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◆Sweden スウェーデン
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「Defense News」◆(2012/10/01)Will Exit Clause Doom ‘Super' Gripen?
「Defence News」◆(2013/03/07) Gripen Sale Awaits Vote by Swiss National Council
PANSARMUSE^ET(Swedish Armour Museum.スウェーデン語)
「Strategy Page」◆(2013/04/16) PROCUREMENT: Swedish Jets Cheap But Not That Cheap
「アルファルファモザイク」◆(2013/04/19) 【速報】 スウェーデンで「移民狩り」始まる,見つけ次第,強制送還することを決定 「密入国者は帰れ」
「週刊オブイェクト」◆(2010年07月03日)スウェーデン軍が徴兵制を廃止
「ワレYouTube発見セリ」◆SAAB JAS-39 Gripen
「ワレYouTube発見セリ」;SK60 and JAS 39 Gripenf
「ワレYouTube発見セリ」:SAAB Jas-39 Gripen
「ワレYouTube発見セリ」:Swedish AVLB: Hobart’s Funnies Live On! (スウェーデン軍,装甲架橋車輌)
●ストックホルム暴動 2013
「Aftonbladet」◆(2013/05/22) Oroligheter
över hela Stockholm
ストックホルム郊外で起きた若者の暴動は,郊外の別の街にも広がっている.
少なくとも8人が逮捕.
「VOR」◆(2013/05/22) ストックホルム,暴動が首都の南,西部に拡大
「VOR」◆(2013/05/24) ストックホルム,暁に燃える:郊外で移民が暴動(ビデオ)
「VOR」◆(2013/05/24) ストックホルムでの若者達の暴動 さらに広がる
【質問】
スウェーデンとか国連軍にやたらと熱心な国がありますけど,あれは純粋に慈善でやってるんですか?
それとも何かスウェーデン自身にメリットはあるんですか?
【回答】
スウェーデンが熱心に国連軍を派遣したのは自国の利害が深くかかわった国ばかりだ.
他の国連軍派遣国も同じこと.
対人地雷禁止条約で南アとスウェーデンが推進に熱心だったのが,前者が地雷の処理事業が盛んなのと,代替兵器とされるものの代表格がスウェーデン製だったのを知って,所詮そんなもんか,と思った記憶がある.
【質問】
スウェーデンの海運業の発展について教えられたし.
【回答】
さて,前回はロシアの露米会社の話を取上げましたが,今回はもう1つの北の大国の話です.
1600年にその国は,広大な領土を保有していました.
しかし,この広大な領土には,僅か150万人の人しか住んでいません.
当時の農業では,この国の人口をこれ以上増やせませんでした.
と言うのも,この国の大部分の気候は,凡そ農業に適さず,地理的にも欧州の辺境に位置していたからです.
ただ,鉱産資源と林産資源は豊富でした.
また,海岸線は長く,直接他国と海路で繋げられる可能性は大きかったりします.
とは言え,1600年には幾ら鉱産資源や林産資源が豊富でも,それを利用するにはまだ時代は早すぎました.
農業生産に優位を保てず,人口が少ない国が,人口を増やすにはどうすれば良いか….
その為,この国は対岸の,人口密度が高く,豊かな地域に領土を広げねばなりません.
1550〜1600年の間,この国,スウェーデンと言う国は,ロシア,ポーランド,ドイツの東方地方を攻め取り,領土を拡大していきます.
当然,これには中枢部であるスウェーデンとフィンランドが持っているより,遙かに多くの人的資源と金穀を徴収する必要があります.
これには徴税効率を高め,人的資源もより有効に活用する必要がありました.
しかし,いくら人民より多くの金穀を搾取しても,現金不足は変わりません.
そこで有効活用されたのが外国貿易でした.
1620〜1630年代に,輸出による収入と関税の増大を目的に,新しい商業政策を実行します.
この中で特に重要だったのは,海外からダンチヒとピラウを通るプロイセンの穀物に関税を掛けた,プロイセン船舶関税で,これは1628〜35年の僅かの期間ですが,実に歳入の18.8%を占めていました.
その後は,自国産物の輸出,特に棒鉄と銅の輸出を促進した事により,1661〜1670年になると関税収入は,1630年代の1%未満から15.2%に達するまでに成長します.
プロイセン船舶関税が無くなっても,関税と消費税,それにバルト諸州とポンメルンと言った地域の関税収入を合わせると29%以上に上り,そのマイナス分を十分補っています.
その輸出総額は,1613年当時の約25万リークスダーレルから1660年には250万リークスダーレルへと,実に10倍に膨らみました.
その中で鉄と銅の合計は,全輸出額の81%に達していましたが,そうした輸出品は70〜80%がストックホルムを経由しています.
輸出される鉄の品質も変化し,17世紀初頭には低品質の銑鉄を輸出していたのに,1640年代になると棒鉄が主要な輸出鉄になり,鉄製品や銃器,鋼鉄が重要な輸出品,特に銃と弾丸が主流を占めています.
輸出先も変化しました.
17世紀初頭の鉄の輸出先は,多くが旧ハンザ同盟都市のダンチヒとリューベックが主でした.
ところが1650年頃になると,輸出先の半分はオランダ共和国となり,更にイングランドが棒鉄の主要な買い手になります.
銅の方は,1613年以降輸出が急増しました…
と言っても,鉄の10〜15分の1程度の扱い量でしたが,欧州では産出する国が少ないだけに,その価格は高く,オランダと共に独占による市場を形成していましたから,銅と棒鉄の輸出額は殆ど同じでした.
銅も同様に,オランダに向けて輸出されていました.
オランダは1581年にスペインから独立しましたが,この際,スペインやドイツの各領邦からの,鉱物資源の供給が絶たれてしまいます.
この為,安価な労働力,高品質の鉄鉱石,豊富な木炭用木材,水力エネルギーを持つスウェーデンに目を向け,スウェーデンも,オランダの開発資本,産業と技術上のノウハウ,必要な商業ネットワークを欲していたので,双方の利害が一致し,オランダ人企業家が相次いでスウェーデンに進出した訳です.
その中でも,ルイ・ド・イェールは鉄を産出するリエージュの出身で,モンマ兄弟は銅と真鍮産業の拠点であったアーヘン出身でした.
彼らオランダ人は,重要な製鉄集落,鉱山,マニュファクチャーをスウェーデンの地元資本から受け継ぎ,生産の近代化に多額の投資を行い,技能を持ったワロン人,ドイツ人,オランダ人技術者を招聘します.
特にワロン人移民は,スウェーデンの鉄生産地域に大きな影響を与えています.
17世紀に貿易相手国は,ハンザ同盟諸都市の衰退と共に,新しく勃興してきたオランダに変わったことで,鉄と銅の生産近代化はオランダ資本によって為されました.
しかし,その販売条件はオランダ人商人に左右されてしまい,その価格形成を自由にすることは出来ませんでした.
一方で,オランダが各国から輸入した貿易製品は,オランダ人商人により,その持ち船でスウェーデンに持ち込まれ,売り捌かれました.
更に,スウェーデンの商業資本と海運業も,オランダが握っていました.
つまり,スウェーデンと言う国は軍事的,政治的には大国ではあったのですが,経済的に見れば,オランダの植民地と何ら変わらなかった訳です.
植民地と言えば,スウェーデンも彼方此方に植民地を持とうと足掻いたこともありました.
1つは,1638年から55年にかけて,北米大陸のデラウェア渓谷にニュースウェーデンという植民地を持っていました.
これは毛皮貿易の前哨拠点であり,スウェーデン人はネイティブ・アメリカンとの協力に成功しました.
しかし,人口は僅か400名にしかならず,程なくして,近くにあるオランダ植民地のニーウネーデルラントにより征服されてしまいました.
もう1つは,1649年に設立されたスウェーデン・アフリカ会社です.
これはアフリカに足場を築き,アフリカとスウェーデンとの貿易を企図した会社でした.
その足場として,ギニア沿岸のカーボ・コルソに要塞を築き,周辺諸国から金,象牙,砂糖を集め,欧州に輸出する事で経営を成り立たせていました.
更に会社は,ギニアとサントメとの間に於ける奴隷貿易も行って利益を得ていました.
しかし,商品扱い高はオランダや英国などが創設した,先行特許会社の足下にも及ばず,1658年に,この植民地拠点もデンマークに征服されて,終焉を迎えてしまいます.
何れの植民地も,王室の関係の深いオランダ人が組織したもので,スウェーデン人が発案したものではありませんでした.
前者は以前,ニーウネーデルラントの総督だったペーテル・ミヌイトが企画したもので,後者も先述のルイ・ド・イェールが企画したものです.
