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◆◆◆ターリバーンの内政
<◆◆ターリバーンの内幕
<◆アフ【ガ】ーニスタンFAQ目次
<南アジアFAQ


(画像掲示板より引用)


 【珍説】
 ターリバーンは,共産主義政権によって発布された全ての法律と規則を単純に廃止し,ザーヘル・シャーの統治下の法制度を再導入した.君主制に関連する条項は別にして,1964年憲法を再び施行している.

(ターリバーンが1996年9月に出した公式声明)

 【事実】
 明かな偽り.
 L. P. Goodson によれば,1964年憲法とターリバーン統治との間には,以下のような相違点が見られるという.

 1964年憲法には世俗主義と自由主義の明確な要素が含まれており,例えば法の前の男女平等を謳っている.いずれも明かにターリバーンの主義に反していた.
 タリバンのモデルは,1964年のザーヘル・シャーよりも1931年のナーディル・シャーの憲法に近く,パッチャ・イ・サッカオ下の状況にさらに近い.

 代議制復活に関しては,カンダハール・シューラが行っていた少数独裁政治を改めようとする意思は,些かも見られなかった.
 それどころか1997年10月には,全く逆行とも言うべき動きが見られた.国名をアフ【ガ】ーニスタン・イスラーム首長国と変え,ムハンマド・オマルを正式に国家元首としたのである.
 外から判断できる範囲では,オマル自身が決定を下すことがますます多くなり,カンダハール・シューラの力が低下してきたように思われた.

(Assistant Professor L. P. Goodson 「アフガニスタン 終わりなき争乱の国」,
原書房,'01)


 【質問】
 ターリバーン支配地域は本当に治安が良かったのか?

 【回答】
 ターリバーンはそう主張しており,それを肯定する報告もある一方,逆の報告もある.
 以下,引用.

――――――
 ターリバーンの支配地域では武器の没収が共用されたため,治安を幾らか回復するのには貢献した.
 1992年8月,グッドスン助教授がバスでカーブルからカイバル峠へ向かったとき,途中,19の検問所があったのを覚えている.それぞれ別のごたまぜ集団が立てた検問所だ.
 元ムジャヒッディーンは各地で集団を作り,小さな地区を支配し,ムジャヒッディーン党と名乗った.
 彼らは,自分達が支配した地区の住民の資産を吸い上げた.

 1997年7月に,助教授は再びバスで同じルートを通ったが,今度は全行程がターリバーン支配下にあったため,途中,止まったのは,タイヤが2本パンクしたときだけだった.
 しかし,1999年と2000年の報告では,ターリバーン支配下の道路沿いで治安が悪化しているという.※31

 ムジャヒッディーンの各集団も皆イスラーム教徒だったが,おそらく同様に重要だったのは,ターリバーンにはあまり腐敗がなかったことだろう.※※
 しかし1999年には,ターリバーン支配下でも無法地帯が増えているという報告もあり,この長所も危うくなっているのかもしれない.

 多くの人が,ターリバーンの敬虔さや,ターリバーン支配地域に安定と安全をもたらしたことに敬意を表している.
 だが,ターリバーンは本当は敬虔ではなく,その支配地域も,彼らが支配する以前から既に安定していたという人もいる.※121
 ※31 For example, see Aimal Khan "Dacoities on Rise in Taliban-Ruled Areas," Frontier Post, 5 october 1999.
 ※121 Interviews, Kabul and Herat, Afghanistan, July 1997.
――――――(Assistant Professor L. P. Goodson 「アフガニスタン 終わりなき争乱の国」,原書房,'01,P.158 & 191,抜粋要約)
 ※※その代わり,別項目で述べるように,実際には公的なボッタクリがあったようである.

 また,ラティファ著「ラティファの告白」によれば,ターリバーン兵自身による女性への暴行,強姦がしばしばあったとされている.

 さらに,フリー・ライター西牟田靖は,次のような体験談を述べている.

――――――
 捕らえられた夜,カンダハルの外務省でのテルメス〔ターリバーンの通訳官〕との話は深夜まで続いた.
"Islam is a weet religion"(イスラムは優しい(親切な)宗教だ,と訳せばよいのか?)
 恍惚とした表情でそう言い,彼は熱心にイスラム教入信を勧めてきた.
 イスラム教がいかに素晴らしい宗教であるか,イスラム教を彼がいかに熱心に信じているか,お前もイスラム教徒にならないか,もし改宗するんならムスリム名をあげるよ.
 その押しの強さは,日本の新興宗教顔負けであった.しかも半分脅迫めいてもいるのだ.
『ところでガール・フレンドはいるのか』
と聞くので,
『いない』
と答えたときだ.
『アフ【ガ】ーニスタンの女ならいつでも紹介するぞ』
 方法を聞くと,
『どこか村に行って銃で無理矢理脅すんだよ.いい女,紹介するぜ』」

――――――(「アフガニスタンに消えた日本人」 from 「アジア辺境紀行」,徳間文庫,1999/2/15, p.236)

 また,フリー・ジャーナリスト小野一光のこんな目撃談もある.

――――――
 最初に通り過ぎた避難民のいる丘で,車を止めた.
 あれからさらに村人を避難させたようで,200人近くの人がいた.
 車から降りて写真を撮っていると,前線の村からやってきたトラックの後部で,ターリバーンの兵士と老人が揉めている.
「老人が村に戻ると言い張ってるようです」
 アクバルが言った.
 が,兵士はかなり腹を立てているようで,大声で怒鳴っている.
「あの兵士,キレてるよ.危ねえなあ」
 望遠レンズを覗いていた藤内さんが言った.
 やがて兵士は,ライフルの台座で老人を殴り始めた.
 が,誰もどうすることもできない.
 兵士は,その場に倒れた老人を一方的に殴り続けている.
 そして,ふと顔を上げると,離れた場所で村に向かって歩こうとしている男達に向けて,水平に銃を発射し始めた.

