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◆◆◆第二次世界大戦後 masodik világháború után
<◆◆戦史 Magyar Történelem
<◆Hungary ハンガリー Magyarország
<欧州FAQ目次
※ 並びはほぼアルファベット順
A béketábor magyar hadserege
第二次大戦後の軍備再建
【質問】
第二次大戦後のハンガリーにおいて,どのようにして共産党は政権を奪ったの?
【回答】
簡単に言えば,連立政権の中に共産党を入れてしまったのが運の尽き.
まあ,ソ連の有形無形の圧力の下では,抵抗するのは難しかったかもしれないが.
1945.11.4の議会選挙では共産党は17%の票しか獲得できなかったが,事前の政党共闘協定に縛られて,共産党も与党入り.
1946.2.1,第一党の小農業者党党首ティルディ・ゾルターン Tildy Zoltán が大統領に就任した際,共産党は策を弄し,ナジ・フェレンツ
Nagy Ferenc が首相に選ばれるよう計らった.
ナジは小農業者党だったが共産党に従順で,ナジ内閣では警察や調査機関,治安維持機構を支配する内相のポストが共産党の手に渡った.
内相となったライク・ラースロー Rajk László は,秘密警察であるハンガリー国家警察・国家保衛部 Magyar Államrendőrség
Államvédelmi Osztálya(ÁVO)を設立.
共産党はこのポストを二度と手放そうとせず,官僚機構の粛清に乗り出す.
一方で,共産党は右派で小農業者党書記長であるコヴァーチ・ベーラ Kovács Béla の追放を同党に求め,遂には1947.2.25,ソ連当局がコヴァーチを逮捕してしまう.
容疑は「国家に対するクーデター容疑」.
コヴァーチに近い右派は議員辞職を余儀なくされ,5月には「コヴァーチに対する尋問の結果,共和国に対する陰謀に加担していたことが分かった」としてナジが告発される.
そのときナジは休暇でスイス滞在中だったが,そのままスイス亡命を余儀なくされる.
この頃までには,大臣が共産党員ではない政府省庁では,職員は共産党の同意がなければ名目上の上司の指示には従わくなる.
1947.8.31の議会選挙は,様々な不正や脅迫の下で行われたが,それでも共産党の得票率はやっと22.3%.
すると今度は議会が1年間停会させられる.
その間に他の政党を解散させ,あるいは粛清し,あるいは「ハンガリー勤労者党 Magyar Szocialista Munkáspárt」と名を変えた共産党との合同を強制させた.
1948.7.30にはティルディが大統領辞任を迫られ,勤労者党のサカシチ・アールパード Szakasits Árpád が後任に座る.
そして1949.5.15,第3回目の議会選挙が行われ,勤労者党が作成した単一の「政府候補者リスト」が,投票総数の95.6%の支持を得たと発表された.
新議会は直ちにソ連をまねた憲法を採択.
これによってハンガリーは公式に人民民主主義国と命名された.
新憲法発効の日は1949.8.20,皮肉にもこの日は祝日「聖イシュトヴァーンの日」だったという.(-∧-)合掌・・・
【参考ページ】
ジョゼフ・ロスチャイルド『現代東欧史』(共同通信社,1999),p.156-160
https://hu.wikipedia.org/wiki/M%C3%A1sodik_magyar_k%C3%B6zt%C3%A1rsas%C3%A1g
https://hu.wikipedia.org/wiki/Kov%C3%A1cs_B%C3%A9la_(politikus,_1908%E2%80%931959)
https://hu.wikipedia.org/wiki/Magyar_Szocialista_Munk%C3%A1sp%C3%A1rt
mixi, 2016.6.5
【反論】
三池嵐次郎 @パプカン綾瀬エリアチーフ
@miike_ranjiro
与えたポストがまずかっただけじゃないか.
共産アレルギーもたいがいにしろ.
2:15 - 2017年1月13日
【再反論】
果たして本当に「与えたポストがまずかっただけ」であろうか?
元tweetのリンク先をよく読めば自明のことだが,ハンガリー共産党は与えられたものを最大限生かすと同時に,他党の共産シンパにも裏から手を回すということをやっている.
したがって,たとえハンガリー共産党に与えられたのが内相ではなく,たとえば郵政相であったり鉄道相であったりしても,党利のためにポストを最大限生かすだろうし,裏からも手を回して権力拡大にひた走っただろう可能性が限りなく高い.
最初が内相ポストであった場合に比べれば時間はかかるだろうが,内部侵蝕を共産党が自ら止める可能性がゼロに近い以上,連立解消以外で内部侵蝕を食い止める手段は無かったのである.
ハンガリーは極端な例だが,他の東欧各国の共産党政権を見ても,殆どが「世論の支持を得られていない少数勢力」⇒「非合法 or 脱法的に政権奪取」という過程をたどっている.
国民から大きな支持を受けて政権についた共産政権というのは,東欧ではチトー政権くらいだろう.
(そんなチトー政権でさえ,少なからぬ数の政治犯を刑務所に送っているのであるから,共産党というものの業は深いと思わざるを得ない)
党利党略はどんな政党にもある.
しかれども,行き過ぎた党利党略は国民からそっぽを向かれる.
戦前日本の諸政党が国民の信頼を失ったのも,党利党略が行き過ぎたからである.
普通ならば,党利党略の過ぎた党は,信頼を失って少数政党に転落して権力を失うか,そうなる前に改善しようという力が働く.
ところが党首独裁制をとっている党は,改善努力には向かわない.
それは党首批判と同義だからである.
批判者は党首に睨まれ,最後は党外に追い出されることになる.
共産党の歴史は,そうやって党から追放された党員の例に満ち満ちている――と,立花隆は述べている.
かといって,少数政党に転落したからと言って,革命を標榜する政党が,性急な権力奪取を諦めるはずがなく,結果,非合法な手段での権力奪取に向かうことになる.
東欧で起きたことはそういうことである.
与えられたポストの良し悪しなどという些末な問題ではないのである.
結局,共産党を他の普通の政党と同じと考えてはいけないのである.
