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『南アフリカの歴史』(レナード・トンプソン著,明石書店,1998.5)


 【質問】
 セネガルにおいて,公用語がフランス語となった理由は?

 【回答】
 前回は,英国領であったナイジェリアを取り上げました.
 彼の国には多種多様な言語があるのですが,北部,東部,西部にそれぞれ地域言語があり,それらが各民族間のコミュニケーションをカバーしていると言う形を採っていました.

 今回は旧フランス領を取り上げます.

 フランス領西アフリカから,各々の地域が1960年頃に相次いで独立します.
 その中の1つ,パリ・ダカールラリーの片方のゴールであるダカールを首都に持つセネガルも,1960年に独立を達成しました.
 そして,多くのフランス領と同じように,この国の唯一の公用語としてフランス語を選択しました.

 セネガルの初代大統領は,若い頃にアフリカの黒人の価値を積極的に評価し,西欧中心主義を批判するネグリチュードを推進した,詩人のL.S.サンゴールです.
 にも関わらず,彼はフランス語を公用語に採用しました.
 実際には,独立時点でフランス語を理解する人々は,ほんの一握りに過ぎませんでした
 1960年の調査で,フランス語を全く理解しない者は,男性で79.1%,女性だと実に98.0%,逆に,フランス語の読み書きが可能な者は,男性11%,女性1.3%ですから,如何にフランス語が通用していない社会かが判ります.
 この調査は本人の申告であり,実際にフランス語を不自由なく使いこなせる人々の割合は,更に少なくなるのでは無いか,と推定されています.

 これは,フランスが育成したのは,英国の様に多言語世界を繋ぐ地域共通語を育てるのではなく,植民地支配者であるフランスと価値意識を共有する極一握りの協力者であり,一般のアフリカ人住民への教育普及の努力は殆ど行われませんでした.
 第三共和政では,表向き,アフリカ人住民にも本国と同様の市民権が与えられ,「四つのコミューン」と呼ばれていたのですが,その実態は「四つのコミューン」に属しているアフリカ人住民は,ほんの一握りに過ぎなかった訳です.
 それ以外の圧倒的多数の農村住民は,「従属民」として事実上の無権利状態に置かれていました.

 フランスが作り上げたのは,都市のフランス語エリートを懐柔し,それ以外の大多数,特に農村部の住民は,信者に対して絶対的な権力を持つイスラーム教団を懐柔する事で,間接的にこの地を支配するシステムでした.

 その後,フランスが出た後,この地と特権的な地位を引き継いだのは,都市部のエリート層であり,彼らにしてもフランスが作り上げた行政システムと経済システムを引き継ぎ,それを維持する事に関心が行き,自分たち以外のイスラーム教団支配下にあるフランス語と無縁の民衆は,イスラーム教団を通じて操作すべき対象ではあっても,「国民」として統合すべき対象ではありませんでした.
 それ故に,彼ら都市のフランス語エリート層は,植民地支配から引き継いだフランス語のみに依る教育や行政のシステムを,変更する必要が無かった訳です.

 当然,社会的に上昇する為には,フランス語を身につけなければ成りません.
 しかし,行政システム,経済システムを受け継いだとは言え,都市エリート層も元々が植民地に於いてフランス本国の人々から見ると下位の仕事しか行っておらず,それを運営する為の知識も能力も不足していました.
 それは即ち,経済システムの運営不振,そして破綻に繋がっていき,経済システムの破綻は,取りも直さず,行政サービスの低下に繋がります.
 その中でも特に皺寄せが行ったのが,初等教育システムです.
 こうして,人々がフランス語を勉強する機会が失われます.
 また,折角フランス語を身につけても,経済システムが破綻すると,一定のポストを得る事が出来るのは極一握りであり,大多数の人々にとっては,学校で得たフランス語知識は期待された富谷社会的上昇を齎してくれないという状況に至ります.

 初等教育の就学率は,独立直後から10年ほどは急速に上昇しましたが,約50%に達した所で頭打ちとなり,2002年時点でも,初等教育の就学率は全国平均で約45%に留まり,その結果,フランス語の識字率も男性41.6%,女性32.4%と,独立当初よりはマシな数字になりましたが,未だ未だ低い訳で,更にフランス語を自由に使いこなせる人の比率は更に低下すると推定出来ます.

 因みに,アフリカに於ける識字率と,日本や欧米諸国の識字率の考え方は,異なるので注意が必要です.
 例えば,日本の場合の識字率とは,自分の話す言語を文字で書き表す事が出来,又それを読む事が出来る能力の事を指しますが,アフリカでの識字率とは,少なくとも何年かフランス語学校に通い,フランス語のアルファベットの読み方を覚え,初歩的なフランス語を1度は学んだと言うレベルです.
 つまり,喩えて言えば,我々日本人が小学校高学年とか中学校で英語を学び,アルファベットを覚えたからと言って,英語を自由に操れるかと言えばそんな事は無いのと同じ事,フランス語の「識字率」は,必ずしもフランス語を十分に理解する事が出来る人達の比率ではありません.

 更に,就学率についても,都市部と農村部では大きな差があります.
 2002年時点の初等教育の就学率は,都市部が64.3%に達しているのに対し,農村部は34.2%と倍近い開きがあります.
 当然,フランス語を理解する人々の比率にも,この違いは反映されます.

 農村部では,町に出ない限り,フランス語を使う事はありません.
 例え,何年か学校に通う事が出来ても,我々日本人が英語を使わなければ,いざ英語と言われてもまごつくのと同様に,使う事が無ければ,その知識も雲散霧消してしまいます.
 都市部では,役人や企業の事務職,或いは上級学校に進学する人々は,フランス語は日常の言語になりますが,庶民達は,殆ど使う事が無いので,完全に風化する事は無いまでも,相当知識から消えてしまう事になるのです.

 では,その民族構成はどうなっているのか,は次回に.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/04 23:12
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 セネガルにおける現地言語公用化の動きは?

 【回答】
 セネガルの様な旧フランス植民地では,概ね,植民地氏配下で作られた都市と農村の二重支配構造を温存し,農村部は半ば放置した状況が続いた為,フランス語普及は頭打ちになっていました.
 都市部でも,フランス語は一部の特権的エリートの言語であり,それを覚えても日常生活に有用性が無い言語であり,寧ろ地域共通語の普及が為されていきます.

 フランス語を公用語にすることに反対して,「国語」を振興しようと言う動きは,1950年代から存在していました.
 これは,脱植民地のナショナリズムが昂揚していく過程で,在仏のセネガル人知識人や学生を中心に始まった言語ナショナリズムの動きです.

 その中心人物は,エジプト学研究者のシェク=アンタ・ジョップと言う人物です.
 彼は,1954年にパリで出版された『黒人諸国民と文化』と言う書物に於いて,古代エジプト文明の起源を黒人に求め,アフリカ大陸の歴史をその起源から復権しようとすると共に,アフリカ諸言語を「国語」として採用する様に主張した人物です.
 つまり,植民地支配によって発展が阻まれてきたアフリカ社会を,現代文明の中で再建するには,アフリカ人にとって外国語である英語やフランス語に頼るのでは無く,アフリカ人自身の言語を,現代文明に適応し得る言語として発展させていくことが不可欠であると言う考えで,セネガルについては,形成されつつあるセネガル「国民」の「国語」としてウォロフ語の重要性を説きました.
 それに共鳴した「在仏アフリカ人学生連盟」のセネガル人学生達も,ラテン文字によるウォロフ語の文字表記システムを独自に考案し,それをテキストとして出版して,ウォロフ語の書記言語としての使用を普及させようと在仏のセネガル人学生達に働きかけていきました.
 但し,在仏の学生と言う小集団での運動である為,その影響力は限られたものでした.

 独立後ほぼ10年を経た1960年代末,新たな動きが起こります.
 セネガルは独立したと言うものの,管理職や教員には白人が影響力を行使し続けており,これが「未完の脱植民地化」への不満として都市住民に拡がり,「セネガル化」の要求が社会不安に迄高まっていきます.
 そして,その動きの中で注目されたのが言語ナショナリズムの働きでした.

