cc

「別館A」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ

国別 M
Africa FAQ 目次


 【link】

「VOR」◆(2012/07/23)マダガスカル軍 軍事基地での反乱を鎮圧

「VOR」◆(2012/10/14)モーリタニア軍 間違って自国の大統領を撃つ
「中東の窓」◆(2012/10/14)モリタニア大統領の暗殺未遂
「中東の窓」◆(2012/10/15)モリタニア大統領の負傷
「中東の窓」◆(2012/10/19)モリタニア大統領の負傷

「中東の窓」◆(2013/02/22) 國際軍事演習(モリタニア)

「an Arms Watcher」◆(2010/08/10)モロッコ,中国製戦車を購入

「中東の窓」◆(2012/10/15)モロッコ国王の湾岸歴訪

「山猫文庫」◆リーフ共和国興亡(全14回)
> リーフ連合共和国とは,1923年〜1926年の4年間だけ,アフリカ北部,現在のモロッコの一部に存在していた小国です

●Mali マリ

「BBC」◆(2013/07/21) Mali election officials abducted

D.B.E. 三二型」(2012/04/04)◆トゥアレグ人反政府勢力が世界遺産都市トンブクトゥを掌握

D.B.E. 三二型」(2012/12/24)◆過激派,新たに聖廟破壊 マリの世界遺産都市

「Indian Defence」◆(2013/06/30) China To Send Combat Troops To Mali
「人民網」◇(2013/09/30) 中国が平和維持警察機動隊をアフリカに初派遣

「Strategy Page」◆(2013/04/01) INFANTRY: Mountain Warfare In Mali

「Strategy Page」◆(2013/04/04) MALI: Search And Destroy

「Strategy Page」◆(2011/04/15) MALI: The Americans And French Try To Work It Out

「Strategy Page」◆(2011/04/26) MALI: Forward To The Past

「Strategy Page」◆(2011/05/03) LOGISTICS: Old Reliable Over Mali

「Strategy Page」◆(2011/05/12) MALI: The Saudi Connection

「Strategy Page」◆(2013/06/05) AIR WEAPONS: Mali Makes France Do It Faster

「Strategy Page」◆(2013/06/06) MALI: The Army Wins One

「Strategy Page」◆(2013/07/15) AIR DEFENSE: The Mysterious MANPADS of Mali

「Strategy Page」◆(2013/09/26) MALI: Keeping The Pressure On

「VOR」◆(2012/04/02)マリにおける状況 地域サミットで協議

「VOR」◆(2012/04/03)西アフリカ 対マリ制裁を発動

「VOR」◆(2012/04/04)トゥアレグ族 自らの国家防衛を呼びかけ

「VOR」◆(2012/04/04)マリ北部のトゥアレグ族 休戦を宣言

「VOR」◆(2012/04/05)マリ アルジェリア領事が誘拐
>アルジェリア当局によるとマリ北部のガオでアルジェリア領事と領事館職員6名が誘拐された事を明らかにし,アルジェリア外務省は,全員の早期解放の為にすべての事を行っている,と伝える.
>マリでは先月,軍部がクーデターを起こして大統領の更迭と民主的な政府への政権移譲を宣言.またマリでの政情不安をきっかけに,長く独立闘争を続けてきたアザワド国民解放運動のトゥアレグ族は活動を強化している.

「VOR」◆(2012/04/07)マリ トゥアレグ族,アザワドの独立を宣言

「VOR」◆(2012/05/29)北西アフリカ・マリ反政府勢力 共闘崩壊

「VOR」◆(2012/12/11)マリ首相,拘束

「VOR」◆(2013/05/25) マリ駐留フランス軍 撤退の第一段階開始

「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/10/13)マリ  国連安保理,北部イスラム過激派支配地域への軍事介入を求める決議

「中東の窓」◆(2012/07/12)北部マリ情勢(アルカイダの制圧)

「中東の窓」◆(2012/07/29)マリ情勢(ECOWASの軍事介入?)

「中東の窓」◆(2012/09/30)遺跡の破壊(マリ北部)

「中東の窓」◆(2013/03/16) マリに関するサヘル地域周辺諸国の会議

「中東の窓」◆(2013/04/07) 地中海諸国の内相会議
>仏軍のマリ介入後の最近の情勢について協議するためのものとのことです

『マリ近現代史』(内藤 陽介著,彩流社,2013.5)


 【質問】
 フィディ大将叛乱事件とは?

 【回答】
 2006/11/18のAP通信は,アフリカのインド洋に浮かぶ島国マダガスカルで,フィディ予備役大将が「ラバロマナナ現大統領の政権は違憲.現政権を打倒し,軍事政権樹立を目指すべき.軍は国際空港近くの駐屯地に集結せよ」と,金曜日に行なわれたラジオインタビューの中で呼びかけました.

 マダガスカルでは大統領選挙を2週間後(12/3)に控えていますが,フィディ予備役大将の立候補は拒否されていました.

 これを受け,土曜日から各地で銃撃戦が発生している模様で,遊説しているラバロマナナ大統領の専用機も危険ということで予定地以外に着陸しています.

 ⇒米の駐マダガスカル大使は,「町は平穏で,クーデタの兆候は認められない」としています

おきらく軍事研究会,平成18年(2006年)11月20日


 【質問】
 2009年3月にマダガスカル大統領邸に突入した,2台の戦車の車種は何ですか?

 【回答】
 今のところ確実に判別できる画像が見つかりません.
 しかし,戦車と装甲車の区別ができる事が多い海外のマスコミも「Tank」と書いており,マダガスカル陸軍の装備一覧から考えると,ロシアのPT-76水陸両用装軌軽戦車と考えるのが妥当でしょう.

●マダガスカル陸軍の装備:

PT76:32輌
BRDM2:20輌
砲(120mm,105mm):12門
その他,106mm無反動砲,120mm, 82mm迫撃砲,ZPU4対空機関砲など.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 マリ共和国の歴史を教えてください.

 【回答】
 4〜17世紀にかけてガーナ王国,マリ帝国として栄えたが,1473年に,ソンガイ帝国の属国と成ってしまう.
 1591年にソンガイ帝国が滅亡すると,小国乱立時代となり,ようやく19世紀半ばにトゥクロール帝国が建国されるも,1920年にフランスの植民地となってしまう.
 1960年に独立を回復するも,1968年,1991年,2012年と20年周期でクーデターを繰り返している.

 ちなみに14世紀に即位したマンサ・ムーサ Mansa Musa 王の時代が,マリの最盛期.
 この王はサハラ越えのメッカの巡礼の途上で,大量の黄金をふるまい,カイロの金相場がしばらく下落したほど.

