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◆Sahara サハラ
<Africa FAQ 目次
【質問】
西サハラの住民は,どのような人たちか?
【回答】
「西サハラ」と呼ばれる26.6万平方キロの土地に元から住んでいるのは,凡そ10万人でした.
しかし,1975年11月に始まったモロッコとモーリタニアの侵攻により,元から住んでいた人々は相次いでこの地域を去り,アルジェリアに置かれた難民キャンプで暮らしています.
その数,実にこの地域に元からいた人口の3分の2に達します.
そして,その後にやって来たのがモロッコから来た35万人の人々です.
モロッコは,モーリタニアが手を引くと,この地に独立を問う住民投票を一方的に実施します.
元々が,モロッコから来た人々ですから,3万足らずの西サハラの住民が幾ら声を上げたとて,数で押し切られます.
この住民投票の結果,この地の「住民」はモロッコとの合併を選択し,モロッコはそれを楯にその占領を正当化している訳です.
この地域の国境線は,帝国主義時代真っ盛りの1884年にベルリン会議で西欧列強によって一方的に引かれました.
しかし,1975年に西サハラ紛争に際して発表されたハーグ国際司法裁判所の諮問見解にもある様に,
「スペインが植民地化した時,この地は主無き地では無かった」
という訳です.
この地には,サハラウィと呼ばれる人々が住んでいました.
サハラウィとは,元々この地に住んでいたベルベル人と南部に住んでいた黒人に,11世紀から13世紀にかけてイエメンから移動してきたアラブ人マキル氏族が混血して生まれた民族です.
言語的には,彼らは,ハッサニィヤ語と言うアラブ語方言を話します.
この言語は,古典アラブ語とベルベル語の混合であり,これだけ見ればモロッコの方言やアルジェリアの方言と同じ形成過程を経ていますが,ハッサニィヤ語の場合ベルベル語がその言語に占める割合が3つの方言の中で最も薄いものとなっています.
古典アラブ語で語頭に"Q"が来る単語が"G"と発音されるのは,アラビア半島のベドウィンが用いる方言に似ています.
一方で,民族学的にはサハラウィはモーリタニアの北部住民と兄弟関係にあります.
このサハラウィは1975年まで,その人口の5分の1が遊牧をして暮らしていました.
このサハラウィには,大別して8つの大氏族があります.
大西洋岸で漁業を営む小さな氏族もいますが,殆どの氏族は駱駝を使った長距離移動型の遊牧を幾世代にも亘って続けていました.
この中で最も人口が多く,移動圏の規模が最も広範に亘っていたのは,レゲィバッと言う氏族で,通称を「雲の息子達」と言います.
これは植生が見られる雨後の土地を探し求めていくのに,雲の移動を追って進路を決めていたことからこんな別名が付いています.
以前,アフリカの言語について触れましたが,民族学的に見て,サハラより南に位置する地域の所謂黒人居住地域とは違い,彼らは独自の共同体体系を構築しています.
アラブ世界には,全域での共通語として標準アラブ語があり,これが報道や出版に用いられる公用語として機能します.
これはどのアラブ世界に行っても通用する言語です.
この下位に,地域の独自性を築いている方言と凡そ一定の文化を共有する人々の集合体があります.
この集合体は同一先祖の父権家系で形成されているので,氏族です.
基本的にこの氏族社会の存在というのは,他のアラブ世界にも見られるものであり,特にベドウィン社会には強く残っていると言えます.
ただ,サハラウィの場合は,これら氏族がそれぞれ社会的肩書を携えていた所に有ります.
例えば,「雲の息子達」レゲィバッ氏族の中のサヘル分族は戦士,ルグアセム分族は文士,ウラド・チドラリン氏族は,戦士であるウラド・ドゥリム氏族の従属氏族,つまり,保護者格の氏族に対して貢献をすると言う様な内容です.
つまり,遊牧という流動的な生活形態でも,一つの氏族や一つの分族に固まる様な完全に孤絶した社会では無く,氏族間には民族意識とは言えないまでも,一つの共同体に帰属する社会意識がありました.
また,氏族内には2つの政治機関がありました.
1つはジェマアと呼ばれ,移動テント集団次元に設置されていました.
これには総ての成年男子が参加出来,共同生活に関する討議と決定が為されていました.
もう1つは氏族次元にあり,ジェマアの長が集まったもので,アイト・アルバイン(40人会)と呼ばれていました.
こちらは戦争屋掠奪,和平などの緊急事態に際して開催されたものです.
ただ,こうした政治機関がありはしましたが,これを統べる中央権力や支配権力があったかと言うと,そんなものはありませんでした.
サハラウィの社会構造を特色づける要素である支配権力の不在は,苛酷な砂漠という自然環境から生まれたのかと言えば,そうではありません.
西サハラには支配権力が生まれにくい土壌があったと言う方が,説明が付きやすいと言えます.
氏族間で,組織化された武力争いや,掠奪と言う行為はあったとは言え,特定の氏族が他の氏族を支配すると言う局面は殆ど存在していませんでした.
支配権力を形成するものとして,例えば,宗教的権威を背景にした権力者が出るケースが考えられますが,遊牧民の宗教観と実践は,イスラームと言う宗教を通じてかなり単一でした.
また,物質的権威,つまり富を背景にした権力者が出るかどうかと言えば,その生活が定住では無く遊牧という形態ですから,大きな富を築くにはその生活は簡素であり,家畜数の多少による貧富の差はあっても,それが直ちに権力を築く規模には至っていません.
その苛酷な自然環境で暮らしていた為か,サハラウィの精神には,人間を支配する力は神以外には無く,人と神の間に介在する力は認められません.
ただ,現在のゲリラ闘争にとっては,こうした支配権力の欠如は,非常に戦略的に厳しいものがあります.
この為,ポリサリオ戦線は誕生以来,氏族意識やそれに根ざした組織化を極力排除しようとし,その政治方針は氏族よりも民族エンティティであるサハラウィ民族へと重心が掛ってきています.
