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青文字:加筆改修部分
 ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.

※既に分類され,移動された項目を除く.
 また,著作権上問題のある回答が意外に多く,これも除外.

※レス回収基準は「Ver.7」


【初心者】スレッド立てる前に質問を Part12【歓迎】

目次


<保留>

** 【質問】
 時代や弓によって変わるとは思いますが,通常,弓の射手は一人で何本くらいの矢を携行したのでしょうか?
 また,従者に矢を持たせた場合,一人あたり何本くらい携行したのでしょうか?
 弓は世界中で使われ,また,大きな差異はないと素人考えで思うのですが,違いがありすぎるというのであれば,平安後期-鎌倉期を基準に教えていただけないでしょうか?

 【回答】
204 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/07/06(水) 01:20:11
>>200
あまり多くは持てませんね.三本の矢で折れないというぐらいですから,
なかなか太く,また重量もあります.その十倍もあれば充分.
軍記のソースはすぐ出て来ませんが,とりあえず『法花験記』(1040年代)
に,処刑の為木に縛り付けた持経者を射たところ,『法華経』の功徳によっ
て矢があたらず,「29本全て」射つくしたとあります.
29本装備が常態でなければ,出て来ない記述でしょう.
『三代実録』によれば,定数50隻であったのを,重量があり過ぎる事から,
平時は30隻に減らしたらしい.
室町時代には,25隻が式正の矢数でした.多くても40隻前後です.

184 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 02:29:14
>182
WW?Uの米軍以降,その種の事(補充弾薬の規格化)がマニュアル化されたのは補給の便宜を図るためです.

中世以前において,兵に具足等を貸し与える場合でも何本の矢を携行するかは個人の裁量の範疇ではないでしょうか.
個個の兵の技能と経験則,戦闘目的に応じて個人が判断することであって,必ず何本を携行しなければならない
という決まりは存在しないでしょう.
大量に持ち歩けば重量も嵩みますし,無駄に持ち歩けば精密品(w)である矢羽も傷めます.
和弓の矢は高速状態や高加速状態では羽根がたたまれ,定常飛翔状態では速度に応じ羽根が開く
(=空力重心移動のキャンセル) のと同時に,羽根の捩れにより矢に回転運動を促すといった機構があります.

193 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 18:41:42
>軍記物や説話集を読めば

え? 創作物がソースになるんですか?

199 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/07/05(火) 22:19:07
>>193
所謂「歴史的事実」の参考には使えませんが,合戦の様相の変化や,宗教観
などを知るには,欠かせない史料ですよ.
近年は,『平家物語』などを利用した戦場の研究が,かなり盛んです.
200 :日本@名無史さん:2005/07/05(火) 22:48:44
>190
平家物語等では24本との記述がありますし,伊勢神宮の錦御靫は20本です.
古事記(?)には50本と書いてあったような・・・

何れにせよ狩猟なら30本程度で十分ですね.
速射だと3分〜5分で無くなる事になりますが>182が念頭に措いているのが,
戦時なのか平時なのか判断しかねます.
軍事板からというので私は勘違いをしておりました.

ところで個人が携行する矢が30本であると限定している軍記物とは何でしょうか?
すこし興味があります.

218 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 22:56:19
>206
現代の写真でも酢酸(古いか・・・歳がバレルw)に浸ける時間が短ければセピア色に変色しますが・・・

>207
何故ここまで数に拘るのか,違和感を感じていたのですが,ようやく理解できました.
いささか教条主義的なきらいがあるなと診ていたのですが,貴方は思い違いをなされています.
供立之日記などを読まれてみては如何でしょうか?雑兵物語の記述は大味過ぎてヤヤ分かりにくい
ですが,両方に目を通されれば何を間違えているのかご理解戴けるものと確信しております.

初心者質問スレの趣旨からはかなり外れてしまいましたが長長と御付合い戴き有難う御座います.
219 :日本@名無史さん:2005/07/06(水) 23:24:39
>現代の写真でも酢酸(古いか・・・歳がバレルw)に浸ける時間が短ければ
>セピア色に変色しますが・・・

そういうことを言いたいんじゃねえだろ.
揚げ足取りとほのめかししかできんのなら,
わざわざレスするな.
お前みたいなのをゲスと言うんだ.
220 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/07/07(木) 00:38:58
>>218
申し訳ないのですが,何を仰りたいのか,理解いたしかねます.
とまあ,こんな事にばかりレスを使うのもなんですので.

