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第二次大戦中の東欧の軍隊,兵器を語るスレpart2

青文字:加筆改修部分
 ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.

※既に分類され,移動された項目を除く.

※レス回収基準は「v.e.r. = 5」

※既出Q&Aの関連記述は,「追記」で処理.

※編集に手間取りそうなもの,または,調査が必要なもの等は,<保留>として後日回し.

目次


 【link】

97 : 12[] 投稿日:03/06/08 22:18 ID:5U2V4E7m [1/2回]
>>91,92
私の二重帝国海軍関連の記述は,そのほとんどが「exciteの翻訳検索」を用い,〝オース
トリア海軍〟〝オーストリア・ハンガリー海軍〟などのキーワードで引っかかったサイト・
資料の情報を利用させてもらっています.探せばかなりのものがあるのではないかと思い
ます.
あと文献に関してですが,
1.The Central Powers in the Adriatic,1914-1918:War in a narrow sea
2.THE NAVAL POLICY OF AUSTRIA-HUNGARY:Navalism,Industrial Development and
the Politics of Dualism の2冊を,
1は最近必要なところを読み,2はこれから読み始めようというところです.2は内容が非常
に詳しくすばらしい本です.両方ともアマゾンを通して購入しました.

121 : 消印所沢 ◆z3kTlzXTZk : 投稿日:03/06/21 00:55 ID:???
 ルーマニア諜報機関の歴史を見つけました.
http://www2.odn.ne.jp/~cae02800/romania/intellhistory.htm

128 : ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI : 投稿日:03/06/22 15:31 ID:???
>>127
参考になりそうな本を挙げておきます.
「東欧を知る事典」平凡社 
「小独裁者たち 両大戦期間の東欧における民主主義体制の崩壊」 法政大学出版局
「ハンガリー史」恒文社→そうとう古い本で内容に?がつくところがあります.
「ルーマニア史」恒文社→同上で,内容の?はハンガリー史以上.絶版になってます.
「ハンガリー・チェコスロバキア現代史」山川出版社
「東欧のナショナリズム」刀水書房
拙宅にあるのはこのあたりでしょうか.
個人的にはハンガリーがオスマントルコに敗北する1526年あたりまでが興味の範囲
なんで,あまりお役に立てないと思いますが・・・.

小国の戦時外交
ttp://academy2.2ch.net/test/read.cgi/whis/1059930738/

285 : ホルティ支持者 ◆ddjdTky6U. [] 投稿日:03/10/25 23:11 ID:JmlwfOUE [1/2回]
WWⅡのルーマニア軍のサイトがありました.
http://www.hobby.ro/roarmy.htm

286 : ホルティ支持者 ◆ddjdTky6U. [] 投稿日:03/10/25 23:18 ID:JmlwfOUE [2/2回]
もうひとつありました.
http://www.worldwar2.ro/


** 【質問】
 【回答】
7 : ギシュクラ・ヤーノシュ[] 投稿日:03/05/22 00:18 ID:YkS4ONkH [1/1回]
参りましたね・・・.ここ数日サーバーがおかしいみたいでしたが・・・.

全スレでアームズマガジンの記事の話が出てましたが,宮崎駿氏の雑想ノート
もどきの代物でした.戦艦シュマンクマイエルってなんじゃい・・・.
しかもヴァルタヴァ川を戦艦が遡上するなんて非常識な話でした.
嘘話は上手に作らないとしらけるだけですなぁ・・・.

二重帝国崩壊後,一時期,戦艦の一部をチェコ船籍にして海軍を保全
しようとしたとか耳にしたことがありますが,本当でしょうか?


9 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2003/05/22 23:29 ID:???
>>7
ま,過去ログは保存して読めるみたいですから.

さて,二重帝国崩壊後の戦艦というか,各種艦艇の移籍は確かマジャール王国
への移籍が検討されていたはずです.

元々,ハプスブルク家の温存のために,Austriaからマジャールに移って,此処で
王家を再興しようとした訳で,しかも,敗戦国Austriaの支配下に置かれていた地域
(敢えて国とは言わない)なのだから,軍関係のものは接収されることはないだろう
と言う目論みがあったようです.

が,クーンによる赤色革命が勃発してしまい,内戦でホルティ率いる白軍を支援した
CzechoslovakiaとRomaniaに国土が蹂躙され,しかも,周辺各国ともハプスブルク家の
復権は何が何でも阻止する動きを見せていました.
更に,戦争による領土獲得の為に,広大な領土を有するマジャールを敗戦国に仕立て
上げないといけなかったので,結局はその温存策が出来ず,ポシャッたかと記憶して
おります.

ちとうる覚えではありますけどね.

軍事板,2003/05/22
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】
12 : 名無し三等兵[] 投稿日:03/05/24 21:34 ID:IfzPLfIA [1/2回]
初めまして.
私はこのスレのテーマに関してはまったくの素人なのですが,オーストリア
・ハンガリー二重帝国海軍に関心がある者として初めてレスさせていただき
ます.
今ハンガリーやホルティに関する記述がなされているようですが,ホルティ
といえば第一次大戦時に巡洋艦・駆逐艦部隊を率いてイタリア沿岸部やオト
ラント海峡の連合国封鎖線を襲撃した気鋭の提督として知られております.
まず1915年5月23日にイタリアが対オーストリア宣戦すると即座に出動し,
翌24日には軽巡洋艦ノヴァラ,駆逐艦1隻,水雷艇4隻を率いてコルシニの敵
水雷艇と信号場を襲撃しました.

14 : 12[] 投稿日:03/05/24 23:28 ID:IfzPLfIA [2/2回]
ふと気づいたのですが,ホルティ提督の初(だと思うおそらく)のイタリア沿岸部
(コルシニ)襲撃は今から88年前の今日なのですね.
ちなみに,この時アントン・ハウス提督(二重帝国海軍司令長官)率いる本隊(ド
級艦フィリブス・ウニーティス以下の戦艦10隻,駆逐艦4隻,水雷艇20隻)もアン
コナを砲撃しております.

15 : 名無し三等兵 : 投稿日:03/05/24 23:31 ID:???
ホルティって海軍の軍人なのに軍事クーデターで陸軍部隊を率いてたりする謎.
あと勝手に摂政になったりする謎.

31 : 12[] 投稿日:03/05/26 22:43 ID:ob0QhMAj [2/2回]
1917年になると無差別潜水艦戦の宣言により,オーストリア・ハンガリー海軍は
潜水艦の建造を促してこれを積極的に活用する方針を採りはじめました.
そして5月15日になるとホルティ提督率いる軽巡洋艦ノヴァラ,ヘルゴラント,サ
イダ,駆逐艦2隻,水雷艇5隻がオトラント海峡の封鎖線を急襲してこれを破壊し
たことにより潜水艦の地中海進出が可能となり,8月にはゲオルグ・フォン・トラ
ップ大佐の指揮するU-14が上記のスレにあるようなすばらしい戦果をあげました.
また,地中海に派遣されていた日本駆逐艦「榊」がギリシャ・クレタ島沖でオー
ストリア潜水艦U-27の襲撃を受けたのは同年の6月11日のことです.

33 : 名無し三等兵 : 投稿日:03/05/26 23:12 ID:???
Nagyb?yai Horthy Mikl耀
1868年生
1957(昭和32)年没
ケンデレシュ出身
ハンガリーの軍人・政治家
フィウメ(現,クロアチア リエカ)の海軍兵学校で学ぶ
第1次世界大戦中,オーストリア・ハンガリー帝国海軍提督
戦後,ハンガリーに帰国
1919(大正8)年 クーンの社会主義政府に対する反革命を指導 政権を奪取
ハンガリー国民軍総司令官
1920(大正9)年 国会で摂政に任命される
1921(大正10)年3月 前オーストリア皇帝でハンガリー王でもあったカール1世が復位を企図 これを拒否
 10月 再度カール1世の復位を拒否
1938(昭和13)年 ミュンヘン協定 トリアノン条約でチェコスロバキアに割譲したスロバキアの一部をとりかえそうとするが,失敗
ナチス・ドイツに援助を求める
 1938(昭和13)年 第1次ウィーン裁定 スロバキアの一部を獲得
 1940(昭和15)年 第2次ウィーン裁定 ルーマニア領のかなり広い地域(トランシルバニア北部)を獲得
 これらの見返りに,ハンガリーは第2次世界大戦でドイツ,イタリアに味方することを承諾
1942(昭和17)年 ドイツの敗戦を確信 連合国との単独講和を企図
1944(昭和19)年 ドイツ軍,ハンガリーを占領 親ドイツ政権を樹立
 10月 ソ連軍,ハンガリーに侵入 ソ連との停戦を企図するがドイツ軍に逮捕され,特別列車でドイツに連行される
終戦時,バイエルンでアメリカ陸軍に逮捕される
1945(昭和20)年 釈放
1951(昭和26)年 ポルトガルに移住

軍事板,2003/05/24
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

25 : 12[] 投稿日:03/05/26 00:14 ID:ob0QhMAj [1/2回]
元々の東欧軍隊スレでも眠い人様がおっしゃっていたと思うのですが,オーストリア
・ハンガリー二重帝国時代には,ハンガリーには唯一の海への出口フューメ(現クロ
アチア領リエカ)がありました.
ここのダヌビウス造船所では,元々帝国海軍の駆逐艦や水雷艇などの小艦艇しか建造
されていなかったのですが第一次大戦前夜に拡張され,新鋭軽巡洋艦ノヴァラ(ホル
ティ提督の艦)とヘルゴラント,フィリブス・ウニーティス級ド級戦艦の4番艦セン
ト・イシュトヴァーンなどの大型艦も建造されるようになりました.

軍事板,2003/05/26
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

27 : 名無し三等兵[] 投稿日:03/05/26 01:14 ID:+JhWJ0su [1/1回]
トラップ大佐はサブマリンエースです.
オーストリア・ハンガリー海軍では第一次大戦前に潜水艦部隊が編成されると
伝統にとらわれない気風と高給により若い士官の関心を引きました.
開戦時7隻の近海用潜水艦しか持っていませんでしたがフォン・トラップ中尉は
その中の艦長の一人でした.
 海軍上層部の無理解によりオーストリア・ハンガリー海軍の潜水艦作戦範囲は
母港であるプーラ付近にのみ許可が出されていて,アドリア海南部での戦闘も
困難でしたので,1916年終了時点で中小型船を18艘しか沈めることが出来ませんで
した.
 しかし17年になりようやく考えを改めた海軍は,随一の長距離作戦が可能な
U-14と新型のU-10型2隻の潜水艦を南のカッタロに移動させて無差別潜水艦戦
を宣言しました.上のレスにあるオトラント障壁に対する打撃により地中海に
出撃可能となったU-14は2ヶ月で合計3万トンの船舶を撃沈する戦果を挙げました.
 戦勝ニュースに飢えていた新聞はU-14の艦長フォン・トラップを盛んに
エースとして取り上げ,国民的英雄扱いしました.
 映画「サウンド オブ ミュージック」のエピソードにありますように,
ドイツがトラップ大佐を自軍に招こうとしていたのは潜水艦戦のエースで
ある彼の実績と名声を欲していたからです.

軍事板,2003/05/26
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

34 : ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI [] 投稿日:03/05/27 00:02 ID:Wyn0SeiC [1/1回]
シシィことエリザベート皇妃の孫で後に「赤い皇女」の異名をとる
エリザベート皇女の愛人(!)エゴン・レルヒも潜水艦の艦長でし
たね.艦名が手元資料が埋もれてわからないですが・・・.

35 : 12[] 投稿日:03/05/27 00:38 ID:jrFzLnKE [1/1回]
寝る前にレスさせていただきます.
オーストリア・ハンガリー海軍は第一次大戦勃発時には潜水艦7隻(U1~6,U12)
を保有しておりまして,エゴン・レルヒは潜水艦U12の艦長でした.
U12は1914年12月25日にはオトラント海峡に進出して同海域でフランスのド級戦
艦ジャン・バールに対し魚雷攻撃を行い,これを損傷させることに成功しました.

40 : 名無し三等兵 : 投稿日:03/05/27 20:50 ID:???
>フランスのド級戦艦ジャン・バールに対し魚雷攻撃を行い,これを損傷
>させることに成功しました.
「ジャン・バールを損傷させたのはマサチューセッツだろう!」と言う無知な
奴が出て来ることを予想して捕捉.
13.5インチ戦艦のオセアンの旧名がジャン・バールと言う

軍事板,2003/05/27
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

49 : 名無し三等兵[] 投稿日:03/05/30 16:01 ID:CmkA6BT6 [1/1回]
12 オーストリアってド級戦艦まで造ってたんですか?
びっくり!!潜水艦は有名だけど・・・

50 : 名無し三等兵[ネタだよ.分かると思うけど.] 投稿日:03/05/30 16:49 ID:???
>>49 実は宇宙戦艦も作ってたんだよ

53 : 12[] 投稿日:03/05/30 23:47 ID:+CXs6oXW [1/1回]
>>49
オーストリア海軍は,1912~15年にかけてド級戦艦4隻を,またそれ以前に準ド級
戦艦3隻を建造しております.
加えて超ド級戦艦4隻の建造計画もありましたが,第一次大戦の勃発でキャンセル
となりました.
  参考までに・・・
 ド級戦艦 ●フィリブス・ウニーティス
      ●テゲトフ
      ●プリンツ・オイゲン
      ●セント(聖)・イシュトヴァーン
 準ド級戦艦○エルツヘルツォーク(大公)・フランツ・フェルディナント
      ○ラデツキー
      ○ズリーニ

軍事板,2003/05/30
青文字:加筆改修部分


** 【追記】

56 : ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI [] 投稿日:03/06/01 00:15 ID:lddnjVLj [1/1回]
聖イシュトバーン号は数年前にハンガリーのダイバー達が残骸を調査して
遺品や艦名の金属板を引き揚げています.
ブダペストの軍事博物館に遺物が展示されてますよ.

それにしても遊牧民族の王様の名前を戦艦につけるとは・・・.
プリンツ・オイゲンもラデツキーもズリーニも陸戦の英雄
ばかりだなぁ・・・.

軍事板,2003/06/01
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

55 : 名無し三等兵 : 投稿日:03/05/31 22:47 ID:???
ルーマニア陸軍のPhlepsという人物に関してご存知の方はいらっしゃらないでしょうか?
1939年時の階級が少将の人物なんですけど.

57 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:03/06/01 00:19 ID:???
>>55
それは,第七SS志願山岳歩兵師団「プリンツ・オイゲン」の司令官だったArtur Martin Phlepsの事でしょうか.

Artur Martin Phleps(1881~1944)
1881.11.29   Siebenbogenに生まれる.
1896~1900  二重帝国陸軍士官学校に在籍.
1901~1918  チロルを皮切りに,帝国各地を転勤.
         最後には二重帝国陸軍参謀本部に在籍.
1918.11~1919.2 Austria共和国軍で残務整理.
1919.4.1~ Romania王国陸軍に佐官級で入隊.
        歩兵師団の部隊長などを歴任.
1923~   参謀本部スタッフに就任,また陸軍大学で教鞭を執る.
1925~   再び,各歩兵師団,山岳歩兵師団の指揮官を歴任.
1935.4.15  准将に昇進.
1939.    少将に昇進.
1940.2.1  Romania王国国防大臣に就任.
1940.8.6  Romania王国陸軍退役.
1941.6.30 国家社会主義労働者党に入党.
1941.7.~1942.1 第五SS戦車師団Wiking師団司令部に所属
1942.2.1~1943.6.21 第七SS志願山岳歩兵師団司令.
1943.6.4~1944.9.21 管区指導者,地区警察司令官.
1944.9.21アラド近くで,ソ連兵によって射殺される.

最近ドイツ語を使っていないので,所々意訳がありますが,こんな感じかと.

軍事板,2003/06/01
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

64 : 12[] 投稿日:03/06/01 22:16 ID:m1te4Jhe [2/3回]
>>59,60,61
どうもありがとうございます.いろいろと勉強になります.
>>63
このオーストリア・ハンガリー海軍のサイトはいいですね.特にド級・前ド級戦艦
以前の艦艇は世界の艦船ではお目にかかれないものだし・・・一見の価値ありです
ね.このサイトを見られる方は以下を参考にしてみて下さい(こんなものでよけれ
ば・・・).
 オーストリア・ハンガリー海軍艦艇
[ド級戦艦]
フィリブス・ウニーティス級 /フィリブス・ウニーティス/テゲトフ/プリンツ・オ
イゲン/セント(聖)・イシュトヴァーン
[準ド級戦艦]
エルツヘルツォーク(大公)・フランツ・フェルディナント級 /エルツヘルツォー
ク・フランツ・フェルディナント/ラデツキー/ズリーニ
[前ド級戦艦]
エルツヘルツォーク(大公)・カール級 /エルツヘルツォーク・カール/エルツヘル
ツォーク・フリードリヒ/エルツヘルツォーク・フェルディナント・マックス
ハプスブルク級 /ハプスブルク/アルパード/バーベンベルク
[海防戦艦]
ブダペスト級 /ブダペスト/ウイーン/モナーク
[砲塔装甲艦]
クロンプリンツ・エルツヘルツォーク・ルドルフ/クロンプリンツェセィン・エルツ
ヘルツォーク・ステファニー


65 : 12[] 投稿日:03/06/01 22:23 ID:m1te4Jhe [3/3回]
64の追加です.
[軽巡洋艦]
アドミラル(提督)・スパウン/サイダ/ヘルゴラント/ノヴァラ
[装甲巡洋艦]
カイゼリン(皇后)&コニギン(女帝)・マリア・テレジア/カイザー(皇帝)・カ
ール6世/サンクト(聖)・ゲオルグ

66 : ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI [] 投稿日:03/06/03 23:08 ID:IVrG1kPz [1/1回]
ハプスブルク級のアールパードはイシュトヴァーン1世が初代王(キリスト教
世界から認められた)となったハンガリーの王家です.
バーベンベルグはハプスブルク家が支配する以前のオーストリア大公家です.
両方とも絶家になっちゃってますが・・・.

クロールプリンツは皇太子ですね.自殺したルドルフ皇太子とその皇太子妃
だったベルギー王家出身のシュテファニーの名前ですね.

あとマリア・テレジアは皇后でハンガリー女王です.

蛇足の補足でした.

それから,巡洋艦でカイザリン・エリザベートという
のがありまして,青島で日本軍に降伏したかと思います.
確か,日本に寄港したこともあったのではないでしょうか.

69 : 12[] 投稿日:03/06/04 00:16 ID:7BMK2fly [1/2回]
63のオーストリア・ハンガリー海軍のサイトには紹介されていないのですが,66で
ギシュクラ様が触れられたので,
65の巡洋艦の追加です.
[防護巡洋艦]
カイザー(皇帝)・フランツ・ヨーゼフ1世/カイゼリン(皇后)・エリザベート
[軽巡洋艦(旧)]
ツェンタ級 ツェンタ/アスペルン/スツィゲトヴァー
[水雷巡洋艦]
レオパルト/パンター

この中で〝スツィゲトヴァー〟が??状態・何を意味するのかさっぱりです(という
か私の読み方がてんで違ってたり・・).ネットで検索すればでてくるかしら?

70 : 名無し三等兵[] 投稿日:03/06/04 00:17 ID:Ps9F2stS [1/1回]
みてね♪
http://www1.free-city.net/home/s-rf9/page006.html

71 : 12[] 投稿日:03/06/04 00:37 ID:7BMK2fly [2/2回]
>>66
巡洋艦カイゼリン・エリザベートに関しては前スレで眠い人様がおっしゃっておりま
したよね.・・私は正確な事はよくわからないのですが,親善を目的として日本に
寄港し,その帰途第一次大戦が勃発して青島で日本軍との戦闘に巻き込まれた,と
何かの本に書いてあったような気がします.
またそれ以前の1893年にも,新しく皇太子となったフランツ・フェルディナントを
乗せて日本に寄港したとの事です.

72 : ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI [] 投稿日:03/06/04 23:17 ID:mzkwtY68 [1/1回]
>>69
それはシゲトヴァールですね.このクラスは古戦場の名前のようです.
シゲトヴァールはハンガリー南部にある城(ヴァールは城の意味)で
ズリーニ・ミクラーシュがスレイマン大帝率いるオスマン帝国の大軍
を迎え撃ち,壮絶な玉砕(最期は家族を我が手にかけ,城門を開いて
敵陣めがけ突撃を敢行)をとげた古戦場です.

88 : 12[] 投稿日:03/06/07 22:54 ID:q1zXyY9E [1/1回]
>>72
この軽巡洋艦シゲトヴァール(スツィゲトヴァー改め)は,第一次大戦勃発(1914年
7月28日)ののち,軽巡ツェンタその他の艦艇とともにモンテネグロ沿岸部の封鎖活
動に従事しておりましたが,,兄のツェンタの方は運悪くアドリア海南部に進航して
きたド級艦クールベ以下11隻のフランス戦艦部隊と遭遇し,ド級戦艦ジャン・バール
の砲撃を受けて沈没してしまいました.8月15日の事です.
その後兄の敵討ちをしたのが(撃沈までには至らなかったが),エゴン・レルヒの指
揮する潜水艦U12でした(→35のレス参照).二重帝国海軍が大戦の初年に喪失した
のが,このツェンタと巡洋艦カイゼリン・エリザベートの2隻です.

軍事板,2003/06/01
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

73 : 寓話[] 投稿日:03/06/05 19:45 ID:qvMCAVgv [1/1回]
>ところでブルガリアってなにしてたんだ?いちよ枢軸側
 なのか?

74 : 名無し三等兵 : 投稿日:03/06/05 20:25 ID:???
>>73
ラスカンにのってる.
対パルチザン戦を除けば実質枢軸国としか戦わなかった枢軸国家として.

75 : 消印所沢 ◆z3kTlzXTZk : 投稿日:03/06/05 20:31 ID:???
 ブルガリアは1941年3月,枢軸同盟に加わりました.
 大戦には参加したくなかったようですが(詳しい解説希望),
ドイツの圧力により,1941年12月に対米英宣戦布告しました.
 ただし,独ソ戦には参加しませんでした.
 主な戦闘としては,ルーマニアのプロエスティ油田に対する米英の空爆に対する
迎撃戦闘を行っています.
 1944年6月のソ連軍の大攻勢により,国境にソ連軍が迫ると,
ブルガリアは8月26日,独ソ戦についての中立を宣言しましたが,
ソ連はこれを受け付けず,翌27日,ブルガリアにソ連は宣戦布告しました.
 そのソ連の圧力で9月9日にブルガリア政府は対独宣戦布告し,
1945年の終戦までドイツと戦いました.

77 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:03/06/05 22:51 ID:???
とりあえず書き直すのも何なので,コピペでお茶を濁す.

さて,Bulgariaについて話をしてみませう.

この国はトルコより独立し,黒海に面した国であったが,12世紀の大Bulgaria帝国
を夢想して周辺各国との争いが絶えなかった.
何しろ,そのころのBulgariaは,Romaniaの一部とGreeceの殆ど,更に,Belgrade
近くまで領有してたりする.

1912年には,Serbia,Montenegro,Greeceと組んでTurkeyを相手に第一次Balkan戦争
を戦い,Macedoniaを得た.
SerbiaはRussiaの支持の下でアドリア海への通路を要求,ItalyはAlbaniaの占領を望み,
GreeceはItalyによるドデカネス諸島占領に抗議し,二重帝国はあらゆる勢力拡大を阻止
しつつ,Bulgariaを援護すると言う混沌状況の中,1913年にBulgariaがSerbiaを攻撃し,
第二次Balkan戦争が始まる.

このときは二国間戦争だったはずなのに,各国の思惑により,Serbia支援のために
Romania,Greece,Montenegro,Turkeyが参戦.
これに対し,Bulgariaを支持する二重帝国は支援を行おうとするが,GermanyとItalyが
これを阻止し,結果として,Romaniaは南ドブルジャを,Greeceはマケドニアを,それぞれ
Bulgariaより割譲される.

これが,第一次大戦でBulgariaが同盟側に立って参戦する原因となったのである.

78 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:03/06/05 22:52 ID:???
さて,そのBulgariaですが,第一次大戦では1915年にドイツと友好・同盟条約を
締結し,10.14に参戦します.
その代償に,Serbia領のマケドニア(現在のマケドニア共和国)を同盟諸国から
獲得します.
そして,Greece,Romaniaが連合国側に参戦した場合に,これを撃破した暁には
Greece領マケドニアとRomaniaのドブルジャを獲得する権利を持っていました.

後者の権利は,1916年にRomaniaが参戦し,12月に全土を制圧した時に発生しま
した.
ドブルジャは,1918.5.7のBucharest条約で正式にBulgariaのものになります.

しかし,4ヶ月後,前年に連合国側に立って参戦したGreeceから行われた連合軍の
マケドニア攻勢により,Bulgaria軍は崩壊し,同盟国側としては,9月末,最初に戦線
を離脱してしまうのです.

79 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:03/06/05 22:53 ID:???
第一次大戦後,Bulgariaも敗戦国となり,1919年11月27日,ヌイイー条約
を締結します.

これにより,Serbiaにマケドニアを中心とした国境地帯の一部を割譲し,
Romaniaにはドブルジャを返還し,Greeceにエーゲ海に面したトラキア西南
地方を割譲した上,空軍保有の禁止,保有兵力上限2万人という枠を嵌め
られます.

このため,戦後は難民問題とYugoslaviaに対するマケドニアの主権要求が
主な政治課題となりました.
敗戦後,政治の舵取りをしていたのは,農民党と言う政党で,首相のスタン
ブリスキーは,農民に対する土地改革,マケドニアとBulgariaの一体化を
推進してきました.
これに反発したのが,旧体制勢力で,彼らは軍を動かし,1923年に将校団が
決起して,首相を射殺し,共産党と農民党を解散に追い込みました.
更に,世界恐慌で経済が混乱し,国家社会主義勢力が台頭すると,バスに
乗り遅れるな,とばかりに,1934年,ツヴェーノと言う保守派将校組織のクー
デターが起き,ゲオルギエフ大佐による独裁体制が確立します.

その大佐は1935年に失脚し,国王ボリスIII世の直接統治が始まるのです.

軍事板,2003/06/05
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

81 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:03/06/05 23:13 ID:???
でもって,前回のスレではBulgaria海軍に関して,お茶を濁したので,
とりあえず書いてみましょう.

先程も書いたように,1878年の露土戦争の結果独立を勝ち取った国で,親露国
です.
その海軍は,1896年にKrum,Aleksandr I,Simeon Velikiと言う三隻の蒸気船と,
Asenと言う練習船,それに三艘の蒸気小型艇から成っていました.
これらの艦艇は,ロシア帝国から供与されたものでした.
その後,フランスの援助を受け,Nadezhdaと言う717tの砲艦を彼の国に発注
しました.
これが,1908年まで旗艦となります.
更に,黒海沿岸にフランスの援助で造船所を建設し,Kaliakraと言う80tの小艇を
建造します.

1903年に第一次建艦計画が立案されます.
これは,15t級魚雷艇を12隻,90t級魚雷艇を2隻,150t級の魚雷艇を2隻,練習艇
と若干の沿岸哨戒艇を含んでいましたが,結果的に,97tの魚雷艇を6隻,魚雷艇
母艦が3隻,沿岸防御用の240mm砲2門と100mm砲2門をフランスのシュナイダー
に発注しました.
1905年に,更に2隻の機雷敷設艇が完成します.

1910年には更に拡大計画が立てられ,470t級の駆逐艦2隻,190t級潜水艦と,機雷
敷設艦が計画されましたが,政府が借款を得るのに失敗したので,立ち消えとなり
ました.
一方,1908年には,Russiaが黒海艦隊で余剰となった巡洋艦,砲艦,機雷敷設艦,
魚雷艇の売却と供与を持ちかけますが,国をRussiaの保護下に置くのを条件としま
したので,これは立ち消えとなりました.

82 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:03/06/05 23:34 ID:???
第一次大戦は,1898年竣工のNadezhdaと言う砲艦(717t)を旗艦に,魚雷艇
Vasil Levski,Hristo Botevと言う20tの魚雷艇(1877年竣工)が現役でした.

前者は,バルカン戦争で砲を陸揚げし,戦争終了後,またその砲を装備し,
第一次大戦中の1915年に砲を再び陸揚げしています.
1918年にRussiaのセヴァストポリに送られ,此処でBolshevikの手に落ち,
赤軍の艦艇となっていますが,程なく退役し,1941年までセヴァストポリで
ハルクとして使われました.
後者は元帝政Russia海軍の魚雷艇で,1884年に供与され,Balkan戦争,
第一次大戦共に,哨戒艇として用いられました.
Botevは,1930年に退役し,1936年に記念艦としてRuseで係留されていました.
Levskiは程なくガソリンエンジンに換装し,1938年に退役しました.

