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国別 N〜R
<Africa FAQ 目次
(画像掲示板より引用)
Quick Jump
「HONZ」◆(2012/09/12)『なぜ,世界はルワンダを救えなかったのか』 地獄を見た司令官
「VOR」◆(2012/09/14)アフリカ・ニジェール 洪水で米の収穫が絶望的
「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2013/02/28) 国連の紛争対応について ルワンダ大使「涙の訴え」 コンゴPKOで「平和強制部隊」
「ストパン」■(2010/06/21) [歴史]「ルワンダの鉈」伝説について(リンク切れ)
らふぃや? ニジェール
ニアメ市の小学校に赴任した青年海外協力隊員の活動の記録と見聞録.
『ホテル・ルワンダの男』(ポール・ルセサバギナ著,ヴィレッジブックス,2009.2)
映画「ホテル・ルワンダ」のモデル氏が,自ら著した(ことになってる)自伝.
文章の読みやすさや構成の妙を考えると,編集者が熱心に協力してると思う.
ちなみに映画の原作じゃない.
映画化の経緯も少し触れてる.
前半4割ぐらいで,虐殺に至る経緯をわかりやすく説明してる.
自然発生かと思ってたんだが,人為的に煽られたもの,だそうな.
「民間」ラジオが煽ったり,直前の1年に鉈を50万本も輸入したり.
輸入品だったのね.
聖人っぽい印象だったけど,やってる事はゴマすって賄賂渡して酒を飲ましコネで圧力をかけ……と,徹底した実際主義というか,優秀なビジネスマンで,それをあけすけに語ってる.
原題の「An Ordinary Man」,「普通の男」って書名が身にしみる.
552 :名無し三等兵:2011/12/13(火) 00:05:37.35 ID:???
日本の営業職も大して変わらないよ.
>ゴマすって賄賂渡して酒を飲ましコネで圧力をかけ…
553 :名無し三等兵:2011/12/13(火) 00:46:31.59 ID:???
まあ,環境は違えど,同じ人間だもんな.
554 :名無し三等兵:2011/12/13(火) 00:51:54.40 ID:???
『ブラックラグーン』のロックのサラリーマン時代を思い出してのボヤキ思い出したけど,よくよく考えてみたらブラックラグーン商会で働いてるほうが,そういうことよくやりそうだ.
-----------------軍事板,2011/12/12(月)〜12/13(火)
『ルワンダ難民救援隊 ザイール・ゴマの80日』(神本光伸著,内外出版,2007/4/25)
------------
「アントノフは予定通り飛んでいますか?」
と私は日本通運株式会社国際協力室次長の青木誠氏に尋ねた.
彼は救援隊の荷物を日本に輸送するために本社からゴマに輸送されていた.
(中略)
「この時間にはカイロを出発していないといけないのですがね.おかしいなあ」
「アントノフは予期のとおり飛ばないと,前から言っていたじゃありませんか.
注意してくださいと・・・.
救援隊が予定通り帰国できないかもしれないと新聞で報道された後,予備機を四機確保したと聞いていましたが,予備機のほうはどうなったのですか?」
「予備機は別のところで使われてしまったそうです」
青木氏の声に力がない.
彼も取り残されるのだ.
------------
------------
こんなこともあろうと,アントノフの七,八番機の到着が遅れたとき,
『第二波は出国の遅れを予期して準備する』
と,嫌味と取られかねない報告をしておいたのに・・・.
その直後に上級部隊から届いた,予備機を四機確保した,という情報を鵜呑みにした自分の愚かさが悔やまれた.
ゴマでは全てを疑ってかかっていたのに・・・・.
------------
状況によってはもう一晩現地に留まる必要がある状況が出てきました.
しかし,撤収に向けすべての荷物の整理は終わっており,食糧は不要品としてゴミ場に出されていました.
そんななか,ある二人の隊員がゴミ場からウイスキー等を取り出しました.
それを見ていた隊員が一人二人とゴミ場をあさり始めます.
あっという間に人数が増えていきました.
>精強を誇ったルワンダ難民救援隊が,難民と化した瞬間だった.
わが国初の人道的国際救援活動に派遣された部隊の指揮官は,どんな思いでその光景をご覧になっていたのでしょうか・・・.
■著者は・・・
ルワンダ難民救援隊隊長で退役陸将補の神本光伸さんです.
著者紹介からご経歴を引用します.
<神本光伸
昭和22年6月10日生まれ.広島県呉市出身.
昭和45年3月,防衛大学校(基礎工学1)卒業.
昭和46年3月,第11師団武器隊(真駒内)に配属.第2後方支援連隊(旭
川),陸幕武器・化学課長.防衛医科大学校学生部長及び武器学校長(土浦)
等を歴任.
この間,技術系幹部として約10年,各種装備品の研究開発に従事.
平成6年9月,ルワンダ難民救援隊長(ザイール,3ヶ月)として赴任.
平成16年3月に退官(陸将補)し,現在は中国化薬(株)で顧問を勤める>
本文中でご本人もおっしゃっていますとおり,技術畑の将校さんです.
■あるメール
------------
(前略)
神本氏自筆の書籍を紹介いたしたいと思いました.
『ルワンダ難民救援隊 ザイール・ゴマの80日』(神本光信・著)
発行所 内外出版株式会社 定価2,100円
当時の現地での活動を物語風に記録してあります.
読みやすく現地活動のイメージがわき参考になる本だと思います.
小生は,神本氏と同期生です.
退官後自らの職務を省みることは,大事なこととは思いつつなかなか記録としてまとめるのは大変だろうと思います.
そんななか,神本氏はルワンダについては書き残しておきたいと思い整理したものだといっておりました.
先輩方々がいろいろな観点からの書籍を書いておられるようですが,神本氏のこの書籍を読み,当時の日本の国情から派遣部隊指揮官として,本当に『薄氷を踏む』覚悟だったものだろうと推察いたします.
『情報,官邸に達せず』(麻生幾著)のなかに,「ルワンダ難民救援隊派遣」の政府決定経緯が,ドキュメンタリー風に記述されております.
村山政権批判というより,わが国自体の国家としての軍事機構の欠落を指摘されたものだと思います.
当時の指揮官の気持ち・心中をご理解していただく上の背景事項として,併せて読んでいただければと思います.
------------(退役陸自将校)
本著の存在を知ったのはこのメールを通じてでした.
メールを拝読し,さっそく入手しました.
■本著が出たのは昨年4月です.
何故今になって?という思いを持つ人も多いかもしれません.
その疑問への回答は「はじめに」で述べられています.
平成6年12月20日まで現地で展開し,同25日に原職に復帰された神本さんは,翌平成7年1月9日に陸幕に帰国報告をすませました.
しかし,<連隊に復帰した翌週の一月十七日(火曜日)に阪神淡路大震災が発生した>
<十八日午後,私は六本木の陸幕の広報室にいた.