 特にこの運動の中心になったのは,初代大統領サンゴールに批判的な作家のセンベーヌ・ウスマンと言語学者のパテ・ジャニュ等が学生達を巻き込んで展開した『KADDU』運動です.
 この『KADDU』は雑誌のタイトルで,そのものずばり,ウォロフ語で「言葉」を意味します.
 この雑誌は,1971年から5年間に亘って発行され,センベーヌ等はそこに文学,社会問題,科学など幅広い分野に亘るウォロフ語の記事を掲載して,ウォロフ語が「国語」として使用出来る言語である事を示そうとしました.

 この運動は,知識人や学生を中心に若い世代の多くの人々が参加し,特にフランス語で教育を受けた人々に対してウォロフ語の可能性を再発見させることになりました.
 運動自体は,サンゴール政権の徹底した親仏姿勢を新植民地主義的従属であると批判する性格が色濃いものでしたが,即ち,サンゴールの対仏従属姿勢に対するセネガル・ナショナリズムの核としての役割を担っていました.

 結局,この雑誌『KADDU』は短命に終わりましたが,その精神は継承され,1974年にサンゴールが3党のみに制限されていたとは言え,複数政党制を取入れた際,新しく登場した野党のスローガンとして取り込まれていきました.
 そして,1981年にジュフ政権の下で,政党結成が完全に自由化されて以降は,殆ど総ての野党が「国語」導入を,少なくとも建前としてはそのスローガンとする様になり,また与党の支持母体である教員組合も,「国語」の教育への導入を積極的に主張する様になっていきました.

 こうした動きは,政権維持の為に都市エリートを懐柔し続ける必要があった政府にも影響を与え,ユネスコなどの母語識字の動きとも相まって,「国語振興」政策が幾つか顕われています.

 1971年,サンゴール政権は当時認知されていたセネガルの23言語の内6言語を「国語」として指定し,その表記法を定めると共に,1972年には,それら6つの「国語」を「将来」公教育に導入することを宣言しています.
 これは1つには,1965年にユネスコが主催したテヘラン教育相会議で,住民の使用言語による「機能識字」が謳われたのを受けたものであると共に,都市住民や学生達の「セネガル化」要求に対応する意味も持っていました.

 また,サンゴール政権末期の1979年には唐突に初等教育段階でウォロフ語,プラール語,セレール語,ジョーラ語の実験クラスを設置することが決まっていますが,これも唐突な決定だったことから,結局殆ど何の成果も挙げること無く,失敗に終わっています.

 これら,サンゴール政権の教育政策は,その考えは高尚なものですが,この「国語振興」の具体的な部分,つまり予算化は殆ど為されず,有名無実のものであり,結局,サンゴール政権下での「国語振興」は,「未完の脱植民地化」批判に対する身振り程度のものでしか有りませんでした.

 1981年に誕生した第2代のアブドゥ・ジュフ大統領は,就任直後に2つの重要な決定を下します.
 1つは先述した政党の完全自由化であり,もう1つは「教育国民会議」の開催です.

 この「教育国民会議」はサンゴール政権の教育政策,言語政策への批判が噴出する場になりました.
 特に,独立後20年を経ても識字率が20%台に過ぎないフランス語教育システムと,予算措置が無い為に空文の儘放置されている,「国語」導入の為の具体的施策の不在が批判を浴びました.
 これに対し,ジュフ政権は「教育改革審議委員会」を設置して,教育政策に対する提言を纏めさせました.
 その結果,1984年に出た報告では,公教育への「国語」導入を明確に謳うと共に,その為に不可欠なものとして政府の言語政策の根本的転換を打ち出します.

 「報告」では「国語」による教育が有効なものになる為には,書記言語としての「国語」の知識が,社会生活に於いて現実に有用となる事が絶対的な条件であり,その為には「国語」を,セネガルに於ける公的生活の公式な言語としなければならない,と述べ,行政と議会に於けるウォロフ語の「統一国語」としての使用,他の「国語」は地方レベルでの使用を提言しました.
 また,フランス語は「統一国語」ウォロフ語と共に公用語として維持されますが,公教育に於いては段階的に英語と並ぶ「外国語」としての教育に替えていくべきだとしています.
 この様に立派な事を報告している会議の報告書ですが,これ又,実行されること無く放置される事になりました.

 これは元々,長期に亘るサンゴール政権の後を受けて誕生したジュフ政権が政治的,経済的な困難に直面したことは勿論,サンゴール政権を継承するジュフ政権に,そうした政策を実行する意思が皆無だった事に依るものです.
 つまり,3年間も費やして行った「教育改革審議委員会」は,都市住民の不満を懐柔する為の一種のガス抜きに過ぎず,また野党もそれについて深く追求することが無かった事に依ります.

 また,この「報告」を実行するには複雑な問題が介在しています.
 元々,「国語振興」のスローガンを下支えしていたのは,多くの民衆にとって「外国語」であるフランス語のみが公用語であり,公教育の言語であることを批判し,アフリカの言語にこそこの様な地位を与えるべきだとする,言語ナショナリズムです.
 これはあくまでも,「フランス語」と「アフリカ語」と言う対立軸であり,そう言った意味ではこの立場では,セネガルの民衆は同じ立場で「国語振興」を語ることが出来ます.

 しかし,言語ナショナリズムを実行するに当たっては,圧倒的に重要な地位を与えられていたのが,セネガルの事実上の共通語であるウォロフ語でした.
 ところが,先に見てきた様に,セネガルには他にも言語があり,それぞれの地域に話者がおり,そう言った地域ではウォロフ語が絶対多数を占める訳ではありません.
 此処に難しい問題があります.
 つまり,ウォロフ語を統一共通語にすることは即ち,ウォロフ語を使っていない人々に対しては,自らの言語の地位を貶めることに繋がってしまう訳で,こうした言語の採用が,民族対立の遠因となる可能性があります.
 方向性としては,誰もが否定はしませんが,それを実行するにはどうするかと言う各論で対立が生じてしまう訳です.

 この為,この方針は棚上げされ,行政システムと公教育システムに直接関係しない成人識字分野にだけ,個別の言語をバラバラに「振興」すると言う「曖昧な多言語主義」とでも言う様な状況が生まれてきました.
 この成人識字教育はサンゴール政権時代の1971年に識字局が設置されて始まりましたが,予算措置が為されていないそれは,殆ど有名無実のものでしかありませんでした.
 しかし,1993年にカナダ国際開発局が資金援助して,「識字1,000クラスプロジェクト」が開始され,以降,「国語」の成人識字プロジェクトに大量の外国資金が投入されると状況が一変します.

 それまで限られた地域で細々と活動していたに過ぎない地域NGOが,こうした資金を受けて活発に活動する様になり,更に諸「国語」の「言語協会」が結成される様になります.
 そして,それまでは名目的だった識字週間も,様々な国際NGOを中心とする識字団体が参加する大規模なものへと変わっていきます.
 当然,大量の資金が投入される所には政治的利害が生じ,各「言語協会」は自言語集団の利害を主張する傾向を持ち始めました.

 1994年から2年間,カナダ政府と世界銀行が資金援助して,フランス語の3つの新聞に,ウォロフ語,フルフルデ語,ジョーラ語による「国語」記事欄が設けられましたが,この時には,セレール語協会が,セレール語が使用言語として選択されなかったことに抗議を表明していますし,また,1971年の政令で「国語」に認定されなかった6言語以外の言語話者達が,「国語」として認知をして欲しいと言う運動を展開し始めています.
 例えば,1990年代半ばから,隣国モーリタニアの言語でもあるアラビア語ハサニャ方言の使用者達が,識字の為の資金配分が受けられる「国語」としての認知を求める運動を展開していますし,南部のカザマンス地方でも,マンカニャ語,マンジャク語の話者達がそれぞれの言葉の「言語協会」を設立し,それは他の小規模言語の話者達にも拡がりつつあります.