最初の購入艦であるAleksandr Iは,350tのFrance製で,平時は王室ヨット,
戦時は機雷敷設艦兼輸送艦となります.
これは,1913年に座礁し,1914年に修理されましたが,程なく除籍されました.

最初の建艦計画で導入された,France製97.5t級魚雷艇は,Drski,Smeli,
Hrabri,Strogi,Letjashchi,Shummiの6隻.
レシプロ水管缶で1900hp,これで26kt/hを出し,石炭10.5tを搭載して,500海里
の航続力を誇る.
武装は,37mmシュナイダー速射砲2門と,450mm魚雷発射管が艦首に1基,艦上
に連装管が1基装備されている.
Shummiは,1916年9月12日にVarnaに於いて,Russiaの敷設した機雷に触雷して
沈没し,Strogiも損傷,Letjashchiは,1918年10月にFranceに鹵獲され,11月28日に
Varna沖で沈められました.

83 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:03/06/05 23:56 ID:???
で,Drski級の水雷艇の残りは,しぶとく生残り,1920年代前半に掃海艇に
改造され,後に再び魚雷発射管を装着,1934年に改装され,第二次大戦でも
哨戒艇になっています.
この時の武装は,450mm魚雷発射管2基と,20mm砲2門,そして1942年には
47mm砲2門を追加され,2丁の機関銃と,爆雷が装備されています.
休戦後,これらの艦艇はSoviet海軍に引き渡され,1954~1955年まで使用
されています.
Drskiは,ソ連海軍退役後,Varnaに返還され,陸揚げされてモニュメントと
なっているそうです.

このほか,1920年代までに装備した艦艇は,1918年5月25日にドイツから
供与されたUB1級潜水艦のNo.18があり,これは,ドイツのUB8で,Varnaの
防備に用いられました.
休戦後,ヌイイー条約でFranceに引き渡され,1921年8月にビゼルタでスクラップ
になりました.
同時に,UB7も供与される予定でしたが,これは到着前に撃沈されてしまったそうです.

機雷戦艦艇は,105tのFranceの蒸気帆船,De Romasを1906年に購入して,Kamchija
と改名し,機雷10~12発を搭載する機雷敷設艦として使用しました.
第一次大戦では哨戒艇として用いられ,1924年に測量艦に艦種変更されています.
第二次大戦では再び敷設艦となり,1945年以後,また測量艦に戻され,1952年に除籍
されました.
このほか,15t級の内海掃海艇として,Konduktor Dokuzanov,Kapitan-Lejtenant Minkov,
Kapitan-Lejtenant Minorの三隻と8t級の内海掃海艇として,Nesebr,Emona,Kalacerkaの
三隻が在籍しています.
これらは,1917年にドイツから引き渡されたもので,一度Franceに接収されたものの,
返還され,最後の艇は1955年まで使用されました.

84 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:03/06/06 00:00 ID:???
1921年,Bulgaria海軍の再建に当たって,米海軍で余剰となったSC級の駆潜艇が2隻購入
されました.
これは,Chernomorec,Belomorecと命名されました.
これは,1934年に一度退役しましたが,すぐに再使用され,タニューブ河の警備に使用され,
第二次大戦終結まで使用されています.

このほか,少数の哨戒艇と,1906年に購入された28tの訓練艇Strela,17tの魚雷揚収艇が
在籍しています.

第二次大戦のBulgaria海軍はまた今日の夜にでも.

85 : 名無し三等兵 : 投稿日:03/06/06 19:58 ID:???
>>68
ペチコート部隊ってエロゲのキャラだろがよ!

86 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:03/06/07 01:24 ID:???
で,昨日の続き.

1919年7月27日に締結されたヌイイー条約の結果,枢軸国から得た有力艦は
スクラップまたは連合国に引き渡され,4隻の魚雷艇を主力とする警察部隊として
海軍は存続しました.
1938年の再軍備宣言に至るまで,忍んだ訳です.
1937年にドイツと軍事援助条約を結び,3000万マルクの援助を貰い,ドイツの
軍事物資の購入に充てました.
第二次大戦では,1941年3月に枢軸に加盟し,ドイツの軍事援助を更に貰い,
なけなしの商船はドイツ軍の輸送に活動しました.
1944年9月8日にソ連軍が国境線を越えたとき,休戦に同意し,矛を逆しまにして
ドイツ軍に襲いかかりました.
海軍も例外ではなく,ソ連軍の指揮下で,Danube河戦隊と黒海艦隊に属して,
活動しています.

このうち,前述のDrski級魚雷艇のうち,Smelyは,1943年5月19日に撃沈されました.
このほかの戦闘艦艇は1921年にFranceを通じて米国から購入した,SC級駆潜艇2隻
があるだけです.

87 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:03/06/07 01:41 ID:???
1930年代に新たに加わったのは,大戦直前の1939年に,Bulgaria海軍にリュールセン社製の
S2級魚雷艇が4隻引き渡されています.
これは,ドイツのSボートと同型で,5隻が建造され,うちS2~S5の4隻が,F1~F4と言う艇名で
使用されました.
このほかに,同型艇をBulgaria国内で建造する予定でしたが,大戦勃発による部品入手難で
果たせませんでした.
これも不活発で,1944年9月にソ連軍に引き渡され,ソ連軍はTKA958~961を改名して使って
いました.
戦争終盤の1945年4月2日にソ連から返還されています.

もう一つ,その建造できなかった魚雷艇の代わりに,30t級のBritish Power Boat製魚雷艇に
似たデザインの魚雷艇をドイツから1942年に引き渡されています.
これは,オランダで建造中のものを捕獲し,1941年に完成させたもので,ドイツではS201~
S202として在籍していたのを,1隻追加してBulgariaに供与したもので,同型艇4隻がRomania
に渡りました.
この艇の搭載エンジンには,英国デザインらしく,英国製のR.R.Marlinが3基使われています.
このエンジンは,大戦初期に欧州で撃ち落されたRAFの機体から取り外したものがそのまま,
載せられたそうです.
艇名は1号~3号で,これもソ連に供出されてTKA962~964となり,1945年4月2日に返還され
ました.

これらの艇はいずれも,共産化後の1947年に,除籍されています.

このほかの小艦艇も同じ運命を辿っています.
但し,曳船のVoievodaは,1945年に当時は友邦だったYugoslaviaに供与されて
います.

91 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:03/06/08 00:04 ID:???
>>88
(・3・) エェー 気にしないですYO.
二重帝国海軍の文献は本当に見あたらないので,いつもその知識には
感服いたしておりまする(煽りでも何でも無しに本当でつよ).
性が,怠惰なもので,適当に御題を出して頂ければ,有難いです.

>>89
それ,真露酎では無かったか…と.
ネタにマシ゛レスしたかもしんない.

>>90
ソースでつか,ソースは脳内でつ.

…つ~のは冗談として,>>77-79はOxford版Bulgaria史
を主に,その他,歴史の本をひっくり返して書いたもの.
Bulgaria海軍の下りは,Conway's All The World's Fighting Shipsの集約版
で,1860-1982までの海軍現勢を4分冊に分けて書いてあるもののうち,
Vol.II(1906-1921)とVol.III(1922-1946)を参考にしました.
漏れの海軍関係の記述は殆どがこれに頼っています.
偶に,Jane's Fighting Shipsの復刻版を使ってますけどね.

軍事板,2003/06/05
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

109 : 消印所沢 ◆z3kTlzXTZk : 投稿日:03/06/13 23:41 ID:???
 豆知識

 ゾルゲの映画ができたそうですが,ゾルゲと同時代,フィンランドのあの
オットー・クーシネンの妻,アイノ・クーシネンも,東京でソ連側のスパイとして
活動していました.
 コード・ネームは「イングリット」.
 裕福なスウェーデン人作家「エリザベート・ハンソン」と自称し,上流界への
潜入を図りました.
 しかし1937年,世界中の殆どの諜報員がそうであったように,彼女は帰還命令を
受け,帰還直後に逮捕されています.
(ゾルゲも帰還命令を受けていたのですが,危険を察知し,のらりくらりを
これを拒み続けました.もし,これに応じていたら…….歴史は皮肉に
満ちてますな)

軍事板,2003/06/13
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

111 : 12[] 投稿日:03/06/14 00:08 ID:Jer/U87g [1/3回]
・・・・思いついたので,なんとなく書いてみたり・・・・
オーストリア・ハンガリー二重帝国海軍艦艇
[超ド級戦艦]
エルザッツ・モナーク級 /エルザッツ・モナーク/カイザー(皇帝)・カール5世/エルツヘル
ツォーク(大公)・フレデリック/フニャディ・ヤーノシュ

>>105
〝陸上砲撃専門艦に改造されようとしていた〟というのはなんとなくわかるような気が
.これら3隻の第一次大戦における戦歴が「陸上部隊の援護射撃」という形が多いようで
したから.
昨年(1917年)の10月16日には海防戦艦ウイーン,ブダペスト,水雷艇10隻がベネチア
の北東に位置するイタリア軍陣地(ピアヴ川河口付近)を砲撃し,同24日にドイツ,二
重帝国陸軍がイタリア国境を越えてカポレットの敵軍を急襲すると海軍は再び支援に赴き
,11月16日には戦艦ウイーン,ブダペスト,水雷艇14隻が再びピアヴ川河口を砲撃した
りしました.

119 : 12[] 投稿日:03/06/20 00:33 ID:KfyjE93M [1/1回]
 ~111の続きです~
海防戦艦部隊の対イタリア作戦基地はトリエステにありましたが,2番艦のウイーンは
,12月10日同軍港内に停泊していたところを強行突入してきたイタリア魚雷艇(MAS)
の攻撃を受けて沈みます.
対する二重帝国海軍は,喪失したウイーンの代わりに戦艦アルパードを急きょポーラ
からトリエステに移動させ,同19日には戦艦アルパード,海防戦艦ブダペスト,軽巡
洋艦アドミラル・スパウン,駆逐艦6隻,水雷艇16隻,掃海艇5隻より成る艦隊を派遣
して再度ピアヴ川河口のイタリア軍陣地を砲撃しました.

話は変わりますが,第一次大戦時のルーマニア軍は二重帝国のドナウ川河川海軍と戦
火を交えたようですが,「実際にどの場所でどのような戦闘があったのか?」につい
ては疑問が・・・.ドナウ川は二重帝国とルーマニアとの国境沿いには流れていなく,
ブルガリア・ルーマニア国境に沿って流れているので,二重帝国の河川軍艦はここま
で進出してきたとか?

軍事板,2003/06/14
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

117 : 消印所沢 ◆z3kTlzXTZk : 投稿日:03/06/17 02:34 ID:???
 ゾルゲ関連について,もう一つ.

 1920年代,ゾルゲが上海で活動していた頃,彼と接触していた
KGB(当時はNKVD)エージェントの一人が,イワン・ヴィナロフという人物ですが,
彼はその後,1940年代(ゲオルギー・M・ディミトロフ時代)には
ブルガリア諜報機関の長となっています.

 ゾルゲとは関係ありませんが,当時のブルガリアはNKVDの浸透をかなり
受けていたようで,イワン・スメタノフ駐ソ・ブルガリア大使もNKVD側の
工作員として抱きこまれていたり,大使館の暗号通信も全て解読されていたり
しています.

軍事板,2003/06/17
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

124 : アンチネスク[] 投稿日:03/06/22 01:45 ID:EfOywn55 [2/3回]
すいません123ですが書き忘れていたので・・・.
ブルガリアのボリス三世について誰か詳しい方,彼の経歴について教えてください.
お願いします.

126 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:03/06/22 12:01 ID:???
>>125
ギシュクラ・ヤーノシュ殿,フォローサンクスコです.
ラテン語系のRomania語は余り,得意でないので.

>>124
ボリスIII世((БорисIII)1894~1943:在位1918~43)
1894年生まれ.
Sachsen-Coburg-Gotha家のFerdinand I世と,Palma-Bourbon家のMarie Louise
との間に誕生.
初代Bulgaria国王だったFerdinand I世が,1918年に敗戦の責を負って退位した後を
受けて,国王に即位.
当初は,農民党などを立てて,民主的政治を心がけるが,戦後の混乱が拡大するに
連れて,政権と対立.
1923年 将校の反乱によるクーデターを支援.
     9月に共産主義者の反乱が起きるがこれを鎮圧.
     一気にモーナルヒスト(君主制主義者)の地位が向上.
1925年 Sofiaの聖ネデリャ教会で,国王ボリス3世の暗殺を狙った爆弾テロが起きるが未遂に終わる.
1934年 一時民主主義者に政権を明け渡すが,保守派将校組織ツヴェーノによるクーデターを裏から画策.
1935年 ツヴェーノ指導者 ゲオルギエフ大佐失脚により,独裁体制を構築.
1940年 三国同盟加盟により,Romaniaから領土獲得.
     第二次大戦に際しては,“象徴的戦争”を宣言
1941年 英国に宣戦を布告.12月に米国に宣戦布告.
     マケドニアを併合
1943年 ヒトラーと会談後,急死.
     SimeonII世が6歳で跡を継ぐ.
     (今のSimeon Saxe-Coburg-Gothaで,Bulgariaの首相)
なお,妻Joannaは,Savoia家のItaly国王,Vittorio Emanuele III世の娘です.

軍事板,2003/06/22
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

130 : アンチネスク[] 投稿日:03/06/23 23:54 ID:BlF3pQ0y [1/1回]
誰か,クロアチアの指導者パヴェリッチについて詳しい方,彼の経歴に
ついて教えてください.クロアチアは東欧ではなく中欧に属するような気も
するんですが・・・・教えてください.

136 : ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI : 投稿日:03/06/25 23:54 ID:???
>>134
手元の資料はハンガリー王国関係のものばかりなんで現代は手薄です.

パヴェリッチについてはの手元資料は
「バルカン世界」ジュルジュ・カステラン著 彩流社
「ユーゴスラビア史」スティーブン・クリソルド著 恒文社
「クロアチア」ジョルジュ・カステラン著 文庫クセジュ

ぐらいしかありません.
ざっと見たところ
1889年に生まれた
1928年にイタリアへ移住し,イタリアファシストの援助により
「ウスタシャ」を結成.
枢軸軍のユーゴスラビア侵入後ユーゴへ戻り「クロアチア独立国」
の指導者としてセルビア人・ファシスト敵対者・ユダヤ人の虐殺
を行った.戦後,戦犯として死刑を宣告されたがアルゼンチンに
亡命,1955年マドリードで死亡.

という程度の記述でした.
あちらのスレの方の方がはるかにお詳しいでしょう.

軍事板,2003/06/25
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** 【質問】
 【回答】

134 : アンチネスク[] 投稿日:03/06/25 17:21 ID:CJUS6jh/ [1/1回]
一応,パヴェリッチについての質問を130で示されたスレッドにも
書き込んでおきました.
で,新たな質問なんですが,第二次世界大戦中のスロバキアの指導者って
誰なんですか?詳しい方,当時のスロバキアの指導者の名前と彼の経歴に
ついて教えてください.お願いします.

135 : 名無し三等兵[???] 投稿日:03/06/25 23:48 ID:???
>>134
ティソっていう人です.

137 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:03/06/25 23:57 ID:???
>>134
パヴェリッチは向こうに任せて….

Slovakiaの大統領は,1939年10月(つまり,Czechoslovakia解体の翌日)に
就任したヨゼフ・ティソ(Jozef Tiso)です.

彼は1887年Bratislava生まれ.
1932年にBratislavaのCatholicの大僧正となる.
そして,Slovakia独立を求めるSlovakia人民党の指導者となり,1938年,前の
指導者である,Andrej Hlinkaが死亡した後,その党首に就任.
ミュンヘン会談直後の1938年10月6日,Slovakia人民党により,Slovakiaの
自治が宣言され,その一派は公然と,Czechoslovakiaからの独立を求めます.
1939年3月13日に,ヒトラーはティソを呼んで,独立を宣言するように扇動し,
彼はそれに応えて3月14日に州議会で独立を宣言しました.

こうして,Slovakiaは独立し,共和国となります.
しかし,独立直後にドイツと保護条約を結び,ドイツの保護国となってしまっています.

1939年9月30日にCzechoslovakiaが正式に解体されると,翌日にはティソは大統領
に就任します.
任期は7年,そして,「指導者」の称号も得ます.
1940年11月24日に三国同盟に加入し,1941年6月24日に対ソ宣戦.
1942年には,ユダヤ人の国内からドイツへの移送を開始します.
ティソは,Catholicの枢機卿(だったかな,兎に角聖職者)だったので,Vaticanから
抗議が来ると,それを一時中止します.
1944年8月にSlovakia蜂起が起き,全土をドイツ軍の占領下に置かれ,彼の政府は
終焉となります.
そして,東からソ連軍が攻め込んできて,1945年4月に米軍占領地にて投降.
戦犯としてCzechoslovakiaに引き渡され,戦争犯罪人として1947年に死刑となります.

軍事板,2003/06/25
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

(ハンガリーのホルティ,ルーマニア
のアントネスク,ブルガリアのボリス三世,スロバキアのティソ,クロアチア
のパヴェリッチ・・・もし,ここに書かれた以外の東欧枢軸国があれば教えてください)
みなさんの協力に感謝します.

139 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:03/06/26 10:48 ID:???
>>138
枢軸国が三国同盟に加盟した国という意味であれば,Montenegro,Albania
もその仲間に入ります(いずれも,Italyの保護国ですが).
後,Yugoslaviaも,枢軸国っちゃぁ枢軸国です.

Yugoslavia政府は元々ドイツ寄りで,1941年3月に三国同盟に加盟します.
しかし,直後に軍部(こっちは連合国寄り)のクーデターで政権が転覆し,直後に
Bulgaria,Hungaryなどの侵攻を招き,最終的にはドイツ軍の介入を受けたりして
います.

140 : アンチネスク[] 投稿日:03/06/26 17:35 ID:pOyf7jG6 [2/2回]
>>139
枢軸国をそう定義してしまうと「日独伊三国同盟に参加していないのに
連合国に宣戦布告し交戦したフィンランドやタイが枢軸国ではない」と言うことに
なってしまいます.また,ユーゴスラビアを枢軸国にしてしまうと「連合国に
与えたダメージより,枢軸国に与えたダメージの方が大きい枢軸国」と言う,
かなりおかしな事になってしまうんです.なので,枢軸国を決めるのに
日独伊三国同盟に加盟していたかどうかはあまり参考にならないんです.
それで,質問なんですがアルバニアやモンテネグロは連合国に宣戦布告
した事があるのですか?もし,あるのならば当時のそれらの国々の指導者
の名前と彼らの経歴について教えてください.誰か詳しい方,教えてください.
よろしくお願いします.

141 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:03/06/26 22:01 ID:???
>>140
AlbaniaとMontenegroは,基本的にItalyと同君連合を構成しています.
従って,Italyが宣戦布告をすると自動的に戦闘に巻き込まれる訳です.
厳密に言えば,それらの国の指導者は,Italy国王たるVittorio EmanueleIIIと
言えます(奥方は,Njegos家(Montenegro国王家)のHeleneですので,
Montenegroについては彼に正当な継承事由がある訳です).

例えば,ItalyがGreeceを攻撃した出撃基地はAlbaniaだったりします.
まぁ,満州を想定してみて下さい.

軍事板,2003/06/26
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** 【質問】
 【回答】

154 : 消失してる154を補填 : 投稿日:03/07/09 01:27 ID:???
154 名前:12 投稿日:03/07/05 00:34 ID:Kgq+3d0M
  ・・・・気分転換によかったら・・・・
第一次世界大戦勃発の翌1915年,ドイツ,オーストリア・ハンガリー二重帝国と三国同盟
を結んでいたイタリアは,当時オーストリア領であったダルマチア(現クロアチア領),
アルバニアなどの領有を狙い,5月23日に対オーストリア宣戦を行った.イタリア海軍は
主力となるタラント軍港にド級戦艦と前ド級戦艦,アドリア海に面したブリンディジ港に
は巡洋艦と駆逐艦を配備し,またベネチアには前ド級戦艦2隻,装甲巡洋艦4隻を中心とし
た艦隊を進出させ,さらに英仏から派遣された艦艇も加えオトラント海峡の封鎖を行った
.6月5日,イタリア海軍は仏駆逐艦4隻に護衛された巡洋艦4隻を派遣してダルマチア南部
のラグーサ(現クロアチア領ドブロブニーク)・カッタロ(現モンテネグロ領コトル)間
の鉄道を砲撃し,同日軽巡洋艦ニノ・ビクシオと仏伊駆逐艦4隻もリッサ島を砲撃した.

これに対し,アントン・ハウス提督の指揮するオーストリア海軍は,戦艦の温存策をとり
つつも,一方では軽巡,水雷艇,潜水艦などを活用したTip and run raidsと呼ばれる奇
襲攻撃で敵に被害を与えた.6月9日には潜水艦U4がアルバニア沿岸部で英巡洋艦ダブリン
を雷撃して損傷を負わせ,同17日には装甲巡洋艦サンクト・ゲオルグ,水雷艇14隻がリミ
ニその他のイタリア沿岸を,17・18日にはホルティ・フォン・ミクローシュ提督率いる軽巡
洋艦ノヴァラ,アドミラル・スパウン,駆逐艦4隻,水雷艇4隻がアンコナとリミニの中間
にあるファノとペサロを急襲して打撃を与えた.
また7月7日には,潜水艦U26(独潜水艦UB14がオーストリア艦籍に編入されたもの)が北
アドリア海に出撃していたイタリア装甲巡洋艦アマルフィを撃沈し,18日には潜水艦U4が
南ダルマチアのラグーサを砲撃していた同装甲巡洋艦ジュゼッペ・ガリバルディを沈めた.
(オーストリアの潜水艦部隊はドイツの援助で強化され,大戦中に新たに20隻(計27隻)
が就役した)一方オーストリア側は8月8・13日の戦闘で潜水艦U3とU12(艦長エゴン・レ
ルヒ)を失っている.

軍事板,2003/07/09
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faq23

** 【質問】
 【回答】

160 : ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI [] 投稿日:03/07/12 14:51 ID:Lg+ZfeX1 [1/1回]
>>155
ガンツ社は確かディーゼルエンジン?かなんかでも有名だったような記憶が
あります.かなり技術力は高い会社だったと思います.
光学器械のガンマ社も高い技術力を持っていました.
戦後,幻の1眼レフカメラ「デュフレックス」を開発しましたが,確かソ連
から横槍が入ってカメラメーカーは東独に集中させられたと聞きます.

163 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:03/07/13 14:07 ID:???
>>160
ガンツ社は鉄道車輌と共に,発電機,蒸気機関のメーカーでもありましたから,発電用のタービンなんかも製作していたの
ではないかなと思います.
スレ違いですが,1909年に関西鉄道にガンツ社製蒸気動車という代物が輸入されていたらしいですね.
日本では使いこなせなかったようですが.

194 : 名無し三等兵[] 投稿日:03/07/31 20:23 ID:npPFD5MR [1/1回]
>>155~>>166
戦前の東欧って高い技術力持ってたのに
ソヴィエトに産業基盤を破壊されて本当にかわいそう.
東欧の優等生だった東ドイツですら統一後の
独立系ハイテク会社はナチ時代にTVや原爆の開発に
従事してたマンフレート・フォン・アルデンネ博士の
研究所しか事業体として存続できなかったらしい
ちなみにアルデンネ社については↓参照
http://www.tsk-g.co.jp/tech/shinku/business/tech.html

軍事板,2003/07/11
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

162 : 消印所沢 ◆z3kTlzXTZk : 投稿日:03/07/13 01:44 ID:???
>>155
 「実用化」ということは,発明は別の中の人ですか?

163 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:03/07/13 14:07 ID:???
>>162
軸流式タービンエンジンそのものは,1922年にフランスのマキシム・ギヨームが特許を取得していますし,
遠心式タービンエンジンでは,英国のフランク・ホイットルが特許を取得していますな.
更に遡ると,1877年にドイツのヨゼフ・バルトハイムが可燃性ガスと空気を混合させた際に噴流が発生
することを確認し,それを駆動源としてタービンを回す特許を取得していますね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 軍事板,2003/07/13
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

234 : 名無し三等兵 : 投稿日:03/09/10 16:13 ID:???
どなたか二重帝国の駆逐艦タトラ級の8隻目の名前を教えてください.
イタリアに譲渡とされた7隻,リカ、トリグラフ、ウソツォク,オルエン,タトラ,セッペル,バラトンは
世界の艦船196911月号(数年前にJR水道橋から神保町へ向かう途中の古書店で1冊100円で20冊くらい買ったうちの1冊)
でわかったのですが.
大日本絵画の「第二次大戦駆逐艦総覧」のイタリアの項目にも譲渡のあった7隻しかのっていません.
光栄の「艦船名鑑1939-45」も退役済らしくて載ってません,まあこれはもともと網羅されていませんが.
素人でよくわかりませんのでご協力お願いします.
しかしユーゴとルーマニアでは,二重帝国の旧水雷艇がWWⅡ後も使用されているんですね.

235 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:03/09/11 01:39 ID:???
>>234
Tatra級駆逐艦は,前期型として6隻が1912~13年に建造.
これの艦名は,Tatra,Balaton,Csepel,Lika(I),Triglav(I),Orjen.

次いで,Ersatz Tatraとして改良型が1917年に4隻建造.
Triglav(II),Lika(II),Dukla,Uzsok.

このうち,Tatra級のLikaとTriglavは,1915.12.29に触雷して沈没.
その代艦としてErzatz Tatra級の2隻がこれを襲名している.

んでもって,お書きになっている通り,7隻がItalyに引き渡され,1隻(Dukla)が
France海軍に引き渡されている由.
Duklaは1936年に除籍されている.
France時代は,Matelot Leblancと言う艦名だったらしい.

236 : 234 : 投稿日:03/09/11 19:17 ID:???
>>235
眠い人様,ご教示ありがとうございます.
襲名があったとは知りませんでした.

237 : 12[] 投稿日:03/09/11 23:13 ID:/V8K02Ke [1/1回]
>>234,235
おおお!! ひさしぶりにオーストリア・ハンガリー海軍に関するレスがついている!!

私も以前「exciteの翻訳検索」で出てきた〝The Austro-Hungarian fleet:Destroyers〟
のサイトで,眠い人様が235で書かれたような内容を目にしました.

また話を脱線させて申し訳ないのですが,
Tatra級駆逐艦のBalatonとCsepelは,
1917年5月15日にオトラント海峡の連合国封鎖線を襲撃したオーストリア艦隊(指揮ホル
ティ・ミクローシュ提督)の分航・陽動部隊として活躍し,
海峡南東部のコルフ島沖でイタリア駆逐艦Boreaと同輸送艦Carroccioを撃沈しています.

また同級のLika(I)とTriglav(I)は,
1915年の12月29日に軽巡洋艦Helgoland,駆逐艦Tatra,Balaton,Csepelとともに
当時イタリア軍が占領していたアルバニア中部のドウラッツオを襲撃しましたが,
この時敵の機雷源に進入してしまって沈没しました.

軍事板,2003/09/11
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

238 : 名無し三等兵 : 投稿日:03/09/12 22:23 ID:???
旧独の旧式巡洋艦がユーゴの自称防空巡洋艦ダルマティアになって,
第二次大戦中に独に接種されてクロアティアに渡されてズニアムとか言う艦名になったと言う話を,
撃沈戦記か何かで読んだような覚えがあるのですが.
当時のクロアティアってほかにどんな戦力があったのですか?


240 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:03/09/14 15:05 ID:???
>>238
Yugoslaviaは1941年に独,伊,Hungary,Bulgariaなどの攻撃を受けて降伏します.
この時,Italyは,Yugoslavia海軍が所有していた艦艇を接収し,自国海軍に組み込みます.
が,今度はItalyが連合国に降伏したので,独がItalyに所属していた旧Yugoslavia海軍艦艇を
接収します.

で,独立Croatia国海軍は,1943年のItaly降伏で接収された艦艇を独から変換して貰ってスタート
しました.
ところが,今度はTito率いるPartisan勢力が強大となり,独はこの国を見捨て,1944年には早くも
海軍は崩壊しました.

まずDalmacijaは元々,旧帝政ドイツ海軍の小型巡洋艦Niobe(1900年竣工)だったのを,1925年に
除籍後,Yugoslaviaが購入し,1926~27年にかけて砲術練習艦に改造して用いています.
1941年,Italyが捕獲してCattaroとなり,1943年独が再捕獲してNiobeに戻し,すぐにCroatia海軍に
引き渡されて,Zniamとなっています.
この艦は,1943年12月19日,英海軍のMTBに雷撃され損傷,2日後に沈没しました.