ゴマで顔見知りのK記者に,これからルワンダ難民救援活動の特集を組むところだったのだが大震災でそれができなくなった,と申し訳なさそうに告げられた.
事態はさらに急展開した.
三月にオウムサリン事件が発生し,ルワンダ難民救援隊の活動は,メディア的には総括されることなく過去の話になってしまった>わけです.
国民向けに総括されないまま,わが国最初の人道的国際救援活動としておこなわれた海外派遣が,記憶のかなたに追いやられることだけはあってはならない.
エイズの恐怖の下,命がけで任務に当たった部下の行動も十分伝えられていない.
誰もやらないなら俺がやる.と,神本さんは,指揮官としての使命感からご自身で記録を残す決心をされたのでしょう.
頭が下がります.
<現地では四時間睡眠の日々が続き,帰国後も不愉快な四時間睡眠が長く続いた.なかで本著は書き上げられ,<人道的な国際救援活動の現場で起きている実態を皆様にご理解いただき,後輩自衛官たちの活動の環境が整備されることに役立てば幸いに思う>との思いから作られた本です.
冒頭で<退官後自らの職務を省みることは,大事なこととは思いつつなかなか記録としてまとめるのは大変だろうと思います.>という元将校さんの言葉を紹介しました.
さぞや大変な作業だったと思いますが,こういう形で後世に残ったことをありがたくうれしく思っています.
■冷静なタッチ
指揮官らしく,冷静なタッチでルワンダ派遣部隊および周辺の人々の姿が記録されています.
一人称の言葉,そして言葉づかいのわかりやすさが,本のテーマの重厚さを和らげています.
あわせて軍人さん特有の乾いた文体は,いささかのじめじめ感も感じさせず,爽やかです.
後輩の方が後世目にするとも思われたのでしょう.
現地の地誌,各種教訓・戦訓,そして,自衛隊特有の「国内法をはじめとする行動・決心への規制」に指揮官としていかに対処したか,といった「指揮官の心のうち」が全編を通じて記載されています.
揺れ動く気持ちの中で何とか決心を行なっていた,ことなど,文章からはウソのない武人らしいお人柄を感じます.
要所要所で,当時の部下の方へのインタビューも行なわれており,その点からも著者の誠実さ,歴史に対する謙虚さを感じ取ります.
全編を通じて流れる「指揮官の心のうちの吐露」こそが本著最大の特徴です.
全部で9章あり,うち7章がルワンダ派遣部隊の活動記録です.
第8,9章は,神本さんの総括と提言です.
個人的には,報告の全7章と総括・提言の2章には同じ重みを覚えました.
神本さんは第8章で,派遣活動を通じて得た自分なりの教訓等を,「部隊統率」という観点からエキス抽出,示しておられます.
政治への思い・提言を第9章で示しておられます.
■本著は
本著をひとことで言えばその名のとおり「国民へのルワンダ派遣報告」です.
同時に「派遣先で浮かび上がった自衛隊の各種問題点を,部隊指揮官の立場から指摘した意見具申」でもあります.
本来ならば,部内報告書とは性質の異なるこの種の国民向け文書は,活動を適切・的確に大所高所から評価できる見識・力量がある外部の人間が行うべきだろうなと感じます.
まさにジャーナリズムが担う部分です.
ところがわが国には,それだけの力量を持つ国防軍事ジャーナリズムが存在しません.
それ以前に,そもそも,神本さんが書かれていることは,ジャーナリズムが担当する仕事だったはずです.
地震が起きたから取りやめになっただけの話ですよね.
しかし結局再開されませんでした.
(その反省でしょうか,イラク支援群については産経が総括書を出していますね.
私個人は,あの作品が活動報告に値するとは思えません.
「あの本とひげの佐藤さんの本だけで,イラク派遣を理解することは不可能だよねえ・・・」
という不満がありますけど,ルワンダの反省を形で示したのが産経のみであったことは,メディアの対国民誠実度を図る重要ポイントになるでしょう.)
本著では,現地でのマスメディア(新聞ですね)の振る舞いの実態もあからさまに記されています.
自分達が暴徒に襲われる羽目になったしくじりをしたことは報じず,法律面で自衛隊がしくじりに近いことをすれば,鬼の首を取ったかのように騒いで報じて叩く.
後の時代に生きる後輩のことなど何も考えない―――というわがマスコミの「分かりやすい思考」も,字になるとこりゃまた面白いものです.
マスコミのこの姿勢は,今でも同じです.
昨日も同じでした.
明日も同じなのでしょう(笑)
■印象に残った部分
あちらこちらに線引きまくり,ページ折りまくりです.
そんななかで最も印象に残った部分です.
------------
NGOはいかに早く現場に進出するかが勝負のように思えた.
早く入れば救援活動がやりやすく,広報的にもいい場所が使用できる.
広報がうまくいけばスポンサーの資金提供が円滑に行く.
それでNGOは「一番乗りを競う」面があるように感じた.
(中略)
一部のNGOに見られた反対論は,救援隊がNGOの得意分野に進出することに対する警戒心だったように思う.
救援隊としてはNGOの得意分野を侵すことなく,NGOの不足する分野,補完する分野を重視して参加すれば喜ばれると感じた.
自衛隊の組織力,装備力,技術力を発揮するNGOとの「相互補完関係」が,自衛隊の救援活動の一つのあり方のように思う.
------------(P112〜113)
------------
千歳空港に到着してから自分の荷物のことをすっかり忘れていた.
後に幕僚から聞いた話によると,帰国直後私の衣のうは誰に引き取られることもなく,千歳駐屯地の雪原に一つポツンと残されていたという.
編成上,隊長や副官や専用の操縦手兼伝令という制度は設けられていなかった.
さらに撤収時の混乱を乗り切るために,身の回りを世話する隊員を第一波で帰国させ,第二波の本部要員を極端にスリム化した.
私が頼まなかったことに原因はあるのだが,私の身の回りを心配してくれる者が皆無となってしまっていた.
しかし,この一事で私は指揮官の孤独さをしみじみと味わうことになった.
そう言うと格好がいいのだが,私は状況判断と部隊の指揮のみに専念し,周囲の隊員への気配りを怠ったツケを思い知らされたような気がした.
隊員たちを指揮はしたが,統御はできていなかったのだと・・・
------------(P253)
------------
私はゴマ滞在間,国会のやりとりを思い浮かべながら記者たちとの取材に対応してきた.
ある意味では建前しか話せなかった.
本音を話せば制約の多い中で準備された方々に,多大な迷惑をおかけすることになるからだ.
戦後の日本は,いつの間にか建前社会になってしまったような気がする.
派遣する側の理屈で編成等の準備が進められ,派遣される側の理屈は等閑視されている.
------------(P254)
■報告であり意見具申
要するに本著は,部隊指揮官からあなたへのルワンダでの活動報告であり,現地で判明して必要な環境整備を求める意見具申といえましょう.
中身には,自衛隊の問題の本質に関するエキスすべてがつまっています.