 2000年に誕生したワッド政権でも,この「曖昧な多言語主義」は継承されています.
 2001年1月7日に国民投票で採択された新憲法では,従来の6言語だけで無く,「今後コード化される総ての言語を「国語」とする」と言う文言が加わりました.
 以来2001年に5つ,2002年に4つ加えられ,最終的には24の「国語」が生まれることになっています.
 また,22条では教育への「国語」導入を謳っています.
 しかし,これは勿論具体的には何ら進展せず,ただ言語の数だけが増えて行っている現状です.

 この背景にあるのは,大量の資金を提供する国際機関や欧米NGOの,「多言語主義」イデオロギーです.
 欧州各国の様に,基軸となる言語が既に成立した状態で,更に消滅或いは消滅の危機にある少数言語をと地域言語として発展させていこうと言う成功モデルを,公共性を担保する基軸言語を有しないアフリカ諸国に適用しようとして,かえって混乱を深めている訳です.
 どんな場合でも,欧米では成功したモデルであっても,それが異なる文化を持つ国々で成立するかは大違いです.
 植民地の宗主国という上から目線の政策は,かえってこの地域の平和と安定に寄与しません.
 そう言う意味に於いて,海外の文化を独自に咀嚼して取入れていく日本のやり方を伝えるというのは,意義のある事だと思うのですが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/06 22:37
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 セネガルの民族構成は?

 【回答】
 さて,セネガルという国の面積は197,161平方キロメートルと日本の約半分です.
 この面積の中に,2008年現在,1,270万人の人間が住んでいます.
 彼らは総て同じ民族で構成されている訳では無く,少なくとも5つの民族に大別され,言語は6つに大別されます.

 一番多い民族は,ガンビアの北側,大西洋に面した地域から内陸部に入った場所に居住しているウォロフで,これが人口比で42.7%を占めます.

 次に多い民族が,ガンビアの北側を丁度ウォロフと2分割して,その内陸側に居住しているプラールで,その数は23.7%を占めます.
 但し,プラールは一種人工的に作り出された種族で,本来はプルとトゥクルールに分れます.
 両者は同じプラール語を話しますが,プルは遊牧民族でウォロフに隣接した場所を移動して生活し,宗教も本来はアニミズムでイスラームの受容は随分後になります.
 もう1つの民族トゥクルールは,プルと異なって定住民族で,プルの周縁部,マリやモーリタニアとの国境地帯で生活し,イスラームを早くから受容していました.
 本来は,生活形態も異なる事から別の種族にしても良いのですが,同じプラール語を話している事,そして,国内でも多数派を形成するウォロフに対抗すべく,プラールと言う民族を造出して,それを自称する様になっています.

 プラールの次に多いのは,ウォロフに囲まれる様にガンビア北部の沿岸部下半分に居住しているセレールで,人口比は14.9%を占めます.

 後は団栗の背競べで,ガンビア南部の国境地帯を三分割して,沿岸部と内陸部に居住するジョーラで5.3%を占め,同じくガンビア南部の国境地帯を三分割した中間地帯と,ウォロフ,プラール,内陸部のジョーラに囲まれた地域に居住するマンディンカが4.2%です.

 言語では,ウォロフ語が49.2%,プラール語が22.2%,セレール語が12.8%,ジョーラ語が5.1%,マンディンカ語が4.7%,更にマンディンカ内部と東部国境地帯の一部で通用するソニンケ語が1.4%となっています.
 これらが人口比と合致しないのは,その民族が必ずしも元々帰属している民族の言葉を話すとは限らず,言語の取り替えが起きている為です.

 ところで,今まで此処で書いた居住地域は,ある程度の目安でしか無く,現在の状況を正確に写している訳ではありません.

 と言うのも,多くの人々が富と成功を求めて農村から都市部に出る様になると,都市化が益々進み,それによる言語喪失や民族間の結婚による民族性の希薄化が進む為です.
 2002年段階でのセネガルの都市化率は40.7%で,その内15歳以下の人口は43%を占めます.
 因みに,1988年の総人口は6,773,413人ですが,2002年に9,855,338人に増え,更に2008年では先述の様に1,270万人に達し,人口増加率も著しく伸びています.
 特に,都市部でのそれは,全体の人口増加率よりも1%以上大きいのです.

 都市部に於いては,ウォロフ化がより進んでいます.
 民族としては,ウォロフは42.7%ですが,言語としてウォロフ語を話す人は49.2%となっており,人口構成比を上回っています.
 これに,第2言語としてウォロフ語を理解する人の比率は22.1%であり,両者を併せると実にセネガルの人口の71.3%がウォロフ語を話している事になります.
 これを地域別に見ると,ダカールやサンルイと言った大都市は元々ウォロフ人地域に位置する地域なので,ウォロフ語を話す人が多いのは当たり前ですが,それ以外の非ウォロフ語地域に於いても,ウォロフ語第1言語話者は少数にも関わらず,日常の言語使用に於いてはウォロフ語が支配的な位置を占めるが故に,ウォロフ語が強力な同化作用を及ぼし,ある程度のウォロフ語化が進む形になっています.

 実際,都市部では,ウォロフ人地域,非ウォロフ人地域を問わず,殆ど総ての人々がウォロフ語を理解します.
 非ウォロフ人地域で,尚且つ首都ダカールから遠く離れた地域では不自由なく話せる人の割合は低下しますが,理解するだけなら,ほぼ90%以上の人々がウォロフ語を理解すると言う調査結果が出ています.
 つまり,ウォロフ語はスワヒリ語的な地域共通語となりつつ有る訳です.

 ただ,ウォロフ語化が進んでいるとは言え,その言語の使用地域が拡大したからと言って,旧来使用してきた言葉が衰退する訳ではありません.
 人々は,単一言語使用に向かうのでは無く,他民族コミュニケーションの手段として,ウォロフ語を地域共通語として受容れつつ,自分たちの民族語も使用する多言語使用に向かっています.

 ウォロフの居住地域では,他言語地域から来た人々でも,否応なくウォロフ語の使用を強いられます.
 この為,元の言語を話すのは家庭の中だけとなり,世代を経るとその使用は消滅し,ウォロフ語のみへと純化されてしまう訳です.

 一方,別の言語が絶対多数を占める場合は,ウォロフ語は地域共通語としての役割しか果たさなくなります.
 他の民族と交渉する時くらいしか使わず,普段は自分たちが持っている言語を用いる訳です.
 此の場合,自分たちの言語が第1言語,ウォロフ語を第2言語として,並行運用する形を採って行くのです.

 それに対して,その地域の言語使用者が絶対多数を占める事が無い場合は,ウォロフ語も,他の言語も,自民族の言語もほぼ均等に利用します.
 つまり,絶対多数の場合は2つの言語修得で良いのですが,此の場合は多言語使用という形になります.
 平均的に3言語使用,混住地域では場合によっては4言語使用と言う事もありうる訳です.

 日本人は日本語(方言を1つの言語と捉えると,多言語使用と言う考えも成り立ちますが)のみの言語を効率的と考え,その方向に進んでいったのですが,セネガルの場合もウォロフ語に収斂させた方が,何かと効率的なのにも関わらず,人々が多言語使用になるのが不思議なのですが,これには政治的,経済的に密接な関連があります.

 ウォロフ人は元々セネガル北部地域に於いて多数派民族であり,12〜13世紀頃にはジョロフ帝国を支配していた民族でした.
 これにより,北部地域で支配的言語の地位を獲得していたのですが,17世紀から本格化する欧州諸国との大西洋交易で主要な通商言語として用いられる様になり,19世紀にこの地域を本格的に植民地化し始めたフランスの西アフリカ植民地化の起点はこの地域から始まりました.
 そして,セネガルを始めとするフランス領西アフリカ植民地の政治,経済の中心も又,ウォロフが多数派を占めるサンルイやダカールと言った都市であり,此処に居住していたウォロフは,フランス人行政官や商人の助手,雇員として各地に進出していきました.
 この結果,既に植民地化以前から拡がっていた彼らの言語は,フランスの植民地支配の下で,道路と鉄道を通して各地の都市部を中心に更に拡大を続け,広範に理解される共通語となりました.

