m

准トップ・ページへ戻る

◆◆◆◆プーチン史
<◆◆◆ウラジーミル・ウラジーミロヴィッチ・プーチン
<◆◆大統領関連
<◆総記
ロシアFAQ目次


 【質問】
 プーチンはどんな子供だったのか?

 【回答】
 現ロシア連邦大統領ウラジーミル・ウラジーミロヴィッチ・プーチンはスターリン時代末期の1952年10月7日,レニングラードで非常に貧しい労働者の家庭に生まれた.
 大祖国戦争の爪あとがまだ残っていたレニングラードであった.

 プーチンの自伝「第一人者」(邦訳 プーチン自らを語る)によると,プーチンの父親ウラジミル・スピリドノビッチは戦争中,治安機関であるNKVDの破壊工作部隊に所属し,ドイツ軍に対する破壊工作任務についていた.
 しかし戦闘で重傷を負い,片足が不自由になった.
 戦後はレニングラードの鉄道車両工場で機械技師として働く.
 腕は良くて,工場の皆から尊敬されていたと言う.

 母親マリア・イワノブナはトヴェーリ州出身で夫が前線で戦っていた間,ドイツ軍によって包囲されたレニングラード900日間を耐え抜いた.

 夫婦には戦前二人子供が生まれたが,その二人とも残念ながら戦争中に病気や飢餓で死んでしまった.
 そんな中母が41歳に生んだ子供がプーチンである.
 プーチンは両親の愛情や期待を一身に集めた.

 よく知られていることだが,プーチンの祖父は腕の良い料理人で,レーニンとスターリンの料理人を長く務めていた.

 プーチンと両親の三人家族で,レニングラード中心部のバスコフ通りの共同住宅の五階に住んでいた.
 生活は非常に貧しかったと言う,
 当時の学校の教師であるヴェーラ・グレーヴィッチも,家庭訪問のときのことをこう回想している.
「私はプーチンの家を家庭訪問しました.
 彼がどんな状態で暮らしているのか,どんな家族だったのか,見てみたかったのです.
 家は共同住宅でした.
 何の設備もありません.お湯も風呂もありませんでした.
 トイレもひどいもので,寒く,ぞっとするようなものでした.
 階段はかなり急で歩きにくく,滑りやすかったです」

 当時プーチンはよく,友達とこの共同住宅で一緒に棒を振り,階段の吹き抜けにいるネズミを追い掛け回していた.
 好きな食べ物は目玉焼きで,自分で一日に何回も作っては食べていた.
 プーチンは後に少年時代の暮らしぶりについてこう語っている.
「裕福ではありませんでしたが,自分を不幸だと感じた事はありませんでした.
 私の少年時代はソ連時代や今のロシア市民と基本的に同じか,少し良かったと思います.
 重要なのは私が暮らした物質的な条件ではなく,精神的なことでした.
 両親は私を非常に愛してくれました.それらをいつも感じていました.
 両親にとても感謝しています.
 この愛情が私の性格を形成した基本的なものだったと思います」

 プーチンは共同住宅と同じ通りにある,近くの第193中等学校に通った,
 4年生から8年生までプーチンにドイツ語を教え,大きな影響を与えたヴェーラ・グレーヴィッチによれば,プーチンは母親似であるが,頑固で勤勉な性格は父親そっくり.頭が良くて,特に記憶力は抜群であったが・・・
 意外にも相当な問題児であったらしく,学校に遅刻・悪ふざけをし,6年生までピオネール(共産少年団)にも入れなかった.
 後に彼自身相当なワルであったと認めている(笑)

 しかし6年生になると彼は態度を一変させる.
 ヴェーラ・グレーヴィッチによれば
「ワロージャ(プーチンの愛称)は六年生になると,自らがらりと変わりました.
 彼が自分で目標を立てた事は明らかです.人生で成し遂げるべき何かを知ったのでしょう.
 成績をあげようとし,簡単にやりとげました」

 プーチンは4年生からドイツ語を学んだが,何故ドイツ語なのか?は不明である,
 この言語が,彼にとって重大な役割を果たす事になるは間違いなかった.
 後にKGBに入り,東ドイツで勤務することになるからだ.

 ドイツ語並び,彼の人格形成に大きな影響を与えたのは柔道である,

 〔略〕

 プーチンは映画が好きで,新しい映画が上演されるたびに映画館に通っていた,
 また当時の人気歌手ヴィソツキーの歌をよく歌っていたと言う,
 しかしダンスや芝居にはあまり関心がなく.むしろスポーツに熱中していた

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)

CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月07日20:08

 プーチンが育った「共同住宅」とは,коммуналкаのことでしようね.
 単なる水まわり共用のアパートではなく,本来ならば一世帯が入るべきフラットを複数世帯でシェアしている,本当に高密度の共同生活といいますか.
 ソ連の産業発達期は都市に人口を吸い上げつつも,都市には一向に住宅が建設されなかったので,こういう無理な手法でお茶を濁していたようです.
 プーチンもこうした生活をしていたとは….

晴天@日曜西ふ08a in mixi,2007年08月07日20:26

Young Putin


 【質問】
 なぜプーチンは柔道を始めたのか?

 【回答】
 プーチンは10歳頃からボクシングを習っていた模様.
 本人の自叙伝によれば,自分は子供の頃喧嘩早いところがあったらしく,ボクシングを習い始めたが,鼻を折ったのでやめたらしいです.
 あるロシア人曰く
「エリツィンだったら相手の鼻をへし折っていただろうね」
と両者を比較していたようです.

 その後サンボに興味を示すますが,サンボのコーチが自分の弟子達を柔道に転向させたのがきっかけで,プーチンは柔道の道に進みました.

CRS@空挺軍 in mixi,2008年02月14日18:24

 当時プーチンに柔道を教えたコーチのアナトリー・ラフリンはこう証言している.
「さまざまな体重の選手が対戦する無差別級の試合が行なわれました.
 ワロージャ・プーチンは相手が誰であろうと,対戦を避ける事は絶対にありませんでした.
 体重が100キロやそれ以上の選手と対戦することもありました.
 彼は向こう見ずなことをしたわけではありません.自分が負けないことを単に知っていたのです.
 こうしてトラックと軽自動車の試合が行なわれたのです.
 しばしば勝利したのはプーチンでした」

CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月07日20:08

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)
『プーチンのロシア 法独裁への道』(袴田茂樹著,NTT出版,2000.10)

 ちなみに,小林和男氏は2003年5月26日にモスクワ郊外ノヴァアガリョーヴァの大統領公邸で,プーチン大統領とのイタンビューに成功している.
 『狐と狸と大統領 ロシアを見る目』(小林和男著,日本放送出版協会,2008.2)より.

引用開始-------------------

P50 不良を大統領にした人

「私は少年時代,ワルだった.
 街で喧嘩ばかりしていた.
 相手をやっつける力をつけるためにボクシングやレスリングをやった.
 その中で柔道に出会った.
 柔道のセンセイ(注1)がよかった.
 まず柔道は礼だと教えられた.
 何のことか分からなかった.
 次に柔道は相手に対する敬意だと言われた.
 これも分からなかった.

 しかし練習を重ねるうちに分かってきた.
 力を見せるには畳の上で鍛錬し,畳の上で相手を負かせばいい.
 街で喧嘩をしなくてもいい.
 私は柔道に出会って助けられた.
 柔道のセンセイに出会っていなかったら,今そうなっていたか分からない」

 プーチンはそんなことを嬉しそうに話し,予定の一時間をオーバーして公邸の敷地の中の道場に案内してくれた.
「柔道は日本の歴史と伝統文化が生んだ,
 単なるスポーツではなく哲学だと思う.
柔道から学んだことはとても大きい.」

-------------------引用終了

 著者はこの「センセイ」に興味を示し会うことに決めた.
 センセイはモスクワ郊外北西へ60キロ,オギニコヴォというスポーツ施設でロシア女子柔道選手の練習を指導していた.

 センセイの名前はセルゲイ・ラフリン(注2),66歳,小柄だが,眼光が鋭く耳が大きい.
 きちんとした礼儀で著者を迎えた.
 早速,著者は
「プーチン少年はどれほど不良だったか?」
という質問をしてみたが,プーチン自身はかなりのワルだったと話していたが,ラフリンさん曰く少し見方が違っている.

引用開始 -------------------
P51

「彼が仲間とともにサンクトペテルブルク(当時はレニングラード)の道場にやってきたのは1965年,彼が13歳の時だった.
 不良といえば不良だったのかも知れない.
 対ナチス・ドイツ戦の後遺症で生活はまだ苦しく若者は皆荒んでいて,喧嘩するのが当たり前だった.
 その中で特にプーチンが悪かったということは気がつかなかった.
 プーチンは真剣に真面目に練習に取り組んだ.
 その結果二,三年後には,確かに態度が変わってきた」
と言う.
 態度の変化が分かったくらいだから,やはりプーチン少年は悪かったのだろうと納得する.

「どういう教え方で影響を与えたのか」
という問いに,ラフリンさんの教育者としての面目が覗いた.
「私はスポーツのコーチだが,ただ選手が強くなるだけのことには興味がない.
 スポーツが上達すると同時に,社会の中のよい人間となっていかなければ教える甲斐がないと思っている.
 柔道の選手の中には勝ちたいという一念だけで,ルールや伝統をないがしろにしてしまう人もいる.
 アテネ・オリンピックでもフランスの選手の中にそういう人がいた」
 率直でなかなか厳しい人だ.

「コーチとして人間の成長にどうやって影響力を与えるのか」
という質問に,
「まず言葉だ.
 次に行動で模範を見せる.
 能力のあるものは,その模範を感じ取るものだ」
と言う.
 根っこからの教育者だ.

 プーチン少年は同時に勉強もさぼらず,柔道をやりながら一番の難関,国立レニングラード大学の法学部に入った.
 そして大統領になった.

引用終了 -------------------

 ラフリンさんは日本人から直接指導を受けたことはないと言っている.
 元々はロシア式柔道サンボの選手であったが,東京オリンピックで柔道を知り,転向したという稀の経歴を持っている.
 著者が見る限りでは柔道の精神は見事に体得していることだ.
 今でもラフリンさんの元にプーチン大統領が時々会いにやってくるという.
 そして彼の本質を示しているのがこの質問.

引用開始 -------------------

P52
「大統領としての評価は?」
と尋ねると
「大統領の評価というものは,時間が経ってみなければ分からない」
と言う.