このほかCroatia海軍には20隻の艦艇があり,敷設艦Kiebitz(旧Italy海軍 RambIII),水雷艇
TA48(旧二重帝国海軍78T/1913年竣工→旧Yugoslavia海軍T3:1945.2.20英空軍機により,
Triesteで撃沈),武装商船G102,G104,KM級魚雷艇8隻(うち1艇はPartisanに投降).
また,水雷艇T7(旧二重帝国海軍96F/1916年竣工→旧Yugoslavia海軍T7:1944.6.25Muter
島付近で,英海軍のMTB659/662/670により,破壊),機雷補給艇Mosor(1920竣工→Italy海軍
Pasman:1944.12.31Istu島付近で座礁,1954年解体)がありました.

河川艦隊には2隻の河川用MonitorであるBosna(旧二重帝国海軍Koros→旧Yugoslavia海軍Morava:
1941.4.11自沈→Croatiaによって浮揚→1944年6月触雷により沈没.),Sava(旧二重帝国海軍Bodrog
→旧Yugoslavia海軍Sava:1941.4.12自沈→Croatiaによって浮揚→1944.9.9再自沈)が主力であり,他に
6隻のMotorboat(このうち少なくとも3隻はPartisanに投降)がありました.

他に,10隻の雑役船があったようです.

軍事板,2003/09/14
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

245 : 名無し三等兵 : 投稿日:03/09/17 15:34 ID:???
スレ違いなんですけど,旧ユーゴ海軍の艦艇って連邦解体後どうなっちゃったんですか?

246 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:03/09/17 23:41 ID:???
>>245
一応,CroatiaとSloveniaと新Yugoslaviaに分けられましたが,新Yugoslaviaの
海軍基地の殆どは,Croatia領土にあります.

Slovenia海軍は,Trieste湾に面したコペルに基地を設け,ささやかな海上部隊を有しています.
1995年当時(以下同じ)で,兵員35名(予備役460名),内海哨戒艇2隻.
尤も,商船からして,滞貨重量トン数200t(商船2隻)という規模でしたが.

Croatia海軍は,沿岸の殆どを占拠しているので,根拠地は多いです.
最大の根拠地は多島海に面したスプリト,次いでイストラ半島でVenice湾に面したプラ,スプリト
北西のシベニク,あと,プロスがあり,小規模根拠地として,ラストボ,ビスがあります.
人員は1,100名

内海型特殊部隊用潜水艇ウナ級が1隻.
コルベット:クラエル級1隻(RBS-15搭載).
ミサイル艇:ラーデ・コンカール級1隻(RBS-15搭載),オーサ級1隻.
魚雷艇:シェルシェン級1隻
内海哨戒艇:ミルナ級3隻
機雷戦艦艇:シルバ級機雷敷設艦2隻,フコク・フラナッチ級機雷掃討艇1隻,ハム級内海掃海艇1隻.
揚陸艦艇:D-3/D-501級LCT5隻,LCU3隻など
雑役船:サルベージ船1隻,モマ級調査船1隻,弾薬運搬船2隻,曳船1隻.

商船85隻,滞貨重量トン184,000t

でもって,残りが新Yugoslaviaの艦艇だが,主な基地はCroatia海軍に持って行かれたので,
残りはコトル,ティバト,バルだけ(うち,本当に本土にあるのはバルだけかな).
なので,殆ど稼働出来ないのが現状.

248 : ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI [] 投稿日:03/09/20 00:11 ID:aYZHVOsU [1/1回]
スプリトとシーベニクには行きましたが軍艦は見なかったです.
元々が中世の遺跡を追っかけてますもんで・・・.

内戦時にはユーゴ連邦の軍艦がドブロブニクとかザダルを海上
から砲撃しています.ドブロブニクなんかは裏山からの砲撃と
あわせて市街の70%に被害が出たそうです.

軍事板,2003/09/17
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

250 : 名無し三等兵 : 投稿日:03/09/24 21:47 ID:???
少し前の『航空ファン』に「オーストリア陸軍航空師団第1航空連隊第3
ヘリコプター隊のOH-58」の写真が載っていましたが,オーストリアでは
もしかしたらSAAB105やドラケンの部隊もこの陸軍航空師団に所属している
のですか? (現代の話で申し訳ない.)

251 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:03/09/24 21:59 ID:???
>>250
Austriaに於いては,全兵科は陸軍の一部です.
なので,水上部隊も航空部隊も全て陸軍に属しています.

ちなみに,Austriaの航空部隊(K.u.K. Militaer-aeronautische Anstalt)が出来たのは,
世界でも最も古い方で,1892年だったりします.
今の航空部隊(Oesterreichische Heeresfliegerkraefte)が復活したのは,占領から
脱した1955年ですね.

昔は条約でAAMの装備が認められていなかったのですが,今はどうなんでしょうね.



252 : 250 : 投稿日:03/09/24 23:53 ID:???
>眠い人様

お返事,Vielen Dankです.
AAMの装備はどうなのでしようね.オーストリアは昨年にユーロファイター・
タイフーンの導入を発表しましたが.ハンガリーのグリペンのリースはもう
確実ですが,グリペンをこちらは購入する予定のチェコは昨年の洪水被害の
ために見直しがある,と去年言われていましたね.ジョージ・ブッシュは
洪水からの復旧に援助するからといって中古のF-16を買わせようとたくらん
でいましたが.

軍事板,2003/09/24
青文字:加筆改修部分


faq23

** 【質問】
 【回答】

257 : ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI [] 投稿日:03/09/26 00:55 ID:lx3L7aqJ [1/1回]
ブダの王宮の軍事博物館の廊下に大戦中のハンガリー空軍を描いた
油絵がたくさん飾ってありましたが,あの類も89年以降に解禁
になったのでしょうね.

大戦中のハンガリー空軍の機体で現存しているものってあるのでし
ょうか・・.戦車だと対空戦車が国内に,クビンカにズリーニとか
が残ってますが・・・.

258 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:03/09/26 22:49 ID:???
チェコは結局,中古のF-16を12機買うみたいですね.

>>257 ギシュクラ氏
博物館にありませんか?
チェコとかなら,結構残っているみたいですけどね.
敗戦国だからかなぁ.


259 : ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI [] 投稿日:03/09/26 23:19 ID:6RIimh2A [1/1回]
眠い人さま
 王宮の軍事博物館には模型の類しかないですよ.
 銃器の類は多いですが,大物は置いてないですね.
フェリヘジ空港の横にある飛行機展示スペースみ
たいなところにも無かったですね.
ミグ15とかはレンタカーで走っていて,田舎の
空港のゲートキーパーになってるのを見たことが
ありますが・・・.

260 : 頑張れGripen(=252) : 投稿日:03/09/26 23:24 ID:???
>眠い人様

ペーパーバックで値段は安いのですが,ハンガリーは本の増刷は
あまりしないので新本での入手は難しいでしょう.

>ギシュクラ様

交通博物館の隣にあるペテーフィ・チャルノクにハンガリーの航空史
に関する展示があり,昔の民間用の小型機は何機か展示してあると
思います.
やはり敗戦国で終戦時に残った機体は全て破壊されたのでしよう.
まあBf109などをライセンス生産しましたがチェコのAvia S-199(チェコ
スロバキアで戦後にBf-109にユンカース製の発動機を積んだ機体で
操縦性は悪化したそうですが,イスラエルに輸出されてエジプトの
スピットファイアと戦うなどしたらしいです.)の場合とは違って
オリジナルと異なる点もないですしね.保存する意義もそれ程
ないのではないかと・・・.あっ,でもフィンランドのバッファロー
は保存されている機体もありましたね.

軍事板,2003/09/26
青文字:加筆改修部分


faq23

** 【質問】
 【回答】

266 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:03/10/01 22:27 ID:???
保守カキコ.

原武史氏の書いた,講談社現代新書の新刊に,「鉄道ひとつばなし」という本が
あって,それをつらつら読んでいるのだけれど,戦前の「白馬に乗った昭和天皇」
の白馬って,マジャール産の駒だったらしい.

サラブレッドの馬産地としてはこの地は結構有名だったのでしょうか.

267 : ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI [] 投稿日:03/10/02 22:52 ID:aPgMYMnv [1/1回]
昔はマジャール騎兵は有名でした.
軽騎兵(フッサール)はハンガリー起源です.
フランスの軽騎兵はラコーツィ・フィレンツ2世の
独立戦争の折,敗れて亡命したラコーツィにくっつ
いてフランスへ逃れた連中が元祖です.
騎兵のユニフォームのど派手な肋骨服もマジャール
起源です.

それはさておき,パンノニア平原というところは馬産
畜産に向くところで,それゆえに古くはアッチラ大王
の率いるフン族の根拠地ともなり,マジャールの定住
以降もバトゥ・カン率いるモンゴル軍の侵攻を受けた
りしています.

一次大戦前の競馬の世界で世界を席巻し無敵と呼ばれ
た名馬キンツェムもハンガリーの産でした.

軍事板,2003/10/01
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

279 : 名無し三等兵 : 投稿日:03/10/18 14:11 ID:???
ソ連併合前のバルト三国の海軍はどんな状況だったのでしょう?
エストニアが旧ロシア製の駆逐艦や潜水艦を持っていたの知っているのですが.

280 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:03/10/18 14:45 ID:???
>>279
空軍については,最近出たソ連軍用機(光人社NF文庫)にちょこっと書かれています.

http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/army/1025095466/23を元に再投稿.
今は鯖そのものが飛んでしまったような…この前スレ?は1年近く続いたスレでしたのに.

エストニアは,旧ロシア帝国の駆逐艦を引き継いで使ってましたが,これを 1933年にPeruに
売却しています.
艦名はLennuk,Wambolaでいずれも1917年竣工のものでした.
他に旧ロシア砲艦のLembit(先代:1925年退役),Laine(1941.7.24撃沈),Wanemine(1941年自沈).
国産砲艦としては,1939年に建造されたPikkeriがあり,これは大統領ヨットを兼ねていました.
この艦は,1940年にソ連に引き渡された後,通報艦となり,雑用艦になった後,1955年にモスクワ大学の
調査船に改造され,黒海で1960年代末に至るまで使われました.

また,旧ロシア艦では,機雷敷設艦Ristna(大戦を生き抜き,1960年退役),Suurop(1941年8月撃沈)がありました.

このほか,自国海域で沈没していたドイツの魚雷艇A32を引揚げ,Sulevとして再就役させています.
この艦は,ソ連編入後,NKVDの哨戒艇となり,輸送艇,練習艇となって1955年にScrapとなりました.

駆逐艦は売却しましたが,その代金でヴィッカースに潜水艦を発注しています.
Kalevは1941年11月に触雷,沈没しましたが,もう一隻のLembitはソ連時代を生き抜き,1956年から
海軍工廠の試験用潜水艦となり,1979年にTallinnで記念艦になっています.

小型艦艇としては,200t以下の砲艇が6隻,内海掃海艇3隻,哨戒艇8隻,砕氷船3隻,輸送艦2隻と
タグボート4隻があります.

281 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:03/10/18 14:46 ID:???
ラトヴィアは元ドイツの掃海艇M68を手に入れ,Virsaitisと改名して哨戒艇として使用しています.
また,有力艦としてフランス製潜水艦が二隻1926年に建造されました.
艦名はRonis,Spidolaと言い,ソ連に引き渡された後は,Liepajaで,ドイツ軍の手に落ちないよう,
1941年6月24日に自沈しました.

後の有力艦は,1926年竣工のフランス製掃海艇,Imanta,Viestursくらいです.
Viestursは大戦を生き延び,1950年代末に除籍されますが,Imantaは1941年7月1日に触雷,沈没
しています.
このほか,沿岸哨戒艇Ergis,小型哨戒艇3隻,砕氷船3隻,測量艇1隻と,練習艦が1隻有りました.

リトアニアは海軍に金がかかっておらず,旧ドイツ掃海艇M59を1931年に購入し,哨戒艇Presidentas Smetonaとして
改装,使用しました.
こいつも,ソ連引渡後 NKVDの哨戒艇に転用され,1944年に撃沈されています.

このほかの艦艇は,小型哨戒艇6隻,砕氷タグ1隻だけです.

軍事板,2003/10/18
青文字:加筆改修部分




faq23

 なお,今岡さんの『ツラン民族圏』というちょっと大きめな本は,前半がツラン運動の詳しい解説,後半がウラル語族系諸民族とトルコ系民族・モンゴル系民族・ツングース系民族の概観で,読み物としては面白いです.
 ただ,参考文献が全く挙げられていないので,資料としての価値は少ないでしょう.

軍事板,2004/01/01
青文字:加筆改修部分



** 【質問】
 【回答】

328 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:04/02/29 22:47 ID:???
久々の保守.

先日,免許関係の質問の回答を色々調べていた時に,旧陸軍のトラック開発の話が
ありました.
その中で,旧陸軍は1931年にCross-country性能が優れたトラックを求め,英国の
スカンメル,ソニークロフト,そして,チェコのタトラの6×4を輸入しました.

これらを見本に製作したトラックが,いすゞの九四式自動貨車だったそうです.
戦後まで連綿と続く,いすゞのボンネットトラックの系譜がタトラというのには吃驚し
ました.
それにしても,ベルリエとかビューシングとか,ベッドフォードなどのトラックもあった
でしょうに,何でタトラのトラックなんかを買ったんでしょうね.

軍事板,2004/02/29
青文字:加筆改修部分


+++

** 【質問】
 【回答】

367 : ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w [] 投稿日:04/06/15 22:37 ID:ZxUMHXQ9 [1/1回]
というわけで本日入手いたしました.
ルーマニアの国産戦闘機って結構数を作ったのですね.
エンジンなんか自製できたんだろうか・・・.

368 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:04/06/15 23:45 ID:???
>>367
戦前からFrance製のGnome-Rhone14をLicense生産してます.
他に,PolandのP.Z.L.11f,24E戦闘機,ItalyのSavoia-Marchetti S.M.79B(S.M.79ですが,
三発ではなく,Junkers Jumo211を搭載した双発型)爆撃機,Bf-109G戦闘機のLicense
生産を行なってます.

ちなみに,国産戦闘機と銘打っている,I.A.R.80/81は,その殆どの部品を,PolandのP.Z.L.
P.24E戦闘機から流用してたりしますので,国産と言えるかどうか….

しかし,P-51Bが戦闘に投入されてたのにはびっくりしましたねぇ.

370 : 名無し三等兵[] 投稿日:04/06/22 00:12 ID:IiEAilrM [1/1回]
>>368
部品を流用というのは購入とか捕獲した機体の再利用ですか??


371 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:04/06/22 22:29 ID:???
>>370
P.Z.L.P.24などの高翼戦闘機は,ロマーニャの主力戦闘機としてI.A.R.で国産化して
いました.
なので,その生産の為に作られた部品をI.A.R.80/81系列に使用したという訳です.

少なくとも原型機は後部胴体,尾部,車輪,エンジンをP.24Eから流用しています.
流石に構造は低翼単葉引込脚になっていますけど.
量産機は,当初の開放式コクピットが視界の良い密閉式風防になっていますし,
そこかしこがRefineされています.

ちなみに,このうちの1機はS.M.79B用に製造されたJumo211(最初はDB601を
希望していたようですが)を装備して飛行しています.

戦後も暫く使われ,1950年代の共産政権時代にも,正規の操縦席前部に開放式
のコクピットを備えた練習機に改造されて少数機が使用されていました.

軍事板,2004/06/15
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** 【質問】
 【回答】

380 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:04/07/25 21:58 ID:???
さて,今回は,Societe Anonima Industria Aeronautica Romaniaについて.

Romaniaという国は,世界最初のジェットエンジンによる予期せぬ飛行をした,アンリ・コアンダに見られるように,それなりの水準を誇っていました.
しかし,それはあくまでも個人レベルのこと.
第一次大戦では,国土が戦場になったために,それ以上発展しませんでした.

トリアノン条約の結果,新たにRomania領土になったAradの地に,旧マジャール王国のMAVAG鉄道車輌工場がありました.
1923年,この会社はRomaniaに接収され,Astra-Aradと言う会社組織に変更されます.
Aradの地には,マジャール王国にBenz航空機エンジンを供給していたMagyar Automobil Restzbenytarsasag(M.A.R.)の工場もあった為,
航空機製作に移行していきます.
そして,Polandの航空機技師,Stanislav Sasefskiを主任技師に招き,1923年,初めての航空機,250馬力のBenzエンジンを搭載した,
ASTRA-Sasefski複座複葉機を製作します.
この機体は非常な成功を収め,Arad-Bucharest間の民間航空航路を開拓するのに使用されました.
これで自信を深めた会社は,1924年,会社は,Fabrica de vagoane ASTRA din Aradと名称を変更します.

次いで,自国の航空工学を修めた教授を主任技師に,空軍向け偵察機を製作しますが,これは失敗します.
偵察機なのに,安定性が悪かった様ですが,それでも国産機なので,練習機として25機,採用されました.

381 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:04/07/25 21:59 ID:???
しかし,根本的な梃子入れを図った政府は,この会社とは別に,航空機を製造する公営企業を資本金200,000Leiで立ち上げます.
この会社,Industria Aeronautica Romana, Societate Anonimaの設立は,1925年8月6日で,FranceはPotezの資本が多く入っていました.
まず,この会社が手を付けたのが,当時,資本提携関係にあった,Potez社の最新鋭多用途軍用機,Potez25の生産です.
この間,製作工場の建設費を惜しみ,11月1日には,前述のASTRAを傘下に組み入れ,1927年には吸収しています.
ちなみに,Industria Aeronautica Romana, Societate Anonimaとは別に数社が航空機製作を行なっていましたが,これらは,独立していますが,
ブランドとしては,一時期を除き,I.A.R.で統一されています.
今回は,Industria Aeronautica Romana, Societate Anonimaの方だけを取り上げることにします.

Industria Aeronautica Romana, Societate Anonima(略称I.A.R.)は,機体開発部門,エンジン開発部門をBrasovに,また分工場をAradに
持っていました.
また,Brasovでは飛行場も経営していました.
この体制で,最初は先述のように,1927年から33年にかけて,Potez25を250機生産し,次いで,Morane-Saulnier35練習機を1927年に30機,米国製Fleet 10G練習機,更には,
P.Z.L.P.11cの生産と言う感じで,外国製機の生産を行なって技術を蓄積していく傍ら,Potez25をパラソル単葉化したPotez25Mと言う機体を試作しています.
また,エンジンは,Gnome-RhoneK-7/K-9/K-14,De Havilland Gipsy-Majorを中心に,第二次大戦前までに1,100基のエンジンを生産していました.

国産機としては,1930年から戦闘機の開発を始めますが,いずれも習作に終わって,本格的な戦闘機は,I.A.R.80まで待たなければなりませんでした.
その代わり,練習機,多用途機として,I.A.R.22/23/24を,複葉偵察爆撃機として,I.A.R.37を,複葉偵察機としてI.A.R.38を,それぞれ試作,生産し,国産機の
開発能力もそれなりに付いてきました.
また,ItalyのNardi練習機なども国産化しています.

このほか,車輌,工作機械,建築資材なども製造していました.

戦時中はドイツ製の機体の修理,製造を行ない,1940年にRegia Autonoma Industria Aeronautica Romana
に改組されました.

382 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:04/07/25 22:01 ID:???
戦後,ソ連に工場を接収され,Sovromtractorとなり,トラクター製作を主な事業にします.
1949年から航空機製作を再開しますが,1951年にURMV-3となり,1960年には脱Stalin化で,I.I.L.と名前が
変更されます.
この間,小型軽飛行機を中心に試作製造を行ないます.
1968年,今度は,ICA-Brasovとなり,Romaniaの独自路線で,Helicopterの生産を主に行なうようになります.
また,脱ソ連化の一環で,AerospatialeのSA316B Alouette IIIを生産し,次いで,SA330L Pumaの生産を行なっています.
1991年,独裁体制が崩壊した後は,社名を再びIAR SAに戻して,Kamovと提携して,Ka-126を生産しています.

と言う訳で,I.A.R.80が出て来ないのは,これが,本体の製品ではなく,傍系のS.E.T.が製作したものだからで,他に,最近のI.A.R.ブランドで
製造している,ICARなんてのもあって,何が何やら….
次週,この辺に手を付ける予定でつ.

394 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:04/08/29 20:55 ID:???
間が開きましたがやっとこ復帰シマスタ.
そう言えば,「戦う男の制服図鑑」とか言う本に,ロマーニャ陸軍の制服が出てきてヒ゛クーリ.

I.A.R.とは別に第二次大戦前に存在した航空機メーカーとしては,他に2社がありました.
今日はその中の一社を取り上げてみませう.

さて,航空省の管轄下に民間機製造を専らとする会社,Intreprinderea Pentru Constructii Aeronautice Romane
(略称:ICAR)があります.
1932年にFleet社の軽飛行機を製造する会社として設立され,1936年に多座民間機であるICAR-1と複座複葉練習機を
製造していました.
第二次大戦中は,Fieseler Fi 156 Storchを製造しています.

その後,この会社は政治体制に翻弄されます.
まず,戦後はソ連の接収を受け,共産化によって,1951年にAteliere de Reparat Material Volant 2(ARMV-2)に改組されます.
ここでは主にソ連製航空機や自国開発機の改造,修理を行っており,戦後,空軍で用いられていたI.A.R.80の複座改造型
なども手がけていました.
しかし,非スターリン化に伴い,1957年にCentrul Tehnic Industrial Aeronautic(CTIA)に改組され,この間,Yak-11の国産化,
Yak-23の複座化改造などを行っています.

その後,1959年にIntreprinderea de Constructii si Reparatii Material Aeronautic(ICRMA)となり,IAR-811/813などの軽飛行
機を開発しています.
また,この組織はURMV-3の傘下に入り,68年にIntreprinderea de Reparatii Material Aeronauticとなります.

以後,Romaniaが独自路線を取るにつれて,1978年からはIAv Bucurestiとなっています.
製作する機体は,西欧の機体となり,英国のBAC-111旅客機,BN-2アイランダー軽飛行機であり,この国産化
は現在でも行われています.
Romaniaの政権崩壊後は,1990年11月20日にRomaero SAと改組され,主にBAC-111を年産1機で製造しています.

398 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:04/09/26 22:21:59 ID:???
さて,やっと,最後のS.E.T.に到達シマスタ.

Fabrica de Avioane Societatea pentru Exploatari Tehnice(通称,S.E.T.)は,1923年に設立されました.
この会社は主にRomania空軍の軍用機を中心に製作しています.

最初の4年は技術研究とか空軍装備機の研究に費やし,1927年にProt-I,Prot-IIと言う試作機を製作します.
これは2機しか作られず,次いで,1929年にS.E.T.3複葉機を作りますが,これは政府に採用されないと言う
余りぱっとしない状況でしたが,それでも,12機が生産されました.
次いで10機生産のS.E.T.4を作りますが,これは欠陥品ですぐ退役となり,1930年に製作した複葉複座中等練習機の
S.E.T.7が,やっと軍の採用するところとなり,主力練習機として50機が生産されました.

このS.E.T.7は成功作と言って良く,これを基に,更に発展型としたS.E.T.7Hを1936年に8機,同じく,観測機に改造した
S.E.T.7Kシリーズが60機も生産されています.
また,これを単座化し,戦闘練習機とした,S.E.T.Xが試作されましたが,それは売れず,試作に終わりました.

このため,S.E.T.では,本物の戦闘機を試作して,それとセットで売り出すことを考え,1934年に本格的な複葉戦闘機,
S.E.T.XVを開発します.
この機体の性能は良く,外見もNACAカウリングを採用したスマートなモノでしたが,これもRomania空軍ではP.11を
既に採用していると言う理由で,採用を見送り,結果的に試作のみに終わっています.

以後は,S.E.T.10練習機,S.E.T.31初等練習機を開発しますが,S.E.T.31が10機,空軍に売れただけで,結果的に新規
開発は以後行なわず,下請けになっていきます.
1936年から,米国のFleet社の練習機,Fleet10Gのlicense生産の割当分80機で糊口をしのぎ,
1939年から,I.A.R.の完全下請けとなり,I.A.R.27観測機,I.A.R.39急降下爆撃機の製造を行ない,
イタリア製Nardi F.N.305練習機の国産化を担当してこれを124機生産し,並行してI.A.R.80の開発・
生産を行いつつ,He-111H-3のLicense生産を準備したところで,敗戦に至っています.

戦後は下請工場という地位に落ちていたこともあり,余り顧みられず,他の会社が曲がりなりにも
生き残ったのに比べ,1947年に解散に追い込まれてしまいました.

軍事板,2004/07/25
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

407 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:04/10/31 18:19:45 ID:???
さて,マターリ,Slovakiaの空軍について書いていきますか.

1939年,HitlerはSlovakiaの分離主義者,Hlinkaの人民党を扇動し,Josef Tisoを大統領とするSlovakia国をCzech解体の
翌日に独立させ,3月23日,ViennaでHitlerと共に保護条約に調印し,ナチスドイツの保護国となりました.
新国家は,270万人の人口を有し,そのうち,Slovakia人が240万,13万のドイツ人,10万のマジャール人,8万のユダヤ人で
構成されています.

この保護条約では,Schtzzoneと呼ばれる西Slovakia地域と要塞などの軍事施設ににドイツ陸軍が駐留し,ドイツ空軍はZlinaに
第15観測飛行隊,Malacky-Novy,Dvorの空軍射爆場を使用,他に二ヶ所の空港に約40機を駐留させていました.

しかし,保護国とは言え,一定の軍事力は保持していました.
今回は空軍について書いていきますので,それについて話を進めていきましょう.
解体前,Czechoslovakia空軍はFranceを範にしており,全土で6個飛行連隊で構成されていました.
第1~第3までは戦爆連合,第4が戦闘機連隊,第5と第6が爆撃機連隊でした.

このうち,Slovakiaに配備されていたのは第3飛行連隊で,その最後の連隊長,Gustav Studeny大佐は,
Czech人だったので,解体時にBratislavaの州軍司令に格下げされました.
Slovakia独立後,自動的にその連隊はSlovakiaの軍に組み込まれ,国家防衛省直属となります.

408 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 [ ] 投稿日:04/10/31 18:20:41 ID:???
司令官は中佐(後に大佐,将軍)Ferdinand Catlos,Karol Sojcekが短期間勤務していました.
機体は300機近い様々なものがあり,供給は旧Czechから行なわれていました.

その内訳は,Avia B.534戦闘機が60機,Bk-534戦闘機が11機,Letov S.328観測機が73機,
Aero A-100偵察機が14機,発達型のAb-101偵察機が1機,Praga E-39練習機が41機,E-241
が33機,Avia Ba-122高等練習機10機,Bs-122曲技練習機が13機.
爆撃機として,Aero-Bloch M.B.200重爆が1機,Avia-Fokker F.VII爆撃輸送機が1機,Avia B.71
(Tuporev SB-2のLicense生産型)軽爆が1機,このほかに戦力として期待できない旧式機として,
Avia B.34戦闘機が3機,Avia Ba-33戦闘機が2機,Letov S.16爆撃機が5機,S.616爆撃機が1機,
Aero AP-32襲撃機が5機,APb-32襲撃機が1機,Letov S.128観測機が5機,Aero A.11偵察機が3機,
Aero A.211練習機が2機,A.230練習機が1機,A.330練習機が1機,Letov S.239練習機が1機という布陣
でした.

これら雑多な寄せ集めの機体を率いて,新たに司令官に赴任したのが,37年のZurichで開催された国際
飛行競技大会で,Avia B.534を駆ってドイツ空軍の誇るBf-109を追いつめたメンバーの一人で,国内でも
よく知られていた曲技飛行の名手,Jan Ambrus中佐でした.

と言う訳で,次回は,マジャールとの紛争について,少々.

414 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:04/11/06 22:29:26 ID:???
さて,Slovakia地域は元々,二重帝国地域ではマジャール王国に属し,マジャールでは,この地域を「未回収のマジャール」地域と見なしていました.
このため,マジャールとこの国の国境地域は従来から"Hot Border"となっていました.

特にCzech政府が弱体化した1938年からは,マジャール空軍機が偵察に侵入したり,宣伝ビラをばらまきに越境したりしており,1938年10月25日には,
マジャール空軍の1/2"Ludas Matyi"飛行隊に属するC.R.32戦闘機2機が,Ju-52/3m爆撃/輸送機1機と共にSlovakia南部に越境し,伝単をばらまいて
いた時に,チェコスロヴァキアを越境した同国空軍第10飛行隊のLetv S.328を発見,これを撃墜し,操縦士を負傷させ,後席偵察員を死亡させる事件が
起きています.

