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◆◆◆◆プーチン史
<◆◆◆ウラジーミル・ウラジーミロヴィッチ・プーチン
<◆◆大統領
<◆総記
ロシアFAQ目次


 【link】

●2012年大統領選以降

「D.B.E. 三二型」(2012/01/19)◆告発サイト「馬鹿のいないロシア」 大統領が開設へ
>サイト開設の背景には,与党による下院選の不正投票疑惑や,プーチン首相とポストを「交換」することへの批判を「官僚たたき」でかわす狙いもあると見られる.だが,インターネットでは,「『馬鹿』の中にメドベージェフとプーチンを入れよう」など,冷ややかな見方が広がっている.

「JB press」◆(2011/05/18)軍事パレードから読み解くロシアの政情と方向性 過去最大の参加人員を誇った今年は,大統領選挙が狙い?

「Russia Now」◆(2011/07/19)Medvedev explains Putin post-election washing quip

「VOR」◆(2012/01/20)プーチン氏の支持率 50%を超える
>プーチン首相:52% ジュガノフ候補(共産党):11% ジリノフスキー候補(自由民主党):9% ミロノフ候補(公正ロシア):4% プロホロフ候補(実業家)2% ヤヴリンスキー候補(ヤブロコ):1% メゼンツェフ候補(イルクーツク州知事):0% ペウノワ党首(非登録政党「意志」):0%

「VOR」◆(2012/02/04)モスクワで大規模集会 最大5万人が結集
「VOR」◆(2012/02/04)モスクワで大規模集会再び

「VOR」◆(2012/02/20)プーチン首相選挙前論文 今度は国家安全保障がテーマ

「VOR」◆(2012/03/05)国際選挙監視員:ロシアでの投票は透明で開かれたものだ

「VOR」◆(2012/03/08)クリントン国務長官:プーチン氏の勝利は純粋なもの
「VOR」◆(2012/03/08)メドヴェージェフ大統領 プーチン首相を祝福
「VOR」◆(2012/03/08)NATO事務総長 プーチン首相を祝福

「すくいぬ」◆(2011/12/11)ロシアのデモがすごいことになってるね

「ダイヤモンド・オンライン」◆(2011/12/20)【田村耕太郎の「坂の上に雲はない!」】プーチン・ショックが日本を襲う!? 危機到来でロシアが隣国に仕掛け始める可能性

「ワールド&インテリジェンス」◆(2012/02/22) 森=プーチン会談の茶番


 【質問】
 プーチンはどんな子供だったのか?

 【回答】
 現ロシア連邦大統領ウラジーミル・ウラジーミロヴィッチ・プーチンはスターリン時代末期の1952年10月7日,レニングラードで非常に貧しい労働者の家庭に生まれた.
 大祖国戦争の爪あとがまだ残っていたレニングラードであった.

 プーチンの自伝「第一人者」(邦訳 プーチン自らを語る)によると,プーチンの父親ウラジミル・スピリドノビッチは戦争中,治安機関であるNKVDの破壊工作部隊に所属し,ドイツ軍に対する破壊工作任務についていた.
 しかし戦闘で重傷を負い,片足が不自由になった.
 戦後はレニングラードの鉄道車両工場で機械技師として働く.
 腕は良くて,工場の皆から尊敬されていたと言う.

 母親マリア・イワノブナはトヴェーリ州出身で夫が前線で戦っていた間,ドイツ軍によって包囲されたレニングラード900日間を耐え抜いた.

 夫婦には戦前二人子供が生まれたが,その二人とも残念ながら戦争中に病気や飢餓で死んでしまった.
 そんな中母が41歳に生んだ子供がプーチンである.
 プーチンは両親の愛情や期待を一身に集めた.

 よく知られていることだが,プーチンの祖父は腕の良い料理人で,レーニンとスターリンの料理人を長く務めていた.

 プーチンと両親の三人家族で,レニングラード中心部のバスコフ通りの共同住宅の五階に住んでいた.
 生活は非常に貧しかったと言う,
 当時の学校の教師であるヴェーラ・グレーヴィッチも,家庭訪問のときのことをこう回想している.
「私はプーチンの家を家庭訪問しました.
 彼がどんな状態で暮らしているのか,どんな家族だったのか,見てみたかったのです.
 家は共同住宅でした.
 何の設備もありません.お湯も風呂もありませんでした.
 トイレもひどいもので,寒く,ぞっとするようなものでした.
 階段はかなり急で歩きにくく,滑りやすかったです」

 当時プーチンはよく,友達とこの共同住宅で一緒に棒を振り,階段の吹き抜けにいるネズミを追い掛け回していた.
 好きな食べ物は目玉焼きで,自分で一日に何回も作っては食べていた.
 プーチンは後に少年時代の暮らしぶりについてこう語っている.
「裕福ではありませんでしたが,自分を不幸だと感じた事はありませんでした.
 私の少年時代はソ連時代や今のロシア市民と基本的に同じか,少し良かったと思います.
 重要なのは私が暮らした物質的な条件ではなく,精神的なことでした.
 両親は私を非常に愛してくれました.それらをいつも感じていました.
 両親にとても感謝しています.
 この愛情が私の性格を形成した基本的なものだったと思います」

