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◆◆言語「支配」総記
<◆総記
アフリカFAQ目次


 【質問】
 アフリカにはどれ位の言葉があるのか?

 【回答】
 この前もリビアでカダフィ政権が倒れましたが,アフリカでは騒乱が絶えませんし,
 最近は少なくなっていますが,ちょっと前まではクーデターも日常茶飯で起きていました.
 その原因の多くを占めるのが,帝国主義時代,自分たちの生活圏を無視して引かれた国境線です.
 これにより,言語体系の異なる民族が,同じ国境線に押し込められたり,言語体系が同じなのに,泣き別れになったりした訳です.

 そもそも,アフリカにはどれ位の言葉があるのかと言えば,とある団体のEthnologueと言うデータベースに依れば,2,092あるとされています.
 現在,世界全体で話されている言語数は6,912なので,その内の30.3%がアフリカで話されている事になります.
 もう1つのデータとして,1言語当りの話し手の中央値を見てみると,アフリカでは約25,000人,アメリカでは2,000人,アジアでは10,000人,欧州では約22万人,太平洋地域では僅か800人になります.
 全世界の中央値は約7,000人.

 この中央値と言うのは,話し手の数の一番多い言語と,少ない言語の中間に位置する言語の事で,欧州が多いのは,その地域で生まれた言語を話す人々が,全世界で多い事があります.
 英語やスペイン語は,米国や中南米でも話されていますが,その言語が生まれたのは欧州ですから,英語やスペイン語を母語とする人々は,欧州に含まれる訳であり,アメリカというのは,北米や南米に従来から住んでいるイヌイットやインディオなどの先住民などから算出された中央値を言います.

 日本人は,「日本語を母語にしている民族である」と言い,英語やフランス語,或いは中国語,ヴェトナム語,カンボジア語,タイ語など国名に一致した言語名を思い浮かべ,それを学んだりしていますが,実際にはこうした言語は非常に例外的な言葉です.
 国の数は200弱しか無いのですから,先ほどの6,912から見ると,僅かに3%弱でしかありません.

 アジア系諸語の中央値が,中国語や日本語,それに朝鮮語やヴェトナム語など人口の多い国々が入っているのに10,000人であるのに対し,アフリカ系諸語が25,000人となるのは,アジア系諸語の中には多数の言語が多数あるのに対し,それを使っている人々が相対的に少ない事が挙げられる訳で,つまりは,それだけの言語が絶滅の危機に瀕していると言っても過言では無いのです.
 日本でも,アイヌ語や琉球語,小笠原語(Ethnologueでは日本の言語とは違う事になっていたりします)などがあり,それらの話者は年々少なくなってきています.
 それに対し,アフリカの人々は何れの地域でも(最近では東アフリカ地域で餓死者が多数出ているので,変動はあるかも知れませんが),人口が急増していますから,勢い,その言語を使う人々は多くなる訳です.

 アフリカにある2,092の言語の主体は,所謂,部族語と呼ばれるものです.
 アフリカには,地域共通語とか旧宗主国の言語を引き摺った公用語がある訳ですが,その本筋はずばり部族語にあります.

 例えば,コンゴのテンボ語,フンデ語,ナンデ語,ウガンダのブィシ語,トーロ語,アンコレ語,タンザニアのハヤ語で「頭」と言う単語を話してみると,テンボ語ではetswe,フンデ語はamu:twe,ナンデ語がomu:twe,ブィシ語がmu:twe,トーロ語,アンコレ語,ハヤ語が何れもomutweとなります.
 これに,「私の」と言う所有形容詞を付けると,トーロ語はomutwe gwange,アンコレ語はomutwe gwanje,ハヤ語はomutwe: gwangeと微妙に異なります.

 何れも同じような言語なので,日本語的に言えば,茨城弁と千葉弁と埼玉弁の違いでしかないのですが,トーロ語とアンコレ語はウガンダで話されており,ハヤ語はタンザニアで話されています.
 また,トーロ語とアンコレ語はほぼ同じ言語体系であるのですが,トーロ族とアンコレ族はそれぞれ別個の王国を形成してきました.
 つまり,アイデンティティーは全く別問題と言うわけです.

 因みに,これらの言語は,言語系統としては,ニジェール・コンゴ大語族の内,ベヌエ・コンゴグループの更に下位グループであるバンツー系の諸語であり,そのバンツー系諸語の中でも,更に近い関係にある湖間バンツーグループにある言語なので,これだけ似ている訳です.

 同じバンツー系諸語でも,地域が異なる場合,例えば,カメルーンのバンコン語で「人間」を表すのはmutなのに,南アフリカのズールー語では同じ意味を表す単語はumunttuとなり,一見すれば,全く同源語とは判りにくい場合もありますし,隣接言語でも単語の入れ替わりが生じている場合もあります.
 また,一般に同じ系統でも,バンツー系言語が属するベヌエ・コンゴグループと,フルフルデ語,ウォロフ語が属する大西洋語グループの様に,語派が異なると,素人目には全く同じとは思えません.

 また,アフリカの場合,自然を無視した人工的な国境を跨がって話されている言語があれば,それは別の言語と考えられる傾向があり,その為に言語数が増えます.
 例えば,ケニアのマサイ語とタンザニアのマサイ語は,同じ名前で呼ばれているのであれば問題はありませんが,ウガンダのコンジョ語とコンゴのナンデ語,ウガンダのブィシ語とコンゴのタリンガ語は全く同じ言語なのですが,名前が異なっています.
 特に,フランス語圏と英語圏に分れていた場合は,この様な別言語としての認識が,為されてしまう傾向にあります.