<略年表>
4世紀頃 ガーナ王国興る.
1076年 ベルベル人のムラービト朝に攻撃され,ガーナ王国滅亡
1235年 マリンケ人の王スンジャータにより,ニジェール川流域にマリ帝国建国
1473年 ソンガイ帝国の属国となる
1591年 ソンガイ帝国滅亡
17世紀 フルベ族のマシーナ王国,バンバラ族のセグー王国など,小王国乱立
19世紀半ば エルハジ・ウマールによってトゥクロール帝国建国
1920年 フランス植民地
1960年6月 隣国セネガルと共に,マリ連邦としてフランスより独立
1960年8月 セネガル,連邦離脱
1960年9月 マリ共和国と改名
1968年 トラオレ中尉による軍事クーデター
1969年 トラオレ軍事政権成立
1979年 トラオレ大統領就任
1991年 クーデターによりトゥーレ暫定政権成立
1992年1月 新憲法成立
1992年4月 大統領選挙,コナレ大統領選出
1997年5月 コナレ大統領再選
2002年5月 大統領選挙,トゥーレ大統領選出
2007年4月 大統領選挙,トゥーレ大統領再選
2012.3.21 クーデターによりトゥーレ失脚

 【参考ページ】
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/mali/data.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD
http://en.wikipedia.org/wiki/Mali
http://fr.wikipedia.org/wiki/Mali
http://fr.wikipedia.org/wiki/Empire_du_Mali
http://en.wikipedia.org/wiki/Mali_Empire
http://www5d.biglobe.ne.jp/~fan3/page005.html
http://www.ambamali-jp.org/ja/j02-02.html

マンサ・ムーサ王
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2012/05/25 20:50
を加筆改修


 【質問】
 トゥアレグ人分離独立勢力について教えてください.

 【回答】
 トゥアレグ Touareg 人は,北部の分離独立を求め,「アザワド解放民族運動(MNLA)」を組織して,武装闘争を展開している.

 トゥアレグ人は浅黒の遊牧民であり,歴史的には動物の飼育に依存している.
 しかし,飼育地域は,アフリカ西部の乾燥地帯であるマリ共和国,ニジェール,ブルキナファソ,アルジェリア,リビアに拡散している.
 トゥアレグ人は,より定住的な形態の農業を志向する地域の政府によって周縁化されてきたため,独立国家になることを望んできた.
(唯一の例外はリビアで,前独裁者のムアンマール・カダフィ大佐は,移民のトゥアレグ人を自身の親衛隊として積極的に登用し訓練を重ねてきた)[5]

 マリ共和国では,南部の農耕民族が,北部のこの遊牧集団を周縁化するという統治の歴史を持ってきた.
 1960年代初めと90年代初めには,大きな蜂起が起こったが,その後90年代末に交渉を通じてかなりの和解がみられた.
 MNLAは1996年に武装解除が行われ,マリ共和国政府は北部地域への多額の支援を約束し,キダルという名の新しい州が創設されて,トゥアレグ人に大きな代表権が与えられ,トゥアレグ出身の大臣も数名任命された.[5]

 そうした小康状態の後,2006年にイブラヒム・アグ・バハンガが反政府武装組織「5月23日同盟」を結成し,マリ北部において再び武装闘争を展開.

 さらにカダフィ政権崩壊後,元雇い兵と武器が大量にMNLAに流入したため,2012年に入って,政府との抗争が激化.[1]
 2012.3.21の国軍クーデターによる中央の政情不安に乗じ,同じくトゥアレグ人のイスラーム過激原理主義組織「マグレブのアルカイダ組織(AQIM)」や「アンサール・ダイン(Ansar Dine)」と連携して,同30日に拠点都市のキダルを制圧し,その後,サハラ砂漠交易の中継地として有名な世界遺産都市トンブクトゥなどでも実権を掌握(しょうあく)し,「アザワド独立国」建国を宣言した.[1]

 しかしトンブクトゥでは,アンサール・ディーンがMNLAを追い払って支配下に置き,キダルなどで音楽放送や洋服着用を禁じるなどイスラーム過激原理主義的政策を敷くなど,こちらも内紛含みの模様.[2]

 【参考ページ】
[1]西アフリカのマリの情勢 | 解説 - VOV5
[2]http://mainichi.jp/select/world/europe/news/20120404k0000m030025000c.html
[3]http://www.worldflags.jp/157/
[4]http://www.worldflags.jp/121/
[5]http://ips-j.com/entry/3625;jsessionid=1BF18D1D409CCB5324085D6933A06508?moreFlag=true

トゥアレグ人分離独立勢力の兵士
(こちらより引用)

マリ共和国国旗@1959〜61年
(こちらより引用)

アザワド独立国の国旗としてMNLAが定めた旗
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2012/05/10 20:20
を加筆改修


 【質問】
 キダル襲撃事件とは?

 【回答】
 ターバンで身を包み,ピックアップトラックに乗った武装勢力が,アフリカ西部の国マリのキダルという町にある2箇所の軍基地を奪った,と23日のBBCが伝えています.
 損害は出ていない模様ですが,銃撃戦は報告されています.
 この地域は反政府組織Tuaregの活動が活発ですが,1998年に政府と同勢力は和平協定に調印しています.

おきらく軍事研究会,2006年5月29日


 【質問】
 マリ平和維持学校への自衛官講師の派遣について教えてください.

 【回答】
 2009/8/4の防衛省,外務省発表によれば以下のとおりです.

1.政府は,アフリカ西部にある国・マリのPKO訓練センター「マリ平和維持学校(Ecole de Maintien de la Paix)」に対し,わが自衛官2名を講師として派遣することを決めた.

1.派遣されるのは以下の諸官

○今村 英二郎 2等陸佐[陸軍中佐]
  所属:統合幕僚監部運用部運用第二課国際協力室
 
○高野 浩明 2等陸佐[陸軍中佐]
  所属:陸上自衛隊中央即応集団司令部民生協力課長
   元・第2次カンボジア派遣施設大隊員
   元・第1次東ティモール派遣施設群員
   元・ネパール国際平和協力隊員(連絡調整要員事務所長)

1.派遣期間は8月28日(出国)〜9月5日(帰国)

1.今村2佐と高野2佐は,アフリカの軍人及び文民の平和維持活動従事者・人道支援活動従事者を対象とする研修で講師を行なう.

1.派遣は,先方からの要請に基づくものである

http://www.mod.go.jp/j/news/2009/08/04c.html
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol19/index.html

 ⇒現在わが国は,アフリカのPKOセンター9つに対し,総額2000万ドルの資金支援を行なっています.
・「紛争解決・平和維持のためのカイロ訓練センター(CCCPA)」(エジプト)
・「大湖地域及びアフリカの角地域における紛争予防及び平和構築ネットワーク」
・「国際平和支援訓練センター(IPSTC)」(ケニャ)
・「ルワンダ平和アカデミー(RPA)」(ルワンダ)
・「アフリカ戦略研究センター(ACSRS)」(ナイジェリア)
・「紛争後地域における地雷・不発弾処理訓練センター(CPADD)」(ベナン)
・「コフィ・アナン国際平和維持訓練センター(KAIPTC)」(ガーナ)
・「南アフリカ国立平和維持活動訓練センター(PMTC)」(南アフリカ)
・「平和維持学校(EMP)」(マリ)

 わが国はPKOセンターに対し,金のみではなく有為な人材派遣も行なっており,自衛官,文民(ガーナとエジプト)が派遣されています.
 わが自衛官はエジプトに続き,マリが二ヶ所目の派遣となります.
 ちなみにエジプトでは,わが自衛隊創設以来はじめて,将官の海外派遣が実施されています.
PKO専門家として世界的に高名な榊枝宗男閣下の派遣

 自衛官のPKOセンターへの派遣が,国益に資する最大の意味はどこにあるのでしょうか?

