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※青文字:加筆改修部分
ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.
※既に分類され,移動された項目を除く.
また,著作権上問題のある回答が意外に多く,これも除外.
※レス回収基準は「Ver.5」
【初心者】スレッド立てる前に質問を Part9【歓迎】
目次
** 【質問】
江戸時代の剣術道場の道場主(師匠)の身分について教えてください.
ドラマではいろんな若いサムライが通い,先生と呼ばれてとても偉そうに見えますが,殿様の指南役以外の師匠は浪人なんでしょうか?
ヤクザの親分や悪徳商人は,チンピラには「てめえら」「お前たち」と言ってるのに,用心棒の貧乏浪人には「先生方,お願いします」と低姿勢なのは何故?
【回答】
身分は基本的には浪人.
それどころか,近藤勇や浅利又七郎のように,農民だったり浅蜊売りだった有名道場主もいた.
農民だった近藤や土方が士分を与えられたり,逆に百姓や町人になる武士だって多くいた.
欧米の身分制度とは異なり,日本の身分制度は緩やかなもの.
「江戸時代は士農工商の身分制度がガチガチで,身分間の行き来がなかった」と思い込んでるやつ多過ぎ.
蘭学者とか,ハッキリ出自が分からんのに,いつの間にか士分に取り立てられてどっかの藩のお抱えになっとる例もあるし.
儒教道徳が厳しかった時代,師弟の誓紙をかわした以上,師匠が偉そうにしてるのは当然.
将軍ですら,自分の学問の師の講義を受けるときは,上座を譲り,武術の師には礼を尽くす.
日本史板,2004/10/22
青文字:加筆改修部分
<保留>
** 【質問】
どうして日本では,「弩(イシユミ)」が兵器として発達(普及)しなかったのでしょうか?
【回答】
こちらのサイトに詳しく纏められているが,決して日本に弩がなかった訳ではない.
でも普及しなかった.
弓というのは,複数の素材を張り合わせた複合弓が,一番威力がある.
一般に,木や獣皮などを複数張り合わせて作り上げる.
一番威力があった弓はトルコの合成弓で,大きさは日本の弓の半分以下なのに,征矢で500m以上の飛距離があった.
ところが,日本の弓は複合弓の技術が発達せず,小型軽量で威力のある弩も発達せず,流鏑馬などに代表される騎射の方向に,形式が進んでしまったようだ.
出土した弩も,華奢なつくりで充分な威力は出せない祭祀用と見られている.
充分な威力が得られないのなら,連射できる通常の弓の方が,戦闘には有利であり,また,東国の武士団の戦闘方法が,そのまま踏襲されてしまったのではなかろうかと.
98 :79=92:04/10/28 02:17:25
>96=78?
長弓は,だいたい2m以上で,握り部が一般に中央より下部にあり縦形式に使用し,森林の弓と云われ,主として海洋民族系のものであった.
南洋民族系や日本の弓がこれに属し,南洋のものは単一弓であるが,日本のものは単一弓から彎弓の合成弓(木と竹)に発達した.
http://www.kcn.ne.jp/~toyo/yumi/yu_reki/gensi.html
日本武道全集第三巻,弓術.馬術.より抜粋です.
99 :日本@名無史さん:04/10/28 13:34:15
源平合戦以前から,日本には,
長距離だが命中率が低い弓と,
命中率が高いが短距離の弓があったよ.
116 :日本@名無史さん:04/10/30 02:13:10
>>115
完全に鼬害だけど・・・
ラップド・ボウ(強化弓)(wrapped bow)
ラップド・ボウは弓の作り方のひとつで,単弓に動物の腱を裏打ちしたり,革を巻いたりするものを指します.
威力,射程は単弓よりは優り,合成弓よりは劣る・・・といった程度です.
http://osaka.cool.ne.jp/willis/library/arms/a-ra.html#wrappedbow
補足
コンポジット・ボウ(合成弓)(composite bow)
弓を作り方によって分類した場合の種類のひとつ.