 ところが,この言語を纏めていき,語族にしてしまうと,2,000以上あった言語が僅か4つの語族に収斂されてしまいます.
 これに比べ,北アメリカ大陸原住民の語族は,アフリカより地域が狭く,先ほど見たように言語の数が少ないにも関わらず,語族に纏めると50もあります.
 これは,比較言語学でさかのぼれる時間は精々が4〜5,000年前までであり,アフリカは人類が誕生した地であり,その言語が使われていた歴史は既に相当あり,この頃には相当言語が収斂されてきていたのに対し,アメリカに人類が渡ってきたのは比較的新しく,言語が未分化のまま記録が残っていると言う為です.

 アフリカ諸語の語族は,4つに収斂されると書きましたが,その4つとは,西アフリカ南部から南部アフリカまでの大部分を占めるニジェール・コンゴ大語族,サハラ砂漠内部とナイル流域に広がるナイル・サハラ大語族,西アフリカ北部,北アフリカから東アフリカに広がるアフリカ・アジア大語族,南部アフリカ南西部に広がるコイ・サン大語族です.

 この内,ナイル・サハラ大語族の分布は虫食い状態であり,特にソンガイ語族は本体から遠く切り離されてニジェール川湾曲部で話されており,周囲はアフリカ・アジア大語族やニジェール・コンゴ大語族に囲まれています.
 これは,恐らく嘗ては,この系統の言語はナイル川流域とサハラ一帯で話されていたのでしょうが,サハラの砂漠化と共に北からアフリカ・アジア大語族が,南からニジェール・コンゴ大語族がそれぞれ浸食してきて,分布が分断されてしまったものと考えられます.
 コイ・サン大語族も大陸の南西部に固まっていますが,ハツァ語とサンダヴェ語は,その地域から遠く離れたタンザニアに飛地的に大きく離れています.
 これも,以前はコイ・サン系の言語が大陸の赤道以南で話されていたのが,ニジェール・コンゴ大語族の中のバンツー系の言語がナイジェリアとカメルーンの国境辺りから大陸南東部に急速に拡張してきたので,その分布が分断され,多くのコイ・サン系言語はバンツー系の言語に飲み込まれたのであろうと考えられています.

 因みに,語族と言うのは,19〜20世紀に欧州で発達した系統分類で,生物学の進化論から影響を受けています.
 語族,英語ではlanguage familyと言い,Familyとは生物学上に於ける系統分類上の「科」です.
 欧州では,音韻対応による比較法で系統性を証明していますが,言語の多いアフリカではこうした厳密な比較では無く,語彙の似かよりに依って分類しておくしか無いとなっていますから,厳密な語族とは言い切れません.
 この系統分類は,現在,科よりも大きな枠組みとして,生物学的のphylumつまり,「門」と言う考え方が出て来ました.
 日本語的にはこれも「語族」になるのですが,混乱を避ける為にphylumは「大語族」と言い分けるようにしています.

 本来,言語,人種,文化の概念は必ずしも一致しません.
 バンツー系の言語を話す集団には,農耕民もいれば牧畜民もいますし,狩猟採集民もいます.
 また,身体的特徴も,ルワンダやブルンジのツチ族の様に非常に背の高い民族もいれば,ピグミー族のように小さな民族もいます.
 しかし,帝国主義,人種主義で発展してきた言語学では,言語と人種は強く相関づけられてきました.
 即ち,アフリカ・アジア語族系の言葉を話すのは所謂コーカソイドで,コイ・サン語族系の言葉を話すのはブッシュマノイド,そしてニジェール・コンゴ語族系とサハラ・ナイル語族系の言語を話すのは典型的な黒人種と言う概念です.
 ところが,実際にはアフリカ・アジア語族系の言葉を話す人の中にはナイジェリアなどチャド語系の言語を話す人もおり,彼らは黒人であってコーカソイドではありません.
 また,ブッシュマノイドも肌の色は褐色っぽいのですが,実際には黒人種の変異の中に入ります.
 こうした学問は欧州で発展してきたものであり,人種主義的なものが多く取入れられたので,その辺り,未だいびつな考えを引き摺った学者も多くいます.

 なお,アフリカの言語系統は,4つと先述しましたが,厳密に考えると,この4つの他に,南アフリカやナミビアで話されているアフリカーンス語,セネガル南部からギニア・ビサウで話されるポルトガル語ベースのクレオール,カメルーンやナイジェリアなどで話される英語ベースのピジンがあり,これらはインド・ヨーロッパ系の言語です.
 また,マダガスカルのマラガシ語は,系統からはオーストロネシア系で,台湾,インドネシア,ハワイ,イースター島と言った南太平洋に広く分布している言語です.
 また,勿論,旧宗主国の言語も数多くの人に話されています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/09/17 23:29
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アフリカ諸国における,「公用語」の状況は?

 【回答】
 アフリカ大陸全体での言語数は2,100弱あるのですが,それらの多くは部族語と言うレベルのものです.
 アフリカの国々で,最も部族語が多い国はナイジェリアで,その数は実に500以上あります.
 セネガルやウガンダの様な比較的小さな国でも,それぞれ30乃至40程度はあります.

