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◆◆◆◆プーチン血風録
<◆◆◆ウラジーミル・プーチン
<◆◆大統領関連
<◆総記
<ロシアFAQ目次
プーチン近影
(うそ)
「BBC」◆(2010/12/30)Khodorkovsky jail term increased
「VOR」◆(2012/07/24)プーチン暗殺計画:調査終了
「VOR」◆(2012/07/25)プーチン大統領暗殺未遂者ら,拘束先のウクライナがロシアへの本国送還に応じるか
「VOR」◆(2013/03/24) ベレゾフスキーの死:空虚への跳躍
「VOR」◆(2013/03/24) ロンドン ロシア・オリガルヒの一人 ボリス・ベレゾフスキーが死亡
「VOR」◆(2013/03/26) ベレゾフスキーの遺体に「絞首」の痕
「VOR」◆(2013/03/31) ベレゾフスキーは死亡前,3億ドルを受け取ることになっていた
「ノーボスチ」◆(2011/05/26)アムネティ.インタナショナル,ホドルコフスキーらを不当に逮捕された「良心の囚人」と認定
ホドルコフスキイに「良心」があるとは思えないが…
【質問】
レーベジの死は暗殺なのか?
【回答】
2002.4.28にヘリコプター墜落事故でクラスノヤルスク地方知事アレクサンドル・レーベジが死亡したこの事件だが,江頭寛によれば,事故に見せかけた暗殺ではないかという見方も一部にはあったという.
プーチン政権にとっては,レーベジはずっと邪魔な存在であった,と江頭は述べる.
それは第1に,レーベジがベレゾフスキイと親しく,
第2に,1999年のモスクワのアパート爆破テロについて,レーベジは,プーチン側の仕業と示唆する発言を行っており,
第3に,軍人として評価が高く,国内の愛国勢力からの支持という点で,プーチンとは支持層が重なっていた
からだという.
また,レーベジの死は,プーチン政権側にとっては,同地方の権力を手に入れる絶好のチャンスになったという.
2002年5月,中央から送り込まれたフロポニンが,クラスノヤルスク地方知事に当選した.
詳しくは,江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.215-218を参照されたし.
▼[quote]
選挙前の集会で,父と息子が来ています.
演壇には候補者.
息子が尋ねます.
「パパ,どうしてあの候補者,喋るときユラユラしているの?」
「動く標的は当たりにくいっていうだろ」
[/quote]
―――『ロシア小話アネクドート』(さとう好明著,東洋書店,2004/10/20),p.21▲
【質問】
「メチェル」騒動とは?
【回答】
ノーボスチ通信社より.
――――――
「メチェル」の運命は「ユーコス」の運命をたどらない
この運命を決する会議の1週間前にも連邦独占禁止局(ロシア語表記ФАС)は,「メチェル」が価格吊り上げの目的で市場での支配的状態を利用したかどで同社を提訴していた.
しかし,精々,同社を驚かせることができる最大のことは,全売上高の2%の罰金だった.
本年度の利益が25-35億ドルと評価される「メチェル」社の規模からすれば,この程度の罰金はそれほど決定的な額ではない.
会社にとってもっとはるかに大きい損失をもたらしたのは,内閣の長プーチンの厳しい批判だ.
そのことにより,同社の株式の資産価値が一瞬のうちに,150億ドルから100億ドルと3分の1も下落してしまった.
そうは言っても,ひどい目にあったのは「メチェル」だけではない.
ロシア首相の怒りの発言は世界の市場にもすぐ反響を呼び,全体としてロシアの株式市場全体が約5%も下落してしまった.
――――――
鶴の一声でここまで業績が悪化するとは・・・たまったもんじゃない.
市場が病的に反応した原因は批判の内容そのものではなく,批判が首相の口から出たこと,そして,首相の批判の調子が,偶然だが,冶金の巨人「メチェル」に当時の石油の巨人「ユーコス」の運命を繰り返さすのではないかという心配を起こさせたことだったことは公然の事実だ.
ただ「ユコス事件」とは違い,政治的な問題はさほど絡んではいないことは事実だし,あの事件はオルガリヒとクレムリンの戦いだった.
今のロシアにしてみれば,こうした問題は経済に問題を与えかねない.
早々に両者とも決着を付けたいだろう.
この騒動で明らかになったことは,プーチンの発言に影響力がありすぎることと,マスコミに出演した時の言い回しが,いい意味でも悪い意味でも上手い事だ.
CRS@空挺軍 in mixi,2008年08月04日16:35
プーチン近影
◆◆◆◆◆プーチンvsグシンスキイ
【質問】
ウラジーミル・グシンスキイとは?
【回答】
1952生.
モスクワ演劇大学卒.
