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◆◆戦史 Magyar Történelem
<◆Hungary ハンガリー Magyarország
<欧州FAQ目次
Crovinus Library(ハンガリー史,英語)
ハンガリーの偉い人(英語)
【質問】
ハンガリーの歴史を3行で教えてください.
【回答】
パンノニア人,ダキア人,ローマ帝国領,フン族,アヴァール人など様々な民族が領有した後,9世紀にマジャール人が侵入し,10世紀末にイシュトバーンI世がハンガリー王国を建国する.
13世紀には蒙古襲来により大きな被害を受け,14~15世紀には中央ヨーロッパの強国となるも,15世紀後半~16世紀の戦いでオスマン帝国に敗れ,一方,王権はハプスブルク家が継承する.
反ハプスブルク闘争を続けた結果,オーストリア=ハンガリー二重君主国という妥協が行われるが,第一次大戦に敗れ,戦後独立するも第二次大戦でも敗れて,冷戦終結までソ連の属国同然であった.
【ぐんじさんぎょう】,2016/04/17 20:00
を加筆改修
【質問】
西暦2000年はハンガリー建国1000周年?
【回答】
正確には,“ハンガリー建国”一千周年ではなく,“ハンガリー王国成立”一千周年ですね.
西洋社会では「王」(rex) という称号は勝手に名乗れず,ローマ法王からその称号を授けられる必要があるわけです.
(だから,ヨーロッパには未だに君主国なのに王国ではなく大公国とか公国とかがあるわけですね.
歴史的な日本語の用法に従えば,これらはすべて「王」となります).
で,ハンガリー公国のイシュトヴァーン公(イシュトヴァーン,すなわちラテン名ステパノは霊名であり,本名はヴァイクと称した)が,めでたくローマ法王から王冠を授けられて,教会法上めでたく「王国」に格上げされたイシュトヴァーン公の戴冠式が行われたのが,(第一千年紀である)9世紀の紀元1000年12月25日の水曜日(長保2年11月21日)または(第二千年紀である)10世紀の紀元1001年1月1日の水曜日(長保2年11月28日)だったわけです.
(要するに1週間しか違わないのですが,世紀としては1世紀,千年紀としては1千年紀の差になるわけです (^^;)).
だから正確には“王制一千周年”なのかな?
で,日本の外務省なんかは1995年にハンガリーで“征服定住 (honfogalalás) 一千百年祭”を祝ったのを「ハンガリー建国一千百年祭」と訳してしまったものだから,2000年になってまたまた「ハンガリー建国一千年祭」となって(しかも百年も若くなってしまっている!)困ったわけです.
実際にはハンガリー人は紀元895年以前からカルパチア盆地(領土が現在のように3分の1になる以前の歴史的ハンガリー)に侵入を始めていたらしく,最初のハンガリー人がカルパチア盆地に登場した年については諸説があり,ラースロー・ジュラなどという考古学者は,騎馬民族のフン族が建国したフンニア王国滅亡後,ハンガリー人の征服定住以前に,ここにアヴァリア王国を建国したやはり騎馬民族のアヴァル人も,ハンガリー人と同系のマジャル人であったのではないかという“二重征服定住説”を唱えています.
とりあえず,紀元895年から1920年のトリアノン条約までのハンガリーの領土(カルパチア盆地全域)を“歴史的ハンガリー”と呼びます.
しい坊 : 世界史板,2001/09/27
青文字:加筆改修部分
【質問】
ハンガリー建国に関する面白い本はありますか?
【回答】
ハンガリー史という事なら
恒文社「ハンガリー史」
白水社文庫クセジュ「ハンガリー」
の2冊でしょうか.
後者は価格的に入手しやすいと思います.
Cavabien : 世界史板,2001/09/01
青文字:加筆改修部分
恒文社のコッシュ・カーロイ著「トランシルバニア」にも初期のハンガリーについての記載があります.
国内ではあとは断片的な記述をあちこちから拾うしかないのでは.
英文の書籍ならコルヴイナのサイトで読めます.
スピリット・オブ・ハンガリーとかいう本が読み物的には面白いと知人から聞いたことがあります.
世界史板,2001/08/30
青文字:加筆改修部分
ちなみにコーシュ・カーロイはハンガリーの博学者(本当は建築家)です.
彼はトランシルヴァニアの中心都市,コロジュヴァール(クルジュナポカ)の出身で,トランシルヴァニア芸術家ギルド (Erdélyi Szépmíves Céh) の主宰者でもありました.
また,トランシルヴァニアがルーマニア領に組み込まれてからは,トランシルヴァニアに居住する諸民族の融和を謳ったトランシルヴァニア主義を標榜しましたが,これは未だにダキア=ローマ史観に基づくルーマニアのルーマニア人至上主義に抵触するので,ルーマニアでは御法度の危険思想です.
(国民国家であるルーマニアにおいて少数民族もルーマニア人と平等であっては,ルーマニアが国民国家である意味がないという考え方からです.
それが現在のルーマニア人民族主義者らの反EUの標語「我々は決してヨーロッパにはならない!」に繋がっているわけです.)
彼はコロジュヴァールから東のトランシルヴァニアの入口の王ヶ峠(キラーイ・ハーゴー)に至るカロタセグ(ゾナ・カラテイ)地方を独立させて,「カロタセグ共和国」を樹立するという夢を抱いていました.
建築家としての彼は,アールヌーヴォー様式とハンガリーの民家の様式を融合させた建物を多く建てております.
特にカロタセグのケーレシュフェー(イズヴォル・クリシュルイ)村の木造教会は有名ですね.
まだご存命中にコロジュヴァールの実家でお目に掛かったことがあります.
しい坊 : 世界史板,2001/09/30
青文字:加筆改修部分
【質問】
マジャル人のカルパチア山脈越えについて教えてください.
【回答】
9世紀初めにはマジャル人 magyarok は,ドニエストル川とドニエプル川とに挟まれた,エテルケズと呼ばれる土地に住んでいた.
このころ彼らは7つの部族から成っており,その連合体は宗教指導者(ケンデ)と軍事指導者(ジュラ)によって率いられていた.
9世紀終わりごろ,彼らはエテルケズから移動して,カルパチア山脈を2~3箇所で越え,カルパチア盆地に入った.
そのとき彼らを率いていたのがケンデのクルサーン Kurszán (???~904)とジュラのアールパード Árpád (850/855~907)だった.
彼らははじめティサ川左岸のトランシルヴァニア地方に拠点を置いたが,後にブダ周辺に拠点を移し,ニェーク,メジェル,キュルト・ジャルマト,タリャーン,イェーネ,ケール,ケスィの7つの部族の内,そのうち有力な5部族がブダペシュトに定住した.
そして,彼らがこの地を征服したとされている895年がハンガリー建国の年となっているが,実はあまり根拠のない数字らしい.
というのもこれは,1880年代にハンガリー建国千年祭が準備される中で決定されたものだからだ.
まあ,紀元節のようなものであろう.
その7つの部族長の中に「タシュ」という名も見えるのだが,編者は浅学にして他の部族長の名前を全て調べ出すことはかなわなかった.
【参考ページ】
南塚信吾『図説 ハンガリーの歴史』(河出書房新社,2012), p.7-10
http://hexagon.inri.client.jp/floora4F_ha/a4fha402.html
http://www.szagami.com/topics/history.htm
【ぐんじさんぎょう】,2016/05/05 20:00
を加筆改修
7人の族長名は諸説ありまして・・年代記によって書かれている名前が異なるのです.
https://en.wikipedia.org/wiki/Seven_chieftains_of_the_Magyars
ブダペストの英雄広場の像はアノニムスのゲスタ・ウンガロルムに登場する7人が基本のようですが,アールモシュ(Álmos)が息子のアールパード(Árpád)になっています.
他の6人は以下のとおり.
フーバ(Huba).・ タシュ(Tas)・エロード(Elod)・コンド(Kond)・オンド(ond)・テーテーニ(Tétény)
ギシュクラ in mixi,2016年04月24日
▼ なお,アールパードにより率いられ,カルパチア盆地に征服定住したマジャル人たちは,7つの部族からの連合体だったと言われていますが,実際にはマジャル人以外の部族も含まれていたようです.
しい坊 : 世界史板,2001/11/03
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
パンノ二ア定住当時のマジャル人が,コーカソイドだったのかモンゴロイドだったのか,その中間ないし混血だったのかは,当時のマジャル人の骨格や(頭髪や骨から採取される)DNAで判らないのでしょうか?
【^▽^】足軽浪士ジョーカー@長屋 : 世界史板,2001/10/31
青文字:加筆改修部分
【回答】
DNA鑑定は今では多分やっているのでしょうねぇ.
僕の留学していた時代には,専ら当時の墓から出てきた骨格の形質人類学的評価しかありませんでしたが....
僕が習った範囲では(今は変わっている可能性もありますが)マジャル族の墳墓を調べた結果では,高貴な人々の骨はシノイド(sinoid) で,平民の骨格はエウロポイド
(europoid) だったそうです.
つまり,支配階級がモンゴロイド(それも漢民族に近い)で,住民の多数派は(すでに当時においてさえ)白人だったようです.
ユーラシア大陸の人種分布を見ると,単純化して言えば,東に行けば行くほど黄色人種度が増し,西に行けば行くほど白人種度が増しています.
この人種の遺伝子の大海は余りにも広大なために,民族移動があっても,マクロ的に見ると,その地域の人種の遺伝子に呑み込まれてしまっているようです.
ですから,ウラルの辺りからハンガリー人の先祖が西方に移動を始めた時には,ハンガリーに入ってから初めて白人化したのではなく,その時その時に滞在していた地域の人種に同化しつつ移動していったと考えた方がいいかもしれませんね.
マクロ的に民族移動のアニメを作ってイメージ化してみると,人種というハードはそのまま,その人種のハードの上を言語というソフトだけが滑って移動していると見たほうが,実態に合っているのではないかと考えています.
しい坊 : 世界史板,2001/10/31 & 11/03
青文字:加筆改修部分
【質問】
ありがとうございます.
平民は先住のスラヴ人に限らず,マジャル人を含めてですよね?
【^▽^】足軽浪士ジョーカー@長屋 : 世界史板,2001/11/01
青文字:加筆改修部分
【回答】
...と言うか,この墓の発掘の場合はマジャル人の墓のみのことだと思います.