 プーチンは共同住宅と同じ通りにある,近くの第193中等学校に通った,
 4年生から8年生までプーチンにドイツ語を教え,大きな影響を与えたヴェーラ・グレーヴィッチによれば,プーチンは母親似であるが,頑固で勤勉な性格は父親そっくり.頭が良くて,特に記憶力は抜群であったが・・・
 意外にも相当な問題児であったらしく,学校に遅刻・悪ふざけをし,6年生までピオネール(共産少年団)にも入れなかった.
 後に彼自身相当なワルであったと認めている(笑)

 しかし6年生になると彼は態度を一変させる.
 ヴェーラ・グレーヴィッチによれば
「ワロージャ(プーチンの愛称)は六年生になると,自らがらりと変わりました.
 彼が自分で目標を立てた事は明らかです.人生で成し遂げるべき何かを知ったのでしょう.
 成績をあげようとし,簡単にやりとげました」

 プーチンは4年生からドイツ語を学んだが,何故ドイツ語なのか?は不明である,
 この言語が,彼にとって重大な役割を果たす事になるは間違いなかった.
 後にKGBに入り,東ドイツで勤務することになるからだ.

 ドイツ語並び,彼の人格形成に大きな影響を与えたのは柔道である,

 〔略〕

 プーチンは映画が好きで,新しい映画が上演されるたびに映画館に通っていた,
 また当時の人気歌手ヴィソツキーの歌をよく歌っていたと言う,
 しかしダンスや芝居にはあまり関心がなく.むしろスポーツに熱中していた

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)

CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月07日20:08

 プーチンが育った「共同住宅」とは,коммуналкаのことでしようね.
 単なる水まわり共用のアパートではなく,本来ならば一世帯が入るべきフラットを複数世帯でシェアしている,本当に高密度の共同生活といいますか.
 ソ連の産業発達期は都市に人口を吸い上げつつも,都市には一向に住宅が建設されなかったので,こういう無理な手法でお茶を濁していたようです.
 プーチンもこうした生活をしていたとは….

晴天@日曜西ふ08a in mixi,2007年08月07日20:26

Young Putin
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(画像掲示板より引用)


 【質問】
 なぜプーチンは柔道を始めたのか?

 【回答】
 プーチンは10歳頃からボクシングを習っていた模様.
 本人の自叙伝によれば,自分は子供の頃喧嘩早いところがあったらしく,ボクシングを習い始めたが,鼻を折ったのでやめたらしいです.
 あるロシア人曰く
「エリツィンだったら相手の鼻をへし折っていただろうね」
と両者を比較していたようです.

 その後サンボに興味を示すますが,サンボのコーチが自分の弟子達を柔道に転向させたのがきっかけで,プーチンは柔道の道に進みました.

CRS@空挺軍 in mixi,2008年02月14日18:24

 当時プーチンに柔道を教えたコーチのアナトリー・ラフリンはこう証言している.
「さまざまな体重の選手が対戦する無差別級の試合が行なわれました.
 ワロージャ・プーチンは相手が誰であろうと,対戦を避ける事は絶対にありませんでした.
 体重が100キロやそれ以上の選手と対戦することもありました.
 彼は向こう見ずなことをしたわけではありません.自分が負けないことを単に知っていたのです.
 こうしてトラックと軽自動車の試合が行なわれたのです.
 しばしば勝利したのはプーチンでした」

CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月07日20:08

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)
『プーチンのロシア 法独裁への道』(袴田茂樹著,NTT出版,2000.10)

 ちなみに,小林和男氏は2003年5月26日にモスクワ郊外ノヴァアガリョーヴァの大統領公邸で,プーチン大統領とのイタンビューに成功している.
 『狐と狸と大統領 ロシアを見る目』(小林和男著,日本放送出版協会,2008.2)より.

引用開始-------------------

P50 不良を大統領にした人

「私は少年時代,ワルだった.
 街で喧嘩ばかりしていた.
 相手をやっつける力をつけるためにボクシングやレスリングをやった.
 その中で柔道に出会った.
 柔道のセンセイ(注1)がよかった.
 まず柔道は礼だと教えられた.
 何のことか分からなかった.
 次に柔道は相手に対する敬意だと言われた.
 これも分からなかった.

