橋梁を確保するために輸送機から
空挺降下したが,今度は彼が四年前の彼と同様の企図
を有する敵軍に対し抵抗する運命にあった.




■絶望のドイツ軍にとって有利な諸点


連合軍がアントワープでの成功を利用することに失敗した
ことで,ドイツ軍はオランダおよびベルギーで堅固な
防衛態勢を組織するのに必要な,死活的に重要な時間を
得ることができた.


ドイツ軍にとって,戦況はいまだに不利なままであったが,
ドイツ軍はいまや三つの利点を得ていた.




第一に,ドイツ軍が占領している地形は,
フランスにおいて彼らが占領していた地形よりもはるかに
守りやすかったことだ.ベルギーおよびオランダの
低地地方は,平らな,湿地帯で構成されていた.


そこには,湿地の多い土地を農業に適したものにするために,
多数の堤防と運河が張りめぐらされていて,
機甲部隊の作戦には不適な土地であった.




第二に,ドイツ軍はいまやドイツ国境に隣接する地域に
追い込まれていて,本土を防衛する立場にあった.


人間は追い詰められれば実力を発揮するが,
他国領より自国領を防衛するほうが,軍隊の士気はあがる.
驚くべきことであるが,連合軍の情報分析官も
高級指揮官も,この単純な事実を過小評価していた.




■チャーチルの見解


しかし,皆が皆,ドイツ軍の実力を過小評価して
いたわけではない.たとえば,最も有名な人物に,
「ウルトラ」情報を初期の頃から熱烈に支持していた
英国首相ウィンストン・チャーチルがいる.


チャーチルが,ドイツが容易に崩壊するだろうと
信じていなかったことは明らかだ.
たとえば,九月八日,チャーチルは次のように述べている.




「ヒトラーが(一九四五年)一月一日にも戦い続けている
可能性は,ヒトラーの体制がそれまでに崩壊している
のと同じくらい可能性がある.


もし,ヒトラーの体制がその時までに崩壊したとしても,
その理由は軍事的理由というよりもむしろ政治的な理由だ」.




■チャーチルの推論


チャーチルの推論は次のようなものであった.


「要塞化され,強化されたドイツ本土の国境地域で
抵抗する効果は,過小評価されるべきものではない」.


ドイツ側の利点,最後のものは,ドイツ軍が第三帝国の
防衛を指揮するのに最良の上級指揮官の1人を
持っていたことである.

http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.11.24




『南満洲鉄道についての雑学─鉄道と軍隊─(18)』
 日本陸軍の兵站戦(38)


                 荒木 肇


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□はじめに


 わが国が未曾有の敗戦で失ったものはたくさんありました.
最大のものはもちろん人命です.軍人,軍属,そして戦場
になった外地にいた方々,内地で空襲その他の惨害に
遭われた人々,いまもご冥福を祈るばかりです.


 ポツダム宣言によって失った領土も多くありました.
しかも,国際信義的に許せないソ連の侵略によって奪われた
北方の島々.満洲も同じです.国際政治には正義などなく,
中立条約を一方的に放棄して侵攻してきたソ連軍.
その矢面に立ったのは,わが国の生命線だった満洲です.


 満鉄について書いてきて,近代史に詳しい読者がすべてなら
ともかく,戦前社会,ひいては満洲のこともまとめておかなければ
と思います.


▼戦前日本の国土


 1910(明治43)年の韓国併合により,正式の領土(統治区域)は
内地・朝鮮・台湾・澎湖島・樺太に確定する.内地にはその存在が
古来の日本領土であり疑うものがないものがある.


○小笠原諸島(文久元年に幕府が開拓について各国公使に通知する)
○沖縄(明治5年に琉球国王を藩王として領土であることを確認)
○千島(安政元年に択捉島を日本領土,得撫島(うるっぷとう)以北
クリル諸島をロシア領土とする.「樺太千島交換条約(明治8年)」に
よりクリル群島,すなわち得撫島以北の18島を領土とした)
○大東島(明治18年沖縄県に編入)
○硫黄島(明治25年東京府に編入)
○魚釣島(尖閣列島,明治28年沖縄県知事に標杭建設)
○南鳥島(明治31年東京府に編入)
○沖大東島(明治33年沖縄県に編入)
○竹島(明治38年島根県に編入)
○沖ノ鳥島(昭和6年東京府に編入)
○台湾と澎湖島(明治28年の下関条約により日本領土)
○新南群島(昭和14年台湾高雄市に編入・現在,南沙諸島といいベトナム領)


 このほかに租借地があった.租借地は領土に準ずる統治権がある.
もちろん,契約期間中のことであり租貸国の潜在主権がある.
関東州は中国本土との境である山海関の東であることから「関東」と
名づけられた.ここの租借期間は1898年から99年間に延長された
(大正4年,大隈内閣の21カ条要求の内容の一部である).
また,第一次世界大戦の結果による,ドイツ帝国のもっていた
膠州湾租借地もあった(大正9年から同11年まで).


 委任統治区域も存在した.いわゆる南洋群島である.
これは国際連盟の委任に基づいていた.1933(昭和8)年には
わが国は連盟を脱退したが,ここでの統治は続けられた.
 
 ほかに一部統治区域といわれる地域もあった.満鉄付属地帯
の行政権をわが国が取得した.線路の周辺や鉄道施設,
駅舎や駅前広場など,すべてがわが国の統治下に入った.
ただし,行政権のうち,軍事・外交・裁判・警察などを除いてすべて
を満鉄に行使させた.また,日本人以外の民事・刑事裁判権は
中国側がもった.


 租界といわれる居留地もあった.租界の複雑さは,中国の領土
であり,中国の主権下にあったが,実際の行政,警察や衛生,
道路や建築,課税等はわが国が行なった.警察については
「領事館警察」という名称がしばしば聞かれる.これは内地の警察官
とは異なって,内務省の管轄ではなく,外務省の機関だった.


 1939(昭和14)年当時,諸外国との共同租界が上海にあり,
わが国だけの租界が天津,漢口にあった.


 内地は約38万2000平方キロメートル(以下同じ),
朝鮮が同22万1000,台湾が3万6000,澎湖島130,
樺太3万6000,合計67万5000.租借地である関東州が
3500,南洋群島が2100,南満洲鉄道付属地が290,
総計で68万1000平方キロメートルだった.内地が全体に占める
割合は約56%,朝鮮が同じく32%,台湾5%,樺太も5%,
関東州0.5%,南洋群島0.3%,満鉄付属地は0.04%と
いうことになる.


 1936(昭和11)年『帝国統計年鑑』によれば,租借地関東州
には内地人が約12万人,朝鮮人同2000,中国人83万4000,
他外国人1000人だった.同じ年の満鉄付属地には
内地人10万7000,朝鮮人1万6000,中国人24万7000,
その他外国人は2000人という記録がある.満鉄,その関連会社
にいかに内地人(日本人)が多く勤めていたことがわかる.


▼南満洲鉄道株式会社


 旅順,大連を中心とする関東州は1906(明治39)年,
関東都督府が統治を始めた.長官が都督(ととく)という名称で
あるから,当然,兵権をもった.陸軍大将もしくは中将が任じられた.
1919(大正8)年には関東庁となり,行政官庁となった.
軍事をもつのは関東軍司令官である.関東庁のトップは文官の
関東長官という.


 関東長官は関東州を管轄し,満鉄の線路を警務上取り締まり,
満鉄の業務を監督するとされた.いまも旧い先人が懐かしがるのが
関東での暮らしである.在住する内地人のためには,内地と同じ
学校制度があり,官立旅順工科大学,同旅順高校,
同大連高等商業学校などがあった.ただしこれらは文部省の管下
ではない.また私立南満洲工業専門学校もあった.
そして有名なのが満鉄経営の私立満洲医科大学(奉天)まで
もっていたことだ.


 満鉄付属地の中心となるのは1192キロメートルの線路の
両側62メートル程度の土地と周辺の商業用地や駅,機関庫,工場
などの付属施設であった.そして,警備兵力として1キロメートル
当たり3名の駐兵が認められた.この権利に応じて置かれたのが
関東軍隷下の「独立守備隊」だった.襟に着けた徽章は小銃が
ぶっちがいにされた上に線路の断面がデザインされ,
一目で関東軍の「どくしゅ」隊員であることが分かった.


 行政の特徴としては進歩的な面をもっていた.付属地行政は会社の
中の地方部が指導し,地方事務所を置いていた.この事務所長の
諮問機関として地方委員会を設けた.1922(大正11)年から委員
は公選となり,選挙権は国籍年齢性別不問,課金戸数割(行政経費
の一部を醵出させた)を負担する成人で,被選挙権は25歳以上の
男子だった.女性に投票権があったのである.わが国初めての
女性参政権の付与といえる.


▼満鉄にはどのような人が働いていたか


「外地に出る」というのは役人や会社員にとって,リスクはあったが
大幅な収入増が見込まれる話だった.戦前社会というのは,
現在から見たらとてつもない格差社会であり,貧富の違いがひどく
大きかった.役人は官公吏ともいわれたが,その構成はひどく大勢の
無学歴層と,ごくわずかの学歴所有者,そしてその中でもほんの
一握りの超エリートで造られていた.
 
 まず,学歴による区別である.昭和戦前期は大正時代の高等教育
の改革で「大学令に依る大学」が増えた結果の「高等教育」を受けた人
が多かった時代だった.昭和の初年頃,全国の官吏(いまでいう
国家公務員とはいえ,「天皇の官吏」であるから「公僕」のような
民間に奉仕するという立場ではなかった)の総数はおよそ70万人.
うち,高等官である「奏任官」は1万4000人(2%)であり,「勅任官」
は1200人(0.1%)でしかなかった.あとは「判任官」と雇員,傭人と
いう人たちで占めていた.官吏は高等官と判任官に分かれ,
階級では陸海軍中将と相当官の高等官1等から同8等同少尉と
相当官にあたり,判任官1等の准士官から同4等伍長・3等兵曹など
にあたった.


 満鉄が当然,モデルとした鉄道省が管轄する国鉄に例をとってみよう.
1929(昭和4)年までは満鉄の監督も行なっていた.鉄道省の官名は
独特で,鉄道監察官・鉄道局参事副参事(以上は奏任官)と
鉄道手(判任官待遇)といわれた.1935(昭和10)年の数字を
見ると,職員の総数は約21万8000人,勅任官25人(0.01%),
勅任官待遇9人,奏任官860人(0.3%),同待遇者190人(0.08%),
判任官2万4000人(11%),同待遇者6700人(3%),
雇員8万5000人(40%),傭人10万1500人(46%),
他有給嘱託が355人となっている.平時の陸軍の兵営で歩兵聯隊の
場合,将校と相当官が全体の約3%という高等官比率から見ても,
鉄道という現業職場のピラミッド状の階級構成の厳しさがよく分かる.


 事務系統の参事はたとえば本省の課長であり,掛長,運輸事務所長
や主要な駅長が副参事だった.彼らはほとんどが(主要駅長等は稀に
たたき上げもいた)高文(ほんとうは文官高等試験だが,世間では
コウブンといった)の合格者で,今も続く国家公務員1種試験通過者
と比べられる.しかし,その実態は現在のそれらキャリア組とも
桁違いに恵まれていた. 


 雇員とは中学校3年修了者,もしくは実業学校(商業・工業・農林学校
など)を2年半修了した者という程度の採用条件があった.
よく誤解されるが,中等学校に入るのに浪人などめったにないのが
現在である.それに対して,戦前社会は学校を卒業するのも大変だったし,
浪人せずにストレートに進学していくことが普通ではなかった.
中学校や実業学校を中途退学する人や,高等学校や専門学校に
数年遅れて入学する人も珍しくはなかったのである.
尋常(6年間)小学校,高等小学校(自由履修2年)を出て,
国鉄に採用され,保線現場や駅,機関庫などで働く未成年労働者も
多かった.その中で成績抜群の者で選抜された人も雇員となれた.
もちろん,現場の華というべき機関手は憧れの的であり,
そのベテランは雇員であることが多かった.そして,鉄道手という待遇官
は判任官への重要なステップだった.
 
 事務系の雇員の最高月給は85円,傭人は日額払いで最高が
駅手の1円80銭,電化区間の工手が同じく2円50銭くらいだった.
それに対して,満鉄に帝大を出て採用されると初任給は80円,
私立大学出で76円,専門学校(高等商業・同工業など)70円という
具合である.この満鉄の初任給80円は他の一流企業と比べても
かなり高い.これを超すのは三菱合資の帝大工学部90円くらいである.
三菱合資の場合はさらに細かく分けられて,当時の超一流企業の学歴
についての見方を表しているので書いておこう.


 帝大法と商科大学(いまの一橋大学)80円,商科大学専門部
(3年修学で学士号はない)と早・慶,神戸高商(いまの神戸大学経済)が
75円,地方高等商業(彦根,小樽,横浜など),中央・法政・明治が
65〜70円,私立大学専門部(3年修学で学士号なし)が50〜60円,
中等学校卒35円だった.昭和の初めに帝大法を出て某財閥系企業に
入ったエリートの思い出話によると,初任給80円に1年間で賞与が
400円だったという.もし,同じ会社に甲種商業卒(尋常小学校卒後
5年修学)で入ったら,初めての給与は月額40円.しかも大卒社員は
毎年10%ずつ給料が増えた.入社して5年で月給だけで120円となり,
甲種商業卒はようやく60円台,ボーナスも半期で1カ月程度である.


 満鉄も半官半民の組織であり,こうした学歴による区別は厳然として
あった.しかも外地勤務は特別加算がされた.高等師範学校を出た
中学校教員の場合,4割の手当てが出たらしい.朝鮮や台湾,関東州,
満鉄付属地などである.奉天の中学校教員は内地では95円の月給に
手当てが75%ついたために月収は150円ほどになっていた.
高等官待遇の内地の教頭クラスの給与だった.


 同じように満鉄の職員は内地の国鉄職員と比べると,3〜4割の加算
がついたようだ.ただ,誰もがそうした高給に見合うだけの満足を
得ていたかは分からない.じっさい,海外に赴任したいかと聞かれると,
半数ぐらいしか手を挙げないという報告もある.満洲は異国であり,
気候風土も異なり,暮らしや文化程度も変わってくる.今も同じような
ことがあるのではないだろうか.


▼関東州へのアクセスルート


 なんといっても大連である.大阪商船が運行する大型客船が
神戸〜門司〜大連を結んでいた.定員が800名にもなる
5000〜8000トン級の客船が10隻もあり,ほぼ毎日運航している.
神戸〜大連が3泊4日,門司〜大連は2泊3日だった.この航路は
周遊コースになってもいて,内地の鉄道省線(国鉄)と連帯運輸と
なっていたから,全国どこの国鉄の駅からでも,船から満鉄に
乗り継ぐ場合は切符を買うことができた.


『内鮮満周遊券』や『東亜遊覧券』などが販売されていた.先に述べた
満鉄特急「あじあ」は大連を毎日午前9時に発車した.大阪商船の
大連航路は午前8時に大連港に到着.埠頭から駅までおよそ2キロ,
満鉄はそこに専用シャトルバスを用意した.もちろん,満鉄に乗車する
客は無料である.


 ほかに鹿児島から長崎を経由して3泊4日で運ぶ近海郵船会社航路,
鹿児島から熊本県の三角(みすみ)港を経て大連に向かう
大阪商船航路もあった.どちらも国鉄との連帯航路だったので,
横浜,名古屋,大阪または神戸,長崎を経て大連に向かう近海郵船
は華北の天津や満洲の営口まで航路を延ばしてもいた.


 次回は航空路も含めて,満洲へのアクセスルートも紹介しよう.

http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.11.23



日の丸父さん(11)石原ヒロアキ
「単身赴任」
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□はじめに


「家を買ったらすぐ単身赴任させられる」とは,
幹部自衛官の間でよく言われることです.
単身赴任のメリット,デメリットはエッセイの中で
書いた通りですが,単身赴任で大切なのは家族との
連絡を絶やさないことです.


 私は毎日ではありませんが,定期的に家に電話を
してましたし,長期の休暇では帰省したり,
逆に家族で遊びに来てもらっていました.
これを怠ると自然と家族間の気持ちが離れていって,
離婚ということにもなりかねません.


 それと大切なのは,留守家族が安心して生活できること
です.私のところは妻と娘でしたので,とくに防犯の面で
心配でしたが,幸い隣近所との関係がよく,常に助け合って
いましたので心置きなく単身赴任できました.
そのかわり帰省時には隣近所へのおみやげもたくさん買いましたが.


「石原ヒロアキ まんが館」を立ち上げました. 現役時代に
頼まれて描いた4コマ漫画もアップしています.
http://yonekurahiroaki.wix.com/cbrn




●マンガ「第11話 単身赴任」は下記をクリック.
今月末まで無料で読めます.
http://okigunnji.com/url/179/




▼単身赴任


幹部や陸曹にとって,ほとんどの隊員は単身赴任から
逃げられません.現役時代に家を買い,子供ができると
どうしても単身赴任をせざるを得なくなるからです.
家を買ってなくとも,子供の学校事情などで家族帯同
できないときは,官舎を家族用と単身用と2つ借りられる
場合があります.


 単身赴任になると,単身赴任手当が付きます.
長距離になるとそのぶん金額が上がりますが,
基本的に二重生活になるため出費がかさみます.
私の場合,車がないと不便なところだったので,
中古車を買いました.自宅にも持っていたので維持費
が結構かさみます.家事も自分でこなさなければ
なりません.退庁後はそのままスーパーに行き,
食材を買っていました.


 でも,大変なことばかりではありません.
自由な時間があるので,いろいろな料理にチャレンジ
したり,休日は旅行やスポーツなど趣味を楽しむことが
できます.北海道でしたので,夏は水泳にゴルフ,
冬はスキーを満喫しました.


 単身者は単身者で1つの官舎に集められる傾向が
あります.そうすると夜などは暇なので,単身者どうしで
よく集まって飲むことになります.とくに部隊長は単身者
が多く,私はいつも第1電子隊長や師団司令部の
各部長さんと飲んでいました.


 そうしたら,ある日,師団の幕僚長に呼ばれ,
「今日は飲むのを控えるように」と言われたのです.
最初なんのことだかわからなかったのですが,
これは非常呼集の訓練があるに違いないと気づいた
のです.酒気帯び運転するわけにいきません.
かといって徒歩や部下の車両での登庁は時間が
かかります.部隊長着任後最初の訓練で,
酒で遅れては部下に示しがつきません.
幕僚長の細かな心遣いに感謝しました.


 異動者は,その距離によって異動完了日が概ね決まります.
距離の遠い方が,当然異動完了日が遅くなるのですが,
指揮官など重要ポストにつく場合は,異動日即異動完了日
は珍しくありません.


 私の場合,海外出張から帰国後,3日で異動せねば
ならず大変でした.普通,単身用の官舎には前任者が
置いていった冷蔵庫や洗濯機などがあるのですが,
ない場合は購入しなければなりません.
私は,隊の先任に頼んでリサイクルショップであらかじめ
適当なものを購入しておいてもらうようにしました.


 隊の先任とは,陸曹以下の隊員のまとめ役であり,
隊のさまざまな雑事もこなしてくれます.部隊にとっては
非常に頼りになる存在で,とくに単身赴任の隊長に
とっては女房役のような存在です.
現在では最先任上級曹長制度といって制度化され,
腕章をつけており,執務用の個室ももっていて指揮官並み
の待遇を受けています.


 近いところの単身赴任ですと,土日に自宅に帰ること
はできますが,北海道と関東ではそうはいきません.
夏休みなど長期の休みに帰省するのですが,
逆に家族が遊びに来ることもあります.北海道は観光地が
いっぱいあるので家族の方がよく夏冬に来ていました.
夏はドライブにキャンプ,冬は札幌雪祭りやスキーなどを満喫しました.


 指揮官の場合,部隊から遠くに離れるときは上司の,
私の場合は師団長の許可が必要です.ですから家族が
遊びに来てくれるのは気分的に楽でした.それでも単身赴任
が長くなると,やはり自宅が恋しくなります.3年ぶりに
自宅通勤が可能なところに異動した時は,内心ホッとしました.


 しかし,3年ぶりの自宅ではなんとなく自分の居場所
がなく,浮いている感じがして,とくに思春期の娘から
疎(うと)まれた寂しさは「日の丸父さん」第1話「父の日
の思い出」に描いたとおりです.

http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.11.21



日本陸軍の兵站戦(39)
 『朝鮮半島の鉄道─鉄道と軍隊─(19)』
   荒木 肇
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


□はじめに


 いやはや何とも情けないことに流行語大賞に『日本死ね』が
入ったとか.しかも受賞者が某政党の議員さんとか.
呆れてものが言えません.T大学法学部卒業のエリートだそう
ですが品格もかけらもない言葉です.わたしのような者がいる
学校現場では「いじめ」「嫌がらせ」「人権無視」の言葉として
子供たちに決して使わせないように重点指導している言葉です.


 それを学歴エリートが,選良が国会,テレビ,マスコミで使って
見せる.それを流行語に選ぶ「有識者」がいる,ぬけぬけと受賞の
喜びを語るガソリン疑惑の代議士,褒める代議士がいる.
ご自分が「○○死ね!」といわれたら,ヘイトスピーチだ,人権無視だ
と怒る方々ではないでしょうか.つくづく偏差値最高の某国立大学
のモラル教育のレベルがうかがわれる・・・などと見当違いな感想
までもってしまいます(笑).元検察官というのも笑えますね.


 批判したタレントのブログも賛否両論だったとか.拝見すると,
ごくまっとうな感覚のことをおっしゃっただけ.それを批判する連中は,
『目的さえ正しければ手段はどうでもいい』という昔ながらの粗雑な
方々だと思えます.昔の左翼の方々の理屈です.つくづくがさつな
言語感覚を持っているのだなと思いました.その同じ口で『教育は
大事』『学校内ではいじめ撲滅』と吠えるのだから呆れて口も
ふさがりません.


 わが国はほんとうに大丈夫なんでしょうか.かたや教育は大事
と言い,学校でもいじめをなくせといい,「死ね!」なんていう言葉を
使うなと言っておきながら,これです.昔,読んだルソーの『エミール』
の中に,『口に世界平和を唱えながら,隣人や家族に不親切な者
を警戒せよ』の言葉どおりです.ああ,かの議員さん方は,自分の
身内や家族には親切なのでしょう(爆).




▼大韓帝国の鉄道は高規格


「国内鉄道路線は国際規格とする」と李氏朝鮮政府が決めた.
そのため韓国最初の鉄道は初めから軌間1435ミリの国際標準規格
だった.仮運行の最初は1899(明治32)年に港町仁川(インチョン)
から現在のソウル駅の南西になる鷺梁津(ノリャンジン・漢江南岸
になる)までの33.6キロメートルだった.もともとその敷設権を
もっていたのはアメリカ人実業家である.それをわが国が買収し,
合資会社をつくった.朝鮮にもわが国が横浜から東京への路線を
建設したように,首都とその外港と結ぶ線路が初めてできた.


 翌年,19世紀最後の年に漢江を渡る橋が完成し,全長41キロ
の京仁線が開業した.興味深いのはこの軌間がいっとき,1524ミリ
の超広軌になりそうになったことがあった.それはロシアの影響を
受けた李氏朝鮮政府がそのように決めたからである.シベリア鉄道
と同じ規格だったのだ.当時,釜山から京城へ伸びる線路を建設
しようとしていたわが国はこれに猛反対をして,朝鮮全土の鉄道は
標準軌に決まった.


 日露戦争に前後して,南北を縦断する京城と釜山を結ぶ京釜線,
京城と新義州の間の京義線は戦時という非常時のおかげで突貫
工事が行なわれた.1906(明治39)年にわが国が保護国として
「統監府」を置き,部内に鉄道管理局ができた.株式会社だった
路線もすべて国有化されたのは言うまでもない.
 
 1910(明治43)年にわが国は韓国を併合した.朝鮮総督府鉄道局
の誕生である.内地の官鉄に対して鮮鉄と呼ばれる始まりだった.
翌年には鴨緑江を越える橋梁も完成し,対岸の満鉄との連絡が
できるようになった.この直通運転が実現したことで,朝鮮の鉄道は
日本と支那の間の物流の大動脈の地位を築いた.1917(大正6)年
には朝鮮半島の国有鉄道の運営が満鉄に委託された.満鉄は京城
管理局を置いて,京釜・京義の両本線の旅客列車は満洲に直通させたり,
関釜連絡線(下関〜釜山航路)を通じて内地の官鉄といっしょに
朝鮮・満洲も同時にダイヤを改正したりする.


 この満鉄への経営委託は1925(大正14)年にはいったん解消した.
朝鮮総督府が軍事優先から産業振興に方針を変えて,満鉄も戦後不況
(世界大戦後の不況)で朝鮮の鉄道への意欲が減退したからだ.
ただし,昭和に入って満洲の軍事的緊張が強まると北部の一部の路線
は1933(昭和8)年以降,またまた満鉄に委託されるようになった.


 1927(昭和2)年になると,帝国議会は『朝鮮鉄道12年計画』を承認
する.朝鮮の鉄道網はこれによって大きく拡がることになった.
新線を1400キロ敷設,私鉄を買収する政策が実行される.敗戦まで
朝鮮の国鉄の総延長距離は5000キロになっていた.また私鉄の勢い
もすごかった.鉄道6社が合併して,朝鮮鉄道は延長600キロ余りの
当時,国内最大級の私鉄になった.これを「朝鉄」と呼んだ.


 大東亜戦争が進むと軍事優先.鮮鉄も1943(昭和18)年には
総督府交通局へと改組された.軍事輸送が増えて,動員についての
取り組みが本格化したからである.
 
 第1次大戦からロシア革命,シベリア出兵などで中断していた
日欧連絡路線も1927(昭和2年)に復活した.満洲国が建国されると,
釜山から奉天,あるいは北京まで直通する国際急行が多く走った.


 1936(昭和11)年からは急行の3等寝台車では,毛布1枚が30銭で
貸し出された.枕の貸し出しも同額でされたという.「あかつき」「ひかり」
「のぞみ」といった急行列車のサービス向上なども並行して行なわれた.
これは朝鮮の鉄道の収入がどうしても旅客収入に頼らざるをえない所から
起きた.これは旅客が多いからではなく,相対的に貨物輸送が少なかった
からである.朝鮮の中に十分な産業が育っていなかったからだった.
そのため鮮鉄の経営は慢性的に赤字であり,総督府の一般会計から
充填されていた.


 苦労が多かったもう一つの理由が競合路線があったことからである.
内地と大陸を結ぶルートは,朝鮮半島を縦断しなくても海路を使える便利
さがあった.内地から関東州へは大連への直通の航路があった.
また,ソ連のウラジオストクや,北朝鮮の清津などを通って満洲へ向かう
路線もあったからである.


▼日本人は何をしに朝鮮に行ったか?


 それは「史跡」見物に出かけたのだ.当時の中学生の修学旅行記を
見ると,それがよく分かる.秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)についての
古戦場などが観光の目玉になっている.島津氏が立てこもった蔚山城,
小西行長の奮戦地などなどがガイドブックにも紹介されている.
被害者?というべき朝鮮の方々にはお気の毒だが,ご先祖の奮戦の地
でもあったから当時の国民には大切な場所でもあったのだ.


 また,朝鮮は日清戦争(1894〜5)年の古戦場でもあった.『渡るに易き
安城は♪』と軍歌で知られる「成歓の戦い」で戦死した喇叭手木口小平の
記念碑もあった.そして平城には「玄武門一番乗り」で知られた
原田重吉1等卒の逸話の門もある.木口の話は進撃する中で銃弾に
撃たれながらも喇叭を口から離さず戦死した英雄譚である.これは戦前の
国定教科書にも載っていた話だった.また,原田は門を攻めあぐねた味方
からただ一人,城壁を乗り越え躍進し,清国兵を倒して内側から門を開けた
勇士である.


 日清・日露の両戦争はまだ国民の記憶に新しく,その体験者も多かった.
現地の戦闘経験者も多く生きていた時代である.1905年の日露戦争は
昭和10年からしても,わずか30年前だった.昔を懐かしみ,あるいは
過去の知恵から学ぼうとする人たちがいて当然である.


