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欧州FAQ O-R (並びはほぼアルファベット順)
欧州FAQ目次


(画像掲示板より引用)


 【link】

Quick Jump

Poland

Portugal

Romania

●Poland

「Military Technology」◆(2013/06/04) BAE teams with Polish Defence Holding to pursue nation's MTP contract

「VOR」◆(2012/02/13) ポーランド人は原発建設に反対

「ニコニコ動画」:意外に強いポーランド軍

「ニコニコ動画」:ポーランド海軍広報動画

「ニコニコ動画」:ポーランド空軍

「ぶる速-VIP」◆(2010/05/16)ポーランド大使館からメール来たwwwww
>ポーランドの航空機墜落事故で,鳩山が葬儀に行かないというので,追悼のメールを出したわけだ.
>そしたら,

露探【円谷猪四郎】 in twitter(2013/10/23)
◆ 嘘はよくない.
>【中韓サヨナラ…世界の親日国】「美人の国」ポーランド,日露戦争から連綿と続く親愛感 日本人はモテモテ
>zakzak.co.jp/society/foreig…
> ポーランドはヨーロッパ有数の「美人国」であるばかりではなく,とにかく日本人というだけで「モテる」のである.
https://mobile.twitter.com/karategin/status/392924759324753920
◆ というか,
「お前の先祖はうちの先祖に良くしてもらったんだから,お前も俺が好きなはずだ」
なんてことを言う人間は,国籍に関係なくモテないのではないかと思われる.
https://mobile.twitter.com/karategin/status/392925109465251840
ユーリィ・イズムィコ in twitter(2013/10/23)
◆ 日本人の大嫌いな中国軍を撃退したヴェトナムの男や,アメリカに一矢報いたタリバーンが,日本でモテモテかどうか考えれば,普通一発で分かるよ,そういうの.
 宿敵ロシアに攻め込んだドイツの男だからスキスキって女の子居たら,多分相当特殊
https://mobile.twitter.com/CCCP1917/status/392927431251591168

「ワレYouTube発見セリ」:11 Lubuska Dywizja Kawalerii Pancernej (ポーランド陸軍,第11機甲師団)

「ワレYouTube発見セリ」:23 Baza Lotnicza w Min'sku Mazowieckim (ポーランド空軍)

「ワレYouTube発見セリ」:Czas Profesjonalistow - Korpus Podoficerow (sound fix) (ポーランド陸軍)

「ワレYouTube発見セリ」:Polish Land Forces 2007

「ワレYouTube発見セリ」:Wojsko Polskie - Czas Profesjonalistow (ver 3)

「ワレYouTube発見セリ」:Wojsko Polskie - Wojska L?dowe (ポーランド陸軍)

『Okre_ty szkolne Polskiej Marynarki Wojennej, 1920-1997』
ポーランド海軍の訓練船

『ポーランドを生きる ヤルゼルスキ回想録』(ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ著,河出書房新社,1994.5)

 戦時中は騎兵小隊長,戦後は国史最年少の将官となり,1981年には,国家元首たる上級大将(元帥任官は断固拒否)として,ある意味史上最大の国難――1939年には,「二つの」外敵がいて,国内は一つにまとまってた――を自力でなんとかしなけりゃならなくなった人の回想録.
 社会主義国家で将官を務めた人の回想録として,おそらく最も事実関係と客観性に重きを置いて書いた本だと思う.

――――――名無しの愉しみ in 軍事板,2010/01/19(火)
青文字:加筆改修部分

●Portugal

Portugal News Network

「朝目新聞」(2013/06/08)● ポルトガル人「外国人がポルトガルの事をどう思ってるのか知りたい」海外の反応

「山猫文庫」◆ 帝国の守護者(本編11回+外伝3回)
 ポルトガル海軍近現代史

『スペイン・ポルトガル史 新版世界各国史16』(立石博高編,山川出版社,2000.6)

 古代からの流れを押さえた上で,近代史に重点を置いて理解したいという人にお勧め.
 イベリア半島の文化的・思想的な土台から,近代の独裁体制や冷戦との関わり,民主化への動きとクーデターなどの動向と背景要素が,しっかり分かる.
 初めの章で,古代から現代までの概略が一気に語られ,その後の章から詳しい解説に入るので,全体像を把握した上で理解していける.
 図表や巻末資料など,データ面がやたら充実してるのもいい.
 保守とカトリックと体制が,ほぼイコールで結ばれる様になった経緯など,遥か昔の流れが近代まであと引きすぎてワロタ.
 こういうの読むと,日本の左翼的運動とか東大占拠とか,随分平和だったんだなと,改めて思うわ.
 70,80年代にクーデター問題が頻発して,国会に拳銃や軽機が持ち込まれる国は違うね.

――――――軍事板,2011/01/30(日)

◆O-R


 【質問】
 ポルトガル語の変遷は?

 【回答】

 イベリア半島の最西端には,ローマ帝国の属州ルシタニアが建設されていました.
 当時はポルトガルと言う地名は無く,ルシタニアもドーロ川の北の地域を含んでおらず,もっと東に広がり,現在のサラマンカであるサラマンティカと現在のメリダである古都エメリタ・アウグスタの2つの都市を含んでいました.
 この2つの都市は,現在はスペイン領です.
 リスボンは当時,フェニキア語で「美しい入江」を意味するオリシポと呼ばれており,当時はルシタニアの第2の都市で,港町の1つでしかありませんでした.
 従って,ルシタニアの地域=ポルトガルの領域というわけではありません.

 Portugalと言う言葉の原型であるPortucaleが,文献に現れたのは紀元前5世紀で,これは元々ドーロ川の河口域にあった2つの町,Portu(現在のポルト)とCale(現在のヴィラ・ノーヴァ・ガイア)を指していました.

 ローマ帝国が崩壊した後,この地には紀元411年からゲルマン民族のスエビ族が侵入し,ガリシアに居住して,その地でブラカラ(現在のブラガ)を首都とし,ポルトゥ(現在のポルト)を第1の城砦として平和国家を築いていました.
 次いで,西ゴート族が585年にスエビ族に取って代わり,711年にアラブ人が侵攻してくるまで支配を続けました.
 この様に,当初はラテン,次いでゲルマンの影響を受けていたのですが,意外にもゲルマンの影響はポルトガルの言語には殆ど残っていません.
 面白い所では,「盗む」を意味するroubarは,「荒らす,略奪する」を意味していたゲルマン語の動詞がそのまま引き継がれていたりします.

