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◆◆アフリカ分割関連
<◆総記
アフリカFAQ目次


(こちらより引用)


 【link】


 【質問】
 アフリカに対するフランスの軍事プレゼンスは,どのようなものか?

 【回答】
 少し古いソースによれば,リビアがチャドの統合を打ち出して以来,フランスはアフリカ大陸の軍事力の強化に乗り出し,アフリカに駐留するフランス軍部隊は併せて7千人.
 その半数以上がジブチに駐留しているという.

 以下引用.

------------
 ジブチの安定にとりわけ重要なのは,フランス軍4千人の駐留である.
 独立時の軍事防衛協定に基くもので,ジブチ2500人の育成強化にも協力している.
 フランス軍基地の取材は結局拒否されたが,私達はジブチ市内の街角で,日夜パトロールを繰り返すフランスの精鋭部隊の姿を目撃した.
 夜になると,カフェやレストランは,非番の兵士達で大変な活気を見せる.

 ちなみにジブチ市内には,味の良いフランス料理点が少なくない.
 旧植民地だから当然なのかもしれないが,これも駐留軍と言う大きな需要があるためだろう.

 リビアがチャドの統合を打ち出して以来,フランスはアフリカ大陸の軍事力の強化に乗り出し,最近,中央アフリカに300人余りの部隊を急派した.
 アフリカに駐留するフランス軍部隊は併せて7千人.その半数以上が,実はジブチに駐留しているわけだ.

------------山田茂 from 「危機の三日月地帯を行く」(日本放送出版協会,1981/4/20),p.190-191

▼ 1994年のルワンダ大虐殺に対しては,米英が関与に消極的だったこともあり,国連安全保障理事会はフランス軍の「人道的な関与」を容認.
 これを受けて,フランスは「トルコ石作戦」と銘打った介入を行い,フランス軍が「人道ゾーン」を設置して文民の保護を図った.
 ただしこれは,フツ族に偏って肩入れするものであったという.

 2013年1月には,フランス軍はマリへ軍事介入.
 同年12月6日には,かねてからフランスが国連安全保障理事会に提出していた,内戦と人道危機が深刻化する中央アフリカ共和国へ軍事介入する決議が採択され,アフリカ各国から派遣された兵員3600名と共に,フランス軍1200名が同国へ派遣.
 散発的な戦闘に直面しながらも,概ねスムーズに首都バンギをはじめとする各地の治安を回復させ,反体制派の武装解除も始めた.

 深い経済的な結びつきを反映して,2013年現在,アフリカには約24万人のフランス人が居住しており,これを保護するため,フランス軍は(いわゆる外人部隊を含めて)約1万2000人の兵員をアフリカに駐留させている.
 かつてのヨーロッパ植民地勢力のなかで,フランスは唯一アフリカに兵力を駐留させる国となっている.

 詳しくは,
http://bylines.news.yahoo.co.jp/mutsujishoji/20131218-00030759/
を参照されたし.▲


 【質問】
 アフリカにあったイタリア植民地は,第二次大戦後どうなったのか?

 【回答】
 アフリカに於けるイタリアと言えば,最も遅れて植民地獲得に乗り出した遅れた帝国主義諸国の1つです.
 当初は,全く商業的な目的で,貿易商などが拠点を求めていた程度のものでした.
 しかし,自由主義時代の首相クリスピの政策により,1885年のエリトリアのマッサワ侵攻を皮切りに,東アフリカへの本格的な進出が開始されました.
 しかし,エリトリアからソマリアを獲得した後,その両方の地を連絡するべく目論んだエチオピア侵攻は,1896年のアドゥアに於いてイタリア軍が敗れたことにより頓挫します.

 当時,イタリアと言えば,リソルジメントで群小国家が統一をして作り上げられた国であり,そうした民族自決の為の努力があったのに,他の帝国主義諸国と同様に,アフリカへの古くからの諸民族の国を侵してまで,植民地獲得に血眼になっている様を,後世の歴史家は,「リソルジメントの理念の裏切り」として強く批判しています.

 それは扨措き,エチオピアに敗れたことは,イタリアにとって拭い難いトラウマを残しました.
 1つは,欧州列強の一角に位置づけられているはずのイタリアが,アフリカの貧しい小国に敗れ去ったことであり,もう1つは,リビアの様に他の欧州諸国の協力を得られない状態で,イタリアが単独で侵攻したとしても,植民地獲得が難しいのでは無いか,と言う列強の資格に対する疑念です.

 こうして得た,イタリアの新たな植民地に於いて,利益を享受出来たのは,物資の輸送に当たる船主,軍服や軍需物資の調達業者,国内よりも収入が多く出世が早い国家公務員,軍功のチャンスがある軍人などであり,クリスピやムッソリーニが繰返し大衆に語りかけていた,貧しいイタリア南部の人々への恩恵はありませんでした.
 また,イタリアが植民地の農業に課したのは,ソマリアのバナナ,エチオピアのコーヒーなど,他の列強同様にモノカルチャー経済でした.

 クリスピの後を受けて,イタリアの混乱を収拾したムッソリーニは,1935年,エチオピアへの「復讐」と地中海を跨ぐ大ローマ帝国の再興を期して,バドリオ,グラツィアーニ両将軍を先頭にした大部隊を投入し,エチオピア全土を7ヶ月で攻略しました…
 と言っても,実際には100%全土を掌握していたのではなく,エチオピアの点,つまり都市部を占領していたに過ぎないのですが.
 とは言え,英国の消極的な支持により,1936年エチオピア,エリトリア,ソマリアの3地域からなる「イタリア領東アフリカ(AOI)」を成立させ,イタリア国王はその皇帝になり,イタリアは小さいながらも「帝国」となって,イタリア人民の士気を高揚させることになります.

 しかし,その黄金期は僅か5年であり,1941年には早くも英国軍,亡命エチオピア軍の侵攻を受けて,その領土は瓦解に追い込まれました.
 その間,エチオピアでは,エチオピアの人々を抹殺し,代わりにイタリア人移民を入植させようと言う計画が進んでおり,5年で約33,000名のエチオピア農民が殺されていました.
 特に,植民地の現地住民の収容所として建設された,ソマリアのダナーエとエリトリアのノクラ島の収容所は,ユダヤ人の絶滅収容所に極めて近いもので,これらの収容所に入れられた現地住民は,満足な食事も与えられず,餓死者も多く出ていたのです.

 時に1943年,ムッソリーニは国王から首相を解任され,幽閉されたもののドイツ軍特殊部隊により脱走した後,北部のサロに「イタリア社会共和国(RSI)」を成立させます.
 この為,南部のバーリに成立した国王政権,及び反ファシストの「国民解放委員会(CLN)」との間で,2年間に渡る内戦状態が続きました.

