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◆おフランスざんす
欧州FAQ目次


(朝目新聞より引用)


 【link】

AFP通信(英語版)

「DBE 三二型」◆2008年9月フランス旅行記 目次

Le Monde diplomatique(英語版)

media@franciophonie(フランス語圏記事翻訳ブログ,休止?)

「VOR」◆(2012/03/12) フランスで反原発を訴える人間の鎖

「VOR」◆(2013/07/02) フランス最古の原発 ポンプ故障で停止

「VOR」◆(2013/08/09) フランスの原発で火災

「VOR」◆(2013/12/22) 日本 フランスとの軍事技術協力強化へ

朝目新聞」●フランスに一年いたけど質問ある?  (of 働くモノニュース)

「時事」◆(2012/11/29) フランスで余剰電力を水素として貯蔵=仏マクフィー〔BW〕

「地政学を英国で学んだ」◆(2013/07/16) フランスは「軍国主義」の国である

「日刊 アジアのエネルギー最前線」(2013/12/07)◆ China and France to sell nuclear energy | South China Morning Post
中国とフランス,原発売り込みで,協力へ

「日刊 アジアのエネルギー最前線」(2013/12/07)◆ Senior Chinese official vows to enhance nuclear cooperation with ...| Global Times
中国は,フランスと原発協力

「日刊 アジアのエネルギー最前線」(2013/12/09)◆ China and France to jointly target nuclear power markets | WantChinaTimes
中国とフランス,原発売り込みで,協力へ

「日刊 アジアのエネルギー最前線」(2013/10/13)◆ Deal on new nuclear near, says Davey | Telegraph
英国の原子力発電所,フランスと中国企業の参入が間近

「日刊 アジアのエネルギー最前線」(2013/10/13)◆ シェールガスの水圧破砕法禁止は合憲=フランス憲法裁|WSJ

「日刊 アジアのエネルギー最前線」(2013/10/22)◆ UK signs nuclear power deal with China, France | Al Jazeera
中国がフランスとともに,英国原発に資本参入,英国署名

「日刊 アジアのエネルギー最前線」(2013/10/22)◆ UPDATE 1-英が仏電力公社と原発建設契約を締結,最低電力価格を35 ...|Reuters

「日刊 アジアのエネルギー最前線」(2013/10/23)◆ China, France sign deal to construct nuclear powerreactors in UK | Press TV
中国の原発企業は,英国原発開発で,フランスと協力協定を締結

「日刊 アジアのエネルギー最前線」(2013/10/27)◆ French energy giant signs uranium deal with Mongolia | Bangkok Post
モンゴル,フランスのエネルギー企業と,ウラン鉱山で協定締結

「日刊 アジアのエネルギー最前線」(2014/01/03)◆ フランス:原子力技術でサウジ支援 トップセールス加速|毎日新聞

「ニューズウィーク日本版」◆(2011/12/06)まんまと「侵入」を許したフランス原発のお粗末

「暇人\(^o^)/速報」◆(2013/09/13) 【画像あり】フランスで売られている 「日本昔ばなし絵本」 をご覧ください

武術整体研究家・吉村英崇 in twitter ◆(2013/03/03)
 フランスでは柔道指導には国家資格が必要で380時間のカリキュラムで,生理学,精神医学,救急救命学が必要など医学的な知識が要求され,高等教育の後,2年間勉強して得られるレベル.
 合格率は60%余り,狭き門と聞きます.
 こりゃ,バカ田大学じゃムリですよね(笑)

フランス番長

『フランスの外交力:自主独立の伝統と戦略』を読み解く (2013/01/21)◆「国際インテリジェンス機密ファイル」

『フランスよ,どこへ行く』を読み解く (2013/01/22)◆「国際インテリジェンス機密ファイル」


 【質問】
 フランスがNATOの軍事機構には属していないというの,どういうことなんですか?
 NATOってのは軍事同盟なんですよね?
 それなのに軍事機構ではなく政治機構のみに属しているという意味がよく分かりません.

 【回答】
 「北大西洋条約機構」という国際組織には「加盟」はしているものの,この「北大西洋条約機構」加盟国の軍隊で編制する常設部隊には参加していない,といえばお分かり頂けますでしょうか.

 NATOってのは単なる軍事同盟(協同関係)ではなく,統一された軍事機構.
 加盟国が侵攻を受け,北大西洋条約機構としての軍事作戦が発動されれば,加盟国の軍はそれぞれの国の統制下ではなく,条約機構の統制下に入る.
 国連軍の名の下に指揮権を米軍に握られた韓国軍みたいな地位になっちゃうわけだ.
 で,フランスはそれを嫌がった.

 ちなみに,仏の軍事機構脱退のきっかけは,柔軟反応戦略の採用にドゴールが強く反対したから.
 でもって,
「自分の国は自分で守るんじゃ〜! 指揮権返せ!」
つって脱退.

軍事板


 【質問】
 DGAとは?

 【回答】
 フランス国防省の内局で,装備生産・調達を担当.
 以下引用.

 フランス海軍では空母も潜水艦も,駆逐艦やフリゲイトの殆ども,DCN(Direction des Constructions Navales)の国立造船所(海軍工廠)で建造されている.
 DCNの上部機関,DGA(Délégation Générale pour l'Armement)は,装備庁とでも訳すべきフランス国防省の内局である.
 DGAは,その下に幾つものdirectrate(部あるいは局)を抱えていて,DCNは海軍艦艇建造を担当する部局というわけだ.
 だからDGAはもちろん,DCNもお役所以外の何物でもないのだが,官の割には融通が利き,商売熱心,海外への売りこみに熱意を燃やしているのがフランスらしいところだ.
 元々フランスでは大企業のかなりが国有(例えば自動車のルノー社とか航空機のエアロスパシアル社など)だったが,「国有なれど国営ならず」というのがフランス流で,国営企業の経営はかなり経営者の裁量に任されてきていた.
 その逆に,純然たる民間企業(例えば航空機のダッソー社とか)でも国策に協力的で,国家と企業(国有でも民営でも)が一体になって輸出を振興するのがフランスという国である.

「世界の艦船」2005年6月号,p.157(野木惠一著述)


 【質問】
 エコール・ポリテクニクとは?

 【回答】
 フランスのエリートには,前にも触れましたが,エコール・ポリテクニク卒業者が非常に多くいます.

 元々,この学校は,1794年3月11日にEcole central de travaux publicsとして設立され,9月28日に開校しました.
 そして,1795年9月18日にEcole polytechniqueと改称されました.
 この学校の設立の趣旨は,「数学,物理学的知識を必要とする技術者の養成」の為となっていましたが,実際には軍事的技術学校とも言うべきものでした.

 その設立に当って尽力したのは,まず,ラザール・カルノー革命公安員兼陸軍大臣.
 カルノーは微積分の基礎に関する研究,位置幾何学,機械力学の研究を行っていました.
 二人目はガスパール・モンジュ海軍大臣.
 モンジュは投影・透視画法など画法幾何学の創始者であり,微積分による曲面の研究でも名高く,大砲鋳造や火薬製造法も開発していました.
 最後がA.F.フルクロワで,鋼鉄製造法の開発に寄与した人です.

 この中でもモンジュは,この学校の設立を強く公安委員に勧めました.
 そして,モンジュとフルクロワが共同で学校の設立準備を行い,約400名の学生を集めて開校に漕ぎ着けています.
 モンジュがいた為,この学校の教科課程は解析学と画法幾何学に重きを置いたものとなり,更に今まで研究に専念して学生に教授したことの無かった,プロイセン及びパリ科学アカデミー会員のラグランジュを招聘し,初等数学から解析学までを教授させたり,他にも天体力学のラプラス,熱伝導の数学的法則を発見したフーリエなどが教授として生徒を教えていました.

 因みに,1796年2月時点の教授内容は以下のようなものです.

数学
 解析学
  解析学の理論
  解析学の応用
  空間幾何学への応用
  剛体及び流体力学
画法
 図画
 画法幾何学
  石工規矩法
  土木
  築城
物理学
化学

 更に,1799年11月にクーデターで政権を握ったナポレオンも,富国強兵の為にエコール・ポリテクニクの教育を充実する事に最大の関心を持っており,12月にその規則を下記のように改正しました.