 現地を知ることの大切さは言うまでもない.事実,戦後5年目に起きた
朝鮮戦争では国連軍が,日清戦争と同じように平壌に進撃した.
わたしも面識がある韓国陸軍白善?大将は『当時の国連軍首脳が
日清戦争の戦史をよく知っていたらもっとよかった』と語ってくれた.
白大将は満洲国軍官学校(陸軍士官学校)卒業のいわゆる
「日本刀(いるぼんど)将校」だった.発足当初の韓国陸軍にはのちの
朴大統領も含めて「旧」日本陸軍出身者が多かった.白大将は当時,
少将の師団長だったが,釜山から平壌への進撃作戦では,国連軍は
ほとんど日本陸軍の作戦の基本と同じだったと語ってくれた.戦史の
知識は必須のものだと大将は教えてくれたのである.


 興味深いのは,いまは存在がほぼ否定されている「任那日本府」の
故地とされた金海も貴重な遺跡として紹介されていた.古代,わが国が
朝鮮半島に領土をもっていたのは『日本書紀』に書かれた史実だという
ことから当然であろう.他には慶州,扶餘,開城などをガイドしている.


 観光地ではいまは北朝鮮の名所になっている金剛山もある.
スキー場もあった名所で,西洋式ホテル,日本旅館,朝鮮旅館が多く開業
していた.足は京城からの直通,金剛山電気鉄道という私鉄があった.
また,日本海側の海沿いを走る東海北部線にも京城から直通運転の
列車が週末を中心に運転されていた.


 温泉が日本人にとっての魅力の一つだが,古くから朝鮮の人たちは
あまり入浴しなかった.そのため温泉に関心が薄かったが,日韓併合
以来,日本人による温泉地開発が始まった.史実として日本人が進出
すると温泉施設が整備される.台湾も同じである.


 京城からおよそ100キロ南下した天安から私鉄に乗り換える.
その朝鮮京南鉄道は沿線にある温陽温泉を大阪の「宝塚にも負けない」
として豪華なホテルを経営していた.鮮鉄もまたタイアップして往復
割引乗車券を発行していた.週末の列車はなんと5割引きにまでした
というから,当時に京城に住む日本人が家族連れで出かけた記録も
あるのも当たり前だろう.


 1938(昭和13)年からは日本航空輸送が定期便の旅客機を
飛ばした.京城〜咸興〜清津に空路を開いた.同じく朝鮮航空は
京城〜裡里〜光州を結んだ.


▼宿泊・駅弁


 旅行客にはJTBの案内所がサービスした.釜山港桟橋構内,
京城・羅津の駅構内,清津桟橋の前や,京城の和信百貨店内や
三越百貨店内にカウンターがあった.また,釜山,大邱,平壌,咸興
にあった三中井百貨店内にあって,旅行案内,割引乗車券,旅館
などの宿泊手配などを行なっていた.


 ホテル・旅館などは各地にあった.鮮鉄が直営した朝鮮ホテルの
ような西洋式の大ホテルが大都市には開かれていた.朝鮮式旅館は
床にオンドル(床下に煙を這わせ床暖房をする)があるのが特徴で,
ただし食事は朝鮮式だった.たくさんの漬物が出て,豪華ではあるが
ひどく辛いのが特徴だと書いた旅行記もある.


 少し前まで和風旅館には勘定の他に「茶代」というチップが慣行と
してあった.明治時代の小説『坊ちゃん』でも主人公が帳場に5円の
「茶代」を出したら待遇が一変した.いまは温泉旅館でも仲居さん達に
チップを渡す人も減ったらしいが,戦前社会では常識のうちだった.
だから旅費についていえば,朝鮮式旅館にはそうした慣習がなかった
からだいぶ安くすんだらしい.


 旅行中の食事の楽しみは食堂車や駅弁,または各駅構内の食堂
だった.食堂車のメニューは洋食と和食であり,ふつうに考えれば
なかなか高価だった.3000円から4000円くらいに換算される.
駅弁はどこでも35銭というから700円くらいと考えられる.


▼言葉のこと


 言語はいたるところ不通だと鉄道院の文書は書いている(1919年).
朝鮮人口1669万人のうち,「やや解し得る」「普通会話ができる」者は
合わせて30万人しかいなかった.約1.8%でしかない.しかし,鉄道旅行
に限ってはそれほどの不便はなかっただろう.1921(大正10)年の満鉄
京城管理局の統計によれば,駅勤務員のうち内地人は321名で,
朝鮮人は44名だった.列車乗務員の車掌は内地人168名,
朝鮮人12名である.駅長は内地人171名,朝鮮人1名のみ.助役も
177名対3名.日本語ができなくては管理職や旅客を相手にする職に
は就けなかったのだろう.


 これが昭和10年になると,旅客掛では内地人92名対朝鮮人32名,
駅務掛同276対157と朝鮮人の割合が増えていく.車掌も321対168
となっている.この後の記録では,朝鮮人全体の12.4%が「国語を
解する」とある.10歳未満の児童を除くと3分の1の人が日本語を
読み書きできたと1943(昭和18)年の資料にもあるので,公教育の
普及がしのばれる.


 ただ,鉄道利用者の80%は朝鮮人だった.それでも切符には日本語
だけ,しかし漢字が使われているから乗客に不便はなかったという.
駅構内や車内の表示には,漢字,ひらがな,ハングルを併記していた.


 駅名の表示には,漢字,ローマ字,ひらがな,ハングルの4つが
書かれていた.ローマ字は漢字の日本語読み,たとえば大邱(テーグ)は
「たいきふ」,ローマ字でTAIKYU,そしてハングルでテーグというわけだ.
原則として漢字表記の地名を読むときは音読みにするが,東西南北を
付けるときはそこだけ訓読みである.もちろん僅かの例外もあった.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.12.7




『ライター・渡邉陽子のコラム (121)─ 海上自衛官(1)
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


こんばんは.渡邉陽子です.


現在発売中の「丸」1月号(*)で,
「日の丸アーミー海外派遣の現状と未来」,
「陸上自衛隊高射学校密着ルポ」の2本が掲載されています.
高射学校は前編なので,続きもあります!


(*) http://okigunnji.com/url/196/






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○ライター・渡邉陽子とは?
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○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■海上自衛官(1)


与那国島レポートをお届けする前に,
昨年「JDA Club」というフリーペーパーの取材で
出会った海上自衛官をご紹介したいと思います.
取材時,統合幕僚学校の国際平和協力センター教育・研究室長
だった林秀樹1等海佐です.


林1佐へのインタビューは現在の業務についてではなく,
家族について語っていただくというものでした.家族との絆が
テーマのページで,これまでは「配偶者が自衛官」という
夫または妻に話を聞くことが多かったのですが,
今回は林1佐にお母様のことをお話いただくことになって
いました.そして取材に同席されないお母様からは,
以下のような手紙をいただいていました.




2000年7月から約2年,米海軍太平洋艦隊司令部で
勤務する息子に帯同してハワイで生活しました.
74歳にして人生初の海外です.英語はまったくわからず
車の運転もできない私が暮らしていけるのかと不安でしたが,
陸自,空自の連絡官の奥様方,現地日系人の皆さんにも
助けていただき,無事に過ごすことができました.


思い出に残ることは多くありましたが,なかでもハワイに
渡って半年後に起きた,米海軍潜水艦と宇和島水産高校
実習船えひめ丸の衝突事故は,今でもはっきりと心に
刻み込まれています.


1955年,当時6歳だった息子(秀樹の兄)と旧国鉄宇高連絡船,
紫雲丸に乗り合わせていた私は,日本で3番目の大惨事と
なった海難事故に遭い,私は助かりましたが息子を失いました.
それから6年後に秀樹が生まれ,その息子が縁あって
海上自衛官となりました.そしてハワイで,60年前に経験した
事故と同じような事故が身近で起こりました.


60年前は「子どもを返せ」と国鉄総裁に詰め寄っていた私が,
今度は立場が変わって愛する家族を失った方を支えることと
なりました.同じような海難事故で家族を失った者だからこそ
わかる心の痛み,自分だけが生き残ってしまった者だから
こそわかる辛さなどを,もう一度思い出しながら精一杯
お手伝いさせていただきました.少しでもお役に立てたのなら,
これほどうれしいことはありません.




思わず読み直す内容です.
紫雲丸事故とは,1955年5月11日,宇高連絡客船の紫雲丸
(総トン数1480t)と宇高連絡貨物船の第三宇高丸(総トン数1282t)
とが,濃霧の中で衝突した事故です.船客781人と貨車等19両
を載せた紫雲丸に第三宇高丸船首が衝突,紫雲丸は沈没し,
船客166名および船長ほか乗組員1名が死亡または行方不明
となり,船客107および乗組員15名が負傷した惨事でした.


多数の旅客を輸送する大型連絡船の海難で死傷者の数が
多かったこと,亡くなった船客の多くが女性,子ども,修学旅行生
だったこと,レーダーという当時最新式の航海機器を装備した
船舶間の事故であったことなどから,社会に大きなショックを
与えた海難事故でした.




そして2001年に起きたえひめ丸事故については,覚えて
いらっしゃる方が多いはずです.外務省のHPには,この事故
について以下のように記されています.




(1) 平成13年(2001年)2月10日(日本時間),
ハワイ州オアフ島沖で愛媛県宇和島水産高等学校の練習船
「えひめ丸」(35名乗船)が,緊急浮上した米原子力潜水艦
「クリーンビル」に衝突され沈没,乗員35名中9名(内高校生4名)
が行方不明.


(2) 米側はブッシュ大統領より森総理(当時),パウエル国務長官
より河野外務大臣(当時)に電話で謝罪した他,大統領特使
ファロン海軍大将が大統領親書を携行して来日(2月27日〜3月1日)し,
愛媛県も訪問(2月29日).米国はあらゆる面での責任を認めている.


(3) 政府はホノルルに櫻田外務大臣政務官(当時)(2月10日〜26日),
次いで望月外務大臣政務官(当時)(2月23日〜3月1日及び3月5日〜21日)
を派遣,陣頭指揮.また,2月15日より同19日まで衛藤副大臣(当時)
をワシントン及びホノルルに派遣.




100%,米海軍の非による事故でした.えひめ丸は浮上中の原潜
に船底から衝突され,沈没したのです.そしてこのとき,海上自衛隊
の連絡官としてハワイの米海軍太平洋艦隊司令部で勤務していた
のが林1佐でした.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.12.8





『ライター・渡邉陽子のコラム (122)─ 海上自衛官(2)
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは.渡邉陽子です.


先日,海上自衛隊東京音楽隊の定期演奏会を取材しました.
高い演奏技術は言わずもがな,今回いちばん衝撃を受けたのは,
シューベルトの「アヴェマリア」をバスクラリネットが主旋律を
演奏した1曲です.バスクラリネットの音色があれほど深く
美しく重厚だとは! 本当に感動しました.今もまだ頭の中で
バスクラのあの音色が鳴っています.


また,日米共同方面隊指揮所演習「ヤマサクラ」,YS71にも
少しだけお邪魔してきました.開催場所である健軍駐屯地は
熊本地震の被害がまだあちこちに残っており,隊員食堂の2階は
天井が崩れ落ちたまま,1階も半分は使用不可です.


使用できなくなった隊舎もあり,仮施設のプレハブで業務を
行なっている部隊もあります.災害派遣に向かう部隊も被災し,
隊員もまた被災者であることを,改めて認識した1日でした.




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■海上自衛官(2)


自衛官が海外駐在する際は,配偶者や子どもを帯同するのが
決まりです.林1佐は独身だったため,上官から「ハワイに行くまで
に結婚しろ,それが無理ならとにかく誰かしら家族を連れて行け」
と無茶ぶりされました.家族といっても,母親の愛子さんはすでに
シニア,海外旅行すらしたことがありません.


それでも選択肢のない林1佐は愛子さんに「向こうで一段落したら
日本に戻っていいから」と思いきり嘘をつき,半ばだます形で
ハワイに連れて行きました.しかもハワイでは愛子さんが勝手に
帰国してしまわないよう,しばらくパスポートを隠していたとか.
林親子の苦労がしのばれます.




それでも愛子さんは少しずつ現地の生活に慣れていきました.
愛子さんは車の運転ができないので,買い物は週末に林1佐が
運転する車で行って1週間分をまとめ買いします.愛子さんは庭に
小さな畑を作り,ネギを育て始めました.林1佐も連絡官として
米海軍太平洋艦隊司令部で精力的に働き充実した日々を過ごして
いるとき,えひめ丸の事故が起きました.




そこからは怒涛の日々だったそうです.高校生4名を含む
9名の行方不明者の家族にとって,林1佐は「米海軍に属する敵」
以外の何者でもありませんでした.米軍に対する激しい憤りは
すべて,林1佐にぶつけられました.


行方不明者の家族の中には,実は自衛官もいました.
その自衛官ですら,最初は林1佐に対して怒りと敵意を隠そうと
しなかったそうです.
日本とアメリカでは,事故が起きた後の当事者の対応は大きく
異なります.日本では被害者の家族の心情を汲みます.
しかしアメリカは,良くも悪くも合理的です.その態度が家族の
気持ちを逆なでしました.




そもそも事故は,米海軍の原潜がゲストを乗せていたことで,
浮上に対して周辺の警戒が通常よりも散漫になっていたことが
原因でした.しかも事故当時,操縦桿はゲストに握らせていた
といいます.言葉が通じる同じ日本人の林1佐は,家族にとって
怒りをぶつける唯一ともいえる対象でした.林1佐は家に帰る間
もなく,事故処理に奔走しました.


1週間経っても,さほど遠くない家に帰る余裕はまったくありません.
自宅の冷蔵庫は空になっているはずです.ひとりでは買い物に
行けない愛子さんが食事に困っていないか,そもそも言葉も
通じない土地でひとりきり,不自由や不安はないだろうか.
体調を崩したりしていないだろうか.林1佐は心配でしたが,
どうにもできませんでした.




その頃,愛子さんは林1佐が想像すらしていなかった状況にありました.
事故に関する電話は,林1佐の自宅にまでかかってきていたのです.
慟哭,叱咤,苦情,怒り,嘆き,そして林1佐の立場を知る人からの
応援や激励.
そういった電話がひっきりなしにかかってきていました.愛子さんは
そのすべての電話をひとりで受け,内容を書き留めました.


食べるものはなくなりましたが,畑で育てていたネギと庭に自生して
いたマンゴーで食いつなぎました.




久しぶりに林1佐が帰宅できたとき,愛子さんは自宅にかかってきた
すべての電話の内容を書き留めたものを差し出し「全部読みなさい」と
言いました.魂の叫びのような言葉が並んでいます.


もしかしたら電話を受けた愛子さんも責められたりなじられたりしたかも
しれません.胸の張り裂けるような思いをしたかもしれません.
それでも黙って聞き,林1佐に漏らさず伝えることが自分の役割だと
思われたのでしょう.疲労困憊していた林1佐でしたが,ぶ厚いその
メモを丁寧に読み進めたそうです.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.12.15





 日本陸軍の兵站戦(40)
『朝鮮の鉄道あれこれ─鉄道と軍隊─(20)』 荒木 肇
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


□はじめに

 またいやな事件がありましたね.亡くなられた米軍パイロット
のご家族はどんな思いでいらっしゃるでしょうか.遠い異国の海
で訓練中に殉職された,そのときにまず,お悔やみと任務への
感謝を伝えるのが日本の政府人であるべきでしょう.

同盟国の軍人がわが国の防衛のために訓練をする.
その公務に殉じられた姿に哀悼の意をまず表すべきだと思います.
それを訓練中止や飛行差し止めの言葉から始めてしまったらしい
防衛官僚の作文.シビル(文官)とは制服(武官)に冷たいもの
だなと思いました.


 また,先日のオスプレイの訓練中の「不時着」でもおかしな意見
が湧きあがりました.主導したマスコミの知識の無さか,
意図的な煽りかは分かりません.市街地への墜落を恐れ,
無理な飛行を続け,とうとう海に落ちた米軍機.


 これもまた夜間の空中給油訓練だったようです.
厳しい,大切な訓練です.暗夜に飛行中のパイロットの状況を
どれだけ素人は知っているのでしょうか.空間認識が減退する中で,
給油機から伸びる移送パイプをまるで手探りのようにして
自機のブームで捉える.こんな困難な訓練を誰のためにしている
のか.自国のため,そして同盟国のためです.

 米軍将官の言葉もわざとかどうか訳をねじ曲げ,省き,傲慢な
態度と怒ってみせる,どうして沖縄人の一部はそこまでひねくれる
のでしょうか.やはり異文化なのです.また,それを拡散する
マスメディア,ほんとうに末期症状です.

 ベー様,またまた大丈夫なんでしょうか.


▼鮮鉄の急行列車「ひかり」

 下関から釜山までの連絡船と接続する急行があった.
満洲国の建国があり,内地から朝鮮を経由して満洲を結ぶ,
そのために1933(昭和8)年にダイヤ改正が行なわれた.
釜山の桟橋から奉天までの間を直通運転する急行列車が
「ひかり」と名付けられた.翌年には新京(現・長春)まで直通区間
を延ばし,1942(昭和17)年にはハルピンまで直通した.
敗戦直前まで,この列車の運行は続けられた.

 所要時間はおよそ36時間である.上りは釜山を,
下りはハルピンをそれぞれ夕方に出発する.そして翌々日の朝に
終着駅に着くというダイヤだった.車輛は濃緑色に塗られ,最後部は
展望車である.そのバルコニーには「ひかり」と平仮名のテールマーク
が付いていた.この展望車には1等寝台が前部にあり,
車輛記号は「テンイネ」と内地にはないものである.テンとは展望車,
イは1等車,ネが寝台車を示す.編成はこの他,2等寝台車,
同座席車,3等寝台車,同座席車と食堂車である.
シベリア鉄道経由でヨーロッパまで行く場合に,この「ひかり」が
使えるようになっていた.

 内地の食堂車は「和食車」と「洋食車」に厨房設備の違いに
よって分けられていたが,「ひかり」の食堂車はどちらにも対応できた.
和定食は1円20銭,洋定食が1円50銭になっていた.
いずれも1円=2000円で換算すれば,2400円と3000円となり,
まずまずの設定だろう.ちなみに内地の「つばめ」や「富士」も
洋定食は同額だった.

▼急行「のぞみ」

 1934(昭和9)年11月のダイヤ改正で釜山と京城を結ぶ急行の
運行が奉天まで延伸されたときに「のぞみ」と命名された.昭和13年
には新京まで運転が伸びた.上り・下りとも関釜連絡船の夜行便と
接続していた.奉天・新京へ向かう下りの「のぞみ」は釜山を朝に
出て,上り便は夕方に釜山に着いた.先に書いた「ひかり」は
連絡船の昼間の便と接続したので,乗客は昼か夜かを選ぶこと
ができた.

「のぞみ」の最高部にはやはり展望1等寝台車がつながっていたが,
この車輛は台車が3軸になっていた.欧米にはよくあるが,
内地の国鉄には珍しかった.ふつうは2軸なので線路の継ぎ目では
「ガタン,ゴトン」と音が響くが,3軸だと「ガタタン,ゴトトン」と
聞こえたそうだ.軸を増やせば振動が減るというわけだ.

 展望スペースには本棚もあり,旅行地図やガイドブックも置かれた.
安楽椅子とソファーが窓際には並べられ,床にはカーペット,
木部はチークというのだから欧州調を十分意識していた.
専門の給仕がいて,飲み物なども提供されている.

▼特急「あかつき」

 1936(昭和11)年12月のダイヤ改正でただ一つの特別急行が
できた.釜山から京城まで6時間40分で結んだ.急行「のぞみ」の
7時間50分を一気に1時間10分も縮めたわけだ.停車駅も大邱と
大田の2駅だけにしぼった.最高部の1等展望車,2等車,3等車と
食堂車の合計7両に手小荷物郵便車1両の合計8両編成.
この「あかつき」のためだけに新造された高速運転用軽量客車群
だった.外の塗色はやはり濃緑だった.

 各車両には車内放送装置が完備された.案内放送や音楽まで
流されていた.冷房装置付きの食堂車には4人,2人用のテーブル
があった.3等車の座席は4人がけのボックス・シートで固定.
ただし,3等車としては初めて天井に扇風機が付いた.2等には
リクライニングはできないが2人かけの回転式座席が通路の両側に
あった.最高部の1等展望車は「ひかり」「のぞみ」の開放式の
展望台はなかった.ガラス窓で密閉されていた.車輛の中央には
定員3名の特別個室もあった.

▼急行「大陸」

 北支で盧溝橋事件が始まったものの,どうやら治安が回復すると,
朝鮮や満洲を通って天津や北京に向かう旅客が増えた.
1938(昭和13)年10月には,釜山から北京へ直通する急行が
造られた.翌年11月に愛称がつけられ,「大陸」と呼ばれた.
廃止されたのは昭和19年2月だから寿命は5年あまりだった.
客車については,昭和14年に満鉄の傘下に設立された「華北交通」の
ものである.最後尾の1等展望寝台車は開放式のオープンではなく,
ガラス窓の密閉式.ただ,「あかつき」とも仕様が異なるのが半円形の
姿で曲面ガラスも大きかった.サロン(談話室)には紫色のカーペットで,
内装全体は「中国風」に統一されていた.客室は折りたたみ式の
2段寝台個室が6つ,定員は12名でしかない.

 釜山〜京城〜平壌〜奉天を経て北京まで,総走行距離は
2067.5キロ,39時間30分で結んだ.関釜連絡船との夜行便と
つながり,東京〜北京を3泊4日で行くことができた.この列車は,
当時の「帝国内」での最長距離を走った.

 車輛を造ったのは大連の満鉄工場だが,戦後,中国国鉄に
引き渡され,中華人民共和国の要人たちの専用車になった.
毛沢東,周恩来などの公務用に使われた.現在も瀋陽の
鉄道博物館に保存されている.

▼急行「興亜」

 1939(昭和14)年11月に,釜山〜北京に「大陸」の姉妹列車と
して走った.所要時間38時間45分と「大陸」と似ている.
ただし,展望1等寝台車はない.最大の特徴は関釜連絡船の昼間の
運行便と結ばれているから「大陸」とは昼夜逆転になる.

 国際急行としては敗戦間際まで健在だった.その理由は対馬海峡
の安全度だった.敗戦近くなると,連絡船は安全のために夜行運行
を取りやめた.おかげで昼間の運行だけが続けられ,「興亜」や
「ひかり」は最後まで命を長らえた.

▼雑学・戦前鉄道車両の記号

 戦前に使われていた車輛の記号についていろいろ.

 客車の記号で1等はイ,2等はロ,3等はハ.寝台車はねるからネ,
展望車はテ,食堂車はシ,郵便車がユ,荷物車がニ,病客車が
「べうかく」なのでヘ.イネというのは1等寝台車ということだ.切符の色
も1等は白,2等は青,3等は赤で,これは客車の窓の下に色帯が
巻いてあったのと同じ.現在,旧2等車がグリーン車になり,グリーンの
客車はロの記号を付けている.
 
 客車の記号は重さによって分けられていた.22.5トン未満が「コ」,
22.5トン以上27.5トン未満が「ホ」,27.5トン以上32.5トン未満は
「ナ」,32.5トン以上37.5トン未満が「オ」,37.5トン以上
42.5トン未満が「ス」,42.5トン以上47.5トン未満「マ」,47.5トン
以上「カ」となっていた.「コホナオスマカ」の順に重くなっていく.

 貨車の記号は難しい.有蓋車(ボックス型の屋根付き)はワゴン
だから「ワ」.冷蔵車は「レ」,通風車(外壁がすだれのように穴が
あいている)が「ツ」,家畜車は「カ」,豚積車(豚専用の貨物車)は「ウ」.
豚ならトンやブタの「フ」のようだが,「ト」は無蓋車だし,「フ」は
緩急(かんきふ)車で使われていたから,工夫が要った.
誰かが豚は「ウ〜」とうなるからといい,「ウ」に決まったらしい.
ニワトリなどの家禽を積むのは「パ」,英語のパウルトリーから.
陶器運搬専用車は「ポ」,英語のポッタリーからとった.

 土運車は砂利の「リ」,石炭車は「セ」,長物車(材木などの長大な
もの)は「チ」,英語のチンバーの頭文字.大物車は重量物の「シ」,
タンク車は「タ」,水槽車はみずの「ミ」,ホッパー車の「ホ」は分かりやすい.

 これらをまた,荷を積める重量で4分した.14〜16トンは「ム」,
17〜19トンは「ラ」,20〜24トンは「サ」,25トン以上が「キ」である.
順に「ムラサキ」となる.この「ム」については軍が関係している.

 軍需輸送で使い勝手がいいのが軍馬輸送用の15トン積載有蓋車
だった.そこで大量に規格化されたが,「ムマ=馬」だから記号設定の
時に「ム」とされた.その後,ムを頭文字にした4文字熟語があるかと
相談し,ムラサキを選んだという.

 その他,ラッセル車は雪をかくから「キ」.検重車が「コ」,
どうしてかというと衡重車(こうじゅうしゃ)からコになったという.
工作車は「サ」,救援車は「エ」,操重車(クレーン車)が「ソ」,控え車の
「ヒ」などまではなかなか覚えられない.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.12.21




日の丸父さん(12)石原ヒロアキ

「自衛官の恋愛事情」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

□はじめに

自衛官も普通の人間です.普通に恋もします.

 ここで一つエピソードを紹介します.私は1尉のころ,
化学防護小隊長でした.化学防護小隊は師団司令部
付隊という師団司令部を補佐する部隊の中にあり,
そこは保安警務隊,車両小隊,管理小隊という寄せ集め
のような部隊でした.

 ある日,無断欠勤した隊員がいました.これは処罰される
なと思った時,彼から電話がきたのです.「いま彼女のところ
にいて,明日から訓練で1週間ほど会えなくなると言ったら
自殺すると言われて部屋から出られない」と言うのです.

 それが欠勤の理由になるか?と思った時,隣にいた
保安警務隊長が「代われ!」と言いました.激しく叱責すると
思いました.なにしろ警務科は自衛隊の警察で,法や規則
の番人です.その隊長は実際厳しいことで知られていました.
その彼がこう言ったのです.

「彼女に『離れるくらいなら死ぬ』と言われるまで惚れられる
とは男冥利に尽きる.羨ましいよ.心配するな,彼女を説得
してから出てこい」.

 私はたまげました.保安警務隊長は,彼女の命を守るのは
欠勤の理由に十分値すると判断したのでしょう.そして彼の
言うことを信じたのです.その隊員はそのあとしばらくしてから
出勤してきました.なんて情の深い保安警務隊長だろうと
思いました.

 これが自衛隊なのです.私は今でもその保安警務隊長を
尊敬しています.


●マンガ「第12話 自衛官の恋愛事情」は下記をクリック.
今月末まで無料で読めます.

http://okigunnji.com/url/204/


「石原ヒロアキ まんが館」を立ち上げました. 現役時代に
頼まれて描いた4コマ漫画もアップしています.
http://yonekurahiroaki.wix.com/cbrn




▼出会いが少ない自衛官

 自衛官も普通の人と変わりません.恋愛もすれば結婚もします.
ただ,一般の人と生活環境がやや違うので,自衛官ならではの
恋愛や結婚があります.

 まず,自衛官は異性との出会いが少ないという特徴があります.
女性自衛官もいますが,圧倒的に男子自衛官が多いのです.
そして,陸士や陸曹の若い隊員は駐屯地の営内に住んでいます.
いわゆる柵の中で生活しており,職住が一緒です.課業後も
外出するには外出証が必要で,許可制になっています.

 こう言うとちょっと暗いイメージですが,実は駐屯地は意外と
住み心地がいいのです.外出できない者は課業後に隊員食堂で
食事をし,隊員浴場で入浴をします.その後,厚生施設のクラブ
で酒を飲むのが一般的です.

 営内は集団生活で基本的に個人の空間はないのですが,
ほとんどの隊員は部屋をロッカーなどで区切って個人スペースを
作り,テレビ,パソコン,スマホなどで余暇を楽しんでいます.
食費,光熱費はほとんどかかりません.

