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◆◆カシミール問題
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南アジアFAQ目次


(画像掲示板より引用)


 【link】

「Indian Defence」◆(2013/03/02) Militants gun down two policemen in Kashmir

「VOR」◆(2012/10/17)パキスタン軍 カシミールのインド軍部隊を銃撃 3人死亡


 【質問】
 カシミール問題とは?

 【回答】
 1947年,ヒンドゥー教徒であったカシミール藩主が,マジョリティを占めるムスリムの意思を無視してインド帰属を決めたことが起源.※
 国連はカシミール住民の民族自治権を認めているのですが,インドは,87年のカシミール州議会選挙でインドへの帰属を認める非分離派が勝利したことを盾に,問題は解決済みという姿勢をとっている.
 しかしこの選挙では,イスラーム政党の集合体である「ムスリム連合戦線」が,予想外の敗北を喫したことから,インド政府が選挙に不正介入を行ったのではないかとの指摘があります.
 以降,カシミールでは武装闘争が激化,計2万人以上の犠牲者を出している,というのがこれまでの流れです.

 インド情報機関は,カシミールでは千人程度の外国人が武力紛争に加わっていると見積もっていますが,その中心が「アフガーニー」と呼ばれるアフ【ガ】ーン義勇兵達です.
 それに加え,パキスタン人義勇兵も数多くカシミールに乗り込んでいる.
 彼らはタリバーンやビン・ラディンとも繋がりを持ちながら,パキスタン政府からも支持を受けていると見られます.

 一方,インドは98年,ヒンドゥー至上主義を掲げるバジパイ政権の誕生以降,カシミールに対し,より強硬な姿勢をとり続けている.
 紛争の中心地,ジャム・カシミール州はインドで唯一,ムスリムが多数を占める州ですが,ここへのヒンドゥー系住民の大量移住も進めています.
 こうした姿勢に怒ったパキスタンは,98年5月にイスラーム国家としては初めて核実験を断行するわけです.

 詳しくは,宮田律著〔中東現代政治専門家〕 from 「『新しい戦争』を知るための60のQ&A」(新潮社,2001/11/15)P.119-12を参照されたし.

 ただし,以下の文章によれば,必ずしも宮田の説明は正確ではない.

「インド亜大陸には,かつて562の藩王国があった.カシミールは最大の藩王国だった.
 英国のインド統治が終わるとき,藩王国はヒンドゥ,ムスリムのどちらに帰属するかを選択したが,カシミールは最も難しい立場に追い込まれた.藩主はヒンドゥ,住民の80%はイスラームであり,地理的にはインド亜大陸北西部にあって,どちらにも近いからだ.

 1947年8月,英国支配が終わったが,カシミールの帰属は未定のままだった.
 独立と共に,一部のヒンドゥ,イスラーム両教徒は,安住の地を求めて大移動を始め,その過程で虐殺合戦に発展.
 混乱の波及を恐れたカシミール藩主は独立宣言を発したが,独立を保障する力を欠いた.
 一部のムスリムが,『アーザード(自由)・カシミール』の独立を宣言すると,それにこたえるかのようにパキスタン軍が介入してきた.
 これに対してヒンドゥ教徒である藩主は,ヒンドゥ主導国家インドのネール首相を頼り,インドへの暫定帰属を決め,インドに派兵を求めた.
 ここに第1次印パ戦争が勃発する.

 ここで見逃せぬ事実があった.カシミールへ軍事介入したパキスタン軍の指揮の先頭で,米国軍人ラッセル・ヘイスが旗を振っていたことだ.
 カシミールは地理的に,印パ両国の他,ソ連(当時),中国,アフ【ガ】ーニスタンに近接しており,極めて戦略性が高い.
 それを認識する米国は,パキスタンに様々な支援を与えていたのである.
 非同盟を掲げるネール首相のインドが,米国の意のままに動かず,これをインドのソ連傾斜の兆しを米国が睨んだ事もある.

 第1次印パ戦争は49年に終結.国連仲介で双方は停戦ラインに合意したが,インド側は3分の2を確保して「ジャンムー・カシミール」を名乗り,パキスタンの支配地は,「アーザード・カシミール」を含む,全体の3分の1に過ぎなかった.
 当初から卑劣な戦いだった.
 イスラム分離派は,カシミール渓谷内のヒンドゥー教徒やシーク教徒といった少数派集団を狙い,彼らを退去させるための警鐘として,時折大虐殺を行った.
 教養のあるヒンドゥー教徒が多い役人達が暗殺されると,パンディット〔カシミールのヒンドゥー教徒におけるカースト最高位者〕達の間にパニックが起こり,彼らのうち少なくとも10万人が,インドの他の地域へ逃れた.※3

 インド軍はテロにはテロで応じ,カシミールは拷問,殺人,放火,レイプが横行する地と化し,無傷でいられた家族は一つもなかった.

 〔略〕

 戦いが激しさを増し,本来カシミールの自由を求めて立ち上がった兵士達が戦いに倒れると,彼らに代わって,アフガニスタンで戦ってきた国際旅団から,強硬なジハーディス〔神学校生徒〕が台頭し,その中には,オサマ・ビン・ラディンから資金援助を受けているものもあった.
 アル・バドルやテヘリーケ・ジハードなどのように,パンジャーブ人やアラブ人,フィリピン人,アフリカ人の学生を含む外国人兵士のみで構成されている場合もあった.
 その一方で,パキスタンを本拠地とするハラカト・アル・アンサールのように,旅行者を誘拐するグループもあり,少なくとも旅行者の一人が,彼らによって首を刎ねられた.

C. Kremmer著「『私を忘れないで』とムスリムの友は言った」
(東洋書林,2006/8/10),p.358-360

 カシミール藩王国でドーグラー王朝に対して初めて政治的権利を求める民衆運動が起こったのは1930年代である.
 このときから優れた指導者として知られたシェイフ・アブドゥッラーは,カシミール人の解放運動を指導し,インド政府との交渉者としての役割を担った.
 この運動はムスリムが大多数であったが,ヒンドゥーのパンディットも含まれていた.

 1947年のインド・パキスタン独立直後,藩王ハリ・シンは,独立の可能性を摸索して,インド,パキスタンいずれに帰属するかを明らかにしていなかった.
 しかし10月になって,パキスタン政府の支援を受けたパシュトゥーン人民兵が,パキスタンの北西辺境州からカシミール藩王領へ侵入しはじめたことによって,藩王はインド政府へ助けを求めざるを得なくなり,それと引き換えにインドへの帰属議定書に署名した.

 シェイフ・アブドゥッラーはその後,カシミールが,自治(autonomy)に近い地位を得る可能性を信じて,インドの与党インド国民会議派と協力することを選んだ.
 藩王ハリ・シンが帰属議定書に署名してからも,カシミールがいずれ特別な地位を得るという想定は,カシミールの指導者達の念頭に常にあった.
 しかし,これに反して実際には,カシミールを中央集権体制の中に取り込む過程が始まった.

井上あえか in 『南アジアの安全保障』(日本国際問題研究所編,
日本評論社,2005.10.10),p.144-145


(画像掲示板より引用)


 【質問】
 カシミールの反インド勢力は,最初からパキスタンへの帰属を目指していたのか?

