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◆◆◆オスマン帝国侵入以降 Oszmán Invázió
<◆◆戦史 Magyar Történelem
<◆Hungary ハンガリー Magyarország
<欧州FAQ目次
※ 並びはほぼアルファベット順
【質問】
ハンガリーはオスマン帝国やハプスブルクの属国だったの?
【回答】
ハンガリーは一時期国土の中央部,領土の約3分の1をオスマン帝国に占領されていた時期がありましたが,ハンガリーがオスマン帝国の属国になった事実はありません.
バルカン諸国と混同されていませんか?
当時のハンガリーはまず,大きく,「ハンガリー王国」と「トランシルヴァニア(エルデーイ/ジーベンビュルゲン)公国」に分裂しており,ハンガリー王国の南部がオスマン帝国の占領下にあったわけです.
つまり事実上ハンガリーは三分割されていたことになります.
しかし,オスマン帝国がいた地域はあくまでも“占領地”であり,ハンガリーそのものがオスマン帝国の軍門に下ったわけではありません.
もっとも当時のハンガリー王国はハプスブルク家の王朝でしたので,ハンガリー史ではハンガリーの重心は専らハンガリー人の民族王朝のトランシルヴァニアを本来のハンガリーとみなしていますが.
なお,オーストリア=ハンガリー二重君主国成立以降は,政治・経済の重心は明らかに帝都ヴィーンから,王都ブダペストに移りつつありました.
(だからこそ,アフロユーラシア大陸最初の ― パリよりも古い! ― 地下鉄はヴィーンにではなく,ブダペストに建設されたのでした.)
ハプスブルク家にとっても,現在,ドイツ選出の欧州議員であるオットー・ハプスブルク大公はオーストリアの皇位継承権は有していませんが,理論上,ハプスブルグ・オットー大公はハンガリーの王位継承権は有しています.
体制転換後,ハンガリーの民族主義政党の一部がオットー氏をハンガリーの国王ないし大統領に招聘しようとしたのですが,オットー大公は
「私はドイツ選出の欧州議員に留まっていることの方がハンガリーの役に立てる」
と拒否したそうです.
オットー氏はドイツ人ですが,帝王学はきちんと学んでおり,ハンガリー語にも(ドイツ訛りがありますが)堪能です.
この前,小田急線沿線でオットー氏と遭遇したのですが,彼が英語で挨拶してきたのに対してハンガリー語で返事をしたら,彼は驚き,嬉しそうに
「おお,あなたも“同胞”[honfita'rsam] でしたか (^^)!」
と叫ばれました.
「いえ,生っ粋の日本人です (^^;)」
と答えましたが,“同胞”と言っても,彼だってドイツ人じゃないの (^^;)!
しい坊 : 世界史板,2001/09/30
青文字:加筆改修部分
三分割時代のハンガリー
(こちらより引用)
【質問】
「バートリ家」について知っている方はいませんか?
【質問】
「バートリ家」について知っている方はいませんか?
中欧の歴史を語るうえで欠かせない一族だそうですが,日本では吸血鬼女の「エリザベート・バートリ」しか知られていません.
どなたか教えていただけませんか?
【回答】
イシュトヴァーン1世の娘婿で2代国王となるペーテル・オルセオロのところへ送り込んだグズとケレド(なんかドイツ人の名前とは思えないのですが・・・)の兄弟を家祖とする.
子孫でクン・ラースローと呼ばれたラースロー4世の家臣ブリキウスが著しい戦功をたて,王からバートル(強者)という名を授かったのがバートリ家 Báthori-család
の家名の起こり.
ハンガリー史の表舞台に登場するのは,モハーチ戦以前の副王バートリ・イシュトヴァーン7世(ポーランド王になった同名の人物の祖父)からではないでしょうか.
彼はハプスブルク家と関係を深め,援軍をドイツ帝国議会に乞いますが空しい努力に終わりました.
そのうえ,対立するサポヤイ・ヤーノシュによって副王の座を追われました.
モハーチ戦の後,彼はラヨシュ2世の未亡人マリアの側に立ち,ハプスブルク家のハンガリー王位獲得に貢献しました.
ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2002/02/23
青文字:加筆改修部分
7世の息子,バートリ・イシュトヴァーン8世は,ハンガリー王位についたサポヤイ・ヤーノシュの熱心な支持者となり,ハプスブルク家のフェルディナント1世の即位に反対.
1529年にはトランシルヴァニアの総督(ヴォイヴォド)職についたが,1532年死去.
その息子,バートリ・イシュトヴァーン9世(ポーランド名ステファン・バトーリ)は,神聖ローマ皇帝の下で外交官役を務め,1571年,ハンガリー王ヤーノシュ・ジグモンドの死後,三身分議会によってトランシルバニア公に選出される.
しかし,ヤーノシュの後継者にはベーケーシ・ガーシュパールが就く取り決めがあったので,内戦勃発.
9世はこれに勝利して,ベーケーシを国外に追放した.
その後,ポーランド・リトアニア共和国で,国王ジグムント2世アウグストが後継者を残さずに死去し,王位が空位となったことから,1573年,先王の妹で唯一の王位相続人であったアンナをポーランド王およびリトアニア大公に選出した上で,9世を彼女と結婚させることが決まる.
1576年,9世はアンナと結婚して妻と同じくポーランド王およびリトアニア大公となったので,トランシルバニア公位を兄のクリシュトーフにゆだねる.
国王在位中はロシアのイヴァン4世と抗争,リヴォニアを確保した.
1586年,フロドナ城で急死.
世界史板,2002/02/23
青文字:加筆改修部分
バートリー・イシュトヴァーンのあと,バートリー・ジグモンド,アンドラーシュ,ガーボルと3人(ジグモンドは2回)のトランシルバニア公を出しています.
残念ながら,この内,ジグモンドはトルコとの関係を切り捨ててハプスブルク家と同盟しましたが,国内は大混乱.
嫌気がさした彼は国をハプスブルク家のルドルフ王に国を譲り渡そうとし,国内を大混乱に陥れ,しかも気が変わって復位したという困った御仁です.
ガーボルはエルジェベートの同時代人ですが,この人もあまり有能な人物ではなく,最終的にトルコから戻ってきたベトレン・ガーボルに公位を追われた末,配下の手にかかって死亡しています.
エルジェベートの事件の当時,ハプスブルク家側がガーボルを暗殺しようとした計画があったそうで,彼女の罪状もでっち上げではないかと言われているというのは,別項に書かれたとおりです.
ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2002/02/23
青文字:加筆改修部分
バートリ家の紋
(wikipediaより)
【質問】
モンゴル語やトルコ語には「バガトル」(強者,勇者)という単語がありますが,ハンガリー語のバートルもこれと同じ起源の言葉ですか?
ちなみにロシア語には「ボガトゥィリ」という単語がありますが.
【回答】
古トルコ借用語です.
