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◆Mozambic モザンビーク
Africa FAQ目次


 【link】

「日経」●(2013/01/12) モザンビークで発見された世界有数のガス田開発事業を展開


 【質問】
 1550年ごろのモザンビークがどんなもんだったか,わかるような本やサイトはないでしょうか?

 【回答】
 吉国 恒雄著「グレートジンバブウェ―東南アフリカの歴史世界」講談社現代新書

 16世紀のモザンビークはジンバブエを中心にザンベジ川流域に,勢力を誇ったバンツー族のモノモタパ王国に属していた.
 モノモタパ王国は牧畜とイスラム・インド商人との金や象牙の輸出で栄えていたが,15世紀末期ポルトガルが進出.
 1560年にイエズス会士シルべイラがモノモタパ宮廷に到着し王・貴人の改宗に成功するも,翌年保守派によりシルベイラ暗殺.
 これに怒ったポルトガルは軍を派遣するも,熱帯病などにやられてあえなく退却.
 以後,王国は内紛と,それに介入したポルトガルにより衰退に向かう.

 ちなみにこのころのモノモタパ王国をマンボ王国とも呼んだりもする.
 ♪う〜っ,マン(以下略

世界史板


 【質問】
 モザンビークがポルトガル植民地として確定するまでの経緯を教えられたし.

 【回答】
 16世紀,ポルトガルは,他の欧州諸国に先駆けてアフリカ沿岸に進出し,交易拠点を設置しました.
 これらのポルトガル領土では,19世紀末まで沿岸部の交易拠点周辺に於ける奴隷と象牙の取引と言った搾取型の経済活動が行われ,後に進出した欧州諸国,例えば,英国,フランスの様に,内陸部に於ける支配,開発を殆ど行ってきませんでした.

 これに転機をもたらしたのが,1884〜85年に行われたベルリン会議を契機とする欧州諸国によるアフリカ分割と,国際的な"effective occupation"の圧力でした.
 ところが,ポルトガルlが主張する領土に於ては,実効支配が行われておらず,行政機構の整備も行われていませんでした.
 例えば,現在のモザンビーク中部で最もPortugalの影響が強いとされてきたPrazo地域でさえ,ポルトガル人等は長年に亘る現地人首長の反乱を抑える事が出来ず,統治に不可欠な行政機構を設置することも無かったのです.

 ところが,列強によるアフリカ分割を調整したベルリン会議では,植民地領有の原則として,確定領土内の全領域に於て経済開発を具現化させることを定めました.
 この取り決めに従い,列強各国は相次いで探検隊や遠征隊がアフリカの内陸部に向かいます.
 特に英国は,ケープタウンからカイロまでをスローガンに,積極的に内陸部に探検隊を送り込み,フランスとはファショダでぶつかったりしています.
 これは元々,ドイツの帝国主義的野心を牽制する目的で行われた政策ですが,その影響をまともに被ったのがポルトガルでした.

 1876年,ポルトガルは列強による自国植民地(と標榜する地域)の侵蝕に対抗する為,リスボンに地理常設委員会(後にリスボン地理学会)を設立し,数々の「探査隊」を派遣しました.
 しかし,従来の歴史的権利を主張するだけでは植民地領有権としては不可能となっていた為,領有を主張する一帯のアフリカ人首長等と合意を結び,各地に一つでも多いポルトガル国旗を掲揚する必要が生じました.
 こうして,1883年になると,ポルトガル植民地領域確定の為の地図作りが国策として開始され,1884年始めには3つの大規模な内陸部探査隊が送り出されることとなります.

 ベルリン会議直後の1886年には,ポルトガル政府は,国会に於て,"mapa cor-de-rosa",即ち,アフリカ大陸の東岸にあるモザンビークと西岸にあるアンゴラの間に広がる地域(現在のジンバブエやザンビアを含む地域)を描いた「バラ色の地図」を発表し,同領域を,"Provincia Angolomozambicana"(アンゴロモザンビーク州)と呼びました.
 しかし,その北部にあるコンゴ・ザイールの領有権獲得に成功したベルギーの干渉と,アフリカ中部を通る大帝国領土建設を目論んだ英国の圧力により,この計画は頓挫します.

 特に,ザンベジ川内陸部の領有権は英国政府との間で衝突の原因となり,植民地相Cecil J. Rhodesは,探検家David Livingstoneの伝道事業を利用し,英国政府が同地住民を保護する必要があると説きます.
 これに応じて,1890年1月,英国のSalisbury首相は,ポルトガル政府に対して同地域から撤退する様最後通告を突きつけ,ポルトガルは涙を飲んで受諾することになります.
 と言うのも,既に昔の栄光は今何処で,ポルトガルは経済的に英国に半ば従属していたからに他なりません.
 結果として,「バラ色の地図」は画餅に帰し,1890〜1891年の英国政府との交渉に於て,モザンビークというポルトガル領が正式に誕生した訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/25 22:46


 【質問】
 植民地化以降〜第2次大戦までのモザンビークの歴史を教えられたし.

 本国の10倍以上の広さを持つこの領土を実効支配することは容易ではなく,更にこの時期,ポルトガルは重債務国の状態に喘ぎ,立憲君主政府を構成する進歩党政権は,薔薇色に塗られたポルトガルが,考える所の植民地領の一部(特にアフリカ中央部)を手放したことによって著しく威信を傷つけられ,存亡の危機に陥り,1891年1月から,共和主義者による反王制運動が活発化することになります.

