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※青文字:加筆改修部分
ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.
※既に分類され,移動された項目を除く.
また,著作権上問題のある回答が意外に多く,これも除外.
※レス回収基準は「Ver.6」
【初心者】スレッド立てる前に質問を Part10【歓迎】
目次
** 【質問】
戦国時代に大砲は使われていたの?
【回答】
大筒,石火矢と呼ばれ――後者は煙草のことも指しましたが――1580年代後半には,九州で大友氏や,九州に移された小西・加藤氏などが使用していました.関が原の合戦の前後にも東・西両軍が使用しています.
関ヶ原の戦いでは,その半年前に漂着したヤン・ヨーステンが,同僚ら数名とともに家康の要請で参戦しました.
彼は航海士であるとともに,砲手の経験がありました.
修理されて江戸湾に回航されていたリーフデ号から,大砲をはずして関ヶ原まで運び,戦いの最中に数発発砲しています.
この戦功でヨーステンは,江戸城和田倉門南の堀端に屋敷をもらいました.
この結果,その付近は,彼の名に因んで,「八代洲」といわれるようになりました.
その後,これがなまって,「八重洲」という地名になったのです.
http://www.geocities.co.jp/NeverLand/7234/study/quiz/n05-1.htm
ただ,某作家が描写している程の効果はありませんでした.
効果があったのは城攻めの際です.
攻城戦に関しては,細川忠興がアノ性格なので持ち出さなかった(大谷の設置した関所を嫌った?)ので田辺城の防衛に幽斎が使用したという逸話があったように思うのですが,笠谷氏は西軍が使用したことしか書いていませんし,松好氏は何故か出典を書いていません.
山野野衾 ◆a/lHDs2vKA(黄文字部分)他 :日本史板,2005/01/12〜01/18
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
日本の歴史を簡潔に教えてください.
【回答】
縄文:狩猟採集,漁労を中心とした時代
弥生:稲作の本格的な開始,貧富の差が開き戦乱の幕開けとなる
大和:統一王権の確立
飛鳥:律令国家建設を模索
奈良:律令国家完成
平安:律令国家動揺
鎌倉:封建制の確立
室町:南北朝の争乱,幕府の弱体による戦乱
戦国:守護大名と仏教との戦い,職の構造の終焉
江戸:経済の大発展,文化の爛熟
明治:殖産興業,富国強兵,日清日露戦争
大正:大正デモクラシー
昭和:明治憲法の矛盾が表面化し軍部台頭→太平洋戦争で全部あぼーん→民主主義と自由主義経済による経済発展
日本史板,2005/02/09
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
山岡鉄舟が宇宙について語ってますが当時,宇宙とはどういうものだと思われていたのでしょうか?
【回答】
「エーテルに満たされている」と思われていた.
因みに1910年頃の小説なら,宇宙船には真空管(アンプに非ず)が標準装備.
1960年頃でも,金星や火星に行くのに六分儀を使用.
谷甲州等のまともなハードSF作家が流れを変えようとするが,田中芳樹に撃破される.
そして銀河の歴史がまた1ページ.
日本史板,2005/02/09
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
都落ちしてからの平氏は,潰走するところを捕捉撃滅され続けたの?
それとも一応,拠点防御を試みたけど負け続けたの?
あと,最期が太宰府じゃないのは何で?
【回答】
水島では義仲軍を大破していますし,範頼軍相手だと善戦して食料不足に追い込んでいます.
最期が太宰府じゃないのは,平家の勢力が強かったのが,中国・四国>九州だったので.
もっとも肥前などでは,壇ノ浦の合戦後も親平家勢力の抵抗が続いています.
山野野衾 ◆a/lHDs2vKA : 日本史板,2005/02/10
青文字:加筆改修部分
平氏が倶利伽藍峠で,義仲の「火牛の計」に敗れた後,都へと迫る義仲軍に対して,一度は知盛,重衛が二千の兵を率いて出陣,勢多で迎え撃とうとしますが,義仲の軍が大軍である事がわかると,知盛は兵力温存のため都へ引き返します.
