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◆総記
<欧州FAQ目次
(画像掲示板より引用)
「FSM」◆(2010年01月25日)書評 "ヨーロッパ史と戦争" マイケル・ハワード
JTのほーめぱーげ.(ユーゴスラビア)
News from Japan(東欧近現代史の専門家……のはずなんだが,内容は……)
「Strategy Page」◆(2013/04/10) ARMOR:
The Americans Are Gone
欧州からいなくなりつつある米軍
「VOR」◆(2012/02/03)ミュンヘン安全保障会議開幕
>主なテーマとして,欧州におけるミサイル防衛(MD)システム構築の展望が討議される見込み
「VOR」◆(2012/09/29)米専門家らMD欧州配備の断念を大統領に進言
「VOR」◆(2012/10/06)プーチン大統領「NATOを1日も早く純粋な政治組織に」
「VOR」◆(2013/03/16) 東欧で強い降雪 自動車を支援するため戦車が動員
「VOR」◆(2013/05/24) NATOとロシア モスクワでMD問題を協議
「朝目新聞」:●かつて存在した国々の,独創的な国旗デザイン10 (of ひろぶろ)
欧州大戦(北欧)
「カラパイア」◆(2015/09/20) ヨーロッパ最大の危機。日本ではあまり報道されないヨーロッパの難民問題に関する10の事実
「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/12/03)旧ユーゴスラビア国際法廷 セルビア人勢力と敵対した旧ユーゴ紛争の大物戦犯が次々と無罪
「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2013/03/28) 中東欧の経済・政治の混迷 政治権力とマフィアのつながり
「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2013/04/21) セルビアとコソボ EU加盟に向けて“歴史的合意”
「ストパン」■マルクス主義における「民族」――エンゲルスからユーゴスラヴィアまで
「ストパン」■(2010-01-13)バルカン諸国における「国王」の系譜
「ストパン」■(2008-10-24)[中・東欧][民族][言語]「スラヴ」の語源はどこに求められるのか
「ストパン」■(2008-10-26)[読書][中・東欧][歴史]「ヨーロッパ」はどのように拡大したか
「ストパン」■(2008-11-29)[読書][ナショナリズム]東欧はわれわれに重要な視座を提供する
「ストパン」■(2009-02-04)[読書][バルカン]ユーゴスラヴィア人たちの声
「ストパン」■(2009-02-15)[バルカン][言語]セルビア・クロアチア語とブルガリア語の姓と父称
「ストパン」■(2010/03/27)[民族][中・東欧]誰が「民族」に属するか?――少数民族の成員資格をめぐって
「ストパン」■(2013-03-07) [読書][歴史][バルカン][ロシア][中・東欧]平成24年に出た東欧史関連文献
「ストパン」■(2013-06-23) [読書][歴史][バルカン]ユーゴオタが非オタの彼女にユーゴスラヴィア解体について軽く勉強してもらうための10冊
「ストパン」■(2013-07-01) [バルカン]ユーゴスラヴィヤからエヴローパへ――クロアチアの欧州連合加盟と,セルビアの加盟交渉開始と
「地政学を英国で学んだ」◆(2013/03/21) 圧倒的な「他人」感覚
「地政学を英国で学んだ」◆(2013/03/18) ヨーロッパで高まる戦争の予感?その1
「地政学を英国で学んだ」◆(2013/03/19) ヨーロッパで高まる戦争の予感?その2
デジタル・クワルナフ(東欧・ロシア史)
「デジログ!」◆(2011/01/12)【1957-1980】東欧で公開されていた日本の特撮怪獣映画のポスターたち(画像13枚)
バルト~エーゲ海への道(東欧戦史,相互リンク)
『近代欧州政治史』
なんだかんだいって一番読み返す.
最後の
「ヨーロッパの天地は,かくのごとくにして又も砲煙に覆われるにいたった.
第一次世界大戦の際,連合国の政治家たちは,この大戦をもって'War to end War'なりと叫んだのであった.
(中略)
しかしながら,第一次世界大戦終ってより僅かに二一年にして,ヨーロッパの天地は,かくのごとくにして又も砲煙に覆われるにいたった」
ここが秀逸すぎる.
――――――軍事板,2010/04/12(月)
『ドイツ・フランス共通歴史教科書 現代史 1945年以後のヨーロッパと世界』(ペーター・ガイス他監修,明石書店,2008.12)
やたら面白い.
書いてある内容じたいは,ここの経験豊かな皆様なら当たり前のことかもしれない.
自分は知らん話ばっかりだったけど…
こんな先進的な試みをする独仏はエライ!
その点日本は遅れている,逆コースだ!
…というようなことはあまり考える必要はなくて,教科書そのものとして質が高いように思う.
読んでいて楽しい.
これを授業で使えるんだから,向こうのヲタ学生は幸せだ.
「本文」は各ページのなかで,1/3~1/2しかない.
次に図表があり,当時の政治家の声明・演説の引用が多く,さらに当時の風刺画やプロパガンダ・ポスターが大きく面積を占めている.
そして必ず「学習の手引き」がついてるんだが,これがやたら突っ込んでくる.
例えばP.121からとってみると
1.ECSCはどのような国際的状況の中で成立したのか?
2.フランス国民にECSC創設を納得させるためにロベール・シューマンが持ち出した論拠とは何か?
3.ECSCで最も重要な機関は何か? また,なぜそう考えたか答えよ
4.なぜECSCの組織が連邦制であると言えるのか
5.ECSCに関する二つの挿絵は,それぞれどのような視点で描かれているか?
6.二つの挿絵にこれほど相反する見解が提示されたことをどう説明すればいいか?
7.アデナウアーがECSC創設を大胆な行為と考えたのはなぜか?
8.アデナウアーはヨーロッパ建設の将来についてどう見ているか? その後の歴史的真実によって彼が正しかったことが証明されただろうか?
こんなのが見開きページごとに載ってる.
ただ,どう考えても分量が多すぎる.
戦後史だけで330ページ以上.
向こうのカリキュラムは知らないけれど,全ページ丁寧にやってたら,絶対に授業時間が足りないと思う.
教える側も全て知り尽くしているとも思えないし,気合い入れて作ったはいいが,大多数の生徒にとっては,カバンに入れても重たいだけの教科書なのかもしれない.
けど,けど…日本の教科書は,いろいろ参考にすべき点が多いんじゃないかなぁ.
あるいは日本の教科書編纂者も,
「こんだけページ数許されるなら,もっとすげえもん作ってやるよ!」
と言ってくれるかもしれない.
巻末の「学習方法」「主要人物」もオモシロイよ.
――――――軍事板,2009/05/23(土)
『東欧地域研究の現在』(柴宜弘著,山川出版社,2012/10)
『バルカンの歴史 バルカン近現代史の共通教材』(CDRSEE企画,明石書店,2013/5/1)
『名画で読み解くハプスブルク家12の物語』(中野京子著,光文社新書,2008.8)
『ヨーロッパ史における戦争 改訂版』(マイケル・ハワード著,中公文庫,2010.10)
中世から現代にいたるまでのヨーロッパの戦争を,社会・経済・技術の発展との相関関係においても概観した,名著の増補改訂版.
旧版はだいぶ前に読んだな.
わりとベーシックに書かれた本だった気がする.
表現は平易だし,技術発展と社会の変化,戦術の変遷といった重要な点もはずさない.
西洋軍事史入門にもってこいだと思う.
ただ,古い本だけに軍事革命論とかは詳しく触れてなかったはず.
増補改訂版ってことだから,そのあたりも盛り込んであるかもしれんね.
原著と比べると100ページくらい増えてるみたいだし.
――――――軍事板,2010/05/22(土)
実質上,大して中身は変わっていませんよ.
エピローグが加えられたくらいで,RMAについて触れられている箇所は少ないっす.
但し,巻末の参考文献表が随分更新されていますね.
――――――眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2010/05/22(土)
●ユーゴ内戦
「Guardian」◆(2010/03/01)Karadzic defends 'just and holy' Bosnian war
「Magyár Honvédség」◆Balkáni
misszióra készülnek
バルカン半島の平和維持任務に就いているハンガリー軍の写真集(国防省公式)
「Strategy Page」◆(2013/04/22) BALKANS:
One Damn Conspiracy After Another
「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2013/04/21) セルビアとコソボ EU加盟に向けて“歴史的合意”
「Strategy Page」◆(2013/05/21) BALKANS: Serbs And Albanians Sort Of Make Peace
「ストパン」■(2008-11-11)[バルカン][にゅーす]ムラディチの捜索は終わらない
「ストパン」■(2010/03/29)あまりにも偏向した悪書,ベヴェリー・アレン『ユーゴスラヴィア 民族浄化のためのレイプ』
「スパイ&テロ」◆(2010/09/13)写真館⑥サラエボ攻防戦
「スパイ&テロ」◆(2010/09/13)写真館⑦ボスニア戦線
「無題のドキュメント」◆(2010/06/10)戦争の体験談を語るわ その1
「無題のドキュメント」◆(2010/06/10)戦争の体験談を語るわ その2
「無題のドキュメント」◆(2010/06/10)戦争の体験談を語るわ 完結
ユーゴ内戦関連
『手術の前に死んでくれたら ボスニア戦争病院36ヵ月の記録』(シェリ・フィンク著,アスペクト,2004.12)
『戦争広告代理店』(高木徹著,講談社,2005/6)
92年のボスニア内戦で,軍事力ではセルビア人勢力に対して劣勢だったモスレム人側がアメリカ大手広告代理店を雇うところから物語は始まります.