コンポジット・ボウは異なる複数の材質を張り合わせたものです.通常,木材や動物の腱が用いられました.
弓の材質を複数にするのは単純に弾力を増すためのもので,それによって手軽に射程を伸ばすことが出来ました.
ただし,その結果,弓を引くときの負担も大きくなります.
コンポジット・ボウは3種類のうちで最も威力も到達距離もありますが,その代償として最も負荷のかかる弓にも
なっています.外見的には弓の両端が大きく反っているものが多いです.射程距離は
150〜550mもあります.
合成弓と複合弓は何が違うの?
119 :日本@名無史さん:04/10/31 02:59:14
>>116
うろ覚えで書いてたのでけっこう間違いがあったね<m(__)m> ちゃんと文献に当たって整理・訂正しとくわ.
弓は単弓・強化弓・複合弓に分類されて,複合弓はさらに合板弓と合成弓に分類される.
単弓は単一の素材で作られた弓で,木だけ,または竹だけで作られた物.
強化弓は木に動物の腱を裏打ちしたり,別種のしなやかな木材を裏打ちして強化したもの.
複合弓の合板弓は,同じ材質(通上は木材)の薄板田を3枚以上貼り合わせたもの.
そして合成弓は3種類の材質,木材・角・腱を貼り合わせたもの.
ただし,これは竹という素材に恵まれなかったヨーロッパの武器分類であって,竹と木を使った
日本の弓(藤を巻いた重藤弓も含む)は厳密には合成弓でも合板弓でもない分類になる.
そのためマール社の『武器 歴史 形 用法 威力』では,重藤弓は合板弓に分類されている.
敢えて言えば,しなやかな木の代わりに竹を用いているので強化弓と分類すべきかな?
代表的な合成弓であるトルコ弓の場合,木の芯を角の薄板が張り合わされ,背側から動物の腱で
裏打ちされている.木の芯自体もさらに3枚の薄板から作られており,北インドの合成弓も,
木の芯に弓腹に角,弓背に腱が張り合わされた講造.旧ソビエトのバシュキルの弓は弓腹の先端に
角を重ね継ぎして弓背に腱を裏打ちした講造.こういう講造のものを合成弓とすると,
竹と木を貼り合わせた日本の弓は合成弓よりは,強化弓か合板弓に分類した方が然るべきだと思われる.
続く
120 :日本@名無史さん:04/10/31 03:12:40
続き
>>96の合成弓の説明はそれでいい訳で,>>98で複合弓と強化弓がゴッチャになってるね,漏れ.
申し訳ない.
正確には>>98で「日本の弓は合成弓ではなく合板弓か強化弓であって合成弓とは言えないのでは?」と
書くべきだったようだね.単弓と強化弓はともかく,合板弓・合成弓・複合弓の分類に,書籍による
見解の相違があるようですな.
ついでにトルコ弓はラルフ・ペイン・ギャルウエイ卿の実験で,征矢で400mの飛距離があり,
遠矢で600m以上の飛距離があった,に訂正しておくわ.
射流しによる日本の弓の飛距離の記録は,曾根正康氏が昭和13年に出した212間(385.5m)が
自分が調べたかぎり最高記録のようですね.江戸時代の京都三十三間堂の通し矢によって,日本の弓矢の性能は
飛躍的に向上したとされるので,日本の弓を合成弓に分類するのは,やはり無理があるのではなかろうかと.
弩に関しては,コンゴやビルマ,タイの弩のように単弓講造の物もあったが,ドイツの弩は合成弓,
中国の物は複合弓(合板弓と合成弓の両方がある)なので,日本では弩に充分な威力が持たせられなかった
というのがやはり,普及しなかった原因ではなかろうかと.わざわざ両手でひっぱったりレバーや
巻き上げ機を使わなくても引き絞れる弓ならば,弩ではなく弓として射した方がいいわけで.
小型で威力のある弩が作れなかったので,長大な弓によって威力を稼ごうとしたんじゃなかろうかと.
以上,私見&妄想.あとは武器の専門の人,フォローよろしく.