 【回答】
 No.
 クリストファー・クレマーによれば,以下のような経緯があったという.
 以下引用.

 当初,カシミール人は独立のために戦っていたが,パキスタンへの帰属を求めるグループが武器の大半を所有し,やがて他の少数意見を凌駕していった.
 アフガニスタンと同じように,反乱軍同士の争いがインドとの戦争よりも優先されるようになり,このことは宗派の分裂を招いた.

C. Kremmer著「『私を忘れないで』とムスリムの友は言った」
(東洋書林,2006/8/10),p.357

 現在でもカシミールの武装勢力は40以上に上ることから考えても,この記述は信頼できるものと愚考する.


 【質問】
 カシミール問題には,インド・パキスタン両国の国内問題がどう影響しているのか?

 【回答】
 パキスタンにとっては,カシミールのムスリム/ムスリマ住民をインドに渡してしまうようなことになったら,
「じゃあ,インドから分離して独立しなくても良かったんじゃね?」
ということになりかねない.

 インドにとっては,カシミールのムスリム/ムスリマ住民をパキスタンに渡してしまうようなことになったら,
「政経分離じゃないじゃん」
ということになりかねない.

 ということで,両国とも引くに引けないでいる.

 以下引用.

 カシミールが両国で国内問題年ての重要な意味を持つのは,この問題がいずれにとってもそれぞれのナショナリズムないし国民統合の原理に関わっているからである.

 まず,パキスタンの建国の理念は,M.A.ジンナーが提唱した「2国民論(two nation theory)」に表れている.
 それは,インドア大陸にはヒンドゥーとムスリムという2つの国民(nation)が存在し,それぞれが自治を守るため,特に少数であるムスリムが自治を保障されるためには,2つの国家(state)が創られなければならないというものであった.
 これに従えば,ムスリムが人口の多数を占めるカシミールは,パキスタンに帰属すべきであるという結論を導くことが可能である.
 逆にカシミールをインドに譲るならば,それはムスリムの国家を求めた分離独立自体の意味を問い直すことに繋がり,統合の原理そのものへの疑義となりかねない.

 一方インドの場合,独立の理念,国民統合の原理は,多様な宗教を含む政教分離主義(secularism)であり,実際インドには1億人を超えるムスリムが存在する.
 この原理に従えば,ムスリム多住地域であるカシミールがインドに帰属することに無理はない.
 むしろ,カシミールがパキスタンに帰属することを認めれば,パキスタンが主張する国民論の承認となり,インドの国是である政教分離主義の否定に繋がる可能性がある.
 さらにそれが右翼のヒンドゥー至上主義者達を刺激し,ひいてはインド国内に住むムスリムの立場を甚だしい危険に晒すことになり,これは政権の本意ではないという見方もある.9
(9) 2003年1月16日,Sugata Boseとのインタビュー

井上あえか in 『南アジアの安全保障』(日本国際問題研究所編,
日本評論社,2005.10.10),p.148-149


 【質問】
 カシミール問題についてのカシミール人の考えは?

 【回答】
 一致しているのは住民投票実施まで.
 独立派やパキスタン帰属派等,様々な意見があって纏まっていない.

 以下引用.

カシミール人の代表を主張する全党自由会議12(APHC:All Party Huriyat Conference)は,住民投票を実施することと,インド,パキスタンにカシミール人代表を含めた3者で交渉することを求めている.
 ただしカシミール人は一枚岩ではなく,全党自由会議のメンバーも統一的な最終目的を決めているわけではない.最終的な解決として独立を求める勢力から,パキスタン帰属を望む勢力まで,様々な立場が存在する.
 ジャンムー・カシミール解放戦線(JKLF:Jammu Kashmir Liberation Front)のような独立派は事実上主導権を持ってはいないと見られるが,住民投票の実施方法などについて,統一的な見解は表明されていない.13
(12) 大小のカシミール解放運動団体十数組織が集まって結成している傘組織で,本部はシュリーナガルとムザッファラーバードにある.合法的な組織であるが,シュリーナガル本部の幹部がパキスタンに行くことは,インド政府が認めない傾向にある.
(13) 2002年11月3日,イスラマーバードの全党自由会議でのインタビュー.

井上あえか in 『南アジアの安全保障』(日本国際問題研究所編,
日本評論社,2005.10.10),p.151

 さすがにインド帰属派は少数のようだが.


 【質問】
 カシミール武装闘争にパキスタン政府は関与していたのか?

 【回答】
 している.
 これまでは「公然の秘密」だったが,9.11テロ直後の対米交渉の中で,自ら証明してしまったようなもの.

 以下引用.

 パキスタン政府は関与を一切否定してきたが,2001年9月11日の米同時多発テロ後,米国の反テロ戦略への協力の過程において,水面下で米国の強い圧力を受け,いわゆる越境テロへの支援を中止したと言われ,少なくとも直前の時点で,カシミール武装勢力とパキスタン軍統合情報局(Inter-Services Intelligence:ISI)との間に強い繋がりがあったことが証明された.26
(26) Selig S. Harrison, Pakistan: the Destabilisation Game, Le Monde Diplomatique, October 2001, Online Version.

井上あえか in 『南アジアの安全保障』(日本国際問題研究所編,
日本評論社,2005.10.10),p.155


 【質問】
 なぜパキスタン政府はカシミール武装勢力を支援していたのか?

 【回答】
 イスラーム過激原理主義がかったナショナリズムと,インドを煩わせる,という2つの目的から.

 以下引用.

 パキスタンが,カシミールで武装勢力を支援する理由としては,以下の2点が指摘できる.

 第1に,1980年代のジアウル・ハク政権が対インド・ナショナリズムとイスラーム化という政策をとり,アフガニスタンのムジャーヒディーンを支援してきたという土壌があった.27
 彼は1988年に事故死するが,彼の時代にアフガニスタン支援の実行機関となったISIの権力と,これに協力したジャミーアトゥル・ウラマーエ・イスラーム(イスラーム・ウラマー党),そしてハク政権のイデオローグであったジャマーアテ・イスラーミーの政権への影響力は,その後,民主政権時代を通じて隠然たる力を持って2001年9月に至るまで維持されてきた.
 こうした文脈の中で,カシミールのムジャーヒディーン支援は開始され,継続されてきたと考えられる.28

 第2に,パキスタンにとって,カシミール人武装組織が破壊活動を行うことは,インド治安当局を煩わせるという点で対インド戦略となりうるということである.29
 インドは人口,経済力,軍事力において,遥かにパキスタンを圧倒している.
 パキスタン政府はインド軍部隊をカシミールに釘付けにするための比較的安価な手段として武装闘争を支援したというのである.
 つまり,パキスタンが武装闘争を生み出したとはいえないが,武装闘争がパキスタンを利することは無視できない.
(27) さらにその根底にあるのは,バングラデシュ独立を支援したインドに対するパキスタン軍の強い報復意識であったという考え方もある.
(28) カシミール武装組織へのパキスタンの深い関与については,Jessica Stern, "Pakistan's Jihad Culture," Foreign Affairs, November/December, 2000が示唆に富む.
(29) Ibid.

