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【初心者】スレッド立てる前に質問を Part15【歓迎】
目次
** 【質問】
農民一揆で,けっこう農民が強いときがありますよね?
一揆は飢饉のときが多いと思うのですが,腹減ってるし,戦いの専門家じゃないのに,どうして善戦できるんでしょうか?
【回答】
どの時代の,どの地域の一揆を対象としたものかが分からず,また「強い」と判断された根拠も不明ですので,これではお答え出来ません.
ただ,一揆というのは支配体制の打倒というよりは,行動を以って要求の受理を求めたものですから(中世〜近世初期は特にそうです),領主側も余程無茶な内容で無い限り,受理して手打ちに到ったという事はあるでしょう.
江戸時代中期以降には,基本的に一揆に対して,領主側が飛び道具を使用する事は禁止されていました.
ルール内での交渉です.
秩序というのは,武士の側が好き勝手やらかしても崩れますからね.
切捨て御免というのも自由に出来た訳でなし,出来るだけ穏便に済ませたかったのは,領主側も同じでしょう.
逆に言えば,発砲に到るのは余程の事です.
尾を引きますし.
島原の乱の場合,まだ中世の残り香があった時代に,「キリシタンの容認」と事実上の国教(というか藩教)化という無茶な要求をした為に,引くに引けない大事件になった訳で.
山野野衾 ◆CXSSL1llHI :日本史板,2005/12/15(木)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
戦国時代以前は武田信玄などのように,隠居後出家する武将というのはざらだったと思うのですが,江戸時代以降,出家した大名の話を,寡聞にして聞いたことがありません.
1) 江戸時代以降,出家した大名はいるのですか?(隠居後でもかまいません)
もしいたら,具体的な名前もご教示下さるとうれしいです.
2) 江戸時代以降出家した大名というのがいなかったとしたら, その理由は何故なのでしょうか?
【回答】
出家した大名としては,松平定政や青木重兼などがいる.
戦国は只でさえバンバン殺しあう時代だから,仏道に入って罪業を贖うということがあったろうし,親子間でもそうだ.
ヘタすると取り巻き同士で,存亡を賭けた御家騒動になりかねん.
何しろ,隠居してもまだ家中にはいるということだからね.
あとは,門徒をたくさん抱え独立勢力化していた,土地の仏教勢力と縁を持つため.
江戸時代になると殺しあう事はなくなるし,跡取りは公認制.
加えて幕府によって寺社は統制され,出家する意義が少なくなったと.
そもそも坊主だと,生活を楽しむことも制限されるし(笑)
例に挙げた青木重兼のように,個人的に仏門に傾倒することがなければ,敢えて出家する人はいなかったんじゃないかと.
日本史板,2005/12/18(日)
青文字:加筆改修部分
** 【追記】
235 :日本@名無史さん:2006/01/04(水) 01:53:19
諸兄のご教示を請います.
秀吉が関白になった理由は,「源氏でないと征夷大将軍の宣下を受けられない」
という氏族の制限だけが理由なのかどうか? というのが質問です.
以下,私の質問の内容です.
私が,「通説」として聞き及んでいるのは,以下のような図式です.
征夷大将軍職は源氏にしか宣下されない → 秀吉は,僭称ながら,平氏と称していた
→同時に宮中工作として,「母は萩の中納言という公家の娘で,秀吉は天皇のご落胤」
とかいう噂をながして,脆いながらも,関白宣下のための根拠の一つとした→
結局,関白宣下された.
という図式です.
いずかたにせよ,氏の制限により,なりたくてしかたない征夷大将軍をあきらめて
関白になった ということなんですが...
ちょっと腑に落ちないのは,「大政所は萩の中納言なる公卿の娘で,かつて
宮中にて尊上のおてつきとなり,身ごもったのが秀吉」などという荒唐無稽な
噂までを関白宣下の根拠の一つとしてだすぐらいなら,この根拠をなぜ
征夷大将軍宣下の根拠としなかったのかというのがひっかかるのです.
親王が征夷大将軍の宣下を受けている前例はいくらでもあると思うのですが?
どなたか,小生の蒙を啓いていただければ幸いです. よろしくお願いします.