 また,独立後の経済破綻は,ウォロフ語を市場の言語,即ち商取引言語として拡がる事に皮肉にも力を貸しました.
 流通部門を中心とする闇経済を支配しているのが,セネガル独自のイスラーム教団ムリッド教団の信徒達であるウォロフ商人だからです.
 彼らの経済力と強い結束は政府をも凌ぐほどの政治的,経済的,社会的影響力を与え,それが更にウォロフ語に人々を惹き付ける要因になった訳です.

 確かに唯一の公用語であるフランス語を理解する事が,即ちエリート層への参入であり,それは社会的地位の上昇に繋がるのは間違いないのですが,このパイは非常に小さなものでしかありません.
 都市の豊かさや近代的生活をささやかながら求める場合,ウォロフ語を習得するのが手っ取り早い道です.

 ただ,それであればウォロフ語が排他的で独占的な地位を築き上げるのも不可能ではありません.
 しかし,ウォロフ語は書記言語でも無く公用語でも無い為,行政的にも教育的にも特権的で排他的な地位を持つ言語では有りません.
 従って,この地位は極めて不安定であり,完全に他地域の言語を駆逐するまでには至らない訳です.

 また,ウォロフ居住地域ではない場合の社会・経済生活は,ウォロフ人が主導する闇経済に一体化されていません.
 例えば,地域言語居住者が多数派を占める地域の場合は,農村経済との併存が,ウォロフと別の言語という2言語使用の状況を生み出しており,地域言語使用者が絶対多数では無い地域の場合は,農村経済との併存もありますが,特に国境地帯では,国境を越えた密貿易が,ウォロフ商人との取引よりも旨味のある場合が多く,そうした場合は往々にして別の言語使用である場合が多いので,ウォロフ語,他の民族の言語,自民族言語と言う三層構造を採らざるを得ない訳です.

 なお,公用語であるフランス語の使用者は,初等教育の普及している都市部ではかなり普及程度は高いのですが,日常的にフランス語を使っている人は,公務員や会社員と言った給与生活者と学校に通う学生に限られ,その比率は都市住民でも相当低い状態です.
 また,彼らと雖も,家庭や近所,市場の様な場所でフランス語を常に用いている訳ではありません.
 フランス語は,教育を通じてある程度知識として普及している状態であり,日本の学生に対する英語教育と同様な性格のものでしかない訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/05 23:22
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 フルベ族と,ムーリディーヤとの間の紛争について教えられたし.

 【回答】
 ムーリディーヤは,アーマド・バンバ(1850〜1927)という名のイスラーム導師によって興された,ウォロフ族の民族ナショナリズム寄りのムスリム教団である.

 バンバは労働を称賛し,農業共同体の拡大に邁進した.
 セネガルでは伝統的には,土地所有の形態は確固としたものではなかったから,そのような権利不分明をいいことに,ムーリディーヤは耕地を拡大していった.

 それはフルベ族を圧迫した.
 フルベ族は,西はセネガルから東はカメルーン,スーダン,チャドにまで及ぶ範囲に分散している遊牧民.
 耕地拡大は即ち,牧草地減少を意味する.

 初めのうちはムーリディーヤも,フルベの承認を得て後に開拓していたが,教団の人数が増えるに従い,開拓は暴力を伴うようになった.

 そのため衝突が起こり,1930年頃からそれは急増した.
 1937年には,50人が負傷したケースもあったという.

 セネガルのフランス植民地政府は,ムーリディーヤに肩入れした.
 同教団の落花生栽培を,植民地化の有力な手段としたからである.

 そのため,紛争の勝者は常にムーリディーヤだった.
 フルベ族はバオル,カヨール地方から追われ,ジョロフ地方へ追いやられた.
 そこは雨量が少なく,砂の多い地方だった.
 落花生栽培には適さない土地だった.

 だが植民地政府は,各所に深井戸を掘るようになった.
 水があれば落花生栽培ができる.
 鉄道も敷かれた.
 輸送手段があれば,落花生を出荷できる.
 ジョロフへもムーリディーヤがやってこないはずがなかった.

 こうしてフルベ族は,さらに内陸へ追いやられた.
 ジョロフ地方の中でも,環境劣悪な,半沙漠の地域へ.
 伝統的生活形態は崩れ――もちろんムーリディーヤだけではなく,貨幣経済の浸透や,中央政府による定住化政策の影響もあるが――,都市近辺に移住する人々の中には,女性が売春することによって生活が成り立っていると考えざるを得ないケースも散見されるという.

 【参考ページ】
『イスラーム世界の人びと3 牧畜民』(永田雄三・松原正毅編,東洋経済新報社,1984.10.11),p.224-250


 【質問】
 シエラレオネの反政府勢力,RUF(革命統一戦線)とは?

 【回答】
 RUFを率いるのは,政府に対してクーデターを企てた,同国陸軍元伍長フォダイ・サンコー.
 RUFは,1994年11月,イギリスの海外協力隊(VSO)の労働者が2人,人質となったのを皮切りに,1995年2月9日までに,合計で17名の外国人が誘拐された.男性人質の多くは,シエラ・ルチルやシエロムコといった大鉱山会社の従業員だった.
 国際赤十字委員会(ICRC)は,何ヵ月にも渡り,人質釈放を勝ち取ろうとしたが,交渉は,サンコーがそもそもなぜ人質を取ったのか,人質交流で何を得ようとしているのかを説明しようとしないせいで,困難なものになった.

 サンコーの得意な戦術は,無防備な村を攻撃することだった.掠奪し,火をつけ,逃げ遅れた捕虜達をレイプしたり拷問にかけた後,子供達を一人残らず連れ去るのである.

 子供は,RUF指導者にとって軍事的に重要な意味があった.
 彼は,子供達を勢子として使うのである.
 政府軍に攻撃をしかけるとき,サンコーは子供達を先頭に立て,棒だけを持たせて,下生えを叩かせる.そうしなければ殺すと脅して.
 RUF兵は,敵に遭遇するまで子供達の後ろに控えている.
 政府軍が火蓋を切ると,反政府軍は普通は逃げ出す.
 政府軍が発砲しないと,反政府軍は子供達を追い越して近付き,徹底的に攻撃するのである.
 こういうやりかたで,ほんの6歳や7歳の子供達が「戦う」ことを強制される.
 ときには,この幼い子供達が武器を与えられ,希望をなくし,親達が切り刻まれるのを目撃したせいで正気を失って,自分達をこんな境遇に追いやった大人達に負けず劣らず殺戮を楽しむようになることもあった.

 人質解放を巡るサンコーとの交渉は,中断されたかと思えば再開されるといった状態で,ただ時だけがいたずらに過ぎていった.
 交渉内容は,イタリアの代理大使によって繰り返し暴露されていた.人質の中のカトリックの尼僧6人がイタリア国籍だったため,この外交官は,サンコー自身との直接無線交信を含む,あらゆる秘密情報説明会に関与していた.
 代理大使は,こうした話し合いを秘密にしておくのではなく,交渉を自分の手柄にしようと目論み,世界中の報道機関に向かって内容をそのまま喋ったのである.
 我々はこれに対し,サンコーが暴力的反応を見せるかもしれないと警告した.彼はただでさえ予測のつかない男だった.
 外交官はそれでもリークし続けようとしたので,我々は説明会に彼を呼ぶのをやめにした.
 これで釈放の見通しが少しは明るくなってきた.

 7〜8日後,人質全員がギニアに追いやられ,国際赤十字に引き渡された.

(Gaz Hunter 「SAS特殊任務」,並木書房,2000/11/1, p.294-295, 298-302,抜粋要約)


 【質問】
 SCSLとは?

 【回答】
 2002年1月に国連とシエラレオネ政府との間で設立合意された,シエラレオネ特別法廷 Special Court for Sierra Leone の略称.
 1996/11/30以降にシエラレオネ領内で行われた,住民に対する重大な非人道的行為,ジュネーブ条約その他の国際人道法の重大な違反などを対象とした.
 内戦の当事者であった各派の元幹部らの重要人物を含む13名が起訴され,審理が行われている.