――――――(「アフガン危機一発!!」,21世紀BOX,2001/12/10,p.207)

 とある戦災孤児の話.

――――――
 カリーン少年は,グルブディン・ヘクマチアル(元アフガニスタン首相)のグループによって父親を殺され,タリバンの兵士によって姉を強姦された.姉はそのショックで正気を失った.
 しかしカリーンは希望を失わずに勉強している.

――――――(川アけい子※「この子たちのアフガン」,オーロラ自由アトリエ,2001/12/10, p.25)
※ただし,RAWA関係者につき,要留意.

 ハザラ人の証言.

――――――
 その日,ハイダリ〔映画製作スタッフ〕の父はカブール西部のハザラ人居住区の一画で,馴染みのレストランに入り,食事をとろうとしていた.
 そのときタリバン兵がレストランを襲った.
 中にいたのは全て民間人だったが,タリバン兵は全員に銃弾を浴びせた.
 ハイダリの父は家族に知られることもなく,その命を落としたのだ.

――――――中村直文著「『アフガン零年』虹と少女」(NHK出版,2004.5.15),p.113

▼ NGOのデボラ・ロドリゲスが,女性のための美容師学校で生徒のアフ【ガ】ーン人女性から聞いた話.

――――――
 当時はタリバンの勢力がもっとも強かった頃なのだが,〔略〕このころ,タリバンが何の予告もなく未婚の女性を拉致し,彼らの一人と強制的に結婚させることが頻繁にあった.
 多くのアフガニスタンの家庭では,タリバンの目に触れるのを恐れ,娘を家から出さなかった.
 こんなふうに用心をしても,タリバンは美人の娘がいると,近所の噂で訊きつけたり,タリバンの機嫌をとりたいものから情報を得たりして,やってきた.
 彼らは娘を探して家のドアを壊し,押し入ってくるのだ.

――――――『カブール・ビューティースクール』(デボラ・ロドリゲス Deborah Rodriguez著,早川書房,2007.7.25),p.17-18

――――――
 ナヒダの家族は娘たちを〔ターリバーンから〕隠しておこうとしたが,近所の人たちがタリバンに取り入ろうと,美しい未婚の娘たちがいることを密告した.
 そしてある日,この47歳のタリバンの警察官が,両親にナヒダと自分を結婚させるようにと言ってきたのだ.
 彼は結納のことを申し出ようともしなかった.
 これはアフガニスタンでは完全に略奪だと見なされる行為だ.

――――――同,p.206

――――――
 タリバンが権力を握るまで,〔ある生徒の〕夫はカブールで警察官をしていたが,タリバンは彼をそのまま職にとどめた.
 これは彼にとってとてもつらいこと名のが分かった.
 彼はタリバンの,白い靴や音楽などに関するばかばかしい禁止令を頻繁に執行しなければならない.
 さらに悪いことに,タリバンがとても些細な違反で男女に暴力を振るうのを黙って見ていなければならなかったし,公開処刑のときは群集をおとなしくさせる手伝いをしなければならなかった.
 彼は何かでタリバンのグループと衝突し,辞めさせられた.
 彼はタリバンにひどい暴力を振るわれ,脳を損傷し,いろいろな障害が出るようになった.
 鬱病,記憶障害,怒りを抑えられないことなど.
 彼はもう働けなくなった.

――――――同,p.313

 ターリバーンが厳重な報道管制を敷いていたことと考え合わせると,こうした暴力行為は,まだまだ多数が知られていないに違いない.

 以下のような事をターリバーンはしていたので,普通の市民は確かに羊のようにおとなしくはしていただろうが.

――――――
 アパートの建物のまだ壊れていない部分には,他にも人が住んでいた.
 水汲みに行く時や,父と一緒に市場に行く時,その人達を見ることもある.
 だが,
「親しくならないほうがいい」と父は言う.「タリバンは,隣人同士スパイさせようとしているから,人付き合いは避けたほうが安全だ」

――――――(Deborah Ellis「生きのびるために」,さ・え・ら書房,2002/2, P.19)



 【珍説】
 中村〔哲医師〕はよく,タリバン政権下のアフガニスタンはおそらく世界一安全な国だろう,と言っていました.
 それは,僕たちも納得できます.

蓮岡修〔ペシャワール会の医師〕 in 『痛み癒される社会へ』
(阿部知子著,ゆみる出版,2003/2/5),p.28

 【事実】
 上述のように,治安が良かったかどうかについては見方の分かれるところですが,少なくとも,

>世界一安全な国

 それはない.

>僕たちも納得できます.

 なんでやねん.

 【質問】
 ターリバーンが,治安回復を目的とした世直し運動から方針を変更したのは,いつからか?

 【回答】
 1995年1月頃からと見られる.

 ガズニやヘラートの治安は比較的安定していたが,そのような地域もターリバーンが平定の対象にしたのが,この頃からである.
 1月末には北部ではガズニを占領.
 西部では,ヘラートを始めとする西部を支配するイスマイル・ハーンとの境界線まで達していた.ただし,押し戻されるが.

 そして,ガズニ占領辺りから,全てのムジャヒッディーン各派を公に非難し始め,
「全土の犯罪的ムジャヒッディーンを武装解除し,イスラーム法に則って平和と安全を回復する」
とした.