 共和主義者であるポルトガル共和党は,1870年代から力を付け始め,1880年にはリスボンでポルトガルが産んだ国民的詩人であるLuiz Val de Camoes没後300年記念祭を独自企画するなど,王政からの解放と言った共和主義的思想をナショナリズムと植民地主義を組み合わせる形で,民衆の支持を得ようとしていました.

 其処で,追い詰められた立憲君主政府は,特許会社を通じて商業・鉱業利権,徴税権,土地譲渡権を付与し開発に当らせると共に,他方,ポルトガル国軍による制圧キャンペーンを実施し,ポルトガルの支配を認めていない集団を完全に支配下に置くことで,「実効統治」への国際的な圧力を回避すると共に,植民地領の堅持を試みました.
 この結果,80万平方キロメートルを占めるモザンビークの65%が,特許会社に付与されることになりました.
 モザンビーク最北部から南へ全土の25%がNyassa Companyに,ザンベジ川流域に相当する15%をZambezia Companyと諸特許会社に,中部の25%を占める部分をMozambique Companyが獲得することになります.

 これら特許会社への植民地領の賃貸借契約は,「実効統治」原則を押し付ける列強の介入を回避する一方で,植民地の資金を集める為に行われたのですが,この資金により,植民地軍や特許会社に領内で多発していた住民叛乱の鎮圧を目指していました.
 特にザンベジ川下流域では元々この地がPrazoと言う部族支配地であった為,何世紀もの間,ポルトガルに対抗する現地住民の武装抵抗が続いていました.
 1888年にはアフリカ人首長連合による「反ポルトガル植民地運動」が激化し,これに手を焼いたポルトガル政府は,Mozambique Companyにこの地を平定することを条件に,特許を付与したのですが,Mozambique Companyにはこれを効果的に平定し得なかっただけでなく,より強い叛乱を招く結果となりました.

 この叛乱を主導したバルエの首長ハンガは,「Mozambique Companyを土地から追い出すこと」を戦略目標に掲げ,従来,首長同士の対立を利用された苦い経験から,ザンベジア周辺の多種多様な民俗集団,あるいは人種を越えた連合を形成しようと試みた上,植民地支配を回避する為に,列強や資本間の軋轢も上手く利用しようとして,主権を維持しようと務めていました.

 彼はこう述べています.

――――――
 長い間,私は白人の友人を持ちたいと考えていた.
 私は白人が次第にアフリカに進出し,私の国の全ての方向で企業が活動するのを見てきた.
 ザンベジ川には蒸気船が運航され,ベイラからマショナランド(当時のローデシア)まで鉄道が延び,ウムタリ(ローデシアとモザンビークの国境)や他の所には町が出来上がった.
 私の国も又,これらの改革に追いつかねばならないだろう.
 私は国を白人に開く準備がある.
 だから私の国で金を探し,商店を作る許可を与えたのだ.
(中略)
 私は,英国人とドイツ人が私と共にいることを嬉しく思う.
 ポルトガル人だけが,此処に留まることを許されない.
 現在,私は彼等との戦争を遂行しており,この戦いを続けるつもりである.
 私の父達は長い年月彼等と戦ってきた.
 この古い敵対関係の印として,昔我々が殺したポルトガル人の指輪を首に掛けている.
――――――

 このモザンビーク中部の地域であるハンガを中心とした武装抵抗は,バルエ地方を反ポルトガル植民地支配運動の拠点として一躍有名にし,その名はモザンビークの最も内陸部にある町ズンボから,インド洋沿岸地域にまで轟かせることになります.

 1901年の段階でも,Mozambique Companyの関係者はConselloに関する会合議事録の中で次の様に書いています.

――――――
 バルエの叛乱は,脅威を生み出している.
 なぜなら,Mozambique Company会社領内の多くの住民は,ポルトガル政府の特権を殆ど尊重せず,弱い軍に対して恐れを成さないからだ.
 原住民は,日々,税の支払いや強制労働の提供に躊躇しつつあり,現在のバルエの状況を望ましいものだと考えている(中略)…野心のある者が,会社領内の住居を棄て,バルエに移住しようとするのは自然なことだ.
――――――

 このバルエの叛乱は,バルエに隣接するモノモタパ王国にも影響を与え,かつては対立していた筈の国王シオコは,ハンガの反ポルトガル同盟を受容れることとなり,これに脅威を抱いたポルトガル政府は,Mozambique Companyに善処を要請したが効果は見られず,遂に1901年,自ら鎮圧に乗り出すことになりました.
 1902年6月から,西方のアンゴラ,直轄領のロレンソ・マルケス,イニャンバネ,モザンビーク島などから2万人のアフリカ人兵士や警官が集められ,バルエに派遣される事になります.
 激しい戦闘の結果,1902年末には近代装備と多数の兵士を動員した植民地軍はバルエを制圧し,捕えられた地元首長等は,大西洋上の島,サントメ島に送られますが,ハンガとその他の首長はローデシアに逃れる事になりました.

 もう一つの特許会社であるNyassa Companyは1891年にリスボンの商人達によって設立され,1894年には会社の正式な目的をニアサ湖の開発とします.
 しかし,実際には同社はインド洋に点在していた奴隷貿易の中継地点に会社の出先機関を設置し,これらの貿易の分け前を関税として吸い上げる方法で歳入の大半を賄っていました.
 当時,奴隷貿易は英国などによって禁じられていましたが,「自由意志」に基づく移動労働は認められており,インド洋上のフランス領諸島への「労働力送り出し」の任に当っています.
 こうした奴隷貿易は,18世紀半ばから行われ,"gun-slave cycle"が出来上がっていました.