江頭寛によれば,ペレストレイカの時代には自分の乗用車「ジグリ」で,白タク営業をしていたという.
1989年,「モスト・バンク」設立.
銀行分野で利益をあげたのち,メディア分野に進出し,1993年に「セボードニャ」新聞社設立.
同年10月,人気キャスターのエフゲニイ・キセリョフに,自己の番組「イトーギ」を別のテレビで続けたいと協力を要請され,他の新興財閥と共同で初の民間テレビ「独立テレビ(NTV)」を設立.
1994年,他の支援者たちに融資分を返済,同テレビを実質的に入手.
1996年,それまで批判的だったエリツィンの再選を助ける立場に転換,チュバイス,ジリノフスキイと組んで自己のマスコミを総動員.
同年,グシンスキイは「ガスプロム」を何らかの手段で脅し,「メディア・モスト」へ資金を提供さす.
1997年,電信電話の統合持ち株会社「スビャージインヴェスト」民営化入札を,チュバイスの忠実な部下だったアルフレド・コフによって阻止さる.
2000年大統領選挙では,中道政党「ヤブロコ」党首のグリゴーリー・ヤブリンスキイを支援.
同年,スペインに出国し,さらにイスラエルへ渡った.
詳しくは,江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.183-185を参照されたし.
【質問】
プーチン政権のグシンスキイへの攻撃は,どのように始まったのか?
【回答】
江頭寛によれば2000年5月,最高検察庁が「メディア・モスト」本社を家宅捜索したことから,抗争の火蓋は切られた.
同年6月には会長のグシンスキイを詐欺罪で起訴し,7月半ばには彼を横領容疑で逮捕,3日間拘留した.
釈放条件は「メディア・モスト」株を手放すこと.
グシンスキイは,債務2億6千万ドルがあった「ガスプロム」に株を譲渡する協定に調印,家族の住むスペインに出国した.
だが9月,公になっていなかったこの協定書が,ネット上に公開された.
ミハイル・レーシン通信情報相のサインのあるもので,民間企業同士の株譲渡契約に,政府が司法取引を絡ませたと見られても仕方なかった.
政権はことを公にすることを望まなかった.
かくしてグシンスキイは,協定を破棄させることに成功した.
詳しくは,江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.181-183を参照されたし.
【質問】
NTV乗っ取りはどのように行われたのか?
【回答】
江頭寛によれば2001/4/3,NTVの株式46%を保有する「ガスプロム・メディア」が,「ガスプロム」本社ビルでNTVの臨時株式総会を一方的に開き,経営陣を取り替えた.
NTV側は総会召集無効を裁判所に訴えていたが,裁判所は前日に株式総会開催を禁止する決定を下しておいて,その後に決定を取り消した.
4/4,旧経営陣と社員たちは放送局に立て篭もったが,14日,新経営陣は警備に守られて社屋入りした.
まもなく新体制下で通常放送を開始した.
NTV乗っ取りのために動いた人物たちは,1990年代前半にチュバイスが主導した民営化で手足となって働いた,「民営化マフィア」と呼ばれたグループだった.
詳しくは,江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.180-185を参照されたし.
【質問】
TV6とは?
【回答】
NTVを乗っ取られたグシンスキイへ,ベレゾフスキイが提供したテレビ局.
それまではモスクワ周辺と主要都市をエリアとする,娯楽番組主体の地方局だったが,NTVが乗っ取られると,そのキセリョフら旧経営陣と旧社員が報道番組を続けるために移ってきた.
TV6は徐々に視聴率を上げ,NTVは視聴率が低下したが,この体制は1年と続かなかった.
2001年9月,TV6の株式15%を保有する「ルクオイル・ガラント」――石油大手「ルクオイル」の年金基金――が,TV6の経営不振を理由に,同局の清算を申し立てた.
ロシアの破産法では,少数株主にもその権利があった.
TV6の赤字は他のテレビ会社と比べて目立つほどではなく,TV6潰しのための申し立てであることは明らかだった.
2002年1月,同局は裁判所によって閉鎖命令を下され,チャンネルは国営のスポーツ専門放送に切り替えられた.
詳しくは,江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.190-191を参照されたし.
メディア支配を完成させたプーチン(イメージ図)
◆◆◆◆◆プーチンvsベレゾフスキイ
【質問】
プーチンとベレゾフスキイとの対立の発端は?
【回答】
プーチン新政権の経済発展戦略と人事.
これらは「オリガルヒ」の力を削ごうとするものであり,ベレゾフスキイは裏切り行為だと受け取った模様.
以下引用.
----------------
「経済近代化」のための諸施策としては,非文明的な国有化を排除する法律の制定を挙げた.
私有権の保障については,国家は全ての所有権を登録し,どんな小さな所有の移動も責任をもって保障し,企業再編の際は自己の資金を失うことがないようにする,とした.