つまりマジャル人の平民 (?) の人種構成です.
先住民族のスラブ人とマジャル人の場合は,集落とか副葬品等から区別できるはずですから.
(もっとも考古学も僕の専門ではありませんので,記憶違いという可能性もありえますが.)
ハンガリー人の場合は最初から騎馬民族としてカルパチア盆地に侵入してきたということがわかっているために,民族史観としてもハンガリー人の先住性を主張する必要もなく(cf. ルーマニア人のダキア=ローマ史観),民族的利害が関っていないこともあり,ハンガリーの考古学は比較的客観的だと考えてもいいと思います.
実力的にも敦煌発掘のシュテイン・アウレール(サー・オーレル・スタイン卿)やチベット潜入のセーケイ人,ケーレシュ=チョマ・シャーンドル(アレクサンダー・チョマ)等を輩出しているわけですから....
なお,カルパチア盆地に征服定住したマジャル人の人口と,すでにカルパチア盆地に定住していたスラヴ人の人口に関しても諸説あります.
僕の記憶では征服定住したハンガリー人の数は13万人~30万人程度だったようで,当時はカルパチア盆地には専ら(どこの国家にも所属しない)スラブ人(の農民と牧畜民)が居住していたものの,その人口は意外と少なかったのではないかと想像されております.
何しろ後からやってきたマジャル人がスラヴ語化されずに,先住民たちがハンガリー語化されてしまったこともありますし....
ちなみに,謎と言えば,19世紀末はまだペシュト・ブダの住民の圧倒的多数はドイツ人で,ドイツ語が母語だったのに,20世紀になるとドイツ語を母語とするブダペストの住民はほとんど消滅してしまっていたことです.
ドイツ人の方が先進民族ですから,通常は彼らがハンガリー人に同化するとは考えにくいのですが,約半世紀程の極めて短い間に言語的にはドイツ語を母語とする住民は(ブダペストにおいては)全く消えてしまっています.
しい坊 : 世界史板,2001/11/02
青文字:加筆改修部分
【質問】
アールパード朝って何?
3行で教えて!
Mi Árpád-ház?
Kérem, mondja meg a három sorban.
【回答】
アールパード朝(トゥルル朝)は,ハンガリー王国の最初の王朝であり,ハンガリーを征服した部族連合の長の名前にちなむ.
Az Árpád-ház (Turul-dinasztia) az először dinasztia volt Magyar Királyságban,
honfoglaló magyar törzsszövetség vezéréről elnevezett dinasztia.
カールマン一世(1070-1116)の時代にはその勢力がアドリア海にまで達したが,その後,蒙古襲来や十字軍参加などにより王権は弱体化.
1301年,アンドラーシュ3世死去により,アールパード朝は断絶した.
【参考ページ】
http://www.europe-z.com/tabi/hu199605/h02.html
https://kotobank.jp/word/アールパード朝
http://graywolf.la.coocan.jp/Retu/States/state506.htm
アールパード朝家系図
(Wikipediaより)
【ぐんじさんぎょう】,2016/09/29 20:00
を加筆改修
【質問】
アールパードって誰?
3行で教えて!
Ki az Árpád?
Kérem, mondja meg a három sorban.
【回答】
アールパード(845年?~907年7月?)は「征服」,すなわちカルパチア盆地にマジャル人が定住したときの,マジャル人部族連合の首長の息子.
Árpád (845? - 907. július?) A magyar törzsszövetség fejedelme volt a honfoglalás
idején - melynek során a magyarok Etelközből a Kárpát-medencébe települtek.
軍事指導者(ジュラ)として,カルパチア盆地からさらに進んで899年にイタリアに侵入し,パンノニア(トランス・ダニューブ)を支配下に置いて引き揚げ,902年には大モラヴィア国を崩壊させた.
904年,共同統治者の名誉最高首長(ケンデ)クルサーン Kurszán がバイエルンの貴族たちによって暗殺されると,アールパードが大首長となり,907年にオーストリアを支配するオストマルク東方辺境伯領に侵入して,これを撃破したが,スイスで東フランク王国の軍勢に大敗して撤退し,その年のうちに死去した.
【参考ページ】
南塚信吾『図説 ハンガリーの歴史』(河出書房新社,2012), p.9-10
https://kotobank.jp/word/アールパード
http://cerp.edu.mie-u.ac.jp/icerpold/tokuron/tokuron15kansei/C4/rekishi.html
https://www.youtube.com/watch?v=2zry5S5kFHY
【ぐんじさんぎょう】,2016/1/23 20:00
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【質問】
アールパードのイタリア遠征について3行以上で教えてください.
Kérem, mondja meg az Árpád Támadása Olaszországonot a három vagy több sorban.
【回答】
カルパチア盆地を制したアールパードは,899年にブレンタ Brenta 川の戦いにおいて イタリア王 ベレンガリオ 1世 Berengario
I の軍勢を破り,イタリア北部へ侵入した.
マジャル人はトレヴィーゾ,ヴィチェンツァ,ヴェローナ,ブレーシャ,ベルガモ,ミラノの近郊において虐殺を行ったが,そのころまだ遊牧民であった彼らは攻城戦には不慣れだったので,壁に囲まれた城や大都市を攻撃することは無かったという.
パンノニアを支配下に置いて引き揚げた後,901年にも再び来襲したが,ケルンテン Kärnten において敗北し,905年のアールパード死後に内紛が発生.
その間,ベレンガリオは懐柔工作を行ってマジャル人を傭兵として味方に引き入れることに成功したのだった.
まあ,その後,この傭兵がイタリア人虐殺を行ったことで,ベレンガリオの立場がまずくなるんだけどね…
「こうして南からイスラム勢力,北からはノルマン・ヴァイキング,東からはマジャール人の侵攻を受けて,西方キリスト教世界はガタガタになっていた」
(藤沢道郎『物語 イタリアの歴史II』(中央公論新社,2004),p.56)
【参考ページ】
南塚信吾『図説 ハンガリーの歴史』(河出書房新社,2012), p.10
http://theancientweb.com/explore/europe/hungary/
http://www.historyworld.net/wrldhis/PlainTextHistories.asp?historyid=ab87
イタリアのフレスコ画に残る,マジャル人戦士の絵
(wikipediaより)
mixi, 2017.1.28
【質問】
アールパード朝の歴代首長を教えられたし.
【回答】
在位期間 | 首長 | 備考 | ||
896-907 | アールパード Árpád | |||
907–946 | ゾルタ―ン Zoltán | |||
946–972 | タクショニ Taksony | |||
972-997 | ゲーザ Géza | |||
(ここから国王) | ||||
997-1038 | イシュトヴァーン一世 I. István | |||
1038-1041 | ペーテル Péter | |||
1041-1044 | シャームエル Sámuel | アバ家出自 | ||
1044-1046 | ペーテル Péter | 復位 | ||
1046-1061 | アンドラーシュ一世 I. András | |||
1061-1063 | ベーラ一世 I. Béla | |||
1063-1074 | シャラモン Salamon | |||
1074-1077 | ゲーザ一世 I. Géza | |||
1077-1095 | ラースロー一世 I. László | |||
1095-1114 | カールマーン Kálmán | |||
1114-1131 | イシュトヴァーン二世 II. István | |||
1131-1141 | ベーラ二世 II. Béla | |||
1141-1161 | ゲーザ二世 II. Géza | |||
1161-1172 | イシュトヴァーン三世 III. István | 在位期間 | 対立王 | |
1161-1162 | ラースロー二世 II. László | |||
1162-1163 | イシュトヴァーン四世 IV. István | |||
1973-1196 | ベーラ三世 III. Béla | |||
1196-1204 | イムレ Imre | |||
1204-1205 | ラースロー三世 III. László | |||
1205-1235 | アンドラーシュ二世 II. András | |||
1235-1270 | ベーラ四世 IV. Béla | |||
1270-1272 | イシュトヴァーン五世 V. István | |||
1272-1290 | ラースロー四世 IV. László | |||
1290-1301 | アンドラーシュ三世 III. András |
【参考ページ】
矢田俊隆編『東欧史』(山川出版社,1977)
2017.1.3
ご承知のこととは思うのですが,イシュトヴァーン1世以前は西欧社会に承認されたハンガリー王ではなく,マジャール人の族長扱いでした.
恒文社のハンガリー史では「大首長」と表記,そのほかでは大公と表記している例もあります.
マジャールの首長の位は最高位が「ケンデkende」で,パンノニア平原に定住した時点ではクルサーンが,それに次ぐのが「ジュラgyula」のアールパードでした.
904年にクルサーンがバイエルン公にだまし討ちにされると,アールパードが「ケンデ」になったようです.
あと,「ホルカhorka」という位もあり,上記のハンガリー史ではジュラおよびホルカはケンデに次ぐものと書かれており,ジュラとどちらが上位なのか判然としません.
大公と書かれているのは,首長を意味するフェイエデレムFejedelemの英訳がプリンスだからのようです.
あと,ゾルターン(ジョルトZsolt)とタクショーニ(タクショニュの間にファリチィFalicsiという人物がいたようです.
https://hu.wikipedia.org/wiki/Falicsi_magyar_fejedelem
英文ウィキの参考文献のエンゲル・パルの本は持っているので,確認してみます.
ギシュクラ mixi,2017年01月04日
【質問】
910-930頃にマジャール軍は,アルザス・ロレーヌ・スイス・イタリア・南フランス等に度々侵入し,略奪をほしいままにして引揚げ,西欧の人々を恐怖のどん底に陥れていたそうです.
イシュトバーン1世に始まるアールパード朝は,なぜゲーザ朝ではないのでしょうか?
イシュトバーン1世の父は,あの神聖ローマ皇帝オットー1世に西欧侵略の終結を約束したゲーザ公ですよね?
HN "カウニッツ"
【回答】
ゲーザ公の祖先が,マジャール人をパノニア平原へ導いた族長アールパードなのです.
イシュトヴァーン1世(洗礼前はヴァイク)の父はゲーザ公ですね.
イシュトヴァーン1世の血統は,彼の在世中,嫡男イムレが狩猟中に手負いの猪に襲われて落命するという悲劇に見舞われたことで途絶えているのです.
2代目の国王ペーテル・オルセオロはイシュトヴァーン1世の娘とヴェネツィア大公の間の子供でした.