 そして,ファシスト勢力の後退に合わせ,在外公館ではムッソリーニの信任を受けた大使に対し,国王政権が新たに任命した新大使がやって来て,前任者に立退きを求める事になります.
 各国に派遣されていた大使の中には,後任者に抵抗する者もいました.
 とは言え,その後任者といえど,東アフリカにイタリアが築いた地歩については,余り立場が異なることは無く,例えば,駐米大使に任命された反ファシストのジャーナリスト,アルベルト・タルキアーニは,1945年7月にトルーマン大統領に送った書簡で,戦後のエリトリアやソマリアの処理に関しては,イタリアの「アフリカに於けるささやかな財産」と,「国家の威信」に影響が無いようにして欲しいと依頼しています.

 また,国民解放委員会を構成する反ファシズム6政党の連立政権の外相を務め,戦後キリスト教民主党中心の内閣の首相となるデ=ガスペリは,各国大使から各国の旧イタリア植民地問題に関する姿勢についての情報を得てから,各国との外交交渉に臨むイタリア側の見解を纏めています.

 そもそも,何故イタリアが植民地を持って良いのか,或いは保つ必要があるのか,と言う問題については,次のような回答を用意しています.
 1つ目に,統一後イタリアのアフリカ植民地獲得は,英国を始めとする欧州各国の協力の下で為されたことを強調しています.
 1885年のマッサワ進出も,英国の助言に基づくものですし,ソマリア進出も,ドイツの同地への進出を阻むために行ったものでした.
 また,リビアの進出も,1901〜1904年にかけての英仏両国との協定に依るものでした.
 …ムッソリーニによるエチオピア侵攻など,ファシスト政権が行った軍事侵攻などには,一切言及が無く,それ以前の歴史的経緯を掘り起こして,その際の欧米各国の関与に言及して,その植民地保有を正当化しようとしています.

 2つ目に,現実問題として,イタリア本国の過剰人口を,移民として他の土地に送り込む為にも,植民地が必要である事を力説しています.
 戦後のイタリアは,戦前にも増して,移民の移住地を必要としており,戦後は二国間協定に基づく合法的移民も少なく,特に米国への渡航は難しくなりましたし,欧州統合の交渉でも労働者の自由移動が,自国の移民問題に対する解決になるとの期待もありました.
 当然,移民の行き先を植民地に求めると言うのは,イタリアの勝手な都合ですが,そこには自国への移民を避けるために,欧米諸国が旧植民地への移民を容認するのでは無いか,と言う計算もあった様です.

 3つ目は,植民地問題は過去の複雑な経緯が絡み,簡単に解決出来ないとしながらも,デ=ガスペリは,イタリアの主権に関する主張は,「エチオピア戦争以前の原状回復」に限られ,領有では無く,信託統治でも十分に許容出来ると言う姿勢を崩していません.

 そして,それぞれの植民地保有については,様々な理由が挙げられています.

 リビアについては,「単にアフリカの問題に留まらない」とし,もし,リビアが失われれば,それは「地中海に於ける勢力均衡」に変更を齎すものとなるとしています.
 即ち,リビアでは既に,イタリア本土と同様の県組織を整え,11万人余のイタリア人が彼の地に居住しています.

 リビアについては,特に英国がリビア東部のキレナイカをエジプトやサヌーシーア派教徒に割譲するのでは無いかと言う懸念があり,同地の商業,市民生活にイタリアが如何に貢献したかが強調されています.
 因みに,サヌーシーア派教徒とは,19世紀に北アフリカで起こった熱狂的なイスラームの一派で,エジプトからキレナイカ,仏領サハラに住み,英国,フランス,イタリアとの間で若いと紛争を繰返してきました.
 イタリアとの間では,サヌーシーア派にリビアのサハラ砂漠のオアシス管理を任せる協定を1920年に結んでいましたが,この協定は機能していませんでした.
 当然,サヌーシーア派教徒は纏まった集団では無く,周辺地域に散居していることを強調したのは言うまでもありません.
 即ち,サヌーシーア派教徒はこの地を統治するだけの力が無く,その力を有しているのはイタリアだけだと言う事を主張していた訳です.

 また,キレナイカとマルマリカ地方にあるトブルク港は,今後予想されるアフリカへのイタリア人移民のための玄関口として欠かせない地域でした.

 エリトリアについては,この地を獲得するために,イタリア人が多大な犠牲を払ったことを挙げています.
 エチオピアが求める「海への出口」としての割譲などは,エチオピアが歴史的に山地民族であり,エリトリアにエチオピアの民族が少ないことなど,エチオピア側の主張に疑義を呈しています.

 ソマリアについては,既にタルキアーニから米国が,複数国による集団的信託統治を主張しているとの情報を得ていたので,他国との共同統治も許容出来ると,柔軟な姿勢を見せています.

 これらの主張は何れも,イタリアの主張を前面に押し出したものでしたが,既に時代は植民地保有を許容し得る状況に無く,国際社会がこれを簡単に認める事はありませんでした.

 このデ=ガスペリの主張は,1945年9月から10月にかけて開催されたロンドン外相会談に備えたものでしたが,では,英米仏ソの4強はその主張をどう見ていたかについて若干.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/24 23:22
青文字:加筆改修部分

 さて,イタリアの無謀な要求に対し,主要連合国はどう見ていたか.

 帝国主義の世界では全く残り物であった旧イタリア植民地は,戦後,米ソ対立の構図の中で,地政学的に重要な位置を占めるようになります.
 米国は,中東ナショナリズムの監視と,石油資源開発のために,リビアのトリポリに空軍基地を,エリトリアのアスマラに通信基地を,そして,マッサワには緊急用の空軍・海軍基地を必要としていました.
 しかし,ソマリアは重要性の高い場所ではありませんでした.
 一方,英国はその植民地帝国を維持する為に,アフリカの角とも言うべきソマリアの地をアデンと共に重要視していました.

 しかし,1945年のロンドン外相会談では未だ,旧イタリア植民地に対する米英仏ソのポジションが固まりきっていませんでした.

 米国は,ローズヴェルトの死後,英国との政策協調を以前ほどは重視しなくなっていました.
 旧イタリア植民地については,自らは集団的信託統治を提案していたのですが,ソ連との対立からそれはソ連の介入を許すことになりかねないとしてこれを取り下げ,完全独立支持に向かっていました.

 英国は,1941年以来外務省で検討してきた「大ソマリア」構想を提案しました.
 これは,英国領,イタリア領の両ソマリランドを合わせたソマリア全域の再編で,交渉結果により英国の関与の度合いが変わってくるとしても,エジプトに近接するキレナイカと合わせ,ケニアとアデンを結ぶ要地にあるソマリアの信託統治権を得たいと考えていました.

 フランスは,イタリアによる旧植民地の信託統治に最も理解を示した国です.
 とは言え,そのスタンスは,ド・ゴールが1946年1月に会談したネンニ伊外相に対し,フランスは「地中海では,英国人よりもイタリア人を,ロシア人よりもアラブ人を(隣人として)選ぶ」と述べたように,寧ろ弱いイタリアこそフランスの隣人に相応しいと考えるもので,旧イタリア植民地の独立は,近接するフランス領植民地のナショナリズムを刺激するだけで無く,英ソ両国のような強国がフランス領の近くで勢力を伸ばすのを警戒していました.