税,価格形成面でのこれまでの特恵条件,恩典のたぐいは急速に縮小ないし廃止.
資本の国外逃避に関しては,オフショア市場での活動規制,輸出入における価格形成の歪曲排除,また,銀行については情報公開を厳しく求め,一般為替免許の銀行数を20分の1から30分の1に削減するとした.
従来,ロシアで進攻財閥,つまりオリガルヒが教授していた特権的な優遇措置を排除することをうたっていた.
――江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.98-99
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地方首長の権限を削ぐ狙いの上院改革関連法案は,5月31日の下院総会で圧倒的な多数で採択されたが,一人の議員の反対が注目を集めた.
前年12月の課員選挙で下院議員になっていたボリス・ベレゾフスキーだった.
ベレゾフスキーが槍玉にあげたのは,プーチンが上院改革法案などと共に提出した国家機能強化法案だった.
5月30日,ベレゾフスキーは大統領への公開書簡を発表し,個人の自由を制限し,ソ連体制へ戻そうとしているなどと批判した.
すでにベレゾフスキーには,プーチンが「セミヤー」グループの影響力を低下させようと考えているのが,はっきりと見え始めていた.
自分が政府における代理人とまで認めていた鉄道相のアクショネンコは,第1副首相の肩書を外され,経済関係では自派のカリュージヌイ燃料エネルギー相も解任されていた.
さらに検事総長人事でも,プーチンと「セミヤー」は衝突した.
1999年7月から検事総長代行を務めていて昇格が当然視されていたウラジーミル・ウスチノフに対し,プーチンは元サンクトペテルブルク副市長で法律家のドミトリー・コザクを対立候補に立てて,検事総長の椅子を狙わせた.
結局,検事総長になれなかったコザクは,大統領府副長官に就任した.
ウスチノフは大統領府総務局長だったボロジンからアパートを提供されていたとの噂もあり,「セミヤー」に近いと政界で囁かれていた.
最高検察庁は外部からの検事総長登用に強く抵抗し,ウスチノフの地位を守った.
これらを含め,プーチンの人事政策はベレゾフスキーにとって「裏切り」とも映っていた.
プーチンを首相から大統領に押し上げたのは,ベレゾフスキーが陰で動かしていた「セミヤー」だった.
しかしベレゾフスキーは元元,サンクトペテルブルク人脈のプーチンに全幅の信頼を置いていたわけではない.
これほど急速にプーチンが自分の意に背くような行動をとり始めたのに対し,ベレゾフスキーの苛立ちが募っていた.
同,p.101-102
【質問】
ボリス・ベレゾフスキイとは?
【回答】
1946年生まれ.
モスクワ大学機械数学科卒.
応用数学の学者から,89年,自動車販売会社「ロゴヴァス」を設立し実業界入り.
96年,安全保障会議副書記.
97年11月,解任.
98年4月,独立国家共同体(CIS)書記.
99年3月,解任.
99年12月,下院議員.
2000年7月,下院議員辞職.
以後,英国に在住し,2003年9月,亡命.
江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.9
【質問】
なぜ「オリガルヒ(新興財閥)」はエリツィンに大きな影響力を持つようになったのか?
【回答】
エリツィンが再選することができたのは,彼らに負うところ大だったから.
以下引用.
----------------
1996年に彼が再選できたのも,ごく少数の財界人達(のちに「新興財閥(オリガルヒ)」と呼ばれる)による資金援助とテレビの支配のおかげであった.
1995年3月31日に,ポターニン,ホドルコフスキー,スモレンスキーの3名は,ロシアの内閣に株式担保型民営化を提案した.
この新興財閥グループは民営化政策により,油田を始め,ロシアで最も価値のある資産の一部を,政権への支持と引き換えに,話にならないほどの安価で支配下に収めた.
その後,1996年2月のダボス会議で,これらのオリガルヒたちは個人的対立を一時棚上げにして,エリツィン再選を確実にするための同盟を結んだ.
この取り決め(ある本の著者はいみじくも「<悪魔と手を握った>ファウスト的取引」と呼んだ)を,エリツィン政権内のリベラル改革派は,共産党が立てた対抗馬のジュガーノフを排除するために必要かつ正当なものと考えていた.
西側の政府や識者は,ジュガーノフの大統領当選という恐怖が去ったのを安堵するあまり,彼らの選挙工作については見て見ぬふりをした.
今になって思えば,この結果にロシアは高い代償を払わされたのだ.
――ロデリック・ライン他著『プーチンのロシア』(日本経済新聞社,2006/11/17),p.26-27
--------------------------------
1990年代のロシアは,オリガルヒの影響かにあるメディアに揺さぶられつづけてきた〔略〕.