――――――
 Ecole polytechniqueは数学,物理,化学及び図画の学術を普及し,特にEcole d'application des services publics(公務応用学校)への学生を養成することを目的とする.

 本校(二年制・基礎学科)に於ける課程
  数学
   力学に必要な解析学
   理論力学
   画法幾何学の理論及び作図
   土木,築城,鉱山,機械,造船への画法幾何学の応用
  物理,化学
   一般物理学
   初等化学
   鉱物及び工業化学
   化学操作実習
  図画
 公務応用学校(二年制)専門課程
  士官養成
   陸軍砲兵科
   海軍砲兵科
   工兵科
  技術者養成
   土木科
   造船航海科
   鉱山科
   地図科
――――――

 つまり,Ecole polytechniqueでは数学,力医学,物理,化学,画法幾何学などの基礎学科に関する充分な知識を身につけ,理論と応用,理論と実践の統一が図られ,基礎化学の立派な教育を受けた科学的な技術者養成に重きが置かれました.
 学生達は,それだけに厳しい教科指導を受けました.
 先ず,一流の数学者が理論の要旨を説き,次いで補助教師が丁寧な説明を加えて技術への応用上の問題を解説します.
 更に試験委員による厳密な試験が行われ,数学の基礎知識の習得が徹底して行われました.
 数学の教授時間は,第1学年では1回90分の授業が,解析学108回,幾何学の解析学への応用17回,力学94回,画法幾何学153回,図画175回行われ,補助教師による同じ回数の指導が行われました.
 教科指導で画法幾何学や図画が重要視されているのは,投影画法,透視画法により空間に於ける立体を平面図形で表わす実践的知識であるためです.

 これらEcole polytechniqueの入学資格は,革命の後という事もあり,入学資格は公平な入学試験により全ての青年に開かれました.
 こうして,フランス全土から優秀な人材が集まった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/29 23:01


 【質問】
 フランスのエンジニア・システムはどのようなものか?

 【回答】
 19世紀半ばまでは,エンジニアとは技術官僚を指していたが,フランス革命によって壊滅的打撃を受けたため,理工科学校を設置して,その卒業生でなければエンジニアにはなれないようになったという.
 以下,抜粋要約.

 19世紀半ばに至るまで,フランスでエンジニアと言えば,政府に帰属する技術官僚を指していた.※1
 ディドロとダランベールの「百科全書」によれば,これらのエンジニアは,軍隊と同じ方式で組織されていた点に特徴がある.

 しかし時代と共に,エンジニアの専門分野の社会的重要性は変化していった.
 「百科全書」が,エンジニアを陸軍・海軍・土木の3種類に分類し,軍事エンジニアに比重を置いていたのに対し,1820年の「体系的百科全書」になると,軍事エンジニアが一括され,土木エンジニアとの2分類だけになっている.19世紀には,工業化進展に伴い,それだけ土木エンジニアの任務が拡大していたのである.

 19世紀以降,軍事エンジニアの重要性が薄らいだもう一つの理由は,フランス革命時の苦い経験に求められる.
 それまで貴族の排他的な支配下にあったエンジニアという職業は,革命によって壊滅的打撃を受けることになった.
 さらに,軍事機密として一部の科学技術が秘密に保たれていたことは,革命後のフランスの国防と経済の両面に,知識欠如と言う困難をもたらした.
(ただし,革命後には例外も現れる.
 代表例として,海軍工兵士官〔原文ママ〕のデュピュイ=ド=ロームを挙げることができる.
 19世紀には造船技術に画期的変化が起こったが,革新はまず軍艦に採用され,木造船から蒸気機関,スクリュー,装甲甲板を装備する鋼鉄製軍艦へと転換していった.
 ド=ロームは,これら技術を商船にも応用することを,積極的に推進したことで知られている)

 このような状況を打開するため,1794年,フランス社会の発展に貢献しうる技術官僚を養成する目的で,理工科学校が設立されたのである.
 競争試験という,開かれた選抜制度と,能力主義を採用した理工科学校は,瞬く間にフランスのエンジニア・システムの強固な基盤となった.
 更に,土木学校などの応用学校が理工科学校出身者のみを採用するよう義務付けられた1804年以降,軍事と土木を問わず,あらゆる分野において,理工科学校を経由する以外,政府のエンジニアになる道はなくなったのである.

 ※1 栗田啓子 1992「エンジニア・エコノミスト――フランス公共経済学の成立」 東大出版会

(栗田啓子 from 「歴史のなかの開発」,岩波書店,1997/11/25, p.48-49)


 【質問】
 「ブルー・デビル」って何?

 【回答】
1) フランス陸軍アルペン猟兵の愛称Les diables bleusの英訳

 アルペン猟兵 Chasseurs Alpins は,フランス陸軍におけるエリート山岳兵部隊.
 1859年に編成されたイタリア軍山岳部隊の脅威に対抗するため,1888年,猟兵部隊のうちから選抜して編成された.
 1999年,第27山岳歩兵旅団(27e brigade d'infanterie de montagne)として編成され,現在は3個大隊で組織されている.
第7アルペン猟兵大隊(7e bataillon de chasseurs alpins; 7e BCA)
第13アルペン猟兵大隊(13e bataillon de chasseurs alpins; 13e BCA)
第27アルペン猟兵大隊(27e bataillon de chasseurs alpins; 27e BCA)

 【参考ページ】
http://fr.wikipedia.org/wiki/Chasseurs_alpins
http://en.wikipedia.org/wiki/Chasseurs_Alpins

(画像掲示板より引用)

2)アメコミのヒーロー

faq100827bd.jpg

3)デューク大学のスポーツチームのマスコット

faq100827bd3.jpg

バグってハニー in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2010年08月27日 03:16(黄文字部分)
【ぐんじさんぎょう】,2010/09/05 21:04(加筆修正済み)

 ちなみに,スキー競技のバイアスロンありますね.
 あれ,最初に公開競技として導入されたときには,「ミリタリー・パトロール」という身も蓋もない競技名でして.
 しかも,個人競技はなく,リレーのみでした.
 名実ともに,冬季の山岳部隊,スキー部隊そのまんまやんけだったわけです(笑)

 そして,第1回ミリタリー・パトロールの栄えある金メダリストは……
 イタリアでした.
 証拠となるリザルトは,ぐぐったり,うぃきったりすれば出てきますよ(笑)

ソフトヒッター99 in mixi,2010年08月28日 09:43


 【質問】
 フランス陸軍には消防工兵旅団という部隊があるらしいけど,どんなことする部隊なのでしょうか?

 【回答】
 ごめん,wikipediaソースなんだけど,良くまとまっていると思う.

パリ消防工兵旅団-Wikipedia

軍事板


 【質問】
 第三共和政フランスにおける排外主義は,どのように進行していったのか?

 【回答】
 さて,19世紀フランスに於て,今まで帰化すると言っても,兵役の義務が生じると言うデメリットはあるものの,メリットは全くと言ってありませんでした.
 しかし,第三共和政の社会法は,「国民」に寄り添う姿勢を露わにしていきます.
 初期の頃,例えば,1851年の救貧法は,出自に関わらず,貧者や病人を助けることを施療院に義務づけ,1850年の共済組合法も国籍によって労働者を区別しませんでしたが,19世紀末になると,フランス人と外国人との間に格差を設けるものが多くなります.

