c
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ
※青文字:加筆改修部分
ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.
※既に分類され,移動された項目を除く.
また,著作権上問題のある回答が意外に多く,これも除外.
※レス回収基準は「Ver.6」
【初心者】スレッド立てる前に質問を Part3【歓迎】
目次
** 【質問】
江戸城はどうして残っていないのでしょうか?
東京大空襲で壊されてしまったのでしょうか?
【回答】
大体残ってます.
ただし,天守閣は1657年以後なし.火災かな.
1873年5月,旧西丸宮殿が罹災全焼.
1888年10月に至り,旧西丸地区に宮殿が完成.
いわゆる明治宮殿.
総坪数1万2600余坪.
この明治宮殿は1945年5月,米軍機の空襲によって焼失.
1961年に,もとの御文庫の跡に,天皇・皇后の住居として吹上御所を建造.
さらに1968年10月,明治宮殿の跡に新宮殿が完成し,翌年4月から使用が開始.
新宮殿は,延べ床面積6900余坪の建物.
日本史板,2003/05/07〜07/07
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
虎ノ門事件について.
何で皇太子が狙撃されたことで,首相が辞めたんですか?
関係ないじゃん.
【回答】
それだけ衝撃が大きかったということ.
何しろこれは,群集の眼の前で起こった大逆事件だったのだから.
だから山本権兵衛内閣が直ちに総辞職したのみならず,警視総監・湯浅倉平,警視庁警務部長・正力松太郎らは懲戒免官.
犯人の社会主義者・難波大助の出身地,山口県の県知事は減俸.
犯人が卒業した小学校の校長,訓導も辞職.
大助の父親,作之進(代議士)は,自ら閉門・謹慎と,今日目線で見ると過剰とも言える反応を招いている.
犯人はもちろん死刑.
ついでに,虎ノ門事件に衝撃をうけたことで,平沼騏一郎は1924年から国家主義団体国本社を主宰(会長),同年には枢密顧問官に就任して,後に首相にまでなるきっかけを作っている.
もっとも,純真まっすぐ右翼には,国政を実際に担うのは無理だったようで,8ヶ月で投げ出しているけどな.
日本史板,2003/05/08
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
戦前,ロシアに拉致された邦人を救出した日本海軍の話を,ご存じの方いませんか?
【回答】
「尼港事件」の事かな?
シベリア出兵中の1920年3〜5月に尼港(ニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した事件.
同市はソ連(現,ロシア)極東のアムール川河口に近い漁業都市で,日本領事館も置かれていた.
日本軍はここを1918年9月占領し,20年冬には日本人居留民約380名,陸軍守備隊1個大隊,海軍通信隊約350名がいた.
同年1月トリャピーツィン Ya.I. Tryapitsin
の率いる約4000名のパルチザン部隊が,日本軍を包囲.
衆寡敵せず日本軍は敗れ,パルチザンとの間で停戦協定をむすんだ.
ところが3月11日,武器引渡しを要求されたのを機に,日本軍は奇襲をかけ,一般人もこれに加わった.
結果,日本人側は大半が戦死,残った者も降伏し投獄された.
石田虎松副領事一家は自決をとげた.
やがて解氷期となり,日本の救援隊が向かうと,その到着前の5月下旬パルチザン側は,監獄に収容中の日本人俘虜を虐殺した.
また同地を退去する際に,パルチザンは市街を焼き払い,一般市民約8000名の半数を殺害したと伝えられた.
この〈尼港の惨劇〉は日本に大々的に宣伝され,〈元寇以来の国辱〉として,シベリア駐兵の必要を説く軍部などに利用された.
日本政府は7月3日,同事件の解決の保障として北樺太の占領を宣言し,同地への出兵が行われた.
なお,トリャピーツィンはのちにソ連に逮捕され,人民革命裁判所の裁判を経て,7月死刑を執行された.
日本史板,2003/05/18
青文字:加筆改修部分
なお,元のレスは,コトバンクから転載された文章であるため,
著作権が発生しないと考えられる範囲で,元レスから抜粋した.
** 【質問】
戦前に大陸浪人と呼ばれる人がいたが,彼等は戦後はどうなったのですか?
【回答】
満州事変以降は,大陸浪人の活動余地はせばまり,軍と官僚に吸収されたようです.
それまで陸軍の各特務機関は,大陸浪人を駆使して諜報と謀略をさかんに行い,また,日本の大陸経営の根幹である南満州鉄道株式会社(満鉄)も多くの大陸浪人を擁していました.
しかし中国の国民革命が進展し,軍閥割拠が打破されてからは,活動の余地と必然性が狭まってきます.
つまり,1930年代には大陸浪人の活動余地は,なくなっていったと思われます.
特に満州事変以後,日中戦争期にかけての日本の対中政策は,占領地に傀儡政権を樹立し,これに日本の行政官庁が直接官吏や顧問を派遣する形になったため,大陸浪人もその体制の中に吸収されていきました.
岸田吟香,荒尾精,石光真清,横川省三などが有名な大陸浪人ですが,いずれも明治〜昭和10年代に死亡しています.
