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 【link】

「HISTORIA」:ウクライナのコサックたち
   ┃
   ┗補遺

「Newsweek」◆(2014/03/07) 情報BOX:クリミア半島の歴史や軍事的重要性

「Wikipedia」:ボフダン・フメリニツキー

『悲しみの収穫 ウクライナ大飢饉』(ロバート・コンクエスト著,恵雅堂出版,2007.4)

『物語 ウクライナの歴史』(黒川祐次著,中公新書,2002.8)

●クリミア・東部ロシア系住民騒乱

「Naver」◆(2014/11/07) なんかおかしい,ウクライナのデモの暴力,殺人武器が用いられた「市民テロ」の現実

「講座:ビジネスに役立つ世界経済」◆(2014/03/06)  【第36回】 ウクライナ問題は投機筋による「ショートゲーム」か?  | 安達誠司

「ロシア海軍情報管理局」◆(2014/03/21) ウクライナ潜水艦ザポリージャ,ロシア黒海艦隊へ編入?

「ロシア海軍情報管理局」◆(2014/03/22) ウクライナの訓練複合体ニートカ要員はクリミアへ忠誠を誓う

「ロシア海軍情報管理局」◆(2014/03/22) 旧ウクライナ潜水艦ザポリージャはロシア海軍旗を揚げた

「ロシア海軍情報管理局」◆(2014/03/23) ウクライナ防衛産業は依然としてロシアとの契約を忠実に履行している

「ロシア海軍情報管理局」◆(2014/03/23) 旧ウクライナ海軍統制艦スラヴィティチはロシア旗を揚げた

「ロシア海軍情報管理局」◆(2014/03/31) 潜水艦ザポリージャはウクライナ側へ返還される

「ロシア海軍情報管理局」◆(2014/03/30) 潜水艦B-435(旧ザポリージャ)はウクライナ海軍へ返還されるかもしれない

「ロシア海軍情報管理局」◆(2014/04/03) ロシア-ウクライナ間の黒海艦隊協定は廃止された

「ロシア海軍情報管理局」◆(2014/04/02) コルベット「テルノーピリ」はウクライナ海軍へ戻される

「ロシア海軍情報管理局」◆(2014/04/02) ウクライナ海軍フリゲート"ヘトマン・サハイダチヌイ"乗員の約2割はクリミアへ戻る事を望んでいる

「ロシア海軍情報管理局」◆(2014/04/01) クリミアに残された旧ウクライナ海軍艦艇はウクライナへ返還される

「ロシア海軍情報管理局」◆(2014/03/29) 旧ウクライナ海軍艦艇は機器検査後にロシア黒海艦隊へ加わる

「ロシア海軍情報管理局」◆(2014/9/14) 元ウクライナ海軍潜水艦ザポリージャ艦長はロシア海軍のプロジェクト06363潜水艦の艦長に任命されるかもしれない


 【質問】
 ウクライナの歴史を3行で教えてください!

 【回答】
 紀元前10世紀から,紀元8世紀頃までは,様々な遊牧民族の通り道.
 8世紀にルーシという国が誕生したが,14世紀にモンゴルの属国となり,王朝も断絶して,ジョチ・ウルス,ポーランド,モスクワ大公国に3分割.
 そんな中,15世紀にコサックが成立して,叛乱を起こしまくったが独立は叶わず,ロマン主義・民族主義が高まっても,それは変わらず,1991年にソ連が崩壊して,ようやく名実ともに独立が叶いましたとさ.