121 :日本@名無史さん:04/10/31 10:46:28
>>119
弓の分類・定義の話を何時までも続けるのもアレなので話を板とスレの主旨に戻します.
>96
>日本の弓は合成弓の技術が発達せず,小型軽量で威力のある弩も発達せず,流鏑馬などに代表される騎射の
>方向に形式が進んでしまったようだ.出土した弩も,華奢なつくりで充分愛力は出せない祭祀用と見られている.
複合弓は,伏竹弓(平安時代中期)→三枚打弓(平安時代後期)→四方竹弓(室町時代中期)→弓胎弓(江戸時代初期)と発達してきました.
伏竹弓(ふせだけゆみ)は,在来の木弓の外側に竹片を張りつけたものです.
三枚打弓(さんまいうちゆみ)は,伏竹弓に内竹を付したものです.
四方竹弓(しほうちくゆみ)は,三枚打弓の木質部の両側に竹をつけたものです.
弓胎弓(ひごゆみ)は,現在作られている竹弓の構造と同じく,木で竹を挟んで芯にしたものを
両側から竹で挟んだものです.
歴史が進むにつれて材料として用いられる竹の割合が増えている事がわかります.
やはり竹が弓の材料として優れていたからこの様に進化していったのでしょう.
日中の飛具比較(参照)↓
http://www.cuiweiju.com/htmpage/126/12697/19.htm
122 :日本@名無史さん:04/10/31 10:47:11
弩発見の意義
これまで古代における弩は,文献上ではしばしば現れていたものの,実際品に関するものは不詳であり,
日本では普及しなかったとする考えもあった.そうしたなかで,今回の弩の発見は初めてその具体例を
示したものであり,古代兵器の実体を明らかにしていく上で貴重な発見となった.
http://www.pref.miyagi.jp/bunkazai/do/do-hakken.html
10世紀に武士が誕生し,武士を基盤とする国衙軍制が成立すると,弩の使用は廃れて消滅に向かった.
主として少人数のゲリラ的な襲撃戦を主体とした田堵負名層の反受領闘争鎮圧の任に当たり,長弓を
用いた騎射による騎馬追撃戦を主体として戦った武士によって,大軍団の歩兵による迎撃戦に適した
弩は武士の家芸としての武芸には向かず,兵器として採用されなかったためであろう.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A9
日本で弩が廃れたのは「弓馬の道」を重んじた武士の存在があるように思えます(私見)w
弩のような機械的兵器では儀式等での有難みがありませんから・・・
日本の長弓が世界最大級なのは小型化出来なかったのではなく,「はったり」の要素が大きいように思えます(妄想)
123 :日本@名無史さん:04/10/31 21:22:19
弩は防人とかが使ってた.素人武装集団にはちょうどいい.
プロには弓矢の方が強い.
>日本の長弓
長距離戦闘用です.
近距離戦闘では短い弓です.
平家物語などを読めば出てきます.
124 :日本@名無史さん:04/10/31 21:26:00
長弓は,先頭初期の攻撃方法.
接近してきたら,短弓で勝負!
128 :日本@名無史さん:04/11/01 00:03:53
>>125
「延喜式」では国衙で弩の製作を行ったことが,記載されており,白河軍団が多賀城で弩を支給され,
所持したことは明らかである.その時の弩は伊治城跡のものと同型のものである可能性は高い.
弩を構成する部品は,弓・弦・臂(銃床部)機である.機は牛・懸刀・牙・栓塞とこれらを覆う郭からなり,
伊治城跡のものには中国では見られない外金具が付く.
弩機は中国のものと比べると,小型で,全体も小型になると予想された.
http://www.mahoron.fks.ed.jp/nenpou/nenpou2001_35.htm
日本史板,2004/10/27
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
JAPANって名前は,いつ誰が決めたんですか?
ルーツが知りたいです.
【回答】
漢字の読み方には,漢音と呉音があります.
