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ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.
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また,著作権上問題のある回答が意外に多く,これも除外.
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【初心者】スレッド立てる前に質問を Part11【歓迎】
目次
** 【質問】
なぜ家光が亡くなった時だけ,5人も殉死者が出たのでしょうか?
しかも堀田阿部といった幕府の高官の名前もあり,驚かされます.
さらに,殉死した彼らに殉死する者もも出て,その数は合計二十数名に達したそうです.
まあこんだけ亡くなれば,その後保科正之が殉死を禁じたのも分かる気がします.
家光以前の将軍について調べてみると,秀忠には一人殉死者がいたそうですが,家康に至ってははゼロ.
(検索で「家康に殉死」,「秀忠に殉死」で調べただけなので,実際は違うかもしれません」)
なぜ家光の時だけ,こんなにも殉死者が出たのか理解できません.
殉死した彼らは,本当に忠誠心のみから殉死したのでしょうか?
何か他に理由はないのでしょうか?
【回答】
例に挙がっている徳川家光への殉死の場合,老中・堀田正盛は家光の愛人だった.
そのため,慣例的に殉死せざるを得なかった.
また,戦国時代と異なり,戦争の無くなった江戸時代には,戦で生死をかけて奉公すると言った見せ場が無くなり,そのために主君の死と共に後追い自殺をする殉死が流行ったと思われる.
戦国時代に生まれ育った家康,秀忠には殉死がなく,家光に殉死者が出たのはそれが原因と考えられる.
しかし,保科正之ら儒教的観点を強く出す施政の方向によって,殉死は禁止の方向に進む.
が,江戸から離れた藩(特に九州の外様の大藩)では,殉死をするものがそれでも多かったらしい.
殉死に関しては『切腹』『武士と世間』(山本博文著)の一読を,とりあえずお薦めする.
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4334031994/250-3577860-7554666
日本史板,2005/04/12(火)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
戦国時代の合戦中,人を斬って使い物にならなくなった刀は,捨てるのでしょうか?
そして,死体から刀を奪って戦い続けるのでしょうか?
【回答】
残された屏風絵などをみると,鎌倉や室町の頃は,二本以上の刀を携帯している武士の姿が描かれている.
槍の出現には諸説あるが,九州の菊池氏による菊池槍が原型ともいわれている.
武器としての殺傷力が高いので,戦国時代は主武器になった.
刀はあくまでも補助的な武器であり,槍がダメになったら刀,刀がダメになったら脇差しと,基本的には武器は消耗品だった.
大将や位の高いものは,象徴的な意味で銘刀を持っていたが,殆どの兵にとってはあくまでも消耗品.
甲冑組み討ちの武芸が発達したのも,相手を組み伏せたり,武器がなくなった時の最終手段.
吉川英治の宮本武蔵の中で,戦場の鎧とかをはぐシーンがあるでしょ.
合戦が終わった後で,近隣の農民などが残った具足や武器など,使えそうな物ははぎ取って転売したし,折れた刀や槍,鏃などは,村の小鍛治が打ち直して再利用した.
日本史板,2005/04/17(日)
青文字:加筆改修部分
** 【追記】
156 :日本@名無史さん:2005/04/19(火) 22:26:07
>越訴
近世では,訴訟の法に定められた順序を乱す違法な直訴(じきそ)のさまざまな
方法を広く指す言葉となった.武士・公家から庶民に至るまで,一方では私的な
争論を禁じ,他方では順を踏まない越訴を禁じて,訴訟の制度にもとづき大小の
紛争を解決するというのが江戸幕府のたてまえであったが,実際には越訴は根絶
できず,それへの対処も変化した.
百姓一揆の多くは,単独か少数あるいは多数の農民の越訴行為であった.1603年
(慶長8)に徳川家康が定めた郷村掟(ごうそんおきて)では,直訴を原則として禁
じたが,代官が不当であるときは特別に認めた.実際には農民の領主に対する直訴
は止まず,また手続を踏んだ訴訟もふえた.
33年(寛永10)に幕府は訴訟手続を制度化したが,反面で直訴は全面的に禁止した.
しかし,村役人が村の利益を代表して越訴することは17世紀の百姓一揆の特徴
となり,18世紀にはいると惣百姓が直接に集団で越訴する強訴(ごうそ)が増加する.