相当な覚悟で出されたのではないか?と思うくらい思い切ったことを書かれてます.
自衛隊と法律の悪しき関係については,法律論や理詰めアプローチのみでは,どうしても「机上」の話で落ち着き,現実にそぐわない話題へと堕ちてゆきがちです.
(典型が集団的自衛権行使の問題です)
同じテーマでも本著のように「実体験に基く話を通じて」知ると,ウソみたいに良く把握でき,おなかの中に大切な何かがストンとはいった気持になります.
いつも口にしていることですが,これこそが「本が持つ有機性」の最たる効果だろうと感じます.
一年かけても五年かけても読むに値する本です.
全体が有機的な連関を持っている本です.
第八・九章を見るだけでも,お手元に置く価値があります.
オススメです.
------------おきらく軍事研究会,平成20年(2008年)9月12日
『Mr.ブラウン 空の鮫』(ジヤン・ツムバッハ著,フジ出版社,1978.12)
読了.
ポーランド戦の後RAFでエースになって,戦後は密輸業者を経て,アフリカへ雄飛を企てたりする盛りだくさんな内容.
中盤はビジネス中心で,ちょっと肩透かしを食ったけど,ナイジェリア駆逐艦にドラム缶爆弾を投下したりと,戦闘シーンの見所もけっこうあって面白い.
カタンガやビアフラの内情だの,RAFのポーランド人パイロットの戦いぶりに,興味ない人でも小説みたいに読めるから,図書館にあったら読んでみて欲しい.
-------------軍事板,2012/01/24(火)
「Al Jazeera」◆(2010/12/28)Arrests made after Nigeria violence
「FT」◆(2010/02/01)Leaderless Nigeria could spin out of control
「Reuters」◆(2012/11/03)Nigeria security forces kill 13 in raid on delta kidnapping gang
「Strategy Page」◆(2010/08/09) NIGERIA: The Long War May Never End
「Strategy Page」◆(2013/04/11) NIGERIA: Getting Killed For Reporting The Truth
「Strategy Page」◆(2013/04/22) NIGERIA: A Cure Worse Than The Disease
「Strategy Page」◆(2013/05/01) NIGERIA: Blood Money
「Strategy Page」◆(2013/05/09) NIGERIA: Northern Frights
「Strategy Page」◆(2013/05/16) NIGERIA: We Know Where Your Family Lives
「Strategy Page」◆(2013/11/11) NIGERIA: The Big Thieves Are Getting Organized
「Strategy Page」◆(2013/11/11) NIGERIA: The Terror Tunnels Of Maiduguri
「VOR」◆(2012/07/13)ナイジェリア タンクローリー車爆発・炎上 死者100人を超す
「VOR」◆(2012/08/19)世界で最も住居に適さない都市
> 1位となったのは約1000万人が暮らすナイジェリアの商業都市ラゴスで,
>ラゴスは同国の産業の約半数が集まっており,騒擾が止む事がないと分析された.
「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/01/05)ナイジェリアのガソリン補助金打ち切り,パキスタンの天然ガス不足による政情不安
「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2013/05/13) ナイジェリア 拡大する消費 一方で,国民の7割が貧困層 増大するストリートチルドレン
「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2013/05/31) 成長大陸アフリカを代表するナイジェリアの原油略奪と「赤ちゃん工場」
「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2013/05/31) 成長大陸アフリカを代表するナイジェリアの原油略奪と「赤ちゃん工場」
「人民網」◇(2012/10/23)中国外交部がナイジェリアに中国人と中国系機関の安全確保を要求
【質問】
なぜ2006/10/24,ニジェールはチャド難民追放をすることにしたのか?
【回答】
武装難民と地元部族との間で緊張が高まっていたため.
以下引用.
ニジェールがアラブ住民の国外追放を決定
チャド避難民のマハミード・アラブ
【アルジャジーラ特約23日】ニジェール政府は24日,隣国チャドから避難してきたアラブ人住民15万人を国外追放すると声明した.
マヒミード・アラブと呼ばれる人たちで,1980年代にチャドの内戦が激化したため,ニジェール南東部ディファ地区に住みついていたが,その存在が地元部族との間で緊張を高えめる原因になっていた.
ナイジェリア在住アラブ人の指導者,ハマド・アハメド氏はメディア向けの声明を読み上げ,「(ニジェール)政府のこの決定は際立って危険である.それはディファ地区における民族コミュニティの間の憎しみの火に油を注ぎ,闘争を拡大して,その傷を癒すのに時間がかかるようになるだろう」と述べた.
ニジェール政府は,アラブ系住民たちが違法な銃器を所持していると非難し,地域社会にとって重大な脅威となっていると述べた.
また,(アラブ人住民の)送還は人権を尊重して実施されるだろうとも述べた.
一方,アハメド氏は,この追放は53カ国が加盟するアフリカ連合(AU)の憲章を含む国際条約に違反しているとして,決定を翻すよう,ママドゥ・タンジャ大統領に訴えた.
同氏は「これらアラブ人と家畜を(チャドに)戻すことは物理的に不可能である.強力によって移動させるだけであり,暴力は暴力を生むだろう」と語った.
(翻訳・ベリタ通信=日比野 孟)
【質問】
ニジェールでのクーデターについて教えられたし.
【回答】
2010.2.18,ニジェールの首都ニアメー(Niamey)で18日,軍事クーデターが発生し,ママドゥ・タンジャ(Mamadou
Tandja)大統領(71)が出席して閣議が行われていた大統領官邸を兵士らが襲撃した.
銃撃戦が発生し,市内各地で銃撃音や爆発音が響いた.
この銃撃戦で少なくとも3人が死亡したと報じられている.
フランスの外交官は,大統領警護隊のメンバーもクーデターに加担したと指摘している.
そして,タンジャ大統領は軍の兵舎に連行され,閣僚らも別の場所に拘束された.
報道によると,ニジェールを拠点に活動する,あるアフリカの外交官は,大統領が拘束されたことを確認した.
その後,「民主主義復興のための最高評議会(Supreme
Council for the Restoration of Democracy,CSRD)」を名乗る軍事政権が,
「緊迫していた政治状況を終わらせることを決断した」
との声明を国営テレビで読み上げ,憲法の停止と政府の解散を宣言し,国境の閉鎖と夜間外出禁止令を発令した.
軍事政権のトップには,クーデターで中心的な役割を果たした部隊の指揮官,サル・ジボ(Salou
Djibo)氏が就くという.
元軍幹部のタンジャ大統領は議会と憲法裁判所を解散させ,2009年8月に大統領任期を3年延長する新憲法案に関する国民投票を強行.
賛成多数で任期は延期されたが,野党が批判を強めていた.
西アフリカ諸国経済共同体(Economic Community
of West African States,ECOWAS)がニジェールの参加資格を停止し,欧州連合(EU)が開発援助の中止を決め,米国が制裁措置に踏み切るなど,国際社会からの孤立も深まっていた.