 最も少ないのは,ルワンダとブルンジで,それぞれルワンダ語,ルンジ語しか話されていません.
 ルワンダやブルンジの様に,国として単一言語使用の国は,アフリカにおいては稀ですが,部族語としての単位は1つしかありませんが,実際には別の言語も使われているので,ちょっとややこしい.

 以上の様な状況なので,アフリカの大抵の人々は,生まれつきバイリンガルだったりします.
 通常は,自分の母語である部族語と,場合によっては近隣の2〜3の部族語を操ります.

 但し,複数の部族語を用いないとコミュニケーションが取れないのかと言えば,そうではなく,地域共通語となっている言語を用いてコミュニケーションを取る事も多々あります.
 例えば,コンゴ東部やタンザニア,ケニアと言った国々では,人々はスワヒリ語を用いてコミュニケーションを取ります.
 地域共通語にはコンゴのルバ語や,コンゴ語の様に,その地域で最も勝っている部族が用いている言語を共通語として使用する,所謂部族的基盤を持った言語もありますが,スワヒリ語やアフリカ中部のリンガラ語の様に部族的基盤を持たずに,各地の部族が共通的に用いる言語もあります.
 この為,国によっては,こうした共通語が国語と呼ばれる場合もあります.
 コンゴで言えば,ルバ語,コンゴ語,スワヒリ語,リンガラ語が国を4分する形で用いられており,何れも国語と呼ばれています.
 また,地域によっては,より狭い範囲での共通語も生じています.

 最近は,都市住民を中心に,共通語しか話せない人々が増えてきているそうです.
 例えば,コンゴのキンシャサではリンガラ語,セネガルのダカールではウォロフ語しか出来ない人も出て来ています.
 また,田舎では異部族間の結婚により,共通語でしかコミュニケーション出来ず,その家庭の子供達が共通語でしか判らないと言った例もあります.

 取り敢ず,人々が生活していく上で,先ず必要なのが部族語,そして地域で生活する上で必要な地域共通語(=国語),更にその上に公用語が加わります.
 先ほど,ルワンダやブルンジでは1つの言葉しか無いと書きましたが,それはあくまでも部族語だけの世界で,その上に重層的に地域共通語であるスワヒリ語が載っかるわけです.

 その上に載っかる公用語は,行政,司法,学問など公的な領域で用いられる言語で,アフリカ諸国ではこれは通常,旧宗主国の言語がその役割を担います.
 例えば,ナイジェリアやガーナ,ウガンダの様な旧英国植民地では英語が公用語であり,セネガル,コートジボワール,チャド,ルワンダ,コンゴ民主共和国の様に,旧フランスやベルギーの植民地ではフランス語が,ギニア・ビサウ,アンゴラ,モザンビークの様に旧ポルトガル植民地ではポルトガル語が,たった1箇所の旧スペイン植民地だった赤道ギニアではそれはスペイン語になります.

 公用語と言うのは,謂わば,エリート層の権力の源泉です.

 公用語を学ぶ事が出来るのは,外国人(屡々それは旧宗主国系)の手による学校に通う事が出来る人々か,将校か,海外に留学する事の出来る人だけであり,その数は非常に限られます.
 そして,その言葉を手に入れた者だけが,行政,司法,学問の分野で活躍出来ると言う訳です.
 一般大衆に容易に手が出せるアフリカ系諸語,例えばスワヒリ語などの地域共通語にしてしまうと,その力は容易に多数派の庶民に移ってしまいますから,彼らエリート層が地位を維持するには絶対必要なツールなのです.
 であればこそ,小国ブルンジではルンジ語しか話されていないにも関わらず,公用語がフランス語となっている訳です.

 勿論,こうした歪な構造は,アフリカ諸語が国語或いは公用語として機能しうる為の整備が遅れている事も関係しています.
 例えば,先ず,文字をどう表現するか,発音をどう共通化させるかなど,様々な問題が出て来る訳です.

 そう言えば昔,日本でも英語公用語化なんて話がありましたし,最近,様々な会社でグローバリゼーションの名の下で,社内の英語公用語化が進んでいるのですが,これなんかは英語を巧みに操れる人材だけが得をする訳で,形を変えたエリート層の力の維持なのかなぁ,とも思ってみたり.

 とは言え,何事にも例外は付きものです.
 タンザニアの場合は,スワヒリ語が独立以前から,ザンジバル島やインド洋沿岸地域のみならず,大陸部でも共通語として普及していた為,国民統合という政治的理念から,スワヒリ語を国語のみならず公用語であると規定しています.
 尤も,この国の場合は,大陸部のタンガニーカと島嶼部のザンジバルと言う2つの国が統合した国ですし,その流れも,タンガニーカは部族連合体からドイツの保護国,植民地となり,英国領になって独立した国,ザンジバルはイスラームの影響が強く,オマンなどの植民地を経て英国領となった国ですから,異なった歴史を歩んだ国を平和裡に統合するには,共通語であるスワヒリ語を公用語にする方が良かったのかも知れません.

 また,ルワンダは部族語はルワンダ語,公用語はフランス語でしたが,現在では英語とフランス語,それにルワンダ語も公用語になっています.
 これは1つは国のエリート層が,虐殺を繰返した御陰で,国民統合のツールとして部族語兼国語のルワンダ語が公用語として必要となった為であり,また,誰も使っていない英語が公用語化されたのは,大虐殺の御陰で,国連を始めとする援助機関との遣り取りが増えた事からと考えられます.

 なお,「国語」と言う言葉,日本人の場合,国語は「国全体に掛る」言葉,つまり公用語を想定しがちです.
 しかし,アフリカの様に多様な言語が用いられている場合は,「国語」は我々の使っている言語であり,それは公用語とは限りません.

