Nam FAQ
<戦史FAQ・目次

目次
◆Link ◆総記 ◆組織 ◆装備 ◆テト攻勢 ◆米軍撤退以後
American Aces of World War 2(朝鮮戦争,ヴェトナム戦争の両陣営エースについても記述)
NAN戦装備/用語辞典(主として陸戦)
「ワレYouTube発見セリ」:Vietnam War - Hue City 1968
【質問】 ヴェトナム戦争で,なんでアメリカは負けたんですか?
【質問】 アメリカがヴェトナムに介入するのは不可避だったのか?
【質問】 「封じ込め政策」は,ヴェトナム戦争にどのような影響を与えたのか?
【質問】 ベトナム戦での米軍の最大の間違いは,北ベトナムに侵攻しなかったことでしょうか?
【質問】 ベトナム戦争でアメリカ軍がハノイを攻めなかったのは何故でしょう?
【質問】 ベトナム戦争で,当時のアメリカに加担した国を教えて下さい.
【質問】 トンキン湾事件は本当にアメリカの自作自演なのでしょうか?
【質問】 イアンドラン峡谷の戦いはアメリカが勝ったのでしょうか?
【質問】 ジョン・ケリーは「ヴェトナム戦争で,勲章欲しさに嘘をついた」のか?
【質問】 少年マガジンの「ネルソンさん,あなたは人を殺しましたか?」は,どの程度妥当でしょうか?
【質問】 ベトナム戦争で有名な,裸で逃げる少女の写真がありますが,彼女はその後どうしたのですか?
【質問】 ベトナム戦争中,北ヴェトナム軍兵士がそれぞれの特技生かして,時計修理屋やっていたり,ラジオ作ってたり,靴屋やってたりって,現実にあったんですか?
【質問】 マクナマラの改革では,軍事分野に効率を持ち込み,一定の成果が出た反面,ベトナム戦争ではその効率化政策が祟って散々な結果になったと聞いたのですが,そうなんでしょうか?
【質問】 ベトナム戦争って,米兵士はジャングルの生物にも対応できるよう訓練されていたんですか?
【質問】 ベトナム戦争に従軍した米兵は,有色人種の若者ばかり,って本当?
【質問】 アメリカ州兵はなぜベトナム戦争だけ不参加だったのでしょうか?
【質問】 ヴェトナム戦争では,米兵にとっての安全地帯は基地内だけですか?
【質問】 ヴェトナム戦争で,なぜ米軍兵士にヘロインが広まったのか?
【質問】 映画「地獄の黙示録」に登場するカーツ大佐のモデルは?
【質問】 ベトナムで戦死した米兵の死体を洗うアルバイトって実在したのですか?
【質問】 ベトナム戦争に参加した韓国軍は,どれだけの働きを見せたのですか?
【質問】 韓国兵はヴェトナム戦争従軍の際,手当てはいくら受け取っていたのか?
【質問】 北ベトナム軍は虐殺虐待を起こしたりしなかったんでしょうか?
【質問】 ベトナム戦争中の,M14からM16への転換は,どんな順序で行われたのですか?
【質問】 ヴェトナム戦争中,M-16になされた改良はどんなものだったか?
【質問】 ベトミン軍がバズーカーを持っていたり,北ベトナム軍がMG34を持っていたりしたのは何故ですか?
【質問】 ベトナム戦争当時,NVAには精強な特殊部隊も存在していたのでしょうか?
【質問】 ヴェトナム戦争では米空母機動部隊は空襲を受けたことはないのか?
【質問】 ヴェトナム戦争初期,米軍戦闘機には機関砲積んでなかったってホント?
【質問】 ヴェトナム戦争では,北ヴェトナム軍側の対空兵器で活躍したのはSAMだけ?
【珍説】 「ベトナム人にとって,沖縄という名は恐怖の代名詞(平良夏芽)」???
【質問】 枯葉剤使用は,多くのベトナム人を虐殺する事となったのですか?
【質問】 テト攻勢の失敗の原因は,北側の装備が貧弱だったせいなのですか?
【質問】 情報機関が掴んだテト攻勢情報を,なにゆえ米軍や政府の上層部は「そんなわけない」と判断したのでしょうか?
【質問】 テト攻勢時,南側の警察関係者に兵士が処刑される映像がありますが,あれは適法ですか?
【質問】 何故テト攻勢はアメリカ世論をヴェトナム撤退に傾かせたのでしょうか?
【質問】 アメリカはいつ頃からヴェトナムからの撤退を考えていたのか?
【質問】 ベトナム戦争終了後,どの範囲までの人が,米軍による救出の対象にされたのでしょうか?
【質問】 ベトナム戦争の映像で,空母からヘリを次々に海に捨てているものがありますが,何故あんな事をしたのですか?
【質問】 ベトナム戦争でも戦後,元南ベトナム兵への粛清などはあったのですか?
【質問】 サイゴン陥落後,世界各地の南ベトナム大使館と外交官はどうなったのですか?
【質問】 なにゆえ元ベトコンがヴェトナム戦争後,迫害されたのですか?
【質問】 ベトナム戦争で捕虜になった米兵が,戦後も密かに抑留されていた,という話の真偽はどうなんでしょうか?
【質問】 岐阜市の「ベトコン・ラーメン」は,何かヴェトナム戦争にゆかりがあるの?
◆総記
【質問】
ウ゛ェトナム戦争ってなんでアメリカ負けたんですか?
アメリカってめっちゃ強いのに,なんで東南アジアの発展途上の国に負けたんでしょうか?
【回答】
ベトナム戦争では、アメリカ側は様々な制約の中での戦争だった。
ベトナム戦争はアメリカ対ベトナムと一般に認知されるし、実際にそうだと言えるだろうけど、正式には南ベトナム&アメリカvs北ベトナム。
実質はどうであれ、北ベトナムに侵略を受けている南ベトナムに対する援軍、として現地に行っており、侵略を防ぐために駐屯してるのであって,北を侵略するために行っていたわけではない(重ねて言うが、実態は別の話).
アメリカが負けた、というのは人的損失の巨大さと大儀名分と実態がかけ離れていることからのアメリカ国内での反戦運動から、援助していた南ベトナムから撤退せざるを得なくなった。
最終的に、アメリカ抜きの南ベトナムが北ベトナムに統一されることになり、アメリカが援助していた国家は消滅。これが負けたということであって、北ベトナムがアメリカを侵略したわけではない。
念のためだが、南北ベトナムに分離していたこと自体が,ベトナム人にとっては押し付けの話。
ベトナム戦争は統一戦争の側面と代理戦争の側面を併せ持つが故に、左右の主張や見方が異なるのは当然だが、内戦の末の統一そのものに対して、外国であるアメリカが敗北したか否なんか,そもそも関係ない話。
世論と有力支持者の意見。
戦争前半,米政府軍部のベトナムでの戦は圧倒的かつ順調に推移しているってストーリーを流してた。
アメリカ世論も最初はイケイケだった。ベトナム戦争は楽勝だと思われていたから。
が,テト攻勢(当時の北ベト軍側の評価では、軍事的には戦術的にも戦略的にも大敗)
で北ベト側に大規模な攻勢を行うだけの能力があり、楽勝とは言えないってのが露呈された。
楽勝のはずだったのに、大軍突っ込んでも勝てないから、おかしいぞってなったわけ。
その後,テトの被害と教訓から北越側が、対仏戦以来の大攻勢による占領から,不正規戦によって米軍の疲弊を図ることへと方針を転換し、以降勝ち負けのはっきりしない泥沼に陥り、米が嫌気を起こしたと。
その結果、国益とコストを重視する中道〜保守系の世論も反戦へと傾き、国論が撤退へと傾いた。
また、ベトナム人の心を掴むことが出来ず、ゲリラ(南ベトナム解放戦線)への対処が下手くそだった。
アメリカが後押しした政権は,腐敗まみれで人心は離反していたし,「戦略村」構想なんて最低.
結果,「軍隊を負かすことはできても,国民を負かすことはできない」というクラウゼヴィッツの分析通りに.
さらに,アメリカ政府も前線に近いところへあまりにも介入しすぎた。
それゆえ,作戦に政治的な制約がかかり、思い切った攻撃がベストなタイミングで行われなかったということもある。
軍事板

僧侶の抗議の焼身自殺を「人間バーベキュー」と言い放つ,腐った大統領夫人も南ヴェトナムにはいたし.
【質問】
アメリカがヴェトナムに介入するのは不可避だったのか?
【回答】
回避できていた可能性もあった.
「対ソ連への封じ込め」が「共産主義全体への封じ込め」に発展したのがヴェトナム介入の重要な要因だろう.
以下,ナイ教授の意見を引用
「もし,ソ連の色が黒だとすれば,中国は赤であり,ヴェトナムは黒,カンボディアは赤であった.
チェッカー盤型そのものパターんが展開された.
皮肉にも,1国でも共産主義の手に落ちれば,他の国々もそうなるというドミノ理論のゆえに,アメリカはヴェトナム戦争に介入した.東アジアでのゲームはドミノよりもチェッカーに近いことに,もっと先見の明をもって,アメリカは気づくべきであったろう.
そうすれば,アメリカは局外にとどまったかもしれない.「敵の敵は味方」というチェッカー盤型のパターンは,無政府状態の中で有益な予測をなす手助けとなる,地政学からの古くからの伝統なのである」
結局,共産主義への恐怖感が外交を硬化させたと言うことかな?
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4)第2章を参照されたし.
【質問】
「封じ込め政策」は,ヴェトナム戦争にどのような影響を与えたのか?
【回答】
イデオロギー的な対立が深化するにつれて,ケナンが本来主張していた「直接的な軍事力を用いない」均衡勢力型の封じ込めから,直接的な力の行使を用いた封じ込めへと変化し,「ソ連の脅威に対抗する」という名目で,それは正当化された.
冷戦の初期においてのアメリカの課題は,以下にソ連の侵食から,トルコとギリシャを守るか?ということだったが,これは言い換えれば,東部地中海において,アメリカがイギリスの肩代わりをすることは可能か?ということであった.
アメリカ国内においては,この問題をどうやって国民に説明するか?ということだった.
以下,ナイ教授の文章を引用.
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ジョージ・マーシャル国務長官らは,きわめて慎重であった.他の人々,すなわちディーン・アチソン国務次官やアーサー・ヴァーデンバーグ上院議員は,これをより大きな大義とすべく道義的トーンを欲した.
したがって,トルーマン大統領が自らの行動をトルーマン・ドクトリンといて説明した時,彼は全ての地位における自由な人々を保護するのだと語ったのである.
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また,ソ連に対する「封じ込め」を提唱したジョージ・ケナンは,スターリンの侵略的意図に対抗するよう警鐘を鳴らしたが,封じ込め政策自体にイデオロギー色が強まるにつれ,幻滅を感じるようになった.
ケナンの主張は,ソ連の「力」(パワー)を封じ込めようとするものであって,本来,アメリカの軍事力を直接的に介入させることなく,バランス・オブ・パワーに乗っ取り,ソ連との均衡を取ろうとするものだった.
だが,イデオロギーを重視する人々によって「共産主義そのもの」を封じ込めるために,アメリカは直接介入すべきだ,という主張が主流になった.
「世界を共産主義から守るため」という考えが徐々に主流になっていったのである.
この考えがベトナムにおいて,共産主義国家同士の対立というファクターを軽視するという結果を招いた.
これについて,ナイ教授は以下のように説明している.
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アメリカは,中国とソ連の力,それに共産主義イデオロギーの拡大を封じ込めなければならないと考えるようになっていた.
封じ込めのドクトリンが1947年の東部地中海から1950年代の東南アジアに移行するにつれ,それは野心的かつ成功しそうにもない介入を正当化するものとなったのである.
結論として言えば,単純で絶対的な非介入という原則は,実際にはしばしば破られたが,非介入という規範は依然として重要である.
非介入への例外は,それぞれのケースごとにその動機・手段・結果を検討することで判断されなければならない,と言えるであろう.