オリガルヒたちは翼下のメディアを,政権当局や政敵を攻撃する道具に使っていた.
特にテレビ・メディアはロシアでは影響力が強く,2004年の大統領選で〔プーチンが〕再選を確実にするためにも,それを完全に政権のコントロール下に置く必要があった.
ソ連崩壊後,ロシアのテレビ放送網は一挙に拡大したが,全国放送している3大テレビ局が特に重要だった.
国営の「ロシア・テレビ(RTR)」,
半官半民の「ロシア公共テレビ(ORT)」,
民営の「独立テレビ(NTV)」の3局である.
ORTとNTVはそれぞれボリス・ベレゾフスキー,ウラジーミル・グシンスキーという2人の代表的なオリガルヒの支配下にあった.
――――江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.179
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ベレゾフスキーが支配下に収めていた「独立新聞」,「コメルサント」,「ノーヴィエ・イズヴェスチヤ」など新聞メディアは,国民への影響力の点ではORTには束になってもかなわなかった.
――――同,p.186
つまり当時は,メディアを支配した財界人がキング・メーカーも兼ねていたわけで,プーチンならずとも,経済を立て直し,かつ,大統領の権限を強化したいと考える政治家なら,遅かれ早かれこのようなメディア・ボスとの対決をしなければならなくなるのは,必然と言えよう.
【質問】
なぜベレゾフスキイはメディア王となったのか?
【回答】
暗殺未遂事件の際,メディアの力を強く認識したためだという.
そこで,テレビ局ORTに広告担当重役となり,やがて同社を乗っ取った.
以下引用.
----------------
ベレゾフスキーがメディアに手を出すきっかけとなったのは,1994年の夏に起きた彼自身への暗殺未遂事件だった.
国際的に注目も浴び,被害者となったことで社会の同情も集まった.
そして,これほどまでに自分への社会の評価を上げたメディアの力を強く認識した.
1995年春,ORTが民営化された際に,ベレゾフスキーは広告担当の重役として,その経営に参加した.
その5月にORT社長だったウラジスラフ・リスチェフが暗殺された.
テレビのキャスターとして親しまれていたリスチェフの死は,ロシア社会に大きな波紋を呼んだ.
このときにベレゾフスキーの事件への関与が噂された.
しかし証拠はなく,社長の死去で易々とORTの実験を握った.
当初,ベレゾフスキーのORT持ち株は19%とされていたが,プーチン政権のもとで,それが政府持ち株51%を除く残り49%だったことが判明した.
エリツィン政権の下では政府はORTの経営に口を出さず,ベレゾフスキーはこのテレビ・メディアを存分に政争の道具に活用した.
江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.187
【質問】
なぜプーチンはベレゾフスキイの影響力を低下させるようなことをしたのか?
【回答】
プーチンはベレゾフスキイにあまり恩義を感じておらず,また,プーチンと関係の深いチュバイスは,ベレゾフスキイとは,過去に対立があった.
エリツィン政権下ではチュバイスとベレゾフスキイは,エリツィンへの影響力を競うライバルだった.
したがって,プーチン政権下でも同様の影響力競争があり,チュバイスのほうが優位に立ったためだろうことは,誰でも容易に推測できるだろう.
以下引用.
――――――――――――――――
1997年,〔ベレゾフスキイは〕グシンスキーと組んで電信電話の持ち株「スビャージインヴェスト」の民営化落札を図って,チュバイス一派に阻まれた.
このとき,ORTの人気キャスターだったセルゲイ・ドレンコを使って執拗な民営化批判を繰り広げ,国家資産委員会議長だったアルフレド・コフを解任させた.
その後はチュバイスらが「スビャージインヴェスト」を落札した「インテルロス」の会長ポターニンから原稿料名目で賄賂を受け取っていたと,翼下のテレビ,新聞で追及,チュバイスを財務相辞任へと追い込んだ.
その報復として,前年から勤めていた安全保障会議会議副書記の職務をエリツィンから剥奪された.
チュバイスからエリツィンへの進言によるものだった.
チュバイスはベレゾフスキーにとって,常にエリツィンへの影響力を競う相手だったが,共通の敵ができたときには同盟者になる関係だった.
それがプーチン政権になって,エリツィン時代のようなわけにはいかなくなった.
ベレゾフスキーは明らかにプーチンをエリツィンの後継に推した存在だったのに,プーチンはあまりその恩義を感じてはいなかった.
チュバイスとは,ベレゾフスキーの及ばない密接な繋がりを故郷のサンクトペテルブルク時代から築いていたからだ.
江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.187-188
プーチン@イタリア訪問時
【質問】
ベレゾフスキイはプーチンに対し,どのような反撃に出たのか?
【回答】
議員を辞職すると共に,メディアを使ってプーチン・バッシングを行なった.
以下引用.