 パキスタンも当初においては,カンダハルの治安維持がタリバンの役割と考えていたようである.
 しかし,タリバンの急速な支配地域拡大を目の当たりにして,ヘクマティアル派からタリバンのほうに軸足を移したとされている.

(柴田和重=アフガン・ネットワーク幹事 from 「ポスト・タリバン」,
中公新書,2001/12/20,P.37-38,抜粋要約)


 【質問】
 そもそもタリバンの圧政って考え方自体がおかしくないか?

 タリバン兵の実態は,アフ【ガ】ーンの未来を憂う単なる民草の類だぞ?

 この件についてタリバンを貶める目的で,タリバン兵は強制的に兵士にさせられてるとか,犯罪がどうのとか,色々とデマと中傷を書き立ててる人間のクズがいるが,自分が調べた限りでは,平均的なアフ【ガ】ーン人達が,自分の国の生活や宗教,伝統的な価値観を護る為に,自発的に武器を取り,そういう人達がタリバンを形成してる.

経済板,2010/09/12(日)

 【回答】
 「アフガーン東部における強制徴募」は,たしかアハメド・ラシッドの『タリバン』にも記述があるくらいですから,事実と考えていいでしょう.
 また,ターリバーン兵の中に多くのパキスタン軍兵士がいたことから考えて,決して自発的であるとばかりも言えません.

 さらに,阿片栽培を少なくとも黙認していて,麻薬密輸業者の上前をはねていたことは,ムタワキール外相自身が認めていますし,テロを周辺諸国に「輸出」していたことも,ナマンガニらとの提携ぶりから考えて,否定するのは困難でしょう.

 第4に,ターリバーンがアフガーンの伝統的な価値観の上に立っていたかについては,これもまた非常に疑わしい.
 詳しくは別項参照.

>自分が調べた限りでは,
とのことですが,いったいどこのどんな文献を読んだというのか,ある意味,非常に興味をそそられますね.


 【質問】
 ターリバーンは本当に腐敗していなかったか?

 【回答】
 ボッタクリをしていたことを示す複数の証言がある.

(1)中東問題に強いジャーナリスト,大高未貴の証言.

「空港を出た私〔大高〕は,プレスカードを貰うため,コヒスターニ氏の案内でアフ【ガ】ーニスタン外務省に行った.
 外務省では,ヤケに眼光の鋭いタリバーンの若者が,ジロッと私を睨み,言う.
『プレス・カードを発行するにあたり,我々の条件を説明しよう.
 ホテルはインターコンチネンタルに宿泊し,一泊65ドル.
 市内の移動には,こちらが用意した車を使い,1日40ドル.もちろん運転手つきだ.
 通訳は45ドル.
 それから決して単独行動はせず,写真はあまり撮らないように.
 また,一般家庭を訪問する事は絶対に許されない.
 君は女だから前線には行ってはいけない.兵士達が動揺する.
 以上の条件に従うか?』
 タリバーンの条件に従うと,1日あたり150ドルかかる.公務員の月給が5ドル以下のこの国において,法外な値段だ.躊躇していると,
『我々の要求に従わないのなら,プレス・カードは出せない.答は2つに一つ.このまますぐにパキスタンに戻るか,カーブルに残るか』
『従います』
 若者は勝ち誇ったような表情で,サインを入れた緑色のプレス・カードを放り投げてよこした.
 そして,席を立とうとしている私に,こう続けた.
『必ず帰国する前日に,外務省に出頭して出国ビザを取るように』
『出国ビザ?』
『我々は,この国における取材活動について,ちょっとした質問をする.その結果,君が我々との約束を破っていたら,出国許可が出ないということだ.意味は分かるだろう』」

(大高未貴「神々の戦争」,2001/12/20,P.57-59)

 (2) フリー・ジャーナリスト小野一光のケース.

 出国ビザを発行する場所は,これまでとは違う場所だった.
 1人の偉そうにした係官の前に,僕ら2人を含めた4人の外国人が,並んで座らされた.〔略〕
 最初の2人のスタンプが押され,やっと僕らの番になったところで,係官は僕に,
「ちょっとペンを貸してくれ」
と言った.
 あいよ,と手持ちのペンを渡す.
 彼はそのペンを使って書類に何かを書き込んだ後,僕の目を見て切り出した.
「バクシーシ(何かくれ)」
 この場合,このペンを彼が欲しがっているのは明かだった.
 そして彼はまだ,僕らの出国ビザにスタンプを押してなかった.
 プリーズ,と笑顔で答えながら,僕は,この国はもうダメだな,と胸の内で思った.〔強調,原文ママ.以下同〕

(「アフガン危機一発!!」,21世紀BOX,2001/12/10,P.290-291)

 やがてバカガイド〔ターリバーン指定の〕が車に乗ってやってきた.彼の最後の仕事は,僕らをICRC〔国際赤十字委員会〕まで送り届けることだ.
 最後まで見送るというファヒームを加え,僕らは奴の車で移動した.

 ICRCに到着して,いざガイド料の清算となったとき,奴が口にしたのは,当初に説明を受けていた金額の,実に4倍もの料金だった.
 なんだお前,最初に言った値段と違うじゃねえか.
 僕は声を荒げた.
「いえ,最初に説明したのは1人の基本料金で,これに2人分の通訳の代金も加えると,こうなります」
 馬鹿野郎,通訳と言っても,俺しか喋ってねえじゃねえか.
 それに,いかに2人分のガイド料と言っても高すぎるぞ.
「いえ,あとは運転手へのチップです」
 お前,そんなことして恥ずかしくないのか? 明かに自分の懐に入れるために金額を水増ししてるだろうが.アフガン人の誇りはないのか.
 ファヒームは黙って,そのやりとりを悲しそうな目で見ている.
 が,僕は怒りを抑えられなかった.
「アフ【ガ】ーンは全て破壊され,国民は皆,苦しい生活を送っている.
 日本は豊かな国なんだから,ちょっとくらい多くお金をくれたっていいじゃないか」
 遂に奴は本音を言った.