 ソ連は,イタリアが明確に西側に組み込まれるまでは,イタリアの左翼勢力が不利にならないようにするために,その民族自決のテーゼを犠牲にしてでも,イタリアに一定の理解を示し,1948年2月2日には全ての旧植民地でのイタリアによる信託統治への支持を表明しています.
 しかし,その年の春の総選挙で,キリスト教民主党の勝利で明確に西側に向くことが明らかになると再考されています.

 この様に,各国の立場はバラバラで,またドイツ処理問題や日本の占領政策などの主要政策が遡上に上ったことから,ロンドン外相会談での結論は出ず,その後も冷戦の激化に伴い,各国の意向は集約出来ず,議論は1948年9月13日のパリ外相会談に持ち越されました.

 そこで各国から示された提案は以下の通りです.
 先ず,4カ国共にイタリアにソマリアの信託統治を与えることでは意見の一致を見ました.
 但し,英国はエリトリアに関しては英国の意向が反映されなければならないと留保を付けています.
 一方,信託統治の期間は,英米仏は期間設定をしないとし,ソ連は逆に起源の明確な設定を要求しました.

 エリトリアについては各国の意見が最も分れました.
 ソ連は明確な期間を設定した上でのイタリアの信託統治を支持し,英国はイタリアやイスラーム勢力,中立的な北欧諸国を含む諮問会議が支援する形で,10年間のエチオピアによる施政の後,国連総会でエチオピアへの割譲を承認すべきか決定すべきであると提案し,フランスは国連管理かイタリアの信託統治で良いが,ソマリア海岸とゼイラ湾を含むダンカリアは即時エチオピアへ割譲すべきと主張,米国はダンカリアとキリスト教徒の住む山地国境2地域の一部をエチオピアに割譲後,1年後に全域の解決を目指すという棚上げ案を提出しました.

 リビアについては,ソ連はイタリア統治を支持,英米はキレナイカを英国統治,残りの領域は1年以内に解決を目指すとし,フランスは全域を1年後に解決すべきと主張しました.

 しかし,イタリアの西側傾斜が明らかになった後,ソ連の態度は変化します.
 リビアについては,イタリア統治を撤回し,10年間の国連での共同管理の後,安全保障理事会が現地住民の行政組織を米,英,仏,ソ,伊,欧州系住民代表,アラブ系住民代表の7つの代表による諮問委員会の助言の下で設立させるべきと主張しました.
 これは,米国や英国によるリビア領内への基地設置の動きを察知し,米国のバーンズ国務長官が1945年9月の第1回4カ国理事会で主張していた共同管理に戻したのです.
 既に冷戦は厳しさを増しており,国連が連合国協調の場になっていない状態では,米国にはこの選択肢はあり得ませんでした.
 イタリアの信託統治でほぼ決まりかけていたソマリアについても,条約からの削除が検討され,会談はまたしても失敗に終わりました.

 イタリア側は,交渉の要が英国では無く米国にある事,イタリアの西側同盟への参加が植民地問題を好転させる条件で半句,寧ろその逆である事を読み違った訳です.

 更にイタリアの総選挙で,左派連合の民主人民戦線が敗れると,ソ連はアジアでの議論との一貫性を持たせるため,植民地批判にシフトしました.
 議論は国連総会に移され,既に旧イタリア植民地に1947〜1948年にかけて派遣されていた米英仏ソ4カ国の調査団に加え,更に1950年1月の報告を期して,エリトリアにも国連調査団が送られることになりました.

 ところで,1947年,第4次デ=ガスペリ内閣の外相には,スフォルツァが就任しました.
 彼は戦前,ラパロ条約の締結に当たったファシズム期以前の外相経験者で,ファシズム期には駐仏大使からフランスを経て米国に亡命,共和主義的な反ファシズム組織である「マッツィーニ・ソサエティ」で活動していました.
 戦後に帰国したのですが,王政を否定する共和党に入党した事で,ファシストのパージを巡って王政維持を目指した英国と対立したので,デ=ガスペリ等が初代大統領に推されたのにも関わらず,当選を果たすことが出来ませんでした.

 それは扨措き,スフォルツァ外交の基本は,親米,親欧州路線を採りました.
 スフォルツァは,伊仏関税同盟締結やブリュッセル条約機構の参加を模索する傍ら,1947年,アフリカのために欧州列強による「シンジケート」を結成する計画を夢想し,そこにイタリアが他国と対等の資格で参加したいと考えていました.
 これは旧植民地復活を欧州各国と協調して行おうと言う構想でした.

 1949年にイタリアが北大西洋条約に加盟すると,西側陣営内では英伊協調の動きが顕著になり,特にベヴィン英外相とスフォルツァ伊外相による「ベヴィン=スフォルツァ合意」では,英国にキレナイカとエリトリアを委ね,イタリアはエリトリアの一部と,トリポリとその周辺地域であるトリポリタニア,ソマリアを得ると言う事になっていました.

 ところが,トリポリタニア管理の諮問委員会から外されたソ連がこれに激しく反発し,アラブやアジア諸国もこれに反対すると,イタリアは大きく見解を修正します.
 即ち,リビアとエリトリアの独立を認め,期限を設定してソマリアの信託統治だけは確保しようとした訳です.
 この提案も英国との協調を目指したものであり,1949年11月29日に国連総会決議によりリビアの独立が認められ,エリトリアは国連調査団の報告を待つことになりました.

 この問題を議論する国連総会の下部委員会21カ国の構成は,58カ国からなる総会のそれと勢力関係に於いて指して変わらず,特にエリトリアについては議論が錯綜し,15もの案が示されました.
 英国はエリトリアのエチオピアからの分離,ソ連はエチオピアに海の出口を与えた上でのエリトリアの独立を主張しました.
 ユーゴスラヴィアは,エリトリア,ソマリア両方のイタリアの信託統治に反対しています.

 しかし,国連での外交戦は最終的に英米連合の勝利になりました.
 英米案は基地の貸与という条件があっても,先ずは独立を望むアラブ諸国の希望を満たすものだったからです.
 ソ連はこの動きに対抗出来ず,東側からの抗議として,チェコスロヴァキアが国連調査団への参加を拒否したに過ぎません.

 イタリアにとっては,エリトリアの分離は帝国主義の証拠と非難されるのに対し,エチオピアとの連邦案は国際管理と自治の下で,未だイタリアの影響力が残るものと考えていました.
 一方,英国はイタリアの統治能力を信頼しておらず,完全独立も又,アラブ・ナショナリズムを活気づけるので避けようとしました.
 この為,国連の5カ国委員会では,英国の影響下にある南アフリカとビルマに連邦案を支持させ,ノルウェーが統合案を支持,グアテマラとパキスタンが国連信託統治の上での独立案,と3案鼎立に持ち込む事になりました.

 尤もイタリアでは,NATO加盟に際しても,国内メディアは植民地を加盟のために安売りしたと非難し,左翼勢力もその批判の例外ではありませんでした.
 スフォルツァは,1949年5月の国連での投票後,一旦辞表を提出しますが,デ=ガスペリ首相は彼を支持して辞表は受理しませんでした.
 イタリアでは外交的な行き詰まりを招いたものの,大局的には冷戦外交の中で西側が東側に対し,外交的に勝利を収めた訳です.