そう言う意味では,従来の氏族関係は現在岐路を迎えているのかも知れません.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/09 23:28
青文字:加筆改修部分
【質問】
スルタンによるサハラ地域の統治方法は,どのようなものだったのか?
【回答】
オスマン・トルコにしても,モロッコにしても,その統治領域は広大であり,スルタンは勅令が領土全体に行き渡る様,各地に自分の代理を任命しました.
そして,スルタンは住民全体が代理者に対して自発的に従う様にする為,シューラーの原則を尊重しているか留意していました.
スルタンの代理者,即ちカーイドの任務は,任命された地域の安全と安定を守る事でした.
カーイドは又,税の徴収,バイアに規定された義務の遵守を監督する役目も担っていました.
13世紀にマリーン朝が誕生してからは,スルタンのヤークーブ・ベン・アブドゥルハックは,ドラアより向こうの地域にカーイドを任命し,その地域は安定します.
マリーン朝期を通じて,その地域へのカーイドの任命は続き,更にサード朝期に入ると,南部モロッコ地方,即ち西サハラ地域への注目はより大きなものとなります.
1687年,スルタンのムーレイ・イスマーイールはサハラ全域を回って部族長等に会っています.
部族長の中には,スルタンがカーイドや知事として任命した者も含まれていました.
また,ドラア以南の地域に於ける代理として息子のアブドゥルマリクを任命しました.
ムーレイ・イスマーイールの死後,ムーレイ・アブドゥッラーは1730年にその地域を訪れています.
その息子であるシーディ・ムハンマド・ベン・アブドゥッラーも,1755年にその地域を訪れ,アル・マフジュウブ・ベン・ガイドを代理として任命しています.
スルタンが南部地域を含むモロッコ各地に代理を任命するというのは,部族と君主間のバイアの繋がりを強化する重要な役割を果たしています.
また,これにより地方分権化という枠組みの中で国事を管理する事が可能となっていました.
サハラ地方に於ける中央政府の権威は,部族やザーウィヤ等との関係だけで無く,カーイドを通して行政の面でも繋がりを持っていました.
サハラ地方の知事の任命は2通りの方法で行われています.
1つ目の方法は「信徒の指揮者」として勅令を出して任命する方法で,勅令により任命された者は,王国の他の地方の場合と同じく「カーイド」と呼ばれました.
カーイドは部族の成員からのみならず,統治する地域の住民からも尊敬される対象でした.
2つ目の方法は,1912年以前は余り使われていませんでしたが,部族の成員によって任命される方法です.
後者の方法が用いられたのは,2つの理由がありました.
1つは,北部から南部まで旅をするには非常に遠距離であった事,更に植民地勢力によって王国がいくつかの地域に分断され,孤立する地域があった事です.
通常は一族の長等が中心となった部族が出す諮問的意見が受容れられて,その部族全体を統治出来,部族の他の者に何等敵意を持たない者が代表として任命されました.
一族の長等は,モロッコの他の地域の場合と同様に,部族長とのシューラーの原則に則って任命されました.
続いてスルタンが,「敬愛と尊敬」を示す勅令を出して部族長等の出した結果に対する合意を表明します.
そして,その長はカーイドやシェイフと呼ばれ,部族全体かその一派に対して一定の範囲内の権威を行使する者となります.
彼の使命の先ず1つ目は,その地域の権益を守る為の団結を確保する為,他の部族との関係を樹立する事であり,更に正義が守られているかどうかを監視し,裁判官から紛争解決の為の相談を受ける事で,判決の時には立会わねばなりません.
また,彼は,サハラ地方,つまりその地域の多くの部族に合った規則を定める為に,全体地域評議会を組織する必要があります.
スルタンとカーイドとの関係では,例えば,スペインとの戦争で,捕虜の取扱いに関して,彼らを首都への移送を呼びかけたり,とある部族の人間が外国人に対して港の使用を許可し,商業を許可したという事を告げて,それを調査する様命じたりもしています.
また,ワード・ヌーンとサハラ地域の主権放棄の噂が駆け巡った際にも,その沈静化の為の書簡を送ったり,沿岸警備を強化し,スペインの襲撃に備える様命じたりもしています.
一方で,あるカーイドにはザカート以外の税を免除する連絡を出していますが,ザカートは引き続き払う様に依頼していますし,外国人との交易に際して,不適切な事案があったので,その外国人を追放して,その人物との交易を全部族に規制する様に触れを出すと言った事も命じています.
そう言う意味では,大名家に対する幕府の統制に似た様な感じでしょうか.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/05 23:11
青文字:加筆改修部分
【質問】
マー・アイナインの抵抗運動について教えられたし.
【回答】
さて,西サハラの地に欧州人がやって来たのは最近のことでは無く,15世紀に遡ります.
インドへの航路を探してアフリカ大陸を南下していたポルトガル人が,この地域に第1歩を記しました.
ただ,15世紀から18世紀頃までは,植民地獲得と言う性格では無く,マリやセネガルの辺りから持ち込まれた金,奴隷,香料,棗椰子,塩などの交易路開拓を目的にしていました.
それと引き替えに沿岸住民は武器や布,茶,穀物を手にしています.
そして,この武器が屡々,欧州人の襲撃に使われ,この地に欧州人が拠点を築かない原因となった訳です.
19世紀に入ると,アフリカ大陸各地は欧州列強に浸食されていきます.
この地を獲得しようとしたのはスペインでした.
そして,これに対してマー・アイナインと言う人物を中心とした猛烈な抵抗運動が起きています.
マー・アイナインは1831年に現在のモーリタニアに生まれ,7歳でコーランを読誦するなど,当時でも周囲からその秀抜な才を認められていました.
マラケシュで学業を修め,メッカ巡礼も果たした彼は,西サハラ北部のサギア・エル・ハムラ地方の人々の多大な信奉を集めていました.
そして,苦境に陥ったモロッコのスルタン,ムーレイ・ハサンは当時この地域に迫っていた植民地主義者の軍勢を打破する為の武器を供与したのです.
また,1898年にマー・アイナインは次のスルタンであるムーレイ・アブドゥルアジーズと協議し,西サハラの地に聖都スマラの建設に着手します.
