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ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.
※既に分類され,移動された項目を除く.
また,著作権上問題のある回答が意外に多く,これも除外.
※レス回収基準は「Ver.5」
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目次
** 【link】
15 :日本@名無史さん:2002/07/25 19:54
過去のスレッド
素朴な疑問質問のスレ
http://mentai.2ch.net/history/kako/969/969624784.html
日本史版質問統一スレッド
http://mentai.2ch.net/history/kako/974/974738924.html
★くだらない質問,近現代史編★
http://mentai.2ch.net/history/kako/985/985320244.html
くだらない質問はここに書け
http://mentai.2ch.net/history/kako/981/981044823.html
くだらない質問はここに書け その2
http://mentai.2ch.net/history/kako/1005/10051/1005111739.html
日本史なんでも質問コーナー Part6
http://mentai.2ch.net/history/kako/1016/10166/1016622804.html
16 :日本@名無史さん:02/07/25 19:55
過去のスレッド
素朴な疑問質問のスレ
http://mentai.2ch.net/history/kako/969/969624784.html
日本史版質問統一スレッド
http://mentai.2ch.net/history/kako/974/974738924.html
★くだらない質問,近現代史編★
http://mentai.2ch.net/history/kako/985/985320244.html
くだらない質問はここに書け
http://mentai.2ch.net/history/kako/981/981044823.html
くだらない質問はここに書け その2
http://mentai.2ch.net/history/kako/1005/10051/1005111739.html
日本史なんでも質問コーナー Part6
http://mentai.2ch.net/history/kako/1016/10166/1016622804.html
日本史よろず問い合わせ処 其ノ七
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1024836631/l10
日本史板,2002/07/25
青文字:加筆改修部分
** 【追記】
248 :日本@名無史さん:02/11/03 02:41
GHQの日本分割統治案について.
北海道・東北がソ連,四国が中国(今の台湾?)だったのは覚えてるんだけど
あとはどうなってたっけ?
米英仏蘭で分割するという案のはずだが詳細を知りたいのです
googleで調べたけど分割のしかたの詳細は見つからなかったんで
どなたかお願いしまつ
262 :日本@名無史さん:02/11/04 19:04
みんな間違った認識で書かない様に..
正しくは
ソ連=北海道,東北
アメリカ=関東,信越,東海,北陸,近畿
中国=四国
イギリス=中国,九州
東京は米英中ソの四ヶ国共同管理
大坂は米中の二ヶ国共同管理
これが昭和20年8月から9月初旬にかけての,
米国統合作戦本部内の統合戦争計画委員会での分割統治案です(その後は立ち消え).
これはソ連には知らされてなく,8月16日の要求をトルーマンが蹴った時点で
廃案が運命づけられました.なぜ蹴る事ができたかについては極東委員会の
「緊急中間司令権」という,英中ソの拒否権を無視して政策を進める事ができる仕組みに
なっていたからです.
日本史板,2002/11/03
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
水戸光圀による歴史編纂事業は,どのような内容のものだったのですか?
【回答】
六国四鏡以来久しく絶えていた歴史編纂事業を,江戸時代にはじめて本格的に再開したのは水戸藩の二代目藩主,水戸黄門こと徳川光圀とされている.
彼は,みずからの出自が御三家の末席であったことにコンプレックスを持っていたらしく,この『大日本史』編纂において,幕府将軍家の正統性に疑問を投げかける文言を多数残している.
石田三成,真田幸村といった謀反人に対し,
「主家(豊臣氏)に忠義を尽くしたので忠臣である」
として,その名誉を回復させ,また尊王賎覇を暗に匂わせる人物(楠木正成,新田義貞等)を忠臣の鑑として持ち上げた.
当時の幕府は歴史の価値を軽視してか,あるいは御三家に対しての遠慮があってか,この件に関して何の咎め立てもしなかった.
結果,江戸中期以降の歴史家の殆どは潜在的反政府主義者という異常事態が起こり,これが幕末の尊皇倒幕運動へと繋がっていくのである.