 しかし練習を重ねるうちに分かってきた.
 力を見せるには畳の上で鍛錬し,畳の上で相手を負かせばいい.
 街で喧嘩をしなくてもいい.
 私は柔道に出会って助けられた.
 柔道のセンセイに出会っていなかったら,今そうなっていたか分からない」

 プーチンはそんなことを嬉しそうに話し,予定の一時間をオーバーして公邸の敷地の中の道場に案内してくれた.
「柔道は日本の歴史と伝統文化が生んだ,
 単なるスポーツではなく哲学だと思う.
柔道から学んだことはとても大きい.」

-------------------引用終了

 著者はこの「センセイ」に興味を示し会うことに決めた.
 センセイはモスクワ郊外北西へ60キロ,オギニコヴォというスポーツ施設でロシア女子柔道選手の練習を指導していた.

 センセイの名前はセルゲイ・ラフリン(注2),66歳,小柄だが,眼光が鋭く耳が大きい.
 きちんとした礼儀で著者を迎えた.
 早速,著者は
「プーチン少年はどれほど不良だったか?」
という質問をしてみたが,プーチン自身はかなりのワルだったと話していたが,ラフリンさん曰く少し見方が違っている.

引用開始 -------------------
P51

「彼が仲間とともにサンクトペテルブルク(当時はレニングラード)の道場にやってきたのは1965年,彼が13歳の時だった.
 不良といえば不良だったのかも知れない.
 対ナチス・ドイツ戦の後遺症で生活はまだ苦しく若者は皆荒んでいて,喧嘩するのが当たり前だった.
 その中で特にプーチンが悪かったということは気がつかなかった.
 プーチンは真剣に真面目に練習に取り組んだ.
 その結果二,三年後には,確かに態度が変わってきた」
と言う.
 態度の変化が分かったくらいだから,やはりプーチン少年は悪かったのだろうと納得する.

「どういう教え方で影響を与えたのか」
という問いに,ラフリンさんの教育者としての面目が覗いた.
「私はスポーツのコーチだが,ただ選手が強くなるだけのことには興味がない.
 スポーツが上達すると同時に,社会の中のよい人間となっていかなければ教える甲斐がないと思っている.
 柔道の選手の中には勝ちたいという一念だけで,ルールや伝統をないがしろにしてしまう人もいる.
 アテネ・オリンピックでもフランスの選手の中にそういう人がいた」
 率直でなかなか厳しい人だ.

「コーチとして人間の成長にどうやって影響力を与えるのか」
という質問に,
「まず言葉だ.
 次に行動で模範を見せる.
 能力のあるものは,その模範を感じ取るものだ」
と言う.
 根っこからの教育者だ.

 プーチン少年は同時に勉強もさぼらず,柔道をやりながら一番の難関,国立レニングラード大学の法学部に入った.
 そして大統領になった.

引用終了 -------------------

 ラフリンさんは日本人から直接指導を受けたことはないと言っている.
 元々はロシア式柔道サンボの選手であったが,東京オリンピックで柔道を知り,転向したという稀の経歴を持っている.
 著者が見る限りでは柔道の精神は見事に体得していることだ.
 今でもラフリンさんの元にプーチン大統領が時々会いにやってくるという.
 そして彼の本質を示しているのがこの質問.

引用開始 -------------------

P52
「大統領としての評価は?」
と尋ねると
「大統領の評価というものは,時間が経ってみなければ分からない」
と言う.

引用終了 -------------------

 自分の弟子が国の最高指導者になっても手放しで褒めないその精神に恐れ入りました.
 少年時代に出会ったこの「柔道」が,プーチンに与える影響力は果てしなく大きかったようですね.
 またこの柔道の先生がプーチンに与えた影響も考えてみると興味深いものです.
 この先生は教育者としての鏡のような人物だと思いました.

引用者注

注1 インタビューの中でプーチンはロシア語ではなく日本語を使ったとのこと

注2 以前私が紹介していた本「 ドキュメント・プーチンのロシア 」ではコーチの名は「アナトリー・ラフリン」であるが,この本では「セルゲイ・ラフリン」となっている.
 どちらが正しいのか判別不能.

CRS@空挺軍 in mixi,2008年03月10日18:19

柔道一直線
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(画像掲示板より引用)


 【質問】
 プーチンと,その奥様との出会いは?

 【回答】
 プーチンの奥様であるリュドミラは,ロシアの飛び地であるカリーニングラードの出身,
 プーチンより5歳年下で,結婚する前の職業は国内線旅客機の客室乗務員でした

 二人の出会いはレニングラード.
 リュドミラは同僚の女友達と二人で3日の日程でレニングラードへ遊びに来ていました.
 友達の彼氏と三人で劇場へ行く事になり,その彼氏は「女の子がくるよ」と友人であるプーチンを誘った.

 リュドミラは,劇場の前に立っていたプーチンの第一印象についてこうコメントしている.
「とても貧相な格好で,街ですれ違っても決して気にもとめないタイプ」

 それでも二人は翌日も翌々日も一緒に劇場に通った.
 3日目の最後の日,地下鉄で別れる間際にプーチンは,踏ん切りをつけたかのように,彼女に自宅の電話番号を伝えた.
 職業柄や彼の個人的な性格から判断しても,この行動はプーチンらしからぬものである.
 ちなみにプーチンはリュドミラには最初,自分の職業については「職業は警察官だ」と話していたという.

