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◆◆◆冷戦終結以降 A hidegháború vége
<◆◆戦史 Magyar Történelem
<◆Hungary ハンガリー Magyarország
<欧州FAQ目次
※ 並びはほぼアルファベット順
【質問】
ハンガリーにおける1990年の非共産党政権誕生は民主化なの?
【回答】
共産党の一党独裁を支持するものではありませんが(というか,一党独裁には絶対反対),1990年にハンガリーで起こったことを“民主化”と呼ぶことには反対です.
客観的に“体制転換”とか“政権交替”という用語を使うべきだと考えています.“民主化”という用語は予断を与えます.
昔の社会主義時代のハンガリーを知っている人なら分かっていることですが,1960年代以降ハンガリーの共産党(ハンガリー社会労働党)は率先してハンガリー社会の民主化を進めてきていました.
すでに 1968年に市場経済を導入していますし,1970年には選挙の複数立候補制を導入しています.
そして 1989年に東欧圏が次々と民衆の抗議運動で崩壊して行く中,ハンガリーだけは共産党自らが自発的にハンガリー社会労働党を解党.
新たにハンガリー社会党を組織し,自発的に国民に“大政奉還”をしたものでした.
1970年代のハンガリーのラジオ番組などでは,今の日本のマスコミでは到底あり得ないような辛辣な体制批判の報道番組もたくさんありました.
ハンガリーの体制転換は,ハンガリー社会労働党(共産党)自らが率先して国民に大政奉還した歴史的事件です.
世界史上,一度共産党が政権を奪取した国で自ら自発的に政権を手放した最初で,唯一の例ですよね.
無血でハンガリーの大政奉還を実現させた当時の共産党の改革派達の努力には頭が下がります.
特に,ハンガリーの改革のポジュガイ・イムレは最大の功労者で,本来ならば新生ハンガリーの初代大統領になるべき人物でした.
しかし,改革者の常として,最後はゴルバチョフ同様に石を持って追われました.
非常に悲劇的な人物です.
あと数十年経てば,必ずやハンガリー史は彼の貢献を再評価するでしょうが,失意のポジュガイには何の慰めにもなりませんね....
ポジュガイはハンガリーの政治家に過ぎませんが,ゴルバチョフと並んで世界史を替えた男だと考えています.
そういう意味ではもっと注目されていい.
1990年の総選挙でMDF(ハンガリー民主フォーラム)が政権を取り,日本では民主勢力が政権を取ったと報道されましたが,その実態は非常に偏狭な民族主義的,かつ権威主義的な保守反動政権で,なんと社会主義時代にすらパージされなかったジャーナリスト達を次々と追放し,汚職まみれで,国庫を破綻させました.
(MDF政権下の4年間でハンガリーがした対外借金は,それまでの40年間に社会主義政権がした借金よりも多かったと言います.)
世界でも有数の生産性を誇ったハンガリーの農業は破綻し,東欧圏で随一の経済を誇ったハンガリーの経済はがたがたになりました.
で,その体制転換で国家存亡の危機の時に“民主的国会”では,国章に王冠を入れるか入れないかで大モメして審議ストップしたそうです.
約1年に渡って国章問題で他の問題そっちのけ.
友人のハンガリー人に聞いた話ですが.
ちなみに最終的に王冠は入ったそうで.
ハンガリーは共和国なのにね.
しい坊(黄文字部分)他 : 世界史板,2001/09/30
青文字:加筆改修部分
【反論】
ちょっと読者のかたがたに誤解を与えそうな記述です.
これについて異論がありますので問題を提起させていただきます.
1.
1970年代の複数立候補制はあくまで「複数政党制」ではありません.
ハンガリー社会主義労働者党(以後MSZMP)の意向を反映した候補者が複数出馬してきたからといって,「民主化である」とはいえないのでしょうか.
同様の例はハンガリーに限ったことではありません.
結局,反体制党は生まれませんでした.
(だから体制党が改革を独占できた)
2.
1968年の新経済メカニズムの導入は,個人営業の自由という観点からは評価できるが,これは何も民主化を主眼としたものではなく,経済的な効率性を優先したものである.
その結果は官僚主義の弊害と無理解から失敗に陥り,対外債務が増大した.
政府は国民の要求する西側並の生活・消費水準を維持するため,これ以後多額の負債を抱えることになる.
3.
MSZMPは自発的に民主化を率先したのではなく,自己の権力保持と社会主義経済システム(先の経済改革も含めて)の破綻をうけて,解体を余儀なくされたのである.
しかも保守派の頑強な抵抗とともに分裂した.
4.
しい坊さんは「大政奉還」といわれるが,徳川慶喜はこれによって名(幕府将軍職)を捨てて実(無傷の洋式軍隊と最大の領地)を手にする戦略であっただけのこと.
来るべき自由選挙をひかえ,自己の権力基盤を保全するには,時流にのった政策を採るのが合理的でしょう.
「大政奉還」の意味を「旧権力者による権力維持の苦肉の策」と解すれば,駿府への蟄居を余儀なくされた最後の将軍とポジュガイの扱いは仕方がないでしょう.
(私は個人的に同氏に対しては,後述の政治家よりは高い評価を置いています.)
5.
国民を民主化へ先導して大政奉還をおこなった人々;
Nemeth Laszlo(首相):56年動乱について,「最初は人民蜂起であったが,後に右翼暴動へと転化した」と発言.
Horn Gyula(外相,後に首相):56年動乱時に労働者防衛隊(共産党武装組織)の一員として西駅周辺の一般市民との間におきた銃撃戦に参加.現在この件について法廷に証人として出席を余儀なくされる.
6.
ホルン社会党政権下では,旧体制時代の党組織に関する情報の開示を禁止する法律が制定されました.
この情報が全面的に開示されれば,民主化へと国民を導いた体制党の人々で,お困りの方がいるはずでしょう.
>1970年代のハンガリーのラジオ番組などでは今の日本のマスコミで
>は到底あり得ないような辛辣な体制批判の報道番組もたくさんありました.
共産主義体制のガス抜きプロパガンダであるとどうして理解されなかったのでしょうか?
ラジオ局は国営です.
責任者は党の幹部,少なくとも息のかかった人間です.
体制側がより多くの国民の支持を得ようとします.
とくにハンガリーのような動乱を経験した国ならば,権力者が国民に対してソフトに立ち振る舞うのは当然です.
自己の管理下で自己批判をやらせるのは,パターナリステックな権力機構の常套手段です.
同時期のハンガリー映画にもよく青年たちの逸脱行動,家族問題,権力への反抗,国民の遠慮のない政治討論シーンが出てきます.
しい坊さんは身をもって体験されているのが他の人にない強みです.
反論もあわせてご意見お聞かせください.
ABC : 世界史板,2001/12/17
青文字:加筆改修部分
【再反論】
> 1.1970年代の複数立候補制はあくまで「複数政党制」ではありません.
その通りです.