 このサイクルは,アフリカ人首長が奴隷確保の為に戦争を起こし,確保した奴隷を商人に売ることで銃を手に入れる,と言うものですが,その戦争から身を守る為,相手の首長は,自ら奴隷を確保してそれと引き替えに銃を手に入れると言う一連のサイクルで成り立っています.
 これにより,アフリカ人社会は銃や銃弾の確保と軍機構の整備が進むと言う武装化が進みますが,19世紀末には,これを同胞に向けるよりも特許会社や植民地政府に向ける様になります.
 そこで,1896年にモザンビーク総督府は火器取引を全面停止する法律を制定しますが,今までの"gun-slave cycle"にどっぷり浸かっていたNyassa Companyはそのサイクルが絶たれて,存亡の危機に陥りました.

 財政危機に陥ったNyassa Companyは,1897年に英国のIbo Investment Trustに支配され,1898年に彼等は関税以外の収入を確保する為,領域内のアフリカ人住民に小屋税を課税します.
 ところが,Nyassa Companyが集めた小屋税は,僅かに776ルーブルに過ぎず,この課税徴収を確実化する為にも,内陸部への軍事遠征を活発化させる様になりました.
 この時期,モザンビーク郡では,インド洋沿岸地域から内陸部に向けて植民地軍が軍事制圧を開始しており,1899年になると,Nyassa Company領内での叛乱鎮圧活動に着手します.
 当然,こちらも激しく抵抗した訳です.

 ところで,20世紀に入ると,南アにあるヨハネスブルク周辺のラント地域で,鉱山労働者不足が深刻化する様になります.
 鉱山会社だけでなく,これらの会社に投資した英国本土の資本家達も,このアフリカ人労働者不足に頭を悩ませることになりましたが,丁度その頃,御誂え向きに彼等の手中にあったのがNyassa Company.
 1908年,彼等はロンドンにNyassa Consolidatedを結成し,本格的にNyassa Company経営に参画し始め,この会社を通して,南アフリカの鉱山へ労働者を送り込む事を始めました.
 そして,この労働者派遣で追加利益を獲得したNyassa Companyは,各地で武装抵抗している住民達を平定する為に彼等に戦いを挑むことになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/25 22:46

 さて,第一次大戦に参戦したポルトガルですが,この戦費による財政赤字は建国以来の額に達していました.
 その割には,彼等が手にした果実は全くと言って良いほど無く,彼等が期待したタンガニーカとその附属領,南西アフリカはおろか,アジアの権益も手に入れる事が出来ませんでした.
 結局,1920年にポルトガルの財政赤字は,王国末期平均の12倍,物価は5年で452%の上昇となり,通貨エスクードの対ポンド価値は1918年の7.9から109.4にまで下落し,資本の海外流出が起こります.

 一方,本国の北部では,やっと農業国から工業国への転換の象徴とも言うべき繊維工場が操業を開始し,1900〜24年の間に生産規模は4倍に膨らみます.
 しかし,綿花の国際価格は1915〜22年の間に10倍に上昇し,一方で通貨は下落した為,繊維業界は国家の対外債務の2倍を超える額を輸入綿花に支払わねば成らず,輸入の2.5倍を上回る対外債務を作り出すに至りました.
 これを解消する為に,植民地で生産している綿花を,本国で利用する比率を現行の5%から大幅に引上げ,本国産繊維の植民地市場占有率を現行の25%から増やすことが必要となります.

 モザンビークでも綿花栽培は試みられていて,1920年には本国の繊維業界自らがこの地の綿花栽培に投資し始めますが,これは上手くいかず,結局外資を中心とした特許会社が,モザンビーク南部地域での綿花栽培を拡大することになります.
 しかし,この綿花プランテーション経営も期待された程では無く,しかも大半の綿花は,本国ではなく国際市場に委ねられ,本国の繊維業界を利することはありませんでした.

 こうした綿花に起因する経済危機が,植民地の資源(人的,物的,金銭的)を本国の為に「搾取」することのできない無能な政府に対し,経済界や一般庶民が反発し,1926年,遂に軍事クーデターが勃発.
 これにより,共和国政府はその息の根を止められることとなります.

 新政権を樹立した軍は,2ヶ月後に法令11.994を発布し,植民地に於ける綿花栽培を再構築しようと試み,外資を導入した白人プランテーション栽培による生産は破棄され,植民地領内のアフリカ人農民に綿花栽培を強制する政策が立案されます.
 このモデルとなったのは,ベルギー領コンゴで行われた同様の綿花強制栽培政策でした.

 新政府は,植民地住民に強制的に綿花栽培を行わせて生産量を拡大すると共に,本国への移出を確保する為,植民地領内の一定地域に於ける特許を企業に与え,低い固定価格で(強制的に綿花を栽培させられる)地元農民から綿花を購入する排他的権利を与え,企業は綿花を綿繰り機に掛けて種を取った後綿花を売却するが,その場合,本国の繊維業界が優先的売却先とするようにしました.
 更に,特許が与えられる企業は,本国企業(資本)が優先され,優先的に良い土地と減税,農業技術普及のサービスが与えられますが,反面,栽培から移出まで全ての局面で植民地政府が関与すると言う制度を作ります.
 そして,この制度の適用先がモザンビークとなった訳です.

 ところが実態として,モザンビーク植民地政府は,地元農民に綿花栽培を強制するだけの支配体制を確立しておらず,また,1927年に一旦上昇した綿花の国際価格は,1931年に向けて長期的に下落したこともあって投資を呼び込めず,特許を取得する企業は現われませんでした.
 かくして,1931年のモザンビークの綿花生産量は,1926年のそれを大幅に下回り,結局,本国の繊維業界も植民地の綿花への関心を失い,再び外国産綿花の購入に傾いていきます.