<年表>

紀元前8世紀 スキタイ国家成立
紀元前4世紀 サルマタイの進出
1世紀 ゴート族,北欧からウクライナへ移動
4世紀 スラヴ人の大移動
5世紀末 キエフの創建.
6世紀 東スラヴ人,諸国を建国.
8世紀 東スラヴ人,ハザール汗国に臣従.
882年 ヴァイキングの頭領オレーグ公,キエフを占領し,ウクライナの直系の祖にあたるルーシ(キエフ大公国)を建国する.
957年 ルーシのオリガは,ビザンツ帝国のコンスタンティノポリスで受洗.ウクライナでキリスト教化が始まる.
964年 オリガの子スヴャトスラーウ1世大公,ハザール汗国を亡ぼす
988年 オリガの孫ヴォロディームィル1世聖公,受洗して正式にキリスト教の国教化を進める
1037年 ヴォロディームィル1世の子ヤロスラーウ1世賢公,ルーシ法典を定める
1037年 ヤロスラーウ1世賢公,ソフィア大聖堂を建立
1113年 ヤロスラーウ1世の孫ヴォロディームィル2世大公,ルーシ法典を改善
12世紀 ルーシ,諸公国に分かれる.諸公,キエフ大公座を巡って争う.
1199年 ヴォロディームィル2世の玄孫ロマン1世,西ウクライナでハールィチ・ヴォルィーニ大公国を建国
1223年 南ルーシの諸公軍とクマン人,カルカ河畔の戦いでモンゴル軍に敗北
1240年 モンゴル軍によりキエフの陥落.ルーシの崩壊に伴ってハールィチ・ヴォルィーニ大公国,ルーシの後継者となる.
1246年 ロマン1世の子ダヌィーロ1世大公,モンゴル(ジョチ・ウルス)に臣従
1253年 ダヌィーロ1世,ローマ教皇インノケンティウス4世から王冠を受け,大公国を「ルーシ王国」と改める.
1256年 ダヌィーロ1世,リヴィウを創建.
1340年 ユーリー2世の暗殺によりリトアニア大公国とポーランド王国がルーシ王国の相続権を主張し,ハールィチ・ヴォルィーニ戦争を開始.
1362年 リトアニア大公国,キエフを占領.青水の戦いでの勝利によりウクライナからモンゴルの撤退.
1392年 ハールィチ・ヴォルィーニ戦争の終結.ルーシ王国はリトアニア大公国とポーランド王国によって分割.
15世紀 イスラム教のクリミア汗国・オスマン帝国,南ウクライナを占領.イスラム教徒によるウクライナへの毎年の奴隷狩りの開始.
1434年 ポーランド王国,ウクライナ領での自治制を廃止し,ポーランド法制度を導入.
1470年 リトアニア大公国,ウクライナ領での自治制を廃止.
1492年 コサックについての記録が登場.ウクライナ・コサックの海軍はオスマン帝国の軍艦を襲う.
1553年 ザポリージャのシーチ(コサックの根拠地)の創建
1569年 ルブリン合同によりポーランド・リトアニア共和国の建国.ウクライナはポーランド王冠に併合.ポーランドからユダヤ人の大移動.
1572年 共和国の王ジグムント2世,登録コサックの制度を導入.
1591年‐1593年 ポーランドに対するコサックの反乱(クリシトフ・コスィーンスキー)
1594年‐1596年 ポーランドに対するコサックの反乱(セヴェルィーン・ナルィヴァーイコ)
1596年 ブレスト合同によりウクライナ正教会の廃止.正教徒とカトリック教徒との対立の始まり
1625年 ポーランドに対するコサックの反乱(マルコ・ジュマイロ)
1630年 ポーランドに対するコサックの反乱(タラス・フェドロヴィチ)
1632年 キエフ・モヒーラ学院創建.
1648年‐1657年 対ポーランドのフメリヌィーツィクィイの乱.ウクライナ独立戦争開始,コサック国家誕生.
1654年 ペラヤスラウ条約によりコサックがロシアの保護を受ける.ロシア・ポーランド戦争開始.
1656年 ロシアによるペラヤスラウ条約の破棄.コサック国家,オスマン帝国・スウェーデン王国の保護について外交交渉開始.
1657年-1687年 ボフダン・フメリニツキーの死によるコサック国家の内乱開始.
1658年 ロシア軍,ウクライナへ侵入.コサック,ハージャチ条約により「ルーシ大公国」としてポーランドの保護を受ける.
1659年 コサック軍,コノトプの戦いでロシア軍を破る.
1667年 コサックのウクライナはロシアとポーランドによって分割(アンドルソヴォ条約)
1672年 コサックの一部がオスマン帝国の保護を受ける.ポーランド・オスマン戦争(英語版)・オスマン・ロシア戦争開始
1681年‐1686年 コサックのウクライナはロシアとオスマン帝国(バフチサライ条約),そしてロシアとポーランド(永遠の和平条約)によって再び分割.
1699年 ポーランド政府,右岸ウクライナでコサック自治制を廃止.ロシア政府,左岸ウクライナでコサック国家を存続させる
1702年‐1704年 右岸ウクライナでポーランドに対するコサックの反乱(セメン・パリイ).
1708年 大北方戦争中,コサックがロシアから離脱してスウェーデン王国の保護を受ける.
1709年 コサック軍,ポルタヴァの戦いでロシア軍に破れる.ロシアによるウクライナの植民地化が始まる.
1754年 ロシア政府,ウクライナの税関の境界を廃止.
1768年6月-1769年1月 右岸ウクライナにおいてハイダマーカによるコリーイの乱が勃発.ポーランド軍・ロシア軍によって鎮圧される.
1764年 ロシア政府,コサックのヘーチマン政府を廃止し,ウクライナを統治するために「小ロシア省」を設置.
1775年 ロシア政府,ザポリージャのシーチ(コサックの根拠地)を破壊.ザポロージャ地方,ロシアに併合.コサックの一部は帰農.その他のコサック,オスマン帝国へ逃亡.
1781年 ロシア政府,コサックの自治制を廃止,コサック領内にロシアの行政区分を設置.
1783年 ロシア政府,ウクライナでロシアの農奴制を導入.クリミア汗国,ロシアに併合.
1795年 ポーランド分割によりウクライナ人(ルーシ人)の住居地域はオーストリア帝国とロシア帝国の間に分けられる.
1834年 キエフ大学開校.ロシア語の教育導入
1840年 タラス・シェウチェンコの『コブザール』刊行
1849年 オーストリアでの1848年革命によりウクライナ民族解放運動が活発になる.
1861年 ロシア政府,農奴制を廃止.ウクライナ人の一部がコーカサス地方,シベリア地方,沿海州へ移動.
1863年 ロシア政府,文学作品を除きウクライナ語の書物の出版・流通を禁止(ヴァルーエフ指令).
1873年 ロシア政府,ウクライナ語の書物の出版・流通・輸入を禁止.ウクライナ語の教育禁止(エムス法).
1914年 第一次世界大戦.ロシアがオーストリアへ侵入.西ウクライナが戦地となる.
1917年2月 2月革命によりロシア帝政が崩壊し,ロシア臨時政府が成立.
1917年3月 キエフでウクライナ中央ラーダ成立.ウクライナ人民共和国樹立宣言.
1917年10月 10月革命によりロシア臨時政府が崩壊し,ソビエト政権が成立.ウクライナ・ソビエト戦争勃発.
1918年1月9日 ウクライナ中央ラーダ,ウクライナ人民共和国独立宣言.首都はキエフ.
1918年2月8日 ソビエト軍,キエフを占領.
1918年2月9日 ブレスト=リトフスクで,ウクライナ人民共和国とドイツ・オーストリアの間に条約完結.
1918年2月‐3月 ドイツ軍,ウクライナの開放開始.赤軍の撤退によりウクライナ中央ラーダがキエフ帰還.
1918年4月29日 ウクライナ中央ラーダの無能のため,スコロパードシキー大将の政権が成立.国号はウクライナ国となる.
1918年10月19日 オーストリア・ハンガリーの解体に伴い,ガリツィア・ブコビナ地方で西ウクライナ人民共和国独立宣言.
1918年11月1日 フランスの支援を受けてポーランド共和国が西ウクライナへ侵入し,ウクライナ・ポーランド戦争勃発.
1918年12月19日 蜂起によりスコロパードシキーの政権が倒され,執政内閣政権が成立.国号は再びウクライナ人民共和国.ウクライナ・ソビエト戦争再開.
1919年1月6日 ハルキウでソビエトの傀儡政権としてウクライナ社会主義ソビエト共和国樹立宣言.首都はハルキウ.
1919年1月22日 キエフでウクライナ人民共和国と西ウクライナ人民共和国との併合(統一の日)
1919年2月5日 ソビエト軍,キエフを占領
1919年7月18日 ポーランド軍,西ウクライナを占領.
1920年4月21日 ポーランド政府,ウクライナ人民共和国の亡命政府(ペトリューラ)と攻守同盟を完結.
1920年4月25日 ポーランド・ソビエト戦争開始.ウクライナは戦場となる.
1921年3月18日 リガ条約により,ポーランド・ソビエト戦争終結し,西ウクライナはポーランド領,その他はソビエト領となる.
1922年12月30日 ソ連邦結成.ウクライナ社会主義ソビエト共和国はその一員となる.
1923年4月4日 ウクライナ共産党第7回協議会でウクライナ化政策採択.
1929年9月4日 ウクライナ語の新正書法を制定.
1929年1月28日 ウィーンでウクライナ民族主義者組織(OUN)結成.
1929年12月 ソビエトのウクライナで農業集団化開始.
1930年1月 ソビエトのウクライナでウクライナ独立正教会解散.
1930年9月16日 ポーランドのウクライナで「鎮圧」政策開始.ポーランド政府によるウクライナ人への弾圧強化.
1932年12月‐1933年3月 ソビエトのウクライナ全域とウクライナ人在住地域で人工的な大飢饉(ホロドモール).
1934年6月24日 ソビエトのウクライナの首都はハルキウからキエフへ移る.
1939年 第二次世界大戦(~1945年)
1941年 独ソ戦開始,独によるウクライナ占領 (~1944年)
1954年 クリミアをウクライナに編入
1986年 チェルノブイリ原発事故
1990年7月 国家主権宣言.国名をウクライナに変更.ウクライナ語を公用語に指定.
1991年8月,軍事クーデタ.直後に独立を宣言.
1991年12月,ウクライナの国民投票にて大統領選出さる.市場型自由経済への移行,将来,非核,中立非同盟国を目指すことなどを宣言.
1991年12月,ソヴィエト連邦崩壊.ウクライナ,CIS創設協定に加盟.
1992年5月,ウクライナのクリミア県議会は,独立を決議し,クリミア共和国を宣言.ウクライナ議会は同月中に独立無効を決議したが,半島に黒海艦隊基地を有すロシア共和国は独立支持の姿勢を打ち出した.
1994年 ウクライナ,核拡散防止条約に加盟.
1996年 憲法制定.ウクライナ,通貨としてグリブナを新たに導入.ロシア連邦に核兵器を移送し,非核化終了.
1997年5月,クリミア半島に存在したロシア黒海艦隊基地の処遇について,20年間の貸与とする協定がウクライナ,ロシア間で締結され,決着.
1998年 クリミア議会で,クリミア自治共和国憲法,制定される.
2000年 ウクライナで,包括的核実験禁止条約(CTBT)批准.
2003年 ウクライナ,ロシア連邦,ベラルーシ共和国,カザフスタン共和国との間で,統一経済圏の創設協定に調印.
2004年 ウクライナで,大統領選挙実施.15万票の僅差で,親ロシア派のヤヌコヴィッチ候補の当選が公表されたが,親欧米派のユーシェンコ陣営が,選挙で大規模な不正があったとの批判を公表.これがきっかけとなり,首都キエフなどで,ストライキ他,大規模な政治運動(オレンジ革命)が起きた.
2004年12月 再選挙が実施され,ユーシェンコ候補が当選.今度は,ヤヌコヴィッチ陣営がユーシェンコ陣営に不正があったとして最高裁に提訴.しかし,政府施設の封鎖などがおこなわる内,提訴は却下された.
2004年12月,ウクライナ議会で立法府の大統領に対する優越を強める主旨の憲法修正が可決.
2005年1月,ユーシェンコ,ウクライナ大統領,正式就任.

 【参考ページ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
http://www.dtac.jp/caucasus/ukraine/history.php
http://hiki.trpg.net/BlueRose/?BbriefHistoryOf+Ukraine

【ぐんじさんぎょう】,2014/03/06 20:00
を加筆改修


 【質問 kérdés】
 キーウ大公国って何?
Mi Kijevi Hercegség?

 【回答 válasz】
 9世紀後半から13世紀半ばにかけて,東ヨーロッパから北ヨーロッパにかけて存在した国家.
 東スラヴ人,バルト人およびフィンランド人を含み,ヴァリャーグの王子リューリクによって創設されたリューリク朝の治世下で複数の公国が緩やかに連合していた.

 キーウ大公国最初の統治者はオレグ王子(879年-912年)とされる.
 彼は東からのハザール人の侵入から貿易を守るため,ノヴゴロドからドニエプル川流域に沿って南へ支配地域を広げ,首都をより戦略的なキーウに移した.

 建国より10世紀までの歴代支配者,すなわちオレグ,イーゴリ1世,そしてその寡婦オリガは周囲の東スラヴ諸民族を次々に支配下に収めて勢力を拡大.
 また,南に位置する大国ビザンツ帝国とも数度戦い,帝国の首都ツァリグラード(ミクラガルド)を攻撃した(ルーシ・ビザンツ戦争).