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・元来「封じ込め」とは,直接的な軍事力を用いないことを重視する.
・「ソ連への封じ込め」が「共産主義への封じ込め」というイデオロギー色が強まったことによって,ベトナム戦争への介入は正当化された.
・介入についても「個々のケース」を考えなければならない.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.
一方,ケナンは,ベトナム戦争への介入について,以下のように述べています.
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われわれがヴェトナムの共産主義勢力(彼らは実際には何よりもナショナリストであったのだが)とみなしたものを敗北させ,その国に何らかの反共政府を確立しようとして,長期に渡り,高い代償を支払いながら,結局不成功に終わった
(中略)
そもそもどのようにしてわれわれはこの動乱に足を踏み入れたかという問題であり,第二は,この努力が成功しそうもないことはほとんどはじめから明らかであったのに,十年以上もその努力を続けたのはなぜかという問題である.
(中略)
そもそもこの紛争に介入した理由としては,当時ワシントンに存在していた信念,すなわちソ連が世界制覇の計画の一部として,アジアの軍事的政治的征服に着手しており,東南アジアにおける自らの勢力を確立しようとするヴェトナムの共産主義たちの活動は,そのいわゆるソ連の「計画」なるものの一部であると言う信念が,重要な役割を果たしたのであると.
アメリカが自分自身のために創作したこのシナリオにとって基本的な点は,ホー・チ・ミンと彼の同調者はソ連の傀儡に過ぎないし,したがって彼らによるヴェトナム制圧はソ連による征服に等しいという確信であった.
ワシントンには,ヴェトナムの共産主義がマルクス主義イデオロギーよりもナショナリスト的衝動によって動かされている可能性を信じない雰囲気があった.
右に述べた二つの前提はいずれも誤りであった.
ソ連の指導者たちは世界制覇の青写真を持っていなかった.
彼らの心理は第一義的には防衛的であった.
当時,彼らとホー・チ・ミンとの間になんらかの関係があったとしても,ヴェトナムを支配下に収めようというホー・チ・ミンの意図はモスクワの支持とは無関係であった.
今日われわれは,ソ連の東南アジアの共産主義者との結びつきが当時実際にはまだ弱く,始まったばかりのものであったことを知っている.
ホー・チ・ミンは本当に第一義的にはナショナリストであって,彼の共産主義イデオロギーの言辞にも関わらず,もしわれわれが彼にそうするよう仕向けたならば,おそらく共産圏と我が国とに対してそのどちらにも偏らない関係を維持しようとしたであろう.
我が国の最高の専門家の何人かはこのことをわれわれに教えようと試みたが無駄であった.
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ジョージ・ケナン著『アメリカ外交50年』(岩波文庫,2000/10),246-248ページより引用.
【質問】
ベトナム戦における米軍の最大の間違いは,北ベトナムに陸上軍を侵攻させなかったことなのでしょうか?
【回答】
ドミノ理論が最大の間違いじゃないか.
ベトナム政策でのアメリカの最大の失敗は,親米主義者だったホーチミンを敵に回し,腐敗無能な連中に政権を渡したことにある.
ホーチミンは独立宣言をした直後は建前上、議会制民主主義を容認しておったので,アメリカが素直に国家承認しておけば,その後はユーゴ状態になって,完全共産主義体制になってもソ連中国とは同一歩調をとらず,中立的親米路線を歩んだろうと推測されている.

【質問】
大学の行政学の夏季授業で国防長官のマクナマラが出てきてるのですが,授業で彼の改革で非効率が当たり前と思われていた軍事の分野に効率を持ち込み,一定の成果が出た反面,ベトナム戦争ではその効率化政策が祟って散々な結果になったと聞いたのですが,そうなんでしょうか?
【回答】
だいぶ昔に読んだ話なんで細部は間違ってるかもしれないが.ベトナムでは過去の統計から消費した弾数に基づいて戦果が推計されたことがあった.
要するに,敵のいそうな繁みにこれこれの数の弾を撃ちこんだから,確率上はベトコンにはこれだけの死傷者が出たはずというもの.
それに基づいて戦果が発表されたわけだが,実際には誰もいないところにメチャクチャに撃ちこんでるだけということが多かった.
そのため,統計上は大量の損害を与えているはずなのに,敵の抵抗が弱まらず,作戦遂行上で大きな問題になったとか.
つまり,ベトナムでは効率化の方向性が相手のホームグラウンドでの神出鬼没のゲリラ戦という状況に合致しなかっただけ(電子機器・ミサイルへの偏重で近距離での遭遇戦に苦労した).
こないだのイラクでもそうだったでしょ?
中央政府制圧は速やかに遂行されたけど,やっぱゲリラには手を焼く.
対正規軍を想定した効率化では,非対称戦で齟齬が起こることもあるわけで.
【質問】
ベトナム戦争の「トンキン湾事件」は本当にアメリカの自作自演なのでしょうか?
【回答】
トンキン湾事件には第1次と第2次があり,両方を分けて考える必要があります.
まず,1964年8月2日の第1次トンキン湾事件ですが,トンキン湾で,アメリカの駆逐艦が,北ベトナム海軍(当時)の攻撃を受けたのは事実です.
ただし,その前に,アメリカの駆逐艦は,北ベトナムの領海内で作戦行動をしており,さらに,北ベトナム側の警告も無視していました.
国際法上,北ベトナムの行為は正当なものだったのですが,アメリカ側はこれらの事実を伏せ,「北ベトナムから攻撃された」ということのみを公表しました.
8月4日の第2次トンキン湾事件については,北ベトナム海軍による攻撃そのものがでっち上げだったというのが,現在の定説です.
【質問】
ベトナム戦争で、当時のアメリカに加担した国を教えて下さい。
イギリスと韓国と他には?
あと,日本はどの程度の協力をしたのですか?
【回答】
第二次大戦後なら、最初が英国、次いでフランス、フランスが撤退して、米国が主力になります。
このほか、韓国(兵力派遣)、豪州(空軍派遣)、ニュージーランド(空軍派遣)、タイ(輸送機派遣)だったか、と記憶しています。
日本の協力は、まず、佐世保、横須賀での修理基地の提供、そこでの艦船修理。
横田、岩国は補給物資の中継基地ですし、岩国は海兵隊の出撃基地でした。
また、日本は米兵の休暇先であり、傷病兵の治療場所であり、遺体の搬送先でもありました。
琉球は、長らく米国の施政下にありましたが、米軍爆撃機の出撃基地の一つとなり、海兵隊の出撃基地ともなっていた上、彼らが派兵前に訓練を積んだ場所でもあります。
更に、中央情報局の出先機関が置かれ、ここからベトナムの隠密作戦を支援しています。
当時、Reischauerは、沖縄を称して、「100万人の日本人の住む植民地」と言って憚りませんでした。
沖縄の県民総生産の4分の1は今でもそうですが、米軍絡みです。
個人としても、農業技術者、医療技術者が民間支援の形でベトナムに行っています。
また、米軍基地の日本人労務者は、日本政府の斡旋による個人契約という形で、輸送船や上陸用舟艇に乗り込み、弾薬や爆弾などの輸送・陸揚げ作業に従事して、死亡者を出していました。
【質問】
ベトナム戦争でアメリカ軍が、ハノイを攻めなかったのはなぜでしょう?
インドシナ半島全体に戦争が拡大してしまったのなら、ハノイを攻めて占領した方が良かったのでは?
【回答】
戦争というのは,戦場しか見ていては見誤るモノ、実は政治の一手段に過ぎない。
戦場を拡大するのが政治的に得策で無いという当時の判断があった。
(米)国内での反戦・厭戦ムードも、大いに関係しているだろうし,費用的にも厳しい状況も。
また、当時公式、非公式に、大陸中国とソビエトからは
「北ヴェトナム領への侵攻は、我らが同盟国への侵攻であり、同盟国への侵攻は自国への直接攻撃と見なす」
と宣告されており、アメリカ軍が北ヴェトナム領へ侵攻することは、ヴェトナムの地域を越えて世界規模で戦争が拡大する危険があった。
ソビエトも大陸中国も核兵器を持っていたわけで、つまりそれは核戦争の危機が発生する、ということ。
北ヴェトナム領内への航空攻撃−いわゆる「北爆」−が実行までにあれほど躊躇され、北爆が決断された後も様々に軍事行動に政治的制約が掛けられたのもそのため。
ホーチミンルート遮断のための越境攻撃と、それに伴って周辺諸国へ戦禍が拡大したのは「公然の秘密」であり、ヴェトナム戦争中に米軍が越境攻撃をしていた事実は,少なくとも公的には認められていない。
そもそも、南ヴェトナムの領内での戦闘だけでも莫大な兵力を必要としており、それでも尚兵力の不足を感じていた遣越米軍と派遣軍司令部からの増派要求に頭を悩ませていた米政府にとって、更なる兵力を必要とする北ヴェトナム侵攻作戦など、絶対に避けたいところだっただろう。
【質問】
ジョン・ケリーは「ヴェトナム戦争で,勲章欲しさに嘘をついた」のか?
【回答】
軍の公式記録によると,ケリーが戦友を助けたのは事実だが,疑問は残る.叙勲理由は,実物以上の英雄を作るものだ.
以下,要約引用.
1969/3/13,ケリーが艇長を勤める高速艇を先頭に,5隻の哨戒艇がベイハップ川を下っていた.
ケリーとは別の艇に乗っていた兵士の話によると,途中に魚網があり,ケリー艇ともう1隻は右側の隙間を抜け,残り3隻は左側を通ろうとした.
そのとき,左側先頭にいた艇が触雷,身動きとれなくなった.
5隻は川岸に向けて機銃掃射した.
「真実を求める高速艇退役軍人の会」の話では反撃はなく,40秒ほどで射撃をやめた.
ケリーはさらに前進してから引き返し,自分の艇から川に落ちた兵士を助けた.
その間,銃撃はなかったという.
ケリー艇に乗っていたデル・サンダスキーがnewsweek誌に語った話は,少し違う.
そのとき,おそらくロケット砲攻撃の衝撃で艇が大きく揺れ,ジム・ラスマンという兵士が川に落ちた.
ケリーは船室の壁に叩きつけられ,腕を負傷した.
川岸のジャングルには銃の発射炎が見え,銃弾が水面をかすめた.
ケリーがラスマンを助けているときも銃撃が続いていたかどうかは,サンダスキーも覚えていない.
だが,艇には水が流れ込んだという.
Newsweek誌が入手した公式報告書によると,船のエンジンと舵は確かに破損していたが,いつ破損したかは明らかではない.
「真実」の会の信憑性にも疑問はある.
戦争犯罪を巡り,71年に議会でケリーが行った証言に対し,彼らが不満を抱いているのはまず間違いないからだ.
(エバン・トーマス & T. トレント・ギーガクス
from "Newsweek" Jananese Edition,
p.41, 2004/9/1,抜粋要約)
【質問】
イアンドラン峡谷の戦いはアメリカが勝ったということで良いのでしょうか?
敵の根拠地にノコノコ少人数で降下した上,危機的な状況になるまで撤退しないというのは,判断ミスを繰り返しているようにしか見えないのですが…
【回答】
撤退しないのではなく.撤退できないが正解.
一応,戦闘の最中もヘリによる負傷者の後送は行われてた.
イアンドラン渓谷の戦いは戦略的に見て負け.戦闘的に見て勝ち.
この戦闘で北側は米軍の情報をかなり仕入れたらしい.
まぁ,初めての北ヴェトナム軍と米軍との戦闘だったしね.
【質問】
週刊少年マガジン6号/7号の「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」(講談社より同名のタイトルで出版されているものの漫画化)は,どの程度妥当でしょうか?
(編者注:ちなみにこんな漫画だった,らしい)
【回答】
冒頭からイラク戦争そして編集部での戦争に対する疑問、という導入部から,「反戦、反米」をテーマにしたものでしょう(原作が有るとは言え).