 アラブ人は,711~713年の2年間で,この地を席巻し,占領下に置きました.
 しかし,北部では早くからレコンキスタが始まり,1064年にはコインブラが奪還されています.
 ただ,アルガルヴェ地方と呼ばれていたポルトガル南部は,比較的長くアラブ人の占領下に置かれています.
 とは言え,スペインのグラナダが1492年に陥落するより遙か以前,1249年にこの地の最後のイスラーム都市ファロが陥落して,この地のレコンキスタは終わった訳ですが.

 この間,ポルトガルの言語にはアラブ語の豊富な語彙が導入されました.
 それは特に12世紀と13世紀の間に取入れられていきます.
 特に冠詞al-やa-で始まる商業用語には,アラビア語の影響が強く残っています.

 比較的早くアラブの占領から脱した事で,イベリア半島の北西では,ラテン語は隣国のレオンやカスティーヤの人々によって話されていた言語と,明確な相違を呈してきており,同時に,南部のモサラベの人々の言語とも相違してきました.
 こうして生まれたのが,現在のポルトガル語の原型であるガリシア・ポルトガル語と言う文学語です.
 文書形式では,この古い文学語は非常に洗練されたものとなっており,イベリア半島全土で特に詩に愛好される言語となっていきます.
 既に述べましたが,賢王アルフォンソ10世は散文に対して,決定的にカスティーヤ語に弾みを付けていますが,自分の詩句を書くのにはガリシア・ポルトガル語を好んで用いていました.
 また,その息子で,1279~1325年までポルトガル王であったディニス王も,自身が詩人王であったのですが,更に一歩踏み込み,ラテン語で書かれていた司法文書の総てを,ポルトガル語で作成すると言う決定を下しました.
 この様に,文学の世界に於て,先ずガリシア・ポルトガル語は権威を持っていきました.

 一方,学問の分野ではガリシア・ポルトガル語は,サンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼路の整備によって,フランスの修道会がイベリア半島に進出する様になると,その影響を受ける様になります.

 ところで,ラテン語からポルトガル語に移行する際に,音声学上重要な変化が9~10世紀に掛けて起きています.
 2つの母音に挟まれたラテン語の子音-l-と-n-の脱落がそれです.
 他のロマンス語には,例えば「色」を表すColorや「王冠」を表すCoronaの様になっているのに,ポルトガル語では,「色」は-l-が消えてcorとなり,王冠は-n-が消えてcoroaとなります.
 他にも「悪魔」を表すDiabolumは,カスティーヤ語ではdiabloですが,ポルトガル語ではdiaboとなり,「月」を表すLunaは,カスティーヤ語ではそのままlunaですが,ポルトガル語ではluaとなっていたりします.
 尤も,現在のポルトガル語には-l-や-n-が無い言語では無いので,注意が必要ですが.
 この脱落は,ラテン語の単純子音の場合にのみ出て来て,重子音,つまり,-ll-や-nn-の場合は,それぞれ1個ずつ綴りが欠落し,単純に-l-と-n-の形で保持されています.
 例えば,「ボール」を意味するBullaは,ポルトガル語ではbolaとなり,「年」を意味するAnnumはanoとなる訳です.
 この他,アラビア語,カスティーヤ語,フランス語,イタリア語,英語と言った言語から入ってきた単語には,下の単語にある様に,-l-と-n-が残っているケースが多くあります.

 余談は扨措き,13世紀初頭にはまだガリシア語とポルトガル語は明確に分れてはいませんでした.
 但し,ポルトガルは独立王国として12世紀から存在しており,王国はレコンキスタによって,そしてフランスからやって来た貴族達を迎えて形成されていました.
 1085年のトレド奪回に続き,カスティーヤのアルフォンソ6世は,自分の2人の娘をブルゴーニュ貴族の2人の息子と結婚させました.
 その内の1人,ライムンド・デ・ボルゴーニャには,現在のガリシアの地を譲り,エンリケ・デ・ボルゴーニャには現在もスペインとポルトガルの国境線となっているミーニョ川の,向う側の南部領を譲ったのです.
 エンリケの息子,アフォンソ・エンリケスはアラブの領地の大部分をレコンキスタによって取り戻し,カスティーヤ・レオン王のアルフォンソ7世から独立を果たした後,1139年に初代ポルトガル王になります.

 王達の最初の居城は,北のギマランイスでしたが,その後コインブラに遷都し,最後にモサラベの中心地であるリスボン近郊のシントラに移りました.
 こうした経緯を経た為,北からやって来たガリシア・ポルトガル語は,コインブラやリスボン地方で話されていた日常語の間の,微妙な混合物の成果となりました.
 14世紀以降,この地方からポルトガル語の規範となっていく革新が始まり,それは,更に海の向こうからやって来る影響を広く受容れて変化していく事になります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/08 23:07
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 1960年代頃,アンゴラやモザンビーク,ギニアビサウなどポルトガルの植民地では独立運動が起こり,独立を認めないポルトガルと1975年のまで延々と戦争が続きましたが,その当時1960年~75年頃のポルトガル軍の兵力と装備について教えてください.
 特に植民地に派遣されていた部隊の装備や規模について知りたいです.よろしくお願いします.

 【回答】
 とりあえず手元資料には陸軍のものは無いのであしからずご了承下しい.

 空軍については,兵力9,000名(1963年)で,350機の航空機を有していました.
 Portugalの空軍司令部は3つに分かれており,
一つは本土防空の為とNATOを構成するLisbon,
一つはAngolaのLuanda,
もう一つはLourencoMarques(今のMozambique)にありました.
 NATOには,P2V-5哨戒機を供出しているほか,本土防空にF-86F戦闘機を2個飛行隊保有しています.
 輸送機としては,NordN.2502Noratlasse×6が軍用輸送機の主力で,DC-6/C-54/C-47が少数機属していました.
 SAR任務には,SC-54DとUH-19,AlouettteIIが就役しています.

 空挺部隊は,1個連隊と2個独立大隊により構成されています.