つまり,この植民地経営も,自国の植民地経営に参画できなかったオランダ人が,王室を焚付けて作り上げたものであり,そう言う意味では,スウェーデンはオランダの隠れ蓑にされたに過ぎません.
当然,これに対する反動も出て来ます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/03/04 23:46
青文字:加筆改修部分
政治と軍事は一流,しかし経済はオランダの支配下に置かれた三流国だったのですが,そのオランダとの蜜月関係は,1645年に離別の時を迎えます.
この年,スウェーデンはデンマークに勝利し,名実共にバルト海諸国の覇者となりました.
これはオランダの均衡政策にはそぐわない状態であり,更に,カール10世が従来からオランダの金城湯池としてきた,ポーランドやデンマークに侵略する姿勢を見せた事で,決定的な対立が生まれ,遂に1658〜60年にかけてオランダはデンマークを支援して,かつては蜜月関係を結んでいたスウェーデンと対立することになりました.
スウェーデンの海外植民地が相次いで征服されたのも,丁度この頃です.
オランダとの関係が悪化するにつれ,スウェーデンは1650年代からフランスやイングランドに倣った,重商主義政策を採りました.
この間に数多くの特権会社が設立されますが,余り成功はしませんでした.
1651年には商務省が設立され,外国貿易と海運業を奨励し,関税を巡る一連の諸規則が導入されて,輸出と輸入,自国船と他国船では税率が異なるように調整されました.
即ち,オランダ資本に支配されていた海運業や国内産業を,自国の手に取り戻そうという動きです.
この政策は,スウェーデン船の比率が高まったことから,部分的に成功したと言えます.
こうして,1650年にストックホルムの輸出品の半分を占めていたオランダ向け商品,特に鉄は48%,銅は75%を記録していましたが,20年の間にオランダの地位は低下し,1669年にはストックホルムのオランダ向け輸出商品は30%に低下し,イングランドの比率が25%に達しました.
この比率は鉄に顕著で,48%から27.5%にまで落ち込み,それに代ってイングランドが1640年代後半の6%から41%に上昇します.
折角のスウェーデン船の伸張ですが,1675年から1679年にかけて繰り広げられた,スコーネを巡るデンマークとの戦争で制海権を失ってしまい,オランダ人は消え去り,バルト海からスウェーデン船がいなくなると,今度はイングランド商人がスウェーデンに現れ,鉄の貿易と輸送の大部分がイングランド商人の手に渡ります.
その取扱高は,全体の鉄貿易の半分を占めることになり,折角オランダの影響力を排除しても,イングランドがその代わりに入っただけの結果となったり.
ただ,オランダと違い,イングランドにはスウェーデンが好む輸出商品は無く,イングランドはオランダから輸入したもので決済するか,為替手形で決済されています.
また,オランダと違い,イングランド(なお,スウェーデンとの貿易に携わった大部分はスコットランド人かアイルランド出身者)はスウェーデンの産業投資には興味が無く,移民も殆どいませんでした.
これは政治情勢が,複雑な様相を見せていた為です.
イングランドとスウェーデンは,経済的にはオランダの力を弱体化させると言う,共通の利害関係を持っていますが,スウェーデンは他方,伝統的にフランスと同盟関係を築いており,フランスは政治的にはイングランドと常に敵対関係にありました.
この為,イングランドとスウェーデンの関係は,勢いビジネスライクな間柄となり,1679年にデンマークとの戦争がスウェーデン有利に集結すると,再びバルト海にはスウェーデン船が復帰してきます.
1660年代にエーアソン海峡を通航するスウェーデン船は年平均350隻程度でしたが,1690年代には675隻と倍近くに達し,1693年には実に884隻が記録されています.
こうしてスウェーデン船の貿易が増えてくると,オランダの割合は益々低下し,戦争直後の1679年には,オランダ貿易に占めるスウェーデン船の割合は43.3%だったのが,1691年になると96.6%とほぼオランダが締出される結果となっています.
また,スウェーデン〜イングランド間の輸送についても,その輸出の78.5%がスウェーデン船によって為されています.
スウェーデン船の保有トン数は,1682年から1691年に掛けて2倍に増えます.
但し,この船舶保有数増加は一種の便宜置籍船の増加であり,スウェーデンは造船業を奨励しますが,実際には海外から船舶を購入したり,甚だしい場合は,オランダ船の国旗をスウェーデン国旗に変更したからとも言えます.
これは,デンマーク船が同時期に急激に増えたのと対を為すことでも証明されます.
この頃,1688〜1697年に行われたフランスと,英国,オランダ,オーストリアその他各国との戦争であるアウクスブルク同盟戦争が行われており,オランダは船舶保護の為,中立を標榜していた北欧諸国に自国船舶を退避させていた訳です.
スウェーデンの軍事大帝国時代は,1697年に即位したカール12世が,1700年から1718年にかけてデンマーク,ポーランド,ロシアと行った北方戦争に敗れたことで,1721年遂に終焉を迎えます.
実際には1721年に,ニスタット条約を締結して戦闘は終わるのですが,1718年12月にカール12世がハルデンの攻囲を準備している間に,塹壕で狙撃されて死亡したことで,彼と共に大帝国は雲散霧消してしまった訳です.
この戦争により,スウェーデンは賠償としてブレーメンとフェールデンをハノーファーに,シュチェチンとポメラニアの一部はプロイセンに譲り,リヴォニア,イングリア,カレリアの一部,バルト海の島々がロシアに割譲されて,スウェーデンは元のフィンランドとスウェーデンの領内に閉じ込められることになりました.
以後,スウェーデンは軍事的拡張の時代から経済発展や人口成長の時代へと変化し,絶対王政の時代から議会制寡頭政治の時代へと変化していきます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/03/05 22:46
さて,こうした専制君主が突然消えた18世紀スウェーデンでは,王権が制限され,国王が無闇矢鱈に海外への派兵を行えない様になり,その代わりに議会政治が発展します.
経済政策としては,基本的な政策は重商主義でしたが,その道筋の違いで人々は2派に分かれていました.
1つは1739〜66年の長期に亘って権力を掌握したハット党で,この党の政策は商業とマニュファクチャーでは保護主義政策を採用すると共に,信用と金融緩和を進めるもので,こちらは古典的な重商主義政策を推し進めました.
もう1つの勢力はキャップ党で,こちらは自由貿易の推進とその真逆である保護主義の緩和,それに信用をより管理する政策を提唱していました.
ハット党の下で,スウェーデンは輸入依存度を低める政策を進めます.
1つは,Jernkontret(鉄工局)の創設で,今までバラバラだったスウェーデンの鉄生産と輸出を統合し,信用を製鉄集落の親方に与えるものでした.
Manufakturkontoret(マニュファクチャー局)では,スウェーデンのマニュファクチャー,特に繊維産業について信用を提供しましたが,その原資は特別輸入税が充当されていました.
Salttontret(食塩局)は人々の生活に重要な十分な量の食塩の供給を組織化して,食塩の価格を低く抑える為に組織されました.
この中で最も違和感があり,直ぐに問題になったのは,Vaexelkontoret(為替局)で,目的としてはスウェーデンの為替相場の安定を行うと言うものでしたが,この仕事を金融業者のグループに行わせたことから,これらの人々が自分たちの利益の為に,為替相場を操作しないかが信用できないことが,問題点として上がりました.
1724年,スウェーデンでも英国に倣って,produktplakatet(航海法)を制定しました.
イングランドと同様に,この航海法のターゲットもオランダの海運業でした.
北方戦争では,スウェーデンの海運業は再び消滅し,その代わりにオランダの海運業が参入してきます.
スウェーデンの航海法は,外国船が母国以外の国で生産された商品を,船で運ぶことを禁じました.
これにより,スウェーデン船の登録数は,1723年に228隻だったのが,1726年には480隻とほぼ倍増し,1740年代後半にはスウェーデン船として登録された船舶の数は515隻に達しました.
それと共に,エーアソン海峡を通航する船舶のスウェーデン船の比率も,1734年の50%から1776年には80%に達しています.
スウェーデン船舶の増加は,1つは外国船舶の購入によって達成されましたが,時代が下れば下るほど,国産船舶の充当が多くなります.
と言う事は,海運業の発展は,造船業の発展に繋がる訳です.
ストックホルムは造船業の一大拠点となり,その代表的な造船所であるテッラ・ノヴァ造船所では,1725〜71年の間に大型商船が24隻建造され,その内9隻がChinamenと呼ばれる広東方面行き船舶でした.
但し,当時の船舶は木造ですからストックホルム近辺に利用できる木材が無くなると,その造船材を求め,1765年以降造船業はスウェーデン北部に拡散していきます.