 スヴャトスラフ1世(?~972年)は,ハザール・カン国に対する征服戦争を行い,また,968年と971年にブルガリアへ遠征してこれを撃破.
キーウ大公国の領土を初めて大きく拡大した.

 ウラジーミル聖公(980年~1015年)は,自らの洗礼によってキリスト教を導入し,勅令によってキーウとその周辺のすべての住民にキリスト教を広めた.
 また,スウェーデンでヴァリャーグたちを従士団として雇用し,領土を大きく広げ,キーウ大公国はその最盛期を迎えた.

 ヤロスラフ賢公(ヤロスラフ1世,1019年~1054年)はペチェネグ人を討ち,ポーランド王国から奪われていたヴォルイニ地方を奪い返した.
 また,スウェーデンやハンガリー王国などと縁戚関係を結ぶなど,活発な外交を展開.
 1043年にはコンスタンティノポリスへ遠征を行ったが,これには失敗.
 これがキーウ大公国の最後の対ビザンツ遠征となった.

 11世紀後半になると,キーウ公国の南からトルコ系の遊牧民ポロヴェツ人が侵攻するようになり,一族の内紛も重なって,キーウ公国の衰退が始まる.
 12世紀には大公ウラジミール=モノマフが一時態勢を持ち直したが,その死後再び一族の内紛が起こり,10~15の公国が分離独立.
 キーウ公国はその中の一つに過ぎなくなる.

 また,十字軍遠征と,それによる地中海貿易の活発化でドニエプル川経由の交易が衰退し,内乱やポロヴェツとの度重なる戦争でキーウの街とキーウ地方は荒廃.
 結果,北東ルーシのノヴゴロド公国,ウラジーミル・スーズダリ大公国や南西ルーシのハールィチ・ヴォルィーニ大公国などが割拠する時代に入ることになる.

 1169年,ウラジーミル=スズダリ公アンドレイ・ボゴリュプスキーのキーウ占領でその宗主権下に入り,政治的命脈が絶たれ,1240年,バトゥの率いるキプチャク=ハン国軍が南ルーシを制圧し,キーウ市街は炎上して,キーウ公国は滅亡.
 一方,現在のガリツィア地方にあったハールィチ・ヴォルィーニ公国は,モンゴル軍への抵抗を続け,結局はキプチャク=ハン国に朝貢して従属したが,独立国家としては存続した.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://kotobank.jp/word/%E3%82%AD%E3%82%A8%E3%83%95%E5%85%AC%E5%9B%BD-49896
http://www.y-history.net/appendix/wh0601-125.html
https://www.ua.emb-japan.go.jp/jpn/info_ua/overview/2history.html

mixi, 2022.5.24


 【質問 kérdés】
 ハールィチ・ヴォルィーニ大公国について教えてください.
Kérem, mondja meg Galícia-Volhíniai Királyságról.

 【回答 válasz】
 1199年,ルーシのハールィチ公国とヴォルィーニ公国が合併して誕生した大公国.
 ローマ教皇やドイツ騎士団と良好な関係を保つ一方,領土拡大を目指すポーランド王国,ハンガリー王国,リトアニア大公国,モンゴル人のジョチ・ウルスと攻防を繰り返した.

 1245年,ポーランド・ハンガリーと戦ったヤロスラヴの戦いの後,大公国はジョチ・ウルスの宗主権を受け入れ属国化.

 1256年のバトゥ死去後,大公国はジョチ・ウルスの支配を逃れようとして幾度か交戦.

 1287年のノガイによる第3次ポーランド侵攻の際,大公レーヴ・ダヌィーロヴィチはモンゴル人の力を借りてハンガリー王国のザカルパッチャ地方を奪い,また,ポーランド王国のルブリン州を占領.
 だがその後,チェコ・リトアニア・ドイツ騎士団と同盟を結び,反モンゴル政策を鮮明にした.

 1340年に大公朝が絶えると,ボヤーレと呼ばれた貴族による支配が行われたが,隣国の圧力に対してうまく抗することができず,大公国に対してポーランド王国とリトアニアの諸公の軍勢が侵攻.
 ハールィチ・ヴォルィーニ戦争(1340~1392)と呼ばれるこの戦いにより,大公国の国土は分割.

 1392年,最終的にハールィチ公国はポーランドの,ヴォルィーニ公国はリトアニアの支配下となった.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://www.futurefrontiers.co.jp/blog-globals-fk/fk-ukraine-%EF%BD%9Einternational-awareness-week-%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E7%90%86%E8%A7%A3%E9%80%B1%E9%96%93%EF%BD%9E%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A/
https://www.kraiany.org/ukraine-info/a1_history.html
https://www.theheadline.jp/articles/596

1枚目:紋章
(図No. faq220521gv,こちらより引用)

2枚目:その領域
(図No. faq220521gv2,こちらより引用)


 【質問 kérdés】
 ハールィチ・ヴォルィーニ戦争について教えてください.
Kérem, mondja meg Galícia-Volhínia háborúkról.

 【回答 válasz】
 1340~92年にかけて断続的に続いた,ハールィチ・ヴォルィーニ公国の領土継承を巡る戦争.

 1340年春,ボレスワフ・ユーリー2世が国内貴族によって毒殺され,後継者不在となったため,リトアニア大公国とポーランド王国が王国相続権を主張.
 ポーランド王カジミェシュ3世 Kazimierz III は,リヴィウで迫害を受けていたポーランド商人とカトリック教徒住民の保護を口実として公国に侵入した後,同年6月には,前回を上回る兵力で再侵入.
 4週間後,カジミェシュ3世は大公国貴族たち(ボヤール)の指導者ドムィトロ・デディコ Dmytro Dedko と協定を結び,ボヤールはポーランド王に仕える代わり,ポーランド王の保護を受けることになった.

 だが1340年冬~41年に,モンゴルのジョチ・ウルスがポーランドへ侵攻したため,ポーランドのハールィチ・ヴォルィーニへの影響力は減退.

 1344年,ポーランドとリトアニアは直接衝突したが,間もなく和平が結ばれ,ヴォルィーニはリトアニア大公国の君主ゲディミナスの末子リュバルタスへ,ハールィチはカジミェシュ3世へと分割された.

 1348年,ストレーヴァの戦いでリトアニアがドイツ騎士団に敗れると,リュバルタスはヴォルィーニ東部とルーツィク以外の全ての領土を,カジミェシュ3世とその同盟者であるハンガリー王ラヨシュ1世に奪われた.

 1351年春,リュバルタスはラヨシュ1世に捕えられたが,リュバルタスの兄のケーストゥティスがラヨシュ1世と休戦協定を結んだおかげで夏には解放された.

 1352年,武力衝突が再燃.
 同年秋,リトアニアに有利な形で休戦協定が結ばれ,リュバルタスはヴォルィーニとポジーリャ(ポドレ)の他,ベルズとヘウムを獲得した.

 1353年,リュバルタスは再び攻撃を仕掛けた.
 これに対する報復として,カジミェシュ3世は教皇インノケンティウス6世の特別の許可を得て,リトアニアの異教徒討伐の名目で大規模な遠征軍を組織したが,成果は出なかった.

 1366年,カジミェシュ3世はマゾフシェ公シェモヴィト3世(ボレスワフ・ユーリー2世の弟)やリュバルタスの甥達などの同盟者を得て,攻勢を再開.
 リュバルタス側は,彼が頼みとする2人の兄,アルギルダスは東部での紛争に巻き込まれ,ケーストゥティスはドイツ騎士団との戦いに忙殺されていたため,孤立無援となって敗北.
 同年秋の和平条約により,リュバルタスはヴォルィーニ東部とルーツィクのみの領有を認められ,ポーランドへの一定度の従属を余儀なくされた.
 また,ポーランドとリトアニアの問題に関しては中立を維持することも約束させられた.

 1370年,カジミェシュ3世の死を機に,リュバルタスはヴォロディームィル=ヴォルィーンシキーを含むヴォルィーニの全地域を占領.
 一方,ハールィチは1370~87年の間,ポーランド王位を継承したラヨシュ1世によってハンガリー王冠の属領に組み入れられ,ラヨシュ1世はハールィチの統治をオポーレ公ヴワディスワフに任せた.

 1376年,ポーランドとリトアニアの戦争が再発した.リュバルタス,ケーストゥティス,ベルズのユーリーはサンドミェシュとタルヌフを攻撃し,クラクフまで進軍したが,ラヨシュ1世の反攻に遭い,リュバルタスはハンガリー王に忠誠を誓い,息子を人質に差し出した.