 ただし元RUF(Revolutionary United Front:革命統一戦線)指導者,F. サンコー Foday Saybana Sankoh は,拘禁中に死亡したために訴訟が取り下げられた.
 また,シエラレオネ政府の元国防副大臣であり,民兵組織の大立て者,S. H. ノーマン Sam Hinga Norman も,2007年2月,手術後に突然死した.

 2007/6/20,AFRC(The Armed Force Revolutionary Council:武装革命評議会)のブリマ Alex Tamba Brima,カム Santigie Borbor Kamu に対し拘禁50年,同じくAFRCのカマラ Brima Bazzi Kamara に対し,拘禁45年の有罪が宣告された.

 2007/8/2,RUF配下の第3の武装勢力だったCDF(Civil Defence Force:市民防衛隊)の元リーダー,コンデワ Allieu Kondewa とフォファナ Moinina Fofana に対し,それぞれ拘禁8年,拘禁6年の刑が宣告された.

 さらに,隣国リベリアの大統領であり,シエラレオネ内戦_介入して武器を輸出し,引き換えにダイヤモンドを手に入れていたとされるチャールズ・テイラー Charles McArthur Ghanky Taylor も起訴され,2007年6月から審理が開始された.

 詳しくは
『グローバルガバナンスと国連の将来』(中央大学出版部,2008.8.10),p.238-240
を参照されたし.


 【質問】
 南アフリカ共和国で首都が決まるまでの経緯は?

 【回答】
 さて,今日はアフリカの話.
 アフリカ大陸の最南端にある国と言えば,南アフリカ共和国です.
 其の昔は,アパルトヘイトを行っている国として,全世界から顰蹙を買っていました.

 マンデラ大統領が選出されるまで,南アフリカ共和国の国旗は,オランダ人入植者に由来するオレンジ,白,青の横三色の地に,ユニオンジャックとオレンジ自由国とトランスヴァール共和国の2カ国の旗を描いたものでした.
 謂わば国の成り立ちを描いた国旗です.

 首都も同様です.
 良く,南アフリカ共和国の首都は,プレトリアと書かれて居たりしますが,それは実は3分の1正解で,首都は他の地域にも有ったりします.

 1652年,喜望峰近辺にオランダ人が来航し,オランダ人やフランスのユグノー教徒がその辺りに入植を始めたのが,南アフリカの白人進出の第一歩になります.
 その時に出来た都市がケープタウンで,この地はまた,欧州とインドを結ぶ中継港となっていました.
 そして,オランダ系入植者達は,現地アフリカ人諸部族と紛争を繰り返しながら,次第に北方内陸部へと浸透していきます.
 彼等は,ボーア人と呼ばれ,その言語は,オランダ語を母体にしつつ,現地の諸種の言語から影響を受けて文法的に簡略化し変成したアフリカーンス語を話す様になっていきます.

 暫くオランダ系入植者達の天下が続きますが,1795年と1806年は,オランダ本国がナポレオンに占領された為,そのドサクサに紛れて英国が侵攻し,ケープを占領.
 1814年には正式にケープは英国領となり,英国のケープ植民地となります.
 その後,先に進出したオランダ系入植者達と英国人達の抗争が続き,1843年にナタールを英国は直轄植民地とし,北方と西方に移動したボーア人は1852年にトランスヴァール共和国を,1854年にはオレンジ自由国を建国する事となり,19世紀の半ばには,現在の南アフリカ共和国の源流となる2つの英国植民地(ケープ,ナタール)と,2つのボーア人国家(トランスヴァール共和国,オレンジ自由国)が形成されていました.

 その後,小康状態を保ちますが,1886年にトランスヴァール南部のウィットウォーターズランドで金鉱が発見され,これが英国資本によって開発されると,英国系住民が多数この地に流れ込みます.
 これがボーア人国家と英国系のケープ植民地の間で,紛争の火種となり,1899年から所謂ボーア戦争が勃発することになった訳です.
 ボーア人の抵抗は激しかったのですが,結局は装備に勝る英国軍の勝利に終わり,1902年,フェリーニヒング条約によりボーア人国家は消滅し,英国直轄植民地となります.

 そして,1910年には南アフリカ法が制定され,4つの植民地を併せて南アフリカ連邦が形成されて,4つの植民地は連邦内の州に再編成されました.

 さて,この南アフリカ法制定に先立ち,1908年10月から1909年2月にかけて,ダーバン,ケープタウン,ブルームフォンテーンの各地で植民地代表による憲法制定会議が行われました.
 其処で,一番の問題となったのが首都の位置です.

 ケープタウンと言えば,欧州人の進出に際して一番最初に足跡を印した地であり,最も人口の多いケープ州の首都,且つ,移民達の故国と南アフリカ各地を結ぶ殆ど唯一の玄関口となっていました.
 しかし,国土的には西南端に偏っており,他の人口集中地域から離れている難点がありました.

 トランスヴァール州は自分の州都であるプレトリアの方が,南アフリカのより北方への発展,取分けローデシアの吸収を考えると,国土の中心的位置にあると考えられたし,最も財政的に貢献の大きな州の州都としても首都に相応しいと考えていました.
 この考えは,英国系の植民地ですが,経済的に密接な関係を有していた隣接のナタール州にも支持されていました.

 これらに対し,オレンジ自由州は,中立的な姿勢でした.
 この会議でケープ州は12票を有しており,トランスヴァール州とナタール州を併せた票は13票,そうなると,オレンジ自由州が有する5票は決定的な意味を持っていました.
 しかし,オレンジ自由州にとっては,どちらが適切かの判断が難しいものでした.
 ケープタウンは,自州から見て距離的に遠く,その地の雰囲気が外国と言うべき感じを抱いていましたし,プレトリアは,金鉱都市のヨハネスバーグに近く,その影響力が行使されかねないと言う疑念がありました.
 でもって,これで両者が相争えば,地理的な中心性だとか,交通の便を考えると,自州の州都ブルームフォンテーンが有利になるとの判断もありました.
 但し,ブルームフォンテーンは当時,人口僅か2.5万人程度の小都市でしかないのが難点でした.

 こうして,三者三様の思惑を抱えた駆引きは紛糾,混迷し,連邦発足後の国会に決定させようと考えた事さえ有りました.
 しかし,妥協策として立法府と行政府を,ケープタウンとプレトリアで分ける案が浮上し,1909年2月,漸く合意が為され,憲法草案の中に,連邦政府の所在地はプレトリア,連邦議会の所在地はケープタウン,最高裁判所の所在地をブルームフォンテーンとすると言う条項が各々書き加えられた訳です.

 これはこれで画期的な事例だった訳ですが,立法府と行政府の距離は1,200kmも離れていて,閣僚や政府職員が,秋(北半球で言う春)の第一会期を中心に往来する必要があり,その為の経費や不効率が生じています.
又,プレトリアに普段いる各国大使も,行政機関が立法府に移転する為,政府首脳との接触を行う場合はケープタウンに赴く必要があるそうです.

 現在のケープタウンは,西ケープ州の州都であり,人口は2001年で299万人.
 大西洋に向けて拓けたテーブル湾に臨む港湾・産業都市で,リゾート地でもありますし,喜望峰を有する観光都市でもあります.
 二院制議会の議事堂は,ダウンタウンに近い中心市街地の一角にあり,市内には国立図書館ケープタウン館,南アフリカ文化史博物館,国立美術館,ケープタウン大学を有しています.

 プレトリアは,南アフリカ北東部のエイピース川沿いの高原に立地し,人口は165万人で,元々ボーア人による都市計画の下で設計された街であり,碁盤目状の街路で整然と区画されています.
 2000年以降,周辺の自治体と合併して,ツワネと言う大都市圏を形成し,首都の名前もツワネに変える動きも進んでいます.
 元々,プレトリアと言う名称自体,先住民であるズールー族と戦って勝利したボーア人の指導者プレトリウスに因んで付けられた訳であり,黒人国家となった現在,相応しい名称ではない,とされています.
 一方のツワネと言うのは,先住民達の英雄的な族長の名前です.