 リュドミラとは三年付き合って結婚した.

 まぁ
「ご職業は?」
と聞かれて,いきなり
「KGBの人間だ」
と言ったら,そりゃ引かれるわな(笑)

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)

プーチンとリュドミラ
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CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月18日23:32


 【質問】
 プーチンとアナトリー・ソプチャクとの関係は?

 【回答】
 レニングラード国立大学の先生と生徒であった.
 またプーチンを登用した重要人物であり,彼がプーチンを登用しなかったらプーチンは大統領にはなれなかった.

 プーチンはレニングラード国立大学時代にソプチャクの下で学んでいたが,彼自身そんなに親しく面倒を見てもらった記憶はないらしい.

 プーチンが学長の国際担任補佐に就いた時には,ソプチャクは民主改革派の代表格で,レニングラード市ソビエト議長〔市長相当〕に就任していた.
 ゴルバチョフ時代,ソプチャクは改革派政治家の代表の一人だった.

 友人から
「彼(ソプチャク)には手下がいないんだ.彼の元で働いてみたらどうだい?」
とアドバイスを受けて,市行政府のドアを叩いた.
 ソプチャクとの面談では,自分がKGB出身で,いまだに在籍していることを素直に話した.
 ソプチャクは「まっ,まぁ,いいだろう」と彼を採用した.
 民主改革の大物となった元先生とKGB出身の元学生が手を組んだ瞬間であった.
 プーチンは中佐でKGBを辞め,ソプチャクの政治担当顧問となった.

 何故彼らは手を組んだのか?
 ソプチャク自身は「大学の教え子だったから」とコメントしたが,プーチンを通じてKGB人脈を市政運用に利用しようと考えてたふしがある.
 一方KGBも影響力が低下してたとはいえ,ソプチャクの動静を探る絶好の機会と考えてたかもしれない.

 サンクトペテルブルク出身で当時の市政に詳しい元ロシア高官は
「プーチンは当時から名誉を重んじ,自制心が強い人物だった.状況を冷静に判断する能力も高かった」

 採用の経緯については元高官はこう証言する.
「ソプチャクが市政執行のためプーチンを呼んだというのが定説だが,KGBがソプチャクの監視ならびにソプチャクとの関係作りのためにプーチンを送り込んだというのが実情だった」

 このように影では色々囁かれた,プーチンのレニングラード市政行政府登用であったが,ソプチャクの下で極めて有能な内務官僚として頭角を表していく.

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)
『プーチンの帝国』(江頭寛著,草思社,2004.6.22)

 なお,ソプチャクをサプチャクと表記する書籍もあるが,ここではモスクワ特派員歴30年以上で,もちろんロシア語を解する江頭寛の表記であるソプチャクに統一した.

CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月22日20:33
&消印所沢(青文字)

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(画像掲示板より引用)


 【質問】
 レニングラード市政行政府でのプーチンは?

 【回答】
 ソプチャクの右腕として手腕を発揮しまくった.
 ソプチャクはプーチンをベタ褒め(笑)

 レニングラード市政行政府での最初の肩書きは,ソプチャクの国際関係担任顧問.
 当初は安全保障担当も兼任していた模様.
 91年にソプチャクが,レニングラード市長に当選.
 レニングラードはその後間もなく,保守派クーデター未遂事件を受けて,サンクトペテルブルクに改名.
 プーチンはソプチャク率いる市の対外関係委員会議長に就任.
 92年から94年までは副市長兼対外関係委員会議長.
 94年から96年までには第一副市長を務めた.

 プーチンは「ソプチャクの右腕」との評価を得ていた.
 これは彼がソプチャクのそばにいた6年あまりの間変わらなかった.

 プーチンは市場経済に適合した環境を早急に整えるために,国営企業の民営化や外国資本の誘致に積極的に取り組んだ.
 プーチンの働きかけで,外国銀行の支店開設に成功.
 市内に投資地区を設けて,コカコーラやジレットなどの外国企業の誘致に成功.

 また保守派クーデター未遂事件にはソプチャクと共に行動し,一貫してクーデターに反発し,民主派を支持した.
 当時モスクワにいたソプチャクは,ロシア最高会議ビルに立て篭もって保守派と対決したエリツィンを支持し,サンクトペテルブルクに戻って同じような行動をとろうとした.
 プーチンは地元のKGB支部と連携して,空港にソプチャクを迎え護衛した.


 プーチンは,90年にいったん辞表を提出したが,受理されていなかったKGBへの辞表を再度提出し,事件解決前に受理してもらった.
 事件後は「ロシアの選択」「我が家ロシア」などの政権寄りの改革派政治組織を後押しするようになる.