米国務省のフィリップ・クローリー(Philip
Crowley)報道官は,今回のクーデターの原因を作ったのは,任期延長を画策したタンジャ大統領自身だと述べた.
【参考ページ】
2010年02月19日 12:35,AFP
【質問】
マハマドゥ・ダンダとは何者か?
【回答】
1999年のニジェール軍事クーデター直後の軍事政権における情報相.
同年,大統領選でタンジャ政権が誕生した後は,開発コンサルタントとなった.
2010.2.25,クーデターを起こした「民主制復興最高評議会」の指導者サル・ジボ少佐は,彼を選挙実施までの暫定首相として任命した.
【参考ページ】
2010年2月25日19時23分,朝日新聞
【質問】
ムハンマド・サアード・アブバカル大佐とは?
【回答】
2006/11/2,ソコト州政府のスルタン評議会により,同州最高指導者に任命さる.
前最高指導者ムハンマド・マシド師の末弟で職業軍人.
それまでは駐パキスタン大使館付武官として情報収集活動に当たっていたという.
以下引用.
イスラムの新最高指導者を任命 ナイジェリア北部州
【アルジャジーラ特約2日】ナイジェリア・イスラム界の最高指導者が10月29日の航空機墜落事故で死亡したのを受けて,イスラム教徒の拠点,同国北部ソコト州政府は2日,同最高指導者の実弟で,軍人のムハンマド・サアード・アブバカル大佐(50)を,新最高指導者に任命したと発表した.
アブバカル氏は,20代目のスルタンに就任した.
アブバカル氏は,死亡した兄,ムハンマド・マシド師の末弟で,軍歴が既に30年以上に及び,今回の任命前は在パキスタン大使館で武官として駐在,イラン,イラク,アフガニスタンそしてサウジアラビアの政情,治安状況などに関する情報収集,分析を担当していた.
ソコト州はイスラム教徒の拠点で,伝統的に最高指導者が同教の聖なる月・ラマダンの開始日時の決定,宗教政策への指針を出している.
今回のアブバカル氏のスルタン任命の発表を受け,ソコト市民たちが通りに繰り出し,新スルタン任命に祝意を歓迎の意を表した.
ソコト州政府報道官によると,スルタン評議会がアブバカル氏の任命を決定,同州知事がこれを受け入れた.
これに対しアブバカル氏は声明を出し,その中で「アッラーの名の下にスルタンに任命された.宗教,民族,信条にとらわれず,等しく正義を行使する」との姿勢を明らかにした.
ナイジェリアの人口は約1億3000万人とアフリカ大陸内では最も多く,宗教では北部地域を中心としたイスラム教徒(総人口中48%),南部を中心とするキリスト教徒(同34%)土着宗教に分かれている.
ソコト州など同国北部の12州ではイスラム法が厳しく実行され,これまでに数千人が同法に違反したとして殺害された.
そうした中にはキリスト教徒らの非イスラム教徒たちが多く含まれていたこともあり,軍事政権下にあった1990年代後半にはイスラム教徒とキリスト教徒ら非イスラム教徒たちとの間で緊張が一時高まった.
これに対し航空機事故で死亡したマシド師が柔軟な姿勢を示すとともに,すべての宗教を互いに尊重し合い,平和を守るよう国民に呼び掛けた.
〔略〕
(翻訳・ベリタ通信=志岐隆司)
もしアブバカル大佐が非寛容路線をとれば,非イスラーム教徒への迫害が再び始まる恐れがあり,その動向が注目される.
【質問】
ナイジェリアの言語状況は?
【回答】
アフリカ諸国で最大の人口を持つ国は,西アフリカのナイジェリアです.
この国は2005年現在で,人口1.4億人,アフリカ大陸諸国全人口の実に15%を占めます.
日本と然程変わらない人口を有する国ですが,言語の数は日本と比べものにならない位多く,510の言語が国内で用いられています.
ナイジェリアの公用語は,先日も書いた様に英語であり,連邦レベルの立法・司法・行政は英語で行われ,連邦レベルで展開するビジネスも英語で行われるのが普通です.
また,中等以上の教育も英語で行われるので,ある程度の教育を受けたナイジェリア人は皆流暢に英語を話します.
一方,現地語に関しては,最も話者人口の多いハウサ語,ヨルバ語,イボ語が国家を代表する3大言語として扱われ,学童は母語以外に,これらの何れかを学ぶ様に奨励されています.
初等教育は母語,もしくは地域共通語で行う様法令で規定されていますが,実際には教育現場に対応出来るだけの整備が進んでいない言語が多く,地域共通語,もしくは有力な民族語と,英語を併用しながら教えられているのが現状です.
教育レベルの高い私立学校では,基本的に総ての授業を英語で行い,選択科目として3大言語の何れかを教えている事が多く,中等以上の教育は先述の様に英語で行っています.
地域別に見ると,北部ナイジェリアは,ハウサ人及びハウサ人と言語・文化の両面で同化が進んでいるフラベ人の住むハウサランドと,様々な民族が混住するハウサ語地域に分れます.
ハウサランドでは母語として,そして民族混住地域では第2言語として,住民の殆どはハウサ語を使用しています.
西部ナイジェリアは,ニジェール川に隣接するエド州,デルタ州,コギ州を除くと,殆どの住民はヨルバ人で,日常生活は殆どの場面でヨルバ語のみが用いられ,この地域はヨルバランドと呼ばれています.
東部ナイジェリアでは,イボ人が多いのですが,ビアフラ戦争の影響が強く残っている為か,イボ人が絶対多数を占めている訳では無く,他にも人口100万人クラスの中規模民族が多いので,全域でイボ語が用いられている訳ではありません.
イボが多数派を占める地域はイボランドと呼ばれ,日常的にイボ語が用いられていますが,それ以外に英語ベースのピジン言語であるナイジェリア・ピジンがそれを補完する形で用いられています.
現在の首都であるアブジャはハウサ語混住地域に,経済の中心地で旧首都のラゴスはヨルバランドに位置していますが,これらの都市では人口も多く,全国から人々が集まってきている為,英語の使用率も高くなっています.
ハウサ語は,ナイジェリアの中央部をY字型に流れるニジェール川とベヌエ川と言う2本の大河のY字の上部に当たる地域の全域で話されています.
実際には,Y字下部にも更に広がっており,ベヌエ川を越えてカメルーン国境もハウサ語の通用する地域になっています.
歴史的には,英国領の北部ナイジェリア保護領がハウサ語の通用地域に当たります.
このハウサ語は,ナイジェリア以外にもニジェール全域,ベナン北部からガーナ北部にかけての地域でも共通語として用いられており,最近ではナイジェリアの経済成長によりカメルーン北部やチャド中部にまで通商共通語となって伝播している西アフリカ最大の言語です.
なお,西アフリカ以外では,スーダンには48.9万人に及ぶハウサ語使用者が飛地的にいます.