他に「海」を表す"tenger" 「斧」を表す"balta"等,古トルコ借用語はクマン人の言語から入ったものも含めると現在でも200語以上が使われています.
オスマン・トルコ語からの借用語で現在使われているのは20-30語程度ですけれども.
現存する資料でbatorの語が最初に現れるのは1138年ですので,やはりマジャル人のカルパチア盆地定住前の借用語だと考えて良いと思います.
もっともマジャル人のヨーロッパ移住の際に,トルコ系部族も行動を共にしていますので,そちらからの借用である可能性もありますけれど.
竹内先生のトルコ語辞典に,bahadir(iは点のないiですが)「英雄」はペルシア語起源であるとありますね.
ハンガリーで出ている歴史・語源辞典のbatorの項の説明によると,この形のトルコ語の単語はトルコ語ではなく,モンゴル語からペルシア語に入り,そこからトルコ語に「帰って来た」語であるということです.
トルコ語とモンゴル語に共通する語彙については,アルタイ語族説に従う人は「アルタイ祖語」に由来するものだと言うし,アルタイ語族説に否定的な人はトルコ語からモンゴル語に入ったと言いますね.
上の語源辞典のbatorの項を書いた人も,後者の説に従っているわけです.
世界史板,2002/02/24
青文字:加筆改修部分
【質問】
ズリーニ・ミクローシュって誰?
【回答】
ズリーニ・ミクローシュ/ニコラ・ズリンスキ Zrínyi Miklós / Nikola Zrinski はニコラ・シュビッチ・ズリンスキの曾孫.
1620.5.1,チャークトルニャ Csáktornya に生まれる.
エステルゴム Esztergom の大司教,パーズマーニ・ペーテル Pázmány Péter の下でハンガリー語とハンガリー文学を学ぶ.
1635~37年,オーストリアとイタリアに遊学し,そのバロック様式の影響を受ける.
三十年戦争の最中であった1645年,モラビアに侵入したスウェーデン軍に対し,私兵を率いて戦い,捕虜2000を得る.
皇帝フェルディナント三世からクロアチア人部隊の隊長に任じられた後,裕福なクロアチア人貴族の娘,エウゼビア・ドラシュコヴィッチ Eusebia
Drašković と結婚するために帰国.
1646年には,反オスマン闘争を開始.
1647年,クロアチア総督に任命されるが,ウィーン宮廷と対立.
ハプスブルク支配が反トルコ闘争を妨げていると考え,中央集権的王国を唱道し,オスマン朝の支配に対するハンガリー民族の闘争をよびかけていたためである.
1661年,ウィーン宮廷の反対を押して対オスマン戦争に入り,1663‐64年にいくつもの勝利を収めた.
1664.11.18,チャークトルニャにて死去.
彼の曾祖父のオスマン帝国軍に対する戦いに題材を取った叙事詩『シゲトの危機』 Szigeti veszedelem (1645~46執筆,51発表)
が有名で,ハンガリー叙事詩文学の祖といわれている.
【参考ページ】
https://kotobank.jp/word/ズリーニ
http://www.szelence.com/zrini/index.html
http://turul.info/magyarok/zrinyiahadvezereskolto
http://mult-kor.hu/zrinyi-miklos-tragikus-halala-vadkanbaleset-vagy-merenylet-20141118
ズリーニ・ミクローシュ肖像画
(こちらより引用)
【ぐんじさんぎょう】,2016/04/22 20:00
を加筆改修
狩猟中に猪に襲われて死去したそうです.
ギシュクラ in mixi,2016年04月17日
【質問】
ズリーニ・ペーテルって誰?
3行以上で教えて!
【回答】
ズリーニ・ペーテル Zrínyi Péter(クロアチア語読みではペタル・ズリンスキ Petar Zrinski)(1621~1671)は,ズリーニ・ミクローシュの弟.
オスマン帝国との戦いにおける歴戦の将.
また,語学にも堪能であった.
三十年戦争に従軍.
1649年,スルニャ Slunja の戦いにおいてトルコ軍を敗走させる.
1654年,オスマン帝国軍とヴェネチア同盟軍との戦闘に従軍.
墺土戦争(1663-1664)では,兄ミクローシュと共に,ズリーニウイヴァール Zrínyiújvár 包囲戦においてオスマン軍と戦う.
1664年,神聖ローマ皇帝・レオポルド一世とオスマン帝国との間に和議が結ばれたため,ハンガリーからオスマン勢力を駆逐できなかったことに失望し,クロアチア人貴族とハンガリー人貴族から成る陰謀グループに入る.
このグループは,オスマンやハプスブルクを含む外国勢力を,「聖イシュトバーンの地」から排除することを目指した.
彼らは目的を果たすため,外国勢力と結びつこうと動いた.
フランス,スウェーデン,ポーランド=リトアニア,ヴェネチア,果てはオスマン帝国とさえ接触した.
しかし,どの国もこの問題に介入しようとはしなかった.
(そら,そうだよなあ.こんなに節操がなくては…)
1670年,クロアチア人部隊を率いて叛乱を起こそうとしたが,失敗.
叛乱を煽動しただけに終わったが,しかし,ペーテルらは反ハプスブルクの陰謀を企んでいたとして逮捕された.
逮捕された貴族たちは2000人に上った.
1671年,義兄であり,また,同志でもあったフラン・クルスト・フランコパンらと共に処刑された.
【参考ページ】
柴宜弘・石田信一編著『クロアチアを知るための60章』(明石書店,2013年),p.51
https://en.wikipedia.org/wiki/Petar_Zrinski
http://mk-vitez.com/index.php/hr/petar-zrinski
http://www.kkzrinski.de/hr/zrinski.php
http://proleksis.lzmk.hr/51109/
ズリーニ・ペーテル肖像画
(こちらより引用)
【ぐんじさんぎょう】,2016/04/25 20:00
を加筆改修
【質問】
ズリーニ・イロナって誰?
3行以上で教えて!
【回答】
ズリーニ・イロナ Zrínyi Ilona (クロアチア語ではイェレナ・ズリンスカ Jelena Zrinska)(1643~1703)は,ズリーニ・ペーテルの娘.
ということは,あの「血の伯爵夫人」 バートリ・エルジェーベト Báthory Erzsébet の曾孫に当たる.
ズリーニ家家系図|wikipedia
母親はクロアチア人貴族フランコパン家の娘であり,詩人のカタリナ.
1666.3.1,ラーコーツィ・フェレンツ Rákóczi Ferenc 一世と結婚.
しかし1670年,フェレンツは義父ズリーニ・ペーテルらによる反ハプスブルクのヴェッシェレーニ陰謀に加わって逮捕さる.
彼は30万フォリント及び幾つかの城を皇帝に献上して保釈されたが,1676年,次男ラーコーツィ二世が生まれた数ヵ月後に死去.
1682年,イロナは反ハプスブルク蜂起の指導者テケイ・イムレ Thököly Imre と再婚.
