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◆◆ソ連崩壊以降
◆戦史
<ロシアFAQ 目次
【質問】
ゴルバチョフの「新思考外交」とはどのようなものか?
また,ソビエトの崩壊にどのような影響を与えたのか?
【回答】
まず,「新思考外交」には2つの側面がある,
1つめは,集団安全保障的な枠組みの構築により,安全保障のジレンマを解消しようというもの,
2つめは,拡張主義の破棄.
以下に,それぞれについて説明してみる.
1.集団安全保障的な枠組みの構築による,安全保障のジレンマ解消
以下,ナイ教授の文章を引用.
「ゴルバチョフと彼の側近は,相互依存が進む世界では安全保障はゼロサムゲームではなく,全ての国は協力によって利益を得ることができると主張した.
核の脅威の存在は,対立の歯止めが外れた時,全てが壊滅することを意味していた.
ゴルバチョフは,できるだけ多くの核兵器を製造するのではなく,防衛に必要最低限の量を保有するという「十分性」の方針を打ち出した.」
2.拡張主義の放棄
ゴルバチョフは,拡張主義について「利益よりも損失を生み出す」と考えた.
以下,ナイ教授の文章を引用.
東欧の勢力圏に対するソ連の統制は百害あって一利なしで,アフガニスタン侵攻は手痛い大失敗であった.
ソ連の国境を防衛するために共産主義の社会制度を強制することは,もはや必要なかった.
次に「新思考外交」が,ソ連,ひいては共産主義の崩壊を招いた影響を以下に説明.
「新思考外交」の2つの側面によって,1989年夏には,東欧ではより多くの自由が与えられるようになり,ハンガリーでは,東ドイツ人を自国を通じて,オーストリアに逃がすことを許可した.
この「東ドイツ人の大量流出」は東ドイツ政府にとって,巨大な圧力となった,
東欧では,既にソ連の支援を受けられる状況ではなかったため,非常に短期間の間に「ベルリンの壁崩壊」が実現した.
しかし,これは「新思考外交」が目指した結果ではなかったようだ.
以下,ナイ教授の文章を引用.
これらの出来事は,ゴルバチョフの誤算から生まれたと言える.
彼は共産主義を立て直すことが出来ると考えていたが,実際はそれを立て直すうちに風穴を開けたのである.
そして,ダムに開いた小さな穴のように,鬱積された圧力が一度解放されると,穴を押し広げ,体制を崩壊させたのである.
短く纏めると
「ゴルバチョフは,共産主義を立て直そうして,崩壊させてしまった」
ということかな?
少なくとも「ソ連の共産主義」とは,上からの厳格な統制を行うことによって,かろうじて体制を維持してきたんだと思う.
その「統制」がなくなった時点で,「ソ連の崩壊」は決まっていたのかも.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
【質問】
独立国家共同体(CIS)が成立してゴルバチョフが大統領を辞任すると,なぜソ連が消滅するのですか?
独立国家共同体(CIS)は,統制の緩い(資本主義の)ソ連という認識でいいのですか?
【回答】
「ソ連」とは「ソビエト社会主義共和国連邦」の略で,「ソビエト」とは固有名詞ではなく,ロシア語で「会議」「協議会」などの意味.
ソ連はいくつもの社会主義国が集まってできた連邦.
ソビエト連邦のもとにあった国々が連邦が解体したから,「独立国家共同体」という独立国の集合になった.
独立国とソビエト連邦は両立しない.
社会主義色がどれだけ残っているかは,それぞれの国によって異なる.
世界史板
青文字:加筆改修部分
CIS結成前の8月にクーデターが起こって,現状のソ連をよしとする保守派がゴルバチョフを監禁した.
ところがこのクーデターは,国民からも国際社会からも支持されず失敗.
保守派は失権した.
また,クーデターに対して何も手を打てなかったゴルバチョフも,共産党書記長を引責辞任,求心力を失った.
一方でクーデター失敗で,ソ連解体を支持するエリツィンら改革派が勢力を拡大.
ロシア大統領エリツィンと,ウクライナ,ベラルーシの大統領がCIS結成を宣言.
これによってソ連は存在意義を失い,しかも中核を為していた共和国の離脱が決定的となった.
それでゴルバチョフはソ連大統領を辞任,ソ連を解体した.
CISはいろんな国の集合体で,必ずしも資本主義資本主義しているわけでもない.
一応,ソ連の後組織として経済協力なんかも行われているけど,仲良しクラブみたいなもん.
ソ連崩壊直後の混乱で旧ソ連諸国の多くが独裁制に入ったし,アフガニスタン関係でアメリカが中央アジアに勢力拡大しているし.
カラジチ ◆mWYugocC.c in 世界史板
青文字:加筆改修部分
もう少し質問者の疑問点に即し,かつ簡潔に言うと,
@ソ連崩壊について
・東欧民主化,バルト三国独立でソ連政府の指導力は既に弱体化
↓
・91年8月のソ連軍クーデター失敗で,守旧派の軍・共産党があぼーん
↓
・ソ連を構成していた各共和国が次々に連邦からの脱退・独立を宣言(ここで実質的に連邦消滅)
↓
・しょうがないからゴルビーも辞任
という流れでしょうか.
ACISについて
上記の流れで独立した各共和国ですが,これはソ連が単一の国家と呼びうる枠組みを有していたのと異なり,かつてのECのような緩やかな独立国同士の協力体制にすぎません.
一応今も存在しています.
例えるなら,ある部活の部員が,顧問の先生に嫌気がさして全員脱退→廃部,部員たちは集まって別途サークルを結成,てな感じ.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
ゴルバチョフが書記長にならなかったら,ソ連は崩壊しなかったか?
【回答】
(・ω・)<ゴルバチョフが書記長にならなかったら,ソ連は崩壊しなかったの?
(ーー)<まぁ・・・10年くらいは持ったかも・・・
以下ナイ教授の文章を引用
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1985年に共産党政治局員がゴルバチョフの強硬な対抗者の一人を選んでいれば,衰退しつつあったソ連はもう10年存続しえたであろう.ソ連が急速に崩壊する必要はなかった.
ゴルバチョフの個性は,冷戦終結のタイミングに大きく関わっている
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(・ω・)<それでも,やっぱり10年くらいしかもたないんですね?
