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ハンガリーについてのスレです. Magyarországról

青文字:加筆改修部分
 ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.

※既に分類され,移動された項目を除く.

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※既出Q&Aの関連記述は,「追記」で処理.

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** 【質問】
 【回答】

86 名前: トルコの駆逐 投稿日: 01/09/07 16:50
モハーチの戦い(1526)以来,ハンガリーに侵入したオスマン・トルコ軍は,
その余勢を駆って,ハプスブルク軍と戦いを交えると共に,ウィーン攻略を企図したが,
成功しなかった.1682年,メフメト4世のトルコ軍20万は,
大宰相カラ・ムスタファ・パシャの指揮の下に,ハプスブルク帝国内部の紛争に乗じて
攻撃を開始した.1683年7月,トルコ軍はウィーンを包囲したが,
ヤン・ソビエスキーの率いるポーランド軍およびその他の国々からの援軍により,
9月12日トルコ軍は撃退せられ,ベオグラードまで退くの止むなきに至った.
そこでカラ・ムスタファは敗戦の責任を問われて処刑された.
1684年,ローマ法皇インノケンティウス11世の提唱により,オーストリア,
ポーランド,ヴェネツィアおよびロシアの神聖同盟が形成せられ,オーストリアと
フランスとは20年間の平和条約を締結する.トルコ軍はこれらの連合軍によって
西部のオーストリア国境の到る処で撃破せられ,1686年の夏にはブダ,
1687年にはトランシルバニアが,それぞれトルコから解放された.
1697年,ゼンタの戦いで,トルコ軍は大敗を喫し,1699年1月28日
カルロヴィッツ条約が調印された.この結果,オーストリアはトランシルバニアを領有し,
テメスヴァル州はトルコ領にとどまった.斯くしてハンガリーのほぼ全域が
ハプスブルク家の領土となり,ヴェネツィア,ポーランド,ロシアも若干の領土を獲得した.

世界史板,2001/09/07
青文字:加筆改修部分

144 名前: しい坊 投稿日: 01/09/30 17:39
86 :トルコの駆逐さん

> 1687年にはトランシルバニアが,それぞれトルコから解放され
> た.

 トランシルヴァニアがトルコ領であった史実はありません.


> テメスヴァル州はトルコ領にとどまった.

 用語の問題ですが,Temes va'rmegye はテメシュ城県と訳した方が
よろしいでしょう.あるいは「テメシュ県」.ドイツ語では Komitat
と訳されていたかな?英語から入る人は megye が county と訳され
るので何も考えずに「郡」と訳す人が多くて困っています.また外国
の行政単位を自動的に「州」と訳してしまうのも困りものです.ハン
ガリーの行政機構をきちんと調べれば,megye は「県」と訳し,その
下の「ja'ra's」を「郡」と訳すのが適切だとわかるでしょう.で,
「va'ros」は「市」で,「nagyko:zse'g」が「町」,「ko:zse'g」が
「村」ですね.あとセーケイ地方では va'rmegye に当たる行政組織を
「sze'k」と呼んでいますが,僕はこれは「席」と訳しています.

 なお,Temesva'r は「テメシュヴァール」です.ルーマニア語では
「ティミショワラ」(Timis,oara) ですね.ちなみに,ルーマニア語で
は「ティミショヴァラ」ではなく「ティミショワラ」となっているこ
とから,むかしのハンガリー語では「v」は「w」と発音されていたこ
とがわかります (^^).「(ナジ)ヴァーラド」(Nagyva'rad) が「オラ
デァ」(Oradea) とルーマニア語に音訳されていることも,やはり同じ
ことの証明です.

世界史板,2001/09/30
青文字:加筆改修部分


 【質問】 ハプスブルク家はまだ国籍は取得してないの?

 【質問】
 ハプスブルク家はまだ国籍は取得してないの?

 【回答】
 ハプスブルク家当主のオットー・ハプスブルク大公殿下はドイツ連邦共和国の国民です.

 ハプスブルク家の人間は旧支配地(オーストリアやハンガリー)への入国は禁じられていたのですが,どうしてもハンガリーを訪問したいというので,80年代だったかな?,当時の社会主義政権が人道的措置として,オーストリアとの国境の町のショプロン(エーデンブルク)を訪問することを認めた経緯がありました.
(やはり首都のブダペストはまずいだろうという政治的配慮がありました).
 もちろん,継承国達は
「ハンガリーの領土的野望の復活だ!」
とまたまた大騒ぎしましたが....