井上あえか in 『南アジアの安全保障』(日本国際問題研究所編,
日本評論社,2005.10.10),p.155-156

 ただし同書でも,このあとのくだりで述べられているように,ブーメランのようにパキスタン国内治安上の脅威となって撥ねかえってきている.
 別項で述べているように,パキスタンのターリバーン化が近年,懸念されている.


 【質問】
 カシミール問題解決の方策はないのか?

 【回答】
 管理ラインの国境化が,最も現実的だと考えられている.
 現在では政治的解決よりも,社会福祉を通じた融和が進んでいるが,完全解決には強いリーダーシップが必要と考えられている.

 以下引用.

 近年,解決策の中で最も現実味があると考えられてきたのは,管理ラインを国境化するという考え方であった.
 インディラ・ガンディの秘書官としてシムラ協議に関わったP.N.ダールは,管理ライン国境化の根拠として,1972年,第3次インド・パキスタン戦争の戦後処理のために結ばれたシムラ協定において,いずれ管理ラインを国境とすることでインド・パキスタン間で内々の合意があったとしている.30

 しかし近年,インド,パキスタン,米英などの外国,いずれにおいても,カシミール問題は,2国間の領土問題としてとらえるより,カシミール住民の福祉や教育,人権の問題としてとらえる傾向が表れてきている31
 パキスタンがカシミール紛争を軍の存在意義と結びつけたり,インドがジャンムー・カシミール州への立ち入りを制限して現実を公表しないままに正常化を主張し続けたりする限り,両国の利害は対立し,問題解決への建設的な道筋は見出されないであろう.

 〔略〕

 カシミール問題は,もはや2国間問題とは言えないものの,現在の緊張緩和へのプロセスを動かしているのはやはり両国の指導者達である.
 両カシミールを結ぶバス路線の開通は,目に見える画期的な成果と言える.
 しかし,こうしたCBMsを積み上げて現状維持(管理ラインの国境化)をもって問題解決と考えるインドに対して,両国の分割管理という現状を変更するためのプロセスとしてCBMsを位置付けるパキスタンとの懸隔が解消されたわけではない.
 また,多様なカシミール人の意思を問題解決に反映させていくことはいかにして可能かということも,両国政府とカシミール人との対話を通じて検討されていかなければならないであろう.
 それらのためにはさらにもう一歩踏み込んだ両国の努力が必要であり,それぞれに国内を説得するリーダーシップが不可欠と思われる.
(30) 伊豆山真理『80年代までのカシミール問題――「ナショナル」な側面』 日本国際問題研究所,2000年.
(31) 例えばアーイシャ・ジャラール,シュガート・ボース「カシミール問題を解決するために――「領土紛争」から「住民による主権」へ」 『世界』,2003年7月号など.
 その他,カシミール問題解決方法を巡る議論として,Satu P. Limaye, "Mediating Kashmir: a Bridge too Far?" The Washington Quarterly, 26:1, pp.156-167,2003など.

井上あえか in 『南アジアの安全保障』(日本国際問題研究所編,
日本評論社,2005.10.10),p.161-162

 この問題は目新しい問題ではないが,両国の核保有が明らかになったこと,2001年10月以降のアフガニスタン,パキスタン内におけるテロリスト掃討作戦のもたらす影響およびパキスタン国内の変化など,南アジア情勢の変化が持つ意味合いという観点から再度,見直さなければならなくなっている.

 この問題はさらに,カシミールにおける軍事対立が全面戦争へ発展することを防ぐための外交的・軍事的措置がありうるのか,国際社会が果たしうる役割とは何かという問題になる.
 そしてカシミール問題は核軍備管理という側面に加えて,通常戦力や特定通常兵器に関する軍備管理問題を含んでいることにも注目する必要がある.

森本敏 in 『南アジアの安全保障』(日本国際問題研究所編,
日本評論社,2005.10.10),p.194

 カリスマ政治家の登場を待つより,凡庸な政治家でも問題を解決できるようなシステムを構築できるのなら,それが一番いいのだが.


 【質問】
 第1次印パ戦争とは?

 【回答】
 カシミールを巡る最初の印パの衝突.
 以下引用.

 インド・パキスタン両国の分離独立に際して,マハラジャ(藩王)の支配下にあった約500もの藩王国は,インドとパキスタンどちらに帰属するかは自分達で決めて良いとされた.
 中国・インド・パキスタンと国境を接するカシミールの藩王は,カシミール独立を考えていた.
 しかし,カシミールの人口の70%はイスラム教徒であり,パキスタンはカシミールの独立を阻止しようと,1947年10月,カシミールに軍を派遣した.
 カシミール藩王はインドに保護を求め,インドもカシミールへ軍を派遣,軍事衝突へと発展した.
 この軍事衝突は国連の調停によって停戦を迎えたが,その後もカシミールを巡ってインドとパキスタンは激しく対立している.

http://www.mirai-city.org/ithink/kokusai/indiahis.html


 【質問】
 第2次印パ戦争とは?

 【回答】
 1965/9/1〜9/22の戦争.
 当初,カシミール地方で優位に立っていたパキスタン軍だったが,インド軍にラホールまで迫られたため,停戦を受け入れた.
 以下引用.

 1965年9月1日,カシミールでインド・パキスタン両軍が軍事境界線を越えて武力衝突.パキスタンが正規軍と戦車70両を投入して優位に立った.
 しかし,9月6日,インド軍はパキスタンとの国境の中央部にあたるパンジャブ平原からパキスタン領内への侵攻を開始.
 インド軍は進撃を続けて商業都市ラホールに迫ったため,パキスタンは9月22日に国連の停戦協定を受け入れる.
 この戦争によって,パキスタンがカシミールで攻勢に出ても,総兵力で圧倒的優位を誇るインドはいつでもパキスタンの心臓部へ攻め込めることが浮き彫りとなった.

http://www.mirai-city.org/ithink/kokusai/indiahis.html


+

 【質問】
 第3次印パ戦争とは?

 【回答】
 1970年12月のパキスタン総選挙で,東パキスタンを地盤とするアワミ連盟が躍進,国民議会の過半数を占めると,アワミ連盟と西パキスタンの政治・経済的優位を維持しようとする大統領やパキスタン人民党との対立が深まり,アワミ連盟のラーマン総裁は,東パキスタンの独立を要求する.
 このため西パキスタンは東パキスタンへ軍隊を派遣,バングラ人と内乱状態になる.
 1971年12月,インド軍が東パキスタン問題に武力介入を開始.パキスタンは14日間で無条件降伏し,東パキスタンはインドの支援のもとに「バングラディッシュ」として独立する.

 この戦争によって,パキスタンは国土の2割近くと人口の60%を失うこととなった.
 一方インドはバングラディッシュの独立によって,東西パキスタンに挟まれる形で受けていた軍事的圧迫のうち,東からの圧力を完全に除去することに成功した.
 さらにこの戦争の過程で,アメリカがソ連との対抗上重要な位置にあるパキスタンを失うことを怖れ,第7艦隊の空母エンタープライズをインド洋へ派遣してインドに停戦を迫ったことがあった.
 この事件を契機に,インドは海軍の増強に力を入れ,「外部の大国」の干渉を排除する方向性を模索し始める.

http://www.mirai-city.org/ithink/kokusai/indiahis.html

 【関連リンク】
「ワレYouTube発見セリ」:Indian Navy at war 1971 east (第3次印パ戦争でのインド海軍)


 【質問】
 シムラ協定とは?