だがしかし,テケイは,ハプスブルクのレオポルド一世と和平交渉を行っていたことから,オスマン帝国に支援を求めに行った際に逮捕さる.
チャンス!とばかり,反乱勢力の最後の抵抗拠点,ムンカーチ Munkács の パラノク Palanok 城に Antonio Caraffa 将軍率いるハプスブルク軍が押し寄せる.
城は包囲されたが,そこでハプスブルク軍はまさかの抵抗を受ける.
イロナが指揮して1685–1688の3年間,城を守り通したのである.
勇名を馳せたイロナだが1688年の降伏後,子供達と共にウィーンに移される.
その後,テケイはハプスブルク軍の将軍を捕え,その将軍との捕虜交換で,イロナのみ夫のもとへ帰還.
しかししかし,1699年,カルロヴィッツ条約によりハプスブルク帝国とオスマン帝国との和議が結ばれると,夫婦はオスマン帝国へ亡命.
最初はガラタに,後にイズミットに住み,1703年,同地で死去.
1705年には夫のテケイ・イムレも死去した.
しかし3,イロナとラーコーツィ・フェレンツとの子,フェレンツ二世はウィーンからの脱出に成功.
彼は18世紀初頭の反乱軍の将となったのである.
こうして観るに,ズリーニの血族はハプスブルクにとって,常に癪の種であったと言えよう.
【参考ページ】
http://www.slovakiaunderscope.com/ja/about/slovak-history/slovakia-18th-century/
http://www49.atwiki.jp/memotyors/pages/203.html
https://en.wikipedia.org/wiki/Ilona_Zr%C3%ADnyi
http://www.tarnok.hu/Iskola/Iskola/uttoro/nevadonk/nevadonk.htm
【ぐんじさんぎょう】,2016/04/27 20:00
を加筆改修
確か,テケイはイロナよりも相当に年下で,ラーコーツィ・フィレンツ二世は彼を相当に嫌っていたそうです.
あと,フィレンツ二世は当初はハプスブルク家に忠実で,トカイ地方で農民反乱が起こった際に彼を担ぐ動きがあった際には,拒否しています.
ギシュクラ in mixi,2016年04月21日
【質問】
モハーチの戦いって何?
【回答】
1526年8月29日にハンガリー・ブダ南方のモハーチ
Mohács 平原で起きた,ハンガリー王国軍とオスマン帝国軍との戦闘です.
迎え撃つハンガリー軍3万(援軍3万が来るはずだったが,その前に行動を始めてしまった)に対し,スレイマン1世は兵力約7万以上,大砲300門.
オスマン帝国軍は兵力,戦術共に優り,ハンガリー軍は一方的に壊滅して2万人以上が戦死,国王ラヨシュ2世も落馬・溺死しました.
それでもKIA(Killed in Action)のうちと見なせないこともありませんので,厳密さを特に要求されないときは,かわいそうですから戦死と言ってあげてください.
▼ ちなみにこのときにオスマン軍の手によって,ヨーロッパに初めて唐辛子が持ち込まれたのだとか.
ちなみに唐辛子はアメリカ大陸原産の植物でして,コロンブスが1493年に最初にヨーロッパに持ち込んでおります.
その後,インドもしくはアレクサンドリア経由でオスマンに持ち込まれ,ハンガリーなどバルカン諸国にモハーチの戦いの際に持ち込まれました.▲
【参考ページ】
http://members.aol.com/nishitatsu1234/zatsudan/Balkan.htm
http://www.hungarytabi.jp/stepbystep/sbsminadu.html
http://www.h4.dion.ne.jp/~kosak/Ottoman.html
http://www.koparis.com/~hatta/tougarasi/tougarasi3.htm
http://www.hungarian-history.hu/lib/warso/warso19.htm
http://www5d.biglobe.ne.jp/~k-ue/travel/turkey_200604/ottoman/suleyman.htm
【関連リンク】
http://www.youtube.com/watch?v=W0yK2PLlGBk※
http://www.youtube.com/watch?v=bOwyXZhR-jw
【ぐんじさんぎょう】,2008/10/31 22:00
に加筆修正
※
この動画の作者,モハーチの地形を全く知らんのだろうなぁ・・.
ドナウ河畔の丘陵地帯ではあっても,こんな山みたいな場所は一箇所もないのは,グーグルアースでもすぐわかりそうなものなのだが・・.
今の戦跡公園の写真は
http://hungarystartshere.com/gallery?group=O11372
で,これは発見された戦死者の集団埋葬地である.
以前,晩秋に訪問したことがあるが,
「この場所には手をつけてはならない」
と言われていた場所であったという話を聞いた.
発掘した写真を見たことがあるが,遺体が折り重なっていて,まさに死屍累々という言葉がふさわしい.
http://mek.oszk.hu/01900/01918/html/index187.html
しかし,これでも伝えられる戦死者の数からすれば少なすぎるとのことで,主戦場がどこであったのかは,いまだに不明とのことである.
ちなみに現在のモハーチはブショーヤラーシュ(ハンガリー風なまはげ??)祭りで有名です.
私も古戦場を訪れましたが,丘陵といっても非常に緩やかなものでした,現在はセルビアとの国境の向こうまで一面の畑地になっていますが,1526年当時は,平らなな場所といってもドナウが何度も流れを変えた結果,旧河道がくぼ地になっていたり,川岸に近い方は葦原の茂る沼沢になったりした場所が入り組んでいるような場所でした.
また,恐らくは視界をさえぎる低木も存在したようです.
あまり,大軍の激突するにふさわしい場所とも思えませんが,ここを戦場に選んだのは数に劣るハンガリー側でした.
ハンガリー軍の総司令官はカロチャ大司教トモリ・パールでしたが,彼は小競り合いの経験はあったものの,大軍を率いての合戦の経験は乏しかったようです.
国王ラヨシュ2世とトモリに従うハンガリー軍は2万5千~8千,本来はこれにトランシルバニア候サポヤイ・ヤノシュ率いる軍8千~1万3千,クロアチア太守フランコパン・クリシュトフ率いる5千の軍が加わるはずでした.
しかし,オスマン軍の進軍速度は思ったよりも速く,軍を集結させるよりも,オスマン軍と接触する方が早い見込みになってしまいました.
(サポヤイに関しては,オスマンに内通し,軍を進めさせなかったという説もあります.
彼は元々,自分には国王の資格があると考えており,先代のハンガリー王ヴワディスワフ2世の時代に中小貴族の支持を得て,国王が嫡子なく死亡した場合はハンガリー人が王に選ばれる旨――もちろん候補者がサポヤイであることは言うまでもありません――の国会の決議を得ていました.
その野望は,国王に嫡子ラヨシュ2世が誕生したことで先送りになっていたのです.)
軍の集結が不可能と判明した時点で,ハンガリー軍としては北部へ撤退し,サポヤイ軍と合流するという作戦を取ることも可能でした,
しかし,その場合はブダを捨て,ポジョニ(ブラチスラヴァ)か,あるいは更に北の現在のスロバキアあたりまで撤退しなければならなかったものと思われます.