そして,この広告代理店の敏腕社員の後ろ楯で,セルビア人勢力を国際社会の悪役に仕立てあげることに成功します.
これはコソボ紛争におけるNATO軍によるセルビア空爆へとつながります.
その手法(アメリカ議会,政治家,マスコミに働きかける)は見事なものです.
〔略〕
この本は日本人に欠けている情報,宣伝(プロパガンダ)戦の重要さを教えてくれます.
そういう意味で目から鱗の良書です.
戦争は何も通常戦力だけでするものではないということが,つい最近の戦争(92年)から学べます.
―――Siila in おきらく軍事研究会,平成19年(2007年)6月22日
【質問】
「ヨーロッパのアメリカ嫌悪」というものは実在するのか?
【回答】
4 Myths About America-Bashing in Europe
WaPo:ヨーロッパのアメリカ嫌悪(と信じられている)についての4つの神話
By William Drozdiak Sunday, May 13, 2007;
Page B03
という記事を信頼するならば,少なくとも以下の4つについては事実ではなく,「神話」だということになる.
[quote]
1)「フランス人はアメリカが嫌い」
サルコジは公然とアメリカを賞賛し,米仏関係の改善を訴えて大統領に当選したし,ドイツのメルケル首相もアメリカとの関係を重要視している.
それら指導者が選挙で支持されていることからも,これは嘘である.
英国のブレア首相も,後継のブラウン財務相も対米協調路線は明瞭である.
2) 「欧州人はアメリカ風の生活を下に見ている」
フランスのベスト&ブライテストの8万人の若者がアメリカに流失し,シリコンバレー等で暮らしている.
筆者が米国でインタビューした50人のドイツの学生(MITやハーバード)は皆アメリカで暮らすと述べ,ドイツに戻ると答えた人はいなかった.
こうした頭脳流失の重大性に欧州の指導者は気付きつつある.
3) 「古いヨーロッパよりも,中国やインドのほうが重要だ(欧州にもはや意味は無い)」
アメリカと欧州はあわせて60%の世界の通商と投資を握っており,昨年のアメリカのドイツへの投資は中国への投資の5倍,
アメリカ企業のベルギーへの投資はインドへの投資の4倍である(ベルギーは欧州小国に過ぎないにも関わらず)
4) 「欧州はアメリカ民主党が好きなのだ」
イラク戦争に関連してブッシュ大統領に批判のあったことは事実だが,共和党が嫌われているという根拠は無い.
ジミーカーターやクリントン政権初期の不干渉主義は,欧州で評価されていない(バルカン紛争やアフリカの紛争を放置することを良しとしない)
冷戦を終了させ,ドイツ統一をスムースに実現させたレーガンとパパ・ブッシュ政権の欧州政策は評価されている.
現在では英独仏の欧州の主要国の指導者がアメリカに好意的で,協調的外交姿勢を示しており,欧州がアメリカ嫌いと判断すべき根拠は無い.
[/quote]
こういう「●●●は◆◆◆が好き/嫌い」論には,その文章の著者自身の好き/嫌いが反映されることが少なくないように思えるので,そうした文章を見たときには注意したほうがいいかも.
最低限,その文章の著者の名前でぐぐるくらいはやったほうがいいと思うよ.
▼2)の「頭脳流出」について.
「社会実情データ図録 高学歴人材の国際流動」では,2000年頃と古いデータですがフランス,ドイツとも全体的にみれば,少なくとも頭脳流出ではなく頭脳流入状態であります.
>フランス:8.0%[非OECD流入:8.2%,OECD流入:4.2%,OECD流出:-4.4%]
>ドイツ:4.1%[非OECD流入:8.6%,OECD流入:2.8%,OECD流出:-7.3%]
また,ヨーロッパの中で流出が大きい国は,同じく引用先の著者より
>頭脳流出で目立っているのは,OECDの中でも経済発展度の低いスロバキア,ポーランド,メキシコなどである.
>アイルランドは高所得国ではあるが,頭脳の流出入ともにレベルが高くが,
>その中で流出の方が多い点で特別な地位を占めている.
> ニュージーランドも流入も多いが流出も多い点で目立っている.
また,我が国の場合は韓国と同様に,流出と流入が共に低いです.
これは,同じく引用先の著者より,
>逆に流出入ともに水準が低い点で目立っているのが日本,韓国である.
>流出については,もともと流動率が低いためであるか,
>いったん流出しても母国に戻る比率が高いためか
>(それだけの高学歴者のニーズがあるためか),見解が分かれる.
> 流入については,確かに他のOECD諸国と比較して
>高学歴外国人を受け入れて自国の発展に活用する仕組みが
>言語の問題を含めて整っていないためとも言える.
ついでに,日本と韓国の頭脳流出率を上げておきます.
>日本:-0.4[非OECD流入:0.5%,OECD流入:0.2%,OECD流出:-1.1%]
>韓国:-1.0[非OECD流入:0.2%,OECD流入:0.2%,OECD流出:-1.4%]
愚かなプレジデンテ in FAQ BBS,2011/1/26(水)
23:37
青文字:加筆改修部分
▲
【珍説】
辻元:
憲法はあくまで権力を縛るものなので,その時々の民意によって解釈が変わってはいけないと思います.
いったん歯止めをなくしてしまえば,武装解除から戦争までいってしまうということです.
例えば,ヨーロッパは集団的自衛権ではなく,集団的安全保障です.軍事費を削減し軍縮に向かっており,歯止めを作っています.
【事実】
『Jane's Defence Weekly』読め.以上!
***
2007/4/18付,「kojii.net別館」がJDWを根拠にして伝えるところによると,
・フランスは,それまで国防予算をケチりすぎたせいで,装備稼働率がガタ落ちしていたため,2005年現在,予算上積み中.
・英国も微増傾向.
・ドイツは横ばい.
・他国も程度の差はあれ増加傾向.
・2000年代に入ってから,はっきり減少していると明言できるのはスウェーデンのみ.
・辻元の言うヨーロッパって,どこの異次元世界のヨーロッパじゃい,ボケ!
とのこと.
同ブログの,その続きのエントリでは,ご丁寧にも,サルでも分かるようにグラフまで作ってくれているので,辻元および「ヨーロッパは軍縮中」教徒たちは,ちゃんと一読するように.
▼ 【追記】
ギリシャ財政危機を発端に始まった欧州財政危機は,ついに国防費にまで及びました.
ドイツでは現役将兵を10万人まで減らす他,徴兵廃止も検討されました.
イギリスでは国防費こそ減らさないものの,20の調達計画が見直され,新空母「クイーン・エリザベス」の調達にも影響が出そうな情勢になりました.
国防にも大なた 財政危機の欧州:MSN産経ニュース
既にオランダでは,F-35の一部がキャンセルするなど,ここ最近躍進していた欧州軍事産業には,まさに青天の霹靂となっています.
そうなると欧州軍事産業は,ますます輸出に活路を見出す事になります.
ユーロファイター・タイフーンの対日輸出への攻勢も強めるでしょうし,EH101マーリンやNH90などの欧州製大型・中型ヘリの次期UH-Xへの攻勢も強まるかも知れません.
一方アメリカにとっては,欧州各国の国防費削減は深刻な問題です.
既にオランダでは,F-35の一部納入がキャンセルされた他,これにトルコやノルウェーなどが続く可能性もあります.
場合によっては,SDDフォースからの脱退もあり得るでしょう.
そうなるとますます日本に,F-35計画への参加が求められる事にもなります.
ところでボーイングは,日本とカナダにF/A-18E/Fを売り込むために,F-35と同じグラスコックピットにするとの事ですが,問題はそういう事ではないとは思うのですが・・・.
Boeing to offer F-35-like cockpit display
for Super Hornet:Flightglobal
バルセロニスタの一人 in mixi,2010年06月09日13:33
▲
【質問】
「隣国を支援する国は滅びる」と言うことわざがありますが,何故,欧州の国々は普通にいつか自国に攻めてくるかも知れない隣国に,平気で国産兵器を輸出しているのですか?
また,これと同じ行為を別の地域でやったらどうなりますか?
【回答】
.隣国が攻めてくる可能性が低く,武器を輸出する経済的メリットが大きい.
・隣国よりももっと脅威となる国があるから,隣国と同盟して迎撃する態勢作ったほうが良い.
・多少の武装をしてても脅威ではないと考えている.
欧州みたいな国々は兵器輸出でお金を稼いでるから,そうしないと破綻してしまう.
経済活動に占める兵器取引の割合なんて微々たる物だが,それですら惜しいんだよ.
フランスは重工業の主な輸出品は兵器だった.
湾岸戦争でイラクの使ってたフランス製兵器がボコボコにされたせいで,一気に売れなくなり,国内の重工業系メーカーの経営が軒並悪化したほど.
「この国の平和が生み出したのは鳩時計だけだ」と揶揄されたスイスだが,スイスの外貨のかなりの額は兵器工業が稼いでる.
イタリアも然りドイツも然り.
とくに大量に植民地を抱えたイギリスは突如,日本のせいで失うことになった.
だから計算していた収入が一気に丸々ふっとんだ・・かなり切実なんだよ.
チャーチルなんて
「なんで日本を怒らせるようなことしたんだろう・・・」
って,戦後に泣いて後悔してるくらいだからな(笑)
他の地域で輸出してた例として,日本が中国にいろいろ.