>ハンガリー社会主義労働者党(以後MSZMP)の意向を反映
>した候補者が複数出馬してきたからといって「民主化で
>ある」とはいえないのでしょうか.
もちろん,完全な民主主義ではないですが,やはりこれは民主化と言っていいのだと思います.
ハンガリーではご存じの通り,すでに1956年にソ連軍の軍事介入を受けて,甚大な人的被害を受けています.
また,1968年にはワルシャワ条約機構軍がチェコの改革に対して軍事介入しました.
ブレジネフは“制限主権論”というイデオロギーを持ち出してきて,ソ連が兄弟諸国に反革命が芽生えようとしている時には,兄弟国を救援する義務と権利があると主張しておりました.
そういう国際的なパワーポリティックスの環境の中では,全ての改革は慎重に押し進める必要があったと思いませんか?
急進的なことをやって軍事介入されて,よりスターリン主義的な傀儡政権が樹立されてしまっては元の木阿弥だし,政治としては本末転倒でしょう.
面白いことにハンガリーの民主化を目指す改革は,日本では『讀賣新聞』のような保守的な新聞が高く評価しておりましたが,『朝日新聞』のようなリベラルな新聞は『天声人語』などでも執拗に,
「これは下からの民主化ではない.本物ではない」
と批判を繰り返しておりました.
しかし,当時の民主化の程度において,ハンガリー以外の国はハンガリーの足元にも及ばなかったことは ABC さんもお認めになるでしょう?
僕は当時,『朝日新聞』の記事には非常に腹を立てていました.
自分らは安全圏にいて勝手に言いたいことを言っている.
どうして彼らがソ連に介入されない範囲で,必死で民主化の努力をしていることを評価できないのだ,とね.
当時の世界情勢でハンガリーが複数政党制などを導入できたわけがないのですから.
すでにハンガリー社会労働党は70年代には党の実権を少しずつ本来の,憲法で“国権の最高機関”と提議されている国会(衆議院)に移しつつありました.
当時のハンガリーの党の指導者たちはソ連の顔色を窺いながら,かつソ連に軍事介入の口実を与えないように,必至で綱渡りをして,少しずつ民主化の改革を断行していっていたのです.
(日本の政治家たちと違って,彼らは言葉通り“命を懸けていた”のです.)
そういう意味で僕は,あのプロセスを“民主化”と呼ぶことにためらいはありません.
なお,野党の存在は認められてはいませんでしたが,選挙に立候補するには選挙区の有権者らからなる候補者指名集会で立候補者として認められればよく,実際に党員以外の候補者も立候補しました.
しかし,これらの“無所属”議員が国会の多数派を占めることはありえず,また,立候補してもどうせ当選しないだろうというので,複数の候補者がいた選挙区はどんどん少なくなっていってしまったために,ハンガリーは,確か1980年頃だったでしょうか,再び選挙法を改正して,複数の立候補を義務付けたのでした.
これも,まだ野党が認められていない以上は“真の民主主義”とは言えませんが,ソ連からの軍事介入を避けながら,少しずつではありましたが,民主主義の実現の方向へ進んでいっていた証しだと考えます.
>同様の例はハンガリーに限ったことではありません.結
>局反体制党は生まれませんでした.(だから体制党が改
>革を独占できた)
そういうことの積み重ねで,結局,80年代末には野党が復活したではありませんか?
最初の野党であるMDFの設立にあたってはポジュガイら,ハンガリー社会労働党内の改革派が参加していたことは ABC さんなら当然ご存じでしょう?
(固有名詞をど忘れしましたが,“何とかの集会”と呼ばれている歴史的な会合のことですね.)
MDFは“真の民主主義には対抗政党が必要だ”というハンガリー社会労働党の改革派たちによって設立が助けられたのです.
>その結果は官僚主義の弊害と無理解から失敗に陥り,対
>外債務が増大した.政府は国民の要求する西側並の生
>活・消費水準を維持するため,これ以後多額の負債を抱
>えることになる.
これは明らかに異論があります.
ハンガリーの対外債務が増大したのは 1973年の石油ショックのためです.
世界中で物価が高騰した時に社会主義国ではその価格差を価格に転化しなかったために,その差額(逆ザヤ)を政府が負担することになり,雪だるま式に対外債務が増大していったのです.
問題は新経済メカニズムの導入の失敗によるものではなく,石油ショックによる世界的な超インフレに脅えた党が,新経済メカニズムの推進に尻込みをしてしまったことにあったと思います.
しかし,ハンガリー政府は70年代末になると,再び新経済メカニズムのアクセルを大きく踏込むことになりました.
なお,1980年代を通じて,東欧諸国における国民1人辺りの対外債務はハンガリーが一番多かったのですが,西側の銀行団の融資においてはハンガリーに対する条件は非常に良かったのです.
ハンガリーは債権国としては世界の中でも非常に高い評価を受けておりました.
その理由は,ハンガリーは債務を常に完全に履行していたからです.
例え物価が上がることになっても,外国からの借金はきちんと返さなければいけないという考えは,国民一般にも浸透していたと思います.
>3.MSZMPは自発的に民主化を率先したのではなく,自己の権
>力保持と社会主義経済システム(先の経済改革も含め
>て)の破綻をうけて,解体を余儀なくされたのである.
これはSzDSz(自由民主連盟)等,体制転換後政権に就いたグループの主張ですね.
しかし,これは明らかな誤りです.
政権奪取を試み,実現した政党がそのように主張することは当然ですが,我々第三者は,特に研究者は80年代のハンガリー社会労働党内の権力のメカニズムをきちんと把握し,理解しなければならないと思います.
MszMP(ハンガリー社会労働党)の中にスターリン主義的な者はほとんどいなかったと思います.
基本的には(ソ連の圧力さえなければ)民主化することに異論はなかったと思います.
しかし,その程度と限度に関して“温度差”がありました.
改革派のポジュガイ・イムレやネーメト・ミクローシュ,コーシャ・フェレンツらに対してしばしばベレツ・ヤーノシュらは“保守派”と呼ばれていますが,これはあくまでもポジュガイらとの比較の上の話であって,彼らとて,例えばソ連のブレジネフのような保守派とは違っておりました.
恐らく両派の最大の違いは,“複数政党制および政権交代無くして民主主義無し”と考えるか,“共産党の一党支配だけは確保しなければならない”と考えるかの程度の違いだったと思います.
要するに,“完全な民主主義”か“コントロールされた民主主義”かという思想の違いだったと言っていいでしょう.
>しかも保守派の頑強な抵抗とともに分裂した.
これも明らかに事実とは異なっています.
“保守派の頑強な抵抗とともに分裂した”のではありません.
事前に周到に準備されていた作戦によって,“保守派に頑強に抵抗させて”“離党させた”のでした.
ここら辺の経緯は非常にスリリングで面白いものでした.
>4.しい坊さんは「大政奉還」といわれるが,徳川慶喜はこ
>れによって名(幕府将軍職)を捨てて実(無傷の洋式軍
>隊と最大の領地)を手にする戦略であっただけのこと.