 現在ではもちろん,自由にハンガリーに入国できますし,その後,オーストリアも訪問したんじゃなかったでしたっけ?

 オットー大公がハンガリーに対して非常に愛着を抱いているというのは事実のようです.
(前にも書いたように,僕のことを“同胞”だと誤解したということは,彼の意識の中では自分はハンガリー人でもあるという意識があることの現れでしょう.
 実際,オットー氏は日本と ― ドイツではなく ― ハンガリーの友好のために,色々精力的に活動をされて・います.)

しい坊 : 世界史板,2001/09/30
青文字:加筆改修部分


 【質問】 ギュル・ババって誰?

 【質問】
 ギュル・ババって誰?

 【回答】

 ベクターシュ教団という神秘主義教団があるんですが,ギュル・ババはそこに属する戦士.
 神秘主義教団というのは言ってみれば修道会みたいなもので,中でもベクターシュはキリスト教と教義の類似点が大きいと言われています.
 メフメト2世の時代,つまり15世紀後半にバヤズィド皇子と親交があり,このバヤズィドが次のスルタンになると,イスタンブルに招かれてオスマン宮廷に仕えることになりました.
 そのときに,このギュル・ババがスルタンに献策して,イェニチェリの新兵のための学校(ガラタ・サライ)を作りました
(おかげでイェニチェリはベクターシュ教団と深い関係を持つことになります).
 こうして軍隊で「ババ(父)」として敬愛を集めた彼はずいぶんと長生きして,バヤズィドの孫であるスレイマン1世の時代まで活躍します.

 1541年,スレイマンはハンガリー遠征に向います
(ようやく話がハンガリーにやってきました).
 ギュル・ババはこれに従軍,そしてオスマン軍はブダに囲みます.
 このブダ攻略の戦いで,ギュル・ババは戦死を遂げました.
 軍中の敬愛を集めていた彼の死はスルタン以下をおおいに悲しませ,ブダ郊外に盛大な墓廟を建立して彼に報いました….

 宗教関係の人なのでちょっと伝説的ですが,トルコではこのような人物として記憶されているようです.

世界史板,2001/10/26
青文字:加筆改修部分


389 名前: しい坊 投稿日: 01/11/01 03:08
>388

 ちなみに,どなたかお詳しい方に是非ともご教示願いたいのです
が,“スロヴァキア人”といった民族意識や“スロヴァキア”という
地域意識が形成されるのはいつ頃なのでしょうか?歴史上,スロ
ヴァキアという国家が存在したことは1920年(←確立した年.宣言は
1918年)までは1度もなかったわけですから.

 “スロヴァキア人”という呼称自体は1458年には登場しているらし
いですが(ハンガリー語における初出は1828年です),これが今のス
ロヴァキア人を指すものかどうかは不明なようです.スロヴァキア人
というのは,西スラヴ人が居住していた地域にハンガリー王国が,彼
らを分断する形で成立し,一千年間ハンガリー王国内に居住している
内に(つまり,それぞれが別々の国家に居住するうちに)段々と周辺
の他の西スラヴ人とは区別されるようになって成立したものだと理解
しているのですが....確か,スラヴ人達の間でも,まだ19世紀頃に
はスロヴァキア人という独自の民族が成立するのか,それともチェコ
人やウクライナ人の中の単なるエスニック・グループに過ぎないのか
といった議論がされていたように認識しています.(誤解があるかも
しれません.)スロヴァキア人という呼称が現在のスロヴァキア人を
意味するようになったのはいつからなのか,また,スロヴァキア人が
スロヴァキア人(という,他の西スラヴ人とは異なる民族だという)
意識を持ったのはいつ頃なのか.非常に興味があります.スラヴ関係
は全く専門外なので,詳しくないのです.


しい坊 : 世界史板,2001/11/01
青文字:加筆改修部分


449 名前: しい坊 投稿日: 02/01/14 04:09
4>08 :世界@名無史さん

> マリー・アントワネットの側近にエステルハ-ジ姓の人物がいま
> すが,これってあのハイドンのパトロンのエステルハ-ジの一門
> の人間ですか?

