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◆Sudan FAQ
Africa FAQ 目次


(画像掲示板より引用)


 【Link】

「2ch. アフリカ情勢板」◆(2011/07/09~) 新国家「南スーダン共和国」独立祝賀会場
 レス番号144まで回収済

「2ch. 軍事板」◆(2012/04/25~) 【南北スーダン】 アフリカの軍事情勢38 【キール対バシル】
 レス回収済

「AFP」◆(2010/12/09) 男女共演のファッションショーは「わいせつ」,モデルに有罪判決 スーダン

「BBC」◆(2010/11/13) UN receives Darfur weapons report

「Cocon Reserch」◆ 各国データ/南スーダン

「Guardian」◆(2011/01/11)Sudan vote: celebrations across south as millions flock to polling stations for referendum on Southern seccession

「mixi」◆ スーダン

「mixi」◆ 南スーダン共和国 (独立国)

「Russia Now」◆(2011/06/19)South Sudan to open embassies in 21 countries after gaining independence

「Strategy Page」◆(2011/04/30)SUDAN: Moving Towards The Big Kill

「Strategy Page」◆(2013/04/19) SUDAN: Wars Within Wars

「Strategy Page」◆(2013/05/17) SUDAN: The Forever War In Darfur

「Strategy Page」◆(2013/05/31) SUDAN: China Makes A Bad Investment

「Strategy Page」◆(2013/09/24) SUDAN: Running On Empty

「Strategy Page」◆(2013/11/08) SUDAN: Blood And Oil And Still More Rebellion

「Togetter」◆(2011/02/14)スーダン南部のモヒカンの朝は早い

「VOR」◆(2012/01/30)スーダン軍 人質の14名・中国人技師を解放

「VOR」◆(2012/04/14)スーダン軍 南スーダン側を攻撃

「VOR」◆(2012/04/20)南スーダン 石油地帯から軍を撤退

「VOR」◆(2012/04/23)スーダン空軍 南スーダンを空爆

「VOR」◆(2012/04/24)南スーダン大統領 スーダンが宣戦布告

「VOR」◆(2012/05/09)スーダン ウガンダ‐ダルフール便,廃止へ

「VOR」◆(2012/08/04)スーダンと南スーダン,流血紛争の末,石油輸送合意

「WP」◆(2011/05/23)Southern #Sudan: North has declared war by seizing contested border area with tanks

「WP」◆(2011/05/26)Southern Sudan President says his region will not return to war despite flare-up over Abyei

「WSJ」◯(2012/02/08) スーダン反政府勢力,中国人労働者29人を解放

「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/01/07)南スーダン,牛争いから大量虐殺 アフリカで繰り返される虐殺

「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/02/23)南スーダン 地方からの支援の要請

「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/07/08)南スーダン  独立から1年  石油収入分配交渉頓挫で悪化する経済情勢

「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/09/24)スーダン・南スーダン  首脳会談で,アビエイ地区帰属など未解決問題での合意の期待

「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/10/31)イスラエルとイラン スーダンを舞台に神経戦を展開

ダルフール・トリビューン日本

「中東の窓」◆(2012/07/01)スーダンの騒擾

「中東の窓」◆(2012/07/15)スーダン・南スーダン両首脳の会談

「中東の窓」◆(2012/09/24)スーダン・南スーダン首脳会談

「中東の窓」◆(2012/09/28)スーダンと南スーダンの合意署名

「中東の窓」◆(2012/10/04)ダルフ―ル情勢(国連事務総長の調査要求)

「中東の窓」◆(2012/10/25)スーダン武器工場の爆発
「中東の窓」◆(2012/10/25)スーダの武器工場の爆発 2
「中東の窓」◆(2012/10/26)スーダン武器工場の爆発(イスラエル紙の分析)

「中東の窓」◆(2012/11/22)陰謀の摘発(スーダン)

「中東の窓」◆(2012/12/09)イラン艦のスーダン寄港

「中東の窓」◆(2013/01/04) スーダン・南スーダン関係

「中東の窓」◆(2013/09/27) スーダンの騒擾 3

「中東の窓」◆(2013/09/28) スーダンの騒擾 4

「中東の窓」◆(2013/09/29) スーダンの騒擾(28日)

●書籍

Donald Petterson 「Inside Sudan: Political Islam, Conflict, and Catastrophe」

『民族紛争を生きる人びと』(栗本英世著,世界思想社,1996/04)

「近代スーダンにおける体制変動と民 族形成」 栗田禎子著(2001年)

「スーダン:もう一つのテロ支援国家」 富田正史著,第3書館(2002年)
※著者はスー ダン政府支持の立場を打ち出しているので,記述が客観的か注意すべし.

 (b) Site

Darfur Tribune(日本語)

「Guardian」◆(2010/05/28)Sudan leader sworn in amid outcry

Voice of Sudan Alliance Forces(Sawt Nedal al-Shabal-Sudany al-Mosalah)
(スーダン向けの反政府秘密局,01:45-02:15に7000kHzにて放送.
 QTHは37 Cassidy St#228,Kingston,Ontario K7K 7B3,Canada)

「Washington Post」:Precarious South Essential to Sudan

http://wiki.fdiary.net/sudan/

アッサラーム・アレイクム(スーダンの生活事情,政治軍事情報は外務省HPのコピーなので,参考にならず)

スーダン

スーダンの基本データ(BBC)

スーダン・ブログ

対外情報調査部」より,「スーダン共和国

ダルフール内戦に関するQ&A(BBC)

「中東メディア」:国際刑事裁判所に逮捕状を出されたスーダン大統領がエリトリアを訪問,ドーハ・サミットへの出欠に注目が集まる (al-Quds al-Arabi紙)

「まつりごと・いくさごと」:バシル・スーダン大統領への制裁は不可能か

「ワレYouTube発見セリ」:Sudan army - Military parade

 (c) 主要登場人物(キャラクター・デザイン:さいとうたかを(うそ))

スーダン大統領
オマール・ハッサン・アハマド・アル・バシール
(Omer Hassan Ahmed El-Bashir)
スーダン副大統領Ali Osman Taha(右)とスーダン人民解放軍(SPLA)指導者John Garang(左)
ケニアでの南スーダン内戦の和平会談席上にて

南スーダン反政府指導者Daniel Deng Mondyit

スーダン人民解放軍(SPLA)指導者John Garang

チャド大統領Idriss Deby
西スーダンDarfur紛争の和平会議再開に出席中(チャド首都 Ndjamenaにて)

スーダン外務大臣Mustafa Osman Ismail

 【質問】
 ヌビアってどこ?
 3行以上で教えて!
Hol volt Nubia?
Kérjük, mondja el a 3 vagy több sorban.

 【回答】
 ヌビアとは,アフリカ大陸北東部の古地名.
Nubia történelmi terület volt Észak-Afrika keleti részén.
 東は紅海,西はリビア砂漠にはさまれたナイル川沿岸の地域のうち,北はアスワン南の第1急流 (エジプト) ,南はハルツーム (現スーダン) の間をさす.
 ワディ・ハルファより北を下ヌビア,以南を上ヌビアと呼ぶ.
 黄金や木材の産地として,アフリカ奥地からの貢納品の中継地として,また多くの傭兵を徴用する地として,古代からエジプトにとって経済的にも軍事的にも重要な地域であった.

 青銅器時代(紀元前3000年以降),すでにヌビアには首長が統治する小国家が存在した.
 紀元前2000年前後には,ヌビアはエジプトの支配を受けていたが,紀元前10世紀頃,ヌビアにはアフリカの黒人最古の王国,クシュ王国が成立した.
 はじめはナパタを都として栄えたが,エジプト新王国時代にはその征服を受けた.
 古代エジプトの支配下では,アブ・シンベル神殿が造営された.

 前8世紀頃は勢いを盛り返し,エジプト末期王朝の紀元前750~720年,クシュの王ピアンキは, テーベのアムン神殿巡礼を理由にエジプトに侵入.
 エジプト全土をを支配し,ファラオを称した(第25王朝).
 しかし前671年,アッシリアがエジプトに侵入すると,それに押されてナイル上流に後退.

 さらに上流域に移動したクシュは前540年頃,都を南のメロエに定めた.
 よって,これ以降をメロエ王国とも言う.
 メロエ王国はプトレマイオス朝エジプトやローマ帝国とも交易を行い,また,アフリカ内陸部の文化にも影響を与えた.
 ローマ帝国はたびたびこの地に遠征している.
 彼らか輸出したものでもっとも注目すべきものは,象を訓練して戦争に活用することであった.
 ハンニバルがアルプスを越えてローマと戦っだエピソードは,クシュ人から伝わった知識かもとになっている.
 だが350年頃,アラビア半島からエチオピアに侵入したアクスム王国に圧迫され,滅亡した.

 メロエ王国滅亡後,ヌビア人はナイル中流の現在のスーダンに三つの王国を作った.
 これらの王国では,6世紀にビザンツ教会から伝道されたキリスト教が盛んになり,多くの教会が建設された.
 7世紀になると,エジプトを征服したイスラーム勢力がこの地に及んだが,ヌビア人はキリスト教信仰を捨てず,長く抵抗を続け,10~11世紀のエジプトのファーティマ朝に対抗するキリスト教国として存続した.
 しかし,1171年にサラディンのアイユーブ朝が成立すると次第に圧迫されるようになり,1317年,マムルーク朝の保護国となるに及んでイスラーム化した.

 今日,ヌビアの遺跡の大半は,アスワン・ダム湖の湖底に沈んでいる.

 【参考ページ】
「Newsweek日本版」 1992.10.29号,p.65-66
https://kotobank.jp/word/ヌビア
http://www.y-history.net/appendix/wh0503-020.html
http://www.egyptian.jp/preparation.html
http://55096962.at.webry.info/200901/article_26.html
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/0802/feature01/

【ぐんじさんぎょう】,2016/09/16 20:00
を加筆改修


 【質問】
 ファショダ事件って何?
 3行で教えて!

 【回答】
 1898年,イギリスの大陸縦貫政策とフランスの大陸横貫政策が,スーダンのファショダ村においてぶつかり,あわや英仏軍の武力衝突となりかけた事件.
 マルシャン大尉率いる200名のフランス軍武装探検隊が,1898年7月10日,ナイル河畔のファショダ村に到着し,同地にフランス国旗を立てたが,それから少し遅れて同年9月18日,今度はキッチナー率いる英軍が,同村に到着.
 現地での話し合いの結果,事態の処理は本国に委ねられることになり,独逸との衝突に備えて英国との対立を回避したかったフランスのほうが譲歩,1899年,ファショダから撤退した.

【ぐんじさんぎょう】, 2014/06/08 20:00
を加筆改修


 【質問】
 第一次スーダン内戦について,3行以上で教えてください.

 【回答】
 1955年7月,スーダン南部のヌザラで労働者のデモに警察隊が発砲し,20人の犠牲者が出たことをきっかけに始まった,同地域の内戦.
 この背景には,スーダン独立運動が,北部のムスリム主導で行われていたため,イスラーム化されていない南部住民と北部イスラーム独立派勢力の間で武力衝突が頻発していたことがあった.
 独立準備のための自治政府が,アラビア語を南部の公用語とし,英語を修めた南部エリートは政権に入れられず,北部エリートが全ての権力を握ったため,南部で不満が高まっていた.
 その上,独立後の連邦制という約束が反故にされたため,南部の指導者たちが自治,あるいは完全独立を求めて,「アニヤ・ニヤ解放戦線」を中心として反乱を起こした.
 1969年5月に成立したヌメイリ政権は,1972年2月27日に南部とアディス・アベバ合意を締結し,17年間で50万人の犠牲者を出した第一次スーダン内戦は,ようやく終結した.