これは英国の北部ナイジェリア征服時に東方に逃れたソコト太守国の末裔と,巡礼の途中で定住した人々を起源とし,ハルトゥームの東方下ブルーナイル地方のマイウルノ周辺に分布しています.
ナイジェリアでは1,852.5万人がハウサ語を使用しており,他の地域を合わせると4,000万人がハウサ語を使用していて,これはサハラ以南のアフリカ諸国ではスワヒリ語と並んで最大の言語です.
このハウサ語の本拠地は,ソコト,ケッビ,ザムファラ,カツィナ,カノ,ジガワ各州と,カドゥーナ州北部,バウチ州西部,そして,ニジェール南部に跨がる地域で,この地域を伝統的にハウサランドと呼んでいます.
このハウサ語は,カノを代表とする東部方言と,ソコトを代表する西部方言に大別されますが,現在ではカノの方言が標準ハウサ語と見做されています.
但し,その地域差は比較的小さく,カノ方言はどの地域に行っても問題なく理解されています.
ナイジェリア北部地域は元々民族混住地域でしたが,イスラームの侵入と拡大,英国による植民地支配がその状況に大きな変化をもたらしました.
特に,英国の植民地支配は,住民の慣習や宗教に干渉しない事を条件に,伝統的首長の権威を借り,首長配下の現地人官僚に行政を行わせる間接統治方式で運営され,その地域行政には屡々ハウサ語が用いられていました.
また,イスラームの拡大と共に,衣食住,娯楽など,文化の様々な面においてハウサ風もしくはイスラーム・ナイジェリア風とでも言うべき様式が広まり,北部ナイジェリアではハウサ語を共通語とする統治システムの基礎が既に作られていました.
そうした伝統を引き継ぐ形で,現代のハウサ語は急速に変化する社会の要請に応えるだけの豊富な語彙力を持ち,最新技術,情報科学の分野でも使用に耐えうる言語となっています.
特に,テレビやラジオでハウサ語の放送時間が増えるに従い,様々な分野での新しい用語がハウサ語に翻訳されています.
未だ未だ,この地域でのインターネット環境は遅れているので,テレビやラジオの果たす役割は大きく,国内のみならず旧宗主国BBCのハウサ語放送は縮小傾向にある海外向け放送の中では聴取者が多く,引き続き重要性を保つと考えられていますし,最近この地域でとみに存在感を増しつつある中国もハウサ語の放送に力を入れています.
その一方で,活字媒体に於けるハウサ語のシェアは,未だそれほど大きいものでは無く,新聞は英語紙を読む層が未だ未だ多くいます.
一時,「ソーヤイヤー・ブックス」と呼ばれる安っぽい(そして実際安く50ナイラで買える)恋愛小説が民衆の娯楽として一世を風靡しましたが,現在では映画にその座を奪われています.
映画は,その「ソーヤイヤー・ブックス」を下敷きにした恋愛ものやサスペンスがナイジェリア国内で作られる様になり,米国のハリウッドやインドのボリウッドを文字ってノリウッドと言うくらい,近隣の英語圏アフリカ諸国に供給されるほどの盛んな産業になっており,ハウサ語の映画も毎年夥しい数がリリースされています.
(尤も,米国やインドほど本格的な映画では無く,日本のエロビデオ的な安価な器材による低予算作品が主で,しかも,その公開は映画館では無くVCDによる流通が主ですが)
音楽産業は映画産業に組み込まれる形で発展し,従来は民族色豊かなものだったのですが,現在ではハウサ語一辺倒になって来ています.
活字媒体は下火と書きましたが,一方で,映画や音楽の専門雑誌も,印刷の質や紙質が良くなり,欧米に遜色の無いものが出来ています.
現在のハウサ語は,ボーコと呼ばれるローマ字表記が基本ですが,アラビア文字による表記も僅かに存在します.
アラビア文字による表記はアジャミーと呼ばれ,様々な書体で表されています.
以前は,アジャミーを普及させる動きもあり,民話をアジャミーで表記したりしていますし,最近でも,紙幣にはナイジェリア諸語から唯一アジャミー表記のハウサ語が併記されていたり,カノではアラビア文字の道路標記が彼方此方に立てられており,消滅する方向には動いていません.
なお,現在のハウサ語は,地域共通語の世界においては,放出音など難しい発音の消失や,名詞の文法性の消失,破格複数の規則化,若しくは複数そのものの消失など,発音や文法の両面において単純化される傾向にあり,特にバウチ州から北東部一帯やガーナで話される方言にそうした傾向が多く見られます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/09/22 23:21
青文字:加筆改修部分
ナイジェリアをY字型に分割する河川の左下部分に当たる,西部地域の主要言語はヨルバ語です.
オヨ,オグン,オシュン,オンド,エキツィ,クワラ,ラゴスの各州は伝統的にヨルバランドと呼ばれ,住民の殆どはヨルバ人で占められており,北部のハウサランドと共に西アフリカでは珍しい単一言語地域となっています.
その話者人口は,ナイジェリア国内で1,885万人,ナイジェリア国外のベナンやトーゴにもいる話者を含めると,1,932.7万人に達します.
この他に第2言語の話者が約200万人いますが,ハウサ語が母語話者に匹敵する第2言語の話者を擁するのに比べると,遙かにその数は小さいと言え,第2言語の話者がヨルバ語に与える影響は非常に小さいものです.
これは即ち,殆どヨルバ人がその言語を用いていると言う事になり,それはアフリカでも珍しい事になります.
なお,ヨルバ語には20余りの方言がありますが,オヨ州の州都イバダンの方言をベースに,その他の方言の要素や,英語からの構造借用を加えて成立した標準ヨルバ語は,ヨルバランド全域でほぼ問題なく理解されています.
そして,ヨルバ語はアフリカ諸語の中でも,最も古くから語彙や文法共に整備されてきた言語の一つで,その最初の資料は19世紀初めにまで遡る事が出来,宣教師達によって,既に文法書や辞書を含む多くの出版物が発行されています.
因みに,ヨルバ語は造語機能が豊富で,カヌリ語やアラビア語などから借用語を受容れてきたハウサ語と異なり,西洋文明との接触後も,造語による語彙の拡大を積極的に行ってきた言語でした.
ただ,現在では英語との2言語併用により,英語の語彙やフレーズの混入が増え,ヨルバ人の間でも純粋なヨルバ語の在り方についての議論が行われる様になっています.
ヨルバランドはイボランドと並んで,ナイジェリアでも教育水準が高く,初等教育もある程度ヨルバ語で行われますが,英語を教育メソッドとする私立学校への進学者も多いので,特に都市住民は英語を理解する人も多く,とりわけビジネスの現場では,ヨルバ語よりも英語の方を積極的に用いる人が少なくありません.
なお,こうした英語は,ラゴスなどの一部の地域を除くと,所謂ナイジェリア・ピジンではなく,殆どが学校で修得するナイジェリア英語で,ナイジェリア・ピジンが共通語となっている東部ナイジェリアとは異なります.