236 :日本@名無史さん:2006/01/04(水) 17:07:03
なんで神風特攻は世界的に有名なのに,ウラー!と叫んで突撃するのはあまり有名じゃないんですか?
237 :日本@名無史さん:2006/01/04(水) 17:14:14
質問ッス(__).
織田信長で有名な幸若舞の一説「人間五十年
下天のうちをくらぶれば〜」の『下天』なんですが,どゆ意味ですか?『化天』ではないのでしょうか?
238 :日本@名無史さん:2006/01/04(水) 17:51:10
オランダからの風説書でアヘン戦争や欧米によるアジアの植民地化を
知ってただろうに,幕府は黒船来航するまで何の対策(軍備,外交)も
してなかったのですか?
239 :日本@名無しさん:2006/01/04(水) 18:05:11
>>235
平信長に征夷大将軍就任の勅使が下行したことはご存知かと思いますが,
征夷大将軍は源氏皇族どころか,それ以外でもなれたのです.(例:鎌倉摂家将軍)
ですから,もし秀吉が征夷大将軍を欲していたならば,いわゆる源平交代説の
尻馬に乗って平氏の末でも名乗っておけば十分でしょう.現実,秀吉は平氏を吹聴
しました.無理のありすぎるご落胤の風説を,この時点で敢えて流す必要など
ありましょうか.
1583年柴田勝家を倒してから毛利が秀吉に接近し,毛利が匿っていた義昭と秀吉は
接触を試みようとしたかもしれません.
しかし,太政大臣で信長に協力し,以後は秀吉と家康の間で立場が危うかった
近衛前久(蛇足ですが,義昭の母方の伯父でもある)の猶氏に納まり,秀吉は
1585年関白,翌1586年太政大臣に任ぜられているのです.
秀吉が征夷大将軍を望みはしたかもしれませんが,はたしてどこまで熱意があったのか
疑問が残るところです.そんなものより遥かに上の,関白太政大臣にあっさりなれて
しまったのですから.
日本史板,2005/
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
源氏でないと征夷大将軍の宣下を受けられないなんていう慣例は,本当に存在したのでしょうか?
平安時代には帰化人系の坂上田村麻呂が任命されていましたし,頼朝以降でも藤原氏や親王が将軍になっています.
室町15代のうちにそんな慣例ができたなんて,不自然に思うのですが…….
【回答】
朝廷・公家にとって征夷大将軍は,いわゆる関東公方のイメージがあったと思う.
つまりは朝廷の息がかかっている,アズマエビスっぽい連中に任せるべきもんだと.
権限をみる限り,これは全く正しい認識だと思う.
だから源氏だったり藤氏だったり,後醍醐天皇のように親政したければ,自分の身内に就かせるもん.
加えて,源平時代のアズマエビスで,朝廷に反抗的な源氏と,朝廷に親密な平氏のイメージも手伝っているのではないかな.
足利尊氏も南朝にとっては,あくまで反抗者だし,京都には成り行き上,居らざるを得なかっただけだし.
要は,慣例というよりも,更に制度的拘束性の薄い「雰囲気」のレベルだったと思われ.
もし後北条氏が,武田や上杉や葦名や伊達を悉く潰したら,征夷大将軍の宣下が来たんじゃなかろうか.
というか,大将軍なんていかにも偉そうではあるけど,「軍事政権が権威付けに利用した」から,「全国を席巻した軍事政権自体が持っていた権力」と混同して錯覚しているだけで,貴族としては下っ端の「辺境向けの使い走り」にすぎない.
だから,「誰もが欲しがるような高い位ではない」ということはありますよね.
日本史板,2006/01/05(木)〜01/06(金)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
織田信長で有名な幸若舞の一説「人間五十年
下天のうちをくらぶれば〜」の『下天』なんですが,どゆ意味ですか?
『化天』ではないのでしょうか?
【回答】
国語辞典によれば,
げてん【下天】
(1)天上界のうちすべてに劣っている天のこと.
(2)人間界のこと.
「人間五十年下天の内をくらぶれば夢まぼろしのごとくなり(幸若・敦盛)」
(1)「天上界のうちすべてに劣っている天のこと」に注目して下さい.