日本史板,2002/11/17
青文字:加筆改修部分
** 【追記】
483 :日本@名無史さん:02/11/25 21:06
関東軍の憲兵隊には政治犯を裁判抜きで殺害する権利が合法的に
認められてたって本当ですか?
494 :日本@名無史さん:02/11/27 12:50
>>483
>関東軍の憲兵隊には政治犯を裁判抜きで殺害する権利が合法的に
>認められてたって本当ですか?
日本国内でも特高警察による暴行は良くあることだったから,
満州では関東軍憲兵が政治犯に暴行することは予測できるね.
ただ,殺害する権利まであったかどうかは分かりません.スマソ.
496 :日本@名無史さん:02/11/27 13:17
>>483
追加です.
1,これは,憲兵を擁護するサイト
>ただ関東軍,そして東条関東軍憲兵司令官という二つによって仕事が
>「拷問」という,まるでナチス独逸と同質のレベルであえて語るように
>されてしまっただけで「憲兵」個人には罪はない.
http://sky-i922.hp.infoseek.co.jp/kenpei.html
2,これは中国の教科書の紹介のサイトです.
>すなわち偽満州国の承認・日本人顧問による旺精衛政権の操縦・日本との
>共同による反共,等に同意した.また偽国民政府は傀儡軍隊を出して日本
>軍の後方にある抗日根拠地へ加わって,植民地的統治と経済略奪を支持した.
>陥落地区で日本軍は銃剣で植民地支配を維持した.また憲兵・警察・裁判所
>・監獄等,中国人民を鎮圧する為の機構を作った.憲兵,警察,特務はした
>い放題で,気の向くままに中国人民を逮捕したり,厳刑を課したり,
>拷問したり,殺害したりした.もし一言「私は中国人だ」といえばたちまち
>日本に反旗を翻す思想犯・政治犯とされた.
http://www.est.hi-ho.ne.jp/zhaojun/seminar/2000_hp/gaomu02.htm
日本史板,2002/11/25
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
ふと思ったんですがね,天皇ってありますよね.
この訳なんですが,なぜキングじゃなくエンペラーと訳すんでしょう?
今は大日本帝国じゃなく日本国なんですよね.
帝国じゃなく国なら,国王(キング)でいいと思うんですけど・・・.
世界各国は帝国と思ってるんでしょうか?
それとも日本が各国にエンペラーと訳すように言ってるのか?
それとも昔の名残でエンペラーと言ってるだけなのか?
【回答】
現在の日本国は国民主権であって,天皇は元首ですらありません.
元首は総理大臣で,天皇の地位は象徴というあいまいなものです.
天皇元首説もあることはあるんだけどね.
ちなみにスペインも同じです.
国王はいるけど,あくまで象徴.
国号でキングかエンペラーかを決めるというんなら,現在の日本国は「日本王国」ではなく,単に「日本国」なんだから,キングと称するのもおかしい,ということになってしまいます.
日本史板,2002/12/19
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
国民主権で天皇は象徴ってのは分かってますが,外国の人は報道する時エンペラーを使うでしょ.
スペインの国王はキングっていうんじゃないの?
国号は関係ないとしたら,日本が外国に対して,天皇のことをエンペラーと呼んでくれといってるんじゃないのかなぁと推測したんだけど,違ってるのかな?
中国皇帝に対抗して天皇と名乗って,それを皇帝と同じようにエンペラーと訳した名残でいってるだけ??
【回答】
そうでしょ.
戦前からエンペラーだからね.
スペイン国王ってもともとキングだし.
っていうか,こちらからお願いしなくても,まともな外国はエンペラーと呼んでくれるとおもわれ.
かってに格下げして王扱いするのは南鮮くらいのもんだよ.
日本史板,2002/12/19
青文字:加筆改修部分
** 【反論】
明文上の規定に「元首」とないからといって,「元首でない」というのは疑問.
不文憲法のイギリスはどうなる.
首相を任命し,国会を召集・解散し,外交使節を接受する立場は「元首」だろ.
行政権の有無は,議会制民主主義の今日,あまり重要ではない.
【再反論】
明文上,わざわざ「象徴」と規定されている.