 【参考ページ】
http://www.special-warfare.net/database/101_archives/africa_01/sudan_01.html
http://kiichi.at.webry.info/201008/article_12.html
http://www.voice.ne.jp/neta/contries/africa/2011/2274/
http://www.y-history.net/appendix/wh1402-012.html
http://www.foreignaffairsj.co.jp/essay/201105/Abyei

【ぐんじさんぎょう】,2016/03/06 20:00
を加筆改修

 北部はアラブ,南部はブラックアフリカ.
 独立前は,現在の南スーダンを,ウガンダと合体させて独立させようという案も英国内にあったという話もあったとのことを,ウィキペディアがソースですが,聞きかじっておりますです.

ソフトヒッター99 in mixi,2016年03月06日


+

 【質問】
 スーダン内戦の経緯は?

 【回答】
 第1次内戦と第2次内戦に分かれる.
 さらに,2003年からは西部と北部との間に新たな内戦も発生した.
 同国特有の複雑な民族問題に国際社会の利害が絡み合い,出口の見えない泥沼となっている.
 以下引用.

 1956年に独立する前年から1972年まで第一次内戦が続いていた.
 第一次内戦は,独立時の南北の人種的違いや歴史的な差別が原因となっていた.北部のアラブ人は南部の黒人を奴隷狩り・売買の対象としていた.
 このような状況下,両者がひとつの国としてまとまるには無理があった.これが主な第一次内戦の原因であり,大きくみればアラブ人と黒人の戦いとみることができた.

 現在の第二次内戦は1983年に始まって20年以上続いている.
 これは第一次内戦後の社会的・経済的発展の不均等を原因に,ディンカ族のジョン・ガランが立ち上がったもの,大義名分としては南部の独立のためではなく,政治体制の変革を目指している.
 しかし,北部と南部の境界線あたりで大規模な油田が見つかった頃より,状況は複雑化する.
 諸国政府がスーダンから利益を得ようと介入し,ジョン・ガランを指導者とするゲリラ組織SPLA/Mを支援するようになり,北部の政府側にはリビアやエジプトなどのムスリム政府がついた.

 近年すすめられている和平交渉において政府はSPLA/Mをはじめとする南部勢力に民族自決権と宗教的自由を認めたものの、紛争の終結には至っていない.

http://www.nishi-shinjuku.net/~africa/mid-north_africa/sudan/passing_events.html

 なお,各社報道によれば,同国政府と南部の反政府勢力「スーダン人民解放軍(SPLA)」は二十六日深夜,ケニアの中部都市ナイバシャで,暫定政府の権力配分などで正式に合意し,政府側代表のタハ副大統領とSPLAの最高指導者ガラン大佐が和平協定に調印したという.
 石油から得る富の分配を50:50とすること,
 イスラム法を南部すべてには強要しないこと
 副大統領2人のうち1人を南部から出すこと
で最終合意に達した.

 ところが――
 北部と南部の和平はこれで何とかメドがついたが,北部と西部との間で2003年2月,新たな紛争が発生した.地下資源の配分と地方の権限を求める構図は,「北部と南部」の内戦と同じだ.ちがうのは,西部の黒人部族はイスラム教徒ということだ.政府軍の支援を受けたアラブ民兵とイスラム教徒同士の戦いとなっている.

 政府軍機の空爆と呼応してアラブ民兵は西部の町・村を襲って来る.民兵による殺戮,略奪,レイプなどを避けて13万人が西隣国のチャドに逃れ,100万人以上が国内難民となった.干ばつも襲っているため,国連は120万~200万人に緊急食糧援助が必要と見ている.

http://www.janjan.jp/world/0406/0405284778/1.php
※なお,janjan記事にはアメリカ陰謀説が見られるが,
根拠不明なものであるため,該当部分は割愛

 スーダン・ダルフール地方での激しい暴力と殺戮を逃れてチャドに避難した人々は,たいへんな窮状に陥っており,数万人の生命が飢えと病気によって脅かされている.栄養失調が増加し,不十分な数しかないキャンプは過密状態にあり,食料と水が不足しているだけでなく,多くの難民がスーダン人民兵による越境攻撃の危険にさらされている.チャドで大規模な人道援助を行う必要が極めて重大になっている.

 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)や国際NGOが数ヵ月前からチャドにチームを派遣し,緊急対応を行っているにもかかわらず,状況は遅々として改善されず,危機はさらに拡大している.
 MSF(国境なき医師団)の緊急事態対応コーディネーターとして,チャド・スーダン国境から戻ったばかりのJean de Cambryは,次のように報告している.
「栄養失調のレベルは,週ごとに上昇しています.4月中旬には,イリバにあるMSFの集中栄養治療センターに入院する重度の栄養失調 の子どもの数は週に3,4人でしたが,現在は週25人近くに増加しています.」
「現在,多くの難民の栄養状態は,キャンプの外よりもむしろ中の方が悪化しているという事態が起きています.設置されたキャンプがその収容能力を超えて稼動しているからです.元々6千人用に設計されたいくつかのキャンプは,今やその倍の人数を収容しています.これでは6千人の需要に見合うよう準備された食糧で,2倍の人数を賄わなければならないことになり,到底足りる量ではありません.」
 水の供給についても非常に問題があり,数千人の難民は安全な飲料水を手に入れることが一切できずにいる.De Cambryはさらに続ける.
「ティネ,ビラク,イリバにある我々の医療施設では赤痢の患者が増加しています.とりわけ栄養不良の状態にある多くの子どもや大人にとっては非常に危険な状況です.
 ほとんどの難民キャンプではトイレが完全に不足した状態です.あるキャンプでは難民400人に対しトイレがひとつしかありません.これは,ひとつのトイレにつき最大20人という国際基準の20倍にあたる数字です.とても受け入れられる状態ではありません.」
 国境地帯からチャド国内の難民キャンプへ移動せずにいる数万人の難民は,暴虐行為を働くスーダンの民兵から襲撃される危険にさらされている.
 民兵グループはスーダンからチャドへ越境しては難民の持ち物や家畜を略奪している.
「これらの越境攻撃によりしばしば難民が負傷し,また殺害されています.彼らはまったく保護が受けられません.また,多くの人々が国境を越え自分の家に食糧を取りに行こうとして殺されています」

(国境なき医師団日本 ニュース・リリース)

 また,数万人もの人々が,襲撃された村々からの『略奪品』となり,奴隷として売買されている.そのほとんどは,女性と子どもだ.

http://www.lares.dti.ne.jp/~tomoyan/hitori/hitori/june16.htm
※リンクから考えて,元ソースはCNNと思われる

 アフリカ連合(AU,53カ国加盟)の首脳会議(2004/7/8)も,国連が「世界最悪の危機」と警鐘を鳴らすスーダン西部ダルフール地方のアラブ系民兵による黒人住民への集団的残虐行為に対し,毅然とした対応を示せなかった.多くの非民主主義国家を抱えるAUの限界を露呈したとの指摘も出ている.

(毎日新聞 2004/7/9)

 スーダン政府,反政府勢力の集合体「国民民主同盟(NDA)」,南部の反政 府勢力「スーダン人民解放戦線(SPLA)」の3者が2005/6/18,カイロで和解協定に 調印しました.
 今年1月に政府とSPLAが包括和平協定に調印,83年以来の内戦に終止符がうたれました.これが他の反政府勢力への和平ムードを広げ,今回の調印に到りま した.
 ただ,現在問題となっている西部ダルフール地方の反政府勢力は,現在も政府 と交渉中で,今回の協定に参加していません.

おきらく軍事研究会

<スーダン>7月だけで人道支援関係者8人殺害 ダルフール

 【ヨハネスブルク白戸圭一】紛争により200万人以上が避難民となっているスーダン西部ダルフール地方で,国連や非政府組織(NGO)などの人道支援関係者に対する襲撃が急増し,7月だけで8人が殺害された.
 国連は過去2年間の人道支援関係者の犠牲者総数を上回る深刻な事態として,国連平和維持部隊の受け入れをスーダン政府に働きかけている.
 国連人道問題調整事務所(OCHA)は7日,「人道支援関係者が直面している暴力は前例がない」との声明を発表.国際NGOのオックスファム(本部・英国)など4団体も声明を出し,この状態が続けば「住民への支援にも支障が出る」と訴えている.

 紛争は政府軍と反政府勢力2派の間で03年1月ごろ始まり,今年5月に政府と「スーダン解放軍(SLA)」が和平協定に調印したが,SLA非主流派と「正義と平等運動(JEM)」は調印を拒否.
 他にも政府系,反政府系双方の民兵が存在するため戦闘が終息せず,諸勢力が和平崩壊を狙って人道支援関係者を襲撃している模様だ.

毎日新聞,2006年8月11日19時0分

スーダンの和平合意違反を再非難 プロンク国連特別代表

 【アルジャジーラ特約28日】スーダン政府から国外退去させられたヤン・プロンク国連事務総長特別代表(スーダン問題担当)は27日,国連安全保障理事会の会合に出席,同政府が西部ダルフール紛争で反政府勢力と取り交わした和平合意を破り,軍事行動を続けているとあらためて非難した.

 オランダの元閣僚でもあるプロンク特別代表は会合で,このようにスーダン政府の軍事行動を常に非難していることが国外退去させられた理由だと指摘した上で,同政府軍が反政府勢力に対し,航空機による爆撃や武装民兵を動員した攻撃を加え,惨劇を起こしていると主張した.
 また,同特別代表は自身のウェブサイト上で,「スーダン政府軍はダルフールで行った反政府軍との戦闘で2回も大敗を喫し,政府軍兵士たちの士気が低下している」と書き,これが原因で同政府から「好ましからざる人物」とのらく印を押され,国外退去を求められたと述べた.
 しかし,プロンク特別代表の任期は今年末まであるため,同代表は近くスーダンに戻り,タエ・ゼリホーン同副代表と事務引き継ぎを行う.

 一方,国連報道官はこの日,「アナン事務総長は,ダルフール紛争交渉が重要な時期を迎え,国連がスーダン政府と話し合いを続けられる状況を維持することが重要であることを十分に認識している」と指摘した.
 また,スーダンのモハマド国連大使は同日,「プロンク特別代表は国連事務総長の信認を受けているのだろうが,スーダン政府は一向に認めていない.国連事務総長特別代表という肩書きは終わった.わが国の姿勢に揺るぎはない」と強調した.
(翻訳・ベリタ通信=志岐隆司)

2006年10月28日20時11分,アルジャジーラ


 【質問】
 SPLAって何?