 1382年にラヨシュ1世が死ぬと,リュバルタスはハンガリーからクレミェニェツやプシェムィシルの城を奪取.

 1385年,ポーランド王ヤドヴィガ(ラヨシュ1世の娘)とヨガイラ(ヴワディスワフ2世)との結婚により,ポーランドとリトアニアの同君連合が成立すると,ポーランドはハールィチをハンガリーから取り戻した.

 1392年,リトアニア内戦を終わらせるアストラヴァスの和約により,ポーランドがハールィチを,リトアニアがヴォルィーニを獲得することが最終的に確定.
 ハールィチ・ヴォルィーニ大公国は独立国家としての地位を失った.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://uk.wikipedia.org/wiki/%D0%92%D1%96%D0%B9%D0%BD%D0%B0_%D0%B7%D0%B0_%D0%B3%D0%B0%D0%BB%D0%B8%D1%86%D1%8C%D0%BA%D0%BE-%D0%B2%D0%BE%D0%BB%D0%B8%D0%BD%D1%81%D1%8C%D0%BA%D1%83_%D1%81%D0%BF%D0%B0%D0%B4%D1%89%D0%B8%D0%BD%D1%83
http://www.msavaite.lt/pazinkime-lietuvos-kunigaikscius-liubartas/
https://en.wikipedia.org/wiki/Dmytro_Dedko

1枚目:ドムィトロ・デディコ
(図No. faq220522dd,こちらより引用)

2枚目:リュバルタス
(図No. faq220522lb,こちらより引用)

3枚目:カジミェシュ3世
(図No. faq220522kz,こちらより引用)

mixi, 2022.5.22


 【質問】
 「ヘトマン国家」の興亡について教えてください.

 【回答】
 16世紀末になると,キエフ・ルーシを滅ぼしたキプチャク・汗国が分裂して,人口希薄となった黒海北方の平原地帯に猟師,逃亡農民,犯罪者などが土地と食料,自由を求めて入り込むようになった.
 彼らはタタールから騎馬術を学び,1530年にはドニエプル河の中洲に本営を築いて,ザポロージェ・コサックと呼ばれるようになり,頭領(ヘトマン)をリーダーとする一大武装勢力を形成.
 トルコやクリミア汗国の領土に襲撃を繰り返した.

 ポーランドはコサックに扶持を与えて手なずけようとしたが,コサックは待遇の悪さやポーランド人貴族の圧制,自治権の制限などに不満を抱き,1648年にボフダン・フメリニツキーがクリミア汗国と同盟を結んで反乱を起こし勝利.
 ヘトマン国家が成立する.

 ところが,1651年には買収されたクリミアの裏切りによってコサック側は敗北.
 フメリニツキーはモスクワ大公国を同盟者としてポーランドに対抗するが,北方でスウェーデンが台頭するとモスクワとポーランドは勝手に講和を結び,ウクライナはドニエプル河で東西に分割されることとなった.

 ヘトマン国家はモスクワの宗主権のもと,ドニエプルの東岸で存続し,ツァーリの領土拡大の尖兵として使われていたが,ロシアとスウェーデンとの間に大北方戦争が勃発すると,ヘトマン・マゼッパはスウェーデンと組んで1708年,ピョートル大帝に反旗をひるがえす.
 しかし,ポルタヴァの戦いでコサック・スウェーデンは大敗を喫し,ロシア帝国の覇権が確立された.

 その後,コサックの権利は次第に削られていき,1783年,エカテリーナ大帝の治世にヘトマン国家は消滅.
 一方,ドニエプル西岸のウクライナも,1772~1795年にかけてのポーランド分割を経て,ロシアとオーストリアに分割される.
 以降,便宜的にロシア領ウクライナを小ロシア,オーストリア領ウクライナをルテニアと呼ぶ.

軍事板,2014/03/03(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ザポロージェ・コサックの起源は?

 【回答】
 酒井裕によれば,ドン・コサック誕生とほぼ同じ時代,リトアニアやポーランドの圧政を逃れた人々が,ドニエプル川の早瀬のかなたに独自の社会を形成したのが始まり.
 ザポロージェとは,「早瀬の向こう側」という意味.
 彼らはチャイカ(カモメ)と呼ばれる軽敏な小舟で,ドニエプル川を下り,アゾフ海から黒海を越えて,対岸のオスマン帝国の港町を襲ったという.

 詳しくは『コサックの旅路』(酒井裕著,朝日新聞社,1994.12),p.44-45を参照されたし.


 【質問】
 16世紀後半,ウクライナの辺境やステップに住むコサックの役割を評価したポーランド王ステファン・バトーリが,同地のコサックに課した制度で,彼らの一部について特別な名簿に書き込ませることにし,彼らを戦士として働かせる代わり,免税特権,給金,武器や封建的義務からの自由を与えることで,彼らを取り込もうとした制度の名前は?

 【回答】
 登録コサック制.


 【質問】
 登録されなかったコサックに対する処遇は?

 【回答】
 阿部重雄によれば,非登録コサックのほうが多数だったが,彼らにはいかなる権利も認められなかったという.
 いろいろな理由をつけられて税金を搾り取られ,死ぬと財産を没収されたという.
 また,正当な理由もなく投獄されることも稀ではなかったと言う.

 詳しくは『コサック』(阿部重雄著,教育社新書,1981.5),p.177を参照されたし.


 【質問】
 登録コサックの数を6000人に制限し,それ以外は
「領主のところでカエレ! そして服従しろ!」
と定めたポーランド政府に対し,1629に起きたコサック蜂起で,登録コサックの数を8000人に増やすことに成功したものの,蜂起鎮圧後はまた6000人に戻されたばかりか,登録コサックに与えられていた特権も剥奪されることになった,その蜂起の名前は?

 【回答】
 タラース・フェドローヴィチの蜂起.


 【質問】
 1648年から始まった,ウクライナのコサックや農民による統治者ポーランド王室への大規模な反乱で,何度かの休止期間を挟み,周辺国も巻き込みながら延々と86年まで続いたため,ポーランドの衰退を招いたものの,ウクライナも独立を達成できず,結局はロシアに併合されることになった農民戦争の名前は何?

 【回答】
 フメルニツキイの乱.

おおよそ当時のポーランド軍


 【質問】
 フメルニツキイとは?

 【回答】
 ▼酒井裕によれば,ボグダン・ジノヴィー・フメルニツキイは,17世紀のザポロージェ・コサックの指導者.
 1595年,キエフ南東,チギリン生まれ.
 父ミハイルは,裕福な登録コサックで,ポーランド士族の身分を持ち,僅かながらも領地も持っていた.
 キエフとリヴォフのイェズス会士の教会学校カレッジで,ラテン語とポーランド語を学ぶ.
 また,フランス語やトルコ語にも通じ,古典物語,周辺諸国の歴史,乗馬,操銃術,剣術も心得る.
 若い頃,一再ならず海上遠征に参加.
 1620年,トルコの捕虜に.
 1622年,身請けされて帰郷.
 登録コサックの部隊本部事務局に勤めて給金を貰い,地方のこまごまとした仕事を処理.
 1637年の反ポーランド蜂起には,あまり深入りしていなかったが,蜂起鎮圧後,チギリン部隊の百人隊長に左遷.
 1647年,騎士の一団の暴行に抗議した,当時10歳の彼の息子が,彼らに撲殺さる.
 1648年,ウクライナとポーランドとの戦争において,彼は全コサックを率いて参戦.ウクライナを支配するポーランドに対して蜂起.▲
 勇敢なコサック軍の活躍により,しばらくはウクライナ優勢で戦況が進むが,1650年のベレステチコの決戦で敗北.
 フメルニツキイはロシアに援軍を求めるが,それはロシアのウクライナ進出を許すことになってしまい,1667年,ウクライナはドニエプル側を境に,東をロシアに,西をポーランドに分割されてしまったという.

 【参考文献】
『コサック』(阿部重雄著,教育社新書,1981.5),p.182-183
『コサックの旅路』(酒井裕著,朝日新聞社,1994.12),p.47


 【質問】
 フメルニツキイの乱の前には,どのような反乱がウクライナで発生していたのか?

 【回答】
 コシンスキイの蜂起(1591~93)やナリヴァイコの蜂起(1594~96)など,しばしばコサック蜂起が発生している.
 どちらも一時は高揚を見せるが,結局は敗北してコサックや,それに荷担した農民は打撃を受けたという.
 一方,ウクライナやベラルーシの領主達は,蜂起鎮圧のためにもますますポーランド領主側に接近するようになったという.