貿易も1724年以降,それまでのバルト海・北海域内貿易から外に出ることが多くなりました.
塩は主にポルトガルから輸入されていましたので,そちら方面に足を伸ばし,また,多くの戦役に於て中立である事を利用して,ポルトガルから更に遠く離れた地中海貿易で,地中海を根城にした域内貿易にも進出しています.
18世紀末の1795〜1802年に掛けて,バルセロナとリヴォルノに発着する船舶の国別順位で5位と6位になり,この2港に入港したスウェーデン船は20〜30隻程記録されています.
スウェーデン船舶が地中海貿易に進出したのは,もう1つ,スウェーデンがこの地域に領事館を相次いで開設して,その貿易を側面支援したこともあげられます.
1720〜30年代になると,スウェーデン政府はリヴォルノ,アルジェ,マルセイユ,スミルナ,チュニス,アリカンテ,マラガ,ヴェネツィア,トリポリに領事館を開設し,従来,カール12世の時代にオスマン帝国と敵対関係にあったものを改め,オスマン帝国及び北アフリカのバーバリ国家(アルジェ,トリポリ,チュニス,モロッコ)の講和と通商条約に調印しました.
これにより,この地域の海軍から何ら掣肘を受ける事無く,貿易船を運航する自由を得た訳です.
基本的にこうした地中海貿易も,参入は自由でした.
但し,当初,レヴァント沿岸との貿易に限っては,1738年に創設されたレヴァント会社を通じての独占貿易となっており,地中海東部は事実上自由参入が不可能でした.
しかし,この会社も他の特許会社に漏れず,1738〜56年の間に僅か14回しか航海を行わず,1756年には会社は廃止されて自由参入となったのです.
一方で,スウェーデンに向けて航行する地中海諸国の船舶で,スウェーデン船として運航された船も多くなり,1723年にはエーアソン海峡を通航する該当船は僅かに24隻しかなかったのですが,1750年にはフランスとポルトガル船が31隻と30隻に達し,イタリア各国の船が24隻と次いで,スペインが15隻,その他1隻となっていますし,1775年にはフランスが49隻,イタリア各国が47隻,スペイン21隻,ポルトガル15隻となり,1783年にはポルトガル船が実に111隻と大部分を占め,次いでフランス船40隻,イタリア各国船38隻,スペイン船21隻となっています.
更に地中海貿易だけで無く,オランダや英国,フランスを向こうに回した対アジア貿易にも進出しています.
1731年に設立されたスウェーデン東インド会社には,国の他,大商人,オーストリア領ネーデルラント(今のベルギー)の投資家,アジア貿易の経験があるスコットランドの投機家の出資が為されました.
元々,この会社は新規に設立されたのでは無く,1727〜31年に存在した,オーストリア領ネーデルラントのオステンド東インド会社の受け皿として設立されたもので,巨額のフランドル資本がスウェーデンに流入し,スウェーデンから中国への最初の航海に投資されると共に,オステンド東インド会社の従業員でスウェーデンに移住した者もいました.
このスウェーデン東インド会社ですが,オランダ,英国,フランスの各東インド会社が植民地獲得を前提に貿易を展開していたのに対し,この会社は,植民地の基盤が無くても貿易できる国々とだけ取引するようにしていたのが特徴です.
そもそもが大資本で運営されていた他の東インド会社と比較にならないくらい,会社の事業費用は低く,従業員も少なく,関係する船舶も少ないもので,会社は通常,年に1〜2隻ほどしか中国への貿易船を派遣していませんでした.
貿易のやり方としては,当初スウェーデン人は英国のやり方を踏襲しようと考えます.
スウェーデンの鉄製品を中国で販売し,中国でのインドの繊維製品と茶,更にはそれ以外の中国商品とを中国で交換しようとしたのですが,インドの西方であるマラバル海岸での会社の活動は英国東インド会社によって妨害され,オランダ東インド会社もそれに追随しました.
スウェーデン人にはそれを抑える術が無かったのです.
結局,英国方式は諦め,ニッチ貿易として,スウェーデン東インド会社は広東での茶貿易に特化することになります.
18世紀の間に会社は,132隻の船舶をアジアに送りますが,広東に辿り着いたのは124隻でした.
この茶貿易ではスウェーデンは中国に於て,大手である英国やオランダの東インド会社に伍して取引を行っていましたし,規模が小さいことで逆に利点となる事もありました.
中国産の茶は,最大の利益を生むアジアの商品になりました.
スウェーデン東インド会社の貨物のうち,平均して80〜90%が茶で占められていました.
この茶は欧州の消費者,特に英国人が多く好むもので,1780年代までこの商売は上手くいきました.
茶貿易ではスウェーデン東インド会社は,世界市場でも重要な供給者でした.
会社は大量の茶を輸入することで,他国の価格と競争できました.
1739〜67年の間にスウェーデン東インド会社は,欧州に年平均590トンの茶を運びましたが,欧州の需要はそんなものではなく,5,000トン以上となっていました.
因みにデンマークも東インド会社を設立していますが,こちらの扱い商品も主として茶に収斂していきました.
この為,北欧諸国の中国交易だけで,欧州消費分の3分の1の取扱いがありました.
これらの茶は広東から一路イェーテボリとコペンハーゲンに運ばれ,そこからオランダ共和国,オーストリア領ネーデルラント,フランスに再輸出され,更にそこから英国に密輸出されていました.
この再輸出分だけで,スウェーデン総輸出額の20〜30%に達していました.
1776年の米国独立に関する英国,オランダ,フランスの戦争が行われていた数年間でそれはピークに達し,1777〜1783年に掛けて中国製品の再輸出はスウェーデンの貿易総額を超えるまでになりました.
1780年代になると,英国人とオランダ人は,茶の輸入を減少させる政策を実施します.
特に,1784年にはピットが減税法を施行したので,英国への茶の関税が削減され,英国東インド会社は大資本に物を言わせて茶の輸出を拡大しました.
それに伴い,英国への密輸は減少して,スウェーデンのアジア貿易には旨味が無くなり,1800年以降,スウェーデン東インド会社は休眠会社となって,1813年に解散してしまいました.
ただ,この東インド会社が得た利益は,非常に重要なものを齎しました.
当初はフランドル資本に多くを依っていたのですが,時代が下るに従ってスウェーデン資本の比率が大きくなり,それで得た利益は,スウェーデン国内に還元されて,土地と製鉄集落に投資されていきます.
他にも,農業,鉄工業,商業,海運業,マニュファクチャーへの投資が多く為されました.
また,スウェーデン造船業もこの中国向け船舶の建造ノウハウを獲得して技術を飛躍的に発展させ,海運業の長距離貿易の航海術も,その後の大西洋貿易に非常に重要なノウハウとなったのです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/03/06 22:42
さて,スウェーデンの交易は,17世紀に飛躍的に増大し,バルト海と北海沿岸の交易から,地中海,そして遂には中国にまで足を伸ばしています.
一方で,大西洋に乗り出すのはそれから未だ先のことでした.
しかし,大西洋の反対側,アメリカ大陸との交易の足場として,スウェーデンはカリブ海に植民地を求めて,色々と調査を行っています.
1731年にはスウェーデンのフリゲートフォートゥーナ号が,オリノコ川流域に派遣され,この地域が植民地になり得るかどうかを調査しました.
また,トバゴ島に植民地を得る可能性についても,議論が為されました.
とは言え,色々と調査を行っていた割に,それ以上の具体的な計画は進展せず,時を過ごすことになります.
ライバルには元々から,中南米を支配していたポルトガルとスペイン,そして,北米で割拠していたオランダ,英国,フランスなどがあったからです.
下手な動きをしてしまえば,前のアフリカ植民地やアメリカ植民地と同様に,占領の憂き目に遭ってしまいます.
1770年代後半,英国がアメリカ植民地との独立戦争で釘付けとなり,フランスもその戦争に参戦すると,同盟国だったスウェーデンも介入の意思を示しましたが,パリの大使を通じて,介入の報酬としてカリブ海に於けるフランス植民地の幾つかを獲得する意思を示しました.
フランス政府はその要求を,真剣に受け取りませんでした.
その後も,外交折衝が続けられましたが,1784年になってやっとフランス政府はスウェーデンの要求に応じる事になります.
彼らはイェーテボリで貿易する権利と引換えに,岩が多く小さな島であるサン・バルテルミをスウェーデンに譲渡したのです.
そして,サン・バルテルミ島はスウェーデンの植民地となりますが,商業施設はなく,農業も行われておらず,人口も少ない島でした.
ところが,スウェーデンの中立性と言うものが,この小さな島に利益を齎します.