多分,そのはずです.現代ハンガリー文学を代表する作家
のエステルハージ・ペーテルも確か,エステルハージの公爵家
の直系です.(エステルハージ家には色々な分家がありま
す.)彼は,体制転換後,新政府が旧華族の称号の復活を打診
した時に断ったのだそうです.理由は,「貴族の称号なんて馬
鹿らしいし,僕の名前を見れば,誰だって僕が公爵家の者だっ
てわかるじゃないか」というものでした(本人談).彼は電子
メールなどは絶対に持たないと断言していたのですが,とうと
う最近,hotmail ドメインのメールアカウントを取得した模様
です (^^).ちなみに,彼の弟,確か,ラヨシュと言ったかな?
彼は80年代のハンガリーのサッカー界を代表する選手でし
た.後にギリシアのチームに移籍しましたけど.確か,リーグ
一部のホンヴェード(国防軍)チームに所属していたんじゃな
いかな?

エステルハージの小説は日本語でも未知谷(みちたに)か
ら出版されています.

しい坊 : 世界史板,2002/01/14
青文字:加筆改修部分


ハンガリーについて(・v・)!II

青文字:加筆改修部分
 ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.

※既に分類され,移動された項目を除く.

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※既出Q&Aの関連記述は,「追記」で処理.

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 【link】

172 : ギシュクラ・ヤーノシュ[] 投稿日:02/02/17 16:45
チャルトリィスキ伯配下のセルビア・クロアチア・ハンガリー・トルコでの活動については「イスタンブル東方機関」という本があります.

793 : 世界@名無史さん[] 投稿日:03/04/17 13:45
戦前のハンガリーと日本の交流
http://www.ismusic.ne.jp/nicolo/portfolio/historycontents/2000/11_19/2600.htm

899 : ギシュクラ・ヤーノシュ[] 投稿日:03/05/19 01:40
897の補足です.
ホルティ提督を扱ったものとして邦文訳がある本では「小独裁者たち」アントニー・
ポロンスキ著があります.他にも軍事関係の方面の本などには登場するのではないで
しょうか.

960 : 世界@名無史さん[sage] 投稿日:03/06/16 15:05
ハンガリー中・近世研究
鈴木 広和
ttp://soran.osaka-gaidai.ac.jp/soran/PerDisp.asp?kid=65046545&LANG=J
戸谷 浩
ttp://www.kawai-juku.ac.jp/prof/rekishi/tokyo.html
飯尾 唯紀 近世ハンガリー王国における「信教の自由」
ttp://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/48/iio.pdf

東欧史研究会
ttp://www.na.rim.or.jp/~aees/index.html


 【質問】
 【回答】

630 : chmemory ◆DrehRwSE [sage] 投稿日:02/08/22 15:22
>>628
ギシュクラさん,

もっとお城の話が聞きたいYO!

631 : ギシュクラ・ヤーノシュ[] 投稿日:02/08/25 22:28
>>630
スピシュ城のことでしょうか?
ttp://www.spisskyhrad.sk/en.html
あたりを見ていただくと,どれだけ巨大かご理解いただけると
思います.
城は上部の当初要塞だったものが居館機能を付加された部分と
下部の恐ろしく広い郭からなります.
私が興味を持っているのは下部の部分で,傭兵隊長ヤン・イス
クラが部隊を収容する目的で構築したものだそうです.
実際,歩いてみると非常に広大で,城に入ってから郭を横断す
るまで結構時間がかかりました.
上部の方は落雷で焼失したあと長年放置されていた廃墟の一部
を博物館化したものですが,展示品はあまり充実していません.
それよりも,お勧めは塔の上からの眺めで,盆地の中の丘の上に
立つ城ですので,四方の視界が広がり雄大なパノラマが楽しめま
す.
皆様にも是非訪れてほしいですね.

世界史板,2002/8/25
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 【回答】

770 : 世界@名無史さん[] 投稿日:03/03/23 12:41
http://www.kfki.hu/keptar/english/b/benczur/muvek/budavar.html
ジュラ・ベンツール《ブダ城再征服》
http://www.mek.iif.hu/porta/szint/human/szepirod/magyar/arany/oszikek/html/festeszet/szekely_vlaszlo_n.jpg
ベルタラン・セーケイ《ラースロ5世とチレイ・ウルリク》


771 : ギシュクラ・ヤーノシュ[] 投稿日:03/03/23 15:03
>>770
ハンガリーの美術工芸のサイトですね.
いろんな画や彫刻が紹介されていて見ていてあきません.

ウリリク・ツィレイという人物も非常に興味深い人物です.
スロベニアのツィリエに本拠を持つ豪族でオーストリア・
ハンガリーの両国に相当な影響力を持っていたそうです.