とりあえず,「一方的に米側が悪い」という点については,「そういった前提のもの」という事で論じないでおきます。
まあ突っ込む所は二つですか。
◆装備:これは漫画化のさいの問題だが。
1966年からとなっているが、米軍側はM-14のみ。というかM-16を持っている奴がいない。
M-16の作動不良問題は
1)クリーニングの教育をしなかった
2)装薬に多量の汚れが残る旧式のものを使った弾薬が有った
3)マガジンの不良
以上3つである(薬室内のメッキやボルト・フォアード・アシストの意味は少なかった).
これらの問題は65年頃には全て解決したので、66年になって出てくるのがみなM-14という事は有り得ない。
◆南軍旗について(これは原作を忠実に漫画化したと思われる)
>数多くはためく南北戦争時の南軍の旗
>それは奴隷制度の象徴であり黒人差別へのあからさまな肯定だった
>この南軍の旗はユダヤ人にとってのナチスの鉤十字と同じようなもので
(引用終わり)
本人がニューヨークのブルックリン育ちだから,そう考えるのは当然と言えるが。66年というのも有るし。
しかし,そもそも陸軍の下士官/兵や海兵隊員には南部出身者が多い。
南部人の北部への反感については,以下に起因する.
南北戦争において南部は北軍のシャーマン将軍による焦土作戦(住宅を含む全ての建築物を焼き払う)等によって大きなダメージを受けた。これによって南部は100年以上遅れたと言われる。
また現在でも、北部・東部は南部に対し,「遅れた田舎」という差別意識を根強く持っている。
人種差別主義者の多くが南部連合旗をシンボルとするのも事実だが、南部連合旗イコール黒人差別とするのは間違いで、南部に対する差別だ。
フィクションだが参考になるものとしては,講談社から出ているパトリシア・コーンウェルのバージニア州リッチモンドを舞台とした警察小説「サザンクロス」がある.背景から舞台は95年以降のあたりのはず。
黒人の警官が、停止させた車のリア・バンパーのステッカーのこの旗について
「それは人種差別の象徴だろう」
と指摘してドライバーと言い合いになり、後にこのドライバーがモノローグで
「卑怯にも人種差別をしているなどと言いがかりを付けたのだ」
と言う所が有る。
女主人公が、この地域で根強い人種差別が残っているのを指摘している所も有るので、この点では特に偏っていないと思う(人種差別関連で白々しさを考えさせるスティーブン・ハンターのスワガーシリーズに比べても).
なお,ベトナム戦争が黒人への差別を和らげたという事が有る。
昔の(今も残っているが)黒人への差別の根には、差別する側は黒人と直接的な関係をほとんど持たないのに、
「黒人という人種はあらゆる能力が劣っている」
という事をあたりまえの事として多くが信じていたことがある。
ベトナム戦争においても、上述のように前線に出る兵士は南部出身のものが多い。
黒人兵がポイントマンなどの危険な任務を押し付けられるという差別は有った。
しかし,前線で白黒混在して戦っていると単なる事実から
「黒人兵は別に劣った所が無い」
という事を、直接的に体験した者が多い。
WW2の米軍の日系人部隊が,米国内の日本人の地位向上(復活?)に影響したように、別に不思議な事でもない。
後編のインタビューより
「最近、自衛隊員に英語を教えている女性に会いました(中略)
ですから、私はその女性に、
『憲法九条のある日本の兵士は命令に従わなくて良いんだ、行きたくなかったら行かなくてもいいんだよ』
というメッセージを伝えてほしい、と言いました(後略)」
いやー何て言うたら良いか。
「最近」てー事は,そもそも自衛隊員でもイラクに行く隊員では無いんじゃないかというか。
別項で書かれている通り,イラクに行った人は,ますイヤなら行かないですむ(希望者の方が圧倒的に多いから)というか。
アメリカには修正二条(正しい訳では無いが)が有るから、米国内の米国人は武器の保有と所持はいくらしても良いんですか?というか。
やでやで。
最後にもう一つ.
前編のマンガの後で「ベトナム戦争とは?」という記事が有ります。
で、ベトナムを支配していた国としてアメリカとフランスとだけ有りますが、一つ肝心な国を忘れちゃいませんか?
「支配してた国? んーとー,『動物王国』?かなあ……」
【質問】
ベトナム戦争の写真で有名な、すっぱだか(ナパーム浴びて服が焼けて)で逃げる少女の写真がありますが,彼女はその後どうしたのですか?

【回答】
現在も存命で,ドキュメンタリー本も出版されています.
この本は,本人が極めて協力的で、著者の筆力もすごく彼女だけでなく世の中のバックグラウンドもちゃんと書いてあるのですごい。
驚いたのは事件直後の星条旗新聞。1ページ使って「誤爆、炎の地獄」だかというタイトル、少女含む逃げる民間人とナパームの爆撃の写真。
ちなみに,爆撃したのは南ベトでなく米軍機。
少女が治療を終えるまでの苦痛の日々でも,距離を保ち,感情を煽るような文にしないのがすばらしい。
で,ベトナム政府は彼女を反米プロパカンダに利用しようとなる。
この1/3あたりからラスト前までの彼女の主張と背景描写の大半が共産主義体制批判。
留学先のキューバで平和で豊かに暮らしていたら,ペレストロイカやソ連崩壊によりどんどん国は貧しくなるが、ドイモイで豊かになりつつあるベトナムと逆方向に突っ走るカダフィ〔原文ママ〕。
正直、ナパームよりもコミュニズムが心底怖くなる本でした。
きっちりとハッピーエンドなのが救い。
【質問】
べ平連って何?
【回答】
ベトナムに平和を〜という日本の反戦市民団体で,自称文化人みたいな人達が反戦運動をしてました.
ベトナム戦争後にカンボジアにベトナムが侵攻してから,べ平連は急におとなしくなりました.
まあ,集団趣味ってところですかね.
暴走族とか集まると楽しいでしょ.
ナチSAだって,皆で暴れるのが楽しいってだけで,政治そっちのけで入隊したやつが多かったみたいだし.
自営業(青文字部分)他 in 軍事板
修正部分:黄文字
【質問】
ベ平連は過激派団体だったのか?
【回答】
小熊英二が述べるところによれば,過激派学生が参加しており,
「新左翼や共産党の活動家が各地のベ平連に入りこんで,自分たちの党勢拡大に利用している」
という噂も流れたが,組織の不定形さゆえに乗っ取られずに済んだという.
以下引用.
――――――――――――――――
1960年代末には,全共闘運動の台頭とともに,ベ平連にも急進的な学生が参加するケースが増えた.
しかし吉川の回想によれば,内ゲバをやめさせる仲裁はしたものの,基本的には当人の判断と責任にまかせ,
「行動を制限することは一切しませんでした.それはその人の自由」
という方針をとった.
〔略〕
新たに加入した急進的な学生たちは,しばしばベ平連の路線にあきたらず,小田や吉川,鶴見などを「オールド・ベ平連」などと批判することもあった.
新左翼や共産党の活動家が各地のベ平連に入りこんで,自分たちの党勢拡大に利用しているという噂も流れていた.
しかし1968年8月,松田道雄が
「これじゃあ,ベ平連も完全に占拠されますよ」
と鶴見俊輔に忠告したとき,鶴見は
「絶対に占拠されませんよ」
と微笑したという.本部も役職もない運動を「占拠」するのは不可能なはずだという,
弱さに徹した自信がそこにはあった.
そのため当時のベ平連のデモは,ヘルメットをかぶった学生,小田をはじめとした作家や知識人,そして主婦や会社員などが,連れだって行進しているものとなった.
鶴見俊輔は1968年に,「党派性というものはある意味で人間の弱さにつけこむもの」であり,「それと闘うことが出来るかどうか」が課題だと述べていた.
敗戦後の運動が党派争いで崩壊したことを経験した鶴見が,「不定形の思想」を育んでいたことが実践に役だったのである.
結果として,ベ平連にあきたらず「卒業」してゆく者は多かったが,除名や分裂はおこらなかった.
「ひとりベ平連」が容認されている状態では,「分裂」など起きようもなかった.
――――小熊英二著『<民主>と<愛国>』(新曜社,2002.10),p.778
>本部も役職もない運動
と言えるかどうかには,疑問がなくもないが.
また,著者は中立的立場ともあまり言えないことにも留意.
◆組織
【質問】
ベトナム戦争とかって,ジャングルの中で戦ってたようですが,虫とか蛇とか、とにかくありとあらゆるキモイ生物が居たと思うんですけど,兵士たちはそういった生物にも対応できるよう訓練されていたんですか?
【回答】
もともとベトナム側は農民が多いので、虫やヘビには耐性がある。
日本でも虫やヘビを食べる地域はある。
ちなみに、解放戦線兵士は食料が不足したとき、土虫をとって食べたりしたという話もあるんで、気持ち悪いとかそういうレベルでは無いと思いますが……
米軍兵士は一応有毒生物に付いてのレクチャーは受けていた。
だが,知識があることと実際に遭遇して厄介な事は別で、アメリカ兵は毒蛇とヒルと蚊とダニと蟻に悩まされつづけた。
虫除けの薬剤スプレーも支給されたが,これは匂いが強烈なので,
「匂いで敵にばれる」
として,使用させない指揮官も多かった。
防虫剤使用例

【質問】
ベトナム戦争当時、NVAは朝鮮戦争の時の中国義勇軍のような人海戦術で戦争してたように認識していたのですが,あるいは精強な特殊部隊も存在していたのでしょうか?
今までは北ベトナム軍は士気は非常に高いけれど
平均的な後進国の軍と変りないだろうと思っておりました。
「驚異的なジャングルファイター」
などという評判は、都市部などでテロなどにあって敵味方区別のつかない状況に置かれていたGI達の戦場伝説の類だと思っていました。
が、マリーンやグリーンベレーの連中を返り討ちにするような精強無比の部隊などもあったのでしょうか。
漫画や小説といったソースのあやふやなところで時折、「北ベトさんオニつえー」ってな話がでてくるので,ここ十年くらい気にかかっております。
どなたか「NVA最強!」てなエピソードでもあったら教えてください。
【回答】
北ベトナムの特殊部隊/精鋭としては、決死隊、工作隊と呼ばれる部隊が有名。
決死隊は米大使館に突っ込んだような特攻隊。
工作隊(sapper unit,sapper battalion)ってのは強襲的なゲリラ戦の為に組織訓練された部隊で、大隊規模で集中投入される他、小〜分隊規模で他の歩兵部隊に臨時編入されたりしてた。
んでこの工作隊の戦法として有名なのが、米の偵察/浸透部隊狩や後の対クメールルージュ戦で多用された.
・敵発見→追尾しつつ歩兵部隊呼寄せ、先回りさせてキルゾーン形成→工作隊奇襲・退却→追ってきた敵はキルゾーンに嵌ってウマー
・工作隊奇襲→敵の退路にはあらかじめ歩兵部隊+地雷のキルゾーン作っといてウマー
・工作隊は偵察追尾のみ、連絡して砲撃加える→もちろん退路はキルゾーンでウマー
あと普通?に一撃離脱の奇襲したりテロったりもする
これらの場合でも北越部隊全体の錬度は高いわけじゃないし、北越側の死傷者数の方が多かったりするんだけど.
【質問】
ベトナム戦争に従軍した米兵は,有色人種の若者ばかり,って本当?
【回答】
ベトナム戦争に従軍したアメリカ兵の平均年齢は低かった.
ただ,時期によってばらつきがあるので,一概に「平均で20歳だった」とは言えない.
ただし,兵卒に限れば,ベトナム派遣者の平均年齢が25歳を越えた年は一度もない.
それと,士官や下士官はともかく兵卒でいわゆる「白人」はベトナムではほとんどいなかったと言われる(これも時期によるが).
黒人と有色人種(日系とヒスパニック)がほとんどで,ついで南米系のラテン系が多く,いわゆるWASPは「物好きな志願兵の大学生」くらいしかいなかったらしい.