 昨今,言語の消滅と言う話が良く出て来ます.
 世界に7,000ある言語の内,21世紀中に90〜95%が消滅すると言うもので,英語がグローバル化すると,それに呼応して世界中の言語が死滅すると言うものです.
 但し,この考えにも裏があって,話し手の数が100万人いなければ,その言語が消滅すると言う前提に立っています.
 以前取り上げたブルトン語が,100年前には100万人話者がいたのに,それが少なくなると消滅一歩手前になってしまうと言うのが,その論拠の1つです.

 ところで,話し手が1億以上いる言語は8つあります.
 その8言語で,話者数は地球全人口の約40%を占めています.
 その英語,フランス語,中国語,ロシア語,ヒンディー語,日本語,スペイン語,ポルトガル語ですが,言語数は世界の言語の0.1%にしか過ぎません.
 これを1,000万人以上に拡大すると,8言語に75言語が追加され,83言語で言語数は1.2%,合計話者数は世界人口の80%となります.
 更に100万人以上に拡大すると,83言語に264言語が追加され,合計347言語で言語数は5%,合計話者数は世界人口の94%に達します.
 これを根拠に,100万人以上の話者がいないと,その言語が死滅すると言う訳です.

 では,言語数の多いアフリカで,この考えが当てはまるかと考えると,欧州や米国,アジアの様に教育が行き届かず,寧ろ放置されているので,言語侵略は起きず,安泰であると言います.

 実際にはどうか.
 アフリカでは部族は部族において対等で,人口の大小で左右される事は無く,等価の集団として認知し合い,共存なし得る事が許されてきた社会である為,こうした事が起きないと考えられ,先の考えとは大きく異なります.
 人口たった5万人の部族と,数十万に及ぶ部族が接触する場合でも,少数者の彼らは臆する事無くごく普通に振る舞います.
 言語体系がかなり違うのでお互い通じない場合でも,地域共通語を用いるか,少数者の言語を用いてのコミュニケーションを試みるのです.
 少数者の側が,多数派部族の言語を用いる事はありません.

 これは,他部族を他者として認知しなければ成立し得ない社会構造が出来ている為,部族間に於ける双方向の流れが出来ているのです.
 勿論,ルワンダやブルンジの様な大虐殺が起きているのですが,これは寧ろ例外的なものと考えるというものです.

 一方,日本の様に,日本人と言う非常に大きなエスニック集団が占めている場合,そうした大きな集団は,国内に他者がいる事を認識していても,彼らのどう言う価値があるのか判りませんし,少数者にも自ら多数派に対するアピールが行われません.
 よって,異質で価値の無いものと見做され,存在する事自体に意味が無いとして,その存在を打ち消す方向に動くわけです.
 良く島国根性とか中華思想とか言いますが,とどのつまりは日本人にしても漢人にしても,余りに多数派過ぎて,他の民族がよく見えていないのではないか,と思ってみたりするわけです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/09/18 22:57
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ヨーロッパによる植民地支配が,アフリカ諸国の公用語に与えた影響は?

 【回答】
 アフリカの地には2,100近い言語が存在しますが,国の数は50程度しかありません.
 これらの国の国境線は,民族的,言語的分布では無く,列強が植民地分割の際に引いた線を,そのまま維持しています.

 この為,例えば人口100万人のガボンでは,国の中に41の言語がありますが,話者数2,000万人のハウサ語やバンバラ語を始めとするマンデ系の広域言語が,複数の国家の地域共通語となっています.
 また,ガボンの公用語はフランス語で,北隣の赤道ギニアの公用語はスペイン語となっていて,広域言語は複数の,しかも屡々公用語の異なる国家に分断されています.

 もう1つの例を挙げると,ナイジェリアとニジェールの国境で,両国の役人は地域共通語であるハウサ語で何の問題も無く意思疎通出来ますが,文書を交換する場合は,ナイジェリアの公用語は英語であり,ニジェールのそれはフランス語なので問題が発生しします.
 セネガルとガンビアの場合も同様で,両国の大統領はウォロフ語で何の問題も無く意思疎通出来ますが,公式の会見では英語とフランス語の通訳が必要となる,奇妙な状態になるのです.

 この問題は,旧植民地宗主国の言語が,第1言語話者がほぼ皆無に近いだけで無く,第2言語としても国民の一部にしか普及していないにも関わらず,事実上唯一の国家の公用語として,行政,教育を始めとする,社会の殆ど総ての公的分野を支配していると言う所にあり,先に書いた様に,支配層の都合の良い様になっていて,支配層と一般国民との乖離を埋める為に,地元言語を初期言語として発展させるのかさせないのかと言う言語政策が,多くの場合不在になっているのが原因です.

 それは,そもそもがこれらの国家が,宗主国によって人工的に線引きされたものであるが故に,国家としての本当の意味での正当性に欠け,旧宗主国を始めとするその他欧米諸国,或いは世界銀行などの国際機関や欧米系の巨大NGOに政治的,経済的,文化的に依存し,自立した制度を立ち上げられない点にある為です.
 結局,そうした図式の下で国家を運営せざるを得ない事が,この地域の不安定化に繋がっていきます.