時代は下って,1939年3月のチェコ解体の際,国の東の枢要部であったカルパートウクライナ地区は独立を宣言しますが,既にマジャール陸軍が侵攻を
始めており,3月16日に占領(マジャール側から見たら正当な支配者に戻った)が完了しました.
そして,3月23日,占領地区を更に拡大し,あわよくばスロヴァキア全土を支配下に置こうと,カルパートウクライナ地区の国境を越えます.
けれども,この企てにSlovakia人はAugust Malar大佐の指導の下,軍民挙げて結束し,マジャール軍相手のレジスタンスを開始.
発足したばかりの空軍もまた,国境線で衝突を繰り返しました.

こうして,第45戦闘飛行隊(隊長:Jan Svetlik大尉),第49戦闘飛行隊(隊長:Jan Prhacek大尉),併せて約20機のB.534戦闘機,
第12観測飛行隊(隊長:Frantisek Wagner大尉),これに第13観測飛行隊の一部から兵力を抽出して,併せて約20機のS.328観
測機,AP-32観測機を以て,最前線基地のSpisskaに赴任しました.
しかし,機体は確保したものの,乗員はチェコ解体時の戦力分割に手間取り,当初は各飛行隊に6名程度しか居ませんでした.
これは,Ondrej Dumbala少佐指揮下の第37~39戦闘飛行隊,第15偵察飛行隊から抽出して供給して確保します.
彼らは到着早々にして砲火の洗礼を受けることになりました.

415 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:04/11/06 22:30:36 ID:???
既に,3月23日の侵攻初日,マジャール空軍の奇襲によって,前線基地に19機展開した機体のうち,2機のB.534が撃墜,4機の
B.534と1機のS.328が対空砲火で撃墜され,第45戦闘飛行隊の隊長,Jan Svetlik大尉と,第49戦闘飛行隊のStefan Devan
伍長が戦死し,これがスロヴァキア空軍初の戦死者となりました.

翌日の24日はスロヴァキア空軍にとって災厄の日となりました.

スロヴァキア空軍は,Uzhorodから出撃したマジャール空軍の1/1 "Ijasz"飛行隊のC.R.32と17回空戦を行ない,
S.328を1機,B.534を2機,撃墜または捕獲(B.534)され,4機のB.534と1機のS.328が損傷して不時着しました.
この時,第49戦闘飛行隊長など3名が不時着しましたが生き延び,1名(Jasef Zachar軍曹)が捕虜となりました.
この日の午後,Sovrance近郊でこの紛争における最も大きな空戦がありました.
第12飛行隊の12機(3個分隊)のS.328は第45戦闘飛行隊に属する3機のB.534に護衛され,マジャール陸軍部隊の
攻撃に出撃しましたが,その途中でマジャール空軍の9機のC.R.32戦闘機に襲われ,惨敗を喫したのです.
この戦闘で,1機のS.328が撃墜され,操縦士のGustav Pazicky軍曹が機上戦死,偵察員のFerdinad Sveno中尉は,
パラシュート降下中にマジャール軍戦闘機に射殺されました.
このほかのS.328はいずれも不時着を余儀なくされ,B.534戦闘機は全機撃墜破されましたが,これらの乗員は
いずれも救助されました.

ちなみに,この際,スロヴァキア側の記録ではFrantisek Hanovac軍曹とMartin Danihel伍長がマジャール戦闘機
の撃墜を報告していますが,マジャール側には記録がなく,公式とは認められていません.

416 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:04/11/06 22:31:12 ID:???
更に厄日は続き,Spisska Nova Ves基地にマジャール空軍のDebrecenから飛来した,3/4 ”Sarkany"と,
3/5 "Huvelyk Matyi"両飛行隊から抽出されたJu-86K-2爆撃機が10機飛来し,スロヴァキア領土に対する初空襲
を行ないました.
この攻撃で,12名の兵士と一般市民が死亡し,2機のB.534,3機のAP-32,1機のS.328とB.71を地上で破壊します.
しかし,基地機能の破壊には失敗しました.

その後,戦線は膠着状態が続き,4月に入って直ぐ,マジャールとの戦闘は下火となって,新たな東部国境線が
確定し,合意に至りました.
こうして紛争は終わりを告げたのですが,2年後には紛争を起こした両国が共に戦うのですから運命とは分からない
ものです.

次回はスロヴァキア,ポーランドと戦うの巻.

417 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:04/11/14 21:32:39 ID:???
さて,マジャールとの衝突で惨敗してから約半年後の1939年9月1日,スロヴァキア陸軍はドイツ陸軍と協同してポーランドに攻め込みます.
と言うか,スロヴァキア駐留ドイツ軍がスロヴァキアとポーランドとの国境を越えたので,仕方ない側面はあったのですが.

当時のスロヴァキア陸軍は35,000名.
彼らはドイツ軍南方軍集団の一翼を担っていました.
けれども,スロヴァキア陸軍はポーランド内陸部まで侵攻するのにはほど遠い状態で,1938年のミュンヘン条約でポーランドに
割譲されたOravaとSpisと言ったほんの一部の地域を回復するのが精一杯な所でした.

空軍に関しては,僅かに3個飛行隊,即ち,Obdrej Dumbala大尉の指揮する,第13飛行連隊麾下の第39,第45戦闘飛行隊に所属
する約20機のAvia B.534戦闘機と,第16観測飛行隊のLetov S.328観測機が10機,これらのみ,ポーランド戦役に参戦しています.

このうち,Letovはスロヴァキア陸軍部隊の対地支援,爆撃,連絡,伝単の投下,首都と国境線間の急使派遣など,多様に使われ
ました.
また,ポーランド南部にドイツ軍が侵攻してからは,8機がVinne飛行場に進出し,ドイツ空軍のJu-87と共に襲撃に使用されています.
しかし,ポーランドのStryj近郊で第39飛行隊のAvia B.534が敵軍の対空砲火で撃破され,操縦士のViliam Grun軍曹は,敵領土に
脱出後,数々の逃避行を行ない,基地に帰還することが出来ましたが,9月9日に,もう1機のAvia B.534がPresovで不時着し,
操縦していたViliam Jalovier伍長は運が悪く,死亡してしまいました.

ポーランド戦役末期の9月26日,先述のViliam Grun軍曹は,Prasov近郊でポーランド陸軍第13飛行連隊のRWD-8連絡機を撃墜
します.
ちなみに,この時のポーランドは敗北し,所属の空軍機はルーマニアに越境している最中でした.
ともあれ,撃墜は撃墜と言うことで,スロヴァキア空軍初の公式撃墜記録となりました.

と言うことで,次回はスロヴァキア空軍の増強について.

420 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:04/11/28 17:52:39 ID:???
1939年末,泥縄式に設立された空軍の再編成,機材の再整備が行なわれます.

既存の機体の分解整備や,修理については,Slovakia国内では出来ず,ドイツの保護領となっている旧Czechから人が派遣されて行ないました.
戦闘機飛行隊は,第11,12飛行隊がPiestanyに,第13飛行隊がSpisska Nova Ves.に配備され,これらにはAvia B.534/Bk.534が支給されました.
観測・偵察飛行隊は7個飛行隊を3個に再編し,第1飛行隊をZlina,第2飛行隊をSppiska Nova Vesに,第3飛行隊はNitraに配備し,機材としては,
既存の飛行隊が用いていたLetv S.328が支給されました.

更に,旧訓練部隊は,1940年に入るとSlovakia空軍飛行学校と改称され,各地に点在していた部隊を,Trencianske Biskupice基地に集約します.
後に,戦火が激しくなってくると,Tri Duby基地へと移動しています.
発足当初の使用機材は,Plaga E.39/E.241,Avia B.534,Letov S.328,Ba/Bs-122が使用されていましたが,これらの機材はドイツからの供給を
受け,Focke-Wolf Fw-44,Gotha Go-145,Heinkel He-72,Klemm Kl-35D,そして戦闘練習用にBf-109Eに取って代わられました.

総合整備工場,航空機工場は,元々Nitraにありました.
1943年8月には,Tri-DubyとMokradに移動しています.
ここでは全機種の修理,整備の他,Skoda-Kauba S.K.257練習機,Junkers Ju-87D-5を生産していました.

421 : 名無し三等兵[] 投稿日:04/12/02 08:26:08 ID:1snckkp6 [1/1回]
700浮上

422 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:04/12/05 23:14:13 ID:???
ちょっと先走りました.

話を戻して,1941年3月1日,スロヴァキア空軍の再編が行われます.
先に編成された第11,12,13戦闘飛行隊で,第2戦闘機大隊を編成し,Vlasdimir Kacka大尉が指揮官となりました.
この大隊はPiestanyに配備されます.
同時に,第1~3観測飛行隊は,第1観測機大隊を編成し,指揮官にKournel Jancek少佐が任ぜられます.
これは,Spisska Nova Ves.に司令部が置かれました.

時代は下って,1943年6月1日,第3戦闘機大隊がPiestanyにて編成されます.
その大隊には東部戦線で戦闘中だった第13戦闘飛行隊のBf-109G-4と,新しく編成されたBf-109E装備の
第14戦闘飛行隊の2個飛行隊から成る予定でしたが,第14の方は機材が間に合わず,紙上の存在でしか
ありましせんでした.
第2戦闘機大隊は,第13が抜け,第11,12戦闘飛行隊から成っていましたが,Avia B.534戦闘機からJu-87D-5
爆撃機へと機材を更新しようとしていました.
しかし,これは戦局の悪化で,遂に完了しませんでした.
第1観測機大隊は,旧型機を一掃し,Focke-Wolf Fw-189A-2に機種変更しました.
しかしながら,機材の補充は十分ではなく,これらの機体は,偵察機隊の機材を横滑りさせたものだったりします.

428 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:04/12/11 22:50:31 ID:???
1943年4月1日,第41爆撃飛行隊が編成されました.
これらの基幹要員は,Slovakia空軍の航空学校を卒業後,ドイツはバルト海沿岸のGriefwaldで訓練を行なっていました.
後に,実戦訓練はCrimea半島のSimferopol近郊にあるSakiで,3機のHeinkel He-111H-10を用いて行ないました.
1943年秋には飛行隊はPopladに移駐します.
この基地には,他に時代遅れのS.328,Fw-58BとJunkers W.34が配備されていました.

同じ頃,第51輸送飛行隊がTri Duby飛行場にて編成されました.
この飛行隊には,フランス製のCaudron C.445M Goelands軽輸送機が5機,ドイツ製のKlemm Kl-35D
軽飛行機が2機,He-111H-10が1機,Fi-156Cが1機配備されていました.
輸送機部隊としては,このほか,Vajnoryに航空輸送グループ(LDS)があり,C.445M,W.34,Kl-35D,
Ju-52/3m,Fw-58B,He-111H-10,そして何故か米国製のStinson SR-10C Reliantが配備されてい
ました.
後者は,軍の輸送の一部を担っていたほか,Slovakia航空の民間航空機としても用いられています.

後に,第51輸送飛行隊の任務の殆どは,軍の輸送ではなく政府機関の要務飛行が中心と成っていっており,
軍の戦力としては使用されなくなっていました.

>>424
上記の通り,爆撃機部隊すら少数機でうろちょろしていたので,戦略偵察機部隊はありません.
ただ,後に述べる,薔薇色の未来計画ではその辺,考慮されていたみたいです.

429 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:04/12/19 14:46:52 ID:???
と言う訳で,今回はSlovakia空軍の薔薇色の未来計画について.

色々な増強の結果,1944年7月までに,Slovakia空軍は16個飛行中隊で7個飛行連隊を構成し,更に3個飛行師団を構成する
軍備拡張案が完成する予定でした.

第1飛行師団は,偵察と観測を任務とする師団で,第1飛行連隊を構成している,第1飛行
中隊,第2飛行中隊はFw-189を装備し,第3飛行中隊は偵察型のBf-109の装備が予定さ
れていました.
第1飛行師団に属する第2飛行連隊は戦爆連合で,第21飛行中隊と第21飛行中隊に,
Do-17,Do-215を装備しています.

第2飛行師団は戦闘機師団で,配下の第1飛行連隊に属する第11飛行中隊,第12飛行
中隊にはBf-109を装備し,第2飛行連隊には第13飛行中隊,第14飛行中隊を持ち,前者
はBf-109,後者はBf-109またはBf-110を配備する予定でした.

第3飛行師団は爆撃機師団で,第1爆撃連隊は第31飛行中隊,第32飛行中隊で構成され,
これらの装備機はJu-87,第2爆撃連隊は第41飛行中隊,第42飛行中隊で構成され,これら
の装備機はHe-111,S.M.84になる予定でした.

最後が輸送連隊で,第51飛行中隊,第52飛行中隊,第53飛行中隊で構成され,装備機は,
Ju-52/3mを装備する予定でした.

これらの装備機はいずれもドイツとイタリアに発注し,代金の払い込みまで済ませていましたが,
Slovakia保護国の崩壊で,全然引き渡されませんでした.

430 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:04/12/26 22:30:08 ID:???
とりあえず,今日はお休み.
年末進行で出来れば良いなぁ.

431 : 名無し三等兵[age] 投稿日:04/12/27 02:18:37 ID:???
AM見た?ハンガリー軍の突撃砲大隊だってよスハ゛ラスィー.ただ,掲載
写真が既出杉かな.

432 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:05/01/03 21:28:42 ID:???
1940年にSlovakia空軍(VVZ)の司令部がTrencinに設置されました.
初代司令官には,Jan Ambrus中佐が就任しましたが,彼はCzechoslovakiaの抵抗運動に
加わるために国を出てしまい,以降は陸軍の高級将官が司令官に就任します.

第二代がRudolf Pilfousek中佐,ついでAnton Pulanich中佐(後に少将まで進級),そして
そしてStefan Jurech少将が就任し,最後は1944年8月26日の空軍廃止の日まで,Alojz Ballay大佐
が就いていました.

438 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:05/02/06 23:14:16 ID:???
1942年まで,Slovakia空軍の装備は,以前のCzechoslovakia空軍の装備をそのまま利用するので十分でしたが,
更に大戦が進むと,これでは性能不足になり,1942年以降,1944年までドイツとイタリアからの供給で賄われること
となります.
但し,ドイツからの機材については,フランス戦線で使用して,不要になった機材が主に供給されました.

その機材に関しては,実に様々なものが供給され,型もバラバラで,Slovakia空軍が要求するものにマッチしたとは
とても言えないものでした.

てことで,次回はSlovakiaの航空機メーカーについてちょっくら.

448 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2005/03/21(月) 15:09:36 ID:???
>>446 カワイイ(ぉ

Slovakiaの航空機メーカーと言っても,大したものではありません.
けれども,LetovとAreaがBeckovに工場建設を計画し,1941年にはMrazがChocenに分工場を建設しています.
でもって,Slovakiaの航空機として固有のものとしては,Zdenek Rublicによって設計され,Nitraで製作された機体があります.

この機体は,低翼単葉のZoborIスポーツ機/軽旅行機です.
原型となったのは,Czechoslovakia製のBenes-Mraz Be-555 Superbibiで,これは10機生産され,うち8機がSlovakiaに引き渡されました.
ZoborIは9機が生産され,その全てがOK-SOB~OK-SOJの民間登録記号を付けていましたが,Slovakia政府所管の国民防衛隊練習・連絡
飛行隊に所属することになっていました.
しかし,何故か最後の2機はドイツ空軍に引き渡されてしまいました.

その他の本物の軍用機については,Trencianske Biskupiceにある国営軍用機修理工場で生産が行われようとしていました.
また,PragueのSkoda-Kaubaの主任設計技師だったAustria人のOtto Kaubaが,いくつか製作した試作機の発展型として,ドイツ空軍が採用
した,練習戦闘機Skoda-Kauba SK-257の生産を此処で行おうとしていました.
この機体,最初は,1,000機の生産が目論まれていました.
しかし,後に100機に削減され,最終的にSlovakiaの工場で生産されたのは,僅か5機にしかなりませんでした.

このほか,国営軍用機修理工場では,Ju-87D-5のLicense生産が行われています.
12機のJu-87D-5が此処で生産され,5機がドイツに見本として引き渡されました.
残りの7機がSlovakia空軍に引き渡されましたが,残念ながら,これらは接収されています.

と言うことで,次回は対ソ戦争での鹵獲機の修理などについて

449 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2005/03/21(月) 15:11:27 ID:???
あ,>>448補足.

ドイツに引き渡されたJu-87D-5ですが,軍用機として引き渡されたのではなく,あくまでも
民間ベースの商業輸出として引き渡された様です.
ちなみに,これらのJu-87D-5には,OK-XAA~OK-XAEの民間登録記号が付いていました.

459 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 [ ] 投稿日:2005/04/27(水) 13:10:10 ID:???
さて,偶にはageさして貰います.

>>448の続きで.
Slovakiaは,ロシア戦線に参加して更に戦力になる機材を手に入れる計画を立てます.
具体的には,陸軍中央兵器廠の技術者を派遣軍に帯同させ,捕獲したものの内,役に立つものを見極めさせて,本国に輸送させたのです.

こうして入手した機体には,I-16若干機,I-153若干機,Antonov Ss-6(ロシア製Storch)若干機,Archangelsky SB-3急降下爆撃機1機,
Polikarpov Po-2連絡機1機がありますが,その殆どの機体は本国への鉄道輸送中に破壊され,Slovakiaが手に入れたのは,僅かに
Ss-6連絡機6機,I-153戦闘機1機,Po-2連絡機1機に過ぎませんでした.
特に,一番入手したかったSB-3爆撃機(Slovakiaには当時まともな重爆が無かった)は,修理して本国へ空輸している最中に,Lvovで
離陸中に接触事故を起こしてしまい,修理不能となってしまっていました.

と言うことで軽く保守して,次回から東部戦線に行けたらいいなぁ.

466 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2005/06/05(日) 18:20:23 ID:??? BE:106354229-#
>>465氏
そんな餌でクマーと釣られるわらひがいる(苦笑.

さてさて,東部戦線に陸軍が分け入っていったのと同時に,空軍も又,東部戦線に派遣されます.
東部戦線に先陣として派遣されたのは,Kornel Jancek少佐の第1観測飛行隊の第1飛行中隊(Rudolf Galbavy大尉),
第2飛行中隊(Frantisek Wagner大尉),第3飛行中隊(Belo Kubica大尉)の合計30機のLetov S.328と,
Vladimir Kacka大尉率いる第2戦闘飛行隊の第11~13飛行中隊に所属する,33機全てのAvia B.534戦闘機,そして,
Imrich Kublis大尉率いる連絡飛行隊から,7機のPraga E-39,E-241,各1機のStinson SR-10C Riliantと
Be-555 Superbibiが抽出されました.

独ソ戦勃発以前には,これらの飛行隊は,平時の基地から野戦基地,即ち,Spisska Nova Ves,
Kamenice nad Cirochou,Nizny Sebes,Nizny Hrabovecと言った,東部Slovakia地区に展開しており,
独ソ戦勃発後の7月7日までに,更にUkraine西部地区に歩を進めることとなりました.

けれども,これが意味するところは,Slovakia国土の防空を実質的に無防備にすることに繋がり,
7月1日にはB.534を装備する第11飛行隊はPiestanyに帰還し,航空学校からの特に優秀な3名の
操縦士を加え,これらの戦闘機を用いて,ドイツの兵器製造工場が多く配置されている,Vah渓谷の
防衛戦力の基幹として配置し直されました.

467 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2005/06/05(日) 18:21:17 ID:??? BE:330876678-#
残りの5個飛行隊については,予定通り,Kiev方面へ向かう西部Ukraine地区に展開し,ドイツ軍の
夏期攻勢,秋期攻勢の何れにも参加して成功裏に任務を完了しました.

これらの飛行隊は以下の飛行場に展開して,任務を遂行しています.

第1飛行中隊 → Zagorze,Sambor,Lvov,Rzeszno,Vinnica,Haysin,Berdiczev,Bielaya Cerkev,
            Vasilkov,Mytnica,Bieliki,Nikolayevska,Sofiyevka
第2飛行中隊 → Koniuszki
第3飛行中隊 → Koniuszki,Komarno
第12飛行中隊 → Sambor,Lvov,Proskurov,Bar,Vinnica,Haysin,Berdiczev,Bielaya,Cerkev,
            Gubin,Mytnica,Bileliki,Nikolayevska,Sofiyevka
第13飛行中隊 → Sambor,Lvov,Rzeszno,Czortkov,Yarmolincy,Bar,Tulczyn

では次回は,初期の戦闘の詳細について….

473 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2005/07/03(日) 13:30:24 ID:??? BE:330876487-#
うぐぅ,Hang-upとわ.

>>472 所沢氏
紹介ありまとー御座いますぅ.
後ほどじっくり読んでみまする.

さて,S.328装備の観測飛行隊は,退却するソ連軍部隊に対する攻撃,戦線を越えての偵察飛行,連絡任務に用いられました.
ただ,連絡任務はその装備から見て余り適任ではありませんでしたが.
一方で,1941年8月初めの時点で,Avia B.534装備の戦闘飛行隊は,ドイツ軍のHenschel Hs-126偵察飛行隊である,3.(H)/32,4.(H)/32
と共に,戦線を越えていき,後に,S.328装備の飛行隊が彼らに付いていきました.
戦闘機隊の任務もまた,戦場上空哨戒,地上目標への攻撃が主なもので,対戦闘機任務は余りありませんでした.

この襲撃任務で一番戦果を挙げたのは,Vladimir Kacka率いる第12戦闘飛行隊のAvia B.534戦闘機11機で,Vinnica-Niemirov幹線で行
軍中のソ連軍隊列を襲撃したことで達成されました.
この時には4機の戦闘機が損害を被ったのにも関わらず,敵師団に壊滅的な被害を与えています.

また,第12戦闘飛行隊が,空中での戦果を挙げたのは,1941年7月29日のことで,Josef Palenicek少尉率いる小隊が,15機の"Curtiss"
戦闘機(実際は,I-15かI-153と思われる)と空中戦を行い,数機の損害と引き替えに,1機の"Curtiss"を撃墜した,と言うものでした.

485 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2005/07/31(日) 21:25:48 ID:??? BE:159530639-#
さて,間が開きましたが,>>473よりの続きで….

Avia B.534戦闘機では,不整地での離着陸性能が良いお陰で,少なくとも二人の戦闘機パイロットがソ連の捕虜になることを免れ,いくつか
の冒険譚を作ることになりました.

例えば,1941年7月25日のこと,第13飛行隊のAvia B.534戦闘機3機は,Ladislav Hodro曹長に率いられて,Henschel Hs-126の護衛任務
に就き,Tulczyn近郊を飛行していましたが,この時,ソ連軍の重対空機関砲の射撃を受け,Frantisek Brezina軍曹の機体に命中して,機体
はソ連軍の勢力圏内に不時着してしまいました.
また,二人目のパイロットである,Stefan Martis軍曹の機体も,同じく対空砲火で,主翼と風防に損傷を負いました.

しかし,Martis軍曹は不時着したBrezina軍曹の機体の側に着陸し,Brezina軍曹を乗せると,危険で冒険的な飛行を行い,遂に味方の勢力圏内
にある飛行場に着陸させたのです.

当然,この二人の操縦士が取った行為に対し,当局はこれを賞賛し,それぞれに2級と3級の英雄勲章を与えました.
これは,東部戦線で戦ったSlovakia空軍兵士に対する,最初の叙勲でした.

それから5日後,第12飛行隊のJozef Palenicek少尉率いる6機のAvia B.534戦闘機は,Gradzev近郊を制空と爆撃任務のため,
飛行していました.
この時,Martin Danihelys軍曹の機体が対空放火で損傷し,前線後方の敵勢力圏内に不時着せざるを得ませんでした.
と言うことは,即ち,彼が捕虜になる危険性がありました.
そこで,Gustav Kubovic軍曹と,Jozef Drlicka軍曹の両機が残り,後者がDanihelys軍曹を救うために,彼の機体の側に着陸し,
Drlicka軍曹の機体の主翼上にDanihelys軍曹を乗せたまま,離陸し,彼を安全な場所まで連れて行ったのです.

但し,そうそう上手いことが続くことは無かったり…というので次回.

490 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2005/08/16(火) 15:17:09 ID:??? BE:265883459-#
Slovakia軍の戦闘用航空機の最大の弱点は,燃えやすいことでした.
彼らは,しばしば地上からの対空砲火(幾らかは味方,Slovakia陸軍とかドイツ軍から)により,損傷を受けることがあったのです.

また,特殊なBiBoLi航空ガソリンや補充部品の欠乏に悩まされ,このためにエンジンに特別な改造を施さなければなりませんでした.
これらの要因により,徐々に残存航空機の数を減少させていきました.
さし当たり,第2飛行隊は7月25日の時点でKoniuszki飛行場から,Spisska Nova Vesに引き揚げざるを得なくなり,第1飛行隊,第3飛行隊についても,
その半数を引き揚げてしまいました.

他の飛行隊についても,長期間の派遣から徐々に撤退を行い,8月15日には第13飛行隊がTulczynからPiestanyに撤退し,その2日後には第3飛行隊の
残余の部隊が,NitraからKomarnoに撤退,第1飛行隊の残余の部隊と,第12飛行隊だけは残置され,Kiev正面に進撃する快速師団を支援していました.

つ~こって,次はKievに於ける,第12飛行隊奮戦記について.

501 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2005/09/04(日) 15:07:11 ID:???
ギシュクラ・ヤーノシュ氏来ないかなぁ.
来られたら,結構,解読してくれるんだけど(他力本願.

>>490の続きで,今回は第12飛行隊奮戦記….

さて,1941年9月に入ると,Slovakia空軍の活動は絶頂を迎えます.

最初の半月,第12飛行隊は,Dnieper河の渡河を行うドイツ軍部隊から,Kiev北方60kmに位置するGornostaypolの橋の防衛を任されます.
9月7日,その橋の上空で,10機のAvia B.534戦闘機と,9機のI-16とで空中戦が繰り広げられ,この戦闘では自軍の損害無しで,2機のI-16を
撃墜しました.
翌日,3機のB.534と2機のI-16との空中戦になり,今回は1機のB.534が撃墜されました.
10日,3機のB.534が哨戒中,3機の"I-17"戦闘機(この機体は,最高速度480km/h超,20mmCannon砲を装備した新世代の戦闘機(LaGG-3,
MiG-3などの可能性が高い)と同じ空域で空戦となり,1機のB.534が大破しましたが,2機の"I-17"戦闘機を撃墜しました.

とは言え,これだけの奮戦に,第12飛行隊だけでは手が回らず,実際には,本土から第13飛行隊所属の10機のB.534が分遣されていました.
しかし,これらの機体も戦闘で疲弊し,3機が損失していました.
一方,快速師団を支援する第1観測飛行隊もまた,9月21日までにRudolf Galbavy少佐率いる7機のLetov S.328が最大級の戦果を挙げています.
彼らは,空爆により,Prosev~Sofiyevka~Glikoye~Voronkovを結ぶ線の東方地域において,集結地に集結した800両の車輌を撃破したのです.

こうして,1941年の秋は概ねSlovakia空軍の旧式機材でも有利に過ごすことが出来ました.
次回は,概括などを少々.

505 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2005/09/24(土) 16:37:23 ID:???
1941年秋の終わりに,最初に東部戦線に派遣された機体が引き揚げて来ました.
1941年10月26日には,最後の第1飛行隊(この部隊は僅かに3機のS.328に減少していました)と,
第12飛行隊(同じく4機のB.534戦闘機に減少)が,Sofiyevska基地からTri Duby,Piestanyの
両基地に引き揚げて来ています.

この年の派遣が一応成功裏に終わった背景には,赤軍の総退却と,I-15,I-153,I-16と言った
旧式機で無秩序に構成されたソ連空軍が挙げられます.
1941年7月から10月にかけて活躍したSlovakia空軍の兵士達は,自国の宣伝機関から,"tatranski orli"
(タトラの鷲)という渾名を与えられ,その出撃回数は,東部戦線だけで3,275回を数え,殆ど損害無しに,
I-16を3機,"I-17"を2機,"Curtiss"を1機撃墜しています.

また,Slovakia空軍の操縦士は,対空砲火,敵機との戦闘で,修理が不可能であると明確に判明しない限り,
極力,機体を持って帰ろうとしています.
作戦行動中に帰還に失敗した唯一人の操縦士は,1941年9月21日のJ.Kalisky軍曹だけでした.
Letov S.328を護衛中,Rogozov上空で対空砲火によってまさかの撃墜を喫してしまいました.
しかし,S.328はこれを助けようとせず,結果的に連絡飛行隊が責任を追求されています.

てことで,次回は東部戦線夏の陣.

515 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2005/10/30(日) 22:05:12 ID:??? BE:425412689-#
久々に…>>505以来.