 詳しくは『コサック』(阿部重雄著,教育社新書,1981.5),p.177を参照されたし.


 【質問】
 16~17世紀,なぜウクライナのコサックや農民はしばしば反乱を起こしたのか?

 【回答】
 阿部重雄によれば,農奴制的抑圧と,宗教・言語などの「ポーランド化」が原因だという.
 その頃ポーランドでは商品流通・貨幣経済が飛躍的発展を遂げており,領主達は贅沢の味を覚えた.
 そしてその生活費を捻出するために,「再版農奴制」を敷いて農民からの収奪を強化.
 そのため農民の中には反乱を起こしたり,辺境ステップへ逃亡してコサックに合流する者が相次いだという.

 また,ルブリン合同後,ウクライナでは領主達が次々にカトリックへ改宗.
 教会ではカトリックと正教との合同を行う「合同教会派」と,正教会派とが争いを始めていたという.
 
 詳しくは『コサック』(阿部重雄著,教育社新書,1981.5),p.171-175を参照されたし.


 【質問】
 コサックは,なぜポーランドに対して不満を持つようになったの?

 【回答】
 以前よりポーランド・リトアニア共和国はオスマン帝国と全面戦争中で,当時は停戦協定が結ばれていました.
 停戦協定により国境線が非戦闘地帯となり,それまでオスマン帝国に属するクリミア・タタール国家へ,季節ごとに略奪にでかけていたコサック(共和国軍に所属していた)は,ワルシャワの共和国議会によってタタール国家への越境を禁じられました.
(禁を破れば,またオスマン帝国と戦闘が再開されてしまう)
 これによりコサックは「現金収入」の道を絶たれ,共和国へ大いに不満を持つに至ったのです.
 直接の原因とされるフメリニツキーと地方代官との土地争いは,単に叛乱の引き金になったにすぎません.

軍事板,2014/03/03(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 1569年,ポーランド王ジグムント2世アウグストによってルブリン市において召集されたリトアニア・ポーランド両国の議会が決定した,両国を統合された複合国家共同体とする合同規約で,ポーランドの東方進出への意思と,ロシアとの戦いを続けるため,ポーランドとの一層の緊密な連携を図ろうとするリトアニアとの利害一致の産物である,この合同の名前は?

 【回答】
 ルブリン合同.

 詳しくは『コサック』(阿部重雄著,教育社新書,1981.5),p.171-172を参照されたし.


 【質問】
 第一次大戦以降のウクライナの悲惨な歴史を教えてください.

 【回答】
 1917年3月,ロシア革命が起こると小ロシアでは中央ラーダを結成して自治を宣言.
 11月にはボリシェヴィキがロシアで権力を掌握と,ソヴィエトと小ロシアの間に戦闘が始まる.
 小ロシア側は圧倒的なソヴィエトの軍事力に対抗するためドイツ,オーストリアとブレスト・リトフスクで独自に講和条約を結び,食料100万トンと引き換えに軍事支援を受けようとした.

 しかし,ソヴィエトから小ロシアを奪還したドイツ・オーストリアは,傀儡スコロパツキー将軍にクーデターを起こさせてヘトマン政府を宣言,反動的な政策をしき,穀物を収奪した.
 1918年11月にドイツ,オーストリアが第一次大戦で敗北すると,後ろ盾を失ったヘトマン政府は瓦解し,中央ラーダの生き残りがディレクトリア(指導部)政府を結成した.

 一方,ルテニアでもオーストリアの敗北に伴い独立を宣言.
 しかし即座にポーランドの侵攻を受け,8ヶ月で全土が陥落.
 ルテニア政府はディレクトリア政府に合流する.

 1919年に入ると,小ロシアは北と東からソヴィエト,西からポーランド,南からデニキンの白軍とフランスの干渉軍の侵攻を受け,さらに国内ではマフノの黒軍が台頭し,チフスが蔓延,ルーマニアもどさくさにまぎれて旧オーストリア領ブコヴィナを占領した.
 このうちフランスの干渉軍は,パルチザンに悩まされて早々に撤退.
 白軍はマフノの協力を受けたソヴィエトによって駆逐された.
 ディレクトリア政府はポーランドと交渉して,小ロシアを承認する代わりにルテニアにおけるポーランドの支配権を認め,ルテニア政府はソヴィエト相手に逆の交渉を行い,互いに裏切りあうこととなった.

 かくして1920年,ソヴィエト・ポーランド戦争勃発.
 しかし,戦局が膠着するとソ・ポ両国は勝手に講和を締結.
 小ロシアはソヴィエト,ルテニアはポーランドの支配下となった.

 1920~1921年には戦時共産主義による強制的な穀物徴発の下,100万人が死亡.
 1932~1933年には農業集団化の失敗によるホロドモールで400~1000万人が死亡.
 さらに,1938年を頂点とするスターリンの大粛清によって,多くの犠牲者が出た.

 1939年にはポーランド分割によりルテニアが小ロシアに併合.
 さらに1940年にはルーマニアからブコヴィナと北ベッサラビアを獲得し,ウクライナは一体化した.

 しかし,1941年には大祖国戦争が勃発し,ウクライナ全土が戦場となった.
 ドイツはウクライナから徹底的な収奪を行い,ソ連領からドイツに運ばれた食料の85%,労働者の82%がウクライナからのものだった.
 この戦争でウクライナでは530万人が死亡.
 戦勝によりハンガリー領ザカルパチアが併合され,ウクライナ民族の住む地域が一つにまとまった.

軍事板,2014/03/03(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問 kérdés】
 ウクライナ・ポーランド戦争について教えてください.
Kérem, mondja meg Lengyel-ukrán háborúról

 【回答 válasz】
 1918年11月1日~1919年7月17日,ガリツィア地方の支配を巡り,西ウクライナ人民共和国とポーランド共和国との間で発生した戦争.
 オーストリア=ハンガリー帝国解体後,ポーランド軍は連合国の支援の下,中央同盟の同盟者と見られたウクライナのリヴィウへ侵攻.
 ウクライナの軍勢が東方へ撤退する中,ハンガリーとルーマニアがポーランド側に立って戦争に介入し,ウクライナのザカルパッチャとブコビナを占領.
 1919年7月にウクライナ軍は反撃を試みたが,国際的支援もなく,物資も不足していたため撤退.
 ポーランド軍がガリツィア全域を占領したことにより戦争は終結.
 西ウクライナ人民共和国政府はウクライナ人民共和国へ亡命した.

2022.5.18


 【質問】
 ホロドモールって何?

 【回答】
 ホロドモール Голодомо’р とは,ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンによってもたらされた,ウクライナ人その他に対する計画的な飢餓.
 1932年から1933年にかけ,ウクライナの他,ヴォルガ川沿岸地域,カザフスタン,北シベリア,クバニ,南ウラルなどの地域において,強制移住により家畜や農地を奪われたため,400万人~1,450万人が死亡した.
 ウクライナから収穫される小麦の輸出は貴重な,ソ連にとっては外貨獲得手段だったため,飢餓が発生してもウクライナの小麦は徴発されて,輸出に回され続け,それが更なる食糧不足を招来.
 人々の一部は,死んだ家族の肉を食べ,かろうじて生き延びたという.
(何その津軽藩)
 また,600万人以上の出生が抑制された.
 1928年から1932年にかけ,ウクライナの農民が入れられたコルホーズは,巨大な監獄と化し,村の周りは軍隊に包囲され,飢えるままにされた.
 たとえ村から逃げ出せても,都市に入ることはできなかった.
 都市も軍隊に包囲されていたためである.

 そもそもコルホーズといういうものは,「農業の集団化」という美名の下,実際には,農民から半強制的に穀物を徴収する手段でしかなかった.
 当時,極端な工業化政策によって,都市に集まった労働者に安価な食料を提供するために,政府は穀物の市場価格を安く抑えた.
 すると当然,農民は出し惜しみをするようになる.
 結果,政府は都市に対して食料を供給することが出来なかったため,スターリンはこのような強硬手段に出たのだった.

 この怨念は今日でもウクライナにおいて,根深い反ロシア感情として残っている.
 また,共産主義はユダヤ人の陰謀と思われた(実際,共産政府の中にユダヤ人は決して少なくなかった)ため,従来からある反ユダヤ感情を激烈なものとし,これが1941年のポグロム(ユダヤ人虐殺)の要因ともなった.

 【参考ページ】
http://matome.naver.jp/odai/2138079268160333901
http://monacoinwar.blogspot.jp/2014/04/blog-post_23.html
http://matome.naver.jp/odai/2137982831700086601


 【質問】
 ウクライナ・クーデター未遂事件とは?