 大統領府や主な行政官庁は,市内北東部の小高い丘の上に立てられた,ユニオン・ビルディングスと言われる建物の中に収納され,市内には国立図書館プレトリア館,南アフリカ大学,プレトリア大学,トランスヴァール博物館,美術博物館,文化史・野外博物館,軍事博物館(1867年建造のシャンスコップ要塞内)などが設置されています.

 ブルームフォンテーンは,自由州の州都であり,その名称は「花の噴水」と言うオランダ語が語源で,その名の通り,美しい自然の景観で知られた標高1,500mの高原都市であり,人口は36万人の小さな都市ですが,南アフリカ中部に位置し,鉄道網・道路網の中心で,航空の便にも恵まれています.
 最高裁判所の他,オレンジ自由国大学,国立博物館などが置かれています.

 首都ではありませんが,南アフリカ北東部に位置し,ウィットウォーターズランド台地の南斜面,プレトリア南方約60kmにあるガウデング州の州都であるヨハネスバーグは,標高1754mで人口209万人を擁し,ヨハネスバーグを中心に北方のプレトリアと南方のフェリーニヒングススプリングス,西方のクリューガーズドルプまで広がる大都市圏が形成されており,サハラ以南のアフリカでは最大規模の大都市圏を為しています.
 此処には,憲法裁判所や与党ANCの本部があります.

 ヨハネスバーグは1866年に金鉱が発見され,1895年には人口10万人に達していました.
 市の中心地は,金鉱脈の直ぐ北側で,鉱山会社の敷地が今なお商業地区の一角に残っています.
 金鉱山は現在別の地で創業していますが,鉱山会社の本社がこの地に尚置かれています.
 現在では,南アフリカの経済中心都市として各種製造業が立地しているほか,金融の中心地でもあり,市内にはウィットウォーターズランド大学,ランド・アフリカーンス大学,アフリカーナー博物館,地質学博物館,鉄道博物館などの文化施設が軒を連ねています.

 国としての成り立ちから見て,この方式が最適解だと思いますが,官僚達は大変ですね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/12/05 21:23


 【質問】
 南アフリカの兵器国産技術レベルについて教えてください.

 【回答】
 南アはイスラエルと共同で核兵器開発やったのが有名だけど,最終的に放棄してる.
 でも,その他でもイスラエルとの協働が多く,対空ミサイルなんかも両国で事実上同じものを作ってたりする.

 国内の武器開発力も最先端のもの以外はかなりのレベルで,ミサイルや対戦車ヘリ,装甲車両,対物ライフルなどを自作している.
Denel社が有名.
http://www.denel.co.za/
http://en.wikipedia.org/wiki/Denel

 特に装輪装甲車両については,運用に適した国土と,情勢不穏なアフリカゆえの,不法侵入者との戦闘などの経験によって,世界でもトップの位置にあり,G5,G6といった長射程の自走装輪車両が有名だし,地雷防御のために底部を舟形にした装甲車両は世界の標準となっている.
 要するに,ベーシックな兵器についてはしっかりした国.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 南アフリカ共和国の核兵器開発について教えられたし.

 【回答】
 1993年にデ・クラーク大統領が,「1990年に解体・破壊するまで,6発の核兵器を持っていた」と公表.
 しかし1970年代から同国が,旧西ドイツの技術を元に,ノズル法という金と手間のかかるやり方でウラン濃縮を始め,パイロット・プラントを作ったことは,関係者の間では広く知られていた.
 ノズル法とは,ノズルから吹き出す速度差(質量差)を利用して,分離濃縮を行うもの.
(また,2010/5/24付のハアレツ紙−−元ネタはGuradian 紙−−によれば,開発にはイスラエルも関与しているという)

 この核爆弾について,今井隆吉は以下のように評している.

------------------------------------
 この種の爆弾は重さが3〜4tもあり,B-29のような大型の爆撃機でなければ輸送はできない.
 南アがアフリカの南端にあるという地理的条件を考えると,何を思ってこのような原爆作りに金を使い,貴重な資源を投入したのか,あまり満足のゆく説明はされていない.
------------------------------------

 【参考ページ】
『IAEA査察と核拡散』(今井隆吉著,日刊工業新聞社,1994.12),p.5-8
http://www.haaretz.com/news/diplomacy-defense/israel-denies-offering-nuclear-weapons-to-apartheid-south-africa-1.291800

【ぐんじさんぎょう】,2010/08/01 21:00
を加筆改修


 【質問】
 ズールー戦争について教えてください.

軍事板
青文字:補修部分

 【回答】
 1879年,イギリス軍と,南アフリカ東岸部に暮らしていたズールー族との間で起こった戦争です.
 イギリスの経済封鎖を破りたいトランスバール共和国が,ズールー族の土地を狙っていたため,イギリスは先手を打ってズールー族を支配しようとし,戦争になりました.
 ズールー族はイサンドルワナで英軍を殲滅するなど,初めは善戦しましたが,英軍の強力な軍事力によってやがて征服されてしまいました.

(画像掲示板より引用)

「ぐんじさんぎょう」,2008/05/04


 【質問】
 ボーア戦争に,インド植民地軍が積極派遣されなかった理由は?

 【回答】
 さて,1899年10月から1902年5月に至る期間,アフリカ南部でボーア戦争と呼ばれる戦争がありました.
 この戦争も,当初の楽観的な見通しを越えて約2年半続き,最終的に45万余名の兵員を動員する事になりました.

 当時,南アフリカに守備隊として派遣されていたのは,1899年8月1日時点で,
参謀を除く将校が318名,
下士官と兵員は騎兵が1,127名,
砲兵1,035名,
歩兵・騎馬歩兵が6,428名,
その他1,032名
の合計9,940名でした.

 これに英本国からの増援として,
正規軍将校が9,206名,
下士官と兵員は騎兵22,348名,
砲兵18,426名,
歩兵・騎馬歩兵が156,288名,
その他21,903名
の合計228,171名,
 義勇農騎兵団と呼ばれるyeomanryが,
将校1,393名,
各兵科下士官兵が34,127名
の合計35,520名,
スコットランド騎兵隊が将校15名,
各兵科下士官兵が818名の合計833名,
民兵が将校1,691名,
下士官と兵員は砲兵が906名,
歩兵・騎馬歩兵が42,610名,
その他359名
の合計45,566名,
 本国からの志願兵が
将校589名,
下士官兵19,267名
の合計19,856名,
 南アフリカ警察隊が
将校19名,
下士官兵7,254名
の合計7,273名で,本国からは337,219名が派兵されています.

 更に「帝国の兵営」とされたインドから,
正規兵が将校568名,
下士官と兵員が,騎兵隊3,483名,
砲兵1,029名,
歩兵・騎馬歩兵が13,133名,
その他16名
の合計18,229名,
 インドからの志願兵が
将校16名,
下士官兵289名
の合計305名で,インドからは僅かに18,534名しか動員されていません.
 なお,このインドの兵士は,本国軍の兵士であり,インド軍の兵士ではありませんでした.

 この他,自治領からの増援軍として,インド以外の植民地各地からの派兵が,
将校1,391名,
下士官兵27,699名の合計29,090名,
カナダからの南アフリカ警察隊が将校29名,
下士官兵1,209名
の合計1,238名で,自治領からは30,328名動員されました.
 そして,戦地となった南アフリカ本国では,
将校2,324名,
下士官兵50,090名,
合計52,424名が召集されました.