日本史板,2005/04/19(火)
青文字:加筆改修部分
<保留>
** 【質問】
------------
19世紀末,日本は日清戦争に勝利し,台湾の統治権を得ました.
これ以後約50年間,台湾は日本の植民地となりました.
日本の統治に対して,当初は台湾住民の抵抗が強く,約5年間続いた紛争では,1万人以上の台湾人が戦死したり虐殺されたりしました.
台湾人は二等国民とされ,日本人などと差別されました
------------
これは事実ですか?
【回答】
おおよそ一万人死んだことは事実だよ.
だが,戦闘行為で人が死ぬのは当然のことだろう.
日本政府に反抗した者を投獄などはしたようだが,それを理由に死刑に処されたものはいない.
民間人を殺す兵士はいたかもしれないぐらいの想像はできるが,それをもって日本軍の虐殺と言うかね?
あるいは戦闘の渦中で民間人が死ぬことを,虐殺と言うのかね?
書き方に恣意的なものが感じられるね.
併合した朝鮮人は日本人として扱われたのに比して,植民地である台湾人は二等国民として扱われたのも事実.
当時としては普通のこと.
色々書きたいが,キリが無いのでこの辺で.
201 :日本@名無史さん:2005/04/26(火) 13:43:56
法律上の日本人=日本臣民は外地民を包括する概念で
「台湾人」が日本人に含まれなかったり,対立する概念であるかのように言うのは
明白な事実誤認.
ちなみに法令上は台湾に本籍を有する日本人は本島人と
称せられた.
202 :日本@名無史さん:2005/04/26(火) 14:19:42
反抗する島民を武力で鎮圧したぐらいの表現だったら教科書に書いてあるね.
その是非については>>195よ.ここは質問スレ.
議論がしたければ他にスレがあるだろうから行きなさい.
相手してくれる人はいくらでもいるだろう.
>>200
んー190の書き方は大雑把過ぎるが,
台湾人は権利,義務が限定されているんじゃないかな.
二等国民という言葉はそれを指して俗に使われていたのだろう.
例えば台湾人は朝鮮人と違って徴兵の義務が無い.
1942年から陸軍特別志願兵の募集があり,志願の形でのみ軍への入隊が許可された.
しかし日本人か,日本人ではないのかと言ったら日本人だな.
203 :日本@名無史さん:2005/04/26(火) 14:26:49
まあ質問スレが2つ立ってるのは,
次スレの時なんとかしたほうがよいと思うのだが.
204 :日本@名無史さん:2005/04/26(火) 14:43:49
>>202
44年9月に台湾にも徴兵制が施行されてるけど?
朝鮮に徴兵制が施行されたのも43年8月からなので一年違いでしかない.
206 :日本@名無史さん:2005/04/26(火) 15:32:07
選挙権・被選挙権
朝鮮アリ
台湾ナシ
208 :日本@名無史さん:2005/04/26(火) 17:44:31
>>206
間違い.朝鮮台湾の住民に選挙権が付与されたのはともに
1945年4月1日の衆院議員選挙法改正から.
215 :日本@名無史さん:2005/04/26(火) 23:59:11
戦前の在日には参政権があった
朝鮮の歴史で意外と知られていないのが,戦前の内地(日本本国内)に住む朝鮮人には日本人と同じように参政権があったことです.
1920年の衆議院選挙では,所定の納税者(租税3円以上)の朝鮮人が選挙権を行使しています.
そして1925年には普通選挙法が成立し,納税とは関係なく選挙権・被選挙権が与えられることになりました.
朴春琴は1932年から42年までに実施された四回の衆議院議員選挙に東京4区で立候補し,うち32年と37年の二回当選しています.
在日では他に何名かが立候補していますが,落選となっています.なお地方議会議員選挙でも立候補した在日はかなりの数にのぼり,当選も少なくありません.
ハングル投票が認められていた
さらに選挙では有権者はハングルで投票することが認められていました.
1930(昭和5)年1月31日に内務省法令審議会はハングルの投票を有効としたのです.
ハングル投票が予想される選挙区の投票管理者には,諺文字(ハングルのこと)書が配布されました.
植民地の文字が宗主国の選挙で使用を認められたのは,世界植民地史上おそらく唯一ではないかと思います.