だから日中戦争中に,日本製兵器同士で戦闘することも起きた.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼>チャーチルなんて
>「なんで日本を怒らせるようなことしたんだろう・・・」
>って,戦後に泣いて後悔してるくらいだからな(笑)
チャーチルは双極性障害(躁うつ病)だったそうで,そのせいかもしれませんね.
『躁病が酷くなると,誇大妄想が現れ,「私は誰よりも偉い」「電話1本で数百人の数を呼べる」「どんな偉業も成し遂げる」と思うようになります.』
http://www.geocities.jp/myaocchi/soutu.html
被害が気にならないような精神状態で,戦争に突入?
仮 in FAQ BBS,2009年9月15日(火) 0時30分
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
名前の「Mc……」って何の意味?
【回答】
マクドナルド (McDonard)
マクミラン (McMillan)
マッカーシー (McCarthy)
マコノヒー (McConnahie もしくは McConaughey)
なぜ,大文字が二つあるのだろうか.
▼ 答えは簡単,このMcとは,イギリスにおいて「息子」を表すものだからである.
答えは簡単,このMcとは,アイルランドのゲール語において「息子」を表すものだからである.▲
MC, MACがつくと,誰々の息子 という意味なので,たとえばマクドナルドとは,ドナルドの息子となるわけだ.
▼ 同じようにマクミランならミラン氏の息子,マッカーシーならカーシー氏の息子,となるので,大文字が二つ「Mc
+ 元の名字」が公式な表記となり,同時に,Mc○○という名はイギリス系だということが分かるのである.
同じようにマクミランならミラン氏の息子,マッカーシーならカーシー氏の息子,となるので,大文字が二つ「Mc
+ 元の名字」が公式な表記となり,同時に,Mc○○という名はイギリス系だということが分かるのである.▲
▼ 【参考ページ】
http://homepage3.nifty.com/danchans/mystery/Irish(1).htm▲
自衛隊板,2009/05/17(日)
&ほげほげほげ in FAQ BBS,2009年7月6日(月)
20時56分(訂正・追加部分)
青文字:加筆改修部分
▼ マクドナルドやマクダネル等は,スコットランドのクランの姓でもあります.
中にはアイルランド系でない,マック某というクランも存在するようです.
様々なマック某という姓について,アイルランドに同じ姓があるかどうかの確認は必要ですが(あるらしいですね),訂正する場合,アイルランド系と限らず,スコットランド系である可能性もあるかと思えます.
【主要参考文献】
『スコットランド王国史話』(森護著,中公文庫,2002.3)
アイルランドに関する文献は持っておりませんので,何方か確認をお願いいたします.
bugaisha in FAQ BBS,2009年7月10日(金) 9時3分
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
第二次世界大戦前,1930年代くらいのイギリスとフランスは,あまり仲がよく無いような気がするのですが,これは数百年前からの因縁から来るのでしょうか?
それとも1900年以降に,何か仲たがいの種があったのでしょうか??
【回答】
>仲がよく無いような気がするのですが
そんなことないと思ふけど.
>これは数百年前からの因縁から来るのでしょうか?
それはない.
>それとも1900年以降に何か仲たがいの種があったのでしょうか??
1930年代がどういう時代か検討してみましょう.
英仏は三国協商を結び,第一次大戦で戦勝国となり,国際連盟の常任理事国となった.
しかし亜米利加に対し,膨大な債務を負い,国庫は火の車でした.
そこに世界大恐慌が起き,当てにしていたドイツからの賠償金は,ドイツから一方的に支払い停止を宣言され,ベルサイユ体制が崩壊してしまう.
国際連盟の運営も不調で,国際関係は緊張して共産主義の脅威,ナチスの台頭とか,とにかく英仏両国にとって大変な時代ではあった.
それでぎくしゃくするようなこともあったかも知れません.
世界史板,2009/07/20(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
英仏間の戦争がワインに与えた影響は?
【回答】
現在のフランスでワインの大産地と言えば,ボルドーとブルゴーニュ,それにシャンパーニュになります.
この他,様々な産地がありますが,日本で有名なのは大体この辺りでしょうか.
まぁ,ボジョレーの方が最近は有名なのかも知れませんが.
先日も触れましたが,ボルドーはどちらかと言えば,マーケティングの勝利で市場を勝ち取ったワインです.
中世の頃は,ラ・ロシェルに代表されるアンジュー地域など北フランスのワインが,特に輸出市場では優位に立っていました.
しかし,ボルドーを含むアキテーヌ公領を所有していた公女アリエノールが,1152年にアンリと再婚したことで浮上するきっかけを掴みました.
このアンリは父方よりアンジュー伯領,メーヌ伯領,母方よりノルマンディー公領,ブルターニュ公領を相続し,更にアンジュー・プランタジネット朝を開いてイングランド王の地位にもありました.
彼こそがイングランド国王のヘンリー2世になります.
当時,イングランドとフランスはヘンリー2世が継いだ広大な大陸の領地を巡って幾度となく戦争を起していました.
その中の1つである1224年に戦端を開いた英仏戦争では,世襲王となったルイ8世率いるフランス王国軍がイングランド領土だったサントンジュやポワトゥを奪取しました.
この際,ラ・ロシェルはフランス軍に城門を開きましたが,ボルドーではイングランドに忠誠を誓い,フランスに抵抗しました.
こうした事もあって,ヘンリー3世は1235年になるとボルドーに自治権を与え,これを優遇しました.
この頃,イングランドではガロンヌとドルドーニュ河流域のワインの人気が高まり,イングランドにはクラレットと言う名称で輸出されていました.
現在では,ボルドーの赤ワインを意味するクラレットですが,この語源はフランス語のクレレで,これは色の薄い赤ワインであり,基本的には1年以内に飲むワインでした.
クラレットは,ジロンド沿岸のワインに限らず,ドルドーニュ,ロット,タルヌ河周辺などの内陸部のワインもボルドーに集荷され,ここからイングランドは元より,北欧諸国に輸出されていきました.
1337年に百年戦争が始まりましたが,この時にフランスに味方したカオール,ロデーズ,アルビなどの内陸部の地域は,ボルドーへのワインの搬入日を聖マルティネスの日であった11月11日から,12月25日以降に遅延させられました.
1年以内に出荷しなければならない当時のワインにとって,これによる経済的損失は大きく,以後,内陸のワインは大西洋方面への輸出ルートを絶たれてしまいました.
最終的に百年戦争は1453年に終結し,イングランドはフランスに於ける領土を失います.
かくして,ボルドーもフランスに属することになったのですが,ボルドーの輸出港としての特権は,一旦失われたものの,ボルドーが再びイングランドに寝返るのを恐れたフランス王シャルル7世によって復活させ,以後も繁栄を謳歌する様になりました.
勿論,イングランドも旧領地を見捨てたという負い目がありますから,無碍にはしません.
この様に,ボルドーから出荷されるワインは,ますます各国へと輸出される様になります.
それから暫く経った17世紀後半からは,英国人は色の濃いワインを好む様になりました.
ボルドーの人々は,こうした変化を素早く確認すると,ガロンヌ河左岸を排水することで得られた土地を改良して,カベルネやマルベックと言った品種を植え,葡萄の収穫量を制限して,遅摘を採用するなどしてワインの品質を高める努力を怠りませんでした.
更に色を濃くするために,エルミタージュなどローヌ地方のワインを混合したりもしました.
また,この頃から瓶詰めが行われるようになり,長熟タイプのワインが広まると共に,英国の貴族階級は,こうした濃い色のワインをニュークラレットと称して持て囃しました.
1709年には大寒波がフランスを襲い,あらゆる樹が枯れてしまいました,
それは火の気のある部屋でさえ,戸棚の中のローズマリー水や強い蒸留酒の瓶が割れた程のものだったと言います.
この寒波からの復興に当って,グラーブとメドック地区の土地改良が大々的に行われ,丘では排水工事が,沼沢地では土や砂利が投入されて干拓されていきました.
当然,こうした事業を行えるのは裕福な人々のみが可能なものでしたが,こうして出来た土地で生産されたのが,現在ではメドックの有名シャトーの起源になっていきます.
ボルドーワインは主に輸出向けのもので,国内向けには殆ど出荷されませんでした.
王宮で飲まれる様になったのは,ルイ15世時代まで下ることになり,市民が飲むのは未だ先の話です.
そのスタイルは英国人を中心とする人々の嗜好に合わせたものでした.
一方,それと双璧を為すのがブルゴーニュワインです.
これはローマがローヌ河とライン河を結ぶためにソーヌ河流域を利用する様になってから,その丘陵地帯がワイン生産に適しているという認識が為されたことに始まります.
中世には教会や修道院がワインの改良を進め,ブルゴーニュ公国時代には,公自身が優良ではないガメ種などの葡萄栽培を禁ずる法令を発布するなど,品質の良いワインを作る事に熱心でした.
この為,昔からブルゴーニュワインは優良ワインとして知られ,ボルドーワインと違って,早くからフランス国王御用達ワインとして納入されていました.
ブルゴーニュの特徴は畑の位置によって,ワインの風味が異なることが早くから知られていたことです.
この為,畑の区画毎に石垣などで囲いが為され,畑の区画によりワインの区分が為される様になりました.
17世紀にはブルゴーニュワインはボルドーワインとは対照的に薄い色が好まれたそうで,フロマントを加えて作られたそれは,「山鶉の目」と称された色をしていました.