この地は,地理的に好条件下にあり,この地域の政治,経済,宗教の中心地にしようとしたのです.
しかし,スペインに加え新たな敵として西アフリカを席巻していたフランスが徐々に浸透してきます.
フランス軍はマリのトンブクトゥを占領し,現在のモーリタニアに位置するアドラール地方に軍隊を派遣していました.
既にいくつかのスペイン軍拠点攻撃の指揮を執っていたマー・アイナインは,1905年,このフランス軍に対して抵抗軍を組織し,ジハッドを挑みました.
ところが,頼みとなるはずのモロッコの王朝は,既に退潮の一途を辿り,フランスの圧力に抗することが難しくなっていきます.
新しいスルタンとなったムーレイ・アブドゥルハフィードは,カサブランカ上陸に成功したフランス軍と協調政策を執り始め,結局,膝を屈してしまいます.
こうなると,武器弾薬の入手もままならなくなった抵抗軍とフランス軍・スペイン軍の戦力バランスは大きく崩れてしまいます.
とは言え,その武器援助が停止した後もマー・アイナインは抵抗を続け,遂には1910年,彼は自らスルタンを名乗り,モロッコのスルタンとは無関係のジハッドを貫こうとします.
しかし,タドラでフランス軍と交戦した際に負傷し,10月に死亡.
1911年,フランス軍はスマラに侵攻してこれを占領して徹底的に破壊しました.
その後も,フランス軍に対する抵抗運動は続きますが,フランス軍は圧倒的な兵力でこの抵抗軍を殲滅してしまいました.
因みに,このマー・アイナインと言う人物,先述の様にモロッコからは歴代スルタンに仕えた武人であり文人であると言う事で誰もが知っている存在です.
そして,彼がスルタンに忠誠を尽したと言う事で,モロッコではサハラのモロッコ領有説を裏付ける形になっています.
ただ,アラウィ朝最後の大スルタンと言われたムーレイ・ハサンは,2回に亘って遠征軍を南方に送りましたが,サギア・エル・ハムラ地方の氏族をその権勢下に置くことが出来ませんでした.
アルジェリアやチュニジアは既にフランスの占領下にあり,リオ・デ・オロ地方にはスペインが進出していたことから,モロッコの運命についてムーレイ・ハサンは非常に憂慮していた筈です.
また,大スルタンと雖も,国内基盤が非常に弱く,スルタンの権力は限られていました.
そこへマー・アイナインが出現したことは,宗教レベルでの重要性も然る事ながら,政治的,軍事的に活路を見出させる役割を果たしたと言えます.
後継者のムーレイ・アブドゥルアジーズの時代になると局面は更に内外とも悪化し,国内の混乱はフランスを引込む呼び水となりかねませんでした.
そうなると,更にマー・アイナインの存在はモロッコの王朝にとって重要性を増すことになります.
前スルタンの意に沿わなかった西サハラに,モロッコのスルタンが聖都の建設を援助したのも,この地域が外敵の侵攻を食い止めることが出来たら,王朝の滅亡を食い止めることが出来るのでは無いかと言う読みがあったからと言えます.
つまり,中国に於ける皇帝と袁世凱の関係の様なもので,モロッコの王朝にマー・アイナインが臣従していたと言う訳でも無く,ましてやサギア・エル・ハムラ地方がこの弱体な王朝の支配下に入っていた訳ではありません.
マー・アイナインにとって大切なのは,モロッコの王朝ではなく,イスラームの地というものだったのです.
だからこそ,モロッコの軍事援助が打ち切られても,彼らはフランスやスペインに対する抵抗を続けたのだと言えます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/10 23:27
青文字:加筆改修部分
【質問】
「ゼムラ虐殺」とは?
【回答】
さて,1961〜64年,そして1968〜73年にかけて西サハラの土地に大干魃が襲来しました.
従来は,それは天災であり,それによって淘汰された人々はいたかも知れません.
しかし,この頃にはこの地域にも近代的都市が幾つか建設されており,そこは旱魃の被害を余り受けなかったので,生活の糧を奪われた遊牧民達は,人工オアシスを求めて都市又はその近郊に移入する傾向が生まれます.
そして,新たな地では遊牧生活を捨てて,ある者は植民者の下で働く労働者となり,ある者は下級官吏となって定住生活を営む様になりました.
既述の様に丁度この頃,西サハラでは膨大な燐鉱石が発見され,その鉱山を開発する為にスペインは安い労働力を必要としました.
こうして,今まで遊牧生活を行っていた人々は,急速に定住生活を行う様になっていきます.
今までは,自分たちのペースで働いていた遊牧生活と異なり,労働者や官吏になると彼らのペースに合わせなければなりません.
また,技術を学ばなければならず,今までは不必要だった外部との接触が活発になります.
そうして得た給料により,生活にゆとりの出て来た彼らは娯楽に投資をし始めます.
最大の娯楽として,彼らの中に定着したのはラジオです.
しかし,スペイン語の識字率が低かったサハラウィにとって,ラジオは未知の世界への架け橋となり,政治,社会的意識を刺激し,短期間の内に,その意識はある方向を示し始めました.
自分たちの置かれている植民地支配の仕組みを知り,各地で行われている植民地独立に関する報道に接すると,民族主義的な動きが強まっていき,1960年代末には指導者が現れさえすれば,サハラウィでも同じ様な勢力が誕生すると言う状況まで来ています.
その頃,サハラウィの中に1つの動きが生じます.
モハメッド・バシリと言う青年が,ダマスカスで勉学を終え,1966年にラバトで「アル・シハブ」と言う新聞を創刊した後,1967年にスペイン領サハラに戻り,地下運動の解放組織を結成しました.
1970年6月17日,首都エル・アユーンのサハラウィ居住区であるゼムラ区にて,数千人が結集したデモが組織されました.
このデモ隊は,スペイン当局に宛てた請願書を持っていました.
その要求の骨子は,独立では無く,「人権と自由」を基底に据えた「自治」でしたが,当時はフランコ独裁体制真っ盛りの状態です.