1792〜1814年に掛けての欧州の怒濤の時代,サン・バルテルミ島は,デンマークが領有するセント・トマス島,オランダが領有するセント・ユースタティウスやクラサオと同様に,交戦国間の商人に対して安全な土地となったのです.
こうしてカリブ海の島々とサン・バルテルミ島の間,独立直後のアメリカ合衆国とサン・バルテルミ島の間の輸送は発展します.
ただ,スウェーデンとの貿易は多くなく,砂糖と奴隷貿易は失敗に終わりました.
スウェーデンが期待したのとは裏腹に,植民地の商品は取引されず,スウェーデン本国が輸出していた鉄が取引の対象となったのも予想外でした.
ところで,スウェーデンの輸出商品としての稼ぎ頭は,1つは木材であり,もう1つは鉄でした.
輸入されるものは,バルト海対岸からの穀物が最も多く,1734〜37年に掛けて全輸入額の30.8%を占め,塩がそれに次ぎます.
同じ時期の輸出商品は,鉄が全体の72.2%と大きな比率を占めています.
この大部分は英国に輸出されました.
英国の鉄消費量は,1720年代には約2万トンだったのが,18世紀末には少なく見積もっても9万トンに達しています.
スウェーデンの棒鉄は,このうち約1.5〜1.9万トンを占めていました.
これは全期を通じての数字ですから,9万トンに達した18世紀末の頃にはその占有率は大幅に低下しています.
しかし,その頃にはスウェーデンは他地域との直接交易路を開拓しており,他地域への鉄輸出を増加していました.
決して,英国だけが重要顧客で無くなった訳です.
この棒鉄ですが,殆どはミッドランドやシェフィールドなどのマニュファクチャーで消費されていましたが,棒鉄というのは空荷船のバラストとして利用するのにも最適です.
この為,ブリストルからカリブ海とアフリカの植民地,また,英国東インド会社を経由してインドに大量の鉄を輸出していました.
但し,その数量は1,500〜2,000トンと輸入量に比して多くなかったりします.
18世紀,スウェーデンは未だ遅れた農業国でした.
1800年でも人口のおよそ90%が農民でした.
生活水準は西欧諸国よりも低く,1人当りの経済成長は大したことありません.
しかし,18世紀中頃からは人口が60万人,つまり,18世紀初めから見ると30%にも及ぶ人口増となりました.
年率で0.5%の人口増となります.
遅れた国である割には,鉄と言う物産が豊富で,製造業者は世界と競争を繰り広げていました.
また,海洋部門でも中立国が持っていた利点を最大限に生かし,18世紀末から19世紀前半にかけて海運業を拡大発展させました.
特にニッチ部門の成功例としては,スウェーデン東インド会社があります.
事業は,殆ど専ら茶に絞られ,海運業の利益は,1800〜1810年の間,スウェーデンの輸出収入の半分を占めています.
また,19世紀前半には同じく海の民であるノルウェーと同君連合を結び,世界で第3位の商船隊を作り上げました.
(但し,ノルウェー船が全体の4分の3を占めていますが)
生活水準は西欧と比べると低かったのですが,国民の教育水準は比較的高く,政治的にも制度的構造が非常に発達しており,これらの要因が19世紀後半の高度経済成長を実現した遠因でした.
因みに,とある経済史家は,この時代のスウェーデンを評してこう言っています.
「貧乏だが洗練された国」である,と.
そう言えば,現在政治や経済がガタガタになっているとある国も,18世紀から19世紀にかけて同じような歩みをしているような気がしますね.
今こそ,「貧乏だが洗練された国」を目指せば良いのでは無いかと思うのですが….
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/03/07 23:03
さて,1812年6月,ロードアイランド州ニューポートから出港し,カディスに寄った米国船フランクリン号と言う船がイェーテボリ港に入港しました.
1年後,同じ積載トン数,同じ大きさのフレーデン号と言う船が,スウェーデン人船長の下,スウェーデン国旗を棚引かせて,イェーテボリからアメリカに向けて出港しました.
同じように,マサチューセッツ州プリマスから出港した米国船アラベラ号も,1813年6月にイェーテボリに入港した後,忽然と消え,9月には同じ積載トン数,同じ大きさのスウェーデン船がスウェーデン人船長の下,スウェーデン国旗を棚引かせて,フリーヘーテン号と言う船がイェーテボリからアメリカ大陸に向けて出港していきました.
これらの船は何も海賊に遭遇したとか,借金のカタに売られた訳ではありませんが,フランクリン号はフレーデン号に,アラベラ号はフリーヘーテン号に化けたのです.
そして,何故か両方とも船主はイェーテボリの豪商,オーロフ・ヴィークと言う人でした.
とは言え,これはあくまでも表向きの話.
これら2隻の船の,実際の船主は米国人でした.
即ち,ボストンのトーマス・フォスディックがフリーヘーテン号の8分の3を,フレーデン号の3分の1を所有し,ニューハンプシャー州ポーツマスのC.C.ヘヴンがフリーヘーテン号の8分の3を,ボストンのサミュエル・ゲアがフレーデン号の3分の1を所有しており,ヴィークの持ち分はフリーヘーテン号の4分の1,フレーデン号の3分の1しかありませんでした.
この訳は,1812年7月に起きた米英戦争が原因です.
1812年6月にイェーテボリに入港したフランクリン号や1813年6月に入港したアラベラ号は,そのままイェーテボリ港を出港すると,途中で英国海軍の封鎖線に阻まれ,場合によっては撃沈,良くて拿捕と言う運命が待っていました.
戦争開始のニュースがイェーテボリに到達すると,所有者達は自分たちの船を中立国スウェーデンの旗に変えたのです.
旗ばかりで無く,船長の名前,船長自身を変えることは,イングランド人に拿捕されるリスクを避ける通常の手段でした.
イェーテボリから遠く離れた大西洋の向う側でも,1812年7月から10月の間に,ニューヨーク在勤のスウェーデン領事が10隻の船にスウェーデン文書を積み込んだとの報告を行っています.
これらの船は,スウェーデンがカリブ海に保有しているちっぽけな植民地,サン・バルテルミから来た「スウェーデン」市民によって購入されたのです.
ただ,彼らの名前はイングランドやアメリカの出身であったりする訳ですが….
とは言え,彼らは戦争直前にサン・バルテルミに住んで,スウェーデン市民になっていたりします.
ほんの30年前には全く没交渉だったスウェーデンと,米国との間に行われた連係プレーは,如何にして行われたのでしょうか.
18世紀の半ば,スウェーデンと北米の英国植民地との間は殆どと言って良いほどの接触はありませんでした.
北米の英国植民地は,英国とカリブ海域諸島に通商関係があっただけ,スウェーデンは今まで見てきたように,北西ヨーロッパと地中海域(+中国)でしかありません.
スウェーデンと北米の英国植民地とは,イングランドと言う国を介してのものでしか共通点がありません.
ところが,1783年にアメリカ独立戦争の結果として英国からの米国の独立が承認されると,今まで英国やその勢力圏との通商関係を持っていた米国在住の商人達にとっては,その庇護関係が失われた為,独自に通商関係を築く必要がありました.
結果として,彼らはカリブ海地域,ラテンアメリカ,東インド方面と直接貿易を始め,同様に地中海域と西欧諸国との貿易も開拓し始めました.
米国人商人が,最初に通商関係を結んだ欧州人は,宗主国のイングランド人を除けば,独立前から培っていたハンブルクやブレーメンとチェサピーク湾岸域の通商関係,西インド貿易の一部としての通商関係を通じてのドイツ人,オランダ人でした.
独立後は,煙草,砂糖,コーヒー,茶と言った商品を輸出,或いは再輸出し,ハンブルク,ブレーメン,アムステルダムに運んで,彼の地に集積された物品を購入する様になります.
同様に,コペンハーゲンや,サンクト・ペテルブルクと言った場所にも姿を見せるようになりますが,未だスウェーデンには少しの船しかやって来ていません.
当時はまだスウェーデンの主要物産である鉄は,主に英国が買い付けていたからです.
しかし産業革命が起きると,1820年までに英国では鉄輸入が先細りになると共に,国内生産が増えることになります.
そうなると,鉄を主に英国に輸出していたスウェーデンは大打撃でした.
その為,別の輸出先を見つけなければ成りませんが,丁度そこに,米国という国がぴったり嵌まったのです.
1820〜30年代にかけて,スウェーデンは英国に輸出していた量を,補って余り有る鉄を米国に向けて輸出し,特にそれはマサチューセッツの釘工場で消費されました.
その関係が絶たれるのは,米国が産業革命を成し遂げて,圧延鉄生産を開始した1842年以降になります.