18世紀に入ると一転濃い色が好まれるようになり,色の濃いワイン造りに邁進します.
その中心となったのはワイン商であり,農民達は比較的小さな畑の持ち主達なので収量の高いガメやアリゴテを植えたいと望みましたが,ティジョンとボーヌに本拠を置くワイン商達は断固としてそれらの品種を排除していき,ワインの質を維持していました.
19世紀半ばには赤ワインの品種はピノ・ノワールの単一栽培となり,現在のブルゴーニュワインの基礎が出来上がっていきました.
シャンパーニュは先の二者と比べると比較的新しく,17世紀末にパリ周辺の北方ワインが没落しつつあった代わりに,北限の地のランス,アイ,エペルネの丘陵地帯で作られたワインの質が評価される様になってきてからのことです.
1688年には有名なドン・ペリニョンがベネディクト会大修道院の酒蔵係に就任しましたが,彼は異なる区画の畑から獲れた葡萄の果汁をブレンドして発酵させることでワインの風味を改良しました.
17世紀後半からは瓶詰めが普通となり,3月中頃に瓶詰めを行うと残糖が決まって再発酵して発泡性のワインになることが知られ始めてきました.
実際に発泡を思いついたのは英国人と言われ,ワイン商が樽で輸入したワインを瓶詰めする際,少量の糖分を加えて発泡性にしてシャンパーニュを販売したとされます.
ルイ15世の治世,オルレアン公フィリップ2世の摂政時代までにはスパークリングワインとしてシャンパーニュが定着し,その後生産工程とスタイルが改良されて,19世紀初頭の1805年にはクリコ・ポンサルダン夫人のシャトーの従業員が瓶を逆様にして澱を取り除くリミュアージュという方法を見つけ出したり,様々な広告宣伝を打って販路を拡大して,英国だけでなくロシアやドイツにも売られていきます.
以後の発展は,前に見た通りです.
こうなると,ワインの格付けが喧しくなります.
ボルドーでは従来から貴族的なシャトーのワイン(クリュ・クラッセ)と,ブルジョワのワイン(クリュ・ブルジョワ),農民のワイン(クリュ・ペイザン)と言う3つの区分がありましたが,18世紀の中頃からワイン商の間で,名醸ワインを中心に1~3級までの格付けを行いました.
因みに,1787年にフランス大使として赴いた米国のトマス・ジェファーソンも格付けを行っていたりします.
19世紀中頃には価格に基づくワインの序列が確立してきて,1855年にパリ万国博が開催される頃には,ナポレオン3世がボルドー商工会議所に対し,ボルドーワインの格付けを行う様に要請し,商工会議所は仲買人組合に格付けを依頼し,当時の価格を基準にしてメドックとソーテルヌの名醸ワインの格付けを行いましたが,この格付けは現在では継承されていません.
これは,市場価格が基準で,かつ,地理的基準ではなく生産者区分である為でした.
ブルゴーニュの格付けは,石垣で囲われた畑であるクロの単位で行いました.
特に革命後は土地の細分化が発生し,1つの畑の区画に多くの生産者が居ると言う状態でした.
1855年に初めて格付けが行われますが,これはコート・ドール県のワインについて畑を基準に,「別格の畑」「1級畑」「2級畑」の3区分による格付けが為されました.
1862年に再び万国博が開催されることになり,ボーヌ農業委員会は,その格付けを参考に,ブルゴーニュの名醸ワインの格付けを行いました.
これは畑の区画と言う客観的なものであり,地理的な産地を基準とする法律に於いても考え方の一つとして継承されていっています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/01/13 23:50
【質問】
1956年の英仏統合提案について教えてください.
【回答】
太田述正コラム#1623(2007.1.17)によれば,フランスのモレ(Guy
Mollet)首相が1956年9月にロンドンを訪問した際,英国のイーデン(Anthony
Eden)首相に対して提案したもの.
両国とも,もともとはケルト人の国なのだから一緒になってもおかしくないし,統合した場合,フランスとしてはエリザベス女王が元首で異存はない,という論理.
イーデンはその場で断ったが,同月,イーデンがパリを訪問した際,今度はモレはフランスを英連邦(Commonwealth)に入れて欲しいと言い出し,さすがにイーデンも一旦は前向きの返事をした.
当時フランスは経済的困難,スエズ危機,及びアルジェリア戦争という三重苦に直面しており,特に,エジプトのナセル
Gamal Abdel Nasser 大統領によるスエズ運河の国有化とアルジェリアの民族解放戦線への支援をモレは憤っていた.
またモレは,当時イスラエルとヨルダンの間で緊張が高まっていることに憂慮の念を抱いた.
フランスは親イスラエルで英国は親ヨルダンであり,現地でフランス軍と英軍が衝突する懼れがあったから.
そこでモレは,先の大戦で緊密に連携した英国との関係の強化を図るとともに,英国の支援を得る必要があると考えた模様.
また,モレは根っからの親英派であり,両大戦における英国のフランス支援に感謝していたし,しかも社会主義者として,英国の進んだ福祉制度に敬意の念を抱いていたという.
なお,
「週刊オブイェクト」:【老旧】太田述正
を見ても分かるように,自己検証能力欠如という点で,太田述正個人の信頼性には問題があるようだが,上記ブログ記事は
http://www.guardian.co.uk/france/story/0,,1991309,00.html
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/6261885.stm
をソースとしており,一定の信頼度はあると愚考する.
まあ,単なるモレの暴走だったのだろうが.
【質問】
スペインやフランスのように,大西洋と地中海に面した国家の海軍の編成はどうなっているのでしょうか?
やはり地中海艦隊と大西洋艦隊に分けられているんですか?
【回答】
Franceは大西洋艦隊と地中海艦隊に分かれています.
大西洋艦隊の主な根拠地はBrestにあり,大型水上艦の多くはこちらに配備されています.
後,小艦隊ですが,英仏海峡小艦隊として,機雷戦艦艇をCherbourgに置いています.
戦略潜水艦隊の根拠地が,Lorient.地中海艦隊の主な根拠地はToulonにあり,機動部隊はこちらが根拠地です.
Spainは大西洋にカンタブリア海軍管区があり,エルフェロルが根拠地.Gibraltarには,海峡管区があり,SanFernandoが根拠地.
地中海には地中海管区があり,Cartagenaが根拠地.その他にCanaryIslandsに管区があります.
但し,管区はこの様に分かれていますが,艦隊司令部はRotaにあるだけです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/05/17(水)
Álmos ember ◆gQikaJHtf2 : "2 csatornás" katonai BBS, 2006/05/17
(szerda)
青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész
【質問】
ドイツとオーストリアが,ゲルマニア統一戦争を始めないのは何故ですか?
ドイツとオーストリアが統一され,ゲルマン人の統一国家ができるのはいつですか?
【回答】
第一にオーストリア憲法で禁止されているから.
第二に,WW2で統一してみたらお互いの立場に溝があってうまくやっていけないことがわかったから.
▼ ドイツは長い間,他国に経済を支配されてきた.▲
しかも現在進行中.
その諸端となったのがハスクブルグ家のドイツ支配.
国としてはドイツより遥かに弱小のオーストリアは,まず経済でドイツを借金で縛り,血縁政策で神聖ローマ帝国の皇帝を生み,王家を乗っ取った.
要するにその頃からドイツは,一種のオーストリアの属国だったのだよ.※
文化面でもドイツは,非常に原始的な音楽や絵画を好む蛮族と見なされていた.
歴史上,ドイツが多少なりとも発言力を持ったのはWW2直前の2年間と,EUの中核となった近年のみ.
ソレも前者はイギリス,後者はフランスの後押しがあったればこそのもの.
実質的な国際発言力はヨーロッパ最弱だろう.
今はやや落ちぶれたとはいえ経済・文化の中心であった誇り高きオーストリアが,そんな国と合併などする訳が無い.
更に言えば,ドイツは連邦制.つまり,初めからドイツという国はない.
ドイツと便宜上呼ばれている小国家群と地域を,日本の教育ではドイツと言っているだけ.
統一など初めから全くされていないし,するような動きを周辺国は決して許さないだろう.
戦争・国防板,2009/06/02(火)
青文字:加筆改修部分
※要出典
▼ これ根本的におかしいのでは?
ハプスブルグ家がドイツ王家を乗っ取ったって何の話ですか?
ハプスブルグ家が初めて神聖ローマ皇帝になったのは,有力諸侯による選挙の結果であって,乗っ取ったわけでもなんでもない.
そもそもハプスブルグ家初の皇帝ルドルフ1世の時代に,ハプスブルク家はオーストリアを支配していない.
さらに根本的なことを言えば,当時のオーストリアは神聖ローマ帝国の一部であって,神聖ローマ帝国を他国のオーストリアが支配したっていったい何の話ですか?
名無し in FAQ BBS,2009年11月18日(水) 23時6分
青文字:加筆改修部分
確かに幾つかの王位や諸侯の地位と領土を獲てますけどねえ,神聖ローマ帝国内の王位ってその中にあったっけ?と思いましたらボヘミア王てのが有りますねえ,
一応.他にもあるかなあ???
(ハンガリーは領域外だったと思いますし,他の王国もねえ,スペインやイタリアのとかだし.)
って,思ったらこれボヘミア(とハンガリー)も結婚で相続した物ではないですねえ,
却下.