 外出した場合は,休日のときは自宅でくつろぐか,ドライブ,
パチンコ,映画,飲み屋に行くのが普通です.最近は外出者が
少なく,営内でゲームやスマホをするものが増えているそうです.
つまり,異性との出会いの場がほとんどなく,生活に不便を
感じないので,結婚の必要性を感じない者が多いというのが実態です.

 昔は親やおばさん,あるいは上司の紹介で見合いというのが
あったでしょうが,最近はまれです.そこで曹友会(陸曹の相互親睦
を目的とした准陸尉を含めた陸曹の任意団体)などが,部外の
女性を対象とした「ふれあいパーティー」などを主催して,隊員に
異性との接触の場をつくろうと努力しています.

 最初は女性の参加者が少なかったのですが,最近は自衛官が
人気で,女性の数が男子隊員を上回るのが常態です(公務員であり,
募集難のころに比べると,優秀な人材が増えてきています.
陸士でも大卒は珍しくありません.全国異動が気にならなければ
結婚相手に自衛官はお勧めです).

 幹部の場合は,営外に住んでいるので部外の異性との出会いは
ありそうですが,結構仕事が忙しく,残業したり,訓練で長期間不在
であったり,また,独身だからと休日に当直につけられたりと意外と
暇がありません.

 そのような状態の中で結婚した隊員を見ると,相手が自衛官で
あったり,看護師であったり,学生時代の幼馴染であったりというのが
多いようです.看護師の場合,自衛隊の病院があり,そこでの出会い
が結構あったりします.ちなみに自衛隊の病院に勤務している
看護師は幹部自衛官です.

▼職場結婚が多い自衛隊

 自衛隊に「職場恋愛禁止」はありません.女性自衛官の場合,
同じ職場の自衛官と結婚するのが普通です.ただし,幹部の場合と
陸曹・陸士の場合では多少異なります.

 幹部の場合は異動が多いので,幹部どうしの結婚は別居を
覚悟せねばなりません.とくに防大(B)や一般大出身者(U)の場合,
日本全国の異動はあたりまえで,それを承知の上での結婚はかなり
の覚悟が必要です.

 別居が長引くと心も離れて最終的に離婚する例もありますが,
ふつう女性が退職して結婚を維持する場合が多いようです.
別居してでも結婚を維持したい場合,今度は子供の問題が出てきます.
お互い子供はいらないということであれば問題ないのですが,
どちらかが子供をほしがった場合,離婚か退職かの選択がでてくる
可能性があります.

 もちろん上司も本人たちの希望に沿った人事をしようと,
同居できるような勤務場所を調整する場合もありますが,
二人が同じ場所にタイミングよく異動することはほとんどまれです.

 では,陸曹の場合はどうでしょうか? 陸曹は幹部ほど異動が
多くなく,また人事の融通が利くので,陸曹どうし,あるいは幹部と
陸曹の結婚は多いようです.事務官の場合も異動が少ないので,
自衛官と事務官との結婚もあります.

 最近は育児休暇の期間がかなり長期でとれるようになったので,
退職する自衛官は少ないのではないでしょうか.

 部隊長は,隊員の服務指導をしなければなりませんが,
隊員どうしの恋愛や結婚などにも常に気を使っています.漫画では
第7化学防護隊が舞台になっていますが,あくまでフィクションです.

 最近まで女性自衛官は化学部隊や戦闘部隊などへの配置が
母性保護の名目で禁じられていましたが,解禁になったようです.
女性の護衛艦の艦長や戦闘機パイロットも出てきました.
私としては複雑な気持ちです.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.12.20




『ライター・渡邉陽子のコラム (123)─ 海上自衛官(3)
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは.渡邉陽子です.

12月29日(木)はお休みさせていただくため,
2016年のメルマガは今回が最後になります.

現在連載中の「海上自衛官」についてですが,
本文の最後にお知らせがありますので,
ぜひ最後までお読みくださいませ.

今年の師走は年末ぎりぎりまで取材が入っていて,
必然的に取材のない日は原稿に追われています.
でも忙しい時間があるからこそ,ほっとできる時間の
大切さ,ありがたみもよくわかりますね.

個人的には9月に余命1〜2週間と言われた同居猫が
今も頑張って生きてくれていることも,大きな支えに
なっています.


□お便りありがとうございます!

------------------------
いつもお心のこもったレポートを楽しみに拝読しております.
林一佐を支えるお母様のご立派な姿勢に胸を打たれました.
軍人と言わず一般人と言わず,だれでも壮絶なドラマを
背負って生きていると思います.

 若干ずれた話になることをお許し下さい.
近時,海外派遣時の我が国の自衛隊員のモラルの高さが
外国の軍隊から称賛される旨の記事を目にします.

それらを見聞きするとき,義和団の乱に際して派兵された
日本軍の規律を守る姿勢が高く評価された史実を思い浮かべます.
その後の日本軍,とりわけ陸軍の変容ぶりを考えると,
自衛隊ですら環境が変われば,非難やそしりを受ける行動を
することが無いとは限りません.

戦後,努力をコツコツと積み上げて今日に至る自衛隊員並びに
関係者への評価が変わることの無いよう,これからも努力して
いただきたいものです.

 毎回の渾身のレポートの作成はお疲れになるかもしれませんが,
これからもご自愛のうえがんばってください.

(R・F)
--------------------------------

⇒ R・F様
誰でもドラマを背負っている,まさにその通りですね.
取材したのは1年半近く前ですが,お話を聞きながら
涙をこらえるのに必死だったことを,昨日のことのように
覚えています.あたたかいメッセージをありがとうございました.


-----------------------------
今回の渡邉さんのコラムの自衛官については全く知らないものでした.
まだ連載2回目ですが,これは多くの方に知ってもらう必要の
ある内容だと感じました.ぜひ書籍化希望します.(K)
-----------------------------

⇒ K様
ひとりでも多くの方に知っていただきたいという思いで,
今回メルマガでもご紹介させていただきました.
けれど確かに,もっともっと知っていただきたいですね.
励みになるメッセージ,ありがとうございます.


---------------------------
林一佐の母上は大した方ですね!
自宅にまでかかってきた電話を書き留めて渡すとは….
最初はさぞ混乱したでしょうが,冷静に対処されたこと
には感動すら覚えます.

聞いてあげて自分一人で背負い込まず,林一佐に伝える.
危機対応のお手本みたいです.こういう方であれば,
適切な慰めの言葉も相手に伝えることができたことでしょう.
こういう良いお話は,もっと拡散していただきたいものです.

(B)
--------------------------

⇒ B様
私も同じように感じました.ご本人も心細かったはずなのに,
毅然とした態度でいらしたことに感服しました.
今回の記事も,ぜひお読みください.ありがとうございました.


▼渡邉さんへのメッセージは
http://okigunnji.com/1tan/lc/toiawase.html
から.


-------------------------------------
○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
-------------------------------------


■海上自衛官(3)

被害者の家族と米海軍との板挟みで苦しむ日々が続きます.
それはつまり,行方不明者の家族と米海軍の関係が著しく
悪いということでした.そんなとき,林1佐が「私が生まれる前
に母も海難事故で息子を亡くしました」と話したことで,
家族の態度が変わったそうです.

加害者だと思っていた林1佐の家族も自分たちと同じ思いを
経験していた.これは家族にとって大きな驚きでした.
ということは,自分たちの気持ちをわかってくれているのではないか.
自衛官を含む家族の態度が次第に変わり,林1佐の立場にも
理解を示すようになっていきました.そして家族から
「愛子さんに会わせて欲しい」という声が上がり,愛子さんと
ご家族は話す機会を得ました.

ともに涙を流し,つらい思いを共有し,互いの気持ちに
寄り添う時間は,慣れない土地で行方不明の息子,娘を
探す家族にとって,わずかでも救われるひとときだったのでは
ないでしょうか.


米海軍の艦艇が行方不明者の捜索をしている様子を,
家族はいつも陸から見つめていました.「生存している可能性が
極めて低い」という合理的な理由で,米軍は捜索を早々に
打ち切ろうとしました.それを止めたのが林1佐です.

海上自衛隊の場合,家族から「ありがとう,もう十分です」と
言われるまで,可能な限り捜索を続けようとします.
家族の気持ちが納得するまで,見つかる可能性は限りなく低い
とわかっていても捜索をやめません.その姿勢を米海軍にも
強く求めたのです.

米海軍がいよいよ大規模な捜索活動の打ち切りを決定した後も,
「小規模でも捜索活動は継続して欲しい.さらには作戦行動中の
艦艇・航空機が周辺海域を航行・飛行する際には,海面の捜索を
兼務して欲しい」と林1佐は進言しました.

これが,人の生死に関係した事故に対する日米の考え方の相違を
埋めるための苦労の第一歩でした.
この日米間の考え方の相違が,このあと遺体や遺品に対する
想いの違いにおいても浮き彫りになってくるのでした.


また,責任者が家族へ直接謝罪するという話になった際,
林1佐に「日本式の謝罪のしかたを教えて欲しい」と言ってきた
そうです.

「Youではなく,ちゃんと〇〇さんと相手の固有名詞で話すように」.
林1佐は自分よりも階級が上の海軍士官に強い口調で言いました.
頭を下げてお詫びしなければいけないと言うと,日本人からすれば
軽い挨拶でも交わしているかのようなおじぎをしたため,
「そうじゃない,自分の靴の先を見つめるほど頭を下げるのがお詫びだ」と,
その士官の頭をぐいぐい押して,「この角度まで」と教えたそうです.

階級社会の軍隊では考えられない光景ですが,
海軍士官は林1佐にされるがままでした.そして実際に家族に
会った際は,教わったとおりに深々と頭を下げ,家族すべてを
YouでもMr.〜でもなく,日本式に「〇〇さん」と呼び,謝罪したのでした.


林1佐は言います.
「母は決して自分の思いを口には出しませんでしたが,米海軍関係者,
被害者のご家族,日米両国での世論などの狭間で私がもがき
苦しんでいたとき,たった一度だけ胸の内に秘めた思いを語って
くれた言葉が今でも忘れられません.

『洋の東西を問わず,人は誰でも誰かの息子や娘として生まれ,
いつかかならず誰かの父か母になるのだよ』.

大切な家族を失った人,誰かの大切な人を奪った人,立場は異なっても
“思いはひとつ”,“誠意を示せば必ず通じる”ということを伝えたかった
のかもしれません.大切な家族と一緒に乗り越えた任務から
私が得た貴重な教訓です」

89歳になった愛子さんは(2015年当時),もう一度ハワイに
行ってえひめ丸の慰霊碑に手を合わせたいと言っているそうです.
そしてハワイに行くまでは別々に暮らしていた林1佐と愛子さん,
帰国してからは一緒に暮らし始めました.口には出さなくても,
困難な時期を乗り越えたことで,母子の絆はいつしか強くなっていました.



ここまではJDA Clubに掲載された記事に加筆したものです.
愛子さんは今年9月,林1佐が見守るなか,90年の生涯を閉じられました.
ご冥福をお祈りいたします.
私事ですが棺の中にJDA Clubの記事を入れてくださったと聞き,
胸が熱くなりました.


また,この連載は今回の3回で完結する予定でしたが,
林1佐からさらなる情報提供のご協力をいただけることとなったため,
来年のメルマガは「海上自衛官04」からスタートする予定です.
与那国島レポートはその後となりますのでご了承くださいませ.


今年も読者のみなさま,そして管理人様のおかげで,メルマガを続けることが
できました.本当にありがとうございました.来年もどうぞよろしくお願いいたします.
それではよいお年を!

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.12.22




日本陸軍の兵站戦(40)
『朝鮮の鉄道あれこれ―鉄道と軍隊―(20)』
  荒木 肇
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


□はじめに

 またいやな事件がありましたね.亡くなられた米軍パイロット
のご家族はどんな思いでいらっしゃるでしょうか.遠い異国の海
で訓練中に殉職された,そのときにまず,お悔やみと任務への
感謝を伝えるのが日本の政府人であるべきでしょう.

同盟国の軍人がわが国の防衛のために訓練をする.
その公務に殉じられた姿に哀悼の意をまず表すべきだと思います.
それを訓練中止や飛行差し止めの言葉から始めてしまったらしい
防衛官僚の作文.シビル(文官)とは制服(武官)に冷たいもの
だなと思いました.


 また,先日のオスプレイの訓練中の「不時着」でもおかしな意見
が湧きあがりました.主導したマスコミの知識の無さか,
意図的な煽りかは分かりません.市街地への墜落を恐れ,
無理な飛行を続け,とうとう海に落ちた米軍機.


 これもまた夜間の空中給油訓練だったようです.
厳しい,大切な訓練です.暗夜に飛行中のパイロットの状況を
どれだけ素人は知っているのでしょうか.空間認識が減退する中で,
給油機から伸びる移送パイプをまるで手探りのようにして
自機のブームで捉える.こんな困難な訓練を誰のためにしている
のか.自国のため,そして同盟国のためです.

 米軍将官の言葉もわざとかどうか訳をねじ曲げ,省き,傲慢な
態度と怒ってみせる,どうして沖縄人の一部はそこまでひねくれる
のでしょうか.やはり異文化なのです.また,それを拡散する
マスメディア,ほんとうに末期症状です.

 ベー様,またまた大丈夫なんでしょうか.


▼鮮鉄の急行列車「ひかり」

 下関から釜山までの連絡船と接続する急行があった.
満洲国の建国があり,内地から朝鮮を経由して満洲を結ぶ,
そのために1933(昭和8)年にダイヤ改正が行なわれた.
釜山の桟橋から奉天までの間を直通運転する急行列車が
「ひかり」と名付けられた.翌年には新京(現・長春)まで直通区間
を延ばし,1942(昭和17)年にはハルピンまで直通した.
敗戦直前まで,この列車の運行は続けられた.

 所要時間はおよそ36時間である.上りは釜山を,
下りはハルピンをそれぞれ夕方に出発する.そして翌々日の朝に
終着駅に着くというダイヤだった.車輛は濃緑色に塗られ,最後部は
展望車である.そのバルコニーには「ひかり」と平仮名のテールマーク
が付いていた.この展望車には1等寝台が前部にあり,
車輛記号は「テンイネ」と内地にはないものである.テンとは展望車,
イは1等車,ネが寝台車を示す.編成はこの他,2等寝台車,
同座席車,3等寝台車,同座席車と食堂車である.
シベリア鉄道経由でヨーロッパまで行く場合に,この「ひかり」が
使えるようになっていた.

 内地の食堂車は「和食車」と「洋食車」に厨房設備の違いに
よって分けられていたが,「ひかり」の食堂車はどちらにも対応できた.
和定食は1円20銭,洋定食が1円50銭になっていた.
いずれも1円=2000円で換算すれば,2400円と3000円となり,
まずまずの設定だろう.ちなみに内地の「つばめ」や「富士」も
洋定食は同額だった.

▼急行「のぞみ」

 1934(昭和9)年11月のダイヤ改正で釜山と京城を結ぶ急行の
運行が奉天まで延伸されたときに「のぞみ」と命名された.昭和13年
には新京まで運転が伸びた.上り・下りとも関釜連絡船の夜行便と
接続していた.奉天・新京へ向かう下りの「のぞみ」は釜山を朝に
出て,上り便は夕方に釜山に着いた.先に書いた「ひかり」は
連絡船の昼間の便と接続したので,乗客は昼か夜かを選ぶこと
ができた.

「のぞみ」の最高部にはやはり展望1等寝台車がつながっていたが,
この車輛は台車が3軸になっていた.欧米にはよくあるが,
内地の国鉄には珍しかった.ふつうは2軸なので線路の継ぎ目では
「ガタン,ゴトン」と音が響くが,3軸だと「ガタタン,ゴトトン」と
聞こえたそうだ.軸を増やせば振動が減るというわけだ.

 展望スペースには本棚もあり,旅行地図やガイドブックも置かれた.
安楽椅子とソファーが窓際には並べられ,床にはカーペット,
木部はチークというのだから欧州調を十分意識していた.
専門の給仕がいて,飲み物なども提供されている.

▼特急「あかつき」

 1936(昭和11)年12月のダイヤ改正でただ一つの特別急行が
できた.釜山から京城まで6時間40分で結んだ.急行「のぞみ」の
7時間50分を一気に1時間10分も縮めたわけだ.停車駅も大邱と
大田の2駅だけにしぼった.最高部の1等展望車,2等車,3等車と
食堂車の合計7両に手小荷物郵便車1両の合計8両編成.
この「あかつき」のためだけに新造された高速運転用軽量客車群
だった.外の塗色はやはり濃緑だった.

 各車両には車内放送装置が完備された.案内放送や音楽まで
流されていた.冷房装置付きの食堂車には4人,2人用のテーブル
があった.3等車の座席は4人がけのボックス・シートで固定.
ただし,3等車としては初めて天井に扇風機が付いた.2等には
リクライニングはできないが2人かけの回転式座席が通路の両側に
あった.最高部の1等展望車は「ひかり」「のぞみ」の開放式の
展望台はなかった.ガラス窓で密閉されていた.車輛の中央には
定員3名の特別個室もあった.

▼急行「大陸」

 北支で盧溝橋事件が始まったものの,どうやら治安が回復すると,
朝鮮や満洲を通って天津や北京に向かう旅客が増えた.
1938(昭和13)年10月には,釜山から北京へ直通する急行が
造られた.翌年11月に愛称がつけられ,「大陸」と呼ばれた.
廃止されたのは昭和19年2月だから寿命は5年あまりだった.
客車については,昭和14年に満鉄の傘下に設立された「華北交通」の
ものである.最後尾の1等展望寝台車は開放式のオープンではなく,
ガラス窓の密閉式.ただ,「あかつき」とも仕様が異なるのが半円形の
姿で曲面ガラスも大きかった.サロン(談話室)には紫色のカーペットで,
内装全体は「中国風」に統一されていた.客室は折りたたみ式の
2段寝台個室が6つ,定員は12名でしかない.

 釜山〜京城〜平壌〜奉天を経て北京まで,総走行距離は
2067.5キロ,39時間30分で結んだ.関釜連絡船との夜行便と
つながり,東京〜北京を3泊4日で行くことができた.この列車は,
当時の「帝国内」での最長距離を走った.

 車輛を造ったのは大連の満鉄工場だが,戦後,中国国鉄に
引き渡され,中華人民共和国の要人たちの専用車になった.
毛沢東,周恩来などの公務用に使われた.現在も瀋陽の
鉄道博物館に保存されている.

▼急行「興亜」

 1939(昭和14)年11月に,釜山〜北京に「大陸」の姉妹列車と
して走った.所要時間38時間45分と「大陸」と似ている.
ただし,展望1等寝台車はない.最大の特徴は関釜連絡船の昼間の
運行便と結ばれているから「大陸」とは昼夜逆転になる.

 国際急行としては敗戦間際まで健在だった.その理由は対馬海峡
の安全度だった.敗戦近くなると,連絡船は安全のために夜行運行
を取りやめた.おかげで昼間の運行だけが続けられ,「興亜」や
「ひかり」は最後まで命を長らえた.

▼雑学・戦前鉄道車両の記号

 戦前に使われていた車輛の記号についていろいろ.

 客車の記号で1等はイ,2等はロ,3等はハ.寝台車はねるからネ,
展望車はテ,食堂車はシ,郵便車がユ,荷物車がニ,病客車が
「べうかく」なのでヘ.イネというのは1等寝台車ということだ.切符の色
も1等は白,2等は青,3等は赤で,これは客車の窓の下に色帯が
巻いてあったのと同じ.現在,旧2等車がグリーン車になり,グリーンの
客車はロの記号を付けている.
 
 客車の記号は重さによって分けられていた.22.5トン未満が「コ」,
22.5トン以上27.5トン未満が「ホ」,27.5トン以上32.5トン未満は
「ナ」,32.5トン以上37.5トン未満が「オ」,37.5トン以上
42.5トン未満が「ス」,42.5トン以上47.5トン未満「マ」,47.5トン
以上「カ」となっていた.「コホナオスマカ」の順に重くなっていく.

 貨車の記号は難しい.有蓋車(ボックス型の屋根付き)はワゴン
だから「ワ」.冷蔵車は「レ」,通風車(外壁がすだれのように穴が
あいている)が「ツ」,家畜車は「カ」,豚積車(豚専用の貨物車)は「ウ」.
豚ならトンやブタの「フ」のようだが,「ト」は無蓋車だし,「フ」は
緩急(かんきふ)車で使われていたから,工夫が要った.
誰かが豚は「ウ〜」とうなるからといい,「ウ」に決まったらしい.
ニワトリなどの家禽を積むのは「パ」,英語のパウルトリーから.
陶器運搬専用車は「ポ」,英語のポッタリーからとった.

 土運車は砂利の「リ」,石炭車は「セ」,長物車(材木などの長大な
もの)は「チ」,英語のチンバーの頭文字.大物車は重量物の「シ」,
タンク車は「タ」,水槽車はみずの「ミ」,ホッパー車の「ホ」は分かりやすい.

 これらをまた,荷を積める重量で4分した.14〜16トンは「ム」,
17〜19トンは「ラ」,20〜24トンは「サ」,25トン以上が「キ」である.
順に「ムラサキ」となる.この「ム」については軍が関係している.

 軍需輸送で使い勝手がいいのが軍馬輸送用の15トン積載有蓋車
だった.そこで大量に規格化されたが,「ムマ=馬」だから記号設定の
時に「ム」とされた.その後,ムを頭文字にした4文字熟語があるかと
相談し,ムラサキを選んだという.

 その他,ラッセル車は雪をかくから「キ」.検重車が「コ」,
どうしてかというと衡重車(こうじゅうしゃ)からコになったという.
工作車は「サ」,救援車は「エ」,操重車(クレーン車)が「ソ」,控え車の
「ヒ」などまではなかなか覚えられない.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2016.12.22




『ライター・渡邉陽子のコラム (124)─ 海上自衛官(4)
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

新年おめでとうございます.
ライターの渡邉陽子です.

年末はばたばたと大みそかまで仕事をし,年始は2日が
原稿はじめ,3日が取材はじめとなりました.会社勤めを
していた頃のほうが休日に貪欲だったのは,有給休暇と
いうシステムがあったせいだと思います.

一方,長時間労働が美徳という一昔前の考え方に
固執していたのも会社員時代でした.

フリーランスになって最初の数年間と現在でもまた,
仕事に対する考え方は異なっています.
それは変化ではなく進化だと思えるよう,今年も精進して
まいります.本年もどうぞよろしくお願いいたします.


▼渡邉さんへのメッセージは
http://okigunnji.com/1tan/lc/toiawase.html
から.


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■海上自衛官(4)

今週から4回にわたり,海上自衛官としてハワイでえひめ丸事故に
関わった林秀樹1等海佐の手記をご紹介します.

当時の産経新聞を元に編集部で加筆・再編成し,林氏の手記とともに
平成14年12月にまとめたものが,『正論』平成15年2月号に
『“名誉”とはなにか』として掲載されました.今回ご紹介するのは,
その中でも林1佐が書かれた部分の一部抜粋となります.

林1佐はえひめ丸事故から2年近くが経過し,ハワイ連絡幹部と
しての任期を終え帰国した後にこれを記されました.
なお,( )の中に※印で記載されているのは私が補足したものです.
それではどうぞ.


=====

当時,私は海上自衛隊から米海軍太平洋艦隊司令部に派遣された
連絡幹部であり,ハワイにおいてはただ一人の海上自衛官でありました.
私の本来の任務は,アジア太平洋地域も安定に寄与するための
日米会場防衛協力,日米共同作戦,防衛力整備構想,各種共同演習
などの調整業務に当たることでした.

これらを平たく言えば,米海軍の中にあって唯一の海上自衛官として
日米両国の懸け橋になるということです.

(略)

事故当初は被害者に対する同情論,米海軍に対する非難,中傷が
渦巻いており,事故(※の原因)が米海軍にあるとは言え,
あまりにもマスコミの論調,世論は偏っていました.

家族の悲痛な叫びがマスコミなどによって増長されるにつれ,
日米両国間の溝は深くなる一方であり,とどまるところを知らないかに
見えました.

私は米海軍司令部の唯一の日本人として,事故直後の捜索救助活動に
ついて家族説明を行う際に,専門用語の通訳などにあたることになりました.
私が海上自衛官であることを知らない,また事故によって気が動転している
家族からは厳しい叱責を受けたこともありました.

私自身,この事故には直接何ら関係していない海上自衛官がいかなる
立場で関与すべきであるのか.海上自衛隊までがいわれなき非難の対象
となってしまうのではないか,という疑問があったことは否定できません.

事実,太平洋艦隊司令官ファーゴ海軍大将は家族,マスコミに対して
米海軍が話すときには,私を通訳に選ばれた反面,「事故そのものに
無関係である海上自衛官を矢面に立たせてもいいものか」と悩んでおられました.

しかし,最終的にはこの問いに対し,私は「日米両国の友好関係によって
危機となりつつあるこの事態を救えるのは,50年間ともに太平洋の安定の
ために努力してきた海上自衛官しかない.ここはあえて火中の栗を拾ってでも,
米海軍と海上自衛隊が一枚岩となって日米関係の亀裂を土壇場でくい止める
ことが求められている」と考えました.また,海上幕僚監部も同じ思いで
あったため,防衛部から同様の指示を受けました.

海上自衛隊の制服を着ていても,米海軍司令部の一員として立ち会った
ため,怒りに満ちた家族から「どっちの味方か」となじられることもありました.

(略)

司令部棟にはEMCC(えひめ丸コマンドセンター)が開設され,
私は日本に宗教観や礼儀作法を教え続けました.

謝罪特使のファロン海軍作戦副部長もその一人でした.
米海軍ナンバー2の大将が,当時まで「少佐」に過ぎなかった私に
「日本人に対する正しい謝罪の態度を教えてほしい」と頭を下げられました.

(略)

平成13年2月26日の朝,日本へ謝罪に向かう直前の米海軍機から,
ファロン特使からの緊急電話が入りました.特使は「『えひめ丸』と
いう言葉と『大西(船長)』という言葉の私の発音を直してくれ」と言いました.

このころ,マスコミでは「土下座しろ」とか「米国政府は日本人の心情
を理解できていない」などと言った論評が渦巻いていました.

しかし,私はこのファロン特使の真摯な姿勢に胸を打たれるとともに,
ふと日本人として我が身をおきかえて考えた時,これが仮に海上自衛隊
の潜水艦が東海沖で訓練中に付近を航行中の東南アジアの漁船に衝突,
行方不明者を出してしまったとして,海上自衛隊のナンバー2が謝罪に
行くとしたら,ここまで相手の国民感情を理解しようと努力し,
たかだか少佐ごときの連絡幹部に頭を下げるだろうかと思うと,
改めて米国民の懐の深さに深い感銘を受けました.

(略)

数日後,再びハワイに立ち寄られたファロン特使は,
私の手を握り締め「君のおかげで米国民を代表して心からの謝罪を
示すことができた.感謝する」とおっしゃいました.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2017.1.5




──[タウリン]→[サプリ]─────────────────────
★戦時中,タウリンは眼精疲労の回復に効果があるとして,日本軍のパイロッ
 トはタウリンを与えられていた.しかし当時は濃縮したサプリメントも無か
 ったので,貝やイカの煮汁を毎日大量に飲まされていた.

──[芸者]→[山本五十六]─────────────────────
★横須賀にいた連合艦隊司令長官・山本五十六がお気に入りとしていた芸者は
 周囲から影で「長官船」と呼ばれていた.理由は「山本五十六長官しか乗れ
 ない」から.

◎雑学大作戦:知泉
のバックナンバーはこちら
⇒ http://archives.mag2.com/0000017191/index.html?l=son065f321
2017.1.7







日本陸軍の兵站戦(41)
『弾丸列車と幻の機関車─鉄道と軍隊─(21)』
荒木 肇
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

□ご挨拶

 遅くなりましたが,新年のお慶びを申し上げます.
日頃からのご愛読,ご支援にお礼を申し上げます.