>209のご質問にお答えしたいのですが・・・遊女とはそういうものだという
説明であったのか,往年は前で結ぶのが珍しくなかったからなのか.
どちらもありえそうですが,記憶が混乱致しております.
221 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 00:52:40
>>169お願いします.
222 :日本@名無史さん:2005/07/07(木) 02:38:45
>220
>何を仰りたいのか,理解いたしかねます.とまあ,こんな事にばかりレスを使うのもなんですので.
人間には,幾つに成っても学ぼうとする姿勢が必要だと思うのですが
(誤った思い込みによる)無駄なレスを付けてきた貴方に,参考文献を
指示しても理解しようという意思を放棄するのであれば何も申し上げる
事はゴザイマセン.

只>219のように不満を感じている方もいらっしゃるようなので↓補足.

合戦が始まっても,敵が遠いうちは靫 (矢入れ) の矢は使わずに,
相方から手渡ししてもらって射るんだ.ただ,決められた距離より遠い敵を狙っ
ても駄目だぞ.焦らずに普段よりも落ち着いて狙いを絞って矢を射らなきゃいけ
ない.調子にのって無駄矢を射るのもご法度だからな.
http://frontierside.cool.ne.jp/jwa/research/yumi.shtml

要は,射手が単独で行動するという>207の前提は事実誤認であるということ.
動き易さを重視するのか,携えるだけ携えるのかは,射手の判断と部隊指揮官の
性向等に左右されるものであって,絶対普遍の数字をそこに求めるのは誤り.
今川大双紙には靫に矢を九本入れる理由としてゲイの故事がひいてあります.

235 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/07/07(木) 22:57:02
>>222
確かに,拾い矢も行われましたからね.しかし,楯突戦ならまだしも,常に
そうした悠長なやり方が出来たかというと疑問ですし,予備の補充まで含め
る事は,却って質問者の意図から遠ざかるだけでしょう.
「携行」とある以上,直接重量を支える「手持ち分」を求めてらっしゃる筈.
「従者に矢をもたせた場合」も質問されていますが,一人あたりの携行量を考
えれば,やはり一人当たりは30本程度が適量でしょう.
もっとも,質問者の要求された時代に従者からの矢の手渡しについて,詳細に
述べた記録は出て来なかったと存じますが・・・.
それに,平安後期〜鎌倉期の例を求めてらっしゃるのに,今川はともかく,雑
兵の例を持ち出される事は無いでしょう.
236 :日本@名無史さん:2005/07/08(金) 03:05:01
>>222は,定石的な数と,合戦での臨機応変の情況での数との区別がついてないバカ.
たまたまそういう情報を知っていただけで
それが優越的情報であるかのように錯覚して
誤った優越感に浸っている自己陶酔型のバカだな.

しかもセピア色にまでイチャモンつけたことは
すっかりスルー.w

247 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 03:54:24
>235
>楯突戦ならまだしも,常にそうした悠長なやり方が出来たかというと疑問です
弓射戦が主流では無いと本気で主張なされるおつもりですか?それとも筆が滑りましたか?
私の冗談は評判が悪いようですが,もし冗談では無いのなら,未だに名を明かさぬ軍記物
でも結構です.そう判断するに足る根拠をお聞かせください.

>予備の補充まで含める事は,却って質問者の意図から遠ざかるだけでしょう.
>「携行」とある以上,直接重量を支える「手持ち分」を求めてらっしゃる筈.
平安後期-鎌倉期に,戦いの最中,矢が尽きた(或は尽きかけた)事例は何一つ思い当たりませんか?
30本程度では数分で撃ち尽くす事は既に述べております.
戦いの実相から鑑みれば,矢を撃ち尽くす事が無いように,一人+数人が一単位として行動していた事を
指摘すべきです.

>「従者に矢をもたせた場合」も質問されていますが,一人あたりの携行量を考
>えれば,やはり一人当たりは30本程度が適量でしょう.
ところで・・・ここの文章を読み解くのは中中に難しいです.
多分ここは冗談ですよね?
それとも,従者は主人と同じぐらいの重量物を身に纏っているから,余計な弓袋の類は
一切持てないとお考えですか?