 この軍事政権に於て,1928年から経済相に就任したのが経済学者サラザールです.
 彼は,殆ど絶望的だったポルトガル経済の再建に力を発揮し,1930年に海外問題相に就任して,綿花自給政策で実施された諸施策を取入れてAct Colonialを制定させました.
 これにより植民地は,本国経済発展の為原材料供給と市場と言う二重の役割を担わされた訳です.

 そして,サラザールはとんとん拍子に出世し,1932年には遂に首相に登り詰め,1933年にはEstado Novoの為の憲法を公布することになり,以後40年以上に亘って独裁体制を敷いていったのです.

 このEstado Novo体制は,いみじくもサラザールが「全ては国家の為に」と言うスローガンで表わされている様に,本国・植民地の全資源を「国家」の為に総動員することを目的に構築された体制です.
 その結果,Nacionalismo economico政策による「経済の国営化」が進められ,外国資本の特許会社に付与していた広大な植民地領(例えば,モザンビークの場合65%が特許会社に付与され,植民地政府の支配地は僅か35%)を国家に統合する為,特許会社の借用期間を一方的に終了させました.
 また,1920年以来進みつつあったモザンビークやアンゴラの自治促進は後退し,各植民地は経済的にも政治的にも本国に従属する事が決められました.
 つまり植民地は,本国が生産する綿織物,ワイン,タバコの独占市場となり,砂糖,綿花,コーヒーなどの一次産品を安価で本国に移出する義務を負う様になります.
 これは「経済の一本化」と呼ばれましたが,実際は,「植民地の全ては,本国の為に」と言う事で,本国経済の成長を植民地の犠牲の上で成り立たせると言うものでした.

 これらの原則は,1930年のAct Colonialで決められたものですが,1933年にはReforma Administrativa de Ultramarina(R.A.U.)で補完され,この法律により,本国経済発展の為の植民地の機能を保障する具体的な植民地行政制度を設定しました.

 R.A.U.は,特許会社領を含む全植民地を統一行政区分の下に置き,植民地の全住民を本国に直結することが最大の狙いです.
 12条で,植民地内の最高権限はgoverno geral(総督)が有し,以下,
governo de provincia(知事),
administrador de distrito(郡行政長官),
administrador de circunscricao(地区行政長官),
chefe do posto(行政ポスト長)
と言う序列を設定する一方,総督は本国の海外省に従属する事が明記され,海外省は,植民地に関する全ての事項について,「監督・指揮・指導・調整・管理する」こととなりました.
 また,以前の町と行政地区の分類は継続しますが,76条では,その行政の補助者として,atutoridades gentilicas(異教徒権威)を規定しました.
 91条においては,「各原住民はRegulo(部族の伝統的権威が支配する地域)領に分けられ,更に集団の人口に従ってgrupo de povoacao(集落集団),或いはpovoacao(集団)に分類される」として,住民の自由な移動を禁じます.

 Estado Novo体制が目標とした経済再建と経済ナショナリズムの実現の為には,植民地に於ける一次産品生産と,旧特許会社領の開発が不可欠でした.
 しかし,この生産や開発をするには民族資本は余りにも貧弱で,そうなると外国の大規模な資本投下を必要とします.
 それでは,利益は全部海外に引っ攫われ,全く本国の役に立たない.
 その矛盾を解決する為には,植民地住民の労働力に依存するしか無く,植民地権力が現地住民を自由に使役できる法制度の確立が急務となります.

 こうして導入されたのが,R.A.U.であり,植民地当局による現地住民の合法的徴用の範囲については,以下の様に規定しました.

(1) 地域社会にとって極めて重要性を持つと思われる道路・下水工事計画への徴用
(2) (アフリカ人男子が)有益な仕事に就いていることを証明できない場合,6ヶ月間内の国家事業への徴用
(3) 人頭税未払いの代償としての徴用

 実際には法制度が適用されたのか,或いはされなかったのかについては,地域差が大きく,特に旧特許会社領では中々浸透し切れていません.
 特に,Mozambique Companyではその特許は1942年まで継続していましたから,おいそれとその地域内で国家権力の浸透を許しませんでした.

 サラザールが拘った綿花自給も,資本不足だけでなく,現地住民の抵抗で困難に直面していました.
 民間資本が集められなかった地域では,最末端のポルトガル人植民地行政官吏である行政ポスト長が,強制栽培の義務を負うことになります.
 彼等は,「白人首長」とも呼ばれていますが,Reguloに住民を集めさせ,栽培法を説明しつつ,種や袋を配布して,各農民に畑の内1haを綿花栽培に充当すること,そして収穫物を行政ポストに持参することを命令します.
 当初,綿花栽培は「金の成る木」であると宣伝が為され,栽培に多くの農民が参加しますが,時間が経つにつれ,綿花栽培が生活を豊かにしないばかりか,土壌を劣化させ,食糧生産の時間を奪うことに気づく様になり,しかも,生産した綿花は最低等級でしか認められず,得た金額も,不足する食糧購入や小屋税支払いにも充てられない状態であった事から,翌年には栽培を拒否する様になりました.
 これに対し,行政ポスト長は,Cypaio(Sipai/Sepai/Cypaiとも)と言う現地人警察を使って住民に栽培継続を強制させた為,農民達は激しい抵抗を行いました.