 訓練シラバスは,ライセンス生産のChipmunkから開始し,Harvardに進み,T-33で高等訓練を受けると言う形になっています.
 なお,T-37Cが18機,COIN任務の為,MDAP供与されました.
 また,Angolaには空軍指揮下で,飛行クラブの人々で構成された義勇兵飛行隊があり,ここでは,ライセンス生産のAusterD.5/160観測機を連絡と偵察に用いています.

 後に,G.91R/4と,西ドイツから中古でG.91R/3が引き渡され,Angolaなどで用いられ,一部は引き揚げの際にR/4が数機現地政府に引き渡されました.
 同様に,N.2502も数機が引き渡されています.
 また,植民地ではAlouettteIIIが攻撃用に使用され,フランス製Cessna337の軍用型がAusterの後継に使用されました.

 海軍については,1967年の資料ですが,1,400名の士官と13,600名の兵(海兵隊含む)から構成されています.
 潜水艦は,France製Daphne級が4隻,英国製戦時型S級が3隻,英国製の戦前型駆逐艦Vouga,Italy製軽駆逐艦1隻,France製A69フリゲート4隻,米国のDealey級を元にした国産フリゲートが4隻,米国製戦時型DEが2隻,旧英国製戦時型Bay級フリゲート4隻,同River級フリゲート2隻,戦前に建造した国産フリゲートが1隻,旧英国の戦時型Bangor級掃海艇をコルベットにしたのが1隻あります.
 これが第一線兵力で,このほか,Bay級フリゲートを改造したもの,国産スループを改造したもの,Flower級スループの改造,Bangor級掃海艇を改造したもの,旧英国戦時型島級とローラーを改造した測量艦が多数あります.

 哨戒艇(これが植民地での主力)として,米国の援助で建造したMaio級大型哨戒艇が5隻,France製Maio級大型哨戒艇が3隻,米国製PC級大型哨戒艇を6隻保有しています.
 また,小型哨戒ボートが30隻ほどありました.
 上陸用舟艇としては,英国製LCT(4)が4隻,LCMが26隻,LCAが17隻がありました.

 後に,国産のArgos級大型哨戒艇7隻,Jupiter級哨戒艇2隻,Bellatrix級哨戒ボート4隻,LCT2隻はAngolaに接収され,Mozambiqueには形見分け的にPortugal海軍から艦艇が譲渡されています.

 配備ですが,アフリカにはAngola,Mozambique,PortuguseGuinea(今のGuineaBissau)に,フリゲートを旗艦に,大型哨戒艇と小型哨戒ボート,上陸用舟艇が配備されていました.

眠い人◆gQikaJHtf2


 【質問】
 スノピラ将軍のクーデターの顛末について教えられたし.

 【回答】
 ところで,海外領土での長期間の戦争は,既にポルトガル本国を相当疲弊させていました.
 本国市民の中にも疑問を持つ者が出て来て,また,海外の動きから影響を受ける者も出だしました.
 特に,この戦争に駆り出されていた青年層は,植民地の現実を目の当たりにして,自分達の戦う意味を考え,何の利益も齎さない本国政権を維持する事に懐疑的になっていきます.
 特に,中堅将校の地位にある士官にこうした動きが顕著となり,彼等は社会党や共産党に呼応して,ポルトガル国軍内での活動を密かに拡大させていきます.

 1973年6月,カエターノ政権はアフリカに従軍している大卒予備役兵に1年間の士官学校に於ける集中講義により,現役将校に昇進させる政令を出します.
 普通,士官学校での講義は4年かかるので,促成栽培で将校を量産しようとした訳です.

 これに憤ったのが,現役将校達でした.
 8月18日,ギニア・ビサウの国軍将校クラブに20数名の大尉が集まって,政府の決定が如何に現在大尉の地位にある者に影響を与えるのかを論じ合って,25日,闘争委員会が結成されました.
 9月5日,オテロ大尉は,6月の政令を撤廃する抗議文を投函しました.
 この動きは,各植民地に広がり,アンゴラで94名,モザンビークで106名,リスボンで190名が同じ抗議文をカエターノ政権に送り付けたのです.

 また,同じ6月には1961年から徴兵されてアフリカで戦った大学卒予備役兵の会議である海外戦闘者会議が政府によって主催され,唯一不可分のポルトガルの擁護を決議します.
 目の前で,既に勝ち目のない戦闘を行っていた国軍の職業軍人達は,職業軍人の誇りを刺激され,直ちに行動を開始しました.
 本国ではエアネス少佐,ヴァスコ・ローレンソ大尉が,ギニアではオテロ大尉,モザンビークではマリオ・トメ少佐が中心となり,アンゴラでも同様の組織が結成されました.

 特にギニアでの動きが鍵を握っていました.
 この地で8月まで総督を務めたスピノラ将軍が,この地に有能なチームを造り上げていたからです.
 このスピノラ将軍は,サラザールの側近を務めた父親を持ち,1961~64年までアンゴラで大佐として騎兵大隊を率い,帰国後大将となり,共和国護衛隊第2司令官に就任していました.

 1968年にギニアに総督として赴任しますが,午前中はヘリコプターで現地住民の部落を訪れ,首長と接触を深め,予備役兵の教練を自ら実施,午後は軍病院を訪れて,戦傷者の名前や症状を覚え,彼等一人一人に対する忠告を医師や看護婦に与えたと言う,それまでの総督とは全く違った総督でした.
 1972年,彼は老いぼれたアメリコ・トマス大統領の後継者として,選挙管理委員会に支持され,カエターノ首相もこれを賛成します.
 しかし,極右の反対に遭い,一旦,ギニアに退却しました.

 1973年6月,スピノラは「アフリカ戦線に於ける最初の英雄」として,リスボンに凱旋しますが,その処遇は遅々として決まりませんでした.
 余りに国民的人気が高すぎて,反って政権の疑念を招いた為です.

 さて,混乱状態の1973年10月12日,政府は問題の政令を無効にする事を決め,国防省の人事を一新しました.
 これによって,中堅将校の運動は終息に向かうかに見えたのですが,11月24日,彼等将校団の会合が開かれ,初めて中佐以上の将校としてルイス・バンゾーラ中佐も参加します.
 この時の議論は如何に軍の威信を取り戻すかと言うもので,議論白熱し,結論は出ませんでした.