新編相模風土記稿に「ひらやなぐい二口 二口共製作同くして一口には矢十五筋を盛る.
是も弓と同く頼義の奉納と云.」とあります.鶴岡八幡宮の所蔵品です.
一人当たりは30本程度が適量とする貴方の妄言を否定するためには類例を
幾つ数えあげねばならないのでしょうか?

>もっとも,質問者の要求された時代に従者からの矢の手渡しについて,詳細に
>述べた記録は出て来なかったと存じますが・・・.
成程,“記録”・・・ですか・・・芥川の芋粥ではお気に召しませんか?
あ,駄目ですか,これは困りましたね.芋は嫌いなんですか?

248 :日本@名無史さん:2005/07/09(土) 03:54:47
葵祭では調度懸所役が弓矢を持っていますが,あの人たちは何の為にいるのでしょうか?
今昔物語集や吾妻鏡にも調度懸の記述がありますね.
さて困りました.私は何をもって根拠とすれば良いのでしょう・・・

>それに,平安後期〜鎌倉期の例を求めてらっしゃるのに,今川はともかく,雑
>兵の例を持ち出される事は無いでしょう.

>室町時代には,25隻が式正の矢数でした.多くても40隻前後です.>204
・・・もともと雑兵は供立之日記の補足の心算でしたが,論拠を提示していない
室町の某時点までが論述すべき範囲ということですか・・・
熱田神宮には三列九行の孔をあけた・・・止めます限が無い(馬鹿馬鹿しい

おそらく御返事は期待出来ないでしょうが,40隻前後収納できる矢入れとは
何でしょうか?墓穴を掘っていなければよろしいのですが,御教授戴ければ幸いです.
多分これも冗談ですよね(苦笑

貴方は日本語が御上手です.私としては貴方が言及をさけている供立之日記こそ
今,貴方が読むべきものだと考えているのですが,貴方が指定した字句に一字の誤りも
無い“記録”を指し示せと私に仰る.┐(-.-;)┌ヤレヤレ

日本史板,
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 織田信長が長篠の戦いで,鉄砲を有効に用いて勝利を収めたのは有名な話ですが,なぜ,その後の日本史では鉄砲や大砲の使用が,戦争を行う上での主流にならなかったのでしょうか?
 刀で戦う流儀が,江戸時代を通じて続いたことが,不思議でなりません.

 【回答】
 鉄炮や大砲の使用が主流になってるよ.
 何か勘違いしてるみたいだけど,江戸時代にはそもそも戦争が起きてない.
 小規模な騒乱の類いも稀.
 刀で戦う流儀(そんなものはないけど)は,公然と携帯できる武装がそれしか許されていなかったから,そうなった.
 具足を付けて鑓だの鉄砲だの持って歩いてれば,たちまちしょっ引かれる.
 町人やくざの出入や侍の敵討,決闘と戦は別.
 忠臣蔵でも吉良邸に突入して最初にやったのは,敵の弓の弦を切ることだった.

日本史板,2005/07/10(日)
青文字:加筆改修部分



** 【質問】
 江戸時代の権力者(=幕府)が,鉄砲や大砲を,戦争遂行上の鍵となる武器,と認識していたならば,戦闘員(=武士)の主力兵器を刀ではなく,鉄砲や大砲に転換することが可能だったと思うのですが,それはなぜ起きなかったのでしょう?

 【回答】
 だから,刀が主力だったことなんて無いんだって.
 元和以降の泰平の世になって,武芸としての鉄炮が下に見られるようになって,稽古をしない武士も出ましたが,鉄炮は重要なものであり続けました.
 入り鉄砲,出女って聞いたことありませんか?
 それぐらい銃砲類は警戒されていたのです.
 幕末には歩兵隊が組織されましたし,それ以外の武士の部隊も,全員銃装備編制にするよう,徳川慶喜が命令を出してます.
 会津藩でも脇差を外してまで,銃の教練をしていました.

日本史板,2005/07/10(日)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 1万石って領民の人口どれくらいですか?
 50万石なら単純に1万石の人口×50でOKですか?