 ある者は,配布された種を煮てしまったり,ある者は南アフリカ,タンガニーカ,ニアサランドと言った近隣の土地へ「逃亡」したりしました.
 1934年には民間会社が2社から9社に増え,綿花生産量も伸びを見せますが,本国需要を満たすには依然不十分で,植民地綿花は本国の12.5%のシェアしかなかったりします.
 これが転機を見せるのが,1930年代後半から40年代の世界的に不安定な戦争の時代でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/27 22:35

 1930年代後半,ポルトガルの隣国であるスペインで内戦が始まります.
 また,その内戦終結後には,欧州全体を巻き込む第二次世界大戦が始まり,その波は,1941年以降,全世界に拡大していきます.

 こうした中,それまで農業を中心としていたポルトガル経済は,輸入減少と市場拡大を受けて,代替工業が成長し,逆に輸出を促進していきました.
 特に,北部の綿織物産業,首都近辺のタバコ,造船,化学肥料が著しい成長を見せます.
 綿織物産業に関しては,従来その分野で活躍を遂げていた隣国スペインが内戦でのインフラ破壊で機能を低下したことに伴う代替として発展していきますが,綿花需要が増した割には,1936年の時点ではその原料綿花の77.3%が外国産で占められており,植民地産は相当のてこ入れを行ったにも拘わらず,やっと1930年代初頭の倍近くにしか成っていません.

 1937年当時,モザンビークでは,全農村住民に綿花栽培を義務づけていたにも関わらず,農業人口390万人の内,綿花栽培に従事していたのは僅かに8〜10万人程度しかいませんでした.
 そこで,植民地政府にとっては植民地の原料綿花増産が至上命令となります.
 但し,植民地を効果的に統治し,且つ,植民地住民が望まない綿花栽培を強制させる術を持たない事から,この事業は民間企業と共に実施することで活路を見出そうとします.

 1938年,Junta de Exportacao de Algodao Colonial(植民地綿花輸出連盟(JEAC))が設立され,農業省から植民地に於ける綿花の増産と独占の業務を引き継ぎ,綿花栽培から販売までを一手にコントロールすることになりました.
 先ず,JEACは,綿花栽培に適したと考えられる地域を民間会社数社に分与することを始めます.
 19世紀末から20世紀初頭に掛けて行われた特許会社と同じ考え方です.
 これにより,綿花会社は広大な「管轄地」を手に入れ,今まで綿花を栽培していない地域をも綿花栽培に向けさせると共に,それ以前には植民地支配の影響を余り受けていなかった地域を,植民地体制に包摂する契機になりました.
 特に,モザンビーク北部は,総面積の実に半分以上が綿花会社の占有地となりました.

 とは言え,従来の特許会社と違って,綿花会社が全てを自由にできる訳ではなく,JEACの統制下に置かれた為,管轄地に於て何よりも綿花生産を最優先させなければ成らず,そうしない場合は政府から圧力を受ける上,綿花輸出に於ても本国以外は売却できないと言う制約を受けていました.

 綿花増産を支援する為,1937〜38年に植民地行政官吏の末端に位置していた行政ポスト長の権限は強化され,綿花栽培の「奨励」に反対する者を処罰出来る権限を持つ様になり,合法的に綿花の強制栽培を行える様になっていました.
 その結果,綿花強制栽培の導入は,綿花生産量の上昇を齎しただけでなく,植民地支配者の難問であった植民地にいるにも拘わらず,植民地支配の影響を受けていない地域の包摂を可能とする事となりました.
 更に,モザンビーク農村の全住民は,名前・居住地・畑のサイズ・タイプ・種の質・草抜きの回数・収量等を記載した栽培者カードを携帯することが義務づけられ,行政機構の整備,住民登録の実施,貨幣経済の導入,農民の現金収入と徴税の未達成が一気に解決されることになります.
 こうして,1940年には綿花生産従事者は100万人を突破しました.

 第二次世界大戦が始まると,今までの主要綿花栽培地域だった米国やアジアからの原材料入手が困難となります.
 これにより世界市場での綿花不足が加速し,国際価格を上昇させることになりました.
 綿織物も同様で,品薄の為,世界的に国際価格が上昇し,ポルトガルにとっては国際収支を改善させ,経済を活性化させるだけの絶好の機会を手中にしていました.
 こうして,安価な原材料(綿花)を安定的に確保する必要性が国策として不可欠となり,植民地では住民を綿花栽培に動員する為のあらゆる策を執る様になります.
 この国際状況の変化を受けて,サラザールによってモザンビークに派遣された総督が,ビッテンクーと言う人物です.
 彼は,1944年の機密会議で,こんな言葉を吐いています.

 大国が戦争の心配をしている現状では,労働システムに関する国際協定上制限される如何なる専横も批判も受けない.
 つまり,本国の心配は植民地住民達の権利擁護や反発ではなく,自らの植民地政策に対する国際的な批判にあったことが伺えます.

 ビッテンクー総督の言う,「専横的な労働システム」とは,土地が綿花栽培に適しているか否かに関わらず,Sipaioや綿花会社のエージェントを用いて,強制的な綿花栽培を現地住民に課すことにありました.
 行政ポスト長は,本国経済の要請を受けて,綿花栽培の強制をより確実に行う為,Reguloに女性及び子供を含んだ領内の全住民を集めさせ,Sipaioの監視の下,共同の綿花畑で働かせ,要求通り働かない者は,容赦なく行政ポストに連行され投獄されました.
 ところが,綿花栽培は年間150日以上の労働が必要ですし,老若男女関わりなくそれに従事させた為,食糧生産を行う労働力が足りず,飢饉が各地で発生して社会不安が増しました.