(ーー)<ええ,ソ連とアメリカは,1980年代にはそれなりに交流がありましたから,ソ連の中の人にも
「アメリカっていいなー,俺らもアメリカみてーに自由に音楽聴いたり,マック行ったりしたいのじゃよー!」
という声もありましたし,そもそも,経済が「もうだめぽ」な状態でしたから.
(・ω・)<じゃぁ,いずれにしろ崩壊してたんですね.
(ーー)<ほぼ確実に
【珍説】
「SDI計画は,それへの対抗策という形でソ連に負担を強いた点では効果があったと言われている」
というのはウソ.
http://d.hatena.ne.jp/D_Amon/20060607
参照.
「結果論としてソ連を疲弊された」は誤りなんです.
まあ,なんというか,カール・セーガンをソースとして出されても聞く耳を持たない,自分で答えを出して自己完結しているような人については,それはそれでよろしいのでしょう(笑).
amo ◆bb6OCCHf8E
【回答】
核弾頭は,量産化を確立した国でも生産,維持に莫大な費用が掛かるんだが.
矛と盾のチキンレースになれば最後に勝つのは体力の多いほうなのは自明の理.
経済学者でも軍事専門家でもソビエト研究家でもないカール・セイガンを,そこまで神格化して絶対視する必要性はない気がするが.
SDIが結果としてソ連を疲弊させたと説く書籍ならそれこそ山のように.
俺の手元にもS・ソンタグの本が有る.
ただ,費用対効果としては疑問.
それに相手がゴルバチョフなら,やはりペレストロイカは進めていただろうし,ゴルバチョフ以外の人間が書記長に就いていたなら,SDIに対抗しようとして,国内がさらに疲弊しても体制を維持しようとしただろう.
物理的にはどれだけ金が無くなって国内が混乱していても,体制を維持することが可能と言うことは,北朝鮮が現在進行形で示している.
軍事的な側面から考えたら,アフガン侵攻のほうが,SDIよりも遥かにソビエト崩壊に貢献しているのでは?
【質問】
ソ連が,自己崩壊を食い止めるために軍事的手段に打って出なかったのは何故か?
【回答】
・1970年代末まで,西側と比べてソ連の没落は自明ではなかったこと
・ ブレジネフ時代の長老政治は,あまりに現状に満足し,年を取り過ぎ,居心地が良過ぎたために,西側との衝突に全てを危険に晒すことはできなかったこと
・核の時代における戦争の危険性
に起因するという.
以下引用.
ソビエト体制が膨大な資源を軍事力につぎ込み,指導者も地政学的・軍事的な傾向を持っていたことを考慮すれば,資本主義の敵を前にして没落の悪循環を食い止めるために軍事的手段に打って出る妥当性はなかったのだろうか.
実際には,そうした戦略を採用しない充分な理由が沢山あった.
第1に,1970年代末まで,西側と比べてソ連の没落は自明ではなかった.ソ連は第三世界で前進を重ね,さらに1973年以降の石油価格の劇的な高騰は,西側資本主義に対しては脅威だったが,ソ連にとってはエネルギー輸出を通じて莫大な利益を手に入れ,それによって,不安定化を招く市場改革の必要性を回避できるという素晴らしいチャンスであるかに見えたのだった.
他の要素,特に支配的エリートのメンタリティも極めて重要だった.ブレジネフ時代の長老政治は,あまりに現状に満足し,年を取り過ぎ,居心地が良過ぎたために,西側との衝突に全てを危険に晒すことはできなかったのである.
ゴルバチョフ時代に権力を掌握した,改革派の若い世代は,純粋に人間的な社会主義のビジョンに染まり,少なくともソ連の改革と再生の可能性をはっきり信じていた.
例えば,1991年に反乱を起こしたような,改革派と敵対した勢力は,概ねそれほど人間的でもなかった.
しかし,その反乱そのものが示したように,彼らは用心深い官僚であり,第3次世界大戦を引き起こすほどの恐ろしい瀬戸際政策はもちろん,クーデターを成功させようとする貪欲さや冷酷さすら持ち合わせていなかった.
もちろん重要な点は,核の時代における戦争の危険性が,1914年時点とは比べモノにならないほどだったことだ.
1914年であれば,短期間の戦争とその勝利によって,帝国の国際的な重みも支配的エリートの立場も強化できると信じる事は,誤りであったとしても可能だった.
たとえば,帝国がどの程度没落しているかを理解していたとしても,あるいは帝国の衰退を封じ込める国内の戦略がないことを理解していたとしても,NATOに直面し,核兵器の世界に生きる中で,1914年当時のオーストリアと同じ選択をするという危険な賭けができたのは,とてつもなく邪悪で無責任な指導者だけだったろう.
全面戦争という形での帝国同士の伝統的な競争は,もはや時代遅れになった.
その重要な理由の一つは,少なくとも当面は大量破壊兵器が存在していることである.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.212-213
ブレジネフ
(画像掲示板より引用)
【質問】
なぜソ連は崩壊したのか?
【回答】
基本的な理由は,帝国の核となっていたイデオロギーが破綻したため.
また, ゴルバチョフによる新思考外交のおかげで,ソ連の安全保障に対する西側の脅威という意識が撃ち砕かれた.
経済改革の失敗に加え,グラスノスチでソ連の過去が暴露されたことで,共産主義とモスクワのどちらの正統性も粉砕された.
さらに,他の共和国を支援したり,超大国としての野望を支えたりするのに資源を使うことを,ロシア人は望まなかった.
第4に,新たな役割や運動が舞台に登場し,様々な事態が互いに目も眩むような速さで発生したために,無秩序が発生し,崩壊に至ったのだという.
以下引用.
ソ連が衰退し,滅亡したもっとも基本的な理由は,極めてシンプルだ.帝国の核となっていたイデオロギーが破綻したのである.
マルクス・レーニン主義に基いて構築された経済システムは,資本主義より効率的ではなかった.
資本主義経済が崩壊するとか,主な資本主義国の間で戦争が終わることなく続くといった予言も,少なくとも1945年から91年までは誤りだった.
この理由が全てではないにせよ,ソ連のイデオロギーとソ連の政治・経済システムは,人々や支配的エリートの大部分から信頼も正統性も失ってしまった.