 【回答】
 71年の第3次印パ戦争後の戦後処理として締結された協定.
 カシミールを分断した実効支配線を「管理ライン」に改称し,その時点のものを追認,2国間で発生した問題を必ず2国間だけで解決すると誓約することになった.
 これは,印パ2国間の問題・紛争に国連や第三国が介入できないことであり,インド有利の力関係での現状固定を意味した.

(遠藤義雄 from 「ポスト・タリバン」,中公新書,2001/12/20,P.97-98,抜粋要約)


 【質問】
 89年暮れからカシミール情勢が悪化したのは何故か?

 【回答】
 自治上の特権が次々と剥奪されて殆ど何も残らなくなったことと,2大政党が野合して地域住民の不満を汲み上げるシステムがなくなったこと,さらにイスラーム過激原理主義者がアフ【ガ】ーニスタンからカシミールへ移動したことが原因とされる.
 以下引用.

 この時期(89年暮れ〜90年代半ば)にカシミールで一気に火が吹いたことには,インド側の事情もあった.

 第1に,JK〔ジャンム・カシミール〕州の自治が大幅に侵食され,実質的にJK州に与えられていた特別の地位が剥奪されたという点である.
 インド憲法370条は,同州に独自の憲法を持つことを認めているが,この特別な地位は時間の経過と共に形骸化されていった.インド国旗の採用,最高裁判所の管轄権など,インド国家の政治体制が次から次へと同州に適用されていったのである.
 最終的にJK州が他州と異なる点は370条の存在のみになったとまで言われる.
 こうした自治権の喪失に,カシミール住民は不満を募らせていった

 第2に議会制民主主義の機能低下である.
 JK州の政治は地域性党の民族協議会(National Conference)と全国政党の会議派の2大勢力が争う構図となっていたが,1986年にラジーブ・ガンディ首相兼会議派総裁とファルーク・アブドゥッラー民族協議会総裁との間に合意が成立し,以後,両党は選挙の際に議席を分け合って立候補者を立てることになった.
 そして87年の選挙でこの同盟は地滑り的勝利を収めたわけであるが,これが州民の不満を爆発させることとなった.
 二大政党が協力関係を樹立するということは,選挙民の立場からすれば選択の余地がなくなったことを意味するわけで,住民の不満を吸い上げるパイプが切れたことになる.
 おまけに,この選挙は大々的な不正行為が行われたと言われる.
 さらに悪いことには,選挙で大勝利を収めて首相となったファルーク・アブドゥッラーは,多くの時間をロンドンで過ごし,州政治を省みなかった.

 こうして不満の捌け口を失った住民は,次第にイスラーム勢力へと傾いていくことになったのである.

広瀬崇子 in 『南アジアの安全保障』(日本国際問題研究所編,
日本評論社,2005.10.10),p.44

 だからといって,上の2つの喪失が,どんな地域でも必ずテロに結びつく,というものでもないが.

 1980年代まで最も先鋭なカシミール分離派組織として知られたジャンムー・カシミール解放戦線は,1977年イギリスのバーミンガムで結成された.
 彼らをはじめとするいわゆるカシミール解放運動は,カシミールの独立あるいは住民投票の実施を求める比較的穏健な闘争であった14が,1989年頃から激しい武装闘争が始まった.15
 代表的な組織としては,ジャンムー・カシミール解放戦線の他,パキスタン帰属を求めるヒズブル・ムジャーヒディーン(Hizb-u-Mujahideen)がある.16
 そして90年代半ばから,闘争の主力は全党自由会議のメンバー組織ではなく,パキスタンに拠点を持つパキスタン人ムジャーヒディーン(イスラーム戦士)勢力や,アフガニスタンから転入してきたいわゆるアラブ・アフガンの活動に移っていくようになった.17

 武装闘争激化の理由として第1に挙げられるのは,インドのカシミール政策の失敗である.
 スミット・ガングリーは次のように指摘している.18
 1986年にカシミールの民族政党として連邦との交渉者の役割を担ってきたナショナル・カンファレンス19と,連邦政府与党であったインド国民会議派との妥協が成立した結果,カシミールにおいて住民の反連邦政府意識を代弁してきた窓口が失われ,住民の意見を反映しうる媒体がイスラーム勢力のみとなった.
 この妥協に基いて1987年に州選挙が実施されたが,カシミール人はナショナル・カンファレンスとの信頼関係を失った上に,インド政府主導の選挙を押しつけられ,しかもその選挙は不正選挙であったために,激しい屈辱感を抱くに至った.
 こうした住民の抑圧感の中から,武装して反政府運動に加わる者が増え,武装勢力の活動が活発化した.

 歴史的な経緯から,以下のような説明もある.20
 独立直後,ナショナル・カンファレンスの指導者シェイフ・アブドゥッラーが,インドとの交渉を維持しようと考えた理由は,民主主義と連邦の自治という2つの約束があったためであった.
 しかし実際には,カシミールでその約束は履行されなかった.
 まず民主主義については,独立以来56年間,インド支配下のジャンムー・カシミールで行われた選挙のうち,自由かつ公正と認められるのは2,3度しかない.
 インドという国家は全体としては議会制民主主義を守ってきているにも関わらず,カシミールにはその原則が適用されていない.
最初の自由かつ公正な選挙は1977年,インディラ・ガンディ首相とジャンムー・カシミール州との協定の結果,実施された選挙で,2度目はシェイフ・アブドゥッラーが亡くなってまもなくの1983年の選挙であった.
 そして,部分的には自由かつ公正と言えたのが2002年の10月選挙であるが,この選挙はカシミール渓谷ではかなりの強制や脅迫などの問題があった.
 もう一つの約束である連邦の自治は,1952年のジャワハルラール・ネルー首相とシェイフ・アブドゥッラーとの間に結ばれた協定,およびインド憲法370条に盛り込まれた.
 しかし1950年代,60年代,70年代を通じて,370条に定められていた実質的な自治の要素は全て,中央政府によってじわじわと奪われていった.
 インド政府はそれをカシミールの正常化と呼んだが,結局は1989年以降のカシミール人の蜂起に繋がっていった.