合法・非合法を平然と使い分けるような集団を政治団体を見るのが間違いであって,炭焼党のような秘密結社と,今も根は一緒なのである.
twitter, 2017.1.14
【質問】
ハンガリーの王制って,正式にはいつ廃止されたの?
第1次大戦後は空位とされて,その後は?
【回答】
ハンガリー史の年表で見ると,1946年2月1日に共和国宣言が出されているので,この時にハンガリー王国が正式に無くなったのではないでしょうか.
ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2002/01/06
青文字:加筆改修部分
法制上はギシュクラ・ヤーノシュさんが書かれている通りだと思いますが,ちょっと別な見方をすれば,ミンツェンティ枢機卿が死亡した時が,名実ともにハンガリー王国が消滅した時期だとも言えると思います.
ハンガリーは“使途王国”という特権を持ったカトリック王国でした.
通常はヨーロッパの国王は国王となるためには,ローマ法王の認証を得なければならなかったのです.
しかし,使徒王国であったハンガリー王国の場合は,その特権により,国王をローマ法王の代理人であるハンガリーの主座大司教公(herceg prímás)
が認証することができたのです.
で,ハンガリーの主座大司教公はハンガリー国王が任命することができました.
要するにハンガリー国内で互選制を取っていたのですね.
で,戦後の新憲法でハンガリーは共和国となりましたが,ミンツェンティ枢機卿が存命中は教会法上彼がハンガリー国王を任命することができたわけです.
しかし,彼は国王を任命することなく,亡くなってしまいました.
ところが,ハンガリーにはもはや主座大司教公を任命する国王がいないので,主座大司教公を任命することもできなくなってしまったわけです.
実際に,ミンツェンティ亡き後ヴァチカンが任命したハンガリーの主座大司教には,「公」の称号は付いておりませんでした.
よってこれをもってハンガリー王国は歴史から消滅したと考えることもできるでしょう (^^).
ちなみに,現在のハンガリーの王位継承権者は,現在ドイツ選出の欧州議員を務めているハプスブルグ・オットー(オットー・ハプスブルク)大公です.
彼はハンガリーの国王になる意志はないようですが,もちろん,もしも必要とあれば,教会法がどうであれ,ハンガリーは新たに国王を選出することではありましょうけど.
(ま,現実の政治ってそんなもんです....)
ただし,実はハンガリーが“使徒王国”であるという公文書はハンガリーにもヴァチカンにも残っていないのですよね.
(そういう具合に聞いています.)
同様に,フニャディ・ヤーノシュがナーンドルフェヘールヴァール(ベオグラード)の会戦でトルコ軍を打ち破ったことに対するキリスト教世界の感謝の印として,当時のローマ法王が勅令で,それ以降正午に鳴らす教会の鐘はハンガリーに対する感謝の意味とするとしたというのはハンガリーでは有名な話ですが,これも実はハンガリーにもヴァチカンにも(余りにも昔の話なので)公文書は残っていないのです.
ですから,今ではヴァチカン当局は
「そんな昔の史料は残っていないので,本当のことは知らん (^◇^;)!」
とお茶を濁しているらしいですが....
でも,多分,“使徒王国”に任じられたこととか,“教会の正午の鐘の由来”等はハンガリー人にとっては当時は非常に名誉だったはずで,だから忘れなかったと考えることの方が自然だと思います.
ヴァチカンにしてみれば,いかに安上がりに報奨を与えるかということしか念頭になかったはずで,とっくにそんなことは忘れていて当然でしょう (^◇^;).
もしも現在もハンガリーが王国であったならば,あるいは,今は共和国ですが,ハプスブルク家の末裔を招いて王国を復活しようとすれば(個人的にはハンガリーの国王がドイツ人のハプスブルク家になるというのはどうもねぇ...),現在ハンガリーに主座大司教公がいようがいまいが,きっと戴冠式を挙げることでしょう.
しかし,もしも主座大司教公が存在していれば,きっと,伝統に則って主座大司教公が国王を叙任する儀式も行われたことでしょう.
ま,慣習法というのは所詮その程度のものだと思います.
しい坊 : 世界史板,2002/01/14~01/15
青文字:加筆改修部分
【質問】
ライク・ラースローについて詳しい人いたら教えてください.
経歴とか.
参考文献などもあれば希望.
【回答】
ライク・ラースロー Rajk László (1909.3..8 - 1949.10.15)は,非合法時代からハンガリー共産党の党員だったという,根っからの共産主義者です.
スペイン内戦にも参加し,政治委員となっています.
1944.12,矢十字党に逮捕され,処刑されるところでしたが,実兄で矢十字党副書記長だったエンドレのとりなして減刑され,辛くも命をとりとめました.
1946.3.20,内相に任命されると,秘密警察であるハンガリー国家警察・国家保衛部 Magyar Államrendőrség Államvédelmi
Osztálya (ÁVO)を組織し,民主団体や宗教団体を弾圧しました.
「自分がやられて嫌だったことを,他人にしてはいけません」とママに教わらなかった模様.
しかし因果応報というべきか,スターリンとチトーとの対立の煽りを食らい,共産党書記長ラーコシ・マーチャーシュ Rákosi Mátyás によって「チトー主義者」のレッテルを貼られ,1949年に逮捕され,処刑されましたとさ.
ライク・ラースローはスターリン主義時代のでっち上げ裁判の犠牲者で,ある種の英雄的な人物とみなされていますが,実態は,共産党が政権奪取した当時の内相であり,しかも確か強烈な反ユダや主義者でもあり,それ程誉められた人物ではなかったのではないかと思います.
1956年のハンガリー動乱の責任を取らされて処刑された“正統政府”のナジ・イムレ首相と並んで悲劇のヒーローとされていますが,ナジ・イムレにしても,共産党の政権奪取当時は(『貧窮問答歌』を髣髴とさせる)徴発大臣として農民弾圧・収奪の責任者でしたから,彼もそんなに偉い人物ではなかったのではないかな.
だいたい,国内が混乱する中でソ連によって事態収拾のために首相にされた人物でもありますからね.
本来はモスクワ派だったのでしょう.