映画監督のオリバー=ストーンのようにエリートコースを放り投げてわざわざ志願した変わり者もいたが.もちろん白人だからといって徴兵されないわけではないが,そういった人たちは後方任務や欧州方面に廻されていた.
【質問】
ヴェトナム戦争で,なぜ米軍兵士にヘロインが広まったのか?
【回答】
インドシナには古くから阿片が安定供給されていたという素地が存在したからだという.
以下引用.
「古くからインドシナには,中国人が多数定住していた.
彼らの多くが阿片愛飲者であることはよく知られている.〔略〕 17世紀頃から中国人の間に,煙草にインド産阿片を混ぜ,パイプで吸う習慣が広まった.当初は上流階級だけのものだったが,やがて19世紀中期になると労働者にも及んだ.
この阿片の安定供給もまた,インドシナを支配する政府の重要課題となった.供給量減少が高値を呼ぶと,それは即,反政府暴動にと発展する.事実,これは再三に渡り生じた.
やがてフランスがインドシナを植民地化すると,フランスのインドシナ総督府は,この問題に腐心する.阿片が品不足に陥ったら,多くを占める中国系住民による暴動すら予測されたからだった.
そこでトルコからの輸入に頼っていた阿片だけでなく,中国雲南省産のものをも輸入するようになる.
サイゴンに置かれた「阿片専売公社」では,あたかも煙草を販売するような形で,中国人に阿片を販売していた.
もちろん儲かる商品だから,密売商人の暗躍もあった.彼らは中国雲南省から阿片を直接運ばせ,密輸商人に頼った商売を始める.
品質は粗悪だ.専売公社のものとは比較にならない.けれど十二分に商売として成り立った.何故ならその顧客層は,裕福な商人ばかりでなく,貧しい肉体労働者もいた.彼らは安価なものを当然のこととして求める.
〔略〕
第1次大戦で主たる供給国だったトルコからの輸入が途絶えると,フランスの阿片専売公社では自給自足せねばならなくなった.
阿片専売公社とは,19世紀のタイにおいて,阿片を吸引する中国人が増加したことで,国家管理の阿片専売公社が煙草のように流通を管理した.
この方式はビルマなどにも広がり,やがてフランスはインドシナの植民地に採用した.これは中国人が居住するアジア地域特有のものとなったのである.
雲南種の芥子が注目され始めたのは,この頃である.これを華僑の阿片中毒患者に安定供給するため,フランス領インドシナで栽培しようと計画が進められた.
ところが涼しい土地に適した雲南種だと,暑いインドシナでの栽培は不向きである.
僅かに,標高が1000m以上の,山岳部の石灰岩地帯にだけ栽培可能なことが分かった.南に面した斜面,つまり水はけの良いアルカリ性の土地でのみ生育できるのである.
そうした山岳地帯には,メオ族を初めとする山岳民族が居住していた.とりわけメオ族が雲南種の栽培に熱心に取り組んでいく.
メオ族は元来,中国四川・雲南・湖南・貴州などの省に古くから住んでいた民族で,今日も3000万近い人口をこれら地域に有している.
17世紀に清朝政府は弾圧開始,2世紀に渡り,7度の叛乱が生じた.多くのメオ族が敗北して南下,インドシナの山岳地帯に住みついた.彼らは焼き畑農業を営み,芥子栽培によって暮らしを立てることになる.
そうした経緯と雲南産芥子の特性から,栽培地域が,「黄金の三角地帯」と呼ばれるラオス,ビルマ,そしてタイの接する辺りに集中したのだ.〔略〕 1939年以前は専ら密輸されたが,世界大戦によりトルコやインドからの阿片輸入が減少の一途を辿ると,インドシナの需要に応じるため,一気に栽培が盛んになったのである.
現地の人間より懐に余裕ある外国人,それも,戦場に立って死の恐怖に晒され,現実逃避したい若者達がいたら,麻薬はたちどころにそこへ流入する.
最高の条件にある消費者が,やがてこの地に大量に派遣されてきた.ヴェトナム戦争でのアメリカ軍がそれだ.
アメリカ軍のヘロイン禍は,既にインドシナに派兵した時点において,全ての面で下地ができていたのである.
(柘植久慶「麻薬戦争地図」,銀河出版,'93,P.13-16)※
※本書のこの部分は,フリーマントル「FIX」(新潮選書)からの引用ではないかと思われる
【質問】
映画「地獄の黙示録」に登場するカーツ大佐のモデルは?
【回答】
1961年にCIAからラオスに派遣されて、現地のモン族の王になったトニー・ポーがモデル。
http://www.kriegsreisende.de/soeldner/geschichte.php?artikel=relikte/apocalypse.htm&td=1142004
【質問】
ヴェトナム戦争では,米兵にとっての安全地帯は基地内だけですか?
【回答】
基地の中も安全とは言いきれなかった.
北ベトナムはアメリカ軍基地の外から基地内の兵士を狙撃する戦法を行うことがあったからだ.
また,ベトナムは,アメリカ軍の基地の真下までトンネルを掘ったりもした.
細くて長いモグラの穴みたいなのが,アメリカ軍の真下にあった.
クチ・トンネルの長さは250kmに達する.
以下余談.
ある基地も,そのようなベトコンのスナイパーに狙われた.
早速,海兵隊の熟練者による対狙撃チームがやってきて,ベトコンの狙撃兵を処分した.
数日すると,また同じようなことが行われ,同じように対処した.
また,ベトコンの狙撃兵がやってきたが3人目の彼は,前2者とは違っていた.
彼は射撃が下手だった,海兵隊の対狙撃チームは彼の腕前を慎重に評価し,彼を撃たないことにして,慎重に観察をした・・・
3日後,彼は弾をほぼ撃ち尽くして帰り,海兵隊は彼の行動から,ベトコンの狙撃戦術についていろいろなデータ入手に成功したという.
軍事板 & 風船男 in mixi支隊(青字部分)
【質問】
アメリカ州兵は第2次大戦や朝鮮戦争あるいは湾岸戦争・イラク戦争では参戦しているのに,ベトナム戦争には不参加だったようです.
なぜベトナム戦争だけ不参加だったのでしょうか?
【回答】
州兵の指揮権は基本的に州知事にあり,有事以外は大統領が動員することはできない.
ヴェトナム戦争はあくまで「南ヴェトナム政府を支援するための軍事介入」であって,北ヴェトナムとアメリカが戦争していたわけではない(公式には)ので,州兵の動員はできない.
ただし,州兵の大規模な一斉動員(連邦軍への編入)こそなかったが,各州の州兵航空隊(Air
National Guard)などの個別部隊への動員はおこなわれたようだ.
下記のサイトには,プエブロ号事件やテト攻勢の後,1968年に1万人を超える州兵航空隊員が動員されてベトナムに派遣された経緯が記されている.
http://www.ang.af.mil/history/Heritage/VietnamWar.asp
【質問】
ベトナムで戦死した米兵の死体を洗うアルバイトって実在したのですか?
【回答】
ベトナム戦争の戦死者を洗うというか、きれいにする作業は存在した。
エンバーミングといい、遺体についた汚れを落とす。
腐敗防止の為に、血を抜いた後血管内や内臓に防腐剤を注入する。
ちぎれた手足や傷をを縫合する。
髪を整えたり顔料などで顔色を生前に近いものにする、など。
これは,土葬が一般的なアメリカでは,戦死者に限らず,ほとんどの死者に対して行われ、葬儀業者の業務の一つとなっている。
ベトナム戦争時には遺体はまず日本に運ばれ、ここでエンバーミングを行った後米本土に移送された。
基地で働く日本人の中に,この作業に従事した者もいただろうが、アルバイトとして行われたかどうかは知らない。
【質問】
ベトナム戦争の時,韓国軍が参加したそうですけど,どれだけの働きを見せたのですか(軍事的に)?
戦後に米国からお金を貰っているみたいですから,結構な活躍をしていたのでしょうか?
【回答】
戦術面・住民宣撫面などで米軍より優れており,NLFにとって最も恐ろしい敵となったという.
その一方,有力であったと共に残虐であった,という資料もある.
wikiより転載
韓国軍の参戦
民家を点検するアメリカ軍兵士大韓民国の朴正熙政権はアメリカの要請により,1964年に最初の海軍部隊を派遣したのを皮切りに,1965年10月には陸戦部隊である猛虎師団1万数千を派兵して本格的に参戦.1973年3月23日に完全撤収するまでに総兵力約31万人をベトナムに投入した.
韓国軍はベトナム兵などを約4万人(公式記録)殺傷し,韓国軍の犠牲者は戦死約5千,負傷約1万に上った.
オーストラリアやタイ王国もアメリカの要請によりベトナム派兵したが,アメリカ以外の国としては,韓国が最大の兵力を投入した.
米韓の協定により,その後,韓国政府は派兵規模に応じた補助金を得ている.
こんな資料も
http://www.special-warfare.net/data_base/
ROK(RepublicofKorea)と呼ばれた韓国軍はアメリカ軍に次ぐ規模の西側派遣外国軍であった.
アジア圏における共産主義の拡大に危機感を募らせていた韓国政府は1965年夏,米軍の軍事援助のもとベトナムへの派兵を決定.
兵力は延べ37万名,最盛期には5万の兵力を南ベトナムに展開した.
具体的部隊としては韓国主都師団猛虎,白馬の2個師団,韓国海兵隊青龍1個師団の3個師団でいずれも韓国軍最強の部隊である.
韓国軍は早い時期よりベトナム戦争の長期化を睨んでおり,米軍基地のような簡易建造物による陣地構築ではなく鉄筋コンクリートの施設を建造した.
また,戦術も米軍とは違い,空軍や機甲部隊には頼らず,歩兵を中心とした接近戦闘を主体とした.
砲兵の数も少なく,ジャングルではもっぱら敵であるNLF,NVAと同じ戦術を駆使した.
さらに韓国軍では,敵を捕捉しないかぎり反撃は控えるという手堅い戦闘を見せ,NLFにとって最も恐ろしい敵となった.
アメリカ軍の撤退は1968年秋から始まるが,韓国軍はこの後もこの地に残った.
韓国軍は朝鮮戦争を体験しており民族間に強い国防意識を根付かせていた.
朝鮮,ベトナムと2度に渡る共産主義勢力との戦いは,韓国軍を勇猛果敢な世界でも最高峰の軍隊に育て上げた.
韓国軍がベトナムを去るのは1973年,実に7年間の軍事行動をし戦死者は4407名,負傷者は2万5千名であった.
韓国軍の戦争長期化の考えは当たり,初期の施設建造や人材面で米軍よりも有利な条件がいくつも存在した.
鉄筋コンクリートの施設は解放戦線の砲撃に十分に耐えたため,解放戦線も容易に突入はできなかった.
また,多くの通訳を擁し現地人との交流を図った.
軍規は極めて厳正で,戦闘時以外には村に対する放火をさせないなど,徹底したプロ意識も見せた.
その一方,有力であったと共に残虐であった,という資料もあります.
ただし,google検索してみると,誤訳や,ハンギョレ21のスタンスへの疑問(例えば,ピースボートでベトナムを訪問)が指摘されています.
ついでながら,この記事を韓国で載せた際,帰還兵からの脅迫を含む反発があったそうですが,その記事のURLは見つけられませんでした.
ただ,虐殺そのものを否定するのではなく,正義の戦争だから当然という帰還兵の主張が多かったと記憶しています.
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99256.htm
http://gimonshi.jugem.jp/?cid=3
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99256.htm
【質問】
韓国兵はヴェトナム戦争従軍の際,手当てはいくら受け取っていたのか?
【回答】
准将の場合,毎月210ドル,
中佐の場合,180ドル,
少尉は,120ドル
一方,参戦期間(1965〜1973年)の派遣将兵の海外勤務手当ては計2億3556万ドル.
このうち1億9511万ドルが国内に送金された.
また,戦死者4968人に29億9245万ウォン,負傷者8004人に35億1317万ウォンが,それぞれ支給された.
「派遣将兵の手当てを政府が転用した」という話はガセ.
以下引用.