 非常にカンタンです.
 わが自衛官が,アフリカの国造りを担う軍人・文民と密接な人間関係を構築出来るということに尽きます.

 わがアフリカ戦略はまだまだこれから策定していかなければならない状況にありますが,良好な人間関係の構築はどのような戦略が策定されようとも,その土台となる貴重な資源となります.
 「発展途上国エリート層との良好な人間関係構築は,その後の国家関係に直結する度合が極めて高い」とされます.
 特に発展途上国のエリート軍人は,後年国家指導者になるケースが多いです.PKOセンターに派遣されるような軍人・文民も,次代の国を背負って立つエリートと見て差し支えないでしょう.

 幸いなことにわが国は,過去のヨーロッパ諸国のようにアフリカを植民地化し,彼らを搾取したこともありませんし,最近の中共のようにアフリカ大陸に土足で踏み込むような見苦しい行いもしていません.
 わが国は,アフリカに対して真っ白な状態で関われる,唯一の先進国といえるのです.

 また日本流のPKOは,ある意味,武士道の体現ともいえる立派なものです.
 「混沌とした情勢にあるアフリカでの平和構築にあたっては,武士道のようなポリシーも求められている」というのが現場をよく知る人の意見です.

 アフリカ諸国のほとんどの人は
「自分達もいつかは日本のように成功した国になりたい」
と思っています.
 少なくともわが国が資金援助しているところだけでも,わが自衛官派遣を通じ,金のみでは決して手にすることのできない関係を培ってゆきたいものです.

おきらく軍事研究会,平成21年(2009年)8月10日
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アフリカのマリ共和国におけるクーデターについて教えてください.

 【回答】
 1992年に軍事政権から民政へ移行したマリ共和国だが,同国北部において,トゥアレグ人分離独立勢力が,2012年1月にマリ北部各州を制圧すると,政府軍内部からは武器が足りないなどといった不満が噴出.
 同年3/22,アマドゥ・サノゴ大尉が率いる「民主主義と国家の再建のための国民委員会」(CNRDR: the National Committee for the Return of Democracy and the Restoration of the State)によるクーデターを招いた.
 首都バマコから15キロ離れたカティ市の国軍キャンプで蜂起した彼らには,プレア・マリ国防・元軍人大臣や国軍幹部が加わっており,彼らは国営テレビを占領し,首都バマコの大統領府を攻撃.
 戦闘により,少なくとも死者1名,約40人の負傷者が出たとされている.
 4/6には西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の調停により,議会議長が暫定大統領となり,その後40日以内に選挙を行うなどとする権力移譲案で,反乱軍は合意.
 トゥーレ大統領は行方不明となっていたが,首都バマコに潜伏していた模様で,上述の調停により,4/8に辞任した.
 代わりにECOWASは国境封鎖などの制裁を解除し,反乱軍には恩赦が与えられるとし,これによりクーデターは終息に向かった.

 他方,この混乱に乗じ,トゥアレグ人勢力は「アザワド国」独立を宣言してしまったのだから結局,何のためのクーデターだったのやら.

 【参考ページ】
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2012/04/post-0fe2.html
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/24/dga_0323.html
http://newsyomaneba.seesaa.net/article/259411818.html
http://kyodoga.blogo.jp/archives/3947871.html
http://togetter.com/li/277716

マリ共和国位置
(こちらより引用)

クーデター時の模様
faq120505ml2.jpg
faq120505ml3.jpg

トゥーレ前大統領
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2012/05/08 20:50
を加筆改修


 【質問】
 モーリタニア史の概略を,言語問題も交えて教えられたし.

 【回答】

 フランスからモーリタニアは独立したのですが,フランスが植民地化するまで,この地には特有の民族が疎らに住んでいるのみでした.
 セネガル川流域には,以前も触れたウォロフ人やフラニ人,トゥクルール人,マリンケ人と言った民族が住んでおり,これらの民族は現在のセネガル,マリ,ニジェールで重要な地位を占めていました.
 彼らは主に農業を営んでいましたが,牧畜も営み,村落に住んで代々そこで定住する傾向がありました.

 ニジェール川北部の地域には,大きく2つの民族が居住していました.
 これらの民族は本質的に遊牧民族で,相互に依存していました.
 片方の民族は「戦士」として知られる民族で,アラブ系の顔をしています.
 彼らは,13世紀に遠くイエメンから侵入してきたベン・ハッサン民族の血を引いていました.
 もう一方の民族は,「修道士」や「学者」系統として知られる民族で,イスラーム系ベルベル人の血を引き,この地域に生まれ育った民族でした.
 彼らは,「戦士」に物質的,政治的な擁護者になって貰うお返しとして,彼らに年貢を納め,知的・精神的な面で協力しました.
 この中には民族間で通婚する者もいて,アラビア語の方言である「ハッサーニア」が共通語になりました.
 こうして,この両グループが融合されて,最終的に「ムーア人」或いは「白人」と呼ばれる人々になっていきます.

 ニジェール川北部に住んでいる彼ら「ムーア人」は,南部や東部に侵入して「黒い」奴隷を連れてきて,肉体労働をさせていました.
 これらの奴隷達は,幾世代に亘ってこの地に住むことにより,やがて自民族の言葉を忘れて「ハッサーニア」のみ話す様になり,ムーア人の習慣を継承しました.
 その中には,奴隷から解放されて「ハラティン」となった者もいますし,ある場合には独自で別個の民族を形成する場合もありましたが,その場合も組織や習慣はムーア人と同じで見分けが付かず,南方の黒人諸民族のそれとはかなり異なったものになっていきます.
 これら北方の民族群は,ある時は戦闘を繰り広げ,ある時は同盟を結び,やがてセネガル川流域の黒人諸民族と交易をする様になりました.

 時にはイスラームが,その統合の要素となる場合もあります.
 また,必然的に民族間の通婚や内縁関係が出来て,結果的に肌の色で民族を見分けることが出来なくなり,それよりも民族への帰属心や言語などがずっと重要な要因となっていきました.