日本史板,2003/06/12
青文字:加筆改修部分
** 【追記】
203 :日本@名無史さん:03/06/13 12:05
「日本」の名前と国旗と国歌はいつ,誰が考えて決定したんですか?
あと,国歌の歌詞の意味が分からないので教えて下さい.
204 :日本@名無史さん:03/06/13 15:51
>>203
>「日本」という国号
8世紀初頭には使ってたようです.一般には,天武天皇(「天皇」号使用の初代)から
と言われています.天武か,天武のブレーンでしょう.中国の許可をもらったようです.
もっとも聖武天皇などは,8世紀中ごろでも倭国と自称してますが.
確かなのは,702年(大宝2)に32年ぶりで唐を訪れた遣唐使が,唐側では〈大倭国〉
の使人として扱ったのに対して,〈日本国使〉と主張したという《続日本紀》
の記述であり,《旧唐書》東夷伝の記事も,この当時の日本側の説明に基づく
ものと思われる.
>日の丸
海防参与を命じた前水戸藩主徳川斉昭の意見を徴した.6月から1ヵ月余にわた
って,日本船の標識として日本の日を表す日の丸を強硬に主張する斉昭と,
幕府船の標識としての日の丸に固執する幕府の間で折衝が繰り返されたあげく,
幕府は斉昭に押し切られて,7月,白地日の丸の幟を日本総船印と決めた.
日の丸が国民に浸透したのは,明治憲法か日清日露戦争の頃.
国旗となったのは,近年の国旗国歌法制定から.
205 :日本@名無史さん:03/06/13 15:52
>君が代
歌詞は《古今和歌集》に由来するが,その初句は〈我が君は〉であり,〈君が代は〉
となったのは,《和漢朗詠集》の一写本に始まるといわれる.
近世に入り,地歌,長唄などにもとり入れられ,祝賀の歌詞として用いられた.
1869年(明治2)ころ,横浜にいたイギリス軍楽隊長
J. W. フェントンが国歌の必要を説き,
醍摩藩砲兵隊長大山弥助(のちの元帥陸軍大将大山巌)が醍摩琵琶歌《楕族山(ほうらいさん)》
に入っていた《君が代》を歌詞として選定(選者については異説あり),フェントンが
これに作曲.76年,この曲は日本人には不適であるとの判断から,海軍軍楽隊長中村祐庸は
〈天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂ノ儀上申〉を提出,西南戦争後,海軍省は新曲作成
を宮内省式部寮雅楽課に委嘱,80年同課では壱越(いちこつ)調律旋により作曲
(形式上は〈林広守斤譜〉と公表),海軍省傭教師
F. エッケルトが和声を付し,
同年11月3日,天長節宮中御宴で伶人らにより初演.82年,音楽取調掛が文部省
の命を受け国歌選定に努力したが実現せず,雅楽調の《君が代》が天皇礼式曲と
しておもに軍隊で演奏され,88年海軍省が吹奏楽譜を〈大日本礼式
Japanische Hymne(von F. Eckert)〉として各官庁や条約国に送付した.
しかし国内でそれを認めていた人は少なく,《君が代》の普及は,1890年の
教育勅語発布以後,学校をとおして強力に進められた.
正式の国歌となったのは,これも先日の国旗国歌法の制定によって.
なお,国旗国歌法には義務や罰則の規定はありません.ただ,国旗と国歌と決めただけ.
206 :日本@名無史さん:03/06/13 15:52
>君が代の歌詞
もともとは単なるお祝いの歌ですが,明治から敗戦までは,君が代は国威発揚・
天皇に尽くす心情の育成の教材として,文部省の教師用学習の手引きに書かれ,
長らく学校や日本社会では天皇を賛美する歌として使われてきました.
国定修身教科書には〈私たち臣民が《君が代》を歌ふときには,天皇陛下の万歳
を祝ひ奉り,皇室の御栄を祈り奉る心で一ぱいになります〉(《小学修身書》巻四)とあった.
戦前の文部省解釈では以下のような意味です.
天皇の世(天皇中心の時代が)が
いつまでもいつまでも
小さな石が
大きな岩となって
コケが生えるまでも(永久に続きますように)
戦後は一時,殆ど歌われなくなりましたが,1950年に文部省が祝日には望ましいとの
談話を発表し,58年ごろから学校教育に復活してきました.
その間文部省の見解は右往左往し,君が代は国民の幸せを祝う歌だとか,象徴天皇を
祝う歌だとか迷走してきました.
現在は,象徴天皇制下の日本の繁栄を祝う歌あたりのようです.
現実社会では,ワールドカップ以来,天皇はふっとび,「君が代」は国際大会
などにおける日本を識別する,シンボルの曲として思想性は消えつつある気がします.
スタジアムなどを見ると,歌う人が2/3.歌わない人が1/3位ですかね?
日本史板,2003/06/13
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
辛亥革命って日本にどう映ったのでしょうか?
皇帝の代名詞の中国が共和制になることは,おなじ君主制の日本にとってかなり衝撃だったと思いますが.
これを真似して日本も・・・って勢力もあっただろうし.
【回答】
基本的には,中国での権益確保に奔走したのが第一のようです.