 この為,植民地政府側もこの政策を多少修正を余儀なくされ,各世帯を定められた面積の綿花畑で栽培に従事させ,その出来高に対価を支払う,所謂,小農ベースの生産形態を導入します.
 これにはきめ細かい対応をしなければならない為,1941年にビッテンクー総督に任命された新しい州知事は,綿花会社が現場監督であるcapatazを雇用することを許可しました.
 更に,植民地政府は,今までの小屋税を改め,1942年に人頭税の導入を行いました.
 これにより,全人口が税を納める事になり,今まで税金から除外されていた女性労働力も課税対象として,彼女たちも綿花栽培に向かわざるを得ない様にしていきました.

 この結果,1940年の綿花生産は20,464トンだったのが,1941年には51,007トンと倍増し,本国需要の40%を賄うまでになります.
 1942年にはほぼ90%が植民地産綿花で賄える様になり,1933〜45年に掛けての本国の経済成長率はこうした植民地の犠牲の上で,年平均4.4%を越える様に成っていった訳です.

 当然,これに対する反動も各地で強まります.
 特に,従来,食糧生産に従事していた女性を綿花栽培に追いやり,飢饉を発生させたり,Sipaioや綿花会社のエージェント達による暴力支配は様々な反発を呼ぶ様になりました.

 そこで,1944年,行政機構補助者である現地人達の再組織化と義務が法律で定められ,Reguloは農村部に於ける「本国による干渉の実践者」として位置づけると共に,その対価を,集団の構成員から徴収する税金や綿花売却益のマージンで得る様になります
 また,Regloの畑では集団の構成員達が交代で働かなくてはなりませんでした.
 これに伴い,従来は一部族の長として「伝統的な権威」を構成していたReglo達は,行政請負人となり,地域社会との乖離が始まる様になります.

 ただ,Regloと言っても,「一部族の伝統的な首長」と一致せず,抵抗する「伝統的に正統な首長」は排除されていき,植民地権力に迎合する人物が選ばれる事もあったり,逆に部族側が「伝統的な首長」と称して,「奴隷」を送り込み,彼を住民達が意のままに操る様にする抵抗を行った地域もありました.
 また,植民地権力側が設定したRegloの序列は,Regloの下にchefe de grupo de povoacao(集落集団長),その下にchefe de povoacao(集落長)としたのですが,この序列は人口の多さで決定され,地域に於ける定着順序,氏族間の序列を反映したものではありませんでした.
 そうして,齟齬が生じた現地ではこの伝統的階層構造と新たな地方行政構造の間で混乱が生じる様になっていきます.
 これが,後の植民地解放運動でも重要なファクターになっていく訳です.

 一方で,彼等の抵抗の手段としては,何時もの様に「逃散」と言うものがありました.

 国境付近に生活する住民は,大挙して隣国の英国保護領に流れていきます.
 南アフリカへの合法的移民労働者数は,1939年に8万人だったのが,1941年には10.5万人,1945年には13.5万人と急増しており,南ローデシアのそれも,1940年に6.8万人だったのが,1944年には9.3万人となり,北ローデシアやニアサランドからの移民労働者よりも遙かに占有率が高くなっています.
 タンガニーカでは,1942年の時点で,南部サイザルプランテーション労働者の半分近くがモザンビーク出身者となり,1930〜48年のタンガニーカ南部州滞在中のマクア人納税者数は倍増していました.
 これ以外に,非合法的に国境を越えた労働者の人数も相当程度いたものと考えられます.
 これを主導したのは,植民地権力の補助者となることを拒否した「伝統的権威」であることが多く,それ以外にも家族,個人単位での越境も多く行われました.

 また,国境から遠い地域の住民は,実質的な植民地支配が遅れている地域,特にマウア北部や旧Nyassa Company領土と言った北部辺境地域への「逃亡」を行いました.
 これは道路や鉄道網の整備と言ったインフラ設備の充実(これも実質的には強制労働で建設されたものだが)により,様々な手段で阻止される様になり,結果として,こうした現地住民の抵抗はマグマの様に溜まっていく様になります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/28 21:45

 さて,時を戻して,第一次世界大戦のモザンビーク.
 モザンビーク北部ニアサ郡南東部地方はマウア地方と呼ばれていました.
 ニアサ郡は北をタンガニーカ,南はモザンビーク郡,東をカーボ・デルガード郡,西をニアサランドに囲まれた郡で,モザンビーク最大の面積を持つ郡であると同時に,最も人口密度が低い郡となっています.

 また,ニアサ郡には,多数の部族が居住していて,北部にヤオ人とニアンジャ人,西部ニアサ湖畔にニアンジャ人,南部にマクア人,そして少数部族のンゴニ人が暮らしています.
 ヤオ人,ニアンジャ人,ンゴニ人はタンガニーカ国境に跨って居住している一方,マクア人は隣接のカーボ・デルガード郡南部,ルリオ川を越えてモザンビーク郡,ザンベジア郡にも跨って居住している最大部族です.

 今まで見てきた様に,モザンビークに於て,ニアサ郡は辺境の地でした.
 一応,1894年から1929年まで,Nyassa Companyの領土となっていたのですが,Nyassa Companyは経済的基盤が脆弱で,インフラの整備も儘成らず,結果として,この地域を辺境の儘放置した訳です.
 この為,植民地支配が強化され,現地人に対する締め付けが厳しくなると,国境から遠い各地の現地人達は,集団でこの地に逃亡することとなります.

 尤も,広大な領土を防衛する為,1907年にNyassa Companyはposto militarと言う軍事拠点を開設します.
 但し,この軍事拠点が本当に駐屯地的なものなのかは不明であり,多くの場合は,単に「ポルトガルの旗」が立てられただけのものだったと言われています.
 実際に,白人と住む様になったのはジャーマン戦争後の事だと言われている訳で,ポルトガル人による実質的な支配はこの頃は未だ無かった様です.