 12月1日に再度集まった彼等は,3つの戦術を討議しました.
 1つは,クーデターによる軍事委員会の設置,2つ目は軍の監視の下に行う自由選挙,3つ目が政府に圧力を掛ける事に拠る威信の回復で,此処に集まった86名の将校達は,3つ目の戦術を採択し,その為の圧力団体として,国軍運動(MFA)を結成する事になりました.
 これには陸海空三軍を包括し,統括委員会には陸軍将校を中心に19人の幹部を選出しました.
 また,リーダーの選出も行われ,1位がコスタ・ゴメス参謀総長,2位がスピノラ将軍,3位が降下部隊のカウルツァ将軍でした.

 これに対抗する為,政府は同じ月に軍人の給与を画期的に引上げる予算案を通過させました.
 中堅,幹部将校と無能な政府の対立が続き,この年は緊張を孕みながら何とか平穏に終わりました.

 しかし,翌年,ポルトガル本国は劇的な展開を迎える事になります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/02/17 22:31

 1973年,内外に批判が起きていたポルトガルでは,MFAのメンバーが公然と政府批判を繰り広げていました.
 そして,彼等の代表となる人物を選びましたが,1位はコスタ・ゴメス参謀総長,2位はスピノラ参謀次長,3位は空挺部隊のカウルツァ将軍でした.

 1974年1月にモザンビークで発生した白人農園主夫人殺人事件に端を発した暴動では,更に軍の威信が低下し,モザンビークのMFAメンバー達は,同地を訪れたコスタ・ゴメス参謀総長に体制批判をぶちまけます.
 コスタ・ゴメス参謀総長は,頭を垂れて体制批判を聞きますが,抗議文はカエターノに送る様求めました.

 こうした中で,本国にいたMFAの中心メンバーであるヴァスコ・ローレンソ少佐とオテロ大尉は,スピノラ参謀次長に解決を委ねました.
 スピノラは彼等の言葉を突っぱねる様な事はせず,暖かく迎え入れました.
 この事から,スピノラ将軍は,MFAを公然とは支持しないまでも,支持者である事が彼等に判りました.
 しかし,スピノラ将軍は同時に,非常に政治的野心が強く,大統領就任の為に,MFAを踏み台にする下心を持っていた事も彼等はうかがい知れました.

 モザンビークの事件に端を発したMFAの政治化は,保守的な将校を憂慮させ,1月末に彼等の間を回った差出人不明の回状には,MFAの中立化と脱政治化を求めています.
 しかし,MFAを利用しようとするスピノラ将軍は,いよいよ政治的な言動を決定的にし,2月22日,スピノラ将軍は彼の考えを著した『ポルトガルとその将来』を出版しました.
 この本では,政府を決定的に批判し,植民地政策は軍事的解決は覚束なく,政治的解決が必要であると主張しました.
 当然,本は飛ぶ様に売れ,ベストセラーとなります.
 MFAでもスピノラ将軍の著作は,特に若手将校に熱狂的に支持されましたが,幹部達は,スピノラを警戒し,MFAとは一定の距離を置くべきだと考えていました.
 この対立は,後にスピノラが政権を執った後に爆発することになります.

 3月6日,カエターノ首相は,議会で,あくまで植民地を擁護すると述べると共に,自著の『海外に於けるポルトガル存在の理由』をスピノラの著書に対比させ,暗にスピノラ批判を行っています.
 ただ,カエターノ首相の失策は,こうした反政府的言辞を弄していたにも拘わらず,スピノラの著書を発売禁止にしなかった事でした.
 カエターノはスピノラを懐柔してMFAを解散させようと図りますが,策士策に溺れ,カエターノの無能振りが反って明らかになる事になってしまいます.

 3月5日,社会党の知識人でもあるメロ・アントゥネス少佐は,約200名の将校が集まるカスカイスでの集会で,植民地戦争の終結に伴う政治経済改革の必要性に言及したもので,空軍将校が文面が過激すぎると批判しましたが,結果的に110名が署名しました.

 3月8日,カスカイスの集会を知った陸軍大臣は,ヴァスコ・ローレンソなど4人の主要メンバーをアゾレス島やマデイラ島に左遷する事にしました.
 3月14日,陸海空三軍の将官は,国会で政府の政策を支持する事を誓約しましたが,コスタ・ゴメス参謀総長とスピノラ参謀次長はこれを拒み,遂に解任されます.

 3月16日未明,リスボンの北100kmに駐屯するカルダス・ダ・ライニャ第5駐屯部隊が決起し,リスボンに向かいますが,彼等は国家防衛警察とポルトガル軍団によって阻止され,約200名の将校が逮捕されました.
 軍と政府の対立は決定的になっていった訳です.

 こうした中,MFAの中心メンバーであるオテロはクーデター計画を練っていました.
 先ずは,マスメディアの掌握.
 これにより,一般大衆を味方に付けて自然発生的なMFA支持の流れを作ろうと言う訳です.
 体制側の国営放送をストップし,ポルトガル・クラブ放送を通じて声明文を流すには,予備士官であった同放送局の局員が協力を申し出ました.
 また,態度を明確にしていない降下部隊と海軍海兵隊の中立の約束を取り付け,更にラジオ・電話・無線についても協力を取り付ける事が出来ました.
 大統領,首相,植民地総督を辞任させた後には,政治犯を釈放し,検閲を廃止するなどの措置を行いますが,政府の顔は,スピノラが国家救済委員会を設置し,その総司令官になる事となります.

 本国のMFAメンバーはこうしてクーデター計画を練っていきますが,海外のMFAメンバーは情報不足の為,その準備が最終段階である事を知らず,又,MFAの高官の間でも,軍隊を軍の演習場に集結させ,其処から大統領辞任と国会解散を迫るべきだとの考えを示す者も居て必ずしも一枚岩ではありません.

 オテロは,こう言って反論します.
 「政府はたじろぐ軍人を味方に付け,NATOやフランスに援軍を要請するであろう.政府が電話・電気・瓦斯・水道をストップする事もあり得る.
 寧ろMFAは,一気に街頭に軍を繰り出して力を誇示し,24時間以内に決着を付けるべきだ」

 4月24日,革命の前日に,オテロは妻にこう言い残して家を出ました.

 蹶起の時間は明朝3時.
 ポルトガル・クラブ放送から,午前4時に我々の声明文が読まれる.
 ラジオをかけなさい.
 若し読まれれば,革命の第一段階は成功だ.
 妻が若し読まれなければ?と聞いたら,彼はこう答えました.