 さて,アメリカではいよいよトランプ大統領が就任します.
わが国への影響はどうなるでしょうか.防衛費の負担が
増えるのではと心配もされています.一方では防衛費が
増えて,(根拠がよく分からないけれど)国内総生産の1%が
何やらという議論もあり,そのくせ隊員の被服更新が
間に合わないとか.いろいろと報道がありますが,
昨年末のオスプレイの事故の論評が一番ひどかったと思えます.

 もちろんわたしは航空技術については素人でありますが,
どう考えても「不時着」であり,「墜落」とは区別すべきだと
思いました.パイロットは損傷した機体を操り,市街地から
遠ざかるコースを通り,海上に降りたのです.事故原因も
明瞭で,夜間の給油訓練時のトラブルとのこと.
ああ,ずいぶん危険な訓練を米軍はしているな,やはり精鋭度は
そこからも測れるなと思いました.

 昨日は習志野の第1空挺団の「降下訓練始め」に伺いました.
朝から曇っていて予報は午後から雨とのこと.しかし,団長の
決心は「晴天行事で実行」というものでした.さすがです.
米軍の降下兵も初めての参加でした.日米の絆を強く印象付けられ
ました.

 ところで,動画放送でもお気づきになったように,新しいシナリオ
がありました.これまでの訓練展示と異なって,中隊対抗のバトラー
(赤外線使用の訓練器材)を装着した攻防戦です.すごい戦い
でした.副団長による実況中継があり,狙撃に倒れる隊員あり,
迫撃砲の弾着で負傷者とされた隊員あり.100メートル余りの
距離の近接射撃戦もありました.たくさん感じるところがあります.

 また午後からの恒例の野宴では隊員の細かい心遣いを
見ることができました.鬼のように強い,こわい隊員が見せる
優しさと気遣いの細やかさでした.

 新年早々,頼もしい姿を見せてくださった隊員の皆さん,
後方で支えた交通整理,警備,資材の準備などなどの裏方に
就かれた隊員の皆さんに感謝します.

 T様,すっかりご無沙汰いたしました.士官候補生時代の
朝鮮の特急に乗られたお話ありがとうございました.
また,お目にかかれるとありがたいです.

 今日は,弾丸列車計画の中で設計された「幻の機関車」の
話を紹介して,いよいよ次回からの「戦時の鉄道」の前を飾る
話題にします.


▼機関車の開発

 1940(昭和15)年といえば皇紀2600年,神武天皇が位に
就かれて2600年という.ゼロ戦がどうして零式艦上戦闘機か
というと,この年に制式化されたからだ.2600の末尾をとった.
それまでは日本号を使って,明治38年式小銃とか大正11年式
軽機関銃などといっていた.それが大正天皇の皇太子が天皇に
なられると(大正15年=昭和元年)混同するおそれがあり,
皇紀を採用したものである.

「弾丸列車」は予算の裏付けを受けて具体的計画が立てられた.
着々と準備は進み,英米蘭を相手にした戦争が始まって4カ月,
ついに新丹那トンネルの掘削が始まった.すでに15年の記念式典
にあわせて計画された東京オリンピック.そのメイン・スタジアム
の建設でも必要な鉄骨が集まらなかったという状況でよく建設に
着手したものだ.工期は15年と見積もられた.当時の国鉄内の
気分では,東海道だけはとりあえず開通しても,さらに前途は長い,
機関車製造はそう急ぐことはないというものだったらしい.
当時の鉄道記者の思い出である.

 当時の日本内地の大型蒸気機関車といえば,3気筒のC53
と2気筒のC59だった.C59は最新の機関車だったが,20年前
に製造されたC51のボイラーを大型化しただけだった.
これは大きな怠慢だった.欧米では,この20年間で機関車の
製造技術は大きく進歩していた.1925(大正14)年にアメリカから
輸入したC52くらいしか外国技術に触れたことがなかった.

 では満鉄のパシナは参考にはできないか.でも最高速度は
時速135キロでしかない.ふつうの運転では120キロ程度が
最高である.水平で直線の区間では150キロで突っ走りたい,
そういう新幹線用機関車には遅すぎる.その頃,満鉄には
パシハという機関車もあった.1930年代の後半は世界的に
機関車技術が進歩した時代である.国内の狭軌鉄道と異なって,
標準軌間を使っている満鉄はそうしたことに敏感だった.

▼満鉄のパシハ

「あじあ」は当時としては背伸びした列車だったから,パシナを
標準的な急行用の機関車にすることはできない.すでにパシコは
あったが,それを増産するより新しい技術で新しい急行用機関車
を製造しようとパシハを開発した.動輪直径は1850ミリと小さくし,
ボイラーはパシナとパシコの中間の大きさとし,輸入鋼材を
使わなかった.ボイラーの圧力もパシナより1平方センチあたり
1キロ下げた.

 ただし,この機関車パシハには技術的なハイライトがあった.
それは動輪ばかりかすべての車軸の軸受けにローラーベアリング
を装着したことだ.今では誰もローラーベアリングなど珍しくもないが,
当時はその小さな歪まない鋼鉄の球を造るのは大変だった.
これの採用で,アルコ社で造られた機関車は2D2の軸配置で
動輪直径は73インチ(1854ミリ)で,最高速度時速142キロを
出した.いままでの常識では直径1インチ1マイルだった.
73マイルとは約117キロである.それが30キロ近くもスピード
が上げられたのは軸受けのおかげだった.
 
 ローラーベアリングは軸を小さな鋼鉄球で取り囲む.抵抗は減り,
軸を軽やかに回すことができる.1937(昭和12)年にこれを採用
したのはアメリカだが,それと同じころに満鉄はこれに飛びついた.
ヨーロッパ諸国より早い実施だった.

 ところが大変なのはこのガタが許されない精密さだった.足回りの
工作精度をとにかく上げるしかない.動輪の軸の間隔と,動輪どうしを
結ぶ鉄棒,カップリング・ロッドの長さはまったく一致させるしかなかった.
合わなければ回転がぎくしゃくしてしまう.当時のわが国の工作精度
は一般にひどく低かった.まともな工作機械は高価だったし,検査器具
にも大枚をはたこうという気持ちもあまりなかった.ガタのきたような
中古プレス機や同じような旋盤を欧米から買い付けてきていたの
だから,仕方もない.

 とうとう第1と第3動輪のクランクピンにはローラーベアリングを
使うことを諦めることにした.少しのガタなら適当な遊びを作って
おいて,そこで吸収するためである.どうにもならない「貧しさ」が
わが国技術の底にはあった.同じように戦車の砲塔を旋回するため
には,このローラーベアリングが最もいい.ターレット(砲塔)の下部を
支える円筒形の受けはベアリングが最適である.
軽く操作することができる.これがわが国の戦車にはできなかった.
代わりに丸い鉄材のコロを敷きつめた.ボールに比べると工作は
容易だが,どうしても重くなるし,摩擦も増える.人力で回転させる
軽戦車の砲塔はコロで支えられていたのが実態である.

 それでもパシハは成功作だった.航続距離も大きく伸びて,
860キロも走り続けることができた.それまでの機関車は平均して
およそ300キロを1日で走った.860キロといえば東京と広島間で
ある.パシハは17両が造られ,急行「はと」などを牽引して満洲を
駆けた.

 国鉄の技術者たちは当然,満鉄に資料を要求した.1.85メートル
の動輪にローラーベアリングを使う,あるいは2メートルの動輪に
これまでと同じにプレーンベアリングを使うか.どちらが良いのか
といったことだけでも大変な価値があった.

▼巨大動輪とドイツの「05」

 齋藤充氏の『蒸気機関車の挑戦』によれば,動輪径を検討した
メモがあるという.それを参照しよう.1750ミリの動輪をもつ
C53が時速95キロを出した時と,2メートルの動輪径をもつパシナ
が時速110キロを出した時の条件をそのまま150キロで運転した
場合にあてはめてみたという.すると,回転数をそのままに
して必要とする動輪の直径は,それぞれ2760ミリ,2720ミリと
なった.どちらもおよそ9フィートである.それほどの大きい動輪
は歴史上でも1台しかなかった.ゲージは7フィート(1778ミリ)
という超広軌である.大きな1軸だけの動輪の間にボイラー
が挟まれているという形式だった.それを近代蒸気機関車の
動輪の上にボイラーが載るといった形にしたら,とてものことに
安定感など得られるわけもない.

 このころドイツには「05」といわれた高速機関車があった.
ベルリン−ハンブルクの間,約290キロを5両の軽い客車を
牽いて平均速度120キロほどで走った.連続で出せる高速は
時速140キロだった.この機関車の動輪直径は2300ミリ.
これから換算すると,150キロを出すには2460ミリの直径が
要るとなった.同じころ,日本と同じく狭軌(1067ミリ)の南アフリカ
にも大型高速機関車があった.その動輪直径は1830ミリで,
それを標準軌に換算すれば2460ミリとなる.そこから新しい
機関車の動輪直径は2450ミリとしようと,いったんは決まったらしい.

 しかし,実際に残るデザイン図を見る限り,動輪直径は「05」と
同じ2300ミリになっている.「05」とはどんな機関車だったか.
1930年代の初めにはドイツでは「01」型が走り始めた.
最高速度は130キロである.1932(昭和7)年にはドイツ国鉄当局
はメーカーに対して,250トンの列車を牽き最高時速175キロを
出す機関車の計画を出すように要求した.「05」はその答えの
1つだった.エンジンは3気筒,動輪直径2300ミリ,軸配置は
2C2,ハドソンと呼ばれた形式でボイラーは20気圧という強力さである.

 1936(昭和11)年から「05」が牽く特急が走り始めた.
4両の軽量客車と食堂車の5両編成で列車は平均時速約120キロで
走った.蒸気機関車が牽引する定期列車の速度記録は英国からドイツ
に移った.最高運転速度は150キロで,最高速度は175キロといわれた.
最高速が速ければ運転時刻が遅れても途中で取り返すこともできる
理屈だ.これがさらに最高速度200キロを出すように命令された.
ドイツの国威発揚である.そして,英国からは疑わしいと抗議されたが,
200.4キロというきわどい数字を残した.

▼HC51,日本の「05」

 Hというのは新幹線を表す.50以上は旅客用の機関車の分類である.
軸配置は2C2のハドソンである.3気筒エンジンを積んだ.

 このHC51はドイツの05に比べると,要求されたものはいささか
きつかった.列車の走行距離がせいぜい300キロの05と,1000キロ
近いHC51,05は列車重量が250トンだったのにHC51は450〜700トン
である.走行距離を伸ばすのはテンダー(炭水車)を大型化して多くの
石炭と水を積めばいい.また,停車回数を増やせばいい.列車重量
を増やすには,牽引力を増やすことで対応できる.つまりパワーアップである.

 軸配置は05もHC51も2C2のハドソン,3気筒,ボイラー圧力は
20気圧,動輪直径は2300ミリとまったく変わらない.牽引力を増やす
工夫は大きさである.軸重,つまり全体の重量を車軸の数で割った
ものだが,05の19.5トンに対して28トンとかなり大きい.
満鉄のパシナも24トンだったからさらに重い.3気筒のシリンダーも
大型化している.05の直径450ミリを570ミリにし,ストロークも
660ミリから700ミリへと太く,長くした.容量はおよそ1.7倍である.
ボイラーもこれに対応してアメリカ型の燃焼室付き,火床面積でも
1.7倍,伝熱面積で1.53倍,過熱面積で1.83倍ととにかく力が
出るようにすべて大きい.

 それらを支えるのは炭水車(テンダー)である.6輪のボギーで
石炭20トン,水50トンを積む.これまでの機関車の2倍以上あった.
運転時の重量は機関車160トン,テンダー117トンに達し,
合計277トンはドイツの05の1.3倍,わが国最大のC62の
2倍以上になる.

 計画書類と図面しかないのでこれ以上の詳細は分からない.
たとえばローラーベアリングである.工作上の難しさはパシハで
知られていた.しかも,アメリカでもドイツでもプレーンベアリング
でも十分,140キロや150キロといった高速運転は実現している.

 高速運転の問題は動輪の回転数である.しかも左右両方の
シリンダー(2気筒),3気筒なら3つ目が車体の中央に置かれる.
回転数が上がることは,それらすべての中で激しくピストンが
動くことだ.ドイツの01型は時速130キロで毎分345回転,
05では150キロで同346回転である.これに対してわが国の
C59で時速95キロに同190回転,満鉄のパシナで
110キロ同292回転という経験しかなかった.

 パシナの高速運転実験では速度136キロで回転数は360に達した.
すると激しい震動と車体のねじれがあったという.これを克服する
には,動輪の軸受け,ピストンやバルブギア(これらは往復運動に
関わる),そして回転運動にするクランクロッドなどの工作,設計など
で難問があった.発揮する力が大きくなればそれだけ,車体,
車台(フレーム)にかかるトルクや応力も増えてくる.経験もない.
見本も少ない.技術陣の意気は高かっただろうが実際のところ,
製造,運転になったときにどれほどの物ができただろうか.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2017.1.11





『ライター・渡邉陽子のコラム (125)─ 海上自衛官(5)
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは.渡邉陽子です.
まずは掲載情報から.現在,いくつかの雑誌に記事を
掲載していただいています.

・丸 2月号 陸上自衛隊高射学校密着ルポ2
http://okigunnji.com/url/210/

・ジャパニズム 34号 自衛隊災害派遣の変遷
http://okigunnji.com/url/211/

・防衛技術ジャーナル 1月号 日の丸を背負う自衛官アスリート
http://okigunnji.com/url/212/

そのほか,防衛とは関係ありませんが「都民芸術フェスティバル2017」
公式サイトの特集ページのインタビュー記事(*)を全編担当しています.
こちらは今度さらに記事が増えていく予定で,読み物としてもお楽しみ
いただけると思います.
(*) https://tomin-fes.com/interview/index.html




▼渡邉さんへのメッセージは
http://okigunnji.com/url/169/
から.


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○ライター・渡邉陽子とは?
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 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■海上自衛官(5)

今週も引き続き林氏の手記より抜粋してご紹介しますが,
その前に当時の状況をご紹介しておきます.

米国は海底約620mの深さに沈んでいるえひめ丸について,
技術的に引き揚げが可能であればかならず行なうと明言していました.
この深さからの船の引き揚げは過去に例がなく,世界初のことです.

一方,長期間にわたり沈没した船の捜索活動を続けている米海軍
に対し,米国内では不満の声も上がり始めていました.国民性の違い,
文化の違い,死生観の違い,さまざまな相違点がそのような声に
つながったのでしょうが,米海軍はその声に耳を貸さず,
引き揚げ作業に尽力します.

船内の捜索は米海軍が行なっていましたが,遺留品の判断や
文字認識などで日本の支援を求めてきました.それに応じて,
当時海上自衛隊で最新の潜水艦救難艦だったちはやが派遣
されました.ちなみに派遣の根拠は「愛媛県知事の要請を
受けた災害派遣」とされました.

それでは林氏の手記をどうぞ.


=====
海上自衛隊が派遣した,最新の潜水艦救難艦「ちはや」が
パールハーバーに入港したのは平成13年8月20日の午後でした.

岸壁に多くのマスコミ関係者が並ぶ中,堂々と入港した「ちはや」の
艦首には日の丸が,艦尾には自衛艦旗が高々と揚げられていました.
「ちはや」の姿を見るまでは,思い思いの取材をしていた日本の
マスコミ陣も,その旗を見た瞬間,誰もが目頭を熱くし,
声を詰まらせていました.

私も,海上自衛隊に勤務して17年,これほど美しい艦艇,日の丸,
自衛艦旗を見たのは初めてでありました.この時の感激,安堵感は
一生忘れ得ぬものであり,日本国に対する愛国心を再認識した
瞬間でした.

当初,引き揚げ作業は速ければ8月下旬にも完了するとの見通し
でありましたが,実際の作業は困難を極め,1日1日と作業は
長引き,「ちはや」の乗員139名の中にも,次第に焦燥感が高まってきました.
(略)
技術的な困難さから作業が遅れ気味になっており,
いつ「ちはや」の出番になるか不安を抱えながらも,皆任務を
達成したいという気持ちだけで,何一つ不満も言わずに準備作業,
訓練に邁進していました.
(略)
遺体の捜索活動が終わりに近づいた10月末,米海軍は民間船
を借り上げ,鎮魂のためにご家族を現場水域に案内しました.

「えひめ丸」を吊り上げていた枠組みの黄色い姿がぼんやり海に
浮かんでいたものの,「えひめ丸」の船体そのものは見えません
でした.それでも,ご家族は必死で「えひめ丸」を探し,同船が西,
つまり日本の方向を向いて海底に横たわっていることを説明すると,
船上では泣き声がひときわ高くなり,海には花が次々と投げ込まれました.

やがて現場水域を離れる時間になり,船が動こうとしたとき,
ご家族の一人の方が私を呼び,声を詰まらせながら「台船の上で
作業をしている(※米海軍の)ダイバーたちにお礼の言葉を伝えたい」
と言われました.

責任者の米海軍中佐に無線でメッセージを伝えると,
台船上のダイバーから「皆さんの気持ちに応えるよう,全力を尽くします」
と返事が来ました.

その内容を私がマイクでご家族全員に伝えたときでした.
誰からともなく,台船に向かって手を振りはじめました.それに応えて
台船上のダイバーもいっせいに手を振ってきました.現場海域にいた
ご家族,私,そして米海軍中佐をはじめ米海軍関係者全員が泣きました.

事故が起きたとき,家族の心は米海軍に対する怒りでいっぱいだったこと
でしょう.しかしながらそれから8カ月,最愛の夫や子供を亡くした悲しみ
は消えないものの,彼らの多くが米海軍に対して心を開いていました.

それは度重なる失敗や困難,問題に直面しても米海軍が固い決意で
乗り越え,およそ誰もが不可能と考えていた引き揚げ作業をやり遂げた
からであります.

米海軍は家族との約束を守ることだけを考え,必死で最善を尽くしました.
船内に入ったダイバーたちは,危険な環境であるにもかかわらず,
素手で作業をし,また遺体を見つけると海中で合掌の後,そっと触れました.

その陰には,遺体に関する日本人の気持ちを理解しようとする米海軍関係者
の切なる思いがありました.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2017.1.12





経産省植え込みに放火容疑

脱原発市民団体の男逮捕
2017/1/17 01:34
https://this.kiji.is/193694307863791097


 16日午後3時40分ごろ,東京・霞が関の経済産業省の敷地内にある植え込みから出火し,建物の外壁の一部などを焼いた.火は自然に消え,けが人はいなかったが,警視庁丸の内署は17日,建造物損壊容疑で,その場にいた脱原発を訴える市民団体のメンバー正清太一容疑者(78)=自称東京都目黒区=を逮捕した.

 逮捕容疑は経産省敷地内にある東京メトロが管理する植え込み内の枯れ葉に火を付け,エレベーターの外壁の一部を焼いた疑い.当初「自分が火を付けた」と容疑を認めていたが,逮捕時は黙秘に転じたという.

 警視庁によると,正清容疑者は団体のまとめ役とみられる.





日の丸父さん(13)石原ヒロアキ

「受験勉強」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

□はじめに

 受験勉強は,大学入試で終わると思っていました.
自衛隊は特定の武器や部隊を扱うような職業訓練学校
(富士学校のような職種学校)みたいなのがあるとは
知っていましたが,その上にそびえ立つ幹部学校と
いうのがあり,激しい受験勉強があるというのは入隊して
からわかりました.さらに驚くのは,合格させるために
所属部隊の部隊長はじめみんなが応援してくれることでした.

 しかしこれは自衛隊だけではなく,アメリカはじめ世界の
多くの軍隊が上級将校を育成するために採用している制度
なのです.旧陸軍でも陸軍大学校というのがあり,
卒業生は天保銭(卒業生が胸につける徽章が天保銭に
似ていたため)と呼ばれ別格扱いされていました.

 自衛隊の場合は幹部学校を出たからといってそのような
徽章はありません.今も昔もそうですが,本当に必要な
資質は部隊で培われるのです.

 石原ヒロアキ まんが館」を立ち上げました.
現役時代に頼まれて描いた4コマ漫画もアップしています.
http://yonekurahiroaki.wix.com/cbrn

◆「日の丸父さん」第1巻が電子書籍として発売中です.
ここには第1話から第12話までエッセイと一緒に収録して
あります.ぜひ感想をお聞かせください.

http://okigunnji.com/url/208/

◆マンガ「第13話 受験勉強」は下記をクリック.今月末まで無料で読めます.

https://yondemill.jp/contents/20940?view=1



□受験勉強

覚えることが山のようにある幹部学校試験

自衛隊には試験があります.陸士が陸曹になるとき,
陸曹が幹部になるときなどです.そして最も大変なのが,
幹部が幹部学校(旧軍の陸軍大学校や海軍大学校)に
入るときの試験です.今回はこの幹部学校の受験に
ついてのお話です.

陸上自衛隊の幹部は,幹部候補生学校(久留米)に
まず入校します.防衛大学校出身者(Bと言います)は
卒業後すぐに,一般大出身者(Uと言います)は
幹部自衛官の採用試験合格後,部内者つまり
陸曹(Iと言います)は部内選抜試験の合格後になります.

Bは約300〜350名(任官拒否者数により増減があります),
Uは100名前後,Iは約400名です.この約800名が同期と
なるわけです.そして幹部候補生学校で各職種に振り分けられ,
卒業後は部隊に配置されて,すぐにそれぞれの職種学校の
幹部初級課程に約1年間入校します.

その後5年間部隊等で勤務した後,再び各職種学校の
幹部上級課程に約半年間入校します.この課程を卒業すると,
幹部学校受験の資格が与えられます.幹部学校は将来の
高級幹部を養成する学校です.連隊長,旅団長,師団長,
方面総監,陸幕長,その他旅団以上の幕僚長などの高級幹部
になるにはまず幹部学校を卒業しなければなりません.

1回の採用数は指揮幕僚課程(CGSと言います)で80名,
技術高級課程(TACと言います)で16名です.TACは技術系大学院
を卒業していないと受験できませんが,CGSはほとんどの幹部が
受験できます(4回まで受験可能ですが,年齢制限があります).
そのためCGSの競争倍率はかなり高くなります.試験は1次試験
と2次試験に分かれており,1次試験は筆記試験で,2次試験は
面接試験です.これはCGS,TAC共通です.入校するとCGSは
2年間,TACは1年間の教育があります.

さて,受験科目ですが,CGSの場合,英語などもありますが,
ほとんどが教範類からの出題となります.この教範類が
曲者(くせもの)で,冊数も多いのですが,覚えることが山のように
あります.受験生はこれらの教範をほとんど暗記するまで読み込みます.

▼部隊全員で応援

本気で合格を目指すものは,受験の1年前から準備します.
この時期は,20代後半なので仕事に慣れてきて仕事量も急激に
増えるころですし,家庭を持っているものは子供がまだ小さく,
手がかかるころです.学生の時のように勉強だけしていればいい
というわけにもいきません.絶対合格するという強い意志と家庭
の理解がないと勉強は続きません.なかには家庭から勉強しない
でもっと家庭を見てほしいと言われ,合格を断念する人もいます.

受験生をもつ部隊としては,合格者を出すことが部隊の名誉で
あるだけでなく,部隊長の評価にもつながるため,積極的に応援
します.また,受験勉強は幹部の職務遂行能力向上にも直結する
ため,集合教育などを実施して教範類や戦術の教育をします.

なかには,休日に模擬試験をして能力判定をするところもあります.
休日に行なわれる模擬試験の作成や添削・受験指導は
ボランティアです.1次試験に合格すると2次試験が待っています.
2次試験は面接ですが,これもちゃんと勉強しないと合格しません.
指導する側も休日も惜しまずボランティアで模擬面接をします.

私もTAC卒業後はこのボランティアに欠かさず参加してきました.
TACの場合はCGSと違って覚える教範がそんなに多くなく,
受験勉強もそれほどする必要はないのですが,それでもこんなに
勉強したのは大学受験以来でした.

楽しい学生生活

入校すると,楽しい学生生活が待っています.もちろん勉強は
大変ですが,新たな同期との絆を深め,将来の夢を語ることが
できます.いろいろな場所で研修し,さまざまな人と出会い,
見識を広めることができるのも魅力です.

卒業後は各部隊などで要職に就き,激務が待っています.
ときには責任の重圧に耐えきれなくなったり,困難に直面することが
ありますが,CGSやTACの同期が救ってくれることがたびたびあります.

私はTACを卒業してさまざまな職務を経験しましたが,幹部学校を
出てるか出てないかで,幹部自衛官のキャリアが大きく変わることは
間違いないと思います.しかしそれは良いか悪いかではなく,
その人の価値観の問題だと思います.私は幹部学校に入校させて
くれた陸上自衛隊に感謝しながら定年を迎え,営門を出ることができた
ことにとても満足しています.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2017.1.20




『ライター・渡邉陽子のコラム (126)─ 海上自衛官(6)
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.

私の仕事は取材(インタビュー)→文字起こし→作稿という
流れで進みますが,文字起こしは実際のインタビューの2〜3倍
の時間がかかります.聞き直したり一時停止したりで,
文字起こしは厄介です.作稿はさらに時間がかかります.

ですから1日取材に費やしたら翌日は腰を据えて文字起こしして
原稿を書くのが理想なのですが,新年早々あまりに取材が
詰まっていて,起こしていない文字データが溜まるストレスに
苦しんでいます.少しだけ友人にアルバイトしてもらいましたが,
なまじ友人なだけに仕上がりに注文をつけたくても言いにくい
部分もあり,かといって業者に頼むと仕事自体が赤字になって
しまうというこのジレンマ.

昔,文字起こしソフトを購入しましたが,まだまだ改善の余地あり
でした.文字起こしにかかる時間と労力がなくなれば,
どれだけ仕事が効率よく進むか…これ愚痴ですね,すみません.

以下,私信です.
Y・Kさま
『丸』高射学校特集を読んでいただきありがとうございます.
2月末発売の4月号にも別テーマの記事が掲載予定ですので,
お手にとっていただければ幸いです.



▼渡邉さんへのメッセージは
http://okigunnji.com/url/169/
から.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■海上自衛官(6)

今週も引き続き林氏の手記より抜粋してご紹介します.
不可能と思われた海底620mからえひめ丸が引き揚げられ,
行方不明者や遺留品の捜索活動が米軍によって
行なわれました.

事故が発生した2月10日から9カ月が経ち,
ついに捜索活動終了のときを迎えました.
この間,アメリカは9.11同時多発テロに見舞われています.
米国の持ちうる戦力はどんどん中東へ投入されていました.
その状況下においても,米海軍はえひめ丸の捜索を
予定より早く切り上げようとはせず,行方不明者の
捜索を続けました.

それではどうぞ.

=====
船内捜索では,8人までは発見されたものの,
一人の生徒さんはどうしても発見することができませんでした.
米海軍が3週間強にわたって実施した潜水作業を終結し,
海上自衛隊のダイバーによる最終確認に後の望みを
託す時を迎えるということは,米海軍関係者によって
苦渋の決断でありました.


(※行方不明者捜索最終日の)当日はご家族にとっても
心を静めることのできない,落ち着かない1日であったと
思います.どんな言葉で伝えようと,ご家族の心の苦しみを
和らげることなどできるわけがないことはよく判っていました.

自分の気持ちが整理できないまま,一睡もできないうちに
夜が明けて,ついにその日を迎えることになりました.
「発見されました」という報告ができたらどれほど救われるか
と電話が鳴るたびに一喜一憂していました.

しかし「ちはや」からの「最後のダイバーが水面に上がった」
との連絡を受け,ついに終わりの時が来ました.

私の頭の中は真っ白になり,9カ月前の事故発生当時の混乱,
家族からハワイで浴びせられた罵声,ファロン特使に日本の
作法を教えたこと,審問委員会,「ちはや」派遣に至る過程,
長く不安な吊り上げ作業,「ちはや」のパールハーバー入港
などが次々と脳裏に思い出されてきて,考えがまとまらないまま
ホテルの部屋に入りました.

私が,真心の声を精一杯伝えようと思い,家族にお話した
内容は次の通りです.