3代目のアバ・シャムーエルは一族の人間ですが,在来宗教を奉じて反乱を起こした人間ですし,4代目以降はイシュトバーン1世の従兄弟で反乱を企てたとして目を潰された上,溶けた鉛を耳から流し込んで処刑されたヴァーソイの息子の血統です.
キエフに亡命していた彼ら3人兄弟が,ドイツ皇帝の力に頼ろうとするペーテル王,反逆者アバ・シャムーエルの両方を打倒したのです.
(ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w in 世界史板)
【質問 kérdés】
コッパーニの乱って何?
Mi az Koppány lázadása?
【回答 válasz】
10世紀ハンガリーにおける跡目争い.
10世紀後半のこと,マジャル人の大首長 fejedelem ゲーザ Geza は,自分の死後,イシュトヴァーンに大首長の座を継承させようとしました.
イシュトヴァーンとはゲーザの息子ヴァイク Vajk の洗礼名.
ところが,たしか当時のハンガリーでは一族中の最年長者が首長の座を継承するというのが,古くからの決まりでした.
大公ゲーザの死んだ時点ではヴァイクの叔父であるコッパーニュが首長の座につくのが筋だったのでしょう.
確かロックオペラでも「古の法によれば・・」とかコッパーニュが言ってませんでしたっけ.
コッパーニュはゲーザの未亡人シャルロタ(でしたっけ)と結婚して首長の座に着こうとして拒否され,ヴェスプレームに攻め寄せますが,ロシア・イタリア・ドイツといった外国騎士を主体とするイシュトヴァーンの軍とチャータルヘイジで交戦してあっけなく敗北,コッパーニュは戦死してしまったのでした.
修道院の記録では,イシュトヴァーンの勝利には,ドイツのバイエルンから嫁いできた妃ギゼラの家来のドイツ人騎士が特に大きな役割を果たしたとされており,
「まるでドイツとハンガリーの戦いであるかのようだった」
とされています.
また,スロバキア民謡のひとつは,
「イシュトヴァーン王(Štefan kral)はビナの辺りではスロバキアの戦士の援けによって異教の敵を倒すことができたのだ」
と歌っているそうです.
キリスト教を受容しようとしない者達のさらなる反乱を防ぐため,コッパーニュの遺体は4つに裂かれ,見せしめとして城壁の上に曝されました.
しかしコッパーニュの側からすればヴァイクの側の方が,国を私物化するとんでもない輩に見えたのではないかと思います.
ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2001/10/07
青文字:加筆改修部分
「一族中の最年長者が首長の座を継承する」というのは,ハンガリーの,というか,騎馬民族の掟だったんでしょうね.
騎馬民族は戦(略奪)をしながら移動して行くわけで,王は経験が豊富でなければいけなかったからでしょうね.
ゲーザ(当時の発音ではジェイチャ?)公は,ハンガリーをヨーロッパ世界に受入させるためには,ヨーロッパの文明世界の制度を導入しなければならないと考え,先進的 (?) な王権の世襲制を導入するために存命中に族長会議で(彼らを剣で脅し),息子のヴァイクを次の王として認めさせたのでした.
かつての偉大なフン族もアヴァル族も,痕跡もなく歴史の部隊から消え去ってしまったのは,彼らがヨーロッパ世界から“文明の敵”だと看做されたからだと考えたのでした.
すでにフン族やアヴァル族のような,それまでにカルパチア盆地に征服定住した騎馬民族は,全て滅ぼされてしまいました.
どんなに強くても,ヨーロッパ文明という世界から睨まれたら生き残れない.
ヨーロッパで生きて行くためにはキリスト教に帰依し,ヨーロッパ文明人として振る舞わなければならないのです.
コッパーニュの立場ははっきりしています.
ハンガリー人としての民族の誇りと,民族の独立です.
ロックオペラのイシュトヴァーンはコッパーニュに言います.
「ローマを受け入れよ.
全ての道はローマに至る.
ローマさえ受けれれば,王座はあなたのものだ.
ひとつの国,ひとつの民族の運命が,私たちの手の中にあるのだ」
と,自分は権力にこだわらないとコッパーニュに手を差し伸べています.
しかし,コッパーニュはうさん臭い坊主どもがハンガリーを徘徊し,外国の軍勢が駐留するようなハンガリーを認めることはできなかったのです.
コッパーニュの主張は基本的に正しい.
しかしそれではハンガリー人は滅ぼされてしまう.
どんなに辛くても,為政者には国民を守る義務がある.
そこでゲーザはハンガリー人を無理矢理キリスト教に帰依させようとします.
抵抗する者は残虐な手法で処刑して行きました.
民族を守るためには他には選択肢はないのです.
民衆が話して分かってくれるなら問題はなかったのですが,古来,民衆というものは先を考えず,かつ保守的なものです.
そういう意味では時代は違いますし,一見やったことは正反対ですが,江戸幕府が徹底して切支丹を弾圧したのも日本という国家を守るためだったわけです.
ハンガリー人がヨーロッパで存続し続けるためには,どうしてもキリスト教徒にならざるをえなかった.
同様に日本が欧州列強の植民地とならないためには,どうしてもキリスト教の布教を押え込まなければならなかった....
両方とも為政者としての苦悩の,責任ある決断だったのだと思います.
ロックオペラでは国論は完全に二分しますね.
イシュトヴァーンの祈りはいい.
「私が守りたい民族が私に武器を持ってはむかい,外国から私の民族を守るために,まさにその外国の助けを借りなければならないとは...!」
との苦悩です.
しかし,コッパーニュの主張する民族の誇りを大切にすべきだという考えはいくら正論ではあっても,それを選んだらハンガリー人はヨーロッパ世界から確実に抹殺されてしまうでしょう.
ハンガリー人は生き長らえるためには,どんなに苦しくても魂を売り渡さなければならなかったのです.
(1956年のカーダールの苦悩が目に浮かぶようです.
彼はハンガリー革命の成果を守るためにも,自分が支持するナジ・イムレを裏切らなければならなかった....
その結果,ハンガリーは東欧で最も自由で先進的な国になることができたのでした.
イシュトヴァーンは民族の魂を売り,その結果,ヨーロッパに侵入した騎馬民族としては唯一 ―― 国土はだいぶ減りましたが ―― ハンガリー人だけが未だに存続しているわけです.)
辛い話です.
でも,まさに悲劇の条件が全て揃っている作品です.
(僕に『国王イシュトヴァーン』の話をさせたら止らなくなるぞ (^^;).)
しい坊 : 世界史板,2001/10/08
青文字:加筆改修部分
イシュトヴァーン一世の即位に反対した王族の叛乱.
コッパーニはトランスダヌビア地方南部の領主.
生年不詳だが,アールパード朝の王族の一人と見られる.
一説によれば,アールパードの長男タルカトゥス Tarkatzus の子孫であるという.
997年にハンガリー大公ゲーザが死去すると,イシュトヴァーン一世の即位したが,コッパーニはその年,またはその翌年,それまでのマジャル人の年功序列の伝統に従って王座を要求.
また,同じくこれまでのマジャル人の伝統に従って,ゲーザの未亡人シャロルト Sarolt との結婚も要求した.
対して長子相続はキリスト教国の伝統であり,また,シャロルトとコッパーニの婚姻は,キリスト教的価値観からすれば近親相姦というタブーだった.
キリスト教に改宗したイシュトヴァーン一世にとっては,どちらも受け入れられるものではなかった.
ただし,1002年の文書では,コッパーニの叛乱の動機については何も記述はなく,伝説の信憑性を疑問視する研究者もいる.
コッパーニは叛乱を起こし,伝説によれば,イシュトヴァーンの城を破壊し,財産を掠奪し,部下を殺害.
同じく伝説によれば,彼は反キリスト教派のマジャル人達に支持され,ヴェスプレーム Veszprém を包囲したという.
しかしイシュトヴァーン一世には強力な味方がいた.
ドイツ人騎士である.
996年,イシュトヴァーン一世が神聖ローマ皇帝ハインリッヒ二世の妹ギシェラ Giselaギゼラと結婚すると,ドイツ人騎士達がハンガリーに移住.
国王軍司令官ヴェンツェリン Vencellinも,そうしたドイツ人騎士の一人であり,彼らは国王軍の勝利に大きく貢献した.
国王軍は叛乱軍をヴェスプレーム Veszprém 付近の戦いで撃破.
コッパーニは退却中に戦死した.
一説にはヴェンツェリン自らコッパーニを討ち取ったという.
伝説では彼の死体は4つに切断され,ジェール Győr,ヴェスプレーム,エステルゴム Esztergom ,ジュラフェヘールヴァール Gyulafehérvár
(現ルーマニアのアルバ・ユーリア Alba Iulia)の砦に晒されたという.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://multunk.com/index.php?title=Koppány_lázadása
https://t.co/6LpTBQ3jNo
https://www.origo.hu/tudomany/20180110-az-egykoru-forrasok-nemhogy-a-felnegyelest-de-meg-a-lazado-vezer-nevet-sem-emlitik-meg.html
mixi, 2019.10.4
【質問 kérdés】
イシュトヴァーン一世って誰?
Ki az I. István?
【回答 válasz】
イシュトヴァーン1世(969 or 975年~1038.8.15)はハンガリー王国初代国王.
アールパード家最後の首長ゲーザGézaの子.
幼名ヴァイク Vajk.
キリスト教の洗礼を受けてイシュトバーンの名となる.
1000年に教皇シルベステル2世から授けられた王冠を戴いて,ハンガリー初代の国王となる(在位997~1038).
国内異民族の討伐,国内東部の部族の反乱の平定,教区制の設置,行政組織の整備により,統一されたハンガリー封建国家を樹立.
その版図は現在のスロバキアやクロアチア,ルーマニアなどまで及び,この版図は「聖イシュトヴァーンの王冠の地」と呼ばれる.
1083年,ハンガリーをキリスト教カソリックに導いたとして列聖され,彼のミイラ化した右手は聖遺物として祀られて,現在も聖イシュトヴァーン大聖堂の礼拝堂に安置されている.
また,その王冠は2000年現在,内閣府に安置.