引用終了 -------------------

 自分の弟子が国の最高指導者になっても手放しで褒めないその精神に恐れ入りました.
 少年時代に出会ったこの「柔道」が,プーチンに与える影響力は果てしなく大きかったようですね.
 またこの柔道の先生がプーチンに与えた影響も考えてみると興味深いものです.
 この先生は教育者としての鏡のような人物だと思いました.

引用者注

注1 インタビューの中でプーチンはロシア語ではなく日本語を使ったとのこと

注2 以前私が紹介していた本「 ドキュメント・プーチンのロシア 」ではコーチの名は「アナトリー・ラフリン」であるが,この本では「セルゲイ・ラフリン」となっている.
 どちらが正しいのか判別不能.

CRS@空挺軍 in mixi,2008年03月10日18:19

柔道一直線



 【質問】
 プーチンと,その奥様との出会いは?

 【回答】
 プーチンの奥様であるリュドミラは,ロシアの飛び地であるカリーニングラードの出身,
 プーチンより5歳年下で,結婚する前の職業は国内線旅客機の客室乗務員でした

 二人の出会いはレニングラード.
 リュドミラは同僚の女友達と二人で3日の日程でレニングラードへ遊びに来ていました.
 友達の彼氏と三人で劇場へ行く事になり,その彼氏は「女の子がくるよ」と友人であるプーチンを誘った.

 リュドミラは,劇場の前に立っていたプーチンの第一印象についてこうコメントしている.
「とても貧相な格好で,街ですれ違っても決して気にもとめないタイプ」

 それでも二人は翌日も翌々日も一緒に劇場に通った.
 3日目の最後の日,地下鉄で別れる間際にプーチンは,踏ん切りをつけたかのように,彼女に自宅の電話番号を伝えた.
 職業柄や彼の個人的な性格から判断しても,この行動はプーチンらしからぬものである.
 ちなみにプーチンはリュドミラには最初,自分の職業については「職業は警察官だ」と話していたという.

 リュドミラとは三年付き合って結婚した.

 まぁ
「ご職業は?」
と聞かれて,いきなり
「KGBの人間だ」
と言ったら,そりゃ引かれるわな(笑)

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)

プーチンとリュドミラ


CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月18日23:32


 【質問】
 プーチンとアナトリー・ソプチャクとの関係は?

 【回答】
 レニングラード国立大学の先生と生徒であった.
 またプーチンを登用した重要人物であり,彼がプーチンを登用しなかったらプーチンは大統領にはなれなかった.

 プーチンはレニングラード国立大学時代にソプチャクの下で学んでいたが,彼自身そんなに親しく面倒を見てもらった記憶はないらしい.

 プーチンが学長の国際担任補佐に就いた時には,ソプチャクは民主改革派の代表格で,レニングラード市ソビエト議長〔市長相当〕に就任していた.
 ゴルバチョフ時代,ソプチャクは改革派政治家の代表の一人だった.

 友人から
「彼(ソプチャク)には手下がいないんだ.彼の元で働いてみたらどうだい?」
とアドバイスを受けて,市行政府のドアを叩いた.
 ソプチャクとの面談では,自分がKGB出身で,いまだに在籍していることを素直に話した.
 ソプチャクは「まっ,まぁ,いいだろう」と彼を採用した.
 民主改革の大物となった元先生とKGB出身の元学生が手を組んだ瞬間であった.
 プーチンは中佐でKGBを辞め,ソプチャクの政治担当顧問となった.

 何故彼らは手を組んだのか?
 ソプチャク自身は「大学の教え子だったから」とコメントしたが,プーチンを通じてKGB人脈を市政運用に利用しようと考えてたふしがある.
 一方KGBも影響力が低下してたとはいえ,ソプチャクの動静を探る絶好の機会と考えてたかもしれない.

 サンクトペテルブルク出身で当時の市政に詳しい元ロシア高官は
「プーチンは当時から名誉を重んじ,自制心が強い人物だった.状況を冷静に判断する能力も高かった」

 採用の経緯については元高官はこう証言する.
「ソプチャクが市政執行のためプーチンを呼んだというのが定説だが,KGBがソプチャクの監視ならびにソプチャクとの関係作りのためにプーチンを送り込んだというのが実情だった」

 このように影では色々囁かれた,プーチンのレニングラード市政行政府登用であったが,ソプチャクの下で極めて有能な内務官僚として頭角を表していく.

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)
『プーチンの帝国』(江頭寛著,草思社,2004.6.22)

 なお,ソプチャクをサプチャクと表記する書籍もあるが,ここではモスクワ特派員歴30年以上で,もちろんロシア語を解する江頭寛の表記であるソプチャクに統一した.

CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月22日20:33
&消印所沢(青文字)



 【質問】
 レニングラード市政行政府でのプーチンは?

 【回答】
 ソプチャクの右腕として手腕を発揮しまくった.
 ソプチャクはプーチンをベタ褒め(笑)

 レニングラード市政行政府での最初の肩書きは,ソプチャクの国際関係担任顧問.
 当初は安全保障担当も兼任していた模様.
 91年にソプチャクが,レニングラード市長に当選.
 レニングラードはその後間もなく,保守派クーデター未遂事件を受けて,サンクトペテルブルクに改名.
 プーチンはソプチャク率いる市の対外関係委員会議長に就任.
 92年から94年までは副市長兼対外関係委員会議長.
 94年から96年までには第一副市長を務めた.

 プーチンは「ソプチャクの右腕」との評価を得ていた.
 これは彼がソプチャクのそばにいた6年あまりの間変わらなかった.

 プーチンは市場経済に適合した環境を早急に整えるために,国営企業の民営化や外国資本の誘致に積極的に取り組んだ.
 プーチンの働きかけで,外国銀行の支店開設に成功.
 市内に投資地区を設けて,コカコーラやジレットなどの外国企業の誘致に成功.

 また保守派クーデター未遂事件にはソプチャクと共に行動し,一貫してクーデターに反発し,民主派を支持した.
 当時モスクワにいたソプチャクは,ロシア最高会議ビルに立て篭もって保守派と対決したエリツィンを支持し,サンクトペテルブルクに戻って同じような行動をとろうとした.
 プーチンは地元のKGB支部と連携して,空港にソプチャクを迎え護衛した.


 プーチンは,90年にいったん辞表を提出したが,受理されていなかったKGBへの辞表を再度提出し,事件解決前に受理してもらった.
 事件後は「ロシアの選択」「我が家ロシア」などの政権寄りの改革派政治組織を後押しするようになる.

 ソプチャクはこう証言する.
「プーチンは,合併企業を創立したり,外国銀行の支店や代表部をサンクトペテルブルクに開設したりするのに大変大きな仕事をしています.
 1995年までにサンクトペテルブルクにはロシアで登録された合併企業のほぼ半数があり,外資導入の面では他の都市よりかなり抜きん出ていたのですが,これはプーチンの努力に負うところが大きいと思っています」

 KGBに勤務していたというプーチンの告白インタビューをとった映画監督のシャトハンは,当時のプーチンの仕事ぶりについてこう証言している.
「プーチンは元気一杯で,仕事が気に入ってる様子でした.
 プーチンがドイツ語を自由に喋っているのを目にしました.
 仕事に打ち込んでる人間を見た感じでした.
 サンクトペテルブルクではあれこれの建物を誰に譲り渡すかという問題が続出し,対外連絡委員会はあわただしい雰囲気に包まれていました.
 例えば,市の中心にある立派なレニングラードホテルを何処かの外国人が買い取りたい,あるいは賃借りしたいと言っているなどの問題が起きていました.
 あの頃,創立された合併された合併企業にも問題が山積していました.
 プーチンは毎日の仕事に忙殺されていたのです」

 やがてプーチンが第一副市長に就任したさいには,ソプチャクは全面的に信頼を寄せている.
「サンクトペテルブルクで私が市長をしていた時に,彼は第一副市長でしたが,態度は極めて控えめで,人目につかず,私生活はこんな要職につく以前とまったく変わったことはありませんでした.
 権力欲がなく,遠慮深いこと.これがプーチンの特徴です.
 決して人をだまさず,違法な決定には絶対に署名せず,つねに法律を守る誠実な人物であることを知り,信用していました.
 それにプロとして事務を処理するすべを心得ていました.
 私が市長を務めていた6年間,留守を任せる事ができたのはプーチンだけでした.
 彼の特徴は仕事振りの確かさ,慎重さでしょう.決定を下す前に徹底的に考え抜きます.
 仕事をするすべを承知していて,よく働きます.
 一日の大部分を仕事に費やすモーレツ型です.
 もう一つ,タバコも吸わなければ,酒も殆ど飲まないという,ロシアの政治家としては珍しい人物で,仕事一筋に生きるタイプです」

 プーチンの影響力はソプチャク市長のもとで増大したが,陰の立場にとどまり続けた.
 他の副市長が市長のそばに並んでいる中で,プーチンはいつも末席を占めていた.
 しかしソプチャクへの影響力は絶大だった.
 ソプチャクは市政に関するほとんど全ての決定を,プーチンに委ねていると噂されていた.
 ロシアでは権力を陰で操る人物を,よく「灰色の枢機卿」と呼ぶ.
 サンクトペテルブルクではプーチンがそう呼ばれていた.

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)
『プーチンの帝国』(江頭寛著,草思社,2004.6.22)

CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月22日20:33
&消印所沢(青文字)




 【質問】
 なぜプーチンはサンクトペテルブルク市で,支配的役割に就くことができたのか?

 【回答】
 江頭寛によれば,プーチンはサンクトペテルブルクの実質的支配者だったKGBから市政に送り込まれた利益代表だったのだという.
 サンクトペテルブルクでは企業はマフィア組織からのみかじめ料の要求に悩んでおり,KGBは,その状況から抜け出すために援助しようと持ちかけることで,企業と癒着していったという.
 またKGBは,サンクトペテルブルクの権力機構内部に,独立したグループを形成しており,彼ら無しではどのような政治的合意・経済的決定も行われないほどの影響力を持っていた,と江頭は述べる.

 詳しくは,江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.206-207を参照されたし.

プーチン・フォルダより



 【質問】
 レニングラード市政行政府時代でのプーチン汚職疑惑について詳しく!
 やっぱ政敵を謀殺したの?!

 【回答】
 市の食料危機を解決するために,希少金属の輸出を認める代わりに,食料を輸入するという契約を民間の貿易会社と交わした.
 サンクトペテルブルクは港湾都市かつ軍需生産の都市で,工場には軍需用の希少金属などはじゅうぶんにあった.
 プーチンの対外関係委員会の主導で,食料と希少金属の交換契約が結ばれた.
 しかし,希少金属は安売りされたが,食料は到着しなかった.
 そこで,
この契約でプーチンは食料調達の名目で希少金属の違法な海外持ち出しに関与したという疑惑 が持たれた.