チェコ事件の時のドゥプチェク書記長と同じで,本来は保守派だったのが,民衆の革命的動きをコントロールできなくなり,その内,自分もそれらに流され,事実の事後追認を続けているうちに,自分が革命の推進者だと思い込んでしまったことに悲劇があるのだと思います.
単に2人とも,最終的には処刑されたことで,殉教者として英雄に祭り上げられただけではないのかしら.
ライク・ラースローは無実の罪で処刑されたということで1956年以降は名誉回復されたわけで,その息子は1980年代ハンガリーを代表するサミスダットの出版に従事しておりました.
サミスダットと言うと,過激な地下出版物というイメージが作られていますが,実際は,単に文部省の出版監理総局から定期刊行物としての登録をしていなかっただけで,中には「新しい定期購読者名簿」とか「販売場所」とがちゃんと公開されており,サミスダットという言葉を使ってしまうとイメージだけが先行してしまう恐れがあります.
時々,ガサ入れをされて,嫌がらせをされていたようですが(編集部員が殴られたとかいう噂もありました),所詮はその程度で当局からは黙認されていたようです.
やはりスターリン主義時代に不当に処刑されたライクの息子ということで,当局も手を出しにくかったのでしょうし,息子の方もそれを意識して利用していたようです.
体制が転換してから,なぜか雨後の筍のように「共産主義時代には自分らは地下活動をしていた」と主張する人物やら団体らが登場してきましたが,実際は社会主義時代のハンガリーには地下活動と言えるものは存在していなかったと思います.
(理由は地下に潜る必用がなかったからですが.)
しい坊 : 世界史板,2001/11/03
青文字:加筆改修部分
【質問】
ライク裁判って何?
3行以上で教えて!
【回答】
ハンガリー勤労者党(=共産党)の有力政治家ライク・ラースロー Rajk László が,1949年に「チトーと帝国主義のスパイ」として逮捕され,行われたデッチ上げ裁判.
ハンガリー共産党書記長ラーコシ・マーチャーシュ Rákosi Mátyás は,党員に人気のあるライクが自分の権力の脅威になると見て,濡れ衣を着せて逮捕した.
チトーとスターリンとの決別に前後して,東欧全体に広がった共産党内の分裂の一コマ.
内相として秘密警察を使って非共産勢力を弾圧してきた,狂信的でさえある共産主義者のライクは,スターリン主義に反対するような人間ではなかったが,拷問を受け,告発されていることに対する責任を取れば釈放すると約束されたため,1949年9月,告発されていた全てを「自白」.
しかし約束に反し,共に起訴された18人と共に死刑判決を受け,1949.10.15,絞首刑となった.
しかも犠牲者はライクら19人にとどまらなかった.
2000人の中堅共産党員が即決裁判で処刑され,15万人が投獄され,35万人が共産党から追放された.
犠牲者の圧倒的多数は,戦時中の「国内地下派」,「西欧派」,スペイン内戦の歴戦の士,旧社会民主党員,そして軍の幹部だった.
対するラーコシやゲレー・エルネー,ファルカシュ・ミハーイ,エーヴァイ・ヨージェフは,戦後直後にハンガリーに帰国してきた,いわゆる「モスクワ派」だった.
彼らが5年間に殺した共産党員の数は,ホルティ時代の25年間に殺害された共産党員の数を超える.
裁判以降,ハンガリーの治安・秘密警察内にソ連の顧問団が張り付くようになった.
これを先例として,他の中・東欧各国の秘密警察内部にも逐次,ソ連顧問団が入り込み,当該国の政府や共産党を超えた権力として当該国の粛清を指揮することになったという…
【参考ページ】
ジョゼフ・ロスチャイルド『現代東欧史』(共同通信社,1999),p.209-211
http://www.morita-from-hungary.com/pdf_seiji/seiji-76.pdf
http://www.morita-from-hungary.com/pdf_seiji/seiji-75.pdf
http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/7612/1/48-3saito.pdf
【ぐんじさんぎょう】,2016/06/06 20:00
を加筆改修
【質問 kérdés】
第二次大戦後のMVG(ハンガリー車輌&機械工場株式会社)について教えてください.
Kérem, mondja meg a világháború utáni MVG (Magyar Vagon- és Gépgyár Részvénytársaság)-ról.
【回答 válasz】
大きな損害にもかかわらず,戦後すぐに復興が始まり,占領軍の支援を受けて,工場は市内,その次には同地域で吹き飛ばされた橋の修復に重要な役割を果たした.
というのも,ソ連軍も橋が無くては道路移動や鉄道移動が困難だったためだ.
ドイツ人が持っていた株式はソビエト側の所有物となり,工場生産物の対価は賠償と相殺すると決められた.
たとえばペテーフィ橋は車輌工場によって1946年にサルヴェージされ,損傷した部分を交換して橋を再建した.
同時に氾濫原に構築されていた,やはり爆破された鉄筋コンクリート製の3点支持梁の部門も,持ち上げて元の位置に戻し,これらも元の形に復元した.
この橋には1960年代まで,ブダペストとウィーンを結ぶ幹線道路1号線がここを通っていた.
その後,交通量増大に伴って1971年には新しくラーバ橋が建設され,ペテーフィ橋は撤去された.
またたとえば,レーヴ村のコッシュート橋は,ダイバーが爆発物により泥から構造物を解放して2つに切断し,1947年末までに撤去に成功.
車輌工場は,オリジナルの部材は半分ほどしか使わなかったがオリジナルの形に修復し,1950年に再び交通橋として復旧した.
その後の交通量増大に伴い,1979年には代わりに,高速道路14号線に上下2車線のモショニ=ドナウ橋が新設されたが,コッシュート橋は撤去されることなく,老朽化対策が施され,現在でもレーヴファル(大学)と街の中心部を結ぶ,快適な歩行者と自転車のルートになっている.
1946.12.1,ジェールのハンガリー車輌及機械工場も国家管理下に置かれた.
1947年夏,MÁVAGのジェールにある諸施設が,車輌工場と統合された.
同年,45トンの蒸気クレーンのプロトタイプが完成し,1948年に生産開始.
また,1948年にはブライチャート型電気自動車の標準型トラック及びクレーン車も生産開始.