呉とは三国志で有名な江南地方の事で,佛教の伝来とともに日本に入ってきた漢字の読み方で,仏教用語に多く見られます.
また,民衆への浸透の時期が早かったため,わりと庶民的な言葉に残っています.
漢音は律令制などの導入など,遣隋使・遣唐使の時代に主にもたらされた言葉です.
例えば,日という感じは普通は「にち/ひ」という読み方が一般的ですが,「元日」と書くと「元日」になりますよね.
「弟子」と言う字は,本来なら「ていし」と読むべきですが,仏教伝来とともに伝わった言葉なので,「でし」という言葉の方がポピュラーですよね.
で,ジャパンの由来ですが,マルコ・ポーロの『東方見聞録(世界の記述)』で紹介されたジパングが語源です.
フランス語ではなくベネチア商人のマルコですからイタリア語ですね.
なぜジパングなのかと言うと,マルコが東方の黄金の国の話を聞いたとされる船乗りが,福建訛りの中国語を喋っていたため,「リーウェン」が「ジーベン」に近い発音だったからだとされています.
6世紀頃に日本を「ジツポン」と読んでた福建の商人が,鎌倉時代頃に「日本」を現地の発音で読むと「ジッポン」「ジーベン」に近い発音をしていたと考えると,ジパングの謎もそんなに不思議ではないのではないでしょうか.
この「ジーベン」の「ン」の発音がいわゆる鼻濁音で,香港を英語を書くとhong
kongと書くように,日本人は鼻濁音の「ng」と普通の「n」の発音を厳密には分けませんが,欧州の人間だったマルコは耳で聞いた音を「jipang」と表記したのでしょう.
中東の方の東方黄金の国伝承では,その島を「ワクワク島」と言うのだそうですが,これは「倭国」の訛りではないかという説もありますから,一見別物に見える言葉も,ルーツは意外と身近な言葉だったりするのかもしれませんね.
香港にあるキャセイパシフィック航空のキャセイが,「契丹」だと知った時は,ちょっと驚きましたが.
あとは詳しい人,突っ込みよろしく.
日本史板,2004/11/02
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
太平戦争中徴兵された場合,大学卒は将校として少尉か中尉だそうですが,少尉中尉はどうやって決まるのでしょうか?
祖父は一番有名な私立大卒でしたが少尉,祖父の弟は中堅私立大学でしたが中尉でした.
何故でしょう?
【回答】
旧陸軍の幹部候補生制度は本来,中学校の学校教練に合格した者が徴兵後に志願,受験して幹部候補生となり,2年間の訓練終了後に見習士官を経て予備役少尉となるというものであったようです.
日華事変後になると,大学卒業者(当時は社会的エリート層)と言えども,一兵卒として徴集される可能性が高くなってきたので,大学卒業者達の多くは,どうせ兵役に服する事になるのなら,上記の制度を利用して将校に成っておこうと考えたようです.
元来,中学校(現在の高校)卒業者なども受験する試験であったので,彼ら大学卒業者にとってはそれほど難しいものでもなく,結果として大半の大学卒業者は,少尉任官と同時に予備役編入,そして即日召集という形で軍務に就いたようです.
また,昭和19年には「特別甲種幹部候補生制度」が制定されました.
これは,速成士官を養成するための制度であり,学徒出陣者の多くは,この制度で少尉に任官していたようです.
対象は大学,高等学校,専門学校に1年以上在学した者,及び師範学校卒業者です.
従来の幹部候補生制度との相違点は,採用と同時に伍長に任官し,その後予備役少尉となるという点です(従来の制度では,2等兵から始まる).
以上の各幹部候補生制度の,陸軍内での位置付けとしては,とにかく戦時下で消耗の激しい下級将校(小隊長クラス)を,十分に確保しておきたいという狙いも,下で実施されていたようです.
日本史板,2004/11/13
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
TVドラマ『大奥』で,キリスト教徒迫害の理由について,宣教師たちが日本をヨーロッパの植民地にしようとしているから,とかいうような話をしていたけど,本当ですか?