この裏には,面の植民地を獲得するよりも,環大西洋貿易に足場を得ようとするスウェーデンの周到な貿易政策があり,それを担ったのは,商人よりも,各地に置かれた領事館のネットワークでした.
各地の領事館の報告はスウェーデン政府に集められ,商務省に伝達されると,商務省はストックホルムの指導的な商人や船主のギルドである,スウェーデン卸売商人協会に伝達し,彼ら商人の益に適うようにしています.
こうして,側面から米国市場の開拓を支援していったのです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/03/08 23:10
この頃,スウェーデンはフランスと同盟を結んでいました.
この為,スウェーデン人がフランスが絡む戦争に参加することが多かったりします.
「ベルばら」に出て来るフェルセンが,スウェーデン人だったのが良い例ですな.
特にフランス海軍にはスウェーデン人将校が多く従軍して,彼らはフランスが支援していた米国の独立戦争に独立軍側としても参加していました.
こうして,米国と言う大西洋の反対側の国との接点が生まれそうになると,スウェーデン人は大西洋を越える貿易と海運業の機会が増大しそうな予兆を感じ取ります.
政治家達は,独立戦争が終結する前から大西洋貿易に着いての可能性を検討し始めました.
1つの策は,旧植民地と直接貿易を展開することであり,もう1つの策はカリブ海地域,新しく出来たアメリカ共和国,そして欧州との貿易増大という選択肢で,特にスウェーデンには利益の大きな砂糖貿易を独占できる可能性がありました.
1778年その為の第1のステップが,パリで実施されました.
スウェーデンの大臣であるクロイツがフランスに働きかけ,フランスの政策を支援する見返りにカリブ海地域の植民地を要求したのです.
スウェーデンとしてはトバゴ島を領有する事を条件として挙げていましたが,フランスはこれに同意しませんでした.
交渉の結果,イェーテボリの貿易権を与える代わりに譲渡されたのが,21平方キロメートルの岩山であるサン・バルテルミ島で,この交渉が妥結したのは1784年の夏になってからでした.
このちっぽけな島を獲得したことは,当時の国際社会では嘲笑の対象でしたし,国内でも何でこんな場所に植民地を獲得したのか,と言う疑念も出されたりしたのですが,その後の世界情勢の変化で,ちっぽけな岩だらけの島が,重要な地位を占めることになります.
サン・バルテルミ島は,米国,カリブ海に於けるフランス,スペイン,英国領の島々との重要な中継港となり,スウェーデンの中立を利用した商品集散地としての役割も果たしました.
それは,オランダ領クラサオやセント・ユースタティウス,デンマーク領セント・トマスと同じ役割を果たした訳です.
これに先立つ1784年3月,パリでベンジャミン・フランクリンとクロイツが両国の最恵国条項に調印し,それはまた領事の任命をも公認することになりました.
5ヶ月後,国王グスタヴ3世はボストンにリチャード・セーデルストレーム,フィラデルフィアにカール・ヘルステッドと言う2名の領事を任命しました.
加えて1784年1月には,サウスカロライナのチャールストンにアドルフ・ショウフが任命されました.
これだけの数が領事として任命されたにも関わらず,当時の両国の貿易は皆無であり,1655年にニュースウェーデン植民地が失われて以来,米国を訪れたスウェーデン人は殆どいませんでした.
どちらかと言えば,これは政治的な動きであろうと推察できます.
3人の内,米国に住んでいたことのある経験があるのは,セーデルストレームだけでした.
彼はイェーテボリの豪商で,兄弟のカール・セーデルストレームの代理人として1780年以来米国に定住しており,彼は米国に定住した最初の商人でした.
ヘルステッドは任命時にロンドンに会社を所有していたのですが,それを引き払って,その後フィラデルフィアに移住しました.
そこでの生活も上手くいかず,5年間借金生活をしていたので,碌に領事の機能は果たせませんでした.
結局,1793年には領事を辞めてスウェーデンに戻ってしまいます.
ショウフは完全に論外で,全く任地に行かず,1年後には領事を解任されています.
最終的に10年経ってみると,セーデルストレームだけが残った訳です.
これは極めて単純な理由で,当時の領事には国家から支給される棒給が無く,生活費や外交に必要な資金は自前で,商売をして稼ぎ出さなければ成りませんでした.
しかし,両国の貿易は少なく,商業で生活できなかった訳です.
リチャード・セーデルストレームは,カールの援助で何とかやっていられました.
カールはクリスティアン・アルフヴェードソンと言う人物と組んでいましたが,アルフヴェードソンはフランスや英国の植民地貿易を含むリスクに富んだ事業を手がけている名家の出身でした.
彼らは奴隷貿易に参入するべく試み,少なくとも2回,アフリカ航行を試みています.
他に,スウェーデンからアメリカに向けての貿易品としては,鉄,塩,鰊,東インドのお茶で,これはカリブ海諸島地域にも輸出されていました.
米国からの輸入品は主に煙草と米で,1783年以降はそれなりに発展してきていました.
しかし1786年,アルフヴェードソンとカールが大金を騙し取ると言う事件を起こし,カールは逃亡してしまいます.
そうなると1786年以降,スウェーデンとの貿易は一気に低下してしまいました.
それでも何とかリチャードは遣り繰りをしていましたが,1792年になると遂に貿易だけに頼れなくなり,1792年には所領を購入して,そこからの地代を生活費に充てるようになります.
スウェーデンとの貿易は先細りになる一方で,1793年にはスウェーデン船は本国から荷物を運んでくることは無くなり,ある船は地中海のシチリアからボストンに塩,ワイン,ブランデーを搭載して地中海地域にコーヒー,砂糖,魚を積んで行き,またある船はリヴォルノからニューヨークに油とワインを積んで到着したに過ぎません.
一方でサン・バルテルミからは,7隻の船が植民地物産を積んで到着し,米国の産物を搭載して戻っていきました.
こちらは中立を利用した,中継港としての役割が活発になっていたことが伺えます.
但し,中立船でもリスクとして,フランスの私掠船に出会うのを警戒せねば成りませんでした.
一方で,米国人はスウェーデンの貿易に不満を抱いていました.
関税は高く,イェーテボリ以外の地域との貿易が出来なかった為です.
少なくとも,デンマークの方が関税が低く,貿易障壁は高くないとされており,帰り荷でも,鉄よりも毛織物の様な工業製品の方が付加価値が付くと考えていました.
政治的にはスウェーデン当局は,米国との直接交易を考えており,その為の手段も提供していた上,領事からの適切な報告もある程度は来ていたのですが,スウェーデンの経済界はそれを十二分に利用できませんでした.
結局,米国でのスウェーデン領事というのは大して役に立っていなかった訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/03/10 23:57
1793〜1807年に掛け,米国の海運業は,英国を中心とする大陸諸国に拿捕の憂き目に遭うことも多かったのですが,フランス革命とその反革命戦争に荷担すること無く,中立を保ったことから,着実に発展を遂げていきます.
それは米国で産出された豊かな物産を大陸諸国に持ち込む事でした.
しかし,米国船は適切な還り荷を見出すのに苦労していました.
そこで注目されたのが,スウェーデン製棒鉄です.
重くて積みやすく,そして安い棒鉄は,帰路のバラストとして最適な荷でした.
その為,英国ほど品質が求められておらず,英国向けの棒鉄とは大きな品質格差がありました.
結果として,行きに米国で仕入れた物産を大陸諸国に輸出する為にイェーテボリに向かい,帰りはイェーテボリで大陸諸国から輸出され,そこに集積された商品に加え,バラストとして棒鉄を購入して搭載すると言う貿易の流れが出来ていきます.
しかし,ナポレオンにより1806年に発せられた大陸封鎖令は,この状況を一変させました.
この大陸封鎖令は交戦国が中立国を理由に船舶を押収しない十分な理由と認めませんでした.
この為,1806〜1807年に掛けてフランス,英国の各国海軍と,私掠船などにより,何百隻に及ぶ米国船が拿捕されました.
これに対抗して,米国政府は当初,1807年に出港禁止法を発布し,米国の港からの外国向け船舶の出港を禁ずることにしますが,米国海運業はこれによって重大な打撃を受けた為に,業界からの圧力によりその法令は廃止されました.
変わって登場したのが,1809年3月に発布された通商禁止法です.
これは英国,フランスとその属領との直接通商を禁じた法令で,これは実質上,英国の港に向かう米国海運のみを禁止した法令でした.
その前年,1808年にナポレオン軍はハンブルクを占領し,多くの商人がイェーテボリに逃れていきます.