ベトナム戦の韓国軍戦死者,4968人に計30億ウォン
韓国国防部は2日,ベトナム戦争関連の外交文書,計17冊,約1700ページを公開した.これは,政府のベトナム戦争関連外交文書のうち,8月末に外交通商部が公開したものを除いた残りで,当時の派兵過程や派遣将兵の海外勤務手当ての実態,韓国の核不拡散条約(NPT)加入をめぐる韓米の鋭い対立が含まれている.
▲米国,戦闘手当て支給提案を拒否〓1969年4月,国防部は,「ベトナム派遣将兵の処遇改善」という文書で,将兵たちが米軍並みの戦闘手当てを受けるよう米国と協議することを政府に提案した.
当時,軍人報酬法には,戦時や事変など,国家の非常時の戦闘に従事する将兵にのみ戦闘手当てを支給するようになっていたため,派遣将兵たちは,戦闘手当てを受けることができなかった.
国防部は,
「海外勤務手当ては,本人とその家族の生計維持費であり,戦闘の危険に対する補償ではない.戦時・事変でなくても,国家のために戦闘に従事するのであるから,米国側に関連手当てを要求すべきだ」
主張した.
しかし米国は,追加負担は難しいとして,韓国の申し入れを拒否した.
▲海外勤務手当ての水準〓派遣将兵たちが米国から受け取った海外勤務手当ては,当時,韓国よりも国民所得のレベルが高かったフィリピンやタイの軍人と同様の水準だった.
准将の場合,韓国軍とフィリピン軍はいずれも毎月210ドル,中佐の場合,韓国とフィリピン軍は180ドル,タイ軍は210ドル,少尉は,3国いずれも120ドルの支給を受けた.
国防部関係者は,
「これまで,フィリピン軍が,海外勤務手当てを韓国軍の2倍以上受け取っていたと伝えられていたが,それは,自国の海外勤務手当てまで含んだためだということが,今回の文書公開を通じて明らかになった」とし,「派遣将兵の手当てを政府が転用したという長年の疑惑が解消された」
と述べた.
一方,参戦期間(1965〜1973年)の派遣将兵の海外勤務手当ては計2億3556万ドルで,このうち1億9511万ドルが国内に送金された.
〔略〕
▲その他〓1960・70年代,韓国政府は,ベトナム戦争の参戦国に対して,活発な反北朝鮮外交戦を繰り広げた.
崔圭夏(チェ・ギュハ)外務長官は,毎年開かれていた参戦国外相会議で,北朝鮮の各種挑発行為を糾弾し,南侵の可能性を警告した.
一方,米国は,派兵期間に戦死または負傷した韓国軍将兵に対して,計65億563万ウォンの災害補償金を支給した.戦死者4968人に29億9245万ウォン,負傷者8004人に35億1317万ウォンが,それぞれ支給された.
軍別には,陸軍(1万282人)に53億2260万ウォン,海兵隊(2621人)に11億4451万ウォン,海軍(78人)に3705万ウォン,空軍(1人)に45万7600ウォンの順だった.
【質問】
ヴェトナム戦争に自衛隊は派遣されたのでしょうか?
小林源文氏によると,非公式に研修という形で派遣されたそうですが?
【回答】
今のところ公的な証拠は出されていません.
有る無い論争は平行線になりがちなので,とりあえず証拠がでるまで待ちましょう.
軍事板
小林源文著『鋼の掟』( from 『実話ナックルズ』誌)より,掲載前にセリフを公開
俺がこの話を聞いたのは10年前,西新宿のあばら屋での酒席だった.
「先生,チョット」と呼ばれ,別席で先輩の言葉を伝えますと突然始まった.
この頃キャットシットワンの連載をしており,サルの自衛隊員を登場させた.
俺が社会に出た昭和四十年代の巷には,自衛隊がベトナム戦争に行ったという噂があった.
その噂の延長には,陸上自衛隊の74式主力戦車が試験投入されたというのも.これはあまりにも大法螺だ.
あばら屋で聞いたの〔話〕は,1966年から68年まで,15人づつ半年交代で4チーム延べ60名がベトナムへ派遣された.
部隊区分で多い順に陸自は名寄の冬戦教,御殿場の富士学校,習志野の第一空挺,海上自衛隊と航空自衛隊は少なく1〜2名だったという.
「第一空挺より富士 それよりも 冬戦教が多いのは 何故です」
「冬戦教は 本物の SOGです」
「富士学校は 諸兵種の 教育機関です」
冬戦教とは冬季戦技教育隊という,冬季オリンピックに出場するのは表の連中だ.
本物は直接支援隊の名称で1950年代の冷戦中から,有事に備え訓練に励んできた.
毎年数名が米国特殊部隊グリンベレーか,英国陸軍の特殊部隊SASに派遣される.
自衛隊の初期に作られた冬戦教ホームページには,創立当時はSOGの名称で調査と観察グループと呼ばれたとあった.
「これだ!」
ベトナム戦争中のSOG(特殊作戦グループ)部隊は,対マスコミ用のカバーネームとして調査と観察グループと呼ばれていた.
「ありゃ!」
「ホムペから SOGが 消えた」
彼らは横田エアベースから直接ベトナム入りしたという.
南方に行くなら日本刀を持って行けと,親父から勧められたのも数名いるが使い物にならなかった.
ベトナムへ派遣されたのは守秘義務の関係から全員幹部(将校)で,南ベトナム中部のニャチャン(米軍呼称ナトラング)のリコンドースクールで,三週間の速成教育を受けた.
このニャチャンにはベトナム派遣の韓国軍司令部に,米陸軍特殊部隊SOG作戦司令部があり,第5特殊部隊がリコンドースクールを管理運営していた.
リコンドースクールではLRRP(ラープ),つまり長距離偵察パトロールのテクニックを伝授していた.
〔略〕
リコンドースクールでの第一週は室内教育で午前四時半から始まる.
無音潜入テクニックに偵察パトロール,敵味方の小火器の分解組み立て,地図の判読法,コンパスを使ったグランド・ナビゲーション,通信全般,応急処置など.
第二週はニャチャンの対岸にある無人島での第一週の応用訓練で,各種障害コースで実戦に即した射撃や爆薬,FAC(前線航空管制官)との通信訓練となる.
第三週は敵側エリアで実戦参加の最終試験で,平均的な合格率は50%と言われる.
このSASを真似た実戦向きのLRRP訓練コースを案出したのは,チャーリー・ベックウィズで後に有名なデルタフォースの創立者となる.
LRRP訓練後に陸自隊員はSOGの作戦に加わった.
空自隊員はFAC(前線航空管制官)や空軍特殊部隊のパス・ファインダーに.
海自隊員は海軍特殊部隊SEAL(シール)に加わった.
※パス・ファインダー:ヘリボーン部隊の投入前にLZ(ランディング・ゾーン)の安全確保と通信管制をする.
LZ:ヘリの降着地帯
このベトナム派遣の自衛隊60名の戦功はシルバースター勲章1名,ブロンズスター勲章2名と聞く.
憲法違反のベトナム派遣とはいえ,延べ数百万もベトナム従軍した米軍に比べれば素晴らしい戦功で,誰も否定は出来ないはずだ.
このベトナム戦争自体おかしな戦争で,非武装地帯の17度線を越えて北ベトナムへ侵攻できない.
同様にラオスやカンボジアへの越境は国際法違反とされた.
これを超越した秘密作戦を専門としたSOG(特殊作戦群)で,ナム・ツアー(ベトナム従軍)二回以上の陸軍・海軍・空軍.海兵隊の志願者により編制されていた.
SOGの作戦目的は敵側エリアでのホーチミン・ルートと呼ばれる共産軍の補給ルートの偵察に監視,暗殺に破壊工作,情報収集に爆撃指示など任務は多様でロードランナーと呼ばれた.
〔略〕
本物のグリンベレー在隊20年の三島瑞穂(米国名ミズホ・ボブロスキー)氏が,ニャチャンで日本人と会っている.
ただし守秘義務で直接俺には教えてくれない.
三島さんに興味のある方は並木書房・三島瑞穂著「D446」を薦める.
母親が米国軍属と再婚して,米国籍になってから志願入隊で空挺からグリンベレーになった.
第一空挺の本部管理勤務していた下士官(習志野で組事務所を潰した)は記録写真を見ている.
「ねえ 教えて 下さいよ」
「できねえよ 年金 切られるよ」
長い付き合いの防衛庁調査部の友人に資料関係を聞いてみた
「ボクが 処分しました 義務です」
「エッ!」「冷テエ!」
その後,別な方から情報が来た.
「先生の 数字は 正しいです」
「アリガト!」
冷戦時代に日本の共産化を真剣に心配した人たちが居た.
一億二千万の日本人が非難しても,俺は自衛隊のベトナム派遣は正しいと信じている.
インドシナで戦った60名と,戦死した数名の方に短編劇画を捧げます.ご苦労様でした.
そして有難う御座います. 小林源文
(in mixi,2007年03月30日13:25
転載にあたり,著者本人の許諾を取得済み)
もっとも,疑問点もある.
もしこれがアメリカ政府の要請による派遣なのだと仮定した場合,たった60名が何の役に立つのかという疑問が沸く.
逆に日本政府が自ら希望したのだとすると,これが発覚した場合,当時の政治状況から考えて,政府与党が大ピンチになることは明白.
そのような大冒険を自ら希望して行うとも思えないのだが…….
米側にしたところで,与党を弱体化させ,下手をすると非武装中立論なる珍論を唱えていた政党に政権が渡りかねない行為に手を出すだろうか?
(ちなみに村山政権が誕生したときには,米側は当初,「日本に社会主義政権ができた!」と本気で心配したという.
ソースは失念.
この心配は,村山首相が渡米し,日本の国会でよりも先にクリントン政権に対して「自衛隊容認」を表明するまで続いたという)
【質問】
南ベトナム解放戦線(ベトコン)はハーグ陸戦法規違反ではないでしょうか? 見分けられる徽章を付けず、武器を公然と携帯してもいないので、交戦者資格は与えられませんよね?
【回答】
ハーグ陸戦条約を持ち出すのであれば、むしろ第二条に注目してください。
「敵が接近するにつれて、未だ占領されていない地区において軍民が急遽抵抗軍を結成する場合において、1※を満たすことができないとき戦争の規則と慣習を尊重する範囲で、交戦団体として認められる」※武器の公然携帯や戦争法規を順守する等の条項
つまり、すでに特定の勢力に支配された地域で結成された不正規兵の交戦は,陸戦規定を満たしていない犯罪行為であると解釈できるわけです。
これではいわゆるパルチザンは交戦者資格(捕虜資格)を充たすことが出来ないため、1949年のジュネーヴ第三条約では、捕虜の規定の中に、
「紛争当事国に属するその他の民兵隊及び義勇隊の構成員(組織的抵抗運動団体の構成員を含む)で、その領域が占領されているかどうかを問わず、その領域の内外で行動するもの」(第四条〔捕虜〕A 第2項)
という規定が追加されました。
さらに、1977年のジュネーブ第一追加議定書43条1項では
「紛争当事国の軍隊は、部下の行動についてその国に対して責任を負う指揮の下にある、すべての組織された武装の兵力・集団及び団体から成る」
同第44条3項では、
「戦闘員は(略)敵対行為の性格のために武装紛争がそのように区別しえない状況が武装紛争中に存在することが認められるので、そのような状況においてその者が、次の場合に武器を公然と携行しているのならば、戦闘員としての地位を保持するものとする」
と、明確な指揮下にあることと、武器の公然の携行が最低条件とされました。
ただし、この追加議定書にはアメリカをはじめ批准していない国家もいまだ多数あります。
当然ながら、当時米軍はベトコンには交戦者資格は無いとみなしていました。
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
【質問】
歴史の話でベトナム戦争ののことになると,しばしば米軍の虐殺なんかがクローズアップされますが,逆に北ベトナム側はそういう虐殺虐待みたいなことを起こしたりしなかったんでしょうか?