ヨルバランドのテレビやラジオは,その放送時間の多くをヨルバ語で放送していますが,ヨルバ語による外国からの放送は,一部の宗教系放送局を除き殆ど行われていません.
これは,英語の普及が進んでいる為,海外からの情報が欲しい人は,直接英語の情報源にアクセスしてしまう事が一因とみられています.
ヨルバ語の出版については盛んで,小説,戯曲,詩などの文学から学術書にまであらゆるジャンルに渡りますが,新聞や雑誌は英語のものが多く読まれています.
また,音楽の分野でもヨルバ音楽が,毎年夥しい数リリースされていますが,最近のエンターテイメントを代表するのは,ハウサランドと同じようにビデオ映画であり,毎年数多くのVCDがリリースされています.
これらのVCDの一部には英語字幕が付けられ,英語圏のアフリカ諸国に輸出されています.
次にY字の右下部分に目を向けると,東部,と言うか南東部のこの地域は数百万人の人口を持つ中規模民族が密集し,北東部と並んで他民族が密集しています.
その主要民族はイボ人で,ニジェール川下流の東岸に位置するアビア,アナンブラ,イモ,エヌグ,エボニの5州がイボランドと呼ばれており,その過半数の住民がイボ人です.
その地域はハウサランドやヨルバランドに比べると狭いのですが,逆にその中に多くの住民がいる為,ナイジェリアで最も人口密度の高い地域となっています.
イボ語の話者人口は1,800万人ですが,第2言語としてイボ語を話す人々は,ヨルバ語よりも更に,と言うか遙かに少ない数になります.
これはイボ社会の構造にも起因しています.
イボ人は伝統的に首長を持たない民族で,非集権的な社会を維持していました.
この為,方言は相当発達したのですが,標準語を育てる事が遂に出来ませんでした.
ユニオン・イボと言う標準語の確立を目指した時期もありましたが,実現には至っていません.
この為,東部ナイジェリアでは異なる民族間は勿論,イボ人同士でもコミュニケーションにイボ語を用いる事は無く,その代わりにナイジェリア・ピジンと言う言語を用いざるを得ないのです.
なお,イボ人はナイジェリアで最も教育水準が高く,英国支配下では優遇された民族でしたが,1960年代の所謂"Civil
War"(日本ではビアフラ戦争として有名)で独立の夢を挫かれて以来,ナイジェリアの政治,経済では前記の2つの民族に後れを取っていると言うコンプレックスを常に持っています.
この為,イボ人は自域だけで無く,ヨルバランドやハウサランドにも積極的に進出し,現在ではナイジェリアの各都市にイボ人コミュニティがあると言っても過言では無く,海外で活動しているナイジェリア人にもイボ人が多く見受けられる様になっています.
東部ナイジェリアにはこの他,177万人が話すイジョー語,220万人が話すティヴ語,200万人が話すイビビオ語,60万人が話すイドマ語,80万人が話すイガラ語などがあり,何れも50万人以上の話者人口を誇っています.
但し,これらは民族内のみに通用する言語であり,第2言語として他民族が広く理解する言語とは言い難い状況です.
因みに,最南部のクロスリバー州,リバーズ州,アクヮ・イボム州,バイェルサ州などカメルーン国境の熱帯雨林からニジェール川河口デルタ地帯に掛けてボニー湾に面する地域では,中規模よりも小さな話者数10万人以下の少数言語が犇き合う様に分布しています.
こうした人々を接着している役割を果たしているのが,ナイジェリア・ピジンです.
ナイジェリアで用いている英語は,標準英語,ナイジェリア風の英語(ナイジェリア英語),ナイジェリア・ピジンに大きく分けられます.
標準英語は,規範文法と発音に基づいた「理想的な」英語であり,学校教育現場では本来この言語が教えられ,用いられる事になっています.
しかし,実際に標準英語を話しているのは,留学経験者や海外経験の長いインテリ層が公的な場面で用いているだけで,一般的な存在とは言い難いものです.
ナイジェリア英語は,標準英語にナイジェリア独特の発音,語彙,言い回しを混入したものです.
文法的には基本的に同じ構造ですが,話者によってその混入度合いは様々に変化します.
なお,ナイジェリア国内で教育を受けた人は,普通このナイジェリア英語を話す事が出来ます.
そして,ナイジェリア・ピジンは,英語の語彙と文法を基礎に,西アフリカ諸語の文法や語彙を大幅に混入したもので,現在ではこれを母語とする人もおり,部分的にクレオール化したピジン言語となっています.
ナイジェリア・ピジンは,シエラレオネからカメルーンまでのギニア湾岸で用いられている,「西アフリカ英語クレオール」のナイジェリア方言とも言え,シエラレオネを中心に48.2万人が母語として,400万人が第2言語として用いるクリオ語,カメルーンで200万人が第2言語として用いているウェスコス語等ともそのままでコミュニケーション可能です.
ナイジェリア東部,特に海に近い南部地域は,少数民族の密集する地域であり,その地域では地域共通語となり得る有力な言語が無く,現在では民族間コミュニケーションにこのナイジェリア・ピジンが用いられています.
その歴史は17世紀にギニア湾岸地域と交易関係を持っていた英国人が,現地住民とコミュニケーションを取る際に用いていた英語がベースになってピジンが成立し,元々共通言語を持たなかったギニア湾岸の諸民族の間で,地域共通語として定着していったようです.
その中心地域は,カラバー,ポートハーコート,ワリと言うギニア湾に注ぐ大小河川が網の目を為す地域の都市とその周辺で,この地域の河川は古くから運河として用いられ,その主要な産物から現在では「石油の川」と呼ばれていますが,17世紀には「奴隷の川」と呼ばれています.
こうした河川を通じて,各地に広まっていったと考えられています.
ハウサランドやヨルバランドでは,ハウサ語とヨルバ語がそれぞれ地域共通語の役を果たしていますから,ピジンを選択する事は先ずありません.
しかし,全土に展開する軍隊では,各民族の意思疎通を図る為,特に下士官と兵,兵同士のコミュニケーションに用いられており,また,旅行者とふれあう機会の多い都市部のタクシー運転手も,このピジンをよく使います.
この為,ナイジェリア・ピジンは地域や階級の差無く,ナイジェリア全土で最も広く理解される言語となっています.
但し,これは一種の「ブロークン・イングリッシュ」と考えられ,一般に文法的で無い言語,教育の無い人の話す英語というネガティブイメージを持たれている為,インテリ層はこれを完全に理解し,話す事が出来るにも関わらず,話さない人も多くいます.
しかしながら,ナイジェリア政府は連邦レベルでも州レベルでも,このナイジェリア・ピジンに対して何ら公式な見解を示していません.