「これまであらゆる可能性について考えられるすべての
捜索を実施しましたが,手がかりを得ることはできませんでした.
本日午後,最後のダイバーが水面に上がってきましたが,
その瞬間をもって『ちはや』艦長は苦渋の決断を下すに
至りました.

最後に,先週,『ちはや』にお越しになった際に『ちはや』乗員に
いただいた白いバラの花束と昨日お預かりしたクッキー
(※行方不明の生徒の母親がちはやに手作りクッキーを
差し入れていました)は,ご子息の部屋のロッカーに入れ,
ご子息がいつでも花を見てご両親のことを想い出したり,
クッキーを食べられるようにロッカーのドアは開けておきました」

これだけの言葉を伝えるのに,最後は胸が締め付けられ,
言葉になりませんでした.16年間大切に育ててきたご子息を,
その子が17歳になった2日後に失ってしまったご夫婦に,
このような残酷な言葉をかけなければならない辛さ,
私にとってもご子息は手が届かない,帰らぬ人となってしまった
という気持ち,4カ月におよぶ終わりの見えない作業に黙々と
専念してくれた「ちはや」の乗員に対する感謝の気持が一緒に
なって言葉になりませんでした.

同席していた,米海軍の引き揚げ作業総括責任者は
「ご両親のお気持ちを察すると余りあるものがありますが,
これまで米海軍のダイバーが全力を尽くしたことをご理解いただき
本当にありがとうございました」と涙ながらに話されました.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2017.1.19




日本陸軍の兵站戦(42)
『戦時の鉄道(1)─鉄道と軍隊─(22)』
荒木 肇
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□ご挨拶

 トランプ政権が船出しました.これをあれこれ取り沙汰する
論評や報道を見ますが,やはり納得するのが「平成の黒船」だ
という指摘です.『泰平の眠りを覚ます・・・』ではありませんが,
これからのアメリカ政府がどのような要求を出してくるのか.
ほんとうに予断ができません.政府・与党,行政府の皆さんの
識見と行動力にかかってくると思われます.

 また同時に,国民一般の覚悟と決断にかかってくるでしょう.
長いことわが国は,『安保ただ乗り』状態でした.アメリカの
核の傘の下にあってこその平和と安全でしたが,その実態は
アメリカの計算力とわが国の指導層の甘え,もたれかかりだった
のではないでしょうか.

 自衛隊の定員を削り,装備品を減らし,研究開発費も十分には
与えず,多くの防衛産業の苦境にも目を配らず,基礎になる
産業にも心を配らない.それほど古い話ではありません.
現在の政府与党の側のバッジを付けている議員さんも,
昔は東北方面隊を縮小せよと防衛省に迫ったことがありました
(それが実現していたら,あの大震災で大変なことになりました).
また,現在の野党党代表は以前,『自衛官の制服も中国に発注
すれば安くあがる』と放言していたことも記憶に残っています.

 アメリカには何を言っても許される・・・そうした「甘えの構造」にも
似たマスコミ各社の姿勢も少しは変わるでしょうか.隣国にも
わが国に対して何を言っても,しても許されるという気分が
あるようです.そうした道徳的な不埒さはまっとうに怒る気分にも
なれませんが,今もアメリカの姿勢待ちであることは間違いの
ないところでしょう.

 HY様,弾丸列車のジーゼル化,電化,もちろん検討も
されたようですがドイツでも実現不可能ということで見送られた
ようです.また,インフラ関連の整備もあり経費の問題だったか
と愚考します.情報提供もありがとうございました.
今後ともよろしくお願いいたします.

(笑)様,まさに沖縄県の翁長知事もトランプ氏の「外圧」に
どう対処するのでしょう.ご指摘の通りかと存じます.
ありがとうございました.

 今回から,いよいよ昭和の鉄道,戦時に向かう鉄道のお話を
します.実際に戦うためにはどんな努力を先人たちはしたのでしょうか.


▼経済制裁と日本

 わが国がアメリカへ直接の激しい戦意を燃やし始めたのは,
1941(昭和16)年8月のことだと思われる.いまもアメリカが
対テロなどで実行する経済制裁である.アメリカは支那から
日本の軍事力を引き下げるために,石油輸出禁止令を出した
のだ.ルーズベルト大統領は敢然とこれを実行した.
石油がなくては軍艦も戦車もトラックも動けない.航空機は
飛べないし,製鉄業界もたいへん困った.

 支那事変が1937(昭和12)年7月に始まってから,
すでに国民生活も石油の消費にはたいへん気を使わざるを得なく
なっていた.それこそ事変は泥沼化し,この上,石油を止められて
はアメリカの要求を容れて兵力の撤退を考えてもとても実行
できない.そうまで追いつめられたら,開戦やむなしという意見
が出ても仕方がなかった.

 1938(昭和13)年4月には陸上交通事業調整法が出された.
新規のバス・トラックなどの事業展開や拡大は認可されなかった.
燃料もガソリンや軽油ではなく,アルコールの混用を進めたり,
代用燃料とされる薪や炭を動力の元としたりするようになった.
いわゆる木炭ガスを使ったバスやトラックの運用である.自動車を
運転するためには車体後部の釜に木炭や薪をくべた.
それに点火して出る気体をエンジンに入れて動かした.
出力の低下などひどいものだった.坂を登れないという事態が
しばしば起きた.

 石炭だけは国内で生産できたから鉄道は蒸気機関車が
大活躍した.その代わりにガソリンで動いた気動車は廃止された.
また,不急不要だとされた路線は廃止が続いた.

▼戦前の国力

 鉄道を作ると鉄を大量に消費してしまう.標準レールは1メートル
あたり30キログラムであり,10キロの線路を敷けば600トンの
鋼材が必要となる.それに線路と枕木をとめる犬釘もあるし,
付帯設備にも大量に鋼材を使うことになる.このころ,わが国の
鋼材は年間で220万トンの不足をきたすという予想も出された.
鉄道は線路ばかりか鉄橋やトンネル,駅や機関庫,燃料・水の
整備機構,機関車や客貨車などにも大量の鉄を使うので
なかなか戦時だからと優先されたわけではなかった.

 ちなみに『国防の台所観』という陸軍省軍事課資材班の
内部文書があった.(『戦史叢書33号附録』)そこからの孫引き
だが,当時の国力を見ておこう.13年度の数字である.
鋼材軍需配当だけの実績として,64万トンが陸軍,53万トンが
海軍,合計で117万トンになる.これは総供給額の489万トン
からみれば24%になる.陸海軍の要求はそれぞれ増えていく.

 配当を担当する企画院からすれば軍需を抑え,生産力拡大
の方に回して国力を増そうとしたが軍の要求は次々と拡大し,
とうとうじり貧になっていった.開戦の年,昭和16年には
軍需219万トンと,総供給量430万トンに対して,とうとう51%
にもなり,民需と拮抗するようになってしまった.アメリカはどうか
といえば6500万トンである.ソ連も1800万トンである.

 石油に関するデータもある.当時の世界最大の産油国は
アメリカだった.年産で1億9050万キロリットルで世界総生産の
63.5%を占めていた.中近東は4200万キロであり,14%だった.
ソ連は3200万キロ,11%である.対してわが国はわずか
30万キロ,世界の中では0.1%というお寒い状況だった.

 頼みの石炭はどうだったか,わが国の5700万トンに比べ,
アメリカは4億800万トン,ソ連が1億4500万トンである.

 さらに「国防の台所観」を読み続けよう.昭和15年7月7日付で
ある.火砲は年産2000門である.官では大阪造兵廠,民では
日本製鋼,神戸製鋼などを中心に官民の生産比率35対65という
実績になる.現在の保有量は2万1000門で,将来は年1万門は
造らねば補給率50%が維持できない.15糎カノン以上の重砲は
現在150門ほどを保有しているが,その製造能力は年に5門くらい
しかない.15糎カノンは生産に8カ月,24糎榴弾砲は18カ月も
かかっている.これを強化しなくてはならない.

 砲弾は2000万発を年間に製造し,1日当たり6万発.17万発
の爆弾を年に製造している.砲弾のうち3分の1は支那で射耗して,
3分の2が備蓄されている.現在の保有量は1500万発であり,
金額では4億円くらいになる.小銃や機関銃弾は月6000万発
を製造している.支那との紛争以来,14年度までの弾薬製造に
使った鋼材は約50万トンであり,新しい戦争では100万トンを
必要とするだろう.

 こうした状況が戦う日本の前提にはあった.

▼鉄道聯隊

 第1,第2の鉄道聯隊が千葉県にあった.1934(昭和9)年には
満洲のハルピンに鉄道第3聯隊が開設された.装甲列車隊をもち,
列車砲も装備した対ソ連戦用の部隊である.ところが実際の戦闘は
中国本土で行なわれた.

 鉄道聯隊の指揮官は鉄道監(陸軍少将)といわれた.第3聯隊は
支那事変が勃発すると,装甲列車隊が天津に進出して,敵陣地の
砲撃や物資輸送に活躍した.やがて内地から津田沼の第2聯隊が
やってきた.千葉の第1聯隊は上海や南京付近で鉄道の修理,復旧,
輸送にあたっていた.鉄道聯隊の戦時定員は2519名だった.
聯隊本部には軍医や経理部将校などのスタッフがいて69名,
資材などをもつ材料廠は194名,実働部隊は3個大隊6個中隊であり,
各中隊は268名である.これに大隊本部員がつき,1個大隊は
564名だった.

 8月の中旬になると広島から動員された第5師団がやってきた.
朝鮮半島経由で天津までやってきた部隊は北京の北西50キロメートル
のところにある八達嶺に作戦行動を始める.八達嶺は万里の長城が
走る山である.トンネルがあった.その線路を使って補給を行なう
予定だった.ところが,トンネルはなんと機関車6輛によってふさがれて
いたのである.撤退する中国軍はトンネルの両方の入り口から
それぞれ機関車を無人で走らせ衝突させていた.現場はすごい状態
だった.機関車は1輛が150トンもある大型である.それが高速で
衝突したためにトンネル内部もむちゃくちゃに壊されていた.

 鉄道省の技師は完全復旧まで6カ月がかかると言う.満鉄から
呼ばれた技術屋も半分の3カ月でなんとかなると答えた.鉄道監は
聯隊長を呼び,見通しを聞いてみた.第5師団の作戦に間に合わせる
という要求からみて1カ月以内にできないかという相談でもある.
聯隊長は作業の実際の責任者の大隊長と話し合ってみると答えた.
大隊長は2週間でやり遂げられるという.実際,トンネルはほぼ
2週間で復旧することとなった.

 考えてみれば,鉄道兵とは軍歌の工兵の部にもある通り,
『敵の鉄道 打ちこわし・・・』という兵科だった.戦時であり,
線路の破壊,修理,復旧は専門家であり,平時に暮らす技術者
たちの考える基準とはまったく異なっている.平時の技術者や
土工たちとは発想も行動も違って当然である.装甲列車は走り,
騎銃で武装した鉄道兵たちは立派に輸送任務もこなしてしまった.

 9月になると天津に集合した師団各部隊の指向する方面は
北京から南西方向になっていた.およそ200キロの距離にある
保定付近に前進する.ところがその方向には永定河を中心にして
支流の多くも流れている土地が多い.大雨で河川は増水し,
列車の前途はすっかり阻まれてしまった.鉄道輸送を管理する
兵站の将校が列車に乗っている部隊を降ろそうとしても指揮官
が納得しない.乗車している人員が降りてくれなくては列車の
回送計画にも支障が出る.そういう事態が各地で起きていた.

 1938(昭和13)年6月のことだった.黄河の堤防を中国軍が
破壊した.偵察機が空から見ても田畑も部落もすべて泥水に
埋まっている.第14師団,第16師団は水に囲まれて補給も
ろくに受けられないという苦境に陥った.第14師団は工兵が
折りたたみ舟で救出し,第16師団は爆撃機などにより物資が
届けられた.中国での鉄道部隊の行動は,まさに水と鉄道を破壊
していく敵との戦いだった.

 逃げ遅れた中国軍から多くの鉄道資材や機関車,客貨車が捕獲
された.それを集めて,鉄道第5,第6聯隊が編成された.第4聯隊
は満洲の牡丹江ですでに編成が完結していたが,
こちらは対ソ連戦用に用意された部隊だったので中国に送られる事はなかった.

 約250輌もの機関車が海を渡った.貨物用機関車の9600型である.
大正時代に生まれた2D(前輪が1軸,動輪が4つ)の強力機関車だった.
もともとすぐに広軌にも使えるように余裕があった設計だったので
容易に1435ミリに改軌して大陸の鉄道を走ることができた.
小型のタンク式機関車のC12もおよそ70輌が北支那を走った.
これにテンダー(炭水車)をつけたC56型の機関車も100輌近くが
海外に送られた.

▼大東亜戦争の開始

 案外知られていない事実だが英米蘭を相手とした大東亜戦争は
ハワイ空襲から始まったわけではない.その1時間近く前にマレー半島
に上陸をしたのが最初の戦闘行動だった.英国領だったコタバルと
その北方のタイ国シンゴラに上陸したのは第23軍である.軍司令官
はのちに「マレーの虎」と新聞が名付けた山下奉文中将だった.
鉄道がある半島の西岸を南下したのが第5師団である.各師団には
持ち味があって,瀬戸内海に面した地域の出身者が多かったこの広島
の第5師団は敵前上陸などによく使われた.

 英国領に入って300キロ近くにベラク河がある.毎週1便,
シンゴラとシンガポールを結ぶ列車が走っていた.この列車が上陸日には
シンゴラ駅に停車中であることを第25軍はつかんでいた.シンゴラに
上陸した1個歩兵大隊をこの列車に乗せてベラク河に突進させる
計画を立てていたのだ.橋を無事に占領する.これに使われたのが
鉄道第9聯隊の2個中隊だった.これを鉄道突進隊と言っていた.

 この計画はうまくいかなかった.タイの領土であったためにタイ国
官憲との交渉に手間取っているうちに多くの橋が破壊されてしまった.
鉄道第9聯隊はそれらを修復しながら戦闘部隊の輸送に努めた.

 およそ1週間が経ち,近衛師団がベトナムのハノイから列車で
マレーに到着した.これを支援したのが鉄道第5聯隊だった.
装甲軌道車も使って破壊された箇所を調べたり,偵察行動にも
従ったりした.敵の攻撃を受けて戦死者も出すようなこともあった.
マレー半島で戦ったのは上記の2つの聯隊の他に,
特設第4と同第5の特設鉄道隊と鉄道材料廠だった.停車場司令部も
置かれた.この司令部は軍需輸送の統制,事務連絡,関係機関との
協議などを行った.マレーの鉄道部隊は服部第二鉄道監の隷下に
なった.この服部中将はのちに南方軍鉄道隊司令官になる.
 次回は制度面から見た鉄道部隊の説明から入ろう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2017.1.25




『ライター・渡邉陽子のコラム (127)─ 海上自衛官(7)
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは.渡邉陽子です.

えひめ丸の事故に対応された林さんの手記は,今回が最終回です.
私はハワイに2度旅行していますが,いずれもえひめ丸の事故が
起こる前のことで,21世紀になってからは訪れていません.

この先三度訪れることがあれば,かならずカカアコ海浜公園に
足を運びたいと思います.


▼渡邉さんへのメッセージは
http://okigunnji.com/url/169/
から.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■海上自衛官(7)

今振り返ると「溝は深すぎる」と半ば諦めながらも,
私が家族と米海軍と海上自衛隊の接点であり続けることができた
のは,日本と米国という世界でも類を見ない強い友好の絆で
結ばれた両国の将来に,この事故が暗い影を落とすことが
ないようにというただそれだけの想いでした.

犠牲者の家族のために,誠意を持って対応しようとしている
米海軍のために,日米両国政府のために,両国民の感情の
ために,自分は何ができるのであろうか.
日米間の文化,歴史,制度,習慣の相違という大きな壁に
直面しながらこの質問を自問自答する毎日でした.

2001年9月に起きたアメリカの同時多発テロ事件の反応にも
見られた通り,日米間には価値観の相違,感じ方の違いが
数多くあります.歴史認識もしばしば食い違いますし,
時にはその溝が越えがたいと思われるものもあります.

しかし,そうした懸隔があっても,日米は同盟国として
永くつきあわねばなりません.そのために必要なのは,
何よりも共通の体験を重ねることだと思います.
困難や問題を共に乗り越えて初めて,共感が生まれ,信頼が
育まれていくものであると信じています.

しかし,最終的には私を毎日駆り立てたのは「人が人を愛し,
人が人の死を悲しむ気持ちに変わりはない」という洋の東西,
時代の新旧を問わず,生ある物すべてに共通する真理でした.

これまで述べてきましたように,米海軍は人として,
組織としてあるべき姿を追究し,その道がいかに険しいもの
であろうと,決して挫折することなく万難を排し,あらゆる困難な
状況を乗り越え,ご家族と交わした「引き揚げます」との約束を
果たすために最大限の努力を傾注しました.私はここに米海軍
のもっとも素晴らしい伝統である「名誉」を学んだことを忘れません.

ひたむきな努力を続ける米海軍の姿も,最愛の家族を失い,
怒り,悲しみ,疲労で混乱しているご家族の姿もどちらも真実の
姿でした.

また,将来の姿を考えた時に,仮に溝ができたまま両者が
未来永劫,交わることがないとしても,それも真実の姿でしょう.
しかし,両者の間に身を投じ,お互いに相手のことを理解しあい,
誠意を示し合い歩み寄れる部分は,歩み寄ることも真実の姿でしょう.

理不尽きわまりない事故によって命を落とした「えひめ丸」乗員の
家族と引き揚げ作業を担当した米海軍,またその陰になって
支援した海上自衛隊の間に深い絆が生まれたとすれば,
それはともに悲しみ,悩み,苦しみ,ともに汗を流すということを
共有した結果に違いありません.

=====

林秀樹氏の手記の抜粋は以上です.
海底620mから引き揚げられたえひめ丸は船内の捜索を
終えた後,ホノルル空港沖約34キロの水深2000mの深さに
再び沈められました.

えひめ丸と米潜水艦グリーンビルの衝突現場を見下ろせる
ホノルルのカカアコ海浜公園には,えひめ丸の慰霊碑が
建てられています.『正論』には「慰霊碑は9人の犠牲者を
象徴する9つの御影石を縦横3列に並べた正方形で,
広さ13・3平方m.慰霊碑には米海軍が船体から回収した錨を
9つの輪とともに捉え,そのわきに宇和島水産高校の校章が
描かれた.デザインは同高校の卒業生が担当した.」とあります.

連載第4〜7回は林氏が転載を快諾してくださったおかげで掲載が
叶いました.この場をお借りして厚く御礼申し上げます.
林氏は今月,海上自衛隊を定年退職されました.今後のご活躍も
祈念しつつ,「海上自衛官」の連載を終了します.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2017.1.26




マーケット・ガーデン作戦とインテリジェンス (最終回)
                長南 政義
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□前号までのあらすじ

みなさまあけましておめでとうございます.本年もよろしくお願い申し上げます.

本連載は,精確な内容を持つインテリジェンスが一九四四年九月上旬に
連合軍の指揮官に利用されたかどうかを考察することにある.
実は,インテリジェンスの内容は,マーケット・ガーデン作戦実行に
伴うリスクを連合軍の指揮官に警告していた.


指揮官が決定を下すために利用できるインテリジェンスの情報源は
数多く存在していたが,本連載では「ウルトラ」情報により提供された
インフォメーションにのみ焦点を当てて考察を進めることとする.

第二次世界大戦を通じて,連合軍の戦略レヴェル・作戦レヴェルの
指揮官たちはウルトラ情報を活用し,ウルトラ情報の精確性に関して
めったに疑いを持たなかったからだ.


▼アイゼンハワー大将とモントゴメリー元帥との戦略論争

ドイツ軍が,軍の崩壊とその結果必要となった軍の再編に
取り組んでいる間,連合国軍は戦争終結のための方法を議論
していた.ドワイト・アイゼンハワー大将は,戦線全体で
ドイツ軍に対し圧力をかける広正面戦略を主張した.

一方,バーナード・モントゴメリー元帥は,戦争を終結させる
ためにベルリンへ向かう「純然たる一点突破(full-blooded thrust)」
を提案した.となると,モントゴメリー元帥が提唱するところの
一点突破は彼が担当する戦域で実施されるべきというのが,
自然の趨勢というものだ.そして,このことは連合国軍内で
モントゴメリー元帥率いる軍集団に対する補給物資の割り当て
を最優先させることになるので,ほかの軍集団の司令官から
の反対を喰らうのは必至であった.


連合国軍最高司令部内における指導者間の意見対立は,
一九四四年九月四日に,彼らに送られたコミュニケで頂点を
迎えた.指揮官たちに対するメッセージの中でアイゼンハワー
大将は以下のように述べていた.


「極めて弱い抵抗に対してであっても戦線の大部分において
さらなる移動はほとんど不可能である」.


アイゼンハワー大将の懸念は,連合国軍が補給線の限界を
超えてしまい,軽微な抵抗に対してであっても,敵領にさらに
前進することができなくなる,というものであった.
そしてアイゼンハワー大将は,次のように述べることにより,
広正面戦略に関する自身の立場を繰り返している.


「今までにない規模で,敵をあらゆる場所で引き伸ばし
続けなければならないことは,全体的観点から明白だ」.


アイゼンハワーがこう述べたのと同じ日に,モントゴメリー元帥は,
アイゼンハワー大将に,次のような内容のメッセージを送った.


「我々が今やベルリンに向かう一つの真に強力で純然たる
突破が起こり得て,これによりドイツとの戦争を終結させ得る
段階に到達したことが,全体的観点から明白である」.


二人の指揮官の常に拡大し続ける隙間は広がり続け,
大戦終結も戦略論争を解決することにはならなかったのである.


一九四四年九月十日,二人の巨頭がブリュッセルで会見した.
この会見で,アイゼンハワー大将は,モントゴメリー元帥の計画に
対する留保にもかかわらず,ライン川の渡河点を奪取するための
空挺作戦を認可した.もちろん,この認可はベルリンへの突進の
開始となることはアイゼンハワー大将の意図ではないが,
「マーケット・ガーデン作戦は,単なる小事件であり,我々が一時的
安全のために必要とする線への東方への拡張」であった.

アイゼンハワーは広正面戦略の信奉者であったが,
もしライン川の橋頭保を確保することができたならば,
モントゴメリー元帥を支持するつもりであったのだ.


▼シュトゥデントの奇縁

アントワープ陥落後,ドイツ軍首脳部は連合国軍による
オランダへのさらなる前進を阻止せよという命令を発令し始めた.
一九四四年九月四日の午後,降下猟兵の育成に多大な貢献をし,
第二次世界大戦初期に空挺部隊を指揮したことで勇名を馳せた
クルト・アルトゥール・ベンノ・シュトゥデント上級大将が,
アルフレッド・ヨードル上級大将から呼び出しを受けた.

ヨードルはシュトゥデントに対し,
新しく創設された第一降下猟兵軍司令官の指揮をとるように
命じたのである.


シュトゥデント率いる第一降下猟兵軍は,最近連合国軍の浸透により
生じたアントワープ東方約121キロの隙間を守ることとなった.
シュトゥデント率いる第一降下猟兵軍に割り当てられた地域が,
マーケット・ガーデン作戦における連合国軍の主たる前進軸となる.
奇しくも,一九四〇年にオランダへの空挺作戦を指揮した
シュトゥデントは,連合国軍の空挺作戦から自分が攻めた同じ地域
を守備する立場となったのである.


▼チル師団長の独断

ドイツ軍最高司令部が西部における防衛体制を再編成する一方で,
各地の指揮官たちもまた状況がいかに切迫しているのかを見て取り,
連合国軍の前進を阻止するための対策をとった.


第八十五歩兵師団長クルト・チルは,師団をラインラントへ撤退させよ
という命令を受けていた.九月四日,チルはアルベルト運河沿いの状況
を視察し,ラインラントへの撤退を止めて,運河沿いに防衛拠点を
確立し始めた.チルは運河を横断してドイツへと撤退する部隊で,
第八十五師団を強化することができた.他の指揮官たちの努力も
合わさって,チルの行動は圧ベール運河沿いの防衛体制を形成し,
ドイツ軍が強固な防衛体制を確立するための時間的余裕を提供した.
連合国軍の勢いはその重みで停止し,ドイツ軍はこの時間を活用し
防衛体制を確立したのである.


各地の指揮官たちが前線の混乱を安定させ,増援部隊がドイツから
続々と到着する一方,グスタフ=アドルフ・フォン・ツァンゲンの第十五軍
はスヘルデ・エスチュアリー経由でアントワープ西部地区から
南ベーフェラント半島への撤退を開始した.

モントゴメリー元帥はアントワープ西方地区で第十五軍を孤立させ,
その退却路を切断しようとしたが,第十五軍を完全に孤立させるため
に必要なアントワープより先への前進には失敗した.

フォン・ツァンゲンはこの猶予期間を活用し,スヘルデ・エスチュアリーを
渡って南ベーフェラント半島へ,軍を撤退させた.南ベーフェラント半島
で第十五軍はオランダへ逃げのびることができるであろう.
その部隊の幾つかは,第一降下猟兵軍に配属されて,
マーケット・ガーデン作戦において連合国軍と矛を交えることとなる.


▼掴めなくなりつつあったドイツ軍の動向

「ウルトラ」情報は,アントワープ占領後,連合国軍の司令部に
届いていた.報告書の性質は,混乱した退却を統制しようとしていると
いうものから,連合国軍の前進を停止させる意図をもって計画された
強固な防衛を確立しているものへと変化した.

さらに,「ウルトラ」情報の量もドイツ軍がオランダで再編成されていくに
つれ,徐々に減少し始めた.ドイツ軍の動向は今や基本的に静的なもの
へ変化した.というのも,撤退中と異なり,ドイツ軍はオランダに以前から
存在していた地上通信インフラに依存するようになったからである.


▼作戦予定地域に集中するドイツ軍の情報を報告していた「ウルトラ」情報

「ウルトラ」情報の量が減少したが,それは幾つかのドイツ軍大規模部隊の
配置と意図とを連合国軍の指揮官に提供していた.

一九九四年九月四日,B軍集団命令は,現在作戦行動中にない装甲師団に
対して,再編休養のために指定された地域に退却するよう命じていた.

第二・第百十六装甲師団,第九・第十SS装甲師団は,再編休養のために
ヘンロー〜アルンヘム〜スヘルトーヘンボス地区へ撤退を命じられていた.
この地域はアルンヘムを頂点とする三角形の形を成していて,
イギリス第三十軍団(三個師団基幹)の進撃ルートは三角形の底辺から
三角形の頂点に向かって進む形となった.

第一・第二・第十二SS装甲師団は,再編休養のためドイツ領への退却
を命じられていた.九月五日には,第二SS装甲軍団が東に向かって
アイントホーフェンへ移動し,四個師団の再編休養はヘンロー〜アルンヘム
〜スヘルトーヘンボス地区とするよう命令された.


B軍集団は,今や攻撃を受けやすくなったアルベルト運河の防衛を強化
するために他の対策もとっていた.九月六日の「ウルトラ」情報は,
新しく配備された第一降下猟兵軍がアルベルト運河からマーストリヒトまでの
防衛の責任を負っていて,第三・第五・第六降下猟兵師団を指揮下に
置いていることを明らかにしていた.同日付のその後に出された「ウルトラ」情報
は,第一降下猟兵軍が使用できる兵力量をさらに大きく報告していた.


▼ヒムラーが語る作戦予定地域の重要性

ドイツ軍は最初の防衛線をアルベルト運河に沿って準備していた,
そこに配備された将兵は第一線の将兵から前線へと急いで投入された
戦線後方を警備する警備部隊までが混在する寄せ集めの部隊であった.

この部隊は軽装備で連合国軍に比べ兵力も少なかったが,すでに連合国軍
による偵察目的の攻撃を撃退していた.この攻撃で,ドイツ軍が
ドイツ本土へのドアを開放しないであろうことが明白となった.
ドイツ軍首脳部がこの地域を重要と評価し,ここを守るために採用した
諸手段は,九月八日附のSS長官ハインリヒ・ヒムラーの命令によっても
判明していた.