 殺してはおりませんが,告発したマリーナ・サリエ食料委員会委員長は解任されました.
 以下引用.

「あなたの汚職疑惑を徹底的に追求するわ」
「あなたにとって良くないことが起きますよ」
 マリーナ・サリエの脳裏には,わずか数分で決裂したプーチンとの会談場面が今でも鮮明に焼き付いている.
「きりっと私を見据え,妥協の余地を一切見せなかった」
とサリエは振り返る.
 場所はサンクトペテルブルク市議会の一室.92年末のことだった.
 サリエは当時,女性の市議会議員で食料委員会の委員長.
 サリエが提起した「汚職疑惑」は91年冬から92年にかけて,市政府が進めた「不明朗な食料調達」だった.

 当時はソ連崩壊前後の混乱期で,サンクトペテルブルクに限らず各地で食糧不足が深刻化していた.
 連邦中央政府は危機打開策として,主要な地方行政府に対して,石油や木材,希少金属,非鉄金属など主要な資源を海外に売って,海外から食料を調達することを許可した.
 サンクトペテルブルクでは仲介業者を選択を含めて,プーチンが一連の取引の統括役となった.

 ところが市内の食料不足は一向に解決しない.
 疑問に思ったサリエは91年12月中旬,市行政府に資料の提出を求めたが返答はない.
 市議会は翌92年一月に調査委員会を発足させ,サリエが調査委員会に就任,追及姿勢を強めた.
 数日後,プーチンはようやく取引の一覧表を提出したが,契約原本などの提出は機密を理由に拒否したという.

 その後に断片資料を集めて追求したサリエは,当時を振り返ってこう話す.
「プーチンが提出した一覧表では契約案件が合計11件で,外貨収入が1496万ドル.
 しかし実際の契約原本を照合すると,6件の合計額だけで2658万ドルに達していた.
 1000万ドル以上の差額は何処へ消えたのか?
 しかも個々の契約では,仲介業者の手数料が外貨収入の25%と高かったり,えたいのしれないドイツ人が株主となっている企業が仲介業者となり,国際市場価格の十分の一以下で資源を売却したりしたケースもあった」

 疑惑を確信したサリエは検察当局にも捜査を要請したが,「違法性はない」との結論が出た.
 プーチンが予言した「良くないこと」が起きたのはそれからまもなくだった.
 サリエは食料委員長を解任されてしまったのだ.
 結局,真相は闇の中だ.

――『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)

 プーチンが関わっていたのは事実だろうが,どのくらい関わっていたのかについては,この先も闇の中だろうね.

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)
『プーチンの帝国』(江頭寛著,草思社,2004.6.22)

CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月22日20:33
&消印所沢(青文字)

脅迫するプーチン

逮捕されるプーチン(想像図)

 【質問】
 「バーター・スキャンダル」に関与した人物は?

 【回答】
 江頭寛によれば,「ストリム」という会社を通じて,非鉄金属を輸出する事業に参加したのが,プーチンの他,
PTK社長ウラジーミル・スミルノフ,
ロシア銀行の株主の1人ウラジーミル・ヤクーニン等,
そしてクム

 詳しくは,江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.200-201を参照されたし.


 【質問】
 国内資源と輸入食糧のバーター取引を特別枠で行ったのは,プーチンが最初か?

 【回答】
 いいえ.
 ゴルバチョフ政権時代にはすでに,1986年に創設されたソ連邦「文化基金」がそのようなことをしている.
 ゴルバチョフ夫人ライサが,同基金のモスクワ支部長を引き受けているが,寺谷弘壬によれば,同基金はモスクワ最大のマフィア組織,ソーンツェヴォ組の2代目親分ミハシ(本名S.ミハイロフ)が牛耳っており,免税特権の貿易や興行でミハシは金をかき集めていたという.
 1989年12月にミハシは2度目の刑務所行きになっているので,ライサ夫人がミハシのことを知らなかったとは考えにくい,と彼は述べている.
 ちなみに,会長として采配を振るうようになったライサ夫人は,「でしゃばり女」と陰口を叩かれるようになったという.

 詳しくは寺谷弘壬著『ロシア・マフィアが世界を支配するとき』(アスキー・コミュニケーションズ,2002/11/4),p.14-15を参照されたし.

 【質問】
 「21thトラスト」疑惑とは?

 【回答】
 江頭寛がスペインの報道を引いて述べるところによれば,サプチャク市長とその側近グループが,建設会社「21thトラスト」を通じ,サンクトペテルブルク市から2250万ドルを持ち出し,そのうち300万ドルをスペインでの土地・不動産買収に不正流用したとされる疑惑.
 プーチンの仲介により,230億ルーブルの低利融資を同社が導入するという形がとられたという.
 監査が入るや,同社は破産手続きに入ったが,1997年のプーチンの別荘の火事の際に,修理費用6万ドルを同社が負担するなど,プーチンが大統領府入りしてからも両者の接触は続いた,と江頭は述べている.

 詳しくは,江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.204-205を参照されたし.

プーチン・フォルダより



 【質問】
 レニングラード市政行政府時代でのプーチンの同僚や関係者の評価は?

 【回答】
 当時サンクトペテルブルク市役所で一緒に勤務し,プーチン政権下で大統領府副長官を務めているドミートリー・コーザクは,今も昔も変わっていないと証言する
「1990年12月に初めて会った時,第一印象はとても良かったですね.
 実に落ち着いていて,野心などは少しもなく,地位よりも仕事が大事だというタイプでした.
 職務柄,殆ど毎日のように会っていますが,人間対人間の付き合いでは,昔のままのプーチンです.
 同僚に対する態度はいつでも礼儀正しいものでした.
 もちろん厳しい態度を取る事がありますが,礼節の枠を踏み出す事は決してありません.
 声を荒げることは絶えてないけれども,彼の厳しさはいつでも感じることができます.自分にも部下にも高い要求を出しているからです.
 ヒステリーなど,プーチンにはまったく縁がありません」

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)

CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月22日20:33




 【質問】
 サンクトペテルブルク時代のプーチンの収入源は,市の役人としての報酬だけか?

 【回答】
 貿易会社を複数経営し,利益を得ていた.
 以下引用.

 プーチンはこの時期に,幾つかの対外貿易会社を作って利益を上げていた.
 もちろん直接に経営していたわけでなく,過去にKGBと繋がりを持つウラジーミル・ヤクーニンという人物を通じて企業経営をさせていた.
 ヤクーニンは,郊外の湖のほとりにある別荘も,プーチンと隣り合う仲だった.
 プーチンは後にヤクーニンを鉄道省第1次官に抜擢するが,利権を任せるほどの信頼を置いていた.

江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.82

 のちにプーチンは大統領就任時,政敵系のマスコミからは「経済には素人」などと批判されていたが,ロシア経済を立て直すことで,そうでないことを実証した.
 もしかしたらこの時期に,経済にも強くなったのかもしれない.




 【質問】
 プーチン初来日はいつ?

 【回答】
 『プーチンのロシア 法独裁への道』(袴田茂樹著,NTT出版,2000.10)によれば,実はプーチンの初来日は1995年,
 当時,サンクトペテルブルク副市長として,日本政府が主催した各国のオピニオンリーダー(ジャーナリストや政治家や役人etc)を招くプログラムにより,単独で来日.
 サンクトペテルブルク市でのプーチンは超目立たないのが特徴でしたが,面白いことに直接プーチンを招聘し,彼に会っている外務省の関係者も印象が薄すぎて,彼のことを殆ど覚えていなかった(笑)

CRS@空挺軍 in mixi,2008年02月14日18:24

プーチン近影



 【質問】
 サンクトペテルブルクではこれまでようなの生活が続いたのか?

 【回答】
 続かなかった
 奥様は事故で大怪我するわ,新築した別荘は焼失するわ.
 最大の打撃はサンクトペテルブルク市長選でソプチャクが敗れてしまったこと.
 ソプチャクのスタッフは選挙期間中に「もしソプチャクが敗れたら,彼のスタッフ全員が辞職する」という誓約書を書いたが,これを率先して作成したプーチンは,この誓約書通りに第一副市長を辞職した.
 後任のヤコブレフ市長はプーチンの功績を高く評価していた.
 彼はプーチンに対して
「副市長として一緒に仕事しないか?」
と持ちかけたが,プーチンはこれを拒否した.

 ソプチャクはこう証言する.
「プーチンは自分で自分を作り上げるたちの人間です.
 有力な人物の助けをかりて出世の道を開くような人間ではありません.
 実は96年の市長選で私が落選した時,プーチンはヤコブレフ市長のもとで働く事を拒否し,失業してしまったのです」

 友人である映画監督シャトハンは,この時プーチンに合併会社の社長ポストの提案があったと証言し,プーチンは大いに悩んでいたという.
「プーチンが国家公務員として残るかどうかの問題の解決を迫られたのは,ソプチャクが市長選挙に敗れてしまった時です.
 この時,ある会社の社長ポストを勧告されました.
 この提案を受けるか,または国家機関に残るのか.
 しかしヤコブレフのもとでは働きたくない.
 待ちの姿勢をとることになります.
 このかなり困難な時期のプーチンを私は見ています.
 いつでしたか,二人でレストラン『ヨーロッパ』に出かけました.
 レストランではテーブルに着いたままどちらも口をききません.
 前にはかっきり50グラムのブランデーが入ったコップがおいてあります.
 あらこちに石のある庭園で日本人がよくやるように,小一時間ほど黙っていました.彼は考え事をしているのです. 何かの問題の解決方法をしきりに探しているのです.
 友人達の集まりの中でさえ,プーチンは席を立って外に出て行くことがあるそうです.
 場所が場所なら庭を散歩するでしょう.一人になりたいのです.一人でじっと物を考えたいのです.
 自分で自分を問うてみる.そういうタイプの人なのですね.
 プーチンは自問自答するすべを心得ています.
 考えることのできる人間なのです」

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)

CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月27日20:44

悩むプーチン

日本食に挑戦するプーチン


 【質問】
 なぜプーチン・ソプチャクのコンビは1996年6月の市長選で敗れたのか?

 【回答】
 収賄疑惑が大きなダメージとなったため.
 それにより選挙資金が不足し,敗北した.
 以下引用.

 95年5月,ソプチャクがある建設会社から,号かなアパートを提供されていたという収賄疑惑が起きた.
 同年10月には検事総長ユーリー・スクラートフが,サンクトペテルブルク市長を巡る収賄捜査グループの立ち上げを命じた.
 プーチン側から見えれば,明らかに翌年の市長選挙を見据えたソプチャクへの攻撃だった.
 ソプチャクの対立候補だったウラジーミル・ヤコブレフには,モスクワ市長のルシコフが支援を提供していた.