クレーン車の生産拡大に伴い,農業機械の生産は段階的に廃止した.
1947~49年,ブダペシュトのアールパード橋,ヴァーシャーロシュナメーニのティサ橋、ジェールのレーヴファルスの橋が完成.
1949年,AV27型2tフォークリフトを設計,製造.
同年,新しい製鋼所を設立.
これは当時ハンガリーで最も近代的な製鋼所であり,月産は4〜500t.
一方,自動車生産については,1949~50年から1960年代末まで,ジェールでは完成車は生産されず,その代わり,(車輌)工場から分離し,独立した部門,または他の大企業に連結された部門では,組立工場向けに自動車の主要部品(前構や後・下構,ステアリング・ギア,トランスミッション)を製造.
バスの生産はイカルシュで行い,トラックのシャーシ,エンジン,ボディの生産,および全体の組み立てはツェペル自動車工場で行い,ジェールでは前後の足回り,ステアリング,ギアボックスの生産を行うこととなる.
ガンツ=イェンドラシックのエンジン系統の開発においても,車輌工場の専門家も参画している.
この計画は車輌開発研究所においてウィンクラー・デジェー所長の指揮の下に実施.
ウィンクラー・デジェーには自動車業界での功績により,1951年にコシュート賞が授与された.
MVGの最重要任務は鉄道の貨車や客車の生産であり,その大部分は1953年1月までの二国間交流協定の枠組みの中で,ソビエト連邦の他,ルーマニアやユーゴスラビア,そして後にはいくつかの発展途上国に輸出された.
さらにMVGは重工業化政策へも参画することになる.
当時,ラーコシ政権はハンガリーの国情を無視した,無理な重工業化政策を推進していた.
そのため農業国であるはずのハンガリーで飢餓さえ発生している.
MVGが手掛けた主なプロジェクトは,ドナウ製鉄所の煙突用鋼材や天井クレーン,MOTIMの混合タンク,ゼーニの石油貯蔵施設,そしてソルノクの硫酸プラントの全ての鋼製構造物の製造等々.
MVGの技術で製作された部材で出来た,サバドサーラーシュにある「銀橋」は,ハンガリー国内初,ヨーロッパでは2番目,世界では4番目のアルミニウム橋である.
これはリベット結合の道路橋である.
1951年には,国内向け初の球状タンクが,ジェールのガス工場向けに製作.
これは容量20,000m3だった.
1953年には,ブルガリアとルーマニアを結ぶ2階建て設計の鉄道橋を製作.
1954年のシゲトケズの洪水に対する戦いにおいては,車輌工場の労働者は模範を示した.
多くの特殊な専門知識を必要とする鋼製構造物の中でも際立っているのが,ヘルワン(エジプト)の回転橋の設計と建設である.
これは1955~56年に建設したもので,道路兼鉄道橋だった.
1955年,車輌工場の専門家は粉末溶接と熱硬化技術を開発し,赤外線乾燥に必要な実験結果を纏める.
1956.10.27,労働者評議会が結成され,工場を管理した.
ハンガリーの時代遅れの産業構造の近代化は,1950年代後半に議題に上った.
車輌業界では鉄道のディーゼル化に大きな期待を寄せた.
もっと小型のエンジンや小型機関車,軽自動車の製造を車輌工場は任されていた.
1957年,ディーゼル・エンジン用クランクシャフトの製造に導入されたシーリングおよびプレス技術により,「スナップ」技術旅団のメンバーがコシュート賞を受賞した.
エンジニアのボルシュ・ヤーノシュ,カプヴァーニ・イェネー,マローティ・ラヨシュ,ペーチ・シャーンドル,ラーツ・シャーンドルの面々である.
1963年春,ホルバート・エデ Horváth Ede が車輌工場のCEOに任命され(~1989),同時にジェールの工作機械工場の取締役も務めた.
彼は生前「レッドバロン」と呼ばれた,伝説的なCEOだった.
ホルヴァート・エデは,自動車整備士の父親の息子として職工の家庭に生まれた.
彼は車輌工場の使用人となり,仕事を覚えた後,1年でアシスタント資格を取得した.
彼の名前が最初に全国に知られるようになったのは,スタハノフ運動の枠組みの中においてである.
スタハノフ運動とは1930年代なかば,ソ連において展開された労働生産性向上運動のことである.
労働者相互の競争が促進されるとともに,職場内において競争の勝者と敗者との賃金格差,熟練度に基づく序列化が固定化されるようになった.
彼は1949年には自動車工場の技術部長,1951年には27歳で工作機械工場の所長に就任した.
1962年には車輌工場の総支配人に就任し、1989年に退職するまで務めた.
真の意味でのマネージャーとして彼は働き,ジェールはアメリカ市場の門戸を開いた.
当時閉鎖的だった欧州共同市場に参入することはできなかったが,米国はこの分野ではリベラルだった.
海の向こうに目を向けたもう一つの重要な要因は,アメリカでは製品の構成部品が下請け業者によって製造され、ヨーロッパでは製品が最後の釘一本まで1つの工場で製造されるという,産業の特徴のためだった.
1964年1月1日,ジェールの工作機械工場と車両工場を,ウィルヘルム・ピーク自動車工場という名の下に統合した.
1962~63年頃には既に,かつて別々に存在していた工作機械工場が車輌工場と合併する話が浮上していた.
この頃のツェペル自動車工場には,車輌工場内にエンジン工房があったが,生産に殆ど有利に働いていなかった.
同年,車輌工場は,高性能バスやロードトラックに適したシャーシの生産拠点の設立と,高性能車両用エンジンの国内生産の組織化を任された.
それまでにKGST(Kölcsönös Gazdasági Segítség Tanácsa : 東欧諸国経済協力機構,いわゆる「コメコン」のこと)では,どの国が何を生産するかを巡る激しい政争があった.
その後,20ヶ年計画が立てられた.
それまでは外国の雑誌は[ハンガリーには]入らなかったが,国立技術図書館に行って専門誌を閲覧できるようになった.
これらにより,世界には大手の部品製造会社があると分かった.