イギリスは不文憲法だが,確か,なんかの法で元首の規定があったと思う.
この世には元首みたいで元首じゃない連中も存在しているのだよ.
ただ,元首の定義というのはいろいろあるから,ものによっては天皇を元首とするものもある.
なお,数年前金大中が天皇のことを元首と呼んだときには,新聞ではわざわざ「元首」と括弧つきで,あくまで金大中個人の見解である旨の補足説明がなされていた.
朝日新聞じゃないよ.
日本史板,2002/12/19
青文字:加筆改修部分
** 【反論】
「象徴」と「元首」は相反する概念ではない.
通常,どの国の元首も国家の代表としての象徴機能を持っている.
いわば天皇は,儀礼的権限のみに限定された元首.
天皇より限定された権限しか持たないスウェーデン国王が「元首」である一方,スペイン国王やネパール,カンボジアの国王も「象徴」と明文規定がある.
今の時代,意図的に元首と象徴を区別して天皇は元首でないと言うのは,意識的に天皇の地位を引き下げようとする憲法学者くらいだろ.
天皇が好きか嫌いかは別として,天皇が元首で全然不都合はない.
【再反論】
新憲法制定過程,第九十帝国議会において,天皇を「元首」と明記すべきという主張があったが,結局「象徴」で押し切られた.
当時はまだ天皇の訴追,廃位への恐怖感が残っていたためか,議員たちもおおっぴらに天皇を担ぐことが憚られたのかもな.
新憲法の成立過程で「天皇=元首」が排除されてしまった以上,憲法は天皇を「元首」としていない.
解釈改憲はよろしくないかと.
上でも言われているように,元首の定義なんぞ人それぞれ,腐るほどあるわけで.
憲法学者たちもけっこう触れずに逃げてるし.
民主制の発達で,古い定義では「元首」でなくなってしまう「元首」が出てきてしまうために,実態に合わせるというかたちで戦後,急速に変わってきている.
スウェーデンで国王の権限が殆ど消滅したのは,1975年の憲法改正で,それまで古い「元首」としての権限を備えていた.
ちなみに憲法学者は左側の人間が多い(らしい).
先日亡くなった最高権威氏なんぞ,共産党員だったし.
日本史板,2002/12/19
青文字:加筆改修部分
【初心者】スレッド立てる前に質問を Part2【歓迎】
目次
** 【質問】
北海道の先史時代の特徴を教えてください.
【回答】
アイヌ人は,かつては本州の北端部から樺太(サハリン),千島列島にかけた広大な地域に居住し,樺太のアイヌはギリヤーク(ニブヒ族),オロッコ(ウイルタ族),ウリチ族,キーリン(エベンキ族)と,千島列島のアイヌはカムチャツカ半島のカムチャダール(イテリメン族)などの諸民族と接触交渉を持っていた.
アイヌ民族の起源や初期の歴史についてはいまだ不明な点が多い.
現在の考古学の知見では,続縄文文化(紀元前後‐7,8世紀)まではさかのぼることが可能で,次の擦文文化(8,9‐13世紀)は後代のいわゆるアイヌ文化の先行形態と解されている.
もっとも,今のところ擦文文化にはアイヌ文化に特有な熊送り儀礼(イオマンテ(熊祭,熊送り))の痕跡がみられないことから,擦文文化からアイヌ文化への移行過程については,今後解明すべき問題が多く残されている.
擦文文化期には樺太および北海道のオホーツク海沿岸部から千島列島にかけた地域に,大陸の靺鞨(まつかつ)・女真文化と深いかかわりを持ち,熊送り儀礼がみられるオホーツク文化が存在した.
オホーツク文化の担い手については諸説があるが,現在のところギリヤーク説が最も説得力のある見解のようである.
続縄文文化は,縄文文化に続く北海道地方を中心とする文化である.
本州の縄文文化が弥生文化へと移行する一方で,北海道地方を中心に,縄文文化の伝統を濃く残した文化が続いたと考えられ,それに〈続縄文〉という名が与えられた.
この文化の内容は,近年になって土器の編年序列がほぼ判明したが,なお究明すべき点が多い.