ウルリクがライバルであったヤノシュ・フニャディがベオ
グラードでの対オスマントルコ戦のあと病死した後,ベオ
グラードへ入城し,ヤノシュの長男ラースローと諍いを起
こしてフニャディの与党に刺殺されてしまい,その領地は
ハプスブルク家に併合されてしまいました.

この事件を題材にしたのがエルケルのオペラ「フニャディ
・ラースロー」です.

世界史板,2003/03/23
青文字:加筆改修部分

ウルリク2世(スロヴェニア語:Ulrik II. Celjski,1406年 - 1456年11月9日)は、スロヴェニアのツェリェ伯。ハンガリー語名でツィレイ・ウルリク(Cillei Ulrik)とも呼ばれる。

ウルリク2世はツェリェ伯フリデリク2世(1379年 - 1454年)と、クロアチアの大貴族フランコパン家の娘エリザベタとの間に生まれた。幼い頃のことはほとんど知られていない。1434年、ウルリクはセルビア専制公ジュラジ・ブランコヴィチの娘カタリナと結婚した。

ハンガリー王国と神聖ローマ帝国に対するウルリクの影響力は、父が健在だったこともあって当初は目立たないものだった。ウルリクは1436年、父と一緒に叔母バルバラの夫である神聖ローマ皇帝ジギスムントにより帝国諸侯に叙せられた。ウルリクはハプスブルク家との激しい確執の結果、ツェリェの支配者としての権威を弱めてしまった。しかし後にハプスブルク家のローマ王アルブレヒト2世と同盟を結び、アルブレヒトによってボヘミア総督に任じられた。1439年にアルブレヒトが亡くなると、その未亡人である従妹エリーザベト(ジギスムントの娘)の協力者となり、1440年にはエリーザベトの生れたばかりの息子ラディスラウス・ポストゥムス(ラースロー5世)のハンガリー王戴冠式を主宰している。

ウルリクは新興貴族フニャディ家と対立するようになった。フニャディ・ヤーノシュは1443年にボスニア王ステファン・トヴルトコ2世が死んだ際にウルリクのボスニア王位継承を許さず、翌1444年にウルリクの義父ジュラジ・ブランコヴィチを攻撃するなどしてウルリクを憤慨させた。1446年、ハンガリー摂政となっていたフニャディは、ウルリクの支配下にあったクロアチアとスラヴォニアを攻めた。しかし1448年、フニャディは第2次コソボの戦いに敗れて権力を失い、一方のウルリクは1450年、名目上はハプスブルク王家による討伐という形で、ハンガリーへの十字軍遠征を行って成功を収めた。1452年、ウルリクは皇帝フリードリヒ3世に、幼いハンガリー王ラディスラウスの後見人の地位を譲らせ、事実上のハンガリーの支配者となった。1454年、父の死でその莫大な財産を相続したことにより、ウルリクの権勢はさらに高まった。そして1456年に政敵フニャディ・ヤーノシュが死ぬと、国王ラディスラウスにより、フニャディが保持していたハンガリー軍総司令官の地位を与えられた。

同年の11月8日、ウルリクは国王とともにベオグラードに入城したが、その翌日、不可解な状況下で亡きフニャディの息子フニャディ・ラースローの手先によって暗殺された。ウルリク2世の死によってツェリェ伯家の男系は途絶えた。

ウルリクの野心は人文主義者エネア・シルヴィオ・ピッコロミニ(後の教皇ピウス2世)の政治色の強い著作の中で批判されている。





スルタンは1456年の春に起動準備をすべく、軍にエディルネ集結を命じた。
16才のハンガリーの王(ラディスラウス・ポストゥムス)はトルコのベオグラード制圧計画を聞き、彼と叔父のツェリェ伯ウルリク2世(クロアチア総督、フニャディの生涯の敵の1人)に随行された宮廷は、安全のためブダからウィーンに逃れた。
http://white.ap.teacup.com/nishitatsu1234/1.html


 【質問】
 【回答】

903 : 世界@名無史さん[] 投稿日:03/05/21 18:16
ギシュクラ様,ホンヴェードについて答えていただきありがとうございました.
ハンガリー国防軍ということは,他にも軍隊がハンガリーにはあったのですか?
というのも二重帝国時代に3つか4つの軍隊があったと聞いたことあるので.
それとギシュクラ様はどちらが姓名なんですか(笑)

907 : ギシュクラ・ヤーノシュ[] 投稿日:03/05/22 00:08
>>903
二重帝国の時代だとオーストリア国防軍(ラントヴェア)とハンガリー国防軍
(ホンヴェード)が各々存在し,国内の治安維持に任じています.
その他に共通陸軍というものが存在し,帝国の国防に任じていました.
おもしろいことに海軍は陸軍の一部でした.
中公新書の「ハプスブルクの実験」大津留 厚 著にこのあたりのお話が出て
います.