 次のニュースを待て.
 我々の声明文ではなく,体制側がクーデター失敗を宣言したら,もう終わりだ.
 妻は心配そうに更にこう聞きます.
 「それで貴方は?」
 その答えは,「多分長期の豚箱入りだ」というものでした.

 翌朝4時26分,ポルトガル・クラブ放送はMFA最初の声明文を読み上げました.
「こちらはMFA司令部.
 市民の皆さんは家から出ないで平静を保って下さい.
 流血を成る可く避けるべく,皆さんの協力をお願いします.」
 4時45分,第2のコミュニケが読まれました.
「軍隊,警察の者に告ぐ.
 直ちに彼等は持ち場に戻り,MFAの命令を待て.
 部下をMFAの軍人と戦わせる指揮官は,厳しく罰せられるであろう」
 11時45分,第3のコミュニケが読まれます.
「こちらはMFA司令部.
 長期間に亘って国民を弾圧してきた体制を打倒する目的で蹶起した我々は,ポルトガル全土を制圧した.
 間もなく解放の時が来る.」
 正午過ぎ,女性の声で次のコミュニケが読まれました.
「こちらはMFA司令部.
 現在起こりつつある歴史的事件の展開についてお知らせします.
 軍の報告に依れば,MFAは次の場所を掌握しました.
 ポルトガル軍団司令部,国営ラジオ・テレビ局,ポルトガル銀行,国軍総司令部,国防省,ポルテラ空港,軍事基地…」

 そして,この放送が流れた頃,スピノラに全件を委ねられた観光情報省の若手官僚2名が,共和国警備隊の本部にいたカエターノに辞任を迫っていました.
 カエターノは,
「政権を巷の無法者に渡す訳にはゆかない.
 スピノラがMFAを掌握しているのなら,スピノラに渡すのは構わない」
と言い,伝言を側近が書き留めて,スピノラに渡す事になります.
 スピノラはそれを突き返し,
「私は彼自身が書いたものでなければ受け取らぬ!」
と言い放ちました.

 その時,カエターノ首相からスピノラに電話がかかり,降伏の意志を伝えます.
 既に国民が共和国警備隊の前に押し寄せ,装甲車が広場を埋めていました.

 しかし,カエターノの降伏条件はスピノラへの降伏であって,MFAの降伏ではありません.
 スピノラはMFAの大佐以上に連絡を取ろうとしましたが,残念ながら彼等は彼方此方飛び回っており,連絡が付きませんでした.
 一方,MFAは,護衛隊を包囲していた部隊のサルゲイロ・マイア隊長をカエターノ首相への降伏勧告使節として派遣しましたが,カエターノはスピノラに政権を譲ると断固として聞きません.
 そうこうしている内に,午後6時,スピノラが共和国警備隊本部に到着し,正式に政権を委譲されました.

 トマス大統領,カエターノ首相を始めとする旧政府要人は,全て軍用機でマデイラ等に移されました.

 クーデターはほぼ無血で終結しました.
 しかし,スピノラは大統領の地位を得たつもりになった訳ですが,MFAのメンバーはそう考えてはいませんでした.
 そして,今度はMFAとスピノラの対立に発展していきます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/02/18 23:56

 さて,カエターノから権力を奪取した筈のスピノラでしたが,MFA幹部達とは微妙な温度差がありました.
 特に,植民地体制に関してそれは顕著で,MFAは既に植民地での戦争に意義がない事を認め,さっさと戦争を終結させて,植民地を完全に独立させる事を目指し,スピノラは自治権を与えれば植民地解放勢力はあっさり引き下がるであろうから,植民地に自治権を与え,ポルトガル連邦の一つの州として見做す事を目指していました.
 謂わば,スピノラは未だに旧体制の考えを引き摺っていた訳です.

 1974年4月26日13時30分,テレビでMFAの中核である救国軍事委員会が紹介されました.
 そして,テレビに映ったスピノラは,近く臨時政府を組織し,その首班を任命する事,1年以内に総選挙を実施して新憲法を制定すること,新憲法下で大統領と立法府が選出され次第,臨時政府はこれに政権を委譲して解消する事,それまで救国軍事評議会は政府と並立する事,海外領土の将来の地位は,「ポルトガル国民の総意によって」決定する事を宣言しました.

 夜になると赤いカーネーションを手にした群衆が,政治犯が収容されているカイシャス監獄の前で政治犯の解放を一目見ようと集まってきました.
 また,リスボンの其処此処で,民衆は喜びを爆発させました.
 アンゴラの都市では,何千人と言う人々が広場に繰り出し,ニュースに耳を傾けていました.
 既に,PIDE/DGSはなりを潜め,警察学校の生徒が町の治安維持に当っていました.
 モザンビークでも,各地で町の壁に書かれたDGSやポルトガル青年団(MP)の文字が消され,「革命万歳!」「民主主義万歳!」と言う落書きが殴り書きされていきます.

 4月28日12時30分,フランスに亡命していた社会党党首マリオ・ソアレスが列車でリスボンに帰還し,7,000名の群衆が彼を出迎えました.
 同じ日,13年間投獄された経験を持つ共産党党首アルヴァロ・クニャルがリスボンに帰還しました.

 4月26日以後,3週間の内にポルトガルは百家争鳴状態となり,右は王党派から左は毛沢東派まで,50の政党が乱立し,政治権力は政党と軍部に二分されました.
 更に,軍部の中は,スピノラを中心とする保守派と,MFA政治委員会を中心とする急進派に分れています.

 5月15日,挙国一致臨時政府が組織され,大統領にスピノラ,首相に自由主義者の弁護士で左翼嫌いのパルマ・カルロスが首相になります.
 とは言え,この内閣は旧体制以外の有りと有らゆる政党を受容れ,社会党のマリオ・ソアレスは外相となり,ポルトガル民主運動のフランシスコ・ペレイラ・デ・モウラ,人民民主党のサ・カルネイロ,共産党のアルヴァロ・クニャルが無任所相として入閣していました.
 本来,共産党は軍部にとって不倶戴天の敵であり,スピノラは彼等を好意的に見ていませんでしたが,共産党を内閣の中に取り込んだのは,共産党がMFAに深く浸透し,革命のプロセスに深く関わっていたので,政府に参加させる事で責任を分担させる方が得策だと考えた訳です.