現在,時期的に東北地方の弥生文化に相当する前期と,同じく古墳文化に相当する後期とに大きく分けられる.
前期の文化は,大まかに道南を中心とする恵山式土器を伴うものと,道央・道東・道北でそれぞれ若干の地域色を示しながらも,前北式から後北式にかけての土器を伴う一群とに,大きく二分される.
前者は台付土器や甕形,壺形,鉢形など東北地方の弥生文化と共通する土器の組成をもちながら,豊富な石器,骨角器を伴い,狩猟に加えて
沿岸漁労にも深くかかわっていたとみなされる文化である.
とくに土器の口縁部に熊の形態を模した把手をつけることや,魚形石器と呼ばれる,小型の石棒を伴う点に特色がある.
代表的な遺跡には恵山町恵山遺跡,白老町アヨロ遺跡などがある.
後者は土器の組成に壺形や台付土器が少なく,耳付土器が加わり,深鉢形のものがはなはだ多い.
石器,骨角器も組成は違うけれども豊富である.
新冠町大狩部遺跡,厚岸町下田ノ沢遺跡,江別市江別太(えべつぶと)遺跡なども著名である.
これらの前期の住居には,前時代から引き続き出入口の明確に掘り込まれるものがある.
墓は土壙墓で,土器や石鏃,石べら,コハク玉や碧玉の管玉などを入れる例が多い.
柄の付いた石べらなどの豊富な木製品の出土した江別太遺跡では,この時期の河川漁労にかかわる遺構や,サケの骨なども発見されている.
後期の後北式後半の土器は,平底の深鉢形と注口土器をおもな組成としているが,小型の鉢や片口,皿もある.
器種の構成は前期とは一変し,以後終末の北大式にまで継続する.
この時期の住居跡は未発見.
墓は土壙墓で,内部に人頭大の石を入れるものが多い.
遺物には鉄製の刀子やガラス玉,漆塗の竪侯(たてぐし)などもあり,古墳文化との交流を示す.
代表的な遺跡には,余市町フゴッペ洞窟などがある.
擦文文化(さつもん)は,擦文土器の使用を指標とした文化.
北海道の続縄文文化が東北地方の古墳文化の影響をうけて変容,成立した文化で,北海道一円から東北地方北部にも広がりをみせている.
この文化の初期に注目される遺構として,江別市や恵庭市など道央部に発見されている,いわゆる北海道式古墳がある.
律令政府とかかわりのあった人が被葬者と考えられている,東北地方の末期古墳と同形で,出土遺物も土師器(はじき),直刀,蕨手(わらびで)刀,鉄斧,鉄鎌,年帯(かたい)金具,勾玉や和銅開珎など似たものが多い.
古墳そのものの分布は地域が限られているが,その文化的影響は広く全道に及んでいる.
土器製作のうえでは,縄文文様が失われた擦文土器が盛行し,また石器の使用が殆どなくなり,鉄製の利器が普及する.
鉄器は本州からの移入品が多かったであろうが,鞴(ふいご)の羽口の出土例があるところから,野鍛冶程度の技術があったと考えられている.
鉄器のなかには,鍬先,斧,鎌など農耕具があり,大麦,アワ,ソバなどの種子の発見とあわせて,生業は前代の続縄文文化当時の狩猟・漁労を
ベースにしながらも,初歩的な農耕のあったことも考えられている.
住居は方形の竪穴式で,1辺が4〜5mから7〜8mのものが多く,屋内の中央部の炉のほかに,東側の壁に,煙道が戸外に通ずる竈が付設されているのが多く,海岸や内陸部の河川や湖沼に近い段丘上に大住居群を残している.
この文化が盛行していたころ,道東北部では,オホーツク海岸を中心にしたオホーツク文化が,一部は根室半島を越えて北海道太平洋岸の東部や,宗谷岬を越えて日本海岸の北部の利尻・礼文の島々にまで広がっており,両文化は互いに影響し合っていた.
道東のいくつかの遺跡では,擦文土器と,オホーツク式土器の融合した,いわゆるトビニタイ式土器が発見されて,北海道の土器文化の終末期の様相を考えるうえで注目されている.