さらに,8月20日はハンガリーの建国記念日「聖イシュトヴァーンの日」となっている.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://gotrip.jp/2018/06/92689/
https://kotobank.jp/word/イシュトバーン%5B1世%5D
https://bushoojapan.com/tomorrow/2016/12/25/90132
https://twitter.com/minors_bot/status/792475411443691520
https://www.youtube.com/watch?v=P-xEHHHCrH4
※ リクエストにより埋め込み無効
mixi, 2019.8.17
【質問】
初代国王イシュトヴァーン1世に対してローマ教皇が王冠を授ける際,使者に対して
「汝らの首長は真の使徒なり.」
と言ったという使徒王国の伝承は,これも伝説ですか?
【回答】
“使徒王国”に関しては“伝説”とまで言い切ってしまっていのかどうかは分かりません.
要するに,ヴァチカンにその資料が現存していないということで,今となっては本当かどうか確認のしようがないということのようです.
(中世のハンガリー人達の捏造である可能性も大いにありえますね.)
しい坊 : 世界史板,2001/10/05
青文字:加筆改修部分
【質問】
ハンガリーは何故,正教ではなく,カソリックを選んだのでしょうか?
地理的には正教を選んでも良かったんでしょうが・・・.
胴締め剛術家 ◆/7yqagaCtg
【回答】
隣国であるドイツからの攻撃を回避するためです.
かつては侵略をほしいままにしていたマジャールの騎馬軍団も,955年にオットー1世にアウグスブルク近郊のレヒフェルトで大敗してからは守勢に回るようになりました.
このまま在来の宗教を奉じていては滅ぼされると判断した,アールパード家のゲーザ大公がキリスト教に帰依,息子のヴァイクとバイエルン王女のギーゼラを結婚させました.
このヴァイクが洗礼名イシュトヴァーンでゲーザの死後初代国王となるのです.
さて,もちろん在来の宗教を奉ずる連中も黙ってはおりません.
ゲーザ死後,昔からの慣習に従い一族の最年長者にしてイシュトヴァーンの叔父,バラトン湖地方に勢力を有するコッパーニュは,族長の地位とゲーザの未亡人シャルロタとの結婚を要求,イシュトヴァーンは,自らに族長の地位はあるとしてこれを拒否しました.
外国からの騎士を主体としたイシュトヴァーンの軍はコッパーニュを破り,殺害されたコッパーニュの死体は4つ裂きにされてハンガリーの3つの城の門に釘付けにして晒され,1つはトランシルバニアに勢力を有する族長ジュラに送りつけられました.
さて,このジュラの一族ですが,トランシルバニアを勢力圏とする彼らはビザンツに接近しジュラ自身がコンスタンチノープルへ赴き洗礼を受けています.
この後,イシュトヴァーン1世の侵攻でジュラは敗北してしまいますが,在来宗教は弾圧されたものの,東方正教会が禁止とかいうことはなかったようです.
アールパード家の当主でビザンツ皇帝の娘と結婚した例はままありますし,ベーラ3世のようにビザンツ皇帝の養子になっていた(結局,実子ができたので皇帝位にはつけず)人もいたりします.王が正教会を立てたという例もあるそうです.
何時頃からカトリック王国化したのか私には分かりませんが,アールパード家が断絶してイタリアのアンジュー家のカーロイ・ローベルト王が即位してからだろうかと思ったりします.
モンゴル来襲時のベーラ4世以降は,ビザンツ皇女との結婚(ベーラの場合はニカイア皇帝ですが)がないのでそう考えた次第です.
どなたか,詳しい方にご教示賜れば幸いです.
(ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI in 世界史板)
【質問】
セクイ人とは?
【回答】
ルーマニア側でのセーケイ人の呼び方.
セーケイ人は,マジャールのパンノニア定住後,12,3世紀に辺境警備にトランシルヴァニアにやってきたマジャールの末裔だろうと考えられている.
ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』では,ドラキュラ伯爵はセクイ人の末裔という設定だが,史実のブラド・ツェペシュがセーケイ人だったという事実はない.
以下引用.
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M:
ブラム・ストーカーの小説ではドラキュラは「セクイ人の末裔なり」と称してます.多分,セーケイ人のことなのでしょう.
トランシルバニアの彼らのことについては邦文ではコッシュ・カーロイの著書に記載がある程度です.
T:
ストーカーは「Szekely」とハンガリー語つづりで書いたらしいので,翻訳の過程で「セクイ」になってしまったのでしょうね
(でも日本語でセーケイはなんというのでしょう.セクイだったりしますか?).
ある研究者によると,ストーカーはマジャールとセーケイとフンの関係に興味を持っていたそうです.
本物のドラキュラがセーケイの末裔ではないことをストーカーが知っていたかどうかわかりませんが,考えられるのはアッチラと関連づけることによって,作中のドラキュラの邪悪さを強調したかったとか,ドラキュラの子孫がセーケイの地に領土を持っていたことからとかだそうです.
S:
セーケイ人というのが日本でも多く見かけられる記述ですね.平井呈一先生訳では「セクリー人」となっているようです.
「セクイ人」はルーマニア側でのセーケイ人の呼び方です.
セーケイ人の出自は近年までフンの末裔だ,トルコ系だろうと色々いわれてましたが,今はマジャールのパンノニア定住後,12,3世紀に辺境警備にトランシルヴァニアにやってきたマジャールの末裔だろう,ということで落ち付いているようです.
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Himawari/6090/w/tori02.html
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date: unknown
ドラキュラ伯爵は高らかに「フン族の末裔で,セーケイ(作中ではセクイ)人だ」と言ってますね.
『ドラキュラ』はストーカーがハンガリーの民族学者ヴァーンベーリ・アールミンから得た情報を基にしているそうですが,実際のブラド・ツェペシュと別キャラクターとしてのドラキュラを創作する際に,根拠の城の場所も,出自もトランシルバニアに関係するものに変更したのでしょう.
おかげで,トランシルバニアは変に有名になってしまいました・・
ギシュクラ in mixi, 2017年02月23日
青文字:加筆改修部分
【質問】
セーケイ人の話すハンガリー語には,特別の特徴があるの?
【回答】
セーケイ方言全体としてのまとまった特徴は少ないかもしれません.
セーケイ方言の中にほぼハンガリー語全域の方言のバリエーションがあると言ってもいいんじゃあないでしょうか.
ハンガリー語の方言の特徴差は非常に少なく,東北ハンガリー方言とブダペスト方言が「狭いë」と「広いe」を区別せず,他は区別するとか,ドゥナーントゥール(西ハンガリー)方言は2つのeの差が大きいとか,通常は短母音の
a が円唇母音で,長母音の á が平唇母音なのに,パローツ方言の一部では短母音の a の方が平唇母音で,長母音の á が円唇母音になるとか,一部の地方では長母音が二重母音になるとか,その程度の差違しかありません.
しい坊 : 外国語板,2001/10/19
青文字:加筆改修部分
【質問 kérdés】
アンドラーシュ一世って誰?
Ki az I. András?
【回答 válasz】
アンドラーシュ一世(1015年頃 - 1060年12月6日以前)は,在位期間1046~1060年のハンガリー王.
I. András (1015 körül – 1060. december 5. előtt) Magyarország királya
1046 és 1060 között.
イシュトヴァーン1世の従弟にあたるヴァーソイ(ヴァーソイ)公の次男.
Az Vászoly ( Vazul ) második fiúja volt, aki I. Isztvarn egy unokatestvérje
volt.
しかしヴァーソイ公がイシュトヴァーン1世暗殺未遂事件に連座して捕らえられ,両目をくりぬかれ,両耳に熱して溶けた鉛を注ぎ込まれて殺害されると,アンドラーシュら彼の3人の息子たちは国外へ逃亡した.
初めはボヘミアへ逃げ,続いてポーランドへ逃げ,さらにキエフへ移住.
そこでアンドラーシュは,キエフ大公ヤロスラフ1世とスウェーデン王女インゲゲルド(スウェーデン王オーロフの娘)の娘アナスターシア Anasztázia
と結婚した.
一方,ハンガリー国内では,イシュトヴァーンの死後に王位に就いたオルシェオロ・ペーテル Orseolo Péter が,キリスト教による封建制度を推し進めようとし,イシュトヴァーン1世の義弟アバ・シャームエルを宮廷から追放.
だが,キリスト教化を恐れ,ハンガリーが神聖ローマ帝国の属領となるのを嫌った一派が,シャームエルを支援.
1041年,今度はシャームエルがペーテルを追放して即位した.
1043年,シャームエルは神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世とハインリヒと和平を結ぶべく,国土の多くを彼に朝貢.
手元不如意になったシャームエルは,元の王たちが教会に寄進した財産を取り返そうとし,また聖職者らから税を取り立てようとしたため,貴族や教会の支持を失った.
1044年7月5日,メーンフェー Ménfőの戦いで,ハインリヒ3世の支援を受けたペーテルの軍勢が,シャームエル軍を撃破.
シャームエルは東部へ逃れたが,彼はそこでペーテル軍に捕らえられて殺害されたとも,ティサ川に達したところで親ペーテル派のハンガリー貴族に殺害されたとも言われる.
しかし1046年,キリスト教の信仰篤い前王妃ギーゼラをオルシェオロ・ペーテルがハンガリーから追い出したことで,彼は聖職者らの支持を失った.
シャグレド・ゲラルド司教率いるハンガリーの叛徒らは,アンドラーシュら兄弟たちを呼び戻すことに決めて手紙を送付.
1046年夏,アンドラーシュとレヴェンテがハンガリーに到着したその時,異教徒のハンガリー人ヴァタらを中心とした大規模反乱が勃発した.
ペーテルは王国の西部から国外へ逃亡.
異教徒でいることに決めた兄レヴェンテと合意の上で,アンドラーシュがハンガリーを統治することになった.
しかし彼はキリスト教化政策を継続.
兄の死後,アンドラーシュは1047年に戴冠すると,イシュトヴァーン1世の法令をいっそう強固にしたばかりでなく,外国人聖職者さえハンガリーに招聘した.
異教徒の反乱側がキリスト教聖職者たちを何人か殺害したからである.
一方,神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ3世は1051年,対ハンガリー遠征に乗り出す.
彼の臣下であったペーテルを追い出すとは何事か!というわけである.
それより先,アンドラーシュは帝国の宮廷へ大使を派遣し,皇帝への臣従を表明したが,ハインリヒはそれを拒絶していた.
アンドラーシュはその時点で戦争不可避と見て,弟ベーラをハンガリーへ呼び寄せた.
ベーラはポーランドで軍事指導者として功名をあげていたからである.
アンドラーシュはベーラにハンガリー王国の1/3の支配権を委任した.