 【回答】
 スーダン人民解放軍(Sudan People's Liberation Army,SPLA)は,1983年にジョン・ギャラン,サルバ・キール・マヤルディ,ウィリアム・ニュオン・バニ,ケルビノ・クアニン・ボルら南スーダンの「非アラブ系」の世俗主義者が中心となって結成された旧反政府武装組織.
 正式名称は組織の政治部門と軍事部門の名をあわせたスーダン人民解放軍・スーダン人民解放運動 (SPLA/SPLM) だが,軍事部門が突出していたため,いつしかSPLAが通称となった.

 もともと一つだった頃のスーダンは,北部にアラブ系ムスリムが多く,南部はアフリカ系キリスト教徒が中心で,人口に勝る北部が南部を支配する構図が定着しており,SPLAはそれに対する抵抗運動だった.
 ソ連,エチオピアなどの支援を受け,また,アメリカも1970年代後半から,わずかではあるが米政府関係者,シンクタンク,NGOスタッフらがジョン・ギャランらと関係を構築していた.[3]
 キリスト教徒が南部に多いことから,アメリカの宗教右派が人道支援を行った.[3]

 SPLAは,南部全域とアビエイ,ヌバ山地,南部青ナイル州に支配領域を広げ,一時は5万人を擁していた.
 1989年,イスラーム過激原理主義路線のバシール政権が誕生し,政党が禁止されると,それら政党と国民民主同盟を結成.
 しかし一方で,幹部の大半が南部最大の部族ディンカ族だったため,内紛が多発.
 1991年,エチオピアでメレス・ゼナウィ政権が成立すると支援が弱まり,政権側の工作もあって,SPLAは
・ジョン・ギャラン John Garang の主流派(トリット派)
・ケルビノ・クアニン・ボルのバハル・エル=ガザル派,
・ヌエル人のリエク・マシャールのナシル派(のち統一派,南スーダン独立運動/軍)
に分裂.

 その後,ウィリアム・ニュオンは1992年に統一派に参加し,政府軍に協力.
 主流派に復帰した.

 また,1994年に脱退したマシャールは,ヌエル人主体のゲリラ組織・南スーダン防衛軍(SSDF)を結成し,北部に対する武装活動を展開したが,2002年にSSDFを率いて再びSPLAと合流.[2]

 その他の分派の多くは,1997年4月のハルツームでの個別和平合意により,政権に取込まれ,統一民主救済戦線 (United Democratic Salvation Front, UDSF) を結成した.

 2005年,ギャランがヘリコプター事故で死亡.
 すると米国は,同氏の後継者らと関係を深め,米国家安全保障会議の東アフリカ局長を務めたジョン・プレンダガスト John Prendergrast が,「Enough Project(イナフ・プロジェクト)」などの組織を,2007年に共同設立して反政府活動を展開した.[3]
 米国はスーダンを「テロ支援国家」と位置づけており,SPLAは「敵の敵=味方」という関係であった.[4]
 また,ワシントン下院調査局アフリカ専門官テッド・ダグネ(Ted Dagne),スーザン・ライス(Susan Rice)米大統領補佐官(国家安全保障担当)らは,スーダンの首都ハルツームで強硬な姿勢でロビー活動を展開し,2011年1月の独立を問う住民投票へと道筋をつけた.[3]

 2011年の南スーダン独立後はSPLMは政権与党となり,SPLAは正規軍(南スーダン軍)に再編成されたが,北スーダンでは依然として武装組織として活動しており,南コルドファン州やヌバ山地を拠点にして,度々スーダン軍と衝突している.

 【参考ページ】
[1]http://www.splmtoday.com/index.php/about(公式サイト)
[2]http://bylines.news.yahoo.co.jp/mutsujishoji/20131223-00030911/
[3]http://jp.ibtimes.com/articles/52819/20131231/614368.htm
[4]http://bylines.news.yahoo.co.jp/mutsujishoji/20131225-00030994/


 【質問】
 スーダンのジョングレー運河工事は,なぜ内戦を誘発したか?

 【回答】
 地元遊牧民の意向を全く無視したため.

 この運河は1972年に計画されました.
 スーダンは,アフリカのナイル川流域にあり,大半が砂漠地帯で乾燥しているため,農耕ができません.
 そのため,スーダンに住む人々はたくさんの牛をつれて移動するという遊牧の生活をしていました.
 そこで,スーダン政府は乾燥地帯に運河を通し,その水で緑化されれば,年間を通して移動している遊牧民が定住し,豊かになるだろうと思い,ナイル川から水を引くために運河を作り始めたのです.

 一方,遊牧民の言い分はこうでした.
「運河を作るということは,私たちの土地への侵略だ.
それに,洪水があるからこそ動物たちに良質の牧草を食べさせることができる.その洪水をコントロールされてしまったら,私たちの牛は死んでしまうじゃないか!」
 しかも,政府側が「遊牧民が定住したら豊かになれる」と考えたことも,一年中動き回って生活している彼らにとっては,まったく違う適応を取り入れることを意味しています.

 だから遊牧民たちはそれを拒否し,話し合おうとしたが応じてもらえなかったため,武力を使って阻止しようとしたのです.
 結果的にジョングレー運河の計画は断念され,現在も遊牧民であるヌアーやディンカの人々は遊牧の生活を続けています.

 詳細は
http://www.littera.waseda.ac.jp/littera/trc/pro/cyber/netclass/nisimura/01_txt_07_02.html
参照.


 【質問】
 ダルフール内戦の原因は?

 【回答】
 同地方ではアラブ人遊牧民と黒人農民が土地や水資源をめぐり長い間争ってきたが,昨年2月に黒人農民側が軍施設などを襲撃して新たな内戦が始まった.アラブ人が要職を占める政府がアラブ人側に有利な取り計らいをしてきたことへの反発が背景にあるとみられている.

 これに対し政府はアラブ人民兵に武器を与えて農民への攻撃を支援してきた.民兵は焼き打ち,婦女暴行など残虐行為を繰り返し,これまでに1万人以上が死亡,100万人以上が村を追われた.

日経新聞 2004/7/10社説,抜粋要約

 スーダン・ダルフールの虐殺の発端は,2003年2月,弁護士アブデルワ ヒド・ムハンマド・ヌールが率いるとされるダルフール解放戦線(DLF)が マッラ山地で武装蜂起したことだ.アラブ系住民優遇策を採り続けるハルツー ムのバシル政権に異議を唱えたわけである.
 DFLは,それまでも散発的に起きていたアラブ系住民との抗争に対処するため,アフリカ系の1部族,フール族が作り上げた村落自警団を核とする.ダルフールのアフリカ系住民の殆どがDLF側に合流したとされる.
 DLF は1カ月後の2003年3月にスーダン解放軍(SLA)に改称.
 以後,SLAは,バシル大統領率いるスーダン政府軍と全面武力衝突に入る .

 そこで,バシル大統領が取った手段が,SLA,より端的に言えば,アフリカ系住民に強い反目を抱くアラブ系住民武装民兵を政府軍に編入して,鎮圧に利用することだ.
 こうすれば,虐殺などの民族浄化につながる事態があっても ,政府軍は一切関与していないと言い張れるからだ.
 バシル大統領は,リビアのカダフィ大佐,チャドのデビ大統領と交渉し,こ れら隣国との国境を閉鎖.これはSLAを兵糧攻めにするのが狙いだった.

 そして停戦が成立しては崩壊という,どこにでもある内戦激化のパターンがダルフールでも繰り返される.もともと人的,物的に圧倒的な劣勢にあるSLAが,そう長く持ちこたえられるはずもない.
 2003年12月の停戦期間満了と共に,停戦期間中に部隊再編,兵力増強を続けてきたスーダン政府軍側は,全面的な攻勢に乗り出し,ジャンジャウィードによるアフリカ系住民の徹底的掃討もあって,各地で勝利を手中にする .
 ジャンジャウィードが常套手段とする,有無を言わさぬ虐殺,強姦で,アフリカ系住民はダルフールのチャド国境意沿いに追い込まれる.あるのは餓死だけだ.

 南部における反政府勢力スーダン人民解放軍 (SPLA)が,ダルフールのアフリカ系住民に密かに武器を渡し続けているの も問題を複雑にしている.(了)

(400字で切る国際ニュース),抜粋要約

 SLAの停戦交渉代表,アダム・アリ・ショガールは,
「ダルフール地方は56年のスーダン独立以来,開発から取り残され,黒人住民は少数派として差別されてきた.アラブ系が権力を独占している現在の抑圧的な中央政権が,自由で民主主義的なものに変わるまで抵抗を続ける」
と語っている.

(asahi.com 2004/05/11 07:46,リンク切れ)

 スーダン政府と反政府武装勢力は2004年11月,ダルフールを政府軍機の飛行禁止区域とすることで合意.

 しかし2005/1/19,ロイター通信は人道支援関係者の証言として,ダルフール南部の集落で,政府軍の支援を 受けたアラブ民兵が村民3人を殺害,政府軍も空爆を行ったと報じ,国連報道官は26日,スーダンの首都ハルツームで会見し,ダルフール南部の別の村で先週起きた戦闘で,村民105人が死亡した可能性があると発表した.大半は女性と子供という

(加藤賢治 from 読売新聞,2005/1/28)


 【質問】
 ダルフール紛争の死者数は?

 【回答】
 2008年3月に国連などが発表した統計では,ダルフール紛争で20万人が死亡し,250万人が家を追われたとさ れていた.
 しかし同年4/22に国連緊急援助調整官のジョン・ホームズが報告したところによれば,紛争の犠牲者は当初の推計よりはるかに多く,過去5年で30万人に達するという.
 2008年だけで10万人が避難を余儀なくされ,性的暴行も増加し,食糧配給は略奪や価格高騰の影響で半減する見通しとなっているという.

 詳しくは2008.04.23付,CNNを参照されたし.


 【質問】
 スーダンの「アラブ人」は,どう見てもアフリカ人にしか見えないのだが?

 【回答】

アラブ人【あらぶ-じん】by 広辞苑
本来はアラビア半島に住むセム系の遊牧民族の総称.現在ではアラビア語を使用する人々の総称.アラビア人

 民族としてのアラブとは,アラビアのロレンスに出てくるような,色白で彫りが深く,精悍な顔つきをして黒い目と髪をした人々のことを指す.エジプトは8世紀から現地のエジプト人とアラブ人の混血が進んでいるため,エジプト人は湾岸諸国の人々からは「アラブでない」とみなされることが多い.
 エジプト人たちの意識としては,「我々はアラビア語を母語とするアラブである(…しかし人種的には純粋なアラブではない)」というのが一般的であろうか.彼らは南部のヌビア系の人々のことは,たとえアラビア語を話していても「アラブ」とみなさないし,黒人のことも「アラブ」とみなさない.エジプト的にはアラブは,アラビア語を母語とし,セム系の血をいくらかひいている者,のことだ.多分.
 アラビア語を使う=アラブ,という図式はエジプト的には成り立たない.多分湾岸諸国でも.