この機に乗じての中国分割論,あるいは列強との強調による保全論が叫ばれ,さらには犬養毅らによる日中提携論も唱えられました.
また,革命による君主制の打倒が,天皇制と家族制に及ぼす影響への憂慮も大きかったようですが,袁世凱が逆コースを歩むことによって,心配は減ったようです.
日本の民間右翼の活動にも,思想的影響を与えました.
北一輝や大陸浪人は,辛亥革命に義勇兵として参加していました.
日本史板,2003/06/21
青文字:加筆改修部分
** 【追記】
262 :日本@名無史さん:03/06/22 22:57
>>257
1185年11月に大江広元が頼朝に守護地頭を献策したと言われているが,
頼朝は1180年の段階ですでに平安後期の国守護人を活用するビジョンは持ってたらしい.
鎌倉幕府の守護制度は,12世紀の80‐90年代すなわち幕府草創の時代に
成立する.この守護制度成立については古くから諸説が分かれ,
(1)指称と成立時期にかんし,惣追捕使と守護は同一実体で,ともに1185年
(文治1)勅許で成立したと見る説,85年勅許では惣追捕使として登場し,
建久年間(1190‐99)に守護に切り換えられたとする説などがあり,
(2)設置目的や範囲についても,(1)との関連で,源義経追討と恒久的な
諸国治安維持一般のいずれを重視するか,また特定地域であるか全国的
であるかなど,学説は一定せず,
さらに(3)職務内容についても,大犯(だいぼん)三箇条,兵粮米徴集,
庄公下職進退などをめぐり,(1)(2)と絡みながら種々の解釈が提出されている.
いまこれらの諸見解の対立を全面的に解決することは不可能であるが,
諸研究で確実になった点を基礎に若干の私見を加えて見通すと,すでに
頼朝は1180年(治承4)の挙兵直後から,おそらく国守護人を土台として,
守護人を平家追討後の国々に反逆予防・治安のために承認ないし新置して
いたが,平家追討完了後の85年11月,この一国を軍事的に統率して鎮護
する守護人を,惣追捕使という公式指称で,朝敵となった義経を討滅する
手段という大義名分をもって,地頭職とだきあわせで全国的に設置する
ことを朝廷にせまり,勅許された.この時期の惣追捕使の職権は戦時大権
として,謀反人(義経)追討を固有の核として兵粮米徴集,庄公下職指揮権
をも含む広いものであったが,89年義経追討終了以後,平時に復する中で,
鎌倉時代を通じて存続する守護制度の体制へと順次転形し,平時にふさわ
しい守護が指称としても公私を問わず使われることとなった.
文責は義江彰夫氏.
日本史板,2003/06/22
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
第二次大戦の日本海軍の制服は,何色だったか教えていただけませんか?
【回答】
1914年(大正3)以来,一種は紺の軍装,二種は白の夏服の一濫を指している.
日中戦争勃発の翌年に,儀礼服は戦時中着ないことにし,サーベルの代りに黒造り陣太刀ごしらえの軍刀を制定し,次に戦闘帽型で黒と白2種類の艦内帽を定めた.
41年太平洋戦争へ突入し,戦場が太平洋からインド洋へかけて広がると,半袖半ズボンの防暑服は,士官用の純白,官給品の淡茶色と濃い緑茶褐色が併用される.
42年に下士官・兵官職区別章のシンボルマークをやめ,楯形の台地に兵科は小さな桜花の色分けで示し,士官の識別線は襟章の細い線だけに残った.
戦局は航空戦で左右され,搭乗員養成が急務となり,大勢の少年が予科練を志願してくると,彼らの誇りを満たすため,いわゆる七つボタンの予科練服が生まれた.
南方海域では防暑服が快適だが,海戦時に露出した手足は火傷が重くなる.
戦訓により長袖長ズボンの服,士官は夏衣,兵は作業服に脚絆をつけるが,白色なので敵機の機銃掃射の目標になり易く戦闘に不利であった.
43年に海軍は,戦地勤務でつねに着ることができる陸戦隊服とよく似た略装を制定し,艦内帽も同じ褐青色にして略帽と称する.
戦局が極度に悪化し,前線が本土に近づいた44年秋,略装を正式に第三種軍装とし,全ての海軍服の代りに着ることになる.
それは戦時下服装の二重生活を精算し,艦船を喪失した海軍の総陸戦隊化の覚悟を表明したようにも受けとれる.
日本史板,2003/07/07
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
小林多喜二が拷問死したのは,多喜二が取調べ中に特高を挑発しまくったからであり,半分は自業自得だと聞いたことがありますが,本当ですか?
最初はネタだと思ったのですが,戦後日本の共産党幹部たちは,非転向のために獄中にいたにも関わらず,苛烈な拷問をされたわけではなさそうですし,何だか分からなくなってきた次第です.
私は修正主義者に脳髄侵されかかってるのでしょうか?
【回答】
挑発ってのはどのような意味でしょうかねぇ.
「殴ってみろよ」「痛くねぇよ,オラ」「天皇死ねよ」とかでしょうか?
小林が拷問を受けたのは,東京の築地署です.