1942年夏,東部戦線駐留Slovakia空軍部隊は機材補充を本国で行いました.
1942年6月13日にUkraineを出発した部隊は,第1観測飛行隊,第11戦闘飛行隊の第一陣で,前者はLetov S.328を6機,
後者はAvia B.534が12機と相変わらずの機体です.

既に両機とも第一線で使えるものではなく,戦線後方でPartisan対策のための警備師団に協力して観測任務を実施する
任務に就くことになりました.
最初,両飛行隊は,Zitomir基地を根拠地にしていましたが,第1小隊(隊長:Frantisek Wagner大尉)では,連絡任務の
他に,対Partisan攻撃任務も追加されました.

これらの飛行隊は,1942年10月までにUkraineに残っていましたが,一旦本隊は本国に帰還し,連絡用の機体として,
第3飛行小隊のS.328残存機,フランス製Caudron C-445M Goelandと米国製Stinson SR-10C Reliantが本国~Ukraine
間またはCrimeaとその後背地との連絡に用いられています.

532 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2005/12/18(日) 21:05:07 ID:??? BE:124079437-
あれから一月経ちました.
で,>>515以来.

第11飛行小隊(Ivan Haluzicky少尉,次いでJan Dulla少尉,最後がMikulas Guljanic大尉)は,
相当長期間,Ukraineに取り残されていました.
この飛行隊は,1942年10月にOvruchに移駐し,1943年3月にはMinskに移駐しますが,相変わ
らず,Partisan相手の作戦飛行と偵察を続けていました.
Slovakia空軍の隊員たちにとって,特にStalingrad戦の後の作戦は殆ど理解しがたいものとなり,
士気は低下し,B.534とS.328の少なくとも2機が脱走したことが報告されています.

これは,また,ドイツ人兵士たちが揶揄する文句,"Partisanen nummer zwei"(Partisanが二人いる)
の理由の一つとなりました.
1943年8月,部隊はMinskからPiestanyに引き揚げています.

536 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/01/02(月) 12:02:04 ID:??? BE:147713055-
1941年秋に,東部戦線の第一線から最後の飛行隊がSlovakiaに引き揚げてから少し経って,
Slovakiaの首都Bratislavaに滞在していた駐留ドイツ空軍司令部に対し,Slovakia空軍は繰り返し
使用機材の更新を依頼していました.
Yak-1,LaGG-3,MiG-1/3と言ったソ連の新型戦闘機が頻々と見かけられるようになり,それが
段々多くなってくるであろうと言う見通しの元,これらソ連新型戦闘機に対抗するためには,少なく
とも1個飛行隊は,現在の機体よりドイツ製の優れた機体に更新し,訓練を積んで,最高の状態に
持って来ておく必要がある,と言う訳です.

その願いは,1942年2月25日に漸く叶えられ,18名のパイロットと,98名(一説には88名)の整備士が,
新型戦闘機,Messerschmitt Bf-109Eの転換教育を受けるため,DenmarkのKarup-Grave基地にある
戦闘機学校に派遣されました.
その指揮官にはSlovakia空軍で最も有能な指揮官である,Ondrej Dumbala大尉(彼は,1941年に早くも
ドイツの二級鉄十字章を授けられた最初のSlovakia人のうちの一人)が任命されました.
厳しい訓練を終えて,1942年7月6日,彼等の殆どは帰国し,第13戦闘飛行隊を編成します.

機材は,1942年から翌年に掛けて,27機のMesserschmitt Bf-109E,内訳は,E-1/B,E-2,E-3,E-7,
E-7/Tropが各2機,残り17機がE-4と言う編成で,何れもドイツ空軍の第一線機材更新によって余剰となった
機体が,Slovakia空軍に引き渡されました.

541 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/01/14(土) 15:05:06 ID:??? BE:212707049-
さて,新鋭機(苦笑)を渡された我らがSlovakiaの面々….

1942年10月27日に,Ondrej Dumbala少佐(昇進した)指揮下の第13戦闘飛行隊の操縦士の面々が,
所謂,第一次転換訓練修了者として,Azov海に面した東部戦線の基地へ向けて,Piestanyから出発
しました.
その展開時点では,7機のBf-109E"Emil"(1機のE-3,5機のE-4,1機のE-7)が参加し,11月に入ると,
更に5機のBf-109Eが供給されました.
1943年7月にJozef Palenicek少佐率いる第二次転換訓練修了者が戦闘任務にとって変わるまで,
東部戦線で戦闘を行っています.

この間,1943年1月5日には,第13戦闘飛行隊はKerchから移動して,Maikop基地に移り,此処から
作戦行動に出ていました.
3月18日にはTaman基地に送られ,4月1日にはAnapa基地,9月に再びTamanに戻り,その後Kerch,
最後はBagerovo基地へと,即ち,独ソ前面の南部戦線で戦闘を繰り広げています.

この頃になると,最早Emilの供給は無くなり,1月5日からBf-109F-3に機種転換され,3月1日には,
更に新しいBf-109G-2が,同じ月の後半から月末に掛けては,ロシアに於ける最後の補給となる
Bf-109G-4が引き渡されていきます.

けれども,これらの機体はSlovakia空軍のものではなく,ドイツ空軍のものを貸与されたもので,その
結果,これらの機体にはバルカンクロイツが塗装されていました.
Slovakia空軍の操縦士が使用していることを示すものは,僅かにプロペラスピナーのカバーに描かれた
Slovakia国旗の色,赤,青,白に過ぎませんでした.

542 : 名無し三等兵 : 投稿日:2006/01/19(木) 11:42:33 ID:???
ニュルンベルク裁判を考察するスレ
ttp://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1137624122/


543 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/01/21(土) 20:25:31 ID:???
さて,続き.

第13戦闘飛行隊は,もはやSlovakia地上軍の支援に用いられることはなく,Otto Dessloch将軍指揮下の第4航空艦隊に
属するJagdgeschwader 52(JG52)の13(Slowkei)Staffel,所謂,13/JG52と称されるようになっています.
この飛行隊は,Crimea半島,Azov海,黒海のあちこちで,中でもKuban近辺で過酷な空中戦を繰り広げていました.
その任務は,迎撃戦闘と爆撃機護衛の両方で,警戒警報で飛び上がったり,地上軍も攻撃したりと正に八面六臂の活躍
でした.
1942年11月28日,Vladimir Krisko少尉と,Josef Jancovic軍曹の2人の乗った2機の"Emil"は,警戒飛行中に9機のI-153
に遭遇し,損害無しでそのうちの3機を撃墜しました.
これがEmilでの初めての戦果でした.
この戦場に出撃していたソ連の航空部隊は,第4,第5前線航空軍で,最初のうち,Slovakia人操縦士達に対して,旧式機
材と経験の浅い操縦士の組合せで立ち向かっていましたが,後になると,その機材は,MiG-3,Yak-1,LaGG-3,La-5,Spitfire,
Airacobra,Pe-2FT,Boston他の機材に更新され,それと共に,操縦士の腕前も上がって,Slovakia人操縦士達は苦戦を免れなく
なりました.

次回は,第13戦闘飛行隊の戦闘総括について.

552 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/02/11(土) 12:40:44 ID:??? BE:82720027-
>>543の続きで.

第13戦闘飛行隊は,東部戦線から引揚げるまでに,凡そ2,000回の作戦飛行を果たし,210回の空戦(他の記録では204回または215回)
に勝利したと考えられています.
一方,操縦士の戦死者は僅か7名…ですが,その中には,Joseph Drlicka軍曹(三級英雄勲章,二級鉄十字章授章者),Jozef Jancovic
軍曹(三級英雄勲章授章者)の様なエースも含まれていました.
また,この飛行隊で最も成功を収めた操縦士は,Jan Reznak上級軍曹で,32機の確実,1機の不確実撃墜を記録し,ドイツ人から彼に対し,
二級鉄十字章,一級鉄十字章,そしてドイツ十字章金章を授与しました.
次いで戦果を挙げたのが,Jan Gerthofer中尉で,27機の確実,5機の不確実撃墜により,2級鉄十字章,1級鉄十字章を授与されています.
また,同じく2位になるのが,Izidor Kovarik軍曹で,29機の確実と1機の不確実撃墜により,2級鉄十字章,1級鉄十字章,黄金騎士戦功十字
章,ドイツ十字章金章を授与されています.

1位,2位と言った順位付けに関しては,ソ連軍機撃墜の数について,未だはっきりした資料がソ連側から示されていないので,未だ変動する
可能性があります.
第13戦闘飛行隊の戦果についても,戦果誤認など様々な理由で誇張していることが明確になっています.
それどころか,戦後に新生Czechoslovakia空軍発足時に参加したSlovakia人達がその戦果(と称されるもの)を声高に主張したこともあり,
正確な数が判りません.
不運なことに,第13戦闘飛行隊に関する活動記録と書類が失われてしまっているため,事実を確かめる術はとても難しい訳です.
けれども,その疑問に対する回答の一つとして,あるドイツ人歴史家が述べた様に,「戦闘機パイロットに関するスロヴァキア人の記録は,ドイツ人の
標準から見ても評価できるものである」と言う賛辞があることも事実です.

第13戦闘飛行隊は,1943年10月末まで東部戦線に留まり,以降,Slovakia本国に引揚げ始めました.
ロシア戦線での最後の勝利は,1943年10月23日,Gustav Lang軍曹によって達成されています.

で,次回は第13戦闘飛行隊の引揚げの要因についていくつかの考察をば.

566 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/03/05(日) 17:11:16 ID:??? BE:70902443-
>>552の続き.

第13戦闘飛行隊がSlovakia本国に呼び戻された理由ですが,主な理由の一つには,
数人の操縦士が,ソ連側に寝返った事が挙げられます.
特に,StalingradとKurskでの第三帝国とその同盟国の大敗北によって,彼等には,
枢軸国側として戦うための意義が見いだせなくなり,戦意を喪失していきました.

1943年9月9日,Kuban上空を哨戒飛行していた2機のBf-109G-4…Anton Matusek軍曹
(彼は僅か1週間前に一級鉄十字章を授与されていた)とLudovit Dobrovodsky軍曹が
操縦していた機体…は,無線でソ連機と衝突したと伝えた後,ソ連側に亡命し,後に
ソ連でLa-5FNの操縦教育を受け,Slovakiaの叛乱での戦闘に参加しています.

また,1943年9月11日には,Alexander Geric軍曹が,Stefan Martis曹長と共にドイツ軍の
Fw-189偵察機を護衛中に戦線を越えてしまい,帰還に失敗したとされました.
実は,彼等は元々の計画で,この偵察機を撃墜する予定でいましたが,その攻撃に失敗
しました.
しかし,Stefan Martis曹長がAnaba着陸後に,ソ連軍機によって攻撃を受けたと報告した上,
Alexander Geric軍曹のBf-109G-4が撃墜されたとしています.
Moscow放送すら,そのGericの撃墜について触れ,撃墜したパイロットは勲記を受けたと
していました.

567 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/03/05(日) 17:12:00 ID:??? BE:206798257-
実際は,Geric軍曹機の胴体内には,無線修理兵のVincent Tkacik一等兵が同乗しており,
彼等は共にソ連の地に亡命していました.
Tkacik一等兵は,ロシア人達にとって未だ秘密の塊だった通信基地設備のエキスパートで,
彼の情報はソ連軍にとっても有用だった様です.

1944年にAlexander Geric軍曹は,諜報任務のためにソ連からSlovakiaに戻ります.
そして,1944年8月29日,彼はPraga E-39で,Illava北方に飛行するため,Piestanyを離陸し
ますが,失敗して死亡しました.

1943年9月11日に発生した事実が発覚すると,遂に,Ferdinand Catlos将軍を第13戦闘飛行
隊の司令に任命し,部隊は,「士気の低下」を撤収の理由としましたが,実際は,Slovakia駐留
ドイツ空軍作戦司令部の命令が下ったためで,10月までにVajnoryに撤収を完了しました.
撤退後は,Emilが5機,Slovakia空軍の所有物として引き渡され,1943年に引き渡されたGustav
は,全機がドイツ空軍で用いられ,失われました.
このため,最新の機体が,新たに飛行隊に供給されています.

568 : 名無し三等兵[] 投稿日:2006/03/07(火) 11:48:56 ID:gFlA2nh2 [1/1回]
ドイツに 東方なんとかっていう部隊あったな
大東亜特務隊 の事ではないよ

569 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/03/12(日) 14:47:30 ID:??? BE:59085825-
>>568
Peter Gosztony氏の「ヒトラーと外国軍」邦訳頗るキホ゛ンヌなんですけどねぇ.
守屋さん忙しいのかしらん.

さて,空軍の撤収は前に書きましたが,陸軍も同時期に東部戦線から撤収しました.

当初,「快速師団」,「保安師団」と言う2個師団編成となっていましたが,度重なる消耗で,
機械化部隊も歩兵師団化されてしまい,名称も,第1,第2歩兵師団となっていました.

こちらも,その撤収までに,総兵力16,000名のうち,前線を去ってソ連側に投降する兵が
続出し,その数は3,000名に達しました.
このため,1943年11月には,残った兵員で,脱落したイタリア軍の装備を接収して,第1,
第2機械化師団に再編成し,本国に戻されました.

こうして,東部戦線からSlovakia軍はいなくなりました.

てことで,キリが良いので,今回は此処まで,次回からは米国相手の本土防空戦について.

570 : 名無し三等兵[age] 投稿日:2006/03/17(金) 12:35:37 ID:???
保守

571 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/03/19(日) 13:02:33 ID:??? BE:88627853-
いかんなぁ,落ちるペースが速くなってる.

さて,今回から対米戦.

1944年からイタリア南部を基地にした第15空軍の空爆標的としてSlovakiaが挙げられるようになります.
Slovakiaの空爆目標には,首都Bratislavaの精油所,Dubovaの石油貯蔵施設,Dubnice nad Vahomその他の
兵器工場があり,Slovakia空軍は,その状況に対する早急な対応をしなければなりませんでした.

東部戦線から撤収後した第13戦闘飛行隊(Vladimir Krisko中尉,彼は東部戦線で9機を撃墜したエース,が
指揮官になりました)は,Vajnoryに基地を置き,1944年2月からはPiestanyに移駐しました.
その任務は,首都Bratislava近辺の拠点防空であり,このため,Emergency Flightと非公式に呼び慣わされる
様になりました.
けれども,その機体は旧式化しており,12人の操縦士に14機の機体が配属されてはいますが,2機のBf-109E-1/B,
1機のE-2,1機のE-3,6機のE-4と,1機のE-7/trop,更に2機のAvia B.534と1機のBk.534だったりします.

その飛行隊の本土防空戦に於ける「初撃墜」は,Danubeに不時着させたもので,1944年3月13日のこと,緊急警報により
出撃した,2機から成る警戒飛行隊のうちの1機,Rudolf Bozik曹長が,ドイツ空軍II/ZG1の「双発機」Bf-110G-2を攻撃し
たものでした.
この駆逐機は,接近してくる2機のEmilをP-51と誤認し,攻撃したので,その結果として,Rudolf Bozikは,これを撃墜し,
後に,「米国の『四発爆撃機』を撃墜した!」と報告した不幸な事故だったりします.

てことで,いよいよ対米戦本番の開始.

572 : 名無し三等兵 : 投稿日:2006/03/20(月) 14:53:32 ID:???
>>571
>不幸な事故

うーむ・・・

573 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/03/21(火) 20:47:42 ID:??? BE:47268342-
>>572氏
そりゃ,攻撃されたら,撃墜しますわな.
ま,「不幸な事故やってん」で済ませられただけ,幸いなところがありましたね.

574 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/03/26(日) 18:44:30 ID:??? BE:236340285-
さて,ポンコツと言っても良い機材で編成された,Slovakia空軍第13戦闘飛行隊ですが,これらの機体は,
漸く,ドイツ本国から供給された14機のBf-109G-6で代替されることになりました.
この部隊は,Wienにある,ドイツ空軍本土防空戦闘機隊の一部隊である,Oberst Gotthard Handrickが指揮
するJG8の配下にある予備部隊としての位置付けをされています.

1944年春にそのBf-109G-6群は,莫大な数の米国爆撃機に対して,毎日の様に迎撃戦闘任務を行っていま
したが,実際は人目に付かずに訓練を実施すると言う名目で,万一戦闘に巻き込まれたとしても,それを回避
することになっていました.
と言うのも,その機体と乗員たちは,来るべきドイツに対する叛乱の為に温存しておくべきだと判断されたから
です.
その叛乱計画は,Slovakia国防相のFerdinand Catlos将軍が陸軍の参謀達と計画していたものとは別個に,
Jan Golian大佐が計画していたものでした.
ですから,BratislavaにいたSlovakia駐留ドイツ空軍作戦本部の将校達は,Slovakia空軍の飛行が消極的だ
と言ってSlovakia空軍の部隊を非難していました.

575 : 名無し三等兵 : 投稿日:2006/03/26(日) 21:08:56 ID:???
反乱の為にグスタフを温存ですか・・・


576 : 名無し三等兵 : 投稿日:2006/03/32(土) 17:16:51 ID:???
保守.

577 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/04/02(日) 21:35:04 ID:??? BE:248157667-
気がついてみれば,このスレが軍板最古参スレだったんですね.
いや,月日の経つのは早いもの.
てことで,今日はお休みです.

578 : 名無し三等兵[] 投稿日:2006/04/05(水) 11:48:42 ID:fwgKlGAR [1/1回]
ガンバレ

579 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/04/09(日) 15:00:04 ID:???
1944年6月26日午前,第13戦闘飛行隊のMesserschmitt Bf-109G-6戦闘機8機が,Wienを目標にした護衛戦闘機隊と強力な
爆撃機隊を迎撃するために離陸しました.
そのSlovakia人操縦士達を率いる指揮官は,その飛行隊の副司令官の職を辞したJuraj Puskar中尉(彼は,東部戦線に配属
され,150回以上の戦闘出撃と5機の確定撃墜を成し遂げた猛者です.)でした.

Juraj Puskar中尉は,第459爆撃機集団のB-24などが,Nove Zamky空域に到達し,西方のBratislavaに向け直進した時に
初めて攻撃命令を下しました.
Gustav Lang曹長がまずB-24を撃墜し,Juraj Puskar中尉とStefan Jambor曹長がそれぞれ1機のB-24に損害を与え,
Rudolf Bozik曹長が1機のB-17に損害を与えました.
けれども,護衛の任に就いていた第52戦闘飛行隊のP-51と第82戦闘飛行隊のP-38が戦闘に介入し,Slovakia戦闘機隊の
少ない機体より遙かに強力な戦力によって,多くの犠牲を支払う羽目になりました.
つまり,僅かな時間で,5機のMesserschmitt Bf-109G-6が破壊され,2機が致命的な損害を受けたのです.
Juraj Puskar中尉,Gustav Lang曹長,Stefan Jambor曹長(少なくとも彼は機体から脱出後,パラシュート降下中に空中で,
P-51に射殺されました)が空中で散華し,Pavol Zelenak曹長は,不時着後,その傷が元で死亡しました.
殺された3人の操縦士たちは,何れも東部戦線で輝かしい軍歴を持ち,Slovakia空軍にとっても至宝と呼ばれる人達で,
Slovakiaの3級英雄勲章やドイツの十字章金章を持つ人もいました.

これにて,実質上,Slovakia空軍に於いて最も成功した飛行隊である第13戦闘飛行隊の戦歴は,装備機の殆どを失った
ことにより事実上終焉を迎え,米軍に対する攻撃も以後遂行出来なくなりました.
従って,その後のドイツに対する叛乱の際には,新型機Gustavは非常に少数の機体が使われたに過ぎませんでした.

てことで,次は大海嘯…じゃなかった,Slovakia国家の崩壊する大寺院(ぉについて.

580 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/04/14(金) 00:18:42 ID:??? BE:248157667-
とりあえず,変な流れになっているので,予防のためにsageカキコ.
来週は無理そうだし.

581 : 名無し三等兵[] 投稿日:2006/04/15(土) 21:51:46 ID:D+3rTzIa [1/1回]
語るならスロバキアよりフィンラント゛でしょう

582 : 名無し三等兵 : 投稿日:2006/04/15(土) 21:56:03 ID:???
スオミは北欧

583 : 名無し三等兵 : 投稿日:2006/04/15(土) 23:16:39 ID:???
フィンランドはかなり語られている.
スロバキアは寡聞にして聞かない.

ので,スロバキア大海嘯,希望.

584 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/04/16(日) 13:04:03 ID:??? BE:372235897-
寝坊した(謎.

1944年春,独ソの前線は,遂にSlovakiaへと到達しました.
これにより,Fascist体制から国の解放を願い,対ドイツ叛乱首脳部は計画を加速します.
まず,Augustin Malar将軍を司令官とし,第1,第2歩兵師団を核に編成された,東部Slovakia軍団が
Slovakiaの東部国境に送られました.
当初計画では,この部隊は35,000名以上で編成され,ドイツ軍北方ウクライナ軍集団を支援して,
Carpathia山脈の防備に用いられる予定でした.
実際は,赤軍が現れると同時に,そっくりそのまま寝返って,国境線を開き,赤軍の指揮下でSlovakia
全土の速やかな占領に協力する予定にしていました.

東部Slovakia軍団の支援航空兵力としては,新編された航空軍集団に委ねられました.
その戦力は,40機の航空機,550名の兵員,57名の操縦士から編成されています.
この小規模な航空隊は,Julius Trnka少佐を隊長に,1944年7月27日から8月3日にかけて東部Slovakia
に配備されました.



585 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/04/16(日) 13:05:21 ID:??? BE:94535982-
編成は以下の通りです.

第1偵察飛行隊(隊長:Rudolf Galbavy大尉)
 ZlinaからPresov近郊のIsla飛行場に移駐.
 装備機:
  Focke-Wolf Fw-189A-2 6機,Praga E-39 2機,Klemm Kl-35D,Fieseler Fi-156C 各1機
第2観測飛行隊(隊長:Jan Fratric中尉)
 Spisska Nova VessからHrabovec飛行場に移駐.
 装備機:
  Letov S.328 12機,Klemm Kl-35D 2機,Praga E-39,Focke-Wolf Fw-58B,Fieseler Fi-156C 各1機
第12戦闘飛行隊(隊長:Jozef Palenicek大尉)
 Spisska Nova VessからNizny Hrabovec飛行場に移駐.
 装備機:
  Avia B.534 5機,Avia Bk.534,Praga E-39,Fieseler Fi-156C-1 各1機
 この飛行隊には後に,1944年7月26日の米軍との空戦で壊滅したPiestanyの第13戦闘飛行隊から,
 Messerschmitt Bf-109G-6が4機,Islaに移駐し,補強戦力として配備されています.

このほか,航空軍集団には,3機のLetov S.328と,3機のJunkers Ju-87D-5がPopradとSpisska Nova Ves
に補充され,予備戦力となりました.
こうしてSlovakia空軍に於いて,航空軍集団は最高の機材を持つことになり,残ったのは,実質上戦闘に
耐えない旧式機が残るだけとなりました.

609 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/05/07(日) 15:56:09 ID:??? BE:212706566-
さて,>>585の続き.

抵抗運動を準備し,それを成功ならしめる為にも,軍首脳と高位の政治家の双方が人を出して,ソ連政府と赤軍高位レベルと接触し,軍,特に空軍の支援を
仰ぐ必要がありました.
1944年8月3日,LS-SVZの一部である青年航空学校の指導教官であったLudovit Koza大尉の操縦するHeinkel He-111H-10がTri DubyからVinnicaに向けて
飛び立ちました.
この機体には,彼ら乗員とは別に,2名の高位高官が乗っており,彼等を無事にソ連側に派遣しています.

2日後,Mikulas Lisicky少佐とその乗員が操縦するFocke-Wolf Fw-58Bが,ソ連中央軍のロシア人と非合法のSlovakia国家委員会の委員2名をSlovakiaに
迎え入れる為に,Mokrad'からChortkovに向けて飛行しました.
1944年9月4日,この頃には既に叛乱が開始されていましたが,Viliam Grun中尉が操縦するSavoia-Marchetti S.M.84輸送機が,Partisanの指揮官と軍の代表
を乗せて,Mokrad'からKievに向けて飛行しました.

このほかの機体も屡々,ソ連側との連絡に用いられています.
Focke-Wolf Fw-189A-2がTrencianske Biskupiceより,Junkers W.34がPopradより,Klemm Kl-35DがPresovより,各々連絡飛行に携わっていました.

さて,次回は愈,叛乱に至る過程をば….

622 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/05/21(日) 15:01:00 ID:??? BE:372235897-
>>609の続き.
一方,現実主義的なドイツ人達は,東部Slovakia軍の叛乱の失敗を冷徹に見ていました.

それ故に1944年8月末,"Kartoffelernte mit Praemie"作戦…Enno von Rintelen大佐指揮の突撃隊と,
後方警備部隊から構成された第531戦闘団が,第24機甲軍の支援を受け,Slovakia軍の抑留と武装
解除を実施したのです.
その結果,僅か2,000名程度の兵士たちがその追及の手を逃れるに過ぎず,彼等は随時Slovakiaの中央
部に移動していくことになりました.

このドイツ軍の対応から,Slovakiaの作戦計画は大きな影響を受け,その結果,Slovakia空軍の兵士の
大多数も,1944年8月31日早朝にIsla飛行場からソ連への亡命飛行を選択します.
その企てで,26機の航空機,その内訳は残存したLetov S.328が7機,Focke-Wolf Fw-189A-2が6機,
Avia B.534が3機,Messerschmitt Bf-109G-6が2機,Klemm Kl-35Dが2機,Bk.534,Fi-156C,Fw-58B,
Fw-44,E-39,W.34がそれぞれ1機となっています.
これらに搭乗した81名の空軍兵士達は,Livov周辺に飛行しますが,このうちの何機かは,第15親衛"Stalingrad"
前線戦闘航空軍の戦闘機や対空砲火で失われています.
この大脱走の結果,Slovakia空軍は優秀な人員と機材を失うことになりました.

ただ,不幸にも,一部の空軍兵士達には叛乱が別の方法で知らされ,Slovakia中央との連絡も絶たれ,
Banska Bystrica基地とTri Duby基地の機体は1944年8月29日の時点で総て破壊されてしまいます.
このため,Tri Duby基地には航空軍集団の機体が展開し,大規模増強が図られることとなりました.

630 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/06/04(日) 12:38:24 ID:??? BE:147713055-
>>622の続きだから,今回から叛乱.

1944年8月29日,ドイツ軍は宛にならないSlovakia保護国の直接統治域のいくつかを占領下に置きました.
同時期,Slovakia陸軍は,連合国の一部であるCzechoslovakia陸軍の一部であることを宣言し,ドイツ軍に対する抵抗戦に入ります.
叛乱した陸軍は,1944年10月には5万の兵士と7,000のPartisanで構成され,Jan Golian大佐(後,准将)と,後に彼の後を継いで,師団
長だったRudolf Viest将軍が就任します.
なお,Viest将軍はCzechoslovakia併合後,Londonに亡命し,Moscowを経て着任しました.

てことで,次回は空軍の動きなぞ.

631 : 名無し三等兵[] 投稿日:2006/06/10(土) 13:08:15 ID:kMKG0fH+ [1/1回]
懲りずにほしゅ

632 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/06/11(日) 12:56:32 ID:??? BE:70902162-
さて,叛乱空軍は,ZvolenとBanska Bystricaの間に位置するTri Dubyに集中配備していました.

それまでこの基地は,青年航空学校,整備学校,操縦学校と言った航空関係の学校から来た生徒を,Slovakia空軍兵として
訓練する空軍飛行学校が設置されていた場所でした.
可能な限り,Slovakia空軍兵士(偶にはその乗機も含んで)達は,Vajnory,Piestany,Trecinなどの残存Slovakia空軍基地から
この基地めがけて集まって来ました.
それに加えて,残置されたMokradの航空補給部隊,また,Popradの第41爆撃飛行隊から,叛乱初日の占領ドイツ軍に対する作戦
任務に従事した後,Tri Dubyに移動したLetov S-328が数機…元々,これらは混成航空団の機体,但し,この機体は既に用途廃棄
になっていた旧式機でしたが…増加しました.

こうして増えた混成航空団の構成は,Messerschmitt Bf-109E-4が2機(但し,弾薬は欠乏している),Avia B.534が4機,Letov S.328
が7機,Savoia-Marchetti S.M.84bisが2機,同S.M.84が1機,Focke-Wolf Fw-58Cが2機,Junkers Ju-52/3mが2機,Caudron C.445M
が2機,Junkers W.34が2機,Klemm Kl-35Dが2機,Praga E-39が6機.
このほか,操縦訓練学校のFocke-Wolf Fw-44,Heinkel He-72,Gotha Go-145も加わっています.