参政権では差別がなかった
朝鮮や台湾という植民地(当時は外地と呼ばれていました)に居住する者は,日本人でも参政権はありませんでした.
日本人も朝鮮・台湾人も内地に住む者だけに参政権があったということです.
つまり参政権において内外地の差別はありましたが,日本人と植民地人との間には同じ大日本帝国臣民として差別はなかったということです.
これはまた,在日も帝国臣民として運命を同じくした時代であったと言うことができます.
227 :日本@名無史さん:2005/04/27(水) 19:12:50
>>222
徴兵は属人主義で,参政権は属地主義だよ.
内地人は帝国内のどこに住もうが本籍地の連隊に徴兵されたが
外地人はどこに住もうが徴兵されなかった.
内地人でも外地人でも内地に住めば参政権を行使できたが
外地に住むとできなかった.
228 :日本@名無史さん:2005/04/27(水) 19:15:54
これを持って帝国には外地人への差別(不利益処分)は
無かったという向きもあるが
外地に住んでいる圧倒的多数の市民は外地人である以上
事実上外地人への差別と言ってよかろう.
日本史板,2005/04/26(火)
青文字:加筆改修部分
** 【追記】
183 :日本@名無史さん:2005/04/24(日) 19:40:28
明治維新前,薩摩の人間と会津の人間はお互いに訛りが酷くて
言葉が通じなかったと聞いたんですが,本当ですか?
そういった逸話が何か史料に残っているんですか?
207 :日本@名無史さん:2005/04/26(火) 16:34:24
>>183
187に補足しておくと,昔から日本は琵琶法師や太平記語りが各地を巡回して,
角付けなんかをしていたから,方言の格差ははなはだしかったが,ある程度の
教養がある人間はそういった謡の節に合わせた言い回しを,標準語のかわりに
借用していた.明治維新では薩摩の人間は浪曲の言い回しを使ったとか.
竹本義太夫は元禄の頃にすでに名古屋の大須などで興行を打っていたりしていて,
わりと早い時期からそういった芸能は全国的な興行をやっていたのが分かる.
歌舞伎役者なども江戸・大坂以外に地方巡業をよくやっているしね.
言葉がまったく分からないと,そういうわけにもいかんでしょ.義太夫や
歌舞伎なんかの誇張された言い回しは,地方の人間にも理解できる言葉だったわけだ.
吉村昭の『島抜け』などを読むと分かるが,江戸時代後半だと義太夫や講釈師が
地方にドサ回りをしているし,地元の趣味陣がそういう芸人を呼んでの会とか,
わりと頻繁に開いている.「島抜け」は大坂の講釈師が島流しになった種子島から
島抜けした実話だが,脱走後の紆余曲折の後,九州で講釈をして路銀を稼いでいたようだし,
小説とはいえ吉村先生の考証や資料収集はしっかりしているので,実際にそうだったんだろうね.
日本史板,2005/04/26(火)
青文字:加筆改修部分
** 【追記】
220 :日本@名無史さん:2005/04/27(水) 11:32:44
秀吉の子孫って今もいるんでしょうか?
秀頼の娘が夏の陣の後も生きてたらしいですが
221 :日本@名無史さん:2005/04/27(水) 11:57:18
>>220
秀頼の娘は,徳川幕府の命により出家させられて尼になりました.
「天秀尼」と名乗っております.
その後鎌倉の東慶寺の住職となりますが37歳でなくなっています.
一生独身でした.
ttp://tikugo.cool.ne.jp/osaka/busho/sonota/s-tiyohime.html
天秀尼には異母兄の国松がいましたが,
大阪夏の陣の跡直ちに徳川幕府によって捜索の手が入り,見つかって処刑されました.
ttp://tikugo.cool.ne.jp/osaka/busho/sonota/s-kunimatu.html
で,公式にはこれをもって豊臣家の血統は断絶とされています
が,先に述べた処刑された秀頼の息子は実は替え玉で
本当の息子は北政所の一族・木下家(日出藩主)に匿われて生き延びたという説もあります.
ttp://www3.coara.or.jp/~primrose/tateisi01.html
日本史板,2005/04/27(水)
青文字:加筆改修部分
<保留>
** 【質問】
【回答】
234 :日本@名無史さん:2005/04/27(水) 23:04:06
>>232
1938年 3月 4日 朝鮮教育令改正,朝鮮語の授業必須からはずす
1941年 3月31日 国民学校規定改正,朝鮮語の授業全廃
235 :日本@名無史さん:2005/04/27(水) 23:39:02
日本統治時代に朝鮮語は抹殺され,日本語が強制されたと批判する声が強い.