 フランスは,20世紀初頭にこの地域全域を植民地化しましたが,何年もの間,セネガル川流域北方の居住困難な土地には殆ど立ち入ることが出来ないでいました.
 フランス人はその植民地を「フランス領西アフリカ」と呼んで,セネガル川の三角地帯に首都サンルイを建設します.
 そして,川沿いに住むウォロフ人やトゥクルール人,フェラ人,マリンケ人などの民族と頻繁に交易をしていました.
 ただ,彼ら諸民族の言語が純粋に話し言葉のみである事から,統治上の言語としてフランス語を設定し,フランス語学校を町や村に建設していきました.

 ただ,連絡が届きにくい北部の遊牧民族は,殆ど手つかずの儘でした.
 尤も,彼ら遊牧民族は書き言葉として古典アラブ語を持っており,文学や教育に関しても長い伝統を有しています.
 その為,彼らの多くはフランス語の軍門に降るのを潔しとせず,フランス文明に頑固に抵抗し続けていました.
 民族の首長達の中には,息子を河岸の「首長の息子の為の学校」へやらねばならないというのに抵抗して,自分の息子の身代わりとして奴隷の息子を行かせる者もいました.

 時は流れ,アフリカの時代となり,フランスはこの植民地を手放すことになります.
 1950年代終わりにセネガル川を南方の国境としてモーリタニア共和国を作り上げ,1960年にこの地は独立することになりました.
 ただ,その国境線の引き方は非常に作為的なもので,北部にムーア人が,南部に黒人が居住する状態になっていました.

 何故,こうした線引きが為されたのかと言えば,南部の黒人諸民族の方が行政に関わる仕事の上では何かと対処しやすかったからです.
 と言うのも,フランスの植民地行政はそもそも総てがフランス語で実施されており,そのフランス語の教育を受けて体制に順応していたのが黒人諸民族でした.
 その上,黒人諸民族は定住する習慣を持っており,ムーア人の大半の人々に比べて肉体労働も厭わなかったと言うのもあります.

 ただ問題は,ムーア人の比率が当時の人口約150万人の内,75%を占めていた事です.
 この75%の中には,独立時に制定された憲法に基づき自動的に解放された黒人奴隷で,ハッサーニアを話す人々も含まれますが,ともあれ,国の中で多数派を占めていたのがムーア人でした.
 当然,ムーア人は「黒人」の南部と統合させられたことに不満を持ちます.

 とは言え,肥沃なセネガル川流域は,乾期の間,ある北部の人達にとっても非常に重要な土地でした.

 一方で,この土地の肥沃さに野心を抱いたのがモロッコで,独立当初はモロッコが西サハラと共にモーリタニアの領有権を主張して統合を図ろうとします.
 結局,この統合は拒否されましたが,多くのムーア人は教育や行政の言語にフランス語が使用されることに対し,彼らの伝統や文化が脅かされると感じていました.
 ムーア人としては非常に信仰心が篤く,又恐らく,東方の石油の豊富なアラブ諸国と出来るだけ良い関係を保ちたいと願っていたので,フランス語では無くアラビア語を国語とすべきだと言う強い意向を持っていました.

 しかし,実際にセネガル川沿岸に住み,現在中部や北部で貿易をして暮らしている多くの人々にとっては,そうしたムーア人の拘りは彼らの繁栄を脅かすものでした.
 また,この流域の民族は非常に熱心なイスラームでしたが,一方でその宗教教育についてはムーア人程厳格ではありませんでした.
 そもそも,この流域の民族はフランス語と自民族語のバイリンガルであり,古典アラビア語の能力が非常に怪しげなものだったのです.
 更に,この流域の民族は,ムーア人が未だに彼らを肉体労働しか出来ない一種の奴隷と見做しており,政治的に彼らを抑圧していると感じていました.

 この様な累卵危うい状態で,国を統べていたのが初代大統領ワルド・ダッダーと言う人物です.
 彼は,北方のムーア人でも「修道士」「学者」系の民族出身であった為,反人種差別主義の政策を採り,あらゆる公的部門に比例代表制を取入れるなどして,その政策を普及させようと長い時間を費やしましたが,社会一般の考え方や態度はその政策を必ずしも反映したものではありませんでした.

 まず,教育格差是正の為,アラビア語による授業が学校や大学に導入されました.
 しかし,ハッサーニアを話さない黒人学生は不利になるとして強く反対し,1966年には各地で暴動が起きました.
 結局,騒動が収まると,アラビア語とフランス語の2カ国語教育システムが採られることになります.
 これは確かに良いのですが,どのクラスにもアラビア語とフランス語の2名の教師が付かねばならないので,多大の出費を必要としました.

 因みに現在,アラビア語というのは法律上国語として規定されていますが,今なお行政や政府の公務上は殆ど独占的にフランス語が使用されています.
 ただ,その事による紛争は余り発生していません.
 これは,アラビア語を国語にしたことにより,アラブ連盟にも加入することが出来,財政上の利益が目に見えた形で現れたからです.

 比較的豊かな時代にはこれで問題なく過ごすことが出来ました.
 ワルド・ダッダー大統領は,長期政権を築きますが,一貫して民族的,種族的な差異を公の局面で取りざたすることを最小限に食い止めようと努力していたのです.
 これに陰りが見えてきたのが,1975年の事でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/07 23:32
青文字:加筆改修部分

 さて,1975年,モーリタニアはモロッコと同盟を結びます.
 この同盟に於いて,モーリタニアはモロッコと両国の中間に位置する土地,即ち西サハラを分割,領有すると言う合意が為されました.
 と言うのも,スペイン本国に於ける政変により,当時西サハラを統治していたスペインが早々に撤退した為です.
 その空いた土地に触手を伸ばしたのが,建国以来大モロッコ復活の野望に燃えていたモロッコと,モーリタニアでした.

 しかし,この同盟はモーリタニアの南部出身者の多くが反対していました.
 モロッコと同盟を結ぶ事により,アラブ系ベルベル人が更に優勢になるのでは無いかと言う危惧を抱いた為です.

 ただ,モーリタニアとモロッコが新たに得た土地には,長らくスペインの支配に抵抗してゲリラ戦を繰り広げていた人々がいました.
 因みに,モロッコは1970年から1974年に掛けて,自らアルジェリアと手を組んでその地を解放するゲリラ勢力を支援していたりします.
 しかし,スペインの急な撤退により,モロッコは掌を返し,アルジェリアと手を切りました.
 そして,モロッコとモーリタニアは同盟を結んだ訳です.

 モロッコの姿勢は後述しますが,モーリタニアは西サハラ南部を支配下に収めることで,モロッコが元々潜在的に持っている,「南はセネガル,東はアルジェリアやマリの砂漠の支配権」を主張する,大モロッコ構想の脅威からある程度の距離を置く為でもあり,また,この地を抑えることにより,最良の港や漁場,地下水層の殆どと主な鉄鉱石の鉱床を含んでいるに違いない南部の砂漠を確保することができると踏んだためでもあります.
 こうして,モロッコのハッサン国王を司令官に,モーリタニアのムフタール・ワルド・ダッダー大統領が副司令官となってこの地を占領することになったのです.