特高警察によってですね.
拷問の記録は残ってないはずです.
作り話でしょう.
それに,もし挑発があったとして,それなら,7時間拷問されて殺されても,自業自得なんでしょうか?
指を何本も逆に折られ,太ももには錐が刺されたのも,挑発のせいでしょうか.
自業自得と言う言葉には,「特高が善で,一切逆らうのは悪」という前提があります.
ポイントは,下部警察署で行われたということです.
仲間や上層部の情報を聞き出そうと,功に焦った現場特高員の暴力虐殺と言うところではないでしょうか.
関東大震災時に大杉栄を殺した甘粕と,同じ心理状況が推測されます.
「蟹工船」など,作品内容はかなり挑発的ですが(苦笑
日本史板,2003/07/13
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
自由民権運動を支えた思想は,初期から仏流(中江兆民など)と英流(福沢諭吉など)と考えているのですが,激化事件の時など,それとは違った思想があったのでしょうか?
【回答】
「激化諸事件の中には,ロシアの虚無党(ナロードニキ)の運動への共感もみられる」
とも言われますが,個々の激化事件を見ますと,自由党急進派中心のものから,自由党急進派と農民が合同したもの,農民に中心が移動したものなど,いろいろあると思います.
個人的には,ナロードニキの思想はあまり関係なく,江戸時代以来の農民の生活安定要求や地租軽減などの,数々の一揆の潜在力量と,自由党急進派の思想が絡んだものではないかと思われます.
福島事件は県議会議長(自由党)と農民が中心となった広い階層の運動で,秩父事件は困民党中心の農民中心の運動ですが,「板垣さんの世直し」を意識してます.
自由党への弾圧への対抗の側面,松方財政での生活苦への生活闘争の面,農民の既存権保全運動の面などが,いくつも絡まっているのではないかと思います.
なお,福沢諭吉氏は民権運動派というより,政府に近い立場の気がしますので,一言貼っておきます.
------------
彼は明治政府の開明性に過大な期待をかけ,実学教育を受けた士族による,産業化と政治への影響力の発展を楽観視した反面,民権運動・民党の大衆的基礎や統治能力を,正当に認識できなかった.
その結果,初期議会における寡頭制政府と民党との抗争激化に直面して,彼の論評は,責任内閣論にもとづく原理的な論評より,民党操作の戦術論に傾き,日清戦争中の城内平和の提唱にいたった.
------------《福翁百話》 とは - コトバンク
日本史板,2003/07/14
青文字:加筆改修部分
<保留>
** 【質問】
【回答】
372 :日本@名無史さん:03/07/15 04:13
姓は 藤原朝臣 となるのではないか?
376 :日本@名無史さん:03/07/15 11:07
>>372
藤原が氏,朝臣が姓.
西郷隆盛についていえば,氏姓は平朝臣(たいらのあそん),家名は西郷,
幼名は小吉,諱は隆盛,通称は吉之助,雅号は南洲.
379 :日本@名無史さん:03/07/15 11:48
>>376
西郷隆盛の諱は隆盛でなく隆永.
隆盛は明治になって戸籍登録のときの名前だから厳密には諱ではない.
380 :日本@名無史さん:03/07/15 13:53
>>379
厳密には,諱は「隆永のちに隆盛」.
この場合の隆盛は名だが,名を諱と称するのは漢代から行われている.
386 :日本@名無史さん:03/07/16 03:00
>>380
>厳密には,諱は「隆永のちに隆盛」.
>この場合の隆盛は名だが,名を諱と称するのは漢代から行われている.
「厳密には」諱=名とはいえません.
ですから隆盛は諱ではありません.
たとえば三郎,拓哉は名ですが,諱ではありません.
387 :日本@名無史さん:03/07/16 11:26
三郎などの場合は,名乗りなどになるのでしょうか.
388 :日本@名無史さん:03/07/16 20:04
>諱
それを言ったら,もともとは死後に生前の名を呼ぶのが諱だよ.
中国や日本などで,生前の実名をいう.死後,実名を忌んで口にしない風習
より生じた.秦代に始まるとするのが郭沫若の説.
のち転じて生存中の名も忌むようになる.名を諱と称する例は漢代からあり,
日本でも貴人を敬うときに認められる.
だから諱は「隆永のちに隆盛」でも,別におかしくはない.
398 :日本@名無史さん:03/07/17 02:42
>>388
>だから諱は「隆永のちに隆盛」でも,別におかしくはない.
おかしいよ.
隆盛とは「諱」が無くなってからの名前だから.
だから「厳密に」と書いたのに.
399 :日本@名無史さん:03/07/17 05:11
う〜む,話がこんがらがってきた.
そもそもこういう風習はいつまであったのですか?
少なくとも今の名字と名前とは明らかに違うわけですけど.
あと,名字ってのは明治以後に本来「氏」を持っていたヒトはそれを使ってたのでしょうか?
(藤原って名字は今もあるし…)
400 :日本@名無史さん:03/07/17 05:32
中世武士の「みょうじ」は名字,
現代庶民の「みょうじ」は苗字が普通じゃないかな.
ttp://dictionary.goo.ne.jp/index.html?kind=jn&mode=0
ここで,「うじ」,「かばね」,「みょうじ」を調べてみたらどうでしょうか.