【回答】
ポルトガルやスペインが奴隷売買に関わっていたから,とする見方のほうが有力.
秀吉は天正15(1587)年に,いわゆる伴天連(バテレン,宣教師)追放令を九州平定後の博多で発布しています.
この法令はキリスト教を邪宗とし,宣教師の20日以内の国外退去を命じたものです.
出された背景の一つとして,大村純忠が天正8(1580)年に,長崎を教会に寄進していたことがあります.
パレード達が信者を扇動して,神社・仏閣を破壊し,土地を占有していることを,秀吉は好まなかったのでしょう.
しかし,貿易を奨励しているので,この追放令は緩やかなものでした.
この時,キリスト教の信仰を捨てなかった播磨明石城主高山右近は,領地を取り上げられましたが,一般人の信仰は「その者の心次第」として禁じませんでした.
同時に秀吉は宣教師に,海外に売られた日本人を直ちに帰国させるよう命じており,まだ日本の港にいる日本人奴隷は買い戻すよう命じています.
天文年間,弘治年間頃から主に九州の日本人,特に女性が売買の対象となっていました.
弘治元年十月(1555年11月),マカオの宣教師カルネイロは,多くの日本人がポルトガル商人に買われ,マカオに輸出されていると手紙に記していますが,彼ら宣教師は人身売買を,日本への布教を妨げると判断し,それを受けたポルトガル国王は,元亀元年三月六日(1570年3月12日),ポルトガル人が日本人の売買に関わることを禁止しました.
合わせて日本人奴隷の解放と,それに反する者の全財産を没収することが決まりました.
しかし,一部の宣教師が人身売買に反対しても,イエズス会自体が人身売買を許可しており,国王の発布した法であっても拘束力は弱く,その後も日本人の売買は続いています.
イエズス会が禁令を出したのは,慶長年間になってからです.
慶長元年,イエズス会は奴隷商人への破門を議決.
慶長二年四月,インド副王はポルトガル国王名で,日本人奴隷の売買,日本刀の輸出を禁じました.
このようにイエズス会も日本人売買禁止令を出しますが,従うポルトガル人は少なかったようです.
慶長元年(1596),サン・フェリペ号が土佐沖で座礁.
この船には三百名近い黒人奴隷が乗っていました.
増田長盛は日本の慣習法により,サン・フェリペ号の積荷を接収しようとしましたが,船員はこれに激怒し,スペインの領土が西洋からアメリカ大陸,アジアに及んでいると脅しました.
これは長盛を恫喝するためでしたが,この時船員はさらに,布教によって内部に味方を作る戦略が,領土拡大につながったと告げたのです.
フィリピン総督も,サン・フェリペ号の積荷接収に抗議しましたが,秀吉は
「貴国は布教によって他国を制圧していると聞く.
日本人が貴国で神道を説こうならば,貴国の王は喜びはすまい.
これを考えろ.
サン・フェリペ号の積荷は返そうとしたが,伴天連追放令に違反しているために接収した.
この判断に誤りはあるまい.
貴国において貴国の法に従わない日本人がいるならば,それは大いに裁いてもらって結構である」
と言い放ちました.
なお,秀吉は,日本人が人身売買に関わっていることも認識しており,そうした仲介人や船主を磔刑としています.
日本史板,2004/11/22
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
大東亜戦争中,軍部の力が強かったというのなら,なぜ東条ヒデキ内閣は倒されたんですか?
【回答】
元々海軍系の重臣は反東條だし,参謀総長兼任で,陸軍内部にも反感を抱く者がぽつぽつ出てきていた.
さらにサイパン失陥で,国民の間にも漸く,東條に対する不信感が芽生えていた.
マリアナ決戦の敗戦を機に,重臣たちの倒閣運動は活発となったが,しかし東條も辞める気はさらさらなく,内閣を改造し,強力な挙国一致内閣をつくろうとした.
そこで国務大臣のポストを一つ空けるために,岸信介に辞めて貰おうとしたが,裏から重臣の手が回っており,岸は辞表の提出を拒否.