その要求は簡単に蹴散らされ,当局は武力弾圧を行って多数の死者や負傷者,逮捕者が出る騒ぎになり,首謀者であるモハメッド・バシリは逮捕され,二度と人前に出ることはありませんでした.
これを,サハラウィは「ゼムラ虐殺」と呼んでいました.
バシリの戦略としては,先ず穏健な「自治」を宣言して,段々と独立に持っていく予定であり,その為にアルジェリアやリビアなどのアラブ諸国に覚書を送って,武器援助,サハラウィの軍事訓練,情報宣伝活動に対する協力,奨学金援助などの要請を行い,後の武装蜂起,そして解放闘争へ繋がる準備を進めようとしていました.
この時は未だ時期尚早であり,敗北を喫してしまいましたが,バシリの考えを受け継いだ人々は地下に潜り,後にポリサリオ戦線を生み出す原動力になりました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/13 21:48
青文字:加筆改修部分
【質問】
ポリサリオ戦線とは?
【回答】
さて,1970年代初頭,当時ラバと大学に在籍していたエル・ウアリ・ムスタファ・サイードを始めとしたサハラウィの学生が,祖国解放を目指して小さなグループを作っていました.
民族解放戦線結成を目標とした彼らは,ラバトを後にし,各々が別々のルートを通ってモーリタニアのズゥエイラッへ向かいました.
此処には,1958年に行われた仏西合同作戦の弾圧をくぐり抜けた,元解放軍メンバーのモハメッド・ウルド・ジウと,1970年に行われたゼムラ虐殺で辛くも生き延びた活動家達でした.
1973年1月から2月にかけて,両者は合同を果たし,スペイン領サハラおよびモロッコでの地下活動が開始されます.
そして,5月10日,モーリタニアのアイン・ベンティリでポリサリオ戦線がほんの少数の人々によって組織されました.
それから10日後,武装闘争の最初の火蓋が切られます.
旧式の武器を手にしたゲリラ達は,エル・ハンガと言うスペイン軍駐屯地を攻撃したのです.
その襲撃は次の様に伝説として語られています.
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7人編成のポリサリオの部隊が襲撃に出発した.
持っていた武器はと言うと,バラバラの銃が数挺だけ.
彼らは数日間歩いて移動した.
目的地も近付いた所で,エル・ウアリは仲間と2人で斥候に出た.
しかし,仲間の為に水汲みに寄り,その足跡がスペイン軍のパトロールに見破られて追跡を受け,彼らはエル・ハンガに連れて行かれた監禁された.
残った仲間が,事態を察知してパトロールの跡を辿るとエル・ハンガに着いた.
そこで夜になるのを待って,奇襲を掛けた.
不意を突かれた駐屯兵は,版画記することが出来ずにゲリラに捕まり,エル・ウアリ達は仲間に解放され,数々の武器を戦利品に,今度は駱駝で帰路に就いた.
駐屯所の壁に「血を流しても自由を勝ち取るぞ」等と書き残して.
捕虜となった駐屯兵達も皆サハラウィで,ポリサリオが彼らを解放した時は,水と駱駝を付けて帰した.
サハラウィの伝統的な仕来り通りに.
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この襲撃を皮切りに,2年も経たないうちに数十回に及ぶ襲撃が至る所で行われ,その殆どが成功に終わりました.
この砂漠のゲリラは,日中,敵の陣地への移動が難しい地理的条件下で,現地に精通した者による計画立案の後,時には50kmを徒歩で1夜の内に移動し,夜明けと共に奇襲を掛けるという戦法を採っていました.
ただ,当初はこの貧弱なゲリラ部隊には,徹底的に武器が不足していました.
この為,駐屯地を襲撃した後,そこにあった武器を鹵獲して利用していたのですが,エル・ウアリは仲間と共にリビアやアルジェリアを足繁く訪れ,援助を依頼しました.
その結果,1974年に両国の指示を得ることに成功します.
リビアについては,当時権力の座に着いていたカダフィがアラブ統一思想を翳していたことから,そこに付け込んで,アルジェリアに関しては,自らが独立解放運動を行って独立を果たしたことから,その旗手として民族自決の原則を遵守する為もあり,物資援助や外交的支持を行う様になりました.
ところで,国際連合は1965年以来,スペイン領サハラの民族自決権行使を決議し,住民投票実施を要請し続けていましたが,スペインはこれを回避し続け,決議案は履行されないままでした.
一方,1966年以来モロッコとモーリタニアは,既に述べた様に領有権を主張し,それは国連の場でも正式表明していました.
モロッコの主張は,歴史的根拠を土台に作成されたのに対し,モーリタニアのそれは同一氏族がモーリタニアとサハラ両地域にいると言う民族的,両地域で同じハッサニィヤ語を使うという文化的な共通点に依拠していました.
こうして,1974年,この地域の法的領有権を巡って,国際司法裁判所にこの問題が持ち込まれることになりましたが,スペインが提訴を拒否した為,係争問題として扱うのでは無く,ハーグ法廷の諮問的見解を要請することに決定しました.
諮問の要点は次の2点でした.
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1. スペインによる植民地化時点に於いて西サハラはterra nulliusつまり,主無き領土だったのか.
2. 1.について答えが否定的な場合,モロッコとモーリタニアは如何なる法的関係を有していたのか.
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この諮問に応える為,1975年に国連視察団が現地に派遣されることになりました.
当時,ポリサリオ戦線は無名の存在でありましたが,この派遣により一躍脚光を浴びる事になります.
派遣団は,5月8日から6月14日までの間,マドリッド,スペイン領サハラ,モロッコ,アルジェリア,モーリタニアを歴訪しました.
その内,1週間の滞在をしたスペイン領サハラでは,エル・アユーンを出発点に各地を訪問し,地元有力者,スペイン当局の官吏達,サハラウィ労働者などと幅広い懇談を持ちました.
この期間中,ポリサリオ戦線は派遣団の行く先々で大衆デモを組織しました.
デモ隊は,領土の全面的解放と独立,隣国による併合拒否を高々と掲げ,ポリサリオ戦線が住民に支持されていることを派遣団に表明します.