 さて,1914年に第一次世界大戦が勃発すると,ニアサ郡は,北を接するドイツ領東アフリカから侵攻するドイツ軍アスカリ部隊と,これを迎撃するポルトガル軍と英国軍による交戦地となりました.
 ドイツ軍は,ポルトガルの植民地支配に反感を抱いていたアフリカ人首長等と同盟を結び,土地に詳しい道先案内人を雇い,モザンビーク北部を目覚ましい勢いで席巻していきます.
 また,マラウィ湖東岸近くからニアサ入りしたドイツ軍偵察隊は,ヤオ人居住地を経由してマウア及びモンテプエスと言ったマクア人居住区の最北部を訪問していますし,ドイツ軍本隊も1917年11月から翌年9月までの約1年間,モザンビーク北部を隈無く移動していました.

 1917年5月には,ドイツ軍のフォン・レットー・フォルベック将軍が,部下(少佐)をマクア人首長達の元に派遣し,反ポルトガルの戦いの為に同盟を結ぶ様説得しています.
 その後,1918年2月には,フォン・レットー・フォルベック将軍率いるドイツ東アフリカ軍第5小隊が,マウアに来て駐屯しています.
 このことから,この地域を治める部族の王が,彼等と何らかの合意を得た可能性が指摘されています.

 一方,英国とポルトガル連合軍の大隊は4月にマウアに到着し,戦闘後ドイツ軍の兵舎を占領しました.

 現地のマウア住民は,この戦いを「ジャーマンの戦い」と呼んでいます.

 しかし,このジャーマン達の主力は黒人でした.
 ジャーマンの指導者は,Nkepeleと言い,マクア人,マコンデ人,マプート出身者と同盟を結んでいました.
彼等が主力となって,英国人とポルトガル人との戦闘を繰り広げていた訳です.

 ドイツとしては,ポルトガルの植民地支配に抵抗している住民達に主権回復を約束して,各地で同盟関係を獲得していった様です.
 とは言え,多くの住民にとって戦争は災厄でした.
 ドイツ軍でも,人々は物資運搬に使役されていますが,彼等の扱いは悪くなかったと言います.
 しかし,英国とポルトガル連合軍では扱いが悪かった為,多くの人々は更に奥地に向けて逃亡しました.

 残った集団もいましたが,英国とポルトガルを拒否した部族の王達は,幽閉されモザンビーク島に流刑となりました.
 結果として,新しい王を選び,彼等はポルトガル人に服従する道を選ばざるを得なくなり,以後,ニアサ郡のポルトガル支配が強まっていった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/29 21:32

 さて,第二次世界大戦でポルトガルは漁父の利を得て,相当な経済成長を遂げます.

 しかし,第二次世界大戦が連合国の勝利に終わると,滅亡したドイツやイタリアと言った枢軸国に似た社会体制を敷いているポルトガルは,スペインと共に,国際社会の民主化要求の矢面に立ちます.
 正に,ビッテンクー総督が恐れた「国際的な法の規制」と言うものが出現した訳です.

 これに対応しようと,サラザールは表面を取り繕う為に1945年11月に国民議会選挙実施を公表します.
 対する民主化要求諸勢力は,Movimento Uniao Demoncratico(MUD)を結成し,選挙運動を開始しますが,独裁体制下の選挙運動がまともに機能する筈もなく,結局,選挙公示→政権による選挙妨害→野党候補取り下げと言う以後も屡々繰り返される独裁体制下の黄金パターンが出来上がったに過ぎませんでした.

 この背後には,PIDEと言う秘密政治警察の存在がありました.
 サラザール政権成立後,Estado Novo体制が築かれる課程の1933年,Policia de Vigilancia e Defesa do Estado(PVDE)と言う政治警察が導入され,抑圧的な活動で全世界に悪名を轟かせました.
 …と言っても,ナチスやファッショやファランヘのそれに比べると未だ知名度は低いかも知れませんが….
 流石に,1945年になるとこの体制を維持するのが難しくなり,代わって導入されたのがPIDEでした.
 PIDEの目的は,「国家の安全に反する運動」の取締りであり,実態としては,PVDEよりも抑圧的になりました.
 寧ろ,PVDEが法の範囲外で隠れて行った弾圧を,PIDEは1946年に制定された法律によって,合法的に実施できる様になりました.

 その結果,ポルトガルに於ては,民主化要求と言うものは,「国家の安全」を侵す行為として厳しく取締りを受ける様に成ります.
 PIDEは,独裁体制下の秘密警察がよく行う手法,即ち,職場,学校,Community,教会,家族など社会全てのネットワークに密告者を忍び込ませ,「国家の安全を脅かす容疑者」…その殆どは民主化要求運動の参加者…を一網打尽に刈り取った為,ポルトガル内でも表だった民主化運動は不可能になっていきました.

 また,植民地問題についても,国際社会はポルトガルに圧力を強めていきます.
 1947年にポルトガル議会議員だったカルヴァン大佐は,ポルトガル領アフリカでの強制労働の実態を暴露した報告書を国会に提出しますが,これは公表されることなく闇に葬られました.
 しかし,この報告書はその後秘密裏に出版され,国外に持ち出されて公開された為,国際社会からポルトガルに対する非難の声が上がる様になりました.

 ところが,冷戦の進展は,ポルトガルの独裁体制を延命させることになります.