 武装闘争激化のもう一つの要因として指摘されているのは,1988年にソ連軍がアフガニスタンから撤退したことにより,アフガニスタンで戦っていたムジャーヒディーン21がカシミールに移動していったことである.
 彼らはアラブ・アフガンと呼ばれ,パキスタン政府やジャマーアテ・イスラーミー(Jamaat-e-Islami)22などパキスタンのイスラーム団体が彼らに対して組織的な支援を行ってきたといわれている.
 〔略〕
 1989年以来激化した武装闘争は,1990年代半ばから末にかけて,もう一つの転換点を迎えた.
 以前のカシミール人の解放闘争では見られなかった自爆テロが起こるようになり,さらに武装勢力自身がカシミール解放運動をジハードと称するようになったのである.
 対ソ連戦争の後,アフガニスタンから世界へ散ったアラブ・アフガン達は,パキスタン人の組織と共に90年代半ば以降,カシミールでの活動を活発化させた.
 ハルカトゥル・ムジャーヒディーン(Harkat-ul-Mujahideen),ジャイシェ・ムハンマド(Jaish-e-Mohammad,またはアル・フルカン Al-Furkan),ラシュカレ・タイバ(Lashkar-e-Taiba)などがそうした組織として知られている.
 パキスタンの著名なジャーナリストで,タリバンと中央アジアに関する著作の多いアフマド・ラシードは,1990年代半ばにタリバン,ウサマ・ビンラディン,アラブ・アフガンの3者が,パキスタン政府の支援を受けてパキスタンのイスラーム組織ハルカトゥル・アンサール(Harukat-ul-Ansar,前述のハルカトゥル・ムジャーヒディーンの前身)と共にカシミールでの武装闘争に加わったと指摘している.23
 この時アラブ・アフガンによって,ワッハーブ派の規範がカシミール武装闘争に持ち込まれ,前述のようにカシミール解放運動をジハードと称したり,自爆テロという方法が導入されたと指摘されている.

 カシミールで目立った活動をしている武装組織は,アラブ人・パキスタン人主体の組織である.
 カシミールの武装闘争が,外国人勢力中心のゲリラ闘争となり,自爆テロとジハードが中心となってきたことは,殆ど唯一のカシミール人主体の組織であるヒズブル・ムジャーヒディーンに疎外感を与えているようである.
 ヒズブル・ムジャーヒディーンの広報担当者は,パキスタンの新聞に対して,
「外国人過激派はカシミール人の指導力に従うべきである」
と述べている.24
 ただし,ハルカトゥル・ムジャーヒディーン,ラシュカレ・タイバ,ジャイシェ・ムハンマドの3団体は2002年1月に,ムシャラフ大統領により非合法化された.25
 これらの団体は,その後も名前を変えるなどして活動を継続させているとも言われるが,2002年6月以降,米国の圧力によってパキスタンの支援が本格的に停止されたと見られている.
(14) Twenty Years of Jammu Kashmir iberation Front, JKLF, Muzaffarabad, 1997.
(15) 武装闘争の始まりを象徴する事件として,JKLFによるM.M.サイード内相の娘ルバイヤー誘拐事件がある.
 このとき犯人側の要求が受け入れられて,JKLFメンバーが5名釈放された.
(16) 89年結成.パキスタン最大のイスラーム政党であるジャマーアテ・イスラーミーのカシミールにおける武装組織.規模としては最大のカシミール武装組織.
 現在,以下のような外国人主体の組織に対して,おりにふれて反感を表明している.
(17) カシミール武装闘争の激化と展開に関しては,注に挙げるものの他に,以下を参照.
Victoria Schofield, Kashmir in the Crossfire, I.B.Tauris Publisher, 1996;
Alastair Lamb, kashmir: a Disputed Legacy 1846-1990, Oxford University Press, 1992;
Vernon Hewitt, Towards the Future?: Jammu and Kashmir in the 21st Century, Granta Editions, 2001.
(18) Sumit Ganguly, Explaining the Kashmir Insurgency: Political Mobilization and Institutional Decay, International Security, Vol.21, No.2, 1996.
(19) シェイフ・アブドゥッラーが独立運動期に設立したカシミールの民族政党で,1946年にヒンドゥー藩王ハリ・シンに対する「カシミールを出ていけ運動(クィット・カシミール)」を展開して大衆的人気を獲得.独立後,カシミール人を代表する政党として,中央の会議派政権との交渉に当たるべき役割を担ってきた.
(20) 2003年1月16日,Sugata Boseとのインタヴュー.
(21) ムジャーヒディーンはジハードを行う者の意.一般にジハードは聖戦,ムジャーヒディーンは聖戦士と訳される.本来,ジハードは忍耐,努力の意で,イスラームの主権を確立し,それを守るための努力や戦いを意味する.
(22) ラホールに本部を置くパキスタン最大のイスラーム政党.
(23) Ahmad Rashid, Taliban, Militant Islam, Oi and Fundamentalism in Central Asia, Yale University Press, USA, 2000, p.137.
(24) Times of India, 21 Nov.2001.
(25) 2002年1月12日の演説でムシャラフ大統領が非合法化した組織は,
「ラシュカレ・タイバ(Lashkar-e-Taiba)」
「ジャイシェ・ムハンマド(Jaish-e-Mohammad)」
「シパーヒーエ・サハバ・パキスタン(Sipah-e-Sahaba Pakistan)」
「テヘリーケ・ジャフリヤ・パキスタン(Tehrik-e-Jafria Pakistan)」
「タンズィーメ・ニファズ・シャリーアテ・ムハンマド(Tanzim Nifaz-e-Shariat-e-Mohammad)」.
 この他に
「スンニー・テヘリーク(Sunni Tehrik)」
を監視下に置くと発表した.

井上あえか in 『南アジアの安全保障』(日本国際問題研究所編,
日本評論社,2005.10.10),p.152-155


 【質問】
 89年暮れからのカシミール情勢は,どのような悪化を見せたのか?

 【回答】
 学校に対する破壊活動や誘拐,暗殺が急増したという.
 以下引用.

89年暮れからパキスタンの反対側の国境,すなわちインド側のカシミールで紛争が激化し,90年代半ばになると情勢は極端に悪化した.
 インド政府の発表によれば,カシミールでは400に及ぶ公立学校が破壊され,25万人以上のヒンドゥー教徒がカシミール渓谷からの脱出を余儀なくされ,難民キャンプで生活をするようになった.
 また,外国人を含む誘拐事件が多発し,役人や政治家の殺害事件も起きた.
 「テロリスト」が起こした事件の数は,1988年の390件から92年の4971件へと急増しており,犠牲者の数も同時期に,31人(反政府分子1人を含む)から1909名(同873人)に増えている,と政府報告書は述べている.9
(9) Human Rights Violations Caused by Terrorism: India, Kashmir, A Government of India Publication, n.d.. 90年代半ばの出版.

広瀬崇子 in 『南アジアの安全保障』(日本国際問題研究所編,
日本評論社,2005.10.10),p.43-44

 ただし,上記の数字はインド政府の発表したものであることは留意しておきたい.
 「テロリスト」の定義が曖昧である現状では,その統計も必然的に恣意的なものが混入し易い.
 もっとも,話半分に受け取っても,それでも急増である事は否定できないだろう.


◆◆カルギル紛争

 【質問】
 カルギル紛争とは?

 【回答】
 1999年4月,カシミール地方のカルギル地区で起きた武力衝突.
 パキスタンが,支配の境界線である管理ラインを越え,偽装戦闘員をインド側に送り込んだことが,戦闘のきっかけとなった.
 砲撃,空爆という正規軍の本格戦闘に発展.

 この戦闘は,その2ヵ月前のラホール宣言によって,カシミールの境界線が固定化に向かう事を阻止しようとしたもので,核保有国同士の紛争となれば,国際社会も無視できず,カシミール問題を国連や第三国の調停の場に引き出す環境を作ることができる,という読みの下で行われた.