しかし実際は,そうすることを熱心に提唱した朝鮮人がいたのである.
玄永燮(日本名天野道夫)は,自分の著書『朝鮮人の進むべき道』(1938)の中に「朝鮮語僕滅論」を書いている.
その一節――
〈朝鮮人は,朝鮮語を忘れてしまわなければならない.朝鮮人が日本語でものを考えた時こそ,朝鮮人が最も
幸福になった時である.…われわれは頭のてっぺんから足の爪先まで日本人なのである.
…学校で朝鮮語を教える必要は毫もない.朝鮮人を不幸にしようとするならば,朝鮮語を永続させて,朝鮮的な
低級な文化を与え,それ以上の発展を阻止することである〉
玄永燮・朴煕道(「三・一独立運動」時の民族代表の一人)等が南次郎:第九代朝鮮総督に,
「朝鮮語使用の全廃」を提起した際に南総督はむしろ極力反対したことが記録に残っている.
日本史板,2005/04/27(水)
青文字:加筆改修部分
** 【追記】
315 :日本@名無史さん:2005/05/06(金) 23:28:23
>>306
江戸時代の城を思い出してごらん?天守閣は除いて.
周囲に堀をめぐらして,壁でしきられたいくつもの郭によって
構成されているよね.
で,その明石の寺のつくりをみてごらん?
江戸時代のつくりなら,周りに白い立派な壁がめぐらしてあるでしょう?
場合によっては堀も周囲に存在するかもしれない.
つまり,寺のつくりは,城を構成するひとつの郭と同じつくりであって,
さらにそれが一箇所に集めてあるならば,相互にその郭が支援しあうことも
できる.ある意味,城そのものなんだ.
さらには,寺にはある程度の物資が集積され,厨房などの施設も整っている.
出城としてはぴったりの機能を持っているんだ.
あと,建築物の所在地をみるときには,地形も大切.
海岸に近いのなら,大型建築物に耐えるだけの硬い土地が
そこしかなかったのかもしれないし,河口が近くにあって
水害の惧れがない場所がそこしかなかったのかも知れない.
まぁ,こういった説明から,あてはまるものを探してくれい.
日本史板,2005/05/06(金)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
島津斉興は異常に斉彬を嫌っていたみたいですが,これにはどういう理由があるのでしょうか?
藩のことを考えたら,有能な息子に藩を譲り,藩政を拡大維持させるのが,親としても喜ばしいこと.
しかし,20年以上藩の統領にしがみつくなど,尋常ではありません.
それが原因で,お由羅騒動なども起きています.
何か深い理由があると思うのですが,ご存知ではないでしょうか?
【回答】
斉興や家老調所広郷の考えでは,
「斉彬の世になれば,曾祖父重豪にならって,蘭癖のため藩庫をからにするであろう」
と,藩の前途を危ぶんでいたから.
そのため,48年(嘉永1)には世子斉彬は40歳の壮齢であったが,斉興は藩主の座を譲らなかった.
嫡子の斉彬は,江戸で隠居していた曾祖父・重豪によって教育されていた.
この重豪というのが「蘭癖浪費大名」で,元々脆弱だった薩摩藩の財政は,重豪の代で破綻寸前(事実上は破綻していたが)に追い込まれている.
これをハッタリと根回しでチャラにしたのが,調所広郷.
調所自体は元々,重豪の一声で重用された家老だが,借金返済の一点で,斉興と一心同体となっていた.
この借金返済策は大坂商人への踏み倒し,家臣の領地召し上げ,領地からの更に厳しい年貢取り立て
(奄美などではこの政策のため,領民にはまともな食料が無くなり,餓死者が続出したという)
など,かなりひどいもので,その怨嗟の声をもろに受ける立場の斉興には,
「祖父・重豪の尻拭いをさせられた」
という恨みがあったと思われる.
よって,その重豪の薫陶を受けた斉彬には,いくら実子でも絶対跡を継がせたくなかったらしい.