ドイツ王となるとこれは神聖ローマ皇帝になる課程で就く物(後期は同時?)ですから,選帝候の選挙で選ばれる時代以降ですしねえ.
経済的に云々はわかりません.
初代ハプスブルグ皇帝は有力候補でなく当て馬というか,とりあえず力の余り強くない人物として選ばれたんではなかったでしょうかねえ?
それに時々,皇位を他の家に持って行かれていた気も.
以上,主に,ハプスブルグ関係の新書レベルを一読した記憶を,ネットでごく一部のみ確認したものです.
bugaisha in FAQ BBS,2009年11月20日(金) 15時14分
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
ドイツ・ポーランド間の国境線が第2次大戦後,現在の形に確定するまでの経緯を教えられたし.
【回答】
ポーランドの国土は,第二次世界大戦後,その東部の大部分をソヴィエトに譲り,西部のドイツからその代替地を得ています.
中世期の国土の移動の場合,それは上がすげ変わるだけで,下の生活は全く変わりません.
とは言え,税率とかその辺りは変わってしまうのですが,根本的な生活の変化はありません.
しかし,近代の場合,「国境線」と言う概念が具体性を帯び,更に「民族主義」と言うものが持ち込まれた結果,国境線が変わるとその地域に住んでいた人々は追い立てを食らう事になります.
東方ドイツ人問題と言うのがその最も大きなもので,シレジア地方から追放されたドイツ人は322.9万人,ポメラニアから西プロイセンにかけて140万人,東プロイセンから200万人が着の身着のままで追い立てを食らいました.
総数で800万人が追い立てを食らい,その内200万人が命を落としたと言われています.
チェコとスロヴァキアからも300万人が追い立てられ,総数で1,000万人が移動しました.
そして,その跡地には,ポーランドの旧西部地区から来た350万人やウクライナ地方からやってきたポーランド人103万人が入り,ズテーテン地方へはチェコやスロヴァキア各地やカルパートウクライナから引揚げてきた190万人のチェコ並びにスロヴァキア人が入り,ソ連への割譲地へは200万人のロシア人などが入るという民族大移動が為される訳です.
ドイツは東西に分断されましたが,東方ドイツ人のうち大多数は西ドイツ地域に住みます.
つまり,当然の如く,彼らは現在の国境を認めるなと言う勢力になっていった訳で,これが西ドイツの政治に極めて強い影響を与える事になりました.
統一については,西ドイツから見れば東ドイツとの統一が至上命題になりますが,それが原因で欧州に緊張が生まれ,それが破綻して戦争となると真っ先に戦場になるのがドイツであるというジレンマを抱える事になりました.
こうして,両陣営のバランスを見つつ,綱渡りの外交をするのが戦後ドイツの外交になっていく訳です.
1949年,米英仏3カ国の占領地がドイツ連邦共和国となります.
その最初の政権を担ったのがアデナウアーです.
アデナウアーは,キリスト教民主同盟とキリスト教社会同盟の2政党連合の指導者で,これらは資本主義,市場経済を前提とした保守政党でした.
この2党に加えて自由民主党を加えた3党連立政権がアデナウアー政権になります.
このアデナウアー政権の目標は,ドイツ再統一でした.
とは言え,それは最終目標であり,短期的な目標は西側世界で西ドイツの地位を確固たるものにする事でした.
先ず西ドイツが安定し,繁栄する強い国になれば,東ドイツの人々も自分達の側に惹き付けられるだろう.
そうなれば,いずれ我々は一緒になれると言う考えです.
こうしてアデナウアーが採った政策の第1がNATOへの加盟であり,第2が欧州連合への加盟でした.
前者は,ドイツが再軍備するに当って,その作業をNATOの枠組みで行う,即ち,ドイツが勝手に自分で軍事力を強化して欧州で覇を唱える事はしないと言う意思表明であり,後者はドイツ経済が単独で強くなるのではなく,あくまでも欧州と言った広い範囲で経済に関わる共同の決定を基盤に一緒に進むと言うものです.
これら両政策は,見事に効果を発揮し,西ドイツに於ける奇蹟の経済復興が為されます.
しかし,東方政策では余りに西側一辺倒の政策だったが故に,殆ど成果を上げることなく,ベルリンの壁構築の様に,寧ろ悪化する様な兆しすら見せています.
そのドイツの東部国境線は,ポツダム会議では結論が得られず,講和を待つ事になりました.
しかし,国境確定前に講和前の暫定管理線について,ソ連が強い要求を出し,ポーランドとドイツの国境線をオーデル・ナイセ線にすると決定しました.
但し,これはあくまでも暫定措置で,最終的な国境画定ではないとされた訳です.
1949年にドイツ連邦共和国が成立した際,国家として初めて西ドイツが正式に意思表示をしますが,これはソ連とポーランドによる一方的なドイツ領土の併合であり,到底同意出来ない.
従って,その領土がドイツのものであるという要求を取り下げないと言う主張を行いました.
「東部地域の所謂政府」(ドイツ民主共和国の西ドイツの呼び名)は,東部地域の住民の意思を代表しておらず,つまり,共産党は民主的で自由な選挙を行った上で政権を造った訳ではないからドイツ住民の意思を代表していないと言う論理で,こうした政府がポーランドとの国境線を合意してもそれは我々には関係ないと言う立場を取ります.
因みに,1950年に東ドイツはポーランドとの間でゲルリッツ協定という条約を締結し,オーデル・ナイセ線を両国の国境線とすると正式に決定しましたので,それを牽制した事になります.
ややこしい話になりますが,西ドイツにとって実質上オーデル・ナイセ線は自国の国境線では無い訳です.
事実上は東ドイツとポーランドの国境なので,両国政府が国境を画定するのは自然の流れであり,そこには親であるソ連の意向が重視されています.
ただ,この東ドイツ政府は西ドイツ政府から見れば非合法政権なので,その条約は無効となる訳です.
1955年に西側諸国との間でパリ条約が発効し,西ドイツは正式に主権を回復します.
ところが,ここで西ドイツがソ連と国交を結ぶと言う問題が浮上しました.
そこで,当時外務次官だったハルシュタインがこれに向けた3原則を打ち出します.
第1の原則は,ドイツ連邦共和国のみがドイツ国民を代表し,そのドイツ国民とは西と東に住んでいる人全てを指すとしました.
第2の原則では,第1の原則から,ドイツ連邦共和国は,「東部地域の所謂政府」を承認する国家とは国交を持たないとしました.
つまり,第2の原則から行くと,東側の国々は東ドイツを承認しているので,ソ連も含めてその国々とは国交を持たないと言う訳です.
ところが,それではソ連との国交が結べませんから,第3の原則では,ソ連だけは例外とするとされました.
これは,連合国4カ国である米英仏ソがドイツに対して権利を持っており,特にベルリンの様に依然として4カ国の占領下に置かれている訳で,ソ連と国交を持たないのは都合が悪すぎ,ドイツにとって特別な権利を持つ国としてソ連を遇する事で,第2の原則の例外を作った訳です.
しかし,この第3の原則が西ドイツの足枷となります.
デタントによる緊張緩和で,東西交流が進む訳ですが,ハルシュタイン原則を守り抜くと東側諸国との貿易が出来ず,他の国々が行っている貿易に乗り切れない,引いては東西ドイツが何時までも対立を続けていると,世界や欧州の緊張緩和に逆行すると言う事態になった訳です.
それを批判したのが社会民主党で,彼らは保守政権の立場を批判し,東側との関係改善を主張して登場します.
敗戦後からアデナウアー政権下の初期にかけて,社会民主党は中立国家を志向し,緊張緩和を目指して,ドイツ統一を実現しようと言うもので,NATOの加盟や欧州連合の加盟にも一貫して反対,或いは消極的な姿勢を貫いてきました.
丁度,日本の自由民主党と社会党の関係だったと考えれば良いでしょう.
ただ,社会民主党が日本社会党と違ったのは,1950年代末から1960年代初頭にかけて,その現状を追認した事です.
こうして,社会民主党は政権に大きく近付き,1966~1969年のキージンガー政権では,キリスト教民主勢力と社会民主党は大連立を組み,社会民主党党首であったブラントが外務大臣となり,東方政策に取り組む事になります.
但し,当時は未だキリスト教民主勢力が政権中枢にいた事から余り成果は上がりませんでした.
日本の社会党も,もう少し理想主義から現実路線に転換するのが早ければ,もしかしたら同じ時期に政権を取る事が出来たかも知れません.
それによって,少しは現在の政治が変わっていたかも知れませんね.
「たられば」は歴史には禁物ですが,今の人材不足の現状を見るに付け,そうした感じを受けたりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/04/19 21:00
路線転換で社会民主党は政権に大きく近付き,1966~1969年のキージンガー政権では,キリスト教民主勢力と社会民主党は大連立を組み,社会民主党党首であったブラントが外務大臣となり,東方政策に取り組む事になります.
但し,当時は未だキリスト教民主勢力が政権中枢にいた事から余り成果は上がりませんでした.
しかし,1969年には社会民主党が政権を握って,自由民主党との連立政権ですが,保守勢力に掣肘を受けることなく,自由に外交政策が行える様になります.
ブラントの立場は,先ず,ドイツ統一が課題であることを認識しつつ,その為の道筋は緊張緩和を通じて東西の交流を深める過程で,互いに統一の道を長期的に展望していこうと考えていた事です.