【回答】
テト攻勢の際のフェ攻防戦で,南ヴェトナムの役人や富裕階級の人間が多数処刑されている
(善良な人民を苦しめた,と言うのが罪状).
正確な統計が無いが,処刑された人間はかなりの数に登っている.
また,1968年のテト攻勢のとき,ベトコンは一時占領したフエで,南ベトナム政府を支持していた一般市民を1000人以上殺害している.
写真で有名な,サイゴン警察署長による捕虜射殺は,実は部下とその家族を殺害したベトコン・ゲリラに対する復讐だったという話もある.
さらに,北ベトナム軍やベトコンの捕虜となった米軍兵士は,地面に穴を掘った牢獄で雨ざらしにされたり拷問を受けるなど虐待されるケースも多かった.
どちらかが倒れるまでのガチンコ・バトルだったからなあ.
【質問】
ベトナム戦争をテーマにした,ベトナム人の書いた小説読んだんですが,なんか塹壕の中で,兵士がそれぞれの特技生かして,時計修理屋やっていたり,ラジオ作ってたり,靴屋やってたりするんです.
これって現実にもあったことなんですか?
【回答】
実際にあったと思われる.
NHKかなんかの特集で
「自分は自転車修理を〜」
「トラックの修理には手馴れていた」
「捕獲した品で商売」
なんて証言があった気がする.
北ベトナム軍は民間人の寄せ集めなので,そういった助け合いが普通に存在していたかと.
軍事板
もしかしたら,その小説はマイ・ユ著「ディエンビエンフーの時計屋」
(『ディエンビエンフーの時計屋』<金沢エスペラント会婦人部刊,1975/5/1>に収録)
ではないかと愚考す.
日本語で読める,ヴェトナム人作家の短編小説としては,おそらく唯一の佳作.
読めば?
消印所沢
塹壕ラジオ

◆装備
【質問】
ベトナム戦争中の,M14からM16への転換は,どんな順序で行われたのですか?
ベトナム戦争の時一部の部隊(海兵隊など)は前線でまだM14で戦っていました.
このような前線の部隊にM16が配備されたとき,M16の扱いをマスターするためにこの部隊は後方で訓練を行ったんでしょうか?
それともそれほど訓練せずにそのまま前線での任務についたんでしょうか?
【回答】
初めに採用したのは空軍基地での警備部隊でした,
前線への投入は暫定的なもので,M16に対する習熟訓練を終えた者から前線へ再送されました.
どのような装備も,イキナリ前線に送られて兵士に手渡される事は先ずありえませんし,通常の部隊への装備切り替えに伴う再訓練は,これらのバトル・プルーフがある程度進んでからの事です.
この辺りは1等自営業氏の方が詳しいかと思いますが(笑).
三等自営業◆LiXVy0DO8s
【質問】
ヴェトナム戦争中,M-16になされた改良はどんなものだったか?
【回答】
主な改良点は以下のとおり。
ボルトの閉鎖不良対策として、機関部右側面後方に強制閉鎖用のレバー(ボルトフォワードアシストノブ)追加。
マガジンキャッチ周辺に、間違ってマガジンキャッチを押さないようリブを追加。
銃口のチューリップ型消炎器が補強され、更に後のタイプでは鳥篭型に変更。
ストック底部がゴム製から金属製になり、整備器具を収納するための蓋を追加。
ストック側のスリング取付金具が可動式から無可動に。
(R項 from NAM戦装備/用語辞典)
【質問】
映画「ワンスアンドフォーエバー」冒頭,ベトミン軍がバズーカーらしきものを持ち出してフランス軍を攻撃するシーンがあったのですが,ベトミン軍はバズーカなんて持っていたんでしょうか?
あと,最後のシーンで北ベトナム軍がMG34を撃とうとしてたんですが,あれは中国が支援品として送ったものでしょうか?
どなたかご教授お願いします.
【回答】
岡村昭彦「続・南ヴェトナム戦争従軍記」に輸送トラックごと横流しされる模様があるが,南ベトナムに対するアメリカの軍事援助物資は相当な量が解放戦線や,解放戦線経由で北ベトナム軍に横流しされており,およそ南ベトナム軍の持っている小火器のほとんどは,解放戦線や北正規軍も持っていた.
また,北ベトナムはベトナム戦争中期,ソ連からの大量の軍事援助を受け取っているが,その中にはWW2ドイツ軍からの分捕り品が少なからずあり,MG34を対空射撃に使う,北ベトナム民兵の写真も実際に残っている.
ただし,弾薬やスペアパーツの供給には限りがあり,ベトナム戦争中期以降は,ソ連や中国から供給される東側規格の火器に置き換えられてゆく.
【質問】
ヴェトナム戦争では米空母機動部隊は空襲を受けたことはないのか?
【回答】
ある.
1972/4/19,MiG-17,2機からの攻撃を受け,巡洋艦,駆逐艦,各1隻が損傷したという.
以下引用.
レーダーによる完全な地上迎撃完成を常套とした北ベトナム空軍だったが,さすがにトンキン湾上で戦爆連合の攻撃編隊を出撃させる米艦隊に一矢報いようとした.
1972/4/19,航空偵察をかいくぐり,鉄道で海岸地域の秘密基地に送られていたMiG-17戦闘機2機を爆装,最大の目標,空母には到達できなかったものの,第7艦隊の旗艦でミサイル巡洋艦オクラホマ・シティ Oklahoma City CLG-5に250kg爆弾2発,駆逐艦ヒグビー Higbee DD-806に1発を投下,オクラホマ・シティの損害は軽微だったが,ヒグビーは後部127mm連装砲が完全に破壊された.
トンキン湾上の米艦隊は,自前の早期警戒機を保有していたものの,完全に不意を突かれる格好となった.
西村直紀 from 「世界の艦船」2005年4月号,p.96
また,長久保秀樹著「現代の戦闘機」(航空ジャーナル1975年3月号臨時増刊)によれば,攻撃自体は何度も行われているという.
以下引用.
1965年3月から開始された北爆,ローリングサンダー作戦は37ヶ月間実施されました.
米海軍の空母機動部隊の巡回区域として設定されたヤンキーステーションは北ベトナム側に取って目の上のタンコブで,何度も対艦攻撃を仕掛けています.
1966年夏,攻撃的なコースを取った2機の北ベトナム機に対し,空母レンジャーから発艦したVF-143所属のF-4BがAIM-7を発射し,機影がレーダーから消えました.
同年12月,北ベトナム機2機に,空母キティホークから発艦したVF-114,VF-213所属のF-4B各一機ずつがAIM-7を発射し,2機は撃墜されました.
これらは小型の低速機だったので,アントノフAn-2複葉輸送機だったと推定されています.
1968年は北ベトナムのMiGがの返り討ちに遭いました.
5月23日,トンキン湾上の原子力巡洋艦ロングビーチは,RIM-8タロス艦対空ミサイルを発射し,70マイル離れた北ベトナム上空のMiG戦闘機を撃墜しました.
北爆停止期間後,1972年4月から再開されたラインバッカー作戦では,ヤンキーステーション北方100マイルに配されたレッドクラウンと呼ばれるミサイル巡洋艦に対艦攻撃を掛けました.
4月19日に,MiG-17と魚雷艇で海空両方の攻撃を掛けましたが,MiG-17はミサイル巡洋艦ステレットが発射したRIM-2テリア艦対空ミサイルが2発命中して撃墜されました.
5月9日には,ミサイル巡洋艦シカゴが発射したRIM-8タロス艦対空ミサイルで一機撃墜されました.
赤とんぼワークス in mixi支隊
【質問】
ヴェトナム戦争の初めの頃,米軍戦闘機には機関砲積んでなかったってホント?
▼ 【回答】
当時の米空軍のF-100戦闘機やF-105戦闘爆撃機,米海軍のF-8戦闘機は機関砲を搭載していました.
機関砲を当初搭載していなかった戦闘機は,F-4と後期に投入されたF-111くらいです.
とはいえF-100は旧式化し,F-8はBVR戦闘ができず,F-105はもともと核爆弾積んで突進する戦闘爆撃機で格闘戦は考慮していない.
当時の米軍戦闘機は対戦闘機格闘戦をあまり想定していない機体しかありませんでした.
F-4は海軍の迎撃機として開発された機体ですから,同じく迎撃機の空軍F-101BやF-102,F-106同様,機関砲を廃止していたわけで.それが対戦闘機戦闘にも使うようになって欠点が露呈したわけです.
んで,F-4へのガンポッド搭載とトップガン設立等によってキルレシオは大幅に改善された,と.
ちなみにベトナム戦争後期のラインバッカー作戦での空軍の戦果を見ると,機関砲によるモノは8機/51機で,ローリングサンダー作戦時の33機/86機より少なくなっています.
これはローリングサンダー時の機関砲撃墜の大半が,F-105によるものだからです.
ラインバッカー時にはF-105はおらず,機関砲未装備のF-4C,Dも使われていますからミサイル撃墜比率が高くなるのは当然です.
F-4だけで機関砲撃墜数を比較すると,ほとんど変わりません.
あとヴェトナム戦時に米軍は
「ソビエトの軍事顧問団がソビエトの国籍表示をしたミグに乗ってると,それを
墜したら国際問題になる.
第3次世界大戦は嫌だからな,必ず北ヴェトナム軍の戦闘機だって事を目視確認してからミサイル撃てよ」
という無茶な命令を政治要求上出されてて,長射程のレーダー誘導ミサイル積んでるのに目視空戦をやらされたりしていました.
現場からの抗議と損害続出で流石に撤回されましたが,今度は発射してもミサイルがちゃんと飛んでいかない,という技術上の問題が起きたり.
(スパローの65%,サイドワインダーの45%になんらかの機能不良があった)
【質問】
ヴェトナム戦争では,北ヴェトナム軍側の対空兵器で活躍したのはSAMだけ?
【回答】
B-52の名前は「ストラトフォートレス」=成層圏の要塞.B-29の思想をさらに推し進め,高速・高高度からの爆撃を行えば,高射砲や対空機関砲の射程外にいられるという考えで作られている.
迎撃戦闘機もすぐには上ってこれないから,俺様無敵という感じで.
だからこそ,わざわざ二段式のロケットまでつけて,上空1万メートル超の上空まで一気に上昇するような,SA-2を始めとする長距離SAMが発達した.
B-52は,このSAMでしか迎撃できなかったから,SAMしか活躍してないような印象を受けるけど,実際はS-60やZSU-57のような高射機関砲も使われてる.
ECMでレーダー射撃が出来なかったとはいえ,SAM制圧に使われたF-105とかは,結構な数がやられてるはず.
ベトナム戦時の北ベトナム側の対空火器は,小は12.7mm級から大は200mmクラスまで,さながら対空火器の見本市の様相を呈していた.
【珍説】
ベトナムの人にとって沖縄というのは,癒しの島,海の綺麗な島ではない.ベトナムの人に聞いたことがあります.
『沖縄と聞いただけで背筋が凍るほどの,恐怖の名前でしかなかった』
と.
私たちが銃声鳴り響くファルージャの街に,命からがら医薬品を届けに行ったとき,ドクターたちは,『ありがとう』という風には言って下さらなかった.
『この子どもの体を吹き飛ばしたのは,あなたの島から来た米兵たちだよ.
あなたの島の人たちはそのことをどう思っているのか?』と
平良夏芽 in 『魂花時報』第88号
【事実】
・・・どうもこのベトナム人やイラク人の証言は,牧師の勝手な創作じゃないかと思います.あまりにも不自然だもの.
この論法が成り立つなら日本人はサイパン島を恨まねばならず,福岡の人は中国の成都を恨まなければならない.
でもそんな人,居る?
Posted by 名無しT72神信者 at 2007年05月31日 20:59:57
ファルージャは激戦地ですよ.
イラクへ行くのを断念するジャーナリスト(宮嶋茂樹氏)がいるほどですから.反戦団体なんぞが入れるはずは〔ほとんど〕無い.
Posted by 90式改 at 2007年05月31日 22:34:10
私はベトナム留学経験者です.しかも北部.