 以後,英米両国は狙い通りリビアに基地を置き,パレスチナ及びアラブ・ナショナリズムに対する監視を強めていきますが,イタリアは,英米両国のみに頼る解決策を取れなくなりました.
 一方,フランスは自国の植民地支配にとって危険となりかねないアラブ寄りのスタンスを示し始めたイタリアに不信を抱き,植民地管理にイタリアを加えることに消極的になっていきます.

 その後,イタリアは外交的に親アラブ色を強めていきます.
 この為,アラブの大国は何れもイタリアに好印象を持ち,エジプトはエリトリアに関しては,マッサワをスーダンへの割譲の上,残りの地域をイタリアに委ねた方が望ましいと考えていましたし,アラブ連盟は,1947年にイタリアとの会合で,イタリア人への権利平等をリビアが保証した上で,リビアを放棄すれば,エリトリアのエチオピアへの割譲を支持出来ると述べていました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/26 00:00


 【質問】
 セネガルとガンビアは,なぜ二つの国に分かれたのか?

 【回答】

 以前も触れたのですが,ガンビアと言う国は,以前うちのCommunityがそうであった様に,海への出口一箇所を除き,三方をセネガルが囲み,ガンビア川の両岸約10kmの範囲を切り抜く形で存在しています.
 面積は日本の岐阜県ほどで,エスニック・グループの構成は,最大多数がガンビアではマンディゴ人,セネガルではウォロフ人と言う違いがあるものの,言語的にも極めて似通っており,この地域のリンガフランカとしては,セネガルのウォロフ語が用いられていました.
 つまり,文化的にも似通っている両地域なのに,何故か不自然に分割されているのです.
 その原因は,16世紀以来の植民地獲得競争に有ります.

 そもそも欧州各国は,アフリカ海岸部に居住するエスニックグループと個別に交渉し,それぞれがバラバラに領有権を獲得していったのですが,将来の植民地経営を考えると,それらを集約して一元化する方が効率的である事は自明でした.
 その為,植民地の再編成が行われていくことになります.

 欧州人がこの地域に足を踏み入れたのは,15世紀頃とされますが,英仏両国の進出が顕著になるのは17世紀後半に入ってからです.
 当時,欧州人は海に流れ込む河川をアフリカ内陸部へのスーパーハイウェイとして利用し,その河口部の小島に商館や軍事基地を設置する傾向にありました.

 セネガンビア地域では,英国がガンビア川を,フランスがセネガル川を早くから抑え,それぞれの河口に浮かぶジェームズ島とサンルイに商館が建設されます.

 しかし,この頃,フランスとイングランドは,北米大陸の領土を巡って1689年に始まったウィリアム王戦争から,ナポレオン戦争が終結した1815年に至るまで,第二次100年戦争とも言える戦闘状態に突入しており,セネガンビア地域でも,サンルイ,ゴレ島,英領のジェームス島などを巡って何度も争奪戦が繰り広げられました.
 まず,1693年に英国がゴレ島とサンルイを占拠し,七年戦争中の1758年にも再び両地域を奪取し,ゴレ島は1763年まで,サンルイは1783年まで占拠し続けています.
 これに対し,フランスは英領ジェームス島城砦を,1695年,1702年,1703年,1709年の4度に亘って占拠し,1779年にはこの城砦を再起不能なまでに破壊して英国に打撃を与えることに成功しています.
 一方,英国は再びナポレオン戦争中の1800年にゴレ島,1809年にはサンルイを占領しており,これらがフランスに返還されたのはパリ条約締結の1814年です.

 この背景には,奴隷貿易のための拠点確保と,産業革命の進展と共に欧州で需要が急増した,アラビアゴムや油脂原料と言った資源の獲得競争がありました.
 アラビアゴムは水を加えると粘質状態になるので,古くから食品や医薬品として利用されていましたが,産業革命以後は,繊維にプリントする際の触媒として利用されるようになり,重要な工業用原料となったのです.

 1814年のパリ条約で,英仏両国は,サンルイやゴレ島と言ったセネガル地域に点在する商館と,ガンビア川右岸のアルブレダを仏領とする代わりに,アルブレダ以外のガンビア川流域を英領とすることに合意します.
 アルブレダは,元々フランス支配下のゴレ島の商人が,ガンビア交易のために1680年頃に,ジェームス島対岸のガンビア川右岸に獲得した領土なのですが,英国はサンルイの北部ポルテンディックでアラビアゴム交易を行う権利をフランスに認めさせたかったために,この地域をフランス領として認めました.
 この点のようなフランス領は,1857年まで英領の中のフランス領として存在して,フランスに多くの便益を齎します.
 例えば,フランスは,
「アルブレダの領有をフランスに認めると言う事は,フランス船が関税を支払うことなくアルブレダに寄港することも認めているはずだ」
と主張し,非関税でアルブレダに商品を運び,目前の英国商人よりも廉価で,それらをガンビア川流域の人々に販売したりもしています.

 他方,英国政府はそのパリ条約を受けて,1816年4月23日に,103本の鉄棒と引き替えにガンビア川河口のコンボ王国の王からバンジュール島を譲り受け,そこをセント・マリーズ島と改名し,英国人の入植を促進しました.
 この時形成されたのが,バサースト,現在のガンビアの首都バンジュールです.
 ガンビアは,1821年に,他の英国獲得の植民地であるラゴス,シエラレオネ,ゴールドコーストの3地域と共にシエラレオネに中央政府を置く英領西アフリカとなりますが,1843年には一端独立します.
 しかし,1863〜1864年に起きた第1次アシャンティ戦争で13名の犠牲を出したことを契機に,英国の西アフリカ撤退論が議論された後の1866年2月,支配権縮小を視野に再度,シエラレオネ総督府傘下に統合されました.

 そんな折,1866年3月に在英フランス大使から,象牙海岸沿岸部にある3つのフランス領であるグラン・バッサム,アッシーニ,ダブとガンビアを交換する提案が為されます.
 これは元々,セネガル川からシエラレオネまでの一体をフランス領とすることを夢見ていたフェデルブが唱えていたものでしたが,3つの理由からこの提案は魅力的でした.
 先ず,フランスからガンビア割譲が提案された1866年頃にはセネガンビア地域では,イスラームの流れを汲む僑団の伝道者マラブーと,伝統的な王国支配者との間で紛争が発生しており,治安の面で不安があったこと.
 2つ目は,ガンビアは英国製品を充分に輸入しているものの,主要輸出産品である落花生の大半がフランス向けであった事.
 3つ目は,フランスがセネガル川とガンビア川とに挟まれた地域の交易を増大させたのに対し,英国はシエラレオネより南部の地域への輸出を増やしつつあった事です.

 しかし,第1次アシャンティ戦争直後の1865年に設置された「アフリカ(西部海岸)特別委員会」で,アフリカ西海岸に於ける英国の非拡張と,将来的にはシエラレオネを除く総ての西アフリカ植民地からの撤退が勧告されていたことも有り,英国は黄金海岸周辺の領土を拡張することに慎重でした.
 そこでフランス政府は,象牙海岸の三地域に加えて,フランス領ガボンを提供するという新たな提案を行います.