 ソプチャクはこう証言する.
「プーチンは,合併企業を創立したり,外国銀行の支店や代表部をサンクトペテルブルクに開設したりするのに大変大きな仕事をしています.
 1995年までにサンクトペテルブルクにはロシアで登録された合併企業のほぼ半数があり,外資導入の面では他の都市よりかなり抜きん出ていたのですが,これはプーチンの努力に負うところが大きいと思っています」

 KGBに勤務していたというプーチンの告白インタビューをとった映画監督のシャトハンは,当時のプーチンの仕事ぶりについてこう証言している.
「プーチンは元気一杯で,仕事が気に入ってる様子でした.
 プーチンがドイツ語を自由に喋っているのを目にしました.
 仕事に打ち込んでる人間を見た感じでした.
 サンクトペテルブルクではあれこれの建物を誰に譲り渡すかという問題が続出し,対外連絡委員会はあわただしい雰囲気に包まれていました.
 例えば,市の中心にある立派なレニングラードホテルを何処かの外国人が買い取りたい,あるいは賃借りしたいと言っているなどの問題が起きていました.
 あの頃,創立された合併された合併企業にも問題が山積していました.
 プーチンは毎日の仕事に忙殺されていたのです」

 やがてプーチンが第一副市長に就任したさいには,ソプチャクは全面的に信頼を寄せている.
「サンクトペテルブルクで私が市長をしていた時に,彼は第一副市長でしたが,態度は極めて控えめで,人目につかず,私生活はこんな要職につく以前とまったく変わったことはありませんでした.
 権力欲がなく,遠慮深いこと.これがプーチンの特徴です.
 決して人をだまさず,違法な決定には絶対に署名せず,つねに法律を守る誠実な人物であることを知り,信用していました.
 それにプロとして事務を処理するすべを心得ていました.
 私が市長を務めていた6年間,留守を任せる事ができたのはプーチンだけでした.
 彼の特徴は仕事振りの確かさ,慎重さでしょう.決定を下す前に徹底的に考え抜きます.
 仕事をするすべを承知していて,よく働きます.
 一日の大部分を仕事に費やすモーレツ型です.
 もう一つ,タバコも吸わなければ,酒も殆ど飲まないという,ロシアの政治家としては珍しい人物で,仕事一筋に生きるタイプです」

 プーチンの影響力はソプチャク市長のもとで増大したが,陰の立場にとどまり続けた.
 他の副市長が市長のそばに並んでいる中で,プーチンはいつも末席を占めていた.
 しかしソプチャクへの影響力は絶大だった.
 ソプチャクは市政に関するほとんど全ての決定を,プーチンに委ねていると噂されていた.
 ロシアでは権力を陰で操る人物を,よく「灰色の枢機卿」と呼ぶ.
 サンクトペテルブルクではプーチンがそう呼ばれていた.

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)
『プーチンの帝国』(江頭寛著,草思社,2004.6.22)

CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月22日20:33
&消印所沢(青文字)

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(画像掲示板より引用)


 【質問】
 なぜプーチンはサンクトペテルブルク市で,支配的役割に就くことができたのか?

 【回答】
 江頭寛によれば,プーチンはサンクトペテルブルクの実質的支配者だったKGBから市政に送り込まれた利益代表だったのだという.
 サンクトペテルブルクでは企業はマフィア組織からのみかじめ料の要求に悩んでおり,KGBは,その状況から抜け出すために援助しようと持ちかけることで,企業と癒着していったという.
 またKGBは,サンクトペテルブルクの権力機構内部に,独立したグループを形成しており,彼ら無しではどのような政治的合意・経済的決定も行われないほどの影響力を持っていた,と江頭は述べる.

 詳しくは,江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.206-207を参照されたし.

プーチン・フォルダより
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(画像掲示板より引用)


 【質問】
 レニングラード市政行政府時代でのプーチン汚職疑惑について詳しく!
 やっぱ政敵を謀殺したの?!

 【回答】
 市の食料危機を解決するために,希少金属の輸出を認める代わりに,食料を輸入するという契約を民間の貿易会社と交わした.
 サンクトペテルブルクは港湾都市かつ軍需生産の都市で,工場には軍需用の希少金属などはじゅうぶんにあった.
 プーチンの対外関係委員会の主導で,食料と希少金属の交換契約が結ばれた.
 しかし,希少金属は安売りされたが,食料は到着しなかった.
 そこで,
この契約でプーチンは食料調達の名目で希少金属の違法な海外持ち出しに関与したという疑惑 が持たれた.

 殺してはおりませんが,告発したマリーナ・サリエ食料委員会委員長は解任されました.
 以下引用.