 帝国主義時代までに,植民地支配者としてアフリカに介入した諸国を列挙すると,英国,フランス,ポルトガル,ベルギー,スペイン,ドイツ,イタリアの7カ国,これに17世紀以来南アフリカに入植者植民地を形成したオランダを加えれば8カ国になります.
 後,特殊ですが,19世紀に米国の解放奴隷が送り込まれて支配者となった国であるリベリアには,米国黒人英語が持ち込まれ,現在も共通語となっていますし,英国が解放奴隷を送り込んだシエラレオネには英語系クレオール語のクリオ語が成立しました.

 但し,ドイツに関しては,1918年に第1次世界大戦に敗れた事でその植民地を失い,カメルーンは英仏共同の,タンガニーカは英国の,トーゴはフランスの,ブルンジ,ルワンダはベルギーの国際連盟委任統治領となった為に,その言語的痕跡は殆どとどめていません.
 また,南アフリカ連邦の委任統治領になり,1990年に独立するまでその支配下に置かれたナミビアでは,ドイツ系入植者の存在によりドイツ語使用とその教育が存続していましたが,独立とともに公用語は英語のみとなりました.

 イタリアは北アフリカのリビアの他,現在のエリトリアとソマリアの一部を19世紀末から第2次世界大戦まで支配し,1936〜41年までエチオピアを支配下に置きましたが,こちらも第2次世界大戦に敗れた事でその影響を失っています.

 スペインは西サハラと赤道ギニアを領有しました.
 西サハラは1976年以降モロッコが支配していますが,これに反対するサハラ・アラブ民主共和国亡命政府は,アラビア語とともにスペイン語を公用語としています.
 赤道ギニアは現在もスペイン語が公用語ですが,カメルーンとガボンがともにフランス語を公用語としており,人口が50万人強の小国である上に通貨もフラン圏に依存する為,1997年以降はフランス語も第2公用語となっています.

 残りの英国,フランス,ポルトガル,ベルギーは,アフリカ人に対する姿勢が2類型に分れるとしている考察があります.
 フランス人,ポルトガル人,スペイン人,イタリア人は,文化的に尊大であり,彼らの文明の優位に固執したのに対し,英国の人々,ベルギーのフラマン人,ナミビアのドイツ人,アフリカーナーは,人種的に尊大であり,人種の分離に固執したと言う訳です.

 フランスは,宗主国言語による単一言語支配が,最も徹底していました.
 これは,国内でもブルトン語やバスク語に対する圧迫に見られた様に,フランス文明の普及及びフランス語の普及を同一視し,フランス語以外の小言語や方言を,一括して「パトワ」として蔑視する姿勢は国外でも変わりません.
 フランスがサハラ以南のアフリカの植民地化を,本格的に開始したのは19世紀後半ですが,既に19世紀前半にはセネガルで,フランス語単一言語主義のパイロットモデルが出来上がっていました.

 1911年には,フランス領西アフリカ総督のポンティ将軍により,それまでイスラームのアラビア語識字層に一部認められていたアラビア語の使用が全面的に禁止され,総ての植民地行政文書に於けるフランス語の使用が義務づけられます.
 また,アフリカ諸語の発展には全く関心が払われませんでした.
 英国では「原住民法廷」があり,そこでの現地語の使用や特定のアフリカ語を行政言語として整備していたのですが,フランスではそうした事が全く無かったのです.

 マダガスカルでは,1896年にフランスに植民地化されるまで,イメリナ王国の近代化政策の中で,マダガスカル語のラテン文字による初期化と,それによる近代教育が始まっていましたが,フランスはフランス語を強制する事によって,マダガスカル語の近代言語としての発展を阻害しています.

 こうして独立後に旧フランス領アフリカ諸国に残されたのは,初期言語としては全く整備されていないか,整備が甚だしく遅れているアフリカ諸言語と,徹底したフランス語単一言語主義でした.

 現在でもセネガルの裁判所では,フランス語を解しない被告や証人の為には植民地時代と同じく通訳が用いられ,通訳がフランス語に翻訳した内容だけが,公式の裁判記録として残されます.
 裁判官も検事も弁護士も書記も,全員が被告や証人のウォロフ語を理解しているにも関わらず,必ず通訳を用いるのです.
 これは幾度も書いている様に,権力の源泉でもあり,フランス語単一言語主義の中で養成されたアフリカ人エリートは,屡々,自国の利益では無く,フランスの利益を代表する事もありました.
 それが植民地を手放したフランスの狙いでもあった訳です.

 ポルトガルは,ずっと前にモザンビークの独立戦争について書いた様に,アフリカのポルトガル領植民地は,当初東洋貿易の寄港地として植民地化され,その後奴隷貿易の積出港,中継地として発展していっていました.
 しかし,17世紀には没落が始まり,20世紀には経済発展に取り残された西欧の最貧国の1つとなっていました.
 1975年の時点でも3割を超える非識字者を抱える状態にあり,本国に於てすら満足に整備されていなかった教育制度を,植民地において展開出来る余裕もありませんでした.
 ただ,奴隷貿易の積出港,中継地として400年に亘って存続してきた植民地には,ポルトガル人とアフリカ人の混血から生まれ,クレオール語を第1言語とするムラート層が形成されていました.
 カーボヴェルデで住民の70%,サントメ・プリンシペで7%と比較的多いのですが,他の地域では1%にも満たない層ですが,この層は比較的富裕でポルトガル語を自由に操る人々がいました.