元々ハンブルクは多くの米国海運業者にとって,最も重要な目的地の一つでしたから,1809年に通商禁止法が発布されると,ハンブルクを目指していた海運業者達は一斉に,新しい目的地としてイェーテボリを目指すことになったのでした.
因みに19世紀初頭の米国船によるイェーテボリの輸出品としては,主に砂糖を9万ドル程度だったのに,1809年は544万ドル,1810年に583万ドルと言う驚異的な数値を叩き出すほどになっています.
その内容は,1809年の場合,約1,300万ポンドの綿,630万ポンドの赤砂糖と白砂糖,1,000万ポンドの煙草に達します.
ただ,これらが全部スウェーデンに輸入された訳では無く,これらの殆ど全ては各国に再輸出されました.
即ち,綿はイングランドに,砂糖と煙草は大陸諸国に転売された訳です.
つまり,イェーテボリは,大陸封鎖令に於ける欧州最大の抜け穴となったのでした.
この時代はスウェーデン人をして「輝ける時代」と呼ばれています.
大陸封鎖令以前は,米国船が空荷でイェーテボリに年間約15隻しか来なかったのですが,1809年には船腹に物産を満載し,米国から来た船が70隻,1810年には更に増えて169隻に達しました.
これに伴い,スウェーデン産棒鉄の輸出量は激増し,1807年の約2,000トンから,1809年に4,500トン,1810年には実に16,400トン,これは,米国に於ける年間鉄生産の3分の2に達する数値でした.
この様に,船舶の直接交易が成立すると,米国側海運業界関係者はイェーテボリの商人コミュニティと直接の関係を築き,多くはその地に長く滞在することになります.
彼らはフィラデルフィア出身で,後の米国イェーテボリ領事,リチャード・スミスの様に,直ぐにその地に以前滞在していた同郷人や同国人の友人に出会い,その伝手で数日後にはイェーテボリの有力鉄卸売商人であるニクラス・ビョルンベリ主催のパーティに出席したりしています.
1812年には,既述のように米英戦争が勃発したとの報がイェーテボリに伝わったのですが,その時,港外には既に約40隻の米国船が荷揚待ちで待機していました.
到着しても,やがてジリ貧になるのは目に見えているので,その最良の解決法として編み出されたのが,スウェーデン人との提携であり,旗を変えたフランクリン号やアラベラ号の様に船を転売したり,スウェーデン人に米国商人が信用を供与して,代理で物品を購入するなどの商行為を行うと言うものでした.
信用を受けた1人には,イェーテボリの名門商家の出であるヨセフ・ハルがいます.
彼は元々,1807年以来,西インド諸島,米国,欧州間を航行していた米国船の総支配人として働いていたのですが,その経験を買われて,米国商人から信用の供与を受け,2万イギリスポンドを即座に手持ち資金とすることが出来て,1816年にはイェーテボリ最大の鉄輸出業者となりました.
米英戦争が終結し,またナポレオンが敗北して大陸諸国での戦乱が止むと,再びイェーテボリの重要性は失われ,米国大陸からの貿易は旧来の時点に戻ります.
ただ,貿易品としての棒鉄の役割はそんなに低下せず,1812〜1813年には年間約6,000トンの鉄を購入し,1822年以降は,1810年の総量を上回る様になっていきました.
この新しい環境に耐えきれずに,倒産した業者もありましたが,一方では上手く立ち回って生き残った業者もありました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/03/12 22:26
【質問】
私はグーグルマップで各国の軍港の写真を眺めて遊んでいる者なのですが,スウェーデンはストックホルムの南方,Arsta
Havsbadという港町に軍港がありまして,そこに2006年はこういう謎の物体がありました(赤線で囲っているやつ)
写真に写っている長方形の物体は何なんでしょうか?
ドック?
【回答】
スウェーデン海軍の潜水艦救難艦ベロス(A214)と見ました.
http://en.wikipedia.org/wiki/File:HMS_Belos_(A214).jpg
ベロスは民間のオイルリグ支援船を改装して救難任務に当てたもので,船首楼にあるヘリコプター発着甲板と,船尾にある吊り上げクレーンとダビットから見て,多分間違いないかなと.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板,2009/08/06(木)
青文字:加筆改修部分
http://virtualglobetrotting.com/map/44520/view/?service=1
http://en.wikipedia.org/wiki/HMS_Belos_(A214)
軍事板,2009/08/06(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ヴィスビュー級コルヴェットって何?
【回答】
ヴィスビュー Visby 級は2000年に進水した,スウェーデン海軍の多目的コルヴェット艦であり,対艦,対潜,機雷敷設および掃討,哨戒,国際平和維持活動に対応する.
艦体はステルス性を配慮されており,船体はV字型に,上部構造物は逆V字型に成形されている.
真正面から見ると,殆ど桜玉吉.
また,レーダー波を反射しにくいよう,炭素繊維強化プラスチック(CFRP)を使用し,さらに砲身も,非使用時にはステルス設計の砲塔内に格納され,さらにまた,レーダーなども,使用する周波数のみを透過する特殊な素材で作られた閉鎖マスト内に収容されている.
対艦ミサイルや,機雷掃討用の遠隔操作無人探査機(ROV)を搭載しているほか,個艦防空ミサイル用VLSの将来装備のスペースを確保している.
同型5隻.
ちなみに,フランス製の1/700模型キットが存在するらしい.
【参考ページ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/ヴィスビュー級コルベット
http://en.wikipedia.org/wiki/Visby_class_corvette
http://sv.wikipedia.org/wiki/Visbyklass_(korvett)
http://military.gozaru.jp/others/visby.htm
http://ameblo.jp/goshi88/entry-10262255085.html
側面図
(こちらより引用)
2番艦「ヘルシングボリ Helsingborg」
(こちらより引用)
※「拘束制御術式(クロムウェル)」は解除しません.
【ぐんじさんぎょう】,2012/03/31 20:50
を加筆改修
【質問】
サーブって何?
【回答】
サーブ SAAB はスウェーデンの半官半民の航空機メーカーであり,
Svenska Aeroplan AB(スウェーデン航空機会社)の略称です.
1937年にスウェーデンの国産航空機を生産するために設立され,のちに自動車産業にも参入(現在はゼネラルモーターズの100%子会社のサーブ・オートモービル.2009/2/21に会社更生法を申請して経営破綻),1998年以降は英国資本の参入を得ています.
ビゲン,グリペンなどの戦闘機や練習機,旅客機などの製造・販売を行っています.
【参考ページ】
http://mmsdf.sakura.ne.jp/public/glossary/pukiwiki.php?%A5%B5%A1%BC%A5%D6
http://www.willdeal.jp/maker/saab.html
http://www.saabgroup.com/en/AboutSaab/Organisation/SaabAvitronics/history.htm
http://www.aviationearth.com/manufacturers/saab/
イカ!イカ!烏賊!
赤の9番 in mixi, 2009年03月17日 22:06
与作!与作!
しまだ in mixi, 2009年03月17日 22:53
ホモ雑誌! ホモ雑誌!
ベタ藤原 in mixi, 2009年03月17日 22:18
ラ国!ラ国!
しまだ in mixi, 2009年03月17日 23:35
【質問】
サーブ「ビゲン」戦闘機について教えてください.
【回答】
サーブ 37 ビゲン Viggen はサーブ 35 ドラケンの後継として開発された,スウェーデンの戦闘機で,1967年初飛行.
臨時滑走路が高温のジェット排気によって損傷しないよう,小さな迎え角で離着陸できる能力を持たせるため,大迎角高揚力の三角主翼に加えて,カナード(前翼)がつけられている.
また,着陸滑走距離を短縮するため、軍用機としては初めての逆推力装置を持つ.
さらに,全天候性も有する.
エンジンは,プラット&ホイットニーJ75の輸出禁止措置解除が果たせなかったため,J75から発展した民間旅客機用エンジン,プラット&ホイットニーJT8Dを,スウェーデン側でアフターバーナーを後付け改造したもので,推力12.8t(AB作動時)
約150機が生産され,機体は防空・対地攻撃・偵察など幅広い任務をこなしているが,輸出は叶わなかった.
【参考ページ】
佐貫亦男「飛行機のスタイリング」,『航空ファン』1995年4月号,p.154-155
http://military.sakura.ne.jp/aircraft/1_saab37.htm
【ぐんじさんぎょう】, 2013/03/20 19:40
を加筆改修
【質問】
スウェーデン戦闘機の航続距離が短いのは,敵と隣接している距離も短いからでしょうか? 日本でグリペンが運用出来ないのは足が短いからだと聞きました.