ベーラは確かに戦巧者であった.
皇帝軍は偽手紙により退却を誘発させられ,ヴェールテシュの丘で打ち負かされた.
1051年の終わり,修道士クリュニーのユーが2人の君主の間の調停に入ったが,皇帝は和平を拒んだ.
翌1052年,皇帝は艦隊を率いてポゾニ(現ブラチスラヴァ)へ進軍したが,アンドラーシュ軍はこれを撃沈.
ローマ教皇レオ9世が和平を調停しようとしたが,ハインリヒ3世はこれも拒否した.
そこでアンドラーシュは1053年,反皇帝派勢力であるバイエルン公コンラート2世と同盟を結び,皇帝を牽制した.
神聖ローマ帝国との間で和平が結ばれるのは,新皇帝ハインリヒ4世即位後の1058年9月のこととなる.
1057年,アンドラーシュ1世は当時5歳の嫡子シャラモン Salamon を王として戴冠させ,後継とするのを確実にしようとした.
だが,これはベーラ公を激怒させた.
彼はアンドラーシュの後継としてかつて任命されていたからである.
ベーラは兄に対抗する兵を集めるため,ポーランドへ発った.
アンドラーシュは弟が反乱を計画していることを耳にし,アナスターシア王妃と子どもたちをオーストリアへ避難させ,戦いに備えようとした.
だが,その最中,アンドラーシュは病となって歩行もおぼつかなくなった.
その直後,ベーラはポーランド軍を指揮してハンガリーへ戻り,王に対して決定的な勝利をおさめた.
敗北したアンドラーシュはオーストリアへ逃れようとしたが,セベン Theben 峠(現ヴィーゼルブルク近郊)に来たところで馬上で倒れ,ベーラの配下に捕らえられた.
アンドラーシュはジルク(現ヴェスプレーム県)へ連行され,そこで死んだという.
ベーラは1060年即位したが,今度はベーラと神聖ローマ皇帝軍との戦いとなった.
アナスターシアが,神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世に援助を求めたからである.
ハインリヒ4世はシャラモンの婚約者ユディトの兄でもあった.
ベーラは倒され,シャラモンが即位したが,今度はベーラの息子たちが(以下繰り返し
【参考ページ Referencia Oldal】
http://blog.goo.ne.jp/marifle1010/e/8456b9bdc619c7dce8e61d0193b76abb
http://www.geocities.jp/room_fai/medieval-s8.html
http://blog.livedoor.jp/yinghua29/archives/52870035.html
https://www.findagrave.com/memorial/58614151
戴冠式の折のアンドラーシュ一世
(wikipediaより)
mixi, 2017.12.14
【質問 kérdés】
アンドラーシュ2世について教えてください.
Kérem, mondja meg az II. András magyar királyről
【回答 válasz】
アンドラーシュ2世(1177~1235.9.21)はアールパード朝時代の国王 (在位 1205~35) .
1217年,中近東への十字軍に1万 5000の兵を率いて出征.
一方国内では大貴族と争ったが,王領の財政悪化のため,次第に譲歩を余儀なくされ,1222年,金印勅書を発布.
貴族の諸権利,とりわけ国王の布告に抵抗する権利を承認した.
***
ハンガリー王ベーラ3世とアグネスの次子として誕生.
1188年,家臣によって国を追放されたガリツィア公国公子ウラジーミルが援助を求め,ハンガリーに逃れてきたが,ベーラ3世は彼を拘束し,ガリツィアを占領.
幼少のアンドラーシュをガリツィア総督とした.
これは名目上のものでしかなく,アンドラーシュがガリツィア入りすることもなかった.
その後,ガリツィアの大貴族達が対ハンガリー反乱を起こした時,1189年にハンガリー軍は一旦勝利したが,公子ウラジーミルはハンガリーから脱出.
ガリツィアからハンガリー軍は駆逐されることになる.
1196年4月23日,ベーラ3世が没すると,王位はアンドラーシュの兄イムレが継承(在位1196-1204).
アンドラーシュは,父が十字軍出征用にと蓄えていた軍費を相続した.
だが彼はこの資金を,王位を奪うために使用.
彼はオーストリア公レオポルト6世に支援を求め,1197年,独立した公国の相続を要求して反乱を起こす.
同年12月,アンドラーシュとレオポルド6世の連合軍はマツェク Macsek (スラヴォニアのMački)近郊でイムレ軍に敗北するが,1198年初頭には,イムレはアンドラーシュにクロアチアとダルマチアを公国として授与することを余儀なくされ,アンドラーシュはクロアチアとダルマチアとを支配する.
1198年初頭,ローマ教皇インノケンティウス3世は,アンドラーシュに十字軍参加を促した.
だがアンドラーシュは十字軍に参加せず,近隣の地域に派兵してザクルミアを占領.
また彼は,イムレと対立する高位の聖職者と結託して陰謀を企てるが,1199年3月10日,イムレはアンドラーシュの有力な支持者であったヴァーチ司教ボレスローから,自分に対する陰謀への参加を証明する文書を押収し,計画は直前に露見.
ボレスローは逮捕され,他の支持者も特権を剥奪される.
1199年夏,アンドラーシュはバラトン湖付近,ラード Rádの戦いでイムレに敗れ,アンドラーシュはオーストリアに亡命.
しかし教皇インノケンティウス3世は特使グレゴリーを,イムレとアンドラーシュの戦争を仲裁するためにハンガリーへ派遣.
その仲裁によってアンドラーシュとイムレは和睦.
1200年夏にイムレは取り決めに従ってアンドラーシュのクロアチア,ダルマチアの領有を承認した.
同年頃,アンドラーシュはメラーノの公女ゲルトルードと結婚している.
1203年秋,アンドラーシュはイムレに対して再び反乱し,10月,両軍隊はドラーヴァ川近くのヴァラジュディンで対峙.
ここでイムレは武装を解いてアンドラーシュの陣営に向かい,
"Now I shall see who will dare to raise a hand to shed the blood of the royal lineage!"
と呼びかける.
アンドラーシュの軍の中にイムレに近づこうとする者はおらず,イムレは無血でアンドラーシュを逮捕した.
数ヶ月間アンドラーシュは監禁されていたが,1204年初め,支持者の手引きを受けて脱走する.
1204年8月26日,重病に罹ったイムレは4歳の息子ラースローに戴冠.
スプリトの大助祭トマスの記録によれば,
「ラースローが成年に達するまでの間,彼の後見人となり,ハンガリー王国全土の統治を委任する」
ことを条件に,イムレはアンドラーシュと和睦.
同年秋,イムレ崩御.
アンドラーシュは甥ラースローの摂政としてハンガリーを統治し,イムレがラースローに遺した財産を管理.
しかし,イムレの妻コンスタンサがラースローを連れてオーストリアに亡命したため,アンドラーシュはオーストリアとの戦争の準備を進める.
1205年5月7日,ラースローが亡くなり,5月29日,アンドラーシュはセーケシュフェヘールヴァールでカロチャ大司教ヨハンから戴冠される.
アンドラーシュはイムレ1世以前の王が実施していた国内政策の方針を転換し,修道院,教会,貴族に王領や城を分配.
土地を授与された貴族には子孫への土地相続が無条件に認められ,これによってハンガリーに大領主層が誕生することとなった.
だが村,領地,さらには州までも授与したため,国の収入が減少.
また,当時西ヨーロッパで起こっていた農業技術革新により,より良い条件を求めて農民はそちらへ逃亡し,ハンガリーの農業は衰退していた.
アンドラーシュは西ヨーロッパで同時に起こっていた貨幣経済の発達を見習って,貨幣の鋳造,鉱山の経営,課税によって収入を補おうと試み,そのための能才を召し抱える.
結果,王に忠実な従者と貴族が新たな社会階層を形成し,旧来の大貴族や聖職者と争うようになる.
戴冠した1205年,アンドラーシュ2世はガリツィアの幼い公子ダニーロを即位させるため派兵.
ガリツィアの一部を占領し,「ガリツィアとロドメリアの王」を称する.
だがその後,ダニーロと対立する公子ウラジーミルはアンドラーシュに賄賂を贈り,そのためアンドラーシュは,1206年初頭にダニーロがガリツィアから追放されても,彼を支援することを拒否した.
だが同1206年,アンドラーシュは今度は,ウラジーミルと対立する公子ロマンを支援.
1208年,アンドラーシュはロマンとガリツィアの貴族の間に起きた争いに乗じてガリツィアを占領し,自身の名のもとにガリツィアを統治するように摂政に命じる.
しかし翌1209年,ウラジーミルによってガリツィアを奪回されてしまう.
1211年,アンドラーシュはガリツィアを再占領するためにダニーロを支援し,1212年,ダニーロと敵対する公子ムスチスラフを攻撃.
だが,間も無くダニーロはガリツィアから放逐され,再びハンガリー宮廷に支援を求めた.
一方,アンドラーシュの遠征中,留守を守る王妃ゲルトルードは,彼女が連れてきた親族とドイツ系の廷臣を優遇.
また,アンドラーシュはハンガリーの南東部に居住するクマン人の襲撃に備え,1211年にドイツ騎士団にトランシルヴァニアのプルツェンラントを所領として与える.
騎士団は植民活動とクマン人との戦闘に従事したが,ハンガリーの意図から外れて独立した領邦国家を形成し始めていた.
ハンガリー土着の貴族はこれに不満を抱くようになる.
そうした土着貴族の一派が,ニカイア帝国の宮廷に移っていたアンドラーシュの従兄弟を新たな王に擁立する計画を立てたが,彼らが送った密使はアンドラーシュに逮捕され,計画は阻止さる.
だが1213年,アンドラーシュがハンガリーを留守にしている間,バーンク・バーンをはじめとするハンガリー貴族がピリスの森にて王妃ゲルトルード暗殺に成功する.
その知らせにより,アンドラーシュはガリツィアへの軍事介入を中断して,本国に戻らざるを得なくなり,ダニーロの要請には応じられなかった.
アンドラーシュは反乱の首謀者のみを処刑.
1214年,アンドラーシュはベーラをハンガリーの若王として戴冠させる.
ハンガリーの若王に戴冠されたベーラは,教皇ホノリウス3世の認可の元で,アンドラーシュが支持者に与えた王領の回収にとりかかろうとした.