 1893年7月の困窮した病人への無償の医療支援法,1905年7月の資力の無い老人や障害者への扶助法も,給付対象がフランス人に限定されましたし,1894年3月の労働組合法も執行部役員を「フランス人」に限定し,1892年12月の労使調停法でも,外国人は調停委員や労働者代表になれませんでした.
 鉱山労働の安全に関する1890年7月8日法では,坑道や坑内の安全を管理する炭鉱労働者の代表を選ぶ権利も,代表に選ばれる権利も外国人には無く,退職金に関する1894年6月19日法では,フランス人と同様に天引きされるにも関わらず,炭鉱労働者救済企業委員会の選挙権や被選挙権が外国人にはありませんでした.
 1898年4月1日の共済組合法でも,外国人は管理部門から外され,1898年4月9日の労働災害に関する法律は,移民が労災に遭っても,家族がフランスに住んでいなければ,補償金の支払いを受ける事が出来ず…
しかし,実際には単身の出稼ぎ移民が多かったので,支払いが為されないに均しく…
若し家族がいて補償金を受け取ることが出来ても,働けなくなって帰国を望む移民には3年分の年金と引換えに補償金の支払いは停止されました.
 あるベルギー紙はこの法律について,
「フランス共和国は,嘗て国王が持っていた外国人遺産没収権を,再び立法化した」
と非難したりもしています.

 こうした路線の変更は,1873年以降の大不況により,失業したフランス人労働者が移民を敵視したことから発せられたものです.
 フランス人労働者は,移民労働者のことを嫌悪と軽蔑の入り交じった言葉である,「イナゴの大群」と呼んでいました.
 不況時には,この「イナゴの大群」から国民を保護せよと言う要求が,全面に出て来ました.

 とは言え,「失業者」と言う言葉自体,19世紀も後半になってから出現したものであり,フランス語としての初出も,1876年と比較的新しい概念でした.
 それまでは,「無職者」とか「溢れ者」と言った言葉で表されており,これが発生したのが,資本主義が軌道に乗り始めた近代の負の産物だった訳です.
 一方で,「失業者」となる過程は,労働者が恐慌や失業を生み出す資本主義のメカニズムを理解し,それに対抗するために,労働者としての階級意識を強化する方向に進みます.
 それは,階級としての「労働者」と言う意識を持っただけでなく,排外的な国民意識をも目覚めさせることになった訳です.

 労働市場に於ける外国人労働者との争いを通して,フランス人労働者は資本家に対する反発と同時に,外国人への反感を高めました.
 取分けその敵意は,身近な存在であり,かつ,自分たちの地位を悪化させる移民に向けられていきます.

 例えば,1886年にリヨンで開催された労働組合全国連盟の第1回大会に於て,漆喰左官工の代表がこう発言しています.

――――――
 同胞市民が失業中に,フランス人の名に値しない経営者が恥も外聞も無く外国人を雇っている.
 その間,我々は税金を支払い,子供達は祖国のために兵役という血税を支払い,我々は生活に困っていたのに,これら外国人は群れを成して最後の一切れのパンを我々から奪いに来たのだ!
――――――

 そこで,フランス人は外国人労働者の雇用制限を求め,1887年のボルドーではその請願書に7,000名の署名が集まりました.
 しかし資本家にとってみれば,労働力不足によるフランス人の完全雇用が賃金の高騰を招いており,人件費を削減するためにも.外国人労働者の雇用は魅力的に映っていました.

 南フランスの経営者は,イタリア人労働者が几帳面で勤勉で質素倹約に努め,「給与の大半を家族に仕送りしている」とか.「我が国民よりも素直だ」と評価しています.
 一方フランス人労働者から見れば,イタリア人労働者の資本家への従順さや.イタリア人同士で群れること,生活水準の低さ,直ぐに刃物で渡り合うという粗暴な風習,宗教臭さが鼻についていました.

 左派のゲード派が編集して,6万部発行していた社会主義者初の日刊紙である『人民の叫び』は,パリのイタリア人精糖工について,
「彼らは仲間内で生活し,地元住民と交わらず,まるで敵国に駐屯する兵士の様に,同室のものと一緒に食べて眠るという生活を送っている」
と不快感を隠さず,更に同紙は,イタリア人が1室に8〜15名が暮らし,しかも昼勤組と夜勤組の2グループで合計16〜30名が同居すると言う,
「不快だがかなり経済的な雑居の御陰で,イタリア人労働者は金を貯めることが出来るのだ」
と,その生活ぶりを描き,イタリア人労働者の信仰の篤さを,
「カトリシズムによって理性を曇らされた,哀れな愚か者」
と揶揄していました.

 社会主義者からしてこうした論調ですから,一般労働者の外国人労働者の見方は,厳しいものがありました.
 労働市場で競争の犠牲になっていると感じる時,パリの労働者の敵意は,季節労働者――例えばリムーザン出身の石工とかの様な――そして,外国人労働者に向かいました.
 彼らは低賃金で長時間働き,残業もこなし,経営者にも従順だから.
 パリの商店主達も,外国人への課税や犯罪記録簿を求める声を上げます.
 移民を制限する目的で,居住税法案が1880年代に度々上程されましたが,経済的必要性や外国人への寛容という,革命の伝統を理由に否決されていました.

 一方,労働現場では排外感情が高まり,ストの不参加者は,フランス人であっても,「サラセン人,ベドウィン人,ズールー人,プロイセン人,イタリア人」などと罵倒されました.
 これは社会主義者であっても同様で,ジュール・ゲードの様な人間でも,移民の「侵入」をを非難し,アルプスの彼方からやって来る,中世ヨーロッパへのアラブ人の進出に例えて,彼らを「サラセン人」と呼んでいました.
 1883年,パリ塗装工組合は,
「我々はこの侵入に断乎戦う.国際主義的連帯の名で,その侵入に甘んじてはならない」
と声明し,パリのパン焼き職人組合も,組合加入を訴えるアピールで,
「我が職場に外国人を入り込ませないために,この侵入に対して毅然として戦わねばならない」
と述べていました.

 こうして,排外主義が燎原の火の如く広がっていきます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/04/25 23:45
青文字:加筆改修部分

 さて,1886年『外国人によるフランスへの平和的侵入』と言う小冊子が出され,3月にはマルセイユで,あらゆる職種のフランス人労働者を糾合した大会が開催されます.
 この大会では,
「外国人労働者のこの様な侵入に対して抗議し,国民の労働は唯一最高のものだ」
と訴えた訳ですが,この流れは留まること無く,フランス人の優先採用や外国人制限の要求が行政に出される事になります.
 例えば1888年,イゼール県の知事は,フランス人労働者を雇うフランス企業に,公共事業を落札させることを明記し,1889年にパ=ド=カレ県議会では,鉄道工事現場で働く労働者をフランス人にすべき,と決議しました.

 労働組合は,1890年代の主な活動を,公共事業に雇われる外国人の数を制限する法律の制定を要求することに集中し,愛国心に訴え外国人の排除に乗り出す組合も出て来ます.
 労働組合活動家は,パリで好適な仕事に就くには,一定期間パリに居住すべしと主張しましたし,ストライキの時に同じ職場で働いていた外国人を解雇すべしと求める活動家も出て来ました.

 1892年,パ=ド=カレ県のドロクール鉱山で働いていたベルギー人達がフランス人によって暴力的に職場を追われる事件がありましたが,この鉱山で働いていた4分の3の労働者がベルギー人でした.
 また,1892年11月30日法では,医師会は国籍を問わないがフランスの学位を持たない外国人を,医療から締出します.
 その運動の先頭には皮肉なことに,『群集心理』の著者であるギュスターヴ・ル・ボンの姿もあったりしました.

 1892年1月にはメリーヌ農業保護関税を始めとして,国内産業の保護や国民労働の保護が優先されていき,1894〜96年にかけてルーベ,トゥールーズ,ペルピニャン,トゥーロンなどの公共部門で働いていた外国人が解雇され,1893年9月にはナンシーの労働者が,外国人労働者への課税と建築工事現場での外国人労働者の比率を10%とする様に要求を出し,ダンケルク港の企業家は,外国人を10%しか雇わないと市当局に約束させられました.
 同じ頃,マルセイユでは市の道路課が,雇っていたイタリア人を解雇して,フランス人を採用しています.

 こうした騒擾状態の中で,1894年6月,リヨンでサディ・カルノー大統領が,イタリア人無政府主義者であるサンテ・カゼリオによって,刺殺されるという事件が起きました.
 これを切っ掛けに,リヨンではイタリア人商店が略奪や放火に遭い,パリ近郊ではイタリア人労働者の排除を要求する,ストやデモが展開され,グルノーブルでもイタリア領事の家が襲われました.
 そして政府は,イタリア人無政府主義者269名を追放すると同時に,7月に無政府主義者処罰法を規定しました.