 そんな事を言うが,お前が要求する金額は,アフ【ガ】ーン人の年収何年分にもなる金額なんだぞ.
 お前はガイドという特権で,他のアフ【ガ】ーン人とは比べものにならないほどの金を得てるはずなのに,それでもまだ取ろうとするのか.

「私は,あなた方が私に隠れて写真を撮っていたことを知っている.
 そのことを上に報告してもいいのか」
 おお,上等じゃねえか.
 その代わり,お前がガイド料をボッタくろうとしてることも,きっちり報告してやるからな.
 売り言葉に買い言葉だった.

「おい,小野,やめろ.もういい,もういいじゃねえか.金払って行こうぜ」
 藤内さんがイライラした口調で止めに入った.
 でも,納得いかないっすよ.
「もういいよ.こんな最低の野郎に何を言っても始まんねえよ.いいから,行くぞ」
 その口ぶりは,有無を言わせないものだった.
 僕は金を叩きつけるようにして車を降りた.

(同,p.292-294)

 ターリバーン・シンパの中村哲医師も,以下のような賄賂強要の例を記述している.

 タリバン政府との交渉では,好意的な外務省の役人が,出入り自由の3ヵ月ビザをアフガン側で発給したが,ついでに自分の家の中にある井戸掘りを要求,蓮岡が拒絶して一時険悪となっていた.
 これは困った.国家権力の怖さを知らないだけでなく,下手をすれば立入禁止である.
 そうすると,水計画どころか,PMSの全面撤退に発展する.
 自分の正義感が満足しても,困るのは住民であろう.
 そこで,渉外は私のような「年長者」がやり,なるべく蓮岡らの若い人々を現場に専念させるよう配慮した.

(中村哲,「医者,井戸を掘る」,石風社,2001/10/20,p.52-53)

 これがもし北部同盟側の役人だったら,中村がどのように役人をなじるか,容易に想像がつく.


 【質問】
 マドラサの問題点は何か?

 【回答】
 イスラーム過激原理主義に洗脳し,クルアーンしか教えず,軍事基地で訓練し,兵士やテロリストに育てるようなマドラサの存在が問題視されている.
 食事まで無料だからという理由で,イスラーム過激原理主義マドラサに子供を通わせる親も多いと推測される.

***

 AWC(アフ【ガ】ーン女性支援NGO機関)代表ファタナ・ガイラニ女史によれば,

「マドラサこそ,テロリストを生み出す元凶です.

 しかし,マドラサにも2種類あります.
 一つは,イスラーム学以外にも様々な科目を教えている健全なマドラサ.
 もう一つは政治目的を持ったマドラサ.政治的マドラサでは13歳までクルアーンしか教えず,イスラーム〔過激〕原理主義に洗脳します.そして,14歳から18歳までは,アフ【ガ】ーン内の軍事基地で訓練し,兵士やテロリストに育てます.

 問題なのは,親が2つのマドラサの違いを理解せず,食事まで無料だからと政治的マドラサに子供を通わせることです」

(大高未貴「神々の戦争」,2001/12/20,P.48)

 類似の証言は他にも見られる.
 以下の記述のソースは,映画『アフガン零年』主演の少女だと推測される.

 タリバン時代,ストリートチルドレンたちは強制的にこうしたマドラサへ入れられ,そこでコーランを学ばされた.
 時には軍事教練のようなことも行われたという.

中村直文著「『アフガン零年』虹と少女」(NHK出版,2004.5.15),p.73

 以下は,ワシントン・ポスト紙がソースだと思われる文章.

 難民の子弟は月々百ルピー,約2ドルの給付金を受けることができるが,校内の菜園で働くことになっており,その上で午前3時の祈りとともに始まる日々のきつい授業をこなさなければならない.
 それでも暴力と混乱に満ちたアフガニスタンの生活に比べれば,マドラサと呼ばれるこうした高等教育機関は安全を与えてくれるし,比較的普通の寄宿学校生活というものを味わうことができ,正しいしつけと強い自己認識や目的意識を身につけることもできる.
 つまり,優れた人材を生み出すのにうってつけの環境なのである.
 だが,少年たちに大人になったら何がしたいのかと尋ねてみると,返ってくる答はすべて「イスラムの学者になりたい」というものばかりだった.
 〔略〕
 在籍年限なし,神政主義がうたわれるこの場所に密閉された少年たちは,社会で秀でる才能を与えられているわけではなく,戦士として望ましい型にはめられているだけなのだ.
 とある新聞で言われたところの「優しげな音色でサンダル履きの,将軍や官僚を揮え上がらせる従者たちの帝国★16なのである.
 職を探すのも難しい状況下で,生産的で幸福な生活をするのに必要な技術など彼らにはほとんどなく,あるのは怒り,そしてイスラムは全地球上を制覇するのだという妥協のない信念だけだ.
 ★16 Pamela Cnstable, 'Palostam's Moral Majority', The Washington Post, 22 June 2000

C. Kremmer著「『私を忘れないで』とムスリムの友は言った」
(東洋書林,2006/8/10),p.233-234

 ターリバーンに同情的なスタンスの山本芳幸も,次のように述べている.