こんな状態であるため,混成航空団は1944年9月初旬から,以前航空戦闘団の基地にあったMesserschmitt Bf-109G-6を2機,
Letov S.328を2機,Focke-Wolf Fw-189A-2を1機,それぞれ整備の上,ソ連を通じて引き渡して貰っています.
それでも,いくつかの機体は,弾薬と予備部品の欠乏で早々に失われ,それ故に,機体は少数であり,戦闘に必ずしも適切な
戦力投入が出来ませんでした.

633 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/06/11(日) 12:57:15 ID:??? BE:70902634-
>>632の続き.

混成航空団の指揮官は,Miklas Singlovic中尉(後にVladimir Krisko中尉)で,彼の下に,25名の操縦士と12名の機上偵察員,
そして,12名以上の地上要員から成っていました.
また,彼等に混じって,旧Yugoslaviaの2人の操縦士が所属していました.
1人は,Arsenije Bolievic少佐(Yugoslavia王国空軍第34戦闘飛行隊)とSavo Poljanec大尉(同国空軍第161戦闘飛行隊)の2人
ですが,彼等はドイツ軍の捕虜収容所を脱走して:,Slovakiaに入ったところで,叛乱に遭い,彼の国の空軍に身を投じたものです.
なお,叛乱空軍の総司令官は,Jozef Toth大佐でした.

634 : 名無し三等兵 : 投稿日:2006/06/15(木) 11:41:00 ID:???
保守

635 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/06/18(日) 13:03:14 ID:???
来週は多分ミリ.

叛乱初日から,混成航空団は基地周辺を防禦しつつ,ドイツ占領軍に対する攻撃,
宣伝ビラの散布,安全な連絡手段の提供,包囲された味方への補給などを行って
いました.
これらの任務は,主にS.328,B.534,Bf-109G-6が担っていました.
混成航空団の航空機は,戦闘中に損傷を負ったり,時には乗員が怪我をした状態で
帰還することも屡々でした.
その整備士達は,これらの機体を維持し続けるために戦闘による損傷を修復するのに
一生懸命に働き続けました.
また,彼等は夜間の間中ずっと,ソ連軍の輸送機であるLisnov Li-2やDouglas C-47
から補給品や武器をTri Duby基地に荷下ろしする任務に就かなければなりませんでした.

他の航空兵や飛行学生達は,凡そ1,200名に達しましたが,彼等に行き渡るくらいの機体が
十分に無く,歩兵部隊としてドイツ軍相手に勇敢に戦いました.
これらの歩兵部隊は,3つの歩兵大隊…これらは,Ivan Haluzicky大尉,Daniel Kunic大尉,Teodor Slajchart大尉の
3名の士官の指揮下にありました…と,3つの歩兵中隊…これらは,Mikael Minka中尉,Juraj Mesko中尉,Jan Zubrik
中尉が指揮していました…で構成されていました.
ちなみに,彼等の部隊のことをドイツ人達は,「青い悪魔」と呼んでいました.

つことで,次回はドイツ部隊の反撃編.

636 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/06/25(日) 16:56:07 ID:??? BE:94537128-
本日はやっぱ,ミリタ゛ターよ.

637 : 名無し三等兵 : 投稿日:2006/06/27(火) 23:44:03 ID:???
保守

638 : 名無し三等兵 : 投稿日:2006/07/01(土) 05:44:04 ID:???
重巡ヴラド・ドラクルを従える超弩級戦艦フニャディ・ヤーノシュ・・・

639 : 名無し三等兵[] 投稿日:2006/07/01(土) 06:50:04 ID:4m86llKt [1/1回]
age

640 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/07/02(日) 15:02:32 ID:??? BE:378144588-
>>635の続き.

ドイツ空軍は,屡々好機を見て,Tri Duby基地に空襲を掛け,その機能を破壊しようと試みました.
この結果,4機のS.328,2機のS.M.84bis,2機のFw-58C,1機のBf-109E-4と1機のBf-109G-6,そしてその他の若干の機体が,
その空襲で完全に破壊されました.
また,部隊は特に地上要員に犠牲が出ましたが,基地機能は維持されました.

さて,叛乱軍にとって初勝利となったのが,1944年9月2日にAvia B.534でFoncardaに於て,Frantisek Cyprich上級軍曹が撃墜した
マジャール空軍のJu-52/3mでした.
これは複葉固定脚の機体での最後の勝利獲得でした.
混成航空団はこの叛乱中,350回の作戦任務をこなし,6機の撃墜(3機のFw-189,2機のJu-88,1機のJu-52/3m)と3機の地上
撃破(3機のJu-87)を果たしています.
これらの対航空機戦に加え,叛乱軍とドイツ軍が対峙する前線に於て,多くの戦闘車両や装備の破壊と損傷を果たしています.

それと引換に彼等自身も又,操縦士の内,2名が死亡,2名が重傷を負い,基地への空襲で多数の地上要員を失いました.
混成航空団の中で最も戦功を上げたのは,Rudolf Bozik曹長で,彼はBf-109G-6を駆ってFw-189を2機,Ju-88を1機撃墜しました.
彼の戦果は,従って,ドイツ,ソ連,アメリカの各国空軍で構成されていることになります.

でもって,次は叛乱軍の悩みとか.

652 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/07/30(日) 13:28:59 ID:??? BE:82720027-2BP(18)
>>640の続き

このSlovakia叛乱の期間中,空軍は困難な立場に追い込まれています.

その理由の一端は,1944年7月1日にMoscow北東350kmのIvanovo飛行場で編成された,第1チェコスロヴァキア戦闘機連隊が,
ソ連から派遣されてくることにありました.
その連隊は,以前,英国空軍に参戦していた20名の戦闘機操縦士達で編成され,彼等は義勇兵として東部戦線に参戦していた
ものでした.
彼等はRussiaの地で,更に2人のSlovakia人,1943年9月9日にBf-109G-4を駆ってソ連側へ脱走し,ソ連戦闘機の飛行訓練を
受けていた,元第13戦闘飛行隊所属のAnton Matusek曹長とLudorvit Dobrovodsky一等軍曹を組込ます.

1944年9月17日,連隊は,Zvolen近郊のZolna飛行場で,新品のLavochkin La-5FNを21機受け取り,後に,Tri Dubyからの作戦
に参加することになりました.
この精鋭飛行隊は,直ちに前線に参加することを宣言し,混成航空隊は短い勝利の後に,その要員の休息と,保有航空機の修理
の時間を与えてくれたのです.
既に9月18日の時点で,連隊の8機の機体が,Piestanyのドイツ空軍基地に対する攻撃を行い,6機の機体を地上で破壊し,自らの
損害はゼロと言う戦果を挙げました.
その後,9月20日には,Slovakiaにある別のドイツ空軍基地,Malacky-Novyを破壊する,米国陸軍航空隊第15空軍の空襲に参加し,
米軍と共同で27機を破壊しています.
このため,ドイツ空軍は,Poland南部に配備していた,第77地上襲撃航空団とマジャール北部に配備していた第52戦闘航空団を
この叛乱に投入せざるを得なくなりました.

653 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/07/30(日) 13:29:50 ID:??? BE:106354229-2BP(18)
この戦闘飛行連隊は,のべつ幕無しに,多くの作戦に参加しました.

爆弾を搭載して地上部隊を支援したり,叛乱軍の航空基地上空の防空なども実施しています.
これらの活動期間中,573回の戦闘飛行任務に就き,13機を撃墜(Bf-109を4機,Fi-156を3機,Fw-189とFw-190をそれぞれ2機
ずつ,Ju-87とJu-88をそれぞれ1機ずつ)し,多くの機体と地上設備を地上で破壊しました.
この中で最も戦果を挙げたのは,チェコ人のLeopord Srom准尉で,彼は,3機のBf-109,1機のFw-189と1機のFi-156を撃墜して
います.

反面,彼等の損害は,10機の航空機が破壊され,そのうち3人の操縦士が死亡,1人が捕虜となり,4人が不時着して負傷しました.
この損害の総ては,地上からの対空砲火に依るものでした.

てことで,次回は,ソ連の支援について.

661 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/08/20(日) 13:59:02 ID:??? BE:147713055-2BP(18)
とりあえず,パソの調子と悪金は回避できた.

>>653の続きで.

ソ連側もこの叛乱に手を差し伸べています.
武器や軍需物資の運搬には,主に第4親衛爆撃航空師団"Bryansk"のNorthAmerican B-25 Mitchell
が投入されました.

こうした物資は,1944年9月4~5日の夜間にTri Duby飛行場に,同じく1944年9月21~22日夜間からは,
BreznoとHronom近郊のRohozna補助飛行場にそれぞれパラシュートで投下されました.
これらのMitchell爆撃機は,1944年10月27日までに498回の投下を行い,うち352回が成功,そして,253t
に及ぶ武器,弾薬,火薬を叛乱軍に届け,その間に1機を失っただけでした.

同時に,ソ連長距離空軍第5航空軍"Orel"の第53航空師団"Stalingrad",第54航空師団"Orel"所属の
Douglas C-47とLisnov Li-2もまた,物資や人員の輸送にあたりました.
天候が許す限り,これらの機体は,Tri Dubyに向けて軍需物資を輸送すると共に,Slovakia陸軍からの
脱走兵とCzechの亡命兵で構成され,ソ連国内で編成された第2Czechoslovakia空挺師団の2000名程度
の兵員も援軍として送り込んでいます.
このほか,Lavochkaの第1飛行連隊は航空燃料を運搬し,帰りに傷ついた兵士,女性,子供たちの脱出を
助け,ドイツによる叛乱鎮圧前には,Slovakia所有の準備金をRussiaに運搬しています.
1944年9月26~27日の夜間から叛乱鎮圧までの間,第5航空軍"Orel"は,701回の飛行を行い,うち354回
が成功,その輸送で,385tの武器,弾薬,軍需物資と1,928人の兵士が輸送され,698名の人々と,20.3tの
物資がソ連側に輸送されました.
失われた機体は,Douglas C-47が6機,Lisnov Li-2が8機を数え,最後の飛行は,1944年10月24~25日の
夜間飛行でした.

てことで,一週おいて,次は米国の間接支援.

671 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/09/03(日) 22:27:48 ID:??? BE:236340858-2BP(18)
>>661の続きで….

1944年6~8月に掛けて,Slovakia上空で,ドイツ空軍本土防衛戦闘機隊と,米国陸軍航空隊第15空軍との間で幾度の戦闘があり,
米陸軍航空隊は,13機のB-24,2機のB-17,2機のP-38,1機のP-51を喪失しました.
ドイツ軍はこれら撃墜機から脱出した米軍の乗員を捕獲し,Ferdinand Catlos将軍指揮下のPerzinok近郊にあるGrinavaの捕虜収容
所に収容していました.
1944年9月1~2日の叛乱に際し,其処のSlovakia軍監視兵は捕虜収容所を脱走し,叛乱の中心地,Banska Bystricaに向かいますが,
その時,収容されていた米陸軍航空隊の兵士26名も彼らに合流して脱走しています.

てことで,次回は,米軍とOSSの暗躍について若干.

675 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/09/16(土) 17:09:27 ID:??? BE:289517077-2BP(18)
そろそろ地底奥深くだから偶にageんと拙いだろうか.

>>671より.
1944年9月17日,Tri Dubyから米陸軍航空隊の脱走兵達をItalyに輸送するため,
ItaliaのBariから第15空軍第483爆撃航空隊のB-17が2機,派遣されてきました.
そのアメリカ人達は,10時頃,Slovakiaの地に降り立ったのです.
また,護衛には,以前Slovakia空軍を鎧袖一触に蹴散らした第52戦闘飛行隊所属の
41機のP-51Bが動員され,B-17とこれらのP-51Bは,行きに8tの武器弾薬と,OSSの
特殊部隊隊員6名を同乗させていました.

このうち護衛機の1機,Ethan Smith中尉の機体は基地上空を低空で飛びすぎて,地面
に接触して墜落してしまいました.
彼の機体は破壊されますが,彼は大怪我をしてZvolenの病院に入院し,一命を取り留め
ます.
更に,その後間も無く,Alexander Watkins中尉の機体も又,エンジン故障で不時着しました.
彼の機体はそのまま放置して,中尉はB-17に乗り込み,13時15分に両機は無事,Bariに着陸
しました.

で,更に米軍の捕虜引取り飛行は続く.

681 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/10/01(日) 13:50:11 ID:??? BE:206798257-2BP(18)
久々に…>>675より.

1944年10月7日には,再びBariから第52戦闘飛行隊所属の32機のP-51Bに護衛された,
第483爆撃航空隊のB-17Gが6機,他に撃墜された米軍航空隊の飛行兵達を回収する為
に叛乱軍の占領地に派遣されました.
このB-17Gには16tに及ぶ武器弾薬と共に,20名の米国OSSと,英国SOEに属する特殊部隊
兵士達も搭載していました.
これらの機体の帰りには,20名の米国人飛行兵と,Londonに赴くSlovakiaの政府及び軍の
代表3名が搭乗しています.
この荷物の積み卸しと,彼らの搭乗手続きが進む間,Mustangと第1戦闘機連隊に属する
La-5が,上空を哨戒飛行していました.
この時の米国側の護衛戦闘機隊指揮官は,Charles Boedeker大尉でしたが,彼はドイツ
空軍のFw-190が機銃掃射の為に基地に接近するのを見逃してしまいます.
結果的に,Czech側の航空機に搭乗していた,Frantisek Sticka准尉が軽い怪我をしただけで
済みましたが….

てことで,次回はドイツの動きなんぞ.

688 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/10/15(日) 15:05:52 ID:??? BE:35451623-2BP(18)
>>681の続き.

空では連合国の協力で或る程度制空権を握っていましたが,地上の第一線では,当然のことながらドイツ軍の方が優勢で,叛乱軍は,その支配地域を徐々に減少
させていきました.
天候が悪化すると言うことは,連合国との空の架け橋が途切れることを意味する,つまり,安定した補給が受けられなくなり,航空機の地上支援活動も出来なくなる
ことを意味します.
しかも,そのことは,叛乱軍の終末がより早く訪れることを意味するのです.
こうした理由で,混成飛行隊が失った航空機は,ソ連からの同型機供給で補充を受けることになりました.
同じく,歩兵として戦っていた航空隊の要員を,ソ連赤軍の指導の下,新しい飛行隊を編成する計画で,ソ連後方に送ることも出来なく
なりました.

1944年10月25日,ドイツ軍のSchill戦闘団は,Zvolenに到達し,Tri Duby飛行場から,避難をしなければならなくなりました.
撤収先まで飛ぶことが出来ない不要な航空機には火が付けられて破壊され,午後には,第1Czechoslovakia戦闘飛行隊のLa-5FNの
生き残り11機と,混成飛行隊のGustav Kubonic曹長の操縦するBf-109G-6が1機,Fw-189A-2が1機,S-328が1機,W.34が1機,この
飛行場を飛び立ち,ソ連の前線に向けて飛行しました.
しかし,Kubonic曹長の操縦するBf-109G-6と,Anton Matusek軍曹の操縦するLa-5FNは,Dukla Pass通過時にドイツ軍の高射砲に捉え
られて撃墜され,Kubonic曹長は戦死,Matusek軍曹は民間人に保護され,助けられました.

残りの機体は,UkrainaとRumaniaの赤軍支配地に逃れ,赤軍の保護の下,新たに戦争に参加することになりました.
飛行機に乗ることの出来なかった空軍の残りの人々は,叛乱後の弾圧の中,或る者は田舎に逃れ,或る者は陸軍の叛乱部隊と共に,
Tatra山脈に逃れて,Partisanとして闘いを繰り広げ,1944~45年の冬をそうして過ごし,1945年春に赤軍によって解放されることになります.

てことで,叛乱の項は終わり,次回は終章として赤軍に逃れたSlovakia空軍について.

708 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/11/19(日) 21:58:37 ID:??? BE:378144588-2BP(18)
1944年8月31日の時点で,ソ連側占領地に越境したSlovakia空軍の面々は,その後方で編成され,戦闘を繰り広げつつあった
第1Czech混成航空師団に加入することになりました.

彼らの再教育は,1944年9月24日から,ソ連空軍の第41訓練飛行隊で開始し,彼らは其処に配備されたIl-2,La-5,Yak-1そし
て,Yak-7で飛行訓練を受けています.
この第41訓練飛行隊は,10月13日にCzechoslovakia訓練センターと名称を変更し,司令にはCzechoslovakia戦闘飛行隊の副官
であるJan Klan大尉が就任しました.

その再教育はかなり徹底的なもので,非常に経験を積んだ戦闘機パイロット12人にはLavochikin La-5FNを使用した転換訓練,
また,14人7組のパイロットと銃手に対しては,Ilyushin Il-2地上攻撃機が宛がわれることになっていました.
これらは10月15日に叛乱軍支援で前線から戻す予定だったものです.
けれども,これらの機体は前線から戻りませんでした.
丁度,前線を撤収するこの頃から前線の天候が急変し,悪化したため,前線に足止めされてしまったものです.

それでも,Czechoslovakia戦闘飛行隊と混成航空団は,叛乱の終息までには,順次引き揚げを行い,10月末に
は全機ソ連占領地への引き揚げを完了させることが出来ました.

719 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/12/17(日) 14:19:48 ID:??? BE:425412689-2BP(19)
>>708の続き,久々に….

1944年10月29日,Czechoslovakia亡命政府軍のLudvik Budin中佐は,ソ連国内にある全てのCzechoslovakia航空隊を統括する
司令官に任命されました.
そして,配下の航空隊は,ソ連空軍の第2前線航空軍の司令官,S.A.Krasovskyi将軍麾下となり,それらは,La-5FNを装備する
2個戦闘飛行隊,Il-2を装備する1個地上攻撃飛行隊,Pe-2FTを装備する1個爆撃飛行隊で構成された混成航空隊でした.
この飛行師団は,以前,Ludvik Svoboda准将麾下にあった第1Czechoslovakia陸軍航空隊に属していた部隊です.

なお,本土解放の進行に伴い,1944年の末までに,ソ連の前線後方で提供されていた乗員養成のための基地は返還を促され,
訓練機材の提供は中止されました.
この影響で,爆撃飛行隊用の要員が不足し,爆撃飛行師団の編成は見送りとなり,地上攻撃飛行師団用のIl-2についても,
整備員とその機関銃手が不足していましたが,後者については,ソ連兵を補充することで解決を図っています.

こうした要員の教育は,比較的ゆっくりと進められました.
その要因として信じられているのは,教育をするのに不利な悪天候,教育用航空機の不足,また,Slovakiaの操縦士の飛行
技術が,前線で働くには不十分だった事が挙げられています.
少なくとも彼らの殆どは,以前旧式複葉機に搭乗していた人々であり,そこから最新鋭航空機にステップアップすることは
非常にハードルが高く,その結果,多くの航空事故を経験していたからでした.

722 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/12/29(金) 16:05:37 ID:???
>>719から…年内に完結できるか.

第1Czechoslovakia混成航空団は,公式には1945年1月25日に編成されました.
この航空団は,ソ連赤軍第8前線航空軍のN.V.Zdanov将軍指揮の下にありました.
この航空団を編成している飛行要員のうち,70%はSlovakia人で占められていました.
また,その航空団の司令官代理業務も行っており,それには,Julius Trnka少佐,次いでMikulas Lisicky少佐が就任していました.
その航空団に属する,第1戦闘機連隊は,Ludovit Koza大尉が連隊長に就任し,また航空団参謀を兼ね,第3飛行隊は,Jozef Kolembus大尉が
掌握しています.
第2戦闘機連隊は,Ivan Haluzicky大尉が指揮を執り,隷下の第2飛行隊は,Ladislav Stasik少尉が指揮を受け持っていました.
第3地上攻撃連隊は,Mikulas Guljanic大尉が指揮し,隊長代理として,Frantisek Wagner中尉がおり,参謀兼3つの飛行隊の隊長として,
Osvald Fencl,Jozeff Niznansky,Miclas Singlovicの各大尉が就任していました.

723 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/12/30(土) 13:48:59 ID:??? BE:70902443-2BP(19)
1945年2月20日,第1と第3連隊は,前線にほど近いIwonicz飛行場に進出していました.
その間,第2連隊は装備機が無かったので,引き続き,Przemyslに有った赤軍第41訓練飛行連隊の機材で,訓練を重ねていました.
この連隊の装備機は結局戦争に間に合わず,1945年4月末に漸く,新型のLavochkin La-7が引き渡されました.

前線が更に進んで,Katowiseでの訓練が完了した後,第1,第3連隊は,1945年4月13日に,前線から僅か20kmの地点に設置されたPoremba飛行場に移動します.
翌日からOstravaでの作戦行動に参加し,両方とも地上作戦支援に乗り出します.
Lavochkinによって護衛されたShtrumovikが,Ostrava,Opava,Tesinの各地区に於て,ドイツ軍の中央軍集団の各部隊や補給網に対する攻撃に参加しました.

1945年4月から5月にかけて,第1Czechoslovakia混成飛行師団は,567回の作戦飛行を実施し,90tの爆弾を投下し,600発以上のRS-82ロケット弾を発射,多くの
軍事施設を破壊しています.
Shtrumovikが行った空中戦闘は4回で,Fw-190を1機撃墜しています.
(撃墜したのは,第3連隊に所属する後部銃手で,以前,英国空軍の亡命Czechoslovakia人部隊である第311sqn.のCzech人空中勤務者となっていた,
Richard Husman曹長)
また,戦闘機同士の空中戦では,第1連隊が1機のBf-109,1機のFw-190に損傷を与えた代わり,2機のLavochkinが失われています.
第1連隊の操縦士で唯一の戦死者は,Michal Minka少尉で,彼は1945年4月20日にLa-5FNに乗って戦闘飛行に出撃する際,地上に駐機していた
Shtrumovikに激突して,機体を破壊した時に死亡しました.

このほか,第3連隊では,地上対空砲火により,5機が失われ,2人の乗員が死亡しました.
別の乗員は,作戦飛行に出る際に,別のShtrumovikに接触して機体を破壊しています.
他の機体の何機かも,大なり小なり対空砲火による損傷を受けています.

724 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/12/30(土) 13:49:40 ID:??? BE:47268724-2BP(19)
第二次大戦を通じて最後に戦死したSlovakia人操縦士は,1945年4月28日にWodzislaw近郊で
Shtrumovikに搭乗中,撃墜されたJarolim Gucman曹長でした.

師団としての最後の作戦飛行は,1945年5月2日に行ったIl-2攻撃機7機による,Tesin鉄道駅の
攻撃でした.
1945年5月10日,第1混成Czechoslovakia航空師団は,解放されたCzechoslovakiaにある
Albrechticky飛行場に集まり始め,5月18~25日にかけてPrague-Letnany飛行場に移駐しています.

これらの機体は以下の通りです.
 師団司令部:Polikarpov Po-2連絡機4機,Focke-Wolf Fw-58Weihe1機.
 第1戦闘機連隊:Lavochkin La-5FN戦闘機22機,La-7戦闘機13機,La-5UTI練習機2機,
            Polikarpov Po-2連絡機1機
 第2戦闘機連隊:Lavochkin La-7戦闘機41機,La-5FN戦闘機4機,La-5UTI練習機2機,
            Polikarpov Po-2連絡機1機,Junkers W.34連絡機1機
 第3地上攻撃連隊:Ilyushin Il-2攻撃機24機,Il-2UTI練習機2機,Polikarpov Po-2連絡機1機

1945年6月1日,これらの機体はCzechoslovakia大統領Edvard Benesの閲兵に参加するため,
Letnaey飛行場を飛び立ちます.
6月20日に,この部隊は今まで指揮下に入っていた赤軍から独立した部隊となりました.
8月1日には,第1Czechoslovakia混成航空団は,Czechoslovakia空軍第4飛行師団となり,多くの
メンバーの出身地であるSlovakiaのTrancianske Biskupice,PiestanyとTri Dubyに移動しました.

725 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/12/30(土) 13:51:44 ID:??? BE:23634522-2BP(19)
こうしてSlovakiaは消滅した…政治的にも軍事的にも…のですが,その空軍に対する興味やら,
注目すべき事象やらが有りすぎており,それは非常に起伏のあるものです.
一方,第二次大戦での彼らの行動というのは常に論争の種に成ってしまいます.
彼らは,マジャールを筆頭に,Poland,ソ連,米国,そして,ドイツ軍とも戦いました.
けれども,同じように第二次大戦を戦ったPoland,France,英国,ソ連,Czechoslovakia各国空軍
の方が目立っています.
それは,不名誉なSlovakia保護国のあった6年間を無きものとしたいと言う動きがあり,また,この
時代のことを思い出したくないと言うのもあったのかもしれません.

と言うことで,Slovakia空軍一代記完結.

軍事板,2004/10/31
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

443 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:05/03/01 00:41:52 ID:???
閑話休題.

1933年,ベルリンでオートショーが開催された.
これには,その年の1月に政権を獲得したHitlerがやって来た.

彼は他の車には目もくれず,真っ直ぐにタトラのスタンドに向かった.

そこで,彼は主任設計者のHans Ledwinkaに出会い,彼が遊説を繰り広げた際,
タトラ・ツインという車で,100万キロメートルも走り回ったことを話したという.

そして,彼はLedwinkaの開発している空冷V8RR駆動の新型タトラについて,熱心に
質問し,その夜,Ledwinkaは再度Hitlerに呼ばれ,10時過ぎまで,新型車に関する
説明を求められた.

最後に別れる時,Hitlerはドイツが生産する新しい国産車は,タトラのような強い空冷
にすべきだ,と言ったと言う.

Porscheの国民車構想の最初の基本設計は1933年暮れ,次の詳細な提言は,1934年
1月に行われ,その後のPorsche-Hitler会談で,Volkswagenの誕生につながっていくの
であるが,Volkswagenの試作車が1938年のWolfsburg工場起工式で,Hitlerの横に置か
れた時,Porscheの下には,タトラ社からの10項目に渡るパテント侵害の通告が来ていた.

それには,シャーシの構造,トランスミッションのギアボックスレイアウト,冷却空気のダクト
方式などなどがそのままそっくり取り入れられていた.

その後のチェコ併合でタトラの訴えはうやむやになりましたが.

軍事板,2005/03/01
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

463 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2005/05/21(土) 17:20:08 ID:???
Slovakiaは,ドイツがソ連に侵攻した1941年6月22日に参戦した最初の衛星国の一つでした.

Slovakiaはまず,Rudolf Pilfousek大佐指揮の2,000名からなる快速グループ(1941年7月に5,000名で編成された快速旅団
に格上げ)と,Ferdinand Catlos将軍指揮下の50,000名以上の兵力を以て侵攻軍を編成しています.
この50,000名の兵力のうち,35,000名は,8月には自国の農産物収穫のために,復員させています.
こうして,Slovakia陸軍は再編成されますが,快速旅団は,Jozef Turanec砲兵大佐(後,将軍)指揮の下,8,000名に拡張され,
快速師団となり,陸軍本隊は,Augstin Malar大佐(後,将軍)率いる,8,000名から成る警備師団となっています.

快速師団は,Slovakia陸軍でも優秀な装備を優先的に割り当てられ,最も近代的で,最も機械化された部隊でした.
また,警備師団は,快速師団の後方で,その補給路を守っていました.
これらの師団は,ドイツの南方軍集団に属し,Livov,Kiev,Rostov経由でCaucasusにまで足跡を印しています.

軍事板,2005/05/21
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

474 : 名無し三等兵 : 投稿日:2005/07/03(日) 19:32:15 ID:???
東欧じゃないけど,ロシア派遣イタリア軍(第8軍)とロシア派遣スペイン義勇軍(青師団)の
戦歴と装備した兵器が知りたいですね.
あまり詳しく載っている本とかありませんし.

475 : 名無し三等兵[sage ] 投稿日:2005/07/03(日) 22:57:03 ID:???
>>474 Ospleyには確か青師団本があった.
マカロニは記憶にないけど,個人戦記なら,「雪の中の軍曹」つー正真正銘の傑作があるよ.

476 : 名無し三等兵 : 投稿日:2005/07/04(月) 00:37:35 ID:???
青師団はいったいどこで戦っていたのだろうか?独ソ戦の資料見ても「青師団が
義勇軍として参戦した・・・」.とあるだけで詳しい戦歴は皆無.
やっぱりマイナーか.
>>475
日本語訳で発売して欲しいものだが・・・
イタリア第8軍に関してはL3/35とL6/40とセモベンテ自走砲が2種類ぐらい配備されたとかだったかな?
装備された戦車は実はたったの4種類しかないのですかね.