内閣改造に失敗し,自分に対する(特に重臣たちの)反感の強さを痛感した東條は,失意のうちに桂冠した.
日本史板,2004/11/26
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
ポツダム宣言を受諾するか否かの御前会議で,最終的に昭和天皇自らが受諾を決めたそうですが,そのとき「朕はどうなってもいい」と言ったのは本当ですか?
【回答】
本当.
天皇は以下のように述べたとされる.
------------
(前略)
自分はいかになろうとも,万民の命は助けたい.
この上戦争を続けては結局,我が邦はまたく焦土となり,万民にこれ以上苦悩を嘗めさせることは,私としてはじつに忍び難い.
祖宗の霊にお応えできない.
和平の手段によるとしても,素より先方の遣り方に全幅の信頼をおきがたいもは当然であるが,日本がまったく無くなるという結果にくらべて,少しでも種子が残りさえすれば,さらにまた復興という光明も考えられる.
(中略)
この際私としてなすべきことがあれば,何でもいとわない.
国民に呼びかけることがよければ,私はいつでもマイクの前にも立つ.
一般国民には今まで何も知らせずにいたのであるから,突然この決定を聞く場合,動揺も甚だしかろう.
陸海軍将兵には,さらに動揺も大きいであろう.
この気持ちをなだめることは相当困難なことであろうが,どうか私の気持ちをよく理解して,陸海軍大臣は共に努力し,よく治まるようにして貰いたい.
必要あらば,自分が親しく説き諭してもかまわない.
この際証書を出す必要もあろうから,政府は早速その起案をしてもらいたい.
------------下村海南『終戦秘史』
日本史板,2004/12/01
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
徳川家康が子供の頃,石合戦の勝組を予想したエピソードがあります(もっともこれは後世の創作らしいですが)が,当時の子供達は本当にそんな危険な遊びをしてたんですか?
【回答】
マジ.
古代から昭和まで行われています.
印字打ちと呼ばれる石合戦は,庶民の間に結構流行って,死人も多数出たので,しばしば禁止令が出たほど.
しかしこれには聖性があるとされており,禁止にしたから天災が起きたと言われたために,北条泰時は禁止令を取り消したことがあります.
また,印字打ちは実際の戦闘でも使われていました.
戦闘序盤に敵を混乱させる目的です.
特に有名なのが,楠正成や甲斐武田家です.
日本史板,2004/12/09
青文字:加筆改修部分
後白河院が対木曾義仲戦に駆り出した「市民軍」も,投石を行っていたほか,京都の庶民がしばしば投石を行ったことが,『中右記』や『日本紀略』に見えます.
『年中行事絵巻』の例といい,祭の時にはよく出ました.
白河院政期の権大納言藤原経実は武芸を好んだ人で,始終隣近所に投石を行っては喧嘩を売るという,かなり面倒な人物でした.
ただ,弓箭を扱うことに比べると,下賤の業とされた様です.
吉凶を占う年中行事としては,上記の通り昭和までありましたが,怪我人とは縁の切れないものでした.
山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :日本史板,2004/12/09
青文字:加筆改修部分
** 【追記】
733 :日本@名無史さん:04/12/10 20:56:00
質問です.
Wikiの"任那"に関する頁を読んでいたら,
>かつては倭の任那日本府の支配下にあったとされていた.
>しかし近年の歴史学では否定的な言説が支配的である.
とあり,自分が学生時代に任那が日本の影響下であったと習った事と
変わっていて驚いたんですが,既に学会では任那日本府説は否定説が
主流の説になってるんですか?
734 :733:04/12/10 20:57:21
すみません.
当のWikiのURL忘れてました.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%BB%E9%82%A3
735 :日本@名無史さん:04/12/10 21:56:57
>>733
一応,現在の歴史学では否定的にみられている「ということになっている」.
しかし,実際の諸論文をみてみると,言い回しをかえているだけで,
日本(倭国)の権益があったことは認める説が多数.