山本 今年〔2001年〕の2〜3月には,カンダハルやカブールでアラブ人がどっと増えました.
 アフガニスタンのアラブ化と言われて,アフガン人は露骨に嫌がっていました.
 アフガン人はとても礼儀正しい人達なので,アフガン人から見ると,アラブの人達の礼儀はなっていないということになる.僕から見えても,彼らの振る舞いは全く違うので,はっきりとアフガン人,アラブの人の区別がつきます.
 いずれにせよ,そのころからアラブ化が始まり,ビンラディンを一派とするアラブの人がタリバンに影響力を持ち始めたのではないかと言われています.
 アフガニスタンの学校でアラビア語を教えるようになったのも,このころです.日本の文部科学省に相当する省が,タリバンにもあるのですが,今までホームベースド・スクールと言って普通の民家の部屋なんかで勉強していた女の子を,全員モスクに行かせるようにという通達を出しました.
 モスクに行くと,アラブのNGOの人達がいて,彼らが教育をするんです.
 それまでのカリキュラムから一般教養の科目が削られて,宗教科目がどんどん増えていきました.
 そういう環境の変化を見て,アフガニスタン内部では,アフガンのアラブかが始まっていると認識されていました.

〔略〕

北野 アフガンにはアラブ化を歓迎しない人が少なからずいたんですね.

山本 僕が知っている限りでは,殆どが嫌がっていました.アラビア語が学校の授業に導入されたときは,子供を学校に行かせないことにした親がたくさんいました」

(「収縮する世界 閉塞する日本」,日本放送出版協会,2001/12/25, p.143-144)

 一部のマドラサにはアル・カーイダが出資している,とする情報もある.

 「アル・カーイダ」は,単にテロ資金を集めているのではない.アフガニスタンその他の諸国の貧しいイスラム下層民にザカート(寄付)を行い,庶民から感謝されているのも事実なのである.
 なかでも,アル・カーイダと連帯しているジャミアテ・ウル・ウレマ・イスラミ(JUI)の下にイスラム神学校が数百あるが,その運営資金はアル・カーイダが面倒を見ている.
 こうした人々の間には,
「ウサマ・ビン・ラディンと共に戦う」
と明言する者も数多くいて,今や陸続として,義勇兵としてアフガン入りしている.

〔略〕

 JUIは,パキスタン最大のイスラム原理主義団体である.配下にマドラサを数百も擁している.
 マドラサ在校生だけで,何万人もの動員力を持つ.卒業生や関係者を加えると,相当の動員力となる.

 マドラサは,キリスト教会などに付属の学校などとは,全く性格が異なる.
 教育制度が整っておらず,子供を修学させるための学用品を揃えられない家庭にとって,マドラサはありがたい存在である.
 というのは,マドラサは学費が不要で,寄宿舎で生活でき,衣食住を保証し,小遣いもくれる.学校によっては,受験に行く旅費や,入学後の帰省時の旅費もくれる.
 そして卒業後は,成績優秀ならばウラマー(イスラム聖職者)となり,生活も安定し,有力者となる道も開ける.
 それだから,第3世界の貧しい家庭の子弟にとって,単なる学舎ではなく,人生の登龍門なのである.

 だが,学費もとらず,ただ与えるだけでは,どうやってマドラサを運営していくのかと読者は思われるであろう.
 イスラムの教えでは,サラート(唯一神アッラーへの礼拝),ザカート(喜捨),ハッジ(巡礼)の奨励が基本となる.
 このザカートの精神によって,富める者はもちろんのこと,貧しい者達も応分のザカートを行う.
 これは,日本の新興宗教のように,大口寄付を割り当て,半ば強制的に徴収するのではない.
 ザカートとは「喜捨」と訳されているように,自ら望んで,寄付したいと思う額を自発的に出すのである.
 こうしたザカートによる金が,マドラサにやってくるのだ.ザカートは,イスラム噴くし財団を通じて,大口が来る場合もある.

 ウサマ・ビン・ラディンと彼の福祉財団「アル・ラシード」などは,JUIのマドラサに多額のザカートを行ってきた.
 これらJUIのマドラサの内,アフガン国境にごく近いマドラサには,米同時多発テロ事件の頃まで,ウサマが頻繁に足を運んできた.
 このマドラサには,ロシア製カラシニコフ自動小銃,機関銃,対戦車ロケット弾をずらりと揃えて,軍事訓練も行っている.
 そのマドラサへ,パキスタンの庶民からの寄付が増えている.

(松井茂〔軍事・外交評論家〕著「21世紀のグレート・ゲーム」
光人社文庫,2002/1/18,p.153-160)

▼ ちなみにパキスタンの過激派系マドラサに相当する,キリスト教福音派系の洗脳キャンプも米国に存在.
 タリバン同様,アメリカも少年を神の戦士に.

ジーザス・キャンプ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2128376

仮 in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分


 【質問】
『人は愛するに足り,真心は信ずるに足る アフ【ガ】ーンとの約束』(中村哲著,岩波書店,2010.2.24)
によれば,「マドラサが地域共同体の要」(p.77)だそうだが,本当か?

 【回答】
 現時点で知る限り,疑わしい.
 ターリバーン政権時代以前の農村探訪記は,日本語文献でも複数あるが,要の役割を果たしていたのは族長であり,地域の有力者であって,マドラサが,というものは当方の知る限り皆無.
 第一,本当に要であるというのなら,経済的理由により,マドラサにすら子供を通わせない親も相当数いるという事実の説明がつかない.
 モスクとマドラサを混同しているのではないか?