一方で,スペイン政府としては,今や避けられなくなった独立を前に,1974年にサハラウィの傀儡政党であるサハラ国民連合党を結成させていました.
この官製政党の官製デモも行われたのですが,大衆動員という観点では,ポリサリオ戦線の優勢は明らかなものがありました.
立場的には,ポリサリオ戦線は国連の庇護の下に住民投票を求めていたのに対し,サハラ国民連合党はスペインの庇護を掲げていました.
ところが,この連合党の書記長であるハリヘンナ・ウルド・ラシッドは,派遣団訪問の半ばでモロッコに赴き,ハッサン2世に忠誠を誓いました…
つまり,事実上の亡命です.
当然,その後,ラシッドはモロッコ占領下のサハラで重要なポストに就いています.
スペイン領サハラに赴くまでは,その勢力など軽いものでしか無いと考えていた派遣団は,その浸透ぶりに舌を巻きました.
特に首都のエル・アユーンでは,年初から夜間外出禁止令が出されたり,大量逮捕などスペイン当局の厳しい弾圧と監視下にあったのですが,派遣団が来ると,当然の様に御用政党の国民連合党のデモが現れました.
しかし,隊列内から合図が出た途端,国民連合党のプラカードがうち捨てられ,ポリサリオ戦線の旗が空高く掲げられたのです.
この様に,国連派遣団に対し,ポリサリオ戦線は強烈な印象を残すことに成功し,その年の12月以降,ポリサリオ戦線の代表者は,国連総会のオブザーバの資格を得ることに成功したのです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/14 22:45
青文字:加筆改修部分
【質問】
モロッコに対するサハラウィの武力抵抗について教えられたし.
【回答】
さて,1975年,スペイン領サハラに国連の派遣団がやって来ました.
この地で,派遣団はサハラウィの間にポリサリオ戦線への支持が拡がっていることを間近に確認します.
そして,派遣団はポリサリオ戦線に好意的な見方をしてこの地を去りました.
この頃,この地を占領していたスペイン政府の内部は真っ二つに分れていました.
フランコ総統が重篤だったのもありますが,外相ペドロ・コルティナ・マウリを中心に,意外にも軍部,特に陸軍の支持が大きかったのが住民投票及び独立を受容れる考え方でした.
9月9日,外相ペドロ・コルティナ・マウリはアルジェリアでエル・ウアリポリサリオ戦線書記長と会談しています.
この席上,彼は独立を承諾し,独立後に於ける新政府下でのスペインの経済利権擁護を求めていたと言います.
もう一派は,独立に反対して,モロッコにこの地を有償で譲渡するという,親モロッコ派の面々でした.
10月16日,ハーグ国際司法裁判所は,諮問見解を発表します.
その結果,
「植民地化の際,西サハラは主無き地では無かった」
「西サハラの氏族の中には,モロッコのスルタンに忠誠を誓った氏族もいた」
「しかし,同地域とモロッコ,或いはモーリタニアとの間には,如何なる領土上の主権関係も存在しなかった」
として,スペイン,モロッコ,モーリタニアの主権を否定し,国際法的に西サハラ住民の自決権を公認しました.
元々,モロッコが国際司法裁判所にこの問題を持ち込んだのは,自国の主張を正当化するものだったのですが,この結果は裏目に出,非常に不利な立場に追い込まれたかに見えました.
しかしこの日,モロッコは間髪を入れずハッサン2世の演説を行い,国際司法裁判所の2番目の主張にのみ着目して,
「国際司法裁判所は,モロッコと西サハラの間に法的関係と忠誠関係があったと断言した」
と言い切り,この領土を奪回する為に,35万人を動員した「緑の行進」を組織するという発表を行います.
当然,国内のマスメディアは国際司法裁判所の判決などは馬耳東風で,このニュースを大々的に取り上げ,国内はこれによる熱狂的な国民の支持を取り上げることになります.
11月6日,コーランとモロッコ国旗を手にした人々の行進が,スペイン領サハラを目指して開始します.
当時の金額で,総費用3億ドルを掛けて実施されたこの行進は,海外のマスコミの注目も浴びることになり,平和的手段を用いて領土回復を行うモロッコというイメージを内外に示すことになったのです.
35万人の声は,4日間続いた後,ハッサン2世の望んだものを総て手に入れさせました.
11月11日,スペイン,モロッコ,モーリタニアの3カ国はマドリッドで協定を締結し,スペイン領サハラの2カ国への分割譲渡が行われることになりました.
そして,平和行進の行われる1週間前から,Front
de la Liberation et de I'Unite(「解放と統一の為の戦線」)と名付けられたモロッコの特殊部隊がその平和行進の影で西サハラに侵攻し,ポリサリオ戦線と戦闘を繰り広げました.
この部隊の原型は,1958年のスペインとフランスによる合同掃討作戦の標的となってモロッコ南部に逃れ,その後王国軍に入隊したサハラウィ達です.
彼らは,モロッコ王国軍の別働隊として,ポリサリオ戦線相手に活動をしていましたが,マドリッド協定締結後は,モロッコ王国軍が大っぴらにこの地で活動できるようになった為,自然消滅しました.
この様に,モロッコは矢継ぎ早に攻勢を掛けてきました.
これに対し,今までは青年達が屋台骨を担ってきたポリサリオ戦線に,今度は今までどちらかと言えば日和見だった人々が参加します.
今までスペインの傀儡機関だった地方議会であるジュマアのメンバー102名中67名とスペイン国会の議員3名,そして,氏族集団の長老60名が署名文を出したのです.
11月28日の「ゲルタ・ゼンムール宣言」は,ポリサリオ戦線をサハラウィ人民唯一の権威とし,無条件の支持を表明しました.
そして,その5日後,暫定サハラ国家評議会が設立され,議長に古参の闘士であるモハメッド・ウルド・ジウが選出されます.
こうして,サハラウィ達は一枚岩となって,侵入者に対抗することになった訳です.
サハラウィ達は,1976年2月27日,スペインが西サハラの地から撤退をした日に,「サハラ・アラブ民主共和国」の独立を宣言します.