ソ連の自信が失せていくにつれて,ナショナリズムや西側の個人主義,資本主義といった他のイデオロギーが,その間隙を埋めていった.1991年にソビエト体制が最終的な危機に陥ったときも,体制のためなら自ら進んで苦労を味わったり,断固たる行動に出たり,やむを得ない場合,その防衛のために人を殺すことさえ厭わないほど心から献身的だった支持者は,驚くほど少なかった.
ソビエト体制の崩壊において,イデオロギーの破綻は最も重要な要因ではあったが,それが唯一というわけではなかった.
また,それだけでは,共産党体制の崩壊が,なぜソ連という国家と領土上の同盟の解体に繋がったのかを十分説明しきれない.
他の多くの要因も重要だったのであり,その一部は,他の帝国の衰退と滅亡に共通したものだった.
帝国とは外敵の脅威を餌に育つものである.その脅威こそ,帝国の主な存在理由の一つである.
7年戦争(1756〜63)でイギリスがフランスを北米から排除すると,アメリカの入植者はもはや大英帝国に守ってもらう必要性を失った.カナダからフランスを排除することを承認したパリ条約から13年後には,アメリカ独立が宣言されている.
また,ハンガリーのエリートも,ロシアという脅威を恐れたこともあって,ハプスブルク帝国を受け入れたが,1918年にロシアの脅威が薄れたかに見えた後は,ハプスブルク帝国への関心をある程度失った.
ゴルバチョフによる健全で実に称賛すべき新思考外交のおかげで,ソ連の安全保障に対する西側の脅威という意識が撃ち砕かれた.
ソ連の古参軍事指導者は,国防や安全保障の観点から連邦の必要性を擁護しようと,1989年から91年にかけてテレビを利用した.
おかげで,クリル諸島<北方4島>への主権回復を主張する日本以上に恐ろしい脅威はないことを思い起こさせることもできた.
しかし,もはやそのような脅威は,ラトビア人をソビエト権力と和解させるものではなかった.
共産党のイデオロギーと経済が破綻していたことを考慮すれば,ドイツの脅威だけが東・中央ヨーロッパでのソ連の支配を正当化できた.
とはいえ,ブラント<1913〜92.西ドイツの首相・外相を歴任.71年にノーベル平和賞受賞>の東方政策(オスト・ポリティーク)が,この恐怖感を和らげるのに貢献した他,もともと1945年以降の西ドイツ国内の発展も,さらに単なる時代,記憶,世代の移り変わりも,それと同じ役割を果たしていた.
〔略〕
これら全ての土台が,ゴルバチョフの改革によって突き崩されてしまった.
経済改革の失敗に加え,グラスノスチでソ連の過去が暴露されたことで,共産主義とモスクワのどちらの正統性も粉砕された.
民主主義の原則が1989年3月の各共和国で実施された<人民代議員大会の>選挙で部分的に導入され,1990年3月に各共和国で実施された<連邦制度維持の是非に関する>投票で,さらに完全に近い形で導入された.
これによって,各共和国指導者の命運は,もはやそれまでのようにモスクワの党中央の権威ではなく,各共和国の有権者達の手に委ねられた.
アルギルダス・ブラザウスカス率いるリトアニア共産党が,最初に民主主義改革の意味を理解し,1989年にソ連共産党から分離した.
他の党指導者もブラザウスカスの例に倣い,1990年から91年の状況で,共産主義に代わる正統性としてはナショナリズムが共和国の殆どの有権者に受け入れられる選択肢であると理解した.
モスクワは力を失い,経済が崩壊し,徴税基盤が縮小していく中で,共和国指導者は共和国住民に対する支配力を固め,その有権者の必要を満たす可能性を高めるため,地方の資産を分捕ろうとした.
全連邦的省の支配下にあった地方の資産の大部分は,共和国エリート個人にとっても魅力的で,政治的にも不可欠だったのである.
このプロセスで見られた沢山の要素――例えば,国有財産を巡る争奪戦――は,もちろんソ連独特の現象だった.
それでも,例えばジュディス・ブラウンは,モスクワと各共和国の補佐役の関係が崩壊したのを目撃した者にとって馴染み深い観点から,18世紀インドにおけるムガール帝国の解体を分析している.55
結局,アメとムチの政策は,特に洗練されていたわけでもなければ,社会主義の概念でもない.
地域の指導者が帝国の中央に資源を引き渡すのは,それを強制あるいは説得されるか,その代わりに何か具体的なものを受け取るか,あるいは地方の権力基盤が弱過ぎて中央からの援助がなければ支えきれないかの,いずれかの場合だけだ.
1990年代には,連邦制度のおかげで,ペレストロイカのもたらす挑戦や機会に,共和国指導部が十分なスピードと賢明さをもって適応する限り,大半の共和国には中央から独立して生き続けていくための手段が既にあることが明らかになった.
そのためソ連崩壊後,新たに独立した15の共和国の内,以前の共和国指導者が共和国のトップに留まったケースは9に上り,その指導者達は1990年代の殆ど,あるいは全期間を支配したのだった.
これが示しているのは,ソ連崩壊は民主主義の単なる勝利でもなければ,歴然たる勝利でもない,ということである.
もっとも,限定的であれ,民主化がソ連崩壊に大きく貢献したのは確かだ.
1990年3月の選挙によって,自立的な共和国政府は権力を手に入れ,当の共和国政府はソビエトの法的観点から見て合法的で,ソ連から離脱する法的権利があると主張できた.
ある意味で,それより重要だったのは,民主主義がロシア共和国に与えたインパクトだった.
殆どの帝国が存続できるのは,帝国の核を構成している人々に,帝国の大きな目標のための犠牲を強いることができるからである.
1880年代に大衆民主主義が生まれて以来,イギリスの政治家は,本国の社会福祉と帝国の防衛という,財政的に相反する要求を巧みにやりくりし56,有権者が徴兵制に反対するのは遺憾だと決まって嘆いてきた.
一方,ポルトガル帝国が20世紀後半まで,他の帝国よりも長続きしたのは,一つにはポルトガルが民主主義国ではなく,そのため,帝国の大きな目標のためにポルトガル人が税を払ったり,息子が兵に徴兵されることを望んでいるかどうかを聞く必要がなかったからである.
しかし結局は,帝国の防衛という負担が,1974年のポルトガル本国での革命に大きく寄与した.
1988年から91年のロシアにも,イギリスとポルトガルが味わった経験の兆候が見られた.