当の私も勘違いを知ったばかりで僭越かとは思いますが.
>>398さんは,
諱は生前に名を隠す風習があったときの物だから,
「諱」の考えが無くなった壬申戸籍以降では問う事が出来ない,ということでしょうか.
>>388さんは「諱」という語意から問うているのでしょうか.
素人ながら口を挟んでしまい,申し訳ありません.
401 :日本@名無史さん:03/07/17 08:26
>>398
ま,あんまりしつこいのも大人気ないんで,もういいんだが,一応.
壬申戸籍の制定時,名を一つ出すことになりましたが,通称を出した人と,
諱を出した人がいました.この意識が完全に日本人から薄れるのは,
昭和かもしれません.
1872年における壬申戸籍の制定によって日本人は
苗字(氏名,家名または適宜に案出した名であれ)を一つ,
名(諱,通称,幼名または適宜に案出した名であれ)を一つ
つけるよう定められた.
伊藤俊輔(家名と通称)こと越智宿衝博文(氏名,姓(かばね),諱)は,苗字
を伊藤,名を博文と登記したし,大隈八太郎(家名と通称)こと菅原朝臣重信は,
登記名を大隈重信と定めた.
こうして明治・大正時代の男性名には,諱系の名(大久保利通,西園寺公望,
乃木希典,等々)と,通称系の名(尾崎徳太郎(紅葉),森林太郎(宝外),
岩崎弥太郎,児玉源太郎,夏目金之助(漱石),堀切善兵衛,等々)と
二つの大潮流がみられた.
日本史板,2003/07/15〜07/17
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
代官手代の身分は何ですか?
又,在地代官とは何ですか?
【回答】
個人差があるようですが,幕臣採用もあったようです.
------------
江戸幕府の郡代・代官の属僚.
江戸初期の手代は〈てがわり〉と呼び,代官クラスをいう.
江戸中期以降は農民,町人で地方(じかた)の事務の熟練者を縁故により採用した.
その場合,勘定所の許可を得て正式に雇われ,給料は郡代,代官の諸入用で賄われた.
書役より昇格したが,待遇には個人差があった.
〔中略〕
代官とともに任地を移ることが多く,失職中の元手代が再採用されることもあり,元締手代は功績により幕臣に登用されることもあった.
------------手代 とは - コトバンク
在地代官は,江戸時代初期の在地に力を持っていて任命された土着の代官かと思われます.
綱吉の時代に改革が行われ,多くが罷免され,中央から新代官が送り込まれてます.
初期の代官は70〜80名もしくはそれ以上に及び,徳川譜代,武田・今川・後北条旧臣の地方巧者(じかたこうしや)を中心に任ぜられ,支配地に陣屋を設けて周辺諸地域の民政が行われました.
日本史板,2003/07/18
青文字:加筆改修部分
** 【追記】
478 :日本@名無史さん:03/07/25 20:20
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4759/130324-1.html
これによりますと,イタリアに対し,日本は終戦後,「各種請求権に基づく
支払い」を行っていますが,どういう理由に基づく支払いであるのか,ご教示
いただければ幸いです.
479 :日本@名無史さん:03/07/25 20:48
浮世絵の特質とその歴史的意義を教えて下さい.
よろしくお願いします.
480 :日本@名無史さん:03/07/25 21:00
>>478
見過ごされかちなのですが,
イタリアは第二次大戦における戦勝国です.
個別の請求理由や,金額の根拠については存じ上げませんが,
戦勝国が何らかの理由で,敗戦国から賠償をうけることが一般的なのは,
ご存知の通りです.
481 :日本@名無史さん:03/07/25 21:40
某スレであったのですが,豊臣というのは,うぢ? かばね?
かばねだったら,羽柴豊臣秀吉ですよね?
姓を「せい」と読めば違うのでしょうか.中国のように「日本の氏や名字にあたる」など.
素人ですいません.辞書は調べたんですけど.
482 :日本@名無史さん:03/07/25 21:43
>>478
自信はありませんが,これは8億円の請求権であって,実際には
請求されず,払ってないんじゃないでしょうか?
スイス(12億)やアルゼンチン(8千万)にも請求権が認められてますよね.
これも請求されず,支払ってないと思うのですが.
ちなみにイタリアは多額の賠償金を支払ってます.
ソ連に1億ドル,アルバニアに5000万ドル,エチオピアに2500万ドル,
ギリシャに1億5000万ドル,ユーゴスラビアに1億2500万ドルの賠償義務.
また連合国は,自国占領地域内のイタリア所有資産を没収.
日本史板,2003/07/25
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
安政五カ国条約による開国が,わが国にもたらした影響について述べてくれ.
【回答】
外国商人たちは,当時の東アジアの国際通貨たるメキシコ・ドル(洋銀)を持ちこんでは,国際的には相対的に安かった国内の金貨(小判)と交換して,自由に国外に持ちだし,ぼろもうけをした.