 しかし,この内閣は前途多難でした.
 43年間独裁体制の中に押し込められた人たちが,一気に解放されたのですから,混乱状態が彼方此方で発生します.
 労働者は労働組合を作って賃上げを要求し,農民は識字運動への参加を求められました.
 一方で,革命の混乱を嫌って投資が逃げ,観光客の減少,移民達の送金が跡絶えるなどの経済的混乱も強まり,失業率も上昇し,経済は悪化していきました.
 労働者や農民はストやデモに参加し,放送局は毎朝その日のデモのスケジュールをアナウンスしている程でした.

 スピノラはこうした民衆の革命熱を冷まし,自らの政治的イニシアチブを掌握しようと,MFAの解体を図ります.
 先ず,スピノラはMFAの調整委員会を自らのカリスマ性を発揮できる国政評議会に吸収させ,此処に反逆分子を閉じ込めて意のままに政治を動かそうとしたのです.
 更に,保守的な中流以上の市民を味方に付け,日に日に力を付けつつあるマルクス主義を粉砕する計画も持っていました.

 ところが,民衆はスピノラの先を行っていました.
 ポルトやコインブラ,エヴォラなどの各都市をスピノラが回ったときのこと,彼の回りに集まった民衆は口々に「MFA万歳」を叫んでいました.
 唯の一人も,スピノラへの讃辞を言う者はいませんでした.

 国政評議会とMFA調整委員会の合併も上手くいきませんでした.
 調整委員会はその後もMFAの下部機関として存続したからです.

 MFA調子委員会の取り込みに失敗した右派勢力,即ち国政評議会,パルマ・カルロス首相と人民民主党,MFA内部のスピノラ派,政府に代表を送れない保守政党は右翼の砦を作っていきます.
 他方,MFA調整委員会,MFAの大多数,左翼政党と,その傘下の民衆運動は左翼の城塞を作っていきます.
 政府は,全く二分される事になりました.

 7月5日,パルマ・カルロス首相は,3ヶ月以内に大統領選挙を行う権限,1975年3月31日以前に予定されている総選挙の1976年11月までの延期などを国政評議会に提案し,承認されなければ首相を辞すると脅迫しました.
 彼は,総選挙の延長で時間を稼ぎ,MFA綱領に代る新憲法を制定し,国内情勢の沈静化を待って,植民地問題をスピノラの連邦制案に沿って解決する事を考えていました.
 これにより,スピノラの大統領としての地位は確立される訳です.

 7月5~9日の間,国政評議会は徹夜で審議を行い,「この提案が承認されれば,スピノラの独裁体制が固まり,再び暗黒時代に戻る事になる」という意見が多数を占め,その提案は否決されてしまいます.
 結局,風を読めなかったパルマ・カルロス首相は退陣に追い込まれました.

 その後,後退していた右翼勢力の政党として民主社会中道党が生まれました.
 この党の支持者は,サラザール,カエターノ政権時代の閣僚,カトリックの高位聖職者,独占企業主などが顔を揃えていました.
 この他にも,右翼小政党が多数誕生し,左翼の集会は屡々彼等に妨害される事となります.
 しかし,MFAへの国民の支持は変わりませんでした.

 さて,第1次臨時政府は崩壊し,第2次臨時政府が出来る間,国を統治したのは国土治安作戦司令部(COPCON)です.
 この組織の目的は,労働争議に調停者として介入し,民間の協力を得て治安を維持する事,MFA綱領の完全実施,反革命のクーデター阻止でした.
 司令官には,参謀総長だったコスタ・ゴメス将軍が就任し,副司令官にはMFAの幹部であるオテロが就任しました.
 但し,実権を握っていたのはオテロです.
 オテロは,スピノラの部下としてギニアで3年間仕えており,スピノラはオテロを自分の手足と信じて疑いませんでした.
 しかし,既にオテロはスピノラの掌中から出ていました.

 6月11日,スピノラは自分の腹心の部下であるシルヴェリオ・マルケスをアンゴラの司令官兼総督に任命しました.
 ところが,アンゴラのMFAはこの任命を拒否します.
 そして,オテロもその拒否に同意を与え,国政評議会は救国軍事評議会のメンバーであるローザ・コウティーニョを新たに司令官兼総督に任命しました.

 7月17日,2ヶ月の政治空白の後,第2次臨時政府が成立します.
 首相は反体制運動の長い実績を持つヴァスコ・ゴンサルヴェス大佐,進歩的左派に属するメーロ・アントゥネス少佐,ヴィクトル・アルヴェス少佐が無任所相として入閣し,17のポスト中7つまでが軍人に依って占められる事になります.
 こうして,MFAの勢力は増大し,スピノラは名ばかり大統領になった訳です.
 〔略〕

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/02/19 22:59

政党乱立の図
(画像掲示板より引用)


◆Poland ポーランド


 【質問】
 ポーランドは大変だな.
 位置的にもきついしね.
 スイスみたいな立場にはなれないのかな??

 【回答】
 アルプスに位置するスイスは,地形上極めて攻めにくく,国防意識も高い.
 また,攻め取るに足る資源や土地が乏しい.
 対して,ポーランドの国土の大半は平地であり,守りにくい地形だ.
 それゆえ強力な機動軍を持つ軍にとって,絶好の草刈場だった.
 また,通行路としての地政学的価値も大きい.

機甲自転車 : 軍事板,2003/03/25
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 フサリアとは?

 【回答】
 14~18世紀にかけて活躍したポーランド王国の重騎兵.
 貴族の子弟から選抜して編成され,兜,胸甲をつけ,長槍,サーベル,日本の斬馬刀に相当するコンツェッシュと呼ばれる長剣を基本武装にピストル,短弓も用いたとされる.
 鳥の翼を模した特徴ある羽飾り,そして豹などの毛皮をまとった姿がかの国ではポピュラーだが,儀典用ともいわれ,実戦では外したともされる.

 ポーランド王朝全盛期に活躍したため,今でもかの国の国民の間では人気が高い.他の西欧諸国民が広く認知したのは,1683年のオスマントルコ帝国宰相カラ・ムスタファによるウィーン包囲の解放戦争の際だろう.
 3万の兵を率いた国王ヤン・ソヴィエスキ3世は,オーストリア及びドイツ諸邦軍と合同して,数で勝るトルコ攻囲軍を撃退,ウィーンに入城した.
 このとき,全軍のスピアヘッドとなったのが,7500騎のフサリアだと言われる.