1990年にソ連当局が帝国周辺での平和維持活動のため,ロシア・北カフカス軍管区の予備役兵を動員しようとしたが,予備役兵は召集を拒否すると,既に弱体化していた国家は強制できなかった.
エリツィンがロシア共和国で鬱積していた憤りをソ連中央の政府やエリートに向けることができたのも,他の共和国を支援したり,超大国としての帝国独特の野望を支えたりするのに資源を使う(ロシア人はこのように見ていた)のではなく,自分達の福祉のために使うようロシア人が望んでいたからだった.
1917年に帝政が崩壊した一因も,人民が帝国の負担(この場合,第1次大戦を続ける莫大な戦費)に反対したことであり,半ば読み書きできない人々にとって,戦争を続ける理由は殆ど意味がなかったのだった.
1991年にも,帝国を維持するという法外な負担に対するロシア人の憤りが,ソ連崩壊に大きく貢献したのである.
しかし,歴史を比較することで明らかに危険なのは,あまりに比較を重視してしまうことだ.
他の帝国の崩壊を基準としても,ソ連崩壊には独特の,唯一とも言うべき理由があった.
だからこそ,ソ連崩壊を予測できた専門家は殆どいなかったのである.
帝国が崩壊するのは通常,戦争で敗北するか,あるいは戦争で著しく弱体化するからだ.
前者はオスマン,ハプスブルクの辿った運命であり,後者はイギリス,それ以上に1945年以降のフランスとオランダが東南アジアで直面した運命だ.
アンドレイ・アマルリクが,ソ連は1984年以降,存在できないだろうと有名な予測をしたとき<『ソ連は1984年以降も生き延びるか?』《邦訳は原子村二郎訳,時事通信社,1970》を著した>,その理由の一部として,中国との間で将来発生するであろう戦争の結果を挙げていた.
しかし,アフガニスタンでの限定的な衝突57を除いて,戦争はソ連崩壊を招いた要因ではなかった.
むしろ,ソ連の場合,極めて重要だったのは,帝国の終焉が共産主義の政治経済システムの崩壊と同時に発生し,しかも,後者を著しく複雑にしたことである.
もっとも,そうしたシステムの以降の危険性を引き合いに出したところで,ソ連崩壊の完璧な説明からは程遠い.
実際には,1985年から91年までの機会,誤解,政治家個人の資質,状況が,顕著な役割を担ったのだった.
あらゆる革命と同様に,1985年から91年に,歴史の歩みは速まった.
新たな役割や運動が舞台に登場し,様々な事態が互いに目も眩むような速さで発生した.
指導者達は疲れ果て,途方に暮れるばかりで,そうした事態をコントロールするどころか,理解さえできなかった.
何がしかの行動をとれば,予期せざる一連の結果がもたらされた.
当時は,事情通の専門家でさえ,将来の事態を予測する事はおろか,今何が起きているのかを理解することでさえ困難だったのである.
振り返ってみると,時には主な役者の力を借りてでも,無秩序な一連の事態を説明しようと,数々の試みがなされたが,そうした説明の全てに必ずしも説得力があったわけではない.
色々な説明よりも,実は無秩序が本当の姿だということもあるのだ.
しかし,それほど騒然とした最終段階にも関わらず,ソ連崩壊において1つだけ際立った要素がある.
それはミハイル・ゴルバチョフという個人の資質である.
1985年当時,急進改革は避けて通れない事態ではなかった.
しばしば言われるように,もしソ連を支配していた長老政治が全く独善的であったならば,変革を行う明らかな必要性も,いまだ取るに足らない短期的な個人的利益に従属させられただろう.
また,急進改革の戦略が採用されたときでも,必ずしもゴルバチョフの選んだ道を歩む必要はなかった.
ソ連とその衛星国を除いて,1980年当時,世界で指導的な共産主義国家は中国とユーゴスラビアだったが,両国の指導部は,ゴルバチョフの選んだ戦略とは全く異なる戦略を選んだ.
もしユーリー・アンドロポフが生きていたら,共産党官僚による権威主義的支配の下で,漸進的な中国型の経済改革の道を歩んでいただろう,と,まことしやかに主張されることがある.
とはいえ,中国型の戦略がソ連で上手く機能しなかっただろうと考えられる充分な理由もあった.
たとえば,スターリンは特にスラブ系共和国における農民階級を壊滅させてしまった.
したがって,中国のように単に農民の活力へのコントロールを取り除いただけでは,ソ連の農業生産高は増加しなかっただろう.
また,同じく経済特区の創設も,ソ連の多民族的性質と連邦制のために複雑になっただろう.
いったん中央が外縁地域への支配力を弱めれば,経済的自主性が民族主義者の目標のために「悪用」される恐れもあった.
さらに,ロシアには,中国のように自国経済へ投資してくれる華僑のような存在もなく,例えあったとしても冷戦が続いている限り,西側諸国の政府はソ連に対する大規模投資に猛然と反対しただろう.
加えて,証明はできないが,ソ連の官僚は中国の官僚よりも,変革に対して遥かに強硬に反対しただろう.
その場合,経済再生に向けて何らかの具体的な行動に着手する前に,急進的な政治改革を通じて,官僚の基盤を突き崩さなければならなかっただろう.
それでも,中国の戦略に近い政策がソ連でも採用された可能性もあれば,現実にゴルバチョフが採用した経済政策ほど,ものの見事に失敗に終わらなかった可能性もある.
ロシア人のナショナリズムをソビエト体制の基盤にする試みと,権威主義的な経済改革とを結びつけられたかもしれない.
スロボダン・ミロシェビッチの戦略はセルビア人にとって破局的であったが,ミロシェビッチ個人の成功には寄与してきた.つまり,ミロシェビッチは過去10年間に渡って権力を掌握し,その過程で自らと家族を豊かにしてきた,東・中央ヨーロッパで唯一の共産主義指導者だった.
ここにも,ミロシェビッチ型の戦略がソ連ではあまり「うまく」いかなかったであろうと考えるのに十分な根拠がある.
セルビア人の民族主義指導者だったミロシェビッチによって,セルビア民族主義の怒りをぶつける対象を見出すのは,ソ連の場合より遥かに簡単だった.アルバニア人,クロアチア人,ユーゴ連邦政府は全てその条件を満たしていたのである.
さらに,ユーゴスラビアの政治はソ連政治より,長年に渡って開放的でもあった.