 そこで,主にこの階層を対象に,フランス領と同様の「同化政策」がポルトガル領植民地でも行われていました.
 1914年以降,一定の財産を有し,完璧なポルトガル語を話し,犯罪歴が無いなどの条件を満たせば,「アシミラード(同化民)」として,ポルトガル人と同等の権利が与えられる事になります.
 植民地解放闘争を率い,その後独立した国家の指導層,官僚層はこうした人々が形成していきました.

 ポルトガルは,教育制度こそ満足に普及出来なかったのですが,ポルトガル語以外の影響を排除する事においては怠惰ではありませんでした.
 植民地の教育は,ほぼ全面的にキリスト教宣教団に依存していましたが,1903年,アンゴラの植民地政府は英国系宣教団が英語による教育を行う事を禁止し,またアフリカ人教育の大部分を担っていたフランス系カトリック宣教団も,ポルトガル語教育を主軸に据えなければならなくなります.
 1921年には,現地語を含め,ポルトガル語以外の言語による教育が禁止されました.

 此処でも,フランス領と同じくアフリカ諸言語は全く未整備の儘止め置かれ,クレオール語も書記言語として整備する事も行われませんでした.
 植民地解放闘争で,解放区において行われた教育も,結局はポルトガル語で行われました.
 それ以外の選択肢は無かったのです.
 ギニア・ビサウやカーボ・ヴェルデの独立運動指導者であったアミルカル・カブラルは,同化の思想を批判し,アフリカ文化の重要性を繰返し語っていたのですが,皮肉な事に,言語についてはポルトガル語以外の選択肢を考えていませんでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/09/19 18:28
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 英国のアフリカ「間接統治」において採用された,「行政言語」とは?

 【回答】
 さて,今日は英国面について.

 英国の植民地支配の方式は,植民地行政官のフレデリック・ルガード卿によって理論化され,実施された,「間接統治」と呼ばれる方式でした.
 フランスの方式は,植民地行政官が直接住民を支配すると言う直接統治ですが,英国の場合は,現地の支配機構,即ち,王や首長を温存して住民の支配を行わせ,植民地行政官はその監督に当たるという支配形態です.
 これをインドでやって成功を収めた事から,アフリカにも適用した訳ですが,この方式は直接支配が人的にも財政的にも大きな負担になる事から考え出された方法であり,アフリカの伝統的社会機構に敬意を払ってのものではありません.
 この為,ナイジェリアのイボ人の社会や,ケニアのギクユ人の社会の様に,元々首長を持たなかった社会に無理に首長制を導入して住民の反発を招く事もありました.

 しかし,フランス方式と異なり,現地人の社会をある程度温存しての統治方式である事から,行政用書記言語として幾つかの主要な現地語が採用されました.

 それが最も進んだのがスワヒリ語です.
 元々,スワヒリ語と言うのは土着言語から発達したものでは無く,東アフリカのインド洋沿岸地方において,7世紀以来アラブ人やペルシャ人商人とアフリカ人との間で行われていた交易言語でした.
 早くからアラビア文字を用いた書記伝統を持ち,19世紀にはアラブ・スワヒリ商人による内陸交易を通じて東アフリカ一帯に広がる広域言語となっていきます.
 19世紀のベルリン会議でタンガニーカを獲得したドイツは,この広域言語を行政言語として用いる事を決定し,第1次世界大戦後,その支配を引き継いだ英国もこれに倣いました.

 更に,スワヒリ語が通じるケニア,ウガンダも領有していた英国は,1925年にこれら総ての植民地に於ける共通語としてスワヒリ語を採用する事にし,その標準語化の為の調査委員会を発足させ,無数の変異形と幾つかの大方言の中から選ばれたザンジバル方言に基づいて,ラテン文字による正書法が制定される事になります.

 1930年には領土間言語委員会が置かれ,スワヒリ語の正書法制定,初等教育用の教科書検定,スワヒリ語による出版事業が行われました.
 元はと言えば,この言語政策は,行政コスト節約が最大の理由でしたが,スワヒリ語が教育言語,行政言語として整備され,標準化した書記言語となった事は,独立後のタンザニアの言語政策に大きな影響を与える事になります.

 植民地住民の教育に関しては,フランス植民地と同様に,英国もキリスト教宣教団に大幅に依存していました.
 これもコスト節約が目的で,若干の補助金と保護を与え,植民地行政の為に必要な下級官吏や助手の要請をこれらの宣教師団に任せる事で,植民地行政府が一から住民を教育するコストが抑えられます.

 英国領で活動していたキリスト教宣教団は,主にプロテスタント系の宣教団でした.
 彼らは,植民地行政府より遙かに植民地のアフリカ人に対する「文明化」に熱心であり,しかも彼らはアフリカ人の歓心を買う為に,聖書の現地語への翻訳と現地語による出版を重要視していました.

 宣教団によって書記言語として整備され,標準化された上で教育や出版に用いられて発展した言語の代表的なものは,南アフリカで19世紀初頭から整備が始まり,19世紀後半には多数の出版物を生み出すまでになっていた「コーサ語」です.
 元々,「コーサ語」なる言葉は存在せず,言語的にも民族的にも統一されていなかったングニ系の様々な言語変種から,「コーサ語」と言う標準語が切り離され,作り上げられただけで無く,「コーサ」と言うアイデンティティまでもが宣教団によって作り出されていきました.
 これが遠因になり,後のアパルトヘイト政策の元でのバンツースタン政策に繋がっていく事になるのですが,取り敢ず,幅広く用いられる標準化された書記言語が作られたのは事実です.