結局,作戦会議はハンガリー軍の勇敢さを頼んで,現兵力で約6万のオスマン軍を迎撃することに決定しました.
大司教トモリが熱弁を振るった結果のようです.
で,結局ドナウ河畔でオスマン軍を迎撃することになったのですが,本来なら河を渡るところを叩くべきだったのでしょうが,それもできず,夜襲もかけず,より高い場所のオスマン軍が布陣することを許し,挙句は真夏のさなかに午後に至るまで戦端を開かず,いたずらに体力を消耗し,戦闘開始となったら,敵陣に猛突撃をかけた挙句に包囲され壊滅的な打撃を受けました,
戦死者は1万6千,国王ラヨシュ2世も撤退途中に,湿地地に足を取られた馬から落馬して陣没(下敷きになって溺死),ハンガリー王国は事実上ここに滅亡しました.
戦闘の経過などを読んでいるとハンガリー好きとしては,なさけなくて涙が出てきます.
ギシュクラ in 2008年10月27日00:02~28日 23:45
モハーチ戦前後のハンガリー騎兵
(画像掲示板より引用)
youtube.com/watch?v=516W2MuXXl8
【質問】
ハンガリー王国のブラチスラヴァ遷都について教えてください.
【回答】
ハンガリー王国の首都だったブダは,1529年にオスマン帝国に包囲され,1541年には完全占領されました.
そのため,ハンガリー王国はブラチスラヴァに遷都.
1536年から1784年までハンガリー王国の首都となりました.
その間,1542年にはハンガリー議会も移転.
1563年から1830年までは歴代ハンガリー王戴冠式が,聖マルチン大聖堂で行なわれました.
1741年にはマリア・テレジアもこの教会で戴冠しています.
その後,コッシュートたちの革命政府とともに,議会もデブレツェンに移動し,革命政府の敗北後は一時期議会は廃止.
1861年に再開された際はペストでの開催でした.
会場は国立博物館だったそうです.
ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2002/05/11
青文字:加筆改修部分
ちなみに,ハンガリー語ではポジョニュ Pozsony 市と言いますが,ドイツ語ではプレスブルク市で,元々はドイツ人が住民の多数派だったのではないかしら?
次に多かったのがハンガリー人で,当時,果してスロヴァキア人がいたのかどうか....
現在のスロヴァキア語の“ブラティスラヴァ”は1918~1920年頃に,「むかし,ここら辺にブラティスラヴァという町があったらしい」という伝説に基づいて命名されたようで,後日,全然別の場所からブラティスラヴァの遺跡が発見されたということを聞いたことがあります.
(真偽のほどは定かではありません)
どちらにせよ,現在のスロヴァキア共和国の首都のブラティスラヴァ市は,チェコスロヴァキアが建国されるまではスロヴァキア人達は“プレシュポロク”と呼んでいました.
当然,語源はドイツ語名のプレスブルクだと思います.
なお,現在の西ハンガリーである地方をハンガリー語ではドゥナーントゥール(ドナウの彼岸.ラテン語訳は Transdanubia)と呼んでいますが,通常の解釈ではドナウ川が南北に流れる地域(首都ブダペシュトのある地域)から見て,「ドナウ川のあちら側」と解釈するのが自然ですし,ハンガリーでも一般的にはそう説明されていますが,実は,首都のあったポジョニュ(ブラティスラヴァ)から見てドナウ川のあちら側,すなわち南岸という意味でそういう名前が付いたのだという説も聞いたことがあります.
真偽は定かではありません.
しい坊 : 世界史板,2001/11/01
青文字:加筆改修部分
【質問】
オスマン帝国に入ってた方のハンガリー王国の王位は,誰が持ってたんでしょうか?
もしかしてスルタンが兼ねてたとか?
【回答】
半可通の説明で申し訳ないのですが・・・.
正統の王位はラヨシュ2世の戦死により,ハプスブルク家のフェルディナンド1世のものでした.
これはハプスブルク家とヤゲヴォ家の協定によるものです.
一方,対立王であるサポヤイ・ヤーノシュは外国人統治者の選出を除外する「ラーコシュ原」の決議というものを根拠にして王を称しました.
この決議は,ヤゲヴォ家の先代のヴワディスワフ(ウラースロー1世)の時代に当時の副王サポヤイ(サポヤイ・ヤーノシュの父)が,中小貴族を先導してブワディスワフの退位とサポヤイの即位を要求させた結果,妥協の産物として出来たものだそうです.
そしてオスマン帝国は当初,サポヤイ・ヤーノシュを王ととして支援していました.
彼の息子のヤーノシュ・ジグモンドの代にハプスブルク家の攻勢を受け,オスマン帝国の来援を請うた際,オスマン帝国軍は国の中央部を占拠し,これ以降,ハンガリー領がハプスブルク・オスマン帝国そしてオスマン帝国保護下のサポヤイ家の3分割状態になるわけです.
その後ヤーノシュ・ジグモンドはハプスブルク家との協定でハンガリー王の称号を辞して,トランシルバニア公兼ハンガリー分離地区宗主の称号を得ています.
オスマン帝国の支配地域については王位というものは基本的に誰も称していないはずです.
専門の方の解説をお願いいたします.
ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2001/12/12
青文字:加筆改修部分
【質問】
ハイドゥクについて興味があります.
現代はバルカン半島にもいるようですが,近世のハイドゥクはみんなハンガリー人ですか?
ハイドゥクの実像についてこのようが記述がありますが,本当ですか?
「ときには義賊といえるケースもあったが,大部分が山奥に住み着いて民家を略奪し,墓を盗掘したり賭博や飲酒をしたりすることに時間を費やした.
彼らの眼中には政府もなく,祖国もなく,仁義や道徳もない.
彼らの日常はただ一身の快楽を得られればよく,秤を争って金と銀を分配し,派手な衣装をひっかけて斗酒を飲み,肉の塊を丸ごと飲み込むかと思えば,女を拉致してかわるがわる強姦した後,道端に捨てる肉盗行為以外にはすることがない.」
【回答】
16世紀,ハンガリーのオスマン帝国占領地域に出現した武装勢力としての「ハイドゥク」は,主にハンガリー人やスラヴォニア人から成っていたが,17世紀には退潮した.
その後,オスマン帝国の衰退とともに,支配下にあったルーマニア,ブルガリア,ギリシャ,セルビアなど各地に野盗の類が出没するようになり,そうした連中も「ハイドゥク」と呼ばれるようになったので,全バルカン的な現象になった.
そのためハイドゥクや類似の匪賊(ギリシャのクレフト,トルコのケレール等)の民族構成はルーマニア系,スラヴ系,ギリシャ系など多岐にわたったが,出身階層としては農村社会で問題を起こしてアウトローになった者が多かったようだ.
遊牧民がどうとかいうより,堅気の社会へのアンチとしての太く短く生きる生活様式だろう.