▼下された作戦開始の決断

アイゼンハワー大将から作戦実行の認可を受けた後,モントゴメリー元帥は,
イギリス第一空挺軍団軍団長フレデリック・ブラウニング大将に対し
作戦計画を説明した.議論の間,モントゴメリー元帥は,ドイツ軍装甲師団
は作戦第二日目にアルンヘムにいることになるであろうと話し,
ブラウニングは四日間持ちこたえることができると答えた.ブラウニング大将
は直ちに連合空挺軍司令部のあるイングランドに舞い戻り,作戦立案作業を
開始した.ブラウニングはアメリカ側指揮官ルイス・ブレレトン中将に計画を
説明した時が,ブレレトンが作戦について初めて耳にした時であった.
性急さが招いた準備不足の影響がうかがわれる挿話だ.


連合空挺軍が複数国の部隊から構成される連合組織であったため,
モントゴメリー元帥は,アイゼンハワー大将から作戦の認可を受けるまで,
アメリカ人に自身の作戦計画を知られるのを望まなかった.

モントゴメリー元帥は,アイゼンハワー元帥の認可を受けたその日に,
ブラウニング大将がモントゴメリー元帥の司令部にいるよう意図的に調整した
疑いがあることが,研究者から指摘されている.その結果,連合空挺軍司令部
は戦史史上最大の空挺作戦の準備を行うのにわずか七日しか時間的余裕
がなかった.


作戦開始の意思決定過程で,「ウルトラ」情報は分析官に情報資料を
与え続けたが,誰もそれを部隊指揮官に送ろうとはしなかった.
実際,「ウルトラ」情報の配布は軍レヴェル以上に限定されていたので,
戦闘部隊は「ウルトラ」情報の配布リストに名を連ねていなかった.

もっとも重要な「ウルトラ」情報は九月十六日のもので,作戦予定地域に
第九・第十SS装甲師団が存在すると報じていた.


▼情報内容の失敗ではなく,情報活用の失敗

多くの論者が指摘してきたのと異なり,マーケット・ガーデン作戦は,
情報面でのミスの結果失敗に終わったものではない.

必要なインフォメーションは利用可能であり,特にオランダにおける
ドイツ軍の状況が九月四日から十七日にかけて劇的に変化したことは
配布資料から明白であった.

確かに,総体的に見てインテリジェンスコミュニティがこの変化に反応する
速度は遅かったが,それでも反応して報告を上げていた.だが,ここで
誤算が起こる.この警告が上げられたのは,マーケット・ガーデン作戦
実施の決定がすでになされた後だったので,連合国軍の上級指揮官たち
は作戦をキャンセルすることを渋ったのである.


▼モントゴメリー元帥,情報活用に失敗する

アフリカにおけるモントゴメリー元帥の成功を手助けした「ウルトラ」情報は,
残念なことにオランダでの戦闘では隅に置かれてしまった.

ドイツ軍装甲師団が予定された降下地点および空挺部隊の作戦目標
周辺に再配置されたという「ウルトラ」情報は,モントゴメリー元帥の
第二十一軍集団内で割り引いて考えられてしまい,この「ウルトラ」情報は
作戦実行の任務を持つ諸部隊に配布されることはなかった.
イギリス軍第三十軍団の指揮官でさえ,後に以下のように述べている.


「第九・第十装甲師団がアルンヘムの北東で休養しているなんて
考えは持たなかった」.


イギリス軍空挺部隊が言及しなかったのと対照的に,米軍に属する
二個空挺師団(第八十二空挺師団・第百一空挺師団)が,師団の作戦地域
における装甲師団の可能性に言及した事実は,インテリジェンス・チャンネル
における指揮官の影響力を示唆している.


長い間,ご愛読いただきましてまことにありがとうございました.
読者の皆様,編集者エンリケ様に感謝申し上げます.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2017.1.26




日本陸軍の兵站戦(43)
『大東亜戦中の鉄道部隊─鉄道と軍隊─(23)』
   荒木 肇
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□ご挨拶

 マッドなにやらとあだ名を付けられた米国防長官が見えました.
マッドと言えば,心の平衡を失ったヒト,狂った人というイメージですが,
あの意味は必ずしもそうじゃないそうですね.勝利を得ることに
最高価値を置いた人ということらしい.

 それどころか,「戦う修道士」とも言われるような非常に気高い
軍人精神をもった海兵隊員だそうです.直に会ったことがある陸自の
元将官から伺いました.米軍基地の維持費の問題もたいへん公平に
了解しているそうですし,何より尖閣諸島を安保法の範囲内だと言う.
一安心という向きもあるようです.
 
 しかし,ならばこそ,私たちはより一層,自分の国土は自分たちで
守るという意識を高めていかねばなりません.
 
 不愉快な報道もありました.沖縄の知事です.翁長ナニガシは
アメリカに行っているそうですね.何をしているのかと思ったら,
アメリカで在米の基地反対運動家と酒飲んで踊っている写真が
ネットに載っていました.ほんとうならひどいですね.休暇取って
私費で行っているのでしょうか.

 もし,公費を使っての行動なら,いくら県の予算でもひどいと思いました.
それもまわり回っていえば,本土の我々の納めた税金からも回っている
のです.いい人の知り合いもいるのですが,ああいう人を選び,
いまだに支持する沖縄県民の感覚を疑います.


▼鉄道部隊の編成組織

 鉄道に関する部隊には珍しい編成のものもあった.鉄道橋梁大隊,
鉄道工務大隊,鉄道工作隊,鉄道運営隊,その他に停車場司令部などもある.

 鉄道工務大隊は破壊された鉄道を修復したり,新線を建設したりした.
予備役から召集された古参兵や補充兵出身の素人が多かった.
国鉄から召集を受けた人も多かったので,特技者ということで重宝がられた.
およそ昭和15(1940)年以降の動員くらいから精密になったが,
聯隊区司令部に置かれた在郷軍人名簿にも職業,その内容の記載欄が
あった.鉄道員なら,無線手,保線手,駅務掛,機関手,改札・出札などの
職種が区別されていたから,ねらいをつけて召集するのは容易だった.

 鉄道運営隊というのは耳慣れないが,停車場司令部と連携した部隊
である.停車場司令部が軍需輸送の統制や事務連絡を行なうのに対して,
運営隊は停車場司令部と調整しながら一般輸送の統制や事務連絡,
駅の業務などを行なった.動員部隊の専用列車などの退避線の使い方や,
弁当の調達などの企画は停車場司令官,実際の配布などは運営隊長の
責任ということだ.

 なお,停車場司令部には将校や下士官の勤務員が多く,
働く手足がない.それらの要員として鉄道関係者の多くが召集された.
前回まで述べた満洲や台湾,朝鮮などの鉄道関係者も多く含まれていた.
また,軍人としてではなく,軍属(文官・その待遇者,雇員・傭人)として
勤務した人も多かった.

 第4,第5特設鉄道聯隊は南方作戦がひと段落ついた後に,
現地の鉄道を動かすために編成された部隊である.ここには多くの
軍属が配置された.両聯隊で合わせて780名余りの部隊で,指揮官は
少将が就いた.司令部には鉄道省から高等官2等(少将相当官)の
軍属である技師が派遣されていて,鉄道監と称した.

 その下には運輸・橋梁・工務といった大佐・中佐が指揮する部隊が
あったが,そこにも隊長と同官等にあたる軍属技師がいた.総員の中に
軍人は35名しかおらず,それだけが人事・衛生・経理・自動車運転・警備
などを担当し,あとは鉄道の専門家ばかりだった.だから軍隊とはいえ,
国鉄の一部門がそのまま移動したと言えなくもない.

▼支那派遣軍と関東軍の鉄道部隊

 支那派遣軍には第二野戦鉄道隊が置かれた.これを統括する
司令部の名称は第四野戦鉄道司令部だった.このように隷下の
部隊名と司令部名称が異なることがあるので注意しなければならない.

 だいたい歩兵以外の兵科の部隊を特科隊といったが,
ふつう常設師団の中では第1師団の工兵隊は第1工兵聯隊,
同野砲兵聯隊というように隊号は師団名と一致するが特設師団や
独立混成旅団から改編された師団ではそうでない場合が多い.
特別な鉄道関係部隊などの名称は,正規の建制部隊名を知るときに
役に立たない.

 関東軍には野戦鉄道司令部が置かれた.実働部隊をいくつか集めて,
それを方面ごとにあわせて指揮するのが普通だった.組織の大きさは
規模に違いがあるが50人から100人くらいの頭でっかちの
(将校・下士官が多い)部隊が司令部である.

 聯隊や大隊の指揮機能をとる,上級部隊では司令部にあたる組織を
本部といった.聯隊では聯隊副官以下の将校10人程度,それに技能系
の下士官や補助の兵,経理部将校や軍医などを合わせて50人くらいだった.
これが聯隊の下にある大隊だと本部員は5人くらいである.

 なお,日本陸軍の機動力の主役は鉄道部隊でも馬だった.聯隊長以下,
佐官はみな乗馬本分者であり軍馬が配当されていた.尉官でも聯隊副官や
大隊副官にも乗馬がある.南方地域では自動車を使うこともあったが,
中国戦線や関東軍では馬がいて,本部には馬取扱兵が定員に入っていた.

▼敗戦時の内地の鉄道部隊

 昭和20年の内地部隊をみてみよう.最高指揮官は内地鉄道司令官と
いった.中将のポストだった.定員は約4万4000人だから全国に
配置されたが大きな規模である.人員数では2個師団にあたる.

 小さい規模の部隊では樺太地区鉄道隊,63名.教導鉄道団司令部
(6673名)があり隷下に鉄道第16と同17の2個聯隊があった.
全国には合計9個の地区鉄道隊司令部がある.札幌,仙台,新潟,
東京,名古屋,大阪,広島,四国,門司にあった.人員は幅広く,
2000名から1万名にのぼる規模のものである.

 熊谷直氏の『軍用鉄道発達物語』の教えを受ければ,東京地区鉄道隊は
人員6034名.停車場司令部が4個,独立鉄道作業隊が5個と
独立鉄道第8大隊という編成である.戦争末期に空襲を受ければ
被害に遭う路線や車輛などが多かった.線路の復旧に,車輛の撤去,
軍用列車の運行統制などに活躍したことだろう.

 興味深いのは戦時中の旅行などで,当時のやむを得ない国鉄職員
の横暴さなどは記録に残した人は多いけれど,鉄道兵への不満や怒り
を伝える人は寡聞にして知らない.おそらく一般人と接触することはなく,
軍用鉄道の運行や被害復旧などにあたる裏方だったからだろうか.

▼南方軍鉄道関係組織

 南方軍はシンガポールに司令部を置く巨大組織である.昭和18(1943)年
には総兵力が30万人というものだった.そこには総司令官のもとに
野戦鉄道司令部があった.総司令部はビルマ担当のラングーンに司令部
を置いた第15軍(のちにインパール作戦に参加する),
ジャワ(インドネシア)にあった第16軍,シンガポールには第25軍の3個軍
の指揮にあたった.その中の鉄道関連部隊は野戦鉄道司令部の統制を受けた.

 第15軍には第2鉄道監部があり,隷下には第102停車場司令部と
第161同の2個隊,第5特設鉄道隊(770名)そして鉄道第5と同9聯隊が
置かれた.これらの聯隊は各5000名の要員と集められた現地労務者もいた.

 第16軍にはもともとオランダの植民地だったので鉄道があった.
そこには第4鉄道輸送司令部があり,運営の各組織に軍属などが配されていた.
第25軍には2個の実働部隊があった.第4特設鉄道隊と珍しい
第2手押軽便鉄道隊である.

 次回からは映画にもなり,多くの不当な戦争犯罪人容疑者を出した
「泰緬鉄道」の記録を数回に分けてお知らせしよう. 

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2017.2.8




日の丸父さん(14)石原ヒロアキ

「鬼丸小隊長の恋」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

□はじめに

 今回は男子自衛官の恋のお話です.漫画では中国人女性が相手で
す.といってもハニートラップの話ではありません.過去にそのよ
うな例がないことはありませんが,中国人女性といって全てそうで
はありません.中国に関しては毎日のようにネガティブなニュース
が多いのですが,中国人でも個人的に人格識見とも優れて,尊敬に
値する人もいるのです.ただし,共通の価値観があるかと言うとま
た別問題です.

 小学校のころから反日教育が徹底されており,我々の歴史認識と
はかなりの隔たりがあります.日常的な常識も違います.中国人に
限らず外国の方は,我々と考え方がかなり違うんだということを認
識したうえで付き合うことが大切です.

 最近の飲食店には,中国人はじめ外国の方が数多くバイトをして
います.漫画の自衛官のようにそういう場で外国人女性と恋に落ち
る者も最近多いのではないでしょうか.自衛官のように国益を守る
ことを仕事にしている者にとって,国際結婚は相当の覚悟と注意が
必要です.

 石原ヒロアキ「まんが館」を立ち上げました. 現役時代に頼まれ
て描いた4コマ漫画もアップしています.
http://yonekurahiroaki.wix.com/cbrn

◆「日の丸父さん」第1巻が電子書籍として発売中です.ここには
第1話から第12話までエッセイと一緒に収録してあります.ぜひ
感想をお聞かせください. http://okigunnji.com/url/208/

◆マンガ「第14話 鬼丸小隊長の恋」は下記をクリック.今月末ま
で無料で読めます.

https://yondemill.jp/contents/21439?view=1




□鬼丸小隊長の恋

▼駐屯地の周りは飲み屋だらけ

前に,自衛官は異性との出会いが少ないということを書きました.
とくに幹部の場合は2年ごとに全国区での移動がありますから,現
地で知り合ってそのまま結婚というのはなかなか難しいのです.
幼馴染か,学生時代からの付き合いがあればまだチャンスはあるで
しょうが,そのような例はめったにありません.

なかには友人のツテで合コンをするものもいますが,多いのは
飲食店で働いている女の子と結婚する例です.自衛官はよく飲み
ます.宴会の数も一般の人よりも多いのではないでしょうか.職
場の仲間,同期,同じ職種,同じ職域(部隊長どうしなど)など
の単位で,異動の前後,各種記念日,演習など大きな事業が終わ
った後など宴会があるので,週に2,3回はざらです.

ですので,自衛隊の駐屯地や基地の周りは飲み屋だらけです.
どんな田舎の駐屯地に行っても近くに必ず飲み屋があります.駐
屯地が閉鎖,または移転するなどといったら地域経済に与える影
響は少なくないので,地方議員が防衛省に意見陳情に行くくらい
です.

若い隊員を数多く呼ぶには,若い女の子を店で使うのが一番で
す.そこで相手を見つける者がけっこういます.とくに若い幹部
が常に供給されている幹部候補生学校や各職種学校の周りには若
い子を使っている飲み屋が多いような気がします.

バイトで来ている子たちは,自衛官としょっちゅう会話してい
るので,自衛隊の実情を理解したうえで結婚しているようですか
ら,わりとうまいっているのではないでしょうか.最近は,日本
人だけではなく,中国人,韓国人,フィリピン人も多く働いてい
ます.当然そうなると国際結婚の状況が生まれてきます.

▼自衛官の結婚事情

自衛官の国際結婚は禁止されていませんが,国益を守る仕事に
ついているため,職場ではそれなりの人事的制約を受けます.そ
れを覚悟で結婚する人もいれば,中途で退職する人もいます.わ
たしの知っている例では,フィリピン女性と結婚し,自衛隊を中
途退職してフィリピンに渡り,妻の農家の手伝いをしている人が
いました.

もちろんその他女性自衛官や自衛隊病院の看護師と結婚する例
も多いのですが,保険の外交員と結婚することもあります.駐屯
地には保険の外交員がたくさん入ってきます.若い隊員が多いた
め,勧誘するために若い女性外交員が派遣されます.そのような
女性と一緒になるケースも結構あります.

 さて,その他の自衛官の結婚の特徴としては,実家どうしが遠
隔になりやすいということがあります.自衛官の異動は全国区で
すが,北海道,東北の人は九州へ,九州の人は東北,北海道への
異動がよくみられます.

 あるエピソードを紹介します.かつて北方重視の時は,九州の
隊員が大量に北海道に送り込まれました.陸曹の場合,10年ほど
北方勤務して九州に帰るのですが,独身で渡道した場合,たいが
いそこで結婚します.そして戻ろうとすると,道産子は北海道か
ら出るのを嫌がり,とくに九州という遠隔の地なので,離婚する
例がたくさん出ました.

 もちろん離婚が嫌で九州に帰るのをあきらめ,北海道に残った
自衛官もいます.私がまだ3等陸尉で,北九州の普通科連隊にい
た時ですが,2曹クラスのベテラン隊員が2段ベッドで営内にす
し詰め状態でいました.ほとんどの者が北海道から離婚して帰っ
てきた人たちです.普段自分のことを話さない年配の陸曹が,訓
練の休憩中に「いまごろ北海道の娘は何をしているのかなあ」と
遠い目をしながら家族のこと離婚のことを急に私に話し始めたこ
とが今でも印象に残っています.
 
 実は私も自分の実家は宮城で,妻の実家は佐賀という境遇です.
盆や正月に帰省する場合,一度にどちらもというわけには簡単に
いきません.いつも話し合いで解決しますが,妻の言い分を聞い
ていた方がたいがいうまくいくようです.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2017.2.21




ライター・渡邉陽子のコラム (129)
  ─ 究極の集団,自衛隊から学ぶ(1) ─
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは.渡邉陽子です.10年以上お世話になっている美容師さ
ん(今はスタイリストっていうんですよね)が,今夏,実家の三島
に帰ってしまうことになり,激しく打ちのめされています.私の髪
のことを私の次に知っているだけでなく,こだわりや好みもよくわ
かってくれているので,また新たな人とその関係を1から構築しな
ければいけないのかと思うとめまいがします.毎月三島に通うとい
うのも本気で検討中ですが,交通費もかかるし1日つぶれてしまう
し,悩ましいところです.国防と対極の話ですみません……



▼渡邉さんへのメッセージは
http://okigunnji.com/url/169/
から.


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■究極の集団,自衛隊から学ぶ(1)

今週と来週は,ビジネス誌に掲載された記事を加筆,修正してお送
りします.テーマとしてはビジネスパーソンが自衛隊という組織か
ら成功するためのヒントを得るというもので,自衛隊をほとんど知
らない会社員向けに書きました.そのため,第1回は自衛隊の紹介
を中心とし,次号から本格的に自衛隊組織論をひも解いていく予定
だったのですが,その雑誌がまさかの休刊,結果的に読み切り記事
となってしまいました.そのため,タイトルは「自衛隊から学ぶ」
となっていますが,記事としては学ばないまま終わってしまってい
ます(泣).でもせっかくですから,読んでやってください.
2週にわたってご紹介する第1回の記事の内容は,メルマガの読者
の方でしたらとうにご存じのことばかりかもしれませんが,お付き
合いいただければ幸いです.それではどうぞ.


★「自衛官の心構え」
2014年の話ですが,楽天イーグルスの大久保博元新監督(当時)が
秋季キャンプで,チームに「自衛隊の組織論や規律を導入する」と
宣言したと,複数のスポーツ新聞に掲載されました.
記事によれば,2軍監督時代に陸上自衛隊多賀城駐屯地を訪問,レ
クチャーを受けた自衛隊の組織論に,大いに学ぶところがあったの
だといいます.さらに「覚悟」「集団行動」「指揮系統の順守」
「身だしなみ」が徹底されていることに衝撃を受け,チーム作りに
反映させるともありました.

自衛隊OBが自衛隊組織論や指揮官の統率力,そして自衛隊の教育な
どについて執筆したり講演したりするケースも少なくありません.
研修の一環として2泊程度の体験入隊(生活体験ともいう)を行な
っている企業もありますから,それだけ民間が自衛隊から学びたい
ものがあるということでしょう.では,それはなんでしょう.一体
なにを学びたいのでしょうか.

いきなりですが,「自衛官の心構え」というものがあります.これ
は昭和36年に制定された自衛隊における精神教育の準拠で,自衛官
なら誰でもそらんじているものです.心構えは次の5点からなりま
す.
1 使命の自覚
2 個人の充実
3 責任の遂行
4 規律の厳守
5 団結の強化

「使命の自覚」とは,国民生活の平和と秩序を守ること.
「個人の充実」は立派な社会人であることに努め,正しい判断力を
養うこと.
「責任の遂行」は身を挺して任務の完遂に務めること.
「規律の厳守」は規律と法令を遵守,命令に対しては服従すること.
「団結の強化」は卓越した統率のもと,陸海空が心をひとつにする
こと,です.

自衛隊は約23万人の自衛官からなる大きな組織.隊員たちの出身地
や経歴は千差万別,入隊時の学力や体力もばらばらですし,自衛官
としての資質や適性もまるで未知数.そんな海千山千が教育や訓練
でこの「自衛官の心構え」を頭で覚え体に沁み付け,一人前の自衛
官になっていくのです.

この心構えは,企業にも当てはめることができます.
使命の自覚=自分の仕事をしっかり行う
個人の充実=人間性を高める
責任の遂行=仕事をやり遂げる
規律の厳守=コンプライアンス
団結の強化=チームワーク,という具合です.

自衛隊は有事の際は戦闘地域で活動する集団ですから,どんなに厳
しい規律も訓練も,そして組織の体系も教育システムもすべて「戦
闘に勝利するため」につながっています.そこには企業における勝
利,つまり「業績」に貢献できるヒントも散りばめられています.
そこでまずは自衛隊についての紹介をしますが,今回は陸・海・空
各自衛隊の中でも自衛官の半数以上,約13万人を擁する陸上自衛隊
に特化して話をすすめます.


★自衛隊は徹底した階級社会★
自衛隊に限らず,世界中の軍隊は厳正な階級社会です.
16階級からなる階級の頂点は将官の陸将で,3等陸尉までの8階級が
幹部自衛官に分類されます.3尉の下の准陸尉は,尉が付いていま
すが幹部には分類されず,陸曹の最上位という位置づけになってい
ます.
幹部自衛官は部隊を率いる指揮する指揮官であり,3尉なら小隊長
として,陸将なら方面隊総監や師団長として,そして陸自のトップ
である陸上幕僚長として指揮を執ります.

この幹部自衛官の命令に基づき任務を遂行する技能を持っているの
が陸曹,いわゆる下士官です.
陸曹は陸士を直接指導し,幹部を補佐する部隊の基幹要員として位
置付けられているため,この階級の資質や能力が部隊の精強さに大
きな影響を与えます.

任期制隊員の陸士は2年で任期満了となる,企業でいえば契約社員.
引き続き任期の継続を認められなければ除隊となります.

幹部自衛官になるためには,防衛大学校に入校するか,一般大学卒
業後に幹部候補生学校へ入校します.陸曹から幹部への道もありま
すが壁は厚く,志が高いだけでなく心技体の整った優秀な陸曹でな
ければ幹部への道は開かれません(余談になりますが,部内選抜で
陸曹から幹部になった自衛官は,部下から「現場を知り,陸曹・陸
士のこともわかる人」と尊敬されるケースが非常に多いです).
自衛官候補生として入隊した陸士の多くも陸曹を目指しますが,昇
級できるのは10人に1人という狭き門です.ただし自衛官候補生よ
りも倍率の高い一般曹候補生という分類で入隊した陸士は,陸曹に
なることが約束されています.

幹部自衛官は防大や幹候で指揮官としての指導力,つまりリーダー
シップを養います.授業も訓練も校友会(一般の大学の体育会に当
たる)も集団生活も,すべてはこのリーダーシップ養成のため.
指揮官として部隊を率いる時,部下を統率する能力がなければ部隊
の士気は低下し精強さを欠き,戦闘の場で部下の命を危険にさらす
ことになります.命を預かる立場である指揮官がなによりも身に付
けなければならないものが,リーダーシップなのです.企業でも,
部下をまとめ牽引する能力のある上司のもとではモチベーションが
上がり,能力を発揮しやすいはずです.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2017.2.23




日本陸軍の兵站戦(44)
『泰緬鉄道の建設(1)─鉄道と軍隊─(24)』
荒木 肇
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□ますます奇怪な北朝鮮

 金政権の後継者の一人として名前も挙がったことがある,金正男
氏が暗殺されました.真相はしょせん推測の域を越えられませんが,
外国の街で人がテロによって殺される.そういったことがまだ想像
とはいえ,ある国の権力者の意思で行なわれたらしい.以前にも外
国から人を拉致したり,爆発物をしかけて外国の要人を殺したりと
いったことを組織的に行なう国家がある.こういった現実を突きつ
けられても,わたしたちは驚くしかありません.

 国々,あるいは民族にはそれぞれ固有の時計があって,同時に地
球という宇宙船に乗っていても,それぞれの流れる時間には違いが
あって当然ということでしょう.人間は発達し,社会は進歩すると
いう考え方に疑いがもたれてから一世代が経過しました.それ以後
の出来事を見るたびに,そうした進歩史観などというものがあてに
ならないことを痛感します.

 歴史上の事件の因果関係の追究など無意味だとも思えます.歴史
は偶然の産物だという説もあり,わたしたちは都度,出来事に対処
していかねばならない.しかし,それを理解するにはその起きた事
情と出来事,結果を「物語」につむいでいくしかないのです.そう
でなくては,私たちの認識は成立しない.やっかいなものですね.

 今回から数回にわたって,映画『戦場にかける橋(1957年・
米英合作)』で有名な泰緬鉄道について考えてみましょう.

▼『戦場にかける橋』というトンデモ映画

 1957(昭和32)年に英米合作の大作『戦場にかける橋』が
制作された.翌年公開されるとたいへんな騒ぎになった.アカデミ
ー賞を総なめにしたこの映画は主題歌の『クワイ河マーチ(ポギー
大佐)』でも有名になる.

 舞台は大東亜戦争中のビルマ(現ミャンマー)とタイ王国の国境
だった.日本軍はそこに鉄道を通そうとした.投入されたのは英国,
オランダ,オーストラリアなどの捕虜だった.日本軍による国際(
戦時人道)法を無視した捕虜の就労強制が描かれ,加えて監視兵に
よる虐待があった.脱走騒ぎや日本軍指揮官との衝突.異文化の衝
突などもあり,結局,日本軍技術将校の手には負えず,英国人将校
による設計がされ橋は完成する.しかし・・・といったストーリー
だった.

 ところがこの話が徹頭徹尾,フィクションだったのだ.橋の姿も
名称も,実際の場所も,英国人捕虜の話もとことん空想の産物であ
る.原作者はフランス人のブールという人でいまのベトナムあたり
にいた人らしい.それが思いつきで書いた空想小説が映画になり,
世界中に受け入れられた.もちろんわが国でもたいへんな人気にな
った.「史実ではない」と主張する人もいたが,わが国もようやく
『戦後は終わった』という言葉が流行ったころである.事実の解明
より世界に追いつこうという気分が強く,アカデミー賞総なめの権
威にひれ伏してしまったというわけだ.

 映像を見れば考証など必要もない.日本の監視兵がもつ小銃は英
国製のリー・エンフィールドだし,監視塔から捕虜を睨む機関銃は
ビッカースの水冷である.脱走も不可能な密林に囲まれた陸の孤島
という設定だが,現実の場所は平野部の端であり,川を下れば人家
が多いところである.

 橋の正しい名称は『メクロン河永久橋』である.架かっていたの
はクワイ河ではなくメクロン河だったからだ.ところが,現在では
どちらもその名称が変わっている.理由は映画が大ヒットし,観光
資源になったために河の名前(メクロン河がクワイ河に)も橋の名
前もフィクションに合わせてしまったのである.現地に行った友人
によると,なんと橋のたもとにある駅の名前は『リバー クワイ 
ブリッジ』だそうだ.

 映画の橋は丸太を組み上げた木造であり,その重量計算や構造計
画が日本人技師(技術将校)にはできなかったわけだが,実際の橋
はコンクリート橋脚の上にのったトラス鉄橋である.仮設橋ではな
く,永久橋であるから当然のことだ.