 そもそも,マドラサにも穏健派が運営するものと過激原理主義者が運営するものの2種類あり,今日問題とされているのは後者のほう
 その点に全く触れずに,「マドラサ叩きは欧米の偏見」であるかのように言うのは,ミスリードと言われても仕方なし.


 【質問】
 以下の話には,どれだけ信憑性があるか?

「僕らは日常タリバンと一緒に仕事をしていて,要するに彼らは取引先みたいなものなわけです.
 タリバンは,アフガン国民をいかにして救うかということに本当に必死です.
 タリバンにも外務省や厚生省などのように色々な省があります.
 その人たちはその仕事を懸命にやっていて,お金も殆どありません.
 それでも何とか国民を助けようとしています」

「そういう省の建物も,日本人からは想像もつかないくらいにボロボロです.
 第三世界の政府の人間は物凄いお金持ちが多いですが,タリバンは本当に質素です.着ている服もボロボロだし,靴下も履いていない.食べ物も質素」

(山本芳幸 from 「収縮する世界 閉塞する日本」,日本放送出版協会,2001/12/25, p.96-97)

 【回答】
 断定はできないが,疑わしい点が複数ある.

 (1)
 後段については,
「ターリバーンは少しも質素でなく,飽食をしていた」
という話が幾つか出ている.

 例えば,大高未貴著「神々の戦争」では,在ペシャワールのターリバーン高官の邸宅の話が出てくるが,CSアンテナまで備えた豪邸が立ち並んでいたという.

 また,ターリバーン政権崩壊後に明らかになったところによれば,カーブルのオマル師の邸宅も,シャンデリアまである豪邸だったという.

 以下引用.

まるでテーマパーク カンダハルのタリバーン司令部

入り口は熱帯の装い 部屋にはシャンデリア

 要さいのような壁に囲まれた広大な敷地と建物の中で,タリバーンの指導者オマル師は全国に指令を出していた.
 タリバーンの本拠地だったアフガニスタン南部のカンダハル郊外にあるオマル師の住居は,宗教指導者の質素なイメージとは裏腹に,まるでテーマパークのように飾られていた.
 市の中心部から車で西へ10分余り.鉄線のさくや整った植林を抜けると,高さ4メートル前後の壁が視界をさえぎる.タリバーンから施設を明け渡されたパシュトゥン人勢力が対空機関砲を据えた検問所のわきの入り口から,車で中に入る.
 壁で囲われているのは目測で南北800メートル,東西400メートルほど.舗装路が南北に貫く.オマル師やタリバーンの幹部らが住んでいた敷地だ.
 南側の入り口に近い広場には,ヤシの木の生える熱帯の島を模した建造物と遊園地の宮殿のようなカラフルな平屋の建物.「島」の下には地下トンネルが口を開けている.奥のオマル師の住居付近に続いているという.
 敷地の中央には高さ6メートルのクリーム色の壁に仕切られた一角がある.大きな鉄製の門と内側の広場を抜けて,さらに門をくぐると,10棟余りの建物が並ぶ6千平方メートル以上はありそうな敷地が姿を現した.これがオマル師や幹部の邸宅だ.
 敷地の壁の内側には,山や川など14の風景が色鮮やかに描かれている.
 煉瓦を積んだだけの建物の多くが空爆で倒壊している中,オマル師と家族が住んでいたとされる2階建てのクリーム色の建物だけは,壁の表面が崩れているだけだ.約1.3mの分厚い鉄筋コンクリートの壁に覆われている.建物に入ると,ホールを中心に8〜10畳ほどの12の部屋に仕切られていた.
 「オマルの部屋だ」と警備の兵士に案内されたのは,10畳ほどの部屋だった.赤い絨毯に,天井には2つの小さなシャンデリアと電動ファン.奥には大きな湯沸かし器がついた専用の浴室兼トイレが続く.
 今は兵士が寝泊まりに使っているという.
「みんなアラブ人の金で造ったんだろう.アフガン人には,こんなものを造る金はありはしないよ」
 案内の兵士は,あきれ顔で言った.
 オマル師の住居跡の内外には,無数のペプシ・コーラの青い空き缶が散らばっていた.ここに来た米軍部隊が残していったのだという.

(12/15)

オマル師が「日本のシャンデリア」を注文?

 タリバーンの指導者,オマル師は自宅に「日本のシャンデリア」をほしがった――.仏有力紙ルモンドは16日,同師の自宅などの建設にたずさわった建設作業員の証言を伝えた.清貧な宗教指導者らしからぬ人物像が浮かび上がっている.

 カブール発の同紙記事によると,作業員はカブールから2年前に同師が住むカンダハルに呼び寄せられ,仲間とともに師や家族が住む8軒の家と同師らのためのモスク,それに自宅近くの丘に地下回廊を建設したと話している.

 回廊には事務所や寝室,浴室などがあり,空調施設付き.出口は3カ所あったという.戦闘に備えたものらしい.

 しかし,その一方で,壁の色の好みが変わったからと何度も塗り直させたり,「日本のシャンデリア」を注文したりしたと証言.建設作業員らへの待遇も悪かったようで,敬意を表する気にはなれなかった様子だ.

 また,牛を偏愛して自宅庭で4頭飼い,自ら熱心に世話をしていたと話している.米国同時多発テロのあった9月11日には,家族をほかの場所に移動させたという.

 作業員は,師はイスラム教徒の指導者らしくない「粗野な男だった」と,感想を述べている.(11:43)

 さらにカメラマンの柳田大元は,「タリバン拘束日記」の中でターリバーンの飽食について述べている.