 だが面白いことにスーダンでは,黒人でも,それはアラブなのである.彼らがアラビア語を話し,自分のアイデンティティをムスリムであることに置き,自分のことを「アラブ」だと思えばそれは,スーダンでは立派なアラブなのだ.おそらくそれは,スーダン南部の「キリスト教徒もしくはアニミズムを信仰する,アラビア語以外の言葉を話す人々」と自分たちを差異化するために,近代になって獲得された概念なのだろう.
 それは必ずしも間違った用法ではないが,いわゆる「中東」を見慣れたものにとってはかなり奇異なことである.スーダンの,「黒い」「アラブ」.そして,今スーダン北部を支配しているイスラーム「原理主義」政権は,シャリーアに基づいた統治をしている,と標榜している.
 しかしイスラーム「原理主義」政権が君臨している割には,女性の衣装はトゥーバと言われるアフリカのものが多い.頭髪を緩やかに隠してはいるが,エジプトのような,髪の毛,首をきっちり覆う,シャリーアにのっとったイスラミックなスタイルのヴェールは首都にも数えるほどしかいない.

アラビアのミネコ,エジブト留学中のイスラーム法研究者,
「DEPOLOG――スーダンダン」, 2004/4/14


 【質問】
 スーダンにおけるイスラーム過激原理主義の勢力は?

 【回答】
 イスラーム法の制定もあり,スーダンはイスラーム過激原理主義者の楽園となっている.

 ビン・ラーディンも,90年からアフガニスタンに再度渡る95年までここで暮らしている.
 米国は98年,ビン・ラーディンと関係があると見られた首都ハルツームの薬品工場に巡航ミサイルを撃ち込んだ.米国は同時にアフガニスタンのテロ訓練キャンプにもミサイル攻撃している.

 かつて,スーダン政府は南部(キリスト教地域)の自治権を認めていた.
 ところが78年,その南部で石油が発見されると,政府は支配を強化してきた.83年にはイスラム法を制定して南部キリスト教徒の生活に規制を加えた.事実上の弾圧である.
 同法制定以来,スーダンは国際社会から孤立を深めている.2000年9月には女性の就業を禁じた.
 マスコミへの規制も厳しい.ラジオ,テレビ局はすべて国営.識字率が低いので,有力な活字メディアもほとんどない.

http://www.janjan.jp/world/0405/0405224604/1.php


 【質問】
 スーダンでは,いかにしてイスラーム過激原理主義者は政府を支配するようになったか?

 【回答】
 ロンドン大学やソルボンヌへの留学経験を持つイスラーム過激原理主義者ハサン・アル・トゥラービーは,スーダンのムスリム同胞団を母体にして「イスラーム憲章戦線」を結成,反共産主義やイスラーム刑法導入といった主張を糸口にして,60年代からスーダン政治に勢力を築く.

 1986年の国政選挙では,「国民イスラーム戦線」を率いて第3党の地位に就き,連合政権に参加していた.

 しかし,トゥラービーが権力中枢に辿り着くのは,軍事クーデターを支援し,そのイデオローグとなることによってである.
 1989年,トゥラービーの思想的影響下にあるオマル・アル・バシール准将が,クーデターを成功させる.
 新政権でトゥラービーは国会議長に就任,大統領となったバシールと共に,「国民イスラーム戦線」を支持基盤として実権を掌握する.

 しかし,バシールとトゥラービーの統治は,多くの観察者によって「悲劇的」と形容される帰結をスーダンにもたらした.
 宗教の名の下に内戦が激化,政治的反対勢力への過酷な弾圧が行われ,大量の難民が流出した.
 1989年のクーデターは,北部の政権がイスラーム刑法施行を撤回するといった形で,内戦が終結に向かう兆しを見せ始めた正にそのときに発生した.
 バシール政権は,南部勢力との内戦をジハードと定義し,自らの正当性の根拠に採用した.

 スーダン政治史の研究者ピーター・ウッドワードの結論は,次のようなものである.

「イスラーム国家は北部と南部両方での,独立スーダン史上,例のない規模の抑圧によって成り立っている.
 殆どの住民にとって実生活の環境は悪化し,多くは国を出た.
 スーダンは政治的イスラームのかがり火となるのではなく,国際的に孤立してしまった――辿り着き得ぬものに辿り着こうとした代償として」(論文「スーダン 権力の座に着いたイスラーム過激派」,エスポズィート編「政治的イスラーム」所収,p.113)

 宗教的信念に基づいた楽観的な社会思想は,政治イデオロギーとして用いられたときに大きな問題をもたらしかねない.
 この問題を回避できるか否かは,「運動」が「全体社会」の中の「他者」の問題をどれだけ認めることができるかにかかっている.

(池内恵「現代アラブの社会思想」,講談社,2002/1/20, p.110-112,抜粋要約)


 【質問】
 スーダンでは現在,どのような「イスラーム説教」が行われているか?

 【回答】
 説教に名を借りた反ユダヤ・プロパガンダが行われている.

 例えばアル・カロウリ師(Sheik Abd Al-Jalil Al-Karouri)は,2004年11月19日,アル・シャヒードモスク(ハルツーム)において,
「ファルージャには現在ユダヤ兵が1000人いる.これはアメリカ筋の数字である.そのうち37人がラビだ.
 このラビ達が,ファルージャで戦うユダヤ兵をけしかけ戦闘意欲をかきたてている.
 つまり,アメリカはイスラエルのために戦っているのだ.
 随分昔から掘削しているから,イラクの石油を手にするための戦いではない」
「アメリカが建国の基盤を保持したいのであれば,(ベンジャミン)フランクリンの忠告を聞くべきだ※1.フランクリンはユダヤ人に気をつけると警告しておるぞ.
 そのユダヤ人共がアメリカ人を誘導して,戦闘と混沌のなかに放り込んでいるのだ※2」
と述べる.この説教は,スーダンTV(官立)でも放送された.

 また,アル・カロウリ師は2004年8月24日,アル・シャヒードモスク(ハルツーム)において,
「蚊と黴菌はユダヤ人とアメリカのパトロンの関係を想起せしめる.つまり,イスラエルとアメリカの関係は蚊とマラリア菌の関係と同じである.
 蚊は人血を吸う.マラリア菌は人体を冒す.マラリアは蚊を媒体として人体に侵入してあばれまわり,汚染してしまうのだ.
 この説教壇上からアメリカに忠告する.マラリアは蚊の腹中にやどり,やがて蚊を殺すぞ.
 我々の忠告は,建国の父(ベンジャミン)フランクリンの忠告と同じである.ユダヤ人こそマラリア菌だ.アメリカの腹中にやどっており,おそかれはやかれアメリカを滅ぼしてしまう.」
「ユダヤの特徴という資料を配布したが,9月9日(9/11のことであろう)になったら,これの再確認をやる.要するに,アメリカで9月9日に起きたあの一連の事件,有名な二棟のビル破壊は,アメリカが主張するようにイスラエルの敵による仕業か,或いは我々が主張するように,イスラエルの手先がやった犯罪かという問題だ.いずれにせよ結果は同じだ.ユダヤ人のせいでこうなったということに変りはない」
と述べている.これもスーダンTVで放送されている.

(MEMRI,抜粋要約)

 ※1 ベンジャミン・フランクリンの反ユダヤ主義なるものが巷間伝えられているが,その神話については,2002年1月31日MEMRIのSpecial Dispatch №339(エジプトの週刊誌ナチプロパガンダのでっちあげをコピー発行)を参照.
 ※2 MEMRI TVプロジェクトクリップ№381を参照.

 また,2006/11/29付,イェルサレム・ポストによれば,ダルフール紛争は「中東紛争から目をそらすイスラエルの謀略」で,死者の実数は9千人だとスーダンの大統領が弁明したという.


 【質問】
 ハッサン・トゥラビの経歴は?

 【回答】
 MEMRIより,事実部分を引用する.

 スーダンの学者でイスラム主義指導者のハッサン・トゥラビHassan Al-Turabiはソルボンヌ大学から法学博士号を取得している.
 博士は1960年代初め,スーダンのムスリム同胞団の指導者になった.
 1986年.スーダン国民議会選挙では国民イスラム戦線(NIF)ーームスリム同胞団の新しい分派で.スーダンのイスラム国家樹立を目指すーーを率いた.
 NIFは,同議会第三党に躍進した.
 1989年,選挙で選出された政府を打倒する軍事クーデターに,舞台裏で参加した.
 以後2001年まで,NIFの指導者,後に国民議会の議長を務め,指導的な政治家として政府を支えた.

 トゥラビは1990-1991年にかけ人民アラブ・イスラム会議(PAIC)を設立し,書記長に就任した.(スーダンの首都)ハルツームに本部を置いたPAICは,政治的イスラム主義過激運動の国際的な傘組織だった.
 トゥラビは1990年代はじめ,スーダンを基地として使用することをビンラーディンに認め,また,ビンラーディンの精神的師となった.
 NIFはスーダンをイスラム国家に変えようとした.
 しかし,その試みは複雑な結果をもたらした.反対勢力が台頭し,内戦になった.
 2000年,スーダン政府はPAICの主催を止めた.
 2004年3月,トゥラビはハルツームで,かつての同志である現大統領オマル・バシールOmar Al-Bashirの命令で逮捕された.
 しかし,2005年6月釈放された.

MEMRI, 2006/5/4


 【質問】
 ハッサン・トゥラビの信条はいかなるものか?

 【回答】
 かつては,女性の就労禁止などを定めていたが,少なくとも2006年には,
「女性は胸を隠さねばならない,顔ではない」
「女性はイマーム,また政治指導者にもなることができる」
「自宅での飲酒には罰則がない」
などと,他のイスラーム過激原理主義勢力よりは軟化の兆しが見える.

 一方,反ユダヤ・反イスラエルのために具体的に行動を起こせ,とも説いているが…….

 以下引用.

 スーダンの学者でイスラム主義指導者のハサン・トゥラビはアラビーヤ・テレビで,こう語った:
女性は胸を隠さねばならない,顔ではない;女性はイマーム,また政治指導者にもなることができる;自宅での飲酒には罰則がない

 〔略〕

 以下は,2006年4月10日(ア首連ドバイの衛星テレビ)アラビーヤ・テレビで放映されたトゥラビ博士のインタビューの抜粋である.
 このクリップは,
http://www.memritv.org/search.asp?ACT=S9&P1=1112
で見ることができる.

「イスラム世界の大半は・・・コーランを(正しく)読まず,(盲目的に)引用する」

 トゥラビ:
「これらの見解の一部はすでに数十年前に表明され,書籍でも取り上げられた.
 しかし,あなた方は依然こう見ている.
 イスラム世界ーー停滞し,後退し,伝統を重んじるーーイスラム世界の大半はコーランを祝福のため以外は(正しく)読まず,(盲目的に)引用している,と」

(・・・)

 インタビュアー:
「トゥラビ博士,あなたは女性と男性は平等だとし,女性はイマーム(スンニ派の礼拝指導者)を勤めることができると語った.
 つまり,ある女性が男性よりも敬虔で聡明ならば,彼女は礼拝を指導することができると語った.
 また,あなたは,ムスリムの女性と経典の民の男性との結婚を(認めた).
 また,ヒジャーブ(ベール)で(女性が髪を覆うこと)に関し幾つかの点を提起し,胸を隠すだけで十分だと語った.

(・・・)

「アッラーがお望みになるなら,私は女性が働き,社会生活の一部になることを望む・・・私は人間間の平等を好む」

 トゥラビ:
「私は社会の半分(女性の意)が外出すべきだと言ったが,それは,単に街中に出る人間の数を倍にするためではなかった.
 ともかく,電化製品の登場で,家庭はもはや多くの作業を必要とはしないーー我々が自分たちの妻を装飾品として扱い続け,夜を待つのでなければだが.