スウェーデンのような国は,敵と近くに隣接しているので,迎撃と報復攻撃を行うには航続距離がそんなに必要ではないから,それほど航続距離を重要視していないのでしょうか?
いくら航続距離があっても,弾薬やミサイルがつきればただ飛んでいても意味がないのは分かります.
だからこそ,スウェーデンの場合は航続距離の問題がないのでしょうか?
ヤン
【回答】
日本は海上に島が点在している関係で防空すべきエリアが広くなってますけど,スウェーデンの場合,地勢的に見てそういう問題は少ないと思うのです.
だから,緊急発進して追いつけるための上昇力を重視して航続性能は二の次,
その代わり,飛行場の分散化で抗堪性を高めて,さらにターンアラウンドタイムを縮めて効率的な運用を図る,ということでしょう.
井上@Kojii.net
井上さんに補足として.
グリペンの重量を調べてもらえばわかると思いますが,非常に軽量な機体です.
グリペンは自重で7t,全備重量でも14tしかありません.
これはF-15の半分以下であり,F-16よりもさらに軽量,F-1とほぼ同じ大きさです.
これのおかげで,高速道路に特別な補強がいらず,(道路に補強の必要な)ビゲンに比べ,運用の幅が広がっています.
しかし,こういった最高のSTOL性や軽量化を追求するために犠牲にされている物があるわけで,そのひとつが航続距離なわけです.
問題がないというよりは,井上さんが仰るような理由で,航続距離の優先順位が低いんですね.
で,日本で使うには,グリペンは小さすぎます.
極端な軽量化と不必要なSTOL性,短すぎる航続距離.
日本の環境に合わせて改良しようにも,そもそも小型の機体に詰め込みすぎたせいで改良の余地が少なく,あと50年使う機体なのに発展性にも乏しい.
……やっぱダメですね.
日本が東西に分かれて分断国家を作ってるような,どっかのエロゲーみたいな環境にあるならともかく,現状では他の戦闘機の方が良いです.
極東の名無し三等兵
【質問】
グリペン・デモ開発計画とは?
【回答】
次世代グリペン開発の為のデモンストレーターの開発計画.
"INTERNATIONAL AIR POWER REVIEW"
Vol.25に載ったグリペン・デモの記事によれば,ノルウェーと共同で2007年開始.
2008年4月にロールアウトしたグリペン・デモ機は,計画開始から3年後の2008年5月27日にサーブ社のリンシェーピング(Linkoping)飛行場で,飛行時間30分,高度6,400m,速度593km/hの初飛行を実施した.
グリペン・デモは一見すると普通の複座型だが,主脚を胴体下部からフェアリングを追加した主翼付け根に移動させたので,胴体中央下面と主翼付根が異なるという.
また,主脚が外側に移設されたので,胴体下面のパイロンが従来の中央部の他,両側に二箇所が増設され燃料容量が40%増加したという.
外部燃料は33%増加し3.8トン,フェリー航続距離は従来のJAS39C/Dが3,037kmに対し,4,074kmに延びた. 構造強化や装備追加等でグリペン・デモは重量増加し,空重量は7.1トン,離陸重量9.1トン,最大離陸重量16.5トンになった.
重量増加に対応する為に,推力が35%増加したスーパーホーネットと同じエンジン
G.E.F414に強化され,空気流量が増えたので空気取入れ口は10%拡大された.
―――と,同記事は述べている.
詳しくは同記事を参照されたし.
赤とんぼワークス in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
青文字:加筆改修部分
【質問】
最臭兵器「シュールストレミング」の威力を教えてください.
【回答】
皆さんは,シュールストレミングという名の缶詰めをご存じですか?
聞いた事がある人は結構なグルメか,かなりの北欧事情通でしょうか.
要は,酸っぱい(シュール)味のバルト海産ニシン(ストロミン)を漬け込んだ,スウェーデン産の発酵食品で,常に発酵が進んでいる為に,ガスが生じて缶が膨れた状態になるそうです.
しかも,その匂いはクサヤの6倍以上で破裂の危険が在る為に,多くの航空会社では機内持ち込みを禁止しているというヤッカイなもの.
一説には,世界一臭い食品と言う話(^^;
http://www.ssksports.com/fjallraven/community/index.php?name=030401
そんな,ガス弾の様な凄まじいブツですが,ある奇特なマイミクさん〔mixi内における友人〕が入手,
「現地と同様に,春の訪れを祝う食品として食べてみよう!」
という事になり,天気も良くなった日曜の多摩川に9人ばかりが集まりました.
(写真1の左)は,既にパンパンに膨らんだシュールストレミング.
マイミクさんは,この缶詰め保存の為にわざわざ小型冷蔵庫を用意したという念の入れよう.
でも缶のラベルを見ると2度〜4度で保存,みたいな事を書いていました.
折角なので(?),イタリア軍のガスマスクあたりの化学戦ものアイテムでも持って行こうかと思っていましたが,それもヤボなのでイタリアとフランスのワインを持参.
一本はFIATブランドで出しているモンフェラート産の物です.
既に消毒用のエタノールまで用意されていました(笑)(写真1の中).
そしてバーベキューをする家族連れで賑わう河川敷から離れた場所でビニール越しに開封!(写真1の右)
プ〜ンと漂うのは,まさにドブの臭い(^^;
どちらかと言うと生ゴミ系ですが,アンモニア系の刺激臭では無いので,なんとか耐えれてちょっと離れると魚醤っぽい感じも無くはないのですが,1m以内ではかなりキツイですね〜.
見た目はオイルサーディンっぽいのですが…(写真2の左).
食べ方は,茹でたジャガイモと固いパン,スライスしたタマネギに少量のシュールストレミングを乗せて食べます(写真2の右).
まあ,味はニシンの塩辛といった感じでしょうか(笑
ちょっぴりパンに浸けたのは,ニョクマムっぽく頂けましたが…
いや,やっぱりドブの臭いがする….
ガスマスクを持って来なかった事をちょっぴり後悔しました.
写真3は,持って行こうかと思ったT35型ガスマスクの装着法を解説した,ピレリ社発行のブックレット.
ピレリ社はガスマスク以外にも,例の人間魚雷のフロッグマン達が着るゴムのウェットスーツや,循環器型のアクアラング装置も開発/製造していますね.
ただ,マスク越しでは物が食べれませんが(爆
こうしてまったりと世界の珍味や名作アニメの話で盛り上がりながら,対岸の桜を眺めつつ,ワインを飲みながらパンに汁をちょっぴり浸けたり,カズノコの部分だけ齧ったりしましたが,集まった9人でも一缶全部食べるのはギブ.
ともかく百聞は一見にしかず,を地で行く良い経験が出来ました(笑).
よしぞう(maro') in mixi, 2007年04月09日01:03
【質問】
スウェーデンの,冷戦中と冷戦後の兵器セールスについて教えてください.
【回答】
タイ空軍が,スウェーデン製戦闘機・JAS39グリペン戦闘攻撃機と,同じくスウェーデン製空対艦ミサイル・RB15Fの調達に踏み切りました.
Thailand signs for more Gripen fighters,
anti-ship missiles:Flight Global
スウェーデンは冷戦終了までは,永世中立宣言はしなかったものの中立政策を取っており,資本主義国であり立憲君主制国家でありながら,NATOにもWTOにも加盟しませんでした.
(もっともスウェーデンはNATOとはある密約がありました.
それはソ連が西側に侵攻したら,ソ連に宣戦布告をするというものでした.
これがスウェーデンが,永世中立宣言をしなかった理由だったと思われます.)
そのため,独自の兵器開発を行い,ユニークな兵器を開発しました.
サーブ社の戦闘機はいずれも,高速道路を滑走路に使う事を想定して,STOL機能を持っていました.
冷戦が終了し,スウェーデンが欧州連合に加盟した時点で,スウェーデンは中立政策を放棄.
また,サーブ社もBAEシステムズと提携して,それまで中立政策により規制されていた,武器の多角的販売も活発に行われています.
もっともこの規制も,果たして中立に乗っ取ったものかどうかも疑問なところがあります.
例えば陸自が使用している,リモコン操作のみで作動する指向性散弾・Fordonsmina
13はスウェーデン製で,当時日本はソ連と武装対峙をしていました.
日本はNATO諸国ではないという強弁もあるでしょうが,アメリカと軍事同盟を結んでいただけに,あまり説得力がないような.
Fordonsmina 13 - Wikipedia
バルセロニスタの一人 in mixi,2010年11月24日10:15
青文字:加筆改修部分
【質問】
アーチャー自走榴弾砲って何?
【回答】
FH77BW L52 「アーチャー」は,スウェーデンとノルウェーが共同開発した自走榴弾砲で,1995〜1998年にかけて開発された.