▼タイとビルマを結べ

 1942(昭和17)年の12月,参謀本部第3部長若松中将は
南方軍の参謀を東京に呼びつけた.18年の末に完成予定だったタ
イとビルマの連絡鉄道の進捗状況を報告させたのだ.

 南方軍ではすでに7月から見積もり資料を集め始め,現地測量も
終えて設計もできたところから工事を始めていた.ところが,現地
は山と谷が多く,周囲は密林である.トンネルも掘れるようなとこ
ろではなく,勾配を少なくするために,木を切りだし高く足場を組
んでその上に線路を通すような所が多かった.その総延長は15キ
ロにもなり,全線は400キロにもなるが,そのほとんどは周囲に
人家もなかった.おかげで労働力が集まらない.

 しかも雨季になれば,小さな川だけでも水位があっという間に上
がった.短いスコールがきただけで10メートルも川面が上がって
くる.せっかく築いた基礎もあっという間に流されてしまう.10
00メートル級の山が連なるインドシナ山脈の東側の中腹地域であ
る.道路もろくになく,開かれた土地もない.建設資材を運ぶのも,
集積するのも難しい.工事現場への補給は建設したばかりの線路を
使うしかなかった.

▼それまでの情勢

 支那事変を起こしたのは国民党政府の蒋介石である.蒋介石は上
海から始まる戦いに敗れ,揚子江上流の重慶に逃れた.これを支援
したのは米英仏ソ連.英米仏の3国は仏印と当時言われたフランス
領インドシナのハノイに物資を揚げた.そこで鉄道に積みかえたり,
河川の舟に載せかえたりして雲南省や広西省に運んで行った.

 1940(昭和15)年6月にフランスはドイツに降伏する.そ
こで日本陸軍はハノイ方面に進駐し,雲南へのルートを遮断するこ
とに成功した.これに対して英米の2国は英国領だったビルマ(現
ミャンマー)のラングーン(現ヤンゴン)に物資を揚陸し,鉄道で
雲南省近くに推進し,そこからトラック便で重慶政権への援助を続
けた.インドからもトラックによる物資輸送もされた.

 大東亜戦争開戦後,マレー半島を押さえた南方軍はビルマ攻略を
計画した.援蒋ルートを潰すためである.1942(昭和17)年
2月に第15軍によって始められた攻略戦はまずラングーンを占領
する.続いて北方400キロメートルにあるマンダレーに向かった.
そこは鉄道,水路,道路が集まる要地だった.そこから北東へ30
0キロメートル,ミートキーナまでは鉄道があった.しかし,その
西側およそ150キロを走るインド国境まではチンドウィン河の他
にはろくに交通手段はなかった.

 第15軍は英印軍と蒋介石軍を圧倒し,1942年の5月中には
ほぼビルマ全土を支配した.ところが米軍が太平洋各地で反撃を開
始した43年に入ると全土で英印軍の反攻も目立ってきた.高空攻
撃やゲリラ戦による損害が出始めた.英印軍もまた約1年をかけて
ラングーンまで南下する計画を立てていたのだ.

 大本営はビルマを守るには兵力を増強し,3個師団を基幹とする
第15軍だけに任せず,7個から8個師団が必要だろうと見積もっ
ていた.そのビルマ方面軍への補給もまた海上輸送だけでなく,タ
イから鉄道輸送で補完しようとも考えていたのである.その具体策
が400キロメートルを超す泰(タイ)と緬甸(ビルマ)を結ぶ泰
緬鉄道だった.

▼工事始まる

 完成期限は4カ月も短縮を命じられた.1943(昭和18)年
末どころか8月一杯とされるようになった.その代わり資材の支給
などでは優先順位が上げてもらえた.予備資材やダイナマイトは要
求通りに用意された.同時に鉄道の規格をゆるめることも認められ
る.1日当たりの計画輸送量を半分に下げてもらえた.技術とはそ
ういうものである.計画輸送量を減らせば,関連する施設,退避線
やホームの規格,準備資材や集積場所など,多方面の計画や工事が
楽になる.たとえば,機関車も貨車も軽くなる.枕木の本数も減ら
せるし,基礎部分の強度も下げられるので工事の負担も少なくなっ
た.

 さらに鉄道技術部隊の増員が認められたことも大きかった.おか
げで内地や満洲などの鉄道員の応召が増えた.単純労働力も英米豪
蘭などの戦時捕虜が使えるようになった.本来,捕虜の使役は戦力
を増強させるような作業には使えない.しかし,この場合は間接的
な輸送力増強がねらいだからいいだろうと,いささか甘い見積もり
もあったようだ.

 担当部隊はタイ側からは鉄道第9聯隊,ビルマ側からは第5聯隊
が担当した.他に鉄道技術者集団の第4特設鉄道隊がマレーから引
き抜かれた.さまざまな数字があるが,ビルマ人が9万人,マレー
人7万5000,英国人3万,オランダ人1万8000,オースト
ラリア1万3000人というのが信じられるところである.米国人
はわずか700名ばかりという.日本側は約1万5000名という
ところだった.(もちろん諸説あって,現地人工夫7万,連合国捕
虜5万5000,日本軍1万の合計13万5000人という著書も
ある)

 ノンプラドック(バンコクからシンガポールに向かう線路の1地
点)とビルマのラングーンから南下する鉄道の1地点タンザビアを
結ぶ路線が計画された.工事はその両地点から同時に始められた.
レールの長さは1本が10メートル,国内のそれは30メートルだ
から急カーブなどにも対応するためである.ただし,ゲージはメー
ターゲージといわれた1000ミリメートルだった.

 工事用のレールや枕木を運ぶのはガソリンエンジン付きの牽引車
である.路外ではタイヤで走り,鉄路の上でも使える軽車両である.
今もその実物が埼玉県朝霞市の陸上自衛隊輸送学校の校舎の前に復
元されて保存されている(100式牽引車).

 工事は早ければ1日で1キロ進むことができた.捕虜も監視する
側もひどい環境の中で過ごした.作業兵,監視兵も捕虜も,みんな
テントで寝るしかなかった.食事も野戦炊事であり,ほとんど米し
かない.衛生環境も劣悪というしかなかった.

 それでも監視役の日本側の捕虜収容所の軍人たちは配慮した.な
かには豚を送って,捕虜にせめて肉を食べさせようとした収容所長
もいた.対して工事作業を監督する日本軍人たちは兵站からの給与
なので,ろくに副食などが送られてくることがなかった.塩辛い漬
物や,乾燥醤油や乾燥味噌などでパラパラのタイ米を食べていた.
脚気症状を見せる者も多くいたが,工事の完遂が重要視された.

 飢えているのは監視役も捕虜も同じだった.働く技術部隊の兵士
も飢えていた.そうした中で捕虜の逃亡を恐れ,反抗にも目を配り
ながら勤務する監視兵は緊張の連続だった.体罰が行なわれ,足蹴
にされた,殴られたという訴えが戦後多く出た.おかげで戦争犯罪
人に指定され裁判にかけられて非業の死を遂げた日本軍将兵もいた.
しかし,殴る,蹴る,重量物をもたせるといった処罰は日本社会全
体にあったものである.職人の徒弟や商家の小僧も先輩や師匠の暴
力にさらされていたのが実態だった.それが外国人に対してだけ急
に態度が変えられるものではない.

▼工事手順のおおよそ

 鉄道聯隊には建設隊があった.これに技師や技術将校,技能下士
官がつき,測量を元にした計画を立てる.航空写真を元に測量をし
たのは象に乗った軍属の測量隊である.レールを敷設するルートや
橋の位置を決める.簡単な道路を造り,資材を牛が牽く車やトラッ
クで運びこんだ.橋脚や積みあげる材木の基礎材のセット位置も決
まる.

 いざ工事開始となると建築隊には軍属の身分で徴用されていた技
術者が活躍する.職人である.石工や大工,佐官,とび職といった
人たちのこと.基礎部分などの構築はお手の物だった.とはいえ,
急な増水があると上流から現地人が材木を流したり,水流が強くな
ったりしてせっかくの工事がやり直しになることもある.

 橋の工事はレールの延伸より先になる.だからトラックや象によ
る運搬が重要だった.現地の牛車なども徴発された.もちろん現地
徴発は部隊付の経理将校が支払いや交渉を担当した.現地の象や牛
などもタダで使うことはなかった.戦後の誤解で軍隊は何でも現地
人から無償で取り上げたかのように理解する向きもあるが,そんな
ことは決してしない.逃げられたり,敵に協力されたりしたら大変
な結果を招く.

 ルートの中で鋼鉄製の橋が造られたのはただ1か所である.それ
が映画で有名になった『クワイ河鉄橋』ならぬ『メクロン河永久橋』
だった.また現地では『クウェイ河』と発音するらしい.場所は前
にも書いたように密林の中などではなく,平野から山地にかかる奥
地の入り口にあった.

 英軍将校が指導助言したり,設計に関わったりなどということは
ない.鉄道第9聯隊の技術者たちが設計した.鋼材はジャワ(イン
ドネシア)から運んできた.映画の中では最後に脱走した捕虜たち
が木造橋を爆破してしまうが,そういう事実はなかった.

 次回は後編として開通についての話題にする.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2017.2.22




『ライター・渡邉陽子のコラム (130)
  ─ 究極の集団,自衛隊から学ぶ(2) ─
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは.渡邉陽子です.このメルマガが配信される頃,私は2
年ぶりの雪の演習場にいます.昨年は通常の仕事以外のすべての時
間は『オリンピックと自衛隊』の執筆に当てていたため,自主取材
に行く時間的余裕がまったくありませんでした.9月頃にようやく
一息ついたときは猫の調子が悪く,通院やら入院やらで過ぎ,秋か
ら今日までまたずっと忙しく(先々週も言いましたが繁盛している
のではなく仕事が遅いのです!),2年ぶりの北国とあいなりまし
た.久しぶりに半長靴の出番です!


以下,私信です.
Y様
メッセージありがとうございます.海は航空隊の取材がこれまで多
く,まだメルマガでご紹介していないものもありますので,今後掲
載できればと思っています.なお,今月末発売の「丸」4月号には
東京音楽隊密着記事が掲載されています.


▼渡邉さんへのメッセージは
http://okigunnji.com/url/169/
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■究極の集団,自衛隊から学ぶ(2)

先週に続き,ビジネス誌に掲載された記事に加筆・修正したものを
お送りします.

★新隊員教育で別人に★
陸曹の場合,多くは高校や専門学校(現在は大卒もかなり多いです)
を卒業後,4月に入隊してきます.茶髪長髪,腰パンあり細眉あり
の,どこにでもいる普通の若者が駐屯地にやって来てから約1週間
後に入隊式が行なわれます.
この最初の1週間でジャージ姿&男子は全員スポ刈り,女子は眉毛
・耳・襟が見える,限りなく非ビジュアル的なショートカットと外
見が変わり,号令に合わせて動くことを学び,起床から就寝までラ
ッパに合わせて行動することを覚えます.
そして迎える入隊式では,背筋がしゃきっと伸び,大きな声で服務
の宣誓を読み上げる堂々としたわが子の姿に,招かれた両親は腰を
抜かさんばかりに驚くのです(さらに入隊後,最初に外泊を許され
るゴールデンウイークに帰省したわが子が,自分の洗濯物をたたみ
ベッドをきちんと整える姿に,再び驚愕します).

入隊するとまず教育隊などで3カ月の前期教育を受け,自衛官とし
ての基礎・基本を学びます.ほふく前進や射撃,戦闘訓練など,生
まれて初めての経験をいくつも重ねていきます.
17時の終礼後に夕食と入浴,その後23時の消灯までは自由時間とな
りますが,この時間帯に靴磨きや共用場所の清掃,洗濯,アイロン
かけなどを行なうので,のんびりくつろぐ余裕はありません.しか
も慣れないうちは指導が入り,アイロンのかけ直し,掃除のやり直
しを命じられることも多々あります.1人になれるのはトイレの中
のみ.
候補生は(前期教育の間はまだ自衛官ではありません)分刻みの慌
ただしい生活環境に四苦八苦しつつ,班長の粘り強い指導と同期生
たちと共に助け合う精神で,次第に時間を有効に活用する術を学ん
でいきます.同時に団体生活の中で自衛隊の規律を学び,責任感や
団結心を養っていくのです.

候補生を指導する陸曹の班長はアメとムチを絶妙に使い分け,生ま
れたばかりの雛を育てる親鳥の役目を果たします.ここで尊敬でき
る班長と出会った候補生は,自分もこんな陸曹になりたいと目標と
するようになります.ちなみに班長の上官に当たる尉官クラスの区
隊長は,入隊したばかりの候補生にとっては遠い存在すぎて,「え
らい人」という漠然としたイメージしかないようです.この辺りは
一般企業と同じ感覚と言えるでしょう.


★命令は「上意下達」★
自衛隊は上位の命令を下位の者に徹底させる,つまり上官の命令は
絶対であるという「上意下達」の世界です.
これは命をやりとりする現場に身を置くことを想定している自衛隊
では当然のこと.戦闘中に上官の命令に従わない隊員がいたらどれ
ほど現場が混乱するか,素人でもわかります.
「そんな命令に従ったら確実に死ぬ」と思っても,異議を唱えるこ
となく従わなければならないのが自衛隊です.

とはいえ,不幸なことに直属の上官が人間としても指揮官としても
信用できない場合(しかも上官が自分の息子ほどの年だったりする
こともあり得るわけです),そしてそういう上官の腑に落ちない命
令によって自分の身が危険にさらされるとなれば,理不尽と思って
しまうのが人というもの.日頃から指揮官と隊員の間にコミュニケ
ーションがあり,信頼関係が構築されていなければ,命のやりとり
をする現場で上意下達を徹底することは困難です.
それゆえに幹部自衛官は指揮官たるべく教育を受けて来ているのだ
し,統率力やリーダーシップを培うのです.
指揮が悪ければ部隊が全滅する恐れもあります.命令の重みを誰よ
りもわかっているのは,それを発する指揮官自身ですし,そうでな
ければなりません.

ところで会社では,上司に従わない社員は査定で低く評価されたり,
昇任が遅れたり,下手をすればリストラの対象となります.自衛隊
の場合は「死」につながります.
では上意下達の世界では,部下が上官にもの言うことは許されない
のかと言えば,そんなことはありません.
自衛隊では少々堅苦しく「意見具申」という言葉を使いますが,陸
上自衛隊服務規則第20条によると,隊務の向上改善に役だつと思っ
たことは,積極的に上官に意見具申しなければならないと記載され
ています.「してもいい」ではなく「しなければならない」のです.
そして,その結果が具申した意見と異なったとしても,そのときは
いさぎよく服従すべしとも書かれています.言うことは言うべし,
そしてその結果がどのようなものであっても従え,ということです.
さらりと書かれていますが,重いです.
陸曹陸士が意見具申するというのは,そう気軽にできるものではあ
りません.だからこそ上官である幹部自衛官が,「この人になら意
見具申できる」と思われるような人間でなければならないのです.

特別国家公務員の自衛隊にリストラはありません.しかし入隊時に
「事に臨んでは危険を顧みず,身をもって責務の完遂に務め,」と,
服務の宣誓をしています.
「集団」に完成形というものがあるとしたら,自衛隊こそが究極の
集団の姿ではないでしょうか.すべての思考や行動はすべて「敵に
勝つ」ためのものであり,そのために命を賭す集団.
自衛隊という組織を知れば知るほど,企業で生き残るだけでなく出
世の階段を上っていくための手掛かりが散りばめられていることに
気づくのです.

……大変中途半端で恐縮ですが,以上です!

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2017.3.2





日本陸軍の兵站戦(45)
『泰緬鉄道の開通(2)─鉄道と軍隊─(25)』
荒木 肇
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

□はじめに

 フィクションの映画が世界中で大好評,おかげで現実が曲げられ
たというお話は前回でお知らせしました.ウソも何回も繰り返すと
真実になるという言い伝えもあります.韓国や中国の歴史戦による
捏造もその一つです.かたや慰安婦,もう一つは南京事件.どちら
も確かな数字を出して欲しいものです.

 近頃のショックな話題はあの大阪の幼稚園でしょう.子供を使っ
て「洗脳」して「安倍政権を称える」のが問題なら,ある勢力が行
なった子供に「安倍政権いやだ」を叫ばせるのも同じようにおかし
いでしょう.

 SNSでも話題になった『子供が保育園落ちて私の自立は不可能
になった』という女性の叫びもおかしいですね.誰もあんたに自立
してくれなんて頼んでいません(笑).どうも近頃,やたら甘った
れたスローガン?が多い.あ,いや,プロパガンダとかいうのでし
たっけ.どうも使い古されたやり方が懲りずにまたくり返されてい
ます.

 民進党の自爆も面白かったです.『国民に国会で追及してもらい
たいものを』とツイッターで出したら,蓮舫党首の二重国籍問題と
ガソリーヌならぬ山尾議員のガソリン問題などが出てきてしまった.
それにしても国会議員が「議会で追及して欲しいこと」を公募する
とは・・・.議員という仕事を何だと思っているのでしょうか.


▼泰緬鉄道の開通

 1943(昭和18)年10月25日にコンコイタという駅で,
鉄道第9聯隊と同5聯隊の奮闘努力の結果である開通式が行なわれ
た.予定の8月末より2カ月も遅れてはいたが,最初の年末に開通
という計画よりも2カ月も早かった.いかにも鉄道聯隊の作業らし
く,戦時急造の基準に合わせたスピード工事のおかげである.

 たとえば小さな丘を切り崩して造る「切通し」などは平時では,
線路の両側それぞれに45度の角度で造られる.そこを土留めし,
整地することになっているが,戦場では垂直に切り立った壁の間を
線路は敷かれた.集められた線路を組み合わせて造ったカーブも急
であり,資材を積んだ列車ですらしばしば脱線するようなものばか
りだった.

 実際に線路がつながったのは10月14日だったが,式典は準備
され,25日に執行された.総延長距離は415キロメートルに及
んだが,北部のノンプラドックからコンコイタまでの152キロは
崖を沿わせたり木橋を築いたり,工事が難しいところが多かった.
それを担当した第5聯隊は苦労の連続だった.

▼工事参加者の犠牲

 いまの鉄道の完工式と同じで,接続された地点には金色の犬釘が
打ちこまれた.兵士たちにはビールやタバコが配給され,長かった
苦闘を慰労された.同時に部隊は犠牲者たちに黙祷を行なうことも
当然のことだった.

 犠牲者の数はいろいろな数字がある.全体の三分の一に近い4万
2000人ともいわれる.さらに現地や近くの国から連れてこられ
た労務者たちから出た死者もあり,合わせて7万人という大きな数
字もある.こうしたことは正確な数字はつかみにくい.戦闘中であ
り,現地人労務者の出入りも多く,捕虜監視や実態把握も難しかっ
た.工事の最中の事故による犠牲者もよくわからない.戦後,感情
的な主張の中で捕虜延べ6万人のうち5200人が亡くなったとい
うが,通説では3割という犠牲者数と合わない.

 戦場の常として,工事の事故が戦死とすれば傷病による死者が多
かった.もともと衛生環境がひどく悪く,栄養補給や医薬品の補給
も追いつかなかった.コレラ・チフスといった伝染病や,風土病で
あるマラリヤによる死者も多かったのである.

 陸上自衛隊が編纂した『大東亜戦争陸軍衛生史(昭和43年)』
によれば,ビルマのラングーン第106兵站病院の伝染病科入院患
者7100名中,約17%の1200名がマラリヤ患者だった.同
じくコレラや赤痢・腸チフス患者は同じく50%の3500名にも
のぼっている.この数字は昭和17年7月から同19年7月の2年
間で,給与も十分な第一線部隊の兵士の数字である.

 過酷な環境の中に身を置いて,栄養もろくにない生活では病気に
かかればすぐに死を迎えたことだろう.捕虜の監視にあたった日本
軍将兵も白米しか食べられなかった.そういうなかで捕虜収容所長
たちは協力して豚を集め,工事現場の西洋人に肉を支給していた.

▼戦争犯罪人の摘発

 敗戦後になって連合国は捕虜たちの証言を元に「戦争犯罪」を摘
発した.おかげで泰緬鉄道関係では2000人もの軍人・軍属が留
置された.有名なシンガポールのチャンギ刑務所である.連合国が
驚いたのは捕虜の下士官兵を戦闘に関係する労務に就けたことでは
なく,虐待したという訴えであった.日本兵がようやく手に入れた
ゴボウを炒めたり,煮たりして支給したら『木の根を食わせた』と
いう誤解を生んだこともあった.

 殴られた,蹴られたという訴えも多かった.しかし,それは日本
人社会での日常の光景でもあった.弱い立場の人は,戦前社会では
しばしば上級者や力ある者の暴力を受けていた.いま,懐かしそう
に戦前の学校の体罰を語る人は減った.しかし,戦前の小学校教師
はよく子供たちに重量物を持たせたり,正座を強要したりして「愛
の鞭」とも言っていた.中学校の教員は当たり前に生徒の頬にビン
タを喰わせていた.

 それが虐待だなどと誰も思っていなかったのだ.戦況は好転せず,
ゲリラに悩まされ,自然は思うようにならない.そういう状況の中
でただでさえ苛立ち,栄養不良の半病人の兵や軍属が捕虜の監視を
していたのだ.

 しかし,意外な事に予備審査の段階を経て,実際に裁判になった
者は200名でしかなかった.そして英国やオランダ,オーストラ
リア軍の実際の法廷に立ったのは120名に過ぎなかったのである.
有罪とされたのは111名であり,死刑判決を受けたのは32人だ
った.収容所の軍属だった朝鮮人看守は9名が処刑された.

 異文化であることも考慮され,殴打や蹴ったことはそれほどの問
題にはならなかった.したがって,技術的な指揮を執った鉄道聯隊
からは尉官が2人死刑判決を受けただけだった.多かったのは管理
責任を問われた被告で,主に傷病対策や給食のことで追及された捕
虜収容所関係者である.タイにあった「俘虜収容所長」だった陸軍
少将が絞首刑とされた.これが最高位者だった.軍人にとって銃殺
ではなく絞首刑の執行は不名誉なものである.欧州各国のモラルで
は勇戦敢闘の末に手段尽きて捕虜になった者を「不当に取り扱う」
ことは「軍人らしからぬ」態度と取られたのだ.

 裁判は案外,公平に行なわれたように見える.捕虜に瀕死の重傷
を負わせるような暴行や,実際に殺してしまったような暴行を加え
た場合は死刑になった.しかし,多くの死刑の受刑者は『国際法に
違反して捕虜の環境に配慮しなかった』という理由が多い.直接,
捕虜と接する機会が少なかった収容所の高級幹部が有罪になったこ
とが多かった.

 また中には捕虜が裁判官になったり,陳述が許されないままに判
決が下されたり,不当な濡れ衣で亡くなった方々も多いことは事実
だろう.

 捕虜たちも監視に当たったり,技術指導をしたりする日本兵の状
況を知っていた.それだけに報復の感情だけで告発するということ
も控えざるを得なかったらしい.事実かどうかは分からないが,終
戦にあたって捕虜となった日本軍傷病兵を罵り,暴行を加えようと
した英国兵を,泰緬鉄道で働いた捕虜将校が制止したという.

『ともに地獄で暮らした我々だけが彼らも人間であり,弱い存在
であったことを知っている』と語り,弱っていた日本軍将兵に食物
を与えたという.

▼戦場から届いた手紙

 英国人や豪州人,オランダ人の捕虜たちが不思議に思ったことが
あった.それは日本兵から母国の家族に手紙を書くように勧められ
たことだ.看守の手で配られたハガキは赤十字社を通じて捕虜の母
国の家族に届いた.

 もちろん,捕虜の側が日本軍の検閲を恐れて,事実や状況を正確
に書くことはしなかったらしい.しかし,この1943(昭和18)
年の時点では,日本軍にも国際法を守ろうとする「ゆとり」があっ
た.不自由な中でも,精一杯の努力をする気持ちがあったのだ.

 次回からは戦時中の鉄道輸送について書こう.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2017.3.8




『ライター・渡邉陽子のコラム (131)
  ─ 与那国駐屯地と沿岸監視隊(1) ─
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは.渡邉陽子です.2年ぶりに冬の北海道に取材に行けま
した.やっぱり取材はいいですね.白い景色も耳が痛くなる寒さも,
すべてが心地よかったです.これまでは取材が終わった途端,気持
ちはもう家に飛んでいましたが,今回は帰ってきたくありませんで
した.
さて,今週からようやく与那国島と沿岸監視隊の連載を始めます.


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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■与那国駐屯地と沿岸監視隊(1)

平成28年12月25日午前10時頃,中国初の空母「遼寧」が沖縄県の宮
古海峡を太平洋に向けて通過したのを,呉基地に所在する第4護衛
隊の護衛艦「さみだれ」と那覇基地所属の第5航空群のP−3C哨
戒機が確認しました.領海侵犯はありませんでしたが,遼寧が太平
洋に進出したのを海自が確認したのは初めてのことでした.
防衛省はこの第1列島線(九州〜沖縄〜台湾〜フィリピン)を越え
た空母艦隊の展開は,接近阻止・領域拒否(A2/AD)能力を誇
示する狙いと分析.
同日午後にはジャンカイII級フリゲートからZ─9ヘリコプターが
発艦し,宮古島領空の南東約10km〜30kmの空域を飛行,航空自衛隊
の戦闘機が緊急発進(スクランブル)しています.

また,今年1月9日には,中国空軍機が対馬海峡の上空を往復.領空
侵犯こそありませんでしたが,このときも空自が緊急発進していま
す.
中国空軍機は昨年1月に初めて対馬海峡を通過しており,空母によ
る宮古海峡の通過も含め,日本周辺での動きは活発化する一方です.

今年に入ってからこれまでの間に中国公船の領海侵入が確認された
のも,すでに4回を数えます.今年1月20日に防衛省が発表した,
昨年4〜12月の空自戦闘機によるスクランブルの回数は883回(この
うち南西航空混成団の緊急発進は608回)であり,前年度同時期と
比べて316回の大幅な増加,この時期の過去最多を更新しました.
そのうち中国機が約73%を占めています.
さらに1月下旬までの間にもスクランブルが続き,ついにこの時点
で平成28年度のスクランブルは1000回を超えました.過去最多だっ
た冷戦時代の昭和59年度の944回を超える事態となっています.

地上を開発し尽くしてしまった中国にとって,新たなエネルギー資
源を求める場所はおのずと海洋になります.
しかし世界地図を逆さにして見ると一目瞭然の通り,海洋進出を試
みる中国にとって第1列島線に連なる日本列島を含む諸島群は,き
わめて邪魔な位置にあります.
その「邪魔」なわが国の南西地域には国内約6800の島嶼のうち約10
00がある一方,沖縄本島以南には駐屯地はないという,長らく部隊
配備上の空白地域となっていました.

繰り返し領海に侵入する中国籍の船への対処をはじめ,事態発生時
に自衛隊の部隊が迅速かつ継続的に対応できるよう,南西諸島の防
衛態勢の強化は不可欠です.
その中でも与那国島は日本の最西端にあり,尖閣諸島や台湾(台北)
までは約150km,中国本土まで約400km(那覇までは約510km)と,
尖閣諸島や台湾,中国本土の近傍に位置しています.
まさに国境防衛,東シナ海周辺の警戒・監視に重要な位置づけにあ
るとして,昨年3月,南西地域における常続的な監視態勢の整備の
ため,与那国島に陸上自衛隊沿岸監視部隊が新編,与那国駐屯地が
開庁しました.

それまでの経緯を振り返ってみると,まず平成21年6月に外間守吉
町長が防衛大臣に対して「与那国島への自衛隊分屯地配置に対する
要望書」を提出しています.
つまり与那国島は,安全保障において国と地方の摩擦がある沖縄県
に所在する町長が要望し,最終的にそれが実現したという珍しいケ
ースなのです.
しかし25年にはその外間町長が駐屯地設置の迷惑料として10億円を
要求したことで,防衛省との交渉は一時暗礁に乗り上げるも,その
後町長が要求を取り下げたことで落着しました.