 ただ,ガボンは,1840年代にブエ=ヴィロウメ総督によって仏領とされた後に,充分な投資が行われた地域と言い難く,1868年5月22日に英国は正式にこの提案を却下しています.
 但し他方で,英領西アフリカ総督のケネディをガンビアに送り,ガンビアの対仏割譲についての調査に着手させています.
 その調査報告によると,1870年前後の時点で,ガンビアには英国商社5社に対し,仏商社も4社進出しており,輸出の61%はフランスに向けられ,英国への輸出は僅かに22%だったこと,1869年にガンビアに入港した船,188隻の内,英国船は僅か34隻に過ぎず,フランス支配下のゴレ島やサンルイからは全体の約半数になる90隻が寄港していたと言います.
 つまり,ガンビア交易を担っていたのは英国人よりも寧ろ,ゴレ島やサンルイを根拠地にしていたフランス若しくはフランス領アフリカの商人達だった訳です.

 ところで,19世紀に入ると産業革命の進展に伴い,欧州では機械の潤滑油,料理用油,石鹸製造の為の廉価な植物油脂に対する需要が高まりつつありました.
 最初にガンビアから落花生が輸出された1829年では,英国,米国向けが大半を占めていたのですが,1844年以降はフランス向けが急増し,1840年代後半にはその8割がフランス向けでした.
 そもそも1851年段階で,ガンビアの総輸出額に占める落花生の割合は,ほぼ70%を超えているので,ガンビアは相当フランス依存になっていたのです.

 これは1840〜1841年に掛けてフランスが行った,オリーブ生産者を保護するために高めに設定されていたパーム油と落花生に関する関税が見直されたことに依るもので,1840年7月の王令では,落花生100kgに対して課せられていた2フラン50サンティームの関税を,1フランに下げました.
 但し,この関税はフランス船で輸入した場合にのみ限られ,外国船で輸入した場合は3フラン50サンティームの関税が掛けられています.

 当初,セネガンビア地域からフランス向けに輸出された落花生の多くはマルセイユに運ばれ,落花生王と呼ばれたヴェルミンクに代表されるマルセイユ商人が,取引全体を取り仕切っていました.
 ヴェルミンクという人物は,1845年から18年間西アフリカに滞在し,セネガルからナイジェリアまでの西アフリカ一帯との交易を行う会社を設立,落花生をマルセイユに運び込んで油脂加工することで一財を成し,現在でもフランスの商社として代表的な会社となっているCFAOの創設者です.
 一方,落花生を石鹸では無く植物油としての価値を見出し,セネガルで落花生栽培を開始したのは,1857年にフランスのボルドーで最初の食用油製造工場を建設したモーレル・エ・プロム社で,この会社はガンビアにも支店を構え,ガンビアでの落花生交易の牽引役を担っていました.

 この19世紀半ばという時代,アフリカの列強植民地は各地に点在しており,各国はこれらの点を面に拡げようとしのぎを削っています.
 中でも,「南の河川地帯」と呼ばれたポルトガル領ギニア,現在のギニアビサウの南部を流れるヌネ川からシエラレオネ北部のサモまでの一帯は,1870年前後,英仏間,即ち,英国のシエラレオネ総督府とフランスのセネガル総督府との間で,微妙な駆け引きが行われた地域でした.
 因みに英国側では,この地域一帯のことをシエラレオネから見て北になる事から,「北の河川地帯」と呼んでいます.

 この地域で最も交易が盛んな地域は,植民地開設当初はヌネ川流域でしたが,1860年代になると落花生栽培が盛んな南部のムラコレ川流域で,フランス商人の来航と交易が増えつつありました.
 また,ムラコレ川右岸のモリアでは,1865年5月に最高首長が死去したのを機に紛争が発生したのですが,アフリカ(西部海岸)特別委員会の勧告により,英国が介入に慎重だったことから,セネガル総督府が艦隊を派遣し,モリアとムラコレ川南部のサモをフランスの勢力圏下に置くことに成功しつつありました.
 しかし,サモ王国はシエラレオネ北部に隣接しており,英国はフランスがサモに進出することを快く思っていません.
 シエラレオネのケネディ総督も,1868〜1870年に本国の植民地大臣を務めていたグランヴィル伯爵宛に,ガンビアは英国にとって殆ど利益がなく,支出ばかりを強いる問題の多い地域であるのに対して,モリアとサモ両王国は経費が掛からず,寧ろ利益を齎すと報告しており,更に別の手紙では,この2つの地域がフランスから開放されるのであれば,交易増大によってシエラレオネに繁栄がもたらされるとの見解を示しています.

 そこで,1870年2月,英国外相のクラレンドン伯爵は駐仏英国大使のリヨンズ公爵に対し,ガンビアの統治権を放棄し,加えてコナクリの北側を流れるデンビア川より北を英領としない代わりに,デンビア川から南部のシェバル川までの領土を仏領としないという提案を行います.
 因みにシェバル川とは,シエラレオネとリベリアの間を流れるシェブロ川の支流を指すと見られ,こうした英国の提案の陰には,シエラレオネの近接地帯に食指を動かすフランスをデンビア川で阻止する意図が込められています.
 他方,フランスもその提案を受け容れるつもりで,セネガル総督に対しガンビア支配に必要な費用や利益を計算させると共に,ガンビア在住の住民に国籍変更の準備を指示していました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/10/08 22:54
青文字:加筆改修部分

 さて,1860年代後半から1870年初めにかけて,英国は植民地支配地域の一元化の観点から,シエラレオネ周辺の地域を英国領とし,それ以外の西アフリカから撤退しようとしていました.
 この為,セネガルに囲まれたガンビアの地を手放そうと考え,フランス政府と交渉を持ちます.

 しかし,ガンビアの住民や本国の商業会議所からは,ガンビアのフランス割譲に異を唱える嘆願書が出されます.
 その反対理由は4つありました.

 先ず第1は,フランスのアフリカ統治方法が気に入らないというものでした.
 特に1854年にセネガル総督にフェデルブが就任して以降,フランスは軍事介入を通じて各「部族」を支配下に収めていく傾向があり,これは政府や軍の介入を必要最低限に抑えるという英国の統治方法とは真逆の方向でした.
 また,フランスは自由主義経済を重視する英国に比べ,とかく政府が介入する傾向にあったので,ガンビア住人による自由な経済取引が脅かされる事を警戒してもいました.

 第2として,ガンビアの入植者にはメソジスト教徒が多かったので,フランス割譲後はカトリック教徒から迫害されるのでは無いかと言う懸念がありました.

 第3の理由は,一時的に英領だったサンルイとゴレ島が,1814年に返還された際,返還後も英国臣民がフランス臣民と対等な立場で交易を続けることが認められていたのにも関わらず,現実はそうならず,結果的に多くの住民がセネガルからガンビアへと移動することを強いられたことから,同じ事がガンビアのフランス割譲に際しても起きるのでは無いかと言う懸念を入植者は持っていました.