 しかしそれ以前,1867〜93年の間に,外国人への暴力沙汰は89件発生し,特に80年代は62件を占めていました.
 全体では5万人ほどが排外的な示威に加わり,その9割が労働者でした.
 地域別には地中海沿岸の諸県で36件あり,その19件がマルセイユでした.
 次いでパリが10件,ノール県が8件という順番です.
 また,89件の暴力事件の内,67件はイタリア人絡みの事件であり,ベルギー人が11件,ドイツ人が7件,スペイン人が2件となっています.
 事件の起きた職種の多いのは,
土木工事業の28件,
次いで港湾労働者の16件,
炭鉱労働者の11件,
精糖工5件,
ガラス職人と石工が各4件,
石切工が3件
などとなっています.
 また,1891〜93年の間に,少なくとも30名のイタリア人が死亡していました.

 この様に,特にフランス人の憎悪が端的に見られたのが,結束力のあるイタリア人労働者に対してでした.
 イタリア移民は,フランス南東部で建築業や化学産業に従事していましたが,同じラテン系の民族だからか,フランス人労働者との間で,職や女性を巡っての諍いが絶えませんでした.

 1881年6月にはマルセイユで,3名のイタリア人が死亡し,21名が負傷する事件も起きています.
 これは,1881年,イタリアを退けてフランスがチュニジアを占領した時のこと.
 マルセイユで,その占領任務を果たしたフランス軍の凱旋パレードがありましたが,その際,軍と三色旗を侮辱する口笛が吹かれたのが切っ掛けです.
 民間の「イタリア国民クラブ」だけに三色旗が飾られておらず,しかもバルコニーには3〜4名の見物人しかいなかったことから,口笛はイタリア人の仕業だと解釈され,その後3日間,暴徒が「陸軍万歳,フランス万歳,共和国万歳」と叫びながらイタリア人を襲いました.
 約200名の暴徒達は,「フランス万歳」と叫ぶ様にイタリア人達に強要し,拒否すれば殴りつけて川に放り込みました.
 これは,帝国主義の波に乗り遅れまいとしたフランス人の国粋的な反応であり,また,マルセイユには他の市よりも多い約5.8万人,人口の16%にも昇るイタリア人が住んでおり,イタリア人に対する反感が事件の底流にありました.

 更に1893年8月に,南仏ローヌ川河口にあるエグ=モルトと言う町で起きたリンチ事件は,凄惨を極めました.
 これはエグ=モルトの塩田で働く,フランス人とイタリア人の季節労働者同士の争いでした.

 エグ=モルトでは真夏の1ヶ月間,製塩会社が2,000名ほどの労働者を集めて働かせていました.
 1日16時間労働にも耐えて働くイタリア人達は,土木工事人の倍の給金を得ており,それがフランス人の妬みを買い,フランス人労働者の間には不穏な空気が漂っていました.
 1870年代からこの地域には,夏場になると憲兵が派遣されて警戒に当たっていたほどです.
 しかし,雇用主は従順な外国人労働者を雇う方が効率が良いので,それを改めることはありませんでした.

 8月16日,塩田で朝からイザコザが起きます.
 一輪車に塩を山盛りにして運ばないフランス人に反発したイタリア人が,一輪車をわざとフランス人の踵にぶつけ,それに対してフランス人が塩の塊を投げて応戦するというトラブルが起きていました.
 昼休み,今度はイタリア人が飲料水の入ったバケツでシャツを洗ったことにより,フランス人と乱闘になりました.
 更に,シエスタの時には50名ほどのイタリア人がスコップやワインの瓶やナイフを持って,20名ほどのフランス人に襲いかかる展開となり,襲われたフランス人は5名の負傷者を抱えて,エグ=モルトの町に逃げ帰りました.

 そのエグ=モルトには失業者や破落戸が溢れて,反イタリア人感情が高まっていました.
 そこへ午後4時頃,
「3人のフランス人がイタリア人に殺され,負傷者は置き去りのままだ」
と言う噂が流れたのです.
 夕刻になると,鍬や鶴嘴で武装した300名ほどの群衆が,待ちで見つけた50名のイタリア人に襲いかかりました.
 イタリア人はパン屋に逃れ,憲兵と税官吏の仲裁で殺傷沙汰は回避されました.

 8月17日朝,事態の悪化を避けるため,当局はパン屋に避難したイタリア人を,軍隊に護衛させてイタリアに送還しようとしました.
 しかし,三色旗や赤旗を持った群衆が押しかけ,国歌を歌い,「イタリア人をやっつけろ」「ソーセージにしてやるぞ」などと罵声を浴びせ,投石を行いました.
 県知事が仲裁に入りますが,効果は無く,その内300名ほどの群衆が,前日に騒ぎのあった塩田に向かい,塩田のバラックに憲兵隊に保護されていた,約80名のイタリア人を攻撃しようとします.
 憲兵隊は襲撃を察知して,イタリア人をマルセイユ行きの列車に乗せるために,エグ=モルトに帰ろうとしますが,別の一隊と遭遇してしまいました.
 フランス人は忽ち500〜600名に膨れ上がって,銃や棍棒で武装すらしていました.

 逃げ惑い,灌漑用運河に追い詰められたイタリア人達は,棍棒で殴られたり投石を受けるなどのリンチを受け,10名ほどが運河に落ちてしまいました.
 公式発表では8名死亡50名負傷となっていますが,その中にはフランス人であるコルシカ出身者もいました.
 なお,英国の『ロンドン・タイムズ』は,
「50名が殺され,150名以上が負傷した」
と報じています.

 この様な状況の中,1893年の総選挙では,右派のモーリス・バレスが
「外国人労働者との競争からフランス人労働者を守る措置」
と公約に掲げていました.
 社会主義者もこの選挙で4倍の50議席を獲得し,1895年に労働総同盟が結成された様に,フランス人労働者の行政に対する圧力が強まっていきました.
 この結果,1899年8月10日法令にて,公共事業に雇われる外国人労働者の割合を地域の実情と工事の内容に応じて制限する,所謂ミルラン法が可決され,パリは10%,その他の地域は5〜30%の割合に定められていきます.

 但し,この時代になるとパリの大改造や運河網整備,鉄道網整備も一段落を過ぎ,公共事業は産業の中軸では無かった事,またデクレ公布の日は,ドレフュス再審がレンヌで始まった3日後の事なので,マスコミの注目も集めることはありませんでした.

 とは言え,この時期のフランス人の国粋主義化が,左派によって進められたのは,非常に興味深い話ではあります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/04/27 23:21

 一昨日はイタリア人とフランス人の対立を見てみましたが,別にイタリア人だけがフランス人労働者の憎悪の的になった訳では有りません.
 ベルギー人も又,「木靴野郎」と罵倒され,排斥されていました.

 エミール・ゾラは『ジェルミナール』でそうした情景を描いています.
 北フランスの炭坑を舞台に繰り広げられた,「資本と労働」を主題にしたこの小説では,スト中のフランス人炭鉱労働者に対抗して,ベルギー人労働者をスト破りとして雇おうとした会社に,フランス人達が反発し,
「奴らをやっつけろ! 俺たちんとこに外国人を入れるな!」
と怒号を浴びせ,兵士と衝突する場面を克明に描いていますが,この様に北フランスで働くベルギー人炭鉱労働者は,賃金引下げと仕事をフランス人から奪う元凶だと,フランス人労働者の恨みを買っており,1819年以来度々フランス人から暴力を見舞われていましたが,何時もスト破りに動員された訳で無く,それ以上にストの主導者や労働組合の組織者でもありました.

 ノール県のルーベと言う小都市は,別名を「小ベルギー」と呼ばれており,第三共和政初期の人口の55%がベルギー人でした.
 ルーベの炭坑では,ベルギー人労働者が北フランスの労働運動を牽引し,争議の先頭に立っていたりします.
 つまり,北フランスの社会主義運動はベルギー人によって指導されたのです.