「アッラーがお望みになるなら,私は女性が働き,社会生活の一部になることを望む.
 アッラーは女性に,我々に優る幾つかの利点を,また,我々には女性に優る利点を与えた.アッラーは男性と女性に,それぞれ互いに優る利点を与えたのだ.
 私は人間には平等が存在することを好む.なぜなら,「アッラーは単一の魂からその仲間を創造された」と言われるように,我々はすべて,同一の魂から創造されたからだ.

(・・・)

「私は,女性がイマームになることを禁じるハディース(預言者の言行録)を知らない.
 私はこう理解できる・・・礼拝の間にーーつまり我々が祈る時,我々は互いに近づき,触れ合う.
 そうした接近状態で,仮に女性が我々と共に祈るならば,彼女たち(の存在)によって我々の思考は礼拝から逸脱し,男と女の関係に向かうだろう.
 これがーーモスクによって祈り方は異なるがーー彼女たちが我々の背後で祈るか,脇で祈るかする理由だ.

「しかし,一人の女性が我々よりも一層敬虔であり,一層善良であり,あるいは年齢が上ならば,人々は彼女の顔を見ることなく,彼女の知恵ある言葉に耳を傾けるだろう.

「(この問題に)関するハディースが一つある.
 預言者(ムハンマド)がウンム・ワルカUmm Warqaをよく訪ねた(というハディースだ).預言者は幾人かの女性をよく訪ねた.訪ねたのは妻たちで,その夫たちではなかった.なぜなら彼女たちは(夫たちよりも)行いの正しい人間だったからだ.

「女性はムエッジン(礼拝の呼び掛け人)を勤めることもできる.彼女のダールdar(家や領域を意味するアラビア語)の人々を礼拝で導くことができる.
 ダールは必ずしも家を意味しない.ダールは広い地域を指す・・・例えばダルフールDarfourやダルハメドDar-Hamed(といったぐあいだ).

(・・・)

「ある女性が候補者の中で最善の人物ならば.また,国家が直面する挑戦にもっともよく対応できる人物ならば,国家の指導者になることができる.
 国家は社会的な困難,経済的な困難,あるいは軍事的な困難に陥っているとして・・・これらの困難次第で,また現在の必要性に応じて,私は候補者を(選択して)投票する.

(・・・)

「ユダヤ人やキリスト教徒と結婚した欧州の女性は,イスラムに改宗する以前に離婚する必要はない」

 トゥラビ:
「人々はイスラムに改宗する.欧州では,女性は夫に先立ってイスラムに改宗することができる.彼女たちを止めさせるべきか,それとも彼女たちを裁判に掛けるべきか.彼女は信仰する女性でありーー離婚するまで彼女を改宗させないでおくべきか,それとも(離婚前に改宗させて)彼女の家族をバラバラにするべきか.その(イスラム)法判定の根拠はどこに求めるのか.(しかし,関連するコーランなどの)章節はどこにもない・・・」

 インタビュアー:
「彼女がイスラムへの改宗を望むならば,彼女は結婚していなければならない・・・」

 トゥラビ:
「いや,そう我々に伝える(コーランなどの)章節は存在しない・・・(その)章節は多神教徒に言及している.我々と多神教信者との結婚は禁止されている」

(・・・)

「コーランは,我々が経典の民と結婚できると語っている.結婚できないとは言っていない,
 (経典の民との結婚を禁じるイスラム学者は)(こと他教徒との結婚問題に関しては)信頼がおけない一般的な章節に依存している.
 もし,これが妻(と夫)との間に争いを引き起こさないならば,そして,現在引き起こしてはいない・・・ましてや女性は夫と同じ政党に投票すらしない,時には,夫は宗教的でもなく,キリスト教徒であることは親から受け継いだものにすぎず,実際はイエスを信じてさえいない.
 彼女をキリスト教に復帰させるべきか.それは無意味なことだ.

「同様に,経典の民出身の妻に対し我々の宗教に改宗することを我々は強制しない.私は(これに関し,法判定を)決定した・・・(いや)決定しなかった.私は人々の諸問題について私の意見を与えたのだ.

「女性たちは夫に先立ってイスラムに改宗してきた.
 そして(イスラム学者は)彼女たちを止めようとした.
 私はそうするなとイスラム学者たちに言った.もし,あなた方がサラフィー(先達)の書籍を読んでいたら,この法判定に遭遇したろう,と.

(・・・)

「ヒジャーブ(ベール)という言葉はコーランの中に現れる.それは預言者の部屋のカーテンを指している.当然ながら,人々ーー法判定を求めにきたムスリム,質問を望むイスラムへの改宗者,訪問を望むジャーヒリーヤ(メッカの多神教信仰)の人々ーーが部屋に入ると,預言者の妻はその部屋に坐ったままでいることはできなかった.
 これは現代の家屋でも不可能だ・・・
「アッラーに賞賛あれ,今日の家屋は(預言者の時代に比べ)より広く,ホールや客間がある.
 しかし,当時は一つの部屋しかなかった.
 そこで,彼女たちは気楽さを感じることが出来るように,また,好きな衣類をなんであれ着れるように,ヒジャーブを使ったのだ.
 もし彼女に頼むことが何かあれば,我々はヒジャーブの背後からそれを頼む.
「コーランはこのこと(女性の体を隠すもの)をヒジャーブと述べたわけではなかった.
 これはキマルkhimarと呼ばれた.乳房だけを隠すものだ.
 言及されているものはキマルであって,ヒジャーブではない.
 (一方)あなた方が聞き続けているのはヒジャーブ,ヒジャーブ,ヒジャーブだ・・・
 こうして言葉が歪められる時,人々はミスリードされる.

「ムスリムは・・・ただそこに坐り,自分たちの問題の解決を神に懇願する.『おー,アッラーよ.ユダヤ人を殺せ,アメリカ人を殺せ』・・・彼らは自分では何もしようとしない・・・シーア派も同じだ」

 トゥラビ:
「これはムスリムの弱さである.彼らは常に坐ったままで,自分たちの問題を解決するよう神に懇願するだけだ.『おー,アッラーよ,ユダヤ人を殺せ,アメリカ人を殺せ』と.それが,彼らが坐ったままで行う唯一のことだ.
 彼らが望むのはイエスが来て,マハディ(救世主)が来て,世界を正義と光で満たすことだ」

(・・・)

「彼らは自分では何もしようとしない.彼らは偽りと戦わず,ジハードを展開しようと望まない.
 彼らは,アッラーが天国からイエスを派遣し,彼らの問題ーー『あれらアメリカ人,あれらキリスト教徒』との全ての問題を解決してくれることを待っている.
 イエスは2006年も経て,もはや生きてはいない.
 しかし,イエスはムスリムの幻想の中に生き続けている.
 兄弟よ,これらは幻想,幻想なのだ」

(・・・)

「これはシーア派も同じだ.
 むろん確実ではないが,カリフが彼(幼かった第12代イマーム)の名前を発見し,彼と彼の父親を連れて行き,たぶん彼を密かに殺した.
 しかし,シーア派は依然(この)イマームの再臨を待ち続けている.
 1000(年)以上,あるいは数百年,シーア派はイマームを待ち続けた.
 実際のところ,シーア派の大半はイマーム(の再臨問題)を無視して,前進した.
 私は,全てのムスリムの前進を望む.
「最後の審判の時,私はこう言ってアッラーに謝罪することは出来ない:
 私はメシアを待っていた.しかし,貴方(アッラー)だけが知っている理由で,貴方はメシアの出現を遅らせた.
 私はメシアを待っていた.私は,待っている人々の一人だ.死ぬまでに,行動する者の一人になれ.多くの人々が死んだ」

(・・・)

我々は酒を捜すためにムスリムの家に立ち入ることはできない

 トゥラビ:
「我々は飲酒を禁止されている.酒を飲む罰はむち打ちである.
 しかし,私はこう言い続けてきた.人々の家に立ち入ることはできないと.許可を得て初めて家に入ることが出来るのだ.
 ノックを繰り返しても,誰もドアを開かないなら.たとえ我々が警官であろうとーーさらには(第二代カリフ)オマル・イブン・アルハッターブOmar Ibn Al-Khattabであろうと,立ち去らねばならない.そのようにオマルは行動した.
 我々は人々の家には立ち入らない.もし(一人の人物が)自分自身の酒を製造し,それを家の外では飲まないならーー彼が眠りに落ちるまで好きにさせなさいーー翌日ふだんのように家を離れるなら.それ(飲酒)はそれほどひどいことではない.
「しかし,むろんのこと非ムスリムでなければ,誰であろうと公共の場で飲酒し,また売るならば,その人は罰せられねばならない.
 泥酔して脚がふらつき,車を無謀運転するならばーー世界のすべての国で,責任を問われる.
 私は,飲酒の禁止が,他人をスパイするために使われないよう望む.

(・・・)

「改革は惨めさ,恐れ,保守主義からは出現しない」「西側に行くと,我々の信仰は一層強まる」

 トゥラビ:
「兄弟よ.我々の社会は改革の必要がある.
 改革は惨めさ,恐れ,そして保守主義からは出現しない.
 我々は何を保守しているのか.この(ムスリム世界の)後退性か.我々はただ坐って保守主義を掲げていていいのか.
 西側が軍で,経済で,メディアで,科学で,我々を圧倒しているというのに.我々は何を保守しているのか.
 アッラーにかけて,西側諸国に行くと,我々の信仰は一層強まる.我々の信仰はひたすら発展する.私の信仰は欧州で,フランスで,英国で一層発展した.私の信仰は一層強まった.私の知識も同様だ,
 アッラーに賞賛あれ.

MEMRI, 2006/5/4


 【質問】
 イランはスーダンにどんな支援をしているか?

 【回答】
 スーダンに対してイランが石油無償供与など援助を与え,見返りとして紅海の港をイラン海軍に使用させるなどの軍事協力を引き出している.

 また,91年12月のラフサンジャニ大統領のスーダン訪問直から,革命防衛隊派遣が開始されている.
 彼らは軍事顧問団としてスーダン軍を指導すると共に,当時スーダンを拠点としていたエジプトのテロ組織「イスラーム集団」を筆頭とする,各国テロ組織に軍事訓練を開始した.
 欧米メディアに流れた情報によると,スーダン国内のイスラーム・テロリストのキャンプは,少なくとも17ヶ所.主にスーダン北部に点在しており,最大のものは,ハルツーム北西郊外のメルヒヤト・スーダン人民防衛軍基地内にあったということだが,確認はとれていない.

 これにより,イランはますますスンニー派テロ諸組織との関係を深め,テロリスト側は財政基盤と爆弾製造技術などを大幅に向上させることとなった.

(黒井文太郎〔『軍事研究』誌アナリスト〕 「イスラムのテロリスト」,
講談社,2001/10/20,p.69-70,抜粋要約)


 【質問】
 スーダン内戦でのチャイルド・ソルジャーの実態は?

 【回答】
 スーダン南部生まれで,1999年現在,ユニセフ・ナイロビ事務所職員として働くナポレオン・アドク(写真)によれば,以下の通り.