477 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 [] 投稿日:2005/07/09(土) 18:58:12 ID:ydzoVvr2 BE:141804746-# [1/1回]
閑話休題.
この前の別スレ崩壊に懲りて,一旦ageます.

>>474
Romania経由でUkraine方面に進撃しています.
装甲兵力としては,第3騎兵師団(第3軽機械化師団)に属する,第67ベルサリエリ装甲大隊所属の
L6/40軽戦車と,1個中隊のセモベンテL40 47/32,それに少数のL3 カルロベローチェも有ったそうな.

しかし,1942年冬にDon川戦線,Stalingrad北方で壊滅的な打撃を受け,結果的に1943年初めには
本国に呼び戻されたそうです.

空軍に於いては,ロシア方面特別航空兵団が編成され,ドイツの第4航空軍傘下で活動しました.
その兵力は,22°Gruppo C.T.のM.C.200が51機,61°Gruppo O.A.のCa-311が22機,S.M.81が11機を基幹とし,
M.C.200はKrivoy Rogから作戦していました.
初撃墜は展開初日で,SB-2bisとI-16の戦爆連合の大編隊を迎撃し,6機の爆撃機と2機の戦闘機を撃墜して
います.

後に,B.R.20,Z.1007が追加され,1942年からは,M.C.202が参加,激しい戦闘を繰り広げましたが,指揮官が
戦死,兵団も地上軍の敗退に伴って1943年に引き揚げました.

青師団ではないけど,スペインの空軍義勇兵は,中隊規模でJG57に所属して,1941~44年初期まで,交代制
で合計4個中隊が東部戦線で戦っていますね.

478 : 名無し三等兵 : 投稿日:2005/07/09(土) 19:23:45 ID:???
>>477
そう言えばイタリア降伏後も東部戦線に残ったイタリア軍部隊が少数存在して
ドイツ軍の指揮下で戦ったとか.空軍もSM.81がドイツ軍への輸送機として活躍したらしい.
青師団の本国帰国後もやっぱり一部の部隊は残ったようだ.

それはそうとロシア派遣イタリア軍にM11/39やM13/40は無かったのでしょうかね?
あとスペイン空軍義勇兵はやっぱりBf109装備でしょうか?

479 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2005/07/09(土) 20:35:55 ID:??? BE:236340858-#
>>478
T34を鹵獲して用いたと言う話もありますが,主力戦車の殆どが北アフリカと本土に
持って行かれたので,結局は数の多かった軽戦車を送ったみたいです.
でも,セモベンテを送っているのだから,主力戦車M13/40系列を送っていたのかも
しれませんね.

青師団は,兵力18,000名で,1941年7月25日にドイツ国防軍第250歩兵師団として,
東部戦線に出撃しました.
しかし,1943年10月に戦線を離れるまでに,12,776名の犠牲者を出したそうです.
ちなみに,スペイン出発時は同国陸軍の制服を着用していたのですが,前線では
ドイツ国防軍の制服を着て戦っていました.
なので,ドイツ国防軍の戦史に紛れ込んでいるのではないか,と思いますです.

あと,空軍義勇兵は,当初Bf-109でしたが,後にFw-190に乗り換えたみたいです.

480 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2005/07/09(土) 21:01:12 ID:??? BE:106352892-#
で,書いた後に資料が出てくる,と(苦笑.

第3"Amedeo d'Aosta"軽機械化騎兵師団は,1942年4月に第3騎兵師団を改編し,機械化したもので,
1942年12月当時の編成は,師団司令部,第213自動車化師団司令部警護小隊,第874自動車化師団
司令部警護小隊,第3"Savoia"竜騎兵連隊,第5"Nobara"槍騎兵連隊(配下に第5"San Giorgio"槍騎兵
戦車大隊,第5,第6槍騎兵大隊),第3自転車化軽歩兵連隊(第18,20,47,103自転車化軽歩兵大隊),
第6自転車化軽歩兵連隊(第6,13,19自転車化軽歩兵大隊),第3"Principe Amedeo Duca d'Aosta"機動
野砲兵連隊,第120自動車化野戦砲兵連隊(第13自動車化対戦車大隊),第99自動車化迫撃砲大隊,
第103自動車化通信中隊,第105自動車化工兵中隊,第73自動車化衛生中隊(第159,837野戦病院,第26
治療隊)で構成されていました.

なお,対戦車大隊にはM35 47mm対戦車砲,迫撃砲大隊には,M27/31 81.5mm迫撃砲が装備されていた様です.

前身の第3騎兵師団は,1940年6月,北部のヴェネト州第45ベローナ軍管区のベローナ衛戍地で編成され,
アルプス軍団に配属され,ユーゴ戦に参加,後,第8軍イタリア派遣軍団(後の第29軍団)に配属され,1941年
8月からドイツ南方軍集団と共に転戦,1942年4月にハリコフ方面に侵攻し,12月のスターリングラード救出作戦
支援の際,ドン川付近の戦闘に参加,部隊は甚大な損害を受け,1943年3月にイタリア北部,エミーリャ・ロマーニャ
州の第6ボローニャ軍管区,ピアチェンツァ駐屯地に移動し,8月にボローニャ駐屯地に移転し,再編を完了,9月15日に
ドイツ軍の武装解除を受け,解隊となっています.

481 : 名無し三等兵 : 投稿日:2005/07/10(日) 01:24:25 ID:???
>>474 青師団
1941年7月20日ニュルンベルク軍管区にて編成
262、263、269歩兵連隊、250砲兵連隊(3個砲兵大隊10.5cm野砲と1個砲兵大隊15cm砲を装備)
250戦車猟兵大隊(3個中隊、3.7cmPak装備)250偵察大隊(2個オートバイ中隊)
250通信大隊(2個中隊)250工兵大隊(3個中隊)等々

1941年8月20日中央軍集団、第9軍に配属、東部戦線へ参戦、26日にヴィテブスクへ進撃
10月10日北方軍集団、第16軍に転属、以後ノヴゴロド、イリメリ湖周辺、ヴォルホフ、レニングラード包囲に出撃
特に1943年2~3月のクラスニボルでソ連43、45、63、72、4個師団に対して前線を守り切った.

1943年10月7日青師団は解隊、ほとんどはクリスマスまでにスペインへ帰国するも
一部の兵士はドイツ121歩兵師団にて1944年1月でもエストニア戦線で戦闘を続行
1944年3月にスペインに全員帰国.

1941年、718名戦死、1612名負傷、86名行方不明
1942年、1252名戦死、2777名負傷、3名行方不明
1943年、1964名戦死4077名負傷、237名行方不明
他に1941年-1944年の間に484名が捕虜になった.

他にも空軍義勇兵、海軍義勇兵(掃海艇に乗艦)が有名だがソ連側にも
スペイン内戦後の亡命者による歩兵部隊や戦闘機パイロットがいた.

軍事板,2005/07/03
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

521 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2005/11/13(日) 21:03:51 ID:??? BE:141804746-#
とりあえず,質問スレで出てたので此処にて補足.

東欧に於いて,枢軸側で戦ったのは,ブルガリア,ルーマニア,マジャール,スロヴァキア,クロアチア,
アルバニアの各国.
上まぁ,このうち,アルバニアは,イタリア王国に併合されたのに等しいので,書くことはないわけですが….

でもって,スロヴァキア,クロアチアは,分離前の国,即ち前者はチェコ,後者はユーゴスラヴィアの軍備
の一部を引き継いでいます.

スロヴァキアの場合は,解体時にスロヴァキア国内にあった,第3機械化師団の装備をそのまま接収し,
LT Vz.35軽戦車を50両と,OA vz.30装甲車を20両程度を中核に発足しています.
LT Vz.38軽戦車は,チェコ軍向けのもの10両を順次引き渡され,更に27両をCKD社に新規発注し,ラトビア
向けでその国の消滅に伴い,引き渡されなかったLT Vz.40軽戦車を21両買い上げました.
1943年までにこれらの装備は順次,ドイツから供給された中古のLT Vz.38を37両と,OA vz.30の後継として
II号戦車(A~Cの初期型の中古),主力戦車として,III号戦車,自走砲としてマーダーIIIHが発注されますが,
1944年に起きたスロヴァキアの叛乱で軍隊は解体されました.
ちなみに,対戦車砲としては,シュコダの37mm砲が装備されています.

527 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2005/11/27(日) 23:50:08 ID:???
あうあう,貧乏暇無しでやんす.

閑話休題.

1937年版の児童百科事典というのを手に入れますた.

この中から,東欧関係の記述引用.

1.ポーランド
 (1)兵役制度
  ポーランドは東を不倶戴天の仇敵関係で世界赤化を国是とするソ連に,西にはVersailles条約に不服,
  国境改訂を強調し,再軍備宣言を行ったドイツに挟まれているため,国を保つには一切を犠牲にして国防
  に努力せねばならず,3,000万の人口に対し,27万の常備軍を有し,その陸軍費は国家予算の半ば近くを
  占める.
  兵役制度は徴兵制度を採用し,壮丁年齢は20歳,予備役は40歳,後備役は50歳とし,兵役期間は一般兵
  2年,騎兵,騎砲兵2年1ヶ月.
 (2)兵力と編制
  上述の通り,総兵力27万人で,このほか,準軍隊の(装備は寧ろ国軍に勝る)国境警備隊が約3万,警察隊
  は32,000,税関監視隊が約5,600ある.
  陸軍の編制は,軍団管区司令部が10,歩兵師団30個,3個旅団で編制された騎兵師団1個,独立騎兵旅団が
  12個,野砲兵連隊が30個,特殊砲兵連隊が20個,飛行旅団3個,飛行連隊6個,戦車連隊1個.
 (3)化学戦
  化学戦については,小規模ながら完備し,研究,教育,特に国民に対する瓦斯防禦教育は注目に値する.
  軍部の施設としては,陸軍省兵器局内化学戦課の下に軍用化学研究所があり,その下に化学戦学校と,瓦斯
  教導学校がある.
  民間施設としては,航空化学戦防護協会があり,会員数40万,国民瓦斯防護教育車輌(鉄道車輌)が約10両と,
  同自動車約数十両で,毎年瓦斯防護週間を設け,民衆教育の普及徹底に努めている.

528 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2005/11/27(日) 23:59:18 ID:???
2. オーストリア
 平和条約によって,その軍備を将校以下3万人に規制されていたが,その後密かに禁を破り,これを38,000に増加した.
 1935年,ドイツの再軍備宣言に刺激されて,従来の6個混成旅団を,7個師団,機械化師団1個と航空機300機に編制を変え,
 なおかつ,総兵力も7万人にすべく拡大中.
4. ブルガリア
 この国も同様に平和条約による軍備制限国で,全兵力上限が2万である.
5. その他の諸国
 ルーマニア:総兵力17万人
 ユーゴスラヴィア:総兵力12万人
 ギリシャ:総兵力6.5万人
 トルコ:総兵力14万人
 チェコスロヴァキア:総兵力17万人
 リトアニア:総兵力1,9000人
 ラトヴィア:総兵力25,000人
 エストニア:総兵力15,000人

眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 軍事板,2005/11/13
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

555 : 名無し三等兵 : 投稿日:2006/02/14(火) 16:24:36 ID:???
あいや,チェトニクは結果として共闘しているけれど,元々王党派じゃないですか.
そういう連中じゃなくて,戦前のセルビアでアレクサデル王やパヴレ公の様な連中ではなく
真性ファシズム的な団体は存在したのかな,と思って.

556 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/02/15(水) 23:16:39 ID:??? BE:106352892-
>>555
う~ん,勢力は弱いです.
一応,1931年の内閣で法相だった,ディミトリェ・リョティッチ率いるファシスト団体,「協同体主義者連合」は
ありましたが,選挙で殆ど支持を得られていません(全得票数の0.8%).

次いで,1930年代の半ばの政治危機で登場したのが,ミラン・ストヤディノヴィッチで,彼の率いるユーゴス
ラヴ急進同盟(JRZ)が1938年頃からファシズムに傾斜していっています.
こちらはリョティッチの様に埋没することなく,権力を握っており,彼自身,首相を務めています.

しかし,ドイツに過度に依存しすぎたことによって,国民の支持を失い,更に非セルビア人のと対立してパヴレ
公に解任されてしまい,パヴレ公が前面に出た訳で.

軍事板,2006/02/15(水)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

589 : 名無し三等兵 : 投稿日:2006/04/17(月) 18:58:12 ID:???
ここでする話ではないかもしれないのですけれど,
軍事板FAQのブルガリア海軍の項を読んでいて,疑問に思った点があります.
1930年代に取得した「S2」級の魚雷艇4隻「F1」~「F4」というのは,
ドイツ海軍で「S2」~「S5」という呼称だった艇そのものですか?

実は,スペイン海軍について調べているのですが,
その中で,「S1」~「S6」が,フラン狐軍に譲渡されているという話を見つけたのです.
うち「S2」級の4隻は,1936年11月頃~1939年2月に引き渡され,
旧「S2」の「Falange」は内戦中に喪失.
残りは「LT11」~「LT13」として,内戦後まで使われて,1946年頃に除籍というのですが.

参考
オスプレイの「ドイツ海軍のEボート 1939‐1945」
ロシア語のサイトから,ttp://www.almanacwhf.ru/?no=8&art=10

590 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/04/17(月) 23:52:14 ID:??? BE:106353836-
>>589
ん~,誤訳ですねぇ(苦笑.
確かにSpainにS1~6が引き渡されています.

でもって,1940年に二代目のS1が引き渡され,1943年に二代目のS2~S5
が引き渡されています.

二代目のS1は,本来Bulgaria海軍のF5となるべきものだったのですが,
戦争勃発と共にドイツに売却され,これが二代目S1としてドイツ海軍に
就役しました.

S2~S4については,S2がVelebit,S3がDinara,S4がTriglav,S5がRudnik,
何れもYugoslavia海軍が,1936~39年に掛けてLurssenで建造したSボート
で,1941年にItalyに接収され,1943年のItaly降伏で自沈したものを引揚げ
たり,捕獲したものです.

ど~こで電波を受信したんだろ.

591 : 名無し三等兵 : 投稿日:2006/04/18(火) 00:31:52 ID:???
初代
S1:独→西
S2~S5:独→西

二代
S1:(ブルガリアF5)→独
S2~S5:ユーゴ(Velebit他)→伊→独

で,別にF1~F4(初代S2級)は,ブルガリアに無事直行ということでしょうか.
ややこしくて,東欧らしい気がしますw

軍事板,2006/04/17(月)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

617 : 消印所沢 ◆z3kTlzXTZk : 投稿日:2006/05/17(水) 01:16:06 ID:???
 ユダヤ人問題を調べていて見つけた,戦時中の日本とポーランドの諜報協力について.



 情報分野での日本とポーランドの協力は,20年代初頭に始まっており,
濃淡の差はあったものの,戦争終了まで続いた.

 1930年代半ば以降,日本は東欧の状況に鑑み,パリ,ベルリン,
ワルシャワの大使館武官部を教化してソ連情報を収集することになった.
 日本はポーランドの協力の下,ヨーロッパ北東部をカヴァーする情報網を
築き上げた.
 その中心はストックホルムにあり,中心人物は小野寺信武官だった.
アメリカのヒレル・レヴィンが,「ヨーロッパ抜群の情報専門家」と呼んだ
男である.

 この情報機関の指令により,杉原千畝はカウナスに領事館を開設した.
ドイツがケーニヒスベルクの日本領事館開設に同意しなかったための
代替地だった.
 杉原が受けた訓令は,ドイツ軍がソ連に侵攻するか否かを探れという
ものだった.

 外務省では,杉原はヘルシンキで短期間,公使代理の職にあった他は,
単なる書記官・翻訳官に過ぎなかったため,当初この人事に首を傾げた.
 他方参謀本部は,カウナスでの情報活動をできるだけ目立たない形で
進めることを要求していたので,外務省としても上級職の外交官を派遣する
ことには抵抗があった.

618 : 消印所沢 ◆z3kTlzXTZk : 投稿日:2006/05/17(水) 01:17:06 ID:???
 杉原は周到に関係を築き上げていたので,すぐ情報活動を始めることが
できた.前の赴任地,ヘルシンキでポーランドの地下運動関係者とのコネを
作り上げていたのである.
 その中にヤン・ペレツ少尉ことスタニスワフ・ダスキエヴィッツと,
ボレスワフ・ロツイキがいた.2人はミヒャル・リュビオコフスキイこと
R大佐の秘密グループに属していた.
 R大佐はポーランドの軍情報機関の指導的人物で,杉原の貴重な
情報提供者となる.
 彼に近い連絡役は,ジェルジ・クンセヴィッツ大尉こと
アルフォンス・ヤクビアニッチ,別名クーバで,これも杉原の任務にとって
重要な人物となる.
 杉原は領事の地位を利用して,彼らに日本や満州国の旅券を発給してこれに
報い,後には通過査証を発給して,ポーランド系ユダヤ人の逃走を可能にする
こととなる.
 ポーランドの情報機関にとっては,杉原に軍事情報を供与する見返りとして,
日本の外交ルートでロンドンの亡命政府との安定した連絡を確保することが
重要だった.

 しかし,カウナスの領事館は1940/4/29閉鎖.
 杉原は1941年9月,プラハに赴任.
 その後の1941/3/6,彼はケーニヒスベルクに着任.
 両地での主たる任務も,ドイツ軍とソ連軍の動向を探ることだった.
 杉原はここでもポーランド情報機関と協力した.
 その何人かは彼の仲介で,ベルリンの満州国大使館または日本大使館から
満州国の,時には日本の旅券まで手に入れた.
 ゲシュタポは,彼らから見ると胡散臭い杉原の同行を観察していたが,手が
出せるわけではなかった.
 しかしドイツ側にとっては,ポーランドのスパイが日本に
協力しているだけでなく,敵国であるイギリスにあるポーランドの
亡命政権にも情報を送っていることが気に入らなかった.

619 : 消印所沢 ◆z3kTlzXTZk : 投稿日:2006/05/17(水) 01:18:26 ID:???

 ケーニヒスベルクはナチスの牙城だった.
 東プロイセンの首都であるこの街の市長は,SSの北東地域本部長でも
あったが,カウナスの公使館から杉原についての情報を入手していた.
 彼は,杉原が情報活動をしていることにつき外務省に抗議したが,
杉原のほうは1941年6月初め,とっくにドイツ軍の大規模な集中と
物資輸送について東京に報告済みだった.

 6/22,バルバロッサ作戦開始.
 ポーランド協力者は定期的に領事館を訪れ,最新情報をもたらす.
 しかし外務省は,これら情報には懐疑的だった.
 戦争が進むにつれて,杉原の行動の自由も狭められる.ゲシュタポは,彼は
外交官であるよりはスパイだと見ており,追い出そうとする.
 翌年9月,東部戦線の状況のために領事館は閉鎖され,ドイツ側は目的を
達する.

 なお,1941年12月以降,形式的には日本はポーランドと戦争状態に
あったにも関わらず,複数のポーランドの暗号専門家が終戦まで関東軍に
勤務していた.

 詳しくは,H. E. マウル著「日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか」
(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.135-136, 140-142, 151-153を参照されたし.

621 : 名無し三等兵 : 投稿日:2006/05/20(土) 23:34:03 ID:???
>>617
小野寺武官については奥様の小野寺百合子さんが著書を
書いています.
「バルト海のほとりにて」

諜報活動が良く判ります.

軍事板,2006/05/17(水)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

693 : 名無し三等兵 : 投稿日:2006/10/25(水) 16:07:35 ID:???
アビアB35.1
アビアB35.2

という模型が出ます.
1938年初飛行,チェコスロバキア初の低翼単葉戦闘機との事.
液冷エンジンの固定脚・・・駄作機かな?

694 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2006/10/29(日) 09:56:37 ID:??? BE:165438274-2BP(18)
>>693氏
昔,CzechのKPから1/72でプラモが出ていました.
すんごく作りにくかった覚えが….

機体自体は,1938年初頭からB.534の後継機として設計が行われたもので,最初のB.35/1はB.534の単葉化から
発展したものです.
なので,最初の試作機は固定脚でした.

機構的にも引込脚は複雑ですし,構造も簡単で,重量も引込機構の無い分軽くできる,と.
胴体は鋼管骨組で,前半はジュラルミン張り,後半は羽布張り,主翼は木製で,ジュラルミンと木を接着した合板
で作られています.
この構造はB.534と全く同じで,B.534に比べると,Hispano-Suiza12Yシリーズでもモーターカノンを付けた12Ycrsを
装備しています.

まずこの習作による試作試験を経て,離着陸性能改善の為の補助翼と大型フラップを取り付けたのが,B.35-2.
ちなみに,Aviaの機体は先ずベースとなる機体を開発し,それを徐々に改善していくと言う手法が多いです.

そして,1939年8月に初飛行したのが,本格的な戦闘機型で,これが本命のB.35-3です.
こいつは,固定脚から引込脚に代わったのが最大の改良点.
で,更に主翼近辺を中心に改良を加え,より実用的にしたのがB.135.

この機体は,Bulgaria空軍の戦闘機として12機が輸出され,1941年に引き渡されています.
Bulgariaは同時にLicenceも購入し,部品図がBulgaria国立航空機工場に引き渡されましたが,大戦の進展で,
ドイツ機が供与されたため,生産は中止となり,この機体の開発も中止されています.
Bulgaria空軍の機体は,配備後,本土防空用の迎撃機となり,Rumaniaの油田を空襲しに来た米国陸軍航空隊
の爆撃機と激しい戦闘を繰り広げています.

軍事板,2006/10/29(日)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

732 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2007/01/14(日) 16:27:52 ID:??? BE:141804364-2BP(19)
さて,今回から,I.A.R.80の話…なんだけど,Poland語の難解さに早くも腰が引けてたり(笑.
たったこれっぽっちの文章を訳すのに3時間ですもん.

てこと,先ずは概説から.

1930年代までに欧州諸国では,経済や軍事が大きく発展していました.
Romaniaも例外ではなかったのですが,第一次大戦で得た領土が大きくなり,周辺諸国との
紛争の火種となっていたため,特に潜在的な軍事的な脅威に対抗して,独自の航空兵力整備
が必要になりました.

1925年に,早くも,Romaniaに航空会社,I.A.R.(Industrial Aeronautica Romania)が航空機の
ライセンス生産を始めるために創設されます.

これは同時に,海外から航空機を輸入することに伴う,機材ならびに部品の供給が絶たれない
様にすると言うリスクマネジメントの結果でもあります.
こうして,同盟を組んでいたFranceの示唆により,その仲介を受け,同じくFranceの影響下に
あったPolandから,50機のP.Z.L.11b戦闘機を導入することになりました.
この戦闘機に装備するエンジンは,FranceのGnome-Rhoneのものを装備することとなります.

この戦闘機は,1933年からRomaniaの工場からDeliveryされ始めています.
但し,実際にはエンジンの生産が遅れ,これらの機体は,Franceから供給を受けたGnome-Rhone
エンジンを装備した機体が部隊に引き渡されることになりました.
また,重要部品もPolandから供給され,それをRomania側で組立てただけだったりします.

てことで,次回は,その生産発展について.

733 : 名無し三等兵 : 投稿日:2007/01/15(月) 11:53:43 ID:???
I.A.R.80 キタ━ヽ( ・鷹・)人(・檻・)人(・牛・)人(・猫・)人(・鴎・)人(・鷲・)人(・公・ )ノ━!!!!
ありがたや.

734 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2007/01/21(日) 14:21:39 ID:??? BE:189072184-2BP(19)
>>732の続き.偏頭痛が酷くて,ワンセンテンスだけの翻訳也.

1934年,パリの戦闘機設計ビューローでは,国営航空機工場(P.Z.L.)向けにP.Z.L.P.11cを
原型とした輸出型の開発に着手します.
これは,Romaniaからの要請で行われたもので,当時,同国で生産中だったP.Z.L,P.11bの
代替となるものでした.
1935年,Brasovの工場では,P.11戦闘機のコンポーネントを使って,P.11fと呼ばれる一つの
型の量産化に成功しました.

741 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2007/02/04(日) 17:21:12 ID:??? BE:372236279-2BP(19)
>>734より…しかし,一回書いたのに,不調で再度書き直さなければならないとは鬱.
てことで,今回もワンセンテンス.

1936年から,Fortelor Aeriene Regal ale Romania(F.A.R.R.),即ち,Romania王国空軍では,新型でかつ有力な主力戦闘機として,P.Z.L.P.11
戦闘機を装備することになりました.
結局の所,空軍は100%では無いにせよ,そこそこ満足行く性能の機体を手に入れた訳です.
其処で,P.Z.L.としては,更なる発注を期待して,首都Bucharestにて,新型機P.Z.L.P.24試作機のデモ飛行を実施することにしました.
このデモ飛行は功を奏し,Romania王国空軍は,この機体に十分な能力があることを認め,6機の量産型P.Z.L.P.24E戦闘機の購入契約と,
ライセンス生産契約の締結を行うことになりました.

774 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2007/02/18(日) 15:34:48 ID:??? BE:165438847-2BP(19)
>>741より流れぶった切ってスマソ.

同時に,Romania王国空軍と航空大臣は,I.A.R.の航空機工場に対し,世界標準の航空機生産
ノウハウの学習と,機体製作についての学習を行うことを指示しました.
後者の目標に向けて,全国から航空機技師,on Grosu,Ion Coseveanu,Gheorge Zotta,そして,
Gheorge Vallnerらを召集することになりました.

彼らは簡単でかつ,比較的安易な方法で,ライセンス生産を行っている機体を基に,そのP.Z.L.P.24E
の部品とライセンス生産されているエンジンを改修して,新しい機体を作り出そうとします.
つまりそれは,困難抜きで,完成度の高い航空機を製作しようと言うものです.
但し,この機体については,元々の機体構造に加え,新たに引込脚を採用することになりました.

785 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 投稿日:2007/03/11(日) 18:16:03 ID:??? BE:70902162-2BP(19)
>>774より.

後にI.A.R.80として知られることになる航空機の開発は,1937年10月から開始されました.
それは,P.24から操縦室や後部胴体,内部装備品を流用するものでした.
このプロジェクトに於て,試作機を作り上げるには60,000時間を費やしました.
試作機の最初の金属製部品は,その年の12月に完成し,1938年早春に可成りの部分が完成します.

金属部品はライセンス生産工場から供給され,IAR80の最低限の飛行に必要な部品を払い出しています.
胴体の構造部材は,鋼管を溶接したものから構成され,それにジュラルミンの金属カバーを貼り付けたもの.
そして,動力系統は,ポーランド製戦闘機の余剰部品を取り付けました.