ハンガリーでハイドゥ民というと,ボチカイ・イシュトヴァーンの反乱時ぐらいから記録にあらわれますが,オスマン軍に追われたり、領主の圧迫から集団で逃れた農民が匪賊化したものと言われています.
彼らはボチカイの援助要請に応えてハプスブルク家と戦い,ボチカイの勝利に貢献したことによって,軍事的な奉仕義務を持つ自由身分の農民とされました.
武装した家畜輸送業者というの市場町に住むようになって以降の話ですね.
彼らはその後もハンガリーで対ハプスブルク家反乱が起こるたびに戦闘に参加しているものですから,ハンガリーの抵抗の象徴のようになっているのでしょう.
余談ですが,クロアチアのクリス城(昔ハンガリー王国の南の防衛線だった)で,今でもハイドゥクの末裔が「羊の丸焼き」を食べさせるお店?をしているそうです.
【質問】
そういえばハンガリーの昔トルコが占領していた区域にはモスクの建物は残存しているけれどムスリムの信仰を持ちつづけた人たちというのはいるのだろうか???
【回答】
本当に不思議ですよねぇ.
ハンガリーは,あくまでも国土の一部(3分の1)がトルコに占領されていただけで,実質的なハプスブルク領だった(名前だけの)「ハンガリー王国」と(名前は違うけれども),実質的なハンガリーであった「トランシルヴァニア公国」も存在していたわけですから,ハンガリー以南のバルカン諸国(諸国というよりは諸地域か?)とはだいぶ事情が違ったようですけれども.
イスラムやバルカンは全く専門外なので,お詳しい方がいらっしゃったら,ぜひ,ご教示いただきたいのですが,とりあえず僕が習った範囲でお答えしますと,オスマン・トルコは占領地においては宗教的には非常に寛容だったと言われています.
自分らの信仰のためにモスクは建てましたが,キリスト教徒の住民にイスラムを強制するようなことは一切(?) なかったようです.
要するに税さえちゃんと収めれば,あとは自由にさせておいてくれたようです.
ですから,ハンガリー人のイスラム教徒というのは全く存在しておりません.
バルカンの(ハンガリーはまだバルカンには含まれません)セルビア人やクロアチア人,アルバニア人の間にはイスラム教徒も多いようですから,その違いがなぜ発生したのかは存じません.
ここら辺(なぜハンガリーではイスラム化が行われず,バルカンではある程度のイスラム化が進行したのか)ぜひ知りたいところです.
ちなみに,“バルカン”の範囲に関しても難しい問題があるようです.
セルビアがご専門の柴さんは旧ユーゴスラヴィアの版図からクロアチア,スロヴェニアまでバルカンに含められているようですが,歴史的にオーストリアに支配
(?) されていたスロヴェニアと,(オーストリアに支配されていた)ハンガリーに支配されていたクロアチアはバルカンには含まれないのではないかというのが僕の考え方なのですが.
ま,これなんかは典型的な研究地域の違いによる見解の相違なんでしょうけどね.
真相はどっちの要素もあるということなんでしょうけど....
それからバルカンの諸民族の間ではトルコは単に憎まれているだけですが,確かにハンガリーでもトルコとの戦いによる被害は甚大だったのですが,先程も述べましたように,トルコは宗教的に寛大で,しかも風呂好きのトルコ人はハンガリーのあちこちに狂ったように温泉を堀まくり,今では温泉大国ハンガリーの貴重な観光資源ともなっております.
また,“薔薇愛でるパシャ”として有名だったブダの統治者ギュル・ババもハンガリー人には愛されており,『ギュル・ババ』というオペレッタは人気があります.
ブダペストの高級住宅地の薔薇ヶ丘はギュル・ババの薔薇栽培地に由来しております.
しい坊 : 世界史板,2001/10/22
青文字:加筆改修部分
ハンガリーがなぜちっともイスラム化しなかったかは確かに不思議ですね.
私もそっちが専門というわけではないので,推論でお答えします.
まず,ハンガリー人イスラム教徒が全くいなかったわけではありません.
所謂「デヴシルメ」でもって宮廷や軍に入り改宗した人々がいます.
また,強制ではなく改宗した人々もいるにはいたようです.
たとえば,ペーチ出身の歴史家ペチェヴィー・イブラヒムとか,トランシルヴァニア出身でイスラム史上初めて活版印刷を始めたイブラヒム・ミュテフェッリカなどが知られています.
ところが,以上挙げたような人々はみんなイスタンブールに行っていて,「オスマン人(トルコ人,ではありません)」に混じり込んでいるから,おそらくその子孫はハンガリーに残らなかったのだと考えられます.
逆にいえば,バルカンのうち旧ユーゴやアルバニアにイスラム教徒が多いのは,土着の農民層に(土着のままの)自発的改宗者が出たために,イスラム教徒が残ったのだと言えます.
では,なぜハンガリーでは農民層に改宗者が出なかったのか?
うーん,なんででしょう.(笑)
支配者としてのイスラム教徒の流入が少なかったこと,オスマン支配下にあった時代が比較的短かったこと,などが考えられるかもしれません.
あるいは,「バルカン」のオスマン領諸地域ではキリスト教徒の貴族階層は消滅してしまうのですが(なぜ消滅したかは議論の余地があります),ハンガリーではハプスブルク支配地域に逃れたり,トランシルバニア公国(オスマン宗主権下で存続していた)に逃れたり,あるいはオスマン支配を受け入れたりして,貴族が消滅しなかったことも関係あるのかも.
>セルビア人やクロアチア人,アルバニア人の間には
>イスラム教徒も多いようですから
セルボ・クロアート語を話すイスラム教徒たちは,とうとう「ボシュナク人」というひとつの民族になってしまいましたけどね.
現代において言葉だけでなく宗教でもって民族を分けた結果として,興味深い事例になってしまったんじゃないでしょうか.
世界史板,2001/10/25
青文字:加筆改修部分
【質問】
「Va'sa'rosneme'nyi」 Ëötvös Jo'zsefって何ですか?
【回答】
“Vásárosnaményi”ですね.
よくは知りませんが,エトヴェシュ (Ëötvös) 男爵家は旧ベレグ・サトマール城県の大貴族(華族)で,その戦功によりマリア・テレジアから男爵の爵位を授かったエトヴェシュ・ミクローシュが,わかっている一番古い先祖です.
“Vásárosnamény”とは現在のサボルチ・サトマール県にある「ヴァーシャーロシュナメーニュ」という市で,恐らくは昔,彼らの領地があった所なのではないでしょうか?
要するに「ヴァーシャーロシュナメーニュの男爵エトヴェシュ・ヨージェフ」ということだと思います.
で,こういう修飾語を付けるのは,色々分家があり,例えば,他に“シャールヴァールの男爵エトヴェシュ家”とかがあったりするからです.
しい坊 : 外国語板,2001/11/03
青文字:加筆改修部分
【質問】
ベニョフスキ・モーリツって誰?