しかしアンドラーシュはベーラの方針に反対し,1226年にはベーラをトランシルヴァニアに移し,カールマーンにベーラの旧領を与えた.
アンドラーシュは再びガリツィアに関心を寄せる.
1214年夏,アンドラーシュはポーランド大公レシェク1世と会見し,両国間でのガリツィアの分割についての条約を締結.
ハンガリー・ポーランド連合軍はガリツィアの一部を占領し,占領地はアンドラーシュの末子カールマーンに与えられた.
しかしアンドラーシュは,レシェクがガリツィア公子ムスチスラフと同盟していたため,ポーランドへの領地割譲を拒否.
これに対してレシェクとムスチスラフの連合軍は,ハンガリー軍をガリツィアから駆逐.
結局,アンドラーシュはポーランドと同盟を結び直し,カールマーン王子をガリツィアの公とすることを認めさせた.
ガリツィアへの干渉と並行してアンドラーシュは1214年,ハンガリー南部,ブルガリア領のベオグラードとブラニチェヴォを占領.
そしてローマ教皇の仲介で同年アンドラーシュはブルガリアと和睦し,後年のヴィディンでのブルガリア皇帝ボリルに対する反乱では,その鎮圧を支援した.
1215年2月,ラテン帝国皇帝アンリ・ド・エノーの姪ヨランドと結婚.
翌1216年にアンリが没したため,アンドラーシュはラテン帝国の帝位に就こうと企み,教皇の歓心を得るために十字軍への参加を決意.
ハンガリーの兵士をパレスチナに送るため,ヴェネツィア共和国と協定を交わし,ハンガリーが領有するザラの支配権の譲渡と引き換えに港湾の利用権取得.
1217年8月23日,アンドラーシュが率いるハンガリー軍はスプリトで中東行きの船に乗り込み,10月9日にキプロス島上陸.
さらにアッコンに向かって出航し,11月10日,ヨルダン川沿岸のベツサイダにて,エジプトのアイユーブ朝のスルターン・アル=アーディルの軍に対して勝利.
アイユーブ軍は城砦と町に退却した.
だが投石器と弩がアンドラーシュの元に期日通りに届かず,ハンガリー軍はアイユーブ軍が立て籠もるレバノンとタボル山を攻めあぐね,1218年1月に帰国.
帰国途上でアルメニア王レヴォン2世,ニカイア皇帝テオドロス1世,ブルガリア皇帝イヴァン・アセン2世と交渉し,婚姻を取り決めた.
ニカイア滞在中,アンドラーシュはニカイアの宮廷に移っていた従兄弟に命を狙われるが,暗殺は未然に防がれた.
帰国したものの,教皇ホノリウス3世はアンドラーシュの働きに満足せず,アンドラーシュではなくヨランドの父であるピエール2世・ド・クルトネーをラテン皇帝に擁立.
そればかりか,ハンガリー国内では,摂政として国政を監督していたエステルゴム大司教ヤーノシュがハンガリーから離れており,戦費によって国庫は枯渇.
十字軍遠征はアンドラーシュにとって失敗に終わった.
アンドラーシュは財政改革を実施し,悪貨を鋳造.
また,収入を増やすために臨時の税を制定.
金の支払いと引き換えにユダヤ人とイスラム教徒に貨幣の鋳造・税の徴収・鉱山の経営を認めたが,中小貴族と一部の大貴族の不満が高まった.
アンドラーシュと敵対する貴族は,スラヴォニアの統治を命じられていた王子ベーラを擁立して反乱を起こす動きを見せた.
1219年8月,ガリツィアのカールマーンが,ノヴゴロド公となったガリツィアのムスチスラフによって領地から追放される.
アンドラーシュはやむなくノヴゴロドと和解し,ムスチスラフの娘を末子アンドラーシュの妻に迎え入れた.
1222年初頭,アンドラーシュに不満を抱く廷臣と貴族は大挙して宮廷に押し寄せ,アンドラーシュは彼らの求めに応じて金印勅書(アラニュ・ブラ)を発布.
この金印勅書によって廷臣と大貴族の権利が拡張され,教会の利益が制限された.
1224年にはトランシルヴァニア・ザクセン人に特権を保証する自治法(Diploma Andreanum)を施行.
同年,ドイツ騎士団長ヘルマン・フォン・ザルツァは教皇ホノリウス3世からプルツェンラントを教皇の直轄領とする許可を得た.
騎士団の自立はハンガリーにとって無視できないものとなり,アンドラーシュは騎士団から特権を剥奪してハンガリーからの撤退を迫った.
1225年にドイツ騎士団はプルツェンラントから撤退し,同年の冬にポーランドに移動した.
1226年中盤,アンドラーシュはガリツィアの君主に据えていた末子アンドラーシュの要請に応じて,軍隊を進める.
ハンガリー軍はムスチスラフに敗れるが,最終的にムスチスラフはガリツィアの支配権をハンガリーに譲渡.
1228年,アンドラーシュの2人の息子は王領の回復を試み,ゲルトルードの暗殺に参加した貴族から土地を没収するようアンドラーシュを説得した.
1229年に末子のアンドラーシュはダニーロによってガリツィアを追放.
1230年からオーストリア公フリードリヒ2世がハンガリー西部への攻撃を開始.
アンドラーシュが宮廷で多くのイスラム教徒とユダヤ人の金融業者を雇用していることに対し,教皇グレゴリウス9世は彼らの解雇をアンドラーシュに要求していたが,1231年,アンドラーシュは金印勅書の改訂を実施.
教会に不利な条文が削除され,エステルゴム大司教には協定を破った国王を破門する権限が付与された.
しかしアンドラーシュはなおも異教徒の金融業者の雇用を続け,教会の塩の専売権を制限したため,1232年初頭,エステルゴム大司教ロベルトによって破門さる.
アンドラーシュは教会の要求を受け入れなければならず,やむなくベレグ協定を締結した.
1234年5月,既にヨランドを亡くしていたアンドラーシュは,イタリアのエステ家から30歳年下の未亡人ベアトリーチェを妃に迎え入れた.
一目ぼれだったという.
しかしこの再婚は,彼と息子たちの関係を悪化させる.
1234年夏,ベレグ協定を遵守しないアンドラーシュは,ボスニア司教ヨハンから破門を宣告され,アンドラーシュは破門が越権行為にあたると教皇に訴えた.
同年秋,アンドラーシュ王子の居城がダニーロに包囲され,アンドラーシュ王子は包囲中に陣没.
これにより,ガリツィアにおけるハンガリーの支配権は失われた.
1235年初頭,アンドラーシュはオーストリアへの攻撃を計画するが,やむなくフリードリヒ2世と和約を結んだ.
アンドラーシュは死の直前に教皇から破門を解除され,さらにハンガリー王とその一族には教皇の許可なくして破門を宣告できないと約束された.
1235年4月23日,崩御.
再び未亡人となったベアトリーチェはドイツに逃げ,その地でシュテフェンを出産したという.
アンドラーシュ2世の遺骸は当初ピリシュの大修道院の聖ラースローの隣に埋葬されたが,修道院長の抗議に遭い,エゲルの修道院に移葬された.
その墓は1241年,蒙古軍によって略奪破壊され,今は無い.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://kotobank.jp/word/アンドラーシュ2世
http://www.rubicon.hu/magyar/oldalak/1205_majus_29_ii_andras_magyar_kiraly_koronazasa/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A52%E4%B8%96
https://hu.wikipedia.org/wiki/II._Andr%C3%A1s_magyar_kir%C3%A1ly
https://en.wikipedia.org/wiki/Andrew_II_of_Hungary
https://de.wikipedia.org/wiki/Andreas_II._(Ungarn)
https://www.magyarhirlap.hu/tudomany/20200807-ii-andras-kiraly-kesei-hazassaga
http://magyartortenelem.lapunk.hu/?modul=oldal&tartalom=1194324
https://archeologia.hu/ii-andras-a-perelt-kiralysir
https://www.youtube.com/watch?v=etlAiM6jky4
mixi,2021.1.2
【質問】
ハンガリーがビザンチン帝国の支配下にあったことがあるってホントですか?
【回答】
支配下まで行ったことはないのではないでしょうか?
アールパード朝のベーラ3世(1148頃~1196)はビザンツ皇帝マヌエル1世の養子になってたことがありました.
これはビザンツの敵対者であったハンガリー王ゲーザ2世の死後,王位継承をめぐる争いに介入し,ゲーザ2世の息子のイシュトヴァーン3世に対して,対立王として王を名乗るゲーザ2世の兄弟,ラースロー2世,彼が死んだ後はイシュトヴァーン4世を支援します.
この企ては成功せず,イシュトヴァーン4世は国を追われてしまいますが,マヌエル1世はイシュトヴァーン3世と条約を結び,イシュトヴァーン3世の弟で王位継承権者ベーラ3世が人質としてコンスタンチノープルへ送られました.
マヌエルははベーラを娘と結婚させ後継ぎにして,ハンガリー王国も版図に加えることを意図したのだと思いますが,皇帝に実子が出来たことによりこの企ては放棄され,ベーラ3世はイシュトヴァーン3世の死去に伴い帰国,ハンガリー王となりました.
ちなみにベーラ3世はマヌエル1世の義理の姉妹であるアンチオキアのアンアと結婚してます.
ベーラ3世はマニュエル1世の在世中はビザンツに敵対しませんでしたが,その死後はビザンツ軍とクロアチアやダルマチアで交戦しています.
ギシュクラ・ヤーノシュ : 世界史板,2003/05/21
青文字:加筆改修部分
【質問】
トルディ・ミクローシュって誰?
【回答】
トルディ・ミクローシュ Toldi Miklós は,半ば伝説上の存在である騎士.
カーロイI世(1288~1342)やラヨシュI世(1326~1382)の時代の人物で,1354年にポズナニ地方においてalispán (副知事)やvárnagy(城守)※を務めていたことと,1383~1385年に
サボルツ Szabolcs 地方にてfőispán(主席知事)を務めていたことが,記録に残っている.
また,ラヨシュ1世のナポリ遠征(1347~1352)において傭兵隊長を務めた.
1359年,フィレンツェにおいて王の命により,子ライオン2頭を献上した.
1390.11.22,死去.
一方,民間伝承によれば,ミクローシュは型破りな力持ち.
父を亡くし,年老いた母と二人,大平原の農村で農民としてつつましい生活を送っていた.