当然,経済的利益についての目配りも怠りなく,全体として欧州の緊張緩和が進み,東西貿易が伸びていく中で,ドイツがそれに乗り遅れるのは国にとっても良くないと言う現実主義的な思考も働いていました.
更にその現実主義的な考えは国境線にも及び,既に決められたものは仕方ない,追認せざるを得ないと言う考えも持っていました.
そうして,東方外交を始めたブラントは,先ず何よりもソ連との交渉を優先させます.
1970年には早くもソ連との間で独ソ武力不行使条約を締結しました.
条約の第1条は武力を互いに使わない,第2条で問題を解決するのに武力を使わないと言うものでしたが,注目すべきは,第3条に於いて,両国は現在及び未来に於いて,欧州の全ての国家の国境を不可侵と見なし,それにはポーランド人民共和国の西部国境及びドイツ連邦共和国とドイツ民主共和国との間の国境も含むとしている事です.
つまり,従来の主張を棄て,ブラントは既に誕生した国境は不可侵であると宣言しました.
「不可侵」と言う言葉は極めて微妙なもので,最終決定ではありません.
但し,この国境線を武力や相手の意思を無視して侵す事はしないとしています.
当然,国内からは強い反発が起き,特に野党となったキリスト教民主政党は「固有の領土を棄てる行為である」と言う意味の批判をブラント政権に投げかけました.
それに対し,当時のシェール外相はソ連のグロムイコ外相宛の書簡を公表しました.
それによれば,この条約はドイツ国民が自由な自決により,その統一を回復する目的と相容れないものではない.
従って,現在の国境を認めるものの,東西の分断を互いの意思で解消する場合には,これを妨げる事は意味していないと説明されています.
そして,1970年末,西ドイツはポーランドと国交正常化条約を締結します.
これは第1条,第2条冒頭に,「ドイツ連邦共和国とポーランド人民共和国は一致して現存する国境線がポーランド人民共和国の西部国境をなす事を確認する」と言うものが書かれています.
当時,西ドイツとポーランドとの間には事実上の国境線はありません.
一方で,西ドイツとしては,「ドイツ民主共和国とポーランド人民共和国との国境線」とは書きづらい訳でこうした表現に落着いた訳です.
勿論,国境の最終的な確定は講和が結ばれた時という文言は未だ此処に残っています.
これを機会に様々な動きが雪崩の様に起きます.
1つは,NATOとWTO加盟国,それに中立国も含めての欧州全ての国と米国とカナダが一堂に会した欧州安全保障協力会議が開催されました.
1975年には欧州安全保障協力会議のヘルシンキ宣言が出されて,国境の不可侵が宣言されました.
これには参加国は互いの国境を欧州全ての国境と同様に不可侵であると見なし,現在に於いても将来に於いてもこれらの国境を侵す事はしない.
参加国は如何なる参加国の領土の一部,若しくはその全ての獲得及び横領を認めない.
即ち,欧州全体で現在の国境を動かさないと言う合意です.
但し,参加国が国際法に従って平和な手段と合意によって国境を変更出来ると言う一文も盛り込まれています.
これはドイツの要求で盛り込まれた条文です.
国境を動かさないと厳密に採られると,ドイツの統一も出来ないので,此処に当事者間に合意が有れば出来ますよと言う一文を入れて貰った訳です.
当時,この「現状維持」が右派を中心に東に妥協しすぎるとの批判をする事になります.
しかし,長期的視点に立てば,これが東側諸国の体制崩壊に繋がっていくプロセスであると言う考えもあります.
このヘルシンキ宣言は,ポーランドとチェコスロヴァキアに安堵をもたらしました.
既述の様に,両国は第二次大戦後多数のドイツ人を追い出しました.
これにより,両国は西ドイツにしろ東ドイツにしろ,漠然と不安を抱く様になります.
つまり,どちらかが強くなれば,その強大な国力を背景に,復讐を行うのではないかと言うものです.
これは両国の体制派,反体制派の双方が持っている意識であり,国民の中ではある種のコンセンサスを得ていました.
しかし,ブラント政権がその東方外交とヘルシンキ宣言で,国境を侵す事はないと約束した結果,ドイツへの恐怖が少しずつ薄らいでいきます.
今の国境は,米ソとも認めたものであるのですが,この国際的な合意は大きかった訳です.
両国で共産党体制が維持された理由の1つが,ドイツからの侵攻があった場合両国はソ連を頼らざるを得ないと言う現実主義的な考えでした.
それが,ドイツ自身によって否定された事が,民主化へのアクセルが踏まれ,1980年代の連帯運動に繋がっていったと言う見方もあります.
こうした東方外交は,既存の領土をドイツが放棄すると言う事を宣言したものなので,国内的に非常に論争を巻き起こしました.
当然,条約は国会で批准されないと成立しません.
この時,連邦議会で連立を組んでいた自由民主党から,社会民主党の政策に付いていけないとして,出て行った議員たちがいました.
この為,議会の過半数を割る事態となり,下手をすれば条約批准が否決される可能性もありました.
当時,ソ連とポーランドが今の国境線を認めるのであれば,画定は後でも良いと言った背景には,この様な事情があったのです.
保守勢力は先ず,ブラントに対する不信任決議を出しました.
政権与党が過半数を1~2議席割っている状態ですから,場合によってはブラント政権の辞職も考えられたのですが,不思議な事に過半数を割るどころか,2票過半数を上回って不信任は否決されました.
この決議に対しては激しい過半数工作が行われた様で,現金も動いたのではないかと言われています.
この不信任決議否決により,ブラント政権は息を吹き返しました.
保守政党の勢力にも東方外交を支持する勢力が一定数おり,批准投票で党議拘束を掛けると,保守政党側が分裂する可能性もありました.
結果として,保守勢力は大部分が棄権に回り,与党の多数決で条約が批准され,事なきを得ました.
その後,ブラントは,1974年に秘書官が東ドイツのスパイであった事が発覚して政権の座を退き,後任には同じく社会民主党のシュミットが後を引き継ぎ,引き続き東方外交と緊張緩和を進め,1982年にコール政権が誕生するまでその座を保ちます.
そして,コール政権がドイツ統一を成し遂げる訳です.
コール政権が結局はドイツ統一と言う果実を拾った事になりましたが,それには先ず,アデナウアーがドイツを西側陣営の中に組み込み,その基礎を用いてブラントが東側との外交政策を行うと言う基盤があって初めて,ドイツ統一が成し遂げられた訳です.
NATOに加盟すると言う事は,単独でドイツが欧州で軍事行動を行わないと言う保証であり,NATOには東側を抑えると言う側面と,ドイツを抑えると言う二重の抑止があったと言うのが現在の通説です.
因みに,ブラントが東方外交を始めたばかりの頃,キッシンジャーに呼びつけられて,「一緒に東側の外交をやりましょう」と言われたそうです.
これ,外交的には非常にきつい表現で,要するに,「勝手な事をするな」と言う意味です.
ブラントはこれを受けて,米国に対しては逐一,何をするかを連絡していたと言います.
現在の日本の政権も,こうした状況に置かれていたりするのですが,まともな外交官の一人もいないからなのか,対応がまともには見えません.
戦後に,「一緒に外交をやりましょう」と言われて,唯々諾々と従ってきた事が,外交官を育てきれなかったのかな,と思う訳ですが,さて.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/04/18 14:41
【質問】
ポルトガルとスペインが分離して,別々の国として歩んできた,そのそもそもの理由を教えてほしいのですが.
天本英世ふぁん in 世界史板
青文字:加筆改修部分
【回答】
レコンキスタはイベリア半島各地の王が単独にあるいは協調して始め,それが拡張と共に統合されていき,エスパ~ニャとポルトガルに落ち着いた.
もし,このとき更に統合する勢いがあったならば,違う歴史になったのだろうが,そうはならなかった.
これで2国のまま安定した状況が続いて,各王国内の民族アイデンティティが別々に醸成され,のちに単一の王権になったときも結局は融合せず,また分離して今に至った.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
旧植民地地域と本国との間の,スペイン語・ポルトガル語の変化について教えられたし.
【回答】
さて,15世紀,ジョアン1世の第3子エンリケ航海王子は大航海を奨励し,援助し,出資しました.
この結果,バルトロメウ・ディアスは喜望峰に至り,ペドロ・アルヴァレス・カブラルは大西洋を越えてブラジルへ,ヴァスコ・ダ・ガマはインドへの道を拓き,カスティーヤの方では,クリストファロ・コロンボがバハマ諸島,キューバ,ハイチに到着し,アメリカ大陸への道を拓きます.
そして,途中で自身は死んでしまいますが,フェルナン・デ・マガリャインスの艦隊のうちたった1艘だけですが,世界一周に成功します.
因みに,日本ではマゼランと言う名で呼ばれていますが,彼はポルトガル人で,本当の名前をMagalhaesと書き,マガリャインスと発音します.
スペイン人は,彼の事を,Magallanesと書き,マガリャネスと発音しますし,イタリア人はMagellanoと書き,マジェッラーノと発音します.
そして,フランス人と英国人,ドイツ人はMagellanと書き,マゼランと言う語形になっていたりします.
欧州の文献で,マゼランを探す際には注意が必要です.
余談は扨措き,こうして,1485年頃にアソーレス諸島,カナリア諸島,セウタに,1487年には喜望峰まで欧州人は足を伸ばし,1492年に米国大陸に到達します.
その中で,ポルトガル人はアフリカ大陸の周囲をぐるりと回り,1515年にはアフリカ東岸を経てホルムズ海峡に至り,インドのゴアを征服して足場を築いていきました.