 南フランスでは,マルセイユの石鹸工場でスト破りとしてイタリア人労働者が雇われたりもしましたが,イタリア移民も常にフランス人労働者と対立し続けたのでは無く,労働者の階級的連帯行動も勿論有りました.

 1871年のパリ・コミューンではフランス人だけで無く,イタリア,ベルギー,マジャール,ロシア,ポルスキなど多くの外国人が参加していましたし,1882年6月のパリではイタリア人とドイツ人労働者が多数を占める精糖工場で,フランス人労働者のストが腰砕けで終わりそうになった時,外国人労働者の方が大挙してストに参加し,それを支えた様に,イタリア人労働者の方は,建築業界や土木業界でのストを主導したことも有りました.

 また,19世紀末から20世紀初めに掛けてのマルセイユでは,フランス人とイタリア人労働者との間の団結が見られました.
 荷車曳き,革鞣し工,瓦製造工,高級家具師,粉挽き,靴修理屋,搾油工などの争議でも団結が見られました.

 特に有名なのは,1900年8月の港湾労働者のストで,当初,フランス人が外国人労働者の雇用制限を求めたのですが,イタリア人が加わって賃上げ要求のストに転化し,排外的な要求は退けられ,デモの先頭にはフランスとイタリアの国旗が掲げられ,団結のデモに変わっていきます.
 因みに,このストライキを主導したのは,亡命イタリア人社会主義者のルイジ・カンポロンギでした.

 スト後には,フランス人とイタリア人からなる国際労組が結成され,マルセイユの港湾労働者の8割に当たる3,500名が参加し,組合員と執行部役員の半数をイタリア人が占めましたが,これを是としないフランス人労働者350名は,1900年末にイタリア人の加盟を認めず,外国人の雇用制限を目的とするフランス人労組を結成します.
 1901年2月末に,国際労組のイタリア人組合員が解雇され,フランス人組合員と非組合員が採用される事件が起きると,国際労組は解雇撤回と8時間労働の導入を掲げてゼネストを打ちましたが,フランス人労働者の組合はナショナリズムをアピールして経営側に荷担し,ストに反対しました.

 結局,3月12日にカンポロンギが逮捕されて国外に追放され,3月24日に主導的なイタリア人労働者11名が逮捕されましたが,3月24日のゼネストには22,000名のイタリアとフランス人労働者が参加しました.
 とは言え,指導部を失った国際労組はその後瓦解し,4月6日に労働は再開されました.

 この頃にはもう1つ,外国人を巡る動きが有りました.
 1894年に起きたドレフュス事件です.
 この事件はドイツのスパイとして,軍法会議で終身流刑を宣告されたドレフュス大尉が,1899年に再審有罪,1906年に漸く真犯人が現れて無罪となって終結した有名な冤罪事件です.
 この時は,軍の名誉や国家の威信に拘る参謀本部や政府を右翼勢力が支持し,誤審を認めない反ドレフュス派をドレフュス擁護派が批判して国論が二分された事件でした.

 ドレフュス派の闘いに光明を見出せない時に炸裂したのが,エミール・ゾラが1898年1月に発表した『われ弾劾する』であり,これによってドレフュスの再審運動に弾みが付きましたが,そのゾラは反ドレフュス派から「外人」と非難されました.
 と言うのも,彼はイタリア人土木技師とフランス人女性の間に生まれた子であり,1862年にフランスに帰化していたからです.
 ゾラは事ある毎に,出自に言及されました.
 例えば,王党派の歴史家ジャック・バンヴィルは,ゾラが「普通の人よりも劣っている様に見えるのは,その国籍の所為では無くて,彼の血管を流れている血液の混交の所為である.ゾラは,半分がイタリアで,4分の1がギリシアで,4分の1がフランスで,3度か4度か混血していて,人類の良いモデルでは無い」等と揶揄しています.
ついでに言えば,ゾラの父方の祖母はギリシャ人でした.
 また,反ドレフュス派の作家,モーリス・バレスも,1902年に書いた『ナショナリズムの情景と教義』に於て,「帰化法を慎重に運用して,国民意識を純化しよう」と訴えていました.

 ドレフュス事件を有名にしたのは,ユダヤ人と言う彼の出自です.
 1890年代のフランスに住むユダヤ人は7万人程度,その内,パリに4.5万人が住んでいました.
 ゾラは『われ弾劾する』執筆の1ヶ月前にも,
「たった一つのフランス人家族の名誉に関わる事件なのに,そそのかされた外国人という妖怪を持ち出し,愛国心を高揚させようという卑劣な試みが為されるのを,私たちは見た」
と,反ドレフュス派の坑道を批判していました.

 フランス人は,この様に,ユダヤ人を「変装した外国人」と見なし,キリスト教社会に於て「よそ者」であっただけで無く,カフカが後の1926年に『城』で描いた様に,「不必要な,何処へ行っても邪魔になる人,耐えず迷惑の種になる人」としていました.
 宗教的反ユダヤ主義に加え,19世紀末には人種的反ユダヤ主義と経済的反ユダヤ主義と言ったものが,重層的に加わっていきます.
 前者は,セム系のユダヤ人に対するアーリア人の優越意識であり,後者はロートシルト家に代表される金融資本かに対する左翼的なユダヤ人批判でした.

 1882年,金融恐慌の煽りでカトリック系の投資銀行ユニオン・ジェネラルが,設立後僅か4年にして破綻に追い込まれます.
 この時に1,800名余りの債権者が損害を被り,ユダヤ金融資本への反発が強まっていきました.
 1887年6月の『民主連合』と言う新聞には,こうあります.

――――――
 1790年から,とりわけ1871年のイナゴの大群の襲来の様に,ユダヤ人達が地球の四隅から我々に襲いかかり,徐々に我々の内臓まで食い荒らしている.
 民主的で社交的なフランスも,アブラハムの子孫で余所者の金融カーストに対して,害虫駆除という自衛手段を執る必要性に,何時か気づくだろう.
――――――

 1886年4月,ユダヤ系資本による経済支配の実態を暴いたと称する『ユダヤ人のフランス』と言う本が出版され,1年目で当時としては驚異的な6.5万部を売り上げました.
 著者のエドアール・ドリュモンは,1889年にフランス反ユダヤ主義同盟を結成し,「フランス人のフランス」と言うスローガンを掲げ,1892年4月に『リーブル・パロール』を発刊しました.
 この新聞は,パナマ運河会社による疑獄事件を取り揚げ,その会社の首脳であるユダヤ人達が,クレマンソーを含む共和派の政治家に金を流していた事を暴露し,「ユダヤ人に支配されるフランス」を人々に印象づけて,発行部数は一時期10万部を超えたこともありました.
 ドレフュス事件を漏洩情報によって最初に報じたのもこの新聞であり,その後も反ドレフュス派の論陣を張った新聞でもありました.

 ベル・エポックと言う様に,この時代のフランスは良い時代とされていますが,移民やユダヤ人に対しては決して良い時代では無く,アナトール・フランスが1901年に書いた『パリのベルジュレ氏』で「外国人嫌い」と言う言葉を作り出した様に,排他的な時代だった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/04/29 23:10

 時に,フランスの民間放送が被災地の感情を逆撫でした放送をしたとして,日本大使館が抗議をしていました.
 その民間放送局は「報道の自由」を楯に,謝罪を拒みましたが,まぁ,フランス人の深層意識なんて言うのはこんなものです.
 何しろ,今まで見てきた様に,彼らは強烈な中華思想を持っていますから,一朝一夕で直すことは出来ません.
 更に,現在ではどちらかと言えば,外国人排斥の方にパラメータが傾いていますので,尚更,外国人蔑視が渦巻いていたりします.

 さて,今まで19世紀末から20世紀初頭のフランスの国籍法を中心とした話を書いてきたのですが,外国人の監視もこの年代に徐々に進んできました.