(遠藤義雄 from 「ポスト・タリバン」,中公新書,2001/12/20,P.102,抜粋要約)

 【関連動画】
「ワレYouTube発見セリ」:Indian Air Force in Kargil war 1999



 【質問】
 当時のシャリフ政権は,ラホール宣言を推進していたのではなかったのか?

 【回答】
 パキスタンでは,軍政期のみならず民政期でも,安全保障に関わる政策は,軍部が専管事項として扱ってきた.カシミールしかり,アフガニスタンしかりである.
 文民政権は安全保障問題では,軍部の同意を得ない限りは何も決める事ができない.

 カルギル紛争は元々は,軍部内部で強い発言力を持っている部隊長クラスの圧力で計画されたもので,軍上層部やシャリフ首相までも押し切られる形で承諾した.

(遠藤義雄 from 「ポスト・タリバン」,中公新書,2001/12/20,P.102-103,抜粋要約)


 【質問】
 カルギル紛争で戦場となったソナマルグは,どんなところか?

 【回答】
 隊商宿の町で,道路はぼろぼろで狭く,一本きり.防御には最適.
 以下引用.

 ソナマルグは,古くから隊商宿のあった場所で,町の名は「黄金の牧草地」を意味し,何世紀もの間,ラダックから運び込まれる羊毛と,塩や紅茶,その他の産物との売買が行われていた.
 町の背後では,険しく切り立った峰が,杉や松の厚く青々と茂った林に覆われ,コーラホイ氷河から渓谷まで達する長いつららが下がっていた.
 そこを過ぎると,ぼろぼろの道はさらにゾジラ峠まで上がっていく.
 標高3500m地点でヒマラヤ山脈と交差するこの峠は,独立戦争の際に,インドがパキスタン軍を払いのけるために戦車を使ったことで,戦車戦が繰り広げられた最も標高の高い場所となった.
 それは,戦場へ向かう道ではなく,その道路自体が戦場だった.
 高地を奪回するための軍事行動は,あらゆる局面でその一本の道から始まっていたが,道幅があまりに狭く,ディーゼルの煙を吐きながら走る車は,一度に一方向へしか進めなかった.

C. Kremmer著「『私を忘れないで』とムスリムの友は言った」
(東洋書林,2006/8/10),p.392

 検問所を常設させるための予算は,インド軍にはなかったようだが,結果的にそれは高くつく吝嗇となったようだ.


 【質問】
 カルギル紛争はどのようにして始まったのか?

 【回答】
 1999年2月頃から,パキスタン軍の軽歩兵とイスラーム過激原理主義者志願兵から成る混成部隊が,インド軍の補給を妨害しつつ,5月には,バンジュ山中の,空になっていたインド軍駐屯地を占拠したことから始まった.
 彼らは雪で山道が閉ざされるまでの間,そこを占拠し続けることを目的としていた.

 以下引用.

 1999年の5月初旬のこと,カルギルの町の北東部の山中,バンジュあたりで山羊の群れの番をしていた2人の羊飼いが,見知らぬ一団が荒涼とした土地を横切っていくのを発見した.※13
 黒いサルワール・カミーズをまとった男達は,兵士とも登山家とも見えなかった.
 その3日後に,タートック地域の偵察に派遣された軍のパトロール隊は,戻ってこなかった.
 他のパトロール隊が確認したところでは,何百人という身元不明の武装した人々が,パキスタンが支配する地域から管理ラインを越え,冬の間はいつも空っぽになっているインド軍の駐屯地に陣取っていた.
 5月12日までに,北方軍本部はジャンムー・カシミールの全ての兵を厳戒態勢下に置き,5月の最終週には,3万のインド軍兵士が,ニューデリーの北650kmの地点に大挙して押し寄せた.

 カルギル地区に置けるパキスタンの秘密軍事行動は,既に1999年2月には着々と進められており,ちょうどその頃,インドの首相アタル・ビハーリー・ヴァージペーイーは,歴史に残る和平協定を結ぶために,ラホール行きのバスに乗り込んだ.
 〔略〕
 彼らのいる場所〔ラホール〕からインド側のテリトリーに9kmほど入ったところで,侵略軍(パキスタンの北部軽歩兵連隊と,聖戦〜ジハードの志願兵から成る混合部隊)が,シアチェン氷河を占拠しているインド軍に物資を補給する輸送軍の妨害に成功していた.
 変則的な部隊を使うこの方法は,パキスタン始まって以来の歴史を持つ戦法だった.
 〔略〕10月になって再び山道が雪で閉ざされるまで尾根を占拠し続けることができれば,彼らは新たな事実上の境界線を引くことができ,シャリーフも陸軍参謀長のパルヴェーズ・ムシャッラフ将軍も,国家的ヒーローとして歓声を浴びることだろう.

 〔略〕

 敵〔パキスタン〕側はもっと充実した装備で一歩先んじ,優れた計画と兵站力とで,密かに800平方kmに及ぶ地域を占領していた.
 一つのジハード軍に2名の正規兵がついて総勢,約1700人.
 管理ラインを越える前の数ヶ月間,彼らは世界で2番目に高いゴドウィン・オーステン山のふもとのトレーニング・キャンプで,風土に慣れる訓練を積んでいた.
 その際,武器は持たず,人目につかないように,防寒衣の上にサルワール・カミーズをまとっていた.

C. Kremmer著「『私を忘れないで』とムスリムの友は言った」
(東洋書林,2006/8/10),p.389-390 & 395

 空にしておくなよ…….


 【質問】
 カルギル紛争におけるインド軍の兵站状況は?

 【回答】
 運搬手段はラバ,防寒衣さえ全員には行き渡らないという貧弱なものだった.

 以下引用.

 やっと重い腰を上げた巨大なインド軍は,カシミール渓谷からラダックの旅団や師団本部まで,兵士,武器,そしてトラック何百台分かの運搬用ラバを,ゆっくりと,しかし整然と輸送するための準備を始めていた.
 かなり長い距離に渡って,道の両脇にはトラックや,宿舎用テント,火薬庫,入隊後の教育を受けている新米兵士のための仮設テント,そして野戦病院などが並んでいた.

 〔略〕

 蟻のように長い列を作ってヒマラヤ山脈を横切っていくのは,何万人というインド人兵士(ジャワン)達だった.
 尾根を登っては下り,縦一列に隊列を組んで行進していく.
 彼らの標準的な服装は,オリーブ・グリーンのウィンドブレーカーに毛織物のスカーフ,ズボンはブーツの中に押し込み,網目模様のヘルメットを被り,弾薬袋とライフル一丁を下げ,そして一様に口髭を生やしている.
 敵側はもっと充実した装備で一歩先んじ,優れた計画と兵站力とで,密かに800平方kmに及ぶ地域を占領していた.
 〔略〕
「パキスタン軍は,優れた(そして非常に高価な)防寒衣を持っており,武器も気前良く供給され,食糧も豊富にある.
 食べ物を調理し,雪を溶かして水を作るために,それとほぼ同量の燃料ブロックが必要だった」
 〔略〕

 インドにおける約30年間で最大の軍事行動は,極めて不利な状況で開始されていた.
 敵側が高地を占領しているだけではなく,インド軍は全体的に,環境にしっかり適応するための時間がなかった.
 極めて標高の高い土地では,少し歩くだけでも体力が消耗し,軍事行動の初めの数日間で非常に高い率で死者が出たのは,肺に水が溜まって,高山の薄い空気で酸素がうまく吸収できず,窒息してしまう肺浮腫によるものだった.
 それが脳浮腫となると,さらに危険だった.