1492年にアメリカ大陸に地歩を築く事になったカスティーヤに対し,海外進出で一歩カスティーヤをリードしていたポルトガルは,その進出に警戒を抱いていました.
この為,ポルトガルは教皇アレクサンドル6世を抱き込み,両国との間での勢力分割の調停を求めます.
地上の富を施す者として,神の委任を受けたアレクサンドル6世は,1493年,カスティーヤとポルトガルの間で世界を分割する勅令を発布します.
それは,極地から極地に向かい,アソーレス諸島から100里を通る境界線の東で発見される領土はポルトガルの領土に,その境界線の西で発見される領土はカスティーヤに属すというものです.
最初は大西洋の真っ只中に引かれていた,ポルトガルとカスティーヤの勢力地帯の国境線は,その後,教皇勅書の実施の方法を巡って再交渉を望み,1494年に修正合意により,トルデシリャス条約の締結を見ます.
それによって,従来は西経35度の海の中だった国境線が,西経50度と西にずれました.
その後,1500年にカブラルがブラジルを発見し,ポルトガルとカスティーヤの国境線を陸地の内部,西へ押しやるのに成功しました.
但し,ポルトガルはブラジルを得た代わりに,フィリピンを初めとする極東部分の支配を放棄した訳ですが.
スペインは,1519年以降本格的にアメリカ大陸に触手を伸ばし,17世紀末に掛けて植民地化を達成します.
先述しましたが,スペインがアメリカ大陸に船を出す拠点は,アンダルシア地方でした.
この為,アメリカ大陸のスペイン語には,アンダルシアの影響が色濃く残っており,特にラテンアメリカではセビリアの町の発音が主流となっていると言われます.
カスティーヤ語と言うかアンダルシア方言は,土着の言語と混合して独特の言葉を作っていきます.
現在では消滅していますが,アンティル諸島,フロリダ,ベネズエラ,コロンビアの海岸の言語であるアラワク語やカリブ語は,スペイン語が接触した最初の言語で,スペイン語は自分の語彙の中に無い言葉をこうした言葉から取入れていきました.
例えば,「カヌー」を表すcanoa,「煙草」を表すtabaco,「玉蜀黍」を表すmais,「人食いの」と言う形容詞がcanibalなどがスペイン語に取入れられたアラワク語やカリブ語からの借用語です.
アステカ族が,現在の北米大陸南部からニカラグア近辺まで住んでいた頃に,彼らによって話されていたナワトル語からも,借用語があります.
例えば,「トマト」のtomate,「チョコレート」のchocolate,「カカオ」のcacaoなんかは代表的なものです.
なお,ナワトル語は現在でも100万人以上の人々により,メキシコを中心に話されています.
インカ帝国の言語で,現在でも南米で400万人が用い,1968年にはボリビアの公用語となっているケチュア語からの借用語は,「コンドル」のcondor,「馬鈴薯」のpapa,「鳥糞石」のguanoなどがあります.
現在,大西洋を挟んで大陸の両側のスペイン語は微妙に異なっています.
例えば,「馬鈴薯」を表すpapaは,メキシコでは一般的ですが,スペインではpatataとなっていますし,「上着」もメキシコがsacoであるのに対し,スペインではchaquetaです.
また,メキシコのスペイン語には,「ほんの少し」を表す言葉がtanitoであり,「直ぐそちらに行きます」という意味の言葉はahorita
mismito voyと言う風に,-itoがよく使われるようです.
一方,ポルトガル語はアフリカを南下して広がって行きました.
こうして,カーボ・ヴェルデの島々,サントメ・プリンシペ,ギニア湾でそれぞれ生まれたクレオール語です.
クレオール語は一般的に,その基本的な文法構造はアフリカとアジア起源で,語彙的には欧州,そして特にポルトガル起源となっています.
なお,面白い事に,ポルトガル語と中国語の接触で生まれた澳門のクレオール語は,アフリカのポルトガル・クレオール語と非常に類似しています.
アフリカでもアジアでも,クレオール語は共通の単純化された言語,即ちポルトガル語から派生し,16~18世紀にかけてポルトガル,アフリカ,東洋の間で定期的に商取引を行っていた船で運ばれた,一種のピジン語に由来していると考えられています.
先述の様に,ブラジルを領有するに至ったポルトガルですが,この地の先住民達の主要言語はトゥピ語でした.
アフリカでは原住民の言語を許容したのに対し,ブラジルはポルトガル語を入植者だけで無く,先住民に徹底的に教育していきます.
その媒介となったのは,イエズス会による学校であり,この様にポルトガル語を教える為の直接的な努力が為され,クレオール語の進展はブラジルに於ては阻止されました.
このポルトガル語の定着は,後にナポレオンがポルトガルを侵略した事により,王家が全宮廷を引連れてブラジルに居住した事により強化されます.
なお,ブラジルに於ては口語日常用語として3つの言語がありました.
1つは占領時代のポルトガル語であり,インディオのトゥピ語,そして,1515~1888年に運び込まれた黒人奴隷達のアフリカ諸語です.
この様な言葉がミックスしていった事から,同じポルトガル語を使っていても,ブラジルとポルトガル本国のポルトガル語は,ある一定の相違点があります.
例えば,「太陽」を表すsolは「ソル」ではなく,「ソウ」とlをwの様に発音する事とか,「歯」を表すdenteの発音が,「デンチ」となる様に,iやeの前のtとdの発音がtchとかdjと発音される様になる事とか,アクセントの無い母音なのに,知覚できるに発音する,例えば,disseの最後の母音とか,pessoaの最初の母音がそれに当たります.
また,「6」はポルトガル人は,seisと言いますが,ブラジル人はseisの他,「半ダース」の省略形meiaを使ったりもします.
また,カスティーヤ語と同じくポルトガル語にも大航海時代に外来語と言うべきものが数多く流入しています.
これは当時,そんなに多くない人口の総ての階層が,海外冒険に参加した為で,それぞれの家庭には何処かの植民地に親戚がいて,リスボンはさながらエキゾティックな市場となり,毎日香辛料,象牙,真珠,銘木,薬草,動物などが上陸していました.
また,文法書や教科書には海外世界の事物が取り上げられており,数学の教科書では,砂糖,胡椒或いは紅茶売買に関する問題も出していました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/09 23:39
【質問】
この十年で活発になるぐらい民族運動が激しかったユーゴスラビアで,なんで連邦を組織することができたんですか?
【回答】
元々セルビア系が主導権を握っていた(旧)ユーゴスラビア王国は,ナチスの侵攻で崩壊し,ナチスは抑圧されていたクロアチア人を主体とした傀儡国家を作ってクロアチアを独立させ,ユーゴ全体をクロアチアの民族主義団体と共同で統治した.
その統治は「クロアチア人以外を虐殺した」以外のなにものでもなく,自然とパルチザンが組織されて全ユーゴで戦闘が開始された.
結果,ユーゴスラビアのパルチザンはソビエトの「解放」を待たず,独力でユーゴからナチスドイツを追い出し,クロアチアの傀儡政権を崩壊させた.
その時のパルチザン組織の指導者であるチトーという人が戦後,「ユーゴスラビア連邦」の大統領になり,
「ユーゴは対立を繰り返した多民族国家だが,こうして民族の壁を越えてナチから国を取り戻す事が出来た.
みんなで手を合わせれば仲良くできる,ということを忘れないようにしよう.
明日からはクロアチア人もセルビア人も何もない.みんな”ユーゴスラビア国民”だ」
と,他民族をまとめる精神的支柱を作った.
他民族を虐殺しまくったクロアチア人は,
「ナチに支配されていたんだからしょうがない」
「ナチを手を結んだごく一部だけが悪かったんだ」
ということで許されたが,戦後もクロアチア民族主義だけは「よくないこと」とされていて,クロアチア人にだけは「自分達だけ抑圧されてる」という不満を抱かせ,それがずっと後で今に繋がる事になる.
更に,クロアチア人以外はみんな
「どう言われても,あの時された事は忘れられない」
と思い続けることになり,ユーゴ紛争での民族虐殺合戦の種火になる.
【質問】
チトーのユーゴスラビア共産党が,独自路線を選択して,ソビエトと対立してコミンフォルムを除名されたのはなぜですか?
【回答】
ティトーは,中央統制的計画経済を実施するソ連の社会主義とは異なり,労働者中心の自主管理制度を目指した訳だが,それはスターリンのユーゴに対する厳しい干渉と,ソヴィエト型官僚主義の非効率性を克服するためだった.
特に,ユーゴはパルチザン闘争において,小作農たちが大活躍して,彼らは解放後に土地を得たわけだが,ソ連の指令通りに小作農の土地を取り上げ,土地を集団化すると混乱が起こり,国そのものが崩壊する恐れがあった.
だからユーゴはそれに逆らった.
ユーゴがソ連を怒らせて除名された理由は幾つかあるけど(バルカン連邦の構想など),この農民の土地集約問題が一番スターリンを激怒させたみたい.
こういった政策をスターリンは,自らの陣営の結成を乱すものと判断して,「民族的偏向」の名の下にコミンフォルムから除名したっていう流れ.
あと,ユーゴはソ連の力を借りずに,国を自主解放したということもでかかった.
スターリン主義って,結局はソビエト・ロシアを盟主とする帝国主義だしなあ.