 正規軍増派の第1陣は,1899年9月7日に本国政府陸相のランズダウンによって,ナタール植民地防衛の為に緊急措置として1万名の正規軍増派を決定したのですが,9月17〜18日にかけ,インドではボンベイとカルカッタから3個騎兵連隊,3個砲兵連隊,4個歩兵連隊の合計5,903名の本国正規軍が22隻の輸送船に乗り込み,南アフリカに向けて出航しました.
 この他,地中海方面からはクレタ島,マルタ島,アレキサンドリアからそれぞれ増援部隊が急派されました.
 通常の兵力移動は,ボンベイからダーバンまで14日,サザンプトンからダーバンまで20日を要しましたが,此の場合もインドからの英国正規軍増援部隊は,16日でダーバンに到着しています.
 この初期段階での緊急展開部隊が,南アフリカ守備隊と連携してナタールへのボーア側の侵略に対する抑止力として機能した訳です.

 このインドからの軍派兵というのは既述の通りインド軍ではなく,英国正規軍です.
 「帝国の兵営」を自負しているインドからの派兵は,全く為されなかったのか,と言えば,戦闘部隊としては派遣されず,補充要員及び看護兵として469名のインド人兵士が,輜重部隊の軍夫として5,846名のインド人非戦闘員がそれぞれ派遣され,後に更に756名が増派されて併せて7,071名のインド人が多数の兵馬と共に,インド駐留本国陸軍に随伴して南アフリカに移動しています.
 但し,1898年8月後半に本国陸軍省は,インド人の随行者が本国陸軍部隊に随行する事を原則的に認めず,例外的に歩兵大隊の軍需品輸送に必要な少人数の軍夫のみを認めるとインド相経由でインド総督に伝えており,強力な戦闘能力を備えて士気の高いインド軍にしては,非常に限定的な海外派兵となっています.

 これは,19世紀末の英国軍の編成の在り方に関わります.
 1899年10月1日の時点に於ける英国本国の陸軍兵力は,次の通りでした.
 正規軍は,本国に125,105名,インド駐留の本国軍が73,157名,植民地やエジプトに駐留している本国軍が51,204名の合計249,466名.
 これに陸軍予備役が90,000名,民兵と民兵予備役が129,572名,義勇農騎兵団が11,891名,志願兵264,833名,チャネル諸島民兵が3,996名,マルタ島とバミューダ島民兵が2,732名の合計752,490名となっています.
 因みにインド軍の現地人部隊は,約14万名です.

 こうした英国正規軍の内,海外派兵に充当可能なのは2兵団の約7万名に過ぎませんでした.
 つまり,ナタールにまず急派されたのは,インドに駐留していた英国本国軍しか無かった訳です.

 ところが,英国軍は緒戦段階で予想外の苦戦に陥ります.
 この為,1900年7月までに急遽16万余名の増援軍を南アフリカに派遣しました.
 この他,本国の陸軍当局は苦境を打開する為に,各植民地からの「白人」将兵の増援を受容れる事にしています.
 実際,1899年7月11日にオーストラリアのクイーンズランド植民地政府が自発的に250名の兵士提供を表明した時には,本国政府が歓迎の意向を示しましたし,1899年10月3日,植民地相J.チェンバレンが帝国内の白人定住植民地自治政府宛に,志願兵の派兵を要請する電文を発しています.

 結果,カナダから7,368名,オーストラリアの諸植民地から16,632名,ニュージーランドから6,343名の志願兵が派遣され,ケープやナタール両植民地からも白人が約5〜6万人召集されました.
 この総数約8万名の白人将兵からなる増援部隊は,トランスヴァール共和国,オレンジ自由国のボーア側が戦線に投入した兵力の数に相当すると言われました.
 白人自治領,特にオーストラリア諸植民地からの派遣軍は,その士気の高さと戦闘能力の高さにより高い評価が与えられ,彼らの大英帝国への忠誠心の強さが賞賛されました.

 この様な白人自治領の志願兵の活躍は,インド軍の南アフリカへの大量派兵・動員を遣り難くする対外的な環境を形成し,また,白人自治領からの白人像援軍を将来の戦争で活用する可能性に関して,本国の政策当局に期待を抱かせる事にも成りました.

 ところで,この頃,政権は再び保守党政権に戻っていたのですが,本国政府は開戦前からこの戦争を,「英国人とボーア人」と言う「2つの欧州人」の間に限定された,「白人の戦争」と規定していました.
 大蔵第1卿のバルフォアは,1899年7月の議会答弁で,
「南アフリカの戦争で,白人兵以外の如何なる兵士も使用するつもりは無い」
と明言し,1900年2月,不利な戦況に至った際に,インド軍や黒人兵の活用を考慮すべきでは無いかと問われても,
「インド軍による援助は,通常の状況で展開される戦争に於ては,誇りを持って受容れる.
 しかし,南アフリカでの戦争は,主として関係するヨーロッパ人に限定されるべき事が決定されている」
と述べていました.

 これはその後も堅持され,一種の不文律となった観があります.
 しかし,実際には南アフリカの現地人が1〜3万人も戦闘に参加しましたが,本国政府はこの事実を公式に認めなかったですし,インド騎兵の動員についても,現地総司令官であったキッチナーが積極的であったのに対し,本国陸相ブロドリックは,戦闘要員としてインド軍を動員した場合,敵に弱みを見せる事になると反対しています.

 本国の新聞論調は,例えばthe Timesでは,1899年11〜12月にかけて,政府のインド軍の消極的な活用に対し,インド軍の派兵を積極的に支持しています.
 即ち,「女王の兵士」として誇りを持つインド軍の不使用は,彼らの士気と忠誠心に悪影響を及ぼし,インド臣民に,大英帝国の為に共に戦う同等の権利を否定する事になり,政治・倫理的に賢明で無いとし,英国の戦闘能力を強化し,戦争を速やかに終結に導くにはインド軍の動員は不可欠であり,これは世界に向かって大英帝国の動員可能な軍事的潜在力を誇示する事になるだろうと言うものです.

 インドの世論,特に英語を解する層には,英国の新聞に同領する世論が強く出ていました.
 中には,この戦争を白人自治領や本国の「帝国臣民」と同等の社会的精神を発揮する好機と捉え,自発的な募金で装備した志願兵を派遣すべきであるとの意見が寄せられたりしています.
 勿論,インド・ナショナリズム運動の強力な拠点で会ったベンガルの現地語新聞は,この戦争を帝国主義的な侵略戦争として,非難していましたが.

 この「帝国臣民」としての責務を強調する論理は,当時,ナタールでインド人移民の権利擁護の為に活動していたガンディーの発想に繋がるものがあります.
 ガンディーは,1899年10月に戦争が勃発すると,年期契約労働者を含めたインド人移民の中から1,100名の志願者を募り,India Amburance Corpsを組織します.
 この衛生隊は,戦争の初期段階,英国が不利な状況に置かれた時に大活躍し,1900年1月のスピオン・コプの戦闘では,敗北した英国軍の負傷者を看護する為に最前線で活動して高い評価を獲得しました.

 この戦争とは関係有りませんが,1906年にナタールのズールー族が叛乱を起こした際にも,小規模ながらこうした衛生隊を組織して叛乱の鎮圧に協力したりしています.

 後の1921年に,ガンディーはこの2度に亘る戦争協力と第1次世界大戦への協力を自己批判していますが,その時期,彼は苦境に陥った英国側を軍事面から支援する事で,インド人の大英帝国に対する忠誠心を誇示し,「帝国臣民」としての認知を求めようとした動きをしていた事は特筆されるべきです.

 因みに,1901年10月,ガンディーは,インドに一時帰国しました.
 その際の送別会のスピーチで,彼はこう発言しています.

――――――
 南アフリカで求められているのは,白人の国では無い.
 白人の間での友愛でも無く,帝国の友愛である.
 帝国の友人である人は皆,それを目指すべきである.
 カーゾン卿が述べた様に,インドは大英帝国の光り輝く宝石である.
 インドは自己が共同体の容認出来る構成員である事を示そうと望んできた.
――――――

 つまり,彼は再度インドが大英帝国の不可分の構成員である事を強調し,大英帝国臣民の論理を逆手に取り,大英帝国内部に於けるインド系移民の権利擁護に奔走していた訳です.