徳川慶喜は日本が欧米列強の植民地とならないためには早急に国内を民主化・近代化しなければならず,また薩長との内戦をすれば,無用な血を流すことになるだけではなく,欧米列強に付け込まれる危険が高いと考え,日本の体制転換のリーダーシップをとって,自らが大統領になろうと考えたのだと思いますが,それのどこがいけないのでしょうか?
優れた政治家であるならば,自分がその改革を実行したい(また,自分ならそれができる)と思うのは当然でしょう?
僕は彼のおかげで日本は救われたと考えています.
>来るべき自由選挙をひかえ,自己の権力基盤を保全する
>には時流にのった政策を採るのが合理的でしょう.
そこに根本的な勘違いがあるのです.
自由選挙を“来るべきもの”にしたのは党内改革派たちだったのですから.
ご存じだとは思いますが,ハンガリーにはポーランドのような反体制運動グループなどは存在しておりませんでした.
それはハンガリーの民主主義が不完全なものではありながら,多くの国民はハンガリーが置かれた状況を理解していたのと,そこまでの抵抗運動を組織するほど絶望的な抑圧体制ではなかったからです.
現在政権を取っている政党の指導者たちは,自分らが旧体制中にずっと反体制運動で戦ってきていたと主張していますが,それはウソです.
彼らは反体制的な思想は持っていたでしょうが,基本的にはほぼ全員が“体制内反体制派”でした.
ハンガリー人らはハンガリーの状況に満足しきっていたのです.(腹立たしいほどに!)
世界中どこでも,政権を取った勢力は,それまでの,旧体制下注の自分らの行動を美化するものなのはご存じでしょう.
だからこそ,反体制運動というか,批判勢力は,ハンガリー社会労働党の中の改革派らがお膳立てしてやらなければならなかったのです.
ポジュガイらが必死で彼らを守り,マスコミの報道の自由を確保したのではなかったですか?
しかし,一度政権を取ったからには「我々は,我々が打倒した共産党のお蔭で政権に就けた」等と告白するわけにはいかないではありませんか?
>「大政奉還」の意味を「旧権力者による権力維持の苦肉
>の策」と解すれば駿府への蟄居を余儀なくされた最後の
>将軍とポジュガイの扱いは仕方がないでしょう.
>(私は個人的に同氏に対しては後述の政治家よりは高い
>評価を置いています.)
体制転換や革命のような事態において,ポジュガイや徳川慶喜のような功労者たちが(ゴルバチョフも含みます),このような理不尽な扱いを受けることは,よくあることで,仕方がないことだとは思っています.
しかし,その時の評価が理不尽なものであることには変わりはありません.
ポジュガイやネーメトたちが“風見鶏”で,自分らの権力が危うくなったときに,改革者のフリをして,権力の維持を狙ったというのはウソです.
これはSzDSzが雇った米国の大籐両選挙などでも活躍している広告会社の戦術でした.
1989年春の段階で,ポジュガイのことを“風見鶏”だと考えている国民は1人もおりませんでした.
(厳密に言えば,きっとそういう国民も多少はいたに違いありませんが.)
それが,米国の広告会社の宣伝の結果,1989年の秋には圧倒的多数の国民が
「ポジュガイは汚い共産主義者のくせして,世の中の風向きが変わると,さっさと改革派面をするようになった権力欲の亡者だ」
と信じるようになりました.
これはおかしい.
だって風向きを変えたのはポジュガイだったのですから.
春の段階ではポジュガイの一挙一動に国民は感激し,心配していたものです.
「よく言った!」,「そこまで言ってしまって大丈夫?」,「頑張れ!」
それが,秋になると誰もそのことを覚えていなかったのです!
これには僕も驚き,呆れました.
春には熱烈なポジュガイ支持者だった者達も,秋には口汚くポジュガイを罵りました.
僕が「春には君はこう言っていたじゃないか?」と言っても,誰もが「自分はそんなことは思ったことも言ったことも絶対にない!」と言い張ったものです.
ポジュガイの民主主義指向は筋金入りのものです.
彼は1970年代半ばに文部大臣になったのですが,その時若手の研究者らを集めて,研究プロジェクトを発足させました.
細かいことは忘れましたが,社会状況だったか,カリキュラムに関するものだったかの調査研究でした.
その時ポジュガイは研究者らを集めて,
「調査報告は遠慮ないものにして欲しい.
党に遠慮することはない.
党に都合が悪いことでも正直に書いてくれ.
私が知りたいのは真実のみだ.
諸君らの報告書は私以外は読まないことを約束する.
安心して報告してくれたまえ.」
と告げたのでした.
当時,僕の大学の学寮で同室だった友人はそのプロジェクトに参加していたのですが,その晩,熱くポジュガイに心酔したことを僕に語ってくれました.
まだポジュガイの地位が磐石ではなかった時代です.
その結果,党の政策担当のアツェール・ジェルジュの逆鱗に触れ,彼の策謀で,ポジュガイは実権のないハンガリー愛国人民戦線の議長に祭り上げられてしまったのですが,ポジュガイはそれにもめげず,愛国人民戦線を実質的な民主化の組織として再編成し,機関紙であった日刊『マジャル・ネムゼト』を最もリベラルで,評価の高い新聞にしたのでした.
僕自身が最所にポジュガイに直接会ったのは彼が来日した時でした.
確か 1983年か84年のことだったと思います.
まだ誰もがソ連東欧圏の崩壊を予想していなかった時期です.
2人だけになった時に彼はこう言いました.
「私は昔は敬虔な共産主義者だった.
共産主義こそ正しい思想だと信じて疑わなかった.
しかし,1960年代になると色々な矛盾に気付き,悩むようになっていった.
しかし,1970年代はまだ共産主義は本当は正しいのだが,その実現方法が間違っていると考えるようになっていた.
だが,今では確信を持って共産主義の思想そのものが誤っていると考えるようになった.
私は間違っていたのだ.
共産主義は非倫理的な思想だ.
このような体制が存続するのを許すわけにはいかない.
私はこの体制を変革するために全力を尽くす覚悟だ.
このような非倫理的な体制は恐らく21世紀まで生き残ることはできないだろう.
21世紀には世界にはもはや共産主義国家は残っていないはずだ」
と.彼ははっきりと明言しました.
もちろん,ハンガリー国内で政治家である彼はこのような明言はしておりません.
そんなことをしたらたちまち失脚して,彼の改革の夢は挫折するからです.
彼がなぜ初対面の僕にそんなことを打ち明けたのかはさっぱりわかりませんが,彼は僕を信用していたのでしょう.
最初に会ったときに
「前からあなたにはお目にかかりたいと思っていたんです」
と言って手を握ってきましたから,何らかの情報を持っていたのでしょうね.
(どういう情報なのか,ちょっと興味がありますが.)
その後彼は野党の組織化に手をつけます.
まず,ドナウ川に建設予定のダムが環境を破壊すると主張する環境保護市民運動を実現させます.