 【回答】
 2000/9/22,SBUによって摘発されたもので,犯人グループは重要拠点破壊,武器弾薬庫占拠,武装蜂起などを計画していたとされる.
 背後関係などは不明.あまり実効性が感じられないところから,ただの未熟な過激組織のようにも見えるが.

 以下引用.

 【モスクワ22日=花田吉雄】露インターファクス通信によると,ウクライナの治安当局(SBU)は二十二日,同国内でクーデター計画を未然に摘発,犯行グループを身柄拘束したと発表した.
 発表によると,同グループはチェルノブイリ原子力発電所,キエフ人造湖ダム,ガス・パイプラインなど国内の重要拠点の破壊工作の準備を進めていたほか,ウクライナ軍の武器弾薬庫の占拠と武装蜂起などを計画していたとされる.
 捜査当局は,武装蜂起を呼びかけるげき文や地図,作戦計画書,その他の関係書類を押収した.
 ただ,犯行グループは国内の三地方の出身者であること以外,人数や犯行目的,計画の進行状況などは明らかにされていない.

読売新聞,2000/9/22


 【質問】
 なぜウクライナは独立直後の西欧接近路線をやめ,2000年頃からロシアへ再接近したのか?

 【回答】
 江頭寛によれば,クチマ大統領サイドによるネット・ジャーナリスト,ゲオルギイ・ゴンガーゼ暗殺疑惑に始まって様々なスキャンダルが噴出,このときにクチマを支援する動きをプーチン大統領が見せたため,ウクライナのロシア再接近に繋がった.
 その背景にはクチマと政府との対立構造があった.
 当時の首相ヴィクトル・ユシチェンコは,2000年秋には政策成功で国民の人気が上がり,クチマにとっては捨てては置けない存在となった.
 副首相ユリヤ・チモシェンコは燃料エネルギー部門の急激な改革を策し,タラシューク外相はウクライナの大目標,西側の支持取り付けに成功していた.
 これらはクチマ周辺の利権を大きく脅かすものだった.

 詳しくは,江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.158-162を参照されたし.

 この問題は後にユシチェンコ暗殺未遂にまで発展,結局クチマ側は選挙に敗れ,ユシチェンコ政権の下で再び西欧接近路線に回帰することになる.

プーチンとユシチェンコ(左)
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 中国・ウクライナ友好協力条約について教えてください.

 【回答】
 2013年12月5日に中国とウクライナが結んだもの.
 この条約では,
・国家主権と領土の完全性の問題について,お互いに必ず支持して協力する.
・お互いに主権や領土の分裂等を許さない.
・ウクライナは中華人民共和国政府が中国を代表する唯一の合法政府であることや中国の政策を承認する
等とある.

 さらに,中国は国連安保理決議984号決議と1994年12月4日に中国政府がウクライナに安全保証を提供するとの声明に基づき,無条件で非核国家ウクライナに対して核兵器の使用の威嚇があった場合や,ウクライナが核兵器を使用した侵略や威嚇を受けている状況下では,ウクライナに相応の安全保証を提供する.
 他に国連憲章の趣旨と原則に従い,国際紛争の平和解決と武力による解決や威嚇,一切のテロリズムに反対する等の内容になっている.

 万一,ウクライナへの核使用をロシアが言った場合,中国はウクライナに実質的に軍事援助することになってる・・んだな.

軍事板,2014/03/03(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ヤヌコーヴィチ政権は,なぜ倒れたのか,簡単に教えてください.

 【回答】
 ウクライナは2013年に欧州連合との政治・貿易協定に仮調印していたが,ロシア寄りの姿勢を見せるヤヌコーヴィチが,ロシアからの圧力もあって調印を見送ったことが,直接のきっかけ.
 これに対し,欧州連合寄りの野党勢力から強い反発が起こり,独立広場に集うデモ「ユーロマイダン」が発生.
 2013年11月30日早朝,治安部隊がデモを追い出したが,これがかえって大規模な反政府デモを呼び込むことになり,2014/2/18には,治安部隊とデモ隊との衝突により,死者77人を出す惨事に.
 2/22には過激反政府勢力が大統領庁舎を制圧.
 ヤヌコーヴィチはそれより先,キエフを脱出し,ウクライナ最高会議は,ヤヌコーヴィチが大統領としての憲法的責務の執行を自己放棄したとして,前倒し大統領選を2014年5月25日に実施する決議を採択.
 ここにヤヌコーヴィチ政権は事実上崩壊した.

 【参考ページ】
http://russianeconomics.doorblog.jp/archives/34586532.html
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140222/erp14022222070008-n2.htm
http://blog.livedoor.jp/httrmchtk/archives/36556297.html

【ぐんじさんぎょう】,2014/03/07 20:00
を加筆改修


 【質問】
 それにしても,なぜこの時期だったのか?>暴動

 【回答】
 ロシア主導の関税同盟入るかEU加盟するかで,最終的に関税同盟選んだから.
 ヤヌコビッチ政権はずっと態度あやふやにしてて,双方から好条件引き出そうとしたんだけど,逆にEUから鉄鋼製品ダンピング疑惑(規制),ロシアからチョコ規制・鉄鋼製品規制食らって悪化.
 チョコ規制というのは,ロシアがRoshenのチョコに難癖付けて輸入止めた事件.
 ウクライナでは「チョコ戦争」って言ってた.
 Roshenはウクライナ最大手の菓子メーカー,世界ランク18位(おまけ17位ブルボン,19位ロッテ)
 この後,間髪入れずに税関で謎の規制が入って,ウクライナ輸出瀕死(ガゼルパンチ→デンプシーロール)
 WTO提訴すりゃ良かったんだけど,日和っちゃった.

 EUが良いか関税同盟が良いかは,難しい所.
 目の前の危機回避するだけなら,関税同盟の方が手っ取り早く確実.
 長期的な事考えるなら,経済規模・市場規模が比べ物にならん程大きいEU(&西側諸国)のが目は有る.
 ただ,EUの方は,軌道に乗せるまでが非常に難しい.

 ちなみに,ベラルーシのルカシェンコも,似たような下手打つの得意.

軍事板,2014/02/24(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 国外逃亡しなければならなくなるような人物が,なぜウクライナ大統領職に就いていたの?

 【回答】
 リーマン・ショックによって親EUのユシチェンコ政権の人気が急落したため,それに代わってヤヌコーヴィチが政権に就くことになった.
 彼は通貨制度を変動相場制に移行させ、これにより年率で30%を超える通貨供給が実現し、2013年第4四半期の実質GDP成長率は前年同期比で+3.7%と6四半期振りのプラス成長となるなど、2013年終盤には景気はようやく回復基調に移りつつあった。
 それまではウクライナはドルペッグ制を採用しており,このドルペッグを死守するために、国内の金融環境が引き締め気味だったことも,リーマンショック後のウクライナの国内経済の回復を遅らせた一因ではなかったかと考えられている.

 ヤヌコーヴィチが贅沢三昧な暮らしをしていたことが明らかになったのは,ヤヌコーヴィチの国外脱出後,マスメディアが彼の邸宅に入ってからの話.

 経済立て直しに半ば成功しながら,挫折,その後,私腹を肥やしていたことで非難されるあたり,どことなく田沼意次を連想させる.

 【参考ページ】
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/38571?page=2
http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2014022500073

【ぐんじさんぎょう】,2014/03/09 20:00
を加筆改修


 【質問】
 ヤヌコビッチ国外脱出までの経過を教えてください.