 ボーア戦争でインド軍の使用が認められなかったのは,また,先に見たウェルビー委員会の答申内容による制約もまたありました.
 南アフリカ地域は,この答申でも曖昧なグレー・ゾーンでしたが,この地に大規模なインド軍の派兵を行うには未だ世論が熟成しておらず,保守党政府も慎重な姿勢に終始しました.
 ただ,それには抜け穴も用意されていたのですが,遂にはそれを活用する事は無かったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/07/29 23:02
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 南アフリカ共和国の「ロスト・ジェネレーション」問題について教えられたし.

 【回答】
 ご存知の通り,南アフリカは人種隔離政策「アパルトヘイト」によって,白人(及び名誉白人と呼ばれる人達)と黒人との間に,明確な身分差が存在していた.

 しかし時流には勝てず,1994年の民主化に伴い,アパルトヘイト政策は瓦解し,アフリカは「多数の人口を占める」黒人が,政治の主流にたつこととなった.

 だが,黒人達のほとんどが真摯な気持ちをもって,このアパルトヘイト抵抗運動に参加したわけではなく,むしろ,登校サボタージュなどが蔓延し,碌な教育を受けないまま大人になった世代が誕生した.
 一般的には「ソウェト蜂起」と呼ばれる事件によって,黒人達の反アパルトヘイト運動は燃え盛ったようなイメージがあるのだが,実際は下記のような人達がたくさんいた.

――――――
「いくら勉強したって,黒人が就ける仕事は限られているだろ?
 希望がないから,授業をボイコットしたって,家で勉強なんかしないよ.
 学校に行かなくなって,俺たちの間に酒とマリファナが広まった.
 そのうちチンピラグループが,ソウェトの中にいくつもできて,
『あいつがおれのガールフレンドと寝た』
みたいなくだらない話で,抗争が始まった」
――――――
――――――
 そして今,民主化された南アでは,先述したとおり中間層や富裕層と呼ぶべき黒人が誕生しはじめた.
 南アの東大とも言える,ヨハネスブルグのウィットウォータランド大学の学生は,いまや殆どが黒人である.
 そんな中,14歳マリファナにはまり,学業と無縁の青春時代を送ったングボさんのような人々が,民主化後に受けた黒人の若者と,競争できるはずもない.
「アパルトヘイトが終わっても,自分にできたのは強盗だけだった」
というングボさんは,こうして1994年の民主化後に,自動車窃盗団の大ボスになったというわけだ.

――――――『ルポ 資源大国アフリカ』(白戸圭一著,東洋経済新報社,2009.8),33ページ

 この世代は「ロスト・ジェネレーション」と呼ばれ,まさしく,アパルトヘイトと民主化の狭間で,完全に競争から置いていかれた世代と言える.

 ちなみに,
「じゃぁ,アパルトヘイト続けたほうが良かったんじゃね?」
という意見には賛成できない.
 旧白人政権下では,「白人だけの国家」をつくるため,人口の8割を占める黒人を,南アフリカの13%にあたる「不毛な土地」に移住させ,これらを「独立」させて国家にすることで,「南アフリカ」自体には人種差別が存在しない・・・という政策を「本気で」推し進めた連中だからだ.
 実際,いくつかの「黒人国家」が,南アフリカの傀儡政権として「独立」していた.
 もちろん,承認していたのは南アフリカだけだった.

 ・・・話がそれたので,本道へ.
 南アフリカでは,富裕層上位の20%の総所得が,貧民層下位20%の35倍に達している.
 ちなみに,格差が問題になっている中国ですら11倍程度.
 コロンビアやブラジルも20倍はあるが,南アフリカには及ばないという.

 現在,南アフリカは,アフリカの中心として著しい経済成長を続けており,リーマンショックがあった2008年から2009年にかけては失速したものの,その後,5%以上の経済成長率を見せている.
 これが意味するところは,経済格差の拡大がもっと続くことであり,人口も多く,教育を受けていない人達は「食うために」犯罪へ走る可能性がもっと高まることを意味している.
 南アフリカでは,少なくともこの先数十年は「経済格差の拡大」が続くであろうことは想像に堅くない.

※参考 ソウェト蜂起(wikiだが,これは信頼して良いと思う)

ますたーあじあ in mixi,2011年04月19日23:21
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ヨハネスブルグの治安悪化と「グローバル化」について教えられたし.

 【回答】
 さて,ガイドラインでおなじみのヨハネスブルグだが,少しおさらいをしておこう.

 殺人事件(認知件数):2006年の統計で19202件
 これは,人口当たりの発生件数に直すと,日本の40倍,イギリスの28倍,アメリカと比べても7倍以上の倍率となる.
 しかもこの数字は,アフリカ当局による情報操作の嫌いがあり,普通の国はカウントする「殺人未遂」をカウントしていない.
 もし,普通の基準で判断するのであれば,この倍以上の数字になるという.
(十万人辺りの発生件数約82件,最悪といわれた2000年のコロンビアで61件強)
 まさしく「犯罪都市」というにふさわしいだろう.
(でも,アフリカの中では中級編だったりする,いやマヂで)

 強盗事件:年間約20万件(統計にのっただけで)
 その辺のスーパーで銃撃戦になるのも,珍しい風景じゃないという.

 前の日記では,「南アフリカの中」での経済格差・教育格差による犯罪発生について書いたが,南アフリカの深刻な問題は,むしろ「経済成長」や「民主化」に伴い,グローバル化が進み,それが組織犯罪を増長させているところ.
 「金が集まるところ」には,儲け話が転がっており,その中には非合法な組織犯罪も含まれている.
 経済成長によって,人・物・金が集まり,その副産物として人身売買・強盗した品の売買・臓器売買など,様々な犯罪組織が増えていく,例えて言うならば,まさしく街灯に集まる虫のようなものだろう.
 南アフリカでは,人種によって大まかに以下のような棲み分けがある.
ナイジェリア人:麻薬・旅券偽造
エチオピア・モザンビーク:住宅襲撃(強盗)
 このアフリカ系以外でも,中国やロシア,パキスタンの犯罪組織も南アフリカに集まっているという.

 この原因は,まさしく「経済成長」によるものと考えてよさそうだ.

――――――
「南アはアフリカで最も経済水準の高い国ですが,南アよりもはるかに貧しい他の国々のほうが,ずっと治安がいい.
 要するに,誰もが一様に貧しい社会では犯罪,特に組織犯罪は成立しにくい.
 巨大な所得格差が生じたとき,貧しい側は犯罪を通じて『富』にアクセスしようとする.
 アフリカで突出した力を持つ南アは,アフリカ各地の犯罪者にとって『富』にアクセスできる場所であり,同時に世界的な犯罪の中継拠点にもなりうるのです」

――――――『ルポ 資源大国アフリカ』(白戸圭一著,東洋経済新報社,2009.8),38ページ

 まさしくこれは,「犯罪のグローバル化」とでも言うべき現象であり,皮肉にも「経済成長」が犯罪の発生を増長する結果となっている.

ますたーあじあ in mixi,2011年04月21日00:23
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 グローバル化が南アフリカにもたらした功罪を教えられたし.

 【回答】
 南アフリカは,アフリカ諸国(大陸としないのは,エジプトがあるから)の中でも突出してパワーを持つ国である.
 ダイアモンドの産地であり,教育レベルも高く,様々な産業が発達している.
 この発達は,資源を輸出していることもあるが,金融などもアフリカ諸国の中では高いレベルを維持している.

 これによって,様々な国から様々な人・物・金が集まり,さらに南アフリカに経済成長をもたらしている.
 これによって,様々な資源のアクセス場所となっており,南アフリカは,アフリカ諸国の中で最もグローバリゼーションが進んだ国と言えるだろう.
 だが,これは同時に【犯罪組織】をも集める結果となり,人身売買・麻薬密輸・武器密輸・強盗した商品の取引といった,犯罪の見本市をも兼ねる現象が起きている.

 まさに,南アフリカは「グローバリゼーション」の功罪そのものを体現している国と言えるだろう.

ますたーあじあ in mixi,2011年04月22日00:02
青文字:加筆改修部分


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