さらに,当初は一律従価5%とされた輸出関税率,5〜35%とされた輸入関税率も,1866年(慶応2),江戸協約(改税約書)を強要して輸出入関税とも一律従価5%規準の従量税という低税率に改定させ,欧米資本主義の市場拡大の一環として,日本市場をさらに深く開放させていった.
こうして展開しはじめた対外貿易では,横浜がすぐにその中心となった.
かくて横浜は通商港として急膨張しはじめ,外商たちが殺到してきたが,しかしその中心は,すでに東インド貿易や中国貿易の経験をつんで世界の市況に通じた近代商社,植民地銀行群や大海運会社であった.
いずれもイギリス系のジャーディン・マセソン会社,東洋銀行,香港上海銀行,P&O
汽船会社などは,その代表的なものである.
そのため,海運や貿易金融をふくむ商権はすべて欧米列強が独占し,日本人貿易商といえば,外商に国産品を売りこむ売込商,外商が持参した諸商品を買いとる引取商というのがせいぜいで,日本人の手になる直輸出・直輸入などは,皆無に近かった.
このような半植民地的な貿易形態と対応して,貿易構造もまた従属的であった.
すなわち日本は,手工業的な半製品たる生糸や,茶,水産物などの第1次産品を輸出する一方,まず大衆的に需要される綿製品,さらに毛織物,砂糖,また武器・艦船などの資本制大工業生産物の輸入が急増し,それらの輸入全体が輸出総額を上まわるようになっていった.
メキシコ・ドルの流入・金貨流出に伴う幣制の混乱と重なった,この綿製品や砂糖の大量流入の中で,国内各地の広範な綿業や糖業など,商業的農業・農村手工業は打撃をうけて衰退し,物価急騰と経済の混乱,各地民衆の生活破綻に伴う社会不安も,また未曾有となった.
日本史板,2003/07/27
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
受験勉強中です.
論述問題中に,
「享保期以来の年貢増徴や金融資本依存の収奪強化から,村方騒動>百姓一揆,の傾向が明らかになった」
とありました.
でも,村方騒動自体がどういうものか理解できない.
村方騒動:村落内における一般農民と,村役人・地主・豪農との対立抗争
ってコメントが付記してあったけど,イマイチ掴めません.
解説して頂ければ嬉しいのですが・・・
【回答】
村方騒動 とは - コトバンク
より,著作権が発生しないと考えられる範囲で抜粋.
村方騒動とは,江戸時代の村落内部の紛争のこと.
村方出入(でいり),小前(こまえ)騒動ともいう.
江戸時代の村落は,前後の時代と比べると小農の比率が高く,比較的に均一な印象を与えるが,実際には上下の階層差が小さくなかった.
村落の成員は殆ど百姓身分の農民だったが,初期には百姓以下の名子(なご)・前地(まえち)・被官(ひかん)などと呼ばれる,隷属身分の下層農民がかなり存在した.
また,百姓身分であっても,家格によって家宅の構造や衣類の種類や婚姻,葬儀の形式などの区別が強いられていた.
さらに近世の支配は,村請(むらうけ)年貢制度を採用し,有力農民を村役人に任命して年貢徴収にあたらせ,その手当として百姓の使役権を認めたり,負担量を特別に減じたりしたため,かえって階層差を固定させることになった.
また,村請制は領主が村高に対して一括賦課し,個々の百姓に対しては村役人が,惣百姓立会いのもとで家数や持高に応じて割り当て,それを村役人が徴収し上納するという方法だったが,実際には惣百姓を立ち会わせなかったり,不公平な割当てを行うこともあり,村役人の恣意が働き易く不正が生まれ易い制度であった.
このような事情から,近世村落の成立過程で初期村方騒動が数多く起こり,それを通じて,小農が中心となる近世村落が形成されていった.
隷属身分の下層農民は,主家に提供する賦役の日数の限定や,菩提寺の分離や独立の家宅普請,身分変更などをめぐって,個別的にまた村中をまきこんで争ったりした.
隷属身分の農民は次第に減少するが,地域によっては長く残り,彼らの身分解放闘争はのちのちまで現れた.
また,小百姓は村役人の特権や恣意の限定をめざして争ったり,村役人の不正ではないが,上層農民が有利になる軒割(のきわり)賦課に反対し,負担を持高割(もちだかわり)にすることを求めたりした.
村請制に随伴する年貢徴収の過程での村役人の不正と私欲,横領,村政の横暴さに対する村方惣百姓の闘争は,どの時期でも起こった.
これらは普通,小前百姓連判の訴状を領主に提出して,村役人の不正,非法を告発するという方法がとられた.
領主は多くの場合,説諭ののち仲裁人を入れて,示談のかたちで終息させるほうを選んだ.
中・後期になると,新しい経済動向を反映した質地騒動,小作騒動なども加わって,村役人や上層農民の非分を追及する村方騒動は,いよいよ増大した.
小前百姓の伸張にともない,衣服や家宅の不公平な規制に反発する騒動も増加.
新興の勢力が小前百姓の先頭に立ち,村役人交代を迫る村方騒動を起こすことも少なくなかった.