――――――――――――――――
2000年5月末,ベレゾフスキーは公然と新聞に,同政策〔上院改革法案〕は間違いだとの大統領への公開書簡を発表した.
そして7月,突然,下院(国家会議)に辞表を提出した.
1998年には「アエロフロート」の資金の不正送金疑惑で逮捕状も出た彼は,1999年末の下院選挙に出馬して,議員の不逮捕特権を手にしていた.
それをあえて放棄する形で政権への抗議姿勢を示したことに,ロシアの政財界は驚いた.
ベレゾフスキーは下院議員辞職を「健全な野党」を組織するためだと説明した.
〔略〕
あえて議員の不逮捕特権を捨てたのは,彼自身クリーンな身でプーチンに抵抗することを外国に示し,外国からの同情や支援を受けることを狙ったとの見方もあった.
〔略〕
ORTはベレゾフスキーと政権との対立に合わせて,政権批判のトーンを上げていた.
2000年夏に起きた原子力潜水艦「クルスク」の沈没事件でも,ORTは対応が遅れたプーチン自身を厳しく批判するようになっていた.
〔略〕
9月に入ってベレゾフスキーはORT問題で行動を起こした.
まず彼の持つORT株式を手放すように圧力を受けたと,プーチン政権を非難する公開書簡を発表した.
その書簡の中では,プーチンがクルスク事故を巡るORTの報道に不満で,自らORTを支配すると決めたことを,クレムリン高官から告げられたと述べた.
そして2週間以内に彼のORT持ち株を政府に譲渡しなければ,グシンスキーの後を追うことになると脅かされたと暴露した.
続いて,ベレゾフスキーのORT持ち株を委託する14人のリストを発表した.
政府に譲渡するのではなく,彼の信頼する親しいジャーナリストらに株を預けると説明した.
この株式を委託されるメンバーの中には,テレビ・キャスターのセルゲイ・ドレンコ,そしてジャーナリストのイーゴリ・ゴレンヴィオフスキー,オットー・チラス,ヴィターリー・トレチャコフなどの著名人が含まれていた.
法人組織にして株を管理する形にした.
ベレゾフスキーは
「もし彼らが株式を政府に譲渡するというなら,それに従う」
と述べていたが,裏切られることはないとの自信を示していた.
この動きに対して,ニューヨークの国連ミレニアム総会に出ていたプーチンは,
「結構なこと.しかし(株を委託された人たちが)独立した立場であることが重要」
と述べて,慎重ながらもそれを認める態度を示した.
江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.187-189
プーチン@イタリア訪問時(2)
【質問】
ベレゾフスキイの反撃は,成功したと言えるか?
【回答】
どちらも成功したとは言えない.
特に,議員辞職は大失敗だった模様.
以下引用.
――――――――――――――――
クレムリンからの風当たりが厳しくなったと感じたベレゾフスキーは,野党「自由ロシア」を立ち上げるが,2000年7月には下院議員を辞職した.
1990年代の暗躍がたたって,彼は誰からも信用されず,支持を集めるのに失敗したのだ.
ベレゾフスキーは,コメルサント紙など新聞社数社は手放さずに済んだが,保有するロシア国営放送ORTの株式49%の売却を迫られ,誰にも惜しまれないまま,2000年11月にロンドンに亡命した.
ロデリック・ライン他著『プーチンのロシア』(日本経済新聞社,2006/11/17),p.53-54
――――――――――――――――
ORT経営陣は,政権の圧力の下でベレゾフスキー離れの動きを示しはじめた.
ベレゾフスキーが信頼していたキャスターであるドレンコの個人編集のニュース番組「ブレーミャ」を突然中止した.
ドレンコはマスコミを通じて,大統領から自分のチームに入るよう求められ,それを断ったがゆえに彼の番組が中止させられたと主張した.
ドレンコは過去,ベレゾフスキーの忠実な代弁者として政敵を攻撃し続けてきた.
ORTがドレンコを降ろしたのは,すでにベレゾフスキーのORTへの影響力が失われたことを社会に印象付けた.
あくまでも政権への抵抗姿勢を捨てず,政界への進出の意欲を示したドレンコはその後,ジョギング中に通行人に暴行を働いたとの容疑で逮捕された.
本人は連邦保安局によって仕組まれたと主張したが,有罪判決を受け,マスコミ界から消えていった.
この間ベレゾフスキーは,アエロフロートの海外不正送金疑惑に関して最高検の出頭要請に応じず,国外に逃れていた.
2001年になってそのORT持ち株49%をロマン・アブラモヴィッチに譲って,一応ORTからは手を引いた形をとった.
しかし両者の関係から,将来,情勢が変わればORTを取り戻すのは簡単と見られた.