この牧師さんが言うような話は,噂にも聞いたことありません.
沖縄県絡みの団体※が活動しているのは確かですが,彼らがベトナム人から「忌まわしい島から来た人たち」扱いされたという話も寡聞にして知りません.
Posted by 名無しT72神信者 at 2007年06月02日 04:54:10
ちなみに平良牧師の奥さん,林希代子さんのサイトの記事でこんなものが.
http://www.ne.jp/asahi/cyura/kiyoko/albumpage/060930.htm
>ここまで堂々と強行されると,テポドン騒動はこのための自作自演?と勘ぐりたくもなる.
ははぁ,テポドンはCIAの捏造ですか.
神浦さん並みの陰謀論ですね.
Posted by 名無しT72神信者 at 2007年05月31日 21:13:52
〔もう一つ余談だが,〕某所で拾った名言
465 名前: 仕様書無しさん [sage] 投稿日: 2007/05/25(金) 19:37:16
自分で作った設定に自分で取り憑かれ,まるでそれが世の常識のようだと思いこんでしまっているから,論破は不可能.
論破って,されるほうにもそれなりの頭が必要だから.
Posted by 名無しT72神信者 at 2007年06月01日 09:30:39
以上,「週刊オブイェクト」コメント欄,2007年05月31日付
※ この留学経験者は私ですが,太字部分「沖縄県絡みの団体が活動している」が思想系の団体だと勘違いされるかも知れないので,補足します.
直接にはベトナム琉球文化工芸村のことを指しています(もちろん,他の団体・企業もあるでしょうが,当時はここを念頭に置いて投稿した).
これは沖縄県中小企業団体中央会による協業組合活動の一つである,琉球ガラス工芸協業組合が設立したもので,設置には行政の認可が必要な企業活動・投資活動です.
もっとも,過去にはこんな事件起しちゃってますが….
【質問】
枯葉剤使用は,多くのベトナム人(兵士やゲリラではない人間)を不当に虐殺する事となったのですか?
【回答】
枯葉剤で直接死んだ人間はほとんどいない.
もちろん,今からでは考えられないくらい毒性の強い農薬だから,吸ったら死ぬけど.
それよりも,環境汚染で後に奇形児を多発させたり健康被害を広範囲に出した被害の方が大きかった,と言われる.
ただし,wikipediaの以下の記述にも見られるように,奇形と枯葉剤との因果関係は今に至るも不明.
ベトナム戦争においてアメリカ軍は北爆を行ったが,その際ベトコンのゲリラ戦略に対抗する為に枯葉剤を使用した.
この枯葉剤には副産物としてジベンゾ-パラ-ダイオキシン類が含まれていた.
その異性体の一種である,2,3,7,8-テトラクロロジベンゾ-パラ-ダイオキシンは,ダイオキシン類で唯一発ガン性が確認されている.
しかし,現在に至るまでいかなるダイオキシン類においてもヒトに対し催奇形性が認められた例はなく,果たしてベトちゃんドクちゃんがダイオキシンが原因で奇形になったのか,今日に於いてもわかっていない.
奇形は自然にも発生する.
人に対する催奇形性が実証された薬剤に曝露されていても,奇形の原因がその薬剤なのか,たまたま自然にできた奇形なのかは証明しにくい.
特異的で自然に発生しない種類の奇形なら別だが.そうなると蓋然性で判断するしかない.
自然にもごく普通に発生する奇形(たとえば兎唇)であれば,薬剤との因果関係は薄い.
稀な重度の奇形であり,動物での催奇性が実証された薬剤に高濃度にさらされていれば,因果関係は強く疑われる.
催奇性でなく,変異原性のみなら,蓋然性は少し薄くなる.
人での催奇性が実証されていれば,因果関係は強くなる.
とはいえ,この実証というのが問題で,疫学的に判断するしかない.
同じ環境でその薬剤にさらされたグループとそうでないグループを比較し,十分大きな人数で奇形の出生率に差があることを示す必要がある.
それは実際には不可能に近い.
シロートさんがよく勘違いするけど,医学的な因果関係というのは常に曖昧で,確言できることはまずない.
(軍事板)
例えば,サリドマイドによるアザラシ肢奇形の因果関係が掴めたのは,条件が大変良かったからに過ぎない.
使用者が多かったこと,
使用者の環境や人種がかなりそろっており,また把握可能だったこと.
サリドマイド内服以外は健康な妊娠出産過程を経たものが大半だったこと,
医学的な情報や,家系についての情報が,正確かつ豊富に入手できたこと.
アザラシ肢奇形自体,自然ではほとんど(専門ではないので良くは知らないですが)見られないこと.
さらにサリドマイドを内服したかしないかの2つにクリアに分けることができたこと.
これらから正確な疫学的解析が可能になった.
対して,枯れ葉剤は多様な経路で人体に入るため,曝露の有無,量が不明確であり,ナパームなどの他の変異原性物質も使用されている.
妊娠出産自体,戦時でのことなのでトラブルがからむ.
医学的,家系的調査,情報も限定される上,米,ベトナム,それぞれ自己に有利な調査を行おうとする.
これらから有効な疫学データを得るのは困難と思われる.
◆テト攻勢
【質問】
テト攻勢の失敗の原因は,北側の装備が貧弱だったせいなのですか?
【回答】
主に予断,およびマスコミ対策のまずさが原因.
前線や現場の兵士は,こう思っていた.「この日に戦闘は起こらないだろう」
これはアメリカの情報機関が掴んだ情報を,軍や政府の上層部が「そんなわけはない」と握り潰した為.
そのため,情報関係者は個人的ネットワークを通じて情報を広め,ヴェトナム現地の軍司令部はある程度予想はしていた.
その為,「やはりか!」とは思っても「まさか!」と思った上級軍人は少なく,最初の衝撃から米軍と南ヴェトナム軍は素早く立ち直り,冷静に対処できた.※
確かにケサンやフエでは苦戦したが,全体的に北ヴェトナム軍の行動は予想の範囲内で,軍事的には北ヴェトナム軍と解放戦線は米軍の掌の上で踊ってたと言ってよい.
・・・しかし,それはあくまで”純軍事的”な話で,それまであまりマスメディアが報道しなかったこともあり,
「北ヴェトナム軍は弱体で,我がアメリカは一方的に勝っている」
と思っていたアメリカ国民には,激しい衝撃を与えた.
特に,サイゴンの米大使館攻撃の戦闘の模様がTVで生中継された衝撃は大きく,
「アメリカはこの戦争で勝てないのではないか?」
という印象は,その後の反戦運動を一気に加速させる.
尚,物量,特に兵力では,戦争の全期間を通じて北ヴェトナム軍の方が,常に米軍を上回っている.
アメリカは約350万の総兵力の内最大で約50万人を派遣していたが,それでもヴェトナム派遣軍司令官ウエストモランド将軍は
「最低でもあと20万は必要です」
と発言,政府関係者を絶句させた.
※余談だが,テト攻勢発起時,米海軍の空母コンステレーションはベトナムへの戦闘航海を予定通り終了し,横須賀に入港していた.
攻勢開始の報に接して同艦は緊急出港,再びベトナムへと向かった.
しかし,かなりの乗員が上陸しており,中には横浜あたりまで遠出していた者も居て,後に乗員積み残し事件として問題になった.
彼等の多くは空母間輸送機便で追って帰艦したが,後に米海軍初のエースパイロットとなるランドール・カニンガム大尉もこの中に含まれていた.
【質問】
情報機関が掴んだテト攻勢情報を,なにゆえ米軍や政府の上層部は「そんなわけない」と判断したのでしょうか?
【回答】
テト,とはヴェトナム暦での正月のこと.
この時期は北も南も年末年始休暇を兵士に取らせ,国家総出で年末年始を祝うので,自然と休戦状態になった.
それが恒例だったので,テト攻勢のあった年も
「あー,現地の年末年始休暇が近いなぁ,
ここの国の連中は,年末年始には戦争を投げ出しちゃうから,今年もこの時期だけは戦争はないな」
と,ごく普通に思われていた.
それに加えて,アメリカ軍の上層部(ペンタゴン)と政権中枢(ホワイトハウス)は誤算続きで,戦争の行く末に嫌気がさしていたので,思考が現実逃避的だった.
人間は煮詰まってくると,自分の信じたいものしか信じなくなるので,「そうであってほしい」が「そうだろう」「そうに決まっている」と,どんどん状況判断ができなくなっていく.
戦線から遠のくと,楽観主義が現実に取って代わる.
そして,最高意志決定の段階では,現実なる物はしばしば存在しない.
戦争に負けてるときは特にそうだ
―― J・F・ダニガン著『戦争のテクノロジー』より
【質問】
ベトナム戦争の時の有名な映像で、テト攻勢の時に南側の警察関係者?に兵士が頭を撃たれて処刑されるシーン(下画像)がありますが,あれは適法なのですか?

【回答】
ベトコンを国家警察長官が拳銃で処刑してる写真かな?
一応あれは合法。
兵士というのは語弊があって,兵士なら軍服を着てないといけない。
どう見てもあれはベトコンの「ゲリラ」だから,裁判やってから処刑した方が望ましいけれど、テト攻勢という状況下では即時処刑も間違いじゃないと。
【質問】
ファルージャ総攻撃でよく引き合いに出される,ヴェトナム戦争のフエ攻防戦が行われた「テト攻勢」ですが、歴史資料などには,この「テト攻勢」がヴェトナム戦争の帰趨を決めた戦いである、とされています。
しかし、資料を見る限り、この「テト攻勢」で大損害を受けたのは,どうみても北ヴェトナムと民族解放戦線の方で、戦術的にも戦略的にもアメリカが勝った、と言って差し支えない結果だったと思うのですが・・・。
何故、「テト攻勢」はアメリカの世論をヴェトナムからの撤退に傾かせるほどの受けとめられ方をしたのでしょうか?
それ以前と比べても、そんなに莫大な損害をアメリカ軍が出したようには思えないのですが・・・。
【回答】
多くの場所でアメリカが優勢だったが、たまたま劣勢だったところにテレビカメラがあった。
そんで、みんなが見てる時間帯に、アメリカ兵の累々たる死体が放映され、
「なんだ、アメリカ勝ってるなんて嘘じゃん」
と反戦運動がおおいに盛り上がってしまった。
つかね,テト攻勢で報道各社が絵的に良いからと言う理由で米軍の損害シーンをやたらと使ったため,報道を見ている人間には米軍が大敗北を喫したように見えた.
実際には北ベトナム側の損害の方が圧倒的に多かったし,それによって北ベトナム正規軍はほとんど活動出来なくなった.
故意か偶然かは分からないけど,自国のメディアによって情報操作が行われちゃったのよね.
で,報道の自由を尊重してほぼフリーで取材をさせていた米軍も,それ以降は報道に対する対策も重視するようになった.
純粋に軍事的な結果だけを見れば,テト攻勢は大失敗.
◆米軍撤退以後
【質問】
アメリカはいつ頃からヴェトナムからの撤退を考えていたのか?
【回答】
2006年に公開されたところによると,北爆の最中の1972年6月22日に,ニクソン大統領の安全保障担当補佐官だったキッシンジャーは,周恩来首相に対し,北ヴェトナムが南を併合してもかまわない,と示唆したような発言をしているから,その頃からだろう.
以下引用.
1972年6月22日に,ニクソン大統領の安全保障担当補佐官だったキッシンジャーは,中共の周恩来(Zhou Enlai)首相に,(北爆を含め,南北ベトナムで米軍が北ベトナム/ベトコンに対して猛攻をかけていた最中に,)
「もしわれわれが支那の共産主義政府と共存できるのなら,インドシナでもそれを受け入れることが可能なはずだ」
と語ったことが,このほど明らかになりました.
これは,米軍が南ベトナムから撤退してからしかるべき期間を置けば,北ベトナムが南を併合してもかまわない,と示唆したものと考えられています.