都に戻った知盛は,都を捨てるよう進言し,一族による軍議の結果,都を落ちていくことを決めました.
平家は1183年7月に都落ちして,8月上旬に大宰府についてます.
義仲の勢力が太宰府にまで及ぶことはないと判断し,太宰府に新しい都を作り,力を蓄え,再び都に攻め上ろうとする考えでした.
大宰府は当時,有力な平家御家人がおさえていたので,そこをまっすぐ目指したわけですね.
何といっても安徳はじめ,多数の非戦闘員を抱えていますから.
が,そこに待っていたのは,地侍・豊後の豪族緒方氏等による襲撃でした.
多くの武者を失い,郎党の離散が相次ぎ,平氏の命運も尽きたかと思われましたが,四国の阿波,讃岐の反平氏勢力を討伐することに成功し,愁眉を開きます.
10月には屋島に落ち着き,勢力を回復.
このころに京都からやってきた義仲の軍勢を,備中水島の戦い(閏10月)で撃破すると,義仲と頼朝が畿内でやりあっている間に,讃岐・備前・淡路・播磨・摂津で軍事的勝利をおさめ,瀬戸内海の制海権を掌握したところで,満を持して,この年暮れころには福原に復帰.
1月20日に義仲が滅亡したあと,一旦,京都と和平交渉に入った,という説がありますが,それはともかく,平氏は山陽道,南海道から十万余騎にのぼる軍兵を進めました.
しかし2月5日には三草山,7日には一の谷で合戦が行われ,平家はその決戦兵力を失います.
それから半年間ほど休戦状態が続きますが,一の谷合戦から数えて7ヶ月後,範頼が平家の基盤である西国の追討に出発します.
(ちなみに義経はその直前,追討軍から外され,畿内の治安・朝廷守護担当とされます)
一方,平氏は屋島を拠点にし,徐々に勢力を盛り返しつつありました.
特に勇将の誉れ高い知盛は,屋島の他に,自分の所領地である長門の彦島に根拠地を構え,下関海峡を扼し,九州と四国にも勢力が残っていました.
(一の谷のあと,讃岐・土佐には平家に反する連中が現れたとされてますし,伊予河野氏,豊後緒方氏は明確に反平家)
範頼は安芸・周防を,かなり苦労しながら掃討し,範頼が先の豊後の緒方氏と協力して,平家方の原田氏を討ち,北九州の平家拠点がなくなったところで,義経による屋島急襲が行われて,もう逃げ場所が,知盛の守る彦島しかなくなってしまったわけです.
かくして義経軍は,平家殲滅目指して彦島へと進攻,壇ノ浦合戦にいたったと思われます.
日本史板,2005/02/10
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
小太刀と脇差しの違いを教えてください.
【回答】
太刀は「はく」,つまり腰にヒモでぶら下げたモノで,刃を下にしていたの.
鞘も専用の留め金が付いた物が必要.
でも,コレだとガチャガチャ動いて,騎馬とかに不向きだったし,大ぶりの太刀よりも短めで,扱い易い打ち刀が主流になっていき,腰の帯に「差す」ようになった.
この場合,刃を上に向けた腰に差した.
結果,刀工が銘を切る場所が,太刀と刀では逆になった.
太刀は刃を右に向けた状態で上に来る側に,打ち刀は左に向けた状態で上に来るようになった.
柄や鞘の装具は全然違うが,刀身自体の太刀と打ち刀の違いはそれだけ.
ただ,太刀は基本的に打ち刀よりも長大で,寸の短い太刀を小太刀というんだが,戦国時代とか,鎌倉や室町時代の太刀を,摺り上げといって短くして,打ち刀にするのが多かった.
で,摺り上げた太刀と打ち刀や,小太刀と脇差しの厳密な分類なんて,識者や好事家でないと厳密ではなかった.
それと,剣術の中条流という,三河に古くから伝わる流派がある.