【回答】
有名な冒険家のベニョフスキ・モーリツ Benyovszky Máté Móric Mihály Ferenc Szerafin Ágost 伯爵ですね.
史料に残っている中では,日本を訪れた最初のハンガリー人です.
1746年にニトラ県ヴェルボーでベニョフスキ・シャームエル伯爵とレーヴァイ・ローザの間に生まれました.
元々ベニョフスキ家はカーロイ・ローベルト王の時代に陰謀に巻き込まれ,ポーランドに亡命していたのが,ジグモンド王の時代にベンヤミンシュとウルバーンの兄弟がハンガリーに戻ってきたのでした.
で,戦勲を上げて,再びジグモンド王から貴族の称号を受けて,ヴァーグ川の近くに所領をもらったのでした.
で,ベンヤミンシュがベニョフスキ家を名乗り,ウルバーンがウルバノフスキ家を名乗ったのでした.
ま,どちらにせよ,恐らく元々はスラヴ系の家柄だったのでしょう.
(そうでなかったら,多分,ベンヤーミンフィ,ウルバーンフィとか名乗ったはずですから.)
当時は国家の帰属意識しかなかった時代なので,彼らの民族意識がどうだったのかはわかりませんね.
モーリツも“ハンガリーの貴族”という意識しか持っていなかったでしょうから.
恐らく近世にはハンガリー人意識になっていたと思います.
1762年,七年戦争(1755~1763)に短期間従軍した後,ポーランドのセペシュ Szepes に住むために軍から離れ,そのため1764年,脱走容疑で告発されました.
翌年,判決確定前に,彼はポーランドの叔父のもとへ逃げ,ロシアによって王位に据えられたポーランド王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキに対する反乱組織に関与.
1768年7月に逮捕され,カムチャツカ半島に流刑にされました.
1771年,同地で他の囚人と共謀して看守らを殺害して脱獄し,帆船を奪って日本,フランス領マカオ,マダガスカル島を経由して,1772年7月,フランスに渡航.
ペニョフスキが阿波国徳島藩の日和佐(現徳島県美波町)に来航したとき,徳島藩は江戸幕府に咎められることを恐れて上陸を許さず,無償で水と食料・燃料を与えて追い返しました.
このとき,彼は長崎のオランダ商館長宛の手紙を徳島藩に渡しましたが,これが「ロシア帝国が松前近辺を占拠する準備をしている」という根も葉もないものでした.
幕府は書簡の存在を秘匿したものの,工藤平助・林子平らがロシア関連書籍を刊行して世に警鐘を鳴らすきっかけとなりました.
ちなみに,オランダ商館長はペニョフスキを「ファン・ベンゴロ」とオランダ語読みし,このことからペニョフスキは日本で「はんべんごろう」と呼ばれることになりした.
「はん・べんごろう」の「はん」は恐らくオランダ語の van だったんでしょうね.
貴族だから.
フランス宮廷においてルイ15世に対し,ペニョフスキはマダガスカル島をフランスの植民地化することを提案.
ルイ15世は彼に爵位を与え,マダガスカルにおける軍事と交易とを委任する知事に任命しました.
1774年,彼はマダガスカル島に上陸して開拓事業を開始.
要塞や道路,集落,病院などを建設しました.
そして原住民に推挙されて,マダガスカルの王になっていたはずです (^◇^;).
彼はまた,アメリカの独立を支援しました.
1785年,Foulpointeのフランス人貿易決済官を逮捕しました.
フランス海洋省はこの一件や,アメリカへの協力に怒り,1786年にマダガスカル島へ派兵します.
同年5/23,フランス軍の奇襲攻撃により,マダガスカルで亡くなったのでした.
ちなみに日本語版wikipediaはペニョフスキについて,誤りではないかと思われる記述を含む,かなり悪意に満ちた内容となっています(2016.6.25アクセス)
これがどのような典拠に依っているのかは,記述がないので不明です.
しい坊 : 外国語板,2001/11/04
青文字:加筆改修部分
【質問 kérdés】
ハンガリー・ジャコバン運動とは?
Mi az a magyar jakobinus mozgalom?
【回答 válasz】
啓蒙司祭マルティノヴィツ・イグナーツが指導したハンガリー・ジャコバン党による革命運動.
ヨーゼフ二世の跡を継いだレオポルド二世は在位僅か2年で死去.
1792年に跡を継いだのがフランツ2世だが,折しも近所のフランスでは革命の真っ最中で,革命軍はハプスブルク領にも攻め込んでくる始末.
革命の輸出などさせてなるものか,とヨーゼフ二世の啓蒙君主路線を放棄して絶対主義的な王政を行うと,不満に思う人間も当然出てくる.
ハプスブルク支配下のハンガリーでもフランス革命の政治思想に加え,ポーランドの改革独立運動にも影響された人々が,ハンガリーでも共和制を敷き,貴族や教会の特権を廃止する改革を行おうという運動を始めた.
もちろん王権に逆らうことになるので,ばれれば極刑.
なのでこの革命運動は秘密の行動だった.
しかしさほどの支持者も集まらぬうちに,1975年にはウィーン・ジャコバンの摘発時に,彼等ハンガリー・ジャコバン党の存在も発覚.
党員たちは逮捕され,起訴された者53人,死刑宣告された者18人.
指導者7人は1795年5月2日,ブダの牧草地で処刑され,同地はのちに「血の平原」と呼ばれるようになったとさ.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://mobile.twitter.com/FrenchRbot/status/1113995817726042112?p=p
http://www.e-kompetencia.si/egradiva/mad_zgo/15/a_jakobinus_mozgalom.html
https://erettsegi.com/tetelek/tortenelem/a-magyar-jakobinus-mozgalom/
http://www.kislexikon.hu/magyar_jakobinus_mozgalom.html
http://www.rubicon.hu/magyar/oldalak/1795_majus_20_a_magyar_jakobinusok_kivegzese/
マルティノヴィツ・イグナーツ Martinovics Ignác
(図表番号 faq190624mr, こちらより引用)
mixi, 2019.6.24
【質問 kérdés】
ハンガリー・ジャコパン党員で逮捕されたのは?
【回答 válasz】
ハンガリー語版wikipediaによれば,以下の人々が逮捕されたという.