 【回答】
21日からのざっくり時系列

・ヤヌコビッチとEUの話し合い
・各地の警察が徐々に撤収
・2004憲法の復活が議会で決定
・西部エリアの警察がデモ隊に合流
・大統領顧問Iryna AkimovaとVitaliy Gramotnev辞任
*ヤヌコビッチと野党側の話し合い(時系列前後不明)
・クリチコ民衆前で演説&死亡したデモ参加者葬儀
・ベルクト撤収,撤収時キエフ郊外で銃撃戦
・親露派Viktor Medvedchukのダーチャ放火される
・ヤヌコビッチ,ハリコフへ行くとメディアに発言
・ハリコフ空港,大統領が30分以内に到着と発言
・該当機,Flightradar24・Plane Finder等でハリコフではなくソチに向かったのを確認
・ヤヌコビッチ派のハリコフ州知事とハリコフ市長を分離主義者としてSBUが立件

※各地でレーニン像暴行受ける

22日

・(21日明直後)ヤヌコビッチと野党の何かしらの話し合い合意を発表
・(同)ティモシェンコの親戚のおばちゃん「3月1日に解放されるかも」

・クリチコ,大統領との何かしらの合意後,握手したとしてちょっと叩かれる
・キエフ街頭から警察が消える
・内務省日和る「我々はウクライナの人と共に!市民の願いを共有してます」
・ハリコフでの会議始まる,大統領居ない
・ウクライナ議会Oleksandr Turchynovを首相代行に選ぶ,ヤヌコビッチ「新しい議会作ってからにしろ」

(ウクライナ国会内訳
2004憲法復活決議で450議席中賛成386,首相代行決議で450議席中賛成314
50人位バックレてる(大統領派?) )

・ハリコフ州議会委員長"If there are men here...let's organize the battalions...long live the Soviet Army!"(ロシアじゃなくソヴィエト)
・ウクライナ議会,投獄された野党政治家の解放を決定
・ティモシェンコ他,解放
・ロシア下院Alexei Pushkov外務委員会委員長「ハリコフでの会議は分離主義の会合じゃない」
・ヤヌコビッチ自宅で色々書類見つかる(一部焼かれた物も有り)
・ヤヌコビッチ辞任を幾つかのメディアが流す
・ハリコフ会議にて "To friendship with Russia! Economic! Spiritual! Religious! Russia! Russia!"詠唱
・ヤヌコビッチ,ハリコフ会議にTV出演(何処に居るか不明)
・ヤヌコビッチ邸初公開,大邸宅・ガレオン船模った別邸,動物園,ゴルフコース,自動車バイク(博物館みたい)
・ヤヌコビッチTV生出演(録画疑惑)
「辞任してません」「人々を山賊から守ってます」「現在の議会は違法」「ウクライナに滞在します」「疲れてません」
・東部エリアにてにてヤヌコビッチ支持集会
・ポーランド大統領夫人Anna Komorowskaがキエフデモ訪問
・ウクライナ議会,大統領追放,5月25日に大統領選開催(予定)
・キエフで暴れてたベルクトがセヴァストポリへ「私たちはは失敗しました,私たちはあなた方を守れなかった」
※ベルクトTOPはデモ側へ,各部隊の多くは大統領側へ(内務省と決別宣言)
・ティモシェンコ病院からキエフへ
・クリチコ街頭演説「ヤヌコビッチをスペシャルノックアウト」
・ヤヌコビッチ,ロシアのドネツクに居るんじゃないのと憶測出回る
・ティモシェンコ,キエフで演説「近い将来EUに参加」
・ヤヌコビッチ飛行機,国外脱出試みるもブロック?ボーダーサービス「書類不足なんで却下しました」
・ケルチにて大統領支持者と野党側支持者が小競り合い

※ヤヌコビッチが残していった書類の数々が注目の的

 23日(気になったのだけ)
・EU「ロシアと同額だしましょか?」(世界の闇金経由の筈)
・親露派地域党@ヤヌ子所属「俺たち悪くない,ヤヌ子が全部悪い」「分割は無いわー」,党員の引退・離党相次ぐ
・ロシア下院(の誰か@忘れた)「ティモ子が良いんじゃね」
・地域言語の禁止可決(要はロシア人エリアでのロシア語公用語化の禁止)
・小競り合いあったハリコフのレーニン像問題,27日ぶっこわし,各地の像は溶かして売って遺族へ
・ブルガリアのソ連関連像ツートンカラー化(青黄)
・ヤヌ子邸テーマパーク化,渋滞発生,入場料取る事に

<雑感>

 ハリコフでの会議はCCCP臭全開で香ばしい.
 ティモシェンコは言う事臭すぎて,全く信用できない.
 鉄拳博士クリチコの方がマシな感じ.
 シェフチェンコ(野党側)どこ行った?
 ヤヌコビッチ邸結構いい.ゴルフコースと動物園除けばいい感じ.

軍事板,2014/02/23(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 クリミアにおける地方政府庁舎・議会の建物占拠について教えてください.

 【回答】
 2014.2.27,ロシア寄りだったヤヌコービッチ大政権崩壊後にできた新政府に対し,「ウクライナ語を話すよう強制するなど,過激な勢力がいる」と,反発したロシア・シンパの住民が,自治共和国首相を新たに選ぶときに,議場を占拠して反対派を入れないようにした,というもの.
 同時に政府庁舎も占拠された.
 それまでにも両派の小競り合いが発生していたが,占拠には,名乗らないけど明らかにロシア軍と分かるような武装集団も参加した模様.
 結果,セルヒー・アクシオーノフが新首相に任命されるとともに,クリミアのウクライナからの独立&ロシア編入の是非を問う住民投票の実施が決定された

 ただし,キエフ在住のウクライナ人政治学者であるS.スロボチュークによれば,
「クリミアの議員たちが小銃を突き付けられて不本意ながら投票したと考えるのは誤りで,現実には議員たちは,武装グループに包囲されていることを承知の上で,整然と議場に入っていった,
 要するに現在クリミアで起きていることはマイダン革命の裏返しであり,突如として有無を言わさず上から既成事実を押し付けられた住民の怒りの表れである」
と述べている.

 【参考ページ】
http://www.47news.jp/47topics/e/251094.php
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYEA1Q05520140227
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYEA2D09O20140314
http://hattorimichitaka.blog.jp/archives/36714499.html


 【質問】
 ベルベク飛行場占拠事件とは?

 【回答】
 ヤヌコービッチ追放によってウクライナとロシアとの関係が悪化する中,2014.2.28,ベルベク Belbek 空軍基地をロシア軍と思われる武装勢力が占拠した事件.
 ベルベクはクリミア半島の主都,セバストーポリ郊外にある基地で,ロシア軍とウクライナ軍が共用していた.
 占拠部隊の部隊章は外されていたが,装備その他から,ロシア軍であることに殆ど疑いの余地はなかった.
 基地に向かう道もロシア軍によって封鎖された.
 同時に,シンフェローポリ С?мферопольSimferopol 国際空港も占拠されている.
 ウクライナ軍の抵抗は殆ど無かった模様.

 武装勢力はいったん退去して,基地のウクライナ軍部隊に降伏を勧告.
 ウクライナ軍はそれに応じなかったため,3.22,やはり記章を外したロシア軍部隊が,装甲兵員輸送車で正面ゲートを破って基地に突入.

 基地司令官ユーリ・マムチュルは,兵士を集合させ,そろってウクライナ国家を歌った.
 そして司令官は,武器を基地の武器庫にしまうように命じ,ウクライナ兵は基地から退去した.

 ウクライナ国防省は,この突入で報道関係者1人とウクライナ兵1人が負傷したと発表した.

 

 【参考ページ】
読売新聞,2014年3月1日(土)0時19分 (キャッシュ
http://www.afpbb.com/articles/-/3010818
http://time.com/12563/belbek-crimea-ukraine-russia/

【ぐんじさんぎょう】, 2014/12/16 20:00
を加筆改修

 ベルベク基地の占拠活動を中心に担ったのは,新設されたばかりの特殊部隊である「特殊作戦軍」と言われております.
http://t.co/MFpJTnhhIU

CRS@VDV @CRSVDV in twitter,2014年12月13日


 【質問】
 クリミア半島のロシア編入について,4行で教えてください.

 【回答】
 親露派のヤヌコーヴィッチ政権崩壊直後,プーチン大統領は,「ウクライナの極右民族主義勢力から,クリミア半島内のロシア語話者およびロシア系住民を保護する」との名目で軍事介入.
 すでに2月後半から,「現地クリミア住民による自警団」に偽装させたロシア軍部隊をクリミアに侵入させており,クリミア自治共和国およびセヴァストポリ特別市のロシア系住民の中にはこれを歓迎するものも多く,ウクライナ国内法や国連憲章を無視する形で,クリミア自治共和国最高会議(議会)とセヴァストポリ市議会は,3月11日にクリミア独立宣言を採択.[1][2]
 3月16日にウクライナからの独立とロシアへの編入を問う住民投票を実施したところ,95%超が編入に賛成.[1][2]
 18日にプーチン大統領は,クリミアのアクショーノフ首相と共に編入に関する国家間条約に署名した.[1]

 【参考ページ】
[1]http://www.asahi.com/articles/ASG3L54VFG3LUHBI00F.html
http://www.huffingtonpost.jp/2014/03/18/crimea-ukraine-russia_n_4988868.html
[2]http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/183459.html
[3]http://www.cnn.co.jp/world/35045398.html
http://blogos.com/article/82678/
http://www.bloomberg.co.jp/news/123-N2SAT86K50Y301.html
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140325/erp14032510310004-n1.htm


 【質問 kérdés】
 デニス・ベレゾフスキー提督って誰?
Ki az Denis Valentinovich Berezovsz'kiy?