(社会主義国でこのような徒党を組むことは御法度でした.)
やがて環境保護運動のような市民運動が容認されるようになると,手をつけたのが政治的な反体制運動の組織化でした.
その最初の“作品”がMDF(ハンガリー民主フォーラム)だったのです.
東欧の多くの野党(現与党)が「党」という名前ではなく「フォーラム」とか「運動」とか「クラブ」とかいった名前であるのは,「党」と名乗ると弾圧される恐れがあったからです.
ポジュガイらはネーメト首相らと手を携えて,次々と民主化政策を打ち出していきました.
ついにポジュガイは1956年のハンガリー動乱を,公式には“反革命”とされていたのを“革命”と宣言しました.
国民は拍手喝采をしながら「これでポジュガイも終わりか?」と心配したものです.
彼の盟友で映画監督のコーシャ・フェレンツらは1989年の春の段階でポジュガイに離党を強く勧めました.
コーシャは主張しました.
「お蔭様で野党がどんどん力をつけてきている.
しかし君がこのまま社会労働党に留まっていては,やがて君も共産主義者として国民から切られてしまう恐れがある.
それよりは今,離党して新しい政党を作って民主化を指導すべきだ」
と.
それに対してポジュガイは
「政治家としての私の運命はどうでもいい.
些細なことだ.
それよりも大事なのは,いかに流血なしでこの国を民主的な国家に軟着陸させるかだ.
政府は改革派の手にあるが[首相はネーメトでした],党はまだ保守派が握っている.
また,労衛隊[武装した党の民兵組織]はまだ武装解除されていない.
いまここで党を割って出ては労衛隊が武力鎮圧に出るかもしれない.
ハンガリー人同士が血を流しあうことは絶対に避けなければいけない.
だから私は党に留まる」
と答えたのでした.
「また,今党を割って改革派が出ては,せっかく改革派の手にある政権を保守派に引き渡すことになってしまう.
また,党は膨大な資産を持っているが,これは本来は国民の財産だ.
それまでも保守派に渡してしまうことになる.
それは避けなければならない.」
(ここら辺のやりとりはポジュガイとコーシャから直接聞いたものです.)
そこでポジュガイやコーシャ,ネーメトらはある策略を巡らします.
彼らが党を割ってでるのではなく,保守派が党を割ってでるように仕向けようと言うものです.
それが秋の党大会でした.
改革派の慎重な根回しで,ハンガリー社会労働党の党大会では突然,ハンガリー社会労働党の解党と,ハンガリー社会党の新設が議決されたのでした.
そしてハンガリー社会党は共産主義ではなく,西欧的な社会民主主義を標榜する政党となったのでした.
突然のことで怒り狂ったそれまでの党の書記長たちは(名前をど忘れして思い出せない (^◇^;)! なんとか・カーロイだったかな?あとベレツですね)先を考えずに党を離党して,新たにハンガリー社会労働党を組織したのでした.
これは劇的な無血宮廷クーデターの勝利だったのです.
そして私の言う,史上初めての共産党自らの“大政奉還”が実現したのです.
>5.国民を民主化へ先導して大政奉還をおこなった人々.
>Nemeth Laszlo(首相):56年動乱について,「最初は人
>民蜂起であったが,後に右翼暴動へと転化した」と発言.
これはハンガリー社会労働党の公式見解です.
別にネーメトのものではありません.
また,このような発言は“いつ”“どのような”環境においてなされたのかをきちんと判断してからでないといけません.
例えば,ポジュガイが必死で守ったマスコミですが,ここは自由民主連盟の支持者が多く,ポジュガイがマスコミに介入できないことを逆手にとって,物凄い量のえげつない反ポジュガイ・キャンペーンを行っておりました.
例えばポジュガイが“風見鶏”であり,本当は民主主義者ではなく,がちがちの共産主義者だと国民に印象づけるために連日のように“数年前” (=まだこのような民主化の気運が高まっておらず,共産党の支配が磐石であった時代)にラジオの記者がインタビューした
「あなたは共産主義者ですか?」
「...そう...です...」
という内容を繰り返し報道し,ポジュガイが嘘吐きだという印象を与えていました.
しかし,ちょっと考えてみればわかるように,当時のネーメトやポジュガイが「56年は革命だった」とか「私は共産主義者ではない」等と発言できたはずはないのです.
>Horn Gyula(外相,後に首相):56年動乱時に労働者防衛
>隊(共産党武装組織)の一員として西駅周辺の一般市民
>との間におきた銃撃戦に参加.現在この件について法廷
>に証人として出席を余儀なくされる.
一般的には西側ではホルンもネーメトらと同じ改革派のリーダーとみなされていますが,個人的にはちょっと疑問に感じています.
彼こそ“風見鶏”だったのではないかと考えています.
ちなみに,ポジュガイも,ネーメトも,ベレツさえも(!) 非常に気さくな人柄ですが,ホルンは権力者の臭いをぷんぷんさせており(個人的に会ったときの印象です)あまり好きではありません.
ただし,彼の56年当時の行動は別に批判される筋合いのものではないと思います.
56年動乱当時は非常に混乱しており,実際に右翼勢力が暴動を煽っていたのは事実です.
そして街では蜂起者による虐殺が横行していました.
(警官が建物の上の赤い星に串刺しにされて晒されていたり,逆さ吊りにされて殺された党員の焼け焦げた死体に唾を吐きかけている写真等は,日本でもよく目にすることができます.)
従って,真面目な青年が労働者が主人の社会を守ろうと銃を取って“反革命”の者達と戦ったとしても,それはそれで理解できることでしょう.
>6.ホルン社会党政権下では旧体制時代の党組織に関する情
>報の開示を禁止する法律が制定されました.この情報が
>全面的に開示されれば民主化へと国民を導いた体制党の
>人々でお困りの方がいるはずでしょう.
当然“困った”人は多かったと思いますが,個人的にはそうすべきだった(=開示すべきではなかった)っと思います.
憎しみの連鎖は断ち切らなければなりません.
ハンガリーにおいては国民全員が“共犯者”だったのですから.
(不思議なことに1990年以来すっかり人々の記憶から消えてしまっていますが,ハンガリーの社会主義体制が崩壊するまではハンガリー人たちはいかに自国を誇りに思い,自惚れていたことか!)
全てを公開した東独では国民の過半数がシュタージの協力者だったということになって,東独市民の大きなトラウマになっています.
しかし,秘密警察のスパイがそんなにいたはずはないのです.
恐らくは,相手が秘密警察の者だとは知らずに付き合っていて,茶飲み話等で話した内容が報告書に記載され,警察の記録上は(本人は全然気付いていなかったのに)“協力者”とされていたような場合が大部分ではないかなと個人的には想像しています.
弱みを握られて,情報提供を強制させられた人もいるでしょう.
また,(そういう強制で)協力者だと自覚していても,あえて当たり障りのない情報のみを手渡して,友人・知人を守った人達もきっと多いでしょう.