Név 名前 | Foglalkozás 職業 | Ítélet 判決 | Megjegyzés 備考 | |
Királyi Tábla 王立裁判所 |
Hétszemélyes Tábla 最高裁判所 |
|||
Martinovics Ignác マルティノヴィツ・イグナーツ |
szászvári apát サースヴァールの司祭 |
fej- és jószágvesztés 「被告は頭と牛を失うものとする」 (死刑の上,財産没収,の意味?) |
同左 | Kivégezték 1795. május 20-án. 1795年5月20日処刑. |
Hajnóczy József ハイノーツィ・ヨージェフ |
kamarai titkár 書記官 |
|||
Laczkovics János ラツコヴィツ・ヤーノシュ |
nyugalmazott kapitány 引退した船長 |
|||
Szentmarjay Ferenc セントマリャイ・フェレンツ |
magántitkár 侍史 |
|||
Sigray Jakab gróf シグライ・ヤカブ伯爵 |
a kőszegi tábla ülnöke ケーセギの司法役員 |
|||
Őz Pál エーツ・パール |
ügyvéd 弁護士 |
Kivégezték 1795. június 2-án 1795年6月2日処刑. |
||
Szolártsik Sándor ソラールツィク・シャーンドル |
joggyakornok 司法研修生 |
|||
Verhovszky Sámuel ヴェルホフスキイ・シャームエル |
ügyvéd 弁護士 |
Királyi kegyelem. 王の特赦により処刑猶予. A börtönben meghalt 1797. augusztus 3-án 1797年8月3日,獄中死. |
||
Aszalai János アサライ・ヤーノシュ |
író, nevelő 作家,教育者 |
5 év börtön 収監5年 |
3 év börtön 収監3年 |
Meghalt a börtönben 1796. október 12-én 1796.10.12獄中死. |
Szentjóbi Szabó László セントヨービ=サボー・ラースロー |
magántitkár 侍史 |
fej- és jószágvesztés 「被告は頭と牛を失うものとする」 |
fej- és jószágvesztés 「被告は頭と牛を失うものとする」 |
Királyi kegyelem. 王の特赦により処刑猶予. A börtönben meghalt 1795. október 6-án 1795.10.6獄中死. |
Ambrózy Gábor アムブロージ・ガーボル |
királyi ügyész 王立検事 |
- - | - - | Meghalt a per közben 1795. március 27 -én 1795.3.27,裁判中に死亡. |
Fodor József フォドル・ヨーヂェフ |
helytartótanácsi titkár 評議会秘書 |
- - | - - | Elfogatásakor öngyilkos lett 1794. december 16-án 1794.12.16暗殺さる. |
Krály József クラーイ・ヨーヂェフ |
uradalmi főfelügyelő 不動産管理人 |
- - | - - | Elfogatásakor öngyilkos lett 1795. február 4-én 1795.2.4逮捕時に自殺. |
Landerer Mihály ランデレル・ミハーイ |
nyomdász タイポグラファ ー |
10 év börtön 懲役10年 |
fej- és jószágvesztés 「被告は頭と牛を失うものとする」 |
Királyi kegyelem. 王の特赦により処刑猶予. A börtönben megőrült 1801-ben. 1801年,獄中で発狂. 1805-ben szabadult. 1805年釈放. |
Verseghy Ferenc ヴェルシェギイ・フェレンツ |
író 作家 |
fej- és jószágvesztés 「被告は頭と牛を失うものとする」 |
Királyi kegyelemmel szabadult 1803. augusztus 28-án 王の特赦により1803.8.28釈放. |
|
Uza Pál ウザ・パール |
ügyvéd 弁護士 |
10 év börtön 懲役10年 |
Királyi kegyelemmel szabadult 1803. február 27 -én 1803.2.27,王の特赦により釈放. |
|
Szlávy János スラーヴィ・ヤーノシュ |
jurátus 司法学生 |
fej- és jószágvesztés 「被告は頭と牛を失うものとする」 |
Királyi kegyelemmel szabadult 1803 .január 15 -én 1803.1.15,王の特赦により釈放. |
|
Hirgeist Ferenc ヒルゲイシュト・フェレンツ |
egyetemi hallgató 大学生 |
5 év börtön 懲役5年 |
Királyi kegyelemmel szabadult 1802. szeptember 19 -én 1802.9.19,王の特赦により釈放. |
|
Szén Antal セーン・アンタル |
kamarai számvevő 商工会議所会計士 |
fej- és jószágvesztés 「被告は頭と牛を失うものとする」 |
Királyi kegyelemmel szabadult 1802-ben 1802年,王の特赦により釈放. |
|
Kazinczy Ferenc カツィンツィ・フェレンツ |
író, költő és táblabíró 作家,詩人および裁判所書記 |
Királyi kegyelemmel szabadult 1801. június 28 -án 1801.6.28,王の特赦により釈放. |
||
Laczkovics László ラツコヴィツ・ラースロー |
birtokos nemes 貴族 |
10 év börtön 懲役10年 |
10 év börtön 懲役10年 |
Szabadult 1801. június 28-án 1801.6.28,釈放. |
Szmethanovics Károly スメタノヴィツ・カーロイ |
egyetemi hallgató 大学生 |
3 év börtön 収監3年 |
fej- és jószágvesztés 「被告は頭と牛を失うものとする」 |
Királyi kegyelemmel szabadult 1801. június 28-án 1801.6.28,王の特赦により釈放. |
Szulyovszky Menyhért スヨヴスキ・メニヘールト |
táblabíró 裁判官 |
fej- és jószágvesztés 「被告は頭と牛を失うものとする」 |
fej- és jószágvesztés 「被告は頭と牛を失うものとする」 |
Királyi kegyelemmel szabadult 1801. június 4 -én 1801.6.4,王の特赦により釈放. |
Baranyai Mihály バラニャイ・ミハーイ |
jurátus 司法学生 |
felmentve 放免 |
5 év börtön 懲役5年 |
Szabadult 1800. május 2 -án 1800.3.2,釈放. |
Erdélyi László エルデーイ・ラースロー |
jurátus 司法学生 |
5 év börtön 懲役5年 |
5 év börtön 懲役5年 |
Szabadult 1800. május 2-án 1800.3.2,釈放. |
Pruzsinszky József プルヂンスキイ・ヨーヂェフ |
egyetemi hallgató 大学生 |
3 év börtön 収監3年 |
3 év börtön 収監3年 |
Szabadult 1798. májusában 1798.5,釈放. |
Juhász János ユハース・ヤーノシュ |
volt premontrei szerzetes 元プレモントル僧 |
3 év börtön 収監3年 |
3 év börtön 収監3年 |
Szabadult 1798. május 4 -én 1798.5.4,釈放 |
Kopasz János コパス・ヤーノシュ |
ügyvéd 弁護士 |
felmentve 放免 |
2 év börtön 収監2年 |
Szabadult 1797. májusában 1797.5,釈放 |
Bujanovics Kornél ブヤノヴィツ・コルネール |
jurátus 司法学生 |
3 év börtön 収監3年 |
2 év börtön 収監2年 |
Szabadult 1797. április 4 -én 1797.4.4,釈放. |
Makk Domokos マック・ドモコシュ |