 プーチンはソプチャク再選のために,副市長の同僚,アレクセイ・クドリンとともに奮闘した.
 市の有力企業経営者やマフィアのボスにも掛合い,選挙資金の支援を要請した.
 しかし彼らの反応は冷たかった.
 収賄疑惑追及の焦点になっているソプチャクを支援するのは,あまりにもリスクが大きかった.
 資金不足のソプチャク陣営は,選挙間近になってもテレビ・コマーシャルも打てず,結局1996年6月の市長選挙で惨めな敗北を喫した.
 落胆したプーチンは,市政に残るようにとの新市長ヤコブレフの要請を振り切って,サンクトペテルブルクを後にした.

江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.82-83

 しかも選挙後も,この収賄疑惑は尾を引き続け,プーチンらをピンチにする.
 再び引用.

 1997年秋,2年間くすぶっていた前サンクトペテルブルク市長ソプチャクの収賄疑惑が,最終段階にさしかかった.
 この容疑は,チュバイスを筆頭とする「サンクトペテルブルク・グループ」にとっては大きな脅威となった.
 もしソプチャクが逮捕されたら,収賄問題にとどまらず,サンクトペテルブルクの民営化に絡む数々の不正を暴露してしまう可能性があったからだ.

 すでにソプチャク市政時代の3人の市幹部が逮捕されていた.
 ソプチャクの妻リュドミラ・ナルソワはロシア下院議員になっていたが,しばしばプーチンを訪ねて2人きりで対策を話し合っていた.
 ソプチャクへの逮捕状を最高検が用意したとの情報を,ナルソワが聞きつけ,プーチンは動いた.

 10月,ソプチャクは心臓疾患を理由に,サンクトペテルブルクの軍事医学アカデミー付属病院に入院した.
 1ヵ月あまり病院に篭った後のある日,空港へソプチャクを乗せた救急車が滑走路に直接乗りつけた.
 ソプチャクと妻は,待っていたフィンランドの小型チャーター機に乗り込み,パリに向けて飛び立った.
 ソプチャクはその後2年近くロシアに戻らなかった.
 このソプチャク脱出劇を演出したのはプーチンだったとされた.
 そのときプーチンに協力した軍事医学アカデミー所長のユーリー・シェフチェンコは,ステパーシン内閣で保健相のポストを与えられた.
 推薦したのは,プーチンの意を受けたチュバイスだった.

同,85

 もしヤコブレフ市長の下にプーチンが留まっていたなら,どうなっていたか分からない.

 そしてまた,このことが後のスクラートフへのリベンジへとつながっていく.




 【質問】
 後にプーチンはどのようにして,サンクトペテルブルクの市政を奪還したのか?

 【回答】
 江頭寛によれば,ソプチャクを選挙で破ったウラジーミル・ヤコブレフについて,まずサンクトペテルブルク市の規則には3選禁止規定があることを利用して,同市の裁判所に
「2004年にはヤコブレフは市長選挙には出られない」
旨の判断を出させたという.
 しかし同規則は1998年制定であり,遡っての勘定はできないことから,出馬が可能かどうかは議会の判断次第であり,議会への影響力があるヤコブレフの意思次第だった,と江頭は述べる.

 そのため結局,プーチン政権は2003年に入ってから,ヤコブレフとの間に協定を結び,ヤコブレフは出馬せず,同政権の副首相ワレンチナ・マトビエンコを出馬させる代わり,6月にヤコブレフは運輸・住宅サービス担当副首相に任命されたという.

 詳しくは,江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.219-222を参照されたし.

プーチン・フォルダ斉射!



 【質問】
 失職したプーチンに新たな職を提供したのは誰か?

 【回答】
 エリツィン・ファミリーのメンバーで『クレムリンの金庫番』と呼ばれた,パーヴェル・ボロジン大統領府総務局長 .

 ただプーチンの自伝によれば,モスクワでの任官話はすんなりと決まらなかったようだ.
 ボロジンの口利きで,エゴーロフ大統領府長官の補佐官の予定が,突然エゴーロフが解任されでパー.
 後任であるチュバイス大統領府長官がプーチンの任官を取り消したので,モスクワ行きはここで消滅か・・・と思いきや,サンクトペテルブルク出身のボリシャコフ副首相が後押ししてくれ,大統領府の広報局長への就任を提案したが,結局ボロジンの補佐役の総務局次長に就任した.

 何故採用したのかについて,彼はこう証言する.
「ウラジーミル・ウラジーミロビッチ(プーチン)とは古馴染みだったのです.
 いたって礼儀正しい,腕っこきの物分りのよい人物だと思っていました.
 そのプーチンが1996年の選挙で敗北して困難な状況に置かれていた時,大統領府総務局次長のポストに招いたのです.
 彼は次長のポストに就任し,9ヶ月間一緒に仕事をしました.
 ずばぬけて物分りがよく,非凡な実務の才をそなえた人物でした」

 こうして1996年八月 エリツィンが大統領選で再選を果たした一ヵ月後,プーチンは故郷サンクトペテルブルクを立ち,首都モスクワへ向かった・・・・この時空港で地元TV局のインタビューを受けた

記者  「モスクワではどの派閥に所属するのですか?」
プーチン「私にはパママとパパしかいません.
 モスクワのことは知りませんが,人を派閥で分けるのは間違いです.
 私がモスクワに行くのは,大統領府のボロジン総務局長に呼ばれたから.ただそれだけです.」

 この白羽の矢が,彼を皇帝へと誘う矢だとは,まだ誰も知る由もない…….

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)

CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月27日20:44

 異説もある.
 江頭寛によれば,プーチンをモスクワに誘ったのはチュバイスだったという.
 以下引用.

 プーチンをモスクワに誘ったのは,大統領選でエリツィンを再選させた立役者のチュバイスだった.
 〔略〕
 心筋梗塞で倒れたエリツィンの下で,大統領府長官に就任することを予定していた.
 そこである狙いを持って,プーチンを大統領府総務次長に据えた.

 当時総務局長のパーヴェル・ボロジンは,クレムリンの金庫番の役割を務めていた.
 クレムリンを巡るあらゆる利権の収入が,ボロジンの元に集まっていた.
 チュバイスはその実態を知りたかった.
 そこでプーチンをボロジンの次席として総務局に送りこんだ.
 KGB出身のプーチンはチュバイスに,大統領総務局へのスパイとして入り込むことを承諾した.

 しかしチュバイスとプーチンの狙いは,功を奏さなかった.
 ボロジンはプーチンに海外の資産管理の仕事を与えた.
 その事務所はニキトニコブイ通りの大統領府総務局本部と離れたワルワルカ通りにあった.
 プーチンは,ボロジンとはあまり顔を合わせることさえできなかった.

 プーチンは後に自伝『第一の顔から』〔邦題:『プーチン,自らを語る』(扶桑社,2000.8)〕その他で,自分をクレムリンに誘ったのはボロジンだったと繰り返し述べた.
 しかし現在,それを信じる向きは少ない.
 プーチンがエリツィンの引退で大統領代行になった2000年初頭に,真っ先にクレムリンから排除したのがボロジンだった.
 また1年後,ロシア・ベラルーシ同盟書記に就任していたボロジンが,汚職容疑の国際手配で米当局に拘束されたときも,プーチンは積極的な釈放交渉に動かなかった.
 2人は相いれない敵同士だった.

――江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.83-84

消印所沢



 【質問】
 アナトリー・チュバイスとは何者か?

 【回答】
 1955年生まれ.
 90年代のロシアの市場経済移行を急速な民営化によって主導した,改革派の旗頭.

 レニングラード技術経済大学卒.
 82年,同大学助教授.
 90年,レニングラード市長顧問.
 91年,サンクトペテルブルク市長経済顧問.
 91年11月からロシア国家資産管理委員会議長として民営化に着手.
 92年副首相兼務.
 94年11月,第1副首相.
 96年1月解任.
 同3月からエリツィン再選本部長.
 大統領選挙最中に起きた,部下の財務省からの現金持ち出し事件揉み消しのため,検事総長スクラートフに圧力をかける.
 同7月,大統領府長官.
 97年3月,第1副首相兼財務相.
 97年11月,財務相解任.
 98年4月,電力独占体「統一エネルギー・システムズ(UES)」社長.
 99年5月,スクラートフから,彼の排除圧力に加担していると非難さる.
 同月,ベレゾフスキイと組んで,プリマコフを首相から解任させる.
 2000年夏,チュバイスは知識人,経済人達がプーチンに宛てて発表した「メディア・モスト」抑圧を批判した公開書簡に名を連ねる.
 江頭寛によれば,これはNTV乗っ取りに自分の配下たちが関わったことをカムフラージュするためだったという.

 【参考文献】
江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22)


 【質問】
 チュバイスとプーチンの接点は?

 【回答】
 民営化事業の中で生まれた関係である模様.
 以下引用.
 ドイツ語を話すプーチンは,ドイツのドレスナー銀行を含む幾つかの企業を同市に誘致した.
 為替交換所が開かれ,ホテルも民営化された.
「サンクトペテルブルクの民営化はすべてプーチンによって指示された」.
 元副市長で下院議員にもなったアレクサンドル・ヴェリャエフはこう述べている.
 当時モスクワでロシアの民営化を取り仕切っていたのは,副首相でロシア国家資産委員会議長のアナトーリー・チュバイスだった.
 チュバイスもサンクトペテルブルクでソプチャクの経済担当顧問を務め,プーチンとは同僚の仲だった.
 2人が同市の民営化で連携をとっていた可能性は十分だった.
 ロシア中央の民営化同様,サンクトペテルブルクでの民営化も,多くの不正の疑いがあった.

『プーチンの帝国』(江頭寛著,草思社,2004.6.22),p.82

 要は腐れ縁かと.




 【質問】
 クレムリンでのプーチンは?

 【回答】
 世間ではまったく無名であったが,優秀な内務官僚として,クレムリンでの評判はとてもよかった.
 関係者からも「冷静沈着で忠誠心が厚く,決してでしゃばらない」という声もある.

 ロシア大統領府の総務局は大統領や政府高官の住宅や別荘,車,医療施設の管理を行なう,
 また住宅や別荘の便宜供与は政治取引にも使われる,
 例えば法案の扱いをめぐって大統領と議会が対立したら,総務局は大統領側を有利にするため,議員に住宅や別荘を約束して懐柔工作を行なってるという噂がある.
 ここでプーチンは,法律部門とロシアの海外保有資産を管轄していた.
 KGB時代やサンクトペテルブルクに培った情報収集能力や実務能力を最大限に発揮した.