とりあえず任那日本府という言葉(漢字熟語)はなかったということと
戦前の日帝の侵略を合理化する学説はけしからん,と前の方か後の方で
形だけでもいっとかないと本も出せない,という形式主義が横行してるよ.
韓国の学界と仲良くしとかないと現地遺跡の調査旅行にもいけないし
日本の学界でも出世できないからね.
アカデミズムの中にいたら言えないことを在野の歴史マニアがいって援護射撃すべきなのに
実際には在野の歴史研究家の方が70年代の左傾時代の学説しか知らなかったりして
学界の正常化(右傾化)に追いついてない.書店にならぶ古代史本はむしろ左巻きの電波本が多い.
日本史板,2004/12/10
青文字:加筆改修部分
** 【追記】
803 :日本@名無史さん:04/12/21 19:35:25
水戸藩は水戸学で尊王だと思うのですが,なぜ徳川家でありながら,
天皇マンセーの水戸学が水戸徳川家で主流になったのですか?
水戸黄門あたりから,水戸学がさかんになったと聞きますが.
御三家の中で低い扱いを受けた反発あたりなのでしょうか?
804 :日本@名無史さん:04/12/21 19:37:22
光圀の場合,尾張義直の影響もある.
805 :日本@名無史さん:04/12/22 03:48:35
>>803
水戸は朝廷側につくことによって万が一朝敵として本家や他の親藩が
潰されても徳川の血筋を残せるように家康が指示した.
と井沢元彦が言ってた.
806 :日本@名無史さん:04/12/22 06:35:27
坪の石文って何?
807 :日本@名無史さん:04/12/22 15:32:51
>>803
ま,歴史の皮肉っていえば終わりだけど,水戸も光圀もいろいろあってということ.
1.なぜ水戸に御三家の一つを置いたか.仙台の押さえなら会津がある.でヒマになった.
2.佐竹の残党が多かったから,御三家を持ってきたのか.
3.光圀の父親は紀州に遠慮してか,光圀の兄を跡取にしていない.
4.光圀は流産させられる運命にあったらしいが,家臣が隠して産ませ育てた.
5.その家臣の妻が京都の出で,乳母よろしく夜な夜な天朝さまはエライと刷りこんだ.
6.兄を差し置いて水戸の跡取になって若いときは放埓だった.
後,兄の子を(二人も)跡取にしている.
7.儒教に熱心だったが,儒教は歴史を重んじる.よい歴史書がなかった.
儒学者朱舜水を保護して勉強した.明の没落など考えるところのあったのでは.
8.歴史がきちんと残されていないから将軍跡取問題が権力闘争になっていた.
別の観点では,文治政治の確立を考えていたのではないか.
9.鎖国は家光の時代に始まったのだが,古代から鎖国と思いこんでいる輩が多かった.
ご禁制の大船を作って蝦夷地探検など試みている.
10.御三家という格式ながら実高は少なく,貧乏だった.
将軍家のため,江戸定府といえば聞こえはよいが,警戒されていたのではと疑って
みる必要もありそう.将軍家も身内からの揉め事に苦労した.
乳母が刷りこんだというのは,村上元三の小説にあるんだが,史実かどうかは別にして
本当なら,乳母の計略は200年後に花が開いたということになる.
日本史板,2004/12/22
青文字:加筆改修部分
** 【追記】
866 :日本@名無史さん:04/12/26 22:48:01
× 日中戦争
〇 支那事変
867 :日本@名無史さん:04/12/27 00:28:57
↑ODとかいうコテが主張している正しい歴史用語?
868 :日本@名無史さん:04/12/27 11:18:47
○ 日中戦争
× 支那事変
869 :日本@名無史さん:04/12/27 12:44:14
○支那事変
870 :日本@名無史さん:04/12/27 15:04:56
○ 日中戦争
× 支那事変
871 :日本@名無史さん:04/12/27 16:44:45
シナなんて死語,普通に使う奴は80代以上の老人だろ.
若いくせに,わざわざ使ってる奴は慎太郎にかぶれたネトウヨくらいだ.