「あなたの汚職疑惑を徹底的に追求するわ」
「あなたにとって良くないことが起きますよ」
 マリーナ・サリエの脳裏には,わずか数分で決裂したプーチンとの会談場面が今でも鮮明に焼き付いている.
「きりっと私を見据え,妥協の余地を一切見せなかった」
とサリエは振り返る.
 場所はサンクトペテルブルク市議会の一室.92年末のことだった.
 サリエは当時,女性の市議会議員で食料委員会の委員長.
 サリエが提起した「汚職疑惑」は91年冬から92年にかけて,市政府が進めた「不明朗な食料調達」だった.

 当時はソ連崩壊前後の混乱期で,サンクトペテルブルクに限らず各地で食糧不足が深刻化していた.
 連邦中央政府は危機打開策として,主要な地方行政府に対して,石油や木材,希少金属,非鉄金属など主要な資源を海外に売って,海外から食料を調達することを許可した.
 サンクトペテルブルクでは仲介業者を選択を含めて,プーチンが一連の取引の統括役となった.

 ところが市内の食料不足は一向に解決しない.
 疑問に思ったサリエは91年12月中旬,市行政府に資料の提出を求めたが返答はない.
 市議会は翌92年一月に調査委員会を発足させ,サリエが調査委員会に就任,追及姿勢を強めた.
 数日後,プーチンはようやく取引の一覧表を提出したが,契約原本などの提出は機密を理由に拒否したという.

 その後に断片資料を集めて追求したサリエは,当時を振り返ってこう話す.
「プーチンが提出した一覧表では契約案件が合計11件で,外貨収入が1496万ドル.
 しかし実際の契約原本を照合すると,6件の合計額だけで2658万ドルに達していた.
 1000万ドル以上の差額は何処へ消えたのか?
 しかも個々の契約では,仲介業者の手数料が外貨収入の25%と高かったり,えたいのしれないドイツ人が株主となっている企業が仲介業者となり,国際市場価格の十分の一以下で資源を売却したりしたケースもあった」

 疑惑を確信したサリエは検察当局にも捜査を要請したが,「違法性はない」との結論が出た.
 プーチンが予言した「良くないこと」が起きたのはそれからまもなくだった.
 サリエは食料委員長を解任されてしまったのだ.
 結局,真相は闇の中だ.

――『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)

 プーチンが関わっていたのは事実だろうが,どのくらい関わっていたのかについては,この先も闇の中だろうね.

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)
『プーチンの帝国』(江頭寛著,草思社,2004.6.22)

CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月22日20:33
&消印所沢(青文字)

脅迫するプーチン
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(画像掲示板より引用)

逮捕されるプーチン(想像図)
(画像掲示板より引用)



 【質問】
 「バーター・スキャンダル」に関与した人物は?

 【回答】
 江頭寛によれば,「ストリム」という会社を通じて,非鉄金属を輸出する事業に参加したのが,プーチンの他,
PTK社長ウラジーミル・スミルノフ,
ロシア銀行の株主の1人ウラジーミル・ヤクーニン等,
そしてクム

 詳しくは,江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.200-201を参照されたし.


 【質問】
 国内資源と輸入食糧のバーター取引を特別枠で行ったのは,プーチンが最初か?

 【回答】
 いいえ.
 ゴルバチョフ政権時代にはすでに,1986年に創設されたソ連邦「文化基金」がそのようなことをしている.
 ゴルバチョフ夫人ライサが,同基金のモスクワ支部長を引き受けているが,寺谷弘壬によれば,同基金はモスクワ最大のマフィア組織,ソーンツェヴォ組の2代目親分ミハシ(本名S.ミハイロフ)が牛耳っており,免税特権の貿易や興行でミハシは金をかき集めていたという.
 1989年12月にミハシは2度目の刑務所行きになっているので,ライサ夫人がミハシのことを知らなかったとは考えにくい,と彼は述べている.
 ちなみに,会長として采配を振るうようになったライサ夫人は,「でしゃばり女」と陰口を叩かれるようになったという.

 詳しくは寺谷弘壬著『ロシア・マフィアが世界を支配するとき』(アスキー・コミュニケーションズ,2002/11/4),p.14-15を参照されたし.

 【質問】
 「21thトラスト」疑惑とは?

 【回答】
 江頭寛がスペインの報道を引いて述べるところによれば,サプチャク市長とその側近グループが,建設会社「21thトラスト」を通じ,サンクトペテルブルク市から2250万ドルを持ち出し,そのうち300万ドルをスペインでの土地・不動産買収に不正流用したとされる疑惑.
 プーチンの仲介により,230億ルーブルの低利融資を同社が導入するという形がとられたという.
 監査が入るや,同社は破産手続きに入ったが,1997年のプーチンの別荘の火事の際に,修理費用6万ドルを同社が負担するなど,プーチンが大統領府入りしてからも両者の接触は続いた,と江頭は述べている.

 詳しくは,江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.204-205を参照されたし.

プーチン・フォルダより
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(画像掲示板より引用)


 【質問】
 レニングラード市政行政府時代でのプーチンの同僚や関係者の評価は?