しかし,一方的にこのような情報を公開してしまっては,友人や知人・親戚の間の疑心暗鬼を増幅し,人間関係を壊すだけです.
50年後とかに公開を義務付けるようなことはあってもいいと思いますが,何でもかんでも出してしまえばいいというようなものでもないでしょう.
原理主義的な民主主義,原理主義的な情報公開は,必ずしも人々の幸福につながるわけではないはずです.
>共産主義体制のガス抜きプロパガンダであるとどうして理
>解されなかったのでしょうか?
ちょっとびっくり.
日本や米国も含めて,どんな体制でもマスコミの報道の自由はガス抜きだと権力が判断できる範囲でのみ保障されているのではなかったのですか?
そんなことはどこでも同じことです.
別に社会主義体制下でも,資本主義体制下でも同じことだというのは常識でしょう?
湾岸戦争の時に『イマジン』が英国で放送禁止になったのは有名な話ではありませんか?
あるいは今回のニューヨークの世界貿易ビル事件でも,米国ではさっそく放送禁止曲がリストアップされましたよね?
また,日本でも,今日でも報道されない,できないニュースがどれ程あることか!
当然,東欧諸国では程度の差こそあれ,西側よりは制限がきつかったのは事実です.
しかし,それでも日本よりもずっと立派な報道番組が多々あったのです.
例えば社会問題を扱ったドキュメンタリーは,日本では単にその個人の悲劇として描写されることがほとんどです.
本当はその裏には社会制度,すなわち体制の問題が潜んでいるのですが,今の日本ではそのことには触れることはできません.
(60年代まではそういう良質な,本質に迫るドキュメンタリーもたくさんありました.)
しかし,ハンガリーのドキュメンタリーの場合は,その問題が制度上の構造的な問題だという結論まできっぱり述べていたのですよ.
別に“ガス抜きのプロパガンダ”だとおっしゃっても結構ですが,なら,それよりも情けない日本の報道の現状はどうおっしゃるのでしょう?
強調しておきますが,僕はハンガリーでは報道や言論の自由が素晴らしく保障されていたなどとは一言も言っておりません.
制限はあった.
しかし,その制限は多くの日本人が,冷戦構造の下,西側における反共プロパガンダのステレオタイプに描かれているようなものとは違っていたという事実のみを述べているに過ぎません.
>ラジオ局は国営です.
“国営”という用語をどのような意味で使っておられるのでしょうか?
(“国営”と“国有”も違いますしね.)
BBCやNHKを“国営”と呼ばれるのであれば,確かにハンガリーの放送局は“国営”と言えたと思いますが.
しかし,ヨーロッパでは西欧も含めて,ほとんどがそうでしょう?
ハンガリーの放送局の制度をどの程度理解した上でそうおっしゃっているのでしょうか?
それとも「社会主義国だから放送は国営のはずだ」→「社会主義国の放送は国営だ」という論理なのでしょうか?
>責任者は党の幹部,少なくとも息のかかった人間です.
国営放送に限らず,事実上の国営の特殊法人である某国の公共放送のN●Kの会長が某自●党の息の掛かった人物であることは公然の秘密でしょう?
例えば,大河テレビドラマの『徳川慶喜』が放映された理由は?
今回のアフガニスタン空爆報道にしても,自衛隊派遣問題にしても,様々な問題を抱えた件に関して,他の民放と比べて,某国営放送の姿勢だけが突出して与党寄りだということは衆目の一致することですよね?
別にどちらが正しいとか言っているわけではないのです.
“国営放送”というのは所詮,そんなものなのです.
>体制側がより多くの国民の支持を得ようとします.
より多くの国民の支持を得ようとしない体制があれば,ぜひ教えてください (^◇^;)!
>とくにハンガリーのような動乱を経験した国ならば権力者が
>国民に対してソフトに立ち振る舞うのは当然です.
西側ではもっとソフトに立ち振舞っていますね.
つまり単により“上手”なだけですが....
でも,やはりライオンの尻尾を踏むと,その時は....
で,ハンガリーと同じように 1968年を体験したチェコの体制は,どうしてハンガリーのようにソフトには立ち振舞わなかったのでしょうか?
ということはハンガリーの事例は全然“当然”ではないということになりはしませんか?
>自己の管理下で自己批判をやらせるのはパターナリステック
>な権力機構の常套手段です.
しかし,ハンガリーよりもずっと家父長主義的だったソ連や中国ではそれほどの自己批判すら許されてきませんでしたよね?
矛盾しませんか?
ちなみに共産主義体制は一般的には(当の社会主義国でも!)“家父長主義的”と見なされていますが,ハンガリーの社会労働党体制の場合は多少違っていたと思いますよ.
何しろ,日常生活で党は全く前面に出ていませんでしたからね.
街を歩いても,日本人が想像するような横断幕や標語,指導者の写真等は一切掲示されていませんでしたしね.
組織や企業の幹部になるためには党員でないと難しいという一般認識はありましたが,実際には,それはある種の都市神話で,党員でない幹部というのは結構いました.
しかし,「報道による体制批判が禁じられていた」と書けば「それは共産主義体制の常套手段です」となり,「報道による体制批判も許されていた」と書けば,やはり「それは共産主義体制の常套手段です」となるわけで,要するに結論が先にあるということなわけですね?
しい坊 : 世界史板,2002/01/14
青文字:加筆改修部分
▼
なお,政治学者ジョゼフ・ロスチャイルドによれば,カーダール政権時代の評価は,
「カーダールは,1956年に権力についてから30年の間に,革命を裏切ったソ連の従僕から真の賢者へと,自分に対する評価を一変させた.
そのような人間として彼は,モスクワからはその忠誠心と国民を落ち着かせたことで信頼され,西側からは経済的プラグマチズムと政治的穏健さを尊敬され,国民からは共産主義の凶暴さを和らげ,ソ連の圧力をかわしたことで評価された」
「知識人の異端派に対する政策は,東欧の基準からすれば,かなり寛容になった」
「新経済メカニズム(NEM)は多面的,多方向的であり,ハンガリー経済の包括的で積極的,構造的で全面的な立て直しであった」
「この新経済メカニズムによって,複雑で創意に満ちた,比較的効率の高い,しかしその一方で外国貿易に高度に依存した国民経済が形成された」
「1960年代と70年代には国有セクターの中央計画体制と,『第2経済』の自由経済活動を和解させる有望な方式と観られたカーダールの新経済メカニズム(NEM)が,結局は失敗に終わったという暗澹たる事実である」
「個人的に最も野心があり,政治的に最も多元主義的・西欧的で,グラスノスチ支持だったのは,かつてカーダールによって大衆組織の『共同戦線』=人民愛国戦線の議長という,一見して無力な閑職に降格されたことのある前文化相ポジュガイ・イムレである.
しかしポジュガイは,見たところ権限のないこの職を活用して,穏健ではあるが依然として中央集権的なカーダールのレーニン主義の外枠をはるかに超えて進む用意のある改革派の強力な集団を育成した」
といったところ.