 その後,ポーランド王国の衰退とともに,フサリアは縮小,1775年に廃止される前は儀典用部隊になっていた.
 ただ,今も伝わるフサリアの絵,銅版画などは,この時期の過去の栄光を華やかに映したものが多いという.

フサリア

ゆずこせう in 2012年02月06日22:46
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 冷戦時代のポーランド軍の資料はありませんか?

 【回答】
ワルシャワ条約機構軍特殊部隊 (MBミリタリーブックス)

は冷戦中の資料ですし,今となってはちと古すぎますか・・・

Warsaw pact ground troops - cold war era
http://www.militaryphotos.net/forums/showthread.php?101350-Warsaw-pact-ground-troops-cold-war-era

 画像としてはここも面白いですが,探すのが大変です

Polish Soldiers all over the World.
http://www.militaryphotos.net/forums/showthread.php?76583-Polish-Soldiers-all-over-the-World

 現代ポーランド軍スレですが,もしかしたら冷戦時代のもあるかも??

ポドハレライフル旅団(ポーランドの山岳歩兵)
写真1
写真2
写真3

 独特のマントが特徴的.
 ポドハレ(山岳)地域の民族衣装を元に発展したのであるとか.

 ただポドハレライフル旅団は,ソ連邦時代においては国境警備隊管轄という話だが詳細不明.
 ソ連邦解体後,陸軍管轄になり現在に至るという流れらしいが・・・

 資料がNeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeee

CRS@空挺軍 in mixi,2010年03月07日15:05
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 共産政権下のポーランドでは,貴族(士族)・地主などはやはり撲滅されたのでしょうか?
 ポーランドなんかは小貴族が多いので,絶滅させるのに苦労したんでは?

 【回答】
 ポーランドでいうと,30から40家あったマグナートが大名なら,100万人もいたシュラフタは士族.
 国土分割後シュラフタの多くは没落し,ロシア帝国の官僚や地主層となったが,第一次大戦後独立すると憲法でシュラフタなどの身分制は否定される.
 四民平等というわけだが,一応地主層として旧シュラフタは残っていた.

 が,ドイツによる占領で国土が荒れ果て,社会主義体制のもとでは農地改革が進み,地主という社会階層さえほぼ消滅してしまう.
 かわりにいわゆる「赤い貴族」が出てきたが.

 しかし実は,ポーランドでも職業軍人には貴族出身者が意外と多い.
 たとえば元ポーランド大統領のヤルゼルスキ将軍も貴族の家柄である.

 こういった家庭では外での建前とは別に,家の中では貴族の伝統や誇りが守り伝えられていたとか.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ポーランド軍のグロム部隊って,ロシアのスナツペズみたいなもん?

 【回答】
 スペツナズと言うよりアルファかな?
 スペツナズの様なゲリラ戦部隊というよりもCT部隊.
 海外での任務経験が豊富で,92年と創設からそれ程長くないにも関わらず,ハイチ,ボスニア,アフガン等に展開している.
 この部隊の創設には,SASやDELTAが関わっており,装備に関しても米英の特殊部隊と同様の物をしようしている.

熊男 ◆f3i1ZVfXIQ : 軍事板,2003/03/25
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ポーランドのキロ型潜水艦について教えられたし.

 【回答】
 ポーランドに引き渡されたワルシャワンカ(キロ)型潜水艦「オルゼル」Orzel(291)は,サンクトペテルブルク市にあるアドミラルティ造船所で建造.
 1986年6月29日にポーランド海軍へ引き渡されました.

 引き渡されるまでは,ソ連潜水艦としてB-351の仮番号が付けられていました.

 本艦は,ワルシャワンカの初期輸出ヴァージョンである877E型になります.

 しかし,ポーランドが購入した877型は本艦のみで終わりました.
 1987~89年,877型よりも一世代古い641(フォックストロット)型の中古艦が2隻,ポーランドにリースされました.

 この事で,西側観測筋の間では
「キロ型潜水艦は,バルト海で運用するには大き過ぎる.
だから,わざわざ旧式のフォックストロット型を導入したのだ」
という見方が出てきました.

 確かに641型は水中排水量は約2,500トンであり,877型の約3,000トンよりは「小さい」ように思えます.
 しかし,艦の寸法を比べてみると,877E型は全長72.6mであるのに対し,641型は全長91.3mと,逆に641型の方が約20メートルも長かったりします(^^;

 この点からも,西側観測筋の「キロ級はバルト海で使うには大き過ぎる」という見方は,見当ハズレも良いところである事が分かるでしょう.
 それに第一,当のロシア(ソ連)海軍も,バルト艦隊に2隻の877型潜水艦を配備しているんですが(^^;

 ポーランドが新鋭の877E型の後に,「旧式」の641型を導入したのは,ただ単に,お金が無かったからでしょうね.
 それは,この旧式中古艦2隻を,購入ではなくリースという形をとっている事からも明らかです.
 ちなみにこの2隻は,ソ連邦解体後,ポーランドに無償譲渡されました.

 現在,"Google Earth"でポーランドのグディニヤGdyniaを見ると,浮きドックに載せられた「オルゼル」が写っています.

Морские Силы~ロシア・ソ連海軍~
2007/6/16(土) 午後 6:19


 【質問】
 ポーランドに配備されるMDって,何処から何処に向かう弾道ミサイル用なんでしょうか?

kitamoto

 【回答】
 基本的にイランから欧州への弾道ミサイル用です.

唯野

 独仏英をイラン東端から狙うと,ちょうどポーランド上空を通ります.
 ただ,欧州を狙うには,射程4000km以上のミサイルが必要で,そうすると,最大到達高度が600kmを超えるのですが,GBIにそれだけの有効射高あったっけ?

 あと,副次的に,ロシアが欧州を狙うミサイルの一部も狙えてしまうので,ロシアは嫌がってます.

極東の名無し三等兵

>GBIにそれだけの有効射高あったっけ?

 米本国配備の3段型でEKVの最大到達高度は2000km,という話が軍事研究7月号の野木恵一氏の記事に出ています.