 【回答】
 人一人年間に食べる米の量を一石と決めたので,領地の石数と人口とはほぼ比例しているが,江戸時代の大名の石高は「格」の表示にもなって,米とリンクしなくなった.
 松前藩のように米が取れない藩でも,石高表示した.
 また,長州藩は寛永の頃新田開発で,産出高は50万石超になったので,「格」上げを狙って,表示を改めるように幕府に申請したが,幕府からは7割に値切られたようだ.
 宇和島藩では10万石から3万石を吉田藩に分知したので,7万石になり格が下がったと悔しがった.
 格が下がると,江戸城で詰める間も変わって侘しくなるらしい.
 石高が多くなると,軍備や手伝い普請など負担も多いが,「格」が優先したらしい.

日本史板,2005/07/14(木)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 日本の軍隊は集団戦闘をせずに,
「やあやあわれこそはー」
って,武将?同士の一騎打ちで戦争をやってたから,元寇のときに,敵が集団で攻めてきたので,最初は劣勢でした…ってお話(説)あるじゃないですか.
 でも単純に考えたら,多対多の戦闘の方が有利なのは当たり前だし,中国とかから渡って来てただろう兵法書とかにも,集団戦闘のやりかたとか 書いてあったはずですよねえ?

 あと,大河ドラマとか見てると,今なら源平合戦だけど,集団戦闘してるし,あるいはNHKの特番なんかで大化の改新とかありましたけど,あれでも集団戦闘してましたし.
 ほんとの所はどうだったんですか?

 【回答】
 当時は一騎討ちが主流では無い.
 メインは騎乗した武者が弓を討ち合うこと.
 機会があれば奇襲や放火だってする.
 一騎討ちの相手を探してウロウロする馬鹿がいたら,もちろん狙い頃だ.
 大体『平家物語』からして,相手に殺されそうになったから命乞いして,助けてもらったところを騙し討ち,とかそんな話ばっかだぜ.

 結局,戦闘や戦争ってのは,所有している武具,動員できる兵士数,その他諸々の要因を含めて,合理的な形態に帰結する.

 元寇にしても,大量動員を前提とした戦法と,少数の戦争専門家用の戦法では,根本的に戦い方が違ったというだけ.
 また,攻撃の用意が出来ている軍が,不十分な体制の軍に対して優位なのは,ある意味当然.
 その意味では刀伊の襲来の折,賊を3度も撃退した壱岐島の僧常覚は,勇戦したと言えるだろう.
(単に攻撃側が無能だった,とも言えるが)

 大河ドラマについて言えば,歴代の監修(最近のは知らない)にはそれなりの人物が名を連ねているが,気にしないように(苦笑
 多分スタッフに尋ねられたら答えるが,聞かれもしない事には口をださないというスタンスだと思う.

日本史板,2005/07/15(金)
青文字:加筆改修部分

>日本の軍隊は集団戦闘をせずに「やあやあわれこそはー」って
>武将?同士の一騎打ちで戦争をやってたから,
>元寇のときに,敵が集団で攻めてきたので,最初は劣勢でした.

 『八幡愚童訓』という,『蒙古襲来絵詞』と並ぶ史料に出ている話ですが,名乗りを挙げての一騎打ちというのも,珍しいですよ.
 力量と身分が相応の相手と考えなければ,名乗りもせず,名乗り返されもしませんでした.
 名乗り返してもらえなかった例が,『平家物語』の熊谷直実,『義経記』の下人喜三太などです.
 騎乗者には,乗馬の郎党もいれば,直接サポートしてくれる徒歩の下人・所従もおり,主の相手の馬の足を払うなどの行動も示しており,一対一 や名乗りがあったからといって,固執していたとも思えません.

 なお,『平家物語』には,その頃から騎射よりも組打や打物による一騎打ちが流行ったと書かれていますが,騎射も已然として健在でした.
 元寇の時にも,騎射で何人か倒しています.

 ただ,最初から近接戦闘に移行した訳ではありません.
 まずは楯を突き立てて,矢を射掛け合う楯突戦から始まり,然る後に馳組戦と言って,直に近距離で戦うやり方に移行しました.