(ジョゼフ・ロスチャイルド『現代東欧史』(共同通信社,1999),p.308-311 & 357-362)
▲
【再再反論】
> 一般的には社会主義国の農業は非常に効率が悪いと
> 考えられるのが常識ですが,ハンガリーの農業生産
> 協同組合の小麦生産の効率は確か,米国と世界の一,二
> 位を争っていたはずです.
誠に申し訳ないのですが,私の手元にある統計資料では1~2位どころではありません.
まあ,「東欧の優等生」ではありますが.
政府の容共プロパガンダとは言いません.
思い込みは誰にでもあります.
一般の方々の誤解を避けるためにも客観的データの提示が必要と思い 提示させていただきます.
皆さんもご覧ください.
(下表参照)
1976-80年代ハンガリー及び欧州諸国における主要農産物の平均収穫量(q/hektar)
(国名) (小麦) (大麦)(トウモロコシ)(ジャガイモ)(テンサイ)
ハンガリー 40.5 32.5 48.6 142 338
オランダ 58.8 46.0 54.7 354 480
イギリス 50.2 41.2 20.0 301 332
フランス 46.0 38.1 50.2 246 447
西ドイツ 47.0 41.7 55.7 278 467
オーストリア39.6 37.5 66.5 241 471
デンマーク 50.0 38.4 ―― 241 390
チェコ 40.4 37.3 44.6 166 331
東ドイツ 41.8 37.8 39.1 176 269
ブルガリア 38.1 31.7 40.3 107 289
ユーゴ 32.8 22.2 40.7 90 423
イタリア 25.9 26.8 65.3 173 463
ルーマニア 27.0 30.0 33.7 148 249
ギリシア 25.3 24.0 51.4 159 567
ポーランド 29.2 27.8 39.0 177 280
出典:A magyar mezogazdasag europai osszehasonlitasban. Bp..,1985.KSH. 22-24
ABC : 世界史板,2003/05/21
青文字:加筆改修部分
> 1970年代のハンガリーのラジオ番組などでは今の日本のマスコミで
>は到底あり得ないような辛辣な体制批判の報道番組もたくさんありました.
どの程度をして「辛辣」というのか,あなたの主観的判断なのだから,みなさん納得できないわけです.
というか,この一文こそが,しい坊さん,あなたの「自由」の基準が共産主義権力の基準であるのではないかという疑念を強くしているのです.
ここに英国Economist社が1986年に出版した World human Rights Guide と言う本があります.
これには,世界160か国あまりについて,国内旅行,平和的集会,信仰の自由など40項目にわたる自由権について,自由,制限あり,不自由,まったく不自由の4段階で評価して,100点満点で得点をつけています.
当時,オランダ,デンマークなどが98点とトップで,日本は拷問,女性の社会的平等などで悪い評価を得て先進国の中では低い88点でした.
最低はエチオピアの13点,次が北朝鮮の17点です.
ハンガリーは当時で55点でした.
これはソ連圏のポーランド41点,チェコ36点,あるいは「社会主義」ユーゴの50点,中国23点,キューバ24点,ベトナム25点よりはマシで,共産国家では文句なしのトップですし,いわゆる資本主義陣営に属する台湾の49点よりはマシですが,韓国59点,タイ57点よりは下です.
そして,各項目では,平和的集会・結社の自由,拷問からの自由,国家イデオロギー教育からの自由,平和的野党結成の自由,複数政党制と秘密投票による選挙権などは「絶対不自由」と評価されています.
さらに「独立したラジオ,テレビ局」はなく,完全に国家統制ですが,「やや自由な番組も若干数存在する」.
出版についても「ほとんどは国家が所有,統制し,少数の独立出版は,かならず検閲を受け,もし国家イデオロギーに反したものは,処罰される」とあります.
また,米国の人権団体Freedom Houseが毎年発表している自由度報告書でも,ハンガリーは1989年以前までは,7段階の自由度評価で,最高が1として,5をさまよっていました.
もちろんソ連圏ではトップですが,韓国,台湾と同じ点数で,日本の2点とはかなり開きがあります.
つまり,1989年以前のハンガリーは,国際的な評価としては,決して自由な国家とはいえませんし,当時先進国では最低水準の日本とは比べ物にならないくらい自由がなかったことは明らかです.
しい坊さんがいくら「個人体験」を主張しても無駄です.
というか,これらの評価は,しい坊さんなんかよりもはるかにハンガリー経験も長く,法学や政治学や社会学の素養のある人たちがまとめた結果なのですから.
つまり,しい坊さんは,ハンガリー語や歴史そのものについてならともかく,ハンガリー政治や人権状況,経済について語るには不足があるということです.
世界史板,2003/05/22
青文字:加筆改修部分
【質問】
ハンガリーにおいて,ポーランドのような規模の反体制運動グループが存在しなかった(できなかった)理由を教えてください.
【回答】
まず,教会は既にラーコシ時代から教会所有学校の国有化,ミンゼッティをはじめとる教会関係者の不当逮捕,粛清,脅迫によって弱体化されていました.
また,56年革命の記憶は,権力の側の緩やかな監視にもかかわらず反体制運動への関与を躊躇させました.
そして,68年からの新経済メカニズムの導入と脱イデオロギー的政策は一定の自営業を認められた国民をして,第二経済(ヤミ経済)における資産形成と個人生活の充足への追求にエネルギーを費やすことになり,労働者,市民は体制側によって骨抜きにされてしまったのです.
反体制運動が党以外で生じるのは,物価引き上げからくる生活不安と,制限主権論の撤回を示唆したゴルビーの登場後のことでした.
体制転換に対する社会的態度について,Hirschmanは各国の特徴を次のように類型化しています.
1.離脱型:ハンガリー.国家生活から第二経済への離脱(消極的抵抗)
2.抗議型:ポーランド.労組「連帯」に体現される体制への抗議(積極的抵抗)
3.忠誠型:東ドイツ.党国家への忠誠.(抵抗の放棄)
したがって,ポジュガイのような良識派が反体制運動の組織化において,重要な役割を果たしたことは認めますが,ハンガリー人の消極性を「共犯」と断罪することは適当ではないと思われます.
そのようなハンガリー人を「腹立たしいほど状況に満足しきっている」と思われるのは御自由ですが..
ABC : 世界史板,2002/01/18
青文字:加筆改修部分
【質問】
メッジェシって誰?
【回答】
メッジェシ・ペーテル Medgyessy Péter(1942~)はハンガリーの政治家で経済通.
ブダペストのカール・マルクス大学で経済博士号を取得.
1966年から財務省で様々な役職を勤める.
悪名高いボクロシュ・パッケージを修正した人物.
その傍ら秘密警察のエージェントとして働いていたことを,後に本人も認める.
内務省の秘密警察の密告者として,外国のスパイをチェックして報告していたという.
ちなみにコードネームはD-209.
1982年に副財務相就任.