JSF

以上,「軍事板常見問題 mixi支隊」より


 【珍説】
http://spikemilrev.com/news/2008/6/24-1.html
 東ヨーロッパへのミサイル配備は,イランがヨーロッパに向けて弾道ミサイルを発射した場合に備えるものです.
 (略)
 今回の問題である迎撃ミサイルの構造の格差は,おそらく,SM-3が3段式ロケットであるのに対して,ドイツ製のIRIS-T SLが2段式ロケットであることを指しているのだと考えられます.

 【事実】
 SM-3は艦対空ミサイル,IRIS-T SLは赤外線誘導形空対空ミサイルを基にした短距離対空ミサイル.
 両方とも地上配備型迎撃ミサイルと関係なし.

Posted by 90式改 at 2008年06月25日 19:14:27

>今回の問題である迎撃ミサイルの構造の格差は

 これ,GBIの事だろう?
 神浦さんもGBIとTHAADを取り違えていたが,スパイクも同じ間違いを犯したか.

――――――『軍事研究』2008年7月号56ページより.

『なおポーランドに配備される予定のGBIは,すでにアラスカとカリフォルニアに配備されているミサイルと完全に同一ではない.
 弾頭のEKVは基本的に同じだが,ブースターは後者の三段式に対して,ポーランドに配備予定のミサイルでは第三段 を取り去った二段式になる.』

――――――

>ドイツ製のIRIS-T SL

 あれはサイドワインダークラスの射程の短いミサイルで,二段なんかじゃなく一段だけど.
 もちろん弾道ミサイル防衛になんて使わない.

Posted by 名無しT72神信者 at 2008年06月25日 19:39:55

 IRIS-T SLってウニモグにVLSで載せる,小さなミサイルなんだけど,どうしてMDになるのやら・・・

Posted by 名無しT72神信者 at 2008年06月26日 19:11:06

2008年06月14日付「週刊オブイェクト」コメント欄
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ポーランド軍でVIP輸送任務に就いている部隊は?

 【回答】
 36 SPLT(第36特別空輸航空連隊).
 ワルシャワのオケンチェ国際空港に司令部を置く.
 運用機は
Tu-154M 2機
Yak-40 10機,
M-28 ブリザTD,
Mi-8P/T,
W-3A ソコル,
ベル402SP
など.
 ただし,欧州域外への外遊に使えるのはTu-154Mのみ.

 詳しくは「航空ファン」 2006年4月号,p.112を参照されたし.


 【質問】
 ポーランド大統領機墜落事故について教えてください.

 【回答】
 2010.4.10,カチンの森の大虐殺70周年追悼式典に参加するためロシアに向かっていた,ポーランドのカチンスキ大統領が乗った飛行機が,着陸直前に木にぶつかって墜落し,大統領以下乗員乗客全員(97名)が死亡しました.
 同機には国防副大臣以下,軍首脳も搭乗しており,米のゲイツ国防長官はポーランド国防相に対し
「米軍総員は喪に服している」
とする声明を発するとともに,弔電を打っています.
 ちなみに死亡した軍首脳には,
参謀総長のガゴール大将,
陸軍司令官のブク少将,
海軍司令官のカルヴェタ中将,
空軍司令官のブラシク中将
が含まれています.

 ちなみに7日,ポーランドのトゥスク首相とロシアのプーチン首相が参加した,ロシア側主催の追悼式典が行われています.
 カチンスキ大統領は,10日に行われる予定だったポーランド主催の式典に参加予定でした.
 墜落事故を受け,式典は中止されています.

 〔略〕

 軍人さんも多く亡くなっていますが,これを機に,階級について考えていただきたいものです.
 軍の階級は,軍人の死を想定に入れたリスク管理そのものです.
 指揮権空白状況を生むことは,任務遂行に重大な悪影響を及ぼすため,指揮承継順位を明確にする必要から,すべての軍は階級を置いています.
 これが他とは異なる軍の階級の意味であり,その重要性を改めて見つめていただきたいところです.

おきらく軍事研究会,平成22年(2010年)4月12日(月)

 【関連リンク】
「痛いニュース(ノ∀`)」◆(2010/04/11)鳩山首相「ポーランド大統領の強い思いが,悲劇につながったのでしょうか」


 【質問】
 ポーランド機墜落による軍への余波は?

 【回答】
 現場と外で,違う見方がされている模様.

「ポーランド機事故,軍人の同一機搭乗規定には抵触せず」
によると,今回,専用機の墜落によって亡くなった要人は96名.
 ポーランド軍では,2年前の航空機事故(08年1月23日のポーランド空軍C-295M墜落事故か?)の教訓から,同一機に乗る軍高官の階級と人数を制限していたが,今回は軍の最高司令官である大統領からの個人的な招待であったため,将官らが拒否しにく,また彼ら自身も拒否する兆候はなかった事.
 また,搭乗機が軍用機ではなく民間機だったことから,この制限は適用されなかった.

 その結果に起こったのは,国軍の6司令官全員のほか,国防・治安関係の高官3人が死亡するという悲劇だった.
 この結果についてWSJが取材した当局者は,大統領を誰も非難をしてはおらず,また同一機搭乗に関する規則順守について,軍司令官の間で論議があったとは認識していないと答えている.

 軍関係者やアナリストは,今回の事故がアフガニスタンなどに駐留するポーランド軍の日々の作戦遂行能力に,深刻な影響を与えることはないと考えている.

 しかし,軍当局者や彼らと協力関係にあった米国の外交筋によると,今回の事故による軍司令官の事故死は,ポーランドにとってだけではなく,米軍や北大西洋条約機構(NATO)にとって,何年間も掛け替えのない人的損失になると見ている.
 なぜなら死亡した軍幹部は,主に米国や西欧の軍事学校で教育を受けたポーランド軍司令官の第一期生であり,イラクやアフガニスタンなどでは米軍との作戦で経験を積んでいたからだ.

 人材の喪失に対する,現場と外の認識の違いが興味深い記事でした.
 確かにシステム化された現代の軍において,そのトップの司令という役職は形だけのものになっているのかもしれませんが,いざ他国との別の軍と連携をとるような場合に気心の知れた人間が相手に居るか居ないかというのは大きな問題になるのかもしれません.もっとも,軍に限らずどんな組織でもそれは同じだとは思います.

寄星蟲 in mixi,2010年04月16日12:19


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