 最後に,入植者のガンビアに於ける資産保障に対する懸念があります.
 ガンビアでは,19世紀半ばに宗主国との交易のために英国の銀貨を導入したものの,銀貨不足から1843年にgourdeと呼ばれるフランスの5フラン銀貨の流通が認められていました.
 他方,英国商人達は,落花生栽培に必要な資材,収穫までの食糧や日常品などを,事前に栽培者に掛売で提供し,収穫時の落花生で以て代金を回収すると言うバーター貿易を行っていましたが,これは災害や天候不良が原因で債権が回収できなくなるリスクを英国商人が負うことを意味していました.
 これに対してフランス商人は,バーター交易を行うために商品を持ち込むと輸入税を課されるリスクがあったことから,それを回避するためにもgourdeを持ち込んで,英国商人に債務を負っている農民から,現金で落花生を購入しました.
 英国商人はリスクを負って商売しているのに,フランス商人は鳶に油揚げをさらう様な商売をしていたので,英国商人からしてみれば極めて苛立たしいものだった訳です.
 もし,フランスがガンビアを手に入れると,こうした売掛金の回収は更に困難になる可能性がありました.

 因みに,この嘆願書には518名の署名がありましたが,ガンビアに居住している欧州人は僅か50名しかおらず,残りの人々は英国の臣民を名乗るアフリカ人若しくはムラートであり,本当に彼等が理解して嘆願書に署名したのか,シエラレオネのケネディ総督は疑問視しています.

 ガンビアの住民はこの様に対仏割譲に反対していましたが,英国政府はガンビアから軍隊を引き揚げるなど,ガンビアからの撤退を示唆する行動に出ます.
 これに対し,商人達は商業会議所や植民地省に対する嘆願書の提出や陳情を繰り返すと共に,英国議会が条約を批准することを躊躇させるまでに,一大キャンペーンを展開しました.

 最終的にこの騒動に決着が付いたのは,1870年7月からフランスとプロイセンとの間で普仏戦争が開始されたからで,1870年8月に英国は交渉中止を宣言し,これにより,4年余りに亘って続けられてきたガンビアの対仏割譲問題は,一旦休止されることになりました.

 次にこの問題が蒸し返されたのは,1874年4月の事です.
 今度は,フランスから英国に対し,仏領のムラコレ,グラン・バッサム,アッシーニと英領ガンビアの交換が提案されました.
 この内,ムラコレは,ムラコレ川河口部の仏領を指します.
 先述の様に,1860年代にフランスが「南の河川地帯」に進出しては見たものの,その管理にはそれなりの経費が掛かりました.

 1869年〜1876年までの間,セネガル総督を務めたヴァリエール自身が,1860年代にサモを支配下に収めたピネ・ラプラド総督の時代には6〜7艘の護衛艦や蒸気船を保有し,当該地域の視察が頻繁に行えたのに対し,1870年代には保有する船舶が1艘のみとなり,訪問が困難になったこと,また,ムラコレに至ってはゴレ島から500マイルも離れているのに対し,英国植民地であるシエラレオネからはわずか34マイルしか離れておらず,ムラコレの支配にはこれまた費用が嵩むようになってきた事を懸念しています.

 こうした状況下で,仏領である筈のムラコレやコナクリ沖のロス諸島で交易を行う英国商人が出現し,シエラレオネのケネディ総督自身も,これらシエラレオネ近郊の仏領を英領とすることを強く望んでいたと言われています.

 この提案を受けて,植民地大臣を務めていたカーナボン卿は,ガンビアのコートライト行政官に,ガンビア住民の意向調査を命じる事になります.

 こうして,ガンビア割譲騒動の第2幕が幕を開けたのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/10/09 23:07

 さて,1874年から再開した交渉で,フランスは再び英国にガンビアとフランスが保護している地域との交換を持ちかけてきます.
 これに対し英国は,住民の意向調査を命じているのですが,折しもこの時期はセネガンビア地域では,イスラームの流れを汲む教団の伝道者であるマラブーと伝統的な王国の権力者との間で戦争が行われていました.
 とりわけ,1871年〜1874年に掛けて,前者の勢力が徐々に後者を凌駕し,ガンビア川河口のロワー・コンボや英領にまで迫っていました.

 こうした状況の中でロワー・コンボのブレカマ王は,1874年5月,彼の支配下にある沿岸部5地域を英国に提供するので,その代わりにマラブーの攻撃から保護して欲しい旨を訴える手紙を英国に送付していますが,これに対し英国は,提供するとしている5地域は既にマラブーに占領されていること,これ以上領土を拡張する気は無いこと,1873年3月23日にマラブーと協定を結び,マラブーの領土を有らゆる点で尊重し,彼等の法,慣習に何等干渉しない旨を宣言していることから,マラブー,アフリカの王のどちらにも荷担しない事を返答しています.
 こうした英国の姿勢は,マラブーと対峙し,支配下に収めていくことで植民地化を進めていくフランスと対照的でした.

 この様な状況下で,コートライト行政官はカーナボン卿に,
「以前と同様,住民はフランスへの割譲を望んではいないが,昨今のマラブーの侵攻に伴い入植地の管理も困難を極めている.
 いっその事,軍隊でアフリカ支配を強めているフランスにガンビアを割譲することが好ましいとも思える」
と言う内容の報告を行っています.
 実際,マラブーの侵攻は,ガンビアの輸出量を大きく減少させるなど,ガンビア公益に小さくない影響を与えていました.

 他方,英国は,依然として黄金海岸でアシャンティ王国と対峙することを余儀なくされており,1873年〜1874年にかけてアシャンティ戦争が再燃します.
 英国は黄金海岸への武器輸出を禁止しますが,それにも関わらず,仏領のアッシーニやグラン・バッサムからの武器搬入を阻止しかねていました.
 また,英領に比べて,荷運び用に奴隷を使用することに寛容であった仏領から欧州製品を輸入する動きも観察されたことから,黄金海岸の関税収入が減少するという問題も発生していました.
 こうした点から鑑みると,英国にとっても,ガンビアと交換にアシャンティ王国側のアッシーニを入手する事は好ましいと思われました.

 しかし一方で,フランスはこうした地域を実際には統治しておらず,フランス商社に任せっきりの状態だったことから,資産価値の低いこれらの地域と交換にガンビア川を手放すことに未練もありました.
 実際,ガンビア川は喫水3mの船が河口から480km上流まで航行可能であり,内陸との交易ルートとしての期待もあったりします.

 以上の様な葛藤がありながらも,1875年6月頃には,英国のイニシアティブの下,現在のギニアを流れるポンガス川右岸より北をフランス領,その左岸をガボンまで英国領とし,英国が前者に持つ領土と,フランスが後者に持つ領土を交換すると言う具体案が固まってきました.
 そして,
それぞれの資産額を計算した上で,失う資産よりも得る資産が多い国がその差額を現金でもう一方に支払うこと,
国境線策定のための合同委員会の成立,
また,支配国が変わっても,そのままその土地に残るそれぞれの臣民が交換後に不当な扱いを受けることはない点
などが話し合われています.