最近は,アイヌ文化を擦文文化までさかのぼらせる見方が定着しつつあり,アイヌ文化のなかの,ある種の漁・狩猟儀礼の祖型をオホーツク文化に求める説もある.
また,日本海岸の奥尻町,小平町,天塩町などの遺跡から出土した擦文土器の杯の底面に,記号様の刻文のあるものがみられるが,アイヌの父系印として伝えられているエカシ・イトクパにつながるものとして留意されている.
12世紀前半ころには,擦文文化とオホーツク文化の融合が進んだ.
次いでオホーツク文化を吸収し,北海道全域を覆いつくした擦文文化の社会は,他方で日本産製品の多量な流入と日常生活での定着を媒介としながら,以後14‐16世紀に近世的なアイヌ文化の社会へと急激な変容を遂げていった.
近年,割と出てるから,アマゾン検索か図書館検索で「蝦夷」「アイヌ」などで本を調べてみたら?
東北との関連とか面白いよ.
日本史板,2003/01/12
青文字:加筆改修部分
なお,元のレスは,『世界大百科事典』(日立ソリューションズ)から転載された文章である模様.
そのため,著作権が発生しないと考えられる範囲で,元レスから抜粋,再構成した.
** 【追記】
155 :日本@名無史さん:03/01/23 08:39
学校で「武士道」について調べてるんですが,「武士道」って何ですか?
156 :日本@名無史さん:03/01/23 12:34
>>152
一応,言えると思います.苦労もしたし.
157 :日本@名無史さん:03/01/23 12:42
武士道
広く武士の心組み,生き方を意味する場合と,狭く心組み,生き方の一
つの立場を意味して,士道に対する武士道として用いられる場合とがある.
武士が王朝貴族の生き方に対して武士独自の生き方を自覚したとき,
〈弓矢とる身の習(ならい)〉という言葉が生まれた.
〈弓矢とる身の習〉は〈大将軍の前にては,親死に子討たるれども顧みず
弥(いや)が上に死に重なって戦ふ〉(古活字本《保元物語》)ことで,
主君への残るところのない献身である.だがまた,戦闘員として名を惜しみ
死をいさぎよくすることである.この〈弓矢とる身の習〉は武士社会に
その伝統として受け継がれたが,戦国時代において,武士は単に戦闘員
であるだけでなく,同時に為政者的性格をもつことになった.下剋上を
しのいでその地位を保持しようとする者も,また下剋上の波に乗って主君
にとって代わろうとした者も,人心を自己に引きつける指導者的徳性を
求めることになった.戦乱がおさまった近世の武士社会に,戦闘員として
の心組みの伝統と,指導者的徳性を重んずる伝統とが持ち込まれた.
指導者的徳性を重んずる伝統は,近世においては儒教と結びつき,
人倫の道の自覚を根本として,人倫の道を天下に実現することを武士の
職分とする思想に結晶した.武士のこのようなあり方を説く立場は,
一般に士道と呼ばれ,近世の武士社会において主導的な役割を果たした.
158 :日本@名無史さん:03/01/23 12:42
これに対して,太平の近世に,鎌倉時代以来の死のいさぎよさを重んずる
伝統を中核として受け継いだ流れがあり,この傾向が,多くの場合,
先の士道に対して武士道と呼ばれた.士道も武士道も武士社会に武士の
心組み,生き方として自覚されたものであり,武士の思想としての共通
性をもつが,武士道は儒教的な士道に対して批判的な立場をとるものであり,
士道が人倫の道の自覚を根本とするのに対して,武士道は死のいさぎよさ,
死の覚悟を根本とする.
[士道論と武士道論] 近世の士道論を代表するのは山鹿素行であり,
狭義の武士道論を代表するのは《葉隠》である.まず両者の死に対する
姿勢をとり上げると,素行はつねに〈死を心にあて〉るべきだとし,
《葉隠》は〈武士道と云は死ぬ事と見付けたり〉という.両者は一見同
じことを説いているようにみえる.だが素行の場合は,人間はいつ死ぬ
かもしれない,だから今の一刻を慎み人倫の道に生きよという意味である.