一方,兄トルディ・ジョルジは狡猾さと貪欲さで出世し,ラヨシュ王のもとで上流騎士として奉仕している.
その兄が下僕たちを率い,久しぶりに王宮勤めから帰省したときのこと.
彼は弟を侮辱する.
ミクローシュはその怪力で粉ひき石を投げ,兄の下僕の一人に直撃する.
この事件により彼は,村から逃亡を余儀なくされる.
(兄の下僕を殺して村から追われた,というのは史実であるらしい)
逃亡中は森の中の野鳥の巣を荒らしてその卵を飲んで空腹を癒し,狼に襲われると素手で闘い,殺す.
そしてそれを村へ持ち戻り,兄の寝室の前に置いたという.
やがてミクローシュはブダの町に辿り着く.
彼は町中で暴れていた獰猛な雄牛を両手で難なく押さえ込み,その勇敢ぶりに町中の人々は喝采を送る.
その頃,ブダの町には,次から次へとハンガリーの勇者に決闘をつきつける,とあるチェコ人がいた.
2人の立派な息子をこの者に殺されたという老婆の涙に,トルディは故郷に残る母の悲しみにくれる姿を重ね,このチェコ人を倒すことを老婆に誓う.
ドナウ河の中洲で行なわれた決闘で,トルディは圧勝.
彼は命乞いをする敵を許してやろうとするが,敵は不意打ちを試みたため,ミクローシュは彼の首を斬りおとす.
ミクローシュの活躍ぶりを遠目で見ていた王は,彼を呼び寄せ,領地と最高の騎士の称号を与える.
一方,兄ジョルジはそのずるさを暴かれ,王の前で屈辱を受けることとなった…
【参考ページ】
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/5932/1/riwl_001_141.pdf
https://en.wikipedia.org/wiki/Mikl%C3%B3s_Toldi
https://hu.wikipedia.org/wiki/Toldi_Mikl%C3%B3s
http://www.mek.iif.hu/porta/szint/egyeb/lexikon/pallas/html/101/pc010132.html#3
【ぐんじさんぎょう】,2016/04/09 20:00
を加筆改修
※
várnagyをぐぐってみたら,いくつかめに出てきたのが,英ハンガリー語翻訳サイトらしい.
http://en.bab.la/dictionary/hungarian-english/várnagy
英語だとCastellan……つまりは,Castleを人化してるから,城主とか?太守とか?と思って,英語Wikipediaで引いてみたら,ほぼ正解かな.
https://en.wikipedia.org/wiki/Castellan
ソフトヒッター99 in mixi,2016年04月07日
恒文社のハンガリー史では「城守」という訳を当てています.
それによるとカーロイ1世(アンジュー家のカーロイ・ローベルト)が
「城の周辺に残っている王領地を組織して,県行政から独立させて城直轄とし,城守(ヴァールナジ)がこれを納めた.
城守の職務は本来の軍事的任務より経済的任務となっていった.」
とのことです.
ちなみにイシュパーンは県知事,alispán アルイシュパーンは副知事という訳を当てています.
一方,今岡先生のハンガリー語辞典ではfőispánは「主席知事」,alispánは「副知事」だそうです.
várnagyは城主,城代,要塞司令官という訳を当てておられます.
ハンガリーの官職の翻訳は扱っておられる方が少ないので,人によって訳語が違うことがあって戸惑います.
ギシュクラ in mixi,2016年04月07日~04月10日
青文字:加筆改修部分
【質問 kérdés】
アールパード朝の後からハプスブルク家による継承前までのハンガリー歴代国王を教えられたし.
【回答 válasz】
ソースによって若干の違いはあるが,おおむね以下の通り.
なお,食い違いのあるものについては,書籍に準拠.
在位期間 | 国王 | 備考 |
1301-1304 | Václav II ヴァーツラフ二世 | プシェミスル Přemysl 家出自 ベーラ4世の曾孫 |
1304-1308 | Ottó III オットー三世 | バイエルン=ヴィッテルスバッハ家出自 ベーラ4世の孫 |
1308-1342 | Károly Róbert I カーロイ・ローベルト一世 | ハンガリー=アンジュー朝 |
1342-1382 | I. Lajos (Nagy Lajos) ラヨシュ一世(ラヨシュ大王) | |
1382-1385 | Mária マーリア女王 | |
1386 | II. Károly (Kis Károly) カーロイ二世(小カーロイ) | |
1387-1437 | Zsigmond ジグモンド | ルクセンブルク家出自 フス戦争の一方の主役である神聖ローマ皇帝ジギスムント |
1437-1439 | Albert アルベルト | ハプスブルク家出自 |
1440-1444 | I. Ulászló ウラースロー一世 | ヤギェウォ家出自 |
1445-1457 | V. László ラースロー五世 | ハプスブルク家出自 |
1458-1490 | I. Mátyás マーチャーシュ一世 | フニャディ家出自 |
1490-1516 | II. Ulászló ウラースロー二世 | ヤギェウォ家出自 |
1516-1526 | II. Lajos ラヨシュ二世 | ヤギェウォ家出自 |
1526-1540 | Szapolyai János サポヤイ=ヤーノシュ | サポヤイ家出自 フェルディナント一世~マクシミリアン二世時代の対立王 |
1540-1570 | Szapolyai János Zsigmond サポヤイ=ヤーノシュ=ジグモンド |
【参考ページ】
矢田俊隆編『東欧史』(山川出版社,1977)
http://www.behindthename.com/namesakes/list/hungarian-rulers/alpha
http://self.gutenberg.org/articles/eng/List_of_rulers_of_Hungary
mixi, 2017.2.27
【質問】
ハンガリー・アンジュー朝って何?
3行で教えて!
Mi Anjou-kor?
Kérem, mondja meg a három sorban.
【回答】
ハンガリー・アンジュー朝は1308年~1395年まで続いたハンガリーの王朝で,フランスに起源を持つナポリ・アンジュー家のハンガリーにおける分家.
Anjou-kor 1301 és 1386 közötti korszak neve Magyarországon, amely a francia eredetű nápolyi Anjou-dinasztia magyar ágából származó.
ラヨシュ一世がザーラ条約(1358年)でアドリア海の覇権を確かなものにするなど,アンジュー朝時代にハンガリーは黄金時代を迎えたが,次第にラツクフィ家,ガライ家,ホルヴァート家といった大貴族(マグナート)が力を増し,王権は衰退した.
ラヨシュ一世死去(1382年)後,長女マーリアの王位継承を巡って争いが起き,最終的にはマーリアの許婚であるルクセンブルク家のジグモンド(後の神聖ローマ皇帝)と共同でハンガリーを治めることになったが,ニコポリスの戦い(1396年)においてオスマン帝国軍に惨敗し,ハンガリー・アンジュー朝は断絶して,王権は摂政フニャディ=ヤーノシュの息子,マーチャーシュのものとなった.
アンジュー家はマリア女王が亡くなった段階で断絶して,夫だったジギスムントがハンガリー王になった.
【参考ページ】
http://graywolf.la.coocan.jp/Retu/States/state506.htm
http://cerp.edu.mie-u.ac.jp/icerpold/tokuron/tokuron15kansei/C4/rekishi.html
http://antiquesanastasia.com/religion/references/devotional_items/crosses_and_crucifixes/croix_patriarcale/general_info.html
https://reichsarchiv.jp/家系リスト/アンジューシチリア家(ハンガリー系)
ハンガリー・アンジュー朝系図
(山川出版社『東欧史』を参考にして作成)
【ぐんじさんぎょう】,2016/09/30 20:00
を加筆改修
ハンガリーのアンジュー家はマリア女王が亡くなった段階で断絶して,夫だったジギスムントがハンガリー王になっています.
ニコポリスの十字軍は惨敗してますが,ジギスムントは生還して,長生きしています.
彼の後が娘婿のアルベルトですが,即位からほどなく病没(陣中で疫病に罹患).
その後,ポーランドのヤゲヴォ家のウラースロー1世(ヴワディスワフ・ヴァルネンチク)とアルベルト王の子供のラディスラウス・ポストゥムスの王位継承争いがあって,ウラースローが王位につきましたが,ヴァルナの十字軍で戦死しました.
その後がラディスラウス・ポストゥムスで,ベオグラードの戦いの直後に,フニャディ・ヤーノシュが病死した後,フニャディ家の勢力を削ごうとして失敗,フニャディ一派の武装蜂起にあって,プラハに逃れ,そこで結婚式の準備中に急死しました.
当時は毒殺と言われていましたが,近年の遺骸の調査で急性白血病だったことが判明しています.
武装蜂起したフニャディ一派が王位につけたのがフニャディ・ヤーノシュの次男マーチャーシュです.
ギシュクラ in mixi,2016年09月30日 00:59
ご指摘ありがとうございます.
訂正させていただきました.
編者,2016.10.5
【質問 kérdés】
カーロイ・ローベルトについて手短に教えてください.
Kérem, röviden mondja meg Károly Róbertről .
【回答 válasz】
カーロイ・ローベルトはカーロイ1世ともいい,ハンガリー=アンジュー朝の初代国王.
1288年,アンジュー=シチリア家に生まれる.
父はナポリ王子カルロ・マルテッロ.
彼はアールパード朝のハンガリー王イシュトヴァーン5世の娘マーリアの子であるため,マーリアの弟ラースロー4世が1290年に暗殺された際には,自身の王位継承を主張してアンドラーシュ3世の即位を認めず,教皇ニコラウス4世の承認も受けてハンガリー王を自称していた.
カーロイ・ローベルトはクロアチア王に選出され,1300年にザグレブで戴冠.
1301年,上述のハンガリー王アンドラーシュ3世が死去すると,カーロイ・ローベルトはハンガリー王即位を宣言.
しかし同年,ボヘミア王兼ポーランド王ヴァーツラフ2世に敗れ,ハンガリー王位はヴァーツラフ2世の息子ヴァーツラフ3世の手に.
1305年,ヴァーツラフ3世は父王の死によりボヘミアとポーランドの王位を継ぐ代わり,ハンガリー王位を放棄.
その王位はヴィッテルスバッハ家の下バイエルン公オットー3世が継ぐが,カーロイ・ローベルトは1310年,王冠を奪ってハンガリー王に戴冠.
1312年6月15日,ロザノヴツの戦いに勝利し,ハンガリー全土を平定した.
彼は家臣に対する褒賞制度を導入.