 1949年にポルトガルのNATO加盟が認められたのは,この時期,軍事対立の世界規模化が開始され,ポルトガル領アフリカ植民地と大西洋上の島々の戦略的価値が高まる事になった為です.
 特にアゾレス諸島は,米国から中東方面に向かう航空機の補給基地として最適な位置にあり,米国の世界戦略を構成する上で不可欠な立地条件下にありました.
 その結果として,ポルトガルの強圧的な植民地支配や独裁体制には目を瞑る代わりに,米国によってポルトガルのNATO加盟が要請された訳です.
 当初,サラザールは長年の米国への不信感から,NATO加盟,つまり,米国との軍事同盟締結に躊躇したと言いますが,結果的にその決断は成功でした.
 こうしてサラザールは,死ぬまで幸せに彼の独裁体制と,植民地を維持出来たのです.

 先に見た様に,モザンビークでは,1930年代後半から第二次大戦までの間に,ポルトガル本国の支配が強まる様になります.

 一方で第二次大戦は,南部アフリカ地域全体に戦禍が及ばなかった事から,飛躍的な経済発展を齎しました.
 特に,南アフリカと南ローデシアの経済発展は目覚ましく,南アフリカでは,戦前期,鉱産資源などの輸出額が輸入額を上回っているか輸出入額均衡状態だったのですが,1945年以後は輸入額は大きく下降する様になります.
 つまり,英国からの工業製品を輸入し,鉱産資源を輸出していた構造が変化し,南アフリカで大抵の工業製品を自給出来る輸入代替を達成した訳です.
 南ローデシアも同様に,1943年には製造業の生産高が,鉱業のそれを上回る様になり,また,白人の土地所有が急速に拡大し,広大なプランテーションによる農業生産が軌道に乗って,第二次大戦前は鉱業の半分程度だったその生産高は,1945年には鉱業を上回り,製造業に次ぐ地位に就く様になります.

 こうした南部アフリカ地域全体の経済発展は,モザンビークにとって見れば,外貨の稼ぎ先であり,経済的な結びつきをより強めることになります.
 モザンビークは,豊富で安価な労働力の供給地であり,良好な港を有した事から,物流の拠点となっていった訳です.

 この関係は,1901年にトランスヴァール政府とポルトガル政府との間に締結された暫定協定から始まりました.
 この協定では,ポルトガルはトランスヴァール鉱山会議所に対し,モザンビークに於ける鉱山労働者の供給を許可する一方で,トランスヴァールは鉱石の積出し港として,ローレンソ・マルケス港の利用を義務づけています.

 1928年には南アフリカ政府とポルトガル政府との政府間協定が結ばれ,その32条に於て,「南アフリカ政府は,海路により権限領域へ輸入される商品の総積載量の50〜55%がローレンソ・マルケス港湾及び鉄道を通過することを保障する」として,より明確化され,この協定は多少の改変を伴うものの,1963年まで繰り返し更新され,南アフリカとモザンビークとの経済関係の基盤となりました.

 また,南北ローデシアとの間では,モザンビークの役割は更に大きいものでした.
 何しろ,南北ローデシアには海への出入口がありませんから,結果的に,海に一番近い良港を有するモザンビークが重要視された訳です.

 こうして,モザンビーク中部のベイラ港と南ローデシアを結ぶ鉄道が建設されることになりますが,この鉄道は,ポルトガル政府や植民地政庁が行ったものではなく,British South Africa Company(BSAC)と言う英国系資本の民間会社によって行われました.

 同時に,労働力供給に関しては,BSACとラント鉱山会社との間の1901年の暫定協定で,Witwatersrand Native Labour Association(WNLA)が,南ローデシア,ヌガミランド,ザンベジアで労働力を調達しないこと,モザンビークでは排他的労働力調達権を認める代わりに,其処で獲得した労働者の12.5%を南ローデシアに供給する事で合意が得られていました.
 しかし,この協定では1名たりともモザンビークの労働者が供給されなかった為,業を煮やしたローデシア植民地政府は,ポルトガルと直接交渉を行い,1913年の協定に於て,南ローデシアはモザンビークから最大1.5万人の労働者を1年契約で雇傭することになりましたが,実際には,例の逃散農民の多くが「非合法移民」としてローデシア領内に逃げ込み,プランテーションで労働に従事していました.
 また,正規では労働者数が制限された為,1930〜40年代には,ローデシア植民地政府自らがモザンビーク住民の「非合法」移民を奨励し,国境近くにUlereと言う無料移民交通システムを構築して,出稼ぎの喚起を行っていたりします.
 こうした「努力」の結果,1950年代にローデシアのモザンビーク出身者は20万人に達しました.

 彼等出稼ぎ労働者は,働き次第で本国の賃金よりも高い賃金を得る事が出来,真面目に働いた者は年季が明けると,それなりに裕福になって帰国します.
 そして,その貯えで鋤を買って土地を耕し,収入を得て更に1頭の牛を飼い,更に収入を得てもう1本鋤を買って,更に牛を飼い…と言う形で徐々に仕事を広げていく事により営農者としてそれなりに自立することとなり,彼等の息子達に教育の機会を与えることが出来ていきます.
 但し,こうした機会が与えられるのは専らモザンビーク南部に限られていましたが….

 一方,モザンビークの領域外に出る事でも,第二次大戦後の民族自決主義の流れや労働運動,政治思想を学ぶ事が出来ました.

 これらの点が,モザンビークの独立闘争に多大な影響を与えていきます.
 それとは逆に,モザンビークの独立闘争を阻む勢力として,モザンビークを必要としていた南アフリカとローデシアの両国が植民地政府を支援する事になったのも皮肉な話ではありますが….

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/30 22:41


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