ところが《葉隠》のほうは,事に当たって間髪をいれず死地に突入する
ことを説くものであり,またつねに死と一枚になり死身に徹することを
説いたもので,死狂,死身に徹するときに初めてそこに忠も孝もおのず
からそなわると考えるものである.武士道論者は,士道論は己の私心を
飾り隠す理屈であり,死ぬことにおいてのみ純粋が保たれると説く.
太平の時代であるがゆえに,死のいさぎよさが,逆に死狂,死身として
いっそう強烈に武士の生活のすべてにわたる心組み,生き方として説かれ
たといえる.
159 :日本@名無史さん:03/01/23 12:43
士道と武士道とは主従関係のとらえ方においても異なる.
主君に対する諫言(かんげん)について,士道は諫言をいれない主君,
つまり道を実現する可能性のない主君の下にとどまるべきでないという.
これに対して武士道では,諫言をいれないときにも,いよいよ主君の味方
となり,主君の悪が外部にもれないようにし,主君の悪を己にひきかぶり
つつ諫言をつづけるべきであるという.武士道において主君あるいは主家
との契りは情的であり絶対的である.
士道においても武士道においても,ともに武士たるものの強み(威厳)
が重んじられた.戦国武将はそれぞれ一城の主として相対峙したが,
この姿勢は武士一般の基本的な姿勢となった.すなわち武士は,味方朋輩
との関係にあっても,精神的にみずからの城郭に立てこもって他者と対峙した.
つねに勝負の構えに生きた.武士が矜持(きようじ)を重んじたのも,
武士のこの基本的姿勢を理解することによって納得される.武士が相互
に一歩もひけをとらないとするところに矜持の根本があった.ところで
このように勝負の構えに生きた武士は,他者に勝つことを求めるが,
それは武力的,腕力的に他者を圧することではなく,武士が標榜(ひようぼう)
したのは精神的な優位であり,しかも自己に勝つ者が初めて他者に勝つと理解した.
士道では人倫の道の自覚に徹するとき,武士道では死の覚悟に徹するとき,
おのずから他者を圧する強みが形成されてくるとした.強みは容貌,
言語,起居動作においておのずから表現されるべきものである.
礼儀正しさも武士の強みの一つの表現であった.武士社会における礼儀
の尊重は封建社会の階層的秩序への随順をのみ意味するものではない.
〈甲冑ハ辱ム可カラザルノ色ナリ.人ハ礼譲ヲ服シテ以テ甲冑ト為サバ
誰カ敢テ之ヲ辱シメン〉という佐藤一斎の言葉は,近世武士社会における
礼儀尊重の精神を語るものである.
160 :日本@名無史さん:03/01/23 12:44
どうして伊達遠江守家中ってコテハンは思い込みでしかカキコできないんでつか?
もしかしてこいつは相当頭が悪いのでしょうか.
どのスレ見ても「思い込みで書くな」って叱られてるみたいなのですが.
で,どういう部分を見ると思い込みって見抜けるんでつか?
161 :日本@名無史さん:03/01/23 12:46
簡単に言うと,鎌倉期の武士道は名誉を重んじ,
戦国期は,強い方について,裏切ってでも自分の一族を守るのを重んじ,
江戸中期に空想理論の世界として,主君のために死すとの考えが出てきた.
日本史板,2003/01/23
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
万宝山事件で,半島各地で朝鮮人暴徒が朝鮮在住中国人を虐殺したそうですが,それについて韓国では,
「日本が朝鮮人を扇動したからであって,責任は日本にある」
との説明がなされているようです.
朝鮮日報にもそう書いてある(日本大使館に指示されて記事を書いたと謝罪)そうです.
真相についてご存知の方,どうか教えてください.
【回答】
>万宝山事件 まんぽうざんじけん
> 1931年7月2日,中国吉林省長春市郊外の万宝山で起きた朝鮮移住民と中国農民の衝突事件.
> 日本の植民地朝鮮では,東洋拓殖株式会社が中心となって没落農民の満州移住>が進められ,31年には63万人に達した.