「スーダンでは軍事訓練を受けなければ学校を卒業できません.
 政府軍は学校を通じ,反政府軍は孤児を集めて兵士にします.
 誘拐(ゆうかい)されて奴隷のように働かせられる子どももいれば,兵士になるしかないと考える子どももいます.食べ物や服を与えてもらえるからです.そして銃や弾の扱い方を徹底的に教えられます.

 実は私も11歳の時,兵士になりました.兵士になろうとしてなったのではありません.安全を求め,勉強ができると聞いて,反対する両親にも告げずに難民キャンプに行きました.
 しかし,そこで,銃を突き付けられ兵士にならざるをえなかった.証人として処刑を目撃させられたり,250人の子ども兵士を率いたり,地雷撤去などの危険な仕事をさせられました」

                

(読売新聞 1999/9/28)


 【質問】
 ダルフール児童移送問題とは?

 【回答】
 2007年,スーダン西部ダルフールに隣接するチャドから,子供らを欧州へ移送しようとした,フランスの非政府組織(NGO)活動家ら17人が,誘拐容疑でチャド当局に逮捕された問題.
 国連当局などの調査によると,NGOが連れ出そうとしていた児童ら103人の多くは,ダルフー ルに隣接するチャド領内に住んでいたとみられる.
 NGOm側は「身寄りのない子供を保護した」と
主張しているが,実際は児童らのほとんどは孤児ではなかったとされる.

 2007/11/4,ランスのサルコジ大統領が,チャドのデビ大統領と会談した結果,チャド司法当局は同日,逮捕さ れた欧州の17人のうち,NGOに同行していたフランス人ジャーナリスト3人と,移送に使われる予定だった航空機のスペイン人乗務員4人の釈放を命じた.

 【参考ページ】
2007/11/07 19:23,日経新聞(共同通信電)


 【質問】
 ヤルムク兵器廠とは?

 【回答】
 ヤルムク Yarmouk は,スーダンの首都ハルツーム Khartoum にある2つ国営兵器工場のうちの一つ.
 ハルツーム国際空港から約11km南西のところにある,人口密度の高い住宅街に位置する.
 国連の制裁の下でも兵器を調達できるよう建設されたもので,1996年,操業開始.
 石油貯蔵施設,軍事デポと弾薬工場などから成っている.[4]

 スイスの独立系調査機関が9月にまとめた「小型武器実態調査(Small Arms Survey)」は,武器収納箱の外装から,ヤルムクの軍需工場に中国製の武器や弾薬が輸出されていることは明らかだと報告している.
 これらの武器は10年近く紛争が続くスーダン西部のダルフール(Darfur)地方に移送されているという.[2]

 また,国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチ(Human Rights Watch,HRW)は1998年,スーダン政府がイラク向けの化学兵器をヤルムク工場に保管しているとの反政府勢力の主張を明らかにしたが,スーダン政府側は疑惑を強く否定している.[2]

 2012/10/23深夜,この工廠で爆発が起き,火災が発生した.
 現地のAFP記者によると,火災は爆発から3時間ほど経過した24日午前3時半(日本時間午前9時半)ごろには鎮火された.[2]
 ハルツーム州のアブドル・ラハマン・ハイダル(Abdul Rahman Al-Khider)州知事は,初動捜査によれば爆発があったのは倉庫だと,国営メディアに対して述べた.[2]
 また,煙を吸って数人が病院に搬送されたという.[2]
 民間のスーダン監視団体は,この爆発により,21人が死亡したと推定している.[4]

 翌24日,スーダンのアフメド・ビラル・オスマン(Ahmed Bilal Osman)文化・情報相は,記者会見で
「われわれはイスラエルが空爆したと考えている」
「時と場所を選んで報復する権利を留保する」
と述べた.
 文化・情報相によると,24日午前0時(日本時間同6時)ごろ,レーダーに探知されにくい航空機4機が軍需工場を爆撃,爆発物の残骸からイスラエルの関与を示す証拠が見つかったという.[1]

 10/28,英紙「サンデー・タイムズ」は,西側軍事筋などの話として,作戦はイスラエル空軍が,イランへの核施設攻撃の予行演習を兼ねて空爆したと報じた.
 同紙によると,爆撃作戦は24日未明,イスラエル軍のF-15戦闘機8機で行われた.
 うち4機が1トン爆弾を2発搭載,他の4機は護衛役だった.
 また,墜落など不測の事態に備えて,救出部隊としてイスラエル軍のCH-53ヘリコプター2機が,事前にスーダンの現場周辺で待機.
 そのほか,スーダン防空レーダーに対し妨害電波を出すための空軍機1機,紅海上で燃料を供給するための給油機1機が作戦に加わった.
 イスラエル南部の基地から出撃した戦闘機は,紅海を南下してエジプトの防空システムをすり抜ける形でスーダン領空に侵入し,ハルツーム南部に到達した.往復約3860キロ,計4時間の飛行だった.
 当時,この軍需工場では,イランが指導する形で,イランの弾道ミサイル・シャハブが製造され,パレスチナ自治区ガザに密輸される予定だったという.[3]

 【参考ページ】
[1] http://www.afpbb.com/article/politics/2909092/9732278
[2] http://www.afpbb.com/articles/-/2908952?pid=9729556
[3] http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/e/f066477728e42ad3f49a1befcdfb37fc
[4] http://www.theguardian.com/world/2012/oct/27/sudan-weapons-factory-airstrike-israel

10/12に衛星に撮られたヤルムク工廠
(こちらより引用)

 【関連リンク】
「Satellite Sentinel Project」◆(2012/06/26) Explosions in Khartoum
http://www.satsentinel.org/sites/default/files/SSP%20report%20Explosions%20_in_Khartoum_102712.pdf


 【質問】
 ダルフール虐殺に関連して行われている,アメリカによる経済制裁はどのようなものか?

 【回答】
For Immediate Release:Office of the Press Secretary May 29, 2007
によれば2007年5月,国連安保理で制裁決議を求め,アメリカが独自の制裁に踏み切ったもので,スーダン関連の30の企業が,アメリカ銀行システムへアスセスすることができなくなるというもの.

 経済制裁については,
「AP」:Bush Announces New Sanctions Against Sudan Amid Darfur Crisis
によれば,中国のアフリカ問題担当でダルフール問題のトラブルシュートを受け持つLiu Guijinは,経済制裁よりはエンゲージメントが有効として中国のスーダンへの投資を擁護し,制裁には消極的な姿勢を見せている.

 財務省発表文書によれば,経済制裁対象企業は以下の通り.

・ADVANCED ENGINEERING WORKS(住所などの詳細は略)
・ADVANCED MINING WORKS COMPANY LIMITED
・ADVANCED PETROLEUM COMPANY
・ADVANCED TRADING AND CHEMICAL WORKS COMPANY LIMITED
・AL SUNUT DEVELOPMENT COMPANY
・ALFARACHEM COMPANY LIMITED
・ARAB SUDANESE BLUE NILE AGRICULTURAL COMPANY
・ARAB SUDANESE SEED COMPANY
・ARAB SUDANESE VEGETABLE OIL COMPANY
・ASSALAYA SUGAR COMPANY LIMITED
・AZZA AIR TRANSPORT COMPANY LTD
・BASHAIER
・GIAD AUTOMOTIVE INDUSTRY COMPANY LIMITED
・GIAD MOTOR INDUSTRY COMPANY LIMITED
・GUNEID SUGAR COMPANY LIMITED
・HI TECH GROUP
・HICOM
・HICONSULT
・HI-TECH CHEMICALS
・HI-TECH PETROLEUM GROUP
・NEW HALFA SUGAR FACTORY COMPANY LIMITED
・PETROHELP PETROLEUM COMPANY LIMITED
・RAM ENERGY COMPANY LIMITED
・SENNAR SUGAR COMPANY LIMITED
・SHEIKAN INSURANCE AND REINSURANCE COMPANY LIMITED
・SUDAN ADVANCED RAILWAYS
・SUDAN GEZIRA BOARD
・SUDAN MASTER TECHNOLOGY
・SUDAN TELECOMMUNICATIONS COMPANY LIMITED
・SUDANESE SUGAR PRODUCTION COMPANY LIMITED
・WAFRA PHARMA LABORATORIES

 ちなみに
http://www.apco-sd.com/html/hitech.htm
によれば,Hi-Tech Groupは中国輸出銀行の,ドバイ,バーレーン,カタールの銀行の融資を受けている.

ニュース極東板


 【質問】
 チャド軍によるジャンジャウィード急襲作戦とは?

 【回答】
 2009/5/17,チャド政府は,スーダン領内の傭兵部隊(ジャンジャウィード)に対する陸空急襲作戦を実施し,完了させたと発表しました.
 それによれば,チャド・スーダン国境地帯で地上部隊が100名を拘束している間に,航空部隊が傭兵部隊の拠点7つを空爆破壊したとのことです.

 ⇒チャドはスーダンの西にある内陸国で,ダルフールと隣接しています.
 ダルフール問題がらみで,EU部隊も駐留しています.

・チャドとスーダンの位置関係
http://tinyurl.com/plo2u2

おきらく軍事研究会,2009/5


 【質問】
 ヘグリグ紛争(仮称)って何?

 【回答】
 ヘグリグ Heglig 油田は,スーダン共和国はコルドファーン州にある油田で,埋蔵量豊富とされる.
 1996年にアラキス・エナジー社(現在はタリスマン・エナジー社の一部門)により開発が始まり,現在はグレーター・ナイル石油・オペレーティングカンパニーによって稼動されている.
 グレーター・ナイル石油パイプラインによって,ハルツームやポートスーダンと繋がっている.

 ヘグリグは南スーダンとの国境に近く,南スーダン側は同油田の領有権を主張している.
 一方,スーダンは南スーダン独立によって原油生産量の4分の3を失っており,ヘグリグ油田はスーダンの原油生産量の約半分を占め,同国の貴重な収入源となっていた.
 そのため当然ながら,スーダンは同油田の断固死守の方針で臨んでいる.