特にアメリカでは、1社がシャーシのみ,もう1社がエンジン,3番目の会社はは別のエンジンを製造していた.
そのとき,車輌工場はコメコン域内でシャーシ・メーカーになろうというアイディアが生まれた.
ホルヴァート・エデは車輌工場を徹底的に再編し,管理を一元化し,部門を統合し,新部門を組織し,また彼は,社会主義体制においては完全に特異な方法ながら,必要ならば人員を解雇することを躊躇しなかった.
1967年にはイカルシュがBNVで200型バスの派生型シリーズを発表し,そのシリーズ生産はRÁBA-MANモータースにおいて開始する.
数十億ドル規模の投資プログラムが開始され,MAN=ルノー=フェロシュタール Ferrostaal・コンソーシアムは1969年までに,本工場の敷地内に年間13,000台規模の200馬力の自動車用ディーゼル・エンジン工場を建設.
12月,政府はエンジン・ライセンスの購入を決定し,MVGがディーゼル・エンジンの生産拠点とする.
そして「ラーバ」ブランドのエンジン工場は,それまでハンガリーで製造されていたツェペル・エンジンの性能要目のみならず,当時の東側で製造されていたどのエンジンの要目をも遥かに超えた,世界的にも現代的であると認められている世界クラスのデザインのエンジンの生産を開始.
この巨大工場は,KGST自動車プログラムの下,西ドイツのMAN工場からのライセンスに基づき,自社設計の大型車シリーズの足回りの製造用の高性能道路用ディーゼル・エンジンの生産に切り替え,従来の鉄道車輌の生産を段階的に廃止した.
旧飛行場には28,000平方メートルと67,000平方メートルのギア工場が連続して建設されたが,この114,000平方メートルの建物は,政権交代期※の間は半完成で空っぽだった.
(この「政権交代期」とは,1966年にニエルシュ・レジエ書記らによって進められた,政治改革や市場経済の一部導入など「新経済メカニズム」のことを差すと思われる.
ちなみにニエルシュは1973年,ソ連の圧力によって解任・左遷されている)
飛行場だったところにはホールに加え,追加の施設(鋳造所,鍛造所,工具店,オフィスビルなど)も建設.
大規模な後輪車軸生産の開始のための最先端の設備、工具、メンテナンス施設を備えた28,000 m2の作業場が完成した.
1967年1月6日,ライセンス契約をルノー=セリ=M.A.N.=フェロスタールから成るコンソーシアムとの間で締結.
エンジンのライセンスはMAN社からMVGに供与さる.
1969年6月17日,新しいエンジン工場が始動.
トラックの主要部品(エンジン,フロント・アスクルやリア・アクスル)の現地生産により,MVGは高性能トラックを供給することが可能になった.
BNVにRÁBAトラックが登場.
16トン,215馬力のトラックと,22トンの3軸トレーラーとのセットである.
その頃,ブダペシュト車両開発研究所(JÁFI)――当時,ジェールの車輌工場の元主任技師で,伝説的なオフロードカーであるラーバ「ボトンド」の設計者であるウィンクラー・デジェーが社長を務めていた――が1961年までに4種類のエンジン(4気筒または6気筒,並列,定格出力120馬力または180馬力)を開発し,数年後には外国のライセンスエンジンに代わる本格的なエンジンとなっていた.
そのため,新しいエンジン工場の建設地が決まった後,数ヶ月も,ジェールで新しくハンガリーのJÁFIの新型エンジンを,主に西側から輸入した機械を使って生産するという話を議論していた.
しかしツェペルの車輌工場でも――JÁFI社の協力を得て――シュタイアー・エンジンの開発が延々と続いていた.
とりわけジェールでは,西側のライセンス購入に反対する2つのグループが,互いにライバルでもあったという状況にあった.
生産すべきモデルは,全く新型のJÁFIエンジンか,それとも既存のシュタイアー・エンジンの改良型かの問題について,意見が一致しなかったのである.
客観的に見ればこのような内部摩擦は,ライセンス購入推進側の立場を強化するものだった.
したがって1963年8月10日に開催された冶金および機械工学に関する閣僚会議は、ジェールに建設する,JÁFIの4気筒および6気筒,直列エンジンおよびフラットエンジンである,D406-416およびD609-619エンジンを基幹とする,ジェールに新しい大規模自動車エンジン工場を建設することを決定した.
これらのエンジンはプロトタイプのみ完成し,動力計測と耐久性のテストが本格化したが,ハンガリーのエンジンが頓挫した場合の保険として,西洋のエンジンライセンスの購入が完全に否定されることは無かった.
したがって製造される新しいエンジンは、「自動車およびトラクター業界のすべての開発事業の基礎を形成するため,開発済みでパイロット生産されている新しいJÁFIエンジンに加え,世界のディーゼル・エンジンの生産権も保険として調査される」と決定された.
また,ハンガリーの機械製品を代金代わりに提供することにも大した関心が集まらず,10~12トンのハンガリー製テールゲート車が一部の欧米メーカーの関心を集めただけだった.
ハンガリー代表団はレイランドの製品に最も満足した.
というのもロンドンとリーズの生産工場では、最新の生産技術を駆使した2系統のエンジンが生産されており,それらは同一の構造部品で構成され、性能、シリンダー配列(垂直型と水平対向型)、サイズ、重量などがハンガリーの期待に十分応えていたからだ.
イギリスの会社が購入において最も有利な与信条件を提供した.
だがこの取引は結局は,レイランド社がハンガリーのエンジン工場一式の設計と機器の供給・設置を拒否したことから破談となってしまった.
交渉中,英国のパートナーから「非常に気難しい」「責任を制限しようと頑張る」,些細な協力問題の解決でも「理解できないほど長引く」,そして全般的に「管理が極めて面倒臭い」と見られることが多かったことでも,ハンガリーの代表団は警戒されていた.
ニュルンベルク・アウグスブルクにあるMAN(マシーネンファブリク・ニュルンベルク・アウグスブルク)だけがハンガリーのコンセプトに「真剣に興味を示した」.
このメーカーはかつてハンガリー人に全く知られていないわけではなかった,
というのも第二次世界大戦前にジェールでディーゼル・エンジンを生産していたからだ.