ユーゴの人々も政治的目的のために動員されるのには慣れていて,ユーゴの民族同士の戦いも,ソ連より遥かに大っぴらに行われていた.
この理由からも,ロシア人はユーゴの人々より,ずっと政治的に不活発で,大衆のロシア人ナショナリズムを動員するのも困難だっただろう.
加えて,チトーが多大な時間を割いて非常に巧妙に,セルビア人を増長させないよう努力したユーゴの場合と比べ,ソビエト体制はロシア人のナショナリズムを取り込む直前までいった.
とはいえ,「セルビアの戦略」あるいは「中国の戦略」がおそらくソ連では効果的ではないからといって,その戦略を採用すらしないことが正当化されるわけでもなかった.
実際,当時のソ連には,そうした戦略を試みると見られていた政治的エリートが大勢いた.
しかし,ゴルバチョフとその同志達は,ロシアのインテリゲンチアの中でも西側寄りだったため,中国の権威主義的な政治モデル,あるいはユーゴ型の民族的ナショナリズムよりも,むしろ西側の社会民主主義や自由主義に近付いていこうとした.
しかし,ゴルバチョフとその同志達の基本的な目標を考慮に入れたとしても,1987年から90年までに見られたように,経済改革よりも政治改革を優先する必要性は自明ではなかった.
どんな経済改革の戦略に対しても,官僚が常に効果的に抵抗すると見なすことはできなかった.
それは,殆どのノーメンクラトゥーラ(特権階級)がその後,積極的に民営化に乗り出したことからも分かる.
その一方で,フルシチョフを追放することになった共産党の寡頭支配層によるクーデターを絶対繰り返させないためにも,急進改革派が自分達のために,機構上の一層の権力基盤と正当性を固めておくのは有益だった.
とはいえ,1989年に基本的に従属的な全連邦規模の議会を創設し,その議会でゴルバチョフを国家元首に選ばせることと,1990年に各共和国で,昔と比べて遥かに民主的な選挙の実施を認める事は,別問題だった.
後者の場合,しばしば反ソ的な民族主義者に合法的な権限を認めたが,それは明らかに危険を伴うものであった.
経済改革のプログラムそのものにも,矛盾や欠点が沢山含まれていた.
ソ連の指導者だったゴルバチョフは,改革を党エリートに認めさせる上で目覚しい戦術的な技能と自信を示し,共産党体制の安定と正当性については過度の自信を持っていたようだ.
これら全ての点について,あるいはその一部であれ説明できるのは,ゴルバチョフの自伝だけである.
ゴルバチョフのエリツィンに対する扱いも同様であるが,エリツィンとゴルバチョフの関係は,ロシアがソ連を破壊する上で非常に重要だった.
いまだ極めて興味深いのは,ソ連共産党書記長だったゴルバチョフが何故,党・連邦をあれほど明らかな危険にまで陥れる政策を追求したのか,また,なぜソ連の一体性を維持するために必要な程度の武力の行使さえ差し控えたのかという問題である.
〔原注〕
55 J.Brown, modern India. The Origins of an Asian Democracy, Oxford University Press, Oxford, 1994, pp.38-39.
56 A.L.Friedberg, the Weary Titan(特に第3章).
57 例えば,Mark Galeotti, Afghanistan. The Soviet Union's Last War, Frank Cass, London, 1995を参照.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.217-228
また,当時ロシアにいた人物の話しによれば,経済はどうにもならないところまで来ていたようだ.
以下引用.
その後,私はベルリンの壁崩壊前のロシアにいった.
首都モスクワについた途端「これがアメリカと天下を二分している国の首都か?」と愕然とする思いがした.
こんな貧しい国が,あの豊かで豊穣で優れた文化を世界に発信し続けるアメリカに勝てるわけがないじゃないか.
どうしてNHKや朝日新聞は当時のモスクワの,あの貧しさ,悲惨さ,重苦しさを我々日本人に発信しなかったのかと怒りを覚えた.
モスクワのタクシードライバーが何より欲したのはドル札であり,アメリカのタバコ「マルボロ」だったのである.
デパートに商品は一切並んでいなかった.「キャビア下さい」というと「鍵のかかったレジの下の棚」からこっそりキャビアを出してきた女性店員は髭を生やしていた.
そして支払いはドルのみでルーブルの受け取りは拒否されたのである.
塩津計 in 「bk1」 in 2007/05/27 9:09:46
▼ちなみに直接の原因の一つに,1970年代後半から80年代にかけて北半球が寒冷化の傾向にあったため農作物の収穫量が悪化し,食糧事情が悪化して政府の屋台骨が揺らいだから,というのがある.
▲
▼ 以下引用.
――――――
今は亡き高坂正尭京都大学教授は,ソビエトの共産主義革命が失敗した最大の原因は,
「ロシアの農業を殺したから」
だと指摘した.
革命の混乱で,ロシアは食糧不足に陥った.
共産党員は農村部に駆けつけてて,穀物の供出を要請するも,ロシアの農民はこれを拒否した.
農民はどこの国でも,強欲で利己的でこすからいものなのである.
これをスターリンは憎んだ.
「農民を根こそぎにし,近代的な農業を,共産主義の思想に従って創出する」
と言い出した.
こうして集団農場制(コルホーズ,ソホーズ)が作られるのだが,これは早い話,奴隷制と同じだった.
農業とは,やってみればわかるが,自分の土地を自分で耕し,自分で肥料をまいて土を作り,そこで収穫した作物は全部,自分のものになるから楽しいのであって,土地を国家が所有し,今日はココを耕せ,明日はここにタネを蒔けと言われるだけならば,これは農奴と同じなのである.
こうしてロシアの農業は崩壊するのである.
肥沃なウクライナの黒土を持ったロシアは,共産革命前までは農作物の輸出国だったが,革命後輸入国に転落してしまうのである.
農奴制を70年も続けた結果,ロシアの気候風土を知悉した「ロシア農民」は完全に消滅し,ロシアはこのことに今でも苦しんでいる.
どうやって農業を再開したらいいか,誰もわからないからである.
ロシアの悲劇は
「この政策を実行したら,ロシアはユートピアになる」
と言い聞かし,国民に無理難題を押し付けたことだろう.
国内の隅々までヒミツ警察KGB,GPUが監視をし,相互に密告することを奨励し,反逆者は直ちにシベリアの強制収容所に送られた.