 【回答】
 当時サンクトペテルブルク市役所で一緒に勤務し,プーチン政権下で大統領府副長官を務めているドミートリー・コーザクは,今も昔も変わっていないと証言する
「1990年12月に初めて会った時,第一印象はとても良かったですね.
 実に落ち着いていて,野心などは少しもなく,地位よりも仕事が大事だというタイプでした.
 職務柄,殆ど毎日のように会っていますが,人間対人間の付き合いでは,昔のままのプーチンです.
 同僚に対する態度はいつでも礼儀正しいものでした.
 もちろん厳しい態度を取る事がありますが,礼節の枠を踏み出す事は決してありません.
 声を荒げることは絶えてないけれども,彼の厳しさはいつでも感じることができます.自分にも部下にも高い要求を出しているからです.
 ヒステリーなど,プーチンにはまったく縁がありません」

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)

CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月22日20:33

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(画像掲示板より引用)


 【質問】
 サンクトペテルブルク時代のプーチンの収入源は,市の役人としての報酬だけか?

 【回答】
 貿易会社を複数経営し,利益を得ていた.
 以下引用.

 プーチンはこの時期に,幾つかの対外貿易会社を作って利益を上げていた.
 もちろん直接に経営していたわけでなく,過去にKGBと繋がりを持つウラジーミル・ヤクーニンという人物を通じて企業経営をさせていた.
 ヤクーニンは,郊外の湖のほとりにある別荘も,プーチンと隣り合う仲だった.
 プーチンは後にヤクーニンを鉄道省第1次官に抜擢するが,利権を任せるほどの信頼を置いていた.

江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.82

 のちにプーチンは大統領就任時,政敵系のマスコミからは「経済には素人」などと批判されていたが,ロシア経済を立て直すことで,そうでないことを実証した.
 もしかしたらこの時期に,経済にも強くなったのかもしれない.

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(画像掲示板より引用)


 【質問】
 プーチン初来日はいつ?

 【回答】
 『プーチンのロシア 法独裁への道』(袴田茂樹著,NTT出版,2000.10)によれば,実はプーチンの初来日は1995年,
 当時,サンクトペテルブルク副市長として,日本政府が主催した各国のオピニオンリーダー(ジャーナリストや政治家や役人etc)を招くプログラムにより,単独で来日.
 サンクトペテルブルク市でのプーチンは超目立たないのが特徴でしたが,面白いことに直接プーチンを招聘し,彼に会っている外務省の関係者も印象が薄すぎて,彼のことを殆ど覚えていなかった(笑)

CRS@空挺軍 in mixi,2008年02月14日18:24

プーチン近影
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(画像掲示板より引用)


 【質問】
 サンクトペテルブルクではこれまでようなの生活が続いたのか?

 【回答】
 続かなかった
 奥様は事故で大怪我するわ,新築した別荘は焼失するわ.
 最大の打撃はサンクトペテルブルク市長選でソプチャクが敗れてしまったこと.
 ソプチャクのスタッフは選挙期間中に「もしソプチャクが敗れたら,彼のスタッフ全員が辞職する」という誓約書を書いたが,これを率先して作成したプーチンは,この誓約書通りに第一副市長を辞職した.
 後任のヤコブレフ市長はプーチンの功績を高く評価していた.
 彼はプーチンに対して
「副市長として一緒に仕事しないか?」
と持ちかけたが,プーチンはこれを拒否した.

 ソプチャクはこう証言する.
「プーチンは自分で自分を作り上げるたちの人間です.
 有力な人物の助けをかりて出世の道を開くような人間ではありません.
 実は96年の市長選で私が落選した時,プーチンはヤコブレフ市長のもとで働く事を拒否し,失業してしまったのです」

 友人である映画監督シャトハンは,この時プーチンに合併会社の社長ポストの提案があったと証言し,プーチンは大いに悩んでいたという.
「プーチンが国家公務員として残るかどうかの問題の解決を迫られたのは,ソプチャクが市長選挙に敗れてしまった時です.
 この時,ある会社の社長ポストを勧告されました.
 この提案を受けるか,または国家機関に残るのか.
 しかしヤコブレフのもとでは働きたくない.
 待ちの姿勢をとることになります.
 このかなり困難な時期のプーチンを私は見ています.
 いつでしたか,二人でレストラン『ヨーロッパ』に出かけました.
 レストランではテーブルに着いたままどちらも口をききません.
 前にはかっきり50グラムのブランデーが入ったコップがおいてあります.
 あらこちに石のある庭園で日本人がよくやるように,小一時間ほど黙っていました.彼は考え事をしているのです. 何かの問題の解決方法をしきりに探しているのです.
 友人達の集まりの中でさえ,プーチンは席を立って外に出て行くことがあるそうです.
 場所が場所なら庭を散歩するでしょう.一人になりたいのです.一人でじっと物を考えたいのです.
 自分で自分を問うてみる.そういうタイプの人なのですね.
 プーチンは自問自答するすべを心得ています.
 考えることのできる人間なのです」

 【参考文献】
『ドキュメント・プーチンのロシア』(山内聡彦著,日本放送出版協会,2003.8)
『プーチン』(池田元博著,新潮社新書,2004.2)

CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月27日20:44

悩むプーチン

日本食に挑戦するプーチン
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(画像掲示板より引用)


 【質問】
 なぜプーチン・ソプチャクのコンビは1996年6月の市長選で敗れたのか?