 既に1880年代から,郡長は外国人の状態について毎月知事に報告書を送っていました.
 1888年10月2日デクレは,居住許可証を持っていない外国人に,フランス到着後2週間以内に居住地の役所に届け出ることを義務づけました.
 申告内容は,本人と両親の地名・国籍・出生地・生年月日・旧住所・職業と生計の手段・妻と未成年の子供の氏名と年齢と国籍,そして,これらを証明する書類であり,住所が変わる毎に新住所地の役所に届け出る必要があります.
 1803年以降,フランス人労働者には「労働手帳」の所持が義務づけられていましたが,フランス人には1890年7月にこの所持が廃止されます.
 しかし,外国人労働者については,これに似た手帳を持たされることになりました.

 1893年8月8日に制定された,「フランスに於ける外国人の滞在と国民労働保護に関する法」では,全ての外国人に,1週間以内に身分証明書を添えて,市町村役場で居住登録を行う事を義務づけました.
 未登録の外国人労働者を雇った経営者は罰せられ,期限内に申告をしない外国人並びに虚偽の申告をした外国人には,罰金が科せられました.
 追放された外国人が許可無くフランスに再入国した場合は,6ヶ月間の投獄となります.
 また,外国人は住所を変える毎に,2日以内に「外国人登録証明書」の査証を受ける必要があり,収入印紙代を納めると,登録簿の抄本が転出先の自治体に送られました.
 その登録からあがる印紙税収入は,1893年に20万フランに達したと言います.

 外国人登録を管理する警察庁長官は,1891年の段階で,有効な管理をする為には,外国人登録室の職員数を職員6名と助手5名に増員する必要があると主張しましたが,1889年はその職員が僅か3名しかいませんでした.
 しかし,この様に外国人登録証の所持義務化が為された結果,1918年までに法定身分証明室,外国人身分証中央室,難民室,国外追放室などが設置され,外国人登録事務は大きなウェイトを占める様になります.
 これは移民の増加も物語っています.

 そこで必要になったのが,増加した移民を管理する技術です.
 人間を識別する技術は,犯罪者を対象とした人体測定法や指紋鑑別法によって磨き上げられてきました.
 その権力側のテクノロジーが,ノマドと言われる漂泊民や植民地先住民に適用されました.
 人体測定法による身分証システムは,1888年10月2日デクレによって,フランスに在住する前外国人に拡大されていました.
 これは当時パリ警視庁に勤めていたアルフォンス・ベルチョンが,異常とも言える熱意で人体測定法を再犯者に応用するために努力していたのが援用されていったのです.

 1893年8月11日,警視庁に鑑識課が置かれ,20世紀初頭には外国人無政府主義者の人名カードが整えられ,直ぐにその方式が一般移民にも適用されていきます.
 こうして,外国人のカード化が行政組織の中で進められ,外国人も累犯者やノマドと同じマルジノー(社会的周辺人)と化していきます.
 浮浪者は貧者では無く罪人と見做され,1890年代にも,盗みや物乞いや不衛生故に取締りを求める声が地方から上げられていました.
 1889年6月29日の大臣通達を始めとして,ロマ(俗に言うジプシー)に対する市長や知事の命令が100ほど出されたにも関わらず効果が無かったので,税金や監視を免れている危険な外国籍のロマは即時追放し,フランス籍のロマは憲兵の監視下に置く様要求されました.

 1895年に実施された調査では放浪者は40万人を数え,その内の2.5万人が大型馬車による旅人,所謂ロマだとされました.

 20世紀に入っても,滞在許可証を持たない外国人の乞食を追放し,ノマドに特別身分証を交付することが,フランダンやアルベール・ルブランと言った有力議員から提案されていました.
 こうして,1912年7月16日に行商人やノマドを規制する法律が制定されます.
 この法では,国籍に関わらず,フランスに住所や居所を持って行商などの職にある者は,居住地の役所に氏名,職業,住所,生年月日と出生地を申告する様に求められ,行商深刻証明書を持たずに生業を営む場合には罰金や投獄が待っていました.
 また,国内に定住地を持たずに行商などを生業とするフランス国籍の者には,身分証手帳の所持が義務づけられました.
 身分証手帳は写真付で身体的特徴が記載され,氏名,生年月日,出生地,旧住所,職業等も記入されました.
 こちらも,この手帳を所持しないと罰せられました.

 1913年5月3日デクレでは,ノマドと行商人には,天然痘の予防接種済の証明書が無ければ行商の許可が下りなくなります.
 更に,1931年8月には身分証手帳の交付や更新が禁止され,1935年10月30日の緊急令で,外国人の行商人はフランスに継続して5年以上居住し,半年以上同一の住所地に居住しないと行商を営むことは出来なくなりました.
 その為,1930〜34年にパリ警視庁が発行した行商申告証明書は年平均1,386件もあったのが,1935年に146件,1936年になると80件と激減しています.

 また,1912年7月16日法で,同化不能のノマドは,人体測定身分証手帳に登録することが決められ,人相,体型,写真,指紋,氏名や国籍,それに大型馬車の形態や登録番号が記載されました.
 ノマドは町や村への到着や出発の際には,身分証手帳を提示して査証を受けねばなりませんでした.
 ノマドの人体測定身分証手帳が廃止されたのは,実に1969年1月になってからのことです.
 その時までにロマの3分の2は定住し,大半がフランス国籍になっていました.

 尤も,そこに至るまでには,1940年4月6日法で,戦時下のノマドの移動禁止と強制定住並びに警察の監視下に置くことが命じられ,更にドイツ占領軍の命令が切っ掛けとは言え,1940年秋から1946年まで約3,000名のロマが国内30箇所の収容所に収容される悲劇もありました.
 ついでに言えば,浮浪行為が違法で無くなったのは,極々最近の1994年のことですが,サルコジ政権になってから,再びこの路線が怪しくなって来ています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/04/30 21:50


 【質問】
 フランスの2005年11月の移民暴動の報道で,TVにこの数日よく出てくる,日本の機動隊に似た格好の治安維持部隊が国家憲兵隊ですか?

 【回答】
 あれは警察.

 因みに都市部以外の治安任務は殆ど国家憲兵の仕事だが,最近はフランスでも,軍隊が警察任務を行う事には抵抗があり,結局,国家憲兵も国防省の管轄から内務省の管轄に移された.
 また,以前は大都市の治安任務も国家警察,都市毎の警視庁,国家憲兵の3本立てだったのが,警視庁は国家警察の下に移管され,さらに国家警察と国家憲兵の統合も進みつつある.
 まあ,これとは別に地方小都市には地方警察があるけど,この権限はそんなに強くない.

(軍事板)


 【質問】
 なんでフランスの農民は,軍隊投入が時として必要なほど凶暴なんでしょう?
 前にも道路にトマトぶちまけ事件とか色々やっていたような…

2009年11月04日 21:13,消印所沢

 【回答】
 もともと国家権力に対する不信と敵愾心は根強い.
 国家憲兵(ジャンダルム)に司法警察権与えているのも,そのためじゃなかったかと.

2009年11月04日 21:53,ゆずこせう

 フランスは,日本人のイメージとはかけ離れた,イギリス以上の階級社会であり,中央集権国家であり,警察国家ですからね.
 鶏が先か,卵が先かの問題になってしまいますが,階級間の対立には根深い物があり,社会もそれを許容,もしくは織り込み済み,というのが実感です.
 まあ,「エリート教育」という名前からしてアレなのですが,それを隠すこともせず丸出し全開だったりしますし.イギリスのように爵位こそ有りませんが,国家中枢や企業幹部に上り詰めるためには頂点に君臨する学校を卒業していなければ,そのチャンスはなかったり.
 日本人から見てアレなところはたくさんありますね.

2009年11月04日 23:39,へぼ担当

以上,「軍事板常見問題 mixi支隊」より
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 コルシカ島の自治権獲得までの歴史を教えられたし.

 【回答】
 地中海で4番目に大きな島は,コルシカ島です.

 アフリカと欧州の間に位置する所から,ローマによる600年の統治の後,ビザンツ,イスラームと異民族の侵入を受け,1078年以来ピサが200年支配し,1247年からはジェノヴァの統治下にあり,この為,文化や習俗はイタリアの影響が強く,その言語コルシカ語は,トスカーナ方言と近い関係にあります.