 ボロジン総務局長はプーチンの実務能力には驚きを隠せなかった.彼はこう証言する.
「1996年のことです.大統領府総務局は世界の78ヵ国(日本も含めて)にロシアの海外資産があることを確かめました.
 ところが,ソ連時代にはこの資産の法的登録がおろそかにされていまして,正式登録の済んでいるのは,78ヵ国のうち5ヵ国にすぎないという状態でした.
 この仕事を引き受けたプーチンは,9ヶ月のあまりのうちに,55カ国にある海外資産登録を済ましてしまったのです.
 これはプーチンが飛び抜けた実務の才能の持ち主であることを示しています.
 あの頃,仕事の能力があり,実務的な行為にあふれた,尊敬する値する人物という印象を受けました」

 1997年3月には,中央省庁や行政機関の活動が適切に行なわれているかどうかをチェックする大統領府管理局長と同時に大統領府副長官に昇進した.
 大統領府長官だったチュバイスは,プーチンの前任者だったアレクセイ・クドリンを伴って財務省に移った.
 チュバイスが第1副首相兼財務相.
 クドリンが財務第1次官.
 「サンクトペテルブルク・グループ」は,大統領府にプーチンを残した形となった.

 プーチンの主な仕事は地域問題.
 彼には,この仕事はつまらなかったらしい,大統領府を辞めようかと思ったとのこと.

 一方でそのころプーチンは,チュバイスの後任の大統領府長官ワレンチン・ユマシェフや,エリツィン大統領次女タチヤナら「セミヤー」グループにも取り入っていた.

 1998年5月には地域問題を担当する大統領府の第一副長官に任命される.
 地方の監督や知事などとの連絡を担当する部署.
 大統領府長官ワレンチン・ユマシェフをはじめとする,「セミヤー」グループにプーチンが支持されたことを示す人事だった.

 プーチンの昇進は,チュバイスの推薦の結果でもあった.
 編者の私見だが,ソプチャク脱出劇がチュバイスに高く評価されたのではないかと愚考する.
 チュバイスはこのころ野に下って,電力独占企業体「統一エネルギー・システムズ(UES)」社長に就任していたが,大統領にも強い影響力を行使していた.


 プーチンはこの部署で,多くの知事と親交を結び,地方を訪れて見聞を広めた.
 背景には政治や経済の大混乱で,中央と地方の行政の縦のつながりが崩れてしまったので,それを再建しようとしたことがある.
 プーチン自身,大統領府ではこの仕事が一番好きだったと言う.

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)
江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22)

CRS@空挺軍 in mixi,2007年09月01日20:47
&消印所沢(青文字部分)

▼ 『プーチンのロシア 法独裁への道』(袴田茂樹著,NTT出版,2000.10)による,モスクワ時代のエピソード.

 プーチンが「モスクワのエコー」という放送局に招かれて番組に出演したときのこと.
 この放送局では伝統として,著名な人物を招いた時には写真を撮り,壁に貼る習慣がある.
 で,プーチンを招いた関係者が
「プーチンの写真を撮って壁に貼るのですか?」
と聞いた,
 これに対して担当者は
「いや,こんな小物の写真を貼っていたら,壁がいくらあっても足りやしない」

 この時のプーチンの役職は「大統領府の監督総局長」です.
 当時の彼の無名ぶりと印象の薄さがよ〜くわかる話でした.
 流石諜報員!姿の隠し方は解っています.
 またペテルブルク時代〜モスクワ時代にかけて政治舞台の裏側を直に見てきたのも,その後の政権運営に活かされているのは,あながち間違った見方でもないかと考えます.

CRS@空挺軍 in mixi,2008年02月14日18:24

わしのプーチン・フォルダは101つあるぞ



 【質問】
 エリツィンはプーチンを最初はどう思っていたのか?

 【回答】
 プーチンが自分に報告する際,他の幹部は擦り寄ってくるが,プーチンだけが実務的で抑制した対応をしたことに関心を持ち,プーチンと話したくなってみたと回顧録に述べている

CRS@空挺軍 in mixi,2007年09月02日20:51

 エリツィンの回顧録には数々の疑問符が投げかけられているが,上記については傍証として,以下の記述を付記しておく.

 部内者(最初はサンクトペテルブルクのソブチャーク市長,次にエリツィン大統領)からは,その有能で忠実な働きぶりが認められたが,同僚から最高権力者候補と見なされることは一度もなかった.
――ロデリック・ライン他著『プーチンのロシア』(日本経済新聞社,2006/11/17),p.29

プーちん&エリちん


 【質問】
 エリツィンが本気で後継者探しを始めたのは?

 【回答】
 自身の心臓手術の後,持病の心臓病が悪化し,手術を受けることになり,これによって健康状態が不安定になったことで,大統領の職務遂行が危ぶまれた.

 また自分の政治路線を忠実に守ってくれる後継者を見つけることは彼と側近グループ「セミヤー」にとって切実だった.
 何せ敵対勢力が政権につけば,報復を受ける可能性があるからだ.
 これではマズい・・・エリツィンは精神的・政治的にギロチンの下にいるようだった,と政治学者は解説している .
 「セミヤー」もまた自分達の利益を守ってくれる後継者を切望していた.

 クレムリン政治顧問ゲレプは,エリツィンの考える後継者は
「エリツィンは強く,同時にエリート層の傀儡にならない人物を探していました.
 それは,独立して,進歩的で,共産主義の過去とは無縁の人物でした」
と証言している.

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)

CRS@空挺軍 in mixi,2007年09月02日20:51

 ただ,エリツィン政権には当初,最も有力な後継者としてチェルノムイルジン首相が存在していた.
(1998年3月に,「経済復興能力が不足」として更迭)
 この後,何度も首相の首を挿げ替え,最後にプーチンに至る.


 【質問】
 プリマコフの攻勢から命からがら逃げ延びたエリツィンだったが,その時助けてくれたプーチンに対してどう感じていたのか?

 【回答】
 密かに後継者として決めていた.

 一連のプリマコフ攻勢から政治の主導権を取り戻しに成功したエリツィン.
 この困難な時期に,エリツィンに対して最大の忠誠を示し,勝利に貢献したFSB長官兼安全保障会議書記プーチンに対してエリツィンは彼を高く評価し,この時点でプーチンを後継者として決めていた.
 しかし全体的な流れから直ぐに首相任命はせずに,その間の繋ぎとして第一副首相のステパーシンを首相に指名.
 実際にプーチンが首相に任命されるのは1999年8月

 エリツィンは自身の回顧録でこう書いている
「この人間には民主主義,市場経済への大きな忠誠心と確固とした国家的な愛国主義がある.
 私の本能がプーチンを政治闘争の舞台に引き出すのは時期早々だと告げている.
 彼はもっとあとに出てくるべきだ.
 社会はこのうだるような夏の時期にプーチンに慣れるべきではない.
 彼の謎が消えず,意外性がの要素がうせてしまわないようにすべきだ.
 これは選挙にとって極めて大事だ.新しい政治家と関連した期待の要素だ.
 この空白を誰かが埋めなければならない.単に技術的に埋めるのだ.注意をそらすために,
 事実上この選択はまだ誰も知らない.
 プーチン本人を含め.ここに力がある.意外な政治的なやり方の巨大な力だ.
 こうしたやり方によって,わたしはいつもすべての政党を打ち負かし,時のには失望させてきたのだ.」

 その空白を埋めた人材はステパーシンだった.
 彼自身もエリツィンから3ヶ月やってみろと証言している.
 この人事も敵対勢力の挑発をさけるためだったという.
 当時,エリツィンは後継者は治安機関か軍人から選ぼうとしていた,
 この混迷する大国を支えるためには強さ,厳しさ,決断力を兼ね備えた人物が後継者に相応しいと考えていた.

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)

CRS@空挺軍 in mixi,2007年09月02日20:51

 これには異論もある.
 少なくともこの箇所について,エリツィン回顧録を信頼する政治家は少数だという.
 以下引用. 

----------------
 1999年8月9日,ステパーシンの首相解任と連邦保安局長官プーチンの後継指名が発表された.
 エリツィンは後に回顧録『大統領のマラソン』で,この人事だけは自分の決定だと主張した.
 しかしロシアの政治家の多くは,これを信じていない.

 〔略〕

 プリマコフは回顧録『8ヵ月プラス』で,エリツィンがその回顧録で述べたように,ステパーシンを首相に登用した時点からプーチンに交代させることを考えていたとは思えないと述べた.
 そして
「ステパーシンを首相,そして大統領候補に推そうとしたのがチュバイスとそのグループであり,もしかするとプーチンの名は,チュバイスの影響力増大を恐れたエリツィンの取り巻きの頭に浮かんだのかもしれない.
 『セミヤー』に連邦保安局長官を引き入れ,これによりプーチンこそが『セミヤー』の安全を保障すると信じたのだろう」
と述べている.

――江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.57-59

----------------
政界に憶測を呼んだエピソードがあった.
 エリツィンが最初に下院議長に,後継首相として電話で伝えた名前はステパーシンではなく,鉄道相だったニコライ・アクショネンコだった.
 エリツィンは後に回顧録『大統領のマラソン』で,この間違いを
「下院が望んでいないアクショネンコの名前で驚かせてやりたかった」
からだと述べた.
 しかし政界では当時,後継首相を巡るエリツィン陣営内部の対立が伝えられていた.
 エリツィンの「間違い」は意図的なものではなく,首相の人選がもめたためかもしれなかった.

 有力経済紙「コメルサント」はプリマコフ解任の前夜,アクショネンコが首相に登用されるとの情報を聞きつけ,チュバイスがステパーシンの首相指名へ強力な巻き返し工作を行ったいきさつを報道した.
 そしてチュバイスは米CNNのインタビューに対し,3週間前からエリツィンと数回にわたり協議していたことを明らかにした.
 プリマコフ解任を
「過去数年間で大統領が行った最高の人事の一つ」
と称賛した.
 また,他のメディアに対しては,プリマコフ,スクラートフを解任に追い込むための秘密会議に参画していたとも述べた.

――同,p.39

 どちらがより事実に近いかは,情報不足のため不明.

消印所沢

VIPチェス



 【質問】
 なぜエリツィンはプーチンを首相に指名したのか?

 【回答】
 その前の大統領後継候補ステパーシン首相が,選挙で勝てそうにないと見て,敵方である中道連合への接近を伺わせていたため,「セミヤー」から切られた.
 プーチンなら,スクラートフを追い落としてエリツィンの政治生命を救った功績もあるし,「セミヤー」に対する安全弁としようとエリツィン派が画策したためだという可能性がある.