ボルボ建設機械製の6×6ダンプトラックA30Dのシャーシを基にし,荷台部分に52口径155mm榴弾砲FH77/Bを装備した無人砲塔を搭載.
砲塔に搭載された砲弾と発射薬の装填作業と射撃は,すべてキャビンからの指示と操作に基づいて,自動で行われる.
WW2の英軍にも「アーチャー」という対戦車自走砲があったが,それとは全くの別物.
ちなみにWW2英軍には,「アーチャー」という護衛空母も存在した.
混乱しなかったのか?
【参考ページ】
http://en.wikipedia.org/wiki/Archer_Artillery_System
http://sv.wikipedia.org/wiki/Artillerisystem_08
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14289330
http://mitsuboshi.exblog.jp/6351228/
【ぐんじさんぎょう】,2011/08/08 20:39
を加筆改修
FH70が案外高価なので,Archerの価格を調べてみたけれど,日本語だと資料ないですね〜.
さかきまもる in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2011年07月12日 23:37
◆◆スウェーデン軍用車輌
【質問】
スウェーデンの Strv103 ,通称Sタンクはどう見ても「戦車」ではないと思うのですが,この車輌が「戦車」のカテゴリーに入れられている理由とは何なのですか?
自分は「砲塔のないものは戦車とは呼ばない」と思っていたのですが,現代の「駆逐艦」や「巡洋艦」の呼称のように,「その国が戦車と呼べば戦車」ということなのでしょうか?
【回答】
・敵戦車を撃破可能な火力を持つ事
・(少なくとも正面からは)敵戦車からの攻撃に抗堪可能な装甲を持つ事
・単に自走可能なだけで無く,機動戦闘が可能な機動力を持つ事
が戦車(MBT)の定義です.strv103は行進間射撃が求められる以前の世代の車輌なので,回転砲塔を廃する替わりに車体全体の姿勢制御で照準を行いますが,上記三条件を満たしてますので,自走砲の類では無く,立派なMBTです.
【質問】
スウェーデンのStrv103戦車は「スウェーデンの環境に特化した」とよく言われていますが,日本で運用したらやっぱり役に立たないのでしょうか?
自衛隊向きの兵器なように思えますが・・・.
Strv103が「スェーデンの環境に特化した」と言われているのは,どの点をもってしてなのでしょうか?
【回答】
専守防衛と起伏の多く隠蔽が容易な地形を生かした伏撃.
それを生かす為の先制の一撃で敵を屠る,長砲身105mm砲と低視認性.
その辺がスェーデンの環境に特化した戦車ともいえる.
またStrv103戦車は殆ど突撃砲で,旋回砲塔を持たない.
その分,車体が砲塔を兼ねていると言えるほど姿勢制御機構が優れているが.
逆に言えば,そう言った運用以外は出来ないと言える.
ただ,その後に手堅くレオパルド2を採用していると言う点では,やっぱり無理があった模様.
確かに自衛隊向きかもしれんが,日本の場合は重要拠点の近くに着上陸される可能性が高いので,正面切って戦う場合や市街戦も考慮しなければならない.
そうなると固定砲は扱い辛い.
【質問】
スウェーデンはレオパルト2をStrv122として採用しましたが,戦闘機や潜水艦は自国生産している同国が,何故MBTを自国生産しなかったのですか?
【回答】
予算上の都合.
Strv103(Sタンク)の後継新型戦車は,開発はしていた.
これは,フロントエンジン式の車体にオーバーヘッド式砲塔に140mmないし120mmの自動装填砲と,同軸で40mm機関砲を装備した50t級MBTになる予定で,「仮称 Strv2000」と呼ばれて設計が進められていたが,仮に開発を完了して生産すると,一台あたりの価格がとてつもないことになると計算され,開発計画は断念された.
結局その分の予算でドイツからレオパルトUの特注仕様を導入する事になり,Strv122として制式化された.
ちなみにその価格だが,Strv122が1台約$721000なのに比べ,Strv2000は$850000(開発費別計)とのこと.
【質問】
スウェーデンの155oバンドカノンについてお聞きしたいのですが,当時としては特異な自走砲に思えますが,当時の各国の反応はどのような物だったのですか?
最後に初弾は手動装填,次弾以降は自動装填と言うような装填機構がよく判らないのですが,反動,ガス圧等を利用した方式なのでしょうか?
【回答】
バンドカノーンの自動装填装置は反動利用式.
乱暴に説明すると,シングル・アクションのオートマチック拳銃とほぼ同じ.
その速射性能は注目されたが,あまりにも高価なことと,機動性が皆無に等しい
(初期型は不整地だと10km/hしか出せない.後期型になっても大して変わっていない)
ため,「スウェーデンの特殊兵器」以上の評価は得られなかった.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
CV9040について教えてください.
【回答】
1984年から開発を開始し,1993年11月に配備された歩兵戦闘車.
CV90-40の主砲は,同じタイプのIFVの中では“世界最大”となる,ボフォース社製70口径40mm機関砲搭載
.
そのほかの武装は,歩兵制圧用の7,62mm機関銃,発煙弾投射機が両脇に3つずつ,同じく照明弾投射機も
.
車体はヘングルンズ・ビークル社,砲塔は機関砲と同じくボフォース社,車体全体の組み立て等をスウェーデン・オードナンス社が担当し,開発.
車体は小さく,平らで低い車高(全長:6.471m 全幅:3.192m 全高:2.5m)から隠密性の高さを実現
.
なお,全溶の車体構造になっているらしい.
整地での最高時速は70km,登坂力は60%,超提高1.0m 超壕幅2.4m.
エンジンは出力550hpのスカニア社製のDS14V8を搭載.
40mm砲の威力は高く,距離2000mで120mmの装甲板を貫通可能(APSFDS弾).
これは,IFVやMBTの正面装甲以外は問題なく貫通可能ということになる.
最大発射速度は300発/分.
自己装甲も1000の距離で23mm機関砲弾に耐えられる.
また,兵員搭載室の容量も広く,完全武装の兵員なら6名,最大では8名の兵員を収容可能(窮屈としか言いようが無い詰め込み方だが)
などなど,この手のIFVでは非常に高い完成度を誇っており,各国からの評価も高い.
このシリーズは陸軍採用の40mm機関砲搭載CV90-40のほかに,多くのバリエーションを持っており,特徴のひとつとなっている.
有名なところでは,30mm機関砲を搭載したCV90-30があり,ノルウェー陸軍ほか,スイスやフィンランド軍も採用している
ほかにも,
近接信管破裂効果弾を撃ちだす対空砲と,トムソンのCFSガーファーウト対空レーダーを搭載した,対空型のCV90−TriADカメレオン
105mm・120mm砲を搭載し,火力支援および,対戦車用として使うもの,
装甲指揮車,
装甲回収車
などあるが,その辺については詳しいスペックが見つからないので,あまり生産されていないのかもしれない.
名無し上級大将 ◆80fYLf0UTM(青文字)他 in 軍事板
【質問】
スウェーデンのIFV CV-90の乗車人数ですが,40mm砲と35mm砲搭載タイプに関して,資料によって「11名」というものと「10名」というものがあります.
30mm砲搭載タイプは11名のようですが,上記2つに関して,正しいのはどちらの数値でしょうか?
【回答】
CV90と言っても,派生型がいくつかあるワケです.
基本型となるStrf9030は,乗員3名+兵員7名の計10名.
スイスなどに輸出されるCV9030は,乗員3名+兵員8名の計11名が乗車できる様に改良されています.
乗員3名は元祖9040も派生型の9030も同じですが,乗員は前者が7名,後者が8名.
http://www.army-guide.com/eng/product2367.html?PHPSESSID=354cb6ff9c3a4c5e5a9cd0e3cb472dfb
http://www.army-technology.com/projects/cv90/specs.html
無印CV90,またはCV9040を11名乗車とするのは誤りです.
上記の下のサイトにあるように,9030の方がポピュラーであること,ナンバーの若い9030が基本形という錯覚が起きそうなことが誤りの原因ではないかと思います.
もちろん,30,40は口径ですから開発順序とは関係ありません.
MilitaryTechnology誌のIFV特集記事にも「CV90」の仕様として3+8名と記されていますが,主兵装は30mmであり,これはCV9030のデータです.
また,定番サイトであるグロセキュ
http://www.globalsecurity.org/military/world/europe/cv90.htm
も同様であり,このあたりからCV90の基本形が9030という誤りが拡がっているのではないでしょうか.
まあ,9040は2002年末に最後の納品が終わってラインから落ちていますから,現在ではCV90=CV9030としてあながち誤りではないわけですが.
軍事板
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