世界史板,2010/05/15(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
どうして旧ユーゴは,ハンガリーやチェコのように,ソ連軍の侵攻を受けなかったのですか?
【回答】
ハンガリーもチェコスロバキアも,ソ連と直に国境を接していた.
特にハンガリーは平原が多いので,攻め込まれやすい.
一方ユーゴは,ソ連から攻め込むには中東欧の衛星国を通らざるを得ず,山岳が多いのでゲリラ的防衛戦には向いていた.
また,断交直後からチトーは,ソ連軍の侵攻を予期して軍事力を強化し,チェコ事件後は「全民衆防衛」という国民皆兵的な防衛ドクトリンをも整備した.
おかげで国民の多くに武器がいきわたり,内戦勃発後の泥沼状態にも一役買ってしまったが.
あと,ユーゴからアドリア海を渡れば即イタリアなので,ソ連軍がユーゴに侵攻したら,西側も動揺して軍隊を送ったかもしれん.
ティトー自身は,スターリンが送った暗殺者に何回も狙われてたけどね.
本当かどうかは知らんが,ティトーもスターリンを,「殺すぞ」などと脅したとか.
ちなみに一番暗殺計画が多く立てられた人物は,ド=ゴールと言われてる.
世界史板,2010/05/15(土)~05/16(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
今の旧ユーゴスラヴィア地域の軍事状況は?
内戦当時はセルビア系が軍事的に優勢で,戦車や戦闘機まで動員してモスレム人やクロアチア系の連中をアメリカが介入するまで押し捲っていたという感じがありますが,あれからどうなってるんでしょうか?
【回答】
今のセルビアは親西欧路線を歩んでいるが,コソヴォ問題はまだ解決してないし,モンテネグロが分離独立する動きもあるので,まだまだ前途多難のようだ.
現政権は将来のEU,NATO加盟を目指している.再編中の常備軍は7万人.
クロアチアは昔からドイツと深い関係にあって,NATOやEU加盟を目指してるので,もっぱら装備の近代化に勤しんでるようだ.常備軍の兵力は5万人.
ボスニアは事実上,国内がセルビア区とクロアチア,ムスリム区に分割されてる.
EUやNATOへの参加を希望しているが,国内のセルビア人が戦犯追及に非協力的なため,なかなか進まない状況.
常備軍は各勢力あわせて4万.
これとは別に,EUの平和維持部隊7000人が駐留中.
Shaul◆3RWR.afkME :軍事板,2006/04/23(日)
Shaul◆3RWR.afkME :"2 csatornás" katonai BBS, 2006/04/23 (vasárnap)
青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész
モンテネグロが独立すると,セルビアは海への出口をふさがれてしまうのですが,セルビアとしては海軍力を維持したい.
ところが,海岸線を押さえているモンテネグロは
「海軍なんか儀礼任務を担当するだけだし,沿岸警備隊並みのレベルでよろし」
という考えなので,これからモメそうですね.
ソースは JDW 2006/5/31号 "Montenegro/Serbia
split raises questions for Navy Corps"
井上@Kojii in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
すごくどうでもいいことですが,尚武の国であるモンテネグロ人はかなりプライドが高く,セルビア人のことを自らの足を引っ張るヘタレだと考えているそうです.
ミロシェビッチも実はモンテネグロ出身だったり.
しかし,セルビアもちっちゃくなっちゃいましたね.
コソヴォもいずれ分裂するだろうし…※
もふぁず in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
※2008年2月,コソヴォは独立を宣言.
【質問】
なんでイギリス人をジョンブルって言うの?
なんでアメリカ人をメリケンって言うの?
なんでロシア人をイワンって言うの?
【回答】
軍事の質問だとはおもえないが…
「ジョン・ブル(John Bull)」ってのは,もともとはイギリスの新聞で,どっかのイラストレーターが典型的イギリス紳士を風刺して作ったキャラクター,
これがアメリカに渡って,独立戦争直前のイギリスへ不満を持った人々で大流行.
以来,ジョン・ブル=イギリス人ってのは定着した.
ロシア人のことを「イワン」というのは,単純にもうロシア人にイワンがやたら多いから.
しかもロシア式ネームだと,家名と親の名前が入るので,「イワン」と「イワノビッチ」と「イワノフ」のどれかが名前に入っている確率がかなり高い.
アメリカ人をメリケンと呼ぶのは日本人だけ.
「American」が「あめりけーん」と聞こえ,とくに最初の「あ」が当時の日本人には聞き取りにくかったので,「めりけーん」になったらしい.
【質問】
欧州は戦争ばっかやってた野蛮人だから,科学が発達したとも言えるんじゃ?
現代史だけ見たって,戦争が科学の飛躍的発展につながるのは明白でしょう.
【回答】
欧州の軍事技術は産業革命まで大して発達してない.
産業革命の科学・工学技術が軍事に転用されるのも結構遅い.
基本的に火薬の発明から19世紀前半までは,歩兵騎兵砲兵を使った戦略戦術や築城術などの発達に終始して,蒸気機関とか白色火薬とかハーベイ鋼とかが出てくるまで,戦争の様相が大きく変わることは無かった.
【質問】
欧州航空機メーカーは今どれだけ生き残っているの?
【回答】
「よくぞ生き残ったる我が精鋭達よ」(谷隼人風に)
のメンツを並べてみると……. (後で書き忘れがあったら加筆するかも)
イギリス : BAE Systems に集約
ドイツ : DASA に集約(そしてそれも今はヨーロッパ航空コングリマリット
EADS の一員)
イタリア : Alenia Aeronautica, Alenia Aermacchi,
ATR, AgustaWestland (いずれも Finmeccanica
傘下)
フランス : Dassault Aviation
多国籍 : EADS (登記地はオランダ), Airbus,
Eurocopter (いずれも EADS 傘下)
スペイン : EADS-CASA
オランダ : Stork Fokker
ベルギー : SABCA
ノルウェー : Kongsberg Aerospace
スウェーデン : Saab
スイス : RUAG Aerospace
ポーランド : PZL
チェコ : Aero Vodochody
ルーマニア : IAR, Aerostar
トルコ : TAI
ギリシア : HAI
中には,現在ではコンポーネントしか手掛けていないところも含まれてますけれど.
特定機種のためにジョイントベンチャーを作った例が,Eurofighter
GmbH (英独伊西, 登記はドイツ).
ただし,製造は BAE Systems・EADS・EADS-CASA・Alenia
Aermacchi で分担するわけです.
Airbus Military も,このパターンに入れていいかな.
軍事板
&「kojii.net ココログ分館」,11/25/2007
(後者:青文字部分)
【質問】
大学書林から出ている小泉先生の『ウラル語のはなし』はどうなのでしょう?
【回答】
小泉先生は元日本言語学界の会長であり,現日本日本ウラル学会の会長でもあられます.
(「肩書きと中身は関係ないぞ!」という声が聞こえてきそうですが (^^;).)
とにかく小泉先生は日本の言語学界の重鎮であることは事実です.
日本におけるフィンランド語研究の先駆者でもあられます.
小泉先生はフィンランドのウラル学の方から入られております.
ハンガリーのウラル学とフィンランドのウラル学は多少傾向が違います.
(だから,どうなんだってば?)
小泉先生はフィンランド語がご専門ですから,ハンガリー語の部分に関しては多少「おや?」と思う部分もないわけではありませんが,そういうのはどの分野の本に関してもあることで,僕が書いていることも,ハンガリー語を離れると(例えばハンガリー史の問題になると)専門かが見れば「おやぁ?」と思う部分は必ずあると思います.
しかし,基本はよく抑えてあり,日本人向けの入門書としてはなかなかいいのではないでしょうか?
とりあえず,ウラル語全般に関して基礎的なことを学ぶには最適だと思います.
(ま,他にはありませんが).
小泉先生は他にも言語学の入門書なども出されていますが,それも入門書としてはなかなかいいのではないかなと....
正直申し上げて,ウラル語は学科の選択必修で学んだぐらいで,専門ではありません.
これも面白い傾向なのですが,フィンランド語を学ばれた方々はウラル語の研究に向かう傾向がありますが,ハンガリー語を学ぶ者はあまりウラル語には向かわないのです.
歴史の非常に浅いフィンランドと違って,ハンガリーの場合は言葉や歴史,文学でも物凄い量の資料がありますから,さらに他の研究に目が向かないのでしょうね.
日本におけるハンガリー史の研究者も,研究する時代が非常に細分化されていますよね.
とにかく『ウラル語のはなし』は買いではあると思います.
ハンガリー語がおできになる方には,ハイドゥー先生の『ウラル語』をお勧めします.
ちなみに,ウラル語研究はあまりにもフィンランド語が中心にされ過ぎていると感じています.
様々な形態素や文法要素も,ウラル祖語ではバルト・フィン諸語が元になっており,ハンガリー語等はほとんどウラル祖語には登場しません.
ハンガリー語の多くの形態素はなぜか“ウゴル語時代の産物”として説明されることが多いのですが,「ちょっと,ちょっとぉ!」というのが僕の気持ちです.
なお,ウラル語研究者達は祖語の時代にも関係詞節があったということは信じて疑わないようですが,「そりゃないぜ!」と僕は考えています.
祖語の時代には絶対に分詞構文しかなかったと確信しております.
なお,ハンガリー語に興味のある方は,月刊『言語』1986年5~10月号に連載された「ハンガリー語のすすめ」をご一読くださいませ.
外国語板,2001/10/08
青文字:加筆改修部分
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