百姓一揆のなかには,村方騒動の内容である村役人の任期や不正を,要求条項のなかに掲げるものがあり,また一揆の後に村方騒動が広がることもあった.
豪農商に対する激しい打毀(うちこわし)である世直しの基礎には,たいてい村方騒動があり,打毀に連動して村方騒動が急速に波及していくことが多かった.
なお,近世村落には,村役人や地主,豪農などに対する村方騒動と同じ対抗関係ではないが,一村の内部あるいは村と村との間で,山や水や地境などをめぐって,山論,水論など種々の争論が発生しており,階層間の対立とあわせて,数多くの村方出入が起こった.
百姓一揆を経験しない村はあっても,村方騒動を経験しない村は殆どなかった.
日本史板,2003/07/31
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
日本の太平洋戦争の開戦理由に,アメリカの石油・鉄鋼禁輸やABCD包囲網に対抗して,インドネシアの石油の確保というのがあったはずですが,満洲の油田開発(ターチン)や鉄鉱石採掘(アンシャン)でしのぐことは出来なかったのでしょうか?
また,サハリンのオハ油田を確保する(北進論)のは,戦略的にどう見られていたのでしょうか?
【回答】
アンシャンには満鉄が製鉄工場を作ってます.
大規模化されるのは,人民共和国になってからです.
ターチンでの油田発掘成功は,1960年ごろです.
石炭と鉄鉱石は採掘できたようですが,石油は日本には発見できませんでした.
北サハリンのオハ油田は,1920年の尼港事件の見返りに,日本が45年間の採掘権を手にしてます.
協定成立後オハに中里重次・海軍中将を社長とする北樺太石油が誕生して,最盛期には年間19万5千トンを日本に送ります.
良質の原油が帝国海軍に供給されますが,日本がナチスドイツと同盟を結び,更に独ソ戦が始まると,ソ連の反発が強まり,1944年,オハ油田の権利と資産は,500万ルーブルでソ連に売却されます.
ソ連とは事を構えたくなかったようです.
日本史板,2003/08/04
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
戦前の日本人って,昭和天皇を崇拝してたのでしょうか?
例の玉音放送の映像でも,土下座してる人間の後ろでは,普通に歩いている人間もいるし.
サダム・フセインの銅像と同じで,一部だけを写して,さも国民みんながそうであるかと思わせてるんじゃないのですか?
【回答】
皇居前の土下座フィルムは,メガネの学生が泣いてるのと,女性が泣いてる場面.
ラジオ放送を聴いてうなだれてるのは,焼け跡の場面.
ここら辺の種類しか見たことなくないですか?
あれは,ニュース映画フィルムの使い回しです.
つまり,戦意高揚のニュース映画を作ってた会社が,そのまま撮りました.
皇居前広場に用意したカメラとスタッフの真ん前で泣いてるわけです.
「やらせ」も入ってるかもしれませんね.
特に,メガネの学生の泣く場面など,今の北朝鮮風な泣き方ですからね(笑
実際は,東京大空襲後の陛下の視察に,敬礼をしない民衆が増えたり,近衛が大和に乗せて特攻させようとしたり,複雑な立場だったようです.
また,玉音放送を聞いた側では,
「ホッとした」
「空襲がもう来ない」
「助かった.死ななくて済む」
「やっと終わったか」
あたりが多かったようです.
日本史板,2003/08/05
青文字:加筆改修部分
<保留>
** 【質問】
【回答】
717 :日本@名無史さん:03/08/07 05:15
>>683
「無視する」と「黙殺する」は日本語でも同じ意味.ignoreと訳しても誤訳とはとても言えません.
訳が悪いのではなく,鈴木首相の発言の時点で「まだコメントできない」という意味で「黙殺」と
言ったのが問題.何か提案をした時に「黙殺する」と言われたら誰だろうと拒否の意で受け取るでしょうに,
この件は完全に日本側の自爆です.素直に「目下検討中」とでも言えばよかったんですが.
720 :日本@名無史さん:03/08/07 11:25
>>717
最もなご意見ではあるが,
鈴木内閣を「バドリオ内閣」と呼んだりして,その戦争遂行意志を疑う勢力も,
軍部にはあったようだし,
あの時点で「検討中」とか「ノーコメント」とかあいまいな表現をしたら,
その連中を刺激して,さらに政局は混迷しかねない.
主戦派のクーデターなどを惹起しては,さらに和平は遠くなる.
「黙殺」発言についての評価は,いわゆる「結果論」による評価に
ならざるを得ない,ということをお忘れなく.
(政治家は「結果」に責任をとるものだから「結果論」は当然かもしれないが)
日本史板,2003/08/07
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
江戸開城のあと,大奥の女性たちはどうなったんですか?
実家が没落してたり,身寄りがいない人はお妾奉公や遊女に転落ですか?
【回答】
一概に言うことはできませんが,身寄りのない人の一部は,徳川家で引き取っています.
将軍職はなくなっても,大名としての徳川本家は残ったからです.
まず大奥にあがること自体が,しっかりした家の娘さんですので,実家や身寄りがまるでないという人は少なかったと思います.
だから,意外とさばけていて,大奥上がりの娘さんなら結婚相手として引く手あまたでした.