マダガスカルが28日に承認し,ブルンジ,アルジェリア,ベニン,アンゴラその他国家としての承認は74カ国に上り,OAUのメンバーともなっています.
この独立は,軍事的占領とその既成事実化を進めるモロッコ(とモーリタニア)に対し,政治的空隙を作らない様にする為,領土回復の法的根拠を得る為に実施したものです.
但し,その「国」はまだ寸土も自国領土では無く,難民キャンプが国家の体を為しているに過ぎません.
ただ,サハラウィ人民解放軍として,ゲリラ部隊はそのまま国軍に昇格しました.
兵力は公称約2万人としています.
そして,モーリタニアやモロッコと戦闘を繰り広げてきました.
結局,先に見た様に,モーリタニアはフランスやモロッコの支援無しに戦争を続けることが出来ず,その後脱落し,1984年にはサハラ・アラブ共和国を承認してさえいます.
こうして,1978年以降はモロッコのみがサハラ・アラブ共和国と戦闘を繰り広げていました.
当然,モロッコの方が兵力規模や武器の優秀さから見ても優勢であることは明らかでしたが,サハラウィはその地に精通している事と,アルジェリアという後背の安全地帯を持っているのが強みであり,そこを拠点に内陸部拠点奪還や都市部の襲撃を行っていました.
これに対抗してモロッコが実施したのが,イスラエルが現在でもパレスチナ相手に行っている「壁」の構築です.
実際,この「壁」の構築は実地視察したイスラエル軍高官の発案に依ると言われています.
因みに,従来からモロッコは,アラブ世界の中で例外的にイスラエルと友好関係を築いていました.
「砂の防壁」と呼ばれるこの壁の構築は,人民解放軍ゲリラの侵入を食い止め,占領地住民とポリサリオ戦線の接触を完全に遮断し,その影響から住民を隔離することが目的でした.
1982年には首都エル・アユーン,聖都スマラ,燐鉱石産出地のブ・クラアの3地点を囲んだ第1の壁が造られました.
しかし,ゲリラはこの壁をものともせずに,攻撃を繰り広げます.
この為,それに対抗するかの様に,その度に第2,第3…と壁は拡がり,遂にはモロッコ・アルジェリア国境からモーリタニア国境をぐるりと囲み,海に通じる第6の壁まで拡がりました.
特に第6の壁は,サハラウィ人民解放軍によるその領海のコントロールを封じ込め,モロッコがその海域を支配する為のものです.
モロッコは,サハラウィとの戦闘に疲弊しきっており,今や西サハラの燐鉱石と水産資源に頼らざるを得なくなってきています.
モロッコ沖では鰯が豊漁ですが,近年乱獲によってその水産資源が枯渇し始めています.
それに対し,西サハラ沖では,戦闘によって手つかずの状態なので,多様な水産資源が利用できるわけです.
また,西サハラ沖で操業することをモロッコが認める様になると言うことは,当該国の漁船が,この領海に於いてモロッコの主権を間接的に認めることになり,モロッコの西サハラ領有の既成事実が積み重なることになります.
その為には,その海域で操業する漁船に安全を提供しなければなりません.
この為構築されたのが,第6の壁という訳です.
これが出来るまでの10数年間,サハラウィに拿捕された漁船は意外に多く,中には軍用艇と間違えられて砲撃を受けて死者を出したものもあります.
この壁の高さは2m程で,その向こうに60km程度の捜査範囲を持つレーダーや攻撃用の砲台などを備え,壁の手前には地雷が敷き詰められています.
こうした壁の構築後は,サハラウィの戦術は「消耗戦」を採る様になりました.
これは分隊レベルで始終遠隔砲撃を加え,モロッコ軍を始終緊張状態に置いておくと言うものです.
当然,これが続くと段々とこれに慣れ,人間は弛緩してきます.
その頃を見計らって,壁の突破を仕掛けるという戦術です.
壁は,モロッコ軍に更に有利な状況をもたらすと考えられていましたが,実際には壁が長くなればなるほど,その維持が軍事的にも経済的にも困難となり,守備側の士気を阻喪させるものとなります.
因みに,サハラウィを攻撃するモロッコ軍は,その陣地に向けて屡々発煙弾を混ぜるそうです.
着弾すると煙を出す発煙弾を混ぜることで,その陣地に被害が出たと兵士達に勘違いさせ,兵士達の士気を上げようと図っていると言います.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/15 23:26
青文字:加筆改修部分
【質問】
モロッコがサハラの領有権を主張する理由は?
【回答】
モロッコの南には,ずっとスペインの植民地だった西サハラがあります.
この地域は,スペインが撤退した後,1976年にサハラ・アラブ共和国として独立を宣言した訳ですが,モロッコとモーリタニアはそれを認めず,両国によって分割占領されます.
後に,モーリタニアは撤退し,モロッコだけがアルジェリアの支援で,サハラ・アラブ共和国を標榜するポリサリオ民族解放戦線と戦闘を繰り広げています.
で,何故,モロッコがこの地域を併合しようとしているかと言えば,昔からこの地域にモロッコの領有権があると主張していたからです.
その領有権主張の根拠の1つが先日触れたバイアで,サハラ地域の部族がバイアによってモロッコの国王を,「信徒の指揮者」としたからと言うものです.
また,11世紀から20世紀に至るモロッコの諸王朝は,殆ど総てがサハラ地域で生まれたと言うのもあります.
サハラ地域はモロッコの歴史やアイデンティティ形成に重要であった上に,11世紀以来モロッコ経済の中で最も重要な位置を常に占めていました.
モロッコとサハラの繋がりは,サンハージャ族が樹立した王朝であるムラービト朝が,現在のモロッコ領域全体を支配下に収めた11世紀後半に遡ります.
16世紀頃モロッコを統治したサード朝の出自もサハラにあり,1578年,アル・マンスールというスルタンの時代,モロッコはセネガル川まで統治していました.
続いて権力を握った,タフィラルトで誕生したアラウィ朝も,サブサハラ地域の国々との交易に中心的な役割を果たしていたサハラ地域との繋がりを維持しました.