富田流というのもこの流派の分派で,富田勢源という達人が出て有名になったのだが,この流派は小太刀の技に優れていた.
流派自体は古くからあるため,剣の用語や技の名前とかを,実際は脇差しを使っていても,古式ゆかしく小太刀と呼んだわけだ.
短い刀を使った技は,この中条流や富田流が一大勢力だったので,脇差しを小太刀という表現が定着したと思われる.
ちなみに佐々木小次郎も,この富田流の出身らしいが,小太刀の受けとして太刀をふるう役をやらされているウチに,長大な太刀の技を工夫して,物干し竿に巌流という流派を立てたらしい.
【反論】
>鞘も専用の留め金が付いた物が必要.でもコレだとガチャガチャ動いて,騎馬とかに
>不向きだったし,大ぶりの太刀よりも短めで扱い易い打ち刀が主流になっていき,
太刀は騎馬に優位性があるんじゃないか.
やってみると分かるが,騎乗時に太刀差しのほうが,少しでも早く鞘から刀を出せる.
騎乗して戦に行かなくなった時代への移り変わりとともに,日常生活に不便(太刀は動くし歩行には邪魔)な太刀は自然と消えて,太刀式から打刀方式になったんじゃないか.
あと,専用の留め金って何のことだい?
鞘にいくつか付いている足金具のことなら,打刀にも時々ついてるぞ.
鞘を補強する意味でな.
日本史板,2005/02/10
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
古代から阿蘇神社の宮司を努める阿蘇氏について教えてください.
【回答】
コトバンクより,著作権が発生しないと考えられる範囲で抜粋すると…
肥後阿蘇神社の大宮司家.
小国家の首長,国造,郡司の伝統を有し,出雲の千家,宇佐の到津(いとうづ)氏などとともに,古代末より系譜の明らかな地方名社の社家.
宇治氏を称し,中世には武家として活躍.
謡曲《高砂》にも登場.
阿蘇谷の手野古墳群は,同氏歴代の墳墓であるとの伝承がある.
文献では1142年(康治1),大宮司宇治惟宣が年貢済物の確認を求めているのが初見.
1180年(治承4)大宮司となった惟泰は,領家源定房の荘官の地位を兼務.
翌年,菊池隆直と反平氏の挙兵を共にした.
その子惟次のころには,それまで氏人の中から選ばれ,任期制の形式を残していた大宮司の地位は,惣領に独占世襲されるようになり,開発した南郷谷の私領諸村は,預所・地頭の地位を得た,鎌倉幕府執権北条宗家の安概を受けるに至った.
元弘の乱では,菊池氏とともに日向鞍岡で北条方と戦い,戦功として建武政府から阿蘇郡の本社領と甲佐・健軍・郡浦の末社支配権が,本家職・領家職を含めて与えられた.
南北朝内乱初期,多々良浜に足利尊氏を迎えて戦った大宮司惟直が討死すると,父惟時が大宮司に復活.
一族惟澄と北朝方大宮司を破るが,その後惟時の態度は不鮮明.
惟時の死後は惟澄が大宮司となるが,惟澄の死後は,北朝方の惟村と南朝方の惟武がそれぞれ大宮司を称し,惟村系は益城郡,惟武系は阿蘇郡を支配して対立した.
1451年(宝徳3),惟村系の惟忠が,惟武系の惟歳を養子とすることで,阿蘇・益城の統一を果たし,本拠矢部は阿蘇氏政治の中心となった.
この勢力を背景に惟長は菊池氏を継ぎ,惟豊は従二位となった.
〔中略〕
戦国末期幼主惟光の代に,島津氏の攻撃を受けて衰退し,豊臣秀吉からはわずかな安概しか得られず,梅北の乱で疑われて殺された.
江戸時代には弟・惟善が,阿蘇谷一の宮の現社地に移り,代々社家として存続.
明治に華族に列せられ,男爵となった.