1987年,財務相に就任し,市場経済移行までの税制を確立.
1988年,経済担当副首相就任.
1990年からハンガリーの様々な銀行のCEOおよび総裁を務める.
1996~1998年,財務相再任.
2002.5.27,総選挙の結果,社会党の後ろ盾を得て首相就任.
同年6月,旧体制時代に密告者をしていたことが発覚し,首相にふさわしくないということで,ハンガリー政界は喧々諤々となるも,結局辞任はせず.
2004.8.19,連立内閣を構成する自由民主同盟との経済政策などをめぐる対立から,首相辞任.
Puska's ◆GiKmJoo.(赤文字部分) & ぶだぺしゅと ◆vFvohlXU(黄文字部分)他 : 世界史板,2002/06/20
青文字:加筆改修部分
【質問】
防諜部門の密告者だった過去って非難されるような事なのかな?
要は外国のスパイから国を守ってただけでしょう?
「共産主義=絶対悪」のようなおめでたい頭してないと,批判のしようがないような気がする.
単に新政権に対する野党の嫌がらせじゃない?
【回答】
まあ,国防の観点からするとそうなんですが…
密告者だったというのが,倫理的にどうなのかと感じる人もいるわけです.
同じ組織の別部隊には,もちろんハンガリー市民をチェックして密告するエージェントがいて,反体制の人々を密告していたわけですし…
旧東ドイツの場合,統合後刑事告発されてたくさんタイーホされてませんでしたっけ?
ハンガリーでは体制変換後,最初の政府がドイツの真似をしなかったので,現社会党には,やましい過去を持つ人がうようよいるとのこと.
その中でメッジェシ氏が一番クリーンだという話もあります.
マルクスの唱えた共産主義は問題無くても,実際に存在したのは単なる全体主義国家だったのですよ.
それを理解してますか?
ちなみに私はFIDESZ支持派なので,さっさとつぶれて一議員になってくれれば,もとエージェントでもなんでもいいですが,任期をまっとうして,ハンガリー経済までつぶさないでほしいです.
ぶだぺしゅと ◆vFvohlXU : 世界史板,2002/06/20
青文字:加筆改修部分
「要は外国のスパイから国を守ってただけ」と,そこまで果たして単純化できますかな?
たしかに政略的なネガティブ・キャンぺーンの一環として行われている要素はありますが,それでは当時のD-209(メッジェシ)が大学入試失敗後に,現在の通貨価値で30万フォリントもの大金を国庫から得て,どんな外国のスパイから「国益」を守ったというのでしょうか?
彼は国会で最初に関与事実を否定し,翌日「あっさりと」認めましたが,今度はロシアのKGBから「国益」を守ったと弁明しました.
東欧諸国の秘密警察が,KGBの中央機関で養成されたり,その指示で動くのは自然なこと.
ルーマニアのような反ソ体制下ならまだ可能性はあるものの,現実問題としてはいかがなものですかな?
「共産主義=絶対悪」とはユーロ・コミュニズムや人間の顔をした共産主義などの幅広いスターリニズム以外の形態を念頭においておられるのだと思いますが,あの当時のハンガリーは政治体制はそこまでいってませんよ.
まあ,ロシアやルーマニアのトップも元秘密警察だから,同レベルとして考えればうなずけますがね.
もっとも,社会党のなかでも政治から距離を置いていた経済官僚の必要性は認めますがね.
D-209も当初はそういうクリーンなイメージが好まれて首相に担ぎ上げ出されただけに残念だな.
世界史板,2002/06/20
青文字:加筆改修部分
古くはナチスのゲシュタポ,そして,社会主義時代のKGB.
ハンガリーの人はスパイとか,密告者に関してトラウマというか,先天的な嫌悪感があるんじゃないすかねえ.
でも,現在もブダペストは西側,アラブ系,ロシア系,中国系とスパイが溢れているスパイ天国な罠.
スパイ天国と書いて,「おさかな天国」の歌詞で歌っちゃったよ(w
rtl-ckm : 世界史板,2002/06/20
青文字:加筆改修部分
なんでも追求していた青年民主同盟党首のポコルニ・ゾルタン氏も,自分の父親が旧体制時代に密告者だったことを知って辞職したそうで・・・.
東独のように徹底的に追求していないのがいいのか悪いのか・・・.
ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2002/06/20
青文字:加筆改修部分
ただ,ポコル二の父の場合は56年革命に参加したことでカーダール政権下で投獄され,教職に復職も党の度重なる圧力のもとで密告者になったわけで,高額の給与を与えられつつ,自らの自由意志でエージェントになったD-209のケースと同列に扱われてよいのか?という気がしますね.
むしろ本人に直接には責任のない親の過去の責任をとって党の一線から退いたポコルニの政治姿勢と,現在でも「英雄論」をかざして共和国首相の座にとどまり続けるメッジェシが好対照をなしているところが際立って見えますね.
東独のようにとはいいませんが,公人としての現職政治家については明らかにすべきだと思いますね.
何といっても現行の情報公開を禁止する法律が,社会党首班のホルン政権下で生まれ,ホルンのファイルがその過程で前代未聞の「紛失」となったことを考えれば,市民の触れられたくない過去を保護するというよりは,党の特権幹部の政治的地位を保護するように機能しているとしか思えないのですが...
世界史板,2002/06/20
青文字:加筆改修部分
私よりハンガリーの政局に詳しい友人から聞いたのですが,D-209(メッジェシ氏)を追求するためには,どんな些細なことでもごまかすわけにはいかない,という判断で,役職から身を引いて平議員になったようです.
潔いことと評価もできますが,相手やその支持者はそんなことではびくともしない,したたかな連中であることを考えると,私にはどう評価すればいいのか難しいです.
ぶだぺしゅと ◆vFvohlXU : 世界史板,2002/06/20
青文字:加筆改修部分
【質問】
「ハンガリー人証明書」って何?
【回答】
「民族地位法(ステイタス法)」に関することですね.
これについては,ハンガリーの日本語誌で詳しく解説された記事がありました.
結局,周辺国政府の協力もないと実現不可能な法律なので,たとえばルーマニア人にもハンガリー系と同様の権利と援助を与えることにしたそうです.
その記事を書いた方(日本人弁護士さん)によると,この手の法律は世界中に見受けられるそうで,ヨーロッパでは
ギリシャ,
ポルトガル,
アイルランド,
スロヴェニア,
ブルガリア,
スロヴァキア,
ルーマニアなど.
それなのになぜルーマニアやスロヴァキアが問題にしたか?
それは彼らは,ハンガリーがトリアノン条約で失った領土を諦めたとは信じていないから,だそうです.
報道上きちんと伝えるべきは,
1) 他の国にも似たような法律がある
2) 領土問題を周辺国はいまだに恐れている
という二点も加えないと誤解を招くと思うのですが,朝日はどう報道したのでしょうか?