volt pálos szerzetes 元聖パウロ教会僧侶 |
3 év börtön 収監3年 |
2 év börtön 収監2年 |
Szabadult 1796. május végén 1796年5月末に釈放. |
Batsányi János バツァーニ・ヤーノシュ |
költő 詩人 |
felmentve 放免 |
1 év börtön 収監1年 |
Szabadult 1796. május 26 -án 1796.5.26釈放. |
Lukács Pál ルカーチ ・パール |
ügyvéd 弁護士 |
3 év börtön 収監3年 |
1 év börtön 収監1年 |
Szabadult 1796. május 14 -én 1796.5.14,釈放 |
Rosty János ロシュティ・ヤーノシュ |
kerületi táblai jegyző 地区チーフクラーク |
felmentve 放免 |
3 év börtön 収監3年 |
A börtönben öngyilkosságot kísérelt meg. 獄中自殺未遂. Szabadult 1798. májusában 1798.5釈放. |
Szlávy György スラーヴィ・ジェルジ |
főszolgabíró チーフ保安官 |
3 év börtön 収監3年 |
3 év börtön 収監3年 |
Szabadult 1798. júniusában 1798.6釈放 |
Tántsits Ignác ターンティツ・イグナーツ |
nevelő 教師 |
3 év börtön 収監3年 |
10 év börtön 懲役10年 |
Szabadult 1803. május 16 -án 1803.5.16釈放 |
Ujgyörgyi József ウジェルジ・ヨーヂェフ |
kamarai tisztviselő 役員 |
3 év börtön 収監3年 |
5 év börtön 懲役5年 |
Szabadult 1800. május 4-én 1800.5.4釈放 |
Abaffy Ferenc アバッフィ・フェレンツ |
táblabíró 裁判官 |
felmentve 放免 |
felmentve 放免 |
Szabadon bocsátották 1795. május 20-án 1795.5.20釈放 |
Brehm József ブレム・ヨーヂェフ |
körorvos 開業医 |
felmentve 放免 |
felmentve 放免 |
Szabadon bocsátották 1795. május 20-án 1795.5.20釈放 |
Illyés Ferenc イエーシュ・フェレンツ |
ügyvéd 弁護士 |
felmentve 放免 |
felmentve 放免 |
Szabadon bocsátották 1795. május 20-án 1795.5.20釈放 |
Kazinczy Miklós カジンツィ・ミクローシュ |
Bihar megyei esküdt ビハール郡の陪審員 |
felmentve 放免 |
felmentve 放免 |
Szabadon bocsátották 1795. május 20-án 1795.5.20釈放 |
Lonovics Imre ロノヴィツ・イムレ |
egyetemi hallgató 大学生 |
felmentve 放免 |
felmentve 放免 |
Szabadon bocsátották 1795. május 20-án 1795.5.20釈放 |
Márton István マールトン・イシュトヴァーン |
orvos 医師 |
felmentve 放免 |
felmentve 放免 |
Szabadon bocsátották 1795. május 20-án 1795.5.20釈放 |
Nemessányi András ネメッシャーニ・アンドラーシュ |
egyetemi hallgató 大学生 |
felmentve 放免 |
felmentve 放免 |
Szabadon bocsátották 1795. május 20-án 1795.5.20釈放 |
Paitzkoffer Antal パイツコッフェル・アンタル |
lakatos 鍵屋 |
felmentve 放免 |
felmentve 放免 |
Szabadon bocsátották 1795. május 20-án 1795.5.20釈放 |
Rosty Pál ロシュティ・パール |
táblabíró 治安判事 |
felmentve 放免 |
felmentve 放免 |
Szabadon bocsátották 1795. május 20-án 1795.5.20釈放 |
Sehi Ferenc シェヒ・フェレンツ |
színész 俳優 |
felmentve 放免 |
felmentve 放免 |
Szabadon bocsátották 1795. május 20-án 1795.5.20釈放 |
Szilla Miklós シッラ・ミクローシュ |
egyetemi hallgató 大学生 |
felmentve 放免 |
felmentve 放免 |
Szabadon bocsátották 1795. május 20-án 1795.5.20釈放 |
Túrós Péter トゥーローシュ・ぺーテル |
református prédikátor 改革派神父 |
felmentve 放免 |
felmentve 放免 |
Szabadon bocsátották 1795. május 20-án 1795.5.20釈放 |
Szabó Imre サボー・イムレ |
plébános 牧師代理 |
- - | - - | Szabadon bocsátották 1794. december 30 -án 1794.12.30釈放 |
【質問 kérdés】
ボヤイ・ヤーノシュって誰?
Ki az Bolyai János?
【回答 válasz】
ボヤイ・ヤーノシュ Bolyai János (1802~1860)はハンガリーの数学者で軍事技官.
Bolyai János (1802 –1860) magyar matematikus és hadmérnök.
(図1 - ボヤイ・ヤーノシュの肖像画の入った切手)
数学者・詩人のボヤイ・ファルカシュの子として生まれる.
幼いころから数学に異常な才能を示し,すでに13,4歳のころにはファルカシュの代わりに講義を行っていた.
1818年,経済的理由によりウィーンの工兵学校に入学.
1823年に卒業すると,ハンガリー陸軍の職業軍人やりながら数学の研究を続けた.
平行線の問題に取り組み,父親の『試論』という書物の中の付録という形で論文を出した.
ファルカシュはその付録をガウスに送ったが,ガウスの返事は,
「その論文を称賛することはできない.
なぜなら自分自身を称賛することになるからだ.
私が30~35年前に発見した結果と一致しているのである.
死ぬ前にまとめて書き残そうと思っていたが,息子さんが発表してくれたおかげで面倒な作業をやらなくて助かった」
というものだった.
ヤーノシュは立ち直れないほどの衝撃を受け,精神状態が悪化.
精神の安定を失い始め,1833年に軍人をやめて,1846年に死ぬまでマロシュヴァーシャールヘイ(現在のトゥルグ・ムレシュ)のドマールド Domáld 村で働いた.
1833 és 1846 között Domáldon, ezután haláláig Marosvásárhelyen dolgozott.
しかも,ヤーノシュに先立つ数年前に同じ研究成果を発表したロバチェフスキーという人物がいることを知り,さらに打ちのめされる.
以降,彼は数学と一般認識論について,一人で細々と研究を続け,2万枚を超える数学の草稿を残したが,論文を公表することはなかった.
1860年1月27日,肺炎のため57歳で死去.
ヤーノシュの死後,非ユークリッド幾何学の研究が進むにつれて再評価されて,この分野の先駆者と認められるようになり,現在では双曲幾何学は「ボヤイ・ロバチェフスキー幾何学」とも呼ばれるようになっている.
生前に再評価されなかったのが惜しまれる.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.math.chs.nihon-u.ac.jp/~ichihara/Education/Classes/14S/ProspectsinMath/Bolyai.pdf
https://ameblo.jp/shimizz/entry-12198822461.html
http://www.bethlen.hu/matek/Mathist/Forras/Bolyai_Janos.htm
http://mandarchiv.hu/cikk/1175/A_geometria_magyar_forradalmara_Bolyai_Janos ※図1引用元
軍事板,2017/09/10(日)
"2 csatornás" katonai BBS, 2017/09/10(vasárnap)
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