下天というのは仏教用語で,元々は天(天界)の下という意味ではなく,最下位の天(天界)という意味です.
「四王天」「四天王衆天」ともいいます.
三界(さんがい)の中の欲界(よっがい)の一つ,六欲(ろくよく)天の最下位の天で,人道界のすぐ上の世界であり,須弥山(しゅみせん)の中腹にあります.
ここの主がいわゆる「四天王」.
この天界の一昼夜は,人間界の五十年に当たり,住人の定命は五百歳とされています.
化天も仏教用語で,六欲(ろくよく)天の第五位,下天より一クラス上の天です.
「楽変化天」「とう利天」ともいいます.
須弥山(しゅみせん)の頂上にあり,ここの主がいわゆる「帝釈天」.
この天界の一昼夜は,人間界の八百年に当たり,住人の定命は八千歳とされています.
余談ながら,信長が自称したという「第六天(悪)魔王」とは,六欲(ろくよく)天の第一位「他化自在天」の主のことです.
「魔王」「悪魔王」ともいいます.
要するに,人間の快楽欲望の総支配者のことです.
さて,信長公記らの『敦盛』では「下天」,現存する幸若舞の『敦盛』では「化天」と書かれているそうですが,説明したように本来の意味は似て非なるものです.
「人間五十年,下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり…」
という言葉も,「化天」ならば
『人生は精々五十年というが,化天の中では下天でいう一昼夜にもならんじゃないの』
という意味になってしまいますが,「下天」ならば
『人間界の五十年って,下天の中では一昼夜じゃないの』
という意味にもとれます.
こういった解釈で,意見が分かれているようです.
http://www.asahi-net.or.jp/~zb5y-wd/nobunaga.htm
日本史板,2006/01/05(木)〜01/06(金)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
山川の教科書と用語集を使って勉強しています.
鎌倉時代に出てくる「関東御料」と「関東御分国」の違いが,よく分かりません.
どなたかよろしければ,ご教授お願いします.
【回答】
コトバンクによれば,関東御領とは鎌倉幕府の直轄領で,将軍家家領ともいい,将軍が本所として支配した荘園や国衙領.
将軍は関東御領に対して御家人たちを預所や地頭などに任命して支配を行い,年貢・公事などを徴収した.
幕府財政にとって,関東御領からの収入は相当大きな割合を占めていたと思われるが,〔中略〕関東御領全体の規模や収益などを示す史料はまったく残されていない.
鎌倉幕府の成立期の1184年(元暦1)初代の将軍源頼朝は,京都の朝廷から,平氏一族の旧領500余ヵ所を平家没官領として与えられ,これが関東御領の主要な基礎となった.
ついで1221年(承久3),承久の乱に勝利を収めた結果,幕府は京都方の貴族や武士の所領3000余ヵ所を没収したが,このうち関東御領に加えられたものも少なくなかったであろう.
一方,関東御分国とは,やはりコトバンクによれば,鎌倉幕府の将軍の支配していた知行国.
当時の史料上では,幕府が直接の基盤として,特に強力な支配権を有していた東国の意味に用いられている場合がむしろ多いが,現在の学界では将軍家の知行国の意味に用いるのが普通であり,以下もその立場から述べる.
将軍家知行国とは,将軍が朝廷から与えられた国のことで,将軍は知行国主として御家人を国司に推薦し,国衙を支配して国衙領からの収入を取得した.
その意味で関東御分国が幕府の重要な政治的,財政的基盤の一つであったことは間違いない.
関東御分国の沿革をたずねると,1184年(元暦1)源頼朝が朝廷から三河,駿河,武蔵3ヵ国を知行国として与えられたのが最初である.
翌85年(文治1)8月には,上の3ヵ国から三河国をのぞき,伊豆,相模,上総,信濃,越後,伊予6ヵ国を加えた計8ヵ国となり,同年末には伊予国を辞退して,豊後,下総2ヵ国を加えた.
このときの総計9ヵ国が,知られる限り,鎌倉時代を通じて最大の数である.