MANのディーゼル・エンジンは――主に軍用車両に使われており,――出力,レイアウト,サイズ,重量などの点でハンガリーの要求を満たしていたが,西ドイツの会社は,ハンガリーのエンジン工場を共同事業体として立ち上げることにしか同意しなかった.
当時,MANはオーバーハウゼンのGute Hoffnungshütteという共同体に属しており,エッセンのFerrostaalもこの共同体の一員だった.
フランスのルノー社はMANと密接な関係にあり,MANのトラックのエンジンをライセンス生産していた.
海外での交渉の結果,冶金・機械工学大臣は1964年5月9日,例えば道路車両用エンジンのような自動車産業の開発は,ライセンスされたエンジンと欧米の生産技術に基づいて行われるべきだと決定した.
これは,1964年12月28日に経済委員会に付託され,同委員会によって採択され、政府によって支持された,道路車両生産の長期プログラムにも含まれていた.
1964年には,自動車輸出の観点において決め手となったソ連の長期的なニーズも明らかになった.
ソビエト連邦、ドイツ民主共和国、その他の社会主義国との協定により、1966年から1970年の間にバス17,870台(そのうち7,760台はソ連向けのみ),トラック5,834台,ダンプカー2,961台を供給する機会をハンガリーは得た.
相手国は,契約の対象となる道路車輌は,事前に定められた要目(出力,排気量など)を全て満たしている場合にのみ受け取ることを定めていた.
したがってCOMECON市場のニーズに基づいた道路車輌開発プログラムを実施する上で,チェペル社のエンジンよりも強力で,より現代的で,より耐久性がある,優れた動力源の製造が,新たな鍵となった.
ハンガリー代表団は,ハンガリー製エンジンの連続生産に全面的に責任を持ち,現在と将来の要求を完全に満たす道路車輌用エンジンの生産ライセンスを販売するだけでなく,輸出権も譲渡してくれるというパートナーを探さなければならなかった.
欧米のパートナーは,遅くとも1967年半ばまでには年間40万本のシリンダを生産できる生産工場を稼働させ,この目的のために低金利で長期ローンを融資し,最大限の補償(ハンガリー製品の買取など)を行い,元請業者としてハンガリーの新エンジン工場の設備を納入することになっていた.
最後にハンガリー側は外国のパートナーに対し,「この大量の機械の輸出を考慮し,ハンガリーでの生産を実現するために必要なライセンス料や包括的技術支援の支払いを控える」ことを求めていた.
(MNL OL XIX-F-6 hb Box 11. ゲルゲイ・ヤーノシュとカルツァグ・イムレの1964年4月15日の道路車両生産に関する海外での交渉についての洋行報告)
エンジンをライセンス生産するにあたり,交渉の結果,最終的には9社からエンジン見本を受け取った.
専門家委員会の評価付けでは当初3位で終了した,西側のJÁFIエンジンが,1964年9月28日から1965年2月25日にかけてジェールの車輌工場で長期試験にかけられ,実用的な知見を得るためにエンジンは車にも搭載された.
エンジンはソ連において,試験場と路上とでテストされた.
自動車産業に関する部門間委員会の1965年5月11日の会議には,2つのコンソーシアム(MAN-Renault-FerrostaalとSaurer-Steyr-Otto Wolf)がビジネスオファー準備のために招待された.
この入札は1966年初頭,3つの委員会が評価し,3つすべてがMAN=ルノー・フェロスタールの入札のほうが良いと評価した.
過去の生産経験に加え,最終的に取引を行う上で決定的に重要な理由は,最終的に取引を勝ち取ったコンソーシアムがは,見返りとして西ドイツ企業(MANおよびFerrostaal)が最大30〜30%[原文ママ],フランスのルノーが20%を,ハンガリー製品を喜んで受け入れる用意があるという点であり,
これは,ザウラー・グループの見返りである20%のを大幅に上回った.
社会主義国とすでに締結されている車両輸送契約を考慮すると,MANが競争[入札]の6か月前に技術機器の納入とエンジンプラントのターンキー配送を行ったことも非常に重要な点だった.
ターン・キー契約とは,工事の請負形態の一種であり,元請けとなる業者が施設の建設と機材の設置,試運転等を全て完了し,あとは操業を開始するのみ(鍵を回すのみ)の状態で工事を引き渡す契約のことである.
MANの提案は,西ドイツの会社が0シリーズ,つまり新型の230hpディーゼルエンジンのライセンスを,追加の支払いなしでハンガリーのパートナーに譲渡する用意があるという事実によっても裏書きされた.
Saurerにはそのような申し出はなかった.
MANグループのライセンス契約により,ジェールで製造されるエンジンの無制限輸出権が社会主義諸国向けには付与されたが,EECおよびその他の資本主義諸国へは,ハンガリーのエンジンは車両でのみ,さらには厳格な割当制によって輸出することができた.
彼らはそのエンジン・テスト中に膨大な数の欠陥を修正しなければならなかったことを否定しなかったものの,これはどんなエンジン開発でもつきもので避けられない結果であると考えており,そのように主張していたが,JÁFIエンジンは当時から信頼性があり,生産技術取得後に生産設備の購入と設置後,大量生産を開始することができた.
エンジンのライセンス購入を挫折させる最後の試みは1966年の春に行われたが,そのころKGMは3年間の長い準備と多くの議論と調査の後,資本主義者のエンジンのライセンス購入の承認を求め,その提案を経済委員会に提出する準備をしていた.
初代財務副大臣のシュヨク・ベーラは1966年2月中旬,導入しようとしているMANエンジンの欠点について「科学界隈」から書簡を受け取った.
シュヨクは技術的な問題を理解していなかったが,しかし,提起された懸念も「一般人の耳」にとっては論理的であるように思われたので,よって冶金機械大臣のホルゴシュ・ジュラに,提起された異議を調査するよう求めた.
手紙(ハンガリーのエンジン開発に直接関心のある工科大学教授テルナイ・ゾルターン博士と推測されている)に曰く,高度な技術に必要な材料品質が保証されている場合であれば,MANエンジンは有利な特性を持っていることを認め,この西ドイツの工場からのリソースが,試験された7台のエンジンの中で「非常に目立つ地位を占めていた」ことに異議を唱えないだろう.