後に斉彬は,父に先立って急死するが,これにも「父・斉興の手のものによって暗殺されたのではないか」という説が根強くあるし,斉興が斉彬死後藩主となった忠義(斉彬の甥)の後見をしたときには,かなり古風な政策を復活させてる.
日本史板,2005/05/07(土)
青文字:加筆改修部分
** 【反論】
500万両の借金の利子をナシにして貰い,年2万両ずつの250年賦にしたことを以て「踏み倒し」という表現が多いが,薩摩藩は廃藩置県で薩摩藩が消滅する明治の世まで,年2万両を律儀に返済している.
一銭も払わなかったような印象を与える「踏み倒し」という表現には,鹿児島県民としては違和感を覚えるな.
踏み倒し同然ではあるのだが,もうちょっと田舎者の生真面目さも持ち合わせていたのだから.
それと,江戸時代は利子が元本を超えたら,それ以上の利子は付けないという暗黙のルールもあったのだから,利子をなしにして貰ったのも,それほど悪辣な行為ではない.
40年近く2万両ずつ返していて,廃藩置県で借金の借り主が消滅したのだから,踏み倒したのは明治新政府(笑
【再反論】
借りたのは島津家.
薩摩藩(ってのは幕末に藩が認められたので,あるにはあった)が借りた訳じゃない.
島津家はドサクサに紛れて借金踏み倒し,元金すら返済してない.
>それと江戸時代は利子が元本を超えたらそれ以上の利子は付けないという
>暗黙のルールもあったのだから,利子をなしにして貰ったのもそれほど悪辣な行為ではない.
250年分の利子が,500万両に含まれているのでは?
文化4(1807)年に76,128貫余(126万両)だったものが,20年間で文政10(1827)年の320,000貫余(500万両)まで膨らむことは考えられないから .
日本史板,2005/05/10(火)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
陸士海大出と帝大出は,どちらが優秀だったのですか?
【回答】
時代により異なりますが,無料の軍学校と学費の高い帝国大学では
(戦前は私立も官立も学費は同じぐらいでした.明治大学だけがダンピングだったはずです)
比べることが難しいと思います.
しかし,帝国大学で入学が難しいのは法学・医学・工学などの学部で,文学などは全入に近い状態.
二次,三次と繰り返しの募集がかかることもありました.
(ちなみに二次以上の募集がかかると,高等学校出身者でなくとも入学が可能になります.
戦後,文学系の教授などは,師範系,専検,神宮皇學館などを卒業した後に,帝国大学に入学した人もいました)
ただし興味深いのは戦後,軍学校の在学生たちを,旧制師範学校に入学させるために試験をしたところ,合格率が低かったことです.
戦時下において,唯一まともな勉強ができ,かつ辛うじて昭和18年に専門学校に昇格した師範学校に編入が難しかったことを鑑みると,なんとも言いがたいです.
日本史板,2005/05/15(日)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
戦国期における地侍と正規の武士の違いは,どの辺でしょうか?
家の先祖は戦国期,小さな城の城主だったんですが,調べてみると地侍ぽいというか,兵農分離をして無いような印象を受けるのですが・・・
江戸期になり庄屋になったわけですが,帰農した場合は地侍=庄屋,正規の武士=郷士みたいですが・・・
【回答】
江戸時代でも千人同心や牧士,興福寺の神人など周縁身分の人々は多数いた.
たまたま読んでいた本に出ていたんだが,天正19年(1591年)8月21日,秀吉がいわゆる身分法令を出している.
武家奉公人が町人・百姓になることや,百姓が田畑を捨てて賃仕事などに従事することを禁止するとともに,「侍(若党)」以下の武家奉公人が,勤め先から勝手に退散することを禁じた.
退散した奉公人を雇うことも禁止し,元の主人に返すように決めた.
侍という定義が分かりにくいので補足しておくと,武家の人間は藩士,藩士の家来,若党(侍),中間,小者と分類され,藩士から若党までが武士身分,若党から小者までが武家奉公人と(別のところで)説明されている.
また,元藩士でも禄を離れると「牢人」と呼んでいる.