 【回答】
 収賄疑惑が大きなダメージとなったため.
 それにより選挙資金が不足し,敗北した.
 以下引用.

 95年5月,ソプチャクがある建設会社から,号かなアパートを提供されていたという収賄疑惑が起きた.
 同年10月には検事総長ユーリー・スクラートフが,サンクトペテルブルク市長を巡る収賄捜査グループの立ち上げを命じた.
 プーチン側から見えれば,明らかに翌年の市長選挙を見据えたソプチャクへの攻撃だった.
 ソプチャクの対立候補だったウラジーミル・ヤコブレフには,モスクワ市長のルシコフが支援を提供していた.

 プーチンはソプチャク再選のために,副市長の同僚,アレクセイ・クドリンとともに奮闘した.
 市の有力企業経営者やマフィアのボスにも掛合い,選挙資金の支援を要請した.
 しかし彼らの反応は冷たかった.
 収賄疑惑追及の焦点になっているソプチャクを支援するのは,あまりにもリスクが大きかった.
 資金不足のソプチャク陣営は,選挙間近になってもテレビ・コマーシャルも打てず,結局1996年6月の市長選挙で惨めな敗北を喫した.
 落胆したプーチンは,市政に残るようにとの新市長ヤコブレフの要請を振り切って,サンクトペテルブルクを後にした.

江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.82-83

 しかも選挙後も,この収賄疑惑は尾を引き続け,プーチンらをピンチにする.
 再び引用.

 1997年秋,2年間くすぶっていた前サンクトペテルブルク市長ソプチャクの収賄疑惑が,最終段階にさしかかった.
 この容疑は,チュバイスを筆頭とする「サンクトペテルブルク・グループ」にとっては大きな脅威となった.
 もしソプチャクが逮捕されたら,収賄問題にとどまらず,サンクトペテルブルクの民営化に絡む数々の不正を暴露してしまう可能性があったからだ.

 すでにソプチャク市政時代の3人の市幹部が逮捕されていた.
 ソプチャクの妻リュドミラ・ナルソワはロシア下院議員になっていたが,しばしばプーチンを訪ねて2人きりで対策を話し合っていた.
 ソプチャクへの逮捕状を最高検が用意したとの情報を,ナルソワが聞きつけ,プーチンは動いた.

 10月,ソプチャクは心臓疾患を理由に,サンクトペテルブルクの軍事医学アカデミー付属病院に入院した.
 1ヵ月あまり病院に篭った後のある日,空港へソプチャクを乗せた救急車が滑走路に直接乗りつけた.
 ソプチャクと妻は,待っていたフィンランドの小型チャーター機に乗り込み,パリに向けて飛び立った.
 ソプチャクはその後2年近くロシアに戻らなかった.
 このソプチャク脱出劇を演出したのはプーチンだったとされた.
 そのときプーチンに協力した軍事医学アカデミー所長のユーリー・シェフチェンコは,ステパーシン内閣で保健相のポストを与えられた.
 推薦したのは,プーチンの意を受けたチュバイスだった.

同,85

 もしヤコブレフ市長の下にプーチンが留まっていたなら,どうなっていたか分からない.

 そしてまた,このことが後のスクラートフへのリベンジへとつながっていく.

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(画像掲示板より引用)


 【質問】
 後にプーチンはどのようにして,サンクトペテルブルクの市政を奪還したのか?

 【回答】
 江頭寛によれば,ソプチャクを選挙で破ったウラジーミル・ヤコブレフについて,まずサンクトペテルブルク市の規則には3選禁止規定があることを利用して,同市の裁判所に
「2004年にはヤコブレフは市長選挙には出られない」
旨の判断を出させたという.
 しかし同規則は1998年制定であり,遡っての勘定はできないことから,出馬が可能かどうかは議会の判断次第であり,議会への影響力があるヤコブレフの意思次第だった,と江頭は述べる.

 そのため結局,プーチン政権は2003年に入ってから,ヤコブレフとの間に協定を結び,ヤコブレフは出馬せず,同政権の副首相ワレンチナ・マトビエンコを出馬させる代わり,6月にヤコブレフは運輸・住宅サービス担当副首相に任命されたという.

 詳しくは,江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.219-222を参照されたし.

プーチン・フォルダ斉射!
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(画像掲示板より引用)


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