日本史板,2005/02/18
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
【回答】
543 :日本@名無史さん:05/02/20 01:32:07
朱印船を中国やシャムから購入したという事は,日本の造船産業・技術は外洋航海という点に於いてシャムより劣って居たという事なんでしょうか?
544 :日本@名無史さん:05/02/20 02:40:03
朱印船に用いられたのはミスツィス造りとか日本前(にほんまえ)と呼ばれたシャンク(中国船)で,
中国やシャム(現在のタイ)などから購入されたほか,国内でも建造されました.
遣明船のように国内海運の大型商船を朱印船に転用した例は見当りません.
最末期の朱印船が中国船をベースにしながら帆装の一部や舵と船尾回りに西欧のガレオン船の
技術を取り入れ,船首楼(ろう)を日本独特の屋倉(やぐら)形式とするなど,中和洋の技術を折衷(せっちゅう)
したジャンクであったことを今に伝えています.
寛永12年(1635)に日本人の海外渡航が全面的に禁止されると,外航用の朱印船は国内海運に不向きで
あったため姿を消しました.鎖国にあたって幕府は朱印船のような航洋船を禁じたと思われがちですが,
鎖国下でも少数ながらジャンクが建造された記録が残っています.
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1997/00667/contents/009.htm
>543
国内市場では需要が限られているため用途の限られた遠洋船は大量生産ができません.
造船産業・技術の優劣では無くコストの問題では無いでしょうか.
日本史板,2005/02/20
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
江戸時代に改易された大名領の全てが,その後天領とならなかったのは何故ですか?
天領になると税が安くなるので,領民には歓迎した人が多かったと聞きますが・・・.
【回答】
大名の配置は戦略的なもの.
隣りあった藩は仮想敵であり,相互に監視・敵対していたほうが,幕府に取って都合が良い.
天領・旗本領には,軍事力が殆どない(万が一の時,江戸から兵力を出すより,親藩→外様藩というふうに攻撃させたほうが早い)
また,江戸中期以降だと,親藩や外様の大名の石高が変わることはあまりないけど,幕政に参画する譜代大名・旗本の場合,その功績による加増や失政・失脚による減封が,比較的頻繁にあり得る.
天領のなかには,戦略上必然的に幕府直轄地としておかなければならない場所もあるが,あとはそういう幕府の人事や政変に伴う加増減封のための控えとして,幕府が持っている土地という性格も含まれる.
なお,旗本の場合,譜代と外様の別が大名ほど厳格ではないため,大名ならば確実に外様に分類されるような家柄でも,幕府の役職についていることが結構あるので,旗本領も変化が大きい.
日本史板,2005/03/05
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
平戸松浦家と相神浦松浦家の総領争いについて,ご教授いただけないでしょうか.
【回答】
こちらより,著作権が発生しないと考えられる範囲で抜粋すると…
松浦党と呼ばれる武士団のことが,当時の日記や記録に見えはじめるのは平安末期ごろである.
歌人の藤原定家の日記「明石記」にも
「鎮西の凶党,松浦党と号す.
数十艘の兵船をかまえ,彼の国(朝鮮)の別島に行き,合戦して民家を滅亡し,資材をかすめ取る…」
とある.
源平合戦のとき,松浦党は「平氏」の側に味方し,文治元年(1185)三月二十四日の「壇ノ浦の戦」に際しても,平家軍の一翼を担って出陣した.
しかし,戦いの最中に形勢不利とみて,「源氏」に寝返ったと伝えられている.
平家が滅亡してのち,源頼朝は鎌倉に幕府を開いた.
はじめ平家に加担したとはいえ,松浦党の西国における勢力は頼朝も高く評価した.
建久三年(1192),峯五郎披が御厨荘の地頭に任じられ,正治元年(1199)には宗家松浦清,大河野遊,山代囲らが鎌倉に上って,旧領保全の朱印を得ている.
領土の安堵をえた今福松浦氏は,梶谷城に拠って勢力を維持したが,清の子遶(めぐる)は,現在の佐世保市に近い相神浦の武辺に,城を新たに築いて,本拠を相神浦に移した.