 1746年,ジェノヴァの専制に抵抗して,Pasquale de Paoliに率いられた地元民が蜂起し,1768年まで22年の間,一時独立に成功しました.
 ところが,この民族蜂起に手を焼いたジェノヴァは,1768年,この地をフランス国王ルイ15世に売却してしまいました.
 そして,ルイ15世はこの地に軍隊を送り込んで政府を倒し,Paoliは英国に亡命していきます.
 後にフランス革命が勃発した際に,彼は再度コルシカに舞い戻り,独立を企てますが失敗.
 以後,この地はフランスの領土として統治されていきます.

 現在,生粋のコルシカ人は,全島民26万人のうち,20%程度であると言われています.
 残りは,サルディーニャ人とモロッコ人が約5万人,仏系アルジェリア人が1.7万人,フランス本土からの移住者が6万人などとなっており,コルシカ人達は職を求めてこの島を去っています.
 その数40万人.

 この島の主要産業は葡萄栽培と観光業ですが,その葡萄栽培も観光業も,島外の資本に牛耳られています.
 観光客は年に100万人が訪れます.
 1969年にはホテルが95,ベッド数が3040だったのが,10年後の1979年にはホテルは365,ベッド数は11,419となりました.
 従来,こうしたホテルから溢れた人々は,コルシカ人経営の小さな宿屋に泊まったものですが,大資本はそれを潰していきました.
 また,地中海には豊富な水産物があるにも関わらず,こうしたホテルは,例えばロブスターにしても目と鼻の先で獲れるのにも関わらず,オーストラリア産のものが空輸されているなど,全然地元に利益を落とさない構造になっています.

 また,1960年代初頭に失ったアルジェリアの代わりに,アルジェリアの入植者コロンの為に,コルシカ人が利用出来ない低い抵当で農地に住まわせる計画が実施され,これにより多くのコルシカ人達が農地を失い,葡萄以外の農業生産物減少を生み出し,コルシカ人の農民は5,600人が6,000ヘクタールの土地を所有しているのみで,そのうち5,000ヘクタールは葡萄栽培をしています.
 一方,非コルシカ人に属する500人の地主達は,29,000ヘクタールを所有し,彼らの葡萄畑は25,000ヘクタールに達しています.
 葡萄酒の生産についても非コルシカ人が多数を占め,コルシカ人は10%の生産にしか関与出来ていません.

 1960年に労働人口の90%を占めていたコルシカ人達は急速に数を減らし,現在では僅かに30%しか占めていません.
 つまり,残りは島外に職を求めて移住した訳です.

 1972年に,Hudson協会と言う団体が,秘密報告書を作成しました.
 この報告書を,コルシカの民族主義団体であるl'Action Regionaliste Corse(ARC)が入手し,これを暴露しました.
 その秘密報告書に依れば,更に多くの非コルシカ人を島外から受容れ,観光事業を彼らの手で発展させようと言うもので,これでコルシカ人達は激高しました.
 また,Montedisonと言う会社のイタリア系子会社が,化学薬品を流出させ,それにより,コルシカの海岸と水が汚染されると言う事件もあり,更にコルシカ人を疑心暗鬼にさせました.
 爆破事件は,1970年の5件から1975年には150件に拡大しています.

 1974年にフランス政府としても,事態を放置出来なくなり,分離主義を断固粉砕するとしていますが,一方で,フランス本土との安価な輸送システムを構築し,生活費が本土よりも30%も高い状態を改善し,大学を設立する(Paoliの時代に既に造幣局,新聞は民族系のものが1つは設立されていました)と共に,コルシカ人農民に安価な土地を与えると言う飴の政策を提案しています.

 とは言え,コルシカ人達の要求は,カルヴィ,ボニファシオ,コルテに設置された軍事基地の撤去,コロンの追放,土地の再分配を行い,農民が自立出来る農業政策,更に観光業,銀行業務,工業などのありとあらゆる分野のコルシカ化を求めていました.
 彼らからすれば,外交と防衛はパリに任せるにしても,其の他の部分は大幅に自治権を得たいとした訳です.

 1982年,Mitterrand政権に於て,コルシカの自治を目的にした,コルシカ特別法が施行され,コルシカ人の権利が大幅に拡大されました.
 このまま進めば良かったのですが,フランスは中央集権国家.
 フランス革命前に既にフランスの領土であるからには,フランス本土内の自治体の一つであるとされています.

 そして1991年にコルシカ自治体特別地位法が制定された際には,主要部分は憲法に照らし合わせて合憲とされましたが,法案第1条にある,「フランス共和国は,フランス人民の構成要素としてのコルシカ人民が形成する歴史的共同体及び現存する文化的共同体において,コルシカ人民が文化的アイデンティティを保持する権利を保障する」と言う条文内に,「コルシカ人民」と言う言葉を盛り込んだのが,フランス憲法に於ては,フランス人民については,マイノリティを一切認めない一体不可分のものであるとした為に違憲とされました.
 更に2002年にも,コルシカ人に対する自治権拡大と独自制度の容認を規定した法律に於て,「フランスの法律の施行が,コルシカ地域の特殊性で適用しがたいと判断した場合は,コルシカ議会の判断で,政府に対し,国会の場で追認する事を条件に実験的に独自法を制定する」とした規定が,憲法に触れるとして一部違憲の判決が出たりしています.

 つまり,フランスも中国と同じく,地域の独立は一切認めないと言う立場だった訳です.

 これを打開する為,Mitterrandの後を継いだChirac政権は,2003年に憲法を改正し,地方自治に関する権限を規定した条文を大幅に改訂します.
 この憲法改正では,地方の独自性を容認し,そうしたマイノリティに対する自治権を大幅に拡大したり,独自の法律を施行実験する権限が与えられる事になりました.

 そう言う意味に於て,フランス革命前にフランス領土だった地域(コルシカ,アルザス・ロレーヌ,ブルターニュなど)の独自性を容認し,外交と防衛権だけは中央政府が行う,独立政府に近い状態に移行する事が出来る様にしています.

 弾圧するばかりが能じゃないですわな.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/04/23 22:54


 【質問】
 ブルトン語の歴史を教えられたし.

 【回答】
 さて,英国を離れ,今日はフランスに渡ります.

 この地でもケルト語派のゴール語が話されていましたが,紀元前1世紀にユリウス・カエサルによって征服され ,ローマ帝国の支配下になります.
 この為,ガリアの貴族達は,ローマの学校に子供を送り,ラテン語を取入れていきました.
 しかし,372年までは確実にゴール語が生き延びており,聖マルチヌスがトゥールの門に大修道院を建てましたが,その名前Marmoutierには,ラテン語から派生したmoutierの前にゴール語の「大きい」を意味するmarが入っている事で証明出来ます.
 それ以後も庶民の間では未だゴール語が話され,恐らく6世紀までは充分に生きていたと考えられています.

 その頃,ガリアの北西部であるAremoricaでは,対岸の大ブリテン島と交易が行われ,450〜650年頃にかけて大ブリテン島から多くの人が渡ってきました.
 この為,この地域はBritannia,そしてBretagneと呼ばれ,都市部はローマ人もしくはローマの影響を受けたガリア人が支配し,ラテン語が支配的でしたが,田舎は2言語併用地域で,海に近付くにつれてラテン語の痕跡は失われ,ブルトン語が強くなります.
 因みに,この国の北西部ではこの頃のラテン語の文献が殆ど見つかっていません.

 9世紀以降,ノルマン人が侵攻してくると,ブルトン語は衰退が始まり,10世紀になるとブルトン人の指導者や修道者はベリー地方,パリ地方,ピカルディー地方に逃れ,彼らはフランス化していきました.
 12世紀半ばまではブルトン地方に幾つかのブルトン人の王朝が作られていますが,その時期の王朝はブルトン語を用い,両言語併用の地域も存在しています.
 ブルトン人の王朝がフランス語化されたのは,それ以降です.
 こうして,併用地域でも指導層のフランス化により,ブルトン語を放棄していきました.