以下は想像も入るが,禄を食んでいれば藩士として登録されているし,百姓町人なら人別帖に載っているし,田舎から出てきて人別がなけば,身元引受人を立てて人別に載せてもらうとか,請書を作ってもらって勤めに出るとかしていたみたいだ.
口入屋が請書を作るとかもあるみたいで,融通が効いたみたいなところもある.
百姓武家奉公人は,藩や雇い主の財産みたいな要素もあるので,結構管理されていたと見ている.
(とはいえ,百姓は年貢を納めていれば,普段はどこへ行くのも勝手というのがあり,武家奉公人の一部は,百姓から臨時調達というのもある)
ま,先の法令が出るまではぐずぐずだったと思われる.
続いて読んでいて出ていたのだが,さる藩の若党が,浅草ですりを捕まえて傷を負った.
町奉行が聞くと○○藩の藩士だというので,その藩に問い合わせたら,若党だった.
両刀をたばさんで見た目は武士だが,その藩では若党に名字を名乗るとか,藩士身分でないのに藩士を名乗るのを,戒めたというのがあった.
勝手に会社名を名乗って,電機器具やガス器具の点検に来たと言うのに似ている.
日本史板,2005/05/18(水)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
忠臣蔵 松の廊下刃傷事件について質問です.
赤穂藩は勅使応接役で,吉良はその指導係だったんですよね.
しかしながら,勅使は幕府の客のはずです.
何ゆえ赤穂藩が応接役なのでしょうか?
大事な勅使の相手を,幕府が赤穂藩に丸投げ?
普通,幕府が直接応接すると思うのです.
【回答】
勅使応接役ではありません.
勅使饗応役です.
大名たちは,武臣として徳川幕府に仕えています.
ということは,幕府の指令に応じて,本人が従軍する義務があるわけです.
(参勤交代で,江戸に詰めるのも建前上はそういう理由からです.)
ところが,太平の世になると,従軍する・させる機会がありません.
つまり,「大名は幕府の家来だぞ」「幕府は大名の主人だぞ」と確認・アピールする機会もないということです.
そこで考え付いたのが,城の建築事業に大名を動員することです.
城の建築は,大名が多数の人員と物資を提供して,幕府のために軍事施設を建設するという意味で,軍役と似通った性質をもっています.
これは「天下普請」とよばれました.
幕府はそうやって,再建大坂城,姫路城,駿府城,名古屋城をつくりました.
でも,そういった建築事業も一段落してしまうと,どうするのか,
そこで考え付いたのが,勅使の接待とかそういった「政治向きでないお役目」に,大名たち本人を動員することです.
大名たちは,武臣であると同時に所領では行政官であり,「家」という単位での外交官でもあるから,そういった能力も期待できたからです.
つまり,幕府に大名が奉仕することによって,幕府・大名間の主従関係を再確認する,その手段として「勅使饗応役」は利用されている,ということです.
日本史板,2005/05/28(土)
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** 【質問】
大隈が足を悪くしたのは,1889年に玄洋社の人に襲われたのが原因でしょうか?
その事件に〇〇事件みたいな名前はありますか?
襲った原因は何でしょうか?
【回答】
質問の通り,玄洋社の人に襲われたのが原因.
「大隈重信遭難事件」と呼ばれる.
事件の概要は,1889年10月18日,外務大臣を務めていた大隅重信が,条約改正を審議する閣議を終えて,馬車に乗って外務省に戻ってきたところ,門の付近で待ち伏せしていた男が爆弾を投げつけたというもの.
その爆弾により,御者は吹き飛ばされ,大隅重信も足に重症を負った.
犯人は玄洋社の来島恒喜31歳.
来島はその場で,皇居の方角に向かって正座をしたかと思うと,短剣を抜いて自害した.
大隅重信は病院に運ばれ一命を取り留めたが,右脚を切断するほどの重傷を負った.
当時,大隈重信は,不平等条約改正問題に関し,
「民事の訴訟に就て,原告被告のうちに外国人の関係があった場合には,大審院に於て裁判するに当り,その国の判検事も立会い,合議の上に判決する.
その判検事は,予め条約国の外人を任用して常設する」
という改正案を各国に提案しようとしていた.
つまり治外法権に代えて,大審院に外人法官を雇い入れようとするもので,右派輿論はこれに対し,
「苟くも独立帝国の司法権に,外人の立入を許すとは何事だ」
と反発していた.