軍事板,2007/01/14(日)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

831 : 名無し三等兵[] 投稿日:2007/06/10(日) 23:46:32 ID:ZgsJplyX [1/1回]
*クロアチア軍編成(41.11.1-43.4.30)
・第1軍団(Sisak)
第1歩兵師団(第1、2、11歩兵連隊、第1、2砲兵大隊)
第2歩兵師団(第3、12、15歩兵連隊、第8、10砲兵大隊)
サ゛ク゛レフ゛騎兵連隊
第1オートハ゛イ大隊
第3工兵大隊
・第2軍団(Slavonski-Brod)
第3歩兵師団(第4、6歩兵連隊、第3、4砲兵大隊)
第4歩兵師団(第5、8、10歩兵連隊、第6、7砲兵大隊)
ハ゛ニャルカ旅団(第10歩兵連隊、第1突撃大隊、第8砲兵大隊)
スリェム旅団(第5front大隊、第2、4工兵大隊)
・第3軍団(Sarajevo)
第5歩兵師団(第7、9歩兵連隊、第5砲兵大隊)
第6歩兵師団(第13、14歩兵連隊、第9砲兵大隊)
第1山岳兵師団(第1~4山岳兵大隊)
第1~4front大隊
第1~18鉄道警備大隊

832 : 名無し三等兵 : 投稿日:2007/06/11(月) 14:10:54 ID:???
>>831
どういう装備だったんでしょうか.
ドイツがマトモな兵器を廻したとは思えないしなあ・・・

833 : 名無し三等兵[] 投稿日:2007/06/11(月) 19:18:06 ID:PpyPFLP7 [1/4回]
>>832
自分の持ってるのは編成が中心で装備まではわかりません

>>831に追加
ト゛イツ系クロアチア人部隊
‘フ°リンツ・オイケ゛ン’大隊
‘ルト゛ウ゛ィーク・フォン・ハ゛ーテ゛ン’大隊
‘ケ゛ネラール・ラウト゛ン’大隊
‘エマヌエル・ハ゛イエルン’大隊
計4個大隊はト゛イツ軍武装親衛隊の制服・記章を採用し、シルミアとスラウ゛ォニアで軍事行動
中であったが、1943年4月にト゛イツ武装親衛隊‘フ°リンツ・オイケ゛ン’SS山岳兵師団に吸収統合された
また同年同月に非ト゛イツ系のクロアチア人で編成されたクロアチア第1、2狙撃兵大隊が同師団
に吸収統合されました
《‘フ°リンツ・オイケ゛ン’SS山岳兵師団の編成について》
1942年10月時点
定数19000(主にハ゛ナート、ルーマニア、クロアチアで不法に徴兵されたト゛イツ系で編成)
・2個山岳兵連隊
・1個山岳砲兵連隊
・1個偵察大隊
・1個工兵大隊
・1個通信大隊
・1個軽戦車中隊(仏ホチキスH-38軽戦車)
・1個フィーセ゛ラー偵察機スコート゛ロン(空軍より配属)
同師団は同時期、セルヒ゛アで軍事行動中

834 : 名無し三等兵[] 投稿日:2007/06/11(月) 21:26:15 ID:PpyPFLP7 [2/4回]
*クロアチア軍編成(43.5.1)
・第1軍団(Zagreb)
第1山岳兵旅団(第1、5山岳兵連隊、第11/3、6砲兵大隊)
第3山岳兵旅団(第3、11山岳兵連隊、第3/2砲兵大隊)
第4山岳兵旅団(第4、8山岳兵連隊、第1、12砲兵大隊)
第2狙撃兵旅団(第1、10狙撃兵連隊、第4、8砲兵大隊)
第1警備旅団(4個大隊)
第2警備旅団(5個大隊)
第3警備旅団(3個大隊)
第4警備旅団(3個大隊)
Zagreb警備旅団(3個大隊)
第1補充旅団(Pokuplje、Kvarner、Velebit連隊、Istrian防衛連隊)
Zenica旅団
第1装甲車大隊
・第2軍団(Slavonski-Brod)
第1狙撃兵旅団(第4狙撃兵連隊、第5、16砲兵大隊)
第3狙撃兵旅団(第5、8狙撃兵連隊、第7、18砲兵大隊)
第4狙撃兵旅団(第7、13狙撃兵連隊、第6/11、22砲兵大隊)
第5警備旅団(4個大隊)
第6警備旅団(5個大隊)
第7警備旅団(4個大隊)
第10警備旅団(10個大隊)
第2補充旅団(Srijem、Tuzla連隊)
第2装甲車大隊
・第3軍団(Sarajevo)
第2山岳兵旅団(第2、9/6山岳兵連隊、第9/13、20砲兵大隊)
第8警備旅団(5個大隊)
第9警備旅団(6個大隊)
機動旅団(3個大隊)
第3補充旅団
第3装甲車大隊

835 : 名無し三等兵[] 投稿日:2007/06/11(月) 21:40:29 ID:PpyPFLP7 [3/4回]
>>834の訂正と追加
*訂正
(43.5.1)→(43.5.1-44.11.20)
*追加
・軍直轄部隊
A鉄道警備隊(第4~7大隊)
B鉄道警備隊(第8~11大隊)
C鉄道警備隊(第1~3、18、19大隊)
D鉄道警備隊(第14~17大隊)
E鉄道警備隊(第11~13大隊)
装甲列車中隊
第1~3労働者連隊

836 : 名無し三等兵[] 投稿日:2007/06/11(月) 22:05:23 ID:Uw/ejbzL [1/2回]
>>833
ホ°ーラント゛製の豆タンク。

837 : 名無し三等兵[] 投稿日:2007/06/11(月) 23:13:00 ID:PpyPFLP7 [4/4回]
クロアチア軍とは全く別組織でウスタシャは独自の軍組織を有していた
制服,階級記章もクロアチア軍とは全く別個である(クロアチア軍はドイツ軍の
軍装にウスタシャ軍はイタリア軍の軍装に似ている)ウスタシャ軍はドイツの武装親衛隊に性格的には近い*ウスタシャ軍編成(43.6.1-12.31)
Poglavnik親衛旅団(第1、2連隊-親衛大隊、騎兵大隊、機動大隊、砲兵大隊、工兵
大隊、戦車中隊、第1、2補充大隊)
第1旅団(第2、3、14、21~23、28大隊)
第2旅団(第4、6、8、15、16、18、19、36大隊、第2山岳兵大隊、第1鉄道警備大隊)
第3旅団(第5、10~13、30、33、35、37大隊)
第4旅団(第9、17、19、31、32、34大隊、第4山岳兵大隊)
第5旅団(第1、7、20、24~27大隊、第1山岳兵大隊、工兵中隊)
第6旅団(4個大隊)
第1コマンド旅団(4個大隊)
第2コマンド旅団(4個大隊)
第1防衛旅団
第2防衛旅団
第3連隊、機動大隊、3個親衛大隊

838 : 名無し三等兵[] 投稿日:2007/06/12(火) 00:03:13 ID:Uw/ejbzL [2/2回]
>>837
1944年頃に統合されなかった?

839 : 名無し三等兵 : 投稿日:2007/06/12(火) 00:13:58 ID:???
*ウスタシャ軍編成(44.1.1-11.20)
Poglavnik親衛旅団(第1、2連隊-親衛大隊、機甲大隊、機動大隊、砲兵大隊、工兵
大隊)
第1旅団(第2、24、29大隊)
第2旅団(第6、15、16、18大隊、補充大隊)
第3旅団(第5、10、13、30、33大隊、補充大隊)
第4旅団(第9、19、20、31、32、34、35大隊、Otacac防衛大隊)
第5旅団(第1、7、20、35大隊)
第6旅団(第26大隊、他4個大隊)
第7旅団(6個大隊)
第8旅団(第8、11大隊、他5個大隊)
第9旅団(5個大隊)
第10旅団(6個大隊)
第11旅団(4個大隊)
第12旅団(第14、23、25、26、29大隊)
第13旅団(第6、16大隊)
第14旅団(第1鉄道警備大隊、Moslavac鉄道警備大隊、鉄道警備補充大隊)
第15旅団(3個大隊)
第16旅団(Brod警備大隊、Derventa警備大隊、第2鉄道警備大隊)
第17旅団(Ogudin警備大隊、Vrbovska警備大隊、Susak警備大隊、Rijecica警備大隊、
Ozalj警備大隊、Karlovac警備大隊)
第18旅団(Otacac警備大隊、Brinje警備大隊、Senj警備大隊、Lovinac警備大隊)
Zagreb警備旅団(4個大隊)
Camp防衛旅団(4個機動大隊、砲兵大隊
なおクロアチア軍とウスタシャ軍は1944年11月21日を期して統合され,クロアチ
ア武装軍(Croatian Armed Forces)となった

840 : 名無し三等兵 : 投稿日:2007/06/12(火) 01:05:23 ID:???
*クロアチア武装軍編成(44.11.21~45.5.15?)
・第1Poglavnik親衛軍団
Poglavnik親衛師団(第1、2親衛連隊、補充連隊-親衛大隊、騎兵大隊、機動大隊、
砲兵大隊、工兵大隊)
第1突撃師団(第20~22歩兵連隊、機動大隊、第20、21砲兵大隊)
第5師団(第5ウスタシャ旅団、第11歩兵旅団、第2砲兵大隊→45年4月編成、第23
~25歩兵突撃連隊、機動旅団)
・第2軍団
第2師団(第15、20ウスタシャ旅団、第20歩兵旅団、第3工兵補充大隊)
第12師団(第3山岳兵旅団、第12ウスタシャ旅団、第3砲兵大隊、第3工兵補充大
隊)
第14師団(第14ウスタシャ旅団、第19歩兵旅団)
第17師団
第18突撃師団
・第3軍団
第3師団(第1狙撃兵旅団、第2、13ウスタシャ旅団、第7、18砲兵大隊)
第7山岳兵師団(第1、14山岳兵旅団、第1、6砲兵大隊)
第8師団(第1、11ウスタシャ旅団、第18歩兵旅団、第1砲兵大隊)
第9山岳兵師団(第2山岳兵旅団、第9ウスタシャ旅団、第3砲兵大隊)
・第4軍団
第4師団(第7狙撃兵旅団、第8、19ウスタシャ旅団、第14歩兵旅団、第12砲兵大隊)
第6師団(第10ウスタシャ旅団、第15歩兵旅団、第2砲兵大隊)
第15師団(第16ウスタシャ旅団、第16歩兵旅団)
-続く-

841 : 名無し三等兵 : 投稿日:2007/06/12(火) 01:32:25 ID:???
〈840の続き〉
・第5軍団
第10師団(第10狙撃兵旅団、第7ウスタシャ旅団、第8砲兵大隊)
第11師団(第4、18ウスタシャ旅団、第13歩兵旅団、第?砲兵大隊)
第13師団(第3、17ウスタシャ旅団、第12歩兵旅団、第?砲兵大隊→45年4月編成、第
28、29歩兵連隊、第5軍団偵察大隊、第1砲兵大隊、ウスタシャ工兵大隊、ウスタシ
ャ補充大隊)
第16ウスタシャ鉄道補充師団(ウスタシャ補充旅団、ウスタシャ工兵補充大隊、ウ
スタシャ士官学校中隊)
第1ウスタシャ防衛旅団(4個歩兵大隊、親衛大隊、機動大隊、砲兵大隊、警備大隊
、3個訓練大隊、1個人民連隊)
人民軍団(Baranja連隊、Vuka連隊、Posavje連隊)

軍事板,2007/06/10(日)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

846 : 名無し三等兵 : 投稿日:2007/06/20(水) 22:27:32 ID:???
*ラトビア義勇軍団(Latvian Legion)概略史①
最近発刊されたリイド社の外国人義勇兵の本と違い,従軍したラトビア人義勇兵
だったArthur-Silgailis氏の『LATVIAN LEGION』がネタ元です
リイド社の本の記述とは違う部分が割りとあります
41.7.20Stahlecker.SS少将に下記部隊を編成
Riga市警察業務→1500人
Riga州警察業務→240人
鉄道警察業務→100人
労働警察業務→260人
収容所警備業務→400人
警察隊予備役→500人
暫くしてバルト沿岸諸国で警察大隊(Schutzmannschaft=Schuma)を編成
リトアニア15個大隊(第1~15大隊)
ラトビア13個大隊(第16~28大隊)
エストニア12個大隊(第29~40大隊)
しかし内ラトビア警察2個大隊はレニングラード南西Krasnoye-seloに送られた
42.3.20ラトビア第21警察大隊はドイツ軍将校2名により軍事戦闘訓練を受ける
42.6最前線のレニングラード南西のUritskに投入され,直ちに実戦に入った
一時,第1中隊が包囲されるが,独・仏・ソ・チェコ製の雑多な兵器で果敢に反
撃し,解囲,ソ連軍を7.28に最終的に撃退した

847 : 名無し三等兵 : 投稿日:2007/06/20(水) 23:04:59 ID:???
*ラトビア義勇軍団概略史②
第21警察大隊より先に第19警察大隊が42.5中旬にKrasnoye-seroに送られ,軍事
訓練を施されていたが,大隊長のGustavs Praudins大尉は独軍大将Jeckelnに誤
解され反独行為の罪で軍法会議で起訴され,死刑判決を受けるが,LSA(ラト
ビア自主行政政府)により仲裁され,死刑は免れたが,二等兵に降格させられた
しかし大尉が無実であったことは自らの身で実証した
その後,次々戦功を挙げ,一兵卒から中佐に昇進,黄金ドイツ十字章を受賞した
このことから第19警察大隊の実戦投入は第21警察大隊より遅れた
しかし第21警察大隊の戦場での活躍はドイツ国防軍の戦闘報告に記され,特に42
年12月の戦闘報告は素晴らしく,それはヒムラーの目に止まり,ヒムラーは感銘
を覚え,直ちにラトビア義勇軍団の編成を決定,ヒトラーに上申した
43年1月ヒムラーはレニングラード戦線のオランダ人,フラマン人義勇兵から編
成されていた第2SS自動車化歩兵旅団を訪問し先のラトビア2個大隊配属を命令
警察大隊群をレットラントSS義勇軍団(Freiwilligen Legion)に昇格させ,装
備も全て独製に一新された

848 : 名無し三等兵 : 投稿日:2007/06/20(水) 23:51:12 ID:???
*ラトビア義勇軍団概略史③
42.12、1919~24年生まれのラトビア人を対象に
25000人→ヒヴィス(国防軍補助要員
15000~17000→義勇軍団
6000→警察部隊
10000→軍需労働者
に供出するよう命令
先の第19、21警察大隊の他に既に第24警察大隊が独第380歩兵師団に配属され、Pe
terhof地区で戦闘を展開していた
先の2個警察大隊の基に第16警察大隊が増援され,第2SS旅団はラトビア人部隊
に42年2月8日に改編
第21警察大隊→レットラント・レギオン第1大隊
第19警察大隊→レットラント・レギオン第2大隊
第16警察大隊→レットラント・レギオン第3大隊
と改称し,レットラントSS義勇兵連隊にまとめられ,連隊長にラトビア人のVold
emars Veiss.SS中佐が着任,旅団長には独人のFritz von Scholtz.SS少将が着任
43.3.18旅団はVerkhneye-Koirovoの防衛戦に投入され戦果を上げた
43.4.1レットラントSS義勇兵第2連隊を編成
第24警察大隊(独第380歩兵師団より)→第1大隊
第18警察大隊(在Minsk<ベラルーシ警察司令部所属より)→第2大隊
第26警察大隊(在Krasnoye-Sero<国防軍所属より)→第3大隊
連隊長はラトビア人のKarlis Lobe.SS中佐が着任した

849 : 名無し三等兵 : 投稿日:2007/06/21(木) 00:33:39 ID:???
*ラトビア義勇軍団概略史④
43.5,2個連隊編成となった旅団はVolkhov川沿いのKurlyanski戦区に投入
9.2-9、Spaskaya近郊でソ連軍の攻勢を撃退,Veiss.SS中佐指揮下の第1連隊が活
躍,戦功により10月中旬,中佐はSS大佐に昇進し旅団長に着任,第1連隊長には
Nikolajs Galdins少佐が昇進した
11.8、第1連隊→第39SS擲弾兵連隊に改称
第2連隊→第40SS擲弾兵連隊に改称
44.1.14、ソ連軍,レニングラード戦域で大攻勢開始
旅団南方の独軍防衛線突破され,独歩兵2個連隊が包囲された
Veiss.SS大佐は直ちにⅠ/Rgt39とⅢ/Rgt40の2個大隊を抽出し戦闘団を編成し,
自ら指揮して南方のNekokhovoへ救出攻撃し,独2個連隊を救出に成功,さらに
独歩兵1個中隊と突撃砲3門の増援受け,同地を死守
この戦功によりVeiss.SS大佐は騎士十字章受賞(11人いるラトビア人の同章受賞
者の初受賞者である)
1.29、旅団は独第405歩兵連隊,独第49猟兵連隊と共にSchuldt戦闘団に編入
2.2-14、Orodezh戦
2.15-19、Utorgosh戦
2.21-26、Dubrovo-Podubye戦
2.27、Ostrovへ移動
2.28、Velikaya川(Panther防衛線)に移動し,新編成の第15ラトビアSS師団と合
流した

850 : 名無し三等兵 : 投稿日:2007/06/21(木) 01:13:31 ID:???
*ラトビア義勇軍団概略史⑤
第15ラトビアSS師団の編成
43.3初旬,第15SS砲兵連隊をJelgava(Riga南西)で編成
5.3、第32SS擲弾兵連隊(レットラント第3連隊)をPaplaka(ラトビア西部)で
編成
6.15、第33SS擲弾兵連隊(レットラント第4連隊)をVainode(Paplaka南東)で
編成
7.12、第34SS擲弾兵連隊(レットラント第5連隊)をCesis(Riga北東)で編成
9月、3個擲弾兵連隊,バルト海沿岸のVentspisへ移動
11.11、SS擲弾兵連隊をSS義勇擲弾兵連隊に改称
11.20、師団全部隊,Velikiye-Luki西のNovo-Sokolnikiに移動
第32SS義勇擲弾兵連隊長Arvids Kripens.SS大佐
第33SS義勇擲弾兵連隊長Villi Janums.SS大佐
第34SS義勇擲弾兵連隊長Augusts Apsitis大佐
第15SS義勇砲兵連隊長Voldemars Skaistlauks大佐
44.2.15、Redya川防衛戦
2.22、Velikaya川(Panther防衛線)に到達
第2SSラトビア義勇旅団配下の
第39SS擲弾兵連隊→第42SS義勇擲弾兵連隊(レットラント第1連隊)
第40SS擲弾兵連隊→第44SS義勇擲弾兵連隊(レットラント第2連隊)
に改称し,新編の第44SS義勇擲弾兵連隊(Rudolfs Kocins大佐,レットラント第
6連隊)と共に第19SS義勇擲弾兵師団を組織した

851 : 名無し三等兵 : 投稿日:2007/06/21(木) 01:54:39 ID:???
*ラトビア義勇軍団概略史⑥
第15,19SS義勇擲弾兵師団はKarl von Pfeffer-wildenbruch.SS大将指揮下の第
Ⅵ.SS軍団配下に編入された
※このように第19SS義勇擲弾兵師団の方が師団番号は後だが,戦闘経験では第15
SS義勇擲弾兵師団よりも豊かであるため
ラトビア人の騎士十字章受賞者11人の内,10人が第19師団(又は第2ラトビア旅
団)所属者
ラトビア人の黄金ドイツ十字章受賞者12人(騎士十字章受賞者を除く)の内11人
が第19師団所属者で占められている
44.3.4、Panther防衛線の戦い
Velikaya川は氷結していたため,ソ連軍は重戦車も投入した
3.16大損害を受けながらもソ連軍は激戦の末,93.4高地を占領
3.18,第15SS義勇擲弾兵師団長Silgailis.SS少将指揮下戦闘団(第32連隊第1大
隊,第15軽擲弾兵〔フューリジリアー〕大隊,第43連隊第3大隊,第44連隊第2
大隊,第15戦車猟兵大隊)を組織し,ストゥーカと独軍突撃砲支援下反撃開始
3.19、ラトビア義勇兵は93.4高地を奪回
7.10、Panther防衛線Opochka戦
この戦いの戦功により第32SS義勇擲弾兵連隊長Karlis Aperats中佐が騎士十字章
受賞(第15SS義勇擲弾兵師団唯一の騎士十字章受賞者)

852 : 名無し三等兵 : 投稿日:2007/06/21(木) 18:17:43 ID:???
>>846-851
乙です.
ソ連軍にもラトビア人部隊があったのでしょうか.
エストニア人部隊みたいに同胞相打つの事態もあったろうなあ・・・

853 : 名無し三等兵 : 投稿日:2007/06/21(木) 21:40:00 ID:???
>>852
当然あったと考えるべきでしょう,ラトビアにも共産主義者はいたし
ただ120万の人口では1個師団の兵力を集めるのは困難で枢軸側同様徴兵でしか兵
を集めることはできなかったでしょう
隣国リトアニアではソ連軍は第16リトアニア師団を組織しましたが,4分の1は
ユダヤ人で命令もイーディッシュ語が使用されました
無論,これはリトアニアにユダヤ人が多かった特殊事情によるものですが
但し,バルト沿岸諸国でソ連側に加担する者は地元民から嫌われたのも確かで
それはリトアニア,ウクライナ西部ガリツィアで大戦後の1954年まで“森の人々
”という反ソゲリラが活動していました
実はラトビアにも同様な組織は活動していました
このことはまた後ほど書き込みたいと思います

1944.7.1―ラトビア人の動員状況
Ⅵ.SS軍団(第15、19SS師団) 31446
他のLegion 972
警察大隊群(Schuma)14884
国境警備隊 12118
特別行動部隊(Einzeldienst) 5240
特別行動部隊“C”グループ補助 22262
空軍Legion 628
ヒヴィス 12159
トート機関 10585
計 110294

~44.7.1までのラトビア兵の累積損害
戦死 3914
負傷 7305
行方不明 1362
計 12581

854 : 名無し三等兵 : 投稿日:2007/06/21(木) 22:38:40 ID:???
*ラトビア義勇軍団概略史⑦
44.7.23、第15SS義勇擲弾兵師団は休養のため,ラトビア西部へ撤収
第19SS義勇擲弾兵師団は次の3個戦闘団に分けられた
・Galdins戦闘団
第42SS義勇擲弾兵連隊HQ
6個擲弾兵中隊
1個歩兵砲中隊
1個重火器中隊
1個戦車猟兵小隊,1個5㎝迫撃砲小隊,1個12㎝迫撃砲小隊
・Stipnieks戦闘団
第43SS義勇擲弾兵連隊HQ
4個擲弾兵中隊
1個重火器中隊
1個戦車猟兵小隊,1個5㎝迫撃砲小隊,1個12㎝迫撃砲小隊
・Kocins戦闘団
第44SS義勇擲弾兵連隊HQ
4個擲弾兵中隊
1個重火器中隊
1個戦車猟兵小隊,1個5㎝迫撃砲小隊,1個12㎝迫撃砲小隊
・全般支援砲兵
第15SS砲兵連隊(3個軽砲大隊,1個重砲大隊)
第19SS砲兵連隊(2個軽砲大隊)―第3,4大隊は9月中旬合流(ラトビア本土
で訓練中)
44.7.30-8.7、Lubana-Cesvaine戦
8初旬~11初旬、訓練中の第19SS砲兵連隊軽砲1個大隊をGross戦闘団に供出
9.11~Tirza防衛戦
10.11、Ⅵ.SS軍団配下部隊
第19SS義勇擲弾兵師団
第271ラトビア警察大隊
独第93歩兵師団
独第21空軍地上師団
同軍団はこれ以降は終戦までCourland(独語Kurzeme)での戦いとなります

855 : 名無し三等兵 : 投稿日:2007/06/21(木) 23:28:03 ID:???
*ラトビア義勇軍団概略史⑧
44.10.15-22、Dobele戦(Courland初の戦い)
ソ連軍猛攻するが第19師団,侵攻を1㎞で阻止する
11.3-4,第44SS義勇擲弾兵連隊に対し,ソ連軍の攻勢
連隊は直ちに反撃し,攻撃開始線まで撃退
44.12.23-30、Dzukste戦
ソ連軍,師団の左隣の第21空軍地上師団の戦線突破し,師団左翼の第42SS連隊の
側面を迂回攻撃,師団は2㎞程後退させ,26日戦線を安定させ,以降のソ連軍の
攻撃を撃退
45.1.5-9、第2次Dzukste戦
師団,独第4,12装甲師団(両師団とも連隊戦闘団規模)とともに反撃,3㎞程
奪回する
師団はAugstkalni-Gibelas道を回復,多数のT-34/85を撃破
45.3.17-21、Remte-Jaunpils戦(Courlandでの最後の大規模戦闘)
第42SS連隊はRemte方面で20日までにソ連軍を殆んど進撃させず撃退
第44SS連隊はJaunpils方面で21日突破されるが5㎞程で立て直す
リイド社の本ではCourlandでラトビア人部隊が反乱を起こしたように書いてある
が,そのような事実は見受けられない
※終戦時Courlandラトビア人兵員
第19SS師団 5200
Rusmani戦闘団 2500
7個建設大隊 2800
3個警察大隊 1100
空軍補助 560
他 1000
降伏を潔しとしないラトビア兵はゲリラ化した

856 : 名無し三等兵 : 投稿日:2007/06/22(金) 00:17:42 ID:???
*ラトビア義勇軍団概略史⑨
第15SS義勇擲弾兵師団のその後
44.8下旬、師団,Danzig、Gotenhafenへ上陸
師団の車両は58%、馬車ワゴンは64%の充足率しかなかった
砲兵は第15SS砲兵連隊第1大隊と第19SS砲兵連隊第4大隊が後に合流した
45.1.25-27、Bromberg-Nakel戦(西プロイセンの戦い)
1.29-2.25、Flatow-Camin戦
2.26-3.3、Hammerstein-Gramenz戦(ポンメルンの戦い)
3.5-13、Kolberg戦
4.19,師団主力はSchwerinへ撤収
残りのJanums戦闘団(第32SS連隊第1大隊,第33SS連隊第1大隊,第15軽擲弾兵
大隊)は南下し,ベルリン南東からElbe川のGutergluckへ後退,同地で米軍に降

しかしながら殿をつとめていた第15軽擲弾兵大隊とはぐれた
※その後の第15軽擲弾兵大隊
同大隊は他の独歩兵師団同様,師団の最良の兵員で組織
Herzfeldへの後退戦中,主力とはぐれ,しかもWally大隊長は本部に出頭中だっ

間もなくベルリンへ向かうソ連軍との激しい戦いに巻き込まれ,徐々に市街へ後
退,大隊指揮はNeilands少尉が取った
大損害を受け,市街中心部で独軍部隊と合流,保安局の崩壊したビルに立て篭っ
た,残存兵力80
5.2、航空省ビルへ退き,独軍と郊外Pankowへ後退,残存兵力10

857 : 名無し三等兵 : 投稿日:2007/06/22(金) 00:45:29 ID:???
*ラトビア義勇軍団概略史⑩
終戦後のラトビア義勇兵
戦争終結後もソ連による再支配を望まぬ義勇兵たちは北Courlandの森林地帯に逃
げ抵抗を継続した
兵力は4500程度だったが,友好的なラトビア一般人は多かった
彼等はリトアニア,ウクライナのガリツィアの反ソ抵抗組織同様“森の人々”と
呼ばれた
ラトビア義勇兵たちはCourlandのRiga-Ventspilsの連絡線を寸断
ソ連の官僚,軍はバルト海の海港Liepajaから迂回せねばならなかった
ソ連側は食糧の欠乏する45―46年冬に兵糧攻めをし,一時,抵抗組織の兵員を20
00に減少させたが
47年になると勢力を回復し,CourlandのModona、Ogre、Taurkalneの森林地帯を勢
力下に置いた
ソ連側は軍より優秀な装備を施したNKVDの保安部隊を投入
しかし抵抗組織は48年にはRezekne市を攻撃,一時的ながらも支配下に置いた
だが,多勢に無勢,次第に押され,抵抗組織の残存兵力はリトアニアに逃げ,同
地の抵抗組織に合流した

858 : 名無し三等兵 : 投稿日:2007/06/22(金) 01:47:01 ID:???
*ラトビア義勇軍団概略史⑪
空軍レギオン・レットラント(Luftwaffen Legion Lettland)について
43.10、10名のラトビア人による訓練航空隊を編成
暫くしてそれは50名近くになった
訓練機にはArado66、Gotha45を使用
44.3、初の実戦攻撃機飛行隊Nachtschlachtstaffel.1を編成
10名の将校,10名の下士官,105名の兵より構成
44.3.22、第3飛行隊編成
44.6、第2飛行隊編成
44.6.26、3個飛行隊は統合されNachtschlachtgruppe.12(NSG12)を編成
北部軍集団において航空支援を行い
44.7.25、NSG12は戦闘飛行1000回を記録
44.8.11、Janis Rucels中佐指揮下Luftwaffen Legion Lettlandを編成
配下に
・訓練飛行学校(Liepaja/Grobin)
・NSG12
・戦闘飛行隊
・第385Flak大隊
※ラトビア人の戦闘機パイロットについて
44.5.31、戦闘飛行隊編成
44.6、5名のパイロット,Fw190の慣熟訓練を独で受ける
44.7,残りのパイロット独へ
44.10、訓練完了した2名,Riga近郊のSpilve空港に送られ,実戦に入る(さらに
3名追加)独第54戦闘機連隊所属
44.11、他の5名のラトビア人パイロットはBerlin北東Griefswaldeの独第1戦闘
機連隊所属となった

859 : 名無し三等兵 : 投稿日:2007/06/22(金) 05:13:14 ID:???
kurzemeはラトビア語ですよ
独語ではKurland

軍事板,2007/06/20(水)
青文字:加筆改修部分


** 【質問】
 【回答】

881 : 名無し三等兵 : 投稿日:2007/07/15(日) 19:50:03 ID:???
スコダ社はドイツに接収されたけどスロバキアでは細々他社が生産していたらし
いね
S-231複葉戦闘機(アビア社)
S-328複葉攻撃機(アビア社)
A-100複葉攻撃機(アエロ社)
Ab-101複葉攻撃機(アエロ社)
OAvz.30装輪装甲車(タトラ社)
LT-40軽戦車(CKD社)

882 : 名無し三等兵 : 投稿日:2007/07/15(日) 20:00:49 ID:???
もうひとつあった
B-534複葉戦闘機(アビア社)
他にチェコスロバキア解体前に
輸出用として
スコダ社が
T-32軽戦車
CKD社が
TNH軽戦車
を生産していたが,解体後の動向はわからない

軍事板,2007/07/15(日)
青文字:加筆改修部分


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