 ブルトン語の使用地域が最大になったのは10世紀頃で,ブルターニュ半島の付け根にあるサン=マロからモンフォール=シュル=ムーとメサックを通りゲランド半島に達する線の西側で話されていました.
 この線は時代を経るに従って後退し,現在では北部で約100km,南部で約50km後退して,半島の半ばにあるパンポルからミュール=ド=ブルターニュを通ってヴァンヌに達しています.

 この様に,衰退を繰返していたブルトン語でしたが,少なくとも海岸部,つまり西部に於ては総ての社会階級で権威有る言語として君臨していました.
 この威信が落ち始めるのはフランス革命後ですが,その話者がいる範囲の境界線は14世紀以後現在までは殆ど変わらず,何とか押し留まっているようです.
 とは言え,現在では低地ブルターニュの150万人のうち65万人がブルトン語を理解し,うち25万人がブルトン語を話しているに過ぎません.

 1991年段階でラジオ放送はBretagne Ouestで1日約2時間,Kreiz Breizhで1日約2.5時間,Bro Gwenedで1日2時間の放送が行われ,テレビは1日5分,週5日のニュースが,土曜日の1時間にシリーズ番組がブルトン語で行われ,年間のテレビ放送は約75時間です.

 ブルトン語の衰退に歯止めが掛ったのは,その言葉で紡がれた詩にありました.
 1839年,エルサン・ド・ラヴィルマルケ男爵と言う人物が,ブルターニュ地方の民衆歌集Barzaz-Breizを発行します.
 当時のブルターニュでは,Welsh notでも触れたように,言語札によるフランス語の強制が教育現場で進められていました.
 ところが,ラヴィルマルケ男爵は,その傾向に歯止めを掛け,ブルターニュの知識階層に大きな感動を与え,彼らはブルトン語でものを書こうとする新しい誘惑を見出しました.
 前に触れたマクファーソンの「オシアン」と似たような流れですが,オシアンが翻訳と言う形での出版だったのに対し,ラヴィルマルケ男爵は数世紀前の名も無き詩人が書いた詩を,ブルトン語でそのまま出版した事が大きな違いです.
 とは言え,このラヴィルマルケ男爵,相当な変わり者だったのか,多くの人が本当に昔のブルトン人が書いた詩かどうかを証明する資料を見せろと言ったのに,一切これを拒否し続けました.
 この為,男爵は非難され,彼のブルトン語の知識は凡庸なものだと言う人もいましたし,彼がテクストをフランス語で書いてブルトン語にかなり下手に訳させたと言う人もいました.
 実際には,1964年に彼の子孫の1人が見つけた土地台帳を分析した結果,18〜77歳になるまで男爵が正当な蒐集家として活動していた事は証明され,また男爵が日常的にブルトン語を話していた事も判明しました.

 しかしながら,ブルトン語は極めて学びにくい言語でもあります.
 これは狭い地域にも関わらず,4つの方言に分れている為です.
 1つ目はフィニステール県南部,コート=ダルモール県,モルビアンで話されているKerneと呼ばれるコルヌアイユ方言,2つ目はフィニステール県北部で話されているLeonと呼ばれるレオン方言,コート=ダルモール県ではもう1つ,Tregerと呼ばれるトレギエ方言があり,最後にヴァンヌ地方で話されているヴァンヌ方言があります.
この内,Kerne-Leon-Tregerの3方言を一般的にその頭文字を結んでKLTと呼ばれ,Gwenedと呼ばれるヴァンヌ方言とは一線を画しています.

 Gwenedは,KLTと異なり,KLTで[z]と発音されるものが,[h]と発音される事,KLTでは最後から2番目の音節にアクセントが置かれるのに対し,最後の音節にアクセントが置かれる事の2点に決定的な違いが有り,別扱いにされています.
 例えば,Bretagneと言う名称は,KLTではBreizとなりますが,GwenedではBreihとなる訳です.
 この両方の綴りを満足させようと考え出されたのが,Breizhと言う綴りでしたが,略称のBZHと共に,ブルトン人全体を満足させる事が出来ていません.

 なお,文法と語彙もはっきりとKLTとは異なっており,KLTと島嶼ケルト語が明確な類似点を保っている事から,Gwenedは大陸ゴール語の生き残りでは無いかと考えられています.

 こうした4つの方言の綴りを統一させようとした取組みは,1659年に遡ります.
 イエズス会の神父ジュリアン・モノワールによって文法とブルトン語・フランス語の辞書の出版がその始めです.
モノワールはこの辞書の中で新しい綴り方を用いました.
 これが受容れられ,「顎」を意味する単語ar chikと「肉」を意味する単語ar c'hikの区別が付くようになります.
 因みに,chはフランス語の「シ」の発音に近く,c'hはスペイン語のホタあるいはドイツ語のアハラウトの様に「ハ」の様に発音されます.
 更に,前置された母音を鼻母音化する為に,二重のffを放棄しました.
 名字のHenaffは発音がHenanとなります.

 20世紀に入ると,先に述べたKerne,Leon,Tregerを統一する為にKLTが生まれますが,ヴァンヌ方言が考慮されていなかった為,1941年に作家のグループがKLTGの下に4方言を纏めました.
 これはブルトン語名で,Kerne,Leon,Treger,Gwenedの頭文字を組合わせたもので,brezhoneg peurunvan,つまり完全統一ブルトン語と呼ばれていますが,一般にはbreton zhと呼ばれました.
 先のBZHの様に,KLTにある[z]と,Gwenedにある[h]を考慮した為です.

 更に,1956年になると司教座聖堂参事会員フランソワ・ファルハムにより,fulhuneg(「大学綴り」)と言うものが考案されます.
 これはファルハムがレンヌ・ブレスト大学教授でもあり,彼が大学で用いた事に依るものです.

 かくして,ブルトン語の綴りは,KLT,KLTG(zh),falhuneg,Gwenedと4つの綴り方が作られてしまいました.
 この為,教育機関でも綴り方が分れており,ブレスト大学のEmgleo Breiz(ブルトン語文化財団)は一般綴りを推奨しているのに対し,レンヌ大学のKuzul ar Brezhoneg(ブルトン語評議会)ではzhを奨めていたりします.

 ブリテン島やアイルランド島,マン島と言った大西洋に浮かぶケルト語派は,それぞれの地域で1つの言葉に統一する事が出来ました.
 アイルランド語は第1公用語に昇格した事で統一が為され,スコットランドのゴール語も苦も無く標準化しました.
 マン島語はその島嶼性から分裂する事が無く,コーンウォール語は一端絶滅した事で,新たな伝統が生まれつつあります.

 それに対し,ブルトン語は大勢力であるラテン語,そしてフランス語に抵抗してきていましたが,方言の中でどれ1つとして権威あるものとして強制される歴史はありませんでした.

 現在,小中学校教育では,1991年の段階に於て,22の学校で早期教育が為され822人が受けています.
 また,ブルトン語とフランス語の2言語併用教育は,1991年の段階で545人が受け,内300人は母語として受け,その数は13の学校に及んでいます.
 なお,パリ,クレテイユ,ヴェルサイユの幾つかの高校でもブルトン語を教えている学校があります.

 高等教育では,1991年にレンヌのオート=ブルターニュ大学で約400人がブルトン語の教育課程を採っており,1981年から学士,1986年から中等教員CAPES免状,1989年からは大学一般教育DEUG免状があります.
 ブレストの西ブルターニュ大学,パリ第3大学,第4大学でも,同じような免状取得課程が有り,数十人が登録しているとの事です.

 こうした教育を受けた若者達は,何らかの標準化の必要性を意識しており,この言語の再興,教育,普及に力を入れています.
 一方,教育を受ける前の田舎の老齢者層は若者よりはるかに人数が多いのですが,減少化傾向にあり,ブルトン語の話者が年々減って行く原因にも成っています.

 フランスと言えば,中央集権が非常に強い国ではありますが,言語的には最近徐々に分権化が進んでいっているような感じですね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/07/23 23:13
青文字:加筆改修部分


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