来島の動機もこれと考えられている.
その目論見通り,大隈案は事件後に破棄された.
なお,その後,大隈は自分の足を吹っ飛ばしたテロリスト来島恒喜を手厚く葬り,墓に墓碑を建てている.
日本史板,2005/05/30(月)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
明治維新後に反乱を起した士族は,何が不満だったんでしょうか…?
【回答】
関ヶ原で負けて以来250年,その間西南諸国(その中の西軍側)はずーっと耐えてきたわけです.
領地を削られたのに人は減ってないから,俸禄が削られて下士の生活は苦しいものでした.
西郷さんなんかも半分は農民の郷士で,随分苦労してます.
長州もです.
その間,戦もなく,領地を増やす機会も恩賞をもらう機会もありませんでした.
そこへ戊辰戦争が起こり,憎っくき徳川幕府を打ち倒した.
それまでの感覚なら,勝ったほうが負けたほうの領地を分捕って,配下にも多大な恩賞があると考えるのは不自然ではなかったのです.
ところが最早,そういう時代では無かった.
日本を近代国家にしようと志す維新政府の人達は,そうした願望をコナゴナに打ち砕いてしまいました.
だけど皆が皆,目が開けてるわけじゃなかったし,政治で活躍できるのも極一部だけ.
武士の生活の基盤としての俸禄を打ち切られ,精神的なよりどころである,武装する権利と戦う権利を剥奪されます.
自分達を蔑ろにしていると,彼らは思ったわけです.
端的に言うと,自分達はもっと良い目が見られると思っていたのに,当てが外れたということです.
もちろん西郷の下野等,引き金になった出来事はありますが,根底にはそういう理由があります.
薩摩と他の雄藩は,多少区別する必要があるかもしれませんけどね.
(西郷の人望は大変に篤かったので)
でも,日本最強と思われた薩摩の士族が,政府軍に負けたから,自由民権という「大義」を掲げて,議会での巻き返しを図った.
自由党・改進党が与党になった時の猟官運動の凄まじさと,その後の選挙で議席を守るために,凄まじい選挙妨害をしまくったことを見れば,彼らがいかに主流派になることに執着したかハッキリしている.
政治なんて主流派・多数派にいなければ,具体的な政策実現もできんから,仕方ないっちゃ仕方ないが.
日本史板,2005/05/31(火)〜06/01(水)
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
江戸時代の旗本は,だいたい五千石クラスで,どれくらいの陪臣を養っていたのでしょうか?
また,旗本の陪臣はどのような仕事をしていたのでしょうか?
【回答】
まず,「軍役令」でぐぐってみたらどうでしょう.
軍役令は何回も出ていて段段軽減されています.
旗本のではないのですが,長州藩の資料に寛永10年(1633)の軍役令での藩の体制の説明があり,先ず5000石だと,騎乗の武士5人とその他23人となっています.
その他は鉄砲,槍,旗などの必要数からの換算です.
騎乗の武士(200石以上が該当)は禄高で,また供の数が決まっています.
200石なら,侍1人とその他7人です.
騎乗の武士5人とも200石なら,5x9=45人になります.
先の23人を加えると68人です.
(5000石貰って1000石しか陪臣に出していないのか,オカシクはありますが)
1万石の大名は総勢235人とかの数もありますので,騎乗の武士5人が全部200石ではないでしょうから,5000石なら100人は超えて,大名の数の半分に近い数になるんでしょう.
で,陪臣というと正規の武士ですから,騎乗の武士を含む禄高を食んでいる人間になりますが,数十石の禄とかの話もよくありますので,5人以上どれ位かは見当がつきません.
知行地があちこちに分散していたりすると,そうでない旗本に比べれば,人数は必要だったかも知れません.
また,陪臣の仕事ですが,江戸の町奉行の話などでは,萩藩の用人が奉行に会う前に,奉行の用人に根回しして奉行に会ったり,奉行の伝言を聞くくだりがありますので,課長が部長の手足になり,係長は課長の手足になるようなことと似ていると思います.
尚,財政が苦しくなり,禄の召し上げとかあるので,時代が下るとこの人数もあやしくなるようです.
中間もパートで済ますとかね.
いつの世も同じ.
日本史板,2005/06/07(火)
青文字:加筆改修部分
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