 ところが,従前からアルジェリアは西サハラのゲリラ勢力を支援し続けます.
 こうして,モーリタニアとモロッコは泥沼の戦争に陥り,国家基盤の貧弱なモーリタニアは多額の戦費を拠出することを強いられました.
 この戦費拠出は,南部の人々から見れば不毛な土地の為に自国経済を破滅させることに疑問を抱かせるのに十分なものでした.

 また,ポリサリオとの戦闘で負傷したり殺害された兵士の多くは南部の黒人でした.
 当時は,異常気象により南部の黒人居住地域では旱魃が起き,農地を奪われた上,戦争による経済の打撃で仕事を失った為に,黒人たちは最低限の生活費を稼ぐ必要から志願兵となって前線に出て行った為です.

 こうして,国民の中で不満が高まった状態でしたが,南部出身者でも政治家や軍人,実業家には戦争に反対しない者もいました.
 このような状態で,1978年7月,軍部のクーデターが発生して,ワルド・ダッダー大統領はその座を追われ,ムスタファ・ワルド・サレク中佐が指導者の座につきます.
 しかし,サレク政権は民族差別はおろか奴隷制さえ支持しているという噂が広まりました.
 政府はこれを否定しましたが,新政権の公約に謳われている人種差別や民族主義の排除には,ワルド・ダッダーほどの情熱は持っていませんでした.

 同じ頃,南部を中心に1977年と1978年に実施された国勢人口調査の結果に異議を唱えた人々がいました.
 彼ら曰く,従来から言われている75:25と言う「白:黒」の人口比率は作り話であり,現在は同数になっていると主張しました.
 そして,彼らは民族的圧力団体を結成し,セネガルの場合と同じく,彼らの言語の復興を要求するに至りました.

 この頃はまだモロッコとの同盟は維持されていました.
 そのため,モーリタニア領内に師団規模のモロッコ軍兵士が駐屯していたのですが,こうした駐屯兵は,時には西サハラと全く関係のない,セネガル国境から北方に僅か1マイルの地点にも配置されていました.
 こうした動きに,セネガルのサンゴール大統領は敏感に反応します.
 サンゴールは,こうした動きをとること自体,モロッコが西サハラのみならずモーリタニアを併合し,更にセネガルへの侵攻を狙っているのでは無いかと考えたのです.
 そして,サンゴールはセネガル川北岸の人々に対し,これら南部の民族がセネガル人と強い血縁関係を持っていることを示唆して,彼らの「自決権」の可能性を仄めかしたりもし,モーリタニアの軍人政府に無言の圧力を加えました.

 それから暫くして1979年になると,クーデターにより樹立された国家顧問委員会の81名の評議員の内,17名が名ばかりの代議制に抗議して辞職,日に日にこの政府の支配力は弱まり,ワルド・サレクは名目上の大統領として地位を保っていたのですが,4月6日,遂にアハメド・ワルド・ブーセイフ中佐が密かに実権を掌握し,遂にクーデター政府は転覆してしまいました.

 新たな指導者は,ポリサリオ戦線と停戦協定を結び,益の少ない西サハラから軍隊を撤退させました.
 ただ,ポリサリオ戦線にその支配地を委ねることはなく,その跡地には新たな支配者としてモロッコ軍が入ることになります.
 ただ,モロッコもこの地の完全占領には成功していないのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/08 22:56


 【質問】
 モーリタニア Mauritania の2008年クーデターについて教えられたし.

 【回答】
 2008/8/6,アフリカ西部のモーリタニア・イスラム共和国で,軍が起こしたクーデタです.
 軍は大統領府を制圧.アブドライ大統領や首相等を拘束しました.
 クーデタ部隊は,前軍参謀長兼ねる大統領警護隊司令官・アブドルアジズ大将を議長とする,国家評議会の設置を国営テレビを通じて発表しています.

 アブドライ大統領が六日,アブドルアジズ大将,ガズワニ大将,スウィクリ大将,バクリ准将等の解任を発表した直後にクーデタが発生したそうです.

 モーリタニアでは05年8月,軍が無血クーデターで政権を掌握しました.
 07年3月の大統領選でアブドライ氏が選出され,同4月,民政移管が完了しましたが,今年6月には内閣不信任決議案が提出され,首相は7月に内閣を改造するなど政治危機に直面していました.

 モーリタニアでは,最近になって沖合いで石油と天然ガスの埋蔵が確認され,二〇〇六年から石油生産がはじまっています.
 軍の兵力は,総数1万6千人弱で,陸軍:1万5千人,海軍:620人,空軍:250人(2006年)です.

 ⇒モーリタニアといえばまず思い出すのがタコですね.
 タコ焼き屋のおじさんから聞いた話ですが,タコ焼き用のタコはモロッコ産を使っていたそうですが,枯渇してしまったそうで,今はモーリタニアのタコを使っているそうです.
 かの地のものでないと,おいしいタコ焼きにならないそうです.

おきらく軍事研究会,平成20年(2008年)8月11日


 【質問】
 「ビラード・マフザン」「ビラード・スィーバ」とは?

 【回答】

 アフリカの北西部は,俗にマグリブと呼ばれています.
 この一番端にある国がモロッコです.
 このモロッコ,19世紀までは独立を保っていましたが,20世紀に入った1912年,遂にフランスとスペインによって保護領化されました.
 現在の首都であるラバト−サレを始めとして,帝都だったフェズやマラケシュ,そして有名なカサブランカと言った都市を支配したのはフランスでした.

 此処に住んでいた人々の社会を研究した,当時の植民地政府の研究者達は,このモロッコの社会の基本単位を「部族社会」であると考えていました.
 そして,部族はそれぞれ独立した状態であり,部族同士の同盟である「レフ」や部族間の対立が拡大再生産された社会がモロッコ社会であるとし,アラブとベルベルを明確に区別しており,モロッコの政府である「マフザン」はアラブ側であり,ベルベルはマフザンの管理から外れた存在と見做していました.

 当時のモロッコには,「ビラード・マフザン」と「ビラード・スィーバ」と言う2種類の地域が存在していました.
 これを評して,植民地政府の研究者達は,前者をアラブの土地,後者をベルベルの土地であると見做しています.

 しかし,実際の「ビラード・マフザン」と「ビラード・スィーバ」の概念はこれとは異なります.

 「ビラード・マフザン」と言うのは,君主と中央政府を承認し,マフザンに対して税金を支払っている地域の事を指します.
 この地域には,マフザンから派遣された,或いはマフザンが任命した地方役人が行政を司っています.
 この地域の住民は,君主の権威を受容し,税金を払い,要請があれば兵士や軍への補給品を供出しました.