江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.189-190
上記のように,ORT株に関する両書の記述には,若干の違いが見られる点は留意されたし.
【質問】
ベレゾフスキーのその後は?
【回答】
海外からプーチン批判を続けている.
プーチンの不正疑惑の追及のため,暗躍しているフシもある.
以下引用.
――――――――――――――――
検察からの召喚を嫌って外国に逃れたベレゾフスキーは,自己の影響下にある新聞やインターネットを通じて,ずっとプーチン批判を繰り返していた.
特に2001年半ばには
「プーチンは今年中に大統領を交代する」
と予言して,ひとしきりマスコミの話題をさらった.
ロシアでは,かつてベレゾフスキーが政敵のスキャンダルを,自己の影響下にあるメディアで暴き立ててきた事実が忘れられていなかった.
このベレゾフスキーの予言と符合するように,外国のメディアがプーチンの個人的スキャンダルを報じる事態が起きていた.
イタリアの「レプブリカ」紙が7月に,次いで米「ニューズウィーク誌が8月末にそれぞれ報じた「プーチン疑惑」がそれだった.
欧米の情報機関や警察機構から得た情報としていた.
それも単なる国内汚職というレベルではなく,国際的な犯罪組織の資金洗浄,麻薬取引といった各国の横断的な捜査の対象にプーチン自身が引っかかってきたという点で注目すべきものだった.
江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.194
2006年にはリトビネンコ暗殺事件を巡り,プーチンの仕業説を英米メディアに吹聴していたことは,まだ記憶に新しい.
【質問】
ベレゾフスキイがクーデターを企てたと聞いたが.
【回答】
煽動するような発言をインタビューで行ったということらしい.
以下引用.
ロシア当局,ベレゾフスキー氏のクーデター画策を捜査へ
2007年4月13日18時20分,ロイター
[モスクワ 13日 ロイター] ロシアの複数の通信社が13日伝えたところによると,ロシア当局は,同国の実業家ボリス・ベレゾフスキー氏がプーチン政権の打倒を目指すクーデターを呼びかけたとして,近く刑事捜査を開始する.
インタファクス通信によると,ロシアのチャイカ検事総長は「憲法による統治を暴力的な行為で打倒しようとする,あからさまな呼びかけがあり,すでに関係当局に捜査開始を指示した」と述べた.
ロ政権の武力転覆支援か 亡命中の政商と英紙
時事通信
英に亡命政商の引き渡し要求―ロシア=政権転覆発言受け
【モスクワ13日】ロシア政府は13日,英国に亡命中のロシア人政商ボリス・ベレゾフスキー氏≪写真≫が 英紙とのインタビューで,プーチン政権の転覆を計画していると語ったことを受け,同氏を引き渡すよう英側に求めた.
ベレゾフスキー氏は同日付のガーディアン紙に対し,
「政権交代させるため力の行使が必要だ.民主的手法ではこの政権を変えることはできない」
などと発言.さらに,革命を扇動するのかとの同紙の質問に,
「まさにその通りだ」と答えた.
インタファクス通信によると,ロシアのラブロフ外相は,同氏の発言は政治亡命者という立場を悪用するものだなどと非難,政権転覆の呼び掛けは引き渡しを求める十分な根拠になると述べた.
チャイカ検事総長も,同氏が政権転覆を公然と呼び掛けたことに対して訴追手続きを開始するよう命じたと
記者団に語った.
ベレゾフスキー氏はエリツィン前ロシア大統領の側近だったが,2000年に出国し,03年に英国へ政治亡命した.
ロシア政府はこれまでも同氏の引き渡しを要求してきたが,英政府は拒否している.〔AFP=時事〕
何も考えていないだろ?,このオッサンは.
余計自分の立場悪くしてるじゃないか.
しかしプーチン政権も過剰反応という風に感じられるが・・・・
何が何でもベレゾフスキー氏を捕まえたい本心が見え見えだからなぁ.
ひとまず様子見だ.
. !! ______ ________ヽ ゛!斤ヽ}
゛!` =・=`i .i" =・= /ヒノ/ さて…そろそろ潮時か…
i.  ̄ | |  ̄ ,r' トー'
CRS in mixi,2007年04月13日23:38
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「恐怖と軍事力と神秘。これらが三位一体となってこそロシアは治まる」
とイワン雷帝のお言葉にもあるように、ここ最近のプーチン政権はこの三位一体を非常に重視していると個人的に考えております。
特にここ最近の神格化は著しい.
ここまで来ると,誰かさんのクーデターなんて無理無茶無謀の三拍子.
プーチンと側近達はロシアの歴史を深く理解している.
逆にゴルバチョフとエリツィンはロシアの歴史を理解しなかった.
この違いはとても大きい.
CRS@空挺軍 in mixi,2007年12月22日18:32
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【質問】
ベレゾフスキイ暗殺の試みはこれまでにあったのか?