建仁年間(1201〜03)のことであったという.
以後,戦国時代のはじめに至るまで相神浦が,宗家松浦氏の拠点となった.
しかしその後,松浦地方は地形が複雑で,多くの島々や津々浦々に存在する松浦党武士団を統率する実力者も現れなかったため,松浦党の諸家がそれぞれの領地に割拠するという状態になっていった.
そのような中から,平戸の松浦氏が頭角をあらわし,勢力を四方に拡大するようになる.
戦国時代になると,相神浦松浦丹後守盛は,相神浦から佐世保に通じる要所に位置する,大野の瀬戸越に城を築いてこれに移った.
すなわち北方の平戸松浦氏の南進,南方の有馬・大浦氏らの北上に備えるためであった.
この城が大智庵城で,戦国時代における相神浦松浦氏の拠点となった.
相神浦松浦氏が大智庵城を築いて周囲に備えたころ,平戸松浦氏では内訌が起っていた.
延徳三年(1491),平戸松浦氏から出て,田平の峯氏を継いだ源五郎昌と,弟で平戸松浦氏を継いだ肥前守弘定とが対立し,弘定の攻撃を受けて敗れた昌は,島原の有馬氏を頼った.
これを好機とした有馬貴純は大村純忠,大智庵城主の松浦丹後守定らを誘って平戸に攻め寄せた.
連合軍の攻撃に敗れた定は,平戸を逃れて周防の大内義興のもとに奔り,支援を求めた.
大内義興の斡旋で,弘定は旧領を回復することができたが,平戸松浦氏は相神浦松浦氏を深く恨み,両者の対立は決定的となった.
その後,定が死去して,明応七年(1498),嫡子の政が十五歳で大智庵城主となった.
政は丹後守を称して相神浦,有田,今福,黒島,鷹島,佐世保を領有した.
ところが,狩場におけるゆきちがいから,政は家来の山田四郎左衛門から怨まれることになった.
相神浦を出奔した山田四郎左衛門兄弟は,平戸に行き,弘定に
「自分が案内者になるから,是非とも政を討伐してほしい」
と頼んだ.
弘定にしても,先年の恨みを晴らす好機であり,ただちに相神浦攻めを決定した.
明応七年十二月,弘定と興信の父子は大野源五郎を総大将として,山田の案内で間道から大智庵城を急襲した.
大智庵城はわずか一夜で落城し,政は自害して果て,平戸勢は政の内室と子の幸松丸を,人質として平戸に連れ帰った.
翌明応八年,政の内室と幸松丸が今福の年の宮に参詣したところを,政の遺臣らが奪還し,幸松丸は有田の唐船城に入り,そこで成長した.
その後,幸松丸は親と改名して,家臣らとともに旧領の回復を図った.
永正九年(1512),相神浦の地で蜂起した相神浦松浦氏は,神浦の飯盛山に城を築き,平戸松浦氏に対する一大勢力となった.
やがて,佐嘉の龍造寺隆信の斡旋で,相神浦松浦氏は平戸松浦氏と和解の運びとなり,親と弘定が会見して両者の和睦がなった.
その結果,平戸松浦氏が押えていた相神浦一帯は,従前のように松浦宗家が支配するとことなった.
興信のあとを継いだ隆信は,同族や近隣の情勢から,相神浦丹後守家の再興を見逃すしかなかった.
永禄六年(1563),上松浦の波多家に家督争いが起こり,彼杵の大村氏と有馬氏も仲違いを起こし,相神浦を攻めても誰も手を貸せない状況となった.
この絶好機を捉えた隆信は,ただちに全兵力をあげて相神浦を攻撃した.
しかし相神浦は容易に落ちず,両者の抗争は永禄九年まで繰り返された.
戦況は次第に相神浦方の劣勢となり,ついに丹後守親は龍造寺氏らの仲介をいれて,隆信の三男親を養子に迎え,平戸松浦家の家臣となった.
日本史板,2005/03/20
青文字:加筆改修部分
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