 一方,「ビラード・スィーバ」は,君主と中央政府としてのマフザンを承認してはいますが,税金を支払わない地域であり,これはアラブかベルベルかと言う区分けは存在せず,ただ,税金の支払を許容するか否かによるものです.

 従って,両地域の境界は時期によって変動的で,「ビラード・マフザン」として税金を支払っていた地域が,ある時,「ビラード・スィーバ」に転じる事もありますし,その逆も起こり得ます.

 例えば,1860年にスペインとの間で,モロッコはティトワン戦争を闘います.
 これにモロッコは敗北し,多大な賠償金を支払う義務が発生しました.
 マフザンの財政はその賠償金で悪化しますが,歳入不足の最大の原因は,多くの地域が「ビラード・マフザン」から「ビラード・スィーバ」へと転じたのが原因です.

 ただ,「ビラード・マフザン」は勿論の事,「ビラード・スィーバ」も,君主を「アミール・アルムーミニーン(信徒の指揮者)」と認めており,その主権,君主のその地域に於ける代理人も承認しています.
 「信徒の指揮者」として君主を認めていない地域は,「ビラード・フィトナ」と呼ばれるもので,こうした地域は,特に王朝の交替期に出現しました.

 「ビラード・マフザン」,「ビラード・スィーバ」の何れの地域も,バイア(忠誠の誓い)を通じて「信徒の指揮者」としての権威を承認していました.
 バイアを通じて,統治する者は統治されるものを保護し,統治される者は統治する者に忠誠を誓います.
 その意味で,バイアは政治的,法的主権を意味し,モロッコ体制の基盤となるものである訳です.

 モロッコの総ての王朝は,バイアの原則に基づいて成立しました.
 因みに,モロッコの諸王朝は,多くのアラブ諸国で見られる様に,植民地化の副産物として成立した訳では無く,植民地の前から成立していたものです.

 モロッコの現在の王朝はアラウィ朝ですが,イドリース朝に始まる歴代王朝の権力基盤は,宗教的権威であり,1956年に独立して以降も,モロッコ国王は「信徒の指揮者」,つまり「イスラーム教徒の長」と言う事になっています.
 そして,ある人物を「信徒の指揮者」と認める行為を,バイアとなります.

 独立後,1962年12月14日憲法では,国王を国家元首,そして信徒の指揮者と規定し,宗教的分野を統括する完全な権威を国王に付与しています.
 この憲法では,「モロッコは立憲君主制であり…」となっています.
 第6条では,「イスラームは国家の宗教であり…」と規定されました.
 その後,幾度かの改憲を経ていますが,1996年憲法の第19条では,「国王,信徒の指揮者,国家の最高元首…」と規定されています.

 イスラーム法では,バイアにより,「信徒の指揮者」は住民と政治と宗教に関する諸事項を管理する責任を負います.
 そして,住民の側は彼の職務を助け,国の一体性を保全する為に支援する義務を負うのです.
 バイアによって,政治と宗教が結合し,又,「信徒の指揮者」が領土防衛の責任を担う事で,「領土」と言う要路が政治と切り離せないものとして関係します.
 従って,ある部族或いはある地方からバイアの書類が出されたとすれば,それはその部族或いは地方がバイアを提出した先のスルタンの主権下には行った事を意味します.
 その代償として,スルタンは当該地域を内外のあらゆる脅威から守る義務を負う事になるのです.

 バイアには地方の名称が記入されており,王国の実際の境界を定義する事が出来ます.
 又,バイアはモロッコを侵略しようとする外国勢力に対抗する蟻集力と団結の象徴でもあります.
 人民が国王に対して忠誠を誓った法的な行為であるバイアによって国王は市民の権利を保護し,領土の一体性を守る責任者となる訳です.

 モロッコがバイアの制度を導入したのは,預言者ムハンマドの死後,アブー・バクルをその後継者であるカリフと認め忠誠を表明したという,預言者ムハンマドの教友等の範に従ったものです.
 モロッコはヒジュラ暦172年(西暦751年)に預言者ムハンマドの娘のファティーマ・ザハラとその従兄弟アリーの子孫であるイドリース1世に対するバイア以来,他の国々にある膨大な慣習的或いは成文化された法則でバイアに代える事はありませんでした.

 1999年7月23日に即位したムハンマド6世もその即位式の蔡には,宗教大臣がバイアを読み上げ,政治家や各界の名士,部族長などが国家の新たな国王を「選出する」為に,バイアに署名しました.

 バイアの契約は,モロッコに於いては,国王が死去或いは義務の履行が不可能になった為の退位,或いは廃位の後,国家の高官等や共同体の名士等が,イスラーム法学の基準に照らして誰が後継者として相応しいかについて協議し,全員一致である特定の人物を選出すると,その人物に対して忠誠を表明する事で成立します.
 モロッコではバイアは,常に書面で,即ち取引契約と同様に,公証人によって記録されてきています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/03 23:35
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 モハメッド五世時代のモロッコ情勢について教えられたし.

 【回答】

 さて,1940年代,モロッコでも御多分に洩れず,民族主義運動や武装闘争が激しさを増し,これを危惧したフランスは1953年に,当時のスルタン,モハメッド5世を強制退位させ,国外に追放して,その後傀儡スルタンを擁立しようとします.
 しかし,国民はこれに反対してとしでは大衆運動,地方ではゲリラ戦が繰り広げられる様になりました.
 当時,北アフリカでは隣のフランス領アルジェリアで大規模な武装闘争が繰り広げられており,モロッコでのゲリラ戦に割ける兵力が少なく,この為,以前追放した前スルタンのモハメッド5世と交渉を行い,スルタンの復位と引き替えに,モロッコの独立を容認する協定を締結することになります.
 つまり,モハメッド5世は国内の民族解放闘争に依らず,フランスの力により強引に独立に持っていった訳です.
 フランスに抗して独立を達成したと言う部分は,モハメッド5世の得点でしたが,逆にフランスの力により独立を達成したと言う意味では,弱点ともなりました.
 国民の支持を得ずに独立を達成した事により,スルタンは権力基盤が極めて脆弱な状態に置かれたのです.

 一方,スペインはモロッコ北部にセウタとメリリャ,南部にイフニとタルファヤと言う飛地領土を有しており,モロッコ独立後もこれは保持されていました.
 これに対し,この地域の住民や武装勢力は強い反発を示して,南部では陸続きの西サハラにいるサハラウィとの共闘を得て対スペイン戦争が繰り広げられました.

 これに対し,スペインは2つの方策を用います.
 1つは,イフニとスペイン領サハラをスペインの海外県とする法規を設け,本国と同一の政策を採ると言う懐柔策.
 もう1つは,フランスとの合同作戦の元に統治を完成する武断策です.