キッシンジャーは,ニクソン政権としては当時,ソ連に対抗するため,中共に接近しようとしており(注1),自分も中共向けにこのような媚びた発言を行ったが,南ベトナムを放棄するつもりは全くなかったのであって,放棄せざるを得なくなったのは,その後の米国内の政治力学のせいだ,と弁明これ務めていますが見苦しい限りです(注2).
(注1)キッシンジャーは1971年の7月10月に中共を秘密訪問して周と会談し,1972年2月のニクソン訪中による米中首脳会談(ニクソンと毛沢東(Mao Zedong))を実現した.
(注2)1973年にパリ平和協定が締結され,北ベトナムは南ベトナムへの軍事介入を止め,米軍は南ベトナムから撤退することとされた.
米軍は協定に従って撤退したが,北ベトナム軍の攻撃で1975年4月に南ベトナム政府は打倒され,間もなく南ベトナムは北ベトナムに併合された.
当然北ベトナムにも伝えられるという前提でキッシンジャーは周に対し上記発言を行ったはずであり,何も知らなかったノルウェーの選考委員会がノーベル平和賞をパリ平和協定の当事者であったキッシンジャーと北ベトナムのレ・ドクトの両名に授与したいと発表したとき,厚顔無恥にもキッシンジャー(だけ)がこれを受けたことには開いた口が塞がりません.
〔略〕
(以上,事実関係はワシントン・ポスト(5月28日アクセス),及びWikipedia(5月29日アクセス)による.)
【質問】
ベトナム戦争がアメリカの侵略だったとして,何故北ベトナムはパリ協定後,攻撃を続けたのですか?
【回答】
ヴェトナムは本来一つであるべきで,南はフランスの作った傀儡政権だから.というのが北ヴェトナムの主張.
本来なら自分たちがヴェトナム全土を統治する筈なのに,フランスは,共産主義勢力がヴェトナムを支配するのを嫌って南半分に勝手に傀儡政権を作った.
そしてアメリカは,フランスから南の支配権を引き継いで,傀儡政権を支援し続けてきた.
そのアメリカが撤退する.
ならば今度こそ,ヴェトナム全土は自分たちが統治する.
ゆえに南が併合を拒否した以上,実力での併合を目指す.
北ヴェトナム政府的にはそういうこと.
【質問】
ベトナム戦争終了後,アメリカが米軍や南ベトナム軍の現地の軍属や協力者のために艦船を出して救出作戦をしたのは知ってますが,具体的にどの範囲までの人が救出の対象にされたのでしょうか?
【回答】
"Sensitive"な人達,米軍,CIA及び諜報機関,USAID(アメリカ国際開発局)に属していた人々までです.
これが最低限度の要保護者.
後は,金の力で座席を買った人々になります.
こうした要保護者の撤退は,1日目までは何とかなりますが,2日目から混乱が始まり,3日目には収拾が付かなくなって,必要な人々の搭乗が不可能な場合も屡々でした.
例えば,Danangの場合は,「要保護」の人員は,領事館の米国人職員50名とその現地スタッフ1,000名になります.
しかし,その家族を含めると1万人以上に膨れあがったりしています.
彼等は1ヶ月掛けて撤退させる予定でしたが,進撃が急で,それどころではなかったりしました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
高校の時に授業でベトナム戦争の映像を見たのですが,空母の上からヘリを次々に海上に捨ててました.
当時は音声がよく聞こえず,何故あんなもったいない事をするのか分からなかったのですが,ご存知ないですか?
【回答】
それは1975年4月30日にサイゴンが陥落する寸前,米軍によって行われた米国人や米国関係者救出作戦の一場面.
サイゴン沖に停泊した空母「ミッドウェイ」そのほかに,米海軍や海兵隊のヘリによって人員のピストン輸送が行われたが,救出作戦のリストに載らなかった南ベトナム軍人が,北ベトナム軍による粛清を恐れ,いちかばちか「ミッドウェイ」にヘリで殺到,強行着艦.
最初はヘリごと収容していた「ミッドウェイ」も,あまりに機数が多く,もはや乗る者もない南ベトナム政府軍のヘリを投棄せざるを得なかった.
軍事板
不時着以外にも,孫引きになりますが,ジロミ・スミス著「空母ミッドウェイ アメリカ海軍下士官の航海記」にScott McGaugh著「Midway Magic」から引用された文章によると,
甲板にヘリと難民が溢れているところに,セスナ機が着陸要請.
しかも,燃料が一時間分しかないとのこと.
エア・ボスの指示で着陸のためにヘリをどけることになったが,スペースの確保は不可能.
しかたなく何機かのヘリを捨てて,45分後に着陸準備を完了させた.
ということもやったとか.
私も,ポコポコと捨てられるヘリの映像を初めて見たときには,目が点になりました(笑
寄星蟲 in mixi支隊
そのセスナはO-1観測機.乗っていたのはリ・ブン少佐.
問題の観測機は現在フリリダ州ペンサコラの米海軍航空博物館に永久保存されているのだとか.
他に,空母「ミッドウェイ」周辺の海上には,着艦できなかったヘリも何機も不時着している.
ベタ藤原 in mixi支隊
CIA系民間航空会社であるエアアメリカ等の機体も,米兵から嫌われて捨てられたようなことが書かれていたと思います.
傭兵扱いされて嫌悪されていたようですが,記憶書きなので要確認です.
映画でない方(ジャーナリストが書いた映画のネタの一つになった本)の「エアアメリカ」(クリストファー・ロビンズ著,新潮文庫,1990.8)に出ていました.
同書によればたしか,別の国の米軍基地にたどり着いたものの,力尽きて半ば墜落して壊れた輸送機(会社への官品貸与?)では
「あんたの飛行機はもう駄目だ」
と気の毒そうにいわれたら,パイロットは
「いいえ,貴方のです,お返しします」
というコントもあったとか.
【質問】
ベトナム戦争でも戦後、元南ベトナム兵への粛清などはあったのですか?
なんとなく,共産主義=虐殺ってイメージがあるので,出来たら詳しい数字等を教えてくれないでしょうか?
【回答】
南政府・軍の高級士官・高級官僚に対する粛清のようなものはありました。
といっても、ありがちな逮捕→即銃殺という流れではなく、再教育キャンプに収容して、一般社会から隔離する、という感じです(収容中に事故死・病死といったパターンも結構あった)。
南政権に対する南側の野党指導者(≠解放戦線関係者)も再教育キャンプ送りになっています。
また、それ以外の一般の旧南市民にも、新経済区送りという一種の強制収容がありました。
これは元々は,ベトナム戦争末期にかけて急増した旧サイゴン市民を開拓にあてる、といった目的で始まったのですが、希望者が少なかったため、人数合わせとして,反革命的と当局から睨まれた市民を名目志願、実質強制という形で開拓地(実態は開拓に不向きな荒れ地、ジャングルであることが多かった)に送りつけていました。
ボート・ピープルの発生の原因として、共産党政府の汚職や華僑の迫害と共に、この新経済区送りから逃れるために脱出した、というケースが多いです。
【質問】
サイゴン陥落後,世界各地の南ベトナム大使館と外交官はどうなったのですか?
【回答】
新政府の権威を認め忠誠を誓った連中はまもなく呼び戻され,短期間の再教育キャンプに送られ,シャバに戻ってほっとした途端に,また適当な理由をでっちあげて再教育キャンプ送り,と無間地獄の苦しみを味わっている.
近くの図書館でベトナム関連のコーナーを探すと,元南外交官の回想録がいくらも見つかるはずだ.
ついでながら,南の解放戦線に加わっていたゲリラたちも,ほとんど全員再教育キャンプ送りになり,多数がいじめ殺された.
【質問】
なにゆえベトコンが勇者扱いされるどころか,その様な虐待を受ける事になってしまったのですか?
【回答】
ベトナム政府(元北ベトナム)とベトナム解放戦線(南ベトナムの反政府組織)は,元々別組織.
解放戦線はベトナム労働党が主導してたものの,構成員にはいわゆる民族主義者も多く,必ずしも共産主義者というわけではなかった.
米帝,フランス,南ベトナム政権といった共通の敵がいればこそ共闘路線も歩めるが,それが無くなれば競争相手でしかない.
社会主義政権下で,共産党政府以外の政治勢力など認められるわけもない.
「狡兎死して走狗煮られ,飛鳥尽きて良弓蔵わる」
【質問】
かなり前ですが、NHKかどっかで,アメリカのある娘さんが,ベトナム戦争で行方不明になった父が抑留されている情報をつかんで、なんとか探し出そうとしたドキュメントがあったのですが、ベトナム戦争でベトナム側の捕虜になった米兵が、政治的取引の為に密かに抑留されているという設定の映画(ランボー、地獄のヒーロー、地獄の7人)がよくありますが、実際の所これらの真偽はどうなんでしょうか?
【回答】
「合成した写真などをMIAの家族やNGOなどに売りつける」という商売があったそうな。
数年前だったか、ロシアの雑誌切り抜きから作った偽物のMIA写真が出回って大騒ぎになった事があったが、ああいう事例は数多いらしい。
また,うろ覚えなんだが、15年ほど前ベトナムの刑務所に入れられていた日本人僧侶が釈放された際、
「アメリカ人数名と接触した」
と証言した事がある。彼が逮捕されたのは南北ベトナム統一後だったので、すわMIAではないかと騒ぎになり,アメリカ政府の調査官が来日して聞き取り調査を行った。
事の真偽は不明。
ただ、この僧侶は英語が話せなかったため、一体どういう出自のアメリカ人なのか?そもそも本当にアメリカ人だったのかは不明。
ちなみに白人二人・黒人一人の三人組だったそうだ。
J・C・ポロック「ミッションMIA」冒頭ではベトナム難民などからの聞き取り調査(ポリグラフによる追試を含む)を行った結果,ベトナムで複数の米国軍人が抑留されている可能性が高い、との一節がある。
もっとも,良く読んでみると,
「鎖に繋がれた白人の一団が,ジャングルの奥地へと連れて行かれた」
といった類のもので、抑留されている具体的な人名や、あるいは疑う余地のない写真などが出てきた例は,寡聞にして聞かない。
なお、ラオスで抑留されていた米兵捕虜約40名は,戦争終結後全員処刑されていた事が後に明らかになっている。
あとは自分で判断していただきたい。
【質問】
岐阜市の「ベトコン・ラーメン」は,何かヴェトナム戦争にゆかりがあるの?
【回答】
ヴェトナムとは何の関係もなく,ベストコンディションの略.
http://www.condition-best.com/
http://www6.ctktv.ne.jp/~ma-ko65/betokonraumen.html
http://gourmet.jp.msn.com/restaurant/details.aspx/restaurantid=3667/ptid=15/
はっきり言って,焼きニンニクがたくさん入った,普通の豚骨ラーメンでしたね.
まずくもないが,うまくもない,印象の薄い代物でした.
(まずければネタにもなったのですが)


新所沢の三等兵◆Uk in mixi,2007/10/31/00:04
ベトコンラーメンは日本各地に有るようで,その場所で微妙な違いがあるようですね.
岐阜仕様は,醤油ベースの丸揚げニンニクに野菜,輪切り唐辛子
宮崎仕様は,とんこつベースのにら,ニンニク,野菜,豚肉
とかなり違うようです.
(にんにくが共通のようですが)
ここからは推測ですが,おそらくベトナム戦争のときに,強いアメリカを翻弄するベトコンの強さと,言葉の響き
,南のほうだから辛い,というあたりから名づけられたのでは無いかと.
で,しばらくして,「ちょっとマズいよなぁ」という事で,「ベトコン→ベストコンディション」という意味を当てはめたのでは無いかと推測します.
ちなみに私の行った店(岐阜のベトコンラーメン香楽
という店)は,
「アメリカにも負けない屈強な…」
と思いっきり表記して有りました
(かなり古い看板だったのでその当時から?)
(そっちの看板も撮っておけば良かったなぁ と)
味は,食ってるときに唐辛子の辛さがスープに溶けて行き,あまりの辛さに最後は涙目になりました.