こうしてロシアは2000万とも3000万とも言われる人間を殺した.
――――――http://www.bk1.co.jp/product/2137735/review/442447
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387 :名無し三等兵:2007/08/28(火) 21:35:43 ID:???
小麦,アメリカからも輸入してたよね.
388 :名無し三等兵:2007/08/28(火) 21:51:52 ID:???
がばっ!
はあはあはあ.
「どうなさいました同志ブレジネフ!?」
「せ,世界中の国々が共産主義国家になった夢を見たのだ」
「それは素晴らしい夢ではありませんか!」
「馬鹿者! そうなったら我が国は一体どこから穀物を買えばいいのかね!?」
▲
【質問】
クーデター未遂事件は,どのように人々に伝えられたのか?
【回答】
国営全国テレビ局の会長は,クーデター支持を表明したが,その記者は「イソップの言葉」を用いてエリツィン大統領の周りに群集が集まっていることを報道.
それを見た視聴者はエリツィン大統領のいるホワイトハウスの周りに駆けつけ,クーデターを失敗させる要因を作ったという.
以下引用.
ロシアのマスメディアにとって,歴史的に切っても切り離せないのが検閲です.
検閲は,帝政ロシア時代にも,そしてソビエト時代も変わることなく続けられました.
しかし,厳しい検閲から,ジャーナリズムに限らず文学もそうですが,検閲の目を巧くごまかしつつ,自らの本当に言いたいことを読者に伝える「イソップの言葉」※という特殊な技法が発展しました.
また読者のほうも,この記事が表向きの表現とは別に真意はどこにあるのか,常に裏読みするようになりました.この生地は何のために書かれたのか,その意図は何か.書いてある事実のみでなく,その行間と背景を読み解く,良くも悪くも,今も残るロシア・ジャーナリズムの読者とのコミュニケーションにおける伝統と言えましょう.
〔略〕
1991年の連邦崩壊と前後して,公的機関による検閲は廃止されました.
しかし今でも,マスコミは管理するものという意識はロシアの公権力の間では強く,ジャーナリストは,個別に様々な形で圧力を受ける場合もまだ数多くあります.
〔略〕
国家と全てを支配した共産党は,当然のようにマスメディアを規制しました.
「『イズベスチヤ』(政府機関紙で,ロシア語でニュースという意味です)にニュースなし,
『プラウダ』(ソビエト共産党機関紙で,真実と言う意味です)に真実なし」
と言われたように,公式発表や,一方的にプロパガンダに彩られた記事が並んでいました.
〔略〕
その一つの例をお話しましょう.
連邦崩壊の前に,保守派が権力を奪取して,独裁体制を復活させようとしたクーデター未遂事件がありました(1991年8月).
いち早く会長がクーデター支持を表明した国営全国テレビ局の記者が,
「エリツィン大統領のいるホワイトハウスの周りでは,人が集まってクーデターに反対している」
というリポートを流しました.
コメントは平凡で,むしろクーデターの側から見て,エリツィン側を非難しているとも読める内容でしたが,多くの視聴者は直ちに記者の真意を理解しました.
そして記者の狙い通り,大群衆が民主派の砦だったホワイトハウスの周りに駆けつけ,クーデター失敗の一つの要因となりました.
※ イソップの「寓話」のように,表面に語られていることではなく,比喩や暗喩を用いて,作者の意図を知らせること.表向きは,皇帝なり書記長を賛美しているように見えても,その中に,鋭い批判を織り交ぜることも多々あった.ロシア帝国時代から,こうした技法が発達し,それがイソップの言葉と言われた.
小林和男著「ロシアのしくみ」(中経出版,2001/7/9),p.165-167
【質問】
ソ連崩壊って,内部から見た感じではどのようだったんでしょうか?
崩壊のまさにその時瞬間ソ連に滞在していた人もいるのでしょうから,実体験の感想なんか聞きたいです.
国の崩壊する瞬間ってどういう風なんですか?
【回答】
315:世界@名無史さん:2006/08/17(木)23:05:030
うちの教授がまさしく崩壊時にソ連に滞在してた.
その先生はロシア文学が専門なんだが,当時他の日本人学者と一緒にウラジオストクに滞在していた.(そのあとモスクワに行く予定だった)
んでホテルに泊まって,崩壊の前日までは本当に普段どおり平穏な日々を過ごしていた.
ある日の朝ロビーに行くと,どんなに悪天候でも必ず来るプラウダが無い.
支配人に聞くと,
「なぜか今日は来ないんだ」
と困惑している.
仕方なく部屋に戻ってテレビを点けると,全部の番組が砂嵐!!!
ぽちぽち回してると,国営テレビだけが,おそらく録画物であろう静かなクラシックを延々流している.
この不気味なクラシックを見たとき,教授はサッと血の気が引いたとか.
もう一度ロビーに行くと,ホテルの従業員も困惑気味でオロオロしている.
外は車一台通らず,静まり返っている.
続く
316:世界@名無史さん:2006/08/17(木)23:13:480
+ +
∧_∧ +
(0゚・∀・) ワクワク
oノ∧つ⊂)
( (0゚・∀・) テカテカ
∪( ∪∪ +
と__)__) +
318:315:2006/08/17(木)23:19:270
テレビが駄目ならラジオはどうだ?と言うことで,従業員がラジオを持ってきた.
もうその頃は,ホテルの客がほとんどロビーに集まっていた(外人が多かったらしい)
点けてみると・・・
やはり砂嵐.たまに聞こえるのは例の不気味なクラッシク.
んでガチャガチャ色んなところに回していると,なにやらほとんど叫び声に近い男の声が聞こえてくる.何か怒鳴り散らしているようだ.
しかし果たして,これは正規の放送なのか? それとも混乱に乗じた海賊放送なのか?
この怒鳴る男の情報は本当の事を言っているのか判断できず,ラジオは切った.
今後どうするか,外人たちと話し合うと,やはり各自大使館に電話して保護してもらうのが妥当であると合意し,まず教授が代表して日本大使館に電話してみる.
・・・繋がらない.
こりゃもうたまらん,と外人たちと一丸となって雪道を徒歩で,一番近くにある日本大使館に駆け込んだそうな.
従業員は,俺たちも連れてってくれと懇願していたらしいが・・・
以上が教授のソ連崩壊体験記.なんか聞いたときはゾクゾクした.