 1958年1月,モーリタニア現地兵により編制されていたフランス軍部隊が,武装勢力に攻撃されると言う事件が発生しました.
 フランスはこれを奇貨として,フランス領モーリタニアに対する威嚇行為として「追跡権」を楯に,スペイン領サハラへの軍事介入を正当化し,折しもこうした勢力の跋扈に手を焼いていたスペインと合同で,2月から掃討作戦を繰り広げました.
 この作戦は,フランス側はエクーヴィヨン,スペイン側ではテイデと言う秘匿名を与えられました.
 フランス軍は,モーリタニアの駐屯地とチンドゥフから西に向けて進撃を開始し,スペイン軍は海岸の駐屯地から内陸部に向けてそれぞれ出撃しました.
 総兵力1.4万人,支援空軍機130機,参加車輌600両と言う膨大な戦力を投入した両国軍は,僅か2週間後に平定を完了しました.

 こうした作戦が取られたのは,勿論,アルジェリアの反仏武装勢力であるFLNの拠点が拡散することを恐れた為です.
 武装勢力にとって,安全地帯が有るのと無いのとでは,その戦闘方法が変わってきます.
 モロッコや西サハラにFLNの拠点を置かれると,アルジェリアの戦況が不利になった時にこの地に逃げ込むことで戦力の回復が図れますし,しかも,FLNの影響下にモロッコや西サハラの武装勢力が置かれ,特にモロッコのスルタンが転覆されたりすると,武器弾薬医薬品は,モロッコを通ってアルジェリアに流れ込むことになりかねません.
 既にFLNはチュニジアに展開しており,作戦開始の2日前には,「追跡権」の下に,アルジェリア駐留のフランス軍機がチュニジアの町を爆撃し,チュニジア人に多数の犠牲者を出していたりします.

 このフランスの懸念と,スペインの反植民地勢力対策が合致して,数ヶ月前からこの作戦は準備されていましたが,この時,モロッコの権力者達もその恩恵を得ています.
 元々1955年,モハメッド5世の復位を求めて,モロッコ国内に武装勢力が結成されました.
 独立後,この武装勢力は分裂し,1つは王国軍に入隊する者と,それを拒否する者に分れました.
 残留組はリフや中央アトラス出身の農民が主体で,独立後に支配者層となった人々にとって無益な存在となったばかりか,逆に自分たちの権力を脅かす力になりかねないと言う懸念が残りました.
 そんな折りに開始された仏西共同作戦は,自らの手を汚さずに,彼らを殲滅する絶好のチャンスでした.
 モロッコ軍は南部に配備されて,作戦展開地の北部を封鎖し,西からのスペイン軍,東と南からフランス軍が侵攻することで文字通り一掃されたのです.

 当然,こうした事をすると,非難は権力者に集中することになります.
 そこで,国民の関心を逸らす為にスルタンやその政府が行ったのが,イスティックラル党のスローガンでしか無かった「大モロッコ主義」の採用でした.
 この先手打ちは成功し,モロッコのスペイン領サハラの要求は王権維持の為のイデオロギーとなり,王党派から共産党に至るまで,そして軍部も巻き込んで,全国民の一致を生み出す源となり,国威発揚のスローガンとして最適なものとなった訳です.

 ところで,スペイン領サハラは海外県になりましたが,これは対サハラウィの懐柔策であったと同時に,当時,脱植民地支配のうねりが高まる中で,この地が国際社会に取り上げられることを回避する為の方策でもありました.
 地方議会や市議会を設け,スペインの国会であるコルテスに3名の議員が送られ,サハラウィ氏族社会にあった同名のものとは別の名士会的なものである「ジュマア」を組織する等しましたが,この制度は実際には形骸化されたものでした.
 選挙システムにしても,本国人とサハラウィとでは格差があり,各機関の責任者は殆ど総てがスペイン当局から任命され,住民代表組織として位置づけられた「ジュマア」にしても,スペイン政府の意のままに動く地元有力者を集めたに過ぎず,その建言も非常に限られていました.
 勿論,教育制度も一応は整備されていますが,本国人に比べるとサハラウィの就学率は非常に劣っていました.

 当時,サハラウィ達は,モロッコで反植民地闘争を担っていた武装勢力が壊滅に追い込まれた結果,独立要求を掲げる団結した解放運動というものが存在していませんでした.
 この為,スペインはほぼ思惑通りに植民地支配を続けていくことになります.

 その上,スペインは1962年,この地に思いも寄らないお宝を発見することになります.
 ブ・クラアにある鉱山から世界最大級の燐鉱石が発見され,これが原因となってスペインはこの地域に対する執着度を一気に高めていったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/12 22:59
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「大モロッコ論」とは?

 【回答】

 さて,西サハラの境界線は,1884年に開催された列強によるベルリン会議である程度決められました.
 ただ,当時,この地域を割り当てられたスペインは,地元住民による攻撃等の理由から内陸部への進出には余り積極的では無く,漁業を中心とした経済基盤を,リオ・デ・オロ地方に築くことに主眼が置かれていました.
 一方でフランスは当時,アフリカ横断政策を続けていたことから,この地域にも触手を伸ばしており,スペインの権益を侵しかねなかったことから,1900年,1904年,1912年の3回に亘ってフランスと植民地境界線取決めの為の西仏協定を締結します.
 こうして,最終的な西サハラの国境線は定められた訳です.

 当時,スペインは米西戦争に敗北してフィリピンやキューバと言った昔からの根拠地を失っていました.
 これが植民地支配政策に投影されており,スペイン人居留地は専ら漁業や商業の為に沿岸都市に集中して,防備戦力としては,内陸部の現地住民叛乱に備えて現地住民を兵士に採用した駱駝部隊であるメハリ部隊を編制して駐屯させていたに過ぎませんでした.
 このメハリ部隊も海岸一帯をコントロールする程度でしか無く,武装闘争を根絶するには国家が余りにも弱体化していた状態でした.
 一応,内陸部に兵を進め,1934年にリオ・デ・オロ地方の内陸部,更にサギア・エル・ハムラ地方の実質的占領に成功したのですが,これは既に当地域を鎮圧し占領していたフランス軍の御陰であり,嘗ての都であるスマラに駐屯地を置いたスペインは,以後フランスの北アフリカに於ける反植民地勢力の壊滅政策の片棒を担ぐことになります.

 因みに,1936〜39年に行われたスペイン内戦では,この地にいたスペイン軍はヴィラ・シスネロスに駐屯していた兵士達以外残りは総てフランコ政権軍に付き,地元住民の一部は徴募されてファシスト軍の後方支援などに回されています.

 ところで,1956年6月,独立後僅か3ヶ月のモロッコで,保守派ナショナリストのイスティックラル党のリーダーであったアラル・エル・ファッシは下記の様な演説を行いました.