 ナイジェリアのヨルバ語も又,19世紀以来の宣教団による書記言語から始まって,1930年代にはヨルバ語による新聞の発行まで行われています.

 注意しなければならないのは,これらの言語はあくまでも植民地経営の為のツールとしての存在であり,英語と英語文明の無条件の優位というのは,植民地行政,或いはキリスト教宣教団にとって自明の事でした.
 この様な価値序列の刷り込みは,当然のことながら宣教団の学校で西欧式教育を受けたアフリカ人エリートの意識に対しても行われており,間接統治の制度の中で植民地支配に利用され,そこから利益を引き出す伝統的支配層とその言語は,彼ら西欧式教育を受けたアフリカ人エリートにとっては,反動的なもの或いは後進性の象徴と見る様になってしまいます.
 これが,その後の植民地解放闘争の過程で,屡々過激な行動を招く切っ掛けになる訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/09/20 22:52
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アフリカ諸国において,国内言語が「国語」になりにくい原因は?

 【回答】
 さて,アジアの植民地解放運動と,アフリカのそれとの決定的な違いは,植民地支配者の言語に対する姿勢です.
 アジアの場合,ヴェトナムにしろ,マレーシアにしろ,インドネシアにしろ,インドにしろ,各国の公用語は,自国民が多数用いている言語を採用していて,第1公用語に植民地支配者の言語を採用するのはまずありません.

 しかし,アフリカの場合は,タンガニーカのニエレレがスワヒリ語の国語化を主張していた事を除けば,独立後の国家において行政言語として用いる書記言語が,植民地宗主国の言語である事は事実上自明の事と見做されていました.
 ガーナのンクルマにしろ,ギニアのセク・トゥーレにしろ,カーボ・ヴェルデのカプラルにしろ,彼らの掲げるナショナリズムそのものが,それぞれ植民地宗主国の言語で書かれ,演説され,掲げられていたのです.

 先述の様に,フランス領やポルトガル領では,支配者の言語が,独立後の国家を率いる政治指導者や教育エリートが有する唯一の書記言語で有るだけで無く,アフリカの言語を書記言語として整備する事など殆ど論外でした.
 特にフランス領では,教育に於ける徹底した同化政策により,アフリカ人エリートに対し,一種のフランス語至上主義を植付けていて,それ以外の現地言語は単にフォークロアの分野のもので,近代国家や教育を担う言語としては全く価値の無いものとされていました.

 フランスやポルトガルほど現地語の書記言語を排除しなかった英国領やベルギー領でも,解放運動の指導者や独立後の国家を率いる事になった層は,基本的に西欧型の教育を受けた層であり,ニエレレを除けば,フランス領やポルトガル領の政治指導者の場合と余り異なりませんでした.
 寧ろ,彼らは現地語を後進的で封建的な言語と見なし,多民族国家を統一して国家を作り上げていく場合には,そう言った言語が,「部族主義」の温床であると見做していました.
 つまり,部族語は屡々固陋な伝統的首長層と結びつくものであり,自由と進歩を行うには先進国の言語である英語やフランス語を積極的に取入れるべきであると考えていたのです.

 勿論,ニエレレ以外にも,現地語を書記言語として発展させていくと言う考えを持った人もおり,特にセネガルでは主要言語であるウォロフ語を公用語にして行こうという動きもありましたが,大多数のエリート層はそうした考えを持ちませんでした.

 ところで,アフリカでも西欧型国民国家の単一言語主義に倣って,植民地支配者が齎した欧州系の言語では無く,現地のアフリカ語を単独の公用語としようとした国がいくつかありました.

 例えば,エチオピアでは,ハイレ=セラシエ皇帝の治世下,1950年代末から60年代末に掛けて,古くから独自の言語を持つ書記言語であり,かつ首都の言語であるアムハラ語を単独の公用語として定着させようとしました.
 しかし,この動きが定着せぬまま,1974年の軍事クーデタで帝政は廃止され,その後は国家行政に於けるアムハラ語の優位は維持されるものの,行政言語,教育言語としても各地域の言語が用いられる多言語型の体制に移行しています.

 つい最近,南スーダンを分離したスーダンでも以前はアラビア語が唯一の公用語でしたが,南スーダン地域やダルフール地方を始めとして,それが全国民に共有されていた訳では無く,これまた成功した言語政策とは認められていません.

 ソマリアの場合は,1960年に旧英国領と旧イタリア信託統治領の合併で成立した国で,ソマリ人が国民の大多数を占め,民族的,言語的にほぼ等質の国でした.
 独立当初は北部で英語,南部でイタリア語が行政言語,教育言語として用いられていましたが,1969年の軍事クーデタで成立したバーレ政権は,1972年にローマ字を用いたソマリ語の正書法を制定し,ソマリ語の公用語化を決定しています.
 公務員は総て,ソマリ語の書記言語としての使用を義務づけられ,初等,中等教育のソマリ語化とともに,大規模な成人識字キャンペーンも実施されました.
 また,それまで存在していなかったソマリ語による出版物も,短期間の内にソマリ語の標準化,語彙の豊富化と平衡して,数学,物理,行政,思想など幅広い分野で増加していきました.
 一見,成功したかに見えたソマリ語の公用語化でしたが,それも砂上の楼閣であり,1991年にアイディード将軍が軍事政権を崩壊させて後,国家が崩壊してしまい,現在に至っています.

 この様に,アフリカの場合,言語的に等質であるソマリアの様な国でさえも,その国家体制そのものが不安定かつ脆弱である為に,単一言語で国家を統一する事が困難となっているのです.