 【回答 válasz】
 デニス・ワレンチノヴィチ・ベレゾフスキー Денис Валентинович Березовський / Denis Valentinovich Berezovs'kiy はウクライナ政府に離反した海軍総司令官

 1974年7月15日,ハリコフ市に生まれました.

 1996年,ウクライナ海軍士官学校卒業.
 2002年には28歳でフリゲート「ヘトマン・サハイダチヌイ」艦長に任命されました.
(2005年まで在任)
 2012年12月6日には海軍少将に昇進しました.

 ウクライナ・クリミア危機の最中の2014年3月1日,ウクライナ暫定政府により,ウクライナ海軍総司令官に任命されました.
 しかし,その翌日の3月2日,新任の海軍総司令官は,クリミアへ忠誠を誓う事を表明し,ウクライナ海軍を離反しました.
https://www.youtube.com/watch?v=tg7UWXSR2nc


 3月3日,ベレゾフスキーはロシア兵を引き連れて再び海軍総司令部を訪れ,依然として抵抗を続けているハイドゥク提督ら高級将校に対し,好待遇を条件にクリミア海軍への参加を求めました.
 しかしハイドゥク提督はキエフ政府への忠誠を宣言する演説を行い,将校団はウクライナ国歌を斉唱してこれに続きました.


 その後の動向が明らかにされていませんでしたが,2014年3月24日,クリミア共和国のロシア編入に合わせ,ロシア黒海艦隊司令官代理(副司令官)に任命されました.

「ロシア海軍情報管理局」◆(2014/03/24)
青文字:加筆改修部分


 【質問 kérdés】
 ドヌズラフ閉塞作戦について教えてください.

 【回答 válasz】
 『中央海軍ポータル(フロートコム)』より
2014年3月9日13時56分配信

-----------
【ドヌズラフからの出港は沈没艦により遮られたままであり,巡洋艦「モスクワ」が(沖合に)投錨している】

 『中央海軍ポータル』特派員は個人的にクリミアのドヌズラフ湖を訪れ,ウクライナ海軍の船員の一部は,湾内からの出港が2隻の沈没艦により遮られている事を確信した.

 (ドヌズラフ)湖から(黒)海への出航は,ロシア連邦黒海艦隊に所属していた2隻の沈没艦により遮られている.
 それは,舷側が左側に横たわっている大型対潜艦「オチャコフ」と,上部と船室部分が水没している消防船VM-416である.
 従って,同湾から出られるのは,小型船のみであり,中央水路は完全に閉塞されている.

 ウクライナ国防省からの情報によると,ドヌズラフには,今現在も,
大型揚陸艦「コンスタンチン・オリシャンスキー」,
中型揚陸艦「キロボグラード」,
対潜コルベット「ヴィニツァ」,
海洋掃海艦「チェルカースィ」,
海洋掃海艦「チェルニゴフ」,
泊地掃海艦「ヘニチェスク」,
対水中工作艇「フェオドシヤ」
が閉塞されたままである.

ドヌズラフ湖はミールヌイ村の近郊に位置しており,エフパトリアから30kmである.
------------
 2014年3月5日,ロシア黒海艦隊の除籍艦「オチャコフ」(プロジェクト1134B大型対潜艦,1973年就役/2011年除籍)がクリミア半島のドヌズラフ湾口に沈められました.
[ロシア黒海艦隊の除籍艦オチャコフはクリミア半島のドヌズラフ湾口に沈められた]

 続いて,同じく黒海艦隊の除籍船VM-416(プロジェクト535海洋潜水船,1973年就役/2009年除籍)もドヌズラフ湾口へ沈められました.

 ドヌズラフ湾(ドヌズラフ湖)にはウクライナ海軍基地ノヴォオゼルノエが在りますが,除籍艦2隻がドヌズラフ湖の出口に沈められた為,揚陸艦2隻などが外海へ出る事が出来なくなってしまいました.

「六課」◆(

 その後,ドヌズラフに駐留していたウクライナ海軍艦艇はロシアに接収されました.
[ウクライナ海軍には10隻の艦艇が残った]

 そしてクリミア共和国もロシア連邦へ編入された為,新たにロシア領となったドヌズラフ湖の出口に沈められた除籍艦船も引き揚げられる事になりました.

「ロシア海軍情報管理局」◆(2014/04/08)


 【質問】
・ウクライナは,クリミアその他ロシア人多数地域をロシアに割譲
・代わりにロシアは,小型化したウクライナのEU加盟を承認
 これで十分じゃね?

 国家主義者は,領土割譲が非愛国的で許せんとか言うのかも知れんけど,異民族を多く抱え込むより,異民族はとっとと他所へやって,できるだけ自民族だけでこじんまり統治したほうが,面倒も少なく,なにかと楽,とは思わないのかな?

 【回答】
 それはロシアにとって全く望ましくない.
 クリミア半島以外ではロシア人は少数派だから,もしロシアに割譲されたら,今は親ロシアのウクライナ人だって,ロシア人に主導権を握られてしまう事は明白なので,民族紛争の火種を抱え込む事になる.
 それになにより,親ロシア派を切捨てた西部ウクライナが,EUやNATOに加盟してしまったら,ロシアの安全保障上大きな問題になるし,プーチンの責任だって問われかねない.
 ロシアとしたら,親ロシア派を多分に含む「ウクライナ」が存在してくれた方が,よほど有り難い.

 ウクライナにとっても,それは望ましいことではない.
 産業は東部に立地していて,税金も大部分は東部が支払っている.
 西部は東部から搾取しないと食っていけないから,独立は絶対認めない.
 元々メディアを支配して反ロシアを煽ってるのだって,東部の財閥だからな.
 ティモシェンコなんて,もともとはウクライナ語しゃべれなかったような奴だし.

軍事板,2014/03/02(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問 kérdés】
 マレーシア航空17便撃墜事件について教えてください.

 【回答 válasz】
 親ロシア派武装集団とウクライナ政府との間で武力衝突が起きているウクライナ東部で2014年7月17日,同地域を飛行中のアムステルダム発クアラルンプール行きのマレーシア航空のボーイング777が,親ロシア武装集団の地対空ミサイルによって撃墜される事件が発生しました.

マレーシア航空機,ウクライナのロシア国境付近で墜落/ミサイルで撃墜されたと米:共同通信

 まずは犠牲になられたマレーシア航空の乗員乗客のご冥福をお祈り申し上げます.

 親露派武装集団が使用したミサイルは9K37M1-2「ブークM1-2」(NATOコードネームはSA-17「グリスリー」)で射高が25km,射程も30kmで西側でいうPAC-2に相当するSAMです.
 弾道ミサイル防衛にはやや向いていませんが,巡航ミサイル防衛には向いており,1998年に運用を開始しました.
 なお,現在の運用国はロシア,中国,ベラルーシだけで,ウクライナでは導入されていない事から,ロシアから供与されたミサイルである可能性が高いと見ていいでしょう.

What is the Buk Missile System? Reports of a MH 777 Shot Down in Ukraine - The News Ledge

 既に米政府とウクライナ政府は,ロシアが親露派武装集団にブークを供与したと確認しており,親露派武装集団がウクライナ空軍の輸送機を誤認して撃墜した可能性があるとしています.

Was the downing of the Malaysian Air flight accidental? - The Washington Post

米政府,ロシアからウクライナへ9K37防空システムの搬入を確認 : 軍隊ちゃんねる

 さらに,これ等のミサイルの運用はプロの軍人でなければ難しい点から,ロシア軍がクリミアの時のように介入している可能性が出てきました.
 そして誤認したとはいえ民間旅客機を撃墜した以上,親露派武装集団とそれを支援しているロシアに対し,さらなる制裁が課せるべきという声が強くなっています.

 我が国やドイツでは対話は進めるべきだとし,フランスもミストラル級強襲揚陸艦のロシアへの売却を中止していません――その後,フランス政府が買い上げてロシアへの引き渡しは頓挫――が,アメリカからさらなるロシアへの圧力やロシアに対する脅威に対抗するために,再び北方の脅威に対抗する防衛政策を取らざるを得なくなるでしょう.
 そうなると南西と北方の二方面に集中しなければなりません.
 今の我が国の防衛体制でそれは可能でしょうか?
 我が国は難しい選択を迫られています.

ねらっずーり in mixi, 2014年07月20日
青文字:加筆改修部分


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