-------------
 モロッコは独立しているものの,完璧な統合は為されていない!
 スペインの勢力下にあるタンジェとサハラ,フランス勢力下のチンドゥフ,ベシャール,トゥアッ,ケナッサ,モーリタニア,これらが解放され統合されるまでモロッコ国民は戦い続けるであろう.
 モロッコの独立は完成されなければならないのだ!
-------------

 これが俗に言う「大モロッコ論」と呼ばれるものです.
 これによれば,モロッコの統合された国土と言うのは,モロッコのみならず,アルジェリア内陸部の3分の1,マリの内陸部の半分と西サハラ,モーリタニアの全土を含むことになります.
 これらは,16〜19世紀にかけて,モロッコのスルタンが遠征した地域の断片を繋ぎ合せた版図なのです.

 アジアで言えば,モンゴルが,中国やロシアに中東全域とインド,それに日本からヴェトナム,インドネシアまでを全部俺の土地と宣言する様なもので,荒唐無稽にも程があると言うものだったりします.

 確かに16世紀末や17世紀後半のスルタン達が,ニジェール川湾曲部一帯に栄えていたソンガイ帝国(現在のマリ)に遠征して,覇権を握ったことはありますが,モロッコとソンガイ帝国の間に繋がる土地をスルタンが総て抑えていた訳ではありません.
 モールの国(現在のモーリタニア)に対しては,スルタンは幾つかの地域に特使を派遣したり,地元有力者との間に婚姻関係を結ぶなどの関係を構築したりはしましたが,サギア・エル・ハムラ地方やリオ・デ・オロ地方の住民は,スルタンの威令に服しませんでした.
 従って,スルタンの使節がスーダン(現在のマリやセネガルを当時はスーダンと呼称していた)に向かうには,モロッコ国境からアルジェリアの国境線を越えてアルジェリアにあるチンドゥフを経てトンブクトゥ方面へ,またモールの国へは,チンドゥフからアタールへと向かう形の大回りを強いられ,西サハラを避けるルートを採っています.

 サァード朝以来のスルタン達は,交易路となっていたサハラ横断路を取締り,収益を独占しようとして現在の西サハラ地域へ派兵を試みましたが,サハラウィ氏族の激しい抵抗に遭い,何れも戦果を得ることは出来ませんでした.

 前述の様に,18〜19世紀に掛けては欧州列強がモロッコと幾つかの条約を締結しています.
 大西洋岸地域では,沿岸で難破して拿捕されたり,掠奪に遭う船が幾つも発生していました.
 そこで,スペインや英国はモロッコに対して自国船舶及び乗組員の安全を保障する為の条約を締結しようとしたのです.
 但し,これらの条約でスルタンがその安全を保障している範囲は,ヌウン地方以北の海岸域に限定されています.
 ヌウン地方とは,現在のモロッコ南部アガディール地帯と呼ばれる場所です.

 そうなると,「大モロッコ論」の論理は怪しくなります.
 つまり,国際条約上,スルタンの実効支配地域は現在のモロッコまでであり,現在の西サハラ以南で発生する海難事故や掠奪に対してはスルタンは一切手出しが出来ないと言う事になるのです.
 そして,モロッコのスルタンから独立した形で,サハラウィ達は既にこの地域で自分たち独自の統治機関を持っていた訳です.

 こうした事実に目を瞑って,耳当りの良い言葉を一杯読み書きしていると,何時しかそれは一人歩きを始めてしまいます.
 その「大モロッコ論」は,スルタンの権威付けに利用され,そのスルタンにとって脅威となる軍隊の力を削ぐ為に利用されました.

 現在では未だマシになっていますが,少なくとも20世紀後半は,モロッコでは「大モロッコ論」が国是となり,1人歩きをする事になった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/11 23:08
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ハッサン二世時代のモロッコ情勢を教えられたし.

 【回答】

 ところで,モロッコでは1961年にハッサン5世が死去し,ハッサン2世が即位します.
 1969〜73年にかけてモロッコは,アルジェリア,モーリタニアの3国首脳で頻繁に会合を持ちました.
 これらの共同声明には絶えずスペイン領サハラの非植民地化,解放が提唱されていました.

 ただ,「解放」については,3国の間に温度差があり,アルジェリアにとってはサハラウィの民族自決権行使による解放であったのに対し,モロッコにとっては自国領土の一地方となる事を意味していました.
 この間のハッサン2世は,今までの「大モロッコ論」に修正を加えて,それまで自らが自国領土と主張していたモーリタニアの独立を承認したり,アルジェリアとの国境紛争で主張を下ろすなどの譲歩の姿勢を見せていましたが,これは総て最終段階でモロッコの領土主張を受容させる下地をこの時作ろうとしたのです.
 また,ハッサン2世は,アルジェリアが将来的に西サハラを自国領土にする事は決して無いだろうと考えていました.

 そもそも,アルジェリアは国際的な支持の元で解放闘争を展開し,独立を手にした国ですから,そのイデオロギーである「民族自決権」が,領土拡張主義に変貌するはずは無いからでもありました.
 また,アルジェリアに対してモロッコは,「解放」の暁には,アルジェリアが現在地中海へと積出を行っているガラ・ジュビレの鉄鉱石を最短距離である大西洋岸に積み出せる様に,輸送用の鉄道を教導で敷設すると言う提案も行っています.

 モロッコのハッサン2世がこの地に執着を示した理由は2つあります.

 1つは,資源面の問題です.
 1962年に発見されたブ・クラアの燐鉱床で,これは世界有数の質と埋蔵量を持っています.
 モロッコも燐鉱石の主要産出国であり,産出高は世界でも第3位,輸出高は世界第1位です.
 従って,西サハラを手に入れればその地位は更に向上するのですが,逆にそれが独立すれば国際市場価格を脅かす強敵となりかねません.
 燐鉱石に次いでこの地域で豊富なのは水産資源です.
 1200キロメートルの海岸線を持つ西サハラの海域は,世界でも指折りの水産地帯であり,スペインが着目したのもこの水産資源を目当てにしてのものでした.

 もう1つの理由は,王権維持という政治的理由です.
 モロッコでは,1971年7月,1972年8月に相次いで軍部によるクーデター未遂事件が発生し,玉座が危機に瀕しました.
 国王は事件発生後,首謀者は勿論,軍内部の疑わしい人物は総て死刑に処したり有罪判決に処して軍から追放し,軍の「浄化」を進めました.
 これと並行して,1970〜73年にかけて国内各地で農民,鉱山労働者,学生によるストライキ,占拠と言った大衆闘争が勃発し,其の都度,逮捕,拷問,処刑と言った弾圧措置が執られました.
 一応,立憲君主制を敷き,普通選挙制を採用して内政の安定化を図っていた様なハッサン2世でしたが,其の実は強力な専制君主制だった訳です.
 ところが,その権力基盤が,2度に亘る軍のクーデター未遂により,完全に揺らいでしまったのです.
 この国内立直しの為に,ハッサン2世が持ち出したのが,「モロッコ領サハラ」と言う切り札であり,国民をそれに向けさせて,挙国一致を作りだそうとしたものでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/13 21:48
青文字:加筆改修部分


目次へ

「別館A」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