 もう1つの考え方は,旧植民地宗主国の言語を保持しながら,一つのアフリカ語を教育,行政言語として定着させ,ほぼ全国民に普及させる方式です.

 この方式が最も成功したのがタンザニアで,この国の人口3,200万に対し,言語数120余と言う多言語国家にも関わらず,スワヒリ語を公用語として定着させるのに成功しています.
 これは,先述の様に,スワヒリ語が植民地支配かに於ても書記言語としての整備が進んでおり,共通語としても既に広く普及していた事,また,第一言語話者がごく少数であった為に,スワヒリ語が公用語化する事によって特権を得る層が国内に殆ど存在しない事,一方で,国内の大部分の言語は,そのスワヒリ語と非常に親近性の高いバンツー系の言語である事,更に公用語化が独立直後のナショナリズム高揚期に一気に推し進められた事が成功の要因です.
 但し,このタンザニアでも,総ての教育がスワヒリ語で行われている訳では無く,中等教育以上は現在も英語での教育が続けられており,エリート言語としての英語をスワヒリ語が脅かすまでになっていません.

 こうした旧植民地宗主国の言語と,国内の1つの主要な言語を公用語としている国は,フランス語とアラビア語を公用語にしているジブチとコモロを別にすると,旧英国領ではタンザニアの他にツワナ語を採用したボツワナ,ソト語を採用したレソト,スワティ語を採用したスワジランド,旧ベルギー領ではルワンダ語のみが国内で話されているルワンダとルンジ語のみが国内で話されているブルンジ,旧フランス領ではマダガスカル語を採用したマダガスカルのみです.

 この様に,現地語に名目的にしろ,植民地宗主国の言語と並ぶ制度上の地位を与えた背景には,これらの国がタンザニアを除いて総て言語的に等質であり,またその言語は,キリスト教宣教団の活動などによって,独立時にはある程度書記言語として整備されていた事が挙げられます.
 とは言え,他の国々はタンザニアほど水準が高い訳ではありません.

 それ以外の圧倒的な国では,現在も旧植民地宗主国の言語による,事実上の単一言語支配が続いています.
 カーボ・ヴェルデの様に,国民のほぼ全員が理解しているクレオール語を持っているのに,これでさえ書記言語としての整備は行われておらず,独立後もポルトガル語のみを教育,行政を始めとする唯一の書記言語として用いています.

 国内言語の「国語」設定の失敗の顕著な例が,フランス領アフリカ初の独立国となったギニアです.
 この国は,1962年に国内の20余りの言語の中から主要な8言語を地方毎の「国語」に制定し,1968年以降は初等教育にこれらの「国語」を導入し,その政策は,1971年にギニアがユネスコとの関係を絶つまではユネスコの支援の下で行われ,それ以後も政府によって支援されました.

 ところが,この政策を実行する為には,各言語を解析して書記言語としての体裁を整える必要がありますが,そう言ったものを整備する予算的裏付けもユネスコ支援の器材以外は殆ど無く,教材も教員も不足し,満足な教育も行われない,正に,セク・トーレの独り相撲でしかありませんでした.
 結果として,1984年にセク・トーレが死去し,新政権が軍事クーデタで成立すると,その政策は破棄され,以後,教育も行政も総てがフランス語のみの体制に戻っています.

 この様に旧フランス領では,屡々名目的に幾つかの「国語」が制定され,成人識字の使用言語となっていますが,実際には見るべき効果が上がっていません.

 これは旧英国領でも同じで,タンザニアと同様に書記言語として高度に整備され,かつ共通語として全土に通用するスワヒリ語を,英語とともに行政言語,教育言語として引き継いだケニアでさえ,行政と教育に於ける言語使用は英語の圧倒的優位が続いていますし,ナイジェリアでも北部ではハウサ語,南東部ではイボ語,南西部ではヨルバ語が大言語かつ広域共通語として用いられ,書記言語としてある程度整備されていますし,ガーナでもアカン語を植民地期から書記言語として整備するなど広域共通語の存在はありますが,実質的には英語が圧倒的な優位になっています.

 最近独立した国や政体が変更されたの公用語は,国内に話者の殆どいない言語が制定されています.
 例えば,ナミビアでは,南アフリカの支配下で公用語だったアフリカーンス語やドイツ語ではなく,国内の話者が人口の1%に満たない英語を公用語に選択しました.
 これは,表向き「植民地支配と無関係な言語である事,そして民族的に中立である事」だと説明されていますが,実際には,独立闘争を担ったSWAPOの指導部にとって,英語は国連などの国際機関やノルウェー政府など支援国家との交渉,それに伴う様々な文書作成に使用してきた作業言語であった事が大きい訳です.

 これは,地域こそ違いますが,東チモールが国民が殆ど理解しないポルトガル語を公用語として選択したのと同じです.
 ポルトガル語はインドネシアに占領される前の宗主国の言語であり,インドネシアに対する解放運動を率いた亡命指導部が作業言語としていた言語です.

 また,ルワンダが1994年の大虐殺後に権力を掌握したルワンダ愛国戦線の下で,1994年にそれまで公用語としていたフランス語とルワンダ後に加えて英語を公用語としたのも,隣国のウガンダに亡命指導部を置いていたルワンダ愛国戦線が英語を作業言語として使用していたからです.

 この調子だと,そのうち,中国語を公用語とする国が出て来るかも知れませんね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/09/21 22:03
青文字:加筆改修部分


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