【回答】
ゴードン・トーマスが述べるところによると,これまでに2度阻止されているという.
以下引用.
「寒い国のヒットマン」逮捕 MI6が2度阻止した暗殺
特別寄稿:ゴードン・トーマス(インテリジェンス専門ジャーナリスト)
2007年8月31日15時14分,FACTA
英国の対外諜報機関MI6は,亡命先のロンドンで反プーチンのキャンペーンを張るロシア系ユダヤ人富豪ボリス・ベレゾフスキーの暗殺計画を,6〜7月の2カ月間に2度,未然に食い止めることに成功した.
暗殺計画は6月21日,ロンドンで元KGB要員とみられるロシア人ヒットマンが逮捕されたことで明るみに出た.
ロンドン中心部パークレーンにあるヒルトン・ホテルの寝室でベレゾフスキーを殺害する計画だったという.
ヒットマンは旅行客を装い,ヒースロー空港からホテルへの移動の最中に銃を入手していた.
しかし英防諜機関MI5と警察の対テロリスト班合わせて30人ほどが24時間態勢で男を監視下に置き,ベレゾフスキーがビジネスの会合で使う予定だった部屋に銃を携帯して現れたところを逮捕した.
これと並行して欧州大陸では,MI6がポーランドやドイツ連邦情報局(BND)の工作員と密接に協力し,モスクワとミンスクから別々に出発した2人のヒットマンを追跡した.
ワルシャワとフランクフルトを経由してパリに到着後,ユーロスターのターミナル駅である北駅に向かう途中で逮捕した.
そこから,フランスの諜報員が,2人をフランス郊外にある仏諜報機関の隠れ家に連行している.
ロンドンで逮捕された人物は,その24時間後には何の嫌疑をかけられることもなく,英国からモスクワに送還され,フランスで逮捕された2人も静かにモスクワに送り返された.
逮捕劇が目立たなかったのは,6月に就任したデビッド・ミリバンド外相の「英ロ間の緊張を緩和しようとする配慮」(諜報関係者)があったためとされる.
〔略〕
MI5もMI6も,ベレゾフスキーはロシア政府の暗殺から保護すべき存在とは認識しているが,〔略〕,ベレゾフスキーに自由が許されている限り,ロシア政府は対テロ戦争に必要なインテリジェンスを英国に提供しない方針を打ち出しているからだ.
表ざたになっていない暗殺未遂などを含めると,その数はさらに増えるだろうと愚考する.
ただし,現時点では本サイトは,クロス・チェックに足る量の情報を取得できていないので,念のため.
◆◆◆◆◆シロヴィキvsホドルコフスキイ
【質問】
ミハイル・ホドルコフスキイとは?
【回答】
1963年生まれ.
モスクワ化学技術専門学校卒.
1986年,共産青年同盟フルンゼ地区副書記.
1989年,「化学技術発展商業革命銀行(後のメナテップ)」頭取.
1992年,燃料エネルギー産業投資基金会長.
1996年,民営化された「ユコス」の社長に就任.
2002年,米「フォーブス」誌からロシア第一の富豪に指名される.
2003年10月,横領,脱税などの容疑で逮捕.
同年11月,「ユコス」社長辞任.
江頭寛によれば,早くから石油産業に興味を示したホドルコフスキイは,ソ連崩壊後のロシア燃料エネルギー省に強いコネを作ったと言われ,同省内に個室を持ち,一時は同省「次官」を名乗っていたという.
詳しくは,江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.15 & 298-299を参照されたし.
【質問】
ホドルコフスキイがプーチン政権批判を始めた動機は?
【回答】
江頭寛によれば,ホドルコフスキイのプーチン政権批判は,イラク戦争の際のロシアの姿勢についてのもので,ロシアにとって実利的見地からは,イラク問題で国連を重視し米国に汚名を着せるのは得策ではないと主張したという.
その背景には,ブッシュ政権とも繋がりの深いとされる米石油企業と,「ユコス」との資本提携の動きがあったためだという.
詳しくは,江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.297-298を参照されたし.
プーチン近影
【質問】
「ユコス」事件とは?
【回答】
2003年6月後半から始まった,ホドルコフスキイを始めとするユコス関係者の逮捕事件.
しかし江頭寛によれば,事件は遡って2003/5/26のオリガルヒ批判論文「国家とオリガルヒア」の発表が,オリガルヒに対するシロヴィキの宣戦布告だったという.
まず2003/6/21,「ユコス」安保部門第4部部長アレクセイ・ピチュギンを,「2002年11月,ロシアの地方統括センターに属する2人の人物に対する暗殺を組織した」として逮捕.
同年7月頃,同社社員ラミル・ブルガノフを,横領容疑で国際指名手配.