その専門家はしかしながら,提案されたエンジンが「かなり前に導入された基本タイプの最終改良型であり,それ以上の開発の可能性がない」ことが根本的な欠陥であると考えた.
同氏はエンジン要目から、その祖先は第二次世界大戦中に製造されていたものであり,原型の115馬力のエンジン出力を,140mmのピストン径はそのままに,ボアを数倍に増やして200馬力近くまで高めたものであると考えた
教授によれば,当初110mmだったボアを121mmにしたことで,通常10〜15mmあるボア間のウォーター・スペース※の隙間が数mmになってしまい、これ以上ボアを大きくしてもエンジンの出力は上がらないとのことだった.
20年以上前のものであり,もはや改良の余地がないので,MANはこのエンジンを我々に売り払って,彼ら向けには別のエンジンを作っているのだと,その専門家は思い込んでいた.
工場はまた様々なトラック・トラクター・農業機械を生産.
ハンガリー経済の中でも最も大きな規模を占めるものが,農業のシステムだったからだ.
車輌&機械工場は「赤い星」トラクター工場(旧HSCS)を併合.
1970年代初めには,カーダールの農業政策が生み出した好機により,米トラクター・メーカー,シュタイガー社と協力しながら,大型トラクター(ラーバ=シュタイガー,ラーバ180)の生産を開始した.
その後,政権交代に伴って農業形態は規模縮小し,小型機市場になった.
最後のトラクターが工場から出荷されたのは2002年のことになる.
ラーバ製品は社会主義時代は常に,主な市場は当時の社会主義国だった.
だが足回り生産分野では,ラーバは1970年代後半には,こうした製品で西側(および海外)各国への市場参入が可能になるほどの技術レベルに達していた.
さらに,軍需生産をしていた過去を活かし,社会主義時代にはPSZH装甲車を生産した.
政権交代前の車輌工場の最後の主な進展は,エーチÉcsのラーバ・リングと呼ばれるテストトラック兼実験開発センターの設立だった.
前者[テストトラック]は完成したが,後者は現存しない.
車輌工場最盛期には2万人/日の雇用を提供していた.
1981年以降,ハンガリーの地下採掘鉱山や,オペラハウスの改築,城の再建,ブダペシュトの大学の改築,カバの製糖工場の建設といった大規模な建設建設で,さらに多くのポーランド人が働いており,ジェールでも同年から,1,000人以上のポーランド人が、主にホットプラント,鋳造所,あるいは鍛造所で働いてきた.
ポーランドは1980年代,多額の負債を抱え,実質的に債務超過の状態に陥り,国民の生計も深刻な問題となったため,何千人ものポーランド人が海外に出稼ぎに出ていた.
一方,その当時ハンガリー人は,過酷な肉体労働に応募することを最早決して歓迎しなかった.
ラーバのポーランド人の数は,次第に数千人に達してしまった.
彼らはワーカーズホステルや民間の宿泊施設に可能な限り住んでいた.
ポーランド人はハンガリー人と同額の給料を受け取った.
それは当時としてはあまり大きな金額ではなかった.
そこで彼らは収入を補おうとた試みた.
帰国時に彼らはポーランド産の小間物を持てるだけ持ち,ハンガリーで売りに出せるものは何でも持ち込んだ.
このようにして誕生してしまったのがKGSTと呼ばれるポーランド人の市場であり,これは当時ハンガリー国内に数多く存在していた.
中国人がポーランド人に続いてラーバに来た.
50人の中国人から成る第一陣が1987年10月,8日間の列車の旅を経てラーバに到着した.
クリスマスのころにはもう,350人になっていた.
彼らのためにホルヴァート・エデはイパル通りに5階建て,1フロア4室の居住施設を建設した.
その後,数十年前に民営化されたにもかかわらず,今もそれを人々はジェールのチャイニーズ・ハウスと呼んでいる.
中国人労働者を受け入れた理由として一つには,ホルバート・エデが,中国人労働者を通じて大きな経済的利益を得たいと考えていた部分があった.
彼らを訓練し,そして帰国後は彼らが中国に送られたトラクターやトラック,エンジンの整備を行わせようと目論んでいた.
遡れば1950年代から,ハンガリーと中国との間には繋がりがあった.
1950年代半ばまでは欧米企業は中国をボイコットしていたため,中国の農産品はヨーロッパの社会主義国を経由する再輸出によって資本主義市場に届くのが殆ど伝統と化していた.
ハンガリーもまた当時,中国製品の主要な再輸出国であり,旧ホッファー工場の耕起機,DT-413クローラ・トラクター,ツェペル社のトラックなどの代金をそれで中国は賄っていた.
1957年,中国はソ連以外の社会主義国で唯一、ポンド建ての兌換可能な外貨建て融資でハンガリーを破産から救った.
ハンガリー世論は外国人労働者をどのように受け止めていたのか?
それは複雑だった.
大きな残虐行為は行われなかった.
ポーランド人に同情する人もいる一方,彼らの運命について「ストライキするくらいなら働け」と責任を追及する人もいた.
中国人は「切れ長の目」と呼ばれていた.
しかし概ね,ハンガリー人と外国人の熟練工とは仲良くやっていた.
1990年,東側陣営市場の崩壊を主因として,この巨大工場は破産寸前となった.
累積債務が1991年までに90億フォリント近くに達したため,同年,国家管理下に置かれ,ザラーン・バルナバーシュ Zalán Barnabás
がラーバを率いる企業委員に任命された.
この危機管理プロジェクトは成功を収め,1992年に会社は――大幅な人員カットと事業の個別会計への転換という犠牲と引き換えとして――適切に黒字化された.
外国人だけでなくハンガリー人労働者も雇用確保できなくなったので,外国人労働者,中国人とポーランド人は帰国させることになった.
ラーバは1992.1.1,国営企業から転換してラーバ・ハンガリー車輌&機械工場株式会社となり,1997年に証券取引所に株式上場した.