サハラ地方がフランスやスペインが侵略する過程で,住民達の抵抗運動を行う上で,武器の供与などが要請された先もモロッコの当時のスルタンでした.
このスルタンへの要請は直接為されたのでは無く,マー・アイナインと言うサハラ地方でスルタンの代理人となっていた人物を通して行われていました.
マー・アイナインは学識者として,サハラ地方で強い指導力を発揮した人物で,ムーレイ・アブドゥルラフマーンからムーレイ・アブドゥルハフィードに至るまでの歴代スルタンから信頼を得ていました.
ムーレイ・アブドゥルラフマーンは1860年頃にマー・アイナインが初めてメッカに巡礼した際に会っており,1890年にはムーレイ・ハサンが彼をマラケシュに招いています.
その後マラケシュで,彼は1894年にムーレイ・アブドゥルアジーズに対してバイアを実施しています.
1900年5月3日付でマー・アイナインが大宰相に送った書簡では,サハラ地方に侵略してきたキリスト教徒に対する対応について,スルタンの指示を仰いでいます.
書簡には,
「(前略)
この地域と住民はバイアによってスルタンと繋がっており,(中略)もしスルタンが彼ら(キリスト教徒)に対して戦争を行う様命じるならば,反対する者がいない.
スルタンが又別の考えをお持ちなら異論が無い
(後略)」
とあり,スルタンとのバイアによる繋がりが明記されています.
この書簡を受けて,スルタンは1900年6月2日付の書簡で,マー・アイナインの書簡の内容に言及した上で,カーイドのベンサイードと相談の上,関係国駐在の外交官に対して,侵攻国の不当な行動について抗議する様に外相に指示を下しています.
更に1900年6月4日付の書簡では,スルタンはベンサイードに書簡を送り,外相に対してベンサイードともう1人のカーイドと相談の上,タンジェに駐在する関係国の外交代表宛に,それらの国々がサハラを侵略しようとしている事について抗議の書簡の書き方を決める様に命じています.
外国からの侵略を受けていた,カップブランからアドラールに至るモロッコ南部の諸部族は,マー・アイナインがスルタンの信任を受けていた事を知っており,1905年にマー・アイナインに対して,中央政府に近代的な武器の供与と抵抗運動の組織を依頼する様に願い出ています.
同じ年,スルタンはアルスィーイーンの諸部族に対して,彼らの要請を確認する書簡を送っています.
その中では,サハラの諸部族が外国の侵入に対して不満を持ち,防衛の為に諸部族が連合すると言う約束を確認して,その為に武器を供与する事は中央政府の責任であるとしていました.
この書簡は,スルタンの従兄弟であるムーレイ・イドリース・ベン・アブドゥルラフマーン・ベン・スライマーンが持参し,マー・アイナインがその到着について諸部族の長に伝えています.
この様に,マー・アイナインは,モロッコと諸外国の文書により,サハラ地方でモロッコのスルタンの代理を務める者という位置づけで認識されていました.
こうして,マー・アイナインはスルタンからの支援を得て,南部諸部族と共に抵抗運動を率いました.
サハラの諸部族は,外国の占領から王国を守る事は,自らの宗教的・政治的な義務だと考え,彼らの抵抗は様々な側面に表出しました.
マー・アイナインは半世紀の間,歴代のスルタンへの忠誠を誓い,祖国に関する有らゆる問題について意見を求めました.
スルタンへの訪問は14回に上り,その内マラケシュに8度,メクネスへ2度,フェズには3度訪問しています.
この様な訪問によって,抵抗運動に対するマフザンの支持は強化され,1906年にスルタンは,マー・アイナインに対して銃100丁を送り,その武器を用いてマー・アイナインは11月にティジカのフランス軍基地を攻撃して,20日に亘って包囲を行う事が出来ました.
それに対してフランスは,スルタンがマー・アイナインの援助を続けるのであれば,武力に訴えると脅して抗議し,実際に軍艦をタルファヤ沿岸に停泊させ,マフザンの軍艦が補給物資を運ぶのを妨害しました.
アブドゥルマフィードの治世期には更にサハラの住民とマフザンの関係は強化され,マー・アイナイン率いるサハラ地方の諸部族の長等による使節団が,1907年にマラケシュを訪問し,忠誠の誓いを再度行い,王国の一体性を防衛する為の武器の供与を要請しています.
1908年まで,マー・アイナインはサハラ地方に於けるスルタンの代理として,フランス軍と戦闘を繰り広げました.
その後,抵抗運動は息子のアフマド・アル・ヒバによって引継がれています.
因みに,マー・アイナインの息子は,1956年に再独立したモロッコ国王のムハンマド5世に対し,スペインからのサハラ地方解放に協力を要請したりもしています.
まぁ,こうした部族の長がバイアを行うと言う事は,日本で言う所の中国に対する朝貢と同様の考え方であり,バイアを行ったからと言って,必ずしもその国の宗主権を認めた事にはならない訳ですが….
この論理が認められると,日本を含む中国の周辺諸国は,嘗て彼の国に朝貢していた訳なので,総て中国の支配下に置かれても文句が言えないと言う事になってしまいますわな.
19世紀末から20世紀初頭に掛けては,欧州列強によるアフリカ分割が進んだ時代です.
西欧列強への侵攻に対し,もう1つの対抗軸として同じ宗教を持つ民族が支援を求めるとすれば,オスマン・トルコかエジプト,それにモロッコしかありませんし,オスマン・トルコやエジプトは地理的に遠いので,必然的にモロッコが支援相手としてクローズアップされてくるでしょう.
それを以て,領有権を主張するのは,ちょっと強引で無理な気もします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/04 22:48
青文字:加筆改修部分
さて,モロッコがサハラを領有すると主張する理由の1つが,保護領化以前のモロッコと諸外国との外交文書です.
例えば,1890年8月5日に英仏が締結した秘密協定では,サキーヤ・アル・ハムラとワーディ・ザハブ領域をモロッコ領と明記していますし,スペインも又,ワーディ・ドラアまでのサハラ地域についてモロッコの主権を認定していました.