 では,元寇における日本軍の苦戦についてはどうか.
 刀伊の入寇では,敵の弓の威力が高く,日本側の楯を貫いたとありますが,北東アジアの弓の弾力は強いものであった様で,日本側も弓が発達していたと言っても,まだ苦戦する事もあったかもしれません.
 ただ,『八幡愚童訓』が宗教書であり,仏神による神風を称揚している事,文永・弘安の役でもそれなりに持ちこたえている事を考えれば,日本側 が手も足も出なかったという程では無かったでしょうね.

>中国とかから渡って来てただろう兵法書とかにも,集団戦闘のやりかたとか

 兵制の違いもあります.
 騎兵と歩兵の連携が見られるのは,南北朝時代からと言われますが,12世紀初頭にも見られるともいい,前者は新しい秩序の構築と戦術の変化によってもたらされたもの,後者は古代的な編成の残存と見られています.
 時代ごとの状況をご説明するのは大変ですが,「戦術を知ったとしても,各時代ごとの秩序に合わなければ,採用されない」という事を,ご了承下さい.

山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :日本史板,2005/07/15(金)
青文字:加筆改修部分


** 【追記】

577 :日本@名無史さん:2005/07/25(月) 21:29:41
昭和天皇が作戦計画を左右した例
・熱河作戦の一時指し止め
・2・26事件による反乱軍武力鎮圧方針の決定
・日中戦争初期の兵力増強,戦略爆撃実施方針の決定
・昭和14年度帝国海軍作戦計画の修正要求
・宜昌再確保への作戦変更
・バターン要塞への早期攻撃の実現
・重慶攻略の方針決定と取りやめ
・ガダルカナル攻防戦における陸軍航空隊の進出
・ガダルカナル撤退後のニューギニアでの新たな攻勢の実施
・統帥部内の中部ソロモン放棄論の棚上げ
・アッツ島玉砕後の海上決戦の度重なる要求と海軍の消極的姿勢
への厳しい叱責による統帥部引き締め
・陸軍のニューギニアでの航空戦への没入
・絶対国防圏での攻勢防御の実施
・サイパン奪回計画の実施
・沖縄戦における攻勢作戦の実施
・朝鮮軍の関東軍への編入取りやめ
「昭和天皇の軍事思想と戦略」山田 朗

日本史板,
青文字:加筆改修部分


** 【追記】

759 :日本@名無史さん:2005/08/04(木) 12:46:45
15年戦争という言い方は,左翼系の学者や市民団体が好んで使う用語であり,
教科書とかマスコミではさすがに使用してないんじゃないのかな.
偏ったスタンスの用語だから,俺は好きじゃないし,自分から使うことはないけど,
これを批判するとき,「15年」という言葉をガチガチに考えるのはどうかと思う.
百年戦争とか第二次英仏百年戦争とかいう場合でも,百年丁度で数えてるわけでなく,
断続的に戦争が続いていた期間の概数として「百年」といっているわけだしね.
だから,>>755みたいに左翼だから数字にいい加減という言い方はどうかと思う.

1931年から45年までの戦争の総称として,約15年間の戦争という意味では
別にかまわないと思うが,現実での使われ方が左翼の党派的なものである以上,
まあ普通の人は使わないし,普及もしないだろうけど.

日本史板,
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 華北工作について教えてください.

 【回答】
 コトバンクより,著作権が発生しないと考えられる範囲で抜粋すると…

 日本が満州事変を起こして中国の東北4省を占領したのち,これに接する河北省(冀),察哈爾(チヤハル)省(察)をはじめ山東,山西,綏遠の華北5省 を中国国民政府から切り離し日本の支配下におこうとした工作.
 〈満州国〉の抗日運動を孤立させ,対ソ戦に備えて軍事基地を確保し,あわせて鉄,綿花など重要資源に富む華北を日本の経済ブロックにとりこもうというねらいがあった.
 〔中略〕
 1933年5月の該沽(タンクー)停戦協定で,日本軍は河北省北東部に非武装地帯を作らせ,監視権を認めさせたが,これが華北工作の足がかりとなった.
 国民政府による中国統一を嫌う日本陸軍の支那駐屯軍は,35年6月には排日運動を理由に梅津・何応欽協定を強要し,国民党部,中央軍と東北系軍隊を河北省から撤退させた.
 察哈爾省でも関東軍が,同様の処置をとらせた(土肥原・秦徳純協定).