同年7/2,「ユコス」支配株の共同所有者で,銀行持ち株会社「メナテップ」会長でもあった「メナテップ・グループ」社長,プラオン・レベジェフを,不正横領他で逮捕.
同年10/23,政党「ヤブロコ」の選挙宣伝会社が,ホドルコフスキイから資金提供を受けていたとされて捜索を受ける.
同年10/25,ついにホドルコフスキイをシベリア・ノヴォシビルスク空港で拘束.
2004/2/16,ホドルコフスキイのパートナーで,イスラエルに逃れていた「ユコス」幹部のレオニード・ネブズリンが,ホドルコフスキイら「ユコス」関係者の釈放と引き換えに,同社株式を政府に譲渡する提案を発表.
これは事実上の降伏だったという.
詳しくは,江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.296-317を参照されたし.
▼ ロデリック・ラインらによれば,その後,ホドルコフスキイとレベジェフは,極東の辺鄙な収容所に送られ,メナテップとユコスの他の大株主も大急ぎでロシアを出国.
ユコスには税金支払命令が殺到して,同社の主要な油田であるユガンスクネフチェガスの売却を迫られ,同油田は見せ掛けばかりの競売の結果,国営のロスネフチ社(社長はイーゴリ・セーチン)に買収されたという.
同じくラインらによれば,ユコス事件は,ロシアを改革路線から遠ざけるような流れのきっかけだったという.
同事件は
(1) クレムリンに対して本気で挑戦する者には容赦しない
(2) 現在,力をつけつつあるグループは,ロシアの対外イメージ,法的行動規範遵守,市場・投資環境におけるロシアの立場,ロシア経済の長期的利益(ユコスはロシアで最も効率の良い石油会社だったのに対し,ロスネフチの効率は最低レベル)などには全く関心がない
(3) 財産権尊重,公正な企業活動の場の整備などの,プーチンが以前表明した路線の放棄
(4) 今なおロシアでは,権力は資産に対する人の支配にある
(5) ノーメンクラトゥーラ内の権力バランスが,はっきりシフトした
ということを示す出来事だった,と彼らは述べている.
詳しくはロデリック・ライン他著『プーチンのロシア』(日本経済新聞社,2006/11/17),p.66-73を参照されたし.▲
【質問】
「ユコス」事件の影響は?
【回答】
江頭寛によれば,西側ではロシア政治が統制・強権へ大きく舵を切ったと見られ,西側から批判を浴びたが,ロシア国内では「不正追放キャンペーン」に発展したことで,国民の共感を得たという.
一方,ロシア政界ではシロヴィキの大幅な勢力拡大が起こり,それに対してプーチンがブレーキをかけてバランスを取ろうとする場面がしばしば見られるようになったという.
詳しくは,江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.304-310を参照されたし.
▼ なお,ブログ「佐藤優の『地球を斬る!』」,2008/2/27付によれば,すでにシロヴィキは解体しているという.
以下引用.
[quote]
「シロビキ(武闘派)」について,プーチン大統領を裏から操る鉄の規律によって結びついた秘密結社のような印象があるが,それは誤解である.
「シロビキ」は,確かに旧KGB(国家保安委員会)人脈が強いが,石油,天然ガス,鉄道,金融などの利権によって結びついた緩いネットワークなのである.
あえて例えるならば,大学の応援団,ボート部,空手部のような,厳しい体育会のOB会のような雰囲気である.
「同じ釜の飯を食った身内」という意識があって,お互いに助け合うことはあるが,秘密結社はもとより政党のような結束力もない.
もはやメドベージェフ第1副首相が次期大統領になることは確実なのである.
利権を持った「金持ち」は,無駄なけんかをしない.
昨年12月初めまでは,「シロビキ」の統一大統領候補であったセルゲイ・イワノフ第1副首相の知恵袋であったスルコフ大統領府副長官が,現在は常にメドベージェフに寄り添っている.
このことからも明らかなように「シロビキ」はすでに解体しているのである.
[/quote]
利権による結びつきを,体育会OBの結びつきと同レベルの結合であるとする論旨には,やや無理があるが.▲
▼ ちなみに,シロヴィキは本当は「シラヴィキー」と発音するのが正しいらしい.
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Akiyoshi Komaki 駒木明義 Verified Account
昔,日本語の達者なロシア人に
「駒木さん,新聞のロシア関係の記事に出てくる『シロビキ』ってなんですか」
と(日本語で)聞かれたことがある.
「?」と思いつつ説明したら,
「ああ,シラヴィキー(силовики)のことですね」
と言われた.twitter.com/toriyamayusuke…
21:36 - 2017年5月18日
https://mobile.twitter.com/akomaki/status/865425944957169664?p=v
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プーチン近影
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