 2012年3月から武力衝突が発生.
 南スーダン側は,スーダンの爆撃機と地上部隊が26日に南スーダン北部のユニティ(Unity)州を攻撃したため反撃し,ヘグリグ油田を取ったと発表した.
 スーダンはその後,同油田を奪い返した.
 スーダン軍は27日も南スーダンへの空爆を行ったほか,地上でも戦車を使った激しい戦闘となった.
 4/9から10日にかけ,南スーダン報道官は,スーダン軍が空爆や砲撃を仕掛けたと非難.
 4/10には,南スーダン軍がヘグリグ油田を制圧した.
 AP通信によると,南スーダン軍の侵攻でスーダン軍兵士240人が死亡したという.
 4/12,スーダン空軍が南スーダンユニティ州の州都ベンティウの橋を空爆.
 4/15~4/16,スーダン空軍が国境付近を空爆.
 AP通信によると,市民ら5人が死亡.
 南スーダン側にある国連PKO部隊の施設も空爆を受けたが,けが人などは出ていないという.
 4/18,スーダンのバシール大統領は,大規模な軍事攻撃を示唆.
 4/22,南スーダン軍がヘグリグ油田から撤退開始.
 戦闘で油田の生産施設は破壊されたとみられている.
 4/23,スーダン空軍がベンティウと,川を隔てたルブコナの町を空爆.
 現地のジャーナリストによれば,戦闘機2機とミサイル4発が野外市場などに撃ち込まれ,少年1人が死亡したという.
 また,南スーダンのベンジャミン情報相は,ベンティウの市場が3発の爆撃を受け,12歳の少年を含む民間人2人が死亡したと発表した.
 さらに,国境地帯では数カ所で戦闘が続いた.
 4/24午後,中国の胡錦涛国家主席は,北京の人民大会堂で,南スーダンのサルバ・キール大統領と会談.
 胡主席は,戦闘を速やかに停止するよう求めた.
 5/2,国連安全保障理事会は,即時停戦を求める決議を採択.
 5/3,南スーダン軍報道官は,スーダン軍が同日午後,国境付近で南スーダン軍の基地を狙って空爆や砲撃を行ったと述べた.
 子供ら市民2人が重傷を負ったという.
 また,同報道官によると,南スーダン軍側は反撃していないという.
 その後,戦闘は沈静化の方向に向かい,6月には両国大統領が会談.
 7/21,南スーダン軍は「スーダンとの国境地帯にある北部の村が,20日未明,スーダン軍の戦闘機によって空爆され2人がけがをした」と発表.
 これに対し,スーダン政府は「自国の領内にいる反政府勢力を攻撃しただけだ」として,南スーダンへの空爆を否定した.
 そんな事件もあったものの,2013/1/6,エチオピアのアディスアベバで,両国首脳の会談が行われ,産油地帯の扱いに関する暫定的な取り決めで合意した.

 【参考ページ】
http://ameblo.jp/kimagure-diary2011/entry-11228250912.html
http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2012032700879/ (キャッシュ)
http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2868450/8712318 (キャッシュ
2012/4/12,産経新聞
2012/4/18,読売新聞
http://www.cnn.co.jp/world/30006368.html (キャッシュ
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120424/k10014664511000.html (キャッシュ
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120425/k10014692191000.html
http://sankei.jp.msn.com/world/news/120504/mds12050401220001-n1.htm
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120722/k10013760611000.html

ヘグリグの産油地帯
(こちらより引用)


 【質問】
 南スーダンにおける部族間紛争の状況は?

 【回答】
 南スーダンでは,対立する部族間の衝突が絶えず,独立後もしばしば紛争が発生している.
 国連の報告書によると,南スーダン東部のジョングレイ州では2011年1年間に部族間対立,牛の強奪,その報復攻撃による死者が1100人を超え,避難民も6万3000人に達している.[1]
 また,2012年1月から半年の間でも,177回の紛争が発生し,16万人以上が住む場所を失っている.[5]

 中でもムルレ,ロウ・ヌエル両部族は,家畜の牛を奪い合うなどして以前から対立している.[2]
 多くの民間人は武装している上,若者は結婚のために持参金を必要とするため,家畜は不可欠という事情もある.[4]
 若者たちは職が無い限り,牛泥棒や都市犯罪,民兵に加担し続けることになる.[5]

 2011年末には,ロウ・ヌエル部族の6000人余りの武装集団が,敵対するムルレ部族を牛の強奪犯と名指しし,ムルレ部族を殲滅せんとして,南スーダン東部のジョングレイ州の町ピボルを襲撃した.[1]
 武装集団は藁葺き屋根の住居に火を放ち,国境なき医師団が運営する病院を掠奪.[1]
 この衝突による避難民は,国連推計で2万人以上にのぼった.[1]
 避難した女性や子供,最大で150人が殺害されたとの未確認情報もある.[1]
 2012/1/3,政府軍がピボルの支配権を奪還したことにより,いったんは紛争は下火となった.[1]
 2012/1/6,地元当局者は,ピボル周辺では2011年末以降3141人の遺体が確認されたと発言している.[3]

 しかし2012/1/11,今度はムルレ部族の武装集団がジョングレイ州の村を襲撃し,ロウ・ヌエル部族の住民を殺害した.[2]
 地元当局者によれば,57人が死亡し,40人が行方不明となったという.[2]
 先の襲撃に対する報復とみられている.[2]

 また,ボル郊外のチェイニョク村には,南スーダン最大部族のディンカ族が住んでいるが,ムルレ族が2011年末から襲撃し始めた.[3]
 自動小銃を乱射し多数を殺害した上,子供を奪っていくという.[3]

▼ 2013.2.8には南スーダン東部ジョングレイ州において,牛を連れて移動していたアコボ郡の住民が,ピボル郡のムルレ人の重武装の集団に襲われ,女性や子供を含む103人が殺害された.[6]
 また,南スーダン軍の副報道官によれば,約500人が行方不明になったという.[6]
 住民は軍の小部隊の護衛を受けていたが,兵士も14人が死亡した.[6]▲

 2014.4.21には,BBCによれば,今度は南スーダン北部のワラップ州(Warrap state)で起きた牛泥棒で,数十人が殺害された.[4]
 民間人,約28人が遠隔地にある遊牧民の露営地での攻撃で死亡.[4]
 襲撃者の側も,警官と兵士によって80人以上が殺害された.[4]

 【参考ページ】
[1] http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/e/cc9aad201a3a508899107e92221b245f
[2] http://sankei.jp.msn.com/world/news/120113/mds12011322070001-n1.htm (キャッシュ)
[3] http://www.jiji.com/jc/c?g=int_date1&k=2012022200558 (キャッシュ)
[4] http://spikemilrev.com/news/2014/4/21-1.html
[5] http://www.plan-japan.org/topics/world/120709s-suda/
[6] http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2013021000228


 【質問】
 南スーダンの2013年クーデター未遂事件について教えてください.

 【回答】
 2013年12月14日,南スーダンの首都ジュバにおいて,スーダン人民解放軍の一部と大統領警護隊とが武力衝突した事件.
 12月16日にサルバ・キール大統領は,衝突が同年7月に解任したマシャール前副大統領によるクーデターであったと公表した.
 一方,マシャール前副大統領は,武力衝突は大統領警護隊内のすれ違いによるものであり,クーデターではないと発表している.
 南スーダン政府は,クーデターを試みたとされる幹部ら10人を逮捕したが,マシャール前副大統領は12/25現在逃走中.
 サルバ・キール大統領は,ディンカ族出身,マシャール前副大統領はヌエル族出身であることから,部族対立が背景にあると見られ,対立する部族間での民間人殺害も発生.
 ボーやトリットなど地方都市にも,武力衝突が波及した.

 南スーダン政府軍の報道官によると,マシャール前副大統領派は21日,北部ユニティ州を制圧.
▼ これに加え,ジョングレイ州の州都ボルも掌握しており,政府軍は21日,部隊をボルに派遣し,その後同都市を奪回.
 しばらく内戦は収束しない可能性が,比較的高い.

 これに加え,ジョングレイ州の州都ボルも掌握しており,政府軍は21日,部隊をボルに派遣し,その後同都市を奪回.
 その間,政府軍の将軍の車列が,ボルの近郊で反政府軍の待ち伏せ攻撃に遭い,将軍が戦死するなどしている.

 石油資源のあるユニティ州に対しては,政府軍は翌年1/10までに,同州州都ベンティウを奪回.
 一方,反政府軍広報は,ベンティウ以外のユニティ州の油田施設は,まだ反政府軍の掌握下にあると語った.

 さらに,政府軍がジュバでヌエル人を大量に殺害した疑いも浮上.
 逆に反政府軍の制圧地域では,ディンカ人への攻撃や殺害が報じられ,ジュバ国際空港そばの国連南スーダン派遣団(UNMISS)の施設には,約1万7000人のヌエル人避難民が逃げ込んだ.
 ヌエル人は,反乱軍を率いるマシャール前副大統領の出身民族であり,ジュバとその周辺のヌエル人らの多くが,戦闘開始直後に,キール大統領の出身民族で,与党を主導する最大民族ディンカ人の攻撃を避けるため,同施設に逃れてきたと見られる.

 しばらく内戦は収束しない可能性が,比較的高い.

 【参考ページ】
http://bylines.news.yahoo.co.jp/dragoner/20131224-00030921/
http://ameblo.jp/geopol27/entry-11733860960.html
http://iicss.blog.fc2.com/blog-entry-211.html
http://blogos.com/article/76484/
http://www.bbc.co.uk/news/world-africa-25613847
http://www.afpbb.com/articles/-/3006324
http://mainichi.jp/graph/2014/01/10/20140110k0000m030073000c/001.html

【ぐんじさんぎょう】,2013/12/25 21:03
を加筆改修

 その後,東アフリカ各国で構成される政府間開発機構(IGAD)などが調停に乗り出し,2014年1月23日,エチオピアのアジスアベバで停戦の調印が行われた.
 この際の合意文書の中で,マシャール前副大統領派によるクーデター未遂に関与したとして拘束した同派の11人を釈放することが盛り込まれている.
 ただし,停戦合意後も,散発的に戦闘が続いている.
http://www.afpbb.com/articles/-/3007120

2014.6.29追記


 【質問】
 南スーダンにおける,大統領派と副大統領派の戦闘の開始理由は,何だったのでしょうか?
 副大統領は具体的に何が不満で,反旗を翻したのでしょうか?

「南スーダン 内戦 理由」 「南スーダン クーデター 理由」でぐぐったら一発で出るかと思ったら,意外にも見当たりませんでして.

 【回答】
 反乱側のマシャール前副大統領の支持母体の部族であるヌエル人(キリスト教または土着宗教).
 南スーダンの主流派の部族であるディンカ人(キリスト教または土着宗教).
 この両者は長年,対立関係にある.

 これまでは,さらに敵対(キリスト教+土着宗教 対 イスラム教)している,(北の)スーダン政府(イスラム教政権)の圧政下(イスラム法統治の強制など)があった.
(このあたりの対立については,マフディ ー運動内部の変移,アラブ系奴隷商人とイギリス統治など,様々な要因があって,修復不能な対立状況になって戦後の(北の)スーダン独立になった)

 このときは,二つの部族は両者は協力して(北の)スーダン政府に対抗,反政府軍(SPLM)を組織して半世紀以上戦い続け,南スーダン独立に漕ぎ着けた.

 でも,ヌエル人とディンカ人が仲が悪いのは,相変わらず.

http://www.globalsecurity.org/military/world/war/south-sudan-2013.htm
による大まかな掴みだけど,南スーダンを独立させたSPLM(スーダン人民解放軍)は三つの派閥で構成されていて,マヤルディ大統領とマシャール副大統領は,それぞれの派閥の長だったけど,もう一つの派閥がマヤルディ支持に回り,やがて彼が独立後大統領に就任したと.
 ところがマヤルディは,2013年7月24日発行の法令で,マシャール含む全ての閣僚を解任してしまい,その結果マシャールは,今月の12日にクーデターを企てて蜂起,戦闘が始まったということらしい.

 あと,アフリカ各国ではクーデターは日常茶飯事なので,いちいち理由を気にする必要な無い.
 アフリカ各国,どこも国とあるから勘違いされがちだが,殆どの国で,国家として,まともな体裁にもなってない.
 国民という概念もなく,帰属意識は部族にあるため,国家共同体として問題がある国々ばかり.

 政府関係者は,自分の部族の利益しか考えてない.
 選挙の投票行動も,その部族が推す候補に投票90%以上という結果に.