因みに,1890年8月5日の英仏秘密協定では,ザンジバルからインド洋のポンパ迄を英保護領とし,その代わりにフランスに対してニジェールからチャド湖までの道を確保する為に中央サハラを植民地化する権利を与えています.
それを根拠にフランスは,フィギグからカップ・ブラン(モーリタニアのヌアディブ)までのモロッコ国境を管理する事になります.
即ち,スペイン領サハラとはモロッコ領土の一部であると言う論理になります.
こうした外交文書の内で一番最初に締結されたものは,14世紀の「コスモス」協定,「シントラ」協定の2つの協定です.
これらはスペイン及びポルトガルとの間で結ばれたもので,前者は「マラケシュの政府」の国境がカップ・ブジュールに有ることを定義したもので,後者では「フェズの政府」の国境を同じくカップ・ブジュールにあるとしています.
1767年3月1日にモロッコとスペインとの間で結ばれた協定の第18条では,モロッコの主権は,ワーディ・ヌーンを超える地域まで,つまり,サキーヤ・アル・ハムラの南まで及ぶとしています.
この条文には以下の文言が書かれています.
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国王陛下はカナリア諸島の住民に対し,ワーディ・ヌーンとそこを超える地域の沿岸で漁業を行わない様警告する.
又,その地方のアラブ住民から彼らに対して齎されることについては何等責任を負わない.
彼らは定住地を持たない為,何らかの方策を採るのは難しいからである.
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と,まぁこんな感じで規定しており,この地の政府はワーディー・ヌーン地方のみならず,その向こうに拡がる地域まで関係していると解釈しています.
この地域に関しては,モロッコとスペインの間で1799年3月1日に締結された協定の第22条や1836年にモロッコと米国との間で締結された協定の第10条,1856年12月9日に英国とモロッコとの間に締結された2つの協定,1861年11月20日にモロッコとスペインの間で再度締結された協定などが挙げられます.
1799年3月1日の協定では,モロッコ南部の沿岸地方でのスペイン商業施設の設置に関するもので,スペインはスルタンのムーレイ・スレイマーンに対し,沿岸地方を占領しようとしたのですが,スルタンはスペイン王カルロス4世の要求を退けました.
因みに,この協定の22条には,スペイン軍艦がスースやワーディ・ヌーンを越える沿岸で転覆した場合,スペイン王に対する友好と友愛の感情に配慮し,スルタンは生存者を助けスペイン本国に返す様努力を惜しまないと規定しています.
モロッコと英国間の協定では,1801年にスルタンのムーレイ・スレイマーンと英国王ジョージ3世との間との間で先ず取り交わされました.
この協定の第33条にも,スペインの時と同じく,ワーディ・ヌーン沿岸及びその周辺海域で船舶が座礁した場合,スルタンは生存者の救出と帰国に必要なあらゆる措置を講ずる努力をする,とし,更に英国領事或いは代理の者に当該地域の知事の援助を得ながら捜索に当たることを許可すると規定しています.
この協定は,次のムーレイ・アブドゥルラフマーン・ベン・ヒシャームとジョージ4世が1824年に締結した協定でも再度繰返されています.
しかし,モロッコは次第に西欧列強の圧力に曝され,スペインとの戦争に敗北して,南部と北部の地方に関するスペインの優越を強化する合意を結ばねばならなくなります.
1860年4月26日にティトワン戦争敗北後のティトワン協定により,スペインがモロッコの領土に漁業拠点を建設することに同意しましたが,南部地方に漁業拠点を建設すると言うこと自体,西サハラに対し,モロッコの主権を認めていたと言う事になります.
1861年11月20日の協定の第38条は,1767年3月1日の協定の第18条を援用したものであり,スペイン船舶がワーディ・ヌーン及びその周辺で座礁した場合,スルタンは生存者の救出と帰国の為に尽力し,スペイン領事館の責任者が望む情報を総て収集することを許可しています.
これは,1つはこの地域に対する主権行使をスペインが認めると言う事であり,もう1つはこの地域からの情報がスルタンの代理者からスルタンに上がり,それが更にスペイン領事館員に伝わる事を認めていたと言う事ともとれます.
実際,スペイン軍艦がワーディ・ヌーン沿岸で沈没した際には,スペインはモロッコのスルタンに対して,協定第38条に基づく救助活動を要請しています.
こうした傍証からも,西サハラと呼ばれる地域に於いて,モロッコは古くから主権を行使していたと言う主張を行っている訳です.
更に,モロッコと英国が,タルファヤの北東アフリカ会社をスルタンに売却するとした1895年3月13日締結の協定では,第13条に於いて,スルタンはこの会社の所有者となり,大西洋岸の周辺地域の土地所有者となりました.
英国がタルファヤはモロッコ国境の外にあると主張したとしても,1895年の段階では南部地方はモロッコの領土の一部であると認定しているのであり,当時既にスペインの占領下にあったダフラ地方を含むその地域に,スルタンの許可無しに何者も入ることが出来ないと言う立場を取っているとして,英国からとやかく言われる筋合いは無いと言う立場を取っています.
また,スペインはモロッコの領土分割についてフランスと交渉し,1900年6月27日にサハラ地方に関する協定を締結しました.
この協定で,スペインはカップ・ブラン(現在のヌアディブ)からカップ・ブジュールへと拡がる沿岸部を手に入れました.
この地域は,ワーディ・ザハブとして知られている領域ですが,何故,フランスとスペインはモロッコの南部地方の北の境界をカップ・ブジュールとしたのかと言うと,両国は英国がカップ・ジョビの南の地域をモロッコ領であると認定していた事を知っていたからです.
他にも,フランスとスペイン間の秘密協定類では,暗示的にサハラがモロッコに帰属することが承認されています.
従って,第2次世界大戦後,サハラ・アラブ共和国の独立を巡って,各国がモロッコに圧力を掛けてこようとも,モロッコは馬耳東風を決め込んでいる訳です.
ただ,国際司法裁判所の判決では,こうした主張は認められていませんが…
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/06 23:06
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