 以下引用.

 エリツィンが〔1999年5月に首相指名した〕ステパーシンに与えた課題は,この中道連合をできるだけ切り崩すことだった.
 しかしステパーシンはこれに失敗した.
 8月半ば,ルシコフと「全ロシア」側のサンクトペテルブルク市長ヤコブレフ,それにタタールスタン共和国大統領のシャイミエフは連合結成で同意した.

 さらにこのとき彼らは,国民の支持を決定付けるための人気政治家の引き込みに成功した.
 3ヶ月前に首相を解任されたプリマコフに「祖国・全ロシア」を率いるよう要請し,受け入れられた.
 プリマコフはこの時点でもまだ世論調査の支持率17%で,エリツィンはもちろんルシコフや共産党委員長のジュガノフらを抑え,政治家のトップを走っていた.

 この反エリツィン連合に加わったのがウラジーミル・グシンスキー率いる「メディア・モスト」のメディア・グループだった.
 グシンスキーは90年代前半モスト銀行をモスクワ市の歳入指定銀行として以来,ルシコフと緊密な関係を保って発展してきたオリガルヒだった.
 ルシコフにとって大統領を狙う好機到来とあって,側面から掩護すべく政府批判に熱を入れた.

 ここで「祖国・全ロシア」はエリツィン陣営に揺さぶりをかけた.
 首相のステパーシンに異例の呼びかけをした.
 中道連合の比例代表者名簿の上位者として首相前任者のプリマコフと共に名を連ねてほしいと要請した.
 実質的にステパーシンに,大統領陣営からの「寝返り」を誘っていた.

わずか3ヵ月で首相解任

 ステパーシンの心は揺れた.
 首相から大統領後継を目指すにしても,選挙で勝てる見込みは薄くなっていたからだ.
 8月初めにタタールスタンなど3つの地方を立て続けに訪問したステパーシンは,地方の支持をバックに選挙戦に積極的に参加すると発言した.
 12月に予定された下院選,翌年の大統領選に向けて敵方の中道連合への接近をうかがわせていた.
 ヴォロシンなどクレムリンの「セミヤー」は,ステパーシンを「意気地なし」と中傷していたが,その評価を証明したかのようなステパーシンの言動だった.

 1999年8月9日,ステパーシンの首相解任と連邦保安局長官プーチンの後継指名が発表された.
 エリツィンは後に回顧録「大統領のマラソン」で,この人事だけは自分の決定打と主張した.
 しかしロシアの政治家の多くは,これを信じていない.

 4日前の8月5日,エリツィンはステパーシンを執務室に呼び,ヴォロシン同席の下で首相解任とプーチンを首相に任命する意向を伝えた.
 しかしステパーシンは意外にも強い抵抗を示した.
 ヴォロシンを外した2人きりの会話で,わずか3ヵ月で首相を解任する理由を示せと迫った.
 エリツィンははっきりと答えることができなかった.

 エリツィンは,ステパーシンがルシコフとプリマコフの組んだ政権への政治的攻勢をとどめ得なかったことを非難した.
 しかしステパーシンは,その工作がうまくいかなかったのはヴォロシンのせいだと主張した.大統領府長官がルシコフを支援する「メディア・モスト」と敵対したためだとした.
 エリツィンはその主張を確かめさせるため,通信情報相のレーシンを呼んだ.
 レーシンも「モスト」との対立が国内状況を不安定化させていると述べて,ステパーシンの言い分を擁護した.

 同日,チュバイスがエリツィンに電話をかけ,2人で話したいと要請した.
 政局の重要な局面では常にチュバイスがとってきた行動だ.
 ステパーシンを首相に推したチュバイスは,このような早い解任には反対だった.

 チュバイスは個人的にプーチンと会い,エリツィンの首相指名を受け入れないよう説得した.
 しかしプーチンは,
「悪いがこれは大統領の決定であり,それに従わなければならない.
 君も自分の立場だったら同じようにするよ」と述べて助言に応じなかった.

プーチン首相誕生

 8月8日の日曜日,モスクワ港街の大統領府付属の保養所で,首相人事を決める最終的な会合が開かれた.
 チュバイスとヴォロシン,ユマシェフ,タチヤナの他,アブラモヴィッチも参加した.
 チュバイスは
「たしかにプーチンのほうが首相としてベターだし,大統領の決定は正しい.
 しかし大統領には,このような速い首相交代の政治的道徳的な根拠がない」
と主張した.
 ヴォロシンは
「もしステパーシンを首相に残すなら,あなたが大統領府長官に復帰すべきだ.
 我々ではステパーシンを支える自信がないから」
と言い返した.
 チュバイスは返答に詰まった.
 自身は電力独占対の社長を辞める気はない.
 最終的にセミヤー側の主張が通り,チュバイスは折れた.

 しかしヴォロシンはまだ慎重だった.
 チュバイスが9日午前9時15分にエリツィンと会見する約束を取り付けていたからだ.
 ステパーシンと大統領の会談は同10時に設定されていた.
 この45分間のエリツィンとの会談で,チュバイスは再びエリツィンを説得して決定を覆すかもしれない.

 9日,エリツィンは予定よりずっと早くクレムリンに現れた.
 予定を繰り上げ,8時前にステパーシンを呼びつけ,有無を言わさず解任を言い渡した.
 その直後チュバイスに電話し,首相交代を言い渡したことを告げ,
「まだ何か質問があるかね?」と聞いた.言外に,9時15分の約束はもう必要ないな,との響きが込められていた.
 こうしてステパーシンはわずか3ヵ月で首相の座から下ろされた.

 プリマコフは回顧録『8ヵ月プラス』で,エリツィンがその回顧録で述べているようにステパーシンを首相に登用した時点からプーチンに交代させることを考えていたとは思えない,と述べた.
 そして
「ステパーシンを首相,そして大統領候補に推そうとしたのがチュバイスとそのグループであり,もしかするとプーチンの名は,チュバイスの影響力増大を恐れたエリツィンの取り巻きの頭に浮かんだのかもしれない.
 『セミヤー』に連邦保安局長官を引き入れ,これによりプーチンこそが『セミヤー』の安全を保障すると信じたのだろう」
と述べている.

 たしかにプーチンは「セミヤー」に担がれて首相,そして大統領後継の地位を手にしていく.
 しかしプーチンを思い通りに動かせると読んだ「セミヤー」グループの期待は裏切られることになる.

江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.56-59

 もしエリツィン政権末期が腐敗しきってこれほど人事で迷走していなかったとしたら,プーチン政権は誕生することはなく,そしておそらくはロシア再生はかなり遅れていただろう.
 エリツィン政権の腐敗の極みが,ロシア再生に繋がったことになる.
 皮肉なものである.

written by ミハイル・ゴルバチョフ(うそ)

プーチン・フォルダ斉射!


 【質問】
 「セミヤー」とは?

 【回答】
 エリツィンの家族を含む側近グループ.
 これが特別な利益共同体を形成していたため,マスコミからこう呼ばれたことに由来する.
 「セミヤー」はロシア語で「家族」の意味.
 このセミヤーの汚職をロシアで最初にマスコミにリークしたのが,検事総長のスクラートフ.
 そしてこのセミヤーこそが,プーチンに大統領後継の地位を手渡した.

 詳しくは,江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.34前後を参照されたし.

 【質問】
 エリツィンがプーチンを後継者に指名したことへの反響は?

 【回答】
 1999年8月9日 テレビ演説でエリツィンは連邦保安局長官と安全保障会議書記を兼任するプーチンを首相に指名し,自らの後継者にする意向を明らかにした.

 それに対して誰もが「プーチン?」という状態であり,KGB出身や悪名高きエリツィンの後継者ということで,当選するとは思ってもみなかった,
 エリツィンに一方的に解任されたプリマコフがいただけに,多くの人々はこの人事に疑問を呈していたが ,エリツィンだけはプーチンを後継者にするのは確定していたので,既定の方針を実行しただけににすぎなかった.

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)

CRS@空挺軍 in mixi,2007年09月02日20:51




 【質問】
 プーチンはエリツィンの後継者と指名されたことをどのように受け止めたか?

 【回答】
 冷静に受け止めており,できる限りのことをしようと決心していた.

 彼は自伝でこう述べている.
「私の会話の中で,エリツィンは『後継者』という言い方はしなかった,
 彼は『将来の首相』という言葉を使ったのだ.
 その後,エリツィンはテレビで私を将来の大統領候補だと言った.彼はそれを国中に公言した.
 そして,私は質問が殺到する前にこう答えた.
『大統領がそう言ったのならば,そうなのだろう』.
 いささか心もとない答えではあったが,ほかに何が言えただろうか.
 この発表はダゲスタンでの緊張が高まってる時に行なわれた.
 私はその時すでに自分のキャリアは終わるかもしれないが,私の歴史的な使命は北コーカサスでの問題を解決することにあるのだと考えていた.
 私は自分の政治生命を犠牲にしても,この使命を果たさなければならないとわかっていた.
 私の政治生命など微々たる犠牲であり,それを払う覚悟だった.
 だから,エリツィンが私を後継者に指名して,誰もがそれを私の終着への第一歩だと考えた時にも,私はまったく平静だった.
 そんなことが何だと言うのだ.
 自分には数ヶ月の時間が与えられており,その間に,軍と内務省,FSBを一つにまとめ,国民の支持を呼び集めることができると考えた.時間は足りるだろうか.それだけが心配だった.」

 プーチンの側近であるコーザク大統領府副長官はこの時のプーチンの心境をこう証言している
「プーチンが首相就任に同意して職務遂行にとりかかった時,彼の念頭にあったのは国民にどう見られてるのかというのはさらさらなく,あのような決定が取られてこの職務についたからには,いかにしてベストをつくして,任務をまっとうするかということだったのです.
 首相のポストにどの期間とどまっていられるかどうかわからないけど,ロシアのためにできる限りのことをしようと決心していました.
 どのように大きな責任を担わされたか承知していました」

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)

CRS@空挺軍 in mixi,2007年09月02日20:51

 もっとも,FSB長官時代の側近グループ作りや,第2次チェチェン紛争におけるグロズヌイ占領作戦強行などを見るに,「政治生命を犠牲にしても」という言葉がどこまで本気かは,疑問の余地がある.

written by ベリヤ(うそ)



訪中時のプーチン@新華社


 【質問】
 プーチンをよく知る関係者は,後継者指名をどのように見ていたのか?