世界史板,2003/05/21
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 【回答】

53 : 世界@名無史さん[] 投稿日:02/01/27 22:19
イスラム史を勉強していると,ハンガリー人の
東洋学者でヴァーンベーリという人がよくでてくるんですが,
この人は本国のハンガリーではどう評価されていますか?

54 : ABC[] 投稿日:02/01/28 13:56
>53 :世界@名無史さん
 ヴァーンベーリ・アルミンですね.現在では意外と評価されてはいません.
彼はコンスタンチノープル滞在時に得た語学力と人脈を駆使して中央アジアへ
ハンガリー民族のかつての同胞を探しに出かけます.この危険な探検の成果は
芳しいものではありませんでしたが,彼がもたらした地誌は当時ロシアと対立
していたイギリスに感謝されました.
 また,後に起こったハンガリー語の言語学的な系統をフィン・ウゴル語族か,
トルコ・タタール語族に求めるのかといういわゆる「ウゴル・トルコ論争」の
際に,後者の立場から論陣をはり,しばしば素人じみた方法論を使用したことが
批判されています.当時のハンガリー学術界では民族の故地についてや同胞民族
についての研究が盛んだったのですが,多分に神話的,非学術的素人主義に陥る
危険性を孕んでいました.どうやら彼の名はこのような危険性を助長した代表者
という否定的な評価が結びつくようです.
 もっとも彼は才能がありながら貧困に喘ぎ,学業も断念せざるを得ませんでした.
正統派ユダヤ教徒の家に生まれ,たしか母子家庭だったと思います.
私は彼についての伝記を読みましたが,「日が暮れて,今日食べるパンがあるという
だけで安堵を覚えた」という行には心が痛くなりました.

 どういった文脈で彼が登場するのですか?


55 : 世界@名無史さん[] 投稿日:02/01/28 16:43
やっぱり,中央アジアやイランを扱った章の中ですね.
そういうところでヴァーンベーリの名前や旅行記の一部が
紹介されています.
筋金入りのロシア嫌いで,オスマン帝国のアブデュルハミト二世の
庇護を受けるとともに,英国に貴重な現地情報を提供したとか.

56 : ABC[] 投稿日:02/02/01 11:02
>>55 :世界@名無史さん
そうですね.当時英国はロシアと今のアフガニスタン・カザフスタンあたりを
めぐって争っていましたから,ヴァーンベーリが探検にいくや英国はすぐに援助
しました.帰国の際もまずブダペストではなくロンドン経由なんですね.
 彼はドイツ語のトルコ辞典なんかもつくってます.

世界史板,2003/05/28
青文字:加筆改修部分


133 : 山野野衾[] 投稿日:02/02/08 22:37
「異教の大国リトアニア」の宗教はなんだったのでしょうか.多神教信者と
しては「余計な事を・・・.」という気もしますが(藁.

137 : ギシュクラ・ヤーノシュ[] 投稿日:02/02/09 01:30
山野野衾さま
ドイツ騎士修道会が十字軍と称して蛮行を働いておりそれに対処するた
めポーランドとリトアニアが手を組んだと記憶しています.
リトアニアがキリスト教化すれば騎士修道士会が攻撃する理由が無くな
り,ポーランドとしてもリトアニアと手を組んで騎士修道士会に奪われ
たポメラニアを奪回でき,リトアニアもポーランドの版図に組み込める
と考えたわけです.
この後も両者の抗争は続き,ついに有名なタンネンベルグ(ポーランド
ではグルンヴァルトの戦い)の戦いを迎えるのです.

このへんの経緯は「北の十字軍」山内進 講談社選書メチエ に詳しく
書かれています.

どんな信仰だったのかまで具体的に書かれてませんが「聖なる木」を切
り倒したとか,偶像を破壊したとかいう記述を見つけました.

世界史板,2002/02/08
青文字:加筆改修部分


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