「幅1m強,長さ約7mのプラスチック・シートにドーディ(平たく丸いパン)がフリスビーのように投げ置かれ,次々と小皿に入った料理が並べられた.白身魚の揚げ物,干しブドウ入りプラウ(香辛料入りの焚き込み御飯),肉入り鉄板ディッシュ,ブドウ,ラッシー(飲むヨーグルト),1杯のコーラ.20人は超えていたが,それでも量はじゅうぶんにあった」
「食物が残された皿も多くあった.あまりにも余裕があり過ぎる.
 豊かな食卓に,ある種のエゴイズムも漂っていた.腹が減っては戦はできぬの一言では済まされない何かが,ここにはある.食えない人間が山ほどいる中で兵士達は食らい,国のため,民衆のために戦うという.貧しい人間が自ら穀物を差し出すようでなければ,民衆との一体感は得られないのではないか.もし彼らの食事に,持たざる者の汗が染みていれば,こんな残し方はしないはずである」

 内陸部で,しかも冷凍保存の発達していないペシャワールにおいて,魚が贅沢品である事は言うまでもなかろう.

 さらにまた,ターリバーンは軍事費には巨額を注ぎ込んで北部同盟を追い落とそうとしていたのだから,「国民支援関連の省庁には金がない」は,何のいいわけにもならない.
 例えば2001/10/1,英ブラウン蔵相は,ビンラディンを擁護するアフ【ガ】ーニスタンのタリバーン政権の英国国内資産8840万ドルを凍結したと発表している.(from 「疫病最終戦争」,ビジネス社,2001/12/20,p.185, 抜粋要約)

 あるいは,渉外担当のターリバーンの役所は冷や飯を食らわされていただけという可能性もある.
 ターリバーンの中でイスラーム過激派と穏健派の内部抗争があったことは,バーミヤン遺跡破壊の項でも見られるようにほぼ事実であると思われる.
 戦闘的な連中がターリバーンの予算を掻っ攫っていっただろうことは,容易に想像できる.

 (2)
 これらの文章の後に,
「全般的に言うと,パキスタンで仕事をするよりもタリバンの支配下にあるほうが,仕事がやりやすかった」
と述べられているが,ターリバーンが援助活動の妨害をすることは,たびたび発生している.

「このころ〔2001年6月〕,ターリバーン幹部は,国連機関による支援がなくても,ムスリム諸国のNGOによる支援があるとして,国連機関から距離を置く発言もするようになった」

(柴田和重=アフガン・ネットワーク幹事 from 「ポスト・タリバン」,
中公新書,2001/12/20,P.66)

という話もある.
 本書において,国連援助機関の職員である山本の口からそのような話が一切出てこないのは,不可解でしかない.

 また,内戦時代から看護婦として医療支援活動を続けていたKarla Schefterの証言によれば,

 〔ターリバーン〕最高司令官のところから戻ってきたサダト先生は憤慨している.
「どんな協力も惜しまないと言ってるくせに,いざとなると,何もしない.自分のことばかり考えている奴だ」

Karla Schefter著「『哀しみの国』にすべてを捧げて 看護婦カルラの闘い」
(主婦と生活社,2002/9/17),p.236-237

 同じ人物の,以下のような証言もある.

 また,ムジャヒディンと付き合い始めたときのような無法の行為の繰り返しが始まる.
 タリバン達はカラシニコフで武装したまま,仲間を見舞いに病院へ入ってくる.
 ベッドの周りに鈴なりになって,治療に口を出す.なぜ傷にもっとシップをしないのかとか,注射をしてやれとか,点滴はなぜしないのかとかうるさい.

Karla Schefter著「『哀しみの国』にすべてを捧げて 看護婦カルラの闘い」
(主婦と生活社,2002/9/17),p.229

 他の患者のことを考えているようには見えないんだが.

 さらに,ターリバーンの責任者は,「援助は外国の仕事」と言い切っている.
 これから考えても,「必死だった」とはとうてい思えない.

 以下引用.

[quote]

 男達は,50人ばかりのクチ族のグループの一員で,ギルザイ・パシュトゥーン人の中の,スライマン・ケールの部族に属してオリ,ムクールへ向かう途中だった.
 全部合わせて700頭いた羊は,50等ほどに減っていた.
 そしてキャンプには,大きな羊が1頭,馬が1頭,それにラクダが1頭いるだけだった.
「ラクダは死にそうだ」
 ハインデーという名の平たい鼻をした老人が語った.
 彼らはソラワクで冬を過ごし,イード・アルフィトルの前に,その地を離れたのだという.
 タリバンからは何の援助もなく,売れる物は何も残っておらず,食料を買うために借りた金を返すことができないため,スピンボルダクに留まることができなかった.
 かつては金を貸すほうの立場であったクチ族が,今では借金をする側になっていた.

 〔略〕

 タリバン政権は,人々に求める物は殆どなく,その代わり,人々に与える物も殆どなかった.
 支援プロジェクトの一環として建設された診療所には,薬も医療器具もなく,医者もいない.
 実際,そこは宿屋として使われていた.