同社は1999年からは主な活動をアウトソーシングし,以後,持ち株会社(ラーバ自動車産業ホールディングス株式会社)として運営されている.
飛行場の中心に残っていた114,000平方メートルの巨大ホールは1993年にアウディが,そしてセントゴットハールドの敷地はゼネラルモーターズが購入し,そしてまた,他の地方の工場は母工場から分離された.
2000年に同社は本社を売却し,旧飛行場の施設に移転することを決定した.
また,赤字となっていたバスの製造をやめ,その後倒産に瀕したエンジン工場を売却した.
古い建物の殆どは取り壊され,その施設跡地にエンゲル・グループが投資してアパート6,000戸の建設を計画したが,2008年の国際金融危機が強く影を落とし,数百のアパートの建設を開始していた同社は,以後の建設を断念した.
ラーバの中央工場部門の旧エリアには今日,アールカード・ショッピングセンターが営業しており,完成したアパートには住民が引っ越してきている.
本工場の敷地の一部はまだホールディングスが有しており,さらなる将来どうなるかは定かではない.
2003年,ラーバはハンガリー軍へ特殊車両の納車を開始.
2004年,この年,大幅な増益の伸びを達成し,3つの事業戦略全てが力強い成長軌道に乗った.
2005年10月,ピンテール・イシュトヴァーンが, 2005年12月6日にニューヨーク・リートにおいて設立されたラーバ㈱の会長兼最高経営責任者に就任.
2006年,企業グループの売上総利益は500億フォリントを超えた.
ジェールでの企業活動は現在、1つの拠点で行われている.
ラーバ社はまた,自動車産業のための地域大学ナレッジセンターの設立について積極的関与を引き受けた.
2年間のラーバ・ナレッジアカデミーの枠組みの中で,質の高いスタッフトレーニングが実施されている,
このトレーニングは,経営陣のインセンティブ・ストック・オプション・プログラム――ハンガリーではめったに使用されない手法だが――と共に,投資家からの信頼を高める結果となった.
2007年,社の売上高はかつてないレベルに上昇した.
車体生産事業では,売上高に占める車体生産の割合が大幅に増加した.
東西欧州での販売台数は引き続き増加した他,米国市場では高付加価値製品で重要な地位を獲得することができた.
部品事業の業績は、モール工場とシャールヴァール工場の両方で記録すべきものとなった.
車両事業部門では設備の集中が行われ,軍用車輌の継続的な売り上げに加え,民需車輌の売上が大幅に増加した.
2008年も,市場環境の根本からの変化,年末に発生した世界的な金融恐慌危機にもかかわらず,事業運営の3本柱はどれも堅実なままだった.
すべての事業部門は営業利益を平年並みとし,ビジネス関係を維持した.
足回り事業では,主要能力に焦点を当てた近代化プログラムが開始された.
2009年,ラーバは,市場の可能性[調査]の結果に基づく,近年の意識的な改革と,リソースの適切な調整により,劇的に変化した外部環境に適応した.
ラーバは,MAXSと呼ばれるオフロード車の各派生型の車台を開発し,合弁パートナーと協力して運営されている製鋼所において,鋳造施設近代化を貫徹した.
モール所在のコンポーネント事業の工場では,シートフォームの製造のためフェラーとの合弁会社を設立した.
2010年,イノベーションへの焦点戦略の象徴として,ラーバ開発研究所が立ち上がる.
独自のエンジニアリングの専門知識に基づく開発プログラムの結果,バス市場向けの新世代の低床シャーシを開発した.
2011年,部品事業は,西ヨーロッパの自動車産業で最も高名なサプライヤーネットワークに巧く組み込まれた.
現在毎年約100,000台生産されているヨーロッパ製トラックにシャーシ本体を供給していることから,大陸の主要な大型トラック・メーカーの成功を分かち合うことができるようになった.
車両事業は民需販売大幅拡大を特徴とし,中型バスの国際的成功は,そのビジネス・モデルが実現性あるものであることを証明した.
2012年,顧客との共同製品開発プロジェクトの結果,新しいソリューションを社はアメリカとヨーロッパのトラクター市場のハイエンドセグメントに導入した.
新規巻き直しのおかげで,特殊トラックシャーシの分野でも,米国市場において自己の立場を強化することができた.
社は"We engineer, you drive"というキャッチコピーも作った.
車両事業では民需販売の比重が上昇し続け,鉄鋼構造物セグメントでは,ボルボで開発されたビジネスモデルが新しい機会を作り出し,特に北ヨーロッパへのミディバスの輸出のおかげでビジネス的な成功をおさめた.
2013年,ラーバ開発研究所の強化に伴い,ヨーロッパを代表する開発センターの1つになることが,会社の目標となった.
イノベーションに加え,製品の品質と一流のカスタマーサービスも重点的に強調され,ビジネス関係を深める上で大きく貢献した.
部品事業は,西欧市場において首尾よく参入.
車両事業では国際的なメーカーと,2つの重要な契約を結んだ.
2014年,ラーバは3つの主要顧客、John Deere、Claas、Meritor各社から表彰さる.
2015年,負債を過去最低水準まで削減したことによって10年に及ぶ負債の罠から脱却.
さらなる近代化と国際的プレゼンスの強化のため,買収を含む戦略的投資を行うことができた.
そして2021.12.1現在も,同社は健在のようである.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://t.co/Ys2W9p2xZv
https://t.co/MAOCgnv6qz
https://t.co/nwjMWTKnmx
https://t.co/Tzmviw2xF0
https://t.co/sVbvo1v2r5
https://t.co/s64J1VEORe
https://t.co/uEj4do7SKT
https://t.co/PqDauUP8tw
https://t.co/7dDZAbYCTd
https://t.co/jXp5HLWwdv
https://t.co/4eyNH55GJY
※上記資料の仮訳
https://togetter.com/li/1629937
ZISZ-151 Bleichert ADK 3
(図No. faq210423bl,こちらより引用)
ラーバで生産されるMANエンジン
(図No. faq210904mn,こちらより引用)
ラーバ・シュタイガー
https://www.youtube.com/watch?v=xmXw7ReCZzQ
mixi, 2021.12.13
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