> 移住民は日本の手先と見られ,中国側の反日の矢面にたたされた.
> 日本は朝鮮での反華報復をあおり,両民族の離間策の中に満州侵略の機運を盛り上げた.
> 満州事変は直後に起きた. (田中宏)
百科事典には,こう載ってますね.
扇動かどうかは分かりませんが,両民族の反目を利用はしたようですね.
当時の関東軍は,統帥権無視状態でしたから,日本政府の責任と言うよりも,関東軍の責任かな?
ま,第三者から見れば,日本の責任となっちゃうけどね.
日本史板,2003/01/31
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
山田長政は,戦争期に創作された人物なのですか?
>http://www2.airnet.ne.jp/shibucho/yamada.html
【回答】
金地院崇伝編の『異国日記』に,「山田仁左衛門長正」という名前と,簡単な履歴がある.
山田仁左衛門長正は,沼津城主・大久保冶右衛門忠佐の駕籠を担いでいた.
また,山田長正が逞羅国(シャム)の大臣の立場で,江戸幕府の老中であった土井利勝と本田正純宛に,元和七(1621)年四月十一日付で「逞羅国王が日本の将軍に国書を送ったので,その取りなしを頼む」と言う内容の書簡を送っていた――との記述.
将軍秀忠は「山田長政なる者の届けし火薬を試せ」『砲烙実記』より
あとは,元日本人町に住んでいた智原五郎八の『羅記事』天竺宗心の『天竺徳兵衛物語』など
タイの大臣になったという日本人の存在は,タイ語資料でも確認されている.
おそらくこのような海外で活躍した,名前の残っていない日本人と,山田仁左衛門長正の話を全部足して,なおかつ脚色されて生み出されたのが,戦前の山田長政譚であろう.
日本史板,2003/03/03
青文字:加筆改修部分
** 【質問】
昭和天皇の崩御について,世界の報道ってどういうふうに報道されていたのですか?
【回答】
残念ながら,戦争責任追及の声が一斉にあがってましたね.
特にアジアでは,東アジアから東南アジアでも,新聞雑誌に戦争関連の記事が多く,それを特集した本が日本で売れたほどでした.
新聞のマンガにも,生物学者風の故,昭和が数多くの骸骨頭部をルーペで覗くようなのが,いくつか載りました.
ヨーロッパでも,最後の戦争責任者の死というニュアンスが,大衆新聞などでなされたようです.
日本でも死後,一斉に戦争責任を考える本や雑誌の特集やアンケートが出ました.
3日間の全テレビ番組中止による昭和天皇特集も,逆に国民感情を反発させたようです.
日本史板,2003/05/03
青文字:加筆改修部分
** 【追記】
通州事件
日中戦争勃発当初の1937年7月29日に日本の傀儡政権で北京のすぐ東の通州に
ある冀東(きとう)防共自治政府の保安隊が挙兵し,同地の日本軍人や居留民
を襲撃・殺害した事件.蘆溝橋事件ののち日本軍が7月28日に華北で総攻撃を
開始すると,日本軍飛行機は通州の近くの中国軍兵営を爆撃するとともに通州
保安隊兵舎を誤爆して死傷者をだした.通州の保安隊のなかにもかねて抗日救国
の意識が広がっていたが,この事件で刺激されて翌29日未明に挙兵した.
そして冀東政府長官殷汝耕(いんじよこう)を捕らえ,日本軍守備隊,特務機関,
日本人の料亭や家屋等を襲撃した.
冀東政府のお膝もとだと油断していた特務機関長以下の軍人や居留民など200余人
(うち約半数が朝鮮人)が殺された.30日には日本軍が出動し,殷は救出された
が長官を辞任した.
この事件については日本軍の責任が大きいが,日本ではこの事件を中国への
敵愾心(てきがいしん)をあおりたてるように利用した.
第三者のレポートは分かりませんでしたが,事件をおこした冀東政府長官は,
事件後も日本軍と共同行動をとり,戦後中国に漢奸として処刑されてます.
日本史板,2003/05/03
青文字:加筆改修部分
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