("アカヒ"に期待はしてませんが)
ぶだぺすと ◆vFvohlXU :外国語板,2002/04/05
青文字:加筆改修部分
朝日新聞では(1)については全く触れられていません.
びっくりして紙面を見直してみたのですが.
ひどいですね.
まあ,単に記者が知らないのかも分かりませんけれど.
結局,
「中道政権として誕生した今の政府が保守政権に変質し,今回の民族地位法はその総決算である」
とか,
「スロヴァキアやルーマニアは反発している」
とか,
「所詮はハンガリーの優越感の裏返しで,EUに加盟すれば無効になる」
とかそんなことばかりです.
一人スロヴァキアのハンガリー人の老婦人にインタビューしていて,彼女は
「ハンガリー政府がハンガリー人として認めてくれたのが嬉しい」
と述べているのに,それに続けて証明書の所持者が恩恵に浴することの出来ることを列挙して,彼女の民族的アイデンティティーをブダペスト政府に認められたことの喜びにはその後一切触れていません.
外国語板,2002/04/06
青文字:加筆改修部分
>EUに加盟すれば無効になる
これは,記者さん勉強不足でいいかげんな記事ですね.
ハンガリーがEUに加盟するとき,同時に周りの国も加盟できれば話は別ですが,今度のEU拡大で,ハンガリー・チェコ・ポーランド(あとスロヴェニアとか?)だけが,加盟した場合,東方のEU境界の管理が義務になります.
つまりスロヴァキア・ルーマニア・セルヴィア等との国境(EUの境界)をハンガリーが管理することに.
そうすると,その外側の国籍所持者(ハンガリー系を含む)に対するハンガリー入国審査(EUへの入国)を,これまでより厳しくしなければならなくなるのです.
だからこの「民族地位法」を成立させたのです.
私に言わせれば,ハンガリーは民族差別が弱い国だからこそ,今までこの法律がなかったんじゃないかと思えるのですけどね.
周りの国が同時に加入すれば良いんですけどね.
今日の朝日の朝刊の国際面にまたハンガリーの選挙のことがちょっぴり載っていたのですが,
"FIDESZが単独過半数を獲得するのは微妙なところなので,反ユダヤ主義の極右「正義と生活党」が選挙後の協力に乗り出す可能性もあり・・・"
などと書かれていて,ちょっとねえ,と思いました.
他方,先日,近所のKOCSIMAで,久しぶりに3人の知人(みんな若い)に出会ったら,やっぱり選挙の話がでてきた.
(この時すでに彼らは結構酔っ払っている)
一番強面でそれっぽい(偏見ですが)奴がMSZP支持者で,あとの二人が「ハンガリー正義と生活党("生命"と訳す人もいます)」の支持者だった.
反ユダヤ主義というのは突っ込み入れなかったでど,
「外国人を排除しようという党なんじゃないの?」
と聞いたら,
「それはちょっと違う」
といわれた.
長くなるので詳細は省きますが,
「ハンガリーを外資に頼らず,ハンガリー人の手で発達させたい」
ということらしい.
FIDESZには,どう見てもSZDSZ(自由民主連盟)の立場らしい人もいて,そういう人やSZDSZはユダヤ系の人が多いらしい.
つまりFIDESZがMIEPと組んでも,内部にSZDSZ寄りの人がいるので,反ユダヤを前面に出していくことはないんじゃないかというのが,ほかの日本人で私よりハンガリーの政治に詳しい人から話を聞いたあとで思ったことです.
その人によれば,FIDESZとSZDSZが連立を組む可能性も,(この選挙では可能性は0に近いが) 将来的には,全く無いわけではないそうです.
ぶだぺすと ◆vFvohlXU :外国語板,2002/04/07
青文字:加筆改修部分
ハンガリー総選挙の第一ラウンドが終わりました.
なんと,MSZP(社会党)がわずか1%の差とはいえ,FIDESZ・MDF(ハンガリー民主フォーラム)連合をリードしました.
(もともとFIDESZはMDFと組んでいるので,単独過半数という朝日の書き方はおかしいですね)
保守政権が続くか,それとも左派政権となるかは,2週間後ですが,FIDESZは独立小地主党党首トレジャンのスキャンダルで懲りたのか,特定の政党に協力を頼むことはせず,直接選挙民に訴える方法で,第二ラウンド(4月21日)での挽回を目指すようです.
(オルバン首相が記者会見で話してました)
今回は,かなりの確率でMSZPが勝つでしょう.
FIDESZは一度SZDSZとの協力が決まっていたそうですが,何かあったらしく,SZDSZは,MSZPと協力する流れになっていました.
第一ラウンドの結果を受けて,両党の選挙協力の話し合いが,明日より始まります.
SZDSZは喜んで協力するのではないらしく,「厳しい話し合い」と表現してました.
第一ラウンドで,全国区比例の得票総数が5%に満たなかった党は議席確保ができない「5%条項」があり,今回これをクリアしたのは,MSZP(40%以上),FIDESZ・MDF連合(40%以上),SZDSZ(5%強)だけなので,この総選挙では,この4つ(3つの会派)の党だけが議席を持つことになります.
(MSZPとFIDESZ・MDF連合の差は約1%)
第一ラウンドの投票率は70%を超えました.
SZDSZは,一院制386議席のうち,恐らく10前後の議席しか持てないでしょうが,MSZPが単独過半数を取る確率はちょっと低いと思うので,MSZPに対して,いろいろ要求するでしょう.
第3党として「キャスティングボードを握る」っていうような.
ちなみに,今も社会党の中心にいる大部分の政治家は,一党独裁恐怖政治のころの大臣やってたり,秘密警察の人間だったりするので,そういうことを忘れていない人は,今回のMSZPの得票数を信じられない思いで見ている人もいるでしょう.
体制変換後,そういうことをあまり厳しく追及しなかったらしいです.
ちょっとスレ違いになってきましたので,このへんでやめときます.
ぶだぺすと ◆vFvohlXU :外国語板,2002/04/05
青文字:加筆改修部分
確かに信じられないと感じている人もいるでしょうね.
体制変換後,SZDSZは旧公安関係者を公職から退かせることを強く主張していたようですが.
[origo]はMSZPとSZDSZの選挙協力は月曜から始まって水曜にはもう終わるだろうと書いていますね.
SZDSZのフォドル・ガーボルはもともとはオルバーンやドイチュ・タマーシュと共にFideszを始めた人で,一旦袂を分かってまた協力するというのも難しいのかも知れませんが,ハンガリー人というのはその点どうなのでしょうね.
また,SZDSZはFidesz以上に資本主義万歳派だと思いましたがどうなのでしょうか?
で,MIEPもTorgyan派のkisgazdaもLiebmann Katalinらの改革派のkisgazda も議席は取れないのですね.
確かに批判が出ていたように小政党にとっては不利な選挙制度で,Csurkaが「二大政党制になっては困る」と以前言っていたようですが,それが実現するわけですね.
Ligeti Ervin ◆GiKmJoo. :外国語板,2002/04/05
青文字:加筆改修部分
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