320:世界@名無史さん:2006/08/17(木)23:40:530
今某大学に勤めてる俺の友人(まあ当たり前だがロシア史専攻)も,8月クーデターの時モスクワにいた.
ちょっと変わってる人なんで,
「本物の戦車さわっちゃったよう」
なんて喜んでたけど(笑).
まあ実はけっこうやばかったようで,留学先の教授から
「何が起こるかわからないから,私の息子を連れてレニングラードへ行っていてくれ」
とか言われちゃったらしい.
大学関係,結構目をつけられてたみたい.
ってなことで,エリツィンの演説最中はレニングラードにいたそうで,すごくがっかりしてた(笑).
【質問】
ソ連崩壊時に経済難民って出たの?
白系ロシア人とかは聞いたことがあるのですが.
【回答】
ソ連崩壊時にロシア人が大量に流出したか?
こたえはイエス.
もっともロシア共和国の全人口は,1億5千万ぐらい.
これは中国の10分の1.
アメリカ,カナダ,オーストラリア中心に,わずかのカネを持って逃げ出したロシア人が数百万以上.
極貧の農民や都市労働者はそのまま残ったが,プーチンのときに生活保護制度が拡充され,住宅と年金が有利な条件で支給されるようになり,かなり安定してきている.
経済難民とは違うかも知れんが,当時のニュースでモスクワでホームレスが急増,冬にはバタバタ死んでいくとかやってたなぁ.
世界史板
青文字:加筆改修部分
>ハイパー・インフレ時代のロシア
あの当時のロシアで取材活動をしていた,ロシアン・ジョーク
(学研新書 9) (新書)の著者酒井 陸三氏のエピソード.
――――――
P47 ●ハイパー・インフレの頃
そこで,現金つながりで思い出すのが,いまから15年前,あの経済混乱期のど真ん中で経験したいくつかのエピソードです.
そのひとつに-.約3週間の取材を終えて帰国しようとしたある日,私は当時,常宿にいていた
クトゥーゾフ通りにあるウクライナホテルのフロントで,チェックアウトしようとインボイス(請求書)を請求しました.
すると,なんと,ゼロがズラズラズラッ・・・・と並んだ「1400万ルーブル」(だったか?)
とんでもない金額の請求書を手渡されたのです.
「こ,これはなにかの間違いだろ!?」
と驚いた私は,当時まだ二人目のヨメさんで落ち着いていたセルゲイの顔を眺めました.
(注 セルゲイ;著者のロシア人の友人 ちなみに結婚離婚を繰り返し,5人目で落ち着いた様子)
1400万ルーブルというと,東京出発時のレートで,それは確か200万円近くにもなる金額だったのです.
(中略)
ようやく,その金額は当日のレートで25万円程度のものとわかり,ホッとしました.
なんでも,その前夜にまたルーブルの大暴落があったとかで,レートも大きく変わっていたのです.
結局,この年,ロシア経済の年間インフレ率はなんと2600パーセント.
つまり,一年間に物価が26倍にも跳ね上がったハイパー・インフレの年でした.
しかしその後,100ルーブル札を使って1400万ルーブルもの宿泊料を支払うのは大変な作業でした.
当時まだ5万ルーブルなど,現在の高額紙幣は発行されていなかったため,フロントのカウンターの上にルーブル札をうず高く積み上げ,指をなめなめ,汗をかきかきしながら,帰国便の出発時間ぎりぎりまでかかって支払いを終えたという,今は昔の一席でした.
――――――
CRS@空挺軍 in mixi,2008年10月22日15:40
【質問】
社会主義が崩壊してからソ連をはじめ旧社会主義圏などでは,土地など生産手段が公有されていたのが
,再び私有化されるようになっていったそうですが,どんな基準で私有化を進めたんですか?
不平等なら不満が出るだろうし,過去の所有者とかも勘案されたんですか?
ブルジョアとして既に殺されたりメチャクチャになってそうな感じですが,過去の土地台帳とか記録参照したり,くじ引きとかもあったんでしょうか?
【回答】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%96%B0%E8%88%88%E8%B2%A1%E9%96%A5
http://www.takeuchikeizai.jp/bestron/best12rakuna.htm
市場経済になったロシアで大成功して富豪になった人達の多くは,決して,正当な方法でそうなったわけではない.
彼等は国有企業の民営化の時,巧く立ち回った.ゴルバチョフ政権の時,まず,協同組合の設立と営業の自由化が認められた.
その際に巨額な利益を上げた例がある.
国有企業の従業員は何人かで協同組合を作って,国有企業から製品を安く仕入れ,数倍の価格で売り,その利益は企業の幹部で山分けした.
ゴルバチョフ政権の末期に,公営企業が民営化された.民営化のために,私有化証券が従業員等に配布された.
折から,激しいインフレが発生していたので,私有化証券の額面は目減りし,多くの人は2足3文で売ってしまった.
目先の利いた人は,それを買い集めて,新しく発足した民営企業の支配権を握り,やがて富豪になった.
また,国有企業や共産党の幹部がそのまま新民営企業の幹部に居座った場合も多かった.
ソ連時代には日用品以外は私有財産がなかったので,自分の住宅や自動車等は国有財産であるにも拘わらず,私有物のような気がし,また世間でもそう認めていた.
高額な国有財産が何の抵抗もなく党幹部のものになった.
目敏い人は,例えば,日本の中古車を安く輸入して,莫大な利益を上げた.
ぼんやり暮らしたり,生真面目だったりした人,つまり社会主義国に相応しい人達は,90年代始めの大インフレと,その直後のIMF大不況によって最低生活に追いやられ,その後気が抜けない市場経済の中に置かれて,戸惑うばかりだ.
国民の過半数がそうである.
彼等は憤懣やる方ない.
市場経済の社会は,才能やチャンスに恵まれた人にとっては素晴らしい社会であるが,社会主義経済に慣れきった人がいきなりに市場経済社会に投げ出されると,死ぬほど辛いものだ.
生活環境の激変,権力者の不正・汚職に耐えられず,自殺,麻薬,アルコールに走る人が増えた.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
最高会議ビル砲撃事件はなぜ起こったのか?
【回答】
エリツィン大統領と,人民代議員大会や最高会議との間の主導権争いに起因する.
以下引用.