 〔略〕

 ザボール州知事は前線に呼び出されていたため,私達に会うことはできなかった.
 副知事はムッラー・グル・アーガーといい,毛むくじゃらの若い悲観的民主当員で,陰気な目をして,ターバンの下から肩まで黒い髪をたらし,マペットに似た風貌をしていた.
 〔略〕
 マイクは,干ばつの被害が大きい地域では,既に家畜の半数が死に,飲料水不足の危機に見舞われていると伝え,井戸を掘るようアドバイスした.
「われわれはカンダハールと連絡をとっているが,向こうも忙しく,援助できる状況ではない」
 グル氏はそう語ったが,彼の表情からは,その場を立ち去りたくて仕方がない気持ちが見て取れた.
 マイクは,深いため息をついた.昼食をふるまったくらいでは,彼の口を封じることはできなかった.
「あなたがたは,自力で何とかしなければならないのではありませんか?」
 マイクは言った.
 副知事は動じなかった.
「国民への食糧供給は,国連に任せている」
 サケットは,いぶかしげに副知事を見て,言った.
「国連は,全ての人を養うことなどできません.それは政府の仕事です」

 〔略〕

 食事が終わり,再び会話が始まると,私はグル師に,一方では,タリバンが女性の問題や少数民族の権利,テロリズムの輸出などに関する国際世論を無視していながら,その一方で,干ばつによる被害者の救済について,資金から援助活動まで一手に国際社会に負わせようとすることは,矛盾しているのではないかと尋ねた.
 バリ〔通訳〕がその質問をグル師に説明すると,その若いタリブは,神の忍耐を求めるように天井を見上げた.
 そして,
「タリバンがよその国々に反対しているのではなく,よその国々がタリバンに反対しているのだ」
と彼は言った.

[/quote]
―――C. Kremmer著「『私を忘れないで』とムスリムの友は言った」(東洋書林,2006/8/10),p.430 & 434

 結論として,虚偽であるか,または仮に真実だとしても,「ターリバーンは」ではなく,「山本が個人的に接触したターリバーンの役人は」に限定された話ではないかと推測される.

 それにしても,永野のり子の「すげこまくん」に「世界を仲間外れ」というセリフがあったように記憶しているが,そんな漫画みたいな連中が実在したとは.


 【質問】
 ターリバーンの行政府の内実は?

 【回答】
 「お寒い内容」の一言に尽きる.
 以下引用.

 タリバンは,コーランが政党を容認していないと主張した.
 政府は無償の行為であり,そのため公務員は食費および被服費として1ヶ月当たり約7ドルを支給され,一方で兵士たちは銃と自分たちの食料をあてがわれただけだった.
 これが人口2400万人の国を運営していくタリバンのやり方で,そのことがアフガニスタン中央銀行で示された.
 ばかでかい部屋で大きな机の向こうに居心地悪そうに座っているのが,サイド・マフムードゥッラー師で,銀行の第2副頭取だった.
 25歳,ザーボル州出身で,読み書きのできない男は,痩せて狡猾な顔をして,深緑色のターバンを巻いていた.
 うしろにある壁のカレンダーには,手に握ったカラシニコフ銃を地球に向けている絵が描かれていた.
 〔略〕
 マフムードゥッラー師のようなタリバンのメンバーは,ただコーランを復唱するだけの教育を受けていて,銀行の元帳や国家の会計はおろか,自分の職務周辺のことも分からなかった.
 そのことに憤慨するとともに,省庁が完全に崩壊するところを辛うじて食い止めるために,前政権からの役人に頼っていた.
 古株にとっては多くの危険があった――自分たちのことを共産党のスパイだと訴える密告者もいれば,カッとなった上司から頭に銃弾を撃ち込まれるかもしれない――だけでなく,1ヶ月当たり10ドル以下の給料で何とかやっていかねばならなかった.
 〔略〕
 アフガニスタンの経済運営は,少なくとも3種類に分かれた通貨が存在するために複雑で,しかもその3種類のどれもがあらゆる敵対勢力に認められていなかった.
 タリバンのアフガニ,マスウード将軍のアフガニ,そしてドスタムの数種類のアフガニさえもが,まだ散らばっていた.
 敵対する党派による偽造は大きな問題であり,タリバンが征服した北部地域では,すべての敵対勢力の通貨を廃止したことで,一般人の老後の蓄えがすっかり消えうせてしまった.
 私は不思議に思ったのだが,政府は影響を受けた人々にどうやって補償するつもりだったのだろう?
「我々の方針では,それは公認の紙幣ではないということだ.我々は決してそれを認めない」
 マフムードゥッラー師が秘書を通じて語った.
「でも,国民は困窮しています.老後の蓄えを失ってしまったんですよ.あなたのところの兵士でさえ,何ヵ月も給料を支払われていないじゃありませんか」
「ドスタムやマスウードのアフガニで蓄えていた者については,我々は助けることはできない.
 だが給料については,それは嘘だ.私は今日も金を配った」
「いくら払ったんです?」
「わからん」
「全体の貨幣供給量はどうです? 流通貨幣の総額について,銀行の概算は?」
「それは秘密だ」
 マフムードゥッラー師が激しい口調で言い返し,靴下を履いた足を,椅子に座った身体の下に折り込んだ.
「偽札のアフガニはどうするんですか? 偽造された金がいくら流通しているか,ご存じでしたか?」
「いや,全然分からない」
「物価は? 戦争でインフレがひどくなるに違いありません.上昇率240%になると耳に挟みましたが,本当ですか?」
 副頭取はアドバイザーのほうを向いて,言葉を交わし,それから私に向かって口を開いた.
「今のところ,そういった情報は入ってきていない」
 〔略〕

C. Kremmer著「『私を忘れないで』とムスリムの友は言った」
(東洋書林,2006/8/10),p.175-176

 マイケル・グリフィン著『誰がタリバンを育てたのか?』によれば,やたら厳しい戒律は,内部の規律引き締めのためではないかという見解があるそうだが,上記引用の,ターリバーン行政機構のダメさ加減から推測して,国民全体の規律引き締めのため,という可能性もあるかもしれない.
 飴と鞭ではなく,鞭に次ぐ鞭の統治だったわけだ.


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