また,通貨制度と財政制度の改革を行い,商業を盛んにして国庫を潤した.
さらに,貿易を奨励し,それによって得られた税を軍事費に充てて領土を広げ,ハンガリーをヨーロッパの大国に押し上げた.
宗教政策においては,アールパード朝時代にハンガリーの植民地となっていたブルガリア,セルビア,ボスニア北部に対し,カーロイ・ローベルトは改宗を強要したが,これらの地域は主に正教だったため,同地域の人々は反発.
1330年,ポサダの戦いでカーロイ・ローベルトはワラキアのバサラブの軍に敗退.
カーロイ・ローベルトは騎士の1人と服を交換して辛うじて逃げ延びることができたが,ワラキアの独立を認めざるを得なくなった.
1335年,彼はポーランド王カジミェシュ3世ヴィエルキと同盟を結び,1337年,同盟軍はオーストリア公アルブレヒト2世を破った.
1339年,カジミェシュ3世に世継ぎがなかったことから,カーロイ・ローベルトの長男ラヨシュがポーランドの王位を継ぐことが決まった.
その後,ラヨシュの弟アンドラーシュがナポリ王ロベルトの孫ジョヴァンナと結婚し,ナポリ王位に就くことになったが,カーロイ・ローベルト死後にこの取り決めは無視され,1343年にジョヴァンナが単独で女王に即位している.
1342年7月16日,死去.
遺体はセーケシュフェヘールヴァールのアールパード家の墓地に葬られた.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://cultura.hu/aktualis/i-karoly-a-magyar-anjou-haz-alapitoja/
1枚目:ケーペシュ年代記におけるカーロイ・ローベルトの肖像画
(図No. faq210919kr,こちらより引用)
2枚目:トゥローツィ・ヤーノシュ Thuróczi Jánosの執筆する年代記におけるカーロイ・ローベルトの肖像画
(図No. faq210919kr2,こちらより引用)
3枚目:200フォリント紙幣に印刷されたカーロイ・ローベルトの肖像画
(図No. faq210919kr3,こちらより引用)
mixi, 2021.9.19
【質問 kérdés】
大ラヨシュって誰?
Mi az Nagy Lajos király?
【回答 válasz】
ハンガリー=アンジュー朝初代であるカーロイ1世の息子,ラヨシュ一世(1326年3月5日~1382年9月10日)のこと.
1326.3.5,ヴィシェグラード生まれ.
4歳の時に2人の兄が早世し,第一王子となる.
法学,政治学,数学,修辞学,弁証法,天文学,音楽を学び,ハンガリー語以外に当時の外交言語, フランス語, ラテン語 , イタリア語 , ドイツ語を修得した.
さらに彼は「騎士の7つのスキル」(乗馬, 水泳, 矢, フェンシング, 狩猟, ダーツまたはチェス, 詩)について教育も受けた.
結果,彼は長じても騎士道精神の実践者であり続けた.
1342.7.21,父親の後を継いで即位.
勢力拡大のために積極的な対外政策を行なった.
1345年,タタール人によって破壊されたトランシルヴァニアへラクフィ・エンドレ Lackfi Endre 率いる軍を派兵.
同地方を支配する,ワラキアのアレクサンドル・ニコラエ(バサラブ一世の息子)は,1344年にはラヨシュへの臣従の意を表していたが,その後はハンガリーから独立するようになっていた.
2.2,ラクフィはタタール軍を撃破.
その後,ラヨシュはトランシルヴァニアに要塞群を建設すると共に,たびたびタタール追討を行ったため,タタールはトランシルヴァニアから離れた.
ナポリ王国の王位を狙い,同族の女王ジョヴァンナ1世と敵対.
弟で女王の最初の夫であったアンドラーシュが暗殺された後,その継承のため外交攻勢をかけたが上手くいかず,1347.1.24,軍勢1万を率いてナポリ入城.
しかし,ペストがイタリア全土で猛威をふるったため,翌年5月にはラヨシュ一世はハンガリーに帰国.
その後数ヶ月でハンガリーによるナポリ支配は瓦解した.
ラヨシュ一世はラクフィ・イシュトヴァーン Lackfi István をナポリに派遣.
ラクフィは殆どの戦いで優勢だったが,教皇とナポリ市はナポリ周辺の兵を買収して降伏させ,ラクフィは帰国を余儀なくされた.
1~2枚目:1347~48年のハンガリー軍のナポリ戦役
(図No. faq200229np1~2,こちらより引用)
3枚目:ラヨシュ一世
(図No. faq200229lj,wikipediaより引用)
4枚目:侵攻経路
(図No. faq200229np3,こちらより引用)
ラヨシュは1350年,ナポリに上陸.
ジョヴァンナは逃亡してナポリをラヨシュは占領したが,市民蜂起に遭い,また,戦費も底を尽いたために停戦して撤退.
1351年,タラント公ルイージは停戦を破棄してナポリを奪回.
これに対してラクフィ・エンドレ Lackfi Endre が反撃.
1352年に停戦となり,ルイージとジョヴァンナがナポリの支配者となった.
約30年のインターバルの後,1381年にラヨシュはナポリに侵攻.
同族のカルロ3世を王位につけ,1382年,彼にジョヴァンナ1世を殺害させた.
一方,ダルマチア沿岸地方の支配を巡ってはヴェネチアと対立.
1345年,ラヨシュは2万を超える軍勢を率い,クロアチアへ進軍.
クロアチアの地方領主たちからの歓迎を受けた.
だが,ラヨシュが帰国するとすぐにヴェネチア海軍がザーラ港に現れ,城壁の撤去を要求.
ラヨシュは1万の兵を派兵したが,彼らは買収されて降伏.
そのため1346年にラヨシュ自ら軍を率いてザーラに進軍し,ヴェネチア軍を包囲.
ヴェネチア軍は艦隊によって救出され,ナポリとの問題を抱えるラヨシュは一時停戦.
1353年,ラヨシュはジェノヴァと同盟を結び,1357年にヴェネチア軍を攻撃.
1358年,クヴァルネルの和約により,ヴェネチアは商権のみ残してダルマチア地方を放棄した.
しかし1372年にハンガリー=ジェノヴァ同盟とヴェネチアは再び対立.
1378~81年,武力衝突が発生したが,ジェノヴァ艦隊はヴェネチア艦隊に大敗.
1381年,トリノの和約により,ダルマチアの支配は事実上ヴェネチアの手に戻った.
このヴェネツィアとダルマツィアを巡る戦争は,アドリア海経由の物流を滞らせたため,トランシルヴァニアやワラキア経由の物流が発展.
ワラキアやトランシルヴァニアの発展を促す結果を招いた.
なお,1353年,ラヨシュ一世はエリザベタ・コトロマニッチ Elizabeta Kotromanić(1340~1387)と結婚.
エリザベタの父親はボスニア太守スティエパン2世(1312年~1353年)である.
ダルマチア情勢に加え,ローマ教皇が異端と見なしたボグミル派がバルカン半島に拡散するのを阻止するための結婚だった.
1365年にブルガリアが宗教上分裂すると,ラヨシュはブルガリア北部に侵入し,数週間占領.
ボグミル派禁教令を出した.
教皇オルバン5世もこの成功を喜び,ラヨシュのこの戦役を「半信者と異端」に対する聖戦と見なした.
だがその後,1369年にハンガリー軍がブルガリアから撤退すると,ローマ・カトリックの宣教師は地元民に虐殺されることになる.
ただしブルガリアの皇帝イヴァン・スラシミールは1388年まで捕虜にされ,ハンガリーの王冠に忠誠であり続けた.
ところでその頃,既にオスマン帝国の脅威はバルカン半島に迫っていた.
ラヨシュとオスマン軍との最初の武力衝突が,いつ,どのようなものだったかは正確には分かっていない.
おそらくその最初は1365年に,ニカポリス近郊,ボドーニで行われたようだ.
この戦いは,トルコの年代記ではオスマン帝国の勝利,ヨーロッパ側の資料ではハンガリーの勝利としている.
ラヨシュは勝利を記念してマリアツェルに教会を建てたという.
1366年に東ローマ皇帝ヨハネス五世は,反オスマン同盟にラヨシュも参加させるべく,ブダでラヨシュと会見したが,不調に終わる.
1367年,ラヨシュはブルガリアでもう一つの戦役を行い,おそらくはオスマン軍と交戦している.
1374~75年にはワラキアにてオスマン帝国との交戦を余儀なくされるが,ルーマニア人の裏切りにより,決定的勝利をおさめることはできず.
最終的にはラヨシュはオスマンとの間に従属的同盟関係を結ぶことになる.
ブルガリアは徐々にオスマン帝国に侵食され,14世紀末までにはブルガリアは征服される.
1370年,ポーランド王カジミェシュ3世が嗣子無くして死去すると,母エルジェーベトがその姉に当たるという縁故からポーランド王位も継承.
内政では,ラヨシュは基本的に地方領主たちとの合議制をとった.
また,ペストとタタール侵入によって労働力の価値が高まると,相対的に貴族の経済力が弱まったため,貴族救済策としてラヨシュは「十分の九」税を農奴に課した.
1351年の国法では,ハンガリーとクロアチアとスラヴの貴族の平等を宣言した.
1374年には王室評議会において初めての首相が,秘密裏に任命された.
また,増え続ける苦情を処理し,訴訟を整理するために,いわゆる「ベンチマーク szortírozás 」官を設置した.
1382年崩御.
ポーランドの王位はラヨシュ一世とエリザベタ・コトロマニッチとの間に生まれた末娘ヘドヴィグ(ヤドヴィカ)が継承.
ハンガリーの王位は,次女,マーリアが11歳足らずで即位.
母親エリザベタが摂政となったが,実権は宮宰として権力を振るってきたミクローシュ・ガライが握った.
このマーリアの夫が,神聖ローマ皇帝ジギスムントである.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://hu.wikipedia.org/wiki/I._Lajos_magyar_király
https://montazsmagazin.hu/nagy-lajos-1326-1382-az-egyik-legnagyobb-magyar-kiralyunk/
https://ezenanapon.hu/07/16/tronra-lepett-i-nagy-lajos-magyar-kiraly-egyidejuleg-lengyelorszag-kiralya-az-elso-europai-uralkodo-akinek-serege-nagy-gyozelmet-aratott-a-torokok-fel/91655
mixi, 2020.3.14
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