 部族間の対立で,すぐにクーデターや内戦に発展するのがアフリカなり.

軍事板,2013/12/30(月)
青文字:加筆改修部分


◆◆中国の影響力


 【質問】
 中国は,スーダン内戦にどのような影響を与えているか?

 【回答】
 大きな攪乱要因となっている.

 2000年頃より,国有中国石油会社の海外進出はものすごく,カスピ海地域や中東地域などで石油権益を次々に獲得している.[1]
 それらの国で石油の採掘権を獲得して,自ら投資,生産操業をおこなって,生産された石油をごく一部を除いて国際市場で販売することなく,せっせと中国国内に搬入している.[1]
 国連の常任理事国でありながら,国連の決議に縛られる様子が,中国には全く見られない.[3]
 中国にとっての戦略物資確保のためには,とにかく即物的なことだけを考えて動くのが中国流の石油外交である.[3]
 そのうえ,相手がイラン,イラク,リビアであろうとも,必ず上流での動きをめざしている.[3]
 メジャーを通して産出物を輸入するのではなく,常に自分の力での採掘を考えている.[3]

 中でも,米国が「テロ支援国家」として神経を尖らせている当時のイラク・イラン・スーダンとも油田開発を締結しており,すでに進出を果たしていた.[1]
 国連の制裁とアメリカ独自の制裁が続いていたリビアについても,911事件後の2002年,江主席の訪問中に,石油と天然ガス開発に関する包括的な協定を結んでいる.[3]
 特に,内戦が続き,欧米企業が忌避しているスーダンでの石油生産は,かなり大規模なものであり,海外事業収入の柱となっている.[1]
 中国はスーダンにおける石油利権で,アメリカを制し,一人勝ちといわれている.[2]

 そもそもスーダンに豊富な油田があると想定し,最初にその発掘に乗り出したのは1973年のことである.[2]
 その後1983年に,スーダンにはイランとサウジアラビアを足した分よりも大きな油田が横たわっていることが確認された.[2]
 以後この国では油田利権を巡って,熾烈な利権獲得紛争が繰り返され,海外からもアメリカやフランスの石油メジャーが触手をのばしていた.[2]

 ところが,その後アメリカはスーダンをテロ国家として名指しし,国交を断絶.[2]
 中国はそのスキを狙ってスーダン政府に食い込み,まんまと石油利権獲得に成功したのである.[2]
 中国初の海外大型油田開発となったアフリカ・スーダンの場合,この国が国連の経済制裁決議を受けて国際社会から孤立させられていた時期に,中国は石油利権を確保し,調査,パイプラインの敷設,石油の採掘を実現させた.[3]
 現在ではスーダンの油田は,中国の石油会社の独壇場となっている感がある.[3]
 当初中国側のパートナーであったカナダの会社は,アメリカの圧力で撤退させられている.[3]
 スーダンの複数の現場での原油産出量は順調に増えており,現地に石油精製工場を建設する動きも始まっている.[3]

 即物的な中国流石油外交は,人道支援の動きさえ妨げている.
 ダルフールでの虐殺が起こると,国連では,米国が作成した国連安保理決議案によって,ダルフール紛争の解決に向けてスーダン政府を動かそうとした.[4]
 これは,スーダン政府が住民虐殺や婦女暴行, ダルフールで略奪を行っているアラブ系民兵ジャンジャウィードを30日以内に訴追しなければ,何らかの制裁を発動するとした内容.民兵の武装解除も盛り込まれている.[4]
 しかし拒否権を持つ中国は,パキスタン・アルジェリアと共に,内容にかかわらず,制裁に反対した.[4]

 ようやく2004/7/30,国連決議は採択された.
 大規模虐殺が始まってから,既に約5ヶ月が経っていた.

▼ 虐殺への加担が疑われ,国際刑事裁判所から逮捕状が出されたスーダンのバシール大統領も,中国は「主権尊重」と「内政不干渉」を掲げ,一貫して擁護.[5]
 「内政不干渉」を盾に,露骨なまでに自国の利益を追求する中国の姿勢に対しては,欧米諸国からだけでなく,アフリカの一部からも批判が出るようになった.[5]

 そのため中国は,
「経済取り引きを行うだけでなく,アフリカの安定に寄与している」
という大国イメージをアピールする取り組みの一環として,UNMISS設立の国連安保理決議に積極関与.[5]
 また,安保理決議と同じ24日,東アフリカ諸国が加盟する政府間開発機構(IGAD)の場で,南スーダンでの武力衝突を停止するよう呼びかけるなどして,ようやくイメージ改善に取り組み始めている.[5]
 ただし,その直接的な背景には,南スーダンで操業していた中国石油天然ガス集団など中国系企業も武力衝突によって退避を余儀なくされていることもあったという.[5]▲

 【参考ページ】
[1]石田彰・藤和彦『世界を動かす石油戦略』(ちくま新書,2003)
[2]クライン孝子 from "SAPIO" 2000/9/21
 ただし,SAPIOは反中カラーの雑誌であるため,注意が必要.
[3]齊藤清「中国のアフリカ石油外交」,2004/2/16
[4]http://news.goo.ne.jp/news/reuters/kokusai/20040728/JAPAN-152661.html
[5]http://bylines.news.yahoo.co.jp/mutsujishoji/20131225-00030994/


 【質問】
 スーダン都市部での中国人の密度は,過去と比べて高くなっているか?

 【回答】
 ご存知の通り,中国はアメリカがスーダンに制裁を科しているのを好機に,1990年代初頭よりスーダンの資源を求めて深く浸透しております.
 その中心となるのは石油で,石油の発掘,パイプライン敷設,精製のプロジェ クトの為に多数の中国人をスーダンに送り込んでいます.
 石油のみならず,ダム建設(有名な北部のマラウイダム)や最近では都市部で のビル建設にも中国人は働いています.
 でも,その中国人の大部分はプロジェクトの現場で働いている様です.
 都市部でのビル建設もやっていますので都市部での人口もそれなりに増えては いるのでしょうが.

 正確な中国人人口は判りませんが,現場を中心として2万人と言う人も居れ ば,10万人,中には最低でも300万人は居ると言うスーダン人も居ます(300万 人は幾らなんでも多すぎると思いますが...).
 また,中国人のメーカーの出張者はカルツームでは良く見かけます.我々の競合者です.
 従いまして,都市部での中国人の密度が過去と比べて高くなっているか,と言 う質問に関しましては,増えているのは間違いないでしょう.
 でもどれくらい増えたのかは判りません.

特派員@山口 in おきらく軍事研究会


 【質問】
 以前と比べて,都市部で中華料理店が増えているような現象は見られ ないか?

 【回答】
 以前は判りませんが,現在はカルツームには4軒の中華料理屋が在るそう です. (カルツームに3軒,北カルツームに1軒)

特派員@山口 in おきらく軍事研究会

 ※中華料理店の有無は,その地域の治安程度を測る一つのバロメータとなる.


 【質問】
 スーダン都市部の人は中国人が好きか嫌いか?,それともそのどちらで もないのか?(ちなみに,エチオピアでは中国人は大変嫌われていました)

 【回答】
 基本的にはスーダン人は中国人を嫌っています.
 理由は,たくさんの中国人がやってきているにも係わらず,連中は所謂「自己完結型」と言いましょうか,身の回りの事で現地のスーダン人を一切雇用しません.セキュリティーから掃除人まで全て本国から連れて来ています.食料も 全て持参していますので,スーダンで金を使う事は殆ど無いようです.
 本国に帰 るときに土産物を買うくらいです.
 スーダン人との交流も無いと聞きます.

 ただ,そうは言っても,アメリカが制裁を加えている時期にスーダンの開発・ 復興に協力しているのは中国だ,と言う考えはスーダン人も持っており,感謝しなけらばいけないと思っている様です.

特派員@山口 in おきらく軍事研究会


 【質問】
 スーダンの首都ハルツームが2008年,反政府ゲリラに攻撃されたそうですが,スーダン政府は中国が支えているんじゃなかったのですか?

 【回答】
 現代中国に関する考察(2008/05/12 17:27)によれば,スーダンは江沢民派の利権の塊みたいな国であり,政権が転覆しても胡錦濤派にしてみれば痛くも痒くもないので,石油を買わず,武器を与えないことにより,江沢民利権を胡錦濤政権が締め上げているのだという.

 ただしそれを信頼すると仮定するならば,中国にとっては,そのことによって失われる石油資源利権が,国内派閥抗争よりも大事ではない,ということになり,話の信頼性に疑問も残る.


 【質問】
 南スーダンと中国の関係は?

 【回答】
 国際政治学者・六辻彰二によれば,中国はスーダン政府と良好な関係にあり,その意味でSPLAや南スーダンと長い間,必ずしも友好的な関係になかったが,それでも独立前後から持ち前の積極性(あるいは図太さ)で接近を図ってきているという.[1]
 中国は中国石油天然ガス集団(CNPC)と中国石油化工(シノペック)の国有石油大手2社を通じ,南スーダンの油田地帯に出資している.[2]
 これらはスーダン時代から続くものである.[1]
 また,2013年9月にはキール大統領を北京に招いて,中国からの投資に関する交換公文を交わしたほか,2013年9月には20億ドルの援助提供が合意された.[1]
 さらに,スーダンを経由しないで原油を輸出するため,ケニアの北部Lamuからインド洋へ至るパイプライン建設と港湾整備を兼ねた,255億ドル相当のプロジェクトについて,中国は南スーダン,ケニア両政府と交渉を進めている.[1]

 南スーダン側としても,独立後も,アビエイの帰属などをめぐってスーダンと対立し続けてきており,スーダン政府に対していまだに発言力をもつ中国は,南スーダンからみて,経済的にだけでなく政治的にも簡単に袖にできない相手となっている.[1]
 2014年1月から始まった,南スーダン内部の紛争でも,政府が石油生産の約2割削減を余儀なくされている状況を懸念した中国政府は,政府軍・反政府軍双方に対し,停戦を呼び掛けている.[3]
 影響力を中国が自ら自覚している表れであろう.

 こうした中国の姿勢を,スーダン共和国ののエルガザーリ公使は,以下のように分析している.

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 中国はリスクを取る準備ができています.
 リスクがあってもその国に入って行き,地域を研究して,どれくらいのリスクがありうるか,どこにビジネスチャンスがあるかを見る.
 もしそこにリスクがあったとしても,チャンスがあるならば入り込む.
 そうして利益を得ているのです.

 中国はスーダンの石油に投資していますが,南北の和平調停の前から,そのうち落ち着くことを見越して入ってきていました.
 残念ながら,いくつかのトラブルに巻き込まれたこともありますが,それは利益を得るための必要なリスクと割り切っているのです.
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 もちろん,リップ・サービスも混じってはいるだろうが.

 【参考ページ】
[1]http://bylines.news.yahoo.co.jp/mutsujishoji/20131225-00030994/
[2]中国が南スーダンの即時停戦求める,和平交渉は難航 朝日新聞 2014年1月7日01時40分
[3]王毅外交部長が南スーダンの衝突双方と会談 人民日報 2014年01月07
[4]日本人が知らない,アフリカ・スーダンの今 | グローバル接待の作法 | 東洋経済オンライン


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