 ところが,ガンビアのマラブーとアフリカの王国との間の戦争は激しさを増しつつあり,唯一残されていたロワー・コンボもマラブーに陥落し,ガンビア交易は混迷を極めていました.
 1875年7月8日,英国植民地相から外務省に送付された手紙にはこうあります.

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 外務大臣のダービー卿にガンビアで起きている深刻な状況を認識して戴き,ガンビアを他の西アフリカ領土と交換するというフランスとの交渉を,不必要に遅らせることなく実行すべし.
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 一般的にフランスと英国とは,西アフリカの植民地やファショダ事件などで大きく対立している様に思われがちですが,殊ガンビアに関しては,マラブーに梃摺る英国政府が,内心ではフランスにガンビアを割譲することを望んでいた様子が浮かび上がってきます.

 同時期に植民地相のカーナボン卿自身によって書かれた手紙でも,これまで英国女王と現地のアフリカ人首長との間で結んできた交易に関する数多くの協定や,前者から後者に対して支払われる税についての取り決めを,どの段階でフランスとの交渉に反映すべきかダービー卿に熟考を促す記述が見られます.
 従って,1875年7月時点では,フランスにガンビア割譲を行うのは時間の問題とされてきました.

 しかしながら,こうした動きを敏感に察知した商人達から,再び割譲反対の動きが活発化します.
 反対理由は第1回目と同様,強権的なフランスの統治方法に対する懸念,宗教の問題,資産が失われることに対する反発などが上げられますが,それらに加えて,西アフリカ内陸部へのアクセス手段を失う事の懸念,ガンビアを手放すことで得る領土には殆ど資産価値が無いとみられること,又,フラ ンス商人及び政府の貿易に対する不満などが散見されています.

 また,ガンビアと交換に入手する事になる象牙海岸のグラン・バッサムとシエラレオネ側のムラコレは,1870年の交渉開始以後,殆どフランスに見捨てられた土地となっており,フランスの領土と言うよりは,寧ろ現地の首長に税を払って交易させて貰っていると言った方が相応しい状況でした.
 つまり,フランスが英国にそれらを割譲したとしても,現地の「部族」がそれを認めるかどうかも不明だったのです.

 一方,英国よりも産業革命の開始が遅く,生産性の低かったフランスで産出される工業製品は,英国産に比べてであった事から,仏領のセネガンビア地域では,人々が欧州に求めた紺色薄地綿布輸入に際して,英国産若しくは英領インド産の低価格品により高い税を課すことが検討されていました.
 つまり,ガンビアがフランス領になるとマンチェスター産綿布の市場が失われることも懸念されました.
 また,フランス領植民地やフランス船以外からの輸入に対して差別的な政策を行うと言う"Pacte Colonial"の歴史を持つフランスでは,自国船以外の船で落花生を輸入すると追加的な税金を課せられたため,英国商人の船で落花生をフランスへ輸出することも憚られました.
 結局,ガンビアをフランスに割譲後,政府の多大な保護と市場介入政策の下で,アフリカで徐々に勢力を拡げつつあったフランス商人と共存しながら,英国商人がこれまで通りの貿易利益をガンビアから得られるかどうかは疑問でした.

 更に,ガンビアとシエラレオネの両植民地当局の歳入の大半は関税収入であり,その歳出の大半はそれぞれの植民地運営に投じられましたが,ガンビアにおいては軍隊を常駐させておらず,英国政府が入植を促すための多額な投資を投入すると言う訳でも無く,それどころか公的建物や倉庫,行政から退いたものに対する年金までもが,ガンビア植民地当局自身が集めた税収で賄われていたので,財政赤字に悩むシエラレオネを尻目に,ガンビアの財政収支は1875年段階で黒字に転じており,何故コストが掛からないガンビアを手放すのかと言う意見もありました.
 これに対して英国政府は,ガンビアと引き替えにシエラレオネと黄金海岸近郊のフランス領を入手した後,そこから英領への密輸を取り締まれば,財政赤字に苦しむシエラレオネや黄金海岸の歳入が増大することを目論んでいました.

 後は実行するだけという状態だったガンビア割譲ですが,彼方此方から反対意見が出たために,その合意は暗礁に乗り上げてしまいました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/10/10 22:11

 英国とフランスの綱引きで中々この地域は安定しませんでした.
 1875年の段階で再び,英国はフランスにこの狭い植民地を手放そうと交渉に臨みます.

 しかし,ガンビアのフランス割譲は,王立植民地協会からも反対意見が表明され,更に反対を目的にガンビア委員会というものまで創設されました.
 更に,西アフリカ市場がフランス製品に席巻されてしまう事を恐れたマンチェスターの商業会議所は,ガンビアの割譲反対を唱えるキャンペーンを実施し,デイリーニュース,スタンダード,デイリーポストなどの有力紙も挙ってこの問題を取り上げました.

 この反対運動に対し,カーナボン卿は,
「割譲は国会で議決されるまで実施されない」
事を改めて示した上で,1876年2月17日,上院に於いて,ポンガス川とガボンの間にあるフランス領と高官にガンビアを提供する案について説明を行いますが,そこでも強い反対意見が表明されました.

 これを受けてディズレーリ首相は,後日,下院でこの件について議論することを約束しますが,その最中,今度はフランス政府が英国の提案に異議を唱えたことにより,10年に亘って繰り広げられていた交渉は又もや中止されることになります.

 あれほどまでにガンビアの入手を望んでいたフランスが,何故交渉の中止を決断したのかと言えば,ポンガス川を境界に南北を英領と仏領に分けるという案が原因です.
 フランスの外務省レベルでは,この提案は好意的に捉えられていたのですが,これを海軍省が察知すると,フランスに不利になることが分かったのです.
 何故ならば,ポンガス川からサンルイ北部のアルギンまでの海岸線は約1,000km超なのですが,英領となるガボンまでのそれは3,500kmに達します.

 1870年代には,ダホメ周辺で交易を行うマルセイユ商社の数も増えており,1871年にはコトヌをフランスの保護領とする条約が締結されていました.
 更に,ニジェール川や奴隷海岸の将来性に関心を持つ仏商社も少なくなく,ナイジェリアとガボンの間を英仏の中立地帯とすることを望む声もありました.

 それにも関わらず,恰も英仏間の領土交換条約が成立したかの様に,ラゴス総督がアッシーニ近くの仏領に英国の税関を設置したり,仏保護領であるダホメの主権を脅かすかの様な行動を黙認したり,ガボンの村に軍隊を派遣するなどしたことに対し,フランス海軍省は苛立ちを見せる様になりました.

 更に,黄金海岸に進出していたフランス商社から,領土交換に抗議する書簡がフランス政府に送付されるなど,フランス政府も経済界からの突き上げに遭っていた訳です.

 結局,この時もフランスと英国とのガンビア割譲は失敗に終わりました.