これは,行政の中心を占めるインテリ層が重要な役割を果たせる言語であると認識が無い為でもあり,また,ナイジェリア国民の多くが,ナイジェリア・ピジンをアフリカの言語では無く,白人の言語と認識しており,白人の言語を自分たちの言語として選択するのであれば,大抵の人は「ちゃんとした」英語を学ぶべきだと考えている為でもあります.
更に,この言語は特定の民族を代表する言語では無いと言う事実も,ナイジェリア・ピジンが軽んじられる原因です.
ナイジェリアの国民にとって,言語の権利を主張するのは,民族のアイデンティティを主張するのと同義で有り,それを担う民族母体を持たないナイジェリア・ピジンは,どの民族も積極的に支持する理由が無い為でもあります.
一方で,ナイジェリア・ピジンには民族を越えた大衆性と言う面もあり,民衆向けの演説をする政治家や詩人や音楽家と言った芸術家が積極的に用いています.
テレビやラジオもナイジェリア・ピジンの番組を放送しており,庶民向けの政府広告も3言語に加えて,ナイジェリア・ピジンを用いる事が増えてきています.
そう言う意味では,ナイジェリアが将来的に統一言語を制定する局面がある場合において,一番しがらみの少ないナイジェリア・ピジンを採用する可能性は否定出来ません.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/09/23 23:55
【質問】
飢餓作戦に関する,お勧め本ってありませんか?
【回答】
絶版なので,古書か図書館利用になりますが,
『ビアフラ物語 飢えと血と死の淵から』(フレデリック・フォーサイス著,角川書店,1981.6)
一方的に独立宣言したビアフラ共和国に対して,ナイジェリアが行なった飢餓作戦の現実を,BBC特派員として現地入りしていたフォーサイスが記述した,ノンフィクション作品.
著者はビアフラ側にかなり同情的なので,公平な視点では無いですが,それも致し方ないと思えてしまう位に悲惨な現実が・・・.
実家に置いて来たので,詳しくレビュー出来なくて申し訳無いけど,お勧めの本です.
軍事板,2011/07/08(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ナイジェリア.ジョスでの宗教紛争について教えられたし.
【回答】
2010.1.19,ナイジェリア中部プラトー州の州都ジョスで起きた,イスラム教徒とキリスト教徒との衝突.
2008年11月の宗教衝突の際に破壊された住宅の再建をめぐって,イスラム教徒とキリスト教徒の間で争いとなったことが発端という.
プラトー州の知事は19日,ジョスに治安部隊を追加派遣.
警察は同市に24時間の外出禁止令を発令した模様.
同市のモスクで集団埋葬を執り行う作業員は,
「17日の夜には19人,18日には52人の遺体を埋葬した.
これから埋葬する遺体も80体ある」
と述べた.
この作業員によると,負傷者も90人に上っているという.
2008年の宗教衝突では,数百人が死亡している.
【参考ページ】
2010年 01月 20日 12:14,ロイター
【質問】
服部正也によるルワンダ経済再建計画は,どのような経過を辿ったのか?
【回答】
「ルワンダの涙」100万人が殺されたルワンダ大虐殺の生存者が語る
と言う記事を目にした訳ですが,独立直後の1965年に,日本から一人の銀行マンが,6年間同国の中央銀行総裁として赴任した話を思い出します.
元々,Rwandaと言う国は王制で,遊牧民ツチ族の族長が国王で,多数派の農耕民フツ族を統治していました.
当時,フツ族は全人口の85%,ツチ族は14%,残り1%がトワ族(ピグミーに属する人たち)でしたが,支配階級はツチ族.
当初は,Belgium政府(この国は元々独が支配していた地域で,第一次大戦後Belgiumが委任統治領,第二次大戦後は信託統治領として支配していた)はこちらを支配に使っていたものの,カトリック教会がフツ族圧迫を非難し始め,Belgium政府もそれを是正し始めます.
更に,フツ族の中から水平社運動的な動きが出て来て,更にツチ族内部でも王族に近い特権階級部族と,それ以外の部族との抗争や同権運動などがあり,治安が徐々に悪化.
1959年7月,ムタラIII世王が嫡嗣無く急死し,王家の一派閥が先王の9人の弟のうちの1人をキゲリV世として擁立したことで,極度に治安が乱れ,最終的に特権階級に属していたツチ族は王共々国外に亡命.
1961年には,不遇ツチ族とフツ族の政党により臨時政権が発足,共和国宣言の後,1962年に独立しますが,国外,特にBurundiに逃亡したツチ族は,同族が支配していたBurundi政府の支援を暗に受け,1963年には武装したツチ族が国境を越えて侵攻し,首都の14kmまで進軍したところでやっと撃退され,それを契機に彼らを手引きしたとして,多数の人が粛清されています.
つまり,あの出来事自体は,今に始まった話ではありません.
閑話休題.
当時のRwandaは,国際収支が大幅な赤字,しかも輸出産品は錫鉱とコーヒーくらいしか換金できるものはなく,外貨準備は殆どゼロであり,国家財政は破綻状態で,中央銀行に紙幣は無く….
この状態で,国立中央銀行を立て直すことになったのが,一人の日本人です.
彼は,その銀行の状態を立て直しつつ,政府の財政再建を行い,時には策を弄し,時には宥め賺して,徐々に破壊的な経済を正常な状態に導いていくことをしてのけます.
今の世の中にはまず居ないだろう,侍だった訳で.
思い込みで全てをやってしまう今の先進国の人々や機関(IMFやNGOなんかもそんなケースが結構あったり)に比べると,彼は,Rwanda人の生活の中に分け入って,彼らが何を欲しているか,どう言う行動基準で人々はものを買ったりしているのか,農民は何のために作物を育ててしているのか,彼らに対する生活必需品は足りているのか,彼らがお金を使うのはどんな時か,また,商人にも,どういう行動基準でものを仕入れているのか,何を売ろうとすれば一番儲かると考えているのか…国民各層から生の意見を聞いて,彼らの身の丈にあった財政再建の方策を考えていきます.
例えば,輸出作物であるコーヒー.
独立後その生産が落ちていたのですが,上辺だけ見れば単に怠けていると見られがち.
しかし実態はと言えば,食うための作物は自給している.
彼らがコーヒーを育てるのは,それが換金作物である,即ち,農機具(と言っても鋤とか鍬とか)や服地を買うためのもの.
であれば,買い取り価格を或程度引上げることで,農民に資金が回り,購買力が向上する.
商人は物不足だから商売は出来ない.
ただ資金が無駄に遊ぶだけなので,トラックを使って運送業を始めよう,とする.
もし商品が潤沢に出回ると保証されるのならば…運送業は当面の糧として行うが,トラックは小型のものにして,余った資金は商品が出回ったときまで取っておく.
そのために累進課税を強化した財政改革,平価を大幅に切り上げる通貨改革を行い,国債を発行して一部を市中銀行に割り当てる.
つまり,戦後の日本を建て直したやり方そのものを途上国向けに単純化して応用した訳です.