逆に吉原に引っ張られる(背徳的な快楽が得られる),新政府関係者に引っ張られるものがいたことは事実ですが・・・
日本史板,2003/08/10
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
戦前における有力な歴史学者に,平泉澄 HIRAIZUMI
Kiyoshi という人がいますが,現在の学界では,この人の評価はどのようなものなのでしょうか?
極悪人として抹殺されているのでしょうか?
以前,氏の書籍読んでいて気になったもので,質問してみました.
【回答】
皇国史観の人ですな.
一昨年の大阪歴史学会大会の近代部会報告で取り上げられているように,昨今は極悪人とかの価値判断を超えて,史学史の研究対象になりつつあるような気がしますが.
以下は,「コトバンク」による評価.
------------
歴史学者.
福井県生れ.
1919年,東京帝国大学文学部国史学科を卒業し,講師,助教授を経て,35年教授となった.
日本中世史の研究者であったが,教授就任の前後から熱烈な皇国史観の主唱者となり,戦時下の国史学界をリードするとともに,軍部との関係を深め,社会的にも大きな影響力をもった.
太平洋戦争降伏阻止のため,皇居を占拠するクーデタ計画(宮城事件)を立てた陸軍将校たちも,その信奉者であった.
敗戦後東大を辞して,郷里の福井県平泉寺の白山神社に引きこもったが,思想的立場を変えず,皇学館大学学事顧問,日本を守る国民会議発起人などとして活動した.
その皇国史観は,神勅に示された〈万古不易の国体〉を絶対のものとし,国史はその国体を顕現するための歴史だと主張するもので,著書《伝統》 (1940)などで,皇国史観の先駆者としての江戸時代の国学者を熱心に顕彰した.
------------
日本史板,2003/08/17
青文字:加筆改修部分
** 【追記】
日本で欧州や中国大陸のように城塞都市が発達しなかったのはどうしてですか.
832 :日本@名無史さん:03/08/17 18:30
>>825
アジアの島的な国やアメリカ大陸にもありませんでした.
日本では,堀や自然河川による市街地の囲郭はみられるが,京都の土囲い
などを除くと,市街地全体を囲む城壁の類はまれであった.
1,堀や河川がかわりをした.
2,大和朝廷を考えると,3つの関所をおさえると,畿内と畿外を遮断できる.
畿内を囲む山並みが大きな天然城壁の役割をなしていた.
天皇の急な代替わりや,反乱がおきたとき活用し,かつ成果があった.
壬申の乱で,天武が畿外勢力と結んで勝利したのを教訓に,それ以後の
政府は畿内と外部が結ばないよう山脈を利用し,関所を常に天皇勅命で
閉じられるようにしておいた.
3,鎌倉幕府も要害の地.天然の山・崖・海を利用した.
4,城下町では,住民の住居を防御として利用した.
5,江戸幕府も江戸防御の観点で関所を利用していた.大井川に橋をかけなかった,等.
総じて,平原の欧州や中国と,山がちな日本の自然差も大きいと思われます.
日本史板,2003/08/17
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
千人同心が武士階級だったかどうかですが,以下のサイトを見ると,
「千人同心とは,徳川家康が関東入国とともに,武蔵・甲斐の国境の甲州街道警備をするために設置された十組千人の武士団です」
とはっきり書いてあるんですが,これはサイトの作者の思い違いでしょうか?
http://www.cec.co.jp/CEC/freeway/History/sennin_dosin.html
【回答】
八王子千人同心の原型は,武田氏の小人頭に率いられた同心集団です.
武田の家臣団編成は,在地の名主層(有力農民)を家臣の末端に組み入れる,寄親−寄子・同心制がとられていることが多く,この同心集団も名主層で構成されていたと考えられています.
すなわち兵農未分離状態にあります.
武田氏の滅亡後,徳川家康は甲斐・信濃の支配にあたって,武田旧臣をできる限り登用しますが,甲斐9口の防衛にあたっていた小人頭と,その配下の同心集団も,徳川の家臣団に組み込まれ,国境警備を続けます.
天正18年,家康の関東入国とともに,小人頭は約250名の同心を引き連れ,八王子に移ります.
翌19年,小人頭を1名増やし,また,新たに諸家の浪人250名が召し出され,同心500人(1組50人)の体制となり,慶長5年,関ヶ原の戦いに備えて,諸家の浪人を召し出して500人が増員されます.
このような経緯をたどって,千人同心は成立したわけですが,武田氏時代の兵農未分離状態を引き継ぎ,同心は30俵1人扶持から10俵1人扶持の俸禄を支給されるものの,公務に携わるとき以外は代官・領主の支配を受けています.
豊臣秀吉は,太閤検地などのいわゆる兵農分離政策で,それまで必ずしもはっきりしていない部分があった武士と農民の区別を,はっきりつけたわけですが,郷士や八王子千人同心のように,区別がつけられないまま残った者もいたのです.
ある方向からみれば武士,ある方向からみれば農民.
極めて大雑把に言うと,そういうものだと考えればよいと思います.
日本史板,2003/08/24
青文字:加筆改修部分
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