 1884〜1885年のベルリン会議でアフリカ分割方法が決定した直後の1886年,フランスはガンビア川南岸のジグインショルをカビンダと交換にポルトガルから入手します.
 これにより,ガンビアはセネガルに取り囲まれることになり,現在の国境線の輪郭が誕生しました.
 そして,ガンビアがシエラレオネから切り離されて再び英国の独立した植民地になった翌年の1889年には,英仏が相互に歩み寄りながら,シエラレオネ,黄金海岸,奴隷海岸,そしてガンビア,セネガル,カザマンスの境界が決定されました.

 もし,この時にガンビアがフランスに割譲されていれば,セネガルに三方を囲まれる様な形で現在の様なガンビアの国境線が引かれなかったでしょう.

 この時も英国はガンビアをフランスに割譲する用意がありました.
 しかし,フランスがガンビアを請け取る準備がなかったので,ガンビア譲渡案を含まずに協定を締結します.
 が,近い将来,見直すつもりであったと言います.
 最終的には,この境界はその後も見直されることはありませんでした.

 ところで,1889年の協定に反発するマラブー達が,1891年に英仏合同国境線委員会の作業を妨害したり,英国に対する叛乱を試みたりする動きもありました.
 これに対し英国は,これまでと打って変わって,自らマラブー討伐に乗り出し,1892年2月にはマラブーの1人,フォディ・カバをフランス領のカザマンスへ追いやり,1901年には彼を殺害して,約50年に亘ってセネガンビア一帯を不安定にさせていたマラブーとアフリカの王国との間の戦争に終止符を打つことに成功しています.
 つまり,当初,ガンビアの保有そのものに消極的であった英国が,1889年の国境線画定を機に,叛乱分子のマラブーと対峙し,押さえ込み,そしてガンビアの植民地化に乗り出していくのです.

 1901年にはガンビアの行政事務所は,再び総督府に格上げされ,翌年にはガンビア全土が英国の支配下に収められています.

 ただ,その頃には,1870年代には優等生だった財政収支が,赤字に転じてしまっていたのですが….

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/10/11 23:16

 さて,1889年になるとガンビアの財政は赤字に転じます.
 政府収入の大半を関税で賄っていたガンビアの植民地当局は,紛争や落花生価格の低下により,ガンビア経済に陰りが見え始めると,関税率の上昇で収入の安定化を図ろうと試みます.
 1880年代の関税率は,1860年代のそれよりも50%上昇しており,セネガルやカザマンスに比べると著しく高い関税がガンビアの輸出入品に課せられていました.

 例えば,1886年当時,総額10万フランの同じ財の組合せの積荷を,セネガルとガンビアそれぞれに輸入した場合,セネガルでは7,270フランの輸入税が課せられたのに対し,ガンビアではその約2倍に当たる13,739フランが課せられているとの試算が発表されています.

 この高関税には,ガンビアで交易活動を行っていたフランス商社の不満も大きく,代表的な商社4社が連名で1886年9月に関税率の引き下げを求める嘆願書を英国政府に出しているほどです.

 しかし,英国経済もこの時期景気減退期に当たっていました.
 政府は歳出を削減するため,英国とバサーストの間の郵便船を管理するThe British and African Companyに支払っていた年1,200ポンドの補助金を廃止し,代わりにフランスのPelligrin & Co.の船を年間40日チャーターして,月に数度,バサーストからシエラレオネ経由ダカールまで小包や手紙を運び,ダカールからはフランスのボルドーとブエノスアイレス間を運行するフランスの定期便であるCompagne des Messageries Maritimeの船を利用してボルドー経由英国に運ぶと言う案を提示します.
 この定期船は,ボルドーとブエノスアイレスは,毎月20日と5日に両港を出発し,ボルドーからダカールまでは8〜9日,ダカールからブエノスアイレスまでは19〜21日程度要した航路を取っています.

 この案は,フランス商社から提示されたものと言われていますが,当然のことながら,フランス商人によるセネガンビア地域の貿易独占に繋がりかねないこと,英国に変わってフランスとガンビアが直結するので,英国製品よりもフランス製品がガンビアに流入する可能性が高いと言うので,英国商業界から強く反対され,結局,この案も立ち消えになりました.
 こうした動きからも分かる様に,英国にとってガンビアと言うのは明らかに重要な地域では無く,フランス商人の経済活動にも寛容であり,寧ろコスト削減のためなら,英国系よりもフランス系商社との取引を優先する事すらありました.

 当時,大英帝国が関心を持っていた地域は,こんな西アフリカのちっぽけな領土では無く,オーストラリア,カナダ,インド,南部アフリカの4地域でした.
 とりわけ,同じアフリカ大陸にある南部アフリカでは,1867年にキンバリーでダイヤモンドが,1872年に金鉱が発見された事で,1877年にはトランスヴァール共和国を併合し,1879年にはズールー戦争を戦い,1880年には第1次ボーア戦争が勃発していました.
 また,北アフリカに目を転じると,1869年にスエズ運河が開通し,1882年には英国軍の駐留が開始されているなど,こうした地域に比べると,明らかに西アフリカ地域での英国の関心は低いものでしかありません.

 それにも関わらず,ガンビアはフランスに割譲されることなく,英国がガンビアを所有すればするほど,そこに形成される資産額は増大し,1870年代後半のリセッション期にあって,資産の保有者である商業界からの反対意見は日増しに大きくなり,割譲反対のロビー活動も活発さを増します.
 元々,英国商人の数は少なく,資産額も他地域に比べると微々たるものだったと思われますが,経済不況の深刻化は,その小さな資産ですら死守すべきと言う考え方が商業界に於いては支配的な空気を醸し出していました.

 また,この地域は経済的に重要では無くとも,植民地の拡大という面で見れば,西アフリカ内陸部への数少ないスーパーハイウェイとなるガンビア川をフランスに与えると言うことは,フランス商人の経済圏を拡大する事になり,逆に英国商人が活動する余地を狭めると言う関係になりかねません.
 特に西アフリカでは日増しにフランス商人が影響力を強めていたので,将来的に大きな損失を招きかねないと言う恐怖心があったと思われます.

 こうした商業界の動きは,好景気の時期には目立ちませんでしたが,リセッションになった途端に,新たな市場確保の意味から,政府に対する働きかけを強めていきました.
 英国の場合,特にマンチェスター商業会議所が,西・中部アフリカでの領土拡張の旗振り役を行っていました.
 こうした反対が原因で,英国政府の意図に反してガンビアは独立まで英国の支配下に置かれることになりますが,ガーナやナイジェリアの様な資源に恵まれた訳でもなく,従って,本国の経済支援や関心が向けられたとは言い難い面もありました.

 この状態の儘,1960年代に両国は独立を達成しますが,独立後も国連の仲介を得ながらセネガルとガンビアの統合の話し合いが何度も重ねられ,1965〜1982年の間に30余の条約が締結されて,1982年にはセネガンビア国家連合も形成されています.
 しかし,自知を失う事を恐れたガンビアと,経済危機に陥ったセネガルの意志により,1989年には国家連合は解消されて現在に至っています.

 これは19世紀後半の経済界の動きが,同じ民族,言語,アイデンティティを持った人々の統合に未だにブレーキを掛けていると言う意味であり,100年余の分断が固定化されてしまうと言う非常に皮肉な結果になってしまっている訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/10/12 22:56


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