26年4月に駐屯地起工式が行なわれましたが,27年2月には与那国島
への自衛隊基地建設の民意を問う住民投票が実施されました.
賛成が過半数を獲得したものの,中学生や永住外国人にも投票権を
与えたことで,与那国町役場には国外からもクレームの電話が来た
といいます.

平成27年4月に与那国準備隊の立ち上げ,9月には台風21号が与那国
島に上陸,最大瞬間風速81.1m/sを記録しました.駐屯地建設工
事にも被害を及ぼしたものの,与那国島派遣隊災害派遣(先遣隊の
人員20名による道路啓開)を実施.
そして28年3月28日に駐屯地開設,与那国沿岸監視隊が新編された
のです.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2017.3.9





『ライター・渡邉陽子のコラム (132)
  ─ 与那国駐屯地と沿岸監視隊(2) ─
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは.渡邉陽子です.南スーダンPKOに派遣されている施設
部隊の撤収が決まりました.唐突な決定のようでいて,水面下では
撤収時期や発表のタイミングについて,政府は綿密に準備を進めて
いたのでしょう.日経の記事によれば,政府は次のPKO派遣先の検
討に入っており,治安が安定しているキプロス島などが候補に挙が
っているとか.昨秋,陸自幹部に「自衛隊はいつまでPKOに参加し
なければならないのか」と尋ねたところ,「ODAだけでは国際貢献
は十分ではない」という答えが返ってきました.中国の海洋進出,
北朝鮮の弾道ミサイル発射など,日本は緊張の続く環境下に置かれ
ています.自衛隊の充足率は常にマイナスです.それでもなお,今
後も南スーダンPKO規模の部隊派遣を他国に対して行うのならば,
国民が納得,了承できるしっかりとした説明が必要でしょう.国際
社会からの評価も大事ですが,わが国の安全と平和という前提あり
きのPKOだと思います.



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■与那国駐屯地と沿岸監視隊(2)

与那国駐屯地は与那国空港から車で10分ほど,与那国町で2番目に
人口が多い久部良地区の丘の上にあり,四方を見渡せる立地にあり
ます.
低層の設計のうえ,白壁に赤瓦の建物は「自衛隊の建物と思えない
ほど周囲に溶け込んでいる」と島民からも好評です.
実際,全国各地の「ザ・質実剛健」的な趣とは明らかに一線を画す
外観は,島民感情を相当意識して設計されたものと思われます.お
そらくこれから建設される宮古島や石垣島などの駐屯地の建物も,
与那国駐屯地の庁舎のデザインを踏襲するのではないかと想像しま
した.

立地については自民党政調会審議役の田村重信氏によるリポート
「国防最前線・南西諸島はいま 第1部 与那国島・陸自駐屯地」に,
次のような説明があります.
「駐屯地の立地は抜群にいい.南に太平洋,西に台湾,北に東シナ
海,東に標高198mの久部良岳が望める.さらに,海,山,港,湿
地帯に囲まれ,抗堪性にも優れている.『抗堪性』とは,基地やレ
ーダーサイトなどの軍事施設が,敵の攻撃に耐えてその機能を維持
する能力のことを言う」.

与那国島へのアクセスは,航空機は那覇〜与那国間(約80分)が1
日1往復,石垣〜与那国間(約30分)が1日3往復,船舶は石垣〜与
那国間約4時間半(週2往復)となっています.
島内交通は自家用車と無料の循環バスが基本.バスは与那国町役場
の配慮があり,駐屯地開設に合わせ,駐屯地への通勤にも対応した
時間・経路に変更してくれたそう.
学校が小学校3校,中学校2校.このうち与那国小学校では,これま
で複式学級だった学級が自衛官の子どもが転入したことで単式にな
り,教員も増え,町の人に喜ばれました.
さらに駐屯地開設を契機に久部良郵便局には与那国島初のATMが設
置され,これもたいそう喜ばれています.ほか,警察官2名,与那
国消防団人員22名,総合病院と歯科が1軒ずつ.コンビニも書店も
ありませんが,沿岸監視隊長兼ねて与那国駐屯地司令の塩満大吾2
等陸佐いわく「制約はありますが不幸ではありません」.不便=不
幸とは限らないということです.

与那国沿岸監視隊は情報収集機能,駐屯地等の警備に任ずる警備小
隊,そして隊本部,業務隊機能の後方支援隊からなり,部隊新編・
駐屯地開設時の定員は160名です.あくまでも情報収集部隊のため,
地対艦ミサイルを装備するような戦闘部隊は所在せず,塩満2佐も
職種は情報科です(ただしもとは普通科,第1空挺団を経て小平学
校の中国語課程に進んでいる「文武両道」のエリートです).

編制は,与那国沿岸監視隊の下に隊本部,警備小隊,レーダー班,
監視班があります.さらに後方支援隊のもと補給整備,営繕,糧食,
厚生,衛生があるほか,駐屯地機能として会計,基地通信,警務が
あります.女性自衛官と女性事務技官は合計9名です.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2017.3.16





日の丸父さん(15)石原ヒロアキ

「ギャンブル 永田曹長の思い出」
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□はじめに

 軍隊とギャンブルは切っても切れない関係にあります.私も,ギ
ャンブル好きで借金を抱えている隊員の面倒を数多く見てきました.

 エッセイにも書いていますが,彼らを指導するのは大変です.九
州勤務の時,雲仙普賢岳の火山災害派遣があり,1600日以上の史上
最長の災害派遣になりました.あとで部下を交代して派遣するよう
になりましたが,そのときはギャンブルで借金を持っている隊員を
優先して派遣したものです.

 災害派遣されればギャンブルする暇もありませんし,金もたまり
ます.それに意外と災害派遣に適している隊員が多かったのです.
彼らの多くは独身であり,仕事の要領もよく,勤務意欲も旺盛でし
た.

 しかしこの問題は,根本的解決法がないと思います.災害派遣が
しょっちゅうあっても困りますし.

 石原ヒロアキ「まんが館」を立ち上げました. 現役時代に頼ま
れて描いた4コマ漫画もアップしています.
http://yonekurahiroaki.wix.com/cbrn

◆「日の丸父さん」第1巻が電子書籍として発売中です.ここには
第1話から第12話までエッセイと一緒に収録してあります.ぜひ
感想をお聞かせください.http://okigunnji.com/url/208/


◆マンガ「第15話 ギャンブル 永田曹長の思い出」は下記をク
リック.今月末まで無料で読めます.

https://yondemill.jp/contents/21889?view=1


▼自衛官とギャンブル

 自衛官はとにかくギャンブルと酒が好き,というのが30年以上前
に初級幹部として部隊に初めて配置された時の印象でした.兵隊が
ギャンブルや酒が好きなのは戦争映画や戦記小説などで多少知って
いましたが,明日死ぬかもしれない戦場ではなく,平時でも好きだ
というのは,ギャンブルや酒は兵隊の本質なのではないかと思った
ほどです.

 ギャンブルとは競馬,競輪,競艇,パチンコなどですが,とくに
パチンコは手軽にできてほとんどの隊員がやっていたのではないで
しょうか.当時の隊員はパソコンもスマホも持っていません.営内
の自室にいてもテレビを見るか本を読むかくらいしかないのですが,
もともと室内は相部屋でプライベート空間がありません.

 大体4人部屋か,2段ベッドを使えば8人くらいまで一緒に入ります.
備品はベッドと机,フットロッカー,更衣用ロッカーがあるくらい
で,余計なものは私物庫というところに入れておきます.テレビや
小さな本棚くらいは置けますが,スキーなどのスポーツ用具,余計
な衣服などは私物庫に入れて置きます.

 ですから,一人になりたいときは外出するしかありません.外出
すれば余暇の過ごし方は自然と決まってきます.自宅が近いものは
帰省する場合がありますが,営内者は食事や風呂などは官費でまか
なわれているので,金があります.たいがいの者はギャンブルか
ドライブ,夜は飲み屋と相場が決まっていました.

 仮にパチンコで負けても食べるのに困らないので,1日に万単位
で負ける者もざらでした.勝ってもその分酒の量が増えるだけです.

 既婚者で,営外に居住しているものもギャンブル好きが多かった
ように思います.なかには依存症のようになって,多額の借金を抱
えて始終金策に追われているものもいましたし,実際それが原因で
自殺したものもいました.

 そのような隊員に対しては,中隊長,小隊長や先任陸曹が懇切丁
寧に服務指導をします.依存体質の人間にいくら諭してもなかなか
改まりません.じっくりと時間をかけ,繰り返し,繰り返し,根気
よく指導します.時には貯金や給料を本人に代わって管理すること
もありました.

 どうしようもなくなったら自己破産という手もありますが,なる
べく借金を返済して元の生活ができるように,時には弁護士などの
助言も得ながら指導していきます.指導する側の苦労は並大抵では
ありません.

 かつて自衛隊に人気がなかったころ,自衛隊を社会厚生施設と勘
違いして札付きの不良のような社会不適応児を入れる親がおり,ま
た,自衛隊側も募集難から様々な人間を受け入れていました.

 とくに彼らのような者たちには,ギャンブルに関する金銭指導が
服務指導の中でもかなり比重を占めていたように思います.自衛隊
は武器を扱う関係上,一般の人よりも高い倫理性を求められますが,
中学や高校を出た問題児に高い倫理性を身につけさせるのは容易で
はありませんでした.今,カジノ解禁をめぐって,依存症対策をど
うするかが問題になっているようですが,私にとっては他人事とは
思えません.

 さて,今の自衛隊はどうでしょうか? もちろんギャンブル好き
はいるでしょうが,前よりも減っているように思えます.

 スマホが営内者の生活を変えたようです.今では公衆電話になら
ぶ隊員の光景は遠い昔のことになりました.外出してパチンコをし
たり,ドライブをする隊員も減っていると聞いています.宴会以外
酒を飲みに行く者も少ないようです.

 自衛隊の人気は上がり,優秀な隊員も増えてきました.最近では
大卒の陸士も珍しくありません.服務指導する側は楽になったので
すが,逆にコミュニケーション力が落ちてきてはいないかと心配で
す.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2017.3.21




『ライター・渡邉陽子のコラム (133)
  ─ 与那国駐屯地と沿岸監視隊(3) ─
                 渡邉陽子
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こんばんは.渡邉陽子です.少しずつあたたかくなってきましたね.
春も夏も苦手な季節なので(といったら変わり者と思われるでしょ
うか),今から秋が待ち遠しいです.



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■与那国駐屯地と沿岸監視隊(3)

今週も与那国駐屯地と沿岸監視隊の紹介です.
与那国駐屯地所属隊員出身比率を見てみると,沖縄出身者は15%.
そのうち本島10%,与那国・石垣・宮古出身が5%で,住民の自衛
隊への理解を促進する一助となっています.九州・沖縄出身者が約
8割を占め,西部方面隊選りすぐりの隊員からなる駐屯地といえる
でしょう.
また,情報収集には専門的な知識や技術が求められるため,宗谷海
峡を警戒・監視をする第301沿岸監視隊,根室海峡を警戒・監視す
る第302沿岸監視隊から選ばれて来たスペシャリストもいます.な
お,この駐屯地はもともと航空自衛隊が展開できるよう設計されて
いるので,現在も空自の移動警戒隊が定期的に訓練で訪れています.
海上自衛隊は定期的ではありませんがが,年に数回,艦艇広報とし
て掃海艇などが訪れています.

沿岸監視隊の業務は情報収集,災害派遣,島内環境醸成の3点です.
情報収集は,与那国島周辺を航行する船舶が発信した通信・電子信
号(船舶間の無線通信等,航行装置の発信信号),航空機発進した
通信・電子信号(航空機間・管制局との無線通信等,航法装置の発
信信号)などのうち,駐屯地まで飛来した通信・電子信号の収集,
沿岸レーダーおよび目視による監視活動を行なっています.
災害派遣はすでに水難事故に伴う災害派遣が実施されています(詳
細は次回).
島内環境醸成というのは,要は部隊と島内の住民の良好な関係の構
築を指します.昨年は第1回駐屯地夏祭りを開催,駐屯地を一般開
放したところ,人員589名,車両207両が来訪.島民の方々および隊
員家族との一体感の醸成に一役買いました.

駐屯地内の施設を見てみると,訓練場,生活隊舎,燃料スタンド,
食堂,庁舎はすでに完成していますが,倉庫は今年4月,体育館は6
月に完成予定で,2016年11月の時点では建設中でした.駐屯地内の
道路もまだすべて整備されておらず,砕石敷きのみの状態のところ
もあります.
庁舎屋上から駐屯地正門の方向を見ると,その先にプレハブの施設
が見えます.これは仮の官舎で,本来ならば幹部自衛官や事務官は
駐屯地の外に居住しなければいけないのですが,与那国町の住宅事
情がよくないため,官舎ができるまでこのプレハブに仮住まいして
いるのです.
戦闘部隊ではないので,軽装甲機動車は警衛所の隣に見える2両のみ.
庁舎の屋上には太陽光パネルを置くための台が設置されていますが,
予算不足で肝心のパネルはまだ買えていないそう.けれど台風のす
さまじい威力を考えると,設置すると危険かもという声も上がって
いるとか.
駐屯地から5kmほど離れた島の中央付近に位置するインビ岳にある5
基の監視レーダーから収集した情報は,最終的にこちらに集約して
います.本来,レーダーは島のいちばん高い山の頂上に設置するの
が望ましいのですが,そこには山の神様がいるということで設置が
認められなかったそうです.でもそこにNHKのアンテナはありまし
た……

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2017.3.23




『ライター・渡邉陽子のコラム (135)
  ─ 与那国駐屯地と沿岸監視隊(5) ─
                 渡邉陽子
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

こんばんは.渡邉陽子です.保安警務中隊の特別儀仗用の制服が一
新しましたね.保安警務中隊だけが身に付ける制服であることがこ
れまで以上によくわかり,私はとてもいいと思います.特に日の丸
を意識した夏服が素敵です.防大,高等工科学校もそうですが,詰
襟っていいですね.
ところで先日,携帯を買い換えたので初めてスマホケースを買った
ら,携帯が使いにくくてしょうがなくなってしまいました.なぜだ
ろうと考えたら,スマホケースって右利き用なんですね.スマホケ
ースを使用されていて「?」と思われた方は,天地逆にして持って
みてください.それが左利きの世界です.使いにくいでしょう?
 調べたら,左利き用のスマホケースが売られていました.結局1
日で透明のスマホカバーに戻しました(泣).



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○ライター・渡邉陽子とは?
 ⇒ http://okigunnji.com/url/umxi59b8/

○ライターとしてこんな仕事をしています
 ⇒ http://okigunnji.com/url/up3zeozc/
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■与那国駐屯地と沿岸監視隊(5)

先週は隊員たちが島の人々に受け入れられるまでを紹介しました.
ただし,島民の「迷彩服」に対する抵抗感は根強いものがあります.
一部の島民は制服の1つであり着用しているのが当たり前という認識
でいてくれているようですが,島民の多くはこれまでの生活で一切
接することのなかった迷彩服に威圧感や「軍隊」のにおいを感じる
ようです.
それでも町のイベントに塩満隊長らが迷彩服でも参加しているとい
うから,島民の慣れ次第,というところもあるかもしれません.

経済効果も早くも出て来ています.
駐屯地等施設の建設時,島には最大800名の作業員が在住していたと
いうから,ちょっとした「自衛隊バブル」と言われました.
与那国島の住民数は2016年2月末日現在で1490名だったのが,自衛隊
配備後の同年7月末日現在1702名に増加.
自衛官とその家族が増えたことで町民税が概算で約4300万円アップ,
さらに駐屯地の土地賃貸料1500万円も毎年入ります.実際にこれだ
けの収入が島にもたらされるようになった今,反対派の声がフェー
ドアウトしていくのはある意味必然といえるでしょう.

災害派遣を巡ってある出来事も起こりました.
昨年4月,海岸で行方不明者が出た際,与那国町は沿岸監視隊に捜索
を依頼しました.まつりの準備や草刈りなどさまざまな依頼を快諾
してきてくれたのだから,ましてや人の命がかかっている事態で断
られるわけがないと思っていたのでしょう.
しかし部隊は「沖縄県知事から災害派遣要請がない限り動けない」
と返し,町を落胆させました.
その後,沖縄県知事から災害派遣要請を受けてから人員約50名,車
両10両の捜索部隊を出しているのですが,最初の依頼を断られたこ
とで,町側は「自衛隊が遠くなった」.
町側の気持ちもわかりますが,部隊が超法規で勝手に行動すること
は許されるわけがなく,それは行方不明者が誰であっても同じ対応
だったはずです(その後海底から遺体で発見された行方不明者は,
与那国町への自衛隊配備計画に反対する組織の共同代表を務めてい
る人物でした).草刈りやまつりの準備も,部隊側はかならずなん
らかの訓練という名目で行なっているはずであり,役場の人たちが
それを認識していなかっただけです.完全に災害派遣と民生支援を
混合してしまっているようです.
自衛隊という火力を扱う組織だからこそ決まりごとの遵守が不可欠
だということを,自衛隊受け入れの可否に揺れた町だからこそ理解
してもらいたいものです.なによりも,すぐに捜索できずに悔しい
思いをしたのはほかならぬ隊員たちです.

しかし総合的に見れば,与那国島はこれから陸上自衛隊警備部隊が
配備される石垣島,宮古島,奄美大島にとってよい手本となってい
ると言っていいでしょう.島を二分するほど賛成派,反対派双方が
ぶつかり,それでも現在は町の祭りに迷彩服姿の隊員が参加するま
でになりました.双方の努力あってのことです.

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2017.4.6





日の丸父さん(16)石原ヒロアキ

「再会 永田曹長の思い出」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

□はじめに

 今回のテーマは離婚で、あまり明るい話ではありません。しかし
自衛隊では意外に多いので、取り上げざるを得ません。

 私の先輩で、先妻の娘が20年ぶりに結婚の報告に父親である先輩
に会いに来るということがありました。お互いどのような気持ちで
会ったのだろうと想像しながら今回漫画を描きました。

 さらに今回は、災害派遣時の除染所の情景を絵に描いてみました。
CBRN(シーバーン)テロの話は「ブラックプリンセス魔鬼」と
いう作品の中でも描いていますが、現場の構成を鳥瞰図的に具体的
に描いたのはこれが初めてだと思います。最近金正男氏がVXで殺
害され、北朝鮮の化学兵器を総理大臣が言及するような時代になっ
てきました。参考にしていただけたらと思います。

 石原ヒロアキ「まんが館」を立ち上げました。 現役時代に頼ま
れて描いた4コマ漫画もアップしています。

http://yonekurahiroaki.wix.com/cbrn


◆「日の丸父さん」第1巻が電子書籍として発売中です。ここには
第1話から第12話までエッセイと一緒に収録してあります。
ぜひ感想をお聞かせください。

http://okigunnji.com/url/208/


◆マンガ「第16話 再会 永田曹長の思い出」は下記をクリック。
今月末まで無料で読めます。

https://yondemill.jp/contents/22616



▼自衛隊と離婚

「自衛隊は日本社会の縮図である」とよく言われます。自衛隊は聖
人君子の集団ではありません。一般人と何ら変わらないのです。離
婚にしてもそうで、日本社会で離婚が増えれば自衛隊でも増えるこ
とになります。

 ただ、離婚率が一般に比べて高いか低いかはあると思います。
はっきりした統計は見たことがありませんが、私の周りは意外と離
婚者が多かったように思います。理由は様々です。不倫や浮気、金
銭問題、性格の不一致など、世間一般と同じです。とくに大きな理
由もなく、お互いの気持ちが離れていくというのもあります。単身
赴任や長期間の訓練などが主な原因でしょう。

 多くの幹部の場合、単身赴任は避けて通れない問題です。2〜3
年であればなんとかなりますが、続けて10年以上というのもざらに
あります。そうなりますと帰っても自分の居場所がない、一人が楽
ということになりかねません。また、長期訓練では、1か月以上も
演習場にいる場合や、海上自衛隊ですと長期の航海があります。と
くに潜水艦などはその任務上不定期に不在することはいつものこと
です。訓練中は通常家族との連絡がとれません。新婚家庭や子供が
小さい家庭は辛いことでしょう。

 国際貢献活動や災害派遣でも長期不在があります。長い時では半
年です。私が経験した災害派遣の一つに雲仙普賢岳の火山災害派遣
がありますが、担当警備区域の連隊では、1年間で200日以上派遣さ
れていた隊員もいました。

 以前、離婚しそうな家庭から相談を受けたことがあり、いろいろ
話をしたのですが結局別れてしまいました。不倫や浮気、金銭トラ
ブルは一切ありません。子供が長期単身赴任の父親になつかなくな
り、父親の自衛官も妻や子供に対する愛情がなくなっていったのが
原因です。官舎時代から家族同士知っていた仲だったので、大変残
念でした。

 今はスマホや携帯があります。日ごろからこまめに連絡を取り、
家族との絆を確かめておくということが大切なのではないでしょう
か。また、留守家族同士の連携も大切です。官舎にいる場合は、家
族同士集まりやすい環境にあります。とくに同じ部隊の家族が集ま
っていますと、みんな一斉に訓練などでいなくなるので、同じ境遇
のお母さんたちが子供と一緒に官舎の公園で井戸端会議をすること
はよくあります。そのおかげで協力し合ったり、悩み事は相談しあ
ったりして、これは官舎住まいのメリットの一つでしょう。

 さらに、家族に自衛隊の仕事を理解してもらうことも大切です。
記念日などは積極的に家族を駐屯地に呼ぶようにしていますが、部
隊ごとに家族を集めてバーベキュー大会や餅つき大会を催して、家
族を含めた一体感を醸成しています。

 自衛隊は隊員家族を大切に扱います。とくにPKOなど長期間、
遠隔の地で勤務する機会が増えてきました。留守家族のケアは任務
遂行上の大切な業務の一つになっています。派遣された隊員が後顧
の憂いなく勤務できるよう自衛隊は留守家族を手厚く支援します。
北海道では、雪の多い日などは留守家族の除雪などを手伝うことも
あります。

 離婚は本人にとっても家族にとっても大変な負担になります。
その結果、仕事にも影響が出てきかねません。

 私は家族という単位は国家の根源をなすものであり、必要最低限
守らねばならないものと思っています。

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2017.4.21





日の丸父さん(16)石原ヒロアキ

「再会 永田曹長の思い出」
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□はじめに

 軍隊とギャンブルは切っても切れない関係にあります。私も、ギ
ャンブル好きで借金を抱えている隊員の面倒を数多く見てきました。

 エッセイにも書いていますが、彼らを指導するのは大変です。九
州勤務の時、雲仙普賢岳の火山災害派遣があり、1600日以上の史上
最長の災害派遣になりました。あとで部下を交代して派遣するよう
になりましたが、そのときはギャンブルで借金を持っている隊員を
優先して派遣したものです。

 災害派遣されればギャンブルする暇もありませんし、金も貯まり
ます。それに意外と災害派遣に適している隊員が多かったのです。
彼らの多くは独身であり、仕事の要領もよく、勤務意欲も旺盛でし
た。しかしこの問題は、根本的解決法がないと思います。災害派遣
がしょっちゅうあっても困りますし。

 石原ヒロアキ「まんが館」を立ち上げました。 現役時代に頼ま
れて描いた4コマ漫画もアップしています。

http://yonekurahiroaki.wix.com/cbrn


◆「日の丸父さん」第1巻が電子書籍として発売中です。ここには
第1話から第12話までエッセイと一緒に収録してあります。
ぜひ感想をお聞かせください。

http://okigunnji.com/url/208/


◆マンガ「第16話 再会 永田曹長の思い出」は下記をクリック。
今月末まで無料で読めます。

https://yondemill.jp/contents/22616



▼自衛隊と離婚

「自衛隊は日本社会の縮図である」とよく言われます。自衛隊は聖
人君子の集団ではありません。一般人と何ら変わらないのです。離
婚にしてもそうで、日本社会で離婚が増えれば自衛隊でも増えるこ
とになります。

 ただ、離婚率が一般に比べて高いか低いかはあると思います。
はっきりした統計は見たことがありませんが、私の周りは意外と離
婚者が多かったように思います。理由は様々です。不倫や浮気、金
銭問題、性格の不一致など、世間一般と同じです。とくに大きな理
由もなく、お互いの気持ちが離れていくというのもあります。単身
赴任や長期間の訓練などが主な原因でしょう。

 多くの幹部の場合、単身赴任は避けて通れない問題です。2〜3
年であればなんとかなりますが、続けて10年以上というのもざらに
あります。そうなりますと帰っても自分の居場所がない、一人が楽
ということになりかねません。また、長期訓練では、1か月以上も
演習場にいる場合や、海上自衛隊ですと長期の航海があります。と
くに潜水艦などはその任務上不定期に不在することはいつものこと
です。訓練中は通常家族との連絡がとれません。新婚家庭や子供が
小さい家庭は辛いことでしょう。

 国際貢献活動や災害派遣でも長期不在があります。長い時では半
年です。私が経験した災害派遣の一つに雲仙普賢岳の火山災害派遣
がありますが、担当警備区域の連隊では、1年間で200日以上派遣さ
れていた隊員もいました。

 以前、離婚しそうな家庭から相談を受けたことがあり、いろいろ
話をしたのですが結局別れてしまいました。不倫や浮気、金銭トラ
ブルは一切ありません。子供が長期単身赴任の父親になつかなくな
り、父親の自衛官も妻や子供に対する愛情がなくなっていったのが
原因です。官舎時代から家族同士知っていた仲だったので、大変残
念でした。

 今はスマホや携帯があります。日ごろからこまめに連絡を取り、
家族との絆を確かめておくということが大切なのではないでしょう
か。また、留守家族同士の連携も大切です。官舎にいる場合は、家
族同士集まりやすい環境にあります。とくに同じ部隊の家族が集ま
っていますと、みんな一斉に訓練などでいなくなるので、同じ境遇
のお母さんたちが子供と一緒に官舎の公園で井戸端会議をすること
はよくあります。そのおかげで協力し合ったり、悩み事は相談しあ
ったりして、これは官舎住まいのメリットの一つでしょう。

 さらに、家族に自衛隊の仕事を理解してもらうことも大切です。
記念日などは積極的に家族を駐屯地に呼ぶようにしていますが、部
隊ごとに家族を集めてバーベキュー大会や餅つき大会を催して、家
族を含めた一体感を醸成しています。

 自衛隊は隊員家族を大切に扱います。とくにPKOなど長期間、
遠隔の地で勤務する機会が増えてきました。留守家族のケアは任務
遂行上の大切な業務の一つになっています。派遣された隊員が後顧
の憂いなく勤務できるよう自衛隊は留守家族を手厚く支援します。
北海道では、雪の多い日などは留守家族の除雪などを手伝うことも
あります。

 離婚は本人にとっても家族にとっても大変な負担になります。
その結果、仕事にも影響が出てきかねません。

 私は家族という単位は国家の根源をなすものであり、必要最低限
守らねばならないものと思っています。

発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
http://archive.mag2.com/0000049253/index.html
2017.4.20





──[イソップ]→[毛利元就]────────────────────
★毛利元就といえば息子三人に「矢は1本では折れやすいが三本になれば折れ
 ない」と語った逸話で有名だが、元ネタは中国で5世紀に書かれた「西秦録」
 にある物だとされる。しかし紀元前5世紀のイソップ童話に似た話がある。

※三本の矢の話には色々バリエーションがあるが、毛利元就が亡
 くなる直前に息子達を呼んでこの話をしたという物は確実に嘘。
 毛利元就より長男・毛利隆元の方が8年早く亡くなっている。
※毛利元就が生前に似たようなことを書き残しているのが逸話に
 変化したとされるが、その文章の元ネタが「西秦録」とされる。


──[毛利元就]→[雪合戦]─────────────────────
★「雪合戦」は日本では平安時代から行われていた。戦国時代の武将・毛利元
 就は70歳を越えたとある雪の日「雪合戦をしたいので座敷に雪を運び込め」
 と命令し、室内で家臣達と思う存分雪合戦をした事がある。

◎雑学大作戦:知泉
のバックナンバーはこちら
⇒ http://archives.mag2.com/0000017191/index.html?l=son065f321
2017.5.14

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