新生ロシアでは,エリツィン大統領と,ソビエト体制から引き継がれた人民代議員大会と最高会議の間で主導権を巡る綱引が始まります.
エリツィン大統領が進める急進的な経済改革で社会的な混乱が起きると,人民代議員大会と最高会議がエリツィン批判の急先鋒に回ります.
1993年9月,エリツィン大統領は人民代議員大会と最高会議の廃止を決定します.
これに対して最高会議がエリツィン解任を決議すると,エリツィン大統領は白昼,戦車を投入して,議員や副大統領など反対派の立て篭もった最高会議ビルを砲撃し,武力で制圧しました.
この模様はCNNなどを通じて世界に生中継され,権力のためには手段を選ばないエリツィン大統領の本質を天下にさらけだしました.
そして12月,下院議会の解散,非常事態令の導入など大統領の権限を強化する内容を盛り込んだ新憲法が国民投票で採択され,世界に例を見ない独裁的な権限を持つ大統領が誕生しました.
小林和男著「ロシアのしくみ」(中経出版,2001/7/9),p.18-19
つまり,2006年現在,ロシア大統領に与えられている強権は,この事件の結果の産物.
消印所沢
▼ 追記.
Мировые События в Фотографиях
- 15-летие расстрела Белого
дома: как это было.
もう15年後年前か・・・
時が経つのは早いなぁ.
事件当時のTVキャプチャー画像や文献などを紹介している.
Разгон Верховного Совета
РФ (1993)
Октябрьское восстание
1993 года
CRS@空挺軍 in mixi,2008年10月04日17:34
▲
【関連動画】
事件の動画をハケーン
НАЗАД В СССР ИЛИ НАЧАЛО
КОНЦА ( ОКТЯБРЬ 1993) часть
-11 - я
戦車は恐らくT-80ですね,
マジに砲撃しています(笑)
モスクワ市民の混乱ぶりがよく分かりますね.
一体何が起きてるのか?という大混乱ぶりです.
モスクワが戦場と化した出来事でした.
またBMDなども確認できますので空挺軍も動員されたのでしょうか?
この事件にはかの有名なアルファ部隊も動員され,皆殺(ryではなく,建物の中にいる議会派説得工作にあたりました
最高会議ビルは戦争時の事も考えて,かなーり強固に出来ていますので,このくらいの砲撃ではビクともしません
October 1993. Moscow rebellion
CRS@空挺軍 in mixi,2007年09月26日01:27
「You Tube」:англ, октябрьский
путч 1993 года
1/3
2/3
3/3
T-80UDによる最高会議ビルへの砲撃
「YouTube」:Battle for Ostankino
「You Tube」:из танка по Верховному
Совету
T-80UDによる最高会議ビルへの砲撃
faq49h.jpg
faq49h01b.jpg
faq49h01c.jpg
faq49h01e.jpg
faq49h01f.jpg
CRS in mixi支隊
【質問】
最高会議ビル砲撃事件において,どの程度の武力衝突があったのか?
【回答】
Moscow, events of 1993
の写真を見る限りだと,政府側と市民側で衝突があったようですね.
また,最高会議ビルに突入しようとしたようですが,返り討ちにあって断念,怒ったエリツィンが戦車投入という流れか.
この時現場にいた人たちのインタビューをしたいです.
本当に白昼堂々戦車部隊が砲撃してるのには驚くばかりだよ.
まったくご立派な「民主化の闘士」様ですね(笑)
CRS@空挺軍 in mixi,2007年10月07日23:23
関連画像ハケーン
Ostankino #1
http://flickr.com/photos/21404314@N05/sets/72157603350878639/
どうみても内戦です本当にありがとうございました.
CRS@空挺軍 in mixi,2007年12月08日16:37
RPG 弾頭に注目
バリケード破壊用に持ち込まれた模様
faq49g04a02.jpg
faq49g04a03.jpg
何故に海軍歩兵?? 精鋭部隊も大変だな
faq49g07u.jpg
CRS@空挺軍 in mixi,2007年10月07日23:23
【質問】
サフロノフ暗殺事件とは?
【回答】
有力日刊紙コメルサントの軍事評論家,イワン・サフロノフが,モスクワ市内の自宅アパートの最上階から転落死した事件.
遺族によれば自殺の可能性は考えられないという.
以下引用.
露,記者また不審死 違法輸出追及 機密保護で暗殺?
2007年3月7日8時0分,産経新聞
【モスクワ=内藤泰朗】ロシア製兵器の中東への違法輸出問題を追及していたロシアの著名な軍事ジャーナリストがこのほど,死亡した.
ロシア政府の機密情報を知ったため暗殺されたとの見方が広がっており,欧米諸国はプーチン政権を厳しく批判する有力ジャーナリストらが相次ぎ暗殺されている事態を重視,強い懸念を表明している.
不審死を遂げたのは,有力日刊紙コメルサントの軍事評論家,イワン・サフロノフ氏(51).
今月2日夕方,モスクワ市内の自宅があるアパート最上階の5階から落下し死亡したことから,当初は「自殺の可能性が高い」と伝えられていた.
しかし,6日付コメルサント紙は,同氏の家族や同僚らの証言から,自殺する理由が見あたらないことや,同氏が死の直前,独自取材で得たロシアの武器輸出の極秘情報を記事にしないよう脅迫されていた事実を挙げ,「殺害された可能性が高い」と報じた.
同氏は,ロシアがシリアに最新型戦闘機スホイ(Su)30を,イランに最新型のミサイル防衛システムS300を輸出する計画を新たに立てているとの情報をつかみ裏付け取材を行っていた.
ロシアは,米国からこれらの国々への武器輸出で糾弾されるのを避けるため,兵器をベラルーシ経由で輸出する計画も立てていたという.
軍出身の同氏は,独自の取材源に根ざした報道ぶりが高く評価されていた.
先月中旬にはアラブ首長国連邦で行われた兵器博覧会を取材.
この取材で同氏は,ロシアがシリアに最新型の地対地ミサイル,イスカンデールと,防空ミサイルのパンツィルC1,戦闘機ミグ29を供与する契約を新たに結んだとの極秘情報を得たが,その直後に体調を崩したという.
米NBCテレビは,米諜報(ちょうほう)機関の情報として同氏が殺害されたと報じ,英各紙も自殺にしては不自然すぎると暗殺を示唆した.
〔略〕
ポルトフは大丈夫?
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