通貨改革を行った後,経済発展のために開発銀行を設立したり,農業の多様化や,商人の育成,農業生産物の貯蔵と商人が輸入した商品の貯蔵に必要な倉庫の建設など,矢継ぎ早に手を打っていきます.
また,商品流通を円滑にするために日産ディーゼルと日産自動車の販売権を政府に取得させて,2tトラックの販売を開始,更に,人的流動を高め,国家としての一体性を維持するため,バス網を全国に張り巡らし,それは定時運行をさせるようにしたことで,その利用人数は急カーブで上昇し,増車をせねばならない状態になったくらいでした.
こうして,Rwandaは日本のような高度経済成長(元々の基盤が低いから,生産高が増えると言うことは,高度な成長になる訳で)を謳歌するかに見えたのですが…1966年に再びフツ族が侵入して,軍事費は急上昇してしまい,折角軌道に乗りかけた財政再建の道には暗雲が立ちこめ,しかも,その後,蔵相が交代し,しかもその後任が蔵相の業務に適任な人ではなかったために,大蔵省内部の士気は地に落ち,天候不順で換金作物の主力であるコーヒーに打撃があったりと,一時の爆発的な成長は停滞していきます.
ただ,元々が小さなパイだった経済ですから,持続的な成長はそれなりに出来ていってたのですが,結局外圧によって,災厄が齎され,国の経済はまた元に戻ってしまいました.
今は内憂外患のうち,外患は無くなったのですから,再び成長に向けて,進んでいって欲しいですね.
ちなみに,独立時東奔西走して彼の国に貢献した彼の名は,服部正也.
日本銀行から世界銀行を渡り歩いた銀行マンです.
最後に,彼がRwandaの地を去る際の大蔵大臣の惜別の辞を紹介しておきます.
[quote]
あなたは,ルワンダ国民とその関心事とを知るため,外国人クラブや協会や,滞在期間が長いという理由で,当国の事情を知っていると僭称する人たちから聞き出すことをせず,直接ルワンダ人にあたって聞かれた.
他の多くの技術援助員の考え方や,その作業を毒する偏見に患わされることなく,あなたはルワンダ人に相談してその意見を聞いた.
あなたの基本態度は,ルワンダ国民のために働くのであるから,まずルワンダ人にその望むところを聞かねばならないと言うことでした.
[/quote]
彼らに対する援助とは何か,考えさせられる言葉ではあります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年01月20日
【質問】
国民の10人に一人が殺された,などという話もあるルワンダ大虐殺の経緯は?
【回答】
Rwandaと言う国は独立まで王国として,長身族(ツチ族)の国王の下でBelgiumが間接統治を行っていました.
独立直前に革命があり,多数派の短身族(フツ族)が政権を掌握しました.
しかしながら,隣国のBurundiではツチ族の縁戚が国王として政権を掌握しており,その支援の下で屡々亡命したツチ族が越境攻撃を行っていました.
従って,ツチ族は,Rwanda社会では常にMinorityとなって,しかも,恨みを買う存在になっています.
(この辺,詳しくは古典になるのですが,中公新書290「ルワンダ中央銀行総裁日記」(服部正也著)をごらんになると宜しいか,と)
1990年,そのツチ族の反政府組織であるRwanda民族戦線(RPF)が,Burundiとは別にUgandaから侵攻.
2年余の内戦の後,漸く停戦に漕ぎ着け,両者の融和が図られますが,大統領の「事故死」をきっかけに,政府軍はフツ族過激派の民兵と組んで,ツチ族並びにフツ族穏健派の虐殺を始めます.
特にツチ族だけではなく,同じ氏族の連中もその手に掛けられた訳です.
で,この事で政府軍,フツ族過激派は国民の支持を失い,RPFの勢力が勝ります.
これによって,今度はフツ族が報復を恐れ,国民の4分の1が難民となってコンゴに流出しています.
最終的に,RPF(背後にはUgandaがいるとも言う)主導で,フツ族穏健派を軸に政府を組織し,挙国一致内閣を組織し,報復を恐れていたフツ族も徐々に帰還をしていますが.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/03/19
青文字:加筆改修部分
【質問】
ルワンダ Rwanda の虐殺の際,国連軍はどのように行動したか?
【回答】
Did nothing.
虐殺が始まったとき,ルワンダには,国連が派遣した相当数のベルギー部隊がいた.
当時,首都キガリからのフツ族のラジオ放送は,「インテラハムウェ(共に戦う我ら)」という名のフツ族民兵に,皆殺しをけしかけていた.
派遣部隊は,そうしたラジオ局を封鎖することもできたはずだった.
往来には,山刀を手にした暴力集団が徘徊していたが,国連の戦車をもってすれば制止できたろう.
だが,その種の行動は,国連用語で言えば,「付託された権限の外」だった.
やがて1994年4月,平和維持部隊の兵士10名が拷問されて殺され,ベルギーの派遣部隊は撤退した.
留まった国連軍兵士達は,懐に逃げ込んできた人々は保護したが,門の外での殺戮は阻止できなかった.
そして1年後,国境を越えたザイールのゴーマにある難民キャンプで国連は,フツ族のインテラハムウェに衣食を支給している.
(Michael Ignatieff, a writer & journalist,
「仁義なき戦場」,
毎日新聞社,1999/10/30,p.97,抜粋要約)
【質問】
ルワンダでの大量虐殺が,ブルンジ Burundi
に飛び火しなかったのは何故か?
【回答】
国連特別代表,アフメド・ウルド・アブダラの功とされている.
ブルンジも1993年に大量殺戮を経験している.
長年,政権を握り,軍を掌握していた少数派ツチ族は,複数政党制民主主義の到来により,多数派フツ族と権力を分け合うことを余儀なくされ,1993年にフツ族出身の大統領が就任したが,暗殺の憂き目を見た.
大量殺戮はこの後に起こっている.
ブルンジが瓦解するのを防ぐため,ガリ国連事務総長は,サハラの族長らしい尊大な物腰の55歳になるモーリタニアの不屈の外交官,アブダラを特別代表に任じた.
1994年4月,ルワンダ,ブルンジ両国大統領の乗った飛行機が,キガリ空港で撃墜された晩,流言蜚語によって大虐殺が引き起こされるのを防ぐため,アブダラはラジオとテレビに出た.
そして,軍参謀総長と共に,徹夜で各地の司令官に電話し,兵舎に留まるよう厳命した.
ブルンジには平和維持部隊は駐留しておらず,アブダラはそれを望んでもいない.
「この国に必要なのは精神科医だ.
私は毎日ここの政治家達と会っているが,彼らは皆お互い疑心暗鬼に駆られている.握手すると,手がじっとり汗ばんでいる.
いっときでも政治権力を握るためなら,人殺しも辞さない連中ばかりだ」
と彼は言う.
(Michael Ignatieff, a writer & journalist,
「仁義なき戦場」,
毎日新聞社,1999/10/30,p.106-107,抜粋要約)
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