 【回答】
 サンクトペテルブルク元副市長で,プーチン政権で副首相を務めるクドリンは,時代がプーチンを必要としたのだと指摘.
「エリツィンが注目したのはプーチンの確実性,頼りになる人間ということだったと思います.
 信頼にたる人物,
 決して約束をたがえず,事態のつながりを理解し,突飛な振る舞いをせず,周囲の者にとって自然な行動をとる人物ですね.
 こうした素質が今日のプーチンを作りました.
 プーチンはエリツィンへの一定の忠誠という点で際立っていたと思います.
 諜報機関で発揮した真面目さ,大統領への忠誠.これが彼の重要な特徴です.
 プーチンが諜報機関で働いた経験を持っているのも,ロシアにとって重要なことです.
 情報に通じた人間だからです.
 諜報機関が以前から大きな役割を果たしてきたロシアのいくつかの伝導メカニズムを知っているのです.
 つまり権力のメカニズムの別の面を承知しています.

 そのほかに,人間的素質として,事務処理の正確さ,頭の回転の速さ,問題に精通していることなどが上げられるでしょう.
 こうした素質を身につけている人物を時代が必要としたのです.
 プーチンは性格が強く,問題解決に粘りがあり,物に動じない.
 権力,つまり国家は強力であらねばならず,法律尊守のため,厳しい手段をとる必要があり,法は万人に平等であるべきだと,正面きって言明することを恐れません.」

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)

CRS@空挺軍 in mixi,2007年09月02日20:51

 【余談】
 首相当時のプーチンについては,こんなエピソードがある.
 これはプーチンの内面を測る,一つの手がかりになると思われる.

1999年の秋,60年前にアルカージー・ライキンによって創立された劇場の祝典で,プーチン首相は警備員に囲まれながら,モスクワ風刺劇場の有名俳優である,酔っ払ったシルヴィントと廊下で顔を合わせた.
 俳優は首相を見ると,堂々と手を差し伸べて
「シューラ」〔アレクサンドルの愛称〕
と言った.
「ヴォーヴァ」〔ウラジーミルの愛称〕
とプーチンは手を握りながら自己紹介をした.
「なんだったら,知り合えたことを祝って飲まないか?」
とシルヴィントは訊いた.
「悪くないね」
と首相は答え,自らの随行者を劇場のビュッフェへと向きを変えさせた.

『プーチンの謎』(ロイ・メドヴェージェフ著,現代思潮新社,2000/8/30),p.69

↓訪中時のプーチン@新華社



 【質問】
 なぜプーチンは大統領に当選できたのか?

 【回答】
 3つの要因があるという.

 (1) 大統領からの後継者指名
 (2) 第2次チェチェン紛争の戦果により,プーチンはチェチェン問題における「これまでロシアが受けてきた屈辱を晴らしてくれる人物」だ,とみられたこと
 (3) 2人のライバルに対し,下院選挙でメディア・バッシングによる打撃を与えたこと

 以下引用.

----------------
 その人物像も政策構想も知られていない,まるで未経験の候補者を,たった5ヵ月で大統領の地位に押し上げるに際しては,3つの要因が決定的であった.

 その第1が大統領の力である.
 当時,エリツィンはすでに国民から不信の目で見られ,支持もなくしていたが,それでもまったくの自己流で後継者を選択・指名することが可能だった.
 エリツィンに支持されたからといって,プーチンの当選が保証されるわけではなかったが,これで大きく優位に立つことができた.
 多くの国では,後継者に指名されると現職の不人気まで引き継いでしまうことがある.
 ところがロシアでは,皇太子になった途端にオーラをまとい,宮廷すなわち権力機構をそっくり頂戴できるのだ.

 第2の要因として,故意か偶然か,間もなくプーチンの人となりが国民に知られるようになったことが挙げられる.
 首相指名の1週間前,チェチェン共和国の武装勢力が,隣のダゲスタン共和国に侵入した.
 9月前半には2度目の襲撃が行われ,複数のアパートが爆破され,ダゲスタン,モスクワ,ヴォルドゴンスクでは多くの人命が失われた.
 決定的な証拠はないものの,爆破事件はチェチェンのテロリストによるものとされた.
 1999年9月30日,ロシア軍はチェチェンの反乱を鎮圧するため,本格的な軍事作戦を開始した.
 最初の1ヵ月で比較的容易に戦果を収め,チェチェン共和国北部の平原地帯を占領した.
 これは当初からプーチンの戦争と見られていて,ロシア国民から支持されていた.
 前回の紛争では,1996年にエリツィンの命を受けたレーベジ将軍が締結したハサヴュルト合意によって,チェチェンは分離独立派の支配下に置かれた.
 その後3年間,チェチェンの分離独立派はモスクワをあざわらうような行為を重ねた.
 その最たるものが,1999年3月,ロシアの内務副大臣のシュピグン将軍が,グロズヌイ空港で誘拐され,殺害された事件である.
 プーチンが指揮した反撃は当時,長き屈辱の日々の終焉と思われた.
 その政治的効果として,国民の間にプーチンについて,強固な意志と実行力を兼ね備えた人物だというイメージが生まれた.
 エリツィン政権後期の優柔不断で弱腰の政府の後だけに,国民が待ち望むうってつけの人物と見られたのである.

 第3に,最高権力を狙うライバルたちを排除する必要があった.
 このときの脅威は共産党ではなく,2人のベテラン大物政治家,つまりモスクワ市長ユーリ・ルシコフと,エリツィン政権下で対外諜報庁長官,外相,さらには首相も勤めたエフゲニー・プリマコフだった.
 2人は勢力を糾合して,政治ブロック「祖国・全ロシア(OVR)」を結成した.
 ルシコフはゴロツキ的なカリスマで,首都モスクワの景観改善に実績があった.
 プリマコフは豊富な経験と実直さを兼ね備えた人物で,ロシア人固有の保守主義に広く訴えるところがあった.
 仮に公正な大統領選挙が行われていれば,プリマコフ・ルシコフ組(どちらが大統領候補でどちらが副大統領候補であろうと)は,新参のプーチン首相にとって,一大脅威となったであろう.
 しかし,2000年半ばに予定された大統領選挙においては,実際の選挙戦が開始される前から,勝敗が決定していた.
 1996年のエリツィン再選に向けての選挙戦と同様,ベレゾフスキーに代表される,エリツィンを取り巻く一部財界人は,テレビ局経営者としての立場を利用して,ルシコフとプリマコフに対し,メディアによる徹底攻撃を次々と繰り出したのである.
 このため1999年12月の下院選挙でOVRの勢力は後退し,ルシコフとプリマコフにとっては,エリツィンが推す大統領候補の対抗馬として自分たちが立候補すればどうなるかを前もって思い知る結果となった.
 下院では共産党が第一党となった(得票率26%で450議席中114議席を獲得).
 数々の非共産党系政党の中でも,エリツィン派によって急遽結成された政治ブロック「統一」が,OVRの66議席を上回る73議席を獲得して第2党となった.
 さらにプーチンは,29議席を獲得した中道右派のリベラル政党「右派連合」の支持もとりつけた.

ロデリック・ライン他著『プーチンのロシア』(日本経済新聞社,2006/11/17),p.29-31

 それまで下院を主導していた共産党が,大幅に議席を減らした.
 議席数114で辛うじて第1党の地位を守ったが,40以上も議席を減らしていた.
 委員長のジュガノフは,左派勢力を集め,大統領拒否権を覆す300議席(下院議席総数450の3分の2)を確保すると豪語していたが,程遠い結果に終わった.

江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.91-92



 【質問】
 「統一」とはどんな党なのか?

 【回答】
 事実上のプーチン新党.
 ベレゾフスキイが発案し,ヴォロシンが候補者を集め,「セミヤー」がバックアップした.
 地方組織も党綱領もない,急ごしらえの代物だったという.
 以下引用.
----------------

 〔1999年12月の下院選挙で〕大勝利を収めたのが,選挙のわずか2ヶ月前に結成された新党「統一」だった.
 愛称を「メドヴェージ(熊)」とした.「メジュレギオナリノエ・ドヴィジェーニエ・エジンストワ(地域間統一運動)」を略した呼び方で,民衆には受けた.
 プーチンは自己の与党として「お墨付き」を与えた.
 〔略〕
 しかし,政党としての実態は極めて乏しかった.
 非常事態相のセルゲイ・ショイグ,レスリングのスーパースターのアレクサンドル・カレリンといった名前以外は,ほとんど無名の候補者で占められていた.
 この中に,後に内相となるボリス・グルィズロフがいた.
 地方組織も党綱領もなく,プーチン支持のために候補者が寄せ集められた印象が強かった.

 この政党は「セミヤー」グループの肝いりで作られたのが真相だった.
 グループの実質的なリーダーだったボリス・ベレゾフスキーは,プーチンを大統領に仕立てるには,それを担ぐ与党が必要だと考えた.
 実際には大統領府長官のヴォロシンが,人集めに動いた.
 だから下院選の実質的な勝利者はベレゾフスキーだった.

江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.91-92

 ベレゾフスキイは,このことを今では死ぬほど後悔しているに違いない.




 【質問】
 なぜエリツィンは任期を半年残して辞任したのか?

 【回答】
 プーチンを大統領代行とすることで,彼の勝利を,より確実なものとするためだという.
 以下引用.

----------------
 〔1999年12月の下院選挙の結果を受けて,〕今や勢いに乗ったプーチン陣営ではあったが,大統領選挙の予定日までは半年もあり,その間,不測の事態が起こる可能性もあった.
 そこでエリツィン・チームは切り札を出した.19999年12月31日,エリツィン大統領が突然辞任したのである.
 プーチン首相は自動的に大統領代行となり,選挙は3月26日に前倒しされた.
 〔下院選挙で〕深手を追ったルシコフとプリマコフは,事態を察して出馬しなかった
(これはプーチン大統領の任期中の2人の健康にとっては良い決断だったと言える).
 その結果,旧態依然として魅力に欠ける共産党のジュガーノフ党首が,実質的に唯一の対抗馬となったが,実のところ今回は勝ち目が全くなかった.
 1995年の下院選挙と96年の大統領選挙以降,ロシアは動き続けたのに,ジュガーノフは何の動きも示さなかったからだ.

ロデリック・ライン他著『プーチンのロシア』(日本経済新聞社,2006/11/17),p.31-32

----------------
 12月31日,エリツィンは突然,辞任を発表した.
 任期を半年残した繰り上げ退陣は,異様な印象を内外に与えた.
 ロシア国内では明らかに,プーチンの大統領当選を確実にするための決定と見られた.
 大統領の辞任により,3ヵ月以内に大統領選を実施しなければならない.
 プーチンにとっては,チェチェン作戦が勝利を確実にした時点で大統領選に臨む必要があった.
 陣営にはチェチェン進攻を決定したときから,チェチェン作戦と大統領選を連関させた予定表ができていた.
 グロズヌイ攻撃もエリツィンの退陣も全て,その予定表に沿っていた.