 侵略軍がサーマルスーツを着てソリに乗っているのに比べ,インド軍はまともな雪靴さえも供給することができなかった.
 防弾チョッキはおろか,みんなに行き渡るだけの十分な毛織ベストもなく,兵士達の頭を保護していたのは近頃のケブラー製ではなく,第2次世界大戦時代のスチール製のヘルメットだった.

 高地のパトロールを行う際には,兵士達は空腹をしのぐために,新鮮でないプーリ〔インドの揚げパン〕を食べ,ビディー〔インドの煙草〕を吸った.
 そして彼らの給料は,馬鹿馬鹿しいほどに安かった.

 しかしインド軍にも,敵のムスリム達が叶わない大きな利点が一つだけあった.
 それは毎日配給される60ミリリットルの「ネルソン提督のラム酒〔戦死したネルソン提督の遺体は,腐敗を防ぐためにラム酒に漬けられてイギリスに運ばれた〕」だった.

C. Kremmer著「『私を忘れないで』とムスリムの友は言った」
(東洋書林,2006/8/10),p.392-400

 準備不足のせいもあっただろうが,大国を名乗るにはお粗末過ぎる.
 周辺国の陸軍は,多いに自信を回復したことだろう.


 【質問】
 カルギル紛争では,インド海空軍は出動したのか?

 【回答】
 インド政府は紛争を局地戦闘以上に拡大することを避けたかったため,海軍の出番はなかった.
 また,山岳地帯では空気が薄く,空軍の活動も制限された.

 以下引用.

 昔から相手よりも軍事力が優っていたインド軍にとって,最も明白な報復行動は,どこか他の場所を攻撃するか,パキスタンの領土を広範囲に渡って占領するか,あるいはラホールのような町を占領することだったろう.
 しかし,どうしても国際的干渉を避けたかったニューデリー政府は,戦いを現行の戦線のみに限定するという決定を下し,より強力な海軍による戦闘をうまく阻止した.

 インド軍の戦闘機は,山岳地帯で機動することができたものの,酸素の薄い空気のために,ヘリコプターの回転翼が牽引力を失ってしまった.
 最初の1週間だけで,インド空軍は戦闘機を4機失った.3機は撃ち落とされ,1機はエンジンの故障のためだった.

 カルギルにおける国の威信を取り戻せるかどうかは,陸軍の力にかかっていた.

C. Kremmer著「『私を忘れないで』とムスリムの友は言った」
(東洋書林,2006/8/10),p.394


 【質問】
 カルギル紛争にはパキスタン軍は関与していたのか?

 【回答】
 補給状況から考えて,パキスタン軍の関与があったことは,ほぼ間違いないと考えられる.
 また,高地を占領していた部隊とパキスタン軍基地との間の会話も盗聴されている.

 以下引用.

「この高地で活動し戦うには,1日に少なくとも4千カロリーが必要だ.
 それは兵士600人分にすると,半トン以上の食料になる」
 パキスタン軍の事情に詳しいブライアン・クラフリー中佐は,こう書いている.
「パキスタン軍は,優れた(そして非常に高価な)防寒衣を持っており,武器も気前良く供給され,食糧も豊富にある.
 食べ物を調理し,雪を溶かして水を作るために,それとほぼ同量の燃料ブロックが必要だった.
 さらに,高地での武器供給は,その大きさと密度のために難しく,一介のゲリラ集団には,パキスタン当局の協力なしにこのような大掛かりな兵站を整えることはできないだろう」★15

 侵略軍が,蜂起されたインド軍の陣地に到着するや,運搬人達は,マシンガン,擲弾発射機,ロケット推進式の催涙弾,迫撃砲,対空銃,スティンガー・ミサイル,暗視ゴーグル,ガス・マスク,それに新しいスノーモービルに至るまで積め込み始めた.
 4月には,元特別奇襲隊員のムシャッラフ将軍が,個人的に「若い兵士達(ボーイズ)」を激励しに飛行機で訪れた.

 〔略〕

 政府によれば,パキスタン軍が戦地にいたという事実はなく,6月の始めに3人の遺体を引き取った後は,パキスタンはそれ以上の遺体の受け取りを拒み,インド軍のモーラヴィー〔イスラム教の法学者〕の手に委ねて,戦場で完全なイスラム式の儀式を行って埋葬してもらった.★18
 パキスタン基地のアフザル司令官と現場のカリーム指揮官との間の盗聴された会話の記録からは,彼らが置かれた絶体絶命の状況がよく伝わってくる.
カリーム 敵軍はすぐそばまで迫っています.兵力の補給が必要です.水と弾薬も残り少なくなっています.
アフザル アッラーの神に祈るんだ.
カリーム 今は祈っている場合ではありません! すぐに兵の補給が必要なんです!★19
 ★15 'Kashmir with a capital N' by Brian Cloughley, The Canberra Times, 5 July 1999
 ★18 'Pak Army dsowns its dead soldiers' The Times of India News Servce, 8 Juy 1999
 ★19 'A Worsening War' by Praveen Swami, Frontline ( India ), 16 July 1999

C. Kremmer著「『私を忘れないで』とムスリムの友は言った」
(東洋書林,2006/8/10),p.395-396 & 401

 ちなみに同じウソを,ターリバーン政府があった頃のアフ【ガ】ーニスタンでもパキスタンはついている.
 こういう見え透いたウソがまかり通るのが,残念ながら現在の国際社会の現実.


 【質問】
 カルギル紛争における,インド軍の戦術は?

 【回答】
 砲撃で制圧し,軽機関銃とロケット砲の支援を受けながら歩兵が突撃するという,ややレトロチックな散兵戦術.
 以下引用.