その後,90年(建久1)の頼朝知行国は7ヵ国で,1213年(建保1)の将軍源実朝の知行国は遠江,駿河,武蔵,相模4ヵ国というように減少していった.
それ以外に関東御分国の全体をあげた史料はないが,断片的史料を総合してみると,鎌倉時代のほぼ全時期を通じて将軍家知行国にとどまったのは駿河,武蔵,相模と,1225年(嘉禄1)以後の越後の計4ヵ国で,そのほか,かなり長期にわたる将軍家知行国と推定されるのが遠江,伊豆,陸奥の3ヵ国であるから,常時ほぼ4〜6ヵ国の関東御分国を維持していたようである.
日本史板,2006/02/14(火)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
三浦アンジン・シーボルト・グラバーって子孫いないの?
シーボルトは母国にはいるらしいけど.
【回答】
グラバーには倉場富三郎(トム=グラバーの当て字)という息子,ハナという娘がいました.
富三郎は実業家として活躍しましたが,戦時中はスパイの嫌疑をかけられたりなどし,妻との死別,長崎原爆投下ののち,失意のうちに自殺.74歳.
http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/glover/human/k_index.html
子孫は今も長崎にいるそうです.
あと,グラバーにはメイプル=ライトという孫娘がいたそうですが,ハナの娘なのかどうか不明.
朝鮮半島の生まれ.彼女に子はなかったそうな.
さらに,
> 商館長コックスは彼の遺言状に基き遺産処分をし金貨500ポンドを二分して半分をイギリスに在る妻子に贈り,
>残り半分と逸見村の土地を三浦の地の妻子に与え,平戸に於ける財産の全部は案針住宅なる妾腹の子に譲与した.
>http://island.qqq.or.jp/hp/matsura/ADAMUS.HTM
ということですが…
三浦の遺族側でしょうか,末裔を名乗る方がいるそうです.
http://spaces.msn.com/ny1990in/blog/cns!7FFA8E9087FD3A61!127.entry?_c11_blogpart_blogpart=blogview&_c=blogpart
日本史板,2006/03/01(水)
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** 【質問】
兵糧攻めの作戦を破る方法,分かる奴いないか?
【回答】
まず備蓄の兵糧の用意.
そして後詰め部隊が包囲軍に対峙.
後詰めが来た事により,包囲軍は前後を狙われる状況になる.
包囲軍が大人しく引き下がれば,放置もしくは追撃.
包囲軍が決戦を挑むなら,ある程度の戦力を城の包囲に裂いた上で,戦わなければならない.
包囲軍がしつこくそのままの状態を保ち続けるのは,まずできない.
何故なら地元の後詰めのほうが持久が効く.
後詰め部隊が相応の戦力を用意できなかったら,そう上手くはいかないが.
ただし,いつでも上記が通用するわけではないのは,備中高松城水攻めを見ても分かる通り.
日本史板,2006/03/03(金)
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** 【質問】
読んでみると魏志東夷伝て,かなりトンデモな内容ですよね.
邪馬台国がどこにあったかなんて,プレスター・ジョンの国がどこにあったか議論するくらいファンタスティックな話だと思うんですが,何で畿内説,九州説がもっともらしく語られているのですか?
日本の歴史の出発点として,歴史教育の初めに置くほどのものなんでしょうか?
【回答】
信憑性に欠けるから語るべきではないと仰るか?
違う.
間違いなく日本列島内にあった,国家と言える(そして,呼ばれた)勢力が魏に朝貢したと,当時編纂された正式な歴史書に書かれている.
これだけは疑問の余地がない事実だから.
畿内か九州か,邪馬臺国か邪馬壱国か,卑弥呼か天照かの真偽が問題ではない.
これ以前は考古学の世界.
例え,そのころの物語が後世に残されていたとしても,神話伝説を超えられるものではない.
だが,この邪馬台国は記紀の中にあり,単なる物語ではなく当時事実として扱われている.
これは歴史学の世界.それも,この国が一番古く認められている.
だから邪馬台国が,日本の「歴史」の出発点として語られているし,また語るべきなの.
日本史板,2006/03/03(金)〜03/04(土)
青文字:加筆改修部分
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