 エリツィンの繰り上げ退陣の裏には,権力の座を離れる当人に対する説得工作が行われた.
 エリツィン自身は自分の意志で決めたと述べたが,ロシアでは説得力はない.
 プーチンは,将来もエリツィンに対する刑事訴追はあり得ないことを保証することで,エリツィンに辞任の承諾を得た.
 また,娘タチアナを始めとするエリツィンの家族も,一定の安全を保障されることになった.
 エリツィンには,繰り上げ退陣の説得に抵抗する道は残されていなかった.

江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.73-74

 2つの引用文章を比較してみるに,「大統領当選を確実にするための決定」とする見方では一致しているものの,後者はそれが推測に過ぎないことを伺わせる.
(にもかかわらず,後段はなぜ断定文章なのかは不明)



▼ ちなみに以下は,大統領代行時代のエピソードの一つ.

[quote]

 プーチン大統領とはサミットの前,ゴールデンウィーク〔2000年4月末〕にロシアのサンクトペテルブルクを訪問したときが初対面だった.
 プーチン大統領は非常に喜んでくれた.
 というのは,日本の歴代首相は就任後,真っ先にアメリカを訪問することが多いが,僕の場合は最初にロシアを訪問したからなんだ.
 しかも,プーチンさんは5月に大統領就任予定で,そのときはまだ大統領じゃなかった.
 にもかかわらず最初に来てくれたというので歓迎してくれました.
 おそらく外務省は,僕がロシアに対して非常に大きな関心を持っているということをロシア側に事前に説明したんだと思う.

[/quote]
―――『森喜朗 自民党と政権交代』(森喜朗著,朝日新聞社,2007/10/30),p.251

森 vs プーチン


 【質問】
 プーチンの大統領就任は,内外に歓迎されたのか?

 【回答】
 ルーブル高が起こり,格付けが上がったところから考えて,そうである可能製は高い.

 以下引用.

------------------
 就任式後の最初の世論調査は,プーチン大統領に対する国民の信頼度の高さを示し,そして反対にマスコミに対する国民の信頼度の下落を示した.
 政権が不安定であることからくる国民層の間で感じられていた緊張のようなものがなくなった.
 5月10日の水曜日から5月12日の金曜日までの最初の3日観の労働日に,ロシアで長年にわたって初めて何%がルーブルのレートが上がり,ドルのレートが下がったのは特徴的である.
 5月1日から13日までに,ロシア銀行の外貨準備金は約7億ドル増え,そしてロシアの主な債務を返済するために約2億ドルが西側の銀行に送られた.
 ほとんど全ての独立系格付け機関が,ロシア銀行と貯蓄銀行のランクを,そしてロシアのユーロ債のランクを上げた――これは1998年8月以来初めてのことである.

『プーチンの謎』(ロイ・メドヴェージェフ著,現代思潮新社,2000/8/30),p.130-131

 本書の全体のトーンはプーチン翼賛的であるが,この記述は具体的事実に基づいており,(統計上のごまかしがないのなら)信頼できると愚考する.


(↑朝目新聞より)


 【質問】
 政党法とは?

 【回答】
 江頭寛によれば,プーチンが中央集権化を強化するために打ち出した手の一つ.
 2001/6/21,下院で採択.
 「政党」として認められる条件を厳しくする――7つの連邦管区の半数以上に支部を開設,党員総数1万人以上,各管区に党員最低100人以上――ことで,乱立していた地方政党を根絶やしにすることに成功したという.
 その際,プーチンが用いた,同法推進のための方便は,「犯罪者達が資金提供して政党を作らせ,自ら議員となって不逮捕特権などを手に入れている状況があり,政党が犯罪組織の隠れ蓑になっているため」というもの.

 詳しくは,江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.208-211を参照されたし.

プーチン近影



 【質問】
 「公正ロシア」とは?

 【回答】
 プーチンが用意した傀儡政党.
 共産党の票を割ることを目的として作られたという.
 以下引用.

――――――
4,公正ロシア 7.8%

 〔2008年総選挙で〕共産党が負けたもう一つの理由.

 プーチンとクレムリンは,(実質唯一の野党)「共産党」を壊滅させるべく,傀儡政党をもう一つ立ち上げた.
 それが公正ロシアです.

 公正ロシアの位置づけは中道左派.
 「格差是正」「弱者救済」を掲げている.
 要するに,共産党とほとんど同じ主張をすることで,年金生活者層を分裂させようというクレムリンの意図なのです.

――――――ロシア政治経済ジャーナル No.487,2007/12/4号

 【質問】
露,誤報3回すると当局がメディアを強制閉鎖 法案が下院で可決の見通し
 なんでこんな法律ができたの?

 【回答】
 元はと言えば,こんな報道↓をしたメディアがあったから.

-――――――
プーチン大統領,元新体操女王との再婚報道を否定

【4月18日 AFP】
 ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は18日,同大統領がリュドミラ夫人と離婚しており,元新体操世界女王のアリーナ・カバエワさん(24)と再婚するとの報道を否定した.
 報道はロシアの日刊紙モスコフスキー・コレスポンデンが前週,「消息筋の話」として,プーチン大統領がリュドミラ夫人とすでに2か月前に離婚しており,6月にカバエワさんと挙式すると伝えたもの.
 カバエワさんは与党の下院議員でもある.

 訪問先のイタリア・サルデーニャで行われたシルビオ・ベルルスコーニ次期首相との会談後の記者会見で,同報道についての質問を受けたプーチン大統領は,「真実のかけらもない」と報道を真っ向から否定.
「人々には公人の私生活を知る権利がある」と認めながらも,「これには限度がある」とし,「性的妄想にかられて他人の私生活に薄汚れた鼻面をつっこんで嗅ぎ回る連中を,私は常に軽蔑する」と述べ,噂を報じたメディアを批判した.
 さらにプーチン大統領は,
「世界で最も美しく有能なのはロシアの女性で,これに比肩し得るのはイタリア人だけだ」
と述べ,出席していた記者らの喝さいを浴びた.

 一方,通訳を介してこの質問を聞いていたベルルスコーニ氏は,質問をした記者に向かってマシンガンを発射するそぶりをしてみせた.

――――――

 そしてこれが誤報とされ,報道そのものが規制されることに.

***

 メディア規制に対するロシアの無頓着ぶり,あんまり抵抗がないのか.
 逆にもう規制には慣れているので,何も問題はない(でも裏コソコソするから関係ねぇ!)

 ただ,ロシアには「イソップの言葉」表現が用いられる傾向があるので,一概にはこの法案も可決しても普段通りの報道されるのか?
 その辺は当のロシア人にしかわからん.

 ただし上野俊彦氏が指摘しているように,インターネットが普及している現在は海外から多数の情報が得られる社会である,
 もう代替メディアが存在しているわけで,政府がいくら統制したところとは言え,そんな大本営発表など見向きにされなくなる.

 ロデリック・ライン,ストローブ・タルボット,渡邊幸治著『 プーチンのロシア』のP84を引用してみたい .

引用開始――――――

「今日のロシアを旧ソ連になぞらえるならば,見当違いもはなはだしい.
 今のロシアでは情報が欲しければ,非常に広範囲の情報にアクセスできる(実際外国語が読めれば,三極〔日米欧〕の諸国と同じ情報源が利用可能である.」

――――――引用終了

CRS@空挺軍 in mixi,2008年04月28日21:12

 まあ,ソ連崩壊後,ロシアでは政商がメディアと結びついて大衆を煽り,政治を政商有利に誘導する例が頻繁にあったので,このようなメディア規制を行う口実を,ずっとプーチンは探していたのかもしれない.
 プロパガンダに対して対抗プロパガンダを行うのではなく,メディアそのものを潰そうとする手法は,いかにもKGB的発想だが.




 【質問】
 「内閣幹部会」とは?

 【回答】
 なんかプーチン首相が設立したという組織.
 調べてみた所,素晴らしいサイトに出会ったぞ.

――――――
プーチン首相が政府幹部会を組織―内閣の全権限を幹部会に移行−
コメルサント紙 2008/5/20

 ウラジーミル・プーチン首相が政府決議「ロシア連邦政府幹部会組織について」に署名した.
 幹部会のメンバーは,25名の大臣,副首相,首相のうち15 名.注目点は,フリステンコ産業貿易相など経済部門の閣僚が外れた一方で,“シロビキ”と呼ばれる治安関連省庁の出身者が名を連ねたことだ.
 同幹部会における決議は,これまで毎週木曜に行われてきた全員参加の閣議と同様の効力を持つ.
 これにより,そのつど全員招集をかけずとも,緊急を要する決議の可決を迅速に行うことができる.

 連邦法「政府について」37条は,政府が首相の決定により幹部会を組織する権利を認めており,プーチン氏自身首相として2000年1月21日に幹部会を設立している.
 ペスコフ政府官房長官は,幹部会のメンバーの数が15名である点を強調している.
 つまり,幹部会のメンバーだけで,閣議における政府決定の議決に必要な票数(14票)を1名上回っているのである.

 連邦法「政府について」28条に従えば,閣議によってのみ決定することの出来る問題は計15件あり,
連邦予算案の下院への提出,
経済・社会発展プログラムの採択,
国家による株式の取得,
連邦資産の民営化プログラムの採択,
価格統制対象商品リストの策定,
などがこれに含まれる.
 今後,全体閣議抜きに幹部会の決定によってこれらの決定は採択できるようになる.

 15日付でプーチン首相は
「閣議の招集は一ヶ月に一度以上は行う」
といっているが,大統領時代に毎週月曜日に開いていた閣僚との会議はもう行われない.
 メドベージェフ大統領は定期的な閣僚との会合を行う意図はない.とすれば,この政府幹部会が果たす役割は大きくなる.

http://www.jsn.co.jp/news/2008/17.html

 株式会社JSNのサイト.
http://www.jsn.co.jp/index.html

 ロシアにおけるビジネスサポートを専門とする会社だが,経済・政治などのニュースを日本語で提供してくれ,資料集やロシア人達の生の声を載せてくれるとは素晴らしい.
 是非この会社が発行する月刊誌を定期購読してみたい!(金があれば)

CRS@空挺軍 in mixi,2008年06月09日23:29




目次へ戻る

准トップ・ページへ戻る