 マタヤンの町の近くでは,焼けた車の残骸が道路脇に散乱し,殆どがムスリムである住民達は,パキスタンによる砲撃で多くの建物を破壊され,避難していた.
 さらに道を進んでいくと,インド人砲兵隊が報復のために粘り強く働いており,155mmの砲弾を大砲のブリーチに詰め込んで,周りの山々を一掃するために,砲身をとてつもない角度に傾けていた.
 控えの兵士達は,弾を込め,ブリーチを閉じ,耳を塞いで,14秒ごとに3ラウンド撃つという動作を単調に繰り返していた.
 砲弾一つが一千ドル.
 彼らが発砲するたびに,砲身は火を吹き出し,地獄のような大音声が峡谷に響き渡った.
 仮に,込められる砲弾の一つが道から100mほどの地点で爆裂したら,大砲がパキスタン軍の標的にされる前に,彼らは移動しなければならない.
「心配するな」私がたじろぐのを見て,バスに乗っていた将校が言った.「弾に当たるかどうかは,全て運次第だ」

 〔略〕

 パンドラス近くの道端の盛り土に腰掛けて,スレシュ・クマール少佐はブーツを脱ぎ,脚にできた水泡を調べていた.
 ひどい虫刺されに悩むこのラニケートゥ出身の軍人は,ガルワール連隊に所属し,幾晩もかけて5千メートルを超える地点の陣地を爆破しており,やがて陸軍参謀本部からその任務に対する表彰を受けることになっていた.
 しかし,19年にわたって軍務に就いてきたクマール少佐は,上司達がつけてくれるであろうどんな勲章よりも,軍服を愛していた.
「軍服は,私にやる気を与えてくれる.
 もし誰かが我々の土地に入ってきたとしたら,その者を本来の場所に帰すのは,最終的に私の責任だ」
 少佐は,戦争を「オフィス」と呼んだ.
 オフィスの標準的な一日は,午後8時30分に始まり,暗い中を4時間かけて,目的地である山頂まで登るのだった.
「我々が陣地へ近づくと侵略軍は銃撃を始めるが,勾配が大きいので,弾は我々の頭上を通りすぎていく.
 敵から50mあたりまで近づいたら,我々は軽機関銃を発射し,ロケット弾発射砲で陣地を破壊し,それから這って行なって〔原文ママ〕手榴弾を投げる.
 途中で生き残ったパキスタン兵に出会ったら,殺してさらに前進する.たとえ相手が負傷していても,我々は殺す」

 ラダックは,その独特な地形のために,冬場はチベット高原を越えて強い風が吹き抜け,淡青色のインダス川上流に達する前に,人々は凍えてしまう.
 ソナマルグから東に80kmのドラスの町はずれにある道標には,
「世界で2番目に寒い居留地.1995年1月5日,気温摂氏マイナス60℃」
と記されていた.
 1200人いた住人達は避難し,多くが砲撃の被害で倒れそうになった商店が集まった場所には,残されて飢えた野良犬達がたむろしていた.
 山岳地帯から流れ込んで来た兵士達に残されたものといえば,たった一つの軍の電話ぐらいのもので,インド各地の親類に電話をかけようとする兵士達の長い列ができていた.

 〔略〕
 12日前のこと,パキスタンに支援された部隊が,その山〔トロリング〕の頂上で,眼下にはっきりと見えるナショナル・ハイウェイへの砲撃射撃を指示し,インドの軍事上の要所を切断した.
 地元に伝わる話では,増長した侵略軍の中には,大胆にもドラスに買物に降りていく者まで出てきて,ムスリムが多数を占める住民達の中に,気づかれることもなくまぎれてしまったという.

 トロリングの傾斜地には,テントや粗末な木造の小屋が点在し,そこが第2ラージプタナ・ライフル部隊のベース・キャンプであることが分かった.
 6月のはじめにキャンプを離れた兵士達の一行は,連隊の旗を聖なる水で清めると,つらい登山を開始し,敵の砲撃をかいくぐりながら主に夜間に行軍した.
 2週間以上かけて,ようやくパキスタン軍の陣地が見える場所まで到達すると,そこで止まり,占領されている頂上に向けて砲兵射撃を行った.
 容赦ない砲撃が,およそ20時間にわたって続いた.
 6月20日の午後8時,砲撃が止み,あたりは無気味なほど静まり返り,はるか下方の渓谷で兵士が聴いているラジオのヒンドゥー語の歌が,風に乗って聞こえてくるほどだった.

 インド軍の中に,23歳の中尉パルヴィーン・トマールがいた.
 彼は,ウッタルプラデシュ州バグパットのラージプート族からカルギルに派遣された11人の中で一番若い兵士だった.
 全員が生き残れるとは限らなかった.
 その夜,陣地を飛び出したインド軍は,攻撃を開始し,敵の陣地に迫撃砲,催涙弾,さらには自動兵器〔自動小銃のことか?〕による砲火の雨を降らせた.
 最初の砲撃戦で何人かが弾に当たって死に,あるいは地雷で脚を失った.
 仲間の指揮官が殺されると,華奢な体つきで,軍に入って僅か半年のパルヴィーンが攻撃を指揮しなければならなかった.
 弾丸が降ってくる中を山頂まで這っていくと,仲間の一人が,敵が転がした大きな岩に押されて,何百メートルも転げ落ちて死ぬのを目の当たりにした.
 インド軍が近づいているのを察した侵略軍は,声を揃えて「神は偉大なり(アッラーフ・アクバル)」と唱え始め,インド軍はそれに答えるように汚い言葉を投げつけ,ロケット弾を撃ちこんだ.
 それは,午前2時半に標高5000m地点で繰り広げられた,死と栄光とを分つ戦いだった.
 それから両軍は攻防を重ね,戦場は僅か20メートル四方の範囲に狭められた.
 生き残った者達にも,何故そうなったのかは分からなかった.
 トロリングの奪取を知らせるための,死者を悼む呻き声のようなほら貝の音が峡谷に響き渡る中,山頂にインドの三色旗をかかげたのはパルヴィーンだった.
 この突撃で30人のインド軍兵士が死傷したが,彼らの勇壮さは,その後のインド軍が峰から峰へと勝利を収めていくための道を切り開いた.

 〔略〕

 私達が山岳地帯の風下側を歩いていく間,パルヴィーンの目から,誇りと哀悼の涙が途切れることはなかった.
 彼は,自分や仲間の兵士達の力で,足下の土地がいくらか神聖化されたと感じていた.
 今回の経験で,仲間との間に永遠に消えることのない連帯感が培われたが,一方で22人の同志が命を失っていた.
 パルヴィーンは英雄となったが,それは運が良かったのだ.
 彼は敵を憎んではいたが,共感する気持ちもあった.敵を打ち倒しはしたが,彼らを尊重する気持ちも,おそらく愛する気持ちもあった.
 寂しさ,そして自分が生き残ったことへの恥ずかしさを感じると同時に,誇りも感じていた.彼の心には,様々な感情が入り乱れていた.

 〔略〕

 パルヴィーンと部下の兵士達が部隊勲章を授与されるのと同時に,国民も一緒に彼らの活躍を祝福していた.
 史上初めて,インドの人々は自宅のリビング・ルームで,民放テレビ局が広く伝える戦争のドラマを一緒に体験していた.
 戦死した人々の顔写真が毎日に新聞に載り,前例にない手際の良さで,軍隊は最期の儀式のために戦死者の遺体を家族の元に返した.
 テレビ放映された儀式は,人々を苦しめる暴動と機能しない政策とで,何十年も押し殺されていた国民の心を活性化させた.
「カルギルのおかげで,国はこれまでにないほど一体化した」
 インドの公的調査は,戦争についてこう報告している.★17

 ★17 The Kargil Review Committee, From Surprise to Reckoning, p.20

C. Kremmer著「『私を忘れないで』とムスリムの友は言った」
(東洋書林,2006/8/10),p.394-401

 戦車はどこに? 山岳歩兵は?
 カシミールは一応,停戦しているだけの最前線のはずでは?

マタヤンの峡谷(うそ)

(画像掲示板より引用)


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