 中国は外交交渉を求めたが,広田弘毅外相は停戦協定にもとづく軍事行動だとして応ぜず,軍部の二重外交を是認した.
 国民政府は屈して排日運動取締りの命令を出した.
 しかしこれに対して東北の抗日遊撃隊の全指導者は,統一的な抗日政府の樹立を呼びかけ,大西遷途上の中国共産党が八・一宣言を出すなど抗日救国の動きが起こった.
 11月には親日派の汪兆銘外交部長が狙撃されて下野し,その直後に国民政府はイギリス人財政家リース・ロス F. W. Leith‐Ross の援助で幣制改革を成功させ,中国の経済的統一を促進した.

 日本軍は華北の軍閥をとりこもうとしたが成功せず,殷汝耕を主席に,11月に非武装地帯を中心に冀東防共自治委員会(12月,冀東防共自治政府と改称)を作らせた.

 国民政府は殷を国賊として逮捕令を出したが,日本との衝突を避けるため,12月に河北・察哈爾両省と北平(北京),天津両市を管轄する冀察政務委員会を作り,第29軍長の宋哲元を委員長とした.

 しかし北平の学生たちは,華北分離に反対する一二・九運動を起こした.
 36年2月には陝西省に根拠地を作った共産軍が,山西省に進出して〈内戦停止,一致抗日〉を呼びかけた.

 日本は排日停止,満州国承認,共同防共のいわゆる広田三原則を,中国に要求していたが,5月には支那駐屯軍を増強した.
 冀東防共自治政府は2月から,正規関税の1/4の手数料をとって,いわゆる冀東密貿易を公認し,日本軍はこれから工作費を吸い上げた.
 同地方は日本の密輸商人らが横行,中国の民族産業は打撃をうけた.

 中国の抗日の気運は高まり,綏遠事件,青島在華紡ストをへて,12月の西安事件で内戦停止,国共合作への道が開かれた.
 日本でも中国再認識論が起こり,林銑十郎内閣の佐藤尚武外相は,平等互恵の立場から国交改善をはかると言明し,陸軍参謀本部の石原莞爾作戦部長も華北分治政策を抑え,華北経済開発を優先させる方針をとった.
 だが,これも軍事色の濃いものだけに,中国側の抵抗で難航すると,強硬論がもり返した.
 そして近衛文麿内閣が成立し,広田外相が再任されてまもなく,蘆溝橋事件をきっかけに,日本は中国との全面戦争へとつきすすんだ.

日本史板,2005/08/05(金)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 戦国時代,姉小路・北畠・一条は,何で地方に居たのにも関わらず,三位以上の官位官職につけたんですか?
 そもそも北畠って,室町治世下では賊軍のはずでは…?

 【回答】
 室町時代の北畠氏は(伊勢の北畠氏も奥州の浪岡御所もいずれも),肥後の菊池氏や奥州の伊達氏と同様,南北朝合一時に北朝に帰順する代わりに,それ相応の地位を室町幕府によって保証されたという側面が強いでしょう.
 もっとも,その後も室町幕府に対して反抗的だったのも事実で,正長年間には北畠満雅が,幕府に対して反乱を起こしています.
 このあたりの事情は,『南方紀伝』などに詳述されています.

 公卿(三位以上)になれるのは,祖先が代々そうだったという先例に基づくからとしか言いようがありません.

 なお歴史上,京都に常駐していなくても三位以上になっている例としては,鎌倉幕府や江戸幕府の将軍を筆頭にして,戦国期に地方に下向していた多くの公家や,豊臣政権下における五大老クラスの大大名など,結構例があります.

 ちなみに,伊勢北畠氏・飛騨姉小路氏・土佐一条氏を俗に「三国司」などと言いますが,南北朝時代から現地に土着している前2者に対し,一条氏の土佐下向は,応仁・文明の乱以降なので,成立には若干の違いがあります.
 こうした成立事情まで考慮すると,性格的に前2者に似た例としては他に伊予西園寺氏が,後者に近い例としては文亀年間に和泉に下向していた 九条政基が上げられると思います.

 但し九条政基の場合,下向の直接的な契機は,公家の唐橋在数を殺害して勅勘を蒙ったからなので,やはり特殊例かもしれません.

日本史板,2005/08/06(土)
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