872 :日本@名無史さん:04/12/27 16:45:50
慎太郎なんてレイシストを知事に選んだ東京人の見識を疑う.
873 :日本@名無史さん:04/12/27 17:30:57
支那事変は支那事変だよ.右とか左とか関係ない.
事実から目を背け妄想の中に生きる輩はいずれ報いを受ける.
今サヨクが思いっきりそのしっぺ返しを食らってるけど,
ウヨクの馬鹿さ加減を見る限り,連中もいずれ同じ運命を辿るだろう.
874 :日本@名無史さん:04/12/27 17:31:29
旗本の「扈従の士」とは,どういった人が勤めるのですか?
代々の陪臣とか浪人の召し上げとか,幕臣の次男三男とかでしょうか?
875 :日本@名無史さん:04/12/27 17:39:10
>>861
国府の攻撃で支那事変が始まったというのは,
真珠湾攻撃で大東亜戦争が始まったというのと同じ程度に事実ではあるけど,
支那事変の前段には北支事変があり,北支事変の前段には
日本の分治合作工作があるわけだから,
少なくとも大東亜戦争がルーズベルトに誘因されたと論ずる人間は,
支那事変を蒋介石のせいにしてはいけないわな.
それこそダブルスタンダードだ.
876 :日本@名無史さん:04/12/27 17:41:23
>>873
同時代に使われていた用語ということなら,「支那事変」で間違いない.
しかし,歴史用語というのは後世の人間のつけた名称であることの方が多い.
「三世一身の法」や「墾田永年私財法」なども,後の人間の命名したもので,
当時の人間がそう呼んでいたわけではない.
また,「鎌倉幕府」という名称が鎌倉時代にあったわけではない.
「朝鮮出兵」も当時の呼称に忠実に従うなら,「唐入り」とか「高麗陣」だ.
歴史的事象は後世の人間が評価し解釈するものである以上,何でもかんでも
当時の名称に従う必要はない.
日本史板,2004/12/27
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
山県有朋は現代の日本史学界では評判が悪いようですが,近代日本の制度を作り上げた傑物だったというようなことが,「日本の歴史」(中公版)の対談に書かれていました.
これは事実なのでしょうか?
【回答】
山県を批判する人は,政治家に対して金銭面に汚点を許さず,議会での話し合いで全ての物事を決めていくべきだと考えている人が多いと思う.
山県を評価する人は,強引で金銭の面で不正があっても,時代に合った制度を作れる実務家は必要だと考えている人が多いと思う.
明治日本を官僚国家にし,その官僚が太平洋戦争を引き起こし,敗戦したとして,山県や大久保利通にその責任を押し付ける,歴史家や評論家がいる.
しかし,大久保は明治11年に死亡,山県も大正11年には死亡してる.
彼らの死後太平洋戦争まで20年ほどあるんだよね.
大久保・山県が中心になって作った制度に不備があったとしたら,彼らの死後の人物は何もしなかったのか?
そういう観点が抜けたまま,大久保・山県を批判している人たちものすごく多い.
山県が死去した後に,「憲政の常道」と言われる時期があったのに,その頃政党は地方利権の代弁者として,詰まらん足の引っ張り合いしかせず,それによって国民の信頼を失い,軍部台頭の素地を作っただけじゃないの?と俺は思うわけです.
岡義武や服部之総なんかは古い学者だけど,近代国家を作る際に山県のような人物がいなかったら,上手くいかなかっただろうと考えていた.
俺は完全に岡や服部の考え方と同じなんで,かなり偏ってるとおもう.
>近代日本の制度を作り上げた
という事で,政党政治家と山県がそれぞれ何をやったのか,具体的に箇条書きで示した時に,どんなものが示されているのかを見てみれば,あなたなりの答えを出せるのでは?
もちろん山県が,藩閥政府内で確固たる地位を確立していたことと,政党政治家が在野の士だったことは,十分に考慮しなければならんけど.
日本史板,2005/01/03
青文字:加筆改修部分
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